第10章 暴風雨の前の変転――都、潁州、揚州、定州
［第10章その三］
元祐8年［1093年］、蘇軾58歳。
元祐9年［1094年］、蘇軾59歳。
■【10-3-001】次韻秦少遊王仲至元日立春三首
【解題】元祐8年［1093年］は、元日が立春に当たり、秦観［字は少遊］［→作品番号10-2-049］と王欽臣［字は仲至］［→作品番号10-2-090］が詩を詠んだのでそれに次韻した。3首のうち2首を訳す。
【訳文】
其の一
天公［造物者］は二度の面倒を省きたかったのか、
新年と立春を同時に催した。
ただいささか真心を示して、
梅の花の伴にと、山かげに雪を降らせてくれた。
其の二
元日は己卯、
弟にとって日の廻りがよく、何ともめでたい。
願うのは、弟に過失もなく、また功績もないことを。
来年の春には私は江湖のほとりにいて、
夢に皇城を見て、こちらに首を回らせることであろう。
■【10-3-002】次韻王晋卿奉詔押高麗宴射
【解題】正月の宮中での行事を詠んだ詩。高麗国からの使者が、吉例行事として正月三日に皇帝の前で矢を射るパフォーマンスをし、皇帝主催の宴会が催された。王詵［字は晋卿］は先々代の皇帝の娘婿という高貴の身分であることから、その行事に参加し、皇帝に命じられてその場で詩を詠んだ。宴には参加していない蘇軾は後でその詩に次韻した。
【訳文】
皇居の北苑に、役目の者の呼び声が響くと、
高麗国の使者が現れ出る。
使者はすぐに高雅な香りがする［王詵の存在］のに気づく。
高麗国の使者とともに射る我が方の武臣は、
三本の矢で一国を降伏させるほどの腕前であるから、
使者は敢えて射るべきかをためらう。
陛下のお言葉によって、貴君は金の盃を賜り、
酔って帰れば、颯爽としたその姿を人々は争って見ようとする。
貴君の錦の嚢にはたくさんの名句がおさまっているのだが、
そこらの人々にまでやたらと与えない方がよいだろう。
【補足】［この詩は、華麗な語句をちりばめていかにも目出度く歌い、王詵を讃えたもの。およその意味を取って訳した］
■【10-3-003】上元侍飲楼上三首呈同列
【解題】これも宮中での行事を詠んだ詩。1月15日の上元節の前後は、都は無数の燈篭によって照らされる。1月14日夜、皇帝は宣徳楼に登って燈篭を見物し、近臣に酒を賜った。これには蘇軾も参加して詩を詠み、同輩に示した。
【訳文】
其の一
淡い月とまばらな星が宮殿を繞り、
厳かな風が高貴な香りを伝える。
臣下の者が通明殿の前に一列に並ぶと、
紅い雲に包まれて陛下がお出ましになる。
其の二
淡い雪は消えたばかり、野はまだ耕される前、
農民は薪を売って酒を買い、
この太平の賑わいを見物にくる。
陛下は勤倹にして思慮深くあられるので、
自然と豊年となって、人々の笑い声に満ちるのである。
其の三
この老病を身で、
皇城から退く万馬の群れを縫って進んで行くと、
都の街路から人々が散って、
月明かりだけが残る。
家に帰りつくと、
消えかけた燈篭が一つだけあって、
妻にいただきものの黄柑を渡す。
【補足】［最後は、蘇軾自身の注記で、「楼上で侍飲すると、高貴な方々が近臣に黄柑を配ってくれる。これを伝柑といい、携えて帰ってよいことになっている」と記している。蘇軾は他ならぬ王詵からこの伝柑を受け取っている。王詵は蘇軾の友人ではあっても、公的な場においてはやはり皇族側の高貴な人々の一員なのである。王詵には伝柑の謝礼の詩を作って贈っている。宮中の儀式を詠んだ詩は、我々にとっては興趣に乏しいので、その訳は割愛する］
■【10-3-004】送蒋穎叔帥熙河、并引
【解題】蒋之奇［字は穎叔］［→作品番号10-2-092］が熙州知事として赴任するのを見送った詩。短い序文がある。
【訳文】
引［序文］
蒋之奇が臨洮［熙州］に赴任することになり、私と銭勰、王欽臣が餞にそれぞれ詩を賦した。「今我来思」の四文字を韻とし、速やかに帰るとの意味をそこに籠めた。私は「我」の字を得た。
【補足】［「元祐の四友」［→作品番号10-2-085］といわれた蘇軾、銭勰、王欽臣、蒋之奇が一堂に会するのもこれが最後となった］
我が軍団は西方に出たまま留まっている。
軍事の論議に私の出番はない。
深く敵地に入る計画がまるでないのなら、
兜の緒は緩めておいてもよく、
私でも間に合うのだろうけれど……。
承明殿において貴君は用いられ、
勅旨の文字は五色の火よりも輝いた。
これまで貴君は何度も自薦してきていたのだが、
都に留められて希望を果せずにいた。
貴君はいつも兵を論じることを喜び、
ついに老いに臨んで辺境の関の鍵を預けられたのだ。
貴君は談笑する間に新しい詩を作り、
僚友はその気炎に降参してしまう。
いずれ私は将軍［蒋之奇］の帰還を喜ぶ古の詩を歌うであろうが、
いまは送別に欠かせない柳の枝に目をやらなければならない。
戦地では敵の首を挙げるのをよしとする、
しかし、それで得られるものは実はごくわずかなのだ。
昔、魯仲連はたった一通の手紙で城を下したという。
人を殺さなければ、
そのことが大きな功徳となって、きっと貴君の身に返ってくるはずだ。
【補足】［（1）蘇軾は勇ましいことを歌わずに、「陰功在不殺」［陰功は不殺に在る］といって、戦闘を避けて平和裏に物事を解決することを推奨している。（2）魯仲連の名は作品番号10-1-060で見ている］
■【10-3-005】次韻穎叔観燈
【解題】蒋之奇［字は穎叔］が上元の燈篭を見て詠んだ詩に次韻した。内容的には上と同じく送別の詩である。
【訳文】
西域の知事となった貴君は禅僧のような人、
仏の教えを無限に広げる「無尽燈」を到るところで灯してゆくのだ。
貴君が一万騎を従えて行進すると、
異国の人々は挙ってその勇ましさを見ようとするだろう。
貴君は遊びに出るだけで降伏を促し、
かくてもはや防御する必要もなくなって、
異国の連中は入貢するようになるだろう。
凱旋して皇帝より宴を賜り、
有難さに耐えられないほどのお褒めの言葉に預かるであろう。
【補足】［燈篭見物から連想して、あたかも行楽に出るかのように蒋之奇を見送った。さらに2首の送別の詩があるが、特に面白味がないので訳は省略する］
■【10-3-006】次韻銭穆父、王仲至同賞田曹梅花
【解題】「元祐の四友」から蒋之奇が抜けた後の作品。田曹［屯田を司る役所］に咲く梅の花を銭勰［字は穆父］と王欽臣［字は仲至］が詠んだ詩に次韻した。
【訳文】
寒々とした役場がまだ春を知らずにいるときに、
独り雪のように輝き出したものがあった。
そのとき私は、
愁いのあまり、門を閉ざし、
酒を置いて、長い夜を過ごしていた。
庭に暁が訪れると、
まだ霧や雨に会ったことのない姿を
そこに見せていた。
風とともに光がめぐり、
落ちる影とともに水が折れ曲がり流れる。
髪が白くなるのは防げないし、
美しすぎる女性は人の生を伐るというけれど、
この花の前にあって、
黄昏の月のもとで酔い臥すなら、
それだけでもう十分に足りるのである。
【補足】［この詩は、梅という字を用いないで梅を詠んだところがミソであるという］
■【10-3-007】送襄陽従事李友諒帰銭塘
【解題】襄陽で官職に就いていた李友諒が故郷の銭塘［杭州］に帰るのを見送った詩。李友諒は都を経由して帰郷したのだろう。
【訳文】
私は杭州にあること積算して五年、
もともと杭州の人であったと思うほどになった。
故郷に帰ったところでもはやそこに家はなく、
西湖において、貴君の隣りに住みたいものである。
良い田を買うのも難しくはないだろうし、
誰と親しくたらよいかと迷うほどによい人々がたくさんいる。
髯の張君は世俗から超然と抜きんでた人であるし、
老いた潜君もまた世に類希れな好人物である。
そこに、氷のように清冽で、詩文も振る舞いも清淳な貴君が加わるのである。
その三人のいるところに私も帰って遊ぶなら、
そこでこの身を終えてこそ満足できるだろう。
私が作った西湖の堤はそのままにあり、
姥嶺を超える道が新たに開かれようとしている。
そうした杭州を見ようと、
私は夢で貴君の後を追って行くのだ、
我が衣へと花びらの落ちくる道をたどって……。
【補足】［「髯の張君」は張弼［字は秉道］［→作品番号09-3-007］、「老いた潜君」は参寥［道潜］［→作品番号09-3-039］のことである］
■【10-3-008】次韻呉伝正枯木歌
【解題】呉安詩［字は伝正］の「枯れた木の歌」に次韻した。呉安詩は神宗皇帝のもとで宰相を勤めた呉充の子。呉安詩のもとの詩は、李公麟［号は竜眠居士］［→作品番号08-3-054など］が描いた画に添えたものである。
【訳文】
天公［造物者］こそは非常に優れた水墨画を描く――
痩せた竹、枯れた松、そこに傾き行く月がかかる、
かくて夢から覚めた人は、
窓にまばらな影が毎夜映るのを見て驚くのである。
何かが生成され、変化し、壊れるのも、
天公が一度指を弾く間のこと。
もとより天公は特定の物にかかずらうことはない。
画師は昔から俗士ではなく、
絶妙な画想は詩とともに出てくるといわれている。
確かに竜眠居士［李公麟］はもとは詩人で、
竜に雷を鳴らさせるほどの勢いのある詩を作る。
貴君は絵筆を持つ人ではないけれど、
自然の美を見抜く詩眼を具えている。
竜眠居士の胸の中には千頭の馬があり、
その肉だけなく、骨も描く腕前であるから、
それに見合うには杜甫のような立派な詩を詠まなければならない。
貴君に倣って私もちびた筆をひねくりまわそうと思うのだが、
いま東南［越州や杭州］の山水がさかんに私を呼んでいて、
心の内の珠にはかの地の万象がしきりに映し出される。
いま手元にある詩画などは全て友人に与えてしまって、
何も持たずに、天公の描くかの地の画を見に行こうと思う。
【補足】［呉安詩のもとの詩は伝わらないが、枯れた木を歌いつつ馬にも語が及んでいたのだろう。それで蘇軾は杜甫を持ち出したのである。杜甫が韓幹の描く馬の画を詩に詠んだことは作品番号08-2-031で見ていて、そこで蘇軾は韓幹と李公麟を比較している］
■【10-3-009】目忌点濯説
【解題】上の詩は李公麟が描いた枯れ木の画を詠んだものであったが、蘇軾自身も枯木の画を都にある戒壇院や法雲寺で描いたとされている。この項の表題に掲げたのは戒壇院でのエピソードを記した短文で、本来は作品番号08-3-029のあたりで訳しておくべきもので、見落としていたのでここに掲げておく。
【訳文】
前日、欧陽棐、晁補之、張耒とともに戒壇院で会った。
私は目が昏む病を患っていたので、熱い湯で目を洗おうとした。
すると張耒がこのようにいった。
「目は水で濯ぐのを嫌います。目に病があるときはあるがままにし、歯に病があるときはあれこれ手を施します。目と歯は同じにしてはいけません。黄庭堅君は、『眼はほじくり出すことを悪み、歯は漱ぎ清めるべきもの。目を治めるのはまさに民を治めるのと同じ、歯を治めるのは軍を治めるのと同じにすべきだ。つまり、民を治めるのは曹参が斉国を治めたようにするのがよく、軍を治めるのは商鞅が秦国を治めたようにするのがよい』と、いっていました」
これはすこぶる理があることなので、ここに記録しておく。
【補足】［（1）ここに名が挙げられている欧陽棐［→作品番号08-3-017］、晁補之［→作品番号08-3-029］、張耒［→作品番号08-1-043］、黄庭堅［→作品番号08-3-081］は、杭州に赴任する前に都にいたときにしばしば交流があった人々である。（2）曹参があるがままに斉国を治めたことは作品番号05-2-035で、商鞅が法で厳しく統制して秦国を治めたことは作品番号06-1-094で見ている］
■【10-3-010】送黄師是赴両浙憲
【解題】黄寔［字は師是］［→作品番号07-1-119］が両浙道の刑獄を司る官職に就くのを見送った詩。黄寔は蘇轍と親しくし、黄寔の娘と蘇轍の息子が結婚していることは作品番号07-1-101で触れた。
【訳文】
世にこのような士は久しくいなかった、
私は晩年に至ってこの人を得た。
かの黄憲の子孫でなければ、黄覇の門下生であろう。
ところが、白髪頭になるまで下級役人のまま、
緑衣［小間使い］さえもこれはおかしなことだという。
哀しいことに、
呉越の人々は、ここのところ、
洪水によって江や湖に呑み込まれてしまう目に遭っていて、
お上が倉と財布をすっかりはたいても、
民衆の腹を満たすには至っていない。
近頃聞いたところでは、
支流においては、水底にあった村がようやく現れ出てきているという。
望むのは、
豆の葉しか食べられずに餓死してしまった人々の魂を、
貴君が慈愛をもって慰めてくれることだ。
民に恵みをもたらす政治を見たならば、
誰よりも獄吏を畏れていた人々も、
その考えを改めるであろう。
我が願いの通りに、会稽［越州］に行くときまでには、
鏡湖も水が引いて盆のように小さくなっているだろう。
そして、貴君のお蔭で民衆の瘡痍はすっかり癒えているのだ。
【補足】［（1）黄憲は後漢の、黄覇は前漢の賢人で、同姓の2人引いて黄寔を讃えたのである。（2）「緑衣さえもおかしなことだという」［原文は「緑衣有公言」［緑衣 公言有り［緑衣が正しいことをいう］］の句には次のような伝承がある。人々はこの句の意味がわからなかったので、蘇軾に尋ねたところ、「うちの王朝雲は黄寔君を見るたびに、その官位が上がらないのを不思議がっています」と答えたという。王朝雲は幼い子を喪って以降［→作品番号07-1-049］、蘇軾の詩文に登場することはなかったが、蘇軾のもとに聡明な女性がいることは友人の間に広く知られるようになっていた。（3）先に鏡湖を周囲八百里に広げるといい［→作品番号10-2-088］、ここでは盆の大きさに縮めるといっていて、なかなかに楽しい］
■【10-3-011】文与可画賛
【解題】亡き親友の文同［字は与可］［→作品番号08-1-054など］の画に書き添えた賛。
【訳文】
友人の文同が没してすでに十四年。その遺墨を呂陶の家で見た。嗟嘆の余り、すぐにこの賛を記した。
竹寒而秀、［竹は寒く、高く秀で］
木痩而寿、［木は痩せて、長く生き］
石醜而文、［石は醜く、美しい］
是為三益之友。［竹、木、石は有益な三人の友である］
粲乎其可接、［その輝きは接ぐべきであって］
邀乎其不可囿。［庭に迎え入れるものではない］
我懐斯人、［私はこの人［文同］を思う］
嗚呼。［ああ］
其可復観也。［もう観ることができないのだ］
元祐七年二月四日、東坡居士書く。
【補足】［呂陶は成都の出身で、いわゆる「蜀党」の一員と見られていた人物である［→作品番号08-2-010、08-3-050］］
■【10-3-012】送范中済経略侍郎、分韻賦詩、以元戎十乗以先啓行為韻、軾得先字、且贈以魚枕杯四、馬箠一
【解題】この詩の題は、「范子奇［字は中済］の送別の詩。『元戎十乗以先啓行』の八字を分けて韻とし、私には『先』の字が当たった。魚枕［貝の一種］の杯四つ、馬箠一本を贈った」。范子奇は、国境地帯で民事・軍事に臨機応変に対処する経略侍郎の任をもって慶州に赴任した。慶州は西夏国と対峙する戦略上重要な拠点である。
【訳文】
西夏国の梁氏と李氏が、長く禍を楽しむかのように、
自ら身を焚くようなことをしているのは、
天の定めなのだろうか。
穴の中で二匹の鼠が闘ったところで、
勝ちも負けも偶然の結果でしかない。
謀は最初が肝心で、百慮を必要とし、
最後の始末を善くすれば万全である。
朝廷は代々将軍を生み出してきた家から人を選んだ、
范氏はまことに多くの賢人を輩出してきたのだ。
貴君はかの地に仁の風を吹かせ、
見渡す限り麦の穂が揺れる緑の浪を起こすであろう。
その一方で、号令を響かせれば鳥も驚き、
弓の弦を鳴らすだけで、空から落ちてくることだろう。
私はいま日の光が遮られて当たらないのに苦しみ、
剣を売って農地に帰ろうと思っている。
私の家は天の片隅にあり、
去り行く路は都の西端から始まる。
貴君に贈るのは荊州産の魚枕の杯、
それに蜀州産の馬鞭を添えよう。
ここで一酔したならば起って行くがよい、
誰かに功名を先取りされてしまわないように。
【補足】［（1）最初の部分は、西夏国の内部で、王族の李氏と外戚の梁氏との内輪揉めが絶えないことをいっている。（2）范子奇の家は5代にわたって功績があったという］
■【10-3-013】書柳氏試墨
【解題】柳子文［字は仲遠］［→作品番号08-2-008］と会ってこの短文を記した。
【訳文】
昨日はある人が「第一網竜団」［茶の名称］を点じてくれ、香味が普通の十倍はあった。それと似るのは、優れた筆があり、美しい紙があって、……この墨があるときだけだろうか。
元祐八年三月十八日、柳子文を訪ねて墨を試し、これを書いた。此の墨は「文公檜鼯臈」の名があるが、その所謂はわからない。
■【10-3-014】書晁説之考牧図後
【解題】晁説之［字は以道］が描いた『考牧図』の後ろに書き添えた詩。晁説之は作品番号05-5-086ですでに触れたように、蘇軾と同じ年の科挙で合格した晁端彦［→作品番号10-2-054］の子。蘇門四学士の晁補之［→作品番号10-2-057］の従兄弟である。『考牧図』は古代の名君とされる周の宣王が牧場を復活させた故事を描いた画。
【訳文】
私は田舎に育ち、
ただ羊と牛だけを知っていた。
川べりの平らな道で、
のんびり牛の背に乗っていると、
まるで百斛の大舟の上にいるような気分であった。
その舟は船頭がいなくても進み、
勝手に岸辺が後ろに移って行くのだった。
私は伏せて書物を読み、
牛はそんなことにはお構いなしだ。
牛の前には百匹の羊がいて、
私が鞭を打つ音を、
一軍を指揮する陣太鼓のように聴いていた。
鞭はやたらと打つのではなく、
後れるものがいるのを見つけたときに使う。
沢辺の草は短いものだけを食べさせ、
成長した草は牛や羊にはよろしくない。
山の中に入ってあちこち谷を越え、
上り下りによって筋骨を強くする。
広い林の下を、
蓑を煙らせ、笠を雨に濡らして進んで行ったのだが、
それも今は昔、
老いては画の中にだけ見る光景である。
世間のことは馬耳東風と聞き流していながらも、
残念に思うのは、
たくさんの牛を飼う翁にならなかったことだ。
■【10-3-015】呂与叔学士挽詞
【解題】呂大臨［字は与叔］の死を悼んだ挽詞。呂大臨は、宰相を務めた呂大防［→作品番号08-3-010］の弟。
【訳文】
議論は国の大計に中り、
行為は人の基本に中り、
関西［長安周辺］出身の人物のなかでもとくに清英と目されていた。
漢の黄憲のような学識豊かな人と終日語り合いたい、
唐の元徳秀のような行いの正しい人と過ごしたいと、
私は思っていたのが、それも空しいことになってしまった。
貴君には三人の立派な友人がいた、
いまや誰もいなくなって、活発な議論はどこからも聞かれない。
功名はただ貴君の二人の兄のもとに残ることとなった。
私は老いて、時を憂いて嘆くことが多い、
いまのこの涙はどこから溢れ出るのか、
それはいうまでもない。
【補足】［保守派内の党派争いが紛糾するのを解ける人物がいるとしたら呂大臨であると、蘇軾は期待を寄せていたという］
■【10-3-016】乞校正陸贄奏議上進札子
【解題】唐の中頃に、皇帝に向かって様々な意見を具申した陸贄という人物がいた［作品番号10-1-017にその名があった］。これは、陸贄の意見書［奏議］を集めた書物に校訂を加えて皇帝に差し出すことを記した文章。文章の冒頭に、都での蘇軾の肩書が記されている。「侍読」とは皇帝の教育係、「礼部尚書」は礼部の長官で、宰相、副宰相に継ぐ大臣クラスのポストである。
【訳文】
元祐八年五月七日、端明殿学士兼翰林侍読学士左朝奉郎守礼部尚書の蘇軾と、呂希哲、呉安詩、豊稷、趙彦若、范祖禹、顧臨が書面をもって申し上げます。
臣等は能力がないながらも陛下に書物を御進講する役目についておるのでありますが、陛下は聖明天縱であられ、学問は日々に進歩しておられます。臣等の才能には限りがあり、しかし学問の道は窮まるところがありません。臣等の心の内には申し上げたいことがありましても、言葉として言い表すことができず、恥ずかしさのあまりどうしたらよいのかわからずにおります。
竊かに謂いますに、臣下の者が忠言をいたすのは、譬えてみれば医者が薬を用いるのに似ておりましょう。薬は医者の手から進めるものではありますが、その処方の多くは古の人々から伝えられてきたものです。もしも世間に効力のある処方箋があるのなら、必ずしも医者の手からでなくてもよいのです。
伏して思いますに、唐代の宰相の陸贄は、才能はもとより国王を佐けるのに足り、学問は皇帝の師匠になるに足る人物で、議論は深く、分析は鋭く、言葉は道徳から離れることがありませんでした。智は漢の名臣張良のようで、文章はそれを超え、弁は漢の名賢賈誼のようで、施策はより綿密でありました。上に対しては君主の心の誤りを正し、下に対しては天下の人々の思うところに通じていました。古の三代の時代からこの人しかいないといわれるような人物であったのです。
ただ不幸にして、国家に奉仕するに時代の巡り合わせが遇わなくて、時の徳宗皇帝は苛刻な政治を行える者こそが能力が高いとしていました。そのかたわらで陸贄は厚い忠心をもって皇帝を諫めたのでした。徳宗は疑いをもって臣下を操ろうとする人で、一方で陸贄は真心をもって当たることを勧めたのでした。徳宗は兵を用いることを好み、陸贄は戦争をしないことを先としました。徳宗は財を上に聚めることを好み、陸贄は財を民に配ることを急務としました。さらに陸贄は、人を用いてその意見を聴く方法、辺境の地を治めて将軍を制御する方法、己を戒めて人心を収める方法、己の過ちを改めて天の道に応じる方法、小人を去って民の患いを除く方法、賞をむやみに与えるのではなくて功績が上がるのを待つ方法に至るまでを進言し、このようなことは数えきれないほどでありました。まさに、口に苦い薬を進め、身体の急所に鍼を打つようなことをしたのでした。もし徳宗がその言の全てを用いたなら、貞観の治［唐の最もよく治まった時代］を再現することもできたでありましょう。
臣等は西閣［皇帝に進講する場所］から退くごとに、このように語り合うのであります。「陛下の御聖明をもってすれば、必ずや陸贄の議論をお喜びになりましょう。聖人と賢臣がともに契り合うようなことが、まさに時を同じくする君主と臣下の間で実現することでしょう」。
昔、漢の時代に馮唐が、廉頗や李牧について述べると、文帝はその二人がいまいればと太息して政に励み、やはり漢の時代に魏相が、晁錯、董仲舒について述べると、孝宣帝はそれを踏まえて国勢を立て直しました。もし陛下が御自身で師とすべき人物を得ようとなさるなら、近世では陸贄に優る者はいないのであります。
六経、三史、諸子百家の種々の古典はいずれも観るべきところがないわけではなく、治世の参考にするに十分なところがあります。ただし、聖人の言葉は深遠で理解するのが容易でないところがあり、一方で後世の末学は枝葉に分かれすぎてしまっています。譬えていえば、聖人の言葉は山のように高く、海のように深く、一度や二度ではその意味を推して了解するのが難しいのです。
陸贄の議論は巻を開けば一目了然です。古今の精英が聚められていて、実に治乱の要諦を見せる鏡であります。臣等はその奏議を集め、きちんと校正を加えて、御覧に入れようと考えております。望むのは、陛下がこれを座右に置かれて、陸贄を目の前に見るようにして、反覆熟読されることであります。陸贄と語り合うようにされたならば、必ず聖性の高明が御身の内より発せられて、歳月を待たずして治世の功績が上がるでありましょう。
臣等は取るに足らぬ小さなことを申し上げましたが、どうかお取り上げくださいますように。
【補足】［（1）初めに蘇軾とともに皇帝の教育に関わる人々の名が列挙され、その全員の希望でもって陸贄の意見書を皇帝に読んでもらおうとしたのはどうしてなのか。このとき哲宗皇帝は18歳、いまでいえば高校生の最終学年である。思えば、哲宗が10歳のときに教育係となったのは厳格で狭量な程頤であった［→作品番号08-1-051］。その後、蘇軾や蘇轍も含む錚々たる人々の講義を聞かされてきた。本当に素直な優等生であるならば、教師連中が期待する通りの立派な帝王になろうと日々に精進したであろうが、いくらかでも自立心のある青年ならば、むしろ反発しない方がどうかしている。しかも、皇帝の位にありながら、実権は全て祖母である高太皇太后に握られていて、何一つ自由にならないのだ。さらに、その祖母と周りを囲む人々は父である神宗皇帝が自ら指揮をして鋭意進めてきていた改革政治を全てひっくり返してしまったのである。ふつふつと反抗心が湧き上がり、成長とともに爆発寸前になっていて当然である。蘇軾等は、陸贄の意見を聞かずに暗愚な皇帝に成り下がったとレッテルと貼られた唐の徳宗のようにはならないようにとくぎを刺したわけであるが、果たして哲宗はこの文章を読んだのだろうか。蘇軾はこのときに限らず、作品番号08-2-055でも見たように、耳に痛い意見も聞くようにと、一貫して皇帝に希望し続けている。（2）明末清初の大学者である王夫之は『読通鑑論』の中で、緻密で公正な議論で君主を説得して政治を正そうとした人物として三代［太古の理想化された時代］以降第一の人であると、陸贄のことを極めて高く評価している。同じく王夫之は、皇帝にしばしば優れた意見を具申した人物として漢から南宋に至る間の5人の人物を挙げて比較して、いずれも陸贄には及ばないとしている。その5人に蘇軾の名もあり、「蘇軾は弁にして詭」と記している。平たくいうと、文章が巧みで説得力があるけれど、何となくごまかされているようなところがあるということであろう。実際、蘇軾の詩文をこれまでいろいろ見てきて、多くの人がそれに近い印象を持っているのではないだろうか。どこか腑に落ちないところがありながらも、心地よく酔わされてしまう、それが実のところ蘇軾の魅力なのであろう］
■【10-3-017】記張元方論麦虫
【解題】米黻［字は元章］に関連するちょっとしたエピソード。米黻が雍丘県知事であることは作品番号10-2-096で見ている。
【訳文】
元祐八年五月十日、雍丘県知事の米黻から手紙がきて、雍丘県で麦の葉を食べる虫が見つかり、ただし実は食べないという。
たまたま張元方に会ったところ、このようにいった。
「麦と豆には虫はつきません。もし虫がいるのならこれは異常なことです。葉を食べるというのですから、麦が病んで害にならずにすむということはないでしょう」
張元方はこのようにもいった。
「虫が害をなすときには、きっと小さな甲虫がいます。それを見たなら、すぐに腰から断って除かなくてはなりません。俗にこれを『見逃してはならん』といっています」
このようなことはこれまでに聞いたことがなかったので記録しておく。
【補足】［（1）虫の害にはたびたび苦しめられてきたので、このようなちょっとした知見でも書き残しておこうと思ったのだろう。（2）この後、8月までの間に、蘇軾は米黻に会いに雍丘に行き、馬正卿とも語り合ったようだ］
■【10-3-018】与潘彦明
【解題】この頃に書いたと推測される潘丙［字は彦明］宛ての手紙を見ておこう。潘丙は黄州で親しくした人である［→作品番号07-2-078］。
【訳文】
お手紙を頂戴し、たいへんに心が慰められました。このごろはどのように過ごされておられましょうか。
お別れしてから、いつの間にやら九年、付け加わるものといえば衰えと病、いつになったら引退できますやら。いろいろなことが次々にふりかかってきて、とにかく恥じかつ嘆くばかりです。
東の坡をすっかり修繕なさったとのこと。懐かしい人々と行き来できるようになるのはいつになりましょうか。果たしてそのような日がくるのかと思うと、紙に向かって胸が熱くなります。
【補足】［「東の坡の修繕」とあるのは、蘇軾の建てた雪堂のことであろう。黄州を去るに当たって、雪堂は潘丙の兄の子の潘大臨に託していた［→作品番号06-5-026］］
■【10-3-019】行香子
【解題】心の内を詠んだ2首の詞。定かではないが、このころの作であろうと推測されている。
【訳文】
三入承明、［宮中に入ること三回］
四至九卿。［高位に昇ること四回］
問書生、［若い人に問いかけます］
何辱何栄。［何を辱めとし、何を栄えとするのですか］
金張七葉、［漢の時代に金氏、張氏は七世にわたって］
紉綺貂桜。［高い身分を示す衣服を纏い続けました］
無汗馬事、［でも、軍務に汗をかくこともなければ］
不献賦、［賦を献じることもなく］
不明経。［学問にも明るくなかったのです］
成都卜肆、［そのころに、占いを生業としていた厳君平は］
寂莫君平。［成都でひそやかに暮らしていましたし］
鄭子真、［鄭子真は］
巖谷躬耕。［深い谷間で畑を耕していました］
寒灰炙手、［冷えた灰も手を炙る火を再びおこすことがあります］
人重人軽。［人は重んじられることもあれば、軽んじられることもあります］
除竺乾学、［仏教を学ぶまでもなく］
得無念、［思念のないこと］
得無名。［名を顕さないことが得られるのでしょうか］
其の二 述懐
清夜無塵、［塵一つない清らかな夜］
月色如銀。［月は銀のような色です］
酒斟時、［酒を酌むと］
須満十分。［十分に心は満ちてきます］
浮名浮利、［名利などは浮ついたもの］
虚苦労神。［虚しく精神を苦しめ疲れさせるだけです］
嘆隙中駒、［人が嘆くのも、馬がわずかな隙間を駆け抜ける間のこと］
石中火、［石が火を放つほんの一瞬に］
夢中身。［夢の中にある身なのです］
雖抱文章、［心に文章を抱いていたところで］
開口誰親。［口を開いたら、皆がそっぽを向くだけ］
且陶陶、［しばし陶陶と］
楽尽天真。［天より与えられた真を尽くして楽しもうではありませんか］
幾時帰去、［いつか帰って］
作個閑人。［閑な一人の人間になるのです］
対一張琴、［向かうのには、一張の琴］
一壺酒、［一壺の酒］
一溪雲。［そして渓に浮かぶ一つの雲］
【10-3-020】丹元子示詩、飄飄然有謫仙風気、呉伝正継作、復次其韻
【解題】この詩の題は、「道士の姚丹元先生［→作品番号10-2-095］の詩は飄飄然として謫仙［李白］の風気がある。呉安詩［字は伝正］［→作品番号10-3-008］がそれに続く詩を作ったので次韻した」。
【訳文】
空を飛行する仙人になるのは偶然のこと、
人としての運命から、一瞬のうちに抜け出してしまうのである。
せめて詩だけでも姚丹元先生に続きたいと思っても、
天に輝く日を写すような句は真似できるものではない。
先生は夢の中で、
丹薬が懐に入ったと覚えて詩句を吐いたところ、
天帝の叱責を受けて、
天から蓬莱島へと墮とされてしまった。
蓬莱島は何もないところで、
我が才を養うに足りないと思ったのだが、
かといって天上界もなかなかに厳格なところであるから、
しばしこの地上にいるしかあるまいと、
先生はここで流謫の日々を送っているのである。
ここに憐れなのは、呉安詩と蘇軾で、
不遇のまま頭が真っ白になってしまった。
とうとう先生と一緒になって、
笑って東の海を指さして、
他に行き場もないからと、
桴に乗って蓬莱島へと漕ぎ出すのである。
【補足】［姚丹元を蘇軾に紹介した王鞏が、姚丹元の書斎を詠んだ詩があり、それに蘇軾が次韻しているが、この詩のような面白味はないので省略する］
■【10-3-021】王仲至侍郎見恵稚栝、種之礼曹北垣下、今百余日矣、蔚然有生意、喜而作詩
【解題】この詩の題は、「王欽臣［字は仲至］［→作品番号10-3-006］が稚い栝を贈ってくれたので、礼部の役場の北の垣根のもとに植えた。いま百日余りになり、蔚然に生意としてきたので、喜んで詩を作る」。
【訳文】
翠の栝は東南の美しい木で、
近ごろ神岳［衡山］の陰に多くあると聞いた。
惜しいことに、
その根は雲を帯びた峰に深くからみついているので、
宮中に招き寄せることができない。
あるとき、仙界からの風が高い峰をふるい動かし、
香りある実が平地の林に隕ちた。
樗や櫟とともにたまたま生いたち、
樵や牧夫に侵されることもなく、
青い針のように細く輝く姿を、
黄茅嶺の上に現したのだった。
どこかの好事家が力任せにそれを取ったものの、
都には栝を知る者がいなかった。
それでも、世間の人が鶏を求めるのに対して鵞鳥を愛でる人も稀にいるわけで、
独り高い懐を抱く夫子［王欽臣］だけが、
栝を一目見て嚢の金を投げ捨てて買い求め、
それを得てからは喜びの余り眠ることもできなくなった。
ことに深い心からそれを私に贈ってくれたので、
役場の後ろの広間の前を開いて、
この苗木の一寸の根を育ててみようとした。
栝が何百年も生きようとする心をここに託し、
着飾った貴人たちも仙人には己の身を恥じるように、
宮中のそこらの木々が栝に恥じるようになる日を待つのである。
栝は、鸞や鶴も籠の内に閉じ込められては、
本性が摧かれてしまうのを恐れていた。
ここのところ雨が続いてくれたことで、
ぐいぐいと芒のように鋭く伸びた姿を暁に見せてくれるようになった。
残念なことに、私はもはや老いて帰る日が迫り、
汝が十尋の高さになるのを見ることはできない。
蒼い皮が玉骨［檜の本性］を護って、
朝に古を視て、暮れに今を視るようにして長寿を保ち、
そのときに、飢えた竜が吟じるような高樹のざわめきが響くのを、
風雨の夜に聞くのは誰なのだろうか。
【補足】［このとき蘇軾が植えたと伝えられる檜がいまの開封に聳え立っているという――のは聞いたことはない］
■【10-3-022】次韻銭穆父馬上寄蒋穎叔二首
【解題】銭勰［字は穆父］［→作品番号10-3-006］が、都に雪が降り積もった日に馬上で詩を詠み、熙州に赴任した蒋之奇［字は穎叔］［→作品番号10-3-004］に寄せ、それに蘇軾が次韻した。二首のうちの一首だけを訳す。
【訳文】
其の一
銭君は、都の春の雪に、一尺の泥を踏むと詠んだ。
漢の時代に、一丸の泥で玉関を塞げば西方の心配はなくなると進言した者がいた。
いまや蒋君が西に赴いのだから、
堂々の長城が築かれたのも同然で、
関を開けっぱなしにしても何の憂いはない。
だから、我等友人のために土産物を物色するくらいしかすることはないだろう。
ならば、臘糟紅麹に漬け込んだ駱駝の蹄なぞを所望しよう。
【補足】［さすが次韻の達人は、銭勰のもとの詩とがらりと趣向を変えている。銭勰の詩は馬上の作であるから、詩の末尾は普通に「馬蹄」としてあったのを、蘇軾は「駝蹄」として、駱駝の蹄の酒粕漬けという珍味中の珍味を引っ張り出して笑いを誘ったのである］
■【10-3-023】呉子野将出家贈以扇山枕屏
【解題】呉復古［字は子野］［→作品番号10-2-023］が出家することになり、山を描いた扇を張り付けた枕屏風を贈り、この詩を添えた。呉復古は遠く南方の潮陽［潮州］の人で、出家するのに必要な度牒を得るために、蘇軾を頼って上京したようだ。
【訳文】
扇の中の山は峨峨として聳え立ち、
絶壁はまことに天が剖いたものだ。
心とは世界を映し出す大きな円い鏡、
ならば、衡山、霍山の大きな山だって戸口から入ってくるのだ。
この屏風は老月師が得たもので、
画いたのは酔っ払い爺さんだという。
その人は、きっと胸のうちに雲夢の沢をおさめ、
手のうちに千の峰をおさめ、
指を弾く間に描き終えたのだろう。
山の低昂するありさまは知り尽くせないほどで、
そこらの子供たちの弄びものにしておくのはもったいない画である。
屏風は折れば小さく畳めるものであっても、
枕元に立てれば世俗の奔走から遮断してくれる。
貴君の出家の願いは昨日今日のことではなく、
仏法の水によってもはや垢は洗い終わっている。
峰を離れる浮き雲の境地で、
肘に腫物ができようが泰然と座っておられる。
屏風の中の山の中腹に懐を忘れる貴君と、
いつかこの白髪頭を並べたいと思う。
【補足】［詩中に詠まれている「老月師」とは誰なのか、定かではない。呉復古が出家したことを詠んだ詩がもう1首伝わっていて、あるいはそれは蘇軾の長男の蘇過の作品ではないかという説もある。蘇過はあいかわらず地方の小官として各地を転々としていた］
■【10-3-024】表弟程徳孺生日
【解題】6月、従兄弟の程之元［字は徳孺］［→作品番号10-2-094］の誕生日にこの詩を贈った。
【訳文】
陛下が退席されて、儀仗の隊列も出て行くと、
千官は皆、皇居の広場から散り散りになる。
ふとわずかに聞こえてくるのは、
我等、蘇と程のことをたまたま語り合っている言葉。
叔父と甥は長身であるところまでも似ると昔からいうが、
我等の寿骨［耳の後ろの骨］が突き出ているのを見れば、
遠くからでも従兄弟同士であるとすぐにわかる。
貴君も私もかつて万人を活かしたけれど、
その報いを望むものではなく、
ただ五畝の田を得て帰耕することを希望している。
四代［仁宗、英宗、神宗、哲宗］にわたって仕えてきた老人はほとんどいなくなり、
鶴髪［白髪頭］で何人がこの先の年を迎えられるのだろうか。
【補足】［（1）寿骨について蘇軾自身の注で、「私と程之元はともに寿骨が耳を貫いているので、一列に並んだ中から、二人を指さして従兄弟の間柄にあるとすぐに人に知れるのである」と記している。蘇軾の母は程家から嫁ぎ、程之元は蘇軾の母の兄の子である。（2）やはり蘇軾自身の注で、「私は杭州において、程之元は楚州において飢饉の歳に遇い、数万人を活かした」と記している］
■【10-3-025】祭迨婦欧陽氏文
【解題】都にいる間に二男の蘇迨の妻の欧陽氏が亡くなり、蘇軾はこの祭文をその霊に供えた。蘇迨［22歳］が欧陽脩の息子の欧陽棐の娘と結婚したことは作品番号10-1-034で見ている。それからまだわずかな歳月しか経っていない。
【訳文】
昔、我が父は太師文忠公［欧陽脩］より重い恩義を受け、婚姻の宜を結んで、好を永世のものにしたいと思った。よって、我が次男の蘇迨の妻としてそなたを求めたのだった。潁州より我が家に来て、夫婦は賓客同士のようであり、親類の女性一同は皆がそなたと仲睦まじかった。そなたは上の者によく仕え、下の者をよくいたわり、振る舞いは欧陽家の家法によるものだった。まさに百年の寿命を得て、我が後のことを託そうとしていたのだが、何としたことか、俄かにこのようなことになり、我が白髪頭をもって、かえってそなたのために哭すこととなってしまった。これが定めであったのか。嗚呼、哀しいかな。
吉月良日をもってそなたを都の西にある恵済の僧舎において仮の棺に納める。そなたの魂が識るのなら、我が家に帰ってくるように。朝夕に食事を供えるから、それを受け取って、仏僧への施し物とするがよい。
【補足】［ここには「吉月良日」とあるだけで、実際の日付はわかっていない］
■【10-3-026】七年九月、自広陵召還、復館於浴室東堂。八年六月、乞会稽、将去、汶公乞詩、乃復用前韻三首
【解題】この詩の題は、「元祐七年九月、広陵［揚州］から召し還され、また浴室院の東堂に寄寓した。八年六月、会稽［越州］を乞うてまさに行こうとし、汶公が詩を求めたので、前の詩の韻を用いて三首作った」。「汶公」は僧の恵汶で、「前の詩」は作品番号10-1-015で見ている。
【訳文】
其の一
私は地方に出ることを願い出る文書を三度記した、
どれも字が曲がってしまっていたから、
朝廷の人々は私の眼には花が散って昏くなったと笑ったことだろう。
「どうしてまだぐずぐずしているのかい」
上人様が問われたので、
「頭綱八餅茶を頂戴するのを待っているのです」
と、私は答えた。
【補足】［最後の句について、蘇軾自身の注で、「尚書学士は頭綱竜茶一斤を頂けることになっているのだが、今年はそれが都に着くのが遅れている」と記している。茶をもらえるまで待っているとは、もちろん戯れの言である］
其の二
夢は呉山の月廊を巡り、
覚めてからも白梅や盧橘がなお香っている。
会稽にいるのはほんのわずかのことであろう、
そこから故郷に帰るのが最良の策なのだ。
【補足】［最初の句について、やはり蘇軾自身の注で、「杭州の梵天寺には数百間の月廊があり、寺には白楊梅、盧橘がたくさんある」と記している］
其の三
これより東南に去って、いつ帰るのか。
ただ一羽、旅に倦んだ鳥には、いつと定めることはできない。
この一生の区切りを付けるのに何があるのかというと、
三年の光景を詠んだ六篇の詩だ。
【補足】［（1）「六篇の詩」とはここに見た3首と、「前の詩」の3首である。（2）このときには念願叶っていよいよ越州に行けると思っていた。しかし、実際には6月26日に遠く北の定州知事に任ずるとの辞令が下された。蘇軾は越州への変更を求め、それを応援する人もいたのだが、9月末に至ってついに定州に向かって都を去ることになる。（3）このころのことと推測されるエピソードがあるので見ておきたい。南宋の費袞が著した『梁渓漫志』という随筆に記録されている。『梁渓漫志』自体は史料的価値が高いとされているが、このエピソードは伝聞に基づくものであろうから、そのまま事実であったと信じるにはためらいがある］
【訳文】
費袞：『梁渓漫志』より
ある日のこと、東坡は朝廷から帰宅して食事を終えると、腹をさすりながらゆっくり歩きつつ、侍児［身の回りの世話をする少女たち］に向かって、「この中に何があるのか、おまえたちに当てられるかな」といった。ある者がすぐに、「お腹の中はすべて文章でございましょう」といった。「そうではない」。別の一人が、「すべて識見でございましょう」というと、やはり、「そうではない」といった。すると、王朝雲が、「学士様のお腹の中は、時季外れの売れない在庫品でいっぱいなのでございましょう」といったので、東坡は腹をよじって大いに笑った。
【補足】［「在庫品」はかなりの意訳ではあるけれど、言いたくても言えないことが蘇軾の腹の内には貯まっていたのである。兼好法師のいう「物いわぬは腹ふくるるのわざ」である。このとき王朝雲は31歳で、ほぼ20年間、蘇軾の姿を間近に見て、すっかりその心の内を理解していたのだろう。このエピソードが事実であるとしたら、蘇軾のまわりにはいつもユーモアが溢れていたのだろう］
■【10-3-027】記神清洞事
【解題】弟の蘇轍の娘の夫である曹煥［字は子文］［→作品番号06-3-062］が都にきて不思議な体験談を語り、蘇轍はそれに基づいて詩を詠み、その序文に詳しい経緯を記した。蘇軾のこの文章は、同じく曹煥から聞いたことを書いたものであるのだが、蘇轍の序文よりもずっと短くより怪異でより印象的である。
【訳文】
曹煥は嵩山に遊び、道の途中で、石の上に盤礴て坐している道士に遇った。
道士は会釈をし、
「そなたは蘇轍の婿の曹煥であろう」
と、いった。
曹煥は道士のかたわらにいる人に、
「こちらはどなたでありましょうか」
と、尋ねた。
「老劉道士様です。ここにおられるようになってから、これまで人とお話しされたことはありませんでした」
と、いう。
道士はいった。
「蘇軾は欧陽脩君の門人であったな。そなたは、欧陽君とはどのような人であると思うか」
「文章も忠義も天下第一のお方であります」
「そたなが知るのはただそれだけか。わしは欧陽君とは同じ年の生まれだ。この袍は（三十年前に別れたときに）欧陽君がくれたものだ。破れても補ったことがなく、垢に汚れて洗ったこともない。近ごろ欧陽君から手紙を得て、はなはだ安堵したところだ。それにはこのようにあった。『汝も神清洞のことは聞いておろう。汝と我は某年某月某日にそこに集まることになっている』と。だから、わしは某月某日にこの石の上で化す［死ぬ］のである」
道士はまた坐し、もはや語ることはなかった。
曹煥はそれより嵩山に入り、道士ははたしてその期日に石の上で化したのだった。
【補足】［神清洞は仙界で、欧陽脩は幼馴染みの劉道士をそこに呼んだのである］
■【10-3-028】祭亡妻同郡君文
【解題】北の定州に行くのか、望み通りに南の越州に行けるのかまだ決まらずにいた8月1日、妻の王閏之が亡くなった。46歳であった。翌日、蘇軾はこの祭文を作った。
【訳文】
元祐八年八月二日、蘇軾は謹んで亡妻同安郡君王氏二十七娘の霊に家饌酒果を供える。
嗚呼。昔、先の妻、王弗が亡くなってまだ歳月を経ないうちに、従姉の後を継いで君は我が妻となった。君よりも賢なる者はなく、婦人としての職務をすべて修め、母としての振る舞いは完璧であった。三人の息子を分け隔てなく見て、その愛は天から出るものであった。私が謫居するのに従って、貧しい暮らしも欣然と過ごし、豊かな町に行くことになっても顔に喜びを見せることはなかった。
私は君に、「帰ろう、故郷に帰ろう」といっていた。しかし、君はその時が来るのを待ってはくれなかった。私を置いて先に行ってしまったのだ。故郷において、私が畑に行くのを誰が見送ってくれるのか、誰が門で出迎えてくれるのか。
どうすることもできない。涙が尽き果ててもはや目が乾いてしまう。旅先であるから仮に都の門の外に埋葬しよう。まことに君には何もできない。ただ同じ穴の内に入るのを待っていてほしい。願うのはここにいう通りになること。
嗚呼、哀しいかな。
【補足】［（1）蘇軾に限らず宋代の士大夫が妻について書き記すことはそう多くあることではなく、王閏之がどのような女性であったのかは、少ない手がかりから推測するしかない。そこから浮かび上がってくるのは、賢明にして慎ましやかで忍耐強い人であったということで、それはまず間違いがないだろう。先妻の王弗より9歳下の従妹で、嫁いだときに蘇軾は33歳で、特別試験の制科に非常に優秀な成績で合格し、詩文にも優れた若き天才として天下にその名がすでに鳴り響いていた。王弗がまだ無名時代のうちに蘇軾の妻となって、夫に向かってその行動を抑えるような助言もできたのとはかなり違っていた。王弗自身が自分の後には王閏之がよいと指名したと推量できるようなところもあり、奔放な蘇軾の妻として務まるのはこの娘であると知っていたのだろう。祭文に「三人の息子を分け隔てなく見た」［原文は「三子は一の如く」］とあるのは、王弗が生んだ長男と自分が生んだ二男、三男に等しく愛情を注いだということで、これはまさに王弗の期待に応えるものであったろう。結婚してから6年後に杭州で、当時12歳であった王朝雲を家に入れたときに、王閏之は快く迎えたようだ。当時の士大夫は複数の妾を持つことが多く、蘇軾も一時期家に数人の女性がいたらしいが、王朝雲に注ぐ愛情は格別で、中年以降は他の妾はそれぞれに行き先を定めて出て行かせ、蘇軾のもとには王朝雲だけが残った。蘇軾は、妻の嫉妬に悩まされたことはないと人に自慢したことがあるほどで［→作品番号06-3-060］、王閏之と王朝雲の仲は良好であったようで、それはやはり王閏之が賢明にして慎ましやかで忍耐強かったのと、王朝雲もまた自分を拾ってくれた蘇軾と王閏之の恩に報いようと慎ましやかに振る舞ったからなのだろう。王閏之にも無理に己を抑えたところがなかったとはいえないだろうけれど、概ね極めて抑圧的であった当時の士大夫のもとに嫁いだほとんどの女性よりもより多く自己を犠牲にしたということは決してないだろう。林雪云氏は「蘇軾の妻妾に対する観念」（大阪府立大学人文学論集、2013年）の中で、上の祭文にある「三子は一の如く、愛は天より出ず」をもじって、「三妻は一の如く、愛は天より出ず」と、蘇軾は王弗、王閏之、王朝雲の三者に等しく愛を注いだと讃えている。訳者はそれにはもろ手を挙げて賛成するにはなおためらいがあるものの、ここまで蘇軾の詩文を訳してきて、強く反駁しなければならない材料を見出すことはできない。（2）上の祭文にある通り、王閏之は都の近くに仮に埋葬され、そのときに蘇轍が祭文を記した。一句四字の形式で綴られ、当然故人に対して悪いことは書かないので、必ずしも内容に信頼が置けるものではないのだが、王閏之に関する貴重な資料であるので、ここで見ておきたい。なおこれは逐語訳ではなく、大意を酌んだ「ずっぽ訳」である］
【訳文】
蘇轍：『祭亡嫂王氏文』
元祐八年九月十八日、蘇轍とその妻の史氏は謹んで家饌と酒果を供え、亡き姉上の霊を祭るものである。私は幼いときから兄について学び、兄は師であり友であった。兄とは志気が同じでないのだが、それでも兄に及ばないのを私は恥じた。兄は剛直で固く、他人と相容れないところがあった。すでに世に名の知られるところとなり、しかし世と合わないところがあった。私は兄のそばにいていつも心配でならなかった。姉上は女性として兄に優しく接した。兄はふとした言葉をもって獄に入れられ、遠くの町に追われてしまい、食べる物にも困った。ようやく帰還できてまだ幾年にもならないのに、姉上は亡くなってしまった。貧にして喜びがあり、富んでも嘆くところがなかったのには、姉上を見る誰もが驚いたのだった。姉上は変転の間にも、一切動揺することなく、兄の行くままに付き従った。姉上がこのように振る舞えたのは本性からのことで、学んでできるようなことではない。親族は皆が嘆き、知る者は姉上が報われることが少ないのを残念に思っている。必ず福が多く長生きでなければならないはずなのに、まだその半ばで亡くなってしまったのは、どのような道理によるのだろうか。三人の息子がいずれも立派であるのがせめてもの慰めである。兄は定州の知事として赴任するので、ここに仮に埋葬することになった。兄より祭文を求められ、息子たちとともに祭るものである。嗚呼、哀しいかな。
【補足】［ここに「定州知事として赴任する」とあるように、妻を埋葬したころには、越州への変更は叶えられずに、定州に行くことがもはや確定していたのだった］
■【10-3-029】夢南軒
【解題】8月11日、蘇軾は夢に故郷の生家に帰った。
【訳文】
元祐八年八月十一日、夜が明けようとして、まだ早かったので、うとうとしていると、夢の中で眉山県の穀行の家に帰った。庭のあちこちを見て歩き、南軒に座った。見ると農民数人がきて、土を運んで小さな池を埋め始めた。土の中に二本の大根があった。客人が喜んでこれを食べた。私は筆を取って一篇の文を作った。
その数句に、
「南軒に座ると、向かいに立派な竹が数百本、野の鳥が数千羽」
目覚めて、惘然とこれを思った。
南軒とは父が「来風」と名付けた建物である。
【補足】［妻を喪った悲しみが、蘇軾を故郷へと導いたのだろうか。かつて先妻の王弗を夢に見て詞に詠んだこともあった［→作品番号05-1-029］］
■【10-3-030】与子安兄
【解題】この項の表題は「子安兄に与える」となっていて、従兄の蘇不危［字は子安］［→作品番号06-3-015］に宛てた手紙であるとされるが、中身を見ると、その子等に送った手紙であって、蘇不危はこのころに亡くなったと推測される。伯父の蘇渙には三人の息子がいて、蘇不危はその三男で、これで三人とも他界したことになる。
【訳文】
これまで郷里の人が話すのを聞くたびに、蘇四九と蘇五九の二人の甥［蘇不危の二人の息子］は身を謹み学問に務め学業に功あることを審らかにしておりました。そのようであるのならば、吾が兄［蘇不危］は亡くなっていないのと同じであります。お二人がその身の荷うものの重さを深く思い、ますます努力するならば、（孔子の弟子の）顔回や閔子騫の孝に等しく並ぶものとなって、ただ哀しみに沈んで衰弱してしまうよりも賢いといえるでしょう。近ごろ、五郎と六郎［蘇軾の次男と三男］は母を失い、毀痛に堪え難くしておりますので、同じように戒めております。吾が兄［蘇不危］は清貧のままこのようになりましたのは、もとより易からぬところです。私はこの一年で二人を喪い、医薬や埋葬の費用に困り、十分にお助けすることができません。ただ、楊済甫君に二千銭を託しますので、お供えものの足しにでもしてください。
【補足】［（1）後半の記事から、妻の王閏之が亡くなってからさほど遠くない時期にこの手紙を書いたことがわかる。「この一年で二人を喪い」とあるのは、妻および二男の蘇迨の妻の欧陽氏のことであろう。（2）楊済甫［→作品番号03-3-029］は郷里の人で、蘇軾と年齢が近い友人である。このころに何らかの事情で都にきていたのだろう］
■【10-3-031】記子美八陣図詩
【解題】蘇軾の文集には、杜甫の詩について論じた12篇の短文が収められ、いずれも都にいたこのころにに記したものであろうと推測されている。その中から、三国時代の諸葛亮が発明した最強の陣法である「八陣」を、河原に石を積んで記録したとされる八陣磧を杜甫が見て詠んだ『八陣図』の詩を取り上げた一篇を読んでおこう。その前に、杜甫のもとの詩の全体を見ておく。なお、蘇軾が八陣磧を見て詠んだ詩を作品番号01-1-020で見ている。
【訳文】
杜甫：『八陣図』
功蓋三分国、［（諸葛亮の）天下三分の計の功績は非常に大きく］
名成八陣図。［（諸葛亮の）名声は八陣図の形となって残っている］
江流石不転、［長江が流れ続けても、ここの石は不動のまま］
遺恨失呑呉。［しかし、残念なのは、呉国を呑み込むのを失敗したことだ］
私はかつて夢に一人の人物と会った。心に、これは杜甫であろうと思った。
その人は私にこのようにいった。
「世間の人の多くは私の詩を誤解しています。私の『八陣図』の詩に、
『江流石不転、［江は流れるも、この石は転がらない］
遺恨失呑呉。［遺恨なのは、呑呉を失したことだ］』
とあるのを、世間の人は、これは先主［劉備］と武侯［諸葛亮］が関羽の仇を討とうとしたものの、呉国を亡ぼせなかったことを恨んだものであると解釈していいます。しかし、そうではないのです。私の考えでは、呉と蜀はもとより唇と歯の関係にある国で、互いに戦うべきではなかったのです。晋が蜀を取るためには、蜀が呉を呑む意図を持って蜀と呉が争う必要があったので、晋の望む通りになってしまったのを私は恨むのです」
これは理のあることである。
杜甫は亡くなって四百年近くになるのに、なお自分の詩を忘れずに、その意図を細かく明らかにしようとしている。これはまさしく書生という者の習気［悪い癖］である。
【補足】［（1）劉備に軍師として招かれた諸葛亮は、「天下三分の計」をもって、蜀、呉、魏［後の晋］の三国で天下を分け合うことに成功し、それを基盤に天下統一の大事業を成し遂げようとした。ところが、関羽が呉の計略によって戦死してしまった仇を討つことに劉備が執着したために、三国間の均衡が破れ、結果として蜀が最初に晋によって亡ぼされてしまった。杜甫の詩は、諸葛亮の大計画が成就しなかったことを遺憾とするものであるが、その末の句はいろいろな解釈が可能である。鈴木虎雄・黒川洋一訳注『杜詩』（第六冊）、岩波文庫（1966年）によると、主な解釈は二つあり、その一つは「呑呉を失す」、つまり呉を呑むという失策を採ってしまったのを残念がるものであり、もう一つは、「呉を呑むを失す」、つまり呉を亡ぼすのを失敗したことを残念がるものである。蘇軾はこの短文で前者を主張しているが、鈴木虎雄は後者の普通の説の方が妥当であるとしている。異論を好む蘇軾らしさの出た短文である。（2）蘇軾は終わりの部分で、書生の「習気」であると杜甫を茶化すような調子で書いているのは、実は自分自身の反省でもあるのだろう。蘇軾の詩は難解で、きちんと理解されないことも多かっただろうから、人の夢に出てでも細かく説明したくなりもしたのだろう。（3）杜甫に詩について記した一連の短文は、字句の解釈や校訂に関して記していて、陶淵明の詩に対しては深い共感を記していた［→作品番号10-2-041以下］のとは大きく異なっている。それで残りの文章は割愛する］
■【10-3-032】北海十二石記
【解題】蘇軾は義理堅く、石好きで、文章を書くのは苦にならない。だから、妻が亡くなり、間もなく都を発たなければならない多事多用なこの時期にも、頼まれればこのような文章を書いてしまう。先に見た呉復古［→作品番号10-3-023］のためにこれを記した。
【訳文】
登州は下に大海を臨む。目の力の及ぶところに、沙門、鼉磯、車牛、大竹、小竹のおよそ五つの島がある。沙門が最も近く、兀然と焦げ枯れた姿を見せている。その他の島は、斜面が険しく波の中に見え隠れし、まことに神仙が住むにふさわしいところである。上に石芝が生じ、草木は皆奇異で、多くはその名が識れない。また、美しい石のあることで知られ、五色の模様があったり、古代文字のような窪みがあったりする。
熙寧五年に李師中が登州知事となり、呉復古が訪ねてともに遊んだ。ちょうど解賓王が政界を退いて登州に退居し、人を使わして島々から石を取り、色が粲然と秀でるもの十二株を得た。
たまたま登州に停泊している船で、海を巡って潮陽［呉復古の郷里］に行くものがあった。呉復古は解賓王に頼んで石を分けてもらい、十二個を得て帰った。それを住まいの歳寒堂の下に置いた。近世の好事家で石好きな者は多いが、北の海の石を南の海に置く者はいない。
元祐八年八月十五日、東坡居士蘇軾記す。
【補足】［（1）登州は現在の山東省、潮陽は広東省にあって、両者間の移動には中国大陸の東の縁を七割近くもぐるりとまわることになる。士大夫の視点は常に陸にあって、潮陽は南方の僻地という捉え方になってしまうのだが、海からは別の風景が見えていたのだろう。（2）ここに、島に石芝が生えるとの記述があることについては、後の作品番号10-3-044で詳しく見ることになる。（3）李師中と呉復古が親しくしていたことは作品番号05-3-007で見ていて、それは熙寧10年のことでここに記されているのはそれより5年前である。呉復古はかつてから自在に大陸を南北に移動していたのである］
■【10-3-033】与范純夫
【解題】范祖禹［字は純夫あるいは淳甫ないし夢得］［→作品番号10-2-009］に宛てた手紙。
【訳文】
連日のように人が宮中に入って聖候をお尋ねしているとのこと、まことに重大事であります。執政が日を逐って入問し、宗室もまた日を逐って入問しておられます。すでに銭知事に手紙で報せ、都中に人を派遣して、諸公に報じるように手配させています。
【補足】［ここにある「聖候」とは、高太皇太后の病状である。8月中旬になって高太皇太后の健康状態が悪化し、憂慮される状況になったと范祖禹が蘇軾に報せたので、これはそれへの返事である。銭知事とは銭勰［字は穆父］［→作品番号10-3-022］のことで、当時、銭勰は首都の開封府の知事であったので、もしものときの対応を整えておくよう蘇軾から連絡をとったのであろう］
■【10-3-034】大行太皇太后挽詞二首
【解題】蘇軾は高太皇太后の回復を天の神、地の神に願う文章を作り、懸命に祈った。しかし、9月3日、高太皇太后は亡くなった。62歳だった。これはその死を悼む挽詞。題にある「大行」とは亡くなって葬儀が終わるまでの呼び方。
【訳文】
其の一
まことに至高の方々であった、
仁宗、英宗、哲宗をお助けしたそれぞれの皇太后は……
その功績の高さは、漢代以降に類がない。
とりわけ大行太皇太后は元祐年間の天下の冠ともいうべきお方で、
仁宗皇帝の完全な徳を受け継がれていた。
作為があるのは聖人の行いではないという、
大行太皇太后には私がなく、まさしく天のようなお方であった。
侍臣は経筵［御進講の場］で道の要諦を議論し合って（皇帝に）御講義申し上げたのだが、
皇室の家法は大行太皇太后を通してきちんと伝えられたのだった。
【補足】［（1）「仁宗皇帝の完全な徳」について、蘇軾自身の注で、「臣はかつて宮中において仁宗皇帝の謚である『明孝』について論じたことがあった。すなわち、『明［明察］であっても仁でなければ、民は畏れるだけで敬愛することがない。仁であっても明でなければ、民は敬愛しても畏れることがない』。大行太皇太后もまたこの二つ徳を兼ねておられる。それで天下の人々が思慕すること仁宗に近かったのである」と記している。なお「孝」の文字は歴代の皇帝の謚に用いられている。（2）「侍臣が道の要諦を議論した」ことについては、やはり蘇軾自身の注で、「宰相以下かつて経筵で祖宗以来の家法十余事を論じ合い、記録を残した」と記している。この詩では、そうするまでもなく家法は高太皇太后によって伝えられていたというのである］
其の二
大行太皇太后の祖先［高瓊］は夷狄を退けて中国を安らかにし、
まことに国の支えとなった重鎮であった。
漢代には、先祖が治水によって年に千人を救ったことから、
皇后の地位に昇ったとされた人がいたが、
お父上の功績はもっともっと大きく、
百世にわたって祀られてしかるべきお方なのだ。
大行太皇太后がいまの陛下をお立てになったのは、
天がそうすることを知ってのことであったし、
大行太皇太后が家のこと忘れて天下のために尽くされたことを、
陛下は常に念い続けているのである。
この御恩に天下の人々はどのようにして報いたらよいのだろうか、
まして疾は民のために勤められたことによると聞くのだから。
■【10-3-035】朝辞赴定州論事状
【解題】9月27日、蘇軾は定州知事の任に就くために都を発った。出発に当たって哲宗皇帝に会って直接別れの辞を述べることを望んだのだが、それは許されず、この文章を記して提出した。
【訳文】
元祐八年九月二十六日、端明殿学士兼翰林侍読学士左朝奉郎新知定州の蘇軾は書状をもって申し上げます。
右の臣が聞きますに、天下の治乱は、下情［民に関する情報］が通じているか塞がっているかに起因するとのことであります。最もよく治まっているときには、身分の低い者であっても、下情を上に通じさせることができます。最も乱れているときには、近臣であっても上に通じさせることができません。……［『易経』を引いてこの説を補強する］……
臣は敢えて衰世の暗愚な君主を例に引くのではなく、唐の中興の名君といわれた玄宗皇帝について申し上げます。天宝年間の末に、小人［君子の反対で、無見識で私欲を優先する者］が大臣の位にあって、下情が通じなくなり、鮮于仲通の率いる二十万の軍勢が瀘南において全滅したことさえも玄宗皇帝は知らずにいました。そうしたことに馴れてしまったために、安祿山が反乱を起こし、その軍勢がすでに黄河を渡ったときに至っても、玄宗皇帝は安祿山は忠臣であると思い込んだままであったのです。これはまさに下情が通じなくて、耳目が塞がれていたためであって、ついにここにまで至ってしまったのです。
臣は朝廷にありましたときに、しばしばこのようなことを論じてまいりました。陛下は即位されて九年となりますが、執政、台諫のほかには群臣と接しられることなく過ごしてこられました。天下の人々はそれを訝しく思いつつも、太皇太后様が政を見ておられる間のやむをえない措置であると理解しておりました。いまは（十二日間の）喪が明けましたので、陛下が政を御覧になる最初の急務としましては、壅蔽［情報を遮断するもの］を取り除いて下情を通じさせることにあろうかと存じます。臣は不肖ではありますが、陛下によって河北西路安撫使［定州知事との兼任］に抜擢していただきましたので、まずは臣が下情を申し上げる第一番となって、ここに心を尽くして申し上げるべきであると考えるのであります。陛下におかれましてはどうかお耳を向けてくださいますようお願いいたします。
祖宗の法［初代皇帝以来の決まり事］として、国境地帯へと出る指揮官は、殿上において皇帝の面前で辞去することとなっております。しかし、陛下はどうしたことか臣がそのようにするのを拒絶されました。それはいかなる道理によるものなのでしょうか。臣がお目通りいただくことによって任地に赴くのにいささか遅れが出るようなことがあるとしましても、それはよもや十日を過ぎるものではありません。その間は、転運使が代わりとなるので職務に欠けるところはありませんので、臣の移動に関わる役人の手当てがせいぜい十日分増えるだけのものでありましょうか。陛下が政を御覧になる最初のときに、遠く国境地帯に行く者が天顔［皇帝の顔］を拝することなく都を去るのをみて、心ある人々は、陛下は人の申すことを聞くのを嫌われ、また御心の内で辺事［外国との関係］を軽んじておられるのではないか疑うでありましょう。その兆はすでにここに現れているのです。
臣は陛下の御講読をお助けする役として、陛下のすぐお近くにお仕えすること前後五年になります。いわゆる親近の者といってよいでありましょう。それが国境地帯へと出て行くのにお目にかかることができないのです。それでは日頃疎遠のより低い地位の者は陛下に何も申し上げることができないということになりましょう。……［ここでまた『易経』を引く］……臣が上殿を許されないのは私個人にとってはとりたてて利害のないことでありますが、陛下が政を始められたばかりで、天下の人々がまさに注目しているそのときに、祖宗の故事を廃するようなことをなさるのは、聖徳を損なうこと小さくはないものがあるのではないでしょうか。
臣は今月二十七日に都の門を出ます。どうあってもお目にかかることを求めるものではありません。ただ臣が上殿を許されるのを待っておりましたのは、少しく愚忠をもって申し上げたいと思うことがあるからでありました。お目にかかれないままではそれを捨てなければなりません。どうか陛下におかれましては臣の誠心を察せされて、ここに記しますことを少しく御加納くださいますように。
古の聖人は何かを為そうとするときには、必ず先ず暗いところにいて明らかなるものを観て、また、静かなところにいて動くものを観て、万物が何によって成り立っているかを全て目の前に並べて観たのでした。このようにするなら、数年も経たないうちに、自然と利害の真実、邪正の真実が知れるようになり、そうなってから物に応じて事を為すならば、成功しないということはないのであります。
小さなことをもってこのことを譬えましょう。舟を操る者は、水の流れの曲折が見えないことにいつも苦労します。しかし、水際に立つ者にはそれはいつでも見えています。それはどうしてかというと、舟を操る者は動に身を寄せていて、水際に立つ者は静に身を寄せているからです。あるいは、碁の勝負は国一番の名人であっても尽くすことのできないほどの変化があります。しかし、袖に手を入れて旁で眺めている者にはこの一手というのが見えるのです。それはどうしてかというと、碁を打っている者の意は争いの中にあって、旁らで眺めている者は無心だからです。
もし人主が常に静にいてかつ無心であるならば、天下の誰が欺けましょうか。……［ここで漢代の事例を引いて静にして無心であった皇帝が立派な政治をしたことを述べる］……今陛下の聖智は人を遥かに超え、年齢はまさに盛りを迎えておられます。臣が願うのは、虚心にして理に循うことであります。いまはまだ一切何もすることなく、黙って庶事の利害と群臣の邪正を観るのです。三年を期限としてそれまでは待たれることです。利害の真実、邪正の真実が会得できましたならば、物に応じて行動なさるのです。そうすれば、天下に恨みの生じることはなく、陛下もまた悔いが生じることもなく、上下ともに太平の利を受けるでありましょう。そうなれば山の竹を切り尽くしてもその功績を書き記すのに不足し、古の長寿の帝王の三人分もの長生きをされても陛下の御聖徳に報いるに足りないということになりましょう。このように考えますと、まずは陛下が早く行動し過ぎてしまうことを憂い、遅速を患わないことが大切であることは明らかなのであります。
臣はまた政は薬の処方のようなものであると聞いています。いま天下は大いに治まっているとまではいえなくても、大病のない状態でありましょう。古の人はこのようにいっています。「病があっても治さずにいるのは、中庸を得た医者である」。これの意味することは、小さな病気までもことごとく治してしまおうとしないのは、悪い薬を誤って与えてしまうよりはずっと賢いということなのであります。万に一つの成功を当て込んで失敗してしまう禍よりもはるかによいということであります。臣が恐れますのは、急に事を進めて利を好む臣下が、陛下に軽々しく改変するのを勧めることです。このような説によって進もうとされましたときには、陛下におかれましてはどうか古の言葉を深くお考えになられますように。中庸を得た医者の安穏で万全の策を守って、悪い薬によって誤るようなことがありませんように。実に国家の利、天下の幸いはここにあるのです。
臣は憂国の心より我が身を忘れて死を冒して申し上げるものであります。
【補足】［（1）一読して蘇軾がかなり強い調子で皇帝にものをいっていることが知れるであろう。それだけ蘇軾には強い危機感があったのだ。すなわち、高太皇太后亡き後の国政の急激な変化を恐れていたのである。（2）蘇軾の主張は常に一貫している。陸贄の意見書を皇帝に差し出したときにも［→作品番号10-3-016］、下の者の意見を聞くことが大切であると述べていたし、24年前に王安石の改革に反対する意見書を皇帝に提出したときにも［→作品番号03-2-009］、同様のことを述べていた。また、急激な変化を危ぶむ姿勢も一貫している。王安石の改革を批判したときにも、司馬光が改革政治を全てひっくり返そうとしたのに反対したときにも、そうであった。（3）蘇軾は保守派内の抗争の結果として不本意ながら国境地帯の定州に行かねばならなくなったのだが、高太皇太后の死によって、そうした抗争は全く意味のないものになりつつあった。哲宗皇帝の心は、自分が自由に政治を動かせるようになったら父の神宗皇帝の改革政治を復活させようと、ずっと前から決まっていたようである。蘇軾にはそれがわかっていたから、定州に行く前にどうしても哲宗皇帝に会って直接いっておきたかったのだ。哲宗皇帝はそれを拒絶し、恐らく蘇軾のこの文章も一文字も読もうとはしなかったであろう。保守派の内輪揉めで蘇軾が都を去ったのは哲宗皇帝にとってはもっけの幸いで、次の段階として、蘇軾を追い出した連中も含めて保守派をいかにして都から一掃したらよいのか、哲宗皇帝はすでに思いを巡らせていたであろう。翌年の夏にかつて副宰相を務めた章惇［→作品番号08-1-001］が朝廷に返り咲き、再びの改革政治が本格的に始動することになる。章惇はかつての蘇軾の親友であるが、失脚させられていた7年の間に、復讐の鬼と化して帰ってくるのである］
■【10-3-036】東府雨中別子由
【解題】上の文章との前後関係は明らかではないが、いよいよ都を発つ直前に、蘇轍の勤める東府において、雨の中、別れの詩を詠んだ。
【訳文】
東府の庭のこの梧桐の樹よ、
汝に会うのは、三年の間にこれで三度。
先の年は汝陰［潁州］に行くとき、
汝は秋の雨に葉を鳴らしていた。
去年のまた秋の雨のときに、
私は広陵［揚州］から帰ってきたのだった。
今年は中山［定州］に去く、
白髪だらけの頭であるから、
次はもうないであろう。
この客人が去っても汝は嘆息するには及ばない、
いまは主人である汝もまたこの世界の客人なのだ。
君［蘇轍］との対牀はきっと悠悠な先となるのだろう、
夜の雨はそれまで蕭瑟とむなしく響くだけだ。
起って梧桐の枝を折り、
君に贈って、僕は千里の旅に出る。
生きて帰り来るのか、
それはわからない。
いまのこの気持ちを忘れないでくれたまえ。
【補足】［「夜雨対牀」を兄弟の理想の時間とするのは蘇軾の一貫した思いであった［→作品番号02-1-013］。「三妻は一の如く」［→作品番号10-3-028］以上に、弟への「愛は天より出ず」と思わない者はいないであろう］
■【10-3-037】与参寥子
【解題】杭州にいる親友の参寥［道潜］［→作品番号10-1-043］に送った手紙。
【訳文】
呉復古君がきて、穎沙弥の行書、草書を出して見せてくれました。粛然として塵外の意があります。……近日中に呂大防丞相が奏上した妙総の師号を許すとの牒がそちらに送られるでありましょう。……私は間もなく都を出て定州に赴きますので、南と北にさらに遠く隔たることになります。会稽［越州］を請う思いは決して止むことはありませんので、きっと待てばそのときが来るでありましょう。……
【補足】［（1）この手紙の記述から、呉復古［→作品番号10-3-023］は潮州から杭州を経由して都にきたことがわかる。（2）穎沙弥は参寥の弟子の法穎［→作品番号09-3-009］で、蘇軾のお灸が効いて、立派な僧として成長しつつあった。妙総は参寥に与えられることになった新たな師号。（3）この手紙は定州に向かう直前に書かれたもので、蘇軾はなおも越州に赴任する希望を失っていなかった］
■【10-3-038】与銭穆父
【解題】都を出て間もないころに銭勰［字は穆父］［→作品番号10-3-022］に送った手紙。
【訳文】
……お使いの者がきてお手紙を頂戴しました。その中に立派な詩が収められていて、読んで貴君と別れるのがますます恨めしく思われます。その詩に和して応えたいと思いながらも、行く先々に私を待ち受けている人が大勢いるような状況で、思うようになりません。お茶を贈ってくださったので、息子にはほかの物とは別にし、良い辰の佳い客にだけ出すようにして、軽々しく啜らないように言いつけました。御子息には特に遠くまで送ってくださり、感謝してやみません。……
【補足】［この手紙から、都を出る蘇軾にしばし同行して別れを惜しむ者や、道の途中で出迎える者などが大勢いたことが知れる。同じころに、米黻［字は元章］［→作品番号10-3-017］に宛てた手紙にも、賓客紛然のために贈ってくれた詩に応える暇がないと記している。また、范祖禹［→作品番号10-3-033］には陳橋駅に着いたことを記したごく短い手紙を送っていて、せっせと各方面に挨拶状を出していたことがわかる］
■【10-3-039】謝仲適坐上送王敏仲北使
【解題】都を発った蘇軾は真っすぐ北に定州へと向かい、ほぼ1カ月後の10月23日に到着した。これは移動の途中の相州での作。王古［字は敏仲］が朝廷の使者として遼国［契丹］に赴くのを、相州知事である謝卿材［字は仲適］が見送る宴席に、たまたま居合わせた蘇軾が顔を出してこの詩を詠んだ。王古はかつて名宰相としてその名の高かった王旦の曽孫で、ここで出会ったのが一つの縁として後に大きく作用することになる。
【訳文】
衝くような風が黄河の北の地を震わせ、
霧が飛んで、太行山の姿は見えない。
そのような中で出会ったのでは、誰が誰だかわからない。
馬から降りると、砂塵によって髯も眉も黄色になっている。
眼を洗って、やっと驚き、笑い合う。
ここに見るのは、
玉節［朝廷の使者の印］を手に北に赴く人［王古］ではないか。
喜ばしいことに、
ここに賢主人［謝卿材］がいて、
送別の宴が設けられて、灯火の光が消えるまで別れを惜しんだのである。
出会いと別れは一つの夢の中のこと、
人は北へ行き、雁は南へ翔び行く。
吾が生は寄せるが如きのみ、
老年を天の片隅で過ごすことになった。
幸いにも、貴君は明主に遇って、
朝廷において近くにお仕えするお方である。
役目を果たすに猶予はならない、
早くに帰還しなければならないのだから。
【補足】［ここに「猶予はならない」とあるように、王古は恐らく蘇軾を追い抜いて先に進んで行ったのだろう］
■【10-3-040】和銭穆父送別并求頓遞酒
【解題】旅の途中で先に受け取っていた銭勰［字は穆父］の詩［→作品番号10-3-038］に和し、合わせて頓遞酒を所望した。頓遞酒とは宮中で醸造される酒の名であるという。
【訳文】
貴君と私が並んで歩けば、二人の長身がことさらに目立った。
朝臣の列にあって、我らはいつも親しく談笑していた。
羨ましいのは、
貴君には九人の男児がいて、
門戸がますます壮なことだ。
残念なのは、
私はあちこち地方を点々としてきたのだが、
数えるといまだ八州で、数字が一つ及ばない。
ほのかに聞くのは、
朝廷は天下の賢才を招く心づもりであるらしく、
ならば私は西湖を乞い願って、
北の地で浴びる塵を洗いたいものだ。
それより青州を求めるのもよいのかもしれない、
「青州従事」［有名な酒の銘柄］とはどういう人物なのか知ってみたいのだ。
【補足】［気安い間柄の友人に送った戯れの詩である。銭勰とは数々の詩を唱和し、「元祐の四友」［→作品番号10-2-085］と呼ばれもした。これがいまに伝わる2人の間の最後の作品で、銭勰はこの4年後に64歳で亡くなる］
■【10-3-041】書丹元子所示李太白真
【解題】李白を描いた画を、姚丹元先生［→作品番号10-3-020］が披露したので、その画にこの詩を書き添えた。定州に出発する直前に姚丹元が画を携えて訪ねてきたと見るのが普通だろうが、すでに旅に出た蘇軾のもとに、思いがけず姚丹元が現れたと想像するのも愉快であろう。
【訳文】
人の世は一粒の泡、
天人もしばしそこに宿ったりするのだろうか。
李白は天から流謫の身としてこの世に降ろされたという、
本当はただ遊びにきただけだったのではなかろうか。
李白は、九州［中国］などは狭いとして、
この世界の八方の隅を自在に行き来し、
ある友人とともに巨大な鳥となって鳴きかわし、
ひとたび鳴いてはひとたび止んで、
たちまち三千年の年月が過ぎ去って、
唐の開元年間にはどうやら道が行われている［正しく治まっている］ようだと、
少しの間だけそこに留まることになったのだった。
繋ぎ止めておくのはもとより不可能で、
まして、李白自身が国に用いられようと求めるはずもなかった。
ここに李白のために詩を作ろう。
聞いて、笑ってくれるであろうか。
西望太白橫峨岷、［西方、太白山を望めば、峨眉山、岷山が横たわる］
眼高四海空無人。［李白の視点は高く、天下にひとかどの人物などはいないと見た］
大児汾陽中令君、［大きな子供としては宰相になった汾陽の人［郭子儀］が］
小児天台坐忘真。［小さな子供としては悟りを開いた天台の人［司馬子微］がいたくらい］
生年不知高将軍、［それまで高将軍［高力士］などは知らなかったために］
手汚吾足乃敢瞋。［吾が足でその手を汚して怒らせてしまったのだった］
【補足】［終わりの詩には、李白と関わりがあった人物が挙げられている。最後の高力士は玄宗皇帝に仕える宦官で、李白が酔って意図せずして侮辱してしまったことから、高力士の讒言によって李白は南方に流されたといわれている］
■【10-3-042】次韻曽仲錫承議食蜜清生荔支
【解題】定州に到着すると、いつものように朝廷に謝表［着任報告書］を出したり、孔子を祀った廟に詣でたりして、知事としての任務を果たそうとし始めた。その一方で、同僚からはすぐに詩の唱和を求められた。これは、副知事の曽孝広［字は仲錫］から、『蜜に漬けた荔支［ライチ］を食べた』という詩を示されて次韻したもの。
【訳文】
代北［定州］は寒いところであるから、
韭と萍を搗き合わせた和え物くらいしかないと思っていたら、
ここに、なんとはるばる荔支がやってきていて、
暁の星のように輝いているではないか。
荔支は塩に漬けるとからからにしぼんでしまい、
蜜に漬けるには皮剥ぎの刑に遇わなければならないとか。
これを食べると、
たちまち仙人にでもなかったかのような心地、
李白の大法螺ではないが、
大海原で鯨と格闘してみたくなる。
枝をひねって取った実に、
近ごろ「十八娘荔支」という新しい名を付けたと聞くが、
女性をもって呼び名とするのはいささか品がないだろう。
【補足】［（1）テーマが珍奇で、しかも次韻という制約があって、さすがの蘇軾も苦労したようで、牽強付会の作という評もある。それを読みやすくしただけの低レベルの「ずっぽ訳」である。（2）蘇軾もこの詩には満足でなかったようで、もう一度次韻している。しかし、それもまた無理があるのかよく意味が通じないので、ここでは割愛する］
■【10-3-043】次韻滕大夫三首
【解題】同じく副知事の滕希靖［字は興公］が示した3首の詩に次韻した。雪浪石、沈香石という2種の石を詠んだ作品で、石好きの蘇軾にとってはよほど和しやすかったと思われる。
【訳文】
其の一 雪浪石
ここ定州には、
西から一万頭の馬が馳せくるかのように太行の山脈が迫り、
その勢いは天下の名峰泰山と、大きさも尊さも争うほどである。
飛狐、上党の山々が天下の脊梁をなして、落ちゆく日を掩ってしまうために、
このあたりではすぐに黄昏が訪れる。
東には、山が削られた先に二百もの郡があり、
北には、山の気に圧倒されてわずかな村が散在する。
定州の町の前で、千の峰が右巻きに並んで直立し、
崩れた崖に穴が削られ、土の門が開いている。
そこから城下へと石が飛び落ちてくるので、
かつてここを占拠していた異国の兵団は、
その音に「すわ敵襲だ」と肝を冷やしたこともあった。
いまや百年もの平和が続き、烽火があがることはなく、
山から崩れ落ちた石も、枯れた楡の根元に何事もなくころがっている。
黒い石に白い脈が入っているのを見て、
画師はそこに雪が浪うつ勢いを感じ取って競って描いた。
その石には天の工が斧を揮ったような痕はない。
四面を川の水で囲まれたように見える離堆という石に似ているのだが、
その産地である蜀の士は私のほかにいないので、
誰にも同意を求めることができない。
老翁［蘇軾］は子供ように、雨だといって水をこの石に注いで遊び、
水滴が鉢に跳びはねるありさまを、酒を手にゆったりと眺めている。
そのようにしていると、
この身が自ずと幻のように思えてきて、
何もかもが夢となって、
ただ故郷の山水が心に内に存在するのである。
其の二 同前
私が先ごろ三度にわたって越州に行くことを願ったのは、
一万の谷を訪ね、水が交わり流れるありさまを見たかったからだ。
山の骨を切り開くのは造物者にしかできないことで、
我等にもできるのは、
八首八手八尾の海の怪獣「天呉」が浪から現れ出る姿を、
この石に見てとることである。
さらには、水を引いて池を穿つくらいのこともできるのだが、
地の皮を巻いてこのような石を作ることはやはりできない。
石といえば、
かの洛陽の奇石はいまは誰が持っているのだろうか。
唐の時代に李徳裕と牛僧孺は何かと争い、
奇怪な石を集めることまでも競ったのだ、
はてさて、実に愚かなことをしたものだ。
【補足】［唐の中頃に李徳裕と牛僧孺が激しい権力争いをしたことは「牛李の党争」と呼ばれ、党派争いが国政を乱す典型的な事例とされた。そのことをここに持ち出したのは、現実の政治への危機感からであろう］
其の三 沈香石
山がぽつんと壁のようにそそり立つ――
硯に寄り添って、沈香石が悠遠な姿を見せている。
香木の沈水香が石に化したのだとか、
どのようにしてこのように固く蒼くなったのだろうか。
かつて山中で、松が石に化したものを見た、
辟邪香という香りを発する玉があるとも聞いている。
沈香石が本当に香るのなら腰に帯びてもよいのだが、
石はやはり石であるようだ。
百和香とはまことに貴重なもの、
それでも、焚けばいつかは灰燼になって尽きてしまう。
「柔は剛に勝る」とは老子の名言、
されど、沈香石を見ると、そうとばかりもいえないようだ。
■【10-3-044】石芝、并引
【解題】石芝とは、きのこのような形状をした石で、仙薬の原料になると考えられていた。蘇軾は以前に、石芝を食べた夢を見て詩に詠んでいて［→作品番号06-1-052］、この詩の序文には「肉芝」なるものを食べたという驚くべきことが記されている。なお、石芝については作品番号10-3-032でも触れていた。
【訳文】
引［序文］
私は昔、夢の中で石芝を食べ、詩を作ってそのことを記録した。今まことの石芝を海のほとりで得たところ、弟が前の詩に和した。
私は先ごろ都にいたときに、井戸を掘っていて小児の手のようなものを得たといって持ってきた者がいた。臂や指が具わっていて、膚の理が生きているかのようであった。ある隠者に尋ねると、「これは肉芝である」といったので、弟と烹て食べてみた。
このことを追記して、また以前の詩に次韻する。
【補足】［（1）弟が和したとある詩には、より詳しい経緯がわかる序文が添えてあるので、それを見ておこう。（2）ここにある「肉芝」は恐らく虫の幼虫に生えたキノコの類なのだろう］
【訳文】
蘇轍：『石芝引』
兄は昔黄州にいたときのこと、夢の中で、人家の井戸のあたりを歩き、石の上に紫の藤が生え、赤い箭のような枝や葉が出ているのを見た。そこの主人は「これは石芝です」といった。折って食べると、雞蘇のような味がして甘かった。八韻の詩を賦してこのことを記録した。
元祐八年、私は兄とともに都にいた。登州から客人が来て、「海上の諸島には日に向かって生える石がたくさんあります。海の人々はこれを石芝と呼んでいます。これを食べると、茶のような味がして、しばらくすると甘みが増します。海辺の風流人にはこれを取って服する者がいて、人に益があるといっています」といった。客人は一籃の石芝を兄に贈った。
私が前の詩に次韻した。
【補足】［これで見ると、登州の石芝［→作品番号10-3-032］は堅い海草の類のようである］
【訳文】
土の中から嬰児の掌のようなものが出てきた、
爪や指もあって肌骨がはっきりしていた。
これを見て人々は怖がって走り、
食べようとする者などいなかった。
これは僕と君［蘇轍］が天から賜ったもので、
頼まれたって人に与えるべきではない。
昔の有名な仙人といえば、
許遜、許邁、許穆、許翽……、
なんと、皆が同一の門戸である。
僕等の家は庶民であること三百年、
ただし、陰徳が数知れずあった。
祭祀の際には跪いて数々の供え物をしてきた。
しかし、仙人から見たら、
どれも枯れ枝、土くれみたいなものであったのかもしれない。
肉芝はよく烹あがり、石芝はなかなかに大きい、
この二つの前では、熊の掌のような珍味も笑って唾を吐きかけるべきだ。
成長した蠶は繭を作り、いつ抜け出せるかとうずうずしている、
僕は夢に仙人になったことを想って、激しく心がたかぶる。
古来、仙薬は求めても得られないという、
仙界との真の契りは、
磁石と鉄のようにもとより定まっているものなのだ。
【補足】［我々には理解できないことだが、蘇軾は仙人になる薬が存在するのを信じていたようだ］
■【10-3-045】書石芝詩後
【解題】上に見た石芝の詩に添えた短文。
【訳文】
中山［定州］の学校の教授の馬君は文登の人である。きっと石芝を得て食べたことがあるだろうと、この詩を作った。馬君も一篇の詩を賦した。
目が昏み、多く書くことができない。題字とこの短文だけを記し、あとは息子に筆を執らせた。
【補足】［先に見た蘇轍の序文に、石芝は登州の産物とあったから、文登県［登州管内にある］の出身である馬教授［名は不詳］に詩を詠んで与えたのだった］
■【10-3-046】釈迦文仏頌、并引
【解題】11月11日、亡くなった妻王閏之［→作品番号10-3-028］のために、釈迦の画を掲げて供養を行った。その画は友人の李公麟［→作品番号10-3-008］が描いたものだった。
【訳文】
引［序文］
端明殿学士兼翰林侍読学士の蘇軾は、亡妻同安郡君王閏之のために、奉議郎李公麟に頼んで釈迦とその十大弟子の画を描いてもらった。
元祐八年十一月十一日、水陸道場［供養のための仏事］を設けてその画を供養し、手拝稽首して頌歌を捧げる。
我願世尊、［お釈迦様に願います］
足指按地。［どうか大地に手と足を触れられて］
三千大千、［この全世界を］
浄琉璃色。［瑠璃色にお浄めください］
其中衆生、［その中にいる衆生を］
靡不解脱。［すべてお救いください］
如日出時、［日が出るとともに］
眠者皆作。［皆が目覚めるように］
如雷震時、［あるいは、雷が鳴って］
蟄者皆動。［全ての虫が動き出すように］
同證無上、［お釈迦様の御証は］
永不退転。［永遠に変わることがありません］
【補足】［（1）同じころに、韓琦の祭文を記して、韓琦の霊に捧げている。韓琦は蘇軾が8歳のときにあこがれた4人のスーパースターの1人で、一時期定州において遼国への備えを指揮したことがあった。政権が大きく変わろうとしつつある時期に、所縁の地にきて韓琦のことを強く偲び、祭文を作ったのだろう。その訳文はすでに作品番号05-1-053として見ている。（2）蘇軾はこのとき軍務も兼任していたので、韓琦を見習って、軍政にも力を入れた。定州では防衛上の様々な仕組みが形骸化し、設備が老朽化し、士気が弛緩していた。蘇軾は制度の改革を朝廷に提案し、設備を改修する費用を捻出するために度牒の発行を朝廷に求め、また、自ら軍事訓練を行うなどの対策をとった］
■【10-3-047】鶴歎
【解題】『鶴の歎き』という詩。
【訳文】
園中に鶴がいる。
人に馴れて、呼べば来そうなので、私の座っている脇へと招き寄せようとした。
鶴は不承知な様子、
横目で私を睨んでいる。
「昔、賈誼という人は、鳥の心を詩に詠んだという。
もしかしたら、君もそうしてほしいと思っているのかい」
と、私はいった。
鶴はいう。
「我が生は寄せるようなもの、
本当に孤独です。
三尺の長い脛の上に痩せた体を置いています。
俯して啄んでも、少しばかりで、食べ残してしまいます。
こんな身ですから、あなたに楽しんでいただけるようなことはできないのです」
そこで、ちょっと追って、堂［部屋］の上にあがらせてみた。
餌を投げても知らん顔をしている。
戛然と長く鳴き、堂から下って趨って行ってしまった。
鶴は、進むのは難しく、退くのはやさしいと心得ている、
私の及ぶところではない。
【補足】［実際にこのようなことがあったわけではないだろう。蘇軾自身のあるべき姿を鶴に投影したのであろう］
■【10-3-048】劉醜廝詩
【解題】12歳の少年である劉醜廝のことを詠んだ詩。詩の中で柳宗元の書いた『童区寄伝』について触れていて、関連するところが大きいので、先に『童区寄伝』を見ておこう。これは子供の使用人である童［ここでの実態は奴隷］の区寄の小伝である。
【訳文】
柳宗元：『童区寄伝』
柳先生はこのようにいう。［柳宗元はこのとき罪を得て南方の柳州に流されていた］
越人［南方の少数民族］は恩愛の情が薄く、男でも女でも、生まれたときから売り物とみなされる。歯が脱け代る年齢以上になると、父兄はこれを売って、利益を得ようとする。子が足りないときには、ほかの家から盗み取り、縛りつけて首枷、手枷をつける。髯が生えるほどの年齢の者であっても、力で負かされてしまって童［少年奴隷］にされてしまうことがある。それで、道で出会うと、傷つけ合い、殺し合うことが普通に行われている。幸いにも大きく成長できた者は、弱い者を縛って奪うようになる。漢人の役人はこのようなことを己の利益とし、童が得られるのなら、何をしていようがそれを問わない。こうして越人の人口はますます減り、この状況から自力で脱出できる者はわずかしかいない。
ここに区寄は十一歳でこのような境遇に打ち勝ったのであるから、実に珍しいことである。桂部［柳州に属する］の従事である杜周士がそのことを私に話してくれた。
区寄は郴州の蕘牧［薪の採取と牧畜を生業とする］の家の子で、家畜を連れて移動しつつ薪を採っていた。区寄は二人の賊に劫め取られ、後ろ手に縛られ、布の囊で口を塞がれ、連れ去られた。二人は四十里先の村に行って売ろうとした。区寄は偽って幼い子どものように恐れ慄いて泣いた。普通の幼い子そのままであったから、賊はこれをあなどり、二人で酒を飲み、酔っ払った。一人が売る算段のために出かけて行き、一人は刃を道の上に突き立てたまま臥して眠ってしまった。少年はそっとその眠りを伺い、背中の縛られているところを刃に押し付け、力を籠めて上下に動かし、絶ち切った。そして刃を取って賊を殺した。逃れてまだ遠くに行く前に、商売に行った者が帰ってきて、少年を見て大いに驚き、殺してしまおうとした。
少年はにわかにいった。
「二人の男で僕を分け合うのと、一人で僕を使うのとどちらがよいのでしょうか。あの男は僕にやさしくしてくれませんでした。でも、あなたさまが僕を生かしてくれて、恵みを与えてくださるのなら、何でもいたしましょう」
男はしばらく考えてこのようにいった。
「おまえを殺すよりは売ったほうがよいだろう。二人で売って分け合うよりは、独り占めしたほうがよい。あいつがうまいこと殺されたのは、実はよいことだったのだ」
すぐに死骸を隠し、少年を、売る相手のところに連れていった。少年はより厳重に束縛されて閉じ込められた。
夜中に、少年はころころ転がって縛られたところを爐の火に当て、焼いてそれを絶った。手は火傷したけれどためらうことなく刃を取って、先の賊をまた殺した。そして大きな声で叫んで、村中の人を起こした。
少年はいった。
「僕は区の家の子です。奴隷なんかにはなりません。賊の二人が僕を捕らえたけれど、僕は幸いにも二人とも殺しました。どうかお役人にこのことを知らせてください」
村の役人は州の役所に告げ、州の役所は大府に告げた。大府は少年を呼び、少年を視ると、まだ小さな善良な子であった。知事の顔證はこれを珍しいことだと感じ、手元に留めて小吏にしようとした。少年は同意しなかったので、衣服を与え、役人に守らせて郷里に返した。
郷里のかどわかしをする連中は、目をそらして、その家の門の前を敢えて通ろうとはしなかった。皆がこのようにいった。
「この子は、かの秦武陽［十三歳で人を殺して誰もが恐れた昔の勇士］よりも二歳も若くて、二人の乱暴者を殺したのだ。近づくことなどできない」
【補足】［これは少年の勇敢さを讃えるとともに、少数民族が奴隷狩りの対象となって衰亡し、役人がその悪弊から利益を吸い上げていることを告発したものである］
【訳文】
劉翁さんは望都県の民である。
病気で痩せ衰え、瓦を焼く窯の中で暮らしていた。
子がいて、醜廝という名で、十二歳である。
醜廝は瓢を持って物乞いに歩き、
墓地で供え物の残りを得たり、
雪の中で落ちている薪を拾ったりしていた。
水に漂い火に焼かれる災難も、飢えて死ぬことも、親子でともにしようとしていた。
病んだ老人には一枚だけの薄い衣があり、
それで雪の降る夜もしのいでいた。
二人の乱暴者がやってきて、その衣を奪い取った。
哀しいことに、老人は飢えた鳥のように泣き、
そのまま凍え死んでしまった。
乱暴者は少年をあなどり、
好き放題をして立ち去ったのだが、
少年は遥かな雪道にもめげずに亭長のもとに走り、
我が仇は祝と苑という男だと告げ、
道を遮って捕らえてほしいと訴えた。
人々はこの話を聞いて涙を流し、
二人はついに縛り首となった。
少年は我が役所にきて詳しく訴え、
その心意気は我が同僚を驚かせた。
私はこのようにいった。
「かの郴州の蕘牧の子にならって、
そなたを寄と名付けたい。
残念なことに、柳宗元のような立派な文章は私には書けないので、
そなたのため、拍子木を打って歌おうと思う。
さあ、聞いてくれたまえ」
――役所からの褒美は二万銭、
でも、家もなければ、まだ妻もない。
いつかは妻を迎えるとして、
まずはきちんと髪を束ねるがよい。
体もきれいに洗って、
腰帯を締め、頭巾も載せたなら、
小さな役人になるがよいだろう。
読み書きを覚えて学問の道に進むもよし、
弓矢を習って外敵と戦うのもよい、
大きくなったらそなたの好むままに選べばよい。
忠孝を尽くすなら必ず福がくる。
昔、肋骨を折る災難に遭いながらも宰相になった者がいた。
昔、葬列について笛を吹く仕事をしていながらも大臣になった者がいた。
人の世のことはあらかじめわかりはしない。
小さな子だからといって軽んじてはならない。
■【10-3-049】題毛女真
【解題】毛女という仙女の肖像画に添えた詩。
【訳文】
鬢から霧が湧き、
鬟から風が吹き出し、
木の葉を綴った衣をまとう。
千年ぶりに帰ってきた毛女は、
「山や川はもとのままですけれど、
昔の人は誰もいません」
と、つぶやき、
商山に住む四人の仙人を訪ねるしかあるまいと、
一人静かに、月の光のもとを、
笛を吹きつつ去って行くのである。
【補足】［（1）商山に住む四人とは秦末の混乱を避けて山に入った有名な隠者で、陶淵明の『飲酒の詩』の其の六にも詠まれている。秦末から千年を経てなおも山にいる4人だけが毛女の知り合いだというのである。（2）このころに弟の作った2首の詩に次韻している。どちらも、清汶老という道士から、仙薬および仙女の画を弟がもらったという詩である。この詩に似て摩訶不思議なことを詠んでいて、訳者にはとんと理解でないので割愛する］
■【10-3-050】与王定国
【解題】都にいる王鞏［字は定国］［→作品番号10-2-086］に宛てた手紙。
【訳文】
甘草は御無用とのことなのでお送りする物の中から削りました。四本の人参は、遠くからの私の気持ちで、一篇の詩を添えますのでお笑いください。私からは、「雪浪斎」についての詩を所望したく思います。一篇の詩を作っていただけたら、北の辺境の地にも華が添えられます。張恕君にもお手紙を記そうと思いつつも、たまたま忙しさが重なり、また筆がひどく凍ってしまい、いずれ暇のあるときにとさせていただきます。どうぞよしなにお伝えください。
【補足】［（1）甘草も人参も定州で良質のものが入手できる薬草で、人参の詩はすぐ次に見る。雪浪斎は先に見た雪浪石［→作品番号10-3-043］を置いた書斎で、詳しくは作品番号10-3-069で見ることになる。（2）張恕は先に亡くなった張方平［→作品番号10-1-102］の息子。王鞏とは義理の兄弟という間柄である］
■【10-3-051】紫団参寄王定国
【解題】王鞏［字は定国］に贈った人参に添えた詩。題にある「紫団参」は紫団山に産する人参のこと。紫団山の名は、唐の時代に玄宗皇帝が太行山脈のあたりに紫の雲が団っている［これは瑞祥である］のを見たという伝説に由来する。この詩は不可思議なことを詠んでいて、よく理解できないままの「ずっぽ訳」である。
【訳文】
深く刻まれた谷から、
太行山脈は突兀としてそそり立ち、
紫の雲が団るばかりか、
日の光を下に見おろすほどの高さがある。
昔から知られているように、
この山からは、剛い風が草木に向かって吹き降ろし、
真の気が茎へと入り込むことで、
羊腸の嶺に人銜芝［人参の別名］が生じる。
人参の根の鬚は虎の鬣のようであり、
根の縮こまったところは竜の癭のようである。
蠶のような形をしたものが最もよく、
試しに少し齧ってみるだけで、
亀のような呼吸法を自由に行えるようになる。
私は古の明真先生のような者で、
仙界に至ったような境地に達しているので、
清らかな夜に、月の光が戸から差し込む頃に、
珠を井戸に落とすようにしてこの人参を服すと、
心の火は消えて灰となり、
汗をかくことも喘ぐこともなく、
すっかり静まるのである。
私はまだ人参を見分ける目は肥えていないけれど、
北の地に産するこの薬を貴君に贈ろうと思う。
三椏に分かれた人参を、
仙薬を練る九転の鼎で煎じるとよいであろう。
ともあれ私のいうことを聞いて口に含んでみるがよい、
酒や茶よりはよいはずであるのだから。
■【10-3-052】寄餾合刷瓶与子由
【解題】定州の産物をプレゼントする詩が続く。これは、餾合［蒸し器であるらしい］と刷瓶［平らな鍋のようなものらしい］を弟に贈った詩。定州は磁器の産地で、弟には実用性の高いものを選んだようだ。
【訳文】
老人は心も行いも日に日に摧頹になり、
昨夜からの赤い残り火で手を焙ることしかしていない。
小さな甑［餾合］、低い瓶［刷瓶］があれば事が足りて、
子供らと一緒にあらゆる煮炊きができる。
これを君に贈るから、
部屋で静かに栗でも蒸しながら、
僕が人のいない部屋で灰に字を書いているのを、想ってくれたらよい。
君の家の僮たちには、これを大切にするよういってくれ。
故郷の山の実は僕等が帰ってくるのを待っているはずで、
そのときにきっと役立つのだから。
■【10-3-053】次韻劉燾撫勾蜜漬荔支
【解題】同輩の劉燾が蜜漬けの荔支を詠んだ詩に次韻した。遠い南の夏の産物である荔支は、北の寒地ではことのほか珍しく感じられたのだろう、定州に来てから荔支の詩を何度も作っている。それはあたかも後の運命を暗示するかのようでもある。
【訳文】
季節の新たなものを食べると、
満座の人々は必ずその名を尋ねる。
それと別れて久しくなると、
多くの人はその色や香りを忘れてしまう。
ここに蜜漬けの荔支を得て思い出すのは、
葉は楊梅に似て霧や雨に煙る雰囲気があり、
花は盧橘に似て風や霜をしのぐ気配があること。
蒓菜に塩味噌を付けたのよりも旨いといつも納得し、
葡萄のような芳醇さは、わざわざ酒にするまでもない。
いま外では雪が舞い飛んでいる。
湧き上がる詩情とともにこの荔支を嘗めようではないか。
■【10-3-054】送曽仲錫通判如京師
【解題】蘇軾が定州に着任してすぐに蜜漬けの荔支を詠んだ詩に唱和することを求めた副知事の曽孝広［字は仲錫］［→作品番号10-3-042］が都に行くことになり、この詩を贈った。
【訳文】
国境の町の年の暮れはいつも吹雪、
貴君との別れに、無理にも春の酒を出してきた。
ここでの日々は――
将軍の陣営で夜に兵を談じ、いつしか月がいよいよ冴えわたった……
鉄の鎧をまとって馬にまたがって暁に出て、凍りついた河を踏み裂いて走った……
根から断ち切られた蓬や落ち葉が、黄色い沙とともに巻き上げられて、
林に咲くのは氷の花……。
いまからは――
貴君は、皇族の方々のために都へ行き、威儀堂々の行列の一員となる……
残された私には、
右にも左にも漢の時代の名臣のような方々がいてくれるのだから、
その間で詩を嘯き、諾とだけいっていればよいのだ……
そんな私であるから、
ここにいるよりは故郷に帰った方がよいというのは、
使用人たちでもわかる道理である。
北の地に春の水が流れ出るよりも先にそうしたいと思っている。
■【10-3-055】次韻曽仲錫元日見寄
【解題】年が改まって紹聖元年［1094年］。紹聖への改元はこの年の4月に行われた。「紹」とは前代の事業を受け継ぐという意味。改元によって、哲宗皇帝は父神宗皇帝の聖なる事業を受け継ぐと天下に宣言したのであって、そのころから改革政治への回帰が本格化する。これは、曽孝広［字は仲錫］［→作品番号10-3-054］が元日に詠んだ詩に次韻したもの。たぶん曽孝広は都への旅の途中で新しい年を迎えて詩を送ってきたのだろう。
【訳文】
私は、寂しく吹く東の風［春の風］を真っ白になった両方の鬢に受けている。
貴君は、これからは毎年、宮中の花を頭に挿して参内するようになるのだろう。
私は、蘆管［葦笛］が吹く辺境の曲を聞きつつ愁いに沈み、
貴君は、蓼の芽を盛った春盤［正月の御馳走］を見て喜びを覚える。
ここ定州では、昔から私の国［ここでは蘇州のこと］の米を酒にしているが、
ここに新たに、貴君の家の茶［ここでは曽坑茶のこと］が贈られてきた。
そういえば、燕南［定州］で特に記すべき異事があった、
ここの人々は永嘉産の三寸もの黄柑を割いてばくばく食らうのである。
【補足】［前半は北の辺境の地にいる自分と、都に行く曽孝広を対比的に詠んでいて、地方勤めを嘆くよくあるパターンの詩のようであるが、後半は軽い戯れでさらりと流している。蘇州産の米を蘇姓に掛けて私の国の米とし、曽坑茶という銘柄の茶を曽姓に掛けて曽君の家の茶としている。永嘉は遥か南方の地で、そこから取り寄せた蜜柑を定州の人々は惜しげもなく食べているのを特筆すべき事柄としている］
■【10-3-056】書淵明詩
【解題】1月16日に、陶淵明の詩を書いて、それに短い文章を添えた。
【訳文】
陶淵明：『田園の居に帰る』其の三
種豆南山下、［南の山［廬山］のふもとに豆をまいた］
草盛豆苗稀。［草が盛んに繁るだけで、豆の苗はわずかしか出ない］
侵晨理荒穢、［朝早くから雑草を引き抜き］
帯月荷鋤帰。［月の光を浴びながら鋤をかついで帰る］
道狹草木長、［道が狭くて草木が高く伸び］
夕露沾我衣。［夕べの露で着物が濡れる］
衣沾不足惜、［着物は濡れたところで構いはしない］
但使願無違。［どうか我が期待にそむかないでほしいのだ］
陶淵明のこの詩を覧て、皆で大きく嘆息した。
噫嘻、「夕の露が衣を沾す」……、このために愧じるところを犯してしまう者がどれほど多くいるのか。
元祐九年正月十六日、李之儀、王幾仁、孫敏行が一緒であった。
東坡が記す。
【補足】［（1）ここに掲げられている詩は、陶淵明が官職を棄てて帰郷したころの思いを歌った作品。最後の「我が期待」とは、豆が順調に成長することである。（2）「愧じるところを犯してしまう」とは、農作業の辛さ、あるいはわずかな収穫しか得られないのを嫌って仕官し、つまらぬ恥辱を被るようになることをいうのであろう。（3）名の挙がっている3人は定州の同輩である。李之儀はすぐ次の詩に登場する］
■【10-3-057】立春日小集呈李端叔
【解題】立春の日に少人数の集まりを持ち、李之儀［字は端叔］に戯れて詠んだ詩。この年の立春は1月17日で、上の短文の翌日である。なお、李之儀とはかねてから交流があり［→作品番号08-3-064、08-1-013］、蘇軾はその人柄と才能を高く評価していて、都から呼び寄せて多くの職務を手伝ってもらうことにした。
【訳文】
白髮になってすでに十年、
新しい春には何とも耐えられない思いがする。
歳が新たになったとて驚くこともない。
親しい人たちとしばし語り合うのは――
「民の喜ぶ声が聞かれますのは、牛が元気だからでありましょう」
「鴉がかわいらしく鳴くのは、雪がどっさり降るのでありましょう」
「雪など降らないで、暖かであるのが蠶にはよろしゅうございましょう」
「このようにしていると、陶淵明が一月五日に斜川で遊んだのと似ていましょうか」
「我等の風流も、曲水の宴を歌った王羲之等にはさすがに及びませんな」
私が何をしているかというと、
詩を作って老の日々を送っているだけ、
居眠りをしては故郷を夢に見ているのである。
そうした私を哀れんで、役所の面々はそれぞれ自由にやってくれている。
気持ちはすっかり衰えて、火の消えた灰、さもなければ枯れた枝。
それでも、悪い癖はもとのままで、食い意地だけは張っている。
北の地でこそ白い荔支が食べたい、
故郷のあの紅い梨がほしい、
立春には青い韮を山盛りにしよう、
酒は黄柑を漬けたものを用意しよう……。
諸君等との宴が終わって、帰って臥すと、
帳の内で灯は消えようとしていて、かえって酔いが醒めてしまう。
葉の落ちる音がやたらと聞こえる寂しさに、
李居士を呼びつけて、「三三」についてもう一回、問いただすとしようか。
【補足】［（1）陶淵明の斜川での遊びは作品番号10-1-006でも触れている。友人との楽しいピクニックの理想形である。（2）最後の「三三」とは何かということについて、もっともらしい説は、「三かける三は九」という謎で、李之儀は定州にきてすぐに董九という妓女が気に入り、そのことについて吟味しなければならぬと蘇軾が戯れたのだという。それが本当かどうかはわからないが、そうしたジョークがいえるくらいに心を許せる間柄であったのだろう。（3）この詩は一見するとたわいもない戯れの作のようであるが、蘇軾のこのころの重苦しい心情を戯れのベールで覆い隠したものであるのだろう。李之儀は昨年のうちに定州に到着し、蘇軾はさっそくその後の都の情勢について尋ねた。李之儀は慎重に言葉を選んで答えたのだが、蘇軾は哲宗皇帝が自ら意思決定をしている［つまり蘇軾が最後に書き置いたことは完全に無視された］ことを言外に察知し、事態はただならぬ方向へと進んで行くであろうと予感した］
■【10-3-058】中山松醪寄雄州守王引進
【解題】中山［定州］の松醪を雄州知事の王崇拯［字は拯之］に贈り、この詩を添えた。松醪は穀類に松を混ぜて発酵させた酒で、松の花あるいは松の節を削ったものが用いられたようだ。雄州は、間に保州をはさんで、定州とともに遼国［契丹］と境を接する州である。
【訳文】
鬱鬱蒼髯とした千歳の姿、
堂々の松が、自ら進んで杯の中の酒となって、
子供っぽい遊びに我が身を供しようとしたわけではない。
唐の人は荷の葉を酒杯として楽しむために、
亀が巣を作ろうとして切ってしまう前に葉を採ったという。
この酒を作る松の白い花を採るために、
枝を踏む鶴に手伝ってもらったのだろうか。
この酒で酔ったならば、雪の中でそびえ立つ松の姿を模して舞い、
酒から醒めたなら、風に嘯く松を模して辞を発するがよいだろう。
騎兵を走らせてこの酒を送るのは、
ほかでもない、
軍営で閑な折にでも詩を詠んでもらいたいからだ。
【補足】［定州にきてからいろいろな産物をプレゼントするのが一種のマイブームになったかのようである。新しい任地に赴くと、誰もがこのようなことをする習慣になっていたのだろうか］
■【10-3-059】中山松醪賦
【解題】蘇軾は松醪がよほど気に入ったと見えて、『中山松醪の賦』を作った。訳すのが難しい作品であるのだが、先に『洞庭春色の賦』［→作品番号10-1-097］を訳すのを回避しているので、ここでまたそのようにするのはいささかためらいがあり、蛮勇をふるって、大意が掴める程度の訳文を敢えて掲げることにする。
【訳文】
始余宵済於衡漳、［私が初めて衡水と漳水の流れを渡ったのは夜のことだった］
車徒渉而夜号。［それから、車や徒歩で騒がしく移動した］
燧松明而識浅、［松明をともして川の浅い深いを知り］
散星宿於亭皐。［道辺の家へと星が沈んでいった］
鬱風中之香霧、［重苦しく吹く風の中に湿った香りがあって］
若訴予以不遭。［私に向かって松が不遇を訴えているかのようであった……］
豈千歳之妙質、［「本来なら千年だって生きられますのに］
而死斤斧於鴻毛。［斧によって命を羽毛のように軽く扱われ］
效区区之寸明、［たかだか一寸先を照らすために］
曾何異於束蒿。［一束の藁と同じようにされてしまっているのです］
爛文章之糾纒、［樹皮の模様は焼け爛れ］
驚節解而流膏。［節はばらばらにされて膏を流しているのです」］
嗟構厦其已遠、［「ああ、君が大建築を構えるのは遠い夢となってしまった］
尚薬石之可曹。［それでも、薬用にその身を供することならできるであろう］
收薄用於桑楡、［桑や楡の材を集め］
製中山之松醪。［そうだ、中山の松の酒を造ろうではないか］
救爾灰燼之中、［灰塵になってしまうところから君を救い出し］
免爾蛍爝之労。［蛍の代わりをする労苦から解放しようではないか」］
取通明於盤錯、［わだかまった節から透明な樹液を取り］
出肪沢於烹熬。［脂分を抽出し］
与黍麦而皆熟、［黍や麦と一緒に煮ると］
沸舂声之嘈嘈。［ぐつぐつと沸き立つ声がする］
味甘余而小苦、［味は十分に甘くて少し苦く］
歎幽姿之独高。［驚くほど幽遠な独特のようすになる］
知甘酸之易壊。［ほかのものの甘いとか酸っぱいとかは物の数ではなく］
笑涼州之蒲萄。［涼州の葡萄酒などは笑ってしまう］
似玉池之生肥、［仙界の池の水のまろやかさに似て］
非内府之蒸羔。［宮廷の料理など足元にも及ばない］
酌以癭藤之紋樽、［藤の花を描いた杯に酌んで］
薦以石蟹之霜螯。［真っ白な蟹の身とともにやってみようではないか］
曾日飲之幾何、［毎日これを飲んだら］
覚天刑之可逃。［あらゆる苦しみから逃れられるだろう］
投拄杖而起行、［老人も杖を放り投げて歩けるようになり］
罷児童之抑掻。［痒いところを子供に掻いてもらう必要もなくなる］
望西山之咫尺、［一杯やれば――西の山々がすぐそこにあると見え］
欲褰裳以遊遨。［着物をからげてすいすい登って行く］
跨超峰之奔鹿、［疾走する鹿に飛び乗り］
接挂壁之飛猱。［猿とともに絶壁をよじ登る］
遂従此而入海、［さらには海へと入り］
渺翻天之雲濤。［はたまた雲の波の上で身を翻す］
使夫嵇阮之倫、［昔々の嵇康、阮籍といった連中を呼び出し］
与八仙之群豪。［仙人たちとわいわいやるのだ］
或騎麟而翳鳳、［はたまた麒麟にまたがり、鳳に乗り］
争榼挈而瓢操。［その上で古の酒器をもてあそぶのだ］
顛倒白綸巾、［頭巾などはさかさまにかぶり］
淋漓宮錦袍。［錦の上着も酒でぐっしょりだ］
追東坡而不可及、［この東坡居士を追いかけようとしたって誰も付いてこられはしない］
帰餔歠其醨糟。［帰ってからは酒の粕でも食らうとしよう］
漱松風於歯牙、［松を吹く風で歯を漱いでから］
猶足以賦遠遊而続離騷也。［屈原の名作『遠遊』を超える賦をさらりと作るのだ］
■【10-3-060】書蜀僧詩
【解題】ある奇僧のエピソードを記した短文。
【訳文】
（五代十国時代に）王彦超が蜀を平定し、なお残党を逐っていたときに、王彦超は部隊と遠く離れてしまった。ひどく腹が減り、ある村の寺へと入った。主の僧はひどく酔っていて、あぐらをかいて態度が不遜であった。怒って斬ってしまおうとした。僧には少しも恐れる様子がなく、王彦超は奇かもしれないとこれを赦した。
王彦超は寺の食べ物［蔬食＝精進物］を求めた。
僧は
「肉ならあるが、蔬はない」
と、答えた。王彦超はますます奇だと感じた。
僧は蒸した豚の頭を出した。食べてみると非常にうまかった。
王彦超は喜んで僧に尋ねた。
「そなたは酒を飲み、肉を食らうだけなのか。他に技はないのか」
僧はいった。
「詩なら詠める」
「ならば、蒸し豚を題に詠んでみせよ」
僧は筆を手にすると、たちまちできあがった。
觜長毛短淺含膘、久向山中食薬苗。
蒸処已将蕉葉裹、熟時兼用杏漿澆。
紅鮮雅称金盤飣、軟熟真堪玉卻挑。
若把氈根来比並、氈根自合吃藤条。
王彦超は大いに喜んで、紫の袈裟と師号を与えた。
元祐九年二月十三日、たまたま王彦超の玄孫である王訥とこのことを語り合ったので、ここに記す。
【補足】［（1）原文に「王中令」とあるのを、ここでは孔凡礼『蘇軾年譜』（1998年）に従って王彦超としたが、李之亮『蘇軾文集編年箋注』（2011年）では王全斌だとしている。王訥がどちらの玄孫であるのかわからないために確定しないようだ。王全斌なら宋の初めの出来事ということになる。（2）蒸し豚の詩は、訳者には訳す力がないので、残念ながら原文のまま掲げておく。4句目に「杏漿」とあるのは、杏の仁のエキス［→作品番号10-2-014］のことであろう］
■【10-3-061】子由生日、以檀香観音像及新合印香銀篆盤為寿
【解題】2月20日の弟の誕生日に合わせて、栴檀の香木で刻んだ観音像、新しい合印香、そして銀色の篆字を施した盤を祝いの品として贈り、この詩を添えた。
【訳文】
旃檀や婆律は外国産の香木。
麝香は西山［太行山脈］の柏の葉から香りを得たもの。
それらに香りのある貝を砕き入れるなどして調合したのが合印香。
これを一匹の蛍のように微かに焚くと、
盤に刻まれた無数の篆字が現れ出る。
ふわふわと雲が立ち昇り、合わさってはまた分かれ、
香りは綿綿と絶えることなく広がってゆく。
君の長寿を祝ってこれらのものを贈る。
君と僕とは、少年のころから古い経典を師とし、
その傍らで、老子や釈迦の書物も学んだ。
ともに災厄に遇って蠅や蚊に攻められ、
事を為す間もなくたちまち老いに至ってしまった。
いま君は道を論じて高い位にあり、
僕は定州で厳めしく軍の指揮を執っている。
僕らはまだ国の恩に報いていなのだから、
ますます勤めなければならないので、
世俗に馴染んでなどいられないのだ。
とはいえ、白髮は抜き去ることができないまでに増えてしまった。
君に尋ねよう。
「いつ郷里に帰るのかい。
散り散りになってしまった己を拾い集めて、
ばらばらな己を修復するのは、いつなのかい」
この心を、合印香で薫らせるのなら、
お釈迦様もきっと我等の思いを聞いてくださるのではないだろうか。
【補足】［仏教に関わりがある詩は概ね難解で、この詩もほとんど理解できない。ただ、弟を思う切実な気持ちだけは伝わってくるので、その部分を強調して訳した。あとはひどい「ずっぽ訳」である］
■【10-3-062】与銭済明
【解題】かねてから交流のあった銭世雄［字は済明］［→作品番号09-2-069、06-4-092］に宛てた手紙。杭州知事の任を終えて以来、銭世雄とは特に関りがなかったのだが、銭世雄から手紙と贈答品が定州に届いたのでそれへの返事。
【訳文】
（1）お別れしてから今に至るまでとうとうお手紙を差し上げることもありませんでした。……老妻がたちまち去ってしまってからすでに半年、この衰病の身では耐え難く、老境を寂しく過ごすのは人の世の定めとして免れないものなのでありましょうか。……中山［定州］に出ればゆるゆると過ごせるものと思っておりましたが、辺境の地の政事はタガが緩み、見るのもおぞましいほどで、仕事にすこぶる労力を費やさねばなりません。近ごろは兵士の逃亡が止まず、盜賊はみな国境のあたりから生じています。幕客として李之儀君にきてもらったので、大いに助けてもらっています。聞くところでは、両浙地方は連年の豊作とのこと、これまで飢餓に苦しんできたこともついに一洗されるでありましょう。何時またお会いできるかと思うと、手紙に臨んで惘惘としてしまいます。
（2）贈ってくださった洞庭珍苞［南方特産の蜜柑］はこの辺境の地にはないもので、将吏たちに配りました。そのほかの戴き物にも報いるものが何もありませんので、『松醪賦』を自ら書いて、お礼の気持ちとさせていただきます。どうぞお笑いください。近ごろ、単鍔君から手紙を得たところ、癇に利く薬方が記してあり、極めてすぐれているとあります。私の一番上の孫にこの病があって長年治らずいるので、試しているところです。……
【補足】［（1）「両浙地方は連年の豊作」とあり、蘇軾が杭州知事であったころは災害に苦しんでいたのがようやく解消されつつあったのだろう。（2）贈られた蜜柑を周囲の人々に配ったとあり、作品番号10-3-055でばくばく食べているとあったのは、この蜜柑のことなのかもしれない。（3）『松醪賦』は作品番号10-3-059で見ている。蘇軾の自筆で書かれた新しい作品の方が、定州の産物をもらうよりも有難かったであろう。（4）単鍔［字は季隠］は常州宜興県、つまり蘇軾が土地を得ていたところの人で、銭世雄と共通の知人であるのだろう。単鍔が蘇軾の詩文に登場するのはここだけのようである。（5）「私の孫」とあるのは、長男の蘇邁の子。蘇邁は地方官として各地を巡っていたが、母の王閏之が亡くなって喪に服すために父にもとにきて、そのまま定州にも同行していた］
■【10-3-063】次韻李端叔送保倅翟安常赴闕、兼寄子由
【解題】この詩の題は、「保州の副知事である翟安常が都に行くことになり、李之儀［字は端叔］［→作品番号10-3-057］が送別の詩を作った。それに次韻し、合わせて弟に寄せる」。詩の中頃からは弟へのメッセージになっている。
【訳文】
定州と保州はともに国境に並んでいる。
眠っていても治められるほどに静かであることすでに百年。
我が身を顧みるに、
愚かでありながら知事の命を受け、
貴君［翟安常］と談笑しつつ、（刑を軽くするために）蒲の穂の鞭を用いている。
故郷の生家への道に並ぶ松はさぞや荒れてしまったであろう
――帰耕を果たした陶淵明を想わずにはいられない。
君［蘇轍］と遊んだかの池も草に埋もれてしまったであろう
――弟がいてくれないと詩も詠めないと嘆いた謝霊運と同じ思いだ。
白髮となってますます募るこの帰心を、
翟君に託して君に伝えるとしよう。
古来、疏広、疏受の二人の賢さに似る者は誰もいないのだが……
【補足】［（1）これは詩としてのまとまりにはなはだ欠けるが、都において困難な立場に置かれている弟を思う兄の心を知ることはできるであろう。（2）漢の時代の疏広とその兄の子の疏受が、朝廷の高位に昇るとすぐに引退して郷里に帰ったことは、作品番号05-1-003で見ている］
■【10-3-064】次韻李端叔謝送牛戩鴛鴦竹石図
【解題】牛戩という風変わりな道士が描いた『鴛鴦竹石図』を李之儀［字は端叔］に贈り、その謝礼として李之儀が詩を詠んだので、蘇軾が次韻した。牛戩は町で酒を飲み、銭がなくなると画を描いて質として置き、後に清算すると画を破り捨てたという。ここの画題に「鴛鴦」とあるように鳥を描くのを得意とした。
【訳文】
貴君は、西戎［西方の敵国］について議論し始めると、
食事などそっちのけで、時刻を忘れてしまう。
しかし、王道に則った戦は、
陣を敷くまでもなく相手を畏服させるものであるべきで、
賊の城壘を破るなど言うに足りないことなのだ。
辺境を守るのに第一になすべきは、士を得ることだ――
この語は簡潔でよく要を言い当てている。
貴君が将帥を論じる口は、
どうやら画を識る私の眼に似ているだろうか。
可笑しく思わないでほしい、
まあ、壁にかかったこの牛戩の画を見るがよい。
牛戩は常々昔の奇人を師と仰ぎ、
意に適わなければ、いくら理で責めても無駄であった。
牛戩はいかなる人なのか、
わかろうとしたところで、
世間に現れ出たことがないのだから、
放念して黙っているしかない。
人々がいうことはどうせ誤りばかりである。
牛戩は帰ろうと思えば、何も必要とするものはなく、
己を車として険しい坂も登っていくだけであった。
虫が羽化すればもはや繭はいらなくなるのと同じで、
一万軸の画があったところで、
虫干しするのに開いたり閉じたりする面倒があるだけで、
無用の長物として掃い去ってしまえばよいのだ。
もはや黙って自身の心を温めていればよい。
牛戩のこの画を貴君に贈るから、
静かなところで、さらりと開いて見ていただきたい。
新しい詩を作るときは、
あまり筆を縦にしないほうがよい、
あちこちの野良犬どもがうるさく吠えるだろうから。
いつ時がくるのか、それはわからないけれど、
妙所に至るべくいまは精進するがよいであろう。
【補足】［求心力を働かせ損なった作品のようである。敢えてつながるように整理すると、蘇軾が期待を寄せる李之儀に対して、牛戩のように世俗の規範を超越して生きる道を選ぶのでなければ、いましばらくは地道な修養に努めなさいと諭したということであるのだろう］
■【10-3-065】次韻聡上人見寄
【解題】思聡上人が寄せてきた詩に次韻した。思聡上人とは誰なのか、20年前に杭州副知事であったときに、彭九というは11歳の少年に、蘇軾は思聡の法名を与えたことがあった［→作品番号04-2-093］。その人もいまや31歳になり、蘇軾の期待した通りの立派な僧になったのだった。
【訳文】
貴僧とは、前身は同じ寺の者であったのに、
何の宿業によるのか、
私だけが国境の地で官職にある。
昔、鏡空という僧は、杭州に行ってたちまち悟ったのだが、
貴僧はもとより杭州において修行を積んだのだった。
昔、円沢という僧は、妊娠している女性を見て、
生まれ出る子はいまに我が弟子になるであろうといったのだが、
貴僧と私の縁はそれくらい深いものがある。
帰りたい我が心は、
民を治める義務を忘れさせるくらいに強い。
この先は羊を追うことを生きる術にしようかと思う。
欧陽脩先生との縁で杭州の山に泉が湧き出たことがあった、
残念ながら、私にはそこまでのことは起こらない……。
【補足】［欧陽脩との縁によって湧いた泉、「六一泉」は作品番号09-2-079で見ている］
■【10-3-066】次韻王雄州還朝留別
【解題】雄州知事の王崇拯［字は拯之］［→作品番号10-3-058］が都に還ることになり、その送別の詩。
【訳文】
かつて真宗皇帝が初めて遼国と和を結んだときに、
境を接する雄州の知事になったのが李允則。
その威名は八十年を経たいまも鳴り響き、
精悍なその顔を、雄州庁舎の壁に掲げられている画に見ることができる。
貴君が雄州の知事になると、
まさしく李允則と風流［気風］が似ると聞こえ、
太平の気運がいよいよ巡りきたのであった。
ところが、貴君がもう行ってしまうというので、
雄州の娘さんたちは、別れの歌を悲しく唱えている。
都に還れば、今度は詩人たちが挙って貴君を讃える詩を詠むであろう。
いつの日か貴君と朝廷において並び歩むことがあるだろうか。
もしもそうなったら、ひどい白髪頭を恥ずかしく思わねばならないだろう。
【補足】［同じ頃に王崇拯の詩に次韻した作品があるが、特に興味を引く内容ではないので訳は割愛する］
■【10-3-067】三月二十日多葉杏盛開
【解題】杏の花が数多く咲いたことを詠んだ3月20日の詩。題にある「多葉杏」は、葉が多く出てから咲く品種であるという。
【訳文】
月の光のもと、天より下る露は花の蕊を潤す。
日の光のもと、暖かな風は花びらを散らす。
春の工は睡ることなく、毎夜、この花を開かせる。
芳しいこの花を、誰が刻み作ったのか。
天然の性質はもとより清らかかつ華やか、
香りがあるのかないのか、尋ねる人を悩ませ、
斜めや横に揺れる影は、あたりに愛らしさを振りまく。
ここ中山［定州］は昔から戦の多い国、
陣営に立てた旗にはいつも殺気が浮かび、
かの高台には勇み立つ兵士が並び、
かの川辺では悲愴な覚悟の刺客を見送ったのだった。
この花が開いてからは、
玉の肌が殺伐とした塵を洗い流し、
むしろここを遊び人の巣窟に変え、
さらには温雅な人々の家にしたのである。
私は老いて江海を念い、
酒を飲むこともなく、むなしく嘆いている。
果たして帰る日はいつなのか、
紅い桃が霞に燃えるときがもうくるというのに。
この花が来年も開くときには、
酒杯を挙げて、蜀の風光を望みたいものだ。
【補足】［最後の句について、蘇軾自身の注で、「梓州を願って蜀に帰ることを思っている」と記している］
■【10-3-068】三月二十日開園三首
【解題】同じ3月20日、杏の花の咲く庭を開放して人々を招き入れ、三首の詩を詠んだ。
【訳文】
其の一
髯も鬢も白い人々が、
傖獰と語り合いながら、のどかな園林の中を、ぞろぞろと歩き回っている。
人というものは、もとより花より団子である、
この将軍の並み並みならぬ意を識ってもらいたいものだ。
【補足】［最後の句について蘇軾自身の注で、「この日、父老に酒食を散じた」と記している。「花より団子」の原文は「小人はただ羹を啜る」である。蘇軾は軍を統括する職務も兼ねていたので、ここでは敢えて「将軍」と自称している］
其の二
西園は鍵で鎖され、夜は静かにふけてゆく。
なおも遊ぶ人がいたのか、
柳の陰に臥せっている――
天より露が下り、
鶴は睡りから覚める、
落ちる花と飛ぶ柳絮にすっぽりと埋もれて……。
【補足】［眠りから覚めたのは、酔客か、鶴か、仙人か、それとも蘇軾であろうか］
其の三
鬱鬱とした蒼い髯――すなわち松は、我が道を学ぶ友。
絲絲とした紅い萼――すなわち海棠は、我が郷里の人。
翠の竹が並ぶ川べりの路、
柴の門へと明るい月の光が送ってくれる……
それはいつのことであろうか。
【補足】［海棠が蜀の花であることは作品番号06-1-028などで見ている。最後は故郷の家へと歩む道を想像しているのである］
■【10-3-069】雪浪斎銘、并引
【解題】上の詩を読むと、西園を開いて人々に杏の花を見せ、晩春の日々をいかにものどかに送っていたかのようであるのだが、都では事態が急を告げていた。かつて高太皇太后の指揮する反動政治によって放逐された新法党の人々が続々と都に召還され、逆に保守派の人々は次々に政権から追われ、3月26日、弟は副宰相の地位を失って汝州知事として都から出されてしまった。新法党は保守派を徹底的に叩き潰してしまおうと画策し、その標的とされたのが蘇軾であった。保守派内の争いにおいて、蘇軾はしばしば詩文で先帝を誹謗したと批判されていたが、またしても同じことが蒸し返され、それをもって蘇軾を死刑に追い込もうとした。范純仁のように懸命に救おうとする人たちもいて、極刑はひとまず回避され、蘇軾から名誉ある学士の称号を奪って、遠く五嶺の南のいわゆる嶺外の地にある英州に移すことが決定された。それは4月11日であったようだが、なお紆余曲折があったのか、蘇軾のもとに朝廷の指令が届くまでには1カ月ほど時間がかかった。これは4月20日の日付のある文章で、先に王鞏に宛てた手紙［→作品番号10-3-050］に記してあった雪浪斎の銘である。
【訳文】
引［序文］
私は中山［定州］の庁舎の後ろの庭で黒い石を得た。白い脈が走り、蜀の孫位や孫知微が画に描いた石の間の奔流のように、水のあらゆる変化を尽くしているかのように見える。また、白い石を曲陽県［定州に属する］で得た。大きな鉢をつくって、これらを置き、上から激しく水を注ぐ。それにちなんで我が書斎を「雪浪斎」と名付けた。
その銘に曰く、
蜀の二人の孫氏が水の変化のすべてを描き切った、
その画には伝わらずにかの世に逝ってしまったものもあった。
不思議なことに、それはこの二つの石に存在していたのだ。
石は雪の浪を翻し、水の理を具えている。
芙蓉のような一丈八尺の鉢を置き、
仙界の井戸から酌んだ水を、
芙蓉の根元へと注ぐ。
私は銘を作るが、多言は用いまい。
紹聖元年四月辛酉。
【補足】［先に雪浪石を詠んだ詩を見ている［→作品番号10-3-043］。そのときにも鉢に石を置いて水を注いでいたのだが、さらに遊び心が昂じて、一丈八尺の巨大な鉢を作り、二つの石を置いたのだろう］
■【10-3-070】三国名臣
【解題】4月24日、蘇軾はまだ定州にいた。
【訳文】
前漢の士は智謀に長けていたが、名義には薄かった。後漢の士は風節を尚とんだが、権略には疎かった。この両者を兼ねていたのが三国時代の名臣であった。なかでも諸葛亮は抜きんでていて、古代の三代の聖人を補佐する大臣であったとしても、世の中の評価は変わりはしない。
紹聖元年四月二十四日、書く。
【補足】［劉備はその最後のときに、もしも我が子が愚かであったならば、君が皇位に就いてもよいと、諸葛亮［→作品番号10-3-031］に言い残したという。実際に息子は愚かであったのだが、諸葛亮は誠心誠意仕え、ともすれば降りかかる疑いを避けようと、もっぱら前線に出て指揮を執り、ついには陣没した。蘇軾のこの文は短く、取り立てて内容はないものの、この時期に蘇軾は晩年の諸葛亮の心情に深く思いを馳せていた推測することができるであろう］