第9章 最高の州知事――再びの杭州
［第9章その二］
元祐5年［1090年］、蘇軾55歳。
■【09-2-001】与潘彦明
【解題】黄州で親しくした藩丙［字は彦明］［→作品番号07-2-078］に送った手紙。
【訳文】
長らくお手紙も差し上げずにおりました.。御佳勝でありますことを切に思っております。老拙は何事ももとのままです。かつて治めたところに知事として出て、湖山の楽しみをすこぶる得ております。ただし、天災に傷つけられ、民を救うために働き疲れ、斉安［黄州］でのように懐を放って自得する娯みはありません。貴君や友人諸公とお会いしたいとの思いが募ります。それはいつになりますやら、紙に臨んで惘惘としてしまいます。新春であります、万万自重されますように。
【09-2-002】臥病弥月、聞垂雲花開、順闍黎以詩見招、次韻答之
【解題】この詩の題は、「月をまたがって病に臥せっていた。その間に、垂雲亭の花が開いたと聞いた。順闍黎が詩で招いてくれたので、それに次韻して答える」。順闍黎［闍黎は僧侶の尊称］とは宝厳院の清順である［→作品番号09-1-042］。
【訳文】
道人［清順］の心は水に似て、
花の妍さに照らされても、道心が礙げられはしない。
この春の半ばに座禅をすると、
清らかな陰は月とともに遷ってゆく。
平生から、不生不滅、あるいは一念の内に新旧が入れ替わるのを知り抜いている。
嫋嫋として風枝は挙がり、［やわらかな風に枝があがり］
離離として日萼は蔫る。［じわじわと日が萼にかげりをつくる］
病中に詩を吟じるのは味わいが少なく、
老いてからの酔いは顛には至らない。
人々がわざわざ迎えに出なければ、知事が遊びに行かないわけではない、
湖のなかには仙人のような僧がおられるのだから、いつでも行くのである。
【補足】［（1）読み下し文で示した対句をはさんで、前半は清順のことを、後半は蘇軾自身のことを歌っている。（2）終わりの部分は、たぶん、清順のもとの詩に蘇軾が花を見にくるのをたくさんの人が待っているといった内容のことが詠まれていて、それへの返事となっているのだろう。蘇軾は杭州副知事時代に、知事と牡丹を見物して帰ってくると、街中の人が道に出て二人の姿を見物したという詩を詠んでいて［→作品番号04-1-015］、たぶん、清順のもとの詩はそれを踏まえてもいたのだろう。それで、蘇軾は、人々が待っていてくれなくても清順一人のためにいつでも出掛けたいと思っているのだが、病気のためにやむをえず臥せっていると言い訳しているのである］
■【09-2-003】太息一章送秦少章秀才
【解題】前年の4月に都を発ってからずっと一緒だった秦覿［字は少章］［→作品番号09-1-047］が郷里に帰ることになり、この文章を記した。途中に「大きく嘆息する」［太息］という表現があることから、この文章の題は『太息一章』となっている。
【訳文】
後漢の終わりに、孔融が盛憲［字は孝章］を魏の曹操に推薦した文章に、
「盛憲はまことに男児の中の雄者であります。議論を得意とする者は誰もが盛憲によって名声を得ております。ところが、現在の若者は先に世に出た者を誹謗することを喜び、盛憲を批判してばかりいます。盛憲は天下に名を重くされるべき人物であって、中国の人々は誰もが賞賛する人なのであります」
とある。［盛憲は呉郡の太守として名声があり、このころ勢力を拡大しつつあった孫権に嫌われていた。孔融は盛憲を救おうと曹操に推薦した。しかし、曹操が迎える前に盛憲は孫権によって殺されてしまう］
私は孔融の文章を読んでここに至ると、いつも書物を置いて大きく嘆息し、
「ああ、英偉奇逸の人物はいつも世俗から受け入れられないものであるのか。いまの世にも孔融や盛憲のような人はいるのだろうが、人を謗ることをもっぱらとする者もやはり腐った草木のように世の中に存在するのだ」
と、つぶやくのである。
昔、私が科挙に挑み、礼部の試験［二次試験］を受けたときに、欧陽脩は私の答案を見て、
「これは私の弟子が書いたものだ。私はこれを避けなればなるまい」
と、いった。［欧陽脩は自分の弟子を首席にするわけにはいかないと、敢えてその答案を二位にした。そのために、かえって弟子が首席になってしまった［→作品番号01-2-012］］
まさにそのころは、士は美辞麗句を剽裂して文章を作り、欧陽脩が文学を改革しようとするのを挙って非難していた。しかし、数年も経たないうちに、野に満ちていた水が谷に帰るかのように、そうした連中は一人もいなくなった。
同じようなことがまたおこるのだろうか。
私はもはや老い衰え、学問をしなくなり、己を見てまことに不満足である。それでも、天下の人々が私を棄てることなく、ともに文学を盛んにしていこうと思ってくれているのは、いまもってやはり欧陽脩のお蔭なのである。
張耒［字は文潜］、秦観［字は少遊］の二人は、士大夫の中でも超逸絶塵た者である。私一人がそのようにいうのではなく、何人もの者がこの二人にはとても及ばないと思っている。しかし、人はかつて聞いたことのないものに接すると驚いてしまい、まともな判断ができなくて、いい加減なことを言いつのる。この二人や私はいつもそうした目に遭っている。
欧陽脩はかつてこのようにいった。
「士が良質の金や美しい玉のように、市場できちんと値が定められるものなら、愛憎をもって良し悪しをごちゃごちゃいったりはしないだろうに」
秦観の弟の秦覿は私に従って遊ぶこと一年になろうとしている。秦覿の議論は日々進歩し、その見識は用いられるべきものがある。秦覿は両親のもとに帰ろうとして、しかしここから去りがたくしている。
ああ、君よ、行くがよい。帰って兄に学ぶがよい。私にはそれに付け加えるものは何もない。
私はこの『太息』の一篇を作り、旅立ちの餞とする。これは家にしまっておき、三年経ったら出して読むがよい。
元祐五年正月二十五日。
【補足】［（1）この文章には、都で蘇軾が激しい批判にさらされたことが反映しているのだろう。3年後に読むようにと最後にいったのはなぜなのか。少なくともその間は学問に専念せよということなのか、3年もすれば批判の嵐も止むということなのだろうか。（2）「私はもはや老い衰え、学問をしなくなり」と記したことに関連して、この時期に秦覿が見たとされる興味深いエピソードがある。蘇軾の一世代下の何薳が記した随筆『春渚紀聞』［→作品番号06-5-027］から引用する］
【訳文】
何薳：『春渚紀聞』より
秦覿がこのようにいった。
蘇公［蘇軾］はかつて書物を観ることの楽しみを語っていた。
「夜はいつも真夜中まで書物を読み、ひどく酔って帰ってきたときでも必ず書物を開き、疲れるまで読んでから眠ったものだ。しかし、お上の詔によって黄州を出て仕事に戻ってからは、一字も観る間がなくなってしまった」
実際に私が公に従って杭州に行っていた間も、公が書物を開くのを一度も見たことがなかった。詩を賦したり文章を書いたりするときに故実を用いるのは、まるで目の前に見ているかのように事柄を熟知していた。それでも、私やその他の者に確かめさせてから人に見せるのだった。
【補足】［蘇軾が書物を参照することなく故事を引用することは作品番号08-1-053でも見ている］
■【09-2-004】仲天貺、王元直自眉山来見余銭塘、留半歳、既行、作絶句五首送之
【解題】この詩の題は、「仲天貺と王箴［字は元直］は眉山から来て銭塘［杭州］で私と会った。留まること半歲で帰ることになったので、絶句五首を作って二人を見送る」。二人が杭州に来ていたことは作品番号09-1-028、09-1-047で見ている。
【訳文】
其の一
仲君は豈弟多学［柔和で様々なことを学び］、
王君は清脩寡言［すっきりとして言葉数が少ない］。
病後の私はちょっとしたことにも驚いてしまう痩せた鶴のようで、
時が来たなら大空を飛ぶ鵬のように、はたしてなれるのだろうか。
【補足】［「病後」とあるのは、先の詩で見たように体調不良が続いていたことを指す］
其の二
海の縁のここへと貴君らが遠く訪ねくるのを煩わせてしまった。
貴君らと同じく長江の源から旅に出て、私はいまもそのままになっている。
この数篇の詩を作って見送るのは、
万里の道を手ぶらで帰らせないためだ。
其の三
貴君らと秦覿君の三人はともに同じ舟に乗り、
月明かりのもとで高楼の下に停泊するであろう。
そのとき、一人ここに残った私は、
枕もとに潮の音が響くのを聞きながら、
三人の舟が京口に至ったかと遥かに想うのである。
【補足】［仲天貺と王箴は秦覿とともに杭州を去るのだろう。京口は大運河と長江の交差するところに位置し、そこから仲天貺と王箴は西に長江を遡り、秦覿は大運河を北上する］
其の四
貴君らをもっともっと引き留めたい……、
しかし、貴君らが故郷を出て年をまたいでいることを思わなければならない。
犀顱玉頬の子供らが、
髯舅を懷って長く悲しくしているのだもの。
其の五
私のために遠くから丁寧な心を寄せてくれるのは、
瑞草橋のほとりの老人である。
その白髪に紅い帯が映え、
白い濁り酒に新春の光が浮かぶであろう。
【補足】［この詩に詠まれている「老人」とは王慶源であると、蘇軾自身の注記がある。眉州青神県の瑞草橋に隠棲することになった王慶源に蘇軾が紅い帯を贈ったことは作品番号08-3-019で見ている］
■【09-2-005】寄蔡子華
【解題】上の詩に見た王箴に託して郷里にいる蔡褒［字は子華］に寄せた詩。これより22年前の煕寧元年［1068年］10月、父の喪を終えて故郷から都に向けて旅立ったときに、眉州青神県の蔡褒は荔樹を自ら植えて、「この樹とともに貴君の帰りを待つ」といって、蘇軾を見送った。
【訳文】
なつかしい方々が、
私が東へ行くのを見送ってくださったときに、
貴君は手ずから荔子を栽え、
私が帰るのを待つといわれた。
荔子はすでに丹い実をつけるまでになっているだろうけれど、
私の髪は白くなり、なお帰れぬ旅人として江南の地にいる。
江南の春は尽きようとしていて、
西湖に船を浮かべるなら、水は天に溢れるばかり、
しかし、我が腸は断たれる――
想いみるのは、
青衣江［青神県を流れる川］のほとりの路、
白い魚に紫の筍、
安かろうが高かろうが、とにかく旨いのだからと、
真白い髯の三老人が味わっておられる。
三老人は霜を経た檜のようになお壮健である。
かつて交遊のあった人たちでいまも存命であるのは誰と誰であろうか。
昔々、蔡沢という人は占い師に己の運勢を尋ねたけれど、
蔡沢以上に長生きをしている貴君はもう訊くまでもない。
昔々、蔡経という人が心に想ったように、
仙女の麻姑の長い爪で背中を掻いてもらうような快感を、
日向の居眠りで味わって過ごすのがよいであろう。
【補足】［（1）「真白い髯の三老人」とは、蔡褒、王慶源、楊宗文であるという。王慶源は前の詩で見ており、楊宗文［字は君素］もまた土地の名士であった。（2）後半は、いつものように同姓の人の故事を用いて相手のことを歌ったもの］
■【09-2-006】烏夜啼
【解題】「遠く寄せる」との添え書きがある詞。「遠く」とは故郷のことで、上の詩に見た王箴と仲天貺に託して郷里の人々に贈ったのだろう。
【訳文】
莫怪帰心甚速、［故郷に帰ろうとする心が、非常に速くへと行こうとするのを怪しまないでください］
西湖自有蛾眉。［西湖を見ても私はそこに峨眉山を見てしまいます］
若見故人須細説、［もしも懐かしい方々があれこれ尋ねたなら］
白髮倍当時。［白髪が当時の倍になりましたといってください］
小鄭非常強記、［小鄭もいつまでも覚えているわけではありません］
二南依旧能詩。［二南はそれでも昔のように詩を作ることができます］
更有鱸魚堪切膾、［故郷には刺身にして旨い魚がありますが］
児輩莫教知。［そのことはいわない約束にしてください］
【補足】［後段の訳は自信がない。「小鄭」も「二南」も蘇軾自身を指すと解釈した。昔、鄭述祖という人は9歳のときに、その父が光州で石に刻んだ文章を記憶し、ずっと後になって自身が光州に赴任してその碑文を見て慟哭した。人々は父を大鄭、息子を小鄭と呼んだ。蘇軾はその小鄭のようには記憶をいつまでも保っておけないとこの詞ではいっているのだろう。かつて杭州には周韶という詩が巧みな歌妓がいて［→作品番号04-2-030］、二南と号していた。蘇軾は老いても、二南のように歌うことができるとこの詞はいっているのだろう］
■【09-2-007】雪後、便欲与同僚尋春、一病弥月、雑花都尽、独牡丹在爾、劉景文左蔵和順闍黎詩見贈、次韻答之
【解題】この詩の題は、「雪の後に、同僚とともに春を尋ねようとした。病気で月を越えて臥せっていた間に、様々な花は尽きてしまい、牡丹だけがあるのだった。劉季孫［字は景文］が清順の詩の韻を使って詩を詠んで贈ってくれたので、それに答える」。劉季孫は作品番号09-1-023などで、清順の詩に蘇軾が和した作品は作品番号09-2-002で見ている。
【訳文】
残っていた花も、続く雨に泣かされたことであろう。
人々は町を空にして花を見に行ったけれど、
知事のお出ましがなかったので拍子抜けしたに違いない。
貴君［劉季孫］の詩は、花が尽きてしまった寂しさを歌っていて、
噛めば噛むほど味わい深くなる新鮮な食べ物のようだ。
浅い紫のあの花が争って早く咲いてしまおうが、
深い紅のあの花がたちまち色褪せてしまおうが、
それぞれに任せておけばよいだろう。
なぜなら、天が与えてくれたこの葩［牡丹］はなお萼が青くて、
国を代表するその色を外に現すのを、
白髪頭の人［蘇軾］がくるまで待っていてくれたのだから。
酒を用意して詩の将軍［劉季孫］を招こうではないか、
私のような腐れ儒者は本当に風雅を知る者ではないのだから。
【補足】［劉季孫のことを将軍と呼んでいるのは、劉季孫が両浙路の兵馬を管理する職にあったことと、父の劉平が壮絶な戦死を遂げ、その烈士の気風を継いでいることによる［次の章でその事績を見る］。この後、頻繁に劉将軍と呼ぶようになる］
■【09-2-008】病後酔中
【解題】病の癒えた後で酔いに任せて詠んだ戯れの詩。
【訳文】
病がいつまでもこの身に居座っていた。
久しぶりに酒を入れると、
頭の中で蓬蓬と声がするかのようだ。
笑ってしまうのは、
銭塘十万戸の民衆を、
官家［皇帝］はなんとまあこんな老書生に預けたのだ。
【補足】［（1）杭州の中心都市は銭塘県に属し、州の行政区域全域ではなく町自体を指すときには、蘇軾は多くの場合に銭塘と記している。とはいえ厳密に区別して使っているわけではない。ここで「銭塘十万戸」といっているのは、かなり誇張した数字であろう。（2）「笑ってしまう」とあるのは、都を出て以降、詩を作るのを控えていたはずの人物が吐く言葉とは思えないほどに放縦で、ようやく蘇軾らしくなってきたといえるだろう。一方で、公務にはごく真面目に奮闘中であったことを後に詳しく見る］
■【09-2-009】跋焦千之帖後
【解題】銭龢［→作品番号09-1-044］が所蔵する冊子に記した跋文。それは欧陽脩の弟子であった焦千之の手紙を集めたものであった。
【訳文】
欧陽脩が、
焦子皎潔寒泉水、［焦君は皎く潔らかなこと寒の泉の水のようだ］
と、詩に詠んだのは吾が友、焦千子［字は伯強］のことである。
徐無党［字は秦民］は済南の老先生で、銭龢［字は岊仲］は徐無党に師事し、徐無党は焦千子との間でやりとりした手紙を銭龢に示した。
焦千子が亡くなって十年になろうか。これを覧て悵然とする。
元祐五年二月十五日、書く。
【補足】［蘇軾が焦千之のことを「吾が友」といっているのは、杭州副知事だったときに交流があったからで、恵山寺の泉の水を焦千之に所望した詩がある［→作品番号04-1-037］］
■【09-2-010】南柯子
【解題】「晩春」という題が付いている詞。春の終わりのイベントとして寒食と清明があり、寒食の間は火を煮炊きに使うことが禁じられ、寒食が明けた清明の朝に最初に使う火を「新火」という。この詞には、そのような春のイベントを迎える歓びが詠まれている。
【訳文】
日薄花房綻、［軟らかな日に花がほころびます］
風和麦浪軽。［風はなごやかで、麦の浪が軽やかに動きます］
夜来微雨洗郊坰、［夜に降った小雨が郊外の景色を洗ってくれて］
正是一年春好、［まさに一年のうちの春の好いとき］
近清明。［清明も近いのです］
已改煎茶火、［茶を入れた火を改めて］
猶調入粥餳。［さらに粥を煮ましょう］
使君高会有余清、［知事殿の集まりは清らかで］
此楽無声無味、［この楽しみは声もなく味もなく］
最難名。［最も名付けにくいものなのです］
■【09-2-011】次韻劉景文、周次元寒食同遊西湖
【解題】劉季孫［字は景文］［→作品番号09-2-007］と周燾［字は次元］［→作品番号09-1-045］が寒食の日に西湖に遊んで詠んだ詩に次韻した。
【訳文】
柳絮が飛ぶ……
春の最もよい時節が過ぎ去って行く……
瀬を下る船のように、老いは速やかにやってくる。
酒を見て、もう寒食が終わって新火が過ぎたと驚く。
成都では杜甫にゆかりの浣花草堂での行事が行われているであろう。
山西の老将［劉季孫］の詩は誰も敵う者がなく、
洛陽の書生［周燾］の語はさらにあでやかである。
一緒に西湖の北の山に二士を訪ねたなら、
船の舵やら太鼓の音で、
二士の清らかな眠りを妨げてしまうのではなかろうか。
【補足】［（1）この詩に新火が詠まれているので、詩を返したのは寒食が明けた翌日なのだろう。（2）成都では杜甫がかつて住んでいた浣花草堂で1月2日から4月19日までの間に様々な行事が行われた。故郷のことを想い、その流れで劉季孫と周燾の出身地を挙げて、二人を褒めている。（3）終わりの部分は、ともに二士を訪ねようと蘇軾を誘ってきたことへの返事で、その二士とは清順［→作品番号09-2-002］と参寥［道潜］［→作品番号09-1-037］であることが次の詩からわかる］
■【09-2-012】連日与王忠玉、張全翁游西湖、訪北山清順、道潜二詩僧、登垂雲亭、飲参寥泉、最後過唐州陳使君夜飲、忠玉有詩、次韻答之
【解題】これは上の詩の続き。詩の題は、「連日、王瑜［字は忠玉］、張璹［字は全翁］と西湖に遊んで北山の清順と参寥の二人の詩僧を訪ね、垂雲亭に登って参寥泉の水を飲み、最後に唐州知事の陳師錫［字は伯修］の家に立ち寄って夜に飲んだ。王瑜が詩を詠み、それに次韻して答えた」。王瑜と張璹は官僚仲間で、垂雲亭は作品番号09-2-002で、参寥泉は作品番号09-1-037で見ている。陳師錫は唐州知事に任命されたので間もなく杭州を離れるのだろう。上の詩とのつながりからして、清順と参寥のもとには劉季孫も周燾も連れ立って行ったと推測されている。
【訳文】
北山は高いといってもそれまでのこと、
千仞もあったところで我が足の下におさまってしまう。
西湖は広いといってもそれまでのこと、
万象もすべてが我が目の内におさまってしまう。
いまは雲が深いけれど、
堤の上にいる人も見えるはずだし、
いまは風が静かであるけれど、
谷の間にこだまする響きが聞こえるはずである。
君も私も誰もが無心に歩くに任せて行くと、
目に竹が見え、
竹の間で詩が鳴るのが聞こえるようになる。
それは二人の僧の声、
その眼の光は湖よりも清らかである。
二人は首を振る間に百篇の詩を作り、
二老［王瑜と張璹］もすぐにその後に続く。
なるほどここは仙界の池であったのか、
二羽の白鳥［清順と参寥］が養われているのである。
山高いここで路が断たれ、
小さな垂雲亭に皆が膝を突き合わせる。
夜になって三尺の井戸［参寥泉］を尋ね、
玉のような水を瓶に半分ほども飲み干す。
明日の朝になると町からは糸管［楽器］の音が聞こえてくるだろう。
寒食のときにも、楽しく歌う者もあれば悲しく哭する者もある。
知事殿［陳師錫］はこの日することもなく座っていると、
招きもしないのに狂客［蘇軾等一行］が、
酒を満たした革袋を携えてやってきて、
啄木鳥のように門をけたたましく叩いたのだった。
この遊びも一瞬の後には過去になり、
覚めていようが夢を見ていようが、
どちらにしても永続することはない。
知事殿よ、
長江を渡って任地に行ってしまう前に、
さらに火を灯しての遊びをしようではないか。
どのような地位よりも楽しく笑うことの方がよいのだ、
百年の栄華を極めたところで、どうせ鬼籍［亡者の名簿］に入ってしまうのだから。
■【09-2-013】書参寥詩
【解題】上の詩で見たように、寒食の翌日に、蘇軾は人々とともに孤山にある智果院に参寥［道潜］を訪ねた。この文章にはその折にあったことが記されている。
【訳文】
私が黄州にいたときに、参寥は呉中［杭州］から来て訪ねてくれ、東の坡に滞在した。
ある日、夢の中で参寥が詩を作るのを見た。目覚めてから覚えていた二句を記した。
寒食清明都過了、［寒食も清明もすべてが過ぎようとしていて］
石泉槐火一時新。［石の泉の水も、槐の枝でおこした火も、みな新しくなる］
それから七年後に私は銭塘［杭州］の知事となり、参寥は初めて西湖の智果院に居を定めた。智果院には泉があり、水は石の間を縫って流れ、甘く冷たく、茶によいものだ。
寒食の翌日、私は客人と舟を湖に泛べ、孤山から参寥に会いに行った。参寥は泉を汲んで火を付け、黄蘗茶を烹てくれた。そのときにはっと夢の詩を思い出し、七年前にいまのこのことを詠んだのだと知った。客人たち皆驚いた。いろいろな書物に伝わる不思議なことも実は虚語ではないのだろう。
元祐五年二月二十七日。眉山の蘇軾、書く。
【補足】［（1）参寥が智果院に入ることになったのは昨年の10月で［→作品番号09-1-037］、建物が完成して実際に住まうようになったのはここにある日付の2日前の2月25日であったという。（2）参寥の詩の二句目に「新」の字があるのは、茶を沸かすための火を、寒食の翌日につける最初の火である「新火」と見立てたものであろう。（3）丹念にこの『自由訳』を読んでこられたなら、ほぼ同じ文章をすでに見ているのを思い出されるであろう。作品番号06-4-014として訳出した『参寥泉銘』で、それは実はこれより2年後に書いたものである。蘇軾は夢の話が好きで、人々を喜ばせるために二回語り、かつ書いたのだろう］
■【09-2-014】竜井題名
【解題】王瑜、張璹、周燾とは気が合ったようで、しばしば一緒に行動している。これは西湖の西の風篁嶺の近くにあった竜井を訪れた記録。竜井には、蘇軾が杭州副知事であったころに親交があった弁才大師元浄［→作品番号04-2-053、06-1-081］が退居していた。
【訳文】
元祐庚午、弁才老師は八十歳になった。僧侶も俗人も一緒になって慶賀し、袈裟千枚を差し上げ、七日間にわたって千人の僧に食事を振る舞った。眉山の蘇軾、洛陽の王瑜、安陸の張璹、九江の周燾は薌銘［香りのよい茶］を餽った。二月晦日に書く。
■【09-2-015】竜華題名
【解題】これは少しメンバーを入れ替え、楊傑［→作品番号09-1-024］が加わって竜華寺を訪れた記録。竜華寺は杭州の町の南にある山の一つ竜華山にある寺。
【訳文】
蘇軾、王瑜、楊傑、張璹がともに竜華に遊んだ。元祐五年庚午の歳、三月二日、題す。
■【09-2-016】題劉景文所欧陽公書
【解題】これは、楊傑［字は次公］とともに、劉季孫［字は景文］［→作品番号09-2-011］の家を訪ねて記したもの。病も全快し、久しぶりの杭州の春を満喫しようとしたのか、蘇軾はしばし西湖畔に遊んでいる。
【訳文】
欧陽脩の書をこれまでにいろいろなところで見てきた。十のうち八ないし九まで、官職を厭い、帰隠を願うといったことが記されている。士大夫は進みやすく、退き難いことがよくわかる。後生の者が立身出世に汲汲とするのを戒めるものとなろう。
元祐五年三月八日、たまたま楊傑とともに劉季孫を訪問したところ、劉季孫はこの書を出してきた。私も楊傑も欧陽脩にかつて会ったことがある。楊傑は欧陽脩の抵掌談笑［ユーモアに溢れた話しぶり］を見習っているのだろう、いつも人を感心させるものがある。
【補足】［劉季孫が欧陽脩の書を所蔵していることは、すでに作品番号09-1-023でも見ている］
■【09-2-017】題万松嶺恵明院壁
【解題】万松嶺にある恵明院の壁に記した短文。万松嶺は杭州の町の南端にある和寧門の外側の西嶺の上にあって、道を挟んで松が植えられていたのでこの名があるという。
【訳文】
私が一度ここから去って十七年、彭城の張聖途、丹陽の陳輔之と一緒にまたここに来た。
恵明院の僧の梵英が屋根を葺いて堂宇を修繕したので、以前よりも堂々として清らかになった。
梵英は非常に香りの高い茶を出してくれた。
「これは新茶でありましょうか」
と、尋ねると、梵英は、
「茶の性として新旧を交えると、香りも味もまたよくなるものでございます」
と、いった。
私はかつて琴についてよく知る者に会ったことがあり、その人は、
「琴は百年くらい経たないと、桐の木にもとの生意が尽きることなく残っています。琴の音の緩急清濁は、桐が雨に撃たれ日光にさらされ寒暑に耐えてきたことと必ず呼応します」
と、いっていた。
琴のこの理は茶とも近いものがあるのではなかろうか。それで二つのことを並べてここに記しておく。
【補足】［（1）ここに記されている彭城の張聖途とは誰なのか。蘇軾が徐州知事であったときに親しくした張天驥［字は聖塗］、すなわち放鶴亭の主人である［→作品番号05-4-106など］。蘇軾と11年ぶりに会うために杭州に来たのだろう。彭城［徐州］からなら都の方が近いのだが、朝廷の高官であったときには会うのが憚れたのだろうか。（2）もう1人の同行者は丹陽の陳輔［字は輔之］で、その人となりは次の文章に記されている。丹陽は長江より南の大運河沿いの町で、蘇軾は何度も訪れているから、以前から交流があったのだろう。この2人に限らず、杭州知事となった蘇軾のもとにはいろいろな人が頻繁に訪れ、蘇軾の詩文は都にいたときよりも精彩に富んでいる。（3）琴に使われる桐について記した文章を作品番号06-2-031でも見ている］
■【09-2-018】陳輔之不娶
【解題】上で見た陳輔［字は輔之］について記した短文。必ずしも同時期に書かれたものではないが、ついでに掲げておく。
【訳文】
九江出身の陳輔には、昔々の廉潔の士である於陵の陳仲之の節操が具わっている。ただし、陳仲之と違って妻を娶らず、子もない。
陳輔はいう、
「それはむしろ私の罪です」
「貴方には養子があるのではなかったのでしょうか」
「います」
「だったら、唐代の元徳秀や元結と同じではありませんか」
陳輔は笑って、
「昔を見たら、賢人はたくさんいます。似たところがあっても自分が賢人であるとは限りません。それにつけても、陶淵明はわけのわからないことをいっています。飢えに耐えながら、昔の賢人を思うと、人を飽かしてくれると……」
陳輔はいまは丹陽の南郭に住んでいる。
【補足】［（1）これは、蘇軾流の知的ユーモアを味わうべき短文であるのだろうが、訳者は知的レベルが違い過ぎるので、かなりの意訳をした。（2）於陵の陳仲之は『孟子』に出てくる廉潔の士。ただし、人間社会の改良を目指す孟子は、陳仲之のことを蚯蚓のような奴だと批判している。それを引き合いに出して、同姓の陳輔を讃えるというのが蘇軾流のユーモアなのだろう。（3）陶淵明は、昔の人の優れた言葉を聞くと、心を満たしてしばし飢えをも忘れられるということをいっている。（4）陳輔は丹陽の南郭に住んだことから、南郭子と号したという］
■【09-2-019】次韻送張山人帰彭城
【解題】張山人、すなわち張天驥［字は聖塗］が彭城［徐州］に帰るのを見送った詩。
【訳文】
羨ましいのは、
繋がれることのない小舟のような貴君の身、
飄蕩と銭塘［杭州］にやって来て十日ばかりを遊んだ。
水は禅心を洗うためのもの、
貴君の眼はすっかり浄められた。
山は詩筆に供えるためのもの、
貴君の眉はすっかり愁いを帯びたのだった。
雪の中で興に乗じてこちらに来ようとしたのは、
ほんの思い付きであったのだろう。
春が終わって帰ろうとするのは、
もうはっきりとそう思い定めたのである。
私はいつしか范蠡のように、
官職などは投げ棄てて鮮やかに実業家に転身し、
一万匹の魚を養う池、一千本の橘を植えた林を持つ身にでもなりたいと、
思ったりもしているのだが、
はて、どんなものだろうか。
【補足】［最後に范蠡を持ち出したのは唐突な感じがするが、張天驥との間でそのような会話が交わされていたのだろう。范蠡は、越王勾践に仕えて仇敵の呉を滅ぼしたが、勝者となった越王がすぐに驕った態度を見せるようになったために、越王のもとを去って実業家に転身して大成功した。蘇軾にとって范蠡は気になる人物であったようで、范蠡の生き方に批判的な文章と好意的な文章を記している［→作品番号01-2-013、02-1-005］。官界でつまらない争いに巻き込まれている蘇軾は、時折、先祖と同じく商人としての人生もあったのではないかと夢想することもあったのだろう。官員であろうが商人であろうが、どちらにしても繋がれない小舟［虚舟］の張天驥とは無縁であろう］
■【09-2-020】聖散子後敘
【解題】ここまでの一連の詩文だけを見ると、蘇軾はひたすら春の遊びに興じているように思えてしまうのだが、実際には州知事としての仕事に精力的に取り組んでいた。公人として何をしていたのか、その概要を知るために、弟の蘇轍が後になって記した『亡兄子瞻端明墓誌銘』から関連する箇所を読んでおこう。
【訳文】
蘇轍：『亡兄子瞻端明墓誌銘』より
元祐四年、兄は杭州に着任した。土地の役人や民衆は兄の政治にかねてから馴染みがあったので、何の苦労もなく治めることができた。
たまたまひどい日照りの歳に当たり、飢饉と疫病の流行が同時に起こると予測された。兄は朝廷に願って国庫に納めるべき米のうちの三分の一を免じてくれるよう願った。そうすれば米価の高騰を防げると考えたからだ。また度僧牒［正式の僧侶であることを国が認める認可状。寺院側はそれを得るためには金銭を納める必要があり、このころは1枚が銭170貫に相当した］を国から百枚得て、米に換えて飢えた者を救おうとした。
明くる年の春になると、常平米［倉庫に蓄えていた米］を放出して米価を下げ、民衆は日照りの苦しみを免れることができた。また、兄は、粥と薬をたくさん用意し、役人とともに医者を派遣し、病人を収容する小屋を作って治療に当たらせた。それで生き延びた者が大勢いた。兄は「杭州は水と陸が接するところで、他の土地よりも疫病で死ぬ者がいつも多い」と考えていて、寄付金二千貫を集め、それに私財から五十両を加えて病院を作り、若干の資金と食糧を蓄えて、いつでも疫病の発生に備えられるようにした。その病院はいまでも続いている。
秋には大雨となり、太湖が氾濫して農地に被害が及んだ。兄は翌年には必ず飢饉がくると予測し、朝廷に、国庫に納める米の半分を免除し、多数の度牒を出してもらえるよう要請した。それによって常平米や備蓄米を買い入れて、翌年には安く売り出せるよう準備しようとしたのである。朝廷は兄の要望の多くに従い、呉越の民は流散することを免れた。
杭州はもともと川と海であったところで、水に塩分が混じり、人が住める場所が少なかった。唐の時代に知事の李泌が始めて湖の水を町に引いて六つの井戸を作り、人々は十分に水を使えるようになり、それで井戸の周囲に人が集まり住むようになった。次いで、白居易が西湖を浚い、西湖の水を運河に入れ、運河から田に入れ、一千頃の農地に灌漑水がゆきわたるようになった。湖には水草が多く生えるので、唐代から銭氏の呉越国の時代にかけては、毎年水草を刈って、湖の水域を確保していた。ところが、近年はそれをしなくなったために、湖はどこも水草で覆われ、水域がほとんどなくなってしまうくらいになった。それで運河に湖からの水が行かなくなり、川から水を入れるようになった。その水には潮とともに上がってくる砂が混濁しているために、運河で船が航行できるようにするには三年に一度は浚渫しなければならず、町にとって大きな負担となっていた。また六つの井戸もほとんど涸れかけてしまっていた。
兄は杭州にくると、茅山と塩橋の二つの運河を浚渫し、茅山運河にはもっぱら川の水を入れ、塩橋運河にはもっぱら湖の水を入れるようにした。さらに水門を設けて湖水の流出を少なくし、潮水が町に入らないようにした［これによって砂の堆積が防げるようになった］。また六つの井戸を修復し、民衆は利便を得られるようになった。
兄はあるとき西湖のほとりに行ってじっと観察し、「よし、水草を取り除こう。水草は大量にある。除いたものをどこに置けばよいのか。この湖の大きさは南北三十里、一日で湖を一周するのは難しい。もし取り除いた水草と泥で、湖を南北に貫く堤を作ったならば、水草はなくなり、通行の便もよくなるだろう。呉の人は菱を植え、春には菱を刈り取って一寸の草も残さないという。水草を除いた後に、人を募って菱を植えさせたなら、菱の利も出るし、湖の手入れも行き届き、湖がまた埋もれてしまうようなことはなくなるだろう」といった。
それで、飢饉の救済の後に残った銭と穀物を使い、また朝廷から僧度牒百枚を得て、労働者を集めた。こうして堤ができあがると、その上に芙蓉や楊柳を植え、画のような景色ができあがった。杭州の人々はそれを「蘇公堤」と名付けた。
【補足】［（1）蘇軾は赴任してすぐに、翌年の飢饉と疫病に備えなければならないと考え、対応策をまとめて朝廷に提議していた［→作品番号09-1-041］。蘇軾の基本的な考え方は、実際に被害が生じてから対応したのでは、民衆の害も大きく、国の出費も多くなるので、早くに手を打つことが肝要であるとするものであった。（2）前回の副知時代に水利事業に取り組んだ経験［→作品番号04-2-031］を踏まえて、より大規模な土木事業を計画し速やかに実施した。運河の浚渫は早くも昨年10月に着手している。最後に記されている「蘇公堤」は現存し、西湖の美しい景観のシンボルとなっている。（3）『墓誌銘』にはさらに以下の二つの事績が記されている。①高麗国との関係は慎重かつ控え目にすべきであると朝廷に具申した。先年、高麗国の王子の義天が杭州を訪問し［→作品番号07-2-060］、その縁を通じて高麗国側に若干の動きがあった。蘇軾は高麗国の使者を手厚くもてなすことを批判していた［→作品番号07-2-070］ように、改革政治が進めていた積極的な外交は危険であると考えていた。②銭塘江の河口を南北に横切る航路が物資の輸送に重要な役割を果たしていたが、複雑な潮流によって海底に貯まる土砂が予測できない動きをするために船が座礁する事故が頻繁に起きていた。そこで蘇軾は土地の人々の知恵を結集して、新たな運河を開いてその危険な航路を使わなくてすむような計画を立案した。それはなかなかに壮大な土木事業であったために、蘇軾の在任中に実現するには至らなかった。（4）上に記されている飢饉対策、疫病救済、土木事業の3点について本章ではこの後より具体的に見てゆくことになる。蘇軾は短期間に数々の施策を打ち出し、その多くを成功させたのには、次のような要因があったと考えられる。①先に副知事として赴任していたことから、杭州について熟知し、社会の各層との人的なつながりもすぐに強く確保することができた。一般的に、知事などの高位の官僚は中央から派遣されてせいぜい3年程度しかいないために、土地に長くいる下位の官吏に依拠しなければ何もできず、独自色を出すことが難しかった。②すでにいくつかの地で知事を歴任し、また黄州流謫の日々も過ごして、地方の実情をよく知り、何が有効な施策でどのように実施すればよいのかを知っていた。③高太皇太后の強いバックアップがあった。蘇軾が朝廷に要望したことは、その多くが例外的に迅速に聞き入れられた。ただし、朝廷としては認めても、間に入る政敵が不誠実な対応をして、事がうまく進まないこともあった］
【解題】この項の表題に掲げた『聖散子後叙』は、この春に実施した疫病対策に関係することをほぼ1年後に記したものである。蘇軾は「聖散子」という薬の宣伝文である『聖散子叙』［→作品番号06-4-025］を先に書いているので、「後叙」というのである。
【訳文】
聖散子が効果を及ぼす病気は一つではなく、効き目はいろいろである。
去年の春、杭州の民の間で病気がはやり、この薬で全快した者が大勢いた。
用いた薬は上品質のものではなかったのだが、千銭でほぼ千服分が得られ、千人を救うことができた。こうして数を積み上げていったので、その利は非常に広く及んだ。
人が自分の力でできる範囲で恵みを施そうとすると、そこには限界がある。もしもたくさんの人が力を合わせるなら、よく利を成す人が大勢になって、その行為も長く続く。そこで、誠実な人間を楞厳院に集めて研修を行い、立春の後から薬を施し始め、翌年の春と夏の境目にまで及んだ。それに参加した人の名は本院に送った。
昔、印度の薄拘羅尊者は、訶梨勒［薬になる果実］を一人の病気の比丘に施し、その報いを身に受けて、一切の病気にならなかったという。だから、己の力に従って人を助け、大勢の人に薬を施したならば、どれほどの功徳があるのかわからないのである。仁のもとは惻隠の情であり、それが善をなす因ともなるのだ。
呉郡の陸広秀才はこの薬の作り方と施し方を智蔵院の禅月大師宝沢に倣った。宝沢は土地の僧である。そして、陸広はいまでは都の麦曲巷に住んで、この薬を施している。
【補足】［疫病対策は、安価な薬をたくさん作り、大勢の人を動員して、広くかつ長期的に実施して行くことが大切であると強調しているのは、注目すべきであろう］
■【09-2-021】新茶送簽判程朝奉、以饋其母、有詩相謝、次韻答之
【解題】杭州の役場に勤める程之邵［字は遵彦］に、その母に飲ませるようにと新茶を贈ったところ、謝礼の詩が届き、それに次韻した。程之邵は評判の親孝行者で、それで特に新茶を贈ったのである。
【訳文】
昔、母が手ずから縫ってくれた官服に感謝する詩を詠んだ人がいた。
昔、他所で馳走になった肉を母のためにと、食べずに持って帰った人がいた。
昔、母の喜ぶ顔を見たいがために公平な裁判に努めた人がいた。
昔、母がいれば貧しくともよく、母が亡くなった後ではどれほどの高禄も要らないといった人がいた。
この茶は、まさにそのような貴君のためのものだ。
いわゆる「試焙」という今年最初に火の前にきた茶葉で、
お上が近臣に配るために取り置くような絶品である。
貴君を通じて私も母君に奉じるならば、
私と貴君はもはや兄弟のようなもの、
退隠した後に林中で茶を飲み合うときのよき思い出話となるであろう。
■【09-2-022】次韻林子中、王彦祖唱酬
【解題】林希［字は子中］［→作品番号05-5-076］が潤州で王汾［字は彦祖］に寄せた詩に次韻した。王汾は前年末まで南方の明州の知事を務めていたが中央に召され、旅の途中で潤州知事の林希に会ったのである。
【訳文】
ずっとずっと前からわかっていたはずだった、
人の身などはひとつぶの漚に寄せるようなものだということは。
ところが晩年に及んでみると、
木の葉を落とす風にいまさらながら驚かずにはいられない、
過去、現在、未来の三世の事を論じ合ったのは昨日の夢のよう……。
それでも、なお喜べるのは、
かのときの五人が老年の寒風のなかでもまだこうしていられること。
いましも、貴君らの座を雨あがりの北固山が囲んでいることだろう。
こちらでは、春も終わろうとして西湖の水の色が空を映し出している。
我等にはかの賀知章よりも少しは勝るところがあるのだろうか、
老いた眼でもって官界の紅い塵をまだ見続けていて。
【補足】［（1）潤州で詠まれた詩が蘇軾のもとに届いて、次韻した詩が先方に届くまでにどれほどの時間がかかったのかわからないが、この詩は瞬時に行き来したかのように詠まれている。（2）この詩の背後にはいくつかの事情がある。「木の葉を落とす風」の句には、「近頃、孫覚、李常が亡くなったと聞いた。それでこの句がある」との蘇軾自身の注がある。孫覚は最後には政敵となったが長い付き合いのあった人［→作品番号07-2-002、08-3-046など］で2月3日に、李常は黄州流謫の時代に深い付き合いのあった人［→作品番号08-3-034、06-3-048など］で2月2日に亡くなった。（3）「かのときの五人」については、やはり蘇軾自身の注で、「林希、王汾、顧臨、胡宗愈、蘇軾は一緒に試験を景徳寺で受け、いまも皆が健在である」と記している。景徳寺での試験とは都で行われた科挙の一次試験で、これより34年前のことであった［このときに最終試験まで合格したのは5人のうちの林希と蘇軾だけだったようだ］。なお、胡宗愈の名は作品番号09-1-001で見ている。（4）北固山は潤州にある有名な山。（5）最後に唐代の賀知章を引き合いに出したのは、賀知章は作品番号08-3-032などでも触れたように都を去って故郷に隠棲したのに対して、3人がまだまだ官職にあるのは何たることかと自嘲するのである］
■【09-2-023】寿星院寒碧軒
【解題】宝雲山の西の葛嶺にある寿星院の寒碧軒で詠んだ詩。寒碧とは竹の緑を形容したものであろう。
【訳文】
清清しい風が肅肅と吹いてきて窓の扉を揺らす。
窓の前に長く伸びた竹があり、太さは一尺ばかり。
紛紛と、蒼い雪のような粉が竹から落ちて夏の簟に降りかかり、
冉冉と、霧のように竹からの緑の光が人の衣を潤す。
高くに日がのぼると、山の蝉が葉を抱いて鳴き、
人が静かにしていると、翠の翼の鳥が林を穿って飛び行く。
ここの道人は穀物を絶って寒碧［竹］に向かっている。
ならばお尋ねする、
「鶴のように痩せているはずのお方が、
どうして丸々と太っておられるのでしょう」
【補足】［最後の句を除くと静寂そのものの詩であるのだが、それだけでは面白味が不足するとでも思ったのか、寒碧軒の主のふくよかな体型をからかうような句を末尾に置いた。それを笑って受け入れてくれる僧であったのだろう。ただし、当時の理想の体型はいまならメタボとして健康指導の対象になるようなものであった］
■【09-2-024】西湖寿星院此君軒
【解題】同じく寿星院にある此君軒で詠んだ詩。かつて「此の君」なくしては一日も過ごせないと竹を称えた人がいたことから［→作品番号03-3-016］、「此君」は竹の別称となった。上の詩と合わせて見ると、寿星院は竹林の中にあったのだろう。
【訳文】
此君軒に横になって聴くのは、
謖謖と竜の鱗が砕ける音［竹の擦れ合う音のこと］、
此君軒から見下ろすのは、
蒼蒼と玉の身が立つ姿［竹が林立するさま］。
かのときに大勢の人を舟に乗せて江海に連れ去ってしまった人がいたが、
ここにはまだ六千人もの君子［竹のこと］が残っていたのだ。
【補足】［（1）終わりの部分はある故事を用いていて、岩垂憲徳・釈清潭・久保天随訳解『蘇東坡詩集』（1927年）には、この詩に対して、「此の詩を一読再読三読では其れ何事を詠ずるや少しも判らない、国語や漢書や史記を読み、始めて解することを得」と記している。ここでは故事について詮索することなく大意を汲んで訳した。（2）寿星院の近くに杯泉という泉があって、同じときにそこで詩を詠んでいる。これも「少しも判らない」ので訳は割愛する］
■【09-2-025】観台
【解題】観台とは、その上で座禅をして法を観る台である。それについて詠んだ詩。上と同じく、これまた「少しも判らない」もので、割愛ばかりするのは芸がないので、難解さを見ていただけるよう、読み下し文だけを添えておく。蘇軾は知識がありすぎて、それを大量に動員して凝集させないと心に満足を覚えなかったのだろうか。蘇軾は、官界における軌跡が唐代の白居易に似ていることを意識しているのだが［→作品番号08-2-032］、2人の詩は正反対といってよいくらいに違う。白居易の詩の多くは一読して誰もがわかるくらいに平易で、日本での受容を見ても、白居易の詩は平安時代の宮中で優雅に朗誦されたのに対し、蘇軾の詩は室町時代の禅僧や江戸時代の漢学者がねじり鉢巻きで研究したのだった。
【訳文】
三界無所住、［三界に住む所無く］
一台聊自寧。［一台 聊か自ら寧くする］
塵労付白骨、［塵労 白骨に付き］
寂照起黄庭。［寂照 黄庭に起る］
残磬風中裊、［残磬 風の中に裊く］
孤燈雪後青。［孤燈 雪の後に青し］
須防童子戯、［須らく防ぐべし 童子の戯れを］
投瓦犯清冷。［瓦を投じて清冷を犯す］
■【09-2-026】書劉景文所藏王子敬帖
【解題】劉季孫［字は景文］は、先に欧陽脩の書を所蔵しているのを見たように［→作品番号09-2-016］、書画の収集家で、コレクションのなかに王献之［字は子敬］の書もあった。それに書き添えた絶句。王献之は王羲之の息子で、やはり書の名手として名高く、ある人が父の書を野の鶩に、息子の書を家の雞に譬えたことがよく知られていて、この詩の初句はそのことを用いている。
【訳文】
家の雞にしても野の鶩にしても、
つまるところは俎の上にのぼってしまう。
春の蚓にしても秋も蛇にしても、
つまるところは箱に隠れ潜むのである。
君が家にあるこの二行十二文字は、
唐の李泌が所蔵していた三万巻をも圧倒するだろう。
【補足】［（1）いささか戯れの詩である。春のみみずも秋の蛇も草書の墨痕の譬えとしてよく用いられる。書についていろいろな譬えをするのを笑うのであろう。（2）李泌の名は、西湖の水を町に供給して井戸を作った人として先に見ている［→作品番号09-2-020］。その父は二万巻の書を集め、子孫に門の外に出してはならないと戒めたという。（3）劉季孫は、南朝の宋の時代の宗炳［字は少文］が描いた一筆書きの画も所蔵していて、蘇軾はそれを絶句に詠んでいる。「宛転」とか「縈盈」とか、くねくねと続く筆跡を表す語句を巧みに使って興味深いのだが、訳者は詩の意味をきちんと汲み取ることができない］
■【09-2-027】江城子
【解題】蘇軾は公務に忙しくても、サービス精神が旺盛で、時にはこのような詞を作ってしまう。短い序文がある。
【訳文】
陳直方の妾の嵇氏は銭塘［杭州］の人である。嵇氏に新しい詞を頼まれ、これを作った。銭塘の人は『陌上花』を歌うのを好む。ゆるゆるとした曲である。私はかつてこれについて数首の絶句を詠んだ。
【補足】［（1）陳直方がどのような人であるのかはわからないという。（2）『陌上花』の曲についてかつて詠んだという作品は作品番号04-2-069で見ている］
水雲間、［水と雲の間で］
掩門関。［門が閉ざされています］
門外行人、［門の外を行く人］
馬上看弓彎。［馬の上に弓彎［美女の脚の比喩］が見えます］
十里春風誰指似。［十里にわたって吹く春風は誰に向かっているのでしょうか］
斜日映、［斜めになった日が］
繍簾斑。［美しい簾にまだらに注ぎます］
多情好事与君還。［あなたといっしょに、多くの思いと好い事が帰ってくることでしょう］
憫新鰥。［この独り身を哀れんで］
拭余潸。［涙を拭ってくれるのです］
明月空江、［川を明るい月が照らし］
香霧著雲鬟。［香る霧が髪につきます］
陌上花開春尽也。［路傍に花が開くとき春は終わります］
聞旧曲、［かの旧い曲を聞いて］
破朱顔。［顔をほころばせるのです］
【補足】［この詞は、心地よく感情を揺さぶるように言葉が配列されているのがミソで、多様な解釈が可能であるところがおもしろく、散文的に訳すのには適さない。ここでは一つの解釈として、前半は遠くに行った女性が帰ってくるとの期待を歌い、後半はその女性の帰りを待つ男の姿を歌っていると捉えて訳した］
■【09-2-028】贈善相程傑
【解題】相を善く観る程傑という人に贈った詩。
【訳文】
心から心へと伝える学は、
聖道ではない異学であって、
我が身を謀るためにはならない。
貴君はこの平和な時代に、
貴顕となる人の相を観ることを思っている。
かつて、相を見て、
「火が走り上る。長くは続かぬ」
「急流の中を行く。神仙と遠くない」
と、いった人がいた。
書物を苦労して研究して得た要訣ではなく、
酔ってのつぶやきのようなものであっても、
かえって真理に近いことがある。
さて、この私は白居易に似ると人はいうけれど、
果たして私の晩年は、
「白髪頭で七年間、洛陽の春を遍く賞玩した」
と、いった白居易のようになるのか、
貴君にしっかりと観てとってほしいものだ。
【補足】［（1）冒頭にある「心から心に伝える学」［原文は「心伝の異学」］とは、普通は仏教のことを指すが、ここでは程傑の学もやはり立身出世のために役立つものではなく、志は別のところにあるといっているのであろう。（2）白居易は政界を引退してから悠々自適の日々を長く洛陽で送った。ここに引用された句は退隠生活がまだ半ばのころのもの。果たして蘇軾がそこまで白居易に似るのかどうかは第13章で見ることになる］
■【09-2-029】次韻林子中蒜山亭見寄
【解題】潤州知事の林希［字は子中］［→作品番号09-2-022］が蒜山亭で詠んだ詩に次韻した。蒜山は潤州にあって、蘇軾はそこにある金山寺に属する土地に隠棲できないかと仏印禅師［了元長老］に打診してみたことがあった［→作品番号07-1-070］。この詩はそのことを踏まえて作られているようである。
【訳文】
昔から、優れた人柄と広い学識がありながらも不遇であった人は少なくない。
そのような人を憐れむのを理解するのは、
十年もの間、公文書に埋もれて白髪頭になってしまった貴君のような人であるのだろう。
それがなぜか江と山に向かって笑っているのは、
酒をきこしめして顔に赤みを帯びたからなのだろう。
貴君が北固山を臨みつつ詩を賦しているのは、
まさか扇を挙げて風とともに退隠しようという心ではないだろう。
かつて蒜山に家を求めそこなった私を呼び寄せないでくれたまえ、
私が小さな庵を結ぶのは岷峨［蜀の二つの名山］のあたりのはずなのだから。
【補足】［この詩に楊傑［字は次公］［→作品番号09-2-016］が和して蘇軾がさらに和した作品がある。楊傑は仏典に深く通じる人であったので、それに応じて難しい語句を用いた詩で難解である。内容的には林希と楊傑に戯れたものらしいことはわかるのだが、訳者には上手に日本語に置き換える能力がないので割愛する］
■【09-2-030】次韻劉景文送銭蒙仲三首
【解題】銭蒙仲［→作品番号09-1-010］が父である越州知事の銭勰のもとに帰るのを見送った劉季孫［字は景文］［→作品番号09-2-026］の詩に次韻した。3首のうち2首を訳す。
【訳文】
其の一
天によって閑にさせられてしまった老いた馬は、
日が暮れてまだ道が長くても、慌てて先を争うようなことはしない――
そのようなことを貴君も聞いているだろう。
青雲の志を保つ「九子」［銭蒙仲］を送り終わって、
私は独り西湖に舟を浮かべるのである。
【補足】［（1）前半は銭勰と蘇軾が老いて不本意な境遇にあることを詠んでいるのだろう。（2）後半はこれから科挙に挑む予定の銭蒙仲について詠んでいる。銭蒙仲のことを「九子」と呼んでいるのは、九人兄弟の末の子だったからである。銭勰に九人の息子がいて、「九子母神の夫」の仇名があることは作品番号08-3-002で見ている］
其の二
竹林の七賢人の一人［銭勰］に語を寄せる――
貴君も同じく科挙合格者の名簿に載った仲であった。
しかし、王適君は独りぽっちで鬼の名簿に入ってしまった。
玉のようなであったあの人に似る者は世の中にはもういないのだ。
【補足】［王適が若くして亡くなった悲しみを、蘇軾は銭勰宛の手紙に記していた［→作品番号09-1-031］。蘇軾と銭勰は同じ年の科挙で合格した「同年」の友であるけれど、王適はそうした友を持つ前に死んでしまったのである］
■【09-2-031】菩提寺南漪堂杜鵑花
【解題】菩提寺の南漪堂に咲く杜鵑花を詠んだ詩。菩提寺は銭塘門から出て城壁に沿って北に進んだところの寺。銭塘門は西湖の北東端に面している。
【訳文】
南漪の杜鵑花は天下に比べられるものがない。
漢朝の宮殿を飾った紅い氍毹に似ていようか。
唐代に天下の奇絶といわれた鶴林寺の杜鵑花は、
兵火に焼かれて一夜の夢となってしまって、
花は仙界に帰ったはずであったのに、
実はここ西湖に帰っていたのだった。
【補足】［鶴林寺の杜鵑花については、季節はずれの9月に訪れた人が、花がないのを残念がると、仙人の殷七七が菊の花とともに杜鵑花も満開に咲かせて見せたという伝説がある［→作品番号04-1-071、04-2-089］。そのことから、「花は仙界に帰ったはずであった」という発想が出てきたのである］
■【09-2-032】題楊次公春蘭
【解題】楊傑［字は次公］［→作品番号09-2-016］が描いた春蘭の画に添えた詩。
【訳文】
春蘭は美人［徳において優れた人］に似ていようか。
手折って採るべき花ではなく、
花もまた自身を誰かに献じるのを羞としている。
時に春蘭は風露の香りを放つのだが、
蓬艾に深く覆われて見ることができない。
その真の姿がここに描かれていて、
古の詩文の叙述の足りないところを補ってくれる。
この画に向き合うときには、
衣服と冠を正して身を改めなければいけない。
■【09-2-033】題楊次公蕙
【解題】上の詩に続いて楊傑が描いた蕙［蘭の一種］に添えた詩。
【訳文】
蕙はもとより蘭の一族で、
やはり同じような香気がある。
古く楚の時代の詩には、
風雅を解する人が蕙を腰に帯びたと歌われている。
この画は現実のものではない幻、
真に蕙から感じる香りとて空である。
とすれば、いま微かに馥郁と香るのは何なのだろうか、
「鼻観」によって通じたものであるのだろう。
【補足】［前にも記したように楊傑は仏典に通じた人で、最後の句は、「鼻観」という観想法［鼻先の息を見つめて瞑想に入る］を織り込んで構成されている。要するにこの詩は、画から香りが感じられるということを、難しく表現してみせたものであろう］
■【09-2-034】次韻曹輔寄壑源試焙新芽
【解題】建州にいる曹輔から、壑源で今年最初に採れた茶の新芽を焙じたものが贈られてきて、それに詩が添えてあったので次韻して返した。壑源は茶の名産地としていまも名高い建渓にある。
【訳文】
仙山の霊草［茶のこと］は行く雲によって潤され、
香り高い肌をきれいさっぱりと洗われた。
それだけではまだ装いは整わない、
貴君が明るい月の光を当てたことで［焙じたことをいう］、
ここ武林［杭州］の春に清らかな風がもたらされたのである。
氷雪［茶葉の輝きをいう］のよさを知るにはこちらの心持ちもよくなければならない。
俗に油をまぶして見栄えをよくしただけの茶などに惑わされてならないのだ。
この詩は、貴君には笑われてしまう戯れの作、
佳き茶は佳き人に似る、
私が言いたいのはただそれだけである。
■【09-2-035】真覚院有洛花、花時不暇往、四月十八日、与劉景文同往賞枇杷
【解題】この詩の題は、「真覚院には洛花がある。花の時期には行く暇がなかった。四月十八日に劉季孫［字は景文］とともに行き、枇杷を賞した」。洛花とは牡丹のこと。従来杭州には牡丹がなく、唐代に洛陽から移植したのでこの名があるという。ここでいう枇杷は盧橘のことで、要するに金柑であるという。劉季孫はすでに何度も登場している［→作品番号09-2-030］。
【訳文】
緑が暗くなって、もう夏を迎えた。
春の時にはくることができず、紅はさびれてしまった。
牡丹は老人の友とする花ではあるまい。
盧橘は我が郷里の人のような花だ。
山のここに至って街並みは尽き、
巖の崖を前にして新たな思いが生じてくる。
貴君も覚えていてほしい、
年の暮れの寒さのなかにまたきて、
雪が盧橘の枝に降りかかるのを見ようではないか。
【補足】［（1）昔から蜀の人は柑橘類を好むとされ、蘇軾も黄州において柑橘類を好んで植えていた［→作品番号06-4-006］。ここでは冬でも葉を落とさない盧橘を、松と同様に志操堅固であると讃えている。（2）この詩の題にある日付と同じ日に、蘇軾は自身が7年前に書いた文章と再会している。作品番号06-4-062として見た文章の後ろに、そこでは訳さなかった添え書きがあり、次のように記されていた。「富陽県知事の馮君がかつて黃岡県知事であったときにこの書を段君から得た。元祐五年四月十八日に復たこれを見た。ときに私は銭塘［杭州］の知事であった」］
■【09-2-036】又和劉景文韻
【解題】上と同じときに劉季孫［字は景文］の詩に和したもの。
【訳文】
牡丹を、松と同時に植えて、
春の風に任せて自在に花を開かせた。
（真覚院の）壁に詩を記した人を試しに数えてみるがよい、
そのなかで花を見るためでなく来た人は何人いるのかな。
【補足】［真覚院を訪れる人の大半は牡丹が目当てで、季節はずれのいまにくる人は稀だったのだろう］
■【09-2-037】題張子野詩集後
【解題】杭州副知事時代に親しくした大先輩に張先［字は子野］がいた［→作品番号04-2-086、04-3-077など］。張先は詞を得意としたが、詩も立派であったというのがこの短文である。張先の詩集の後ろに書き添えた。
【訳文】
張先の詩筆は老妙で、歌詞はその余技でしかない。
『湖州西溪』という題の詩に、
浮萍破処見山影、［浮き萍の破れる処に山の影を見て］
小艇帰時聞草声。［小さな艇の帰る時に草の声を聞く］
と、ある。
これに和した私の句は、
愁似鰥魚知夜永、［愁いは鰥きな魚に似て夜の永さを知り］
懶同蝴蝶為春忙。［懶さは蝴蝶と同じく春の忙しさを為す］
張先の詩はこのようなものであるから、昔の有名な詩人と並ぶべき人なのである。しかし、世間の人はその歌詞ばかりを賞賛している。
唐の時代に、周昉は人物を画き、どれも神品といってよいものだった。しかし、世間の人は周昉は女性を画いたということだけを知っている。
これは要するに、『論語』にある「徳を好むこと色を好むがごときを見ず」ということなのだろうか。
元祐五年四月二十一日。
【補足】［最後は『論語』の有名な言葉をわざと少しばかり曲解したジョークなのだろう。世間の人はどうしても色っぽいことの方により強く惹かれてしまい、そちら向きの作品群が強く印象付けられるので、張先も周昉も正しい評価を得ていないといっているのである。ただし、詞よりも詩の方が格が上であるという前提に立っているのは、当時の常識ではあっても、必ずしも首肯できるものではないだろう］
■【09-2-038】次韻楊次公恵径山竜井水
【解題】楊傑［字は次公］［→作品番号09-2-033］が径山の竜井の水に詩を添えて贈ってくれたので、その詩に次韻した。径山は杭州の近くにあり、かつて蘇軾はその山を登っている［→作品番号04-1-033など］。竜井の水は眼病に効くと蘇軾自身が注記している。なお、この竜井は作品番号09-2-014にある竜井とは異なる。
【訳文】
水時計の水が尽きかけて、もう鶏が鳴き出した。
夜なべ仕事にほとほと疲れ果てる。
私はもとより小さな器、すぐに水が溢れてしまう。
官職を棄ててこの海のほとりに帰ってきたわけではない。
知事を辞めても水を管理する役人くらいなら務まるかもしれない。
仏教ではすべてが幻で空であると説くように、
我が眼は暗くなって、確かにものはろくに見えない。
それでも、遊び歩くことは自由にできて、
我が足はまことに軽やかに動く。
貴君は竜井の水をわざわざ遠くから送ってくださったけれど、
どうせ水に関わるのだったら、
昔の名人のように池を真っ黒にするまで書の修練に励んだらよいだろうに。
【補足】［（1）水と縁のある故事を集めて、知的に愉快である詩を組み立てた作品のようだ。故事を詳しく参照しなくても大意がわかる程度に軽く訳した。原詩を一生懸命に研究すれば、含蓄に富んだ句を深く味わうことができるだろう。（2）同じ頃に杭州副知事の袁轂から贈られた薬の謝礼として詠んだ詩があるが、訳者にはまるで理解できないので割愛する］
■【09-2-039】杭州乞度牒開西湖状
【解題】これは高太皇太后と皇帝に差し出した公文書。西湖再生事業の概要が記されている。
【訳文】
元祐五年四月二十九日、竜図閣学士左朝奉郎知杭州の蘇軾、書面をもって奏上いたします。
右の臣は、天下にあるところの陂、湖、河、渠の利、あるいはその廃興成毀［立派に造られたり無残に壊れたりすること］には、みな数［天の定めた運命］があると聞いています。ただ、聖人が国の上にあるときには、利が興り害が除かれ、成りやすく廃され難いのです。
昔、前漢の終わりに翟方進が丞相となってから、汝南の鴻隙陂が始めて決壊し、父老はこれを怨んで、このように歌いました。「陂を壊したのは誰なのか。翟方進だ。我らに豆を食らわし、芋を煮て羹にしろだとよ。もとにもどせ。陂を元通りにしろ。これは誰がいうのか。黄色い鵠のお告げだ」。これはどのような歌かといいますと、民心の望むところを天がそれに託して、神［黄色い鵠］を下して父老に告げたものなのです。［鴻隙陂が洪水で決壊したとき、翟方進は、水の溢れた跡に肥沃な土地が現出したことと経費が省けることを理由に堤防は修理しないと決めた。それ以後、土地の人々は灌漑用水を失い、日照りの害に苦しまねばならなかった］
三国時代の呉国の主が孫皓であったときに、呉郡から次のような報告がありました。「臨平湖は漢代の終わりから草が繁って塞がってしまっていました。ところが、いまにわかに湖面が広がりました。長老が言い伝えますには、湖面が開くときに、天下は平安になるということでございます」。孫皓はこれは自身にとっての瑞祥であると思いましたが、実際には晋の武帝によって呉国は平定されてしまったのでした。
こうしたことを観ると、陂、湖、河、渠などが長く廃れたりまた開かれたりするのは、国家の興運に関係することなのであります。天道は知り難いものでありましても、民心の望むところのものには天は必ず従うのであります。
杭州に西湖があります。これは人にとっての顔のようなもので、廃してはならないものであります。唐代の長慶年間に白居易が杭州知事でありましたときに、湖は広く、千余頃の水田を灌漑するだけの水量がありました。銭氏の呉越国のときには、湖を浚う兵士千人を置き、日夜湖を浚っておりました。宋国が始まってからは、次第に手入れをしなくなり、水が涸れて草が生え、葑が繁茂するようになりました。熙寧年間に私は杭州通判［副知事］となりましたが、そのころはまだ湖のうちで葑があるのは十分の二ないし三だけでありました。それがわずか十六、七年の間に湖の半分を塞いでしまいました。父老がいうには「ここ十年で水が浅くなり、葑が合わさって、あたかも雲が空を翳らすようにたちまち満ちてきてしまいました。さらに二十年もしましたら、西湖はなくなってしまいましょう」と。もし杭州から西湖がなくなったならば、人から顔を取り去るようなもので、それはもはや人ではないのであります。
臣は愚かで無知ではありますが、西湖を廃してはならない理由を五つ挙げることができます。
（1）天禧年間に、もとの宰相の王欽若が、皇帝の福を祈るために、魚鳥を獲ることを禁じて西湖を放生池とすることを初めて奏上しました。これより毎年四月八日に、郡人数万人が湖のほとりに集まって、百万もの鳥や魚を放ち、西北に向かって頭を下げて、皇帝の千万歳の寿命を祈るようになりました。もしも湖が塞がってしまったなら、蛟竜魚鱉［水の生き物］はいずれも涸れた轍の痕で水を求める鮒のようになってしまいます。臣はこのようになってしまうのを見過ごすことはできません。これが西湖を廃してはならない第一の理由です。
（2）杭州の地はもともとは江や海でありました。流れる水も湧き水も塩辛く、民の住むところはわずかしかありませんでした。唐代に李泌が初めて西湖の水を引いて六つの井戸を作り、それからは人々は十分な水を得て、そのまわりに村ができ、日に日に増えて、大勢の人が集まって町の暮らしが成り立つこととなりました。いま湖が狹くなり水が浅くなり、六つの井戸は次第に壊れかけています。もし二十年の後に湖が葑の繁茂するだけのところとなってしまったならば、町の人はまた塩辛い水を飲まなければならなくなり、ひいては町が自ずと消え去ってしまいましょう。これが西湖を廃してはならない第二の理由です。
（3）白居易は『西湖石函記』を作り、そこにこのようにあります。「湖の水を放流して田を灌漑し、湖の水位が一寸下がるごとに十五頃の田に水を入れることができる。夏には五十頃を灌漑できる。湖の水量を増やすことができるなら、運河を千頃にわたって満たすことができる上に凶作の歳もなくなるだろう」。今年は運河の水が十分ではなく、農作物の収穫も不足しました。これが西湖を廃してはならない第三の理由です。
（4）西湖が深く広ければ、運河の水は湖水から十分に取ることができます。しかし、湖水が不足すると、銭塘江の潮水を取らなければなりません。潮水には泥や沙が混濁し、それは一石の水に五斗も含まれています。そのために三年もしないうちに運河は泥砂で埋まってしまい、兵士や人夫を十万人余りも動員して運河を浚渫しなければなりません。運河は町の中に十余里にわたって続いていますので、浚渫時には町中が大騒ぎとなり、泥水が乱暴に撒かれ、町に住む者にとって大きな患いとなります。これが西湖を廃してはならない第四の理由です。
（5）天下の内で酒税が多く徴収できるところとして杭州以上のところはありません。一年で二十余万緡にも及びます。酒を造るための水は湖から供給されています。もし湖が浅く狭くなってしまったなら、水の需要に応じることができなくなり、人は山の泉にまで汲みに行かなければならなくなります。そうなると一年に二十万人分もの労力が必要になるでしょう。これが西湖を廃してはならない第五の理由です。
西湖が次第に廃れて行く有様を見て、湖を廃してはならない五つの理由があることを知っていながら、しかも臣は特別の御恩を賜る身でありながら、歳月の過ぎるにただ任せていたのでは、知事としての責任を果たしたことには断じてならないのであります。そこで、すでに役人を派遣して湖にある葑を計量させたところ、合計二十五万余丈にも及び、それを除くには二十余万人の労働力を必要とします。一方で、近ごろ臣は、当該地域の饑饉を救うために、特に国庫に送るべき米五十余万石を猶予し、常平米数十万石を放出し、五穀税を緩めていただくことを皇帝陛下、太皇太后陛下に伏してお願い申し上げましたところ、数知れぬ東南の民が生きながらえることができました。特に度牒三百枚を賜り、杭州だけでも百枚を頂戴しました。臣は謹んで聖意を奉じて饑民救済にそれを使いました結果、差し引き銭と米が一万余貫石残りました。そこで臣はこの銭と米で民を募って湖を開くことにし、十万の労働力を得て今月二十八日までに草を取り除く作業をいたしました。
農民父老はこのことを観て、嘆息してこのようにいいます。「二聖陛下はすでに我等を活かしてくださっただけでなく、余った銭や米で、無窮の利を生み出すことをなされた。吾等はここで仕事を得て、この凶作の歳を乗り切ることができます」。そして泣くのであります。臣は民情がこのようでありますことを知りつつも、いまある銭や米には限りがあり、募った労働力は十分でないために、葑の繁茂した土地はまだかなり残ってしまいました。臣の後に続く者がいなければ、ここでしたことが無に帰してしまいます。それは深く残念であります。ここでさらに度牒百枚が得られましたならば、全てを除去し終わることができて、後に患いを残すことはないのであります。
伏して皇帝陛下、太皇太后陛下にお願い申し上げます。臣が西湖を廃してはならない理由として挙げた五箇条と、利害について御検討くださり、特に度牒五十枚を下されますように。別途杭州が得られるであろう度牒五十枚と合わせて百枚となりますので、臣が力を尽くして志を遂げることができるようになるのであります。半年の内に、西湖は唐代のころの姿に戻り、周囲三十里は山の際をもって岸辺とするようになりましょう。農民父老はもとより鳥も魚も聖沢に泳ぎますこと無窮に及ぶのであります。伏して伏してお願い申し上げます。
補足一：現在当該地域は梅雨のさなかにあり、葑の根が浮動して取り除きやすくなっています。六、七月に及んで大いに雨が降るなら、蔓が伸びて増えることがなくなり、また農民がいうには八月に葑の根を断つともう出てくることがなくなります。これはまさに工事を行うによい時期なのであります。そのことを含めて御検討いただければ幸甚であります。
補足二：杭州では去年から運河を浚渫し、西湖の水をそこに注ぐ工事を進めております。それは西湖の葑を除くことと利害が一致します。臣はそうしたことまでも細々と申し上げて天聴をお煩わせするまでもないと考え、別に書状を作って三省［門下省、中書省、尚書省］に具申いたしております。
【補足】［ここで興味深いのは、土木工事に関する具申でありながら、冒頭に天と君主と民の関係の原理について述べていることだ。皇帝および太皇太后の判断を仰ぐので、そのような高所［われわれにとってはほとんど意味のないところ］から説き起こす必要があったのだろう］
■【09-2-040】申三省起請開湖六条状
【解題】上で見た太皇太后と皇帝に差し出した公文書の終わりに、運河に関係する事業については、別途詳細を記して三省［門下省、中書省、尚書省］に提出すると述べていたが、それがこの文章である。西湖の再生と、運河の効率的な運用、町への淡水供給の三者を一体的、総合的に成し遂げる施策を作り上げたのが、地方行政官としての蘇軾の優れ手腕であったといってよいだろう。この文書は公共事業の提案書として、現代でも通用するくらいにしっかりとした構成と内容になっている。長文であり、詳細にわたる部分には理解が十分及ばないところもあるので、全体の構成を以下に概観して、ごく一部だけを訳出する。
（1）西湖と運河をめぐって現在生じている諸問題について、各方面から聞き取った結果を、歴史的経緯を踏まえて整理する。
（2）唐代の白居易の考察を参考にしつつ、灌漑用水を確保することと運河に水を満たすこととを両立させる方策がまだ見つからないでいた昨年10月の時点から、すでに運河の浚渫を始めて4月に完了し、船の航行が大きく改善されたことを報告する。
（3）運河が今後も十分に機能を発揮できるようにするには、潮の遡上によって運河に泥砂が貯まってしまうのを防ぐ必要があり、蘇堅がその対策を立案した。鍵となるのは、運河の要所に水門を設けて潮の干満に応じて操作することである。
（4）蘇堅の案を黄僎に検討させるとともに、蘇軾自身も実地に調査して、成功すると判断し、水門の設置工事を4月20日に開始し、あわせて西湖の水を市中に配る六つの井戸の改修にも着手したことを述べる。
（5）草が繁茂して狭く浅くなってしまった西湖の湖面を元通りに広げてほしいと土地の人々が訴えている問題を取り上げ、草の駆除に必要となる労働力と費用を概算する。
（6）西湖から草を除いた後で、菱を栽培するようにすれば、湖面の管理が自ずとできて、しかも利益も上がるとする許敦仁の提案について述べる。
（7）蘇軾は人々と検討した結果、許敦仁の案を妥当であると判断し、草の除去に着手し、現時点で財政的に可能な処置を4月28日までに完了したことを、画を添えて報告する。
（8）以上の方策の結果として、西湖の湖面が広がり、西湖からの水の供給が改善され、運河の良好な航行が確保されるようになったが、この状態を今後も恒久的に保つための六つの計画を述べる。
（9）朝廷に対して、この事業を検討し、不足する費用を支給してくれるよう図面を添えてここに願い出ることを述べる。
注目すべきは、蘇軾がさまざまな人の意見を聞いて総合的に判断し、長期的に有効な方策を選択していることだ。さらに、民間の活力を有効に利用しようとしていることも大きな特徴として挙げてよいだろう。ここでは、（8）に述べられている六つの計画のうちで、2番目にある運河の川幅を確保する方策について、ほんの一部分だけを訳出する。なお、蘇軾に工法などを提案した人物のうち蘇堅の名はすでに先品番号09-1-018で見ていて、今後も何度か登場する。
【訳文】
塩橋運河の岸辺には、治平四年に元積中が立てた石碑があります。そこには、運河を航行する船を牽く人が使う路を確保するために邪魔な家を取り除いて、どこをどれだけの幅の路にしたといったことが刻まれています。それから二十余年が経過する間に、両岸の家がその路へと侵入し、その数は数千軒にも及んだために、その家の外側にまた別の路を作らなければならなくなり、結果として運河は年々狭まってしまったのでした。……
【補足】［杭州は西湖と銭塘江に挟まれて平地が狭く、都市が発展するにつれて、人家が公共の場にも進出してしまったということが記されている。20年で運河の両岸を人家が埋めてしまうというのは、それだけ杭州の経済成長が順調であったわけで、その活力を利用することが公共事業を成功させる鍵であると蘇軾は考え、運河の幅を新たに確保し直すにしても、西湖で菱を今後栽培してゆくにしても、民間の力を上手に使おうとした。また、国から度牒を支給してもらってそれをお金に換えて公共事業を実施するという方法は、つまりは宗教界からお金を吸い上げて公共投資に充てるということで、それだけ宗教界に財力があったということなのだろう］
■【09-2-041】南歌子
【解題】上の文書の提出日は5月5日となっていた。それは端午の節句の当日で、その日、蘇軾はこの詞も作っていた。先に見た張先の詩集に書き添えた短文では［→作品番号09-2-037］、あたかも詩は「徳」の側に、詞は「色」の側にあるかのように書いていた。もともと詞は歌妓が歌うもので、男女の情愛がその主題であった。前にも記したように、それを変えて、詞を詩のようにしたのが蘇軾であった［それをよしとする人もいれば、よろしくないとする人もいた］。この詞は男女の愛ではなく、蘇軾の杭州への愛を歌ったものである］
【訳文】
其の一
山与歌眉斂、［山とともに歌うなら、眉が斂まり］
波同酔眼流。［波とともに酔うなら、眼は流れゆきます］
遊人都上十三楼、［ここに遊ぶ人はすべて十三楼に上るのです］
不羨竹西歌吹、［羨むことはありません、竹西寺で聞く歌声が］
古揚州。［古の揚州を讃えるのを］
菇黍連昌歜、［菇黍と昌歜を並べ］
瓊彜倒玉舟。［瓊彜と玉舟を倒します］
誰家水調唱歌頭、［どの家で『水調歌頭』の曲を歌っているのでしょうか］
声繞碧山飛去、［声は碧い山をめぐって飛び去ります］
晩雲留。［そして晩の雲が留まるのです］
【補足】［（1）十三楼は銭塘門から二里ばかりのところにあって、西湖を見下ろす名所であった。蘇軾はここを好むあまり、ここで執務をしたともいわれている。（2）竹西寺は揚州郊外にある有名な寺で、蘇軾も何度か立ち寄っている［→作品番号07-2-059など］。唐代に杜牧が詠んだ「斜陽竹西路、歌吹是揚州」［斜陽 竹西の路、歌吹 是れ揚州］の詩句が有名で、蘇軾のこの詞はこれを踏まえている。揚州は隋の煬帝が惚れ込んだくらいに温暖で風光明媚な都市として天下第一とされていた。蘇軾は、いまや杭州は揚州を羨む必要がないくらいに美しく立派な都市になっているといっているのである。（3）『水調歌頭』は煬帝が作ったとされる曲で、それがもとになって詞の曲となり、蘇軾もいくつか歌詞を作っている。まさか蘇軾自身の作品を歌う声が聞こえてきたわけではないだろうけれど、杭州は歌声の似合う町であるというのである］
其の二
古岸開青葑、［古い岸辺で青い葑を切り開き］
新渠走碧流。［新しい渠に碧い流れが走ります］
会看光満万家楼、［一万軒の家が水の反射に照らされます］
記取他年扶病、［いつしか思い出してください、病にありながらも］
入西州。［私がこの町にきたことを］
佳節連梅雨、［端午の節句は梅雨に連なります］
余生寄葉舟。［わが余生は葉のような舟に寄せましょう］
只将菱角与雞頭、［菱と雞頭の花ばかりがあって］
更有月明千頃、［そして明るい月が照らす千頃の水があるので］
一時留。［ここにしばし留まるのです］
【補足】［（1）冒頭で、蘇軾が着手した土木事業が詠まれている。上に見た西湖再生事業によって、湖面に広がった水草が除かれ、新たに水路を整備されるなら、水域が広がり、水も光も杭州の町に溢れるようになるというのである。（2）原詞の前半の終わりにある「入西州」［西州に入る］の句には説明が必要である。「西州門」は亡くなった人を偲ぶ場所の象徴であることは作品番号06-4-012で見ている。つまり、西湖の風光を愛でる人は、自分が死んだ後にも自分のことを思い出してほしいといっているのだろう。事実、今日に至っても西湖に遊ぶ人は蘇軾のことを想うのである］
■【09-2-042】与王定国
【解題】蘇軾が希望した度牒の発行を朝廷は5月28日に決定し、それによって得た資金で葑を取り除いて湖面を開く工事が実施された［→作品番号09-2-039］。それが順調に進んだことが王鞏［字は定国］［→作品番号08-3-075など］に宛てたこの手紙に記されている。
【訳文】
朝廷より託された一事がありました。杭州の人々は五六十年前から西湖の葑を取り除きたいと考えていました。しかし、そのような志があったのは民間の人間であったために、事業を運営することができませんでした。また、数人の官人が手を着けようとはしたものの事業として成り立つには至りませんでした。私だけがたまたまその要所を得ることができたのです。湖面を開いて一カ月余りとなり、必ず成功する勢いで、官も民も目の上のこぶが取れたように心持ちをよくしています。……
【補足】［この手紙の後半は、意味がきちんと読み取れなかったので割愛した。弟の蘇轍への伝言を頼んでいるようなので、このころ王鞏は都にいたのだろう］
■【09-2-043】書所和回先生詩
【解題】回先生の詩に和した詩について書いた短文。回先生とは誰なのか。それはここに記されている。
【訳文】
回先生はこのような詩を作った。
西隣已富憂不足、［西隣りでは富んでいるのに不足を憂いている］
東老雖貧楽有余。［東隣りの老人は貧乏だけれどたっぷり楽しみがある］
白酒釀来因好客、［なぜなら、うまい酒ができれば好い客人がくるし］
黄金散尽為收書。［金をそっくり使い果たして書物を買っているからだ］
東坡居士はこの詩に和した。
世俗何知貧是病、［世俗の人は貧乏は病のようなものだということを知らない］
神仙可学道之余。［神仙は学ぶべきであっても本来の学問の余りでしかない］
但知白酒留佳客、［よい酒は佳い客人を留めることは知っているけれど］
不問黄公覓素書。［達人に直接問わずにその書物だけを求めるとは……］
熙寧元年八月十九日、ある道人が沈東老のもとを訪ね、酒を飲んだ。石榴の皮で右に示した詩を壁に書き、自ら回山人と称した。沈東老は回山人を送って門を出て、石橋の上に至った。回山人は先に橋を渡って数十歩ほど行くと、そのまま行方がわからなくなった。ある人は「これは呂洞賓先生である」といった。
熙寧七年、私は晋陵［湖州］を通過したときに、沈東老の子の沈偕に会い、沈偕がこのことを話してくれた。ときに沈東老はすでに亡くなって三年が経っていた。そこで、私は右に記したような詩を和した。
それから十六年後、また沈偕に銭塘［杭州］で会ったので、このことを書いた。沈偕の字は君与で、家は代々詩文をよくすることで知られている。
元祐五年五月二十五日、東坡先生書す。
【補足】［ここに書かれている熙寧七年の出来事は作品番号04-3-084としてすでに見ている。沈東老は、湖州帰安県の東林に住む沈思［字は持正］である。呂洞賓は伝説の仙人］
■【09-2-044】減字木蘭花
【解題】この詞には、後人の記した次のような短文が添えられている。「銭塘の西湖には詩僧の清順が住む堤があり、清順はそこを蔵春塢と名付けた。門の前に二本の古い松があり、それぞれに凌霄花が絡みついて上っている。清順はいつもその下で昼寝をする。蘇軾はここの知事となり、ある日のこと、従者を退けて清順を訪ねた。風が騒がしく松を吹き、清順は落ちた花を指して句を求めた。蘇軾はこの詞を賦した」。清順の名は作品番号09-2-007などで見ている。
【訳文】
双竜対起。［二匹の竜［二本の松］が向かい合せに立っています］
白甲蒼髯煙雨裏。［白い鱗に蒼い髯が、煙る雨の中にあるかのようです］
疏影微香。［淡い影と微かな香り］
下有幽人昼夢長。［その下で、ゆかしい人が昼の夢を長々と見続けています］
湖風清輭。［湖からの風は清くやわらかです］
双鵲飛来争噪晩。［二羽の鵲が飛んで来て騒ぎ立てます］
翠颭紅軽。［翠が揺れて紅が軽やかに飛びます］
時上凌霄百尺英。［見れば凌霄の花が百尺にわたって連なっているのです］
■【09-2-045】賀新郎
【解題】「夏景」という副題がある詞。蘇軾は「詞を詩にしてしまった」と、一部に批判的な見方もあったなかで、いかにも詞らしい作品である。不遇な美女を花になぞらえて、あるいは逆に花を美女になぞらえて、詠むというのは詞の世界ではごくなじみのある主題である。この詞の美女は一見すると艶めかしいようでいて、西洋のビーナス像のように気品を具えているといえようか。様々な解釈が可能であるところが名作とされる理由でもあるのだろう。寝坊して宴席に遅れてしまった妓女が柘榴の花を差し出しつつ詫びたのに対して座興で詠み与えたという伝説［ほとんど信じられていない］もあれば、蘇軾自身の境遇を詠んだというわかりやすい説もあり、夢と現実が混然一体となった荘子の哲学を歌ったという小賢しい解釈もある。どの説に依拠するかで訳文は変わってくるだろう。
【訳文】
乳燕飛華屋、［わたしは夏の燕、あのお屋敷へと飛んで行きましょう］
悄無人、［静まりかえって人の気配はありません］
桐陰転午、［午後の日差しに、桐の葉影だけが動き］
晩涼新浴。［涼しくなった夕方、湯浴みをしたばかりの女性が現れ出ます］
手弄生綃白団扇、［やるせなく動かす真っ白な絹の団扇］
扇手一時似玉。［手もまた玉のような白さです］
漸困倚孤眠清熟。［次第にけだるく独り寝入っていきます］
簾外誰來推繍戸、［窓の外に誰かが来て戸を押そうとします］
枉教人、［やめて！］
夢断瑤台曲。［あの人のせっかくの夢が終わってしまいます］
又却是、［ああ、ちがいました］
風敲竹。［風が竹を叩いたのでした］
石榴半吐紅巾蹙。［柘榴がなかば口をあけて縮れた赤いハンケチを吐き出しました］
待浮花、［ほかの浮ついた花やら］
浪蕊都尽、［賑やかしの花やらがすべて終わってから］
伴君幽独。［あの人のためにそっと咲いたのでした］
穠豔一枝細看取、［色濃い枝をじっと細やかに見るなら］
芳心千重似束。［花の心［心と芯をかけている］は千回も折り重なっているではありませんか］
又恐被、［そうでした、すぐにも］
秋風驚緑。［秋風が吹き出したら緑の葉だけになってしまうのです］
若待得君来向此、［さあ、あなたもここに来て］
花前対酒不忍触。［花の前でお酒をお飲みなさい、でも花には触らないでね］
共粉涙、［はらはらとあなたの涙とともに］
両簌簌。［花びらも落ちてしまうでしょうから］
■【09-2-046】次京師韻送表弟程懿叔赴夔州運判
【解題】程之邵［字は懿叔］が蜀の夔州の役人となって任地に赴くことになり、この詩を送った。程之邵は蘇軾の姉の夫であった程之才の弟で、かつて蘇軾が都にいたときに、程之邵が泗州知事として赴任するのを見送る詩を作っていた［→作品番号08-3-037］。これはその詩に次韻したもの。なお、杭州の役場に程之邵［字は遵彦］がいることを作品番号09-2-021で見ているが、同姓同名の別人である。
【訳文】
貴君も叔父も甥も誰もが、
すっかり老いて古ぼけた顔になってしまった。
我等は東の地で知事の職に就いたわけだが、
もとはといえばかの佳き江山において成長したのだった。
山の松には鮮やかな花は咲かない……
だから髪に挿して飾ることはできない。
我等はいわば松のようなもの……
老いてもなお死なずにいられるのをよしとしよう。
栄枯の間で浮沈することなど笑ってしまえばよいのだ。
私ははなはだ白居易に似てきてしまったようだが、
ただ違うのは、白居易は若い二人の女性を近づけていたことだ。
さすがに八十とか九十とかになるより前には官職を去るはずで、
一紀［十二年］の閑くらいは持ちたいものである。
貴君もまた進退は不器用な方で、
才能はありながらも、頑なな運命の定めに左右されている。
譬えるならば、
万斛の大きな船が、九つに折れ曲がる水路を行くようなもの。
貴君の兄上は最近、仏法を聞き、新たに道を得て、
この世界は大海に浮かぶひとつぶの泡のようなものだと悟ったという。
ならば、歳の暮れへと向かうこれからの日々に、
故郷の家への道に草木に繁らせないようにしてはいかがであろうか。
【補足】［「貴君の兄上」といっているのは程之元のことで、程之元については次の短文に記されている。程之元も地方官として出ていたので、「我等は東の地で知事の職に就いた」と詠んでいるのである］
■【09-2-047】跋送表弟程懿叔赴夔州運判詩後
【解題】蘇軾は程之邵に贈った上の詩を書いてその兄の程之元［字は徳孺］に送り、それにこの短文を添えた。程之元が楚州知事として赴くときに蘇軾が贈った詩を作品番号08-1-028で見ていたが、その後、広南東路の役人となっていた。広南東路はいまの広東省のあたりで、五嶺といわれる山岳地帯の南の地域なので、この短文に嶺外の地と記されている。
【訳文】
時に程之元は嶺外にあって、たまたま使いの者が杭州に来たので、この詩を録して示すことにした。程之元からの手紙には、仏教を学んで悟るところがあると記し、偈、頌を十数篇寄せて来ていた。それでこの詩に「新得道」［新たに道を得た］の語があるのだ。
■【09-2-048】次韻劉景文登介亭
【解題】劉季孫［字は景文］［→作品番号09-2-036］が介亭に登って詠んだ詩に次韻した。介亭は鳳凰山にあって、北に西湖を、南に銭塘江［浙江］を見下ろすという。
【訳文】
ここ水の国は梅雨が終わったところ、
老年の身は、この蒸し暑さに苦しめられる。
高くそびえる介亭は新たに瓦を葺いたばかり、
そこへと向かうなら、足はすこぶる軽い。
介亭の脇、横の松の根もとにある井戸は深さ百尺、
二つのつるべを引き上げるなら、
浄らかな青い水が飛び走る。
そこに觴を流す遊びを始めると、
子どもらがわっと集まってきて、
腹を抱えて皆で大笑いする。
涼しい風が吹いてきて、
あたかも風に飛び乗れるような気になる。
そうか、巌のもとに猛々しい気が宿っているのだ。
ここは世の内でありながらも、存在の外にある。
だから夏の暑さとも無縁なのだ。
長く歌うと、声は雲へと入り、
弦管の音も追いつけはしない。
北に見る西湖はまことに西施ではないか、
煙る樹木は西施の眉と目だ。
南に見る銭塘江に穏やかなときはない、
高い浪は屋上に雪を翻すばかり。
一瞬にして四つの大海を飛び越える伝説の鳥のように、
ああ、百世も速やかに過ぎ去って行く。
遠く銭氏の（呉越国の）時代を追憶し、
この介亭を建てた近き世の知事を思う。
吾が生は寄せるが如きのみ。
重んじるのは寸暇、一尺の玉などは軽んじる。
劉将軍［劉季孫のこと］のこの詩のすばらしさは、
掛け軸を飾るために用いるようなものではない。
劉将軍がひとたび手を揮うと千の言葉が溢れ出て、
春の山に色とりどりの鳥を舞わせ、
月の照る谷で猿を悲しく泣かせる。
劉将軍は朝は鵙の高鳴きよりも先に起き、
夜は蜩の声より長く励み続ける。
私は老いてもう詩を吟じることはなくなっていたのだが、
貴君に頼ってたまには詠み合うとしようか。
よし、ここの谷を起点として、
いまから遠く見に歩こうではないか。
散策三昧こそは至上の楽しみ、
いわゆる五欲［色、声、香、味、触の欲］などとはおさらばである。
とはいえ、
昔、詩句で劉師服を圧倒した風狂の道士には、
私は及ばないのである。
【補足】［（1）蘇軾は西湖を古の美女の西施にたとえた詩をかつて詠み、すこぶる人口に膾炙した［→作品番号04-2-009］。この詩の中ほどで蘇軾は、まさにその通りだと、わざとらしく納得してみせたのである。（2）介亭を建てたのは30年ほど前に杭州知事であった祖無択であった。（3）「吾が生は寄せるが如きのみ」という得意の句が詩の中ほどに置かれている。（4）最後の部分は、唐の時代に韓愈が書いた文章に基づく。劉師服はある風変わりな道士と句の詠み合いをしたが、とてもかなわずに降参したという。同じ劉姓の人物を引いて、蘇軾は劉季孫を屈服させることなどできないと歌ったのである。（5）この詩は、次韻の詩につきまとう短所であるところのごたごたした印象は免れないものの、叙景と叙情を兼ね備えた格調高い作品であるといえるだろう］
■【09-2-049】袁公済和劉景文登介亭詩、復次韻答之
【解題】介亭で劉季孫が詠んだ詩に、杭州の副知事の袁轂［字は公済］［→作品番号09-2-038］が次韻したので、蘇軾がそれに和して答えた。
【訳文】
私は、酔っての夢に昏昏として墮ちてしまっているような状態でいる、
この六月の蒸し暑さをどうすることもできないのだ。
貴君の詩は、
朝の眠りが十分に足りたところに吹いてくる涼しい風のようだ。
貴君は山水に登臨すれば必ず佳句を得る。
介亭から見るなら、
銭塘江は白く輝き、北に西湖の水を照らし出す。
貴君は、手を袖に入れて独りじっと黙っているうちに、
腹の内にすでに詩稿ができあがっている。
このとき、風雨が過ぎ去り、
藹藹として雲が麓に帰ると、
星はまばら、月はかすか、
炎暑はもはや収まったのだった。
惜しいことに、
清らかなこの光景も、たちまち変化して消滅し、もはや逐うことができない。
しかし、帰ってから、貴君の詩を読むなら、
耿耿としてなおその清らかな光景が目の内に存在するのである。
思えば、貴君とは若いときに、
試験場においてその声価を争ったのだった。
貴君は、水を翻すかのようにして文章を書き、
手を交差させる間に賦を作った。
秋風に雁が飛び立つころに行われたその試験で、
私は貴君の後ろに従って合格した。
その貴君が、
本物の玉を王に献じたにもかかわらず、
石であるとして足切りの刑にされてしまった卞和のように、
どうして泣かなければならなかったのか。
貴君と南新県の道で会ったときに、
貴君は青い衫に破れた袖を垂らしていた。
こうも大きくつまずくことを早くに知っていたなら、
貴君は十年の歳月を（官界に出ようとせずに）読書に使っていたであろう。
漢の時代に少しも昇進しないままに老いた馮唐を嫌うことはない、
早くに中央召されながらついには放逐されてしまった賈誼よりもまさっているのだから。
今年になって貴君と同僚になり、
旧い好みを重ねて続けることとなった。
世間の昇り沈みなどは言うに足りないことだ、
蝸牛の左右の角が争う程度のことでしかないのだから。
さあ、ともに湖山の主となって、
川や谷を窮めようではないか。
人が駆けても貴君は争わない、
人から棄てられることこそが我が望むところである。
いつか宮廷の門に官服と冠をひっかけて、
一緒に故郷に帰ろうではないか。
【解題】［（1）これは蘇軾の気持ちのやさしさが溢れ出た詩である。もとの袁轂の詩は、蘇軾との旧い関係については何も触れていないが、蘇軾のこの詩はもっぱらそのことを歌っている。（2）若いときに袁轂と試験場で争ったというのは、都で行われた科挙の一次試験のことだろうか。そのとき袁轂のほうが上位の成績であったのだが、二次試験には合格できず、以来袁轂は苦しい歳月を送らなければならなかった。ただし、一次試験を一緒に受けたと作品番号09-2-022に記されていた5人に袁轂の名はない。（3）南新県で会ったとあるのは、蘇軾が杭州副知事であったときのことであろう。袁轂は官職を得たものの低い地位にあったのだろう。（4）現在副知事の地位にまで昇った袁轂とともに仕事をするようになり、官職を辞めるときには一緒であると蘇軾はこの詩の終わりで約束した。袁轂は後に処州知事に昇進している］
■【09-2-050】葉教授和溽字韻詩、復次韻為戯、記竜井之遊
【解題】この詩の題は、「葉教授が溽の字を韻に用いた詩に和した。それにまた次韻して、（劉季孫が）竜井に遊んだことを戯れに記した」。葉教授は未詳。「溽の字を韻に用いた詩」とは上に見た介亭での詩。介亭の詩から延々と次韻のリレーが続いたのである。「溽」の字は上の一連の詩では、もっぱら蒸し暑いという意味で用いられていた。ここでは淡白の対義語として、飲食の味が濃厚であるとの意味で用いている。詩の題にある竜井は作品番号09-2-014で見ていて、西湖の西の風篁嶺の近くにあった。風篁嶺の周囲にはいくつかの泉があり、竜井はその最も大きなものであるという。なお「嶺」は日本語でいう「峠」に当たる場所。
【訳文】
先生［葉教授］は魯［孔子を生んだ儒学発祥の地］の儒者の一人、
飲食は清らかで溽ものは食べない、
いつも空っぽの腸から句を吐き出し、
よくよく咀嚼するなら五つの味が全て具わっている。
立派な屋敷で賑やかに音楽を奏で、
目をぎらつかせているような連中を見かけると、
腹に毒を含んだ冷淡な顔をしているわいと、
急いで走って逃げてしまう。
家に帰ると、瓠の葉を燃やして豆を煮て、
弟子とともに太古の詩を歌う。
それは人を戒め、聖人を讃え、
あるいは、
「功名などは走り行く兎、千人の者が追っても我は知らぬ」
と、うそぶくのである。
先生は我等のような者も受け入れてくださり、
ともに静かに座って、目を閉ざして時を過ごすのである。
高亭［介亭あるいは葉教授をいうか］は岩を積み上げた高みにあって、
木の枝の先に屋根をかけたかのよう、
客人を招くということはないのだが、
我等はいつとも定めずに訪れるのである。
雪のような髯の叟［劉季孫のこと］が、
西の嶺に竜井を訪ねたということを聞いた――
朝日が山に射し込むと、
水に涵されたように地上の瓦が輝き、
雲は無限の広がりを見せ、
西湖は夜のあいだも閉ざされることはない。
仏陀が法を説き、仙人が書を読むのにふさわしい竜井の地に、
庵を結ぶ老人［弁才老］がいて、
座禅を組むときには、天魔も畏れて哭き、
善き菩薩が時に集まって、ここに法燈をともし続けている。
吾らは詩や酒に汚された者、
その庵を訪れたく思っても、障りがあるのを恐れる。
願うのは第一義［仏法の最上の教え］を聞くことであって、
山中の食事にありつこうというのではない。
そうだ、官服などは脱いでしまえばよいのだ、
私は子供のころからむしろ妙な衣服を好んだのだから。
【補足】［蘇軾は次韻の名手であるが、さすがに何度も次韻を重ねたせいで並みのやり方では詩を組み立てられないと、超絶的な語彙力を駆使してのH難度の作品としてなんとかものにしたということであろう。訳者如きには難しすぎて大意を汲むことさえままならないのだが、弁才大師元浄［→作品番号09-2-014］が登場しているので、ひどく出来の悪い「ずっぽ訳」ながらもここに掲げておく］
■【09-2-051】祈雨祝文
【解題】梅雨の後、杭州のあたりは雨が降らなかったようだ。西湖の工事では手腕を発揮した蘇軾も、干天に対しては神に祈るしかなかった。
【訳文】
杭州の土地柄は山を負って江を帯び、水は潤沢であっても留まることがありません。雨が降らないことが十日を超えると、農民は憂い顔になります。水が少なくなると舟を挽くためには河を浚渫しなければなりません。とかく公私に困ることばかりで、そうなるともはや役人たちには救う力がありません。坐視してばかりではいられませんので、ただただ神に助けを求めるのです。民の困窮を憐れみ、役人の無力を赦して、ここにひと降りの雨を賜りますよう、切にお願いいたします。そのお礼を忘れることはありません。
■【09-2-052】鵲橋仙
【解題】七夕に蘇堅［字は伯固］［→作品番号09-1-018］が詠んだ詞に和した。蘇堅の名は運河の改修工事を提案した人としてその名を見ているが［→作品番号09-2-040］、詩詞の才もあって蘇軾と気が合い、応酬の作が数多く残っている。
【訳文】
成都何在。［成都はどこにあるのでしょうか］
万里江沱漢漾。［万里の向こう、長江、漢水の遥かな源です］
与君各賦一篇詩、［あなたに差し上げるこの一篇の詩を］
留織女、［織り姫に渡して］
鴛鴦機上。［鴛鴦の織物に縫い込んでもらいましょう］
還将旧曲、［これは昔作った曲］
重賡新韻、［あなたの新しい曲へのお返しといたします］
須信吾儕天放。［私たちは天から放たれてしまった者なのでしょうか］
人生何処不児嬉、［人生はまったく子供の遊びのようです］
看乞巧、［御覧なさい、七夕の夜に］
朱楼彩舫。［流される飾り舟を］
【補足】［（1）後半の始まりにある「旧曲」「新韻」の意味するところはよくわからない。かつて2人の間で贈答し合った詩詞を踏まえているのだろうか。（2）最後の部分は、七夕に飾り付けた舟を川に流す風習があり、その姿を官界に浮遊する自分たちになぞらえて歌ったものであろう］
■【09-2-053】次韻林子中見寄
【解題】潤州知事の林希［字は子中］［→作品番号09-2-029］から寄せられた詩に次韻した。
【訳文】
都で詩友となった者たちはいまやいずれもさすらいの身、
あのころは、痛飲、痛吟する連中に苦しめられたものだ。
貴君は昔の盛憲と同じく名のある人、
私はというと、昔の陶淵明と同じく世間とはうまく合わせられない者である。
かつて私は蒜山に隠れ住む旅人になろうとしたが、
長江には岷江の水が混じっているように、
私はいまもって根は蜀の人間である。
西湖では千頃の葑を取り除き終わったから、
魚がさらに数を増してゆくのを笑って看ることになるだろう。
【補足】［（1）林希になぞらえた盛憲の名は作品番号08-2-067で見ている。（2）蘇軾が潤州の蒜山に隠棲しようとしたことは作品番号07-1-070や09-2-029で見ている。（3）最後の結びは西湖に根を張った水草を取り除く工事が終わったことを詠んでいる］
■【09-2-054】安州老人食蜜歌
【解題】「異人」を好む蘇軾らしい詩。詩の題は「安州老人が蜜を食することを歌う」。ここにいう安州老人とは、安州出身で銭塘に住む仲殊という僧で、即興で詩を作るのが巧みで、五穀を断っていつも蜂蜜を食べていた。少し詳しいことが陸游の随筆『陸放翁詩話』に記されているので、それを先に読んでおこう。
【訳文】
陸游：『陸放翁詩話』より
一族の陸彦遠がこのように話していた。
「若い頃に仲殊長老を見たことがある。蘇東坡は長老のために『安州老人食蜜歌』を作った。そのとき、蘇東坡は数人連れで長老を訪ねたのだが、食べる物にはどれも蜂蜜が用いられていた。豆腐、麺觔、牛乳の類のいずれもが蜂蜜を漬して食べるので、連れの人々の多くは箸を下すことができなかった。ただ蘇東坡だけはもとから蜂蜜が大好物で、長老とともに満腹するまで食べた。崇寧年間に、長老はふいに寺の人々に別れを告げると、方丈の門を閉じ、自ら縊死した。火葬にすると、五色の舎利［骨］が数知れず残った」
……［中略］……
陸彦遠はこのようなこともいった。
「仲殊長老は若いときは士人であった。遊蕩にうつつを抜かしてあまりにひどかったので、妻が羹胾の中に毒を入れ、長老はほとんど死にかけた。蜂蜜を食べて毒を消した。医者は『次にまた肉を食べると毒が力を発揮して、今度はもう治療できない』といった。長老は家を棄てて僧になった」
……［中略］……
『呉郡志』に、「仲殊、字は利利、承天寺の僧。人々は蜜殊と呼んでいた。詩に巧みで『宝月集』があったが、いまは伝わらない。……［中略］……後に枇杷の木の下で自経して死んだ……［後略］……」とある。
【補足】［仲殊が死んだ崇寧年間というのは、蘇軾が杭州を去ってから十数年後である。陸游が生まれたのはそれから20年ほど後であるから、陸游より一世代上の陸彦遠［原文では族伯父とある］が仲殊から直接話を聞いたということは十分にありうる。自経したのは世をはかなんだわけではなく、死ぬべきときが来たと知って自らの意志でこの世と別れたのであろう。なお、陸氏は会稽［越州］の名族である］
【訳文】
安州老人の心は鉄に似ているのだが、
老人には小児の舌が付いているのだろう、
五穀を食べずに蜂蜜ばかり食べている。
蜜蜂を指して、
「これはわしの檀越［施主］である」
と、笑っていう。
人は蜜の中に詩があることを知らない。
千花百草の姿がそこにそっくり含まれている。
老人はそれを咀嚼して時にぱっと吐く。
世間の愚かな小児のような人々は、
蜜に引かれる蜂のようにその詩に集まってくる。
蜜［詩］には百病を治す薬効がある。
俗事に狂奔しているときに、
老人の詩を見てふっと笑うなら、
百の憂いがさっと消えてしまう。
東坡先生は人に対して慎み深い方であるのだが、
果たして幾人が東坡先生の言葉を歓び、
幾人が東坡先生の言葉を嫌うのか。
ちょうど茶を飲んで、甘いとも、苦いとも感じるのに似ているだろうか。
それでも、蜂蜜を食べれば中も端も全てが甜いのには及ばない。
蜂蜜好きの老人に敢えて「双竜餅」［茶の名］を差し上げるとしようか。
鏡を見たら、なんと「双つの竜の影」［安州老人と東坡先生の影］が映っているではないか。
三呉の地の六月は暑さのあまり水も湯のようになってしまうが、
老人の心は「双竜井」［銘茶の産地の水］のように清冷である。
【補足】［（1）蜜と詩、蜜と茶をごちゃごちゃに対比させて楽しく詠んだ詩。（2）蘇軾が自分自身について、「東坡先生取人廉、幾人相歓幾人嫌。恰似飲茶甘苦雑、不如食蜜中辺甜」［東坡先生 人に廉を取る、幾人か相い歓び 幾人か嫌う。恰も似たり 茶を飲んで甘苦の雑じるに、如ず蜜を食して中辺の甜きに］と詠んでいるところが面白い。この部分には蘇軾自身の注で「仏陀は『吾が言は譬えれば蜜を食らうようなもの。中も辺も皆甜いのである』といった」とある。つまり、蘇軾は、自分は甘みと苦みの混じった言葉を吐いてしまうので、歓ぶ人もいれば嫌う人もいると、そのように自覚していたのである。（3）終わりのところは三つの「双竜」を並べた遊び。（4）「三呉の地」とは呉興、呉郡、会稽、あるいは蘇州、常州、湖州を指す。要するに杭州周辺をおおまかに示す語として蘇軾はよく用いている。（5）この詩を「晩唐の詩の下流である」と低く評価する向きもあるが、仲殊長老に倣って蜜のように甘い味の詩を作ってみせたのだろう。（6）蘇軾が蜂蜜好きであったとするのは、黄州時代に蜂蜜酒を詩に詠んでいること［→作品番号06-3-044］などからきているのだろう］
■【09-2-055】次韻銭穆父紫薇花二首
【解題】銭勰［字の穆父］［→作品番号09-2-030］が詠んだ紫薇花の詩に次韻した。蘇軾自身の注によると、虚白堂の前に二株の紫薇花であって、俗に白居易が植えたものだといわれていた。銭勰の詩はそれを詠んだもの。虚白堂は西湖の南の鳳凰山にあった。このときに銭勰は越州にいたから、かつて虚白堂で詠んだ詩があったのだろう。二首のうち第一首を訳す。
【訳文】
其の一
虚白堂の太く大きな紫薇花の木、
日が落ちかかるとき、
秋の風に吹かれると、斜めに横に花が照らされる。
これまでにこの花を幾人が見たのだろうか。
それを知るのはこの大地だけ。
物化［自然の営み］には涯がなく、人の生には涯がある。
■【09-2-056】送張嘉州
【解題】嘉州知事として赴任する張姓の人を見送った詩。嘉州は蘇軾の郷里に近く、作品番号01-1-002で嘉州を発った際の詩を見ている。張氏はどのような人物であるかは不明で、この詩から推測するに江南を故郷とするようである。
【訳文】
李白は手紙にこう書いた――
「天下の人々は集まるとこのように語り合う。
この世に生まれたからには、
一万戸の州の領主になるより、
韓朝宗［人を見る目があるとされていた］の面識を得たいと願っている、と」
私は少年のころ、
一万戸の州の領主になることも願わなかったし、
韓朝宗の面識を得たいと願いもしなかった。
本気で願っていたのは、
できれば嘉州知事となって、
しばしば酒を載せて凌雲寺［嘉州の寺］に遊びに行きたいと。
ところが、無用な虚名にほだされていまや白髪頭となり、
夢の中でのみ竜泓口［凌雲寺の裏手の谷］に行くのである。
高官の衣服を身に着けるなど、浮き雲のようにはかないこと、
江山の内に身を置く時間こそが、手に入れ難いものなのである。
李白は詩にこう詠んだ――
峨眉山月半輪秋、［峨眉の山月
半輪の秋］
影入平羌江水流。［影は平羌の江水に入って流る］
李白のこの語を理解するのは誰なのか。
貴君は是非とも、
明月楼［嘉州の高楼］に登って月を見るがよい、
そして、万事のうち何が真であるのかを笑って語るがよい、
全ては東巌の酒［嘉州の地酒］に委ねればよいのだ。
こちらにまた帰ってきたならば、
この老人の好意を避けることなく、
一銭ばかりの酒を飲みかわそうではないか。
【補足】［（1）李白をさかんに持ち出しているのは、李白も蜀の人だからである。（2）最後のところは、昔、会稽［越州］に清廉な太守がいて、人から百銭を贈られたときに、そのうち一銭だけを受け取ったという故事を引いている］
■【09-2-057】奏浙西災傷第一状
【解題】杭州知事としての蘇軾の特筆すべき仕事の一つに災害への迅速な対応があった。赴任してまだ日の浅い昨年の11月4日に、気象災害が大飢饉に発展する予兆があるとして、それへの方策を記した書状を朝廷に提出し［→作品番号09-1-041］、国のバックアップを得て各種施策を実行し、その結果として今年の春には目立った被害を出さずにすんだ。この年も、7月に災害が再び発生する恐れがあると見るや、すぐに動き出した。朝廷に差し出した書状の冒頭の部分を見ておこう。
【訳文】
元祐五年七月十五日、竜図閣学士左朝奉郎知杭州の蘇軾が書面をもって申し上げます。
臣はこのように聞いております。「事は予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す」［あらかじめ準備しておくなら成功し、あらかじめ準備しておかないなら失敗する］。これは昔から今も変わらない真理であります。
とりわけ、災害を救い、被災者を援助することでは早さが最も大切です。災害にあった民衆をまだ飢餓に至る前に救うなら、用いる物資は少なくてすみますし、効果は広い範囲に及びます。税の徴収を緩めたり軽減したり、備蓄されている穀物を売りに出したりするようなことであれば、官にとっては大きく失うものはなく、しかし民衆はお上より大きな恩を賜わるのです。今年はそうすることによって成功しました。もしもすでに民衆が飢餓に陥ってからようやく救済に乗り出したなら、物資をたくさん使っても効果は小さく、官の倉庫を空にし、税収が大幅に落ち込んで、官が苦しむことになりましても、飢えた人々はついには死に至ってしまうのです。熙寧年間にはまさにこのようなことになったのでした［以下、改革政治が進行していた熙寧年間の飢饉について、対応が遅れたために、浙西路だけでも死者が五十万人以上も出たことを述べる］。一方、昨年は浙西路の数郡においてまず水害が起こり、次に干害が発生し、その災害の度合いは熙寧年間と比べても小さくはありませんでした。しかし、二聖［皇帝と太皇太后］の仁智聡明によって、去年の十一月にすぐに御指示が下されたのでした［以下、朝廷の執った方策、実は蘇軾が提案したもの、について述べる］。こうして一人の餓死者、流民を出さずにすんだのでした。これは事に先んじて対処したからに他なりません。
これを見れば、「事は予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す」の二者によって、禍福がこれほどまでに決定的に異なることがわかるのであります。
……［以下、再び早くに対策を立てなければならなくなった緊迫した状況にあることを報告し、今回の対応策の概要を述べる］……
【補足】［（1）上の書状を書いた10日後の7月25日に、蘇軾は短い第二報を朝廷に出している。そこでは、7月21日から23日にかけて嵐があって、災害はいよいよ差し迫ってきたとして、朝廷に迅速な対応を求めている。しかし、被害が何も出ていないのに蘇軾が一人で騒いでいるとの意見があって、朝廷は動こうとしなかったので、9月に宰相の呂大防に向かって急いで対応してほしいと強く訴える手紙を書いている。（2）蘇軾が最も恐れるのは、地方が中央の顔色を伺って何事も順調であると偽りの報告をし、どうにも隠しようがないほどの甚大な被害が生じるに及んで、ようやく効果のあまりない手を打つようなことが常態化してしまうことであった。改革政治が行われていたときにはまさにそのようなことがあったのを蘇軾は実際に見ていたので、先手先手で対策を実行して行くことの重要性を強く朝廷に訴えたのである。しかし、そうした考えは浸透せず、民衆は折々の自然災害に苦しめられ、社会を不安定化させる重大な要因である流民の増大を招き、宋は外部からの攻撃だけではなくて、内部からも崩壊して滅亡へと向かって行ったのだった。（3）なお、細かいことだが、両浙路はかつては東浙路と西浙路に分かれていた。この文章ではもっぱら西浙路について述べている］
■【09-2-058】南歌子
【解題】8月18日に銭塘江名物の海嘯を観て、蘇堅［字は伯固］［→作品番号09-2-052］の詞に和した。
【訳文】
海上乗槎侶、［海で槎に乗る友といいますと］
仙人萼緑華。［仙女の萼緑華でありましょう］
飛升元不用丹砂、［仙薬などなくても自在に飛べて］
住在潮頭来処、［潮の頭の上にいて、こちらに来たかと思うと］
渺天涯。［もう天の涯にいるのです］
雷輥夫差国、［雷がこの国にとどろきわたります］
雲翻海若家。［海の神の家が雲にひっくり返されたのでしょうか］
坐中安得弄琴牙、［この潮を見て誰が歌えるでしょうか］
写取餘声帰向、［潮の声を少しでも写し取れたなら］
水仙誇。［仙人たちに誇れるでしょうね］
【補足】［激しく遡る潮の上に仙女がサーファーのように乗るありさまを空想した戯れの詞。大意をとって訳した。原詞にある「海若」は海の神で、『荘子』には、北海若が井の中の蛙に海の話をしても通じないと、巨視の哲学を語る寓話がある。また、唐の柳宗元は、東海若が仏教について語る寓話を書いていて、蘇軾がそれについて記した文章を後に見ることになる］
其の二
苒苒中秋過、［せかせかと中秋が過ぎ］
蕭蕭両鬢華。［しおしおと髪は白くなります］
寓身化世一塵沙。［この世界に寄せる身はひと粒の砂］
笑看潮来潮去、［潮が来て潮が去るのを笑って見る間に］
了生涯。［生涯を終えてしまうのです］
方士三山路、［道士には仙界への路があり］
漁人一葉家。［漁師にはひとひらの舟があります］
早知身世両声牙。［早くから世間とはうまくいかないと知っていました］
好伴騎鯨公子、［よし、鯨にまたがる公子［李白］を好敵手として］
賦雄誇。［勇ましい詞を賦すとしましょう］
■【09-2-059】南昭慶寺題名
【解題】西湖の南にある昭慶寺を訪れた記録。
【訳文】
明夫、子方、明弼、康道、嘉甫、子瞻が一緒に南昭慶寺に遊んだ。
庚午八月某日題す。
【補足】［人名は全て字で記されている。明夫は弓允という官員、子方、明弼、康道、嘉甫の本名は不明、子瞻は蘇軾である］
■【09-2-060】題張白雲詩
【解題】張兪［号は白雲］の詩に添えた短文。
【訳文】
張兪は西蜀に隠れ住んだ君子で、字を少愚といった。私の父［蘇洵］と交流があり、岷山の下の白雲渓に住み、自身で白雲居士と号した。もともとは世に出て政治に携わる志があったのだが、己を重んじて他人と合わないところがあったために、草野に老いて死ぬことになったのであって、わざと垢まみれになって隠者の名を盗もうとする者ではなかった。
たまたま西湖の静軒に遊んだところ、白雲居士の遺句が記されていた。それを見てその人を懷い、寺の僧にその句を石に刻むよう命じた。
元祐五年九月五日。
【補足】［先に亡くなった范鎮［→作品番号09-1-036］が成都知事であったときに張兪を訪ねて詩を贈答し合ったという。杭州にも伝わって蘇軾が石に刻ませたのはどのような詩であったのだろうか］
■【09-2-061】与銭穆父
【解題】9月9日の重陽の節句に、越州にいる銭勰［字の穆父］［→作品番号09-2-055］に送った手紙。
【訳文】
頂戴するお手紙は数知れず、貴君の動向を日々にお聞きできますのを嬉しく思っています。このごろはいかがお過ごしでしょうか、秋高いころ、必ず御佳勝のことと存じます。はなはだ閑であるのではないでしょうか。私は五鼓［午前五時ごろ］に起き、日中は何事もなく、永い日中に嘯咏の楽しみを得ています。今日は重九で、遠く貴君に一献さしあげましょう。新しい詩がたくさんあるでしょうから、寄せていただければ幸いです。千万国のために自重されますように。
【補足】［呑気に遊んで暮らしていると書いているのは、むろん気心の知れた友への戯れである］
■【09-2-062】九日袁公済有詩、次其韻
【解題】同じ日に杭州副知事の袁轂［字は公済］［→作品番号09-2-049］が詠んだ詩に次韻した。
【訳文】
昔からいわれている――
静かに治まっているときには清らかな閑を得ると。
私は恥ずかしく思う――
静かに治めた昔の名知事のほんの端くれにも及ばぬのを。
それでも、
東に向かって酒を挙げて江海に捧げ、
落日に向かって樽を回らせて湖山に勧めよう。
平生からこもごもの悲歓と親しんでいるのだが、
いつかは公文書の山からこの身を抽き出すことができるのだろうか。
笑って指さすのは西南の方角、
これは帰り行く路だ、
飛び疲れて弱った羽はずっと還りたがっている。
【補足】［（1）冒頭の部分は漢の時代の蓋公の「治道は清浄を貴び、民は自ずから安定する」という言葉［→作品番号05-2-035］を踏まえている。（2）「昔の名知事」と訳したのは、原詩では晋の劉惔の名を挙げていて、その政務は「鎮静」と評された。蘇軾は何事もなく静かに治まることを理想としたが、杭州に来て以来、災害対策やインフラ整備など忙しく動き回らなければならなかった。上に見た銭勰への手紙では、現実とはかけ離れた自画像を描いてみせたのだった。（3）西南の方角がどうして帰り行く路なのか、袁轂の郷里がその方角だからである］
■【09-2-063】和公済飲湖上
【解題】上と同じ日に西湖に船を浮かべたようである。袁轂［字は公済］が湖上で飲んだことを詩に詠み、翌朝になってそれに次韻した。
【訳文】
昨夜は酔って帰り、そのまま寝てしまった。
枕辺で鳴る雨の音に、暁の夢から覚める。
貴君の詩を読み、
一艘の舟に乗って再び湖に漕ぎ出そうかという気分になってくる。
青い山が朝日に染まる雲をまとうのが見えるであろう。
老人といえども興趣は浅くはない、
また一緒に飲んでくれたまえ。
そして、太鼓を叩いて貴君と歌おうではないか、
豊年の楽しさを。
千人万人を呼んで、
倉庫に蓄えてある米を全部食べさせてしまうのだ。
【補足】［災害対策に心を砕く蘇軾は、豊作のおかげでもはや不要になった備蓄米を放出することを夢想しているのである］
■【09-2-064】点絳脣
【解題】同じく重陽の節句に蘇堅［字は伯固］［→作品番号09-2-058］と詩詞の贈答をした。これは、昨年の重陽の節句に蘇堅が詠んだ詞［→作品番号09-1-018］の韻をそのまま用いて作ったもの。
【訳文】
今年身健還高宴。［今年は元気に宴席にいられるのですから］
江村海甸、［川も村も海も町も］
総作空花観。［総ては仏陀のいう通り空中の花のようなものなのでありましょう］
尚想橫汾、［想い見るのは、かのときの漢の武帝が］
蘭菊紛相半。［蘭と菊が乱れ咲くのを歌ったありさま］
楼船遠、［その武帝を乗せた船は遠くに消え］
白雲飛乱、［白い雲とともに乱れ飛ぶ雁が］
空有年年雁。［去り行くままに一年一年が空しくなるのです］
【補足】［同じ重陽に蘇堅の詩に和した作もあるが、面白味が理解できないので割愛する］
■【09-2-065】書朱象先画後
【解題】朱象先の画に記した短文。朱象先は蘇軾と同じ時代の人で、山水画に巧みで、西湖隠士と号した。
【訳文】
松陵の人である朱象先は、立派な文章家であるけれど科挙の試験を受ける気はさらさらなく、善い画を描くけれどそれを売る気はさらさらない。朱象先はこのようにいう。
「文章は吾が心を十分に書き表すことができたならそれでよく、画は吾が意に適えばそれでよい」
唐の時代の閻立本はもとより文学で身を進めたい［経世の学で国家枢要に地位に昇りたい］と考えていたので、世間から画師として見られるのを恥じた。ある人は、このことをもって朱象先の考え方はおかしいというのだが、私はそうは思わない。
晋の時代に、皇城の太極殿が完成すると、謝安は、正面に掲げる額の文字を王献之［王羲之の子で書の名手であり、国の重職にあった］に書かせようとした。王献之は韋誕の故事［三国時代の魏の大臣であった韋誕は能書家として知られ、凌雲台が完成した折に、額に題字を書くよう皇帝に命じられた。額はすでに大工が誤って高所に釘で打ち付けてしまっていたので、韋誕は長い梯子の先に登って文字を書かなければならず、恐ろしさの余り、地上に降り立ったときには髪が真っ白になっていた。そして子供らに、「書などは決して学んではならない」といった］を引いて、次のようにいって断った。「韋誕は魏の大臣でありましたから、そもそもこのようなことはなかったはずです。もしも事実であったならば、魏の徳のなさが知れてしまいます」。閻立本にもしも王献之の気節の高さがあったなら、誰が敢えて画師として閻立本を使っただろうか。
やはり晋の時代に、阮瞻は琴を巧みに弾き、身分の高い人でも低い人でも、老人でも若者で、聴きたいという者があればそのために弾いてやった。その音色は、心と自然が融合し合い、誰がそこにいるかなど関係なかった。妻の兄の潘嶽のために弾くときは、夜中になるまで弾き続けても嫌がることがなかった。それで、人々は阮瞻は栄辱とは無縁であると知った。
いま朱象先は世に求めることは何もない。王公貴人も朱象先に画を描いてもらうことはできない。もしも朱象先が衣を解いて絵筆を持つようなことがあったならば、私も人と争ってその傍らに座りたいと思うのである。
元祐五年九月十八日、東坡居士書く。
【補足】［閻立本が画師としてのみ世間から評価されるのを嫌ったことは作品番号02-1-002で見ている。士大夫が勉学に励んで科挙を目指すのは、単に立身出世を求めてのことではなく、儒学の本筋として世に役立ててこそ学問の価値があると考えるからである。その意味では、最初に朱象先を批判したある人の意見が正しいのだが、蘇軾はこの文章で阮瞻や朱象先はより高い境地にあるとしている。なお、阮瞻の故事は作品番号06-2-031でも見ている］
■【09-2-066】介亭餞楊傑次公
【解題】楊傑［字は次公］［→作品番号09-2-038］が都に行くことになり、介亭［→作品番号09-2-049］で送別の宴を開いた。
【訳文】
籃輿に乗って街の西、登山門から出る。
よし、我が友とともに、仙人の住む村を尋ねようではないか、
介亭のある山の下には、桃花源への路があるといわれているのだから。
先の朝には、山に登ろうと蠟屐を履いたところで
黒い雲から盆を傾けるようにして雨が降り落ちてきたのだった。
今朝は、千里の広さに積み上がった霧が巻き上がろうとしていて、
風篁嶺の画のような姿が見え隠れしている。
霧に当たるとその熱を受けて病のもとになるというが、
そんなことを畏れるものではない。
貴君は無為子と号する在家の僧、
青山とは長く兄弟の間柄である。
峰々を登り尽くし、その先に何があるのか、
天の鏡のような西湖、
大地を呑み込むような銭塘江。
高いところから臨み見て、手を振るって感謝する、
「好住、好住」［この住み好きところ］
この言葉を、清らかな風が一万の谷へと伝えてくれる。
聴くがよい、
風が谷を回り、響き答えてくれるのを。
私もこの風のように、
貴君の声にいつでもどこででも応じるであろう……
■【09-2-067】謝呉山水神五竜三廟祝文
【解題】西湖の改修工事が完了し、9月のある日、西湖の神を祀った「呉山水神五竜三廟」に酒食を供えて感謝した。そのときに神に告げた文。
【訳文】
西湖堙塞、積歳之患。［西湖は埋もれて塞がり、長年の患いとなっていました］
坐閲百吏、熟視而嘆。［大勢の役人はそれを見て嘆くばかりでありました］
惟愚無知、妄謂非難。［私は愚かにも、難しくはあるまいと妄りにいってしまいました］
禱於有神、陰假其便。［私は神様に、陰ながら助けてくださいと、祈りました］
不愆於素、鹹出幽贊。［神様はお怒りにならずに、そっと手を差し伸べてくださいました］
大堤雲橫、老葑席卷。［大きな堤が雲へと伸びて行き、茂った草はなくなりました］
歴時未幾、功已過半。［さほど時間のかからないうちに半分以上もできました］
嗣事告終、来哲所繕。［工事の終了を告げましたなら、後に来る賢人がそれを繕うでしょう］
神卒相之、罔咈民願。［神様のお助けによって、これからも民の願いを無にしないでください］
肴酒之報、我愧不腆。［食べ物や酒のお供えが十分でないのを恥ずかしく思います］
尚饗。［それでも召し上がってください］
■【09-2-068】贈劉景文
【解題】劉季孫［字は景文］［→作品番号09-2-050］に贈った詩。
【訳文】
荷の花は尽き、
雨を受ける葉の広がりもすでになくなった。
菊の花は残れ、
なお霜に傲る茎は立っている。
君は記憶してほしい、
一年で最も好い光景を、
まさしく橙の実が黄で、橘の実が緑の時のこのいま。
【補足】［これは初冬の賛歌である。秋から冬に向かうころは、中国でも日本でも寂しさを歌うのが伝統的な価値観であった。蘇軾はここに一年の内でも特によい光景があるとしたのである。しかも、柑橘類好きの蜀の人らしく、「橙は黄、橘は緑」という微妙な一時期を切り出している。蘇軾が非常に鋭い感覚を持った天性の詩人であることがわかる。杭州知事の時代の佳作としてよく引かれる詩であるので、原文と読み下し文を掲げておこう］
荷尽已無擎雨蓋、［荷尽きて已に雨に擎ぐるの蓋は無く］
菊残猶有傲霜枝。［菊残れて猶お霜に傲る枝は有る］
一年好景君須記、［一年の好景 君須らく記すべし］
最是橙黄橘緑時。［最も是れ橙は黄 橘は緑の時］
【補足】［（1）同じころに劉季孫が琴を聴いて詠んだ詩に和しているが、何が面白いのか理解できないので割愛する。（2）これらの作とは関係ないが、このころにあったとされる三つのエピソードを、先にも引用した何薳の随筆『春渚紀聞』［→作品番号09-2-003］から読んでおきたい。事実か眉唾物かの判定は確定していないようだ］
【訳文】
何薳：『春渚紀聞』より
銭塘の顔幾［字は幾聖］は、才能ある人物ではあったが振る舞いが自由気ままで、毎日酒を飲んでばかりいた。東坡先生［蘇軾］が杭州知事になったときに、科挙の一次試験が行われ、顔幾は土地の金持ちの子である劉君と入れ替わって、密かに試験場に入り込んだ。顔幾は首席で合格したのだが、ほかの受験生が訴訟を起こし、顔幾は獄に下された。顔幾はしばらく酒が飲めなかったので、こっそり獄吏に一首の詩を言づけて外の酒友達に渡そうとした。その詩は、「亀不霊兮禍有胎、刀従林甫笑中来。憂惶囚繫二十日、辜負醺酣三百盃。病鶴雖甘低羽翼、罪竜尤欲望風雷。諸豪俱是知心友、誰遣尊罍向北開」［詳しい意味は読み取れないが、要するに、獄に繋がれて二十日の間、病んだ鶴、捕まった竜のようになっているので、誰か酒を差し入れしてくれ、ということであろう］。獄吏はその詩を東坡先生のところに持って行った。先生はそれを読んで取り調べを緩くし、たまたま恩赦があって放免となった。それから数年後のある日、顔幾は西湖の寺で酔い潰れ、起きてから壁に、
白日尊中短、［白日も酒樽の中では短いけれど］
青山枕上高。［青い山は枕よりも高い］
と、書いて、数日で死んだのだった。
【補足】［替え玉受験の罪がどれほど重いのか知らないが、蘇軾は諧謔を好み、自身も獄中で詩を詠んだ経験があるので、顔幾を赦してやる気になったというのはありえない話ではないだろう］
何薳：『春渚紀聞』より
東坡先生［蘇軾］が杭州知事であったときに、綾絹の代金二万銭を払わずにいると訴えられた者がいた。公はこの者を呼んで問いただすと、「私の家は扇を作る仕事しておりまして、たまたま父が死んだことに加えて、この春からずっと雨が続いて気候が寒いために作ったものが売れません。決して借金を踏み倒したわけではないのです」。公はしばらくじっと見つめ、こういった。「よろしい。そなたが作った扇を持って来なさい。私が売れるようにしてやろう」。すぐに扇が届くと、公は絹で作られた二十の扇を取り上げ、裁判用の筆を持ち、行書、草書をしたため、それに木や竹や石の画を描き添えて、またたく間に仕上げてしまった。それを渡し、「持って外に行き、これで借金を払いなさい」といった。その者は扇を抱え、泣きながら礼をいって出て行った。役所の門を出た途端に、好事家が争って求め、一つの扇が一貫で売れ、立ちどころに全部がなくなった。後から来た者は買えなかったのをいつまでも残念がった。そして借金は残らず返せたのだった。一郡の者は感心し、泣く者さえもあった。
【補足】［すでに見たように、蘇軾の書や画はよい値で売れたので、少々の借金なら簡単に返済できたであろう］
何薳：『春渚紀聞』より
東坡先生［蘇軾］は元祐年間に杭州知事となった。知事の仕事を始めたばかりのころに、税の徴収をする部署の者が、南剣州において科挙の一次試験に合格して都に上ろうとしていた呉味道という者を捕らえた。呉味道は大きな荷を持ち、荷は封印がしてあって、「京師蘇侍郎宅宛」［蘇轍のこと］と記され、差出人が蘇軾になっていたのだが、それが偽りであることが露見したのだった。公はすぐに呉味道を呼び、その荷の中は何であるのかと尋問した。呉味道は恐れ入って縮こまり、「わたくしはこの秋に忝くも郷里の推薦を頂戴し、都に受験に行くことになりました。郷里の人々が銭を集め、都に行くための費用を工面してくださいました。それを絹に換えましたところ、二百匹になりました。しかし、道中の行く先々で税金がかかるのを計算しますと、都に着くまでに半分以上もなくなってしまいます。心竊かに考えますに、いま天下で最も名が重んじられ、また士を愛することで知られているお方と申しましたら、あなた様と弟様です。たとえ嘘が露見しましても、きっと同情してくださるであろうと、あなた様のお名前をお借りして封印したのでございます。まさか先生がこの地に来られているとは知りませんで、偽りが知れてしまいました。わたくしの罪は実に逃れ難いものですが、どうかどうかお許しいただけませんでしょうか」。公はじっと視ていたが、笑って書記を呼ぶと、もとの宛名書きに換えて、自分で「東京竹竿巷蘇侍郎宅」と書き、合わせて弟への手紙を一通したためて呉味道に渡し、「これより都に行かれなさい。来年はきっと合格されましょう。そしたらまたこちらにお越しなされよ」。呉味道は何度も礼をいって杭州を去った。翌年、呉味道は上位の成績で合格した。呉味道が蘇軾のへの謝礼に記した文章はよい内容の立派なものだったので蘇軾は感心し、帰郷する途中の呉味道を数日間杭州に留めて歓待した。
【補足】［（1）一つ前のエピソードでも、蘇軾は罪人をじっと見て［原文は熟視］から判断を下している。その人物を見定めて処分を決めたのだろう。蘇軾にはそれだけの眼力があったという話ではあるのだが、知事の主観的な判断で事が決まってしまうのは一般的にはかなり危険なことであろう。（2）呉味道は都に着くまでに半分以上が税金として取られてしまうといっていた。通行税がそれだけ大きかったのだろう。官員が携える物、あるいは送る物は無税であったから、呉味道は今回のような偽りを思い付いたのだが、それは自分のためというよりは、自分を都に送り出そうと郷里の人が一生懸命に集めてくれたお金を無駄にしたくないという一心からだったのだろう。（3）以上の三つのエピソードはいかにも蘇軾らしいと思わせるところがあってはなはだ愉快なのだが、それだけに疑わしくもある。しかしながら、『春渚紀聞』の信頼性は作り話と断じるほどには低くなく、これらと同じ時期に何薳の父が蘇軾に会っていることも記されている］
何薳：『春渚紀聞』より
東坡先生が杭州知事であったときに、我が父［何去非］は武学博士として徐州の学校の教授を務めていた。
父が姑蘇［蘇州］に行くと、先生は舟を遣わして杭州に迎えてくれた。父は杭州に数日間泊まり、劉季孫とともに西湖に舟を浮かべた。
酒酣のとき、蘇軾は湖山を顧みてすこぶる興趣が湧いたのであろう、父と語り合って話は神宗皇帝の時代に及んだ。蘇軾は早くに神宗皇帝に厚く遇せられことを語り、今日左遷に似たような状況でここにいることを嘆いた。
しばらくして、先生は劉季孫に向かっていった。
「私が今日なお保っていられる余生は、すべて先帝からの賜りものであります」
劉季孫はその訳を尋ねた。
「私が都の獄に繋がれましたときに、取り調べが行われ、その一部始終がお上に奏上されておりました。そうしたある日のこと、日暮れの太鼓が鳴り終わって寝に就こうとしますと、不意に一人の男が獄の中に入ってきました。その男は箱を地に置き、それを枕にして横になりました。（新しい罪人が来たのだろうと、気にも留めずに眠ると）真夜中過ぎに、私は眠りの中で体を揺すられ、『学士殿、お慶びなさいませ』と続けていう声がしました。私はおもむろに寝返り、そっと問うと、『安心してよくお休みなさいませ』といって、先の男は箱を抱えて出て行きました。後になってわかりましたのは、舒亶等はお上の前で私を懸命に非難して必ず死罪にしようとしていました。しかし、先帝は初めから私が無罪であるのを御存知でありましたので、密かに一人の宦官を遣わせて、獄中での私の振る舞いを観察させたのでした。たまたま私が雷のような鼾をかいて寝ておりましたので、宦官はすぐにお上にこのことをお知らせしましたところ、お上は『朕の思った通り、蘇軾の胸の内には何もないのだ』とおっしゃったのです。それで、私を（死罪にはせずに）黄州に流すよう命じられたのです。実に先帝の恕によるものなのであります。臣下として何をもって万分の一でも報いることができましょうか」
後に私が父から聞いたのでは、かつて張大亨と語ったときに、張大亨はこのようにいった。「蘇公が黄州から汝州に移ることになり、そのことをお上に感謝する蘇公の礼状が届くと、先帝はそれを御覧になって、まわりの者に『蘇軾は真に奇才である』とおっしゃられました。しかし、蘇公を恨む者がいて、蘇公の礼状には朝廷の処置を怨望する語句が含まれていると奏上しました。先帝は驚かれて、『何を言い出すのか』と、問いただされ、ある者がその個所を指摘すると、先帝はおもむろに、『朕はもとより蘇軾の衷心から出た言葉であるのを知っている。他意などは一切ない』と、おっしゃったので、もはや蘇公を謗る声はなくなりました」。
【補足】［（1）何去非は昨年初めに蘇軾の推薦を得て徐州の学校の教授になっていた。（2）都の獄で蘇軾の身に何があったのかは作品番号05-5-091以下に記したが、これはまた別のエピソードである。蘇軾本人が語ったのであるから事実であったと即断するわけにはいかないだろう。蘇軾には人を喜ばせようとして話を盛る傾向があるし、何去非が息子に語ったときにも、さらには何薳が文章化したときにも潤色した可能性がある。そういうことがあるにしても、蘇軾は、神宗皇帝は自分のことを正しく理解してくれていたと、心の底から信じていたのは間違いない。（3）蘇軾が黄州から汝州に移されることになった謝礼の文章は作品番号06-5-014で見ている。蘇軾は何をどのように書いても、いろいろと難癖を付ける者がいたのだ。（4）張大亨［字は嘉父］は蘇軾より遅く官界に入った者］
■【09-2-069】題蔡君謨詩草
【解題】銭世雄［字は済明］［→作品番号06-4-092］が所蔵する蔡襄［字は君謨］［→作品番号07-2-050］の詩巻にこの一文を書き添えた。
【訳文】
これは蔡襄の『夢の中』の詩である。真跡が銭世雄君の家にある。実に力強い筆力である。
元祐五年十月四日。
【補足】［（1）銭世雄は蘇州で官職に就いていたので［→作品番号06-4-092］、何かの用事で杭州にきたのだろうか。それとも任地が杭州に移ったのだろうか。いずれにしても、このころに蘇軾と厚い親交を結んでいた形跡はなく、後に銭世雄の存在が大きくなることを予感させるものはない。（2）蔡襄は宋代一の書家であると蘇軾はかねてから記していて、その筆力の強さをここで再確認している。なお、この『夢の中』の詩の真跡を、蘇軾はかつて杭州副知事であったときにも見ていた。そのときは、当時の知事であった陳襄の屋敷の小閣の壁に掲げてあって、蔡襄の詩の後ろにそれに和した二首が書き添えられていた。銭世雄が持っていたのはそれと同じものだったのかどうかはわからない］
■【09-2-070】問淵明
【解題】これは陶淵明に物申すという詩。蘇軾自身の短い添え書きがある。
【訳文】
ある人がいった。
「東坡のこの詩は陶淵明に反駁したものである」
これは理解の足りない言い方である。むしろ、互いに引き合って新たな意味を作ろうとするものなのである。ここに述べたのは陶淵明の考えを決して否定するものではない。
元祐五年十月。
【補足】［反駁したのか、新たな意味を引き出したのか、それを判断するには陶淵明が何をいったのかを見ておかないとならない。もとの作品は『形影神』という題の詩で、「形」は肉体、「影」は文字通りのシャドウでありまた生命力の象徴、「神」は精神で、その三者の問答を詩にしたものである］
【訳文】
陶淵明：『形影神』
序
世の中の人は、貴賤賢愚を問わず、あくせく人生を惜しむ者ばかりだ。これはひどい惑いだ。そこで、形と影にその苦しみを語らせ、神［精神］が自然の道理を論じて二者の苦しみを釈くということをしてみた。好事の君子諸君はどうか私の意図を読み取っていただきたい。
形が影に贈る
天地長不没、［天地は永遠になくならない］
山川無改時。［山や川は姿を変えることがない］
草木得常理、［草や木には不変の理があって］
霜露栄悴之。［霜や露にあうことで栄えたりしぼんだりしている］
謂人最霊智、［人は最も尊くて知恵があるといわれているけれど］
独復不如茲。［人だけが異なっている］
適見在世中、［たまたまこの世に存在したかと思うと］
奄去靡帰期。［たちまち去ってしまって帰ってこない］
奚覚無一人、［一人がいなくなったところで気づかれないし］
親識豈相思。［親しくしていた者も思い出したりしない］
但余平生物、［ただ普段使っていたものが残っていて］
挙目情淒洏。［それを見ると悲しくなることくらいはある］
我無騰化術、［仙人になる術が得られなければ］
必爾不復疑。［必ずこのようになるのは疑いようがない］
願君取吾言、［君［＝影］はどうか私のいうことを汲み取ってくれたまえ］
得酒莫苟辞。［つまりは、酒があるときには辞退しないのがよいのだ］
影が形に答える
存生不可言、［ずっと生きながらえるのだなどとはいうことさえできない］
衛生毎苦拙。［生きていることをとにかく守るだけでいつも苦しんでいる］
誠願遊昆華、［仙人の世界に遊ぶことを本当に願っているのだが］
邈然茲道絶。［そこへの道はぼんやりと途絶えている］
与子相遇来、［形である君と出会ってから］
未嘗異悲悦。［悲しみも喜びもずっと一緒だった］
憩蔭若暫乖、［ものの蔭に憩うときは形と影は離れるようだけれど］
止日終不別。［日差しのもとでは別れることはない］
此同既難常、［このまま永久に一緒というわけにはいかなくて］
黯爾倶時滅。［残念なことに時がくればともに滅んでしまうのだ］
身没名亦尽、［身が消えれば名も消える］
念之五情熱。［それを思うと、気持ちが熱くたかぶる］
立善有遺愛、［善行をなすと子孫に恵みがあるというから］
胡為不自竭。［せいぜい一所懸命に頑張るべきなのだろう］
酒雲能消憂、［酒は憂いを消してくれるとはいえ］
方此詎不劣。［そういうまともな努力には劣るであろう］
神が釈く
大釣無私力、［大自然の力を自分だけのものにすることはできない］
万理自森著。［万物に共通する理が現れ出るだけである］
人為三才中、［人が天、地、人の中央にあるとされるのは］
豈不以我故。［人には私［＝神］が具わっているからではないのか］
与君雖異物、［私［＝神］と君たち［＝形と影］とは物としては異なるのだが］
生而相依附。［生まれてからずっと依存し合ってきた］
結托善悪同、［一緒になって善いも悪いもともにしてきているのだから］
安得不相語。［君らと語らずにいるわけにはいかないだろう］
三皇大聖人、［太古の三人の大聖人だって］
今復在何処。［いまはどこにもいないし］
彭祖寿永年、［長生の術を得たという彭祖だって］
欲留不得住。［この世にとどまろうとしてもできなかった］
老少同一死、［若く死んでも老いて死んでも死は一つ］
賢愚無復数。［賢人も愚人もこの世には帰ってこられない］
日酔或能忘、［日々に酔っていたらそうしたことを忘れられるのかもしれないが］
将非促齢具。［酒は結局は寿命を縮めるものではなかろう］
立善常所欣、［影がいうように善を行うのはよいものではあっても］
誰當為汝誉。［君のこともいつまでも誉めてくれるわけではない］
甚念傷吾生、［善をなそうと激しく思うのは自分の命を傷つけることにもなるので］
正宜委運去。［巡りあわせに任せるくらいでよいのではないか］
縱浪大化中、［大きな変化の中を縱浪］
不喜亦不懼。［喜ぶこともなく恐れることもなく］
応尽便須尽、［ちょうど終わるときがきたら終わる］
無復独多慮。［そういうことでよいのだと、あまり考えすぎずにいようではないか］
【補足】［この作品は、廬山の高僧慧遠［→作品番号07-1-022］の「形は尽きるとも神［精神、霊魂］は不滅である」という論に触発されて作ったものであるという。深い含意のある詩で、上の訳文は浅い一解釈でしかない。蘇軾は杭州に来てから数多くの僧と語る機会を得てこの議論を思い起こし、そこに一石を投じようとこの詩を詠んだのだろうか］
【訳文】
陶淵明先生は神と形は異なるものだという、
私はそうは思わない。
人［形あるものの代表］と天［神的な存在の代表］は異なるものなのか、
そうではあるまい。
天、地、人に限らず、ありとあらゆるものは、
異なると見えて異なるものではないのであろう。
高いところへと引いて行くなら、空にかかる天界の星となるし、
それを天から散らして低くに置くなら、山や川になるのではないだろうか。
太古の三人の大聖人は死んだというけれど、
いまも私の眼前にはありありと存在している。
彭祖は八百年の長寿を得たといったところで、
永久ではないのだから短命であるのと変わりはない。
つかの間のうっとりとした酔い心地は、
花に宿る露の一瞬の輝きと同じ、
酒があるなら酔えばよいし、
酒がないなら泉の水を飲めばよい。
善を立てて誉れを求めるのもよいのだろうけれど、
飢えたらやはり涎をすするしかないのだ。
巡り合わせに任せたところでやはり憂いは生じるので、
憂いが去ると生き返ったような心地になるものなのだ。
大きな変化のなかを縦浪のは、
まさに造物者の為すがままということになるのだろうか。
ちょうど終わるときがきたなら終わるのであって、
わざわざそのようなことを言葉にしていうまでもないのだ。
【補足】［陶淵明は神は不滅であるという説に反駁するために、形と影を持ち出し、異なるその三者は結局は一緒に滅びるのだといったのに対し、蘇軾は神も形も影も全ては同じであるとまとめ、さらに乱暴にも滅びるとか滅びないとかもないとした。蘇軾のこのような見方からも、あらゆるものを一つに融合させて理解しようとする宋代の思想の傾向を読み取ることができるだろう］
■【09-2-071】故竜図閣学士滕公墓誌銘
【解題】10月24日、蘇軾と旧くから交流があった滕元発［字は達道］［→作品番号07-2-051］が亡くなった。71歳だった。これは亡くなってから2年近く後に、張方平に代わって執筆した墓誌銘。張方平は滕元発と姻戚関係にあって墓誌銘の執筆を依頼されたのだが、蘇軾に代筆を託した。ここでは墓誌銘の序文にあたるところの最初の5分の1ほどを読んでおこう。
【訳文】
神宗皇帝は天下に臨み始めると、政治に熱心に励むとともに、天下に優れた人を出すよう求め、英偉で度量の大きな人を得ようとした。滕公は先帝に仕えたもののまだ十分に用いられておらず、その姓名は朝廷の名簿に載せられたまま放置されていた。神宗皇帝はそれを知って滕公を召し、その姿が颯爽としているのを見て、天下が治まりあるいは乱れる理由を尋ねた。滕公はすぐに答えた。「治乱の道は黑白ないしは東西のようなもので、それが色を変えたり方向を変えたりするのは、朋党の乱れによります」。皇帝が「そなたは君子の党と小人の党にいっているのか」と尋ねると、「君子が党を作ることはありません。譬えていうなら、纏わりつくのは必ず蔓草で、松や柏ではありません。朝廷に朋党がないなら、中程度の君主であっても問題は起こりません。そうではなく、朋党があるのなら、君主が聖人であってもよく治めることはできません」。皇帝は大きく嘆息して、「天下の名言である」といった。
かくて滕公は神宗皇帝に用いられ、幾つかの職を経て翰林学士となった。滕公は疏達不疑［おおらかで率直］で、皇帝の前で事を論じるときも、家の中で子が父に語るように言葉を飾ることなく胸の内にあることをそのままに出した。皇帝は滕公が誠実さを尽くしていると知って、事の大小によらず、他の人がよく述べられないことについていつも滕公に尋ねた。ときには夜中に書面を下して問うこともあり、使者が何度も行き来して滕公がそのたびに即答することもあった。
政治を執る者たち［王安石を中心とする人々］が新法を作ろうとしたとき、天下の議論が沸騰し、滕公の言葉を皇帝が信じることを恐れ、事を構えて滕公を謗った。皇帝が滕公を疑うことはなかったものの、滕公は朝廷に外に出され、鄆州の知事となった。その後、定州、青州、南都、斉州、鄧州と移り、それでも滕公を用いようとする皇帝の心はまだ衰えていなかった。たまたま滕公の妻の親類に法を犯した不届き者がいて、小人どもはこれを理由に滕公を非難し、必ず殺してしまおうとした。皇帝は罪のないことを知っていたので、池州知事に移され、さらに蔡州に移動することになって安州に改められ、その任を終えると朝廷に戻ることになった。しかし、都に至って皇帝に会う前に、滕公を嫌う左右の者が飛語を流し、筠州に左遷されることとなった。士大夫は滕公の生命に及ぶかも知れないと非常に危ぶんだのだが、滕公が自若として談笑し、「天は私が直であることを知っている。皇帝は私が忠であることを知っている。私に憂うべきことはない」といった。そして自分の潔白を記して皇帝に差し出し、皇帝はそれを見てはっきりと理解し、滕公は湖州知事となった。そして再び用いようとしたのだが、皇帝は亡くなってしまった。滕公は皇帝の遺詔を読むと、気絶してしまい、しばらくして蘇ると、「ああ、私には自分の力を尽くすところがなくなった」といった。
今上陛下が即位し、滕公は蘇州、揚州の知事を歴任し、竜図閣直学士となって鄆州知事となり、さらに真定、河東に移って国境地帯を凜然と治め、その威光は西北に輝いて名将と呼ばれた。ところが監察として派遣された宦官が滕公は病気で職務に耐えられないと偽りの報告をし、許州に移されることになった。御史が滕公は辺境をみごとに治め、病気ではないといったので、滕公は河東に留まるようにとの詔が下された。滕公はすでに老い、七十一歳となっていて、淮南に移ることを求めた。皇帝はやむをえず、竜図閣学士のままで揚州知事にすることを決めたのだが、滕公はまだ揚州に着かないうちに亡くなった。元祐五年十月二十四日であった。
【補足】［（1）滕元発は蘇軾より16歳上であったが、中央で用いられたのは蘇軾と大差なく、その後の官歴も似ている。神宗皇帝は滕元発が優れて有能であることを知りながらも、改革政治を進めるために朝廷の外に出し、いつか時がきたならば再び用いるつもりでいたとするのは蘇軾とそっくりである。そして、保守派が政権に戻ったにもかかわらず、保守派内の争いで地方に出ていなければならなかったのも蘇軾と同じである。（2）最初に滕元発が、政治が乱れる原因は朋党の乱れにあると答えたのは、臣下の者が徒党を組まないことが皇帝独裁主義を貫徹するための必要条件であると考えられていたからである。皇帝と人民の間に立つ官僚は、皇帝による統治を貫徹するために働くべき存在であって、官僚同士が横につながって余計なことをしてはならないのである。実際に党派が形成されて政治が乱れたことはたびたびあった。党派を組むのは小人で、君子は党派を組むことがないとは欧陽脩の有名なテーゼで、かつて范仲淹を弁護するときに高らかに主張したものだった。滕元発が神宗皇帝の前で朋党の弊害を述べた後に、改革派と保守派の争い、そして保守派内の争いといった政治の乱れが生じ、滕元発も蘇軾も非難合戦の渦の中に巻き込まれてしまったのである。（3）滕元発が自分の潔白を記して皇帝に差し出したという文章は実は蘇軾が代筆したもので、その全文を作品番号06-5-003で読んでいる］
■【09-2-072】滕達道挽詞二首
【解題】滕元発［字は達道］の死を悼んだ詩。これは死後あまり時間を置かずに詠まれたもの。第1首は、滕元発が非常に優れた人物であったことを歌い、第2首は、蘇軾との関係を歌っている。内容的に上の墓誌銘と重なるところが多い。
【訳文】
其の一
先帝は早くから滕公のことを、
私心のない第一の人であると知っていた。
滕公は、詩や礼における現代の将軍であり、
漢の最盛期の大臣と並ぶべき人であった。
大きな材は用いるのが難しいとされるが、
時節がきて少しばかりは力を出すことができた。
范仲淹の風烈がまさにそこにあるかのようで、
孫沔の優れた手本が新たになったかのようであった。
ところが、辺境を治める策も、宰相となるべき身も、
空しく捨て置かれることとなってしまった。
滕公に仕えた旧い人々は、
墓の石を悲しい涙で濡らすのである。
【補足】［途中で范仲淹と孫沔の名を挙げたことについて、蘇軾自身の注で、滕元発は若い頃にこの2人の名臣の教えを受けたと記している］
其の二
雲夢から長江へと雨が降り注ぎ、
樊山の木から葉が落ちる秋に、
滕公は自分はきっと流されるであろうと占った。
そのとき私は牛を飼って土に生きようとしていた。
ともに江湖の楽しみを持ちながらも、
耕しつつ天下のことをなお憂いていたのだった。
私は常州で老いを送ろうと決め、
滕公と金山でともに遊んだのだった。
不遇にあっても滕公は威風堂々としていたのだが、
歳月の過ぎゆく速さには驚くほかはない。
私は頭を回らせて、歌いかつ哭し、哭しかつ歌う、
この挽歌は意味のある言葉にならない。
【補足】［詩の始めは、黄州に流された蘇軾を滕元発が訪ねたころのことを歌っている。中ほどは滕元発が湖州知事で蘇軾がその助力も得て常州に退隠の地を得たころのことを歌っている］
■【09-2-073】記温公論茶墨
【解題】ある日のちょっとしたできごとを記した短文。
【訳文】
司馬光がかつてこのようにいった。
「茶と墨とはまことに相い反するものです。茶は白くなろうとし、墨は黒くなろうとします。茶は重くなろうとし、墨は軽くなろうとします。茶は新しくなろうとし、墨は古くなろうとします」
私はこういった。
「二つの物の性質はまことにそのようでありましょう。ただし、同じところもあります」
「何でしょうか」
「すぐれた茶もすぐれた墨もよい香りがあります。それはその徳を同じくするものでありましょう。茶も墨も堅く、それはその節操を同じくするものでありましょう。茶と墨はいわば賢人と君子のようなもので、見栄えがよかったり悪かったり、白かったり黒かったりといった違いがありましても、その奥に具わる徳と節操においては実は異なるところがないです」
司馬光は笑って、
「なるほどそうでありますな」
といった。
元祐五年十月二十六日、私は醇老、全翁、元之、敦夫と南屏寺に遊んだ。寺僧の謙が出してくれた茶は非常に珍しいもので、玉雪のように白かった。たまたま衢州の蔡熙の子の瑫の造った墨があって、それは漆のように黒かった。
「墨は本当に黑くなろうとしているのだろうか。茶は本当に白くなろうとしているのだろうか。その反対のことだってなくはないと、誰もが知らないわけではないだろうに」
私がそのようにいうと、一同が笑った。
【補足】［（1）訳者には残念ながらこの文章の意味が十分に掴めていない。最初に司馬光が挙げた茶と墨の対比がぴんとこないし、最後に一同がどうして笑ったのかがわからない。白黒を明白に分ける二分法を蘇軾があまり好まないことはこれまでも見ているので、それが司馬光との会話の基調としてあるのだろう。なお、ここで白といっているのは、透明の意味も含んでいるのだろう。終わりのところは、黒を白に、白を黒にするような論法がまかり通っていることに対する皮肉が込められているのだろう。茶と墨が共通して持っている徳と節操とは無縁の連中がそこらにうようよしているのを笑ったのだろう。（2）名を列挙された4人は官員仲間のようだ。いずれも字で、醇老は銭藻、全翁は張璹、元之は姓名不詳、敦夫は侯臨であるという。（3）茶を出した南屏寺の謙師は作品番号09-1-052で登場している］
■【09-2-074】題和張子野見寄詩後
【解題】かつて張先［字は子野］［→作品番号09-2-037］に寄せた詩［→作品番号05-1-068］を書いて、その後ろにこの短文を添えた。張先の詩を書いたのは誰かの求めに応じたのだろう。
【訳文】
私はかつて杭州副知事であったときに、初めて寿星院に入り、悵然として以前にここで遊んだような気がした。後に密州知事となり、張先が詩を寄せてきたので、そのことを詠んだ詩で答えた。
元祐五年十一月二十九日
【補足】［張先に寄せたもとの詩［→作品番号05-1-068］ではとくに寿星院の名は挙げていない。寿星院については作品番号09-2-023で見ていて、杭州副知事時代の寿星院の詩としては作品番号04-2-082がある］
■【09-2-075】送程之邵簽判赴闕
【解題】杭州の役場に勤める程之邵［字は遵彦］［→作品番号09-2-021］が都に行くことになり、その送別の詩。
【訳文】
天下第一の宝とされるべきものでも、
その価値を見出す者がいなければ世に知られることはない。
珍宝の夜光の珠も、自らを献上するわけではないし、
名馬の天驥も、その良さを自分で知るわけではない。
狐の毛も五羖の皮だってそうなのだ。
まことに賢人であるのは前の知事［熊伯通］で、
貴君が奇ていると見て幕府に招いたのだった。
花のない草木は識られにくいもの、
前知事はそれを得ただけでなく、
自分だけのものにしないで、
貴君をここに残してくれて、
私を助け、私の衰えを支えるようにしてくれたのだ。
二年の間、貴君と膝を付き合わせて語った。
ここに、長く挨拶を交わし合って貴君は去って行く。
私はいう、
「林が深いところには猛獣が潜み、
岸が改まったところからは竜が移り行く。
かくて（竜のように）貴君が去ってしまったなら、
（猛獣に囲まれている）私は誰を頼りとしたらよいのか。
貴君を失った後はただ悲しむしかない」
ああ、もう私情を抱くべきときではないのだ。
貴君は最上級の器の質を備えている、
都の宮殿にこそ置くべきものである。
貴君よ、行くがよい、
きっとまた会うことがあるだろう。
【補足】［（1）蘇軾はよほど程之邵が気に入ったのだろう、この詩で絶賛している。（2）長男の蘇邁はこのころに杭州を経由して新たな任地、雄州へと向かった。（3）杭州に来て以来、頻繁に手紙や詩の往還があった銭勰［字の穆父］［→作品番号09-2-061］は越州を離れ、新たな任地、瀛州へと向かうことになった］
■【09-2-076】書林道人論琴棋
【解題】蘇軾は西湖の西にある霊隠山のあたりを巡り、小霊隠の峰に住む林道人と出会った。そのことを記した短文。
【訳文】
元祐五年十二月一日、小霊隠に遊び、林道人が琴や碁について論じるのを聴いた。極めて妙理に通じている。私はこの二技には通じていないけれど、理をもって判断するに、そのいっていることは信であると知ったのである。
杜甫は画を論じて詩にこのように詠んだ。
更覚良工心独苦。［更に覚える 良工は心 独り苦しむと］
意を用いることの妙をこのように知る者はなかなかいない。それがまさに独り苦しむ理由であるのだろう。
【補足】［（1）琴棋書画は昔から士大夫の嗜むべきものとされていた。蘇軾は、詩も書も画も根本は一つであるとしばしばいっている。林道人の話から琴も碁も同じであると理解したのだろう。（2）ここに引用されている杜甫の句は、『題李尊師松樹障子歌』という詩にある。李道士が描いたばかりの松の樹の画を杜甫のもとに持ってきたときに、その画の印象を詠んだ詩で、該当の部分は、「已知仙客意相親、更覚良工心独苦」［仙客［＝李道士］が親しくしてくれる心が知れ、さらには、良工は独り心を苦しめることがわかった］という対句になっている。杜甫もまた独り心を苦しめつつも、その詩は当時の人々にはあまり理解されなかった］
■【09-2-077】送李陶通直赴清溪
【解題】李陶［字は唐夫］が清溪県に赴く途中で杭州に立ち寄ったのでこの送別の詩を贈った。李陶は朝廷の高官であった李大臨の子。
【訳文】
忠文公、文正公の二大老、
蘇、李、宋の三舎人、
その方々と親しく交わってきた賢子弟――
その貴君をここに見るのはまことに喜ばしい。
貴君はいう、
これから赴くのは風塵の少ないところ、と。
勢利［出世や利益］に関心の薄い貴君にふさわしいではないか。
ここを去って溪山の内に入るなら、
新たな句を工夫して生み出すであろう。
あえて西湖にしばらく留まってくれたので、
銭塘の人々は、小麒麟がここにいると初めて知ったのである。
【補足】［（1）「二大老」とは司馬光、范鎮、「三舎人」とは蘇頌、李大臨、宋敏求であるという。いずれも天下に知られた名士である。李大臨の子である李陶は、父親の縁でこうした人々を子供のころから知っていたのであろう。（2）この詩によると、李陶が清渓県に行くのは恐らく意に染まないところがあったのだろう。（3）小麒麟とはいわゆる「麒麟児」、将来が期待される若者である］
■【09-2-078】与范純夫
【解題】都にいる范祖禹［字は純夫］［→作品番号05-4-058、08-2-010］に宛てた手紙。
【訳文】
私は衰えと病に日々侵され、使いの者や客人が次々に来て、しかも高麗国の人がまた至るというありさま、公私ともに多忙の余り疲労し、ほとんど堪えることができません。連年の災害の中にあっては、別に小さな町を願い出て移って行くわけにもまいりません。来年の食糧欠乏の憂いは、まだ救済の術がなく、譴責の罪を受けるのを待つ以外にありません。李陶君一行は恙なく任地へと向かって行きました。杭州の江山のよさに酔い、故郷のことも忘れ、なかなか発とうとしませんでした。
【補足】［（1）高麗国の使者が来るに当たり、その接待のための費用は、使者が通る道沿いの諸州が負担することになっていた。蘇軾や蘇轍らが強く朝廷に働きかけた結果、その負担はかなり軽減された。（2）手紙の終わりの部分で、前の詩に見た李陶について触れている。范祖禹は「二大老」の范鎮の甥であるので、李陶とは近い関係にあったのだろう］
■【09-2-079】六一泉銘
【解題】蘇軾が杭州に着任した後で、西湖の孤山の山中で一つの泉が湧き出した。蘇軾はそれを「六一泉」と名付け、この銘を書いた。ある考証によれば12月8日のことであるという。
【訳文】
欧陽公［欧陽脩］は老いて自ら六一居士と称した。
私はかつて杭州の副知事に任命されたとき、潁州で欧陽公に会ってから南に向かった。公はこのようにいった。
「西湖の僧の恵勤は非常に学問に通じ、詩に優れている。私はかつて『山中之楽』と題する三章からなる韻文を作って恵勤に贈ったことがある。子が民を治める合間に、湖山においてともに楽しむ人を求めようとして得られなかったならば、恵勤のもとに行くとよいだろう」
私は杭州に着任して三日目に孤山に恵勤を訪ねた。互いに手をとるようにして、古来の人物を論じ合った。恵勤はいった。
「欧陽公は天の人でありますな。地上の人は欧陽公がたまたま人間世界にしばし身を寓しているお姿を見ているだけで、雲に乗り風を馭して五嶽を巡り滄海を飛び越えていることを知らないのです。この邦の人は欧陽公があれからもう来られないのを残念に思っています。欧陽公は八方を自在に極められるのに、どうしてここには来られないでしょうか。江山の優れた風光には持ち主がいませんけれど、その奇麗秀絶の気はよく文を作る者が用いるためにあるのです。私はこの西湖は欧陽公の机の上にある一つの置き物であるように思っております」
恵勤の語ることは幻怪ではあっても、その理としては実にしかるべきである。
翌年、欧陽公は亡くなり、私は恵勤の僧舎で哭した。
それから十八年、私は杭州知事となり、恵勤は亡くなって久しい時間が経っていた。恵勤の旧居を訪ねると、弟子の二仲がいて、欧陽公と恵勤の姿を画にして、生きているかのように仕えていた。僧舎のあたりにもともとは泉などはなかったのだが、私が訪ねる数カ月足らず前に、講堂の後ろで泉が湧き出し、盛んに溢れて孤山の麓へと流れるようになった。水は非常に澄んでいてなおかつ甘い。巌を鑿って石を架けてそこに石室を作った。二仲は私にいった。
「我が師は、あなたさまが来られると聞いて、その苦労をねぎらうためにこの泉を出されたのでしょう。何かお言葉をいただけませんしょうか」
そこで恵勤がかつて語ったことを思い出し、その意を推して泉に六一泉と名付け、この銘を作る。
泉が出るのは、欧陽公の亡くなった地から数千里のところ。亡くなってから十八年。ここに六一の名を付けるのは、いかにもおかしなことのようではある。
しかし、君子の余沢は五世に及ぶといい、その人を得たときには、百世にも伝わる。ためしに孤山を登って呉越の方を望んで『山中之楽』を歌い、この水を飲むがよい。欧陽公の遺風がはっきりと残っているとがわかるであろう。それが泉となってここに湧き出ているのである。
【補足】［蘇軾が前回杭州に赴任する途中に、潁州で欧陽脩に会ったことは作品番号03-4-024で、杭州に到着して3日目に孤山に恵勤と恵思を訪ねたことは作品番号04-1-001で、欧陽脩の死を恵勤と恵思のもとで哭したことは作品番号04-1-058でそれぞれ見ている。なお、泉に作られた石室は後に東坡庵と呼ばれるようになったという］
■【09-2-080】元祐五年十二月十二日、同景文、義伯、聖途、次元、伯固、蒙仲遊七宝寺、題竹上
【解題】「元祐五年十二月十二日」と日付が明示されている。七宝寺に遊んで竹を詩に詠んだ。蘇軾と同行したのは、劉季孫［字は景文］、未詳の人物［字は義伯］、張天驥［字は聖塗］、周燾［字は次元］、蘇堅［字は伯固］、銭蒙仲である。未詳の人物以外は本章においてすでにその名を見ているが、興味を引くのは張天驥で、作品番号09-2-019で郷里に帰ったのを見ていて、なぜかまた杭州に来ていたようだ。ただし、詩の題にある日付が誤っているのかもしれない。
【訳文】
根を結ぶことでは（竹も）他の木々と異なるところはない、
ただ林から独りだけ高く飛び出るのだ。
孤高というものは恃むべきものではない、
年の終わりなるなら、寒風に侵されてしまうのだから。
【補足】［普段は竹を讃える蘇軾は、ここでは孤高を恃むことを危ぶんでいる。教訓臭のする詩であるとして評判は芳しくないが、張天驥の名があるので訳出した］
■【09-2-081】弁才老師退居竜井、不復出入。余往見之。嘗出至風篁嶺。左右驚曰、遠公復過虎溪矣。弁才笑曰、杜子美不云乎、与子成二老、来往亦風流。因作亭嶺上、名之曰過溪、亦曰二老、謹次弁才韻賦詩一首
【解題】長い詩の題は次の通り。「弁才老師は竜井に退居し、そこからはもはや出なくなった。私が竜井に行って老師に会ったところ、老師は廬から出て風篁嶺にまで来てしまった。人々は驚き、『慧遠様がなんと虎溪を過ごされてしまいました』といった。弁才老師は笑って、『杜甫の詩に〈与子二成老、来往亦風流〉［子と二老と成って、来往するのも亦風流である］というのがありましたな。（記念に）風篁嶺に亭でも作って過溪と名付けますか、それとも二老と名付けますか』といった。老師が詩を詠んだので私は謹んで次韻した」。弁才大師元浄が竜井に退居していたことは作品番号09-2-014で見ている。廬山の高僧慧遠が陶淵明等と話に夢中になって、普段は決して超えることのない虎渓の橋を渡ってしまったという故事は作品番号07-1-026で見ている。蘇軾と話しながら風篁嶺にまで来てしまった弁才を慧遠になぞらえたのである。杜甫の句は『贊上人に寄せる』という題の詩にある。弁才はこの詩を引用して、これからもたびたび来るようにと、蘇軾に親愛の情を示したのである。
【訳文】
日と月は車の軸のように回り続け、
いまも昔もいわゆる「一つの丘の貉」、どのみち変わり続けるのである。
ただこの鶴のような外貌の老人［弁才］だけは、
常に凜として、秋がくることも知らずにいる。
往くも去るも自由無礙で、
人間界も天界も争って引き留めようとしても無駄である。
去るときには、竜が山から出るように、池に雷雨が注ぐ騒ぎとなり、
来るときには、珠が海に帰るように、魚も亀も争って出迎えるのである。
この生はしばしどこなりと寄寓するだけのもので、
常に恐れるのは浮ついた名がまつわることである。
私は陶淵明になぞらえられてもとても及ばないのを恥ずかしく思い、
師は慧遠よりも優れているのであろうにと思う。
私を送って師は虎溪［風篁嶺］を通り過ぎてしまい、
溪の水までも、もしも驚いて逆流でもしようものなら、
二人の老人の遊びを山の人々も長く忘れずにいてくれるだろう。
とはいえ、大千世界はもとよりの高僧の掌の内にあるのだから、
虎溪を超えようが超えまいが、
そもそも離別の憂いなどありはしないのだ。
【補足】［このころに弁才から硯を贈られて詠んだという詩が伝わっている。それについて、岩垂憲徳・釈清潭・久保天随訳解『蘇東坡詩集』（1927年）は、「余は断言する公の詩ではないと」と記している。断言する根拠が訳者には理解できないが、その判定を尊重して割愛する］
■【09-2-082】寄題梅宣義園亭
【解題】杭州副知事の梅灝［字は子明］が故郷の呉郡［蘇州］に帰ることになり、その父の梅宣義の園亭に寄せる詩を作った。
【訳文】
漢の時代に、梅子真は職を辞すると、
妻子を棄て、呉の町の中に身を隠した。
その子孫である御父上［梅宣義］もまた呉の町に隠れ、
十年の間、惜しまず力を注ぎ込んで、
五畝の庭園を立派に造られた。
始めは子のために橘を育て、
いまでは孫のための桐も成長してきている。
清らかな池の眺めは虎丘をも圧倒し、
珍しい石は太湖の黿頭山を持ってきたかのようだ。
町の人々は身分の上下に関係なくその門を叩き、
庭園の内で、琴が好きな者は存分に奏で、
酒が好きな者は樽を空にして飲む。
私は放浪の人間、家は西南の隅［蜀のこと］にある。
崩れた廬はいまもまだあるだろうけれど、
小さな庭は誰も手入れをしていない。
羨ましいのは、貴君が御父上のもとに帰って行こうとしていること、
御父上の御恩にはまだまだ報いることはできていない。
幸いにも貴君は我が僚友として愛すべき人物であり、
長く兄弟のようでありたいと思うほどだ。
いつか西に帰郷する際に貴君のもとを訪れたならば、
瓶が空になるまで私に飲ませてくれるだろうね。
【補足】［（1）冒頭に漢の時代の梅子真の名を挙げたのは、同姓の人の故事を巧みに引いてくる蘇軾の得意の手法。（2）虎丘も太湖の黿頭山も呉郡の近くの名所で、虎丘については作品番号09-1-043でも見ている］
■【09-2-083】舎幡帖一首
【解題】蘇軾の祖母史氏の名は作品番号01-2-001の年譜で見ているが、その祖母の遺品がこのときまで蘇軾のもとに伝えられていた。
【訳文】
我が祖母史氏には二枚の繍幡［刺繍を施した旗］があった。幡には「長寿王菩薩」、「消災障菩薩」の文字がある。
祖母が亡くなって三十余年の間、我が父は祖母を慕い、老いに至ってもその思いは衰えなかった。祖母の忌日には必ずこの幡を捧げて泣いた。
いまや父が亡くなって二十四年となった。私はこの幡を宝として家に置いていた。それが父の遺した意志であるとはいえ、祖母の本来の願いは誠を仏に帰すことであると考え、これを金山に喜捨し、祖母の冥福の資とするものである。
【補足】［庶民は、仏教の難しい教義はともかくとして、長寿を授け災厄を消してくれることを期待して菩薩を信仰した。金山は蘇軾が何度も訪れている有名な寺で、そこに遺品を寄付することで、死後の世界における祖母の幸福の足しにしようとした］
■【09-2-084】与王慶源之子
【解題】郷里から来ていた王箴がこの年の初めに帰ったことを作品番号09-2-004で見ているが、王箴の伯父の王淮奇［字は慶源］［→作品番号08-3-019］がこの年の終わり頃に亡くなった。これは、それから1年ほど後に、王淮奇の子に宛てて書いた手紙である。
【訳文】
私は昨年、宣義叔丈［王慶源］が逝去されたと聞き、お悔やみのお手紙をお送りしましたが、届いたでしょうか。それ以降は多忙のために暇がなく、さらには仕事が定めなく入ってきたために、長らくお尋ねすることもないままとなってしまい、慙愧の念に堪えません。叔丈は昔、学問と振る舞いをもって郷里にその名が高く知られ、しかしながら場屋［科挙の試験場］においては齢長けて後にようやく少し遂げることができただけで、顕著な功績を挙げるには至りませんでした。そのために、弟や子が学問に励んで、なお我が一族に志を遂げようとする心があるのを顕揚するのを望んでおられました。その思いに応えられますよう願ってこのお手紙を記した次第です。
【補足】［王淮奇が晩年に至ってようやく小さな官職を得たことは作品番号08-3-019で見ている］
■【09-2-085】熙寧中、軾通守此郡。除夜、直都庁、囚繋皆満、日暮不得返舎。因題一詩於壁、今二十年矣。衰病之余、復忝郡寄、再経除夜、庭事蕭然、三圄皆空。蓋同僚之力、非拙朽所致、因和前篇呈公済濟、子侔二通守
【解題】大晦日に詠んだ詩。長い題は次の通り。「熙寧年間に私はこの杭州の副知事となり、大晦日の夜にも庁舎に詰めていた。獄は繫がれた囚人でいっぱいで、日が暮れても私は宿舎に帰ることができなかった。それで一篇の詩を作って壁に書いた。それからおよそ二十年が経ち、衰病の身でありながらも、かたじけなくも再び杭州に来て、この大晦日の夜を迎えた。庁舎は静かで、三つの獄舎はどれも空である。これは同僚の力であって、拙く朽ちた私のしたことではない。そこで昔の詩に和して、袁轂［字は公済］と子侔の二人の副知事に示す」。20年が経ったとあるのは正確には19年である。副知事のうち袁轂は作品番号09-2-063などでその名を見ている。2人目の子侔とあるのが子明の書き誤りであるなら、先に見た梅灝のことである。副知事時代の大晦日に詠んだ詩は作品番号04-1-092ページとしてすでに訳出しているが、ここに再掲する。
【訳文】
前の詩
大晦日には早くに家に帰りたいものだ。
しかし、公務があって役所に留まらなければならない。
筆を持ち、書類に向かって不意に涙がこぼれる。
哀れではなかろうか、ここに繋がれている囚人たちは。
法の網に落ちるのを恥とも思わず、
ただただ食うためにしてしまったのだ。
私だって食うために、わずかな給与が恋しくて、
ぐずぐずと故郷に帰れずにいるのだ。
どちらが賢くてどちらが愚かということはない、
同じく食うためにしているだけなのだ。
せめて正月の間だけでも、
囚人たちを家に帰してやりたい……。
昔のそのようなことを実行した立派な人々に恥じ入るばかりだ。
今の詩
あれから山や川はもとのままで変わらないが、
歳月は逝くばかりで留まることがない。
百年も、一度俯して仰ぎ見るまでの間のこと、
木火土金水の五行が替わるがわる盛んになったり衰えたりする。
同僚の二人の副知事は、
漢の時代の名太守に肩を並べるほどで、
その徳業は昔の人に羞じるものではない。
老いて鈍いこの大守なんぞは、
嘯き諾いて、とかく休んでさえいればよいようにしてくれている。
この二十年の我がことを思うと、
出るも処るも人が謀ったものではない。
歯が抜けようが髮が白くなろうが、
それは天に任せておけばよい、
傷んだり壊れたりしたものは修復できないのだから。