第5章 嵐の訪れ――密州、徐州、湖州
［第5章その二］
熙寧8（1075）年、蘇軾40歳。
■送段屯田分得于字
［解題］題を見ると段繹を見送る詩なのだが、内容は送別と関係しない。ここに登場する趙昶（諸城県の知事）、趙杲卿（密州の学校の教授）も、段繹や喬敍と同じく密州にきてから親しくなった友人である。
［訳文］
貴公（段繹）は農業を興す仕事を授かっているのだから、
古代なら大夫に相当する地位だ。
国家の仕事は決してないがしろにはできないと、
衣服が泥まみれになるのも厭わずに走り回り、
はなはだ身を疲れさせている。
喬（敍）さんは鬚を恐ろしげに長く二つに伸ばし、
趙（昶）さんは天をも走る馬のように格好がよろしく、
趙（杲卿）さんは世間ずれしない学者然としている。
この四人が野外で呑む楽しさは、町の中にはないものである。
四人は自分自身で酒の壺を携えて川辺を歩く。
昔むかしある知事さんが春を楽しもうと、
客人を舟に乗せて、それを村人に曳かせようとしたところ、
ある賢者が笏を取り出して水をかき、
自分たちの遊びのために農民の仕事を妨げてはならないと、戒めた。
そのようなことは、四人はもとより最初からわかっているのだ。
この私は、病みかつ老い、その上、迂闊な知事であるので、
がらんとした部屋で書物を読んで憂いを紛らせようとしている。
昔むかしある人は四十歳までには国家の重鎮になるぞと心に期したものの、
三十六歳でなお遠くかけ離れた地位にあったので、
「我がつむりがどの程度であるのか私は知らないものではない、
もう郷里に帰るべきなのだ」
と言った。
私はすでに四十歳――
人様に妙な具合に評判されるのを恐れて、
ぐずぐずしているのは実に愚かしいのではないだろうか。
［補足］（蘇軾は詩詞の中でしばしば官職から退くことを歌っている。さしあたって具体的にその計画があるわけではないので、詩詞の味わいをよくする調味料〈退隠ソース〉をかけて一丁あがりというようなものではなかろうかとの疑いも生じるだろう。恐らく、海州の陳知事にはそのようなところがあったので、蘇軾はややたしなめるような詩を詠んだのだ（本章5ページ）。蘇軾は、国家と民衆に対して重い責任のある知事になって、国や民衆のためにと真剣に考えて行動すれば、いままで以上に厳しい葛藤のもとに置かれ、心身を消耗し（この詩の冒頭は蘇軾自身のことを歌っているかのようでもある）、精神の安定を取り戻すには、心の内に退隠のイメージをいつも宿しておく必要があったのではなかろうか）
■莫笑銀杯小答喬太博
［解題］改革に伴ってしばしば公費削減の指令が下り、そのことに関連して喬敍に向かって戯れの詩を作った。
［訳文］
陶淵明は小さな町の県令だったとき、
お上から賜った公田は二頃五十畝の広さ、
その全てに酒を作るための秫を植え、
食べるための秔は植えなかった。
それによって、独り飲んで独り醒めるには十分な酒が得られた。
私はいま知事としていわゆる二千石の年俸で、
その中から年ごとに百石を費やして酒を醸すのでは、
客人を十分に酔わせることなどできるものではない。
銀の杯が小さいのも、どうか笑わないでほしい。
海辺の地域はこのところ日照りで窮迫し、もはや酒どころではない。
陶淵明ならさっさと衣をはらって郷里に帰ってしまうだろう。
そこで私は空想する――
河の神様に手紙を書いてお金を拝借し、
一万斛を積載する船を酒でいっぱいにして、
郷里に向かいつつ貴公と楽しく飲み続けようではないか。
［補足］（漢の時代に郡の太守（長官）の年俸が二千石であったことから、「二千石」は地方の広域行政区の長官の代名詞となった。それで、蘇軾は自分の年俸は「二千石」であると歌ったが、宋代の州の知事は漢代の郡の太守に比べたら収入はずっと少なく、行政者として自由に裁量できる範囲はかなり限定されていた）
■蝶恋花
［解題］この詞には「密州の上元」という注記がある。つまり1月15日の上元の日に作った詞である。
［補足］（上元の夜に多数の灯篭を飾り、それを見物して歩くということは第4章90ページなどで見ている。この詞は前半で杭州の上元を回顧し、後半で現在の心情を歌っている）
［訳文］
燈火銭塘三五夜。（杭州の灯篭、十五夜の月）
明月如霜、（霜のような、明るい月の光）
照見人如画。（画のような、灯篭に照らされた人々）
帳底吹笙香吐麝、（帳の内で吹かれる笙、流れ出る麝香のかおり）
此般風味応無価。（これらの風味は価を付けられるものではありません）
寂莫山城人老也。（山に囲まれた寂しい町で老いてゆく人）
撃鼓吹簫、（撃たれる太鼓、吹かれる簫）
乍入農桑社。（始まったのは豊作を祈る村の神様の祭り）
火冷燈希霜露下、（火が消えかかって、灯篭にうっすら降り下る霜）
昏昏雪意雲垂野。（雪を含んだ雲が暗く暗く野に垂れこめます）
■江神子
［解題］この詞には「正月二十日、夢を記す」と注記がある。前の詞から5日後に作った詞。
［訳文］
十年生死両茫茫。（生きる者も死する者も遥かに遠くなった十年の歳月）
不思量。（ぼんやりとするばかり）
自難忘。（忘れられもしない）
千里孤墳。（千里の彼方にぽつねんとある墓）
無処話凄涼。（どのように話したらよいのかこのもの悲しさ）
縦使相逢応不識、（たとえ君に会えたとしても、「えっ、あなたは誰なの」）
塵満面、（僕の顔に満ちるのは人生の塵）
鬢如霜。（鬢はすでに真白なのです）
夜来幽夢忽還郷。（夕べ僕は故郷に帰っていた、あれは夢）
小軒窓。（小さな部屋の窓辺）
正梳妝。（君は化粧の最中）
相顧無言、（振り返って、ただ無言）
惟有涙千行。（ぽろぽろと落した無数の涙）
料得年年腸断、（これからはきっと毎年、心を痛めるのは）
明月夜、（昨夜と同じように明るい月の下）
短松岡。（まだ松が短いかの丘で）
［補足］（夢に見たのは10年前に亡くなった妻の王弗。父と妻を葬った墓地に自ら松を植えたことは第3章77ページで見た。王弗について初めて歌ったのがこの詞。密州に着任し、年末から体調不良が続き、いまここに王弗がいてくれたらと思うことがあって、それが夢につながり、そしてそのことを詞として書き残しておこうということになったのだろう）
■出城送客不及歩至渓上二首
［解題］他所からきた人が町を去り、何かの都合で別れを告げることができなかった。その後を追ったが、その人に会えないまま渓流のほとりに至って詠んだ詩。
［訳文］
其の一
客人を送ろうと出たけれど、客人はすでに行ってしまった。
ならばと、花を尋ねようとしても、花はまだ開いていない。
町に帰る気になれずに水辺へときて、
ぶらぶら歩いていると、
土地の老人が声をかけてきた。
「州知事様はいまどこにおられましょうかなぁ。
今年は天候がなかなかよろしいので、
きっと麦がたっぷり収穫できましょうと、
お伝えいただきたいものです」
其の二
白楽天はこう言った――
「春はわずかに九十日、
その間に口を開いて笑わずにいるのは癡れ者だ」
春になってすでに六十日、
私はいったいいつ口を開いて笑ったのだろうか。
昔からいうように、
春は後ろ姿を見せて堂々く去ってしまう。
まさしくその通りになるのだろう。
これも昔からいうように、
自然の風光はこちらに姿を見せて得々にやってくる。
まさしくその通りである。
私は旅に倦み老いつつある。
陶淵明は官を去って廬山を望む郷里に帰った。
いま東を見れば、
ここにも廬山という名のうずだかい緑の山がある。
ごく小さな山だけれど、我が郷里の峨眉山にも似ている。
［補足］（ふつうに廬山といえば、慧遠が東林寺を建てた江西省九江市の廬山を指すが、密州にも同じ名の山があった。次の詩にその山のことが歌われている）
［補足］（この詩から、微妙ながらも、蘇軾は心身の不調から脱しつつあると推測することができるであろう）
■遊盧山次韻章伝道
［解題］蘇軾は3月に仲間と連れ立って密州の廬山に遊び、盧敖洞、飲酒台、聖燈巌、三泉、障日峰などの名勝を尋ねて詩を詠んだ（ここには訳出しない）。障日峰が前の詩で峨眉山に似るといった山で、蘇軾は小峨眉と呼んだ。この詩は章伝（字は伝道）（密州の学校の教授）が盧山で詠んだ詩に次韻したもの。
［訳文］
世間の塵にまみれたいまの私の姿は、
荷車を曳けずにへたばっている馬にも似ていようか。
それでも、
私には、渓流を自由に泳ぐ魚と同じ野性が具わっている。
廬山に登り、
深さ千仞の岩壁の中と外とを出たり入ったりして、
我が十年前の筋力と比べてみようか。
先を行く車に美女を乗せて巡る優美な遊びはしないけれど、
後ろの車に酒を入れた袋を積んで行こう。
私のこの詩を読んで、野暮な暮らしをしていると笑わないでほしい。
貴公の詩を得て、それを味読する風雅な心は確かに自分には欠けるけれど、
字の形くらいは知っているので、筆を執ってこの詩を書いたのだ。
■祭常山祝文
［解題］先の詩で、土地の老人が今年は天候がよいと言うのを聞いた（本章36ページ）とあったが、春から夏に向かって実際には雨がわずかしか降らず、今年もまた旱害と蝗害が憂慮されるようになった。州知事の重要な職務に雨乞いがあることは第2章46ページですでに見た通りで、4月に蘇軾は常山に登って雨を祈った。常山は諸城県の西南30里にあり、あまり高くはないがその神は雨を降らせる霊験があるとされた。これは山の神に雨を願った文。
［訳文］
天帝は、山や川などの神々の所轄のもとにその地の民を置き、皇帝は、州や県の役人の所轄のもとにその地に民を置く。神々と役人の職掌には共通するものがあり、民が困窮して生活を失えば、その咎は等しく両者が受けなければならない。
我が州の民は哀れにも日照りと凶作に遭遇したために、流浪し、命を落とした者もあった。その上、蝗が害毒を流し、その遺した種がいまも野に満ちていて、それがもしも変化して飛び上がるようになったら、桑も柘も麦も稲も全てその災いを蒙り、民はもはやその子孫を一人も残せないまでになってしまうであろう。そうなれば、役人は罪を得なければならないし、神はもう誰からも祀ってもらえなくなる。
私は四月一日より斎戒、蔬食し、ここに畏れ多くも、雨が遍く地を潤し、蝗が発生することのないよう、自ら牲幣を捧げて神の助けを謹んで祈るものである。
ああ、我が州を望むに、神は何をしているのか。古老が言うには、
「この山の神に求めて叶えてくださらないことはありません。だから、常に徳があることをもってこの山の名となっているのです」
でありながら、もしも我が祈りに応じてくれないのならば、その名に愧じねばならない。
■次韻章伝道喜雨
［解題］蘇軾は常山の神に平身低頭して願うのではなく、雨を降らせなければ恥をかくのは君だと理詰めで迫った。それで恐れ入ったからなのか、蘇軾が祈って3日後に雨が降り、それを喜ぶ詩を章伝（字は伝道）が詠んだ。これはその詩に次韻したもの。
［訳文］
去年の夏は日照りが続き、秋も雨が降らなかった。
このあたりの海辺の人々は、塩辛い水を飲まなければならなかった。
今年の春は暖かくて、
蝗の幼虫がたくさん湧き出し、
もぞもぞしているありさまは土よりも多いくらいだ。
いま心配されるのは、蝗に二つの翅が開いてしまうこと。
そうなったら、蝗にその気はなくても、
口からはまさしく嵐が吹き出すほどにもなってしまうのだ。
この前、蝗は長江を渡って呉や越の地方にまで入ってきた。
蝗が空を横断する有様は、
天下を奪おうとする大将軍の陣立てのようであった。
農夫は手をこまねいてただ泣くだけで、
人の力など小さすぎてどうすることもできなかった。
蝗は牛や馬の尾にまで食らいついて苦しめ、
家の戸にも穴を開けて入り込み、衣服までも噛んだのだった。
知事としては、
このような蝗の害を座視して、民を救おうとしないということはありえない。
太古の神は、
蝗が自ら火に飛び込んで亡ぶようにしたと伝え聞く。
昔の皇帝が、
一石の蝗を掴まえて土に埋めた者には穀物を一斗与えるとふれたところ、
人々は争って蝗を埋め、飢えからも救われた。
常山の神はまことに英烈で、
雷の父に対して指図するし、雷の母を叱りつけもする。
神は、知事が老いて愚かであるのにもかかわらず、
どうにかして民衆の傷を癒そうしているのを憐れみ、
知事が山で祈って帰ると、
すぐに風の様子が変わって、
町に至る道の途中で早くも雨が降り出した。
夜になると、
窓ががたがたと揺れ、松や竹が騒がしく鳴る雨となり、
朝には、
田に白い乳のような水が流れるほどになった。
老農がいうには、
蝗の害と日照りの害は必ず一緒にやってくると。
願うのは、
たっぷりの潤いをもって蝗の残る害を掃い除いて、
今年は豊作となって収穫物をお上に還せるようになること。
一畝の田に群がる蝗はおよそ一升とか。
町の前ではすでに八千斛（八百万升）の蝗を穴に埋めた。
よくいわれるのは、
蚕が一眠すると蝗はもう生じないと。
いまや蚕は初眠を過ぎたのを我々はすでに見ている。
きっと豊年を祝う客が次々に訪れるようになるだろう。
貴公の筆力は私の畏れるところ――
南朝時代の大家である鮑照、謝朓を蹴倒し、徐陵、庾信の上にまたがろうとするほどだ。
たまたま談笑する間にも佳篇を得て、
それが世間に広まって、人々に吟唱される新しい型となるであろう。
この田舎の一地方に雨が降るか降らないかくらいは取るに足りないこと。
肝要なのは、我が君の盛んな徳が天下に普く行きわたること。
いつしか我が朝廷を讃える詩を作る詠み手を探そうということになったら、
いったい誰を選ぶのか、諸君等に尋ねるまでもないだろう。
［補足］（この詩に「収穫物をお上に還す」（原文では「明主に還す」）という表現がある。優れた為政者の庇護のもと、人民は農地を分け与えられ、平和裏に耕作に勤しむことができるのであるから、収穫物は元来為政者に帰属するものと考えるのである）
［補足］（この詩に見るように雨は降ったものの、大地を十分に潤すには至らず、その後も蘇軾は繰り返し常山に祈りに行かなければならなくなる）
■謝郡人田賀二生献花
［解題］蘇軾の魅力は、相手が皇帝であろうが一般庶民であろうが、姿勢を変えることなく率直にもの言うところにある。この詩は、田員外と賀秀才の2人が蘇軾に牡丹の花を献じた謝礼に詠んだもの。「員外」は正規の組織外のポスト、「秀才」は科挙の一次試験に合格した者を指す語であるが、次第に本来の意味を失って、ちょっとした町の顔役を「員外」、そこそこの教養人を「秀才」と呼ぶようにもなった。
［訳文］
町の中に住む田員外君も、
町より西に住む賀秀才君も、
家といっても四つの壁があるだけの身の上を愁うことなく、
自作の詩文を一千反の錦のように積み重ねている。
珍重すべき優れた作品は艱難の最後に開く――
そのことを体現したような牡丹を二人は贈ってくれた。
花の色は、昨日は、雷雨と戦い、
花の心は、今日は、春を終わらせようとしている落日に苦しんでいる。
老いた知事はこのところ病気がちで、
壮んな懐いはもう灰のようになってしまった。
そのような私のために、
二人はこの輝く牡丹を慇懃にも手折ってくれた。
花の姿は、紅の袖を美しい腕が翻すかのようであり、
花のみずみずしさは、金の樽から酒を注ぐかのようである。
そこで二人に提案するのだが、
我が頭の白髪をそっくり抜き取って、
これらの牡丹をいっぱいに挿してみたらどういうことになるだろうか。
［補足］（この詩は、蘇軾の詩としてはかなり平易な語句で構成されている。田賀両氏にわかりやすいようにと配慮したのだろう）
■惜花
［解題］牡丹を見て、蘇軾が杭州を想わないわけがない。それで次のような序文を添えて「花を惜しむ」という詩を詠んでいる。
［訳文］
吉祥寺の牡丹は杭州第一である。三年前の春、その最も盛りのときに皆で賞玩しようと集まった。金色の盆、七色の飾りの付いた籠をそれぞれの前に置いて五十三人が座った。夜になってその一同が帰るのを、大勢の者が沙河の塘の上に並んで見物した。その後で同じことをする者はいなかった。今年密州では、いろいろな家の庭で牡丹の花が盛りを極め、なかでも竜興寺の僧房のひとむれが最もすばらしい。病によって衰え、気持ちが沈む私は、牡丹を見てもなかなか興が湧いてこない。昨日は雹が降り、無事な牡丹がどれくらい残っているのか心配でならず、大きく溜め息ばかりついている。
吉祥寺に積まれた千段の錦――
かの年の玩賞こそはまことに盛んであった。
「清明節の日にお越しあれ」
吉祥寺の道人に誘われるがままに行ってみたのだった。
寺に着くと、
腰に括り付けた百面の太鼓が一斉に打ち鳴らされ、
春の雷のようなその音とともに牡丹の花が満開となった。
それはあたかも、
玄宗皇帝の面前で「春光好ろし」の曲が奏し終わるとともに杏の花がみな開いたのと同じであった。
私は花を頭に載せて沙河の塘を歩いて帰ったのだが、
すっかり酔っ払ってしまったために、
町の人々に笑われたのを実は覚えていない。
そのときはまさか、
鬢の毛がかくも抜け落ちて、
密州の町の西の草深い古寺（竜興寺）にくるようになるとは思いもしなかった。
ここでは一人の僧が門を閉ざして手ずから牡丹を育て、
千の枝、万の葉を巧みに剪栽している。
なかでもひとむれの花は何に似るかというと、
瑪瑙の盤に金の飾りを施した杯を載せたようであろうか。
私はここのところ清齋して蔬菜だけを食べているので、
せっかく見にきても酒を飲まないから、
花はおかしなことをしていると首をかしげたであろう。
その夜に、李の実ほどもある雹が降ったので、
紅は損なわれ、緑は暗くなってしまったのではなかろうか。
――ああ哀れむべきである。
［補足］（清齋（身を浄める）していたのは雨乞いのためである）
■和子由四首
［解題］弟から送られてきた詩に和した4首のうち2首を訳す。
［訳文］
春を送る
夢の中でなら、
このよき春をいつまでも追い続けていられようか。
せめて、詩句でもって、今日の夕日とともに去り行く春を繋ぎ留めたい。
春の盛りとは、酒闌のころ――
悩みを抱える旅人はただ眠りたいと思う。
春の盛りとは、花の蜜が熟すころ――
黄色い蜂が飛ぶのもものうげである。
かくて芍薬も桜桃も地に落ち、
座禅の榻の上の者の鬢の毛も抜け落ちてしまう。
近ごろ君は華厳経の法界観について読んでいるという。
僕も君に教わって、
人間世界は万事非であるとの嘆きを洗い去ってしまいたいと思う。
［補足］（弟の蘇轍も仏教に強い関心を持っていた。「人間世界は万事非」とは、要するに、世の中は全てうまくいかないということ）
夏の首の官舎での即事
安石榴は春の花の中で最も遅くに開き、
奥深い木からちらりと赤い裙を見せる。
想い見るに、
我が故郷の家は、いまのこの時期に、限りなく好い。
なのに、旅に倦んだ客子はどうして帰らずにいるのか。
昔からいう――
樽に酒がたっぷりある宴席にいても、憂いがないわけではない、
「四事」はいつも巧みにすれ違うようになっている。
安石榴を見て僕は、かえって、西湖の畔のかの寺を思い出す、
柳の深い蔭のもと、扉を閉ざして午睡したのだった。
［補足］（「四事」とは、良辰（よいとき）、美景（よい風光）、賞心（めでる心）、楽事（楽しいこと）で、その四者が揃うのは難しいとされた。その「四事」が揃ったのが、故郷の家での少年時代、あるいは西湖の畔の寺での昼寝であった。寺での昼寝は「宝山昼睡」（第4章121ページ）など幾つかの詩に詠まれている）
■文与可字説
［解題］蘇軾には、心を許せる先輩にして友人の文同（字は与可）がいた（第3章78ページなど）。その文同の字の「与可」について蘇軾なりの解釈をほどこしたのがこの文章。
［訳文］
『論語』にはこのようにある――
弟子が尋ねた。
「村人が皆、その人を好むのなら、その人はどうなのでしょうか」
孔子は答えた。
「それだけでは十分ではあるまいな」
「村人が皆、その人を悪むのなら、その人はどうなのでしょうか」
孔子は答えた。
「それも十分ではあるまいな。村の善い人がその人を好み、村の不善の者がその人を悪むのには及ばないだろう」
この問答に対して次のような議論がある。
「善い人が好み、不善の者が悪むのなら、その人は君子（道徳的に優れた人）であるとするに足りるということなのか」
この問いに対して次のような答えがある。
「それは十分ではあるまい。孔子は問いに応じて、尋ねた者にわかるように、何をもって賢とするのかを答えたまでだ。村に君子がいれば、君子は善き人を推奨し、不善の者を心の内で恥ずかしく思うであろう。それだけのことなので、君子がどうして不善の者から悪まれたりするだろうか。君子は人を悪まないし、人から悪まれもしない。孔子の弟子の子夏は自分の弟子にこう言ったという。『交わってもよい人とは一緒にいるけれど、交わってはならない人と一緒にいるのは拒絶する』。そのことを告げた子夏の弟子に向かって、孔子の弟子の子張はこう言った。『君子は賢を尊ぶとともに、多くの人を容れる。善をなす人をよしとするとともに、それができない人を哀れに思う。私がもしも大賢の者であるのなら、人との交わりで容れないことはないだろう。私がもしも賢ならざる者であるのなら、人が私を拒絶するであろう。だから、私から人を拒絶するようなことはない』。つまり、子張が言ったのは、交わってもよい人と一緒にいて、交わってよろしくない人は自分からは遠ざけておくということなのではないのだろうか」
それに対して重ねて問うのは、
「交わってよろしくない人は自分からは遠ざけておくというのは、交わりを拒絶するよりもはなはだしいのではなかろうか。子張もつまりは拒絶したのではないか」
「いや、子張に拒絶する気持ちなどありはしない。もしも拒絶する気持ちがあるのなら、天下の人は結局は避けようとするであろうから、一体誰とともに一緒にいられるというのか」
「しかし、孔子は孺悲という人の面会を断ったではないか。これは拒絶ではないのか」
「孔子は病気を理由に孺悲とは会わなかった。そのとき、取次の者がその断りを孺悲に告げている最中に、孔子は楽器を弾かせて歌い、実は病気ではないことを相手に知らせた。それはつまり、会わない理由が孺悲に方にあることをわからせようとしたのであって、拒絶したのではないのだ。拒絶する気持ちがないのだから、交わってよい人となら一緒にいるのである。孔子も子張も同じなのだ」
吾が友の文君は名を同といい、字を与可という。「与可」とは子夏の言葉にある「交わってもよい人とは一緒にいる（可者与之）」からとったものであるから、ある人は文同に、
「君は子夏と同じ考え方なのか」
と尋ねた。
文同は答えた。
「そうではない。子夏の言葉に基づくとはいえ、与にいるという方をとって、拒むという方はとっていない。実は子張と同じなのだ」
文同の人となりは、道を守って勢を忘れ、義を行って利を忘れる。徳を修めて名を忘れ、不義を為すことはなく、どれほどの俸禄を差し出されようと顧みることはない。しかも、人を悪むことはないし、また人から悪まれることもなない。だから、与可は子張なのである。
［補足］（何やらごちゃごちゃして話の筋が見えにくいが、要するに、君子はいかなる交わりを人と結ぶべきかについてあれこれ思索を巡らしたのだ。改革が強引に推し進められて以降の官界のありさまを見るに、道を守るよりも時の権勢に靡き、正義を行うよりも利益に走り、身に徳を修めるよりも一時期の名声を求め、俸禄を得るためなら不義をも為すような者が目に付くようになった（つまり、蘇軾が改革を批判して、いまは「風俗を厚くする」（第3章48ページ）ことが肝要であると指摘したのが的中した）ので、ことさらに文同の人柄が慕わしく思われたのだろう）
［補足］（名や字は何らかの思いを篭めて付けられるものだ。蘇軾の父の蘇洵はいかなる思いで軾と轍の名を付けたのかというと、蘇洵自身が以下のように書き記している。軾の原義は馬で曳くようなタイプの車の前に付けた横木で、遊園地のジェットコースターの安全バーのようなもの。轍は車輪の通った跡、すなわち「わだち」である）
［訳文］
蘇洵：『名二子説』（二子に名づける説）
車に具わっている輪（車輪の輪の部分）、輻（車輪のスポークの部分）、蓋（車を覆う幌の部分）、軫（車体の枠組み）にはそれぞれのきちんとした役割がある。軾はどうなのかというと、それがなくても車は十分にその機能を果たすことができる。そうはいっても、軾を取り除いてしまうと、完全な車であるとは見えなくなる。
我が子、軾よ、そなたは外側をきちんと飾ることを気にかけないようだ。だから、無用なようでも完全であるためには必要な軾をもってそなたの名にした。
天下の車は轍を付けないものはなく、道に轍があれば天下の車はそれに準拠して進もうとする。しかしながら、車の性能をいうときに、轍が関わっているとされることはない。その一方で、車が倒れて巻き添えになって馬が死んでも、轍に非難が及ぶことはない。轍というものは、福の面では恵まれないけれども、禍の面では及んでこないので、ちょうど両者の間にいることができる。
我が子、轍よ、そなたは跡を残して天下の人がそれに拠るようになるとしても、きっと福からも禍からも免れるに違いない。よって轍をもってそなたの名にした。
［補足］（この短文は、兄弟の性格の相違と、それによって異なる道筋を歩むようになることをみごとに見抜いていたとされる）
■西齋
［解題］密州の住まいの西側にある部屋について詠んだ。
［訳文］
西齋は家の奥深くにあっても明るい。
中に六尺の寝台があり、
朝そこで起きれば十分に眠りが足りていて、
昼にそこに座れば一日がゆっくりと過ぎるのを感じることができる。
ここでとろとろとした心持ちになっているのは決して酔っているのではない。
ここにぽつんと一人でいるのは頭がおかしくなったからではない。
竹のあたりからくる風に衣をそっと曳き上げると、
わずかな涼しさがそろりとやってきてくれる。
立って西側の庭を歩む――
草や木はささやかな香りを含み、
柘榴のひと枝に花が開き、
桑や棗の葉がつやつやと光っている。
鳩は、木蔭が困ってしまうくらいによすぎるのだろう、
すっかり飛ぶのを忘れている。
黄鳥は、自分の美声に喜んでいるのだろう、
のどを変えて囀りを新しくしている。
自然の移り変わりを観察しつつ、我が生きるありさまを顧みると、
万物はおのおの時を得ているのではないか――
しかし、自分の生き様はよたよたとして、一体どこに行こうとしているのか。
［補足］（末尾にある「万物各得時、我生日皇皇」（万物は各おの時を得て、我が生は日に皇皇）とは、本来、道（宇宙の基本原理）に従うのなら自然界も人間界も調和が保たれて事なく運行されていくものであるはずで、自然界は確かにそうであることが目の前に見えているのに、己は明らかに違っているという思いを詠んでいるだろう）
■小児
［解題］先に弟の子について詩を詠み、前の妻について詞を詠み、今度は自分の子について詩を詠んだ。題にある「小児」は三男の蘇過（4歳）であろう。
［訳文］
小児は、愁いを知らない。
小児は、私が立っても座っても衣を引っ張るので、
私は、小児を叱ろうとする。
妻は、小児にむしろいたずらをするよう仕向ける。
「児というものは、もとからおろかなのです。
あなたさまときたら、もっとおろかではありませんか。
だって、おろかな児がおろかなことをしたからといって叱ろうとするのですもの。
楽しもうとなさらずに、愁いてばかり。
いったい何をなさりたいのですか」
妻の言葉に、私がいつものように恥ずかしく思っていると、
妻は盞を洗って私の前に置いてくれる。
そうか、我が妻は、
酒代をちまちま節約しようとしたあの劉伶の妻よりもずっと勝るのだ。
［補足］（表題は「小児」でありながら、実は妻について詠んだのだった。「劉伶の妻」とは、こういう話である。劉伶は大酒飲みで、「喉が渇いて仕方ないから酒を用意してくれ」と言うと、妻は酒を捨て、酒器を壊し、「飲み過ぎです。お体にさわります。どうかお酒を断って下さい」と泣いて頼んだ（蘇軾はこのことを酒代を節約したと脚色している）。劉伶は「わかった。では神に誓って断つことにする。ついては神に捧げる酒と肉を用意してくれ」と言った。妻がそのようにすると、「このわしは酒でもって天下に名をなした劉伶だ。一度に一斛を呑み、二日酔いをさますのに五斗を呑む男だ」と言って、神に捧げる酒を飲んでしまった）
■寄劉孝叔
［解題］劉述（字は孝叔）に寄せた詩。劉述は王安石と考えが合わなくて江南に左遷され、蘇軾が飢餓対策で杭州から潤州の間を行き来していた時期に一度会っている。この詩は、かなりあからさまに改革を批判している。
［訳文］
皇帝は驕りたかぶった外国の悪党を懲らしめようと思い立たれた。
銅山をことごとく掘り尽くして銅銭を鋳て軍資金を用意させ、
三十七人の将軍を都に勢揃いさせ、
西方に馬を走らせておのおの司令部を開けと命じられた。
南の山では、木を伐って車の軸を作り、
東の海では、鼉を捕えて陣太鼓の皮とし、
人々は戦の準備で遅れを取るまいと、汗を流して奔走し、
軍用に物を十分に供出できなくて、処罰されてしまうのを恐れている。
今日に至るまでに、
村々に自衛組織を作れとの号令はまだ十分に行きわたらず、
土地の計測を正確にする作業もなお山積みになっている。
新たに細かく課税対象を増やして、
ひげ根の先までも残さずに取り立てようとしたので、
あまりの行き過ぎに、皇帝は人民を深く憐れむ詔を出した。
しかし、役人は浅はかにも民衆が労苦するのを放置している。
かねてから、私の学問は「流俗」であるとばっさり切り捨てられ、
大勢の者が一斉にただピーピーやかましく笙を吹く中で、
一人だけ正しい音を出そうとしてみたものの全く聞いてもらえなかった。
おかしな楽曲ばかりが演奏されると、正しい楽譜はすたれてしまう。
民衆は毎年毎年飢饉に苦しみ、
木や草を剥いで齧り、泥を食らうありさまだ。
今年は雪や雨がちょうど時節に合致しているのに、
蝗に肢が生え、翅が出てきたとの報せもある。
私は憂いに襲われ、
盞を洗って無理にも酔ってみようかと思いもするのだが、
がらんとした部屋にあるのはからっぽの樽で、
それを枕に寝ることしかできない。
役場の厨からはもう十日も煙が立っていないのだ。
まして華やかに妓女が舞うような遊びは望むべくもない。
古くからの友人がくれる手紙への返事としては、
まさに故郷に帰るべきときがきたと記す以外に言葉がないはずなのに、
官服を脱ぎ棄てて、そこらの壁にでもひっかけて去って行こうとしないで、
雀や鼠のように官の倉から米を盗み食いすることを私は続けている。
「呉興の長者」（劉述のこと）は正しく真理をわきまえていて、
朝廷にあって補うところが多々あったにもかかわらず、
人が集まってこようとする都から逆に出て、
いまでは湖と山の地の主となっている。
長者の高い行いは釣り人とまじわる身となり、
「大隠」は必ずしも官服を脱がなくてもよいということを実践している。
昨年お会いしたときには、
道を尋ねてそのごくあらましをお聞かせいただいただけで、
十分には話せなかったので、
官職を捨ててそちらに行って学業を遂げたいと思う。
長者の家は呉興の霅渓のあたり、
白い雲が羽のように広がる下にあるという。
私は俗世間との縁が切れなくて、進退ははなはだもたついている。
「安心」を説いた達磨大師を思うべきなのだろう。
［補足］（この詩の初めの部分では、西方の夏国との間の積年の問題を軍事力の行使によって決着させることを皇帝が志向し、それに応じて朝廷が動いていることを批判している。劉述は呉興の出身であることから「呉興の長者」と呼んでいる。呉興は第4章74ページなどで見た張先がいる町でもある。「大隠」とは町の中で普通の社会生活を営みつつ、精神は隠者と同じであることをいう（第4章26ページなど）。最後に唐突に達磨大師が出てくるのは、劉述と蘇軾の間でかつて「安心」（心の安定）について話題にしたことがあったからなのだろう）
■孔長源挽詞二首
［解題］孔子の四十七世の孫である孔延之（字は長源）の挽歌。2首から1首を訳す。
［訳文］
其の二
公はかつて杭州の小堰門にほど近い柳の木に船を繋いだ。
公が呉山の有美堂で宴を開いたときには、月光が筵を照らし、
夜中には、銭塘江を遡る潮が千の巌に当たる音が響いた。
そのとき公は詩を詠み、
その句は翌朝にはもう万民の間に伝えられていた。
ところが、思いもかけず、公は寿命の長きを全うできず、
日が傾くようにしてたちまち亡くなったとの報せに、
私は驚かされた。
公の無窮の業績も墓地に納められてしまう。
南を見つつこの詩を作って、牋に涙がしたたり落ちる。
■寄呂穆仲寺丞
［解題］呂仲甫（字は穆仲）に寄せた詩。呂仲甫とは杭州で親しくしていた（第4章32ページなど）。
［訳文］
杭州孤山の寺の門前には、すぐそこにまで水が迫る。
私がその寺に行っていつも最初に見たのは、
貴公が酔って書いた墨の痕だった。
杭州には一人の役者がいて、貴公の真似をするのを得意としていた。
貴公が杭州を去ってしまった後でも、その役者がいると、
いまも貴公が談笑し、あるいは規律を正そうとしていると思えた。
先に杭州を去った貴公は、いまは塵埃の降る都の道を踏んでいる。
後から杭州を去った私は、いまは桑や棗を産する村を訪ねている。
首を回らせば、西湖は真に一場の夢。
しかし、もういうまい――
心の火が消えて灰になっただとか、髪が抜けて白くなっただとか……
［補足］（蘇軾がどれほど杭州の風光を愛していたのか、この詩にある「西湖真一夢」（西湖は真に一夢）の語に集約されていよう）
■答陳述古二首
［解題］杭州の日々を想う詩が続く。杭州といえば、最も信頼関係が厚かったのが、当時杭州知事であった陳襄（字は述古）である。いまは都にいる陳襄から送られてきた詩に答えた2首から1首を訳す。
［訳文］
其の一
密州は山東第二の州であるとか。
棗の林、桑の入り江に春を尋ねる遊びにはまだ行けていない。
町の西には千もの紅い牡丹があるとか。
あわれにもさらに老いた私の髪に挿されたのでは、
花はますます恥ずかしがるだろう。
［補足］（蘇軾は杭州で、牡丹は老人の頭に載せられるのを羞うと詩に詠んでいた（第4章17ページ））
■懐西湖寄晁美叔同年
［解題］5月に晁端彦（字は美叔）が杭州に赴任すると聞いて寄せた詩。晁端彦は同じ年に科挙に合格した「同年」の間柄。
［補足］（蘇軾が科挙に合格したのは18年前。眉山県から上京した蘇軾にとって都は未知の土地で、友人といえる者はそこにはいなかった。合格後に最初に兄弟の下宿に訪ねてきたのが晁端彦だった。晁端彦は欧陽脩の弟子で、蘇軾と必ず交わりを結ぶようにと師に言われてやってきたのだった）
［訳文］
西湖は天下一の景勝地だ。
そこに遊ぶ者は、
賢かろうが愚かだろうが、あるいは浅くあるいは深くそれぞれに得るところがあり、
しかも誰もその全てを知ることができない。
ああ、私はもとからおかしなくらいに真直ぐで、
世間から早々と棄てられてしまった。
だからこそ杭州の山水の楽しみをもっぱらにすることができたのだから、
むしろ天からその機会を授けられたのだろう。
三百六十の寺を奥深く訪ねて一年を使い果たし、
行けばどこにでも妙所があった。
それは心に知っても、口で伝えるのは難しく、
いまになっても夢に見て、目覚めた後もありありと目にも耳にも残る。
貴公は朝廷から杭州に派遣されることになり、
その風采の輝きに杭州の雲も霞も融かされてしまうだろう。
清らかな流れも険しい山も、
貴君のために特にそうするかのように、
麗しくその姿を見せることだろう。
貴君にお勧めするのは――
従者を退け、寺で僧榻を借りてしばらく眠ってから、
私が壁に書いた詩を読み、
清涼な空気に日頃の煩わしさを洗い流した後で、
道のあるなしによらず、心の赴くままに歩むのがよかろう。
そうすれば、古の「漁父」のような人が、葦の間を自在に行くのに出会うであろう。
もしその人に道を問うて会得するところがあったならば、
どうか魚を値切って買うような野暮なことだけはしないでくれたまえ。
［補足］（「漁父」は中国の文化史におけるかなり特徴的なキャラクターである。舟に乗って自由にどこへでも行く孤独の漁父は詩にも画にしばしば登場する。漁父のイメージの決定版ともいえるのが唐の柳宗元の「漁翁」の詩である）
［訳文］
柳宗元：『漁翁』
漁翁は、夜には西の巌に舟を寄せて眠る。
暁には清らかな水を汲み、竹を燃やして朝飯を支度する。
朝靄が消えて日が昇るころには、その人の姿はもうない。
棹をさす声がどこかで一つ響くと、あとは山と川の緑があるだけ。
漁翁はすでに天の涯を顧みつつ、中流を下っている。
もとの巌の上では、心を持たない雲が追い掛け合っているのである。
［補足］（そのような漁父と会って脱俗的な会話を交わしておきながら、別れ際に「その魚、なんぼ？」とか言ったら台無しであろう）
■張安道楽全堂
［解題］恩人の張方平（字は安道）（第3章104ページなど）に寄せた詩。張方平は楽全堂という建物を作り、「楽全堂居士」と称した。
［訳文］
「楽全」（100パーセントの楽しみ）とは何であろうか。
列子はふわりと風に乗ってどこへでも行けたから、
なかなか結構な楽しみを自在にした。
しかし、荘子は、汲々として風に頼っておるではないかと列子を批判した。
世の中が非常に厳しかった時代に、
酒や琴に逃れて己の生命を保全しようとした者がいた。
己の生命を全て尽くせたからといって、
それだけでは「至楽」（100パーセント超えの楽しみ）とはいえないだろう。
釈迦の弟子の維摩詰は病気になり、
己の命を全て尽くせたわけではなかったのだが、
何もない部屋で悠然と過ごし、
それは「至楽」に近かったのではないだろうか。
楽全居士殿は天から与えられたものを全うしようと、
かつては飲んでいた酒をやめたし、琴は初めから持っていない。
陶淵明は弦のない琴を抱いて最高の音を楽しんだと聞くが、
無弦の琴よりもそもそも琴が存在しない方がより完全なのではなかろうか。
そもそも楽全居士殿は天より英雄としての素質を与えられ、
まさしく竜や鳳凰の姿を具え、
自ら発する輝きでまわりの魚や鳥を照らし出し、
朝廷に座っていれば、北方や西方での紛争も談笑する間に片が付いてしまう。
ところが、老いてからはもっぱら帰ることばかりを思い、
私に細々と手紙に書き、詩を添えて送ってこられた。
それでお尋ねするのは、
「楽しみを100パーセントにするとは何を100パーセントにするのでしょうか」
荘子はこういうことを言っている――
100パーセントを求めようとすれば必ず欠けたところがある、
もとより100パーセントを求めなければ欠けるところはない。
［補足］（蘇軾は、自分の楽しみを100パーセントにすることを求めるよりも、民の楽しみを100パーセントにするよう努めてほしい（直接的には言っていないが）との期待を込めてこの詩を詠んだのだろう。蘇軾が憧れた大先輩の范仲淹の「先憂後楽」（天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ）も念頭にあったことだろう。「北方や西方での紛争」は先の劉述に寄せた詩（本章55ページ）の冒頭にあったように、皇帝が外で軍事行動を起こそうとしていることに関連している。後に張方平は、戦争に反対する意見書を皇帝に提出する（本章170ページ））
■次韻劉貢父李公択見寄二首
［解題］劉攽（字は貢父）と李常（字は公択）から送られてきた詩に次韻した。劉攽は第3章80ページなどに、李常は第4章194ページに登場している。湖州知事を務める李常のもとに劉攽が訪れて2人で詩を詠んだのだろう。
［訳文］
其の一
白髪となった二人の旧い友人が顔を合わせた。
二人の眼は、幾度となく時事が新たになったのを見た。
曲の調子が高くなると唱和する者が少なくなり、
議論の調子が高くなると理解できるものが少なくなるという。
李公は湖州周辺で飢饉が続いているために好い詩を歌い上げるひまがない。
劉公は奥様を亡くしたばかりで夜長に親しく語る相手がいない。
私はといえば、思い煩うことはなく、
誰にも負けないくらいによく眠り、
鼻息は雷鳴のごとく四方を揺り動かすのである。
［補足］（よく眠っているとここでは言いつつ、次の詩を見れば実態は異なるのである）
其の二
誰が私に勧めてここにこさせたのか。
絃管の楽器は使われずに苔が生え、米櫃には埃しかない。
酒は唇を濡らすだけで、蓄えはわずかしかない。
蝗が人の顔を打つほどに飛びまわり、すでに三回にわたって退治した。
刀を磨いて谷に入り、盗賊となった者を追うこともある。
町を回って、涙をこぼしつつ捨て子を拾うこともある。
地方の町を治めるのはまことに歓びが少ない。
しかし、それでも嘆くには及ばない――
塵にまみれて都の道を往来していたころに比べたならば……
■劉貢父見余歌詞数首以詩戯聊次其韻
［解題］劉攽（字は貢父）が蘇軾の最近の幾つかの詩を詠んで、戯れに（実際は本気で）忠告する詩を送ってきたのでそれへの返事。
［訳文］
私はこれで十年ばかしも都の外でふらふらし、
これからどうなるのかさっぱりわからぬ身、
都の花を看て再び詩を詠むことはあるまいと思う。
こんな私が我が家の門の先でうっかり憎まれ口をきいたのを、
一体どなたが貴公に伝えたのか。
酔って吐き出したふざけた詩など、自分でも知ったことではない。
昔、過激な言論で刑死した男は、息子の舌を錐で刺して口を慎めと言った。
昔、権威者の横暴を止めようとした者は、眉毛を火で炙られることも辞さなかった。
一緒に飲むのなら、こういう野暮な話はなしにしようではないか。
まさに春の盛りの最もよい時節なのだから。
［補足］（蘇軾は、政治のあり方についても、思うところをそのまま詠んでいる。劉攽ならずとも慎みなさいと助言したくなる。それでも（蘇軾は蘇軾なり自制していたのかも知れないが）、「腐ったものは吐き出さずにはいられない」（本章94ページ）と言うほどに、思ったままを言葉として出してしまうのが蘇軾の曲げられない本性であった。そのことが、「嵐」を呼び寄せたのを本章の終わりで見ることになる）
■和梅戸曹会猟鉄溝
［解題］秋になっても天候不順が続き、常山で神を祭り、その帰りに鉄溝（本章19ページ）のあたりで猟を行った。密州の役人である梅君が詩を詠み、それに和した。猟で梅君も趙君も獲物を射ることができなかったことをネタに詩を構成している。
［訳文］
趙君、梅君は山西の出身ではなかろうか。
山西は昔から猛者が出ることで知られている。
貴君らのような文官でも、
いざとなったら命がけで城を守るくらいはするものだ。
この界隈では盗賊が多く出没し、
近ごろさらし首にされた者たちはまだ土に埋められていない。
盗賊の親玉は討っても、
草の根に潜む狐や兎までは驚かさずともということはあるかもしれない。
その昔、大酒呑みで有名な趙さんやら、
詩が得意で妻子を棄てて姿をくらました梅さんやらがいたけれど、
諸君等はよもやそっちの仲間ではあるまい。
かつてある大臣は、美人の妻を娶ったものの、
妻は夫の顔があまりにも醜かったので三年の間全く口をきかなかった。
その大臣が妻の前で雉を仕留めると、
妻は初めて笑って夫と言葉をかわした。
諸君等もこれで何も射ずに帰ったのでは、
家で待つ美しい奥方にそっぽを向かれてしまうのではないのかな。
［補足］（蘇軾自身が獲物を仕留めたかどうかはわからないが、弓の鍛錬をしていたことは第2章103ページで見ているので、それなりの腕前はあったのだろう）
［補足］（本章10ページで見たように密州周辺では盗賊が横行していた。この詩に、盗賊を捕えてさらし首にしたことが詠み込まれているが、討伐をする兵士のモラルが低くて問題を起こすことも少なくなかった。密州でも、兵士が民衆から物を強奪し、さらには殺人もして、法を犯した兵士が処罰を恐れて逃亡する事件があった。人々は逃亡兵が反乱を起こすのではないかと恐れ、蘇軾に征伐してほしいと訴えた。蘇軾は「そういう大袈裟なことにはなるまい」と訴状を斥けた。それを伝え聞いた逃亡兵は安堵し、騒ぎは静まった。蘇軾は投降を呼びかけ、出てきたところを捕え、首謀者を処分した。兵士がかえって民衆を害することがあるという問題について、蘇軾はかつて制科の試験の答案の中で議論していた（第2章12ページ））。
■江神子
［解題］「密州で猟に出る」と注記のある詞。
［補足］（詞は酒席において主として男女の情愛を歌うものとして、詩とは別の世界を形成してきた。これまでに見てきた蘇軾の詞もその延長線上で軟らかな情を歌うものであった。この詞は一転して勇壮な猟の場面を歌い上げ、詞の世界を広げようとするものだった）
［訳文］
老夫聊発少年狂。（老人はにわかに少年のような物狂い）
左牽黄、（左手に黄色の犬）
右擎蒼。（右手に蒼い鷹）
錦帽貂裘、（錦の帽子に貂の裘）
千騎巻平岡。（低い岡を取り巻くのは千の騎馬）
為報傾城随太守、（報せが走って知事に随う町中の人々）
親射虎、（知事自ら虎を射るのは）
看孫郎。（まるで孫権を見るかのようですぞ）
酒酣胸膽尚開張。（酒たけなわにして開いてみせる胸の内）
鬢微霜、（鬢にまじる白髪）
又何妨。（それもまたよかろう）
持節雲中、（皇帝の命令を受けて行く国境の地）
何日遣馮唐。（いつの日か漢の大将軍のように）
会挽雕弓如満月、（よし引いてみせよう満月のようにこの弓を）
西北望、（西北を望んで）
射天狼。（天狼星を射るのですぞ）
［補足］（冒頭の「老夫」は蘇軾自身のこと。千の騎馬とか城を傾けて知事に随うとか歌っているのは実景ではない。三国志の英雄の孫権のようだと見栄を切ってみせるのはむろん遊びである）
■和章七出守湖州二首
［解題］章惇（字は子厚）が湖州の知事となって詩を寄せてきたのでそれに和した。章惇は第2章57ページで登場し、親友を得たと弟に報告していた。2首のうち1首を訳す。
［補足］（章惇は、これより4年前に蘇軾が都を出たのと入れ違うようにして王安石によって中央に抜擢され、改革の担い手として活躍していた。熙寧7（1074）年4月、天災の影響で王安石が宰相を辞め、韓絳が宰相、呂恵卿が副宰相という体制で改革を続けて行くようになると、章惇を初めとして多くの朝臣は野心家の呂恵卿のもとにつき、韓絳は宰相でありながら自身では何事も決定できない事態となった。韓絳は密かに神宗皇帝に王安石を呼び戻すよう勧め、熙寧8（1075）年5月、皇帝は王安石の宰相復帰を決断した。何も知らずにいた呂恵卿は驚き慌てた。それより前に呂恵卿は王安石が中央に戻れなくなるような工作をしていた。王安石が都に戻ると、韓絳はよりいっそう何もできなくなってしまって8月に宰相を辞め、呂恵卿も10月には副宰相を降り、呂恵卿第一の子分と見なされた章惇は朝廷から出されて湖州知事となった）
［補足］（詩題にある「章七」の「七」は兄弟排行で、兄弟・従兄弟等同世代の中での年齢順。ちなみに蘇軾の兄弟排行は九十二であるらしく、眉州には同世代が大勢いたようだ）
［訳文］
其の一
仙人は東の海の渺茫たる彼方より現れ出たと聞く。
だから、気高い情は水雲の郷を愛するのだ。
功名は尊ぶべきであっても、
さすがに一カ月に三度も勝利を連ねる者はいない。
世を過ごすには、
なかなかできるものではないけれど、
是と非の両方とも忘れて自然に任せるのがよいのだろう。
私も貴君も、早くに官を退いて心身を休めたいとの心がもとからある。
そうした後に会えたならば、ゆっくりと語り合えるに違いない。
今はまだ皇帝の重い恩に報いることができてないので、
貴君の夢は、時に皇城の奥へと行くことであろう。
［補足］（「水雲の郷」とは、太湖のほとりにある湖州のことをいう。章惇の気高い心が「水雲の郷」を選んだようにこの詩の中では歌っているのである。政治的立場は異なっていても、友情は続いているというのがこの詩の主題であろう）
■酔白堂記
［解題］この年の6月24日に韓琦が67歳で亡くなった。韓琦の死によって、蘇軾が8歳の頃から憧れてきた4人のスーパースターで健在なのは富弼１人となった。蘇軾は大先輩の死を悼んで祭文を作った。その後、韓琦の息子の韓忠彦の依頼でこの「酔白堂の記」を書いた。
［補足］（冒頭に「魏国忠献韓公」とあるのは、韓琦が朝廷の要職に就いたときに「魏国公」に封じられ、亡くなってからは「忠献」の諡を皇帝から賜ったからである。韓琦は改革に反対して相州に退き、この文章にある酔白堂を建て、「酔白堂の歌」を作った。「酔白堂の歌」はこの年の2月に詠まれ、韓琦の最後の詩とされる。）
［訳文］
魏国忠献韓公は、私邸の池のほとりに堂を作って「酔白」と名付けた。それは白楽天（白居易）の「池上の詩」にちなむものだ。公は「酔白堂の歌」を作り、その詩は、白楽天を羨んで自分は及ばないと言っているかのように読むことができる。
天下の士はこの詩を聞いて不思議に感じた。公には、遠い昔に国政を補佐して後世の手本となった伊尹や周公旦にも恥じることのない立派な業績があるのに、どうして白楽天を羨んだりするのだろうかと疑問を抱いたのである。
私はこれを聞いて笑って言った。
「公はただ白楽天を羨むだけでない。ごく普通の人、特に聞こえることのない人間でありたいと願い、しかしそうはなれなかったのだ」
天がこの人をこの世に生んだのは、天下の重い任務に当たらせようとしたからである。天下の人々は、凍える者は衣を求め、餓える者は食を求める。何らかの不足のある者はそれを得ようと求める。民が求める物を与えようとするならば、決して十分ということにはならない。だから、民が求める物を与えようとする者は、常に憂患の内にあって、利害のからみあう道を進まなければならない。それは公の望むところであったのだろうか。
公は三代の皇帝のもとで宰相となり、天下を安定させると、水が流れるようにして官界から去り、家において老いの日々を送ろうとした。しかし、天下は皆で引き留めてそれを許そうとしなかった。まさにそのときに、公が白楽天を羨んだのは、少しも怪しむことではない。
白楽天がその生涯にしたことと同じことが公にもあるだろうかと探し求め、二人の成し遂げたことを比較してみるならば、どちらが厚くどちらが薄いのか、どちらが浅くどちらが深いのか、後世の評価はきっと一つに定まるに違いない。
文においては太平をもたらし、武においては乱れを定め、かくて国家を安定させて、しかもそれを自分の功績であるとはしない。賢才を求めることを急務とし、地位や俸禄などは軽く見て、しかも用いられた人には自分に恩があるとは知られずにいる。殺伐とした戦場で果敢に行動し、軍隊は安心してその指揮に従い、四方八方の外国にその風采が聞こえるところとなり、天下の安危はまさにその人の一身にかかっている。このようなところは公にはあっても白楽天にはない。
身体がなお強健のときに官職から退いて隠居すること十五年、日に朋友とともに詩を賦し酒を飲み、山水園池の楽しみを尽くし、箪笥にはたくさんの絹があり、倉庫にはたくさんの穀物があり、しかも音楽をもって仕える妓女が家にいる。このようなことは白楽天にはあっても公にはない。
忠言を為し、良い謀を巡らし、その効果がその時代に現れ、文采は後世にまで現れ、死生窮達において節操を守り、道徳が古の人よりも高い。このようなところは公と白楽天は同じである。
公は、白楽天よりも多いところがあるのを自分で多いとは思わず、白楽天よりも少ないところがあるのを自分で少ないとは思わず、まさに同じであるところをもって、白楽天に思いを寄せたのである。
公は酔白堂を作って、自分の生きる形を一酔の内に寓しようとした。それは、得るも喪うも同じ、禍も福も忘れ、貴も賤も一緒、賢も愚も等しいとして、万物と一体となって、造物者とともに遊ぼうとしたのである。つまり白楽天と自分を比べようとしただけのことではないのである。
古の君子は己の身の処し方に厳しく、名声を得ようとする気持ちは薄かった。実質こそが大切で、名声などは浮ついたものであるとしたのだ。それで世の人は、その君子のすばらしさを称賛してやまないのである。
我々は孔子は聖人であるのを知っているが、孔子自身は、せいぜい賢大夫といわれた老彭くらいで、歴史家の左丘明と同じになれればよくて、弟子の顏淵には及ばないと考えていた。
ところが、後世の君子とされる人は、実質はそれほどでもないのに、皆に驕る心がある。自分自身で聖人だと言った臧武仲という人がいたし、自分は古の聖天子の禹と同じだと言った白圭という人がいたし、自分は昔の大将軍である藺相如のようであるとして名を相如に改めた司馬長卿という人がいたし、自分は孟子の上を行くと言った揚雄がいたし、自分は漢の高祖を補佐した張良の再来であるとした崔浩という人がいた。しかし、世の人はそれにはまるで同意しないのである。
このようなことを見れば、ごく普通の人でありたいと願った公の賢さは遠く人の及ばないところなのである。
かつて公はその子息の韓忠彦に、「酔白堂」についての文章を私に求めるように言われ、それを果たす前に亡くなった。すでに葬儀を終え後に、韓忠彦からそのことを告げられ、私は義として辞退することはできないと思い、泣きながらこれを書いた。
■晁君成詩集引
［解題］前の「酔白堂の記」と同様に、遺族に依頼されて書いた文章。杭州に赴任している間に知り合った晁端友（字は君成）が47歳で亡くなり、その息子の晁補之から、父の詩集に序文を寄せてほしいと頼まれた。
［補足］（内容的に前の文と通じるところがある。歴史上のよろしくない例として再び揚雄が引かれている。漢の揚雄は文章に優れ、学者としても一流で、高く評価されることもある。しかし、なぜか蘇軾のみならず宋代の人々の間では、上辺の言葉だけが立派で実質を伴わないということで、評判が芳しくない）
［訳文］
賢を称揚した人からは立派な子孫が出る。漢の時代の張湯がその例だ。張湯は苛酷な人であったから、後継者がいなくてもよいようなものであったけれど、その子は名臣となった。
実質がないのに名声だけを竊み取ろうとした者からは立派な子孫は出ない。漢の時代の揚雄がその例だ。揚雄は優れた文化人であったから、後継者がいてもよいようなものであったけれど、その子孫にこれといった者は出なかった。
このことから、賢を称揚した者には立派な後継者があるけれど、賢を蔽い隠すようなことをした者には立派な後継者がないと私は知った。そして、その実質がなくて名声を竊むような者には立派な後継者がなく、その実質があっても名声を求めようとしない者には立派な後継者があると私は知った。
賢とは、それによって民が生きるもととなるものだ。賢を蔽い隠すとは、すなわち民を絶つことである。
名声とは、古も今も最も尊ぶところで、富貴よりも重いものだ。これを竊み取るとはすなわち天を欺くことである。
民を絶ち天を欺けば、その後継者がいなくて当然である。一方で、賢を称揚する者と、実質があっても名声を求めない人には立派な後継者がいる。私は常にそのように言ってきた。
私は杭州に赴任したところ、新城の晁県令、字は君成、諱は端友は、君子であった。私は三年間晁君とお付き合いし、その君子たることを知った。しかし、文章をよく書き、詩をよく詠むことは知らずにいた。晁君はそのようなことは一言も言わなかったからだ。
その後、晁君は都で亡くなり、その子の晁補之が晁県令の詩三百六十篇を私に見せてくれた。これを読んで私は驚いた。
詩というものは、その指し示すところは微妙ではあるけれど、その美悪あるいは高下は、言葉によって表現されているので、はっきりと見てとることができる。人が賢であるのか不肖であるのか、深く遠く茫昧として知り難いことでは、詩よりもずっとはなはだしい。
私は、晁君がよく詩を詠んだことを知らないままでいたならば、果たして晁君が君子であることを十分に知り尽くすことができたであろうか。晁君は科挙の進士科に合格して官員となり、行く先々で民に安寧をもたらすことを楽しみとし、民は晁君が任期を終えて去ってしまうことを恐れた。そして、晁君は自分のしていることを顕彰してほしいと、一言も求めたりしなかった。官員として仕えること二十三年、次の新たな官職を得ようとしているときに亡くなった。そのようなことから、晁君が君子であることを十分に知り尽くしていなかったのは私だけではなく、世の人々も皆そうであったのだ。
晁君の詩は清く厚く静かで深く、その人となりそのままである。しかもどの詩にも新たな情趣の発見があり、際立った語句の使い方がある。それは人が皆愛すべきものであって、晁君が秘匿しておかずにいたならば、勢いとして人が必ず知るべきものであったのだ。
その子の晁補之は、文を書いてよくしないところはなく、語彙が豊富で内容も優れ、人々の遥か上を行き、必ず世に顕れないことはないであろう。つまり、晁君父子を見れば、実質があって名声を求めることがない者には必ず立派な後継者があるということが、ますますはっきりとわかるのである。
昔、漢の時代に李郃は蜀の地方の町役人であった。皇帝は二人の使者を派遣し、平民の衣服で蜀に入らせた。二人は李郃の家に泊まった。李郃は星を見て、二人が皇帝の使者であることを知った。その後、使者の一人はその地方の太守となったけれど、李郃はやはり町役人のままだった。世間の人々は李郃のことを特に知らずにいたのである。李郃が実は博学で徳を己の内に隠していたことは、その子の李固に及んで顕れ出て、李固は漢朝の大官となった。
『詩経』に「徳の和らげる先祖の霊は、子孫の心を安らかにし、子孫に恵福を与える」とあるのは、まさにこのことを言うのであろう。
［補足］（ここで蘇軾は「賢を称揚する者と、実質があっても名声を求めない人には立派な後継者がいる」と力説しているのは、にわかには納得し難いものがある。しかし、蘇軾は確信をもってこの説を後に再び展開する（本章321ページ）。なおここにいう「賢」は、知的に優れてかしこいだけでなく、道徳的に優れてかしこい行動をするということも意味し、かしこいという状態をいうだけでなく、かしこい行為とそれを行う主体も含めた広い意味がある。同様に、仁や義や節や孝といった語も、必ず実践を伴って初めて意味を為すものである。なお、いわゆる「ずるがしこい」は「賢」のなかには含まれない）
■和張子野見寄三絶句
［解題］張先（字は子野）から3首の絶句が送られてきたのでそれに和した。張先は第4章74ページなど何回も登場した風流老人。3首から1首を訳した。
［訳文］
旧て遊んだところを過る
前の世に私はすでに杭州に到った――
杭州で行ったところはすべて、
かつて遊んだところのようであった。
いま想うのは、
杭州役場のしがない小役人となり、
静かな場所に小さな庵を結んで、
この現世に寄せるしばしの時を過ごすこと。
［補足］（蘇軾は杭州で「私は本来、西湖に一艘の舟を浮かべる釣り人であったのだろう」と歌っていた（第4章153ページ））
■減字木蘭花
［解題］諸城県知事の趙昶（字は晦之）（本章30ページに登場）が官職を失って海州に帰るのを見送った詞。
［訳文］
賢哉令尹、（『論語』にある言葉通りです――賢なるかな、この知事は）
三仕之無喜慍。（官職に三度就いて、喜怒哀楽を見せなかった――）
我独何人、（では、私は何者なのでしょう）
猶把虚名玷縉紳。（虚しい名をもっていまも官界を辱めているのです）
不如帰去、（よりよいのは帰り去ること）
二頃良田無覓処。（でも、求めることができないのです、わずかな田も）
帰去来兮、（陶淵明の言葉――帰りなん、いざ――を）
待有良田是幾時。（良い田が得られるのを待っていたら、いつ唱えられるのでしょうか）
［補足］（趙昶が失官した理由は不明。この詞の冒頭の「賢哉令尹、三仕之無喜慍」は、楚の令尹（知事）であった子文を孔子が褒めた『論語』の文章を10文字に要約したもの。後半の「帰去来兮」は陶淵明の『帰去来兮の辞』にあるのをそのまま用いたもの。蘇軾は古典の言葉を自分の作品の中に効果的に取り込むのを得意としたが、これはその典型例。なお、蘇軾は密州に赴任する前に海州に立ち寄っている（本章4ページ））
■超然台記
［解題］蘇軾は密州の住まいの周囲に手を入れ、官舎の北側にもともとあった見晴らしのよい高い建物を改修した。弟の蘇轍がそれを「超然台」と名付け、「超然台の賦」を書いて送ってきた。そして12月に蘇軾はこの文章を書いた。
［訳文］
物という物には全て観るべきところがある。観るべきところがあるのなら、どの物も楽しむことができる。怪な物、奇しい物、偉な物、麗な物でなくても楽しむことができるのだ。酒をしぼった糟を食らったって、薄い水のような酒を啜ったって酔うことができるし、木の実を食べたって、野菜を食べたって、それこそ木を齧り草を噛んだって、腹をいっぱいにすることはできる。このことから類推するに、私はどこに行こうとも楽しめないということないのである。
福を求めて禍を避けようとするのは、福は喜ぶべきであって、禍は悲しむべきであるからだ。人が欲しがることには窮りがなく、しかし、物が人の欲を満足させるのには限りがある。心の中で美しいか醜いかの弁別をして目の前の物を取るか去るかの選択をするのなら、楽しむべきものは結局のところ少なくなり、悲しむべき物は結局のところ多くなってしまうだろう。これは禍を求めて福を避けるということになっているのではなかろうか。
禍を求めて福を避けるのは、人の普通の情ではないだろう。物の存在によって心が蓋われてしまっているからこのようなことになるのである。物の存在の内側で右往左往していて、物の存在の外側に出て自由に遊ぼうとしていないのだ。物にはもともとは大きいとか小さいとかの区別はない。物の存在の内側にあって物を観るのなら、全て高く大きくない物はない。物が高く大きなところから見下ろしてくるのなら、人は常にくらくらおろおろしていなければならない。譬えれば、狭い隙間から大きな合戦を覗き見るようなもので、勝負がどのようになっているのかなど知りようがないのである。このようなことから、美やら醜やらがやたらと生じ、憂いと楽しさがやたらと出てくるのである。大いに哀しむべきではなかろうか。
私は銭塘（杭州）から膠西（密州）の知事に移り、舟に身を任せる安楽さを捨てて、車馬に身を揺られる労苦を強いられ、彫刻が施された美しい塀に囲まれた家を出て、丸太で作られた家に住まわねばならなくなり、湖と山の景観に背を向け、桑と麻の野を歩まねばならなくなった。初めてここに来たときには、穀物の稔らない年が続いていて、たくさんあるものといったら、野に盜賊が満ち、町に裁判沙汰がやたらとあるくらいで、台所はいつもすっからかんで、杞の葉やら菊の花やらを毎日食べなければならなかった。
こういうことであるから、きっと私は楽しんでいないと人は思ったようだ。ところが、私はここにいること一年となって、見た目がふっくらとし、髮は白から黒へと日に日に戻ってきた。私はここの風俗が淳朴であるのを楽しみ、ここの人々は私の拙さにも安んじて暮らしていのである。
ここにおいて私は、果樹園や畑を整備し、家や庭をすっきりさせようと思い、安邱県や高密県の木を伐って、とりあえず壊れたところを修理する計画を立てた。そして、園の北に城壁に寄り添うようにして旧い見晴らし台があったのを、屋根を葺き直して新しくすることにした。
折々に人と連れ立ってその見晴らし台に登ってあたりを覧ると、意は放たれ、志を肆になる。南を望めば、馬耳山や常山が、出たり沈んだり、見えたり隠れたり、近くにあるようでもあり遠くにあるようでもある。そこの山にはきっと隠れ住む君子がいることだろう。東を望めば、盧山があり、秦の時代に盧敖が遁れたところである。西を望めば、穆陵関が黒くもっこりとして城郭のようで、そこには太公望や斉の桓公の武威がここにまで及んだ跡がいまも残っている。北を望めば、濰水の流れがあって、そちらを見て慨然と嘆息するのは、漢の時代に韓信が偉大な功績がありがなら、その終わりをよくしなかったことを残念に思うからである。
この台は高いけれども安定し、奥深くにあるけれど明るく、夏は涼しく冬は暖かい。雪が降る朝にも、月のよい夕べにも、私がそこにいないことはなく、客人が一緒に行かないことはない。畑の野菜を摘み、池の魚を取り、秫で酒を釀し、玄米を粥にして食べ、皆で言うのは、
「楽しいかな、この游びは」
この時、私の弟はたまたま済南にいて、このことを聞いて賦を作り、この台に「超然」と名付けてくれた。それによって私がどこに行こうとも楽しまないでいることがないのは、物の存在の外へと超然と脱け出て遊ぶからであるということを示そうとしてくれたのである。
［補足］（「物にもともとは大きいとか小さいとかの区別はない」と書いているのは荘子の哲学に基づく。物の大小の区別は相対的なものでしかない、だから（と荘子は論理を飛躍させて）、物には元来大小の区別などはなく全ては等しいとする。馬耳山は本章22ページの詩に詠まれていた。その「北台」を修理したのが「超然台」なのだろう。常山は本章38ページで見たように、蘇軾が雨乞いに行った山。盧山は本章37ページにある）
［補足］（蘇軾はこの文章と弟の「超然台の賦」を多数の友人に送った。すると、文同、鮮于侁、張耒、李清臣、司馬光といった人々が「超然台の賦」に唱和した）
■書子由超然台賦後
［解題］蘇轍の書いた「超然台の賦」にこの短い文章を添え書きした。
［訳文］
弟の文章は、言葉の使い方が精密で意味が正確であることにおいて、私には及ばないところがある。しかし、全体の構成の妙や格調の高さにおいては、私は弟に及ばない。私も弟もそれぞれに及ばない点を乗り越えようと勉めたのだが、天から授かった資質によるので、足りないところからはついに脱け出ることができなかった。ところが「超然台の賦」を見ると、精確かつ高妙で、弟はふたつともほとんど会得したようである。最も貴いというべきである。
■和蔣夔寄茶
［解題］蔣夔という人が茶とともに詩を寄せたのに和した。
［補足］（茶について詠んだ詩は、これまでにもいくつか見た（第4章45ページ、157ページ）が、特有の語句が用いられてなかなかに難解である。この詩も一応の文脈がたどれる程度の大まかな訳である）
［訳文］
私の生き方は、百事すべて縁に随うというもの。
四方の水域だろうが、陸域だろうがどこでも結構である。
ちっぽけな舟に身を任せて、長江を渡って呉越地方に行ったところ、
三年の間というものは、
飲むものも食べるものも新鮮で旨いものばかりだった。
金のような齏、玉のような膾、雪のようなご飯、
水中から出たばかりの海の蟹やら川の貝柱、
それらを風に吹かれつつたらふく食べたら、そのままごろんと眠り、
目を覚ましたならば、
「花の乳」ともいうべき茶に軽やかに泡が浮かんでいるのを飲んだのだった。
その後、私は舟を捨てて東の野を行き、桑や麻の畑を巡る川に到ったところ、
毛を刈り取った羊が馬ほどの大きさであるのに驚かされ、
鹿角という魚は生臭さがそこらに渦巻くのに驚かされた。
厨では粟を蒸し、肉の上にてんこ盛りにし、大きな柄杓で酸醤をぶっかける。
そのすっぱそうな匂いに涎が垂れるようになった。
そしてこの地での茶はどうかというと、
「柘羅」「銅碾」といったかねからあるお流儀は棄てられて、
「脂麻」「白土」「盆研」といったものが用いられているので、
私は目をむいてびっくりしてしまい、
人々からは、
「昔ながらのご趣味ですな」
と私は言われてしまった。
「沙溪茶」と「北苑茶」の区別を、
ほんのひと滴で見分けてやろうと先を争ったりもしている。
貴公は、千里の彼方より、二首の清らかな詩とともに、
一万銭の価値のある紫の茶、金の茶を百餅も送って下さった。
詩を吟じても茶を烹かしても、とにかくどちらもすばらしいので、
人が「私も欲しい」と言ってくる煩わしさをいまから恐れている。
ところが、妻や子供らはせっかくの茶を大切にすることを知らなくて、
我が郷里に昔からある作法で、薑と塩を入れて煎出してしまい、
すでにもう半分も残っていない。
それはそれとして、
人生においては、出会うものすべてをよしとすべきなのだろう。
北も南もそれぞれに嗜好があり、
いずれが賢でいずれが愚ということはないであろうし、
どちらが甘くてどちらが苦いか、美しいか醜いかを争うことはしないでよいだろうし、
死生も禍福もどちらかだけ一方を選ばずにいてよいのだろう。
貴公の詩によって、
貴公は厳しい境遇に置かれても自棄することがないのを知った。
この詩は謝礼を申し上げるとともに、いささか自分の思いを述べた次第である。
■塩官大悲閣記
［解題］塩官県に安国寺があり、そこの禅僧の居則が大悲閣を造ったのを記念して、蘇軾はこの文章を書いた。塩官県は、杭州時代に運河の掘削工事の督促をしたときに訪れた土地（第4章63ページ）で、安国寺にも立ち寄っていた（そのときの詩は訳出していない）。
［訳文］
「羊や豕はうまいものである」「酸っぱい、苦い、辛い、鹹い、甘いの五味を調和させる」「秫稲で酒をつくるには曲糵を用いる」。これらのことは天下のどこであっても同じである。材料が同じで、水や火の作用が同じで、寒暖や乾燥・湿潤の気候条件が同じであっても、二人の者が腕をふるったときに、出来のよしあしが等しいとは限らない。
よい出来の人はどこか違うのか。数多く実践するかしないかによるのではないだろうか。古の優れた技の持ち主は数を惜しむようなことはなかった。よくする者は数を経て妙所を得るのだが、よくしない者は数をおろそかにして概略だけを得る。要するに数が大切であって、それをよくするかしないかで、出来のよしあしが現れるのだ。人は結果だけを見て、よい方を求めて背後にあった数は見ないし、そこに至った過程を棄てて結果の妙所だけを追いかける。そして「私は酒食のよしあしを知った」と言うのである。よしあしを分けるのが何であるかをいい加減にし、数を経ることを捨て、大切なのはそこにはないとして、己の思いで造る。世間には数を経る過程を大切にする人は少ない。
いまの学問をする者の病も同じだ。天文・地理・音楽・律暦・宮廟・服器・冠婚・喪紀の法則、史書の『春秋』が記録したかしなかったかの意味、礼がよしとするもの、刑が禁じるもの、歴代の興廃、人の賢・不肖、これらは学ぶ者が力を尽くさなければならないものである。ところがいまの学問をする者はこのように言う。「これらは皆学ぶに足りないものだ。書物に載せることができずに、口で伝えられるものを学ぶべきである」
孔子の弟子の子夏はこう言った。「まだ身についていないところを日ごとに知り、身についてできるようになったところを月ごとに忘れないようにする。このようにすれば学ぶことを好むといえるであろう」。古の学ぶ者は、まだ得ていないところとすでにできるようになったことを一つ二つときちんと数えて、日ごと月ごとに見直したのである。今の世の学ぶ者は、果たして何を得ているのか、何ができているのか。
孔子はこう言った。「私はかつて昼間は食べず、夜は眠らず、ずっと考え続けた。そして、それは無益であると知った。考えるのは学ぶのには及ばないのだ」。このことから見るに、学ばずに考えるのは孔子の禁じたことであるのだが、いまの世の人はそれがよいとしている。
学問をする者だけでなく、仏の道に仕える者も同じである。斎戒して規律を守り、経典を講誦し、塔廟を崇めて飾る。これは仏教者が日夜人に教えていることである。しかし、中にはこう言う者がある。斎戒して規律を守るよりも無心が大切、経典を講誦するよりも無言が大切、塔廟を崇めて飾るよりも無為が大切だと。そして、無心、無言、無為だと言って、その実は飽食して楽に暮らしているのである。これは大いに仏を欺く者ではなかろうか。
杭州の塩官県の安国寺の僧の居則は九歳で出家し、十年後に重い病でほとんど死にそうになった。居則は、戒律を一生守り、千手千眼の観世音像を造り、その名を千万遍唱えると誓った。病は脱したものの力はなく、かろうじて生きること三十余年、ほんのわずかずつ積み上げていって、ついに成就するところとなった。観世音像の高さは九仞、それを容れるのは四重の大屋である。
そして私はこのことについて文章を書くように求められた。かつて私は杭州の人々にここに記したようなことを話したことがあった。しかし、納得して実践しようとした者はわずかであった。居則が勤苦して従事してなしとげるところがあり、志を篤くして節を守り、老いて衰えず、仏を欺く者と大いに異なるのを私は喜ばしく思う。よってこのことを記して、我が密州の人々に知っていただこうと思うのである。
［補足］（この文章には「数」という語が何度となく使われている。大森信徳「『書如其人（書は人なり）』蘇軾の書論に関する一考察――文章論・絵画論を視野に入れて」（2015年）にこの文章の一部が引用されていて、「『数（度）』は『法度（きまり、規範）』と同義と捉えてよいだろう」と記されている。きっとその通りで、前半はそれに従って理解することができる。しかし、後半とどのようにつながるのか、私にはよい知恵がなく、それでこの訳文では、「数」は「数多くこなす」という珍解釈によってまとめてみた）
■鳧約先生詩集叙
［解題］鳧約先生こと顔太初の詩集の序文。鳧約先生がどのような人であるからは本文中に記されている。
［訳文］
孔子は言った。
「昔の人々は、歴史を記録するに当たって、明らかでないところは欠文のままにした。新しい馬を得たときには、人に貸して乗り馴らしてもらった。いまはこうした慎重さが失われてしまった」
欠文や馬を貸すことは、世の中の損益に特に影響することではない。それでも孔子がこのように言ったのは、世の人が手本とすべきかつての君子や長者が年々遠い存在となって、その人たちの立ち振る舞いを若い人たちがもう見なくなると、日に日に小賢しくて口先だけへと流れてしまって留まることがないと考えていたからだ。先の二つのことは世の中の損益に特に影響しなくても、君子や長者の余沢が後世に及ぶか及ばないかが必ず世の損益につながると孔子は考えていたのだ。
私の父はかつて都に行って士大夫と交わり、帰ってくると私にこのように言った。
「今のままでゆくと、文章は日に日に巧みになるだろうが、本当に大切なことは失われてしまうだろう。人々は遠大なことを好み、身近なことをおろそかにしている。華やかさを貴んで、実直であることを賤しんでいる。私は都でこうした兆を見たのだ」
そして、魯の人の鳧約先生の詩文十余篇を私に示し、
「このことを覚えておけ。これから数十年の間に、天下にこのような詩文はもはや存在しなくなるであろう」
鳧約先生の詩文はどれも実践を踏まえて作られたもので、見かけは精悍ではなはだごつごつとしていて、世の中の過ちを言い当てないことはなく、五穀がきっと飢えを癒すのと同じように明瞭で、薬が病を伐るのと同じくきっぱりとした物言いである。高く遊離したところで議論をもてあそんだり、半端な言葉で美しく見せたりするようなことは、鳧約先生には一切ない。
それから二十余年が経ち、我が父は亡くなったけれど、その言ったことは的中した。人々が文を作るとき、現実に存在するものから超然と抜け出て、明瞭でない言葉で高邁なことを論じようと、そのようなことばかりしている。漢や唐の文章などは野暮であるとし、正しい議論を軽んじ、やたらと難癖をつけてまわっている。鳧約先生の文を貴ぶようなことはない。
私は先の孔子の言葉と同じような意味で、このことを悲しむのである。父の遺訓を思って、私はますます先生の文を求め、先生の子の顔復からこの詩集を得たので、このことを記録して我が蔵書とする。
鳧約先生の諱は太初、字は醇之、姓は顏氏である。孔子の弟子の顔淵の四十七世の孫であるという。
［補足］（父の蘇洵が鳧約先生の詩文を蘇軾に示したのは、蘇洵が科挙に落第して帰郷したときだったのだろう。蘇洵は空疎な美文がもてはやされる風潮に絶望して故郷で独り研鑽に励んだ（第1章62ページ）。顔太初の子の顔復は蘇軾より2歳年長で、王安石の科挙の改革に反対して都を出ていた。この少し後に蘇軾は顔復と直接会う（本章185ページ）。この文章には、科挙の改革が学問の本質を損ないつつあるとする問題意識があり、先の『塩官の大悲閣の記』と共通性がある）
■立春日病中邀安国仍請率禹功同来僕雖不能飲当請成伯主会某当杖策倚几於其間観諸公酔笑以撥滞悶也二首
［解題］長い詩題の大意は次の通り。「今年は12月のうちに立春となった。体調不良でくさくさするので、文勛（字は安国）を呼んで、喬敍（字は禹功）を連れてきてほしいと頼んだ。さらに趙庾（字は成伯）も呼んで3人で酒宴を開かせ、自分は飲めないながらも人々が酔って談笑するのを見て楽しんだ」。2首のうちの1首を訳す。
［補足］（文勛は公務を帯びて密州にきていて、喬敍は本章19ページなどに登場、趙庾はこの年の秋に副知事として密州に赴任した）
［訳文］
其の一
ぽつんと一つの燈火が私を照らす。
夜はまだまだ長い。
花の枝を手にしても、見るのは気おくれがする。
まして、簪の代わりに花を挿すのは、この白髪では恥じらいに耐えない。
立春の日に盤に盛る御馳走も、病にある私には、野菜の粥だけでよい。
この地では、春になると、犬の肉を煮て宗廟に供え、
畦道に牛の形の土の像を競って並べて今年の豊凶を占う。
昔の人はこのように言った――
「老人だって遊びたかったりするものだ」
というわけで、私だけが部屋の隅の方を向いていたら、
一堂の者だって歓びがないのではないかな。
［補足］（ちなみに、暦の関係で12月のうちに立春がきてしまうことの不思議を詠んだ在原元方の「年の内に春はきにけり ひととせを去年とやいはん 今年とやいはん」を巻頭に置く『古今和歌集』の撰進の勅命が下ったのは蘇軾のこの詩の170年前のことである）
■密州通判庁題名記
［解題］この文章は蘇軾が密州を去ってから後に書いたもの。前の詩に登場した趙庾とかねてから交流があったことが知れるのでここに掲げる。
［訳文］
趙君（趙庾）はかつて眉州の丹稜県の知事となり、町の人はいまに至るも趙君のことを褒め称えている。私はその隣の町の人間であるから、そのことを詳しく知っている。趙君が丹稜県知事を辞めたときに、私はたまたま（父の喪に服して）眉州に帰っていたので、趙君と初めて識り合うことができた。
その後、私が都から杭州に出ることになったとき、趙君は泗州の副知事となり、同じ日に朝廷で辞令を受けた。宮殿の外の門で二人は顔を合わせ、手を取って語った。そして杭州に赴く途中、泗州で趙君と会い、先春亭で大いに飲んで大いに酔って別れた。
そして、私が密州の知事として移った後で一年もしないうちに、趙君が副知事としてやってきた。
私は、本性として言葉の慎みに欠け、親しいか疎いかの区別なく、人に向かって腹の内にあることをそのまますぐに言葉に写して残さず出してしまうところがある。喉から下っていこうとしない腐った物を必ず吐き出してしまわずにはいられないのと同じである。人によっては、私の言葉を胸に刻み、私を怨んで咎めるようになったりもする。そのために私はたくさんの人と深く付き合うことができない。
趙君と馴染になってみると、趙君は穏やかにしておおらかで、表も裏もなくいつもからりとしているので、趙君との付き合いを私ははなはだ楽しむようになった。しかも、趙君は役所の仕事に励み、お上の仕事を自分の家のことにように熱心に取り組むので、密州に副知事としてきてくれてからは、私はゆっくりできるようになった。
趙君はこう言った。
「副知事の庁舎の壁には、額に掲げた文章がありません」
そして、趙君は、かつてここで勤めを為した者の姓名を集め、一文を添えるように私に託した。
ところが、私はそれを書く暇がないままに他所に移ってしまった。私が徐州に赴任してからも、趙君からの手紙はいつもこのことが書かれていて、「貴殿に頼むのは不朽のものとしたいからだ」と言うのである。その訳は、昔、羊祜が襄陽の峴山に登ったときに、同行した鄒湛に向かって羊祜はこう言った。「宇宙があるようになって以来、この山がある。これまでに、我等と同じように、ここに登って遠くを見た者があまたあったろう。それらの人々は全て埋もれて消えてしまい、誰がいたと聞える人はいない。悲しいではないか」。鄒湛は言った。「公のお名前はきっとこの山とともに後世に伝えられることになりましょう。私のごときの者が公のおっしゃる通りになるだけなのです」。天下の人々がいまに至るも鄒湛が峴山にいたことを知っているのは、羊祜が賢者であったからだ。それと同様のことを趙君は期待しているというのだ。
ところが、私は頑なで野卑で自分勝手で、かつ老いてしまって、後に世の人から顧みられるようなことはまずない。自分自身が言うに足りない者であるのだから、その上に、趙君が名を残すようなことになろうはずがない。しかし、一言も書かないというわけにもいかないであろう。もしもこの文章が、数百年の後に、崩れ去った壁や埋もれた井戸から見つかったりしたならば、茫然と嘆息するくらいのことのよすがになってくれるのかもしれない。
［補足］（蘇軾は峴山を実際に登っていて、そこで詠んだ詩を第1章53ページで見ている。やはり羊祜が提示した永遠性がテーマになっている。蘇軾はここで、自分と趙庾の関係は羊祜と鄒湛のようにはならないと書いているが、実際には、蘇軾のこの文章によって趙庾の名は後世に伝わるようになった。先の詩で見た田員外や賀秀才（本章43ページ）のような一般庶民の名は蘇軾の詩文を通してしか我々は知ることができない。今後そのような事例を多数見ることになる）