第5章 嵐の訪れ――密州、徐州、湖州
［第5章その六］
元豊2（1079）年、蘇軾44歳。
■人日猟城南会者十人以身軽一鳥過槍急万人呼為韻軾得鳥字
［解題］詩題にある「人日」とは1月7日のこと。その日に、10人が集まって町の南で猟をした。「身軽一鳥過、槍急万人呼」の句をばらばらにして1人の1字ずつ配って韻として詩を作った。蘇軾には「鳥」の字が当たった。
［訳文］
町の子供等は知事殿を笑いものにしている、
いつだって、何やら憂いてさえない顔をしているからだ。
そんな知事殿の頭を白い布で包み、
金の鞍を置いた馬にまたがらせたのは誰なのか。
浅い春の風が湿った雪を吹き上げたので、
知事殿は、こんな朝早くに手が凍えてしまうと、おびえている。
それでも、知事殿が音高く二本の鏑矢を放ったので、
それを合図に、人々は虫のような小さな獲物も逃すまいと追いかけまわす。
知事殿は弓を大空に向かって引き、
一羽の鴻が渡って行くのを目で追いつつ、長く嘯く。
知事殿は詩を案じ、手綱を取るのも忘れ、黙って頭を振っている。
知事殿は粗食を好み、芹や蓼を味噌で煮たものを食べる。
こんな知事殿であるから、
顔に六本の矢を受けても、両眼を怒らせて立ち続けた昔の将軍には似ても似つかない。
それでも、若いときには武将になろうと考えたりしたらしい。
獲った兎が焼き上がるのを待つことなく、馬上で銀の酒瓶を飲み倒してみせ、
若いころの大きな志をいまも持ち続けて、百戦するくらいの意気込みがあるのだと示そうとするのだが、
実際には百の憂いのまわりをよたよた巡っているのである。
考えてみれば、英雄といわれるような人でも、
むなしく老いて死んでしまった例も少なくはない。
青春は一つの夢、
余すところの歳月は飛ぶ鳥のように過ぎ去ってしまうのだ。
■三槐堂銘
［解題］都にいる王鞏（字は定国）（本章195ページなど）の家の庭には三本の槐が高く聳え、その脇に「三槐堂」がある。王鞏に頼まれてその堂の銘を書いた。中国の古代、周の時代に、3本の槐の前に三公（国の最高レベルの三つの官職）の座席を設けたことから、三槐は三公の異称となった。
［補足］（この文章の最初で、「仁者には必ず立派な後継者がいる」と、それがあたかも必然法則であるかのように記しているのは、納得しがたいのだがが、蘇軾は別の文章でも同じ趣旨のことを書いていた（本章76ページ）。ここでは、それが必然法則である所以が説き明かされる）
［訳文］
天は必ずかくあるべきようにするものなのだろうか。実際には、賢者は必ずしも貴くはならないし、仁者は必ずしも長寿ではない。では、天は必ずしもあるべきようにはしないのだろう。しかしながら、仁者には必ず立派な後継者がいる。この二つの事実の関係はどのようになっているのだろうか。
私は申包胥がこのように言ったと聞いている。
「人は天の定めを破ることがあり、天は人の定めを破ることがある」
申包胥はこのように宣言して、起死回生の一発勝負にかけた。
世間の天を論じる者は、天の定めを待つことなしに、自分の望む通りのものを天に求めるために、天の為すところは茫茫としてわからないとぼやく。その論に従うならば、善者は怠り、悪者は肆に振る舞ってしまう。
大盗賊の盜跖は長寿を全うし、孔子やその弟子の顏回は不遇であった。それは、天がいまだ定める前に起こったことなのである。松や柏が山林に生じ、その始めのころは雑草に苦しめられ、動物の害に遭いもする。しかし、その終わりに至ると、四季に栄え、千年も変わらない姿になる。それは天の定めによるのだ。善悪の報いが子孫に至って現われるのは、同じように、天の定めには久しい時間がかかるからである。
自分で見るところ、伝え聞くところから考えるに、以上のことはきっとその通りであるのだ。
国家がまさに興ろうとするときには、世に徳のある大臣が必ず現れ、厚く徳を施すのだが、それによってその人自身が報われるとは限らない。しかし、その子孫は後の太平の主とともに平和を守って、天下の福を享受する。
かつて兵部侍郎晋国公の王祜は五代十国時代の漢朝、周朝のころから活躍し、宋の太祖皇帝、太宗皇帝に仕え、文武、忠孝に秀で、大臣となることを望まれた。しかし、公が直言の士であることが時代に遇わなかったために、ついにそれは叶わなかった。そこで、公は手づから三本の槐を庭に植え、「吾が子孫に必ず三公となる者が出るであろう」と言った。実際に、その子の魏国文正公の王旦は真宗皇帝の景徳、祥符年間に宰相となり、朝廷は清明，天下は何事もなく安らかに治まった。王旦が多くの禄を受け名を輝かすこと十八年に及んだ。
もしも物を人に預けて、翌日にそれを返してもらったなら、新たに得るものはない。王祜が身に徳を修めたのは、天に報わるところのものを預け、数十年後に返してもらったということなのであろう。いわば債券のやりとりのようなものだともいえる。
このようなことから、私は天の果が必ずあると知ったのである。
私は王旦の時代には間に合わなかったが、その子の懿敏公の王素を見ることができた。王素は皇帝を諫める役目を負って仁宗皇帝に仕え、朝廷に出入りすること三十年余り、しかし、その地位はその徳に十分に見合うものではなかった。とすると、天は王氏を再び興そうとしているのではないだろうか。事実、その子孫には実に大勢の賢者がいるのである。
世には王祜を唐代の李棲筠と比較する者がいる。その雄才、直気は真にあい譲らないものがある。李棲筠の子には李吉甫が、孫には李徳裕がいて、功名、富貴は現代の王氏にほぼ等しい。ただし、忠恕、仁厚の点では、李吉甫、李徳裕の父子は、王旦、王素の父子には及ばない。このことを見れば、王氏の福はまだ十分には稔りを得ていないのである。
王素の子の王鞏は私と交流があり、徳を好み、立派な文章を書く。きっと家を栄えさせるであろう。それでこの文章を作ったのである。
［補足］（以下、韻文の銘が続くが、王氏の徳を称揚するだけのものなので訳は省く。この文章全体も、名門の息子に頼まれて、ヨイショをしただけのつまらない文章のように見えてしまうのだが、ここにも当時の政治状況、蘇軾の置かれた立場が反映している。王鞏が家を栄えさせるであろうと、将来に期待を託しているのは、現在はそうなる条件が整っていないからだ。王鞏に実力がないからではない。当時の官界で出世の坂道を勢いよく駆け上っているのは、改革の時流に乗ってにわかに台頭した連中だけとなっていた。蘇軾はそうした連中を「新進」と表現している。「新進気鋭」といえばよい意味になるが、暗に「成り上がり者」という意味合いで蘇軾はこの語を使っている。先にみた王禹偁（本章268ページ）やここに見た王旦、あるいは欧陽脩といった先人が築いてきた宋代士大夫の伝統を全く踏まえない「新進」が（王安石の去った後の）朝廷の枢要を占めていることを蘇軾は憂い、いつか王鞏が家を栄えさせるような本来の姿に戻ることへの期待を篭めてこの文章を書いたのである。なお、蘇軾はこれと同じころに、范仲淹の子の范純粋のために文章を書いている。范純粋は徐州の管轄内にある滕県の知事で、異動に伴って滕県を去るに当たって、蘇軾は送別の意を篭めて、范純粋が在任中に滕県の官舎を改修したことに賛意を示す文章を書いた。当時、節約が尊ばれ、官舎の改修を批判する声もあったのに対して、蘇軾はその意義を説いている。しかし、蘇軾の展開する論理が十分には理解できないので訳せなかった。この時期に蘇軾は宋代士大夫の伝統を重視する文章を連続して書いたのである）
■祭文与可文
［解題］蘇軾の大切な親戚であり先輩であり親友である文同（字は与可）（本章48ページなど）が1月20日、陳州で亡くなった。62歳だった。蘇軾は2月5日にこの祭文を作った。冒頭にこの時点での正式な肩書が記されている。
［訳文］
ここに元豊二年二月五日、従弟に当たる朝奉郎尚書祠部員外郎直史館権知徐州軍州事騎都尉の蘇軾は、謹んで清らかな酒を捧げ、湖州文府君の文同の霊を祭る。
その祭文に曰く、
ああ、哀しいかな。文君はまた酒を飲むことができるのだろうか。文君はまた詩を賦して自ら楽しむことができるのだろうか。文君はまた琴を弾いて自らくつろぐことができるのだろうか。
ああ、哀しいかな。私はなお忍びつつこのように言い、気が塞ぎ、胸が填まって嗚咽する。涙が下って止まらず、衣が濡れる。
涙を収めて自問する。人は誰のために慟哭するのか。道が行われないとき、私は哀しまずにはいられない。ともに悲しんでくれる友がいないわけではない。しかし、激しくもなく鈍くもなく、人に招かれて靡くでもなく、人に排撃されて去くでもなく、親しくしようとしてもできるものでもなく、疎んじようとしてもできるものでもない、そういう人はただ文君だけだった。
ああ、哀しいかな。徳に則り義を秉るに当たって、文君のように和にして正だった者が他にいただろうか。民を養い風俗を厚くするに当たって、文君のように寬にして明だった者が他にいただろうか。詩を詠み賦を作るに当たって、文君のように婉にして清だった者が他にいただろうか。世に称賛されても辱められても、得ようが喪おうが、文君のように安にして軽だった者が他にいただろうか。
ああ、哀しいかな。文君の死を聞いてから三日間、夜は眠らずにずっと座っていて、ふと夢に文君と一緒にいると見て、驚いて目覚め、夜具が涙でいっぱいになった。
念えば生ある者は必ずことごとく帰り行き、百年生きても必ず至るのである。ただ文だけが不朽で、その中で人は不死でいられるという。いくら富貴でもいくら長寿でも不朽にして不死ということはない。
しかし、私はかつて文君からこのように聞いた。「この身は浮き雲のようだ。去くこともなく来ることもなく、亡びることもなく存することもない」。ならば、不朽だとか不死だとかはいうに足りないことなのだ。
ああ、哀しいかな。
［補足］（文同の人となりをいうのに、蘇軾は、和、正、寬、明、婉、清、安、軽の8文字を並べている。これらの先にどのような人物像が見えてくるだろうか）
■種松得徠字
［解題］多数の松の苗を植え、人々と詩を詠んだ。蘇軾には「徠」の字が当たった。苗の4割は懐古堂に、6割は石経院に植えたと、蘇軾自身の注記がある。詩中にある「山の僧」は石経院の主なのだろう。
［訳文］
春風が楡の林を吹き、楡の莢が乱れ飛んで堆く積もった。
そこにひと雨通り過ぎた後に、
戢戢と千本、万本の松の苗を植える。
青い松は植えてもなかなか成長しにくい。
百株から一本でも立派な幹になれば御の字である。
一本の幹でも十分で、千畝の広さの槐の林よりも堂々とした存在感がある。
これらの苗はいわゆる魯の地の「徂徠松」で、
穀物一斗で一本の苗を買った。
魯の人たちはこの松の価値を知らないので、
惜しみなく竈で燃やして灰にしてしまう。
松の苗がどのようにしてここに運ばれきたのかというと、
縄で束ねてぐるぐるに縛って、車にぎゅう詰めにされたのだった。
それを見て、悲しく思って、縛りをほどき、清らかな水で埃を洗い流した。
しかし、枝は傷み葉は縮れ、生気がなかなかもどってこない。
山の僧は老いて子がなく、この稚い松を愛おしんで赤ん坊のように大切にする。
これらの松が、竜が走るような姿となって、大きな清らかな蔭を作り、
その根が山の岩をも裂き、その太い幹が雷をも斥けるほどになるには、
どれだけ待たなければならないのだろうか。
私はこの地にいるのも残り百日の旅人、
それでいながら千年を生きようとする松を養うのである。
千年の松の根元に、不老の霊薬となる茯苓が生じるというが、いまは影も形もない。
茯苓を待てない私の髪は日々に抜け落ちて行く。
古今は一俯仰の間、
この詩を作ってわが哀しみをここに託す。
［補足］（徐州での任期を終えるまであと100日ほどに迫っていた）
■以双刀遺子由子由有詩次其韻
［解題］ふたふりの刀を弟に贈ったところ、それについて弟が詩を詠んで返してきたので、次韻して答えた。
［訳文］
刀を納める匣はなかったけれど、
古代の｢竜雀鐶｣のような宝刀だと僕は見た。
これまでに蛟蛇も堅い岩も斬ったことがないとしても、
こそ泥どもがこれを見たら、ぞっと首をすくめるに違いない。
僕の刀がどれほどのものであろうかと君に問いはしないが、
心の内に愧ずべきものがある人間は肝を冷やすであろう。
そのような刀であるから、虎の皮に包んで僕は秘蔵していた。
この刀を見るとき、心は古井戸の水のようで、一切波立つことがない。
この刀が用いられずに置かれていることを、刀のために残念がることはないだろう。
用いることのできる者を選ぶのが難しいのを、僕は憂いていたのだ。
これを佩るのがしかるべき人でなければ、刀はきっと長く嘆息するだろう。
僕自身はといえば、
老いて衆人に軽んじられ、しばしば思いもよらない目に遭わされている。
昔、王祥は、庭の蘭が香しく成長するように我が子がきっと大きな人間になると知って、特に選んで刀を与える相手とした。
僕も同じようにして君に贈ることにした。
これでちまちま肉を切って、年に六回も七回も研ぎ直すようなことはしないでほしい。
じっと秘め置いて、いざというときに宝刀たる所以を示してほしいのだ。
この詩をもって刀の背に刻む銘とし、後に知者が見るのを待とうと思う。
■遊桓山会者十人以春水満四沢夏雲多奇峰為韻得沢字
［解題］10人の者と近くの桓山に遊び、「春水満四沢、夏雲多奇峰」の句から1字ずつを分けて韻として用いて10人が詩を作った。蘇軾には「沢」の字が当たった。
［訳文］
東の郊外に春を尋ねようとしたものの、
まだ鶯を見なければ咲いた花もない。
春風はいまはまだ流れる水の中にあるのだろう。
鳥が春の水を拍拍と打つのに誘われて、
篙半分ほどの深さの水に舟を浮かべる。
ゆらゆらと流れに任せ、桓山の下に纜を繋ぐ。
詩を長く吟じつつ軽やかに山を登り、
古い墓所と思われるところで、
泉下の人を弔おうと琴を奏でると、
かそけき音が磔磔と響く。
昔の人を偲ぶものは何も遺されておらず、
人間世界は真実の永遠の住まいではないと悟る。
暮れ方に百歩洪に回り、おのおの岩の上に座る。
ここに皆の顔ぶれを見て、
私はこの仲間にふさわしい人間ではないの恥ずかしく思う。
月が現れ、流れに臨んで簫を吹く二人を照らし出す。
このときの歓びこそは不朽のもの。
首を回らせば遠く歳月を隔てて、斜川での遊びが想像され、
この詩を陶淵明に寄せる。
［補足］（この詩の終わりにある斜川での遊びとは、陶淵明が700年ほど前に郷里の川で遊んだことをいう。陶淵明がその日の遊びを詠んだ詩は、淡々と叙述する中に深い味わいを湛え、叙景詩の新たな世界を拓いた名作とされる。蘇軾のこの詩もそれに近いものがあり、後に、陶淵明の詩境に迫るその先駆けとなる作品であるといえるだろう）
■戴道士得四字代作
［解題］上の詩の続き。同行した戴道士には「四」の字が分け与えられたのが、詩が得意ではなかったのだろう、蘇軾が代作した。
［訳文］
某は子どものころは江南のあたりにおったのだが、
世俗を脱する道士の跡を慕い、
たまたま白雲に従って郷里を流れて出て、
いまでは彭城の町で薬草を売っておる。
髪には白いものが多くなり、衣服は塵や土にまみれているが、
三尺の琴を携え、その音の中に山水の意を篭めて過ごしておる。
太古の七絃の琴はすでに棄てられ、
四絃の胡琴がいまではさかんに用いられている。
ところが、徐州知事は独り古を慕い、
この誰のものとも知らぬ墓所で某が弾く三絃の琴の音に、
古の賢人を想って涙を流しておられる。
帰り来て、琴を匣の内に納めて独り思うのは、
某が死んでもせいぜい石壁にその名が掲げられるくらいだが、
某の琴の音を真に聴き取ってくれた者がいたということは、
遠く千年の後にまでも残るようなことであったのかもしれない。
［補足］（この詩から、琴を弾いたのは戴道士であったことが知れ、蘇軾の詩のお蔭でほぼ千年を経て、われわれは戴道士を偲ぶことができる。先の田員外も賀秀才も雲竜山人も皆同様で、蘇軾の詩文がなければ、歴史にその名が伝わることはあり得なかった）
■月夜与客飲酒杏花下
［解題］月夜に杏の花の下で酒を飲んだときの詩。面倒な典拠もない平明な詩。
［訳文］
残りの春を散らすようにして、簾へと杏の花が飛びくる。
月の明りも、風雅に遊ぶ人々を尋ねようと、簾から入ってきた。
我等は衣をたくし上げ、月の光のもとへと歩み出す。
明るい光が水草をひたすように流れる中で、花の影を踏む。
酒を置くと清らかな香りが漂い、枝を曳いて花を雪のように散らせるまでもない。
山辺の町の酒は薄くて飲むに耐えないものだが、
諸君等に勧めるのは、
杯の中の月を吸うようにして飲んでみたまえ。
憂うのは、
洞簫の音が終わり、月が落ち、酒杯が空になること、
そして、明日の朝にもしも強く風が吹いたなら、
緑の葉の中に見るのは、わずかに残る紅だけとなってしまうこと。
■答郡中同僚賀雨
［解題］役所の同僚と「雨を賀す」ということについて話し、蘇軾は自分の考えをこの詩で示した。蘇軾は天に祈ることをあまり重視しておらず、（原詩はさほど明示的ではないけれど）人が何らかの対策を講じるべきだと言っているようだ。
［訳文］
水害あるいは旱害が十年にもなり、
飢えと疫病が全土に遍く広がり、
困窮してますます悪い方に向かいつつあるときに、
私は、毎年毎年、よい天候を祈り続けている。
それは自分のために天の恵みを求めるものではないのだが、
何度も天に請うのは、民に責任のある者としては、古から恥ずべきこととされ、
私が祈るしかできない無策であるのは鬼神もわかっているであろう。
私は老いて腰も背も病んでしまい、人に向かってろくにお辞儀もできないのだが、
さすがに天は祈る意を無視はしないで、
乾いた空に雲が重なり合い、石段が微かな潤いを帯び、
蕭蕭と雨が降り、止んではまた降り、雨音は真夜中に及び、
明け方に役人が集まってきて、その履き物はと見ると泥にまみれている。
私は人々ともに高楼に上ると、
麦畑に風が緑の浪を立てるかのように見える。
人々は雨を賀すのだが、
私は、諸君等が立派な賢策を論じるているのに対して恥ずかしく思う。
豊作の年には五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降るという。
天地はもとより常に完全に整っているわけではないから、
いくら祈ったところで、実は何の足しにもならないのではないだろうか。
優れた長官が治める土地には蝗も虎も入らないというけれど、
そもそも蝗も虎もいなければよいだけの話だ。
まして、白い鵝鳥を殺して雨を祈るなど無意味なことで、
そうした下策は取ってはならないのである。
■留別叔通元弼坦夫
［解題］3月、朝廷から湖州知事に任じる辞令が下り、蘇軾は徐州を去ることなった。田叔通、寇昌朝（字は元弼）、石夷庚（字は坦夫）の3人に見送られてこの詩を詠んだ。3人は徐州在任中ずっと蘇軾の仕事を支えてきた人々だった。
［訳文］
田君は、昔、同僚となったことがあり、
私に向かっていつも敬意を払ってくれた。
徐州にきてからはいろいろ間違ったことをしても、
その都度、ますますよく私のためにしてくれた。
寇君は、私と同じ蜀の人で、
孝悌の道をもって近隣の人々を感化し、
老いに至っても学問に努めている。
石君は我が眉州の後輩で、
強い風の中でも真っ直ぐに立っていようとする草に似ている。
官職に就いてからは、釜に塵が生じ、父母に炊事をしてもらわなければならない貧窮に甘んじている。
私は窮して旧くからの交わりを絶ち、世過ぎの計が拙いので、
私のまわりに集まるのは枯れ枝のような人々ばかりである。
その中で三君は最も厚く誼を保ち、
互いに衣服を融通し合うような仲であることを続けてくれた。
三君は、私が徐州にきたときには、淮水の北で迎えてくれ、
三君は、私が徐州を離れるときには、睢陽の道を送ってくれる。
願わくは、金石のような堅い契りを保ち、
白髪に至るまで凜凜と友情を貫きたいと思う。
■江神子
［解題］同じく徐州を去ったときの詞。
［訳文］
天涯流落思無窮。（天の涯に流れてきて窮まることのない思い）
既相逢。（逢ったばかりで）
却怱怱。（たちまちの別れ）
携手佳人、（妓女と手を携え）
和涙折残紅。（涙とともに折り取る名残の紅い花）
為問東風余幾許、（花のために問う、春風が吹いているのはあとどれくらい）
春縦在、（たとえ春がまだいてくれても）
与誰同。（私は誰と一緒にいればよいのでしょう）
隋堤三月水溶溶。（ゆらゆら揺れる三月の運河の水）
背帰鴻。（北に帰る雁に背を向け）
去呉中。（南の国に行く私）
回首彭城、（振り返れば彭城の町）
清泗与淮通。（泗水と淮水が一つになってそちらに流れて行きます）
欲寄相思千点涙、（そこに思いを託して寄せる千点の涙）
流不到、（流れて彭城に行ってくれるでしょうか）
楚江東。（つれなくも川は東に行ってしまうのでしょうか）
■罷徐州往南京馬上走筆寄子由五首
［解題］徐州を発った蘇軾は、まず弟のいる南京応天府を目指した。その馬上で作った詩。
［訳文］
其の一
徐州の人々よ、そんなに引っ張らないでくれたまえ。
歌も笛も、そんなに悲しい響きを立てないでくれたまえ。
僕の生は寄せるがごときもの、別れはただこれだけではない。
別離は随所にあり、愛を結ぶからこそ悲しみ悩みがあるのだ。
僕はもとより皆に恩を施したことがない。
いったい誰のために皆は泣くのか。
子供ではないのだから、
鞭や鞍が裂けるほどに引っ張るのはやめてくれたまえ。
ほら、あそこの道ばたに、二人、石に刻まれた人が並んでいる、
あの石人は知事が去るのを何度となく見てきたはずだ。
いまこのありさまが知れたなら、
石人は手を打って大笑いし、冠を結ぶ石の紐も切れてしまうだろう。
［補足］（この詩で、例の「吾生如寄耳」（吾が生は寄せるが如きのみ）を用いている。地方官としての移動を繰り返して、「寄せる」ということにますます実感が篭るようになったのだろう。徐州の人々が蘇軾との別れを惜しんだと、ユーモラスかつやや大げさに詠んでいるのだが、弟に向かって（実態とかけはなれた）自慢をしたわけではないのだろう。蘇軾は洪水との闘いで顕著な功績があっただけでなく、その他にも重要な施策を朝廷に具申して実施している。分け隔てなく多くの人と交わる大らかな人柄と世に抜きん出た文才は非常に魅力的で、真実別れを悲しんだ人々が大勢いたのだろう）
其の二
どこから土地の父老たちはやってきたのか、
たくさんの赤い花束を抱え、僕の馬の前で盃を洗って捧げ持ち、
僕の長寿を祈りたいと言う。
「かの年に知事殿がおられませなんだら、
我等はみな魚の餌になっておりました」
僕は鞭を挙げて父老に頭を下る。
「諸君等はこの知事を困らせないでくれたまえ。
この知事はひどく外聞の悪い困った人間で、
行く先々で災害、凶年を招いてきたのだ。
たとえ、水害がきたのは知事が怠けていたのが原因ではないとしても、
水害が去ったのは明らかに知事の功績ではないのだ」
［補足］（「行く先々で災害、凶年を招いてきた」というのは、杭州時代には飢饉と蝗害、密州時代には日照りと蝗害、盗賊の難に見舞われたことをいうのだろう）
其の三
西から流れてくるのは古汴河、
南京に向かう僕を迎えてくれる。
古汴河は東に流れて淮水、泗水に入る。
僕が徐州に向かったときに、
古汴河は僕を見送ってくれた。
しばらく僕は古汴河と別れていたけれど、
またここで見ることになった。
古汴河はずっとここに余情を湛えていたかのようだ。
春の雨は古汴河をさざ波でいっぱいにし、
一夜を経て彭城へと至るであろう。
古汴河の水は僕の黄楼の下を通過し、
あの朱い欄干と高い甍を水の光で照らすことだろう。
そして百歩洪へと至り、
かの月の夜に川音を聞いたあの人がいないのを悲しむのである。
其の四
前年、南京を過ったときには、麦が稔り、桜桃の実が熟していた。
いまかつて遊んだところにきてみると、
桜桃の実も麦の穂もまだ黄緑色である。
三年の歳月も遠い昔のよう、
人間世界にはどれほどの変化があっただろうか。
しがない下級官吏のまま老いてしまった人もいれば、
活躍の場もなくいたずらに筋肉がふやけしまった将軍もいるだろう。
僕は羽根を翻すように三度任地替えとなり、
迎えられたり送られたり、車を転じるようなせわしなさだ。
郷里に帰ると決めるのは何時になるのか。
でも、ここに住もうと決めた場所は田舎にあるのだ。
其の五
僕がどの地を卜して行こうとしているのかというと、
石仏山の南の路、その下に川があるだろう、
そこらあたりに千畦の土地を得て、
食べるための稲と酒を醸すための稲を植えるつもりなのだ。
竜が棲んでいるといわれてきた山の泉に湧く水は、
流れ下って豊饒の土地を育み、
かつては一畝が一金の価値を生んだのだが、
近ごろでは破綻して逃亡した農家が多いと聞く。
僕は官服を棄て去り、剣を売って牛と農具を買い、
廃屋に丈高く草が生えてしまっているその山の地に行くのだ。
僕はそのように思っていて、ひとつ恐れているのは、
帰ろう帰ろうとずっと願っていながら、
墓所に永遠に祀られるときになってようやくそれを果たす身となってしまうことだ。
■霊壁張氏園亭記
［解題］蘇軾は南京応天府に行き、蘇轍や張方平に会い、半月ほど滞在し、3月末に南京を発った。そのときに王適、王遹の兄弟が同行した。王適は蘇轍の娘の婿で、2人は先に徐州在任中に蘇軾に詩文を教わりきたことがあり（本章332ページの「月夜与客飲酒杏花下」の詩で洞簫を吹いたのは王兄弟だった）、今回は見聞を広める目的で、恐らくは蘇轍が勧めたのだろう、2人は半年ほど蘇軾の近くで過ごすことになる。そのことで後に大きな役割を担う。
南京からは運河を使った船旅で、霊壁鎮で張碩に会い、この文章を書いた。
［訳文］
都から東に道をとると、水路を選べば濁流に浮かび、陸路を選べば土埃を浴びながら見渡す限りの田の中を行くことになって、どちらにしても行く者をうんざりさせる。およそ八百里で、霊壁の張氏の園庭が汴河の北側にあるのを見えるに及んで、初めてほっとした気分になる。
外に向かってたくさんの竹がすらりと飛び出し、背の高い木々がこんもりと繁っている。中には汴河の水を引き込んだ池があり、そのまわりに山から取ってきた奇岩が険しい丘のように積まれ、水辺には蒲や葦や蓮があって江湖の景観を作り、椅、桐、檜、柏が並んで山林の気配を生み、珍しい花や美しい草は都会的な雰囲気を出し、華やかな大きな建物は呉蜀の巧みの技を見せている。
この園庭の奥深さは身を隠すに十分で、その豊かさは身を養うのに十分である。収穫される実や野菜は近隣の人々をも満足させ、魚や筍を茹でれば四方からの賓客をもてなすことができる。
私は彭城（徐州）から呉興（湖州）に移るに当たって、宋（南京応天府）から舟に乗り、三泊してその園庭のもとに至った。輿に乗ってその門を叩き、張氏の子の碩に会うと、碩は私に文を求めた。
張氏は代々世に顕れ、その伯父の殿中君とその父の通判府君が初めて霊壁に住まいを構え、この園庭を作り、蘭臯亭を建てて親を養った。その後、朝廷に出て仕えて、その当時に名声をもって聞こえ、その余力をもって、日に日に園庭を豊かにして今に五十余年に及ぶ。木々はみな十人が腕を伸ばして抱えるばかりになり、岩壁は暗く聳えるまでになった。およそ園中の百物は、人の意に適わないものは一つもなく、長くいろいろな用途に用いられてきた。
古の君子は必ずしも仕えたわけではなく、必ずしも仕えなかったわけでもない。仕えるときはその身を忘れ、仕えないときはその君を忘れた。これを飲食に譬えると、たまたま餓え、たまたま飽くというだけのことである。
いまの士で、義を踏み行い、節に赴く者は希である。郷里に安らかに処る者は出るのは難しく、出て利に狃る者は帰るのを忘れる。前者は親の期待に背き世間との交わりを絶つとの譏を受け、後者は俸禄を慕って事なかれで過ごす弊害を生む。
張氏の父君が子孫のために計画し慮ったことは遠大かつ行き届いたものだった。場所を汴河と泗水の間に選び、舟も車も集まりやすく、朝廷に仕えるにしても、宴遊を楽しむにしても、他に求めることなくここで足りるのである。その子孫が門を開いて仕えるのなら、半歩で都に行け、門を閉ざして帰って隠れるのなら、山林を仰ぎ見て過ごすことができる。生を養うにしても、性を治める（心の本源を鍛える）にしても、義を行うにしても、志を求めて適くところ可ならざるはないのである。それ故に、その子孫で仕える者は皆官員として優れた能力があると称賛され、園庭にいる者は節を有して潔く退いたとされるのである。このようであるのはまさしく先祖の君子の余沢によるものである。
私は彭城にいること二年、その風土を楽しみ、そこを去るのは忍び難いものがあった。彭城の父老が私を厭うことがなければ、泗水のほとりに田を買って、そこで余生を送りたいと思う。そうなれば、南に霊壁を望み見て、鶏や犬の声が互いに聞こえ合う距離にあり、ふらりと歩いては張氏の園庭に往き来して、季節ごとにそこの子孫と遊べるであろう。必ずその日があるに違いない。
元豊二年三月二十七日、記す。
［補足］（前の詩では、退隠する場所として石仏山の南の路の川辺を思い描いていた。蘇軾は張氏の園庭を見て、退隠のもう一つのイメージを思い描いた。都から遠く離れた蜀の地でなくてもよいのだ。「必不仕則忘其君」（必ず仕えざれば則ち其の君を忘れる）とは大胆な言い方ではなかろうか。蘇軾は、国家の隅々にまで皇帝の威令を浸透させることを任務とする官員である。孔子の教えを学び、8歳とのきに4人のスーパースターに憧れ、科挙を受け、制科にも合格して、己には国のため民のために働く使命があると固く考えてきた。しかし、その皇帝の威令の多くが蘇軾がよしとはしない新法に入れ替わり、自分の信念と職務の実態との矛盾に深く悩むようになった。詩文においてしばしば退隠を言いつつも、それはいますぐに実現してよいものではないと考えていた。杭州、密州、徐州で矛盾に苦しみ続けつつも、官員としての責務を果たそうと懸命に努めてきたのだが、張氏の園庭を見て、「必不仕則忘其君」の言を吐くに至ったのである。退隠に踏み出すまであと一歩のところにまできたのだが、蘇軾はなお湖州へと向かった。それは、湖州がなじみのある土地で、そこであればまだしも希望があると思えたからだ。実際に、湖州は蘇軾の期待を裏切らずに迎えてくれるのだが、それは突然にごく短期間で最悪の終り方をする）
■過淮三首贈景山兼寄子由
［解題］運河を南へ進み、宿州で孫奕（字は景山）らに会い、そして淮河に出た。詩を詠み、孫奕に贈るとともに、弟に寄せた。
［訳文］
其の一
ご機嫌うるわしいかな、大河、淮河よ。
ここを往来するのはこの十年に三度目。
功名を挙げる気などすでに消え、
故郷に帰る計画は遥かに遠い。
今日の風はこの旅人を憐れむのか、いつもの高い浪はない。
夕方に向かう洪沢の入り口では、
船の停泊場所を求めて捍索（船を岸に繋ぐ綱）の音が雷のように響き合っている。
［補足］（船着き場のある入り江で、よい場所を確保しようと、たくさんの船がひしめきあっていたのだろう）
其の二
淮河を過ぎると山はやや山らしくなり、
松や檜も立派な姿に繁るようになる。
藹藹とした靄の中に隠れる一つの寺、
そのあたりを訪ねると、
冷冷と小さな泉が流れ出る。
巌に寄り添うように巡らされている小さな欄干、
そこに住まう友人はまことに吏隠の人である。
振り返って臨淮の町を望むと、
東風に乗って町のさざめきが聞こえてくる。
［補足］（「吏隠」とは、官職に就きながらも隠者の精神を有する人で、ここに訪ねた人が誰であったのかはわからないが、孫奕もそのような人であるというがこの詩の含意であろう）
其の三
首を回らせば、君は南京の役場にいて、
高く積まれて簿書の中に埋もれている。
いつか淮河の水で、人を汚す塵を洗い流してしまうとよいだろう。
ここから僕の旅はいよいよ佳境へと入って行く。
しかし、独りであるから長く寂しい思いをしなければならない。
だから、君が百首の詩を作って、そちらの春を写して送ってくれるのを、
僕は心待ちにしているのだ。
■舟中夜起
［解題］前の詩に見た洪沢に停泊した夜のことだろうか、舟の上で目覚めて詠んだ詩。
［訳文］
微かな風に、菰や蒲が蕭蕭と音を立てている。
雨であろうかと、舟の戸を開けて看る。
湖に月の光が満ちている。
舟の上の人も水の上の鳥も同じく夢の中。
何かに驚いたのか、大きな魚が狐のように走る。
夜は深まり、人と物とはもはや関わりを持たない。
私だけが、自分の影と喜びを共有している。
渚の蚯蚓が悲しげに鳴くのは、
ひそやかに潮が上がってきたためだろうか。
月が柳に落ちかかって、蜘蛛の糸が浮かび上がる。
生きとし生けるものは、
あわただしくも憂患の内にあるのだろうか。
この清境が眼を過るのはほんの一瞬でしかない。
鷄が鳴き、鐘が鳴り出せば、鳥たちが塒を離れて行くだろう。
そして、船頭が太鼓を撃って呼び合い、
舟はまた出て行くのである。
■西江月
［解題］長江北岸の揚州に至り、平山堂でこの詞を詠んだ。平山堂はかつてこの地の知事であった欧陽脩が建てたもの。詞の冒頭にあるように、蘇軾が平山堂を訪れたのはこれが3度目（先の詩で淮河を3度往来したと詠んだのと同じ）。1回目は杭州に赴任する途中で、そのときは直前に欧陽脩に会っていた。2回目は杭州から密州に移る途中で、そのときは欧陽脩はすでに亡くなっていた。
［訳文］
三過平山堂下、（三度通り過ぎる平山堂の下）
半生弾指声中。（人の半生などは指を弾く音のうち）
十年不見老仙翁、（老仙翁（欧陽脩）を見なくなって十年）
壁上竜蛇飛動。（しかし、翁が書いた字は壁の上で竜のように勢いよく飛んでいます）
欲弔文章太守、（文章を一生の仕事としたかの知事を弔うために）
仍歌楊柳春風。（歌うのはかの名詞「楊柳春風」）
休言万事転頭空、（言うのはよそう、万事は頭を回らす間に空しくなるなどとは）
未転頭時皆夢。（なぜって、頭を回らす前にみな夢となってしまうのですから）
［補足］（「楊柳春風」とは、欧陽脩が平山堂で作った詞にある「手づから種える堂前の楊柳、別れ来て幾度の春風」を縮めたもの。欧陽脩が植えた楊柳がこのときも残っていたかどうかはわからない）
■余去金山五年而復至次旧詩韻贈宝覚長老
［解題］長江を渡って南岸の鎮江に至り金山に登った。金山には5年前に柳瑾や刁約とともに登っていて、そのときは、酒を飲み過ぎて宝覚の禅榻で眠りこけてしまったという詩を詠んでいた（第4章166ページ）。その宝覚長老がいまも金山にいたのでこの詩を贈った。
［訳文］
その昔、一斗の酒を贈ってまんまと知事の地位を射止めた者がいた。
私は、酒よりも、寺の厨房の法豉の香りを愛するものである。
かつてここにきたことは、真に一つの夢として過ぎ去り、
師の高談によって、五年間のせわしなさが洗われる。
時折、山ひだの折れ曲がりのあたりから風が吹いてきて、
ゆっくりと、明るい月が寺の屋根に沿って動いて行く。
頭を深く下げ、師に願うのは、
この旅人を憐れんで、遥かな「帰路」を指し示されよ。
［補足］（法豉は大豆を発酵させた、納豆と同様のもの。最後の「帰路」は、金山からの帰り道に重ねて、心の究極的な安定へと帰り行く道をいうのだろう。蘇軾は迷いのある「旅人」なのである）
■大風留金山両日
［解題］宝覚長老に帰路を教わった蘇軾であったが、強い風のために金山に足止めされてしまった。
［訳文］
塔の上方にぶらさがる鈴が、何やら独り言を言っていた。
「明日は顛するような風。川は渡れやしないよ」
朝になってみると、
白い浪が山の崖に打ち付け、軒や窓に、下から雨を飛ばしている。
万斛をも載せる竜驤も敢えて江に出ようとはしない。
むしろ、木の葉のような一艘の漁船が、波にもまれるがままになっている。
よく考えてみると、赴任先の町で急ぎの用事が待っているわけではない。
竜王は誰に腹を立ててこの風を吹かせているのやら、
笑ってみていればよいのだ。
それほどのことでもないのに、金山に留まると決め込んだので、
下僕たちは意外に感じているが、
それでもこの風であるから、私が町に戻ってこなくても、妻子は許してくれるだろう。
こうした騒ぎのなかでも、
参寥師だけは、朝の粥の時刻を報せる太鼓が鳴るまで、
一晩中眠らずにいたのはどうしてだったのだろうか。
［補足］（この詩から、参寥（道潜）（本章299ページ以降たびたび登場）が鎮江にまできていて、一緒に金山に登ったことが知れる。一方で、家族は鎮江の町に留まっていた。その家族の中には、5年前に引き取った王朝雲もいた（第4章199ページ）。12歳だった少女も17歳の乙女となり、この頃には蘇軾の愛を享ける女性となっていたと推測される）
■祭刁景純文
［解題］5年前に一緒に金山に登った刁約（字は景純）も柳瑾（本章147ページ）もこのときにはすでに亡くなっていた。蘇軾は、潤州にある刁景の墓に詣で、この祭文を読み上げた（刁約が亡くなったのはこれより2年前、84歳だった（本章230ページ））
［訳文］
ああ、私は貴君よりも年少であること四十二歳。貴君は私を年少者として扱わずに、兄弟のように思ってくれた。いま私はすでに老い、髪が白くなってしまった。貴君は永遠のもとへと帰り、もう年を取ることがない。服喪の期間は過ぎてしまったけれど、私は悲しみのあまり泣かずにはいれらない。
貴君が亡くなり、この地の風俗を私は哀しむ。長江を渡って東にきて、美しい風光の中に、見上げる一万本の松がある。鬱蒼と繁り、青く勢いが盛んである。なお想うのは、この松の下で、ゆったりとした衣をまとい、杖をついて、貴君が私を門に迎え入れてくれたときのこと。手を取り合って笑ったのに、まさか、たちまちにして、貴君がこうして墓の中に納まってしまうとは。山はかつてのまま、草木には再び春が巡り戻ってくる。親しくしてきた人のうち、天下にいま半分も残っているだろうか。日中は心が乱れ、夜は眠れない。私は道に通じた至人ではないので、心が右往左往してやまないのだ。
ここにあるのは一斗の酒と二羽の鷄だけ。いささか私の哀しみをここに写すものである。
［補足］（刁約は家の近くにたくさんの松を植えていたことは本章110ページなどで見ている）
■遊恵山
［解題］大運河を使って潤州から湖州に向かうルートは、杭州の副知事だったときに幾度も通っていた。見るもの全てが懐かしく、あちこちに知り合いがいた。この赴任の旅は、実際のところなかなかに楽しいものであった。無錫県の西にある恵山に遊んで詩を詠んだ。次のような序文がある。
［訳文］
私はかつて杭州の副知事となり、杭州から無錫へと往来するたびに、恵山に行かないということはなかった。それから過ぎ去ること五年、私は湖州の知事となり、高郵県の秦観、杭州の僧の参寥も一緒に、また恵山に登った。ここには唐の時代の処士（官に就かなかった読書人）の王武陵、竇群、朱宿が賦した詩が残され、その語は清簡にして蕭然として俗塵から抜け出た姿がある。それを愛し、その韻を用いて三首を賦した。
［補足］（秦観（本章266ページなどで登場）も加わって、一行はさらに賑やかになった）
其の一
過ぎ去った五年の夢、
覚めると、左右の鬢の毛は白い。
塵土にまみれた足で、漪瀾堂へと歩む。
下に松の影が落ちるのを見て、上に鶴が飛び行くのを見る。
堂に置いた我が身に、氷の玉のような光が差し込み、
肺と肝臓の間が炯然となる。
虚明の中に「色」があり、清浄から自ずと「香り」が生じる。
世俗の世界へとまた還るとしても、
この光があるなら、永く世俗を忘れることもできようか。
［補足］（恵山の漪瀾堂で何かを体験して、得るものがあったのだろう）
其の二
薄い雲は山を遮るほどではなく、
まばらな雨は人を濡らすほどではない。
滑らかな松の径を蕭蕭と歩むと、新しい芒鞋が策策とよい音を立てる。
嬉しいことに、
同行するのは、黒く暗いところがなく、白く明るい人々ばかりである。
この勝地は昔と異なることなく、
塵にまみれずに清らかな句がそのまま残っている。
古い歴史に泣き、讒言を憎むその詩、
しかし、それを詠んだ人も、真の隠者の隣に棲む人にはなれなかったのだ。
其の三
木が重なり覆うところで山の泉を汲み、
明るい窓辺で火を敲いて茶を烹る。
紫の茶盞を傾けると、色も味も絶妙である。
私の人生は食べることと眠ること、
ひとたび満腹になって眠りに入るなら、
一万の想念が消滅する。
笑ってしまうのは、茶を好むあまり、
何も食べずに茶葉三百片を飲み尽くした御仁がいたとか。
それよりも、山中で眠りから覚めると、花が開き、
そこに一杯の茶。
さて、誰かこの茶を共にする者がいないかと見ると、
門の外にはどこにも轍がついていない。
■贈銭道人
［解題］蘇軾の行くところに人が集まってくるようで、杭州から銭道人がきたのでこの詩を贈った。銭道人は、本章223ページで見た表忠観の自然道士である。
［訳文］
世間の書生さんは、
書物を読んでも何を信じたらよいのかわからなくて、
あれこれ勝手な憶測で物事を考える。
自分の力量もわかっていないから、
「こいつはおいらが成し遂げて見せるぜ」
と軽々しく広言する。
そのときは結構な心持ちであろうけれど、
後で格好のつかないことになる。
いまやどこでも、なまくらな鉄を鋳型に流し込んで、
できそこないの書生さんばかりを作っている。
そのような時代を生きていると、
自分はいつも憂患の中にあって、
己の罪悪を助長しているだけではないかと恐れを抱く。
泥に突っ込んだ足がまだ浅ければ、まだたやすく退くこともできるだろう。
静観すること、いやそれ以上に、
銭道士が初めから何もしないでいるのを、喜ぶべきなのだろう。
無病なら無薬、銭道士と逢っても何も言うことはない。
［補足］（冒頭にある「世間の書生さん」とは、改革の潮流に乗ってにわかに大手を振って歩くようになって連中をいうのだろう）
■与秦太虚参寥会於松江而関彦長徐安中適至分韻得風字二首
［解題］詩題は「秦観と参寥と松江で落ち合い、そこに関彦長と徐安中がたまたま来たので、五人で韻を分け合って詩を詠んだ。私は風の字を得た」。
［訳文］
其の一
呉越の溪と山の興さは窮まりがない。
わが衰病をいたわりつつ、
東西百余丈の垂虹橋を渡ると、
天に浮かぶ心地、
ここ東南の地は古からの水の郷である。
今朝の西北の風に送られ、
千里の遠さも忘れて、この絶景の地にきた。
この五人がまた揃ってすばらしい遊びをともにするのは難しい。
船頭は、我等がいつまでもぐずぐずしている気持ちをわかってくれない。
夕日に万頃の水が紅く染まるのを橋の上から見たいのである。
［補足］（垂虹橋は、太湖に注ぐ呉江（松江）にかかる橋）
其の二
秦観君と参寥師は詩に巧みでさらに窮めようとしている、
人間世界には、長い虹のような句を吐けるところはないだろうに。
私はというと、人に笑われてばかり――
ここのところ三度続いた左遷にも慣れて、
岸辺からの風に揺れる舟の中で、
一日、雨音を聞きつつ、たっぷりと眠っている。
天はありがたいことに、ひとつの酒樽のもとに皆を集めてくれた。
さあ、銀盤（水面）に紅い魚の尾と馬の鬣が翻るのを見て、
その感動を詩に詠んでくれたまえ。
［補足］（最後は、上の詩にあった垂虹橋からの夕景をいうのであろう）
■湖州謝上表
［解題］4月20日に湖州に到着。蘇軾は、新しい任務を与えて下さったことを皇帝に感謝するこの文章を書いて皇帝に差し出した。
［補足］（これは皇帝に提出する「表」という形式の文章で、特定のルールに則って格調高く書かれたものだが、それをそれらしく日本語に移すのは私のよくするところではなく、大意をとって訳す）
［訳文］
臣軾が申し上げます。
御恩を蒙って前任地より移動し、今月二十日に着到し終わりました。こちら東南の地は風俗が安らかで、何事もなく治まり、山水が美しく、もとより朝廷の優賢とされる方がこられるところでありますのに、どうしたことか臣のような者をここにお選びいただきました。
伏して思いますに、臣は本性が頑なで鄙びて、低い身分の出で、議論するところは粗雑な大風呂敷で、学問は浅くいい加減です。凡人でも必ず一つは取り柄のあるものでありますが、臣には一寸たりとも長じるところがありません。かつて先帝がうっかり御恩を下しおかれたのでありましょう、三館（朝廷のアカデミー）のメンバーに加えていただき、さらに陛下の過剰なお許しによって密州、徐州の知事にしていただきました。自分のお尻を激しく叩いて、少しでも御恩に酬いなければと奮闘いたしましたが、何といっても才能が限られているために、功績のないままに終わってしまいました。国にはきちんと法令が具わり、臣のような者が勤めても何ら補うものはなく、この罪は大きいと臣はよくよく存じ上げております。それなのに、諸賢を超えてこのすばらしい場所をお選びいただきまして、さらに何をいたせばよろしいのでありましょうか。この残念なありさまを顧みますと、恩知らずと言わざるを得ません。
皇帝陛下が天下を御覧になること、天を覆い海をひたして全てのものの生を全うさせ、人を用いるに当たっては、才能の及ばない者であっても受け入れてその善いところを嘉しとされています。臣が愚かで時代に合わず、新進の者に付いていけないことを御存知で、私が老いて事を構えることがないのを察せられて、民衆を養うことを委ねられたのでありましょうか。
臣は先頃、杭州にあってその風土を楽しみ、自然界に生きる魚鳥の本性をそこの湖や川で知ることができました。そうした臣の指導を、湖州の人も安心して受け入れてくれることでありましょう。臣は職務に努め、できうるならば訴訟事をなくして刑罰を用いないですむようにしたいと思います。
陛下におかれましては朝廷の真心をさらに広められ、父老の望みを慰められますように。
［補足］（己を卑下してこれより勤務に励むと、皇帝に提出する文章として当たり前のことが書いてあるだけのように見えるが、「難以追陪新進、察其老不生事」（新進に追陪すること難く、老いて事を生ぜざることを察し）の部分が、蘇軾を嫌う人々をひどく刺激したとされる。「新進」は、通常はよい意味に用いられるが、蘇軾は以前から「改革の時流に乗ってにわかにでかい面をするようになった不学不才の連中」という意味を暗に含ませて用いていた。つまり、上の12文字は、「新進は事を生じる（政治を乱す）恐れがあるけれど、蘇軾は新進に追従することがないのでそのような心配はないと、皇帝は承知している」という意味にとることができなくもない。この文章が朝廷に届くと、「新進」はすぐに動き出し、3カ月後に大きな嵐となって蘇軾に襲いかかった）
■端午遍遊諸寺得禅字
［解題］湖州では3カ月後に何がおこるかなど誰一人として知る由もなく、蘇軾はどこに行っても蘇軾で、職務の傍ら人々と詩を詠み合って過ごした。
5月5日の端午の節句、人々と湖州の州庁のある呉興の町の寺を巡り歩き、蘇軾には「禅」の字が当たったので、それを韻にして詩を詠んだ。
［訳文］
輿にかつがれ、連れて行かれるがまま、景色がよろしければそこにしばし留まる。
香を焚いて静かに歩み、筵を敷いて茗茶を酌む。
かすかな雨が止んではまた降り、小窓からの眺めは、明るくなったり暗くなったり。
庭に築かれた小山には草木がよく茂り、本物の深山のように日が射し込んでこない。
塔の一番上まで登り、大千世界の涯まで眼を窮めようとする。
卞山の峰に街並みが映り、雲間に太湖が浮かぶ。
深沈（寺の趣）をすでに喜び、曠蕩（あたりの風光）を楽しむのもよろしい。
奥行きの深さをまだ尋ね終わらないうちに、
村里からは夕餉の煙が昇り始める。
官舎に帰ってからこのように書いてくると、
歴たところが耿耿と戻ってきて眠れなくなる。
寺の道人もまたまだ眠らずに、孤燈のもとで夜の禅に務めていることだろう。
［補足］（呉興の飛英寺には高い塔があり、そこをからの眺めを詠んだのだろう。卞山は呉興の西にある姿のよい山。太湖は呉興の北に広がる大きな湖。この詩に詠んた風光について、「呉越に至らざればこの景を見ず」と蘇軾自身が注記している。再び江南の地にきて、潤いのある風光にまた触れることができて嬉しかったのだろう）
■祭張子野文
［解題］杭州時代に交流のあった張先（字は子野）（第4章74ページなど）は湖州の人。湖州知事として再びこに地にきた蘇軾であったが、張先はすでに前の年に亡くなっていて、残念ながら再会を果たすことができなかった。89歳だった。蘇軾は張先の家を訪ね、この祭文を捧げた。
［訳文］
張郎中殿の霊に捧げる。
人は官に仕えると本心が蔽われて帰るのを忘れ、たとえその志があっても果たせないままに月日が過ぎ去ってしまう。ただ張先生だけはなお壮健のうちに帰り、故郷で優雅に遊び、もう一つの人生を送った。人に対して開けっぴろげで、古の「愷悌」（和らぎ楽しむ）という言葉がぴったりであった。大らかに老成し、敏にして多芸、詩は俗臭を絶って甚だ典雅で華麗、物の真髄を捉え、生き生きとして陰影に富み、わずかな言葉にも曲折があり、『詩経』の伝統を受け継ぐものであった。窮乏に陥って塩や米がなくなっても、嘯歌して慌てず騒がず、酒のあるところへと出かけて行った。
私は杭州に赴任して初めて張先生の客人として迎えていただき、年齢の違いを忘れ、細かいことを気にすることなく、欣び合った。私が北方に移ることになると、張先生は黙って指を折って数え、生きている間に会えることはないだろうと、泣きながら私の袖を曳いた。
私が先生の故園に再びやってきたのは実に五年を経てからで、病のために少し遅くなってから先生のお部屋をお訪ねすると、遺影が置かれ、先生に仕えていた女性たちはもはや残っていなかった。友を喪った者は、琴を手に取って奏でることはないという。私は空しく鶴のように泣くばかりである。觴を捧げて再拝し、目に涙が溢れる。
■和孫同年卞山竜洞祈晴
［解題］先の詩にあった卞山には黄竜洞という水の湧くところがあった。蘇軾と同じ年に科挙に合格した孫氏（名は不詳）が黄竜洞に晴れることを祈り、その詩に和した。密州や徐州ではしばしば雨を祈ったのだが、湖州の5月は雨の季節で、逆に晴れを祈らなければならなかった。
［訳文］
呉興のあたりは一カ月続く雨、釜や甑で魚が泳ぎ蛙が鳴く。
「どうして己の住処でじっとしていないのか」
竜に問いただしてやろうと、孫君は卞山に登る。
空に梯を掛けなければならない険しさ、
下をみると、ぱっくりと谷が開いている。
雲に覆われたところに神々しい水が湧き、
暗い崖に苔の花が垂れ下がる。
蛇の群れのように、百の流れが谷に向かって走り、
その先はどこに落ちて行くのか、
糸車を回すような音が低く聞こえている。
孫君は洞の前にきて、石の戸を叩く。
蝙蝠が飛び出し、頭の白い烏が翼を翻す。
孫君は竜に言う。
「睡眠は、結構な味わいだと思うよ。
雨を司る君よ、柄杓を振るのをちょいと止めたらどうなのかい。
雷を司る君よ、太鼓を撃つのをちょいと止めたらどうなのかい。
大地に溢れた水が谷に戻ってくれたなら、
泥に埋もれた稲の苗が伸びてくれし、
農夫は顔に血の気が通うようになるし、
竜君だって、お供えものの豚肉にたんまりありつけるではないか」
この願いの通りになるなら、孫君は間もなく公務が暇になり、
夕刻前に早々と役所から引き揚げて、
ゆったりくつろいでぐっすりと眠れるようになることだろう。
■乗過賈収水閣収不在見其子三首
［解題］湖州の町の近くに賈添丁（字は収子、号は賈耘老）の水閣があった。舟に乗って訪ねたところ、賈添丁は不在で、その息子がいたので、この詩を書き置きした。3首のうちの1首を訳す。
［訳文］
其の一
舟を古びた柳の根元に繋ぎ、
杖を突いて青い苔のむす岸辺を歩いてきたのだが、
龐徳公のような隠者である貴公は墓参りに出ていたので、
子路のような親孝行者である貴公の子息に私は言を託す。
貴公の水閣は、蒲と魚の入り江を占め、
さらに、松と菊の庭を作ろうとしている。
これから足繁くこちらにこようと思うが、
貴公が留守でも、すでに親しくなった子等が迎えてくれるであろう。
［補足］子路は孔子の弟子で親孝行で知られた）
■与客遊道場何山得鳥字
［解題］ある客人と何山にある正真寺に遊び、「鳥」の字を得て詩を詠んだ。何山は湖州の南にある山。
［訳文］
清らかな溪川が尽きて山に到り、小路は飛んで空を盤る。
木の枝先に紅亭と白塔が見え隠れする。
途中で休みたいと思うと、雲に寄り添うようにして小さな庵がぽつんとある。
北の扉の下は太湖、天の際まで雲と水が広がっている。
庵の僧は、俗界との縁を断って業を浄めつつあるが、
まだ完了していないのか、
十年にわたって鵲や竹を画き、自分から詩に繞つかれている。
御仏の像を置いた高堂も、禅を組む部屋もそれぞれに奥深い趣がある。
泉水はどこからくるのか、庵を通って溪へと流れ、
何山は谷と向き合って清く静かである。
高い松に蔓草がかかり、絶壁で鳥が啼いている。
杭州からきた友は、まだ十分に見ていないと嘆くのだが、
帰途につくと、風雨が起こり、
紅い夏の日差しの燎けるような熱さを洗ってくれたかと思うと、
俄かに山は乱れて大騒ぎとなり、
川べりの草の上では黒い霧が渦を巻いている。
舟に乗る人々の顔はすっかり青ざめ、
鴎が平気な顔をしているのを羨ましく見ている。
私は独り酒杯を呼び、
「溺れ死ぬより酔死する方がよほどましだ」
と、例によって書生の強がりで、訳のわからないことをあれこれ並べ立てる。
これで明日になれば、
いま辿ってきた道も、美しい風光も、杳としてどこかに消えてしまうのだから、
詩を作って、この歓びを記しておこう。
遥か昔から現在までの時間だって、
この暮れ方から暁までの短さと変わりはないのだ。
■僕去杭五年呉中仍歳大饑疫故人往往逝去聞湖上僧舎不復往日繁麗独浄慈本長老学者益盛作此詩寄之
［解題］詩題は「私が杭州を去ってから5年、その地では毎年のように飢饉と疫病があり、知り合いの多くが亡くなり、西湖周辺の僧舎にもかつての賑わいはないという。ただ浄慈寺の本長老ばかりは学びに来る者がたくさんいると聞き、この詩を作って寄せる」。浄慈寺の本長老に仏教を教わったことは第4章127ページで見ている。
［訳文］
杭州、湖州あたりの三呉地方を往き来する間に、
一つの夢が過ぎ去り、
知る人の半ばは高く盛られた塚の中に帰ってしまった。
ただ独り、以前のままの寺で真の仏法を伝える人がいる。
飢饉から生き残った人々と、この災害の歳月を乗り越えてきたのだ。
近ごろ、趙抃知事は官の印を返されたと聞くが、
本長老はかねてから俗世を離れた林泉のもとにおられる。
いつかは私も師に従って、
我が本性のままに「不学の禅」のうちに逍遥したいものである。
［補足］抃のために「表忠観の碑」を書いたことは本章223ページで見ているが、趙抃は少し前に杭州知事を辞めて政界から引退した。「不学の禅」とは、そういうものがあるらしい。蘇軾は湖州まできたので、杭州に行く機会もいずれあるのではないかと期待していたのかも知れない。しかし、それが実現したのは10年後のことである）
■舶趠風
［解題］詩題の「舶趠の風」とは何か。蘇軾の序文がある。
［訳文］
呉の地では梅雨が終わると、颯然と清風が吹いてきて十日間ほど続く。これは毎年のことで、湖州の人々はこれを「舶趠の風」と呼ぶ。このころに趠く外洋を巡る船舶が回わってきて、海上からのこの風が船舶とともにくるのでこのようにいうのだ。
梅雨からすでに三十日が過ぎ、
万里の彼方から初めて舶趠の風が吹いてきた。
風はあちこちを回り巡って、山の隅々にまで入り込みながら、
一息に疾走して江東の地を満たしてしまう。
葉を驚かせて、秋にならないうちに簌簌と落としてしまい、
昏昏と眠っていた翁が飛び起きる。
この風のよさを昔の宋玉に習って詩に詠もうとして、
風には雌雄の違いがあるとか、分別臭いことは言わないでおこうと思う。
［補足］（屈原の弟子とされる宋玉に「風の賦」という有名な作品があった。そこに風には雄風、雌風の違いがあると詠まれている。この詩の末尾は、誰よりも分別臭いことを詩に詠み込むことを好む蘇軾がこういうことをいうとおかしいよねというオチであろう）
■泛舟城南会者五人分韻賦詩得人皆若炎字四首
［解題］湖州の町の南に舟を浮かべて遊んだ。5人で韻を分け合って詩を詠み、蘇軾には「人皆若炎」の4文字が当たったので、4首作った。実際にひどく暑かったのだろう。3首を訳す。
［補足］（気安い仲間との戯れの詩であるようなので、蘇軾に叱られるのを承知で戯れに訳す）
［訳文］
其の一
強い日差しに、町の楼閣は魚の鱗のようにぎらぎらと輝き、
水草にさえ風が立たない。
ちょいと渓川の一番奥まで行くなどして、
我等を不羈な人と呼ばせてみようか。
この舟の顔ぶれでは、
鶴が舞い降りてきてくれる気配はなく、
燈火に向かって勝手に馴れ馴れしく虫がくるだけだ。
町を繞る蓮の花の広さは一千頃、
六月でも蓮の葉の下だけは春である。
其の三
紫の蟹も鱸魚も土くれのように値が賤く、
銭を渡しても数えることなく売ってくれる。
蓮の葉を丸めて盃に見立てると、酒は少し苦みを帯びる。
板前が肘を運らせると、
風が起こって、白い雪が飛ぶようにして刺身ができあがる。
酔った勢いで新しい詩を作ろうとしても、
満腹で腹鼓を打つことしかできない。
其の四
橋の上で遊ぶ人々は、夜になっても飽きることもなく、
欄干に依って蓮を吹く風の音を聞いている。
楼閣の上で遊ぶ人々は、蓮根を肴に酒を呑み、
化粧が終わったばかりの妓女が簾から月を覗き見る。
町の南で遊ぶ我等は、南朝貴族の風雅を受け継ぎ、
さらには家に帰って後に、北の窓辺で大の字になって眠るなら、
太古の朴訥な人々と等しくもなるのだ。
人間世界は熱さ寒さの窮まりがないところで、
自分で自分を笑うような疏頑ことでもしなければやっていられない。
■送淵師帰径山
［解題］澄慧大師（淵師）が径山の帰るの送った詩。径山は杭州時代に登っている（第4章136ページ）。
［訳文］
私は昔、径山の客となり、
山の風景は私の詩筆には手に負えないものだったと、今も思っている。
師はその山に住むこと三十年、
山の真髄を得ているので、、師は妙語を発せられるのである。
湖州の町は六月は水に蒸され、蚊が猛然と鷹のように襲いくる。
師の方丈では、御明かしが動かずに灯り続け、
氷雪に閉ざされたように冷ややかであるのを羨ましく思う。
径山の人々は私が湖州にまで来ていると知って、
私はどうしているのかと、争うようにして尋ねるだろう。
そうしたら、言ってほしい、
「あの男は何をやっても一人前ではないけれど、
ただ眼だけはきいて、いまも細かい字を書くことができる」
［補足］（この詩の終わりは、径山に竜井という井戸があって、その水で洗うと眼病が治るとされ、かつて径山に遊んだときの詩に、老人になっても細かい字が読めるように眼を洗っておこうと詠んでいたことにちなむ（その詩は訳出しなかった））
■次韻周開祖長官見寄
［解題］杭州時代に親しくした周邠（周長官、第4章123ページなど）から詩が寄せられたので、次韻して返した。
［訳文］
一度うなずく間に東西数州を旅して道に老いる――
それは旅芸人だけではない。
地方勤めの身は、
惜しまれつつ父老と別れたかと思うと、
すぐに子供等の出迎えを受けるのだ。
私の政は拙く、水害だ日照りだと年々祈るだけ、
民衆は疲れ、私を嘲笑する声を避けて歩かなければならない。
河が広大な野を呑んだときは水を塞げなかったし、
盗賊が山に入り込んだときは捜し出せなかった。
お上に仕えてこんなことでは、
孔子、孟子の教えに恥じなければならないし、
国家の急に役立たずであった昔の人々を偉そうに責めることなどできない。
田舎に帰ることを思いつつも俸禄に魅かれ、
世間の風濤から脱けられずに州知事をしている。
憐れにも家を喪った犬のように惘惘し、
人の乗っていない舟のように行き当たりばったりである。
これまで経てきたことは全て夢のようで、
今はただ楼閣に身を寄せて水を見ているだけ、
味も香りも抜けてしまった酒か、
はたまた落ちぶれた楽工が風に空の瓶をたたいているようなもの。
遠くは唐朝や晋朝の名臣を思ってみたり、
近くはかつて交流があった人々を思ってみたりする。
湖州では、風がないと豹脚が窓から入り込み、
雨の後には蝸牛が欄檻を這い登ってくる。
昔ともに遊んだ人の多くは苔むす土の下となり、
ただ同年の君だけがいまも黒々とした頭のままだ。
君とは湖山の名勝を尋ね、酒杯を重ねて二人とも憂いを忘れた。
酔って雪の中で梅の花を見たこともあるし、
夏の夜に舟を浮かべてみたものの汗が流れて仕方なかったことも、
山の上で百首の詩を詠んだことも、
月と君と私の三人で遊んだこともあった。
君は本来、翼を翻して朝廷の高官として飛ぶべき人であるのに、
南の地の谷底で県令の座についている。
君は春風のような詩を送ってくれたけれど、
私の筆は老いてろくな返事ができない。
歳月はいよいよ速く過ぎ行き、
晩節を全うして功名を立てるということもきっとできないのだろう。
とりあえずは事無く飲むのがよいであろうか。
この地の魚は旨いからと留まるのもよいし、
この地の酒は薄いと笑いながらも留まるのでもよいだろう。
［補足］（詩の中ほどで「近くはかつて交流があった人々」として蘇軾は張先らの名を具体的に挙げている）
■林子中以詩寄文与可及余与可既没追和其韻
［解題］林希（字は子中）という人が蘇軾と文同（字は与可）に寄せた詩があった。文同は本章325ページで見たようにすでに亡くなっていて、林希が詩を詠んだのはしばらく前のことで、何かの折にその詩を思い出して、文同のことを偲んでその詩に和したのだろう。
［訳文］
この人（文同）が甚しく嫌ったのは、
餌のように投げ与えられたものを受けること。
こんなことをするのはほんのわずかな間だからと、
人に後れまいと奪い取り、
得たもの（地位）を死んでも守ろうとする者がいる。
天賦の才には大きい小さいがあり、
斛と斗のように単位が異なりもするのだから、
それぞれの分に安んじるのがよいのに、
外物に誘われるがままに、時節到来と見てとると、うごめき出し、
誰かれかまわず意気を合わせて、結構な場所を占拠し、
本当ならそこにふさわしい人を、鷄小屋のようなところに押し込めてしまう。
こうして文同は五百人もいないような土地の長官になっていたのだが、
いざ亡くなると、一万もの人々が泣いた。
私は文同の死を聞いて以来、胸の内に大きなわだかまりがある。
世俗と絶つその意を、一度手を執り合って語りたいと思っていた。
遥かに隔たったまま、その窓辺に寄ることができなかった。
文同は遺文を弟子に、後事を諸友に託した。
文同には一人のよい息子と、よく釣り合った妻がいる。
世の人は目の前に見えているものを軽んじる傾向があり、
一方で、自分のものはぼろぼろの箒でさえ大切にする。
文同の詩文はいずれ識者によって必ず価値あるものとされるはずだが、
ただ墨竹の画だけが愛されているのを、
私は以前からずっと残念に思っていた。
我等の昔からの知り合いは、いまや皆が厚禄を受ける身となっているが、
その中の誰が文同のことを哀しんでいようか。
むろん、林某やら蘇某やらが饑寒に迫られて走り回っていることなど見向きもしないのだ。
［補足］（この詩には、先に見た「湖州謝上表」（本章357ページ）にあった「新進」を嫌う気持ちがかなり強く篭められているようだ。文同の一人息子の文努光は蘇轍の娘と結婚していた（本章265ページ））。
■与王郎昆仲及児子邁繞城観荷花登峴山亭晩入飛英寺分韻得月明星稀四首
［解題］王適、王遹の兄弟（本章341ページ）と、長男の蘇邁を伴って湖州の町をめぐる蓮の花を見てまわり、峴山亭に登り、晩に飛英寺に入った。そこで、韻を分け合って詩を詠み、蘇軾には「月明星稀」の字が当たったので4首を詠んだ。そのうち3首を訳す。
［訳文］
其の一
昨夜は水路で雨音がしていた。
暁ごろに風が月を吹き現した。
蕭然と秋の気配を覚え、
城を環る三十里の水は清く澄んで啜れるほど。
蓮の葉が海のように広がり、どこもがすばらしい景色。
その中に一艘の舟が見え、
青い笠を深く被るのは、真に世を避ける人であろうか。
逢って話をしようと思ううちに、飛び去る鴎とともに消えてしまった。
其の三
ここの流れは漢水に似て、鱗鱗と鴨の頭の青色である。
ここの町は襄陽よりも勝り、万の家の瓦が青い空に浮かぶ。
私はかつての羊祜の足元にも及ばないので、
この峴山亭に登るのは面はゆく思われるのだが、
それでも歳月が流星のように消え去るのを悲しみ傷む意は同じである。
私と同道する王兄弟はいままさに羽ばたこうとする鴻のようで、
羊祜と一緒にいただけでその名を残した鄒湛とは違い、
自分自身の徳をもってその名を歴史に刻むことだろう。
［補足］（蘇軾はかつて都に上る旅で襄陽に立ち寄り、漢水を見て詩を詠み（1章51ページ）、峴山に登った（1章52ページ）。峴山はかつて羊祜が山頂で悠久の時の流れを嘆じたことで知られる。そこにちなむ湖州の峴山亭で、自分は羊祜に及ばないが、いま一緒にいる王兄弟は、峴山で羊祜と言葉を交わしただけで名を残した鄒湛（本章95ページ）とは大違いであると戯れたのだ）
其の四
湖州の役人と民は私がものぐさなのを憐れんで、
訴訟事などは滅多に起こすまいとしてくれている。
それで何事もないので、酒を食らって夜も遊んでいられる。
さらに飛英寺を訪ねて、月の光のもとでの楽しみを尽くそうとする。
知事殿の到来を告げる鐘が撞かれると、履の音がにわかに集まってくる。
中にはあわててさかさまに衣を付けた者もいる。
私が来るのは決まった時節がなく、杖の自ずと向かうところで扉を推すのだ。
どうか私のことを知事だとは見ないでほしい。
外見はそうであっても、中身は似て非なるものなのだから。
■次韻章子厚飛英留題
［解題］前の詩で訪問した飛英寺の壁に章惇（字は子厚）が書いた詩があったので、それに次韻した。章惇が一時期湖州知事であったことは本章70ページで見ている。その後いまでは改革派の一員として都で活躍している。
［訳文］
足の遅い馬に乗ってかつて一緒に遊んだ君は、
いまは仙宮のような皇城の内にいる。
宰相御用達の酒店で昔を思い出したら、
蓮の花が天にまで続くこの場所へと飛んで来るがよい。
■趙閱道高斎
［解題］趙抃（字は閱道）は、先の詩（本章366ページ）にあったように政界を引退し、高斎と名付けた書斎を作った。それにちなんで詩を詠んで送った。
［訳文］
公が奔走するのを見ては公の労苦を言い、
公が隠退するのを見ては公の高潔を言う。
我等はその時その時であれこれ言うけれど、
公の心は高くなったり下くなったりすることなく、
この世は夢幻、遭うところに従って去来するだけなのだ。
だから、「高斎」の意味などは公の関知することではなく、
人が勝手にその名を設けたのである。
公は、孟子が「四十歳で心動かず」と言ったのと同じく道を得ていたのだが、
俗縁がまだ尽きなかったために政事に関わっていなければならず、
功名も富貴もほんのそのときだけ身を置く旅館のようなものと心得、
黄金をいくら積んでも公の袖を取って引き留めることはできなかった。
超然と一大事を成し遂げ、瞬時に官職から去ったのだった。
猿が網に落ちても手に掴んだ物は決して放すまいとするのとは大違いなのだ。
賢達と愚陋とは、九頭の牛の毛を一列に並べたくらいの差があり、
百尺の松は己の高さを気にもかけないが、蓬は羨んで同じ高さになろうとする。
私は自分の食い扶持を担いで公に道を教わりに行きたく思うが、
どうか肘だけ上げて追い払ったりするようなことだけは勘弁いただきたい。
［補足］（末の句は、このような無作法な仕草で面談を断られた昔の人がいたのである）
■次韻和劉貢父登黄楼見寄並寄子由二首
［解題］劉攽（字は貢父）（本章65ページなどに登場）が徐州にある黄楼に登って詩を詠んで送ってきた。それに和して、1首を劉攽に1首を弟に寄せた。後者を訳す。
［訳文］
其の二
君と一緒に故郷を去って十年、僕も君も天の片隅にいる。
歳の巡り合わせが悪いのか、生きる算段が拙いのか、
枯れた梧にしがみついている。
窮状に陥った人との交際は普通は嫌うものだが、
劉君のように、ちゃんとした地位にあることを誇ったりせずに、
僕等のことを好んで下さる人もいる。
劉君の清らかな句は金の糸を縒り合わせたようなもの、
吟じると、高い楼閣で白い月の光を浴びている気分になる。
このような新しい意匠の詩が生まれたのも、
君が徐州のあの場所に楼閣を建てるとよいと言ってくれたからだ。
近ごろ君は、君が作った「黄楼の賦」を六幅の図に写したところ、
一座の者は身をそばだててそれ見て、
一文字でもいいから自分のために筆を執ってほしいと頼んだと聞く。
僕から君に頼むのは、
僕のまわりの人々に怨みを抱かせないようにしてくれること。
だって君はどうせここらには来てくれないんだろうね。
■文与可画篔簹谷偃竹記
［解題］蘇軾の手元に、文同（字は与可）が描いた篔簹谷の偃竹（横に寝そべった竹）の画があった。篔簹谷は洋州にあり、そこの竹を主題とした詩を蘇軾はかつて詠んでいた（本章109ページ）。7月7日、梅雨が明けて空気が乾燥してきたのだろう、書画の虫干しをしたところ、この画が出てきたので、思うところを記したのがこの文章である。
［訳文］
竹が生まれたばかりのときはたった一寸ばかり。そこには節も葉も具わっている。筍がごく小さいうちは蝉の腹に似て、少し大きくなると蛇の腹のようになり、いつしか十尋（20メートルほど）もの長い剣を抜き放ったように高く伸びあがる。しかし、竹の全ては生まれたときに具わっているのである。
いま竹を画く者は、節を一つずつ作り、葉を一枚ずつ累ねてゆく。これでどうして竹となるのだろうか。
竹を画くときには、必ず先に、胸の内に成長した竹を得ておかなければならない。筆を執ってそれを熟視し、画こうとするものが見えてきたなら、さっと始め、見えたままに従って筆を揮って、直ちにやり遂げるのである。見えたものを追うのは、兎が跳んで鶻が急降下するような具合で、少しでもぐずつくと、見えたものは逝ってしまう。
このように文同は私に教えてくれた。私は、自分ではそのようにはできないけれども、心にはそうであることを識った。
心にそうであることを識っても、そのようにはできないのは、心の内と外とが一つになっていなくて、心と手が応じ合わないからである。それはよく学ばないことからくる過ちである。心の内に見えているものがあっても、これを習熟するまで繰り返し行っていない者は、普段は自分ではっきりわかっていると思い込んでいたところで、実際に事に臨むと、たちまち見えていたはずものを喪ってしまうのである。
これは竹に限ることではない。
弟の蘇轍は『墨竹の賦』を作って文同に贈った。そこにはこのように記してある。
「古の庖丁は牛を上手に解体する職人で、その技を見て、人は命を養う極意を得た。古の輪扁は車輪を削って作る職人で、その技を見て、人は書物を読む極意を得た。先生は竹を画くことに託して、道を会得して生きるありさまを示されているのではないだろか」。
弟は絵を画いたことがない。だから、文同のしていることの意だけを理解した。私のような者は、その意だけでなく、あわせて画く方法も得た。
文同は竹を画いて、それが価値のあるものだとは全く思っていなかった。あちこちから画いてほしいと白い絹を持って頼みにくる者が、足を踏み合うようにして門に押し寄せると、文同はそれを嫌って、絹を地に投げつけ、罵って言った。
「こんなもの、わしの襪にしてやる」
士大夫（官僚仲間）はこれを言い伝え、語り草にした。
文同が洋州の知事から都に還ったとき、私は徐州にいた。文同は私に手紙でこのように言った。
「近ごろ私は士大夫連中に言ってやった。『吾が墨竹の一派が都に近い彭城（徐州）にいる。行って頼んだらよいだろう』。だから、そのうち、君のところには襪の材料が集まることでしょう」
手紙の終わりに詩が一首書き添えてあった。そのさわりの部分は、
擬将一段鵝溪絹、（一段（長さ一尺）の鵝溪の絹（高級な絹織物）を用いて）
掃取寒梢万尺長。（長さ一万尺の冬の竹を画こうと思う）
私は文同に言った。
「竹の長さが一万尺なら、絹織物にしたら二百五十匹分の長さに相当します。これに画くとなると筆を動かすのを墨を磨るのも大変でしょうから、その絹を頂戴したいものです」
文同は答えようがなくて、こう言ってきた。
「私はでたらめを言ったのだ。世の中に一万尺の竹などあるはずもない」
私は自分が言ったことを真実とするために、詩で答えた。
世間亦有千尋竹、（世間にはよく千尋の竹があるとされる）
月落庭空影許長。（月が傾いて広い庭に落ちるその影はどれほどの長さであろうか）
文同は笑って言った。
「蘇君はああ言えばこう言うだな。しかし、二百五十匹もの絹があったら、私は田を買ってすぐに隠居するよ」
そして篔簹谷の偃竹を画いて私に贈ってくれて、こう言った。
「この竹は数尺しかない。しかし一万尺の勢いがある」
篔簹谷は洋州にある。かつて文同は私に「洋州三十詠」を作らせたことがあり、篔簹谷もその一つだった。そのときの詩は、
漢川修竹賤如蓬、（篔簹谷の竹は立派であるけれど、その値は蓬のように安い）
斤斧何曾赦籜竜。（ここの筍は伐り取るのを禁じられている）
料得清貧饞太守、（清貧を自称するここの実は大食らいの知事殿が）
渭浜千畝在胸中。（いつも竹が胸中にあると言いつつも、
本当は自分だけが腹の内におさめようとしているに違いない）
私の手紙が届いた日、文同は妻と篔簹谷に遊んで、採ってきた筍を焼いて晩のおかずにしていた。手紙の入った箱を開き、この詩を見ると、笑いをこらえることができなくて、ご飯が卓上いっぱいに飛び散ってしまった。
文同は元豊二年正月二十日に陳州で亡くなった。
同じ年の七月七日、私は湖州にあって書画の虫干しをしてこの竹の画を見て、巻き物を置き、声を失って泣いた。
昔、曹操（三国時代の英雄）は、「橋玄を祭る文」を書き、そこに「車過」「腹痛」の語があった（橋玄はかつて曹操に向かって、「私が死んだ後、もしも君が私の墓の近くにまできて、車に乗ったまま知らん顔で通り過ぎようとしたら、三歩も行かないうちにきっと腹が痛くなるだろう」と冗談を言っていた）。私もまたここに文同との昔の戯れの言葉を載せるのは、文同と私が親密で隔てるものがなかったことを示すためである。
［補足］（一万尺の長さの竹に関するやりとりは、本章265ページにあった）
■書楊樸事
［解題］7月28日、湖州での日々は突然終わった。蘇軾は詩文をもって朝政を誹謗した罪状で逮捕され、都の獄へと連行された。告発したのは御史台（官員の不法行為を取り締まる部署）の李定、舒亶、何正臣で、皇帝が蘇軾の取り調べを命じる詔を下したのは7月4日、蘇軾が文同の画を虫干しするよりも前であった。逮捕のために都から皇甫遵が派遣され、獄に置かれてからは張璪と李定が蘇軾の罪を厳しく吟味した。
［補足］（李定は、母の喪に服すべき期間中であることを隠してよいポストを獲得した人物で、蘇軾はそのことをある詩で揶揄していた（第3章97ページ）。張璪は、かつて蘇軾から、収穫を早く得ようと焦るのはよろしくないという助言を受けた張琥と同じ人物である（第2章89ページ）。李定も張璪も、舒亶も何正臣も、蘇軾が湖州着任時に皇帝に提出した「湖州謝上表」（本章357ページ）において「新進」と記した人々で、蘇軾の日頃の言動を嫌い、その詩文を徹底的に調べて、朝政（すなわち皇帝）を悪意をもって誹謗したとして告発した。皇帝への不敬罪が成り立てば蘇軾には死が宣告される。「新進」は蘇軾の口を完全に塞ごうとしたのである）
［補足］（蘇軾の逮捕がどのように行われたのか、孔平仲の随筆『孔氏談苑』に詳しく記されている。孔平仲は蘇軾と交流のあった孔文仲（第4章57ページ）の弟で、その場に居合わせた祖無頗が目撃したことであるとして記録しているので、いかにも信憑性が高そうなのだが、孔平仲は「諧謔狂放」で書いたものの史料的価値は怪しいとされる。つまり話を面白く盛る癖があるようなので、そのつもりで用心して読む必要がある。以下に訳すので、いわば講談の類だと思って見ていただきたい）
［訳文］
孔平仲：『孔氏談苑』
蘇軾が詩で朝政を誹謗し、お上を侮る言動があったことをもって、朝廷は御史台に対して、役人を派遣して逮捕するよう命じた。このとき李定は御史台の長官として人に対して荒く、蘇軾を逮捕することに熱心であった。
ここに皇甫遵が派遣されることになり、皇甫遵は息子と御史台の役人二人を連れて湖州へと急行した。一方で、王詵（本章154ページなど）はこのことを知ると、蘇軾と日頃から親しくしていたので、密かに人を遣わして南京にいる蘇轍に報せた。蘇轍はすぐに兄のもとに人を走らせた。皇甫遵は通常の二倍もの速さで飛ぶようにして湖州に向かったために、追い付くのは難しかった。ところが、皇甫遵が長江を渡って潤州に至ったところで、たまたま息子が病気になり、医者を求めて半日そこに留まった。それで蘇轍の使者がわずかに先んじることができた。
皇甫遵が湖州に到着した日、蘇軾は休暇を取っていて、祖無頗が知事代行を務めていた。皇甫遵はただちに州の庁舎に踏み込んだ。皇甫遵は長いブーツを履き、笏を秉って中庭に立った（朝廷の使者としての姿）。従う二人の役人は白い衣に黒い頭巾で、獰猛そうな顔であたりをねめつけた。湖州の役場の人々は何が起こったのかわからず恐れおののいた。
蘇軾も恐れ、すぐに外には出ないで、祖無頗に相談した。祖無頗は言った。「事態がこうなったからにはどうすることもできません。すぐに出て使者に会うべきです」。蘇軾はいかなる服装で出るべきかと祖無頗に相談した。罪人として使者の前に出るのなら、官員としての正式の服装はふさわしくないのではないかと思ったのである。祖無頗は言った。「まだいかなる罪であるかのかわかっておりません。正しい服装でお会いするべきです」。そこで蘇軾もブーツを履き、笏を秉って中庭に下り立った。祖無頗と湖州の役人も蘇軾の後ろに並んだ。
御史台の二人の役人は朝廷からの書状を衣の内に抱え持ち、それはあたかも剣がそこに潜んでいるかのように見えた。皇甫遵はしばらく何も言わなかったので、人々はますます恐れた。ようやく蘇軾が言った。「私は朝廷の政事に激しく悩むところがあり、今日は必ず死を賜るものでありましょう。死はもとより辞すものではありません。どうか、家人と訣別するために家に一度帰らせていただきたい」。皇甫遵は初めて口を開き、「そこまでのことではない」。祖無頗が前に進んで行った。「何か朝廷から授けられた文章がございましょう」。皇甫遵は尋ねた。「そちは何者か」。祖無頗は言った。「知事の代行です」。皇甫遵は朝廷からの文章を祖無頗に渡した。それを開いてみると、蘇軾を都に連れて来るようにとだけあった。
皇甫遵がすぐに発つよう蘇軾を促すと、二人の役人はとうとう蘇軾を捕えた。即座に町を出て、蘇軾は舟に乗せられた。湖州の人々はそれを見送って、雨のように涙を流した。わずかの間に、州の知事を犬か鶏のように掴まえて、連れ去ってしまったのだった。
［補足］（皇甫遵が初めに何も言わずにいたのは、蘇軾が恐れて勝手に自殺してしまうよう暗に仕向けたというのが、書かれてはいないけれど、このいかにも講談調のこの文章のミソである。読者をハラハラさせるために、蘇軾は弟の使者から一瞬早くに聞いていながら（それも出来過ぎた話だ）、なすすべもなく朝廷の使者を迎え、祖無頗に相談しなければ何もできないほどまでに動揺してしまったよう描かれているのであろう。これが事実なら、かつて母の前で自分は漢の時代の范滂のようになると誓った蘇軾としてははなはだ面目ないであろう（范滂は、逮捕しにきた朝廷の使者の前に自ら進んで出て行った。第1章33ページ）。また、一瞬のうちに犬か鶏のように連れ去られたとあるが、実際には妻子と話をしたことが、この事件からずっと後になって蘇軾自身が書いた次の文章から知ることができる）
［訳文］
かつて洛陽を通過した際に、李柬之に会って次のような話を聞いた。
真宗皇帝が泰山で封禅の儀を行って都へと帰還する際に、皇帝は天下の隠者を探し求めた。杞の人で楊樸という隠者がいて、巧みに詩を詠むというので、皇帝は楊樸を呼び寄せた。楊樸は詩など上手に作れないことは自分でよく知っていたけれど、皇帝のお召しに応じないわけにはいかなった。
皇帝は楊樸に言った。
「そちが出発するに当たって、誰かそちに送別の詩を贈ってくれなかったかな」
「妻が贈ってくれた一首だけがございます」
「どういう詩だ」
楊樸が吟じた。
更休落魄耽盃酒、（酒に耽溺して魂を落としちゃだめよ）
且莫猖狂愛詠詩。（詩に凝り過ぎて頭をパーにしちゃだめよ）
今日捉将官裏去、（そう言ってたのに、今日は引っ立てられてお上のもとに連れられ）
這回断送老頭皮。（その老いぼれ頭を皮をぺりっとむかれちゃうのよね、かわいそうね）
皇帝は大笑いして楊樸を山に還した。
私は湖州にいたときに、詩をもって罪を問われ、獄に連れて行かれた。妻子は私を見送って門の外で大泣きをした。妻子に語る言葉もなかったのだが、つい妻を顧みて、
「何かい、君は楊樸の妻のように詩を作って僕を送ってくれないのかい」
妻は思わず笑ってしまい、私はそれを背に出て行ったのである。
［補足］（蘇軾にも話を面白く脚色する癖があるので、本人がこのように書いていてもこれがそのまま事実であったかどうかはわからない。蘇軾がその場で楊樸の話を思い付いて、動揺して為すすべを知らない人々を泣き笑いさせたという解釈がある。知事代行にいちいち尋ねないと何もできなかったというよりは、蘇軾の実像に近いように思われる）
■杭州召還乞郡状
［解題］蘇軾は逮捕され、船中に軟禁され、都に連れて行かれた。弟の蘇轍に後を託す手紙を書き、そのときまでずっと湖州にいた王適、王遹の兄弟が蘇軾の家族を蘇轍のいる南京応天府にまで送り届けることになった。蘇軾の長男の蘇邁は父が護送される船の後を追った。
上に見た孔平仲の「講談」は湖州を離れて以降、獄中で何があったかまでを語っているのだが、それを見る前に、蘇軾自身が12年後にこの事件をどのように回顧しているかを、時の皇帝（神宗の子の哲宗）に差し出した次の文章で見ておきたい。
［訳文］
元祐六年五月十九日，
臣は昔、治平年間に鳳翔の職から替わって朝廷に入り、初めて英宗皇帝の知遇を被りました。皇帝陛下は臣を用いようとしてくださいましたが、当時の宰相の韓琦は臣がまだ若く資質に浅いところがあり、官の任に耐えられるか試めされてもいないことから、しばらくの間はと館職を与えてくださいました。
臣は父の喪に服すために官職を去ることとなり、喪が終わって改めて朝廷に参内いたしました。そこで、神宗皇帝のお招きをいただき、面と向かって激励のお言葉を賜り、臣が職掌外のことについても申し上げることを許してくださいました。そのとき臣は、遠国からきた臣下はまだこれほどまでの優遇を受けるはずがないので、これはきっと英宗皇帝が臣を知っていてくださったことによるのであろうと思いました。
このとき王安石が新たに政治を司り、法度を変易しました。臣がもしも少しばかりでも王安石に擦り寄りましたならば、きっと昇進して用いられたでありましょう。しかし、臣は朝廷から遠い人間でありながら、英宗皇帝、神宗皇帝の特別な知遇を蒙り、それでいて天を欺き自分の心に背くようなことはできないと、王安石がしようとしていて施行してはならないことを具さに論じて、万に一つでの国政に補うところがあればと考えました。しかし、神宗皇帝の御心が臣のことをどれほど認めてくださっているのか、その浅い深いをまだ測ることができませんでした。折しも、上元の節に四千の灯篭をお買い上げになって、しかも役目の者が理由もなく価を値切っているということでありましたので、臣はそのことを論じて意見書を出しましたところ、先帝（神宗皇帝）は大いに喜ばれて、即時に臣が申し上げ通りに施行してくださいました。臣はこれによって、先帝が聖明にして、言葉を尽くした意見を受け入れてくださると知り、六千余言にわたって新法のよろしくないことを詳しく論じた意見書を提出いたしました。また、科挙についても意見を申し上げ、王安石には人を見る力がなく、王安石が勧める人間は用いてはならないことを申し上げました。先帝はそれを聴いて従ってくださったわけではありませんでしたが、臣の愚直をよしとして、譴問されることはありませんでした。しかし、王安石は大いに怒り、その仲間は皆歯噛みをして怒り、臣を傾けようとしました。御史台の謝景温が首謀者となって必死にあら捜しをして、臣が父の喪に服して帰郷した際に、舟の中で私的に塩を販売したとの告発をしました。そして、各地に指令を下して、当時の舵取りから竿さしまでも捕えて拷問にかけて、証拠を集めようとしました。しかし、その実体はなく、罪をでっちあげることはできずに終わったのでした。
臣はこれによって禍を懼れ、都の外に出ることを乞い、三回連続して地方官に任ぜられました。それでも、先帝は臣を大切に思ってくださることは衰えず、臣が差し出す文章が届くと、それを左右の者に示して褒めてくださいました。それで、改革派の人々は臣がまた朝廷で用られるのではないかと疑い、李定、何正臣、舒亶の三人が、飛語を組み合わせ、いろいろな罪状を作り上げて、必ず臣を死罪にしようとしました。先帝は初めは許しませんでしたが、この三人が訴え続けてやまなかったために、臣は罪を得て獄に下ることになりました。李定らは乱暴な役人である皇甫遵を派遣し、皇甫遵は吏卒を率いて湖州にきて、臣を盗賊のように捕えました。臣は妻子と訣別し、手紙を弟に留めて、後の処置を託しました。自分で思うに、必ず死ぬであろうと考え、長江を過る際に、江中に身を投げようとしました。しかし、吏卒が監視していたために果せませんでした。獄に到ると、何も食べずに死のうとしました。しかし、先帝は使者を獄に遣わしてお命じになるところがあり、獄吏は敢えて非道な仕打ちを加えるようなことはなくなりました。それで、臣は、先帝に臣を殺すお気持ちはないと知ったのであります。それによって、余命を留めて今日に至ることを得ました。……（後略）……
［補足］（この文章も、本人が書いているのだからこれがそのまま事実であったとは限らない。歳月を経てから書いていることと、皇帝に提出した文章であることからすると、露わな意図はなくても、筆を飾ったところが全くないとは言い切れないだろう。一方で、先に見た『孔氏談苑』には、逮捕後の蘇軾について次のように記している。これこそはかなりの眉唾物と思うべきであろうが、同じ時代の人たちがどのようなこの事件を認識でいたかがわかるだろう）
［訳文］
孔平仲：『孔氏談苑』
蘇軾は皇甫遵に逮捕され、太湖の蘆香亭の下にまでくると、乗っていた船の舵が破損したので修理をした。その夜は、風と波があり、月が昼間のように明るかった（7月28日であるからこれは明らかに事実に反する）。
蘇軾は考えた。
「慌ただしく捕まえられ、これからどうなるのか。きっと厳しい取り調べをされて、連座する者が多数になるだろう。目を閉じて水に入るなら、すぐに事は終わる」
そうしようと思って、また考えた。
「弟を困らせたくない」
つまり、自分にもしものことがあれば、弟はきっと独りでは生きられないと思ったのである。
それで、水には入らず、都に行き、御史台の獄に入れられた。
李定、舒亶、何正臣は、蘇軾を罪に陥れようとして、はなはだ厳しく取り調べた。蘇軾はきっと死罪になると思い、死を言い渡されたならそれを飲んで自殺しようと、毒薬を獄の土の中に埋めて備えた。
一人の獄卒が思いやりがあり、蘇軾を礼儀正しく扱った。夕方になると、毎日蘇軾の足を湯で洗った。
蘇軾はその獄卒に誠をもって向き合い、
「私はきっと死ぬことになる。私には弟がいる。弟との別れに、そなたに詩を託したい」
獄卒は言った。
「きっとそのようなことまでにはなりませんでしょう」
「万一死を免れるのなら、恨むところは何もない。しかし、もしも免れず、詩が弟に渡らなかったなら、私は目をつぶることができない」
獄卒はその詩を受けとった。……（中略、その詩は以下に見ることになる）……
皇甫遵が蘇軾を逮捕しに行ったとき、夜は厳しく監禁して連れてこようとしたが、皇帝はそのようなことは許さず、詩についての告発が事実がどうかを調べるためにだけ、知事の職を解いて蘇軾を都に呼んだのだった。御史台において始めは蘇軾を弾劾することが厳しく、扱いも乱暴であったので、人々は蘇軾のことを心配した。しかし、皇帝の真意が知れると、人々は蘇軾は死罪にはならないだろうと思い、果たしてそのようになった。天子は聡明にして寛厚で、臣下に対して礼儀正しかった。しかし、小人どもは天子の意向を勝手に伺い見て、酷いことをしてしまうのだった。皇甫遵のような人間はたくさんいるのだ。
■御史台楡槐竹柏四首
［解題］蘇軾が御史台の獄に入れられたのは8月28日。獄中で蘇軾がどのように過ごしていたのか。秋の終わりのころに詠んだ詩がある。御史台の庭に植えられている楡、槐、竹、柏の4種の植物それぞれに託して、獄中にいる自分の思いを歌っている。
［訳文］
其の一 楡
私は、汴河の堤の上を行くとき、
楡の緑の蔭を見るのは好きではなかった。
楡は千株あってもその蔭は一畝にも満たない広さで、
斬伐したところで一束の材にしかならない。
私は、幽囚の中に置かれるに及んで、
またこの木を見ることになった。
虫に食われた皮に秋の雨がしたたり、
病んだ葉が落ちて牆の曲がったあたりを埋めている。
霜や雪の厳しさはよくいわれるが、
生意が足りないのはそれだけによるのではない。
春風がくるまで待つことができるのなら、
その楡からも花が飛んで、
からっぽになったこの部屋のあたりを覆うようになるのだろうか。
其の二 槐
思えば、私が初めてこの獄に来たのは、
草木が衰えに向かう時季であった。
槐の高い枝には、秋であるというのに、
季節に後れた蝉が葉を抱いていた。
私も蝉もここに居続けるのはもういくばくもないだろうと、思った。
いま、槐にはまばらに莢が残っているだけ。
寒くなってきてもまだ棲みついている鴉がいる。
雪を啄んで餓えに哀しく叫ぶようになるのだろうか。
槐に壊れた巣の枝が空しくかかっている。
そこに沈み行く月が影を宿す。
烏には両の翼がないわけではない。
この我が愁絶に寄り添うためにここにいてくれているのか。
其の三 竹
今日は南の風が来て、庭先の竹を吹き乱した。
刃（竹のこと）と刃がさかんに触れ合って、低く高く音階に適った音を立てた。
雪をもたらす蕭然げな風に、
たとえ竹を折るような意があっても、
竹が辱められることはない。
風が止めば竹はもとに返り、
猗猗くも緑の光の玉をあたりに散らすのである。
故郷にはいま何があるのだろう。
荒れた籬の菊に秋の雨が注いでいるのだろうか。
竹は健やかでいてくれているのだろうか。
帰って南の軒端でその緑の葉に触れてみたい……。
其の四 柏
ここの庭には珍しい木が多くあり、
緑の柏がまるで葦原のように林立している。
幽囚の身には楽しみがなく、
百日の間この柏を見続けている。
時に幹に流れる樹液に触れ、
落ちた実を踏むのは忍びない。
誰がこの木を植えたのか。
私と同じくらいの年齢なのではあるまいか。
蒼蒼と幹を見上げる。
柏はたくさんの囚人を見てきたのだろう。
思えば、
唐の世に武勇で名を馳せた李祐将軍も、
御史台の温造の厳しい調べに胆を落としたのだった。
［補足］（御史台における蘇軾の取り調べは厳しいものであったようだ。67の詩文が証拠として挙げられ、逐一誹謗の有無を問われた。当初、蘇軾は罪を否定していたが、途中で全て認めた。67の詩文にはすでにここの訳で見たものも多く、朝政を批判する意図があったことは否定しようがない。むしろ、政治の過ちをきちんと指摘したと、胸を張るのが宋代士大夫の輝かしい伝統に則るものである。ただ、蘇軾は皇帝を誹謗するようなことは断じてしていないので、当初は否定したのだ）
■己未十月十五日獄中恭聞太皇太后不予有赦作詩
［解題］御史台での厳しい取り調べが続くなか、10月15日、太皇太后が重い病に陥り、その平癒を願って大赦が行われると、獄中の蘇軾の耳にも聞こえてきた。太皇太后は仁宗皇帝の皇后であった曹氏（建国の功臣曹彬の孫）で、神宗皇帝にとっては祖母に当たる（ただし、仁宗皇帝には男子がなく、仁宗皇帝の弟の子（英宗）が皇太子となって皇位を継ぎ、神宗はその子であるから、血縁関係はない）。蘇軾は自分も大赦の対象になるのではないかと期待してこの詩を詠んだ。
［訳文］
御史台の庭の柏は陰陰く昼も門を掩っている。
烏は大赦があると知っているのか、黄昏の空に騒いでいる。
漢の宮殿では罪を赦して三世にわたる恩を施したことがあり、
楚の王宮では遠く流して九回死ぬべきであった魂を呼び戻したことがあった。
もしも、私も赦されて、鋤をもって田を耕す身になれたとしても、
故郷の人々には面目なくて顔を合わせることはできないだろう。
堯や舜のような聖主が治めておられるこの世界であるから、
私を赦してなおも官員の一人に加えて下さるだろうか。
［補足］（このころに、太皇太后と神宗皇帝の間に、次のようなやりとりがあったと伝えられている。信憑性は先の『孔氏談苑』よりさらに低いが、当時の人々はいかにもありそうだと思ったのだろう。
［訳文］
『泊宅編』
蘇軾が御史台に置かれていたある日、太皇太后が皇帝に言った。
「官家（皇帝）はここ数日、気分がすぐれない様子ですが、何かあったのでしょうか」
「幾つか決着しない問題があり、その中に蘇軾という者が、朕を誹謗して、そのことがはっきりと文字に出ているのです」
「それは、蘇軾、蘇轍兄弟のことでしょうか」
「二人を御存知なのですか」
「私ははっきりと覚えています。仁宗皇帝が制科の試験をなさったときに、嬉しそうにこのようにおっしゃいました。『朕は今日、二人の文士を得た。蘇軾と蘇轍という者だ。しかし、朕は老いたので、たぶんこの二人を用いることはできないだろう。しかし、将来のためにこの二人を遺すのだ。よいとは思わぬか』」
太皇太后は泣いて、いまその二人がどうしているかを皇帝に尋ねると、皇帝は、
「まさにその蘇軾が獄中にいるのだ」
太皇太后が再び泣いたので、皇帝は心を動かし、蘇軾を赦す気になった。
［補足］（もう一つの話として、皇帝と皇后の間で次のようなやりとりがあったとされる）
［訳文］
『西塘集耆旧続聞』
太皇太后の病が悪化し、いよいよ危うくなったときに、神宗皇帝は純孝の心から大赦令を出そうとした。皇后が言った。
「天下の凶悪な人間たちを赦す必要はありませんでしょう。ただ、蘇軾一人を放免すれば十分なのではないでしょうか」
［補足］（しかし、李定等が強く抵抗したために、蘇軾は大赦の対象にはならなかった）
■十月二十日恭聞太皇太后升遐以軾罪人不許成服欲哭則不敢欲泣則不可故作挽詞二章
［解題］詩題は、「十月二十日、恭しくも太皇太后が亡くなられたと聞き、私は罪人の身であることから喪に服すことを許されなかった。哭声を挙げることは敢えてしないとしても、普通に泣こうとしても、それも許されなかった。そこで挽詞を二つ作った」。
［訳文］
其の一
宋朝が初めて開かれたとき、高く聳える勲があった曹彬。
まことに優れた人は得難く、
そのときの宋朝にも賢臣は十人ほどしかいなかった。
曹彬は太祖の廟の脇に祭られ、
江南を平定した際に数多の命を救っただけではないその功績は、
百世にわたって語り継がれるべきものである。
その曹彬の孫の太皇太后は、
漢代の優れた皇后を遥かにしのぐお方であった。
鄧皇后は幼帝を輔けてよく朝政をみたものの、位を貪る心があり、
馬皇后は皇帝をよく支えたものの、その恩徳は民にまでは及ばなかった。
月が落ちたのを風も悲しみ、天は雨を降らせて泣く。
誰か、大きな筆で太皇太后の光溢れるお姿を写してはくれないだろうか。
其の二
私は制科の試験で仁宗皇帝の御恩を受けていながら、
まだ何も報いないうちに、
御陵を廻る松や柏が高く聳えるまでになってしまった。
ひと声慟哭することも、ここはそれができる場所ではなく、
万死をもって御恩に酬いるには、私にその時間があるのだろうか。
夢に天の道を歩もうとしても、
狭くて私は通ることができないので、
人間世界に留まって、
白い帷が赤く変色するまで涙を流し続けるのだろうか。
平生より私は、
太皇太后が仁宗皇帝を追慕するお心に感嘆していたのだが、
三代にわたってお仕えてしてきたこの老臣は、
詩のために罪に落ちてしまった。
■予以事繋御史台獄吏稍見侵自度不能堪死獄中不得一別子由故作二詩授獄卒梁成以遺子由
［解題］長男の蘇邁は湖州から連行された蘇軾の舟の後に付いて都にきて、獄中の蘇軾に食べ物を送るなどして、蘇軾の獄中生活を支えていた。それに関して信憑性の低いまことしやかな話が伝わっている。
［訳文］
『避暑録話』
蘇邁は食糧を送るのに、野菜と肉だけを添え、もしも不測の事態になった場合には、野菜と肉を止めて魚を添えることで、外の様子を伝えると決めていた。蘇邁は一カ月以上にわたって決めた通りにしていたのだが、食糧の蓄えが尽きたので、補充しに出かけることになり、ある親戚に代わりを頼み、その決まり事を伝えるのを失念した。親戚はたまたま魚が手に入ったので、それを獄中に送った。蘇軾はそれを見てひどく驚き、皇帝の慈悲にすがってもそれは皇帝に耳に達することがなく、死は免れないのだと思い、弟に向けて二つの詩を作り、獄吏に渡した。きっと獄吏はそれを隠すことができなくて、皇帝の耳に達するであろうと思ったのだ。
蘇軾が獄中から弟に詩を寄せたことは、先に見た『孔氏談苑』にも記されていたが、その経緯はかなり異なっている。実際に詩は存在し、蘇軾自身は詩題で次のように記している。「私は事をもって御史台の獄に繋がれ、獄吏によっていささか酷い扱いを受けた。自分で推量するに、これに堪えることができなくて、獄中に死んで、弟に会って別れを告げることはできないだろうと思った。そこで二つの詩を作って、獄卒の梁成に授けて、弟に遺った」
［訳文］
其の一
聖主は天のよう、万物はそのもとで常に春。
小臣だけが愚暗にして自ら身を亡ぼしてしまった。
人としての百年の寿命を満たす前に、
前世の罪業を死をもって償わなくてはならない。
僕の十人の家族は帰る場所がなく、
さらに君を累わすことになってしまう。
いたるところの青山、そのどこにでも僕の骨を埋めてくれたまえ。
いつか夜の雨に、君は独りで心を傷めるのか。
君とは世世、兄弟でいようではないか。
この現世では尽くせなかった縁を、
きっとまた次の世で結ぶのだ。
其の二
御史台の夜は淒淒するばかりの霜の気に満ち、
風が罪人の瑯璫に冷たく吹き寄せる間に月が低くなる。
夢は故郷の山を繞って、心はあたかも鹿のようになるが、
熱湯や火に責められて魂は飛び、命はあたかも料理前に鷄のようだ。
眼に浮かぶ額の形が賢者の相を示しているのは、
まさに我が子のことであろう。
僕が死んだ後に、牛にかける襤褸の麻布を衣として着なければならなくなるのは、
恥ずかしいことにそれが僕の妻なのだ。
死んで僕の魂はどこを彷徨うのか。
杭州、湖州の人々が、きっとその地に葬ってくれることだろう。
［補足］（この詩の末尾について、蘇軾自身の注記がある。「獄中で聞くに、杭州や湖州の人々は、寺社において私のために厄を解くことを何カ月にもわたって祈っていると」。蘇軾も杭州、湖州の風光を愛し、民衆も蘇軾を慕っているのであれば、その地に葬られたいと思ったのだ）
蘇軾の厳しい尋問と審理は4カ月にわたって続いた。罪を問われたのは蘇軾だけではなく、蘇軾と詩文のやりとりをした39人も取り調べの対象になった。それらの人の多くが、自分が罰せられることは恐れないけれども、蘇軾が死罪になることだけは赦してほしいと朝廷に願った。特に張方平は、詩で治世の問題点を指摘するのは儒学の聖典である『詩経』以来の伝統で、蘇軾は何ら恥ずべきことをしていないと強く抗弁した。また、改革政治の重要な担い手として活躍していた章惇も弁護を買って出た。
本章の最後に蘇轍の嘆願書「為兄軾下獄上書」（兄の蘇軾が獄に下った為に朝廷に申し上げる書）を見ておこう。弟にのこした2首の詩を読んで後に書かれたものなら、一段と感動的であるのかも知れないが、実際は蘇軾が獄に下ってすぐに書かれたものであると推測されている。沈着冷静な蘇轍にしては、文章に乱れや重複があって、相当に慌ただしく書かれたものであるようだからだ。
［訳文］
蘇轍：『為兄軾下獄上書』
臣はこのように聞いています。
困難、危急のときに天を呼び、疾病、痛苦のときに父母を呼ぶのは人の至情（純粋な心）からくるものであると。
臣は草芥の微（身分卑しいごくつまらない者）でありますが、危うくも差し迫った願いがあります。ただ天地、父母だけが哀しんで憐れんでくれるのでしょうか。
臣は早くに父母を失い、だた兄の軾一人だけを命の頼みとしてきました。いまひそかに聞きますところでは、兄は罪を得て逮捕され、獄にあるとか。一家中が驚き叫び、いかなることになろうかと憂いています。
臣がひそかに考えますに、兄は家にいても官職にあって、大きな過失、大きな罪悪はありませんでした。ただ、生来愚直であり、古今の政事の得失を議論するのが好きで、しばしば意見書を朝廷に提出し、いろいろな事を論じてきました。その言論は一定しておりませんでしたが、陛下の御聖德は広大で兄に譴責を加えることはありませんでした。兄は狂狷（思い込みが強くそのままに行動してしまう）で、思慮が足りず、天地をも包み込む陛下の恩を恃みとして、自分を抑制して畏れることをしませんでした。
兄は先頃は杭州の副知事であり、密州の知事でありましたが、何か物に触れて興を発するたびに、それを託するに詩歌を作り、ときに軽はずみな語を出すこともありました。先に臣下の者がそれらを集めて陛下の御覧に供しましたが、陛下はそのまま置いて問われることをなさいませんでした。兄は御恩を頂戴したことに感じ入り、深く後悔し、それからは決して再び行うようなことはありませんでした。しかし、以前に作った詩は自ずと広まってしまいました。
臣は兄のことをまことに哀れに思います。兄は自分を信じてしまうほどに愚かで、軽々しく言葉を出し、それが不遜の域に達してしまったことに気付かなかったのです。過ちを改めて自身を一新しようとしたときには、すでに刑罰に陥るまでになり、救いようがなくなっていました。
兄は逮捕されましたときに、使いをよこして臣にこのように言いました。
「私はすでに衰え、病いがちである。きっと牢獄で死ぬだろう。もとより死は定めとしてあるものだ。しかし、残念に思うことがある。若くして抱いた志があった。世に稀な優れた天子様に巡り合えて、いまは失敗ばかりしてはいても、死ぬまでの間にほんのわずかでも節義を尽くしたかった。いまこの禍に遭い、過ちを改めて自分自身を一新して、心を洗って明主にお仕えしたいと思っても、もはやその道がなくなってしまった。まして、朝廷において私は最も孤立し、皇帝の左右の親近に、自分のために弁護してくれる者はいない。ただ、兄弟の親しみのある者だけが、陛下に哀れを求めようとしてくれるのだろうか」
臣は兄の心を哀れみ、手足ともいうべき兄弟の情を抑えることができないままに、死を冒してこのように一言申し上げる次第です。
昔、漢の時代に、淳于意が罪を得たときに、その末娘の緹縈は、自分の身を官の奴隷に落として、父の罪を贖いたいと願い出ました。漢の文帝はこのことから身体を害う肉刑を用いることを止めました。
臣の誠などは虫けらのもの、緹縈には遥かに遥かに及びません。しかし、陛下の聡明、仁聖は漢の文帝を遠く超えるものであります。臣はいま頂戴している官職をお返しして、兄の罪を贖うことをお願いいたしたく思います。兄の罪を軽くしていただくまでを願うものではありません。ただ、獄で死ぬことさえ免れられるのならば幸いといたします。
兄の犯したことが文字にはっきりと明らかであるのなら、罰を受けることを拒み続けて、さらに罪を重ねるようなことはありませんでしょう。
もしも陛下の哀憐を蒙り、その万死が赦されて、牢獄から出ることができましたならば、それは死んでまた生き返ったようなもの、いかにして御恩に報いたらよろしいでしょうか。臣が願いますのは、兄とともに心を洗い、過ちを改め、骨を粉にして御恩をお返しし、ただ陛下のお使いになるままに行動して、死んで後に終えるものであります。
臣は孤り危難の迫切したことに堪えられず、苦しさを訴えるところもなく、誠の心を陛下に捧げるものであります。この狂わしい振る舞いを見逃され、この乞い願うところをとくにお許し下さい。
臣は天に祈り、命に代えて請い、激切隕越（激しく死ぬばかりの思い）の至りに堪えることができません。