『資治通鑑鑑賞』 第78巻 262年～264年
■資治通鑑第78巻
【解題】『資治通鑑』の第78巻は景元三年［262年］から咸熙元年［264年］までの3年間を扱っている。
【訳文】
資治通鑑巻七十八 魏紀十 元皇帝下
【補足】『資治通鑑』の第78巻は「魏紀十」に当たり、魏の皇帝が元皇帝［曹璜］であった時代の記録の下巻である。
【訳文】
［262-01］景元三年、秋、八月乙酉、呉主［呉の皇帝、孫休］は朱氏を皇后に立てた。朱公主の娘である。戊子、息子の孫𩅦を皇太子にした。
【補足】（1）この年の前半は特に事もなく、いきなり8月の記事である。
（2）呉の皇帝の孫休は、即位間もないころに、皇后を立て皇太子を決めるようにとの群臣からの要望を前に断っていた［→通鑑258-08の三］。朱公主は呉の初代皇帝の孫権の娘［→通鑑258-08］。朱公主を巡ってはいろいろな事件があった。
【訳文】
［262-02］蜀漢の大将軍の姜維がまた軍を外に出そうとすると、右車騎将軍の廖化が（まわりの者に）このように言った。「武器をいつまでも収めないでいると我が身を焚くことになる、とは昔から言われていることだ。これは姜維に当てはまろうか。知恵において敵の上に出るわけではなく、力においても敵より弱い。それでいながら厭くことなく武器を用い続けている。長続きするはずがない」
冬、十月、姜維は魏の洮陽に侵入した。（魏の）鄧艾は侯和で戦ってこれを破った。姜維は退いて沓中に留まった。
もともと姜維は魏から蜀漢に降った者で、よそ者でありながら蜀漢で重く用いられ、連年出撃して、しかし功績を立てられずにいた。（宦官の）黄皓は宮中で事を取り仕切り、右大将軍の閻宇と親しくしていた。黄皓は以前に、姜維を退けて閻宇を大将軍に樹てようとこっそり企んだことがあった。姜維はそれを知り、漢主［蜀漢の皇帝、劉禅］に、「黄皓は奸巧専恣［自分中心で狡賢い］で、そのために国家が破滅しかねません。できれば殺してしまいたいです」と言った。漢主は、「黄皓は単なる使い走りでしかない。かつて董允は黄皓を嫌って歯噛みしていたが、私はそれを非常に残念に思っていた。君が心にかけるに足るようなことではないだろう」。姜維は黄皓の仲間が枝を付け葉を連ねているのを見て、自分が失言したと懼れ、かしこまって退出した。漢主は敕命で黄皓に姜維のところに行って陳謝するよう命じた。姜維はこれより疑念を抱き、懼れるようになった。
姜維は洮陽から引き揚げた後、沓中で麦を植えることを求め［つまり屯田することの許可を朝廷に求め］、（上に述べて経緯から）敢えて都の成都には帰らなかった。
【補足】（1）姜維はもとは魏の人で、これより34年前にやむをえない事情で諸葛亮に降伏した。そのとき27歳であった。諸葛亮は姜維を見て優れた人物であると認め、将軍として用いた。姜維はその恩義に感じて諸葛亮の志を継ぎ、10年ほど前に蜀漢の軍権を握ると毎年のように魏に侵攻していた。
（2）宦官の黄皓が蜀漢の政事を乱していることは通鑑261-03に記されていた。かつて董允は早くから黄皓が危険な人物であるのを見抜き、自分勝手に振る舞えないよう抑えていたのだが、皇帝の劉禅は董允のことを疎ましく思っていた。董允が死ぬと誰も黄皓を抑える者がいなくなった。姜維は黄皓が大手を振るう都に戻ることができず、「我が身を焚く」まで外で戦い続けるしかなかった。
【訳文】
［262-03］呉主は濮陽興を丞相にし、廷尉の丁密と光禄勲の孟宗を左右御史大夫にした。濮陽興はもとは会稽の太守で、呉主が（まだ皇帝になる前に）会稽にいたときに濮陽興は（日陰者だった呉主を）手厚く遇していた。左将軍の張布はかつて会稽王左右督将であった。呉主は即位するとかねてから親しかった濮陽興と張布を高い地位に就けた。張布は官庁を監督し、濮陽興は軍事に関わり、二人は佞巧［巧みに取り入ること］をもって表裏一体となって国政を取り仕切ったので呉の人々は失望した。
呉主は書物を読むのを好み、博士祭酒の韋昭および博士の盛沖とともに書物について議論したいと思った。張布は、韋昭と盛沖が率直な人間であるので、皇帝に近づいて己の陰の過ちを言うのではないかと恐れ、強く止めた。呉主は言った。「孤は学問に励み、群書をほぼ遍く読んだので、すでに読んだものについて韋昭らと議論したいだけなのだ。何もよくないことはない。君は、韋昭らが臣下の悪い隠し事を言うのではないかと恐れているのではなかろうか。だから近づけまいとしているのだろうが、そのようなことは孤は自分ですでにわかっている。韋昭らに告げられて初めてわかるわけではないのだ」。張布は惶恐陳謝しつつ、「政事の妨げになるのを懼れものであります」と言った。呉主は、「王としての務めと学業はそれぞれ異なるものであって、妨げにはならない。学問がよくないとする理由はないのだ。それを君はよろしくないという。それは孤をどうこうしたいからなのか。いま君は政事を取り仕切っていて、まさか孤までも取り仕切ろうとするとは思わなかった。はなはだよろしくない」。張布は拝礼、叩頭した。呉主は、「いささかわかってくれたらそれでよいのだ。叩頭するには及ばない。君の忠誠は誰もが知っている。孤が今日の位にあるのは皆君の功績だ。『詩経』に『物事には始まりは必ずある。しかし、よく終わるのは少ない』と歌われている。よい終わり方は実に難しいものだ。君にはそれを為してほしい」。
しかしながら、呉主は張布が疑懼するのを恐れ、とうとう張布の意向に従い、韋昭らを呼んで議論することは行わなかった。
【補足】（1）呉の皇帝の孫休は横暴な孫綝を除くにことに成功し［→通鑑258-08の四］、順調な滑り出しを見せたかのようであったが、かねてから親しかった者に政治を任せた。濮陽興は無謀な土木事業を興して失敗した人物［→通鑑260-10］。張布には孫綝を斬る功績があり、そうしたことには有能であったのだろうが、国政を担えるような人物ではなかった。名君といわれるような人は、非常事態のときに役立つ人間と、平時に役立つ人間とを必ず使い分ける。孫休はその使い分けができずに、親しい者に勝手な振る舞いを許した。それがどのような結果をもたらすのかを後で見ることになる。
（2）「叩頭」の語について。前の巻では「叩頭」を、「頭を床に打ち付けて」と少々大袈裟に訳していた。実際には、「叩頭」は土下座の一種で、よりぺったりとかしこまった姿勢で上半身を伸ばして手のひらを床につけ、頭を打ち付けるというよりは擦り付ける。時には額から血が流れるほど強く擦り付けもする。とにかく平謝りに謝るということである。今後は叩頭の語はそのままにしておく。
【訳文】
［262-04の一］譙郡の嵇康は文章も言葉も壮麗で、老子や荘子について語るのを好み、奇［個性的で優れている］であることや任侠を尚んだ。陳留の阮籍、阮籍の兄の子の阮咸、河内の山濤、河南の向秀、琅邪の王戎、沛国の劉伶とは特に友人として善い関係にあった。これを号して「竹林の七賢」と言った。皆が虚無を尊び、礼法を軽蔑し、酒をほしいままに飲んで泥酔し、世間の事をほったらかしにした。
阮籍は歩兵校尉であったときにその母が亡くなった。そのとき阮籍は人と囲碁をしていたので、相手は止めようとしたのだが、阮籍は引き止めて勝負の決着をつけた。そらから酒を二斗も飲み、声を挙げて一度叫び、数升の血を吐いた。それで骨が立つほどまでに痩せ細った。喪中の間も普段と変わらずに酒を飲んだ。
司隸校尉の何曽は阮籍を嫌い、そのようなときに、司馬昭の面前で、阮籍を直接責めた。「卿は情のままに振る舞い、礼に背を向け、風俗を破壊している。いまは忠賢が政を執り行い、名と実［理念と実態］がぴったりと合っている時代である。卿のような連中はのうのうと生きているべきではない」と言って、司馬昭に、「公は孝をもって天下を治めておられます。最も哀しむべき母の喪中にあっても阮籍はおおっぴらに酒を飲みかつ肉を食らっております。このようなことを許したのでは、何をもって人を教え導けましょうか。阮籍を遠くに追放し、この華夏［中国の美称］を汚染させてはなりません」と言った。司馬昭は阮籍の才能を愛し、いつも擁護していた。何曽が何夔の子である。
【補足】（1）竹林に集まって清談に耽ったという「竹林の七賢」のことは高校の世界史の教科書にも載っている。清談とは老子や荘子の思想に基づく俗世を超越した高踏的な議論のこと。竹林の七賢を巡ってはたくさんの逸話が伝えられ、どれが事実なのかを見定めるのは難しい。ここに紹介されている母の臨終の際の阮籍の振る舞いは話を作りすぎているという説もある。
（2）この時期に竹林の七賢がどうして現れたのか、その理由は、阮籍を批難する何曽の言葉から知ることができる。何曽は儒学に通じ、特に礼法に厳しい人物で、司馬昭のもとで高い地位に昇った。魏朝の乗っ取りを狙う司馬氏は、儒学に基づく清らかな政治を行うというポーズを取ることで、人心を掴もうとしていた。司馬昭は、礼法にうるさい何曽に加えて、伝説的な親孝行者の王祥［→通鑑256-11］、建前論者の王沈［→通鑑260-15］といった連中を重臣として用いて、政権の外見を美しく飾った。何曽が言うところの「いまは忠賢が政を執り行い、名と実がぴったりと合っている時代」であるとは、笑ってしまうくらいに現実とは異なり、司馬氏の政権は虚飾に満ちていた。司馬氏はこれまでに反抗する者をことごとく叩き潰してきていたので、表立って司馬氏のやり方を批判するのは極めて危険であったから、虚飾が真実であるかのようにいう何曽の言辞がそのまままかり通るしかなかった。まともな感性の持ち主は、現実離れした高踏的な議論に逃げるか、放縦な振る舞いでわずかに時流への反発を示すくらいしかできなかった。なお、名と実の乖離では、何曽はそれをみごとなまでに実演してみせている。礼法に厳格な何曽は信じられないレベルの贅沢三昧の暮らしを謳歌し、金に糸目をつけない豪華な食事を日々楽しんでいた。
（2）『資治通鑑』からは離れるが、何曽とは正反対の心性の持ち主であった阮籍の詩を一篇だけ読んでおこう。これが司馬昭の時代を生きた人の生の声である。
【訳文】
阮籍：『詠懐詩』から
夜中にどうして眠ることができない。
起き上がって、琴を鳴らしてみる。
薄いカーテンを通して明るい月が覗き、
我が襟元に涼しい風が吹いてくる。
遠くの野に叫んでいるのは、
孤独になってしまった鴻か。
北の林でがやがや鳴いているのは、
渡り鳥たちであろうか。
外に出て、さまよい歩き、
はて、私は何を見るのか。
憂い思い、
独り心を痛め続ける。
夜中不能寐、起坐弾鳴琴。
薄帷鑑明月、清風吹我衿。
孤鴻号外野、翔鳥鳴北林。
徘徊将何見、憂思独傷心。
【補足】（1）厳しい時代を生きる心の苦しさを象徴的に詠んでいる。これがぎりぎりの表現で、少しでも具体性を帯びたなら、たちまち批判の嵐にさらされ、命を保てる保証はない。がやがや鳴く渡り鳥とは何曽のような連中であろうか。徘徊して見るものといえば、名と実が傷ましく乖離した世界。孤独の鴻は夜中に叫ぶのである。
（2）なお、司馬昭について少しだけ弁護しておこう。司馬昭が阮籍を守ったのは事実であるし、司馬昭は息子の妻として阮籍の娘を求めようとしたこともあった。何曽のような連中なら大歓迎の縁談を、阮籍は60日間ひたすら酔いつぶれることで、話し合う機会を持てないままにうやむやに終わらせた。司馬昭は王夫子が貼ったレッテルの「権姦」の二字で括ってしまうにはスケールの大きすぎる人物で、学問や文化を単なる飾りとして利用しただけではなく、その価値をも理解していたし、人の本質を見抜く眼力があって、政敵には厳しくても、当時としては包容力のある寛容な人であった。曹操以来の魏の政治が規律と厳罰で人を強く縛るものであったために、儒学に基づく政治を人々が望んでいるという時代の趨勢もしっかりと掴んでいた。前の巻で見た呉の権力者の孫綝などとはあらゆる面で雲泥の差であった。それでも、阮籍にとっては窒息するような世の中で、同じように感じる人々が多数いたために、様々に脚色された竹林の七賢の伝説が語り継がれるようになったのだろう。次にそのいくつかを見る。
【訳文】
［262-04の二］（竹林の七賢の一人の）阮咸はもともと姑の使用人の女と仲がよかった。姑がその女を連れて去ろうとしたときに、阮咸はちょうど客人と向かい合っていたのだが、にわかに客人の馬を借りて姑を追い、女とともに馬に乗って帰ってきた。
（やはり竹林の七賢の一人の）劉伶は酒が大好きで、いつも小さな車に乗り、酒の壺を一つ携えていた。鍤を担わせた者を従え、「わしが（酒のために）死んだならそこにわしを埋めよ」と言っていた。
当時の士大夫は皆が竹林の七賢は賢者であるとし、それを慕って争うようにして真似をし、それを「放達」と言った。
このころに鐘会は司馬昭に重用されるようになっていた。鐘会は（竹林の七賢の一人の）嵇康の評判を聞くと、嵇康を訪ねてみた。嵇康は箕踞［あぐらの姿勢］して鍛冶の仕事をしていた。嵇康は鐘会に挨拶もしなかったので、鐘会は立ち去ろうとした。そのときに嵇康は、「何を聞いてここに来られたのかな。何を見てここから去るのかな」と言った。鐘会は、「聞いたことを聞いて来て、見たことを見て去るまでだ」と応じて、このことを深く腹の内におさめた。
ときに（竹林の七賢の一人の）山濤は吏部郎であったが、自分の代わりとして嵇康を推薦した。嵇康は山濤に手紙を送って、自分は流俗［俗人および俗世の風俗］に耐えることができないとこまごま記し、その中で湯王、武王［それぞれに殷王朝、周王朝を開いた古の聖人］を批判した。司馬昭はそれを聞いて（間接的に自分を批判していると覚って）怒った。
嵇康は東平の呂安と親しかった。呂安の兄の呂巽が呂安は不孝者であると（偽りの）告発した。嵇康は呂安のためにその告発が正しくないことを論証した。鐘会はこれに乗じて、嵇康を批難した。「嵇康はかつて毌丘倹［司馬氏に反抗して殺された人物］を助けようとしました。呂安と嵇康は世間に名が知れ渡り、しかし、その言論は放蕩で、時流を害し、教えを乱すものであります。この者たちを除くのがよろしいでしょう」と言った。司馬昭はついに呂安と嵇康を殺した。
嵇康はかつて隠者の汲郡の孫登を尋ねたことがあった。そのときに孫登は嵇康に、「貴君は才は多く、しかし識は寡ない。今の世において免れるのは難しいであろうな」と言った。
【補足】（1）『資治通鑑』はたくさんある竹林の七賢のエピソードからここに三つの話を引いている。阮咸と劉伶の話は必ずしも事実ではあるかどうかはわからないが、人々が竹林の七賢に抱くイメージにぴったり合うものであったのだろう。
（2）嵇康が鐘会と司馬昭によって殺されたことは、この時代の真の姿を伝えるものである。鐘会が司馬昭に重用されていることは通鑑258-02で見ていて、鐘会もまた虚飾に満ちた人物である。嵇康は鐘会の本質を見抜いていたので、鍛冶の仕事に熱中しているふりをした挨拶もしなかったのだが、最後の一言が余計であった。鐘会は捨てぜりふを残して立ち去った。隠者の孫登に、「才は多いが識は寡ない」、つまり、「あふれる才能はあっても、世の中を生き抜く力がない」と指摘された所以である。阮籍はひたすら酔っ払うことで己の命を全うした。
（3）司馬昭が古の聖人である湯王、武王を批判したことをもって嵇康を怒ったのは、それが明らかに司馬昭の批判につながるからである。湯王も武王も武力をもって前の王朝を倒したのだが、徳をもって民衆を救ったということで、儒学の伝統のなかで高く崇められてきた。司馬昭はもちろん湯王や武王の真似をしようとして、そのために何曽や王祥、王沈を身のまわりに集めていたのである。
（4）山濤は才も識も兼ね備え、良心を保ちつつ難しい世の中を見事に生き抜いた。嵇康が山濤に送った手紙は、山濤に対して絶交を宣言するものであったが、嵇康は刑死するときに息子のことを山濤に託している。山濤の事績は今後何度か触れられる。
【訳文】
［262-05］司馬昭は（蜀漢の）姜維が頻繁に侵攻して来るのを憂いていたので、騎兵の路遺は刺客［暗殺者］として蜀漢に入るのを求めた。従事中郎の荀勖は、「明公［司馬昭］は天下を司るお方であります。不正義の贋者は正義に基づいて伐るべきであります。刺客を使って賊を除くのは、天下の規範とはなり得ません」と言った。司馬昭はそれを善しとした。荀勖は荀爽の曽孫である。
司馬昭は大挙して蜀漢を伐ろうと考えた。朝臣の多くがそれをよろしくないと言うなかで、独り司隸校尉の鐘会だけが司馬昭に積極策を勧めた。司馬昭は衆人にこのように諭した。「寿春を平定してから戦役を止めること六年となる。その間に、二虜［蜀漢と呉］を見据えて軍備を整えてきた。呉の地は広大で、低湿であることから、これを攻めて功を立てるのはやや難しいであろう。それよりは、先に蜀漢を平定して、その三年後に、川の流れの勢いに乗って、水陸両面から進撃するならば、昔、晋が虢を滅ぼしてその勢いで虞も滅ぼしたのと同じようにきっとできるであろう。蜀漢の戦士はおよそ九万で、成都やそれぞれの地を守る兵士は四万を下ることはないだろう。つまり、その他の動ける兵士はわずかに五万であろう。いま沓中にいる姜維をそこに釘付けにして、東の方を顧みる余裕がないようにしておいて、我等が直ちに駱谷へ進軍して、敵の守りの薄いところを衝いて漢中を襲うならば、暗愚な劉禅のことであるから、外では各地の城が破れ、内では士女が震え上がるような事態にもはや対処できなくなって、蜀漢が亡び去ることは明らかである」。そして、鐘会を鎮西将軍都督関中とした。
征西将軍の鄧艾は、蜀漢にはいまはまだ隙がないと見て、しばしば異議を唱えていた。司馬昭は主簿の師纂を鄧艾の司馬に任命して派遣した。師纂は鄧艾を説得したので、鄧艾も司馬昭の命令に従うようになった。
姜維は漢主［蜀漢の皇帝］に上奏文を送った。「鐘会が関中の兵士を集めて、進軍しようとしていると聞きます。左右車騎の張翼と廖化に命じて、諸軍を動かして、陽安関口および陰平の橋頭を守らせるようにしてください。敵の侵入を未然に防がなくてはなりません」。黄皓は占い師の言うことを信じて、敵はきっと来ないと思い込み、そのことを漢主に申し上げた。漢主は姜維の提案をそのまま放置し、群臣はそれについて何も知らずにいた。
【補足】（1）司馬昭はいよいよ蜀漢を征服するために大軍を送り出すことにした。天下統一の偉業を成し遂げることによって皇帝に昇ろうと考えたのである。刺客を巡る話は、司馬昭の好むところをよく示している。
（2）蜀漢征伐で鐘会がキーパーソンとなり、鐘会はこの後、実に興味深い動きを見せる。
（3）前の巻からここまでの間に、『資治通鑑』がいろいろに言及してきていた蜀漢のさまざまな態勢が、みごとなまでに全て裏目となって効いてくる。
【訳文】
［263-01］景元四年、春、正月、またしても司馬昭の爵位を進める命令が出されたが、司馬昭はやはり辞退して受けなかった。
［263-02］呉の交趾の太守の孫諝は貪欲で横暴であったので、民衆は非常に困っていた。たまたま呉主が察戦の鄧荀を交趾に派遣したところ、鄧荀は勝手に孔雀を三十羽集めて都の建業に送ろうとしたので、民衆は遠くそれを持って行くのを嫌って、反乱を起こした。
夏、五月、郡吏の呂興らは孫諝と鄧荀を殺し、魏に使者を送って、交趾に太守および軍隊を派遣するよう願った。周辺の九真や日南の地域は皆この動きに応じた。
【補足】（1）司馬昭はしつこく謙譲の美徳を発揮し続けている［→通鑑261-01など］。
（2）交趾はベトナム北部。呉の支配域はそこにまで及んでいた。交趾はしばしば中国の支配を受け、優れた人物が来た場合には治安が安定して、先進的な文化がもたらされて、庶民も恩恵を受けたりもするのだが、多くの場合に交趾の人々は搾取の対象とされて、無慈悲な扱いを余儀なくされた。ときに、ここに記されているように、民衆は反発して立ち上がった。反旗を翻した呂興は、敵の敵は味方と考えて、遠くの魏に使者を送った。
【訳文】
［263-03の一］魏は詔を下し、もろもろの軍団に大挙して蜀漢を伐るよう命じた。征西将軍の鄧艾には三万人余りを率いて狄道から甘松、沓中へと進んで、姜維を動けなくさせるように、雍州刺史の諸葛緒には三万人余りを率いて祁山から武街橋頭に進んで姜維の帰路を断つように、鐘会には十万人余りを率いて、斜谷、駱谷、子午谷から手分けして漢中に進むようにそれぞれ指示した。廷尉の衛瓘には皇帝からのしるしをもたせて、鄧艾や鐘会を監督し、鎮西軍司としての職務を行わせた。衛瓘は衛覬の子である。
鐘会は幽州を通過した折に、その地の刺史の王雄の孫の王戎に会って、「よい方策がないだろうか」と尋ねた。王戎は、「老子の言葉に、『為して恃まず』［行為の見返りを期待しない］とあります。功が成るのが難しいのではありません。それを保つのが難しいのです」と、言った。
また、ある人が参相国軍事の劉寔に、「鐘会、鄧艾は蜀漢を平定できるでしょうか」と問うと、劉寔は、「蜀漢は必ず破れるが、二人とも還ってこないだろう」と答えた。客人はその理由を尋ねたが、劉寔は笑って答えなかった。
【補足】（1）魏の大軍が蜀漢征伐に向かった。鄧艾と諸葛緒は西北の隅で姜維を動けなくさせ、鐘会が主力を率いて東側から漢中に入るという作戦である。昔の中国では、遠征軍には必ずお目付け役がついた。衛瓘は将軍の行動を逐一朝廷に報告し、何らかの過ちがあると将軍は後で処罰される。
（2）王戎は先に見た竹林の七賢の一人［→通鑑262-04の一］。劉寔は常に学問に励み、清潔な人柄の官員。蜀漢との戦争が始まる前に、『資治通鑑』はこの二人の発言を提示する。この種の予言めいた言辞を『資治通鑑』は好んで採録する傾向がある。『資治通鑑』の編者は、優れた人物には先を見通す力があると考えているからで、実は、『資治通鑑』という書物がそもそもそうした力を帝王が身に付けるのに資すべきものとして編まれている。
【訳文】
［263-03の二］秋、八月、魏の軍団は洛陽を出発した。その際に、将士にたくさんの賜り物を与え、整列した軍団は勝利を誓った。そのとき、将軍の鄧敦はいまはまだ蜀漢を討つべきときではないと言ったので、司馬昭はそれを斬って見せしめとした。
蜀漢では魏の軍団が来ると聞いて、廖化に命じて兵を率いて沓中に行かせ、姜維の援護をさせた。また、張翼、董厥らには陽安関口に行かせ、防衛網を補強させた。蜀漢は大赦を下し、炎興に改元した。国境守備隊には戦わないように命じ、退いて漢城と楽城を守らせた。それぞれの城中には五千人の兵士がいた。
（蜀漢の）張翼と董厥は北の陰平に到ると、（魏の）諸葛緒が建威に向かっていると聞き、そのままそこに一カ月余り留まって敵がくるのを待ち受けた。
鐘会は諸軍を率い、並び進んで漢中に至った。九月、鐘会は前将軍の李輔に一万を指揮して王含の籠る楽城を囲ませ、護軍の荀愷に蒋斌の籠る漢城を囲ませた。鐘会自身はただちに西に進んで陽安関口へと向かい、人を派遣して諸葛亮の墓を祭らせた。
かつて蜀漢の蒋舒は武興の地を任されていたのだが、何ら功績がなかったために、朝廷は別の者と交代させた上で、陽安関口を守る将軍の傅僉の手助けをさせた。蒋舒はそのことを恨んでいた。
鐘会は護軍の胡烈を前鋒として陽安関口を攻撃させた。蒋舒は偽って傅僉に、「いま敵が来るのを攻撃しないでいて、城を閉じて守るのは良策ではありませんぞ」と言った。傅僉は、「私は城を保つ命令を受けていて、それを全うすることが功となるのだ。その命令に違背して出撃し、もしも軍団を失ったならば、国に背くことになり、死んでも益のないことだ」と言った。蒋舒は、「ならば貴君は城を保って功績を立てよ。私は出て戦って敵に勝つことを功績とするまでだ。それぞれの志を果たそうではないか」と言って、兵士を率いて出撃した。傅僉は蒋舒が外で戦うのをあてにして備えをしなかった。蒋舒は兵士を連れて胡烈に投降し、虚に乗じて城を襲撃した。傅僉は敵と格闘したものの戦死した。傅僉は傅肜の子である。
鐘会は陽安関口がすでに下ったと聞いて、長駆して前進し、倉庫に積み上げられていた穀物を獲得した。
一方、鄧艾は天水太守の王頎を派遣して姜維の軍営を攻撃させ、隴西太守の牽弘にはその前に陣を敷かせ、金城太守の楊欣には甘松に向かわせた。
姜維は鐘会の諸軍がすでに漢中に入ったと聞いて、兵を引いて還ろうとした。楊欣らはそれを追い、強川口で大いに戦った。姜維は敗れて走り、諸葛緒がすでに道を塞いで橋頭に駐屯していると聞いいて、孔函谷から北道に入って、諸葛緒の後ろに出ようとした。諸葛緒はそれを聞くと、三十里ほど退却した。姜維は北道を三十里余り進んだところで、諸葛緒の軍が退却したと聞き、引き返して橋頭から還ることにした。諸葛緒は姜維の帰路を断とうとしたが、一日遅れでうまくいかなかった。
姜維はついに陰平にまで還ることができ、そこで将兵を集めて、関城に行こうとした。まだ関城に到らないうちに、すでに破られたと聞いて、退却して白水に赴き、廖化、張翼、董厥らと遇った。兵士を合わせて剣閣を守って鐘会を拒むことにした。
【補足】魏軍のすばやい動きに、蜀漢側は退却する一方となった。
【訳文】
［263-04］安国元侯の高柔が死んだ。
［263-05］冬、十月、蜀漢の人は危急を呉に告げた。甲申、呉主は、大将軍の丁奉に命じて諸軍を率いて寿春に向かわせた。また、将軍の留平には南郡で施続と合流してどこに軍を進めたらよいか相談するよう命じた。また、将軍の丁封と孫異には蜀漢を救援するために沔中に行かせた。
［263-06］蜀漢を攻める諸将から勝利の報せが（魏の都に）次々に届き、それをもって、大将軍の司馬昭の位を進めて賜り物を与えるというかねてからの指令をもう一度出した。司馬昭はついにそれを受けた。
司馬昭は任城の魏舒を呼んで相国参軍にした。魏舒はもとはのろまな質朴な少年で、郷里の親戚からは軽く見られていた。叔父の事部郎の魏衡は当時世に名を知られていたが、魏舒のことはわからなかったので、魏舒に水車の見張り番をさせ、「あれはせいぜい数百戸の村の長にでもなれれば、わしとしては満足せねばなるまいな」と言っていた。魏舒はそのように言われても意に介することなく、目立ったことは何もしなかった。ただ太原の王乂だけは魏舒に、「君はきっと台輔［皇帝を補佐する役］になるだろう」と言い、魏舒の貧乏暮らしをいつも支え、魏舒はそれを辞退しないで受けていた。
魏舒は四十歳を超えたときに、郡の上計掾［役職の名］の推薦で孝廉となった［官職に就く一つの道筋で、地域で評判の高い人物が選抜された］。親戚一同は魏舒には学業がないのを知っていたので、推薦を得たという栄誉でもって名を高め、実際の任官はしないよう勧めた。魏舒は、「もしも推薦を得て私の実力がそれに見合わなければ、その負け分は私が受けるだけです。推薦に応じないで、虚名を盗み取って己の栄誉とするようなことは私はしません」と言って、それからは百日でひとつの経典を習うことを自身に課し、任官に先立つ考査で合格した。それからは昇進を重ねて後将軍の鐘毓の長史となった。鐘毓は参佐［役目の名］と矢の射合わせをよくしていて、魏舒はいつも得点の記録係であった。矢は二人並んで射るのだが、たまたま一人足りなかったので、員数を満たすために魏舒も射ることになった。魏舒は静かにゆったりと構え、矢を発すると、当たらないことはなかった。一同は驚き、結局、魏舒には誰もかなわなかった。鐘毓は嘆息して、「私はそなたの才能を十分に発揮させることができずにいた。それは矢を射るという一事だけのことではない」と、謝った。
魏舒は（司馬昭に呼ばれて）相国参軍になると、省庁内に細かなことについては何も言わないで、国の興廃に関わるような大きなことで衆人がよく判断できないようなときに、魏舒はおもむろに思案して、衆議の及ばない意見を述べた。司馬昭はその器量を深く重んじた。
［263-07］癸卯、卞氏を皇后にした。昭烈将軍の卞秉の孫である。
【補足】（1）三国鼎立のバランスが崩れるのを恐れて、呉は蜀漢を諸方面から援助しようとした。
（2）相次ぐ勝利の報せに、司馬昭は謙譲の美徳を発揮し続けることをもはやめて、ついに相国、晋公となり、九錫を受けた。
（3）いささか場違いのように魏舒について詳しく記されている。国に奉仕する者としてひとつの理想像であるのだろう。
【訳文】
［263-08の一］（魏の）鄧艾は進んで陰平に至り、精鋭を選抜して、諸葛緒とともに江油から成都に向かおうとした。諸葛緒はもともと姜維を迎え撃つようにとの命令を受けていたので、西に進むのは詔の範囲ではないとして、軍を引いて白水に向かい、鐘会と合流することにした。鐘会は軍勢を独り占めしようと考え、こっそり、「諸葛緒は臆病で前進しようとしません」と報告したので、諸葛緒は檻車［罪人を護送する車］で都に送られることになった。それで諸葛緒の軍勢は全て鐘会のものになった。
（蜀漢の）姜維は要害の地に陣を張り、鐘会はそれを攻めたものの勝てなかった。食糧の補給路は遠くから険しい道を通らなければならなかったので、軍の食糧が不足するようになった。鐘会は退却しようかと考えた。
一方で、鄧艾は朝廷に向かって、「いまは賊を摧きかつ折ったところでありますから、これに乗じて進むべきです。陰平から抜け道を通り、徳陽亭を経て涪州に向かうなら、剣閣の西百里、成都からは三百里余りのところに出られます。奇襲部隊で不意に敵の腹心を衝くならば、剣閣を守る者たちは退いて涪州に行こうとするでしょう。そのときに鐘会が呼応して進めばよろしいのです。もしも剣閣から兵士が還らなかったならば、涪州で応戦できる兵はわずかしかいないでしょう」と、申し出た。
かくて、鄧艾は陰平から無人の地を七百里余り進んで行った。山を削り、橋を架けて道を通した。山は高く谷は深く、極めて危険であり困難で、食糧も不足し、危殆に瀕してしまった。そのとき鄧艾は毛氈で自身の体を包んで斜面を転がるようにして下り、将士は木につかまり、崖の縁に沿って、うねうねと列を成して進んだ。ついに先に登った者が江油に至ると、守りに就いていた蜀漢の馬邈は降伏した。
（蜀漢の）諸葛瞻は鄧艾を拒むために諸軍を率いて涪州に行ったものの、そこに留まって進もうとしなかった。尚書郎の黄崇は黄権の子であるが、諸葛瞻に向かって、「すみやかに進んで要害の地を確保し、敵を平地に入れないようにしましょう」と、何度も勧めた。諸葛瞻はぐずぐずと同意しなかったので、黄崇は再三再四、ついには泣きながら提案した。それでも諸葛瞻は動こうとしなかった。
鄧艾は長駆して進み、諸葛瞻の前鋒を破った。諸葛瞻は退却して綿竹に留まった。鄧艾は諸葛瞻に手紙を送り、「もし降伏するなら、必ず貴君を琅邪王に取り立てるよう朝廷に申し出よう」と、誘った。諸葛瞻は怒り、鄧艾の使者を斬り、陣を構えて鄧艾を待った。鄧艾は息子の恵唐亭侯の鄧忠らをその右側に前進させ、司馬の師纂らをその左に進ませた。鄧忠も師纂も苦戦し、ともに退却にし、「賊どもはまだまだ撃てません」と言った。鄧艾は怒り、「存亡の分かれ目はこの一挙にあるのだ。できないとは言わせないぞ」と、二人を叱り、いまにも斬ろうとした。鄧忠と師纂は走り、さらにまた戦い、大いに敵を破り、諸葛瞻も黄崇も斬った。諸葛瞻の子の諸葛尚は、「我ら父子は国の重恩を荷いながら、早くに（宦官の）黄皓を斬らなかったために、国は敗れ、民を滅ぼすことになってしまった。これ以上生きても何にもならない」と言って、馬に鞭打って敵陣に突入して死んだ。
【補足】（1）最初に鐘会の曲者ぶりが記されている。この後さらにおかしなことが起こる。
（2）蜀漢側は四川盆地を囲む山岳地帯を最強の城壁であるかのように思っていて、敵はそこを越えられないので、食糧不足に陥って退却するとみていた。実際にそのようになりかけたのだが、鄧艾は人の通らない山の中を進み、一気に敵の心臓部に迫った。鄧艾の進軍を最後に止める可能性のあった諸葛瞻はなぜかぐずぐずしてしまった。諸葛瞻は諸葛亮の息子で、まさに親の七光りで、若いころは何をしても、「さすが丞相様のお子さんである」と、周囲から過大に褒められて育った。諸葛瞻を懸命に動かそうとした黄崇は、本文に記されている通り黄権の息子で、黄権はかつて劉備が蜀の地を乗っ取ったときに前の領主に仕えていた人物。他の者は一斉に劉備に靡いたのだが、黄権は前の領主への忠節を全うした上で劉備に服した。劉備は黄権の高潔な人柄を高く評価して重く用い、黄権はそれに応えて劉備に誠実に仕えた。劉備が呉と戦争を構えたときに、黄権は無謀であると止めたのだが、劉備はそれを聞かずに呉へと侵攻した。一方で、黄権は魏の攻撃を防ぐために前線に出て行き、劉備が大敗したために、黄権は退却することもできなくなってやむをえず魏に降伏した。魏の曹操も黄権を重んじ、また劉備は黄権を失ったのは自分の責任であるとして、蜀漢に残った黄権の妻子をこれまでと変わらずに扱った。こうして、父の黄権は魏に仕え、息子の黄崇は蜀に仕えた。黄崇は劉備の恩を思って、最後の防衛線を何としてでも守ろうとしたのである。同じ二世でも生きる覚悟の異なる二人であったが、最後はともに戦死した。なお、鄧艾が諸葛瞻に、琅邪王に取り立てられるよう働きかけてやるから降伏せよと誘ったのは、諸葛亮の出身地がいまは魏の領土内にある徐州琅邪郡であるからで、郷里の主になれるのなら嬉しいだろうと言ったのである。二世のお坊ちゃまでもさすがにそれに乗るほど身勝手ではなかった。
【訳文】
［263-08の二］蜀漢の人々は魏の兵卒がまさか来るとは思っていなかったので、成都を守る準備をしていなかった。鄧艾がすでに（四川盆地の中の）平地に入ったと聞くと、民衆は大騒ぎになり、野や山に逃げ、禁じても抑えることができなかった。
漢主［劉禅］は群臣を集めて会議を行った。ある者は、「蜀漢と呉は以前からの同盟国です。呉に奔るのがよろしいでしょう」と言い、ある者は、「（南に離れた）南中の七郡は険しい地形によって（四川盆地からは）途絶されたところで、守るにたやすいところです。南に奔るべきでありましょう」と言った。光禄大夫の譙周はこのように言った。「古から他国に身を寄せて天子の地位を保った者はおりません。いまもし呉国に入ったとしても、呉の臣として服すよりありません。そもそも、政治の仕方が特別に異ならないのなら、大国が小国を呑み込むのは自然の成り行きでありましょう。そうであるのならば、魏が呉を併合することはできても、呉が魏を併合することができないのは明らかです。同じく臣として服すのなら、小のもとであるのがよいのか、大のもとであるのがよいのか、どちらがよろしいでしょうか。服従する恥辱を二度受けるのと、一度だけ受けるのとどちらがよろしいでしょうか。もしも南に奔るのなら、もっと早くに計画して、実行しているべきでした。いまや大敵がすでに近づいていて、敗北がさし迫っていて、人々の心を一つに保つが難しい状況にあっては、南に奔る日にどのような異変が起こるのが予想もつきません。南方にはとうてい至ることはできないでしょう」と言った。ある者が、「いまや鄧艾はすでに遠くないところにいます。いまさら降伏は受け入れてくれないのではないでしょうか。この点はどうなのでしょうか」と、言った。譙周は、「いまはまだ呉が魏に従っていません。時勢として、魏は蜀漢の降伏を受け入れないわけにはいきません。受け入れたなら、礼遇しないわけにはいきません。もし陛下が魏に降って、魏が土地を裂いて陛下を（諸侯として）封じなかったならば、私は向こうの都に詣でて、古からの義をもって魏と争ってみせましょう」と、言った。衆人は皆が譙周の議論に従った。
漢主はなお南に行くことを考えていたので、迷って決めることができなかった。譙周はこのように上疏した。「南方は遠い夷の地で、普段から国家に産物を供したり国家のために働いたりすることもなく、しばしば反乱を起こしてきました。丞相の諸葛亮が兵威をもって迫ったために、力窮まって服従したものです。いま陛下が南に行かれましたなら、外は敵を防ぐために、内では朝廷を維持するために、膨大な費用を必要とするでしょう。それを他からは取るところがないので、もろもろの夷をいためつけることになりましょう。夷たちは反乱を起こすに違いありません」。
漢主は侍中の張紹らを派遣して、璽綬［皇帝のしるし］を鄧艾に届けて降伏することにした。北地王の劉諶［劉禅の息子］はそれを聞いて怒り、「もしも理に窮り力に屈して、まさに敗れるときには、父子君臣ともに城を背にして一戦し、国のために一緒に死んで、先帝［劉備］にお会いすべきである。降伏などできようか」と言ったが、漢主は聞かなかった。この日、劉諶は昭烈の廟［劉備を祀ってある廟］で哭し、先に妻子を殺してから自殺した。
【補足】（1）降伏を巡る蜀漢の会議は、ポツダム宣言の受諾を巡る1945年8月の「日本のいちばん長い日」を連想させる。無条件降伏を日本に迫るポツダム宣言が出されたのが7月26日で、それを受諾したのが8月15日であった。その間に、二回の原爆投下やソ連の参戦があったことを知る後世の人間は、せめて一日でも早く受諾していればよかったのにと思わずにはいられない。そのような思いを持つ者にとっては、譙周の議論はまことに筋が通っていて、多くの命を救ったと称賛したくなるものである。譙周が魏に降伏しても劉禅は必ず優遇されると主張したのは、人々を納得させる大きな論点となった。これもまた天皇の処遇を巡って「日本のいちばん長い日」で論じられたことを想起させるものがある。
（2）蜀漢の南方は、蛮夷と呼ばれる先住民たちが住む山岳地帯で、諸葛亮は魏を討つ遠征隊を繰り出す前に、南方の鎮圧に多大の労力を投入した。力ずくで抑えた南方の地に逃げ込んだところで先がないのはわかりきっていた。北方の諸民族については、前の巻の通鑑261-04で簡単に触れたのだが、長江以南の広大な地域には各種の先住民族が暮らしていた。北方は草原地帯であるので、諸民族は驚くべきスピードで移動し、民族間の離合集散も激しく、強力なリーダーが登場するとたちまち広大な地域を統治する国が生まれもした。一方で、南方は地形の複雑な森林地帯であるので、諸民族は分断された地域に定住し、大きなまとまりを作るのが難しかった。秦の始皇帝が天下を統一する前に主に六国が争う長い戦国時代があったが、そのころは長江以南の大半はいわゆる未開の地で、天下の争奪戦とは無縁であった。秦に続く漢の時代に少しずつ中央の文明が入り込んで行き、三国時代になっていわゆる漢民族による支配がかなりの程度行き渡るようになった。呉も蜀漢と同じように、北の魏と戦いを交える前に南方の諸民族を制圧する必要に迫られ、多大の労力を費やしている。一方で、魏は北方諸民族との関係で時限爆弾を抱えていたので［→第77巻の最後に引用した通鑑251-11］、三国はそれぞれにハンディを抱えて睨み合っていたのである。
（3）レッテル貼りの名人の王夫子は『読通鑑論』で譙周は「姦佞売国」とし、「譙周の罪は天に通じ、歴史上最も極刑に処すべき人間である」と、酷評している。王夫子は目の前で明朝が瓦解したのを見たので、自ら国の命運に終止符を打った譙周は断固として認めることができなかった。譙周が『仇国論』［→通鑑257-06］で論じたように、いたずらに国力を消耗する戦争を続けるのはよろしくないと主張するのならば、譙周はそのときに皇帝の取り巻き連中を斥け、皇帝に節倹を勧め、法令を緩め、民の負担を減らすように努めるべきあったので、そのようなことは何もしないで、いよいよ事態が切迫したときに皇帝に降伏を勧めただけで、結局のところ譙周は終始自身の安泰を図ることしかしていないと、王夫子は批判するのである。実際のところ、蜀漢の降伏後にも譙周は身の安泰を保ち、魏によって礼遇されて穏やかな晩年を送っている。歴史書の『三国志』を編集した陳寿はそのような日々を送る譙周を訪ねていて、実直な人柄であることを伝えている。
（4）『資治通鑑』の編者は、譙周よりも自害した劉諶の方を高く評価していたので、ここでの記述の順序を工夫して、劉諶の存在を印象付けている。付け加えるならば、訳者は、『資治通鑑』の編者とも王夫子とも異なって、義とか忠とかを掲げて国や皇帝に尽くすよりも、民衆にとって益になることをする方が価値があると考えるので、すばやく戦争を終わらせた譙周を強く支持したいと思う。劉諶のいうように城を背にして戦えば多数の命が無駄に失われるし、南方に逃げれば先住民も巻き込んでさらに悲惨な戦争が長く続いてしまって、いずれにしても何一つよいことがない。王夫子は訳者の到底知ることのできない厳しい経験を経てものを言っていることは理解しなければいけないし、訳者はまことに安楽なところに身を置いてぶつぶつ言っているだけなので全く重みがないことはわかっている。それでも、譙周を批判する論調には与しないと敢えて言っておきたい。
【訳文】
［263-08の三］（蜀漢の降伏の使者である）張紹らは雒県で鄧艾に会った。鄧艾は大いに喜び、返事の手紙を書き、璽綬を受け取った。漢主［劉禅］は太僕の蒋顕を派遣して、姜維に勅書を与えて、鐘会に降伏するよう命じた。また、尚書郎の李虎に蜀漢の士民の名簿を鄧艾に届けさせた。二十八万戸、九十四万人、兵士十万二千人、官吏四万人の名が記してあった。
鄧艾が成都の町の北に至ると、漢主は太子や諸王および群臣六十人余りを率い、面縛［顔を前に突き出して後ろ手を縛る］して棺を背負って［つまりその場で処刑される覚悟を示して］、鄧艾の軍門に詣でた。鄧艾は節［大将軍のしるし］を手にして、漢主の縄を解いて棺を焼くよう指示し、それから漢主を招いて会った。将士には厳重に命令して、乱暴や略奪を禁じ、降伏してきた者を受け入れ、もとの職務に戻した。そのすべてが（後漢の始まりに関中を平定した）鄧禹の故事に習い、皇帝の指示を遵守した。（臨時の処置として）漢主の劉禅は驃騎将軍とし、太子は奉車、諸王は駙馬都尉とし、蜀漢の官僚たちにはもとの地位に応じて官職を与えたり、鄧艾の配下に置いたりした。また師纂を益州刺史に、隴西太守の牽弘らに蜀中の諸郡を治めさせた。鄧艾は黄皓が奸険であると聞いていたので収監して殺そうとした。黄皓は鄧艾の周辺に賄賂を配って死を免れた。
姜維らは諸葛瞻が敗れたことは聞いたのだが、漢主がどこに向かったのかを知らなかったので、軍を引いて東に向かい、巴州に入った。鐘会は軍を進め涪州に至り、胡烈らに姜維を追わせた。姜維は郪に至ったところで漢主からの敕命を受け、兵士に武器を手放すよう命じ、大将軍のしるしを胡烈に送り、自身は東道から廖化、張翼、董厥らとともに鐘会のもとに詣でて降伏した。蜀漢の将士は（上の者がさっさと降伏したのを）怒り、刀を抜いて石を叩き切った。ここにおいて、もろもろの郡県の守備に当たっていた者は漢主の勅命によって戦いを罷めて降伏した。鍾会は姜維らを手厚く迎え、それぞれに将軍としてのしるしを仮に返した。
【補足】蜀漢の降伏はあっけないくらいにスムーズに進み、やはり1945年の日本を想起させる。
【訳文】
［263-09］呉の人々は蜀漢が亡んだと聞いて、（蜀漢の救援に向かいつつあった）丁奉らの軍団を停止させた。
呉の中書丞の華覈は宮門に詣でて、以下の趣旨の文書を提出した。「臣が謹んで聞くところでは、成都は守られず、蜀漢の主も臣もさすらいの身となり、国は傾き覆り、天より委ねられた土地を失い、貢ぎ物を献じてくる国々を棄てることとなりました。臣は草芥の者でありながらも、竊かに寧かならぬ思いでおります。陛下は聖にして仁、その恩沢は遠方にも及ぶところでありまして、このようなことを聞かれて、必ずや哀悼の念を持たれるでありましょう。臣は忡悵の情に耐えられず、謹んでこの文書を提出するものであります」
魏が蜀漢の征伐に乗り出したときに、呉のある人が襄陽の張悌にこのように言った。「司馬氏は政治の実権を手にしてから、大きな難事がしばしば起こり、民衆はまだ司馬氏に服しておりません。いままた遠征に力を労することになったのでは、敗れる以外になく、勝てるはずがありません」。それに対して、張悌は、「そうではない。かつて曹操の功は中夏［中国の中心部である黄河流域］を蓋い、民衆はその威に畏れたのだが、その徳に懐いたわけではなかった。（魏の皇帝となった）曹丕も曹睿も曹操のやり方を継承して、刑罰を盛んに用い、民に重い役を強いたので、民は東西にいつも駆け回って、安らかにできる年はなかった。司馬懿父子は大功を重ねるとともに、曹氏の過酷な煩わしさを除き、平穏な恵みを民に与え、国の謀の主となって民衆を疾苦から救った。これによって民心が司馬氏に帰してすでに長いことになる。だから淮南［寿春］で三度もの反乱があっても司馬氏を支える人々は全く揺るがず、皇帝の曹髦が死んでも何ら動揺が生じなかった。司馬氏は賢者を採用してその能力を発揮させ、人々は心を尽くして働こうとしているので、司馬氏の根元はまことに固いものがある。その上に立って奸計［王朝を乗っ取る計画］を進めているのである。いま蜀漢は宦官が朝廷を牛耳り、国にまともな政令はなく、武を汚して戦を玩び、外に利を求めようとして、民は疲弊し、兵士は疲れ果て、守ることを忘れている。そもそも魏と蜀漢の強弱は同じではないのであって、知恵においても勝る方が、すでに危うくなっている相手を伐るのであるから、勝たないということはほとんどあり得ない。ああ、魏が志を得たならば、それは我らにとっての憂いとなる」。呉の人々はその言葉を笑ったのが、ここに至って承服したのだった。
【補足】（1）蜀漢が滅んだ後の呉の動きが記されている。華覈と張悌の言辞が特に取り上げられているのは、両者ともに呉の今後の命運を示すものであるからだろう。華覈は蜀漢に対して皆で哀悼の意を捧げましょうと皇帝に提言しているのではない。後に呉もまた哀れと思われるようにならないようにしっかり対策を練る必要があると示唆したのである。張悌の見方は、優れた情勢分析であると『資治通鑑』の編者は認めたものであるのだろう。張悌は言いはしないけれど、宦官が政治を乱していた蜀漢よりも呉は果たしてましなのかと、顧みなければならないと示唆しているのだろう。
（2）王夫子は『読通鑑論』のなかで、曹操を始まりとする魏が司馬氏に乗っ取られて［その最後の経緯を次の巻で見る］、わずか50年足らずで滅んでしまった理由を考察している。曹操は実力で黄河流域の地を平定し、実質的にはすでに滅んでいた漢朝を自身の保護下に置き、そのときからすでに曹操が皇帝を名乗ることに誰も異論はない状況にあったのだが、曹操は慎重に事を運んで、ようやく息子の曹丕が漢の皇帝か平和裏に皇位を譲り受けるという形をとって、魏王朝を開いた。一方で、司馬氏はあくまでも魏朝の臣下で、いくら大きな功績があっても、それは魏朝あってのことで、曹操が一から作り上げたのとは全く違っていた。ふつうなら司馬氏が王朝を乗っ取るのは難しいはずなのだが、それを可能にしたのは、曹操以来の魏の政治が法でもって人を縛る非常に酷薄なものであったからだと王夫子は指摘している。上の張悌の見方と同じである。司馬氏は賢人を用い、民を憐れみ、寛大であろうと努め、天下の人々の心を掌握しようとした。それによって天下の人々は初めて平穏に生きる楽しみを知ったので、司馬氏にたとえ陰険な企てがあるにしても司馬氏の政治を喜んだのであると王夫子はいう。その通りであろう。「竹林の七賢」には耐え難いところのある司馬氏の政治でも、魏朝の政治よりはずっとましだったのである。王夫子は、蜀漢が滅んだのは、諸葛亮が曹操と同じく法でもって人を縛る政治をしたからだと言っている。諸葛亮その人は「道ある人」［理念に従い高潔な人］であっても、小国を指揮して大国に勝とうというのだから、民衆の全てを結集して総力戦に駆り立てる以外に手はなく、それは長続きするはずはなかったのである。まして、呉には「道ある人」もいないのだから、その運命はもはや風前の灯であった。
【訳文】
［263-10］呉の人々は、（呉の支配下にある）武陵の五溪夷［少数民族］が蜀漢と境を接していることから、蜀漢が亡んだことで、五溪夷が（自立を目指して）反乱を起こすのではないかと懼れ、越騎校尉の鐘離牧を武陵太守にしてその対応に当たらせた。一方で、魏は漢葭県長の郭純を仮の武陵太守にして、涪陵の民を率いて遷陵の境界から入って赤沙に駐屯し、もろもろの夷に働きかけて動かし、酉陽に侵攻した。そのために武陵郡の人々は恐れ動揺した。
鐘離牧は武陵郡の役人たちに尋ねた。「蜀漢が滅び、いま境界が侵されている。どのようにして防いだらよいか」。皆が答えた。「辺境の二県は山の険しいところで、夷たちはそれをたのみに守ろうとしています。そこに軍を向けて驚かしてしまうと、夷たちは団結を強めるでしょう。徐々に安心させるのがよろしいのではないでしょうか。使者を派遣し、慰労して教え導くのがよいでしょう」。鐘離牧は、「それはよくない。外から境を越えて侵入してきていて民衆を誘いたぶらかしている。向こうの狙いが深く根を下ろしてしまう前に、打ち取らなければならない。火を消すには速やかにしなければならないのだ」と言い、ただちに厳戒態勢を命じた。撫夷将軍の高尚は鐘離牧に言った。「かつて潘太常は五万の兵士を集めてから五溪夷を討ちました。このときは（蜀漢の）劉氏と同盟していたこともあって、夷たちは順次呉に従うようになりました。いまはかつてのような大軍の助けはなく、しかも魏の郭純が遷陵の拠点から入ってきています。そのようななかでも明府［鐘離牧］はわずか三千の兵で深く入ろうとしています。勝利の道筋を見ることはできません」。鐘離牧は、「この非常な事態に昔のことを持ち出しても意味がない」と言って、すぐに手持ちの兵を率いて昼夜わかたずに道を進んだ。険しい山に沿って行くこと二千里にも及び、呉に異心を抱く悪い民の主だったもの百人余りとその子分たち千人余りを斬った。郭純の軍は散り散りになって逃げ、五溪は平定された。
【補足】蜀漢と呉の境界付近には五溪夷とか五溪蛮とか呼ばれる少数民族がいた。かつて呉は武力によってそれを支配下に置いたのだが、蜀漢が滅んだ機に乗じて魏がそこに介入して、五溪夷の反乱を後押しした。それを平定した鐘離牧は実戦経験の豊富な猛将である。鐘離牧は国からの支援もない単身で派遣され、現地の人々の反対を押し切って果敢に進軍して勝利を得た。呉では将軍は自身の手勢を率いて戦うのが普通で、魏のように国家主導で組織だった軍事作戦を展開するのとはかなりスタイルが違っていたようである。
【訳文】
［263-11］十二月庚戌、司徒の鄭沖を太保にした。
［263-12］壬子、（蜀漢の領地であった）益州を益州と梁州に分割した。
［263-13］癸丑、益州の士民に特赦を下し、五年間は租税の半分を免除するとした。
［263-14］乙卯、鄧艾を太尉にして所領を二万戸増やし、鍾会を司徒にして所領を一万戸増やした。
［263-15］皇太后の郭氏が亡くなった。
［263-16］鄧艾は成都にいて、ひどく己を誇り、蜀の士大夫に向かって、「諸君がわしに遭えたのは幸いであったな。わしであるから今日このようみしていられるのだぞ。もしもかの呉漢［後漢の光武帝の命令で蜀を平定したが、残虐な行為が数多くあった］のような者がきていたなら、諸君らはすでに全員殺されていただろうな」と、言っていた。
鄧艾は晋公の司馬昭に次のような手紙を送った。「兵を動かすときに、まず声を挙げて相手を驚かし、それから実戦に及ぶというやり方があります。いま蜀漢を平定した勢いに乗って呉を攻めるといえば、呉の連中は恐れて震え上がるでありましょう。敵を席捲する好機であるといえます。しかしながら、大きな戦争した後で将士は疲労し、いますぐには使いものになりません。しばし緩めるべきでありましょう。隴右の兵［つまり魏の遠征隊］の二万人をここに残し、蜀の兵の二万人とともに、塩を煮たり鍛冶を興したりして、軍および農に必要なものを整え、さらには船を作って、長江の流れに乗って進めるように準備します。その後で呉に使者を派遣して利害を説くならば、呉は必ず魏に服すでありましょう。遠征せずに平定できるのです。いまは（もとの蜀漢の皇帝の）劉禅を手厚く遇して、（呉の皇帝の）孫休を誘うのがよいでしょう。劉禅を扶風王に封じ、劉禅が暮らすに困らない十分な資財を与えるとともに、扶風郡には董卓塢がありますから、そこを劉禅の住まいとします。そして、劉禅の息子たちを公侯にし、郡内の県を治めさせます。魏に服すならばこれほどまでに厚遇されるということを明らかに示すのです。さらには、広陵と城陽の地を開けて（そこを孫休に与えるとして）待つならば、きっと呉は魏の威に恐れ、また魏の徳を思って、風になびくようにして従うに違いありません」。
司馬昭は監軍の衛瓘を使って鄧艾を諭した。「事を行うのは指示を待ってからにせよ。自分ですぐに行おうとしてはならない」。それに対して鄧艾は重ねて次のように言った。「御命令を受けて遠征に出て、指示された策に従って、悪のおおもとをすでに服させました。仮に（蜀漢の者たちに）官職を与えましたのは、従ったばかりの者を安心させるためで、時期に適ったものといえましょう。いま蜀の人々は魏の命令に従い、土地は南の海にまでつながり、東は呉と接しています。すみやかに呉を鎮定すべきであります。国命を待っていたのでは遠い道を往復してやたらに日月を要します。『春秋』［史書の古典］の解釈として、『大夫が国境の外に出たならば、国家を安んじ国家の利になることを専断してもよい』とあります。いまは呉はまだこちらに従っておらず、その勢いは蜀と連なっています。平常の定まりに縛られていたのでは事機を失ってしまいましょう。『兵法』［孫子の著作］に『進んで名を求めず、退いて罪を避けず』［国の命令によらずに自己の判断で戦えということ］とあります。私は古の人のような気概はありませんが、自身の保身に惑わされることなく、国家の計を損なうことはいたしません」
一方で、鐘会は心の中に異志［あやしい野望］を抱いていた。姜維はそれを察知して、擾乱を構えようと考えた。姜維は鐘会にこのように説いた。「貴君は淮南［寿春の攻防戦］以来、計画したことに漏れがなく、魏の勢いがここまで盛んになったのは、すべて貴君の力によるものです。いままた蜀を定め、貴君の威徳は世を振い動かし、民衆はその功を非常に高いと見上げ、主君はその謀を畏怖するほどであります。このようなときに、貴君はこれからどこに行こうと思っておられるのでしょうか。どうして、（古の）呉の范蠡のように（敵に大勝利した後にただちに高位を棄てて）舟を浮かべて航跡をくらまし、功を全うしたまま我が身を保とうとしないですか」。鐘会は言った。「貴君が言うことは現実離れしていて私にはできない。いま進むべき道は、たぶんまだ尽きたわけではないだろう」。姜維は言った。「貴君の智力によってならできることはあるのでしょう。それは私みたいな者がどうこうできるようなものではないのでしょうな」。
これより鐘会と姜維は非常に親しい仲になり、出かけるときには同じ輿に乗り、座るときには同じ席につくほどであった。
鐘会は鄧艾が一人で事を決めているのを見て、衛瓘とともにひそかに鄧艾には国家に反逆する様子が見えると報告した。鐘会は人の筆跡を真似るのが上手で、鄧艾が朝廷や司馬昭に報告する書類の辞句を変えて、傲慢で自己を誇るものにし、また司馬昭からの手紙は破ってしまって、鄧艾に疑念を抱かせるような内容に書き改めた。
【補足】最初に魏国の幾つかの出来事が列挙され、次いで、蜀漢の攻防戦の主役であった鄧艾、鐘会、姜維の三者三様の動きが記されている。鄧艾は大勝利に酔い、全て何事も自分の思う通りになると思い込み、司馬昭にあれこれ提案し、それらを実行しようとしている。鐘会はそのような鄧艾を横に見て、自分はその上を行く何かをしでかそうと目論んでいる。姜維は鄧艾と鐘会の関係が微妙であるのを見て、大逆転をかけて一発勝負に出ようとしている。姜維が挙げた范蠡は、大昔の春秋時代の人で、越国の大臣として宿敵を破る大功績を挙げると、今後は王に疑われて殺されてしまうだろうと考え、さっと身を引き、商人として大成功をおさめた。それを引いて鐘会の本心を見ようとしたのである。二人の問答は腹の探り合いで、鐘会は野望を膨らませて姜維の力を利用しようと考え、姜維は巧みにチャンスを引き寄せようとする。
【訳文】
［264-01の一］咸熙元年［264年］、春、正月壬辰、詔を下して、檻車で鄧艾を都に連行するよう命じた。
晋公の司馬昭は鄧艾が命令に従わないことを恐れて、鐘会には軍を（涪州から）成都にまで進めるよう命じ、また賈充には兵士を率いて斜谷から入らせるようにした。さらに、司馬昭自身も大軍を率いて、皇帝が長安に御幸するのに従うという体裁をとって西に進んだ。また魏のもろもろの王公［皇帝の一族］が鄴にいることから、山濤を行軍司馬にして鄴を監視させた。
【補足】（1）得意の絶頂にあった鄧艾の運命が一瞬で暗転した。呉の平定も我が手で成し遂げようと夢想していた鄧艾は、罪人護送車で都に連行されることになった。
（2）司馬昭は非常に慎重に事を進めた。鄧艾が反乱を起こすのを警戒して、成都に向けて兵団を動かすとともに、賈充を漢中に入らせ、さらに自身も長安に出向くことにした。その際に、皇帝を引き連れるとともに、背後で皇族が動いたりしないように山濤に監視させた。山濤はいわゆる竹林の七賢［→通鑑262-04の一］であるが、バランス感覚に優れた人で、時代の流れのなかでやるべきことをきちんとこなし、人望が厚かった。
【訳文】
［264-01の二］鐘会は才能があることをもってかねてから司馬昭は重要な任務を授けていた。司馬昭の夫人の王氏はかつてこのように司馬昭に言ったことがあった。「鐘会は利を見て義を忘れるような人間で、何やら事を起こすのを好みます。あまり厚遇し過ぎるときっと国政を乱すようなことをするでしょう。大任を授けるべきではありません」。
また、鐘会が蜀漢征伐に出ることになったときに、西曹属の邵悌が司馬昭にこのように言った。「いま鐘会は十万余りの兵を指揮して蜀漢を伐ろうとしています。私が思いますに、鐘会は独り身でありますから、（都には）人質になるような者がいません。他の者に行わせた方がよろしいのではないでしょうか」。司馬昭は笑って、「私もそれは承知しておる。蜀漢はしばしば国境から侵攻しようとしていて、軍も民も疲れている。いまこれを伐るのは、指で掌をさすくらいに簡単なことだ。そうであるのに、人々は蜀漢はまだ伐るべきではないと言っている。人というものは初めから怯える心があったのでは智勇ともに竭きてしまう。智勇ともに竭きた者を強いて使ったところで、ただ敵の禽となってしまうだけだ。鐘会だけが私と同じ考えであったから、いま鐘会を派遣して蜀漢を伐るなら、蜀漢は必ず滅びるのである。蜀漢を滅ぼした後で、そなたが心配するようなことになったとしても、私がそれに対処できないといまから憂うのは無用であろう。蜀漢が滅んだならば、蜀漢の遺民は恐れ震え上がり、そのような連中と何か事を図ろうとしてもできるはずがないし、中国［魏］の将士は誰もが帰りたがって、鐘会に同調する者などいない。鐘会が悪事を為そうとしても、自滅するだけだ。だからそなたは心配しなくてよい。ただし、決して人にこのことを言ってはならない」。
司馬昭が長安に行こうとすると、邵悌はまたこのように言った。「鐘会が指揮している兵士は鄧艾の兵士の五六倍はいます。鐘会に命じて鄧艾を捕らえさせれば十分で、どうしてこのように御自分も行こうとなさるのでしょうか」。司馬昭は、「そなたは前に言ったことを忘れたのかな。だから、私が行くまでもないと思うのだろう。しかし、いまそれは口に出して言うべきことではない。私は人を信じて待つべきであって、そのようにするだけだ。ただし、私に背くようなことをさせるものではない。とにかく、私が心の内で先に人を疑うようなことがあってはならないと思うのだ。ついこの間、賈充は私に、『鐘会を少しばかりは疑っておいででしょうか』と尋ねので、『いまそなたを行かせるに当たって、私が少しでもそなたを疑っていると、そなたは思っておるのかな』と言っておいた。賈充は私の言葉を易からず受け止めてくれた。私が長安に着けば、事は自然とおさまるであろう」
【補足】司馬昭が細心の注意を払って人を動かしていることがここに記されている。司馬昭が長安にまで出て行くのは、鄧艾の動きを警戒するとともに、実は鐘会に備えるものであったのだ。
【訳文】
［264-01の三］鐘会は、先に衛瓘を成都に行かせて、鄧艾を収監しようとした。鐘会はその際に衛瓘が連れる兵士を少なくすることで、鄧艾に衛瓘を殺させて、鄧艾の罪を作ろうと考えた。衛瓘はその意を察知したが、鐘会の指示を拒むことはできなかった。
衛瓘は夜に成都に至り、鄧艾が統括する将軍たちに檄文を回した。そこには、「皇帝の詔を奉じて鄧艾を収監する。鄧艾以外の者は一切問われることはない。もし官軍のところに来るならば、先に与えられた爵賞はそのままであるが、敢えて成都から出まいとするなら、三族は誅殺されるであろう」と書いてあった。明け方までに全ての将軍は衛瓘のところに集まり、鄧艾だけが成都の中の屋敷の内に残った。夜が明けると成都の門が開かれ、衛瓘は皇帝の使者の車に乗ってただちに鄧艾のいるところへと進んだ。鄧艾はまだ寝ていて起きていなかった。衛瓘は鄧艾父子を捕らえ、鄧艾を檻車の内に置いた。将軍たちのなかには鄧艾を奪おうと相談する者もいて、武器を整えて衛瓘の軍営に赴いた。衛瓘は軽装で出て将軍たちと会い、「これは鄧艾が潔白であることを証明しようとするものである」と言って、朝廷に提出すると称する偽りの文書を示した。将軍たちはそれを信じ、それ以上のことはしなかった。
丙子、鐘会は成都に至り、鄧艾を都に送り出した。鄧艾父子がすでに禽になり、鐘会は独りで大勢の軍民を統率することになったので、その威は西方に震った。鐘会が憚る相手は鄧艾だけだったから、ここに鐘会は謀反を決意したのだった。
鐘会は、姜維に五万人を率いて斜谷から出撃させて前駆とし、鐘会自身は大軍を率いてその後ろに従い、長安に至ったならば、陸路で騎兵隊を進ませるとともに、歩兵隊を水路で川の流れに従って進ませるならば、渭水から黄河に入って五日で孟津に至るので、洛陽で騎兵隊と歩兵隊が合流できて、たちまち天下は平定できると考えていた。
このようなときに、鐘会は司馬昭からの手紙を受け取り、そこには、「鄧艾はもしかしたら都に送られるのを拒むかもしれないので、いま中護軍の賈充に一万の騎兵と歩兵を率いてただちに斜谷から入らせて、楽城に駐屯するように指示した。また、私は十万の軍勢を率いて長安に行こうとしている。そなたとは間もなく会えるであろう」と、書いてあった。それを見て鐘会は驚き、そばに仕える者を呼んで、「鄧艾を捕らえるだけのことなら、私一人で十分であるのを司馬昭様も御存知のはずだ。いまこうして来られるというのは非常におおげさなことだ。きっと私が何かすると覚っておられるのだ。ならば、即座に出発するしかない。成功すれば天下を得るであろうし、失敗したなら、退いて蜀漢を保てばよい。私だって劉備くらいにはなれるはずだ」
丁丑、鐘会は（魏の軍団の）護軍、郡守、牙門騎督以上の者と、もとの蜀漢の官人を呼び集め、先に亡くなった郭太后を哀悼する会を朝堂で開いた。そこで、「これは亡き皇太后様の遺詔［遺言］である。軍を率いて司馬昭を討つようにとここに書いてある」と称し、一同の者にそれを見せ、遺詔に従うことを議決した。それぞれの者の役割分担を記したものを示し、諸軍の指揮官は鐘会が信頼する近しい者と交代させた。集まった人々がそれぞれ指示された庁舎に行くとそこに閉じ込められ、城門も宮門も全て閉ざされ、兵士が厳重に守った。衛瓘は疾がひどいと称して、外の建物に出て行った。鐘会はそれを信じ、衛瓘がいなくなったのでもう何も憚るところがなかった。
姜維は、鐘会が魏から来ている将軍たちを殺したなら、今度は自分が鐘会を殺し、魏の兵士を生き埋めにして、漢主をまた立てようと考えていた。姜維は劉禅に密書を送り、「陛下におかれましてはいま数日の間だけ恥辱をお忍びください。臣は国家の危機を脱して安らかさをまた取り戻そうとしております。日や月はたとえ暗くなってもまた明るくなるのです」と、言った。
鐘会は、姜維の勧めに従って将軍たちを殺そうと思っていたが、まだ決断できずにいた。
鐘会のもとにいる帳下督の丘建はもとは胡烈の部下であったが、鐘会はこの者を信じて可愛がっていた。丘建は胡烈がたった一人で閉じ込められているのを気の毒に思い、鐘会に申し上げて、胡烈に仕えている兵士一人を選んで飲食物を届けさせるようにした。それにならって、閉じ込められている人々のもとへ一人ずつ入って行くようになった。胡烈は届けに来た兵士に、「丘建がこっそり外の様子を報らせてくれたのだが、鐘会はすでに大きな穴を掘り、数千本の白い棒を用意している。順に兵士を呼び入れ、それぞれを散将に任命すると言って白い頭巾をかぶせ、いきなり叩き殺すつもりでいるということだ」と、偽りを告げ、息子の胡淵にもそのように記した手紙を送った。
ほかの将軍たちに食べ物を届けにいった兵士たちも同様のことを聞き、仲間に言い伝えので、一夜のうちにすべての兵士に知れ渡った。
己卯、昼に、胡淵は父［胡烈］の兵士を率い、太鼓を打ち鳴らしつつ軍営の門から出た。諸軍も期せずして太鼓を叩いて軍営から出て行った。誰もそのようにしろと督促する者はいなかったのだが、争うようにして成都城に向かった。
そのときに鐘会は姜維に鎧や武器を与えていた。「外でがやがやと声がし、火事が出たようです」と、告げる者があった。しばらくすると、兵士が城に向かってきていると告げた。鐘会は驚き、姜維に、「兵士が来たのは何かよくないことをしようとしているのだろう。どうしたらよかろうか」と、言った。姜維は、「迎え撃つまでだ」と、言った。鐘会は兵士に命じて、閉じ込めていた将軍や郡守を全て殺そうとした。建物の中の者たちは机などを積み上げて門を支えた。兵士は門を砕こうとしたが破れなかった。
しばらくすると、城外から梯をかけて城壁を昇る者があり、あるいは城屋を焼く者があり、蟻のように群がり、乱れ進んできて、矢が雨のように下った。将軍や郡守は屋根から外に出て、それぞれの部下と会うことができた。姜維は鐘会の部下を率いて戦い、自ら五六人を殺したが、大勢の者が姜維を殴ったり斬ったりし、先を争って進み、とうとう鐘会を殺した。鐘会の将士の数百人が死に、蜀漢の太子の劉璿や姜維の妻子も殺された。兵士たちは略奪に走り、殺人や狼藉を行った。衛瓘は諸将に兵士を取り締まらせ、数日で落ち着いた。
【補足】（1）成都での緊迫した事態が叙述されている。鐘会は先に死んだ皇太后［→通鑑263-15］の偽の遺言を作って、皇位を奪おうとしている司馬昭を魏朝のために討つことをもって自分の反逆を正当化しようとした。鐘会としては考え抜いた策なのだろうが、どう見ても場当たり的なやり方である。姜維は鐘会をうまく操って蜀漢の復活を目論み、その忠義の心は偽りのないものであったのだろうけれど、これまた場当たり的なやり方でしかない。
（2）鐘会と姜維を殺した兵士は、際限なく暴力を振るった。先に鄧艾は、「諸君がわしに遭えたのは幸いであったな」と誇ったのは［→通鑑263-16］、このような事態になるのを防いでいたからである。攻防戦に敗れて陥落した町は、略奪、乱暴の嵐に見舞われることが非常に多く、それがむしろ当たり前であったので、平穏に占領された場合に限って史書はそれを特記している。
【訳文】
［264-01の四］鄧艾の本営に属していた将士は鄧艾を追い、鄧艾を檻車から出して、引き返して成都に迎え入れようとした。衛瓘は己も鐘会とともに鄧艾を陥れたので、（鄧艾が生還したならば）異変が起こりうるのを恐れた。衛瓘は、護軍の田続らの将兵を派遣して綿竹の西で鄧艾を襲わせ、鄧艾父子を斬った。
かつて鄧艾が江油に入ったときに、田続は進もうとしなかったので、鄧艾は田続を斬ろうとしたのだが、結局そのままに放っておかれた。衛瓘は田続を派遣するに当たって、「江油での恥辱をはらしてこい」と言った。
鎮西長史の杜預は人々にこのように言った。「衛瓘は無事でいられるだろうか。名士と言われる身になり、すでに高い地位に昇っていながら、その徳の評判を聞かないし、正義に基づいて下の者を使っていない。それでどうして名士としての責務に堪えられるであろうか」。衛瓘はそれを聞くと、帰還するとすぐに杜預に謝った。杜預は杜恕の子である。
洛陽にいる鄧艾のほかの子たちはすべて誅殺され、その妻や子孫は西城県に移された。
鐘会の兄の鐘毓はかつて司馬昭に密かにこのように言っていた。「弟は策略を好み、じっとしていることができません。事を任せるべきではありません」。鐘会が謀反を起こしたときには鐘毓はすでに死んでいた。司馬昭は（鐘会の父の）鐘繇の勲功や鐘毓が賢者であったことを思って、特に鐘毓の子の鐘峻、鐘迪を赦してもとの官爵のままとした。
鐘会の功曹だった向雄は鐘会の屍を収めて葬った。司馬昭は向雄を呼んで叱責した。「先に王経が死んだときに、東市において卿は哭し、私は不問に付した。鐘会は自ら反逆を為した者で、それを収めて葬ることまでも容認したならば、国の法は成り立たなくなるではないか」。向雄は言った。「古の聖君主は野にある骨や死骸を集めて葬り、その仁は朽ちた骨にも及んだと聞きます。そのとき、骨や死骸の主の功罪を先に調べてから葬ったのでしょうか。いま、晋王様はすでに誅罰を加えられ、法としての処分はすでに十分にすんでおります。私は義に感じて葬ったまでで、そこには人倫の教えとして欠けるところはないはずです。上において法を立て、下において教えを広げるのは、民衆を訓戒するよいやり方でありましょう。何も私を死なせて世にその名を立たせるまでもないことです。明公［司馬昭］におかれましては、枯れた骨を野に捨て置くことが、仁者、賢者の振る舞いとして結構なものであるとされるのでありましょうか」。司馬昭はその言葉を悦び、向雄に酒をふるまって語り合って、放免した。
【補足】（1）蜀漢征伐で大活躍した鄧艾の最後はあっけないものであった。監車に入れられた鄧艾は何を思っていたのだろうか。果たして鄧艾は一族も殺されなければならないような大罪人であったのか、いささか疑問が残る。確かに鄧艾は大勝利に酔って、自分はスーパーマンであるかのように思い込んでしまっていたのかもしれない。鄧艾自身には魏朝に反逆する気は少しもなかったので、司馬昭に会えばきっと無実であることが明かされると信じておとなしく監車に乗ったのだろうか。後に鄧艾の罪は赦され、名誉を回復する。
（2）杜預の言葉は興味深い。後漢の終わりごろから、名士であると周囲から評価されることが重要な意味を持つようになり、それが、後の貴族社会を形成する一つの基盤となった。名士といわれるような人々は、竹林の七賢もそうであるが、出身や地位によりも、知的レベルや道徳的レベルにおいてある水準以上に達していると見なされる必要がある。この時代に官員として採用されるひとつのルートとして、王祥［→通鑑256-11］や魏舒［→通鑑263-06］の例で見たように、地域のなかで人間性が高く評価されて、それが知事レベルの人のところにも聞こえてくると、官員候補として推薦されるというものがあった。官員になってからも、名士にもとるような振る舞いをすると周囲の評価が下がり、事によっては地位を保てなくなる。衛瓘には後ろめたいところがあったので、すぐに杜預に謝ることで、名士らしい体裁を取り繕ったのである。杜預はこの後何度も『資治通鑑』に登場する。なお、杜預の遥か遠い子孫に杜甫がいて、杜甫は杜預のような立派な功績を挙げたいと奮闘したものの政治の世界では志を果たすことができなくて、詩作に命をかけるようになった。
（3）司馬昭もまた己の評判を気にした。国家をスムーズに運営していくには、名士たちの力が必要であったから、己の名声をいかにして高めるか非常に気を使っていた。ここで見るように、向雄に理があることを認めて、おおらかに振る舞うことが大切だったのである。
【訳文】
［264-02］二月丙辰、車駕［皇帝］は洛陽に帰還した。
［264-03］庚申、明元皇后を葬った。
【補足】（1）史書は皇帝の帰還を記録しているが、実質的には司馬昭の帰還で、皇帝は連れられて往復しただけである。皇帝の存在感は希薄で、刺殺された前の皇帝については学問を好んだといった記述があったのだが、このときの皇帝の動静を伝える『資治通鑑』の記事はせいぜいこれくらいである。
（2）明元皇后とは、魏の二代皇帝の曹叡［明帝］の皇后。先に郭太后と記されていた人［→通鑑263-15］。
【訳文】
［264-04］劉禅は巴東太守の羅憲に二千の将兵を与えて永安を守らせていた。成都が敗れたと聞いて、永安では役人や民衆が驚いて騒いだ。成都が混乱に陥っていると言いふらしている者を羅憲が斬ったので、騒ぎはおさまった。羅憲は劉禅の敕書を受け取ると、庁舎において指揮する人々に目を光らせ、それが三日に及んだ。
呉は蜀漢が敗れたと聞くと、西に向かって兵を動かし、蜀漢を救援するためだと言いつつ、実は羅憲を襲撃しようとした。羅憲は、「我が朝は傾き覆った。呉は我が朝とは唇と歯の関係にあるのに、我らの災難に同情せずに、同盟に背いて利を得ようとしている。不義の甚だしいものである。我が朝が滅んで、呉は長く保たれるはずがない。我らは断じて呉に降って虜となるものではない」と言って、城を補修し、武器を繕った。将士と勝利を誓い、節義をもって戦おう励ました。将士は全員激しく呉に憤慨した。
呉は鐘会も鄧艾も破滅し、どの町に主がいないと聞いて、蜀を併呑しようとの志をもった。しかし、（長江が深い峡谷を刻む）巴東のあたりを固く守られたのでは兵団は通過できないであろうから、撫軍の歩協に兵を率いて西にすばやく進ませた。羅憲は、永安の兵力は弱くて防ぎきれないだろうと考え、参軍の楊宗に命じて囲みを突破して北に行かせ、危急を（魏の）安東将軍に陳騫に告げ、文武の印綬を持ち、人質となる者を連れて、司馬昭のもとに詣でさせた。
歩協は永安を攻め、羅憲はそれと戦って大いに破った。呉主は怒り、さらに鎮軍の陸抗らに三万人を率いて進ませ、羅憲を囲む軍団を増強した。
【補足】蜀漢と呉を結ぶ長江沿岸の町である永安の事情が記されている。呉は蜀が混乱状態にあると見て、永安を突破して蜀の併呑に乗り出そうとした。永安の治安を任されていた羅憲は、隣人の災難に乗じて攻めてくる呉のやり方を怒り、また蜀漢は魏に降伏したのだから魏に服するのが筋であると判断して、司馬昭に援軍を求めた。なお、永安は、呉との戦いに敗れた劉備が退却する途中で病気になって留まり、そのままそこで没した町である。
【訳文】
［264-05］三月丁丑、司空の王祥を太尉に、征北将軍の何曽を司徒に、左僕射の荀顗を司空にした。
［264-05］己卯、晋公は爵位を進めて晋王になり、所領を十郡増やした。
王祥、何曽、荀顗は揃って晋王のもとに詣でた。その際に、荀顗は王祥に、「晋王様は我らをかくも重く用いて下さり、何曽とともに朝廷にこうして並び立っております。我らはこれまでにも晋王様を敬う礼を尽くしてきました。今日は皆さまで晋王様を拝するべきでありましょう。それ以外にはありますまい」と言った。王祥は、「晋王様は尊いとはいえ、要するに魏の宰相であります。吾らは魏の三公です。王と公の位の違いはわずかに一階だけです。天子様から三公を授かっている者が人を拝してよろしいのでしょうか。そのようなことをすれば、魏朝の声望を損ない、また晋王様の徳を欠くことにもなりましょう。君子は人を愛することを示すのに礼をもってするのです。私は拝することはしません」と、言った。
三人は晋王の前に行くと、荀顗はついに拝し（何曽も拝した）、王祥だけは長揖の挨拶をした。晋王は王祥に、「今日のこのことをもって、今後貴君が重く顧みられるようになるのは間違いないだろう」と言った。
【補足】（1）王祥、何曽、荀顗は魏の名士の代表格で、その三人を国家のトップスリー［三公］に据えことが最初の記事に記されている。学問のある名士を重く用いることで、司馬昭は文治政治を志向していると天下に印象付けようとしていた。それは呉とは正反対といってもよい政治体制であった。呉は初代皇帝の孫権のもとに集まった武人を束ねた国で、呉の軍団は国に属するというよりは個々の武人に属するといった方が実態に近かった。孫権のようなカリスマ性のある人物が上に立って初めて国としてのまとまりができるのであって、現状はすでにばらばらになる寸前であった。
（2）王祥と荀顗は、晋王に対してどのような形で挨拶をしたらよいのか論じ合った。荀顗は「拝」を提唱した。「拝」とは、両膝を屈して床につけ、両腕を伸ばし、手のひらが床に触れるくらいまでひれ伏すようにするもの。まことに大袈裟な挨拶である。魏朝の序列として一段階しか違わないのだから、「拝」は不適切であるとして、王祥は「長揖」で挨拶した。「揖」とは胸の前に腕を組み合わせて会釈するもので、同等ないし少し上の相手に対する礼法である。「長揖」とあるので、それをゆったり丁寧に行って、一段の違いを示したのである。それに対する司馬昭の反応がいかにも司馬昭らしい。「拝」した荀顗と何曽には何も言わずに当然のこととして受け止め、王祥の「長揖」には「おやっ」と思ったのだろうが、即座に己の名声をより高める方策を思いついたのである。
（3）王夫子の『読通鑑論』は王祥のこの行動に対して極めて辛辣な批判をしている。拝しなかったのは一見すると司馬昭に媚びずに、大臣の権威をしっかりと守ったように見えるけれども、それは見せかけの計算づくだというのである。いかにも大臣としての筋を通したように外見を取り繕っておけば、もしも司馬昭がこけて皇位を奪うことに失敗したならば、王祥が魏の大臣として立派だということになるだろうし、司馬昭が首尾よく皇位に就けば、王祥は大臣の位にふさわしい堂々の人物としてさらに重く用いられるようになるというのが王祥の計算であると王夫子は見ている。司馬昭はそうした王祥の心の内を見抜きつつ、堂々の帝王ぶりを発揮して、「今後貴君が重く顧みられるようになる」と言ったのである。これによって王祥も司馬昭も大いに得点を稼いだ。もちろん王祥も相手が司馬昭でなかったなら率先して拝したはずで、王祥も司馬昭も相手のことをよく知っていて、いわば阿吽の呼吸でひと芝居打ったようなものなのであろうか。
【訳文】
［264-07の一］劉禅は一家を挙げて遠く東の洛陽へと遷った。混乱するなかで慌ただしく移動したために、劉禅のもとの大臣たちで従う者はなく、ただ秘書令の郤正と殿中督の張通だけが妻子を棄てて単身で劉禅に付いて行った。劉禅は、郤正が適宜その時にふさわしい行動をとれるよう導いてくれるのを頼りとし、失敗なく振る舞うことができた。劉禅は嘆息して、「残念なことにこの者のことを知るのが遅かった」と、言った。
蜀漢の建寧太守の霍弋は南中の都督であったが、魏兵が蜀漢に攻め込んでくると聞いたときに、成都に赴こうとした。劉禅は、敵への備えはすでに定めたので、来なくてよいと言った。成都は守られなかったので、霍弋は喪服を着て、三日間大いに哀しみを表した。将軍たちは霍弋に早く魏に降るように勧めた。霍弋は、「いま道が塞がり、陛下の安危はまだ詳しく知ることができない。人の去就は一大事であって、軽々しくは決められない。もしも魏が陛下を礼遇するならば、この地の治安を保ってから降っても遅くはないないだろう。もしも魏が陛下を危うくしたり、恥辱を加えたりしたならば、私は死をもってそれを拒むつもりだ。遅速を論じるときではない」。劉禅が東に遷ったと聞いてから、霍弋は初めて六郡の将軍たちを率いて、魏の朝廷に次のように申し述べた。「臣は、人は三者［親、主君、師］のために生きると聞いています。どれにも同じよう仕え、難があるところにおいて命を尽くすのだ、と。いま臣の国は敗れ、主君のために死んで守るべきところがなくなりました。そうでありますので、ここに我が身を（魏国に）委ね、二心を抱くことは決してありません」。司馬昭はそれを善しとし、霍弋を南中都尉として、もとの任務のままとした。
【補足】（1）もとの蜀漢の皇帝の劉禅はおとなしく魏の都の洛陽へと移動し、そのときに郤正が劉禅の行儀指導をした。
（2）南中都督の霍弋の去就が特記されている。成都が陥落寸前のとき、南中に逃げ込もうと提案する者もいた［→通鑑263-08］。南方の諸民族に睨みをきかせなければならない南中は治めるのが難しく、事と次第によってはたちまち混乱状態に陥ってしまいかねないなかで、霍弋は落ち着いて状況の推移を見て、卑屈になることなく魏に帰順した。
【訳文】
［264-07の二］丁亥、（洛陽に到着した）劉禅は安楽公に封じられ、子孫および群臣の五十人余りが侯に封じられた。司馬昭は劉禅と宴を催し、劉禅のために蜀の舞楽を演奏させた。劉禅の傍らに人々は悲壮な思いを抱いたのだが、劉禅は事もなげに楽しそうに笑っていた。
司馬昭は賈充に言った。「人として感情がないというのも、ここにまで至るものなのか。もしも諸葛亮がいまも生きていても、この者を輔けて国を全うすることできないだろう。まして姜維には無理であったのだ」。
後に、司馬昭は劉禅に尋ねた。「蜀のことをしみじみ思い出したりするのかな」。劉禅は答えた。「いまこの楽しみ中にいて、蜀のことなど思いません」。郤正はこのことを聞くと、劉禅に、「もしもまた晋王様から同じように問われましたら、泣きながら、『我が先祖の墓が遠く岷や蜀にあります。心はいつも西にあって悲しみ、蜀を思わない日はありません』と、お答えし、お目を閉じてください」と、指導した。するとまた司馬昭は同じように劉禅に尋ねたので、劉禅は教わった通りにした。司馬昭が、「ほほう、郤正の言葉とそっくりそのままではないか」と、言ったので、劉禅は驚いて目を見張り、「まことにおっしゃる通りでございます」と答え、まわりの者は皆笑った。
【補足】（1）劉禅の後日談。譙周が言った通りに［→通鑑263-08の二］、司馬昭は劉禅を手厚く遇した。劉禅の愚かしい振る舞いは人々の笑いものとなった。「いまのこの楽しみ」という劉禅の言葉はきっと本心なのだろう。劉備の子として生まれてしまったために皇帝にならなければいけなかったのは、劉禅にとっては大変に迷惑なことであったのだろう。もしかすると、笑いものにされたのは、劉禅なりの深い洞察によるものだったのだろうか。織田信長の次男でありながら豊臣秀吉の御咄衆になるまで落ちぶれて、大馬鹿者と笑われた織田信雄と同様に、難しい時代を生き抜くために敢えて愚かしい姿を見せていたのだろうか。劉禅は敵の国でこの後8年間を安楽公の名の通りに安楽に過ごして、65歳で死去した。ただし、織田信雄の子孫は大名として江戸時代を生き抜いたけれども、劉禅の方は息子の代で絶えてしまうので、やはり知恵が足りなかったのだろう。
（2）劉禅はどうしてあっけなく国を失ったのか、王夫子は『読通鑑論』で、蜀漢が地形を頼り過ぎたのが一因であると指摘している。四川盆地は四周を険しい山岳地帯に囲まれ、守りやすく攻めにくい土地とされ、ときおりその地を基盤として独立政権が誕生する。その国が隆盛期にあるときは、地の利を生かして他国の干渉を受けずに独自の発展を享受するのだが、衰退に向かったときには、いつもたちまち滅ぼされてしまう。鎌倉は要害の地といわれていたけれど、北条氏の滅亡が典型例であるように、鎌倉に籠って敵と戦った者は一人も勝利していない。
【訳文】
［264-08の二］夏、四月、（呉から魏に逃亡して新たな職務を授かった）新附督の王稚らは海に浮んで呉の句章に入り、その地の長吏および男女二百人余りを拉致して還った。
【補足】海から町を襲撃して人間を略奪してくるというこの行為の記録を『資治通鑑』が特に収録している理由はよくわからない。句章は呉のなかでも先進的な地域である会稽郡に属する町で、しかも国境からは遠いので、そのようなところが襲われたのが珍しく思えたのだろうか。なお、人を拉致して連れてくるという行為は珍しいものではなかった。
【訳文】
［264-09］五月庚申、晋王［司馬昭］は五等爵を復活させて、騎督以上六百人余りをそれに封じた。
【補足】ここに記されているのは、蜀漢の征服に貢献した人々を賞するための処置で、実質を伴わない称号をたくさん与えたのだろう。
【訳文】
［264-10］甲戌、（咸熙に）改元した。
［264-11］癸未、舞陽の文宣侯の司馬懿を晋の宣王に、忠武侯の司馬師を晋の景王にした。
【補足】司馬昭が晋王に昇格したのに伴い、司馬昭の父の司馬懿も兄の司馬師も死後の称号がランクアップした。
【訳文】
［264-12］（永安を守る）羅憲は呉の攻撃を受けることが六カ月に及び、救援がこないために、城中の者の多くが病んでしまった。ある者は羅憲に城を棄てて走るよう言ったが、羅憲は、「私は城主であって、民衆より仰ぎ見られる存在である。危難に遭って安らかにすることができなくて、急に迫られて民衆を棄てて逃げるなどということは、君子としてしてはならないのだ。ここで命を終える」。
（魏の）陳騫は司馬昭に、荊州刺史の胡烈を派遣するよう提案し、胡烈は二万の騎兵および歩兵を連れて西陵を攻めて羅憲を救おうとした。秋、七月、呉軍は退却した。
司馬昭は羅憲の職務をもと通りとして、陵江将軍の号を加え、万年亭侯に封じた。
【補足】通鑑264-04で見た永安攻防戦の続きである。救援に向かった胡烈の名は蜀漢遠征で何度か見ている［→通鑑264-01など］。その功績によって、荊州という重要な軍事拠点を任されるようになっていたのである。
【訳文】
［264-13］晋王［司馬昭］は、司空の荀顗に礼儀を定めさせ、中護軍の賈充に法律を正させ、尚書僕射の裴秀に官制を議論させ、太保の鄭沖にそれらを総合的に決裁させるように、と奏上した。
【補足】いろいろな制度を整備して、司馬昭の目指す新たな国家像を具体化して行こうとしている。
【訳文】
［264-14］呉は交州を分割して、その一部を広州とした。
［264-15］呉主［呉の皇帝の孫林］は病気になり、物を言えなくなった。字を書いて丞相の濮陽興を呼び入れ、息子の孫𩅦を出して、丞相に向かって拝礼させた。孫休は濮陽興の臂を取り、息子を指さし、濮陽興に託した。
癸未、呉主は亡くなり、謚を景帝とした。群臣は朱皇后を尊んで皇太后とした。
呉の人々は蜀漢が滅んだばかりで、交趾では反乱が起こり、恐れを抱いて国内はざわめいていたのだ、年長の君主を得たいと思っていた。左典軍の万彧は烏程令であったときに、烏程侯の孫皓と親しくしていたので、「孫皓様は才識明断で、長沙桓王［孫策］様とそっくりであります。しかも学問を好まれ、法度を遵守されるお方でもあります」と言って、丞相の濮陽興や左将軍の張布に何度も勧めた。濮陽興と張布は朱太后に孫皓を跡継ぎにしたいと申し出た。朱太后は、「私は夫を喪った婦人でありますから、国家のことを慮るようなことはとてもできません。もしも呉国を衰えさせることなく、（呉皇帝の先祖の霊が祭られている）宗廟をしっかりと守ってくださる方であるのなら結構です」。ここにおいて孫皓を迎えて皇帝に立て、元興に改元して大赦を下した。
【補足】（1）最初に記されている交州の分割は、交趾の反乱［→通鑑263-02］に対応するための処置であろう。
（2）呉の皇帝の孫休は脳血管障害と推測される病気で亡くなった。そのとき30歳で、丞相の濮陽興に託した息子はまだ幼かった。蜀漢が滅び、交趾で反乱が続いているような状況では、幼い皇帝では切り抜けられないだろうと、孫皓に白羽の矢が立った。孫皓は呉の初代皇帝の孫権の孫で、孫和の息子。孫和は一時期孫権の皇太子であったが、政争に巻き込まれて自殺させられ、孫皓は都の外でひっそり生きていた。このとき孫皓は23歳で、そっくりだといわれた孫策は孫権の兄。万彧が孫皓を絶賛したのは、むろん自身が旨い汁を吸えると思ったからである。朱太后は本心かどうかはわからないが、婦人らしくしおらしく振る舞い、人々の言いなりになった。これによって朱太后の運命は暗転し、「呉国を衰えさせることなく」［原文は呉国無隕［呉国隕ちる無し］］の期待もまた正反対のことになってしまう。
【訳文】
［264-16］八月、庚寅、中撫軍の司馬炎に命じて相国の職務を手伝わせた。
【補足】司馬炎は司馬昭の息子。
【訳文】
［264-17］かつて鐘会が蜀漢の征伐に出ようとしていたときに、辛憲英は夫［羊耽］の甥である羊祜にこのように言っていた。「鐘会は物事を己の恣に勝手に行う人間で、それは長く人に仕える者のとるべき道ではありません。私は鐘会に何かあやしい志があるのを危惧します」と、言っていた。すると鐘会は辛憲英の息子の郎中の羊琇を参軍として連れていきたいと要請した。辛憲英は、「先に私は国のために心配しましたが、今日は難事が吾が家に及んできました」と、憂えた。羊琇は司馬昭に固く辞退することを申し出たのだが、司馬昭は聞かなかった。辛憲英は羊琇に向かって、「行くがよい。このことを戒めとするように。遠征の間に心がけることはただ仁恕［思いやり］だけである」と、言った。羊琇はそれによって身を全うして帰還した。癸巳、詔を発して、鐘会の謀反を諌めた功績によって羊琇には関内侯の爵位を与えた。
【補足】ここに記されているのは辛憲英という女性のエピソード。『資治通鑑』にはこれまでにも辛憲英の見識の高さを示すエピソードが二つ紹介されていた。父の辛毗は非常に大きな功績のあった人物で、ここに名が挙がっている甥の羊祜はこれから重要な仕事をする。息子の羊琇が、謀反の張本人の近くにいながら身を正しく守って帰還したのは、母の訓戒を守ったからだというお話。なおこの年、辛憲英は74歳であった。
【訳文】
［264-18］九月、戊午、司馬炎を撫軍大将軍にした。
［264-19］辛未、詔を発して（交趾で呉に反旗を翻した）呂興を安南将軍にし、交州の諸軍事を統括するよう命じ、また南中監軍の霍弋には交州刺史として遠く赴任して、適宜長吏を選ぶよう命じた。霍弋は建寧の爨谷を交趾太守とし、牙門の董元、毛炅、孟幹、孟通、爨能、李松、王素らの将兵を率いて呂興を支援する策を朝廷に出した。しかし、まだ交州に行かないうちに、呂興はその地の功曹の李統によって殺されてしまった。
【補足】先に交趾で反乱を起こした呂興は魏に支援を要請していた［→通鑑263-02］。魏は南方の事情に通じる霍弋［→通鑑264-07の一］を交趾に派遣することにした。遥かに遠い交趾での反乱を後押ししようというのだからなかなか難しい話で、そうこうしているうちに呂興は平定されてしまった。
【訳文】
［264-20］呉主［孫皓］は朱太后を降格させて景皇后とし、（皇帝の父の）孫和に文皇帝の謚を与え、母の何氏を尊んで太后とした。
【補足】前の皇帝の皇后はたちまち粗末な扱いを受けなければならなかった。
【訳文】
［264-21］冬、十月丁亥、詔をもって、寿春で獲たもとの呉の相国参軍事の徐紹を散騎常侍に、水曹掾の孫彧を給事黄門侍郎にし、使者として呉に派遣した。その家の者で魏国内にいる者に随行することを許し、必ずしも還ってこなくてよいとして、魏が信義を守る国であるのを大いに宣伝しようとした。
晋王［司馬昭］は呉主への手紙を使者に託し、今後の禍福について諭した［つまり降伏を勧めた］。
［264-22］晋王［司馬昭］は王肅の娘を娶り、司馬炎と司馬攸が生まれ、司馬攸は（司馬昭の兄の）景王［司馬師］の跡継ぎとなった。司馬攸は親や友に思いやりがあり、才能が豊かで、清和平允［温厚でさっぱりとしている］で、司馬炎よりも評判がよかった。司馬昭は司馬攸を愛し、日ごろから、「この天下は兄の景王の天下であって、私はいまはこの立場にあるけれども、百年の後［司馬昭の死後］には、大業は司馬攸に返すのだ」と、言っていた。
司馬炎は立ったままで髪を地面につけることができ、手を垂れると膝を過ぎた。あるとき裴秀に、「これはどういった相であるのかわかる者はいるだろうか」と、この不思議な様子を見せた。裴秀はこれより司馬炎に心を寄せるようになった。
羊琇は司馬炎と親しくしていたので、司馬炎のためにいまの政治の課題について考察する模範答案を用意し、司馬炎はそれを暗記して、いつ司馬昭に問われてもよいように備えていた。
司馬昭はいよいよ司馬攸を後継者にしようと思ったのだが、山濤は、「年長の者を廃し、年少の者を立てるのは、礼に違うことで不祥であります」と言い、賈充も、「中撫軍［司馬炎］様には君主としての徳がおありになり、替えてはなりません」と言い、何曽や裴秀も、「中撫軍様は聡明神武で、世を超えた才能があり、人々の望みはすでに盛んに集まっており、天もまた人臣の相ではないものを明らかに示しています」と言った。それで司馬昭の意思は定まり、丙午、司馬炎を世子［跡継ぎ］とした。
【補足】司馬昭の兄の司馬師には子がなく、司馬昭の次男の司馬攸を養子としていた。司馬昭自身が言うように、司馬師が亡くなったことで司馬昭が魏国の全権を掌握するようになったので、司馬昭が自分の跡継ぎを司馬攸にすれば、兄の家系を守ったことになって道徳的に非常に美しい行為となる。体裁を重視する司馬昭としてはそのようにしようと振る舞っていたのだが、果たしてその本心はどうであったのだろうか。山濤らの勧めでようやく長男の方を跡継ぎとして定めた。
【訳文】
［264-23］呉主［孫皓］は元の皇帝の太子だった孫𩅦とその三人の弟を王にし、自身の妃の滕氏を皇后とした。
［264-24］呉主は即位してすぐに詔を発して、士民を慈しむとし、倉庫を開いて貧乏人を賑わし、宮中にいる女性を解放して妻のない者の配偶者とし、宮中の苑中で養っていた禽獣を放った。人々は喜んで明主であると称えた。
ところが、呉主は（皇帝になるとの）志を得た後は、やること全てが粗暴になり、人が忌み嫌うことを平然と行い、酒色を好んだので、上から下まで皆が失望した。濮陽興と張布は竊かに孫皓を皇帝にしたことを悔やんだ。ある人がそれを呉主に告げ口した。
十一月朔、濮陽興と張布が朝廷に参内したところを呉主は執らえ、広州に移し、道の途中で殺し、三族を夷げた。
皇后の父の滕牧を衛将軍にして尚書の職務に当たらせた。滕牧は滕胤の一族の者である。
【補足】呉の皇帝の孫皓は即位から半年で早くも「粗暴驕盈」の正体を現した。圧倒的な実力がありながらも、細心の注意を払って求心力を高めて行こうとしている司馬昭とはあまりにも対照的な振る舞いで、これで国をまとめられるはずがないのは明らかである。皇帝になった者は往々にして権力を振りかざすだけで国家を運営しようとする馬鹿馬鹿しい過ちを犯す。その最初の犠牲者が他ならぬ孫皓を皇帝に就けた濮陽興と張布であった。『資治通鑑』にはこの後に孫皓の様々な暴君ぶりが記されている。それは勝者となった側の記録に基づくものであるから、若干の潤色があると見るべきだとしても、同じ亡国の帝王としては劉禅の方がかなりましであったように思えてくる。
【訳文】
［264-25］この年、屯田官を廃止した。
【補足】三国時代を通じてどの国も盛んに屯田を行った。後漢の終わりごろから戦乱が続いたために、人口が急減し、広大な農地が荒廃するに任された。そのようなところに兵士を定住させて農耕に従事させれば、軍用の食糧が確保できて兵士の数も増やせるので一石二鳥であった。魏では屯田官を設けて各地に新たな町を建設し、それが一段落したので屯田官を廃止したのである。蜀漢では諸葛亮が魏に遠征するために、魏に近いところで屯田を行ったことがよく知られている。呉にはもともと広大な未開拓地があり、先住民との摩擦を起こしつつ、耕作地を広げ、人口を増やしていった。それは国家事業というよりは、豪族がそれぞれに行って、自身の指揮下にある軍団を強化するという性格が強かったようである。
■主要参考文献
前の章で掲げた文献に加えて新たに参考にしたものを示す。
吉川幸次郎著『阮籍の「詠懐詩」について』（岩波文庫）、岩波書店（1981年）
松本幸男著『阮籍の生涯と詠懐詩』、木耳社（1977年）