第5章 嵐の訪れ――密州、徐州、湖州
［第5章その三］
熙寧9（1076）年、蘇軾41歳。
■一叢花
［解題］「初春に病より起きる」と副題が添えてある。前の年のうちに立春があったことから歌い出している。
［訳文］
今年春浅臘侵年。（今年の春が浅く始まったのはまだ十二月のうち）
冰雪破春妍。（でも、氷や雪に破られてしまった春の妍さ）
東風有信無人見、（それでも、春の風は人には見えなくてもまことのある信）
露微意、（かすかな意は露にも）
柳際花辺。（柳の際にも花の辺にも）
寒夜縱長、（なおなお長く寒い夜）
孤衾易暖、（でも、暖まりやすくなった夜具）
鐘鼓漸清円。（鐘の音は少しずつまろやかになってきています）
朝来初日半含山。（朝がきて、まだ半ばは山に含まれている太陽）
楼閣淡疏煙。（楼閣がまとう淡くまばらな靄）
遊人便作尋芳計、（人がいましも作ろうとするのは芳きところを尋ねる計画）
小桃杏、（小さな桃や杏子）
応已争先。（きっとすでに先を争っているでしょう）
衰病少情、（でも、病に疲れてさえない情）
疏慵自放、（面倒臭いとやけっぱち）
惟愛日高眠。（つまりは日の高くなるまで眠っているのを愛するのです）
［補足］（冬と春の境目、病気と健康の境目、それらの間を行き来している己をもやもやと歌っている）
■刻秦篆記
［解題］先の詩にあった文勛（字は安国）（本章92ページ）は篆書をよくした。それについての小文。
［訳文］
秦の始皇帝の二十六年、秦は初めて天下を統一した。二十八年、始皇帝は東の海のほとりにまで巡行し、琅琊台に登って海から日が出るのを見た。楽しさに帰るのを忘れ、付き従う者三万人がその台の下に家を建て、秦の徳を称える頌詩を石に刻んだ。秦の二世皇帝の元年、皇帝の詔書をその傍らに刻んだ。
いま頌詩は亡び、始皇帝に従った大臣で名が知れるのはわずかで、二世皇帝の詔書だけが残っている。始皇帝の二十八年は壬午の歳、いま熙寧九年は丙辰の歳であるから、千二百九十五年の隔たりがある。
蜀の人蘇軾は密州に来て、この詔書を写した旧い紙を民間に得た。いまそれを見るに、なお完全な姿をしているのは、存在しているべきものには磨滅する日がないということなのだろうか。
盧江の文勛がたまたま職務を帯びて密州に来た。文勛は古を好み、篆書をよくし、篆書の祖とされる秦の李斯の筆の運び方を会得している。文勛は秦の篆書を模して二世皇帝の詔書を石に刻んだので、それを私は超然台に置いた。
秦は無道で、国家の事業を成就させるために民衆の命を絶つようなことをした。しかし、その時代に文字が巧みであったのは、ほかの時代の及ぶところではなく、それは消えてなくなってよろしいものではない。後世の君子はそうしたことをこの超然台の石を見るべきであろう。
正月七日甲子に記す。
［補足］（秦の始皇帝はいわゆる「焚書坑儒」を行うなど、儒学の伝統からすると最悪の暴君であり、秦の統一の基礎を作った李斯もはなはだ評判は芳しくない。しかし、秦が立派な書体を残したことは高く評価しなければならない。そうした矛盾をこの文章は提起しているのだろう）
■満江紅
［解題］文勛（字は安国）は1月13日に都へと帰り、これはそのときの送別の詞。
［訳文］
天豈無情、（天はもしかして無情）
天也解、（いえ、天もわかっていて）
多情留客。（行く人を留めようとするあつい情）
春向暖、（暖かくなろうとしている春）
朝来底事、（でも、この朝はどういうこと）
尚飄軽雪。（まだ風に舞い降る雪）
君遇時来紆組綬、（時節に遇って朝廷に並ぶ貴君）
我応老去尋泉石。（老いて山や泉を尋ねる私）
恐異時杯酒忽相思、（このさき酒を飲んでふと互いに想うことがあっても）
雲山隔。（私達は雲と山に隔てられてしまっているのです）
浮世事、（浮世のこと）
倶難必。（きっとこうなるようにはならない）
人縱健、（人はたとえ健康でも）
頭応白。（白くなってしまう頭）
何辞更一酔、（断らないで、もう一杯）
此歓難覓。（これからは求められないこの歓び）
不用向佳人訴離恨、（佳き人には訴えてはいかないのです、別れの恨み）
涙珠先已凝双睫。（だって、二つの目についてしまう涙）
但莫遣、（なってはならないのは）
新燕卻来時、（燕は帰ってきましたけれど）
音書絶。（手紙が途絶えてしまいましたと）
■答李邦直
［解題］李清臣（字は邦直）の詩に答えた。李清臣は都から職務を帯びて密州にきて、「超然台の賦」を詠むなどの交流があった。この詩は李清臣が密州を去ってからのものであろう。
［訳文］
すてきな人は春風に似ていようか。
春風が吹いてきたばかりのとき、物はなかなかそれに気づかない。
旅の憂いは氷雪に似ていようか。
春風に会えばすぐに融けて流れてしまう。
遠くから春風がやってくると、町の人たちはみなうきうきし始める。
私は病をおしてその様子を見に出ると、
春風は、私が何とも衰えてしまったことに驚いた。
春風は、私が久しくもの憂くしているのを知って、
新しい詩を作って私の心を元気にしようとしてくれた。
詩は旨い酒のように全身に薫りを溢れさせ、
詩であるからいくら飲んでも酔うことはないはずなのだが、
和そうとしたところ、心も体もすでにとろんとしてしまった。
とにかく懐を放とうと、言葉を選ばずに詩を和すと、
春風は手をたたいて笑い、あげくには顎をはずしてしまった。
春風を西の部屋に案内すると、
しばらく蛮の民が作った帳を揺らしていたけれど、
夜になると風雨が激しくなって、どこかに行ってしまった。
春風と別れてから、物はどれも春の姿を見せるようになり、
柳は日に日に暗い蔭をつくっている。
貴君が今度またきてくれるのはいつなのか。
そちらは楽しかろうが、私はいま遊びに出歩くことができないので、
ここのへんてこ知事はどうあっても憂いをとくことができないでいる。
貴君には素敵な奥方がおられ、家門は繁栄を謳歌していると聞く。
ならば、財布をさかさまにして芸妓を揃えて演奏を習わせ、
私のこの詩を歌わせるようにしたらよろしかろう。
［補足］（この詩は、春風と李清臣と李清臣の詩の三者を渾然一体として詠んでいる（訳文はそれを十分に生かせなかった）。「西の部屋」とあるのは52ページで見た「西齋」のことで、李清臣をそこに案内したのだろう。李清臣は蘇軾の4年先輩で、科挙に合格したのも4年早く、将来を嘱望されて、韓琦の姪を妻とした。その後、その妻が亡くなると孫巨源（第3章136ページなどに登場）の娘を妻とした。士大夫同士が姻戚関係を結んだ例は極めて多く、科挙を優秀な成績で合格した若者は、都の有力者の間で取り合いになった。蘇軾が受験の前に地元の王氏の娘を娶り、再婚相手も同じ一族の娘であったのは、父や蘇軾には自分たちは蜀の人間であるとの意識が強くあったからなのだろうか）
■望江南
［解題］「超然台での作」と添え書きのある詞。
［補足］（「望江南」は、もとを遡れば、長江より南の地への想いを歌った唐代の曲。原曲はもっと短かく、これは長いバージョン。詞はほとんどの場合に題名と内容は関係しないのだが、「望江南」はその名が主題となっていることがよくある。蘇軾はこの作品で江南への想いを直接的に歌っているわけではないが、杭州の春への憧憬が底にあるとみても間違いではないだろう）
［訳文］
其の一
春未老、（いまなお盛りの春）
風細柳斜斜。（細やかな風、斜めに揺れる柳）
試上超然台上看、（ふらりと超然台に上って見る）
半壕春水一城花。（壕の半ばは春の水、町は一面の花）
煙雨暗千家。（煙る雨に千の家が暗くとざされています）
寒食後、（寒食の後）
酒醒却咨嗟。（酒が醒め、ふっと溜め息）
休対故人思故園、（思うのはやめましょう、懐かしい人、故郷の園）
且将新火試新茶。（さあさあ火をつけ、煎れるとしましょう新たなお茶）
詩酒趁年華。（詩と酒でもって追い付きましょう、一年の最も華やかな時に）
［補足］（「寒食」は清明節の前に、火を使わずに冷たい食事をとる行事。「寒食」が終わって最初につける火を「新火」という。清明節は春分から15日目ですでに晩春に入るので、うかうかしていると季節に置いて行かれてしまう焦燥感を最後に歌っているのだろう）
其の二
春已老、（すでに盛りを過ぎた春）
春服幾時成。（もうできていてよいはずの春の晴れ着）
曲水浪低蕉葉穏、（曲水の宴の流れは緩やかに、静かに浮かぶ盃）
舞雩風軟紵羅軽。（風は軟らかく、雨乞いの踊りに、軽やかに翻る衣）
酣詠楽升平。（酔って歌って泰平を楽しみましょう）
微雨過、（細やかに過ぎゆく雨）
何処不催耕。（どこでも忙しく野良仕事）
百舌無言桃李尽、（百舌は鳴き終わり、花が終わった桃と李）
柘林深処鵓鴣鳴。（柘の林の奥深くで鳴く鵓鴣）
春色属蕪菁。（春の色はいまは蕪菁のものになっています）
■和文与可洋川園池三十首
［解題］文同（字は与可）（本章48ページなど）はこのころは洋州知事の任にあり、遠く離れていても、「超然台の賦」を詠んだり、洋川の風光を歌ったこの30首の連作を唱和したりするなど、親密な交流が続いていた。12首を訳す。
［補足］（この連作は、唐の王維と友人の裴廸がおのおの20首を詠み合った『網川集』をかなり意識しているようだ。『網川集』は、王維の広大な別荘である網川荘にあった20のビューポイントを詠んだもの。宋代の一知事である文同がそれに匹敵するような庭園を構えるのは不可能で、平凡な田舎の風光の奥に、手の込んだ庭園の美にも劣らぬものを見出して詩にしたということなのだろう。なお、詩を和すとは、必ずしも同じ韻を用いなくてもよいものであるようで、この連作はそうになっている）
［補足］（洋州は漢水の流域にあり、地域区分としては蜀の範囲内で、蘇軾はそこも郷里に含まれるとしている。ただし、広大な中国であるから、洋州と眉州は直線距離でも500kmほど離れている）
［訳文］
湖橋
夕暮れ時、
橋の朱い欄干と画を施した梁に湖水が照り映える。
その上を、白い衣に黒い帽子の古めかしい姿の君が行く。
橋の下には、無数の魚やら亀やらが集まってくる。
君が杖を鳴らし、履を引きずりがちに橋を過ぎる音をちゃんと知っているのだ。
［補足］（30首のオープニングで、湖橋より洋川を巡り始める）
竹塢
晩年に至って孤高を保つ人は、
歳の終わりの寒さの中で、
竹とだけ楽しみをともにする。
かつて名高い詩人がいたけれど、
その詩才は実は粗雑で笑うべきものだった。
竹の林を、十万の軍勢が剣を立てて並ぶありさまに譬えたのだから。
［補足］（詩題の「竹塢」は竹の生えた土手。原詩では文同のことを「晩節先生」と言い表している。文同は何度も触れているように、竹を友とし、ひたすら竹の画を描いた。粗雑な詩人と評されたのは杜牧で、「竹林外裏兮十万丈夫、甲刃摐摐密陣而環侍」（竹林は十万の兵士が刀を立てて陣を組んでいるようだ）という句がある）
望雲楼
陰ったり晴れたり、朝になったり夕べになったり、
楼台はそのたびに何度も新たになる。
人は楼台に立ち、その身を虚空にあずける。
虚空に出るときは無心、
虚空から帰るときも無心。
白雲を望んで好しと思い、
白雲もまたその人を好しと思う。
待月台
月は志の高い人とあらかじめ約束をしていたのだろう。
軒にかかり、低く戸にさしこみ、そしてその人の眉を照らす。
昨日は十分に満ちた姿があったので、
闇という海から氷輪が出てくるのが、
少しく遅くなった。
吏隠亭
人間の世界には憂患が縦横に満ちている。
ところが、おかしなことに晩節先生は日々呑気にしている。
昨日は、清らかな風の入りくる北の窓辺に眠り、
朝には、西の山からの爽やかな気配に包まれる。
［補足］（「吏隠」とは、本当の隠者になれないけれど、官職に就きながらも、精神の高潔さは変わらないということ。第4章26ページで見た「中隠」と同じである）
涵虚亭
水と花は美しさを競い合う。
秋の月は水をよしとし、春の風は花をよしとして、
それぞれに贔屓するところがある。
この亭は虚を涵すというからには、
亭のまわりには、実は水も花も何もないのだ。
何もなければ贔屓するところもない。
だから、涵虚亭より見るのは――
天の全てを尽くした一切欠けるところのない万景なのである。
谿光亭
湖の波が夕暮れとともに去り行くのは情がある。
渓流の輝きが日の出とともに軒に動き出すのはさらによい。
その光を画に描いたのはまだ見たことがないので、
貴君の詩をたよりに一つ写してみたいものだ。
過渓亭
身は軽く、穏やかに歩むと、帰るのを忘れる。
四本の柱だけの過渓亭の前に丸太の細い橋がある。
橋の先の俗界には出ないと貴君は決めていたのに、
友と話すうちに思わず橋を渡ってしまった。
二人で大笑いすれば、
水鳥は驚きのあまり、その緑の衣を落としてしまう。
菡萏亭
日ごとに床几を移して蓮の葉の下の風を追う。
いつまでも続く清らかな香りに思いは窮まるところがない。
どうかしてこの身を亀に変え、
蓮の葉の揺れる中で千年という歳月を過ごしたいものだ。
［補足］（「菡萏」とは蓮の花のこと）
篔簹谷
篔簹谷の竹は立派であるけれど、その値は蓬のように安い。
ここの筍は伐り取るのを禁じられている。
清貧を自称するここの実は大食らいの知事殿が、
いつも竹が胸中にあると言いつつも、
本当は自分だけが腹の内におさめようとしているに違いない。
野人盧
少年のころは鋤鍬の仕事に苦労したので、
山に囲まれた故郷の暮らしを嫌ったものだ。
老いてみると、
立派な建物での暮らしなどは意味がないとわかる。
だから、時には野人の住むところに行かずにはいられないのだ。
北園
漢水もあれば巴山もあって、洋川にはまだまだ楽しみが余りある。
私は、ひとたび手を振って故郷への帰途につくことを想う。
貴君に頼むのは、
北園の草や木にこのように尋ねてほしい――
「蘇君がこのあたりの主になっても構わないかい」
［補足］（これが連作の結び。洋川の楽しみを文同から引き継ごうというのである）
■寄題刁景純蔵春塢
［解題］潤州の大長老である刁約（字は景純）（第4章163ページなど）に送った詩。このとき刁約は82歳。
［補足］（刁約の家の近くに蔵春という名の塢があることは、第4章178ページで見ている。刁約は引退後にそこにたくさんの松を植えていたので、蘇軾は自分の植林技術を提供しようと詩に詠んでいた）
［訳文］
先生は白髪になっての後に郷里に帰り、
丘に一万本の松を植えた。
松が千尺の高さにまで成長し、
寒風に揺れ動く姿を見るのを先生は楽しみに待っている。
ということは、己の年齢などというものは、
造物者が万物をこねて作り出す工程の外に抛り投げてしまったのだろう。
春は、あたかも先生がつく杖の先から生まれ出るかのようで、
柳の枝は同じ長さに垂れ下がって小暗い蔭を作り、
桜桃の花はすっかり満開にとなって紅い色が滴り落ちる。
いつかは徐君を誘って先生のもとを訪ねたいものだ。
［補足］（詩の終わりは、原詩では「徐元直を誘って襄陽の龐徳公を訪う」となっている。「襄陽の龐徳公」は諸葛孔明も教えを受けたとされる有名な隠者。徐元直も龐徳公に教わったことのある賢者。刁約を龐徳公に、刁約と蘇軾の共通の友人で徐姓の誰かを徐元直に比べたのだろう。実際には刁約との再会は果たせなかったことは本章の終わりの方（351ページ）で見ることになる）
■雩泉記
［解題］常山の近くにある泉を、蘇軾は雩泉と名付け、そのことについてこの文章に記した。
［訳文］
常山は、密州の庁舎のある諸城県の南二十里にある。常山はさほど大きくもなければ高くもない。山から下に町を臨むと、町はちょうど山の真下にあって、垣根や楼観が一つ一つ数えられるほどにくっきりと見える。町から上に山を望むと、山はちょうど町の真上にあって、家で食べたり寝たりするときにも、外を出歩くときにも、この山がいつでも見えている。このようであるから、常山の神が町の人からの捧げものを得ているのはごく当然なことである。
密州は海に近くて風の吹くことが多く、水が長く川に留まらないので、いつも旱害に苦しめられる。しかし、この山に祈るならば、山の神は応えてくれないことはない。民衆はそれで常山の神を信じて頼りにしている。山の神がいつも民衆に対して徳があることから、この山を常山というのだろう。
熙寧八年は春も夏も日照りで、私はそのつど山の神に祈った。いつも響くように応じてくれた。そこで私は常山の神の廟を新しくした。その廟門の西南十五歩のところに泉があり、湧き出る水は車輪のようにぐるぐると回る。清涼な水は滑らかで甘く、冬も夏も変わることがない。泉から溢れ出た水は山の下へと達する。
私が思うに、この山がいつも民衆に対して徳があって、雲を出して雨を降らせ、民衆に信じられているのは、この泉があることによるのだろう。そうでありながら、泉には名がなく、農民は軽んじて、草や木が生えるがままになっている。
そこで、私は石を並べて泉を囲むことにした。その深さは七尺、幅はその三分の二である。そのほとりに亭を作り、泉を「雩泉」と名付けた。
古の人は「吁嗟」と言って雨を求めた。それで雨乞いの祭りを「雩」というのである。
いまの民は、求めて獲られないときに「吁嗟」と言ったり、痛みに呻吟して「吁嗟」といったりする。官職にある者で、そのような民衆の声をきちんと聞いて哀れみ、その求めるところに答えようとして、常山の雩泉のように、民に信じられて頼みとされている者がどれだけいるのだろう。私はこのことを神に愧るものである。
［補足］（この後に「吁嗟の詩」が続くが、内容はすでに記されたことと重なり、日本語に訳しずらい韻文であるので省略する）
■和潞公超然台次韻
［解題］超然台の詩を詠んでくれた人に文彦博がいた。その詩に和して返したもの。
［補足］（文彦博は蘇軾よりも31歳年長の大先輩で、富弼とともに宰相となって潞公に封じられた。文彦博は改革に反対して朝廷を去り、このときは北京大名府にいた。なお、宋はいざというときのために、首都の周りに首都に準じる機能を持った三つの都市を配置し、それと首都と合わせて四都体制をとっていた。首都を東京開封府、あとの三都を、北京大名府、西京河南府、南京応天府という）
［訳文］
潞公は富貴を嫌っているのにもかかわらず、
常に国家のための仕事に苦しみ続けなければならない。
潞公は実は古の仙人である赤松子と約束をしていて、
嶺にかかる白い雲を永遠に見続けることになっている。
潞公が談笑するだけで清らかな風が生じ、
天下の人々がそれに共鳴して声を合わせる。
その潞公が超然台の詩を吟じて、
雑草が生えたようになってしまっていた私の心を洗ってくださった。
私はもとはいかなる人間なのかというと、
鹿が無理に官員の装束をまとい、
身は微小であるのに、志だけは空しく大きい――
潞公との交わりは浅いにもかかわらず、しばしば深い言葉を寄せてくださる。
潞公がもしも了承してくださるのなら、
退職した暁には真っ先に潞公のもとに報告に参上したい。
ただ恐れるのは、
そのとき私には酒を買う銭が全くなくて、
潞公が財布を逆さにして振るわなければならなくなること。
［補足］（文彦博はこの時代として驚くべき長寿で、この先92歳までまだ20年間も政界で活躍する）
■聞喬太傅換左蔵知欽州以詩招飲
［解題］密州にきてからの友人に喬敍がいる（本章19ページなど）。その喬敍が武官から文官に移って欽州の知事を拝命したので、別れる前に飲もうとこの詩で誘った。
［補足］（何らかの事情で失意の内にあった喬敍を、来年にはきっとよいことがあると蘇軾は励ましていた。それが的中したのである）
［訳文］
果たせるかな、今年、もとの将軍は再びに起つことになった。
かねて夢に見て詩に詠んだのは、我ながら神業であったのだ。
貴君は、戦場で倒れて屍が馬の皮に包まれるようになったところで、
ごくささいなことと見なしていた。
そして、必ず大官になる相があると言われていた。
貴君は、あるときは、風土病の流行る土地で戦争の迫りくるなか、
羽根の扇を悠然と振って軍を指揮しようとしていた。
これから欽州に行く貴君と痛飲できる日々はあと幾日あるのか。
西の軒端にさす月の光がいよいよ冴えてきている――
さあ、その光に乗じてここにきてはくれまいか。
［補足］（いよいよ喬敍が発った日には、鵞鳥や鹿の肉を煮て見送った）
■寄黎眉州
［解題］故郷の眉州の知事を務める黎錞（字は希声）に送った詩。
［補足］（黎錞のために「眉州遠景楼の記」を書いたことは第1章33ページですでに見ている。黎錞は孔子が編んだ（とされる）歴史書である『春秋』を深く研究して欧陽脩に認められた。王安石は、『春秋』は官報の切れ端を集めたようなものでしかないと暴言（名言？）を吐き、そのことが詩の半ばに詠まれている）
［訳文］
ここの密州の高いところから、故郷はどこかと望むなら、
一片の千切れ雲へと夕日が落ちてい……
あたりであるのだろうか。
そちらでは、春が終わってもなお瓦屋山には堆く雪があり、
雨の後に空に、峨眉山の緑があたりを掃うようにして聳え立っていることだろう。
貴公はそちらで古の経典を研究して、『春秋』を笑う者を嗤っているが、
有望の士を好んだ欧陽脩のような賢者がいま天下にいないのを私は悲しく思う。
いつか私も陶淵明のように『帰去来の辞』を詠んで帰るであろうから、
貴公とともに詩と酒をもって残る歳月を送ろうではないか。
■和趙郎中捕蝗見寄次韻
［解題］趙庾（字は成伯）が蝗を捕えた詩を詠んだのに次韻した。趙庾は本章92ページなどに登場している。
［訳文］
麦は、穂が出てその長けは人の背ほどにもなり、
稲は、苗が伸びて牛が埋もれるほどにもなった。
このときに、天はどうしてか、蝗が発生するのを抑えてくださらなかった。
農事は一時もゆるがせにできず、
蝗は駆除せよと、法令にきちんと定めがある。
我が僕たちは手足が傷だらけになるまで、
我が馬は走りまわって疲れ切るまで、
蝗退治に努めたので、
ようやく飛翔する数は減ってきたけれど、
人も馬ももう力は完全に尽きてしまった。
かくて私はひたすら眠いだけであったのだが、
貴公からの百篇の詩を得てようやく目の覚める思いがした。
はじめは水がちょろちょろ流れるくらいの感じだったのが、
ついには大海を溢れさせるほどの勢いとなり、
貴公の詩をもっと読みたくて、
貴公のもとに人を十回走らせてもやめようとは思わない。
日頃から妄庸を軽んじている貴公であるから、
私のごとき詩は貴公にじっと見られては笑われてしまうしかない。
貴公のすぐれた詩の才能はすばらしいのに、
世間はとかく批判して詩を切り刻むことばかりする。
いま民衆は苦しみにあえいでいつ癒えるとも知れない。
官職にはそれぞれに役目があってそれを超えてよいものではない。
貴公は貴公の任務に励んで世事を口の端に載せることなく、
空に向かって「咄咄」と書くようするのがよいであろう。
［補足］（詩の終わりは晋の殷浩の故事による。殷浩は讒言によって左遷されたとき、口では何も言わずに、「咄咄怪事」（実におかしなことだ）と中空に書いて過ごした。この詩では、職務以外のことを言わない方がよいと趙庾に向かって忠告しているようだが、むしろ戒めるべきは蘇軾自身であったのかもしれない）
■薄薄酒二首
［解題］これは趙杲卿（字は明淑）に贈った民謡調の戯れの詩。次のような序文がある。2首のうち1首を訳す。趙杲卿は本章30ページにすでに登場している。
［訳文］
膠西の趙明叔先生は、家は貧しく、酒を飲むのを好む。酒は種類を選ばずに何でも飲む。いつも言うのは「薄い薄い酒でも湯や茶よりはまし。醜い醜い女でも妻がいないよりはまし」。その言葉は洗練されたものではないけれど、真理に近いところがある。それで先生のこの言葉を推奨して広めようと、東国風の楽府（民謡）を作ってみた。見る人が一発笑ってもらえたらと思うだけである。
其の一
薄い薄い酒も湯や茶に勝り、
粗い粗い布も衣がないのに勝り、
醜い妻も醜い妾も空房に勝る。
朝廷の高官に昇ったところで、
寒い冬の早朝に霜を踏んで皇帝のもとに伺候するのは、
何の用事もなくて、夏の日中も、涼しい北向きの窓の下で昼寝をしていられるのには及ばない。
皇帝になったところで、
飾り立てた万人の列に送られて御陵に埋葬されるのは、
つぎはぎの衣を着ていても、独り呑気に朝日を背に受けて座っているのには及ばない。
生前の富貴よりも死後の文章というけれど、
百年は一瞬、万世も慌ただしく過ぎるだけ。
大賢人も大盗賊も己の本性を捻じ曲げたら同じこと。
とりあえず酔っ払って、
是非も憂楽も皆忘れてしまうのが一番なのだ。
■同年王中甫挽詞
［解題］嘉祐6（1061）年に一緒に制科に合格した王介（字は中甫）が亡くなり、それを悼む詩を詠んだ。
［補足］（蘇軾が特別試験の制科に合格したことは第2章の冒頭で見ている）
［訳文］
仁宗皇帝は一代の間に、制科の合格者を自ら十五人選んだ。
その十五人が、三千里の高さへと飛び上がる鵬鵾のような活躍をするのを、
天下の人々は眼を凝らして見つめていた。
王介君が取り組んだことは、国家の事業としてまことに用いるべき価値があった。
私ごときはぐずぐずと衰えるばかりで、言うべき価値がない。
十五人が出たり退いたり、あるいは昇りあるいは降りること幾十年を経て、
生きるのも死ぬのも一緒にと約束した仲間も、
いまでは一体何人が残っているのか。
いつしか都に行って王介君が活躍した跡を尋ねたならば、
いま都の人々が流している涙の痕がきっとそこらの草にも残っていることだろう。
［補足］（仁宗皇帝は在位期間は41年に及んだが、その間の制科の合格者はわずかに15人。蘇軾自身の注によると、この詩を詠んだ時点で存命だったのは、富弼、張方平、銭藻、蘇軾、蘇轍の5人だった。富弼は蘇軾が8歳のときに憧れた4人の1人、張方平は蘇父子にとっての恩人、銭藻については第3章73ページで送別の詩を詠んでいる）
■七月五日二首
［解題］趙庾（字は成伯）とともに超然台に上り、趙庾が詠んだ詩に和したもの。2首のうち1首を訳す。
［補足］（趙庾は先の詩（本章116ページ）でも見たように、（蘇軾と同様）言葉が過ぎることがあったらしく、ここでは訳出しなかった別の詩でも、座中でうっかりしたことを言わないようにと蘇軾は諭している）
［訳文］
其の一
謗りを避けて詩は詠まない、
病を畏れて酒は飲まない、
このように決めて、北向きの窓の下で寂しくしていて、
この夏の長い一日を、誰が一緒に過ごしてくれるのだろうか。
今年はやたらに暑く、草や木は煮て焦がしたような臭いがきつい。
私は早々と衰えてしまった人間で、
気力は糸のように細く、やっとのことで暮らしている。
秋がきてくれたら佳い心持ちになりもするだろうか。
稲にもそろそろ露が宿すであろうから、
「稲が収穫されるのを見るだけで、
新酒の汁が滴り落ちる心地がする」
と、杜甫が詠んだのに和して、
静かに詩を吟じてみるのもよかろうか。
［補足］（詩は詠まない、酒は飲まないという誓い（暗に趙庾にもそれを勧めている）は守れないというのがこの詩の結論であろうか）
■趙郎中見和戯復答之
［解題］趙庾が前に詩に和したので、それにまた答えた。
［訳文］
趙君が詩を吟じるのは、水を撒くかのようで、
ひとたび手を揮うなら三百六十の文字が飛び出てくる。
私に習って詩をやめようとするのは、
絶世の美人の西施が人ごみに紛れこもうとするようなもので、
はなから無理なのだ。
趙君が酒を飲むのは、灰に水を注ぐようなもので、
いくらでも吸い込んでしまい、
一日に三百杯、一年で十万八千杯。
早いうちに趙君を止めなかったら、
東の海も呑みつくして、海底の赤い土があらわになってしまうであろう。
私は衰えて、政事に関わっての誤りが多い。
趙君がきびきびとして秋の鶚のようであるのが羨ましい。
これからは、趙君は『老子』を愛読書として毎日飲んで暮らすのでよろしかろう。
仕事の方は、私が趙君の秘書として右から左に署名の代筆をして進ぜようから。
［補足］（趙庾は本当に酒が好きだったようで、趙庾の家で開かれた酒宴に招かれて詠んだ詩もある。その酒宴で楊姐さんという歌妓が芸を披露し、同じ蜀の人であることから、楊姐さんを楊貴妃（やはり蜀の人）に譬えた詩を贈っている）
■和晁同年九日見寄
［解題］杭州にいる晁端彦（字は美叔）（本章60ページなど）から9月9日の重陽の節句の詩が送られてきて、それに和した。
［訳文］
天を貫き刺すようにして渡り鳥が飛んで行く。
仰ぎ見る私は、
老いてもはや富貴も功名も思わない、
病んだ馬には千里を走る志さえない。
いつの世も、詩を詠む人は、秋がまたやってきたのを悲しむ。
古来、九月九日はそのような日である。
私は西湖と別れてから、
その風光は誰に託したらよいのかと思っていた。
貴君を、愁いを窮めさせる境遇に置いたのは、
きっと天の意志なのだろう。
なぜなら、杭州の山水は、
君によって優れた詩に詠まれることを待っていたのだから。
［補足］（この詩の終わりは「困窮して後に人は詩に巧みになる」という欧陽脩の言葉（第4章181ページなど）を踏まえている）
■水調歌頭
［解題］「丙辰の歳の中秋に、朝まで大いに飲んで大いに酔い、これを作り、兼ねて弟を思った」と添え書きがある。丙辰とはこの年である。
［訳文］
明月幾時有、（明月はいつからあるのでしょうか）
把酒問青天。（酒を手に、青い天に問います）
不知天上宮闕、（私にわからないのは、天の上の宮殿では）
今夕是何年。（この夕べはいつの年であるのでしょうか）
我欲乗風帰去、（私は風に乗って天の上に帰り行こうとし）
又恐瓊楼玉宇、（でも恐れるのは、天の上の玉の宮殿は）
高処不勝寒。（高くて寒さに耐えられないのではと）
起舞弄清影、（立って月の光とともに舞うなら）
何似在人間。（ここも人間世界ではなくなるのです）
転朱閣、（月の光は朱い楼閣の上を転がり）
低綺戸、（美しい戸口から低くさしこんで）
照無眠、（眠れずにいる人を照らします）
不応有恨、（月の光に恨みがあるはずがないのに）
何事長向別時円。（どうしていつも別れているときに限って円いのでしょうか）
人有悲歓離合、（人には、悲しみと歓び、別れと合うとがあります）
月有陰晴円欠、（月には、陰りと晴れ、円いと欠けるとがあります）
此事古難全。（これらのことがぴったり一致するのは古から難しいのです）
但願人長久、（ただ願うのは、君よ長く久しくあれ）
千里共嬋娟。（千里離れていても、同じ月の光もとで）
［補足］（前半は中秋の宴に同席した同僚に示したもの、後半は弟への想いを歌ったもの。これは蘇軾の詞の中でも最も優れたものの一つとされる）
■蓋公堂記
［解題］密州の黄堂（州庁の中の最も立派な建物である正堂）の北側に奥の間を作って蓋公堂と名付け、この文章を書いた。
［訳文］
私が郷里にいたときのこと。
寒気がして咳の出る者が医者に尋ねると、これは腹に悪い虫がいるせいで、治療しないと虫に殺されてしまうと言われた。それで、百金を費やして治療することにし、虫下しの薬を飲んだ。薬が腎や腸を攻め伐ること、体の皮膚を焼くかのようであって、かつ旨いものを飲み食いすることが禁じられた。ひと月ほどすると、いろいろな症状が出てきて、体の内側は熱く、悪寒がし、咳がやまなかった。まことに毒虫にやられてしまったようだった。
それで、別の医者を求めたところ、その医者は熱を下げるための薬を処方した。薬を飲んだところ、朝には吐き、夜には下し、ついにはまったく食べることができなくなってしまった。
怖くなってその薬をやめ、鐘乳やら烏喙やらあれやこれや試したところ、瘭・疽・癰・疥・眩・瞀といった症状で出ないものはなかった。三度医者を替えて、ますます病気がひどくなったのである。
村の老人が病人に言った。
「これは医者が悪い。薬が間違っていたのだ。君には、そもそも疾いがあったのだろうか。人の生命というものは、気が主人公であって、食がそれを助ける。君はずっと薬ばかりを飲んで、他のものを口にしなかった。薬の臭いが体の外にまで乱れ出るありさまだ。君の体の中で、百の毒が戦い合ったために、主人公である気をすっかり疲れさせてしまったのだ。その上、助けとなるべき食べ物も隔ててしまった。それがまさしく病なのだ。君はこれからはただ静養して、医者を断り、薬をやめて、好きなものを食べればよい。気が完全になること、うまいものを食べること、これが最良の薬だ。きっと効果があるだろう」
これに従うと、ひと月で病は良くなった。
昔の国を治めることもこれと同様であった。秦の孝公から始皇帝までの時代を見ると、新たな法を作り、制度を改め、民衆を酷使して処罰することを徹底的に行った。秦が亡んで漢の世になると、宰相の蕭何や曹參は秦が民衆を虐げた禍を実際に見ていたので、戦乱の後に生き残った民に対して何かをさせようとしてもただ嫌われるばかりであるのを承知していて、何はともあれ休息を与えることにした。それによって天下は安定した。
曹參は宰相になる前に斉の地を治めたのだが、そのときに長老や諸先生を集め、民衆を安定して住わせる方法を尋ねた。斉の地の儒者が何百人もきてそれぞれに異なることを言ったので、曹參はどうしたらよいのか決められなかった。そのとき、蓋公という者がいて、黄帝や老子の教えをよく知っているということを聞き、人を使わして教えを請うた。蓋公は、「治道は清浄を貴び、民は自ずから安定する」ということを言い、それを根本命題そして、そこからさまざまなことを引き出して述べた。曹參は、自分は正堂の外に出て蓋公を招き入れ、その言葉を用いたところ、斉は大いに治まった。その後、斉を治めたのと同じようにして天下を治めたのである。天下の人々は今に至るも曹參は賢者であったと称えている。
私は密州の知事となり、蓋公がこの邦の人であると知ったので、その墳墓を探し、子孫を求めた。しかし得るところがなく、残念に思った。蓋公の言葉から、その人となりを想像し、ぜひとも蓋公のような人に会いたいと思った。
私は州庁の正堂の北側に奥の間を新たに作り、ごたごたしたものを整理し、障壁となるものを除いて、州庁の全ての門をからりと開くと、町の南から北まで、一本の縄を引いたように見通せるようにして、これを蓋公堂と名付けた。時々賓客や役人仲間を連れてそこらぶらぶらとし、私はそこに住まうことなく、蓋公のような人がきてくれるのを待った。
曹參は漢朝一代の名臣で、蓋公はその師であった。二人が並ぶ姿は壮観であったろう。しかし、史書には蓋公がどこで終焉を迎えたのか記されていない。古の至人で道を得た者は死ないということであったりするのだろうか。密州の東は海で、南に九仙山があり、北に牢山がある。その三方には昔から隠れた君子が多いという。そのように聞いてはいても、隠れた君子は実際には見ることができない。もしも見られたとしても招き入れることはできないであろう。
蓋公は民衆にまじってそのあたりを行き来しているのだろうか。どうかして会えたりしないだろうか。
［補足］（この文章が進行中の改革を批判しているのは明らかであろう）
■李氏山房蔵書記
［解題］廬山にある白石庵の僧舎には李常（字は公択）の蔵書900巻余りが納められ、学問を志す人に供覧されていた。そのことについて記した文章。なおこの廬山は、本章37ページで見た密州の廬山ではなく、本家本元の方の山。李常は第4章194ページに登場している。
［訳文］
象の牙、犀の角、珠玉といった怪しくも珍しい物は、人の耳目を悦ばせはしても、実際の用には適してはいない。金属や石、草や木、絹糸や麻糸、五穀等々は実際の用に適しているけれど、これらは使えば古びるし、これらを費やせば尽きてしまう。
人の耳目を悦ばせ、実際の用に適して、これを使っても古びないし、これを費やしても尽きないし、賢い人もそうでない人もおのおのその才能に従って得るところがあり、賢い人もそうでない人もおのおのその身の程に従って仁や智について教えられることがあって、才能や身の程が違っていても求めさえすれば必ず獲られるものがあるのは、ただ書物だけであろうか。
孔子や古の聖人も、その学問は必ず書物を読むことから始めた。しかし、そのころにたくさんの書物を持っていたのは老聃（老子）だけで、晋国の韓宣子は魯国に行って初めて『易象』や『魯春秋』を見ることができた。呉国の季札は北方の国々を親善訪問して初めて『詩経』の風、雅、頌を聞くことができた。楚国で『三墳』『五典』『八索』『九丘』といった書物を読んでいたのは倚相だけだった。この時代に生まれた人で『六経』を見ることができたのはわずかしかおらず、学問をするのは実に難しいことであった。そうでありながら、その当時の人々が礼楽に習熟し、道徳を深く身に具えていたことは、後世の君子のとても及ぶところではない。
秦や漢の時代以降は、書物を作る人がますます多くなり、紙も筆記の道具もますます簡便となって、書物がますます増え、書物を持たない人はいなくなった。ところが、学問をする者がますます粗略になったのはどうしてなのだろうか。
かつて私は老成した儒学の先生方に会うことができた。先生方が言われるには、「若い頃に『史記』や『漢書』を読みたいと思っても書物がなかった。幸いにも書物があれば、皆自分の手で書き写し、日夜、声に出してそれを読み、理解が十分ではないのをただただ恐れた」。
近年は、商人が書物をさかんに刷って、諸子百家の書物が何万という紙によって日々世に広められている。学問をする者にとって、書物はこれほどまでにたくさんあり、かつ手に入れやすくなったのである。ならば、書く文章にしても学術の水準にしても昔の人の何倍も立派になってしかるべきであるのに、いまの人たちは書物を手にしてもきちんと読まないで、根拠のないことを適当におしゃべりしているだけである。これはまたどうしてなのだろうか。
私の友人の李常は、若い頃に廬山の五老峰の下の白石庵の僧舎で書物を読んだ。李常がそこを去ってからも、廬山の人々はそのことを思って、その僧舎を指して「李氏山房」と呼ぶようになった。蔵書はおよそ九千巻余り。李常は九千巻の書物からなる学問の大河を渉ってその源を探り、そこにある華と実を採り、その深い味わいを咀嚼し、それらを自身の内に納め、文章として外に出し、また実践してみせたので、現在の世にその名が知られるようになった。そうしたことがあっても、書物はもとよりそのままであって、少しも減ったりするところがない。来る者があれば与え、無窮の求めにも無尽蔵に応え、その才能と身の程に従って得ようとするものを十分に満たしてくれる。
李常はこのような書物を家に内にしまっておくのではなく、もといた僧舎において人々の目に供している。それは仁者の心というべきである。
私はすでに衰え、かつ病んでしまって、世に用いられるところがない。これからは暇な時間を得て、まだ読んでいない書物をことごとく見てみたいと思っている。しかも、廬山はもとより遊んでみたいと願うところであってまだ行けていないのだから、まさに廬山の五老峰に退隠して、李常の蔵書を開いて見るべきなのである。もしかして、李常が拾い損なったものも得て我が身を補うような結構なことがあればと思うものである。
私は記念の文を書くよう李常に求められた。そこでこの文章を書き、この山房に来る者に次のことを知ってもらいたいと思う。昔の君子は書物を見るのが難しかったこと、そして、いまの学問をする者は書物がありながら読まずにいるのは惜しむべきであること。
［補足］（前の文章や本章87ページで見た「塩官の大悲閣の記」を合わせて見ることで、蘇軾の学問観を窺い知ることができるであろう。科挙の改革案に対して「経典のおよその大義を理解すれば十分であるとの意見が出てくるのでありますが、それは実に粗雑な考えです」と批判していた（第3章38ページ）のと通じるのであろう）
■次韻周邠寄雁蕩山図二首
［解題］杭州で親しくした周邠（字は開祖）（第4章123ページなど）から、雁蕩山を描いた画とともに詩が送られてきたので、それに答えた。2首のうち1首を訳す。雁蕩山は杭州より南の温州楽清県にあり、海に臨んで聳える天下の奇秀とされる。
［訳文］
其の二
西湖での三年間は貴君と一緒だった。
いまの私は、塵の中の馬、籠の中の鶴。
雁蕩山の画に入り――
私は、東の海のほとり、
海のそのまた向こうから日が昇るのを見る、
山の中にある石の橋を渡り、
そのまた向こうの長い虹を踏む――
いまは遥かに思いを寄せるだけ。
別れて以来、貴君にも白髪が増えたであろう、
ときには酒樽の前で、この病気の翁のことを話したりしているだろうか。
残念なのは、貴君が蜀の山々を知らないこと。
いつか手を携えて、蜀の山に分け入り、
竹筒に入れた酒を飲もうではないか。
■送碧香酒与趙明叔教授
［解題］趙杲卿（字は明淑）（本章117ページに登場）に碧香酒を贈ったのに添えた詩。碧香酒の由来は詩の中にある。
［訳文］
聞くに、貴君の奥方は賢くて廉で、
素足でもって自ら安酒を買いに行かれるし、
貴君に向かって、
「決して大臣などにはなってくださるな」
と言っておられるとか。
貴君も、陛下の御前で珍しい料理を賜ることを羨ましく思ったりなどしない。
私が感心するのは、
貴君がいよいよ風変わりであるのを少しも恥じたりしないこと、
その上、貴君が吟じるのは、
「妻は醜くてもよろしい、
他人が夫を嘲り謗るのを憎んでくれるならば」
冬の暖かい日にも、貴君の家では、
「寒い、寒い」
と叫んでいるとか、
それは布団がないからだ。
世間の人はそういうことを聞くと失笑する。
そこで私は、布団の代わりといっては何だが、酒を贈ろうと思う。
これは先帝の婿殿の家から届けられた碧香酒というもので、
ヨーグルトのように濃厚である。
私は、ひたすら飲むことをだけを求めたかの有名な大酒呑みとは異なり、
碧香酒を独り占めする気はないので、
貴君の家を和やかにする助けとしてひと壺を贈らせていただく。
［補足］（先帝の婿とは王詵で、王詵については本章154ページで改めて触れる。「かの有名は大酒呑み」とは本章55ページにあった劉伶。この詩に和して趙杲卿が答え、それに蘇軾が答え、さらに趙杲卿が蝗退治の仕事で1カ月ほど外に出てから帰ってくると、酒をまたひと壺贈って慰労し、同じ韻で詩を詠んで添えたりしている）
■雪夜独宿柏仙庵
［解題］11月の雪の夜に、密州の柏仙庵に泊まった詩。
［訳文］
しとしとと降り続いていた晩からの雨は、
いつしかみぞれとなった。
ゆるゆると小さな庵で眠るのはなかなかに風情がある。
ふっと夢から覚めると、窓辺に雪が打ち付けている。
雪の夜は更け行くにつれて静かになり、竹のそよぐ音だけが聞こえる。
この冬も暖かさがようやく衰えて、天候がぴしっとひきしまったようだ。
それでも、この程度の雪では、
秋からの日照りを潤すにはまだ足りなくて、
田畑を耕すのはなお先のことであろうか。
天がどのような意向であるのか読み取るのはまことに難しい。
かくして、翌朝には、春爛漫のような晴天になった。
■和孔郎中荊林馬上見寄
［解題］蘇軾は密州にきてまだ2年であったが、この月に詔が下り、河中府の知事として移動することなった。後任の孔宗翰（字は周翰）が密州に向かってくる途中で詩を詠んで送ってきたので、それに答えた。
［訳文］
密州のあたりでは、
今年の稲は眼の髙さにも成長しなかった上に、
来年のための麦の種はわずかしかない。
私は知事として、
この邦の人たちが苦労ばかりしていて、
肌には草の棘がいつも刺さっているのを恥ずかしく思う。
普段から五千巻の書物を読んだと胸を張っていながら、
その一文字も民衆の飢えを救うのに役立たせることができなかった。
民衆は肌着すらないことを怨み、
賢人の訪れを切望している。
孔子二十世の孫は漢代の孔融；その堂々の気風は周囲を圧倒した。
孔子四十七世の孫の貴君；いまこちらにこられることになった。
貴君が密州の郊外にまだ至らぬうちから、
清らかな風がそちらより吹いてきている。
困苦するこの地の十万の民を、
貴公のような君子を煩わせて託すことになった。
この私は、滔滔と流れる大河に押されて、はたしてこれからどこに行くのだろうか。
いつか蜀への帰路をとって、
春の山に子規を聞くことがあるのだろうか。
■江城子
［解題］密州を離れることが決まってから超然台に上ってこの詞を詠んだ。
［訳文］
前瞻馬耳九仙山、（前に見るのは馬耳山と九仙山）
碧連天、（天に連なる碧）
晩雲間。（暮れゆく雲の間）
城上高台真箇是超然。（町のこの高台はまさしく「超然」）
莫使匆匆雲雨散、（雲も雨もすぐに消えてなくなってくれましょう）
今夜裏、（今夜は）
月嬋娟。（美しい月）
小渓鷗鷺静聯拳、（小さな川で静かに身を丸めている鴎や鷺）
去翩翩、（去り行く一羽二羽）
点軽烟。（淡い雲の彼方に点となります）
人事凄涼回首便他年。（人間界のことは寂しくも、首を巡らす間にもう前の年に）
莫忘使君歌笑処、（忘れないでください、知事が歌ったり笑ったりしたところ）
垂柳下、（柳の垂れる下）
矮槐前。（低い槐の前）
■河満子
［解題］馮京（字は当世）に寄せた詞。
［補足］（馮京は蘇軾の15年先輩。慶暦8（1048）年、馮京は28歳のときに蜀の鄂州で科挙の一次試験を受けて首席で合格し、翌年に都で行われた二次試験も三次試験もすべて首席で合格した。世に稀なこととして馮三元と称賛された（科挙を首席で合格した人を「状元」という）。富弼の娘を娶り、政界で活躍し、副宰相にまで昇った。王安石の改革には批判的で、改革の問題点を鋭く衝く蘇軾を朝廷の重要な職に推したこともあった（成功しなかった）。飢饉のために王安石が宰相を降りると（本章16ページ）、次の宰相候補として馮京の名が上がったものの、呂恵卿によって阻まれ、都に外に出た。この年の3月に蜀の茂州で少数民族が反乱を起こすと、馮京は郷里の危難を救うのは自分であるとして、朝廷に願い出て成都に赴き、10月までに治安を回復させた。そのことを聞いて、蘇軾はこの詞を作った。冒頭の12文字は、蜀の山と川の名を挙げて反乱の顛末をイメージ的に歌っている）
［訳文］
見説岷峨凄愴、（見られましたのは、岷山と峨眉山の惨憺たるありさま）
旋聞江漢澄清。（しかし、すぐに聞かれましたのは、長江と漢水は清らかに澄んだとのこと）
但覚秋来帰夢好、（これでわかりました、秋に見るべきは故郷に帰る夢）
西南自有長城。（蜀には長城というべき貴公がおられるのですもの）
東府三人最少、（都においてかつて貴公は三人の副宰相で最年少）
西山八国初平。（西に行かれてはさらりと八カ国を平定されたのです）
莫負花渓縦賞、（必ず存分に愛でていただきたいのは浣花渓）
何妨薬市微行。（庶民に雑じって遊んでください成都の薬市）
試問当壚人在否、（試しに聞いてみてください、いまもいるのかかの酒売り娘）
空教是処聞名。（たぶんあやふやな名を聞くだけとなるでしょうか）
唱著子淵新曲、（でもきっとあるはずです、漢の王褒のような埋もれた才人の新曲）
応須分外含情。（貴公がそれを唱えれば格別の情がありましょう）
［補足］（詞の後半では、成都の名所や行事を楽しんだ上で、蜀の地に埋もれている才人を見出してほしいと言っている。父の蘇洵は、まさに馮京と同じように混乱を収拾しにきた張方平によって見出されたのであった（第1章62ページ））
■留別雩泉
［解題］12月上旬に孔宗翰が密州に到着し、代わって蘇軾は新たな任地に向かった。雩泉（本章111ページ）で開かれた送別の宴での詩。
［訳文］
酒を挙げて雩泉に捧げる。
王維は送別の詩に、
「旅人となって、黄金は尽きはて、
家に還って、白髪が新たになっただけ」
と歌ったが、
雩泉に映る我が姿はまさにそれだ。
泉の水の中にある空、
それがこの私をまた照らすことがあるだろうか。
二年の間、雩泉の水を飲み、雩泉の魚や鳥と親しくした。
もう一度、雩泉の水を掬う。
その手をまわして、傾く日を遮る。
これから私は西に向かって行くのだ。
［補足］（新たな任地として命じられた河中府は遠く西方にある。唐の時代に杜牧は、長安に向かったとき、「手で西日を遮りつつ進んで行く」と詩に詠んだ。蘇軾は王維と杜牧の2人の詩を踏まえて、即興でこの詩を詠んだのである）
■別東武流杯
［解題］川のほとりの流杯という場所で別れの詩を詠んだ。
［訳文］
笑ってしまうのは、
官僚の住まいなんぞは宿場の旅館のようなもの。
人の世に生きるのは浮き雲に等しい。
百年の後になれば、
いかなる老人だって知りはしない、
いまこのときに知事だった者がここに立っていたことなどは。
ただあの二本の松だけは覚えていてくれるだろうか。
■董儲郎中嘗知眉州与先人遊過安丘訪其故居見其子希甫留詩屋壁
［解題］蘇軾は諸城県を発つと、北に進んで120里の安丘で、董儲がかつて住んでいた家を訪ねた。詩題は「董儲はかつて眉州の知事となり、父の蘇洵と交流があった。私は安丘を通過した際に董儲の故居を訪れ、子の董希甫と会い、壁に詩を書いた」。
［補足］（この詩にはたくさんの故事が詠み込まれているので、若干の説明を補って訳す）
［訳文］
白髪に至っても、皇帝に知られることなく、
大きな役目が与えられなかった――
董知事の不遇は、漢代の顔駟に似ていようか。
顔駟が若かったときの皇帝は文を好み、顔駟は武を好んだだめに、用いられなかった。
顔駟が壮年になったときの皇帝は美顔を好み、顔駟の顔は醜かったので、やはり用いられなかった。
顔駟が老いてから後の皇帝は若者を好んだので、またしても用いられなかった。
しかし、顔駟はついには報いられた。
人々はいまに至っても、董知事の文章は最も優れていたと記憶している。
魏の曹操は、たまたま橋玄の墓の近くを通ったときに、
自ら祭文を作って墓に捧げ、
今後ここにきたときには必ず二羽の鶏をもって祭ると誓った。
漢の武帝は董仲舒の墓の横を通るときには必ず馬から下った。
この二つの故事には及ばないものの、
私は所縁ある人を忘れまいと、董知事の墓に詣でたのだった。
楚の宰相であった孫叔敖が亡くなると、
その子は貧窮の余り薪を背負って売って歩かなければならなかった。
晋の向秀は若い頃に都で著名人との交流があったが、
その当時の人たちは政敵によって皆都を追われてしまい、
向秀は西に旅する途中で、かつての著名人の旧宅を過り、
たまたま隣人が吹く笛の音に昔を思って泣いた。
董知事の子は、この冬のさなかに、薪を背負って売って歩かなければならないような境遇は免れているとはいえ、
私は隣人が吹く笛の音に心を砕かれて耐えることができない。
君主のために命をも捧げる活躍をしたいと、君は思っているだろうけれど、
敢えてそのことを言うのはやめよう。
私は董知事の墓に涙を注ぎつつ、
西南の空に浮かぶ白雲を見つめるのである。
［補足］（西南の白雲とは、都の上の雲のであろう。都の人たちが董儲のことを思い出して、子の董希甫に活躍の場を与えてくれまいかと願ったのである）
■跋董儲書
［解題］上の詩に詠まれた董儲が遺した書に記した跋文が二つある。書いた時期は明らかではないが、二つを合体してここに訳す。
［訳文］
董儲は密州安丘の人で、詩の名手として宝元、慶暦のころに知られた。書も極めて巧みだったが、人に知られることがなかった。その書を見ると、かつて一世を風靡した李建中よりも勝れている。近年でも董儲の書に比肩するものはなかなか見ない。ところが、人々はそのようには思っていない。私は書を善くする者ではない。ところが、世の中の人は私の書を良いという。このことから、どれが良くてどれがそうではないのか、どうやら一つには決まらないと私は知ったのである。