『資治通鑑鑑賞』　第77巻　256年〜261年

これから『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』を楽しみつつ読んでいきたい。『資治通鑑』は、北(ほく)宋(そう)の時代に司(し)馬(ば)光(こう)が中心になって編集して、1084年に完成した歴史書。

以下に掲げる訳文は、『資治通鑑』を正確に訳そうとの意図によるものではない。あくまでも『資治通鑑』を楽しむ目的で非専門家が日本語にとりあえず置き換えただけで、学術的信頼度は保証の限りではない。非専門家なりに最大限努力した結果の訳文ではあるのだが、訳者の力を上回る皆様におかれては、笑って誤りを訂正していただきたい。

『資治通鑑』は味も素っ気もない。『資治通鑑』は編年体の歴史書で、某年某月にしかじかのことがあったと時間順を記録に並べる。詳しい年表のような書物で、一見して少しも面白そうではない。

『資治通鑑』は不親切である。例えばある一つの記録は数年前の出来事と関係し、数年後に新たな展開を引き起こすものであるかもしれないのだが、そのような関連性を明示してくれることはまずない。断片的な記事を全294巻にわたって並べ、後はどうぞ勝手にお読みくださいというのである。

『資治通鑑』は出入りが極めて不自由である。例えば唐(とう)の時代のある事件に関心があって『資治通鑑』で調べてみようとすると、当該の事件は幾つかの断片に分かれていてどこから読み始めたらよいのか選択が難しい。ある断片を読んでそこに登場するある人物の動きが気になり出すとそれ以前の幾つかの記事を遡って見なければならなくなる。それがまた別の人物への関心に呼び起こし、読むべき記事はたちまち雪だるまのように膨らんでしまう。気が付くと、当該の事件の始まる遥か昔から、事件後の遥か先まで読まずにはいられなくなっている。

このように、『資治通鑑』は一筋縄ではいかないまことに手ごわい相手である。だから、読んで楽しいのである。がちがちに硬いスルメのように、口にほうりこんでくちゃくちゃ噛んでいるうちに、徐々に味が出てきて、次第にこれ以上に旨いものはないくらいにまで思えてくる。

まずは『資治通鑑』を読み始めることにしよう。出入りが不自由な『資治通鑑』であるから、任意の場所から思い切って飛び込むしかない。この章の終わりに示す理由から第77巻からスタートする。

■資治通鑑第77巻

【解題】『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』は294巻からなる巨大な書物で、その叙述は紀元前403年に始まり、959年に終わる。初めのころは1年ごとの記述量は少なく、第1巻には35年分の記録が収められている。次第に1年ごとの記述量が増え、最終巻に収められているのは2年分の記録である。第77巻は甘(かん)露(ろ)元年［256年］から景(けい)元(げん)二年［261年］までの6年間を扱っている。

【訳文】

資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)巻七十七　魏(ぎ)紀(き)九　高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)下(げ)

【補足】（1）『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』の第77巻は「魏(ぎ)紀(き)九」に当たり、その前半は「高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)」が魏(ぎ)の皇帝であったときの記述の後半部分に当たる。「魏紀」とは中国の多くが魏(ぎ)朝(ちょう)の統治下にあった時代の記録という意味。このころは魏、呉(ご)、蜀(しょく)の三(さん)国(ごく)鼎(てい)立(りつ)の時代であったが、『資治通鑑』は魏が最大勢力であったと見なしている。「高貴郷公」とは曹(そう)髦(ぼう)のことで、2年前の254年に帝位に就いている。「魏紀九」の後半は「元(げん)皇(こう)帝(てい)上(じょう)」となり、元皇帝すなわち曹(そう)奐(かん)が魏の皇帝であった時代の記録。同じ皇帝でありながら、一方は高貴郷公と記され、一方は元皇帝と記されているのは、曹髦がはなはだ皇帝らしからぬ死に方をして、死後は庶民に落とされたからである。

（2）曹髦は『三(さん)国(ごく)志(し)』の英雄である曹(そう)操(そう)の子孫で、曹操、曹(そう)丕(ひ)、曹(そう)霖(りん)、そして曹髦に至る。曹操は帝位には就かず、その子の曹丕が魏の初代皇帝になった。二代皇帝は曹丕の長男の曹(そう)叡(えい)で、曹叡には子がなかったために親族から養子として迎えた曹(そう)芳(ほう)が三代皇帝になった。曹芳が即位して10年足らずの間に国家の権力は司(し)馬(ば)氏が掌握するところとなり、曹芳は皇位から降ろされ、曹髦が四代皇帝になった。つまり、曹髦はお飾りの皇帝であった。このような経緯の詳細を知ろうとすると、『資治通鑑』をずっと遡って見なければならなくなる。いずれ第76巻以前も訳すことになるだろうが、いまは特段の予備知識を持たずに読み進めていこう。

【訳文】

［256-01］甘(かん)露(ろ)元年、春、正月、漢(かん)の姜(きょう)維(い)は位を大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に進めた。

【補足】（1）最初の数字は中華書局版の『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』の項目区分に従ったもの。256年の記述の1番目の記事であることを意味する。

（2）「漢(かん)」とは鼎(てい)立(りつ)する三国のうちの蜀(しょく)のこと。当時、劉(りゅう)姓の皇帝を戴く蜀は漢(かん)朝(ちょう)を引き継ぐとして漢と称していた。魏(ぎ)の曹(そう)丕(ひ)は漢の皇帝から皇位を譲り受けたという体裁を取り作って皇位に就いていた。「魏(ぎ)紀(き)」においては、蜀についての記事は最初に漢と記し、呉(ご)についての記事は最初にやはり呉と記している。何も記されていなければ魏のことである。なおこの訳文では今後は蜀のことは「蜀(しょく)漢(かん)」と記す。

（3）姜(きょう)維(い)は三国志のファンには馴染みの人物。諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)が22年前に戦場で没した後に、その志を継いで蜀漢の軍事リーダーとして奮闘し、ここに大将軍となった。

（4）魏、呉、蜀漢の三国は、魏が全般的な国力の点で他の二国を上回っていたのだが、二国を同時に叩くのはさすがに困難にあるので、三竦みの状態がしばらく続いていた。この『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』第77巻には、三国間のバランスが大きく崩れる直前の状況が記されている。

【訳文】

［256-02］二月丙(へい)辰(しん)、皇帝は太(たい)極(きょく)東(とう)堂(どう)で宴(うたげ)を開き、儒学者たちとともに、夏(か)の少(しょう)康(こう)と漢(かん)の高(こう)祖(そ)の優劣を論じ合い、皇帝は少康の方が優るとした。

【補足】（1）『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』の日付は干支によって記されている。この年の二月丙(へい)辰(しん)が二月の何日に当たるのかということは歴代の暦を集成した書物によって知ることができるが、ここでは干支のままにしておく。

（2）ここで皇帝とあるのは、上に記した筆法で、魏(ぎ)朝(ちょう)の皇帝の曹(そう)髦(ぼう)のこと。夏(か)の少(しょう)康(こう)とは、史書に記録が残る最初の王朝である夏(か)朝(ちょう)の立て直しをしたとされる王。漢(かん)の高(こう)祖(そ)とは、漢(かん)朝(ちょう)の初代皇帝劉(りゅう)邦(ほう)。武によって天下を取った高祖よりも、徳によって天下を安らかにした少康の方が優れると、皇帝は結論したのである。

（3）一見すると取るに足りないごく小さな出来事の記録である。『資治通鑑』は膨大な史料の中から、厳密な事実認定をした上で、事柄を厳選して収録している。このような些細なことを掲げているときにはそこに何かしら意図があると見るべきである。この記録からは、以下のようなことが知れてくるであろう。�@皇帝には少康のように魏(ぎ)朝(ちょう)を立て直したいとの志があった。�A当時、漢の高祖のような武に優れカリスマ性のある人物が皇帝の身近にいて、それへの強い警戒感ないし対抗意識を皇帝は強く抱いていた。�B皇帝にはこのよう気持ちがありながらも、実際にできることといったら学者たちを相手に議論するくらいであった。皇帝は籠の中の鳥で、自由に飛ぶことを許されず、鳴き声の美しさを磨くだけだったのである。�C以上のようなことから、魏朝の命運が尽きるのは目前に迫っていると見て取れ、読者はこの記事を見て「うーん」とうなるのである。『資治通鑑』の編者は当然そのように読まれるであろうとわかっているから、簡潔な記録を並べるだけなのである。

【訳文】

［256-03］夏、四月庚(こう)戌(ぼ)、大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)昭(しょう)に袞(こん)冕(べん)の服を賜り、赤(せき)舄(せき)を添えた。

【補足】（1）ここに登場する大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)昭(しょう)こそが、上の補足で言及したカリスマ性のある人物。司馬昭が大将軍にまで昇った経緯はここでは振り返らないが、『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』のこれまでに巻に詳述されている。魏(ぎ)朝(ちょう)の最大の実力者で、曹(そう)髦(ぼう)を皇帝に擁立した一人。

（2）袞(こん)は皇帝やそれに準じる人が身に付ける礼服、冕(べん)は同様の人の冠、それに特別な赤い舄(くつ)を添えて、皇帝が司馬昭に与えたのである。司馬昭が特別な存在であることを形で示したことになる。『資治通鑑』にこのような記事が現れたときには、本来の皇帝よりも優位に立つ人物が出現したことを意味していることが多い。この記事を見て、皇位はいずれ司馬昭に移るのだろうと読者は予想するのだが、実際にはまだ紆余曲折がある。

【訳文】

［256-04］四月丙(へい)辰(しん)、皇帝は太(たい)学(がく)に行き、儒学者たちと『書(しょ)経(きょう)』、『易(えき)経(きょう)』および『礼(らい)記(き)』について論じ、学者たちは誰も皇帝に及ばなかった。皇帝はいつも中(ちゅう)護(ご)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)望(ぼう)、侍(じ)中(ちゅう)の王(おう)沈(ちん)、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)の裴(はい)秀(しゅう)、黄(こう)門(もん)侍(じ)郎(ろう)の鐘(しょう)会(かい)らと東(とう)堂(どう)で講(こう)宴(えん)［酒を酌み交わしつつ学問をする］し、皆と学問について論じ合った。それらの人を特に礼遇し、裴秀を儒(じゅ)林(りん)丈(じょう)人(じん)、王沈を文(ぶん)籍(せき)先(せん)生(せい)と呼んだ。皇帝にはせっかちなところがあり、お召しに応じてすぐに来ることを望み、司馬望の職場が皇城の外にあることから特に虎(こ)賁(ほん)の役の五人とともに追(つい)鋒(ほう)車(しゃ)を出して呼び寄せた。こうして集会のあるたびに人々は走ってすぐに至ったのである。裴秀は裴(はい)潜(せん)の子である。

【補足】（1）皇帝は学問に熱心ななかなか優れた人であったと素直に読んでもよいのだろうけれど、ほかにできることのない気の毒な境遇に置かれていた。このように学問に名を借りて人を集め、その実こっそり陰謀の相談をするということも往々にしてあった。皇帝に召される者はよほど気を付けないといけない。司(し)馬(ば)望(ぼう)、王(おう)沈(ちん)、裴(はい)秀(しゅう)、鐘(しょう)会(かい)の四人の振る舞いはこの後の記録で見ることになる。

（2）最後に置かれている「〇〇の子」であるといった記述は、家系を重んじる価値観の表れである。〇〇がどのような人物であるのか振り返って、「〇〇の子」であるからやはり優れた働きをしているとか、「〇〇の子」でありながらろくでもないことしているとか、読者がそういった感想を持つことを『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』の編者は期待しているのだろうが、ここではそういった煩わしい詮索はしない。

【訳文】

［256-05］六月丙(へい)午(ご)、（甘(かん)露(ろ)に）改元した。

［256-06の一］このとき（蜀(しょく)漢(かん)の）姜(きょう)維(い)は鐘(しょう)提(てい)にいた。議(ぎ)者(しゃ)［政事についての意見を言う者たち］の多くは、姜維はすでに力が竭(つ)きたので、さらに出撃してくることはないだろうと言っていた。安(あん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の�ｹ(とう)艾(がい)は言った。「洮(とう)西(せい)での我等の敗北は決して小さな損失ではありませんでした。士卒が多く失われ、倉庫は空になり、民衆は離散しました。現状を分析すると、五つのことが言えましょう。向こうには勝ちに乗じる勢いがあり、我等には虚弱の実態があります。それが一つ。向こうには上下ともに戦争に習熟し、五種の兵器は堅牢で鋭利であります。我等は将軍［�ｹ艾自身のこと］は新たに代わったばかり、武具は新しくしつつあってまだ元に復していません。それが二つ。向こうは船で移動し、我等は陸上を移動します。その労力も速さも比べられません。それが三つです。向こうは狄(てき)道(どう)、隴(ろう)西(せい)、南(なん)安(あん)、祁(き)山(ざん)のどれかから出ようとしていて、その一つを選べばよく、我等は四つに分かれて守らなければなりません。これが四つ。向こうが南安や隴西から出ようとしたなら羌(きょう)族(ぞく)から穀物をもらわなければなりませんが、もし祁山に赴くなら麦の熟した千頃(けい)の畑があり、それが食糧庫となりましょう。それが五つです。賊(ぞく)［敵を貶(おとし)めて言う］には黠(わるがしこ)い計画があるので、必ず出て来ます」

【補足】（1）改元の記事の次に、蜀(しょく)漢(かん)と魏(ぎ)の緊張状態が記されている。「議(ぎ)者(しゃ)」とは便利な用語で、具体的に誰とはいわないけれど、当時の議論の傾向を提示するときに、「議者がこのように述べた」というような表現をする。ここではもしかすると�ｹ(とう)艾(がい)の卓見を際立たせるための演出であるのかもしれない。『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』がそのようにしたのではなく、『資治通鑑』が依拠した史料にそのようにあったので、そのさらなるもとはもしかしたら�ｹ艾ないしその周辺が作成した報告書であったのかもしれない。

（3）洮(とう)西(せい)の敗北とは前年秋の事件。蜀漢の姜(きょう)維(い)は隙あらば魏に攻め込もうと常に狙っていて、頻繁に出撃してきていた。当時、魏は黄(こう)河(が)流域一帯を支配する大国で、蜀漢は長(ちょう)江(こう)上流の四(し)川(せん)盆地周辺を支配する小国であった。蜀漢は盆地を囲む山岳地帯から出て長(ちょう)安(あん)方面を攻め、そこで勝利して、魏の都のある洛(らく)陽(よう)を衝くことを目標に繰り返し遠征隊を出していた。前年秋に姜維がまた出てきたのを見て、魏(ぎ)軍(ぐん)は洮(とう)水(すい)を渡ってその西側で戦い、大敗北を喫した。姜維は勝ちに乗じて兵を進めてきたのだが、急遽応援に駆け付けた�ｹ(とう)艾(がい)の奮闘によって魏軍はもちこたえることができた。なお、『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』には史書としての性質上たくさんの地名が現われる。それをいちいち吟味するのは大変な労力を要するので、ここでおおざっぱなイメージが掴める程度の説明を加えるに留めておく。洮水の戦場は、蜀漢の都のある成(せい)都(と)から直線距離で400キロ余り北上したところ。そこでもし蜀漢が大勝利し、快進撃を続けたとしても、魏の都は衝くには東に直線距離で800キロほど進まなければならない。蜀漢の軍事目標は実に遠大で困難なものであった。なお、呉(ご)は長江の中下流域から南方の広大な地域を配下に置く大国。ただし、南方には未開発地域も多く、面積は広くても国力は魏に劣っていた。都は建(けん)康(こう)、つまり現在の南(なん)京(きん)にあった。

（4）姜維はもう出てこないだろうとする楽観論が支配的ななかで、�ｹ艾は備えの重要性を力説し、祁(き)山(ざん)から出てくると予測した。

【訳文】

［256-06の二］秋七月、姜(きょう)維(い)はまた軍団を率いて祁(き)山(ざん)から出てきた。�ｹ(とう)艾(がい)がすでに備えていると聞くとすぐに方向を変え、董(とう)亭(てい)から南(なん)安(あん)に赴こうとした。�ｹ艾は武(ぶ)城(じょう)山(ざん)に拠ってそれを拒んだ。姜維は�ｹ艾と要害の地を争い、勝つことができなかった。その夜、渭(い)水(すい)を渡って東に進み、山に沿って上(じょう)邽(けい)に行こうとした。�ｹ艾はこれと段(だん)谷(こく)で戦って大いに破った。

これによって�ｹ艾は鎮(ちん)西(ぜい)将(しょう)軍(ぐん)となり、隴(ろう)右(ゆう)の諸軍事を全てみることになった。

姜維は（蜀(しょく)漢(かん)の）鎮(ちん)西(ぜい)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の胡(こ)済(せい)と上邽で合流することになっていたのだが、胡済が期日通りに至らなかったので敗れたのだった。士卒は散り散りになり、死者は甚(はなは)だ多かった。蜀漢の人々はこれより姜維を怨むようになった。姜維は皇帝に詫び状を提出し、退けられることを自ら求め、それで衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)行(こう)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)事(じ)に降格となった。

【補足】蜀(しょく)漢(かん)は劉(りゅう)備(び)が建国して以来、山中より軍団を出して魏(ぎ)国(こく)を討伐しなければならない宿命を背負っていた。蜀の地を足場に天下統一に乗り出すというのが建国の理念であり、魏とは大きく国力が開いていたので、攻勢に出ていなければたちまち敗亡に陥るほかなかった。諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)は大きな目標を達成するために時間をかけて蜀漢を完璧な軍事国家に仕立て上げ、長期戦も辞さない姿勢で何度も大軍団を繰り出した。しかし、ついに勝利を得られないままに戦場で没し、姜維はその後を継いでよく奮闘してきたのだが、もはや蜀漢の国力は戦争に耐えられないまでに疲弊し、民衆に恨まれるようになったのである。軍事独裁の小国家が身の丈に合わない戦争を続ければ破綻するのは必然で、劉備、諸葛亮、姜維らがいかに高潔な人物であっても人民を虐使し続けたことは否定しようがない。しかも、このときの蜀漢の皇帝が、後で見るように画に描いたような愚人であったのだからどうすることもできない。もっとも、「画に描いたよう」なのは歴史家が筆を盛った恐れがあり、『資治通鑑』の記述も簡単には信用してはならないだろう。

【訳文】

［256-07］八月庚(こう)午(ご)、詔(みことのり)が下され、司(し)馬(ば)昭(しょう)に大(だい)都(と)督(とく)の号(ごう)が加えられ、朝廷で事を奏するときにその名を呼ばないでよいこととし、黄(こう)鉞(えつ)を与えた。

癸(き)酉(ゆう)、太(たい)尉(い)の司(し)馬(ば)孚(ふ)を太(たい)傅(ふ)にした。

九月、司(し)徒(と)の高(こう)柔(じゅう)を太尉にした。

【補足】（1）司(し)馬(ば)昭(しょう)の特別待遇がさらに一段階アップした。黄(こう)鉞(えつ)とはまことに不思議なシンボルである。古代の王は左手に黄金の鉞(まさかり)を持って軍を指揮したとされ、黄鉞を持つということは統帥権を掌握していることを意味する。皇帝が司馬昭に黄鉞を授けたのはもはや統帥権を放棄したことになる。もちろん皇帝が自発的にそのことを決めたのではなく、司馬昭の意向に沿ってまわりが動いたのである。

（2）『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』が言及する人事は国家の枢要に関わることだけで、太(たい)尉(い)や太(たい)傅(ふ)や司(し)徒(と)がどのような役回りであるのかをいちいち詮索するのは煩わしいので省略する。ここでは玉突き人事が行われ、司(し)馬(ば)孚(ふ)はどちらかというと名誉職のような地位に異動した。司馬孚は司馬昭の父の弟で、司馬昭としてはその処遇には気をつかわなければならなかった。

【訳文】

［256-08］（魏(ぎ)から呉(ご)に逃亡していた）文(ぶん)欽(きん)は呉(ご)の人々に魏(ぎ)を伐(か)ることの利を説いた。孫(そん)峻(しゅん)は文(ぶん)欽(きん)と驃(びょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の呂(りょ)拠(きょ)、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の劉(りゅう)纂(さん)、鎮(ちん)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の朱(しゅ)異(い)、前(ぜん)将(しょう)軍(ぐん)の唐(とう)咨(し)に、江(こう)都(と)から淮(わい)、泗(し)に入り、さらに青(せい)、徐(じょ)を取るのを目指すよう命じた。孫峻は（都の外の）石(せき)頭(とう)で人々を見送ると、にわかに病気になり、後の事を従弟の偏(へん)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)綝(ちん)に託した。

丁(てい)亥(がい)、孫峻が死んだ。呉の人々は孫綝を侍(じ)中(ちゅう)武(ぶ)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)都(と)督(とく)中(ちゅう)外(がい)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)にし、呂拠らを呼び返した。

【補足】（1）文(ぶん)欽(きん)は魏(ぎ)朝(ちょう)内の権力抗争に敗れて呉(ご)に逃亡した人物。そのような立場上、魏を討伐すべきことを力説したのである。

（2）孫(そん)峻(しゅん)は呉の皇族の一員で当時の実力者。このときの呉の皇帝は孫(そん)亮(りょう)。初代皇帝の孫(そん)権(けん)の末子で、10歳で即位し、まだ14歳であった。孫峻の急死で呉国の実質的な権力は孫(そん)綝(ちん)に手渡された。

【訳文】

［256-09］己(き)丑(ちゅう)、呉(ご)の大(だい)司(し)馬(ば)の呂(りょ)岱(たい)が死んだ。九十六歳であった。呂岱はもとから呉(ご)郡(ぐん)の徐(じょ)原(げん)と親しくし、徐原は正義感が溢れ、才能も志もあった。呂岱は徐原がきっと大成すると知って、巾(きん)韝(こう)［かぶりものと衣］を与えてともに議論し合い、後に官員として推薦し、徐原は侍(じ)御(ぎょ)史(し)にまで至った。徐原はとにかく血気盛んで、忠義心に富み、直言を好んだ。呂岱が成功したり失敗したりすると、徐原はすぐに厳しく意見を言い、ときには衆人の前で呂岱を諫(いさ)めた。ある人が徐原の振る舞いは問題ではないかと告げたので、呂岱は、「だからこそ私は徐原君を貴んでいるのだ」と、きっぱりと言った。徐原が死ぬと、呂岱は哭(こく)して甚(はなは)だ哀しみ、「徐原君は私の益(えき)友(ゆう)であった。いま不幸にも私は誰に我が過ちを聞けばよいのだろうか」。談(だん)者(しゃ)はこれをよい話だとした。

【補足】（1）呂(りょ)岱(たい)は長く活躍した呉(ご)国(こく)の大物。人格的にも優れ、ここに記されている徐(じょ)原(げん)との友情はよく知られている。『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』はこうした佳話を好んで収録する。『資治通鑑』は、歴史は個人の営みの総和であるとの見方を貫き、つまり分子論的に歴史を捉えている。だから、人間の特に良質の部分が際立つような逸話は丹念に拾い集めている。

（2）最後にある「談(だん)者(しゃ)」は先の「議(ぎ)者(しゃ)」に似て便利な語。誰とはわからないけれど世論形成に大きな働きをする人たちという感じであろう。

（3）呉では、『三国志』でよく知られる初代皇帝の孫(そん)権(けん)が国に隆盛期をもたらしたころには多才な人々が孫権のもとに集まり、風通しがよく団結力があった。呂岱の死はそれが遠い昔のこととなったのを象徴するような出来事。

【訳文】

［256-10］呂(りょ)拠(きょ)は孫(そん)綝(ちん)が孫(そん)峻(しゅん)に代わって政事を補佐することになったと聞くと大いに怒り、もろもろの督(とく)将(しょう)たちと連名で滕(とう)胤(いん)を丞(じょう)相(しょう)に推薦する文書を提出した。孫綝は滕胤を大(だい)司(し)馬(ば)にし、（死んだ）呂(りょ)岱(たい)に代わって（都から離れた）武(ぶ)昌(しょう)に移らせてそこに留めようとした。（魏(ぎ)を撃つべく遠征に出ていた）呂拠は兵を引いて還る途中で滕胤に使者を出し、ともに孫綝を廃しようと言った。

冬十月、孫綝は従兄の孫(そん)憲(けん)を出して、兵を率いて江(こう)都(と)において呂拠を迎え撃つよう命じた。また、中(ちゅう)使(し)［皇帝の使者］を出し、文(ぶん)欽(きん)、劉(りゅう)纂(さん)、唐(とう)咨(し)らにともに呂拠を撃って捕らえるよう勅命を下した。また、侍(じ)中(ちゅう)左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の華(か)融(ゆう)と中(ちゅう)書(しょ)丞(じょう)の丁(てい)晏(あん)を派遣して、滕胤には速やかに都から去るよう促した。滕胤は自身に禍(わざわい)が及ぶことを警戒し、華融と丁晏を留め、兵士を集めて自衛し、典(てん)軍(ぐん)の楊(よう)崇(すう)と将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)咨(し)を呼び、孫綝が乱を企てていると告げた。そして華融らに迫って、孫綝を非難する文書を作らせた。

孫綝はそれを無視し、滕胤が反乱を起こしたと皇帝に告げ、将軍の劉(りゅう)丞(じょう)に封(ほう)爵(しゃく)を許して、騎兵を率いて滕胤を攻囲するよう命じた。滕胤は華融らを脅かし、偽りの詔を書かせて軍団を動かそうとしたが、華融らは従わなかったので、滕胤は皆を殺してしまった。ある者が、「兵士を率いて蒼(せい)竜(りゅう)門(もん)に行かれるならば、将士は公(こう)［滕胤］が出てこられたのを見て、きっと孫綝を棄てて公の方に就くようになるでありましょう」と、滕胤に勧めた。時にすでに夜が更け、滕胤には呂拠との約束を当てにする気持ちがあり、また挙兵して宮殿の方に進むのをためらった。そこで、部下たちには呂拠がすぐ近くにきていることを説いたので、人々は滕胤のために死ぬまで尽くそうと考え、離散する者はいなかった。滕胤の振る舞いはいつもと変わらず、普段通りに談笑していた。時に強い風が吹き、暁に至っても呂拠はまだ来なかった。孫綝側の兵士が多数集まり、ついに滕胤とその将士数十人を殺した。そして、滕胤の三(さん)族(ぞく)を夷(たいら)げた。

己(き)酉(ゆう)、大赦が下され、太(たい)平(へい)と改元した。

ある者が呂拠に魏(ぎ)に奔(はし)るよう勧めたが、呂拠は、「私は叛臣となってしまうのを恥じる」と言ってついに自殺した。

【補足】（1）呉(ご)の政権内の内紛を記している。滕(とう)胤(いん)は、先の権力者の孫(そん)峻(しゅん)とは微妙な関係ながらも政権の安定に努めていた。滕胤は肝が据わっていて、かえってそのために時機を逃してしまった。

（2）「三(さん)族(ぞく)を夷(たいら)げた」とあるのは、旧い中国の史書にはよく見られる表現。三族は父方、母方、そして自身の子孫を指すらしく、「三(さん)族(ぞく)を夷(たいら)げる」とは罪人の一族を根絶やしにするものである。親族の誰かが権力の中枢に入れば何かとよいこともあるだろうけれど、いったん政争に敗れると一族は何もかも失わなければならなくなる。

【訳文】

［256-11］司(し)空(くう)の鄭(てい)沖(ちゅう)を司(し)徒(と)に、左(さ)僕(ぼく)射(や)の盧(ろ)毓(いく)を司空にした。盧毓が固辞して、驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)昶(ちょう)や禄(ろく)大(だい)夫(ふ)の王(おう)観(かん)、司(し)隸(れい)校(こう)尉(い)の王(おう)祥(しょう)に譲ろうとしたが、詔(みことのり)は不可とした。

王祥は極めて孝行であった。継母の朱(しゅ)氏の非道の扱いに遭っても、王祥はますます恭(うやうや)しく謹めた。朱氏の子の王(おう)覧(らん)がまだ数歳のころ、母が王祥を鞭で打つのを見ると、泣いて母に抱きついいた。母が王祥に理不尽な言いつけをすると、王覧は兄とともに行動した。王祥が成長して妻を娶ると、母は王祥の妻を虐使した。王覧の妻もまた走って兄の妻を助けた。母はそのようなことを煩わしく思い、少しばかり虐待を止めた。王祥の評判が次第に世の中で高まると、母は深く憎み、密かに王祥に毒を盛ろうとした。王覧はそれを知り、すぐに立って毒を入れた酒を取り上げようとした。王祥は与えまいと争い、母はそれを奪おうとしてひっくり返してしまった。それからは、母が王祥の食事を用意すると、王覧が必ず先に味見をした。母は王覧が毒に中(あた)るの懼(おそ)れ、ついに止めた。漢(かん)の終わりの乱れに遭い、王祥は隠れ住むこと三十年余り、州郡からの命令に応じることはなかった。母が死ぬと、喪に服してひどくやつれ、杖をついてようやく歩くのであった。徐(じょ)州(しゅう)刺(し)史(し)の呂(りょ)虔(けん)が招いて別(べつ)駕(が)として、州の政事を任せると、州内は大いに落ち着き、政事が行き届いて行われるようになった。時の人々は、「徐州が安らかなのはまことに王祥により、この国に立派な人間がいることを明らかにしてくれたのは別駕の功績である」と歌った。

【補足】（1）これは魏(ぎ)に関する記事。これ以前に盧(ろ)毓(いく)らについて『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』に記事があるが、ここでは遡って見ることはしない。

（2）王(おう)祥(しょう)が親孝行であることが特記されている。時として親孝行は皇帝や国家に対する忠節に優先するとの価値観が『資治通鑑』の底流にある。王祥は親孝行者として、たぶん中国史上最もよく知られている人物といってよい。日本でも有名な話として何かと語られてきたのは、継母が真冬に鯉を食べたがり、川が凍っていたために王祥が裸になって氷に上に腹ばいになると、氷が溶け鯉が跳ねて出たという話。さすがにそれは荒唐無稽すぎて『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』は採用していないが、ここに記された事柄も、我々には極めて受け入れがたい。

（3）最後に民間で広まったという歌が記されている。『資治通鑑』に限らず史書にはしばしばこうして歌が採録されている。大衆の声、とくに子供の声は天の声に通じるという考え方があったからである。

【訳文】

［256-12］十一月、呉(ご)の孫(そん)綝(ちん)は大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に遷(うつ)った。孫綝は己の地位の高さを鼻にかけて傲慢で、無礼な振る舞いをした。孫(そん)峻(しゅん)の従弟の孫(そん)憲(けん)はかつて孫峻に協力して諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)を誅殺したことがあったので、孫峻は孫憲のことを厚く遇し、右(ゆう)将(しょう)軍(ぐん)無(ぶ)難(なん)督(とく)平(へい)九(きゅう)官(かん)事(じ)にまで官位が進んだ。ところが、孫綝の孫憲に対する扱いは孫峻のときよりも薄くなったので、孫憲は怒り、将軍の王(おう)惇(じゅん)とともに孫綝を謀殺しようとした。しかし事が洩(も)れ、孫綝は王惇を殺し、孫憲は毒薬を飲んで死んだ。

【補足】呉(ご)で実権を掌握した孫(そん)綝(ちん)の人望のなさが記されている。孫(そん)憲(けん)は先の記事で、帰還してくる呂拠を迎え撃つよう孫綝に命じられていた［→通鑑256-10］。孫憲としては、そのようなつまらないことで俺様を使うなという思いがあったのだろう。「諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)の誅殺」とはかつて呉(ご)の政権内にあった内紛で、諸葛恪を取り除いたことで孫(そん)峻(しゅん)の権力が安定し、それを孫綝が受け継いだので、孫憲は俺は格別のはずだと考えていたのだろう。

【訳文】

［257-01］甘(かん)露(ろ)二年、春、三月、大(だい)梁(りょう)成(せい)侯(こう)の盧(ろ)毓(いく)が死んだ。

【補足】盧(ろ)毓(いく)はすぐ上の通鑑256-11で見たばかり。大(だい)梁(りょう)成(せい)侯(こう)は称号である。

【訳文】

［257-02］夏、四月、呉(ご)主(しゅ)［呉(ご)の皇帝、つまり孫(そん)亮(りょう)］は正(せい)殿(でん)に臨み、大赦を行い、初めて自分で政事をみた。孫(そん)綝(ちん)が奏上すると、難しい問いかけを多くした。

呉主は、兵士の子弟の十八歳以下十五歳以上の三千人余りに対して力量を測り、大将の子弟の若く勇力である者をその指揮官とし、毎日宮中の庭で訓練させた。呉主は、「私はこの軍を立て、この軍とともに長じていくのだ」と言った。

また、呉主はしばしば中(ちゅう)書(しょ)省(しょう)に出向いて大(だい)帝(てい)［孫(そん)権(けん)］の時の記録を見て、左(さ)右(ゆう)の侍(じ)臣(しん)［皇帝の近くにいる者］に、「先帝にはしばしば特(とく)制(せい)［皇帝自身が下した指令］があった。いまは大将軍が事柄を提起し、私はただ署名するだけになっているではないか」と言った。

また、呉主は生(なま)梅(うめ)を食べていて、黄(こう)門(もん)［宦(かん)官(がん)］に厨房に行って蜂蜜を取ってくるよう命じた。その蜂蜜の中に鼠の糞があったので、厨房の係を呼んで問いただした。係の者は頭を床に打ち付けて謝った。呉主が、「黄門がそなたのところに蜂蜜を求めにまいったか」と尋ねると、「先に求めにはきましたけれど、与えませんでした」と、答えた。黄門はそれを認めなかった。呉主が鼠の糞を割らせると糞の中は乾いていた。呉主は笑って左右の者に言った。「もし糞が最初から蜂蜜の中にあったなら、糞は中外ともに湿っているはずだ。いま外は湿っていて中は乾いている。これはきっと黄門のしわざであろう」。黄門を詰問すると、果たして白状したので、左右の者は皆が驚いた。

【補足】（1）呉(ご)の孫(そん)亮(りょう)は15歳になり、形式的ながらも自分で政事に臨むようになった。孫亮は父の孫(そん)権(けん)のように自身の力で国を治めていきたいと意欲を持ち、十分な洞察力を具え、親衛隊を育てるといった手を実際に講じ始めている。この章の初めにみた魏の皇帝の曹(そう)髦(ぼう)［→通鑑256-02］に似て、曹髦よりは見込みがありそうだ。

（2）黄(こう)門(もん)はどうして鼠の糞を蜂蜜に入れたのだろうか。日頃の鬱憤を晴らそうとしたのか、裏に何かあったのか、そのあたりのことは書かれていない。

【訳文】

［257-03］征(せい)東(とう)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)はもとは夏(か)侯(こう)玄(げん)、�ｹ(とう)颺(よう)らと仲のよい友であった。（司(し)馬(ば)氏との権力抗争に敗れて）夏侯玄らが死に、王(おう)凌(しゅん)、毌(かん)丘(きゅう)倹(けん)が相次いで誅滅されたために、諸葛誕は内に不安を抱えていた。私財を傾けて周囲の者に配り、罪ある者を赦して、衆心を我が身に引き付け、揚(よう)州(しゅう)の暴れん坊たち数千人を集めて死(し)士(し)［諸葛誕のために命をかけて戦う兵士］とした。呉(ご)の連中が徐(じょ)堨(あつ)に向かおうとしているとして、寿春を守るために十万の兵の増員を諸葛誕は朝廷に要請し、また呉の来襲に備えるために淮(わい)河(が)に臨む城を築くことを求めた。

司(し)馬(ば)昭(しょう)が政事を秉(と)り始めた最初のときに、長(ちょう)史(り)の賈(か)充(じゅう)は、参(さん)佐(さ)の役人を四方の前線に派遣して、前線の将士を慰労しつつ、その実態を観察させた。司馬昭は賈充自身を淮(わい)南(なん)［淮河の南、つまり諸葛誕のいるところ］に行かせた。賈充は諸葛誕に会うと、昨今の状況について論じ合った。「洛(らく)中(ちゅう)［都の洛(らく)陽(よう)］の諸賢は皆が皇位が（司馬昭に）禅(ゆず)られることを願っています。貴君はどう思われますか」と言った。諸葛誕は語気を荒らげ、「卿(きみ)は賈(か)逵(き)殿の子ではないか。二代にわたって魏(ぎ)の恩を受けていながら、国家を（魏の皇室ではない）他人に渡してよいと思っているのか。洛中でもし危難のことがあったならば私はそのために死ぬだけだ」。賈充は黙ってそれを聞き、帰還すると司馬昭にこのように言った。「諸葛誕が揚州にあるのは二度目のことで、衆心を得ております。いま諸葛誕を都に召せば、きっと来ないでしょうけれど、反乱は早くに始まってその禍(わざわい)は小さくてすみましょう。召還しなければ反乱は遅くに始まって禍は大きなものになりましょう。すぐに召還すべきです」。司馬昭はそれに従った。

甲(こう)子(し)、詔(みことのり)をもって諸葛誕を司(し)空(くう)にし、京(けい)師(し)に来るよう召し寄せた。諸葛誕は詔書を得るといよいよ恐れ、揚(よう)州(しゅう)刺(し)史(し)の楽(がく)綝(ちん)が間に入って告げ口をしていると疑い、ついには楽綝を殺した。淮南および淮(わい)北(ほく)の郡県の屯田兵の十万人余りを集め、また揚州で兵士として働ける者を新らたに四、五万人を集め、一年分の食糧に足りる穀物も集めて、門を閉めて城に籠って守る計画を立てた。また、長(ちょう)史(り)の呉(ご)綱(ごう)にまだ年若い息子の諸(しょ)葛(かつ)靚(せい)を連れて呉国に行かせ、呉に臣従すると言って救援を要請し、諸将の子弟を人質として差し出すことを願った。

【補足】（1）これより魏(ぎ)の内戦が始まる。いまでは司(し)馬(ば)昭(しょう)が魏の全権を掌握しているが、そのようになる過程で司馬氏は多数のライバルを蹴落としてきた。諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)はほぼ最後の生き残りで、このときは揚(よう)州(しゅう)方面を統治する大きな権限をもって寿(じゅ)春(しゅん)にいた。寿春は淮(わい)河(が)下流の町で、淮河とその南を流れる長(ちょう)江(こう)の間は、魏と呉(ご)が争奪し合う場となっていた。もしも寿春が呉側に落ちたなら、呉はそこから一気に洛(らく)陽(よう)を衝くことも可能になるので、寿春は軍事的に極めて重要な場所であった。先に魏から呉に逃亡した人物としてその名を挙げた文(ぶん)欽(きん)［→通鑑256-08］は、かつて司馬氏に反旗を翻し、寿春を拠点に都を目指して進軍したのだが、深入りし過ぎて大敗し、やむをえず呉に逃れたのだった。そのときには、諸葛誕がいちはやく寿春を取り返したために、文欽は帰るところを失ってしまったのだった。今度は、諸葛誕が寿春を呉に献上して、呉の臣下になろうとした。

（2）諸葛誕の様子をさぐりに行った賈(か)充(じゅう)は、都では司馬昭が次の皇帝になると誰もが見ていると、かなり微妙なことを言って諸葛誕を挑発した。賈充は、諸葛誕が指摘している通り、親子二代にわたって魏朝に仕えてきたが、このころはすでに司馬氏のために徹頭徹尾尽くすと腹を決めていて、この後もその姿勢に揺らぎはない。皮肉なことに、後に賈充の娘が大変なことをしでかしてしまう］

【訳文】

［257-04］呉(ご)の滕(とう)胤(いん)の妻も呂(りょ)拠(きょ)の妻も夏(か)口(こう)督(とく)の孫(そん)壱(いつ)の妹であった。六月、孫(そん)綝(ちん)は鎮(ちん)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の朱(しゅ)異(い)を使って虎(こ)林(りん)から兵を率いて孫壱を襲撃させた。朱異が武(ぶ)昌(しょう)に至ると、孫壱は部(ぶ)曲(きょく)［私的な関係で結ばれた一族一党］を引き連れて魏(ぎ)に奔(はし)って逃げた。

乙(いつ)巳(し)、魏は詔(みことのり)をもって孫壱を車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)交(こう)州(しゅう)牧(ぼく)にして、呉(ご)侯(こう)に封(ほう)じ、幕府を開いて人を集めることを許し、三(さん)司(し)と同じ待遇とし、袞(こん)冕(べん)と赤(せき)舄(せき)を与え、極めて厚く迎えた。

【補足】（1）先に孫(そん)綝(ちん)によって除かれた人々［→通鑑256-10］の姻戚に孫(そん)壱(いつ)がいた。孫壱は孫綝といとこ関係にあって孫綝にとって油断のならない人物。ここには明示されていないが、諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)の救援に向かわせると装って、孫綝は朱(しゅ)異(い)を派遣した。孫壱は長(ちょう)江(こう)沿いの町にいたので、接近しつつある孫綝の意図を見抜いてすぐに北に逃げた。魏では、呉(ご)の皇族の一人が来たというので特別待遇で歓迎した。それを見て逃亡する者が続けば呉は内部から崩壊するかもしれない。

（2）当時は三(さん)国(ごく)鼎(てい)立(りつ)の時代で、行き詰まった場合に隣国に逃げるという手があり、人の流動性がある程度は許されていた。諸葛誕も呉国側に付こうとしたのだった。

【訳文】

［257-05の一］司(し)馬(ば)昭(しょう)は皇帝および皇(こう)太(たい)后(ごう)を奉じて、諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)の討伐に出た。

（諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)が派遣した）呉(ご)綱(こう)が呉(ご)国(こく)に至ると、呉の人々は大いに喜び、将軍の全(ぜん)懌(えき)、全(ぜん)端(たん)、唐(とう)咨(し)、王(おう)祚(そ)に三万の兵を率いて、文(ぶん)欽(きん)とともに諸葛誕の救援に向かわせた。呉は諸葛誕を左(さ)都(と)護(ご)仮(か)節(せつ)大(だい)司(し)徒(と)驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)青(せい)州(しゅう)牧(ぼく)にして、寿(じゅ)春(しゅん)侯(こう)に封(ほう)じた。全懌は全(ぜん)�j(そう)の子、全端はその甥である。

【補足】（1）司(し)馬(ば)昭(しょう)は大軍を率いて諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)の討伐に出た。皇帝と皇太后を引っ張り出したのは、魏(ぎ)国(こく)を挙げて戦うという姿勢を示すとともに、皇帝と皇太后も同行させて、都で万一のことがあるのを防いだのである。皇帝はあくまでも司馬昭の籠の中の鳥であった。

（2）呉(ご)側は魏との全面戦争に踏み切った。諸葛誕にどっさり肩書を与えたのは、孫(そん)壱(いつ)の例と並べてさながら厚遇合戦のようである。なお、全(ぜん)懌(えき)らは呉の皇帝の外戚の一員で、全一族は多数の者が要職に就いていた。

【訳文】

［257-05の二］六月甲(こう)子(し)、車(しゃ)駕(が)［皇帝を指す］は項(こう)に留まり、司(し)馬(ば)昭(しょう)は諸軍二十六万を指揮して前進し、丘(きゅう)頭(とん)に駐屯した。鎮(ちん)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)基(き)に鎮(ちん)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の事を行わせて、揚(よう)州(しゅう)、予(よ)州(しゅう)の諸軍事の総指揮を執らせ、安(あん)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)の陳(ちん)騫(けん)らに寿(じゅ)春(しゅん)を囲ませた。王基が寿春に来たときには、寿春の包囲はまだ完成していなかった。（呉(ご)側の）文(ぶん)欽(きん)、全(ぜん)懌(えき)らは城の東北の山にいて、高いところから城に向かって突入できるようにしていた。

司馬昭が勅命で、王基に軍を控えて包囲の壁を堅く作るよう命じた。王基は進んで討つことをしばしば求めた。そこに呉の朱(しゅ)異(い)が三万人を率いて安(あん)豊(ぽう)に進んで来て、文欽を外側が勢いづけた。

魏(ぎ)は詔(みことのり)をもって王基に諸軍を引いて北の山に移るよう命じた。王基は諸将に言った。「いま包囲する陣地が堅固にできつつあり、兵馬が集まってきている。まさに守備をさらに固めて、敵が飛び出してくるのを待つべきときである。このようなときに兵を移動して高いところを守り、敵に自由な動きを許すようでは、いかに智恵のある者でもこの後うまくやっていけはしないだろう」。このまま守るべきであるとして、次のように上(じょう)疏(そ)した。「いま賊とまさしく敵対しているところで、動かざることを山の如きであるべきです。もしも移動して要害の地に依拠するなら、人心は動揺し、情勢を大いに損ねてしまいましょう。諸軍はいまは溝を深くし壘(とりで)を高くし、衆心を定め、それが動くことのないようにするのが兵を制御する要(かなめ)であります」。この書が奏(そう)じられると聞き入れられた。

ここにおいて王基らは四面の囲みを完成させ、表裏二重にして、塹壕を甚(はなは)だ深く険(けわ)しくした。文欽らがしばしば出てきて囲みを破ろうとしたが、迎え撃って走らせた。

司馬昭は奮(ふん)武(ぶ)将(しょう)軍(ぐん)監(かん)青(せい)州(しゅう)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)の石(せき)苞(ほう)を派遣し、兗(えん)州(しゅう)刺(し)史(し)の州(しゅう)泰(たい)と徐(じょ)州(しゅう)刺(し)史(し)の胡(こ)質(しつ)に鋭卒を率いて遊軍として、外からの襲撃に備えるよう命じた。州泰は朱異を陽(よう)淵(えん)で撃破し、朱異は逃げ、州泰はそれを追って二千人を殺傷した。

【補足】いよいよ寿(じゅ)春(しゅん)での戦闘が始まった。『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』は戦闘の状況を詳しく叙述する。司(し)馬(ば)昭(しょう)は前線に立つ王(おう)基(き)の意見を受け入れたり聞かなかったりしている。

【訳文】

［257-05の三］秋七月、呉(ご)の大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)綝(ちん)は大軍を動かして鑊(かく)裡(り)に駐屯し、朱(しゅ)異(い)に将軍の丁(てい)奉(ほう)、黎(れい)斐(ひ)ら五人を率いて、進んで寿(じゅ)春(しゅん)の包囲を解くよう命じた。朱異は輜(し)重(ちょう)［輸送部隊］を都(と)陸(りく)に留め、進んで黎(れい)漿(しょう)に駐屯した。（魏(ぎ)の）石(せき)苞(ほう)と州(しゅう)泰(たい)がこれを襲撃してまた破った。太(たい)山(ざん)太(たい)守(しゅ)の胡(こ)烈(れつ)は奇(き)兵(へい)五千をもって都陸を襲撃し、朱異が運んできた資材と食糧を焼き払った。朱異は生き延びた兵を率いて葛の葉を食べさせつつ孫綝のもとに逃げ帰った。

孫綝はさらに決死隊を送り込もうとしたが、士卒は食糧の乏しいことをもって孫綝の命令に従わなかったので、孫綝は怒った。九月己(き)巳(し)、孫綝は朱異を鑊裡で斬り、辛(しん)未(び)、兵を引いて建(けん)業(ぎょう)［呉の都、南京］に還った。孫綝は諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)を救い出せなかった上に、多くの将士を失い、自ら名将［朱異］を処刑してしまった。これより呉の人々は皆が孫綝を怨むようになった。

司(し)馬(ば)昭(しょう)はこのように言った。「朱異は寿春に至ることができなかった。それは罪に当たるようなことではないのに、呉は朱異を殺した。それは、寿春に向かって謝り、諸葛誕にはまだ救われる望みがあると思わせて、その意を堅くさせようとするためのものだ。我等がいまなすべきは、堅く囲み、脱出して来るのに備え、どこから見ても呉の策は誤りであると示すことである」。そして反(はん)間(かん)［スパイ］を放ち、「呉の救援が至ろうとしている。魏の大軍は食糧が乏しく、弱兵や病気の者を北に還らせてそちらで食物を与えることになった。魏の勢いは長くは続かない」と言いふらした。

諸葛誕らをそれを聞いたこともあって自由に食べていたのだが、たちまち城中の食糧が乏しくなり、外からの救援は来ないままであった。将軍の蒋(しょう)班(はん)、焦(しょう)彝(い)らはいずれも諸葛誕の腹心で今回の首謀者たちであったが、諸葛誕に、「朱異らは大軍をもってしても進むことができず、孫綝は朱異を殺して江(こう)東(とう)［長江の南］に帰ってしまいました。外に向かって出兵するという名目だけを掲げて、その実は坐して勝敗が決するのを待っているだけです。いまは人々の心はなお堅固で、士卒は用いられることを望んでいます。皆が力を合わせて決死の勢いで敵の一面を攻めたならば、完全な勝利は得られないとしても、なお生き延びることのできる者がいるでしょう。空しく坐して死に至るのを待つのは無意味です」。（呉から救援に来ていた）文(ぶん)欽(きん)はこのように言った。「諸葛公はいま十万余りの人々とともに呉に命を託し、私や全(ぜん)端(たん)らはその人々とともに同じ死地にいます。我らの父兄子弟は全て江(こう)表(ひょう)［呉のこと］にいます。たとえ孫綝には来る意欲がなくても、主上や我らの親戚がそのままにしておくでしょうか。かつ魏ではここのところ平穏な年はなく、軍民ともに疲弊しています。いま我らがここで一年を守るうちに内変がきっと起こりましょう。どうしてこのような機会を逃して、危険な手に出て、あてにならない幸運を得ようとしてよいものでしょうか」。蒋班と焦彝はあくまでも突撃を勧めたので、文欽は怒った。諸葛誕は蒋班と焦彝らを殺そうとした。二人は懼(おそ)れ、十一月、諸葛誕を見捨てて城を出て投降した。

（呉から救援に来ていた）全(ぜん)懌(えき)の兄の子の全(ぜん)輝(き)、全(ぜん)儀(ぎ)は建(けん)業(ぎょう)にあって一族内の争いから、その母と部(ぶ)曲(きょく)の数十家の者を連れて寿春に逃げてきた。ここにおいて、全懌とその兄の子の全(ぜん)靖(せい)および、全端の弟の全(ぜん)翩(へん)と全(ぜん)緝(しゅう)らも皆が兵を率いて寿春城中に揃うことになった。

司馬昭は黄(こう)門(もん)侍(じ)郎(ろう)の鐘(しょう)会(かい)の策を採用し、密かに全輝、全儀に手紙を書き、全輝、全儀が信用する人物に持たせて城に入らせ、全懌らに説いた。「呉では全懌らが寿春を救えなかったことを怒り、その一家を全て誅殺しようとしています。ですからここから逃げて、魏の命に服しますように」。十二月、全懌らはその衆数千人を率い、門を開いて投降した。城中は動揺して、為すすべを知らなかった。魏(ぎ)は詔(みことのり)をもって全懌を平(へい)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)にし、臨(りん)湘(しょう)侯(こう)に封(ほう)じた。全端らにもそれぞれに褒章が与えられた。

【補足】呉(ご)の孫(そん)綝(ちん)と魏(ぎ)の司(し)馬(ば)昭(しょう)の対比が鮮やかである。孫(そん)綝(ちん)は場当たり的な派兵を繰り返して失敗し、なすすべのない腹いせから大事な将軍を斬ってしまった。司馬昭はじっくりと構え、自分たちの損害を最小に抑えつつ、徐々に完封勝ちを得ようとしている。素人料簡で見るなら、呉はこれまでにも寿(じゅ)春(しゅん)攻撃には何度も失敗していたので、諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)が籠城して呉の救援を待つという策は始めから勝ち目のないものであったのだろう。諸葛誕としては、寿春を出て南に奔り、もしも呉の救援隊と合流できたなら、魏軍との一大決戦に臨むという手はあったのかもしれない。それなら敗れても呉に逃亡する道はまだ残されていたであろう。寿春という宝物を献上することで呉において赫々たる地位を得ようと欲張ったのが諸葛誕の敗因であったといえようか。何はともあれ呉に逃げ込みさえすれば全(ぜん)懌(えき)並みの処遇は得られたであろうに。

【訳文】

［257-06］蜀(しょく)漢(かん)の姜(きょう)維(い)は、魏(ぎ)が関(かん)中(ちゅう)の兵を分けて淮(わい)南(なん)に赴いたと聞くと、その虚に乗じて秦(しん)川(せん)に向かおうとし、数万人を引いて駱(らく)谷(こく)を出て沈(ちん)嶺(れい)に至った。（魏(ぎ)を守るための）長城には穀物が非常に多く蓄えられ、しかし守りの兵士は少なかった。征(せい)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)都(と)督(とく)雍(よう)涼(りょう)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)の司(し)馬(ば)望(ぼう)と、安(あん)西(せい)将(しょう)軍(ぐん)の�ｹ(とう)艾(がい)は軍を進めて長城に拠って姜維を防いだ。姜維は芒(ぼう)水(すい)に壁を築き、しばしば戦いを挑んだ。しかし司馬望と�ｹ艾はそれに応じなかった。

このとき、姜維の度重なる出兵に蜀漢の人々は愁い苦しんでいた。中(ちゅう)散(さん)大(だい)夫(ふ)の譙(しょう)周(しゅう)は『仇(きゅう)国(こく)論(ろん)』を作ってそれとなく姜維を批判した。「ある人が尋ねた。『古(いにしえ)のこと、弱者がよく強者に勝ったことがあったと聞きますが、それはどのような術によるものだったのでしょうか』。『私はこのように聞いています。強大な力を持っていて、患(わずら)うところのない者は、常に驕り怠慢になりがちです。弱小で憂うところのある者は、常に善(よ)くあろうとします。驕り怠慢となることがひどければきっと乱れが生じますし、善くあろうとするならそこからはよく治めることが生まれます。これは当然の理(ことわり)です。このことによって周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)は民を養って、弱小でありながら強大な相手［殷(いん)のこと］に打ち勝つことができたのです。あるいは、越(えつ)王(おう)の勾(こう)踐(せん)は民衆を大切にし、やはり弱小でありながら強大な相手に倒しました。これがその術です』。ある人がさらに言った。『昔、（秦(しん)の始(し)皇(こう)帝(てい)が死んだ後に天下が乱れたときに）項(こう)羽(う)は強大で、漢(かん)の高(こう)祖(そ)は弱小でした。二人は戦争をし合った結果、鴻(こう)溝(こう)を境界としてそれぞれの領分に帰って民を休ませようと約束しました。そのとき張(ちょう)良(りょう)は、「民衆の心がすでに定まってしまうともはや動かしがたくなります」と言って、兵を率いて項羽を追い、ついに項氏を滅ぼしました。周の文王のような例ばかりではないのではありませんか』。『（文王の時代の）商(しょう)［殷］と周の境目のころは、王侯がずっと代々尊いとされていて、君臣の関係は長く強固で、民は専らそうした慣習に従っていました。深く張った根を抜くのは難しく、しっかりと固定されたものを遷すのは難しいことです。まさにこのようなときであったならば、漢の高祖も剣を取り、馬に鞭打って天下を取れはしなかったでしょう。秦(しん)はそれ以前の王侯を廃して大守を置き、民衆は秦の課す労役に疲れ、天下は山崩れのように乱れ、毎年のように君主が変わり、毎月のように太守が変わり、民衆は鳥や獣が驚き逃げるように従うべきところを知りませんでした。そのときに豪強の者たちが大勢出て争い、虎が天下を裂き狼が分け合うようなことになって、素早く動いた者が多くを獲得し、遅れた者は呑み込まれてしまったのでした。さて、そのような秦の終わりのときの沸騰するような状況と比べて、いまの状況は異なり、どの国も代々受け継がれてきていて、あたかも（秦が天下を統一する前の）六国が併存し合ったときの情勢に似ています。ですから、周の文王のようにすることは可能ではあっても、漢の高祖のようにすることは難しいのです。民衆が疲弊するなら、騷(そう)擾(じょう)の兆(きざし)が生じましょう。上の者が怠れば下の者が暴れ出し、瓦解の情勢が起こります。諺(ことわざ)に言います。「幸運を射止めよとして何度もはずすよりは、慎重に一発で決めたほうがよい」。つまり、智者は小さな利に目移りすることがなく、自分に都合よく考えてそれまでの歩みを改めたりはしません。十分に機が熟すのを見てから動き、あるいは様々な情勢がうまく合わさってから事を挙げるのです。だから（殷を建てた）湯(とう)王(おう)や（文王の子の）武(ぶ)王(おう)が指揮した軍はひとたび戦っただけで勝ったのでした。民の労役についてまことに重く配慮し、時の情勢について綿密に分析したのでした。もしも武力だけを頼りに無茶な戦争に出たならば、山崩れのような状況も生じかねず、不幸にしてそのような難に遭ったならば、智者といえどももはや手の打ちようはないのです』」

【補足】（1）三(さん)国(ごく)鼎(てい)立(りつ)が成立していたのは、三すくみの状態にあったからである。魏(ぎ)の主力が南方に移動して西方が手薄になったと見て、蜀(しょく)漢(かん)の姜(きょう)維(い)が動いた。このように牽制し合うことで、三国のいずれも決定的な勝利を得ることができずにいた。魏は諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)と戦っていたときから基本的に挑発には乗らずに、敵が引き上げるタイミングを狙って攻撃するという策を採っていた。

（2）ここで魏側の前線に立った司(し)馬(ば)望(ぼう)の名はすでに通鑑256-04で見ている。皇帝が学問について論じ合う仲間として、特に司馬望には車を差し向けて呼び寄せていた。司馬望は、諸葛亮のライバルであった司(し)馬(ば)懿(い)の弟の司(し)馬(ば)孚(ふ)の子。当時の最高権力者の司(し)馬(ば)昭(しょう)は司馬懿の次男であるから、司馬望はその甥に相当する。晋(しん)の時代の歴史書である『晋(しん)書(じょ)』を見ると、司馬望は皇帝から特別待遇を受けることに不安を感じ、自ら望んで前線に出たとある。それは賢明な選択であったことが後にわかる。

（3）譙(しょう)周(しゅう)の議論は当時の言論の一例である。『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』は時代を代表するような論説を選び、その要約を載せている。後世の者は、政治、軍事の動きだけでなく、思潮の流れも『資治通鑑』から知ることができる。譙周は、歴史の事例から周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)と漢(かん)の高(こう)祖(そ)を取り上げて、当時の蜀漢の状況について論じている。周の文王は孔(こう)子(し)も尊敬する古(いにしえ)の理想的な王の一人である。先に通鑑256-02で、漢の高祖は夏(か)の少(しょう)康(こう)に劣るとされたように、儒学の観点からすると高祖の評価はあまり高くない。天下は武よりも徳によって治めるべきなのである。その点で姜維はもっぱら武にだけに偏り、また蜀漢の現状は徳治からかけ離れた状況にあったので、山崩れのように国家が崩壊しかねないと譙周は危ぶんだのである。なお「山崩れのよう」と訳した原文は「土(ど)崩(ほう)」で、『史(し)記(き)』で使われた語。秦(しん)の始(し)皇(こう)帝(てい)が作った中央集権国家は完璧で未来永劫続くと始皇帝自身は思っていたのだが、始皇帝の死後、それは土台ごと全てがたちまち崩れ去ってしまった。それはまさしく巨大建造物や大地が崩れるかのようなありさまで、「土崩」と表現したのである。みかけはすこぶる強固でも「土崩」する国家の例は歴史に多数ある。このような議論を展開した譙周は蜀漢の朝廷で知恵者として遇されていた。後世の譙周の人物評は大きく割れていることを次の巻で見ることになる。

【訳文】

［258-01の一］甘(かん)露(ろ)三年、春正月、（寿(じゅ)春(しゅん)に立て籠もっていた）文(ぶん)欽(きん)は諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)に言った。「蒋(しょう)班(はん)と焦(しょう)彝(い)は、我らが打って出ることがないと見て逃亡し、全(ぜん)端(たん)や全(ぜん)懌(えき)は衆人を率いて投降しました。いま敵は（気が緩んで）備えをおろそかにしているので、戦うべきです」。諸葛誕も唐(とう)咨(し)らも皆がそうだと考え、攻撃のための道具をたくさん用意して、南の囲みを昼夜連続で五、六日間にわたって攻め、何とかして囲みを破って外に出ようとした。囲みの上を守っていた諸軍は、高いところから敵を見下ろし、車から石を発射し、火矢を放って、敵の攻め道具を焼いたり破壊したりした。矢や石が雨のように降り、死傷者が地を覆い、血が塹壕に溢れ、ついには城に戻らねばならなかった。

城内の食糧は尽きようとし、投降する者が数万人に及んだ。文欽は北側の人間を出して食糧の減りを抑え、呉(ご)の人間とともに堅く守ろうと考えた。それには諸葛誕は同意しなかったので、これより二人は争い恨むようになった。もともと文欽と諸葛誕の関係はよくなったのだが、たまたま計画が合致したので一緒になっていただけであったので、事が切迫するにつれて疑い合うようになったのである。文欽は諸葛誕の様子を伺って事を謀ろうしたので、諸葛誕はついに文欽を殺した。文欽の子の文(ぶん)鴦(おう)と文(ぶん)虎(こ)は小城の方で兵士を指揮していた。文欽が殺されたと聞くと、二人は兵士を連れて赴こうとしたのだが、兵士が言うことを聞かなかったので、二人だけ走って城壁を越えて司(し)馬(ば)昭(しょう)のもとに投降した。魏の軍吏は二人を誅殺すべきだと言ったが、司馬昭は、「文欽の罪は誅殺する以外にないもので、その子ももとより処刑すべきである。しかし、文鴦と文虎は身が窮まって我らのもとに来たのだ。まだ城が抜けないいま、二人を殺すのは城を守る連中の心を堅くさせてしまうだけだろう」と言って、文鴦と文虎を赦し、数百騎を連れて城を巡って、「文欽の子でさえ殺されなかったのだ。他の者は何も懼(おそ)れなくてよい」と、城内に呼び掛けさせた。また皇帝に報告して文鴦と文虎を将軍として取り立て、関(かん)内(だい)侯(こう)の位を与えるようにした。城内はそのようなことを聞いて喜ぶとともに、饑(き)困(こん)はますますひどくなっていった。

司馬昭は自身で包囲の様子を視察し、城の上にいる弓を持った者が射ようともしないのを見て、「いまが攻めるときだ」と言って、四方から軍を進め、太鼓を打ち鳴らして城壁を登らせた。二月乙(いつ)酉(ゆう)、魏(ぎ)軍(ぐん)は勝利した。

諸葛誕は危急に迫られ、麾(き)下(か)［直属の部下］を連れて一人馬に乗り、小城から出ようとした。司(し)馬(ば)胡(こ)奮(ふん)の部下がそれを撃って諸葛誕を斬った。諸葛誕の三族は夷(たいら)げられた。諸葛誕の麾下の数百人は一列に並ばされ、皆は手を束(つか)ねて［手を組んで抵抗しない意を示した］立った。降伏しない者は斬り、一人斬るごとに降伏するかと尋ねたが、最後の一人まで降伏する者はいなかったために全員が斬られた。

呉(ご)の将軍の于(う)詮(せん)は、「大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)としてその主人に命令を受け、兵士を連れて人を救おうとして成功しなかった。その上、敵の前に手を束ねるようなことは私にはできない」と言って、冑(かぶと)を脱いで敵陣に突入して死んだ。唐(とう)咨(し)や王(おう)祚(そ)らは皆投降した。

投降した呉の兵士は一万を数え、武器は山積みになっていた。

【補足】寿(じゅ)春(しゅん)の攻防戦は終結した。文(ぶん)欽(きん)と諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)は切迫する状況下で仲間割れをした。文欽は先に魏(ぎ)から呉(ご)に逃亡した人物で、諸葛誕としてはどこか信用が置けなかったのだろう。諸葛誕の直属の部下は最後まで驚くほど忠節を尽くした。諸葛誕にはそれだけの人間的な魅力があったのだろう。寿春に籠るに際に多数の人を集められたのもそれだけ統率力があったわけで、司(し)馬(ば)昭(しょう)にとって油断のならない強敵であったのだろう。

【訳文】

［258-01の二］司(し)馬(ば)昭(しょう)が寿(じゅ)春(しゅん)を囲んだ最初のころ、王(おう)基(き)も石(せき)苞(ほう)も皆が急いで攻めることを望んでいた。そのときに司馬昭は言った。「寿春の城は堅く、敵は大勢である。これを攻めたなら我らの力が尽きてしまいかねない。そこにもしも外側から攻めてこられたなら、表裏に敵を受けてしまう。それは危うい道である。いま三人の反乱者［諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)、文(ぶん)欽(きん)、唐(とう)咨(し)］がこうして孤立した城の中に集まったのは、きっと天が一緒に刑罰に服させようとしているからなのだろう。だとしたら、我等はそのことに従えるように万全の策を立てなければならない。とにかく三面を堅く守り、呉(ご)賊(ぞく)がもしも陸路で救援に来たとしても、その食糧はきっと少ないであろうから、我等が軽騎兵で遊撃して敵の輸送路を断つならば、戦わずして敵は破れるだろう。呉賊さえ破れれば、文欽らはきっと擒(とりこ)にできる」。それで諸軍に武器を控えて守るように命じ、ついに攻撃に力を使わずに破ったのだった。

（戦い終わった後に）議者はこのように言った。「淮(わい)南(なん)の連中はより集まって反逆を為しました。呉の兵士の家は江(こう)南(なん)にあります。いずれも赦(ゆる)すべきではなく、ことごとく穴埋めにすべきです」。司馬昭は言った。「古(いにしえ)の兵を用いた者は、国を保つことを上策とし、戦っても悪のおおもとを殺しただけであった。呉の兵士がもしも逃亡して向こうに帰還したならば、それはそれで中国［魏(ぎ)国(こく)］の度量の大きさを示すことになるだけだ」。それで呉の人々を一人も殺すことなく、三(さん)河(が)［河(か)東(とう)、河(か)西(せい)、河(か)内(ない)の三地方］のあたりに住まわせて落ち着かせた。唐(とう)咨(し)は安(あん)遠(えん)将(しょう)軍(ぐん)にし、その他の諸将にもそれぞれの地位を与え、皆がそれに喜んで服した。諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)に脅されて使われていた淮(わい)南(なん)の将士や吏民は全て赦した。また文(ぶん)鴦(おう)兄弟には父の文(ぶん)欽(きん)の遺体を収めて喪に服すことを許し、そのための牛や車を支給し、先祖の墓に葬らせた。

司馬昭は王基にこのような手紙を送った。「初めのころに議者はあれこれと論じて、軍を高いところに移すよう言う者が非常に多かった。そのときは私はまだ現地を見ていなかったので、そうなのだろうと思った。将軍［王基のこと］は深く利害を検討して、独り固く志を保ち、上は詔(みことのり)に違い、下は衆議を拒んで、ついに敵を制し賊を禽(とりこ)にした。古(いにしえ)の人について述べられていることでもこれを超えるものはない」。

司馬昭は、諸軍から軽(けい)兵(へい)［軽装の兵］を出して呉の地に深く入らせ、唐咨らの子弟を迎えて、釁(すき)あらば呉を滅ぼすくらいの勢いであることを示そうとした。王基はそれを諌(いさ)め、「かつて（呉の）諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)は東(とう)関(かん)での勝利に乗じて江(こう)表(ひょう)［長(ちょう)江(こう)沿いの地域］の兵士を全て集めて新(しん)城(じょう)を囲みました。しかし、城を抜くことはできず、兵士の大半が死んでしまいました。また、（蜀(しょく)漢(かん)の）の姜(きょう)維(い)は洮(とう)西(せい)の勝利をよしとして、軽兵で深く侵入したものの食糧が続かず、上(じょう)邽(けい)で敗れてしまいました。大勝ちをした後には、上下ともに敵を軽んじ、敵を軽んじれば困難に深い考慮を払わなくなります。いま賊［呉のこと］は外では敗れたばかりで、内では内紛がやみません。これは備えをして熟慮すべき時に当たります。いま我らは出兵して一年を超え人々は帰りたいと思っています。いま斬ったり虜にしたりした敵は十万にも及び、罪人どもは捕らえました。これは歴代の征伐と比べても、我が方の兵を全うさせて、しかも盛大な独り勝ちをしたことにおいて、かつてなかったものです。武(ぶ)皇(こう)［曹(そう)操(そう)］が官(かん)渡(と)において袁(えん)紹(しょう)に勝ったときには、すでに獲たものが十分に多いとして追撃しませんでした。いま事によっては我が勢いを挫(く)じいてしまうことになるのを恐れます」。司馬昭は呉とこれ以上戦うのを止め、王基を征(せい)東(とう)将(しょう)軍(ぐん)都(と)督(とく)揚(よう)州(しゅう)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)にし、昇進させて東(とう)武(ぶ)侯(こう)に封(ほう)じた。

【補足】寿(じゅ)春(しゅん)の攻防戦の締めくくり。司(し)馬(ば)昭(しょう)の采配が見事であったことを印象付けるような叙述がなされている。それを素直に読めば、しっかりとした見識があり、その上で人の意見をよく受け入れ、敵に対しては寛大な処置を施し、非の打ちようがないのだが、果たしてそうなのだろうか。

【訳文】

［史論の引用］習(しゅう)鑿(さく)歯(し)はこのように述べている。「司(し)馬(ば)昭(しょう)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)はこの戦役において徳をもって攻めたと言ってよいだろうと、君子は考えている。そもそも大(たい)業(ぎょう)を建てようとする者はそれぞれに異なる道を選び、おのおの尚(とうと)ぶところがあって、それらを一人で兼ね合わせるのは難しい。それ故に、武を窮めた雄者は不仁であることによって斃(たお)れ、義を大切にする国は懦(だ)退(たい)［軟弱で動きが鈍い］であることによって滅んでしまう。いまひとたび征伐に出て三人の反乱者を禽(とりこ)にし、呉(ご)の衆人を大いに捕虜とし、淮(わい)浦(ほ)を席捲して、十万の敵を捕えたり首を切ったりした。これは壮大なことあったというべきであろう。それで満足することなく、王(おう)基(き)の功績を賞し、呉の人々に恵みを種(う)え、相容れない相手にも情を及ぼして、文(ぶん)鴦(おう)を厚く用いて父の文(ぶん)欽(きん)を葬らせ、かつての反目を忘れさせた。諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)のもとに集まった衆人を咎めることなく、揚(よう)州(しゅう)の人々に愧(はじ)を思わせた。司馬昭の功は高く、人々はその成功を楽しみ、司馬昭の大業は広くに及んで敵もその徳を懐(おも)った。武の力がすでに明らかに示され上に、文の策もまた広くに及んだのであって、このような道を推し進めることにおいて、天下に誰もそれに匹敵する者はいないのである」。

【補足】（1）これは習(しゅう)鑿(さく)歯(し)という人の史論の引用。『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』は表立って自己の見解を主張することは少なく、記事の取捨選択や構成の妙によって見識を示すか、時にこのように史論を引用することで主張の一部を代弁させている。第三者の論説を引用することによって、それがいかにも客観的に見て正論であるかのような印象を与える効果があるだろう。実はそれは『資治通鑑』の巧妙な仕掛けで、うっかりその史論を鵜呑みにしてはならない。ここまでの記事を読んでさらにこの習鑿歯の史論を読むと、司(し)馬(ば)昭(しょう)はまことに優れた人物であると思い込んでしまうであろう。

（2）習鑿歯は晋(しん)の時代の歴史家である。晋の初代皇帝は司馬昭の息子の司(し)馬(ば)炎(えん)で、つまり習鑿歯は司馬昭の子孫が代々の皇帝になっていた時代の人である。習鑿歯には司馬昭を褒めたたえる以外のことはできない。『資治通鑑』に収録されている司馬氏に関する記事は全て晋の時代の記録に基づき、どれも司馬氏に関する真実を伝えているかどうかは疑わなければならない。司馬昭が絶対的な権力者として君臨するようになった時代に実際に生きていた人はどのように思っていたのか、その生の声を次の巻を読むときに引用しよう。それを読めば習鑿歯の絶賛は嘘八百だと思わずにはいられないだろう。もしかしたら、『資治通鑑』の編者は習鑿歯の論を引用することで、いわゆる「褒め殺し」を狙ったと考えるのはさすがに無理であろうけれど、我々としては「褒め殺し」として読むのが正解であろう。

（3）訳者は『資治通鑑』の読み手としてはまことにへっぽこである。過去に『資治通鑑』を最も深く読んだ人として王(おう)夫(ふう)子(し)がいる。王夫子の見解は『資治通鑑』が引用する史論よりも耳を傾ける価値があるように思える。王夫子は明(みん)朝(ちょう)の時代に生まれ、科挙を受けるために上京する途中で大反乱が勃発して都にたどり着けずに帰郷し、そうこうするうちに明朝は混乱の中で滅び、天下は清(しん)朝(ちょう)の手に渡った。清朝は満州族の建てた王朝で、漢民族［その定義は極めてあいまいである］は満州族の支配を受けることになり、当初は全土で抵抗運動が繰り広げられた。王夫子は反清の抵抗運動に身を投じ、各地を転々としつつ学問を続け、多くの著作を残した。明朝の滅亡を目の当たりにした王夫子は、どうして漢民族の王朝が滅んだのかその理由を探ろうと歴史書を深く読み、『資治通鑑』を読んで触発された議論を『読(どく)通(つ)鑑(がん)論(ろん)』としてまとめた。『読通鑑論』は王夫子の燃えるような思いの籠った論評で、同意できないところは多々あるにしても、その迫力には誰も敵わない。この『鑑賞』ではなるべく多くを『読通鑑論』から引用していきたいと考えていて、手始めに諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)に対する論評を見ておこう。諸葛誕はそもそもなぜ反旗を翻したのか。通鑑257-03には、司馬氏が皇位を奪おうとしている現状に対して諸葛誕が怒りを露わにしている場面があった。だから、天下が魏の曹(そう)氏から司馬氏に移るのが許せなくて立ち上がったかのようにも見えるのだが、王夫子はそれを全否定している。諸葛誕は呉(ご)に救援を求めていて、まさか呉がわざわざ魏のために「権(けん)姦(かん)」［司馬昭のことを］を誅殺して、魏国を安らかにしてくれるようなことはありえないわけだから、結局は司馬氏に対する一時的な怒りから魏に対する内乱を起こしただけのことであると、王夫子は指摘している。諸葛誕が成功する道理はそもそもの初めからなかったのである。王夫子は道理が通っているかどうかを最も重視する。明朝の治世はその末期に道理を失っていたので、あっさり清朝にとって代わられてしまったという反省に立っている。なお、王夫子は漢字を使ったレッテル貼りの名人で、司馬昭に貼ったレッテルはここにあるように「権姦」、つまり権力を握った悪者である。習鑿歯のおべんちゃらより遥かに真実に近いであろう。道義にやかましい王夫子の議論は極めて窮屈で付いていけないこともしばしばであるが、痛快でもある。

【訳文】

［258-02］司(し)馬(ば)昭(しょう)は寿(じゅ)春(しゅん)の戦いに勝ってから、鐘(しょう)会(かい)といろいろな策について相談をすることが多くなった。鐘会の待遇は日に日に盛んになり、腹心として信任するようになったので、時の人は鐘会を（漢(かん)の高(こう)祖(そ)のブレーンであった）張(ちょう)良(りょう)になぞらえた。

【補足】鐘(しょう)会(かい)の名は通鑑256-04や通鑑257-05の三で見ているが、『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』はここで改めてその存在に注意を促している。鐘会は後になかなかの曲(くせ)者(もの)ぶりを発揮する。

【訳文】

［258-03］蜀(しょく)漢(かん)の姜(きょう)維(い)は諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)が死んだと聞いて、成(せい)都(と)に帰還し、また大(だい)将(しょう)軍(ぐん)になった。

【補足】寿(じゅ)春(しゅん)で諸(しょ)葛(かつ)誕(たん)が敗れたので姜(きょう)維(い)は引き上げ、一度は降格処分を受けていた大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に復位した。このころ蜀漢には姜維の他に国家の大黒柱になりうるような人物はいなかった。

【訳文】

［258-04］夏、五月、詔(みことのり)をもって司(し)馬(ば)昭(しょう)を相(しょう)国(こく)にして晋(しん)公(こう)に封(ほう)じた。食(しょく)邑(ゆう)は八郡、九(きゅう)錫(せき)を加えた。司馬昭は前後九回にわたって辞退しために沙汰止みとなった。

【補足】司(し)馬(ば)昭(しょう)の待遇はさらに上昇することになった。九(きゅう)錫(せき)とは、皇帝が臣下に与える最高の恩賞で、9種類のものがある。その中身を詮索する必要はないだろう。これが最高の恩賞なら、次に与えるのは皇位しかない。司馬昭が9回辞退したのはむろん形式的なことである。司馬昭は皇位を最もスムーズに奪うにはどうしたらよいかを鐘(しょう)会(かい)と相談していたのだろう。

【訳文】

［258-05］秋、七月、呉(ご)主(しゅ)はもとの斉(せい)王(おう)の孫(そん)奮(ふん)を章(しょう)安(あん)侯(こう)にした。

【補足】孫(そん)奮(ふん)はかつて陰謀を企てた疑いで庶民に落とされていた。

【訳文】

［258-06］八月、驃(ひょう)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の王(おう)昶(ちょう)を司(し)空(くう)にした。

［258-07］詔(みことのり)をもって関(かん)内(だい)侯(こう)の王(おう)祥(しょう)を三(さん)老(ろう)に、鄭(てい)小(しょう)同(どう)を五(ご)更(こう)にした。皇帝は群臣を率いて太(たい)学(がく)に行き、王祥と鄭小同に養老および乞(きつ)言(げん)の礼［長寿を祝い、訓戒を請う儀式］を行った。鄭小同は鄭(てい)玄(げん)の孫である。

【補足】皇帝は政治的に問題にならない儀礼を行うだけであったのだろう。

【訳文】

［258-08の一］呉(ご)の孫(そん)綝(ちん)は、呉(ご)主(しゅ)が政事を自分で覧(み)るようになってから、答えにくいことを問われることが多くあって甚(はなは)だ懼(おそ)れを抱いたので、（寿(じゅ)春(しゅん)の応援のために出ていた）鑊(かく)里(り)から帰ると、病気だと称してとうとう朝廷に出なくなった。弟の威(い)遠(えん)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)拠(きょ)に倉(そう)竜(りゅう)門(もん)から入って宿衛させ、武(ぶ)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)恩(おん)、偏(へん)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)幹(かん)、長(ちょう)水(すい)校(こう)尉(い)の孫(そん)闓(かい)をそれぞれ諸営に駐屯させて、自分の守り固めようとした。

呉主はそのような行為を嫌い、かつて朱(しゅ)公(こう)主(しゅ)が殺された事件を調べさせた。全(ぜん)公(こう)主(しゅ)はそれを懼れ、「私はまことに知りません。すべては朱(しゅ)拠(きょ)の二人の息子の朱(しゅ)熊(ゆう)と朱(しゅ)損(そん)が言う通りであります」と、言った。このとき朱熊は虎(こ)林(りん)督(とく)で朱損は外(がい)部(ぶ)督(とく)であった。呉主はその二人を殺した。朱損の妻は孫(そん)峻(しゅん)の妹である。孫綝はその処分を諫(いさ)めたのだが呉主は聞かなかったので、これよりますます懼れるようになった。

【補足】（1）呉(ご)皇(こう)帝(てい)の孫(そん)亮(りょう)と実権を掌握する孫(そん)綝(ちん)の確執が厳しくなっていった状況が記されている。それは魏(ぎ)の皇帝と司(し)馬(ば)昭(しょう)の関係に似て、力の差は呉の方がわずかだけ小さかったようだ。いずれにしても、幼少の皇帝を傀儡にして権力を自分のものにしてしまおうとする人間が呉にも魏にいたのである。蜀(しょく)漢(かん)だけは例外で、諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)は劉(りゅう)備(び)から息子が愚か者であったならば君が国主になってよいと言われていながら、凡庸極まりない二代皇帝を誠心誠意補佐し続け、姜(きょう)維(い)らもまことに忠節であった。

（2）朱(しゅ)公(こう)主(しゅ)が殺された事件については少し説明が必要だろう。呉の初代皇帝の孫(そん)権(けん)には多数の夫人がいて、その一人の歩(ふ)夫人は二人の娘を生んだ。姉が孫(そん)魯(ろ)班(はん)で妹が孫(そん)魯(ろ)育(いく)で、姉は全(ぜん)�j(そう)に嫁ぎ、妹は朱(しゅ)拠(きょ)に嫁いだのでそれぞれ全(ぜん)公(こう)主(しゅ)、朱公主と呼ばれた。全公主は何かと問題を引き起こす人だったようで、孫権の愛する王(おう)夫人を嫌い、病床に伏せる孫権の耳に王夫人の悪口をさんざん吹き込んだ。王夫人はそれを気に病んで死んでしまったのだが、当時は王夫人の生んだ孫(そん)和(わ)が皇太子であったので、全公主はその後のことを恐れて、孫和を廃して別の者を皇太子にしたいと考え、妹の朱公主に相談した。朱公主は姉の考えに賛同しなかったために二人は仲たがいをした。その後、孫和は皇太子の地位を追われ、後に自殺に追い込まれた。こうしたごたごたがあって孫権の末子の孫亮が次の皇太子になり、二代皇帝として即位した。そのような流れのなかで政権内の権力抗争の末に孫(そん)峻(しゅん)が実権を掌握するようになったのだが、孫峻があまりにも凶悪であったために、孫峻を殺害しようとする計画が繰り返し企てられては失敗した。朱公主はそうした事件に連座して殺された。そのことに不仲の姉の全公主がからんでいたのではないかと、孫亮は疑ったのである。全公主はかつて孫峻と密通関係にあったとされ、十分に疑わしいのだが、朱(しゅ)拠(きょ)［つまり朱公主の夫］の息子たちに罪をなすりつけた。このような宮廷内の事情は複雑でわかりにくく、残された史料がどれほど真実を伝えているのかもわらかない。現在の権力者の孫綝は孫峻の従弟で、孫峻から権力を受け継いでいたので、皇帝は過去の悪事をほじくり出して孫綝に打撃を与えようとしたのである。一方で、疑いをかけた全公主も、実は孫亮にとっては大事な後ろ盾でもあった。全公主の夫の全�jの「おい」に当たる者に全(ぜん)尚(しょう)がいて、その娘を全公主はたいそうかわいがっていた。全公主は先々のことを考えて、その娘を孫亮の妻にするよう孫権に勧めた。娘は孫亮のもとに嫁ぎ、そして皇后となった。全尚は皇帝の義理の父となり、全一族は続々と高位に昇った。寿(じゅ)春(しゅん)の攻防戦の際に、呉から救援に来ていた全(ぜん)懌(えき)らが一斉に魏に投降したのを見たが［→通鑑)257-05の三］、全懌は全�jの子である。全懌らの逃亡は全一族内部でのもめごとに端を発したものであった。孫亮が孫峻と姻戚関係のある朱(しゅ)損(そん)を殺したことで、孫亮と孫綝の対立はいよいよ先鋭化し、孫亮は全公主や妻を通して全一族の力を借りようと考え、次にその顛末が記されている。

【訳文】

［258-08の二］呉(ご)主(しゅ)［孫(そん)亮(りょう)］はひそかに全(ぜん)公(こう)主(しゅ)と将軍の劉(りゅう)丞(じょう)とともに孫(そん)綝(ちん)を誅殺することを計画した。呉主の妻の全(ぜん)后(こう)の父の全(ぜん)尚(しょう)は太(たい)常(じょう)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)であった。呉主は全尚の子の黄(こう)門(もん)侍(じ)郎(ろう)の全(ぜん)紀(き)に言った。「孫綝は勢いを専らにし、孤(わたし)を年少だと見て軽んじている。孫綝には先に速やかに陸にあがって（寿(じゅ)春(しゅん)に立て籠もる）唐(とう)咨(し)らを救援するよう命じたのだが、孫綝は湖中に留まったままで一歩たりとて上陸して進もうとしなかった。敗北の罪を朱(しゅ)異(い)になすりつけ、孤(わたし)に事前に申し出ることもなく、勝手に功臣を殺してしまった。いまや橋(きょう)南(なん)に屋敷を築いて、朝廷に顔を出そうともしない。このようにわがままであって畏(おそ)れるところがない。孤(わたし)としてはいつまでも耐え忍んでいることはできない。いまこの者を捕らえることを考えたい。卿(そなた)の父は中(ちゅう)軍(ぐん)都(と)督(とく)であるから、密かに士馬を集めることができるだろう。孤(わたし)は自から出て橋に臨み［つまり孫綝の屋敷の前に立つ］、（全尚が集めた）宿(しゅく)衛(えい)虎(こ)騎(き)および左(さ)右(ゆう)無(ぶ)難(なん)の兵をもって一気に孫綝の屋敷を囲み、版(はん)詔(しょう)を作って孫綝の配下の者に解散するよう命じて、抵抗できなくする。このようにすればきっと孫綝を捕らえることができるはずだ。卿(そなた)よ行け。ただし密かに行うのだ。卿(そなた)は私の詔(みことのり)を卿(そなた)の父に聞かせよ。ただし卿(そなた)の母［全尚の妻］に知らせてはならない。女人は大事を理解することがなく、全(ぜん)懌(えき)の母［つまり全尚の妻］は孫綝の堂(どう)妹(まい)［同族の妹分］である。ちょっとしたことから漏れたならば、大きく孤(わたし)を誤らせることになってしまうのだぞ」。全紀は詔を受けて父の全尚に告げた。全尚には遠い慮(おもんばか)りがなく、妻に語ってしまった。妻は人を使わせて密かに孫綝に告げた。

九月戊(ぼ)午(ご)、孫綝は兵士を動かして夜に全尚を襲撃して、それを執えるとともに、弟の孫(そん)恩(おん)に蒼(そう)竜(りゅう)門(もん)の外で劉丞を殺害させた。そして明け方に呉主の宮殿を囲んだ。呉主は大いに怒り、馬に乗り、弓矢を携えて出ようとした。「孤(わたし)は大皇帝［孫(そん)権(けん)］の子で、皇在に就いてすでに五年だ。孤(わたし)に従わない者はいないはずだ」と、叫んだ。侍(じ)中(ちゅう)も近臣も乳母も一緒になって呉主を引き止めたために出ることができなかった。呉主は嘆き悲しんで食事もとらなかった。そして妻の全后に向かって、「爾(なんじ)の父が憒憒(どんくさ)かったために我が大事は敗れてしまったのだ」と罵り、全紀を呼び寄せた。全紀は、「臣(わたくし)の父は詔を受けて謹(つつし)まず、お上のことを損なってしまった。何の面目あってまたお目にかかれようか」と、自殺した。

孫綝は光(こう)禄(ろく)勲(くん)の孟(もう)宗(そう)に太(たい)廟(びょう)［呉主の先祖が祀られている］に行かせ、呉主を廃して会(かい)稽(けい)王(おう)に落とすことを告げさせた。そして群臣を召し寄せて、このように提議した。「若い皇帝はひどい病気によって昏(こん)乱(らん)し、もはや大位にいて宗廟に奉仕することはできない。すでに先帝には呉主を廃することを報告した。諸君らでこれに同意しない者は異議を申すがよいだろう」。皆が震え上がり、「ただ将軍殿のお考えのままに」と言った。孫綝は中(ちゅう)書(しょ)郎(ろう)の李(り)崇(すう)を派遣して呉主から璽(じ)綬(じゅ)［皇帝のしるし］を奪い、呉主の罪を並べて国中に布告した。尚(しょう)書(しょ)の桓(かん)彝(い)は孫綝の処置に署名しなかったので、孫綝は怒ってこれを殺した。典(てん)国(こく)の施(し)正(せい)は琅(ろう)邪(や)王(おう)の孫(そん)休(きゅう)を迎えて皇帝に立てることを勧め、孫綝はそれに従った。

己(き)未(び)、孫綝は宗(そう)正(せい)の孫(そん)楷(かい)と中(ちゅう)書(しょ)郎(ろう)の董(とう)朝(ちょう)を会(かい)稽(けい)に派遣して琅邪王を迎えさせた。また、将軍の孫(そん)耽(たん)を使って会稽王の孫亮［もとの皇帝］を国に還らせた。孫亮はこのとき十六歳であった。全尚は零(れい)陵(りょう)に移され、ついで殺された。全公主は予(よ)章(しょう)に移された。

【補足】（1）読んでわかる通り、皇帝孫(そん)亮(りょう)の計画は児戯のようなもので、すぐに事が漏れ、乳母たちに止められて失敗した。孫亮もそれを支えた人々も都から追放された。

（2）次の皇帝として呼ばれることになった孫(そん)休(きゅう)は孫亮の兄である。孫休は王(おう)夫(ふ)人(じん)［孫(そん)和(わ)の母の王夫人とは別人］で、孫和が皇太子になったときに王夫人は外に出され、その地で死んだ。孫休は孫亮が即位した後に地方に出されていた。

【訳文】

［258-08の三］冬、十月戊(ぼ)午(ご)、琅(ろう)邪(や)王(おう)の孫(そん)休(きゅう)が（都に向かって）進んで曲(きょく)阿(あ)にまで至ったときに、ある老公が王の前に出て地に頭を叩きつけながら言った。「事が長引くと異変が生じましょう。天下はいま喁(ぎょう)喁(ぎょう)［魚が水面に口を出してばくばくもがいているさま］としております。陛下よ、速やかに行かれますように」。琅邪王はこれを善(よ)しと思った。この日、布(ふ)塞(そく)亭(てい)にまで行った。

孫(そん)綝(ちん)は琅邪王がまだ来ないうちに宮中に入ってしまおうと考え、百官を召し寄せて会議を行った。皆は怯えて顔色を失い、言いなりになるだけであった。選(せん)曹(そう)郎(ろう)の虞(ぐ)��(し)が言った。「明(めい)公(こう)［孫綝のこと］は国にとって（古代の伝説的な名臣の）伊(い)尹(いん)や周(しゅう)公(こう)のようなお方で、大将軍と宰相の任を兼ね、皇帝の廃立をも定める威厳を具え、上は宗(そう)廟(びょう)を安んじ、下は人民に恵み垂れ、伊尹や（漢(かん)代(だい)の名臣の）霍(かく)光(こう)の再来であると誰もが喜び勇んでおります。いま琅邪王様をお迎えしてまだ宮殿にお入りになる前にこのように振る舞われますと、臣下の者どもは動揺して、衆人は疑惑を抱きかねません。明公が永く忠孝を尽くして、後世に名を揚げるようなことにはならないのかもしれません」。孫綝はその言葉を喜ばなかったが、宮中にいるのはやめたのだった。虞��は虞(ぐ)翻(ほん)の子である。

孫綝は弟の孫(そん)恩(おん)に命じて丞(じょう)相(しょう)として振る舞わせ、百官を率い、乗(じょう)輿(よ)法(ほう)駕(が)［皇帝の乗り物］を用意して琅邪王を永(えい)昌(しょう)亭(てい)に迎えさせた。孫恩は璽(じ)符(ふ)［皇帝のしるし］を差し出し、琅邪王は三回辞退してから受け取った。群臣は位に従って琅邪王の先導をし、琅邪王は輿(こし)に乗り、百官はお供をした。孫綝は兵士千人を連れて野に出迎え、道のかたわらで拝した。王は車を降りて、拝礼に答えた。

その日、正殿にお出ましになり、大赦を下し、永(えい)安(あん)と改元した。孫綝は「草(そう)莽(もう)の臣(しん)」と称し、宮殿に詣でて書を上呈し、印(いん)綬(じゅ)と節(せつ)鉞(えつ)を差し出し、自身は要職から去ることを求めた。呉主は孫綝に会って慰諭し、詔(みことのり)を下して孫綝を丞相かつ荊(けい)州(しゅう)牧(ぼく)とし、所領を五県増やした。孫恩は御(ぎょ)史(し)大(たい)夫(ふ)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)中(ちゅう)軍(ぐん)督(とく)とし、県(けん)侯(こう)に封(ほう)じ、孫(そん)拠(きょ)、孫(そん)幹(かん)、孫(そん)闓(かい)らは皆が将軍となり、侯に封じられた。また長(ちょう)水(すい)校(こう)尉(い)の張(ちょう)布(ふ)を輔(ほ)義(ぎ)将(しょう)軍(ぐん)にして、永(えい)康(こう)侯(こう)に封じた。

これより前のこと、丹(たん)楊(よう)太(たい)守(しゅ)の李(り)衡(こう)は何かにつけて琅邪王を迫害するような行為を繰り返していた。その妻の習(しゅう)氏はそれを諫(いさ)めていたのだが、李衡は聞かなかった。琅邪王はそのために他の郡に移ることを朝廷に求め、それで詔をもって会(かい)稽(けい)に移った。琅邪王が皇帝に即位すると、李衡は憂い懼れ、その妻に言った。「そなたの言葉を用いなかったためにこのようなことになってしまった。私は魏(ぎ)に逃亡しようと思いが、とうであろうか」、妻は言った。「それはよろしくありません。あなたはもとは庶民であったのを先帝が抜擢してくださって、過剰なまでに用いてくださいました。（先帝の意に応えて琅邪王に）数々の無礼をなして、自分からかえって疑いを抱き、それで反逆して活きるのを求めて北に逃亡し、果たして何の面目があって向こうの方々に顔を合わせられるのでしょうか」。李衡は言った。「ではどうしたらよいのか」。「琅邪王はもとから善を好まれ、よき名を挙げたいと希望しておられます。いまはまさに天下に御自身のことを明らかに示そうとされているときなのですから、個人的な嫌悪でもってあなたを殺すようなことはきっとなさらないでしょう。あなたは自ら囚われ人となって獄に詣で、先の過ちを列挙してお上に申し上げ、顕(あら)わに罪を受けることを願い出るのです。このようにしたなら、きっと優しく扱ってくださって、ただ活かしてくださるだけに留まるものではないでしょう」。李衡は妻の言う通りにすると、呉主は詔を下し、「丹楊太守の李衡は先の嫌疑をもって自分から司法の場に囚われの身となった。上に君主がいてそのために人を斬るようなことをしても、それはそのときの君主のもとではしなければならないことをしたまでである。李衡は郡に還るがよい、もう何も心配しなくてよい」。李衡を威(い)遠(えん)将(しょう)軍(ぐん)にして、（褒賞として）棨(けい)戟(げき)を授けた。

己(き)丑(ちゅう)、呉主はもとの南(なん)陽(よう)王(おう)の孫(そん)和(わ)の子の孫(そん)皓(こう)を烏(う)程(てい)侯(こう)にした。

群臣は皇后と太子を立てるよう奏上した。呉主は、「朕(ちん)には徳が少ないにもかかわらず壮大な事業を受け継ぎ、政事に臨んでまだ日が浅く、恩沢を及ぼすことができていない。后妃の号や嗣子の位はまだ急ぐべきことではない」。役目の者たちは固く要望したが、呉主は許さなかった。

【補足】（1）ここには孫(そん)休(きゅう)は皇帝としてまずは無難なスタートを切ったことが記されている。

（2）かつて孫(そん)亮(りょう)が即位する前に皇太子であった孫(そん)和(わ)の子の孫(そん)皓(こう)についてここで言及しているのは、後に孫皓が国の命運を左右することになる伏線である。なお孫和は孫亮の時代の政争のなかで殺されている。

【訳文】

［258-08の四］孫(そん)綝(ちん)は牛肉と酒を携えて呉(ご)主(しゅ)のもとに詣でたが、呉主は受け取らなかった。孫綝は左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の張(ちょう)布(ふ)のところに行き、酒を飲みかわし、孫綝は張布に怨みごとを言った。「幼い皇帝を廃したときに、多くの者が私がしたらよい［つまり皇帝になるということ］と勧めてくれた。私は陛下が賢明であるのでお迎えすることにした。私でなかったならば、いま陛下は位には就いておられないはずだ。なのに、陛下への礼として牛肉と酒を差し上げようとしたのを拒まれてしまった。これでは平凡な臣下と扱いが何も異ならないではないか。私としては考えを改めなければならないのかもしれない」。張布はこのことを呉主に告げた。呉主はそれを心に留め、異変があるのを恐れ、孫綝にしばしば恩賞を与えた。

戊(ぼう)戌(じゅつ)、呉主は詔(みことのり)を下した。「大将軍［孫綝］は内外の諸軍事を掌握し、非常に多くのことに煩わされている。ここに衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)御(ぎょ)史(し)大(たい)夫(ふ)の孫(そん)恩(おん)を侍(じ)中(ちゅう)に加えるので、大将軍と諸事を分担するように」。

ある者が「孫綝は後悔してお上を怨み、反逆を企てています」と告げた。呉主はその者を執えて孫綝に渡した。孫綝はそれを殺し、これよりますます懼(おそ)れるようになった。それで、孟(もう)宗(そう)を通じて武(ぶ)昌(しょう)［長(ちょう)江(こう)中流の町］に出ることを求めた。呉主はそれを許し、孫綝は自身の号令の及ぶ範囲の中営の精兵の一万人余りを連れて行こうし、整備した船を用意し、武庫から武器を持ち出そうとした。呉主は全てを与えた。孫綝はさらに中(ちゅう)書(しょ)省(しょう)の二人の役人を連れ出して荊(けい)州(しゅう)の諸軍事を管理させようとした。中書省では省の者は外に出してはいけないことになっていると言ったのだが、呉主を特にそれも許し、孫綝の求めることには全てそのまま応じた。

将軍の魏(ぎ)邈(ぎゃく)は呉主に、「孫綝が外に出たならきっと異変がありましょう」と、説いた。武(ぶ)衛(えい)士(し)の施(し)朔(さく)もまた孫綝は謀反すると告げた。呉主は孫綝を討とうと考え、密かに輔(ほ)義(ぎ)将(しょう)軍(ぐん)の張布に尋ねた。張布は言った。「左(さ)将(しょう)軍(ぐん)の丁(てい)奉(ほう)は役人としては有能ではなくても、計略において人に勝り、大事を断行することができます」。呉主は丁奉を召し寄せ、大事を告げて、その計略を尋ねた。丁奉は言った。「丞(じょう)相(しょう)兄弟［孫綝と孫恩］の一派ははなはだ大勢ですので、たぶん人々の心は一つではありませんでしょう。ですからにわかの事態にはきっと即応できません。次の臘(ろう)会(かい)［冬至の後の儀式］において陛下の兵を用いてこれを誅すべきです」。呉主はそれに従った。

十二月丁(てい)卯(ぼう)、建(けん)業(ぎょう)［呉の都］の中で、明日の臘会で異変があるとの噂が流れた。孫綝はそれを聞いて不快に思った。強い風が吹き、砂が舞い上がり、屋根がはがされたりもしたので、孫綝はますます懼れを抱いた。戊(ぼう)辰(しん)、臘会の当日、孫綝は病(やまい)と称して行かなかった。呉主は起きてくるよう強く要請し、その使者が十人以上も訪れたので、孫綝はやむをえず宮中に入ろうとした。周囲の者はそれを止めたのだが、孫綝は、「国からこれほどしばしば命じられて辞退するわけにはいかない。あらかじめ兵を整えておき、皇城の中で火事を起こし、それによって速やかに還ろうと思う」と言って、ついに入った。ついで火事が起こった。孫綝は外に出ることを求めた。呉主は、「外には大勢の者がいる。丞相がわざわざ行くまでもないことだ」と言ったが、孫綝は起って席を離れた。丁奉、張布は目で左右の者に合図し、孫綝を捕縛した。孫綝は床に頭を叩きつけて言った。「（殺さずに）交(こう)州(しゅう)に流してください」。呉主は言った。「卿(そなた)はどうして滕(とう)胤(いん)や呂(りょ)拠(きょ)を交州の流さなかったのだ」。「官(かん)奴(ど)［奴隷］の身分に落としてください」「卿(そなた)はどうして滕胤や呂拠を官奴にしなかったのだ」。ついにこれを斬り、孫綝の首を衆人に見せて、「もろもろの孫綝の仲間は全て赦す」と言った。武器を取り上げて放逐された者が五千人いた。孫(そん)闓(い)は船に乗って北に逃げようとしたが、追われて殺された。孫綝の三族は夷(たいら)げられた。孫(そん)峻(しゅん)の棺をあばき、身につけていた印綬を取り上げ、棺の木を削って薄くしてからまた埋めた。

己(き)巳(し)、呉主は張布を中(ちゅう)軍(ぐん)督(とく)にし、（孫峻と孫綝に迫害された）諸(しょ)葛(かつ)恪(かく)、滕胤、呂拠らを改めて葬り直し、諸葛恪らのことに関わって遠く流された者を全て呼び戻した。朝臣のある者が諸葛恪のために碑を立てたいと申し出た。呉主は詔で、「（諸葛恪が）盛夏に（魏を討伐する）軍を出し、多くの士卒を死なせてわずかな功績さえなかったのは、幼い皇帝を補佐する使命を果たしたとはとてもいえないし、つまらない者の手にかかって死んだのは智者であったとはいえない」と言ったので、取りやめになった。

【補足】（1）皇帝の孫(そん)休(きゅう)は孫(そん)綝(ちん)を殺した。前の皇帝の孫(そん)亮(りょう)ができなかったことを果たせたのは、張(ちょう)布(ふ)や丁(てい)奉(ほう)のような実行力のある者を用いたことと、宮中において事を行ったからであろう。

（2）孫綝の三族を皆殺しにしたり、孫(そん)峻(しゅん)の棺をわざわざ掘り出して辱めを与えたり、なかなか苛烈な処分のように思えるのだが、これでも皇帝が孫綝の首を示したときに言ったようにかなり軽いものであったのだろう。

【訳文】

［258-09］かつて蜀(しょく)漢(かん)の劉(りゅう)備(び)が魏(ぎ)延(えん)に漢(かん)中(ちゅう)を守らせたときには、諸方の入り口に実際に兵士を置いて外敵の侵入を防いだので、敵は攻めようとしても漢中に入ることができなかった。興(こう)勢(せい)の戦役のときに、（蜀漢の）王(おう)平(へい)が（魏(ぎ)の）曹(そう)爽(そう)の攻撃を防いだのも同じやり方であった。姜(きょう)維(い)が軍の指揮をするようになってから、次のように建議した。「諸方の守備を固めるのは、敵を防ぐにはよいのですが、それでは大きな勝利を得ることができません。敵が来ると聞いたならば、諸方の守備兵は兵器をおさめ、穀物を集め、漢(かん)城(じょう)と楽(らく)城(じょう)に退き、敵が漢中に平地に入るのは許し、関所を堅く守ってそこからの侵入を防ぎ、遊軍を出して敵の隙を狙うのがよろしいでしょう。敵は関所を攻めても勝てず、野には穀物がないために千里の道のりを食糧を運搬しなければならないために、自ずと疲弊します。敵が引き上げようとしたときに、諸城から一斉に兵を出して、遊撃隊とともに敵を叩くなら、敵を殲滅できるでしょう」。これより漢(かん)主(しゅ)［蜀(しょく)漢(かん)の皇帝］は漢中の胡(こ)済(せい)を漢(かん)寿(じゅ)県(けん)まで退かせ、監(かん)軍(ぐん)の王(おう)含(がん)に楽城を、護(ご)軍(ぐん)の蒋(しょう)斌(ひん)に漢城を守らせた。

【補足】ここには蜀(しょく)漢(かん)の防衛戦術の変更が記されている。漢(かん)中(ちゅう)とは、蜀(しょく)の都の成(せい)都(と)がある大きな四(し)川(せん)盆地の北東に隣接する小盆地。魏(ぎ)が長(ちょう)安(あん)方面から最短ルートで蜀漢の本拠地を目指す場合の途中に位置し、蜀漢にとって防衛上の重要な場所である。劉備(りゅうび)の時代には、漢中への全ての入り口を兵士で固めていたのだが、姜(きょう)維(い)はその兵力を魏を攻撃するのに振り向けようと考え、漢中への侵入をいったんは許すけれど、敵を長期戦に引き込むことで勝利を得る方策を選択した。『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』がここでそのことを記述しているのは、次の巻でこの変更が仇となるのを見るからである］

【訳文】

［259-01］甘(かん)露(ろ)四年、春正月、二匹の黄(こう)竜(りゅう)が寧(ねい)陵(りょう)の井戸の中に現れた。これより先に、頓(とん)丘(きゅう)、冠(かん)軍(ぐん)、陽(よう)夏(か)でもしばしが竜が現れていたので、群臣はこれらは吉祥であると告げた。皇帝は、「竜は君主の徳の象徴である。竜が上は天にあるのではなく、下は農地のあるのではなく、井戸のなかでわだかまっているのは嘉(よ)い兆(きざし)といえまい」と言って、『潜(せん)竜(りゅう)詩(し)』を作り、そこに時勢への批判を籠めた。司(し)馬(ば)昭(しょう)はそれを見て嫌悪した。

［259-02］夏、六月、京(けい)陵(りょう)穆(ぼく)侯(こう)の王(おう)昶(ちょう)が死んだ。

【補足】これは魏(ぎ)のこと。竜が現れたとの報告が各地からあったのは、司(し)馬(ば)昭(しょう)に媚びようとする者たちがしたことであろう。皇帝はそれがわかっているから、自分の不徳の現れであると言って、実は司馬昭によって天下が乱されているとの思いを詩に託したのだろう。二人の間の破局は刻々と近づきつつあったが、とりあえずこの年は表面上は平穏に過ぎて行く。

【訳文】

［259-03］漢(かん)主(しゅ)はその子の劉(りゅう)�ｪ(じん)を北(ほく)地(ち)王(おう)に、劉(りゅう)詢(じゅん)を新(しん)興(こう)王(おう)に、劉(りゅう)虔(けん)を上(じょう)党(とう)王(おう)にした。

尚(しょう)書(しょ)令(れい)の陳(ちん)祗(し)は言葉巧みなへつらい上手で漢主に可愛がられていた。姜(きょう)維(い)は地位では陳祗よりも上ではあっても、軍を率いて都の外に出ていることが多く、朝政に関与することは稀であるために、実際の権限は陳祗に及ばなかった。秋、八月丙(へい)子(し)、陳祗が死ぬと、漢主は僕(ぼく)射(や)の董(とう)厥(けつ)を尚(しょう)書(しょ)令(れい)に、尚書の諸(しょ)葛(かつ)瞻(せん)を僕射にした。

［259-04］冬、十一月、車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の孫(そん)壱(いつ)［呉(ご)から投降してきた者］はその婢(はしため)を殺した。

［259-05］この年に、王(おう)基(き)を征(せい)南(なん)将(しょう)軍(ぐん)都(と)督(とく)荊(けい)州(しゅう)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)とした。

【補足】（1）王(おう)基(き)は寿(じゅ)春(しゅん)の攻防戦で重要な働きをした人物。王基が軍務を任された荊(けい)州(しゅう)［襄(じょう)陽(よう)］は軍事的に非常に重要な場所。漢(かん)中(ちゅう)から流れ出る川は荊(けい)州を通って長(ちょう)江(こう)に通じていて、荊州から北西に進めば蜀(しょく)漢(かん)の地に入り、南に進めば呉(ご)の地に入る。特に呉を上流側から攻撃しようとするときの起点となりうる。寿(じゅ)春(しゅん)の攻防戦で見たように、魏と呉は長江の下流部で何度も激突し、双方ともに決定的勝利を得ることができずにいた。そのような状況を打破する糸口が長江中流域にあるのではないかと見られていた。先に殺された孫(そん)綝(ちん)が都から出て目指そうとしていた武(ぶ)昌(しょう)は長江中流を守るための重要な場所である。

（2）『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』第77巻の「魏(ぎ)紀(き)九」のうち「高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)下(げ)」の部分はこの年で終わり、翌年から「元(げん)皇(こう)帝(てい)上(じょう)」になる。

【訳文】

［260-01］景(けい)元(げん)元年、春、正月朔(さく)、日食があった。

【補足】甘(かん)露(ろ)から景(けい)元(げん)に年号が改まったのはこの年の六月である。新月の日に日食が起こることがあるのは単純な天文現象であるが、昔は天界の異変は地上の異変につながると考えられていたので、重要な事柄として史書に必ず記載された。実際に間もなく魏(ぎ)朝(ちょう)に異変が起こる。

【訳文】

［260-02］夏、四月、役人たちは先の皇帝の命に従って、相(しょう)国(こく)の位に昇って、晋(しん)公(こう)に封(ほう)じられ、九(きゅう)錫(せき)を加えられることを大(だい)将(しょう)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)昭(しょう)に勧めた。

［260-03］魏(ぎ)の皇帝の権威は手の内から日に日に消え去り、皇帝は憤りに耐えられなかった。五月己(き)丑(ちゅう)、侍(じ)中(ちゅう)の王(おう)沈(ちん)、尚(しょう)書(しょ)の王(おう)経(けい)、散(さん)騎(き)常(じょう)侍(じ)の王(おう)業(ぎょう)を召し寄せ、「司(し)馬(ば)昭(しょう)の本心は路行く人でも知っている。皇位を廃される辱めを坐して受けることは私にはできない。今日こそは卿(そなた)たちとともに出て司馬昭を討とうと思う」と、言った。王経は、「昔、魯(ろ)国(こく)の昭(しょう)公(こう)は季(き)氏の横暴に耐えられなくて戦って敗れ、国を失って天下の笑いものとなりました。司馬氏のもとにいま権限があるのは今日に始まったことではありません。朝廷にも地方にも、司馬氏のためなら本来の上下関係の理(ことわり)さえ顧みることなく、命を投げうとうとする者が大勢いるのもかねてからのことです。しかも宮中の宿衛はいまはからっぽで、わずかな弱兵とわずかな武器があるだけです。陛下は何を用いてそのようなことをなさろうとするのでしょうか。疾(やまい)を除こうとして、かえって症状を深刻化させるだけとなりましょう。その禍(わざわい)は測り知れません。重々検討し直すべきでありましょう」。皇帝は懐(ふところ)から黄色い絹に書いた詔(みことのり)を出して地に投げつけ、「これを行うと決めたのだ。これで死ぬとしても何も懼(おそ)れるものではないし、必ず死ぬと定まっているわけでもない」。皇帝は皇(こう)太(たい)后(ごう)のもとに行き、これから実行することを申し上げた。

王沈と王業は奔(はし)って司馬昭に告げようとして、王経に一緒に行こうと呼んだ。王経は同行しなかった。

皇帝は剣を抜いて輦(てぐるま)に乗り、殿中に宿衛にしている蒼(そう)頭(とう)［軽装の兵士］や官(かん)僮(どう)［召使の少年］を率い、太鼓を勇ましく叩いて出撃した。司馬昭の弟の屯(とん)騎(き)校(こう)尉(い)の司(し)馬(ば)伷(ちゅう)は東(とう)止(し)車(しゃ)門(もん)で皇帝に出遭った。皇帝の左右の者が怒鳴りつけたので司馬伷は人々とともに走って逃げた。中(ちゅう)護(ご)軍(ぐん)の賈(か)充(じゅう)は外から入り、南(なん)闕(けつ)の下で迎えて皇帝と戦った。皇帝は自分で剣を使っていたので、人々は退却しようとした。騎(き)督(とく)の成(せい)倅(さい)の弟の太(たい)子(し)舎(しゃ)人(じん)の成(せい)済(せい)が賈充に、「事態は切迫しています。どうしますか」と、尋ねると、賈充は言った。「司馬公が汝らをこれまで養ってきたのは、まさしく今日のためである。いまのこの事態に尋ねるまでもないだろう」。成済はただちに戈(ほこ)を抜いて進み、皇帝を刺した。皇帝は車の下に落ちた。

司馬昭はこのことを聞いてひどく驚き、自身の身を地に投げ出した。太(たい)傅(ふ)の司(し)馬(ば)孚(ふ)は走って行き、己の股を枕にして皇帝を寝かせ、哭(こく)して非常に哀しみ、「陛下を死なせたのは臣(わたくし)の罪であります」と、言った。

司馬昭は殿中に入り、群臣を呼んで会議を開いた。尚(しょう)書(しょ)左(さ)僕(ぼく)射(や)の陳(ちん)泰(たい)が来なかったので、司馬昭はその叔父の尚(しょう)書(しょ)の荀(じゅん)��(がい)を使って呼んだ。陳泰は、「世間の人々は私と叔父とをよく比較してきたが、いまや叔父は（魏朝への忠誠心において）私に及ばない」と、言った。陳泰の子弟や関係者は皆で殿中に行くよう陳泰に迫った。陳泰は殿中に入って司馬昭を見ると、慟哭した。司馬昭は陳泰に向かってやはり泣き、「陳先生よ、私はどのようにしたらよいのだろうか」と、言った。陳泰は、「とにかく賈充を斬って、いささか天下に謝るくらいでありましょうか」と、言った。司馬昭はしばらく考え、「第二の手を考えてくれ」。陳泰は、「私が進言できますのはこれだけ、その次の手を知りません」。司馬昭はそれでもう言わなかった。荀��は荀(じゅん)�ｹ(いく)の子である。

皇太后の命令が下り、高(こう)貴(き)郷(きょう)公(こう)［皇帝］の罪状を示し、皇位を廃して庶人として、庶民の礼法で葬むらせるとした。王経を収監して廷(てい)尉(い)［司法］に付した。王経は母に謝ったが、母は顔色を変えずに、笑って応えた。「人は誰でも死にます。大事なのは死ぬべき場所を得ることです。今回のことが運命であったとしても何も恨むものではありません」。王経は誅殺され、もとの部下の向(しょう)雄(ゆう)は哭し、その泣き声は町中を悲しませた。王沈は異変を報せた功績で安(あん)平(へい)侯(こう)に封じられた。

庚(こう)寅(いん)、太傅の司馬孚らは奏上して、高貴郷公を王に対する礼法をもって葬ることを願い出て、皇太后はそれを許した。

中(ちゅう)護(ご)軍(ぐん)の司(し)馬(ば)炎(えん)は燕(えん)王(おう)の曹(そう)宇(う)の子の常(じょう)道(どう)郷(きょう)公(こう)の曹(そう)璜(こう)を鄴(ぎょう)に迎えに行かせ、曹璜を明(めい)帝(てい)の世継ぎとした。司馬炎は司馬昭の子である。

【補足】（1）魏の皇帝の曹(そう)髦(ぼう)はついに堪忍袋の緒を切り、剣を抜いて出撃した。これを「甘(かん)露(ろ)の変」という。中国史には唐(とう)の時代にも「甘露の変」と呼ばれる異変があり、そちらの方がずっと規模が大きく、さらに悲惨であった。この「甘露の変」は先に呉(ご)の孫(そん)亮(りょう)が為そうとしたのと似たり寄ったりの児戯に等しいものであった。さすがに自ら剣を振るう皇帝に向かって行くのは憚られたのだが、賈(か)充(じゅう)は成(せい)済(せい)の背中を押して皇帝を刺し殺した。

（2）王(おう)経(けい)は姜(きょう)維(い)との洮(とう)西(せい)の戦い［→通鑑256-06］で敗れた人物。その後、都に戻って要職に就いていた。王経は皇帝の無謀な試みを懸命に止めようとしたのだが、司(し)馬(ば)昭(しょう)に告げに行くのは断った。皇帝と司馬氏の板挟みの中でのぎりぎりの選択であったのだろう。

（3）司馬昭が驚いたのは、万全の注意を払ってこれまで進めてきた王朝乗っ取りの策が無に帰してしまいかねないまさかの事態が生じたからであろう。知恵袋の陳(ちん)泰(たい)に今後の策を尋ねた。陳泰の振る舞いも王経と同様にぎりぎりの選択の結果であろう。陳泰が答えなかった第二の手とは、司馬昭が死をもって謝ることであると推測する史書もある。

（4）悲惨な死に方をした曹(そう)髦(ぼう)は庶民に落とされ、正式な皇帝とは見なされなくなった。皇太后の命令が出てくるのは、皇帝が死んだためにその母の皇太后が現時点での国家の最高権威であるからだ。このときの皇太后は曹髦の実母ではなく、二代前の明(めい)帝(てい)、つまり曹(そう)叡(えい)の妻である。

（5）曹髦に代わって次の皇帝になるべき人物として呼ばれたのが曹(そう)璜(こう)である。曹璜は曹(そう)操(そう)の子の曹(そう)宇(う)の子。曹璜が明帝の世継ぎとされたのは、曹髦の前の第三代の皇帝の曹(そう)芳(ほう)も不名誉な形で司馬氏によって廃され、正式な皇帝とは見なされないためで、第二代に戻ってその跡継ぎであるという形をとったのである。

【訳文】

［260-04］辛(しん)卯(ぼう)、群公は皇(こう)太(たい)后(ごう)に「これより（皇太后の発出する）令(れい)書(しょ)を全て詔(しょう)制(せい)と称する」ようにすると奏上した。

［260-05］癸(き)卯(ぼう)、司(し)馬(ば)昭(しょう)は相(しょう)国(こく)、晋(しん)公(こう)、九(きゅう)錫(せき)の命令を堅く辞退したので、皇太后の詔(みことのり)でそれを許した。

［260-06］戊(ぼう)申(しん)、司馬昭は、「成(せい)済(せい)兄弟は大逆不道である」であると奏上して、その一族を夷(たいら)げた。

［260-07］六月癸(き)丑(ちゅう)、皇太后の詔で常(じょう)道(どう)郷(きょう)公(こう)の曹(そう)璜(こう)の名を奐(かん)に改めた。甲(こう)寅(いん)、常道郷公は洛(らく)陽(よう)に入り、この日、皇帝として即位した。年齢は十五である。大赦を下し、改元した。

［260-08］丙(へい)辰(しん)、詔をもって司馬昭の爵位を先のように九錫に進めようとしたが、司馬昭は固く辞退したので沙汰止みとなった。

［260-09］癸(き)亥(がい)、尚(しょう)書(しょ)左(さ)僕(ぼく)射(や)の王(おう)観(かん)を司(し)空(くう)にした。

【補足】（1）「甘(かん)露(ろ)の変」の後始末が記されている。司(し)馬(ば)昭(しょう)は昇進を辞退し続けている。謙譲の美徳を示すとともに、皇帝を殺害するという想定外の事件が起こってしまったために描いていたシナリオが狂い、段取りを練り直す時間が必要になったのだろう。

（2）気の毒なのは成(せい)済(せい)とその一族である。司馬昭は卑劣なことに、成済に罪をなすりつけ一件落着とした。成済は処刑前に罵倒し続けたといわれているが、当然であろう。こうした不公正な処分によって世論が納得するわけがないので、司馬昭としては皇位を奪う前にこれまで以上に大きな仕事を成し遂げなければならないと考えるようになったのだろう。次の巻でそれを見ることになる。

【訳文】

［260-10］呉(ご)の都(と)尉(い)の厳(げん)密(みつ)は浦(ほ)里(り)塘(とう)の用水路を作ることを建議した。群臣は皆が難しいと考えたのだが、衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)の濮(ぼく)陽(よう)興(こう)だけは作れると言った。もろもろの兵士や民衆を工事に就かせ、莫大な功費をかけたのだが、士卒の多くが死に、民衆はひどく愁い怨んだ。

［260-11］会(かい)稽(けい)郡(ぐん)では、（前の皇帝の）孫(そん)亮(りょう)が天子に返り咲くとの謠言(デマ)が流れ、孫亮の召使が、「孫亮は巫(まじないし)に祈らせ、不謹慎なことを言っています」と、告発した。役人はそれを朝廷に伝えた。呉(ご)主(しゅ)は孫亮を候(こう)官(かん)侯(こう)にして、候(こう)官(かん)県(けん)に行かせた。孫亮は自殺し、護送した人々は罪を問われた。

【補足】呉(ご)国(こく)の状況が記されている。無茶な土木工事を計画し、大失敗している。現代でも同様の例はたくさんあるだろう。もとの皇帝の孫(そん)亮(りょう)は自殺に追い込まれた。デマが流れ、おかしな祈祷をしたというのは、たぶん孫亮を殺すためのでっちあげであるのだろう。

【訳文】

［260-12］冬、十月、陽(よう)郷(きょう)肅(しゅく)侯(こう)の王(おう)観(かん)が死んだ。

［260-13］十一月、詔(みことのり)をもって（皇帝の実父である）燕(えん)王(おう)［曹(そう)宇(う)］を特に尊び、他とは異なる礼法をとることとした。

［260-14］十二月甲(こう)午(ご)、司(し)隸(れい)校(こう)尉(い)の王(おう)祥(しょう)を司(し)空(くう)にした。

［260-15］尚(しょう)書(しょ)の王(おう)沈(ちん)を予(よ)州(しゅう)刺(し)史(し)にした。王沈は任地に到るとすぐに、役人や民衆に対して、「長官の可否を正しく明らかにし、民衆の患(わずら)うところのものをきちんと指摘する者には穀物五百斛(こく)を与える。刺史の得失を正しく明らかにし、朝政が苛烈で緩めるべきところをきちんと指摘する者には穀物千斛を与える」という教書を下そうとした。主簿の陳(ちん)廞(きん)と褚(ちょ)●(りゃく)は王沈に会って、このように言った。「刺史殿の御主旨は、苦言を聞こうとのお考えで、そのために褒美を出そうとするものでありましょう。私どもが考えますに、気位の高い者は褒美目当てであると言われるのを嫌って黙ってしまうでありましょうし、欲張りな者は褒美につられてやたらとおかしなことを指摘するでありましょう。もしも刺史殿のお気に召すことがなくて褒美が与えられなかったときには、遠くで聞く者はそうしたことの当否がどうであるかはわからないままに、とにかく提言が受け入れられなかったことだけを見て、刺史殿は言いはしたものの結局実行されなかったと思うでありましょう。私どもとしましては、人々にお告げになるのはもう少し後にされてはいかがかと考えます」。王沈は、「下の者が上の益になることを申し上げて賞を受けられるようにするのは君子の為すべきことであって、私は我が考えを言わずにはいられない」と言った。褚●はまた言った。「（古(いにしえ)の聖人の）堯(ぎょう)、舜(しゅん)、周(しゅう)公(こう)が諌(かん)言(げん)をよく聞き入れたのは、その至誠が外に明らかに見えていたからです。氷や炭は何も言わなくても冷たいか熱いかは自ずから明らかです。それはその実体があるからです。もしも刺史殿が直言を好むことが氷や炭のように明白に見えているのなら、敢えて求めなくても物を申す人間が必ずやってきましょう。もしも徳において堯や舜に並ぶに足らず、明察であることにおいて周公に並ぶに足らず、氷や炭のような確かな実体がないのなら、いくら褒美を重くしても忠(ちゅう)諫(かん)の士を招き寄せることはできないでしょう」。王沈はそれで止めた。

［●は挈の下が手ではなく石］

【補足】（1）ここの四つの記事は魏(ぎ)国(こく)の状況を記している。二つ目の新皇帝とその実父の曹(そう)宇(う)との関係については若干の議論があった。新皇帝は先の第二代皇帝の世継ぎとなったので、亡き第二代皇帝に対して父としての礼法をもって仕えることになる。一方で、生きている実父は、皇帝に対しては臣下という立場にある。問題は皇帝は実父にどのように仕えるべきなのかということで、議論の末に、皇帝が実父を父として敬うのは人情として自然のことであるので、それを無理に制限することはしないということになった。結論がややあいまいなのがよいところで、後の宋(そう)の時代には、類似の問題で白黒完全な線引きをしようとして激しい論戦になって、そのための国政がストップするというばかばかしいことになった。

（2）王(おう)沈(ちん)のエピソードはもしかしたら笑い話であるのかもしれない。王沈は先の皇帝が決起したことを一目散に司(し)馬(ば)昭(しょう)に告げに行って褒められた人物。人々は先の皇帝に不忠であった王沈を冷たく見ていたと伝えられ、王沈は地方官としてのよい評判を得て挽回しようと思ったのだろう、褒美を掲げて民衆からよい意見を募集しようとした。二人の部下は、うまくいくはずがないのでやめなさいと止めた。部下としてはもしかしたら隠していることがばれるのを恐れたという面もあるのかもしれないが、王沈が格好をつけているだけだというのがきっと氷(ひょう)炭(たん)のように見え見えだったのだろう。

（3）王(おう)夫(ふう)子(し)の『読(どく)通(つ)鑑(がん)論(ろん)』はもっと手厳しい。まず、王沈には「司(し)馬(ば)氏の私人である」とのレッテルと貼り、王沈は国家に奉仕するのではなく、司馬氏に私的に奉仕する者だと断じる。そして、「司馬氏が優れた人を好み民を大切にするという虚名を得ようとしていることのお先棒を担いでいるだけだ」と言う。王夫子は、明(みん)朝(ちょう)が目の前で滅亡した要因の一つとして、「民衆は軽々しく振る舞うのをよしとし、下賤な連中は機会に乗じて栄達することを願い、悪賢い大臣どもはその風潮のなかで勝手なことをしていた。いかさまな言論で一人がたちまち出世するか思うと、天下はたちまち覆ってしまった」ということがあったとして、ろくでもないことをろくでもない人間が勝手に言い出して出世するような風潮を作るのは、諫(かん)言(げん)を塞ぐよりもはるかに悪いと言っている。それは言論の自由を重要視する現代の我々とは相いれない考え方のようではあるが、見せかけだけの「言論の自由」は、時の権力者にへつらう者たちが湧き出てくるだけだということが言いたいのだろう。なお、『晋(しん)書(じょ)』を見ると、王沈は建前としての正論のようなものを提示するのが上手で、朝廷内の意見を無難な方向にとりまとめるのが巧みだったようである。善政を敷いているとの評判を望む司馬氏にとっては重宝な人物だったのだろう。

【訳文】

［261-01］景(けい)元(げん)二年、春三月、襄(じょう)陽(よう)太(たい)守(しゅ)の胡(こ)烈(れつ)は朝廷に、「呉(ご)の将軍の�ｹ(とう)由(ゆう)、李(り)光(こう)ら十八の部隊が魏(ぎ)に帰化しようとともに謀り、使者と人質を送ってきて、我等が兵士を出して迎えにくるよう要望してきました」と、朝廷に報告した。朝廷は王(おう)基(き)に詔(みことのり)を下し、「諸軍を率いてすぐに沮(そ)水(すい)に行ってこれを迎えよ。もしも�ｹ由らが期日通りに来たならば、このことをもって長(ちょう)江(こう)一帯を動揺させるように」と命じた。王基は早馬を出して司(し)馬(ば)昭(しょう)に手紙を送り、疑うべき点があることを指摘して、「いましばらく水が濁ったままか澄むかを見定めるべきです。いまは行動を起こして武装した兵士を敵地に深く入らせるときではありません」と、言い、また、「夷(い)陵(りょう)の東西はどこも道が狭くて険しく、竹や木がうっそうと茂っています。もしも要害の地に敵が潜んでいても、我らの馬は自由には動けません。いまのような弓の弦の緩む春から夏の季節には方々から水が出ます。農作の務めを廃してまでも、得るのが難しい利を求めようとするには非常に危ういときであります。（蜀(しょく)漢(かん)の）姜(きょう)維(い)が上(じょう)邽(けい)に赴き、（魏(ぎ)を裏切った）文(ぶん)欽(きん)が寿(じゅ)春(しゅん)に拠ったのも、いずれも利を得ようとして深入りして失敗したもので、これは戒めとすべき最近の出来事です。わが国では嘉(か)平(へい)年間以来しきりに難事がありましたので、いま為すべきは国家を安らかに鎮めることであって、上下ともに優しくいたわり合い、本来の農事に務め、民衆を懐柔すべきであって、外に利を求めて動くときではありません」と、説いた。司馬昭は王基から続けて送られてくる手紙を見て、疑わしく思うようになり、諸軍に対して、すでに出発した者はひとまずその場に留まって次の指令を待つようにと命じた。王基はさらに司馬昭に手紙を送り、「昔、漢(かん)の高(こう)祖(そ)は、かつての六国の子孫を諸侯として封(ほう)じるという酈(れき)食(い)其(き)の策を採用すると決め、その直後に張(ちょう)良(りょう)に止められて、ただちに決定をくつがえしました。私は張良には才能も思慮の深さも及びませんが、ただ襄陽からの報告に酈食其のような誤謬があるのを恐れるものであります」。司馬昭はそれで軍を派遣するのを取りやめ、王基に、「物事に対処しようとするときに、多くの者は理屈を曲げても大勢に従おうとし、はっきりとした事実や理(ことわり)を示す者は少ない。貴君の忠愛にはまことに感じさせるものがあり、手紙を見るごとに、その主旨にすぐに納得させられる」と言って、軍を動かすことをやめた。果たして�ｹ由は魏に降らなかった。胡烈は胡(こ)奮(ふん)の弟である。

［261-02］秋、八月甲(こう)寅(いん)、司馬昭に前と同じく爵位を進めるよう命じたが、司馬昭はやはり受けなかった。

【補足】（1）長(ちょう)江(こう)中流部で呉(ご)と魏(ぎ)の若干の駆け引きがあった。呉は投降すると見せて魏の軍団を引っ張り込んで打撃を与えようとしたのだろう。司(し)馬(ば)昭(しょう)はそれに乗せられそうになって、王(おう)基(き)に止められた。荊(けい)州(しゅう)の軍事を任された王基［→通鑑259-05］が、さっそくよい仕事をしたのである。司馬昭には、先の皇帝が思いがけず刺殺されるという事件による失点を取り戻そうと若干の焦りがあったのかもしれない。

（2）あいかわらず司馬昭は謙譲の美徳を発揮し続けている。

【訳文】

［261-03］冬、十月、漢(かん)主(しゅ)［蜀(しょく)漢(かん)の皇帝］は董(とう)厥(けつ)を輔(ほ)国(こく)大(だい)将(しょう)軍(ぐん)に、諸(しょ)葛(かつ)瞻(せん)を都(と)護(ご)衛(えい)将(しょう)軍(ぐん)にして、ともに尚(しょう)書(しょ)の事を司らせ、侍(じ)中(ちゅう)の樊(はん)建(けん)を尚(しょう)書(しょ)令(れい)とした。このとき中(ちゅう)常(じょう)侍(じ)［宦(かん)官(がん)］の黄(こう)皓(こう)が政事に関わり、董厥も諸葛瞻もそれを矯正できずにいた。士(し)大(たい)夫(ふ)の多くが黄皓に付き、ただ樊建だけが黄皓と交流がなかった。秘(ひ)書(しょ)令(れい)の郤(げき)正(せい)は長く朝廷内の仕事に就き、黄皓とは隣り合わせに住んで三十年余りを過ごしたのだが、心静かに己を守り、書物を読むことを楽しみとしていた。黄皓には好かれなかったけれども憎まれもしないで、禄は六百石以下でしかなかったけれど、禍(わざわい)にかかることもなかった。漢主の弟の甘(かん)陵(りょう)王(おう)の劉(りゅう)永(えい)は黄皓を憎み、黄皓はそれを譖(そし)ったために、十年の間皇帝に会えずにいた。

このころ呉(ご)主(しゅ)は五(ご)官(かん)中(ちゅう)郎(ろう)将(しょう)の薛(せつ)珝(く)を蜀漢に友好使節として派遣した。薛珝が帰ると呉主は蜀漢の政事の状況を尋ねたので、「皇帝は暗愚で自身の過ちを知りません。臣下は身の安全を保って罪を免れようとするだけで、その朝廷では直言を聞くことがなく、野を経て行くと民衆は皆しょぼくれた顔色をしています。臣(わたくし)はこのような話を聞いています。ある家に燕や雀の母子がいて楽しく暮らしていて、これこそ最上の安らかさであると思っていました。煙突が壊れて棟木が燃えだしたとき、燕や雀は呑気に禍は自分たちには及ばないと思っていました。蜀漢はいままさにそのようであるのでしょう」。薛珝は薛(せつ)綜(そう)の子である。

【補足】ここには蜀(しょく)漢(かん)の状況が記されている。呉(ご)の使節の報告は的確であった。

【訳文】

［261-04］この年、鮮(せん)卑(ぴ)族(ぞく)の索(さく)頭(とう)部(ぶ)の大(たい)人(じん)［指導者］の拓(たく)跋(ばつ)力(りょく)微(び)が、初めてその子の沙(さ)漠(ばく)汗(かん)を魏(ぎ)に入(にゅう)貢(こう)させ、そのまま人質として留まらせた。拓跋力微の先祖は北(ほく)荒(こう)［シベリア］に棲んでいて、南(なん)夏(か)［中国］と関わることはなかった。可(か)汗(かん)［遊牧民の王］の拓(たく)跋(ばつ)毛(もう)のときに初めて強大になり、三十六国、九十九姓の族人たちをまとめあげた。その五世後の可汗の拓(たく)跋(ばつ)推(すい)寅(いん)のときに南下して大(だい)沢(たく)に遷(うつ)り、七世後の可汗の拓(たく)跋(ばつ)隣(りん)のときにその兄弟七人と族人の乙(いつ)旃(せん)氏、車(しゃ)惃(こん)氏とともに人民を十族に分けて統治した。拓跋隣は老いると、その位を息子の拓(たく)跋(ばつ)詰(きつ)汾(ぷん)に授けて南に遷らせ、かつて匈(きょう)奴(ど)がいたところに居住するようになった。拓跋詰汾が死ぬと、拓跋力微が立ち、また移動して定(てい)襄(じょう)の盛(せい)楽(らく)に居場所を定めた。その部衆は次第に盛んになり、周辺の諸部は皆畏れて服するようになった。

【補足】（1）北方のシベリアからモンゴルのあたりの広大な地域にはいろいろな遊牧民がいた。ここには鮮(せん)卑(ぴ)族(ぞく)の拓(たく)跋(ばつ)氏(し)の十五世ほどの動きがごく短く記されている。鮮卑族の始まりは、遠く漢(かん)の初めのころに遡り、当時は遊牧民の王者として匈(きょう)奴(ど)が君臨していた。東(とう)胡(こ)と呼ばれる人々は匈奴との戦いに敗れ、生き残った一部が烏(う)桓(がん)山(ざん)や鮮(せん)卑(ぴ)山(ざん)に逃れ、そこから烏桓族と鮮卑族が生まれた。匈奴は強盛を誇り、漢と何度も軍事衝突を繰り返した。漢が衰えて三国時代に向かうころには、匈奴も衰亡して北方は動乱期に入った。遊牧民はひとつにまとまることなく、匈奴の残党、烏桓、鮮卑のほかに、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)と呼ばれる人々が各地を移動しつつそれぞれの道を歩んだ。蜀(しょく)漢(かん)の姜(きょう)維(い)の動きのなかに羌族から穀物を得ていたと記されていたが［→通鑑256-06］、羌族は蜀漢に軍事的に押さえつけられて搾取されていた。こうした遊牧民たちは「五(ご)胡(こ)」と総称され、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌がその内訳とされるが、実態はもっと多様であったようだ。鮮卑族はここに記されているように、長い時間をかけて勢力を拡大しつつ南へと移り、とうとう魏と境を接するところにまで近づいてきた。

（2）『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』はこうした「五胡」の動きを中国との接点がある場合に記していて、この記事より前には10年前に短い記載がある。次にそれを見ておこう。

【訳文】

［251-11］嘉(か)平(へい)三年［251年］八月、これより前のこと、（二つに分裂した匈(きょう)奴(ど)のうち南側の）南(なん)匈(きょう)奴(ど)は、自分たちの始祖は漢(かん)朝(ちょう)の皇室の甥であったと自称し、劉(りゅう)姓を名乗っていた。曹(そう)操(そう)は単(ぜん)于(う)［匈奴の王］の呼(こ)廚(ちゅう)泉(せん)を鄴(ぎょう)に留め、その衆を五部に分けて（中国内の）并(へい)州(しゅう)の域内に住まわせた。一方で、単于の於(お)扶(ふ)羅(ら)の子の左(さ)賢(けん)王(おう)の劉(りゅう)豹(ひょう)は（中国の外にいて）、匈奴の左(さ)部(ぶ)を率いて、その部族が最強であった。

城(じょう)陽(よう)太(たい)守(しゅ)の�ｹ(とう)艾(がい)が朝廷に次のように言った。「いまは南匈奴の単于を国内に住まわせていますが、羌(きょう)や夷(い)の諸族は統一を失い、主(あるじ)を持たずに離合集散を繰り返しています。いまの単于は次第に尊厳を失い、外にいる者の威が次第に重くなっています。胡(えびす)たちには慎重に備えなければなりません。劉豹の部族の中にはそれに反する胡がいると聞きます。それを利用して劉豹の国を二つに分け、その勢いを二分するのがよろしいでしょう。漢の時代に去(きょ)卑(ひ)は中国に対して大きな功績がありましたが、その子はそれを継いでいませんので、その子に立派な称号を与えて雁(がん)門(もん)に住まわせ、向こう側から離反させるのがよいでしょう。劉豹の力を弱めるとともに、かつての功績を追って顕彰することにもなります。これは国境を守る長期的な策となりましょう」。また次のようにも述べた。「中国の民衆とともに住んでいる羌(きょ)胡(こ)は順次外に出し、その者たちに廉(れん)恥(ち)［漢文明的な道義］を教えて、悪いことをしようとする路を塞ぐべきです」。司(し)馬(ば)師(し)はこれらを全て採用した。

【補足】（1）ここに記されているのは、次第に国内に入り込んできた遊牧民たちの扱いで、�ｹ(とう)艾(がい)は、それを国境の外に出し、なおかつ遊牧民が一つにまとまらないように干渉すべきだと主張している。国内に住まわせていると、いずれ動乱の要因となることを心配したのである。�ｹ艾は蜀(しょく)漢(かん)の姜(きょう)維(い)を撃退した人物である［→通鑑256-06］。

（2）最後に挙げられている司(し)馬(ば)師(し)は司(し)馬(ば)昭(しょう)の兄。司馬氏が魏(ぎ)朝(ちょう)を乗っ取る企みは諸(しょ)葛(かつ)亮(りょう)のライバルであった司(し)馬(ば)懿(い)に始まり、その長男の司馬師、そして弟の司馬昭へと引き継がれてきた。

（3）これらの遊牧民の動きは、太平洋の南の海上にぽこぽこと風の渦が生まれてきている状況にたとえられるであろうか。そのどれかが熱帯低気圧となり、さらにはスーパー台風となって猛威をふるうかもしれないのだが、いまの時点では全く予想がつかない。�ｹ艾は早くに警告を発した一人である。ここで『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)鑑(かん)賞(しょう)』を第77巻から読み始めたのは、実は拓(たく)跋(ばつ)族(ぞく)に関するこの記事をぜひとも取り上げておきたかったからである。

（4）以上ここまで読んできたのは、三国時代の終わりに近い6年間の記録である。いまから1700年余りも昔でありながら、実に様々な事が起きている。『資治通鑑』に記されているのは、国家の上層部の動きにほぼ限られ、歴史のごく一部でしかない。このころの日本は『魏(ぎ)志(し)倭(わ)人(じん)伝(でん)』に記されている時代で、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の卑(ひ)弥(み)呼(こ)の使者が魏の都の洛(らく)陽(よう)に行ったのは、この巻の叙述に先立つ18年前であった。人間の本質は魏でも邪馬台国でも現代でもさほど変わるものではないだろうから、邪馬台国が文字による記録を残していたならば、この巻で見たのと同等の数々のごたごたが邪馬台国とその周辺にあったことがわかるであろう。邪馬台国と同様に自身の歴史を文字で記してこなかった拓跋族のこのころまでの動きはわずかに知れるだけであるのだが、これよりしばらく後に我々は拓跋族に関する大量の文字記録を見ることになる。むろんそれとても中国中心の価値観に基づく叙述であるから、必ずしも真実を見せてくれるものではないのだろ。

■主要参考文献

公田連太郎・加藤繁訳註『国訳資治通鑑』（続国訳漢文大成）、国民文庫刊行会（1928-30年）

司馬光編著『資治通鑑』、中華書局（1956年）

司馬光著、頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』（中国古典文学大系14）、平凡社（1970年）

田中謙二『資治通鑑』（中国文明選1）、朝日新聞社（1974年）

公田連太郎訳註『国訳読通鑑論』（続国訳漢文大成）、国民文庫刊行会（1932年）

後藤基巳・山井湧編訳『明末清初政事評論集』（中国古典文学大系57）、平凡社（1971年）

今鷹真・井波律子・小南一郎訳『正史三国志』（ちくま学芸文庫）、筑摩書房（1992-1993年）

房玄齢等撰『晋書』、中華書局（1974年）

松丸道夫他編『中国史2――三国〜唐』（世界歴史大系）、山川出版（1996年）

川勝義雄『魏晋南北朝』（講談社学術文庫）、講談社（2003年）

川本芳昭『中華の崩壊と拡大――魏晋南北朝』（中国の歴史5）、講談社（2005年）

丸橋充昭『江南の発展――中国の歴史2』（岩波新書）、岩波書店（2020年）

古松崇志『草原の制覇――中国の歴史3』（岩波新書）、岩波書店（2020年）