第11章 南へ、さらに南へ――恵州
［第11章その二］
紹聖2年［1095年］、蘇軾60歳。
■【11-2-001】寄鄧道士、并引
【解題】道士の鄧守安［字は道玄］に寄せた詩。鄧守安の名は、羅浮山で会おうとして会えなかった者として見ていた［→作品番号11-1-068］。
【訳文】
引［序文］
羅浮山には野人がいて、人々がいうには、葛稚川［葛洪］の使用人であるとのこと。（その人であるのか）道士の鄧守安は羅浮山に棲む有道者である。かつてその庵の前で足跡を見たところ、長さが二尺ばかりあった。
紹聖二年正月十日、私はたまたま韋応物が全椒山の道士に寄せた詩を読んだところ、その詩にこのようにあった。
今朝郡斎冷、［今朝は役所もひんやりとして］
忽念山中客。［たちまち山の中の人を思った］
澗底束荊薪、［谷底で薪を拾い集め］
帰来煮白石。［庵に帰って石を煮て薬を作っているであろう］
遙持一樽酒、［遥かにひと樽の酒を贈って］
遠慰風雨夕。［遠く風雨の夜の慰めにしてもらおうと思う］
落葉満空山、［しかし、人気のない山はいま落ち葉に埋もれてしまっていて］
何処尋行跡。［どこに行き先を尋ねたらよいのだろうか］
そこで、この詩の韻を用いて詩を作り、一壺の酒とともに送った。
【補足】［（1）葛洪は作品番号11-1-068の補足に記したように晋代の人で、それに仕えていたのなら800歳を超える。（2）韋応物は唐のなかごろの人。蘇軾がしばしば掲げる「夜雨対牀」の語は韋応物の詩に由来する［→作品番号02-1-013］。ここに引用された作品からもわかるように、韋応物には静かに思いを述べる詩が多い］
一杯の「羅浮春」を、
遠く山で薇を采る人に贈ろう。
遙かに知る――
独り酌み終わると、松の下の石に、貴君は酔い臥すであろう。
奥深い趣のあるその人は、やたらに見るべきではないのだろう。
月の夜に、清らかに嘯くのを聞くのである。
庵の中の人にいささか戯れて、
さっと飛んで行って、酒だけを置き、
他には何の跡を残さずに帰るのだ。
【補足】［（1）蘇軾が自家製の酒に「羅浮春」と名付けたことは作品番号11-1-073で見ている。（2）この詩を見ると鄧守安は俗世間との交渉を断った隠者のようであるが、実はなかなかの活動家であることを後に見ることになる］
■【11-2-002】書黄魯直画跋後三首
【解題】黄庭堅［字は魯直］が画に添えた跋文に蘇軾がさらに書き加えた三篇の短文がある。いずれもこの年の1月11日から12日に思無邪斎［→作品番号11-1-077］で書いている。其の三のごく一部だけを見ておく。
【訳文】
其の三 右軍斫膾図
徐常君がこの画の由来を送ってきて、『王右軍斫膾図』であるという。……［以下、画の内容についての考察］……私は恵州にいて、徐常君はこの画を寄せて、跋文を記すよう私に求めたので、千里の遠くにいる黄庭堅君を笑わせてやろうと、ここに書いた。
紹聖二年正月十二日、東坡居士書く。
【補足】［この短文は、徐常［字は彦和］が黄庭堅の跋文のある画を示して蘇軾に執筆を求め、それに応じた書いたものであった。徐常はこのころ広南西路提挙常平という官職にあって、直接蘇軾を訪ねて依頼したのではないようだ。ここでは省略した他の二篇も徐常の依頼に応じたものであろう。なお黄庭堅はこのころは罪を得て安置の処分を受けて黔州に向かいつつあった］
■【11-2-003】記遊松風亭
【解題】嘉祐寺の近くにある松風亭［→作品番号11-1-081］のあたりを歩いて記した短文。
【訳文】
私は恵州の嘉祐寺に寓居していたときに、ぶらぶらと松風亭の下のあたりを歩いていて、足がひどく疲れてしまった。そこで、林で少し休むことにした。
松風亭はと見ると、まだまだ梢の向こうにあって、とてもそこまで行けるとは思えなかった。
しばらくして、ふとこのように思った。
「ああ、どこでもたっぷり休めばよいのだ」
ならば、釣り針にかかった魚もたちまち解脱する……
人もこのように悟るなら、敵陣と接し合って、陣太鼓が雷のように響いて、進めば敵の前で死に、退けば軍法によって死ぬというときでも、たっぷり休むことだってできないはずはないのだ。
【補足】［蘇軾は散歩の途中で何かに大切なことに気づいた。それが何であるのか、言葉によっては伝えるのは難しく、しかし、言葉によって伝えるしかないので、この短文を記した。訳者は、ここで蘇軾の伝えたいものが何であったのかきちんと理解できていないので、この程度の訳文しか作れない。そもそも詩はそのような困難のもとに存在しているので、時に理解が及ぶようなことがあればそれだけで嬉しいのだが、散文の場合には十分に理解できないとひどくもどかしく感じてしまう］
■【11-2-004】上元夜
【解題】1月15日の上元節の夜に詠んだ詩。
【訳文】
先の年の上元には、私は玉輦［天子の車］に付き随っていた――
端門［宮中の門］には一万もの燈篭が輝き、
璧のような月［皇帝の比喩］が罘罳［宮殿の垣］に掛かり、
珠のような星々［近臣の比喩］が觚稜［宮殿の屋根］に連なっていた。
去年の上元には、中山府［定州］にいた――
老いの病にあったけれども宵には興き、
牙旗［軍の大きな旗］を前に立てて夜の町を進み、
馬の鉄の蹄の音を春の氷に響かせたのだった。
今年の上元は、遠い江海にいる――
山の庵で僧とともに過ごしつつ、
いくつもの灯火が掲げられているのを、
松の間に眺めやる。
桄榔の林をぶらぶら歩くと、
鬅鬙とした大きな葉の間に月がのぞく。
知事殿が来て酒を馳走してくれ、
その宴が終わると、
松の陵に簫や鼓の音を響かせつつ行ってしまう。
入れ替わりに珍妙な人物が現れて酒を求める。
盃をひとたび挙げると、たちまち数升を飲み干し、
大きな声で歌いながら門を出て行ってしまう。
私は瞢騰と酔い心地の内にある。
【補足】［（1）2年前に、皇帝主催の上元節の宴に参加したことは作品番号10-3-003で見ている。（2）唐代の人々なら、蘇軾のいまのような境遇に置かれたならば、都での日々を偲びつつ深く悲嘆する詩を例外なく詠んだであろう。蘇軾は、むしろ「珍妙な人物」［原詩は「狂生」］とのひとときの邂逅を楽しんでいる。蘇軾自身の注で、「狂生」とは賈道人であると記されている。賈道人が何者であるのかは、他に史料が残っていないのでわからない］
■【11-2-005】跋所書東皐子伝
【解題】上の詩では、恵州知事の詹範［→作品番号11-1-092］が酒を携えて上元節に訪ねてきたことが詠まれていた。その翌日に近くの梅州の譚知事［名は不明］から酒が贈られてきたことがこの短文に記されている。蘇軾はその謝礼に、ちょうど読んでいた東皐子の伝記を書き写して、その後ろにこの跋文を添えた。東皐子については次の文章で見ることになる。
【訳文】
紹聖二年正月十六日、ちょうど『東皐子伝』を読んでいると、梅州から酒を送り届けに来た者が到着した。独りで一杯嘗めみると、たちまち酔いがまわり、この紙に書いて譚知事殿に寄せることにした。
■【11-2-006】書東皐子伝後
【解題】上にあった東皐子の伝記の後ろに書き添えた短文。東皐子とは、隋の終わりから唐の初めにかけての混乱期に独自の生き方を貫いた王績の号。
【訳文】
私は一日中酒を飲んでも、五合を超えることはない。天下の飲めない者でも、私の下にある者はいないだろう。
私は人が酒を飲むのを喜びとする。客人が杯を挙げておもむろに飲むのを見ると、我が胸中は浩浩焉として、落落焉とする。酒酣の心地よさは、きっと客人以上のものがある。閑居の身となって、客人のない日は一日もなく、客人が来れば酒を置かないことはない。天下の飲むのを好む者でも、私の上にある者はいないだろう。
常に思うのは、人として最上の楽しさは、身に病がなく、心に憂いがないことであって、それ以上のものないだろう。いまの私にはこの二つともない。これらがある者が私の前にやってくると、私は完全な楽しみを得るわけにはいかなくなる。そこで、いつでもどこでも善い薬を蓄えておき、これを求める者がきたなら、それを与えるようにしている。その上で、我が家で醸した酒を客人に飲ませるのを一番の喜びとしているのである。
ある人がこのようにいった。
「あなたには病がないのに、たくさんの薬を蓄えています。あなたはあまり飲まないのに、たくさんの酒を醸しています。面倒なことを人のためにしているのは、どうしてなのでしょうか」
私は笑って答えた。
「病んだ人が薬を得ると、私の身体が軽くなったように感じます。飲む者がもう飲めなくなるまで酒に飽きると、私の酔い心地が実によくなります。つまり、自分のためにしているだけなのです」
東皐子が、門下省［国家の中枢機関の一つ］に招くとの（唐の太宗皇帝からの）詔を受けたとき、詔には日に酒三升を与えるとあった。
弟の王静が兄に尋ねた。
「皇帝のお招き受けて楽しいですか」
「招かれて何が楽しいものか。ただ旨い酒が三升とあるのを、実に恋しく思うだけなのだ」
いま私は嶺南にあって、法として酒を作ることは禁じられていない。私は自分で醸すことができて、一カ月に一斛の米を用いるなら、六斗の酒が得られる。しかも、南雄州、広州、恵州、循州、梅州の五州の知事は時折私に酒を贈ってくれる。その得るところをおよそ計算するなら、東皐子をほとんど超えるほどである。
東皐子は自身のことを五斗先生と呼んだ。五斗を飲むその口では、日に三升もらったところで足りないのであって、客人にはとてもまわらない。私に日に二升五合の酒があるのなら、野人や道士の腹中にもちゃんとおさめることができる。
東皐子は仲長先生という隠者と遊び、己の本性を養い、よいものを食べることを好み、あらかじめ死ぬ日を知って自分の墓誌を自分で作った。私は千年を隔てて東皐子を友としている。たぶん私と近いのであろう。
【補足】［（1）蘇軾の酒との付き合い方がここに端的に記されている。（2）蘇軾は恵州および周辺の州知事と良好な関係にあったようで、あちこちから酒が届いた］
■【11-2-007】与程正輔
【解題】これは驚くべき手紙である。程之才［字は正輔］が広南東路提点刑獄として管轄地域を順に視察するために、この年の1月に広州にやって来た。程之才は州や県の知事よりも高い地位にあり、程郷県知事の侯晋叔を使者に立てて、蘇軾に手紙を届けさせた。それに対する返事がこれである。程之才とは誰なのか。蘇軾の姉を虐待死させた夫、まさしくその張本人である［→作品番号01-2-009］。蘇軾は、程之才の弟たちとはすでに和解していたが、程之才はなおも許すことのできない極悪人であると認識していた［→作品番号10-2-010］。朝廷はそうした2人の関係を知っていて、敢えて程之才を、恵州をも管轄下に置く広南東路の重職［しかも刑罰を職掌とする］に任命したのである。侯晋叔がもたらした手紙に何が書いてあったのかはわからないが、これが蘇軾の返事である。
【訳文】
近頃、朝廷の使者の旗［程之才］が広州に少しの間留まると聞きまして、御挨拶に参上いたしたいと思っておりましたところ、侯長官殿［程郷県知事の侯晋叔］が来られ、伏して御伝言を承り、お志のはなはだ厚いことに深く感じ入りました。
ここのところ春はいよいよ新たになり、結構な日々が続いております。遠からず東に来られるとのこと、もしもお目にかかれますなら、まことに幸いに存じます。
【補足】［程之才が恵州にくるのなら会おうと、蘇軾は返事をしたのである。果たして二人はどのように会ったのか、しばらく後に見ることになる］
■【11-2-008】正月二十四日、与児子過、頼仙芝、王原秀才、僧曇穎、行全、道士何宗一同遊羅浮道院及棲禅精舎、過作詩、和其韻、寄邁、迨一首
【解題】この詩の題は、「正月二十四日、息子の蘇過と、頼仙芝、王原秀才、僧の曇穎と行全、道士の何宗一とともに羅浮道院および棲禅精舎に遊んだ。蘇過が詩を作ったので、その韻に和して息子の蘇邁と蘇迨に寄せる」。頼仙芝と王原は先に通過した虔州［→作品番号11-1-041］の人で、蘇軾のまさしく「追っかけ」となって恵州にやって来ていた。曇穎は羅浮宝積寺の僧で、行全も僧であるが詳しいことはわからない。何宗一は広州出身の道士。つまり、この詩は「狂生」一行でハイキングを楽しんだことを歌っているのである。長男の蘇邁と次男の蘇迨は常州の陽羨にあって、農民として生きようとしていた。
【訳文】
橋が断たれ、心ひかれる場所からは隔てられている。
履を脱ぐと、うれしいことに、衣を少しばかり上げるだけで渡れるではないか。
南国の花が（春を迎えて）すでに紅く咲き乱れ、
道端の柳は、まだ細い葉がまばらに出たばかり。
斜川で遊んだ陶淵明とその友人たちに似ていようか、
ただ、私の年齢が進んでしまったのを嘆かねばならないであろう。
羅浮道院は荒れて寂しく、
雨に穿たれた垣根へと、風に吹かれた壁が頽れかかっている。
黄色い冠を載せた道士は常に飢え、
袂の破れを羞じらいつつ客を迎える。
仙人の棲む山はどこにあるのかと問えば、
そこへと帰る鶴が時折このあたりに羽毛を落とすと答える。
険しい道を歩み、
松黄［霊妙な薬効があるという］を拾い集めようとする。
歯が抜け、髪が落ちるのを防ぎたいものである。
そのような欲があると知られたなら、
千年も一つの夢の内と悟る禅僧に笑われてしまうだろう。
夕暮れ時に棲禅精舎に来て、
酒を置くと、肴として並べられたのは蕉と荔の南国の果物、
廚を覗くと釜には羹もなく、籃には野で摘んだ蕙があるだけ。
陽羨にいる長男と、頭の長いその弟に言葉を寄せる――
父は、こうして季節を追って遊ぶのを楽しみとし、
この世の移ろいを眺めて暮らしてゆくつもりだ。
三月には、水に入って業障を洗う禊をしようと思っている。
諸君等はおのおの力を尽くして家を支え、
期限に先んじて租税を完納するようにするのだぞ。
【補足】［（1）陶淵明の斜川での遊びへの憧憬を、蘇軾はこれまでに何度が詩に詠んでいた。それと似たような遊びをしている今日までに長い歳月が過ぎ去ったことを悼むのであろう。（2）次男の蘇迨は頭が長かったようで、蘇軾はその特徴にしばしば言及している。（3）この詩を長男と次男に寄せ、その結びを「門戸各努力、先期畢租税」［門戸 各おの努力して、期に先んじて租税を畢らせよ］とした蘇軾の思いがどのようであったのかと考えると、なかなかに味わい深いものがあるであろう］
■【11-2-009】何苓之名説
【解題】上に挙げられていた道士の何宗一に関わる短文。
【訳文】
羅浮山の道士の何宗一は、その甥が童子であったころに、その状貌は背が低く肥えて黒かったので、戯れに「これは羅浮山の茯苓の精である」といっていた。
俗に、「茯苓が下にあると、上に兔糸が生じる」ということから、何宗一は甥の名を苓之、字を表糸とした。長く生きて善を為すことを期待するものであって、きっとただ者ではなく成長するであろう。
【補足】［茯苓も兔糸も薬草である］
■【11-2-010】正月二十六日、偶与数客野歩嘉祐僧舎東南野人家、雑花盛開、扣門求観。主人林氏媼出応、白髮青裙、少寡、独居三十年矣。感嘆之余、作詩記之
【解題】この詩の題は、「正月二十六日、たまたま数人の客と野を歩いたところ、嘉祐僧舎の東南の庶民の家にさまざまな花が盛んに開いていたので、門を扣いて観せてくれるよう求めた。出て応対してくれた主人は林氏の媼で、白髮で青い裙、若くして夫を喪い、独居すること三十年になるという。感嘆の余り詩を作ってこのことを記した」。
【訳文】
緗の枝、縹の帶から、絳い花の房が出て、緑の陰に青い子ができる……
春の日々を送るのは忙しい。
涓涓と露に泣くのは紫の含笑花、
焔焔と空を焼くのは紅い仏桑花。
落ちゆく日を受けてぽつんと煙が昇り、
故郷を離れた者の心を知っているかのようであるので、
来てみると、
ここには、低い垣根のなかに傾いた家。
これらの花々は誰のために香っているのだろうか。
主人はと見れば、青い裙袂の白髮の女性、
杜甫の詩にある黄四娘の家とそっくりではなかろうか。
【補足】［（1）含笑花も仏桑花も南国特有の花。（2）杜甫の詩にある黄四娘［娘は年配の女性の意味］とは、杜甫が成都に流寓していたときに詠んだ『川べりを独り歩いて花を尋ねた』という題の7首の絶句の第6首にある。次に訳詩を掲げておく。黄四娘は杜甫の近所に住む老女であったということ以外のことは知られていない。当時の杜甫との境遇が類似していることと、成都への思いとが重なって、蘇軾はとくに黄四娘のことがゆかしく思えたのだろう。ひっそりと暮らす庶民を見る蘇軾の目はまことに温かい］
【訳文】
杜甫：『江畔独歩尋花七絶句 其六』
黄四娘家花満蹊、［黄四娘の家は小道いっぱいに花が咲いている］
千朶万朶圧枝低。［千の枝、万の枝が重なりあってたれている］
留連戯蝶時時舞、［蝶はいつまでもそこに戯れて時折舞い］
自在嬌鶯恰恰啼。［愛らしい鴬が自由自在に鳴いている］
■【11-2-011】与陸子厚
【解題】陸惟忠［字は子厚］に宛てた手紙。陸惟忠は蘇軾と同郷の眉州眉山県出身の道士で、蘇軾が黄州にいたときに遠くから会いにきていた［→作品番号06-2-079］。その陸惟忠が驚くことに、恵州にまで行くと手紙に書いてきたのである。
【訳文】
お別れしてからどれほどの歳月が経ったのでしょうか、私はなお世渡りのなかにあって、再び憂患［流謫のこと］に罹ってしまい、ただ自分で自分を哂うばかりです。貴君が忘れずにいてくれて、御丁寧にもお手紙をくださり、かつ道体［陸道士の身体］が安らかであるのが知れて、喜びに耐えません。
惠州は悪いところは何もなく、門を閉ざして身を養って獲るところがたくさんあります。貴君が家を棄てて道を求めて二十年余りになることを思うと、貴君ほどの異人はなく、貴君の手紙もほかにはない異書であります。この春にお訪ねくださるとのこと、果たしてお言葉の通りになるのでしたら、それ以上の喜びはありません。
かつて廬山を過った折に、蜀の道士の馬希言君に会ったところ、貴君のことを知っているようでした。いまどこにいるのか御存知でしょうか。黄君も世を忘れた高人で、私や弟などはとてもそのようにはなれません。もし弟と会えるようでしたら、弟のいまだ至らざるところについてお導きいただき、また私にもそれを賜りますことを希望しますが、いかがなものでありましょうか。
韓樸処士は傅同年と親しいようです。近ごろ傅君は広東漕幕になったと聞きますので、こちらに伴ってきてくれるでしょうか。会えればいろいろな話ができましょう。
羅浮山には鄧道士、名は守安がいて、もっぱら静かに道を守って、世外の良友です。……［以下、仙薬について述べる］……
たまたま桂酒を一杯ひっかけたために、その香りにうっとりとしてたちまち酔い、手紙の字も形になりません。桂酒は仙方で、桂を釀して成り、玉色を湛えて人間界のものとは思えません。この酒のために来るだけも価値があるでしょう。ただ、戒律に縛られて貴君が飲めないのを恐れます。道家も少し飲んで精神を和ませるくらいなら、戒律を破ることにはならないのではないでしょうか。
【補足】［（1）途中に何人かの名前が挙がっている。馬希言、黄君、韓樸は詳しいことはわからない、傅同年は傅才元で後で登場する。鄧道士は作品番号11-2-001で見た鄧守安。（2）弟について触れているのは、陸惟忠が筠州に立ち寄って蘇轍に会った後に恵州を訪ねる計画であることを手紙に書いていたからであろう。（3）桂酒については作品番号11-1-089で見ている］
■【11-2-012】竜尾石硯寄猶子遠
【解題】筠州に流された蘇轍に同行した甥の蘇遠［→作品番号11-1-080］に竜尾石の硯を贈って、この詩を添えた。蘇軾自身の注で、「蘇遠の人となりは私に似ている」と書き添えていて、それで蘇遠のことをこの詩では「小東坡」と呼んでいる。なお蘇遠は後に蘇遜と改名する。竜尾石で作られた硯は天下の名品とされる［→作品番号10-2-063］。
【訳文】
この硯は雲から出た月のように光り輝き、
水から出た蓮の葉のように青々としている。
君の文章の巧みさを、この硯を使って、いつまでも書き続けるがよい、
君の忠義の心を、老いに至るまで、この硯で磨き続けるがよい。
立派に節を保つには怒りは禁物であって、
少なからず和らかくあるべきだ。
私はもう衰えてしまってこの硯は無用の長物となった、
よって小東坡君に与えるのである。
【補足】［自分に似ると思うから、怒りを禁じて和を大切にせよと忠告したのだろう］
■【11-2-013】恵州近城数小山、類蜀道。春、与進士許毅野歩、会意処、飲之且酔、作詩以記。適参寥専使欲帰、使持此以示西湖之上諸友、庶使知余未嘗一日忘湖山也
【解題】この詩の題は、「恵州の町に近い幾つかの小山は蜀の道に似ている。春、進士の許毅と野を歩いて意に適うところがあったので、そこで飲んでしばし酔い、詩を作ってそのことを記した。たまたま参寥が遣わした使いの者が帰ることになったので、この詩を持たせて、西湖のあたりに住む友人たちに示そうと思う。私が一日たりとも杭州の湖や山を忘れずにいることを知ってもらいたい」。許毅の名は作品番号11-1-068で見ている。この題にあるように、親友の参寥［道潜］の使い者が杭州から恵州に来ていたのである。蘇軾は大陸の中央の山地を越える大旅行の末に恵州に到着したのだが、杭州から船で海岸沿いに下れば恵州は案外と近く、その後も参寥からの使者は何度かやってくる。
【訳文】
夕陽を受けて、柳の絮が、平野へと乱れ飛ぶ。
万里の春を前に、一つの酒壺を置く。
懐かしいかの地は山々の向こう、
かの伝説の通りに、険しい山々は誰かが剣を揮って削って作ったのだろうか。
遠くからの便りは届かない、
かの伝説の通りに、手紙を運ぶ魚が鉄に化して沈んでしまったからなのか。
南国の花ともすでに馴染みとなり、
ますます香りを好いと感じる。
鳥はまだその名を知っていないのだが、
それぞれの声で私を呼んでくれる。
夢に見るのは、やはり普段から尽きることのない思い、
朧の月に照らされた林を抜けて、西湖に到るのである。
■【11-2-014】書天慶観壁
【解題】恵州にある天慶観の壁に書いた短文。上にあった許毅の名が記されている。
【訳文】
東坡はこの部屋で酒を飲み、五羊から進士許毅君がきて、邂逅一杯、そして別れた。
【補足】［五羊は広州のこと］
■【11-2-015】与参寥子
【解題】参寥［道潜］からの使いが来たことを記したが、この年に参寥に出したと推測される手紙が4通あり、そのうちの2通を見ておこう。
【訳文】
（1）海月禅師の肖像画に添える賛は、許諾していながら、すでに二十年余りもくずぐずと作れずにいました。このたびの督促を受けて、ついに作りました。慧浄大師の筆に適うものではありませんが、画に添えていただければ幸いです。『表忠観記』および『弁才塔銘』がその後もまだ石に刻んでいないのは、私と弟が罪を得たために人々は敢えてそうしようとはしていなからでしょう。この賛は参寥師のよろしいようにお計らいください。いまはまだということでしたら、しばししまっておいてください。
【補足】［（1）参寥が遣わした使者は、海月禅師慧弁の肖像画に添える賛の執筆を促すことを一つの役目としていた。海月禅師は蘇軾が杭州副知事であったときに亡くなり［→作品番号04-2-090］、それから22年が経っていた。慧浄大師は海月禅師の弟子。（2）『表忠観記』は作品番号05-3-066で見ている。『弁才塔銘』は先に亡くなった弁才大師元浄［→作品番号10-1-042］の塔［墓］に刻むための銘で、蘇轍が作ったもの。なお慧弁と元浄は同じ師に就いた兄弟弟子である］
（2）遠くお使いの方がこられて、お手紙を頂戴し、並びに最近の詩を拝見させていただきました。一笑の楽しみを得て、数日もの間、喜び慰められ、その味わいを忘れることはありませんでした。
私はここに流されて半年になり、およそのことはほぼすでにお伝えしましたので、それ以上詳しく申し上げるには及びませんでしょう。（杭州の）霊隠寺や天竺寺の和尚が院を退いて後に、小さな村の寺に引っ込んで、足袋を縫ったり、飯を煮炊きしたりして、残りの一生を過ごせるようになったのと似ているでしょうか。
こちらでは暑い風土ならばの病気はありますけれど、北方にだって病気がないわけではなく、病気になって死ぬ者がいるのは、暑い土地に限ったことではありません。ただし、医薬がないのは困りものではありますが、都で国一番と評判の医者にかかって死んでしまう者だってたくさんいるわけです。
参寥師におかれてはこのように聞けば一笑して、もう私のことは心配しなくなるでありましょう。私を知っている方々にはこのようなことをお話してください。その他に人には言うに及びません。いつまたお会いできるともしれませんが、仏道のために自愛自重なされますように。
【補足】［杭州の天竺寺と霊山寺が並び建っていることは何度が見ている通りで、参寥はこのころ天竺寺に属していた］
■【11-2-016】海月弁公真賛
【解題】上に見た参寥［道潜］への手紙にあった海月禅師慧弁の肖像画に付した賛。
【訳文】
銭塘［杭州］に仏教者が多いことは天下第一といってよい。その中には、道に徳のある才智の士と、凡庸で偽りが巧みな人とが混在していて、整えることが難しいとされている。それで、僧官として僧正、僧副のほかに（杭州では）特に都僧正を一人置くようにしている。帳簿を管理したり、度牒を審査したり、人を出迎えたりする仕事は僧正、僧副以下の人の責任で行い、都僧正が行うのは肝要なところの指揮と、衆人の統率である。しかし、僧官の一人であることから、世俗から遠く離れて山の棲む士はこれはつまらないことだとしている。だから、道に通じて正しく雅で、世の外にあって物を忘れるような者にこのことを任せるのは難しい。
私が杭州の副知事であったときに、海月大師慧弁はまさにこの位にあった。海月大師は精神が澄み渡り、怒りも喜びも外に見せることがなく、僧も俗人も喜んで帰服していた。私も喜んで海月師に従って遊んだ。時に東南の地は事が多く、政務の暇が少なく、私は壮年で意気盛んであったので、仕事からなかなか離れることができなかった。師に会いに行くたびに、静かに向き合って座り、時に一言を聞くだけで、百の憂いが氷解し、身も心も安泰となった。それで、荘子がいう東郭順子の人となり、すなわち「人の容貌はしていても天の虚に等しく、道に縁って己の真を保ち、清純で他物を包容し、他物が道ならぬことをすればそれを正し、内に容れつつ他物に正しさを悟らせて、人の我意を消す」とあるのは、きっと海月師のことをいったのであると思った。ある日、海月師は病んで伏せた。私のところに人が来て、山に来るようにといった。たまたま暇がなくて十日余り経って行くと、海月師は亡くなって四日が過ぎていた。遺言として私が来てから棺を蓋うようにとのことで、生きているかのように趺坐して、頭の頂はなお温かった。
私は黄州にいたときに、夢で西湖のほとりに至った。大きな建物があって、上に「弥勒下生」と掲げてあった。そして、弁才師、海月師といった馴染みの方々がそこに居並んでいた。
海月師が亡くなって二十一年、私は恵州に謫居し、天竺浄恵師に属する参寥師が手紙を遣わして「檀越の許氏が海月師のために肖像画を作り、賛を求めているのですが、久しくその願いが叶えられていません。どうでしょうか」と記してあった。私は矍然と起って、喜んでその賛を作った。
人皆趨世、出世者誰。［人は皆、世間に走る。世間から出る者は誰なのか］
人皆遺世、世誰為之。［人は皆、世間を忘れる。世間にためにするのは誰なのか］
爰有大士、処此両間。［この両者の間にあるのは大きな士だけである］
非濁非清、非律非禅。［濁でなく清でなく、律宗でもなく禅宗でもない］
惟是海月、都師之式。［ただ海月師だけが全ての僧の上に立てるのだ］
庶復見之、衆縛自脱。［海月師を見るたけでもろもろもの束縛が自ずから虚脱する］
我夢西湖、天宮化城。［私は夢に西湖に行き、天上の寺院を見た］
見両天竺、宛如平生。［海月師と弁才師がいつも通りにされていた］
雲披月満、遺像在此。［雲が掃われ月が満ち、海月師の像がここにある］
誰其贊之、惟東坡子。［誰がその賛を作るのか、東坡先生である］
【補足】［海月禅師の人となりを表す文章として、『荘子』をそっくり引用している。ここに仏教に向き合う蘇軾の姿勢を端的に見ることができる。仏教に関して蘇軾が重視するのは、精神の安定であって、理想とする境地は荘子が説くところと同じなのである］
■【11-2-017】書淵明東方有一士詩後
【解題】陶淵明の『東方に一士有り』の詩の後に記した短文。始めに陶淵明の詩を掲げ、蘇軾の文章が続く。
【訳文】
東方有一士、［東に一人の士がいる］
被服常不完。［いつもろくなものを着ていない］
三旬九遇食、［食事にありつけるのは三十日に九回だけ］
十年著一冠。［十年の間、冠はたった一つのもの］
辛苦無此比、［これ以上の辛苦はないのに］
常有好容顏。［いつでも穏やかな好い顔をしている］
我欲観其人、［私はその人に会いたいと思い］
晨去越河関。［朝に出て川や山を越えた］
青松夾路生、［青い松が道の両側に生え］
白雲宿簷端。［白い雲が軒端にかかっていた］
知我故来意、［私がわざわざきた心を知って］
取琴為我弾。［私のために琴を弾いてくれた］
上弦驚別鶴、［最初は鶴の別れの曲に驚かされ］
下弦操孤鸞。［終わりは孤独な鸞の曲を弾いてくれた］
願留就君住、［できれば貴君のもとにとどまって］
従今至歳寒。［寒い冬にまで至りたいものだ］
この「東方の一士」とはまさに陶淵明のことである。「東方の一士」と一緒に遊ぶ者は誰なのか。もしこの一段が了解できたなら、己がそのまま陶淵明であり、陶淵明がそのまま己なのである。
紹聖二年二月十一日、東坡居士は飲んで酔い、食べて飽き、黙って思無邪斎に座り、兀然として睡るかのようにし、目が覚めてから陶淵明の詩を写し、息子の蘇過に示した。
【補足】［この陶淵明の詩に和した蘇軾の作品は次の章で見ることになる］
■【11-2-018】竜虎鉛汞説
【解題】蘇軾は恵州に来てから仙薬に対する関心を強め、2月1日に本格的な製造実験をスタートさせ、100日の期限をもって完成させようとした。これはそのことについて記して弟の蘇轍に送った文章。ある隠者から「竜虎鉛汞の説」という製法を聞き、すこぶる理に適っていると判断して、それに従って造ろうとしたのである。その製法については理解不能であるので、一部分だけを読んでおこう。
【訳文】
……この論は奇にして通、妙にして簡で、きっと信じるべきものである。
私には大きな患があるからなのか、かねてから（仙薬を作りたいとの）志があって、百十回も願ったものの、皆失敗した。思うに、この道は身を棄ててそこに赴き、心臓を抉り出し、命を尽さなければできないものであるのだろう。僕は今年すでに六十歳。名も位も破れ、兄弟は隔絶し、父子は離散し、身は蛮夷に置かれ、北に帰る日はなく、日々の暮らしもどうなるかわからない。この状況にあってもなおできないのなら、真に私は人に及ばないということであるのだろう。
それでここ数日の間、古の人が難を避けて山に逃れ、あるいは辺境の地に出て草を噛み雪を食らったのと変わらぬほどの強い気持ちで、これまでとは別に新たに誓願を発した。すでに禅榻を一つ、机を二つ造って明るい窓辺に置き、干蒸餅［小麦粉をこねて蒸したものを乾燥させた食べ物］も用意して、このことに専念することにした。二月一日より始めて、ほかのことは全て絶ち、飢えればこの餅を食べ、湯水を飲まずに唾液でもって飲み込む。ときにわずかな酒だけを飲む。午後に少し眠り、一更に臥し、三更［真夜中］に起き、坐して朝を待つ。……このようにして百日に及べば、きっと完成するであろう。……
【補足】［次の作品を見ると、2月19日の日付があるので、仙薬の製造は今回もあえなく失敗しのだろう］
■【11-2-019】二月十九日、携白酒、鱸魚過詹使君、食槐葉冷淘
【解題】この詩の題は、「二月十九日、白酒と鱸魚を携えて、恵州知事の詹範を訪ね、槐葉の冷淘を食べた」。冷淘は夏の食べもの。槐の葉を煮た汁で小麦粉を練ってうどんのようにし、鍋で茹でてから冷やしたのが、ここにある「槐葉の冷淘」。鮮やかな緑色で、ひんやりとした舌ざわりであるという。
【訳文】
枇杷の実はすでに熟して、金の珠のように輝いている。
桑の繁るもとで、とろりとした「桑落」の古酒を初めて嘗める。
蓮の葉のような大きな盞をちょいと借り、
五台分の書物を詰め込んだ我が腹へと注ぎ込む。
青は――卵型の碗に盛った槐葉の冷淘、
紅は――氷の上に散りばめた鱸魚の細切り。
酔飽と高眠、これこそが真の我が事業、
生きることの味わいは「三余」にあるのだ。
【補足】［（1）「桑落」とは、桑の葉が落ちるころに仕込み、長い年月をかけて熟成させた酒。（2）「三余」とは、なかなか勉強する時間がないとぼやく者に、「三余」があるではないかと董遇という学者が教えたもの。すなわち、年の余りの冬、日の余りの夜、晴れの余りの雨である。蘇軾は、それを踏まえて、流罪となった我が身は「人生の余り」にあるというのである］
■【11-2-020】与銭済明
【解題】このころに呉復古［→作品番号11-1-085］が恵州に来ている。呉復古の郷里の潮陽は恵州からさほど遠くない。呉復古の来訪は、蘇州副知事の銭世雄［字は済明］［→作品番号11-1-084］に宛てたこの手紙から知れる。銭世雄は呉復古に手紙を託し、さらにここに記されている卓契順にも手紙を託したのだった。
【訳文】
近ごろ呉復古君が来られてお手紙を頂戴しました。恐縮の限りでありますところに、遠くより荷を背負って来る人をも遣わしてくださるとは。卓契順君はことに奇しい人です。卓契順君の意に答えられるようなものが何もないので、数枚の紙を認めました。貴君もどうぞご覧になってください。……［銭世雄からの進物について言及］……二人の息子はすでにお近づきを得ましたでしょうか。何事についても教え導いてくださいますように。ここには末の息子の蘇過を連れてきました。雑用をこなしてくれて、しかも学問を続けております。……嶺南ではそれぞれの家で酒を造っています。私は近ごろ桂香酒の法を得ました。できた酒は王詵君の家の碧香酒にも劣らないでしょう。これも謫居の一つの喜びです。その頌歌を作りましたので、書いてお贈りします。人には決して見せませんように。
【補足】［強い香りのある肉桂を加えて造る桂酒［桂香酒］について作品番号11-1-090で見ている。皇族に連なる王詵からかつて碧香酒をプレゼントされていたことは作品番号05-2-029で見ていて、その高級な酒にも劣らないというのは戯れである］
■【11-2-021】書帰去来詞贈契順
【解題】上の手紙にあった卓契順が恵州に到着したのは3月2日であった。遠くよりやって来た卓契順へのせめてもの謝礼にと書いたのがこの文章である。
【訳文】
私は恵州に謫居となり、弟は高安［筠州］にあって、それぞれ息子を一人だけを従えた。その他の者は宜興と許昌にいて、山や海を遠く隔て、息子たちからの音信は絶たれ、無聊のうちに憂愁に沈んでいた。
蘇州の定慧院で仏説を学ぶ卓契順君が我が長男の蘇邁にこのようにいった。
「あなたさまはどうしてそのようにひどく憂いておられるのですか。恵州とて天の上にあるわけではなく、行けば必ず到りましょう。あなたさまのためにお手紙を持ってお訪ねしてさしあげましょう」
卓君は徒歩で川を渡り山を超え、野宿をし、南国の悪い熱気に冒されつつ、顔を真っ黒にし、足を腫らして、紹聖二年三月二日、恵州にまでやってきた。私が蘇邁への返事を書いて渡すと、卓君はただちに帰ろうとした。
私は、
「何かほしい物はありませんか」
と、尋ねた。
卓君は答えた。
「私は何も求めません。だから恵州に来たのです。もしも求めるものがありましたなら、都に行ったでしょう」
それでも私が何度も尋ねると、卓君はいった。
「唐の時代に、蔡明遠は鄱陽のしがない役人でありましたが、顔真卿が旅の間に食糧がなくなって困っていたときに、米を舟に載せて運んで助けました。顔真卿はその意を喜んで、謝礼の手紙を与えました。それによって天下の人々はいまも蔡明遠のことを知っております。いま私はあなたさまに米を持ってきたわけではありませんが、万里の道を歩く勤めをしてまいりましたので、もしも蔡明遠の例に倣って、数文字でも頂戴できればと思います」
私は喜んでそれに応じることにした。
名節を重んじることと、字画の好さは顔真卿に及ばないのを恥じるものではあるが、陶淵明の『帰去来の辞』を書いて与える。
この文に卓君の名が不朽であれとの願いを託す。
【補足】［（1）卓契順は単身で遠く歩いて来たのだった。（2）卓契順のために『帰去来の辞』を書き、それにこの文章を添えたことで、その名が後世に伝わればという卓契順の望みは確かに叶い、われわれはこうして卓契順の長旅に思いをめぐらすことができるのである。（2）卓契順は、蘇邁の手紙を届けるためだけに恵州に来たのではなかった。そのことは以下の詩や文章から知れる］
■【11-2-022】次韻定慧欽長老見寄八首、并引
【解題】この詩の題は、「蘇州の定慧禅院の守欽長老から送られた詩に次韻して八首を作った」。短い序文がある。
【訳文】
引［序文］
蘇州の定慧禅院の長老の守欽が、その弟子の卓契順を使者として恵州にまで寄越された。守欽は私の安否を問いつつ、唐の寒山の詩に類似した十首を寄せてくださった。その語は僧璨禅師や弘忍禅師のように真理に通じていて、しかも賈島や僧無可の詩のように情感の乏しいものではない。私はこれを大変よいと思い、和して八首の詩を作った。
【補足】［（1）蘇軾が残したいくつかの詩文を合わせて考えると、蘇州副知事でかねてから親交があった銭世雄［字は済明］が恵州に行ける者がいないだろうかと、守欽長老に相談したのが始まりだったようだ。守欽が選んだのが卓契順で、卓契順は僧侶ではなく寺で雑用を勤める者であった。卓契順は蘇州を発つと、すぐ隣の常州宜興県陽羨に蘇邁を訪ねて手紙を受け取ってから恵州に向かったのである。（2）寒山以下名の挙がっている5人は唐代の人々で、寒山の詩は平易な語句を用いながら飄々とした独特の味わいがある。蘇軾のこの一連の詩は、深い洞察に富んでいるのだが、数々の典故を踏まえていて容易には理解できないところがあるので、二首だけを訳す］
其の一
天下の争奪戦とて、蝸牛の左右の角の争いのようなもの、
宮殿での席次争いなど、夢の中での寝言のようなもの。
簾を上げて燕の親鳥を入れてやったり、
障子に穴を開けてのろまな蠅を逃がしてやったり、
鼠のために飯粒を残してやったり、
蛾を焼かないために燈をつけなかったり、
長老殿はあれやこれやとなさりつつ、
「わしは小乗の僧じゃわい」
と笑っておられる。
【補足】［仏教には、戒律に厳しい小乗仏教と、おおらかな大乗仏教があり、中国では大乗仏教の方が重んじられていた。それで、守欽が生き物に細やかな心遣いをしていること［たぶんもとの詩にそのようなことが詠まれていたのだろう］を、細則にこだわる小乗仏教のようだといったのである］
其の七
若いころは、外の世界に働きかけようとした。
老いて閑になってみても、その心がまだあるようだ。
とはいえ、微小なこの身はいまは山の彼方の海に置かれて、
瘴霧［病気を生じさせるような悪い熱気］に侵されつつある。
笑ってしまうのは鄧道士である、
このようなところにいながら、
民の呻吟する声を衣を掲げて尋ね歩き、
舟が覆される事故をなくそうと、
断たれた橋の修復に千金を費やそうとしている。
【補足】［鄧道士とは作品番号11-2-001に見た鄧守安のこと。後に詳しく見るように、鄧守安は橋を掛け直す事業に取り組もうとしていた］
■【11-2-023】守欽
【解題】上の詩に見た守欽長老について記した短文。
【訳文】
蘇州の定慧院の長老である守欽のことを私は初めは知らずにいた。恵州に至ったときに、守欽は侍者の卓契順を使者にして私の安否を問い、かつ十首の詩を寄せてくれた。私はその詩の後ろに、「この僧は清逸、絶俗で、語は僧璨禅師や弘忍禅師のように真理に通じ、賈島や僧無可の詩のように情感の乏しいものではない」と記した。私は三呉の地を長らく往来してきたのだが、この僧のことを知らずにいたのはどうしてだったのだろうか。
【補足】［守欽は蘇軾とかねて面識があったわけではなかった。しかし、それでも遠く使者を寄越したのだった］
■【11-2-024】記卓契順答問
【解題】卓契順について記した短文がもう一つある。
【訳文】
蘇州の定慧院の浄人［在俗のままで僧に仕える人］である卓契順は数千里の道も遠くないとして海山を超えて、恙なくしていようかと私に尋ねにきた。
私は卓契順に問うた。
「何か物を持って来られたのでしょうか」
卓契順は両手を広げた。
「数千里を、まさか手に何も持たずに来られたのでありましょうか」
卓契順は何かを荷うような姿勢を作ると、歩みにまかせて行ってしまった。
【補足】［これは禅問答のような文章。事実とはいささか異なるけれども、卓契順の印象を端的に伝えるものといえるだろう］
■【11-2-025】題白水山
【解題】白水山［→作品番号11-1-086］に遊んだことを記した短文。
【訳文】
紹聖二年三月四日、詹知事に迎えられて私は白水山の仏跡寺に遊んだ。
温泉で湯浴みし、滝の下で風に吹かれた。嶺［峠］のなかほどまで登り、滝の出るところを望み見た。
山を出て、肩輿でもと来た道を戻り、山を眺めつつ人々と語り合った。
晩に荔浦のほとりで休息し、竹陰のもとを歩いた。時に芡の実に似た荔子が累累にみのっていた。そこの老人たちが指さして私に、
「もうすぐ食べられましょう。酒を携えてまた来られるとよろしいでしょう」
と、いった。私は喜んでそれに応じた。
一緒に遊んだ者は、柯常、林抃、王原、頼仙芝。詹知事の名は範、私というのは蘇軾である。
【補足】［（1）ここに名が挙げられている恵州知事の詹範［→作品番号11-2-019］のほか、柯常はどのような人物であるのか不明、林抃は字は天和で、このときは博羅県の知事であった。王原と頼仙芝は作品番号11-2-008で見たように虔州から来た人で、まだ恵州に留まっていた。（2）これと重複するところがあり、しかし、日付が異なる別の文章が伝わっているので、参考のために訳しておく］
紹聖元年十二月十二日、末の息子の蘇過と白水山の仏跡院に遊んだ。
湯池で浴びると非常に熱かった。その源に熱い物がきっとあるのだろう。
山を巡って東に行き、少し北に行くと、百仞の高さから水が懸かり、山を八回も九回も折れ曲がりつつ落ち、折れた先に滝壺があった。石を投げ入れて深さを測ると、五丈を超え、どこで止まったのかわからなかった。雪をそそぎ雷が怒るようなありさまは、喜ぶべきであり畏れるべきである。
水の流れの先に巨人の跡がいくつもあり、それがいわゆる仏跡である。
夕暮れに帰り、もときた道を引き返し、山を観ると、非常に壮観であった。仰ぎ見て、あるいは下を見て、谷の数をかぞえた。
江に至ると、山に月が出て、流れの中に波が立ち、珠璧を掬い取れるかのようであった。
家に到ったのは二鼓［夜中前］で、蘇過とまた酒を飲んだ。残った物を食べたり、菜を煮たりした。顧みると我が影はぐんにゃりと崩れ、まだ眠くはなかったので、見て来たものを書いた。
東坡翁記す。
■【11-2-026】与陳季常
【解題】上に見た3月4日の白水山での遊びから帰って、蘇軾はこの手紙を記した。あて名は陳慥［字は季常、仇名は方山子］［→作品番号06-5-035、08-3-045］。かつて黄州に流されたときに、黄州に入る直前に忽然と姿を現し、黄州における暮らしを支えた人物である。その陳慥が恵州を訪問する意欲があると手紙で知らせてきたので、すぐに返事を書いたのである。
【訳文】
恵州の卒［用務員］が来て、貴君からのお手紙を頂戴いたしました。お健やかでおられることを審らかにし、三人の御子息もまた安らかでますます学問に励まれているとのこと、非常に喜ばしく思います。
私には大きな罪があり大いに責められるべきでありながら、聖恩によって罪を償うことを赦され、咎めをお与えなさらず、罪の深さをお心に少しもお掛けにならず、何の不足もないところに置いてくださることとなりました。移動の途中で新たな御命令をいただき、すぐに家族を陽羨に還すことにし、末の息子の蘇過と朝雲、それに二人の老いた女中とともに大庾嶺を超えました。
恵州に到って半年になろうとしています。風土も食物も悪いことはなく、役人もまわりの人々もたいへんよくしてくれています。孔子が「文明の外にある国でも誠実さは伝わる」［蠻貊之邦と雖も行矣］といわれた言葉は、私を欺くことはないのであります。
ここ数年は内丹、外丹の要所［養生の基本］を知るようになりましたが、厚祿を頂戴し、重い役目を担っていたのでは、決してうまくゆくはずがないのであります。官職を失ってからは、山をやすやすと超え、天の川にもすぐにも近づけそうな気になっております。まだまだ簡単には到達できないでありましょうが。
あれこれ思いますに、貴君は安らかに家におられるべきで、軽々しく外に出ようとはなさりませんように。この愚かな老人について過分の御配慮は無用で、草鞋を履いて頭巾を載せてここにまで訪ねようとは決してなさいませんように。また私のところに人を遣わそうなどともなさいませんように。お互いに髯を戟のように伸ばしていながら、おなごのようにめそめそするのはよしにいたしましょう。
定州にいましたときに『松醪の賦』を作りましたので、それを写してお送りいたします。後々にまたこちらに来てみようなどと思いを起こされましたときには、はるかな旅路をたちまち超えるよすがとしていただけることでありましょう。
長男の蘇邁は官吏となりまして、父の気風をよく受け継いでおります。次男と三男は詩が上手で、父を超えること驚くばかりであります、と書いたところで、貴君がここを読んで捧腹絶倒するありさまが目に見えるようです。
今日は白水山の仏跡院に遊びました。山の上から三十仞の水の布がかかり、雷が鳴って電光が走るありさまは名状しがたいものがありました。かの項羽が秦の軍勢を破った勢いもさぞやと想えるものでありました。山中から帰って、燈のもとでご返事をしたためているところです。
筆に任せて書いたまでで、紙が尽きましたので終わりといたします。郡中の皮で作った筒に入れてお送りします。
黄州の方々がこの手紙を見てくださったなら、私が沈み込んでいるものではないとわかっていただけましょう。
弟は筠州にあってごく安らかに暮らしており、私と異なるところがありません。昔の書物に、「老躯が健康であるなら死は遠くにある」とありますのを繰り返し読んで、確かにその通りであると喜んでおります。吾等は他の者とは違って、若い者によくある不摂生とは無縁でありまして、近頃弟に会った者がいうには、四十歳くらいに見えたとのことでありますが、それはきっと本当であるのでしょう。
【補足】［先に見た卓契順は蘇州から手紙を携えて来たのだが、陳慥の手紙は恵州の役所から届けられている。官の通信システムに便乗して送ったのだろう。手紙を送るだけでなく何らかの経済的支援をしようと、陳慥自身が行くなり私的な使者を立てるなりすることを検討していたのだろう。蘇州と恵州は地図上で測った直線距離で1100km余り、黄州と恵州は850kmほど、どちらにしても往復するのは容易ではない］
■【11-2-027】和陶帰園田居、并引
【解題】陶淵明の詩に和した「和陶詩」［→作品番号10-2-040］の第二作。序文がある。その大半は先の短文と同じである。
【訳文】
引［序文］
三月四日、白水山の仏跡巌に遊び、湯泉で沐浴し、髪を滝の下で晞かし、大きな声で歌って帰った。肩輿でもとの道を戻りつつ人々と語らい、いつの間にか川の北の荔支浦のあたりに来た。夕日は蔥曨く、竹の陰は蕭然げで、時に芡の実に似た荔子が累累に実っていた。八十五歳になるという老人がそれを指さして私にいった。
「食べられるころになりましたなら、酒を携えてお越しになりませんか」
私は喜んで応じた。
帰って臥せ、目覚めると、子の蘇過が陶淵明の『園田の居に帰る』の詩の六首を朗誦しているのが聞こえ、それでことごとくその韻に和すことにした。私は広陵［揚州］にいたときに初めて陶淵明の『飲酒二十首』に和し、いままたこれを作った。必ず全ての詩に和してしまおうと思う。
これを書いて、妙総大士参寥に寄せる。
【補足】［白水山に遊んだことはよほど強い印象を与えたのだろう。それによっていくつかの詩文が作られたのだった］
其の一
恵州を環るのはどれもが清流、
海の際までもみな蒼い山。
尽きることのないこの好風景をもって、
我が限りある残りの年月を寄せるところとする。
東の家には孔子のような人、
西の家にはその弟子の顔淵のような人、
市に出てもたかい値をふっかけられるようなことはなく、
農夫も田畑をめぐって争うようなことをしない。
周公とか管蔡とかの古の偉人だって、
ちっぽけな家にいることで満足していたなら、
余計な骨折りをしないですんだはずなのだ。
私は一碗の飯があれば満足で、
おまけに薇や蕨でもあればなおよい。
門弟が薪や米を贈ってくれるから、
厨房から炊事の煙が上がらないということない。
一斗の酒と一羽の鶏を、
飲んで食べなと、この禿げ頭にくれることもある。
鳥や魚は道［大宇宙の真理］を知ってはいないのだろうが、
私がゆったりしていると、ほかのものもやはりのんびりしている。
悠然としていられるほどにはまだなっていないにしても、
私はこのようであることをいささか楽しんでいるのである。
【補足】［「尽きることのないこの好風景」の原文は「無尽景」［無尽の景］。これは、蘇軾が『赤壁の賦』で提示した「造物者の無尽蔵」［→作品番号06-3-057］を踏まえたものであろう。黄州での最初の流謫の経験を踏まえて、「無尽の景」に残りの人生を寄せると歌っているのである］
其の二
行き場を失っていた猿が林に逃れることができた……
疲れきった馬が革の首ひもから解放された……
心を空にして、新たに得たもので満たす。
この境地が熟してくると、夢の中でもその想いが余るほどになる。
江の鴎も私に馴れて集まってくるようになったし、
蜑民［水上生活をする少数民族］の老人も行き来してくれるようになった。
南の池では緑の銭のような蓮の葉が生じ、
北の山では紫の筍が伸び出した。
提壺［鳥の一種］は、名ばかりで酒を飲むことは知らないはずだが、
好く語りかけてきて、心をゆるやかにしてくれる。
春の江には佳い句が流れていた、
ところが、私は酔ってどこか遠くの草むらに落としてしまった。
【補足】［流謫の地にあってどうしてこのような詩が詠めるのだろうか。黄州において鍛え抜かれていたことで蘇軾の精神はかくも強靭になっていたのである］
其の三
湯浴みをしたばかりで身が軽い。
洗ったばかりの髪は、薄くなったのを特に感じる。
滝の下で風に吹かれ、
もと来た道を吟唱しつつ帰る。
仰ぎ観るのは、江に揺すぶられる山、
俯いて見るのは、衣にかかる月の光、
歩きながら老人と語り、
約束したからには違えることはない。
【補足】［これは序文に記されていることを詩にしたもの］
其の四
老人は八十歳余り、
町の中での楽しみなどは知りもしない。
造物者の手からたまたま漏れてしまったのだろう、
ほかの仲間はみんな墓地に入ってしまったのに、
普段から川を渡ることもなく、
水辺の北で静かに暮らしている。
自分で荔枝の実を植え、
ひと抱えもある大きな三百本の木にした。
「かの陳家の紫の品種の、
甘く冷たい味わいには及ばない、などとはいわせませんぞ。
あなたも来られて、木の下に座って、
お腹いっぱい召しあがって、余ったら持ち帰えられて、
家に帰ってお子様方にさしあげたらよろしいでしょう、
この思いは無になさらないでください」
酒があるからと持ってきて飲ませてくれて、
もちろん銭については何もいわなかった。
【補足】［これはライチの林で会った老人を詠んだもの。「陳家の紫」というのは閩中第一との定評があるライチの品種だという。それにひけとらないものを爺さんは育てているというのである］
其の五
ゆるゆると身を預けるのは朱い藤の杖、
歩みつつ歌うのは『紫の芝』の曲、
その曲を作った商山の翁には逢えなくても、
この野に住む老人を見れば心は十分に満たされる。
願うのは、荔枝づくりの寄り合いに入れてもらって、
鶏や黍をともに食べる仲間として長く付き合ってゆくこと。
私は塵の中に光を封じ込めてしまおうとおもう、
月の光はもとより燭台の明るさに勝てないというし……。
霜を帯びたつむじ風が悪い気を吹き飛ばしてしまうなら、
からりとして朝日が射し込むようになるのだ。
【補足】［原文の「教我同光塵」［我を教て光塵を同じくして］以下の四句、訳文ではは「私は塵の中」以下の四行はわかりにくい。「和光同塵」とは、仏が本来の光を隠して俗世に身を置くこと。蘇軾はそれを見習って、恵州の農民の間に自分を交えようというのであろう。部屋の中に差し込む月の光は、燭台の明るさには勝てない。しかし、全世界を照らすのは月の光のほうである。蘇軾は、いまは燭台の光に負けてはいるが、いつか朝日が射すようになると、希望を歌うのであろう］
其の六
その昔、広陵［揚州］にいたときに、
はるかかなたに柴桑陌［陶淵明の郷里］を望み見て、
飲酒の詩を長く吟じて、
一笑して心に適するものを得た。
そのときからすでに放浪の身で、
朝には座っていても、夜には夜らしく寝られるというわけにはいかなかった。
まして今はずっと長く閑な人で、
離れたところから世間のあわただしい変化を見ているのだ。
江や山はこれまで交互に現れたり隠れたり、
私のために［蘇軾が転々とするので］、出没を繰り返さなければならなかった。
これからは、陶淵明の斜川の遊びを追ってもよいし、
東皐に隠れた王績を友としてもよいのだ。
詩がこうして完成して何になるのか、
博打と同じく、もとより益などないのだ］
【補足】［（1）陶淵明の斜川の遊びについては作品番号06-3-018などで、東皐の王績については作品番号11-2-006で見ている。（2）この其の六は「和陶詩」の第二作としての結びである］
■【11-2-028】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］［→作品番号11-2-007］がいよいよ恵州に来ることなった。これ以降多数の手紙を程之才に宛てて書いている。とても全てを読むことはできないし、書いた順序も必ずしも明らかではないので、二人がどのようにして会ったのか、そのあらましがわかる程度に適宜抜粋して読むことにする。
【訳文】
（1）再びお手紙差し上げます。海のほとりに竄逐された者の虚しさはきっとおわかりでありましょう。老兄［程之才］が来られると聞いて、すこぶる佳き思いを抱いております。昔の人は三十年をもって一世といいましたが、いま吾ら老兄弟は会わずにいること四十二年となります。これを念うと、淒断の思いであります。はたして兄上はこの弟を本当に訪ねてくださるのでしょうか。弟は兄上のお言葉を聞くことができるのでしょうか。私は至って重い譴責を獲て、ここにきてからは門を閉ざして人を避け、本郡の知事のもとにも参らずにおります。皇帝の近臣でありながら罪を得て、ただただ身を省みて咎を念うべきでありますので、このようにしていなければならないのです。老兄がこちらに来られるとはいえお出迎えに参るのは恐れ多いことであります。骨肉に愛をもって、礼に反することであっても責めることなくお越しくださるのであれ、我が余生の幸いであります。敢えてそれを望むものではありません。私は紙墨に臨んでくよくよと思うところの全てをここに記し尽くすことができません。どうか御推察ください。
程之元君と程之邵君の消息は聞いておりませんが、定めして安らかにお過ごしのことでしょう。八郎君も九郎君もそうでありましょう。御子息様はいま幾人おられるのでしょうか。同行されているのでしたら、お会いできたら幸いです。弟からは近ごろ手紙がきて、湖口にいると書いています。……
【補足】［（1）程之才のもとに嫁いだ蘇軾の姉が非業の最期を遂げたのは蘇軾が17歳のときで、蘇軾の父の蘇洵が程家との絶縁を宣言したのは蘇軾が21歳のときであった。ここに42年とあるのは、姉の死の後から歳月をいうのであろう。（2）そのような因縁がある程之才であるから、その訪問に蘇軾は若干の不安を抱いていたようだ。終わりに名が挙がっている程之元と程之邵は程之才の弟で、すでに和解し、これまでに詩を何度が唱和している。八郎と九郎はその息子たちであろう。そうした人々に言及することで、自分にはわだかまりはないということを示そうとしたのだろう］
（2）数日の間にこちらにお越しになるとのこと、喜びのあまり言葉もありません。人を遣わして、書状をお渡ししようと用意していると、またお手紙が届き、感じ入るやら恥じるやらであります。道中穏やかでありますように。日々待ち望んでおります。
【補足】［何度か手紙の行き来があって、蘇軾の不安は次第に消え去って行ったようである］
（3）私は町の外に出てお迎えしたく思っておりますが、門を閉ざして外に出ないことを誓っております。兄上には愛情深くそのことを責めることはなさらないでありましょうが、はなはだ恐縮しております。息子に舟でお迎えするよう申しつけました。十秀才君が同行しているとのこと、お会いするのが楽しみです。
【補足】［蘇軾は息子の蘇過を出迎えに出した。程之才には幾人もの息子が同行してて、他の手紙から推測するに、ここにある十秀才は一番年少なのだろう］
（4）昨日はわざわざお越しくださり、うちとけて語り尽くすことができ、感慰まことに深いものがありました。今日のお目覚めはお変わりありませんか。頂戴したのはいずれも珍奇なもので、物も意も二つながら重く、とても私はそれに値するような者ではありません。またお目にかかってお礼を申し上げたいと思っています。
【補足】［程之才は数々の贈り物を持って現れ、二人の再会は終始和やかであったようだ。他の手紙から、蘇過と程之才の息子たちが楽しく談笑したことが知れ、両家は完全に和解したのだった］
■【11-2-029】次韻表兄程正輔江行見桃花
【解題】程之才［字は正輔］が蘇軾を訪ねたのは3月5日ないし6日のこと。二人がどのような話をしたのかはわからないが、程之才は『江を行き桃花を見る』という題の詩を出して見せ、蘇軾はそれに和した。詩は社交上の重要な道具で、この唱和は蘇程両家の和解のしるしであるのだろう。ただし、この作品は次韻の詩によくあるように、あれこれ故事を引いて内容がごたごたしており、文脈を読み取るのが非常に難しい。和解のための作品だという理解のもと、大まかな訳文を作ってみた。
【訳文】
屈原は僻地に流されたとき、
夏の草木が盛んに伸びるありさまに心を痛め、
賦を作った。
徳のある人の前には、
荊の野もなければ、険阻な山道もないという。
我が兄［程之才］は立派な器の姿を持ちながら、
この暑い川べりの地に流落の身となり［遠隔の地に赴任したことをいう］、
清浄な眼で、桃の花が紅い雨のようにしきりに落ちるのを見ると、
仏に花を供える台を静かに払い、
花を散らす天女に向かって尋ね、
それを詩に賦した。
私は言葉をよく解する花［女性］を見ても、
化粧を施した顔も泥土のようにしか思わないし、
我が一言は千の真理に当たると自負してもいるのだが、
初めから何もいわない桃の花には到底及ばない。
とはいえ、これもそれももとよりつまらない話で、
後々思い出すようなものではない。
こうして詩をつぶやいているのは、
せいぜいのところ、ぎしぎしと鳴る櫓の音に和しているにすぎないのだろう。
見るがよい、
川辺の草木は閑を持て余し、
閑な人間こそがそれに似合っているのだ。
杜甫が痩せ細っていたのは、苦しんで詩を作っていたからだ。
我が兄よ、
袖に手を入れ、筆も硯も焚いてしまうとよいだろう、
詩などはまことに用のないものなのだから。
私が願うのは、
北に向けて車を整え、六つの轡を手に取って進むこと。
いま行くなら、宮中の庭に桃の花が開き、
水の暖かさを知って鴻は北に去って行くであろう。
【補足】［程之才は公務のために10日間ほど恵州に留まった］
■【11-2-030】書桂酒頌
【解題】3月13日に、桂酒の頌歌［→作品番号11-1-090］を書いて、一文を添えた。
【訳文】
私は五十歳を過ぎてから眼がすこぶる昏くなった。ところがいまは瞭然としている。これは弟やかねて親しかった友人たちとまた会えるとの天意であろうか。
■【11-2-031】追餞正輔表兄至博羅、賦詩為別
【解題】程之才［字は正輔］が恵州から去るに当たって、蘇軾は見送りつつ隣の博羅県まで同行し、この詩を作って別れた。
【訳文】
私は独り南に旅し、
黄色い菅に覆われた地に堕ちてしまった。
貴君もまたどうしたことなのか、
南蛮の地に来て、
蜑民［水上生活をする少数民族］と並んで竜岡窟に舟を泊め、
椰の葉の下、桄榔の木の間で別れの酒を置くこととなった。
貴君の立派な言辞の前では、衰えた私のさえない語りは笑うしかなく、
貴君の優れた詩句が清く輝きを増すのに感じ入るだけである。
ここ博羅は小さな県で僧舎は古びているが、
私は去り難くし、貴君は還るのを忘れかけている。
貴君はこれからは帰路を見やって、
夢の中で早くも川を渡り、関を越えて行くであろうが、
私は筠州の旅人［弟のこと］を念い、
心はその地にある黄檗山に遊んで禅僧のもとに参じようとする。
いつかきれいさっぱりと瑕を拭って垢を洗い、
貴君を追って帰ることができるのだろうか。
いましも梨の花の咲く寒食の時節……
両岸が白い花で埋もれる長江をさかのぼり、
遥かに二つの山が煙るところへと向かい、
帰耕しようではないか……
もはや一銭の物とて必要ではなく、
ただ二本の足で山の顔を蹴り飛ばして進みさえすればよいのだ。
そのとき貴君は忘れずに玉のような丹砂を分けてくれて、
我が金の鼎を光り輝かせるのを助けてくれたまえ。
【補足】［終わりの部分は、空想を飛躍させ、郷里に帰って霊薬を完成させると歌っている］
■【11-2-032】再用前韻賦
【解題】上と同じ韻を用いてまた詩を賦した。
【訳文】
白居易の鬢の毛が霜をかぶった菅のようになったのは、
樊素と小蛮の二人の妓女を解き放ってからだという。
我が兄の髮はふさふさしてもとの緑のままでありながら、
人間界の事柄は夢幻に等しいとすでに了解している。
美しい眉の女性に酒を勧められても、
ただそれだけのことで、
酒のために残忍になる奴がいようが、臆病になる奴がいようが、
全く頓着しない。
三杯飲めばすぐに酔い、
大勢の女が舞い踊ろうが、もはや何とも思わない。
はるばる遠い旅を何度もしてきたので、
送別の詩を重ねて歌ったところで、やはりもはや何とも思わない。
酒が醒めて夢が終われば、
花は落ち、水は流れて、ただそこには山があるだけ。
にわかに銅鑼の音が響く――
そうだ、出発の時がきたのだ、
いかなる風流人も月によじのぼることはできないのだから、
別れて旅に発たなければならない。
我が兄に贈る物は何もない、
「病を起こす霧に侵されることのないように」
ただその一言だけがある。
羅浮山の仙人はすでに我が友となっているので、
歳月が移らぬようにして、我が兄の顔を若いままに保ってくれるよう頼むとしよう。
私はもとはといえば天上の文章係であったのだ、
いつかまた仙人の並びの中に加えてもらえることだろう、
我が兄とともに。
【補足】［（1）終わりの部分は仙界のことをいいつつ、朝廷に復帰する期待を述べたと解釈することもできるであろう。（2）程之才はこれで都に帰還したわけではなく、まだしばらくこの地域で巡察を続ける］
■【11-2-033】与程正輔
【解題】程之才［字は正輔］と別れて数日後に送った手紙。
【訳文】
私は先日は博羅県に一日留まって、また鄧道士［鄧守安］と会いました。しっかりとした話をするので、今度こちらに来てもらってじっくり語りたいと思っています。丹砂を寄せてくださいましたのを受け取りました。……先にいただいた七哥君［程之邵］の手紙には、すでに礼状を送りました。……外曽祖の遺事を記録しましたので進呈いたします。
【補足】［（1）博羅県に留まったのは、別の手紙から二日酔いのためであったと推測される。（2）鄧守安［→作品番号11-2-001］と会って、優れた人物であると改めて知ったのだろう。（3）程之才の弟の程之邵の手紙は、程之才が持ってきたのだろう。弟のサポートもあって今回の和解ができたのだろう。（4）最後にある曽祖父のエピソードは次に見る］
■【11-2-034】外曽祖程公逸事
【解題】これは、蘇軾にとっては母方の曽祖父、程之才にとっては父方の曽祖父である程仁覇のエピソードを記したもの。上の手紙にあったよう、2人に共通する先祖の大切な言い伝えを書いて程之才に贈ったのである。かつて程之才の弟の程之元に贈った詩で、祖父の代の老人について詠んでいたが［→作品番号08-1-028］、そのもう一つ上の世代である。
【解題】
公の諱は仁覇、眉山の人である。仁に厚く、郷里の人々に信頼されていた。
蜀の地が宋朝の統治下に組み込まれたとき、都の人々は遠くまで赴任するのをいやがり、そのために蜀では官員が不足した。そこで、地元の人間できちんと仕事のできそうな者を選んで臨時の官職に就けた。公もその一人となり、眉山県の参軍という職に就いた。
盗賊を捕えるのが役目の尉の職にある者が、ある盗人を掴まえた。盗みをしたのは確かで、たまたま持っていた刃物で誤ってその家の主人を傷付けてしまっていた。そこで、県尉はその盗人を、強盗殺人を繰り返す極悪人に仕立て、自分の手柄を大きく見せて褒賞を得ようとした。県尉は獄吏と組み、盗人に拷問を加えて目論見通りに白状させた。
県知事の判決がこれから下されるときに至って、盗人は役所の廊下で泣き続け、その衣がぐしょぐしょに濡れるほどであった。そこに公が通りかかり、話を聞いて、これは冤罪であると知った。
それで盗人にいった。
「おまえは、これは冤罪であると知事に訴えろ。そうしたら、私がどうにかしてやる」
盗人がいわれた通りにすると、公が脇から力を添えたので、知事はもう一度調べ直すよう命じた。
公は冤罪であると主張した。しかし、県尉と獄吏は徹底して争い、とうとう盗人は死刑になってしまった。そのために公は官職を失い、郷里に帰った。
それから一カ月の内に県尉も獄吏も急死した。
さらに三十余年後、公は白昼、そのときの盗人が庭先に座ってこちらを拝んでいるのを見た。盗人はこういった。
「あっしはあれからずっと閻魔様の前で県尉と獄吏と白黒争ってまいりましたが、やつらはいまだに自分達の罪を認めようとしません。あっしはあなたさまのお越しを待って決着を付けようと思っていました。閻魔様は早くにあなたさまを呼んで、結論を急ごうとしましたが、あっしは『我が恩人を驚かせたくない』と反対しました。しかし、今日に至ってあなたさまの御寿命が尽きることになりましたので、あっしはあなたさまを閻魔様のお裁きの場へとお連れしたいと思っています。お裁きが終わりましたら、あなたさまは必ず天に昇られ、御子孫はきっと繁栄いたしましょう」
盗人は消え、公は見た通りを家の者に告げると、沐浴し、正装して横になり、そのまま亡くなった。
私蘇軾は幼いときにこの話を聞いた。そのときはすでに曽祖父は九十歳で亡くなった後だった。
公の子が初めて高い身分に昇り、八十五歳で亡くなった。公の曽孫は皆官に仕えて名声があり、同時に三人［程之才、程之元、程之邵］が司法に関わる職に就いた。玄孫はますます盛んで学問に励んでいる。
一方で、かの県尉や獄吏の子孫は微賤のままである。
ある人がいうには、盗人が公の徳の深さを思って、公を煩わせまいとしばらく待ったのはよいことだったとしても、獄が長らく決着のつかないままであったのは、実は閻魔も県尉と獄吏を長く苦しめてやろうとしていたからではなかろうかと。
紹聖二年三月九日、蘇軾は恵州にあって、陶淵明がその母方の祖父について書いた『孟嘉伝』を読み、「『凱風』『寒泉』の思い、実に厥の心に鐘る」［陶淵明の母が祖父のことを深く深く思っていたという意味］の句に意が淒然として悲しくなった。そこで、公の逸事を書いて程氏［蘇軾の母も含むその家の人々］のために遺し、陶淵明と心を一つにしようとするものである。
【補足】［（1）ここにある日付は、蘇軾が程之才と会って数日後である。父の蘇洵は不道徳極まりない程の家との絶縁を宣言したのだが、蘇軾は程仁覇を讃えることによって程の家を顕彰して和解の証としようとして書いたのである。（2）蘇軾と程之才はひとたび心を許し合うと、その後は従兄弟同士として実に良好な関係となり、朝廷の一部の人々が期待したように程之才が蘇軾を苦しませるというようなことは一切なく、これから見てゆくように、蘇軾は程之才からむしろさまざまな支援を得たのだった］
■【11-2-035】遊博羅香積寺、并引
【解題】博羅県に留まった蘇軾は香積寺を訪ねてこの詩を詠んだ。短い序文がある。
【訳文】
引［序文］
香積寺は町から七里のところにあり、三つの山が犬の牙のように突き出ている。寺までの道は、両側ともに豊かな田畑で、麦や稲がさかんに成長している。寺の下の溪流は臼を搗くのに使えそうで、もし百歩の広さの池を作り、水門から水を落とすなら、二つの輪を回転させて四つの杵を挙げることができるだろう。そこで県知事の林抃に頼んで、工事を監督させて、成就したいと思う。
【補足】［（1）やはり蘇軾には水利工学の才がある。水の流れを見て、水力を活用する適地であると判断したのである。同じようなことは作品番号11-1-059でも見ている。（2）博羅県の林抃の名はすでに作品番号11-2-025にあった］
足かけ二年、
蛙や魚のすまうところに流落する身となっている。
今朝ここに来て、
麦が芒を吐き出しているのを見て喜びがわく。
東の風に、麦は波を起こし、清らかな緑が舞う。
朝の陽に、露に潤う芒のやわらかな黄色が美しく映える。
春の泥は汪汪の水を含んで膝を沈めるまでに深く、
秋に剡剡と穂を出す稲はいま苗を植えたばかり。
万里の彼方にきて、友人はいないと、人はいうのかもしれないが、
麦と稲のこの二つの美しさを見れば、
心はもの狂いになるほどの喜びでいっぱいになる。
三つの山に取り囲まれて小さな寺がある。
一歩の幅の渓川が雷のような音を立てて巡り来て、
松の木陰がまことに涼しい。
この水の力を臼を搗くのに使ったらよいであろう。
地脈をよく観察して、堤防を造るのだ。
麦の粉が、霏霏と降る雪のようにしてできあがるのが見られ、
糠を搗きあげていく隠隠と太鼓を打ち続けるような音が聞かれるようになるだろう。
餅の肌が十字に分かれて香ばしく焼き上がり、
流れるような真っ白な粥を啜ることができるのだ。
かの美味とされる「牢九古味」の団子だって作れるし、
仙人の飲み物のような「真一酒」さえ作ることができる。
この詩ができてみると、
自分でもまさに捧腹絶倒、
書生が食べ物について語り出すと、留まるところを知らないのである。
【補足】［詩の後半は、水力を活用したらこうなるという空想の羅列。「牢九古味」については蘇軾自身の注が付されているが、その意味がわからない。何か団子の類の名であるようだ。「真一酒」については別に詩文がある［→作品番号11-2-058］］
■【11-2-036】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］に送った手紙。
【訳文】
（1）お別れしてから三度お手紙を頂戴しました。……すでに韶州に達したでしょうか。『桃花の詩』を再び示してくださり、繰り返し誦詠しております。「菅」の韻の拙句に特に和してくださり、句句奇警、謹んで敬服いたしました。……私は昨日と変わらずに過ごしていて、十九日に行衙［官舎］に遷ります。再会がいつになるのかわかりませんが、ただ国のために御身を大切にしてください。蘇州の卓行者［卓契順］を御挨拶に伺わせます。
【補足】［（1）『桃花の詩』は作品番号11-2-029で、「菅」の韻の詩は作品番号11-2-031で見ている。「菅」の韻の詩に和した作を程之才が送ってきたので、それに和して返したのが作品番号11-2-032であった。（2）「十九日に行衙に遷る」とあるのは、嘉祐寺から合江楼［→作品番号11-1-073］に戻ったことをいう。合江楼の方が何かと住みやすかった（3）このころに卓契順［→作品番号11-2-024］が蘇州に帰ることになり、先に見た通りに陶淵明の『帰去来の辞』を書いて持たせた。その卓契順に程之才宛のこの手紙を書いて届けさせたのである。そうすれば、程之才がなにがしかの報酬を卓契順に与えてくれるであろうという配慮であったのかもしれない］
（2）私は宜興に回る卓契順君に託してお手紙を差し上げましたが、御覧いただけてますでしょうか。皆様御佳勝のことと存じます。私と息子は変わらずにおり、居を遷してからすでに八日になります。坐して安らかな便宜を受けて、有難い限りです。貴兄の大きな庇護がなければこのようなことはなかったでありましょう。……
【補足】［この手紙から、合江楼の戻れたのには程之才の助力があったことがわかる］
■【11-2-037】戯和正輔一字韻
【解題】このころに程之才［字は正輔］の詩に和した作品。題に戯れの文字があるのは、年長の従兄を立てることにいささか過剰な面があるからであろう。
【訳文】
吾が郷里の家は錦官城［成都］から遠く隔たる山のなか、
荊や菅にまじって、蜜柑や薑や蕨があるだけ。
古の事を汲み出すつるべにしがみつくのを好み、
金の釣り鈎［恩赦］が垂れ下る僥倖を望むものではない。
私は帰農して藁が得られるようになれば御の字で、
貴兄の家は栄えて冠をますます高くするであろう。
貴兄の句格を少し改めてはみたものの、
この詩はもごもごと言葉が詰まり、
難儀の余り、すっきりしない詩になってしまった。
■【11-2-038】与南華弁老
【解題】上の手紙にあった韶州は恵州に来る前に通過していて、そこの南華寺には重弁長老がいた［→作品番号11-1-056］。蘇軾は恵州到着後に重弁長老宛てに多くの手紙を出しているので、その一部を読んでおこう。
【訳文】
（1）遠くの地に竄逐された身となり、俗世の外におられる旧知の方々には恥じ入るばかりです。……私は恵州にきてすでに二百日となり、門を閉ざして疴を養い、何事も放り出して、煩わしい思いを留めないようにしています。弟の手紙を受け取りました。異郷に隔絶したなかでも近況がこうして聞けますのも、貴僧の慈しみによるもので、その幸いを肝に銘じております。……
【補足】［筠州にいる弟との手紙や物品の中継の便宜を重弁長老が図ってくれていたことは他の手紙に記されている］
（2）程之才君が近頃来てくれまして、皆で親しく語り合いました。程之元君、程之邵君の手紙を受け取りましたし、弟から時折手紙が届き、いずれ恙なくしております。私は行衙［官舎］に遷り、極めて安穏に過ごしています。大江に臨む楼閣があり、極めて広々としています。
【補足】［（1）重弁長老と程之元が旧知の間柄であることは作品番号11-1-056で見ている。（2）合江楼の方が住みやすかったことがここにも記されている］
■【11-2-039】恵誠
【解題】杭州の南の永嘉から一人の僧がきた。恐らく蘇軾に会うために遠く旅してきたわけではなく、幸運の導きによって蘇軾に会えたのだろう。
【訳文】
私が恵州にいると、永嘉の羅漢院の僧の恵誠が来て、
「明日、浙東に帰ります。どなたかに御伝言がありましょうか」
と。いった。
私はすぐには答えられず、心の内で思ったのは、呉越には大勢の名僧がいて、普段から親しくしていたのはざっと十九人。そのうちの数人の名を恵誠に授け、帰ったなら私の意を伝え、また我が住まいのありさまや、暮らし向きを話して、人々の心配をといてほしいと頼んだ。
筆にまかせて紙に書いたので、順序は乱れ、漏れ落ちた者もあるだろうが、ちょうど酔っていて詳らかにしない。
紹聖二年三月二十三日、東坡居士書く
【補足】［訳者が参照している本には、19人とあるだけでその名は挙げられていない。別のテキストでは、参寥以下12人の名が挙げられているものもあるという］
■【11-2-040】臨江仙
【解題】「恵州で前韻を改める」との添え書きがある詞。「前韻」とは、密州知事であったときの作品で、それには「熙寧九年四月一日、趙庾［字は成伯］、公謹［未詳の人物］らとともに蔵春館の残花を賞玩した。蔵春館は密州の邵家の庭にある」との添え書きがある。19年前に黄河下流の密州の春の終わりを詠んだ詞の前半をそっくりそのまま用い、後半を変えて恵州知事の詹範に示したのである。
【訳文】
九十日春都過了、［九十日間の春はすっかり過ぎ去ってしまいましたのに］
貪忙何処追遊。［意地汚くどこで春をまだ追いかけようというのでしょう］
三分春色一分愁。［春の色を三つに分けると一つは愁いの色］
雨翻楡莢陣、［楡の莢が一斉に雨のなかで翻り］
風転柳花毬。［柳の花がつくる毬のようになって風に転がって行きます］
我与使君皆白頭、［私も知事殿もそろって白髪頭］
休誇少年風流。［若いころの風流を燃え立たせることはもうできません］
佳人斜倚合江楼。［佳い人が合江楼に寄り添って立っていましても……］
水光都眼浄、［水に映るものすべてが眼に浄らかで］
山色総眉愁。［山のたたずまいが愁いを呼び起こします］
【補足】［密州での詞の後半は、「閬苑先生須自責、蟠桃動是千秋。不知人世苦厭求。東皇不拘束、肯為使君留。」で、幾つかの故事を踏まえていて、訳者は意味が掴めないので訳せない］
■【11-2-041】蝶恋花
【解題】同じ頃に春の風光を詠んだ詞。
【訳文】
花褪残紅青杏小。［花は褪せ、紅は残れ、青い杏の実はまだ小さいまま］
燕子飛時、［燕が飛ぶときに］
緑水人家繞。［緑の水が人の家をめぐります］
枝上柳綿吹又少、［枝の上の柳の綿は吹かれてもう少なくなってしまいました］
天涯何処無芳草。［天の涯であっても、芳しい草のないところはないのです］
墻裏鞦韆墻外道。［墻の内に鞦韆、墻の外に道］
墻外行人、［墻の外を行くあの人］
墻裏佳人笑。［墻の内で佳き人は笑っています］
笑漸不聞声漸悄、［笑いは聞こえなくなり声はひっそりとします］
多情却被無情悩。［多情はかえって無情によって悩まされるのです］
【補足】［これは抒情詞で、筋道だった訳文をこしらえようとしてもできるものではない。われわれが普通に歌う歌詞もそうであるように、意味のつながりは明瞭でなくても、音律に乗せて唱えれば情感に強く訴えるものがあるのだろう。蘇軾がこの詞を王朝雲［→作品番号11-1-079］に示すと、王朝雲は途中で声を詰まらせて歌えなくなったという言い伝えがある］
■【11-2-042】題嘉祐寺壁
【解題】嘉祐寺［→作品番号11-2-010］の壁に記した短文。
【訳文】
紹聖元年十月二日、私は恵州に至ると、始めは嘉祐寺の松風亭に寓居した。そのあたりを歩き回り、犬や鶏とも知り合いになった。
翌年三月に、合江楼の公舎に移った。江の大きな眺めは得られたが、趣のあるところをぶらぶらと尋ね歩くことはなくなった。
松風亭ほどに喜ばしく感じられるところは、嶺南にも嶺北にもほかにないのではなかろうか。
虔州の鶴田の王原、字は子直は千里の道も遠くないとしてここにまで私を訪ねてくれて、留まること七十日でここを去ることになった。
東坡居士書く。
【補足】［（1）蘇軾は恵州に到着した直後は合江楼に短期間だけ仮住まいをし、それから嘉祐寺に移り、そして再び合江楼に戻ったことが記されている。（2）虔州から来ていた王原［→作品番号11-2-025］がこのときに帰ったのである］
■【11-2-043】贈王子直秀才
【解題】王原［字は子直］が虔州に帰るに際して贈った詩。
【訳文】
万里の雲と山、
一枚のおんぼろの衣、
百銭を杖の端にひっかけ、
ぶらりと旅に出る。
五台の車をいっぱいにするだけの書物は、子供等に与えて読ませている、
二頃の広さの農地では、鶴に食べさせるための餌を作っている、
水の底で笛吹き歌うのは蛙の音楽隊、
山の中で働いているのは千本の橘の木。
頭巾をのせて、そこへと帰る貴君に随って行きたいと思う。
海のほとりのここ恵州には、私の旧いなじみは誰もいないのだから。
【補足】［この詩の題にも王原秀才と記しているように、科挙を目指して勉強していた時期もあって、蘇軾と詩の贈答ができるだけの教養があったのだろう。先の文章で見たように、王原の住まいは虔州の鶴田というところにあったので、この詩では、鶴の餌を作っていると洒落て、その続きで、蛙の音楽隊や橘の労働者といった連想を働かせたのである］
■【11-2-044】黄僕射得道
【解題】上に見た王原とともに虔州から来ていた頼仙芝もたぶん一緒に帰ったのだろう。これは頼仙芝が語った話の記録。
【訳文】
虔州の布衣［民間人］の頼仙芝がこのように語った。
五代十国時代、連州に黄損僕射［僕射は官名］という人がいた。南漢国に仕えていたのだろう。老いる前に官を退いて郷里に帰り、ある日のこと、たちまち消え去ってしまい、その生死を知る者はいなかった。子孫は黄損の姿を描き、その画にそれまで通りに仕えた。それから三十二年、黄損はふらりと帰ってきて、東側の階段に座って、家の者を呼んだ。たまたまその息子が不在であったので、孫が出てきて黄損を見た。黄損は筆を求めて、壁に詩を書いた。
一別人間歳月多、［人間世界と別れてからどれだけの歳月が流れたのか］
帰来人事已消磨。［帰ってくると、かつての人々はすっかりいなくなってしまった］
惟有門前鑑池水、［だた門前の池の水はそのままで］
春風不改旧時波。［春の風に昔通りの波を立てている］
筆を投じると立ち去り、引き留めようとしても行ってしまった。息子が帰り、その状貌を尋ねると、孫は、「影堂［先祖の画を掲げてある部屋］の老人によく似ていました」。
連州の人はこのことを言い伝えた。その後、黄の家からは官に仕えて禄を得る者が大勢出たのだった。
■【11-2-045】跋嵇叔夜養生論後
【解題】晋の時代に「竹林の七賢人」と呼ばれた一人に嵇康［字が叔夜］がいて、蘇軾の詩文に時折その名が引かれているが、これは嵇康の『養生論』を読んで得るところがあって筆写したという短文。
【訳文】
東坡居士は梢に残る夕陽、すなわち憂患のうちの余生にある。
学問の道に後れ、すでに道の奥に達した人には笑われているけれど、以前よりはいくらか賢くなってはいるのだろう。嵇康の『養生論』を読んだところ、いろいろな病にすこぶるあたるところがあったので、写して数本を作り、その一つを羅浮の鄧道師に贈る。
紹聖二年四月八日、書く。
【補足】［（1）恵州に来てから、謫居の身でありながら悠然と過ごしているかのように見えもするのだが、ここの最初の一行がその実態を示しているのではなかろうか。恵州において養生や道術について熱心に研究した背景には言い知れぬ憂患があったのだろう。（2）写本を贈った相手は羅浮山の道士の鄧守安［→作品番号11-2-033］である］
■【11-2-046】江漲用過韻
【解題】南国の梅雨は早い。4月の初め、恵州の町に流れ込む東江と西江に水が漲り、一部が溢れた。息子の蘇過が詩を詠み、その韻を用いて蘇軾も詩を作った。
【訳文】
町の古い住居跡には草木が繁り、
から堀にはたくさんの牛や羊がいた。
春の江が溢れて町を取り囲み、
夜の間に、そこらにあった竹づくりの家屋が浪によって流されてしまった。
水は海にまで連なって白く漲り、
なお緑色を帯びているのは霍山だけである。
水と火は互いに攻め合う関係にあるというけれど、
いまは水が勝って、魚や亀が我がもの顔で陸地を横行している。
太古の昔にも、火の官は水の官と競って敗れたことがあった、
それでも、火の官は一矢報いようとしたというから、
南の国のこの危難を救いに、
北風ととともに火の官が来てくれたりはしないだろうか。
沙にまではびこってしまった害毒を焼いて一掃してほしいものだ。
こうした禍福の循環はいつか止むのだろうか。
造化の不可解さを私は悲しく歌う。
哀れなのは水害と干害に苦しむ民衆で、
逃げるための舟やら車やらを備えておくことさえもできないのだ。
江の流れをたちまちおさめてしまうことがもしもできたなら、
祭りの酒を大いに楽しみたいものである。
【補足】［蘇軾は水害や干害に苦しむ民衆に思いを寄せ、謫居の身でありながらも、社会になにがしかの貢献をしようと努めていた。そこのことは後に見る。定州を出るときに「私は、あちらでも土地の人々に背くことなく努めるつもりでいる」［→作品番号11-1-003］と歌った官員としての責任感は失せることはなかったのである］
■【11-2-047】連雨江漲二首
【解題】上と同じく、雨が続いて江が漲ったときの詩。
【訳文】
其の一
山から出た雲が越井岡の上をおおう……
牂牁江［西江］のあたりは、天にまで水が広がる……
隠遁者［蘇軾］の家では、雨漏りを避けようと、寝床をあちこちに動かす。
蜑民は船がそのまま家であるから、入り江から入り江へと自由に移り行く。
竜が、魚や蝦を巻き上げて、雨と一緒に降らせる。
人は、鶏や犬とともに土塀を登って屋上で眠ろうとする。
二階家の階段までもすっかり水に漬かってしまった――
その跡をもって、
かの先生［蘇軾］が五嶺を越えたのはあの年だったと,
今後は長く記憶に留められることだろう。
【補足】［蜑民は水上生活をする少数民族である［→作品番号11-2-032］］
其の二
激しい雨が蕭蕭降って、夕方には涼しくなった。
寝床に入ると、
榕樹の葉の鳴る音が長い廊下で反響し続ける、
ほんのり明るい燈火も、夢のなごりもともにぼんやりとしている、
半分濡れた簾帷からは、しみついた匂いがじっとり湿って立ち昇る、
川に立つ高い浪によって、牀が揺り動かされるほど、
甕や盎からもしぶきが飛び出そうだ、
暗がりを吹く風が樹を驚かし、幹が琳瑯と鳴っている。
これでは晴れたところで、
先生は水に囲まれてどうせ家から出られないのだから、
意味がない。
ならば、夜の間中、
誰もいない階段に好きなだけ雨をしたたらせたらよいだろう。
【補足】［恵州では雨の降り方も、雨の音も、雨の匂いもどれも北の地とは違うのである］
■【11-2-048】四月十一日初食荔支
【解題】熟した荔支の実を四月十一日に食べたという詩。
【訳文】
恵州の南の村には楊梅、北の村には盧橘、
あちこちで白い花を咲かせ、青い葉は冬も枯れない。
煙る雨のころに、
楊梅に紫の実が連なり、盧橘に黄色い実が垂れるのは、
つまるところ、
荔支の先駆けとなろうとするものであった。
荔支の実は――
海の中にある山の仙人が、
絳い羅の襦をまとい、紅い紗の中單で白玉の膚を包んだようなもの、
楊貴妃が微笑むのを待つまでもなく、
城を傾ける美人の風骨を見せるのである。
この優れたものを、海辺の隅の地に生じさせたのには、
はたして天公［造物者］にどのような意図があるのか。
松や檜は雲のかかる山で老いる定めであり、
梨や麤は霜や雪に苦しめられてがさつになる。
先生は盞を洗って桂の酒を酌み、
氷のような盤にこの竜の赬い珠を盛る。
果肉は江鰩を開いて玉柱を斫ったかのよう、
さらには、河豚を洗って腹の腴えたところの肉を烹たかのようである。
我が人生はもとより口のための世渡りであったが、
（晋の張翰のように）蓴菜と鱸くらいでは官職を棄てる気にならなかった。
人間界のことで夢幻でないものはない、
万里の彼方の南に来たのはまことによい方途であったのだ。
【補足】［（1）「普段から口のために忙しくしてきた」と、黄州に到着した直後に歌っていた［→作品番号06-1-020］。ライチのためなら恵州に来たかいがあったというのだ。（2）終わりの句「人間何者非夢幻、南来万里真良図」［人間 何者か夢幻に非ざらむ、南来 万里 真に良図］は実に蘇軾らしい。南に流されたことを嘆くのではなく、夢幻とした上で、現実を全面的に肯定するのである］
■【11-2--049】書緑筠亭詩
【解題】この文章はすでに作品番号03-3-011として見ているが、書かれたのは上の詩の二日後であるから、ここでもう一度見ておこう。衢州からやって来た梁琯の訪問を受けて蘇軾が記した短文。衢州は北東に数百キロ離れた遠隔の地である。冒頭の詩は、梁琯の父の梁処士［処士は官職に就かない人］の緑筠亭について、官界の大先輩である趙抃の依頼で詠んだもの。蘇軾は梁処士も緑筠亭も実際には会ったことも見たこともなく、想像で詠んだのである。その詩は梁処士のもとに届けられ、それから25年が経って、息子の梁琯が蘇軾を訪ね、一筆揮ってもらったのだった。
【訳文】
愛竹能延客、［竹を愛し、同好の士を客として招き入れる］
求詩剩掛墻。［客人に詩を求め、それを壁に掛ける］
風梢千纛乱、［梢を吹く風に、竹は千本の旗のように乱れる］
月影万夫長。［月の光に、竹は万人の影を伸ばす］
谷鳥驚棋響、［谷の鳥は碁を打つ音に驚き］
山蜂識酒香。［山の蜂は酒の香りを知っている］
只応陶靖節、［ここの主人は、陶淵明と同じく］
解聴北窓涼。［北の窓辺の涼しさの妙味を知っているのである］
かつて私は清献先生［趙抃］から緑筠亭についての詩を詠むよう求められた。
清献先生は、
「緑筠亭は我が故郷の人、梁処士の住いである」
と、いわれた。
それから二十五年後に梁処士の子の梁琯に会い、緑筠亭の詩を書くよう求められた。
紹聖二年四月十三日。
【補足】［「北の窓辺の涼しさの妙味」とは、夏の北の窓の下に寝そべって涼しい風に吹かれていると太古の人になったような気がすると、陶淵明が詩に詠んだことに基づく］
■【11-2-050】題秧馬歌後
【解題】蘇軾は恵州で、田植えに使う器具である秧馬の普及に努め、『秧馬の歌』［→作品番号11-1-037］を書いていろいろな人に渡していた。その折に書き添えた短文が四篇残っていて、その一つを読んでおこう。蘇軾は農民の苦労を少しでもやわらげたいと考えて普及に努めていたのである。
【訳文】
恵州博羅県の知事の林抃君は農民のために勤めている人物である。私が秧馬を歌った詩を出して示したところ、林君は非常に喜び、自ら役人を指揮して製作し試してくれた。秧馬の背中が瓦を重ねたようになっているのを、首を起こして馬の鞍のようにした方が前に進みやすいと、林君は考えた。そのように改良して恵州の民に用いさせたところ、はなはだ便利であるといってくれた。
思うに、浙中［長江下流域］では天下の稲のほとんど半分を作っているのに、この秧馬のことをまだ知らないでいる。陽羨には私のちっぽけな農地があるので、これを教えてやりたたいと思う。たたまた衢州の進士［科挙の受験資格がある者］の梁琯が私を訪ねてくれて、さらに西に行くというので、秧馬について詳しいことを口で授けた。梁琯が衢州に帰ったならば、張弼［字は秉道］君に会って、秧馬の寸法と乗り方を伝え、一枚の図面を作って、呉の人々に広く伝えるともに、陽羨の息子たちにも教えてもらえたら、最も幸いである。
前から張弼君には手紙を送りたいと思っていたのだが、つい怠けていたので、最近のことは梁君から詳しく聞いていただきたい。さらには参寥師にも伝言して、万里を隔てた一笑を催してもらえたなら最も佳ろしいであろう。
紹聖二年四月二十二日、蘇軾書く。
【補足】［（1）博羅県知事の林抃の名は作品番号11-2-035で、杭州の役人である張弼の名は作品番号10-1-002、09-3-007ですでに見ている。（3）衢州と杭州は200キロほど離れ、陽羨とはその半分ほど離れているのだが、恵州から見れば互いに近いということで、梁琯にいろいろと頼んだのである］
■【11-2-051】答黄魯直
【解題】いわゆる「蘇門四学士」の一人の黄庭堅［字は魯直］［→作品番号11-2-002］に宛てた手紙。黄庭堅は蘇軾と同様に安置処分を受けて黔州に流謫となり、この年の4月に黔州に到着した。黔州は蜀にあって、長江の南側の山間の地である。
【訳文】
……すでに黔州に到着したでありましょうか。そちらではいかにお過ごしですか。そちらの風土はいかがでしょうか。おおむね長沙に似ているという人もいます。そうであるのなら、さほど悪くはないのでしょう。
私は恵州にきてすでに久しく、安らかにしています。黔州もまた住んでみればどうにかならないことはないでありましょう。聞けば旅の囊の中には一銭もないとか。それでも道の途中には好事家がいて、きっと助けてくれるでしょう。私は一銭もないとまではいきませんが、やはり厳しい状況です。水が来れば自ずと溝ができるもの、あらかじめくよくよ思い患ったりしないのがよろしいでしょう。ここ数日は痔病に苦しみ、いろいろな薬も効かないので、ついに肉や五味を絶ち、毎日、麦に胡麻、茯苓を加えた薄い粥を両碗ばかり食べています。この戒律を貴君にも厳しく授けようと思います。誓いの文を作るまではしていませんが、毎日戒めて、ずっと続けることを願っています。痔が癒えるだけでなく、きっと得るところは多いでしょう。
弟からは手紙を得ていて、枯槁の味わいがあります。張耒君は宣州にあって極めて安らかにしています。秦観君は謫居の身でありながら自得するところが多く、范祖禹君もまた同様です。皆が喜ぶべきありようです。ただ、蔡確君が俄かに亡くなったのには、涙を流さずにはいられません。ひどい病気になったのは、遠い地に流謫になったためなのでしょう。隔絶した地にあっては、継続的な手紙の行き来は難しいことですが、これまで以上に御身を大切にお過ごしください。
【補足】［（1）痔疾について触れている。後に見るように、痔疾はこの後長く蘇軾を苦しめるようになる。ここにある療法は道士の鄧守安［→作品番号11-2-045］に教わったもの。（2）後半には弟も含めて何人かの消息が記されている。張耒［→作品番号11-1-022］はこのころは新たに宣州知事として潤州から移動中であったようだ。張耒は蘇軾と親しかった者としては例外的に州知事としての地位を保っていた。秦観［字は少遊］［→作品番号10-3-001］は左遷されて郴州の小役人に格下げとなっていた。ほぼ罪人扱いである。郴州は、先に蘇軾が通過した虔州［→作品番号11-1-041］とは山地を隔てた西側の地。范祖禹［→作品番号10-3-033］は安置処分となって永州に流された。永州は、郴州から幾つかの山地を隔てた西側の地。以上の人々と違って、蔡確は改革派の人物で、蘇軾とはむしろ政敵関係にあった。作品番号10-2-024でその名を見た蔡京の親族で、神宗皇帝のもとで改革派の中心人物として活躍し、保守反動政治によって左遷の憂き目に遇い、高太皇太后を誹謗したとして泉州に流され、その地で2年前に病死した。あいまいな根拠をもって誹謗の罪に陥れられた点で蘇軾も蔡確も同じで、しかも蔡確は蘇軾より1歳若いだけであったから、蔡確の死は身につまされるものがあったであろう。蘇軾のように、政治的立場を超えて、冤罪によって命を失った人を悼むような者は実は稀で、蔡確の死も含めて酷い目に遇わされた改革派は、権力を取り戻すと、保守派に対していわゆる倍返しの復讐をしようと躍起になり、この後、蘇軾とその友人たちにはより重い処分が下されるようになるのである］
■【11-2-052】与宝月大師
【解題】成都にいる宝月大師［惟簡］［→作品番号06-1-089など］に送った手紙。宝月大師は同じ眉山県出身の同姓の親戚であり親友。
【解題】
成都府の知事の王覿君のことはよく御存知でありましょうし、王覿君もまた貴僧のことをよく知っておられるでしょうから、きっとお会いになる機会があることでしょう。私は罪をもって廃された身として、王覿君に敢えて申し上げるようなことはないのですが、もし私についてお尋ねがありましたなら、よしなにお伝えください。特に言及がなければ、何もおっしゃいませんように。……
【補足】［王覿［字は明叟］［→作品番号08-1-019］が成都府の知事になったのはこのころのこと。宝月大師との交流はなお継続していた］
■【11-2-053】与徐得之
【解題】徐大正［字は得之］に宛てた手紙。徐大正はかつて黄州知事の任にあった徐大受の弟で、徐大受が亡くなった後に、蘇軾が徐大正を支えたことから、黄州を離れてからも時折交流があった［→作品番号09-1-027、07-2-066など］。徐大正の郷里の福建と恵州は比較的近く、使いの者が来て徐大正の手紙を届けたので、それへの返事。
【訳文】
（1）張君が来てお手紙を頂戴しました。行き届いたお心遣いに感激ひとしおです。……私は恵州に来てすでに半年、およそ何事も成り行きに任せ、海辺の風気にもかなり慣れ、欲を絶って念を鎮めることのほかは、浩然無疑として過ごし、ことに安健を覚えています。息子の蘇過は要領がよく、寝食のほかのことも私が関わるまでもなくやってくれていて、またすこぶる学問にも励み、大いに進歩しています。弟からもよく手紙がきて、安らかにしています。我が一家は今や四カ所に分かれ、恵州、筠州、許州、常州に住み、皆が恙なくしています。貴君の情愛の深さを知っているので、私事も詳しく記しましたが、人には語りませんように。……
【補足】［張君とあるのが使いの者であろう。詳しいことはわからない。蘇軾のもとに手紙が頻繁に届けられているのは、もちろん蘇軾にそれだけの人望があったからなのだが、宋の時代は人の往来がかなり盛んであったのだろう。嶺南に流された蘇軾の悲嘆の度合いが、あくまでも詩文として表現されたものを見る限りにおいてではあるのだが、それ以前の人々ほどには深くはないのには、そのような社会情勢の変化も影響しているのだろう］
（2）恵州の詹范知事は仁厚の君子で、何かと大変お世話してくださり、訪ねてもくださいます。兄上［徐大受］と大変親しかったとのことで、いつも兄上のことを語り合い、そのたびにともに淒然とした思いになります。兄上の御子息はどのようにされていますか。十四郎君の勉学はその後はどうですか。
【補足】［（1）恵州の詹范知事［→作品番号11-2-040］とは緩い縁があった。官員は頻繁に異動するので、間に人を一人か二人挟めばきっとどこかに接点があったのだろう。（2）十四郎は徐大受の息子である。かつて蘇軾は徐大正に対して兄の子供たちにきちんと学問を授けることが大切であると手紙に書いていた［→作品番号06-4-082］。それから12年が経っても、蘇軾は気にかけていたのである］
■【11-2-054】殢人嬌
【解題】これは王朝雲［→作品番号11-1-079］に贈ったとされる詞。不思議な内容の作品で、仏の教えに帰依することを歌いつつ、男女の情愛も詠んでいる。恐らく、二人の間では了解し合えるものがあったのだろう。
【訳文】
白髮蒼顔、［白髪のしょぼくれ顔になったときに］
正是維摩境界。［維摩居士の境地になるのです］
空方丈、［がらんとした方丈に］
散花何礙。［天女がきっと花を散らすでしょう］
朱唇箸點、［朱い小さな唇］
更髻鬟生采。［照り輝く髪］
這些個、［これはまさに］
千生万生只在。［一千回も一万回も生まれ代ってここにいるのです］
好事心腸、［心にあるのは好い事］
著人情態。［人に情をかけます］
閑窓下、［静かな窓辺で］
斂雲凝黛。［髪をあげたり黛を引いたり］
明朝端午、［明日は端午の節句］
学紉蘭為佩。［蘭を摘んで腰の飾りを作りましょう］
尋一首、［一首ひねって］
好詩要書裙帯。［好い詩を帯に書いてあげましょう］
【補足】［最後に「一首ひねる」といっている通りに端午の節句について詠んだとされる詞もあるが、さほど面白味はないので訳さない］
■【11-2-055】記道人戯語
【解題】あるジョークを記録した。
【訳文】
紹聖二年五月九日。
都にある道人がいて、相国寺の前に座っていろいろな禁方［秘密の方法］を売っていた。
その一つの緘［封をした紙］に題して、
「銭を賭けて負けない方法」
と、あった。
若いばくち打ちが千金でこれを得た。帰って開いてその方法を見ると
「銭を出すべからず」
と、あった。
道人は売る術を善く得ていて、戲れの語で千金を得たのだった。ただし、若い者を欺いたわけではなかった。
【補足】［（1）相国寺は都にある大きな寺で、境内では定期的に市が開かれ、大勢の人が集まった。浅草をイメージするとよいだろうか。（2）どうしてこの日にこのことを書いたのか。都の人が来てこの話をしたという説もある］
■【11-2-056】答張文潜
【解題】「蘇門四学士」の一人、張耒［字は文潜］［→作品番号11-2-051］に宛てた手紙。
【訳文】
辺鄙な土地に引きこもり、貴君に我が心を示せるような物は何もありません。これは桄榔の木で作った杖で、土地の人はこの木を杖にすることをこれまで知りませんでした。遠くからのせめてもの気持ちで、つまらないものだとお叱りになりませんように。ここでは荔枝が林を作り、その実をほしいままに食べられるのは、この地における快いことの一つです。……晁補之君が楼閣の修理の件で罪を被ったのは、私の累が及んだもので、恥じずにはいられません。我が家には上手に酒を作る婢［女性の使用人］がいて、極めて佳い酒を作り、王詵君の碧香酒にそっくりです。ただし一緒に飲む相手がいないのが残念です。羅浮山には道士の鄧守安がいて、素朴で野卑ではありますが、鍛錬をして功があり、己に厳しく行動し、常に人を助けようとしていて、深く欽愛すべき人です。ここに迎えて、医薬を集め、極めて益があります。……
【補足】［（1）張耒が使いの者を出してわざわざ手紙を送ってきてくれた謝礼に桄榔［くろつぐ、ヤシ科の木］で作った杖を贈ると書いている。その杖については次の詩に詳しい。（2）「蘇門四学士」の一人の晁補之［→作品番号10-2-057］は、蘇軾との縁の深さからあらぬ罪状を作りあげられて、このころに降格処分を受けていた。（3）蘇軾の家で実際に酒を作っていたのは一人の女性であったようだ。自家製の桂香酒が王詵の碧香酒に匹敵する出来栄えであるとは作品番号11-2-020でも記していたが、この手紙にある酒は後で見るようにそれとはまた別の酒であるようだ。（4）羅浮山の道士の鄧守安［→作品番号11-2-045］を褒めたたえている］
■【11-2-057】桄榔杖寄張文潜一首、時初聞黄魯直遷黔南、范淳父九疑也
【解題】この詩の題は、「桄榔の杖を張耒［字は文潜］に寄せる一首の詩。黄庭堅［字は魯直］は黔南に、范祖禹［字は淳父］は九疑に遷されたことを聞いたばかりである」。桄榔は杖にする良材であるという。黄庭堅と范祖禹も罪を蒙ったことは作品番号11-2-051ですでに見ている。
【訳文】
睡りから起きると、
風がすがすがしく、酒はもうなくなっている。
夢の名残とともに、我が身も何やら茫茫としている。
江べりに杖を曳く――
杖は痩せた桄榔の枝。
桄榔の林の下を尋ねる――
蓽撥の苗の香が立つ。
こうして独りで歩いているうちに、
もしかすると、昔の隠者の葛洪に会うかもしれない。
遠くここに来て、かの張九齢を恨む気はない。
遥かに知るのは、
魯国の真男子といわれた孔融―すなわち張耒君のこと、
普段から気にかけている盛憲―すなわち私のことを思っているに違いないのだ。
【補足】［（1）桄榔と蓽撥の組み合わせは作品番号11-1-080にもあったように、南国の風光を象徴するもの。（2）詩の後半では、葛洪、張九齢、孔融、盛憲の4人の故事を引いている。葛洪の名はすでに作品番号11-1-068などで見ている。張九齢は唐代の名宰相。国ためにならない人間は遠い辺地に置くべきだと建言し、その遠い影響として蘇軾は恵州に流されたのである。孔融と盛憲は三国時代の人で、孔融は天下に名高い盛憲を救おうと曹操に働きかけたが、盛憲は孫策によって殺されてしまった］
■【11-2-058】真一酒法
【解題】蘇軾は実験家である。仙薬を練ろうとしてみたり、金を作ろうとしてみたり、料理法を開発したり、種々の醸造法を試みたりと、いろいろなことをしている。これは真一酒の作り方を記した文章で、徐大正［字は得之］［→作品番号11-2-053］に寄せたものである。
【訳文】
嶺南では私的な酒造りが禁止されていない。近頃一つの製法を得たので授けたい。用いるのは小麦粉、もち米、清らかな水の三つだけだ。これを「真一法の酒」という。醸すと玉のような色になり、天然の香りと味があり、王詵の家の「碧玉香」にそっくりである。……［以下、小麦粉三斗、もち米一斗を用いて二カ月余りかけて醸造する詳しいレシピが記される］……熟成するとよい酒が六升得られる。その他に醨が四、五升ほど取れ、俗に「二娘子」というが、これも飲むことができる。醸造にかかる日数は天気の冷暖によって変わる。ひどく暑いときは、麹を半両ほど減らす。
汞を使った薬の作り方は人に伝えてもよいが、この方法は伝えてはならない。
【補足】［真一酒は王詵の碧香酒［→作品番号11-2-056］にそっくりだとここでも書いている］
■【11-2-059】真一酒、并引
【解題】上で見た真一酒について詠んだ詩。
【訳文】
引［序文］
米、麦、水の三つを一にするだけ、これが東坡先生の真一酒である。
雪がはじけ、雲が開く――酒が発酵する、
どろりとした乳のようになる。
蜜蜂だって先生を酔わせたことがある。
稲は穂が垂れるもの、麦は穂が立つもの――
陰と陽がこれで揃っている。
器は清潔、泉の水は新鮮――
表も裏もこれで清らかである。
かくてできあがった真一酒を飲むと――
朝日が顔に当たって、紅く暈がかかり、
春の風が骨の髓にまで入って、そのまま消えて声もない。
天下に知られる「青州従事」の酒の名は、
青州の役人が作ったから。
人間世界に真に一人の東坡老が作ったから、
この酒は「真一酒」なのである。
【補足】［（1）「蜂蜜云々」のところに、蘇軾自身の注で、「真一酒の色と味は、私が黄州にいたときに作った蜜酒にすこぶる似ている」と書き添えてある。蜂蜜を発酵させた酒については作品番号06-3-044で見ている。（2）この詩の後に付けた添え書きとして、上の文章で訳文を省略したレシピを記した別の文章がある］
■【11-2-060】記朝斗
【解題】真一酒は気安くほいほい作ってよいようなものではなく、作る前に北斗七星の神、北斗真君に心を込めて祈らなければならなかった。
【訳文】
紹聖二年五月望日［十五日］、敬って真一の法をもって酒を作るに当たって、羅浮山の道士鄧守安に請うて北斗真君を拝し、お供え物をした。この奠を始めたときには雨が降っていた。すると、清風が吹いてきて肅然となり、そして雲がばらばらになって月も星も皆見えるようになり、北斗七星がくっきりと現れ出た。奠が終わると、また最初のように暗く雨が降った。謹しんで拝首稽首してこの事を記す。
【補足】［どうやら、真一酒の製造法は羅浮山の道士の鄧守安［→作品番号11-2-056］から教わったのだろう。鄧守安はいろいろな技術に通じていて、その幅広い知識を蘇軾は敬意をもって学ぼうとしていた］
■【11-2-061】虔州崇慶禅院新経蔵記
【解題】恵州への旅の途中で虔州を訪れていたが［→作品番号11-1-041］、そこの崇慶禅院に設けられた経典を納める蔵についてこの文章を書いた。
【訳文】
［この文章は最初に、「得るところ無きをもって故に得る」という経典にある一文を掲げ、それに関する所説を略述している］……私は仏教を学ぶ者ではないので、このあたりのことはよくわからないのだが、孔子は、
「『詩経』にある三百篇の詩を一言で表すなら、思い邪なし、である」
と、いっている。そもそも思うところはみな邪であるのだろうか。善であれ悪であれ、思うところがないというのは土や木である。どうしたら、思うところがありながら、邪ではなく、かつ土や木ではないということができるのだろうか。
ああ、私は老いて、もはや数年の暇も残されていないだが、仏僧の寺に入ってそこにある書物をことごとく見て、心に思うところなく如来の意を理解し、「得るところ無きをもって故に得る」に至りたいと思っている。恵州謫居となり、何事もなく月日を送り、その志をできれば遂げたいものと、恵州の僧舎の部屋に「思無邪斎」の名を掲げ、その志を示しているのだが、そこは経典を所蔵するところではない
私は南に遷ることになったときに虔州を通過し、副知事の兪括君と遊び、ある日、廉泉を訪れて崇慶院に入って宝輸蔵を観た。そのとき兪君がいった。
「長江以南でここよりも壮麗なところがありましょうか。その費用は二千万余り、先の長老の曇秀が作り始めて、完成に近づいたところで曇秀は亡くなり、今の長老の惟湜がそれを嗣いで完成したのです。各地を奔走して勧進し、費用を十六年間にわたって集め続けたのは僧の知錫です。この三人の苦労を愍れんで、何か一言記していただけませんでしょうか」
心の内で私はこれを承諾した［つまり、そのときには書かなかった］。
兪括君は博学で文章が上手で、政の手腕も確かで、進取の気概に富んでいた。恵州に来た私のところにしばしば手紙をくれて、官職を棄てたなら一緒に道を学びたいといっていた。ところが、虔州の仕事を辞めて郷里に帰る途中の廬陵で亡くなってしまった。虔州の人々はそれを聞いて道に哭し、私も涙を流した。
それでこの文章を作って、……これを石に刻み、兪括君の未来の因となることを願うものである。
紹聖二年五月二十七日記
【補足】［仏教の経典を議論するなかに孔子の言葉を引くのはやや違和感があるのだが、蘇軾に限らず宋代の人々は仏教を仏教それ自体として理解するのではなく、儒学や道教との共通性を見出して、三経を融合させ、より普遍的なところで理解しようとした。そのために、仏教それ自体の理解としては必ずしも正鵠を射たものであったとはいえないところもあったのかもしれない］
■【11-2-062】荔支嘆
【解題】「荔支の嘆き」という詩。この詩は荔支に関連するいくつかの歴史的事実を踏まえて詠まれている。それらについて蘇軾自身の詳しい注記が付されている。それをまず見ておく。（1）漢代の永元年間に、交州から荔支と竜眼［ライチに似た果実］が宮中に進献された。それを都に運ぶために、十里ごとに一つの置［宿駅］、五里ごとに一つの堠［一里塚］が設けられ、急いで走るあまり死亡する者、猛獣や毒虫の害に遭う者が無数に出た。唐羌［字は伯遊］はこのことを聞き、臨武の長官になると、この状況を上書して朝廷に訴えた。それによって和帝は宮中に果実を届けることをやめさせた。唐代の天宝年間には、（宰相の李林甫が楊貴妃を喜ばせるために）涪州から荔支を運ばせた。子午谷の路を通って都に入ったのだろう。（2）宋代になって、洛陽から花を宮中に貢ぐことを銭惟演が始めた。大小の竜茶を貢ぐことは丁謂が始め、蔡襄が制度化した。欧陽脩は蔡襄が小竜団を進献したことを聞くと驚嘆し、「蔡襄は士人［ひとかどの人物］ではないのか。どうしてこのようなことまでしてしまったのか」といった。今年、閩中の役人が茶の品評会を開くことを願い出て、朝廷はそれを許した。
【訳文】
十里に一つの宿駅、塵を飛ばして走り過ぎ、
五里に一つの塚、火を焚いて待ち受ける。
走る者は逆さまに穴に落ち、相次いで谷に倒れる。
これは何をしているのか、
荔支や竜眼を都に届けるのである。
車は飛ぶように走って山を跨ぎ、
船は鳥のように滑って海を横切り、
枝や葉がいま採ったばかりのままに運ばれる。
宮中の美人の顔をひとたびほころばせるために、
大地から塵を巻き上げ、人々の血を流すことが、千年にわたって続けられた。
漢代の永元年間に荔支は交州から来て、
唐代の天宝年間には貢物は涪州から取られた。
漢代にそのことを止めさせた唐羌の霊に酒を捧げる者はいないけれど、
唐代にそのことを行った李林甫を憎んでその肉を食おうとする者は今もいる。
天公［造物者］が荔支のような余分な物を生じさせたために、
民衆は大きな傷を負わされてしまったのだ。
天公よ、
そのようなことはもうやめていただきたい。
天公よ、
雨を順調に降らせ、風を穏やかに吹かせてくれさえすれば、
穀物が稔って、民衆は飢えることがなく、
それが最高に目出度いことであるのだ。
見るがよい、
武夷山の溪のあたりに粟粒芽という極上の茶がある、
先に丁謂が、その後で蔡襄が籠に納めて宮中に献上した。
かくて、お上の恩寵を買おうと、
争って新奇の意匠を凝らすようになった。
今年はさらに品評会で勝ち抜いた茶をお上の御用にあてるという。
君主が必要として世に乏しいとする物が果たしてこれであるのか。
口を養うためであるとは、あまりに卑しいではないか。
洛陽には宰相を輩出するような忠孝な家がたくさんありながら、
姚黄花［牡丹の品種］をせっせと献上しているとは、
これまたまことに情けないではないか。
【補足】［蘇軾の嘆きは荔支にとどまらず、同じ時代の茶や牡丹に及んでいる。蔡襄や銭惟演が優れた実績がありながら、珍奇なものを率先して宮中に献上したことを、蘇軾は前にも厳しく批判していた［→作品番号10-2-024］］
■【11-2-063】荔支竜眼説
【解題】上の詩で、荔支に似た竜眼という果実があるのを見た。その二つを比較した短文。
【訳文】
閩越［嶺南］の人は荔支が上で竜眼が下だという。このことについて評じよう。
荔支は食べると蝤蛑の大蟹に似て、雪を砕き膏が流れるかのようで、ひとつ噉うだけでもう満足する。竜眼は食べると彭越の石蟹のようで、しばらく噛んでいても得るところがない。しかし、酒を飲んで口がべたつくときや、たっぷり食べた後で後味が悪いときには、石蟹が蝤蛑にまさることもある。
戯れに紙に書いて、飲んだときの笑いに供しよう。
【補足】［2種の蟹を引いて2種の果実を比較している。物事の評価は相対的なものであるというのは蘇軾がいつもいっていることだ］
■【11-2-064】次韻程正輔遊碧落洞
【解題】従兄の程之才［字は正輔］［→作品番号11-2-037］が英州の碧落洞［→作品番号11-1-057］に遊んだ詩を送ってきたので、それに次韻して返した。程之才は嶺南のあたりで視察を続けていた。
【訳文】
静かなこの山の奥へと到るのは難しいことではない、
この絶境を形容するのが容易ではないのだ。
いつかのときに仙界から流された李白がここに来て、
天上の音楽を奏したという。
李白の胸の内には幾つもの湖がおさまり、
なおかつ広大な余地があって、
冠の紐の飾りには北斗星と金星を付けていた。
夏黄公［古の隠者］が李白に紫芝［霊妙な効能のある草］を献じ、
赤松子［古の仙人］が青精［隠者の食べる粥］を馳走した。
それまで溪山は長らくひっそりとして、
誰かが詩を詠むのを待っていたので、
蜩は枝を抱いて咽ぶように鳴いて李白に請い、
蚊は耳をめぐって澄んだ声で願ったところ、
李白は手を叩き、かつてある人がここで詠んだ詩を笑ったという。
私は近頃独りその碧落洞に遊び、
離れ雲と情が合うと感じた。
貴君はその後を継いで行かれたのだが、
残念ながら、空は霧の雨に閉ざされていた。
貴君は岩の上で長生の薬になる砂を見つけ、
一人だけ服すのは忍びないと、兄弟の情をもって私を思い起こし、
詩を詠んで寄せてくれた。
それは陶淵明と謝霊雲を合わせたような絶妙な詩である。
鳥や獣は群れるべきものであろうけれど、
鴻は猟具を避けて独り空にあり、
老いた馬は独り野をさまよっている。
この枯れた身をどこに寄せたらよいのか。
どこの山であっても隠れられないところはないはずだ、
水を飲んで齢をのばすことだってできるのだから。
【補足】［この詩はいろいろな故事を踏まえてなかなかに難解である。全体としては、程之才の詩を褒め、これからは従兄を頼りとしたいとの思いを示したものであるので、その流れが掴みやすいようにおおまかに訳した］
■【11-2-065】書柳子厚大鑒禅師碑後
【解題】蘇軾が次第に唐代の柳宗元［字は子厚］に傾倒していったことは以前にも記したが、これは、韶州の南華寺の重弁長老［→作品番号11-2-038］から、柳宗元が作った『大鑒禅師碑』の文章を新たに石に刻みたいから揮毫してくれないかとの依頼があり、それに応じた際の後書き。大鑒禅師は六祖慧能の号である。
【訳文】
釈迦の教えを記した文章を漢訳するときには、儒学の優れた概念に託して行われるのが常で、それによって儒学からは遠く離れたことを伝えようとする。大乗仏教の諸経典のうちで『楞厳経』に至って、訳文が精妙で委曲が尽くされ、特に優れたものとなった。それは、唐代の房融の筆の冴えによる。
柳宗元は南に遷って初めて仏法を研究し、『曹溪第六祖賜諡大鑒禅師碑』や『南嶽碑』などを作り、それらは古今を通じて絶妙である。しかし、その碑が置かれた南華寺に柳宗元の文章を刻んだ石はいまは残っていない。
南華寺の長老重弁師は儒学にも仏教にも通じ、道教にも詳しい。師がいわれるには、唐代から今に至るまで釈迦の教えを頌述する者は多くいたが、柳宗元以上にその本質を簡潔に明らかにした者はなく、柳宗元が仏教の本源から推して述べたやり方は、孟子が儒学において行ったのと同じで、仏教を学ぶ者は、柳宗元が書いたものを昼に読み、夜に暗唱すべきであると。それで、柳宗元の文を石に刻みたいから、私に書くようにとの要請があった。
……［以下、若干の考証が記される］……
紹聖二年六月九日。
■【11-2-066】与南華弁老
【解題】同じときに南華寺の重弁長老に宛てた手紙を読んでおこう。
【訳文】
（1）柳宗元の碑を作るのはまことに結構なことです。……拙い字を記しました。これができましたのは祖師［慧能］と浅からぬ縁を結んだことになりましょうか。恵州にはそちらにお贈りするような物は何もなく、あるとしたら桄榔の杖だけです。……弟や聡師からの手紙を受け取りました。ここから去る人がいるので、すでに返事を出しました。張恵蒙は去年は船を守らせていたので、祖師に礼拝することも、弁公［重弁長老］の衣鉢に接することもできず、甚だ残念がっておりました。今回来られた人と一緒に南華寺を訪ねさせますので、どうかうるさく思われませんように。この者は病気がちですので、恵州に帰る折には誰かを添えてくださいますように。
【補足】［（1）桄榔の杖については作品番号11-2-057で見ている。（2）聡師とは杭州の僧の思聡［→作品番号10-1-023］である。（3）張恵蒙は蘇軾の家の使用人。六祖慧能の信仰が民衆の間に広く広まっていたのだろう、張恵蒙は南華寺に特別の思いがあったようだ。張恵蒙についてもう一通手紙を記している］
（2）仏教を学ぶ者である張恵蒙は、私が南に遷るのに随ってきました。私が南華寺に遊んだときに、張恵蒙は船を守る番をしていました。その翌年の六月、南華禅師［重弁長老］の使いの者が恵州に来ますと、張恵蒙は、「去年は祖師に一礼することも、弁公にお目にかかることもできず、残念でなりませんでした。この使いの方とともに南華寺に行きたいと思います。十日ほどで帰ってきますので、どうかお許しください」といいました。私はその気持ちを嘉しとして、これを許しました。弁公にお教えを受けることを願うこの手紙を持参させますので、どうぞ厳しく御指導くださいますように。紹聖二年六月十一日。
【補足】［ここでは張恵蒙のことを、仏教を学ぶ者であると記している。一人の使用人の願いを叶えてやろうとする蘇軾の気持ちのやさしさを読み取ることができるであろう］
■【11-2-067】付龔行信
【解題】上の文章にあった南華寺の重弁長老の依頼を蘇軾に伝えたのは龔行信という浄人［在俗で寺の仕事をする者］であった。そのことを記した短文。
【訳文】
重弁禅師は私の善き友人である。師は常々私と手紙を交わしたいと思っておられ、いざ手紙を出そうとするときになると、南華寺の浄人は我こそはと争って恵州に行こうとする。どうしてなのかとある人が浄人たちに問うと、このような答えであった。
「一目東坡翁に会って、数文字だけでも求め得たならば、終生それを持っていたいのです」
私はそれを聞いて笑い、
「この人たちは、数個の文字を求めるために千里の道も軽いとする。かの蕺山の老婆よりもずっと賢いといえるだろう。もとより重弁禅師は老婆より強いて下になろうとするお方ではないことはわかりきっている。昔から、乾明寺の僧は訶梨勒の実を煮て薬を作るということを聞いてきた。ここに初めてそれを得て、嘗めてみたところ、精妙の極みであった。曹溪寺の一滴の水［禅の要点の譬え］にもあたるのではなかろうか」
といった。
たまたま病のために出ることができなかったので、このことを記して重弁禅師への謝礼とし、書いたものは龔行信に与える。
【補足】［（1）蘇軾の書いたものがもらえるのなら、遠い道も喜んで行くという話。（2）途中に記されている「蕺山の老婆」とは次のような話である。王羲之［書聖と呼ばれる書の達人］が会稽の蕺山の下に隠棲していたときのこと、老婆が竹の扇を売りにきた。王羲之がその値を問うと二十銭だといった。王羲之は一本の扇を手にすると、さらさらと五文字を記した。老婆は、「これを売ってあたしは暮らしを立てているのです。なんだってそれを台無しにしてしまうのかい」と怒った。王羲之は、「町に持って行って、王右軍がこれを書いたといえば百銭で売れるだろう」といった。老婆が町に行くとすぐに売れたので、数日後に老婆は数本の扇を持って行ってまた書いてくれと頼んだ。王羲之は笑って応じなかった。（3）重弁は蘇軾が金銭のために筆を揮う人ではないことを知っているので、碑文の執筆の謝礼としてここに記されている薬を贈ったのだろう］
■【11-2-068】六月十二日、酒醒歩月、理髮而寝
【解題】「六月十二日、酒が醒めて月に歩き、髮を整えて寝た」という詩。
【訳文】
羽のある虫は月を見て、競って翾く翻り飛ぶ。
私は月を見て、軒端の光のなかで髮をばらばらにする。
髪を梳くとひんやりとした快さに、肌も骨もすっきりし、
露を帯びた風の気が、白髪の根元にまで入り込む。
起って舞うと、
月と影と我の三人が、付いたり離れたり……
杯を停めて、この楽しさを問う……
月と影はついに無言のまま。
ごろり肱を曲げて横になる、
竹の蓆には佳いところがある、
私は天上の楼閣にいるのだ……
夢から覚め、
そうではなかったのを悲しく思うのである。
【補足】［この詩を作った6月12日に宝月大師惟簡［→作品番号11-2-052］が亡くなっている。84歳であった。大師の死を悼む文章を後で見ることになる］
■【11-2-069】和子由次月中梳頭韻
【解題】上の詩に弟が和し、それにまた和した。弟の詩には、「ここ二十年近く、白髪が百本余りあって、増えもしなければ減りもしない。虔州の道人の王正彦が白髪を抜き去る法を教えてくれたので試してみたところ、数カ月経っても白髪は出てこない」といったことが詠み込まれていた。
【訳文】
強い雨が翻り、
夏の畦からねっとりとした泥が流れる。
北の窓辺に寝転ぶ人は、
太古の時代にいる気分である。
吹く風は、明け方に稲の丈を春の筍のように伸ばし、
珠を作る露は、夜の間に稲の根から上へとのぼる。
稲には稲の法則があるように、
白髮には白髪の法則があるのであって、
ここに初めて道家の方法が妄言ではなかったと知れた。
法身［仏性］と報身［仏性のはたらき］はもとより二つではなく一つである、
いつか形も魂も妙絶なところに到るのであろう。
【補足】［（1）この詩は、自然の摂理や仏教、道教の教理を混然一体のものとして詠んでいて、訳者の理解を超える内容である。この詩もそうだが、蘇軾と蘇轍の間では、深い理解を共有した上でのやりとりをしている詩文があり、その多くは訳者にはお手上げである。つまり、この訳文は何もわかっていなことを白状しただけのものである。（2）この詩には、次のような蘇軾自身の注が付されている。「ある人が私にいった。『草木はいつも未明のころに成長する。早く起きて観察すると、枝が数寸伸びるのが見られる。筍が最も甚だしい。また、夏と秋の境に、稲がちょうど穂を出すころに、黄昏時に月が出ると、露の珠がその根に生じ、幾つも重なり合って、推し上げられるようにしてたちまち上に昇り、あるものは茎の芯に入り、あるものは葉の端から垂れ、かくして稻の穂が出て実が付くのである』。このことを実地に見るとその通りであった。この二つのことと、弟がいう養生の説とは一致するところがある。それでこのことを詩に詠んで寄せる」］
■【11-2-070】与王定国
【解題】王鞏［字は定国］からの手紙が届き、その返事を書いた。定州から南に移る際に、蘇軾は王鞏と会おうとしたが、何らかの事情でそれはできなかった［→作品番号11-1-014］。推察するに、王鞏は自分にも罪が及ぶのを恐れて行動を自重したのだろう。その甲斐あってかどうかはわからないが、王鞏は官職を得て、その報告となにがしかの弁明を記した手紙を蘇軾に送ったようだ。これはそれへの返事。冒頭に王鞏の手紙を受け取ったのは3月5日と書かれていて、その一方で、文中に恵州に至って8カ月になるとあるので、返事を書いたのは6月ごろであったと推測できる。3カ月ほど間があいたのには、何か気の進まない事情があったのだろうか。
【訳文】
三月五日にお手紙を受け取りました。貴君はすこぶる御佳勝、御家族も御健勝とこと、心に懸けておりましたことが解け、はなはだ結構に思っております。
官職を得るのはもとより貧に迫られてのことでありますから、そこに選択の余地はありません。貴君の生計の見通しがようやく付き、誠に喜ばしく思います。
私はここに至って八カ月となります。ただ末子と身の回りの世話をする三人の女だけを連れてきました。何も不足はなく、風土は悪くありません。世間のもろもろと絶縁したことで、身心ともに安らかです。息子もまた超然と物の外にあって、この父でなければこの子は生まれなかったと、おかしく思っています。
お手紙の中でいろいろと諭してくださり、昔に変わらず、それ以上に厚く思ってくださり、はなはだ感じ入ります。有難い限りであります。
弟からは手紙がしばしば来て、自適の日々送って、道に到ろうとするかのようです。それで十分でありましょう。
南北どこに住もうが、それも天の定めによるのでしょう。私は帰りたいとは思っていません。来年はここに農地を買い、家を建て、恵州の人になる考えです。
暑い時期、万万加愛されますように。
【補足】［ここに三人の女性［原文は三庖者］だけを連れてきたと記している。先に、陳慥に宛てた手紙［→作品番号11-2-026］には、王朝雲と二人の老いた女中を連れたと書いていた。二人の老女のどちらかが酒造りに長けていたのだろうか［→作品番号11-2-056］］
■【11-2-071】与王庠
【解題】7月13日、王庠［字は周彦］とその弟の王序［字は商彦］からの使者が来て、手紙や薬などが届けられた。その後王庠に宛てて記した何通かの手紙が残っている。その中から、訳者が理解できて、興味ある個所を抜粋して訳す。王庠は学術も振る舞いも優れた人物として知られ、蘇轍や范純仁など保守派の人々と交流とあって、制科の特別試験を受けるよう推薦された。ところが、改革派が政権を握ったことからその試験は中止となってしまった。王庠はその後も官職に就くことなく生涯を終えた。
【訳文】
（1）遠くより人を遣わして、お手紙で安否を尋ねてくださり、また薬をお贈りくださり、厚く感謝いたします。使者の二人は二月二十五日から七月十三日に至るまでおよそ一百三十日余りをかけて水陸万里余りの道を来たとのこと、二人がまた万里を越えて家に帰るころには、きっとこの歳も尽きているでありましょう。
私は罪によって遠くに出され、親しい友人に御心配をおかけしております。陛下は私のことを過分なまでに大切にしてくださり、罪は非常に重いものがありながら、ここに来てからは暇が多いのを喜び、暮らしはまことによいものであります。大いに責められるべき罪がありながら、このように結構な情況にあるのですから、何もいうことはありません。気候の悪い地に置かれて、倒れ伏した先例はたくさんありますが、それぞれに理由があるのでしょう。寒暖が時期を失ったり、ひどく飢えたりすることがないのならば、にわかに病になることはありません。もしも寿命が尽きるのなら、それは避けようがなく、北の地にいようが南の地にいようが関係ありません。泰然として、深く思いわずらうことなくしていればよろしいのです。
貴君が示してくださった文章は古の人の風格があります。……私は若いころから昔の人々を論じるのを好んでいました。すでに老い、世の変転を渡り歩き、しばしば言い過ぎがあったと悔やんでいます。それで貴君にもこのように告げておきたいと思います。儒者の病として、ただ言葉だけで実用性に欠けることが多いものです。賈誼や陸贄の学はほとんど世に伝わっていません。老いて間もなく死ぬばかりとなって、それをこそ子弟に教えたく思っています。……貴君は自ら信じるところを変えずにいるなら、きっと棄てられずに用いられるときがくるでありましょう。ものの得失には天の定めがあり、それは決して移すことはできません。学んだものを守るよう勉められますように。遠く学業を成し遂げるでありましょう。いつお会いできるともしれません。万万自重されますように。
（2）……私は若いころは山林に逃れたいと思っていました。それは父や兄たちの許すところではなく、結婚を迫られ、かくて今日に至ってしまいました。南に遷ってからは、ただ自分を日々の暮らしの中に置き、蕭然として家財は何もなく、ほぼ行脚の僧に似ております。近頃は痔疾に苦しみ、呻吟することほとんど百日で、なまぐさものや塩を断ち、一日にわずかに一斤の小麦粉を食べるだけです。これによって病が愈えるだけでなく、枯れ細って寂滅の楽しみまでも求めようと思っています。
初めは独りで貶所に赴こうとし、児女たちが泣いて同行することを求め、末子の蘇過一人だけを連れてきました。他の者は許州や浙中に寓居させて、それぞれで暮らしを立てさせることにしました。「目の前にいなければすぐに忘れる」とかいうのは、まったくありえないことです。……
【補足】［意思に反して結婚したと記してあるのが興味深い。蘇軾の伝記を編むときには、必ずこの一文が引かれる］
（3）……聞けば、黔南に黄庭堅君を訪ねようとされているとのこと。それは昔の人でもなかなかできるものではなく、もしも貴君が成し遂げたなら、まことに一段の奇事であります。しかし、貴君は長らく御両親と離れておられるのですから、ここは熟慮が必要でありましょう。いま黄庭堅君への手紙を記しましたので、もし行かれるときにはお持ちください。
【補足】［（1）王庠の家は蜀の栄州にあって、黄庭堅の流された黔南も蜀にある。それなら訪ねるのはそれほど困難ではないが、王庠が両親と長く離れていると記されているので、新法党の政権のもとでは考えにくいのだが、王庠は都にいたのだろうか］
■【11-2-072】与鄧安道
【解題】道士の鄧守安［字は道玄ないし安道］［→作品番号11-2-060］に宛てた手紙。
【訳文】
お別れしてから数カ月、お会いしたい気持ちが言葉にならないくらいです。その後はお変わりありませんか。痔疾はいまだに治らないので、しばし放任し薬は飲まずにいて、ただ生臭ものを避け、薄い味わいのものを食べているだけです。宝積寺にお寄せするようなものは何もなく、潮州の酒を一瓶、建茶を少しばかりでお許しください。これから涼しくなりますが、万万お体をお大切に。いつまたこちらにはお越しになって、士民の渇仰の意を慰めてくださるのでしょうか。久しく達観されたお方には、喧噪も静寂も同じ一つのうちであって、何も山中にばかりおられなくてもよろしいのではないでしょうか。八月の内には何首烏［薬草］を多く採集して、雌雄の株について記そうと思っています。
【補足】［（1）最初に別れて数カ月とあるのは、作品番号11-2-060でみた真一酒を作ったとき以来の月日をいうのだろう。（2）痔には随分と長く悩まされていたようで、上の手紙にも作品番号11-2-051にも記されていた。（3）宝積寺は羅浮山にある寺で［→作品番号11-1-068］、鄧守安はそこにいた。（4）潮州の酒も建茶も誰かからもらったものであろう。潮州の酒は呉復古［→作品番号11-2-020］が持ってきたのだろう。（5）終わりに薬草について記している。南国の植物に蘇軾は関心を持ち、様々な観察をして薬効を自分の身をもって試している。次の手紙も薬草について触れている］
■【11-2-073】与翟東玉
【解題】竜川県知事の翟東玉に宛てた手紙。竜川県は恵州の隣の循州に属し、150キロほど離れている。翟東玉はこの年に竜川県に赴任すると、秧馬［→作品番号11-2-050］について蘇軾に尋ね、蘇軾は『秧馬の歌』［→作品番号11-1-037］を書いて一文を寄せていた［訳は省略］。この手紙は地黄という現代でもよく使われる薬草の入手について、翟東玉に仲介を依頼している。
【訳文】
馬は火に属します。それで、人は病んで熱［火］があると、夢に馬を見るのです。火は燥から起こります。燥の最たるものは油で、火は油から尽きることなく起こります。薬のなかで油といえば一番は地黄です。……私は老いてから血気の衰耗を覚えるようになり、あたかも老馬のようになったので、生の地黄を多く食べてみたいと思っています。しかし、地黄はいつでも得られるものではありません。近ごろ聞いたのは、循州興寧県知事の欧陽叔向は庁舎の畑にこれをたくさん植えているとか。欧陽知事に手紙を送って所望したいと思いつつ、敢えてまだしていません。貴君は欧陽知事とはかねてからのお知り合いとのことでありますから、私の気持ちを伝えてはいただけないでしょうか。この薬草は二月ないし八月の採取するのが最もよいといいます。わずかでもその時期に頂戴できると幸いであります。煎じて服したいものです。
【補足】［（1）冒頭の「馬が火に属する」以下の部分は五行説に基づく薬効の解釈で、訳者には何のことかさっぱりわからないので、一部を省略した。（2）欧陽叔向はここにしか出てこない名で、どのような人かはわらない。（3）後で見るように、蘇軾は自分の畑で地黄を栽培するようになるので、翟東玉は蘇軾の希望を叶えるべく動いてくれたのだろう］
■【11-2-074】祭亡妹徳化県君文
【解題】蘇軾のもとに悲しい報せが届いた。伯父の蘇渙の娘、すなわち柳子文［字は仲遠］［→作品番号10-1-003、10-1-019］の妻が亡くなったのである。これはその祭文。
【訳文】
嗚呼、宮傅［蘇軾の祖父の蘇序に死後贈られた称号］の孫は十六人、死生契闊［死生をともにしてともに努力する］の間柄ながら、いまではわずかに四人が残るだけとなってしまっていた。
ここに我が従妹は、慈孝温文、姑に事えること母に対するようで、夫を敬うこと賓客に対するようであった。玉の如き二人の甥［従妹の息子］が我が一門を実に輝かせてくれた。しかし、一人は天に何の罪があったのか、先に亡くなってしまった。
人の寿命は百年という。それとてひとたび翻り、上を見て下を見る間のこと、わずかに病んだかと思うと再び苦しみ、薬をもって救おうとするのも及ばず、どうすることもできずに空しくなってしまった。
私は万里の彼方の海の涯にあって、それより百日を経て聞くところとなった。棺を撫ぜたくてもそれはどこにあるのか、夢にも泣いて寝床を濡らし、北風に長く號びつつ、この一樽を捧げるのである。
【補足】［祖父である蘇序の孫が残るところ4人とあるうちの2人が蘇軾と蘇轍である］
■【11-2-075】書金光明経後
【解題】三男の蘇過が母の供養のために『金光明経』を書き、蘇軾がこの後書きを記した。後半は仏教についての深い知識がなければ訳せないので、残念ながら割愛するしかない。
【訳文】
私の末子は蘇過、その母の同安郡君王閏之、字は季章は、享年四十六、元祐八年八月一日に都で亡くなり、都の西にある恵済院に仮に葬った。蘇過はまだ喪が明けないうちに私に従って恵州に来たので、日に日にその母から遠ざかることを恨めしく思っていた。ここに喪の期間が終わるにあたって、痛切な思いの極みから、『金光明経』四巻を自分で写し、自分で装丁を施して、虔州の崇慶禅院に送り、その蔵書の内に加えてもらって、母の往生の助けとなることを願うことにした。
蘇過は泣きつつ私にこのようにいった。
「経典を書く労力はわずかなものでありますから、それによってよき報いがあるとまで望むことはできません。口に誦じて心に通じ、手に書いて身に沁み込ませ、そして仏祖の教えに通じて、真理の理解に到るのでしょうけれど、私のような愚昧な者は、この経典が真実の語であるのか、そもそも寓言であるのかもわかりません。何を見たらよいのでしょうか。何をしたらよいのでしょうか」
私はいった。
「それは善い問いである。私はかつて張方平先生からこのように聞いた。……［以下、張方平から聞いたことを踏まえて仏教について深い議論を展開し、その上で、蘇過の行為が母の往生に必ず資すると述べる］……」
蘇過は喜び、『金光明経』の後ろに書いてほしいと願った。
紹聖二年八月一日。
【補足】［蘇軾の大恩人である張方平が晩年は仏教三昧の日々を送っていたことは作品番号07-2-011などで見ている。張方平は確かに深く仏説に通じていたのだろう］
■【11-2-076】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］［→作品番号11-2-064］に宛てた手紙。程之才の妻がこの年に8月頃に亡くなり、そのことに関連した手紙が幾つかあり、そのうちの3通から関連する箇所を訳す。
【訳文】
（1）……厳推官に会ったところ、邑君［程之才の妻のこと］は薬を飲まれていたが、すぐに平愈されたと聞きました。今はますますお健やかになっておられましょう。ようやく秋らしく過ごしやすくなってきました。よく召し上がり、よくお休みされますように。
【補足】［厳推官は厳という姓の広州の役人。程之才の妻が病んだと聞いたので、この手紙を書いたのである］
（2）……姉上の寿安県君［程之才の妻のこと］がにわかに旅立たれたとのこと、訃報を聞いて悲しみ、涙とともにこもごも思いに沈んでいます。……
【補足】［程之才の妻は病から回復したと見えたのもつかの間、たちまち亡くなってしまったのだった。この手紙は悔やみの文言を縷々並べていて、その性質上簡明な日本語には訳しにくいところを省いていったら、残るのはわずかにこの一文だけになってしまった］
（3）姉上がたちまち病んでこの禍に遇われましたのは思いもよらぬことでありました。貴兄とは四十年をともに過ごされたとか。いわゆる「老身長子」の悲しみ［老いて最もつらいのは、長年の連れ合いと別れ、長男を喪うことであるという意味］を去るのは容易なことではありません。何かにつけて思い悼むものでありましょうが、それは亡き人にとっては何ら益のあることではなく、御身においても憂いのもととなるばかりです。露に宿る電光のようにすぐに払いのけられればよいのでしょうが、余程の明哲でなければできないものでありましょう。……老いたこの弟は先の年に妻を喪い、汲汲と思うのはいまだ尽きるものではありません。……
【補足】［繰り返し程之才に慰めの手紙を送っていて、ここでは蘇軾も先に妻の王閏之を喪ったことを記している［→作品番号10-3-028］］
■【11-2-077】寄子由三法
【解題】養生に関する「食芡法」「胎息法」「蔵丹砂法」の三つの方法について記して弟に送った文章がある。「食芡法」は呉子野から教わった芡の実を食べる健康法で、血の巡りがよくなるという。「胎息法」は道家の呼吸法で、ほぼ同じ内容のことを前に張方平に宛てた手紙［→作品番号06-4-043］にも書いていて、蘇軾はその後も工夫を重ねて実践していたのだろう。「蔵丹砂法」は丹砂［硫化水銀］を焼いて作った薬を服す方法である。それぞれに興味深いのだが、訳者の手に負えるものではないので、ここでは最後の結びの部分だけを訳す。
【訳文】
……私はこの丹砂の理についてややわかってきたところだが、丹砂は人を短気にさせ、苛立ちを起こさせたりして、害をなすことも多いので、簡単に成就するものではない。弟はもの静かで穏やかであるから、少し励むなら私より先にこの道を得るであろうし、道を得た日には、私を超えているであろう。このことを紙に書いて、後日の確かな証拠としておく。
紹聖二年八月二十七日、東坡居士記す。
【補足】［蘇軾は丹薬の製造を手掛けつつも、強い毒性あると知っていたので、実際に服薬することには極めて慎重であった］
■【11-2-078】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］［→作品番号11-2-076］に宛てた手紙。広州が颶風［暴風雨］に襲われたので、その被害状況を実地に見てくれるよう程之才に願っている。
【訳文】
広州からの役人に報告書によると、先日の颶風は常と異なり、公私の建物が二千余りも倒れ、大木が地面から抜けてしまったとのことです。乾明寺の樹齢四百年の訶子樹も倒れてしまいました。老人たちは、「これまでこのような異常なことは見たことがありません」といっています。兄上はこの南海に来られたのはきっと縁がなかったわけではなく、人々は兄上が広州で実地に見られることを望んでおります。……
【補足】［訶子樹は高さ30メートルを超えるような大木になる南方の木で、その実は、薬や香料、染料に使われる。作品番号11-2-067にあった訶梨勒と同じ。その大木が倒れてしまうような異常な嵐だったのである］
■【11-2-079】題合江楼
【解題】合江楼［→作品番号11-2-042］で記した短文。
【訳文】
青い天に一つの月。ほかには何もない――人間世界においてこれはまことに快い光景である。ところが、ある人は、わずかな雲があった方がよいという。心が不浄な者は常に滓穢をすっかり清めたいと望むものである、という意味合いがそこにあるからだ。
合江楼の下、碧の秋の流れに空が浮かび、月の光が座敷の中へと入り込む。壊れた茅葺の小屋が七、八軒、眼下に斜めに傾いている。今歳、大水が再び至ったなら、そこに住む者は逃げる暇もないであろう。この地上に遷れるところがないわけではないのに、どういう未練があって去らずにいるのだろうか。人の眼の中には沙があるということなのか。
紹聖二年九月五日。
【補足】［蘇軾の文章には深い含意があり、それを汲み取って達意の日本語に訳すのははなはだ困難な場合が多くある。ここでは、二つの段落がどこでどうつながっているのかがよくわからない。つまり、最上の美とは完全無欠であるのかという命題、人間はなぜ同じ過ちを繰り返すのかという命題、この二者に何か共通項があると感じて、蘇軾はこの文章を記したのだろう。それは「雲」と「沙」であるとここには記さているのだが、果たしてそれが共通項なのだろか］
■【11-2-080】和陶貧士、并引
【解題】陶淵明の『貧士を詠む』という作品に和した。7首の連作で、短い序文がある。この連作は、己が手本とするような歴史上の人物を取り上げて詠んでいて、その性質上、種々の故事を踏まえていることから、われわれが読解するのにはかなりのわずらわしさがある。ここでは、注釈は最低限に留め、たぶんこのようなことがいいたいのかなとなんとなくわかる程度にさらりと読み流していただきたい。
【訳文】
引［序文］
私は恵州に遷って一年、衣食が次第に窘しくなり、重九［九月九日］がちょうど近づいてきていても、樽の中身も俎の上も寂しいありさまである。そこで陶淵明の『貧士の詩』七首に和して、許下、高安、宜興にいる息子や甥に寄せることにし、併せて蘇過にも同じように作らせた。
【補足】［許下と高安［筠州］には蘇轍の子が、宜興陽羨には蘇軾の子がいた］
其の一
長庚［宵の明星］と、沈み残りの月、
耿耿と寄り添い合っている。
朝から夜まで心にかかることがあるなかで、
このつかの間の暉きを惜しんで見つめる。
青い天は昔も今も変わらない、
織鳥［太陽］が飛び続けるわけを誰か知っているのか。
私は九原［墓］を作って、
独り陶淵明とともに帰ろうと思う。
俗世間の人は、自身を悼まずに、
陶淵明が飢えているのを気の毒に思っている。
陶淵明ほどに堂々と生きた人はいない。
千頭の馬を持っていると威張っていた者の方こそ悲しむべきなのだ。
其の二
昔、伯夷と叔斉は（武力で殷を亡ぼした）周の世に生きるのを恥じ、
（山に隠れて）太古の時代を回顧する歌を誦った。
（商山に隠れる）綺里季、東園公（など四人の隠者）を朝廷に連れてきた。
昔から、世を避けた士であっても、
消えたはずの灰が煙を立ててまた燃え出すことがあったのだろう。
人の行く路の終わりには恥じねばならないことがますますあって、
朱い墨を磨って自分で消そうとしなければならないことにもなる。
陶淵明も最初はやはり出仕したが、
琴を弾きつつ誠の言葉を歌って、
心に楽しまないことがあるとして、ただちに帰ったのだった。
世の人と違って独り賢いというべきである。
【補足】［伯夷と叔斉は周の世に生きることを恥じて首陽山に隠れ、そのまま餓死した。一方で、秦の世の乱れを避けて商山に入った東園公、綺里季、夏黄公、甪里の四人［商山四皓という］は、漢の世になって、皇帝の後継者問題を解決するために呂産や呂禄の招きに応じて朝廷に姿を現した。「商山四皓」は陶淵明もしばしば讃える賢人であるが［→作品番号10-2-040aの其の六］、ここでは晩節を汚した者とされている。蘇軾自身がなお官職に留まっていることによる複雑な思いが反映しているのであろう］
其の三
誰が陶淵明を貧しかったというのか、
一つの素朴な琴があったではないか。
（陶淵明は）琴の無窮の音に心を寄せたのだった。
（陶淵明は）佳い辰として重九の節句を愛し、
芳しい菊を尋ね歩いた。
ときには粗末な頭巾で酒を漉すのを歓び、
ときには盃にあるのは塵ばかりだと笑いもした。
ふいに二万銭が贈られてきたこともあった、
（贈り主の）顔延之はまことに欽慕すべき人である。
陶淵明はその銭を急いで酒代の前払に使ったのは、
友人の心に違わぬ大した行為であった。
【補足】［（1）顔延之は官職に就く者で、陶淵明のことをよく知っていて、あるとき二万銭を贈った。（2）序文に記されていたように、蘇軾が和したのは菊の節句の直前であった］
其の四
人はみな耳と目があるけれど、
（それをまともに使ったと）手本にできるのは師曠と黔婁だ。
（陶淵明はそれで）全ての現象を写し出し、
加減することなく人を映す鏡となった。
（陶淵明は）のんびり暮らしつつ重陽の節句が過ぎ去るのを惜しみ、
歳月のめぐることに感じ入った。
まさに孔融と同じように、
盃が空になることだけを憂いた。
陶淵明と孔融は同じ時代に並ぶことはなかったが、
その気高さは二人ともに類のないものだった。
私は二人に後れること五百年、
清らかな夢を見ようとしても求めるのは難しい。
【補足】［（1）黔婁は春秋時代の人で、大臣や宰相として迎えようとする諸侯の誘いを断って清貧に甘んじた人物。師曠もまた春秋時代の琴の名手で、たびたび主君を諫めた。（2）孔融が無類の酒好きであったことは作品番号11-1-039で見ている］
其の五
芙蓉と、黄金色の菊が混ざり合って、
枝や葉を長く垂らしている。
遠く想い見るに、朝廷から退く方々は、
宮中のお台所からお酒を頂戴する。
そうした方々は、まさかこの片田舎で、
落ちた菊の花びらをも食べようとする者がいるなど知りもしない。
衣を質に出して重九の祝いをし、
惨憺たるありさまの歳が過ぎて寒くなろうとしている。
衣がなければ、粟粒のような鳥肌が立ち、
酒がなければ、顔をしかめることになる。
貧乏住まいはまことに嘆かわしい、
衣のないことと酒のないことの二つがいつも関係するのだから。
【補足】［蘇軾は其の四で陶淵明の重九を回顧し、其の五で自身の重九を歌っている］
其の六
詹老人もまた白髪で、
向き合うと霜を帯びた蓬を垂らし合うようになる。
詩を賦すと殊に味わいがあるが、
世を渉ることは工ではない。
藜の杖をついて山や谷を歩き、
その様子はかの渤海の龔遂に似ている。
道の途中で待ち伏せして私と飲もうとするのは、
その意はかの王弘と同じであるのだろう。
ただ、私は酒があるところへなら自分から行くので、
（王弘が）龐通之を迎えに遣わしたようなことはしないでよろしい。
弟子や息子とともに、
杖を持ち履をはいて、貴君のお付き合いをするであろう。
【補足】［（1）ここでは恵州知事の詹範のことを歌っている。（2）6句目で、詹範が似ているとした龔遂は、後漢の終わりに世の乱れを避けて辺境の地に逃れた人。（3）8句目にある王弘は陶淵明と同じ時代の人で、江州知事であったときに陶淵明と会おうとしたが、陶淵明は応じなかった。あるとき陶淵明が廬山に行こうとすると、道の途中で友人の龐通之が酒を用意して待っていた。陶淵明が喜んで酒を一緒に飲み始めると、そこに王弘が現れ、そのまま3人で飲んだ。実は、王弘が龐通之に頼んで仕組んだことであったのだ。蘇軾は、そんな手の込んだことをしなくても、気安くいつでも知事殿と飲むといったのである］
其の七
三つ四つの州に流落し、
その苦労のほどは見て知っているものではないが、
いまは農民と同じようになっている。
私は農地を買って青い竹をめぐらせ、
清い流れのところに家を建てようとしている。
使いの者を一人送って、
諸君らの暮らしの心配を軽くするようなことさえもできない。
時折思うのは、北に帰ることが叶う日がきても、
諸君らの苦労に酬いることはできないであろう。
私が遺せるものといったら「安らか」ということだけだ。
これには鹿門山に立派な手本があるのだ。
【補足】［（1）初句にある「六人の男子」［原文は「六児子」］とは、蘇軾の三人の息子と、蘇轍の三人の息子である。昔の中国では特に断らずに「子」というときは男子だけを数える。（2）蘇軾がここで手本として挙げたのは三国時代の龐徳公である。龐徳公は有力諸侯の招きを受けたが、子孫に遺すべきは財産ではなく、「安らかさ」であるとして鹿門山に隠れた［→作品番号08-3-052］］
■【11-2-081】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］［→作品番号11-2-076］に宛てた手紙。程之才は颶風の被害に遭った広州を視察した後に恵州を訪れようとしていた。
【訳文】
先に二度にわたってお手紙をお送りしましたが、お手元に届いておりましょうか。このところはいかがお過ごしでしょうか。お近くの方を喪った悲しみも癒えましたでしょうか。先に重九を過ぎたならお出になるとのことでしたから、すでに途上にありましょうか。羅浮山の遊びは果たしてお約束いただけましょうか。是非とも望んでおります。暑さの残るなかでの跋渉でありますから、様子をみてゆるゆると参りましょう。
■【11-2-082】聞正輔表兄将至、以詩迎之
【解題】いよいよ従兄の程之才［字は正輔］がまた恵州に来ると聞いて、この詩を送った。
【訳文】
生まれて堯や舜のような仁政の時代に逢い、
嶺南に遊びに来ることもできた……。
この地では、
朝から湿気がもやもやと立ち昇り、
夕暮れの雨は足を重く腫らせる。
朝の食事に蜜唧［鼠の胎児の蜂蜜漬け］を見ることもあり、
夜の枕では鵂鶹［フクロウのような鳥］の声を聞くこともある。
鬱屈を烹たものを何度か食べさせられそうになり、
鉤輈［鷓鴣という南方特有の鳥］ならもとより御馳走である。
鳥でさえも、空から落ちてしまうのではないかという心配は免れないとか、
ましてこのような地にある私であるのだが、
人が訪れる足音に喜びを抱くこともある。
いつしか土地の訛に染まり、
いつも顔を真っ赤にして汗をかいている。
幸いなことに、私は「黄庭」［魂を停止させる境地］に入って、
時には、「丹丘」［仙界の一つ］に遊離することができるし、
目で見ず、耳で聴かないこともでき、
喉で息をしないで、踵で呼吸をすることもできる。
さすがに、ようやく茅が黄ばむ秋が来てくれて、月の照る夜は嬉しい。
我が兄は宮中で用いられるべき器でありながら、
天子の御指示で南の海のほとりにやって来られ、
三軒ばかりしかないようなちっぽけな波止場に、
一万斛をも積載する大きな船を泊められた。
漢代の名臣のような人が来られたと人々は言い合うが、
実は、他国に囚われの身となった者を救うために天が派遣したのである。
ありがたくも再び私のところに来られて、
十日も留まってくださるのは喜ばしい限りである。
ただ残念なのは、
ともに妻とは幽明の世界を隔ててしまったこと。
万里の彼方の郷里にもしも帰ることができたなら、
男やもめどうし、二人並んでいっしょに畑を耕そうではないか。
荘子は妻を喪ったときに盆を叩いて歌ったというけれど、
強いてその真似をすることはないだろう。
【補足】［（1）この詩の歌い出しは、読みようによっては辛辣な皮肉であり、深刻な反省であろう。（2）中程は、慣れない南方の風土を詠んでいて、その中で、いろいろな養生の術を試していることが歌われている。（3）終わりのところには、「私は妻を喪ってすでに三年、程之才は近頃亡くしたばかりである」との蘇軾自身の注が添えてある。（4）この詩に程之才が和し、蘇軾がまた和している。その詩は、程之才が妻を喪ったことを慰め、仏教を勧める内容であるのだが、いろいろな故事を引いて意味を取るのが難しく、ここでは割愛する］
■【11-2-083】同正輔表兄遊白水山
【解題】従兄の程之才とともに白水山［→作品番号11-2-025］に遊んでこの詩を詠んだ。
【訳文】
まことに偉大である、
造物者が真に豪快で放縦であるのは。
土を掴み、砂をかためる戯れの遊びに興じ、
翠の峡谷を劈き開いて、雷を放つ雲を走らせ、
奔流を截り破って、潭と洞を作った。
ここに兄［程之才］とともに飛ぶようにして山を登り、
昔、仙人が履みつけた巨大な足跡を踏み、
杖に身を預けて、年老いた蛇が岩の上でとぐろを巻いているのを見下ろし、
底知れぬあの深い谷へと下ってみようかと想う。
あるいは、雲を穿って天に昇ろうかと想い、
しかし衣が重過ぎると感じる。
見上げる先には、
秋風に落ちかかる葉を救おうとするかのように飛び立った鳥。
念うに、兄は世俗とは独り離れたところに立ち、
人の到り難い絶境にただ私とともにやってきた。
蝸牛の左右の角の争いなどからは永くおさらばして、
胸の中の大自然を丸洗いしようではないか。
顧みて、羅浮山はいま望み見ることができない、
まして、桃源郷への路は絶えてしまい、
案内してくれる人はいない。
蒸気によって暗くけぶる湯谷の路を帰ると、
野の小屋に神さびた泉が活活と湧いている。
衣を解いて湯を浴びると、まさしく無垢の人となり、
身の軽さに、雲間を行く鳳となるのである。
【補足】［（1）この詩にはたくさんのことが詠み込まれていて流れが見えにくく、無理に整理して訳してもこの程度である。（2）中ほどにある「念うに、兄は世俗とは独り離れたところに立ち」［念兄独立与世疎遠］の句は、程之才がいかなる人物であるかを推し量る上で興味深い。かつて蘇軾は、隋代の封徳彜になぞらえて、程之才は根性の曲がった最低の人物であるとしていた［→作品番号10-2-010］。まさしくそのような人物であるのなら、朝廷の高官の期待に応えて蘇軾を苛め、それによって栄達の道が開けることを期待するであろう。程之才はもっぱら地方官として都から離れたところを転々としてきたようで、いまが中央に呼ばれる最後の最大のチャンスであるのかもしれないのだが、程之才は朝廷の高官の不興を買うことも覚悟して、蘇軾と和解する方を選んだのである。（3）この詩に程之才が次韻し、蘇軾は再び次韻した詩があり、もとは24句だったものがなぜか40句に増えている。長くなった分さらにごたごたしているので、後半に置かれた4句だけを見ておくことにする］
世間誰似老兄弟、［世の中にこの老兄弟に似る者はいないだろう］
篤愛不復相疵瑕。［篤く愛して、ケチを付け合うようなことは決してしない］
相携行到水窮処、［手を取り合って水の窮まる源にまで到って］
庶幾一見留子嗟。［一目見て、兄にあっといわせてみたいものだ］
【補足】［かつて仇敵関係にあったことなど嘘のように親密な従兄弟同士であることを歌っている。このように和解できたのには次のような要因があったと考えられるだろうか。①程之才は、天下に名高い蘇軾の敵であり続けるのは長い目で見て自身のためにならないと判断し、政治的・経済的に優位に立ついまが和解の最適で最後のチャンスであると考えた。ただし、そのような計算づくでの判断であるのなら、朝廷の有力者の思惑に反して蘇軾と和解するのは己のためにならないと考える方がより可能性が高いであろう。②もともと程之才はそれほどの悪人だったわけではなく、あるいは年齢とともに人間的に成長していたので、直接会って話すことによって、その人柄が十分に理解できて、自然とこれまでのわだかまりが解消した。蘇軾の姉の死も含めて、実は程之才にはさほどの非はなかったというのが真実であった可能性も十分にある。③蘇軾としては党派争いによって翻弄され続けてきたので、和解こそが肝要であることを身をもって示そうとした。蔡確［→作品番号11-2-051］のために涙を流した蘇軾なら十分にありうるであろう。④蘇軾の母は夫と実家の間で板挟みになり、その苦しみを見ていた蘇軾は、母のためにも対立の解消に務めた。曽祖父を顕彰したのは［→作品番号11-2-034］そうした気持ちの表れと見ることができるだろう］
■【11-2-084】与正輔遊香積寺
【解題】程之才とはさらに香積寺［→作品番号11-2-035］に遊んでこの詩を詠んだ。
【訳文】
南方の山には松や竹が少ない、
あっても野火の災厄に常に苦しんでいる。
この峰だけが松や竹の蒼で覆われているのは、
仏祖の力を感じてそれを得ているからであろう。
山には茯苓［霊妙な薬効があるという茸］が生えていて、
採る人がないために、千年を経て琥珀に化しているという。
夜中にかすかな光を発し、
それを見るのは木客［山の精］だけである。
私にも長い鋤がないわけではないが、
茯苓の真贗を識るのは非常に難しく、
霊苗と毒草とはわずかな違いしかない。
茯苓らしきものを手に把って玩んでみたものの、
とうとう食べずに棄て置き、
長く嘆息したのだった。
山の僧は道を得た人であるようで、
いつも谷から辛苦して水を汲んでいる。
私は水の力で臼を舂くことをかつて思案したのだが、
それは混沌に穴を開けるような小賢しいことであるといまは恥じている。
恐らくこの奥深いところをまた尋ねることはないだろうから、
板に今日の歳月を書いておこう。
【補足】［（1）松の根元に不老長生の薬効のある茯苓が生えるということは、これまでも蘇軾はしばしば言及してきた。その真贋は見分けがたいので棄てたとあるのは、蘇軾が己の身で試すことに慎重であったことを示すものである。（2）「木客」は長江以南の森林地帯に棲む木の精で、数多くの不思議な話が伝わっている。長江以南には神秘の潜む大自然があり、それを背景として、蘇軾も仙界への関心を強めたのであろう。（3）水力を利用することは前に香積寺を訪ねたときに提案しているが、ここではそれを取り下げている。「混沌」は『荘子』にある寓話。目も鼻も耳も口もない「混沌」に人間と同じように穴を開けようとしたところ、「混沌」は死んでしまった。つまり、自然のあるがままであるのが最もよいというのである。川の流れも、小賢しく利用するよりは、そのままにするのがよいのだ］
■【11-2-085】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］とは香積寺で別れた後にも手紙のやりとりが続いた。
【訳文】
頂戴した新茶は絶品で、石耳［石に付着した地衣類］はまことに異な味わいです。……宜興県にいる二人の息子は服喪の期間が終わったなら南に来ようとしています。一方で、赦が下されるとのことで、愚かな私は少しでも北に移していただけたらと思いもするのですが、そのような望みは果たしてありうるものなのでしょうか。兄上は衆議がどのようであるか聞いておられましょうか。
【補足】［（1）宜興県陽羨にいる長男と次男は母の喪が明けたなら、父のもとに来ようと計画していた。（2）この秋に赦が下ることが決まり、蘇軾は自分がその対象者となって、せめて嶺北の地に移してもらえたらと期待を抱いた。］
■【11-2-086】記嶺南竹
【解題】先の詩で、南方の山には竹が少ないと詠んでいるが、実際には嶺南の人々は竹をさかんに利用している。そのことを記した短文。
【訳文】
嶺南の人々は竹に対して恥じらいを持たねばならない。
食べるとなったら筍、家を庇うとなったら竹の瓦、かしぐとなったら竹の薪、着るとなったら竹の皮、履くとなったら竹の鞋……。まことに「此の君」なしでは一日も過ごせないのである。
【補足】［王羲之の息子の王徽之は、竹なしでは一日も過ごせないというほどに竹を愛し、竹を「此の君」と呼んだ［→作品番号03-3-016］。それは竹の高潔さを讃えたものであったが、嶺南の人々はもっぱら実用面で竹を見ているだけだと、蘇軾は残念がっているのである］
■【11-2-087】江月五首、并引
【解題】江で見る月を詠んだ詩。序文がある。
【訳文】
引［序文］
嶺南の気候は普通と異なっている。
かつて私はこのようにいったことがある。
「菊の花が開いたときがすなわち重陽、涼しげな空に月が美しいときがすなわち中秋、日付によって決めるべきではない」
今年は九月になって殘暑がようやく退くようになった。満月の後、月が出るのが徐々に遅くなるに従って、夜に起きて合江楼に登ったり、あるときは客人と豊湖に遊んだり、棲禅寺に入ったり、羅浮道院の扉を叩いたり、あるときは逍遙堂に上って暁に及んで帰ったりした。杜甫の「四更山吐月、残夜水明楼」［四更 山 月を吐く、残夜の水明楼］の句は古今の絶唱である。その句によって五首の詩を作り、「残、夜、水、明、楼」をそれぞれの韻とした。
【補足】［杜甫の詩のある「四更」とは午前二時前後のこと。昔の中国では夜の時間を一更から五更の時間帯に分けた。以下の詩は、月の出が遅くなるのに従って詠んでいる］
其の一
一更、山が月を吐く――
さざ波の上に大聖塔が横に臥す。
（杭州の）西湖のほとり、湧金門の外から看るのとそっくりではないか。
氷の輪のような月が広い海を渡って行く。
香るような霧が入ってきて、ふと寒さを覚える。
月よ、しばし昇るのを止めよ、
我が盃の一杯がなくなるまでそこで照らしていてくれたまえ。
【補足】［大聖塔は、豊湖のほとりの棲禅寺の南東にある］
其の二
二更、山が月を吐く――
幽人［隠者＝私］は独りこの夜を過ごしている。
月と人が夜ごと合江楼の下で逢う、
なんと愛らしいことではなかろうか。
枝はずっと風に揺れ、
草は露に湿って坐れない。
帰って門を閉ざして寝ようとすると、
虫が夜の間中話し続ける。
其の三
三更、山が月を吐く――
木に棲む鳥が驚いて起つと、
私も起って、夢の中の遊びを尋ねる。
清絶とはまさにこのこと、
月の光が雲を駆け散らし、星を掃いのける。
上か下か、空にあるのか水にあるのか、
迷いつつ、
清らかな江の水を飲んでみるとしようか。
【補足】［終わりの二句の訳文は原文とはかなり離れている。原文は「幸可飲我牛、不須違洗耳」［幸い我が牛に飲ます可し、須く耳を洗うに違うべからず］。唐突に牛が出てきているのは次のような寓話に基づいている。古代の聖天子である堯は天下を許由に譲ろうとした。それを知ると、許由はけがらわしいことを聞いてしまったと、耳を洗って山に逃げた。その下流では、巣父が牛に水を飲ませようとしていたのだが、許由が耳を洗うのを見て、汚れた水を牛に飲ませることはできないと立ち去った［作品番号11-1-044でも許由の故事を引いていた］。蘇軾の詩は、月光に照らされる川の水はあくまでも清く、耳を洗った汚れも流れてこないので、牛に飲ませることができると詠んだもの。都から遠く離れた恵州にはけがらわしいことは聞こえてこないという寓意であろう］
其の四
四更、山が月を吐く――
皎皎と、この明るさは誰のためなのか。
幽人が私のところに来るという約束、
坐って玉繩［天の川］が横たわるのを待つ。
（連れだって渡る）野辺の橋は折れた板が多くあり、
山の寺へとひそやかに歩む。
この夜はいったいどのような夜であるのか。
夢のなかでこの世ならぬ幻の町に遊ぶのである。
【補足】［「幻の町」と訳した原文は「化城」。「化城」は仏が現出させた幻の町で、苦しい修行の途中で休息する場である］
其の五
五更、山が月を吐く――
遠くの窓からかすかな明かりが部屋に入ってくる。
玉鉤［月］が戸に掛かり、
江は楼を照らして白い絹のように明るい。
天の川はすでに淡く暁に向かいつつあり、
角笛の音がひんやりと響く。
眠らぬままに五首の詩を詠んで、
南国の歌謡を清く純粋なものに変えようとする。
【補足】［「南国の歌謡」と訳した原文は「蛮謳」である］
■【11-2-088】書曇秀詩
【解題】蘇軾に会おうと遥かな恵州へと訪ね来る人が幾人もいた。芝上人［曇秀道人］［→作品番号10-2-060］もその一人であった。そのことを記した短文。なお、ここに見る曇秀は作品番号11-2-061に記されていた同名の僧とは別人である。
【訳文】
私が広陵［揚州］にいたとき、晁補之とともに曇秀道人は舟で客人を山光寺に送った。客人が去り、私は酔って舟の中で横になった。
曇秀は詩を作った。
扁舟乗興到山光、［小さな舟で興に乗じて山光寺に到った］
古寺臨流勝気蔵。［古い寺は流れに臨んで優れた雰囲気に満ちている］
慚愧南風知我意、［南の風はきっと私の心を知っているのだろう］
吹将草木作天香。［草木を吹いて天の香りを寄せてくれる］
私はそれに和した。
閙裏清遊借隙光、［忙しいなかでわずかな暇を得て清らかな遊びをする］
酔時真境発天蔵。［酔っているときこそが天の真理によるまことの境地である］
夢回拾得吹来句。［夢からかえって、吹き寄せられた句を拾う］
十里南風草木香。［十里の南風、草木はかんばしい］
私はかつて欧陽脩に向かって文同の詩を唱えたことがあった。
美人卻扇坐、［美しい人が扇を開いて座っている］
羞落庭下花。［それに恥じて庭の花が落ちる］
欧陽脩はこのようにいった。
「それは文同の詩ではありませんぞ。その句はもとから世間にあったもので、文同は拾っただけです」
（曇秀に和した詩の句はそのことを思って作ったもので、曇秀と別れて）三年後に、曇秀は恵州に来て私に会ったので、このことを記した。
【補足】［蘇軾の詩の訳文は作品番号10-2-060ですでに見ている］
■【11-2-089】書諸薬法贈曇秀
【解題】曇秀は自由に行動する世外の人として、己の心の赴くままに恵州に来たのであろう。蘇軾は曇秀に幾つかの文章を書いて渡している。遠路はるばる来てくれた謝礼として蘇軾の自筆の書に勝るものはなかったのだろう。
【訳文】
右は孫真人の『千金方』からの抜粋である。いま孫真人から去ることを百四十年余り、岡も谷も移り変わるような歳月を経て、その言葉は必ずしもその通りではないにしても、これによって事をきちんと見定めることができるであろう。……いま曇秀が南に来たので、この数枚の紙に書いた。これを見て、東坡がかくも流落して独り死んでしまうことを哀れむ者が山中にはいるかもしれない。そのためにこれを贈るものである。
【補足】［孫真人は唐の時代の孫思邈で、著名な医学者。その著書『千金要方』は当時までの医学的知識を網羅した大著作である。蘇軾はそのようなものも読んでいたのである］
■【11-2-090】書曇秀竜尾硯
【解題】この文章は作品番号10-2-063としてすでに見ているが、ここでもう一度読んでおこう。
【訳文】
芝上人［曇秀］は竜尾石の硯を蓄えている。私がよくいっている「渋であるけれど筆を留めない、滑であるけれど墨を拒まない」、まさにその通りのものである。両手に乗るくらいの大きさで、月形に池［墨が貯まるところ］が作られている。かつて蒋堂が所有していたものだという。私は広陵［揚州］にいたときにこの硯を曇秀に見せてもらい、いままた嶺海の間［恵州］で見て、あたかも旧友のように思える。
■【11-2-091】贈曇秀
【解題】芝上人［曇秀］は10日間ほど恵州に滞在して去り、そのときに蘇軾はこの詩を贈った。
【訳文】
白雲は山を出て、初めから執着する心がない。
鳥は林を出て、必ずしももとの栖を恋い慕うものではない。
芝上人はたまたま山水を愛することから、
湖が深かろうが山が高かろうが、
歩くに任せてどんどん進み、
岩屋の穴の中で仏陀の百千相を礼拝した後、
さらに曹溪［南華寺］で六祖慧能の像を見て、
どこの水が冷たいか温かいか、味わいがよいか悪いかを知り尽くそうとした。
旅の間にわかったのは、
夢に見たものは実は幻ではないということであった。
かくて恵州に至った芝上人は、
経文を綴ったものを袖から出し、
その中に、璧のような月と珠のような星を綴り合わせた詩もあった。
芝上人は人間世界の絶景を、
廬山、南嶺、さらには西湖も、ほぼ遍く見て来たのだ。
西湖はここから北に臨むところ三千里の彼方、
大きな堤［蘇堤］が冉冉と秋の水を横断しているのを見て、
芝上人は佳句を詠み、
それは（西湖の南の）南屏山にも説き及ぶものであった。
その句をいま唱えると、
熱気のこもる雲も秋風に追われて靡き去ってゆく。
どうして歓びはわずか十日だけなのか、
どうして杖をついてまた困難な帰路を尋ねようとするのか。
芝上人を引き留めるには、筍や蕨ではとても足りるものではない、
早く荔子が赤くなってくれないかとじりじり待ち望むのである。
■【11-2-092】和郭功甫韻送芝道人遊隠静
【解題】芝上人［曇秀］が帰るに際して郭祥正［字は功甫］が詩を贈り、それに蘇軾が次韻した。郭祥正は蘇軾が副知事として杭州にいたときに交流があった人物で［→作品番号04-1-051］、このころは広州の西の端州の知事であった。たまたま恵州に来ていて芝上人に会ったのだろう。
【訳文】
観音菩薩の妙なる智力は、
感に応じ縁に随って人を救済する。
芝上人もまたそのようなお方、
東坡居士を訪ねるためなら、
万里の歩みも辞すものではないと、
恵州にまで来られた。
道義のもとに深く契りを結び、
十年、行き来をともしてきた。
世界の半ばを行き窮め、
杯のような小舟を浮かべてまた渡っていこうとしている。
上人の嚢も鉢も焼いてしまって引き留めようかと思うのだが、
そんな俗な道具にこだわるお方ではない。
もうわかっているのだ、
帰るときには、ただここにこの路があるだけなのである。
■【11-2-093】与参寥子
【解題】杭州にいる親友の参寥［道潜］［→作品番号11-2-015］に宛てた手紙。
【訳文】
穎沙弥［法潁］の書迹は畏れるべきほどに聳え立ち、いずれ妙総［参寥］門下の竜象［傑出した僧］になるでありましょう。……海を渡ってこちらを訪ねてみようかとのこと、一段の奇事ではありましょうが、海船が風に遇うときは、高い山の上から深い谷の中に墜ちるようなありさまであると聞きます。無知で愚かな者か至人［仙人］でなければそのようなところには身を置かないものです。刑罰を受けて残りの日々を送る私のような者のところに来ようなどとはお考えになるべきではありません。……
【補足】［（1）最初に参寥の弟子の穎沙弥［法穎］［→作品番号10-3-037］について触れている。その書についての詳しい評語が続くのだが、よく理解できないので割愛した。（2）後半は参寥が海路を使って恵州を訪問しようとしていることについて触れている。訳では省略したのだが、思いとどまるようさらに数十字にわたって言葉を尽くしている。多くの大陸人は海路はとんでもなく恐ろしいものだという認識を持っていたことがよくわかる。一方で、呉復古［→作品番号11-2-020］などは船を使って自在に行き来していた］
（2）浄慧寺の維琳長老と諸僧の特別の御厚意によって、私がすぐに中州［中国の中心地］に帰れるよう仏に願いをかけてくださっているとのこと、まことに有難い限りでであります。……秦観君はいまの境遇にあっても憂うことなく、気持ちを動揺させることなく、申し分のないありさまです。しかも、秦観君はこちらに多々御支援をくださり、実に喜ぶべき非凡な人です。……いまこちらから贈れるものを息子に用意させていて、安心できる船主を探して、あとは広州の何道士に任せます。……
【補足】［（1）杭州の浄慧寺では蘇軾が帰還できるよう祈祷が行われていた。（2）秦観について触れている。秦観が郴州に流されながらも悠然としていることは作品番号11-2-051でも記している。（3）最後に名が挙がっている何道人は作品番号11-1-063で見た崇道大師何徳順である。何道人はなかなかに実務的手腕のある人物であったようだ］
■【11-2-094】恵州祭枯骨文
【解題】恵州知事の詹範はこの地に赴任して来ると、戦乱後の白骨が多数放置されているのを見て心を痛め、それらを拾い集めてきちんと埋葬したいと考え［→作品番号11-1-092］、そのことを聞いた蘇軾は従兄の程之才に助力を仰ぎ、朝廷の許可を得て、このころにその事業を終えた。埋葬の際にこの祭文を読み上げた。
【訳文】
諸君らは骨を野に暴らして何年になるのか。兵士でなければ民であるのか。皆が吾が赤子である。恭しくも朝廷の法令に従って、骨を埋めるためのこの文を作った。監司はこれを挙行するに当たって、財を一切惜しまない意を示した。ここに諸君らの新しい家を作り、永遠に安らぐ場とする。犬や豚に傷め損なわれ、螻や蟻に穴を穿たれた恨みがある。あまたの骨をここに集めたが、全うな体躯を具えるものはない。皆が雑じり合って住むとも争うことなく、兄弟の義を結ぶように。現世を恋うることなく解脱し、人天を超えるように。
【補足】［（1）途中に監司とあるのは、具体的には程之才のことであると推測されている。（2）このころ、同じく詹範と蘇軾が相談し、程之才の支援のもと、別の事案が動いていた。恵州の町の東と西に二つの橋を架ける大事業で、詳しくは後に見ることになる。この事案について蘇軾が記した程之才宛ての手紙が多数残っていて、きちんと読み解けば当時の公共事業の進め方について有益な知見が得られるであろうけれど、訳者にはその力がないので訳は割愛せざるをえない］
■【11-2-095】答周循州
【解題】恵州の隣の循州の知事である周彦質が何かと支援してくれるのに対して贈った詩。循州の知事が酒を贈ってくれることは作品番号11-2-006ですでに見ている。
【訳文】
このごろは、
野菜だけの食事、藜を編んだ寝床、破れた僧衣……。
俗気を取り除こうと、詩を吟じることもしない。
我が前生はきっと禅の修行僧であったはず。
ところが、我が弟子たちは誤って私のことを韓愈の生まれ変わりだという……
貴君の門を叩いて夜話を求めることはまだしていないのに、
朝夕の食事が続くようにと、かたじけなくも米を送ってくださる。
貴君の俸禄が他人にまわせるほど多くはないのを知っているので、
黄精の根を食べると飢えることがないというから、
これから捜しに行こうと思っているところだ。
【補足】［「禅の修行僧」と訳したところの原文は「盧行者」で、すなわち慧能［→作品番号11-1-054など］である。慧能のもとの姓は盧である］
■【11-2-096】食檳榔
【解題】檳榔を食べたという詩。檳榔とは何か。シュロに似た形状の南国の木で、高さは優に10メートルを超え、果実は檳榔子と呼ばれ、噛みたばこのような嗜好品として用いられる。
【訳文】
夜は、枝のない林を月が照らす、
一万本もの棟木が礎の上に立っているかのようだ。
昼は、雲間はるかに扇を広げ、
なおも暑い九月に蔭を作ってくれる。
上からは房が垂れ、下では絳い刺を繞らせてそれを守っている。
房が風に揺れると、紫鳳の卵のようなものが見え、
暗い雨のなかでは、蒼竜の乳のような白さを見せる。
包が裂けるといっぺんに地に墮ち、皮に包まれて自然と熟す。
北からの旅人は、この実を見せられても何であるのかわからない。
ここの風俗として食べるよう勧められ、拒むのは難しい。
中はうつろで、そこにこもる気をもらすまいと嚼むのだが、
最初はたいてい吐き出してしまう。
嚼んだ唾液を吸うとかすかな甘みがあり、
歯にくっついたものは苦みがある。
見た目はひどく厳めしいが、
滋味があってなかなかになまめかしいところもある。
身中の虫を退治することにかけては勲章もので、
腸内の輪を勇んでまわしてくれることは褒美に値する。
南国の頑なな悪い気のなかで、
これは体の傷を補い利を導いてくれるのである。
薬としての効能はたしかであると、
果実の目録に書き記すべきである。
先生［蘇軾］は肉やよい米の御馳走を食べられなくなって、
腹はすっかり壊れた太鼓のようになってしまった。
この実を日に一粒を超えて啖らうと、腸や胃に嫌われて、
臍や腎のあたりで雷がごろごろ鳴って、
食べた藜やら藿やらが腹中で腐ってしまう。
老いると眠りが少なくなり、
書物を見る燈の膏が尽きてしまっても、なお時を数えて起きている。
この実は眼の痛みをとってくれる。
喉の渇きを抑え、飢えを忘れさせる効果もある。
しかし、農書にはなぜか遠来の客を困惑させるようなことしか書かれていない。
これまでの知見は偏っていて、
悪いところばかりをいっているのを正さなければならない。
■【11-2-097】送恵州監押
【解題】恵州で監押という役職にある人物を見送った詩。その人がどのような人物であるのかも、どのような事情で出発したのかもわからない。
【訳文】
雁がひと声、川辺の雲を破るように鳴く、
梧桐の一万の葉には、それぞれ銀のような露が宿っている。
思うに、この私は常に旅にある飄零の身、
秋の晩に行く人をこうして見送るのは、
なおさら耐え難く感じるのである。
【補足】［送別の詩の標準形として漢詩の教科書に載せてもよいような作品であるといえようか。つまり、ここに蘇軾らしさはわずかしかなく、正岡子規が「月並俳句」と批判したような句に似ているといえようか。相手に合わせてわかりやすい詩を作ったのだろう］
■【11-2-098】送仏面杖与羅浮長老
【解題】釈迦の顔を刻んだ杖を羅浮山の徳長老に贈り、それに添えた詩。
【訳文】
十方三界の全宇宙は釈迦の顔の内におさまるという。
その釈迦の顔が、東坡居士の握った掌の中にある。
この杖を羅浮山の徳長老に送る。
これを携えて山に帰るなら、
徳長老の歩みとともに風が起こり、
全てのものがそれに呼応して叫ぶであろう。
■【11-2-099】和陶己酉歳九月九日、并引
【解題】陶淵明の『己酉の歳の九月九日』と題する詩に和した。短い序文がある。
【訳文】
引［序文］
十月一日、初めて菊の花が開いた。それで客人と重九の宴を催し、よって陶淵明の『己酉の歳の九月九日』の一首に次韻した。（漢の時代の高官であった）胡広は菊潭の水を飲んで長生きをしたという。しかし、李固の伝記に付された賛を読むと、李固は胡広のことを全くつまらない人間だとみなしていた。
【補足】［（1）序文の日付は10月1日。恵州での最初の1年が経過した。（2）胡広のことを記しているのは、詩中にその故事を用いているからであるが、それに類する人物の評判が都から聞こえてきたのだろうか］
もう秋と冬の境になっているではないかといわないでほしい。
菊の黄色い花には、期すものがある。
草の中にあって、きっと後れて凋む。
花の香りを余すようにして露が乾くと、
花の色を映して青い松が高くそびえる。
思いをこめて北の方を望み見て、
かの菊潭に雲がかかるありさまを想い描く、
胡広はまことに糞土な人間、
普段から懸命にへつらってばかりいたから、
菊潭の水を飲んだところで何のよいこともなく、
体内の熱で自分を焦がしていたに違いない。
私は手に「万家春」の酒を持ち、
ひとたび陶淵明と応酬しようと思う。
夕方に菊の落花を拾うことができたなら、
木蘭の露を朝に飲んだのに続けて食べようと思う。
【補足】［（1）恵州では菊が咲くのが遅く、暦よりもほぼ1カ月遅れて重陽の宴を催したのだった。（2）「万家春」は蘇軾の自家製の酒の名である［→作品番号11-1-076］］
■【11-2-100】与程正輔
【解題】従兄の程之才［字は正輔］に宛てた手紙。
【解題】
（1）近ごろ、弟からの手紙を得て、そこに報せてきましたのは、朝廷の意向として、昨年貶逐された十五人は永久に官職に復帰することはないと。それによって、赦されて量移［都に近づく方向性で移動が命じられる］が加えられることに私が該当することがもはやなくなってしまうのを恐れます。それもまた私の定められた運命であるのでしょうか。あたかも、私はもとからの恵州の人間で、何度挑んでも科挙に合格することがなく、この邦に居続けたままで老いてゆく者であるのでしょう。私の心がいまこのようであることを、兄上ははっきりとお判りになるでありましょう。……王朝雲が櫛を賜りましたこに、百度拝してお礼申し上げます。
（2）最近の情勢を見ますに、北に帰る望みはすでに絶たれました。それでも心中は安らかです。妙理に達観したとまではいえなくても、これを譬えれば、恵州の秀才が繰り返し科挙に不合格になったのと同じで、ただそれだけのことです。……痔疾の苦しみもまた思うまでもないことです。……
【補足】［朝廷が赦を下すことに蘇軾は若干の期待を寄せていたが［→作品番号11-2-086］、蘇軾は赦免の対象にはならなかった。一方で、赦文には税を軽くすることが記されていて、蘇軾は程之才に宛てた別の手紙で恵州の民情について詳細に記して、赦文の趣旨に即した対応がこの地で採られるよう、程之才から各方面に働きかけてほしい旨を書いている。さらにまた別の手紙で、朝廷は税を銭で納めるよう定めているが、嶺南ではそれには甚だ困難な事情があることを、具体的な数字を挙げて詳細に記している。蘇軾が官僚として優れた能力の持ち主であったことや、自分自身の境遇よりも民政について憂慮していたことがわかる手紙であるのだが、訳者にはそうした文書を読み解く能力に欠けるので残念ながら割愛する。その中で、恵州の詹範知事は民を恤む意が強くあると讃えている］
■【11-2-101】和陶読山海経、并引
【解題】陶淵明の「『山海経』を読む」という13首の詩に和した。短い序文がある。『山海経』は古代の地理書で、不可思議な妖怪や神々のことも記されている。
【訳文】
陶淵明の『「山海経」を読む』十三首」は、そのうちの七首はすべて仙語［仙界についての言葉］である。私は『抱朴子』を読んで感じるところがあったので、その韻を用いてこれについて賦した。
【補足】［『抱朴子』はここまで何度かその名を見てきた晋の時代の葛洪［→作品番号11-1-068など］が記した神仙術に関する書物である］
其の一
今日は天から初めて霜がおり、
もろもろの木は縮こまってまばらになった。
静かに暮らす人は門を閉ざして横になり、
澄んだ陽ざしが何もない廬に差し込んでくる。
心を開く良い友もいないので、
眼を寄せるものとして奇書を引っ張り出す。
南に建徳という素朴な人々の国があって、いまも子孫がいるらしいが、
そこまでの道は遠いし、私には行くための車もない。
しかし、食糧がなくてもきっと何とか食えるのであって、
穀物がないとか野菜がないとかいってはならないのだ。
困難をものともせずに南に旅した稚川翁に対して恥じねばならない、
千年を経てともにいたいのはこの稚川翁であって、
その人と私と陶淵明を描いたならば、
三士の図ができあがるであろう。
残念なことに、道を学ぶことでは二人に遅れたけれども、
詩を賦すことについてはそうでもないだろう。
【補足】［（1）建徳は『荘子』の寓話にある、遥か南方の国。（2）稚川翁とは『抱朴子』の著者の葛洪。葛洪は建徳を目指したわけではないが、仙薬を得るために南に旅をし、広州にまできたところで知事に引き留められて、羅浮山で晩年を過ごした］
其の二
稚川翁は独りだけきわだって優れていたのだが、
孔子や顔回のように他の人も大切にしていたので、
夏の季節しか知らない蝉にも、
亀や鶴のように千年も万年も生きられることを教えた。
封蟄を打ち破ろうと懸命に努め、
山を移動させるほど力を尽くして述べた。
そのもたらした益は広く無窮で、
千年にわたってこの言葉に恩恵を被っているのである。
【補足】［葛洪がその著書『抱朴子』を遺したことを歌っている］
其の三
陶淵明は中寿［八十歳］にならなかったが、
雅な志は丹丘［仙界］に至ることにあった。
遠く無懐氏［太古の帝王］の民であろうとして、
超然と誰も行けない遥かなところにあったのである。
息を引き取るときにも優れた文章を作ったのは、
生死の境でおたおたする連中とは異なっていた。
私は墓場からこの人を起こして、
稚川翁とともに世を異にする三人の友になりたいものだ。
其の四
劉向はまことに奇逸た人で、
絶妙な算で陰陽のことわりを窮めた。
淮南王が遺した『枕中書』の要点を掴み、
長い歳月にわたって鍛錬に励んだ。
臭気を放つ濁った世の中で、
つかの間の光を争うようなことはしなかった。
青い藜の杖から火を発して、
（劉向に天地開闢以前のことを説いた）人はきっと中黄真人であったのだ。
【補足】［これは漢代に多数の著作を残した劉向［字は子政］について詠んだもの。とくに怪異なことを記した『洪範五行伝論』にまつわる伝説を題材にしている］
其の五
戦乱から逃れようとして、歩けなくなった四歳の娘、
父は温愛の情を割いて、墓地の壊れた穴に棄てた。
まさか亀に呼吸法を倣い、
山の奥で、三年の間、生き続けるとは知りもしなかった。
長生きはきっと学べるのだ。
このことを記録した陳仲弓の言葉は信じるべきだ。
牀に身を委ねたまま死ぬことなく、
無窮の年月を過ごす者だっているのだ。
【補足】［（1）亀は「気」を取り込むことで一万年も生きるという。その呼吸法を「亀息」という。父に棄てられた娘は、素直に亀の真似をすることで、何も食べなくても生き続けることができたのだった。その話を伝えたと葛洪が記しているのが陳仲弓という人である。蘇軾には「亀息」を論じた文章があるが、意味を掴むのは難しい。（2）最後の2句は理解が難しい。不可思議なことばかりを詠んだこの一連の詩が、そもそも全てよくわからないのだが……］
其の六
（救世の道が得られるという）二つの山は実はすぐ近くにあるのだろう、
霊薬は（普通に見られる）草や木のすがたはしていないのだろう。
玄芝（という霊薬）は（二山のうちの）太元山に生え、
黄精は長谷山から出るという。
仙都なるところは海のように広く、
身を清めるためにいくらでも浴びることができる。
山に火［霊なる働きの象徴］があるなら、
麻の束に移して、灯火を分けるべきである。
【補足】［この詩が何を歌っているのか訳者にはさっぱりわからない。仙道に至る道筋はどこにでもあるという趣旨であると仮定して訳してみた］
其の七
蜀の士、李阿は八百歳になっても、
呉山の北の穴に住んでいた。
黙って坐り、形をつくって語り、
弟子として従う者が林をつくるほど大勢いた。
その後に李寛という人がいて、李阿その人のようにいわれていたが、
李阿と李寛は鶏と鵠ほどに違っていた。
口から耳へと伝えられることは偽りが多く、
真実を知る要は心にあるのだ。
【補足】［蘇軾ももちろんいろいろな神仙譚には偽りが多いと疑いの眼を向けていた］
其の八
甘谷を覆うのは黄色い菊の花、
その霊妙な根は深く長い。
廖氏の村では穴倉に丹砂を蓄えていて、
紅い泉が普通にわいていた。
百七十歳まで生きた趙瞿は、口と鼻の間で二人の微小な娘を遊ばせ、
松やにを食べ物としていた。
こうした話を聞いて私は眠れなくなり、
起き上がって考え続け、夜は明けなかった。
【補足】［蘇軾はここで三つの不老長生の術について歌っている］
【補足】［蘇軾の第九首は、他の詩に何倍もわからないので訳文は割愛する］
其の十
金丹［仙薬］はおいそれと作れるものではなく、
（有名な仙人の）安期生は東の海の遥か彼方に行ってしまった。
一方で、程偉が仙薬作りに苦心惨憺していたときに、
実はその妻こそが道を得た人で、意外にも金丹の術は近くにあったのだ。
妻は昇仙してしまって、その術はついに程偉には伝えられなかったので、
妻が去ってからは、空しく悔いばかりが残ったのだ。
いずれにしても、金丹はあったところで用のないものであろう。
気を正しく制御するのは、薬の作用を待つまでもなくできるはずであるのだから。
【補足】［蘇軾は千年前の人であるから、われわれとは相当に距離があって、理解の及ばないことは多々ある。それでも、合理的精神の持ち主であって、われわれと共有しうるところの方が遥かに多くあると、このような詩で確認することができる。仙薬作りを試みつつも常に疑義をはさみ、その一方で、気を制御する呼吸法を長く実践して、そちらの方が体験的に有効性が高いと判断していたのである。蘇軾の説く呼吸法の理論はわれわれには理解できなくても、深く息をすることが健康に資するのは間違いない］
其の十一
鄭隠は数々の道術を得ていた、
それは（葛洪の祖父の）葛元翁の教えを受けたものだった。
鄭隠は優れた文章を二百篇のこしたのだが、
ついに生死の境から出るものではなかった。
黄石公には『素書』があって、
（張良はそれを授かるためならと）跪いて履をはかせることもした。
万物はどれもできては壊れるものであるけれど、
金丹だけはいくらか頼みがいがあったりするのだろうか。
【補足】［ここでは道術を伝えるいくつかの書物について詠んでいる。書物に書いてあることは必ずしもあてにならないということがいいたいのだろうか］
其の十二［蘇軾］
わしは四千歳だといっていた古強なんぞは庸妄であったし、
仙界に行ってきたといっていた蔡誕もやはり誇士であった。
曼都が「斥けられた仙人」と呼ばれていたのは、
天帝に拝謁したものの軽率な振る舞いをして叱られたと嘘をいったからだ。
道を学んで得るところがないくせに、
自身をも欺く駄法螺を並べた阿呆な連中であったのだ。
稚川［葛洪］もまた見識の狭い人で、
こうしたぼんくらどものことまでその著作に無駄に載せたのだった。
【補足】［いつの時代にも偽物はいた。蘇軾は、仙人を騙った代表者として古強、蔡誕、曼都を『抱朴子』の中から挙げていて、葛洪を批判している。現代のわれわれからしたら、仙術を得たと称する者は一人残らず「庸子」だとしか思えないのだが］
其の十三［蘇軾］
東坡居士はまことに畸人である、
世渉りについてはまったくの散材である。
仇池に帰るべき路があることはかつて夢に見ている。
羅浮山に来たのは何か理由があるのだろう。
ここに来て蛇を踏んだり虫を茹でて食べたりしているが、
心は空で、ついに猜むようなことはない。
葛洪と陶淵明と手を携えて、
帰ろうではないか、帰ろうではないか……。
【補足】［蘇軾は最後に自身のことを歌っている］
■【11-2-102】偃松屏賛
【解題】地に偃す松の姿を息子の蘇過が描いて屏風を作り、蘇軾がその賛を書いた。序文だけを訳す。
【訳文】
私は中山［定州］の知事となって初めて北の山の松の膏を（酒にして）食べ、天下に冠たるものであると知った。中山の松の木理は堅密で，瘠せてはいても瘁れてはいない。まことに植物の英烈である。
羅浮山の下に謫居し、この地は暖かく、松は多いが霜雪の厳しさを知らない。優れた才能を持って裕福な家に生まれた貴人と、庶子として生まれた孤独な人とではかなりの違いがあるようなものであろうか。士として憂患を経験するのは、むしろ福ではないとはいえないのだ。
末の子の蘇過は私に従って南に来て、寒さの中で松が偃す画を描き、枕もとに置く屏風を作った。
■【11-2-103】薬誦
【解題】恵州に来て以来、痔にひどく苦しめられ、いろいろな人に宛てた手紙にそのことを記していた［→作品番号11-2-051、11-2-071、11-2-072、11-2-100］。痔との闘いは長く続き、このような工夫をしていた。
【訳文】
嵆康は（理不尽な刑罰による）死を免れないと知って、『幽憤の詩』を作った。その終わりの章にこのようにある。
采薇山阿、［山の蔭で山菜を摘む］
散髪巌岫、［岩の上で髪をざんばらに乱す］
永嘯長吟、［永く嘯き長く吟じ］
頤性養寿。［天性のまま長く生きるのだ］
ここに詠んだ志はもはや遂げられないのを嵆康は悼んだ。
司馬景王はすでに嵆康を処刑してから悔やんだ。もしも殺す前に悔やんでいたならば、嵆康は死を免れ、たちまち脱兎のごとくに人の世から己の跡を消し去り、林の中に身を投じて、山菜を摘んで髪を乱したであろう。そのようにするのは実は難しいことではなかったはずだ。
孫真人［孫思邈］の著作に『大風悪疾論』があり、それにはこのような記述がある。
『神仙伝』に記録されている数十人は皆が悪い病気になって、そして仙道を得た。それはなぜかというと、俗世間の累いから棄て去られて、隠者の高風を慕ったからである。つまり、悪疾という禍によって福を取ったのである。
私は罪を得て嶺表に遷った始めは、もう命を全うできないと思った。しかし、すでに一年を超えて生きていて、必ず死ぬわけではないと知った。ところが、ここに来てかねてからの痔の苦しみが大いに起こり、呻吟すること何百日になる。この地には医薬がなく、この地にあるようなものは効き目がない。ある道士が旨いものを去り、辛いものやなまぐさものを絶ち、清浄なものだけを食べるようにと教えてくれた。道士がいうには、痔というものは吾が後ろのところに虫の宿る館があるために起こるのであって、旨いもの、辛いもの、なまぐさものは主人を養うけれど、痔の虫も養ってしまう。今後は、朝夕に淡い粥を四両ばかり食べるだけにし、なおも食べる念があるのなら、胡麻と茯苓を練った麦粉を加えてもよい。そのような飲食の外には一切のものを口にしてはならない。主人が枯れ槁れになれば、客人である痔の虫は自然とそこを棄てて去るのである。
私は日頃の習慣に流されやすいのを恐れ、嵆康の言葉を病に対する薬にしようと、一日に三回ずつ人に次のように唱えさせている。
「東坡居士よ、汝は、年を越えての憂い、百日の苦しみを忘れてはならない。汝を不幸にしたのは嵆康の禍、そして伯牛の疾［痔のこと］だ。山菜を摘み髪をざんばらに乱したいと思っても、できないだろう。胡麻、麦、茯苓だけを食べるのだ」
居士はそれに答えてこのように歌う。
「事無き事をするなら百事は治まる。味無き味を味わうなら五味は備わる。茯苓、胡麻、麦があるなら米櫃に入れておく。それがあるときは食べ、ないときはないまでのこと。嗚呼噫嘻、館の客［痔の虫］がいなくならなのは、まったくもって恥である」
【補足】［（1）嵆康は竹林の七賢人の一人で、己の本性のままに生きることを希求したが、権威者に嫌われて刑死した。蘇軾は嵆康と己の人生を重ね合わせて考えている。（2）孫思邈［→作品番号11-2-089］が引用した『神仙伝』は葛洪［→作品番号11-1-068］の著作として伝えられ、仙人になった人々の記録を集めたもの］
■【11-2-104】十一月九日、夜夢与人論神仙道術、因作一詩八句。即覚、頗記其語、録呈子由弟。後四句不甚明了、今足成之耳
【解題】例によって夢に見たことを詠んだ詩。詩の題は、「十一月九日夜、夢の中で人と神仙の道術について論じ、一詩八句を作った。目が覚めてからもよくその語を記憶していたので、記して弟に示す。終わりの四句だけははっきりしないところがあったので、そこは足して完成させた」。
【訳文】
塵の妙なる性質を分析しても、本来、それは空である。
さらに微かな陽を一筋ずつ積み重ねて何になるのか。
一つの燈が長く夜を耿耿と照らしている。
門を閉ざして呼吸を続けると自然と充満するものがある。
竈で丹薬を焼いて火も煙もなくなると、
人間界に赤い銅が残る。
山の神にいおう、
人を眩惑する術をやめるがよい。
私は聞きもしなければ、見もしない、
そうすれば行き詰まることはないのだ。
【補足】［夢の中で神仙の道術について詠んだ詩であるから、意味はさっぱりわからない。弟には何か了解できるものがあったのだろう］
■【11-2-105】章質夫送酒六壺、書至而酒不達、戯作小詩問之
【解題】この春に広州知事となった章●［字は質夫、●は、次の下に呆という字］から、六壺の酒を送るとの手紙が来た。しかし、酒は届かなかった。それで戯れにそのことを問い合わせたという詩。章質夫とはかつて若干の交流があった［→作品番号06-1-099、05-4-001］。
【訳文】
酒を送るとの使いが来たとき、
陶淵明は舞って喜んだ。
私も急いで部屋に風を入れて掃除し、
欠けた盃を洗って待ち構えた。
ところが、思いもかけないことに、
六人の「青州従事」［酒の名］が、
一人の「烏有先生」［存在しないということを擬人化した名］に化けてしまった。
左の手に新しい蟹を持っていたのもむなしくなったからには、
東の垣根を巡って、落ちた花の香りでもかぐしかない。
南海の知事である貴君は現代の「北海」［後漢の賢人孔融を指す］ともいうべき人、
きっと春の畑を耕す私のために百樽の酒を贈ってくれることであろう。
【補足】［蘇軾の弟子の陳師道の随筆によると、広州知事は毎月六壺の酒を蘇軾に差し入れしていたのだが、あるとき使いの者がつまずいて割ってしまい、蘇軾がこの詩を作ったという。六壺を失った償いに百樽を贈るとなると、果たしてそれは何倍になるのだろうか］
■【11-2-106】宝月大師塔銘
【解題】宝月大師惟簡［→作品番号11-2-052］が亡くなり、その骨を納めた塔に刻む銘文を作成するよう蘇軾は依頼を受けた。惟簡は成都の勝相院の僧。蘇軾と同郷の眉山県の出身で、同じ蘇姓の遠い親類である。銘の序文の一部を訳す。
【訳文】
宝月大師惟簡は、字は宗古、姓は蘇氏、眉州眉山県の人である。私にとっては遠い親類に当たる。九歳で成都の中和勝相院慧悟大師に仕え、十九歳で得度し、二十九歳で朝廷より紫の袈裟を賜り、三十六歳で宝月大師の号を賜った。……［以下、その事績を略述する］……
紹聖二年六月九日、初めてわずかに病み、弟子たちに書状で仏法の大事について告げ、自身に関わることは何も語らなかった。二十二日に至って、弟子たちが集まって朝の挨拶をして、辰の刻に及んで、
「吾は行く」
と、いって亡くなった。八十四歳であった。同じ月の二十六日に、成都の町の東の智福院の寿塔に骨を納めた。……［以下、弟子、孫弟子の系譜を記す］……
師は若いころから蜀の人の張易簡と親しくし、我が父とも深い知り合いであった。我が父はこのようにいっていた。
「この人の才能、器量は唐代の澄観にも匹敵するだろう。もし政事に当たるなら世の中に名を立てるし、僧になるならその右に出る者はいないだろう」
果たしてその通りになった。
私は恵州に謫居していたところ、（孫弟子の）舟実が来て銘を作るよう依頼された。
【補足】［（1）成都から法舟［舟実］、法栄の二僧が来て、銘文を作成するよう頼まれたのは、宝月大師が亡くなって約半年後のことであった。後述するように、二僧が銘文を携えて帰ったのは、翌年の1月中頃である。（2）宝月大師が若い頃に親しくしていたという張易簡［原文は張隠君少愚］は、蘇軾が8歳で入学した寺子屋の師匠である［→作品番号01-2-002］］
■【11-2-107】与楊済甫
【解題】恵州から故郷の旧い友人である楊済甫［→作品番号11-1-008］に送った手紙が二通残っている。
【訳文】
（1）宝月大師の孫［法舟］が来て、お手紙を頂戴し、尊体の佳勝、御家族皆様の清安を知って喜んでおります。まことに結構です。私は何事も放り出し、北に帰るのはいつかわからず、命運のままにしばし過ごすばかりで、思い煩ないようにしています。墳墓の安靖を聞いて、貴君の風義の篤さによるのでなければこうはならないと、感謝の言葉もありません。法舟師は眉州に立ち寄るとのことですから、諸事の詳細はお尋ねください。……
【補足】［（1）法舟は蘇軾の郷里を経由して恵州に来たのだろう。（2）楊済甫が郷里にある父母や妻の墓の面倒を見てくれていたのである］
（2）遠くから蜀の紙や薬など、一つ一つ数えきれないほどに頂戴し、感激の至りです。人がすぐに発つとのころで、謝礼にするちょうど佳い物もなく、ただ腰帯一条をお贈りします。俗な物でお恥ずかしい次第です。
【補足】［蜀がよい紙の産地であることは作品番号10-2-065で見ている］
■【11-2-108】管幼安賢於荀孔
【解題】12月のある夜に記した短文。『三国志』に記録されている管寧という隠者の伝記を読んでの感想。
【訳文】
曹操が志を得ると、士人たちは皆、曹操のもとに靡いて集まった。荀彧は盛名があり、国家の経営に謀を巡らせたのだが、ひとたび小さな意見の相違があると、曹操は荀彧を殺してしまおうとした。……孔融は行動が優れ博学で、志は大きく、弁が立ち、意見を述べるたびに曹操の心にぴったり当たって、用いられないことはなかったのだが、それでも死を免れなかった。……
管寧［字は幼安］は世から遁れることを思い、官職に就くことなく、海のほとり［山東半島］に逃れた。管寧は曹操父子などはケチなコソ泥のように見なしていた。そのような管寧であるから、用いることはできないし、むろん殺すこともできない。荀彧や孔融よりも遥かに賢だったのである。
紹聖二年十二月、客人と飲み、ひどく酔い、帰って雕堂西閣に坐し、机の上に突っ伏して眠ってしまった。長く寝て、急に目覚めるともう三更［真夜中］であった。燭台の火がまだ残っていて、たまたま取り上げた一冊を見ると、『管幼安伝』であった。ふと感じたところを、そのままここに書いた。眼に花が散り、手に力が入らず、まったくもって字に成っていない。
【補足】［孔融はこれまで作品番号11-2-057でも見ていたように、賢人としてその名が挙げられることが多かったが、ここでは隠者の管寧には遠く及ばないとしている。つまり、蘇軾自身に即していえば、自在に生きている鄧守安や呉復古に及ばないということなのだろうか］
■【11-2-109】小圃五詠
【解題】蘇軾は住まいの裏に小さな農地を持っていた。そこで育てている人参、地黄、枸杞、甘菊、薏苡の五種の植物について詠んだ詩。いずれも漢方薬に用いられるものである。
【訳文】
其の一 人参
人参の名産地といえば上党と遼東、
上党は天下の脊、遼東は井戸の底、
天下の脊には、天の酒が白い露となって注がれ、
井戸の底には、海の腴が泉より湧き出て、
どちらからも霊妙な苗が孕まれ育まれ、
人の五体を備えたかのような形に成長する。
その根を羅浮山のもとに移し、
南国の清冽な水を灌ぎかけた。
地が異なり、風雨を隔てても、
臭いや味にはやはり引き継いだものがあって、
青い葉から紫の萼が出て、紅い米を墮とすようにして円い実ができた。
年の終わりに至っても生き生きとしていて、
我が手で黄色い土を開いて掘り出した。
人参は炙る必要もない優れた薬で、がりがりと根元まで噛み尽くす。
かくて我が心は開かれて魂魄が定まり、憂いも恚りも洗うまでもなくおさまる。
身をつぶして我が生命を輔けてくれるのであるから、
食べ終わったなら、重ねて人参に首を垂れなければならない。
【補足】［（1）人参の特産地として上党と遼東を挙げている。上党は太行山脈に位置するので「天下の脊」といい、遼東は山に囲まれた盆地状の地形なので「井戸の底」といっているのである。上党の人参について詠んだ詩を作品番号10-3-051で見ているので、恐らく定州で手に入れた人参を恵州で栽培してみたのだろう］
其の二 地黄
白居易がいうには、
地黄を老いた馬に食わせると、
人が眼を見張るほど馬の毛が輝くという。
馬によいのなら、人の身に施したらどうなのだろうか。
私はまさしく衰えた馬、
意気消沈し、耳を垂れ、櫪の前に伏せる。
地黄をよく肥えた農地に移植したところ、
新春の訪れと競争するかのように葉が茂ってきている。
若いいくつかの根から水に沈むものを選び取って、
釜に浮かべた器に入れて、薪で茹で上げる、
そこに東阿に産する最上の膠を加え、北海の良い酒をまぜる、
さらに、崖の上で採れる蜂蜜でひんやりとした甘さを足し、
山の生姜によって芳しい辛さを発するようにする、
全体が融け合わさると寒食のときに食べる飴のようになり、
飲み下すと「瑞露」［酒の名］のような珍味である。
かくて丹田に自ずと火が宿るようになり、
渇いていた肺に再び潤いがよみがえるのである。
内に熱が籠る症状の人々に与えて、
胸の中の塵をさらりと洗い去ってやりたいものだ。
其の三 枸杞
枸杞は霊妙な薬でありながら、
自身を閉じ隠すことなく、
広がって山野に満ちている。
一日のうちでは、牛や羊に踏まれる心配をしなければならないし、
一年のうちでは、野火に焼かれてしまう災難がある。
南国には好事家がいないのだろう、
枸杞は雑草と同じように見過ごされていて、
春には青い茎が伸びるのに任せ、
赤い珠のような実が熟しても摘む人がいない。
私は低い垣根で護って枸杞を新たに植えたところ、
筍のように節がぐいぐいと成長してきた。
枸杞は根も茎も花も実も棄ててしまうようなところはない。
大いに我が鬢の毛を黒くしてくれるだろうし、
少しばかりは我が客人にも与えるとしよう。
朱明洞というところには、
千年の長生きをさせるものがあるらしいが、
夜も霊獣が吠えて守っているという。
仙人がもしも許してくれるのなら、
我が衰えと病を扶けるために、
枸杞を杖にして探しに行きたいものだ。
其の四 甘菊
つねに春のような南国の山も初めて寒くなり、
霜を受けると、菊はいよいよ好くなってくる。
朝にぷつぷつと小さな花が出て、
芳しい菊の時節がようやくきたと知れるのである
高い松の蔭でひっそりと根を伸ばし、
他の草から独りここに秀でて現れるのである。
朝の光に照り輝いたかと思うと、
秋の雨に半ば砕き倒されてしまうこともある。
先生［蘇軾］は病に臥して出ることもなく、
落ち葉が紛々と散り積もってしまった中で、
酒や食べ物を送ってくれる人もなく、
空腹のあまり珠宝［菊の花］を食べてみた。
香る風が歯と頬から入り込んできて、
天の調べのような菊を讃える歌をうたいたくなる。
寒さのなかにあっても根が枯れることはなく、
新しい芽が続々と充満してくる。
揚揚と蝶が香りを弄ぶような花を見るなら、
生死の境についてとやかくいう必要はなくなってくる。
韓愈は、菊がよい季節に後れて花を開くのを残念がったのだが、
まったくおかしなことをいったものである。
【補足】［菊には、苦い菊と甘い菊があるという。甘い菊は食用になり、蘇軾は、食に乏しいときに菊の花を食べるという詩を時折詠んでいる］
其の五 薏苡
（漢代の）馬援将軍は武陵五渓に遠征したときに、
薏苡［じゅずだま］を飯として食らうことで、
毒気を防いで、良好な精神を保とうとした。
薏苡は、渓谷に満ちる毒を除くことはできたが、
死後、讒言によって名声が傷つけられるのを防ぐことはできなかった。
それでも、讒言は風雨のように過ぎ去り、
熱病もしばらく後に谷から消え去ったのだった。
両者ともに治められないようなことではなく、
愛すべきは、草木が永続して成長するその力である。
草木にはそれぞれに良いところがあり、
とりわけ南の涯の地に珍しい産物が並び生じている。
絳い囊が、荔支の枝に懸かり、
雪の粉が、桄榔の実を剖くとこぼれ出る。
思いもよらないことに、
雑草のようなもののなかに薬にも食糧にもなるものがあった。
芡の実のような円い珠［薏苡］を臼で舂き、
炊くと米のようなよい香りがする。
杜甫は橡や栗を拾い、黄精の根を採って空腹をまぎらわしたという。
いま私は何者であるのか、
幸せすぎることに、
我が座敷には、薏苡の玉のような粒が照り輝いているのだ。
■【11-2-110】雨後行菜圃
【解題】雨の後に野菜畑を巡り歩いて詠んだ詩。
【訳文】
夢から覚めて雨の音を聞く。
我が菜の葉が大きくなっているはず。
喜びを抱きつつ、夜明けに江の路に出る。
地面は湿り、岸に沿って櫓を飛ばして行く舟がある。
天公はまことに大福長者である、
乳とも膏ともいえる雨を黄色い土に注いでくれたのだ。
霜ふる冬にも根が勢いよくはびこり、
葉がもう風を受けてゆらゆらするくらいになっている。
箱に摘み取るのはまだまだ先なのに、
もう杯の横に並べることを想像する。
いま私は艱難の最中、
生計も行き詰まって、十分に口にできるようなものは一品もない。
ほんの少し摘まんで山の僧のように食べ、
清く安らであるのが真に賞味することであるとしている。
芥藍はきのこのような味で、ほろほろと歯の間に響き、
白菘は子豚に似た味で、土の中から熊の掌のように飛び出してくる。
これらを調理する火の加減を誰が見るのかというと、
小さな竈につきっきりで私が当たるのである。
【補足】［この詩は、黄州の東の坡で農地を耕していたころの詩［→作品番号06-2-024など］とよく似ている。蘇軾の真骨頂であるのだろう］
■【11-2-111】残臘独出二首
【解題】12月の終わりに独りで出歩いて詠んだ詩。ある日のスケッチである。
【訳文】
其の一
もとよりすべき事もなく、幽を尋ねる。
独り往くと意は自ずから長としてきて、
豊楽橋のあたりで魚でも釣ってみようか、
逍遙堂のあたりで杞でも采ってみようか……
羅浮山では春が動きだそうとしていて、
雲にかかった日は清らかな光に満ちている。
処々で野の梅が開き、
どの家からも年の終わりに仕込む酒の香りがする。
路で、ひょっとして左元放［伝説の仙人］ではなかろうかと思う目の悪い道士に逢う。
語りかけようとしたものの、
やはり羊に化してしまうのではないかと恐れたのだった。
其の二
江べりにちょっとした細い道筋がある、
曲がりくねって街の背後に出ると、
春の草が茂り合って平湖が広がる。
さらに歩いて棲禅寺に至ると、
堂のあたりはがらんとして誰もいない。
見ると、門を閉ざして老人と子供が眠っている。
人の営みというのは腹を満たすことにあるのだから、
食事がすんだなら、むしろ何かするほうがおかしいのだ。
寺に客が来れば何か得られるものがあると思っているだろうから、
諸君等にはいささか施しものをしてそこらの掃除でもしてもらうとしようか。
ここで静かでないのは風に吹かれる松だけで、
私を送り出す音楽を演奏してくれる。
【補足】［蘇軾は恵州ですでに1年余りを過ごし、豊楽橋、逍遙堂、羅浮山、平湖、棲禅寺といったこの地の数々のランドマークともすっかり馴染みとなった］