第2章 713～724年――杜甫の少年期
開元元年［713年］～開元十二年［724年］ 杜甫2歳～13歳。
■資治通鑑 巻210［杜甫2歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が2歳になった開元元年［713年］の記事を読む。太平公主と玄宗皇帝との関係は緊迫の度合いを増していた。
【訳文】
［713-02］開元元年一月、吏部尚書の蕭至忠を中書令にした。
【補足】［通鑑712-07で、太平公主に靡いた人物として記されていた蕭至忠は中書令、つまり宰相に昇進した。めでたく念願成就となったのである］
【訳文】
［713-11］六月。太平公主は上皇の権威に依拠して権力を操り、身勝手な政治を行ったことから、皇帝との間に軋轢が生じていた。七人いる宰相のうち、五人が太平公主の息のかかった人物で、文官も武官も大半が太平公主に付いた。竇懷貞、岑羲、蕭至忠、崔湜と、太子少保の薛稷、雍州長史の新興王李晋、左羽林大将軍事の常元楷、知右羽林将軍の李慈、左金吾将の李欽、中書舎人の李猷、右散騎常侍の賈膺福、鴻臚卿の唐晙、および僧の慧范たちは皇帝の廃立［玄宗皇帝を廃して、別の者を皇帝にする］を相談し、、宮人［宮中に務める女性］の元氏と謀って、赤箭粉［漢方薬］の中に毒を混ぜて皇帝に飲ませようとした。……
王琚は皇帝に、「事態はさし迫っています。速くこちらが動かなくてはなりません」と、言った。左丞の張説は東都［洛陽］から人を遣わして皇帝に佩刀を献上した。その意は、皇帝に断ち割る決断を促すものであった。
荊州長史の崔日用は奏上する用向きがあって（上京して）皇帝の前に進み出ると、「太平公主様はかねてから反逆を謀っています。陛下が（三年前に）東宮におられましたときにはまだ皇帝の臣下でありましたから、不埒な者を討とうとしても、謀を用いなければなりませんでした。いまはすでに皇帝として臣下に君臨しておられるのですから、一枚の制書をお下しになれば、従わない者は一人もいません。万が一にも奸人たちが志を得てしまってからでは悔いても遅いのですぞ」と言った。皇帝は、「誠にそなたの言う通りである。ただ、上皇様を驚かしてしまうことを恐れているのだ」。崔日用は、「天子の孝は天下を安らかにすることにあるのではありませんか。もしも奸人どもが志を得てしまったなら、国は廃墟と化し、孝などというものは存在しなくなってしまいます。まずは北軍［近衛兵の一部］を指揮下に置き、それから逆党を制圧するのです。そのようにすれば、上皇様を驚かすことなく事を収められるでありましょう」。皇帝は同意し、崔日用を吏部侍郎にした。
【補足】［（1）上皇は妹の太平公主のほぼ言いなりで、太平公主はますます増長し、玄宗皇帝との対立は深まっていた。史書は対立関係になっていることをよく「隙有り」と記す［ここでは「軋轢が生じた」と訳している］。これは具体的な事柄を明示しないでも使える便利な表現である。歴史家は事件を後から遡って、対立が表面化し始めたと推測される事象を見出したときに、後知恵で「隙有り」と記述することが多いようだ。太平公主と玄宗皇帝の場合は、早くから対立関係が生じていたのは間違いなく、ただ両者は叔母と甥の関係で、とりわけ上皇は穏便に事が収まってほしいとの思いが強かったので、この時点になって、「隙有り」の状態がもはや隠せないまでになっていたのだろう。（2）ここには太平公主側が玄宗皇帝の毒殺まで計画していたことが記されている。ただし、歴史の記録は必ず勝者の側が残すものであるために、たとえ関係者が犯罪を認めたとしても、必ずしも信用できない。（2）王琚と張説の名はすでに通鑑712-23で見ている。玄宗皇帝に近い人物で、張説は太平公主に嫌われて洛陽に出されていた。（3）崔日用の登場は重要な意味を持っている。かつて中宗皇帝が韋皇后によって毒殺された後で、当時は東宮にいる一皇子にすぎなかった玄宗皇帝は太平公主と協力して武力を行使して韋皇后一派を亡ぼしたのだが、その計画を練ったのが崔日用であった。崔日用はその後、太平公主一党と対立して地方に出されていた。（3）玄宗は「上皇を驚かす」ことをさかんに心配している。これは単純に上皇をびっくりさせるという意味ではない。玄宗が最も恐れていたのは、皇帝と上皇が衝突するという構図になってしまうことであった。軍事権は上皇のもとにあったので、崔日用は、自由に動かせる武力をまず確保しておくよう皇帝に忠言したのである］
【訳文】
［713-11つづき］秋、七月、魏知古は太平公主に、「この月の四日に乱を起こしましょう。常元楷と李慈が羽林兵を率いて武徳殿に突入するとともに、竇懷貞、蕭至忠、岑羲等が南牙で兵を挙げてそれに応じるのです」と、告げた。
皇帝は、岐王の李範、薛王業、郭元振、および竜武将軍の王毛仲、殿中少監の姜皎、太僕少卿の李令問、尚乗奉御の王守一、内給事の高力士、果毅の李守徳等とともにそれらの者を誅殺する計画を定めた。……
甲子［三日］、皇帝は王毛仲に命じて、閑厩の馬と兵士三百人余りを取り、武徳殿から虔化門に入った。常元楷と李慈を呼び寄せ、まずその二人を斬った。次いで内客省に行って賈膺福と李猷を擒にして引き出し、朝堂で蕭至忠と岑羲を執らえ、全員を斬った。竇懷貞は逃げて溝の中に入り、自分で縊死したので、その屍を切り刻み、その姓を毒と改めた。
上皇は変を聞きいて承天門楼に登った。郭元振は、「皇帝陛下は誥［上皇の命令］を奉じて竇懐貞等を誅殺しただけで、他には何事もありません」と、奏上した。続いて皇帝が楼上に至った。上皇は竇懐貞等を断罪する誥を下し、天下に赦令を出し、ただ反逆の徒の親党だけは赦さないとした。万年県の獄に捕まった薛稷は死を賜った。
乙丑、上皇は、「今からは軍国政刑はすべて皇帝が処分する、朕は何もすることなく志を養い、素心［退隠の思い］を遂げるまでである」との誥を下した。この日のうちに百福殿に移った。
【補足】［（1）殺すか殺されるかの緊迫した状況下で、太平公主側は7月4日をXデーと決め、玄宗皇帝側はその前日に事を起こした。ただし、これは勝者側の残した記録に基づくもので、相手側が仕掛けようとしたのでやむをえず先手を打ったということにして、自分たちの行為を正当化しようとしたと見るべきかもしれない。ここに記述されているように、玄宗皇帝は武力行使の先頭に立って、敵側とみなした者をその場で次々に斬り捨てている。これがこのころの宮廷内抗争のやり方で、勝った側が正義なのである。（2）竇懐貞の姓を毒に改めたとあるのは、反逆者と認定した者に不名誉な姓を与えるのがこのころの流行りであった。竇懐貞等を断罪する上皇の命令は後出しであったのだろう。（3）上皇は一切の権限を手放して無為に過ごすと宣言した。それが前々からの思いであったというのは、半ば以上は本音であったのだろう。上皇は、中国史上唯一の女帝を母に持ち、本人も含めて兄弟全員が母によって生殺与奪の権を握られた状況下て過酷な半生を生き、母の呪縛からほどかれたと思ったら、兄は妻に毒殺され、次いで妹の太平公主と息子の玄宗皇帝の争いに脅かされたのであるから、権力抗争の場から一刻も早く逃れたかったに違いない。（4）なお、蕭至忠の運命はすでに通鑑712-07で予言されていた。後世の歴史家は結果を知っているので、あたかも事前にわかっていたことであったかのように史書を編集することが往々にしてあるので、単純に感心してはいけない］
【訳文】
［713-11つづきのつづき］太平公主は逃げて山の寺に入り、三日でそこから出て、家で死を賜った。公主の諸子やその一党の者の死者は数十人であった。（太平公主の息子の）薛崇簡だけはしばしば母を諫め、鞭で打たれていたので、特に死を免れて、（皇帝と同じ）李の姓を賜り、官爵はもとのままとされた。太平公主の家を没収したところ、財貨が山積みで、珍しい宝物は宮中の倉にあるものに匹敵し、飼われていた羊や馬は多数で、貸し出した銭の利息は数年経っても回収できないほどであった。……
先に皇帝は竇懷貞等を誅殺しようと考えたときに、崔湜を呼んで、心腹を託そうとした。そのとき、崔湜の弟の崔滌は兄に言った。「陛下からのお尋ねがあったなら、隠し事をしてはいけません」。崔湜はそれに従わなかった。竇懐貞等がすでに誅殺されると、崔湜と右丞の盧蔵用はともに太平公主に私的に奉仕したことをもって、崔湜は竇州に、盧蔵用は瀧州に流された。新興王の李晋は死刑の場に臨んで、「もともとこれを謀ったのは崔湜であったのだ。いま私は死に、崔湜は生きている。これは冤罪である」と、嘆いた。また、有司［役目の者］が宮人の元氏を取り調べると、元氏は崔湜も一緒に毒殺の相談をしたと白状した。それで崔湜には追って荊州で死を賜った。……
己巳、功臣の郭元振等を賞して、官爵、邸宅、金帛などをそれぞれに与えた。高力士は右監門将軍知となって内侍省［皇帝の私的な空間に仕える宦官の職場］の事を統率することになった。唐の初めに太宗皇帝が制度を定めたときには、内侍省には三品官を置かず、（下位の者であるしるしの）黄色の衣を付け、食事が支給されるだけで、その役割は門を守り、命令を伝えることだけとされた。武則天は女性であったが、宦官が政事に関わることはなかった。中宗皇帝のときに嬖倖［皇帝の身近に仕える女性たち］が極めて多くなり、宦官の七品以上が千人を越えた。それでも（高位の者であるしるしの）緋色の衣を付ける者はなお少なかった。高力士は、皇帝が（まだ皇太子になる前に）籓邸にいたときから、心を尽くして奉仕し、皇太子になってからは内給事になり、蕭至忠や岑羲を誅殺した功績を賞してここに至ったのだった。宦官はこれより次第に増えて三千人を越え、三品や将軍になる者が多くなり、緋色や紫色の衣を着る者が千人を越えるまでになった。つまり、宦官が盛んになることはこのときに始まったのである。
【補足】［（1）事件後の処置が記されている。太平公主は家で死を賜ったとあるのは、罪人として処刑されるのを免除されただけましなのである。太平公主が莫大な私財を貯め込んでいたのは事実であったのだろうが、『資治通鑑』の記事を見直して太平公主の政治がどれほど悪かったのかという具体的な記事は実は見当たらない。ここでことさらに太平公主の悪さを印象付けようとしているのだろう。武則天、韋皇后、太平公主が権力を掌握した時期を、昔の中国の史家には女性が中心にいたというだけで「悪」と決めつける傾向が強くあるので、「悪」であるとする論拠を提示する必要性はさほど考えていなかっただろう。それでも玄宗皇帝の武力行使を正当化するには太平公主の蓄財が度外れたものであったと書いておかないと落ち着かない気がしたのだろう。（2）崔湜は機敏に力のある側に付こうと振る舞い、最後に判断を誤ったのだろう。崔湜でさえ間違えるのだから、玄宗皇帝側が敗者となる可能性も十分に高かったのだろう。（3）高力士に関連して、唐朝の宮中において宦官が増え、地位が高まって行ったことが記されている。去勢された男性の宦官は、中国の皇帝政治においては必要不可欠のものとされ、漢の時代に宦官が国政に介入して大変な害をなしたことから、その後の王朝は宦官が権力を握らないように注意していた。玄宗皇帝が高力士を特例で優遇したことから、宦官が次第に大きな力を持つようになり、唐朝の後半には国政に甚だしい害を為すようになるのである］
【訳文】
［713-20］……十月甲辰、皇帝は渭川で狩りをした。皇帝はかねてから同州刺史の姚崇を宰相に用いようと思っていた。しかし、（宰相の）張説は姚崇を嫌い、御史大夫の趙彦昭を使って皇帝の前で姚崇を批判したことがあった。皇帝はその意見を納れなかったので、さらに殿中監の姜皎を使って皇帝にこのように告げさせた。「陛下は河東総管には誰がよいのか、なかなかよい者がいないと常々困っておられますが、臣はいまよい人を思いつきました」。皇帝がそれは誰かと問うと、姜皎は、「姚崇は文武の才を兼ね備え、まさにぴったりの者です」と、言った。皇帝は、「それは張説の考えであろうな。そなたが我が面前で欺こうとするのなら、その罪は死に当たるぞ」と、言った。姜皎は頭を地に打ち付けて謝った。
皇帝は狩りの場から中使［宦官の使者］を派遣して姚崇を行在［皇帝の宿舎］に呼んだ。姚崇が来ると、皇帝は呼び寄せて会い、すぐに兵部尚書同中書門下三品［宰相］に任命した。
姚崇は政務に極めて明るく、宰相を務めるのは三度目で、いつも兵部尚書を兼務し、辺境の地の事情についても詳しく、士馬や武器の備えについてまですべて記憶していた。
玄宗皇帝は即位した当初は、精力的に政治に取り組み、事あるごとに姚崇に尋ね、姚崇は響くように応じて答え、他の同僚はただ頷くだけであった。それで皇帝はもっぱら姚崇に事を委ねた。
【補足】［（1）武力抗争が終結すると、玄宗皇帝は人の入れ替えを順次行った。武に優れた者と文に優れた者は必ずしも一致しない。ここには実務に長けた姚崇を宰相に用いたことが記されている。姚崇はかつて武則天によって宰相に抜擢され、睿宗のもとでも一度宰相になり、太平公主とは対立して地方に出された。玄宗皇帝は狩りのために郊外に出た折に、近くにいる姚崇を呼んで宰相に任命した。武力抗争の功績をもって宰相になっていた張説が姚崇を嫌ったのは、姚崇の才能を恐れたからである。玄宗皇帝はそのあたりのことも承知していて、張説はその後、朝廷の要職からはずされてしまう。（2）ここで、玄宗皇帝は即位した当初は精力的に政治に取り組んだと書かれているのは、史書を読むような人は玄宗皇帝の後半生について当然知っているとの前提で注意を促しているのである］
【訳文】
［713-21］……姚崇が順に従って郎吏を昇進させる人事について皇帝に奏上した。皇帝は建物の天井の方を眺めていた［奏上した書面を見なかったということ］。姚崇は何度か奏上の件について申し上げた。しかい、皇帝からはついに応答がなかった。姚崇は懼れ、小走りで退いた。
朝議が終わると、高力士が皇帝を諫めた。「陛下は国政の全てを見られるようになったばかりでございます。宰相や大臣が陛下の前で事を奏したならば、ただちに可否をお答えするべきではないのでしょうか。一切御覧にもならないというのでよろしいのですか」。皇帝は言った。「朕は姚崇に政務全般を任せたのだ。大きな事があったなら奏上してもらってともに議論をしよう。郎吏は官僚としても低い地位の者だ。それくらいのことでいちいち朕を煩わすまでもない」。
たまたま高力士が皇帝からの使いで省中に行った折に、姚崇のために皇帝のこの言葉を伝えた。姚崇は喜び、これを聞いた者は皆が皇帝が人の上に立つ君主としての振る舞い方を知っていると感服した。
曲江出身の張九齢はこのとき左拾遺であったが、姚崇が皇帝によって重く用いられ、信任されているのを見て、諂躁［浮ついたおべっか使い］を遠ざけて純厚［思慮深く節操のある者］を進めることを皇帝に助言するように記した文章を姚崇に提出した。……姚崇はそれをよいとして聞き入れた。
【補足】［（1）姚崇と玄宗皇帝とのあるエピソードが記されている。これは皇帝と宰相とのあるべき理想の関係を示したものとして非常によく知られている。玄宗皇帝がおおらかな人柄であることもよくわかる。また、高力士がよい役回りをしている。高力士と玄宗皇帝との信頼関係は厚く、玄宗皇帝が本心を漏らせるほぼ唯一の相手であった。そして、高力士がきっと姚崇に伝えるであろうことを意識して、玄宗皇帝は心の内を明かしている。玄宗皇帝と高力士の間には、こうしたちょっとよい話がたくさんある。ただし、高力士を重用したことが後に宦官を増長させてしまう大きな原因になったのは玄宗皇帝の落ち度であった。（2）最後に名が挙がっている張九齢は、この後、玄宗皇帝を支える名宰相として活躍するようになり、王維、孟浩然、杜甫にも大きな影響を与える］
【訳文】
［713-25］十一月、中書侍郎の王琚は皇帝と親密な関係にあって、他の群臣の及ぶところではなかった。会うと必ずにこやかに語り合い、王琚は夜になってから退出した。時には王琚が休暇の日であっても中使を遣わして召すこともあった。ある人が皇帝に言った。「王琚には策略を縦横に巡らせる才能があって、これとともに禍乱を定めることはできるでしょう。しかし、これとともに平和の世を守るのは難しいでしょう」。皇帝はそれより王琚とは距離を置くようになり、この月に、御史大夫を兼務したままで北辺の諸軍を監督する役に就けた。
【補足】［王琚は通鑑713-11などで見たように、太平公主を制しなければならないといちはやく玄宗皇帝に助言した人物であった。状況に応じて人を使い分けられるのが優れた皇帝であって、このころの玄宗皇帝の対応力はみごとであったといえるだろう。玄宗皇帝は情にも厚い人物であったので、後年は人の用い方を誤ることが多くなる］
【訳文】
［713-30］十二月、姚崇が宰相になったために、紫微令の張説は恐れを抱き、密かに岐王［玄宗皇帝の弟の李範］のもとに行き、誠実に仕える旨を申し出た。
ある日、姚崇は便殿で皇帝に会ったときにわずかに足をひきずっていた。皇帝は、「足に疾があるのか」と尋ねた。姚崇は、「臣に腹心の疾がありまして、足の疾ではございません」と、答えた。「それは何だ」。「岐王様は陛下の大切な弟、張説は陛下の輔臣であります。ところが、張説は密かに車に乗って岐王様の家に入っています。誤るところがあるのではないかと恐れ、それで腹心に憂いがあるのです」
癸丑、張説を相州刺史に左遷した。
【補足】［（1）張説は通鑑713-20で見た通り、姚崇が起用されるのを阻止しようとしていた。姚崇が宰相として確かに有能であるのを見て、張説は己の居場所がなくなるのを恐れ、玄宗皇帝の弟の李範に接近した。それはかなり危うい行為であった。（2）世襲制の逃れられない大きな欠点は、権力の継承を巡って、兄弟、親族間で必ず争いが起こることである。熾烈な宮廷内抗争を経たいま、兄弟をどのように処遇してゆくのか、玄宗皇帝にとって大きな課題であった。睿宗皇帝には6人の息子があって、1人は早くに亡くなっていた。玄宗皇帝は三番目の子で、長男、次男を差し置いて皇帝になった。張説が李範に近づいたのを見て、姚崇はすぐに手を打たないと一大事になると考えた。ここでも玄宗皇帝の対応は早く、張説をすぐに都から追放した。一方で、兄弟に対しては極めて愛情深い対応をしてゆくようになる。武力抗争のときに活躍した人物もこうして順次選別され、政権の中枢から遠ざけられてゆくのだった］
■［02-杜-01］祭外祖祖母文
【解題】杜甫は、7歳で詩文を作り始めたと作品番号01-杜-01で記していた。それまでどのような幼少期を過ごしたのか、わかることはわずかしかない。特に母については杜甫は語ることがなく、生母の崔氏は、杜甫に母の記憶を残す前に亡くなったと推測されている。父の杜閑は盧氏を後妻として迎え、杜甫の四人の弟は盧氏の子であろうとされている。杜甫には少なくとも一人の妹がいた。
ここで読むのは、杜甫の母方の家の受難について記した文章である。唐の時代には南北朝時代からの貴族社会の枠組みがなお根強く残っていて、例えば、盧、崔、鄭、王の四姓が最も高い家柄であるとするといった血筋による序列が依然として強く意識されていた。低い家柄の人は四姓のいずれかと姻戚関係を結んで箔を付けようとし、唐の皇室の李氏でさえ例外ではなかった。皇室は崔一族と密接な姻戚関係を築き、杜甫の生母は崔氏の娘であったから、結果として、杜甫は皇室と間接的に結びつきがあった。
武則天の時代に皇族の李氏は大変な迫害を受けた。武則天が皇位に就くに当たっても、それを維持するに当たっても、最も警戒しなければならない相手は皇族であったからだ。武則天は危険を察知すると自分の子であっても容赦しなかった。武則天の時代に多数の李氏が命を奪われ、李氏と姻戚関係の深い杜甫の母方の崔氏にも甚大な影響が及んだ。ここで読む杜甫の文章にはそうしたことが背景としてある。
最初に鄭宏之の名が挙げられている。杜甫の母方の祖母には少なくとも二人の娘があって、一人は杜閑に嫁いで杜甫を生み、もう一人は滎陽の鄭氏に嫁いで鄭宏之を生んだ。杜甫と鄭宏之は従兄弟であって、二人とも少年のころに母を喪った。この文章は二人にとって共通の祖母について記している。
【訳文】
この年この月この日、滎陽の鄭宏之と京兆の杜甫の二人の外孫は、謹んで寒食［冬至から105日目の節句］の御馳走をもって奠え、母方の祖父母の霊にお告げする。
嗚呼、いま我らの母方の祖父母の家には祭祀をする主がいない。晋の時代に我が子を棄てざるを得なかった鄭伯道に何の罪があったというのか、晋の時代の魏舒は孤児となったときに母方の祖父母によって育てられた［我等二人は棄てられたわけではないのに、母方の祖父母はいない］。
過ぎ去った遥か昔、艱難を追思すれば、まさに太后［武則天］が政治を行ったときに、内宗［皇族の李氏］は縷のようにされてしまった。母方の祖母は、紀王であった李慎［太宗皇帝の子］の孫であり、母方の祖父は、舒王であった李元名［高祖皇帝の子］の孫であった。二人とも高貴な親類に囲まれて暮らしていたのだが、仇敵が狂ったように集まり、祖母は一人ぽっちとなって世に沈み、祖父は羽を折られた鳥のように鳴いた。惙惙として心に憂い、踽踽として独り歩まねばならなかった［李慎も李元名も武則天によって殺害されたことをいう］。悲しいことに鳳凰［皇族の李氏］はたちまちに飛び去り、讒言は鸚鵡のように何度も繰り返されたのだった。
祖母の父［李慎の子の李悰］が禍に遇い、祖母の母［李悰の妻の周氏］が獄に下されたときに、牢獄は暗く深く、役人はいずれも酷薄であった。祖母は襤褸を纏い草鞋を履いて、こっそり食事を差し入れに行った。天の秘められた定めはどのようなことであったのか、長く衰敗を経てついに祖母もまた亡くなってしまったのだった。李悰の事績とその名は燕公［張説］の筆による追悼文に残された。
嗚呼、哀しいではないか。（祖母を同じくする）鄭宏之と杜甫は母方の兄弟に従い、両家ともにそれに依拠し、鄭宏之も私も少年ときにともに苦労し、慈顔［母の顔］とは永遠に別れたのだった。
この世に親の愛に勝るものはなく、親がいなければ帰すべきところを知らない。我らは過ぎ去った昔の光輝を恋い、助け合って卑賎のままではいないことを誓うものである。幸いにも聖主に遇えたいま、よい機縁によって、名を内外に顕わして、雄飛することを願うべきである。
洛陽の北、邙山の蔭に樹が並び風に霧が巻き、冷たい泉に珠玉のような水が湧いている。千年を経た古の道を人々は歩み去って帰らない。この三月の晴天に春の草は伸び、緑は増しつつあり、季節の事物が次々に起こるなかで、血の涙が流れ続けて止まることがない。奠を奉じていつまでも思いを寄せるものである。毎年ここにきて墓所を清掃し続けて歳月を送ろうと思う。
【補足】［（1）この文章をいつ書いたのかは明らかではない。三十代ごろであるのだろう。寒食節のころには先祖の墓参りをする習慣があり、杜甫と鄭宏之は従兄弟同士で連れ立って母方の墓に詣でた。（2）杜甫の母方の祖母は、太宗皇帝の子の李慎の子の李悰の娘であった。祖母の夫は崔一族で、高祖皇帝の子の李元名の孫に当たった。つまりは申し分のない家柄であったのだが、武則天に迫害されて父母を喪い、さらには自身も亡くなった。（3）「母方の祖父母の家には祭祀をする主がいない」と記されているのは、迫害された結果として祖父母の家を継ぐ者がいなくなってしまったからだろう。（4）後に見るように、杜甫は唐朝が栄えること常に切実に望んでいた。人民として皇帝に忠誠を尽くすべきであるという考えに縛られていたからだと冷ややかに見るのは、幾つかの意味でかなり的外れであろう。一つには、杜甫にとって皇室の受難は雲の上の話ではなく、自身の身近なところのものであったのだ。（5）洛陽の北の邙山は古くから墓地があり、よい家柄の母方の墓はきっと邙山の中でもよい場所にあったのだろう］
■［02-孟-01］孟浩然：尋白鶴巌張子容顔処士
【解題】この年の初めに都で科挙の本試験が実施され、孟浩然の親友の張子容［→作品番号01-孟-01］は合格し、すぐに官職を得た。襄陽に残った孟浩然は、いつのころか、張子容がかつて住んでいたことのある場所を訪ねた。この詩の題は、テキストによっては、『尋白鶴巌張子容隠居』になっているものがあって、「顔処士」の三文字が欠けている。ここではそれに従って張子容のかつての庵を訪ねた折の詩であるとの理解のもとに訳す。
【訳文】
白鶴巌の青い巌のあるあたり、
ある隠者［張子容］が棲んでいた庵がある。
階のもとには、水の食む石がそのまま残り、
林に包まれた谷には、いまは樵も漁師もいない。
歳月を経た青い松が老いてなお立ち、
風や霜に堪える竹がまばらに生えている。
このありさまを見て、昔のことを懐いつつ、
馬を廻らして吾が廬へと帰る。
【補足】［白鶴巌は、襄陽の町の東にある峴山から南方に連なる山地の一角にある。張子容は一時期そこに庵を結び、後に鹿門山に移ったのだろう。その庵の跡を訪ねた孟浩然は何を思ったのだろうか］
■資治通鑑 巻211［杜甫3歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が3歳になった開元二年［714年］の記事を読む。
【訳文】
［714-03］正月、旧来の制度では雅俗の音楽は全て太常寺［官署の名称］に属していた。玄宗皇帝は音律に通暁していて、太常寺は本来は礼楽に関する部署であるのだから、倡優雑伎［芝居や各種の芸能、つまり雅俗の俗の方の事柄］についてまで監督すべきではないと考えた。そこで、宮中に左右の教坊を設けて俗楽を教えることにし、右驍衞将軍の范及に命じてその長官にした。また、楽工［演奏家］を数百人選び、（皇居にある）梨園において音楽を自ら指導した。その楽工は「皇帝梨園の弟子」と呼ばれた。また、宮女にも音楽を習わせた。さらに、伎女を選んで宜春院に置き、その家に金品を支給した。
礼部侍郎の張廷珪と酸棗の尉の袁楚客等が以下のように上疏した。「陛下は盛りの年に達せられ、いまは経術［治世の学問］を学び、きちんとした君子を近づけ、素朴であるのをよしとし、軽薄な音楽を喜んだり度を超して遊猟を好んだりするのを戒めるべきときであります」。皇帝はその意見は用いることはできないとわかってはいたが、言路を開くために［臣下の者が意見を言いやすくするために］、その上疏を賞賛した。
【補足】［（1）歌舞伎などの俳優の世界を「梨園」というのは、ここに記されている玄宗皇帝の故事からきている。（2）玄宗皇帝は多芸多才で、そのもとで大いに文化が花開いた。しかし、文化に向ける関心の度合いが強すぎると、奢侈であったとして歴史家から批判されがちである。終わりのところに、「その意見は用いることはできないとわかってはいたが」［原文は「雖不能用」［用いる能ずと雖も］］とあるのは歴史家による挿入句で、後の玄宗皇帝の振る舞いからこのように（勝手に）推量しているのである］
【訳文】
［714-26］玄宗皇帝は風俗が奢靡に流れていると見て、秋、七月乙未に次のように指示した。「乗り物の飾りや金銀の器具は、しかるべき部署において潰し、軍国の用に供するように。珠玉や錦繍は殿前において焚くように。皇后以下の者は、衣服に珠玉や錦繍は付けないように」。戊戌にはまた次のように指示した。「百官が帯びる服や帯、および酒器、馬銜、鐙は三品以上の者には玉をもって飾ることを許し、四品以上は金をもって飾ることを許し、五品以上は銀をもって飾ることを許す。その他は禁止する。婦人の服飾はその夫や子に準じる。以前に錦繍をもって飾った衣服は黒く染め直すように。これからは珠玉をあしらったり、錦繍を織ったりしないように。違反する者は杖で一百回撃ち、工人はそれより一等減じる」。これによって両京［長安と洛陽］の織錦坊［織物工房］を閉鎖した。
【補足】［玄宗皇帝は率先して質素倹約であることを実践しようとした。儒学の観点からはこれはよいことであって、後に、玄宗皇帝が華美を好むようになることをもって史家は自身の戒めを守れなかったと批判する。しかし、ここに「織錦坊を閉鎖した」とあるように、経済発展の面からすると、質素倹約の号令は必ずしも民衆のためにはならないのだろう］
【訳文】
［714-37］九月戊申、玄宗皇帝は驪山の温湯に行った。
【補足】［驪山は長安の東25キロほどにある景勝地で、温泉が湧くことで皇帝の保養地として利用された。『資治通鑑』は玄宗皇帝がいつ驪山を訪れたのかを丹念に記録する。贅沢を戒める号令を出していながら、自身はほぼ毎年のように冬になると驪山に遊びに行っている。後に、玄宗皇帝は楊貴妃のために驪山に豪奢な華清宮を建てる］
■［02-杜-02］唐故万年県君京兆杜氏墓誌
【解題】杜甫は、生母の崔氏が亡くなった後は、地方に赴任する父に従うのではなく、生地とされる瑶湾村の近くの仁風里に住む父の姉妹のもとで育てられたようだ。
ここで読むのは、これより28年後の天宝元年［742年］に亡くなった叔母、つまり父の妹のために書いた墓誌である。表題にある「万年県君」は、叔母の夫［裴栄期］が官人であったことから贈られた称号である。「京兆杜氏」とあるのは、杜一族の本籍地は京兆［長安の一帯］にあると考えていたことによる。この墓誌を正確に訳すのは訳者の能力を超えるので、杜甫の少年時代のエピソードのあらましが知れる程度のごく大まかな訳文を示す。
【訳文】
世間においてある人物の行跡を記録して後の者に示そうとするときに、多くの場合に、その家の者はよく書いてもらおうと文筆家に贈り物をし、また文筆家は媚びてべんちゃらを言うので、百のうちどれが真だか偽だかわからないことになる。ここに金よりも輝く文字で、神に誓って正しいことを記そうとするのは、ひとかたならぬ徳を立て、真実の名を揚げ、女性の範となるべき人であると私が思う人のことで、それこそが万年県君なのである。
……［杜の家の遠い先祖から父、兄に及ぶまでの系譜を記す］……かくして万年県君は中和の気を受けて、徳を身に付けて成長し、優れた君子と巡り合った。すなわち河東の裴栄期を夫とした。裴栄期は済王府の録事参軍になり、同僚から敬われ、立派に勤めを果たした。万年県君はすぐに家風を習い、蔭で夫を支えるのを任として、婦道に純一に努め、常に礼法をもって振る舞い、立派な評判を得た。……［舅姑に仕え、子を育て、遍く人々に対して愛を注いだことを記す］……
天宝元年某月八日、万年県君は東京［洛陽］の仁風里で亡くなり、越えて六月二十九日に河南県の平楽郷里の原に埋葬をした。……［長男以下の名を挙げて、皆が悲しみに沈んだことを記す］……
ここに、万年県君の兄の子である杜甫は、喪に服してその徳を記し、それを石に刻むことにした。ある人は、「貴君は実の孝行息子でもないのに、どうしてそこまで孝義を尽くそうとするのですか」と杜甫に尋ねた。杜甫は泣いて答えた。「このようにするべき理由があるのです。万年県君に私は報いなければいけないのです」。
杜甫はこどものときに病に臥せ、姑たち［父の姉妹］が面倒を見てくれた。万年県君の子も同時に病気になった。女巫［女性の祈祷師］は万年県君に、「柱の東南に置いた者は吉となりましょう」と言った。そこには万年県君の子が寝ていたのだが、万年県君は杜甫と場所を入れ替え、そのために杜甫は生きられ、万年県君の子は死んでしまった。後になって杜甫は人からこのことを聞いた。それからは杜甫はこのことを人々に語り、ある人は涙を流して感動し、万年県君の諡を義としようと言った。
それは昔の魯国の義姑の故事によるものである。斉国が魯国に攻め込んだときに、一人の女が一人の子を抱き、一人の子の手を引いていた。斉国の兵士が近づくと、女は抱いていた子を地に棄て、引いていた子を抱いて逃げ去ろうとした。兵士は女を射殺そうとしていたのだが、その行為を見て感じるところがあり、女に向かって、「抱いている子は誰なのか」と尋ねた。女は、「兄の子です」。「棄てた子は誰なのか」。「私の子です」。「どうして自分の子を棄て、兄の子を抱いて逃げようするのか」。「母として我が子を愛するのは私のことです。甥を大切にするのは公の義です。公の義に背いて私の愛を優先することはできません」。兵士は感心し、将軍にこのことを伝えると、「一婦人でさえ節義を大切にするのだから、魯国は立派な国である」と言って、軍を引き返させた。魯の国王はその女に義姑の号を贈った。
万年県君はまさに義姑と同じで、万年県君の事績を記して、その義行を明らかにしようとするものである。万年県君の墓誌銘は敢えて韻を踏まずに作る。至情から出る言葉は飾り立てたりすることはないからである。その銘とは、
嗚呼、唐の時代の義姑、京兆の杜氏の墓。
【補足】［杜甫が病に臥せたのは何歳のときであったのかはわからない。はっきりとした記憶が残らないくらいに幼くて、後になって人から聞いたのだろう。女巫が言ったことが的中したとは思えないが、杜甫は叔母のお蔭で命拾いをしたと信じていたのだろう］
■資治通鑑 巻211［杜甫4歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が4歳になった開元三年［715年］の記事を読む。
【訳文】
［715-01］春、正月癸卯、盧懐慎は検校吏部尚書兼黄門監になった。盧懐慎は勤務に励み、倹素で資産を営むことをしていなかった。卿相として高い位にあっても、与えられた俸禄は旧く親しい人々に与えてしまうので、妻子は飢寒を免れることができず、家は雨や風を十分に防ぐことができないようなありさまであった。
姚崇は息子が亡くなったために十日余りの休暇を得た。すると政務が山積みとなり、盧懐慎は決裁できなかったので、惶恐して皇帝に詫びた。玄宗皇帝は言った。「朕は天下の事を姚崇に委ねたのであって、そなたはただ座って雅俗を鎮めておればよい」。
姚崇が出てくるとただちに全ての決裁を終えたので、得意気な顔で、紫微舎人の斉澣を顧みて、「わしは宰相として、誰と比べることができるだろうか」。斉澣が答える前に、姚崇は自分で、「（春秋時代の名宰相の）管仲や晏嬰と比べてどのようなものだろうか」。斉澣は言った。「管仲や晏嬰のやり方は後の人は追随できるものではありませんでした。それでも、管仲や晏嬰の個性が露わに出るようなことはありませんでした。貴公のやり方は、適宜変更を加えて行くものであって、管仲や晏嬰には及ばないのではないでしょうか」。姚崇は、「なるほど。要するにわしのやり方はどうだというのかい」。「貴公は時を救う者といえるでありましょう」。姚崇は喜び、（政務を行っていた）筆を放して、「時を救う宰相か。それとて得やすいわけではないだろう」
盧懐慎は姚崇とともに宰相であったが、自分の才能は姚崇には及ばないと考えていたので、事があると必ず姚崇の判断に拠った。それで時の人は盧懐慎のことを「伴食宰相」と呼んだ。
【補足】［ここにある姚崇と盧懐慎の二人の宰相のエピソードはいろいろな読み方ができるだろう。「伴食宰相」の語は、ただ一緒に飯を食うだけで実際の仕事はしない無能者であると嘲るような意味合いで使われることが多いが、玄宗皇帝は盧懐慎はいるだけで重みがあると見ていたのだろう。得意顔の姚崇に対して、斉澣が率直に物を言って、それを姚崇が納得して受け止めているのも面白い。姚崇は抜群の処理能力によって、これまでの乱れた政治を正しい軌道に乗せることに大いに貢献したのだろう。そのときに、姚崇が実務処理の枠を出た暴走をしないように盧懐慎が隣にいる必要があったのだろう。そして、玄宗皇帝の新たな時代を切り開くのにはまた違ったタイプの宰相の登場を待つ必要があった］
【訳文】
［715-05］夏、山東で蝗が大きな害をなした。一部の民衆は農地の傍らで香を焚き、蝗を拝んで祭り、蝗を殺さなかった。姚崇は、「御史を派遣し、州や県に蝗を捕らえて埋めるよう促すべきであります」と奏上した。すると、蝗は多すぎるので捕り尽くせないと意見を言う者があった。皇帝もそれを疑問に思った。姚崇は言った。「いま蝗は山東の地に満ち、黄河の南北の人々は流亡してほとんどいなくなっています。蝗が苗を食うの坐視して救わないでいるのでよいのでしょうか。たとえ除き尽くせないとしても、蝗を養って災を成すよりはましであります」。皇帝はそれに従った。盧懐慎は、蝗を殺すことが多すぎると、天地の和気を破るのではないかと心配した。姚崇は言った。「昔、楚荘は蛭を呑んで疾を治し、孫叔は蛇を殺して福を招きました［悪さをするものは殺してよいという事例］。蝗を殺すのを忍び難いとして、人が飢え死にするのは忍び難くはないですか。もしも蝗を殺して禍があるのなら、その禍は私が受けて立ちます」
【補足】［実務に長けた姚崇はまことに合理的な判断をする。民衆は蝗の害の大きさに打ちひしがれて、祈りを捧げるだけとなってしまうのだろうが、姚崇はとにかく蝗を殺す以外に手はないというのである。盧懐慎は慎重な人で、殺すことが多すぎると自然の秩序を乱してしまうと恐れた。姚崇は「時を救う宰相」らしく、決断力がある］
■［02-杜-03］観公孫大娘弟子舞剣器行、并序
【解題】これは杜甫が56歳のときの詩。50年以上前の記憶を詩に蘇らせている。序文に記されている年号に従うと杜甫は数えで4歳であったので、さすがに幼過ぎるとして年号に誤りがあるとする見方もあるが、ここでは記されているままに開元三年の出来事を思い出して詩に詠んだとして見ておこう。この詩の題は、『公孫大娘の弟子が剣器を舞うのを観たときの行』。公孫大娘とは、公孫という姓の大娘。大娘はそこそこ年配の女性。剣器とは舞いの名で、いろいろな考証があるが、西方から伝わった動きの激しい舞いで、女性が男装して踊ったようである。その名の通り、剣を使って舞ったともいわれている。
【訳文】
序
大暦二年［767年］十月十九日、夔府の別駕である元持の邸宅で、臨潁の李十二娘が舞う剣器を見たところ、華やかで勇壮であった。「どの師に習ったのですか」と李十二娘に尋ねると、「私は公孫大娘の弟子なのです」と答えた。
開元三年［715年］のこと、私はなお童子で稚かったが、郾城で公孫氏が剣器および渾脱を舞うのを観たのを記憶している。瀏灕であり、頓挫として、独り当時において冠たる舞いっぷりであった。（宮中にあった）宜春、梨園の二つ伎坊［歌舞の教習所］の内人の中でも高頭の者から、宮中の外部の者で舞女として仕える者に至るまで、この舞いに精通していた者は誰かといったら、聖文神武皇帝［玄宗皇帝］の時代の初めから公孫氏が一人いただけであった。……［若干の欠文があり、公孫大娘が亡くなったことなどが記されていたと推測される］……まして私はいまや白髪頭になり、この弟子もまた盛りの年の顔ではない。弟子は舞いの由来を語り、師弟において舞いの呼吸が同一であるのを知った。事の変転を考えて感じ入るものがあり、剣器の行を作ることにした。
昔、呉の人である張旭は草書を善くして書帖をたくさん遺した。張旭はかつて鄴県で公孫大娘が西河の剣器を舞うの見て、それから草書の腕前が大いに進んだという。張旭の豪蕩感激の書風を見るなら、公孫大娘の舞いの妙技が知れるであろう。
【補足】［（1）4歳の杜甫少年が公孫大娘の舞いを見たと記している郾城は、杜甫が成長したと推測されている洛陽郊外の村から直線で100キロ余り南東の地である。（2）玄宗皇帝が宮中に歌舞の教習所である梨園を設けたことは通鑑714-03で見ている。もともと宮中には宜春の教習所があって、そこの優秀な者を梨園に入れた。（3）玄宗皇帝はこの詩の制作年代よりも5年前に亡くなっていて、杜甫はここでは聖文神武皇帝という死後に贈られた名で記している。（4）張旭は型破りな書風で、書に新生面を切り開いた人であるが、当時はその書はあまり評価されなかった。杜甫はその革新ぶりを認め、ここに記されている舞いとの関係は、張旭の書風の由来を伝える有名なエピソードとして知られている］
昔、公孫氏という佳人がいた。
ひとたび剣器を舞うと、
四方の人々をどっと沸き立った。
観ようとして山のように集まった連中は、
天地がひっくり返るかのように感じ、
誰もが顔色を喪った。
㸌と剣が光るのは、羿（神話中の神）が九つの太陽を次々に射落とすかのよう、
矯と舞い上がるのは、多数の仙人が竜とともに翔ぶかのよう。
公孫氏が現れ出るときは、雷がひとまず怒りを収めているかのような姿、
公孫氏が舞い終わった後は、静まり返った海にただ青い光が残るだけ。
いまでは公孫氏の絳い唇も、珠を飾った袖も虚しく消え、
その晩年に、弟子に芸の芬芳を伝えたのだった。
弟子である臨潁の美人［李十二娘］は、いま白帝城［夔府にある］にいて、
この曲の舞いの神髄を揚揚として見せてくれる。
私との問答でその妙技の由来が知れ、
時の流れ、事の変化に感じ入り、いよいよ心に傷ましく思う。
先帝［玄宗皇帝］には八千人の侍女がいて、
公孫氏の剣器の舞いは初めから第一であった。
あれからの五十年間は掌を返すかのよう、
王室は風塵によって澒洞と昏く鎖され、
梨園の弟子は烟のように散り散りになり、
女性の楽工たちの残りの姿が、
冬の夕日のようにここにわずかに残っているのである。
金粟堆［玄宗皇帝の墓所］の南側の木はもう抱えるほどに太く成長し、
ここ瞿塘峡谷の古城には風が寂しく草を鳴らしている。
竹管の音が急に高まってそして終わり、
楽しさが極まったところで哀しみが来て、
東の空から月が出てきた。
老夫［杜甫］はこれからどこに往くのか、
我が足は旅の疲れで豆だらけ、
寂しい山のなかで愁いに疾むのである。
【補足】［杜甫が掌を返すように過ぎ去ったとここで歌っている50年間を我々はこれからじっくりと見て行く］
■［02-王-01］王維：題友人雲母障子
【解題】ここからは王維［字は摩詰］の詩も合わせて読んで行く。この詩には、「時に年は十五」との添え書きがあり、最も若いときの作品として王維自身が特に残したものである。王維の生年は、699年ないし701年であったとされ、どちらの説に従うかによって詩の編年が少し違ってくる。ここでは701年説に準拠し、従ってこの詩は715年の作ということになる。
王維は蒲州に生まれ、知られている限りでは四代前から代々官職に就き、父の王処廉は官人として最終的に州の副知事クラスに至った。蒲州は通鑑712-07の冒頭にその地名を見ていて、長安の東方約150キロの中規模の都市である。母は名門の崔氏の出であるというから［細かくいうと崔氏にも幾つかの流れがある］、杜甫と概ね似たような出自で、やはり幼いころから詩文を学び、15歳のころまでには恐らく何十篇という作品を作っていたであろう。この詩は友人が所有する雲母で飾られた屏風に添えた作品。
【訳文】
君の家の雲母の屏風を、
我が家の庭に向けて開いてみた。
すると、山やら泉が勝手に飛び込んできた。
それは決して描いたものではなかったんだ。
【補足】［王維がこの作品を残したのは特別な愛着があったからなのだろう。王維は15歳のときに家を離れて上京していて、この詩はきっと郷里を発つ直前に友人のために詠んだもので、郷里での唯一の作品としてこれを選び残したのだろう］
■資治通鑑 巻211［杜甫5歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が5歳になった開元四年［716年］の記事を読む。
【訳文】
［716-10］玄宗皇帝は宦官を長江の南に派遣し、鵁鶄、鸂鶒などの鳥を取って来させて、宮中の庭園に置こうとした。使者は行く先々で煩擾を起こした。使者が汴州を通過したときに、倪若水は皇帝に申し上げた。「いまはちょうど農作業や蚕の飼育が非常に忙しくなっている時期であります。網で鳥を捕え、それを園池での遊びに供しようとしておられ、遠くの川や山から、水路や陸路でそれを輸送し、上等の肉を鳥に食べさせています。道でそれを観る者は、陛下は人を賤しんで鳥を貴んでおられると思うでありましょう。陛下は（天子として）鳳凰とて平凡な鳥、麒麟とて平凡な獣と見なすお方であります。まして鵁鶄、鸂鶒などを貴ぶべきなのでしょうか」。皇帝は自分で手紙を書いて倪若水に謝り、絹を四十段与え、捕らえた鳥を放った。
【補足】［これは一面ではすぐに倪若水の諫言を受け入れたことを記した美談ではあるのだが、一面では玄宗皇帝の本来的な性向を示すものでもある。皇帝のちょっとした楽しみを得るために派遣されて宦官が、皇帝の権威をもって人民を苦しめるということはいつの時代にもあったことで、玄宗皇帝にしても、鋭意政務に勤しんでいたとされるその治世も初めにおいてすでにこのような問題を起こしていた］
【訳文】
［716-11］山東の蝗がまた大発生し、姚崇はまたこれを捕えるよう命じた。倪若水は意見を述べた。「蝗は天災であって、人の力の及ぶところではありません。徳を修めて、これを禳うべきであります。かつて劉聡のときに、蝗を常に捕えて埋めていましたが、（徳を修めなかったために）害はますます甚しくなりました」。倪若水は朝廷からの指令を受け取るのを拒み、姚崇の指示に従わなかった。姚崇は倪若水に手紙を送った。「劉聡は似非君主であった。劉聡がいくら徳を修めたところで妖［蝗］に勝つ道理がない。今日は聖朝であって、そもそも妖はその徳に勝てるものではない。古の良い知事が治める土地には蝗はその境から入らなかったという。もしも徳を修めて蝗の害から逃れられるというのであれば、本来は無徳の者が見せかけだけの徳を修めようとしないはずがない［劉聡でさえ、それはうまく行かないとわかっていたので、蝗を懸命に捕えようとしたのだ］」。これによって倪若水は朝廷の命令に違反しなくなった。
夏、五月甲辰、朝廷は使者を派遣して、各州県で蝗を捕らえることに勤めた者と怠けた者の名を報告させた。これからも毎年のように蝗の害は発生したが、大飢饉に至ることはなかった。
【補足】［（1）上に見た記事では皇帝に立派な意見を述べた倪若水も、ここでは合理主義者の姚崇にたしなめられている。倪若水の非合理な考えは次のような思考から出てくる。皇帝は天からの負託を受け、人民の頂点に立って天下を治めている。その政治が乱れたときには、天は様々な警告を発し、彗星が現れたり、天災が生じたりする。天の警告を受けて、すばやく対応して政治を改めるなら、天下はまた静かに治まるようになる。倪若水は、蝗の害も天の警告と受け止めるべきで、蝗を捕らえて殺したところで無駄で、政治の根本を改めなければならないと、ある意味、国政を批判したのである。（2）倪若水が例として挙げた劉聡は、晋の時代に北方から異民族が続々と侵入してきた時代［五胡十六国時代］に一国の主となった人物。このときに異民族の侵入の一因は気候変動にあるともされ、蝗が大量に発生したのはその気候変動と戦乱が大きな要因であっただろうから、劉聡個人の徳のあるなしに左右されるはずがない。姚崇は倪若水の論理に副うかたちで反論しているので、我々にとってはわかりにくい。徳のある知事が治める州には蝗が入らなかったという古代の伝説があり、倪若水が朝廷の命令を拒んだのは、己には徳があるから蝗はここには来ないと宣言するようなものであって、ある意味かなり傲慢であるのかもしれない］
【訳文】
［716-21］十一月己卯、黄門監の盧懐慎はにわかに疾が進み、上表して、宋璟、李傑、李朝隠、盧従願を推薦し、「いずれも平和なときに大きな働きをする者たちです。かつて罪とされたのは小さなことで、棄てたままにしておくのは大きな損失です。どうか思し召しを垂れますように」。皇帝は深くその意見を受け入れた。
乙未、盧懐慎は亡くなった。家には何ら余財がなく、ただ一人の召使がいて、自分の持ち物を売って葬儀を行うと言った。
【補足】［「伴食宰相」の盧懐慎は実務は苦手でも人間としては重みがあった。最後に推薦した人物はいずれも朝廷から離れたところに置かれていた］
【訳文】
［716-22］十一月丙申、尚書左丞の源乾曜を黄門侍郎同平章事にした。
姚崇は都に邸宅を持っていなかったので、罔極寺に寓居していて、痁を病んで休暇を願った。皇帝は、使いの者を出して姚崇の飲食や起居のありさまを尋ね、一日にそれが数人から十人にもなった。源乾曜が奏上したことが皇帝に心に適うと、皇帝は「これはきっと姚宗の謀ったことであろう」と、必ず言い、心に適わないと、「どうして姚崇と議論しないのか」と言った。源乾曜はいつも皇帝の言う通りであると応えた。大きな事柄があると、皇帝はいつも源乾曜に罔極寺に行って姚崇に尋ねよと命じた。
癸卯、源乾曜は姚崇を（中書省に属する）四方館に遷して、家の者に看病させたいと願い出た。皇帝はそれを許した。姚崇は四方館には公文書が置かれているので、病人がいるべきではないと固辞した。皇帝は、「四方館を設けたのは官吏のためである。そなたをそこに居させるのは国のためである。むしろ、そなたを禁中に置けないのが残念である。辞退してなららない」と、言った。
姚崇の子の光祿少卿の姚彝、宗正少卿の姚異は多数の賓客と親しくし、頻繁に贈り物を受け取っていたので、人々は眉をひそめていた。（中書省の）主書である趙誨は姚崇の信任を得ていて、胡人［異国の人］から賄賂を受け取っていた。事が発覚し、皇帝が自身で尋問したところ、獄に下され、死罪に相当するとされた。姚崇がそれを救おうとしたので、皇帝は姚崇のことを悦ばなくなった。たまたま都で赦が下り、趙誨の名もその中に加えられ、杖で百回打った上で嶺南に流した。姚崇はこれより憂懼し、宰相から退くことをしばしば請い、広州都督の宋璟を自分の代わりに推薦した。
十二月、皇帝は東都［洛陽］に行く前に、宋璟を刑部尚書西京留守にし、道を急いで都に来るよう内侍将軍の楊思勖を派遣してそれを迎えさせた。宋璟の風度は凝遠で、人間としての大きさは測り知れないものがあった。都への道の途中では楊思勖と言葉を交えなかった。楊思勖は皇帝から重用されている人物であったから、帰還すると皇帝にそのことを訴えた。皇帝は嘆息し、ますます宋璟を重んじた。
【補足】［（1）盧懐慎の後に宰相になった源乾曜も同じように姚崇の脇にいるだけであった。それだけ皇帝の信任が厚かった姚崇であったが、身内の者の不届きな行為によってにわかに風向きが代わってしまった。（2）玄宗皇帝は新たな宰相として宋璟を起用した。宋璟は盧懐慎が推薦していた人物の一人で［→通鑑716-21］、その名は通鑑712-07でも見ている。太平公主に嫌われて遥か南方の広州に出されていた］
【訳文】
［716-24］閏十二月己亥、姚崇は宰相を罷めて開府儀同三司に、源乾曜は宰相を罷めて京兆尹西京留守に、刑部尚書の宋璟が守吏部尚書兼黄門監に、紫微侍郎の蘇頲が同平章事になった。
宋璟は宰相になると、人を選ぶことに務め、その能力に応じて任務に授け、百官がそれぞれその職務にぴったり合うようにした。刑賞について私がなく、敢えて皇帝の顔を犯して正しく諫めた。皇帝は非常に敬憚し、意に合わないと思うところがあっても、曲げて宋璟の意見に従った。
突厥の黙啜は武則天のときから中国にとって患いとなり、朝廷は朝夕に悩まされ、天下の力を傾けても勝つことができなかった。郝霊荃はその首を得たので、世に抜きん出た功績を立てたと考えた。宋璟は、天子が武力による功績を好むと、事を好む者は皇帝の歓心を得ようと競うにようになるのを恐れ、郝霊荃の褒賞をひどく抑え、年を越えてようやく郎将を授けただけであった。郝霊荃は慟哭し、ついには死んでしまった。
宋璟と蘇頲は互いの信頼が非常に厚かった。蘇頲は何か事があると宋璟に譲り、宋璟が事を論じると蘇頲がそれを助けた。宋璟はこのように人に語ったことがあった。「私は蘇氏父子とともに政務に就いた。父は大らかな人柄で、まことに国を担う器であった。一方で、息子［蘇頲］はよい策を献じ、よろしくない策を棄て、政務に精敏であることでその父を上回った」。
姚崇と宋璟が続いて宰相となり、姚崇は変に応じて務めを成し、宋璟は法を守って正しいことを貫いた。二人の志操は同じではなかったが、二人はともに皇帝と心を合わせて輔佐し、賦役を寬く公平にし、刑罰を簡明で正しく用い、民衆を豊かにしたのだった。唐の世の賢相といえば、前に（太宗皇帝のときに）房玄齢と杜如晦が並び称され、後に姚崇と宋璟が並び称され、ほかにそれに及ぶ者はいなかった。姚崇と宋璟が皇帝に前にくるたびに、皇帝は立って出迎え、去るときには軒の向こうに行くところまで見送った。後に李林甫が宰相になったときには、姚崇や宋璟よりも寵任されたものの、礼をもって遇するという点においてははなはだ薄かった。
このとき紫微舎の高仲舒は遍く典籍に通じ、斉澣は実務に手慣れていた。姚崇と宋璟はその二人を近くに置いて、疑問点を問い尋ねた。そして歎じて、「古の事例を知ろうと思ったら高君に問え、今の事例を知ろうと思ったら斉君に問え。それによって政務に欠けるところはないであろう」
【補足】［（1）姚崇が引退して宋璟が宰相になった。玄宗皇帝はこの年、32歳で、姚崇は67歳、宋璟は54歳であった。若い皇帝を優れた年長者が補佐したのである。（2）ここの訳では省略したが、『資治通鑑』には突厥や吐蕃といった周辺の諸民族との関係について多くの記事がある。なかでも突厥の可汗［遊牧民が使った王号］の黙啜は唐朝にとって長年の悩みの種であった。その黙啜を討ったのであるから、郝霊荃は莫大な恩賞が与えられるはずと思ったのだが、宋璟はそうはしなかった。若い皇帝が軍事に関心を持ち、好戦的になることを警戒したのである。（3）姚崇と宋璟の二人の宰相は玄宗皇帝の治世の最盛期、「開元の治」をもたらしたとして、太宗皇帝時代の「貞観の治」をもたらした房玄齢と杜如晦の二人とともに唐の時代の名宰相として讃えられた］
■資治通鑑 巻211［杜甫6歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が6歳になった開元五年［717年］の記事を読む。
【訳文】
［717-06］玄宗皇帝はまだ太子になる以前から太常卿の姜皎と親しくしていた。竇懐貞等を誅殺したときに姜皎には功績があり、それからは寵遇されることで他の群臣は及ばなかった。常に臥内［皇帝に私的な空間］に出入りし、后妃とも同じ榻に坐して宴飲し、数え切れないくらいの賜り物が与えられた。その弟の姜晦は兄のお蔭で昇進し、吏部侍郎にまでなった。宋璟は姜皎兄弟の寵遇が盛んすぎて、そのままで安んじられてはいないであろうことを申し上げ、皇帝もそうだと理解した。秋、七月庚子、姜晦を宗正卿にし、次のように指示した。「前漢の高祖皇帝のもとで高貴になった諸将はその人生を全うできなかった。後漢の光武帝に親しかった者は閑職にあったことで生きながらえた。よって姜皎は宮中より放って田園に帰し、散官勲封はもとのままとする」
【補足】［玄宗皇帝の治世が安定してくると、『資治通鑑』に記される事柄が少なくなる。ここでは宦官の姜皎の扱いが記されている。過度な寵遇を受けた者は最後を全うできないという事例を引いて、宋璟は姜皎を宮中から外に出すよう皇帝に助言した。宋璟は何も姜皎の身の上を心配してそのようにしたのではなくて、宦官の縁者が朝廷内で権限を持つようになるのを止めたかったのである］
■［02-王-02］王維：九月九日憶山東兄弟
【解題】王維は2年前の15歳のときに上京し、科挙を受けるための下準備、つまり人脈作りに勤しんでいた。この時代には、事前によいコネを作っておくと、科挙に合格し、かつよい官職を得るのに格段に有利になった。孟浩然の親友の張子容は科挙には合格したものの、さほどよいコネがなかったからなのだろう、授けられたのは都から遠く離れた地方の町の警察署長クラスの職で、科挙合格者としては最低レベルであった。とはいえ、科挙に合格者していない中級、下級の官吏との間には普通には超えられないほどの差があった。
王維が都に出ると、あたかも少年アイドルがデビューしたかのように、たちまち上流階級の人々の寵児となった。詩文に優れ、音楽に通じ、書画の腕前も確かという美少年が忽然と現れれば、いやがうえにも注目される。王維のデビューをプロデュースするような人がいたのかどうかはわらないが、王維はモテモテで皇族たちの屋敷にも出入りするようになった。王維のよいところは、有頂天になることなく天性の純真さを持ち続けていたことで、それがまた人々を引き付ける要因になったようだ。この詩には、そうした王維の心根のよさがよく出ている。17歳のときの9月9日の重陽の節句に、故郷にいる兄弟を想って詠んだもの。詩の題にある「山東」は、上で見た蝗の害に遭った山東地方のことではなく、長安の東にある華山の東側を指し、つまりは王維の郷里の方向を示す。
【訳文】
私ひとりが他所からの旅人として異なる土地にいる。
季節の祝い事が来るたびに親族への思いがいっそう強まる。
遥かに離れたここで想像する――
兄弟、従兄弟たちが揃って高いところに登り、
皆が髪に茱萸を挿して興じているなかに、
私一人が欠けているのだ。
【補足】［（1）重陽の節句には、親しい人々が集って高いところに登り、厄除けの茱萸を髪に挿し、菊の花を浮かべた酒を飲んで長寿を願った。茱萸は日本語でいう「グミ」ではなくハジカミで、重陽の節句のころに実が赤く熟す。（2）この詩は、他郷で重陽の節句を迎えた者が故郷を偲ぶ詩の典型として長く愛唱された。数えで17歳といえば、いまでいうと高校一年か二年である。当時の上流階級の人々が王維を絶賛したのも納得できるであろう。既成集団から認められるには、そこそこの大衆性と、十分に典雅であることを兼ね備えていることが必要条件であろう。後に見るように杜甫はそれとはまるで異なる詩風であり、また孟浩然も違っていた。王維こそが唐の最盛期における第一の詩人であると、同じ時代の人々は捉えていた］
■［02-孟-02］孟浩然：岳陽楼
【解題】王維少年が都で大評判になっていたころ、都で孟浩然の名を知るのはごく一部の人だけに留まっていた。科挙に合格した親友の張子容は、時に自身の詩を褒められることがあると、自分の郷里にはもっと優れた詩を作る者がいると言って、孟浩然の詩を見せていた。張子容の官界における履歴ははっきりとはわからないが、都から遠く離れた長江以南の地方の町をずっと転々としていたようである。地方官はおおむね3年で任期を終え、誰か強力に引き上げてくれる人がいれば都で官職に就けるが、そうでなければ少しばかり昇格して別の任地に移動するか、さもなければ職にあぶれてしまうこともあった。
この年、孟浩然は一つの決心をして旅に出た。目的地は、都とは正反対の南の岳州であった。玄宗皇帝が太平公主一派を亡ぼしたときに重要な役割をした人物として張説がいた［→通鑑713-02］。張説は姚崇が宰相になったために自身の立場が脅かされたと感じ、玄宗皇帝の弟である岐王の李範と親密になろうとして玄宗皇帝の不興を買い、地方に出されてしまった［→通鑑713-30］。玄宗皇帝は張説を完全に見捨てたわけではなく、様子を見ていつか都に呼び戻すこともありうると考えていたようで、この前年の開元四年に、張説は前任地よりは格が上の岳州の知事になっていた。張説は武則天の時代から何度も左遷を経験していて、かつて遠く南方に流されたときに、その地にいた若い張九齢の才をひと目で見抜き、都に送って科挙を受けさせたことがあった。張九齢は優秀な成績で合格し、その後、中堅官僚として活躍していた［→通鑑713-2］。張説は官僚として優れた能力があっただけではなく、詩にも優れ、宮廷詩人としての面もあれば、新たなフロンティアの開拓者としての面もあり、どちらかといえば旧世代に属するであろう。
孟浩然には鹿門山に隠棲した昔の賢者への憧れがある一方で、一族のために官界に出なければならないとの思いが強くあった。張子容が官員としての下積みで苦労しているのを見て、やはり中央との太いコネを持つことが肝要で、それを自分の実力で獲得しようと考えたのだろう、孟浩然は郷里の襄州から漢水の流れを下り、長江に入って少し上流に遡って岳州に至り、張説の門を叩いた。岳州には天下に名高い岳陽楼があり、楼上から臨む洞庭湖は天下無比の絶景とされた。孟浩然は己の詩才の全てを注ぎ込んで岳陽楼からの眺望を詩に詠み、張説に献じた。このとき張説は51歳、孟浩然は29歳であった。
【訳文】
八月の湖水はあくまでも平らに広がり、
虚を含んで大空と一つになっている。
宇宙に充満する気が雲夢の沢で蒸し上げられ、
洞庭湖の波が岳陽楼を揺り動かす。
ここを渡って行こうとしても舟楫はなく、
聖天子の御代に端居しているのを私は恥じる。
釣り糸を垂れる人をそぞろに見ては、
釣り上げられて世に顕れる魚を空しく羨むのだ。
【補足】［この詩の前半は、岳陽楼からの眺望を詠んだ多数の詩の中で第一とされ、それを凌ぐ詩はこれより51年後に杜甫によって詠まれる。後半は、張説によって引き上げられることへの期待を詠んでいる］
■［02-孟-03］孟浩然：晩入南山
【解題】孟浩然が張説に詩を献じた後に、二人の間でどのようなやりとりがあったのかわからないが、結果から見て、張説は孟浩然を官界に引き上げるべき人物であるとしては認めなかった。孟浩然は失意のうちに岳州を去り、しばしそのあたりを旅したようである。これはそのころに詠んだと推測される詩。この詩の題は、『夜のうちに南山に入った』。南山は潭州にある岳麓山で、孟浩然は岳州から洞庭湖を南に渡り、湖に流れ込む多数の川の一つである湘水を遡って岳麓山に向かったのである。
【訳文】
夜明けとともに、南方の湿り気を帯びた空気が氛氳と湧き立ち、
南山のあたりは果たして水であるのか雲であるのか。
いま初めて鯤［伝説上の巨大な鳥］が飛び上がるのを見る［湿気の湧くありさまをいう］。
（湿気の毒に中って）鳥が堕ちるのはかねてから聞いていた通りだ。
この地は長沙［潭州］のすぐ近く、
この江［湘水］は泊渚の中州で分けられている。
（漢の時代の）賈誼がかの屈原を弔ったのはこのあたりだったのだろうか、
私もまたこの文［屈原と賈誼の文］を読んで心を痛ませるのである。
【補足】［（1）詩の前半は、「瘴気」について詠んでいる。瘴気は南方の暑く蒸された空気のことで、人や動物を害すると考えられていた。中華文明は黄河流域の比較的乾燥した地域で始まったので、長江以南の湿潤な気候風土は伝統的に好ましからぬものとみされていた。孟浩然が生まれ育った襄州は長安のあたりと比べたらかなり湿潤で温暖であるけれど、潭州あたりの山間部で濃い霧に包まれ、大自然の驚異を感じたのだろう。洞庭湖は流れ込む河川からの水量に応じて面積が大きく変化する湖でもあるので、水の持つ底知れぬ力の大きさを孟浩然はこの旅でまざまざと知ったのだろう。（2）屈原は孟浩然より千年以上前の楚の国の人で、国政の立て直しに力を尽くしたのだが都を追放され、絶望して汨羅江に身を投じた。汨羅江は湘水と同じく洞庭湖に流れ込む川。賈誼はそれより150年ほど後の漢の時代の人で、国政の改革を様々に提案したのだがやはり都を追放され、潭州において、『屈原を弔う文』を作った。官界への道を開くことができなかった孟浩然は、屈原や賈誼に思いを寄せたのであろう。ただし、孟浩然に屈原や賈誼のような政治家としての大きな抱負があったのかというと、それを孟浩然の詩から読み取ることはできない］
■［02-孟-04］孟浩然：夜渡湘水
【解題】同じ旅で湘水を夜に渡ったときの詩。
【訳文】
旅行く舟は、
航行に都合のよいいまの時を貪るようにして進み、
闇の中を、湘水を渡って行く。
湿った風に香るのは杜若であろうか、
歌う声はあるいは古の『采蓮の曲』なのだろうか。
船頭は岸辺の火を目印にして舟を着けようとし、
漁師は川の靄の中に宿ろうとしている。
舟に乗り合わせた人にふと尋ねる、
「潯陽というのはどのあたりでしょうか」
【補足】［孟浩然はたぶん何人かの人々とともに船に乗り合わせたのだろう。最後の句で尋ねている潯陽は、実はかなり遠いところで、洞庭湖を出て長江を300キロほども下った鄱陽湖の入り口にある。それで潯陽とあるのは誤りで別の地名だったはずだとする解釈もある。ここではあえて見当違いのところを人に尋ねたのがこの詩の面白いところであると理解したい。つまり、まだまだ旅を続けたいという思いを表しているのだろう］
■［02-孟-05］孟浩然：南還舟中寄袁太祝
【解題】孟浩然と張子容［→作品番号02-孟-02］の共通の友人として袁瓘がいた。この詩の題にある袁太祝［太祝は官名］は袁瓘であって、なおかつ上で見た旅から帰ってくる途中、襄陽に向かって漢水を遡りつつこの詩を詠んだという理解に基づいて、この詩をここで読んでおこう。
【訳文】
流れに逆らって泝るのは嬉しいことではない。
風も波もあったのでは、ひたすら辛苦を厭うだけだ。
このときに、狭い谷から鳥が飛び出し、
麗しい丘で春を歌っていると聞いた。
私は嶺北［湘水のあたり］から帆の向きを変えて帰ってきたところ、
巴東［洞庭湖の北から襄陽の間を指す］において懐かしい友人に尋ねる――
「桃花源はどこにあるのでしょうか」
旅行く者は、渡し場はどこかといま迷っている……。
【補足】［（1）三句目と四句目は、袁瓘が襄陽を出て都で官職を得たことを歌っているのだろう。（2）「桃花源」は陶淵明が描いたユートピア、桃源郷ともいう。道に迷った漁師がたまたま桃花源に入り込んだものの、一度そこから出るともう二度と行き着くことはできなかった。孟浩然は一念発起して張説に会いに行ったものの不発に終わり、自分の行き先はどこにあるのか見定められずにいる］
■資治通鑑 巻212［杜甫7歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が7歳になった開元六年［718年］の記事を読む。
【訳文】
［718-02］春、正月、広州の役人や民衆が（先に広州知事であった）宋璟のために遺愛碑を立てた。宋璟は皇帝に次のように申し上げた。「臣は広州にいたときに特別な功績はありませんでした。いま臣が高い位に就いたのをもって、かの地の人々が諂いを為そうとしているのです。このような風潮は改めたいと思っておりましたので、臣から始めたいと考えます。禁じる御命令をお下しください」。皇帝はそれに従い、それからは他の州でも碑を立てないようになった。
【補足】［宋璟が宰相に抜擢される前には広州知事であったことは通鑑716-22で見ている。「遺愛碑」とは、慈愛に満ちた統治をしたのでいまもその愛が遺っているとして、先の統治者を讃えるものである。そのようなものを立てる習慣を宋璟は断とうとした。しかし、効果は一時的で、諂いは後の世も連綿と続けられた］
【訳文】
［718-08］夏、四月戊子、河南参軍の鄭銑と朱陽丞の郭仙舟が匭［皇帝への投書箱］に詩を投じて献じた。それに対して皇帝が下した敕に、「その文と内容を観るに、道教の法を崇ぶものであって、政治の用に役立つ適切なものではない。それぞれの好むところに従うがよいであろう」。二人とも官職を罷めさせて道士とした。
【補足】［（1）儒学をもって国を治めようとする人々は、実用性に欠ける道教や仏教を排除しようとする。しかし、皇帝を初めとして富貴の者は往々にして道教や仏教に入れ込み、莫大な財を投じたり民衆を使役したりする。訳は省いたが、太平公主を亡ぼしてすぐのころに仏教を規制する策を打ち出していた。競って大きな仏教寺院を作っていたからである。ここで皇帝に献じられた詩に対してかなり強い処置をとったのは、皇帝が道教にのめり込むきっかけを作るまいとしたものであろう。あやしげな道士に惑わされ、不老長生の仙薬だとして猛毒を飲んでかえって寿命を短くしてしまった皇帝は多数いた］
■［02-杜-04］壮遊
【解題】杜甫がどのような少年時代を過ごしたのか、杜甫自身が折に触れて稀に漏らした言葉からわずかに知ることができる。作品番号02-杜-03で4歳とときの記憶を、作品番号01-杜-01で7歳から詩文を綴り始めたことを見ている。この項の表題に掲げたのは大暦元年［766年］、杜甫が55歳のときの作品で、壮年のころの思い出を詠んだ長い詩。その最初の部分で少年時代について回顧している。
【訳文】
昔むかし、十四、五歳のときに、
翰墨場［文才を競う社会］に出て遊ぶようになった。
学問の大先輩であった崔尚や魏啓心は、
私の詩文は（漢の時代の）班固や揚雄に似ていると言ってくれた。
学問を強く志したのは七歳ときで、
口を開けば鳳凰の詩を詠じていた。
九歳で大字を書き、
作ったものが囊にいっぱいになった。
本性からして豪放で、すでに酒を嗜み、
悪に対しては、腸から剛く嫉んだ。
仲間の少年たちには目をくれず、
交わりを結ぶのは白髪がまじるような人ばかりであった。
飲んで酔いが回ると、
大地の果てまで見通しても、
俗物どもだけがうようよしていると思うのだった。
……
【補足】［誇張はあるだろうけれど、杜甫はあまりお行儀のよろしくない意気盛んな少年であったのだろう。上流社会の人々に好かれた王維とはかなり異なるタイプの少年であったのは間違いない］
■［02-王-03］王維：洛陽女児行
【解題】王維の評判は高まる一方で、人々の期待に応えるように、時代の好みに合う詩を作った。この詩の題は、『洛陽の若い娘の歌』。洛陽は現実に存在する当時の洛陽を指すというよりは、繁栄する都会の象徴で、そこで何不自由なく暮らす大金持ちの貴公子の若い妻のことを歌っている。王維は18歳であったから、若い女性に関心があっただろうし誘惑もあっただろうけれど、後のちの振る舞いから察するに、そちら方面についてはかなり堅い人物だったようである。
【訳文】
洛陽の若い娘さん、
向かいの門の内にいて、
年はまだわずかに十五歳余りとか。
夫が乗る青い馬は、たくさんの宝玉で飾られ、
侍女が具える料理は、金の皿に盛られた鯉の刺身。
画をあしらった朱い楼閣が並び、
軒に連なって紅い桃が咲き、緑の柳が垂れる。
娘さんが薄い幃の内側から出て来るのは、
七種の香木で作られた車に乗って出かける夫を見送るとき。
娘さんが豪華な扇を持って立つのは、
九種の華をあしらった帳の内に夫を迎えるとき。
気ままな夫は若い盛りでしかも富貴、
意気と驕奢は伝説の大富豪もしのぐほど、
高価な珊瑚も惜しむことなく人に与えてしまう。
妻をかわいがって手取り足取り自ら舞いを教え、
春の窓辺に曙の明かるさが浮かびきたころになってようやく燈火を消す。
燈火の残りの煙が花びらとなって窓辺に飛び、
戯れが終わった後では、娘さんは何をするのもものうく、
化粧を改めると、香の薰を焚き篭めてただ座っているだけ。
町の中の知り合いといったら繁華を好む人ばかり、
夫は日夜にあちらの家からこちらの家へと遊び歩くのである。
そのような人々は、知ることもない、
貧賤のあまり、川のほとりで日々洗濯に努める若い女性がいることなどは。
【補足】［（1）終わりのところで、貧乏な娘を哀れんでいる。川で洗濯する娘とは、昔の伝説的な美女の西施のイメージである。貧乏な家に生まれた西施は、その美しさを見出してくれた人がいたことで宮中に召された。それは、美点のある者は機会に恵まれるやたちまち大きく羽ばたいたという出世物語の一つの典型である。その後の西施は、敵国を亡ぼすための道具として使われ、数奇な運命に弄ばれた女性の悲劇の一つの典型である。同じころに、王維はこの詩の姉妹編として西施を主題にした詩を作っている。（2）最後に西施をイメージする女性を持ち出すことで、少しばかり風刺の味付けをしているのだが、とってつけたような印象である。詩全体としては、豪奢な暮らしを華麗な言葉遣いで詠むことに眼目が置かれていて、きっとそれが人々に歓迎されたのだろう。これより4年前に、玄宗皇帝は風俗が奢靡に流れているのを戒める号令を出しているのだが［→通鑑714-26］、それはすなわち上流階級の人々が贅沢三昧の暮らしに強く憧れていたことを示すものであるのだろう］
■［02-孟-06］孟浩然：田園作
【解題】岳州への旅［→作品番号02-孟-02］から帰った孟浩然は、己の詩の才能をもって官界への扉をこじ開けようと、このころに都のある人物にこの詩を送った。都との繋がりは親友の張子容が作ってくれたと理解しておきたい［→作品番号02-孟-03］。
【訳文】
粗末な私の住いは都会の塵と喧噪から離れたところにある。
先祖はここで素朴を恬淡とひたすら尚んできた。
隣り合うのは古の隠者のような人々、
実の成る樹を十本ばかり植えて暮らしている。
このような田舎で時の流れに任せていたので、
三十になってもよい機会に巡り遇うことがない。
書と剣に明け暮れて、
田園の一日一日は終わる。
朝に起きて懐うことは多くあるのだが、
昼に坐して悟るようなことはいつもわずかだ。
天に真直ぐに昇る鴻鵠を羨みつつ、
鶏や鶩と争って食べている。
宮中への門は望み見ることがかなわず、
薪を採る道で労働歌を歌う。
郷里に私を知る人はなく、
朝廷には貴君の他に親しい方はいない。
誰か揚雄［漢代の文人］のような私のために、
『甘泉賦』を作って提出するよう勧めてはくれないだろうか。
【補足】［（1）前半では、南園での日々の暮らしがスケッチされていている。本来、孟浩然はそのような生活を愛する人で、後半で官界に出る手蔓を懸命に求めているのは別人の作であるかのような印象を受ける。（2）「書と剣に明け暮れ」とあり［原文は「書剣時将晩」［書剣 時に将に晩れ］、孟浩然は若いときに学問とともに剣の修練にも励んだ。他の詩から兄弟も同様であったことがわかるので、文武両道は家の伝統であった。想像をたくましくするなら、隋王朝の末期から唐王朝が安定するまでの混乱の時代に、孟家は武器を手にして南園を守り抜いたのかもしれない。孟浩然は隠者に憧れ、実際に隠者になるとしてもそれは枯れた世捨て人ではなく、いつでも剣を持って立ち上がる気構えのある野武士のような人であったのだろう。（3）終わりの部分は、揚雄の故事を引いている。揚雄は漢代の人で、才能がありながら長らく貧窮をかこち、30歳を過ぎてからようやく人の推薦を得て世に知られるようになった。孟浩然は、揚雄が『甘泉賦』を皇帝に提出する機会を得てたちまち官職を授けられたという理解のもとでこの詩を詠んでいるようだが、史実はそれとは若干異なる。なお、杜甫も作品番号02-杜-04で揚雄の名を挙げているので、この時代の人は、優れた文才の持ち主というとすぐに揚雄を思い浮べたのだろう］
■［02-孟-07］孟浩然：書懐貽京邑故人
【解題】これも同じころに孟浩然が都の友人に送った詩。上の詩と同じ趣旨の作品で、前半と後半の落差がかなり小さくなっている。
【訳文】
我が先祖が孟子や孔子の故郷にいたころから、
家は代々儒教を重んじ、
『詩経』や『礼記』を遺訓として習い、
父から子へと窮まることなく伝えてきた。
私は昼も夜もつねに自らを励まし、
詩も文章もなかなかに巧みになり、
三十歳で学も十分に成就したのだが、
運命というものは思い通りにならない。
恵み深い親は老いに向かいつつあり、
その年齢を思うと深い愁いのもととなる。
朝の膳には美味を載せられず、
夕餉にはしばしば何もないありさま。
父母のためならいかなる労働も厭わないと言った孔子を慕い、
母の前では官に召されるのを敢えて喜んでみせた毛公を懐う。
意気通じ合う方からのお誘いがあれば必ず仕官するのがよく、
郷里で孤高を保っているべきではないのだろう。
世の大事なお仕事をされている皆様に訴えるのは
私を売り込むためだけではない。
我が郷土は都から遥かに離れてはいるが、
いつの日にか皆様とともに天下のために身を捧げたいのだ。
【補足】［（1）孟浩然は、孟子と同じ姓であることから、先祖は孟子と同郷で、代々儒学の古典を尊んできたと冒頭で歌っている。これはたぶん確たる事実ではないだろうけれども、家系的にも自分は官人となるのにふさわしいと主張しているのである。（2）後半は、年老いた親を持ち出したり、天下のために身を捧げたいといったりして、決して名利を求めるために官人になりたいと願っているのではないと強調している。つまり、この詩は、作品番号02-孟-06では説得力に欠けると自身で気づいての改良版であるのだろう。後に杜甫が官界に出ようと懸命にもがくのを見るようになるが、そのときにこのころの孟浩然の詩を読み返していただきたい］
■資治通鑑 巻212［杜甫8歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が8歳になった開元七年［719年］の記事を読む。
【訳文】
［719-02］九月甲寅、宋王の李憲を徒して寧王にした。玄宗皇帝はかつて複道［二階と二階を結ぶ通路］から、衛士が食事を終えて余った食べ物を溝に棄てるのを見て怒り、杖殺［棒で打ち殺す刑］してしまおうと思った。皇帝の近くに仕える者は誰も敢えて意見を言おうとしなかった。そのとき李憲は穏やかに皇帝を諫めた。「陛下が複道の中から人の過ちを窺い見てこれを殺したならば、臣としては人々が安心していられなくなるのを恐れます。陛下が食べ物を地に棄てるのを憎まれるのは、そもそも食べ物が人を養うものであるからでありましょう。いま食べ残しのために人を殺してしまうのでは、その根本を失ってしまうのではないでしょか」。皇帝は大いに悟り、はっと立ち上がって、「兄上がおられなかったら、濫りに刑を用いるところでありました」と、言って、すぐに衛士を釈放した。この日、皇帝は極めて楽しく宴飲し、自分の紅い玉帯を解いて、馬とともに李憲に与えた。
【補足】［玄宗皇帝の異母兄の李憲にまつわるエピソード。世襲制において兄弟はライバル関係になりやすく、当人同士よりも周囲の思惑によって兄弟間の仲が悪くなることも多い。玄宗皇帝についてはいずれの兄弟とも非常に仲がよかったというエピソードが多数残っている］
■［02-王-04］王維：李陵詠
【解題】玄宗皇帝の異母弟の一人に岐王の李範がいた［→通鑑713-30］。李範は交友関係が広く、特に文人との交わりを好み、いつのころからか王維は頻繁にその屋敷や別荘に出入りするようになった。この年に19歳になった王維は、都で行われた科挙の地方試験を受験して首席で合格した。それにまつわる真偽不明のエピソードが伝えられている。
地方試験が間近に迫ってきていたとき、王維は李範に呼ばれた。行ってみると、錦繍の服が用意されていて、それに着替えるように言われ、ある公主［皇帝の娘］の屋敷に連れて行かれた。李範が先に奥へと通され公主と盃を交わす間、王維は控えで待った。李範は、「酒の肴に琵琶の新曲をお聞かせしたいが、いかがであろうか」と、公主に告げて王維を呼び入れた。王維は李範の指示に従い、最近作った曲を披露した。公主は曲のすばらしさにも琴を奏でる王維の風姿の美しさにも心を打たれた。李範はわざと王維の名を明かさないままに、「この者は詩も得意なのです」と言い、王維の詩巻を出した。公主は一目見て驚き、「これは日頃から私が誦して習っている詩ではありませんか。昔の人の佳き作と思っておりましたが、この若者が作ったのでしたか。これだけの才があるのですから、きっと科挙をお受けになるのでしょう」。李範はうなずき、「この者は、困ったことに気位が高く、解頭［首席合格者］にならないのなら試験を受けないと申しているのです」と言って笑った。実は、公主はその年の解頭を張九皐という者にするよう試験の責任者に強く働きかけていて、それを李範は知っていたので敢えて王維を連れたのだった。「私にそのようなことを言われましても」と公主は笑って聞き流したが、李範が帰るとすぐに試験責任者を呼び付け、王維を解頭にせよと指示した。
この話が事実であったとしてもおかしくないほどに唐の時代の科挙は有力者の口利きが結果をかなり左右した。むろん実力が合格水準に全く達しなければ話にならないのだろうが、ある程度の下駄を履かせたり、順位を入れ替えたりするようなことはごく普通に行われていたようである。また、公主が王維の詩を習っていたとあるのは、王維の作品が上流階級の人々の好みに合うようなものであったことを示している。それは単に、公主が習っても差し障りのないような優美で上品な作品であるというだけではなく、やはり当時の時代精神を十分に映し出すようなものでもあったからなのだろう。
ここで読むのは漢の時代の武将である李陵を詠んだ詩。李陵は、日本では中島敦の小説『李陵』によってよく知られている。
【訳文】
漢の王朝に仕えた李将軍は、
三代続く将軍の家の子であった。
髪を結い上げる年になったころには勝れた策を考え、
年若くしてすでに壮士となった。
遠く駆けて国境の塞の人となり、
深く敵の単于［匈奴の王］の本拠地を目指した。
敵と味方の旗が向かい合い、
簫や鼓が悲しく響いた。
沙漠の果てで日が暮れても、
戦の声は湧き立つ砂塵の中で続いた。
李将軍が敵を撃滅せよと号令するのは、
皇帝に仕える者としての名を重んじるからである。
しかし、大軍の支援はなく、
ついには敵の穹廬に囚われの身となる恥を忍ばなければならなかった。
少年のころから漢朝の恩を蒙ってきた者として、
堪え難くはあっても、いつしか報いようと深く思って、
なお死に身を投じることはしなかった。
同じときに匈奴に囚われた蘇武と会い、
我が心を知るのはこの人の他にはいないと思ったのだった。
【補足】［（1）李陵は、匈奴の地に攻め入って苦戦する李広利を助けるために五千の歩兵を率いて出陣した。ところが、李広利と合流する前に、匈奴の単于が率いる本隊と遭遇し、単独で八日間にわたって奮戦したもののついに敗れて降伏した。漢の皇帝は、李陵が漢朝の機密を単于に洩らしているとの誤った情報を信じ、李陵の親族を処刑した。一方で、同じころに匈奴に捕らえられた蘇武は決して降伏することなく、沙漠の中で孤独の忠義を貫いていた。単于は李陵に蘇武を説得するよう命じたが、蘇武は応じなかった。後に、蘇武が釈放されて漢に帰るときに、李陵は会い、涙ながらに見送った。この詩の結びはそのときの心情を歌っている。（2）李陵を詠んだこの詩から、このころの王維の詩風がよくわかる。歴史上の事柄を適切な言葉遣いで巧みに処理し、結びの句は余情を湛え、上流階級の人が見習うに足る出来栄えである。王維の詩は洒脱な都会風で、孟浩然の詩は流麗さに欠けて田舎の香りがする］
■［02-孟-08］孟浩然：和賈主簿弁九日登峴山
【解題】孟浩然は都の人々に詩を送ったものの［→作品番号02-孟-06、02-孟-07］、はかばかしい成果はなかったようだ。これは、9月9日の重陽の節句に、襄陽で主簿の職にある賈昇とともに峴山に登り、賈昇が詠んだ詩に応じて詠んだ作品。
詩の題の冒頭に「和」とあるのは、同じテーマで詩を詠んだという意味。もとの詩と同じ韻を踏んで応酬する「次韻」は、唐代の後半になってぼちぼち行われるようになり、孟浩然のころはそうした例は見られない。宋代になると、次韻は社交の道具として非常に盛んになり、「和」は次韻とほぼ同じ意味で用いられることが多くなる。前に触れたように、武則天の時代に科挙の試験で詩の実作が課題として出題されるようになったことから、科挙を目指す者は必ず詩を学ぶようになり、詩の実作者が急激に増えた。詩は後に見る作品番号02-王-06がその典型であるように、貴人の求めに応じて作って献じるという風習がなお強く残っていたが、一方で、読書人の中に詩作に習熟した人が増えたことから、同レベルの仲間として詩を交換し合うことが盛んに行われるようになった。孟浩然はその点でも先駆的な役割を果たして、後に見るように、詩を通して多数の人々との繋がりを作って、自在に天下を動き回った。非常に単純化していうと、詩の実作が科挙の課題となったことで、優れた詩を作れるということはすなわち国家にとって有用な人材であることの証となり、詩人は社会から尊敬される存在となったのである。極論すれば、最高の詩を作れる人は宰相になるべき人であるともいえるだろう。孟浩然はそのような気構えで詩を作ったのであって、作品番号02-孟-06で書と剣を同時に学んだと歌っていたことから、孟浩然にとって詩作はまさしく真剣勝負であったと想像してもよいのかもしれない。
峴山はすでに作品番号01-孟-02で見ているように、襄陽の町の東南九里にある山。さほど高くもないが、山頂からの眺めがすばらしく、襄陽を訪れてその絶景を見ずに去ってはならぬと言われた。とりわけ、孟浩然が憧れる龐徳公より少しばかり後の時代に羊祜が登ってから天下にその名が知れ渡った。羊祜は晋による天下統一の礎を築くために襄陽に来て、ある日のこと峴山の山頂に立つと、その顔がたちまち一変した。同行した鄒潤甫が、「公の治徳は四海に冠たるものがございます。そればかりか、前哲の教えを嗣いで学問の道も究めておられます。公の御名はこの山のように八方より望まれ、永遠に伝えられるでありましょうに、何故に、そのような御苦悶をお顔に浮かべておられるのでしょうか」と尋ねた。羊祜は答えた。「宇宙はいつからあるのだろうか。宇宙があったその最初からこの山はあったのだろうか。我等が決して知り得ぬ遠い昔より、数え切れぬ賢達勝士がここに登って、ここからの景色を遠望したであろう。我等の前には無限の時があり、無数の賢達勝士がいた。我等の後ろにも無限の時があり、無数の賢達勝士がいる。いまここで、その誰を見るのか。前の人を見ず、後ろの人を見ない。これを悲しまずにいられようか」。
【訳文】
（まわりに見える）望楚山も万山もどこも同じ重陽の日、
特にここで重陽の宴を催そうと人々が集まった。
皆様方にはそろって休暇を与えられ、
菊の花びらを浮かべた酒に一緒に酔おうとしている。
高い秋の空から、大いなる思いが生まれ、
落ち行く日差しから、歓びの情がさらに催される。
この地には貴君の詩に和せる者は少なく、
洛陽の才人に深く恥じなければならない。
【補足】［（1）賈昇を始めとする官人仲間の宴に、土地の名士として孟浩然も呼ばれたのだろう。（2）「大いなる思い」の原文は「逸思」、その内容はかの羊祜の思索であろう。（3）「洛陽の才人」とは、そのように褒めたたえられた漢の時代の賈誼を指す。賈昇を同姓の賈誼になぞらえた社交辞令である。とはいえ、作品番号02-孟-04を思い起こすなら、賈誼のようにはなれずにいる孟浩然の苦い思いが託されているのかもしれない。（4）なお、賈昇はその後、少し南の荊州に移ることになり、同じ峴山で送別の宴が設けられ、孟浩然は詩を贈っている］
■資治通鑑 巻212［杜甫9歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が9歳になった開元八年［720年］の記事を読む。
【訳文】
［720-02］春、正月、侍中の宋璟は、罪を負いながら妄りに無実であると訴えてやまない者があまりにも多いのを嫌い、それら全てを御史台で取り調べさせ、中丞の李謹度に、「処分に服してもはや訴え出ない者は獄より出し、訴え続ける者はすべて獄に繋いでおくように」と言った。そのために宋璟を怨む者が多くなった。たまたま日照りが続いて旱魃となった。優人［役者］が戯れに旱魃の神を皇帝の前で次のように演じた。旱魃の神に、「どうして出て来たのか」と、問うと、「宰相様の御処分に奉仕しようと思いまして」。「それはどういうことだ」。「冤罪を負う者が三百人以上もおりまして、宰相様はことごとく獄に繋いで抑えつけておられます。そうなりますと、私は出ないわけにはいかないのです［天災は失政をとがめるものであるからだ］」。皇帝は心の内でその通りだと思った。
そのとき、宋璟は中書侍郎同平章事の蘇頲とともに悪銭［粗悪な銭］を厳禁することを発案した。悪銭は淮河と長江の間で最も甚だしかった。宋璟は監察御史の蕭隠之を派遣して悪銭の現状を調査させた。蕭隠之は厳格で性急であったために、各地で悲鳴が上がり、怨嗟の声が満ちた。皇帝は蕭隠之を左遷した。
辛巳、宋璟を宰相から罷めさせて開府儀同三司にして、蘇頲を礼部尚書にし、京兆尹の源乾曜を黄門侍郎にし、并州長史の張嘉貞を中書侍郎並びに同平章事とした。ここにおいて禁令が緩んで悪銭がまた行われてしまった。
【補足】［ここには宰相の入れ替えが記されてている。宋璟は国政の規律を整えようと奮闘し、そのために多くの摩擦を生じた。訳は省略したが、有力者が人事に口をはさむことを抑えようとしたために反発を買ってもいた。冤罪に関連する事柄は、ここだけを読む宋璟の処置はひどいように思えるのだが、これも有力者のコネがあると、ごね得になるというような実態があったのだろう。悪銭もまた、それによって利益を得る者がやはり有力者と結びついて、宋璟を排除しようとしたという背景があったのだろう。かくして源乾曜［→通鑑716-22］が宰相に復帰したのである］
【訳文】
［720-11］十月、皇帝は諸王［皇帝の兄弟］が群臣と私的な結び付きをするのを禁じていた。光禄少卿駙馬都尉の裴虚己と岐王の李範は遊宴し、そのときに密かな相談事をした。戊子、裴虚己を新州に流し、公主［睿宗の娘］とは離縁させた。また、万年尉の劉庭琦や太祝の張諤はしばしば李範と酒を飲み詩を賦していた。それで、劉庭琦を雅州司戸に張諤を山茌丞に左遷した。
しかし、皇帝が李範に対する態度は変わらなかった。皇帝は左右の者にこのように言った。「我等兄弟の間には何もない。ただ、出世を競うような連中が無理やり取り付こうとしているのだ。私には兄弟たちを責める気は一切ない」
皇帝がかつて病気になったことがあった。薛王の李業の妻の弟である内直郎の韋賓と殿中監の皇甫恂が密かに皇帝の病状［皇帝にもしものことがあった場合のことも含む］について話し合った。事が発覚し、韋賓は杖死となり、皇甫恂は錦州刺史に左遷された。李業とその妻は恐れ入って処罰を待った。皇帝は階下に控える二人のところへと降り、李業の手を執って、「私にもしも兄弟を疑う心があるのならば、天地は直ちに私の命を奪うであろう」と言って、すぐに宴飲を催し、李業を王位のままに復し、その妻を慰め諭した。
【補足】［玄宗皇帝には叔母の太平公主との死闘を経て権力を掌握した経験があるので、兄弟との関係が安定することに心砕いた。ここには李範と李業の二人の弟のことが記されている。裴虚己の肩書に「駙馬都尉」とあるのは皇帝の娘を妻としていることを示している。そうした恵まれた立場にありながら、何やらよからぬ相談事を李範に持ち掛けたのある。裴虚己は妻と離縁の上で左遷となった。一方で、韋賓は玄宗皇帝にもしものことがあれば、姉の夫である李業が皇帝になる可能性もあると考えて、病状についてあれこれ詮索したのだろう。皇位を脅かすような言動は死罪である］
■［02-王-05］王維：息夫人
【解題】王維が二十歳のときの詩。息夫人とは、春秋時代の息国の君主の妻。息国は楚国によって滅ぼされ、息夫人は楚国に連れ去られ、楚王の妻となって子供も生んだものの、楚王とは口をきかなかった。楚王がその訳を尋ねると、「私は一人の女として二人の夫に仕えることになってしまいました。死ぬことはできなかったけれど、話すことまでどうしていたしましょうか」と答えた。また、この詩については次のような話が伝わっている。玄宗皇帝の兄の寧王の李憲［→通鑑719-02］には寵愛する女性が多数いた。その邸宅の隣に餅［小麦粉を焼いた食べた物］を売る者がいて、李憲はその妻を見て気に入り、夫に厚く酬いてその妻を自分のものにした。他の女を超えて李憲はその女を寵愛した。一年経ってから、「まだ元の夫を想うことがあるか」と尋ねた。女は何も答えなかった。李憲が元の夫を呼び入れると、女は見つめたまま両眼から涙が溢れて止まらなかった。居合わせた十人余りの客人たちも悲しい気持ちになると、李憲は皆に詩を詠むようにいった。そして王維が最初にこの詩を詠んだ。このエピソードがたとえ事実ではなかったとしても、王維が李憲を始めとして高貴な人々の邸宅に出入りしていたのは間違いないことであった。
【訳文】
いまは寵愛を受ける身ではあっても、
旧日の恩を忘れることはできない。
花を見ても眼に満ちるのは涙ばかり、
楚王とは言葉を交わしはしない。
【補足】［王維は貴人たちにちやほやされながらも、この詩に詠まれているような節操の堅さを具えていたようである］
■［02-王-06］王維：勅借岐王九成宮避暑応教
【解題】玄宗皇帝の弟の岐王の李範［→通鑑720-11］は、王維の最も有力なパトロンであった［→作品番号02-王-03］。この詩の題の終わりにある「応教」の二字は、教［諸王の命令］に応じて詩を作ったことを示す。古くから高貴な人の要望に応じて詩を作ることは文人の大切な役割で、報酬を得たり地位を得たりすることに結びついた。これは、岐王の李範が皇帝の勅令を得て郊外にある九成宮を借りて避暑に行き、その際に王維も同行して詠んだ詩である。
【訳文】
帝子［皇帝の子］は丹鳳闕［皇城］に遠く別れを告げられた。
天書［皇帝の勅令］によって遙かな翠微宮［九成宮］をお借りしたのである。
（九成宮に到着すれば）窓を隔てた雲や霧が、
あたかも自分の衣の上から生じるように感じられ、
幔を巻き上げると、
山や泉があたかも鏡の中へと飛び込んでくる。
林の下の水音は賑やかに笑い語るかのように聞こえ、
巌の間にのぞく樹の色が窓格子に見え隠れする。
昔、ある仙人は笙を吹きつつ碧い空に昇って行ったというが、
仙人の住まい勝るところがここにあるではないか。
【補足】［「応教」の作は、気品よく優雅に作ることが求められ、その点でこの作品は上々の出来といってよいのだろう。美しい字句を並べ、幾つかの故事を用い、九成宮を仙界の宮殿よりも結構なところだと讃えている。わかりにくい難しい言葉遣いはなく、訳文には表されていないが、対句も巧みかつ素直で、この作品を見た李範を始めとするその場に居合わせた顕貴の方々は、二十歳の若者の見事な腕前に感心したであろう。ただし、我々にとってはあまり興味を引かない詩である。王維が李範の求めに応じた詩としては、楊氏の別荘にお供したときや、衛氏の邸宅での夜宴に同席のしたときのものなどがあるが、これ以上訳すことはしない。なおこの「自由訳」においては、対句は対句らしく訳すような工夫は特にはしない。例えば、この詩にある、「隔窓雲霧生衣上、巻幔山泉入鏡中」の対句を、そのまま「窓を隔てて雲や霧が衣の上に生じ、幔を巻いて山や泉が鏡の中に入る」と対句のままに訳しても、我々には何に言っているのかさっぱりわからない。対句的な表現は日本語に基づく理解の仕方にはうまく馴染まないからであろう］
■［02-孟-09］孟浩然：晩春臥病寄張八
【解題】20歳の王維が都で皇族の屋敷に出入りしていたころに、32歳の孟浩然は郷里の襄陽で平穏ではあっても心中は複雑な日々を過ごしていた。春の終わりに病に臥せ、親友の張子容のことを思い、この詩を作って送った。後に見るように、張子容はこのころは長江下流部の江南にある常州にいたようである［→作品番号02-孟-15］。
【訳文】
南側の道では春はまさしく終わろうとしているのに、
北側の窓辺でなおも病に臥せている。
しばらく近くの林にも行かないでいるので、
草も木もすっかり盛りになっているであろう。
細い径の先にあるあの花はもう終わってしまっただろうか、
庭では竹が浄らかに静かに揺れている。
翡翠の翼の鳥が蘭の花に戯れたり、
赤い鱗の魚が荷の柄を動かしたりしているだろうか。
いま思うのは、
昔馴染の友が、遠い川べりの地で政務に励んでいること。
互いに夢に思うことさえ、雲と山に阻まれている。
私は枕辺で感じるところに従って詠嘆ばかりしている。
何を感じ何を詠嘆するのか、
同じ志がありながら離れているのが残念でならないのだ。
俗世間に生きる人たちは、
自分のいいように世渡りをするばかりで、
知己を得ることが少ない。
（漢の時代の）賈誼は才能がありながら空しく一生を過ごし、
（晋の時代の）潘岳は望む地位を得られないままに鬢には半ば白いものが垂れた。
遥かな君を思う情を川に注いで東に流そう……、
日の影はたちまち西に駆け入って行く……。
常に恐れるのは、
羽を振るって自在に飛びことができないままに溝に埋もれてしまうこと。
窮［困窮］と通［栄達］は運命によって定まっているのか、
そのことについて何かしらわかることがあるのだろうか。
【補足】［（1）この詩には、張説や都の人々に送った先の詩と異なり、孟浩然の心の内が率直に詠まれている。（2）志を得なかった人物として賈誼と潘岳を引いている。賈誼については作品番号02-孟-03や02-孟-08でも引いている。賈誼は気を病んで33歳で早世していて、孟浩然はすでに32歳になっていた。潘岳は文才があり、大変な美貌の持ち主で、都の女性たちの間でもてはやされたが、出世には恵まれなかった。ただ、詩文は確かに巧みではあったものの、その振る舞いは首をかしげるようなことも少なくなく、孟浩然が慕うに値する人であったかは疑問である］
■［02-孟-10］孟浩然：愛州李少府見贈
【解題】襄州の役人である李姓の人から贈られた詩に応えた。詩の題の最初に「愛州」とあるのは、かつて愛州に赴任していたことがあるからだ。「少府」とあるのは官職の名称で、州の警察署長のような役割を示すものであるが、地方官のうち知事ないしそれに次ぐような地位以外を大まかに指す語として用いられることが多いようだ。
【訳文】
門の内、軒の下に籠って疾を養っている。
もとより浩然の気こそは真に存在するはずだ。
天地のもととなる五行［水、火、金、木、土］のうちの火が禁じられているいま、
盛りに向かう春を見ようと十歩ばかり外に出てみた。
父母が植えてくれた桑と梓は敬うべきであり、
また、客人を歓び迎える主人の心でもある。
とはいえ、見回してみて、いつでも色褪せないものといったら、
青い松と翠の竹がある。
【補足】［（1）李少府は孟浩然が病に臥せていると聞いて見舞いにきて、詩を贈ったのだろう。この詩はそれに応える内容になっている。（2）「浩然の気」とは、もとは孟子の著作にあって、宇宙に充満する根源的なエネルギーのようなもの。「浩然の気」の存在を我が身の内に確かに感じられるならば、病は吹き飛ぶのである。（3）冬至から105日目の寒食節の前後は火を使った食事をとることが禁じられていた。この詩の中で「火が禁じられている」とあることから、寒食節に詠まれたことがわかる。寒食節が終わると清明節で、春の盛りとなる］
■［02-孟-11］孟浩然：李少府与楊九再来
【解題】李少府は楊九という人物を伴って再び見舞いにきた。この詩から、李少府はもとから孟浩然と親しい関係にあった地元の人であるのではないかと推測されている。
【訳文】
弱歳［二十歳］で早くにも登竜門を突破した貴君と、
幸いにもいままた会えるようになった。
春の月に揺れる柳もよいものだが、
寒い冬にも緑を保つ松を思うべきなのだろう。
寒食が終わり、あちこちに煙が立つのが見え、
曙の鐘にまざって、笛の音が聞こえ、
道辺では喧喧と鶏を闘わせる遊びが始まっている。
春の行楽のとき、
友と遊びに行く人々を私は独り羨むのである。
【補足】［（1）李少府は二十歳の若さで科挙に合格して、何年ぶりかで郷里に戻ってきたのだろう。楊九は地元の人のやはり昔馴染みなのだろうか。（2）寒食節の次は清明節で、日本の春の彼岸から花見の時期のように、先祖に墓参りに行ったり、野外に行楽に出たりする。李少府は孟浩然を外に誘い出そうとして来たのだろう］
■［02-孟-12］孟浩然：清明日宴梅道士房
【解題】上の詩を同じときであるとは限らないが、清明節に梅道士からの誘いを受けたという詩。梅道士は南園の近くに住んでいたのだろう。
【訳文】
林の下に臥しているうちに春の愁いも尽き、
窓を開くと、自然界の様々なものがすっかり新しくなっている。
そこに「青鳥の使い」［伝説の仙女の西王母は青い鳥を使者に立てた］がやってきて、
私を赤松子［伝説の仙人で、梅道士に喩える］の家に迎えたいという。
出掛けてみると、
金の竈［仙薬を作る竈］では寒食後の最初の火を付けたところ、
不老長生の実の成る桃の花がちょうど落ちかかってくる。
その桃があるなら、吾等はいつまでも童顔を保っていられるはずだから、
「流霞」［仙人の飲む酒］を傾けて徹底的に酔い続けるといたそうではないか。
【補足】［仙人に関連する用語をちりばめて洒落のめした詩。郷里の一風変わった人々との交流を詠んだこの種の詩が実は最も孟浩然らしいのだろう。とすれば、堅苦しい官職には不向きな人であったのだろう］
■［02-孟-13］孟浩然：尋梅道士張逸人
【解題】孟浩然が、上の詩で見た梅道士や、張逸人を尋ねた詩。張逸人は張姓の風変わりな人物で、後に見る張野人と同じであるのかもしれない。
【訳文】
梅道士のところの柳、
それはもとは彭沢先生［陶淵明］の住まいにあったものか。
張逸人のところの鵞鳥、
それはもとは山陰道士［王羲之に請われて金を積まれても愛鳥を売らなかった人］が飼っていたものか。
私は自分の好みに従って来るのであって、
杖を留めるところというと、漢陰［漢水のほとり］のこのあたりが多くなる。
二人とともに、魚の楽しみを覗かせてもらい、
枻を叩きながら歌うのを聞かせてもらおう。
（漢の末の隠者である）崔州平や徐元直の迹はまだ朽ちてはない、
千年にわたって清らなか波が変わらず立っているのだから。
【補足】［（1）張逸人は漁をする人であったのだろう。漢水では簗を仕掛ける漁が行われていた。孟浩然と梅道士は張逸人の舟に乗って、魚を獲る仕掛けを見せてもらったりして楽しんだのだろう。（2）崔州平と徐元直は襄州ではよく知られた隠者で、諸葛亮の友人であった。つまり孟浩然が敬愛する龐徳公とほぼ同じ時期の人である］
■［02-孟-14］孟浩然：梅道士水亭
【解題】これは孟浩然が梅道士の住まいを訪ねた詩。題に「水亭」とあるので、水辺に住まいがあったのだろう。
【訳文】
臍曲がりの役人はそこらの凡庸な雇われ人とは違っていた。
実は名士の出であって、いまは道家の人となっている。
水辺の隠れた住まいは見るのが難しく、
水は仙界と間近につながっているのだろう。
山は隠者を密やかに籠らせてくれるところ、
高い見地からの議論には、我らはなかなか応じられない。
再び来くるときに迷ったならば、
花の下で漁師の舟に問うとしよう。
【補足】［（1）この詩からすると、梅道士はもとは名士の出で、役人として勤めていた時期があったのだろう。（2）最後の「花の下で漁師の舟に問う」とあるのは、陶淵明が描いた桃花源のイメージである［→作品番号02-孟-05］］
■［02-孟-15］孟浩然：登峴亭寄晋陵張少府
【解題】この詩の制作年代は明らかではないが、峴山の頂上にある亭に登り、親友の張子容［→作品番号02-孟-01］のことを思って詠んだもの。題に「晋陵の張少府」とあり、このとき張子容は晋陵［常州の別称］に赴任していた。
【訳文】
峴山の上の風ははなはだ急で、
雲が帆を広げて鳥のように飛び去って行く。
亭から身を乗り出し、
風の彼方にいる君に問いかける。
「かの張翰のように故郷に帰ってくる気はないのかい」
【補足】［最後は、張子容と同姓の張翰の故事を引いたもの。張翰は晋の時代の人で、あるとき都にいて秋風を感じると、故郷の呉の地の菰の料理、蓴のスープ、鱸魚の刺身の味を出し、「我が思いのままに生きられずに、数千里も離れた地で官職につながれていられようか」と言って、さっさと帰郷してしまった。呉は晋陵に近く、襄州に帰ってくるとなると張翰の動きとは方角的にはむしろ逆になる。なお、張翰は単に故郷の味が懐かしくて帰ったのではなく、朝廷内に異変が起こるのを察知してそれに巻き込まれるのを避けたのが真の理由だったようである］
■資治通鑑 巻212［杜甫10歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が10歳になった開元九年［721年］の記事を読む。
【訳文】
［721-04］春、正月、監察御史の宇文融が、「天下の戸口［戸籍簿に載っている家］で、逃げ移ってしまい、巧みに偽る者が非常に多数になっています。点検して総括しなければなりません」と、申し上げた。宇文融は宇文弼の玄孫で、源乾曜はもとからその才能を愛していたので、これに賛成した。
二月乙酉、しかるべき部署において、流れ移った者を元の地に戻し偽りを正すための法を議論して提案するよう勅命を下した。
【補足】［（1）唐といえば、律令制の国家で、法によって人民を管理し、成人男子に農地を与える代わりに兵役や租庸調を担わせたと、我々は歴史の教科書で習うのだが、実際にどの程度まで制度通りに運用されていたのかはよくわかっていない。建国から100年も経つと、制度と実際面の乖離が露わになり、もはや立ち行かない状況になりつつあった。ここで取り上げられているのは、国家が把握できている戸数の減少である。唐の制度は人民に非常に重い負担を強いるもので、それが国家の基盤を支えていた。負担に耐え切れられなくなった者は制度の外へを逃げ出ようと、国から与えられた土地を棄ててどこかへと消え去ってしまう。人が消えると、兵役も租庸調も全てに支障が生じる。国家として大問題であるから、当然ながら朝廷は対策を講じなければならない。（2）「宇文融は宇文弼の玄孫」と記しているのは、家柄を重視する価値観がこの当時の人々はもちろん歴史家にも強くしみついているからである。宇文融のような貴族や高級官僚は土地の私有が許され、兵役や租庸調の負担もなかった。土地を棄てた人民はそうした私有地に流れた。つまり、宇文融の提案は国家のためにはなるものではあるけれど、自分たちの私的な利益には反するものであった。だから、朝廷の重臣たち、とりわけ家柄のよい者にとっては本気になって取り組みたい課題ではなかった。従って、上辺だけの対策が立てられ、偽りの成果が報告されるという結果になる］
【訳文】
［721-10］六月己卯、中都を罷め、また蒲州に戻した。
蒲州知事の陸象先の政事は寛大で簡明であることを尚び、役人や庶民が罪を犯しても、多くの場合に教え諭すだけで赦した。蒲州の録事の任にある者が陸象先に、「知事殿は罪人を鞭打つことをなさいませんが、それでは権威が示せないのではないでしょうか」と、言った。陸象先は、「人の情は人によって大きく異なることはない。罪を犯した者であっても、私の言葉が理解できないわけではない。権威を示すために必ず鞭で打たなければならないというのなら、まずそなたに対してから始めてみようか」と、言った。録事は慚じて退いた。陸像先は人によくこのように言っていた。「天下とは本来事なく治まるものなのだ。とかくつまらない連中が乱してしまう。源から清くするなら、よく治まらないことを憂う必要はないのだ」
【補足】［王維の郷里の蒲州が取り上げられている。最初に蒲州が一時期、中都とされていたのが元通りに蒲州になったと記されている。つまり重要な地域であるとする扱いから、普通の地域の扱いに変わったのである。次に、陸像先のエピソードが記される。儒学では、法によって人民を厳しく管理するよりも、徳によってゆるやかに治めるのを理想としたので、それを実践した陸像先のことを特に取り上げているのである。なお、訳では省いたけれど、先に太平公主が玄宗皇帝の廃位を企んだときに、陸像先は強く反対し、また、太平公主が亡んだ後で罪が及ぶ者が非常に多かったときに、陸像先は人知れず罪の小さな者を多数救っていた］
【訳文】
［721-15］九月癸亥、張説を兵部尚書同中書門下三品にした。
【補足】［長らく地方に出ていた張説［→作品番号02-孟-03］が宰相として中央に復帰した］
【訳文】
［721-22］十二月、著作郎の呉兢が『則天実録』［武則天時代の記録］を編集した。その中に、宋璟が、魏元忠の無実を明かすよう張説を励ましたと記してあった。張説は『則天実録』を宮中に修めるときにその部分を見て、呉兢がそのように書いたのだと知ると、偽って、「この件には劉知幾君は関係していなかったはずだが」と、呉兢に言った。呉兢は立ち上がり、「これは私が記したのです。確かな史実が残っています。亡くなった人に偽りをこじつけてはなりません」と、言った。そのやりとりを聞いた同僚は顔色を失った。その後、張説は数文字を改めることを呉兢に願った。呉兢はついにそれを許さずに、「もしも貴公の要請に従ったならば、この史書は正しい記録とはならず、後世の信頼を得ることはできなくなります」と、言った。
【補足】［ここの記述はややわかりにくいが、要するに、張説は史書を書き改めてほしいと呉兢に懇願したのである。それはこれより18年前の出来事で、張説はかろうじて踏みとどまって不正義に与することはなかったものの、あまり誇れるような振る舞いではなかった。当時、武則天による統治が強権的性格を強め、ほとんどの者が唯々諾々と従うなかで、権威に屈することなく信念を貫いた人物として魏元忠がいた。武則天の寵臣であった張易之と張昌宗の兄弟は魏元忠を敵視し、あらぬ罪をでっちあげて魏元忠を陥れようとした。そのときに、張易之兄弟は高位に就けることを約束して張説を証人として立てた。張説はそれに従って武則天の前で証言することになった。張説が証言する直前に、宋璟や劉知幾が正しいことを言うよう懸命に説得した。劉知幾は、「史書を汚して子孫の患いとなるようなことはするな」と言った。張説は土壇場で改心し、張易之兄弟に脅されてこの場に立たされたのであって、魏元忠について知るところはないと、武則天に告げた。審理の場は大混乱となり、結局、武則天は張易之兄弟に対して大甘であったために、張説が証言をひっくり返したことを問題視して張説は遠くに南方に流されてしまった。張説としては、堂々と張易之兄弟に不利な証言をしたと史書に書いてもらいたかったのだろうが、呉兢は事実をそのままを史書に残そうとしたのである。呉兢とのやりとりも含めて、張説は非の打ちどころのない君子というわけではなく、人間的にはなかなかに癖のある面白い人である］
■［02-王-07］王維：送綦毋潜落第還郷
【解題】この年の春、王維は科挙の最終試験に合格し、すぐに宮中で働く太楽丞の職を得た。音楽に関わる職務である。科挙は筆記試験で、実際に官職を授けるかどうかは面接試験で判定され、そこでは唐朝の官人としてふさわしい振る舞いができるかどうかが重視され、当然のことながら試験委員たちの主観に強く左右された。すでに上流階級の人々と親密な交流のあった王維は難なく面接試験を好成績で通過したのだろう、ただちに王維の才能に見合った職務を都において授かったのであった。その一方で、都で親しくなった綦毋潜［字は孝通］は筆記試験の段階で落第し、遠く南方の郷里、虔州に帰ることになった。これは綦毋潜を見送った詩。綦毋潜はこの5年後に科挙に合格し、また孟浩然とも知り合いになる。
【訳文】
聖代［よく治まった時代］には野に隠れる者はなく、
英霊［優れた才能のある人物］はことごとく朝廷に集まるという。
そこで、東山［隠者のいる場所］の客であった貴君もまた、
いつまでも山で薇を採る暮らしを続けるのではなく、
都に出て来てみたのだが、
宮殿の門はなぜか遠くにあって、
己の選んだ道は誤っていたのだろうかと思わなければならなかった。
いま季節は寒食のころ、
都の人は春の晴れ着を盛んに用意している。
長安から始まる道に酒を置き、
同じ心を抱きながらも私とは別れてしまう貴君を見送る。
貴君はこの先は舟を浮かべて進み、
間もなく、粗末な扉の前を掃除して住むようになるのだろう。
旅行く人は遠く樹々の中に紛れ、
夕日を浴びながら小さな村のあたりをゆくのだろう。
貴君とともに活躍したいと思った私の謀が成り立たなかった。
それでも、貴君を知る者はいないと落胆しないでほしい。
【補足】［科挙は新年の始めに行われ、春の盛りのときに、合格者と落第者との間には残酷なまでの差異が生じる。王維のこの詩は、合格者が落第者を見送る詩として最良の出来であるといえるだろう。なお、テキストによっては題に綦毋潜の文字がなく、他の人に他の時期に贈った詩であるとする説もある］
■［02-王-08］王維：少年行
【解題】科挙に合格したころの王維はなかなかに意気盛んであった。21歳というかなり若い年齢で科挙に合格し、都で官職を得たのであるから、有頂天になって舞い上がっても少しもおかしくない。これは秦の時代の都の咸陽でのこととして、将来に遠大な夢を描く若者の姿を歌っている。昔の時代に仮託するのは文学上の約束事で、杜甫の詩でもたびたび見るようになる。
【訳文】
其の一
新豊［銘酒の産地］の美酒は一斗が一万銭。
咸陽には若い遊侠の士がごろごろしている。
逢ってたちまち意気投合、
「よし、君と飲もうではないか」
と、柳に馬を繋いで、高楼に上る。
其二
俺は、手始めに羽林郎様［皇帝直属の軍団の将軍］にお仕えし、
それから驃騎将軍の遠征に従って漁陽［北東の辺地］で戦うつもりさ。
国境での務めは苦しいだろうなだって、
あいつは勇ましかったと誰かが言ってくれさえすれば、
死なんてどうだっていいのさ。
其の三
俺は、二人分の力で大きな弓を引く。
敵の騎兵に千重に囲まれたところで、
そんなもの無に等しい。
金の鞍にまたがり、
白い矢羽を手にし、
ぱたぱたと五人の単于［遊牧民の王］を殺してやるだけさ。
其の四
漢の朝廷で勝利を祝う宴が終わると、
戦功を論じる会議が開かれる。
天子がお出ましになって侯の位を授ける印をお渡しになる、
俺は、そいつを佩びて、将軍となって明光宮から出て行くのだ。
【補足】［領土拡張政策へと乗り出しつつあった当時の空気のなかで、戦場で手柄を立てて出世してみせると息巻く若者が実際にいたのだろう。王維にはそのような風潮に対して特段危惧するようなところはない］
■［02-王-09］王維：被出済州
【解題】ここまで順風満帆で来た王維は思もよらぬ挫折を味わう。伝えられるところでは、芸達者な王維は、楽人たちのために「黄獅子」という舞いを演じてみせたところ、それは皇帝しか舞ってはならないものであるとして咎められ、この年の秋、都落ちの身となってしまった。ニュースターの王維を好まない人もいて、あいつは調子に乗り過ぎているということになったのだろうか。王維は山東半島の済州の司倉参軍という課長クラスの地位を与えられた。これは都を発ったときの詩。
【訳文】
小さな役回りの者は罰せられやすいのか、
私は済水の南に左遷とななった。
執政の方々としては法をもって執行するまでであり、
賢明なる皇帝には私を罰しようとのお心はないであろう。
我が行く先は――
村の入り口の門にまで川の湿り気が上ってくるし、
海からの雲によって井邑全体が深く覆われてしまうこともある……。
たとえ都に帰り来るときがあるとしても、
すでに鬢には白いものがまじるようになったのを憂えなくてはならないだろう。
【補足】［初めて左遷を食らいさすがにショックだったのだろう、次に都に帰ってくるころにはもう白髪になっているであろうかと嘆いている］
■［02-王-10］王維：登河北城楼作
【解題】済州に向かう途中、まだ旅の始まりに、黄河の北側にある町で楼閣に登って詠んだ詩。
【訳文】
傅巌の上にある井邑、
旅の宿は霧の中。
高いところにある楼閣に登るとまだ落日が残り、
遥か彼方の水際に蒼い山が映る。
岸辺に灯った火は、そこに舟が宿るのであろうか、
漁師の家のあたりへと鳥が帰って行く。
寂寥として天地が暮れなずむにつれ、
大河とともに心が静かに広がり行くのを覚える。
■［02-王-11］王維：宿鄭州
【解題】左遷の旅の半ばごろ、王維は洛陽の東の鄭州に至り、この詩を詠んだ。
【訳文】
朝に洛陽の人々と別れ、
夕に鄭の人の宿に入る。
親しい友のいない他郷、
独り私は僮僕［少年の使用人］とだけ親しむ。
秋の雨に暗くとざされ、
あたりの町や村は見えない。
草むらの脇を農夫が家路につき、
村の子供は雨の中で牛を追っている。
宿の主人は東の丘にいて、
茅葺小屋のあたりを巡ってまだ忙しくしている。
機を織るかのように虫が鳴き出し、
雀が稔りの時を迎えた畑でまだ騒いでいる。
昨日はなお金谷にいたけれど、
明日は京水を渡る。
ここを去ってどこに行くのか、
わずかな禄に引かれて遠いところで苦しもうというのだ。
■［02-王-12］王維：早入滎陽界
【解題】上の詩のすぐ後、朝早くに滎陽との境界に入ったときの作。王維は舟に乗って滎水の流れを下り、黄河にほど近い滎沢へと向かった。このあたりは川や運河が入り組んだ地域である。
【訳文】
舟を泛べて滎沢へと入った。
このあたりは昔から雄藩［重要な土地］として知られる滎陽である。
黄河の屈曲に押されて街並みは狭く、
夜明けとともに、川の中から盛んに火や烟が立ち昇る。
人の振る舞いからこの地の風俗が窺い知れ、
境を超えてから新たな方言を聞く。
秋の平野には田畑の稔りが溢れ、
朝の光が射すと、町の中が賑やかになる。
波の上の旅人に向かって魚を商う人が寄ってきて、
岸の傍らの村から鶏や犬の声がする。
我が旅の先は白い雲の向こう、
ぽつんと上げた一つの帆に託す我が思い、
それはどのように述べたらよいのだろうか。
【補足】［旅に出てからの詩は、上流階級の人々に囲まれて都で詠んでいた詩とはかなり趣が異なっている。すでに後半生の王維の詩を知っている我々が見ると、左遷されたことで、本来そこに至るべきで詩境へとようやく歩み出したかのような印象を覚える。王維は多才で、自己の個性を強く押し出すような人ではなかったので、往々にして人々の期待に応えることを、とりわけ若いときには優先してしまうところがあったのかもしれない。旅に出て一人になったときに、本来の王維らしさが静かに滲み出してきたのだろう。この詩の途中にある二つの対句は、まだ十分にはこなれていないようではあるが、明らかに新しい詩の世界を切り開こうとするものであろう。自然に包まれて暮らす人々のありさまを平易な言葉でさらりと描写していて、煌びやかな語句をちりばめて人工的な美的世界を作り上げる旧来の詩のスタイルとはまるで違っている。王維は上流階級の人々に歓迎されて、旧来の宮廷詩人の一類型としてデビューしたのだが、この詩はむしろ後の宋代の詩に近い雰囲気さえある。二つの対句の原文と読み下し文を掲げておく］
秋野田疇盛、［秋野に田疇は盛り］
朝光市井喧。［朝光に市井は喧し］
漁商波上客、［漁商 波上の客］
雞犬岸旁村。［雞犬 岸旁の村］
■［02-王-13］王維：至滑州隔河望黎陽憶丁三寓
【解題】王維は済州まであと少しの滑州にまできた。この詩の題は、『滑州に至り、黄河を隔てて向こうに黎陽を望み、丁三寓のこと思った』。丁三寓はどのような人物であるのか不明で、ことのとき黄河の対岸の黎陽にいたのだろう。
【訳文】
黄河を隔ててこんもりとした桑林が見える。
あのあたりに黎陽を巡る川があるのだろうか。
顧みると、いつしか遠くに来ていて、
かの山は雲の方に埋もれてしまっている。
懐かしい友人は見ることができず、
川の水は変わらずに悠然と流れて行く。
頼もしいことに、
貴君の評判は遠くにまで及び、
旅行く道の途中でも時に耳にしたのだ。
【補足】［王維はたぶん複雑な人であるのだろう。都から追放されて絶望するかのようでいて、この一連の旅の詩は、次第に平静さを取り戻している。剛直ではないけれど意志が強固なのかもしれない。もしかしたら妙に鈍感だったするのだろうか。政治上の抱負を積極的に述べたり、社会の矛盾を鋭く衝いたりはしないが、その点は孟浩然も同じで、杜甫が数少ない例外なのかもしれない］
■［02-孟-16］孟浩然：晩泊潯陽望廬山
【解題】王維が左遷の旅を余儀なくされた年、孟浩然もまた旅に出たようだ。孟浩然これから数年の間に、襄陽から漢水を下って長江に出て、その周辺を巡る旅に複数回出たと推測されている。時期も目的も旅程もきちんとわかる史料はなく、さらにその後にもっと大規模な旅もしていて、数多く残る旅の詩をいつのどの旅で詠んだのかを定めるのは難しい。ここでは、劉文剛『孟浩然年譜』（1995年）に準拠して、そこに記載されている詩の編年に従いつつ、そこでは年代が定められていない詩は便宜的なまとまりを作って読んで行くことにする。例えばここの表題に掲げた詩は『孟浩然年譜』で721年の作であろうとされているので、潯陽の周辺で詠まれたほかの詩も仮に一連の作品群と見なしてここで読むことにする。
この詩の題は、『夕方に潯陽に停泊して廬山を望んだ』というもの。潯陽は作品番号02-孟-05の詩で、遠く離れた見当違いの場所として尋ねていた。潯陽からは南方に廬山が望め、廬山は世界遺産に指定されている由緒ある名山である。
【訳文】
帆を掛けて幾千里もの旅をし、
名山というようなものにはまだまだ逢えずにいる。
ここに、舟を潯陽の城郭のもとに泊めたところで、
初めて香爐峰を見る。
かつて慧遠の伝記を読んでから、
塵の世の外の事績を永く懐っていた。
慧遠が住んだ東林の精舎は近いのだろう、
日暮れの鐘が聞えて来る。
【補足】［（1）孟浩然にとって廬山は憧れの名山の一つであった。香炉峰はその中に一峰で、我々にとっては、「香炉峰の雪は簾を撥げて看みる」との白居易の詩に基づいて清少納言が簾を巻き上げたという『枕草子』の一節でなじみがある。（2）慧遠は陶淵明と同じ時代の人で、若くして出家し、各地を巡る間に襄陽にいたときに、北から侵入してきた異民族の軍団に追われて南に逃げ、その後、廬山に入り、西林寺や東林寺に開いた。もともとは道教の霊山であった廬山にそれより仏教の道場が多数作られるようになった］
■［02-孟-17］孟浩然：自潯陽泛舟経明海
【解題】孟浩然は潯陽から舟で南の鄱陽湖に入った。この詩の題にある明海は鄱陽湖を指すのだろう。鄱陽湖は面積が琵琶湖の5倍もある広大な湖である。
【訳文】
ここは広く盛んな水の郷、
長江の大河はこれより上流に向かって九つに分かれる。
船は水の利、風の利に乗って自在に渉り、
あちこちを往来した末に潯陽に至り、
さらには五つの湖に浮かび、
あるいは三つの川を巡る。
壮大な波を観ては昔の詩を思い、
沅水や湘水のあたりでは屈原を弔って痛み思う。
人として常に心は朝廷に在り、
朝廷から下される詔を忘れはしない。
遥かに羨むのは、
宮苑の雁が、氷が融けたなら翔び回えること。
【補足】［最後の句には、官職に就こうとする思いが孟浩然になお強くあることを示しているのだろう。雁は冬には宮苑にいて、夏には北に帰る。自分の居場所をきちんと持っている］
■［02-孟-18］孟浩然：下贛石
【解題】孟浩然は鄱陽湖を南に渡り、長江の支流の贛江を遡って虔州のあたりにまで行ったようである。そのあたりの贛江は天下に名高い急流で、この詩はそこを下ったときの印象を歌ったもの。
【訳文】
巨石の間を下ることこれより三百里、
下をくぐり、脇を巡る峰の数は一千。
常にあたり一面から浩浩と水音が沸き立ち、
渦巻く勢いは潺潺と絶えることがない。
しぶきが飛ぶのは竜が躍り出るのか、
藤の蔓が顔を打つのか、はたまた猿が飛び来るのか。
榜を取る人は、尖った岩が次々に迫り来るのに苦しみ、
我々はもはや危険などということは忘れて、
流れに乗る快さに思いを任せるしかない。
船に乗ったなら心を長閑にすればよいのだ。
暮れなずむ空のどこに帆を降ろすのかと船頭に問うと、
と、遥か彼方を指差すのだった。
■［02-孟-19］九日於竜沙作寄劉
【解題】贛江の沿岸に真っ白い砂が連なるところがあり、竜沙と呼ばれていた。そこで9月9日の重陽の節句を迎え、近くの予章にいる劉眷虚にこの詩を寄せた。
【訳文】
ここ竜沙は予章の北、
帆を掛けて過ぎ行くのは、
時あたかも重陽の節句。
季節の中にもこの地の風俗が見え、
ここの風光には情感を揺すぶられることが多い。
旅の空に、もしも誰かが酒を送ってくれるなら、
棹の音からも自ずと歌が生まれてくるであろう。
歌いつつ流れに乗って進み、
滔滔と夕波に任せて行くのだ。
【補足】［劉眷虚はこの翌々年に科挙に及第する人物で、その前から近隣では優秀な若者として知られていたのだろう。孟浩然はその名を聞いて、会ってみようとこの詩を送ったのだろう。詩は交友関係を広げる非常に有用な道具でもあった］
■［02-孟-20］孟浩然：早寒江上有懐
【解題】鄱陽湖に行った帰路かどうかは定かではないが、これは孟浩然が旅から郷里の襄陽に向かって帰るときの詩。冬の初めに長江を遡って行くのである。
【訳文】
木から葉が落ち、雁が南へと渡って行く。
北からの風に川の辺りは寒さを覚える。
我が家は襄水［漢水］のほとり、
楚の地の上に浮かぶ雲の遥か端。
郷里を思う涙は旅の間に尽き果て、
天の涯を見つつぽつんと帆を上げて進む。
船着き場はどこかと尋ねようとしても、
海のような水が夕暮れに遠く広がるのを見るだけだ。
■［02-孟-21］孟浩然：泝江至武昌
【解題】これも同じ旅の帰路かどうかはわからないが、長江を遡って武昌のあたりまで戻ってきたときの詩。武昌は鄱陽湖と岳州［→作品番号02-孟-03］の中間くらいのところにある。
【解題】
家はもとより洞湖［襄陽にある］のほとりにあり、
歳をまたがっての旅には、ひたすら帰る思いが催される。
旅人の心はただただ速く行こうとするのだが、
川を遡る路ははなはだ行き悩むばかり。
凍っていた水は春の風によって解け始め、
新たな年がここに開け行く。
進むにつれた武昌の柳が見えてきて、
陽台の前に新緑が映えるであろう。
■資治通鑑 巻212［杜甫11歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が11歳になった開元十年［722年］の記事を読む。
【訳文】
［722-05］夏、四月己亥、張説を兼知朔方軍節度使にした。
【補足】［張説は宰相のまま朔方軍節度使を兼務した。節度使とは、普通の州知事よりも強力な裁量権を与えられた地方官で、国境地帯に派遣された。朔方軍は、長安の北方の黄河が大きく北に張り出して屈曲しているあたりの行政区。そこで異民族との間に軍事衝突があって難しい状況になっていたために、特に張説が選ばれたのだった］
【訳文】
［722-17］（先に討伐した異民族の）康待賓の残党である康願子が唐に背き可汗［王］を自称していた。張説は軍を動かして追討して康願子を擒にし、その一党を平定した。河曲六州にいた胡人［異民族］の五万人余りを許、汝、唐、鄧、仙、予などの州に移し、黄河の南から朔方の千里の地を空っぽにした。
これより先のこと、国境を守る戍兵はいつも六十万人余りいたのだが、張説はすでに唐に侵入してくる強敵はいなくなったとして、二十万余りをやめさせて農民に還すように奏上した。皇帝はそれに疑問を抱くと、張説は言った。「臣は長らく国境地帯にいましたのでその実情を詳しく知っております。将軍たちはただ自分の身を守るだけで、兵士を私的な用で使っております。敵を防ぎ、勝利を得るためなら、やたらとたくさんの兵士を抱え、農務の妨げとなるようなことをする必要はありません。陛下がもしもお疑いになるのなら、臣は百人で国境の門を守ってみせましょう」。皇帝は張説が実際に勝利をしたのを見て、張説の提案に従った。
もともと各地に置かれた軍団の兵士は、成丁［21歳］から従軍し、六十歳で免じられた。その家は租税や雑役を免除されるわけではないので、家は次第に貧乏になり、ついには逃亡してしまうとその家は消滅する人々はそれほどまでに兵役に苦しんでいた。ここに張説は次のように建議した。「成人男子を召募して兵団に入れるようにしましょう。各種の雑役を免除し、制度として兵士を優遇するなら、逃亡したような者も争うように出てきて募集に応じるでしょう」。皇帝はこれに従い、十日ほどで十三万の兵士が集まり、各地の軍団に所属さて、交替で移動させた。兵士と農民の分離がこれより始まったのだった。
【補足】［（1）張説は宰相としてかなり大胆に腕を揮った。反乱の芽を完全に摘むために広大な朔方の地から異民族を一掃した。無理やり移された人々がすんなり収まればよいのだろうが。（2）張説は兵制を大きく変えた。唐初からの律令制に綻びが生じていたことは前に触れたが［→通鑑721-04］、人民から強制的に兵士を徴発する仕組みはもはや立ち行かないまでになっていたので、張説は募兵制への転換を図った。ここではすぐに人が集まったと記されているが、募兵制による軍団の維持には当然のことながら莫大な費用がかかるので、国にとってそれが新たな大きな課題となる］
■［02-王-14］王維：済上四賢詠
【解題】済州に左遷された王維は［→作品番号02-王-09］その地で数年を過ごし、幾つかの詩を残している。それらの制作順ははっきりとはわかっていないので、数首を適当な順で読む。これは済州に実在する4人の賢者について詠んだ詩。三首の内の二首を訳す。
【訳文】
其の一 崔録事
官の印を解いて故郷に帰った――
このお方［崔録事］はまことに賢人である。
若いときはかつて任侠で聞こえ、
後に儒者として節義を守った。
世から東山の下［退隠する場所の象徴］へと逃れ、
滄い海の隅［済州のこと］に住むようになった。
すでに鳥も狎れるようになったと聞くので、
私も一緒に舟に乗って海を渡って行こう。
【補足】［（1）第一首では、官職から退いた崔録事を取り上げている。録事は事務官のような職で、中央にも地方にも様々な部署に属する録事がいる。（2）「鳥も狎れるようになった」とあるのは、世俗的な欲のない者のところには鴎も近くにきて遊ぶという『列子』の寓話を踏まえている。任侠者から儒者［真面目な官員］に転じた崔氏は、いまや無心になったというのである。（3）なお、済州は内陸の町ではあるが、長安から見れば黄河下流部の海に近い町という印象になるのだろう］
其の二 成文学
宝玉を飾った剣を携え、華麗な衣をまとい、
豪奢な邸宅に出入りしていた。
かの平原君のような人の客人となり、
家にはかの邯鄲の娼妓のような女性がいた。
公卿たちの集まりにおいても自由に意見を言い、
游侠の場においても心のままに語らった。
しかし、年齢を重ねて志を得られずにいて、
病気だからと言って、
地方へと飛び出たのだった。
【補足】［（1）タイトルにある「文学」は官名で、宮中にあって書物の管理などをする。成氏は文学の職に就きつつ都ではかなり派手に暮らしていたのだろう。しかし、思うところがあって外に飛び出したのだった。（2）豪奢な邸宅に出入りしていたとあるのは、まるで都にいたときの王維のようである。かつての日々を思い返し、先人たちの生きざまを見つつ、自分の将来について思いを巡らせていたのだろう］
■［02-孟-22］孟浩然：唐城館中早発寄楊使君
【解題】いつの作かは明らかではないが、孟浩然が襄陽の東方の地を旅したときの詩。陸路で帰り来て、随州に属する唐城で一泊し、翌朝早くに出た折に随州知事の楊氏にこの詩を寄せた。
【訳文】
霜を犯して暁に出発し、
唐城はすでに数里の向こう。
旅館にいたときから帰心に迫られ、
寂しい村路を行くと、さらに旅のわびしさが募ってくる。
貴君のためにこの詩を留め、
驢馬に鞭を打って道を急ぐ。
旅行くの人の心細さを知るには、
空を遠く渡って行く雁の声を聴くのがよいだろう。
■［02-孟-23］孟浩然：夕次蔡陽館
【解題】上の詩の続きとは限らないが、唐城よりも少し襄陽に近い蔡陽の旅宿で詠んだ詩。
【訳文】
日が暮れゆくにつれて馬の脚が速まる。
さびれた町には住む人も稀だ。
道辺で人が歌うのを聴いたときには、
まだ楚の地に近いところにいると思ったのだが、
ここで宿に身を投じると、
たちまち家に帰ったような気分になる。
魯堰のお蔭でこの辺りには農地が広がり、
漢の時代の章陵の跡地の雰囲気がわずかにある。
明日は母上に御挨拶をし、
かの老萊子の真似でもいたそうか。
【補足】［（1）この詩の冒頭にある「日暮馬行疾、荒城人住稀」［日暮れて馬の行くこと疾く、荒城に人の住むこと稀れなり］の句を王維がよく吟唱していたという言い伝えがある。（2）終わりの句は、老萊子は七十歳を超えても、子供の着る派手な衣をまとって母親を喜ばせたという故事を用いている］
■資治通鑑 巻212［杜甫12歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が12歳になった開元十一年［723年］の記事を読む。
【訳文】
［723-09］五月、皇帝は宮中に麗正書院を置き、そこに文学の士を集めた。秘書監の徐堅、会稽出身の太常博士の賀知章、鼓城出身の監察御史の趙冬曦等が、書物を修め、ときに皇帝に講義をした。張説が修書使となってそれを統率した。
麗正書院には手厚く物資が供給されたので、洛陽出身の中書舍人の陸堅は、このようなことはやたらと出費を増やすだけで国家には益がないので、すぐに止めるべきだと言った。張説は、「古から国家無事のときに帝王は宮殿を高く作ったり、声色を盛んに楽しんだりするばかりでありましたが、いまの陛下だけは礼をもって文学の士、儒者を迎え、典籍を広めようとされています。これは益するところが大きく、損じるところはわずかです。陸堅の言葉は物事がわかっておりません」と、申し上げた。これより皇帝は張説を重んじ、陸堅の意見を軽んじたのであった。
【補足】［張説は文学を重んじ、自身も詩を得意とした。こうした面からも唐はこのころに隆盛期に達したのであった。なお、ここに会稽出身の賀知章の名があることに注意しておきたい。後に、唐の最隆盛期を象徴する人物として杜甫は賀知章のことを回顧し、後世の人々も唐の最盛期の風儀を具現化した人といえば賀知章を挙げるようになった］
■［02-王-15］王維：和使君五郎西楼望遠思帰
【訳文】王維は引き続き済州にいた。州知事が詠んだ『西楼より遠くを望んで帰るを思う』という詩に和した。詩の題にある「五郎」とは、知事が一族の同世代の中で五番目に年長であることを示す。知事の姓名は不明。
【訳文】
高く楼閣に登る。
思うところを見ようと、目を極めても、
情は十分に尽くされはしない。
枕の上でなら、
千里の向こうも見え、
家の窓から全ての部屋を覗くこともできる。
道を行く人は遥かに遥かに遠く、
日はぼんやりとかすみつつ、彼方の郊外を照らしている。
しんみりとした思いは川べりで窮まり、
ぽつんと雲が湧き立つ。
詩を賦す人［知事を指す］は優れた才能の持ち主、
帰りたい思いを同じくするのは低い地位の者［王維］。
二人の故郷は見ることができず、
雲と水と空が一つになっている。
■［02-孟-24］孟浩然：送辛大不及
【解題】旅の間には出逢いもあり別れもある。孟浩然が旅の途中で詠んだ送別の詩を幾つか見ておこう。これは辛大を追いかけたものの会えなかったという詩。辛大は郷里の友人で、孟浩然には他にも辛大に贈った詩が幾つかある。なお、「大」は一族の同世代の中で最年長であることを示す。
【訳文】
貴君を見送ろうとして、会えない。
日が暮れ始め、独り愁いにまといつかれる。
川のほとりをぽつんと行きつ戻りつ、
心は天の涯で行き場を失い迷っている。
貴君は樊や鄧の町を経て、
嵩や汝の山や河へと入って行く。
昔から言われる通り、
車輪が遠ざかり行くと、
残された人は石の道にただ立ち尽くすのである。
【補足】［旅の途中で同郷の辛大に会い、もう一度会って見送ろうとしたところ行き違いになったのだろう］
■［02-孟-25］孟浩然：江上別流人
【解題】これは黄鶴楼で友人と別れたときの詩。黄鶴楼は作品番号02-孟-20で見た武昌、現在の武漢にあり、現在は1985年に再建されたものが観光名所となっている。昔、このあたりにあった酒店から酒好きの仙人が黄色い鶴にまたがって空に飛び去ったという伝説がある。孟浩然はたびたび黄鶴楼を訪れ、しばしばそこで人と別れた。題に「流人」とあるから罪人として流されて行く人に贈った詩である。
【訳文】
郷里から離れてきた私は、
謫居の身となった貴君に出逢った。
ここ黄鵠楼で互いに飛び分れ、
貴君は蒼梧の野［遥か南方の地をいう］に流れ落ちて行く。
この地からは、
宿駅を繋いで走る使者は雲に乗るようにして急ぎ去り、
旅の船は帆を上げて流れに沿ってたちまち下る。
人が行き交う黄鵠楼で貴君と別れて、
貴君の袂を把ることが果たしてまたあるのだろうか。
■［02-孟-26］孟浩然：鸚鵡洲送王九之江左
【解題】この詩の題は、『鸚鵡洲で王九が江左に行くのを送る』。鸚鵡洲は黄鶴楼の近くの中州。王九は王一家の同世代のなかで九番目の人、その名は王迥で、郷里の友人、白雲先生とも呼ばれる。孟浩然と同じく自由に生きようとした不思議な人物。江左とは長江の東側［左は東を意味する］、つまり下流域のこと。
【訳文】
長江のほとりにある黄鶴楼、
そこに登るたびに、
江中にある鸚鵡洲を遥かに見て好ましく思っていた。
中洲は逶迤として、碧い流れさながらの勢い、
岸辺には鴛鴦や鸂鶒があふれるばかり。
日が中州の向こうに落ちて行くと、
砂浜はますます長くなって、
金色の光が熠熠と飈のように動き回る。
舟人は錦の纜を牽いて舟を着け、
洗濯していた娘たちは綺羅の裳を束ねて帰る。
月が明るくなるとき、蘆花の花によってあたり全てが白くなり、
風が起こるとき、遥かに杜若が香るのが知れる。
君子［王迥のこと］よ、またここに来ることを決して忘れないように。
【補足】［（1）鴛鴦や鸂鶒はオシドリに類した鳥。（2）「錦の纜」、「綺羅の裳」とあるのは、夕日のもとではそのように美しく見えるということであろう。（2）この詩はもっぱら中州の美しさを歌い、別れの情は最後の一句にだけ詠まれている。
■［02-孟-27］孟浩然：送元公之鄂渚尋観主
【解題】これは鄂州に行く人を郷里の襄陽で見送った詩。鄂州は武昌の下流の町。詩の題にある元公はどのような人物であるのか不明。「観主」とあるのは鄂州にある道観［道教の寺院］の主であろう。
【訳文】
桃の花が咲き、春の水が漲るいま、
貴君は流れに乗って行ってしまう。
峴山の下で蛟浦を離れると、
たちまち長江の中で黄鶴の声を聞くであろう。
青い竹の杖を貴君に贈って、
蘋の白い花が揺れる中洲で別れる。
貴君はまさしく神仙の子、
逢うも別れるも漫游の旅のなかでのこと。
【補足】［蛟浦は漢水にある中州。昔、そこに蛇の化け物がいて人々に害をなしていた。あるとき襄陽の知事が剣を抜いて水に飛び込み、化け物と戦って退治した。それと黄鶴楼の伝説とを合わせて、全体として神仙のイメージで詩を構成している］
■資治通鑑 巻212［杜甫13歳］
【解題】『資治通鑑』から杜甫が13歳になった開元十二年［724年］の記事を読む。
【訳文】
［724-17］群臣はしばしば封禅を行うよう上表したので、閏十一月丁卯、来年十一月十日に泰山でその儀式を行うと定めた。このときに封禅の議論を最初に起こしたのは張説であった。しかし、源乾曜はそれをすることを望まなかった。それで張説と源乾曜の関係が難しくなった。
【補足】［封禅とは、天下が最もよく治まったときに、皇帝が天と地を祭る儀式で、それを行えるのは最高の統治者だけとされた。唐の時代になってからは、西暦666年に高宗皇帝が行っていた。耳目を引く施策を行いたがる張説は、先頭を切って封禅を行おうと提議した。いまや国家隆盛の時に当たり、大規模な式典を行って内外に大いに誇るべきだというのである。保守的な源乾曜は疑義を唱えたのだが、玄宗皇帝の派手好みの性格にぴたりと合致して、封禅の儀は実施されることになった。後世の歴史家の冷徹な目からすると、国家の隆盛期に身を置いてすっかりのぼせあがった皇帝が、有能ではあるがヨイショのうまい幇間的な大臣に乗せられて放蕩三昧をするという構図によって封禅の儀は行われるものと決まっている。玄宗皇帝はその中では最もましな方であったが、後に西暦1008年に宋の三代皇帝の真宗が、滑稽なまでにその構図そのままに封禅の儀を行ったことから、封禅の価値は大暴落したのだった］
■［02-王-16］王維：渡河到清河作
【解題】王維は引き続き済州にいて、地方官としての職務に努めていた。これは、公用で黄河を渡って清河県に赴いたときの作品。
【訳文】
舟を大河の内に泛べる、
どこまでも水が積み上げられて、天の涯に至るかのようだ。
天の波がぱっと開けると、
千万家を有する町［対岸にある博州の聊城］が現れる。
さらに陸路を行くとまた町［清河県］があり、
こんもりとした桑畑に囲まれている。
振り返って郷里の方を見ようとすると、
ただ水が広く雲に連なっているだけだ。
【補足】［王維は舟で黄河を渡り、聊城からさらに北西に100キロほど進んで清河県に至った。郷里からも都からも遠く離れた地で日々を過ごしていることにふと違和感を覚え、この詩を詠んだのだろう］
■［02-王-17］王維：贈祖三詠
【解題】祖詠に贈った詩。祖詠は王維より2歳上で、この翌年の開元十三年に科挙に合格している。この詩は合格する前の祖詠の旅について触れているので、この年ないし前の年の秋に詠んだものであるのだろう。
【訳文】
開け放った窓に蠨蛸が巣を掛け、
前の階段で蟋蟀が鳴いている。
歳の終わりへと向かう冷ややかな風が至り、
君子［祖詠］はどうしていようかと、ふと思う。
この地の官舎は人がいなくてひっそりとし、
人々から離れた我が住まいについては言うことさえできない。
寂しく門をぴたりと閉ざし、落ち行く日が秋の草を照らしている。
近ごろ貴君からの音信があったとはいえ、
貴君がいるのは河や関に阻まれる千里の彼方。
先に汝水、潁水のあたりを旅し、
去年のうちに故郷［洛陽］に帰ったという。
貴君とは交わりを結んですでに二十年、
いまはともに心に適うわずか一日さえも得ることができない。
貴君の貧病はすでに深く、
私との契闊はもはや浅くはない。
仲秋に帰ることはできなかったけれども、
暮秋にはと思っている。
だから良き再会まで幾日もないはずだと、
一日中ずっと思い続けているのである。
【補足】［詩のなかほどに置かれた対句、「閑門寂已閉、落日照秋草」［閑門 寂として已に閉ざし、落日 秋草を照らす］は、王維の詩の特色をよく示している。王維が描写する自然はおおむね澄明でひんやりとした印象を与える。それに対して、孟浩然が描写する自然は人間界のざわめきと無縁ではなく温かみを帯びている］
■［02-孟-28］孟浩然：送告八従軍
【解題】襄陽の南園に住む農民である孟浩然が何を目的としてしばしば旅に出たのか、旅費をどのように工面したのか、推測する手がかりさえないくらいに謎である。気ままに遊興の旅に出ていられるほど豊かな財産があったわけではないだろし、商売のための旅であったとは考えにくいし、何らかの公務を帯びていたとするのはなおのことないだろう。恐らくは、南園には厳しい現実があり、それを打開しようと努めるなかで旅に出たのだろう。その推測のわずかな根拠となるかもしれない幾つかの詩がある。郷里を離れて軍務に就く人々を見送った詩である。これは告八を見送った詩。告八は告氏の一族の同世代の八番目の男児。南園の近くに住む者であろうか。
【訳文】
男児には一片の意気があればよく、
必ずしも五台の車に積み上げた書物を読まなくてもよい。
貴君は勇を好むことでは私を超え、
貴君は私を奮起させるほどに多才である。
貴君が計略を巡らせる力は将軍の幕僚になれるだろうが、
私は拙さを養って閑に暮らしているしかない。
貴君が功名を遂げ、
昔の偉人と同じように高位に昇った後に帰郷して来たなら、
貴君のお供をしようと思う。
【補足】［（1）この詩から想像を膨らませるなら、孟浩然と告八の間には同等の農民ではない何かしらの差異があったのだろう。孟浩然は農民としては裕福であり、そうではない告八は学問を学ぶチャンスがなく、兵役に従わなければならなかったのだろう。告八に比べて恵まれた立場にありながら、まだ何ら実績を挙げることのできていない孟浩然は、告八を見送るときに忸怩たる思いがあったのではないだろうか。（2）この詩の終わりで、漢の時代の疏広と疏受の故事を引いている。疏広とその甥の疏受は朝廷の高位に就くと、ただちに身を引いて二人そろって帰郷した。潔い身の処し方の手本として後世から仰がれた。孟浩然は想像の世界で告八の理想の未来を描いてみせたのである］
■［02-孟-29］孟浩然：送莫氏外生兼諸昆季従馬入西軍
【解題】河西節度使のもとで軍務に就くことになった甥の莫氏とその兄弟を見送ったときの詩。河西節度使とはシルクロードの東部、当時の唐の西端の地を統治する任務を帯びた人で、軍政と民政の両方を掌握している。推測するに、孟浩然の姉妹ないしは従姉妹で莫氏に嫁いだ者がいて、夫が亡くなって暮らしが厳しくなり、息子が軍務に就くことになったのだろう。
【訳文】
思えば、君たちが『詩経』や『礼記』を習っていたとき、
我が家風と違うようなことは一度もなかった。
君たちは早くに一家の柱を失い。
ここに寂しく万里の向こうに行くことになった。
郷里で先祖に供え物をするのを取りやめて、
西方の地で陣地の張り方を学ぶのである。
今日は着飾って故郷を去り、
国境を守る司令部で作戦を練るのだ。
君たちは大空を飛ぶ鴻鵠にまさる壮志を抱き、
兄弟を思う我が情は遥か向こうまで付いて行こうとする。
君たちが従うべきは武であるとともに文でもある。
戦わずして安寧をもたらすのが何よりもよいのだ。
【補足】［莫氏は本来は告八よりは恵まれた境遇で学問の素養を身に付けていたのだろう。父が亡くなって暮らし向きが厳しくなり、何かしら手蔓を得て、河西節度使のもとでたぶん事務官として雇われたのだろう］
■［02-孟-30］孟浩然：送王宣従軍
【解題】王宣がどのような人物であるのか不明。唐が対外的に積極政策を取るようになってから、王維の『少年行』の詩［→作品番号02-王-08］で見たように戦場でひと旗挙げようとする若者も実際にいたのだろう。王宣はそのような一人であったのかもしれない。
【訳文】
才ある貴君であるから、
幕中の士として戦場できっと勲を挙げるはずだ。
武器を磨いて敵を滅ぼしたなら、
昔の王粲のように貴君は従軍詩を詠むであろう。
かくて、我が唐の軍旗は敵地から去り、
山川の地脈によって国境は正しく分けられるのだ。
励むがよい、
我が秘蔵の短剣を贈ろうではないか。
【補足】［昔、王粲は曹操の遠征に従い、従軍詩を作った。王宣と同じ王姓の人の故事を引いて餞の詩としたのである］
■［02-孟-31］孟浩然：送陳七赴西軍
【解題】これはこれより3年後の開元十五年［727年］の作であるようだ。後に『資治通鑑』の記事で読むように、その年の秋に西方から攻め込んで来た吐蕃の軍勢によって唐軍は敗れ、朝廷は急ぎ十万の兵を動員して対処することになり、幾つかの州に緊急の徴兵令が発せられた。先の張説が募兵制に転換することを図ったことから、兵士になることで報酬が得られるのなら喜んで応じる者がいたはずで、この詩の題にある陳七はそうした一人であったのだろうか。
【訳文】
目の前にころがる石ころの中に、
実は尋常ではなく優れたものがある。
貴君がそうだ。
貴君は遠く雄飛する「鴻鵠の志」を抱きながらも、
書や剣を学ぶ少年時代には、
思うようにはいかなかった。
ここに国境地帯で狼煙が上がると、
若者たちは万里の向こうへ先を争って従軍しようとしている。
この私もまた都に赴こうと思っている――
貴君が凱旋するのを出迎えるために。
【補足】［この詩の最後はいろいろな想像を誘う。後に見るように、孟浩然は実際に開元十五年［727年］の終わりに上京している。陳七の従軍と孟浩然の上京と関連性があるのかどうかはわからないが、孟浩然は周囲の者が様々な事情によって軍務に就くのを見て、もしも自分が官人になれば一族から兵士を出さなくてすむはずだと考えたのはかなりの程度はありえるだろう。南園を愛する孟浩然は、南園とそこの人々の穏やかな生活を守るためには自分が官人になるのが最もよいと改めて考え、上京を決心したのではないだろうか］