『資治通鑑鑑賞』 第80巻 273年～279年
■資治通鑑第80巻
【解題】『資治通鑑』の第80巻は泰始九年［273年］から咸寧五年［279年］までの7年間を扱っている。
資治通鑑巻八十 晋紀二 世祖武皇帝上之下
【補足】『資治通鑑』の第80巻は「晋紀二」に当たり、「世祖武皇帝上之下」、つまり晋の皇帝が世祖武皇帝であった時代の記録の上の部分の下巻に当たる。世祖武皇帝は晋の初代皇帝司馬炎。
【訳文】
［273-01］泰始九年、春、正月辛酉、密陵元侯の鄭袤が死んだ。
［273-02］二月癸巳、楽陵武公の石苞が死んだ。
［273-03］三月、皇子の司馬祗を東海王にした。
［273-04］呉は陸抗を大司馬荊州牧にした。
［273-05］夏、四月戊辰朔、日食があった。
［273-06］かつて（九年前に）鄧艾が死んだとき、人々は皆これは冤罪だと思ったのだが、朝廷には鄧艾のために弁明する者がいなかった。（八年前に）皇帝が即位した後で、議郎の段灼が次のような文書を提出した。「鄧艾は至忠の心を抱いていながら反逆の名をかぶせられ、巴蜀を平定したのにもかかわらずその三族は誅殺されてしまいました。鄧艾は強直で性急なところがあり、己自身とその功績を誇り、同輩たちと協調することができませんでした。それで鄧艾のために理非を明らかにしようとする者がいなかったのです。臣が竊かに思いますに、鄧艾はもとは屯田において牛を飼う者で、そこから昇進して位を極め、功名を成し遂げたのでした。七十歳にもなってそれからさらに何を求めましょうか。（蜀の皇帝の）劉禅が降伏したばかりのときには、（成都から）遠い地の者はまだ我が方に付いていなかったので、朝廷の指示だとして（鄧艾は勝手に）命令を出して仮に国の安泰を計りました。そのとき鐘会には反逆しようとの思いがあったので、鄧艾の威名に畏れ、あたかも鄧艾が何かしようとしているかのように事柄を構成したのでした。鄧艾は（鄧艾を逮捕せよとの）朝廷からの詔書を受けると、強兵を手放して身一つで捕縛され、敢えて顧みることもありませんでした。先帝にお目にかかれさえすれば、死罪になるような理由はないのが明らかになるのを知っていたからです。鐘会が誅殺された後で、鄧艾の部下のなかで愚かな者たちが集まって鄧艾を追って檻車を破壊して、囚われの身から鄧艾を解放しました。そのとき鄧艾は地面に降ろされてただ狼狽して何もできず、かつての腹心たちとこれまでのように相談することもできないままに（意に添わない行動を余儀なくされ）、ついには誅殺されてしまいました。まことに哀しいことでありました。陛下は即位されて、大きな包容力を広く示されておられますので、どうか鄧艾を故郷の墓に帰らせて埋葬されるのをお許しくださいますように、そして鄧艾の田宅を一族に還し、蜀を平定した功績をもってその跡継ぎを封じ、鄧艾の棺を閉ざした後に謚を定めて、死して後に恨むことがないようにしてくださいますように、願うものであります。そうすることによって、天下の名を重んじる士、功業を立てようと思う臣は、必ず湯火の中に身を投じてでも陛下のために喜んで死ぬようになるでありましょう」。皇帝はその言を善いと思ったが、すぐに従うことはできなかった。
たまたま皇帝は給事中の樊建と話をしていて、諸葛亮が蜀を治めたことが話題になり、皇帝は、「朕も諸葛亮のようなものを臣下にすることができないだろうか」と言った。樊建はひれ伏し、「陛下は鄧艾が冤罪であるのを御存知でありながら、まだそれを正しておられません。それでは諸葛亮を得たところで、馮唐が漢の文帝に向かって、『陛下は（前線に出ている将軍を全面的に信頼することができないので）廉頗や李牧のような名将を得たとしても用いることはできないでありましょう』と言ったのと、同じようなことになりはしないでしょうか」と言った。皇帝は笑って、「卿のその言葉は朕の思うところのものである」と言った。そして鄧艾の孫の鄧朗を郎中にした。
【補足】蜀を平定した最大の功労者である鄧艾が誅殺された事情は通鑑264-01に詳しく記されていた。鄧艾にも疑われるような行為がなかったわけではないが、国家に対する反逆を企てたりは全くしていないので、明らかに冤罪であった。
【訳文】
［273-07］呉では（目出度い予言などの）祥瑞を言う者が大勢いた。呉主［呉の皇帝の孫皓］はそのことについて侍中の韋昭に尋ねた。韋昭は、「それらは（瑞祥を言い出す者の）家の筐篋［書類箱］の中にあった物であります」と答えた［つまり、でっちあげだということ］。
韋昭は国史の編纂に携わっていた。呉主は自分の父親のために「紀」［史書の始めに置かれる皇帝を中心にした年代記］を作りたいと思っていた。韋昭は、「文皇帝［孫皓の父の孫和の諡］は帝位には登られませんでしたので、『伝』を作るべきで、『紀』を作るべきではありません」と、言ったので、呉主は不快に思った。
呉主は次第に怒りを募らせ、韋昭を責めるようになった。韋昭は憂懼し、自ら衰老をもって侍中と史官から去ることを求めたが許されなかった。そのときにたまたま韋昭は病気になったので、呉主は医師に護らせ、断じて官職から去らせまいとした。
呉主が群臣と酒を飲む際には、飲める飲めないに関係なく、七升を必ず飲ませる量として定めていた。かつては韋昭だけは酒の代わりに茶を飲ませていたのだが、後には七升を飲むよう強いて迫った。また、呉主は酒を飲むと、側仕えの者を使って公卿たちを笑いの種にし、その短所をあげつらうのを歓びとしていた。時に公卿が何か失態を見せると、すぐに縛り上げ、誅殺することもあった。韋昭はそれを見て、あからさまに人を傷付け合うようなことをさせて、人の心のうちに恨みを増やし群臣の間をばらばらにしてしまっているので、決してよいことではないと考えていた。それで、（酒宴においても）経典の解釈についての問題点を述べるだけにしていた。呉主は、韋昭は命令に従わないで、忠義を尽くしていないと思い、ますます嫌悪し、怒りを募らせて、ついに韋昭を捕らえて獄に付した。韋昭は獄吏を通じて弁明し、また自身の著作を献上して、罪を免れることを願った。呉主はその著作が汚れて古くなっているのを怪しんだ［以前に書いたものを言い訳の材料としたと疑った］。韋昭はさらに厳しく責められ、ついに誅殺され、その家は零陵に移された。
【補足】（1）何度も見てきた呉の皇帝孫皓の暴虐の一事例。ここで犠牲になったのは歴史書の編集にも携わる文化人の韋昭。『資治通鑑』の編者は、皇帝からの圧力をはねのけて史書の原則を貫こうとした人々の事績を好んで収集する。旧い中国の正史［国家事業として編集された史書］は紀伝体で構成され、「紀」は皇帝を中心に国家に関係する出来事を年代順に記述し、「伝」は個々人の事績を記述する。孫皓の父の孫和は帝位には就いていないので、孫和のために「紀」を立てることはできないと、韋昭はつっぱねたのである。
（2）孫皓の酒宴は、通鑑266-07にもその事例があったが、パワハラ、アルハラ、モラハラなんでもあれのすさまじいものであった。後にさらにエスカレートする［→通鑑279-06の一］。
【訳文】
［273-08］五月、何曽に司徒の役目を荷わせた。
［273-09］六月乙未、東海王の司馬祗が死んだ。
［273-10］秋、七月丁酉朔、日食があった。
［273-11］詔を下して、公卿以下の家の娘を選んで六宮［後宮］に入れることを命じ、娘を匿した者は不敬罪をもって論じるとした。娘たちの採択が終わらない間の臨時処置として天下に対して嫁入りを禁じた。皇帝が女性の選別を楊后に任せたところ、楊皇后は清潔で体格のよい者を取り、美しい者は取らなかった。皇帝は卞氏の娘が気に入ったので、それを留めようと思った。楊皇后は、「卞氏は三世にわたって皇后を出してきた家で、その娘を（皇后よりも）低い地位に就けて屈辱を与えることはできません」と言った。皇帝は怒り、自分で選ぶことにした。選別される者は臂に赤い薄絹を繋げた。公卿の娘は三夫人、九嬪とし、二千石［地方の知事クラス］や、将校の娘は良人以下の女官にした。
【補足】（1）暴虐で鳴らした呉の孫皓は色の方面でもかなりのものであったが［→通鑑266-19など］、晋の司馬炎もそれに負けまいとしたのか、大々的に女性を集めた。皇帝は跡継ぎを作ることが責務とされていたので、大勢の女性と接することが制度として義務付けられていた。それを幸いとして孫皓も司馬炎も欲情を全面展開した。このことを見ても、世襲を必要条件とする皇帝制度は儒教的な倫理に真っ向から反するものであるのは明白である。天下の婚姻を一時的にストップさせてまで女性収集に乗り出した司馬炎のような人物を、「至孝」と絶賛した司馬光［→通鑑266-10］の頭の中はどうなっているのかと疑いたくなるが、我々とは倫理観が全く違うのだから仕方ないのだろう。
（2）「赤い薄絹」は何なのだろうか。司馬炎の眼を引こうとしたのか。三夫人、九嬪は皇帝の夜の訪れの可能性のある女性。
【訳文】
［273-12］九月、呉主はその十一人の息子を王に封じ、それぞれ三千の兵士を与えた。大赦が下された。
［273-13］この年、鄭沖は寿光公として官職から退いた。
［273-14］呉主の愛姫［寵愛する女性］が人を遣わして市場で民間の物品を奪った。司市中郎将の陳声は呉主から寵遇されていたので、法に従ってその者を捕らえた。愛姫が呉主に訴えると、呉主は怒り、他の事にこじつけて陳声の頭を焼いた鋸で切断させ、その身体を四望山から投げ捨てさせた。
【補足】孫皓は御盛んなだけあって子供がたくさんいた。皇帝の息子にふさわしい待遇を大勢の子に与えるのは国として膨大な出費を余儀なくされる。それは民衆の負担となる。愚かな皇帝の子がうじゃうじゃ増えて民衆が苦しむとはまことに馬鹿らしい話である。
【訳文】
［274-01］泰始十年、春、正月乙未、日食があった。
［274-02］閏一月癸酉、寿光成公の鄭沖が死んだ。
［274-03］丁亥、詔を下した。「近世以来［魏朝でのこと］、皇帝の寵愛を受けて、后妃の位に登る女性があり、（家柄に基づく）尊卑の秩序が乱れてしまった。これからは妾媵［側室］が生んだ者は正嫡とはしない」
［274-04］幽州を分けて平州を置いた。
［274-05］三月癸亥、日有があった。
［274-06］詔によって良家および小将吏の娘五千人余りを選んで後宮に入れた。宮中の内と外で母と娘が泣き叫んだ。
［274-07］夏、四月己未、臨淮康公の荀顗が死んだ。
［274-08］呉の左夫人の王氏が死んだ。呉主は哀しみ、数カ月外に出なかった。その葬送は甚だ盛んであった。
このころ何太后の一族が驕りを極めていた。呉主のいとこに相当する何都は容貌が呉主に似ていたので、民間には、「呉主はすでに死んでいて、いまの皇帝は実は何都なのだ」というデマが流れた。一方で、会稽では、「章安侯の孫奮が天子になる」というデマが流れた。孫奮の母の仲姫の墓は予章にあったので、予章太守の張俊はその墓の掃除をした。
臨海太守の奚熙は会稽太守の郭誕に手紙を送り、いまの国政のまずいところを論じた。郭誕は奚熙の手紙について朝廷に報告し、（会稽で流れている）妖言については何も言わなかった。呉主は（デマを隠したとして）怒り、郭誕を獄に繋いだ。郭誕が懼れたので、功曹の邵疇は、「私がおりますから、明府［郭誕］は御心配なきように」と言った。邵疇は獄吏のところに詣でて次のように陳述した。「私は本郡に身を置き、本郡において位を極めました。人々が寄り集まって語ることは事実ではなく、私は噂話の愚劣さを嫌い、聞くのも忍びないと、垢や病を隠すようにして、官署において明らかにしませんでした。そのうち噂が静まって止むのに任せたのであります。郭誕は私の考えをよいとして、黙ってそれに従っただけなので、過ちは私にあります。私は敢えて死から逃れることはなく、罪をお上にお任せします」と言って、自殺した。呉主はそれで郭誕の死を免除して、建安に送って船を作らせた。
また三郡督の何植を派遣して奚熙を捕らえさせた。奚熙は兵士を動かして守ろうとしたが、部下によって殺されてしまい、奚熙の首は建業に送られた。さらに張俊は車裂きとなり、奚熙も張俊も三族が夷げられた。また、孫奮および五人の子も殺された。
【補足】呉で妙な噂が流れ、それに関連して何人も処刑された。この件については史書によって伝える内容が違っていて、奚熙は何都を殺そうとしてかえって何植に殺されたともいう。事実がどうであれ、おかしなデマが流れたのは人心が孫皓からすっかり離れてしまっていたからなのだろう。
【訳文】
［274-09］秋、七月丙寅、皇后の楊氏が死んだ。皇帝はかねてから（楊皇后が生んだ子である）皇太子が不慧であることから、跡継ぎの任に堪えられないのではないかと畏れ、いつも密かにそのことについて皇后に尋ねていた。皇后は、「子を跡継ぎとして立てるのは年長順であって、賢いかどうかによるのではありません。決して動かしてはなりません」と言った。鎮軍大将軍の胡奮の娘は貴嬪［後宮の三夫人の一人］となっていて、皇帝の寵愛を受けていた。皇后は病気が重くなると、皇帝が胡貴嬪を皇后に立て、皇太子の地位が脅かされることを畏れ、皇帝の膝に顔を埋めて泣き、「叔父の楊駿の娘の楊芷は徳もあり美人でもありますので、どうか六宮に備えてくださいますように」と言った。皇帝も涙を流してそれを許した。
【補足】中国の王朝史にはお定まりの後継者問題で、訳者はまことに下らないと思うのだが、その下らないことによって国家の命運が左右されてしまうこともあるのだから、面倒臭がらずに読まなければならない。この続きは通鑑279-06の一。
【訳文】
［274-10］先の太常の山濤が吏部尚書になった。山濤は十年余りにわたって官員の人事に携わり、欠員が一人出るごとにふさわしい才能がある者を仮に数人選んで皇帝に示し、皇帝の意向を伺って後に公式に奏上した。時に皇帝が採用した者が山濤が筆頭に挙げた者ではなかったことがあった。事情を知らない人々は、「山濤は自分の意のままに人を選んでいます」と皇帝に言ったので、皇帝はますます山濤を信用するようになった。山濤は人を選抜するときに、それぞれに人物について詳しく記して奏上し、時の人々はそれを「山公啓事」と称した。
山濤は嵇紹を皇帝に勧め、秘書郎にするよう願った。皇帝は詔を発して嵇紹を取り立てることにした。嵇紹は父の嵇康が罪を得たことをもって門を閉ざして謹慎していて、辞退して就くまいとした。山濤は嵇紹に言った。「私は君のために長く考えていた。天地の四季にも休んでいるときがある。人も同じではないのか」。嵇紹は詔に応じ、皇帝は秘書丞にした。
かつて［二十二年前のこと］文帝［司馬昭］は東関で（呉と戦って）敗れときに、部下たちに、「このたびのことは誰の責任なのか」と尋ねた。安東司馬の王儀は、「責任は元帥［司馬昭］にあります」と応えた。文帝は怒り、「そなたは私一人に罪を負わせる気か」と言って、王儀を引き出して斬った。王儀は王修の子である。王儀の子の王裒は父が非命に倒れたことを痛み、退隠して学問を教え、朝廷や州郡から何度も召されたもののいずれも受けなかった。王裒は都がある西に向かって座ることがなく、墓所の近くに廬を結んで、朝夕に墓のかたわらに立つ柏を攀じって泣いた。涙が樹に降り注がれ、そのために樹は枯れてしまった。王裒は『詩経』を読んで、「哀哀たる父母、我を生んで劬労す」の句に至ると、必ず三回繰り返して泣いた。門人はそのためにその句のある「蓼莪」を読まないようにした。家は貧しく、食べるために自身で農地を耕し、蚕を飼った。贈り物をしようとする者がいても受け取らなかったし、手伝おうとしても拒んだ。門生が密かに王裒のために麦を刈り取ると、王裒それを棄てた。ついに国に仕えることなく終えたのだった。
［司馬光の評語］臣司馬光はこのように考えるものであります。「昔、（聖天子の）舜は（治水に失敗した）鯀を誅殺しました。後に（鯀の子の）禹は舜に仕えました。至公［私情によらずに公のために行動する］であることを大切にしたからです。嵇康も王儀もその死は（鯀とは異なり）それに相当する罪がありませんでした。ですから、嵇康の子も王儀の子も晋室に仕えるべきではなかったのです。嵇紹には後に蕩陰で忠節を尽くしましが、もしもそれがなかったならば君子からの譏りを免れられなかったでしょう」
【補足】（1）かつて嵇康が司馬昭によって殺されたこと、嵇康は刑死するに際して息子の嵇紹を山濤に託したことは通鑑262-04の二およびそこの補足で見ている。山濤は時の至るのを待って嵇紹を官職に就け、嵇康の負託に応えた。それに対して、何事も筋を通さずにはいられない司馬光は、わざわざ王裒のことをここに併記して、嵇紹の振る舞いを批判した。「蕩陰の忠節」はずっと後のことである。
（2）王夫子は『読通鑑論』で嵇紹の振る舞いを全否定している。王夫子は次のように述べている。「司馬昭が嵇康を殺したのは、司馬昭が皇位の簒奪を狙っているのを嵇康が暗に非難したのが気に入らなかったからである。そのときは司馬昭も嵇康も魏朝の臣下であって、司馬昭が嵇康を殺したのは法に基づくものではなく、私的な制裁であった。つまりは嵇紹にとって司馬昭は親の仇である。その司馬昭の息子の司馬炎に仕えたのでは、司馬昭が皇位を簒奪しようとしていた行為を間接的に肯定することになって、それはひどい親不孝であると言わなければならない。さらには『蕩陰の忠節』で親の仇のために己の身を犠牲にしたのだから、嵇紹は不仁かつ愚かの極みなのである」。確かに王夫子の方がさらに筋が通っているといえるのだろう。なお王夫子は明朝が滅んだ後は、その仇である清朝には仕えることなく在野の学者として生涯を過ごしたのだった。
【訳文】
［274-11］呉の大司馬の陸抗は病に伏せ、皇帝に次のような文書を提出した。「西陵と建平は国を外から守るための重要な場所で、上流側の二方向から敵を受ける位置にあります。もしも敵が船を浮かべて（長江の）流れに従うならば、星が飛び雷が走る勢いで下ってきますので、（西陵や建平が）倒されまいとしても、どこか他から助けにきてくれるのを頼ることはできません。そのようになれば、国境地帯が損なわれるだけはすまなくて、国全体の危機となってしまいます。臣の父の陸遜はかつて西の縁にいて次のように朝廷に申し上げました。『西陵は国の西門で、守りやすいようでいて、失いやすくもあります。もしも西陵を守れなかったならば、その一郡を失うだけにはとどまらずに、（その下流の）荊州ももはや呉のものではなくなってしまいます。ですから、西陵に恐れが生じたときには国全体で敵と争う必要があるのです』。臣は先に西陵には新たに三万の精兵を駐屯させますよう願い出ましたが、朝廷の主論はいままで通りでよろしいとするだけで、いまだかつて派遣されていません。歩闡が叛いて以後、西陵の守りはますます損なわれてしまっています。いま臣が統括している地域は千里にも及んで広く、外には強敵に対峙し、内には百蛮［多様な少数民族］を手懐けなければならないのですが、兵士は全て合わせてもわずかに数万で、それも長らく疲弊していて、異変に対応するのが難しい状況となっています。愚かな臣が思いますに、諸王はまだ幼い方々ばかりでありますので、（各王に二千の兵士を与えてはいても）兵馬を用いる重要な任務を果たすことは難しいのではないでしょうか。また、宦官たちには占募［人を集めて仕事に従事させること］を任せていますが、民衆は兵役を避けようとしてそちらに流れてしまっています。ここでお願いいたしますのは、特別な詔をもって一切を点検して、常に強敵と向き合っているところを補われ、臣の配下の兵士を八万にしてくださいますように。そして、種々の（不要不急の）事業を止めて、全ての力を防衛に注いでくださるならば、もはや虞いはなくなります。もしもそのようにできないのなら深く憂いなくてはなりません。臣が死んだ後には、どうか西方のことは陛下御自身が当たられますようお願いいたします」。陸抗が死ぬと、呉主は陸抗の兵士を分けてその子の陸晏、陸景、陸玄、陸機、陸雲に指揮させた。陸機と陸雲は学問があって、その名が世に重んじられていた。
（かつての名臣の）周魴の子の周処は力が極めて強く、振る舞いが粗暴で、郷里の人々を困らせていた。あるとき周処は土地の長老にこのように尋ねた。「今年は天候がよくて豊作であるのに、人々は楽しそうにしていない。それはどうしてなのだ」。長老はため息をついて言った。「三つの害が取り除かれていないからです。それで楽しめないのです」。「三つの害とはなんだ」。「南山にいる額の白い虎、長橋にいる蛟［竜？ 蛇？ ワニ？］、そしてそなただ」。「心配なのがたったそれだけなのなら、おれが取り除いてやる」。周処はすぐに山に入って虎を探して射って殺し、水に入って蛟を撃って殺し、陸機と陸雲について学問を習った。周処は書物を読んで心を養い、節義を強くもって行動を礪いたので、一年もすると州や府から招かれるようになった。
【補足】（1）呉の防衛力の要であった陸抗が死んだ。陸抗の最後の願いは聞き届けられなかった。
（2）周処のエピソードは、『資治通鑑』の編者が、士として見習いたい事例であるとして選んだものであるのだろう。『晋書』にはもう少し詳しく記されている。「周処は水に飛び込み蛟と格闘した。蛟は浮いたり沈んだりしながら十里にわたって流れて行き、周処も一緒だった。三日三晩が経過しても周処は帰ってこなかったので、人々は（やっかい者がいなくなったと）喜び合った。そこに周処は蛟を殺して帰ってきて、郷里の人々が喜び合っていたと聞き、自分がどれだけ人々を困らせていたかを知り、ただちに陸機と陸雲を訪ねた」。『晋書』は面白過ぎて事実であるとは到底思えない話も当たり前に収録している。
【訳文】
［274-12］八月戊申、元皇后［司馬炎の妻の楊氏］を峻陽陵に葬った。皇帝と群臣はそれで喪服を脱いで吉服［ハレの日の衣服］を付けた。博士の陳逵が次のように提議した。「現在の慣行は漢の皇帝が仮に定めたものであります。皇太子様は特に国事に携わってはおられませんので、（三年の喪を終えるまで）喪服を通されるのがよろしいてしょう」。それに対して、尚書の杜預はこのように言った。「古においては天子も諸侯も三年の喪に服すとされ、天子から庶民まで、埋葬が終わると喪服を脱ぎ、その後は『諒闇』として暗い部屋に居て、心に哀しみ続けて三年の定めを終えたのでした。周公は『高宗は喪に服すること三年』とは言わないで、『諒闇』と言っていて、これは、心の内で喪に服すという意味であります。また、叔向は景王が喪服を脱ぐのが早すぎると批難したわけではなくて、遊宴を楽しむのが早すぎるのを指摘したのでした。つまり、埋葬が終わったなら喪服を脱いで、しかし『諒闇の節』に違えてはならないということなのであります。君子の礼は心の内側が肝要であって、衣服が大事なのではありません。喪とは粗末な麻の衣を付けることではありません。皇太子には外に出れば軍を指揮する役目があり、内を守っては皇帝の代理を務める役目があります。国事に携わらないということはありません。皇太子様におかれましては十分に哭して後に喪服を脱がれ、諒闇をもって三年を終えますように」。皇帝はこれに従った。
［司馬光の評語］臣司馬光はこのように考えるものであります。「定規は円や四角の形から作られたものです。その一方で、普通の人は定規がないと円や四角をきちんと作ることができません。喪服は哀戚の思いから作られたものです。その一方で、普通の人は喪服がないと哀戚の思いをもって過ごすことができません。（三年の喪を全うできないことを批判する）『素冠』の詩は、まさにそのような意味で作られたものです。杜預は巧みに経典から引用して、当時の人情に合うように述べたもので、これは能弁ではあっても弁解のためのものであります。臣が思いますに、陳逵の言うことの方が実質的で心のこもったものであると言えましょう」
【補足】「三年の喪」は司馬光の強い関心事であるのだろう、ここでもまた顔を出して意見を述べている。司馬光は、杜預は弁が立つが陳逵の真心には及ばないと批判しているのだが、王夫子は『読通鑑論』で、「杜預の弁は天下をひどく損なうものである」とさらに手厳しい。「心の内で喪に服している」ということがまかり通るのなら、どのような行為だって「心の内はきちんとしている」との言い訳が許されてしまうと王夫子は指摘し、「外側から心を正すための礼が必須であって、礼を乱したなら人の道はがたがたになってしまう。杜預は博学であるが、その弁は不仁をもって経典の本来の意味を乱すものである」と強く批難している。「外側から心を正す」という縛り方は、中学生らしい制服を身に付けることで正しい中学生になるというようなことがその一例で、いまの我々には受け入れがたい考え方である。
【訳文】
［274-13］九月癸亥、大将軍の陳騫を太尉にした。
［274-14］杜預は（黄河を横断する）孟津の渡しが危険であることから、富平津に橋を建設することを提案した。人々は、「殷も周も黄河を臨む場所に都を置きましたが、古の聖賢は橋を作ることをしませんでした。それは必ず作れないからなのであります」と議論した。杜預は橋を作ることを固く請い願った。
かくて橋が完成すると、皇帝は百官を従えて祝宴に臨み、杜預に向けて觴を挙げ、「そなたでなければこの橋は作れなかった」と言ったので、杜預は、「陛下の御明察がなければ、臣には手を施すことさえもできませんでした」と応じた。
［274-15］この年、邵陵厲公の曹芳が死んだ。かつて（魏の三代皇帝であったのだが、二十三歳で）皇位を廃されて金墉城に遷されたときに、太宰中郎の范粲は素服［喪服］で曹芳を拝して見送り、周囲の人々の悲しみを揺り動かした。范粲はそれより病と称して家に籠り、狂人のふりをして物を言わず、車で寝て、地面に足を降ろすことがなかった。子孫の誰かに結婚や仕官の話があると、人々は密かに范粲に諮った。范粲の意に合うときには表情に変化がなく、合わないときには安眠することがなかった。それによって妻子はその考えを知った。子には范喬ら三人がいて、全員が学業を捨て、世間との交わりを絶ち、家で病気の父の世話をし、村から外に出なかった。司馬炎が即位してから、詔をもって二千石を与えて病を養いさせ、絹百匹を与えようとしたが、范喬は父の病気が重いことを理由に辞退して受け取らなかった。范粲はものを言わないことおよそ三十六年、八十四歳で寝所としていた車の中で死んだ。
［274-16］呉では三年間ほど疫病が大流行した。
【補足】（1）魏の三代皇帝であった曹芳は、司馬氏による皇位簒奪の犠牲者であった。ただし司馬氏は寛容な政治を標榜していたので曹芳は殺されずにすみ、退位の後、43歳まで生きることができた。狂人のふりをして司馬氏の振る舞いに異議を唱えた范粲も殺されることなく、むしろ禄まで与えられて、曹芳の没後までも生き延びた。
（2）王夫子は『読通鑑論』で范粲を絶賛している。「いかに高潔な心を持っていても、時の流れに埋もれて、その志が伝わらずに消えてしまう士が無数にいる。范粲は己の考えを文章に書き表そうとしなかった。己の名を残そうとの意図がなかったからである。范粲は最も難しいことをしたのであって、それは仁によるものであった」
【訳文】
［275-01］咸寧元年、春、正月戊午朔、大赦を下し、改元した。
［275-02］呉で地を掘って長さ一尺の銀を得た。上に文字が刻んであった。呉主は（それを吉祥とみて）大赦を下し、天冊と改元した。
［275-03］呉の中書令の賀邵は中風になって物が言えなくなった。職務を離れること数カ月、呉主は仮病ではないかと疑い、酒蔵に収監して、千回ほど拷問を加えた。賀邵は一言も発しなかった。焼いた鋸でその頭を断ち、その家族を臨海に移動させた。また楼玄の子孫を誅殺した。
【補足】呉の皇帝の孫皓はいかさまな瑞祥を喜び、暴虐を好んだことがここでも記されている。楼玄を誅殺したことは通鑑272-13で見ていて、それから2年して何か気に障ることもであったのが、楼玄の子孫も殺されてしまった。
【訳文】
［275-04］夏、六月、鮮卑族の拓跋力微がその子の拓跋沙漠汗をまた派遣して入貢した。沙漠汗が還るときに、幽州刺史の衛瓘は都に留め置くように、また密かに鮮卑族の諸部の大人［有力者］に賄賂を贈って離間させることを文書で朝廷に願った。
【補足】かつて人質として都にいた鮮卑族の拓跋 沙漠汗が帰郷したことは通鑑267-11で見ていて、貢物を持ってまた都にきたのである。衛瓘はその機会を捉えて、鮮卑族の中に内紛を起こさせようと企んだ。衛瓘は杜預によって振る舞いを批判されたり［→通鑑264-01の四］、その娘が一時期皇太子妃になると取り沙汰されたりもした［→通鑑271-16］。
【訳文】
［275-05］秋、七月甲申晦、日食があった。
［275-06］冬、十二月丁亥、宣帝廟を高祖、景帝廟を世宗、文帝廟を太祖と呼びようにした。
［275-07］疫病が大流行して洛陽での死者は万をもって数えるほどになった。
【補足】司馬昭のことを「晋の太祖」と呼んだりするのは、この廟号による。
【訳文】
［276-01］咸寧二年、春、令狐豊が死に、弟の令狐宏がその後を継いだ。楊欣はそれを討伐して斬った。
【補足】これは西方の敦煌でのごたごたの続き［→通鑑272-10］。楊欣はようやくそれを鎮定することに成功した。しかし、それは安定的なものではなかった。
【訳文】
［276-02］皇帝は病気にかかり、一時は非常に重かったのだが、平癒したので群臣が祝った。詔が下され、「疫病で死んだ者のことを思うたびに愴然たる思いになる。我が一身が休息を得たからといって、人民の艱難を忘れることはない」と言った。それからは皇帝を祝おうとする者はいなくなった。
斉王の司馬攸はかつて父の文帝［司馬昭］に愛されていた。文帝は司馬攸に会うたびに、自分が座っているところを撫ぜつつ、「ここは桃符の座であるのだ」と言った。桃符は司馬攸の幼いときの呼び名である。文帝は何度となく司馬攸を皇太子にしようとしていた。臨終に際して、文帝は漢の淮南厲王と魏の陳思王［いずれも皇帝となった兄に疑われて厳しい人生を歩んだ］のことについて司馬炎［司馬攸の兄］に向かって話して涙を流し、司馬攸の手を取って司馬炎に授けた。
また、王太后［司馬昭の妻］は臨終に際して、涙を流しながら司馬炎に向かって、「桃符［司馬攸］には短気なところがあり、そなたには兄として慈しみに欠けるところがあります。私がもしも起きられなくなったときに、そなたは弟を受け入れられなくなるのではと恐れます。私は桃符をそなたに託します。決して私の言葉を忘れませんように」と言った。
皇帝の病が重くなったときに、朝野の人々は司馬攸に思いを寄せた。司馬攸の妃は賈充の長女である。河南尹の夏侯和は賈充に、「卿の二人の婿殿［司馬攸と皇太子］は、卿から見て同じ関係にあるのだろう。ならば、どちらかといったら徳のある方を立てるのがよいのではないかな」と言った。賈充は答えなかった。
司馬攸は荀勖や左衛将軍の馮紞が諂いをもって国政をおかしくしているのを嫌っていた。荀勖は馮紞を使って皇帝にこのように言わせた。「陛下の病がもしも癒えなかったならば、公卿や人民は斉王様［司馬攸］のところに集まり、（陛下が）皇太子様に（皇位を）譲られようとしても、きっとできなかったでありましょう。斉王様を王領［東方の斉の地］に還されて、国の安泰を計りますように」。皇帝は密かにその意見に同意した。後に、夏侯和を光禄勲に移し、賈充の兵権を奪った。しかし、その他の位や待遇は替えなかった。
【補足】皇帝の司馬炎と弟の司馬攸の関係には難しいものがあった［→通鑑265-11］。たとえ本人同士はいがみ合っていなくても、周囲の様々な思惑が二人の間を割いてしまうようになりかねない。
【訳文】
［276-03］かつて呉の施但が反乱を起こしたときのこと、ある人が京下督の孫楷［皇族の一人］を謗って、呉主に、「孫楷はすぐに施但を討ちに行こうとせずに、どっちつかずの様子見をしていました」と言った。呉主は孫楷を何度も詰問して責め、宮下鎮の驃騎将軍に落として懲らしめとした。孫楷は疑い懼れ、夏、六月、妻子を率いて晋に奔った。孫楷は車騎将軍にされ、丹楊侯に封じられた。
秋、七月、呉のある人が呉主にこのように言った。「臨平湖は漢代の末から草が茂って塞がってしまいました。長老が言うには、『この湖が塞がると天下が乱れ、この湖が開くと天下が平和になる』と。近頃、なぜか急に湖が開けて通れるようになりましたので、これは天下が太平になるときがきて、青蓋［天子の車］が洛陽に入るという吉祥でありましょう」。呉主はこのことについて奉禁都尉の陳訓に尋ねた。陳訓は、「臣はただ気を見ることができるだけで、湖の開塞については存じ上げません」と答えた。陳訓は退出するとその友に、「青蓋が洛陽に入るとは、銜璧［璧を口に銜えて降伏すること］があるとするものだろう、吉祥ではあるまい」と言った。
ある人が、湖の岸辺で得たといって、「皇帝」の文字が刻まれている石を献じた。呉主は大赦を下し、天璽と改元した。
湘東太守の張詠は算緡［銭に課す税］を国に納めなかった。呉主は人を派遣して張詠を斬り、その首を諸郡に回して見せしめとした。
会稽太守の車浚は公正で実績もあった。その地が旱魃のために飢饉に見舞われ、官の備蓄を民衆に貸し与えることを朝廷に願った。呉主は、車浚は民衆に私的な恩を売ろうとしていると考え、使者を派遣して車浚を斬ってさらし首にした。
尚書の熊睦がわずかばかり諌めると、呉主は刀の鐶で撞きまくって熊睦を殺した。熊睦は全身傷だらけであった。
【補足】呉の孫皓が何をしてももはや驚かないであろう。いんちきな吉祥をひたすら喜び、わずかなことで怒りを発してまともな臣下を殺してしまう、もはや自滅への道を敢えて進んでいるかのようである。
【訳文】
［276-04］八月已亥、何曽を太傅に、陳騫を大司馬に、賈充を太尉に、斉王の司馬攸を司空にした。
【補足】これを見ると、司馬攸は朝廷の大官として都に居続けている。
【訳文】
［276-05］呉の歴陽山には七つの洞穴が並んでいるところがあり、黄赤色で、俗に「石印」と呼ばれ、「石印の口が開かれるとき、天下は太平になる」と言われていた。歴陽長が、「石印が開かれました」と朝廷に報告した。呉主は使者を派遣して、太牢［天子の供え物］でこれを祀った。使者は高い梯子を作って洞穴まで上り、石に、「楚は九州の渚、呉は九州の都、揚州の士が天子となり、四世にわって治めるのは太平の始まりである」と朱で書いた。使者は帰還してそのことを報告すると、呉主は大いに喜んで、その山の神を王に封じ、大赦を下して、来年から天紀に改元するとした。
［276-06］冬、十月、汝陰王の司馬駿を征西大将軍に、羊祜を征南大将軍に、二人とも開府辟召儀同三司にした。
羊祜は次のような文書を差し出して、呉を伐ることを皇帝に願った。「先帝［司馬昭］は西の蜀を平定すると、南の呉とは和を結んで天下が休息することを願いました。しかし、呉は信に背き、国境でことさらに事を興しております。運命が定める時節は天が授けるところではありましても、功業は人によって成就するものであります。一度大挙して敵を掃滅しないかぎりは、戦いはいつまで経ってもやむことがありません。蜀を平定したとき、天下の人々は皆が呉も同時に亡ぶと思いましたが、それからすでに十三年になります。謀がいろいろ多くあっても、決めるべきは一つだけであります。そもそも険阻であることをもって国の安全を保てるのは、勢いが等しく力の均衡がとれている場合だけです。勢いや力の強弱が異なるときには、いくら険阻であっても国を保つことはできません。蜀の国は周囲を険阻な地形で囲まれ、誰もが、『一人が戟を荷って防ぐなら、千人が当たっても破ることはできない』と言っていました。ところが、我らが軍を進めてみますと、まるで垣根も何もないかのように、勝ちに乗じて敵を席巻し、たちまち成都に至り、漢中の諸城はあたかも鳥が巣に籠るかのように反撃してくることがありませんでした。蜀に戦う気持ちがなかったわけではないのですが、抗する力がまことに足りなかったのです。劉禅が降伏を願い出ると、どこの塞からも兵士がたちまち消え去りました。険阻である点では、長江、淮河は蜀の剣閣には及びませんし、孫皓の暴虐は劉禅を超えております。呉の人々は蜀の人々よりもずっと困苦し、我が大晋の兵力はかつての魏の兵力よりも盛んです。このときにおいて天下を一つにしないで、さらに互いに兵を出して守ることを続けたならば、天下はいつまでも戦乱に苦しみ、もしかしたら盛衰の入れ替わりを経て、我らの安泰さえ長く久しく続けることはできなくなるかもしれません。いまこのときに梁州、益州の兵士を水陸両面から長江に沿って下らせ、（私が統率している）荊州、楚州の兵を江陵へと向かわせ、また平南将軍や予州刺史には夏口を目指して南下させ、徐州、揚州、青州、兗州の兵を同時に出して秣陵に集結させるならば、呉は天下全体の兵士に対してわずかな片隅の兵だけで対抗して、あちらでもこちらでも危急に備えるために力を分散させなければならなくなります。このときに長江の流れに乗った奇兵をもって敵の空虚を衝き、一気に敵を傾けるなら、呉は上下ともに震撼して、いかに知恵のある者でも呉のために謀ることはできないでありましょう。そもそも呉は長江に寄り添って国を作り東西数千里にわたり、敵となる者がたくさんいて休まるときがありません。孫皓は情を恣にし意に任かせて大勢の下の者を忌み嫌い、将軍は朝廷に疑われ、士は野に苦しみ、一致して国を保とうとする思いがまるでありません。平穏なときでさえも多くの者が国から去ろうとする思いを抱いていて、我が兵と向かい合ったならば、必ずやこちらに応じようとする者が出て、力を合わせて死ぬまで戦おうとは決してしないでしょう。呉の人々は気が短く、持久戦には不向きで、弓や戟や楯などの武器は我が国に及ばず、得意なのは水での戦いだけです。ひとたび我らがその境から入り込んだなら、もはや長江を頼みとすることもできなくなり、城に立て籠もるのでありましょうが、それは自身の長所を去って短所に拠ることとなり、もはや我等の敵とはなりません。官軍は遠くに進んで死を覚悟して戦い、一方で、呉の人は己の郷里を顧みては戦場から離散しようとの心につきまとわれます。このようなことから、我が軍はさほど時を要することなく必ずや勝つのであります」。皇帝はそれを深く納得した。
しかし朝廷の議論では、いまは秦州や涼州（における鮮卑族などの動き）の方が気がかりであるとした。そこで羊祜は再び文書を提出した。「呉を平定できれば、胡［鮮卑族たち］は自ずと定まります。とにかく速やかに大功を成就させるべきです」。議論はまとまらず、特に賈充、荀勖、馮紞らは呉を伐ることに強く反対した。羊祜は、「世の中に思い通りにならないことが十のうちに七か八はあるのが普通だ。天が与えるものを取らずにいるのでは、後に事を行おうとする者が、時に遅れたと恨むであろう」と嘆いた。ただ度支尚書の杜預と中書令の張華が皇帝と同じく羊祜の計に賛同した。
【補足】羊祜の提案は却下された。かねてから羊祜を嫌う賈充ら［→通鑑272-14］には受け入れがたかったのだろう。
【訳文】
［276-07］丁卯、楊氏を皇后にし、大赦を下した。皇后は元皇后［先の皇后］の従妹である。美しく婦人としての徳があった。帝が初めて楊氏を召されたとき、叔父の楊珧が次のような文書を皇帝に提出した。「古から二人の皇后を一門より出して、その一族が保たれた例はありません。この文書を宗廟の内に秘蔵されますように。臣がこのように申していたことをもって、後に禍を免れることを願うものであります」。皇帝はそれを許した。
十二月、楊皇后の父の鎮軍将軍の楊駿を車騎将軍にして、臨晋侯に封じた。尚書の褚●や郭弈らは楊駿には国家の重職を任せられる器量がないと言ったが、皇帝は従わなかった。楊駿は驕って得意気に振る舞ったので、胡奮が、「卿は娘を恃みとして、ますます偉ぶろうというのかい。これまでの歴史を見て、天子と姻戚となって、亡びなかった一門はないのだから、早いか遅いかの違いがあるだけだな」と楊駿に言うと、「卿の娘だって（貴人として）天子に仕えているではないか」と言い返したので、「我が娘は卿の娘の単なる召使だ。卿のところとはまるで違う」と言った。
［●は挈の下が石］
【補足】新たに皇后になったのは、先の皇后が亡くなる前に泣いて皇帝に勧めた楊芷である［→通鑑274-09］。楊珧は一門から二人の皇后を出したことでかえって将来を危惧した。実際に、楊駿がすぐにまずいことをしている。
【訳文】
［277-01］咸寧三年、春、正月丙子朔、日食があった。
［277-02］皇子の司馬裕を立てて始平王にしたが、庚寅、司馬裕は死んだ。
［277-03］三月、平虜護軍の文鴦は涼州、秦州、雍州の諸軍を指揮して鮮卑族の禿髮樹機能を討ち、勝利した。諸胡の二十万人が降伏した。
【補足】鮮卑族の禿髮樹機能に悩まされていたことは通鑑271-06などで見てきた。
【訳文】
［277-04］夏、五月、呉の将軍の邵顗と夏祥が七千人余りを率いて来降した。
［277-05］秋、七月、中山王の司馬睦が逋亡［逃亡者］を誘ったことで罰せられて、丹水県侯に落とされた。
［277-06］紫宮［天の星座］に見慣れぬ星があった。
［277-07］衛将軍の楊珧らが次のように建議した。「古において諸侯を封建したのは、王室の籓衛［守り］とするためでありました。いまもろもろの王公はいずれも都におられますので、扞城［防御］の意味をなしていません。一方で、皇室とは異なる姓の諸将が国境地帯に置かれていますので、（守りを固めるために）そこに皇族をまじえるのがよろしいでしょう」。皇帝は詔を下して、諸王を領地の戸数の多少によって三等に分け、大国には三軍五千人を、次国には二軍三千人を、小国には一軍一千一百人を与え、諸王で都督［軍の指揮を執る］となる者は、その軍を置く場所の近くに領地を替えることにした。
八月癸亥、扶風王の司馬亮を汝南王にして、都から出して鎮南大将軍都督予州諸軍事に、琅邪王の司馬倫を趙王にして、都から出して督鄴城守事にし、勃海王の司馬輔を太原王にして、都から出して監并州諸軍事にした。また、東莞王の司馬伷を徐州から移動させて琅邪王に封じ、汝陰王の司馬駿を関中から移動させて扶風王に封じ、太原王の司馬顒を移して河間王にし、汝南王の司馬柬を移して南陽王にした。司馬輔は司馬孚の子で、司馬顒は司馬孚の孫である。官職に就いていない皇族はすべて都から出してそれぞれの任国に行くようにした。もろもろの王公は皆都を恋しがって泣く泣く去った。また皇子の司馬瑋を始平王に、司馬允を濮陽王に、司馬該を新都王に、司馬遐を清河王に封じた。
さらに異姓の臣で大功のある者を郡公、郡侯に封じた。賈充を魯郡公に封じ、（亡くなった）王沈を博陵郡公に追封した。鉅平侯の羊祜を移して南城郡侯に封じたが、羊祜は固く辞退して受けなかった。羊祜は官爵を授けられるたびにいつも辞退することが多く、その心の内はかねてから明らかであったので、官爵を与えることはさて置き、羊祜は志のままにするよう許された。羊祜は司馬昭、司馬炎の二世にわたって仕え、国家の枢要の職に就き、国の損益について論じた文書は全て焼いてしまったので世間の人はそれを知らなかった。羊祜の推薦によって昇進した者も、それが羊祜によるものであるとは誰もが知らずにいた。羊祜は常に、「官は朝廷から授かるものであって、私的な恩に感謝するようなことがあってはならないのだ」と言っていた。
【補足】（1）中山王の司馬睦は司馬懿の弟の子、司馬炎から見ておじの世代の人。何らかの事情で土地を離れて流浪した人に別の姓名を与えて自領に住まわせたことが罪とされた。本来はもとの土地に強制送還しなければいけない。
（2）諸王に軍団を授けて各地に配備したことを、王夫子は『読通鑑論』で厳しく批判している。「魏の時代には同族の者たちを疑って力を与えなかったために、異姓の実力者［その代表が司馬氏］が台頭して、ついには皇位を奪われてしまった。晋はそれに懲りて、皇族たちに軍事力を授けたのだが、これは皇族だけを信用して天下全体を疑う行為であった。疑いをもって政治を行えば、必然的に乱れて亡びに向かう以外にない」
（3）羊祜については、王夫子は『読通鑑論』で、「三代［古の理想の政治が行われた時代］以降で、道［最高の道徳律］をもって武力を用い、悠然と大功を成したのはただ羊祜だけである」と最大限の賛辞を贈っている。そして、羊祜に対峙した陸抗については、「智深く、謀遠く、羊祜と碁を打ちあって甲乙つけがたかった」と評している。
【訳文】
［277-08］兗、予、徐、青、荊、益、梁の（黄河沿いの）七州で洪水があった。
［277-09］冬、十二月、呉の夏口督の孫慎が江夏、汝南に侵入して千戸余りを略奪して去った。皇帝は近臣に詔を持たせて派遣し、羊祜が（侵入してきた呉軍を）追討しようとしなかったことを詰って、荊州に移動させようとした。羊祜はこのように言った。「江夏は（羊祜がいる）襄陽から八百里もの距離があり、賊の侵略が知れたときには賊が去ってすでに日が経っていました。それでどうして歩兵で追えましょうか。（形だけの追討をして）兵士を疲れさせて、私自身の罪を免れようとするのは、臣の思うところではありません。昔、魏の武帝［曹操］が都督を置いたときには、州庁の近くに軍を配備させました。そのようにしたのは軍団はまとまった方がよく、離散するのはよろしくないからです。戦場においてはそれぞれの場を謹んで守るのが大切です。もしも何かあるたびに州の軍を移動させるようにしたなら、賊は不規則に出てきて、州の軍は拠るべきところを失ってしまいます」
［277-10］この年、大司馬の陳騫は揚州から入朝し、高平公をもって官職を罷めた。
［277-11］会稽の張俶は何かと人を謗ることが多く、呉主はそれをはなはだ寵任した。張俶は昇進を重ねて（司法を監督する）司直中郎将にまで昇進し、侯に封じられた。その父は山陰県の小役人であったが、張俶が不良であることをもって、朝廷に文書で、「もし張俶を司直にしたために張俶に罪がありましても、私が連座することがないように願います」と申し上げ、呉主はそれを許した。張俶は弾曲二十人を置くことを願って、それを使って不法の者を糾弾した。それからは、役人も民衆もそれぞれ好悪をもって互いに告発し合うようになり、たちまち牢獄は溢れかえり、大騒ぎとなった。張俶は不正に莫大な利を得て、驕り高ぶってますます横暴になった。悪事が露見して、父子ともに車裂きになった。
【補足】（1）羊祜は皇帝から詰られて、イロハのイの字のようなことをどうしてわざわざ弁明しなければならないのかと、うんざりしたことであろう。
（2）張俶は孫皓が好むことをしただけで、車裂きにされるべきは明らかに孫皓である。
【訳文】
［277-12］衛瓘は鮮卑族の拓跋沙漠汗を帰国させた。沙漠汗が人質になってから、（その父の）拓跋力微可汗は自分の近くにいる他の子たちを寵愛するようになっていた。沙漠汗が帰ってくると、諸部の大人［有力者］が一緒になって沙漠汗の悪口を言ったので、力微可汗は沙漠汗を殺した。そのころから力微可汗は病気が重く、烏桓王の庫賢が力微可汗の近くにいて事を決めていた。庫賢は衛瓘から賄賂を受けていて、諸部を混乱させようとした。あるとき庫賢は庭で斧を礪きながら、諸大人に向かって、「可汗様はおまえたちが太子［沙漠汗］を讒言でもって殺したことを恨んでいて、おまえたちの長男をことごとく集めて殺してしまおうとしている」と言った。諸大人は懼れ、皆が走って逃げた。力微可汗は憂いのうちに死んだ。ときに百四歳であった。子の拓跋悉禄が可汗に立ったが、その国はついに衰えた。
幽州と并州は鮮卑族と接し、東には務桓がいて、西には力微がいて、そのために国境では煩わしいことが多かった。衛瓘は密かに鮮卑族を離間させ、務桓は晋に降り、力微は死んだ。朝廷は衛瓘の功績をよしとして、その弟を亭侯に封じた。
【補足】鮮卑族の拓跋力微がその子の拓跋沙漠汗を人質として入れていたことや、衛瓘が賄賂作戦を採っていたことは通鑑275-04で見ている。衛瓘の思惑通りに事が運んだのだった。
【訳文】
［278-01］咸寧四年、春、正月庚午朔、日食があった。
［278-02］司馬督の馬隆が朝廷に、「涼州刺史の楊欣は羌戎［諸民族］との和を失い、きっと敗れるでありましょう」と、朝廷に申し上げた。夏、六月、楊欣は鮮卑族の禿髮樹機能の一党の若羅拔能らと武威で戦って敗死した。
【補足】敦煌でのごたごたを楊欣は鎮めたかのように見えたのだが［→通鑑276-01］、周辺の諸民族との関係がかえって悪化して、楊欣は殺されてしまった。
【訳文】
［278-03］弘訓皇后の羊氏が亡くなった。
【補足】弘訓皇后とは司馬師の妻の羊氏のこと。羊氏が弘訓宮に置かれていたことは通鑑266-02で見ている。
【訳文】
［278-04］羊祜は病気になり入朝することを求めた。羊祜が都にくると、皇帝は、羊祜には輦に乗って入殿し、拝せずに坐してよいとした。羊祜は呉を伐る計画について皇帝に直接述べた。皇帝はそれを善しとした。羊祜は病気であるので、何度も朝廷に来なくてよいとし、皇帝は張華を派遣して籌策について尋ねた。羊祜は言った。「孫皓の暴虐はすでに甚しく、今なら戦わずして勝てます。もしも不幸にして孫皓が死に、呉の人々が賢明な人物を立てたなら、百万の大軍をもってしても長江を突破きなくなってしまいます。それは後に憂いを残すことになるでしょう」。張華は深く納得したので、羊祜は、「吾が志を成し遂げくれるのは君だ」と言った。皇帝は羊祜に臥せたままで将軍たちを監督させようとした。羊祜は、「呉は臣が行くまでもなく取ることができます。ただし、平定の後には陛下の顧慮を必要とするようになりましょう。功名を定める際に臣もその中に入れていただこうとは思っていません。事が終わったなら、呉の地を誰に授けるのか、しかるべき人を慎重にお選びください」と言った。
［278-05］秋、七月己丑、景献皇后［弘訓皇后］を峻平陵に葬った。
［278-06］司州、冀州、兗州、予州、荊州、揚州で洪水があり、虫によって穀物が損なわれた。詔を下し、関係する部署に、「どのようにしたら民衆を救えるのか」と尋ねた。度支尚書の杜預は次のような文書を提出した。「いま水害が最も激しいのは東南の地です。兗州、予州などの諸州に命じて、漢の時代の旧い堤防はそのまま残して修繕するようにし、その他の堤防は切って水を流すことで、魚や貝の恵みを飢えている者に与えるようにします。これは目下の急を救うに益するものであるとともに、水が流れ去った後には、泥で埋まった田が残され、そこから多くの収穫が得られます。これは来年の益となりましょう。また、宮廷で飼っている牛四万五千頭余りがいて、成長しても鼻輪を付けることもなく、耕作にも荷役にも使われていません。これを民に分けて、春からの農耕に使い、稔ってから後には租税を運搬するのに使うならば、数年以降の益を生み出すようになりましょう」。皇帝はこれに従い、民はその利を受けられるようになった。杜預が尚書であった七年の間に、政の改善を数えられないくらいたくさん行ったので、当時の人々は「杜武庫」と言った。杜預の庫には何でもあるという意味である。
［278-07］九月、何曽を太宰にした。辛巳、侍中尚書令の李胤を司徒にした。
［278-08］呉主は自分より勝る者を嫌った。侍中中書令の張尚は張紘の孫で、頭の回転が速くて弁が立ち、談論はいつも意表を突いた。呉主は次第に張尚を恨むようになり、後に呉主が張尚に、「孤の酒の飲み方は誰と比べられるかな」と尋ねた。「陛下は百觚の量をお飲みになります」と張尚が言うと、「そのココロは、百觚の酒を飲んだという孔子に私をなぞらえるのであろう。そなたは孔子が王にはなれなかったことをもって、孤にあてこすりを言うのだな」と言って怒りを爆発させ、張尚を収監させた。公卿以下百人余りが宮殿に詣でて叩頭して張尚の罪について謝った。それで死が免じられて、建安に送られて船を作らされた。しかし、結局は殺してしまった。
【補足】このあたりの記事を読むだけでも、羊祜が言った通り、孫皓が呉の皇帝であるいまが呉を滅ぼす好機であることがよくわかる。孫皓のように国家に最も害を為すのが皇帝本人である事例は非常に多くあるのに、皇帝制度が長く維持されたのは謎としか言いようがない。『資治通鑑』も歴史に学ぶことを標榜しつつ、最も肝要なところは見えていなかったのだろう。次の項を読めば、晋も呉と五十歩百歩であることがわかる。
【訳文】
［278-09］冬、十月、征北大将軍の衛瓘を都に呼んで尚書令にした。このとき、朝野の人は誰もが皇太子が昏愚であって、皇帝の跡継ぎとしてその任に堪えられないのを知っていた。衛瓘はそのことについて皇帝に申し上げようと思いつつ、まだ言わずにいた。たまたま陵雲台で皇帝が臨席する宴があり、衛瓘は酔ったふりをして、皇帝の座の前に跪いて、「臣に申し上げたいと思うことがございます」と言った。皇帝が、「公は何を言いたいのかな」と尋ねると、衛瓘は言おうとし、しかし言葉を呑むことを三度繰り返し、手で皇帝の座を撫でつつ、「この座をまことに惜しむものであります」と言った。皇帝はその意を悟り、よってわざとらしく、「そなたはまことに酔いすぎであるな」と言った。衛瓘はそれでもう何も言えなくなった。
皇帝は東宮［皇太子のいるところ］に属している官員を全て集めて宴席を設け、政治上の疑問について記したものを封じて密かに渡し、皇太子にそれぞれの可否を決めさせることにした。賈妃［皇太子の妻］は大いに懼れ、外部の人を雇って代わりに答えを作らせた。それは経典を多く引用するものであった。給使の張泓は、「皇太子様が勉強しておられないのは陛下も御存知であります。そうでありながら、経典を多く引いてお答えしたのでは、きっと草稿を作った者が責問されるようになるでしょう。それでは皇太子様はますます譴責されてしまいますので、大事なことを直接的にお答えする方がよろしいでしょう」。賈妃は大いに喜んで、張泓に、「ならば私のために好い答えを作ってくれ。そなたと富貴をともにしようではないか」と言った。張泓はすぐに皇太子のために草稿を作り、皇太子がそれを写した。皇帝はそれを見て非常に喜び、真っ先に衛瓘に示した。衛瓘は大いに踧踖［あわあわと恐れること］した。人々はその様子から衛瓘が先に何を言ったのかを知った。賈充は密かに人を遣わして賈妃に、「衛瓘の老いぼれめ、そなたの家［皇太子］をほとんど破滅させるところだった」と言った。
【補足】皇太子の司馬衷の妻は賈充の娘である［→通鑑271-16］。もともとは五つの長所のある衛瓘の娘が皇太子妃になるはずだったのを、賈充一派の画策で五つの短所のある賈充の娘が皇太子妃になった。賈妃は皇太子の地位を守ったのだから、皇太子妃としての役割をよく果たしたといえるのだろうが、国にとってははなはだ迷惑な行為であった。
【訳文】
［278-10］呉は皖城の周辺の農地を大々的に広げ、そこを拠点に晋に攻め込むことを謀った。（晋は）都督揚州諸軍事の王渾と揚州刺史の応綽を派遣してそれを攻めさせた。皖城を破り、首を斬ること五千級、積み上げて穀物を焼くこと百八十万斛余り、稲田を踏み潰すこと四千頃余り、船を壊すこと六百艘余りにのぼった。
［278-11］十一月辛巳、太医司馬の程拠は雉の頭の毛で作った裘を皇帝に献じた。皇帝はそれを殿前で焚かせた。甲申、内外に敕令を出し、「奇抜な珍しい服を献じる者を罰する」とした。
［278-12］羊祜は病気がいよいよ重くなると、自分の代わりとして杜預を挙げた。辛卯、杜預を鎮南大将軍都督荊州諸軍事にした。羊祜が死ぬと帝は哭して甚だ哀しんだ。その日は非常に寒かったので、鬚を濡らした皇帝の涙が凍り付いた。羊祜は南城郡侯の印を柩に入れないよう遺言した。皇帝は、「羊祜は南城郡侯を何年も辞退し、身が没してもなお固辞し続けている。いまはもとの鉅平侯に封じることを許し、その美しい振る舞いを顕彰する」と言った。荊州の民は羊祜が死んだと聞くと市を止め、巷に哭声が相次いで起こった。呉の国境を守る将士もまた泣いた。
羊祜は（襄州にある）峴山で遊ぶのを好んだので、襄陽の人々はその地に碑を建て廟を立てた。毎年そこで祭祀を行い、その碑を見上げる者は皆が涙を流したので「堕涙碑」と呼ばれた。
杜預は任地に赴くと、精鋭を選んで呉の西陵督の張政を襲撃し、大いに破った。張政は呉の名将で、備えをせずに敗れてしまったことを恥じ、実情を呉主に報告しなかった。杜預は君臣の間を割こうとして、朝廷に報告して呉から獲得した地を返還した。（これによって敗戦を知った）呉主は果して張政を召還し、武昌監の留憲と交代させた。
【補足】（1）羊祜が南城郡侯になるのを固辞したことは通鑑277-07で見ている。
（2）峴山は襄陽の町の東にある小さな山で、非常に見晴らしがよい。あるとき、羊祜が峴山の山頂に立つと、その顔がたちまち一変した。同行した鄒潤甫が、「公の治徳は四海に冠たるものがございます。そればかりか、前哲の教えを嗣いで学問の道も究めておられます。公の御名はこの山のように八方より望まれ、永遠に伝えられるでありましょうに、何故に、そのような御苦悶をお顔に浮かべておられるのでしょうか」と尋ねた。羊祜は答えた。「宇宙はいつからあるのだろうか。宇宙があったその最初からこの山はあったのだろうか。我等が決して知り得ぬ遠い昔より、数え切れぬ賢達勝士がここに登って、ここからの景色を遠望したであろう。我等の前には無限の時があり、無数の賢達勝士がいた。我等の後ろにも無限の時があり、無数の賢達勝士がいる。いまここで、その誰を見るのか。前の人を見ず、後ろの人を見ない。これを悲しまずにいられようか」。「堕涙碑」にはこのことが刻まれていた。襄陽に生まれて、一生のほとんど襄陽で過ごした唐の時代の孟浩然はしばしば峴山に登って詩を詠んだ。その一つを見ておこう。
【訳文】
孟浩然：与諸子登峴山［諸子と与に峴山に登る］
人の世というものは、こもごも入れ替わり、
往き来するうちに今が昔となる。
川や山の変わらぬ美しさを見ようと、
我等はまたこの山に登ってあたりを見回す。
川の水が落ちたこの時期、
近くの魚粱洲は浅く見え、
天の寒くなったこの季節、
遥か雲夢沢の深まりが想像される。
羊公の碑にありありと刻まれている文字、
読み終わると襟が涙で濡れている。
人事有代謝、往来成古今。
江山留勝迹、我輩復登臨。
水落魚梁浅、天寒夢沢深。
羊公碑尚在、読罷涙沾襟。
【訳文】
［278-13］十二月丁未、朗陵公の何曽が死んだ。何曽は己を養うことにおいて君主を超えるものがあった［つまり日常生活においてひどく贅沢であった］。司隸校尉の劉毅が何曽の奢侈の際限がないことをしばしば弾劾したのだが、皇帝は何曽が重臣であることから何も問わなかった。何曽が死ぬと、博士の秦秀が次のように提議した。「何曽の驕奢は度を超え、そのことで全国に名が知れ渡っていました。宰相や大臣は人々の手本になるべきでありますのに、生きている間に情の赴くままに暮らし、死んでからもお咎めがないのでは、王公貴人は贅沢をすることに何も畏れを抱かなくなってしまいます。謹んで『謚の法』を考えますに、名と実態が乖離しているのを繆といい、世の乱れに乗じて行いを肆にするのを醜といいます。何曽の謚は繆醜公とすべきであります」。皇帝は何曽の謚を孝とした。
［278-14］前の司隸校尉の傅玄が死んだ。傅玄の性格は峻急［厳格で許容しない］で、弾劾を奏上する準備をしているうちに日が暮れてしまうと、奏上に使う白簡を捧げ持ち、冠帯を整え、竦踴［じりじりする］して眠らずに、坐して夜明けを待った。これによって貴人の子弟でぶらぶらしている者は震えおののき、朝廷の雰囲気がひきしまった。傅玄と尚書左丞の崔洪はともに認め合う関係にあって、崔洪もまた清厲骨鯁［清潔な堅物］の人で、人の過ちを面と向かって指摘した。しかし、朝廷から退くと何も言わなかったので、人々は崔洪を重んじた。
【補足】（1）何曽が贅沢三昧の暮らしを謳歌したことは通鑑262-04の一の補足でも触れた。何曽は自分の生きる時代は名と実態がぴったり合っていると豪語していたのだから、繆醜公の諡が与えられていたら本望であっただろうに。
（2）『資治通鑑』の編者は意外と皮肉好きで、何曽に続けて、傅玄と崔洪の事績を並べている。このような人がいなければやはり政治は乱れるしかない。なお傅玄の名は通鑑265-14ですでに見ている。
【訳文】
［278-15］鮮卑族の禿髮樹機能は長く国境地帯の患いとなっていた。僕射の李憙は軍団を出してこれを討つことを願った。そのときの朝廷の議論の流れは、軍団を出すのは重大事であって、虜［異民族］は憂うまでもないというものであった。
【補足】鮮卑族の禿髮樹機能には一時的に勝利してはいたが［→通鑑277-03］、なおその脅威は続いていた。朝廷は平常時バイアスによってその対策を怠った。
【訳文】
［279-01］咸寧五年、春、正月、樹機能が涼州を攻撃して陥落させた。皇帝はそのようになってしまったことを非常に悔やみ、朝廷に臨んで嘆きつつ、「我がためにこの虜［異民族］を討伐してくれる者は誰かいないか」と言った。司馬督の馬隆が進み出て、「陛下が臣にお任せくださるのなら、臣が平らげてみせましょう」。「必ずや賊を平らげてくれるのなら、任せないことはない。どのような方略があるかによる」。馬隆は、「臣が願いますのは、三千人の勇士を、その素性を問うことなく募集することであります。それを率いて西に進むなら、虜はきっと平らげられます」と言った。皇帝はそれを許した。
乙丑、馬隆を討虜護軍武威太守とした。公卿は、「現在でも兵士はすでにたくさんいます。別途また募集する道を設けるのはよろしくありません。馬隆は地位の低い将士で、その妄言は信じるに足りません」と口々に言った。皇帝は聞かなかった。
馬隆は四鈞の弓を引き、九石の弩を挽く者を募集し、標を立てて試験をした。朝から日中に至るまでの間に三千五百人を得ると、馬隆は、「これで十分だ」と言った。そして、自分で武器の倉庫に行って武器を選ぼうとした。武庫の管理人と馬隆は言い争いになり、御史中丞が馬隆を弾劾した。馬隆は、「臣は戦場で命を尽くそうとしております。ところが、武庫の管理人は魏の時代の朽ちた武器を与えようとしました。それは陛下が臣をお用いになる御意思に沿うものではありますまい」と言った。皇帝は馬隆が取る物をそのまま与えるよう命じ、さらに三年分の軍資を与えて派遣した。
［279-02］かつて南匈奴の呼廚泉は、兄の於扶羅の子の劉豹を左賢王にした。魏の武帝［曹操］は匈奴を五部に分割し、劉豹を左部帥［左部の長］にした。劉豹の子の劉淵は少年のころから人より優れ、上党の崔游に師事し、広く経典や歴史を習った。劉淵は、同じ門下生の上党の朱紀や雁門の范隆に、「私はいつも随何や陸賈に武威がなく、周勃や灌嬰に学問がないのを残念に思っているのだ［いずれも漢の初めに活躍した人］。随何と陸賈は高祖に出会いながら諸侯として封じられる功業を挙げることができなかったし、周勃と灌嬰は文帝に出会いながら学校教育を興すことができなかった。まことに惜しいではないか」。それで学問と武事を兼ねておこなった。成長するに及んで、猿臂［長い腕］で矢を射るのが得意で、膂力［筋力］は人に勝り、姿や容貌は魁偉となった。
劉淵は人質として洛陽に置かれ、王渾やその子の王済と知り合って一目置かれるようになり、二人はしばしば劉淵を皇帝に薦めた。皇帝は劉淵を呼んで語り、悦んだ。王済は言った。「劉淵には文武の優れた才能があります。陛下が東南の事をこの者に任せたなら、呉はきっと平定できましょう」と言った。孔恂や楊珧は、「劉淵は我らとは族類を異にしていますので、その心も必ずや異なります。劉淵の才器はまことに並ぶ者が少ないものではありますが、しかし重く任用すべきではありません」と言った。
（鮮卑族によって）涼州が陥落したときに、皇帝は誰を将軍として用いたらよいかを李憙に尋ねた。李憙は、「陛下が匈奴の五部の人々を動員し、劉淵に将軍の号を与え、それを率いて西に向かわせるなら、樹機能の首は日を置かずに梟にできるでありましょう」と言った。孔恂は、「劉淵は果たして樹機能の首を取ることができるでしょうけれど、涼州の患いはさらに深刻になるでしょう」と言った。皇帝は劉淵を用いなかった。
東萊の王弥の家は代々二千石［地方知事］で、王弥は学術も勇略もあり、騎射も巧みで、青州の人々は「飛豹」と呼んでいた。王弥は任侠を喜び、処士［無官の者］の董養は王弥に会うと、「君は乱を好み、禍を楽しむ者であるな。もし天下に事があったなら、士大夫ではいないであろう［官に仕える者ではなくて賊になるということ］」と言った。劉淵は王弥と友として親しくし、劉淵は王弥に、「王渾も李憙も同郷であることから私のことを知っていてくれて、いつも私を推薦してくれる。しかし、ときに私のことを危惧する者がいるのだ」と言って、すすり泣いた。斉王の司馬攸はこのことを聞いて、皇帝に、「陛下が劉淵を除かなければ、臣は并州が長く安らなままではいられなくなるの恐れます」と言った。一方で、王渾は、「大晋は信をもって風俗の異なる人々を懐けております。根拠のない疑いでもって人質となっている者を殺してしまうようなことをしてよいのでしょうか。それでは徳と度量が狭いとされてしまいましょう」と言った。皇帝は、「王渾の言うことはもっともである」と言った。劉豹が死ぬと劉淵をその代わりに左部帥にした。
【補足】（1）ここに新たな時代を切り開くことになる劉淵が登場する。その前段として涼州の事情が記されている。
（2）魏の曹操が南匈奴を五部に分けて并州の域内に住まわせたことは第77巻の終わりに引用した通鑑251-11や通鑑270-10で見ている。異民族を内側に抱え込むことには危険性が伴うとは前々から指摘されていたことであったが、劉淵の出現がそれを現実のものとする。新たな英雄には神秘的な誕生秘話が付き物で、信憑性の低い奇談も数多く載せていることで知られる『晋書』には、劉淵の母が子を授かることを祈ると、二本の角のある巨大な魚が現われ、その夜に不思議な夢を見て、それから13カ月後に劉淵が生まれたといったことが記されている。
（2）司馬攸は、劉淵を消し去ることを皇帝である兄の司馬炎に助言した。後に劉淵が何をしたかを知る者は司馬攸の慧眼に驚かされるのだが、このことについて王夫子は『読通鑑論』で次のように論じている。「理由もなく人を殺してそれで乱を防ごうとするのは道理に合わない。だから司馬攸の提案を王渾が非としたのは正しい。もしも劉淵を殺しておかなかったために劉淵が反乱を起したならば王渾は批難され、もしも劉淵を殺したために他の部族の反乱を招いたならば司馬攸は批難される。劉淵を殺せば異民族の恨みを強めることになり、そのために次にまた誰かを殺せばさらに恨みを強めて際限がなくなる。この時点では、李憙の提案が最も理に適うものであった。劉淵に涼州を平定させておけば劉淵の野心はおさまったであろうし、匈奴は涼州にその落ち着き場所を得られたであろう。涼州はそもそも中国にとっては余分な場所であって、匈奴は并州に置くよりはそちらに移した方が制御しやすいはずである。つまり、李憙の深謀を用いなかったことが晋の亡ぶ原因となったのであって、つまり晋は自ら亡んだのである」
【訳文】
［279-03］夏、四月、大赦が下された。
［279-04］部曲督以下の者が人質を出すことをやめた。
［279-05］呉の桂林太守の脩允が死に、その部曲［私的つながりの強い部下たち］を適宜様々な将軍に分け与えることになった。督将の郭馬、何典、王族らは代々一つの軍団を作ってきたので、離れ離れになるのを嫌った。たまたま呉主が課税のために広州の戸籍の実態を調べようとして民衆が不安を抱いていたので、郭馬らはそれに乗じて人々を集め、広州督の虞授を攻め殺した。郭馬は自分で都督交広二州諸軍事と号して、何典に蒼梧を、王族に始興を攻めさせた。
秋、八月、呉は軍師の張悌を丞相に、牛渚都督の何植を司徒に、執金吾の滕脩を司空にした。その任命が完了しないうちに、滕脩を改めて広州牧として、一万人を指揮して東道から郭馬を討たせた。郭馬は南海太守の劉略を殺し、広州刺史の徐旗を追い払った。呉主はさらに徐陵督の陶浚に七千人を率いて西道から交州牧の陶璜とともに郭馬を撃たせるようにした。
【補足】「部曲」は私兵的性格の強い部下であるらしい。「部曲督」はそのような兵団の指揮官であるのだろう。部曲督が勝手な振る舞いをしないように人質を出すことをこれまでは強制していたのだろう。呉の桂林で部曲を解体されることに反発して将士が反乱を起こした。その背景には民衆の間に孫皓の乱れた政治への反感が広がっていたことがあるのだろう。戸籍調査が民衆を不安にさせたのは、ただでさえ重い負担を強いられているのにさらに重くされることを嫌ったのである。
【訳文】
［279-06の一］呉に鬼目菜［植物の名］というものがあり、それが工人の黄耇の家に生えた。また買菜［やはり植物の名］というものがあり、それが工人の呉平の家に生えた。東観令が書物を調べ、鬼目菜は芝草［霊妙な薬草］で、買菜は平慮草［平慮は平虜［虜＝晋を平定する］に通じる］であるとした。呉主は（その瑞祥に喜び）黄耇を侍芝郎に、呉平を平慮郎にして、銀印青緩を授けた。
呉主は群臣を集めて宴を開くたびに全員を泥酔させた。そのかたわらに黄門郎十人を置いて司過［過失の監視役］とし、宴が終わった後で、群臣が逆らうような目付きをしたとか、誤ったことを言ったとか、ありとあらゆる過失を報告させた。過失が大きかった者にはただちに刑罰が加えられ、小さかった者も罪として記録が残された。ある者は顔の皮を剥がれ、ある者は眼玉を抜かれもした。こうしたことによって人心は上下ばらばらとなり、国のために力を尽くそうする者はいなくなった。
（晋では）益州刺史の王濬が皇帝に次のような文書を差し出した。「孫皓は荒淫凶逆［人としてなっていない］でありますから、速やかに征伐すべきであります。もしも孫皓が死んで賢人が君主として立ったならば、たちまち強敵となってしまいましょう。臣が船を作ってすでに七年、日々に朽ち果てようとしています。臣は七十歳となり、いつ死んでもおかしくありません。以上の三点が全て乖離したならば、呉を図るのはもはや難しくなります。陛下がこの好機を失われることがないよう誠に願うものであります」。ここに皇帝は呉を伐る意を決めた。
たまたま安東将軍の王渾が「孫皓が北上しようとしています」と報告した。それで国境の全ての戍に厳戒態勢を敷かせた。朝廷ではさらに議論して出兵は来年にするとした。王濬の参軍の何攀は使者として洛陽にいたので、皇帝に、「孫皓はきっと出てくることはありません。戒厳を敷いたままで大軍を出すならば呉はたやすく取れるでありましょう」と、申し上げた。
【補足】（1）孫皓が「荒淫凶逆」であることの具体的事例を並べた上で、いよいよ晋が討伐軍を出すようになったことを叙述し始める。『資治通鑑』の編者のなかなか憎い演出である。
（2）王濬が久しぶりに登場する［→通鑑272-05］。長江の上流で軍船の建造を始めたのはここに記されている通り7年前である。王渾の名は通鑑278-10や通鑑279-02で見ていていよいよ役者が揃ってきた感がある。そして次にもう一人の立役者が登場する。
【訳文】
［279-06の二］杜預は次のような文書を皇帝に差し出した。「閏七月以来、賊［呉］は厳戒の勅令を出しはしたものの、下流からこちらへと遡って来る兵士はいません。情勢分析をいたしますに、賊は計に窮し、力も全く不足しているために、夏口より東［つまり長江下流部］だけを保って息を繋ごうとしているのでありましょう。多くの兵士を西に上らせたなら、もはや国都が空っぽになってしまうのでしょう。陛下はいま過ったことを聞かれて、大計を棄ててしまおうとされています。それでは敵による患い改めて生じさせてしまうことになり誠に残念であります。こちらが先に兵を挙げて敵を破ってしまうなら、敵は兵を挙げることなく終わります。いまのこの情勢において確実な策に従うならば、大成功をおさめて太平を開く基となるのであります。たとえ成功しなくてもわずかな月日を費やす以上の損失はないのです。ひとたび試すのを惜しむべきではありません。もしも後の年を待つとしたならな、天の時も人の事もいまのままとは限りませんので、もはや困難となってしまうのを臣は恐れます。いまなら安心して事を挙げることができ、敗北について心配する必要はないのです。臣の心は以上のように決まっております。もはや曖昧な意見に惑わされて後に累を残してはなりません。陛下の御賢察を願うものであります」。
十日経っても一カ月経っても返事がなかったので、杜預はまた文書を提出した。「羊祜は先に朝廷の大臣たちと広く相談することなく、密かに陛下とともにこのことについて相談を進めていました。そのために、大臣たちに多くの異議を生じさせてしまったのでありましょう。そもそも物事の比較は利害の大小をもって行うものです。いまのこの挙の利は十のうち八か九はあって、その害は一か二の功がないだけに留まります。もしも、大臣たちに敵を破る策を言わせたなら何も得られないでありましょう。大臣たちはいまの計が己から出たものではないことから、（成功した場合には）功が我が身にはなく、その前言の過ち［つまり反対したこと］を恥じなければならないのでかたくなになっているのです。このごろ朝廷では事の大小によらずにいろいろな異論が出ております。人心が同じではないのは、陛下の御恩によって後の患いを慮らずにいられるからで、それで軽々しく異論を出しているのです。秋以来、賊を討つべき形がはっきりと現れています。いまもし中止すると、孫皓は怖れから計をひねり出して、都を武昌に移すかもしれませんし、江南の諸城を修繕し、その民を遠くに移すかもしれません。そうなったならば城はたやすくは攻められませんし、野には掠め取るものがなくなってしまいます。来年になったのでは取り返しのつかないことになってしまうのであります」
杜預のこの文書は皇帝が張華と碁を囲んでいたときに届いた。張華は碁盤を押しのけて手を控え、「陛下は聖武であられ、しかも国は富み兵は強く、一方で、呉主は淫虐で、優れた賢人を誅殺しています。いまこのときに呉を討つならば労せずして平定できます。お疑いなされませんよう願います」と、言った。皇帝は杜預の議に従うことにし、張華を度支尚書にして運漕について任せた。
賈充、荀勖、馮紞はそれに反対したので、皇帝は大怒した。賈充は冠を脱いで謝罪した。僕射の山濤は退いて人にこのように告げた。「聖人でなければ、外側が安泰になると内側に憂いがある、といわれている。いま呉が外の懼れであるのをなくすのは、果たして良計であるのだろうか」
冬、十一月、大挙して呉を伐ることになった。鎮軍将軍の琅邪王の司馬伷を塗中へと出し、安東将軍の王渾を江西へと出し、建威将軍の王戎を武昌へと出し、平南将軍の胡奮を夏口へと出し、鎮南大将軍の杜預を江陵へと出し、竜驤将軍の王濬と巴東監軍魯国の唐彬を巴蜀から下らせるとし、東西合わせて二十万人余りである。賈充に命じて使持節仮黄鉞大都督とし、冠軍将軍の楊済をそれに副えた。賈充は呉を伐るのは利がないことを強く主張しつつ、自分が老いて元帥の任に堪えないことを述べた。皇帝は、「君がもしも行かないのなら、私自身が行く」と言ったので、賈充はやむをえず節鉞［指揮官のしるし］を受け、中軍を率いて南に出て襄陽に駐屯して諸軍の指揮を執ることになった。
【補足】（1）長江の上流側で呉と対峙する杜預［→通鑑278-11］が最後に皇帝の背中を押した。皇帝の碁の相手をしていた張華は、かつて羊祜が、「吾が志を成し遂げてくれるのは君だ」と言った人物［→通鑑278-04］。山濤［→通鑑274-10］の言葉は意味が取りやすいように訳した。外患がなくなると内側にもめごとが生じるという予言は長期的には的中したことになる。だからと言って、このときに呉を討伐しなかったならば、それはそれでもっとよろしくないことになっていたのだろう。
（2）賈充はどうして反対し続けたのか。王夫子は『読通鑑論』で次のように推測している。「司馬昭は蜀を滅ぼし、兵権を手中に納め、それによって魏から皇位を奪った。賈充は司馬炎が死ぬのを待って国権を奪い取り、そのときに、いまこそ呉を討つべきであると主張すれば、司馬昭と同じようにするのも難しくはないと考えていたのだろう。しかも、賈充は愚かしい皇太子に娘を嫁がせていたので、司馬昭よりも事を行いやすい条件が揃っていた。だから、羊祜や杜預に頑なに反対し続けたのである」。賈充は司馬昭のすることを間近に見ていたので、自分にだってできると思った可能性はあるだろう。そのような下心があったとしたら、それを見抜けなかった司馬炎はかなり間抜けだったことになる。推論に推論を重ねても意味がないのだが。
【訳文】
［279-07］馬隆は西に進んで温水を渡った。樹機能らは数万人を率いて高いところに拠ってそれを拒んだ。馬隆は山の路が狭いために、扁箱車［扁平な箱型の車］を作り、車の上に木の屋根を載せて矢石を防ぎ、転戦しつつ前進した。千里余り進み、非常に多くの敵を殺傷した。
馬隆が西に向かってからは音信が断絶し、朝廷はすでに死んでしまったのではないかと心配した。後に、馬隆からの使者が夜に到着すると、皇帝は手を叩いて喜び笑った。その翌朝、皇帝は群臣を集めて、「もしも卿たちの言うとおりにしていたなら、涼州はなくなっていたな」と言った。そして詔を下して、馬隆に節［指揮官のしるし］を与え、宣威将軍にした。
馬隆が武威に至ると、鮮卑族の大人［小集団のリーダー］である猝跋韓や且万能らが一万人余りを率いて降伏してきた。
十二月、馬隆は樹機能と大いに戦って、それを斬り、涼州は平定された。
【補足】皇帝の期待に応えて馬隆［→通鑑279-01］は涼州を奪還した。
【訳文】
［279-08］詔を下して、朝廷の大臣たちに政の課題について尋ねた。
司徒左長史の傅咸は次のような文書を提出した。「公私ともに資財が不足しているのは、官署を多く設け過ぎているからです。例えば、都督はもとは四人でありましたが、いまは監軍と合わせて十を数えます。古の（聖天子の）禹は中国を九つの州に分けましたが、いまでは（州を管轄する）刺史の数はほぼ十倍です。一方で、戸数は漢の時代に比べていまは十分の一でありますのに、郡県の数は漢の時代よりもずっと多くなっています。軍府［軍関係の官署］をやたらと設けて、ややもすると百にもなるくらいの数があり、しかも皇宮を守るのには大して役立っていません。五等級に分かれた諸侯はそれぞれに独自の官署を持っていて、それらに属する官員に与える俸給は全て人民から出ております。これらが民衆が困乏している理由であります。今の急務は官署を合併し、（民衆を使役する）事業を休止し、上下ともに農耕に務める、それだけなのであります」。傅咸は傅玄の子である。
このときに、州、郡、県の役人を半減させ、農務に就かせるべきだということが議論された。中書監の荀勖は次のように言った。「役人を少なくすることは官署を少なくすることには及びません。官署を少なくすることは事を少なくすることには及びません。事を少なくすることは心を清くすることには及びません。昔、蕭何や曹参が漢の宰相になったときに、政治は清浄で、民は安寧で一つになっていたといわれています。それが心を清くすることの事例です。浮説を抑え、公文書を簡素にし、煩瑣なことを省き、小さな過ちは許し、しかし、異変を好んで利を求める者に対しては必ず誅殺を加えます。これが事を少なくするということです。九寺［官署の一例］を尚書に、蘭台を三府に付属させます。これは官署を少なくするということです。直ちに天下の役人を半減させると号令するにしても、文武それぞれの官署、あるいは郡国のそれぞれの職務において、忙しさや難しさは等しくはありませんので、一概に施すことはできません。手加減をすればすぐに元に戻ってしまうでしょうし、厳しく遂行すれば忙しくなるばかりで職務がますます過重となってしまうでしょう」
【補足】官僚機構は政治が安定すると肥大化するものであるようで、行政改革はいつの時代でも求められたのだろう。傅咸と荀勖の言説を見て、傅咸の言うことの方が実効性がありそうに思えるのだが、王夫子は『読通鑑論』で荀勖の方に軍配を上げている。「傅咸が忠臣で荀勖が佞人であることは明白である。しかし、官署を少なくする議論においては荀勖の説の方が勝れている。言説を聞くときには、その人柄によらずに、議論の中身によって判断しなければならない。傅咸は剛直ではあるけれども好悪が激しく、もしもその偏狭な心で官署の削減を進めたなら、大混乱を生じさせただけであったろう。官職を失って農耕に就くことを余儀なくされた者は上を恨んで盗賊になるかもしれない。何としてでも官職を保とうとする者は有力者にすがりつくだろうから、そのようなことをよしとしないまともな者ほど官職からはずされてしまうようになる。かくして、邪佞な者ばかりが官に残って綱紀が乱れてしまう。荀勖が言うところの『心を清くして、事を省く』は国を治める基本といえるもので、荀勖が佞人であるからといってその言説を廃するのはよろしくないのである」。傅咸に対する批判は一理ありそうに思えるが、だからと言って、荀勖の説は褒めるに足らないような気がしてならない。官僚機構は役人を増やすためにわざと業務を煩雑化させているのではないかと疑われるところがあるから、「事を省く」のは確かに結構である。しかし、「心を清くする」は無内容であるとしか思えない。王夫子の考え方は別途また考察する必要があるが、「清」はこの時代のキーワードの一つで、「清」の字を掲げると何事もおさまってしまうようなところがある。「清」の反対は「濁」で、漢の時代の終わりに中央政治がひどく乱れたときに、それを「濁」とみて、本来の理想である「清」を取り戻そうとする動きが地方の士［読書人］の間から湧き上がった。そうした人たちの言論空間が「清議」である。「清議」に支持されて国政を清くしようとした人が出たものの、結局は武力によって物事の決着をつけるという流れになり、漢は滅び、三国時代となった。その後、魏から皇位を奪おうと目論んだ司馬氏が自身への求心力を強めようと寛容な政治を標榜したときに着眼したのが「清」であった。司馬昭が重用した王祥や何曽はいずれも一見すると「清」を代表するような人物で、その言辞は「清議」に支持されるものであった。しかしながら、その実体は枠組みだけが立派で、名と実が乖離した極めて空疎な言説であった。それを嫌った阮籍もさらに空虚な「清談」を得意としたのだから、我々にはとにかくわからない「清」の世界に当時の人々は生きていたのである。ともあれ、傅咸が「心を清くする」のが最もよいと主張したことで、役人たちは定数削減の大打撃をこうむらずにすんだのだった。