第12章　南の島の暮らし――海南島

［第12章その一］

紹(しょう)聖(せい)4年［1097年］、蘇(そ)軾(しょく)62歳。

■【12-1-001】付邁

【解題】これは長男の蘇(そ)邁(まい)に与えた短文。蘇邁が仁(じん)化(か)県の知事として赴任するに際し、足を少しばかり延ばして蘇軾のもとを訪れたのは2月の末ないし閏2月の初め［→作品番号11-3-066］。この文章の日付は4月15日で、蘇邁はそれまで2カ月半ほども恵(けい)州に留まっていた。それほど長期にわたったのには次のような事情があった。蘇邁が恵州に到着したころの2月28日、都では蘇轍に対して「責(せき)授(じゅ)化(か)州(しゅう)別(べつ)駕(が)雷(らい)州(しゅう)安(あん)置(ち)」の処分が下された。「責授」とは「罪を責めて授ける」という意味で、蘇轍をはっきりと罪人にし、「化州別駕」という名目だけの官職に地位を下げたうえで、雷州に「安置」するというのである。「安置」とはこれまで何度か見てきたように、その地から離れることの許されない監視下に置くものである。雷州は恵州よりも南西の地で、中国大陸のほとんど南端に近い。この朝廷の決定がいつ恵州に聞こえてきたのかはわからないが、弟に重い処分が新たに加えられたからには、蘇軾にも何からの沙汰が及ぶに違いないと、蘇邁は仁化県への赴任を見合わせたようである。そして、閏2月19日、蘇軾に対して「責(せき)授(じゅ)瓊(けい)州(しゅう)別(べつ)駕(が)昌(しょう)化(か)軍(ぐん)安(あん)置(ち)」の処分が下された。弟と同内容で、安置される場所の昌化軍は、雷州とは海を隔てた海(かい)南(なん)島(とう)にあって、そこの儋(たん)耳(じ)という小さな町に行かなければならなくなったのである。都から見たら、恵州はすでに遠く隔絶した南の涯で、海南島はいわゆる「海(かい)外(がい)」の地である。蘇軾を嫌う人たちからしたら、南の涯に追いやったにもかかわらず、いろいろな人がひっきりなしに訪れ、支援者が周囲に大勢いるのでは面白くない、誰も行けないようなところに置いてもっと懲らしめてやろうということになったのであろう。その上、処分を受けた者の親族は、安置される場所の近くで官職に就くことを禁止するという決まりも定められた。それによって蘇邁は仁化県知事の職を失うことになった。恵州知事の方(ほう)子(し)容(よう)が来て皇帝からの命令書を蘇軾に手渡したのは4月17日で、それより少し前に蘇軾の耳に処分の内容が達し、海南島に渡るための準備を慌ただしく始めるなかで書いたのがこの短文である。

【訳文】

　其の一

古(いにしえ)の人は「有(ゆう)は無(む)のごとく、実(じつ)は虚(きょ)のごとし」といった。そなたは無にして虚であろうか。人からは、そなたはでくの坊で、できることが何もないといわれるのでよいのだ。そのように聞くことが私の望みだ。

言葉を慎め、飲食を控えよ、遅く寝て早く起きよ、身体を安らかに善(よ)くすることに努めよ。

書(しょ)に臨んでそなたに告げる。

蘇(そ)邁(まい)に付す。四月十五日。

　其の二

この硯はきめ細やかで墨が散らない。この紙は滑らかで字が乾きやすい。いずれも優れたものだ。私は普段から特に好むものはないが、ただ佳(よ)い筆墨だけは好む。罪を得て海(かい)南(なん)島(とう)に謫(たく)されることになった。養生の道具は十のうち八ないし九はなくなり、佳い紙も佳い墨もゆくゆくは尽きてしまうだろう。そのようになったならば、何をもって我が娯(たのし)みとしたらよいのか。そのために慨(がい)然(ぜん)となる。

書いて蘇邁に付す。

【補足】［白(はく)鶴(かく)峰(ほう)に新居を構え、穏やかな日々を得ていた蘇軾であったが、そこでの暮らしはわずか3カ月間で終わった。朝廷の処分をどのような思いで受け止めたのか、この二つの短文からいろいろに推測できるであろう］

■【12-1-002】自画背面図并賛

【解題】蘇軾は自画像を描いて蘇(そ)邁(まい)に渡したともいわれ、この一文が伝えられている。生きてもう一度会えることはないと覚悟して描いたのであろう。

【訳文】

元(げん)佑(ゆう)の罪人、その姿を写して蘇(そ)邁(まい)に示す。

【補足】［南(なん)宋(そう)の費(ひ)袞(こん)の随筆『梁(りょう)渓(けい)漫(まん)志(し)』に、蘇軾の恵(けい)州での日々を総括したような文章があるのでここで見ておこう。

【訳文】

費(ひ)袞(こん)：『梁(りょう)渓(けい)漫(まん)志(し)』より

（唐(とう)の中頃に）陸(りく)贄(し)は忠(ちゅう)州に流されると、門を閉ざして来客を断り、ただ薬に関する書物だけを集めた。出て人と交わると、その際の行動や言葉が謗(そし)りを招くもとになると考え、陸贄は慎んだのである。後に罪を得て遷(うつ)される者は多くそのやり方に従った。

蘇(そ)東(とう)坡(ば)はそうではなかった。蘇東坡が恵(けい)州にいたときに、程(てい)之(し)才(さい)が広(こう)中(ちゅう)提(てい)刑(けい)になり、蘇東坡は家の中でも外でも程之才と会い、恵州の官の仕事に関わることをことごとく程之才に告げた。恵州では諸役人の仕事場が市中に散在していて、緊急のときに過ちを冒しやすかった。蘇東坡は三百の部屋がある建物を造ったらよいと考え、王(おう)約(やく)をその総監督として程之才に薦めた。恵州では秋に納める分の税は米六万三千石余りで、そのうちの五万以上を銭で納めるように求めていたが、蘇東坡は嶺(れい)南(なん)には銭が少ないことをもって、銭でも米でも都合のよい方で納めればよいようにするよう提言した。博(はく)羅(ら)県で大火があったときには、蘇東坡は県知事の林(りん)抃(べん)には罪がなく、仕事を任せられる能力があるから、庁舎や倉庫の修復に当たらせるように薦めた。恵州で橋を造ったときには、役人が必ず費用の半分くらいをごまかしてしまうと考え、しっかりとした者を選んでこの事業を成し遂げるように勧めた。さらに、広(こう)州知事の王(おう)古(こ)に手紙を書いて道(どう)士(し)の�ｹ(とう)守(しゅ)安(あん)を推薦して、蒲(ほ)澗(かん)水(すい)から（竹の筒で）水を町に引いて、町の人が塩辛い水を飲まなくてすむように、そして春夏の疫病の患いを免れるようにしたらよいと記した。

およそこれらのことは、官の政(まつりごと)に関わることで、恩も怨みも生じやすことであるのだが、蘇東坡は敢然と行って、我が身に誹(そし)りがふりかかるかもしれないという心配はしなかったのである。

蘇東坡が義において勇であることはこのようであった。謫居中であってもこうであったのだから、朝廷にあっては、死生禍福によって動かされるようなことは全くなかったのである。

【補足】［前章で見た通り、この一文は事実をほぼ正確に伝えているようである。（1）唐(とう)代(だい)の陸(りく)贄(し)は、蘇軾がその文章を学ぶべきだと皇帝に力を込めて推奨していた賢人［→作品番号10-3-016］。陸贄は皇帝に対して数々の有益な意見を具申したにもかかわらず讒言によって忠(ちゅう)州に流されると、そこでの10年間はひたすら薬の研究をした。（2）秋に納める税に関する部分は、原文の意味がよく読み取れなかったので、大まかな訳である。林語堂『蘇軾』（1988年）によると、穀物の価格が下落したにもかかわらず、役人はもとの高い価格に合わせて銭納せよと命じていたので、蘇軾は価格の実情に合わせて課税するよう制度を変更すべく関係方面に働きかけたということであるようだ。（3）広(こう)州の給水システムについては、王(おう)古(こ)にそのことを提案した手紙を作品番号11-3-069で見ている。（4）この随筆の結びの、蘇軾が朝廷にあるならばという思いは、蘇軾自身が一番強く持っていたのかもしれない］

■【12-1-003】自評文

【解題】いつ書いたのか確かなことは明らかではないが、恵(けい)州で記したのではないかと推測されている。自身の文章についての評である。

【訳文】

私の文は一万斛(こく)の水を湧かせる泉の源のようなもの、しかもどこの地がよいとか選ぶことなくどこででも湧き出る。平らな土地ならば、滔々(とうとう)と湧き出て広く広く水にひたして、一日に千里の距離に及ぶのも難しくはない。山に衝(つ)き当たれば、その物に従って姿を変化させ、その千変万化のありさまは誰にも予想がつかない。わかっているのは二つのこと。進むときには進めるだけ行き、止まるところにはきっと止まるのである。かくして文は終わりに至る。その他のことは私にも全くわからない。

■【12-1-004】僧伽同行

【解題】朝廷が蘇軾に下した辞令を恵(けい)州知事の方(ほう)子(し)容(よう)［→作品番号11-3-071］が自ら携えて蘇軾のもとに持ってきたことがこの短文に記されている。

【訳文】

『泗(し)州(しゅう)大(だい)聖(せい)僧(そう)伽(か)伝(でん)』にこのようにある。

「僧(そう)伽(か)和(お)尚(しょう)は何(か)国(こく)の人である」

このようにも書かれている。

「世間の人は僧がどこから来たのかを知らない。何国の人であるかどうかわからないという」

近ごろ『隋(ずい)史(し)』の「西(さい)域(いき)伝(でん)」を読むと、何国があった。

私は恵(けい)州にあって、罪によって儋(たん)耳(じ)に行くことを命じられ、恵(けい)州知事の方(ほう)子(し)容(よう)が自身で告(こく)身(しん)［辞令］携えてやって来た。そして、私を慰めるためにこのようにいった。

「これはきっと前から定まっていたことなのです、どうか恨んだりなさいませんように。私の妻の沈(ちん)氏は僧伽和尚に甚(はなは)だ謹んで仕えておりますが、ある夜、夢に和尚が別れを告げに来られました。妻が、『どこかに行かれるのでしょうか』とお尋ねすると、和尚が答えられたのは、『蘇軾と一緒に行くことになった。これから七十二日後に、まさにそうなるであろう』と。今日はたまたまそれから七十二日であります。前からの定めに違いないのです」

私は、もとよりこれは前からの定めによるものだと、こうした夢があろうがなかろうが、わかっている。それにしても、和尚がかたじけなくも同行してくださるとは、私はいった何者なのだろうか。先の世に少なからぬ縁(えにし)があったのだろうか。

【補足】［（1）文章の冒頭にある「泗(し)州(しゅう)大(だい)聖(せい)僧(そう)伽(が)」は蘇軾もかねて詩文などに記していた唐(とう)代(だい)の有名な僧である［→作品番号10-2-019、03-4-032など］。僧伽和尚は特に旅の安全を守ってくれる霊力があるとして広く信仰されていたようだ。（2）方(ほう)子(し)容(よう)の妻が本当にこのような夢を見たのかどうかはわからないにしても、海を渡って流謫地に行かねばならない蘇軾にとっては、心強く感じるものがあったであろう］

■【12-1-005】答王敏仲

【解題】蘇軾は、長男の蘇(そ)邁(まい)ら家族を恵(けい)州知事の方(ほう)子(し)容(よう)に託し、三男の蘇(そ)過(か)だけを伴って海(かい)南(なん)島(とう)に向かった。これは広(こう)州に向かう途中で、広州知事の王(おう)古(こ)［字(あざな)は敏(びん)仲(ちゅう)］［→作品番号11-3-069］に宛てた手紙。

【訳文】

息子が帰ってきてお手紙を頂戴し、それによって貴君の起居の佳勝なることを具(つぶさ)に知り、甚(はなは)だ嬉しく思いました。ところが、舟で扶(ふ)胥(しょ)鎮(ちん)に到り、飛脚が話すのを聞くと、貴君は袁(えん)州知事を拝命したとのこと。嘆いてやみません。人が進み留まるのは天によるものでありましょうから、何もいうことはできません。道(どう)眼(がん)［真理を見抜いた目］によって物事を照らし見て、平らかなお気持ちで行かれることでありましょう。あまりにも俄かに進もうとするのは、お心を疲れさせてしまいましょうか。

【補足】［（1）先に弟に安置処分が下されたことを聞いて、蘇軾は詳細を知ろうとして息子を広(こう)州に行かせたようだ。その息子が帰ってきて、王(おう)古(こ)からの手紙を得たことがここの冒頭に記されている。（2）蘇軾に一段と重い処分が下されると、蘇軾と親しくした王古にも影響が及び、袁(えん)州知事に配置換えとなった。広州は遥か南方の地とはいえ大都市で、袁州は田舎の小都市であるから、明らかな降格処分であった］

■【12-1-006】答王敏仲

【解題】もう一通、（元の）広(こう)州知事の王(おう)古(こ)［字(あざな)は敏(びん)仲(ちゅう)］に宛てた手紙を見ておこう。これは海を渡って海(かい)南(なん)島(とう)に着いてから書いたものであるが、恵(けい)州を去ったときの蘇軾の覚悟が記されているのでここで読んでおこう。

【訳文】

老いのときに及んで辺地に放り出され、生きて還る望みはなく、後の処置を託して、長男の蘇(そ)邁(まい)と訣別しました。今は海(かい)南(なん)島(とう)に到り、真っ先にすることといえば棺を作ること、次にするのは墓にすべきところを得ること。息子たちに書いたものは渡し、死ねば海の外に葬られます。……生きては家の者を携えず、死んでは家の者が柩を抱くことがない、これが我が東(とう)坡(ば)の家風でありましょうか。ただ静かに座って我が身を照らし見るだけです。……

■【12-1-007】吾謫海南、子由雷州、被命即行、了不相知、至梧乃聞其尚在藤也、旦夕当追及作、此詩示之

【解題】この詩の題は「私は海(かい)南(なん)島(とう)に謫(たく)され、弟は雷(らい)州に謫された。命令をいただいてすぐに出発し、弟がどうしているのか知らずにいた。梧(ご)州に至ったところで、弟はなお藤(とう)州にいると聞いた。ならば一両日中に追いつくであろうと、この詩を作って弟に送った」。これは5月10日のころのことで、盛夏のなかを20日余り旅して疲労も蓄積してきていたであろうが、弟と間もなく会えるとわかってにわかに活力を取り戻してこの詩を詠んだのであろう。

【訳文】

我が旅の来し方行く末は――

衡(こう)山(ざん)から湘(しょう)水(すい)のあたり、連綿と九(きゅう)疑(ぎ)山(さん)が聳える、

その先の天の彼方に蒼(そう)梧(ご)の原がある、

そこは（聖天子の）舜(しゅん)が葬られたところ……。

いま、煙る林の向こうにぽつんと町があり、

角(つの)笛(ぶえ)が遠く聞こえてくる……。

まだ落ち尽くしていない月があり、

ぼんやりと江(かわ)の流れを照らしている……。

夜は孤独のなかで、枕辺に座って嘆息する。

私はこうして旅を続け、

いつしか地の果ての蒼梧の原にまで来てしまったのか。

川辺で会った老人がこんなことをいった。

「あなたさまのようにお背が高く、

　鬚が白くて、頬が紅いお方でございましたなあ」

そうだ、それは君なのだ。

瓊(けい)州［蘇軾が行くところ］と雷(らい)州［蘇轍の行くところ］は遠く雲海を隔てていると、嫌がることはない。

聖恩によって、互いに遙かに望みみることのできるところに住むのを許されたのだ。

普段から道(みち)を学んできたのは真に実(まことにある)ものを知るためで、

それは僕等が困窮するか栄達するかによってどうこうなるものではない。

天は僕を古(いにしえ)の箕(き)子(し)にするつもりであるらしい、

だから、僕は箕子と同じく、

文明から遠く離れた地に身を置いて、そこの人々を教え導く、

そのために行くのだ。

後々に地理書を作る者がいたならば、

万里の彼方の海(かい)南(なん)島(とう)こそは真に我が郷(さと)であると記すであろう。

【補足】［（1）詩の冒頭は実際の地理を反映したものではない。古い伝説を持ち出して、遥か南の地の旅のイメージを歌っているのである。（2）海の向こうに行くことに不安な気持ちがなかったはずはない。しかし、そこに自分の使命を、かなりのこじつけではあるが見出して、「海南万里真吾郷」［海(かい)南(なん) 万(ばん)里(り) 真(しん)に吾(わ)が郷(きょう)］と力強く歌いおさめている。（3）この後、蘇軾は藤(とう)州で弟に追いつき、汝(じょ)州で別れてから［→作品番号11-1-010］3年ぶりで会うことができた。2人がどのようなことを語り合ったのか、残念ながら記録はほとんど残っていないのだが、南(なん)宋(そう)の陸(りく)游(ゆう)の随筆『老(ろう)学(がく)庵(あん)筆(ひっ)記(き)』はいかにも蘇軾らしいエピソードを伝えている。

【訳文】

陸(りく)游(ゆう)：『老(ろう)学(がく)庵(あん)筆(ひっ)記(き)』より

呂(りょ)商(しょう)隠(いん)［字(あざな)は周(しゅう)輔(ほ)、陸游と同じ時代の成(せい)都(と)の人］はこのようなことをいった。

東(とう)坡(ば)先生と黄(こう)門(もん)公(こう)［蘇轍］が南に遷(うつ)ったとき、梧(ご)州と藤(とう)州の間でたまたま二人は出会った。道のかたわらに湯(タン)餅(ピン)［うどんのようなもの］を売る者がいたので、一緒に買ってそれを食べた。ひどくまずく、とても食べられるようなものではなかった。黄門公は箸を置き、ため息をついた。東坡先生はすでにとっくに食べ尽くしていた。そして、ゆったりと黄門公に、

「きみはそいつをまだまだもぐもぐやっていたいのかい」

と、いい、大いに笑って立ち上がった。

（蘇軾の弟子の）秦(しん)観(かん)はこの話を聞くとこのようにいった。

「これは先生の酒の飲み方、飲(いん)湿(しつ)の法である」

【補足】［「飲(いん)湿(しつ)の法」とは、蘇軾がかつて詠んだ詩に、「黄(こう)州の町に三年いて、酒を飲んでも（ろくなのがないので）喉をちょいと湿らせるだけだ」［→作品番号06-5-035の其の四］というのがあるのを指す。まずい酒は味わうことなく喉を湿らすだけでとにかくぐびぐび飲み込んで、手っ取り早く酔っぱらってしまうのがよいという意味合いである。湯(タン)餅(ピン)があまりにもまずかったので、蘇軾は丸呑みしたのに対して、弟は呑み込むこともできずにぐずぐず噛んでいたのである。もとは朝廷の大官であった2人が、田舎の屋台でこうしたやりとりをし、それが嘉話として文人たちの間に伝えられていったのは、なかなかに愉快なことである］

■【12-1-008】和陶止酒、并引

【解題】蘇軾は5月11日に藤(とう)州で弟と合流し、そこからは進むペースを落とし［弟と過ごす時間を少しでも長くしかったのだろうか］、1カ月近くかけて6月5日に雷(らい)州に至った。弟には妻と息子の蘇(そ)遠(えん)が同行していた。そして、6月11日に弟と別れて海を渡った。そのときに、陶(とう)淵(えん)明(めい)の『酒を止(や)める』の詩に和して弟に贈った。そうした経緯を記した序文がある。

【訳文】

引(いん)［序文］

丁(てい)丑(ちゅう)の歳［紹(しょう)聖(せい)四年］、私は海(かい)南(なん)島(とう)に謫(たく)され、弟もまた雷(らい)州に貶(おとしめ)られた。五月十一日に藤(とう)州で遇(あ)い、ともに雷州に至った。六月十一日に別れて、私は海を渡った。私はこのときに痔を病んで呻吟し、弟は一晩中私の横で眠らずにいた。そして、陶(とう)淵(えん)明(めい)の詩を誦(うた)って、私に酒を止めるよう勧めた。それで、もとの韻に和して、送別の詩として贈った。できれば本当に止めたいものである。

【補足】［蘇軾の痔はよくなったはずなのだが［→作品番号11-3-015］、また悪くなった。喉元過ぎれば熱さを忘れるで、飲酒の禁を破ってしまったからなのだろうか。体に悪いとわかっていても本当にはやめられないというのは、蘇軾の人間性を表していて面白い］

時が来れば、ものの変化とともに逝くのであって、

路が窮まったからといって、僕は止まるわけではない。

君とそれぞれに行くことを思っていのだが、

同じく南の涯の地に落ちてしまった。

二人とも名ばかりの官職に寂しく落とされ、

それぞれ一番下の息子を連れている。

君の部屋には昔の孟(もう)光(こう)のような立派な妻がいる。

僕の部屋には仏法を信じる喜びがあるだけだ。

僕と君は山と谷との間で逢い、

一カ月の間、一緒に寝起きした。

これからは広々とした海の南と北に分かれる。

生きてゆくことはほぼどうにかなるであろう。

君は僕に陶(とう)淵(えん)明(めい)を師匠にせよと勧めてくれる。

僕は力が弱いのでしばらくはできてもだめになってしまうだろう。

痔というつまらない病は杯を酌む罰として起こるのであって、

酒を止めればきっと癒えるはずだ。

道を望み見て、まだ渡ってはいないけれど［病気の治療と旅を兼ねて歌っている］、

渡し場はそれとわかるように見えている。

とすれば、これからは東(とう)坡(ば)の部屋では、

杜(と)康(こう)［酒造りの名人］を祀ることはしないのだ［酒は止めるということ］。

■【12-1-009】与楊済甫

【解題】雷(らい)州に滞在していた間は、雷州知事の張(ちょう)逢(ほう)が蘇轍のためには官舎を用意したり何かと世話をしてくれ、蘇軾のためには人を手配して海(かい)南(なん)島(とう)に渡る船の出る遞(てい)角(かく)場(じょう)にまで送ってくれもした。渡し場に到着したのは6月10日で、そこでは土地の馮(ふう)大(たい)鈞(きん)という者が乗船までの手助けをしてくれた。渡し場に1日滞在する間に、蜀(しょく)の眉(び)州からの兵［伝令］が追いかけて来て、蘇軾は楊(よう)済(せい)甫(ほ)からの手紙を受け取った。楊済甫は蘇軾の故郷の旧い友人で［→作品番号11-2-107］、その息子の楊(よう)子(し)明(めい)とは恵(けい)州に到る旅の初めのころに会っていた［→作品番号11-1-008］。時間の経緯からすると、楊済甫は蘇軾が海南島に移されるのを知る前に手紙を出していて、兵は蘇軾がすでに恵州を去ったと聞いてあわてて追いかけてきたのかもしれない。蘇軾は急ぎ返信を記し、眉州に帰る兵に託した。

【訳文】

（1）眉(び)州の兵が来て、お手紙を頂戴しました。御健勝であることを具(つぶさ)に審(つまび)らかにいたしました。お互いに安らかであるのが何よりであります。

私は末の息子の過(か)と南に来て、ほかの者は恵(けい)州に留めました。あれこれあたふたとし、何かと労苦ばかりがあります。それでも、胸の中は自ずと翛(のび)然(のび)としております。

今日は海岸に至り、地名を遞(てい)角(かく)場(じょう)といいます。明日は順風で即座に島に着くでありましょう。

郷国を回(めぐ)り望むと、真に天の末にあります。この手紙を留めてお別れとします。自重されますことを遠くより願っております。

（2）私ども兄弟は世渡りがよろしくなく、そろって遠く流されてしまいました。先祖伝来の墳墓は遥か彼方で、それを思うと涕(なみだ)がこぼれます。貴君とは前々からの長い契(ちぎり)がありますので、どうかお心に留めてください。死んでなおその厚い徳を忘れるものではありません。

【補足】［ここでも墓のことを楊(よう)済(せい)甫(ほ)に頼んでいる［→作品番号11-2-107］］

■【12-1-010】与史氏太君嫂

【解題】眉(び)州に帰る兵には従兄の蘇(そ)不(ふ)危(き)の妻の史(し)氏への手紙も託した。蘇不危は伯父の蘇(そ)渙(かん)の子で、すでに亡くなっている［→作品番号10-3-030］］

【訳文】

私は海(かい)南(なん)島(とう)に謫(たく)され、あたふたと広(こう)州を過(よぎ)るなかで、甥［史(し)氏の子の蘇(そ)時(じ)］が科挙に及第としたと聞きました。流落の中にあって慶賀すべき報せであります。三兄［蘇(そ)不(ふ)危(き)］が普段から孝(こう)義(ぎ)廉(れん)静(せい)で自身の信念を守り、嫂(あねうえ)が賢明で正しく教え導いた結果であります。そうしたことに天が報いないことはないと知れました。

明日はまさに大海を渡ります。急ぎこの手紙をしたためて、嫂(あねうえ)に私の意(おもい)を知っていただきたく思うだけです。

【補足】［蘇軾より一世代下で科挙の合格を果たしたのは、恐らくこれが最初であったのだろう］

■【12-1-011】与張逢

【解題】海(かい)南(なん)島(とう)へは瓊(けい)州海峡を渡る約50キロの船路。それは蘇軾にとって初めての本格的な航海で、大きな不安を抱き、渡し場の近くにある伏(ふく)波(は)将(しょう)軍(ぐん)廟(びょう)に安全を祈りに行き、そのかいあってか順風を得て無事に瓊州に到着した。これは航海を終えた後に、雷(らい)州知事の張(ちょう)逢(ほう)に宛てた手紙。

【訳文】

兄弟ともに流落し、貴君の治める雷(らい)州に二人で至りましたときに、ひとかたならぬ御助力を賜り、その御高義に感服し、いまも感謝の念に堪えません。お別れしてからいくばくも経ちませんが、貴君を思うこと、日に日に深まるばかりです。その後はいかがお過ごしでありましょうか。

私はすでに瓊(けい)州に至りました。海は何の虞(おそれ)もなく渡ることができました。それも貴君の庇護の余りによるものでしょう。すぐに西に向かいます。顧みるにますます貴君とは遠くなり、再会はいつとも知れません。万々自重されますように。旅の途中に慌ただしく記しました。

【補足】［張(ちょう)逢(ほう)はこの後も雷(らい)州での蘇轍の暮らしを支え、蘇軾に対しても海(かい)南(なん)島(とう)へいろいろな物品を送るなどした。兄弟に寄せたそのような厚意が、新法党の政権下では許されるものではなかったことは後に見るであろう］

■【12-1-012】行瓊、儋間、肩輿坐睡。夢中得句云、千山動鱗甲、万谷酣笙鐘。覚而遇清風急雨、戯作此数句

【解題】蘇軾は海(かい)南(なん)島(とう)に上陸すると、すぐに瓊(けい)州から西へ100キロ余り先の儋(たん)州［昌(しょう)化(か)軍］へと陸路を進み、その途中でこの詩を詠んだ。詩の題は、「瓊州から儋州の間を行き、肩(か)輿(ご)に坐わって睡(ねむ)った。夢の中で『千山動鱗甲、万谷酣笙鐘』［千(せん)山(ざん) 鱗(りん)甲(こう)を動(うご)かし、万(ばん)谷(こく) 笙(しょう)鐘(しょう)は酣(たけなわ)なり］という句を得た。覚めると涼しい風が吹き、急な雨に降られた。戯れにこの数句を作った」。

【訳文】

四つの州がこの一つの島を環(めぐ)り、

百の洞(ほらあな)がその中のあちこちに蟠(わだかま)る。

私は島の西北の隅を行く。

あたかも弓なり月の上半分を渡るのである。

高いところに登り、「中(ちゅう)原(げん)」［大陸］を望み見る。

あるのはただ水の積み重なりだけ。

この我が生命(いのち)はこの先どこに帰って行くのか。

四方を顧みて、

まさに我が途(みち)は窮まってしまったのか。

――我こそは談(だん)天(てん)翁(おう)［宇宙について説いた昔の賢者］、

天について好き放題に談じようではないか。

観(み)るがよい、

この大海とてごくごく微小なもの、

広い広い大きな倉の中の一粒の米だ。

どれが大きいのか、どれが小さいのか……。

塞がっていた懐(おもい)がたちまち破裂する、

永(なが)く永く嘯(うそぶ)くと、

天から風が吹き寄せ、

千の山が鱗を動かすように踊り出し、

万の谷から笛を吹き鐘をつくような音が湧き立つ、

そうだ、山や谷はいずれもが仙人たちなのだ、

仙界の宴(うたげ)はいま真っ盛り、

仙人たちは私がいよいよ帰ってくると喜んでくれているのだ、

私は酒を挙げ、

青(せい)童(どう)君(くん)［仙人の一人］に挨拶をする――

急な雨がくる、

これにはきっと意(こころ)があるに違いない。

夢がたちまち現実となり、

竜が群がり走って、私に詩を詠むよう促し、

雷が笑い声を立て、風景が一変する。

さあ、驚くがよい、

この東(とう)坡(ば)老(ろう)、

老いて顔はすっかり衰えてしまったけれど、

言葉だけはとにかく工(たくみ)なのだ。

どうだ、この我が妙(たえ)なる声は、

長らく蓬(ほう)萊(らい)宮(きゅう)［仙界の宮殿］に聞こえていなかったものであろうぞ。

【補足】［南の涯のさらに涯と認識されていた島に来て、暗く鬱屈していた気持ちを一気に爆発させて、蘇軾は空想の世界に遊んだのである］

■【12-1-013】次前韻寄子由

【解題】上の詩に和して弟に寄せた。

【訳文】

僕は若いころからすでに多難、

一生は堂々巡りの中だ。

百年の寿命を満たすのはたやすくなく、

いつでも強い弓を、一寸また一寸と引いていなければならない。

老いてもはや何もいうことはない、

栄えも辱(はずかし)めもどちらもすべてが空(むな)しい。

君は仏の教えを聞いているから、

涅(ね)槃(はん)に至るのはたった一本の路だけで、

他に向かえばすべてが窮まってしまうというのだろう。

私はかつて、

崆(こう)峒(どう)山(さん)の西にある仇(きゅう)池(ち)から迎えが来ると、

聞いたような気がした。

しかし、どうしたことか南の海に来てしまった。

こうなったら、天に翼を垂れる鵬(おおとり)に乗るとしよう――

下を視(み)るなら、

浩(ひろ)浩(びろ)と風を積み上げること九万里、

君のいる雷(らい)州に向けて、琉璃(ガラス)の杯を挙げるとしよう。

離別などはことさらにいうほどのことではない、

我が一生はまだまだ終わらない、

海を渡って十年後に帰ったなら、

僕の二つの瞳は鏡のように輝いていることだろう［仙人になっている］。

故郷に還るのは何の造作もない、

壺から竜を取り出して、

ひらりとまたがればよいのだ。

峨(が)眉(び)山(さん)は僕に向かって笑い、

錦(きん)水(すい)の流れは君のために化粧して出迎えるだろう。

天の巧みと人の巧みと、どちらかが勝るわけではない、

僕等の故郷は、

大勢の人々と自然によって造られてきたのだ。

あそこは君と僕とで遊んだところ……

ああ、懐かしい僕等の家は草に覆われている……

■【12-1-014】到昌化軍謝表

【解題】儋(たん)州［昌(しょう)化(か)軍］に到着すると、すぐにこの謝表を書いて朝廷に提出した。

【訳文】

今年四月十七日、告(こく)命(めい)［辞令］を頂戴しました。臣(わたくし)に瓊(けい)州(しゅう)別(べつ)駕(が)を責(せき)授(じゅ)し、昌(しょう)化(か)軍に安(あん)置(ち)するとのこと。臣(わたくし)はすぐにその月の十九日に出発して恵(けい)州を離れ、七月二日に至って昌化軍に到着いたしました。

鬼(き)門(もん)関(かん)に沿って東に騖(は)せてから、熱帯の海に浮かんで南へと遷(うつ)りきて、生きて還る期(とき)はもはやなく、死んでもなお責められて余りあるのであります。

臣(わたくし)は伏して念(おも)いますに、際(めぐり)会(あわせ)に縁(よ)って、たまたま寵(ちょう)栄(えい)を竊(ぬす)み［朝廷の高官にあったことをいう］、かつて毛筋ほどの能もないままに、丘や山のような罪を犯してしまいました。三度黜(しりぞけ)られてもまだ終わるものではなく、万里を跨(またが)って独りここに来たのも当然なのであります。

皇帝陛下の恩は重く、臣(わたくし)の命は軽く、臣(わたくし)の咎(とが)は深く、責めはまだまだ浅いのであります。こうしていられますのは伏して思いますに、皇帝陛下が堯(ぎょう)文(ぶん)炳(へい)煥(かん)、湯(とう)徳(とく)�ｪ(かん)仁(じん)［公正で寛大であることをいう］であられ、日月が照(しょう)臨(りん)するように赫(あき)らかで、天地が覆(ふく)育(いく)するような廓(ひろ)やかさであられますことに遇(あ)えたからであります。譬えるならば蠕動(もぞもぞうごくむし)のような臣(わたくし)にも、矜(きょう)憐(りん)を少しく賜われて、窮(きゅう)途(と)に就(つ)かせることで、余命を安んじてやろうということであるのでありましょう。

臣(わたくし)は孤(ひと)り老いて託するところがなく、暑さと病に交(こも)ごも攻められ、子孫は江(かわ)辺(べり)で慟哭して、すでに死別を為しているのであります。海のほとりでは魑(ち)魅(み)に迎えられ、生還を許されることはありません。皇帝陛下の徳に報いるときがいつかあるのかと、長く長く残念に思い続けるのであります。俯(ふ)伏(ふく)流(りゅう)涕(てい)してもはや申し上げる言葉もありません。

■【12-1-015】和陶還旧居

【解題】儋(たん)州［昌(しょう)化(か)軍］に到着して、蘇軾は��(こう)榔(ろう)［くろつぐ］の林にある仮の住まい［��(こう)榔(ろう)庵(あん)］に身を寄せた。そのときに陶(とう)淵(えん)明(めい)の『旧(きゅう)居(きょ)に還(かえ)る』という詩に和した。蘇軾の詩には「夢に恵(けい)州の白(はく)鶴(かく)山(さん)の居(すまい)に帰った」との添え書きがある。白鶴山の居［→作品番号11-3-064］には新築後わずか3カ月間しか住めなかった。

【訳文】

腰の立たなくなった人は、いつも起つことを念じているという。

故郷を離れた私は、帰ることを忘れはしない。

なのに、故郷を夢に見ないのはなぜなのか、

先祖の墓の前で悲しみが興るのを恐れるからなのだろう。

この世に生きるのはしばし寄寓するだけのもの、

この身は一念ごとにもう異なっている。

鵞(が)城(じょう)［恵(けい)州］に何があるのかといったら、

たまたま鶴の毛を拾っただけのところだ。

夢に行くと、困窮した魚がもとの沼にいて、

互いにあぶくをかけて寄り添い合っていた。

長男が門のところに立って、

季節の仕事を丁推(ボーイ)たちに指示していた。

隣の爺さんと話をしたら、

私が衰えたのを気の毒がってくれた。

どこかへと往(い)ったり来たりするのは造物者に任せればよいので、

人が招いたり呼んだりするまでもない。

【補足】［これから見てゆくように、海(かい)南(なん)島(とう)での詩では和(わ)陶(とう)詩(し)がかなりの割合を占める。それは、島に来てからは、以前にも増して陶(とう)淵(えん)明(めい)の詩に支えられることが多くなったことを示しているのだろう］

■【12-1-016】夜夢、并引

【解題】これも夢の詩。短い序文がある。

【訳文】

引(いん)［序文］

七月十三日、儋(たん)州に至って十日余りが経った。澹(あっ)然(さり)としてこれといったことは何もない。道(みち)を学んでいまだにそこに至らない。静けさが極まると愁いが生じる。夜にこのような夢を見た。仕方なく、そのことを書いて自分を喜ばせるのである。

夜の夢――

童子になって遊びまわっていると、

私が書いたものを父と師匠が検(しら)べにきた。

二人はひどい走り書きに驚き、

「とっくに『春(しゅん)秋(じゅう)』を終えていると思ったら、

　まだ最初の桓(かん)荘(そう)を書いただけではないか」

と、叱られた。

怛(びっくり)然(して)悸(おのの)いて目覚め、

それから心は穏やかではなく、

坐っていても、釣り針にかかった魚のような心持ちである。

我が生き様は紛(ふん)紛(ぷん)として百の縁(えにし)にからめとられ、

気(き)が固着して悪い癖がたくさんにあって、

独り偏ったこの身をさらしているのである。

学問を棄てて君主に仕えること四十年、

書物は顧みることなく積もり積もったままである。

自分を視(み)て、孔(こう)子(し)より賢いということはありえない、

孔子は『易(えき)経(きょう)』を繰り返し読んで書物を綴じる革紐が三度切れたという、

私などは犀の革の頑丈な紐が万回切れるまで読んでも及びはしないのだ。

【補足】［（1）上の和(わ)陶(とう)詩(し)では夢で恵(けい)州に帰り、ここでは故郷に帰った。父と師匠に叱られたのは、真面目に書くようにというだけのことではなく、まともに生きよということであるのだろう。（2）後半に置かれた「我生紛紛嬰百縁、気固多習独此偏」［我(わ)が生(せい)は紛(ふん)紛(ぷん)として百(ひゃく)縁(えん)に嬰(かか)り、気(き)は固(こ)して多(た)習(しゅう)にして独(ひと)り此(ここ)に偏(かたよ)る］は蘇軾の自省の弁である。（3）孔子(こうし)のころの書物は竹に書いて革紐で綴じたものだった。犀の革は最も硬いとされていた］

■【12-1-017】与張逢

【解題】雷(らい)州知事の張(ちょう)逢(ほう)［→作品番号12-1-011］に宛てた手紙。

【訳文】

海(かい)南島(なんとう)の風物はそちらの雷(らい)州とほぼ似ています。私がここにきてから、食物や人煙ははなはだ蕭(しょう)条(じょう)としていて、杭(こう)州あたりとはまるで違います。門を閉ざして黙って座り、喧噪も静寂も一つのように見ています。船で物を運ぶことに人を遣わして力を貸してくださり、まことに感謝しております。弟の住まうところを早くに定めてくださり、人々から離れて独り過ごしていられるのは、貴君の厚い賜りものであります。息子は何かと多忙で、お手紙をさしあげる暇がありませんことを、どうかお許しください。

■【12-1-018】和陶連雨独飲二首、并引

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『連(れん)雨(う)に独(ひと)り飲(の)む』という詩に和した。蘇軾の詩には序文がある。

【訳文】

引(いん)［序文］

私は海(かい)南(なん)島(とう)に謫(たく)され、酒の器を全て売って衣食に換えている。ただ「荷(か)葉(よう)杯(はい)」の一つだけは手元にとどめている。巧みな作りで非常に美しいので、自分の娯(たのしみ)として残しているのである。それで陶(とう)淵(えん)明(めい)の『連(れん)雨(う)独(どく)飲(いん)』の詩に和した］

【補足】［衣食のために手持ちの道具を売っているとあるのは、実際にそうであったのだろう。恵(けい)州で住まいを構えるために蓄えをほぼ使い果たしたと前に書いていたし、海(かい)南(なん)島(とう)への旅の費用は知人に種々援助を請うてどうにか工面したことが手紙類から知れるし、島に来てからは近くに有力な支援者がいるわけでもないので、生活が厳しかったことは容易に想像ができる］

　其の一

これまでずっと私と君［荷(か)葉(よう)杯(はい)］は、

心に思うことがあると、すぐに互いにうなずきあってきた。

磁石と針はぴったり合うというけれど、

それでもときには距離ができる。

君のほかにも僕には一人の弟がいる。

出るのも退くのも、とにかく移り変わりを一緒にしてきた。

人生の暮れ方には、ほんのひとときであっても惜しまれるのに、

弟と分かれて南の空の下の海辺に来てしまった。

「糾(あざな)える縄のごとし」とは私にぴったりで、

憂(ゆう)患(かん)ばかりがいつも先に立つわけではない。

顧みて、一杯の酒を手にして、

やりとりをする相手が誰もいないわけではない。

海の北の人［弟］に言葉を寄せる、

「今日は何の年でありますかな」と。

酔うなかで独り覚めることがある、

夢の中だって無駄なことはいわないのだ。

【補足】［（1）終わりから3句目の「今日為何年」［今(こん)日(にち)は何(なん)の年(とし)と為(な)す］の句は、遠く離れた海(かい)南(なん)島(とう)では、いまが何の年かもわからないというココロであろう。あるいは、「荷(か)葉(よう)杯(はい)」で飲むと仙人になった心持ちでいまが何の年であるかもわからなくなるというココロであるのかもしれない。（2）最後の2句は、酔っているとき、または夢の中でこそ本当のことがわかるということであろう］

　其の二

阿堵(こやつ)は酔うということがわかっていない、

誰なのだ、ここで頽(ぐだ)然(ぐだ)になっているのは。

誤って、かの王(おう)積(せき)が村長をしている酔っ払いの里に入ってしまって、

大手を揮って嵇(けい)康(こう)や阮(げん)籍(せき)のなかまになろうとしてみたりする。

かの酔っ払いの八(はち)仙(せん)人(にん)にまざって、

われもいっしょに仙人になったとほざいてみたりもしている。

陶(とう)淵(えん)明(めい)は道(みち)がわかっていたわけではあるまいに、

酔うとたちまち天について語った。

つまり酔ったときには真(まこと)が見えるのであって、

天地の先にまでも超えてゆくのである。

酔いが醒めたら、また酒に還ったらよいので、

覚ったことは還るところなくずっとここにある。

すがすがし風が吹いてきてひどい暑さを洗ってくれる。

この連日の雨が豊年をもたらしてくれるだろう。

枕元にある伯雅君(さかずき)［荷(か)葉(よう)杯(はい)］よ、

君を相手にとにかく語ろうではないか。

【補足】［この詩の前半は蘇軾自身の酔態を歌っている。王(おう)績(せき)、嵇(けい)康(こう)、阮(げん)籍(せき)、八(はっ)仙(せん)人(にん)、それに陶(とう)淵(えん)明(めい)といった古来有名な大酒飲みを列挙し、本来蘇軾は大して飲めないくせに、歴史に名高い大酒飲みの仲間であるかのように振る舞っていると、自ら笑っているのである］

■【12-1-019】和陶示周掾祖謝

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『周(しゅう)続(ぞく)之(し)、祖(そ)企(き)、謝(しゃ)景(けい)夷(い)の三(さん)郎(にん)に示す』という詩に和して、城(まち)の東の学(まなび)舎(や)に遊んだときに作った詩。

【訳文】

古い学舎(まなびや)があると聞いて、

学問好きの陶(とう)淵(えん)明(めい)が抱いたような悦びが湧いた。

衣をたくし上げて、二つの教室があるそこに行き、

戸からのぞくと中には一人もいない。

この国の風俗は杞夷(がいこく)のようであるけれど、

孔(こう)子(し)の廟はそれでも殷因(いかめしく)つくられている。

学舎の先生は食べるものにも事欠くようで、

弟子は減っていまでは来る者もいない。

飢えを忍んで道(みち)を考究していかなければならないのだ。

ああ、私もまた道を聞くことが遅い一人であった。

孔子の廟は百世にわたって永く祀られてきたというが、

いまでは普段の勤めさえ不足がちだ。

ここはどのような国であるのか、

まさか孔子が災厄にあった陳(ちん)国(こく)と蔡(さい)国(こく)の隣りに当たるのか。

私はかの虞(ぐ)仲(ちゅう)翔(しょう)に対して恥じなければならない、

大海の浜辺に放逐されても、古い音楽を演奏してゆくべきなのだ。

【補足】［（1）蘇軾が期待を抱いて見に行った学校はすっかりさびれていた。海(かい)南(なん)島(とう)の実態が徐々に蘇軾の目に明らかになってきたことを示す詩である。（2）終わりのところは虞(ぐ)翻(ほん)［字(あざな)は仲(ちゅう)翔(しょう)］の故事を引いている。三国時代の虞翻は交(こう)州［ベトナム北部］に放逐されても、熱心に講義を続け、門弟が数百人もいたという。蘇軾は、文明の中心から遠く離れた海南島にきたからには島人を教化するのが一つの使命であると考えていて、次の次の詩には特にそのような意識が強く出ている］

■【12-1-020】糴米

【解題】「米を糴(か)う」という詩。穀物を買い入れることを糴(てき)という。

【訳文】

米を糴(か)い、束ねた薪も買う。

百の物を市(いち)で買い整えなければならない。

耕したり木を切ったりすることなく得たものは、

たっぷり食べたところで味わいがまったく足りない。

ほんのわずかな土地でよいからと、

知事殿に何度も何度も頼んで、

やっと与えてもらった、

――ああ、それは昨日の夢、

笑ってすませられるものではない。

自分の力で食を得るなら、心の内に愧(は)じることがないのだ。

春に苗を植えて――いつ花が咲くだろうか、

夏の稗(ひえ)が出てきて――たちまち穂を垂れる、

そのようなことを思って、悵(しみ)焉(じみ)と鋤を撫ぜる。

私のこの心を誰がわかってくれるのか。

【補足】［黄(こう)州でも恵(けい)州でも蘇軾は自ら耕すことに喜びを見出していた。儋(たん)州ではまだそれができなくて、持っているものを売って食いつなぐ暮らしが続いていた］

■【12-1-021】和陶勧農六首、并引

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『農(のう)を勧める』という詩に和した。蘇軾の詩には短い序文がある。「勧(かん)農(のう)」とは、土地に定住して農耕作に励むよう民衆を指導することで、それは、為政者の大切な任務であるとされていた。古い中国において、農は国家の基本であって、農耕に黙々と従事し、為政者の号令に粛々と従う民衆がいなければ国家は成り立たない。己に耕す土地があって、そこからの収穫物で暮らしが成り立つのなら、為政者にとやかくいわれなくても民衆は己のために農に励むであろう。為政者がわざわざ民衆に「農を勧める」のは、民衆は必ず国家の底辺に置かれていて、つまりは搾取の対象であって、ややもするとそれを嫌って土地を棄てて逃げてしまうようなことがあるからだ。為政者と民衆の間にあって、あくまでも為政者側に立つ士(し)大(たい)夫(ふ)は、人民の暮らしを必ずや豊かできると信じることで、「農を勧める」という行為がはらむうさん臭さないしは矛盾に背を向けることができた。なかには後(ご)漢(かん)時代の徐(じょ)稺(ち)のように、学識を売って民衆を搾取する側へと上昇しようとする非道徳性に甘んじることを潔しとはしないで、仕官の誘いをすべて断って、自分で耕して得たものしか食べなかった者もいた。蘇軾の上の詩で、「自分の力で食を得ると、心の内に愧(は)じることがない」と歌っていたのは徐稺の故事を意識したものである。

【訳文】

引(いん)［序文］

海(かい)南(なん)島(とう)には荒れた農地がたくさんある。島の民衆は香(こう)木(ぼく)を島の外に売ることに従事している。島で生産される粳稌(こめ)は人々が食べるには足りないので、米に薯芋(いも)をまぜて粥糜(かゆ)を作って腹を満たしている。私はこのありさまを悲しみ、陶(とう)淵(えん)明(めい)の『農(のう)を勧める』の詩に和して、知り合いの者に告げた。

【補足】［海(かい)南(なん)島(とう)にきた蘇軾は、島の先住民［黎(れい)人(じん)］の厳しい暮らしぶりを目の当たりにした。海南島は蜜(みつ)香(こう)、沈(じん)香(こう)、鶏(けい)骨(こつ)香(こう)、黄(こう)熟(じゅく)香(こう)、桟(さん)香(こう)、青(せい)桂(けい)香(こう)、馬(ば)蹄(てい)香(こう)、鶏(けい)舌(ぜつ)香(こう)などの香(こう)木(ぼく)類を産し、それらを大陸に送ることで、大陸の産物を得ていた。支配・被支配の関係によって、黎人は自ずと漢人から搾取され、その生活水準ははなはだ低かった。蘇軾は、黎人がわずかな米に芋を混ぜた粥を啜っているのを見て、香木の輸出に依存する経済から、農業を基本とする経済に改善すべきだと考えた。しかし、先住民の元来の暮らしは、芋を中心とすると農作と、漁労や狩猟によって成り立っていたであろうから、蘇軾が勧める大陸風の農業は必ずしも島民の望むものではなかったのかもしれない］

　其の一

ああ、諸君ら、漢(かん)人(じん)と黎(れい)人(じん)は、

等しく同じ民である。

漢人は夷(えびす)［黎人］を卑しんで教えようとしない。

それは人としての真(まこと)にそむくのではないのか。

黎人はときに怨み憤って漢人を刧(おびや)かして人質にし、

あるいは戈(ほこ)を持って集まって騒いだりする。

そうでもしなければ、漢人の欺瞞を訴えることができないからで、

落ち度は我ら漢人にあるのだ。

【補足】［（1）蘇軾の第一首は、漢(かん)人(じん)と黎(れい)人(じん)が搾取し搾取される関係にあることを歌っている。為政者が民衆を搾取する構造のさらにその下に黎人が置かれているのである。蘇軾は海(かい)南(なん)島(とう)にきてすぐにその事実に気づき、それを詩に詠んだのは、社会の抱える問題を明らかにして社会に報せるという士大夫(したいふ)の重要な責務の一つを果たすものであった。（2）漢人と黎人は等しいのであるから、漢人には黎人を教える責務があるという蘇軾の主張は、われわれの目からすると大きな矛盾をはらんでいると見えるのだが、当時においては極めて先進的な考えであったのだろう。（3）黎人には漢人の非を合法的に訴える手段がないので、時に暴動を起こす。この状況を救う鍵は、「勧農」の図式の基本である「教える」ことにあると、蘇軾はいうのである。穏健な士大夫らしい提言で、蘇軾の温かい心を十分に感じることもできるのだが、黎人を悲惨な現実から実際に救い出すには無力であったようだ。抜本的な解決法は漢人による支配を覆すこと以外にはないのだろうが、蘇軾はそこまで過激にはなれない］

　其の二

天は諸君［黎(れい)人(じん)］の土地に禍(わざわい)をなしたのか、

麦も稷(きび)も稔らない。

そのかわりに、民にとっては無用のもの、

怪(あや)しく珍しいものがたくさんにある。

薫る木ばかりをとかくはびこらせ、

それらが枯れ果てた跡地で耕作をしている。

（漢人の）貪欲な男や不正を働く官吏が、

鷹のように狙い狼のように食らおうとしているのである。

【補足】［蘇軾は時代の制約を受けながらも、文明の先進国が先住民を搾取する基本構造を見逃すことはなかった。帝国主義の時代にヨーロッパ列強が行ったこともこれと変わりがないだろう］

　其の三

良い農地がないわけではない、

肥沃な平らな土地もある。

しかし、獣の足跡が入り乱れ、

鳥が楽しげに啄(つい)ばんでいる。

（黎(れい)人(じん)はそこで）朝には鹿を射て、

夜には猛々しい猪を追いかける。

里芋の羹(スープ)と長芋の糜(かゆ)で、

老人たちの腹をどうにか満たしているのである。

【補足】［民衆の暮らしの基本は農にあるという先入観に蘇軾は捉われている。狩猟採集を生業の大きな柱としていた本来の黎(れい)人(じん)の暮らし方を否定的に見ている］

　其の四

私の苦言を聴くがよい、

永く久しい福をもたらすであろう。

諸君の鋤や鍬を研(みが)き、

隣近所と仲良くして、

雑草を切り払って、

南東に向けて畝をつくるのだ。

父兄は梃(つえ)を脇にはさんで、

遊びまわっている連中を叩くがよい。

【補足】［蘇軾は農を勧める士(し)大(たい)夫(ふ)の役割に忠実である。帝国主義の時代に、良識ある人々がヨーロッパ型文明の優越性を信じて教導しようとしたのと同じ構図である］

　其の五

天は安直なことはゆるさないかわりに、

諸君を乏しくさせることはしない。

春に怠ることがなければ、

秋には大きな期待が生まれる。

雲が湧き立てば雨が大いに降って、

女たちがみな農地に集まる。

我等はまことに孝愛の民、

裸足で肌脱ぎになって喜んで働くのだ。

【補足】［蘇軾は「勧農」の結果として出現するはずの理想の暮らしを歌っている］

　其の六

遊んで無駄ごとをいうのは笑って侮(あなど)るべきこと、

博打(ばくち)は徹底して卑しむべきことだ。

そうしたことを黎(れい)人(じん)のなかに持ち込んではならない。

漢(かん)人(じん)の官吏の真似をさせてはならないのだ。

霜が降るころには稲が稔り、

一台の車ごとに千箱の米を載せて運べるようになる。

諸君らの村は大いににぎわって、

うまい酒に酔うことができるようになるのだ。

【補足】［（1）博打(ばくち)がろくでもないものだというのは千年前からわかりきった真理であった。そして、搾取する者たちがそれを少数民族の社会に持ち込むのは、どの時代にも必ず行われてきたことであった。（2）蘇軾はこのとき罪人ではあっても、宋(そう)王朝の官員であって、穏やかに物事がおさまることを想像して詩の締めくくりとした］

■【12-1-022】聞子由瘦

【解題】弟が痩せたと聞いて詠んだ詩。戯れの作である。蘇軾自身の注で、「儋(たん)耳(じ)［昌(しょう)化(か)軍］では肉食を得るのが至って難しい」と付記されている。蘇軾は、卵も食べまいとする菜食主義者［→作品番号11-3-026］ではあるけれども、それを厳格に守ろうとするものではなかったようだ。先住民の黎(れい)人(じん)は、上の詩にもあったように魚や獣をとって食べているので、広い意味での「肉食」ができにくかったわけではないだろうが、蘇軾が認識する「肉食」とは、食べ慣れた牛や羊や豚や鶏の肉を食べることであるのだろう。

【訳文】

儋(たん)耳(じ)に来てからは、

豚の肉を見るのは、せいぜい五日に一度ほど、

鶏の肉の入った粥をすするのは、よくて十日に一度くらい。

土地の者は頓(せっ)頓(せ)と署(い)芋(も)を食べ、

ときに鼠の燻製やら燒き蝙蝠(こうもり)やらをつまむ。

かつて蜜(みつ)唧(しょく)［鼠の蜜漬け］なるものを聞いたときには吐き気を催したけれど、

近ごろでは蝦蟆(がま)もたしなめるくらいに土地の習俗に慣れた。

都にいた十年の間は、

まるまると肥えた子羊の肉を、花びらのように紅く蒸しあげて、

毎日のように、飽き飽きするまで食べたものだ。

もとより僕の腹は、

役立たずのかの「大将軍の腹」と同じで、

玄米でも食べさせておけば十分なはずだ。

天下には「至(し)味(み)」というものはないといわれている、

麋(し)鹿(か)より蝍蛆(むかで)が勝る……とは決まっていないのだ。

海(かい)康(こう)［雷(らい)州］の別(べつ)駕(が)殿は何がどうしたのか、

帽子が緩くなったり、帯が落ちたりで、童僕(ボーイ)［少年の召使］どもを驚かせたとか。

とすると、僕と君が会ったなら、

きっと痩せこけた二人の仙人のようであるだろう。

ならば、黄(こう)鵠(こく)にまたがって故郷に帰ればよいではないか。

【補足】［「大将軍の腹」に関して、蘇軾は、民間に伝わる話として次のような注を書き添えている。「ある大将軍がたらふく食べて、己の腹を撫ぜながら、『おまえのためにわしはもっと頑張らなければならないな』と、ため息まじりにいった。すると、部下たちがいうには、『将軍様はそのお腹のために頑張っておられます。なのに、お腹の方は将軍様のために少しも頑張っていません。そのお腹が将軍様のためにいささかでも知恵を出したことがありましたでしょうか』」。これは、部下は将軍の腹よりもずっと将軍のために頑張っているのに、どうして腹いっぱい食べさせてくれないという皮肉であるのだろう］

■【12-1-023】客俎経旬無肉、又子由勧不読書、蕭然清坐、乃無一事

【解題】この詩の題は、「寓居するところにある俎(まな)板(いた)にはここ十日ほど肉が載らない。一方で、弟には書物を読まないことを勧められた。それで、蕭然(ちんまり)と静かに坐って何もする事なく過ごしている」。これもまた戯れの詩である。士(し)大(たい)夫(ふ)が書物を読むのは、暇つぶしや楽しみのためではなく、道義を学んで、社会を改良してゆく仕事に我が身を立ち向かわせるためである。蘇軾や蘇轍が書物を読めば、現在の政治情勢に対する怒りが生まれ、居ても立ってもいられなくなる。それで、弟は兄に書物を読むなと勧めたのであろう。

【訳文】

病気のために、生臭ものや塩辛いものを恐れ、

魚は買わなくなった。

それからは、心も腹もいつも空っぽである。

漢(かん)の時代のこと――

厳格な黄(こう)覇(は)のもとにいたある役人は、

民に負担をかけまいと出張中にも野宿をし、

食べようとした肉を烏に攫(さら)われてしまったとか。

蘇(そ)武(ぶ)は敵に降伏せず、砂漠の地に独り置かれ、

野鼠を掘り出して命を繋ごうとした。

僕はといえば――

烏に取られる肉はないし、鼠を捕って食べる気もない。

老いて、人が棄てたものを独り拾い集めるような身となって、

はるか太古のものの初めに至ったかのようである。

三国時代のこと――

孫(そん)策(さく)は、当時有名な道(どう)人(じん)を捕らえ、

世に何ら有益な者ではないとして斬って捨てた。

僕はといえば――

孫策はおろか誰からも顧みられることのない身であるから、

絳(あか)い鉢巻を頭にしめて、道術の書物を読んでいてもよさそうであるのだが。

【補足】［最後は、弟に向かって、道術の書物くらいなら読むのを見逃してほしいと、いっているのである］

■【12-1-024】和陶赴仮江陵夜行

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『辛(しん)丑(ちゅう)の歳(とし)の七月、赴仮(やすみをおえ)て江(こう)陵(りょう)に還ろうとして、夜に塗(と)口(こう)を行く』という詩に和した。蘇軾の詩には「郊外を行き、月に歩んで作る」との添え書きがある。陶淵明のもとの詩と共通するのは夜の月。その点から陶淵明のこの詩に和そうと思い立ったのであろう。

【解題】

欠けた月は早くには出ない。

林の青黒い影をずっと踏んできた。

犬が私に向かって吠えたので、そこの主人が叱った。

この村里の心遣いをありがたく思う。

夜になっても私が帰らないのを怪しく思って、

茜(あか)い袂の女中が門のあたりをじっと見守っている。

雲間にも地上にも、

私を待ってくれる友がいるというわけだ。

鵲(かささぎ)が驚いたように再三飛び立つうちに、

樹の端がわずかに明るくなってきた。

白い露が一面に降りて野原を浄(きよ)らかにしたので、

丘陵が平らになってしまったかのように感じられる。

どこかで、夜なべ仕事に糸を紡いでいるように蛩(きりぎりす)が鳴き、

蛍がひとつぽつんと暗がりを飛んで行く。

帰り来て戸を閉じて座り、

一寸の丹(たん)田(でん)をしばらく黙々と耕す。

もはや花の季節に赴くのはよそう。

詩や酒にまといつかれるのから免れるであろう。

詩人とは布穀(カッコウ)のようなものだ、

聒(カッコウ)聒(カッコウ)と常に自分の名をいっているのだ。

【補足】［（1）ある夜の自分の姿をさらりとスケッチした詩である。（2）前半で、近所に住む男や、蘇軾の帰りを待つ女中を、地上の友と呼んでいる。都から遠く流されてきた有名人が夜にうろうろしていれば、あやしんで見るのが普通であろう。（3）「寸田且黙耕」［寸(すん)田(でん) 且(しば)し黙(もく)耕(こう)す］の句は、蘇軾が長年続けている独自の呼吸法を詠んだものである。「一寸の田」すなわち丹(たん)田(でん)に「気(き)」を送り込んで、生命力を高めるのである。（4）蘇軾は少年のころに、堯(ぎょう)や舜(しゅん)のような聖天子の時代の理想の政治を現在において再現する仕事をしたいと志し、制(せい)科(か)の特別試験にも合格して、エリート中のエリートとして、志を果たせるような状況に我が身を置いた。しかし、現実には権力闘争に巻き込まれ、いまや官界における仕事を全否定された罪人となり、残るのは詩人としての名だけである。結びは、そうしたことを自嘲気味に詠んでいる。後世において蘇軾は詩や書のファンを多数獲得したけれど、政治的には党派争いに明け暮れて何ら成果を生まなかったと厳しく論評する人もいる］

■【12-1-025】弁漆葉青黏散方

【解題】蘇軾は薬草について強い関心を持っていたことはこれまでにも見てきた通りで、これは「漆(しつ)葉(よう)青(せい)黏(ねん)散(さん)方(ほう)」という胃腸に大層効いて寿命を百歳以上に延ばすという伝説の薬方について記した短文。薬方についての考証は割愛し、終わりの部分だけを訳す。

【訳文】

……私は本性として食べることを好むので、（漆(しつ)葉(よう)青(せい)黏(ねん)散(さん)方(ほう)について知りたくて）、いつも物知りに会うとそれについてわかることがないか尋ねていたのだが、知っている者がいなかった。

紹(しょう)聖(せい)四年九月十三日、私は昌(しょう)化(か)軍にあって『嘉(か)祐(ゆう)補(ほ)注(ちゅう)本(ほん)草(ぞう)』を借りたところ、女(にょ)萎(い)について知ることができたので、非常に喜び、さっそくその部分を筆録した。ただ、陶(とう)弘(こう)景(けい)と蘇(そ)恭(きょう)の二人の論のどちらが正しいのか決着はつかない。蘇恭は唐(とう)の時代の人で、今に伝わる『本(ほん)草(ぞう)』のいわゆる「唐(とう)本(ほん)」は全て蘇恭が注を施したものであるのだが、その論の多くは異を立てようとするもので、特に、陶弘景とは反することをいうのを喜び、ときにはほとんど罵らんばかりである。仔細に考えると、陶弘景が間違っているとも、蘇恭が正しいともいえないところがある。私は隠居の身となり、博物について詳しく知りたいと考え、さらに深く尋ねたいと思っている。もしも青(せい)黏(ねん)の正体が萎(い)蕤(ずい)であるならばまことに結構なことだ。当該の部分を蘇(そ)過(か)に記録させて弟に寄せるので、さらに追及してもらいたい。

【補足】［（1）『嘉(か)祐(ゆう)補(ほ)注(ちゅう)本(ほん)草(ぞう)』は蘇軾の先輩たちが編んだ『本(ほん)草(ぞう)経(きょう)』の注釈書で、その本を借りて読んだのである。海(かい)南(なん)島(とう)にもそのような書物を所有する人がいたのか、後に見る鄭(てい)嘉(か)会(かい)［→作品番号12-1-037］が貸してくれた書物の中にそれがあったのだろうか。（2）女(にょ)萎(い)と萎(い)蕤(ずい)は薬草で、訳文では省略したが、陶(とう)弘(こう)景(けい)は女萎と萎蕤は同じものであるとし、蘇恭は異なるものであって萎蕤が実は青(せい)黏(ねん)であるとしている。現代では、女萎はボタンヅル、萎蕤はアマドコロとされている］

■【12-1-026】和陶擬古九首

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)が古い時代の詩に似せて詠んだ「擬(ぎ)古(こ)」という詩に和した。蘇軾の詩は、海(かい)南(なん)島(とう)に来てからの種々の思いを詠んだもの。象徴的な詩で、含意が読み取りにくく、訳は一つの解釈例でしかない。なお、蘇軾がこれらの詩を詠んだと推測される9月ないし10月ごろに、新しい昌(しょう)化(か)軍の知事として張(ちょう)中(ちゅう)が赴任してきた。張中はかねてからの蘇軾の信奉者で、蘇軾のために何かと手を差し伸べ、��(こう)榔(ろう)の林にあった仮住まい［→作品番号12-1-015］から官舎の一角へと移ることができた。

【訳文】

　其の一

客人が来て我が門を叩いた。

客人は馬を門の前の柳に繋いだ。

我が庭は雀さえいないくらいにがらんとしていて、

門が閉ざされたまま、

客人は長らく立っていた。

私は書物を枕にして横になっていて、

夢に昔の友を見ていた。

すると、とんとん叩く音が聞こえてきて、

一杯の酒による酔い心地もふきとんで目を覚ました。

あわてて着物を逆さまにひっかけて客人に挨拶をした。

夢のなかでも目覚めても、どうにも恥ずかしいことばかりだ。

客人ととりとめなく古今のことを語り、

わからないことがあると、面の皮を厚くして答えなかった。

どこから来たのかと、私は問われて、

無何有(ユートピア)からだといっておいた。

【補足】［これはある訪問客との恐らくは架空の問答］

　其の二

酒がなくなったから、あなたは起って行くがよろしかろう。

私はもう三回も歌い終わってしまった。

昔から竹林の七賢人といわれてはいるものの、

こむずかしい二人をその仲間に入れないこともある――あなたもそうだ。

酒を一緒に飲むのなら気の合う相手がよい。

厳格な人とは謹んで遠慮申し上げる。

立派げなことをいう人に限ってとんだおべっかつかいだったりするもので、

そんな人の風下に立つのはお断りしたい。

私は昔から栄達とは無縁で、

いまは貧窮のうちに安らぎをえている。

栄達も貧窮も到ろうとして到るところではない。

私は阿堵中(まさしくいまここ)にいるだけなのである。

【補足】［架空の問答の続き。幾つもの故事を引いているが、その内容には踏み込まずに訳した。要するに、俗世間のちまちました価値観に染まった人との交際はお断りするとの宣言である］

　其の三

客人が去って幽幽(うすぐら)い部屋。

鵩鳥(みみずく)が私の座る横へと来た。

喉を引き、二つの翼を伸ばし、

大きく息をして、意(こころ)は舒(のび)やかでないようだ。

私はいう。

「吾(わ)が生(せい)は寄(よ)せるが如(ごと)きのみ、

　どこかを我が廬(いおり)とするわけではない、

　ここを去ってまたどこに行こうとも、

　少しの安らぎを得て、また君といようではないか」

夜中に、どこかで鵩鳥が鳴くのが聞こえた。

月のもと、荒れた草むらに露が降り落ちる。

私は鵩鳥に問いもしないし、答えもしない。

吉か凶か、さてどちらなのか。

【補足】［（1）「鵩鳥(みみずく)」は何の象徴なのだろうか。（2）「吾生如寄耳」［吾(わ)が生(せい)は寄(よ)せる如(ごと)き耳(みみ)］は、これまで何度も見ているように、蘇軾の人生哲学を凝縮した5文字である。海(かい)南(なん)島(とう)に来て孤独のなかで思索を深めていったのだ］

　其の四

若いころは遠く遊ぶのを好み、

揺(ゆ)り動く志は四方八方どこも狭いと感じていた。

世界中の民も我が囲いのうちにあって、

四方の海も我が部屋のまわりを巡っていて、

盧(ろ)生(せい)とか若(じゃく)士(し)とかの仙人だって、

遠く彼方で会う約束をするまでもないと思っていた。

海(かい)南(なん)の州(しま)に来て少し喜んでいるのは、

昔からここが戦(いくさ)の場ではなかったことだ。

黎(れい)母(ぼ)山(さん)の奇峰を望むと、

洛(らく)陽(よう)から見る嵩(すう)山(ざん)や北(ほく)邙(ぼう)山(ざん)と異なるところがない。

滝が飛ぶように万(ばん)仞(じん)の谷へとそそぎ、

二羽の鶴が低く高く舞うように飛んでいる。

海に入る前に流れは分かれて、

このあたりの土地を広く豊かにしている。

飽きるほどに芋が食べられるのであるから、

肉がなくても残念に思うことはないのだ。

【補足】［前半では、何でもできるくらいに思っていた若いときの気分を回想し、後半では、海(かい)南(なん)島(とう)での暮らしを詩的に描写している］

　其の五

かつて馮(ふう)知事の妻になった冼(しょう)氏は古(いにしえ)の烈(れっ)婦(ぷ)である。

冼氏の先祖は長く嶺(れい)南(なん)の地に国をつくっていた。

梁(りょう)王朝の武(ぶ)帝(てい)の後に冼氏の功勲が讃えられ、

隋(ずい)朝(ちょう)の文(ぶん)帝(てい)のときに冼氏は幕府を開いた。

梁、陳(ちん)、隋と王朝は入れ替わったが、

冼氏が民を安んじようとする一心は少しも汚れることがなかった。

錦の傘のもとに座ってたびたびの争乱を鎮め、

犀(さい)の革の鎧を身につけてなお従わぬ者を破った。

冼氏を祀った廟はいまも残っているが、

碑は摩滅して文字は消えてしまった。

私は冼氏の銘を作って、

この地の老人たちの思いを慰めようと思う。

冼氏の子孫がいまどこにいるかはもはやわからないけれど、

裸体で私を驚かすような島民もいない。

牛を犠牲にしたり鳥の骨で占ったする習俗はなおあるので、

一度それにしたがって冼氏の子孫を訪ねてみてもよいだろう。

そのときは、銅の鼓(つづみ)や壺(こ)盧(ろ)の笙(ふえ)を演奏して、

冼氏を迎えるこの詩を歌うのだ。

【補足】［（1）嶺(れい)南(なん)には女傑を生む文化的背景があったのか、漢(かん)の時代には先住民を指揮して反乱を起こした2人の女性がいたし［次の章の初めに触れる］、南北朝時代の終わりにはこの詩に歌われている冼(しょう)氏がいた。冼氏は武に優れた女性で、先住民の心を掌握していた。その評判を聞いた馮(ふう)宝(ほう)知事が妻に迎え、先住民と漢人との融和を図った。それによって嶺南はよく治まり、海(かい)南(なん)島(とう)も進んで冼氏の統治を受けた。（2）牛を犠牲にする習俗については、作品番号12-3-065で詳しく記される］

　其の六

隋(ずい)の煬(よう)帝(だい)は、沈(じん)香(こう)［高価な香木］をかがり火のかわりに焚き、

甲(こう)煎(せん)［高価な化粧品］の粉をくべて、その火の勢いを増したという。

わずかな火をともして、

その煙のもとで清らかに歌う方がどれほど優れていることか。

貪欲な人は満足することがなく、

胡椒を倉いっぱいに貯め込んでいた者もいた。

朱(しゅ)初(しょ)平(へい)と劉(りゅう)諠(ぎ)の二人の大馬鹿者は、

風に飛ばされた花のようにもはや落ちぶれてしまった。

二人は沼を涸らして魚を獲りつくすようなことをしたので、

翌年にはもうどうすることもできなかったのだ。

【補足】［蘇軾はここで同じ時代の2人の役人を名指しで批判している。詩の前半で、無意味な贅沢にふけった歴史上の有名な愚か者の故事を引いてから、後半で宋(そう)の時代の2人の役人を登場させる。蘇軾自身の注によると、朱(しゅ)初(しょ)平(へい)と劉(りゅう)誼(ぎ)は海(かい)南(なん)島(とう)に赴任すると黎(れい)人(じん)を教化したけれど、それは香木の水(すい)沈(ちん)を取る目的のためであったという。つまり、先に『勧(かん)農(のう)』の詩［→作品番号12-1-021］で見た搾取の構図を批判しているのである。一方で、史書には、朱初平と劉誼は漢人が不当な利益を上げているのを島民のために是正しようとしたと記されている。蘇軾の詩の注釈家はその矛盾を不思議がっているが、島民の間では朱初平と劉誼の悪行が語り告がれ、一方で、朱初平と劉誼は自分がよいことをしたように朝廷に報告し、それに基づいて史書が編集されたのだろう［旧中国の史書の記載は、為政者側、勝者側、漢人側に必ず有利になるように記されているということを意識して読まないと、現代の中国の公的な歴史見解に無条件に従うのに近い誤りを犯してしまうことになりかねない］］

　其の七

鳥の巣の中にいた小児のような白髪の人は、

遠く晋(しん)代(だい)に生まれて、唐(とう)朝(ちょう)の人と会うに至った。

その子孫も白髪になったころに、

都から流されてきた李(り)徳(とく)裕(ゆう)とすこぶる面識を得た。

さらには宋(そう)朝(ちょう)の盧(ろ)多(た)遜(そん)とも丁(てい)謂(い)とも逢ったというから、

歴史の流れをずっと見てきたわけである。

いまその人たちはいなくて、

死んで後の評価はまだ定まっていない。

私が師と仰ぎたいのは呉(ご)の季(き)札(さつ)で、

周(しゅう)代(だい)の末期にも節義を守り続け、

春秋時代の終わりにもひとたび現れたという。

いまやその跡は遥かに彼方で捜し求めることもできない。

【補足】［（1）ここでは海(かい)南(なん)島(とう)に関わるいくつかの伝説を詠んでいる。（2）唐(とう)の時代に李(り)守(しゅ)忠(ちゅう)が海南島に来ると、八十を超えた老人に会い、さらにその父、そのまた父に逢えただけでなく、鳥の巣に住む遥か昔の先祖にも逢ったという。（3）その後、やはり唐代に李(り)徳(とく)裕(ゆう)が大陸の縁にある崖(がい)州に流されたときにその子孫に逢い、さらには宋(そう)代(だい)に入ってからも、やはり崖州に流された盧(ろ)多(た)遜(そん)や丁(てい)謂(い)とも逢ったという。（3）蘇軾が師と仰ぎたいという季(き)札(さつ)は、孔(こう)子(し)も讃えた賢人で、90歳のころに不意にまた現れて、陳(ちん)国(こく)の危急を救ったという。つまり、単に長生きをすることが大事なのではなくて、何をするかが重要なのだということを蘇軾はいいたいのだろう］

　其の八

町の南に荒れた池がある。

そこに生えた些細なものは誰も採ろうとしない。

奥ゆかしい姿をしているのは小さな蓮で、

香りも色もこの花ばかりは変わらない。

都に便りを寄せようと思うけれども、

ぼんやりと雲の海に遮られている。

遥かに思うのは崋(か)山(ざん)の玉(ぎょく)井(せい)の蓮で、

花は待つことなくやはり落ちてしまう。

そこへとよじ登るのは若いときでなければならず、

その機会を失っていまさら悔いても遅いのだ。

【補足】［何らかの寓意を籠めた詩であろう。誰も顧みることのない池の蓮とは蘇軾自身のことであろうか］

　其の九

黎(れい)母(ぼ)山(さん)に一人の隠者がいる。

形は枯れてしまっているが、精神は完全である。

薪を背負って町に入ってきて、

私が儒者のなりをしているのを笑う。

その人は、生まれてから詩書があることを聞かないし、

孔(こう)子(し)やその弟子の顔(がん)回(かい)なんぞ知るはずもない。

超然として山と町を行き来し、

世間の栄辱と関わることはない。

日暮れには鳥や獣とともにどこかにいなくなり、

住まいはぽつんと浮かぶ雲の端にあるという。

問答をしようにも言葉が通じないので、

いつも指で追いやられて嘆息するしかない。

たぶんあなたこそ貴い人であって、

竜や鸞(らん)［伝説の霊鳥］が草むらの中に棲んでいるようなものなのだろう。

あなたがなぜか吉(きち)貝(ばい)布(ふ)という島の布を贈ってくれたのは、

歳の暮れともなれば海の風がさすがに寒くなるからであろう。

【補足】［海(かい)南(なん)島(とう)の山に実際にこのような隠者がいたかどうかはわからない。島民の誰かに、冬に備えての布を贈ってもらったということはあったのだろう］

■【12-1-027】和陶東方有一士

【解題】上に見た陶(とう)淵(えん)明(めい)の『擬(ぎ)古(こ)』の詩の其の五に和した詩がもう一首ある。「陶淵明の詩に詠まれている『東(とう)方(ほう)の一(いっ)士(し)』とは、まさしく陶淵明のことである。ならば、それに従って遊ぶのは誰なのか。もしもこの妙味がわかるなら、私がすなわち陶淵明で、陶淵明がすなわち私なのだ」という添え書きがある。

【訳文】

瓶(かめ)は据えてあっても、いつでも危うさがすぐ近くにある。

甑(こしき)は墜(お)ちたなら、もとのままではいられない。

夢の中で、私はどこかに置いてきてしまった弓を探し求めていた。

すると、太古のままの国にきて、ここでは冠などは無用だと知って、笑って脱いだ。

たちまち夢から返り、我が身を省みると、

私の本来の顔は、こんなものであったかのかと知れた。

帰るべき路も、私の脚の下にあるはずだ。

それなのに、通らなければならない二つの関がどこにあるのかわからない。

これまで私はしばしば陶(とう)淵(えん)明(めい)と遊び、

筆の先から、雲の彼方の山が出てくるのを見た。

陶淵明から弦のない琴を借りて、

指を使わずに演奏しようと思う。

それに合わせて、孤独な鶴が舞うであろうし、

きっと飛ぶ鸞(らん)を呼び止めることができるであろう。

そして、この南の国の暑熱でもって、

月の宮殿の寒さを洗い去ってしまおう。

【補足】［この詩は論理を追って理解することができない。空想が次々に飛躍してゆくのを楽しめばよいのだろう］

■【12-1-028】次韻子由三首

【解題】雷(らい)州にいる弟が身の回りのことを詠んだ詩を送ってきたのでそれに和した。蘇轍は雷州に来た最初は、知事の張(ちょう)逢(ほう)の好意で官舎を仮住まいとすることができたのだが、宰相の章(しょう)惇(じゅん)は蘇轍を憎み、官舎に住むことを禁じた。それで、土地の人が蘇轍のために住まいを用意した。弟の詩はその新たな住まいについて詠んだもの。

【訳文】

　其の一　東(とう)亭(てい)

仙人の山も仏の国も、帰るところは同じなのだろう。

とはいえ、仏寺や道観は、世間の路と背を向き合わせている。

仙人でも僧侶でもない我等は、どこに住まいを置こうと、妨げになるものはないはずだ。

流れ流れて行くうちに、一生などは終わってしまう。

君の東亭のちっぽけな欄干からは、市場が見えるのかい。

新たに松を植えたというけれど、

きっと棘茨(いばら)の中からも伸び出してくることだろう。

僕のおんぼろ小屋は、やっと膝を入れられるだけだと、

君はいうわけだが、

雨が風に乗って、海と天の間を飛び行くさまが看られるのだよ。

　其の二　東(とう)楼(ろう)

盆に君の白(はく)髮(はつ)蒼(そう)顔(がん)を映してみるとよい、

前世はかの董(とう)仲(ちゅう)舒(じょ)［漢(かん)代(だい)の大学者］であったと知れるであろう。

何しろ、東の二階家に独り棲むのは学者と決まっていて、

実際、君はそこで新しい書物をせっせと著しているのだから。

そこには、やわらかな風が通るので、酔っても醒めやすく、

夢も見ないで安らかに眠っていると、屋根を打つ雨音が近くに聞こえるのだ。

君が歌うのは、自分の気持ちをごまかすため、

だったら、笑ってしまう……

人間世界のどこにだって欣(よろこ)びがあるではないか。

　其の三　椰(や)子(し)冠(かん)

天は、毎日君に酒を飲ませようとしている、

なぜなら、君が酒を飲まなければ、

きっと真面目腐ったことをいって命を縮めてしまうからだ。

椰子の実の中には、美酒にも優る水がある。

君はそれを自分で漉し、酔客を招いて飲ませている。

空いた殻を冠職人に渡し、なかなか古風な形に仕上げた。

それを、皆が争って見にくる。

簪(かんざし)は軽く挿すだけでよく、髪はその重さを知らないほどだ。

僕はというと、縁が短く背の高いへんてこな帽子をかぶっている。

東(とう)坡(ば)先生は何事も時流とは合わないと決まっているのだよ。

【補足】［椰(や)子(し)冠(かん)は椰子の実で作った冠で、弟は自作したものを兄に送ったのだろう］

■【12-1-029】与張逢

【解題】雷(らい)州知事の張(ちょう)逢(ほう)に宛てた手紙。新任の昌(しょう)化(か)軍知事の張(ちょう)中(ちゅう)［→作品番号12-1-026］が届けてくれた手紙への返事である。

【訳文】

……昌(しょう)化(か)軍の新たな知事が、貴君のお手紙を携えてこられました。……私はここにきてから、何度か病に臥せり、いまは幸いにも安らかにしております。長らく空(くう)谷(こく)に逃れ［辺境の地に流(る)謫(たく)になったこという］、日々に灰のようになってゆくばかりです。……

■【12-1-030】和陶停雲四首、并引

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『停(てい)雲(うん)』という詩に和した。序文がある。

【訳文】

引(いん)［序文］［蘇軾］

立冬から、雨風のない日はなく、海路は断たれ、弟からの手紙はこない。それで陶(とう)淵(えん)明(めい)の『停(てい)雲(うん)』の詩に和して弟に寄せる。

【補足】［上の詩で見た椰(や)子(し)冠(かん)が届いて以来、しばらく次の手紙がこなかったのだろう］

　其の一

雲が留まって空にあり続けている。

暗く今にも雨が降りそうだ。

ああ、僕は君を懐(おも)う。

道は長く、しかも阻まれている。

いじましいかなこの小さな心よ。

見上げたりうつむいたり、そして胸を抑える。

良い辰(とき)は鳥にように過ぎて行く。

逝(ゆ)くばかりで、私のために待ってはくれないのだ。

　其の二

颶(あらし)がおこって海が渾(にご)り、

天と水とは溟濛(くら)くさかいがない。

雲が川という川の上にたむろし、

どの川も雪を飛ばすように波立っている。

私は門を出ることもなく、

北の窓辺で寝たり起きたりしている。

君のいる海(かい)康(こう)［雷(らい)州］を念(おも)うと、

神(こころ)が馳(は)せてそのまま行ってしまいそうだ。

　其の三

君は凛(り)々(り)しく清らかに痩せ、

驕りや栄えは落ちてしまった。

食べることは食べていても、

がらんとして情(こころ)を忘れている。

万里の彼方の君を思って、

朝に起きて、夜には行こうとおもう。

でも、君のかたわらには遠(えん)虎(こ)がいて、

先生の心を安らかにしているのだ。

【補足】［「遠(えん)虎(こ)」とは蘇轍の息子の蘇(そ)遠(えん)のこと。蘇遠の幼名は「虎(こ)」である［→作品番号11-1-080］］

　其の四

仙人の碁の対局がまだ終わらないうちに、

見物していた樵(きこり)の斧の柄は朽ち果ててしまった。

蘭(らん)亭(てい)に再び遊んで、

この前ここにきた永(えい)和(わ)年間がいつだったかを数える。

人の世の行き来は夢幻のよう。

年月の多い少ないはいったところで仕方がない。

指をはじいて深く嘆息する。

浮き雲はどれだけそこにあるのか。

【補足】［（1）この第四首は、歳月の速さを歌っている。（2）第一句と第二句は、山の中で仙人が打つ碁をちょっと見ている間に長い年月が経ってしまったという伝説に基づく。（3）第三句と第四句は、王(おう)羲(ぎ)之(し)らが蘭(らん)亭(てい)に集まった有名な遊宴に基づく。それがあったのはつい昨日のような心持ちで蘭亭を再訪したら、かつて催された永(えい)和(わ)九年［393年］から、たちまち700年が経ってしまっていたのだ。（3）結びは「雲」に戻るが、冒頭の去りやらぬ嵐の雲とは違って、はかなく消えてしまう雲である］

■【12-1-031】和陶怨詩楚調示龐�ｹ

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『怨(えん)詩(し)楚(そ)調(ちょう)にて龐(ほう)主(しゅ)簿(ぼ)と�ｹ(とう)治(じ)中(ちゅう)に示す』という詩に和した。蘇軾の作品は、陶淵明の詩の奥にある深い洞察から読み取ったことを託したもの。

【訳文】

歓びにあっては楽しさにひたるのがよい。

悲しみにあってはくずれてしまうのがよい。

陶(とう)淵(えん)明(めい)はこの理(ことわり)を得てからは、

安らかな年月を過ごせた。

ああ、私と陶淵明先生は、

詩に賦すところはまことに妙に偏っている。

人間世界においては私の心に適うものは少なく、

ただ帰って農地を耕すことだけがある。

しかしながら、私は昔、官服を着る身に堕(お)ちてしまってからは、

間断なく都会において暮らしたのだった。

困り果てて布団にもぐりこんでも、

憂いやら恥やらで眠ることができなかった。

いまは破れたぼろ家にいて、

雨漏りを避けて一晩に三度も寝床を遷さなければならない。

それでも、風も雨も知らずによく眠ることができて、

目覚めたときには、枕の前に黄色い葉がいっぱいに積もっている。

だから、怨みの句は出そうとはしないけれど、

我が家から上がるのは寂しくもただ一本の煙である。

残念なのは、こうしたことを早くに悟らなかったこと。

やはり陶淵明の賢さを見上げるのである。

■【12-1-032】黎檬子

【解題】南国の産物、レモンについて記した短文。

【訳文】

私の旧い友人に黎(れい)�ﾛ(じゅん)、字(あざな)は希(き)声(せい)がいる。『春(しゅん)秋(じゅう)』［史書の古典］を治(マスター)して家の学問としていた。欧(おう)陽(よう)文(ぶん)忠(ちゅう)公(こう)［欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)］はそのことを喜んでいた。

その人となりは遅緩(のんびりや)で、劉(りゅう)攽(はん)は戯れて「黎(れい)檬(もう)子(し)」［ぼんやり黎先生、あるいは、奥行きの知れない黎先生といった意味］と呼んで、その性格を指し示す号としていた。果(か)木(ぼく)の中に本当に「黎檬子(レモン)」なるものがあるのは知らなかったのである。

ある日、黎�ﾛと劉攽は馬を並べて出歩いていて、市(いち)の人で「黎檬子！　黎檬子だよ！」と唱えてその果実を売っている者がいた。二人はそれを聞いて大笑いし、ほとんど馬から落ちそうになった。

いま私は海(かい)南(なん)島(とう)に謫(たく)されて、住まいのまわりに黎檬子(レモン)があり、霜の季節にも実が累(るい)累(るい)と成っている。

旧い友の風味をしみじみと思うのだが、いま二人とも亡くなってしまい、もう会えることはない。劉攽はもちろん滅びることのないものを世に遺し、黎�ﾛもまた道(みち)を守ったことで追随できる者は少なかった。

【補足】［（1）黎(れい)�ﾛ(じゅん)が蘇軾の父の蘇(そ)洵(じゅん)と交流があったことは作品番号01-2-001に記されていて、劉(りゅう)攽(はん)は蘇軾の旧い友人でジョークを好んだことは作品番号08-3-071などで何度も見ている。（2）レモンを商う者がいたのはきっと都の市(いち)であろう。このエピソードは、恐らく欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が都にいた遠い昔、黎�ﾛも劉攽も若かったころのことなのだろう。こうしたことをさりげなく記した蘇軾の文章はことに味わい深いものがある］

■【12-1-033】記海南菊

【解題】重(ちょう)陽(よう)の節句には盃に菊の花を浮かべて長寿を願って飲むのだが、海(かい)南(なん)島(とう)では9月9日にはまだ菊の花は開いていなかった。それで、実際に節句の祝い事をしたのは11月中旬であった。そのことを記した短文。

【訳文】

菊の色はまさしく黄。香りは和らかくて程好い。花、葉、根、実、そのいずれもが長生きの薬になる。

北の地では、秋の始まりから終わりに従って次第に黄色い花を開く。嶺(れい)南(なん)ではそうではなく、冬至になって初めて盛んに花を発する。嶺南は土地が暖かく、百(もも)の草が季節によらずに成長する。それでも菊はやはり最後に開く。その理由を考えると、菊の性質は介(かた)く烈(はげし)く、盛衰を百の草とともにすることなく、霜の降るのを待って開くものであって、嶺南では常に冬至になってようやくわずかに霜が降るからである。天から与えられたその姿は高潔で、仙霊に通じるところがある。

私は海南島にきて、菊を九列植え、十一月の満月の日に、客とともに菊の花を盃に浮かべて重(ちょう)九(きゅう)の祝いをした。

このことをここに記しておく。

【補足】［この文章が書かれたのは2年後のことであるとする考証もある］

■【12-1-034】和陶雑詩十一首

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『雑(ざつ)詩(し)十一首』に和した。「雑詩」とは折々の様々な感慨を詠んだもの。

【訳文】

　其の一

斜めになった日ざしが小さな隙間からさしこむと、

空しいところにも塵があると初めて知れる。

わずかな風にも、あれこれの穴が呼応して動く。

このようなときに我が身のあることを忘れるといっても誰も信じてはくれないだろう。

私は笑って息子に尋ねる。

「おまえとは、はてさて、何をもって親しいというのだろうか、

　わたしにくっついて海(かい)南(なん)島(とう)に来たわけだが、

　ここは寂しく隔絶して隣人もいない。

　きらきらと光る欠けた月のように、

　朝を迎える相手は金星がいるだけだ。

　この道はもとよりきっとこうなるものであっただけで、

　決して怨んだり尤(とが)めたりすべきではないのだ」

【補足】［哲学的な詩で、冒頭の4句は、大自然の玄妙な摂理がごく微小なところにも宿すことを感知しての思いであろう。それ以降は、そうした摂理のままにいまの自分の境遇があると、息子に語りかけているのである］

　其の二

故郷の山へは到ることができない。

夢に飛んでも、いくつもの嶺に隔てられている。

本当に遊ぶべきところは我が身の内である。

目を閉じるなら、内と外をつなぐ光が見えるであろう。

部屋がからっぽなら照らす必要もない――余計な思念がないなら惑いもない。

火が消えれば油は自然と冷える――余計な思念が鎮まれば我が本心も定まる。

衣をとって起きて夜を視ると、

海は広く天の川は長々と流れている。

西の窓に半ば明るい月があって、

木々の影が乱れ動いている。

この良い夜を繋ぎ止めておくことはできない。

逝(ゆ)く水は走るのを留めはしないのだ。

私の苗は季節に後れて枯れるのだろう――我が歳月はなお残されている。

この一念を持つなら、心は静まるのである。

【補足】［蘇軾は其の一からさらに思索を深め、この其の二はなかなかに難解である。この訳文はひとつの浅い解釈を示したまでである］

　其の三

道(みち)を得た真(しん)人(じん)には妙(みょう)観(かん)［奥深い宇宙観］があるが、

俗な人間には妄(もう)量(りょう)［あやふやな当て推量］ばかりがたくさんある。

漢(かん)の世のこと、皇后がせっせと張(ちょう)良(りょう)に御馳走を勧めたのは、

仙人になろうとしていた張良のことをまるでわかっていなかったからだ。

蕭(しょう)何(か)は罪を赦されると裸足になって感謝し、

ついには皇帝のために立派な宮殿を作った。

兎を狩り終わったなら犬は烹(に)られるのたとえの通り、韓(かん)信(しん)は捕縛されてしまい、

あるいは犬のように駈けずりまわった功績の第一は曹(そう)参(さん)だとされた。

漢(かん)の世を開いた人々を思うと哀しくもあり、また我が身を恥ずかしくも思う。

世間に生きるとは羊の腸(はらわた)のように変転やまないものなのである。

【補足】［この詩は、漢(かん)の高(こう)祖(そ)に仕えた人々が様々な運命をたどったことを列挙して、政治の世界にいるかぎりは、結局のところ、真(しん)人(じん)の妙(みょう)観(かん)などは持てずに妄(もう)量(りょう)のうちに生きるしかないということを歌っているのだろう。この其の三以降は、蘇軾は数々の故事を駆使して詩を構成して、陶淵明とは大いに異なる詩風を展開してゆく。蘇軾は知識がありすぎくらいにあるので、陶淵明の踏んだ韻をどのように活用したらよかろうかと考えると、瞬時に数々の故事が浮かんできてしまうのだろう。それぞれの故事について詳しく知ればより面白味が増すであろうけれど、それによって増した分は、故事を詮索する労苦の大きさにはたぶん見合わないので、立ち入った注釈は加えない］

　其の四

司(し)馬(ば)相(しょう)如(じょ)がうまく官職にありついたとき、

故郷の蜀(しょく)の老人たちを見下してあざ笑った。

かつては（妻の営む酒店で）褌(ふんどし)いっちょうで、

使用人とともに食器を洗っていたことなど忘れてしまったかのようだった。

ところが、書物をわずかに著しただけで、

病気となって、酒店の竈の灰も乾ききってしまった。

成(せい)都(と)の琴(きん)台(だい)には司馬相如の魂が残っていて、

私がちっとも帰ってこないのを笑っていることだろう。

私は昔なじみの人たちに向かって、

皎(しろ)く皎(きよ)らかな私の思いを書いておこう。

残された日々に恥じることがないのなら、

私はかの厳(げん)君(くん)平(ぺい)と並ぶものといってもよいのだろう。

【補足】［ここでは、漢(かん)代(だい)の司(し)馬(ば)相(しょう)如(じょ)と厳(げん)君(くん)平(ぺい)の故事を用いている。どちらも蘇軾と同郷の人で、すでに詩に何度か引かれている。司馬相如は出世はしたけれど俗物であるとして蘇軾の評価は低く、一方で、成(せい)都(と)で庶民相手に占いで暮らしを立てていた厳君平はまことの道を知っていたとして評価がすこぶる高い］

　其の五

漢(かん)の終わりに、曹(そう)操(そう)は老いた狐よりもずる賢く、

いかさまな言葉で郗(ち)慮(りょ)をそそのかして邪魔者の孔(こう)融(ゆう)を罪に落とそうとした。

悲しいにことに、乱世においては、

君子と小(しょう)人(じん)が飛びかかり合ったのだった。

そのために大勢の人がこの世を去り、

孔融だけが漢朝のために尽くす人として残っていた。

しかし、天はまさに漢朝を滅ぼそうとしていたのであって、

郗慮ひとりがいてもいなくてもかわるものではなかった。

昆虫が噛み合うように争うなかで、

曹操はあやしく孔融をおだてて実は貶(おとし)めたのだった。

私が思うに、孔融が罪に落とされたのは、

正しいことを長く言い続けるのは非常に難しいからである。

ましてちまちました屁理屈が横行する時代に、

孔融がいられる場所はなかった。

過去のことはいまさら悔やんでも仕方ないので、

これからの人々は何を懼(おそ)れるべきかよくよく考えていただきたい。

【補足】［これは、天下の簒奪を狙う曹(そう)操(そう)に対して何ら憚るところなく物をいって最後は殺されてしまった孔(こう)融(ゆう)の故事を引いて、蘇軾自身のことを詠んだものであろう。曹操のために孔融の罪状を数え上げた文章を書いた郗(ち)慮(りょ)は、さしずめ章(しょう)惇(じゅん)やそのまわりの人々ということになるだろう］

　其の六

博(ひろ)く大(おお)きな古(いにしえ)の真(しん)人(じん)とは、

老(ろう)子(し)と尹(いん)喜(き)である。

この二人だけは万物の外に立って、

長(ちょう)生(せい)の術などはほんの余技でしかなかった。

葛(かつ)洪(こう)はこの二人にやや近かったが、

それでも物にとらわれる心があったようだ。

私は先ごろ羅(ら)浮(ふ)山(ざん)に登り、

あるいは葛洪に逢えることもあろうかと探してみた。

山中の朱(しゅ)明(めい)洞(どう)のあたりを歩きまわると、

沙の上を馳せ下る清らかな水だけがあった。

仙薬になるという菖蒲の根を手にいっぱい取ったものの、

嘆息して棄て去ってしまった。

【補足】［葛(かつ)洪(こう)も羅(ら)浮(ふ)山(ざん)も恵(けい)州での詩文でたびたび見ている［→作品番号11-1-068など］。前の孔(こう)融(ゆう)を詠んだ詩から一転して神仙世界へと思考を飛躍させている。仙人になった葛洪と羅浮山で逢えると本気で思っていたのか、あくでも文学的虚飾として歌っているのか、そのあたりの境界がどのあたりにあるのかは判然としない］

　其の七

近頃道(みち)を得た藍(らん)喬(きょう)は、

常々こせこせとした世間に迫られていたので、

西方はるかの王(おう)屋(おく)山(ざん)［伝説の仙山］に遊びに行き、

もはや都の道を踏むことはなかった。

それからは会った者は誰もおらず、

藍喬は鳥の道を渡って金星に飛んで行ったのだった。

昔、藍喬は呉(ご)復(ふく)古(こ)と遊んで、

二人で小さな瓢箪の中に隠れたという。

呉復古の住む潮(ちょう)陽(よう)［潮州］は雲海を隔てた彼方、

我が最後の日々にもしもそこを訪れることはできたなら、

薪を伐って供養の火をたき、

そこを鳳(おおとり)［仙人］の棲む家であると見るであろう。

【補足】［（1）この詩は、藍(らん)喬(きょう)という仙人について詠んでいる。ある記録によると、藍喬の母は羅(ら)浮(ふ)山(ざん)に祈って子供を得て、藍喬を生んだ。藍喬は12歳ですでに詩文をよく作り、道教の書物を読み、神仙の道に通じた。藍喬は都で呉(ご)復(ふく)古(こ)［字(あざな)は子(し)野(や)］［→作品番号11-3-059など］と知り合い、一時期ともに廬を結んだ。ある日、藍喬は「自分は羅浮山の仙人である。これから天に昇る」といって、雲を踏んで昇って行った。（2）海の向こうに流せば蘇軾のもとにはもはや誰も訪れる者はいないだろうと朝廷の高官たちは考えたのだろうが、実はこのころに呉復古が海(かい)南(なん)島(とう)を訪れていた。海こそが自由な往来の場であるとする人々もいて、呉復古もその一人、この後何度も島を訪問するようになる。陶(とう)淵(えん)明(めい)の『雑詩』に和したこの一連の作品が神仙について詠むことが多いのは、呉復古に見せるためであったのかもしれない］

　其の八

南(なん)栄(えい)は道(みち)を聞くことが遅かったので、

庚(こう)桑(そう)を十分に教え導くことができなくて、

頑(かたく)なで荒っぽいところを直すのに、

ひどく苦労したと、荘(そう)子(し)は書いている。

宋(そう)の初めに、南国の古(こ)成(せい)之(し)は、

韓(かん)泳(えい)に繰り返し導かれて、

仙界への鍵を得て、

不老長生の道を開いたという。

恵(けい)州でその子孫を見たことがあるが、

痛ましいことに貧苦に苦しんでいた。

かつての住まいだけを残して、

霊薬を煉る方法は伝えなかったのだ。

古成之の画像は李(り)白(はく)に似ていて、

私は江(かわ)に臨んで一杯の酒を手向けたのだった。

【補足】［これは恵(けい)州に伝わる古(こ)成(せい)之(し)の事績を詠んだもの。古成之は宋(そう)の初めの人で、羅(ら)浮(ふ)山(ざん)に籠って勉強し、科挙に合格して、官界に入った。その間に、韓(かん)泳(えい)という異人が古成之に仙術を伝えようとしたが、古成之は親がいるので官職に就くといって断った。官員になってからも韓泳は誘ったのだが、古成之は断り続けた。そして、親が死ぬと、もはや仕えている必要がないといって、羅浮山を思う詩を賦してまもなく死に、人々は古成之は昇仙したと考えた。その子孫の古(こ)革(かく)に、蘇軾は恵州で会っていた］

　其の九

余すところの齢(よわい)はもてあそべるほどの長さはないので、

よい解釈が得られたなら筆で書き留めておかなければならない。

常に恐れて、いつも嘆かずにはいられないのは、

昔の左(さ)邱(きゅう)明(めい)や司(し)馬(ば)遷(せん)のような立派な著作を遺せないことだ。

親しい友が私に勧めるのは、

白髪頭から心を自由に解き放つのがよかろうと、

虚名を得たところで仕方ないし、

本当の味わいは誰か他の人がわかってくれるわけではない。

私が思うのは、思うところがないということ、

そうすればもろもろの機縁が観えてくるのではないだろうか。

そうだ、もう嘆くのはようそう、

かつて『易(えき)経(きょう)』について説いた二つの書物があるのだから。

【補足】［（1）この詩は、晩年に至って自分が何を為し得たのかと顧みたときに、不朽の史書を遺した左(さ)邱(きゅう)明(めい)や司(し)馬(ば)遷(せん)と比べたのではとても及ばないけれども、ひとつ自負し得るのは『易(えき)経(きょう)』の註解を著したことである、と歌っている。ここで左邱明と司馬遷の名を挙げたのは、蘇軾は歴史に詳しいと自認もし他者からも認められていた［かつて王(おう)安(あん)石(せき)から三国時代の史書を編むように勧められたこともあった］し、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)や司(し)馬(ば)光(こう)といった先輩が立派な史書を遺していたからでもある。『易経』は父の蘇(そ)洵(じゅん)も弟の蘇轍も熱心に研究してきていたので、いわば家の学問で、その集大成として、蘇軾は『易(えき)伝(でん)』という研究書を書き、たぶんこの詩を詠んだ後からなのだろう、さらに推敲を重ね、海(かい)南(なん)島(とう)において完成させている。また『論(ろん)語(ご)』と『書(しょ)経(きょう)』の注釈書も島で完成させている。しかし、蘇軾が力を尽くした割にはそれらの学術書が顧みられることはあまりないようである［蘇軾の『易伝』については塘耕次氏の著作［『蘇東坡の易＜東坡易伝＞』明徳出版社（2010年）、『蘇東坡と『易』注』汲古書院（2013年）］があるが、訳者はまだそれに学んでいない］。（2）余談ではあるが、司馬光が編集した巨大な歴史書『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』が、このころに危うく破棄されそうになったということを付記しておこう。章(しょう)惇(じゅん)ら新法党の中心人物は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、司馬光ら故人の名誉をも剥奪して罪人としての烙印を押しまくり、さらにはそうした動きに便乗して手柄を挙げようとしたのだろう、『資治通鑑』の破棄を提案する者までも現れた。幸いにも『資治通鑑』には他ならぬ神(しん)宗(そう)皇帝が記した序文が付されていたことが、この偉大な史書を守る護符となって、後世に伝えられた。いつの時代でも自分の出世のために文化遺産にも手を付けようとする愚か者が出てくるのである］

　其の十

申(しん)不(ふ)害(がい)と韓(かん)非(ぴ)は自分たちが聖(せい)である［真理を得ている］として、

古(いにしえ)などは劣っていると、もはや学びなおそうとしなかった。

王(おう)莽(もう)は自分の欲をひたすら大きくして、

それを守るための崖を、経典を使って作った。

そのような連中は、学問をする人々に、

それぞれが勝手な理屈を抱くようにさせた。

鑿(さく)歯(し)とかいう怪物は井の中の蛙で、

天をも渡ることができると自分では思い込んでいた。

大いなる道は長く分裂し、

破壊されて日に日にますます真から離れてしまった。

私がついにいわずにいたならば、

誰も音階の区別さえできなくなってしまうだろう。

私はそれでやむをえず琴を弾くのだ。

琴には本来の音が具わっているのだから。

【補足】［これは王(おう)安(あん)石(せき)に始まる新法党の人々が学問を破壊してしまったことを歌っている。申(しん)不(ふ)害(がい)と韓(かん)非(ぴ)は法による統治を説き、それに基づく富国強兵策によって秦(しん)の始(し)皇(こう)帝(てい)は天下を統一した。しかし、法で人民を縛る過酷な厳罰主義は短期間で国を滅ぼした。王(おう)莽(もう)は漢(かん)朝(ちょう)から皇位を簒奪した人物で、矢継ぎ早に新法を打ち出して、結局は国を大混乱に陥れて滅亡した。そうした人々に王安石を譬える詩文を蘇軾はかつて作っていたが、ここでまた黙っていられなくなったのだろう］

　其の十一

私は昔、朐(く)山(ざん)に登ったとき、

日が青く清々(すがすが)しく出るのを見た。

東にあるという仙界の地に渡りたく思ったが、

残念なことにそこに至る橋がなかった。

いまここ黎(れい)人(じん)の国にいて、

仙界の地にいるのと何ら異なるところがない。

牡蠣(かき)を食べて山のように殻を積み上げ、

暑さが退けば霜が飛ぶようにもなるだろう。

このように欣(よろこ)んでいるのは自分をごまかしているのではない。

長い道のりを経てきたことは少しも恨んでいないのだ。

【補足】［最後に、海(かい)南(なん)島(とう)にあって恨むことは何もないといっている。しかし、わざわざ「自分をごまかしているのではない」［原文は、「非自誷」［自(みずか)ら誷(こじつけ)るに非(あら)ず］］と断っているのは、やはり思うところがないとはいえないのだろう］

■【12-1-035】次韻子由月季花再生

【解題】弟が、月(げつ)季(き)花(か)［薔薇の一種］が再生したという詩を送ってきたので、それに次韻した。

【訳文】

奥深く芳しい月(げつ)季(き)花(か)はもともと四季咲きである。

しばし瘁(やつ)れたとしても、月が蝕(しょく)にあうのと同じようなもので、

造物者にそのまま任せておけばよいのであって、

株が枯れてしまったと決めつけてはいけない。

いずれ、根がまだ深く張っていることが知れて、

紫の芽が出てくる。

時がくれば婉娩(しとやか)な花を咲かせ、

厳しい寒気をも暖めてくれる。

先生［弟のこと］は若いときから貴ばれ重んじられ、

朝廷での議論は特に優れているとされていた。

いまでは漢(かん)の時代の城(まち)の東の瓜売り爺さんと同じく、

かつての功績を覚えている者はあたりにはいない。

時に遠くから、先生の鄙びた住まいにも便りが届くけれど、

その庭は、いつもちんまりと、大股では歩けないほどの狭さだ。

長くそこに住むことを計画して、年が巡るのをゆるゆると待っている。

梅の枝には十二月なのに実が付いて、

もはや春の心地がして、

杯に竹の葉の色の酒を注ぐ。

先生は、月季花が芽生えただけで、

万(ばん)木(ぼく)が活きいきしてきたとまでいうけれど、

新たに咲いた花を、

先を折り畳んだ頭巾に挿すくらいで十分ではないのかな。

【補足】［「年が巡るのを待っている」との句には、蘇軾自身の注で、弟は来年は六十歳である、と記している］

■【12-1-036】和陶癸卯歳始春懐古田舎、并引

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『癸(き)卯(ぼう)の歳、春の始めに田(でん)舎(しゃ)で古(いにしえ)を懐(おも)う』という詩に和した。蘇軾の詩には序文がある。

【訳文】

引(いん)［序文］

儋(たん)耳(じ)［昌(しょう)化(か)軍］の人である黎(れい)子(し)雲(うん)兄弟は城(まち)の東南に住んでいて、農圃(はたけ)での労働は自分達自身で行っている。たまたま昌化軍知事の張(ちょう)中(ちゅう)とそこを訪れると、住まいは大きな池に臨み、木が茂って、水に奥ゆかしさがあり、客人たちは銭を集めてここに建物を作ったらどうだろうかと考えた。私も喜んで賛成し、それを載(さい)酒(しゅ)堂(どう)と名付け、陶(とう)淵(えん)明(めい)の『始(し)春(しゅん)に田(でん)舎(しゃ)に懐(かい)古(こ)する』の韻を用いて、二首を作った。

【補足】［（1）黎(れい)子(し)雲(うん)の名はこの後しばしば見ることになる。「進(しん)士(し)黎子雲」と書かれることも多く、科挙の地方試験に合格したことがあるのだろうか。「黎」を姓としていることから、島の先住民［黎(れい)人(じん)］の中でも名家であるのかもしれない。家には柳(りゅう)宗(そう)元(げん)の文集があって、蘇軾はそれを借りて読んだりしている。（2）昌(しょう)化(か)軍知事の張(ちょう)中(ちゅう)はこの年の秋に赴任してきた人［→作品番号12-1-029］で、次第に親交を深めていった］

　其の一

郷里に退くのをよしとする格言は多々あるのに、

私は老境に至ってもまだ実践できていない。

陶(とう)淵(えん)明(めい)のように帰ることができないばかりか、

漢(かん)代(だい)の馮(ふう)衍(えん)のようにしばしば罪によって職を免じられてきた。

退隠も謫(たく)居(きょ)も休閑であることについては同じ味わいであろうか、

さすがにそれは妄想であって、靦(あつかまし)さに愧(はず)かしくなる。

自身のことを知る洞察力を少しは働かせて、

家においていくらか善を積もうとしている。

町の東に二人の黎(れい)くんがいて、

その住まいは近いけれど、その人となりは俗から遠く離れている。

私を呼んでくれて、そこの池で釣りをした。

人も魚もそこから帰ることを忘れてしまった。

知事どのも駕籠を命じてここに来て、

土手の林が浅いのが残念だといった。

【補足】［第一首は序文に記した事柄をそのまま詩に詠んでいる］

　其の二

茅葺の家が壊れても補わない。

黎(れい)くんがそれほど貧乏であるのを残念に思う。

畑で菜は肥えつつあるが、人はますます痩せている。

竈(かまど)はひっそりとし、井戸では頻繁に汲まれている［水で飢えをしのいでいるということ］。

私はわずかばかりの贈り物をしようと、

衣を脱いで家に坐す人に勧めた。

池に臨んでちょっとした部屋を作ろうではないか。

雨が強く降ったときには瓦に真新しい音が響くであろう。

客人はうまいものを持って来るだろう。

果実が熟すときには奥深い欣(よろこ)びがたくさんにあるだろう。

紅い荔枝(ライチ)が玉(ぎょく)の膚(はだえ)を破り、

黄色い蜜柑から芳しい汁が溢れでる。

私に三畝(ぽ)の土地を貸してくれるなら、

君の隣に廬を結びたいものだ。

鴃舌(とちのことば)をもし学ぶことができるのなら、

私は身を変化させて黎(れい)母(ぼ)山(さん)の民になりたいものだ。

【補足】［終わりから2句目にある「鴃(けつ)舌(ぜつ)」とは、鴃(もず)のさえずりのようにわけのわからないことばのこと。島の人が現地の言葉で話しているのを聞いても、モズのさえずりと同じく全く意味がとれないと、差別的に表現したものであるが、蘇軾には儋(たん)人(じん)を見下す意識は特にはなく、その言語を学んで先住民の仲間になりたいといっている。つまりは、島での生活にもだいぶ馴染んできたとの実感を得てきていたのだろう］

■【12-1-037】和陶贈羊長史

【解題】陶(とう)淵(えん)明(めい)の『羊(よう)長(ちょう)史(し)に贈る』という詩に和した。序文がある。

【訳文】

引(いん)［序文］

鄭(てい)嘉(か)会(かい)、字(あざな)は靖(せい)老(ろう)の手紙を受け取ったところ、海を渡る船に千余巻の書物を載せて貸してくださるとのことである。陶(とう)淵(えん)明(めい)の『羊(よう)長(ちょう)史(し)に贈る』詩にこのようにある。「愚生三季後、慨然念黄虞。得知千載上、正頼古人書」［愚(ぐ)は三(さん)季(き)の後(のち)に生(うま)れ、慨(がい)然(ぜん)として黄(こう)虞(ぐ)を念(おも)う。千(せん)載(ざい)の上(うえ)を知(し)るを得(う)るは、正(まさ)に古(こ)人(じん)の書(しょ)に頼(よ)るのみ］。それに次韻して鄭君への謝礼とする。

【補足】［鄭(てい)嘉(か)会(かい)は蘇軾の門人の1人で、このころは広(こう)州にいて、蘇軾のために書物を送ろうと申し出て来た。蘇軾は、陶(とう)淵(えん)明(めい)の詩から、古い書物によって昔のことを知ることができるという部分を序文に引き、以下の詩で、鄭嘉会からの書物が届くことへの期待を歌っている］

私は皇帝から書物を借り受けた晋(しん)の皇(こう)甫(ほ)謐(ひつ)に比べられるような者ではないが、

貴君は皇甫謐の門人の摯(し)虞(ぐ)のような名臣になる人物である。

一巻の書物を借りる謝礼は一杯の酒とされていて、

二杯の酒さえ持たない私に、

貴君は一台の車に満載した書物を貸してくださるという。

海の彼方に住む者［蘇軾のこと］に対しても、

後(ご)漢(かん)の時代に、経典を碑に刻んで、都の門の外に建てて衆人に学ばせたようなことを、

貴君はするものである。

私は髪を結った少年のころから文学、歴史を学び、

たちまち六十歳を超えてしまった。

老いた馬も、放置されているのはつらく、

やはり車を曳きたいと長く嘶くという。

私もやはり、根に書物好きという癖がどうしてもあって、

それは病ともなれば薬ともなるのである。

思うに、貴君は千里をたちまち駆け抜ける足がありながら、

いまは土塊(つちくれ)を踏んでぐずぐずしている。

貴君は、学問を好むことでは天下に二人しかいないと評された袁(えん)伯(はく)業(ぎょう)と、

肩を並べて全く引けを取るものではない。

貴君はすでにずっと前に熟読し終えたものであるからと、

いま書物のない荒れ地にいる私を救うためにそれを貸してくれるという。

我が身を顧みると、もはや日没が迫っていて、

詩書の楽しみさえ厭わしく思えていた。

貴君への謝礼に詩を賦そうとしても、病んでなかなかできず、

道教の経典を写そうとしても老いのためにままならない。

それでも、貴君の書物によって、楊(よう)朱(しゅ)や墨(ぼく)子(し)のような異端の学を防いで、

海(かい)南(なん)島(とう)の民を正しい教えへと導きたいと思っている。

■【12-1-038】入寺

【解題】『寺に入る』という詩。寺で一日を過ごすうちに、自身の心がよみがえってきたと詠んでいる。

【訳文】

杖をついて寺の門より入り、

杖を両手にはさんで世(せ)尊(そん)に礼拝する。

私はもとは玉(ぎょく)堂(どう)［翰(かん)林(りん)院(いん)］の仙(せん)［高官］、

謫(たく)されて海(かい)南(なん)島(とう)の村に来ている。

多難な半生によって宿(しゅく)業(ごう)も尽きたのか、

真夜中には一つの気(き)だけが存在するのを覚える。

朝には、烏に随って起き、

空腹には、朝日のしずくを食らう。

心の内の珠(たま)は円(まろや)かな光を放ち、

玻璃(ガラス)の盆［我が身］を照り輝かす。

ここに来たのは仏の教えに従うため、

覚醒を妨げる魔も走り去ってゆくであろう。

午後の日ざしとともに木の影が転じてゆくのを見るうちに、

夕暮れの鐘の音が届くようになる。

四散していた心をここに集め直すことができて、

我が身が耿(きら)耿(きら)と温もりを帯びてきている。

■【12-1-039】独覚

【解題】昼寝から覚めての思いを詠んだ詩。

【訳文】

毒を帯びた南方の熱い空気にさらされること三年、

もはや何とも思わず穏やかでいられる。

北からの涼しい北風が吹くと、

かえって皮膚に疥(かい)癬(せん)でも生じやしないかと畏れるほどだ。

今朝は、冬の烏のように身を縮め、

薪に焔が生じるのを心地よく感じた。

そこから紅(くれない)の波が部屋いっぱいに翻って春の風となり、

その風の中で先生は黙って座っていた。

すると、眼のかすみが空に浮かんで日に染まる雲となって、

心の中に桃や李(すもも)の花が無数に開いたのだった。

たちまち、午後の窓の明かりに独り目覚め、

なおも酔って我が鼾の声を聞いているかのような気がした。

首(こうべ)を巡らせば、あたりはいつもの静かなところ、

いまは風もなく、雨でもなく、また晴れでもないのだった。

■【12-1-040】十二月十七日夜坐達暁、寄子由

【解題】「十二月十七日、夜に坐して暁に達し、弟に寄せる」という詩。

【訳文】

燈(ともしび)の燃えかすは挑(か)きあげぬまま、

蝋(ろう)が長く垂れさがっている。

灰ばかりとなった爐(ろ)から、

なお名残の��(かお)りがただよってくる。

烏が樹に翻ったのは、涼しい風が吹き出したからなのか。

犬が雲に吠えたのは、欠けた月が昇ってきたからなのか。

眼を閉じて心にあるのは、

この暮らし向きを新たにどうしてゆくべきかということ。

我が身に随うのは、

昔から馴染みのこの一つの影である。

雷(らい)州にいる君もまたきっとちんまりと座っているであろう――

海をまたがる清らかな月の光を、

君と分け合おうと思う。

■【12-1-041】与子由弟

【解題】弟の蘇轍［字(あざな)は子(し)由(ゆう)］に宛てた手紙。手紙の文章は、蘇轍が記した『陶(とう)淵(えん)明(めい)の詩に兄が和した詩の序文』に引かれている。蘇轍の序文全体を見ておこう。

【訳文】

蘇轍：『子瞻和陶淵明詩集引』［子(し)瞻(せん)［蘇軾］が陶(とう)淵(えん)明(めい)に和(わ)した詩集の引(じょぶん)］

東(とう)坡(ば)先生は儋(たん)耳(じ)に謫(たく)居(きょ)となり、羅(ら)浮(ふ)山(ざん)の下に家を置いたまま末の息子の蘇(そ)過(か)とともに荷を負って海を渡った。茅や竹を葺(ふ)いて住まいを作り、芋類を食べて日々過ごすことになった。兄の胸に、立派な家に住み御馳走を食べたいとかの念(おも)いは存在しない。普段からそのようなものは特に好まず、書物を庭園とし、文章を音楽としてきたのだが、ここに至ってからはそれらも止めてしまった。ただ詩を喜びとして、いよいよ精(せい)深(しん)華(か)妙(みょう)となり、老人としての衰微の気配は少しも見せないのである。

このときに私もまた海(かい)康(こう)［雷(らい)州］に遷(うつ)され、東坡先生からの手紙が届くと、このように書いてあった。

昔から、古(いにしえ)の詩に擬した作品を作った詩人はいましたが、古の人の詩に追(つい)和(わ)した者はいません。つまりそれは僕から始まったのです。もともと僕には、詩人のなかで特定の人だけを甚(はなは)だ好むということはないのですが、陶淵明を好むのだけは別です。陶淵明が作った詩は多くはありません。その詩は質(しつ)［地味］にして実は綺(き)［派手］、癯(く)［貧相］にして実は腴(ゆ)［豊満］です。曹(そう)植(ち)、劉(りゅう)��(てい)、鮑(ほう)照(しょう)、謝(しゃ)眺(ちょう)、李(り)白(はく)、杜(と)甫(ほ)の諸人の及ぶものではありません。

ここのところ僕は陶淵明の詩のおよそ百九篇に和しつつあって、その意(こころ)を得るに至り、僕の詩は、陶淵明に対してさほど恥じねばならないものではないと、自分では思っています。いまそれらを集めて記録し、後世の君子に遺したいと思っています。僕のために、このことついて君は何か書いてくれはしないだろうか。

私にとって陶淵明は、ただその詩を好むだけではありません。その人となりを思うと、まことに感じ入るものがあるのです。陶淵明は臨終に際して、息子の陶(とう)儼(げん)等への遺言でこのようにいいました。

「私は若いときから窮乏に苦しみ、いつも家の貧しさのために、外に出て西に東に奔走しなければならなかった。本性からして私は剛直で、才能がなく、何かと衝突するばかりであった。我が身を省みて、きっと俗な連中によって患いに陥らされてしまうと考え、努めて世間から離れることにした。それでおまえたちには幼いころから飢え凍えさせてしまうことになった」。

陶淵明のこの語はきっと実際にその通りにいったものなのでしょう。

僕にはいま真にこの病(やまい)［陶淵明を酷愛すること］があるのですが、若いころには陶淵明のすばらしさを知らずにいました。これまでの半生を官に出仕して世の患いに犯されて過ごしたことで、陶淵明に深く服するようになったのです。そして、晩節の師範としてその万分の一でも遂げたいと思っています。

嗟夫(ああ)、陶淵明は五斗の米［わずかな俸禄］のために、地方の小(しょう)人(じん)［小役人］の前に一(いつ)束(そく)の帯を付けて［正装をして］、挨拶に出ることなどはしないといったのだが、兄は三十年余りも官に仕え、その間に獄吏によって拷問を受けながらもついに屈服することなく、また大難［南方に流されたこと］に陥りながらも、なおも夕日の美しさを見せようと、自らを陶淵明に託したのである。そのようなことができる人がいるとは、誰も信じられないのではないだろうか。

兄が出仕してからの出処進退のありさまにはよくよく考えるべきものがある。後世の君子が拠り所とすべきことがきっとあるだろう。

孔(こう)子(し)はこのようにいった。

「私は古(いにしえ)の人のままに述べるだけで、私見によって作ったりはしない。古のことを信じでそれを好む。私は心の内では、老(ろう)彭(ほう)［殷(いん)の時代の人］と自分を比べているのだ」

孟(もう)子(し)はこのようにいった。

「曽(そう)子(し)と子(し)思(し)は（立場は違っていたが）、道(みち)を等しくする者であった」

人それぞれの個々の跡などは、士(し)を論じるときには大して意味がないのだ。

私は少年のころに就いて学ぶ師がいなかった。兄はすでに成人して学問を修めていたので、先(せん)君(くん)［父］は兄を師とするように私に命じた。兄はいつも、私の詩は古の人の風があって、自分はそれに及ばないといっていた。兄は排斥されて東の坡(たかまり)に住まうようになってから、その学問は日に日に進み、水が溢れて大河の流れのようになった。その詩は杜甫や李白と比べてもなお余るほどで、ついに陶淵明に並ぶほどになったのである。私は走ってそれに付いて行こうとしてきたが、常にその後ろになってしまうのだった。兄が陶淵明に和した詩に私も続こうとしても、せいぜい一つか二つくらいしかできない。

紹(しょう)聖(せい)四年十二月一十九日、海康［雷州］の町の南の東(とう)斎(さい)でこの引(いん)［序文］を書いた。

【補足】［蘇軾の「和(わ)陶(とう)詩(し)］に添える序文としてこれ以上のものはないだろう］

■【12-1-042】謫居三適三首

【解題】謫(たく)居(きょ)のうちにも心に適(かな)う三つのことがあるという詩。

【訳文】

　其の一　旦(あした)に起(お)きて髮(かみ)を理(おさ)める

安らかに眠りにある間も、

海［体内の丹(たん)田(でん)を指す］は自ずと運(めぐ)り動いていて、

朝には浩(こう)浩(こう)と黄(こう)宮(きゅう)［脳天］へとみなぎりくるものがある。

日が出て露がまだかわかないときに、

鬱鬱(こんもり)とした松の木々がぼんやりと見えている。

そこからの清(すが)々(すが)しい風が、

この櫛の歯の間に含まれる。

櫛は私に付き従うことすでに久しく、

もはや歯がまばらになっている。

ひとまず耳と目を洗って明らかにしてから、

習(しゅう)習(しゅう)と櫛を通すと、

一万もの毛穴が全て通じるようになる。

若いころははなはだ睡眠を好み、

朝の謁見に出るときはとにかく慌ただしくて、

櫛を通す間さえもなく、

爪でわずかに髪を掻いただけで、

すぐにもう冠を頭に重ねなければならないのが苦痛だった。

馬車に括りつけられた馬の鬣(たてがみ)が、

砂(すな)埃(ぼこり)でいっぱいのままなのと異なることがなく、

美しい鞍に玉(ぎょく)の飾りを華やかに響かせたところで、

馬としては手(て)枷(かせ)、足(あし)枷(かせ)にはめられているのと同じで、

いつ痒さから解き放たれるとも知れず、

枯れた柳にでも逢って掻きたくてたまらなかったのだ。

いまのこの楽しみを、

誰かうまく書いてくれて、

腰に金印を下げている大官の方々に献上してほしいものだ。

　其の二　午(ひる)の窓(まど)べに坐(す)わっての睡(ねむ)り

蒲(がま)の葉の敷物の上に両方の膝を曲げ置き、

竹の机の上に両方の肘を載せ置く。

そこからの道はよくよく慣れたもので、

すぐに無何有(ユートピア)へと至るのである。

身も心も、ふたつながらもはや見えなくなって、

息は安らかでかつ長い。

眠りのうちには煩悩の毒蛇が潜むとかいうけれど、

そのようなものはここにはいないので、

蛇を捕らえる鉤(はり)を用いる必要はない。

精神がひとつにまとまって、

夜に禅を組むのと同じ境地、

身体の心地よさは、

朝の酒よりもずっと効き目がある。

我が一生にはもとより定まったところがあって、

もはや何かすべきことは尽き果てて、

むなしく寿命だけが残っているのだ。

枯れた楊(やなぎ)はもう花を飛ばすことがないとか、

それでも、衰え朽ちた身にも、

午睡によってなお潤い豊かなものが戻ってくる。

目覚めると、外物がまた私に働きかけようとするのだけれど、

私がそれを受け入れるのでなければ、

目覚めているのではないのかもしれない。

とすると、私は今も夢を見ているのだろうか、

ならば、この心には初めから俗世の垢が付いていないのである。

夢でもなく、覚めているのでもない――

果たしてこれは何なのか、

かの仙人の陳(ちん)摶(たん)先生に問うしかないのだろう。

【補足】［陳(ちん)摶(たん)は五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時代から宋(そう)の初めの頃の有名な仙人］

　其の三　夜に臥せて足を濯(あら)う

杜(と)甫(ほ)が長(ちょう)安(あん)にいたときには、

大雪の年にひと束の薪しかなく、

夜具を抱いて寒さに耐えたのだった。

杜甫が雲(うん)安(あん)にいたときには、

町に井戸がなく、

一斗の水を得ると、百の憂いが和らいだように感じたのだった。

私はいまがらんとした谷に逃れ、

小さな町のどこかで鵂鶹(みみずく)が嘯(うそぶ)いているのを聞くばかり。

米を得るのは珠(たま)を得るほどに難しく、

野菜を食べ残すようなこともしない。

釜に湯が沸いて颼(しゅう)颼(しゅう)と鳴るのは、

松を吹く風のように心地よく聞こえ、

盎(はち)に深く膝までつけられるようにと、

水を入れたり湯を入れたりよい按排にする。

明るい燈(ともしび)のもとで爪を剪(き)ると、

快(こころよ)さは大空に放たれた鷹のようである。

ここは、熱気と毒気を帯びた雲が空から低く垂れて、

海の気(き)が浮かぶ地の果て、

我が足の腫れを治す薬はなく、

ただ薪で沸かした湯で癒(いや)すしかない。

足を布で包んでくれる人は誰もいないので、

自分でやってみると、

猿が冠を付けて着飾ろうとするのと変わりがない。