第7章 勉強嫌いの小児のように――廬山、常州、登州
［第7章その二］
元豊8年［1085年］、蘇軾50歳。
■【07-2-001】正月一日、雪中過淮謁客回、作二首
【解題】泗州で迎えた元日に雪が降った。町に行って人に会い、船に帰ってからこの詩を作った。
【訳文】
其の一
淮河に沿った十里の道、
長い堤には雪をまとった竜がのたうちまわる。
凍てついた切通しに我が下駄の歯の痕を残し、
強い風に我が裘茸がひどく乱れる。
我が眼を穿つのは、遥かな白の広がり。
その深い白の彼方には輝く峰が隠れている。
はてさて月はどこから生まれ出てくるのか、
その名も広寒宮に養われているのだ。
【補足】［終わりの部分は、月の出ない朔日に月は仙界の広寒宮で育まれているという伝説に基づいて、その「広寒」の文字と目の前の雪景色を掛けて詠んだものであろうと解釈して訳した］
其の二
眉を顰めている、
何を憂いているのか、
よい句を得るため。
よい句ならいくらたくさんあっても構いはしないだろう。
寒々とした谷あいを埋めていた霧が晴れたので、
雪に覆われた町へと、
飢えた烏が出かけて行く。
橋の上を賑わしていた春の市はすでに終わり、
暮れ行く淮河の平らな水面に、
長々と塔の影が引かれる。
今宵は乏しくなった燈火の油を使わなくてもすみそうだ、
夜になっても、雪明りで船の窓は自ずと明るいだろうから。
【補足】［雪の日に蘇軾は何のために泗州の町に行ったのだろうか。春になればいよいよ発たねばならないので、その段取りを定めるためであったのだろうか。同じ頃に、劉という人の弓の練習場について詠んだ詩あり、相手をやたらと褒めるだけの詰らない作なので訳さないが、いろいろな人から支援を得る努力をしていたのだろうか］
■【07-2-002】孫莘老寄墨四首
【解題】孫覚［字は莘老］が都から墨を送ってくれたので、その謝礼にこの詩を作った。孫覚はかねてからの友人で、蘇軾の罪に連座した一人。その後、徐州知事になったことは作品番号06-3-024で、都に召喚されたことは作品番号06-4-040で見ている。
【訳文】
其の一
墨を作るための良材をかつて供給した徂徠の山にいまは老松はなく、
墨を作る良工をかつて輩出した易水の地にいまは腕利きはいない。
いま珍重されている松の材は朝鮮の楽浪郡から採られ、
現代の妙手というとただ潘谷がいるだけだ。
墨を作る秘方は、
鯉の魚胞を用いて杵で一万回も搗くことで、
犀の角のように黒くて、二匹の竜が蟠った形のものができるという。
このようにしてできあがった墨は私的に使われることはなく、
昼永く明るい日差しが注がれる蓬莱宮［宮中］に献上されるのである。
遥かに慕わしく思うのは、
そのような墨を用いて飛白体の書に筆を揮う貴君の姿、
長い虹に瑞祥を伴った霧がまとうその書に、
天子様が微笑むのである。
【補足】［（1）この詩の前半は当時の墨事情を歌っている。特に名を挙げられている潘谷については作品番号07-1-067で見ている。蘇軾自身の注で、潘谷の墨は高麗の煤を混ぜて作られていると書き添えている。（2）後半は、皇帝への献上品として用いられる墨および孫覚の書を讃えている。孫覚は都にあって改革派に転じたわけではなく、学術、特に書への造詣の深さから皇帝に仕えていたようである］
其の二
端州の溪谷の石は馬の肝のような色、
彫琢すると最上の硯になる。
剡渓の藤を混ぜて漉くなら、
玉のように輝く最上の紙になる。
その硯で墨を磨ると、嘘嘘と雲霧が湧き出て、
その紙に筆を走らせると、奕奕と竜が綰り踊る。
そこにどのような好さがあるのとかいうと、
秀でた色が眼いっぱいに満ちるのである。
旧い友人［孫覚］は天禄閣［宮中の図書室］にあって、
漆で書かれた文字や虫に食われた書簡を見つつ、
隃麋の墨［高級な墨］を支給されて、
手慣れた腕前で書物を編纂している。
そのおこぼれの墨を頂戴して、
流落の身の私はただ顔を赧くするのである。
【補足】［（1）この第二首は朝廷にある孫覚のことを詠んでいるために、重々しい語句が用いられていささかわかりにくい。（2）端州の渓谷に産する石で作られた硯、端渓硯は天下の名品とされる。（3）剡渓の藤を漉き込んだ剡藤紙が最上の紙であることは、孫覚に贈った作品番号04-1-044の詩に詠まれていた］
其の三
私は貧乏で、飢えた鼠のようだ、
だから夜長に空しくぎしぎし歯をかみ合わせている、
――というわけではなく、
硯に水を湛え、竈の消し炭のような粗悪な墨を磨っているのである。
そして、葦の軸を筆にし、柿の葉に書くのだ。
近頃、唐先生が烏の羽にように真っ黒な墨を贈ってくれた、
すると、貴君からもまた贈られてきて、
箱の中で二つの墨が輝いている。
晴れた日に、硯を洗って窓辺に座り、
蛇や蚓がぬらぬら這うような字を書いてみたら、
世間には物好きがいるもので、
千鳥足で歩いた跡のようなものが欲しいと、門を叩くのだ。
【補足】［（1）唐先生とあるのは、何度も書の道具を贈ってくれている唐垌［字は林夫］［→作品番号07-1-104］である。（2）儀礼的で面白味のない第一首と第二首に比べて、蘇軾自身のことを詠んだ第三首と第四首はいわゆる俳味がある］
其の四
私が窮したのはもとより詩のためだ。
だから、友人たちの戒めに長らく従って、
五年の間、江湖のほとり［黄州のこと］で口を閉ざし、
これまでの借りを償おうとしてきた。
ところが、このごろはまた少しずつ詩を作り出し、
悪いできものを掻きむしるかのように、
それが実に快感なのである。
先生［孫覚］はそのことをお叱りにならないばかりか、
詩のせいで拷問を受けるようになるのを手助けするものを贈ってくれた。
墨の放つ鈍い光は、奇怪な思いを誘い出し、
荒く怪しい句を黒々と書かせようとする。
かくて詩ができ、自分で自分を笑ってしまう――
体にさわるからと蟹や蝦を断ってみたところで、
一度口にしたら最後、元の木阿弥なのである。
【補足】［このころに都では重大な事態が進行しつつあった。そのことを蘇軾に伝えるようなことは、孫覚たぶんしなかったであろう。神宗皇帝は前年の秋から病み、予断を許さない状況になっていた。皇帝が絶対的権威である時代において皇帝の病気は国家の重大事である。まして、王安石が提案した大改革は神宗皇帝であったからこそ実行に移されたのであって、神宗皇帝が死ぬようなことになれば政治の大転換に直結する。政権中枢部は病状の悪化を極めて深刻に受け止めていたであろう］
■【07-2-003】泗岸喜題
【解題】1月4日、蘇軾は泗州を離れ、船の上でこの短文を記した。
【訳文】
私は黄州に謫居すること五年、今日、泗州を離れて北に向かう。
騾馬を連ね、鐸［鈴］が籠と触れ合って、じゃらじゃらと鳴る音が岸の上から聞こえてくる。心の内に喜びが生じる。私はこの声を長らく聞いていなかった。
韓愈の詩に、
照壁喜見蠍［壁を照らして蠍を見ても喜ばしく思える］
とあるが、この語はまこと虚しいものではない。
しかしながら、私は常州に住むことを願う書面を朝廷に差し出している。魚や鳥の本性は最終的には江湖においてこそ安んじられるのではなかろうか。
元豊八年正月四日に書く。
【補足】［（1）「南船北馬」の語があるように、南中国では水運が、北中国では陸運が主である。中国を南北に分ける淮河から北側に入り始めるとすぐに、蘇軾は驢馬の列の音を耳にし、心地よいものを覚え、久しぶりに北側の地に入る実感を得た。（2）ここに引かれている韓愈の詩は、地方官として外に出ていた時期に、都に召喚されるとの知らせを受け、いままでは厭わしく思えた蠍も嬉しく眺められると詠んだもの。蘇軾の心情は韓愈のように単純ではない。（3）「江湖」は字義通りに江や湖を指すだけではなく、都［都会］に対する田舎［自然］をも意味する。「江湖」の語は今後も頻出し、訳詩ではそのまま用いたり、別の語で置き換えたりする］
■【07-2-004】留題蘭皐亭
【解題】霊壁鎮の蘭皐亭でこの詩を詠んだ。蘭皐亭は張碩が所有する庭園にある建物。その庭園を蘇軾は6年前に訪れ『霊壁張氏園亭記』を書いている［→作品番号05-5-031］。
【訳文】
雪の後の風は、
まだ春の陽気のものではない。
夜になろうとするいま、
門を叩くのは各地を移ろう旅人である。
庭園に入ると、
竹のもとに新たに生じる筍はまだ見えない。
［しかし、ここの張氏には代々立派な子孫が生じている］
ここまでは川の水が濁っていたけれども、
ここでは清らかな水に置き換わっている。
［しかし、昨今の政治情勢がそうであるかは知らない］
蘭皐亭に往来するのは、贅沢な車馬に乗る者ではない。
［世間に羽振りのよい連中は必ずしもここでは歓迎されない］
今夜、ともに笑って語らうのは東の坡のこと。
来年には、私もここに倣って隠棲する場を整えようと思っている、
そこはひっそりとして、雀さえ訪れることはないのである。
【補足】［（1）終わりの部分は二つの故事を踏まえている。一つは「三径」。昔の有名な隠者はその住まいに至る道を三本だけ開き、本当に心を許せる者にしか通らせなかった。それで「三径」といえば、そのような意味合いの隠棲の場を指すようになり、この詩では「明年、我も亦三径を開かん」と詠んでいる。「亦」とあるのは張氏の庭園もやはり「三径」であるからだ。もう一つは「雀羅」。隆盛を誇って、訪問客がひっきりなしにあった人も、ひとたび地位を失うと、誰一人来なくなり、門の前に雀を捕る網を張れるほどになるというのが「雀羅を張る」という成語。蘇軾はそれをひねって、あまりにもひっそりとして、網を張っても雀も捕れないとこの詩では詠んでいる。（2）6年前に書いた『霊壁張氏園亭記』に、「泗水のほとりに田を買って、そこで余生を送りたいと思う。そうなれば、南に霊壁を望み見て、鶏や犬の声が互いに聞こえ合う距離にあり、ふらりと歩いては張氏の園庭に往き来して、季節ごとにそこの子孫と遊べるであろう。必ずその日があるに違いない」とあった。その文章を踏まえてこの詩は詠まれている。（3）霊壁鎮を後にしてから、蘇軾は船中で、年末に詠んだ『泗州除夜』の詩などを書いた。その跋文に「泗を過ぎてこの数篇の詩を書いた。たまたまこの佳い紙と精い墨を得たのでこれを写したのである。もって旌徳君［妻の王閏之のこと］に贈った。元豊八年正月十日、東坡居士書す」と記した。黄州を発ってからの長旅をねぎらうためであったのだろう。蘇軾は家族について記すことがまれなので、貴重な記録である。子を喪った後の王朝雲がどのように日々を過ごしていたのかは一切何もわからない］
■【07-2-005】和人見贈
【解題】潤州［京口］から送られてきた詩を船中で受け取り、それに和した。それが誰の詩であるのかはわからない。
【訳文】
私の詩は、東の坡のありようを写しただけで、
自分の名を顕そうとしたものではない。
この身は宿場の駅舎――
入れ替わり立ち代わり来ては去り行くのである。
川には春の水が増えきている、
それても、私に壮な心が起こることはもはやなく、
髪は衰えて病葉のように落ちるに任せている。
貴君のところでは「雪児」［美しい歌妓の名の例］が筆や硯を用意してくれているだろうけれど、
私のところでは「竈婦」［煤けた妻をいう］が盆や瓶を洗っている。
きっと迷惑であろうけれど、
いずれ京口に戻ったときには、貴君に酒を求めるつもりでいるので、
そちらではきっと「おねだり経」が流行るだろう。
【補足】［この詩のメッセージは、常州での居住が許されたなら再び京口を通るので、そのときに酒の無心をしようということ。最後の「おねだり経」の原文は「作客経」で、その意味を訳者は承知していない。おおむねこのような意味であろうかという「ずっぽ訳」である］
■【07-2-006】南郷子
【解題】この詞には「宿州上元」の副題がある。つまり1月15日に宿州に至っての作である。
【訳文】
小雨如酥落便收。［酥のように白く煙っていた小雨がちょうどおさまります］
能使江東帰老客、［江東［常州］に帰ろうとしている老いた旅人は］
遅留。［ここにぐずぐずと引き留められています］
白酒無声滑瀉油。［白い酒が音もなく油ように滑らかに注がれるのです］
飛火乱星球。［火が飛び、星が乱れます］
浅黛橫波翠欲流。［薄く黛を施した女性が翠の波のように流れて行きます］
不似白雲郷外冷、［神仙が住まう「白雲郷」の冷やかさには似ずに］
温柔。［ここは温かく柔らかです］
此去淮南第一州。［こここそは淮南第一の都会なのです］
【補足】［前半は、上元節の郊外の昼間に賑わいを、後半は、灯火を飾り付けた夜の街の賑わいを歌っている］
■【07-2-007】跋翰林銭公詩後
【解題】宿州から南京応天府を目指して北に進む途中で記した短文。
【訳文】
私は歯が生え換わるころに町の寺子屋に入り、すぐに銭易公の詩を朗誦した。ここに幸いにも銭易公の遺墨を見ることができた。
元豊八年正月二十日。
【補足】［銭易は、五代十国時代に杭州を都とした呉越国の四代目の王の子。呉越国が宋朝に帰順した後は、銭易は学問をもって仕えた。その銭易の詩が、蘇軾が入学した寺子屋で教材として使われていたのである。誰かが蘇軾に銭易の書を見せに来て一文を求めたのだろう。このようなメモ書き程度のものでも蘇軾の書は珍重された］
■【07-2-008】寄蘄簟与蒲伝正
【解題】これも南京応天府に至る途中での作であろう。蘄州産の竹で編んだ簟とともにこの詩を蒲伝正［字は宗孟］に贈った［蘄州は黄州の東隣りである］。蒲伝正は蘇軾と同郷の人で［→作品番号06-4-007］、前年の8月まで都にいたのだが、蒲伝正は奢侈を好み、違法の行為があった疑いで左遷され［→作品番号06-4-069］、汝州［蘇軾が本来行くべきとされていたところ］の知事に一度任命された後に改めて亳州知事となり、このときは任地に向かいつつあった。亳州は宿州から移動中の蘇軾にとって遠くないところである。
【訳文】
蘄州の蘭溪の竹は美しい。
玉の箸のように、霜を帯びた幹が並び立ち、
千の谷に万の竹が連なり、そこから自然と風が生じる。
蘭溪の竹からは笛を作ることができないので簟を編む。
それを手にすると、
まだ開く前から、風が吹き出して来て、ぞくっとさせられる。
貴君の家は軒を連ねた豪邸で、
内に美女を鎖し、
珠の簾に花の影が静かに移ろい、
帳に香の煙が漂い、
貴君は銀の牀で目覚めると、
象牙で作られた碁石を打つよりすることがない。
東の坡の病気の老人は、
長い旅に出て、凍えて臥し、饑えて吟じ、
まるで餌のない痩せ鼠のようである。
春の風に破れた衾を洗ってみたところ、
あいにくと雪の降る夜になってしまい、あわててぼろ絮を被った。
舟からの子供たちの嘆きの声をもれる始末だ。
青いかすかな燈のもとで呻吟するこの姿を、
果たして誰が知るのだろう。
天はいつになったら暖かな天候をもたらしてくれるのか、
そればかりを望んでいる身を恥じらいつつ、
この八尺の黄色い簟を貴君に献じる。
高殿を掃き清めてこれを敷き、その上に臥し、
ここから吹き出す風にさざ波が立つ音を聞いていただきたい。
貴君の両脇から清浄な風が生じて［それによって奢侈の習性が改まるならば］、
その風に乗って貴君は朝廷に戻るであろう。
■【07-2-009】満庭芳
【解題】蘇軾は1月の終わりごろに南京応天府に着き、この詞を詠んだ。短い序文がある。
【訳文】
私は黄州に謫居すること五年、汝州に赴くことになり、『満庭芳』の詞を作って黄州の人々と別れた。南京応天府に至ると、皇帝の御恩を蒙り、陽羨に放ち帰されることになり、また『満庭芳』の一篇を作った。
【補足】［黄州を発つときに作った『満庭芳」の詞は作品番号06-5-026で見ている。この序文によって、南京応天府に着いた時点で、先に朝廷に提出した願いが容れられたことが知れる。この詞は黄州での作と同じ韻を用いている］
清谿無底、［どこに帰るのか――底がないほどに清らかな谷へ］
上有千仞嵯峨。［上には千仞の山が聳え立っています］
昼楼東畔、［昼は東の川べりの楼閣にあって］
天遠夕陽多。［空の彼方を見るうちに、とっぷりと暮れて行きます］
老去君恩未報、［もはや老いて、お上の御恩には報いられぬまま］
空回首、［空しく首を回らし］
弾鋏悲歌。［使われない鋏の悲しみを歌うのです］
舡頭転、［船の頭の向きを変え］
長風万里、［風に乗って一万里］
帰馬駐平坡。［さらに帰り行く馬を、平らな坡に駐めるのです］
無何。［無何は］
何処有、［どこにあるのでしょうか］
銀潢尽処、［天の川の尽きるところ］
天女停梭。［天女の機織り機の停まるところでしょうか］
問何事人間、［人間世界には何があるのでしょう］
久戯風波。［しばらく天の風や波と戯れていましょう］
顧謂同来稚子、［（仙界に迷い込んで）子供らが遊んでいるのを見ているうちに］
応爛汝、［斧の柄が腐ってしまったように］
腰下長柯。［空しい時を過ごしてしまうのです］
青衫破、［青い衫はぼろぼろになり］
群仙笑我、［もろもろの仙人に笑われ］
千縷挂煙蓑。［漁師の蓑を身にひっかけて、霧の中へと舟を進めるのです］
【補足】［後半は、空想をたくましくして、常州に住むことを天の川で遊ぶことになぞらえて歌っている。途中で、「斧の柄が腐ってしまう」といっているのは、仙界に迷い込んだ樵が斧の柄に顎を載せて、2人の仙人が碁を打つのを眺めているうちに、斧の柄が腐ってしまうほどの時間がたちまち流れてしまったという説話に基づいている］
■【07-2-010】題陸柬之臨摹帖
【解題】ここからは南京応天府滞在中の諸作品を見てゆく。順序は必ずしも明らかではないので、最初に日付の記されているものを見て、あとは順不同である。これは唐代の陸柬之が模写した『蘭亭の序』に添えた短文。『蘭亭の序』は王羲之が永和9年［353年］に書いたもので、それは中国史上最も優れた書とされ、真筆は唐の太宗皇帝が自分の墓に入れてしまったために残っておらず、各種の模写が伝わっている。
【訳文】
陸柬之が模写した『蘭亭の序』を観ると、東晋時代の風流が蕭然として目に在るかのようだ。その筆迹は古雅で王羲之父子の筆に近く、奇矯なところはわずかしかない。陸柬之はどうしてこれほどのものを書けたのだろうか。……元豊八年二月十二日、眉陽の蘇軾が書く。
この年の十一月十八日、蘇轍は泗州を過ってこれを観た。
【補足】［（1）終わりの一文は弟の蘇轍が書き加えたもの。蘇轍はこの年の2月ごろに新しい任地である績渓県に到着し、8月に都に呼び戻され、ここにある日付のときに泗州を通過して都に向かったのである。（2）蘇軾は予定していた通りに、乳母の楊金蝉を南京応天府郊外の広寿院に正式に葬った［→作品番号05-3-032］。2月18日であった］
■【07-2-011】書楞伽経後
【解題】南京応天府に到着した蘇軾は、真先に大恩人の張方平のもとへと訪れたであろう。張方平とはかつて徐州から湖州に赴任する途中で会っていて［→作品番号05-5-029］、6年ぶりであった。張方平はすぐに蘇軾に一つの頼み事をした。その事情を7カ月後に記したのがこの文章である。前半の3分の2ほどは『楞伽阿跋多羅宝経』という仏典の解説であるので省略する。
【訳文】
……私は張公［張方平］の門下に遊ぶこと三十年、今年［元豊八年］二月、南京応天府を過り、公の私邸でお目にかかった。公は七十九歳、もはや現世の幻に惑わされることがなく、仏陀のまろやかな光に包まれている。私は憂患の内に老い、冷え切った灰のような思いを多々抱いていた。公はそんな私は教え導こうと、『楞伽経』を授けてくれた。
公は三十万銭を出資して、『楞伽経』を書写して配り、江淮［長江、淮河の下流域］のあたりに広めようと考えられた。すると金山寺の長老である仏印大師了元が「書写して配っても数に限りがあります。版に刻めば無限に増やすことができます」といわれたので、私が版の元になるものを書くことになった。
私が書き終わると、仏印大師は弟子の暁機を銭塘［杭州］に走らせ、よい職人を求めて板に刻んだ。そしてその版は金山寺で保管することとなった。
【補足】［（1）仏印大師了元の名は作品番号07-1-061などで見ている。ここで興味深いのは、仏印大師が印刷を勧めたことである。世界史でいう「宋の三大発明」とは火薬、羅針盤、印刷で、まさに印刷術の発展の流れに乗って、仏印大師は仏典の木版印刷を張方平に勧めたのである。さらに興味深いのは、杭州で版を刻んだことだ。都でも印刷術は発展しつつあっただろうが、杭州の方が何かにつけて文化の先進地だったのだろう］
■【07-2-012】記夢、并叙
【解題】張方平が見た夢から生まれた詩。序文がある。
【訳文】
叙
楽全先生［張方平］が見た夢で、ある人が三篇の詩を示した。どの字も流れるように書いてあり、読むことができなかった。傍らに道衣を着た古めかしい容貌の人がいて、その中の一篇を読み上げた。「人事且常在、留質悟円間」［人事且常に在り、質を留めて円間を悟る］。もとは四句あったのだが、他の二句は忘れてしまった。その夢の話を私に告げたので、私なりに一篇の詩にしてみた。
円の中に物がある、
物は本来、空である、
ならば、円の中は空であるのか。
井戸の中に空間がある、
円をその中に入れる、
ならば、空の中に空が入るのか。
天は円の形をしているとか、
自らの眼力をもってそれを窮めることができるのだろうか。
円の内に円がある連環を、人知で解きほどくことができるのだろうか。
天地の全体が共鳴するような風は吹くのか。
頭を下げて、種々の疑問を楽全先生に問うと、
先生は大きく笑っていう。
「真理に通じるのを妨げる者は誰もない」
【補足】［張方平は仏教に深く傾倒し、蘇軾も仏典に詳しい。この詩は仏典にある特殊な用語を多用し、訳者には全く理解できない。よってはなはだしい「ずっぽ訳」である。結語は、ごちゃごちゃ理屈で議論するより、人それぞれに悟るところがあるという意味だとするのはおおむね正しいであろう］
■【07-2-013】西江月
【解題】この詞には、「姑熟［当塗］で再び勝之に会い、前の韻を用いてまた『西江月』の詞を作った」との注記がある。当塗は金陵の西側の長江沿いの町で、蘇軾は前年の7月にそこを通過して、そのときにこの詞を詠んだといっているのだが、王明清の随筆『揮麈後録』［→作品番号07-1-108］は次のようなエピソードを伝える。
【訳文】
王明清：『揮麈後録』巻七より
徐大受の後房には甚だ麗しい女性が大勢いた。蘇軾はかつて徐大受の家でその女性たちが演奏する音楽を聴いて詞を詠んだ。最も寵愛されていたのが勝之であった。
蘇軾は黄州から北に向かう旅の途中で南京応天府を通り、張方平に会ったところ、勝之はその息子の張恕の情けを受ける身となっていた。蘇軾はそれを見て思わず顔を覆って慟哭した。勝之はかたわらの女中たちを顧みて大笑いした。
蘇軾はそれからいつもこのことを語り、妾を蓄えることの戒めとした。
【補足】［先の黄州知事の徐大受［字は君猷］のもとに大勢の歌妓がいて、勝之という女性に蘇軾は『西江月』」の詞を贈ったことは作品番号06-2-014で見ている。その勝之が張方平の息子の妾になっているのを見て同じ『西江月』の詞を詠んだと『揮麈後録』は記しているのである。ここではそれに従ってその詞を訳すことにする。しかしながら、王明清の記録はあまり信用できないようである。なお、張方平の息子の張恕とはかねてから交流があったが、どうやら愚物だったらしいことは作品番号05-5-094で見ている］
【訳文】
別夢已随流水、［別れの夢はすでに水とともに流れ去ってしまったのでしょうか］
涙巾猶裛香泉。［涙に濡れた巾にはなお香りが残っているのではありませんか］
相如依旧是臞仙。［昔のある人は真の美は仙界にあると説きましたが］
人在瑤台閬苑。［人はやはり華やかな場所に留まるものなのでしょうか］
花霧縈風縹緲、［やわやわと風に送られて霧が花にまとわりつき］
歌珠滴水清円。［歌声は珠となって水に滴り落ちて清らかな円を描きます］
蛾眉新作十分妍、［美しく引き直した眉は非常に美しいけれど］
走馬帰来便面。［走り去った馬が戻ってくると顔を隠さずにはいられないのです］
【補足】［この詞の各句が何を意味するのか訳者には十分に掴めていないので、またしても「ずっぽ訳」である。全体としては、徐大受が亡くなったときに流した涙がまだ乾かないうちに、また美しく化粧して宴席に出ていることをたしなめるような内容であるのだろう。そこから王明清が伝えるような話が生まれたのだろう。しかし、潤州で2人の官妓の解放に力を貸した蘇軾であるから［→作品番号07-1-073］、前のパトロンが亡くなってすぐによその土地に流れて行かなければならない女性の境遇に同情を寄せることはあっても、妾を持つなとの戒めとしたとは考えにくい］
■【07-2-014】和王勝之三首
【解題】詩題に「勝之」とあるから、上に見た同じ歌妓かと早合点してはいけない。こちらの「勝之」は王益柔の字である。王益柔が金陵の知事から南京応天府の知事に移ったことは作品番号07-1-055で見ている。南京応天府で王益柔と再会し、その詩に和した。三首とも宴席での戯れの詩で、ごくいい加減な訳文を添えておく。
【訳文】
其の一
城の楼閣から湖を見ると、
暖かな光に波が立とうとしている。
湖上の船から、
美しい女性が私に向かって、
「春の遊びに出ませんこと」
と歌いかける。
知事殿の客人はみな詩と酒をよくするのだが、
その中で神仙の域に達するのは誰であろうか。
其二
知事殿の酒は緑の川の波のように漲り、
知事殿の詩はどの句も弦の音に乗って歌われる。
曲水の宴は何も三月三日に限りはしない、
新しい詩を作って、かの永和の遊びを継ごうではないか。
【補足】［永和九年の曲水の宴のありさまを記したのが王羲之の『蘭亭の序』［→作品番号07-2-010］である。日付にこだわることなく、その遊びを継ごうというのだから、全くの戯れの詩である］
其の三
知事殿は独り旅する者を憐れみ、
知事殿のすばらしい詩に、
「鈍臭く和しても構わぬぞ」
と、その者にいうのだが、
その者は、酒樽の前で座ったまま眠ってしまい、
呼んでも応えない。
ようやく寝ぼけまなこでいうには、
「工夫を凝らしてはかえって天の和を損ないますので（眠っておりました）」
【補足】［居眠りをしたのはむろん蘇軾自身である］
■【07-2-015】南都妙峰亭
【解題】南京応天府にある妙峰亭で詠んだ詩。妙峰亭は知事の王益柔が建てたもの。かつて立派な建築物があった跡地に、簡単な見晴らし台を作ったのが妙峰亭であったようだ。この詩は含蓄がありげな語句を多用していて、意味を汲み取るのが難しい。訳文は一見すると原詩とは遠くかけはなれている。このように解釈すると、蘇軾が仕組んだ面白さを引き出せると思うからだ
【訳文】
かつてここにあったのは、
雲を凌ぐ高楼、風に波立つ大きな池、
高楼の扉を開くと、美しい風光が前に広がり、
見る人を輝き照らしたのだった。
それは池も畑に埋もれ、
桃や李の花園は草に覆われてしまった。
もはやここを顧みる人はなく、
日暮れ時になると、ころころと車が通り抜けて行くだけ。
いまの知事殿［王益柔］は世間の人々とは異なり、
その心は古の仏弟子のように静まり返っている。
それでも、ときには利益や名声を求める人の相手もしなければならないので、
その後で、塵埃にまみれた顔を洗おうと、ここに新たに亭を建てたのである。
町の外側の門に向かい合うのは東の丘、
知事殿は世の全てをここから見渡しつつ、
ちっぽけな人間界について思いを巡らせる。
妙峰亭の名は、
俗界から遥かに抜きん出て、廬山も華山も石ころのように見下ろそうというココロからである。
ならば、知事殿の指を煩わしてどれがどの山かを教えていただこう、
そうすればわざわざ世の名山を登りに行かずともすむであろうから。
■【07-2-016】跋李伯時孝経図
【解題】南京応天府に滞在する間に李公麟［字は伯時］の画を見てこの跋文を記した。李公麟は北宋を代表する画家の1人で、生年は蘇軾より13年あとで、没年は蘇軾の5年あとであるから、ほぼ同じ時代の人である。蘇軾が都でさかんに改革を批判していたころに科挙に合格し、官員としても活動したが、後世にはもっぱら画業をもって伝えられる。このとき見たのは儒学の経典の一つである『孝経』から題材を採った画。
【訳文】
この図を観る者は、まさに『礼記』にあるところの「易直子諒の心、油然として生じる」［和やかな誠の心がふつふつと沸き立つ］となるであろう。筆跡の妙は顧愷之、陸探微に劣るものではない。『孝経』第十八章［親を喪った子の悲しみをテーマとする］の図は、人の子として忍びざるありさまを、見事にありありと描いている。道を得た君子でなければこのように描けるものではなく、顧愷之、陸探微といえども及ぶものではない。
【補足】［この文章だけからすると、もとの画は経典のプロパガンダ画であるように思えてしまうのだが、李公麟の画が高い精神性を有していることを評価したものなのだろう。このときは李公麟とはたぶん会っておらず、後に深い交友関係を結ぶようになる。なお顧愷之と陸探微は高校世界史の教科書にもその名が載るような中国を代表する画家である］
■【07-2-017】寄怪石石斛与魯元翰
【解題】魯有開［字は元翰］に怪石［奇怪な形状の石］と石斛［自然石で作った桝］を贈り、それに添えた詩。魯有開は杭州副知事時代に交流があった人［→作品番号04-3-073など］。「怪石」は黄州の赤壁で拾ったもの［→作品番号06-3-040など］。「石斛」はどこで入手したのか不明。魯有開はこれまで都にいたのだが、何かの落ち度があって左遷となり、それを慰めるために蘇軾はこれらを贈ったのである。
【訳文】
斛は山の骨が四角に裁たれたもの、
珍しい石は長江の浅瀬で拾ったものだ。
清らかな池を湛える斛は机の上に置くのがよく、
月を砕いたような石は盤の上に置くのがよいだろう。
私は老いて白居易のいう「三友」［酒、琴、詩］を懐うのだが、
日常的には一椀の飯にも困っている。
斛の堅い姿はいささか自らの戒めとし、
怪石の秀れた色を腹の足しとしてきた。
さあ斛と怪石よ、行くがよい、髯の美しい卿［魯有開］のところへ、
道眼［真理を見抜く慧眼］をもって看てもらえるであろう。
この怪石は東坡居士のもとに残った最後のもの、
霜や雪のような輝きが人を寒く照らすであろう。
【補足】［「寒く」とあるのは、温度のことをいうのではなく、精神を引き締める高潔さをいうのであろう］
■【07-2-018】贈眼医王生彦若
【解題】南京応天府の眼科医、王彦若に贈った詩。蘇軾自身の注記によると、王彦若は張方平の門人である。
【訳文】
鍼の頭は麦の芒のように小さく細い、
その先端から、車軸のような勢いで気が流出する。
体の中は絡やら脈やらが複雑にからみ合い、
生命は毛筋のごとく、あるいは粟粒のごとく、ごく微小なものに依拠している。
とりわけ眼は清浄なもの、内部に天の燭が収められている。
それは琉璃の中に貯えられている露のように弱くて脆く、
触れることさえ危うい。
ところが、王先生は眼の中で鍼を用い、
鋒や鏃を縦横に振り回すかのようにして、
しかも、全く普段通りに談笑しながら行うので、
観る者は驚きのあまり首を縮めてしまう。
斤を動かして家を拆くようにして眼から翳を取り除く。
常に疑われているのは、
王先生は幻を見せているのであって、
実は鍼のほかにまじないを用いているのではないかと。
先生はいう、
「私のしていることは道に敵っています。
貴君はその理がまだわかっておられないのでしょう。
人の身体はひとかたまりの塵や垢のようなもの、
身分に貴賎の上下があっても、どの人も草木と変わりがありません。
世間の人は外見を重んじ、やたらと瓦と玉の違いを見ています。
私も初めはわかっていなかったので、
眼を刺すのは肉を刺すのと同じであるように思っていました。
病んだ眼を見ると翳があり、翳は眼ではありません。
眼と翳が別々の物であるのなら、
それを分けるのは麦と豆のように簡単なのです。
農夫に聞いてみればわかるように、
雑草を取り去って穀物が損なわれるということはありません。
鼻の頭にだって広い空き地があり、
肝と膽も楚国と蜀国ほどに離れています。
私は、人の体の中に蕩蕩とした空間を見ているので、
鍼を使うのは、九台の車を並べられるだけの幅がある道を走るようなもの、
二台の車が疾駆してもぶつかり合うことはないのです。
眼中に花が散るような翳は誰が取り除こうとも、
三日月が自然と満月になるように、眼は明るくなります。
さらに尋ねたいことがあるのなら、
いまは言葉を忘れた境地にある楽全堂先生［張方平］にお聞きください」
【補足】［蘇軾が黄州で赤眼を患ったことは作品番号06-4-004で見ているが、ここで王彦若の診察を受けたかどうかはわからない］
■【07-2-019】春日
【解題】南京応天府でのある穏やかな午後の詩。
【訳文】
夫婦呼び合う鳩も、雛を育てる燕も、
いまは声なく静まりかえっている。
西の窓から、日が目にまぶしく射し込んで来る。
昼の酔いから醒めはしたけれど、
何もすることがない。
ならば、春の眠りをもって、
春のこの晴天を賞玩するとしよう。
■【07-2-020】李憲仲哀詞、并叙
【解題】李廌［字は方叔］［→作品番号06-3-070］が陽翟から蘇軾に会うために南京応天府にやってきたので、その父の李惇［字は憲仲］の挽歌を作った。蘇軾と李惇は同じ年に科挙に合格した「同年」の間柄である［→作品番号06-2-039］。
【訳文】
叙
同年の友である李惇、字は憲仲、は賢にして才能があった。不幸にして早世したために、私には親しくさせていただく間がなかった。その子の李廌が、この年、陽翟から出て来て南京応天府で私と会った。
李廌は泣きながらいった。
「私の祖母の辺氏、母の馬氏、前の母の張氏、そして父までも、いまだに葬礼が終わっていません。貧乏であっても、飢えや寒さなら憂いはしません。四人の葬礼が終わらないうちは、私は死んでも死に切れないのです」
このときたまたま知り合いの梁先吉が、私が陽羨に帰農すると聞いて、絹十匹、絹糸百両を贐として贈ってくれ、辞退しても許してくれなかった。そこで、それらを李廌に贈ることにした。
「これは仁のある人から饋です」
と、私は李廌にいった。
さらに詩を作って、李惇や李廌を知る者に見せることにする。李廌を助けてくれるのを願ってのことだ。
李廌は二十五歳、その文章は曄然き気節のあることは並大抵でない。決して窮したままで終わる者ではない。
人の一生は大きな夢のようなもの、
ゆくゆくは覚める……
百年の期限を満たすことはなかなかにない。
私ははなはだ悲しむ、
貴君［李惇］がその半ばに至らずしてすでに逝き、
さびれた建物の内で長い眠りにつき、
いまなお葬られずにいるのを。
念うに貴君と私は同年、
友愛の意は長くあろうとしたのだけれど、
貴君に許された歳月は短いものであった。
名馬でありながら塩を運搬する労苦に苦しみ、
貧困のために先祖を祀るための道具も失ってしまった。
貴君の子は奇骨があり、語りっぷりはすでに精悍である。
野生の鶴さながらの姿で、将来はきっと古の名臣を凌ぐであろう。
生きるものは大塊［肉体］に生命を寄せ、
死んだ者はみな土の穴の中に入る。
ああ、貴君だけはいまだに現世に留まり、地下の暖かさを知らずにいる。
私は孝子を助けようと衣を差し出す、
それとて、日照りの大地に一杯の水を注ぐようなもの。
さらに支援してくれる者はいないのか。
昔の人も大事なことはゆるがせにしてはならないといっているではないか。
【補足】［（1）先の黄州知事の徐大受の例で見たように［→作品番号06-4-082］、きちんとした葬礼を行うのは一大事業であった。蘇軾は自身に余裕がなくても何とか支援の手を差し延べようとしている。（2）旧中国の人々にとって最も大きな願いは科挙に合格して官員になることだった。それでも、若くして死ねば妻子がたちまち困窮してしまうようなことも珍しくはなかった。李廌は三代にわたる先祖の葬礼をきちんとすませた上で、自身が科挙に合格して家を再興するのを悲願としていたのである］
■【07-2-021】王伯敭所蔵昌花四首
【解題】南京応天府にある王廷老［字は伯敭］の家を訪問したところ、趙昌が描いた画があった。趙昌は蜀の人で、蘇軾より少し前に活躍し、花虫草木を描くことを得意とした。その画を見ての詩。王廷老はこのころは官職から退いていた。なお、王廷老の息子に、蘇轍は娘を嫁がせている［蘇轍には5人の娘がいていずれも名のある士大夫の息子と結婚している］。
【訳文】
其の一 梅花
南へ南へと、山また山を越える。
練練と流れ下る渓流の水はあくまでも清い。
日暮れが近づき、しかも細かい霰も降ってきて、
ここに旅人は愁いを極める。
不意に、心やさしくも梅の花が、
美しい顔を寄せてくれる。
旅人はほのかな香りをまとい、
再び歩み出す。
ふと、振り返り見ると、
霰なのか、花びらなのか、
暗がりに千の小片が飛び交っている――
いま、梅花の画を開き見ると、
かのときを思い、老いた我が眼に涙があふれる。
かのときの懐は文字に写すことができない、
この画に誘われて、
夢にまたあの梅の花のもとへと帰って行こう。
【補足】［趙昌の梅の画を見て、蘇軾は作品番号06-1-010で詠んだ梅を思い出したと解釈して、この訳文を作った］
其の二 黄葵
葵は弱々しくも夏の日中の永さに苦しみ、
暁の涼しさによって、そのすてきな姿が蘇る。
低く、あるいは高く、黄金の杯が揺れ、
昇ったばかりの日の光を受けて照り輝く。
紅い花の芯に暈がかかり、
翠の葉の先に芒が突き出る。
昔から葵を写生する人はいたけれど、
趙昌の絶妙な技には誰も及ばない。
朝に粧った姿も、昼に酔った姿も、
陰陽合わせもった真のありさまを描いている。
この花の枝を見るがよい、
宿った露の香りまでも感じ取れるではないか。
其の三 芙蓉
林は秋の風に払われ、
池の水は次第に浅くなり、
蓮の花はすっかり尽きてしまった。
渓のかたらでは、
芙蓉の木に、川のせせらぎと呼応するように花が開く。
ほかにあるのは、霜に萎れた菊だけ。
ひそやかな芙蓉は、
迫る夕暮れの暗がりの中に埋もれつつ、
無理にも微笑みを浮かべようとしている。
そのうらさびしさは、
見初められることもなく、
我が衰えの早さに驚く貧家の娘のようである。
誰がその娘のういういしい容を写したのか、
剣南の老いた樵［趙昌］である。
其の四 山茶
冬の強い風が吹くと、
山の松が寂しげに鳴り、黄色い葉が飛んで落ちる。
誰が憐れむのか、
氷雪の中で、少女のようなこの花が、火の如き明るさを発しているのを。
年の瀬の寒さの中の山茶花の姿を写し得たのは、
昔からただ邱文播がいただけだとされた。
趙昌はその妙所を得ただけでなく、
膠の粉を使う技法も一掃してしまった。
掌の中で丹砂を調合し、鶴の頂の紅の色を染め出してみせたのだ。
墨だけで花木を描いた江南のかの名人だけが、
賞賛の対象となるのではないのだ。
【補足】［「墨だけで花木を描いた」というのは徐煕のこと。五代十国時代の南唐国の都の金陵で、官に仕えずに自由人として画を描いた］
■【07-2-022】代張安道進功徳疏文
【解題】3月5日、神宗皇帝が死去し、息子の趙喣［哲宗］が即位した。神宗はこのとき38歳。もしも50歳を過ぎるころまで生きていたならば、蘇軾の運命のみならず宋朝の行く末も、さらには中国の歴史も大きく変わっていたかも知れない。王安石と神宗皇帝が始めた改革は当初の目的をかなりの程度達成しつつあって、宋朝は再び隆盛に向い始めていた。そのまま息子の哲宗へと改革政治が引き継がれていたならば、少なくとも宋が北方の新興勢力によってもろくも瓦解するようなことにはならなかったであろう。神宗皇帝が亡くなったとき哲宗はまだ10歳で、自ら政治を見ることができなかった。そのような場合に、母もしくは祖母が摂政となって、宰相等による集団指導体制をとるということがよく行われ、このときは哲宗の祖母である高氏［英宗の皇后。以下、高太皇太后と表記］が政権運営に意欲を燃やし、改革派を斥けて壮絶な卓袱台返しを行ったのだった。高太皇太后は神宗皇帝が改革を始めた当初からそれに懐疑的で、いまこそ国を正しい姿に戻さなければならないとの使命感に駆られ、改革派によって朝廷から排除されていた人々を次々に都に呼び戻し、改革のために作られた諸制度のほぼ全てを廃止した。しかし、後に哲宗が成長してその親政が始まると、再び卓袱台返しが行われて改革政治に戻り、宋朝の政治体制は極端から極端へと揺れ動き、混迷を深めてしまうのである。後の歴史家は、そうした混乱をもたらしたそもそもの原因は改革にあったとして、王安石は史上稀に見る大悪人のようにされてしまうのだが、素直に見れば、混乱をもたらしたのは無理やり改革をストップしたことにあるのであって、もしも引き続き改革が進行していたならば、宋は経済発展を続けて長く国力を保ち、王安石は大功臣として評価されて、同様の改革がその後の王朝でも実施された可能性もあっただろう。蘇軾はきっと陽羨に隠棲したまま平穏な後半生を送り、黄州で見たのと同じような詩文が引き続き作られたであろう。それはそれで味わい深いものとなったであろうけれど、さらにまた「愈いよ窮すれば則ち愈いよ工みなり」となって、次なる境地を切り開くチャンスは失われてしまったのだろう。
この項の表題に掲げたのは、神宗皇帝の安楽往生を願う文章を張方平に代わって書いたもの。意味は詮索せずに、お経と同じように音読みで重々しく朗誦すればよいであろう。蘇軾にはいかなる種類の文章でもたちまち作り上げてしまう特殊能力があるので、張方平は代筆を頼んだのである。
伏以聖神示化、棄黄屋以上賓、凡庶何知、抱鳴号而永嘆。不有崇薦、曷伸悃誠。故依妙湛之尊、特設清浄之供。庶民法力、仰導真游。恭惟神宗皇帝陛下、伏願永徴仏乗、円成道果。儲神無極、逍遥梵釈之間、卜世逾延、跨越商周之盛。至于含識、併暢天和。
■【07-2-023】神宗皇帝挽詩
【解題】蘇軾は神宗皇帝の死を悼むこの詩を詠んだ。これは皇帝の徳をひたすら讃えるもので、我々にとっては重々しい虚飾の語句を並べただけの作品としか見えないのだが、蘇軾は真剣に神宗皇帝の死を悼んでいる。かつて直接に神宗皇帝に会って話をした蘇軾は、真に優れた帝王であったのを知っていたのである。
【訳文】
其の一
陛下は文も武ももとより天から縦されたお方、
欽み明らかであられること日々に新たであった。
民を化育されることでは「聖」というにとどまらず、
万物の妙所に通じられて、ただ一人「神」と称えるべきお方であった。
政は古代の「三王」の上に超え、
おっしゃる言葉はどれも「六経」の粋に適っていた。
高く聳える徳はもはや象なきまでに優れ、
臣は詩に刻もうとしてもとてもできないのを愧しく思うのである。
【補足】［「三王」は古代の伝説的な3人の聖王。「六経」は儒学の最も重要な6種の経典。当時の人々が抱いていた皇帝への畏敬の念は、我々には理解不能としか言いようがない］
其の二
堯に比すべき陛下の徳は名状し難く、
舜に比すべき陛下の功績はとても数え挙げられない。
陛下は小心翼々として孝に努められ、
そのついでに外敵を平定された。
典礼は周代の旧例通りに用いられ、
官儀の盛んなことは漢代の最盛期と同様であった。
最高の徳は何もしていないように見え、
民は千年に及ぶ徳化の風を承けたのである。
【補足】［この第2首に歌うのは事実とはまるで一致しない［夏国と戦争を起こして失敗し、従来の法規を大幅に改めた］。皮肉な「褒め殺し」と受け止めるのは100パーセント邪推である］
其の三
陛下は千年にわたって続く大宋の皇統を受け継がれたのだが、
皇位にあられたのはわずかに十八年であった。
臣が周南［黄州をいう］に留滞する間に、
朝廷はついに淒涼としたありさまになってしまった。
病んだ馬は（用いられる機会を失って）櫪に空しく嘶き、
枯れた葵は霜をかぶって萎れてしまうしかない。
我が余生は江海に臥し、
夢で皇廟に至って泣くのである。
【補足】［蘇軾は「江湖」に余生を送ることを朝廷に願ったのだが、ここでは神宗皇帝の恩に報いる機会を永久に失って「江海」に臥す無念さを歌っている。皇帝の徳は完全であったけれど、その治世に何か問題があったとすれば、臣下の者が朝廷を凄涼とさせてしまった［それで蘇軾は活躍できなかった］からである］
■【07-2-024】与王定国
【解題】蘇軾は王鞏［字は定国］と南京応天府で再会するのを楽しみにしていた［→作品番号07-1-101］。しかしどうやら擦れ違いになってしまったようだ。南京応天府にいる間に王鞏に送った手紙が二通残っている。
【訳文】
（1）先帝が亡くなられ、天下の人々は誰もが愛慕の念に駆られています。私と貴君は先帝の御恩を蒙ること最も深く、挽歌を作ったところで、思いの万に一つも言い表すことができません。それで敢えて作らずにいるのです。貴君ならその意を深く察してくださるでしょう。情けなくも罪に坐して廃された身となり、先帝だけが哀れんでくださいました。これからは誰が私を死の淵から救ってくれるのでしょうか。帰耕して生涯を終えるしかないのです。
【補足】［これは、上で見た挽歌を作る前に出した手紙であろう。蘇軾は、必ず死罪になるところを神宗皇帝によって救われたと認識していたことがよくわかる］
（2）張公［張方平］は咳が続いて、月が改まってもなおやまずにいます。飲食は特に減ってはいませんが、少しお痩せになったようです。ここ数日はややよくなっておられるので、心配するまでもないのでありましょう。……張公とは間もなくお別れするので、私の心の内は極めてよろしくありません。貴君がもし早く来てくださるのなら、一緒に集まれるでありましょうに。……
【補足】［王鞏は張方平の婿であるので、その舅の健康状態を特に報せたのである］
■【07-2-025】薦誠禅院五百羅漢記
【解題】南京応天府に滞在する間に、鄆州にある薦誠禅院の五百羅漢についてこの文章を書いた。事情は本文中に記されている。
【訳文】
熙寧十年、私は徐州知事であったときにこのようなことを聞いた。
黄河が澶淵で決壊し、巨野［鉅野］に溢れ出し、鄆州の東平郡に水が灌がれそうになった。東平の吏民は驚き恐れ、どうしたらよいのかわからなかった。僧の応言がある策を建言した。清冷口を鑿ち、黄河から溢れた水を北へと導き、古く廃れた河道に入れて北東へと流し、海に入れるというものであった。役人はその議論を聞いただけで放置していたのだが、応言が強く弁じ続け、また黄河の決壊した状況がひどかったので、役人は無視できなくなり、ついにそれを実行した。水はいった通りに流れ、東平郡はそれで助かり、応言の功績は大きかった。衆人は応言に褒美を与えようとしたが、僧は笑って辞退した。
私はその僧を異と考えた。
その二年後に私は湖州知事となり、移動の途中で南京応天府に行ったところで、鄆州から応言が来ていた。応言は私に会うとこのようにいった。
「愚僧は鄆州に生まれ、若くして僧となり、仏の教えを説くことを仕事としてまいりました。銭明逸様のために精舎［仏教寺院］を鄆州の東の阿北新橋鎮に創り、高さ百二十尺の鉄の仏像を十三体造りました。それが完成しますと、趙概様が朝廷に願い出てその寺院に『薦誠』の名を付けてくださいました。愚僧はその寺院を守り続けてまいりましたが、いまは五百羅漢像を造って船に載せて持ち帰るために銭塘［杭州］に行くところです。このためには五百万銭を要しますが、それは文彦博様より下されました。皆様方は愚僧の施主にございます」
私はそれで応言はますます優れた人であるのを知った。
それから六年、私は黄州から汝州に遷るにあたって南京応天府に来たところ、ちょうどまた応言がいて、このようにいった。
「五百羅漢像はすでに完成しました。どうか愚僧のためにそれを記念する文章を書いてください」
嗚呼、士は功名を挙げることを貴いとする。事を論じるのは易く、事を為すのは難しい。事を為すのはまだしも易く、事を成就させるのは難しい。天下の士が誰もが応言のようであれば、論じて必ず為し、為して必ず成就する。そうであれば、功名だらけとなって、いちいちそれを言うことはなくなるだろう。
【補足】［（1）蘇軾が徐州知事であったときに黄河が決壊し、大洪水に襲われたことは作品番号05-3-062以下で詳しく見ている。（2）ここに名前が挙げられている銭明逸、趙概、文彦博の3人はいずれも宋朝の重鎮で、文彦博については作品番号06-2-017などで見ている。（3）興味深いのは、応言が五百羅漢像の制作を杭州で行ったことで、先に見たように仏典の版木を刻むのを杭州で行ったことと合わせて、やはり杭州が文化の先進地であったことがわかる。（4）蘇軾が杭州で治水工事に関わったときに仏教界の力を借りていたが［→作品番号04-2-032］、この文章からも僧が土木建築に深く関わっていたことが知れるであろう］
■【07-2-026】書画壁易石
【解題】蘇軾は３月末ないし4月初めに南京応天府を発ち、常州へと向かった。再び霊壁鎮［→作品番号07-2-004］を過り、この文章を書いた。
【訳文】
霊壁では、表面に変わった模様のある石が出る。
劉氏の庭園の見晴らし台の下に、尖った独特の形状をした石があり、繰り返し眺めると、鹿が首をくねらせているありさまが見えてくる。
東坡居士はこれが欲しくなり、園内の臨華閣の壁に、奇怪な石と風に吹かれる竹の画を描いたところ、主人は喜んでその石を与えてくれた。東坡居士はそれを舟に載せて陽羨に帰るのである。
元豐八年四月六日。
【補足】［（1）蘇軾は、若い頃には書画が欲しくてどうにもならないようなこともあったが、いつしか物に対する執着心がなくなったという趣旨のことを書いていた［→作品番号07-1-038］。しかし、ここでは石が欲しくたまらず、それを得るために壁に画を描いている。そこまでしたのは、鹿の形が見えたからだろうか。蘇軾はしばしば自分の本性は鹿であるといっていて、常州の陽羨ではその本性のままに生きてみたいと考えていたのだろうか。（2）昨年のうちに何度か会って、まだ科挙に合格できずいるのをいつも励ましていた秦観は［→作品番号07-1-099など］は、この春についに科挙に合格している。通常、科挙の合格発表は3月上旬に行われるのだが、ちょうどそのころに神宗皇帝が亡くなっているので、例年通りではなかったのかもしれない。蘇軾がいつその朗報を聞いたのか、合格を祝うような詩文が残っていないので明らかではない］
■【07-2-027】漁父
【解題】「漁父」もしくは「漁翁」は、本性のままに生きる人を象徴する存在だった［→作品番号05-1-051］。水の上で自由に生きているように見える漁師は、窮屈な地上社会に縛り付けられている人間からすると、憧憬の対象となった。中国の四大奇書の一つである『水滸伝』［書かれたのは明代だが、舞台は蘇軾の時代のすぐ後の北宋の末］には、阮小二、阮小五、阮小七の漁師の三兄弟が登場し、胸のすくような活躍をし、梁山泊のリーダーの宋江が朝廷に帰順する決断をしたときに、阮小二はその方針に最後まで納得しなかった。この詩は阮小二と比べたらずっとおとなしいけれど、自由に振る舞う漁父を、3-3-6-7-6の特殊なリズムで歌っている。
【訳文】
其の一
漁父飲、［漁父は飲む］
誰家去、［誰の家にゆくのか］
魚蟹一時分付。［魚と蟹をいっぺんにぶちまける］
酒無多少酔為期、［酒は多い少ないではない、酔うまで飲む］
彼此不論銭数。［どの獲物がいくらだとかいうことはない］
其の二
漁父酔、［漁父は酔う］
蓑衣舞、［蓑をまとって舞う］
酔裏却尋帰路。［酔ったところで帰り路を尋ねる］
軽舟短棹任斜橫、［舟は軽く、棹の動きに任せるだけ］
醒後不知何処。［醒めたときには、はてどこにいるのやら］
其の三
漁父醒、［漁父は醒める］
春江午、［春の川の昼どき］
夢断落花飛絮。［夢は終わり、花が落ち柳絮が飛ぶ］
酒醒還酔酔還醒、［酒が醒めたらまた酔い、酔ったらまた醒める］
一笑人間今古。［一笑する間に、人間世界の今はすでに昔］
其の四
漁父笑、［漁父は笑う］
軽鴎挙、［鴎が軽やかに挙がる］
漠漠一江風雨。［川一面がぼんやりと雨に包まれる］
江辺騎馬是官人、［川べりをゆくのは馬の上の官人］
借我孤舟南渡。［わしの舟を借りて、南に渡りたいのだとさ］
【補足】［漁父に舟を借りて南に行こうとする官人は蘇軾自身であろう］
■【07-2-028】与欧育等六人飲酒
【解題】南京応天府から揚州に至る間のどこかで、杭州の任地へと向かいつつある欧育と出逢い、6人で飲んだという詩。
【訳文】
たちまち驚くのは、
春の風物の半分が早くも空しくなってしまったこと。
ここに置かれている紅い花を見ていられるのもあとわずかだ。
貴君は、白い扇を使いつつ詩を詠もうと苦戦している。
私は旅に倦み、酒樽の黄色い封を切ることばかりを思っている。
ここ何年かで、私は髪も歯もすっかり老いてしまった。
貴君はここを去って、淮河も長江も渡り、
さらに東へ東へと行かなければならない。
さあ、覚えておこうではないか、
ここに六人が集まって、
杯を引き、剣を看て、風が吹き立ったことを。
【補足】［（1）「春の半分が空しくなった」と歌っていることから2月の詩であるのだろう。（2）「剣を看て」と最後にあるのは、欧育が立派な剣を蘇軾に見せたからで、その剣と戦袍［陣羽織］を詠んだ別の詩がある。あまり興味深いものではないのでその訳は割愛する］
■【07-2-029】寄呉徳仁兼簡陳季常
【解題】この詩の題は「呉瑛［字は徳仁］に寄せ、兼ねて陳慥［字は季常、方山子］に書簡を送る」。呉瑛は官を退いて蘄水県に隠棲している人物で、かつて蘇軾はその近くを訪れたものの［→作品番号06-3-029］、呉瑛には会わなかったとこの詩の後半で歌っている。陳慥は黄州で親しくした人物で、前年の4月に瑞昌県で別れている［→作品番号06-5-035］。蘇軾自身の注記で、「詩中に云う『竜丘居士』は陳慥のこと、『濮陽公子』は呉瑛のこと」とある。この詩をこの時期に呉瑛と陳慥に送ったきっかけは不明である。
【訳文】
東坡先生は貧乏で一銭もない。
しかも、わずか一銭の値打ちのものさえ作り出せない。
俗にいわれているのは、
黄河を塞ぐことができ、黄金を作り出せるのなら、不老不死の薬もできるだろうと。
東坡先生は、それを真に受け、
十年間、家でちょろちょろ鉛を焼いてみたのだが、
髪が白くなるのをどうすることもできなかった。
竜丘居士［方山子］も気の毒なことに、
空を談じたり有を説いたりして夜も眠らずにいる。
ところが、河東から訪れた客人［柳簿という人物であるらしい］が、
獅子が吼えるような声で説法したのに驚き、
杖を手から落し、心は茫然となってしまった。
それに引き換え、
濮陽公子［呉瑛］の賢さには誰も及ばない。
酒は飲むし、肉も食らっていながら、
我は仙道の極意を得たといっているのだ。
物に宿る真理は会得するけれど、
己の心を物に留めることはなく、
家にいても、家にあることを忘れる禅を学んでいる。
門前には稲が揺れる十頃の田があり、
清らかな渓流が家を繞り、天に連なって花が開いている。
かつて、春風によって落花が雪のように降る下で、
濮陽公子は、呼んでも起きないまでに酔って眠っていた。
そのとき、私は近くの蘭溪に遊んで清泉寺を訪れ、
世間を離れる旅装束を纏う気になって、
ここらあたりの山で老いるのもよかろうかと考えもしたのだが、
たまたま興が尽きて船を返してしまった。
そのために、残念ながら、
私は濮陽公子に会えず、濮陽公子は私に会えなかった。
いつしか、洛陽の道でたまたま三人が出会ったならば、
手を握り、笑い合ってこういうのだ。
「あれから、ほんの三千年でしょうかなあ」
【補足】［末尾の原文は「銅駝陌上会相見、握手一笑三千年」［銅駝陌上 会たま相い見るなら、手を握って一笑す 三千年］。「銅駝陌」は洛陽にあった街路の名で、「銀座通り」というように最も繁華な街路の象徴的名称。「三千年」は概数で、仙人になれば三千年もほんの一瞬ということである。なおこの句は江戸時代初期の詩僧、元政の詩に、「銅駝陌上坡翁句、一笑吟春感転多」［銅駝陌上 坡翁の句、一笑 春を吟じて 感 転た多し］［銅駝陌［＝京都の二条通り］で再会して、蘇軾の詩句にあるように、一笑して春を吟じると、いろいろに感じることが多い］として引かれている。蘇軾のさほど有名でもないこの詩がさりげなく用いられるまでに、蘇軾の詩文は当時の文人の間で親しまれていたのだろう］
■【07-2-030】題王逸少帖
【解題】「書聖」とされた王羲之の墨蹟を集めた冊子に記した詩。
【訳文】
瘋癲の張旭、酔っぱらいの懐素法師、
二人の禿翁［たくさんの筆を使ってちびらせた翁］は書工と称されたけれど、
世間の好みを追っただけのことで、
夢の中でも王羲之や鐘繇のような本物の書家を見たこともなく、
やたらと飾り立てて、眼の利かない連中を欺いたのだった。
言ってみれば色街の娼が青やら紅やらを顔に塗りたくり、
妖しく歌ったり舞ったりして若者を眩惑させるようなものだ。
蕭然として自ずと林のもとに立つ風情がある――
そのように讃えられた南朝の謝家の婦人がいたけれど、
王羲之の書はまさしく気品があり、
草書となると、天の門より竜が躍り出る勢いがあり、
ピーチク囀る小鳥［張旭や懐素法師］どもは一掃されてしまうのだ。
私はその書法を継ぎたいと思うのだが、
早々にできることではないのでしばらく待ってもらいたい。
【補足】［（1）この詩のオチは、王羲之の墨蹟を見せに来た人が蘇軾に草書を所望したのを断ったということであろう。（2）草書は無造作に書いているように見えて、実は最も難しいものであるというのが蘇軾の考え方であった。それを示すために、草書を得意とした唐代の有名な書家の張旭と懐素法師をさんざんにコケおろしている。（3）鐘繇は曹操に仕えた武将であったが、書家としても超一流で、王羲之以前の第一の書家とされる］
■【07-2-031】書林逋詩後
【解題】林逋の詩の後に書いた詩。林逋は杭州の人で、蘇軾をより70年ほど早くに生まれ、西湖の孤山に隠棲して清らかな詩を詠んだ。
【訳文】
「呉の人である儂は、
湖と山との間に生まれ、
湖の光を呼吸し、
山の緑を飲んで成長した。
わざわざ世間の外へと出て隠れ君子を気取るまでもなく、
ここでは、雇われ小僧も、行商のおばさんも、みんな氷玉のように清らかなのだ」
このようにいった先生［林逋］こそは実に絶俗の人である。
精神は清く、骨の髄まで冷涼で、俗っぽさは一切ない。
私は会ったことがないけれど、夢でなら見たことがある。
瞳が明るくて燭のように光っていた。
遺された詩や字があちこちにあり、
西湖をいくら歩いて看て回ってももう十分ということはない。
詩は唐代の孟郊に似るとされるが、それほど寒々しくはなく、
書は宋初の李建中に似るとされるが、それよりほっそりとしている。
平生の高節は誰も継げるものではなく、
終わりに臨んでこの句をつぶやいたという。
茂陵異日求遺草、［後になって、この地に書き残したものを探しにきても］
猶喜初無封禅書。［もとより「封ぜんの書」などはないのを喜ばしく思う］
おかしいのは、呉には物好きな人がいないことで、
先生の住まいの跡に祠堂を作ってその傍に青い竹を植えたりなどしないのだ。
ならば、西湖の水仙王の廟に先生を合祀して、
冷たい水の一杯、野菊の一本でも捧げたいものである。
【補足】［（1）林逋の言葉として訳した中にある「傭児販婦皆氷玉」［傭児 販婦 皆氷玉］の句は非常にすばらしい。世俗の一般庶民に非常に高い価値を置いたのである。これは貴族および軍事中心の唐代以前の社会と、庶民および経済中心の宋代の社会との圧倒的な差異から生まれ出た言葉であるのだろう。（2）後半に引かれている林逋の臨終の詩にはやや詳しい説明が必要であろう。漢の時代に司馬相如という人がいて、歴史上の著名人ではあるけれど蘇軾の評価があまり高くないことは作品番号07-1-039などですでに見ているが、ここでもやはりひどくけなされている。司馬相如は、茂陵の家で死にそうになったときに、妻に「私が死んだ後で、もしも朝廷から使者が来たならば、かねて書いておいた皇帝に封禅を勧める文章を出して示してくれ」といった。「封禅」とは皇帝が泰山に登って地の神と天の神を祀る儀式で、それを行えるのは王朝の最盛期を現出した最高の指導者に限るとされていた。皇帝に封禅の儀を勧めるのは、皇帝へのこの上ない賛辞、もしくは諂いである。司馬相如は、封禅の書を遺すことが皇帝への忠誠心の証になると考えたのである。林逋が生きていた時代に、実際に真宗皇帝が封禅の儀を行い、側近連中が諂いの珍レースを繰り広げ、およそ奇怪な封禅フィーバーを演出した［→作品番号04-1-061］。林逋はそういうことには背を向け、西湖畔で静かな日々を送っていたのである。なお王鞏の祖父の王旦は名宰相として真宗皇帝の治世を支えたのが、死に際して、封禅フィーバーを止められなかったのは一生の痛恨事であったと述懐している［諂い連中が巧みに王旦の口を封じ、王旦も皇帝の意向を慮って強く抵抗しなかったのである］。（3）原詩には林逋の詩の引用の次に「更肯悲吟白頭曲」［更に肯てせんや『白頭の曲』を悲吟するを］の句が置かれているが、わずらわしいので訳さなかった。司馬相如は晩年、若い女性を家に迎え入れようとしたので、妻の卓文君は悲しんで『白頭の曲』［白髪になるまで愛が続かなかったことを嘆く歌］を泣きながら歌ったという伝説がある。林逋は終生独身であったから、そのような不人情なことをするはずもなかったというのである。（4）常州に向かう蘇軾が見習うのは、断じて司馬相如［郷里の蜀の先人］ではなく、林逋［呉の人］なのである。（5）この詩を書いた蘇軾の真蹟が現存している］
■【07-2-032】和仲伯達
【解題】かつて徐州でともに大洪水と格闘した仲伯達［→作品番号05-4-063］が、旅の途中のどこかで訪ねきた。これは仲伯達の詩に和したもので、何がいいたいのかさっぱりわからない。それでも仲伯達がわざわざきたのを尊重して、滅茶苦茶な「ずっぽ訳」ながらも敢えて訳文を掲げておく。
【訳文】
退隠するにしても、残念なのは、残された歳月が多くはないこと。
丹砂の霊薬があるとかいうが、老いをどうすることもできない。
渓谷の花は、誰に見せることもなく、自ずから美しく染まり、
潭の水は、誰かを映すわけではなく、月の光がただ宿るのである。
己のことが世に知られないのを憂うことはない、
己の貴さを己が保てばよいのであって、
雷とともに竜に変じて天に昇るようなことは望みもしない。
■【07-2-033】代呂申公上初即位論治道
【解題】蘇軾は3月の終わりないし4月の初めに揚州に到着し、少しの間滞在した。再び呂公著［呂申公］に会い、政治について論じ合った。前回［→作品番号07-1-083］と異なり、もはや世間を憚ることなく大いに語ることができた。そして、新たに即位したばかりの皇帝に向かって政治の最も肝要なところ説く二つの文章を、呂公著のために代筆した。2番目の文章のごく一部だけを見ておこう。
【訳文】
……近年は水害や旱魃が頻発し、盜賊が横行し、民衆は土地を離れて流浪し、地方は不安な状況に陥っているにもかかわらず、人々は宰相の責任を問おうとせず、中央官庁の幹部は膨大な書類に一日中埋もれて力を尽くし、書類の隅に字を書くだけで時間を費やしてしまっています。これは全て官僚を厳しく管理することにした弊害で、変えなければならないのであります。……
【補足】［改革を速やかに実行するために、改革派は官僚の成績を厳しく評価する仕組みを作った。蘇軾は、そのようなことをしたら、官僚は上の意向がどこにあるかを懸命に見定めて、それに沿うよう振る舞おうとし、さらには偽の結果報告さえするようになると、改革の当初から警告していた［→作品番号03-2-009］。そして、実際に蝗の甚大な被害を隠して中央に伝えなかった悪例を見て、朝廷に報告している［→作品番号05-1-018］。そうした官僚政治の弊害を直ちに改めなければならないと、呂公著と蘇軾は考えたのである。なお呂公著はこの文章を朝廷に提出した後すぐに朝廷に呼び戻された］
■【07-2-034】過文覚顕公房
【解題】揚州の寿寧寺を訪ね、文覚顕公の部屋でこの詩を詠んだ。
【訳文】
色とりどりの玉を細かく砕いたかのような菖蒲を養いつつ、
清らかな泉から一勺の水を酌んで石の盂に満たすと、
明るい窓辺に机を置いて、経典を写し始める、
一文字ずつごく丁寧に小さな文字を書いて行くのである。
【補足】［文覚顕公がどのような僧であったのか不詳である。丹念に仕事をする人っであったのだろう］
■【07-2-035】雲師無著自金陵来、見余広陵、且遺余支遁鷹馬図。将帰、以詩送之、且還其画
【解題】詩の題は、「雲師無著が金陵から来て広陵［揚州］で私と会い、支遁［晋の時代の高僧］が養うところの鷹と馬の図を贈ってくれた。雲師が帰るときにこの詩を渡し、その画は返した」。
【訳文】
雲師は将軍の家の三代目である。
「三世の将は必ず敗れる」との諺を嫌って家を棄て、
それから十年、今や壮年に至った。
容貌が秀でているのは、さすがに富貴の家の生まれであることを隠せず、
漆黒の瞳は、人間界を超えて天をも照らし出している。
去年、金陵の長干橋でお会いしたときには、
衆人の中から抜きん出て飛び立つ鳳の勢いがあったのだが、
今年、揚州の竹西寺に来られたのを見ると、
病によって痩せでもしたのか、
霜をかぶった松のようになっておられる。
朱を注いだような若々しい顔色は、
歳月に持って行かれ、
風の中の蒿の火、あるいは湯の中の雪のようにして消えてしまうのだろうか。
さあ、問われるがよろしかろう、
貴僧が帰依する黄面翁［釈迦］に、
いかにして明珠のような知恵をもって生滅の理を照らすのかと。
そして、学ぶ必要はないだろう、
支遁やその友人の王羲之が、
鷹を臂に乗せたり、馬を走らせたり、その神駿を愛したようなことは。
だから、この画は貴僧にお返しする。
土をこねて作った牛に木で刻んだ人を乗せたのを見ても、
何かしら悟るには十分であるのだから。
【補足】［詩中に詠まれている竹西寺は有名な寺で、前回の揚州滞在中にも訪れていた［→作品番号07-1-088］］
■【07-2-036】与蘇子容
【解題】揚州にいる間に、潤州の蘇頌［字は子容］［→作品番号07-1-071］に送った手紙。
【訳文】
広陵［揚州］で甥御殿から貴君のお手紙を受け取りました。近況について御丁寧にお尋ねくださり、まことに感じ入りました。兼ねて、貴君の御健勝であることを伺えて、喜びに堪えません。私は昆陵［常州］に行こうとしていますが、まだ運河の水位が上がっていないようなので、家族は儀真［真州］に留めて、小さな舟で独り行くことになるでしょう。すぐにはお目にかかりに参上できないかもしれません。……
【補足】［（1）手紙の取次ぎをした蘇頌の甥がどのような人物であるかはわかっていない。（2）住まいがきちんと用意できるまでは、家族を真州に預けておこうとしている。真州には昨年二度にわたって滞在していて、そのようなことができる見通しもあったのだろう］
■【07-2-037】帰宜興、留題竹西寺三首
【解題】蘇軾は1カ月ほど揚州で過ごした後、5月1日に常州宜興県に向けて出発した。その際に竹西寺に書き残した詩。
【訳文】
其の一
十年の間、
故郷に帰る夢を、西に向かう風に寄せていた。
ここを去って、真に田舎の翁になる。
竹西寺の井戸の新鮮な水を汲むとしよう、
それは郷里の川の水と同じ味がする、
だからそれを携えて常州に行きたいのだ。
其の二
寺の道人は紫蘇の水を勧めてくれ、
寺の童子は罌粟の湯を煮てくれる。
藤を編んだ寝台と枕をしばらく借りるとしよう。
竹の間から吹き来る涼しい風に、
知らん顔をして行ってしまうわけにはいかないから。
【補足】［旧暦の5月は夏の盛り、紫蘇のジュースは清涼飲料として供せられたのだろう。罌粟＝芥子はいまは栽培が禁止されているが、薬効があるとして用いられていた］
其の三
この身は、きっと、全て何事もないなかにあるのだろう。
しかも、今年は大豊作の年に当たりそうだ。
この寺に来てからは好い言葉ばかりを聞く。
野の花も啼く鳥も喜んでいるではないか。
【補足】［（1）陽羨に向かう蘇軾の心は軽い。行けば実り多い日々が確実に待っているのは、黄州の東の坡ですでに経験ずみである。（2）この詩は心の軽やかさのままに言葉遣いもまた軽快である。原詩を掲げるのでもう一度味わってほしい。なお、この詩は後に若干の波紋を呼ぶことになる］
此生已覚都無事、［此の生は已に覚える 都べて事無きと］
今歳仍逢大有年。［今歳は仍ち逢わん 大有の年に］
山寺帰来聞好語、［山の寺に帰り来て好い語を聞き］
野花啼鳥亦欣然。［野の花も啼く鳥も亦た欣然としている］
■【07-2-038】到常州謝表
【解題】蘇軾は揚州を発つと、長江に出て少し上流に遡って真州に行き、蘇頌に宛てた手紙［→作品番号07-2-036］に記していた通りに家族をそこに留め、身軽になって常州へと向かった。途中で仏印禅師了元［→作品番号07-2-011］と会ったようである。5月22日、蘇軾は常州の州庁のある町に到着すると、宜興県陽羨に居住するのを許してくれたことに感謝する文章を書いて朝廷に提出した。皇帝宛てと高太皇太后宛ての2種類があり、趣旨は同じであるので、二つを適宜合成して訳す。
【訳文】
臣蘇軾が申し上げます。先に御恩を蒙って汝州団練副使本州安置を授かり、ついで表を提出して常州に居住することを乞いましたところ、聖旨を頂戴し、願うところをお許しくださいました。かくて臣は今月二十二日に常州に到着し終わりました。
臣の積もり積もった釁は磨き難く、いまだ洗滌されておりません。罪はあまりに大きく、臣はあまりに微小で、永久に棄て去られ当然でありました。ここに陛下の御聖断を奉じ、御恩を感じて涙を止めることができません。
伏して念いますに、臣は凡材でありながら猥りに早くから朝廷にお仕えし、聖政の御世に逢いながら、独り愚かさを改めることなく、臣の犯しました罪は誅せられてしかるべきでありました。先帝陛下の至明によらなければ、今日生きながらえることはできなかったのであります。
廃棄されること六年、田野に我が身のあることも忘れて過ごしておりましたが、万里の彼方より生命を保ったまま脱することができましたのは、あるいは太皇太后陛下の厚い徳の賜り物でありましょうか。太皇太后陛下の至仁は天に代わって春に生命を育み秋に実りを成すもので、虫や魚に至るまでその真心を感じているのであります。伏して皇帝陛下の仁孝聡明にお遇いし、縲囚より稍く出て、これよりは田を耕やし井戸を鑿って農民とともに老い、門を閉ざしひたすら自省するものであります。先帝陛下の銜恩に報いることもできないままに身を沈め、残骸を魑魅に寄せるばかりでありまして、いずれ首は砕かれ、肝は抉られ、死ぬところはどこであるのか知れないのであります。
■【07-2-039】与孟震同遊常州僧舎三首
【解題】上で見た表を書いて後は常州の町に少し留まったようで、5月27日には孟震［字は亨之］とともに常州の感慈寺に訪れている。孟震はかつて黄州の副知事をしていた人物で［→作品番号06-4-070］、このときに偶然に再会を果たしたようである。
【訳文】
其の一
このところますます思うのは、
この生は浮いて流れるようなものだということ。
かくて三呉の地で浪漫と遊んでいると、
たちまち東平の孟君子と会い、
夢の中でのように黄州での日々を語り合うのである。
【補足】［「三呉」とは常州、蘇州、湖州あたりをいう。「東平」とは鄆州のことで、孟震は鄆州の人である］
其の二
水を湛えた清らかな谿は五月も寒く、
小さな山ながらも、碧の岩が無数にそそり立っている。
並び立つ杉は三千本、
湧き立つ雲が山を抱え込んでいるかのようだ。
其の三
貴君はこれより去って帰耕するという。
笑って指さすのは、
一枚の葉よりも軽そうな一艘の舟。
ならば、神に霊雨を乞い、
水かさが増した流れに乗り、
貴君が行くのを見送るのである。
【補足】［（1）何らかの事情で孟震もまた官職を離れて帰郷する途中だったようだ。（2）同じときに、感慈寺の報恩長老に贈った詩があるが、仏教用語を多用していて、意味が掴めないので割愛する。（3）このころ都では保守派が続々と呼び戻され始めていた。その動きが蘇軾に及ぶまでには少しばかり時間がかかる］
■【07-2-040】常州太平寺法華院薝蔔亭酔題
【解題】同じころに常州の太平寺の法華院の薝蔔亭で酔って作った詩。薝蔔は仏典に出てくる植物で、クチナシの一種であるという。
【訳文】
六弁の花が咲く薝蔔の林、
九つの節のある菖蒲が生える石、
そこにおられる禅僧と、
この東坡居士と、
野狐どもが怖がるのはどちらであろうか。
東坡居士は鉄拄杖で、狐の偽の禅問答を一喝してしまうのだ。
【補足】［（1）「狐の偽の禅問答」と訳した原文は「野狐禅」。本来は、狐が有難い法話を聞いて人身に変じたことを「野狐禅」というのだが、ここでは、それから転じていかさまな問答を「野狐禅」といっているようだ。見かけは高遠で、実はわけのわからないことを並べているだけの言説を蘇軾が嫌ったことは前に見ている［→作品番号06-1-092］。その一方で、蘇軾は意味のよくわからない禅問答のような詩をしばしば作っている。蘇軾に問えば、自身の詩は深い思索があってのことだというのだろう。（2）鉄拄杖は禅僧が行脚修行のときに使う鉄の杖で、それを使って狐ども［まやかしの禅僧］を驚かせてやると蘇軾は息巻いてみせたのである。］
■【07-2-041】与滕達道
【解題】蘇軾は5月末ごろに宜興県陽羨に到着し、そこでの新たな暮らしが始まった。そのころに湖州知事の滕元発［字は達道］［→作品番号07-1-069］に宛てた手紙。
【訳文】
賈収君が来られて、貴君からのお手紙を受け取りました。賈収君の最近の御様子も知れ、感じるところはなはだ大きなものがあります。私は家族を真州に留め、常州には独りで来ました。貴君に会いたいと強く思いつつも、運河がまだ通じていません。以前からのお約束ですから、きっと参ります。ただ、家には壮年の男子がいないので、住居を定めるためにはすぐに帰らないとなりません。どうぞそのあたりのことをお察しください。……三十壺も贈ってくださり、愚妻のもとに渡そうと思っています。もろもろのことは賈収君からお聞きください。……
【補足】［湖州に住む自由人の賈収［号は耘老］［→作品番号07-1-080］が滕元発と蘇軾の間を行き来したのである］
■【07-2-042】墨花、并叙
【解題】宜興県陽羨での新たな暮らしが始まった。黄州に行ったときには、これからいかなることになるのか大きな不安があった。今回は作品番号07-2-037で見たように、精神的にゆとりがあった。退居は自ら望んだことであったし、どこに行ってもすぐに豊かな人間関係を新たに築ける自信も十分に具わっていた。黄州で、士大夫仲間に限らず社会の様々な階層の人々にも交際範囲を広げてゆくありさまを見た通りのことが陽羨でもすぐに起こった。この詩は、墨で花を画くのを得意とする尹白という人に贈った詩。短い序文がある。
【訳文】
叙
墨で山水、竹石、人物を画く者は世に多いが、花を画く者はいない。汴の人の尹白はそれが上手にできる。それで一首の詩を賦した。
【補足】［先に墨だけで花木を描いた徐煕の名を挙げていた［→作品番号07-2-021］。そういう者はいなかったかのようにここで書いているのは、尹白の独自性を強調するためであろう］
造物者はもとは何も造らずにいた。
忽然と何かを造り出すや、
いかなるものもたやすく造ってしまうのだった。
尹白の墨は、
ほんのり花の芯を画き出すや、
線の端々から春の気配が生じ、
形はまだ縹緲としているのに、
扶疏とした花木のありさまがすでにそこに完全に具わっている。
蓮の花は風を受けてことごとく傾き、
杏の花は雨に打たれて半分が砕かれ落ちる。
ここに、頭のおかしな東坡居士がやってきて、
真っ黒な牡丹を画いてほしいと求めた。
その画と合わせて、
漢代の張衡の作った『帰田賦』を書いて、
「雪堂」に帰って掲げようと思うのである。
【補足】［（1）この詩の終わりの部分は、いわゆる楽屋オチの類である。蘇軾が黄州の東の坡に雪堂を建てたことは作品番号06-3-016などで見ている。雪堂には雪の画を飾って白ずくめにした。この詩でいう「雪堂」は陽羨での新たな住居を指すのだろう。そちらは、黒々と書いた文字と黒い牡丹で黒づくめにしようと洒落たのである。（2）張衡の『帰田賦』は、文字通り故郷の農園に帰ることを歌った賦である。その中に「仲春令月、時和気清」の句があり、令和の元号の出典とされる『万葉集』の当該の箇所と関係するのではないかと一時注目された］
■【07-2-043】送竹几与謝秀才
【解題】謝秀才という人に、竹几［竹夫人、竹で編んだ抱き枕］を贈り、それに添えた詩。時期は6月の暑い盛りである。
【訳文】
日常の暮らしにやたらと立派な物があるのは、
人間の本性を乱すことになる。
老いてこの身一つになって田に帰って来た私が、
留め置くのは、
常に同行する一本の杖だけ。
貴君にこの竹几を贈ろう。
秋になると、扇とともに不要となる物だが、
また次の夏にはなくてはならない。
竹夫人の名はあっても、夜ごとに艶を競う煩わしさはない。
笑ってしまうのは唐代の蘆堂で、
老いてのちに家において口をきく相手といったら蛙しかいないと、
珍妙な句を吐いたものだ。
何も語らない竹几こそが貴君にはふさわしかろう。
【補足】［この詩からすると、謝秀才は科挙をあきらめ、もしかしたら独身のまま、余生を静かに村里で送ろうとしていたのだろう］
■【07-2-044】贈章黙
【解題】章黙という貧乏な僧に贈った詩。序文がある。
【訳文】
叙
章黙居士の字は志明である。
公侯の家［かつて官職に就くような者を出した家筋］に生まれ、才高く、爽やかな性格である。家を棄てて道［仏教］を求め、妻はなく、世間との煩わしい繋がりはない。父母と兄が亡くなり、貧乏のために葬儀を行うことができず、眷眷に世間にすがりつき、人に援助を求めないわけにはいかなくなった。私はその志を深く哀れみ、わずかだけ助けた。
居士の言葉を取って詩を作り、その振る舞いに対して贈ることにした。この詩によって、居士を哀れむ者があることを願う。
【補足】［またしても、親の葬儀を営めずに苦しむ者を蘇軾は支援している。葬儀は一生の一大事であった。用意なく亡くなった場合には、仮の棺に亡骸を納めて一時的に寺などに預かってもらい、後に立派な棺や埋葬地を得てから正式な葬礼を行う。この序文にあるような「公侯の家」であるのなら、それにふさわしいだけのことはしたいし、手厚く葬ることが死後の世界での安らかさと直結するので、安直にはすませられない。葬儀の費用が用意できないで仮の棺のまま地上に置いていたのでは、死後の世界でいつまでも宙ぶらりんの状態で、子としてはとてつもなく不孝なのである］
章黙居士はいまだに親を葬れずにいる。
章黙居士その人は、生きながらえてはいるもののひどく病弱である。
朝には村里で悲しく吟じて噎び泣き、
夜には涙で寝床を腐らせている。
悲しみの余り、先の年には眼を患い、今年は髪が真っ白になった。
身は歳月とともに老いに向かって逝き、
親を葬れずにいる恨みは天地が畢るまでも続く。
章黙居士が願っているのは、
どれほどの不毛の土地でもよいから田を得て、我が力で墓を築くこと。
章黙居士はいう――
「昔のある人は死ぬに際し、
『わしは「真」に帰るのであるから裸のままで葬ってほしい』といいました。
昔のある人は死ぬに際し、
『わしの屍は焼いて灰にし、大地を棺としてほしい』といいました。
ああ、私はそのどちらも忍び難くてできません。
都には大金持ちが大勢いて、
一度の賭けに百万両を擲つことだってしています。
でも、私は知っているのです、
そうした人たちは、義のためとなるとこれっぽちだって出そうとしないのです。
ですから、貧乏のお仲間に頼むしかないのです。
一粒の粟の施しでもよいのです、
積めばいつかは丘となり山となるでしょう。
この思いを朝に遂げられましたなら、夕べに死んでも構いません。
私自身は誓って、『無生の理』［仏教の真理］を求め、
『有為の跡』を踐む［眼前の物に惑わされる］ことはありません。
我が身は山に棄て、烏が狼籍するのに任せるまでです」
【補足】［仏教徒の間では火葬も行われたが、国の法はそれを禁じていた。遺骸を損なってしまうと、死後の世界では、損なわれた状態の体を使わなければならないと考えられていて、まして焼いて灰にしてしまったなら、死後の魂は宿るところを失ってしまうのである］
■【07-2-045】次韻答賈耘老
【解題】以上の3篇の詩から、陽羨で新たな人々と親しみ始めた蘇軾の姿を窺い知ることができる。しかし、残念ながらこれ以上に発展することなく、陽羨での日々はたちまち終わってしまった。蘇軾が常州に到着した頃にはすでに朝廷において、「本州安置不得簽書公事」［居住の自由がなく、公務に携わることができない］の禁を解き、登州知事に任じるとの決定がなされていた。6月の終わりに、湖州知事の滕元発はそのことを知ると、再び賈収に陽羨に出向いてもらって、祝いのメッセージを伝えた。これは急いでやってきた賈収が詠んだ詩に次韻した作品。
【訳文】
五年の間、
黄州で一つの夢のなかにあった――
我が身を襲った饑寒、疾病……
それを貴君は憂いてくれた。
私が東［陽羨］に来たのは六月、
井戸には水がなく、
奔牛台の古い堤防を見ると、
その名はあっても奔る牛の姿はなく、日照りにぐったりしていた。
かねてから「管鮑の交わり」ともいうべき貴君と私であるからこそ、
この困窮のときに貴君は訪ね来てくれた。
貴君は、流れの滞った泥水を夜に渡ろうとして、
押したり挽いたりしながらようやくここに着いたのだった。
貴君はいう、
「酒の飲みすぎで、中風を患ってしまいました。
それでも、故郷で安楽に過ごしているだけでなく、
溝に臥すような困窮に陥った人々を救いたいとの思いくらいはいまもあります。
老いと病のためにかつてのように楽しめずにいたのですが、
今年になって、「臥竜」といわれた諸葛孔明のような新たな知事［滕元発］が湖州に来られまして、
その言葉は炎天に雹が降るような清々しさがあります。
そのお方が九尺の蒼い髯を垂らし、
なんと私のちっぽけな水辺の家を訪ねてくださり、
貴君のことを知らせてくれたのです」
私はいう。
「友人たちが、顔を改めて次々に祝いに来てくださいます。
しかし、子供のように驚かされた私は、
まだ疑って信じることができずにいます。
貴君のために酒を置きましょう。
飲んで歌おうではありませんか。
草の間にいる秋の虫だって歌うのですから。
憐れむべきは、
老いた馬は真に老いてしまったのです。
遠く地の果ての天山にまで駆けて、天下に功名を挙げるような気持ちは、
さらさらないのです」
【補足】［この詩には、蘇軾の複雑な心情が未整理のままに詠まれているようだ。次韻という作詩法が、他人の作った詩の韻の位置に縛られて、ともすると求心力の働かない散漫な詩になりがちなうえに、登州知事の辞令をどう受け止めたらよいのか、蘇軾の心がまだ定まっていなかったために、このような詩になったのだろう。蘇軾はしばらく、あるいはずっと長く田園生活を送るつもりで陽羨に来た。黄州の東の坡での日々と同じく、豊かな精神生活を享受できることが確実に約束されていた。しかも、江南の温和な風土を蘇軾はこよなく愛していた。州知事になるということは、完全な名誉回復であるのだが、復職すればその先には政争の場に再び立つであろうことが容易に予想できた。8歳のときに4人のスーパースターに憧れて以来の初心は、国のため民のために働くことであるのだから、登州に行く以外に進むべき道はないのは明らかであっても、田園生活を送り始めて直ちに中断させられたのは残念といえば残念なのだった。だから、辞令を信じたくない気持ちも確かにあったのだろう］
■【07-2-046】小飲公瑾舟中
【解題】鄧公瑾という人物と舟の中で飲みつつ詠んだという詩。鄧公瑾がどのような人物であるのかはよくわからない。
【訳文】
壁に塗られた青い泥が、
夏の午後の赤い日ざしを受けて燃え上がるようななかを、
舟に乗り、柳の影の中を走って貴君のところへと訪ねきた。
私は東の坡で無限の眠りの中にあったのを止めて、
貴君の住む南の浦の無尽の風を賞味している。
朝廷からの報せを見ながら迂叟［司馬光］について語り合い、
滁山について貴君が説くのを聞きつつ酔翁［欧陽脩］を想う。
ここより澄んだ水辺は三万頃の広がり、
私が還る空を明るい月が照らすであろう。
【補足】［（1）この詩には蘇軾自身の注で、この日に、司馬光が門下省に入ったのを邸報［官報］で知ったと記している。朝廷が司馬光を呼び寄せたのは5月26日で、蘇軾を登州知事に任命することが決定されたのは5月6日である。（2）やはり蘇軾自身の注で、鄧公瑾は滁州の人であると記している。滁州は欧陽脩が一時期流されていたところ［→作品番号06-3-073］。酔翁は欧陽脩の号である。（3）終わりに、明るい月に照らされるとあるのは、ついに政界への復帰が赦された蘇軾の心情を表すものであろうか］
■【07-2-047】与王文玉
【解題】登州知事に任命されたことを聞いてからは、陽羨で落ち着くためにいろいろ手を付け始めていたのを止めて、遠く任地に赴くための準備をしなければならなくなり、陽羨と家族がいる真州との間をあわただしく行き来した。これは池州知事の王琦［字は文玉］［→作品番号07-1-040］に送った手紙。
【訳文】
去年、そちらに帰る人に手紙を託しましたが届きましたでしょうか。行き先が定まらぬままにあちこち行き来し、そちらに参ることができておりません。このごろはいかがお過ごしでしょうか。私は忝くも我が身に過ぎた任務を拝命しました。もとより私の力の及ぶところではないですが、どうしたことなのでしょうか。もはやお会いすることが叶わないと思うと、残念な気持ちが増してなりません。酷暑の折、お国ためにますます自重されますように。
■【07-2-048】次韻許遵
【解題】陽羨と真州の間を行き来すると必ず潤州を通ることになる。折しも潤州知事の許遵［字は仲塗］［→作品番号07-1-060など］が官職を去って金陵に帰る送別の宴に居合わせ、そこでこの詩を詠んだ。
【訳文】
潤州の蒜山の下の渡し場で、
この夕暮れに帰り行く船を見送る。
金陵の朱雀橋のたもとで、
旅姿の貴君が見られることになるのだろう。
ここでの送別の宴に、長い帳を廻らし、
すでに大金を費やしてしまっただろうから、
新鮮な魚を振る舞おうと多くの料理人を煩わすようなことはしないでよい。
向こうに着いてからは、
禅を問うために長干寺に行ったり、
閑な時間に緑野堂で酒を飲んで過ごしたりすることだろう。
そうした味わいは、年若な連中に覚えさせるのはまだ早すぎる。
まして、北向きの窓辺で涼しい風に吹かれていると、
太古の人になったような楽しさがあるなどと、
行きずりの人に語ってはならないのだ。
【補足】［（1）詩の冒頭に蒜山の名が出ている。そこを退隠の地にしようと一時期考えたことは作品番号07-1-070で見ている。（2）詩の終わりの部分は、退隠の楽しさをうっかり若い連中に知らせてしまうと、真面目に働く者がいなくなってしまうということを恐れるのであって、そうした発想はこれまでにも何度か見ている。「北向きの窓辺云々」は陶淵明の詩句を踏まえている。文明が発展する以前の遠い太古の時代には、人間が本来ある通りに生きていられたという思想がその背後にある。（3）登州に行く前にすませておくべき最も大切なことは張方平に頼まれた『楞伽経』［→作品番号07-2-011］を書き写すことだった。潤州の金山寺にしばし籠って書き上げ、了元禅師仏印に託した］
■【07-2-049】溪陰堂
【解題】真州に行った折に、溪陰堂に立ち寄ってこの詩を詠んだ。
【訳文】
秋の水が満ちてきた池に、二羽の鷺が下る。
緑の槐の高いところで、蝉が一声鳴く。
酒が醒めると、
門の外で日が傾いている。
川の向こうの十畝の田へと、長く影が落ちてゆくのを、
臥したまま見渡す。
【補足】［溪陰堂で実際にこのようなゆったりとした時を果たして過ごせたのだろうか。この詩に描かれているような静かな風光のもとでの日々を陽羨で過ごせるものと、蘇軾は期待していたのだろう］
■【07-2-050】跋蔡君謨書
【解題】もしかすると、蘇軾は真州からさらに長江を遡って金陵にも行ったのかもしれない。金陵は五代十国時代には南唐国の都であった。南唐国は長江沿いの豊かな地を版図におさめ、唐文化の伝統を受け継ぎ、金陵は杭州、成都と並んで文化の先進地であった。南唐国の最後の皇帝であった李煜は書や詞に優れた才能を発揮した風流人で、蘇軾は金陵で李煜の書を見る機会があったのだろう、この短文を蔡襄［字は君謨］の書の後ろに記した。蘇軾が蔡襄の書を高く評価していることは作品番号06-2-013などで見ていて、ここでもその主張を繰り返している。
【訳文】
かつて私は蔡襄の書が本朝第一であると論じた。一家言ある者の多くはそうではないといい、ある者は蔡襄の書は弱いといった。これは特に書を知らない者の言い分である。外見は勁く険しいけれど、中身が何もないのを真に弱いというべきである。世間の者は李煜の書は勁いとするのだが、その論で蔡襄の書を弱いというのであろう。
元豊八年七月四日。
【補足】［蘇軾は諸葛氏が制作する筆を礼賛していた［→作品番号06-1-048］。諸葛氏の技術は、李煜とその父が文化芸術の愛好者で、その保護のもとで発展したのだった。しかし、李煜は一国の指導者としては落第で、政治的に重要な局面に直面するごとに、もののみごとに全ての判断を誤り、民衆を苦しめ、国を滅ぼしてしまったのである］
■【07-2-051】与滕達道
【解題】登州に向かって出発する少し前に湖州知事の滕元発［字は達道］［→作品番号07-2-041］に送った手紙。
【訳文】
……七月中旬ないしは下旬を過ぎずに出発する予定です。人々は貴君が皇帝のもとに呼ばれるのを望んでいます。まだ聞こえてこないのはどうしたわけなのでしょうか。お会いしてお別れを述べることができそうにないので、寂しくそちらの方を見ています。……
【補足】［陽羨で落ち着いたなら滕元発を訪ねようとの計画はふいになってしまったのだった］
■【07-2-052】蝶恋花
【解題】蘇軾が登州に向かって出発したのは7月下旬であった。そのときの思いを託したのがこの詞。
【訳文】
雲水縈回渓上路。［雲と水が縈る渓のほとりの道］
疊疊青山、［重なり合う青い山々］
環繞溪東注。［環り繞って渓の水は東へと注ぎます］
月白沙汀翹宿鷺。［月の光に白く照らされる水際の沙で、鷺が羽を休めて眠ります］
更無一点塵来処。［ここには一点の塵さえくることがないのです］
溪叟相看私自語。［渓に住む老人が私を見てつぶやきます］
底事区区、［「どうして区区と］
苦要為官去。［官職のために去って行くのかね］
尊酒不空田百畝。［百畝の田があれば酒樽をいっぱいにできるだろうに」］
帰来分得閑中趣。［閑中の趣を分かち合えるのはこんど帰ってきたときでしょうか］
■【07-2-053】贈杜介
【解題】蘇軾は常州から潤州に行き、杜介［字は幾先］［→作品番号07-1-088］と出逢い、この詩を贈った。
【訳文】
叙
元豊八年七月二十五日、杜介は先に浙東［杭州の南のあたりの地］に行き、（揚州へと）帰ろうとしていた。私は金山において杜介と出会い、杜介が天台山の奇異なありさまを話してくれたので、この詩を贈った。
私はかつて夢の中で天台山に遊んだ――
空の彼方に、石の橋が小さく浮かび、
草の上の露に、秋の風が吹き寄せ、
山の翠の潤いが裊裊と香る、
応真［真理に応じた僧］が錫杖を飛ばして傍らを過り、
見る見る鳥のように絶壁の間の雲の上へと渡って行く、
私は意を決して、これに従おうとし、
翛然のうちに松の杪の先を超える、
僧の微かな言葉は珠玉のように燦然と輝き、
まだ何かを説かないうちに、私は意に了解する――
空から堕ちたように目が覚めると、
窓にほんのり暁の白さがあった。
諸々の生類は迷いの網に陥り、
独り真理に達する者は昔から少ない。
杜叟子［杜介］はいかなる人であるのか、
万物の外側に出て長く嘯き、
妻子はなく、家はただ四方の壁があるばかり、
杖を振るって軽やかに行くことを念い、
ついに赤城山［天台山の一峰］に游び、
縹緲と空を凌いで飛んで歩いたのだった。
禅を問うて僧舎に帰ることを忘れ、
時に飲食をつなぐために下界に降りた。
杜叟子の志を識る者が誰一人いなくても、
仏の眼は自ずと照らし出してくれる。
貴君が実際に見たのを私が夢に見たのは、
まさか魔に誑かされたためではないだろう。
ここに貴君とともに茶を煎れて御仏に捧げ、
これからは馬に乗ることもなく戸を閉ざし、
金山の内に籠るとしようか。
そして時に、天台山の仏頂岩へと飛び行き、
双蓮沼へと馳せ下るのだ。
【補足】［（1）前の詞と合わせて蘇軾の本心がここに現れていると見てもよいのだろう。（2）蘇軾は杭州副知事だったときに天台山に登りたいとの思いがありながら果たすことができなかった［→作品番号04-1-089］。今回も天台山から遠く離れた地に移ることになり、名残惜しさがあったのだろう］
■【07-2-054】送穆越州
【解題】潤州に滞在する間に、蜀の地から越州［杭州の南東］へと転任する穆珣に出逢い、送別の詩を作った。
【訳文】
川を隔て、陸を隔て、貴君を仰ぎ見ること十五年、
いまようやくに会い、
羨ましく思うのは、
貴君が年を経た松柏のようにますます蔚然と盛んであること。
貴君は四朝［仁宗、英宗、神宗、哲宗］に仕え、氷霜を耐え抜いた長老、
このたびは蜀から越へと、両郡の風流水石の間を移り行くこととなった。
蜀の父老はいまなお貴君の善政を語り合い、
越の溪山にはすでに貴君を待ち望む声が鳴り響いている。
送別の盃の前にいるのはともに「蓬莱の太守」、
高楼から眺める雪や月をこれからもなおざりにはしないのだ。
【補足】［（1）詩の終わり「蓬莱の太守」とあるのは、越州には蓬莱閣があり、登州にも蓬莱閣があることから、2人がともに海の彼方の蓬莱［仙境の地］の太守［知事］になると洒落たのである。（2）穆珣は官界の先輩で、会って話をするのはこれが初めてであったようだ。潤州は長江と大運河の交点に位置する水上交通の要であったから、人の往来が多くてこうした出逢いを生んだのである。「小児の遷延」を繰り返していた蘇軾はこの間に少なくとも6回は潤州を訪れている］
■【07-2-055】金山妙高台
【解題】潤州に来ればやはり金山を訪れる。妙高台に登って、この詩を詠んだ。
【訳文】
私は飛ぶ車に乗り、
東に赤松子［伝説の仙人］を訪ねたく思う。
しかし、三万里の海を隔てた蓬萊山にはとても行けない。
というわけで金山に渡るのがよかろうと、
風に帆を上げたなら、
半分開いただけでもう着いてしまう。
金山には妙高台の高楼があり、
雲の峰が一つ抜きん出た上に立っている。
仰ぎ見て最初は路がないようであるのだが、
信じられないことに、
峰の上は砥石のように平らである。
妙高台には老いた僧がいて、
碧い眼から窓や机を照らす光が発せられ、
玉を削って骨となし、凜凜と霜を歯としている。
語を発する鋒先は触れるべからざる鋭さがあり、
水をひっくり返すような勢いで、千の偈を自在に吐き出す。
徳雲［法を説いた古代インドの僧］に尋ねるまでもなく、
この僧に教わればよいのである。
長生［仙道の不老長生］を学ぶよりも、
長不死［仏教の不生不滅］こそを学ぶべきなのである。
【補足】［（1）上の詩に続いて蓬莱山が出てくるのは、東方の大海に浮かぶ神仙世界である蓬莱島に最も近いのが登州のあたりだと考えられていたからだ。（2）仙人になる方法を問うよりも、仏教を教わるべきだとする妙高台の僧とは仏印禅師了元であろう］
■【07-2-056】記焦山長老答問
【解題】潤州［鎮江］には金山、焦山、北固山の鎮江三山があり、かつて蘇軾がその三山に登ったことは作品番号03-4-038以下で見ている。登州に向かうにあたって、再び三山を巡ったようだ。
【訳文】
東坡居士は酔って背にひとえの衫をはおり、招隠山に遊んだ。酔いから醒めて、衫をひっかけて寺の大衆に問うた。
「たまたま来た酔っぱらいはどこに行くのか」
誰も答える者はいなかった。
翌日、東坡居士は焦山に向かって、同じ問を発した。すると、焦山は両手を交差させて挨拶してくれた。
【補足】［潤州に少しく滞在していたのは、恐らく真州に留めておいた家族と合流するためだったのだろう］
■【07-2-057】楊康功有石、状如酔道士、為賦此詩
【解題】蘇軾は潤州を発って長江を横切り、大運河を北上して揚州に至った。その途中の瓜洲で楊絵［→作品番号06-5-032］に宛てて手紙を記している。楊絵から使者が来て、登州知事に任命されたことを祝う手紙を受け取ったことへの返事である。揚州は前年の秋から南北に行き来してこれが3回目。先に揚州で会った呂公著［→作品番号07-2-033］は朝廷の高官としてすでに都に復帰し、代わって揚州知事として赴任したのが楊景略［字は康功］であった。その楊景略の所蔵する石が、酔っぱらい道士の形をしているのを見てこの詩を詠んだ。
【訳文】
この界隈の山にはもとはたくさんの猿がいた。
なかでも青い猿は、黠くて寿で、
頭のおかしな道士に変化し、
山や谷を恣に駆け巡り、
誤って華陽洞［神仙のすまい］に入り込み、
大茅君が造った神聖な酒をこっそり飲んでしまった。
大茅君はその猿を巌に閉じ込め、
岩を械とし、松の根を足に絡ませ、藤の蔓で肘を縛り、
目に苔を塗り付け、口を棘で塞いだ。
かくて三年で石になり、玉に匹敵するほどの堅さとなり、
もはや雲に叫ぶ声もなく、杯を舞わした手は空しく形だけが残ったのだった。
樵はこれを見つけて笑い、
抱き帰って売り払い、米と酒に換えた。
楊知事は、俗な連中は友人とはなりえない方で、
かつて高麗国に行ったときに、
海辺で姑射仙人に会い、互いに笑ってわずかにうなずきあった。
それからは、「海中の仙」と呼ばれるようになった。
どうしてそのときに姑射仙人を船に載せて帰らずに、
いまこの醜い石を手元に置いているのだろうか。
楊知事は、この石の奇異なることを詩に詠むよう私に求め、
この詳しい本未を聞かせてくれた。
私がここに詠んだのは全くもって妄言ではない、
なぜなら、亡是叟という立派な御仁に確かめたのだから。
【補足】［（1）最後の「亡是叟」は読み下せば「是亡き叟」で、つまり「ほらふき男爵」というようなもの。この詩は嘘八白を並べたものだと白状したのである。（2）この詩に詠まれている猿は『西遊記』の孫悟空を彷彿とさせるものがある。岩垂憲徳・釈清潭・久保天随訳解『蘇東坡詩集』（1927年）は、玄奘法師の『大唐西域記』に基づく講談本『大唐三蔵取経詩話』［南宋時代の本で日本だけに残った］の前身となるようなものを蘇軾が読んでいたのではないかと推測している。（3）なお、酔っぱらい道士の画に付した跋文を作品番号02-4-022で見ている］
■【07-2-058】記石塔長老答問
【解題】揚州の石塔寺でのちょっとした出来事を記した短文。
【訳文】
石塔が東坡居士と別れた。
私はいった。
「慌ただしく過ぎ去るために、石塔を一見できないのを残念に思います」
塔が起立していった。
「では、これは塼の塔なのですかな」
私はいった。
「いえ、縫い目がありますな」
塔はいった。
「もしも縫い目がなければ、どうやって世間の螻や蟻を容れることができましょうか」
私はその言葉に肯いた。
【補足】［この文章はこのままでは意味が取りにくい。いろいろと補って冗漫に訳すと次のようになるだろうか］
石塔［実は石塔寺の長老のこと］と東坡居士［私］が別れることになった。
私はいった。
「慌ただしく過ぎ去るために、石塔［石塔寺の名の由来となった石塔のこと］を一見できないのを残念に思います」
塔［石塔寺の長老］が起立していった。
「では、愚僧を石の塔ではなく、塼の塔とでも御覧になるのですかな」
私はいった。
「いやいや、貴僧は衣を纏い、縫い目がありますな［石の塔でも塼の塔でもない］」
塔［石塔寺の長老］はいった。
「もしも縫い目［のような隙間］がなければ、どうやって世間の螻や蟻［救済を待つ衆生］を受け容れることができましょうか」
私はその言葉に肯いた。
【補足】［石塔寺の長老とは、作品番号07-1-090で見た禅僧の無択［択公］で、蘇軾が南北を行き来している間に、竹西寺から石塔寺に移っていたのである。そのことが次の詩の題に示されている］
■【07-2-059】余将赴文登、過広陵、而択老移住石塔、相送竹西亭下、留詩為別
【解題】この詩の題は、「私は文登県［登州］に赴こうとして広陵［揚州］を過った。択長老は石塔寺に移っていて、竹西寺まで同行してくれ、この別れの詩を書き留めた」。この詩は上の問答の翌日の作であろう。
【訳文】
竹西寺はすばらしい僧を失い、
石塔寺は恵照師［唐初の名僧で択長老になぞらえる］に出逢ったのだった。
私も変化する身、
東海のほとりへと行く。
我が姓名が世の人に知られないようにできないものだろうか。
【補足】［（1）「東海のほとり」とあるのは登州のこと。登州は山東半島の北東の端、渤海湾に面する海辺に位置する。中国大陸の人々にとって海洋は東にあるので、「東海」と総称する。（2）択長老は無択とも戒和尚ともいい、石塔寺に移ったので石塔長老ともいうようになり、元の姓名で呼ばれることはない。蘇軾もそのような変化を望むということがこの詩の終わりに歌われているのだろう］
■【07-2-060】送楊傑、并叙
【解題】楊傑［字は次公］という朝廷に仕える人に出逢って詠んだ詩。序文が付いている。
【訳文】
叙
楊傑は無為子と号し、かつて勅使として泰山の絶頂に登り、鶏が一鳴するとともに日が昇り出るのを見た。また、かつて朝廷の御用で華山に行き、重九の日に蓮花峰の上で一杯飲んだ。いまは皇帝の詔を奉じて、高麗国の僧、義天とともに銭塘［杭州］に行くところである。いずれも朝廷の御用で、方外［世俗の外］の楽しみをなすのであって、善哉未曽有のことである。詩を作って楊傑に送る。
夜の間に、泰山の天門から登り、
昇り来る日を出迎えた。
紅い波が万里に広がり、天の半分が赤く染まった。
山から帰り来た後は、
平地において見る日の光は弾丸が跳ぶがごとく、
あたかも黄金で鋳た橘の実のようになった。
華山の峰の絶頂で重九の宴を催し、
天からの風が艶やかな菊の花の酒を吹き、
崩れるような絶壁の上で、
大声で歌い、手を揮って酔舞し、崖を一気に駆け下った。
そのとき神は八極［大宇宙］に遊び、現世との万縁は全て虚しく消え、
下に視るのは、汚れた溝でぶんぶん飛ぶ蚊の群れであった。
大千世界を一息に八十回往復し、
笑って東の海に渡り、鯨の背にまたがったのだった。
ここに高麗の王子［義天］が西に仏法を求めに来た。
それは古の弥天のような高僧で、
貴君は古の鑿歯のような学者であるから、まさに好敵手である。
高僧には仏難がつきもの、
長江を過ぎるときに強風が吹き荒れ、
山のごとき浪に襲われることもなくはないであろう。
船頭に頼むのは、
どうかこの両人を大切に看てくれたまえ。
【補足】［朝鮮半島の高麗国のことが詠まれている。僧の義天は高麗王の子で、釈迦のように王子の位を棄てて仏法を求め、遼［契丹］や日本にも使者を送って仏典を集め、国際的に名の知れた人物であった］
■【07-2-061】次韻孫莘老斗野亭寄子由、在邵伯堰
【訳文】揚州を発って、邵伯堰にあった孫覚［字は莘老］の斗野亭を訪れた。孫覚［→作品番号07-2-002］はこのとき都にいて不在で、留守番役の老僧から孫覚の詩を見せられ、それに次韻して弟の蘇轍に送った。邵伯堰はかつて晋の時代に謝安が築いた堤がもとになっていた。それで詩の冒頭に「謝公の渚」とある。謝安は蘇軾の憧れの人物として時折登場する。弟の蘇轍は績渓県の知事として2月に着任していたが、8月の初めに都へ召喚する辞令が下り、そのことがこの詩の終わりに詠み込まれている。
【訳文】
帆を降ろしたのは謝公の渚、
東西に広がる平らな川面に、日脚が落ち下る。
ぽつんとたつ斗野亭で少しく憩うと、
暮れなずむ景色はさらに清らかさを増す。
僕がそのまま座り続けていると、
斗宿、牛宿の星々が南の甍の上に現れ出る。
ここを守る老僧は、ひとたび笑うと、
昔からの知り合いであるかのように感じられ、
すでに意が傾くのを覚える。
孫覚殿の新しい詩を見せていただき、
かつての日々が前世のことであったかように疑われる。
思えば僕は今生の世において七回ここを往来し、
老いを海のほとりの町で送ろうとしている。
人に逢うと、このような自分であることを思わず哂ってしまい、
魚を得ても、我が身に重ねて、烹て食べるのは忍び難く思えてしまう。
聞くところでは、
績溪の老人はまた都に行くとか。
僕は秋の菊のような小さなこの詩をここに置いて行くから、
霜の中でもきっと明らかに君は見出してくれるであろう。
僕の詩に感じることがあったなら、
春の栄を呼び起こす長篇の詩を詠んでくれたまえ。
【補足】［「績渓の老人」とは弟のこと。弟も同じ経路で都に行くので、ここに詩を置いておくのだ］
■【07-2-062】贈葛葦
【解題】葛葦という人に贈った詩。次の詩の王寂とともに、どこのどのような人物であるのかは不明で、揚州から登州への旅の途中でたまさか知り合ったのだろう。
【訳文】
竹の椽も茅の屋根も半ば砕け半ば傾いている。
貴君は蜂の巣ほどのはかない住居に暮らし、
川波によってさらわれてしまうのではなかろうかと、
私は恐れるあまり、
何なら貴君を船尾に載せて連れて行こうかとさえ思う。
貴君がさっと作ってくれる詩は唐の孟郊のように渋い味わいで、
さらさらと書いてくれる字は晋の張伯英の草書を見るかのようだ。
百年の人生はいかにして使い尽くすのがよいのか。
貴君は帰耕しそこなった私を憐れむのである。
【補足】［「帰耕しそこなった」とは陽羨での暮らしがたちまち終わってしまったことをいうのだろう］
■【07-2-063】贈王寂
【解題】王寂という人に贈った詩。
【訳文】
貴君としばし別れるのは嘆くまでもない。
俯仰する間にまた帰ってくるのだから、
鬢の毛が白くなることもないだろう。
覚えておこう、
江南の煙る雨の中、
青い山の途切れたところに貴君の家があることを。
【補足】［ここでいう「江南」は広く淮河以南の南中国をいうのだろう］
■【07-2-064】迨作淮口遇見詩、戯用其韻
【解題】淮河の流れへと船が乗り出したところで、次男の蘇迨が『風に遇う』という題の詩を作り、それに次韻した。我が子の詩を手放しで褒めているので、詩の題に「戯れ」と記している。蘇迨はこのとき16歳であった。
【訳文】
我の詩は病気になった馬のようなもの、
枯れかけた草に向かって、悲しげに嘶いている。
我が子は真に駿馬、
噴と息を一つ吐くだけで、群がる馬どもは倒れてしまう。
とはいえ、
いまは気を養うとき、
やたらと吟じたりうなったりしない方がよいだろう。
世に名が知れるのが早すぎるのははなはだよろしくない。
淮河を波立たせる風は、
君の筆力を借りて、ますます勢いを増し、
雲を残らず吹き払った。
陶淵明は、息子がいつまでたっても梨や棗を求めて走りまわっていると嘆いたけれど、
我が子とどっちがましだかわかったものではない。
それでも君が強引にも韻を踏んでしまう技を見ると、
私にはどうも孟郊や賈島よりも勝っているように思えてしまうのだ……。
【補足】［孟郊、賈島は韓愈の高弟である］
■【07-2-065】書遺蔡允元
【解題】風のために上の詩と同じ場所に留まっている間に蔡允元という人の訪問を受け、この短文を書いて与えた。蔡允元は古くからの友人とあるが、他にその名は見えず、いかなる人であるか不明であるという。
【訳文】
私は閑居すること六年、また出仕することとなった。六月に朝廷の命を受け、いま初めて淮河のほとりに至った。しかし、大風のために、三日の間、河を渡れずにいる。
古い友人の蔡允元が来て、船中で別れた。蔡允元は眷眷としてなかなか帰ろうとしない。私も遅回と出発しようとしない。意では風がずっと続くことを願っているのだ。一座の人々が口を揃えて、東坡居士が官の仕事に赴く様子は、小児が遷延と勉強場に行こうとしないのにそっくりだという。
その語が実にぴったりであるのを愛し、ここに書き記し、蔡允元に与える。後に帰休したときにこれを見て笑うのもよいだろう。
【補足】［ここにある「殆似小児遷延避学」［小児の遷延として学を避けるに殆ど似る］とは実にうまいことをいったものである。前年の春に黄州を発ってからの蘇軾の足取りはまさにその通りの印象を与える］
■【07-2-066】次韻送徐大正
【解題】いつまでも淮河の入り口に留まっているわけにもいかず、船は北上して楚州に至り、そこで徐大正［→作品番号07-1-087］と別れてこの詩を詠んだ。この詩には蘇軾自身の注があって、「徐大正とはかねてから長江と淮河の間の地で隣同士に住もうと約束していた。登州に赴くに当たり、同じ舟で山陽［楚州］に至った。徐大正が送別の詩を作り、私は詩を残した」とある。徐大正は、黄州知事の任にあった徐大受の弟で、先に揚州のあたりで会って一度別れているのだが、いつどこで再会したのかは不明である。
【訳文】
別れの盞が燈火に照らされている。
そこにたまった蝋の形状から占うと、遠からず私は帰ってくるはずだ。
去年、一緒に長江を渡ったときに、升のように大きな萍の実を食べた。
今年、それぞれが海辺の地に向かうときに、瓜のように大きな棗の実を食べる。
情ある明月は貴君のためにここに来てくれている。
値なき青山［無上の価値のある自然］は私のために遥かまで続いている。
千首の新しい詩と一本の竹の釣り竿がここにある。
いつかともに川に槎を浮かべようとの約束は空しいものではないはずだ。
【補足】［去年に長江を渡ったとあるのは、蘇軾は汝州に向かうために、徐大正は兄の棺を郷里に運ぶために黄州を離れたことをいうのだろう。今年は海辺の地に向かうとあるのは、蘇軾は登州に行くことをいい、徐大正は恐らく郷里に行くことをいうのだろう。徐大正がまだ兄の葬儀を済ますことなくなおこのあたりに留まっていたとは考えにくいので、何かの用事で郷里から出てきていたのだろうか］
■【07-2-067】次韻徐積
【解題】楚州で徐積という人に会い、その人の詩に次韻した。徐積については次のような記録があるという。「徐積は山陽の人で、幼いときに父を喪い、母に仕えて至って孝行で、四十歳になっても結婚しなかった。村人たちの支援で科挙を受け、母ととともに上京して合格した。ところが、官職に就く前に母が亡くなり、郷里に帰って喪に服し、そのまま官に仕えなかった。お上は徐積の振る舞いを見て、楚州の学校の教授にした。しばらく務めた後で郷里に帰り、初めて妻を娶った。その後、天寿を全うして終わった」。蘇軾が楚州に着いたのは徐積が教授となった直後であったようだ。
【訳文】
子路［孔子の高弟で親孝行で知られた］のような貴君を、
鶏を絞めて招くようなことはしないで、
飯を包んで自ら訪ねに行った。
貴君は、中年に至って、庭に槐を植えた学び舎に隠れているけれど、
本来なら朝廷で立派な文章を書くお方である。
私は、海のほとりの地に向かって東へと去り行く身、
風雨が引き留めてくれたお陰で貴君に会うことができた。
峨眉山が眼の前にあるのならば、
敢えて故郷に帰るまでもないのだ。
【補足】［恐らく徐積のもとの詩に、蘇軾の故郷の峨眉山は遥か遠くだといったことが詠まれていて、最後の部分はそれに応えたものであるのだろう。蘇軾はかつて密州知事であったときに、障日峰という山に、形状が峨眉山に似ることから「小峨眉」と名付けていた［→作品番号05-1-033］。楚州から登州に至る途中で密州を通り、「小峨眉」を目の前に見ることになるので、そこが我が故郷である、つまり地上のどこもが故郷なのだといったのである］
■【07-2-068】過泗上喜見張嘉父
【解題】船は泗上に至り、張大享［字は嘉父］に会った。張大享はこの年の科挙に合格したばかりの人。
【訳文】
其の一
眉の間に氷雪のような気配が宿り、
淮河のあたりを照らし出す。
筆を下せば、波瀾を引き起こす勢いがあり、
いずれは老成し、平穏になってゆくことだろう。
かくて貴君の持つものを全うする妙を得るならば、
いますでにがやがやと評判が高いことなど気に掛けるまでもあるまい。
其の二
山々は人を娯ませ、
人の心は自ずと山へと還る。
明るい窓辺にくつろぐなら、
心は秋とともに穏やかになる。
もはや名利などというものは到らない、
觴を取って山とともに飲むのである。
■【07-2-069】蝶恋花
【解題】蘇軾は東シナ海に近い海州に至り、この詞を詠んだ。「漣水［海州の南の地］を通り趙昶に贈った」との副題がある。趙昶は蘇軾が密州知事であったときからの知り合いで［→作品番号05-1-069］、藤州知事［→作品番号06-1-106］を経て、このときは海州にいた。
【訳文】
自古漣漪佳絶地。［漣水はその名の通り昔から漣漪がごくすばらしいところ］
繞郭荷花、［町を繞る荷の花は］
欲把呉興比。［呉興に比べることができましょう］
倦客塵埃何処洗、［旅に倦んだ人はどこで塵埃を洗ったらよいのでしょう］
真君堂下寒泉水。［真君堂［趙昶の住まい］の下の冷たい泉の水でしょう］
左海門前酤酒市。［海辺の町の門前の酒を売る市］
夜半潮来、［夜半に潮が満ちて］
月下孤舟起。［月の下で一艘の舟が漕ぎ出します］
傾蓋相逢拚一酔、［招き合ってわずかに酔うと］
双鳧飛去人千里。［二羽の鳧に乗って飛び去るのです］
【補足】［（1）呉興は江南の町で、かつて湖州知事であったときにその美しい風光を愛でていた［→作品番号05-5-051］。（2）「鳧に乗って飛び去る」とは仙人の姿で、前にもその故事を見ている［→作品番号01-2-037など］。前半に「真君堂」［真君は真に道に達した人］の名があることから、趙昶は道教に通じていたのだろう。（3）原詞の後半の冒頭に「左海」とあるのは、天子が南向きに坐したときに、大海は左側にくるからだ］
■【07-2-070】元豊七年有詔京東、淮南築高麗亭館、密、海二州、騷然有逃亡者。明年、軾過之、嘆其壮麗、留一絶云
【解題】先に楊傑が高麗国の僧を送って杭州に向かうのに出会っているが［→作品番号07-2-060］、その背景には、宋が北方の遼国［契丹］の動きを牽制しようと、朝鮮半島にある高麗国との友好を深めようとしていたことがある。陸路を使うと、宋と高麗の間には遼が挟まるが、海路を使えば朝鮮半島は向かい側である。そこで、海州に高麗国の使者を迎えるための施設が作られた。詩の題は「元豊七年、京東と淮南に高麗亭館を築くよう詔が下った。密州、海州の二州は騷然となり、逃亡する者も出る事態となった。その明くる年、私は高麗亭館を見て、その壮麗な建築に嘆息し、一絶句を詠んだ」。
【訳文】
塀の外からも、高麗亭館の檐や楹が空に飛び舞うありさまが見える。
村々は土木工事に疲弊し、ひっそりと静まり返っている。
我が民衆を高麗国の奴隷として使役したに等しいのではなかろうか。
そのような犠牲を償うものが果たしてあるのか。
【補足】［改革政治は積極的な対外政策を採り、西方では夏国と開戦して失敗した。北方では遼国［契丹］に対して何とか優位を築こうと模索し、高麗国との友好関係を深めようとした。遠くの国と手を結んで、間に挟まる国を叩こうとする考え方は、その後、宋国を亡ぼすことになる。これより数十年後に、遼国よりも北の地に俄かに勃興した金国と同盟を組み、遼国を挟み撃ちにしてまんまと遼国を滅ぼすことに成功するのだが、金国の圧倒的な強さの前に宋国の都も陥落してしまうのだった］
■【07-2-071】懐仁令陳徳任新作占山亭二絶句
【解題】蘇軾は海州の懐仁県を過り、県知事の陳徳任が新たに作った占山亭を訪れてこの詩を詠んだ。
【訳文】
其の一
昔むかし太公望は南征して穆陵関にまで至り、
この海辺の地を自身の領地とした。
まさか誰も思いもしなかっただろう、
そうした太公望の苦労を尻目に、
ここにきた詩狂いの人が、
膠西県の山々の半分までもやすやすと占拠してしまうとは。
【補足】［詩の後半は占山亭が、その名の通り山々の景色を独り占めにしてしまうところから洒落たもの。膠西県は密州に属することから次の第二首が続く。
其の二
私は膠西のもとの知事である。
だから、私だってこれらの山々を貴君と半分ずつにしたってよいはずだ。
むしろ「山中の宰相」を密かに名乗ろうかと思っているくらいだ。
あの山に隠棲し、時折、白雲に詩を寄せるのだ。
【補足】［「山中の宰相」とは陶弘景の故事による。陶弘景は若いころは南斉の朝廷に仕えたが、36歳で茅山［金陵の山］に隠棲した。陶弘景の詩に「山中に何があるのか、嶺の上に多くの白雲がある」との句があり、それ以来、「白雲」は隠者の清らかな心の象徴となった。皇帝はしばしば陶弘景に手紙や礼物を贈って厚く遇したので、人々は「山中の宰相」と呼んだ］
■【07-2-072】再過常山和昔年留別詩
【解題】密州の南に常山がある。蘇軾は密州知事であったときに何度か常山に登って雨を祈り［→作品番号05-2-033など］、密州を離れるに当たって常山の雩泉で送別の詩を詠んだ［→作品番号05-2-044］。登州に向かう道で再び常山を過り、かつての送別の詩に和した。
【訳文】
常山の前で老人達が深々と頭を下げる。
私を出迎えるのは初めてであるかのようにしている。
夢幻の内を駆け巡る身は、
一念一念ごとにもう昔の人でないのだ。
長らく川や湖を放浪し、
朝廷ばかりでなく街にも親しい人はもはやいない。
ここから雩泉の源を尋ね、俗世を避けた桃源郷に逢おうかと思う。
【補足】［このあたりの一連の詩から、蘇軾が登州に赴任することにあまり積極的でなかったと推測しても、あながち見当違いではないであろう］
■【07-2-073】再過超然台贈太守霍翔
【解題】蘇軾は9年ぶりに密州を訪れた。州庁の北側には蘇軾が築いた超然台があった［→作品番号05-1-077］。超然台に登り、州知事の霍翔にこの詩を贈った。
【訳文】
昔、私は雩泉の水を飲んで常山と別れた。
そのとき天は冬に向かって寒く、歳は辰と巳の間にあった。
山中の児童は手を拍って笑い、
「西に去って、いつ還ってくるのですか」
と、私に尋ねた。
児童らとは竹馬の遊びを再びする約束をした。
それににもかかわらず、十年もの間ここに来ることがなく、
私は小舟に乗って独り遠くで釣りをしていたのだった。
ようやく重ねてここに来ると、
老人たちは幼い子に支えられながら、道を遮って出迎えてくれた。
かつて赤ん坊であった者もすでに七尺の丈に成長したのを見れば、
私はどうしたって若いままではいられない。
人々に、いまの知事殿はどのような人であるかと尋ねたところ、
「漢の時代の趙充国将軍のようなお方です。
それでいて、お年はまだえらくお若いのです。
その上、民衆を労働に使うときには、
知事様御自身が酒や食べ物を用意して慰労してくださいます」
といった。
私が密州知事であったときには、
『超然台の記』に、
「台所はいつもすっからかんで、
杞の葉やら菊の花やらを毎日食べなければならない」
と、書いたくらいであったから、
「うちの知事様はしみったれだ」
と、嘲りを受けていたのだが、
いまの知事殿はそういうことは全くないのだ。
かくて超然台に旧跡を尋ねて酒を置くと、
当時の詩賦を刻んだ石がそのままに残っている。
雲が飛んで馬耳山に日が落ちゆき、
超然台の碧の壁が靄の内で金色に輝く。
邞淇の水は古からのままに北に向かって流れ、
波を立てて瀨を下りつつ環飾りがぶつかり合う音を響かせている。
知事殿に願うのは、
談笑の内にその川に石の埭を築き、
居ながらにして城郭の周りに新田を生み出すことである。
【補足】［蘇軾自身の注で、密州知事の霍翔は熙河［夏国との戦いの前線地］で屯田を開く功績があったと自ら語ったとある。それで、西方諸国を平定するのに偉大な功績があった漢の時代の趙充国になぞらえた句を詠んだのである。詩の終わりは、遠く辺境の地ではなく、むしろ身近なこの地において新たな農地を開くことを霍翔に勧めたのである］
■【07-2-074】過密州次韻趙明叔喬禹功
【解題】ここに懐かしい名を見る。趙杲卿［字は明淑］［→作品番号05-2-030など］と喬敍［字は禹功］［→作品番号05-1-084など］で、2人とも密州知事であったときに交流があった。
【訳文】
趙先生は昔通り貧乏のまま、
喬知事もやはり酔っぱらっては門番に叱られている。
世間を笑わせるだけの価値すらないのに、
こうして我等三人はまた向き合っている。
鶏の声を暁に聞けば、悲しい曲を歌っているかのようだ。
白髪を見ると、秋はこの身にこそあると驚かされる。
膠西の旧い友ともう別れるのだが、
いつかの春に小舟に乗ってともに釣りをしようではないか。
【補足】［（1）趙杲卿が学校の教授で貧乏であることは作品番号05-1-030で、喬敍が門衛に馬鹿にされるような目に遇うということは作品番号05-1-020でそれぞれ見ている。（2）釣り竿を並べるのは、徐大正との別れの詩［→作品番号07-2-066］でも見ているように、自由人同士の楽しい遊びの象徴である］
■【07-2-075】書柳子厚詩
【解題】いよいよ登州に近づくと海が見えるようになった。柳宗元の詩を思い出して書き、この短文を添えた。柳宗元は韓愈と同じ時代の人で、政争に巻き込まれて二度流罪になり、それによって詩文に独自の境地を開いた。蘇軾も同じような経験をすることで、次第に柳宗元に接近するようになる。
【訳文】
私は東武［密州］から文登［登州］へ向かい、海に沿って数日間進んだ。道の傍に並ぶ山々はまことに剣先のようである。柳宗元の詩を唱えつつ、この海辺の山々の多さを柳宗元は果たして知っていたのだろうかと思った。
柳宗元の詩にはこのようにある。
海上尖峰若剣鋩、［海辺の尖った峰々は剣先のようで］
秋来処処割人腸。［秋が来て、その剣が人の心を引き裂く］
若為化作身千億、［どうせなら、この身を千億にもわけて］
遍上峰頭望故郷。［すべての峰の頂において故郷を望みたいものだ］
【補足】［柳宗元もとの詩は、『与浩初上人同看山寄京華親故』［浩初上人と同に山を看て、京華の親故に寄せる］という題で、遠く南方の柳州に流されていたときに都の友人に送った詩である。柳宗元は長安の生まれで、都がまさに故郷であった。なお、柳州は内陸の町で実際に海が見えるわけではないが、南シナ海に近く、都から見れば海辺の町というイメージであるのだろう］
■【07-2-076】与枢密
【解題】蘇軾は10月15日に登州に到着した。その日のうちに着任したことを皇帝に報告する感謝状を書いて差し出した。表題に掲げたのは副宰相に宛てた感謝状。具体的には章惇に宛てたものであろうとされている。また、これとほぼ同文の手紙を、朝廷の要職に戻った司馬光にも送っている。つまり、誰宛てでも通用する極めて儀礼的な手紙で、重々しい言葉遣いを省いて実質的な内容だけを抽出して訳そうとすると、ほとんど何も残らないので、原文だけを掲げておく。注目すべきは最後の日付である。
某啓、孟冬薄寒、伏惟枢密正議台候万福福。軾即日蒙恩、罪戻之余、崇命逾分、区区尺書、不足上謝、又不敢廃此礼、進退恐栗。未縁趨侍、伏冀上為廟朝、精調寝味。下情祝頌之至。謹奉啓起居、不宣。軾頓首再拝枢密執事。十月十七日。
■【07-2-077】海市、并叙
【解題】伝聞によれば、天下に名高い蘇軾の赴任を登州の人々は大いに歓迎したとあり、蘇軾は久しぶりに知事としての職務に意欲的に取り組み始めた。ところが着任からわずか5日後の10月20日、蘇軾を朝廷に召喚するとの辞令が届き、たちまち都に向かうべくあたふたしなければならなくなった。あまりにも短期間で去らねばならないことに蘇軾としては心残りがあったということがこの詩の序文に記されている。
【訳文】
叙
私は登州の「海市」［海に町が浮かんでいるようなありさまが見られる現象、すなわち蜃気楼］について以前から聞いていた。土地の父老によると、いつも春から夏に出て、今年はもう冬になったので見られないという。私は着任して五日で去ることになり、「海市」を見られないのを残念に思い、海神の広徳王の廟に祈った。その明くる日に「海市」が現れたので、この詩を作った。
【補足】［登州の州庁は渤海湾を北に臨む海辺の町にあった。中国は広大な国で海岸線も長いが、大半の人々にとって海は遠い存在である。蘇軾も海辺の地に住まうことを珍しく感じ、有名な「海市」を見ることを一つの楽しみとしていたのだろう］
東方の雲と海、
空にしてまた空、
その空明の中に群仙が出没し、
ゆらゆら揺れる浮き世が現れ出て、
万象が生じるという。
よもや貝が真珠の宮殿を吐き出すのではないだろう。
心に知り抜いているのは、
見るものすべては幻影であるということ。
それでも、我が耳目を驚かすために、
わざわざ神の工を煩わしてみることにした。
「天地が寒さと水の冷たさに閉ざされたこの季節、
私のために冬籠りしている魚竜を鞭打って起こしてください」
すると、霜降る暁に、重なり合う楼閣と翠の阜が出現した。
この異事に百歳の翁もぶっ倒れんばかりに驚いた。
人間世界で得られる物なら、我が力で取ることもできるだろう。
この世の外には物はなく、誰であれたくさんの物を取って誇示することはできない。
私はいきなり頼んだのだが、神はなぜか拒みはしなかった。
それで知ったのは、
私は人から厄を受けたのであって、天が窮せたのではなかったのだ。
唐代の韓愈は遠く南方の潮州に流された後、
都に帰還する途中、霧に閉ざされた道で神に祈ったところ、
石廩と祝融の二つの峰が堆く聳える姿が現れ出たので、
「我が心が正しく素直であることが山の神を動かしたのだ」と豪語した。
実際のところは、韓愈の竜鍾としたありさまを造物者が哀れんだのだろう。
顔をほころばせて笑うのだってそうそうあることではない。
神が山を見せてくれただけでその報いは十分に豊かであったのだ。
まして私は世にない物までも見せてもらえた。
日が斜めになり、万里の彼方に鳥が飛び去った後は、
碧い海が青銅を磨いたように広がるばかり。
きらびやかな言葉を並べて新しい詩を作ったところで、
何の役にも立たないのはわかっている。
結局は、風とともに全て変化して消えてしまうのだ。
【補足】［詩の半ばに「信我人厄非天窮」［信に我は人厄にして天窮に非ざるを］とある。つまり、流罪の身になったのは人によって与えられた災厄であって、天の定めによるものではないというのである。蘇軾はこれまで、罪に墜ちたのは、時に天の定めによるといい、時に自分自身によるといっていた。都に召喚されることが決まったことで、ようやく本当に思うところを詩に託したのだろう］
■【07-2-078】与潘彦明
【解題】黄州にいる藩丙［字は彦明］［→作品番号07-1-112］に送った手紙。
【解題】
あちらこちらへと行方が定まらないなかにあって、しばらく御無沙汰しておりました。登州に到着したところで、お手紙を受け取りました。お健やかにお過ごしとのこと、はなはだ安堵いたしました。
こちらにきてまだ席が温まらないうちに重ねての詔をいただき、強いて走り行かねばならず、嘆息してやみません。かつての遊びをかれこれ思うと、ほとんど耐え難いような気持ちになります。お母様は以前に変わらないとのこと、潘鯁君からもお手紙をいただいております。甚だ多忙の折から、まだ御返事していません。郭遘君や古耕道君にもよろしくお伝えください。……
【補足】［（1）潘丙は科挙には合格しなかった。蘇軾が登州に赴任すると聞いて、兄の潘鯁とともに登州に宛て手紙を送ったのだろう。（2）郭遘や古耕道は前の章でお馴染みの人々［→作品番号06-2-003、06-3-005など］。
■【07-2-079】登州孫氏万松堂
【解題】蘇軾が登州にいたのは二十日間ほどであったようで、そのわずかな日々のうちにもあちこちを訪ね、幾つかの詩を詠んだ。これは登州の町の中にあった孫氏の万松堂で詠んだもの。
【訳文】
一万本といわれる松を誰が植えたのか。
さわさわと風に鳴り、
嶺に積む蒼い雲のようにこの邦を覆っている。
堂に登って見るなら、
松より滴る露が家々の屋根へと降りかかる。
冬の川からは、石の歯が水を噛み砕く音が風とともに聞こえてくる。
南の部屋では、大竹、小竹の二つの島が空に浮かぶさまが見え、
北の窓辺では、夕陽を受けて松の影が伸びるのを見る。
平安を告げる夕べの烽が海の向こうに上がるのを見てから、
逢逢と鳴る太鼓の響きを踏んで帰ろうと思う。
【補足】［渤海湾の北側は遼国の、東側は高麗国の領地である。国境地帯で何事もなければ狼煙［平安火］が上げられるという］
■【07-2-080】遺直坊、并叙
【解題】登州の人に依頼されて詠んだ詩。
【訳文】
叙
富弼の知り合いに登州の李常という人がいた。かつて李師中が登州知事であったときに、李常の住むところを「遺直」と名付けた。李常の子の李大方が私に詩を求めたので、この一首を作った。
【補足】［ここに見える李常は、これまでにしばしば登場した親友の李常とは別の人である。李師中の名は作品番号05-3-007で見ている］
李師中知事は浪りに外出する人ではなかったけれど、
李常先生に対しては師弟の礼をもってその門を叩いた。
李先生はただ座っているだけであっても、
挙止がすでに多くを語って教え、
当時のこの邦の人々はそれによって教化され、
町で朝から飲んだり食べたりして騒ぐような不届きな連中はいなくなった。
それからどれほどの歳月が経ったのか、
李先生も李知事も九原［あの世］の人になってしまった。
国の衰えを嘆いた孔子の声はいまも伝わっているけれど、
李先生の魂を呼び戻して再び人々を教え導くことができないものだろうか。
私はここに「遺直」［正しいことを遺す］の詩を作るので、
この地を過ぎる者は必ずここを敬って礼を捧げてほしい。
【補足】［4行目の原文は「薤水已多言」［薤水已に多言］で、薤を引き抜く仕草［薤は精神の強さの象徴］からも、水を汲む様子［水は心の清らかさの象徴］からも人を教え諭すものがあるという意味］
■【07-2-081】鰒魚行
【解題】「中国三大珍味」といわれるものがある。フカヒレ、海ツバメの巣、それに干しアワビだ。登州はアワビの産地であり、輸入基地でもあった。これは鰒魚［アワビ］の行。
【訳文】
漢王朝［前漢］から皇位を奪い取った王莽は、
最後は漸台に籠り、矢が尽きるまで戦った末に殺された。
そのとき、憂憤のあまり酒と鰒魚しか喉を通らなかったとか。
やはり漢王朝［後漢］から皇位を奪い取ろうとした曹操は、
死に際に、帳を廻らせて女性たちに歌わせた。
そのとき、息子は父が好む鰒魚を届けようとしていたが間に合わなかったとか。
二人とも同じく皇位を盗むような人間であっただけに、
嗜好も同じだったのだろうか。
私は鰒魚を前にすると、いつもため息が出る。
それは、「鰒魚の味はかさぶたの味に似ている」などと、
妙なことを言った人がいたので気分が悪くなるだけでなく、
この二人のことを思うからだ。
覇者が林立して通行が遮断された時代には、
鰒魚一枚の値が千金にもなった。
幸いにもここ百年は南に北に魚も野菜も運ばれ、
鰒魚も下々の者に至るまで口にしてあり余るほどにある。
さらには、東からは海船に載せられて、倭国の鰒魚までも届き、
「倭螺」と呼ばれている。
その他にも、登州には異国のいろいろなところからたくさんの珍宝がくる。
蓬萊閣の先にある駝棋島では、
八月になると遠国から吹き来る強風に備えなければならない。
海の怪物が威力を震い、舶船は浪にもまれ、
人々は崖や谷に倒されてしまう。
鰒魚の採集や運搬には苦労を伴うのだが、
ひとたび料理人の手に渡ると、
上手に調理されて皿の上で輝く光を放ち、
立派なお屋敷の食卓に乗る。
世の珍味とされる肉芝とか石耳とかも、
酢に合えた鰒魚の皮に比べたら物の数ではない。
都会の貴人たちがこの味を珍重するので、
酒粕や油に漬けて遠くにまで送られる。
とかく鰒魚にはいろいろな話がある――
昔、日に一万銭を厨房で費やしても、
世に旨いものがないと抜かしていた大金持ちがいたのだが、
鰒魚を食べると、目をひんむいて千日の酔いも醒めたとか、
かつて三韓［朝鮮］の使者が金の鼎を朝廷に献じたときに、
箱一杯に鰒魚を詰めて返礼にしたとか、
あるいは、遼東の太守が遠くから朝廷に鰒魚を献じたとか、
臨淄の役人が褒美として鰒魚を下げ与えられたとか……。
この私は生きながえて東の地に来ることができ、
いささかなりとも鰒魚を食べられれば満足で、
藁に包んでその筋の方々への付け届けにしようなどとは思っていない。
鰒魚のスープは眼によいというから、
人々に分け与えて、
細かい字も読めるようにしてやりたいと思うのである。
【補足】［日本から干しあわびが運ばれ、登州が交易のルートになっていたようだ。このころの日本は平安時代の院政期であった］
■【07-2-082】奉和陳賢良
【解題】科挙の賢良方正科に合格した陳という人の詩に和した。詩の題に「奉る」とあるので、蘇軾より年配の先輩であるのだろう。
【訳文】
孫氏や呉氏や太公望の兵法を学んだことがないから、
この駑馬の身をもって英豪たちに並ぼうとは思っていない。
海の彼方に視線を極めても、
天はますます遠く、
向日葵が日を追うように心は皇帝に向かうのだが、
日は高くますます高くにある。
我が身の外にある浮き名を求めてあくせくするのはやめよう。
夢の中でも故郷へ帰る思いはいよいよ溢れ出てくる。
蓬莱島の三山はもとより神仙の地、
貴君と手を取りあって東の海へと乗り出し、
巨大な鼇を釣りあげようではないか。
【補足】［陳は科挙には合格しても志を得ずにいたのだろう。登州の土地柄からして神仙世界へ思いを寄せて、陳氏を慰めたのだろう］
■【07-2-083】蓬莱閣記所見
【解題】登州の町から北に三里の海辺にある蓬莱閣を訪れてこれを記した。登州に蓬莱閣があることは作品番号07-2-054ですでに触れていた。
【訳文】
登州の蓬萊閣に上って海を望むと、鏡の面のように広がり、遠く天と境目を接している。その中に、たちまち黑い豆のようなものが数点現れ出た。土地の人がいうに、「海舶が来たのです」。飯が炊けるよりも短い時間で、船はもう蓬萊閣の下にまで来た。
元豊八年十月晦日、眉山の蘇軾が書く。
【補足】［内陸の眉山に生まれ育った蘇軾にとって海辺の風光は珍しいものがあったのだろう。「海舶」は外海を航行する船で、小川環樹・山本和義『蘇東坡集』（1972年）では「貿易船」と訳している］
■【07-2-084】留別登州挙人
【解題】登州を去る前に、科挙を目指しているとある受験生に贈った詩。恐らく、蘇軾の到着を心待ちにして自作の詩文を見せにきたのだろう。
【訳文】
身も世も忘れるという荘子の哲学はかねてから知っていながら、
なおも官界を旅し、古来名高いこの地に来た。
漢の時代にこのあたりに避難していた太史慈は、
孔融が赴任して来なければその才能は世に識られなかった。
貴君が筆を下すなら、世の風流人を驚かし、
貴君が琴を演奏するなら、古の名人の弟子にもなれるであろう。
わずか五日で匆匆に去ってしまう私を嫌わないでほしい、
都に帰ったならば、貴君の詩を皆に伝えるであろうから。
【補足】［この詩を与えた挙人の名が伝えられていないことから、この人の詩が都の人々の間で評判になるようなことはなかったのだろう］
■【07-2-085】仏心鑒偈
【解題】登州を発つ直前のこと、三男の蘇過の持つ鏡を寺に寄付した。そのことを翌年になって記した短文。
【訳文】
三男の蘇過は烏銅鑒を持っていた。直径は数寸で、奥深く通る光を放っていた。
元豊八年十一月二日、登州の延洪禅院に遊ぶと、僧の文泰がちょうど釈迦文像を造ろうとしていた。そこで、仏心鑒にしてもらうべくこの鑒を寄付し、偈を作った。
鑒中面像熱時炎、［鑒中の面像 熱く時に炎ゆる］
無我無造無受者。［無我 無造 無受の者］
心花発明照十方、［心花 明を発して十方を照らし］
還度如是常法衆。［還た度るに 如是 常法の衆］
眉山の蘇軾、元祐元年三月一日、石に刻んで立てる。
【補足】［（1）「仏心鑒」とは、仏の心として仏像の中に納める鏡なのだろう。（2）偈の意味はわからないので、とりあえず読み下し文にした。たぶん、鏡の光はすなわち衆生を照らす仏陀の叡智だというようなことなのだろう］
■【07-2-086】書呉道子画後
【解題】唐代の呉道玄［呉道子］の画について、蘇軾はしばしば詩や文章において言及している。この文章は登州滞在中に史全叔が所蔵する画を見て、それが間違いなく呉道玄の真筆であると鑑定して書いたもの。史全叔は登州の官に仕えない人であったようだ。
【訳文】
知恵のある者が何かを創造し、能力のある者がそれを敷衍し展開する。一人の力だけで成就するのではない。
学問における君子にしても、技術における百工［職人］にしても、創造と敷衍があって、三代［古代の理想の時代］から漢代を経て唐代に至って何事も完備するようになった。だから、詩は杜甫に、文は韓愈に、書は顔真卿に、画は呉道玄に至って、古今の変化が尽くされ、天下の能力のある人のすべきことは完了したのである。
呉道玄が人物を画くのは、燈火を掲げて影を取ることに喩えられるであろうか。光線が来るのを迎えたり往くのに従ったり、傍らから見たり側面から出て行ったり、橫に斜めに平らに直に、各おのを乗除して、自然の本質となる数［法則］を得て、それと毫末も違えることなく画くのである。こうして、新意を法度の内より出し、妙理を豪放の外に寄せたのである［奔放自在に新味を生み出しているように見えて実は理に適っているという意味］。いわゆる「刃を余地に遊ばせ、斤を運らして風を成す」を為したことについては、古今において呉道玄一人であろう。
私は他の人の画では、それを描いた人の名を必ずしも言い当てることができない。しかし、呉道玄の画は、さっと見るだけでその真偽がわかる。ところが世間に本物は滅多にない。史全叔の所蔵するものは、これまでに一つか二つしか見たことのないほどのものである。
元豊八年十一月七日、書く。
【補足】［（1）この文章の前半に、蘇軾の文化史観が簡潔に述べられている。冒頭に置かれた「知者創物、能者述焉。非一人而成也」［知者は物を創り、能者は述ぶ、一人にして成るに非ざるなり］の14文字は、力強くかつ当時としては大胆な主張である。「述」の原義は、「人に付いて従う」で、そこから「人の意見を重ねて言う」という意味が出て、さらに単に「言う、告げる」という意味が出た。この文章で「述ぶ」といっているのは、原義に近く、「祖述する」［先人を手本として受け継ぐ］という意味である。古い中国の歴史観はおおむね尚古主義で、大昔［よく「三代」［夏、殷、周］という］に聖人が完璧なものを人間世界に示し、時代が下るとともに悪くなっていくと考えていた。ところが、蘇軾は、知者［聖人］が提示したものを能力のあるものが継承、発展させることによって完成すると主張し、唐代に至って完備したといっている。ここでは蘇軾は言及していないが、唐代に完備してしまった後を受けて、後世の者は何をしたらよいのかというのが、蘇軾たちの大きな課題であった。（2）中段にある「燈火を掲げて影を取る」とか「乗除して数を得る」とかの表現は、いわゆる「理系」的な発想といってよいだろう。土木に秀でていたり、医術に深い関心があったり、化学実験に熱心だったりすることも合わせて考えると、蘇軾は実はすこぶる理系人間であったのではないかと思えてくる。（3）その後にある「新意を法度の中より出し、妙理を豪放の外に寄せる」という文章はそっくりそのまま作品番号06-4-031で掲げた『呉道玄の地獄変相の跋文』で見ている。呉道玄の画をいうのにこれ以上の表現はないということなのだろう。（4）続いて「刃を余地に遊ばせ、斤を運らして風を成す」とあるのは、『荘子』に記された二つの寓話に基づくものである。牛を解体する名人は、自然の法則に従って刃を使うので、骨と肉の間に刃を自由に動かせる広々とした空間があるといった。また、大工の名人は、人の鼻先についたわずかなしっくいを、風を起こすように斤を振って削り取っても、人の鼻を少しも傷つけなかった。両者とも達人の技の最高の境地である］
■【07-2-087】書自作木石
【解題】おなじく史全叔に贈った短文。
【訳文】
東坡は登州知事に移って五日、知事職から去ることになった。この地の山海の景勝が名残惜しく、日々に賓楼に挙がって同僚と飲んだ。酒酣にこの木石の画を描き、筆を投じて嘆息して感じるに、今回ここに来たのは最上のことであったのだ。
その画は史全叔が取って所蔵することになった。
■【07-2-088】過萊州雪後望三山
【解題】二つ上の文に11月7日の日付があり、蘇軾は登州を発ったのはその直後だったようだ。登州から海岸に沿って西に進み、萊州に至り、雪が降った後の海に三山島を見てこの詩を詠んだ。
【訳文】
東の海は碧い環のように、
西北の果の登州と萊州を取り巻いている。
雲からの光と天の色とが回転しながら、三山島へと落ちかかる。
我が旅はちょうど冬の真中にあたり、
うっすらと雪が積もって、地上に浮く埃を収めてくれた。
黄昏時になって風が収まり、
夜中に海がからりと開けた。
三山島は華山の頂のように見え、
雲と波の間に見え隠れする。
古の仙人である安期も羨門も、
竜に乗ってあのあたりから飛び去って、
いまはいったどこにいるのだろうか。
神仙の世界に憧れて、諸仙人に一献勧めたいと願っていた漢の武帝も、
虚しく茂陵に葬られてしまった。
私にしても天帝の住まいで会う約束はできないであろうから、
せめて諸仙人の魂を招き寄せる詩を作ってみようと思うのである。
【補足】［萊州では、皇族の洋川公の家に立ち寄り、所蔵する書画を見せてもらい、その謝礼に画に一文を書き添えている。その訳は割愛する］
■【07-2-089】与王慶源
【解題】登州を発って間もないころに郷里にいる王淮奇［字は慶源］［→作品番号06-1-084］に宛てて出した手紙。
【訳文】
……出発に臨んで忙殺され、御返事を書くことができず、道中からお出しすることになりました。登州は下に最果ての海を臨み、枕の下に天と水が連なって、蓬萊三山もぼんやりと見えようかというところでありました。春と夏の間は常に海市が現れ、霞か雲のようなありさまのなかに建物や人物の姿が見えます。たまたま数日前に見ることができましたので、そのときの詩を記して、一笑に供しましょう。……
【補足】［内陸奥深くの郷里の人々には海の景色は珍しかろうと、『海市』の詩［→作品番号07-2-077］を特に書いて送ったのである］
■【07-2-090】与米元章
【解題】蘇軾は萊州から青州に出て、そこで米黻［字は元章］からの手紙を受け取り、ごく短い返書をしたためた。米黻は蘇軾よりも15年若く、官職には就いたものの、奇行が多く、もっぱら文人として活躍した。北宋第一の書家、ならびに北宋第一の画家、ならびに北宋第一の収集家、その三冠の王者が米黻である。蘇軾と米黻がいつ知り合ったのかは定かではないが、これより4年前の元豊4年秋に米黻は黄州を訪れていた。そのことがこの手紙に記されている。
【解題】
……私は登州から都に赴き、すでに青州に達しました。衰病の余り身で、騒がしい市場に初めて入るわけで、憂いと畏ればかりがあります。東の坡で一緒に過ごしたときの楽しさは、これからもまた得られるものなのでありましょうか。……
【補足】［権力抗争の場である都に行く不安が記されている。我々としても東の坡で作られたような詩を読みたいのであって、残念ながら次の章では、我々が期待するような蘇軾らしい作品はあまり多くを見出すことができなくなる］
■【07-2-091】真相院釈迦舎利塔銘、并叙
【解題】蘇軾は青州から、黄河に臨む町、斉州［済南］に出た。そのルートはかつて密州から都に向かったときと同じである［→作品番号05-3-003］。この文章は翌年になって書かれたものだが、斉州での出来事が記されている。
【訳文】
洞庭湖の南に阿育王塔があり、釈迦如来の舎利［骨］が分葬されている。かつて大施会が行われ、僧も俗人もその舎利に触れ、涙を流して礼拝した。そのときにある僧が三つばかりの舎利を竊み取った。桃のような色合いで、大きさは薏苡［ジュズダマ］ほどであった。これを別の場所に置いて、衆生に福をもたらそうとした。だがなかなか思う通りにできずに、舎利を方子明という者に授けた。
元豊三年、私の弟の蘇轍が高安［筠州］謫居となり、方子明はその舎利を弟に預けた。
元豊七年、私は御恩によって斉安［黄州］から臨汝［汝州］に移ることになり、高安に立ち寄ってこれを見た。
元豊八年、文登［登州］の知事に移り、さらに尚書礼部郎として召され、済南の長清真相院を過ると、僧の法泰がちょうど十三層の磚塔を造り、人も鬼神もともに仰ぎ見るように高く聳え立っていた。しかし、舎利はまだ収められてはいなかった。私は密かにこのように思った。
「弟が所有している釈迦の舎利の宝をここに置いたらどうだろうか。我が先君の文安主簿贈中大夫、諱は洵と、先夫人の武昌太君の程氏は二人とも性仁行廉で、三宝［仏教］を崇信していた。二人は亡くなる日に、それまでの思いを改めて述べ、愛するところの物を捨てて仏事をなすようにいった。人は止めようとしたが、その志は限りなく大きいものであった。さまざまなことが重なって、その遺志を遂げられないことを二十年になろうとしている。できれば前々からのことをいましようではないか」
法泰は私の思いを聞くと大いに喜び、翌年になって都にきてそれを行うことを願った。篋の中を探ると、金一両と銀六両があったので、衆人が寄付するもの合わせて、舎利を納める棺槨を具えるようにいった。
……［銘の本文は省略］……
■【07-2-092】跋王氏華厳経解
【解題】斉州の南の竜山鎮での出来事を記した短文。
【訳文】
私は済南［斉州］の竜山鎮を過ると、徴税人の宋宝国が王荊公［王安石］が著した『華厳経解』を見せてくれた。
宋宝国がいうには、
「王荊公は仏道について理解し尽くしておられるのでありましょう」
私は宋宝国に尋ねた。
「もとの『華厳経』は八十巻あります。この『解』は一巻だけです。どうしてなのでありましょうか」
宋宝国はいった。
「王荊公がいわれるには、ここにあるのが釈迦の深妙な語であって、そのほかはすべて弟子たちの語なのです」
「なるほど。では、もしも私があらゆる経典から釈迦の言葉の数句を取り出して弟子たちの語の中に置いたならば、あるいは弟子たちの語を釈迦の言葉の中に置いたならば、あなたはそれらを区別できるでしょうか」
「できません」
「あなただけができないのではなく、王荊公もできませんでしょう。私が昔、岐下［鳳翔］にいたときのことです。汧陽県の豬肉が最高にうまいと聞きまして、人を遣わして取り寄せたところ、その者は酔って、その豬を夜のうちに逃がしてしまったので、ほかの豬を自分で弁償して置いたのでした。私はそれを知らずにいて、客人たちにその肉を出したところ、皆が肉を讃え、ほかの土地のものは及ばないと言い合ったのでした。ところが、事が明らかになり、客人たちは皆が大いに恥じたのでした。いま王荊公の豬はまだ事が明らかになっていないだけなのでしょう。肉屋は肉の売買をし、歌い手は歌を唱い、それぞれに何が本物であるのか悟ることもあるでしょう。清浄な一念があるなら、壁土でも瓦礫でもどれもが無上の法［仏教の本質］を説いていることにもなるでしょう。釈迦の語の深妙は弟子たちの及ぶところではないというのは、夢の中の寝言のようなものではないでしょうか」
宋宝国はそれを聞くと、
「唯唯」
と、いった。
【補足】［この短文は、蘇軾と王安石の思考パターンの違いをよく示している。敢えて単純化すれば、王安石は演繹的で、蘇軾は帰納的である。王安石は優れた洞察力で本質を見極め、それを出発点にして壮大な思索を組み上げてゆく。その構想力をもって大改革を立案したのである。蘇軾は旺盛な探求心をもって大量の知識を蓄え、諸事象を複数の視点から縦横無下に思索してゆく。その考察力をもって大改革を批判したのである。より単純にいえば、王安石は思い込みが強すぎするし、蘇軾は何でもありになってしまう。蘇軾は金陵で直接に王安石と話したことで［→作品番号07-1-046］、自身との相違をよりはっきりと意識したのだろう。それがあったので、ここに記されているようなことを語ったのだが、王安石の信奉者と思われる宋宝国を相手に話したのは、たぶんあまりよいことではなかったのではなかろうか。蘇軾の巧みな比喩で、宋宝国は「唯唯」とうなずきはしたけれど、かなり気を悪くしたのではないだろうか。蘇軾はあけっぴろげで、人と楽しく会話しようと努めるのだが、相手によっては不快感を抱かせ、場合によっては生涯の仇敵を作ってしまうことにもなる。なお、ここまで蘇軾の詩文に親しんできた読者なら、豚肉のたとえ話はその場の思い付きで作ったのではなかろうかとの疑いを持つであろう。訳者もまた強く疑うものである］
■【07-2-093】書文与可墨竹、并叙
【解題】蘇軾は斉州からは黄河に沿って都に向かい、その途中のどこかで文同［字は与可］［→作品番号06-1-055など］の描いた墨の竹の画を見てこの詩を記した。
【訳文】
叙
亡き友の文同には四絶［非常に優れた四種の技量］があった。一は詩、二は楚辞、三は草書、四は画である。文同はかつて私にこういった。
「世の中に私を知る者はいなかった。ただ君だけが一目で私の妙所を識ってくれた」
文同が没して七年、ここでその遺した画を見て、この詩を作った。
筆は貴君とともに逝ってしまった。
いま詩を新たに作るのは誰なのか。
斤を運らした妙技の跡が空しくここ遺っている。
聴いてくれる友を喪って琴の弦を断った昔の人と同じ思いで、
私は貴君のこと偲ぶのである。
【補足】［（1）「斤を運らす妙技」については作品番号07-2-091で見たばかりである。（2）「琴の弦を断つ」とは伯牙という人の故事。親友の鐘子期が死ぬと、自分の音を知る者はもういないと、伯牙は琴を弾くことをやめてしまった。序文で、蘇軾が一目で文同の妙所を知ったと書いているが、その逆も同じことであったのだ。（3）流罪となって都を出た直後に文同の書を見て短文を書いたこと［→作品番号06-1-002］を思い起こすと、都に帰還する直前に文同の画を見てこの詩を詠んだのには不思議な巡り合わせを感じる。自分をわかってくれているわけではない人々、あるいははっきりと敵視している人々が大勢にいる都に行く蘇軾の心境をこの詩から推し量ることができるだろう。「小児の遷延」を終えたことが蘇軾に何をもたらすのか、次の章で見ることになる。（4）先に作品番号07-1-023として仏印禅師了元に宛てた手紙はこのころに出したものであろう。都へ行く不安が綴られている。（5）ある考証によれば、斉州から都に至る間に、やや脇道にそれて南京応天府で張方平に会っているようだ］
■【07-2-094】登州召還議水軍状
【解題】12月初めに、まだ都に着く前に、前登州知事として、登州における政策課題についてまとめた二通の意見書を朝廷に送っている。一つは軍備について、もう一つは塩の専売についてである。いずれも登州知事として取り組もうと考えていたことで、職務が代わったからといって放置はできないと、敢えて朝廷に提出したのである。ここでは前者を部分的に読んでおこう。塩の専売については、すでに作品番号05-1-066などで蘇軾の見解を見ていて、そこで指摘していた弊害が現実に生じているので、それへの対応を提案している。
【訳文】
元豊八年十二月某日、朝奉郎前知登州軍州事の蘇軾、書状をもって奏上いたします。右の臣は竊に思いますに、登州の地は北虜［遼国］に近く、極辺と呼ばれ、北虜の中の山川がぼんやりながらも見え、順風に帆を張れば、たちまち我が町にまで至ることができます。宋朝が始まって以来、常に重く兵を備え、水戦を習わせ、朝夕に狼煙を伝え、急報が通じるようにしてきました。毎年四月には駝基島に兵士を派遣して守らせ、八月に帰還することで不慮の事態に備えてきました。しかし、景徳年間以後は登州に駐屯する兵士は常に四五千人以下となっています。……［以下、兵士の数が減り、訓練が不足している現状を述べる］……兵力が各所に分散して弱くなっておりますことは、北虜の欲心を開くもととなるでありましょう。しかも、軍の指揮官は交替で派遣されてくるために、ほとんど水戦を習ったことがなく、武芸も廃れており、緩急を誤る恐れがあります。伏して朝廷におかれてはこのような事情を詳しく酌んで、明快な指揮を下されますように。……
【補足】［余談になるが、都に入る前のどこかでなかなかの珍事があったと伝える書物がある。かなり眉唾物ではあるが、もしも事実であれば相当程度におもしろいので見ておこう］
【訳文】
孫宗鑑：『西畬瑣録』より
蘇東坡は元豊年間に獄に繋がれ、元祐の初め［元豊の末年］に起用されて登州知事になり、すぐに礼部員外郎として都に召還された。登州から都への道の途中で、かつて獄中にあったときの獄官［獄の番人］に遇った。獄官には非常に愧じる様子があった。
蘇東坡は獄官に戯れていった。
「一匹の蛇が人を螫んで殺した。蛇は冥官［あの世の裁判官］の審理を受け、法に拠ると死刑に相当した。蛇は前に進み出て冥官に訴えた。『まことに罪はあります。しかし、某には功績もあります。その功績と合わせて罪を帳消しにしてはいただけないでしょうか』。冥官はいった。『どのような功績があるのか』。蛇はいった。『某には黄色い肝がございます。それで病気を治すことができます。すでに数人を活かしておるのでございます』。役人が調べてみると、嘘ではなかったので、蛇は死刑を免れることができた。しばらくして、一頭の牛が牽かれてきた。獄吏がいった。『この牛は人を突いて殺しました。罪は死に当たります』。牛は冥官にいった。『わたしにも黄色い肝があります。それで病を治すことができます。数人を活かすことができます』。牛も死刑を免れることができた。またしばらくして獄吏が一人の人間を引いてきていった。『この者はもっぱら人殺しをしていました。ところが、生きている間は死罪になりませんでした。いまこそこの者の命を取るべきであります』。その人は大慌てで、「おいらにも黄色い肝があります」といった。冥官は大いに怒り、問い詰めてこういった。『蛇には蛇黄、牛には牛黄があって、どちらも薬になることは天下の人が皆知るところだ。おまえは人間ではないか。黄色い肝などないのだ』。その人は困り果て、苦しまぎれにいった。『わたくしめに確かに人黄はございません。しかし、いささかの慚惶ならございます』」
【補足】［最後は、人黄と慚惶［恥じること］の地口落ちである。恥じらいがあるのなら、かろうじて赦されることもあろうかということであろう。このときに会った獄官は、かつて獄中で詠んだ詩の題に「獄吏によっていささか酷い扱いを受けた」［→作品番号05-5-094］と記していたその人であったのだろうか。蘇軾は、当意即妙のジョークを飛ばす達人で、逮捕されたときに妻に向かってひどく場違いなジョークを飛ばしたことを蘇軾自身が記しているくらいであるから［→作品番号05-5-087］、この話が事実であった可能性もないわけではない。作り話であるとしたら、蘇軾がこのようなたとえ話を即興で作る名人であると広く思われていたことが背景にあるといえるだろう。自分をひどく苦しめた相手であっても、皮肉が混じっているにして、つい笑わせてしまうようなことをするのが、大衆の思い描く蘇軾のイメージなのである］