第11章 南へ、さらに南へ――恵州
［第11章その一］
紹聖元（1094）年、蘇軾59歳。
■臨城道中作
［解題］蘇軾を遥か南方の英州の知事に移すとの辞令が定州に届いた。閏4月3日、その辞令を頂戴したことに感謝する書状を朝廷に提出すると、すぐに定州を発ち、西南一百里（約60km）ほどの臨城に至る道でこの詩を詠んだ。序文がある。
［訳文］
中山（定州）に赴いてより、毎日のように風に埃が飛ぶ日が続き、太行山脈がはっきりと見えることはついぞなかった。嶺表（五嶺の南）に行くにあたって、そのことを非常に残念に思っていた。臨城の内丘を通過すると、急に天気が爽やかに澄みわたり、西に太行山脈を望めるようになった。山の草木を数えられるほどで、岡や山の並らびが北へと走り、崖や谷が深く刻まれているありさまがはっきりとわかった。私は嘆息して言った。「私は南に遷るけれども、速やかに返ってくるであろう。これは韓愈が衡山を見たのと同様の吉祥であるのだろう」。それで詩を書いて蘇邁に渡し、このことを記憶に刻むよう言った。
［補足］（（1）「韓愈が衡山を見た」とあるのは、韓愈が罪を赦されて嶺南の潮州から帰る途中、折しも秋の雨に塞がれて衡山が見えないのを残念に思い、心をこめて天に祈ると、たちまち晴れ上がって衡山の姿がありありと見えたことをいう。このことについて、蘇軾は韓愈を祀る廟の碑文に、「韓文公の精誠は衡山を隠していた雲を開いた」と、記している（第10章171ページ）。このことをもって、太行山脈がにわかに見えたことは帰還が叶う吉兆であるとしたのだ。（2）序文から、長男の蘇邁が同行していたことがわかるが、母の喪に服すために官職から離れて父のもとにきていたのだろう。黄州に流されたときにただひとり蘇邁が同行したことを想い起こすと（第6章20ページ）、ここで「記憶に刻め」と言った言葉はなかなかに感慨深い）
地位を逐われた旅人に、
わざわざ眼を向けようとする者はいない。
ところが、千里にわたって続く太行山脈は、
あたかも、我が乗る馬をずっと見送ってくれるかのようだ。
柳宗元が己に比して愚渓と名付けた谷は、
柳宗元をその地に引き留めようとした。
私はそうはならないだろう。
山が人を識る――
その例は、衡山と韓愈の関係がひとつあるだけではないのだ。
［補足］（（1）「地位を逐われた旅人」の原語は「逐客」で、蘇軾は「逐客」もしくは「逐臣」（次の詩）と自称する。しかし、そこに悲愴感はさほどなく、南への旅立ちにあたって蘇軾は楽天的なこの詩を詠んだ。それは言葉だけの強がりではないであろう。黄州に流されてからあまたの苦難の乗り越えてきた経験の裏付けがあっての精神的な余裕があるのだろう。（2）柳宗元が左遷の地で、渓谷に「愚渓」と名付けたことは第9章49ページで見ている）
■過湯陰市得豌豆大麦粥示三児子
［解題］詩題は、「湯陰市を過ぎり、豌豆と大麦の粥を得た。三人の息子にこの詩を示した」。「三人の息子」は蘇邁、蘇迨、蘇過である。
［訳文］
北方の野には赤裸の土地が広がり、
岸辺はどこも黄色い土埃で覆われている。
夏は日照りのために麦の穂が伸びなかった、
秋は長雨のために豆のさやに実が入らなかった。
ここの旅の宿で朝の粥に呼ばれると、
厨房の者は季節の逸品を出してくれた。
匕や箸の先で、豌豆の青く斑な表面が照り映え、
歯や歯茎に当たって、ぎしぎしと音が鳴り響く。
立派なお役にある知り合いが御馳走を用意してくれたとしても、
地位を逐われた官員（逐臣）は、それは謝絶すべきで、
旅の空のこの質素な食事こそが似つかわしい。
漂零（零落して流れ漂い）――ついにどこに行くのか、
浩蕩（広く限りないところ）――そこにこの身を寄せるのである。
人々は、食事に気をつけ養生するように言ってくれる。
私は、あちらでも土地の人々に背くことなく努めるつもりでいる。
いま万里の旅人として行く――
そして三年の任期の後には、
収穫したばかりの豊かな農作物を食べたいものである。
［補足］（グリーンピース入りの粥を蘇軾は味わいつつこの詩を詠んだ。「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る」と詠んだ有馬皇子の嘆きはここにはない）
■赴英州乞舟行状
［解題］逐臣となったことを決して悲嘆はしない蘇軾ではあっても、遥かな旅路は現実的には非常に厳しいものがあった。官用の船を使えるようにしていただきたいと、この文章を書いて朝廷に願い出る。
［訳文］
臣軾が申し上げます。
朝廷の辞令によって、二つの職務を失い、一つの官職から追われ、嶺南の小郡の知事として流されることになりました。臣はただちに旅の支度をし、日夜道を急ぎ、今すでに滑州に至りました。
辞令を聞きましてから憂いと悸れによって疾となり、もとより両目は昏く濁ってわずかに道筋を見分けられるだけで、左手は不自由、右臂は力が入らず、六十歳に及んで、頭は禿げ上がり、歯は抜けてしまいました。このようなありさまではもはや長くは生きられないでありましょう。しかも、非常に重い罪名を負い、上には恩義にそむき、下に普段の生きざまを恥じ、悸れが血気を損ない、憂いが飲食を隔て、そのために病が癒えることは決してないのであります。臣はかねてから家計のやりくりが不得手で、お上より賜るところの禄は右から左に消えてしまい、旅の費用を工面しようにも嚢の中はからっぽとなっております。
臣は陸路を使って、日夜急いで速やかに任地に赴こうとしています。しかし、病がこのようであって、費用が続かず、しかも、英州からの迎えの者は来ませんし、定州から送ってくれる者はこれより前に行こうとはしてくれません。人を雇い馬を買いたくてもその費用の出所はないのであります。道の途中で窮まってしまい、譬えていえば川の中ほどで舟を失い、一本の浮き木を抱えてそれに命を託しているようなありさまなのであります。浮き木はいまにも沈もうとしていて、臣の衰危はまさにここに極まってしまっているのであります。
竊かに伏して思念いたしますに、罪を得て以來、三度辞令が改まり、聖恩によって生命は保たれて、ついに一郡に付していただきました。これは聖主の至仁至明によるもの、八年もの間お近くに置いていただきました臣のことを思われて、この生命が全うされることを願ってくださっていると期待しましても間違いではないのでありましょう。臣は衰病の余生をもって、強いて南方の夏の毒暑を犯して、四千余里の炎荒の道を陸走して、途中で伏し倒れて旅宿で死んだとしましても、理として疑うべきことは何もなく、罪を累ねた重さからすれば惜しむに足りないのであります。しかしながら、それは職務を全うしての死ではなく、仁聖とは殺さずして万物を育むものであるとの本旨とは反するものでありましょう。
臣は、家族を分散させ、長子は近い土地に行かせて農耕によって食を得られるようにし、ただ数人だけを伴って舟に乗り、汴州、泗州の間を進んで長江に出て、ますます先を急いで南康軍に至って、そこからまた陸路で任地に至ろうと目論んでおります。
貴ぶところの医薬、食事は大切なツボを失ってはおりませんが、臣が竊かに自身を顧みますにこの多病早衰はもはや気息がわずかに通じるばかりで、きっと長くは生きながらえられないでありましょう。この身を舟に託すことによって、いささかなりとも寿命を延ばして、任地にたどり着けますならば、嶺表の酷暑の地において死んでも心に甘んじるものであります。陸路を進んで道の途中で死んで路傍に埋められ、行く手のない鬼になってしまうのとは大違いなのであります。
恭しくも聖主の徳は下は昆虫にも及びますとか。臣はかつてはお近くに置いていただいた者であります。きっと死地に棄てようとなさるものではないのでありましょう。それをもって、舟で行くことの計画を申し上げて、敢えて天の慈悲を望むものであります。少しく憫惻を加えてくださいますように。
［補足］（この文章は、上の2篇の詩には詠まれていなかった衰病や旅の困難が記されている。皇帝に懇請する上で敢えて強調したのかもしれないが、たぶんこれが実情であるのだろう。当時の中国の版図をほぼ南北に縦断するような遥かな道のりを、陸路でしかも自費で移動するのは気の遠くなるような難事業であったであろう。都を出る直前に妻を喪ったことも、不自由さを増して、旅をより困難なものにしていたのかもしれない。せめて（通常の任地替えと同様に）官用の船に乗れるよう皇帝に願い出たのである）
■書松醪賦後
［解題］閏4月15日、蘇軾は韋城に到着した。定州から韋城は直線距離にして330km余り、蘇軾が定州を発ったのは閏4月3日以降であるから、上の文章に「ただちに旅の支度をし、日夜道を急ぎ」とあったのは少しも誇張ではない。韋城で、友人のために『松醪の賦』を書いた。これはその後書き。
［補足］（定州で、松を用いた酒を作り、『松醪の賦』を詠んだことは第10章372ページで見ている。そこでは賦を訳すのを回避した。訳者の手に負えるものではないと感じたからだ。蘇軾が韋城で、もしかすると己の遺品になるかもしれないと、紙も筆も墨も特に当時の名品を用いて心をこめて書いたことを思うと、『松醪の賦』がどのようなものなのか見ておかないわけにはいかなくなる。正確な訳文を作れないのは今回に限ることではなく、毎度おなじみの「ずっぽ訳」で恥の上塗りを一つ重ねればよいだけだど開き直って、賦の訳もこの後ろに掲げることにする）
［訳文］
私は皇居の資善堂（学士が執務する場）にいたときに、呉安詩（字は伝正）と職務を離れた交わりを結んだ。私が中山（定州）に赴くことになると、呉安詩は別れに際して張遇（宋初の墨工）が作った「易水供堂の墨」の一丸を贈ってくれた。
紹聖元年閏四月十五日、私は英州に赴任する途中で韋城に立ち寄った。そこに呉安詩の甥の欧陽思仲がいて、ともに呉安詩の高風について語り、しばし感嘆し合った。
私はかつて『洞庭春色の賦』を作り、呉安詩はそれを特に愛してくれて、それを書くよう私に求めた。近ごろ私は『中山松醪の賦』を作り、前作に見劣りするものではなく、呉安詩がまだ見てくれていないのを残念に思っていた。そこで、李氏の（南唐の皇室御用達ということ）「澄心堂の紙」を取り、杭州の程奕の「鼠須の筆」を用いて、呉安詩から贈られた「易水供堂の墨」で、『中山松醪の賦』を書いて欧陽思仲に授け、呉安詩に直接渡してくれるように頼んだ。どうかこれを大切にしてもらいたい。
呉安詩は普段から道を学んですでにそれを得ていて、私は竊かにその一つ二つを聞かさせてもらった。いま嶺表に行くに当たってまた会えないのを残念に思い、この賦を書いて贈るものである。この賦の末尾の句より思いを致して、遥か遠くにある私のことを想ってくれることを望む。
［補足］（（1）呉安詩とは都で詩の唱和をしている（第10章306ページ、322ページ）。その甥の欧陽思仲は欧陽脩の親類であるという。（2）最後の部分は、『中山松醪の賦』の終わりに、これは屈原の詩集にある『遠遊』を継ぐものであるとの文言があることによる）
『中山松醪の賦』
始余宵済於衡漳、（私が初めて衡水と漳水の流れを渡ったのは夜のことだった）
車徒渉而夜号。（それから、車や徒歩で騒がしく移動した）
燧松明而識浅、（松明をともして川の浅い深いを知り）
散星宿於亭皐。（道辺の家へと星が沈んでいった）
鬱風中之香霧、（重苦しく吹く風の中に湿った香りがあって）
若訴予以不遭。（私に向かって松が不遇を訴えているかのようであった）
豈千歳之妙質、（「本来なら千年だって生きられますのに）
而死斤斧於鴻毛。（斧によって命を羽毛のように軽く扱われ）
效区区之寸明、（たかだか一寸先を照らすために）
曾何異於束蒿。（一束の藁と同じようにされてしまっているのです）
爛文章之糾纒、（樹皮の模様は焼け爛れ）
驚節解而流膏。（節はばらばらにされて膏を流しているのです」）
嗟構厦其已遠、（「ああ、君が大建築を構えるのは遠い夢となってしまった）
尚薬石之可曹。（それでも、薬用にその身を供することならできるであろう）
收薄用於桑楡、（桑や楡の材を集め）
製中山之松醪。（そうだ、中山の松の酒を造ろうではないか）
救爾灰燼之中、（灰塵になってしまうところから君を救い出し）
免爾蛍爝之労。（蛍の代わりをする労苦から解放しようではないか」）
取通明於盤錯、（わだかまった節から透明な樹液を取り）
出肪沢於烹熬。（脂分を抽出し）
与黍麦而皆熟、（黍や麦と一緒に煮ると）
沸舂声之嘈嘈。（ぐつぐつと沸き立つ声がする）
味甘余而小苦、（味は十分に甘くて少し苦く）
歎幽姿之独高。（驚くほど幽遠な独特のようすになる）
知甘酸之易壊。（ほかのものの甘いとか酸っぱいとかは物の数ではなく）
笑涼州之蒲萄。（涼州の葡萄酒などは笑ってしまう）
似玉池之生肥、（仙界の池の水のまろやかさに似て）
非内府之蒸羔。（宮廷の料理など足元にも及ばない）
酌以癭藤之紋樽、（藤の花を描いた杯に酌んで）
薦以石蟹之霜螯。（真っ白な蟹の身とともにやってみようではないか）
曾日飲之幾何、（毎日これを飲んだら）
覚天刑之可逃。（あらゆる苦しみから逃れられるだろう）
投拄杖而起行、（老人も杖を放り投げて歩けるようになり）
罷児童之抑搔。（痒いところを子供に掻いてもらう必要もなくなる）
望西山之咫尺、（一杯やれば――西の山々がすぐそこにあると見え）
欲褰裳以遊遨。（着物をからげてすいすい登って行く）
跨超峰之奔鹿、（疾走する鹿に飛び乗り）
接挂壁之飛猱。（猿とともに絶壁をよじ登る）
遂従此而入海、（さらには海へと入り）
渺翻天之雲濤。（はたまた雲の波の上で身を翻す）
使夫嵇阮之倫、（昔々の嵇康、阮籍といった連中を呼び出し）
与八仙之群豪。（仙人たちとわいわいやるのだ）
或騎麟而翳鳳、（はたまた麒麟にまたがり、鳳に乗り）
争榼挈而瓢操。（その上で古の酒器をもてあそぶのだ）
顛倒白綸巾、（頭巾などはさかさまにかぶり）
淋漓宮錦袍。（錦の上着も酒でぐっしょりだ）
追東坡而不可及、（この東坡居士を追いかけようとしたって誰も付いてこられはしない）
帰餔歠其醨糟。（帰ってからは酒の粕でも食らうとしよう）
漱松風於歯牙、（松を吹く風で歯を漱いでから）
猶足以賦遠遊而続離騷也。（屈原の名作『遠遊』を超える賦をさらりと作るのだ）
■書贈楊子微
［解題］蘇軾は黄河を渡り、都の東五十二里に位置する陳留の町にまで来た。都に入ることは許されていない。陳留で楊子明の訪問を受け、この短文を記して渡した。楊子明は、蘇軾の故郷の旧い友人の楊済甫の息子で、前年の秋、蘇軾の妻が亡くなってから定州に赴くまでの間に、蘇軾は都で楊済甫と会っていた。楊子明は、南への旅の途中にある蘇軾に何とかして会おうとして、陳留でうまく尋ね当てることができたのである。
［訳文］
我が旧い友人である楊済甫の子の楊子明（字は子微）は数千里の道を遠いとせずに私と弟に会おうとして蜀から来てくれた。たまたま弟は汝州に行き、私は嶺表に遷ることになった。楊子明は私を追いかけて陳留にやってきた。しばし留まって、去るを忍び難くしている。楊済甫に何か書いて贈りたいのだが、旅にひどく疲れてしまい、とても果たすことができない。それでこれを楊済甫のもとに持って行ってほしい。いまから書く。それ以上のものは作れない。
楊子明は学問に熱心で文章に優れている。数術（暦や占い）を知ると自分で言い、私はきっと嶺表で死ぬことはないと言ってくれる。その証として、老子の『道徳経』の言葉とともにこの紙に記しておく。
紹聖元年閏四月十八日、新英州知事の蘇軾、書く。
［補足］（楊子明はこれより9年後に科挙に合格している）
■自跋洞庭春色賦中山松醪賦
［解題］陳留から蘇軾は都の東側を南下し、雍丘県の脇を通過したときに、その地の知事を務める米黻（第10章298ページ）に宛てて、ぜひとも会いたい旨の手紙を送ったが、実際には会えなかったようだ。そして襄邑にまできて大雨に遭い、しばし留まって『洞庭春色の賦』および『中山松醪の賦』を書いてこの跋文を記した。
［訳文］
始めに安定郡王（趙世準）が黄柑で酒を造り、「洞庭春色」と名付けた。それを甥の趙令畤が得て、私に馳走してくれたので、戯れに賦を作った。後に私は中山（定州）の知事になり、松の節で酒を造り、このことをやはり賦に詠んだ。その事柄も文も似ていることから、合わせて一巻とする。
紹聖元年閏四月二十日、嶺表に行こうとしていて大雨に遭い、襄邑に留まってこれを書いた。
東坡居士記す。
［補足］（このときに書いた一巻が明、清の皇室に宝物として伝えられ、満州国皇帝となった溥儀が北京から長春に持ち出し、1945年の以降、行方不明となった。1982年、ある中学教師の家に保管されていることが発見され、現在では吉林省博物館の所蔵品となっている）
■子由新修汝州竜興寺呉画壁
［解題］襄邑から、蘇軾は突如西に大きく迂回し、200km以上離れた汝州にいる弟を訪ねた。恐らく、これは隠密な単身行動で、家族や荷物は襄邑に留めたままで、弟とこの先の生活設計などについて相談したのだろう。先の文章で「家計のやりくりが不得手」（原文は「不善治生」（治生に善からず））とある通り、蘇軾には貯えがなかった（知事としての権限を使って懐を肥やすようなことはしないし、定州で見たように人々にやたらと贈り物を与えたがったり、巨大な鉢を焼いたりと散財ばかりするので、俸禄はまさしく「右から左に消えて」［補足］（原文は「随手耗尽」（手に随って耗尽す）しまうのだった）。弟は何事も堅実であるから、副宰相として得ていた俸禄をきちんと貯蓄にまわしていたようだ。弟は兄に旅費を渡すとともに、家族を分散させて今後の経済的負担を軽減させる方策（先の文章にも記してあった）について具体的に助言したようだ。
この詩はそうした差し迫った問題とは無関係に、弟が汝州の竜興寺にある呉道子の壁画を修繕したことを歌っている。呉道子（呉道玄）が唐代を代表する画工であることは第2章29ページから何度も見ている。
［訳文］
丹青（絵画の技）は長く衰え、
画工は精妙な技芸を失ってしまった。
人物を描くのは最も難しいとされ、
そのまま今に至ったのだった。
つまり、市井の人をそっくりそのままに模写できる者が、
画工の中でもあたかも公卿にあたるとされてきた。
画工の手はただ写すだけの奴隷となってしまったのだ。
呉道子はいまに画の手本を残してくれただけでなく、
画の不死の生命を伝えてくれている。
人間界のあちこちに呉道子が描いた仏弟子の画があり、
どれも海に翻る波濤の勢いがある。
細かに手の動きを観るなら、直線と曲線をみごとに描き分け、
絶妙な位置を測って、自然の摂理を捉えていることがわかる。
真の奔放とは本当は精微であって、
狂い咲きの花が際立って美しいかのように見えるのとは訳が違うのだ。
呉道子の遺墨が汝州に留まっていると聞いて、
人は古い壁を見て、
蝸が這いまわったような跡しかないのに涙を流してきた。
蘇轍は金帛を喜捨して堂を修繕し、
散り散りになった浮雲が新たに晴れ上がったかのように、画を蘇らせた。
衣を幾度も整え直してから、その画の前に座って吟唱する。
後に古を慕う人がここに来て、
かつて画を修復した人がいると知ったなら、その人の姓名を尋ねるであろう――
それは他ならぬ東坡の弟であったと記憶に刻むがよい。
■初貶英州過杞贈馬夢得
［解題］蘇軾はあわただしく汝州から引き返すと、かねて朝廷に願い出ていた船を使う許可が下りたので、陳留に戻って官船に乗り込んだ。そこに杞（雍丘）から馬正卿（字は夢得）が（恐らく米黻のメッセージを携えて）尋ねてきたので、この詩を渡した。
［訳文］
はるか昔から仇池の穴があるといわれている。
私は仙界に行くどころか、
かの雪堂に帰りたいとの思いさえも果たすことができない。
貴君と竹林を歩いたことを、しみじみと夢に見る……
貴君と私はかの山濤と王衍のようであったのだ……
［補足］（（1）仙界に通じる仇池の穴については第10章212ページなどで見ている。（2）雪堂は黄州の東の坡に蘇軾が建てたもので、その土地はまさに馬正卿の力で得たことは第6章152ページで見ている。（3）最後は昔の著名人の名を引いて、蘇軾と馬正卿の間柄は、主人と使用人の関係ではなく、優れて高いレベルのものであったと讃えたのである。馬正卿は蘇軾よりわずかに8日遅れて生まれ、26歳のときに2人は出会い、それから33年の歳月が経過した。蘇軾の詩文に馬正卿の名が出るのはこれが最後であるという）
■師続夢経
［解題］船は大運河を南下して南京応天府を通過し、蘇軾は王鞏に手紙を送って会いたいとの希望を伝えたが、実現しなかったようだ。その一方で、偶然による出会いもあった。蘇軾の故郷の眉州に、人々から「大任」、「小任」と呼ばれる任兄弟がいたことはしばしば見てきたが（第6章178ページ、第10章159ページなど）、任一族の任伯雨とたまたま邂逅してしばらく同行することになった。これは任伯雨のために書いた文章。
［訳文］
広陵郡王（皇族の一員）の学校の教授である眉山出身の任伯雨（字は徳翁）は、その母、呂夫人を喪って十四日、号泣することがややおさまると、仏事を行おうと思い立った。ある人が『金光明経』を読誦することを勧め、世に伝わる本は誤りが多く、ただ咸平六年に刊行されたものが最良で、そこには張居道が蘇ったことがきちんと記載されていると言った。それで任伯雨はその本を求めたけれども得られなかった。
柩の前の蓆で、甥の任師続が仮寝をしたところ、たちまち夢から覚めて、次のように言った。
「私は夢で都の相国寺の東門に行きました。糟姜という人の店があり、『ここにはお経があります』と言うので、『咸平六年の本がありますか』と尋ねました。『あります』との答えで、『そこには張居道について書いてありますか』と問うと、『あります』と。それはほとんど夢のようではありませんでした」
任伯雨はそれを聞くと非常に驚き、任師続を都に走らせると、夢に見た通りに糟姜がお経を売っていたのだった。
任伯雨は母を葬るために柩を船に載せて蜀へと向かい、私は嶺外の任地へと向かい、たまたま楚州と泗州の間で出会い、弔問に訪れてこのことを聞いた。
紹聖元年、同郡の蘇軾が記す。
［補足］（咸平六年とはこれより91年前である。張居道の再生譚は未詳。一度死んで蘇った者が向こうの世界で見てきたことを語る話は無数にある）
■記徐仲車語
［解題］楚州、泗州のあたりはこれまでにも何度も通ってきたところ。ここで決まって会う人物がいた。徐積（字は仲車）（第10章180ページ）である。これは徐積と語ったことを記した短文。
［訳文］
私は別れ際に、徐積に言葉を求めた。
徐積は言った。
「昔から、功績を残した者はたくさんいました。それでも、禹の功績だけが抜きんでて賞賛されています。昔から、才能のある者はたくさんいました。それでも、周公の才能だけが抜きんでて賞賛されています。それは二人に徳があったからで、理由はそれだけなのです」
［補足］（禹も周公も孔子が特に尊敬した人物である。左遷の身となった蘇軾には、徳を重んじる徐積の言葉が特に印象的であったのだろうか）
■過高郵寄孫君孚
［解題］船は高郵を通過し、この詩を孫升（字は君孚）に送った。孫升は高郵の人で、朝廷の重職にあったが、改革派の復帰と入れ替わりで遠くの任地に追いやられてしまった。蘇軾は似た境遇におかれた孫升のことを、その故郷を通りつつ偲んでこの詩を作ったのである。
［訳文］
淮河を過ぎると風がさわやかになり、
塵にまみれた我が顔をさらりと洗ってくれる。
水辺の木々が次第に大きく繁り、
蒲にまじって遊竜の紅い花が咲いている。
可愛らしいことに、夜合の花が、
青い枝の上に紅い糸を散らしている。
貴君は遠く旅してここに帰ることがなく、
花々の笑みは誰に向けたものであるのか。
我が故郷はどこかといえば、
我が手で植えた松がすでに地を覆っていることだろう。
我が旅はすぐに路を失ってしまうことの繰り返し、
帰りゆく夢は千の山が重なる向こうである。
聞けば、貴君にはこの町の近くに農地があり、
二頃のその地はよく耕されているとか。
そこから秋の収穫を終えたなら、
夜も米を搗く音が寝台に響いてくるであろう。
秋の祭りの酒に軽く顔を赤くすれば、
楽しくてもはや何の憂いもないのだ。
深酒は禁物、
官人としての旅にも好いことがないわけではないけれど、
ほどほどがよいのであろう。
深みにはまってはならないのである。
［補足］（前半は孫升のために高郵の風光をことさらに美しく描いて明るい調子で歌っている。蘇軾はもともと淮河より南の地を好ましく感じていたので、このあたりまで来て、実際に心が軽くなるのを感じていたのだろう。それに加えて、船での旅を許されたことも好材料となって、蘇軾は、これ以上に悪くなることはないと楽観視していたようだ。しかし、朝廷では蘇軾をより重罪にするするための議論が行われていたのだった）
■僕所至未嘗出遊過長蘆聞復禅師病甚不可不一問既見則有間矣明日阻風復留見之作三絕句呈聞復並請転呈参寥子各賦数首
［解題］船は高郵から揚州を通って真州の長蘆にまで達した。長い詩題は次の通り。「私はこれまでは行く先々で船を離れて出歩くことがなかった。長蘆にきたところで、聞復禅師の病がはなはだしいとのことであったので、これは訪ねてみなければなるまいと見舞ったところ、具合が少しよくなっていた。翌日は風に阻まれ、また留まって会いに行き、三首の絶句を聞復禅師に示した。これを参寥（道潜）にも見せて、数首を賦してもらおうと思う」。この題にあるように、先を急ぐ旅であるから、船から離れて遠く行くことはなかったのだろう。聞復禅師は、かつては杭州の孤山にいた思聡という僧で、蘇軾とはかねてから交流があったようだ。参寥はいうまでもなく杭州にいる蘇軾の親友である。
［補足］（（1）揚州から真州に至る間に、呉復古（第10章323ページ）の訪問を受けている。呉復古は自由人であるから、蘇軾の後を追って身軽に行動できたのだろう。（2）このころまでに長男の蘇邁は父と別れて陽羨に向かったようである。かねてそこに買っておいた農地（第7章82ページ）で自活しようというのである）
［訳文］
其の一
聞復禅師の病は、
かの道に達した人が、活きず死なずのありさまを見せたのに似ていようか。
聞復禅師が快方に向かったのは、
老子が沐浴して世の初めに遊んで帰ってきたのと同じであろうか。
あるいは、
寒風の吹きすさぶ中で松だけがきりりと立っている姿なのか、
老いてなお眼光鋭い虎が頭を垂れている姿なのか。
其の二
聞復禅師が言われる、
「故郷の蜀は西のかた万里の向こうにあると、
まあ、そういうことは口にしなさるな。
ひとまず、南に涯の山に遊びにおいでなさるのでよろしいのだ」
聞復禅師は病中にありながらも、
川辺に立って旅人を送り出す。
私は櫂を杖にして、
我が行く手へと頭を回らせるのである。
其の三
老いて、この生とも別れるときがもうそこに来ている、
それでも、興が湧いて、明日はまた旅に出るのだ。
横になって船頭の言っていることを聞くと、
夜中に南風が吹いて、前には行けなくなるようだ。
■六月七日泊金陵阻風得鐘山泉公書寄詩為謝
［解題］船は長江に入って流れを遡り、南京に達した。詩題は、「六月七日、金陵（南京）に停泊したところ、風に阻まれて進めなくなった。鐘山（蒋山）の法泉（仏慧禅師）から手紙がきて、その返事としてこの詩を寄せた」。
［訳文］
今日は長江のあたりは天候が悪く、
暴風の先駆けであるとされる「炮車の雲」が出ている。
船より鐘山を望みみると、
林の間に、一羽の鶴のような白い塔が聳え立っている。
それはむかし宝公（南朝時代の名僧）が建立したものであろうかと、
宝公を慕って山に向かって叫んだ、
宝公の骨はもはや冷えて、返事はない……
すると、法泉老師が私に向かって呼ぶ声が響いてきた。
老師は、瞳から電光を発し、虎のような歯をむき出しにし、舌で雷鳴を轟かせ、
私のために千の山のような雲を吹き飛ばしてくれた。
これより南方万里の旅、
それとて何ほどのこともない。
あちらの寺で一杯水を酌んで、その味を見てくるだけなのだ。
これより後に、鐘山を画に描く人は、
法泉老師が東坡居士を呼ぶのを決まった構図とするであろう。
［補足］（「南行万里 亦 何事ぞ」と、この詩も引き続き軽やかな気分で歌っている。題に「六月七日」とあるが、この2日前に、朝廷では蘇軾に関する重大な決定が下されていた。先帝を何度も謗った罪によって蘇軾は寧遠軍節度副使に降格となり、恵州安置の身とされたのだった。「安置」とは、黄州に流されたときにみたように、居住の自由を奪われて監視下に置かれるということである。「節度副使」は名目だけのもので、官員として何らの権限も与えられず、わずかな収入があるかないかの状態になることを意味した。その命令が届くまでのいましばらくの間だけは、蘇軾はまだ楽観的な気分でいたのである）
■阿弥陀仏賛
［解題］法泉が雲を吹き飛ばしてくれたのかどうかはわからないが、蘇軾は少しの間、金陵に留まったようだ。
［訳文］
蘇軾の妻の王氏、名は閏之、字は季章は、四十六歳をもって元祐八年八月一日に都で卒した。臨終の夕べに、手元にあったお金を喜捨して阿弥陀像を画くよう子の邁、迨、過に言い残した。
紹聖元年六月九日、阿弥陀像ができたので、金陵の清涼寺に納める。
その賛に曰く、
仏の弟子はこの世にあるときは百の憂いにまとわりつかれる。
行くに臨んでの一念はどのようにあるべきなのか。
口に南無阿弥陀を誦えるならば、
日が地より出て万国に暁をもたらすのと同じになる。
まして自ら喜捨して、
この円満にして天の日のようなお顔を画いたである。
見聞きして喜びにいっぱいになるのは、
ことごとく成仏して、天人も人も虫も鳥も区別がないということ。
阿弥陀如来は常に平等観を持ち、
もとより憂楽も、短命長命の違いもないのだ。
一丈六尺の仏の身も大きくはないし、
一寸であっても小さくはない。
この心が平らかになるのは西方の地、
眼を閉じてすぐに到るのは一切の妖魔のないところである。
［補足］（金陵では、崇因禅院に詣でて、長老の宗襲が自ら寄進を集めて造った観音像を拝み、北に帰る日にはまたここに来て観音菩薩の頌詞を作ると誓っている。それが叶ったかどうかは第13章の終わりで見ることになる）
■贈清涼寺和長老
［解題］これは上の賛にあった金陵の清涼寺の和長老に贈った詩。和長老がどのような僧であるかはわからないという。
［訳文］
馬をも沈めてしまうような北の地の塵から離れたばかりで、
江南のこの地で雲に臥す人（和長老）にお会いする。
和長老は昔の無著のような高僧、
無著はある寺に来て、
そこの僧に問われて答えられずにいると、たちまち寺が消えてしまった。
私は無論、何もわからない者ではあるけれど、
阿弥陀像をここに留め置くことにした。
老いて後は山林に退隠しようとの思いはいつまでも夢想のまま。
雨上がりの空に響く鐘が心を清新にしてくれて、
白い頭巾で身を守るまでもなく、
南の地の炎熱の諸毒を洗い流してくれるのである。
［補足］（最後の句は、これから行く嶺南の地の暑さを警戒してのもの。折しも季節は盛夏、北方の気候に慣れた身にはすでに辛いものがあった）
■予前後守倅余杭凡五年夏秋之間蒸熱不可過獨中和堂東南頰下瞰海門洞視万里三伏常蕭然也紹聖元年六月舟行赴嶺外熱甚忽憶此処而作是詩
［解題］船は南京を出て長江を遡った。詩題は、「私は杭州の副知事と知事であること合わせておよそ五年であった。夏から秋まで蒸し暑さがひどく、どうにも過ごせないほどであった。ただ、中和堂（杭州の街の南の鳳凰山にあった）の東南の部屋は下に海への口を臨んで、万里の彼方まで見通すことができ、真夏の間でもひっそりとして涼しかった。紹聖元年六月、船で嶺外に向かいつつ、暑さがはなはだしく、その地を憶ってこの詩を作った」。
［訳文］
忠孝をもって知られた銭氏の王家が、
千本の柱をもって建てた中和堂。
東坡は五年にわたってその地の役人となり、
そこの東南の部屋にきてみたところ、
人間世界のそこだけに万里の彼方からの風が吹いていたのだった。
■慈湖夾阻風五首
［解題］南京から数十キロ上流の慈湖夾で風のために進めなくなり、五首の詩を作った。
［訳文］
其の一
見上げる帆柱を左右から引っ張る二本の索、
逆風の空に向かって索がびゅんびゅん嘯く下で、
浪の花が飛びかう。
船頭は一人ぐうぐうと寝入っている。
菅蒯（纜を作る水草）は船客がひやひやしているのを知ってか知らずか、
いかにも弱々しげな一本の纜が、
万里を吹き抜ける風と争っている。
其の二
この生の帰り行く路は、
無数の青い山、
天を拍つ長江の水、
そのまた遥か彼方……
ここに餅を売る小舟がふっと現れる。
嬉しいことに、
山の前に村落があると、
我が耳に聞くのである。
［補足］（（1）このまま長江を遡って行けば故郷の眉州に至る。かつて28年前には父の棺を船に載せてここを通って帰郷した。今回はこの先で南に折れ、旅路はやはり遥か彼方である。（2）餅は日本語の「もち」ではなく、小麦粉をこねて焼いたお好み焼きのようなもの。蘇軾は長い旅の行く末に思いを馳せるよりも、目の前の小さなことに喜びを見出そうとした）
其の三
私の旅はすべて韓愈の詩のなかを行く。
韓愈は南方への旅で、洪水に浸かった村を見て、
「水は家の扉の半ばにも及ぶ」と詠んだ。
いままさにそのままで、
桑や麻を植えた千頃の畑が船底の下にある。
水草が高い陸地に打ち上げられ、
そこに魚がひっかかっている。
其の四
日輪が真上に昇ってくると、
汗が珠となって流れ、身が融けそうになる。
南方の地を教導して長く養ってきた功績がどこにあるのか、
これでは誰も知ることができない。
と思っていると、
にわかに雨が激しく降り、
雲が通り過ぎて、たちまち快くなり、
空に輝く明るい月を妨げるものは何もない。
［補足］（「南方の地を教導した功績」（原文は「南訛長養功」（南訛 長養の功）とは、中華文明は黄河中流の「中原」に始まって、南方の未開人を順次教え導いて文明世界を拡大して行ったとする歴史観に基づくもの。その過程は宋代にも続いていて嶺南の地はなおも後進地であるとするのが一般的な認識があり、北方の人間にとっては気候条件も悪いので、蘇軾のような邪魔者はそこに流されるのである）
其の五
船に寝そべったまま、
千丈の高さから落ちてゆく月を看ていた船頭が、
起ち上って喚ぶと、
すがすがしい風が吹いてきて、
帆が半分ばかり広げられる。
水辺に並ぶ村落の前を、
船は斜めになって通り過ぎる。
人間世界のどこにでもあぶない場所がある。
■書六賦後
［解題］慈湖夾からさらに数十キロ進んだ姑熟で、蘇軾は朝廷からの新たな辞令（恵州安置の処分）を受け取った。州知事の地位も失って罪人として南に流される身となったのである。新たな局面に、蘇軾は身の振り方の変更を迫られた。そのことがここに記されている。
［訳文］
次男の蘇迨は英州にまで一緒に行くはずであった。船で姑熟に至ると、私は建昌軍司馬に落とされ、恵州安置の処分を受けた。もはや家族を同行させることはできない。三男の蘇過だけを連れて行くことにし、蘇迨に託して一家を陽羨に帰し、長男の蘇邁と一緒に住まわせることにする。
蘇迨は学問を好み、楚詞（屈原などの古い詩）を知り、世の外に生きる志をもっている。それで、私の六篇の賦を書いて、別れに贈るものである。
紹聖元年六月二十五日、東坡居士書く。
［補足］（長男の蘇邁は、農業によって生計を営むことにさせて、蘇軾とはすでに（本章20ページで触れたように、恐らく真州のあたりで）別れて、常州宜興県の陽羨に向かっていた。恵州安置の身となっては家族を養うことはできないと判断し、別の手紙類からも知れるように、蘇軾は三男の蘇過と王朝雲と2人の老女だけを伴うことにしたのだった。ここで次男のために書いた六篇の賦とは、『後杞菊賦』『服胡麻賦』『赤壁賦』『後赤壁賦』『洞庭春色賦』『中山松醪賦』であったという。自身の誇るべき作品としてこれらを選び、遺品となるものとして書いたのであろう）
■題陶靖節帰去来辞後
［解題］船は、陶淵明が最後に役人勤めをした彭沢のあたりを通過し、これはそのときに書いたと推測される短文。
［訳文］
私は陶淵明が彭沢で賦した『帰去来の辞』の願いをいまだに果たせずにいる。いま嶺南の命令を受け、この人生において素志を遂げることの難しさに思いを巡らせている。船の中ではすることもなく、『帰去来の辞』をそっくり顔真卿の書法を用いてこの一巻を書いた。胸中に結ばれ滞るものをしばし舒ようとするもので、敢えて古の人々と並んで天下に己を誇ろうとするものではない。
東坡居士識す。
［補足］（陶淵明は『帰去来の辞』を賦して彭沢を去ると、役人暮らしに戻ることはもうなかった。蘇軾が『帰去来の辞』の替え歌を唱えながら畑を耕していた黄州（第6章267ページ）はここから200キロほど上流である）
■帰朝歓
［解題］彭沢を通過して間もなく、船は鄱陽湖（彭蠡沢）の出口である湖口に着き、ここから細長い湖を縦断して南へと向かった。湖口の向かいは九江で、思いがけないことに蘇堅が蘇軾のことを待ち受けていた。蘇堅は杭州で親しい関係にあった人で（第9章118ページ）、新たな任地先（澧陽）に向かう旅の途中であった。蘇堅が詞を詠み、蘇軾がそれに和した。
［訳文］
我夢扁舟浮震沢、（私は夢の中で、震沢（太湖）に小舟を浮かべていました）
雪浪搖空千頃白。（見渡す限り雪のような白い浪が天までも揺るがせていました）
覚来満眼是廬山、（覚めると、眼の前いっぱいにあるのは廬山）
倚天無数開青壁。（無数の青い岩壁が、天に寄り添って突き立っています）
此生長接淅、（私の人生はいつもあわただしい旅）
与君同是江南客。（いまもあなたとともに江南の旅人です）
夢中遊、（夢の中での遊びも）
覚来清賞、（覚めて景色をめでるのも）
同作飛梭擲。（機織りの梭が飛び交う間のことなのです）
明日西風還掛席、（明日、あなたは西ゆく風に帆を掲げます）
唱我新詞涙沾臆。（私のこの新しい詞を唱えると、涙が胸を濡らすことでしょう）
靈均去後楚山空、（かの屈原がこの世を去ってからは、楚の山々は空しくあるだけ）
澧陽蘭芷無顔色。（あなたが行かれる澧陽の草花も（詩に詠まれずに）面目をなくしていました）
君才如夢得、（あなたの詩才はかの劉禹錫に匹敵するもの）
武陵更在西南極。（（劉禹錫が流された）武陵は（澧陽より）さらに西南の果てです）
竹枝詞、（（劉禹錫が武陵で採集した）竹枝の詞）
莫搖新唱、（土地の人々はいまも新しい歌をうたっていることでしょう）
誰謂古今隔。（古今の隔たりなどないのです）
［補足］（詞の前半は、かつて杭州にいたのも、いま湖口にいるのも、どちらが夢でどちらが現なのかわからないというココロ。後半は、屈原や劉禹錫の名を出して、蘇堅の詩才を讃えたもので、とりわけ、劉禹錫がその土地の人々の歌を題材にして新たな詩の世界を拓いたのと同様のことをするよう（すなわち土地の人のための政治をするよう）期待したものである。蘇軾は蘇堅との別れに際して悲哀の情を詞に詠むことをしなかった）
■壺中九華詩
［解題］蘇軾は無類の石好きで、石のためなら大金をはたくことも厭わない。そのことがこの詩の序文に如実に表されている。
［訳文］
湖口の人、李正臣は異しい石を蓄えている。その石には、九つの峰が玲瓏として聳え、宛転として並び立ち、窓の欞のような形状になっている。私はこれを百金で買って、「仇池の石」と偶にしたいと思った。しかし、南に遷る途中でそのようにする時間がなかった。この石は名付けて「壺中九華」という。詩を作ってこのことを識す。
（「仇池の石」は第10章211ページから何度か見ている。「壺中九華」はこの序文にあるように九つの峰があり、池州にある九華山に似ているのでその名がある。もとは「湖中九華」の名であったのを蘇軾が改めたという）
清らかな溪川は電光のように折れ曲がり、
（石に刻まれたその谷を遡る者は）雲の上の峰をたちまち見失ってしまう。
翠の山が空に突き出るありさまが、
（石を鑑賞した後の）夢に現れて驚き目覚めることがある。
（現実の世界において）これから超えることになる五嶺山はまだまだ千山の彼方……
だからといって愁うものではない、
九華山でさえこうして一つの壺の中に納まってしまうのだから。
九華山の絶頂の池からは、水が絶え間なく流れ落ち、
山中に住む仙女はからりと窓を開いて、世界のあらゆるところを見通す。
私の「仇池の石」がひとりぼっちなのを念って、
この碧の玲瓏たる石を百金で買って帰りたいと切に思う。
■過廬山下
［解題］かつて蘇軾は廬山を西側から見た（第7章1ページ以下）のだが、今回は東側から見ることになった。短い序文がある。
［訳文］
私は廬山の下を通過した。もくもくと雲が湧いていた。黙って祈ると、正午になる前に、峰々がはっきりと見えるようになった。それでこの詩を作った。
雲が乱れ、山に土を降らせるかのようだ。
雲の勢いは、風に翻って南へと移ってゆく。
次から次へと雲が群がり、勇んで往くありさまは、馬が争い進むかのよう。
心ひかれるのは、
鬱蒼と繁る森から時に紫翠の山気が吹き出すこと、
それを受けて、雁は東の嶺へと姿を消し、竜は西の岩から現れ出る。
廬山は、ときに人を一瞬笑わせたかと思うと、
人がそのことを語る間に、百の変化を見せる。
突然の雨が尾根を破り、涼しい風が山の濁りを掃き清める。
無理にでもその姿を見て取ろうとするのは粋ではない。
廬山はあるべき姿へとからりと帰ってゆくだけである。
かくて、空を突く紫の峰の並びも、奥深い白い石の壁も見えてきた。
五老峰の雪を帯びる松もくっきりと数えられ、
双溪の流れが天から落ちるありさまもありありとわかる。
黙って祈ったことに応じてくださったか……
いや、そうではないだろう。
古の人は、山に隠れるとの志に反して官に仕えた者を卑しんで、
その者を二度と山に入れないよう神に頼んだ。
そのことを思うと、私は深く恥じなければならない。
［補足］（このころに、ここまで同行してきた任伯雨（本章16ページ）と別れている。また黄庭堅がわざわざ訪ねてきて3日ほど一緒に過ごし、「銅雀硯の銘」を作って与えている）
■南康望湖亭
［解題］湖口から鄱陽湖を南に数十キロ遡ったところの南康軍（軍は行政単位）の呉山に望湖亭があり、蘇軾はそこで詩を詠んだ。
［訳文］
八月、長く横たわる湖（鄱陽湖）を渡る。
ありとあらゆるものが寂しく頼りげなく見える。
船の帆を吹く秋の風が強まり、
夕焼け空にぽつんと山が聳え立つ。
国を治めるのが我が仕事であるとの思いはなおあるものの、
時を康らかにする術は虚しく我が手から消えた。
峨眉山、岷江の家は万里の彼方、
帰って老いの身をそこに投じることが果たしてできるのだろうか。
［補足］（この詩を詠んだ呉山には順済竜王を祀る祠があり、その竜王が蘇軾を救ったという伝説がある。事実ではないだろうが、面白いところもあるので訳しておこう。以下にあるいくつかの地名はいずれも呉山より南側の鄱陽湖に面する地である）
東坡が昔、定州から英州に謫されたとき、夜に分風浦に停泊した。東坡が恵州安置の処分を受けたことを知った役人が使いの者を派遣し、夜中に五百人で取り囲んで東坡の乗る船を没収しようとした。東坡は言った。
「この夜の間に、星江に行き、村で別の船を調達するまで待っていただきたい」
使者はそれを許諾した。
東坡は順済竜王に祈り、
「私は江湖の上を往来して三十年になります。竜王様と私は古くからの知り合いで、この友が困ったときにはいつも竜王様は助けてくださいました。朝までに星江に行けるなら、あとは陸路で予章に行けます。私はそれによって救われます。そうでなければ、また使者がやってきて船を奪われ、岸辺で路頭に迷うことになってしまうのです」
そう言い終わらないうちに、風が耳をかすめ、船頭が帆をあげると、たちまち帆はいっぱいに膨らんだ。飯を炊きおわらないくらいの時間で楊瀾の前を渡り、昼には予章にまで来ていたのだった。
■江西
［解題］順済竜王の助けがあったのか、蘇軾は無事に鄱陽湖を渡り終え、長江の支流の贛江を南に遡って江西の地に至った。
［訳文］
江西の山水は真に吾が邦といってよい。
白い沙、翠の竹、
江の底は一枚の石である。
十里を行く間に、九つの早瀬が船底を磨る。
岩の角と篙が当たってごつんごつんと響く。
酔っては臥し、醒めては水音を聞く。
昔、馬祖（唐代の著名な禅僧）に龐居士が教えを請うたとき、
「そなたが江西の水を飲みほしたら教えてやろう」
と、言った。
そのことを思い出し、
ならば、一口に呑んでしまおうとしたら、
あれは誰なのか、
川をじっと覗いて大物を狙っている者がいる。
叉を挙げて絶叫すると、
一尺を超える二匹の鯉が貫かれていた。
［補足］（初句は「江西山水真吾邦」（江西の山水は真に吾が邦）である。罪人として南に流されて行く人の詩とは思えない。蘇軾はどこであっても「吾が邦」と思う境地に達していたのだった）
■秧馬歌
［解題］中国大陸は広大である。官船に乗ってよいとの許可を得たのが4月末ないし5月初め、すでに8月に入っているのに、蘇軾はなお船の上にあった。贛江をさらに遡って廬陵に至り、そこで新式の農具を主題にした詩を作った。序文がある。
［訳文］
廬陵にきて、官職から退いた曾安止に会った。曾安止は『禾譜』という作品を見せてくれた。文章はまことに温雅で、（稲作に関する）事柄が詳しく記されている。惜しいことに欠けているものがある。農具について触れていないのだ。
私はかつて武昌のあたりを旅して、農夫が皆、「秧馬」にまたがっているのを見た。その馬は、腹の部分に楡や棗を用いて滑りやすくし、背の部分に楸や梧を用いて軽くしている。腹側は小舟のような形で、首と尾の両方が高くせり上がっている。背中は重ねた瓦のような形で、（それをまたいで座ると）両方の髀が動かしやすく、泥の中で自在に跳ね回れるようになっている。首のところに藁を束ねて繋ぎ、そこに秧をしばっておく。一日に千の畦を行くことができ、身体を屈めて作業する大変さに比べて雲泥の差がある。
『史記』に、禹は四種の乗り物を用意し、泥を行くときには橇に乗ったと記されている。これを解釈する者は、「橇は箕のような形をし、泥の上を投げるように行く」としている。「秧馬」と同様のものなのだろう。
『秧馬の歌』一首を作って、『禾譜』の終わりに付ける。
［補足］（「秧馬」は橇のような道具で、それにまたがって泥田の上を後ろ向きに滑りつつ、稲の苗を植えて行くのである。それを武昌（現在の武漢）にあたりで見たとあるのは、父の喪に服すために長江を遡ったときであろうか。
春の雲が濛濛と空をおおい、雨が淒淒と降るころ、
稲の秧はよく生長して、一斉に伸び上がろうとする。
ああ、このときに、
女性や子供までもが泥水の中を歩きまわり、
朝に一つの畝に取りかかって、
暮れるまでに千の畦に秧を植えようとするのである。
腰をぐいと半円形に曲げ、首は啄む鶏のよう、……
筋はびんびん、骨はぎしぎし、声はひいひい、……
ここに、我等は手に手に「桐の馬」（つまり秧馬）をひっさげて田に現れ出る。
「桐の馬」は、頭と尻が高く、腹の脇が低くなっている。
背中は瓦を重ねた感じで、角ばったところを取り去ってあるから、
両足を使って本物の馬のように動きまわれるし、
鴨のようにぴょんと跳ねたりさっと滑ったりだってできる。
細い秧を束ねて持って行けて、
しかも、馬に必要な腹帯やら額の飾りやら余計なものは何もいらない。
畦の東から走ってたちまち畦の西へと移る。
村の門を閉じる合図の太鼓が聞こえると、
すぐさま、谷川を越える名馬のように帰ってくる。
あとは壁にかけて高いところにほったらかし、
秣など与えなくてよいし、うるさく嘶くこともない。
若いときにこれに騎乗して慣れてしまえば、
老齢に及んでもつまずいたりころんだりすることはない。
馬の鞍に錦を敷いて、皇城の門をくぐる貴公子は、
我等のことを、牛に鋤を引かせて一生を送るだけだと笑うけれど、
我等には実は木の駿馬があるのを知らないのだ。
［補足］（この後で、蘇軾は農民の労苦を軽減するために「秧馬」の普及に努めるようになる（本章165ページ））
■八月七日初入贛過惶恐灘
［解題］八月七日に贛州に入り、惶恐灘を通過してこの詩を詠んだ。このあたりの贛江には断続的に早瀬が現れ、18カ所の難所があるという。とりわけ惶恐灘がその名の表す通り危ういところとして知られている。
［訳文］
七千里の旅にある半分白髪の人、
十八灘においてひとひらの葉に身を委ねる。
山は「錯喜歓」（蜀の山道にある）を思い出させ、
遠く故郷を夢に見る。
地には「惶恐」（おそれおののく意）の名があって、
孤独な官人を泣かせる。
しかし、
吹き続ける風は、いつも帆を膨らませて旅人を送ってくれる、
降り続いた雨は、水かさを増して船を川底から持ち上げてくれる。
こうしてみると、
私は官の御用として水先案内人を務めるのがよいのだろう。
この一生のうちに、各地の津を知り尽くしただけではなのだから。
［補足］（（1）冒頭の対句は「七千里外二毛人、十八灘頭一葉身」（七千里外 二毛の人、十八灘頭 一葉の身）と、数字を巧みに使っている。（2）蘇軾自身の注で、「蜀の山道に、大散関の近くに「錯喜歓」がある」と記されている。「錯喜歓」とは「ぬか喜び」の意味。難所続きの蜀の山道の中で、「錯喜歓」はもう平地に至ったかと錯覚させるような場所であるという。蘇軾は「十八灘」を超えつつ、難所はもうこれで終わりかと「ぬか喜び」を何度か経験したのだろう。（3）この詩の前半は旅の困難を歌い、後半は一転して軽くジョークを飛ばしている。難所を無事に越えて、天はどうやら自分をいつも助けてくれるようであるから、全国の渡し場を知り抜いてもいることでもあるし、水先案内人になるのが適材適所であるというのである）
■書淵明詩
［解題］蘇軾はいつも陶淵明の詩とともにあったようだ。8月9日にこの短文を記している。
［訳文］
（後漢の終わりのこと、孔融は一度免官になり、一年余り後に官職に復帰すると、大勢の客人の訪問を受けるようになり）孔融はこのように言った。
「部屋に常に大勢の客人がいて、樽の中にちゃんと酒がある。それで（不如意の）事は何もないのだ」
この語は酒中の趣をみごとに言い表している。
しかし、陶淵明が、
「たまたまよい酒があるのなら、飲まずにいる夜はない。我が影を顧みながら飲み尽くすと、たちまち酔い心地になる」
と、書いているのを見ると、孔融には実は「事が多かった」とわかるのだ。
［補足］（陶淵明の言葉は『飲酒二十首』の序文にある（第10章214ページ）。孔融は直言を重んじ、時の権力者である曹操にも遠慮会釈なく物を言ったために、56歳で刑死した。蘇軾が陶淵明を選ぶか、孔融を選ぶかはなかなかに難しい問題であった）
■木蘭花令
［解題］造口というところで夜に雨音を聞いて弟に寄せた詞。合わせて土地の張庭堅（字は才叔）にも示した。
［訳文］
梧桐葉上三更雨、（真夜中に、梧桐の葉に降り注ぐ雨の音がしています）
驚破夢魂無覓処。（夢にさまよう魂は驚かされ、行き先を失います）
夜涼枕簟已知秋、（夜に竹の寝床は涼しく、すでに秋）
更聴寒蛩促機杼。（こうして寒蛩がせかすようにして鳴く声に、聞き入るのです）
夢中歴歴来時路、（夢の中で、ここまでの長い旅路をたどるとき）
猶在江亭酔歌舞。（私はまだ川べりの亭で酔う賑わいの中にいるのです）
尊前必有問君人、（盃の前には必ず君のことを問う人がいます）
為道別來心与緒。（それで別れてからの心の内を語るのです）
［補足］（定州を発ってすでに4カ月、夢の中でその道をたどり直すと、きっと弟との別れが思い出されたのだろう）
■書虔州八境図跋文
［解題］蘇軾は虔州（南康）に到着し、ここで船を降り、そこからは陸路をとった。虔州の地を踏んだのはこれが初めてであったが、かつてここの風光を描いた画を見て8首の詩を詠んでいた。土地の人々はその詩の作者が来たのを喜び、ぜひ筆を執って書いてほしいと頼んだ。蘇軾は請われるままに応じ、この短文を添えた。
［訳文］
南康（虔州）の川の水は毎年のように町を破壊していた。孔宗翰が州知事になると、石を巡らせて町を守り、町はいまもそれを頼りとしている。私はかつて密州の知事を務め、孔宗翰が後任としてやってきた。私が出て行くときに孔宗翰は南康を描いた『八境図』を出してきて、画を見て文と詩を作ってくれまいかと求めた。それを南康の人に送って、石に刻んで各所に置きたいと言うのであった。それから十七年が過ぎて、私は南に行き、南康を通過した。それで、「八境」を実際に見ることができた。私の先の詩は「八境」の万分の一も詠めていなかった。南康の士大夫がこもごも私に、「詩文はかつて石に刻みましたが、それぞれ持ち去ってしまった人がいて、いまではすっかりなくなってしまいました。また書いていただけるなら、再び刻みたいと思います」と言った。すでに孔宗翰は亡くなっていて、人々の要望に応えないわけにはいかない。
紹聖元年八月十九日、眉山の蘇軾書く。
［補足］（蘇軾が密州知事を辞めたときに後任として孔宗翰がきたことは第5章134ページで見ている。孔宗翰のために詩文を作ったのは、それから数カ月後の徐州知事であったときだった。第5章ではその詩を訳さなかったので、ここで見ておこう）
虔州八境図八首
序文
『南康八境図』は知事の孔宗翰の作である。孔宗翰は町を石で固め、その上に建つ高い建物から見えるありさまを図にした。東に七閩の地を望み、南に五嶺の山々を望む。山が高く低く連なるのが覧え、章水、貢水の奔流を下に覗く。雲煙 出没し、草木 蕃麗し、邑屋 相い望み、雞犬の声 相い聞ゆ。この図を観るなら、茫然として思い、粲然として笑い、嘅然として嘆息するのである。
ここで私は言う。
「この画は南康の『一境』ではなかろうか。何をもって『八』とするのか」
私が答える。
「観えるものが自ずと異なってくるのである。君が太陽を見る。朝には槃と観えて、昼には珠と観えて、夕べには破れた璧と観える。これをもって三つの太陽があると君は言うのかな。かの南康に『八境』があるとするのは、寒暑、朝夕、雨暘、晦冥によって異なるのをもってするのではなかろうか。あるいは、坐作、行立、哀楽、喜怒の変化によって、目に入ってくるものが吾が心に感じさせるものが変わるであろう。そうなると、それは『八』どころではなくなってとても数えきれない。『八』が『一』から出るのがわかったならば、この世界の外にあるとされる詼詭譎怪の事柄、『禹貢』に記されていること、鄒衍が語ったこと、司馬相如が賦したこと、およそ千万にもなろうというこもごものことも、もとはといえば『一』であると知れるのである」
後世の君子はこの『南康八境図』を見てきっと感じるものがあるだろう。
八章の詩を作って、図の上に題する。
其の一
『南康八境図』を描いた知事殿は、
石で固めた楼閣の上に座って、
下で奔流が激突するのを眺めている。
ここでしばしば宴席を設け、何ら憂うことはない。
昔、ある太守は石で造った犀を置いて川の流れを制御しようとした、
治水の功績として、ここの知事殿にかなり見劣りがする。
昔、ある侯爵は楼閣から眺めて八首の詩を詠んだ、
風雅を愛でる点で、ここの知事殿とほぼ肩を並べられるだろう。
（第一首は孔宗翰を讃えたもの。以下は、虔州の名所を詠み込んでいる）
其の二
波濤の頭が城に打ちつける、
還ってゆくときは寂しげである。
章貢台が夕焼けに包まれる、
旅に倦んだ人はここに登り、
ふと寒さを覚えるとともに、無限の思いに落ちてゆく。
ぽつんと浮く雲に落ち行く日の光が当たる、
都はあの方角なのだろうか。
其の三
白鵲楼の前に山裾が迫る。
五嶺を超える路はいつも雲に閉ざされている。
古い友人は千の山の彼方にいて、
梅が開いたとの手紙を寄せても返信はない。
其の四
朱い楼閣の奥深い部屋に、
まだほのかな明かりがさしている。
貴人の乗る車が帰ってくる、
中の人はもはや酒が半分醒めている。
この夕暮れ時に、
漁師も樵も去ってしまい。
螺亭を巡るのは碧い溪川と青い嶂だけである。
其の五
知事殿は暇さえあれば毎日のように参禅する。
寺の林を眺めて、知事殿は悵然と思う――
成仏するのは、誰かの後にはなるまい、
功名は、望む人が先んじるにまかせよう。
其の六
塵外亭からこの塵の世の中を見返ると、
数々の楼台が霧雨に暗く包まれている。
山水の美しさに引かれて人は道に迷い、
ぽつんと立つ塔を尋ねて東西を認めるのである。
其の七
鬱孤台は薄雲のたなびくなかにある。
山裾は中空に浮かび、半ば雨が上がっている。
ここに想い見るのは、かの蜃気楼、
赤い建物が見え隠れするのは仙界の蓬莱宮なのだ。
其の八
回る峰、乱れ立つ嶂、それぞれに高く低く、
雲の外には気高い隠者が住む。
人のいない山で月明かりのもとで遊ぶ人、
山の木もまた詩をよく吟じるのである。
［補足］（この一連の詩は、画を見て想像を膨らませて詠んだものであるから、蘇軾自身が先に記しているように、「『八境』の万分の一も詠めていなかった」のは仕方のないことで、17年後に現地に立っての詩をこの後見てゆく）
■鬱孤台
［解題］上の詩の其の七にあった鬱孤台を実際に訪れてこの詩を詠んだ。
［訳文］
「八境」を画に見ていた……
鬱孤台でかつて遊んだような気がする。
山は翠の浪となって涌き、
水は玉の虹となって流れる。
朝、崆峒の山に日が麗らかに注ぎ、
秋、章水、貢水に風がさかんに吹く。
ここは南の地、
山の葉はなお色を変えることもなく、
川の中州では魚や亀が産卵を続け、
草や木は半分が熱帯のものである。
夕暮れの迫るころ、
山の路は雲に包み込まれてゆき、
町の木々は靄に昏く沈み、
ただ早瀬の声が町の楼台に響いてくる。
故国は千に峰の外にある。
この高台に十日も留まろうか。
「三泊したところには必ずそこにまた帰って来て舟を繋ぎたくなる」という。
故郷とかねて画に見たここと、
我が心はどちらに引かれるのか。
■廉泉
［解題］虔州の町の東南に報恩寺があり、あるとき境内に水が湧き出して池ができた。当時の知事が清廉をもって評判の高い人であったことから、池は廉泉と名付けられた。蘇軾はそこを訪れてこの詩を詠んだ。
［訳文］
水の本性はもともと自ずから清くあるものだ。
清くないのはこれを撓すからである。
この廉泉を見るがよい、
水の五色は、仏典にある摩尼の珠よりも美しい。
泉は「廉」と名付けられたが、
水はもとより清廉なのだから、
わざわざそれを名にするまでもない。
「廉」があるなら「貪」があるということなり、
「慧」があるなら「癡」があるということになるだろう。
柳宗元は谷を「愚渓」と呼んで詩を詠み、
呉隠之は「貪泉」の水をことさらに飲んだ。
漁師は、悩む屈原に向かって、世間の水が濁ったならば足を洗えばよいと言った
――漁師の足はもとより泥だらけだから洗いたいのだろう。
許由は、天子がよろしくないことをしようとすると聞いて、山の水で耳を洗った、
――許由の耳はとくに垢まみれだったわけではあるまいに。
とにもかくにも、人はあれこれ名を立ててがやがや騒いでいるのであって、
この水はそんなことはとんとご存知ないのである。
毀誉褒貶は時とともに消え去るもの、
この水はいつ尽きるとも知れない。
廉泉のほとりにふらりとやってきて、
鬚をひねって、我が髪や眉を見る。
「ああ、この水の中の人よ、
元気でいてくれよ。
これからも行く先々で楽しみをともにしようではないか」
［補足］（（1）いくつもの故事を引いて、ごちゃごちゃ理屈をこねたいかにも蘇軾らしい詩。蘇軾は白か黒かの二分法を好まない。「廉」と呼ぼうが、「貪」と呼ぼうが、水は水の本性のままにあればよいのである。（2）最後の結びの原文は「好在水中人、到処相娯嬉」（好く在れ水中の人、到る処相い娯嬉せん）。「水中の人」とは本性のままにある本来の己なのであるのだろう）
■塵外亭
［解題］「八境の図」の詩の其の六にあった塵外亭を訪れてこの詩を詠んだ。
［訳文］
（北の）楚の山々は淡く、その姿は見えない、
（ここの）贛水は清らかで、歩いて渡れそうだ。
塵の外へと遊び来て、手を振って俗世間と別れる。
山は高く、
人は力を惜しんで、十歩に一度ずつ休憩を入れる。
いまや浮く雲の端に立ち、
万戸の井戸が照り映えるのを下に見る。
風流人がここで宴会を開きやすいようにと、
あらかじめ竜や虎が草を刈って整えてくれていたのか。
それこそ、我を惑わすものであるに違いない。
昔、馬祖（禅宗の高僧）が山に入ったとき、
山の神たちが垣を築いて修行の場として整えておいたのを見て、
「これは、我を助けるのではなく、我を誤らせる悪だくみである」
と、言って、そこを立ち去った。
私は、馬祖と同じく千年も語り継がれよと、
軽口を飛ばして、
袂をはらって、ここには留まらずに去るのである。
■書彭城観月詩
［解題］八月十五日の中秋の名月を虔州で見て、かつて詠んだ詩を書き、短文を添えた。
［訳文］
暮雲収尽溢清寒。（夕暮れの雲がすっかり消えると、溢れ出てくるさえざえとした光）
銀漢無声転玉盤。（天の川は声なく玉盤を回転させる）
此生此夜不長好、（この生もこの夜も長く好いわけではない）
明年明月何処看。（来年の明月はどこで看るのだろうか）
私は十八年前の中秋の夜に、彭城（徐州）で弟とともに月を観て、この詩を作り、『陽関』の調べに乗せて歌った。
いま贛水のほとりに宿り、これより嶺表に遷こうとしているときに、独りこの曲をまた歌う。
ここに書いておくのは、今夜の悲しみがあるとあらかじめ知るものではなかったけれど、いずれ必ず喜びがあるといま私にはわかっているということを、記録として留めておくためである。
［補足］（（1）18年前の詩は、第5章199ページで見ている。（2）弟と中秋の名月を見ることが必ずまたあると、蘇軾は敢えて確信しているのである）
■天竺寺
［解題］虔州は、「八境の図」の詩をかつて詠んだことにとどまらず、蘇軾にとっていささか旧い所縁のある地であった。そのことがこの詩の序文に記されている。
［訳文］
私が十二歳のとき、我が父は虔州から帰ってきて、このように言った。
「城（町）の近くの山に天竺寺があり、そこに白楽天が自身で書いた詩があった。
一山門作両山門、（一つの山門が二つの寺の山門になっている）
両寺原従一寺分。（二つの寺はもとは一つだったのが分かれたのだ）
東澗水流西澗水、（東に澗の水が流れて西の澗の水になり）
南山雲起北山雲。（南の山に起つ雲が北の山の雲になる）
前台花発後台見、（前の建物に咲く花が後ろの建物から見え）
上界鐘清下界聞。（上の境内の鐘の音が下の境内で聞かれる）
遙想吾師行道処、（我が師はいまどこに行かれたのかと、遥かに想像するに）
天香桂子落紛紛。（天からの香りをただよわせて桂の実がさかんに落ちるところである）
筆の勢いは奇れて逸く、墨の跡はまるで新しく書いたかのようだった」
今はそれから四十七年、私が天竺寺を訪れると、書かれた詩はすでに失われていて、石に刻まれたものだけが残っていた。涕が流れて止まらず、この詩を作った。
［補足］（（1）蘇軾が12歳のときとは、蘇軾の祖父の蘇序が亡くなった年で、伯父の蘇渙と父の蘇洵とが喪に服すために相次いで帰ってきた（第2章117ページ）。伯父は地方官を務めていて、一方で、父はその前の年に都で制科の試験を受けて不合格となり、失意の内に都を出て各地を巡る放浪の旅を続け、虔州にまできたところで父の訃報に接したのだった。蘇洵はこのときの帰郷後に、学問によって身を立てることを決意し、独りで努力を積み重ね、その8年後、張方平が成都にきたときに書き溜めていた文章を見せ、世に現れ出るきっかけを掴んだ。それは蘇洵が47歳のときで、蘇軾が科挙に合格したのはその2年後である。（2）白居易（楽天）の詩は、杭州の天竺寺の韜光禅師に贈ったもの。杭州に天竺寺があって霊隠寺と隣り合わせになっていることは第10章448ページで見ていて、詩はその二つの寺のありさまを歌ったものである。韜光禅師はもとは霊隠寺に住まい、後に天竺寺に移り、さらに虔州の修吉寺に来た。その折に白居易が書いた詩を携えていたのであろう。修吉寺は後に、韜光禅師にちなんで天竺寺と名を改めたのだった。（3）蘇軾は、白居易と境遇が似ていることをずっと意識していたし、父の所縁もあり、また杭州とも関わりがあることから、様々な思いが溢れ出たであろうから、序文にある「涕が流れて止まらず」は誇張ではないのだろう）
香山居士（白居易の号）の筆の跡を留めるのは、
天竺禅師（韜光禅師）の古い庵である。
香山居士が同じ字を重ねた「連珠体」の詩を詠んだのも遠い昔、
璧を連ねたその詩をいま吟じてみる……。
香山居士はすでに飛ぶ鳥となって消え、
驚蛇の勢いの墨蹟も失われてしまった。
林の奥深くの桂の木にはもう実は残っていない、
雨に濡れる山薑だけが枯れかかったまま花をつけている。
四十七年は真に一つの夢だ、
天の涯に流落する身となって、涕をこぼし続けるのである。
［補足］（（1）「連珠体」とは同じ文字を重ねた詩体。上に引かれている白楽天の詩を見ると、いくつもの文字が重ねて用いられていることがわかる。（2）山薑はヤブミョウガに似たものであるようだ）
■書楽天詩
［解題］上の詩の序文と同じ趣旨の短文が残っている。天竺寺の人々は、蘇軾の訪問を当然のことながら好機と捉え、白居易の詩を書いてほしいと頼んだのである。
［訳文］
一山門作両山門、両寺元従一寺分。東澗水流西澗水、南山雲起北山雲。
前台花発後台見、上界鐘清下界聞。遙想高僧行道処、天香桂子落紛紛。
唐の世に、韜光禅師が銭塘（杭州）の天竺寺からきてこの山に住んだ。
白居易（楽天）が蘇州知事であったときに、この詩を韜光禅師に寄せた。慶暦年間に我が父がこの山に遊んだときには、なお白居易の真筆を見ることができた。それから四十七年、私は南に遷く途中で虔州を通過し、この寺にくると、ただ石に刻んだものを見るだけであった。
紹聖元年八月十七日。
■自題出潁口初見淮山詩
［解題］蘇軾は虔州を発つ前に、筆を執って、36歳のときに詠んだ詩を書き、この短文を添えた。ここに記されているように、蘇軾は歳月の経過を正確に記憶していて、それが基礎資料となって蘇軾の年譜が編まれている。
［訳文］
私は三十六歳のとき、杭州副知事として赴任するに際して寿州を経過し、この詩を作った。
いま五十九歳。南に遷って虔州に至った。煙る雨が降りしきり、当時の気象と非常に似ている。
［補足］（（1）36歳のときの詩は第3章125ページで見ている。そのときは雨ではなかったようだが、心象的に一致するものがあったのだろう。（2）虔州では副知事の兪括とともに崇慶禅院に遊んでいる。そのことは後で見ることにする（本章171ページ））
■過大庾嶺
［解題］中国大陸の大きな区分である嶺南（嶺表）と嶺北を分けるのは五嶺の山並みで、その東の端にあるのが大庾嶺である。蘇軾は大庾嶺を超えていよいよ嶺南に入ろうとするときにこの詩を詠んだ。
［訳文］
我が一念によって、
身心の垢も汚れもなくなるのなら、
洞としてすべてが清浄になる。
浩然とした天地の間に、我独りだけが正しい――
そのような境地にだって至るのだ。
今日、峠を越えて行くに、
我が身のことも世間のことも、
すっかり忘れてしまう……。
そうか、これは、
仙人が我が頭のてっぺんを撫ぜてくれたからなのだ。
きっと、少年のように若返らせて、長生の秘訣を授けてくれるであろう。
［補足］（（1）左遷されて嶺南に行く人は大庾嶺で悲嘆に沈むのが普通で、いわばそれを約束事のようにして詩を詠むものとされてきた。蘇軾がもしもここで、辺境の地に追いやられる我が身を悲しみ、悔いや恨みを詩に詠んだならば、蘇軾を罪に落とした連中も少しは納得するものがあったろう。ところが、我が一念によってすべてを乗り越えられるとし、さらには、山の上であたかも仙人に出会ったかのような訳のわからない詩を詠まれたのでは、ますます憎しみを強めたことであろう。（2）蘇軾がかつて黄州に流されたときには、最後に越える峠に至ると、陳慥（方山子）がそこに待ち受けていた（第6章32ページ）。そのような奇跡の邂逅は大庾嶺ではなかったので、蘇軾はその替りに仙人との出会いを空想したのだろうか）
■宿建封寺暁登尽善亭望韶石三首
［解題］大庾嶺を越えて建封寺に宿をとり、暁に尽善亭に登り、韶石山を望み見てこの詩を詠んだ。韶石山には、渓をはさんで互いに向かい合う高さ百仞の岩があり、太古の聖天子である舜がその岩の上に登って音楽を演奏したという伝説があった。
［訳文］
其の一
二つの岩が中空に浮かび、
朝日を反射して、この尽善亭を照らしている。
いまも、猿や鳥は舜を慕って青空に嘯いている。
舜はここから西に旅をし、
洞庭湖でまた楽を奏し、魚や竜が舞ったのだった。
其の二
蜀の人（司馬相如）の賦、楚の人（屈原）の辞にある通り、
堯は崇山に、舜は九疑に葬られた。
二人の聖天子が真に道を得た人でなかったとしたら、
遠くに南の地にきたところで、何もすべきことはなかったであろう。
［補足］（堯や舜は真に道を得た人であったから、二人が遥か南方にわざわざやってきたのは、死んで葬られた見せて、実は仙人となって天に昇るためであったと、この詩は歌っているのである）
其の三
嶺南の海のさらに東南から、
月の生まれるところのさらに西まで、
禹は、あまねく天下をまわって洪水を治めた。
その功績によって天より玄圭を賜った。
このあたりは神仙のすまうところ、
禹もまたここに来て昇仙し、会稽に葬られたのだった。
［補足］（これらの3首は、堯、舜、禹の三代の聖天子が南の地にきて仙人になったということを歌っている。蘇軾は嶺南に流されたことの意味を何かしら見出そうと苦悩して、われわれには無理なこじつけとしか思えないけれど、聖天子と共通するところがあるかもしれないと、敢えて思うようにしたのだろうか。それはそれとして、嶺北とは異なる嶺南の自然に触れて、神秘的な力がここに宿っていると感じ取ったのだろう。蘇軾はこれまでも仙薬や養生に強い関心を抱いていたが、一段とその傾向を強めて神秘的な内容の詩文を多く作るようになる）
■月華寺
［解題］大庾嶺を越えてから道はひたすら南に向かって下って行く。これは韶州の月華寺で詠んだ詩。詩の題に、蘇軾自身の注で、「寺の隣に岑水場がある。寺に寄進をしたのはいずれも鉱山の経営者である。月華寺はこの百年間に三回燃えたという」と付記されている。岑水場とは銅の精錬場で、精錬場からの廃水は当然のことながら鉱害を引き起した。
［訳文］
天公（造物者）はどうして自分自身を大切にしないのか。
土を結び、石を融かして、銅の山を作った。
山から銅を捜して削り出そうと、
一万もの男どもが働けば、その陰で女たちは泣かなければならない。
銅を掘って得た利は、結局のところは、悪知恵のある者のところに集まった。
その金は、我が手の内に独占することなく仏に喜捨したのだが、
それとて、一枚の瓦を寺に献じれば千金（来世の福運）として還ってくるとされるからで、
何のことはない、己の強欲のためにしただけなのだ。
月華寺が三回も燃えたのは、天の意によるのだろうか、
いまは茅葺の小屋が草むらに建っているだけだ。
僧が言うには、
「ここには、もとは古の高僧のような方がおられました、
ところが、掌を返すような目まぐるしい興廃に見舞われてしまったのです、
このような困難な状況に、どうして置かれなければならないのでしょうか」
高い巖からは夜ごとに金碧の気が吐き出され、
暁には斑に青く光る異石が採掘される。
坑口から流れる水はさながら地から銭を涌き出させ、
暮に百鎰、朝には千鍰と、後から後から宝を生み出す。
この山は宝を出して、その代わり、己自身を損なってしまった。
銅の地脈がすでに断たれたのは、天も物惜しみをするのだろうか。
私が願うのは、
銅の山がすっかり変わって、たっぷり陽ざしを受ける農地となり、
麦や稲が豊かに稔って、
父を失った子や、夫を失った妻が蘇生すること。
仏の道に修行する人が要るものといったら、
飯を煮る破れた鍋と、草葺きの小屋だけで十分なのだ。
［補足］（この詩は、鉱害と仏教界の歪んだ仕組みを告発するものである。蘇軾は仏教界にたくさんの友人を持つが、世俗の苦役から逃れその蔭で財を貪るような仏教者に対してはむろん厳しい眼を向ける。唐代の韓愈は仏教界の悪い側面をもって仏教を全面否定したが、蘇軾はそこまで狭量ではない）
■南華寺
［解題］韶州の南華寺で詠んだ詩。南華寺は中国の禅宗の開拓者の一人である六祖慧能が修行した寺で、曹渓寺とも宝林寺とも呼ばれ、現在も続いている。
［補足］（慧能に始まる禅宗の一派は南宗と呼ばれ、日本の臨済宗や曹洞宗に強い影響を及ぼした）
［訳文］
慧能師は、ここで祖師弘忍にまみえると、
「本来の面目を知れ」
と、言われ、たちまち大悟した。
いま慧能師は高く聳える塔の中の人となっていて、
「何を見るのか」
と、私に問う。
慧能師は一瞬の電光のうちに万法を知り、
水を飲めば、自ずから知るところがあり、
月を指さしても、何も迷うことはなかった。
私は元来は修行を積む人であって、
過去、現在、未来の三世にわたって精練すべきであったのだが、
その中間において一念を失い、ここに百年の譴責を受けてしまった。
衣をかかげて慧能師の塔に礼拝すると、
感動の涙が溢れてくる。
慧能師が錫丈で叩いて湧き出した泉の水を借りて、
綺語ばかりを書いてきた我が硯を洗おうと思う。
［補足］（最後の句にある「綺語」とは詩文の美辞麗句。仏教用語においては、真実に反して飾り立てた言葉をいい、それを用いることは十悪の一つとされる。蘇軾は、罪を得たのは綺語のためであるから、もはやそのようなことのために硯を用いるのをやめて本来の修行の身に戻ることをこの詩では願っている。黄州に流された当初、安国寺に籠って己の心と向き合ったこと（第6章46ページ）が思い起こされるだろう。定州を出てから悲嘆の辞を吐くことはほとんどなかったが、その実、深い苦渋のうちにあったことは間違いない）
■碧落洞
［解題］蘇軾は当初そこの知事に任命された英州に入った。碧落洞という現在も有名な観光地になっている鍾乳洞を訪れてこの詩を詠んだ。
［補足］（碧落洞は英州の町から十五里下り、さらに渓谷をうねうねと二十里遡ったところにある。碧落洞は唐の時代以降さまざまに詩歌に詠まれ、蘇軾もここに来る前から知っていた。南中国には石灰岩の作る奇勝、奇観が多数ある）
［訳文］
峰々が槎牙に乱れ立ち、
絶壁が晃蕩と橫たわる。
翠の山裾の間に、道教、仏教の人々の霊跡があることを、
遥か遠くにいたときから私は知っていた。
北の絶壁は朝日を射て返し、高いところは仙界の都と連なっている。
南の絶壁は月の光に叩かれ、夢の中で仏界の都に遊ぶのである。
果然と石の門が開かれ、その中に銀河が傾き流れている。
奥深い龕が窈窕と入り込み、別に扉がまたあってがらんとした穴が穿たれる。
泉が流れて珠が下り、乳が洗うように纓が縵やかに交差している。
私はここに来るのを人に知られるのを畏れていた。
いまは仙人に迎えられるような気がして恐れを抱いている。
ささやき声さえも大きく響き、雲が驚いて山から飛び去るかのようである。
ならば、杖をついて帰るべきであろう。
その前に、仙人を煩わして食事を馳走してもらいたいものだ。
（天下の奇勝に遊んでも、蘇軾の心はざわついて十分には楽しめなかったようである）
■峽山寺
［解題］蘇軾は広州に入り、峡山寺に遊んでこの詩を詠んだ。現在の広州は、経済の先進地域として世界的に知られるが、実は古くから南海貿易で栄え、南方の僻地と見なされながらも、とくに唐代以降は先進地域であった。この詩には、蘇軾自身の注で、「『伝奇』に記されている孫恪と袁氏の物語はこの寺でのことである。いまも白い猿を見るという人がいる」と付記されている。その物語の背景として、南海貿易によって外国人の往来が盛んであったことがある。
［補足］（蘇軾の注にある物語の概略を記しておこう。唐の時代のこと、峡山寺では白い猿が飼われていた。あるとき猿は異国の人が持ってきた珠を連ねた環をもらい、不思議な運命を授かった。都に連れて行かれ、玄宗皇帝に可愛がられるようになり、安禄山の反乱の折に宮中から逃れ、いつしか人間に変じて袁氏という非常に裕福な家の娘となった。そして、孫恪の妻になり、夫婦で各地を旅して再び峡山寺にきた。孫恪の妻は昔の猿の仲間に呼ばれ、山に戻った。以上の話に現れる異国の人は、たぶん南の海洋ルートで来たインド系ないしイラン系の商人であったのだろう。また、猿が袁氏の娘になったというのは、大昔に袁公という剣の達人がいて、実は白い猿が変じていたのだったという伝説があることによる）
［訳文］
天はここに清遠峽を開き、
地は転じて凝碧湾に変じる。
私は衣の裾を上げ、ゆるゆると山の道を歩む。
峡山寺の僧は、もとより静かに独り暮らしていて、
町に托鉢に出たまままだ帰ってきていないという。
誰もいないところで、
水が碓をかたことと搗き、風が松の門を守っている。
私を楽しませようと、
岩から泉の水が流れ落ち、竹が触れ合って山に音を響かせる。
かの剣豪の子孫の美女（伝説の袁氏の娘）は、
戯れに人間世界でしばし遊んでみた白い猿で、
雲の中で友が嘯くのを聞くと、
詩を賦し、珠の環を留めてたちまち去ってしまった。
深い林に、その猿を見ることができないものか……
いつしか霧雨がきて、その美女も山も包み隠してしまうのだった。
［補足］（（1）詩の冒頭で、この付近の地形を大きく詠んでいる。「湾」とは、谷から出て広がった水域を指す。清遠峡は海からは数十キロ離れている。（2）蘇軾が息子の蘇過とともに峡山寺に遊んだことを記した訪問記録があって、その日付は9月13日になっている。また、9月12日にはやはり蘇過とともに英州の寿聖寺に遊び、ある隠者と話をしたことを記した文章を残している）
■清遠舟中寄耘老
［解題］蘇軾は広州清遠県のあたりの川を下り、船の中で、賈収（号は耘老）に寄せるこの詩を作った。賈収は湖州に住む隠者で、蘇軾が陽羨（いまは長男と次男がそこにいる）に土地を買ったときに、賈収が訪ねてきたことは第7章189ページで見ている。
［訳文］
一万の谷、一千の巖が人境に背を向けたところ、
すなわち、梅花嶺（大庾嶺の別名）を、
小寒のころに越えた。
いま、清遠のあたりで泛宅（船のこと）の旅にあり、
ふと夢に、郷里の井戸ばたにあるとはっきりと見た。
目覚めると、
眼いっぱいに水と山があり、
鴨のような緑の波が鳳凰のような山の影を動かしている。
ここは郷里の川辺なのか、
はたまた苕水（湖州の名勝）の岸辺なのか……
海陵居士（賈収）には（出世をとげるための）雲梯などはなく、
晩年に至って苕水のほとりに廬を結んだ。
山は、蒼い玉で飾った帯を自らつける、
――官服で身を飾る必要などない。
野の馬は、黄金で飾った羈を受けはしない、
――官職に身を縛り付けない。
門の前に官人の乗る車が通っても、
居士は知らん顔、
清流に向かって笑って己の髪の毛を数えている。
汀の洲から春の風が起ち、
水草の白い花が散って水煙のなかへとまじりこんでゆく。
その風の行く手の万里の彼方に、
いまだ帰ることのできない私がいる。
我が目は蒼い浪に断たれ、
郷里も苕水も見えない。
そこに北からの雁がやってきて、
居士の手紙を届けてくれた。
「洪水に襲われて我が廬は水没してしまいましてな、
十日の間は、はからずも斎戒しているかのように、煮炊きができませんで、
曲がった煙突に亀や魚が棲みついておりました。
今年は米の値が下がって水のようにただ同然になり、
銭を手に入れようとしても、囊の中はもはやからっぽです。
まことに弱りきっております」
人生は百年、それとて寄せるが如きのみ。
七十歳でぴんぴんしているのはそうあることではない。
居士よ、何も嘆くことはない。
子がいるのなら、それだけで十分、
賢かろうが愚かだろうがどちらだってよいのだ。
昔の隠者のように、経典を腰に帯びつつ畑を耕せばよいではないか。
さあ、この南の天よ、
東坡の爺さんを見るがよい、
いままで続けてきた読書をこれからもやめたりはしないのだ。
［補足］（（1）かつては賈収から節約術を学んだのだが（第6章121ページ）、ここでは逆に賈収を諭すようなかたちになっているのもおもしろい。なお、賈収との交流を示すものはこの詩が最後であるという。（2）この詩の終わりは、先に南華寺で詠んだ詩（本章63ページ）と逆のことを言っているようでそれもまたおもしろい。（3）弟の蘇轍は本章13ページで見たように汝州知事の任にあったが、兄が恵州に流されることが決まったのと同時に降格処分となり、かつてと同じく筠州（第6章3ページ）に移されることになった。弟は兄の旅路の跡を追うようにして廬山の南にまできて、そこから西側の道を通って9月25に筠州に到着した）
■舟行至清遠県見顧秀才極談恵州風物之美
［解題］船は清遠県の町に至り、顧秀才（詳しいことは不明）に会い、（これから行く）恵州の風物がいかにすばらしいか熱く語るのを聞いたという詩。
［訳文］
私が陛下のおそばに仕えた者であることから、
行き先々で観ようとする者が集まってくる。
これから行く恵州は、
仙界の宮殿に住まうべき者にこそふさわしいところであるようだ。
川から漠漠と湧く雲が桂の花を湿らせ、
海から翛翛と降り来る雨が荔子の花を然え立たせる。
黄柑は鵲に投げつけても惜しくないくらいにふんだんに稔り、
朱橘だって値がつかないほどにいくらでもできる。
私は、さながら宮中の門に冠をかけて去った隠者のように、
恵州の山で霊薬を練る仙人を探すとしよう。
［補足］（結びの句の原文は「便向羅浮覓稚川」（便ち羅浮に向って稚川を覓めん）である。羅浮は恵州の北に連なる山、稚川は晋の時代の葛洪の字。両者とも後に詳しく見るようになる）
■広州女仙
［解題］上の詩にあったように、どこに行っても蘇軾に会いたがる人が大勢いた。蘇軾は気軽に応じたようで、広州の町に到着すると、崇道大師といういささかあやしげな人物と会っている。
［訳文］
先頃、私は都にいたときに、李白の作だと伝えられる詩をある人から見せられた。
そこには、
朝披夢沢雲。（朝に披く夢沢の雲）
笠沢清茫茫。（笠沢は清く茫茫たり）
という句があった。これは世間の人間が言える言葉ではない。李白が酒肆にいたときに、ある人がこの詩を耳に聞いて得たのであろう。神仙の道は真に知り難いものがある。
紹聖元年九月、広州を通過し、崇道大師何徳順を訪れたところ、その部屋に神が降りてきて、自ら女仙であると言った。たちまち詩を賦し、俗世間から超絶したことを語り、ときに箕や帚に託して物を言い、世にいう「紫姑神」と同じようであった。しかし、女仙の言うことを味わうと、紫姑神の言えるようなことではない。人が鬼になったり、鳥や獣になったり、箕や帚に託して何かものを言ったりするようなことがあるのは、実は怪しむに足りないのだろう。崇道大師は変わった事を好み、客人を喜ばせようとする人で、大勢の士大夫と交際がある。偽りを作り上げるようなことは決してしないだろう。
［補足］（（1）前半の李白の句と、後半の女仙のことがどう関連しているのか、訳者にはわからない。（2）蘇軾の目の前に女仙が下ったように訳したが、崇道大師が語ったのを聞いただけなのかもしれない。（3）紫姑神は黄州ですでに見ていたから（第6章138ページ）、蘇軾はよくあることとして少しも驚かなかったのだろう。むしろ、イカサマだと蘇軾が笑い飛ばさないことの方が訳者には驚きなのだが、嶺南の地でなら他所ではありえないことも普通にありうると捉えていたのかもしれない）
■広州蒲澗寺
［解題］広州にはたくさんの菖蒲が咲く谷川（菖蒲澗）があり、そこにある蒲澗寺を訪れてこの詩を詠んだ。この詩には蘇軾自身の注で、「広州には十二節の菖蒲がある。安期生（昔の仙人）の家だとされるものがあり、始皇帝がそこを訪れたという」と書き添えてある。「十二節の菖蒲」とは文字通り、茎に十二の節があるのだろうか。安期生はここの菖蒲を食べて不老長生の術を得て昇仙したとされる。
［訳文］
寺の僧に案内されるまでもなく、
雲の外にある山の泉へと自ら尋ね入る。
千本の古木が、地のない深い谷に臨み、
百尺の滝が天の漏れ穴へと注ぎ込んでいる。
昔、菖蒲の生えるところに方士（安期生）が庵を構え、
後には、薝蔔に向かって蒲澗寺の祖師が禅を結んだ。
いま咲いているのは含笑花ばかりで、
始皇帝がここで仙術を学ぼうとした愚かさを、
その花はずっと笑っているのだ。
［補足］（（1）含笑花は南方特有の花で、蘇軾はこの詩に「山中に含笑花がたくさんある」と書き添えている。（2）蘇軾はこのとき蒲澗寺の信長老に詩を贈っているが、陳妙な字句を並べていて訳者には意味が掴めない）
■発広州
［解題］恵州に向かって広州を発ったときの詩。恵州は広州の東隣りである。
［訳文］
都は日に日にすでに遠い。
この身はしかとこのようにある。
「軟飽」（飲酒）は三杯でよろしく、
その後は、「黒甜」（睡眠）を一つの枕に寄せる。
すると、蒲澗寺から遠く鐘が聞こえてくる。
黄湾（広州の海岸）ではいまようやくが落ち葉が始まったところ。
天の涯といわれるようなところに来てみれば、
さして遠くにあるとは思えない。
どこにでも樵はいるし漁師もいるのだ。
［補足］（（1）第二句の「此身良自如」（此の身は良に自如たり）は、字句は平易だが意味は深い。本来の己に返るのなら、この身がどこにあろうとも、それは変わるところがないということであろう。（2）蘇軾自身の注で、「浙の人々は酒を飲むことを『軟飽』という」「俗に睡眠のことを『黒甜』という」とある。ことさらに方言や俗語を詩に用いたのは、末句への伏線であろう。（3）詩の終わりは、庶民の生業はどこに行っても変わらないのだから、どこが中央でどこが辺境であるとかの区別はないという意味であろう。蘇軾は地理的遠近、身分の上下に関係なく、どこでも誰でも等しいと見ているのである。（4）この詩は平明で味わい深いと思うので、原文と読み下し文を添えておく）
［訳文］
朝市日已遠、（朝市 日に已に遠く）
此身良自如。（此の身は良に自如だり）
三杯軟飽後、（三杯 軟飽の後）
一枕黒甜余。（一枕 黒甜の余り）
蒲澗疏鐘外、（蒲澗 疏鐘の外）
黄湾落木初。（黄湾 落木の初め）
天涯未覚遠、（天涯 未だ遠きを覚えず）
処処各樵漁。（処処に各おの樵漁あり）
■浴日亭
［解題］広州から東南八十里のところにある浴日亭で、朝の出発の際に、「浴日」の名にちなんでこの詩を詠んだ。
［訳文］
剣気――ぞくっとさせられる気配が、何やら夜空に立ち昇っていた。
瑞光――吉兆を思わせる光が、暁の黄湾に明滅していた。
日の出る彼方に金色の暈が浮かび出てきたときに、
ふと、遥かに想像したのは、
銭塘江を遡る潮の、雪山のような波頭。
朝の清々しさに、病んだこの身が蘇るかのように感じる。
衰えた顔から、夜中に取りつかれた何かの気が洗い流されたのだ。
たちまち鳥が動き出し、旅人も出発する。
日もあわただしく、もう山々の上へと飛び上がっている。
［補足］（（1）海の近くにまで来て、昇り来る朝日に、杭州の銭塘江を遡る潮のありさまを連想したのだろう。（2）訳詩ではうまく生かせなかったのだが、三句目から七句目まで、それぞれ冒頭に、「坐に看る」「遥かに想う」「已に覚える」「更に煩わす」「忽ち驚く」と、時間の経過を叙述する二文字を置いてリズムを出している）
■題羅浮
［解題］蘇軾は恵州に入り、道教の霊場として有名な羅浮山に立ち寄り、この訪問記録を残した。羅浮山は最も高いところは1296メートル、山中に大洞窟があり、仙人が住むといわれていた。この後、蘇軾の詩文に羅浮山の名をしばしば見ることになる。
［訳文］
紹聖元年九月二十六日、東坡翁は恵州に遷る途中で、舟を泊頭鎮に繋いだ。翌朝、肩輿に乗って十五里、羅浮山に至った。延祥宝積寺に入り、天竺瑞像に礼拝し、梁の時代の僧の景泰禅師に所縁のある卓錫泉の水を飲んだ。その味わいは川の水を遥かに超えてよいものだった。東に三里で長寿観に至り、さらに東北に三里で沖虚観に至り、晋の時代に葛洪が仙薬を焼いた竈の址を見た。その隣に、諸仙人が北斗真君を拝む朝斗壇があり、壇上に銅竜が六体、銅魚が一体ある。壇の北に朱明洞があり、草木で塞がれていて入ることができなかった。洞窟から水が出て、琴筑のような音を響かせ、水の中に菖蒲が生えている。道士の鄧守安、字は道玄がいて、道を得た者であるというので、訪ねてみたが、たまたま他出していた。遺屣軒に座って、麻姑峰を望み見て、酒を飲もうとすると、進士の許毅が遊びに来たので、呼んで一緒に飲んだ。すでに酔い、宝積寺に帰って泊まった。夜に強い風が吹いて、山は焼けるようで、何かの声がした。朝に粥を食べ、船に還り、花光寺で休憩した。
この遊びに同行したのは、末子の蘇過、巡検の史玨、宝積寺の長老斉徳、延祥寺の長老紹沖、沖虚道士陳熙明であった。山中の行くべきところでその暇がなかったのは、明福宮、石楼、黄竜洞。来年の三月にはきっとまた来ようと思う。
［補足］（（1）葛洪の名が挙げられているが、後に何度か出てくるので、説明を加えておこう。葛洪（字は稚川、号は抱朴子）は蘇軾より800年ほど昔の晋代の人で、政界で活躍した後に、晩年になって金丹（仙薬）をつくるために、その原料の産地であるベトナム方面に行こうとしたが、広東にまで至ってそこの知事に引き留められ、羅浮山に入って仙薬を作ったり、『抱朴子』『神仙伝』など道教に関する書物を著すなどして、最後は仙人となって昇天したといわれている。（2）このときには会えなかった鄧守安とは後に交流がある）
■書卓錫泉
［解題］上の文章中にあった卓錫泉について書いた短文。
［訳文］
錫杖泉は羅浮山の宝積寺にある。景泰禅師が錫杖で卓いたところであることから、卓錫泉ともいう。
蘇軾はこのように言う。
私は昔、汴河から淮河に入り、長江に泛んで、三峡を遡って蜀に帰った。それまでの間は淮河や長江の水を飲み続け、蜀に至って井戸の水を飲むと、腥くて渋いと感じた。百日余り経つと、安らかに飲めるようになった。長江の水が蜀の井戸の水よりも甘いことをはっきりと知ったのである。
私は嶺北からここに来るあいだに、揚子から長江の水を飲み始め、南康に至って川はますます清く速く流れるようになり、水はますます甘くなった。さらに知ったのは、嶺南の川は嶺北の川よりもよいことだ。近頃、清遠峽に入ると、水の色は碧玉のようで、味はますます優れていた。いま羅浮山に遊んで、景泰禅師の錫杖泉を酌んでみると、清遠峡の水でさえその下におかなければならないものである。嶺南の人々は茶の優劣を競うのを喜ぶので、この水は虚しくここに出たわけではないのだ。
紹聖元年九月二十六日書く。
［補足］（（1）広い中国を旅すれば、水の味わいはいろいろに変わるのだろう。（2）最後の日付はやや疑問である。ひとつ前に見た訪問記録が正しいのなら、この文章が書かれたのは少なくとも9月27日以降でなければならないのだが）
■遊羅浮山一首示児子過
［解題］蘇軾は羅浮山で詩を詠み、息子の蘇過に示した。
［補足］（この詩には羅浮山や仙術に関連する様々な事柄が詠み込まれ、それらについて蘇軾自身による多数の注が付記されていて、なかなかに煩わしい。親馬鹿ぶりを敢えて演じているところもあって、戯れの作であることから、大意をとって軽く訳すだけにした。注は省略して、ごく一部を訳詩中に組み入れた）
［訳文］
天上界にあるはずの白玉京がなんとこの人間界にあった。
それは、羅浮山――
ここは、あまりの高さに、夜中に日が昇って鶏がひと声鳴く。
山上にある南楼は泰山の日観峰ほど高くはないにしても、
太陽とともに奔る鬱儀という仙人は、毎朝ここの朱明洞に挨拶にくる。
かつてここに棲んだ葛洪は、東坡居士の師匠で、
前の世において真の契りを結んだのだが、
東坡居士は流落して朝廷の一員になりさがったために、
東坡居士の小さな田はいまは誰も耕す者がいない。
道華は師匠の棗を盗み食いしてちゃっかり昇仙したというし、
契虚は立派な僧でありながら、人に仇をなす身中の虫を退治し損なったというから、
人それぞれにいろいろなことがあるのだろう。
空に連なるようにして鉄橋や石柱があって、
そこに至る者はほとんどいないと聞けば、
飛びゆく猿を追って行こうと、杖を手に奮い立つのだが、
雲に閉ざされた暗い谷には吠えない虎が潜んでいるとか、
北斗真君を拝む朝斗壇には獰猛な竜がありありと姿を見せもするとか、
いささか怖気づかざるをえない。
我が末子はまだ年少ではあるが、なかなか立派な志があって、
夜中に起きて精神を養い、
近頃は戯れに『凌雲賦』を作り、かなりの勢いがある。
書物を背負って、私に付き従ってとうとうここにまで来てしまったところ、
ここの仙人たちは新しい建物の銘を作ろうとしているようなので、
そなたと私とで競ってみるのも悪くはないだろう。
それが完成したなら、我が弟にも見せるために、
糧を包んで万里の旅に上るがよい。
■十月二日初到恵州
［解題］10月2日、蘇軾は恵州の町に到着した。定州を発ってからほぼ半年が経過していた。
［訳文］
恵州に来てみると、
明らかにかつてここで遊んでいる……
それは夢の中であったか……
漢の時代に、劉邦が新しい町を造ったとき、
連れてこられた人々は、ここは昔から住んでいた場所だと喜び、
鶏も犬も己の部屋がどこにあるかを知っていたという。
――私はその鶏や犬と同じなのだ。
恵州の役所の人々は、
何の罪があって私がここにきたのかと驚き怪しんでくれる、
恵州の町の人々は、
この爺さんを迎え入れようと押し寄せてくる。
漢の時代に、蘇武が砂漠で幽閉されていたとき、
いつか帰国できると知っていただろうか。
三国時代に、管寧が戦乱の世を避けて北の地に移ったとき、
結局はそこで老いることになると知っていただろか。
どこがよいところなのか、誰にもわかりはしない。
ここに「嶺南万戸」という酒があって春の味がする、
それもそのはず、嶺南の万戸はいつでも春の色を帯びているのだ。
ここにはきっと居候を迎え入れてくれる風流人がいるに違いない。
［補足］（蘇軾は流謫の地にきても弱音を吐かない。瘦せ我慢でもなく、偽りの強気でもなく、言葉の上だけで笑い飛ばそうというのでもない）
■至恵州謝表
［解題］10月2日、恵州に到着したことを皇帝に報告するこの謝表を書いた。
［訳文］
臣は先の辞令によって、二つの職より落とされ一つの官より追われ、承義郎知英州軍州事となりましたが、続けての辞令によって、寧遠軍節度副使恵州安置の処分を受け、今月二日に恵州の役所に到着しました。御仁聖によって曲げて臣の命を全うさせてくださり、民のために一郡を守らせようとなさったのでありましたが、もろもろの議論が撃ち交わされ、必ず臣を死に至らせようとしたのでありました。それでもなお寬くせよとの御恩を賜り、よって辺境の地に置かれるにとどまったのであります。臣の感謝するところであります。
伏して念いますに、臣は本性からして偏って浅く、学術は荒唐であって、しかも愚かさを少しも改めなかったために、ついに赦されることのない咎を成してしまったのでありました。その狂妄の跡を見るならば、これまでにもずっと誅罰しなければならないものであったのです。しかも、口のために窮まってしまい、その罪はもはや数えきれないまでになったのでした。それでもなお生きていられますのは、天の幸いという以外にないのであります。これは、皇帝陛下の大きな包容力よって、他の人には我慢のならぬこともよしとされる政にお遇いしたことによるのであります。……（故事を引いて以上述べてきたことをさらに強調する）……。
臣は仁の至りに命を託し、心を洗って自ら新たになるよう努め、死に及ぶまで怨むところはないのであります。気候が悪く魑魅が隣に住むような土地でありますから、衰えと疾に交互に攻められ、帰郷できるとの望みはもとより持っておりません。精誠はいまだ失せてはおらず、死に至るまで忠義を尽くすものであります。
［補足］（（1）かつて黄州に流されたときにも、自身を新たにすると、蘇軾は誓い（第6章39ページ）、真剣に取り組んだのだが、今回はどのようであったのか、これから見てゆくことになる。（2）恵州は広南南東路に属し、帰善県、河南県、博羅県、海豊県を治め、州の役所は帰善県に置かれた）
■寓居合江楼
［解題］蘇軾は恵州到着後しばらくの間は、合江楼の官舎に滞在した。東江（竜江）と西江が町の東側で合流するところに建っていることからその名がある。そこで詠んだ詩。
［補足］（以降の詩文では、河川に対して蘇軾は一貫して江の字を用いている）
［訳文］
海のほとりの蔥曨とした山はまことに佳いたたずまい。
二つの江が合わさるところにある朱い楼閣から眺望が開ける。
仙人の棲む蓬莱島も方丈島もきっとここから遠くはないのだろうから、
この蘇先生のために江に浮かんでここにぷかぷかと来てくれたりしないだろうか。
江からの風に涼しさを覚え、眠りはまことに結構、
楼閣の上で啼く鴉に呼ばれて起き出す。
いま私は、西に流れ落ちる白日と東に流れるゆく江と同じように、
身と世と互いに行き違いになってしまっている。
かくて、楼閣の中の私は老いつつ、
しかしながら、日に日に気分は爽快になってゆく。
思うに、天上界には愚かしく繰り言を言う仙人は一人もいないだろう。
仙人の島がすぐ近くにあるとしても、
まだそこに帰れるわけではないのだから、
我が思いは一杯の「羅浮春」に託すとしよう。
［補足］（（1）恵州の町から海までは数十キロある。大陸人の感覚では、それでも十分に海辺の町であるのだろう。（2）後半で、自分はもう仙人の一人になるのだから、繰り言は言わないと詠んでいる。大庾嶺を超えてから、蘇軾はすでに仙界のメンバーカードをすでに持っているかのように詩に歌っているのである。（3）最後の句には、蘇軾自身の注で、「我が家で醸した酒に『羅浮春』と名付けた」とある）
■試筆
［解題］筆を試すという詩。題を「自笑」とする本もある。
［訳文］
硯は「子石」――玉を磨いたかのようである。
墨は「遠煙」――煤の塊を削ってまことに真黒である。
それらを病んだ我が手に取ると、
勢いよく黒い雲が湧き出てくる。
この中に何の好さがあるのか、
私は喜んでそこに迷い込むのである。
下駄にひたすら蝋を塗っていた阮孚、
柳の下で鍛冶仕事にふけった嵇康、
私もそうした奇人の類であろう。
酔って筆を揮えば、天の完全性を得て、
宛宛とのたくるありさまは「天投霓」（竜に似た霊物）さながらである。
大いに感謝しなければならないのは、
この静かな暮らしの友となってくれている筆があることだ。
［補足］（子石と遠煙はそれぞれ硯と墨の名。阮孚と嵇康は、蘇軾が以前にも詩に引用していた奇人。他の人から見たらばかばかしいことに打ち込んでしまう人の仲間に自分もいると蘇軾はいうのである。蘇軾は、先の謝表で、口のために窮まってしまったと書いていながら、やはり筆を持ち、詩文を作ってしまうのである。読書をやめる気はないと前に宣言もしていた（本章70ページ））
■無題
［解題］このころの思いを歌った詩。
［訳文］
六十の歳が間もなく開かれようとしている。
世間との縁はますます疏くなるばかりだ。
我が宝は貪らないこと……
車に乗る代わりに静かに歩む。
故郷には木々が高く繁り、
父の小さな家がいまもあるだろう。
誓うのは、
何事もなく閑散と暮らして、一行の書さえも著さない。
［補足］（最後の誓いが守られるはずのないことは上の詩で見ている）
■浣渓沙
［解題］恵州の役所から西に八十里の大雲寺に遊んでこの詞を作った。序文がある。
［訳文］
紹聖元年十月十三日、程郷県知事の侯晋叔と、帰善県の役人の譚汲と大雲寺に遊んだ。松の下で酒を飲み、松黄湯（薬湯）を用い、この詞を作った。我が家では近ごろ酒を醸し、「万家春」と名付けた。嶺南万戸の春の酒というわけである。
羅襪空飛洛浦塵。（都の塵の中を歩んだのもいまでは空しいこととなりました）
錦袍不見謫仙人。（皇帝から錦の袍を賜った李白（実は蘇軾のこと）はどこにいるのでしょうか）
携壺藉草亦天真。（酒を携えて草に座るのもまた天の真なのでありましょう）
玉粉軽黄千歳薬。（玉のような黄色い粉は千年の寿命を延ばすという薬）
雪花浮動万家春。（雪のような花が浮いて動くのは「万家の春」）
酔帰江路野梅新。（酔って帰れば、江べりの道に野の梅が新たに開いています）
［補足］（（1）前に嶺南万戸の酒があるとし（本章81ページ）、家で羅浮春の酒を作ったとし（本章84ページ）、ここでは「万家の春」の酒があるという。すべて異なるものであるのかどうかよくわからない。（2）南国の恵州では10月に早くも梅が咲き出したのだ）
■思無邪丹賛
［解題］10月18日、蘇軾は合江楼から嘉祐寺に移った。その一室を「思無邪斎」と名付け、そこで「思無邪丹」と名付けた仙薬を作ろうとし、この賛を書いた。
［補足］（（1）この賛は仙薬の効能と製造法を歌っていて、訳者には理解不能なので、原文をそのまま掲げておく。大筋としては以下のようなことを言っているのだろう。「丹田」（臍の下にあると想定された臓器）は極めて重要な器官で、そこに特殊な作用を及ぼして完全で乱れることのない精神（邪なことを一切思わない）を養う薬を、賛の6句目にある「鉛汞丹砂」を原材料として作る。もとより、鉛も汞（水銀）も丹砂（硫化水銀）も有毒物質であるのだが、天の運行と呼応する霊妙な製造法を用いるなら、目指す薬「思無邪丹」ができるのである。（2）化学実験を好む蘇軾は、恵州にきてから仙薬作りに熱中し、それに関連する幾つかの文章を残している（この賛と同様に多くは訳者には理解不能で割愛せざるをえない）。仙薬は、次の文章にもあるように、もちろん完成しなかったし、蘇軾が試作段階で服薬してみたということもなかったようだ。飲んでいたなら心身の不調が現れ、邪なことを思わないという「思無邪」とは正反対の効果が出たに違い（唐代の皇帝には仙薬を服した者が幾人もいて、喜怒哀楽の情が常軌を逸したり身体の調整機能が乱れたりするなど、心身を著しく害い、いずれも早世した））
［訳文］
飲食之精，草木之華。集我丹田，我丹所家。
我丹伊何、鉛汞丹砂。客主相守，如巣養鴉。
培以戊己、耕以赤蛇。化以丙丁、滋以河車。
乃根乃株、乃宝乃華。昼煉於日、赫然丹霞。
夜浴於月，皓然素葩。金丹自成，曰思無邪。
この賛は筆にまかせてそのまま書いたもので、何らの変更も加えていない。ほとんど天が成したといってよく、我が意をもって造ったのではない。
■事不能両立
［解題］仙薬作りに関連する一文。
［訳文］
白居易は（左遷されたときに）廬山に草堂を作った。それは丹薬を焼くためのものであった。薬が完成しかけたときに、爐と鼎が壊れてしまった。その翌日に、忠州知事に任命するとの辞令が届いた（左遷が赦された）。
そのことから、世間に関わることと、世の外に出る（仙人になる）こととは両立しないと知れる。
私にも同じ志がありながら、ついに完成しないのは、やはりまだ世間に関わることがすっかり終わったわけではないからであろうか。今日もまた失敗した。
『尚書』に「民の欲するところは、天は必ず従う」とある。まことにその徴はあるのだ。
紹聖元年十月二十二日。
［補足］（「思無邪斎」で仙薬を作ろうとして失敗が続いた。この文の終わりの意味は、自分はまだ官僚として国と人民のためにひと働きするようになるのかもしれないと、蘇軾は考えたということである）
■朝雲詩
［解題］12歳のときから蘇軾に従ってきた王朝雲のことを詠んだ詩。序文がある。
［訳文］
世間ではこのように言っている――
白居易は老いて、駱馬（愛馬）を売り、楊柳枝（歌妓の樊素の綽名）を放とうとした。
馬も歌妓も忍び難い思いを示したので、白居易はそれに感じ入って詩を詠んだ。
一方で、劉禹錫の詩にはこのようにある――
春尽絮飛留不住、（春は尽き、絮は飛んで留むれども住まらず）
随風好去落誰家。（風に随って 好し 去って誰が家に落ちるのか）
また、白居易の詩にはこのようにある――
病与楽天相伴住、（病は楽天と相い伴って住まり）
春随樊子一時帰。（春は樊子に随って一時に帰る）
これらからすると、樊素はついに白居易のもとを去ったのである。
私の家には数人の妾がいたが、四五年の間に相次いで辞去した。朝雲だけが私に随って南に遷ってきた。
白居易の詩集を読んで、戯れにこの詩を作った。
朝雲の姓は王氏、銭唐（杭州）の人で、かつて子がいて幹児と呼んでいたが、一年にならずして亡くなってしまった。
［補足］（（1）蘇軾は白居易（白楽天）と似ていることを強く意識しつつ、実は大いに異なっているとしばしば主張している。ここもそうで、白居易と違って蘇軾は愛する女性をずっと近くに置いているのである。晩年に至って、2人の距離はいろいろな面で急激に開いてゆく。（2）「数人の妾がいた」との記述は興味深いが、どのような女性であったのか詳らかではない。（3）王朝雲が生んだ子が満1歳になる前に死んだことは第7章55ページで見ている）
楊柳枝（樊素）が白居易と別れたのと、似ていない。
（漢の時代に）通德が伶玄（非常な才女であった）に伴い続けたのに似ていよう。
（晋の時代に）阿奴がいつまでも母の絡秀と一緒だったようにはならなかった。
天女が維摩とともに仏陀の教えに通じたように、私とともに禅を理解するようになった。
ここでの新しい暮らしは経巻と薬爐に親しむものであるけれど、
舞うときの衣装や詩を記した扇には旧くからの因縁がなお残っている。
丹薬が完成したなら私を逐って仙界に行くのであって、
かの巫山の神女のように艶っぽさを現世に残すようなことはしないのだ。
［補足］（（1）この訳文は全く自信がない。王朝雲のために詠んだ詩で、2人の間で了解できればよいので、他人は理解するのが難しいのは仕方ないのだろう。（2）前半は幾つかの故事を引用しつつ、王朝雲とはいまは仏教や道教の奥義を窮めようとする同志のような関係にあると歌っているのであろう。（3）最後の句は、楚の王が夢に巫山の神女と交わりを結んだという伝説を逆用して、もはや2人は性愛を超えた間柄にあると言っているのであろう）
■寄虎児
［解題］弟の蘇轍は筠州に流され、3人の息子のうちやはり年少の蘇遠だけが同行した。これは蘇遠に寄せた詩。詩題に「虎児に寄せる」とあるのは蘇遠の幼名が虎であるからだ（第7章7ページ）。
［訳文］
独り桄榔の樹に寄り添って立ち、
ときに蓽撥の根を掘り起こす。
私のこの生き方を、君は拙いと見るだろうか。
とにもかくにも、南の果ての村でこのように老いの日々を送っているのである。
［補足］（これは南国の風光に身を置く蘇軾の自画像であろう。桄榔（クロツグ）はヤシ科の木で、高さ数メートルになり巨大な葉を付ける。蓽撥はコショウ科のつる性植物で、果実や葉が薬として用いられる。桄榔、蓽撥ともに南国を象徴するものとして詠まれている）
■十一月二十六日松風亭下梅花盛開
［解題］「十一月二十六日、松風亭の下の梅の花が盛んに開く」という題。松風亭は、蘇軾が身を寄せた嘉祐寺の近くの山にあった。この詩には次のような蘇軾自身の注が付されている。「私は昔、黄州に赴いたときに、春風嶺の上で梅の花を見て、二首の絶句を作った。その翌年、岐亭に往き、道の途中で『去年の今日 関山の路、細雨 梅花 正に魂を断つ』と詩に賦したのだった」。かつて黄州で詠んだ詩は、それぞれ第6章25ページ、第6章141ページで見ている。
［訳文］
春風嶺の上、淮南の村、
我が魂は、梅の花によって断たれそうになった。
そのときには知る由もなかった――
またしても流落の身となり、
南の国の荒い風に吹かれ、
見慣れぬ獣を濡らす雨に打たれつつ、
黄昏どきに愁いて梅の花を見るようになるとは。
松風亭の下の荊棘の先、
二株の梅が、玉のような花を朝日よりもまぶしく輝かせている。
長い枝は、荔支の並ぶ水辺へと半ば落ちかかり、
臥した幹は、桄榔の繁る園にひとり際立った姿を見せている。
花の奥深い光――それは夜のとばりを留めているかのよう、
花の色の冷ややかさ――暖かいはずのこの地の冬も寒くしてしまうかのよう。
南の海の彼方の仙界の雲が、おめかしして軒下へと墮ちてきたのか、
それとも、白い衣の女性が月の下を歩み来て、門を叩くのか。
酒から醒め、夢からも覚め、起って梅の樹をめぐる、
梅には妙なる意がある……きっとある……だが、何も言ってくれない。
先生よ、残念がることは何もない、
月が、ほら、觴の中を覗いている。
［補足］（後半にある「海南仙雲嬌墮砌、月下縞衣来扣門」（海南の仙雲 嬌にして砌に墮ち、月下の縞衣 来りて門を扣く）は蘇軾嫌いの人も激賞する名句とされていたようだ。そこだけを切り出すなら、技巧を駆使した対句として褒めることになるのだろうが、この詩全体としては、まだ馴染めない南国の風光の中で、梅は親しんできた姿のままで、なおかつ黄州での思い出も想起されて深く感じるものがあると歌っていて、それが読む人の心を打つのではなかろうか）
■再用前韻
［解題］上の詩と同じ韻を用いた再び詩を詠んだ。
［訳文］
羅浮山の下に梅の花の村、
玉のような雪を骨とし、氷を魂として花が開く。
紛紛と咲き出すと、月が樹に挂るかと疑われ、
耿耿と光るのは、星が夕暮れに現れ出たかのよう。
先生は海のほとりに寂しく住み、
病んだ鶴が荒れた園に悄としているのとそっくりであるようではあるが、
鶴は、天の香りとも国の美ともいうべき梅の花を顧みたりはしないし、
先生は、酒が入ると詩がますます清く温雅になる。
ここに蓬莱宮からの使いであろうか、
緑の鳥が朝日の中でさかさまになって枝にとまった。
鳥は花のかたまりを抱え、先生が酔って伏しているのを窺い見ると、
自分よりも先に啄木を遣わし、
門をこつこつと叩かせて、
「麻姑仙女があなたをお訪ねしますよ、
急いで掃除してお待ちなさい」
と、告げさせた。
とたんに、鳥が歌って舞い、花も何やらものを言い出した。
酒が醒めると……
山は静まり返っていて、人は誰もいない、
空っぽの盃に花びらが貼りついているのだった。
［補足］（（1）仙界のメンバーカードを持つ蘇軾は、ファンタジックな空想をふくらませて詩を詠んでいる。（2）「緑の鳥」の部分には、蘇軾自身の注で、「嶺南には珍しい鳥がいて、倒挂子という。羽毛は緑で、口ばしが紅く、鸚鵡に似た小さな鳥である。東の海からきて、俗世にいる生き物には見えない」と付記されている。「倒挂子」はその名のままに枝にさかさまに止まるという）
■花落復次前韻
［解題］梅の花が散ったときに、また同じ韻を用いて詩を詠んだ。
［訳文］
仙界の玉妃（梅の花）は、
雨のそぼ降る村に流謫の身となっていた、
先生は玉妃を慰めるために詩を作る――
「人間界の草木には、私と対になるものがありません。
月に奔って桂の木と一緒になるのです」
梅は名残の香りをそっと春の短い夢に忍ばせ、
小さな園の枝に青い実を結んで去ってしまった。
先生は花を惜しんで、毎夜、人を呼んで飲み続けた。
雪の膚（梅の花びら）が散り敷かれて地面を温めてくれ、
松明を灯し、愁いのままに睡らずにいて、
井戸より水を酌んで、その清らかさを腹に入れると、夜が明けた。
先生は、来年は六十になり、
道を見る眼を定め、すでに仏門に入ろうとしているのだが、
もとより多情で事を好むためになお俗気に染まったまま、
花を惜しんで、じっと無言でいることができない。
物に引かれて心をそこに留めてしまうのは先生の過ちである、
ならば、笑って百罰を受けて、盃を空っぽにしようではないか。
［補足］（この3首の梅の詩は、黄州に着いてすぐのころに詠んだ海棠の詩（第6章52ページ）に似るところがある）
■白水山仏跡巌
［解題］白水山の仏跡巌で詠んだ詩。白水山は、恵州の町から東北二十里、羅浮山（本章76ページ）の東にあり、仏跡巌は、巨人の足跡のような深さ二寸ばかりの窪みが点々と存在する岩。
［訳文］
蓬莱島の島守とは何人であったのか、
夜中に左の股を失い、
それが蹲る鵬のような形の浮き島となり、
たちまち天を覆うばかりの羽を伸ばし、
飛んで羅山に激突した。
根も株も合体し、崖や峰が呑み合おうと争うばかりのありさまとなった。
天の工は炉や韝をつかって、山を融かし山を繋げ、
いまに至るもそのときの継ぎ目が残っていて、
そこから大きな滝が流れ出ているのである。
浮き島と羅山が合わさるときに、
天上の匠は月の斧を麾いて用いたのだが、
天帝の觴からの滴りに酔っぱらってしまい、
山々はなお未完成で、
谷は酔って舞い踊るありさまでいる。
海からの風で山が凝固する前に、
古の仏がここに来て足跡を残した。
それは太古の汪罔氏に似て、
足を地に投じたときに親指の痕を付けなかった。
浄土の蓮は見えないながらも、
天の花のような恵みの雨が太古の昔から降り注ぎ、
二つの溪が九回も折れ曲がりつつ、
一万の馬が太鼓の音に合わせて踊り上がる勢いで流れ下り、
雷を走らせ、玉の雪を濺いで、深い淵が穿たれ、
その奥底に水の神の宮殿がある。
水底に潜む鱗は飢えた蛟のもの、
虎が喉を潤しにきたなら、尾を掉って呑み込んでしまうのだ。
私がここに来たのは、ちょうど酔い心地であったので、
蛟を侮って足を濯いだ。
すると、つむじ風が起こって雹を巻いて飛ばし、
強い弓で放たれたように顔を掠めた。
「山の霊よ、
私のことを激しく憎まないでくれたまえ、
このちっぽけな命を取ったところで何にもなるまい、
私はこの山で老いていこうと思っているのであって、
慎んで厭わずに、我が願いを受け止めてほしい、
どうか溪の流れを春の酒に変えていただきたい、
山と私とで、差しつ差されついたそうではないか、
さらには、青い竹を連ねて筧として、
下の薬草園に灌ぐつもりである」
［補足］（（1）この詩の前半は、海から飛んできた浮き山（浮山）がもとからあった羅山に激突して羅浮山になったということを歌っている。あたかも現代の地球科学が説くプレートテクトニクスの理論のようで愉快である。（2）全体として、空想が空想を生む、とにかく不思議な詩である。嶺南の空気が霊的なインスピレーションを喚起させたのだろう）
■詠湯泉
［解題］白水山には湯の湧き出す泉があり、それを詩に詠んだ。すぐ近くには冷たい水の湧く泉もあって不思議がられていたという。
［訳文］
火といえば――
水を積み上げると、巨大な槐を焚いたような火を発するという、
油を蓄えすぎたために、火を噴いて、武器庫を焼いてしまったことがあった、
蜀には火を燃やし続ける井戸があった、
火に投じると、塵だけが燃えて、洗われたようになる火浣布がある……
火について聞いたことをここに並べたものの、
我が耳目には残念ながらひどく隘い見聞しかなく、
陰陽の作用によっていかにして火が生じるかを理解できていない。
山で鬱攸と火が烈しく燃え、
湯の泉が觱沸と湧き出している。
喉を渇かした獣たちを驚かせるだけでなく、
癡な児（蘇軾）も怖れさせる。
魚や亀は湯の泉ではとても生きながらえられない、
せいぜい狐や兎を煮ることならできるであろうか。
山の中には、木客（木の霊）がいるようで、
ときどき脱ぎ棄てられた草鞋を見るのは、
ここの湯につかりにきているのだろう。
ここは、町の人々が挙って入りにくるには遠いけれど、
皇帝が遊び呆けて国を亡ぼす原因になったと、
つまらぬ汚名を温泉が被ることはない。
［補足］（（1）どうして熱い湯が地下から湧いてくるのか、蘇軾は納得できるメカニズムを考え出すことができない。（2）長江以南は長らく森林に覆われ、深い森には妖怪＝木客が棲むといわれ、木客にまつわる数々の怪異譚が伝わる。（2）最後は、玄宗皇帝がしばしば楊貴妃を伴って驪山の温泉に遊んだことを踏まえていて、驪山はなまじ都に近いところにあったために、国の乱れの一因になったとの汚名を着せられてしまったというのである。それはすなわち、蘇軾自身にも当てはまることなのだろう）
■新釀桂酒
［解題］桂酒とは強い香りのある肉桂を加えた酒。蘇軾は桂酒を作ってみてこの詩を詠んだ。
［訳文］
香りがあり辣味がある肉桂を搗いて篩って酒の瓶に入れる。
春の渓に水がいっぱいにあふれ、雨を帯びて渾ったかのようになる。
桂の木とは仙山に生えるもの、
――それを集めて祭りの酒を造る甕に納める、
桂の木とは月に生えるもの、
――それを芳しい樽に呼び入れる。
酒の材料は、我が門下生が持ってきてくれた、
野菜の束は、いつもながらに地主の恩で頂戴できる。
葵をひたひたに煮て羹にし、
桂酒を酌んで飲もうではないか。
このような風流が味わえるのは、
南に果ての村でなければならないというのがちと残念である。
［補足］（訳詩では「南の果ての村」と穏やかな表現にしたが、原詩は「蛮村」である。嶺南は中国の文化圏の外の世界であるというのが当時の一般的な認識であった。そうした「蛮村」に身を置かねば味わえないものがあると、詩の結びに歌っている）
■江郊
［解題］江べりの風光を詠んだ詩。短い序文がある。
［訳文］
恵州帰善県の役場から北に数百歩で東江に至る。少し西に行くとわだかまる岩があり、その下に小さな潭があって釣り糸を垂れるのにちょうどよい。よって「江郊」の詩を作った。
江べりの野に木がこんもり繁り、
雲と水がきらきらと輝く。
川岸がぐいと曲がり、
潭でぐるぐると流れが回る。
先生はここを悦び、
蓆を敷いて静かに宴を催す。
朝日が下を照らし、潜む鱗を俯して見ることができる。
釣りを意うけれど、魚をとることを忘れ、
竿から糸を垂らすことだけを楽しむ。
優なる哉、悠なる哉、
自然の変化に遊ぶのである。
［補足］（この詩は一句が四文字の特殊な形式で作られている。古風な民謡調という趣なのであろう）
■詹守携酒見過用前韻作詩聊復和之
［解題］詩題は、「恵州知事の詹範が酒を携えてやってきて、先の『桂酒』の詩に和して詩を作った。それにさらに和した」。
［訳文］
あぐらをかき、古い甕を叩いておかしな歌をうたう、
毛をむしって、さながら遊牧民のように、肉を焼く。
村の市であれこれ呼んでものを集め、
客人を引き連れて行き、
いつもの釣り場所を掃除し、
そこに酒樽を置く。
山辺に住む悪童どもが出てきて、酔客が舞うのを、見物する。
川辺に放置されていた白骨は、
この知事殿には、すでに恩を感じている。
西南を望めば、
ぽつんと雲が浮かび、日が落ちてゆく、
鴉は己の村を識って帰ってゆく、
それを羨んでずっと眺めやる。
［補足］（（1）「白骨」について、蘇軾自身の注で、「時に詹知事は野にさらされている骨を拾って葬ることを検討していた」と記されている。このあたりでかつて戦乱があって白骨がそのまま放置されていた。詹知事がそれを拾い集めて埋葬したことは、立派な治績の一つとして記録に残されている。（2）詩の最後は、カラスは帰るところ知っているのに、自分はどうなのかと、嘆いているのである）
■書潤州道上詩
［解題］蘇軾は恵州で大晦日を迎え、かつて杭州副知事であったときに大晦日に詠んだ詩を書いて、短文を添えた。
［訳文］
行歌野哭両堪悲、（行歌と野哭 両つともに悲しむに堪え）
遠火低星漸向微。（遠火と低星 漸く微かへと向う）
病眼不眠非守歳、（病眼の眠らずにいるのは歳を守るのではない）
郷音無伴苦思帰。（郷音に伴うものがなく苦に帰るのを思っている）
重衾脚冷知霜重、（衾を重ねても脚は冷やかで、霜の重さを知り）
新沐頭軽感髮稀。（新たに沐して頭は軽く、髪が稀れになったのを感じる）
多謝残燈不嫌客、（多謝する 残燈が客を嫌わずにいることに）
孤舟一夜許相依。（孤舟の一夜 相い依るを許してくれているのだ）
私は三十九歳のとき、潤州からの道中で除夜に当たった。それから二十年、恵州で年を越すこととなり、この詩を書いた。
［補足］（この詩、除夜野宿常州城外」（除夜常州城外に野宿す）は第4章160ページで見ている。20年経っても蘇軾はいまだに帰郷を果たせずにいた）