第13章 最後の游――雷州から常州まで
［第13章その二］
建中靖国元（1101）年、蘇軾66歳。
■九成台銘
［解題］1月1日、蘇軾はまだ大庾嶺の手前にいて、韶州知事の狄咸のために、に、このいかにもめでたい『九成台の銘』を作った。
［訳文］
韶陽太守の狄咸が新たに九成台を作った。玉局観の蘇軾がその銘を作った。
秦が天下を合わせてより礼楽が滅んだ。それからは、（古代の理想の天子とされる舜の時代の楽曲とされる）『韶』が演奏されなくなり、すでに千三百二十三年が経った。その楽器が存在していても演奏できる人がいなくなれば、『韶』はすでに隠れたことになり、まして楽器も人もいなくなってもはや伝わらなくなってしまったのである。だから『韶』は亡んでしまったのかというと、実は亡びずに存在している。それは日、月、寒、暑、晦、明、風、雨とともに天地の間で行われているのである。
（『荘子』の寓話に記されている）南郭子綦がいなくなってからは、「地籟」（大地が奏する音楽）を聞く者がいなくなり、まして（南郭子綦も聞けなかった）「天籟」を聞く者はいなくなってしまったのだろうか。実は耳でもって「天籟」を聞くことはできるのである。すべての形あるものには声があり、どれもが（演奏に使う）羽、旄、干、戚、管、磬、匏、弦となるのである。
試しに（舜が登って『韶』を奏したのとの伝承がある）韶石の上に登り、舜峰の下に立って、渺莽とした蒼梧の地に九疑の山々が聯綿と連なるのを望みみるがよい。江と山が呑んだり吐いたりし合い、草や木が上になびき下になびき、鳥や獣が鳴きあるいは号び、無数の竅が呼吸をして、往来し唱和するありさまが観られるであろう。そこには定まった規律がないようでいながらも、均節が自ずから成り立っているのであって、そこにこそまさしく『韶』の音楽が完全に整って存在しているのである。天下の上に完全を極めたもの（の例示としてこの『韶』の音楽）を示すことによって天下は安らかになり、人はそれに和し、そしてそれに気が応じ、気が応じたものが楽となるのである。それがすなわち（『尚書』に記されている）「『簫』と『韶』が九たび成り、鳳鳥が来て百獣が舞った」とあることの意味なのである。
九成台の上からは、そうしたことが粲然としてことごとく眼の前に見て取ることができるのである。
建中靖国元年正月一日。
［補足］（完全な音楽は自然の内にあって、理想の統治はその完全な音楽のようであるというのが古代中国の音楽理念であった）
■南華長老題名記
［解題］同じ1月1日に、南華寺の長老の明公（本章67ページ）から依頼されていた文章を完成させた。この文章の前半では、儒教も仏教も根源は一つであるという蘇軾および当時の士大夫に共通する考えを展開していて興味深いのだが、訳者には理解が及ばないところがあるのでそこは割愛する。
［訳文］
……南華寺の長老明公は始めは子思や孟子を学び、後に家を棄てて仏門に入った。ものの道理を知らない者は、儒から逃れて仏に帰ったというが、実は明公はなお儒なのである。
南華寺は六祖慧能大師が亡くなってから、その法を得眼の者に伝え、それを四方に広めてきた。だから南華寺を律寺（法を伝える寺）というのである。
宋の天僖三（1019）年に至って、初めて皇帝の詔書で智度禅師を普遂住持とした。今の明公は十一世の住持（長老）である。
明公は東坡居士にこのように告げた。
「知事に就く者は世間の法を行い、仏門にある者は出世間の法を行います。世間はすなわち出世間であって、両者は等しく、二つではありません。知事の伝授の系譜は（公舎庁舎の）壁に掲げる『題名』に記されますが、仏門にはそのようなものがありません。そもそも我が道場は実に仏祖の法を補い伝えるところでありますから、その伝授は厳しくなければなりません。私のためにどうか『題名』を記してください」
東坡居士はそれを引き受け、儒と仏は異なるものではなく同じであることを論じて、これを記すものである。
建中靖国元年正月一日記。
［補足］（蘇軾は密州知事であったときに、副知事の庁舎に系譜を記す「題名」を書いている（第5章94ページ））
■英宗皇帝御書頌
［解題］韶州滞在中に英宗皇帝の真筆を見ていて、その頌歌をこのころに作った。英宗は三代前の皇帝である。序の部分を訳す。
［訳文］
嘉祐年間に太常博士の周秉は文筆の才によって諸王記室（皇族に仕える秘書）に選ばれ、皇族の賢者の多くから敬愛された。ときに英宗皇帝はまだ（皇太子に選ばれる前で）藩邸にひっそりと住まわれていて、あるとき周秉に手紙を与えたので、周秉の家ではそれを宝としていた。私が曲江を過り、その孫の遠州司法参軍の周超に会ったところ、それを出して見せてくれた。謹んで稽首再拝してその頌歌を作った。……（頌歌は省略）……
建中靖国元年、蘇軾記す。
■東坡居士過竜光求大竹作肩輿得両竿時南華珪首座方受請為此山長老乃留一偈院中須其至授之以為他時語録中第一問
［解題］長い詩題は次の通り。「東坡居士は竜光寺を過り、大きな竹を求めて肩輿を作ろうとしたところ、二本の竿を得た。時に、南華寺の珪首座が要請に応じてこの寺の長老になるという。そこで一偈を院中に留めて、珪首座が至るのを待って授けることにした。後にこれを珪首座の語録の中に一つの問として納めてもらえるだろう」。この詩は南宋の曾敏行の随筆『独醒雑志』に記録されていて、この詩題を補うところのある文章が付されているので、それも合わせて訳しておこう。
［訳文］
曾敏行：『独醒雑志』
東坡は北へと帰り、大庾嶺の下に至って、たまたま肩輿の杠が折れてしまったので、竜光寺に竹を求めた。寺の僧は二本の大きな竹竿を与え、さらに東坡を食事に招いた。ときに寺には主の僧がいなくて、州郡は南華寺に行って主僧の派遣を招請したのだが、まだ到着していなかった。そこで、東坡はこの詩を留めて、新たに来る僧に寄せたのである。
竜光寺で二本の大きな竹の竿を斫った。
これを嶺北に持ち帰ったなら、
人は皆、驚いて看るであろう。
竹の中には一滴の曹溪の水がある。
嶺北に至ると、
水が漲って西江の十八灘を生み出すのである。
東坡が後に実際に西江（贛水）に至り、（水量が増えるのを待って）数十日間留まってから舟を出すと、その日には江の水が大いに漲って贛水の岩は一つも見えなくて、一日で十八灘の難所を越えて廬陵に至った。
その後の船旅で、謝挙廉に会ったときに、東坡は「舟で来たときに、江が漲ってついに贛水に岩があるのを見なかった。我が竜光寺の詩はあらかじめそれを歌ったものだったのだ」と言ったので、謝挙廉が詳しく尋ねると、東坡はこの詩を挙げて経緯を話したのだった。
［補足］（（1）南華寺は本章70ページで見たように曹溪にある。「一滴の曹溪の水」とは新たに竜光寺に来る珪首座の徳の象徴であって、珪首座の徳がいずれ水量豊かな大河のように大きくなってゆくとこの詩はいっているのである。（2）「西江の十八灘」とは、大庾嶺の北にある贛水の急流で、そこを遡ったときのことは第11章41ページで見ている。（3）謝挙廉（字は民師）は本章42ページで見たように広州にいたのだが、任地が変ったために蘇軾を追い越して北へと移動して行き、そのときに短時間会ったのだった）
■贈嶺上老人
［解題］ついに大庾嶺に至り、そこの老人に贈った詩。この詩もまた曾敏行の随筆『独醒雑志』に記されているので、そこにある文章とともに見ておこう。
［訳文］
曾敏行：『独醒雑志』
東坡は帰還して大庾嶺の上に至ると、村の店で少し休憩した。一人の老翁が出てきて従者に尋ねた。「あのお役人様はどなたでしょうか」。従者は「蘇尚書様だ」と答えた。翁は、「つまり蘇子瞻様でありましょうか」「その通りだ」。すると、翁は挨拶をしながら進んで東坡に言った。「私は人々があることないことを言って公を害ったと聞いておりました。今日、北にお帰りになるのは、天が善き人を佑けられたからなのでございましょう」。東坡は笑って礼を言い、よってこの一詩を壁に記した。
我が骨は鶴のように痩せ、髯は霜のように白く、心はすでに灰となった。
あの一抱えの太さの青い松は、私が植えたものであろうか。
翁に問う、
「貴君が大庾嶺の上に住んでいて、
かつて南に遷った者の何人が回るのを見たであろうか」
［補足］（この詩が蘇軾の作にしては単純すぎるように思えるのは、老翁にわかりやすいようにとの配慮であったのか、ついに嶺北に帰ってこられた感動を即興でそのまま詠んだからであろうか）
■贈嶺上梅
［解題］蘇軾が大庾嶺を越えたのは1月3日から5日の間のことだったと推測され、これは嶺の上の梅に贈った詩。
［訳文］
私は梅――
私が開き終わってから、百種の花が開く。
旅人が全て往き終わっても、まだ君は来なかった。
いま君は来て、
酒を温めて飲もうとはせずに、
しきりに青い梅の実を探し出そうとしている。
いまからすでに、
細かな雨に黄色く梅が熟すのを看ようとしているかのように。
［補足］（末句は、おそらく梅の実が熟すころには、旅を終えて安住に地に至っているだろうとの思いを込めてのものなのだろう）
■予昔過嶺而南題詩竜泉鐘上今復過而北次前韻
［解題］詩題は、「私は昔、大庾嶺を過って南に行き、竜泉の鐘の上に詩を題した。いままたここを過って北に行き、前の詩の韻に和す」。「竜泉の鐘」とは、峠の近くに竜泉という名の泉があって、そこに鐘があったのだろうと推測されている。南に行ったときの詩は、第11章58ページで見ている。
［訳文］
あのときは、
黄色い葉が秋の風に巻かれて落ちつつあった。
今朝は、
緑の葉が雨に洗われて清らかである。
人はひたすら帰路を貪っている――それもまあよいだろう。
季節のものはどれも正しい順序になっている――それは中原に近いからだ。
嶺からはゆるゆると下って行こう。
これまでの艱難はやすやすと忘れられるものではない。
遥かに知るのは、
いま都に召し出されているは、
漢の時代の始めに活躍した叔孫通のような人だとか。
叔孫通は漢朝の儀礼を新たに定めようと意気込み、
一緒に都に行こうと魯国の儒者の三十余人を誘ったのだが、
敢えて行こうとしなかった者が二人だけいた。
私と弟はどちらになるのだろうか。
［補足］（叔孫通は漢朝の規律を整える上でそれなりの役割を果たしたのだが、蘇軾は権力に迎合した者であるとしてあまり評価していない。皇帝が代替わりし、にわかに保守派が復権しつつある現状を蘇軾は危ぶんでいたのである）
■過嶺
［解題］大庾嶺を越えての思いを詠んだもう一つの詩。
［訳文］
其の一
しばし南の地にいて、
まだ土地の風俗に慣れ親しまないうちに、
北へと飛ぶに雁に従って、
帰って休むことになった。
兎は万一のときのために三つの穴を備えておくというが、
私はそれをしておかなかったので、
つまるところ「一丘の貉」、元の木阿弥となったのだった。
唐の時代に楊憑が遠く流されたときに、
徐晦だけは罪が及ぶのも恐れずに厚く見送った。
私にはそのようにしてくれる人はいなかった……。
唐の時代に韓愈が潮州に流されたときに、
後にその地の人々は廟を作って韓愈を祀った。
私はそのようにしてもらえるであろうか……。
我が故郷の蜀の地に入る剣関は、
西を望みみて七千里の彼方……
興に乗じて玉局観に遊びに行くのがまことによいのであろう。
［補足］（最後の句は、官界においてまたしても政争に巻き込まれるよりは、成都の玉局観の名目上の管理人になったのであるから、蜀に帰るのもよかろうか歌っているのだが、実際に帰郷することは考えていなかった）
其の二
大庾嶺を越えてからの七年間の行き来に、
私はどうして堪えられたのか。
曹溪（南華寺）の水を一勺汲んで、
その甘さをまた味わうことができた。
かつて海外に遷ったのは夢の裏のよう、
酔ったまま知らず知らずのうちに江南に到るのであろうか。
我が足を洗う波は、虚空に音を鳴り響かせ、
我が衣から滴り落ちる翠の気は、霧となってあたりをめぐる。
誰が山の鳥を驚かせたのか、
その声に応じて、
崖からは花が雨のようにはらはらと降ってくるのであった。
［補足］（この詩の後半は心象風景を詠んだものであろうがよく理解できない）
■北帰度嶺寄子由
［解題］大庾嶺を越えて弟に寄せた詩。
［訳文］
一尺の太さの青い松が、香る梅の間にある。
それはすべて先生（蘇軾）がここから去って後に栽えられたものだ。
松は笑っているのだろう、
先生の手には拄杖のほかには一物とてなく、
空しく帰り来たのであるから。
■跋石鐘山記後
［解題］ついに嶺北の地に到った蘇軾は、これより山路を下る旅となり、1月5日に南安軍に到着した。これはその地で司法掾の職にある呉春に贈った文章。
［訳文］
銭唐（杭州）にも東陽（婺州）にも水楽洞があって、洞穴の中を泉が流れ、自然と「宮」や「商」の音律に適った音を奏でている。（杭州の）霊隠寺から下って天竺寺に至って、また上天竺寺に上るところは、山の間の渓の道で、牛や羊のように巨大な岩が磊磊ところがっていて、空間に磬然と深い音を立て、真に鐘の声のようである。
それらはいずれも荘子がいうところの「天籟」（大自然が奏でる音楽）であって、それはあらゆるところに存在しているのである。
建中靖国元年正月五日、海の南より還って南安を過ったところ、司法掾の呉春君が私がかつて作った『石鐘山の記』を筆写したものを見せてくれた。そこで、その末尾のこれを書いておく。
［補足］（「石鐘山の記」は第7章33ページで見ている）
■南安人日次旧韻二首
［解題］南安軍で人日（1月7日）を迎え、1年前の同じに日に詠んだ詩（第12章300ページ）に次韻した。
［訳文］
其の一
この人日も川のほとりの村になお留まっている。
春の草がもう出るころになっても、
旅に出た人は帰ってこないと怨んでいるだろう。
詩を題して遠方の人に寄せようと筆を揮い、
杖に扶けられて高いところに登るために独りで門を出る。
柳の色は看るに忍びない……
ただ感嘆するばかりである。
花の前にくると帰るのを思う……
もう飛び立たんばかりである。
陽を浮かべて凍つきを披いたものの、
春の工はいまわずかに技を出したばかり、
それでも一年の営みはここに動き始めている。
［補足］（当面の目標としていた大庾嶺をいざ越えてみると、前途はまだまだ遥かであることを思って、いささか焦燥感に駆られたようである）
其の二
前の村に気高い隠者がいると聞いた。
私は喜んで春の光を賞し、
桂酒を携えて、日の当たる柴の門を款いた。
その人は、孫を膝に座らせたり、牀に乗せたりして、戯れているだけである。
屏風の間に置かれた金箔を貼った人形はまるで活きているかのようで、
頭の上には花飾りが風を迎えて翻っている。
我が鬢はぼさぼさに伸び、確かに老いてしまった。
新年を迎えたからといってこの旧い顔を改めることはできないのだ。
［補足］（このころの蘇軾の様子を伝える記録として、邵博の随筆『邵氏聞見後録』に、劉安世（字は器之）と遇ったことが次のように伝えられている。劉安世とは元祐年間の初めにともに朝廷にいて、そのころは保守派内の抗争が激しく、時に蘇軾が怒りを発して勇み立つと、劉安世が故事を引いて蘇軾を落ち着かせるようなことが何度かあったという）
［訳文］
邵博： 『邵氏聞見後録』
元符年間の末に至って、蘇軾も劉安世もそれぞれ海南島や嶺南から帰り、道の途中で偶然遇い、楽しく語り合った。劉安世は（そのときの蘇軾の印象を）「浮ついたところや、猛々しいところがすっかりなくなって、昔の蘇軾のようではなかった」と人に語った。一方で、蘇軾は、「劉安世は変わらずに鉄石の人だ」と人に語った。
［補足］（（1）劉安世に会ったのは南安軍に滞在中のことであったようで、劉安世の存在は蘇軾にとって心強かったのだろう、これから長江に至るまで同行することになる。（2）ここの詩に見えるように蘇軾はいささか弱気になっていて、劉安世が語ったように確かに衰えが目立つようにもなったのだろう。蘇軾は島を出てから髪が抜け落ち、精気が薄れたとも伝えられている）
■留題顕聖寺
［解題］1月中旬ごろに南安軍を発ち、顕聖寺に立ち寄ってこの詩を詠んだ。
［訳文］
遥かに広がるまばらな林、
夕暮れの鴉が集まっている。
とある村に煙が上がる、
仏教の寺院があるのだ。
世の中から隠れ住む人ならここに橘を植えるのもよい。
遠くきた旅人は百結花（ライラックのような花）をまず尋ねる。
浮石（このあたりの地名）は冬の後で流れが乾いてしまっているが、
焦坑（このあたりの地名）では寒食の前にもう茶が摘めるであろうか。
ふと疑う、
いま私は夢の中にいて、
故郷に帰ってきているのではなかろうか、
翠の竹と白い沙の繞る川べりのこの村こそは……。
■与朱行中
［解題］1月下旬に虔州に到着した。虔州では幾つかの河川が集まって大きな贛水となるのだが、水位が低くて船が出せないというので、しばらくここに留まることになった。その事情を朱服（字は行中）（本章64ページなど）に送った手紙から知ることができる。
［訳文］
そちら（広州）に行く者に手紙を託しましたが、きっと届くでありましょう。
このところ雲が停滞して雨が続いております。貴君におかれては御健勝であろうと、遠く想っております。私は貴君の御助力を蒙ってすでに虔州に到達しました。少し留まって、水かさが増えるのを待って水を渡るつもりです。半月ほどして行くことになるでしょう。
南海は静かに治まり、楽しむに足るところで、貴君はそこで妙なる詩を詠まれて、南から北へと聞こえてくるものと想っています。後にまたいつ会えるともわかりませんが、万万自重されますように。
［補足］（ここには、雨が続いていて、半月ほどで出発すると記してあるのだが、水位はなかなか上がらず、足止めはずるずると長引いてしまう）
■鬱孤台
［解題］虔州はこのあたりで一番の都市で、南に向かう旅の途中でもしばらく滞在していた。再び鬱孤台を訪れ、第11章49ページで見た詩に次韻した。
［訳文］
吾が生は寄せるが如きのみ。
嶺南も海の外もぶらりと旅をしてきた。
ここより贛水の岩が三百里にわたって連なる。
寒々しく流れる川はいまは五尺の幅しかない。
北に見える楚の山々には霰でも降っているのか。
南の熱気に溢れた地では久しく秋がなかった。
これより行くところを望み見ようとしても雲に断たれている。
我が魂は、
かつていた雪を珍しがるところへと吹き戻されてしまいそうである。
暁の鐘が、時に従って寺から響いてくる。
暮れの太鼓が、町の幾つもの楼上で鳴らされる。
我が帰路は千の山々の間で迷い続けている、
我が命を疲れさせながら百の州を見てまわっている。
昔、南に遠征した軍団の中にいた君子は、
猿や鶴とともに仙界に行ったとか。
私はそうはならずに、
異国から来た商人にでもなった気分でここにしばし留まっている。
とりあえず毛皮の裘が残っているから、
それで取引きして釣舟を買ってみるのも悪くはないだろう。
［補足］（（1）初句の「吾生如寄耳」（吾が生は寄せるが如き耳）は蘇軾の得意の言葉である。（2）蘇軾は大庾嶺を越えて南に行くときに、仙界に招かれることを空想していたのだが（第11章58ページ）、幸いにも帰還してみると、今度は嶺北の地にすぐには馴染めないような不思議な感覚があったのだろう）
■虔守霍大夫監郡許朝奉見和復次前韻
［解題］虔州知事の霍漢英と監郡朝奉の許氏が上の詩に和して蘇軾に贈ったので、その詩にまた和した。
［訳文］
大きなこの邦は静かに治まり、
貴君等は小さな部屋でのんびりと詩を吟じている。
雨が注いで贛水が漲るなら、
廉泉には春の水が溢れて流れるであろうから、
よい茶を貴君等とともに烹て、秋からの疲れを洗い流そうと思う。
秋には、故郷の名産の味を思い出して望郷の念が起こり、
冬には、川洲に橘が熟すのを見て初めて冬の衣を身に着けた。
昔の人だってさまざまに苦労があった、
揚雄はいつまで経っても安住できるところがなかったし、
王粲は故国を失って楼閣に登って哀しく歌うしかなかった。
私に残された日々はもう数えるほどしかなく、
夢は幾つもの州を越えて故郷へと帰ってゆく。
私がここから去ろうとしているのは、酒の誘いから逃れるためではなく、
実際に貴君等の詩に和すために、ちゃんとここに留まっているのである。
旧い篋に貴君等の新しい詩を入れただけで、
清らかな風が舟いっぱいに満ちる気分となった。
■用前韻再和霍大夫
［解題］上の詩に霍漢英と許氏が和したので、それぞれに詩を返した。霍知事に返したものを訳す。
［訳文］
虔州といえば、
劉彝や趙抃が流されたところ、
劉彝は詩文を記しつつ酒を楽しみ、
趙抃は川や山を巡り歩いた。
そうしたことは見習うべきこととして父老の間に語り伝えられている。
貴君もまた父祖からよき手本を受け継いでおられる。
私は大庾嶺を越えて梅に降り注ぐ雨に会い、
家に還るころには麦の秋を迎えるであろう。
雁を侶として旅を続け、
川洲で餌を求めるかのようにしてここに留まっている。
野は広く、白い二本の川が横たわり、
堅牢な町に百の楼閣が聳え立つ。
私は道を進む途中で赦免の詔を看て、
思いがけずここ虔州に来ることができた。
貴君の心はすでに呉越の地に赴任することを思っているようだが、
私の旅はどこへ行きどこに留まるのかはまだ定まっていない。
帰りの道でも、とにかく粥は食べなければならないものであるのだから、
知事殿には何はともあれお米を乞い願うとしよう。
［補足］（（1）劉彝も趙抃も改革政治に批判的であっために都を追われて虔州に流されたことがある。趙抃が蘇軾の恩人であることは、第11章167ページなどで見ている。（2）霍知事の詩には、蘇軾にとっても馴染みの地である杭州や蘇州あたりに移るのを希望するようなことが詠まれていたのだろう。蘇軾は居住の自由を得たものの、行き先はまだ定まっていなかった）
■贈虔州術士謝晋臣
［解題］虔州の術士である謝晋臣に贈った詩。謝晋臣がどのような人であるかは不明。同じ土地に長く留まるといろいろな人の訪問を受けて、あまり面白味のない儀礼的な詩を詠むようになるのは仕方のないことなのだろう。この詩は恵州で作った「周循州に答える」という詩（第11章223ページ）から2句を流用し、自身を漢代の蘇武に比するというこのころのお馴染み手を使っていて、手抜きのような気もするのだが、それでもとにかく1首を構成して贈っているのは蘇軾のサービス精神の表れなのだろう。
［訳文］
砂漠で捕虜になっていた蘇武のように、
私は海の外から帰って来た。
成都で売卜をしていた厳君平のように、
術を得た貴君に尋ねたいことがある。
我が前生は恐らくは慧能のような禅の修行者であったはずなのに、
弟子たちは誤って私を韓愈の再来であるかのように言う。
死んで後には、
私は仏道の奥へと順次進んで行ったと言い伝えてもらいたいのだが、
生まれたときには、
私の星が韓愈と同じ位置にあったために似た運命をたどったのだった。
貴君に頼みたいのは、
我が生涯の年月を占って、
生まれてから死に至るまでの事を全て数え上げてくれること。
［補足］（（1）厳君平の故事は第12章20ページで、韓愈と同じ星のもとに生まれたということは第12章256ページで見ている。最後は、相手が占いを得意とする術者であることから、自分の運命がどのように定まっているのかすっかり話してほしいと、戯れに言ったものである。（2）同じころに、虔州の景徳寺の栄師に贈った詩があり、仏語を多用していて、私が最も頼りにしている岩垂憲徳・釈清潭・久保天随訳解『蘇東坡詩集』（1927年）には、「この辺の詩は、すべて東坡晩年に作に係り、御本人は、余程悟り切った積もりであろうが、果して、如何なものか。それに、古今の註家は、仏理にくらいから、箋釈も到底不十分であるし、訳解者に於いては猶更の事であるから、先づ大抵にして片づける外はない」と、真面目とも戯れとも知れぬコメントが付記されている。訳者として完全にお手上げて割愛する以外にない。また、土地の隠者である陽孝本（字は行先）が蘇軾が鬱孤台で詠んだ詩（本章95ページ）に和したので、それにまた和した詩もあるが、難しい故事を使っていて、やはり割愛する以外にない）
■与宋漢傑
［解題］虔州滞在が思いがけず長引くなかで、蘇軾は懐かしい人の息子から手紙を受け取り、この返事を記した。
［訳文］
私は初めて任官したときに、御父上のお手伝いをさせていただきました。御父上に厚く遇していただきましたことは、これまで忘れたことがありません。遠くに流落し、皆様方の御消息を聞くことができずにずっと残念に思っていました。そこに長いお手紙を頂戴し、昔のことにも話が及び、繰り返し慨嘆しております。
三十余年の昔も、昨日の朝のように思えますが、そのころの人々はほぼ亡くなってしまい、私もかろうじて生きて帰れただけです。人の世はひとつの大きな夢で、下を見て上を向く間に百の変化があるというのは、まことにその通りです。
兄上の唐輔君はいまどこにおられるのでしょうか。まだお手紙を差し上げてはおりませんが、この手紙のあらましをお伝えいただけますでしょうか。
私は水が増えるのを待って進む予定です。
［補足］（この手紙にある「御父上」とは、蘇軾が初めて鳳翔に赴任したときにそこの知事であった宋選（第2章35ページ）である。当時蘇軾は27歳であったから、実際には40年近い昔である）
■鐘子翼哀詞
［解題］虔州では父の蘇洵に所縁のある人と会い、この文章と哀詞を作った。蘇洵はかつて虔州にまできて白楽天の墨蹟を見たのだが（第11章55ページ）、そのときに同行したのが鐘棐（字は子翼）という人物で、蘇軾はその息子に会ったのである。
［訳文］
私が十二歳のときに我が父は江南より帰ってきてこのように言った。
「私は南の地に遊んで虔州に至った。虔州には隠君子の鐘君がいて、その弟とともに遊び、一緒に馬祖巌に登ったり、天竺寺に入って白楽天の墨跡を観たりした。私は飲めないけれども、鐘君はよい酒を用意してくれた」
このときは、父のことはまた世に知られておらず、万里を旅して、宿屋でよい場所を人に奪い取られてしまうくらいであったのだが、鐘君だけは父は衆人に異なるとして敬ってくれたのだった。
それから五十五年が経ち、蘇軾は海南島から還って贛水のほとりを過り、父が巡った跡を訪ねたところ、故老は皆いなくなっていて、鐘君も没してすでに三十一年であった。その子の鐘志仁、鐘志行、鐘志遠に会って、手を取り合って泣いた。
鐘君に哀しみを捧げる者がいないことを念って、この詞を贈るものである。
鐘君の諱は棐、字は子翼。博学、篤行は江南において特に秀でていた。欧陽脩、尹洙、余靖、曾鞏も皆が鐘君のことを知っていたのだが、しかしついに世の中と遇うことなく没したのだった。
かつて儂智高が嶺南で反乱を起こしたときに、その勢いは江西を揺るがすものであったから、虔州知事の曹観は、州の民衆から財産を徴発して戦うための備えをなそうとして、鐘君に相談したところ、鐘君は、
「儂智高はきっと大庾嶺を越えられないでしょう。事がないのに民衆を駆り立てると、民衆は驚いて逃げてしまいます」
と、言った。曹観が、
「いざというときにはどうするのか」
と、問うと、鐘君は言った。
「同じ舟に乗っていて風に遇ったならば、嶺南の人だろうが嶺北の人だろうが左右の手を合わせて使うでしょう。まして同じ虔州の民なのです、不幸にして急な事態に至ったならば、官も民も一つの家の者です。どれが官の財産でどれが民の財産というようなことはもはやないのです。ですから、あえて徴発するまでもないのです」
曹観は納得して徴発を止め、虔州の人々は安らかであったのだった。
……（以下に、鐘君を悼む韻文が続く）……
［補足］（途中で名を挙げている欧陽脩ら4人はいずれもかつての名だたる文化人である）
■乞数珠一首贈南禅湜老
［解題］虔州には崇慶禅院があり、そこに経典を納める蔵を作ったことを記念する文章をかつて蘇軾は書いていた（第11章174ページ）。その文章中にも名が見えていた長老の惟湜（ここの詩題では「南禅湜老」と記されている）に、この詩を贈って数珠を所望した。
［訳文］
貴僧に従って数珠を求めるのは、
我が老境のもろもろを消し遣るためである。
悟りを得るならば千の仏をも動かすというけれど、
私はまだ千の仏によって動かされるだけだ。
儒生は変化の理を推測して、易によって天地の移ろいを知り、
道士は宇宙の根源に立って、火と水から仙薬を作り出すとか。
私は老いてしまってそのどちらももはやできず、
永遠の時間を呼吸に内に見ようとするだけである。
黙って坐ってこの塵の世界を閲して、
無限の回数を行き来しようとする。
しかしながら、私が実際に身を寄せるところはまことにちまちまとしていて、
蚕が身を縮めて繭の中にいるようなものである。
たまたま海の上から帰ってきたところ、
ここ崇慶禅院こそは蓬莱島のように清らかなのだった。
［補足］（この詩は、この訳だけを読むとそれなりに筋が通っているかのように見えかもしれないが、原詩そのものは訳者にはほとんど理解不能で、いつもの「ずっぽ訳」にすらなっていない。惟湜長老はむろん難なく理解したのだろう、すぐに返事の詩があり、それ以来、「和我弾丸詩、百発亦百反」（我が弾丸の詩に和して、百発して亦た百反る）という具合に、瞬く間に2人の間で詩が何度も行き来し、蘇軾が返した詩が4首残っている。いずれも訳者にはチンプンカンプンであるので訳すことはできない）
■和猶子遅贈孫志挙
［解題］孫勴（字は志挙）という人物が訪ね来て、かつて蘇遅（蘇轍の息子）から贈られた詩を示したので、それに和した。孫勴の父の孫立節（字は君介）と蘇軾兄弟がかねて縁があったことは後の文章に記される。
［訳文］
高官の召す衣や車は大きな鞴のようなもの、
一時代の人々を溶かして鋳型にはめて鍛えるので、
鋳型に身を委ねるならば、饑えや貧しさに甘んじるようなことにはならない。
昔、郗愔は息子を溺愛していたので、
息子が権威者に媚びていたのを、息子が破滅するまで気がつかなかった。
昔、王述もやはり息子を溺愛していたので、
息子が権威者との婚姻関係を結びたいと申し出て、初めて怒りを発した。
私も息子も甥も鋳型にはめられるのを望まなかったので、
身を失って遠く遥かな地に墮ちて、
老いを寄せるところさえないありさまとなってしまった。
十年来の旧友を看て回ると、
わずか数人の者だけが他と異なっている。
孫立節君（孫勴の父）は他人に依らずに独り立ち、
武人らしく、門には鋭い戟が何重にも交わる厳めしさがあった。
貴君はその奥深くで育ち、
親類や近隣の人々に会うこともなく勉学に励み、
兄弟は皆が秀傑であるなかでも、貴君の英気は第一とされたのだった。
私は海の外から帰ってきて、
崆峒山（虔州にある）の春に間に合ったのを喜んでいたところ、
町の西に住む陽行先から珍しい本を借りることができたばかりでなく、
貴君が訪ねてきてくれて、
以前から親しくしていたかのように歓び合えたのだった。
貴君が示された五百言もの清らかな詩は、
どの句もまことに優れていて、
火によって修練するのはまだ十分ではないにしても、
丹砂から銀が生まれ出るのは間違いないであろう。
我が家には息子や甥が六人いて、
素朴な学問を修めて、時代の新しい流行を追うものではないので、
詩文はそれぞれ燦然と輝いているのだが、
老人の言葉のようにくどくどしいところがあるのかもしれない。
かの六人の子たちを私はいつも忘れることはできない。
なぜなら、私に従ったために何度も災難に見舞われたからだ。
願うのはかねてからの好を敦くして、
貴君と六人が、かの竹林の七賢人のように、
永く交わりを結んでもらいたいものである。
■用前韻再和孫志挙
［解題］上の詩に孫勴（字は志挙）が和したので、また和して返した。
［訳文］
世に言われているのは、
多数の人の勢いは天に勝るとか、
逆に、天の定めは人に勝るとも言われている。
漢の皇帝は、寵愛する鄧通に餓死する相があると聞いて、
鉱山を一つ与えて鄧通を大いに富ませてみせた。
乱暴者の郭解は貧乏であったけれども、
将軍も恐れるほどの力を持っていたので、
漢の皇帝は、郭解は本当のところは貧乏ではないのだと言った。
立派な御殿ができてよろこんで巣を作った燕も、
たちまち驚いて逃げ飛ばなければならないことも起こるし、
権威者の陰謀に首尾よく加わって手柄を立てようとした者も、
うっかり露見して冷たい笑い声をあびせかけられるようなことにもなるし、
良縁に結ばれてとんとん拍子で出世を遂げたと思ったら、
旨い酒をしこたま飲んでの夢だったということもある。
世間にもてはやされたり、世間から恥辱をこうむったり、
そのたびに悲しんだり、歓んだり、果てしがないのであって、
つまりは、人間世界を見回すと、
一つとして真なるものはないのである。
私は道観の掃除を命じられたので、
これからは天帝に香火を捧げ、
我が書斎には「思無邪」（思い邪無し）と名付け、
我が座敷には「徳有隣」（徳は隣に有り）と名付け、
どこであれ行くところを郷里とし、
賢者に仕え仁者を友とするつもりだ。
この孫君は経術に通じ、
漢代に篤学で讃えられた井大春のようである。
楚の地の南のはずれのようなところに孫君が生まれ出たのは、
淑気がここに積もり積もったからである。
唱える詩は高い境地にあって、
この地において和す人は少なく、
私が来なければそれに親しむ者はいなかったのである。
譬えるならば、
嶰谷の竹がいかに優れていても、
かの笛の名手の伶倫がいなければよい音は出ないのである。
俗人の学問は鄙むべきもので、
阿呆な妖怪が戯れるようなことをしてみせたり、
華美で新奇であることばかりを競ってみせたりして、
つまりは、紙に記したものを銀に換えようとするものなのである。
願うのは、孫君は篤実を第一として、
浮ついた言葉やくどくどした言い回しをしないように。
困窮するのも栄達するのも造物者のまま、
得るも喪うも根本においては均しいと知るべきである。
大きな倉に知識を蓄えて、時に及んで順に発揮してゆくように。
［補足］（（1）終わり近くにある「窮通付造物、得喪理本均」（窮通は造物に付し、得喪の理は本より均しい）の2句は、いくつかの和陶詩で詠まれていた思考を集約したものといえるだろう。（2）蘇軾は見込みのある青年に出会って、自身の経験から得たものをできる限り伝えたいと思ったのだろう、この詩で懇切丁寧に人生哲学を説いている。孫勴は大いに感動したに違いない。（3）この後、崔甲という人物が自分で書いた文章を携えて蘇軾を訪問し、見るとなかなかに立派なものであったので、尋ねると孫立節の甥であるとわかり、この詩と同じ韻を用いてまた一篇の詩を賦している。その詩は、この詩と同様の主旨で言葉が難しくなっているので割愛する）
■剛説
［解題］孫勴の父の孫立節（字は君介）について記した文章。虔州滞在中に記した詩文の中で最も力の篭った作品である。孔子の言葉を引いて「剛」について論じ、孫立節の事績を記している。
［訳文］
孔子は言った。
「剛毅、木訥は仁に近い」
また、このようにも言った。
「巧言、令色は仁が鮮い」
孔子が剛を好んだのは、剛であることそのものを好んだからではない。仁であるのを好んだのである。孔子が佞を悪んだのは、佞であることそのものを悪んだのではないはない。仁でないのを悪んだのである。
私はこれまで多難の歳月を送ってきて、常に身をもってこのことを吟味してきた。災厄から私を免れさせてくれた人は、いずれも何もないときにも慎み深い人であった。私を危ういところに押し落とした人は、いずれも異変のあるときを喜ぶ人であった。私はこのことから剛者は必ず仁で、佞者は必ず不仁であると知ったのだった。
建中靖国の初めに私は海南島より帰り、かねて知っていた人々に会ったり、あるいは存没を尋ねたりして、かねて剛であった人を追って論じてみたところ、ある者は不幸にして亡くなっていたのだった。例えば孫介夫君、諱は立節は、まことに剛の者であったというべき人である。
かつて我が弟は条例司（改革の初めに設置された新法の各条を吟味するための部署）に属する官僚となり、ほかの者と議論が合わなくて身を引いて去ったのだが、そのときに王安石は孫君に言った。「吾が条例司には、まさに貴君のように広く物事に通じて、機敏な者を得たいものである」と。孫君は笑って、「あなたは間違っています。私より勝る者を求めてください。私のような者は、あえて条例司には入ろうとしないのです」と、言った。王安石はすぐに執務室に入ってしまい、孫君も足早に退出した。
それから孫君は（王安石に嫌われて都から遠ざけられて）鎮江軍の書記となり、一方で私は杭州の副知事となって常州、潤州のあたりを行き来したので、孫君とは京口で会ったのだった。新法が実施された初めのころ、官吏を監督する役目の者はいずれも新進の若輩者で、濡れ雑巾をしぼるように役人を馭し、士大夫をまるで礼遇しなかったのだが、孫君のことだけは、「これは丞相に抗ってあえて条例司にならかなった人である」と言って、敬い憚ったのだった。
謝麟が（先住民族である）溪洞の統治に関わったときに、宜州知事の王奇は蛮族の反乱を鎮めるために戦って死んでしまった。このとき、孫君は桂州の節度判官であったが、朝廷の命令でこの事件で罪のある官吏を取り調べることになった。謝麟は地位の高い者、低い者、合わせて十二人を収監して孫君に託し、吟味した上で全員を斬ってしまおうとしていた。孫君は自分の考えに従ってそのようにはしなかった。謝麟は孫君を罵った。孫君は言った。「裁判は実情をよく吟味しなければなりません。官吏は必ず法を守らなければなりません。ぐずぐずと軍を進めなかったのは、武将たちの罪です。武将たちはすでに罪に伏しています。その上に他の者にまで刑罰を与えるべきではないのです。もし法によらずに人を斬ろうするのなら、貴公自身がなさってください。私は関与いたしません」。謝麟は孫君が拒んだことを朝廷に訴え、孫君は謝麟が裁判に干渉したことをやはり訴えた。刑部では孫君が言う通りでよいとなって、十二人ｊは皆が死なずにすみ、ある者は別の官職に遷ったのだった。私はこれによってますます剛の者は必ず仁であると知ったのだ。不仁の者は、十二人が死ぬばかりのところから一言をもって活かすようなことはしないのである。
孔子の時代には君子が多かったといわれている。しかし、孔子は「まだ剛者を見ない」と言った。剛者はなかなか得られないことをその言葉で明らかにしていたのである。
世間ではこのように言われている。「剛でありすぎるとぽっきりと折れてしまう」。しかし、士が患うのは剛でないことだけである。長く剛を養い成就させようとしてもなお足らないことを恐れるべきである。剛でありすぎるのではないかと心配させて、ぽっきりと折れてしまうだろうと脅かしたりしてはならないのである。折れるか折れないかは天によるのであって、剛であることの罪によるのではない。このように論じるのは、並みの人が剛を失ってしまうのを心配するからである。
孫君のしたことで記すべきものは非常に多い。ただこの二つの事だけを書いてその子の孫勰と孫勴に贈り、剛者の必ず仁であることを明らかにして、孔子の説が信であることを説くものである。
■与銭済明
［解題］虔州にいる間に蘇軾は銭世雄（字は済明）にこの手紙を送った。銭世雄は、蘇軾が杭州副知事であったときからの知り合いで、蘇軾が恵州にいたときには、蘇州副知事であった銭世雄は卓契順を使者として送っていた（第11章128ページ）。それ以降何度か手紙の行き来があり、蘇軾が海南島を出てからも折に触れて銭世雄から手紙が来ていた。銭世雄は恐らく蘇軾との交際が問題視されたのだろう、蘇州副知事を解任されて故郷の常州に帰っていた。常州には以前に蘇軾が買った土地があり、かつて長男や次男がしばらくそこに住んでいたこともあるので（第11章30ページなど）、銭世雄は蘇軾に常州に来ることを強く勧めたのだろう、この手紙では常州に住むと決めようとしていると書いている。
［訳文］
私はすでに虔州に来ていて、二月十日あたりにここを離れるでしょう。今回の旅の終わりには常州に行って住むと決めようと思っています。ただ、郡中にちょうどうまい具合に買い取ることのできる家があるかどうかわかりません。もし住居がないのならば、真州に行ってもよいでしょうし、舒州でもどこでも構いません。常州の東の門の外で裴氏の邸宅が売りに出されていると聞いたことがあります。しかるべき筋の人に問い合わせて、もし住居にできるのなら、価格を尋ねて力の及ぶ範囲であれば、すぐに交渉することになるでしょう。金陵（南京）に着いたなら、また別の人を遣わして相談したいと思います。もしこのことが遂げられたなら、貴君とは杖をついて往き来できることになり、我が残りの歳月を楽しく過ごせるでありましょう。……（以下、他の人の消息などが記される）……
［補足］（（1）常州に住むとまだ決まったわけではなかった。これから必ず通ることになる長江沿いの真州であってもよいし、舒州に来るよう李公寅に誘われているし（本章74ページ）、弟の蘇轍が向かいつつあった潁昌（許州）（本章63ページ）に行くことも一つの有力候補としてあり、むしろ常州よりも潁昌の方がより実現性があると蘇軾は実は考えていたようだ。（2）ここで皇帝が代替わりしてからの弟の蘇轍の動きを簡単にまとめておくと、元符3（1100）年2月、やはり嶺南の地である循州に置かれていた蘇轍は、処分を緩められて永州安置となり、大庾嶺を越えて移動する途中で、4月に岳州に移るよう命じられてそのまま北上を続け、11月に居住に自由を得た。このときにはすでに長江沿岸まで到達していた蘇轍は、以前から土地を得ていた潁昌（許州）に住むことを決め、翌年の春、つまり蘇軾が虔州に滞在している間に、潁昌に到着していた。もしも、兄弟が居住の自由を得るのがもう少し早かったならば、蘇轍は虔州あたりで兄の到着を待つこともできたのかもしれないのだが、2人はわずかな差で会えずに相前後して北上したのだった。（3）蘇軾が虔州に到着したころの1月14日に向皇太后が亡くなった。保守派の復権を進めてきていた向皇太后が亡くなったことは蘇軾兄弟の運命に影響するようになる）
■端硯石銘
［解題］南華寺で会った蘇堅（字は伯固）（本章68ページ）の子の蘇庠が父の手紙を携えて虔州にまできたので、端渓の石で作った硯を贈って、この銘を添えた。
［訳文］
蘇堅の子の庠、字は養直は妙齢で異才がある。この端渓の硯を贈る。その銘に曰く。
私の友に三つの優れものがある。溪から取った石、松を変化させた煤、竹から作った筆。蓬麻の紙に、山の泉の水のような墨を滴らせる。（筆に任せて線が）折れるなら折れよ、曲がるなら曲がれ。我が直を全うさせる（本性のままに表現する）のである。
■答蘇伯固
［解題］蘇堅（字は伯固）からの手紙への返事。
［訳文］
人が来てお手紙を頂戴しました。お別れしてからの日々の佳勝をお聞きし、心が深く慰められます。親しい方々のことを思い、帰心が募ります。それよりよいことはないのでしょう。まだ計画は定まっていませんが、安らかな気持ちになりたいものです。貴君のお心を知ったからには、それにお応えすべきでありましょう。近いうちに黄寔君に会って相談することになるでしょう。
私は虔州に留まることすでに四十日になります。舟はあってもなお贛水のあたりにいます。苦労も費えもなかなかのものです。病のために長く臥せったり短く臥せったりしながらも、幸いにもいつも癒えております。しかし、従者がすでに六人も亡くなりましたことには驚かされました。
住まうところは舒州でなければ常州なのでしょう。老病の身でありますから、ただ退隠するのが上策です。弟はすでに潁昌に帰り着いたと聞きました。またいつ会えますことか。何はともあれお健やかでいてください。
［補足］（文中に名の挙がっている黄寔は蘇轍と姻戚関係があり、このころ長江中下流域で官職に就いていて、その手助けを得たらどうかと蘇堅からアドバイスがあったのだろう）
■次韻江晦叔兼呈器之
［解題］上の手紙にあったように、虔州滞在はすでに40日を超え、いますぐにでも発ちたいと思っていたのだが、さらに20日ばかりも留まらなければならなかった。その間に新しい虔州知事として江公著（字は晦叔）が赴任してきた。江公著とは旧知の仲で、蘇軾が杭州知事であったときにも会っている（第9章177ページ）。江公著が詩を詠んだので、それに和して劉安世（字は器之）にも示した。劉安世は南安軍で会ってから（本章93ページ）一緒に虔州に来ていた。江公著も劉安世も気心の通じる友人であることからこれは楽しい戯れの詩である。
［訳文］
劉君が言うには、
「空を橫切ってゆくには、
何も鵬とか鰲とかに跨がるまでもありません、
胡床に座っているうちに、
一歩ごとに高くなってゆくのですぞ」
これは枕に就いての夢。
私は春の夜の夢に、
ちっぽけな舟に乗って海を渡って行った、
あたりに波はなかった。
帰ってきたら、
何とまた茶顛の江君に会ったのだった。
私は病ばかりが多いのだが、
何とあの酒顛の劉君が、陶淵明に倣って酒を止めたのだった。
私は笑いながら自慢する。
「南の涯というところはですな、
ちょうどいまごろに、
庭にはらはらと榕の葉が下るのですぞ」
［補足］（この詩には、蘇軾自身の手による以下の三つの注が付いている。①劉安世はかつて夢で飛んだ話として、自身の身体と椅子が空中に浮きあがるのを感じたと言った。②かつて私は杭州にいたときに、江公著に「（唐代の）の陸羽は茶顛でありましたが、貴君もまったく同じですな」と言った。③陶淵明に『酒を止める』という詩がある。劉安世は若いときには誰も敵う者がいないくらいに酒を飲んだのだが、いまはまるで飲まなくなった。陶淵明の詩は第12章10ページで見ている）
■寒食与器之遊南塔寺寂照堂。
［解題］3月4日の寒食の日に劉安世（字は器之）と南塔寺の寂照堂に遊んでこの詩を詠んだ。
［訳文］
町の南から響く（南塔寺の）鐘と太鼓の音、
いつも清く新しい音を闘わせている。
これこそが南の涯に流された者の熱い塵を洗ってくれる。
流された者とは、いま（南塔寺の）鏡空堂に上った客、
その誰が仏道の奥深い境地に達するのだろうか。
暁に目覚めさせる風によって、
紅い花びらが地を掃って飛び行き、
緑の葉が蔭をいっぱいにつくるころに、
雨が春を洗い去ってしまうのだろう。
さあ、杏の花よ、
来年の寒食のときにも、覚えておいてくれ、
かつてこの翁と隣に並んでいたことを。
［補足］（この翌年に、杏の花は悲しく記憶を呼び戻さねばならなかったのである）
■和代器之
［解題］劉安世（字は器之）は詩があまり得意ではなかったようで、蘇軾の上の詩に和そうしなかったので、ならばと、蘇軾が劉安世に成り代わってこの詩を作った。
［訳文］
雨が町の外の原を過ると、
一段と新たな雰囲気になる。
春の花を尋ねる車や馬が通っても、
塵ひとつ立たない。
今日は寒食であるから、
天のもとでは、昔からどこでも冷たい食事をすると決まっているのだが、
我等二人だけはこの静かな寺での遊びに興じている。
唐の時代に嶺南に流された沈佺期は、
都の新しい暦では清明節はいつなのかと詩に詠んだけれど、
我等はその真似をして嘆くようなことはしない。
やはり唐の時代に南方に流された宋之問は、
寒食の日に春の終わりに感じる入る詩を詠んだのだが、
我等もそれには同調するものである。
来年は梨の花の開く都において、
群賢や四隣の人々と宴席を設けることになるであろうか。
■南安軍学記
［解題］同じ日に、南安軍の学校に関するこの文章を記した。
［訳文］
古には国の為すべきことが四つあった。井田（古代の土地制度）、肉刑（身体を害う刑罰）、封建、学校である。いまは亡んでしまい、かろうじて学校だけが残っている。
古には学校で為すべきことが四つあった。そのうち大きな二つは士を取ることと、政を論じることで、小さな二つは楽器の演奏と、詩歌を誦じることであった。いまは亡んでしまって、わずかに誦じることだけが残っている。
……（以下に、幾つかの経典を引用して上の命題を展開する）……
古には士を取り政を論じることが必ず学校で行われていた。士を取らず政を論じないのなら学校がないのと同じであった。後漢の時代には学校がこれまでになく盛んで、学校で学ぶ士が数万人もいて、人を活かすも殺すも学校の士の言論次第で、朝廷の高官もその前には頭が上がらず、その行くところを常に見定めなければならなかった。士を取り政を論じることにおいては古に近かったのだが、突如として「党錮の禍」（宦官との政争に敗れ、気骨のある儒家は国に反逆する者として獄に下された）が起こったのだった。それは王者の政が為されていないままに士が私意をもって下において勝手に振舞ったためでであって、禍に敗れるのも当然のことだったのである。
宋の朝廷は慶暦、熙寧、紹聖以来、三度にわたって学校に意を注ぎ、都から遠く離れたところにも必ず学校が置かれるようになった。南安軍は江西地方の南の境にあって、儒術が盛んであることは閩や蜀などと等しく、そこに地方を治める手腕で名高く、行く先々で学校を建てていた曹登が知事として来たのであるから、南安軍の学校は江西地方で第一となったのである。曹登は仁の人で、義において勇で、学校を建てることは自分の責任ある仕事であるとして、困難をものともせずに、期限を設けて必ず作りあげた。土地の士はそれを見て感動して発奮し、自ら建設に力を尽くした。官が用意した費用は銭九万三千で、それ以上の助力は必要としなかった。学校には百二十の部屋があり、礼殿、講堂も具わって、大きな邦の君主の住まいのようである。学校になければならないものは全て揃い、数百人に食事を与えられるようになっている。紹聖二年の冬に建設を始めて四年の春に完成した。学校ができて曹登は去り、いまは潮州の知事となっている。
私は海南島から還って南安軍を過り、以上のことを詳らかに聞いた。士は曹登の徳を称えて止まず、その本末を並べただけでなく、糧を包んで三百里余りも私に従ってきて、この事実を記すよう願った。
学校を建てるのは王者の仕事である。だから（訳を省略した部分にあったように古代の聖天子の）舜が学校を始めたのである。しかし、舜の事績は遠く、近づくことはできない。しかし、知事が賢人であるならば（やはり訳を省略した部分にあった）鄭子産のようにはなれるのである。学問に勉めるならば、古の人に愧じるものではないのだ。
建中靖国元年三月四日、眉山の蘇軾が書く。
［補足］（（1）慶暦年間に学校建設を主導したのは范仲淹で、熙寧年間には王安石と神宗皇帝が、紹聖年間には復権した改革派が主導した。慶暦年間の施策が十分な成果を挙げなかったことは第3章15ページで触れている。王安石の提議した学校および科挙の改革について蘇軾が強く反対したことは第3章32ページで見ている。（2）終わりにあるように南安軍の人が蘇軾に付いてきて執筆を頼んだのは、蘇軾の書いたものは士大夫の間で広く読まれて影響力があったからなのだろう）
■絶句
［解題］寒食の後で詠んだ詩。
［訳文］
桑畑に囲まれた侘しい旅宿で春が暮れてゆき、
思いはいつまでも尽きない。
屋根の角で鳩が鳴き、雨が降ろうとしている。
昨日はすでに寒食の後の火をつけたのだが、
花を吹く風が起こり始めたために、
一枚また衣を羽織ることになった。
■器之好談禅不喜遊山山中筍出戯語器之可同参玉版長老作此詩
［解題］劉安世（字は器之）とはうまが合ったのだろう、戯れの詩をまた詠んでいる。詩題は「劉安世は禅を語るのを好み、しかし山に遊ぶのは喜ばない。山中に筍が出たので、劉安世を山に誘い出すために、戯れに一緒に玉版長老のもとに参ろうと言ってこの詩を作った」。玉版長老とは何か、この詩に詠まれている。
［訳文］
ここは、昔、懐海禅師がいた百丈山のような林だ。
ここで法統を嗣いでいるのは、
見ての通り、「橫枝」である。
石がごろごろする道も恐れずにきたのは、
橫枝の中でも抜きん出た「玉版師」に参禅するためなのだ。
私は柏の樹によりかかって、
「ほら、あれが玉版師だよ」
と、籜竜児（筍の異名）を指さす。
瓦礫からも禅をよく語る貴君が、
「橫枝」も「玉版師」も筍の異名であるとは、
よもや知らなかったわけではあるまいに。
［補足］（劉安世は計略にはまって山に連れて行かれたのだが、新鮮な筍を焼いて食べさせられて、その日を楽しく過ごしたのだろう）
■書秦少游詞後
［解題］昨年の秋に亡くなった秦観（本章25ページ）が夢の中で作ったという詞を書いてそれに短文を添えた。
［訳文］
山路雨添花、（山路にて、雨が花に寄り添うと）
花動一山春色。（花が動いて山全体が春の色になります）
行到小溪深処、（進んで小さな谷の奥深いところに到ると）
有黄鸝千百。（無数の鶯が鳴いています）
飛雲当面化竜蛇、（雲が湧き立って見る見る竜に変化し）
夭矯転空碧。（うねうねと空の青へと広がってゆきます）
酔臥古藤陰下、（酔って古い藤の陰の下に臥すと）
了不知南北。（南も北もわからなくなります）
供奉官（武官の名）の儂沔は湖南の人であるが、左遷された人に喜んで従って旅をするので、呂陶（蘇軾と交流のある人）も褒めている人物である。秦観のことをよく知っていて、詳しく話してくれて、私にこの詞を教えてくれて、涙を流したのだった。それでこれを書いて渡した。
建中靖国元年三月二十一日。
［補足］（（1）ある随筆によると、雷州に流されていた秦観は罪を赦されて北へと帰る途中、藤州の光華亭で酔い、目覚めて泉の水を汲んで飲むと、そのまま亡くなった。上の詞がその運命を示していたのだとされた。（2）儂沔は秦観の従者として、その最後の日々を見聞きして、蘇軾に語ったのだろう。（3）呂陶の名は第8章222ページで見ている）
■王子直去歳送子由北帰往反百舎今又相逢贛上戯用旧韻作詩留別
［解題］蘇軾が恵州にいたときにはるばる虔州から訪ねてきた王原（字は子直）がいた（第11章160ページ）。その王原に贈った詩。詩題は、「王原は去年、弟が北に帰るのを送って、行き来すること百回にも及んだ。いままた贛水のほとりで逢ったので、戯れに以前の韻を用いて別れの詩を作った」。「百回」というのは無論誇張であるが、蘇轍が帰るのに何かと力を尽くしたのだろう。「以前の韻」とは第11章160ページで見た詩のことである。
［訳文］
（かつて恵州に向かったときに）私は米が尽きてしまい、
衣を質に入れて救ってくれようとする人もなかったのだが、
貴君だけは万里の道を送ってくれたのだった。
（虔州から）舟を出すにあたって、
また貴君と連れ立って行きたく思っているので、
家に帰って奥方を相談してきてほしい。
聞くところでは、丹薬がもう火の上でできているとか。
だから頭が真っ白になるのも気にかけていないのだ。
しかも、山辺に田があって、鶴も飼っているのだから、
朝廷で俄か成り金が出世しようが気にも留めないのである。
［補足］（王原が実際に蘇軾に同行したかどうかは明らかではない）
■虔州呂倚承事年八十三読書作詩不已好收古今帖貧甚至食不足
［解題］詩題は、「虔州の呂倚承事は年は八十三、書を読み詩を作ってやむことがない。古今の帖（書家が書いたものを綴じた冊子）を収集するのを好み、ひどく貧乏で、食べる物にも事欠くほどである」。「承事」は退官した人に与えられる名誉職である。
［訳文］
漢代の大学者であった揚雄は老いて男子がなく、
漢代に文才をもって聞こえた馮衍は最後まで不遇であった。
呂翁もまた金銭とはついに縁がなく、
たった一人の娘がいるだけである。
家には古今の帖を蓄え、
箱は墨の色で照らされている。
飢えが来て、何もない机によりかかったまま、
煮て食える文字は一つもない。
からっぽの腸がごろごろ鳴っているのを、
五千巻の書物によって支えているのである。
蜩や蛩のような声を立てて詩を吟じ、
時に賈島や可明（二人とも唐代の詩人）のような名句を吐くのである。
呂翁のために村の長者にいおう、
徳を守って年齢を重ねた人は敬うべきで、
まして呂翁のような人は世に何人もいないのだから、
わずかばかりでもよいから時には支援していただきたい。
■次韻江晦叔二首
［解題］思いがけず虔州で多くの日を費やした蘇軾は、ようやく3月の終わりに劉安世とともに出発した。これは虔州知事の江公著（字は晦叔）の詩に次韻したもの。この詩をいつ詠んだのかはっきりしないが、虔州を発ったときの作と見ることもできなくはないので、そういうこととして訳す。
［訳文］
其の一
私は老い、家はどこにあるのか。
幸いにも、風雨を呼ぶ竜は眠っていてくれて、
天候に恵まれて出発できることとなった。
酒を載せた船が李白を送り返したように、
私は船で帰って行く。
官を辞した陶淵明を子供らが出迎えたように、
私を待っていてくれる者がいる。
幸いにも、仙人のような劉君が一緒であり、
たちどころに詩を吟じる江君が見送ってくれたのだ。
小さな楼閣での送別の宴に劇飲し、
月が昇るのを見て、参の星が横たわるまでに至ったのである。
其の二
川の南の岸辺からの鐘や太鼓の音、
夢から驚いて目覚めると、
私は海の外からここに帰り来ていた。
浮き雲のように世間の事は改まり、
一つの月のようにこの心の明るさは変わらない。
いまは盆を傾けるかのように雨が落ち、
詩は水を翻すかのようにたちどころに完成する。
二つの川は争うようにして旅人を送ってくれて、
木の杪の先に橋が横たわるのがもう見えてきている。
［補足］（（1）岸辺に起こった鐘や太鼓の音は、蘇軾を見送るためのものであるのかもしれない。（2）其の一では「竜は眠っている」と詠んでいたが、其の二では雨が激しく降っている。それによって、虔州の北で合流する二つの川（貢水と章水）の流れが速まり、これまでの滞りを取り戻そうとするかのように船は一気に進んだのであろう。そして、水かさが増したことで、十八灘の難所の岩も水に沈んで速やかに越えることができたのだった。この後で、謝挙廉に追い越されたのである（本章85ページ））
■与孫志同
［解題］虔州を発つに当たって孫勴（字は志挙ないし志同）（本章105ページ）に書いた手紙。
［訳文］
衰え朽ちて困窮した者には、昔親しかった友人も振り返らないといいますが、貴公は遠く訪ねきて、二カ月にわたって旅の泊りを重ね、厚く尽くしてくださいました。明日の朝に出発すると決めました。貴公はきっと見送りに追ってこられるかと思いますが、古いことわざに、「千里遠く送っても、つまりは別れることになる」といいます。私も貴公も道を学ぶ者でありますから、いつまでも恋々とするのを望みません。まして貴公は家を離れて行き来することすでに千里にも及びます。決してここから先も自身で舟を漕いで付いてこられたりしませんように。
［補足］（孫勴の家は虔州の虔化県にあって、虔化県は蘇軾が滞在していた虔州の中心地とは五百里余り離れている）
［補足］（何薳の随筆『春渚紀聞』には、虔州での逸話として次のようなことが記録されている。
［訳文］
何薳：『春渚紀聞』
先生が海の外から還って贛水のほとりに至って、川の南に寓居していた日々に、町のあたりを行くときには先生は薬を入れた囊を携え、疾病のある者に遇うと必ず薬を出して与え、あわせてその処方を教えた。寺観に至ると、好事の者や僧侶や道人などで公の墨跡を欲しがっている者が、先生が遊びに行くところをあらかじめ探って、佳い紙を用意して、紙の終わりに自分の名前を記して机に積み上げて、威儀を正して先生の来るのを待っていた。公はそれを見ると笑い、何も問うことなしに筆に任せて紙に墨を潤し、紙にある名に従って人に与えた。日の暮れ方になって書くのに疲れても、まだ机の上の紙が多く残っていることがあったので、笑ってこのように言った。
「もう日が暮れてしまう。小さな字で一つ一つ埋めていったので全部の紙を書き終えることはできまい。名前とか念仏とかでもよいと思う者はそう言ってほしい」
結局、先生が帰るまでに、皆は満足して喜んで散っていたったのだった。
■与程徳孺
［解題］虔州を発った後で程之元（字は徳孺）に宛てて書いた手紙。程之元は母方の従弟で、かつて何度も交流があり（第10章294ページなど）、恵州で和解した程之才（第11章108ページ）の弟である。このときは江淮六路発運使という、長江、淮河流域の広い範囲の経済運輸を監督する職務に就いていた。
［訳文］
近ごろ特に使いの者を虔州にまで派遣して、遠く季節の衣服や寝具を贈ってくださり、またお手紙も添えてくださり、感謝いたします。ここのところ佳き日々を過ごし、おのおの健やかであります。水が増えるのを待って贛水を下り、いま南康軍に到着するところです。旅程を計るに四月末ごろに（長江沿いの）真州に到ることでしょう。そのときに息子邁を宜興（常州）に行かせて荷物を取ってこさせ、瓜洲に船を泊めて戻るのを待つつもりです。
程君は発運使の任務にありますから、常州、潤州のあたりを回られて、金山で落ち合って遊ぶことができますでしょうか。患難の末に、老いた兄弟がまた集まれたなら、広い世間にも珍しいこととなりましょう。
［補足］（（1）真州から長男の蘇邁を常州に行かせて自身は揚州の瓜洲で待つといっているのは、揚州から大運河を北上して弟のいる潁昌（許州）へ行く心積りであったのだろう。（2）金山は真州より少し下流にある名所。蘇軾も何度も訪れていて、ここで程之元に会えたらと思ったのである）
■与黄師是
［解題］同じ頃に黄寔（字は師是）に与えた手紙。黄寔の名はすでに本章115ページで見ているように、黄寔の娘は蘇轍の息子と結婚していて、蘇軾兄弟と姻戚関係にある。一方で、黄寔自身は改革派の重鎮である章惇の甥であることから、保守派と改革派の両方の中心人物と親戚関係にあるという微妙な立場にあった。蘇軾兄弟と関係が深かった者が皆流罪になる中で、黄寔は章惇のお蔭で罪に落とされることは免れたものの、朝廷には留まれずに地方官として出ていた。先に蘇轍が潁昌（許州）に帰るに当たって力を尽くし、いまは蘇軾の帰還を支えようとしてたびたび手紙を送ってきていた。ここに訳したのは、黄寔からの手紙に章惇が雷州に流されることになったと書いてあったことへのコメント。雷州は先に蘇轍が流され、また海南島から帰った蘇軾が亡くなる直前の秦観と会った町である（本章3ページ）。
［訳文］
章惇君が雷州に行かされると聞き、驚きがその日いっぱい続きました。雷州は遠く離れたところではありますが、瘴癘の流行はありません。弟はそこに一年住んでいてはなはだ安穏でありました。このことをお母上にお聞かせして、心配の種を取り除かれますように。
［補足］（ここにある「母上」とは黄寔の母、すなわち章惇の姉ないし妹である。かつての親友で、後に政敵となって蘇軾を海南島にまで流した当の人物に対して、蘇軾が悪しざまにものを言うことはない）
■永和清都観謝道士童顔鬒髮問其年生於丙子蓋与予同求此詩
［解題］永和鎮に至り、この詩を詠んだ。蘇軾自身の注で「私は劉安世と一緒に虔州を発った。江の水はたちまち清く漲り一丈余りの深さになり、贛石は三百里に渡って一つも見えなかった。永和鎮に至って、劉安世は舟の纜を解いて先に行き、私は独りで清都観に遊んでこの詩を作った」と添え書きがある。詩題は「永和の清都観の謝道士は童顔で髮がふさふさしていて、生まれた年を問うと丙子というので、私と同じであった。詩を求められたのでこれを詠んだ」。
［訳文］
唐の時代に賀知章が官を辞めて江東に帰ったときに、
皇帝は鏡湖を与えるとの勅書を記した。
その賀知章のような貴公は、
西の玉局観に帰ろうとしている私とはまるで似ていない。
私は旅の枕にいまだに春の夢から覚めていないのである。
貴公は清都観で黙って天界にいる境地に達している。
私は佳いところを見つけると息子を連れて必ず訪ねるのだが、
試みに貴公に流れた歳月を問うと私と同じであった。
私の残りの歳月は何によって過ぎ去って行くのだろうか。
笑って思うのは、
たちまち篙半分の深さにまで澄んだ水が漲って、
百の難所が空しくなったことから知れるのではないだろうか。
■順済王廟新獲石砮記
［解題］4月4日、蘇軾は呉城山の順済竜王の廟の下に船を泊めた。蘇軾が南へと旅する途中で順済竜王に救われた伝説があることは第11章36ページで見ているが、帰路にもまた奇異なことがあった。
［訳文］
建中靖国元年四月甲午（四日）、私は儋耳から北に帰って、舟を呉城山の順済竜王祠の下に泊めた。
祠へと進んで礼を尽くし、戻ってきてから川のほとりを逍遙していると、古い鏃か槊の先を拾った。その刃の部分は鋭くて肉を裂くほどであるが、その素材は石である。
私はこのように思った。
「これは異ものではなかろうか。孔子が『楛矢、石砮で肅慎氏の物である』と鑑定した物であろうか。それがどうしてここにあるのか」
まわりの者に見せて手から手へと回しているうちに、手から失われて川の中に墜ちてしまった。そこで神に祈り、
「またこれを得て、廟の中に所蔵し、往来する者の心を驚かせ、目を動かして詭異の観を起こさせたい」
と、願った。祈りを終えてから、人を水に潜らせて探させたところまた獲ることができた。
……（以下、考古学的考察が記される）……
この鏃もまた宝なのである。順済王の威霊は南は洞庭湖から北は淮河や泗水のあたりにも及ぶので、とくにここにおいて出たのであろう。
私は敢えてこれを自分のものとすることなく、これを廟の中に留めて、古を好んで博く知ろうとすると君子との共有物にしようと思う。王の神聖英烈なることを示して、敬わなければならないことをこうして記しておく。
■跋所書圜通偈
［解題］4月8日は母程氏の命日で、蘇軾は供養のために『楞厳経』の一節を写した。
［訳文］
私は嶺南から海の外にあること七年、その間にも父や母の忌日に遇うごとに斎僧供仏をしてきたが、なかなかそれ以前のようにはできなかった。いま北に帰る途中、舟は予章と彭蠡湖の間にあって、亡き母、程氏の忌日に遇った。風に阻まれて滞留することになったので、きちんとした供養はできないけれども、『楞厳経』の中で文殊師利法王が説いた『圜通偈』の一篇を敬って写し、往時を追う思いを少しく伸べて、行く行く廬山を過るときには山中において道を得た者に施そうと思う。
建中靖国元年四月八日、書く。
［補足］（ここにあるように蘇軾はこの後で廬山に行くことになる）
■与銭済明
［解題］銭世雄（字は済明）（本章113ページ）からの手紙への返事。親しい人々の消息について触れている。
［訳文］
お手紙が届き、廖正一君（蘇軾の後輩で都で交流があった人）が復官し、（罪に落とされて還俗していた）参寥師が髪を下し、張大亨君（蘇軾と長く交流があった人）が春秋博士となったことを知りました。こうして皆が幸いに恵まれるなかで、銭君にだけそれがまだ及ばないのはどうしてなのでしょうか。きっと間もなくあるに違いないと思っています。
参寥師がまた僧衣を纏うようになったことにつけても、（蘇軾が恵州にいたときに契順を使者として送った）定慧長老守欽が早くになくなったことが残念でなりません。しかしながら、定慧長老は世を夢幻と御覧になっておられましたので、僧衣をまた召されるかどうかなどは取り立てて言うまでもないことなのでありましょう。息子の蘇迨から、定慧長老が寿州で亡くなったときのこと、そのはなはだ奇特であったことを詳しく聞きました。つまりは小人どもがその僧衣を汚そうとしてもできることではないのです。そして、できもしないことをしようとした者が、それによって災厄に見舞われたこともいよいよはっきりしました。定慧長老にはかつて八首の詩を契順に託してお贈りしました。定慧長老は（罪に落とされて蘇州を）出発するに当たってそれらの詩を焼かれたのでした。その詩があることによって（他の者に）災厄が及ぶのを危ぶまれたからでした。いまその詩を書いて銭君に授けます。それを写して定慧長老の旧居に掲げてください。定慧長老の詩は極めてすばらしく、味わい尽くせないものがあります。その法を継ぐ人があるならば、語録のうちにきっと収めてください。契順がいまどこにいるのかわかりませんが、銭君が探し出そうとしているのは、舟から落ちた剣を船べりにしるしをつけて求めるようなもので、お笑い草であります。
［補足］（定慧長老（第11章127ページ）もまた蘇軾との交流故に還俗させられたのだった）
■贈詩僧道通
［解題］4月中頃に蘇軾は劉安世とともに廬山に遊んだ。これは廬山の宣秘大師道通に贈った詩。宣秘大師は詩を得意としたようで、この詩の初句と第二句は、詩をもって名の知られた思聡と仲殊に並ぶと称えている。思聡と仲殊については蘇軾自身の注で次のように記されている。「銭塘（杭州）の僧の思聡は若いときは琴を善くし、後に琴を捨てて詩を学び、詩もまた棄てて仏道を学んだ。その詩は（唐代の僧の）皎然に似て、より豪放である。安州の僧の仲殊は素早く詩を作り、立ちどころに完成させ、その工の妙は人を遥かに絶して優れている。仲殊は穀物を避け、常に蜂蜜を啖っていた」。仲殊については第9章123ページで詳しく見ている。
［訳文］
詩において雄豪にして妙味があり、苦くて腴い、
そのような僧は「琴聡」と「蜜殊」だけであった。
言葉に煙る霧を帯びるのは、
李白が言う通り古から少ない。
貴僧の詩はそれらを全て合わせた上に、
野菜や筍だけの淡白な料理というわけではない。
香しい林に梔子の花が咲いたかのようであるが、
これまでは古い井戸に轆轤が切れたかのよう、
貴僧の詩を汲み上げることができる者がいなかったのだ。
韓愈に告げようではないか、
賈島とか可明とかをさかんに推奨していたけれど、
大師に比べたら詩の下僕のようなものであると。
［補足］（ここでもまた偉大な先人である韓愈をからかうような言い方をしている）
■張競辰永康所居万巻堂
［解題］廬山で、かねてから知り合いであった張競辰という人物に会い、その書庫である万巻堂を詩に詠んだ。
（万巻堂の名の通りに多数の蔵書があったのだろう。蔵書マニアの張競辰に戯れて関連する故事をそれこそマニアックにあれこれ引いて詩に詠み込んでいる。あまりに煩わしいので大意を取って訳す）
［訳文］
貴君の家ときたら四方の壁と書物があるだけ、
漢代の著名な書庫である天禄閣やら石渠閣やらもその中に納めてしまって、
唐代の李泌が持っていた三万巻を楽々超えているだけでなく、
貴君自身は、唐の太宗皇帝に歩く書庫といわれた虞世南を凌ごうというもの。
ところが、子供等が手を打って笑っているのは、
腹ペコのくせしてとにかく経典の議論ばかりをしているからだ。
世に稀な書物を持っていることを誇っていた漢代の蔡邕だって、
貴君の前では黙っているしかないし、
さまざまな奇妙な字体について論じた漢代の揚雄だって、
貴君とはかろうじて話ができるのかどうか。
貴君の家がある山を巡って、
碧い玉を連ねたような清らかな川が流れていて、
千年を経た竜が住んでいる。
貴君の家には酒があると思って、
竜は人に化けて夜に門を叩いたのだが、
貴君はただ書物だけで腹を満たしているのだから、
竜が来ようが何が来ようが全く意に介さない。
しかしながら、恵施はたくさんの書物を持っていたにもかかわらず、
荘子と議論してとても敵わなかったということもあるし、
漢の時代を開いた張良が読んだのはたった一巻の書物であったのだ。
［補足］（最後は張競辰と同姓の張良の故事をもってオチとした）
■劉壮輿長官是是堂
［解題］廬山で劉羲仲（字は壮輿）に会い、その是是堂について詩に詠んだ。劉羲仲は、父の劉恕が『資治通鑑』の編集に大きな貢献があったことから、父の死後にやはり学術をもって朝廷に召されたのだが、貴顕の人々と合わなくて短期間で辞めて廬山に隠棲した。
［訳文］
仁や義について論じたならば、
是か非かを定めないわけにはいかない。
非とすべきことを非だとするのは義に属することであるし、
是とすべきことを是だとするのは仁の内に入ることである。
それでも、人が言ったことを非とするのは訕に近く、
また、人が言ったことを是とするのは諛に近いということもあるだろう。
孔子のように善悪を厳しく分けるか、
阮籍のように腹に納めて曖昧なことしか言わないか、
そのどちらかになるのだろうが、
劉君の家の学問は三代にわたってますます独自性を強め、
古のことを並べて現代を批判し、
史実を引いて天に代わって断罪し、
あたかも、明るく照らす大きな鏡の前では、
もろもろの醜悪さがはっきりと見えるようなものとなった。
そのために、
素早く飛びかかる鳥が四方に厳しい眼差しを向けるときには、
狐の群れが乱れ騒ぐように、
衆人どもは劉君を嫌ったのだった。
劉君は廬山に入り、
堂を作って「是是」の名を掲げた。
劉君は平坦な道を行くだけだと言うけれど、
孜孜として善人を称えるなら、
不善の者は自ずと遠くに去って行くのである。
これはまさにかの聖天子の禹の言葉であって、
貴君はいつまでもそれを座右の銘とするがよいだろう。
■題劉壮輿文編後
［解題］劉羲仲の文集の後ろにこの短文を記した。
［訳文］
今日は朝起きると、衣が緩くなって、頭が重く感じられた。ただそれほど甚だしいものではなかった。劉君が編んだ文章を読むと、疾はどこかに消えてしまった。曹操が頭痛の酷いときに臥せって陳琳の文章を読むうちにすっかり治ってしまったというのは嘘ではなかったのだ。まして陳琳の文章は貴君には及ばないのであるから。
建中靖国元年四月十二日、書く。
■予昔作壺中九華詩其後八年復過湖口則石已為好事者取去乃和前韻以自解云
［解題］蘇軾は廬山を出て、4月16日に鄱陽湖（彭蠡沢）の出口である湖口に到り、この詩を詠んだ。詩題は「私はかつて『壺中九華の詩』を作った。その八年後にまた湖口を過ったところ、その石は好事の者に取り去られていた。それで前の詩の韻を使って残念な思いを解くことにした」。8年前の詩は第11章33ページで見ていて、蘇軾は「壺中九華」と自分自身で名付けた石を非常に気に入ったのだが、南遷の旅の途中で入手するのをあきらめて立ち去ったのだった。
［訳文］
壺中九華の石は、
千の峰が立ち並ぶありさま、
川にそって戦馬が走る勢いがあった。
馬はどこに行ったのかと問うと、
冀北（名馬の産地）はすでにからっぽになっていたのだった。
優れた物は清らかな夢となって断たれてしまい、
その真の形は『五嶽真形図』（仙界の山を描いた画）を見て想うしかなくなった。
私は老いて帰ってきて、
伴うものは何もなくなってしまったのか。
頼るべきは銅盆に納めたあの石だろうか、
仙界の仇池の色を浮かべているあの石である。
［補足］（蘇軾が「仇池の石」を気に入っていたことは第11章211ページなどで見ている）
■次韻郭功甫観予画雪雀有感二首
［解題］壺中九華の石を持って行ったのは郭祥正（字は功甫）という人物で、蘇軾は湖口から長江を下って当塗に到ったときに郭祥正の訪問を受けてこの詩を詠んだ。郭祥正とは実は以前からの知り合いで、かつて蘇軾が描いた雪の雀の画を観て詩を詠み、恵州にいた蘇軾のもとに送っていた。その詩にまた次韻したものを郭祥正が持参して見せたので、蘇軾がそれらに次韻したのである。郭祥正の訪問は4月24日であったという。蘇軾の詩は郭祥正の詩を踏まえた風諭の詩で、意味がとりにくいところもあるので1首だけを訳す。
［訳文］
其の一
荘子が言う通り、
腐った臭いも聖なる神々しさも同じなのだ。
海の北の涯も天の南の涯もまた同じ、
私はそれらを全て経ていま帰ってきた。
風に乗って九万里を飛ぶ鵬とても、
低く低く飛んでおけばよかったと悔いたりもする。
［補足］（壺中九華の石について未練がましいことを蘇軾が郭祥正に言ったという記録は残っていない）
■与銭済明
［解題］銭世雄（字は済明）（本章135ページ）に当塗で書いた手紙。
［訳文］
人が来て、お手紙と二首の詩をいただいきました。北に帰るにつれて災いが退き、この素晴らしいお便りがここに届き甚だ幸いに思っています。詩人は窮まった後に工になるといわれている通り、詩の言葉はますます明瞭で、気力が全く衰えていないことからも、貴君の晩節の明らかなことが知れます。このごろの日々はいかがでしょうか。
私はここを発ったなら留まることなく進むつもりでいますが、風水の難には定まりがあるものではありませんし、貴君も遠くにお越しになるのは難しいでしょうから、私が真州に至ったところで使いの者を出しますので、程之元とともに金山にまでお越しいただくのがよろしかろうと思います。思うところはとても尽くせません。お会いできるのを待って、申し述べたいと思います。
［補足］（従弟の程之元と金山で会おうとしていたことは本章130ページの手紙で見ている。当塗から金山までは長江を下って100キロ余りである）
■観世音菩薩頌
［解題］湖口から長江を下る旅はほぼ順調で、4月末に金陵（南京）に到着した。
［補足］（劉安世とはここまで一緒であったが、その後、別れたようだ）
［訳文］
金陵の崇因院の長老の宗襲は自ら喜捨を集めて観音像を造った。非常に好いお顔をしている。私は南に遷ったときにその観音像に向かって「北に帰るときにまたここを過ったならば、観音像の頌歌を作ります」と祈った。
建中靖国元年五月一日、南海から帰って金陵に至って頌歌を作った。
（（1）頌歌の訳は割愛する。（2）南への旅で金陵を通過したときのことは第11章22ページで見ている）
■次韻法芝挙旧詩
［解題］このころに芝上人（曇秀）から手紙が届いた。旧い詩を記して再会を期す言葉が添えられていたのだろう。その詩に次韻して返した。芝上人とは蘇軾が揚州知事であったときに交流があっただけでなく（第10章257ページ）、遠く恵州にも訪ね来ていた（第11章220ページ）。
［訳文］
春が来ると、
どこにいても鴻は帰らないことはないのであって、
牛が引かれるがままに、もとの踏み蹤に戻って来たのではない。
ただ願うのは、
老師はまことに月に似て、
その光はどこの家の甕にも届かないことはないということ。
［補足］（前半では、他人に運命を左右されることなく本性に従って帰って来たことを、後半では、わざわざ訪ねて来るまでもなく芝上人には逢えていると歌っている）
■次韻贈清涼長老
［解題］金陵を発つに当たって、清涼寺の和長老に7年前の詩（第11章25ページ）に次韻して贈った詩。
［訳文］
これより淮河を過って都の方へと向かうなら、
地には塵が多く降り注いで、人を汚そうとするだろうから、
西風に扇を挙げて防がなければならない。
不思議なのは、
金陵の山（和長老のこと）が全く変わらないこと。
御存知だろうか、
川に映る月は分かれてどの身にも入ることを。
心が安らかで道を得ているなら、顔色はいつまでも若く、
事に遇っても情が動かないなら、詩句はますます新たなものになる。
私が蘆の小舟に乗り、浪で衣がぐっしょり濡れるのを、
笑って見送っていただきたい。
■与銭済明
［解題］金陵から下る船の中で、銭世雄（字は済明）に書いた手紙。旅の行き先をどこに定めるのか、蘇軾はまだ思案を続けていた。
［訳文］
住居を常州に定める計画がほぼ定まったところで、弟から手紙が来て、潁昌（許州）に来るようにと強く勧められました。それで、この胸中はまた定まらなくなりました。お会いするのを待って相談して決めたいと思います。
■与程徳孺
［解題］同じころに従弟の程之元（字は徳孺）に書いた手紙。
［訳文］
私は今回の旅でもともとは淮浙の間に住もうと考えていましたが、近ごろ弟からの手紙を得て、潁昌（許州）に来て家族が集まることを強く勧められまし。それに違えることはできかねるので、そのように決めることにしました。汴河を遡って陳留に至ってから陸路を行くことになるでしょう。……
［補足］（蘇軾は、弟からの誘いに応じて穎昌（許州）に身を寄せることを決意した。海南島に渡る前に別れてから（第12章10ページ）4年ぶりの再会を果たしたいという気持ちも強く働いたのだろう。そして、この手紙に続いて程之元に船の手配を依頼するなど、北に向かうために具体的に動き始めている）
■書銭塘程奕筆
［解題］程之元には船の手配だけでなく、程奕が作った筆百本と越州産の紙二千幅を所望している。これは程奕の筆について記した短文。
［訳文］
近年の筆を作る職人は師匠の教えを受けずに妄りに新しい意匠を出そうとするばかりで、毛の選び方が雑で、形が崩れやすく、人の手にうまく馴染まない。ただ銭塘（杭州）の程奕が作るものだけは、三十年来使っているが、字を書いて筆があるのを覚えないくらいに実に快い。北の地にはこの筆がないので、それを百枝ほど持って行こうと思っている。
■与楊子微
［解題］蘇軾の故郷の旧い友人である楊済甫の息子の楊子明（字は子微）に宛てた手紙。楊子明とは蘇軾が恵州に行く前に都の近くで会っていたが（第11章11ページ）、その後、楊子明は父に命じられて海南島に蘇軾を訪ねようとして眉山を出て、旅の途中で蘇軾兄弟が北に帰ることになったと聞き、蘇轍の落ち着き先である潁昌（許州）へと行き先を変えていた。
［訳文］
私は御父上の楊済甫君とは半生にわたって遠く別れたままで、ともに髪は雪のように白くなり、いつお会いできるとも知れません。このように申し上げるだけで言いようもなく悲しくなります。御父上は貴君を万里の彼方の海の外にまで派遣して、私の生死を尋ねさせようとされましたが、これは古の人でもなかなかできることではなく、伺って感心するばかりです。お手紙を拝見して、御父上を初めとして皆様が安らかにお過ごしのことを審らかにして、極めて慰められます。私は七月の内には潁昌（許州）に到達することでしょう。そちらに少し留まっていただければきっとお目にかかれましょう。
私と弟は天の涯に流落し、それでも我が家の墳墓が荒らされずにすんでいるのは、御父上のお蔭によります。そのことを承り、感愧は言うこともできません。井戸が涸れて、いままた水が溢れるようになったとか。まことでありましょうか。そしていまはどうなのでしょうか。お会いしたときに詳しくお聞かせください。
［補足］（蘇軾は海南島に渡る直前に楊済甫に宛てた手紙を書いていて（第12章14ページ）、特に祖伝来の墓の世話を頼んでいた。ここに井戸とあるのは、蘇軾の生家のものであろう）
■与子由弟
［解題］蘇軾は5月中ごろに真州に至り、家族をそこに置いて少しだけ足を延ばして金山に行って程之元らと逢い、そして真州に戻ってこの手紙を弟に書いた。
［訳文］
黄寔君の遣いの者から、君の四月二十二日付けの手紙を得て、近頃の日々を安らかに過ごしていることを知って喜んでいます。兄は真州にいて、家族全員健やかでおります。
どこに行くかを計画しては何度となく変更してきました。このように難しいことに遭うのは、嘆くべきであり、笑うべきであります。
兄はすでに君の言葉に従って潁昌（許州）に同居をすることを決め、潁昌に向かう旅を何日か続けてきました。たまたま程之元君が金山を過るというので行って会いに行きました。何人かの親しい人も同じ坐にいて、北方のことを詳しく聞きましたところ、潁昌のように都に近いところに住むのは決してよろしくないと言われました。それで、今は常州に住むと決めました。孫氏の家を借りて住めば極めてよろしいことでしょう。近隣の人々も喜びましょうし、失うものは一切ありません。
さらに十数日ほど真州に留まって、長江を渡って常州に行きます。一年を超える旅を続けましたので、しばらく休息します。
老境に至って兄弟が一つに集まれないのは残念ではありますが、これも天の定めなのでしょう。私は天をどうすることもできません。しかし、天は果たして兄弟がもう集まれないと定めたのでしょうか。そうとは限りません。士君子のなすべきは、自身の力を省みて行くべきところに進むことです。進んで兄弟がついに集まれないのは、本意ではないにしても、自身の力を省みて害を避けなければなりません。
あと一両月で常州に到るでしょう。息子の邁は官職を得るために都に行かせ、迨には荷物を常州へ運ばせ、過は私のそばから離さずにおきます。
（近ごろ亡くなった）黄寔君の娘（つまり蘇轍の三男の妻）をどこに葬るかは君の一存で決めてください。先祖の墓に葬るのもよく、私にはなんら異存はありません。十緡ばかりを出して、さらに墓地を買うのもよろしいでしょう。葬儀のやり方はすべて習慣に従えばよろしいでしょう。
林希君が傷寒を病んで十日余りで亡くなったと聞きました。林希君は生涯に何を得たのでしょうか。悪名を残しただけだとしたら哀しいではありませんか。
万一にもお上から起つよう命じられるようなことがありましても、兄は疾病の状況を詳しく述べて辞退するつもりでいます。迨と過とともに門を閉ざし、農地を治め、性を養うだけです。兄のことはあまり気に掛けませんように。御身を大切にしてください。黄寔君にこの手紙を託します。
［補足］（（1）蘇軾は金山で程之元や銭世雄と会って協議した結果、常州に行くべきと最終的に判断した。弟とはもしかしたら二度と会えないかもしれないと、苦渋の決断であった。それだけ政治の動きが急変しつつあったのだろう。（2）終わりの部分に林希の名が挙がっているが、林希は揚州知事から舒州知事へと左遷され、任地へ赴く途中で亡くなっている。蘇軾と林希は同じ年に科挙に合格し、長く親しい関係にあったのだが（第5章373ページなど）、哲宗が自身で政治を見るようになって章惇が中央に復帰すると、林希はその招きに応じて要職に就き、蘇軾とその周辺の人々を激しく攻撃した。蘇軾が海南島にまで流されたのには、林希の働きが大きかったとされる。（3）程之元は親身になって蘇軾の世話をし、金山から真州へと同行し、お金も貸そうと申し出ているが、蘇軾が弟に書いた別の手紙には、それは辞退したと記されている）
■書王定国贈呉説帖
［解題］真州に滞在する間に、王鞏（字は定国）が呉説に贈った文章を見て、蘇軾はこの文を書き添えた。以下の前半は王鞏の文章で、それは蘇軾が恵州にいたときに書いたものである。
［訳文］
私（王鞏）の呉硯（五代十国時代の汪少微が作った硯）は李沆（宋初の大臣）が江南に赴任したときに得たものである。私はその孫からこれを得た。風字様の形状で、水を収めるところがわずかに損なわれたので、漆でもって固めてある。かつて蘇軾が『清虚居士真賛』を書いてくれたときに、その謝礼として呉硯を渡した。蘇軾はいま国を去って万里の向こうにいるが、果たしてその硯も一緒であろうか。
紹聖乙亥（二年）春、私は広陵（揚州）に至り、呉説が筆の技で蘇軾から贈られた『呉硯の銘』の書を見て、私は悵然となった。かねてから交遊のある人々のこの十年の昇沈を見て、ただ蘇軾だけが耐え続けている。いつの日にかまた会って、硯墨紙筆の楽しみをともにできるであろうか。
王鞏書く。
私は国を去ってから八年、帰って来て中央の士大夫に会ったところ、筆の先が開いてしまうような筆を使っていて、骨ばった字がない。市で筆を買うと、どれもが軟らかく筆先が開くものばかりである。ただ広陵の呉説だけが旧来の法式を守っている。王鞏君は十年の間に耐える者がいないと書いているが、呉説の筆の工は独り長きにわたって耐えている。私はひどくこれを嘉みするものである。
建中靖国元年五月二十日、東坡居士書く。
［補足］（蘇軾がまさに恵州にいたときに王鞏に宛てて書いた手紙を第11章186ページで見ているが、その後、2人の間にどのような交流があったのかは確認できていない）
■書呉説筆、試呉説筆
［解題］上に記してある呉説の筆について書いた文章を見ておこう。
［訳文］
筆がもしも多くの士大夫の意に適うものであるならば、書に工な人はそれをうまく用いることができない。もし書に工な人によい筆であるならば、士大夫で使えこなせる者は希である。
竜を捌くことができる者は、普段のときには、豚を捌くことができる者に全く及ばないといわれている。筆だけに当てはまることではないのだ。
蔡襄は「芸にますます工な者は、人としてますます困窮する」と言ったけれど、それは空言ではない。
（前代の筆の名工）呉政が亡くなってからは、その子の呉説だけが家法をしっかりと受け継いでいる。
（（1）竜を捌く譬えは『荘子』の寓話にある。竜を捌くような特別に優れた技能は、普段は豚を捌くごく普通の技術のように役立つものではない。しかし、ひとたび竜が出現したときには、豚を捌く人の手には全く負えない。筆も、平凡な筆を作る職人の方が繁盛するのである。（2）蔡襄は蘇軾の先輩で、書に優れていたことは第6章148ページで見ている）
唐代の史書に、徐浩の書は「鋒を画中に蔵め、力を字の外に出す」とあり、杜甫の詩に、「書は痩せて硬いものを、真髄に通じるとして貴ぶ」とある。今どきの鋒がない筆に墨を漲らせて書いたなら、いわゆる「皮の厚い饅頭」となってしまうのである。呉説の筆を用いていまこの数文字を書いたところ、すこぶる我が意に適う。
■与米元章
［解題］蘇軾の親友に米黻（字は元章）がいた（第10章298ページなど）。米黻は蘇軾に会おうと真州を目指す旅の途中にあって、蘇軾はその到着を心待ちにし、この手紙を記した。
［訳文］
嶺南、海外にあること八年、親類とも友人とも遠く付き合いが絶え、思いを巡らせることさえありませんでしたが、独り吾が米黻君の邁往の気概、凌雲の気迫、清雄絶世の文，超妙入神の字をいつか見て、我が積年の瘴毒を洗い流してしまいたいと思っていました。いま真に見られるのであれば、私はもう何も言うことはありません。
■睡起聞米元章冒熱到東園送麦門冬飲子
6月初めに米黻（字は元章）の訪問を受け、蘇軾は恵州の羅浮山で見た赤猿のことなどを語ったという。ちょうど夏の盛りで、蘇軾はこのころから体調を崩し、熱を出したり、下痢をしたり、臥せる日が多くなった。この詩の題は「米黻が熱に冒された」と読めるのだが、たぶん実際の意味は次のようであるのだろう。「眠りから覚めると、熱に冒されている私のために、米黻君が東園に麦門冬飲子を送ってくれたと聞いた」。麦門冬飲子は、咳に効く漢方薬として麦門冬湯が現在もあるように、薬の名称である。東園は真州にある庭園で、発病した蘇軾はここで体を休めていた。
［訳文］
枕辺に吹き寄せる清々しい風は一万銭にも当たる価値がある。
しかし、実際にそれを買って北の窓辺に眠る人はいない。
君が贈ってくれた麦門冬を飲むと、
心が開かれ胃が暖まる。
君からのものであるから、
特に東坡居士は自分の手で煎じたのである。
■与米元章
［解題］蘇軾は短い手紙を何通か米黻（字は元章）に書いていて、そこに病の様子が記されている。書いた順序は明らかではないが2通を訳しておく。
［訳文］
昨日は冷たい物を食べ過ぎたのでしょうか、夜に激しく下し、朝には疲れ切ってしまいました。黄蓍（薬草）の粥を食べたところ甚だうまかったです。臥して四印（米黻から四つの印を送られたのだろう）の奇古なるを見て、病のあることを忘れました。明日の会食はしばらくやめておきましょう。やや良くなるのを待ちましょう。あるいは雨が降って空気が清々しくなったときでしょうか。印はお返しします。
食べると腹が脹り、食べないとひどく痩せてしまいます。昨日は朝まで目を閉じることもできず、座ったままでひたすら蚊に食われていました。今夜は果たしてどのようになるでしょうか。見せてくださった古の文は非常によいものです。（晋代の）謝安の書帖は軽々しく跋文を記せるものではありません。数句を書こうとしても思い浮かぶものがなく、ぼんやり座っているだけです。眠りも食事もよくありません。
［補足］（このころから、蘇軾の詩文は口述筆記によると推測される）
■跋柳閎楞厳経後
［解題］蘇軾は病から癒えることなく米黻（字は元章）と別れて真州を発ち、長江を少し下って金山のある潤州に至った。潤州には甥の柳閎がいて、その訪問を受けた。柳閎は柳子文の子で（第10章40ページなど）、柳子文の妻は、蘇軾の伯父の蘇渙の娘である（第12章145ページなど）。蘇軾はいくらか復調したのだろう、柳閎と会うと、海南島で記した詩文を見せてその感想を聞き、ものの優劣を見分ける目が具わっていると褒めた。柳閎は先に亡くなった弟の柳辟のために書いた『楞厳経』を見せたので、蘇軾はそこに跋文を書き添えた。
［訳文］
……吾が甥の柳辟は早くから親に孝、兄に悌で、子供のころから優れた文章を作ったのだが、不幸にして短命であった。その兄の柳閎は弟のために手づからこの経典を写した。柳閎はすでに仏の意を知っているので、柳辟はきっと兄のお蔭で冥福を受けるであろう。
■祭柳仲遠
［解題］潤州には柳子文（字は仲遠）の墓があり、蘇軾は柳子文を祭るこの文章を作り、たぶん蘇過が墓に詣でてそれを捧げた。蘇軾は海南島にいたときに柳子文の訃報を聞いて祭文を書いている（第12章145ページ）。
［訳文］
私は南に流された。天が罪を憎んだからであって、古の人であれば百回死んでも足りなかったであろう。しかし、天は私を亡ぼさずに、私の友であり親戚である者を亡ぼした。我が従妹は柳子文の妻となり、夫婦は連なる璧のように仲がよかった。どうして二人とも逝ってしまったのか。天はどうして哀れんで一人だけも遺してくれなかったのか。私が南から帰ってくると、二年ごとに生える草が二度も替わっていた。私の目より涙が溢れ、二人の眠る地下へと落ちて行く。柳閎は立派な人間で、本性が金石のように堅い。私は窮して老いてしまった。このような叔父に似てはならない。墓地のあたりを占うに、ここは一万の部屋を置くによい。天の定めは人に勝るのであるから、きっと柳子文の子孫は繁栄するであろう。
［補足］（蘇軾と柳子文の妻は幼馴染であり、30年前に潤州を通過して杭州に副知事として赴任してからは、柳子文の父の劉瑾と親しく交わった。様々な感慨を抱きながらこの祭文を作ったのだろう）
■与章致平
［解題］潤州から常州へは大運河を使ってあと一歩である。蘇軾が潤州にいる間に是非とも会いたいと、章援（字は致平）から手紙が届いた。章援は章惇の息子。章惇が雷州に流されたことは本章131ページで見ているが、章援は父の処分が少しでも緩くなるようしかるべき筋の人に口添えしてもらえないかと蘇軾に頼もうとしていた。蘇軾はかつて保守派が政権を握っていたときに科挙の試験監督を務め、そのときに章援が合格したので、2人はいわば師弟関係にあり（第8章187ページ）、一時期は章援と蘇軾は親しくしていた（第9章2ページなど）。しかし、章惇が改革派の重鎮として中央に復帰してからは交流は絶え、まして蘇軾を海南島にまで流した張本人は章惇であったのだから、普通であれば全く頼める筋合いのものではなかった。章援は父のために、苦しい言い訳を書き連ねた手紙を蘇軾のもとに送って、何とかしてすがりつこうとしたのだった。
［訳文］
章援学士殿にお手紙を差し上げます。私は真州より暑毒を得て、病に臥せって昏睡状態にありました。潤州に至りましても、知事とも誰とも会えずにいます。ただ茫然としているだけで、、学士殿がこの地におられるのも知らずにいて、お手紙を得てようやく悟った次第です。
お手紙を拝見してまことに感じ入っております。丞相殿（章援の父の章惇）とは交際を初めてから四十年余りとなり、その間に歩むところはやや異なりましたけれど、交情は決して変化することはありませんでした。丞相殿が老年に及んで海の隅に身を寄せることになり、その心中はお察しいたします。過ぎ去ったことはいまさら言っても何の益もありません。考えるべきはこれからのことだけです。
陛下が至仁にして至信でありますことは草や木や獣や魚も知るところであり、建中靖国の元号の意味は国を安らかに保つことにありましょう。雷州の風土はそれほど悪いものではなく、暑さ寒さもほどほどで、船が到着すると、四方の物がふんだんに届きます。我が弟がかつて南方の旅客となったときに、舟を用意して家で使う分の薬を備えて持っていきましたところ、使った余りを近所の人々に配れるほどであったと聞いています。ました丞相殿は身を養う内丹、外丹について以前からよく御存知であり、それがまだ成就していなかったのは、国家のために忙しくされていたためで、いまはお仕事から解放されて閑を得ましたならば、きっと養生の術を完成なさることでありましょう。ただし、内丹法を用いるにしても、おかしな物は決して服用してはなりません。私は海の外にあって『続養生論』を作りましたので、写して差し上げたいのですが、病のためにできずにいます。毗陵（常州）に至って落ち着きましたなら、推敲して贈呈したいと思います。
住むところを定めるのは、いろいろ検討しても誤ることが多いものです。私がとこか安からなところへ行ければまことに幸いであります。いまの病状をみて、我が生死のほどはまったくわかりません。ここ半月ほどは一日に米を半合も食べていません。食べようとしてもすぐに飽いてしまいます。いまはとにかく素早く毗陵に帰って、しばらく休むことだけを思っています。この手紙もここにまで至って、疲労困憊して筆を抛り出します。大いに嘆息するだけです。
章援学士閣下、六月十四日。
［補足］（蘇軾は章援と会いはしなかったものの、この手紙は穏やかな文言で、章惇父子への温かな気遣いを示している。林希に対して厳しい評価を下していた（本章150ページ）のとは対照的である。根っからの改革派であった章惇には理念があると蘇軾も理解していて、途中から権力にすり寄った林希とは一線を画すと見ていたのだろう）
■乞致仕表
［解題］蘇軾は6月下旬に常州に到着した。潤州からの移動の様子を邵博の随筆『邵氏聞見後録』は次のように伝えている。
［訳文］
邵博： 『邵氏聞見後録』
蘇東坡が海の外から毗陵（常州）に帰ったとき、病んで熱があり、頭に小さな冠を載せ、半臂をはおって船の中に座っていた。運河をはさむ両岸では、千人万人もの大勢の人が船を追いかけながら蘇軾を観ていた。東坡は同船する人を顧みて言った。
「あの者たちにこうも見つめられては殺されてしまうよ」
人々はこのようにその人柄を慕ったのであった。
［解題］蘇軾は常州に到着するとすぐに官職から完全に引退したいと皇帝に願い出た。
［訳文］
臣軾は先に端明殿学士兼翰林侍読学士朝奉郎定州路安撫使から恩を蒙って落職し、降って承議郎知英州を授かり、遂には寧遠軍節度副使恵州安置に貶されました。四年を経て、恩を蒙って責授瓊州別駕昌化軍安置となり、また三年半を経て、陛下が皇位に登られて大赦を受け、量移廉州安置となり、また皇子様の赦恩によって舒州団練使永州居住となりました。
臣は老病をもって久しく瘴毒に伏し、しきりに道を急ぎましたけれども、まだ永州に至らないうちに、特に聖恩を蒙ってまた朝奉郎を授かり、提挙成都府玉局観外州軍任便居住としていただきました。
臣にはもとからわずかな農地が常州宜興県にあって、食がほぼ足りることから、万里の道を急いで常州に帰ろうとしまして、一年ほどを費やしました。臣は人として微小でしかし罪は重く、身体が弱くて命が薄く、陛下より賜りました再生の恩を尽くすことは難しく、五月の間に真州に至って瘴毒が大いに起こり、船に乗って潤州に至ったところで、昏倒して何日も意識を失ってしまいました。いまは常州に至りましたが、百の病が重なり、身体は腫れあがり、喉が渇き血を吐き、全く食べることができません。そのようなことが二十日余りも続いていて、必ず死ぬであろうと自ら見ております。臣は今年六十六歳、もはや死んで何の恨みもありません。それでも草木や昆虫と同じように生を貪る気持ちがあり、またこの聖世を慕って留まりたいとの思いがあります。お上からの寵禄を辞することによって、あるいはすこしでも生きる歳月を延ばせるのではないかと思い、朝廷の哀憐を望む次第にございます。特に臣を本官をもって致仕させていただきたくお願いいたします。
［補足］（最後に「生きる歳月を延ばせるのではないか」とあるのは、官職や俸給を貪る思いのないことを示すなら、天が特に寿命を延ばしてくれるという考えに基づくもので、次の手紙にもそのことが記されている）
■与参寥子
［解題］親友の参寥師道潜に宛てた手紙。
［訳文］
私は病が甚だしく、もうほぼお会いできないでしょう。ここ両日はわずかに息が通っているだけです。お手紙に書かれていたこと、一つ一つ了解しましたが、多く書いてお答えすることができません。病が甚だしくて死にかけている者が、官職を辞すことで活き返ったということを聞き、俗な情がそれにならおうするのを免れることはできません。果たしてそのかいがあるなら、それ以上の望みはありません。私の『遺表』は決して刻みませんように。私に害が及ばないように頼みます。
［補足］（（1）最後にある『遺表』とは、死後に皇帝に差し出すために用意した文章で、己の生涯の思いを皇帝に伝えようとするものである。もしそれが公開されたなら、子孫に災厄をもたらすかもしれないと蘇軾は恐れたのである。蘇軾の『遺表』はここに望んだ通りになって残されていない。（2）参寥との最後の面会はついに叶わなかった）
■与銭済明
［解題］常州に到着すると、この地の人である銭世雄（字は済明）が頻繁に見舞い訪れた。銭世雄に与えた手紙。
［訳文］
夜にひどく熱を出しました。歯の間から血が出て蚯蚓のようなものがたくさん出ました。暁に至って止まり、甚だ疲れました。こうした病状を細かく観察するに、これはもっぱら熱毒によるもので、その根源は浅くないところにあります。清涼薬を用いなければなりません。それで人参と麦門冬と茯苓の三種を煮て濃い汁にし、渇いたときに少し啜るようにしています。他の薬は全てやめました。
荘子が言うには「天下を在宥する（あるがままにする）ことを聞くも、天下を治めることは聞かない」とあります。病気が愈えないのは天によるもので、私の過ちではないのです。
［補足］（蘇軾は自分の病気の根源は「熱毒」にあって、それは長く嶺南の過酷な気候条件のもとにあったからだと考えていた。嶺南に流されたのは自分の過ちによるのなら、病もまた自分の過ちからきたことになるが、蘇軾はそのようには捉えていない）
■与米元章
［解題］7月12日、蘇軾は小康状態を得て起き上がり、久しぶりに筆を手にした。そのことを銭世雄（字は済明）が記録した文章が何薳の随筆『春渚紀聞』に収録されているので、それを見ておこう。
［訳文］
何薳：『春渚紀聞』
建中靖国元年、先生は嶺海より帰られ、四月に当塗から十一首の詩を私（銭世雄)に寄せられ、かつ程之元と金山で待っているように約束なさった。それで金山に行って先生をお迎えし、ついに毗陵（常州）に住ままわれることを決議された。
六月に真州より疾を避けつつ長江を渡られ、再び奔牛埭においてお目にかかった。先生は榻の上に横になっておられ、おもむろに起き上がって私に、
「万里の向こうから生還し、後の事はあなたに託します。ただ、弟も二度目の左遷から帰って来て、ついにまた会うことはできないと決まりましたのは、堪えがたき痛みです」
と、言われ、その他には何の言葉もなく、長らく経ってから、
「私は先に海の外にあって。『易経』『書経』『論語』の注釈書を作りました。その全てをあなたにお渡しします。他の者には見せないようにしてください。三十年後にもしかしたら理解してくれる者があるでしょうか」
と、言われ、それらを蔵する篋を手にして開こうとなさったが、たまたま鍵がなかった。私は、
「ここに至って、初めて先生のお言葉を伺うようになったばかりです。どうしてにわかにそこまでおっしゃるのでしょうか」
と、言った。
（常州では）孫氏の館に寓居され、日々お見舞いに参上した。お会いするときには必ず時長く過ごし、嘆きつつ昔のことを論じられ、いまのことに及びもした。嶺海での詩文を示めされ、とき笑われることもあって、まわりの人々をはっとさせるほどに生き生きとした表情をお見せになった。
七月十二日、疾いが少し安らぎ、先生は、
「今日は気分がよい。筆や硯を手にしてみようと思う。ためしに君のために数枚書いてみよう」
と、言われて、「恵州江月」の五首の詩を書かれた。次の日には『桂酒頌』の跋文を書かれた。
［補足］（「恵州江月」は第11章215ページで見ていて、『桂酒頌』も恵州で作った作品である（訳さなかった）。銭世雄のために書いた跋文は残念ながら残っていない）
［解題］7月12日は調子がよかったのだろう、米黻（字は元章）に与える跋文も記し、これはそれに添えた手紙である。
［訳文］
この病のためにほぼもう会うことはできないでしょう。今日は初めて糸の一筋ばかり病が減じたように感じています。まだ十分に字を書くことはできませんが、この跋文をお納めください。
■夢中作寄朱行中
［解題］夢の中で朱服（字は行中）に寄せた詩。朱服はこのとき広州知事であった（本章94ページ）。病が悪化するなかでどうして特に朱服に詩を寄せたのだろうか。恐らく、夢の中で最も過酷であった嶺南の日々に戻り、今も自分と同じように広州に置かれている朱服のことを思い起こし、大切なメッセージを伝えようとしたのだろう。政治情勢が危うくなりつつあるなかでうかつなことを言うと朱服に迷惑が及ぶかもしれないと配慮したのだろう、故事を連ねた歴史オタクのような詩になっている。
［訳文］
舜が諸侯に授ける玉の高下を定めなかったならば、
璵璠の玉が貴いものだとは誰も知らないままだった。
哀れなことに、
卞和は、これを磨けば立派な玉になると言ったことを誰にも信じてもらえなくて、
原石を抱いて空しく山で泣いたのだった。
藺相如は国の宝の玉を守るために、
敵の王の前で大芝居を打って、無事に玉とともに帰還した。
それとて、鄭の子産が玉を求められたときに、
礼を守って国の安泰を保ったのには及ばない。
理に基づく応対をされたならば、
誰もが恥じて要求を取り下げるのである。
今に至るも大切なのは宝を貪らないこと、
そうしていてこそ凜然とこの塵の世を照らすことができるのである。
［補足］（この詩は、「玉」に相当する自身の天分を大切に保つならばいつか世に輝きを放つということを歌っているのだろう。改革派がこの後で完全に復権すると、朱服は蘇軾と親しく交際したことが罪として問われ、安置処分を受けることになる）
■答径山琳長老
［解題］7月18日、蘇軾は死期が来たと悟って息子たちに最後の言葉を遺した。その後わずかに復調し、維琳長老の訪問を受け、起き上がって話をし、この詩を贈った。維琳長老はこのとき武康県（常州と杭州の中間にある）の隆教院にいたが、かつて杭州の径山にいたことがあるので、詩題では「径山琳長老」と記されている。
［訳文］
貴僧と私はともに丙子（景祐三年）の生まれ、
それぞれすでに三万日を過ごしたことになる。
鳩摩羅什（蘇軾より700年ほど前に西方から渡来した高僧）は一日に一千偈を誦したというが、
歳月はいかにしても電光のように過ぎ去ってしまう。
大いなる患いはこの身があるに縁る。
この身がなければ疾もない。
鳩摩羅什がいよいよ終わりのときになって神咒（呪文）をやたらと唱えたのを、
私はこれまでは笑っていたのだが、
いよいよ私にもそのときがきたようである。
［補足］（（1）真偽のほどはわからないが、維琳長老が西方浄土を念じて経文を唱えるように勧めたところ、蘇軾は無言であったといわれている。（2）清代の紀昀は、この詩も含めて嶺北に戻ってからの蘇軾の作品を評して、「皆冗漫浅易の作、葢し是に至って、菁華竭く」と厳しいことを言っている。それが当たっているかどうかはわからないが、口述筆記によるものも含めて十分な推敲を経ていないのは確かであろう。蘇軾は電光石火のように即興で詩を作るのを得意としたが、完成した詩として書き残すまでには十分な彫琢を加えていたことが幾つかの随筆に記録されている）
■維琳
［解題］維琳長老とはかねてから知り合いで、蘇軾はかつてこの文章を書いていた。
［訳文］
径山長老維琳は、行いが峻厳で、仏の教えに広く通じ、文章が美しく清らかである。
昔、径山の祖師は、今後は弟子の序列に従って順番に住持にしてゆくよう定めた。しかし、私は、事に適うように祖師の定めを廃止し、山門において徳のある者を選ぶのがよいと考え、維琳に継がせるようにした。初めは維琳のことを喜ばない人が多くいたのだが、悦ぶ者が増え、かつそれが正しいことはどうすることもできず、いまではすっかり定まっている。
［補足］（この文章は恵州で書いたと推定されているが、どのような事情から筆を執ったのかはわかっていない。蘇軾が序列によらずに維琳を住持にしたのは杭州知事であったときなのだろう）
■与径山長老維琳
［解題］維琳はこの後も繰り返し蘇軾を見舞ったが、面談はもはや叶わなかったようだ。維琳に宛てた手紙が2通あり、7月26日に書いたとされるものが蘇軾の絶筆となった。
［訳文］
病に臥せて五十日、日に日に劇しさを増しております。すでに頽然として命が尽きるのを待つばかりです。ここ両日は微かに生きた心地がしていますが、決してよくなったわけではありません。たまたま眠りから覚めたときに、ふと老師の名刺を見て、長く嘆息いたしました。このような暑さの中で、耆年の人が山を出てどのように旅をしてこられたのでしょうか。いかなる日々を過ごされておられましょうか。私は人に助けられても、数歩を歩くのがやっとです。じっと座っていることもできません。臥せたままなら少しばかり老師とお話できましょうか。夜に涼しくなりましたらお知らせしましょう。もう一度お訪ねください。
私は万里の彼方の嶺南の海で死ぬことはなかったのですが、田野に帰って宿ってからはついに起きることのできない憂いのうちにあります。これも天の定めなのでしょう。生死は小さなことで、言うに足りないことでしかありません。ただ仏のために、法のために、衆生のために自重されますように。
［補足］（蘇軾は7月28日に息子や維琳長老、銭世雄らに見守られて息を引き取った。その最後の様子もふくめて、蘇轍が記した兄の墓誌銘の一部を見ておこう）
蘇轍：『亡兄子瞻端明墓誌銘』
私の兄の子瞻が南に謫居すること四年目の春正月に、今の天子が即位されて海内に恩を施され、その余沢が鳥や獣にまでも及び、夏六月、公（蘇軾のこと）は命を被って海を渡って北に帰った。あくる年、舟は淮浙に至り、秋七月に病を被って毗陵で亡くなった。呉越の民は道に出て哭し、君子はその家に弔問に訪れた。訃報が四方に聞こえると、賢者も愚者も皆が驚き嘆いて涙を流し、太学の学生数百人が率先して恵林仏舎に布施して法要を行った。嗚呼、斯の文（蘇軾の文のみまらず正統な学問を指す）は墜ち、これから後の者はもう仰ぎ見ることができない。公は初めて病んだときに、手紙で、「私が死んだなら、嵩山のもとに葬り、君が銘を作ってくれ」と、私に頼んできた。私は手紙を手にして哭し、「心して我が兄の銘を作る」と、誓ったのだった。
公の諱は軾、姓は蘇氏、字は子瞻、もう一つの字は和仲。代々家は眉山にあって、曾祖父の諱は杲、その妻は宋氏、祖父の諱は序、妻は史氏、父の諱は洵、妻は程氏である。公が生まれて十年、父は四方に遊学し、母が自分で書物を教え、古今の歴史の肝要なところを語った。母はかつて『後漢書』を読み、「范滂伝」に至ると、慨然として太いため息をついた。公はそばにいて、「私がもしも范滂になったら、母も范滂の母のように私を許してくださいますか」と言った。母は「そなたが范滂になれるのなら、私が范滂の母になれないはずはありません」と言った。公は奮起して世のために働こうとの志を持った。母は喜び、「私にはこの子がいる」と言った。成人になるころには、史書や経典に通じ、一日に数千字の文章を作った。
嘉祐二年、欧陽脩が礼部進士の試験委員長になり、いまの時代の文章が奇矯なものになっているのを嫌って、修正したいとの思いがあった。梅堯臣も試験監督になっていて、公が（試験の答案で）刑賞を論じた文章を欧陽脩に示すと、欧陽脩は驚き喜び、公は並みの者ではないと考え、首席にしたいと思った。しかし、もしかしたらこの文章は（自分の弟子の）曾鞏が書いたのではないかと疑い、公を二番にしたのだった。また、『春秋』について問う試験では首席で、殿試（科挙の最終試験）は乙科として合格した。そして、蘇軾は諸公に合格した謝礼の挨拶をし、そのときに欧陽脩に初めて会った。欧陽脩は梅堯臣に手紙で、「私はこの人を敬って避けなければならない。人より頭一つ抜きん出ている」。人々はそれを聞いた始めは面白く思わなかったが、後に信服した。
……（以下、官界における蘇軾の事績が記される）……
公は恵州に居ること三年、蘇軾を流竄にした者たちはまだ十分ではないとして、紹聖四年、さらに瓊州別駕安置昌化の処分を下した。昌化は人の住めるようなところではなく、水も食べ物も十分ではなく、薬などはなかった。初めは官舎にあって雨風をしのいでいたのだが、役目の者がそれを不可としたので、土地を買って家を作った。昌化の士人が土を盛り甓を運んで手伝い、三部屋の家ができた。人々はひどく心配したのだが、公は芋を食べ水を飲み、書を著して楽しみとした。時にその地の父老と一緒に遊び、分け隔てすることがなかった。
元符三年、大赦によって北に還り、最初に廉州へと移り、再び永州に移ることになり、朝奉郎に戻って、提挙成都玉局観居従其便となった。公は元祐年間以来退任を願ったことがなく、これが最終の官職となった。……許州に住もうとしたのだが、暑さのために病気になって下痢をし、ついに常州に行った。建中靖国元年六月、致仕を朝廷に願い出た。それから十日もしないうちに、子供等をそばに呼んで言った。「私は生きて悪いことはしていない。死んできっと（地獄には）墜ちないだろう。哭くしたり泣いたりして、死を妨げるようなことは慎んでしないよう」。後のことを問うと、答えなかった。湛然として逝かれた。時七月丁亥（28日）であった。
公は王氏を娶り、その従妹を継室として、王氏は公より先に亡くなった。息子は邁、迨、過の三人がいて、孫の男子は簟、符、箕、籥、荃、籌の六人である。明年閏六月癸酉、汝州郟城県の釣台郷上瑞里に葬った。
公の文は天において得たものであった。若いころは私とともに父を師とし、初めは賈誼や陸贄の書を好み、古今の治乱を論じ、空言をなさなかった。『荘子』を読むと、喟然として歎息して言った。「私は昔、これを心の中で見た。口ではうまく言い表せなかったのだが、いま『荘子』を見て、我が心にぴったり合うと知った」と、言った。また、『中庸』を論じて、微妙のところに到り、それは古人も言わなかったことであった。かつて私に、「今の世の学問をする者を見ると、私と君だけが上か下かになるだけだ」と言ったことがある。
黄州に謫居すると、門を閉ざし、家の奥深くにいて、馳騁翰墨してその文章は一変し、まさに川が自在に流れるかのようになり、私は瞠然としてとても及ばなくなった。後に仏教の書物を読み、深く実相を悟り、それを孔子、老子の教えと融合させ、自在に広く弁じて、浩然としてその涯を見ることはできなかった。
父は晩年に『易経』を読んで、その爻象を熟考し、その剛柔、遠近、喜怒、逆順の本質を得て、その言葉を観て全てを刃をもって捌くように解釈をして、『易経』の注釈書を作った。完成する前に、病が悪化し、その志を述べて公に命じた。公は泣いて命を受け、ついに完成させた。千年の間、その含意が隠されていたものが明らかに知れるようになった。また『論語』の解釈書を作り、孔子の秘められた教えを発見した。最後に海南にいて、『書経』の注釈書を作って、上古以来絶えていた学を推して明らかにし、儒学の先人がまだ至らなかったところに達したものも多くあった。この三つの書物が完成すると、それを撫して言った。「今の世においては必ずしも信とはされないだろうが、後に私のことを知ってくれる君子がきっといるだろう」。
事に遇うごとに、詩、騷、銘、記、書、檄、論、譔を作り、どれもが人よりも優れていた。東坡集四十巻、後集二十巻、奏議十五巻、内制十巻、外制三巻がある。
公の詩はもとは李白や杜甫に似て、晩年には陶淵明を喜び、その詩のほとんどに和した。およそ四巻がある。
幼いときから書を好み、老いても倦むことなく筆を手にし、「晋の人には及ばないにしても、唐の褚遂良、薛稷、薛耀、顔真卿、柳公権にはおぼろながらに近いところにきただろうか」と言っていた。
……（以下、韻文の銘などが続く）……
［補足］（（1）蘇軾が葬られたのは崇寧元（1102）年5月で、蘇轍は兄が亡くなってから1年足らずの間に資料を集めてこの墓誌銘を書いたのだった。（2）蘇軾は弟のもとに行くのは危険と判断して、断腸の思いで弟との再会をあきらめたのだが、事態は予想を超えてより悪い方向に進み、崇寧元年9月には、蘇軾を含む保守派の人々117名は国政に害を為した罪人であったとして朝廷によって公式に認定され、翌年の4月には、蘇軾の詩文を集めた本の印板を破壊するよう命令が下された。蘇轍はそうした情勢のなかでもはや官職に就くことなく、兄から後れること11年、政和2（1112）年10月3日に80歳で亡くなった。（3）蘇軾が亡くなった直後に大勢の人がその死を悼む詩詞を詠んだ。その中から参寥師道潜の詠んだ長い挽詞から一節を読んで、この訳の終わりとしたい）
峩冠正笏立談叢、（冠を高くかぶり笏を正しく持って朝廷に立って議論するときには）
凛凛群驚国士風。（凛凛と国家を担う風格を示して群臣を驚かせた）
却戴葛巾従杖履、（葛布の帽子を載せて杖をついて歩くときには）
直将和気接児童。（たちまち和やかな様子で子供等と遊んだのだった）
［補足］（蘇軾は皇帝の前でも田舎の子供等の間にあっても常に自然に振る舞っていたのである）