第12章 南の島の暮らし――海南島
［第12章その三］
元符2（1099）年、蘇軾64歳。
■和陶遊斜川
［解題］陶淵明の「斜川に遊ぶ」という詩に和した。陶淵明の作は以下の序文に見るように37歳のときの作品とされる。「斜川の遊び」は、蘇軾が44歳のときに徐州にあって気の置けない人々とハイキングをして詠んだ詩において、「首を回らせば遠く歳月を隔てて、斜川での遊びが想像され、この詩を陶淵明に寄せる」（第5章331ページ）と歌って以来、一つの理想の遊びとしてしばしば言及してきたものである。それから20年が過ぎて、海南島での2度目の正月を迎えたときに、いよいよその詩に和したのである。蘇軾の作には「正月五日、息子の蘇過と遊びに出て作る」との副題がある。
［訳文］
辛丑正月五日、天気澄和、風物閑美。与二三隣曲、同遊斜川。臨長流、望曾城、魴鯉躍鱗於将夕、水鴎乗和以翻飛。彼南阜者、名実旧矣、不復乃爲嗟嘆。若夫曾城、傍無依接、独秀中皐、遥想霊山、有愛嘉名。欣対不足、率共賦詩。悲日月之遂往、悼吾年之不留。各疏年紀郷里、以記其時日。
（辛丑（隆安五年）正月五日、天の気は澄んで和かで、風物は閑かで美しい。二三の隣曲のひとと与に、同に斜川で遊んだ。長い流れに臨み、曾城（山）を望め、魴や鯉が鱗を将ど夕になろうとする於で躍りあがらせ、水の鴎が和かなながれに乗って以から翻って飛ぶのであった。彼の南阜（廬山）なる者は、その名は実に旧くからしられている矣が、復た乃さらその爲に嗟嘆はし不い。夫の曾城（山）に若いえば、傍に依き接するものが無くて、独り中の皐から秀ていて、遥かに（崑崙にある同名の）霊山を想わせて、その嘉い名を愛する有である。欣んで（友と）対っているだけではもの足ら不くて、率と共に詩を賦したのだった。日月之遂いには往くものであるのを悲しみ、吾が年之留ら不いのを悼んだ。各ぞれの年紀と郷里を疏き、以て其の時日を記した）
［補足］（斜川は、陶淵明の故郷とは鄱陽湖をはさんで対岸側にあり、曾城山は廬山の手前に見える山である。このころ陶淵明は官職に就いていた）
（陶淵明）
開歳倏五日、（歳が開けて倏ち五日）
吾生行帰休。（吾の生は行は（故郷に）帰って休むのだ）
念之動中懐、（之ことを念うと懐の中が（歓びで）動く）
及辰為茲遊。（よい辰に及たので茲の遊びを為ることにした）
気和天惟澄、（気は和やかで天は惟に澄みわたり）
班坐依遠流。（坐るところを班て遠い流れに（思いを）依る）
弱湍馳文魴、（弱い湍には文のきれいな魴が馳せ）
閑谷矯鳴鴎。（閑かな谷には鳴きながら鴎が矯がる）
迥沢散遊目、（迥かな沢の散こちに目を遊ばせ）
緬然睇曾丘。（緬然に曾丘（曾城山）を睇る）
雖微九重秀、（（崑崙山のように）九重に秀でることは微いのだ雖ど）
顧瞻無匹儔。（あたりを顧り瞻るとこれと匹ぶ儔は無い）
提壺接賓侶、（壺を提げて賓侶と接にし）
引満更献酬。（満したさかずきを引て更ごも献酬する）
未知従今去、（知りっこ未いのだ、今従らときが去って）
当復如此不。（当ど復た此の如なことがあるのか不いのかなどは）
中觴縦遥情、（觴の中で遥かなところに情を縦にさせて）
忘彼千載憂。（彼の千載さきを憂うようなことは忘れてしまおう）
且極今朝楽、（且も今はこの朝の楽しみを極めようでないか）
明日非所求。（明日のことは求てえられる所では非のだから）
（蘇軾）
謫居澹無事、（謫居の日々は澹く、これといった事もないので）
何異老且休。（老いて帰休したのと異なるところはない）
雖過靖節年、（私は陶淵明の年齢を過ぎてしまったが）
未失斜川遊。（「斜川の遊び」は失われたわけではない）
春江淥未波、（春の川は淥んで波もなく）
人臥船自流。（人は臥したまま船が勝手に流れてゆく）
我本無所適、（私はもとより適くところもないので）
泛泛随鳴鴎。（泛泛と鳴く鴎に付いてゆくだけである）
中流遇洑洄、（流れの中ほどで洑き洄るのに遇ったので）
捨舟歩層丘。（舟を捨てて重なる丘を歩く）
有口可与飲、（口さえあれば一緒に飲めるのであって）
何必逢我儔。（我が友人に逢わなくてもよいのである）
過子詩似翁、（息子の過の詩はこの翁に似ていて）
我唱而輒酬。（私が唱えるとすぐに酬えてくれる）
未知陶彭沢、（さすがに陶淵明だって）
頗有此楽不。（この楽しみはなかったはずだ）
問点爾何如、（孔子が（弟子の）曾点に君はどうかと問うたとき）
不与聖同憂。（その答えは聖人のように（天下のことを）憂うものではなかった）
問翁何所笑、（この翁がどうして笑っているのかと息子に問われたなら）
不為由与求。（私も仲由や冉求とは違って曾点に賛同するからなのだと答えるのである）
［補足］（（1）終わりの4句は『論語』にある曾点（字は晳）の故事に基づく。孔子が弟子に向かって「思い通りのことができるとしたら何をしたいか」と尋ねたときに、仲由や冉求は政治向きのことを答えたのに対して、曾点は「春の新しい服を着て、友人たちと夕風に吹かれながら歌って歩きたい」と答えた。そのことについて詠んだ陶淵明の詩とそれに和した蘇軾の詩を第11章344ページで見ている。ここで、蘇軾は、曾点が望んだようなことをまさに息子とともにしていると言っているのである。（2）この蘇軾の詩は陶淵明にすこぶる近いと評されることが多い。「陶淵明にもこの楽しみはなかったはずだ」と言ってはいるのだが、どこかうら寂しいものがあるような気がしてならない。蘇軾の海南島での暮らしは3年目に入り、この年の詩文の作品数はそれ以前と比べて減少する。後述するように学術書の執筆に取り組んでいたので、さすがの蘇軾も64歳となって海南島の風土のなかでは、それだけで精いっぱいであったのかもしれない）
■減字木蘭花
［解題］「己卯（元符二年）、儋耳（昌化軍）の春の詞」という副題のある詞。立春の作であるという。
［訳文］
春牛春杖、（春牛と春杖を具えると）
無限春風来海上。（無限の春風が海の上からやってきます）
便丐春工、（さっそく春の匠にお願いしましょう）
染得桃紅似肉紅。（桃の花を肉のように紅く染めてくださいと）
春幡春勝、（春幡と春勝を掲げると）
一陣春風吹酒醒。（一陣の春風が酔いを吹いて醒まします）
不似天涯、（ここは天の涯ではありません）
巻起楊花似雪花。（楊の花が舞い上がって、ほら雪の花のようではありませんか）
［補足］（（1）この詞は、誰にでもわかるようなやさしい語句を並べた、海南島の春の賛歌である。（2）「春牛」「春杖」「春幡」「春勝」は、立春のころに門口に具えるもので、土で作った牛や農具、青い幡、そして「勝」の字の形に切り抜いた紙である。海南島でも大陸と同じような民間習俗が行われていたことがここに詠い込まれている。（3）上の四つの語のほかに、「春風」が2回、「春工」も用いられて、わずか44文字の短い詞に7回も「春」の字が登場している。海南島の春を繰り返し賛美しているのである。（4）この詞の眼目は七句目の「不似天涯」（天涯に似ず）であろう。海南島は当時の人々には地の涯のように考えられていて、そこに流された者は悲嘆のどん底に沈むのだが、蘇軾は海南島の春をあえて満喫しようとしている。地の涯ではない証拠に、海南島にも雪が降るではないかと末句で歌っているのである）
■書盧仝詩
［解題］広州からの船が来て、その中に唐代の盧仝の詩を収めた本があったのだろうか、このような短文を記している。
［訳文］
盧仝の詩にこのようにある。
何時得去禁酒国（いつしか禁酒国から去ることができるだろうか）
（盧仝のこの句は、悲哀に満ちた現世を離れ、酒にひたっていられる世界に行きたいということを歌った詩のなかにある）
私は嶺南に流されて、かつて万戸酒家という酒店を営んでいた老婆に出会った。老婆は気候の状況をよく掴んで、よい酒を作るので、それからは酒が乏しくて困るということがなくなった。日々に酒を飲めたので、はからずも禁酒国を去ったのだった。
［補足］（ここに記されている老婆とは、恵州の白鶴峰の新居の隣人である林行婆である（第11章337ページ）。蘇軾のお蔭で、田舎のしがない酒店の元女主人がこうして不朽の名を得たのである）
■儋耳夜書
［解題］儋耳（昌化軍）での1月15日の夜の遊びについて書いた短文。
［訳文］
己卯の歳の上元節、私は儋耳にいて、数人の老書生が訪ね来て、このように言った。
「良い月、佳い夜ではありませんか。先生もちょっと出かけてみませんか」
私は喜んでそれに従った。
町の西側を歩いて僧舎を抜け、狭い道を通って行くと、さまざまな人々が入り混じって暮らしていて、肉屋やら酒店やらがごたごたと並んでいた。
家に還るとすでに真夜中。戸が閉ざされていて、皆が熟睡し、鼾が繰り返し聞こえた。
私は杖を抛り投げて笑った。
――どっちが得て、どっちが失ったのやら。
息子の過が尋ねた。
「どうしてお笑いになったのですか」
「そうだな、自分のことを笑ったのだろう。そうでなければ韓愈を笑ったのだろう。韓愈は若い頃に友人と釣りをして、小魚しか釣れなかった。悔しまぎれに、大魚を得るにはもっと遠くに行かなくてはいけないと言った。しかし、海に行ったからといって、大魚を得るとは限らないということを、韓愈は知らなかったのだ」
［補足］（この短文はなかなかに含蓄があり、いろいろな解釈が可能で、以下に記すのはその一例である。「どっちが得て、どっちが失ったのやら」と言ったのは、表面的には、「月夜に歩き回るのと、家で寝ているのと、どちらがよりよかったのか」という意味であろう。同時に、「かつての都での上元（第10章301ページ）といまの海南島での上元とでどちらがよいのか」という思いも湧いてきていたのだろう。そして韓愈の故事へと連想が進んだのだろう。韓愈の話は、出世の糸口を掴もうともがいていたころのことで、「大魚を得るには遠くに行かなくてはいけない」とは、現状に甘んじることなく高い地位を得て大きな仕事をしてみせるという野望を表明したものである。蘇軾は都で高い地位に就くということも経験した上で、今や海に来ていて、大魚を釣るのではなくて、小さな町の路地を歩く楽しみのうちにあるのを可笑しく思ったのである）
■子由生日
［解題］弟の誕生日（2月20日）に寄せた詩。蘇轍はこの年、60歳になった。
［訳文］
上天（造物者）のもとでいかなる定めがあるのか、
それは知り難いわけではない。
上天の好悪するところは我等と一つのはずだからだ。
上天の定めがまだ決まらない間だけは、
人の力でそれを破ることもできなくはなさそうであるのだが、
定まるまでしばらく耐え忍ぶなら、
善悪への報応はきっと正しくあるはずである。
『論語』にある通り、
過ちを観てその人の本当のあり方がわかるのであって、
末の弟の君は生まれながらにまさに仁の人といってよい。
その剛直さは古の柳下恵とそっくりで、
どこに行っても三度は黜られてしまう。
それでも、時がくればきっと天の定めがあるのだから、
それを思えば、弟の寿命がまだまだ終わるはずはない。
しかも、弟には息子と孫の七男子があって、
順次皆が吉に逢うことになっているのだ。
遥かに遠くからも、ありありと見て取ることができる――
門には訪れる人もなく、
何もない部屋で、何もない心で独り居る君の姿を。
ここ十年のことを思い返しても、
君は長年使ってきた筆に恥じることは何もない。
君が願っているのはただ一つ、
この白髮の兄が、これからも毎年、君の誕生日を祝うことである。
［補足］（「末の弟」（原文は季氏）といっているのは、蘇轍はもとは三兄弟の三男であるからだ。長男は幼時に亡くなっている）
■以黄子木拄杖為子由生日之寿
［解題］弟の誕生祝いに黄子木で作った拄杖を贈り、それに添えた詩。黄子木は以下の詩にある通り海南島に自生する木で、拄杖は僧侶などが使う杖である。
［訳文］
霊寿の杖は孔光を支え、
菊潭の水は胡広に飲まれた。
孔光も胡広も高位に昇ったもののまことに下らない人物であったから、
そこらの雑草や泥水だって、
この二人に使われたり飲まれたりするのは、
恥ずかしくて楽しくはなかった。
たまたまほんのひととき関わっただけなのに、
霊寿の杖も菊潭の水も千年にわたる傷をこうむってしまったのだ。
海南島にはこれといって嘉い木はなく、
野に実を結ぶ黄子という名の木がある。
堅く痩せて節目が多く、
身を任せて倚せるのによい天然の材である。
私はそれを剪って初めて杖としてみたのだが、
これを縁として、世間でも用いられるようになるであろう。
杖にとっては、
この老人の手から離れて、
先生（弟）の机のもとに置かれる方がずっとよい。
いつか君とともに故郷に帰ったならば、
枸杞で作った仙人の杖にも劣らないと評判になるであろう。
［補足］（（1）詩の最初に挙げられた孔光も胡広も諂いを得意とした人物で、このころに都大路を肩で風を切って歩いている連中を揶揄する気持ちも含まれているのだろう。霊寿の杖や菊潭の水はそうしたくだらない人間と関わったために千年にわたる傷をこうむったけれど、黄子木の杖は蘇轍に触れることで千年にわたる名誉を得るだろうというのがこの詩の前半のココロである。なお、菊潭の名は第11章228ページの詩でも見ている。（2）このころに、一人の「異人」が蘇轍を訪ね、さらに蘇軾にも会おう海南島への旅に途上にあった。蘇軾が黄州にいたときに郷里の眉州眉山県から訪ねてきた巣谷である（第6章358ページ以下）。蘇轍には、異人について記した3篇の人物伝があり、そのうち2篇はすでに読んだが、巣谷について記した1篇は第6章428ページで、「15年先に読むことにしよう」と予告しておいた通り、いよいよここでそれを読むことにする。
［訳文］
蘇轍：『巣谷伝』
巣谷、字は元修。父の中世は眉山の農家の人で、若くして士大夫に従って書物を読み、老いてからは郷里の学校の教師になった。巣谷は幼いころから父に学問を伝授され、素朴ながらも広く学んだ。都で科挙を受けることになったときに、武芸の試験を受ける者と出会い、巣谷の心はそちらの方を好んだ。巣谷はもとから力があったので、ついにそれまでの学問を棄てて、弓箭の技を蓄え、騎射を習った。しばらくして技能は上達したものの、武芸の試験には合格しなかった。
巣谷は、西辺には勇猛な武人が多く、騎射、撃刺において四方に冠たる者がいると聞き、都を去って秦鳳、涇原のあたりを巡り、至るところで秀でた傑人と友人になった。韓存宝という者がいて、最も善き友人となり、巣谷は韓存宝に兵書を教えた。二人は金石の交わりを結んだ。熙寧年間に、韓存宝は河州の将軍となって功績があり、熙河の名将と号され、優れた人物であるとして朝廷にも次第に知られるところとなった。
西方民族の乞弟が瀘州を襲って国境を騒がせたとき、諸郡はそれを抑えることができなかった。朝廷は韓存宝に兵を出して討つよう命じた。韓存宝は西方の事情に詳しくなかったので、巣谷を軍中に招いて尋ねた。ところが、韓存宝は（進軍を遅らせたとして）罪を得て、逮捕されてしまった。きっと死罪になると考え、巣谷に向かって、「私は涇原の武者であるからして、死を惜しむものではない。願いとしては、寒さや飢えから妻子を免れさせたいということだけがある。嚢の中に銀数百両がある。君以外にこれを託せる者がいない」と、言った。巣谷はそれを許諾し、姓名を変え、銀を懐に入れ、歩いてその子のもとに行って手渡した。そのことを知る者はいなかった。韓存宝は死に、巣谷は逃れて長江、淮河のあたりに隠れ、大赦に遇って世にまた出られるようになった。
私は同郷であることから、若いころから巣谷のことを聞いていて、節義ある志を持ち、何かあったときには頼りになる人物であるのを知っていた。
その後、私は朝廷の仕事をし、巣谷は郷里にいて、一度も会うことがなかった。紹聖の初めに私は罪をもって筠州に謫居し、筠州から雷州に移り、雷州から循州に移った。我が兄もまた恵州からさらに昌化軍に移った。士大夫は皆我ら兄弟と交遊するのを避け、それまで親しくしていた友人たちとも互いに音信することがなくなった。ただ巣谷だけは独り敢然と眉山で声を挙げ、徒歩で我が兄弟を訪ねるのだと言った。それを聞いた者は皆が頭がおかしくなったと笑った。
元符二年春正月、巣谷は梅州から私に手紙を寄越し、「私は万里を歩いて公にお会いしようと思っていましたが、なかなか思い通りにならず、いまようやく梅州に至ったところです。十日ほどできっとお会いできましょう。そうなったら死んでも恨みはありません」と、言ってきた。私は驚きかつ喜び、「これは今の世の人ではない、古の人だ」と、思った。ついに会って、手を握ってともに泣いた。これまでの日々を語り合い、月を超えても十分ではなかった。
この時に巣谷は七十三歳で、痩せこけて、病も多く、昔の巣谷ではなかった。それでも海南島に行って兄に会うと言った。私は巣谷が老いてしかも病んでいるのを哀れみ、「あなたのお気持ちは立派です。しかし、ここから儋州までは数千里もあり、しかも海を渡らなければなりません。老人のできることではありません」と、言って止めた。しかし、巣谷は、「私は自分で視てまだすぐに死にはしないとわかります。公よ、私を止めないでください」と、言って、留めることはできなかった。その橐の中を見ると数十銭もなかった。私自身乏しく困っていたが、無理に餞別を整えて渡した。
巣谷は船で新会県まで行き、土地の従僕が巣谷の橐と旅装を盗んで逃げ、新州で捕まった。それで巣谷は新州に行き、そこでついに病死した。私はそのことを聞いて、声を失って哭した。私が言ったことを巣谷が用いなかったのは残念であったが、私の言ったことを用いずにその志を遂げようとしたのはまことに立派であった。
昔、趙襄子が（智伯に攻め込まれて）晋陽で災難に遭ったとき、智伯は韓氏と魏氏を従えて晋陽を囲み、川の水をそのまわりに注ぎ込んだ。あとわずかで町は完全に水没するまでになり、釜を中空に懸けて飯を炊き、互いに子を取り換えて食ったりもした。群臣はもはや趙襄子に対して無礼な態度をとったのだが、高恭だけは人臣の礼を失うことがなかった。趙襄子は張孟談の計略を用い、智伯から韓氏と魏氏を離反させて囲みを解くことに成功した。そして、群臣に褒賞を与えたときに、高恭を第一番とした。張孟談は「晋陽の難で、高恭にはとくに功はありませんでした。それでどうして第一番なのでしょうか」と言った。趙襄子は「群臣は皆傲慢不遜であったけれど、高恭だけが人臣の礼を失わなかった。だからこれを第一番にしたのだ」と、答えた。
巣谷は朋友の義においてまことに高恭に恥じるところがない。惜しいことに趙襄子には遇わなかった。ただ先に韓存宝に遇い、後に我等兄弟に遇ったのだった。
私は南方の諸民族と雑じりあって暮らし、諸民族と起居出入をともにし、まさに我が人生の終わる頃になって、巣谷がまことに賢者であることを知った。何をもってそれを顕彰したらよいのだろうか。巣谷には息子の巣蒙がいて、いま涇原の軍中にいると聞いたので、巣谷の伝を作って、いつしかその者にそれを授けようと考えた。
谷の名は始めは穀で、循州で遇ったときには名を改めていた。
［補足］（巣谷が新州で死んだのは7月ごろであったと推測され、そのことについて蘇軾が記した手紙を第13章で見ることになる）
■書城北放魚
［解題］2月24日に放生会を行い、それについて記した短文。
［訳文］
儋耳（昌化軍）の漁師が町の南の陂で漁をして鯽（魚の名）二十一尾を得て、東坡居士に買わないかと売りにきた。一緒にいた人々が喜んで、これを買って放とうではないかと言った。そこで、木の鉢に魚を入れ、町の北の淪江の南側の呉氏の家にまで担いで行き、浣沙石の下で放った。
そのときに呉氏の館には陳宗道が客人として滞在していて、『金光明経』にある流水長者の因縁説法念仏を唱えて、魚を得度した。その念仏に曰く、
「無明縁、行行縁、識識縁、名色名色縁、六入六入縁、触触縁、受受縁、愛愛縁、取取縁、有有縁、生生縁、老死憂悲苦悩、南無宝勝如来」
かくて陳宗道の念仏が終わると、魚はみな波に従って谷の方へと泳いで行ったので、集まった人々は喜び、礼をなして帰った。
ここに会したのは六人で、呉氏の妻の劉某、南海県の符某、儋耳の何旻、潮陽（潮州）の王介石、温陵（泉州）の王懿と許琦。それに担ぎ手の二人、召使の吉童、奴九もいた。
元符二年二月丙寅、書く。
［補足］（念仏の部分は原文のまま掲げた。ここに挙がっている名のうち、何旻は本章187ページで、王介石は本章159ページでそれぞれ見ている。また、前に符林秀才の名を見ているが（本章142ページ）、ここの符某とは別人であるのかもしれない。吉童と奴九は192ページの詩で「獠奴」として詠まれていた使用人であろうか）
■被酒独行遍至子雲威徽先覚四黎之舎三首
［解題］詩題は、「酒をひっかけて独りで出掛け、子雲、威、徽、先覚の四人の黎氏の家をひと通り訪ねた」。蘇軾の住まいの近くに黎子雲兄弟がいることは本章107ページで見ているが、ここに黎氏の4人の名が挙げられている。
［訳文］
其の一
半分酔って、半分醒めて、
あちらの黎君からこちらの黎君へと訪ねてまわる。
一歩進んでは竹に刺され、一歩進んでは藤の蔓にからまれ、
迷ってばかりだ。
それでも帰る道を捜すのは簡単だ。
牛糞が落ちているのを見つければよいのだから。
何しろ、我が家ときたら、
牛小屋の西のそのまた西にあるのだ。
［補足］（これぞ蘇軾の真骨頂というべき軽やかな詩。平易な語句を並べているので、以下に原詩と読み下し文を掲げておく。牛失（＝牛糞）の語句は下品で詩にふさわしくないという評も昔はあったが、この詩の眼目はまさにそこにあるのだろう。かつて朝廷の高官を務めたような人が、楽しげに点々と落ちる牛糞をたどって家路につく姿を想像すると、何とも味わい深いものがある）
半醒半酔問諸黎、（半醒 半酔・諸黎を問う）
竹刺藤梢歩歩迷。（竹刺 藤梢 歩歩に迷う）
但尋牛矢覓帰路、（但だ牛矢を尋ねて帰路を覓める）
家在牛欄西復西。（家は在り 牛欄の西の復た西）
其の二
お団子頭の黎家の三四人の子供、
葱の葉を口で吹きつつ、この翁を迎えたり送ったりしてくれる。
ここが天涯万里の地であるなどと思うことはない……
こうして川べりを行けば、
さながらかの「舞雩の風」が吹いているのだから。
［補足］（「舞雩の風」とは、「雨乞い台の風」で、何度か見ているように、『論語』にある曾点（字は晳）の故事に基づく（第11章344ページ、本章208ページ）。最も望ましいこととして、曾点が答え、孔子も賛意を示した、「友人たちと夕風に吹かれながら歌って歩きたい」と言ったその夕風が、子供らに囲まれる自分にも吹いているというのである）
其の三
符林秀才は老いたとはいえ、
いまなおなかなかの風流人である。
とはいえ、顔のつやつやが減って白髪が増えてしまっている。
昔、謝鯤は東隣りに美しい娘がいると聞いて、
風流心から言葉をかわそうと窓を覗いたところ、
（非礼に）怒った娘に機織りの梭を投げつけられて前歯が折れてしまった、
以来、高官になってもそのことでからかわれ続けた。
私はといえば、近頃言葉をかわしたのは七十の老女で、
求められるままに団扇を交換したところ、
「先生、昔の富貴も、春の夢のようでありましょうかな」
と、からかわれたのだった。
［補足］（蘇軾自身の注で、「この日、符林秀才と会って、老女と扇を交換したことを話した」と付記されている。この老女は、その後、「春の夢のお婆」と呼ばれるようになったという。符林の名は本章142ページですでに見ている）
■記松
［解題］これは朱弁という蘇軾より一世代下の人が書いた『曲洧旧聞』に記録されている文章。朱弁は、「蘇門四学士」の一人である晁補之の兄弟である晁説之と親しくし、蘇軾の親友である参寥（道潜）とも交流があった人であるから、松について記したこの文書が蘇軾の作であることはほぼ間違いないであろう。
［訳文］
東坡が海外にあった元符二年の春がまさに終わろうとしているとき、東坡は潘道人の墨を試してみようと、紙を取って一幅の書をしたためた。それに曰く：
松が世に利するところのものは甚だ博い。松の花、松の脂、茯苓、これらを服せば皆長生が得られる。松の節を煮て酒を釀すと、風痺を癒し、足腰を強くする。松の根や皮を食べると、皮膚の香りをよくし、長く続けると、風下数十歩の外にまで香るようになる。松の実を食べると、血髄を滋し、砕いて膏を取って薄い酒の中に入れると、豊潤で飲むに値するものになる。その明るさは蝋燭の代わりになるし、その烟は墨になり、その皮の上には蘚が生じて艾納となって、集めるといろいろな香りのする煙を上げる。その材はときに西北に産するものがいたってよく、その名を黄松といって、堅く強いことでは百木の中でも冠たるものがある。
世に有用であるところを数えておよそ十一ほどになった。閑があったらその物の理がこのように精妙であることを究め尽くしたいものである。
［補足］（（1）これは、冒頭にある通り、「潘道人の墨」の出来栄えを試すために書いた文章で、その墨がいかなるものであるかについては次の短文に記されている。（2）蘇軾はある対象物について思い付くままに書き連ねることを時折していて、竹についての類似の短文を第11章214ページで見ている）
■書潘衡墨
［解題］蘇軾に会おうと海南島にまで来る「異人」が時折あり、その一人に墨を作る職人の潘衡もいた。そのことを記した短文。潘衡は1年間ほど海南島に滞在したようだ。
［訳文］
金華の潘衡が儋耳に来たばかりのときに、潘衡は竈を起こして墨を作ったのだが、煙は甚だ豊かに得られたものの、墨はさほどよくできなかった。私が煙突を作って竈を広くしたらどうかと教えたところ、煙はおよそ半減して、よい墨ができた。それに「海南松煤東坡法墨」との印文を付した。どれもしっかりとした墨である。墨工がこの印を盗んで用いるのを防いで、まやかしの墨を得た者を惑わすことがないようにしなければならないだろう。この墨は灰の中から出てまだ五日にならないうちにすでに黒く、日が経つとしっかりと固まる。李廷珪や張遇の墨に劣るものではない。
元符二年四月十七日
［補足］（（1）李廷珪や張遇は、蘇軾の文章中に何度かその名を見て来た五代十国時代の南唐の名工で、その墨に劣らないとあるのは軽いジョークであるのだろう。（2）潘衡の後日談が、蘇軾の孫弟子に当たる葉夢得の随筆『避暑録話』に記されている）
［訳文］
葉夢得：『避暑録話』
宣和の初めに江西に潘衡という墨を売る者がいて、「蘇軾のために海南島で墨を造り、その祕法を得ました」と自分で言っていた。それで人は争ってそれを得ようとした。
私は許昌で、蘇軾の息子たちに会い、その末子の過にその法を求めた。過は大笑いして言った。
「父に秘方などあるものですか。儋耳にあって無聊をかこっていたときに、たまたま潘衡が訪ねて来ましたので、別室で煤を作らせました。真夜中に火を使い、廬を焚くばかりにしたところ、翌日になって灰の中から数両に煤を得ました。膠がなかったので牛皮の膠を適当に和したところ、指先ばかりの大きさでしっかりとしたものが数十個ばかり得られました。父は大変喜び、そして潘衡は去ったのです」
たぶん潘衡はその後自分で墨の作り方を得て、蘇軾の名を借りているだけなのだろう。潘衡はいま杭州にいて、蘇軾のお蔭でその墨の値は以前の数倍にもなっている。ただしその墨は確かに佳いもので、墨で名を得た者として九華の朱僅とほぼ等しい功があるであろう。
■学亀息法
［解題］海南島での暮らしの厳しさが窺い知れる一文。
［訳文］
洛陽にかつて洞穴があって、その深さは測り知ることができなかった。ある人がその中に堕ちて出られなくなり、ひどく飢えた。見ると、無数の亀がいて、毎朝、首を伸ばして東を望み、出たばかりの日の光を吸って、それを飲み込んでいた。堕ちた人は亀が向くのに従い、そのやり方を效い続けてみたところ、ついにもはや飢えることがなくなり、身が軽く、力が強くなった。その後、家に還ってからも食べることがなく、どこで死んだのかわからなかった（昇仙した）。これは晋の武帝のときのことである。
「辟穀の法」（穀類を食べないで仙人になる方法）は百以上もあるが、この亀に効った法を最上とし、妙法はここに留まるとされている。玉泉（仙薬）を服して鉛汞を身体に具えると仙人に近づくというが、この亀の法は甚だわかりやすく行いやすい。しかし、天下によく知る者がなく、道を知る者でも行う人がいないのはどうしてなのだろうか。己をすっかり虚しくして静を保てる者がいないからなのだろう。
元符二年、儋耳では米が貴く、まさに食糧が絶えてしまう心配を私はしなければならない。そこで息子の蘇過にこの法を与えようと思い、書いて授けるものである。
四月十九日記す。
［補足］（何度か見てきたように、蘇軾は長年の経験から呼吸を整えることが養生の要であると考えていた。海南島で米が高くて十分に買えないので、最上の「辟穀の法」によって生き抜こうと考えたのである。ただし、ここに記されている亀の呼吸法の話はかなり不可解である。ひどく深い洞穴の奥に、昇ったばかりの太陽の光がどうして届くのだろうか。東に向いた水平の洞穴なら届くだろうけれど、落ちて出られなくなるということがそれでどうしたら起こり得るのだろうか）
■書贈游浙僧
［解題］ある僧が海南島から浙江（銭塘江）のあたりへ行くというので贈った短文。僧の名は伝わっていない。
［訳文］
杭州に到ったならば、竜井に遊んで、弁才の遺像を拝み、密雲団（茶の名）を献じるように。（西湖の中の）孤山の下には石室があり、その前に六一泉があって、水は澄んで甘いので、きっと酌んで飲むように。西湖のほとりの寿星院の竹は極めて立派で、その傍らの智果院に参寥泉と新泉があり、どちらも非常に甘く極めて冷たいので、これもきっと酌んで飲むように。そして参寥子妙総師の遺迹を見て、頴沙弥（参寥の弟子の法頴）に挨拶するように。霊隠寺の後ろに髙峰塔があり、そこかから五里ばかり上ったところに三十余歳の僧がいたが、いまはどこにいることやら。訪ねてみるように。
元符二年五月十六日、東坡居士書く。
［補足］（杭州にもしも行けならまた訪ねてみたいと思うところをここに挙げたのだろう。それぞれの場所は第4章や第10章で見ている。「参寥子の遺迹」とあるのは、参寥（道潜）が死んでしまったという意味合いではない。参寥は蘇軾の親友であることから罪に落とされ、僧籍を剥奪されて杭州から追放されていた。これより3年ほど前のことである（第11章220ページで参寥の動静を見たその後のことである）。蘇軾の友人、門人は、蘇軾が海南島に流されるのと相前後して概ね同様の目に遭っていた）
■和陶与殷晋安別
［解題］陶淵明の「殷晋安と別れる」という詩に和した。それぞれに短い序文がある。
［訳文］
序（陶淵明）
殷先作晋安南府長史椽、因居潯陽。後作大尉参軍、移家東下，作此以贈。
（殷は先に晋安南府の長史の椽と作り、因で潯陽に居んだ。後に大尉参軍と作って、家を移して東に下った。此を作って以で贈る）。
［補足］（殷鉄（字は景仁）は、先に晋安郡に勤めていたので、詩題には殷晋安と記されている。その後、大尉（劉裕のこと）に仕える参軍となったので、潯陽から長江を東に下って大尉のもとに行った。陶淵明が48歳のときであるという。なお、劉裕は後に晋王朝から皇位を簒奪する人物で、かつて陶淵明は近くで劉裕のことを見る機会があり、油断のならない人間であることを知っていた。殷鉄に贈ったこの詩には、陶淵明の複雑な気持ちが籠められている）
序（蘇軾）
送昌化軍使張中罷官赴闕。
（昌化軍知事の張中が官をやめて都に行くのを送る）
［補足］（蘇軾を何かと支援していた知事の張中は、罪人を不当に優遇しているとして告発され、知事を罷免になり、雷州の閑職に追いやられてしまった。中央政府は執拗に蘇軾を苦しめようとしたのである。陶淵明の詩に和して張中への送別の詩としたのは、特別な思いの表れであろう。なお、詩題に「赴闕」（闕に赴く）とあって、普通は都に行く意味であるのだが、単に大陸に戻ることをそのように表現しただけなのだろう）
（陶淵明）
遊好非久長、（好みによって遊ぶのは久しく長いものでは非いけれど）
一遇尽殷勤。（一たび遇って尽く殷勤なあいだがらになった）
信宿酬清話、（信宿って清らかな話を酬わし）
益復知為親。（益ます復に親しみを為すことを知った）
去歳家南里、（去歳 南の里に家をもってからは）
薄作少時隣。（薄か少しの時だけ隣と作った）
負杖肆遊従、（杖を負いて肆に遊び従い）
淹留忘宵晨。（淹留して宵も晨も忘れるほどだった）
語黙自殊勢、（語るか黙るか（出仕するか隠棲するか）自ずと勢が殊っていたので）
亦知当乖分。（亦り当っと乖れて分れることになると知っていたのだった）
未謂事已及、（それでも未だ謂っていなかった、事が已でに及きて）
興言在茲春。（興言るのが茲の春に在ろうとは……）
飄飄西来風、（飄飄と西から来る風に）
悠悠東去雲。（悠悠と東へと雲（殷君のこと）は去ってゆく）
山川千里外、（山や川がへだてること千里の外になってしまっては）
言笑難為因。（言うも笑うも因を為るのはもう難しい）
良才不隠世、（良才は世に隠れ不いというけれど）
江湖多賤貧。（江湖には賤く貧しいものが多くいる）
脱有経過便、（脱もここを経て過る便が有ったなら）
念来存故人。（故い人が存ると念って来てくれたまえ）
（蘇軾）
孤生知永棄、（我が孤独の人生は、永く棄てられるものであるとわかってはいたが）
末路嗟長勤。（地の涯にあって長く苦労するのを嘆いていた）
久安儋耳陋、（儋耳の田舎で暮らすのを久しく甘んじ）
日与雕題親。（額に入れ墨をした人々と日々に親しくしてきた）
海国此奇士、（海に囲まれたこの国にすぐれた士（張中のこと）がきて）
官舎我東隣。（私の東隣りの官舎に住むことになった）
卯酒無虚日、（毎日のように朝から酒をともにし）
夜棊有逹晨。（夜に碁を打って朝になることもあった）
小甕多自釀、（貴君は小さな甕に自分でたくさんの酒を醸して）
一瓢時見分。（時々はひとつの瓢を分けてくれた）
仍将対牀夢、（しかも牀を並べてともに夢を結び）
伴我五更春。（夢の中で深夜の春に遊ぶのにも付き合ってくれた）
暫聚水上萍、（水辺に浮草が集まるのはしばしのこと）
忽散風中雲。（雲は風の中にたちまち消えてしまう）
恐無再見日、（恐らくは再び会う日はもうないのだろう）
笑談来生因。（いま笑って語るのは来世のよすがとなろうか）
空吟清詩送、（何もないので、ただ詩をもって送るだけ）
不救帰装貧。（貴君の帰り支度が貧しいのを救うことはできない）
［補足］（陶淵明の詩とみごとに共鳴し、張中への情愛にも溢れ、まことに次韻の達人の極みである）
■十八大阿羅漢頌
［解題］蘇軾は十八人の阿羅漢を描いた画を入手し、その頌歌を作った。前書きおよび跋文の一部を訳す。
［訳文］
これは蜀の金水の人である張氏が描いた十八大阿羅漢の画である。私軾は儋耳に謫居し、この画を民間に得た。海南島は遠く離れた辺境の地で、人の世とは隔絶しているのに、何によってこの画はここ至ったのだろうか。長く人気のない谷に逃れて、また師や友に会ったかのような気持ちになり、息子の過に命じて、その表装を替えさせた。そして燈火を設け香を焚いて礼拝した。
張氏は羅漢の画で名をなし、唐の末にその芸において世に第一とされた。いま成都の僧である敏行はその玄孫である。敏行は古の人のような相貌で、学術は広くかつ深く、蜀の人は皆、「羅漢が化してその家に生まれたのだ」と言っている。
私の外祖父の程公は若いときに都に来ていて、たまたま蜀で兵乱が起こったのに遭遇し、蓄えが尽きて帰ることもできなくて、旅の宿で臥っていた。すると十六人の僧が来て、程公に「我等は公の村の者です」と言って、それぞれ二百銭ずつを貸し与えてくれた。それで程公は帰ることができたのだが、その僧の所在はついに知れなかった。程公は「あれはきっと阿羅漢だったのだ」と考え、毎年四回ずつ阿羅漢に立派な供え物をした。程公は九十歳になるまでの間に、二百回余りも供えたのだった。
いま私自身は阿羅漢に会うことはないのだけれど、災厄に陥って九死の際にあって、言葉も衣服も異なる人々の中にいて、この優れた画を得たのは、ただの偶然によるものではないに違いない。そこで十八の画像ごとに思いを窮めて、その頌歌を作った。
……（以下、第一尊者から第十八尊者までの頌歌を並べ、跋文が続く）……
今、海南島でこの十八羅漢像を得て、弟にこれを授け、日々に敬い拝むようにさせようと思う。夫婦の誕生日には供え物をして福の集まることを祈り、先の頌歌を詠んでもらおうと思う。弟は二月二十日の生まれ、その妻の徳陽郡夫人史氏は十一月十七日の生まれである。
この歳の中元の日（七月十五日）に題した。
［補足］（（1）唐末の画工の張氏としては張玄がいる。蘇軾は名を明記していないので、確かなことはわからない。（2）母方の曾祖父である程仁覇のエピソードを第11章148ページで見ているが、ここにある程公はその息子の程文応である）
■書杜子美詩後
［解題］杜甫の詩を記して、短い感想を添えている。杜甫の詩は、晩年、蜀の夔州に流寓していたときの作で、「負薪行」（薪を負う行）という題である。
［訳文］
夔州処女髪半華、（夔州の乙女は髪が半ば白い）
四十五十無夫家。（嫁がずに四十、五十になっている）
更遭喪乱嫁不售、（世の乱れに遭って嫁の行き先がなく）
一生抱恨長咨嗟。（一生恨みを抱いて長く嘆き続けている）
土風坐男使女立、（土地の風習として、男は座っていて、女が立って働く）
男当門戸女出入。（男は門の内にあって、女は出たり入ったりしている）
十有八九負薪帰、（女の十人に八、九人は薪を負って帰り）
売薪得銭当供給。（それを売って銭を得て、必要なものをまかなっている）
至老雙鬟只垂頸、（老いに至っても髪を二つに束ねて首まで垂らし）
野花山葉銀釵並。（銀の釵とともに野の花、山の葉を挿している）
筋力登危集市門、（筋力を尽くして危ういところに登って市場に薪を運び）
死生射利兼塩井。（命をかけて利を得ようと、塩井から塩を運ぶことまでもする）
面妝首飾雑啼痕、（顔の化粧や首の飾りには泣いた痕があり）
地褊衣寒困石根。（辺鄙な土地のここで衣は寒く、石の根元で苦しんでいる）
若道巫山女粗醜、（巫山の女は荒っぽく醜いと誰がいうのか）
何得此有昭君村。（かの絶世の美女の王昭君の出た村はすぐ隣ではないのか）
海南島にもこのような風習がある。この詩をいつも誦して土地の父老に教え諭しているのだが、その風俗を変えるのは容易ではない。
元符二年七月十七日。
［補足］（杜甫も蘇軾も、時代の制約はありながらも、女性に対する眼差しは優しい。ライオンのように、男性がのらくらして女性があくせく働く社会は、世界にその例は多くある。そのような社会で、嫁ぐことが幸せであるのかどうかははなはだ疑問ではあるが、嫁がずにいるのはさらに悲惨であるのだろう）
■書柳子厚詩後
［解題］海南島はややゆがんだ円形をしていて、時計の文字盤にたとえると、大陸に最も近い12時のところに瓊州があり、左に少し回った10時のところに昌化軍（儋耳）があり、両者は100km余り離れている。瓊州から詩を教わりたいと1人の青年が来て、半年ほど蘇軾のもとに滞在した。そのことを記した短文。
［訳文］
元符己卯（元符二年）閏九月、瓊州の士である姜唐佐（字は君弼）が儋耳に来て、日々私とともに過ごした。庚辰（元符三年）三月に至って帰ることになり、贈るものもないので、柳宗元の『飲酒』と『読書』の二つの詩を書いて、別れの意を表すことにした。君が帰ったなら、私は気持ちの遣りようがなく、ただ飲酒と読書の二つによって日々を送るしかないのだ。二十一日に書く。
［補足］（この文章は文中にある通り、これより半年後に姜唐佐が帰ったときに書いたもので、そのときに贈った詩句を後に見る）
■書淵明飲酒
［解題］『飲酒』という題の詩といえば陶淵明の作品が最も有名で、その20首の連作すべてに蘇軾はかつて次韻していた（第10章213ページ）。これは第二十首の末尾についての感想を記した短文。蘇軾の恩人、先輩の飲みっぷりについてさらりと書いている。
［訳文］
陶淵明の詩に、
但恨多謬誤、（但だ恨むのは（これらの詩には）謬誤が多いことだ）
君当恕酔人。（君よ、当か酔った人を恕してくれたまえ）
とある。
これは実はまだ酔っていないときの言説である。もしもすでに酔っていたなら、誤りであることを憂う暇などないはずだ。
世間の人は、
「酔ったときにこそ、醒めているときの語を出すのだ」
と、言うが、これは名言である。
張方平（蘇軾の大恩人）は酒を飲むときに重ねた盞の数を言ったことがなかった。若いときに劉潜や石延年（いずれも名高い酒豪）と飲んで、ただ飲んだ日数だけを言った。
欧陽脩（やはり蘇軾の大恩人）は盛年のときに盞で百杯は飲んだ。それでも張方平の飲み方には苦しめられた。
梅堯臣（欧陽脩の先輩）も百杯以上を飲み、酔ってからも、手を高い位置で交差させて（礼儀正しい姿勢）、ますます慎み深く穏やかに語った。
このようなことからすると、己の足らないところを知ってよく勉める者でなければ、善く飲む者とは言えないのだろう。善く飲む者とは、淡然として普段と少しも異なるところがないのである。
私はというと本当に飲めない。わずかに一杯で酔ってしまって、しかし、酔中の味わいが先の数君とは異ならないであるのなら、実は羨まれるものであるのだろう。
■贈鄭清叟秀才
［解題］二つ前の文章で見た姜唐佐は同じ海南島の人であったが、蘇軾に教わろうと海を渡ってくる者もいた。これは鄭総（字は清叟）に贈った詩。鄭総の詳しいことをわからないという。
［訳文］
広州の南、扶胥の地では風と波が戦い、
泥子の海辺には海賊が横行する。
この二つの恐怖を冒してまでも、
貴君はどうしてこの一笑の喜び（蘇軾と会うこと）を得ようとしたのか。
貴君に問う、
「何か望むところがあるのですか」
貴君は答える、
「仁や義を語り合いたいだけです」
「ああ、私の才は人に及びません、
とりあえず、自分にとってどうにか足りているだけです、
あなたに何か与えられるようなものはないのです、
あなたは間違って、実際にないことを聴いてこられたのでしょう」
このとき、霜を帯びた風は熱気にこもる毒を掃ってくれて、
冬の日ざしはいくらか清く美しくもある。
ここのところ、私は万事が足りている心持ちで、
たった一つ欠けているのがあるとすれば、それは死である。
「あなたも私も、淡い心で何も求めずにいようではありませんか、
机はただ滑らかに磨き込んでいるだけなのです」
［補足］（（1）海を渡って蘇軾に教えを請いにきた鄭総に対して、半ば戯れ、半ば本気で詠んだものであろう。（2）終わりの句は、机は磨いているだけで、その上で書き物はしていないという意味であろう。罪人のところに教わりにきたことで鄭総に害が及んでならないとの配慮からの物言いであるのだろう）
■海上漁民
［解題］海南島の蠔（牡蠣）はとんでもなく旨いという短文。
［訳文］
己卯（元符二年）冬至前二日（十一月六日）、土地の漁師（海蛮）が蠔を贈ってくれた。身を剖くと数升ばかりもあって、貝の肉と汁を水に入れ、酒と合わせて煮たところ、非常に旨く、これまでにないものであった。大きなものは焼いて食べてもよく、煮るよりも旨い。海南島では蟹や栄螺や蛸も食べ、貰い物に事欠かない。北方の君子には知らせないようにと息子の過には毎回戒めている。東坡居士のようにしたいと争って皆が海南島に流されることを望んだなら、私がこれらを楽しめなくなってしまうからだ。
■倦夜
［解題］長い夜を倦むという詩。
［訳文］
枕にも倦み、長い夜が厭わしい。
小さな窓はいつまで経っても明るくならない。
この小さな村で、一匹の犬が吠えている、
沈みゆく月のもとを、誰か歩いているのだろうか。
髪はすっかり衰えて、ずっと前から白い。
いまも旅を続ける我が懐いは、何もないだけに清らかである。
さびれた庭で絡緯が鳴いている、
いくら機織りの音だけを立てても何も成りはしないのに。
［補足］（終わりの句はやや教訓めいているが、これまでに何か成し遂げたものがあったのだろうかと、自身を見つめているのだろう。蘇軾は白居易と似ているところがあると、しばしば詩文に記していたが、その晩年は大きく異なる。白居易は洛陽に邸宅を構え、中央政界で悲惨な事件が起ころうが我関せずで、悠々自適の日々を長く送った。蘇軾は政界の荒波に常にもまれ続け、海南島に流された。その一方で、後世の厳格な学者には、二人とも若い頃は高い志を持っていたにもかかわらず、その本性は惰弱で、詩酒にうつつを抜かして、つまらぬ連中との交遊関係を喜び、国政への貢献はむしろマイナスであったと断じる人もいた）
■用過韻冬至与諸生飲酒
［解題］冬至の日に何人かの友が集まり、息子の蘇過が詩を詠み、その韻を用いて蘇軾がこの詩を作った。この詩には蘇軾自身の注で「符も呉も皆客人であり、その他の事も実際この通りであった」と付記されている。「符」は恐らく符林（本章142ページなど）、「呉」は本章219ページで見た呉氏であろうか。
［訳文］
この酒は黎人の方法による早造りのもの、
乾かした酒糟は甕の中にある。
甘いのか辛いのか、毒があるのかないのか、
滴りはいつでも限りなくある。
冬に仕込んだものはひんやりとした潤いがあり、
春に仕込んだものは暖かさが満ちている。
大陸の酒と島の酒を並べて飲み、
大陸の者も島の者も酔って笑って歓びは同じ一つである。
我が故郷の家は峨眉山の北にあり、
我が農地は震沢の東（常州）にある。
そのどちらもいつ帰れるとも知れず、
どちらからも音信は通じない。
髪は驚くばかりに白くなったけれど、
身に付ける帯はかつての恩によって紅色をなお許されている。
我が愁いの顔も符老を見ればゆるみ、
我が耳は呉翁と寿命を競う長さがある。
この家では、
穀物を得て鵞鳥が太りはじめ、
猫がいないので鼠がますます増え、
生姜とともに芋を蓄え、
霜を帯びた草むらから刈ってきた蒼耳（薬草）があり、
息子が痩せているのは、薬草集めに精を出しているからで、
使用人が太っているのは、せっせと野菜を作っているからだ。
私はやたらと世間から盗み食いをしているわけではなく、
風に乗ってふわふわと飛んでいこうとの思いがある。
（河伯方誇若，霊媧自舞馮。
帰途陷泥淖、炬火燎茅蓬。
膝上王文度、家伝張長公。）
こうして詩を和し、酔って墨を走らせれば、
鴻の群れが海で戯れ乱れるかのようである。
［補足］（（1）海南島には蒼耳という薬草があって、そのことについて蘇軾が記した短文があるのだが、内容がうまく掴めなくて訳せなかった。（2）カッコ内の6句は故事を用いて難解でうまく訳せなかった。大意としては、自己を卑下し、息子を褒めているのであろう）
■記海南菊
［解題］11月15日に、2カ月遅れの重九の宴を行ったという短文。
［訳文］
菊の色は黄色の中の黄色、香味は和やかにして正しく、花、葉、根、実はどれも長生の薬になる。北方では秋が始まりそして終わるにつれて、菊の黄色い花が開いてゆく。嶺南ではそうではなくて、冬至に至って盛んに開くようになる。嶺南の地は暖かく、百花の成長には季節がない。それでも、菊だけは独りやはり遅れて開く。その理を考えるに、菊の本性が強く烈しく、百花とは盛衰をともにしないで、霜が降るころに開くのであって、嶺南ではいつも冬至のころになってわずかに霜が降るからである。その天然の姿はまことに高潔で、だから仙霊に通じているのである。
私は海南島で九つの畦に菊を植え、十一月の満月の日に菊の花を盃に浮かべ、重九の宴を行った。ここにそのことを記しておく。
［補足］（蘇軾はしばしば菊を讃えて、同じような主旨のことをいくつかの詩文に記している。例えば、菊の黄色を特に佳しとしたことは第10章67ページで見ている）
■和陶於王撫軍座送客再送張中
［解題］陶淵明の「王撫軍の座に於いて客を送る」という詩に和して、再び張中を送る詩を作った。陶淵明のもとの詩は、王撫軍すなわち王弘が送別の宴を催し、そこに陶淵明も招かれて披露した作品。蘇軾の作は、11月の後半に張中がいよいよ昌化軍を離れるに際して詠んだもの。張中に贈った最初の送別の詩は本章227ページで見ている。
［補足］（王弘は当時、江州の知事であった有力者。王弘は陶淵明と一献酌み交わしたいと申し込んだが断られてしまったので、陶淵明の親友に頼んで一計を案じ、道で不意打ちを食らわしてついに酒を共にすることに成功し（第11章205ページ）、以来良好な関係にあった。この詩はそうした関係が成立した後の57歳のときに作られたもの。王弘に招かれた陶淵明は、恐らくあらかじめこの詩を用意して持参したのだろう。ごく一般的な送別の情を詠んでいて、陶淵明らしさはかろうじて末句に見られるくらいである）
［訳文］
（陶淵明）
秋日淒且厲、（秋の日ざしは淒として且も厲しい）
百卉具已腓。（百の卉は具に已に腓んでしまった）
爰以履霜節、（爰に以ど霜を履む節に）
登高餞将帰。（高いところに登って将しも帰るひとを餞る）
寒気冒山沢、（寒気は山や沢を冒し）
遊雲倏無依。（遊う雲は倏ち依るべが無くなくなる）
洲渚四緬邈、（洲や渚は四もかしこも緬邈く）
風水互乖違。（風と水は互いに乖れて違うところへとゆく）
瞻夕欣良宴、（夕ぐれを瞻ながらの良い宴であるのを欣びつつも）
離言聿云悲。（離れの言は聿も云も悲しい）
晨鳥暮来還、（晨にでた鳥は暮れに還り来て）
懸車斂余輝。（懸車では余りの輝きが斂まろうとしている）
逝止判殊路、（逝くひとと止まるひとは殊なる路に判れ）
旋駕悵遅遅。（駕を旋らせるのも悵しさに遅遅としてしまう）
目送回舟遠、（目で回りゆく舟を遠く送れば）
情随万化遺。（情は万の化に随ってここにとり遺されてしまう）
（蘇軾）
胸中有佳処、（胸の中に佳いところがあるなら）
海瘴不能腓。（海からの熱い毒気にも病むことはない）
三年無所愧、（貴君は三年（の任期の間）に恥じることはなく）
十口今同帰。（家族全員とともにいま帰ろうとしている）
汝去莫相憐、（貴君が去ってしまったなら、思い合う相手がなくなってしまうのだが）
我生本無依。（私の来し方はもとより依るべきものはなかった）
相従大塊中、（それぞれ大きな世界の中にあって）
幾合幾分違。（幾たびか合い、幾たびか分かれるのである）
莫作往来相、（（時の流れのなかを）往き来する（哀しさを）顔に出すようなことはしないように）
而生愛見悲。（生きていれば愛おしく思うこともあり、そのために悲しみを見ることもあるのだから）
悠悠含山日、（ゆるゆると夕日が山に入ってゆく）
烱烱留清暉。（きらきらと清らかな輝きがまだ残っている）
懸知冬夜長、（冬に夜は長いのはもとからわかってはいるけれど）
不恨晨光遅。（（別れが迫るいまは）朝の光がくるのがもっと遅くならないのが残念でならない）
夢中無与別、（貴君との別れは夢の中のようであるから）
作詩記忘遺。（この詩を作って忘れないように残しておくのだ）
［補足］（この詩もまた次韻詩として優れた出来栄えである。それだけ張中への思いが深いということであろう）
■和陶答龐参軍三送張中
［解題］陶淵明の「龐参軍に答える」という詩に和して、張中を送る三回目の送別の詩を作った。陶淵明の詩には序文がある。
［訳文］
序文（陶淵明）
三復来貺、欲罷不能。自爾隣曲、冬春再交。款然良対、忽成旧遊。俗諺云、数面成親旧。況情過此者乎。人事好乖、便当語離。楊公所嘆、豈惟常悲。吾抱疾多年、不復為文。本既不豊、復老病継之。輒依周礼往復之義、且為別後相思之資。
（三たび復も貺って来られたものをよみかえし、罷めようと欲も能き不いでいます。爾と隣り曲せになって自ら、冬と春が再び交りました。款然た良い対も、忽ち旧の遊びと成ってしまいました。俗諺に「数しば面えば親しい旧に成る」と云います。況して情のつうじることでは此に過る者であったの乎。しかし人にかかわる事は乖き好く、便に当っと離れを語わなければならなくなるのです。むかし楊公が（分かれ道でいかにすべきかわからずに）嘆いた所は、豈っして惟だの常の悲しみではないのです。吾は疾いを抱えて多くの年をすごし、復う文を為ることもあり不ん。本より既っと豊では不いところに、復た老いと病いが之に継いでいるのです。輒で『周礼』の「往復之義」に依って（この詩をつくって）、且は別れた後で相いに思う之の資と為るものです）
［補足］（ここにあるように、龐氏（名は不明）と陶淵明は一時期親しく付き合っていたのだが、龐氏は参軍の職を得て旅立つことになったので、この詩を贈ったのである。こうして別れた半年後に、龐氏は都に行く途中で近くを通った折に陶淵明に詩を送った。それへの返事を第11章351ページで見ている。このとき陶淵明は60歳であった）
（陶淵明）
相知何必旧、（相いに知るのは何も必しも旧だけではない）
傾蓋定前言。（傾蓋であっても（すぐに知己となる）との前からの言は定のだ）
有客賞我趣、（客（龐参軍のこと）が有って我のくらしの趣を賞でてくれて）
毎毎顧林園。（毎も毎もわたしの林園を顧にきてくれた）
談諧無俗調、（談が諧って俗っぽい調は無く）
所説聖人篇。（説す所は聖人の篇についてだった）
或有数斗酒、（或も数斗の酒が有るなら）
閑飲自歓然。（閑に飲んで自で歓然かった）
我実幽居士、（我は実に幽と居す士で）
無復東西縁。（東にも西にも（世間との）縁などは復く無いのだ）
物新人唯旧、（物は新しいのがよいが人は唯く旧いのがよいとか）
弱毫多所宣。（弱毫によせて宣べたい所は多くある）
情通万里外、（情は万里の外にも通じるとか）
形跡滞江山。（ただわたしの形と跡はこの江や山に滞っている）
君其愛体素、（君は其く体素を愛に）
来会在何年。（あなたがこんど来て会うことは何の年に在るのだろうか）
（蘇軾）
留燈坐逹暁、（燈火をつけたまま暁に達したのは）
要与影晤言。（貴君の影ともじっくり語りたいと思ったからだ）
下帷対古人、（貴君が去ったなら、もう窓も閉ざして古の人の書物に向かうだけで）
何暇復窺園。（庭を見ることさえもしなくなるだろう）
使君本学武、（貴君はもと武を学び）
少誦十三篇。（若いときから『孫子』の十三篇を唱えてきた）
頗能口撃賊、（弁論だけで賊を打ち負かす力があり）
戈戟亦森然。（武器を並べればまことに厳めしい）
才智誰不如、（誰にも劣らない才智がありながら）
功名歎無縁。（残念なことに功名とは無縁であった）
独来向我説、（私に向かって思うところを説くのだが）
憤懣当奚宣。（憤懣は十分に言い尽くせるものではない）
一見勝百聞、（一見は百聞にしかずというとおり）
往鏖皐蘭山。（前線に出るなら大勝利を見せてくれるだろう）
白衣挾三矢、（目立つように白い衣を着て三本の矢を携え）
趁此征遼年。（昔の英雄と並ぶ活躍をするのだ）
［補足］（（1）これは上に見た詩の続きである。上の詩では夕暮れ時で、これはいよいよ別れの朝になってのもの。（2）終わりの4句は漢や唐の時代の英雄の故事を引いて、張中を励ましたもの。さすがに言葉が上滑りしている印象があるが、それだけ蘇軾は張中のことを心に認めていたのだろう。（3）張中は蘇軾と親しくしたために左遷の憂き目には遭ったのだが、こうして送別の詩を3首も蘇軾から贈られたのだから十分に酬われたといってよいであろう。張中との交流はこれをもって終わったようだ）
■縱筆三首
［解題］筆に任せて作った詩。
［訳文］
其の一
東坡と称する寂しげな一人の老人、
冷たい風に白い鬚がばらばらに乱れなびく。
なぜか朱い顔をしているので、
子供等は、この爺さんは元気だと、喜んでくれる。
ふふっと笑ってやりすごすのだが、
これはただ酒で紅くなっただけなのだ。
［補足］（これは俳句でいうところの「かろみ」に相当する詩であろう。平易な文字の並びであるので、原詩と読み下し文を掲げる）
寂寂東坡一病翁、（寂寂たり東坡の一病翁）
白須蕭散満霜風。（白須 蕭散 霜風に満つ）
小児誤喜朱顔在、（小児 誤って喜ぶ朱顔の在るを）
一笑那知是酒紅。（一笑 那ぞ知らん 是れ酒紅なるを）
其の二
黒く四角いかぶりものを載せて出てみたら、
村の男どもが見に集まってきた。
頭の上にあるものが、確かに、
この身がかつては朝廷の高官であったことを示しているからだ。
川べりの古びた三叉路に至って、
夕陽の中、
人々が行き過ぎるまで、独りぽつんと立っている。
父老争看烏角巾、（父老 争って看る烏角巾）
応縁曾現宰官身。（応に曾て宰官の身を現したことに縁るべし）
溪辺古路三叉口、（溪辺の古路 三叉の口）
独立斜陽数過人。（独り斜陽に立って数しば人を過す）
［補足］（朝廷にあっても島の三叉路にあっても、蘇軾は常に同じ蘇軾であったのだろう）
其の三
北からの船が来ない。
米は真珠のように高く、
酔って食べ飽きるようなことはありえないままに、
ここ半月ほどすっかり寂しく暮らしている。
明日は東隣りの家で竈の神様を祀るというから、
一羽の鶏、一斗の酒が、
お余りとしてきっと私のところにもまわってくることだろう。
■夜焼松明火
［解題］「夜に松明の火を焼いた」という題の詩。
［訳文］
歳の暮れに雨と風が交じり合い、
仮の宿りは侘しくもうっすらと寒い。
夜、松明の火を焚く。
ぱっと紅い竜が躍り上がって部屋を照らし、
すぐに快く炎が煌煌と光り、碧い煙が團團とあがる。
寂しく暮らす人もたちまち富貴になり、
蕙（紫蘭）を施した帳のなかで椒蘭（名香）をくゆらせる気分。
煤は天井を飾る珠、松脂は銅の槃に流れる香料である。
「十八公殿」は見る見るうちに燃え尽きて灰になってしまう。
石崇は薪の代わりに朝まで蝋燭を燃やし続け、
寇準は流謫の身を嘆きつつも、夜は蝋燭を灯していた。
雷州（寇準が流された地）には松がなかったのだろうか、
蝋燭などでは夜中前に燃え尽きてしまっただろうに。
［補足］（（1）貧乏暮らしを軽やかに歌った詩。（2）「十八公」とは松の字を分解して擬人化したもの。（3）石崇は、歴史に残る愚物として蘇軾が時折引く人物。寇準は宋の滅亡の危機を救った名宰相であるが、晩年は皇帝に疎まれ、雷州に流されてしまった。それでも、昔からの豪奢な暮らしを改めなかったという）
■貧家浄掃地
［解題］「貧家 浄く地を掃く」という題の詩。詩の第一句をそのまま題としたものである。
［訳文］
貧乏な家でも地は清く掃き、
貧乏な娘でも髪はきれいに梳く。
つまらない人間も道（真理）を聞いたなら、
それがいくら遅くても少しでも己の拙さを改めようとする。
私もそのようにあろうとしていると、
門を叩く客人があった。
迎え入れて、一つ飯でもと、引き留める。
米を舂くのも炊くのもゆるがせにはしない、
この客人へのもてなしを薄くしてはならない。
薪も古びたものは使うまい、
妙な薫りがついては、客人を長く残念がらせてしまう。
徳ある人は秤を抱いているとか、
わずかなごまかしも隠せないのである。
［補足］（（1）「古びた薪」は、漢の武帝の前で飯を馳走になった者の中で一人だけが使った薪の香りをかぎわけたという故事を引いている。（2）このとき蘇軾は訪れた徳のある客人が誰であったのかはわかっていない）
■記海南作墨
［解題］海南島に潘衡が来て墨を作ったことを本章223ページで見ているが、墨について記した短文がさらに2篇残っている。
［訳文］
海南島で自作している墨は李廷珪のものに劣らない。海南島には松がたくさんあり、松はもとより煤が富んでいるので、豊富にあればよい煤を選べるのである。
己卯（元符二年）十二月二十三日、墨を作る炉から激しく火が出て、ほとんど家を焼くばかりになった。炉から灰を取り出し、それで墨を作るのはもう止めることにした。佳い墨を大小五百丸ほど得て、漆を入れて数百丸もできたから、これから一生用いるのに足りるであろうし、幾人もの知らない人にだって与えることもできるだろう。車一杯分の松が残ったので、それは松明にして夜を照らせばよい。
二十八日の二鼓、この紙に書く。
［補足］（潘衡の名はないが、記されている内容は先の文章と共通している）
■答劉沔都曹書
［解題］劉沔（字は元忠）という蘇軾の信奉者が、とにかく一目会おうと海を渡ってやって来た。これは劉沔が手渡した書簡への返書。劉沔は彭城の人で、表題にある都曹は官名であるらしく、かつて官職に就いたことがあるのだろう。それに以上の詳しいことはわからないという。
［訳文］
劉沔都曹に御返事申し上げます。お手紙と、私の詩文を編集された二十巻を拝見しました。
私はかねてから言論や文章で世に知られておりましたが、それによって人からに憎まれもしました。得失を差し引きすると、何も言わず、何も書かないでいる安らかさには及びません。それで、筆を焼き硯を棄て、黙りこくった人間になろうといつも思っているのですが、習気（悪い習慣）と宿業（前世の報い）によって、すっかりやめてしまうことができずにいます。それでも、書いたものはどうせ私の手から離れればすぐに雲のように消え、鳥のように飛び去ってしまうであろうと考えておりました。ところが、思いがけないことに、貴君がこっそり黙って私が書いた後についてまわって拾い集め、綴り合わせて、ほぼ拾い残しがないのでありました。それを見て、恥ずかしさのあまり冷や汗が出ましたことは、言葉数が多い者への戒めとなるでありましょう。
世間に私の詩文を蓄えている者は数多くいましょうが、おおかた真偽は半々で、俗人によって改竄されているところもたくさんにあって、それを読んだ人は私も含めて穏やかでない気持ちになります。そうしたことは実は怪しむに足りず、本当のことを知る者が少ないのは、昔から世の中の病むところであったのです。
梁の蕭統は『文選』を編集して、世間の人は工みであるとしていますが、私が観るに、蕭統は文章がへたくそで、知識が狭いことでは、誰もその右に出る者はいないのであります。宋玉は『高唐の賦』と『神女の賦』を作り、その初めに夢を見たいわれを述べているところは、司馬相如の『子虚の賦』の亡是公の問答と同じように、全てが「賦」であるのですが、蕭統はこれを「敘」だと言っています。これでは子供並みの見識なのであります。李陵と蘇武が長安で別れたときに贈ったという詩には、（地理的に合わない）「江漢」の語があり、李陵が蘇武に与えた手紙に至っては、言葉が浅はかで、斉朝、梁朝のころの小児がでっちあげたもので、断じて漢の時代の文章ではありません。蕭統はそれがわかっていないのです。劉知幾は独りそうしたことを見抜いていました。
范曄は『蔡琰伝』を作り、そこに蔡琰のだとする二首の詩を載せていますが、これも正しいものではありません。蔡琰が流落したのは董卓が死んでから後のことで、董卓が乱を起こしたときには蔡琰の父である蔡邕は恙なく生きていました。しかし、その詩では、董卓の乱のために蔡琰は胡の国に流れてしまったと言っています。それが蔡琰の言葉であるのでしょうか。その詩の筆の勢いは（後の時代の）「建安の七子」をまねたもので、後漢の時代のものではありません。
韓愈や白居易の詩文もまた凡庸な俗人よって乱されています。実に嘆かわしいことです。
いま貴君が示してくださった二十巻には偽物は一篇もなく、誤謬もわずかしかありません。お手紙のお言葉は清婉にして雅奧、詩文を作る者としての風格があり、貴君が学問に長く力を注いでこられていることがよくわかります。
私がいま困窮しているのはもとより文学によって罪に坐したためでした。我が肉体を刳って智を取り去ってしまおうと思ってもそれはできません。一方で、末の息子の過の文章はますます良くなっていて、海の外の孤独で寂しく無聊をかこつなかにあって、過が時に一篇を出して楽しませてくれますと、それで数日間は喜びが続き、寝るのも食べるのもことに味わいがあります。このことからも、文章は金や玉や珠や貝のようなものであって、価値がないとして棄てることはなかなかできないのです。
貴君の詩文がこのようであるのを見て、我が同年の竜図公に立派な跡継ぎがあるのがわかって喜ばしく思っております。それで勉めて御返事を作った次第です。
［補足］（（1）蘇軾が『文選』をあまり評価していないことは第7章36ページでも見ているが、ここでは一段と手厳しい。（2）最後に劉沔は蘇軾と同じ年に科挙に合格した竜図公の子であると記しているが、その名は不明であるという。劉沔父子は当時あまり目立つ存在ではなかったのだろう。それでも蘇軾自身を驚かせるほどまでに蘇軾の作品を収集していたというのはおもしろい。いったいどのようなルートでそれらを入手していたのだろうか）
■書謗
［解題］上の文章で、世に伝わる蘇軾の詩文には偽物がまじるとあったが、噂話となれば信憑性はさらに下がる。これは謗についての一文。前半部分は第6章374ページですでに訳したが、ここで全体を見ておこう。
［訳文］
私が黄州に謫居していた間に、曾鞏は母の喪に服して臨川に帰り、そのままその地で亡くなった。すると、人々が私と曾鞏が同じ日に死んだと妄りに言い伝えた。唐の時代に、李賀が天帝に召されて死んだといわれたように、二人は天帝に召されたのだと人々は噂した。先帝（神宗皇帝）はこのことを聞いて慨嘆し、蜀人の蒲宗孟に真相を尋ねられた。
いま私は海南島に謫され、私が道を得て（仙人になって）、小舟に乗って海に入って帰ってこないと、言い伝える者があった。都では皆がその話をしていると、息子が手紙で書いてきた。
今日は広州から来た者が、知事の柯述が、「東坡は儋耳にあってある日忽然と消え、道服だけが残っていた。上帝の賓客として召されたのだろう」と、言っていると話してくれた。
私は昔から人の口に上ることが何度あったか知れない。思うに、韓愈と生まれが似ているからなのだろうか。私の星座における運命の位置は斗と牛の間にあって、韓愈もまた同じ位置にある。韓愈の詩に、「私が生れたとき、月は斗牛に宿っていた」とあり、さらに、「善い名が評判になることもなく、悪い声が大きく聞こえることもない」ともある。
私についての謗も、あるいは死んだといい、あるいは仙人になったという。韓愈の言うことはきっとでたらめではないのだ。
［補足］（韓愈の句は『三星行』という題の詩の中にあり、自分は毀誉褒貶いろいろあるが、差し引きとんとんであるということを歌っている）
■論范蠡
［解題］海南島における3年目（実際に経過した歳月は2年半）は、以上のようにして暮れていったのだが、このころまでに蘇軾は、『易伝』『論語伝』などの著作の推敲を重ねるとともに、いくつかの史論を書いたり、寓話集『艾子雑説』を作ったりした。ここで史論と『艾子雑説』から幾つかを選んで読んでおこう。
史論は、周朝の始まりから、春秋時代、戦国時代、秦朝、そして漢朝までの古い時代からテーマを選び出している。昔々のことを議論していても、海南島に置かれた蘇軾の境遇と当時の政治情勢がおのずと関係してくるので、ここの訳ではそれが見えやすいように原文よりもやや強調している。最初は春秋時代の范蠡を取り上げて論じた文章。一連の史論は、最初に史書からの要約文を掲げ、次に「蘇子曰く」以下に自分の見解を並べるという構成になっている。要約文は、歴史の基本的な知識を前提として要点だけを拾っているので、ここでは少し言葉を補って訳している。
［訳文］
春秋時代に越国の王であった句踐は、范蠡の補佐を受けて、宿敵の呉国を滅ぼした。范蠡は句踐の人となりを「長頸烏喙」（首が長く烏のくちばしのような容貌をした陰険な人物）であると評し、患難をともにすることはできても、安楽をともにすることはできないとして、大臣の職を辞し、海に船を浮かべて斉国に行き、斉国のために働き、さらには商人に転じて富豪となった。越国を去った後に、范蠡は越国に残った大臣の種に「昔からの諺に『飛ぶ鳥を射尽くしたなら良い弓も死蔵され、すばしっこい兎が死んだなら猟犬も烹て食べられてしまう』といいます。あなたも去るべきでしょう」と、手紙に書いた（後に大臣の種は句踐に殺された）。
蘇子曰く――
范蠡はその君主の面相を評したけれど、私が観るところ范蠡もまた「長頸烏喙」である。財貨を好むのは天下の賤士（品性において卑しい人間）である。范蠡ほどの知恵者がどうして財貨を集めて積み上げたのだろうか。范蠡は父子で力を尽くして海辺の地を開拓して千金を得ると、それを貧乏人に分け与え、また別の事業で財貨を積んだ。どうしてそのようなことをしたのだろうか。才能があり余るほどにあったために、一つの事業に成功して名声を得たならそれで引退するということでは満足できなくて、いつまでも何かをし続けようとして、結局は自分をそこから解放できなかったのではないだろうか。もしも句踐が范蠡をずっと用い続けることができるほどに度量の大きな人物であったとしても、范蠡は越国で最後まで静かに留まってはいなかったであろう。だから范蠡は「長頸烏喙」であると私はいうのである。
後の戦国時代に、趙の都の邯鄲が秦国軍によって包囲されたときに、中にいる平原君を救うために魯仲連は策を用いて弁舌によって秦国軍を退却させた。その謝礼として、平原君は領地を与えようとしたが魯仲連は断り、さらに送別の宴で千金を与えようとしたときにも、魯仲連は笑って、「天下の士が貴ぶのは、人の困難を救って、何も取るところがないということです。もし何かを取ったなら、それは商売です。私にはそのようなことはとてもできません」と言って立ち去った。そして魯仲連は二度と平原君と会うことはなかった。後に魯仲連は海辺の地に逃れ、「私は富貴の身となって人に屈んで仕えるよりは、貧乏であっても世間の人を軽んじて思うところのままにしていたいのだ」と言った。
もしも、范蠡が越国から魯仲連のような去り方をしていたならば、范蠡も聖人から遠くはなかったといわれたであろう。春秋時代から、用捨進退（出処進退）が范蠡ほどにみごとだった者はほとんどいない。それでも足りないところがあったのだ。私は幾度も嘆息し、深く悲しむのである。
［補足］（「財貨を求めるのは賤士である」とは旧中国における伝統的な価値観である。学問を身に着けた士大夫は義のために行動し、金によって左右されてはならないのである。だから、建前として商人の子弟には科挙の受験資格がなかった。蘇軾の家は祖父の代までは商人で、父の蘇洵も若いころは学問に背を向けて商売をしていたと推測されていて、商人には商人なりの倫理性があることを蘇軾は承知していたはずである。だから、一国の大臣として大きな仕事をした後に民間の事業家としても成功してしかも財を貪ることがなかった范蠡を、蘇軾も若い頃は高く評価していた。しかし、海南島に流された蘇軾は、あり余る才能があるがために身の処し方が聖人から遠ざかってしまったと、我が身に引き寄せて范蠡のことを敢えて「長頸烏喙」を評したのであろう）
■論養士
［解題］春秋時代の終わりから戦国時代にかけては諸国が入り乱れて争い合い、どの国も敵に勝つために必要となる有用な人材を集めることに熱心で、上の論考の後半でその名が挙げられていた平原君（趙国の王子で本名は趙勝）は多数の食客（何らかの才能を持つ居候）を抱えていることで名高く、その中の一人であった魯仲連によって国家の危機を脱することはできたのである。蘇軾は、当時盛んであった才能ある人士を抱えて養うという風潮についてここで論じている。
［訳文］
春秋時代の終わりから戦国時代に至るまで、諸侯や大臣は皆が争って士を養った。謀略家や弁舌の輩、天を論じ竜を語る者、白馬は馬ではないと強弁する者などを始めとして、下は剣を撃ち、鼎を持ち上げ、鶏の鳴きまねをし、犬泥棒に至るまで、数多くの者が賓客として招かれ、よい衣を着て、旨い物を食べて、立派な屋敷に住まわせてもらった。
越国王の句踐のもとには君子が六千人いたというし、魏国の無忌、斉国の田文、それに趙勝（平原君）、黄歇、呂不韋のもとにはどこも客人が三千人もいた。なかでも田文はごろつきの任侠者を六万家も薛に招致し、斉国の稷下には遊説家が千人も集まっていた。魏国の文侯や、燕国の昭王と太子丹も無数の客人を招いていた。さらには秦朝から漢朝の間に至るまでに多くの士が知られ、賓客から炊事をする者まで皆が天下の豪傑であるといわれた。とりわけ田橫のもとには五百人の士がいたのである。
史書に記されているのをざっと見ただけでもこれほどいたのだから、その他の者も入れたなら、官吏の倍、農夫の半分くらいもいたのではないだろうか。これらがすべてもしも国に害をなす姦民であったなら、民衆はとても国を支えられないし、国家も耐えられるわけがない。
蘇子曰く――
このようなことは先王（伝説的な聖天子）もまた免れることのできない難問であった。国に姦人（心がねじけて正しくない者）がいるのは、鳥や獣に獰猛なものがいたり、昆虫に毒をもつものがいたりするのと同じである。それぞれを区分けして、しかるべきところおさめておく以外にないのであって、根こそぎ取り除くようなことはできない。
世の変遷を考えるに、春秋時代に六カ国が長く併存し、一方で秦が天下統一を果たしたものの急速に亡んだ理由はきっとここにあるので、検討しみなければいけない。
智、勇、弁、力のいずれかを具えた者は天下の秀傑である。粗末な衣食でもってしてはそれらの者を養うことはできないので、人の上に立つ役を与えて養うようにしなければならない。だから、先王は天下の富貴をこれらの四者とともに分かちあったのである。これらの四者が職を失わなければ民は安らかでいられる。四者はそれぞれ異なりはするが、先王は時代の風俗に従って法を設け、四者の出所を一つに定めた。三代（夏、殷、周の三代の王朝の最盛期、すなわち儒学が説く理想の時代で、その君主が先王）以降は学校から出て、戦国時代から秦代にかけては客人から出て、漢代以後は郡県の役人から出て、魏代、晋代からは九品中正法によって出て、隋代、唐代以降今に至るまでは科挙から出て、すべての秀傑を尽くすわけではないにしても、その多くを国家が取って、政事を論じてきたのである。
春秋時代の六カ国も民衆を虐用していたことでは、秦の始皇帝や二世皇帝よりもましだったわけではない。しかし、そのころには民衆に一人も叛く者はいなかった。民衆の中の秀傑な者の多くは諸侯によって客人として養われていて、職を失わなかったからである。力を尽くして耕して上に奉仕するのは、特段の才能のない凡人で、怨みを抱いて叛こうとしても、それを先導する者がいなかったから、六カ国は小康状態を得て亡びることはなかったのである。
秦の始皇帝が最初に客人を放逐しようと考えたときには、宰相の李斯の提言でそれを止めたのだが、天下統一を成し遂げると、客人は無用であるとされた。もはや国の統治は人に任せるのではなく、法に任せるということになった。民衆は法によって治めればよいのであるから、才能のある者を役人として取る必要はなく、とにかく法を守る者を取ればよいと考えたのである。それで堅牢な城を破壊し、豪傑を殺し、民衆の中で秀異な者もばらばらにして農地に帰したのだった。かつて各所で食客となっていた士はどこに行ったのか。枯れ木のように痩せ細り、ぼろ布にくるまって老死したのだろうか。あるいは、農地にあって嘆息しつつ、時がくるのを待ったのだろうか。秦の乱れは二世皇帝のときに起こったのではあるけれど、始皇帝が智、勇、弁、力を具えた者を畏れて、上手に対処して失職させなければ、秦はあれほどまでに早くに亡びはしなかったであろう。百万頭の虎や狼を山林に追いやって飢えさせたなら、いつ人を噛むとも知れないのである。世間の人は始皇帝は智者であったというけれど、私はそれを信じない。
秦が滅んで楚と漢が争った禍によって民衆はほとんど尽きるばかりになり、豪傑もわずかになってしまったのだが、陳豨のもとには賓客に供する車が千台もあったという。蕭何や曹参が国政を担っても、客人を養うことを禁止しなかった。文帝、景帝、武帝の世には法令が厳密化されていったけれど、呉王、淮南王、梁王、魏其、武安といった者は皆が争って賓客を招き、代々の皇帝はそれを問題視しなかった。秦の禍に懲りて、国家の与える爵祿だけでは天下の士の全てを繋ぎ止めておくことはできないとして、少しく法令を緩めて、食客として養うことを許したのであろう。
さても先王の政はこのようではなかった。孔子は「君子が道を学べば人を愛するようになり、小人が道を学べば国の用に立ちやすくなる」と言った。民衆の教化こそが根底にあるとしたのであって、秦や漢の及ぶところではなかったのである。
［補足］（智、勇、弁、力などの才能がありながら、社会の底辺に放置され、虐げられた結果、国を怨み、反逆に及ぶということがおおむねすべての王朝の末期に見られた。唐を滅亡に導いた大乱を起こしたのは、科挙に落第した黄巣であったのはその象徴的な事例である。ここでは、秦や漢は先王に遠く及ばなかったと最後に記しているが、蘇軾が見る宋代の現実はどうであったのか。蘇軾の目の前には虐げられている海南島の民衆がいて（本章38ページ）、そのことがここでの論説と無関係だとはいえないだろう。そして、『水滸伝』のもとになった梁山泊を拠点とした民衆反乱が勃発したのは、これからわずか22年後のことであった）
■論商鞅
［解題］上の史論で戦国時代の諸侯は熱心に士を集めたということを見たが、秦国に用いられて、国政の大改革を行った商鞅ついてここでは論じている。ただし、力点は後半の桑弘羊批判のほうにあるのだろう。桑弘羊は漢の武帝のもとで大胆な経済政策を主導した人物である。
［訳文］
商鞅が秦国の孝公に用いられると、法を変えて令を定めた。それを行うこと十年で、治安がよくなり、国力も増したので、秦の民は大いに悦び、道に物が落ちていても拾う者はなく、山に盜賊はなく、家ごとに必要な物が足りて、民は勇んで公のために戦い、私的な闘争をしなくなった。秦国は富強になったので、周の天子は孝公に贈り物をし、諸侯は祝賀した。
蘇子曰く――
この論述は、戦国時代の遊説の士の邪説、偽りの論である。司馬遷は大道に暗い（真偽の見定めが甘い）ために、その説を採用して、上のように『史記』に記した。
私が考えるに司馬遷には二つの大罪がある。
第一の罪は、道学を先にして、儒学の『六経』をその後にし、学問の士よりも姦雄を重んじたことである。ただし、これはまだしも小さなものだ。
第二の大罪は、商鞅や桑弘羊に功績があるかのように論じたことだ。漢代以降、学問をする者は、商鞅や桑弘羊を口にすることを恥じたけれど、代々の皇帝は独り商鞅、桑弘羊に心服し、表立ってはその名を挙げなくても、実際にはその本質を用い、ひどい場合には名実ともにそれを手本として、同じような成功を得ようと願った。これが司馬遷の罪である。
秦国はもとから天下の強国で、孝公は志のある君主であった。孝公が熱心に政治に努め、十年の間に遊びに耽って怠るようなことがなければ、商鞅がいなくても秦国が富強にならないことはなかったはずである。秦国が富強になったのは、孝公が農業を基本としてそれに力を注いだ功績であって、商鞅が過酷な法によって民に血を流させ、民の骨を刻んだ功績によるのではないのだ。後に秦国が民衆から狼や毒薬のように憎まれ、一人の男が反乱を起こして、秦の王室に一人の子孫も残らないまでに至ったのは、商鞅が実にそれを導いたのである。
桑弘羊に至っては、わずかな才能も、ちっぽけな知恵も、何もないのに、司馬遷はそれを称えて、「税金を加えることなく、国家の用を満たした」と書いた。それに対する司馬光の次の言葉は立派である。「天下にこのような理があるはずがない。天地の間に生じる財貨、百物には一定の量が決まっている。一定量であるのだがら、それが民にない分は官にあることになる。譬えていえば、雨の恵みと同じで、夏の雨が多ければ、秋には日照りになる。税金を加えずに、国家の用を満たしたというのは、法を設けてこっそり民の利を奪ったのであって、その害は税を課すよりもひどかったのである」
天下に商鞅と桑弘羊の二人の名があるのは、蛆虫や汚物が天下にあるようなものである。その名を言うだけで口が汚れ、その名を書けば紙が汚れる。二人の術を世に用いるなら、きっと国を滅ぼし、民を害い、一家が転覆して身を亡ぼすのである。しかし、代々の皇帝がそれに心服するのはどうしてなのか。その言説が己に便利であるのを楽しむからである。
そもそも堯、舜、禹は皇帝が父師として仰ぐべき聖人である。また、諫言を申し述べて政治を輔弼する者は皇帝にとっての薬石である。恭敬慈倹、勤労憂畏は皇帝の身を抑制する縄である。皇帝が日々に父師に臨み、薬石に親しみ、縄を付けているのは、楽しいとするものではないであろう。だから、商鞅や桑弘羊の術を用いようとする者は、必ず先ず堯を卑しみ舜を笑い禹を見下して、「賢主は、天下を己にとって都合のよいものにする」と言うのである。だから代々の皇帝が心服して、その非を悟らないのである。
世の中には鍾乳やら鳥喙やらの仙薬を飲んで、酒色をほしいままにしつつ、長生きを求める者がいる。それは晋代の何晏から始まったのだろう。何晏は若くして富貴になり、寒食散という薬を服して、欲望のままに生きようとしたのは、怪しむまでもないつまらないことであるが、同じようにして結局は己の身を殺し、一族を滅亡させる者がその後に続いた。寒食散で死ぬのは不幸ではないのか。自分だけはうまくゆくとどうして考えてしまうのか。世の中で寒食散を服して、背中が腫れて血を吐いて死ぬ者がたくさんいたのは、商鞅、桑弘羊の術を用いて国を破滅させたのがたくさんいたのと同じではないのか。しかし、それでも悟らない者がいるのは、その言説が魅惑的であるのを楽しんで、その禍が激烈であるのを忘れてしまうからなのだろう。
［補足］（ここで異様なまでに口汚く商鞅と桑弘羊を批判しているのは、もちろん王安石が始めた改革を念頭に置いているからである。精緻な法によって国家を統治し、国が経済政策を推進して経済成長をはかるというやり方は、儒学の徳治主義とはもとより折り合いが悪く、王安石が改革を提案した最初から保守派は商鞅を持ち出して激しく批判していた。ここに引用されている司馬光の言葉は素朴な農本思想に基づくもので、農業生産量が一定であるならば、国家の収入を増やす手立ては民から搾り取る量を増やす以外にはないであろう。桑弘羊にしても王安石にしても、農業も含めた経済全体の規模を拡大することによって、国家の収入を増やそうとしたのであって、実際にそれは成功したのである。儒学の基本教科の中に経済理論は入っていなかったので、宋代の士大夫の多くは経済に無知で、王安石はまれな例外であった）
■論封建
［解題］広大な中国大陸をどのように統治するのか、旧中国においては、封建制と郡県制のどちらがより優れているのかが、長く議論される大命題であった。封建制は、各地に世襲の王を置いて半独立国家として分割統治するやり方で、郡県制は、中央政府が郡や県の地方組織の長官を任命して派遣して中央集権で統治するやり方である。周代には封建制が行われ、始めはよく統治されたものの、中央からの統制が緩むにつれて半独立国同士が争い合うようになり、ついにはそれぞれが実質的に独立した国家となって果てしない争奪戦を繰り広げるに至った。そうした春秋時代、戦国時代の長い長い闘争の時代を経て秦の始皇帝が天下を統一したときに、郡県制を採用した。ここではそのことを論じている。
［訳文］
秦が初めて天下を一つにしたとき、丞相の王綰等がこのように言った。
「燕、斉、荊の地は遠くにあって、王を置かずには鎮めることはできません。どなたか御子息を王としてお立てください」
始皇帝はそれについて臣下に議論させた。群臣は王綰等の提言が便にかなっているとしたのだが、廷尉の李斯だけはこのように言った。
「周の文王、武王が封じた子弟や同姓の者は非常にたくさんいました。それが後に互いに疏遠になるにつれて、攻撃し合って、仇どうしのようになって、諸侯はこもごも誅伐し合うようになり、天子をそれを止めることができませんでした。いま天下は陛下の神霊によって一つになり、どこにも郡県が置かれました。御子息や功臣に対しては賦税であつく賞を賜われば十分であり、その方がずっと制御しやすいでしょう。天下に異志を抱く者はなく、それが安寧の術であります。諸侯を置くのはよくありません」
始皇帝は言った。
「天下が戦闘に苦しんで休むときがなかったのは、王侯がいたからである。宗廟の霊威によって天下は初めて定まった。そこでまた国を立てるのは、戦争のもとを樹てることになるのであって、安寧、休息を求めるのを難しくするだけだ。李斯の意見をよしとする」
かくて天下は三十六郡に分けられ、郡には守、尉、監（中央から派遣される官僚）が置かれた。
蘇子曰く――
聖人といえども時勢を作ることはできない。しかし、時勢を失うことはなかった。時勢は聖人の為すところではなく、できるのは時勢を失わないことだけである。
夏、殷、周の三代の隆盛期には諸侯には罪がなく、その権を削ったり奪ったりすることはできなかった。だから、諸侯を廃して郡守を置こうとしたとしてもできるものではなかった。これがいわゆる時勢を作ることはできないということである。周が衰え、諸侯が並び立ち斉国も晋国も秦国も楚国もいずれも千余里の広さがあり、その勢いは諸侯が国境を建てるに十分であった。かくて七国の全てが王を称し、それぞれの王が天子の行うことをするようになった。そして、諸侯のもとでは公卿の家が強くなった。魯国では三桓が、晋国では六卿が、斉国では田氏が強くなった。それが長く続き、世は諸侯が並び立つことから生じる禍を畏れたので、それを知っていたのは李斯や始皇帝だけだったわけではない。始皇帝は天下を一つにして、郡邑に分けて守宰を置いたのは、もとより理の当然であって、冬には毛皮を着て夏には葛布を着るのと同じで、時勢の流れに合うもので、それは独りの私見によるものではないのだ。これがいわゆる時勢を失わないということである。しかし、それをよくないとした者も多くいたのだった。
漢の高帝はかつての六国の後継者を諸侯として立てようとしたときに、張良だけはよくないと言って、世の中にほかには非とする者はいなかった。李斯の論と張良の論は同じである。世間の者は結果として成功したか失敗したかで是非を判断する。高帝は張良の意見を聞くと、封建を薦めた者を罵倒し、諸侯をまた立てるのは不可であるのを明確に知ったのだった。しかし、それでも高帝は韓、彭、英、盧を王に立て、張良もまたそれに関わったのである。このようなことから、柳宗元は「封建は聖人の意ではなく、時代の勢いによるものである」と言ったのである。
昔から封建を論じた者では、曹景、陸機、劉頌を初めとして、唐の太宗のときに魏徴、李百薬、顔師古がいて、その後に劉秩、杜佑、柳宗元がいた。柳宗元の論が出ると、もはや議論はそれで終わって、たとえ聖人が出ても、その説を覆すことはできなくなった。だから私も柳宗元の説に次のように付け加えるだけである。
人に血気があると必ず争い、争いは利を巡って行われ、得る利が最も大きいのが己の国を建てること、つまり封建である。封建は争いの端緒となり、乱の始まりである。大昔から、臣が君主を殺し、子が父を殺し、父子兄弟が殺し合うのは、みな世襲の地や位の争いからである。三代の聖人が礼楽をもって天下を教化し、刑罰を用いなくてもよいようにしても、やはり殺害して簒奪する禍はなくならなかった。漢代に至るまで、君臣、父子が殺し合ったのはいずれも諸王や諸侯の子孫や公卿などの世襲の者であった。近世になって封建がなくなると、こうした争いはほぼなくなった。仁人や君子はまたこうした殺し合いを聞きたいと思うであろうか。それで私は李斯と始皇帝のことば、そして柳宗元の論は万世の法であるとするのである。
［補足］（秦の始皇帝は民衆を虐げた暴君として史上に名高く、蘇軾も常に批判の対象としているのだが、封建制を廃したことについては高く評価している。封建制を廃したことによって世襲の領地や位を争うことがなくなったと言っているのだが、世襲をめぐる最も悲惨な闘争は皇族の間でなされてきたという明白な事実を蘇軾は無視している。封建制よりも皇帝制を廃することの方がより「万世の法」であるように思われるのだが、旧中国の人々はなぜかそのような論説を建てることを思い付かなったようである。もっとも、思い付いても書けなかったろうし、書いても世に伝わることはなかっただろう）
■論范増
［解題］秦の始皇帝は封建制を廃止し、安定した中央集権体制を作り上げたかに見えたが、始皇帝が死んで間もなく、秦の暴政を憎んで人々が各地で蜂起し、大混乱に陥った。その中から、一気に頭角を現したのが楚の項羽と漢の劉邦であった。ここで蘇軾が取り上げるのは、項羽が飛躍する大きなきっかけを作った范増という戦略家である。蘇軾が最初に引用するのは、項羽と劉邦の争いもいよいよ決着がつきそうになったころのこと、范増が項羽のもとを去る場面である。
［訳文］
漢の劉邦は陳平の計略を用い、楚の項羽の君臣関係にひび割れを起こそうとした。項羽はその謀略に踊らされ、范増が漢と内通しているのではないかと疑い、少しずつその権限を奪った。范増は怒って言った。
「天下の事は大方これで定まりました。後は王様が御自分でなさればよいでしょう。私は引退を願い、兵士の間に帰らせていただきます」
帰ってまだ彭城に至らないうちに、背中に腫れ物ができて范増は死んだ。
蘇子曰く――
范増が去ったのはよろしい。去らなければ、項羽はきっと范増を殺したからだ。私が残念に思うのは、去るのが遅かったことだ。
ならば、いつ去ればよかったのか。
項羽が関中（秦の根拠地）に入って、先にそこを占領していた劉邦と会ったときに、范増は劉邦を殺すように言ったが、項羽はそれを許さなかった。それによって項羽はついには天下を失うことになった。まさにこのときに范増は去ればよかったのだろうか。
それは違う。范増が劉邦を殺すべきだと言ったのは、項羽の臣下としての務めからであった。項羽が劉邦を殺さなかったのは、項羽にも人々の上に立つ君主としての大きな度量が具わっていたからだ。自分の提案が斥けられたからといって、このときに范増が去るべき理由はなかった。
『易経』に「きざしを知るにはほとんど不可思議な力がいる」とあり、『詩経』には「かの雪の降るのを見ると、最初には霰がある」とある。物事にはそれとは知れにくいきざしがあるので、范増が去るべきだったのは、もっと以前、項羽が宋義を殺したときだったのだ。
秦に対して最初に反逆した陳渉が民衆の支持を得たのは、秦の暴政の犠牲になった項燕や扶蘇の名を掲げたからであった。項羽が勢いを得たのは、やはりかつて秦によって殺された楚の懐王の孫（義帝）を盟主として立てたからであって、後に諸侯が項羽に背いたのはその義帝を項羽が殺してしまったからだ。義帝を盟主に立てた謀の中心人物は范増であって、義帝の存亡は楚の盛衰に関わっていただけでなく、范増の禍福とも一致していたのだった。義帝が亡びなければ、范増もまた長く生きていられたのである。
義帝の信任の厚い人物であった宋義を項羽が殺したのは、後に義帝を殺すことになるきざしであった。そして、義帝を殺した項羽は、そのときから范増を疑い始めたのだ。陳平の計略を待つまでもなく、項羽はすでに范増を疑っていたのである。物はまず腐って、後に虫がわく。人はまず疑念が生じて、そこに讒言が入りこむ。陳平がいかに智恵者であっても、もとから疑念のないところにひび割れを生じさせることはできないのだ。
私はかつて義帝は天下の賢主であったと論じたことがあった。義帝は劉邦だけを関中に派遣して、項羽を派遣しなかった。義帝は大勢の中からすぐに宋義を見出し、将軍に抜擢した。賢人でなくてこのようなことができるはずがない。項羽が無理やり宋義を殺してしまったことに、義帝はきっと耐え難い思いであったに違いない。項羽がもしも義帝を殺さなかったならば、義帝が項羽を殺したに違いない。それは誰でもわかることであろう。義帝を立てることを項羽の叔父の項梁に最初に勧めたのは范増で、それによって諸侯は義帝に服従するようになった。天下統一の道半ばで項羽が義帝を殺したのは、范増の意に適うものではなかった。意に適わないどころから、きっと懸命に止めたはずで、それでも項羽が聴かなかったのだろう。范増は自分の考えが用いられずに、自分が立てた盟主を殺されてしまったのである。だから、項羽が范増を疑い始めたのはこのときであったに違いなのだ。
項羽が宋義を殺したときには、范増と項羽は肩を並べて義帝に仕えていて、二人の間に君臣の関係はまだ定まっていなかった。范増のために最善の策を考えると、そのときに范増に十分な力があったなら項羽は不義を為す者であるとして誅するのがよく、それができないのだったら去ればよいのだった。それでこそ毅然とした大きな人間なのである。そのとき、范増はすでに七十歳であった。考えが合致するなら留まり、合わないのなら去る、そうすればよかっただけなのだ。このときに、去就の判断を明確にしなくて、項羽に頼って己の功名を立てようとしたのは、実に浅い分別であったのだ。
とはいえ、范増は劉邦が畏れた人物で、もし陳平の計略が当たらずに、范増が項羽のもとから去らなかったなら、項羽は亡びなかったのだ。嗚呼、范増はやはり人傑であったのだ。
［補足］（史書にしるされている范増の事績はほぼここに尽くされていて、歴史の中でそれほど目立った活躍をした人物ではない。蘇軾がここで范増を取り上げたのは、己が去就の判断をすべききざしはいつの何であったのかと、海南島でつらつら考えるところがあったからなのだろう。かつて、王安石が始めようとしていた改革に対して蘇軾は論戦を挑み、しかし実のある議論ができないままに杭州の副知事として都を去った。そのころの詩では、帰隠すべきときを誤ってはならないということを繰り返し歌っていた。それから28年、蘇軾は依然として帰郷を果たさずにいて、范増がそうであった年齢、70歳に近づきつつあったのだ）
■小児得效方
［解題］寓話集『艾子雑説』から幾つかの小咄を拾い読みする。先の史論で見たように、春秋戦国時代の諸侯は有能な士を招くことに熱心で、斉国の宣王のもとにも常時多くの人が集まり、孟子もその一人であった。艾子という人物もそのなかにいて、その逸話を集めた書物が『艾子雑説』であるという。艾子の名を伝える書物は『艾子雑説』しかなく、艾子は実在の人物ではない。さらに、『艾子雑説』は蘇軾の作だと断言する学者もいるものの、偽作だと疑う人も多い。ここでは、蘇軾が海南島での徒然に茶飲み話として人々を楽しませるために語ったとして読んでみることにする。いつもの「ずっぽ訳」を超えての翻案である。
［訳文］
海南島でのとある午後、いつものように東坡先生のちっぽけな家に客人が膝を突き合わせていた。その日は、酒はおろか食べる物もろくになかったので、話でもってもてなすしかあるまいと、先生はたいそう真面目な顔を作って、このように話し始めた――
昔むかしのこと、斉国の宣王のもとにお仕えする艾先生とおっしゃるまことに立派な学者がいたそうだ。宣王は先生の話を聞くのを何よりの楽しみとしていたのだが、その日に限って先生はひどく浮かない顔をしておったので、王が怪しんで尋ねると、先生はこのように答えた。
「臣には幼い子がありまして、不幸にして病気になってしまいました。これからは息子とともに過ごしたいと思いまして、お暇乞いをさせていただこうかと……。ただ、朝廷において大王様のご相談相手となる者がいなくなってしまうのではなかろうかと、それが心にひっかかっておりまして、どうにも申し上げかねていたのでございます」
王は言った。
「どうしてもっと早くに言ってくれなかったのだ。わしには良い薬がある。それを飲めばすぐに治るであろうに」
王は薬を持ってこさせ、先生に渡した。
先生はそれを有難く拝受し、家に帰ってすぐに息子に飲ませた。ところが、とたんにころりと死んでしまった。
あくる日、先生が非常に悲しんでいるのを見て、王はその理由を尋ね、驚いてこのように言った。
「そなたの子が亡くなったのはまことに痛ましいことである。そなたに黄金を与え、葬儀の助けといたそうぞ」
先生は言った。
「息子が早死にしましたのは天命でございましょう。大王様が黄金を賜るには及ばないことでございます。ただ、臣にはひとつだけ頂戴したいものがございます」
「それはなんじゃ」
「先に息子に与えた薬の作り方にございます」
――東坡先生がそこで話を切ったので、客人の一人が、
「艾先生はその薬を誰に飲ませたかったのでしょうか」
と、尋ねると、先生はにやりと笑って答えなかった。
■苜蓿
［解題］『艾子雑説』からの一篇。
［訳文］
東坡先生が言うには、
「この島は、まことに結構なことに、畑にはいつでも摘める葉がある。かつて斉の地にいたときには、春が深まってもなかなか草の芽が出てこないので、青い物がことのほか恋しくてならなかった。艾先生もきっとそうだったのだろう」――
ちょうど立春のときに、村のある老人が青い物を篭いっぱいに摘んで、艾先生のところに届けにきた。
「先生が青い物を恋しがっていると聞きまして、これを持ってまいりました。この春の初物です。誰もまだ食べていないうちに、特に先生にお薦めいたすのでございます」
先生は大いに喜び、篭の中をのぞいたのだが、それが何の葉であるのかを知らなかった。
「これはこれはわざわざかたじけない。して、これは何というものでありますかな」
老人は目を丸くして、
「あれ、まあ、苜蓿でございます。先生は偉い学者様で何でもご存知だと思っておりましたが、苜蓿もわからないのでございましょうか」
「左様、左様、苜蓿、苜蓿。もちろんわかっておったのだが、念のために聞いてみただけだ。こいつはなかなか結構なものだ。さっそく夕餉の膳にでも頂戴いたそう」
と、受け取りながら、老人がもうひとつの篭を門のところに置いていたのを見て、
「これを私のところに最初に持ってきて、さて、あちらはどなたのところへ持って行くのですかな」
「ああ、あれですか。これを先生に差し上げた後で、あれはうちの驢馬に食わせますので」
――ここで、ちょっと間を置いてから、一同は笑った。
「苜蓿（うまごやし）といったら、馬の餌にする牧草でございましょう。この島にはないものですから、我等が知らなくても仕方ないとしましても、やはり学者というものは世俗のことはとんとご存知ないという皮肉なお話ですな」
と、客人の一人が言ったので、
「まあ、そういうことなのだろうが、艾先生が苜蓿を知らなかったのは、実は何の不思議もないのだ。苜蓿が西方からわが国に伝わったのは漢の時代、艾先生より数百年も後だからな」
■三藏、二媼讓路、百銭独載
［解題］『艾子雑説』から三篇まとめて。
［訳文］
東坡先生が言うには、
「酒飲みというのは、どうやら、酒があればあるだけ飲んでしまうものであるようだ。酒癖の悪さを治す最高の良薬は貧乏であるということを艾先生はどうやら知らなかったのだろう。艾先生は毎日しこたま酒を飲み、しらふでいることはまずなかったので、弟子たちは先生のことをたいそう心配しておったそうだ」――
ある日、艾先生の門弟が顔を突き合わせて相談していたのは、
「先生の大酒飲みにはどうにも困りましたなあ。あれでは、いつかきっと酒の上で大変なしくじりをなさるか、お体を壊してしまいますでしょう」
「ここはどうにかして我らが止めないとなりますまい」
「そうだなあ。酒が過ぎるととんでもないことが起こると、実際に先生にご覧に入れ、ひどくびっくりさせて、脅すというのはどうでしょうか」
こうして皆が知恵をしぼったその日も先生は酒をしこたま飲み、それはいささかたちの悪いものだったのか、盛大にへどを吐きちらかして、そのままころりと眠ってしまった。
門弟はそのへどの中にこっそり豚の腸を混ぜておき、翌朝、先生が目覚めると、夕べの惨状を見せ、
「人というものは五臓が揃っていてこそ生きていられるのです。先生は飲みすぎて、このように臓器を一つ出してしまわれました。いまや四つの臓器しか残っていません。これでどうやってこれから生きていかれるのですか」
先生はじっと見ていたが、
「唐の三蔵（臓）法師だってちゃんと生きておった。まして四っつもあれば十分ではないか」
と、言って大いに笑った。
――東坡先生は話し終わると、聞いていた一人が、
「これは先日の苜蓿よりひどくないでしょうか。三蔵法師が天竺に渡ったのは唐の玄宗皇帝の時代でありましょう。話に千年の違いがあるではありませんか」
「艾先生が泥酔していた間に千年くらい経ったのかも知れぬ。それはそれとして、こういう話もある」――
艾先生はあるとき旅に出て、邯鄲に行こうとしていた。
道の真ん中で、二人のお婆さんが互いに路を譲ろうと、遠慮し合っていた。いつまでもそれが続くので、先生はそこから先に進むことができなかった。
先生は二人の間に立ち、
「何はともあれ、年齢が上の方が先に行かれたらどうでしょうか」
すると、二人は互いに相手が上だとわあわあ言い合った。
先生は二人をしずめ、
「じゃあ、聞くけれど、あんたはいくつなのだ」
先生が一方に尋ねると、
「あたしは七十です」
もう一方に尋ねると、
「あたしは六十九です」
「じゃあ、話は簡単じゃないか。あんたが先に行けばよいのだ」
先生が七十歳の方にいうと、
「冗談いっては困ります。いまはたまたまあたしが七十ですけれど、来年になったらあっちは七十、再来年になったら七十一です。もうすぐ向こうが歳上になると決まっているのだから、ここは譲らないわけにはいかないのです」
――東坡先生は、客人がぽかんとしているのを見て、
「この話はあまり出来がよくなかったかな」
一人が困ったような顔で、
「数字が合わない話の続きとしましても、これを笑うのはちょっと無理かもしれません」
「では、こちらはどうかな」――
これは艾先生が旅をしていたときに見かけた男の話。
男は徒歩で呂梁から彭門にまで行こうとしていて、歩き疲れてへとへとになってしまった。ちょうど客待ちをしている船頭がいたので、
「どうだい、五十銭で乗せてくれないかい」
と言った。
船頭は、
「彭門までなら一人が百銭の決まりです。何が品物をくれるのでしたら、その分をおまけしますが、五十銭じゃあ、たったの半分だ」
「見ての通り、何も持っていないし、銭はこれしかない」
「それじゃあ、だめですな」
「そこをなんとか乗せてはくれないか」
男が懸命に頼むので、船頭は少し考えて、
「仕方あるまい。だったら、この舟を彭門まで引っ張ってくれるのなら、半値に負けておきましょうかな」
■斉王築城、獬豸
［解題］『艾子雑説』から二篇。
［訳文］
今日も東坡先生のところに三々五々客人が集まってきたのだが、先生は留守だった。客人たちは自分たちがいかに学問好きであるかを先生に知ってもらおうと、先生がいなくても大真面に、本当の名君とはどのような人物であるかということを議論し合った。
「名君とは民の幸福を第一に考え、長い将来にわたって国家が安寧であるような策を建て、それを実行し、なおかつ臣下の言葉によく耳を傾ける人であろう」
おおむねそのような結論に達したときに、東坡先生は帰ってきて、次のような話をした。――
斉国の宣王は、ある朝、ことのほかいつもより胸をそびらかして大臣たちを見回すと、おもむろに言った。
「吾が国は幾つもの強国に囲まれ、毎年のように戦争にまきこまれ、民はそれに備えるために非常な苦しみを味わっている。今朝、わしはすばらしいことを思い付いた。国のまわりに大きな城壁を築くのだ。東の海から始まり、ここ即墨をすっかり囲んでから、西は太行山脈のへりに沿って北に延び、軒轅に接し、武関に至るのだ。連なるところ四千里、これによって諸国とは隔絶し、秦国は吾が西側を窺うことができず、楚国は吾が南側を竊むことはできず、韓国、魏国は吾が左右を脅かすことができない。実に大きな利がある。城壁を築くためには、民衆にいかさか苦労をしてもらわないとならないが、完成したならば、攻撃に出たり侵略されたりする患いはもはやなくなり、永遠に安心していられるようになる。わしのこの長久の策を聞いて喜ばない者はいないだろう」
王の大演説が終わると、大臣たちは微妙にうなずいて黙りこんでしまった。そのなかで、艾先生はこのように言った。
「今朝はことのほか雪がたくさん降りました。冬の大雪は来年の豊作を知らせる瑞祥にございます。まことに喜ばしく、私は大王様にお祝いを申し上げようと、宮殿へと道を急いでおりましたところ、道のかたわらに、裸で天を仰ぎつつ歌っている者がおりました。やはりこの者も瑞祥を下してくれた天に感謝しているのだろうと思い、何を歌っているのかと尋ねました。するとその者は、『大雪はまことに瑞祥であります。来年は麦が安くなって、人々は腹いっぱい食べられましょう。ただ裸のあっしは今年のうちに凍死してしまいましょうが……』。それで思いますに、いま城壁を築きまして、その後の安楽を享受できる民は何人いるのでございましょうか」
――東坡先生はさらにもう一つの話をした。
あるとき、斉の宣王は艾先生に尋ねた。
「昔は獬豸とかいうものがいたと聞いた。それは何物なのだ」
先生は答えた。
「堯の天下のときに神獣がいて、それを獬豸といいました。獬豸は宮中にいて、臣下に邪な者がいると、その者を襲って、食べてしまったといいます」
先生は答え終わってから、まわりの大臣を見回し、すっと前に進み出て、宣王の耳に口を寄せ、
「いまもしここにその獣がいましたなら、餌にはとんと困らないでありましょう」
■堯禅位許由、鬼怕悪人
［解題］『艾子雑説』からの二篇。
［訳文］
東坡先生のところに集まった客人の一人がこのようなことを言った。
「先生はある日舟を浮かべ、海の彼方に行ってしまったと、向こうではまことしやかな噂が流れていると聞きました。現に先生はここにこうしておられますのに」
東坡先生は、
「私を巡っては幾たびもおかしな話が世間に流れた。それを聞いても、いまさら驚くものではないが、もしかしたら、そのような根も葉もないことがあたかも事実であったかのようにして史書に記録されてしまうということもあるのかも知れない。ならば、史書も時には眉に唾をつけて読まないといけないのだろうか」
と、言って、次のような話をした。――
艾先生は弟子を集め、歴史の講義をしていた。
「昔、堯は天下を治めて老人になるまで休むことなく勤め、さすがに疲れを覚えたので、あるとき許由を呼んで天子の位を譲ろうとした。
許由が都に行って堯の住まいに入ると、宮殿とは名ばかりで、階段の高さは三尺しかなく、屋根の茅葺は切り揃えられておらず、棟木も寸法が合っていなくてがたがたで、床は埃だらけ、田舎の安い宿屋でもこれほどみすぼらしくはなかった。
堯は許由に食事を出した。粗末な土の茶碗に入っているのはほんのわずかな臭い飯、土の椀に入っているのは草だけの羹、田舎の監獄の飯でもここまで質素ではなかった。
食事が終わると、堯は許由に言った。
『吾が都の富と、天下で最も貴い位であるのだから、永く満足してもらえるだろう。どうだ、わしからの贈り物を受け取ってくれまいか』
許由は笑って答えた。
『それほどの富貴を私は愛するものではございません』
許由は足を洗うと、さっさと都から逃げ去った」
この話を聞いた弟子は不審そうな顔で、
「許由は、天下を譲るという堯の意向を耳にしただけで、けがらわしいことを聞いてしまったと、耳を洗ったのではなかったでしょうか。これではまるで逆ではありませんか」
「歴史の真実とはおおかたこのようなものなのだ」
――客人は、
「それにしても、富貴を貪る者にされましては、許由もさすがに怒るでありましょう」
「もしも怒るようなら、許由もそれだけの人物であったといえるだろう。それに、閻魔大王だって、その実像はこのようであったらしいからな」
と、東坡先生はもう一つの話をした。――
艾先生は水塗のあたりを旅していた。
小さいけれどたいそう厳めしく飾られたお宮があり、その前に溝があった。
艾先生が見ていると、一人の男がやってきて、溝を渡ろうとしたが、橋がないのできょろきょろとあたりを見回した。よしとうなずくと、お宮の中から大きな閻魔大王の像を持ち出し、それを溝に横たえ、踏みつけて渡った。
また別の男がきて、そのありさまを見て、
「大王様の像をこのようにないがしろにするとは、まったく罰当たりにもほどがある」
と、再三嘆きながら助け起こし、自分の衣で汚れを拭って台座の上にもどし、拝んでから立ち去った。
しばらくして、先生はお宮の中から、小鬼がこのように言うのを聞いた。
「大王様はこの地で神として祀られ、村人たちの祭祀を享けておられますのに、愚かな者に辱められ、どうしてそのままにしておくのですか」
大王は言った。
「そうか、わしは辱められたのか。ならば、罰を与えねばなるまい。とすると、さしずめ後から来た者に与えてやるとするか」
小鬼は言った。
「最初の者は大王様を踏みつけてひどいことをしましたのに禍をお与えにならなくて、後から来た者は大王様をお助けしたのにかえって禍をお与えになるとは、いったいどうしてなのでしょうか」
「後からきた者は、拝む前に香をたかなかったぞ。それは礼に反しておるではないか」
「確かに完璧ではなかったにしましても、最初の者の非礼に比べたら何でもないのではありませんか」
「はっきり言おう。最初の者はもとよりわしのことを信じていない。だから、わしからは禍を与えようがないのだ。後の者は馬鹿正直なところがある。だから禍を与えやすいのだ」
――客人たちは笑い、
「これは案外真実なのかもしれません。実際のところ、本当の大悪人は見逃され、罪に落とされるのは、実は善良な民ばかりということもあるようですからな」
と、言ったので、東坡先生はわざと渋い顔をした。
■改観音経語
［解題］『艾子雑説』からの一篇。
［訳文］
東坡先生は、ある日、妙に沈んだ声でこのような話をした。――
艾先生は、『観音経』を唱え、信心の大切さを人に説いてまわっている者の話を聞いた。
「あなたのことを呪って害ってやろうとする者がいましても、観音様のお力によって、きっとその呪いはその者のところに還ってゆきましょう。『観音経』を唱えるなら、どのような呪いからも逃れられるのです」
先生はその者に向かって、このように言った。
「仏様は本来、仁であって、遍く人に愛を及ぼすのではないでしょうか。一人を難から逃して、別の人に難を与えるということが果たしてあるのでしょうか。それではもとより愛がないのと同じなのではありませんか」
すると、その人は少し考えてからこのように言った。
「あなたのことを呪って害ってやろうとする者がいましても、観音様のお力によって、きっとその呪いは両方に及ぶことでしょう」
――東坡先生は大きく嘆息し、
「存外、これが世の中の真実で、観音様のお力によって、我等にはともにその呪いが及んだのであろう。そして、これからさらにあの人々にも呪いが及ぶのであろう。観音様の本当のお慈悲によって、いつかはそうしたことが終わるのであろうか」
客人たちは、先生がひどく悩ましげであるのを見て、何も言えなかった。
■牛頭、誅有尾
［解題］『艾子雑説』からの二篇。
［訳文］
ある日のこと、客人の一人が東坡先生に、獄中ではどのような酷い目に遭わされたのかと尋ねた。先生は首を振り、
「あのときの獄吏とはすっかり和解したのだから、もう何も言わずにおこう。多くの人は、獄中での酷い仕打ちから逃れるために、獄吏に袖の下を贈るようだが、私はそうしたことはしないで、先の皇帝陛下の特別な御恩によってお救いいただいたのだ。そのことだけは言っておきたい。そもそも我が口が原因で獄に置かれたのだから、どのような責め苦に遭っても、獄吏を恨むべきではないし、私を処罰しようとした人々を恨んだり、呪ったりしてはならないのだ。ああ、それで、いま思い出した話がある」――
艾先生は熱病に冒され、昏睡状態に陥った。夢ともうつつともわからぬままに、先生は閻魔大王のお裁きの場へと入り込んでしまった。
閻魔大王は殿上にあって厳かに執務をしておった。そこに数人の鬼が、役人の身なりをした一人の男を連れてきた。鬼が大王に告げた。
「この者は、人の秘密を探り出して、それをタネに罪に陥れてやるぞと脅して金品を奪ったり、何ら過ちのない者であっても巧みに罪状を作り上げたりして、法を使ってひたすら私腹を肥やしていました。その罪はいちいち数え上げるのも面倒なくらいにありますので、五百億万斤の柴で釜茹でにすべきであります」
大王は、
「よろしい。そのようにせよ」
と、命じた。それで、一人の牛頭の獄吏が来て、その者を仕置きの場へと連れて行った。すると、その者はこっそり牛頭にささやきかけた。
「あなたさまは何をなさるお方でございましょうか」
「わしは釜茹でを行う役人である。それだけではないぞ。獄中の事はほぼすべてわしが執り行っておるのだ」
「なるほど。獄のご主人様でございますか。それにしては、お召しになっているその豹の皮の褌は、どうしてそのようにくたびれているのでございましょうか」
「これか。恥ずかしいところを見られてしまったな。冥土というところには豹の皮がないのだ。現世において、誰かがわしのために豹の皮を焼いてくれたなら、新しい物が手に入るのだが、どうも人間たちにはわしの名が知られていないようで、誰も焼いてくれないのだ」
「それはまことにお気の毒にございます。実はそれがしの親戚に猟師がおりまして、その家には豹の皮ならいつでも何枚もあります。もしも、あなたさまがそれがしにご憐憫をお恵みくださって、柴の数を減らして、早くに現世に戻ることができるようにしてくださいましたなら、すぐに豹の皮を、そうですなあ、十枚ばかりも焼いてさしあげましょう。それで立派な褌をお作りになれましょう」
牛頭は喜んで言った。
「わかった、よい考えじゃ。おまえのために『億万』の二字を取り除いてやろう。そうすれば釜茹ではあっという間に終わる。ついでに、煮る熱さも三分の二くらいに減らしてやろう。よい湯加減になるじゃろう」
このようにしてその男は釜の中に入れられたものの、牛頭がしばしば様子を見に来るので、柴をくべる小鬼たちは牛頭がその男を庇おうとしているのだと知って、火をあまり強くしないで、しかもろくにまだ燃やさないうちに、柴は全部尽きたと報告した。
男は釜から出されると、衣服を整えて行こうとした。
牛頭は、
「豹の皮のことは忘れるでないぞ」
と、ささやきかけると、男は牛頭を見て、にやりと笑い。
「たったいま一首の詩を思い付きましたので、お贈りしたいと思います。」
牛頭獄主要知聞、（獄の主人の牛頭殿よ、よくお聞きなさい）
権在閻王不在君。（そなたは閻魔大王様の威を借りているだけ）
減刻官柴猶自可、（柴の量を減らすくらいはできるとしても）
更求枉法豹皮裩。（豹の褌のために法を曲げてならないのですぞ）
それを聞くと、牛頭は大いに怒り、男をもう一度釜に投げ入れ、柴を本来よりも二倍も三倍も増やして湯を煮えたぎらせた。
先生はそこで目覚め、このことを人々に話し、
「まさしく口は禍のもとであるわい」
と、語った。
――この話に、客人は笑い声を立てることなく静まり返ってしまった。誰もが、東坡先生も思い付いた詩があってもそれを胸の内に納めておいたならば、あるいはもっと軽い罪ですんだのではなかろうかと、思ったのだった。
先生は、
「さらにもう一つ、身につまされる話がある」――
艾先生は海に舟を浮かべて遊び、いつの間にか夜になってしまったので、とある小島の磯辺に泊まった。
夜中に、水辺で泣く声がし、しばらくすると話し声も聞こえてきた。
「昨日、竜王様のお触れが出て、水に棲むもので尾があるものはすべて斬るということだ。おれは亀であるから怖くて泣いているのだが、どうしておまえまで泣いているのか。おまえは蝦蟇ではないか。尾がないではないか。それなのにどうしてそんなふうに泣いているのか」
「おれはいまは尾がないけれど、恐れているのは、前科をさかのぼって、おれがおたまじゃくしだったときのことまで調べられはしないかと……」
――客人は押し黙り、もはや居たたまれないくらいの雰囲気になった。東坡先生が海南島にまで流されてきたのは、何年も昔の詩文がいろいろにほじくり出され、それらが先の皇帝を誹謗するものであったと、強引に決めつけられたからであった。
■哭彭祖、食肉智、禽大無事省出入
［解題］『艾子雑説』からの三篇。
［訳文］
ある日、客人がたくさんの牡蠣を持ってきた。
東坡先生は喜び、自ら調理に取り掛かったのを見て、別の客人が、
「肉を絶ち、穀物を絶つ、それが仙界への捷径とわかってはいましても、こういうものが目の前にありながら、敢えて避けて通るというのは、人の本性を捻じ曲げるものなのでありましょうかな」
と、言った。
先生はうなずき、
「節制に努め、長生術を得て、かの彭祖のように長生きしたとしても、せいぜいのところ八百歳だ。寿命を貪る者からしたら、それとても短命であろう。朝に生まれて夕べに死ぬ虫も、見方によっては、あるいは長命でもあろう。こうして煮あがった牡蠣を、口を入れる瞬間などというものは、億兆の歳月と代えても惜しくはない」
と、言って、熱々のを一つ食べてから、次のような話をした――
艾先生が遊びに出ると、一人の老婆がいた。髪が真っ白で、ぼろぼろの着物で、ひどく悲しそうに泣いていた。
先生が尋ねた。
「何が悲しくてそのように泣いているのですか」
老婆は言った。
「夫が早くも死んでしまって、それで泣いているのです」
「お見受けしたところ、お婆さんはかなりのお年のようですが、夫といわれるのはどなたなのでしょうか」
「夫は彭祖と申します」
「彭祖さんなら、八百歳で亡くなったと聞きます。八百歳といえば、寿命として短くはありませんでしょうに。恨むようなことはないのではありませんか」
「夫が八百歳であったのは悪くはないのですが、九百歳でまだぴんぴんしている者がいるのを見ると、恨まずにはいられないのです」
――東坡先生は牡蠣に舌鼓を打ちながら、
「人と比べること、そして、殺生戒を何度も決意しながらこうして守れずにいる弱さ、このあたりに人間としての苦悩の本質があるのだろうか。肉食を絶つのは尊いこと、しかしその一方で、肉食は口福をもたらしてくれるだけでなく、立派な効能もあるのだ」
と、言って、また別の話を始めた。
艾先生は狭い路地の奥に住み、まわりはごく普通の庶民の住まいで、どの家も粗末な作りだったので、人々の話し声が筒抜けだった。
ある日、隣でこのようなことを話していた。
「おいらたちだって、お国のお偉いさん方だって、同じ人間で、天から同じものを授かっているはずだ。なのに、お偉いさん方には知恵があって、おいらたちにはない。どうしてなのだろうか」
「決まっているではないか、あちらのお方がたは毎日肉を食べておられるから知恵があって、おいらたちはこんな臭い飯しか食べていないので知恵がないのだ」
「そうか。そうだったのか。ならば、おいらのところにいまある米を売れば数千銭になるだろう。それを使っておまえとこれから毎日肉を食ってみようではないか」
数日たって、また二人が語り合っているのが聞こえた。
「おいらは肉を食べるようになってから、どんどん頭がすっきりしてきた。何を見ても、知恵がどんどん湧いてくるようになった。物事の奥の奥まで深く見えてくるようになってきたぞ」
「おいらもだ」
「おまえは何がわかるようになった」
「人が足を挙げて歩く原理がわかった。歩くときには、足を前に挙げるのがよいのだ。なぜなら、もしも後ろに挙げたなら、後から来たものに踏まれてしまうからだ」
「なるほど。そいつはすごい知恵だ」
「おまえは何がわかったのだ」
「おいらは人の鼻の穴をじっと見て考えた。それでわかったのは、鼻の穴は下に向いているのがよいのだ。なぜなら、もしも上を向いていたなら、雨のときに水が入り込んでしまうからだ」
「なるほど。そいつはすごい知恵だ」
こうして、二人はお互いにその知恵を褒め合い続けた。
――東坡先生は、にやりと笑い、
「これほどまでに知恵者になれるとわかっていて、肉を食べるのをやめられようか……」
と、次の牡蠣に取り掛かりつつ、
「学問を修めたと自負する者の知恵は、大方、いまの話の二人にも及ばないものだ。そのような例は枚挙に暇がない」
と、云って、艾先生が弟子に聞かせたという話を語った。
そのころ斉国の都には知恵自慢の連中が集まり、その数は三千人ともいわれていた。その中でも田巴の弁舌は古今無双、一日に千人もの智者が論戦を挑み、皆が降参してすごすごと逃げ帰るのだった。
ここに禽滑厘という者がいて、「我こそは田巴先生の一弟子である」と、言って、いつも胸をそびらかして歩いていた。ある日、道で一人の貧乏そうなお婆さんに出逢った。お婆さんは丁寧にお辞儀をして、
「あなたさまは田巴先生のお弟子さんでございましょうか。この婆めには大きな疑問がございまして、田巴先生に教えていただけないかと、ずっと思っておりました。よろしかったら、お取次ぎをお願いできませんでしょうか」
と、言った。
禽滑厘はますます胸をそらし、
「お婆さんや、まずはその疑問をわしに尋ねてみたらよかろう。わしがみごとに解いてしんぜよう」
お婆さんは、
「もちろん教えてくださるのならどなたでも結構でございます。この婆めはいつも不思議に思っておりますのはこのようなことなのでございます。馬のたてがみは上を向いていて、その毛は短いのですが、馬の尾は下を向いていて、その毛は長いです。それはどうしてなのでしょうか」
禽滑厘は笑い、
「何だと思ったら、そんなことか。そんなのは簡単だ。よいか、馬のたてがみは、そなたの言う通り、上に向かって生えている。自然の勢いに逆らっているので、強くなければならない。だから、天はそれを短くしたのだ。馬の尾は下に垂れている。その毛は自然の勢いのままに延びればよいので、弱くてもかまわない。だから、天はこれを長くしたのだ。どうだ、わかったか」
お婆さんは禽滑厘をぎろりと見ると、
「なるほど、もっともでございます。では、人の髪は上に向かって生えています。自然の勢いに逆らっているのに、長いのはどうしてなのでしょうか。人の鬚は下に向かって垂れていて、自然の勢いに従っているのに、短いのはどうしてなのでしょうか」
禽滑厘は、はっと息を呑んで、大きく咳払いをし、
「わしはまだ学問を教わっている身である。ここは一度帰って師匠にお尋ねてしてまいろう。ここで待ってていただければ、すぐにまた戻ってきて、答えてやろうぞ」
と、言って、あわてて田巴のところに行き、馬の毛の長短について問われて答えたことまでを話すと、田巴は、
「ほう、なかなかうまいではないか」
と、褒めた。
「ところがです、婆さんに、人の髪と鬚について問い詰われて困ってしまいました。先生、どうにかして、あのばあさんをぎゃふんと言わせてやりたいのですが、うまい答えがありませんでしょうか」
田巴はそれを聞くと、うーんと唸って腕組みをし、押し黙ってしまった。
お婆さんはいつでも禽滑厘が戻ってこないので、しびれを切らし、田巴の家に来て、門の外で、
「禽ちゃん、禽ちゃん、出ておいで。おーい、おーい」
と、大きな声で呼んだ。
それを聞くと、禽滑厘は震えあがり、田巴は耳を塞いで、
「おい、おい、おまえは無事にここに帰ってこられただけよかったのだ。わしらはもう夜逃げをしないとなるまいぞ」
と、言った。
［補足］（（1）これらの話は、王安石の学説にはこじつけが多いことを皮肉るものであると読むことができるであろう。そのことについてはすぐ後でまた見ることになる。（2）以上の訳文（翻案）は、『艾子雑説』の寓話の背景には蘇軾自身の体験があって、独特のユーモアによって哄笑を誘う小品集であると見なした上でのものである。訳者には真作か偽作かを判断する能力はないが、真作だとするとより楽しく読めるようである）