第7章 勉強嫌いの小児のように――廬山、常州、登州
［第7章その一］
元豊7年［1084年］、蘇軾49歳。
■【07-1-001】円通禅院、先君旧游也。四月二十四日晩、至、宿焉。明日、先君忌日也。乃手写宝積献蓋頌仏一偈、以贈長老仙僊公。僊仙撫掌笑曰、昨夜夢宝蓋飛下、著処輒出火、豈此祥乎。乃作是詩。院有蜀僧宣、逮事訥長老、識先君云
【解題】検校水部員外郎汝州団練副使に量移するとの皇帝の命令を受けた蘇軾が黄州を発ち、長江沿いに南東に進んで江州［九江］の瑞昌県に至ったところまでを前の章で見た。その後の蘇軾の行動は、指定された汝州へと真直ぐに向かうのではなく、のろのろとさかんに回り道をし、あたかも「小児の遷延として学を避けるに殆ど似る」［→作品番号07-2-065］、つまり、勉強嫌いの小児がなかなか教室に行こうとしないようなものであった。
瑞昌県で陳慥［方山子］が去ると［→作品番号06-5-035］、黄州から一緒に来た友人は参寥師［道潜］だけとなった。一行は家族および馬正卿ら使用人で、合わせて20人ほどだったようだ。汝州に船で行くルートは、王斉愈宛ての手紙［→作品番号06-5-025］に自ら記していたように、長江をずっと下ってから大運河に入って北上するのだが、蘇軾は長江から離れて南に進路を取った。左手前方に廬山が現れ、山の北麓にある円通禅院に宿を取り、この詩を詠んだ。長い詩の題は次の通り。「円通禅院は先君［蘇軾の父の蘇洵］がかつて遊んだところである。四月二十四日の晩に着いてここに宿った。翌日はちょうど先君の忌日［命日］であったので、（維摩経にある）宝積が天蓋を捧げて仏を讃えた一偈を手で写し、長老の遷公に差し上げた。遷公は掌を撫ぜて笑い、『昨夜、夢に宝蓋が飛んで下り、着地したところからすぐに火が出ました。それはこのことがあるとの祥だったのでしょう』といった。それでこの詩を作った。円通禅院には長老に仕える蜀の僧の宣逮がいて、先君を識っているといった」。
【訳文】
石耳峰［廬山の高峰の一つ］のあたりの路は天に接し、
梵音堂［円通禅院にある］の上の月は泉を臨み見る。
我が人生で初めて廬山の水を飲む。
いつの日にか、禅門に入ることがあるのだろうか。
袖の内から書いたものを出そうとすると、
夢の中で天蓋が飛んで、私がくると伝えたといわれる。
しかし、ここでは私のことなど誰も知らないはずだ。
野の鶴のような気構えだけはあっても、
俗気はまるっきり抜けていない私であるのだから。
【補足】［蘇洵が廬山に遊んだのは、制科の試験に落第して放浪の旅をしていたときのことで、それは慶暦7年［1047年］、これより37年前であった。蘇洵はさらに南方の虔州まで足を伸ばしたあたりで父の蘇序が亡くなったとの報せを受け、急いで帰郷した。それからは家に籠ってひたすら学問に励み、7年後に、成都にきた張方平を訪ねて、それまでに書き溜めていた文章を見せ、ついに世に知られるに至ったのだった］
■【07-1-002】子由在筠作東軒記、或戲之為東軒長老。其婿曹煥往筠、余作一絶句送曹以戯子由。曹過廬山、出以示円通慎長老。慎欣然亦作一絶、送客出門、帰入室、趺坐化去。子由聞之、乃作二絶、一以答余、一以答慎。明年余過円通、始得其詳。乃追次慎韻
【解題】これも円通禅院で詠んだ詩で、やはり長い詩の題がある。「弟の蘇轍は筠州で『東軒記』を作ったことから、ある人が戯れに弟のことを『東軒長老』と呼んだ。東軒長老の婿殿の曹煥は、かつて筠州に行く折に黄州に立ち寄ってくれた。私は一首の絶句を作って曹煥を見送り、合せて弟への戯れの言葉とした。曹煥は（その後で）廬山を通り、円通禅院の慎長老にその詩を見せた。慎長老は欣んで一首の絶句を作った。慎長老は寺の門から出て曹煥を見送り、部屋に戻って趺坐するとそのまま化し去ってしまった［亡くなった］。弟はそのことを聞いて二首の絶句を作った。一首は私の詩に、一首は慎長老の詩に答えるものであった。翌年、私は円通禅院を訪れて初めてこうした詳細を聞いた。それで慎長老の詩に次韻した」。蘇轍の『東軒記』は作品番号06-1-112で見ていて、蘇轍のことを「東軒長老」と呼んだ「ある人」とは、むろん蘇軾自身であろう。また、光州知事の曹九章の息子の曹煥が蘇轍の娘を娶ることになり、黄州に立ち寄ってから蘇轍のいる筠州に向かったことは作品番号06-3-062で見ていた。そのときに、蘇軾はこの詩の題にあるように送別の詩を贈っていて、それがここで見る第一首である。
【訳文】
其の一［黄州で曹煥を送る詩］
君は、幾日あれば、筠州に行ってここに帰ってこられるのかな。
筠州に着いたなら、降り積もった塵や埃をすっかり掃うがよい。
君に一つの籠を贈ろう――
きっと受け取ってほしい。
何のための籠かというと、
この中に東軒長老を抛り込んで、
ただちに持って帰ってきてほしいのだ。
其の二［慎長老の詩に次韻した詩］
大士［慎長老］にはもとより生も死もない。
小儒［蘇軾］はどうしても窮［窮迫］よりは通［栄達］を求めてしまう。
たまたま大士と小儒のささやき声［贈答し合った詩］が、
千の山［廬山］の上に留まることになり、
もしかしたらそれが風に乗って、
人間世界に一万もの共鳴を生み出したりするだろうか。
■【07-1-003】与仏印
【解題】廬山は多数の山の集合体で、遠く古代から知られる名山である。景勝地も宗教施設もたくさんあって見どころが多く、現在でも有数の観光地で、巡り始めたらきりがない。円通禅院に着くより少し前に、仏印禅師了元［→作品番号06-3-039など］から手紙が届き、帰宗寺にくるよう誘われていた。それへの返事。
【訳文】
かたじけなくもお手紙を頂戴し、道体の安佳でありますことをお聞きし、はなはだ心が慰められました。廬山に遊ぼうとのお約束、もとより私の願うところであります。ただ、筠州へと道を急ぎますので、いますぐには走って参れません。またの日にお約束を果たしたいと思います。匆々に失礼いたします。
【補足】［廬山の高僧である仏印禅師了元からは、蘇軾が黄州にきた初めのころから山に遊びにくるよう誘われていた［→作品番号06-1-080］。しかし、蘇軾は円通禅院に一泊しただけで廬山を離れ、さらに南へと道を急いだ。汝州に向かう本来のルートから離れたのは、筠州にいる弟に会うためで、むろん廬山巡りより優先されるのである］
■【07-1-004】過建昌李野夫公択故居
【解題】廬山の山裾から南に進んで建昌に至ると、逆に北に向かう王適と出会った。王適は蘇轍の婿で、作品番号06-3-047などで見ているように、黄州を2度訪ねている。このとき王適は何らかの用事で筠州から旅に出たところだったようだ。建昌では、李莘［字は野夫］、李常［字は公択］の兄弟の故居を訪ね、この詩を詠んだ。李常は蘇軾の親友で［→作品番号06-4-040など］、このときは都にいて、その兄の李莘［→作品番号06-4-069］も他郷で官職に就いていたので、故郷の家には誰もいなかった。
【訳文】
ここは彭蠡湖［鄱陽湖］の東北の源にして、
廬山の西南の麓、
そして、修水のほとり――
誰がここに一対の玉［李兄弟］を生じさせたのか。
二人を想ってもいまは見ることができず、
破れた家に竹が高く伸びあがっている。
近隣の人々は互いに戒めて合ってこの土地を犯すことがなく、
十畝ばかりの広さの竹林は束ねられるばかりにぎっしりと生い茂っている。
私がここにきたのは五月の初め、
竹は籜を脱いで緑が新たになっている。
私に向かって鳥が静かに鳴き、
村の人々はここに宿をとるよう勧めてくれる。
行きつ戻りつ、去り難くしている間に、
細い月が高い木の上に掛る。
遥かに想像する――
いつの年にか、老いた兄弟はここに帰りきて、
官員の印を解き、緩い衣に着替え、二つの牀を並べる、
竹の軒端に夜の雨が鳴り、
伏して近くの寺の鐘を聴く、
窓辺では燈火が書物を照らしている……
【補足】［蘇軾にとって、牀を並べて夜の雨音を聞くこと、すなわち「夜雨対牀」は兄弟愛の象徴［→作品番号02-1-013］で、李兄弟もまたそれを理想とするであろうというのである］
■【07-1-005】与子由弟
【解題】官員としての正しい振舞い方は、肉親の情よりも皇帝の指示に従うのを重んじて直ちに汝州に行くべきであるのに、大きく迂回してまで弟に会おうとしたのは、今後の身の振り方についてどうしても弟と相談したかったからであろう。汝州は都に近く、それだけ黄州よりも危険性が高いと警戒しなければならなかった。都に召喚された滕元発がすぐにあらぬ嫌疑で告発された悪い前例もあった［→作品番号06-5-003］。蘇軾はこのころにすでにあるプランを描きつつあって、一刻も早く弟に会って意見を聞いてみたい気持ちでいたのではないだろうか。これは道の途中で弟に送ったメモ。
【訳文】
すでに奉新県に宿をとりました。旦夕のうちに会えることでしょう。
【補足】［奉新県から筠州までは数十キロである］
■【07-1-006】将至筠、先寄遅、适、遠三猶子
【解題】あとわずかで筠州というところにまでくると、蘇轍の息子の遅、适、遠がこちらに向かってきているとの知らせが入り、この詩を作って3人に寄せた。
【訳文】
露に宿り、風を食らって六百里、
明朝は南江［筠州の川］の水を馬に飲ませてやることができる。
いまから豊盈犀角［状貌の優れたさま］の諸君等に会うわけだが、
これより先に玉雪［色白の秀才］の王君に会った。
諸君等と牀を並べて連夜の語りをしたいと思っている。
きっと諸君等のことだから、星を上に戴く早朝に町を発ったのだろう。
そういえば、私は夜にこどもの虎［蘇遠の幼名は虎を意味する於菟である］を夢に見た。
きっともう立派な髧髦が両耳に垂れているのだろう。
思い出すのは、
時の移りに従って、私が古河東［河中府］へ移動となって済南［斉州］を過ったときのこと、
春がまだ動かない残雪の中で、やはり諸君等が迎えに出てきてくれた、
たくさんの酒や肉を持ってきてくれて、我が家族は大いに喜んだのだった。
それからの私はすっかり落ちぶれ、
一頭の羸馬［疲れた馬］と化し、
宿場の荷担ぎ人夫とも「おれ」「おまえ」で呼び合うありさまで、
そのような私を見て、諸君等はきっと驚くに違いない。
それでも身体は健やかなので、
窮愁の内にあるのをひたすら恥ずかしく思わずともすみそうだ。
私は諸君等の父上のために十日間ほど留まるつもりだ。
それとてぴかりと稲妻が光る間のこと、何のたのみにもならない。
だから急いで詩を作らないとならない。
ほろ酔い加減の二人の老人［蘇軾、蘇轍の兄弟］の詩は、
たぶん酒のうまさに勝るであろう。
【補足】［（1）「玉雪の王君」とあるのは王適のこと。蘇軾自身の注で、「建昌で北に行く王適に会った」と記している。（2）蘇轍の第三子の誕生を祝った詩を作品番号05-1-014で見ている。赤ん坊だった「虎」もすでに11歳になった。（3）詩の中ほどで「済南を過り」とあるのは、かつて密州知事の任を終えて次の任地［始めは河中府とされていたが、後に徐州に変更される］に向かって移動する途中で済南に立ち寄ったことを指す［→作品番号05-3-003］。そのときも蘇轍の子等が町の外にまで迎えに出てきてくれたのだった］
■【07-1-007】端午游真如、遅、适、遠従、子由在酒局
【解題】蘇軾は4月末に筠州に到着した。兄弟の久しぶりの再会であったのだが、弟はなかなかに多忙で、端午の佳節も仕事で役場に出なければならず、兄は3人の甥とともに真如寺に遊んだ。詩題にある「酒局」は、塩税や酒税の管理をする蘇轍の執務室である。
【訳文】
ひとたび弟と別れてから、
端午の節句はこれで七回を数える。
端午の節句といえば、
五色の糸を身に付け、菖蒲の根を漬けた酒を飲んで悪病をよけるのだが、
私は俗世の糸に繋がれ、心には菖蒲酒よりも苦いものがあり続けた。
今年は、馬にまたがってここにきてからは、佳節の訪れを毎日数えて待っていた。
甥たちは私がきていることを喜んで、かいがいしくご馳走を並べてくれた。
水餅――これを食べるのは蜀の風習で故郷を思い出させ、
飯筒――これを水に投げ入れるのは楚の風習で人の心の優しさを偲ばせる。
私はいった、
「ちょいとでも酔ったなら、故郷なまりがぽんぽん飛び出してしまうだろうな」
ところがその日になってみたら、
弟は官に仕える身の悲しさで、酒糟の匂いに埋もれてあっぷあっぷで、
仕方なく私は三人の甥とともに出て、古刹に禅僧を訪ねることにした。
寺にきてみたら、私の出番はなく、
禅僧とのちゃんとした議論は梁くん［蘇遅の幼名］と羅くん［蘇适の幼名］に任せ、
詩を詠む順番は虎ちゃん［＝於菟、蘇遠の幼名］に譲る。
帰ってからは、仕事にばかり精を出す弟をからかって笑い、
長く端午の節句を一緒に過ごすことができなかった憂さばらしとする。
【補足】［蘇軾は年次の経過を極めて正確に記憶している。これより前に端午の節句を弟と一緒に過ごしたのは徐州知事として赴任した直後のこと［→作品番号05-3-026］。そのとき42歳であったから、確かにこれはそれから7年後のことである］
■【07-1-008】宿資福院
【解題】筠州の近くに竜泉県があり、このときの知事は黄庭堅［→作品番号06-4-015など］の兄の黄大臨で、蘇軾は会うために竜泉を訪れた。その折に資福院に泊まってこの詩を詠んだ。
【訳文】
奥深い寺の林を、明るく月が照らし出し、
江湖［田舎］の風光がしみじみ心に入ってくる。
我が衣は爐の煙にすっかり染まり、
石の鼎では静かに茶が烹られている。
山あいの官舎の上に無数の星が光り、
この僧院は、人生の旅人の舟が宿るところ。
都ではこの夕べにも人々が国事を愁いているであろうに、
私は聖主［皇帝］の意に適う意見をいまだかつて出したことがない。
■【07-1-009】阮郎帰
【解題】この詞の制作時期は不明であるが、筠州訪問のころにどこかの寺で休息した折に詠んだとみてもよいであろうか。
【訳文】
緑槐高柳咽新蝉、［緑の槐、高い柳、初めて鳴き出した蝉］
薰風初入弦。［薫る風は古代の琴の音を奏でます］
碧紗窓下水沈煙、［碧の紗のかかる窓の下に水沈香の煙］
棋声驚昼眠。［碁石の音で昼寝から目覚めます］
微雨過、［微かな雨が通り過ぎ］
小荷翻、［小さな蓮の葉が翻り］
榴花開欲然。［榴の花が燃えるように開こうとしています］
玉盆繊手弄清泉、［ほっそりとした手で清らかな泉の水を盆に掬おうとすると］
瓊珠砕却円。［珠が蓮の葉の上で砕けて無数の円になります］
【補足】［泉の水を汲んだほっそりとした手［繊手］の持ち主は誰なのか。王朝雲であったと想像してみたい気もする。前年の冬に生まれたばかりの遯［→作品番号06-4-057］を伴っての旅はたやすいものではなかったはずで、蘇轍のもとにいた日々は少しはほっとできるものだったのではないだろうか］
■【07-1-010】別子由三首兼別遅
【解題】筠州滞在は10日間ほどで、5月8日に兄弟は別れ、蘇軾はこの詩を詠んだ。第一首と第二首を弟に、第三首を甥の蘇遅に贈った。
【訳文】
其の一
僕はわかっているんだ、
君が僕のことを念っているから、この別れを難しくしているのだと。
この別れはこれまでとは違う。
僕は風の中の楊の花――いまだに行き先は定まらないけれど、
僕は雨の中の荷の葉――決して自身が濡れてしまうことはない。
三年の間、僕等は己を磨くために何百もの書物を読んだ。
僕等を一目見るなら、二つの璧が並ぶ以上のものがきっとあるはずだ。
君は、いつまでこの地に留まっていなければならないのかと嘆くことはない。
小劫の六十倍だって風雨が過ぎ去るほどにあっという間なのだから。
【補足】［（1）最後にある「小劫」というのは不思議な計算式によって出てくるとてつもなく大きな数。（2）これまでの別れとは違うといっているのは、兄弟ともに苦難を経た結果として、人間としてより強くなった［現代のはやりの言葉でいえばレジリエンスが増した］という確かな思いがあるからなのだろう。黄州での最初の年の終わりに天慶観に49日間篭る前に秦観に宛てて書いた手紙に、「期が満ちたときには、根本から立ち直っていることでしょう。その後でまた世間の事に関わっても、事がすめば心は根本のところに返えるので、再び駄目になることはもうないでありましょう」［→作品番号06-1-103］と書いていたのを思い起こさせる］
其の二
先君［父］は昔、洛陽に住みたいと考えたことがあった。
僕はいま嵩山の麓に行こうとしている。
周公が洛陽の地を卜って都を築いたような大げさなことは考えていないけれど、
ためしに伊川のほとりに姿のよい竹林でも買ってみようかと思っている。
また、緱山には泉眼というよい泉があって、
氷の玉のような清らかな水が、
町に沿い、林を穿って流れていると聞いている。
遥かに想像するのは、
その水に照らされる茅葺の庵があり、
二人の翁がそこで向き合っているありさま、
その姿はあたかも白い鵠のようである。
【補足】［（1）兄弟の父の蘇洵は不遇の時代に各地を旅して洛陽にも行き、貧乏暮らしの身には叶わぬ夢ながらこの古都に住んでみたいと考えた。蘇軾が指定された行き先の汝州は洛陽に近いので、この詩では嵩山、伊川、緱山、泉眼といった洛陽周辺の名所の名を詠み込んでいる。（2）茅葺の庵で向き合う翁は蘇軾、蘇轍の兄弟である。「鴻のようだ」というのは、欧陽脩の最晩年［66歳］に老友の趙概［80歳］が訪れたありさまを想像して蘇軾が詠んだ詩句「二人がやりとりする清らかな句は、雪の中で鴻が鳴く声のようだ」［→作品番号04-1-026］を想起させる。（3）この詩からは、蘇軾は当然のように汝州に向かおうとしていると見えるのだが、たぶん弟には別のプランを打ち明けていたのではないだろうか。しばらく後にそれは明らかになり、「小児の遷延」が本格化する］
其の三
二人の翁が帰郷して退隠するのは難しいことではない。
ただし、そのためには、蘇の家を任せてよい子が必要だ。
憶うに、君［蘇遅］の父［蘇轍］がかつて君ぐらいであったころのこと、
筆をひとたび下すと、ぱらぱらと三千もの文字が落ちた。
世間の人はそれを聞いて、
そんな馬鹿なことがあるものかとひどく笑った。
いつか君が子を持つときには、
決して二人の翁のようであってはいけない。
車を駆って千里の道をひいひい走り回るのと、
樗櫟［使い道のない木］の大木が家の庭に堂々と聳えるのと、
いったいどちらがよいのだろうか。
■【07-1-011】初別子由至奉新作
【解題】弟と別れ、奉新県［→作品番号07-1-005］に立ち戻っての詩。時は5月半ば、夏の盛りである。
【訳文】
君が好い夢を見たら、そこに僕の手紙が到着した。
二羽の鵲が僕に先んじて飛んで、東軒［蘇轍の居所］の屋根に上がったのだ。
かくて僕等は端午の佳節を一緒に過ごした。
ひとつの喜びをいつまでも玩んではいられない。
いまここで首を回らせば、
それはもうすっかりなくなっている。
勢いよく流れる川の上に高く架かる橋――
来たとき渡った溪を僕はまた渡る。
暑い夏の空は茫茫としてどこまでも広がり、
君のいる町は藹藹として遠い彼方になった。
青い山はやるせなさの中にあり、
落ちゆく日は寂しさの外にある。
世の盛衰など、あれこれと僕の思うことではない……
離合集散だって、僕にとってさわりとなるようなものではない……
だから、僕は憂いを解くものを求める必要などないのだ。
最も肝要なことを僕はほぼ了解してしまっているのだもの。
【補足】［（1）最初の句は、作品番号07-1-005で見た手紙のことを詠んでいる。（2）別れに際して、弟はくれぐれも口を慎むよう兄にいったのだろう。弟の心配は痛いほどわかるので、この詩では敢えて、憂いもないし何もかもわかっているといってみせたのだろう］
■【07-1-012】白塔鋪歇馬
【解題】白塔鋪というところで馬を休ませて詠んだ詩。
【訳文】
前方に、甘山と廬山が向き合っている。
林の隙間から、やわらかな日の光が漏れてくる。
東の国では、晩い蚕ために桑の葉を切り出したところだろうか。
南の国では、早い稲の苗を植え移したところだろうか。
谷の水は、人が行くのに随うようにして迢迢へと急になり、
巌の花は、馬の鼻先を撃って冉冉て香りが立つ。
望み見るわが眼は、飛ぶ鳥とともに遠くへと及んで行く。
深く白雲の重なり合うところ――
ああ、わが故郷はどこであろうか。
■【07-1-013】初入廬山三首
【解題】廬山を目の前にしたなら、この機会を逃すまいと思うのが当然の心理であろう。それでも弟の蘇轍は筠州に行くことを優先して、棲賢谷を訪れただけですぐ立ち去り［→作品番号06-2-021］、蘇軾も弟に会うことを優先して円通禅院に一泊しただけだった。弟との再会を果たしたからには、皇帝に指示に従ってすみやかに汝州に向かわなければならないのだが、蘇軾は「当然の心理」に任せて、しばらく廬山に遊んだ。これは山中に入った第一印象を詠んだ詩。
【訳文】
其の一
この青い山々はもとからの知り合いではく、
偃蹇ありさまは、なかなか親しめそうにない。
廬山の面をよくよく識るなら、
後にはなつかしい友のようになるのであろうか。
【補足】［これは、筠州に行く前に廬山を見たときの印象であるのかもしれない］
其の二
昔から、清浄な心地で賞翫することを懐い、
神ばかりを、杳かな藹の間で遊ばせていた。
今やこれは夢ではない――
真実しかと廬山に在るのだ。
【補足】［これは、二度目に廬山にきたときの印象であるようだ］
其の三
芒鞋を履き、
青い竹の杖の先に百銭を引っ掛け、
深い山の中を遊ぶ。
不思議なことがあればあるもの……
東の坡で瓜を作っていたこの農夫を、
山の人々の皆が知っているのだ。
【補足】［末句において、原詩では自身のことを「故侯」と称している。「故侯」は作品番号06-1-005などで見た召平を指す。召平は秦の時代には高い位にあったが、世の混乱から逃れて一農夫となり、長安の東の農園で瓜を栽培した。召平の作った瓜は甘く、後にその名が知れ渡った。蘇軾はもとより有名人で、廬山では行く先々に待ち受ける人がいた］
■【07-1-014】書遵師詩
【解題】廬山の浄慧禅院にある温泉に遊び、この短文を書いた。ここの湯泉では硫黄泉が湧き、湯治の場となっていた。
【訳文】
湯泉に遊び、そこに書き留めてあった百余篇の詩文を覧て、遵師のこの一偈がよいと思った。
禅庭誰作石竜頭、［禅寺の庭に誰がこの石の竜の頭を作ったのか］
竜口湯泉沸不休。［竜の口から温泉が沸いて休むことがない］
直待衆生塵垢尽、［衆生はこの湯で塵や垢を流し尽くそうとするのだが］
我方清冷混常流。［私は普通の水の流れの内にあっても清冷である］
戯れに一絶句を作ってこれに応えた。
石竜有口口無根、［石の竜には口があるが、口には根がない］
自在流泉誰吐呑。［誰がその口から自在に流れる水を吐き出させているのか］
若信衆生本無垢、［もしも衆生が本来は無垢であるのなら］
此泉何処覓寒温。［この泉にしても、熱かろうが冷たかろうが構いはしないのだ］
元豊七年五月十三日。
【補足】［遵師とあるのは可遵という僧で、このときは円通禅院［→作品番号07-1-001］に退居していた。蘇軾が可遵の句を褒めたことが円通禅院に伝わると、可遵は有頂天になり、馬に乗って蘇軾の先回りをし、誇らしげに蘇軾の新しい句に唱和してみせた。それがあまりにも下手くそで大恥をかいた――きっと嘘であるに違いない話が伝わっている］
■【07-1-015】書葛道純詩後
【解題】葛格［字は道純］とともに廬山の簡寂観に遊んでこの短文を記した。葛格は筠州の人で、科挙に合格するのが遅く、短期間だけ地方官を務めた後に、このころはすでに引退していたようだ。サービス精神あふれる蘇軾は先輩格に当たる葛格を立て、筆を執ってその詩を書き残した。葛格の詩は可もなく不可もないもので、特に訳さずともよいだろう。
【訳文】
淙流絶壁散、霊煙翠洞深。巌際松風清、飄飄灑塵襟。
観蘿玩猿鳥、解組傲園林。茶果邀真侶、觴酌洽同心。
曠歳懐茲賞、行春始重尋。聊将横吹笛、一写山水音。
高安［筠州］の葛格とともに廬山の簡寂観に遊び、葛格がこの詩を誦した。これを石に刻みたいから、私に書いてほしいといった。
元豊七年五月十九日、汝州団練副使蘇軾。
■【07-1-016】跋太虚弁才廬山題名
【解題】同じ日に蘇軾は慧日院にまで行き、この短文を記した。参寥の名が再びここに登場する。蘇軾が筠州に行っている間は参寥は廬山に留まっていたようだ。
【訳文】
大覚禅師とは別れて十九年になる。大覚禅師は今は俗世間から離れ、海のほとりの雲楼［杭州の禅院］におられる。思いがけずここで大覚禅師が記されたものを見て、拳拳も巻を撫ぜて太息する。またお会いしたいと思っても、恐らくはできないであろうか。
たまたま参寥師とともに、廬山の北側から出て東に至ったところ、どこもが大覚禅師の旧跡［修行時代に過ごしたところ］であった。山中には、そのことを話してくれる大勢の人がいた。
ここ慧日院には秦観と弁才大師の題名［訪問記録］がある。その後ろにこのように記して、参寥師に示す。
秦観は今年三十六歳、参寥師は四十二歳、私は四十九歳、弁才大師は七十四歳、大覚禅師は七十六歳である。吾等五人が一緒に会えることがあるのだろうか。
生きている者は笑い、死んだ者は嘆く。
元豊七年五月十九日、慧日院で大雨の中に書く。
［（1）大覚禅師は父の蘇洵が親しくしていた懐璉という僧で［→作品番号02-1-002、04-2-052］、これより19年前とあるのは、蘇軾が都にいたときに会っていたということであろう。（2）秦観、弁才大師、参寥の三人に親交があることは作品番号06-1-081で見ている］
■【07-1-017】登楼題名
【解題】慧日院に宿泊したときの記録。蘇軾ファンにとってその廬山訪問は一大イベントであったので、細かい記録まで後世に伝えられた。
【訳文】
元豊七年五月二十三日、眉山の蘇軾は参寥禅師とともにこの楼に登って雨を観た。
■【07-1-018】世伝徐凝瀑布詩云、一条界破青山色。至為塵陋。又偽作楽天詩称美此句、有賽不得之語。楽天雖渉浅易、然豈至是哉。乃戯作一絶
【解題】蘇軾が広い廬山のどこをどのような道筋でまわったのかは必ずしも明らかではない。以下の詩文は順不同である。昔の日本人にとって、廬山で最も有名なところといえば香炉峰であった。いまも多くの高校の古文の教科書に、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ云々」という清少納言の『枕草子』の一文が載っている。これは中宮定子が清少納言の知識レベルを試そうとした問いで、清少納言はすぐに白居易［白楽天］の詩にある「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」に倣って御簾を高く上げたので、中宮定子はいたく褒めた。その香炉峰の南に大きな滝がある。蘇軾はその滝を見て、後世に残るような名句を吐いたかというと、そうではなかった。この詩の長い題は次の通り。「唐の時代に徐凝が（廬山の）瀑布を詠んだ詩が世間に伝承されている。しかし、『一条界破青山色』［一条 界破す 青山の色］の句などは全く塵陋のようなものだ。白居易がこの句をすばらしいと称え、『これには敵わない』といったとされるが、それは徐凝のでっちあげである。白居易の語は平易で浅いこともあるが、ここまでひどくなることはない。戯れに一絶句を作る」。蘇軾が酷評した徐凝の詩はいまも名作としてよく引用されている。蘇軾がここで引いたのは対句の片割れで、対句全体としては「今古長白練飛、一条界破青山色」［古から今に至るまで白練りの絹が長く飛ぶようにかかり、その一条が青い山を分け破っている］である］
【訳文】
天帝は銀河のひと流れをここに垂らした。
古からこの滝を詩に詠み得たのはただ李白だけだ。
滝の水は飛んで流れて、
その滴はいったいどれほどあるのだろうか。
それでも天帝は、
徐凝の悪詩をすっかり洗い流すのには使わなかったのだ。
【補足】［ここで蘇軾が称賛している李白の詩は以下の通りで、この詩の勢いに敵う詩は詠めないと観念し、徐凝をだしにして、この詩を踏まえて遊びの詩を作ったのだろう。ごみくず扱いされた徐凝はとんだ迷惑であったろう］
日照香爐生紫煙、［日が香炉峰を照らし、紫の煙が生じる］
遙看瀑布掛前川。［遥かに看るのは、前の川に掛かる瀑布］
飛流直下三千尺、［飛んで流れて直ちに下るは三千尺］
疑是銀河落九天。［あるいは銀河が九天［天のまた上］から落ちてきたのだろうか］
■【07-1-019】書司空図詩
【解題】五老峰の白鶴院に遊び、それから数年後にこの文章を記した。
【訳文】
司空図が己の詩を論じて、世の味わいの外の味わいを得たと考えた句がある。その中でも最もよいのがこれであろう。
緑樹連村暗、［緑の木々が村の暗がりへと連なり］
黄花入麦稀。［黄色い花はまだ稀にしか麦に入っていない］
また、この句もよい。
棋声花院静、［碁の音だけがして、花園は静まりかえり］
幡影石壇高。［石段の上高くに旗の影がある］
私はかつて五老峰に遊んで白鶴院に入ったところ、松の陰が庭に満ち、人は一人も見えなかった。ただ、碁を打つ音だけが聞こえていた。その後、この句が工であることを知った。ただ残念なのは、寒々しくていかにも僧が詠んだかのようであることだ。
杜甫の次の句は、才力が富健で、司空図などからは遠く離れている。
暗飛蛍自照、［暗がりを飛ぶ蛍は自らを照らし］
水宿鳥相呼。［水に宿る鳥は互いに呼び合っている］
四更山吐月、［真夜中過ぎに山は月を吐き］
残夜水明楼。［夜の残りに水が楼閣を明るく照らす］
【補足】［（1）司空図は唐朝の末期の困難な時代を生きた人。晩年は、当時の政治情勢に絶望して退隠し、唐の最後の皇帝が殺害されたと聞くと、絶食して命を絶った。ここに引用されている句は、司空図の詩集に残るのとは若干の字句の違いがある。（2）白鶴院で碁を打つ音を聞いたことは、さらに後にまた文章に書き残す。それは第12章で見ることになる］
■【07-1-020】廬山二勝、并叙
【解題】廬山で特に印象の強かった二カ所について詩を詠んだ。短い序文がある。
【訳文】
叙
私は廬山に遊び、南に北に歩いて十五、六の奇勝を得た。ほとんど言葉で記述できないほどのものばかりで、しかもものぐさであるために詩を作らなかった。ただ最も優れたところを選んで二首の詩を作った。
其一 開先禅院の漱玉亭
高い巖に赤い日が下ると、
深い谷に悲しげな風がやってくる。
天帝は青玉峡を押し開き、
二匹の白い竜［滝］を飛び出させた。
水しぶきが乱れ飛んで霜や雪を散らし、
神さびた滝壺の中で大空が揺れる。
溢れた水は声も立てずに滑らかに流れ、
二つの岩に挟まれた谷へと瀉がれる。
私はここに来たまま立ち去ることができずにいると、
吊り橋の東に月が昇り、
漱玉亭が蕩蕩な白銀の輝きを発し、
沈沈なかで水精の宮殿に化す。
そうだ、琴高先生［琴の名手であった古の仙人］に随って、
赤い鯉にまたがって水の世界に消え去ってしまおうではないか。
蓮の葉を手に取り、ふわりと跳んで、清らかな滝壺に飛び込むのだ。
其の二 棲賢谷の三峡橋
私は聞いている、
泰山の尖った岩は、
日々に糸のような細い流れによって穿たれたものであると。
今ここに見るのは、
百の雷が一度に落ちるような音を立てて、
万世にわたって滝が岩と闘ってきた結果である。
深さは地の底を九回も突き抜け、
険しさはかの三峡［長江の大峡谷］をも凌ぐであろう。
とこしえに尽きることのない溪川は、
底なしの竇を満たそうとし続けている。
跳び跳ねる波は潜む魚を空に翻らせ、
どよめく響きは飛ぶ猿をも落としてしまう。
ぞっとする寒さは山の骨髄にまで入り込み、
草も木もことごとく堅く尖っている。
煙る靄が空濛として立ち込めるなか、
澒洞として音楽を奏するような音も聞こえる。
彼方に、吊り橋が彎彎として垂れ下がり、
半月が瀲瀲として弓を張った形で昇ってくる。
玉淵潭は神竜のすまいに近く、
晴れた昼にも雹が乱れ飛ぶ。
そこに瓶を垂れて清く甘い水を汲もう。
それは呑むべきであって、
隠者を気取って口を漱ぐべきではない――
ここは私などがいてよい場所ではないのだから。
【補足】［この2首は杜甫や韓愈の詩を踏まえて、天下の絶勝を詠んだ雄篇とされるが、難解な語句が容赦なく連射され、現代のわれわれにとってはあまり興趣を誘うものではない。この訳文は、その難解さを8割方削ってひどく薄味にしている］
■【07-1-021】題西林壁
【解題】蘇軾が廬山で詠んだ傑作として最も知られているのがこの詩。西林寺の壁に書いた。
【訳文】
橫から看るなら嶺［山の連なり］を成し、
側面からなら峰［ひとつのピーク］を成す。
遠近も高低もおのおの同じではない。
廬山の真面目［真のありさま］を識らずにいるのは、
ただこの身がこの山中にあるからだ。
【補足】［（1）蘇軾がここで詠んだ「廬山の真面目を識らずにいるのは、ただこの身がこの山中にあるからだ］は、物事の渦中にある人にはかえって問題の本質が見えないという意味の成句として、現代の中国においてもよく使われている。（2）この詩を読むと、かつて杭州で詠んだ「朝方には呉山が横に並ぶのを見て、夕方には呉山が縦に並ぶのを見る」という句が想起される［→作品番号04-2-004］。蘇軾は常に物事をさまざまな角度から相対的に見ているのである。（3）廬山を巡り始めたときに「廬山の面をよくよく識るなら」と詠んだ句［→作品番号07-1-013］と合わせて見ると、いっそう興趣が湧くであろう。（3）なお、この詩は蘇軾の詩のアンソロジーには必ず引かれるので、伝統的な読み下し文も添えておこう］
橫看成嶺側成峰、［橫ざまに看れば嶺を成し、側ざまには峰を成す］
遠近高低総不同。［遠近高低 総べて同じからず］
不識廬山真面目、［廬山の真面目を識らざるは］
只縁身在此山中。［只だ身の此の山中に在るに縁る］
■【07-1-022】贈東林総長老
【解題】廬山には西林寺と東林寺があり、晋の時代の高僧慧遠は廬山に入って初めに西林寺に住み、後に東林寺に移ってからは二度と山を出なかったという。慧遠が入山したことで、廬山は中国仏教の一大聖地となった。これは東林寺の長老の常総に贈った詩。
【訳文】
溪の声はすなわち広長舌［仏陀の説法］、
山の色は仏法を得た清浄身に他ならない。
夜の間に私は八万四千の偈［真理］を聞いた。
いつの日にかこのことを人に挙げ示すことがあるだろうか。
【補足】［「八万四千の偈」を長老から教わったのではない。渓の音、山の色から得たのである。そのことは誰にも示すことができない［言葉では伝えられない］のである］
■【07-1-023】与仏印
【解題】弟のところへと急ぐのでいまはまだ行けないと手紙を出していた仏印禅師了元［→作品番号07-1-003］には当然ながら廬山滞在中に会っている。ただ、そのときに記した詩文の類は残っていない。これは翌年に仏印に送った手紙。
【訳文】
年を経て法音［仏印の教え］をお聞きしていないために、経術は廃れてしまい、もはや鍛え直しようがないまでになっております。かたじけなくもお手紙を頂戴し、少しばかり俗臭が洗われたような気がいたします。ここのところお健やかにお過ごしの旨、審らかにいたしました。私は二年にわたって水陸万里の旅を続け、このところは疲れ、日々老病に迫られ、まして都では他所よりも十倍のごたごたがありますから、畏れずにはいられません。去年のように谷川のほとりで、八万四千偈をお聞きすることが果たしてまたあるのでしょうか。遥か南に山門を望み見ようとして、手紙に向かって凄然としてしまいます。寒さ厳し折から、御自愛くださいませ。
【補足】［（1）上の詩で見た「八万四千偈」の語をここでも使っている。廬山滞在中に仏印禅師とじっくり語り合う機会を得たのである。（2）この手紙は、翌年の終わりに、いよいよ「小児の遷延」を終えて都に向かいつつあったときに書いたもので、時間順でいうと本章の終わりに置くべきものである］
■【07-1-024】書李公択白石山房
【解題】蘇軾は筠州に行く途中で李常の故郷の家を訪ねたが［→作品番号07-1-004］、廬山には李常が若いときに籠って勉学に励んだ山房［白石庵］があり、そこを訪ねてこの詩を詠んだ。李常の山房についてはすでに蘇軾が記した『李氏山房蔵書記』を見ている［→作品番号05-2-036］。それは李常の依頼を受けて書いたもので、ここで初めて実地に山房を見たのである。
【訳文】
たまたま流水を尋ねて険しい坂を登ると、
蒼い五老峰が笑い顔を見せてくれる。
もしも、仙人に出会ったら、
貴君［李常］への伝言を頼みたいものだ。
「廬山の先生よ、
もう頭の上が白いのだから、
早くここに帰ってきたらよくはないかい」
【補足】［『李氏山房蔵書記』に書かれていたように、李常の白石庵は、蔵書九千巻とともに昔通りに残されていた］
■【07-1-025】同年程筠徳林求先墳
【解題】廬山を出たのは5月末ないし6月初めだった。山の北麓から長江を目指し、その途中で程筠［字は徳林］を尋ねた。程筠は同じ年に科挙に合格したいわゆる「同年」の間柄で、改革を批判したために官界では不遇であったようで、このときは帰郷して父の喪に服していたのだろう。先祖の眠る墓所に建てた思成堂と帰真亭のそれぞれについて蘇軾は程筠の依頼で詩を詠んだ。
【訳文】
其の一 思成堂
墓所を囲む樹木は山へと連なり、
道端を照らすようにして、
先祖を祀る祠堂［思成堂］が建っている。
ここの松は大切に養われ、鹿が触れることもなく、
祭祀のときには、鳥までも手伝いにくるほど馴れている。
貴君が郷里を夢に見たのは、
ここで祭祀が行われる寒食よりも必ず前で、
貴君は小児の真似をして老いた両親を喜ばせるのだった。
このあたり一帯は、貴君の先祖からの家風に感化され、
道に酔った老人がいれば、人々が競って助ける、
そのようなよきありさまが、
遠く離れていても、想見できるのであった。
其の二 帰真亭
昔の人［孔子］は、
桓司馬が自分自身のために立派な石の棺を用意しておこうとして、
三年かかっても完成しないのを笑った。
今の人［程筠］は、
自然の石をそのまま墓標とした鄭大夫を師としている。
貴君は父祖が亡くなってから悲しみの内にあり、
歳月の流れ徂くのさえ知らずにいる。
楸や梧が空しく老木となりゆく下で、
父祖を祀る礼法を昔のままに守り、
畦道の名も父祖が名付けたままに用いている。
梢の先に見えるあの石碑のもとに行き、
貴君が記した千字の文を読むとしよう。
【補足】［（1）生前に立派な石の棺を用意しておこうとして三年経っても完成しなかった桓魋のことは作品番号05-5-009で見ている。（2）「千字の文」とは父祖の事績を記した文章である］
■【07-1-026】陶驥子駿佚老堂二首
【解題】陶淵明は廬山の北、尋陽［江州］の人であった。蘇軾は尋陽に行き、その地に住む同姓の陶驥［字は子駿］のもとを訪れ、この詩を詠んだ。陶驥は佚老堂を建て、退隠生活を送っていた。
【訳文】
其の一
後漢の時代に孔融と李膺が初めて会ったとき、
「我等は孔子［孔丘］と老子［李耳］以来、先祖代々の旧い馴染みでありますな」といった。
まして、私は陶淵明を師と仰ぎ、先生はその子孫である。
先生はまさしく陶淵明その人――
わずかな俸禄のために我が身を縛られまいと、
官職に留まって歳月をいたずらに過ごすことをしなかった。
私は『帰去来の歌』を歌う――
陶淵明は千載を隔てたまことの尚友［偉大な古人の友］である。
これまでは書物の中でのみ師と会ってきた、
それはこうして先生と酒を酌み交わすのにはとても及ばない。
先生はお酔いになられたので、私はひとまず帰るけれども、
明朝また来ることをお許しくださるであろうか。
【補足】［（1）後漢時代の有名な賢者である孔融と李膺は、孔子［孔丘］が老子［李耳］の弟子であったとの伝説に基づいて、我等［孔氏と李氏］は遠い先祖からの師弟関係にあるといった。（2）この詩にいう『帰去来の歌』とは、陶淵明の『帰去来兮の辞』を音楽に合わせて歌えるように蘇軾が作った『哨遍』の詞である［→作品番号06-3-042］。（3）この詩の終わりで、陶驥が酔ったようだから帰りますといったのは、陶淵明の詩に、「わしは酔ったので君は帰りなさい」という句があるのを踏まえている］
其の二
私は廬山を出たときに、
山に向かって飛ぶ一つの雲を見送った。
すると、道でぱったり陸道士に出逢い、
これは千年前の人であると知った、
陸道士がこのようなことをいったからだ。
「あのころの友はいなくなってしまいましたなあ。
なつかしい虎溪も塵のように消え去りました。
ただ佚老堂には幾世を隔てた子孫がいます。
陶淵明のように五字の詩をよく作り、
頭には酒を漉すための頭巾を載せています」
世間の人は先生のことを「小靖節」［靖節は陶淵明の諡］と呼んでいるけれど、
先生自身は「葛天氏の民」［葛天は上古の帝］と号している。
【補足】［この詩は慧遠［→作品番号07-1-022］の有名な故事を踏まえて作られている。慧遠は東林寺に籠って仏道を修め、寺の前の川、虎渓にかかる橋を越えることがなかった。ところが、友人の陶淵明と陸修静が訪ねてきたときには、話に夢中になっていつの間にか虎渓の橋を渡ってしまい、3人で大笑いをした。これを「虎渓三笑」という。廬山から尋陽にくる間にたまたま陸姓の道士に会ったのをおもしろくこの詩に詠み込んだのである］
■【07-1-027】和李太白、并叙
【解題】尋陽［江州］で道教の寺院を訪れ、この詩を詠んだ。序文がある。
【訳文】
叙
李白に『尋陽の紫極宮で秋に感じる』という題の詩がある。紫極宮はいまの天慶観である。天慶観の道士の胡洞微は、李白のその詩を刻んだ石を見せてくれた。胡洞微の師の卓玘が刻んだものである。卓玘はすでに亡くなり、道術に優れ、節義は人を超えるものがあった。李白の詩に「四十九年非、一往不可復」［四十九年は間違っていた、ひとたび往って復することはない］とある。私もまた四十九歳である。このことに感じて李白の詩に次韻する。
胡洞微は玉芝を植えて育てている。玉芝は一名瓊田草という。植えて七八年になり、「さらに数年も育てれば食べられるようになりましょう」といって私に贈ってくれた。そのことも合わせて書いておく。
【補足】［李白の詩にある「四十九年は間違っていた」の句は孔子と同じ時代の蘧伯玉の言葉を踏まえたもので、作品番号06-5-006でも見ている］
天慶観の虚寂堂に身を寄せて臥す。
月の明りがまばらな竹を浸し、
冷や冷やと我が心を洗う。
我が身の内に月の光をおさめたくて、
それを飲もうとしたけれど、手に掬えない。
流れる光に永く嘆息するのは、
私一人だけではなく、昔からのことだ。
四十九歳だった李白が、
この北向きの窓の宿へと、
私に化してまた還って来たのか。
緬に懷うのは卓道人［卓玘］、
医者や易者の間にあって［仙人であることを隠して］老いたのだろう。
仙界から謫せられたという李白はさらに遠くの人、
もとよりまた来ることなどはない。
世間は碁のようなものか、
変化を極めて同じ局面がまた現れることはない。
ただ玉芝はきっと老成し、
待てば蟠桃［仙界の桃］も熟すであろう。
【補足】［（1）昔の人の詩にも次韻するのは、次韻の達人である蘇軾が始めたことであるらしく、後に陶淵明の詩に和したものを多数見ることになる。李白の詩に和したこの詩は次韻の通弊として、もとの韻の位置に制約されてややごたごたした構成になっている。陶淵明の詩に和したものは、次韻の詩であることを全く意識させないほどに完成度が高い。（2）この詩にある「世間は碁のようなもの」［世道は弈棋の如し］とあるのは、碁のファンにはおもしろく感じられるであろう。（3）蘇軾はこの後、慈湖の近くの山に遊んで、数本の石菖蒲を採取した。それを鉢に植えて舟に持ち帰り、まわりにきれいな石を並べたりしてしばらく楽しんでいたのだが、これからの旅路に耐えられないだろうと考え、天慶観の胡洞微に預けることにし、その際に一文を書き添えている。それは石菖蒲について蘊蓄を傾けた文章で、訳者には理解が及ばないので割愛する］
■【07-1-028】次韻道潜留別
【解題】黄州を一緒に発った「異人」たちで最後まで一緒だった参寥［道潜］とも長江のほとりで別れた。そのときに参寥が詠んだ詩に次韻した。
【訳文】
廬山に真の隠者が大勢いると貴僧から聞き、
私は高人に就いて俗世間との縁を断とうとした……。
喜ばしく思うのは、
禅の心を得た貴僧には、別れの言葉などはないということ。
それでいながら、
詩作にあまりにも打ち込んで髪がまばらになってしまった昔の人のことを、
貴僧は剃髪していながらなぜか気にしている。
疑うことがないのは、儒、道、仏の三教も実は一つであるということ。
我も物もついには無に還るのである。
私はこれより汝州に行く――
いつか北に開く窓を開けて、
貴僧とともに嵩山の三十六青山を見るであろう。
【補足】［（1）「儒、道、仏の三教も実は一つ」の原文は「異同更莫疑三語」［異同 更に三語を疑う莫し］で、三教は根本において同一であるとした議論は疑う余地がないということをいっている。欧陽脩や蘇軾が文章の規範として仰いだ韓愈は、衰微してしまっていた儒学のルネサンスを目指して特に仏教を排撃したので、この点では考え方が非常に違っていた。宋代は三教の融合を特徴とする時代であった。（2）参寥との間で交わされる詩は、仏教の専門語を多用していつも難解である。この詩も、新しい赴任地である汝州で再会しようと詠んだ終わりの部分以外は、見当はずれの訳である恐れが大である。嵩山は古来有名な名山で、洛陽と汝州の間にある］
■【07-1-029】石鐘山記
【解題】廬山の東側には巨大な鄱陽湖［古くは彭蠡沢といった］がある。蘇軾は九江から長江を少し下り、その支流を南に遡って鄱陽湖のとば口まで行った。鄱陽湖を訪れたのは珍しい風光を見るためだけではなかった。蘇軾が湖州で逮捕されてからずっと近くで支えてきていた長男の蘇邁は、徳興県に赴任することが決まっていて［→作品番号06-4-092］、蘇邁はこれより鄱陽湖の水域を百キロほど渡り、さらに山中を百キロほど進んで徳興に行くのであった。父子の別れは6月9日で、その折に蘇軾はこの文章を記した。
【訳文】
『水経』［河川について記した漢代の地理書］にこう書いてある。
「彭蠡［鄱陽湖］の口に石鐘山がある」
（『水経』に注を付けた）酈道元はこれについてこう書いている。
「下に深い潭を臨み、微かな風が浪を鼓すと、水と石が搏ちあい、洪鐘のような声がする」［だから「石鐘」の名がある］
この説を人々はずっと疑ってきた。鐘や磬［打楽器の一種］を水中に置いて、たとえ強い風が大きな浪を起こしたところで、鳴らすことなどできない。まして石がどうして鳴るのか。
唐代に至って李渤はこの歴史的遺跡を訪れ、潭の上で二つの石を得た。扣いてその音を聆くと、南の石の声は函胡［と濁り］、北の石の音は清越［と澄み］、桴が止まっても響きが騰がり、余韻がしばらく続いてから歇んだ。李渤はこれでわかったぞと思った。
しかし、この説を私は最も疑う。鏗然と声を立てる石ならどこにだってある。ここだけが「鐘」をその名としているのはどうしてなのだろうか。
元豊七年六月丁丑［九日］。私は斉安［黄州］から舟で発ち、臨汝［汝州］に適いつつあった。長男の邁が饒州の徳興県の尉として赴任することになったので、送って湖の口に至った。そこでいわゆる「石鐘」とされているものを観た。寺の僧や小童が斧を持ち、そこらに乱れ散る石の間から一つ二つを選んで扣くと、硿硿と鳴った。私は笑って、もとより（それが石鐘のいわれのもとであることを）信じなかった。
その夜、月が明るく、私は邁と二人だけで小舟に乗り、絶壁の下に至った。大きな岩が側き立つこと千尺、猛獣か奇鬼のようで、森然として人を搏たんばかりであった。山の上に鶻が棲み、人の声を聞いて驚き起ち、磔磔と雲の間に鳴いた。老人が山の中で欬をし笑っているような声がし、ある者［船頭］が「あれは鸛鶴です」といった。
私は心が動揺し、還ろうとした。すると、水上に大きな声が生じた。噌吰と鐘や太鼓のように鳴りやまない。船頭は大いに恐れた。徐ろに観察すると、山の下にはどこも岩の穴罅があり、その深さはわからない。微波が穴に入ると、涵澹澎湃として音を立てるのであった。
舟が回わって二つの山の間に至り、入り江に入ろうとすると、流れの間に大きな岩があった。その上に百人が座れるほどで、中はがらんどうで、たくさんの竅があり、風や水が呑まれたり吐かれたりするたびに、窾坎鏜鞳という声がした。これが先の噌吰と応じて音楽のようになるのであった。
私は笑って邁にいった。
「おまえに識るかい。噌吰というのは周の景王が造らせた無射の鐘の音と同じなのだ。窾鞳というのは晋の魏献子が賜った歌鐘の音と同じなのだ。古の人が『石鐘』といったのはまさに正しかったのだ」
この目で見てこの耳に聞くことをしないで、ある事柄をあるとかないとか臆断するのはよろしくない。酈道元が見聞きしたのは私とほとんど同じであったのだろう。ただしその記述が詳細ではなかった。世間の士大夫は夜に絶壁の下に小舟を止めるということをしなかったので、きちんとしたことを知ることがなかった。猟師や船頭は知ってはいても、それを世間に対していうことがない。それで世に真相が伝えられなかったのである。陋な者が斧でもって石を撃って音を立て、その事実を得たと思い込んでいたのだった。だから私はここにこのことを記した。
つまるところ、酈道元の記述が簡潔でありすぎたのを残念に思い、李渤の陋なのを笑うのである。
【補足】［蘇軾は蘇邁を見送るとともに、『水経』に書かれていることの真偽を確かめるために鄱陽湖を訪れたのである］
■【07-1-030】邁硯銘
【解題】蘇軾は蘇邁との別れに硯を与え、この銘を記した。
【訳文】
この硯を使って道を学ぶときには、常に渇き切った者のようであれ。
この硯を使って事に向かって進むときには、常に畏れをもつように。
この硯を使って財を治めるときには、常に人のことを思え。
この硯を使って裁きの文章を書く時には、常に生の大切さを思え。
■【07-1-031】評文選四首
【解題】長男の蘇邁と別れた蘇軾は、長江に戻って東へと下り、その船の中で、『文選』を読んで四篇の感想を記した。『文選』は南北朝時代に編集され、その時代までの主要な文学作品を収めた非常に価値ある書物として長く尊ばれ、日本でも奈良、平安時代の貴族の必読書とされた。しかし、蘇軾の評価はあまり高くなかった。四篇のうち、「『文選』から不適切なものを取り去るべし」［文選去取失当］の一篇を訳す。
【訳文】
舟の中で『文選』を読んでいる。残念なことに、その編集は無定見で、取捨選択がまるで当を得ていない。（南朝の）斉朝、梁朝の文章は衰えてだらしなく、（『文選』の編者の）蕭統［昭明太子］の文はひどく冴えない。『文選』の序文を見るがよい、李陵の文章や蘇武の五言詩は偽物であるのに、その見分けすらつかないのだ。いま陶淵明の詩集を見ると、喜ぶべきものが非常にたくさんある。しかし、『文選』には数首しか取られていない。そのことだけからしても、ほかの人の作品で漏れたものが非常に多いことがわかる。『文選』に収められている陶淵明作の『閑情賦』は、『詩経』の「国風」の詩が「好色であるが淫らではない」と評された通りのもので、『詩経』の中でも本当に立派な「周南」の詩には及ばないのである。屈原や宋玉の辞は「周南」の類であるのに、蕭統はそれをけなしている。子供が無理に知ったかぶりをして偉そうなことを言っているだけなのだ。
元豊七年六月十一日記す。
【補足】［（1）『文選』の序文をけちょんけちょんに叩いて痛快である。『文選』に収録されている李陵の文章や蘇武の詩は後人のでっちあげであることは定説になっているし、『文選』に収められている『閑情賦』は陶淵明の作品でも特に出来の悪いものだ。蘇軾のこの感想は現代のわれわれの感覚にほぼ合致し、『文選』はあまり興趣を誘わない退屈なアンソロジーである。（2）『詩経』について述べているのは作品番号06-4-073を参照。『文選』は本物を選び損なっているというのである。なお、蕭統のために少しだけ弁護しておくと、韓愈以前と以後とで文学観が大きく変わり、なおかつ我々は西洋の影響を受けて文学観がさらに大きく変わったために、『文選』が面白く読めなくなったのである。蕭統が『文選』で提示した文学観は数百年にわたって中国のみならず日本にも大きな影響を与えた］
■【07-1-032】書李白集
【解題】船で長江を下ること数十キロで彭沢に至る。彭沢は陶淵明が最後に官職に就いていた地であるが、蘇軾はそのことには触れず、李白の詩にまつわるこの短文を記している。
【訳文】
いま李白の詩集にある『帰来乎』、『笑矣乎』、『贈懐素草書』など数詩は決して李白の作ではない。きっと唐末五代のころの貫休、斉己といった連中の詩であろう。
私はかつて富陽の国清院で李白の詩とされるものを見たが、極めて平凡な作であった。近ごろ、彭沢の唐興院を過り、また李白の詩を見たが、これも李白の作ではない。
李白はもとより豪俊で語句をあまり選択しないので、詩集のなかに往々にして瞬時に思い付いた句がある。それで、妄庸な輩が偽物を選んで詩集に入れてしまうようなことにもなるのだ。杜甫の詩であれば、誰も間違えて選んだりはしない。
【補足】［（1）蘇軾はここで数篇の詩を偽物だと断じている。しかし、その説は受け入れられていないようだ。蘇軾は自分の見識眼に相当に自信があったのだがときには間違えることもある。（2）富陽の国清院に立ち寄ったのは杭州副知事のときであった］
■【07-1-033】与王文玉
【解題】彭沢から長江をさらに百キロほど下ると池州に至る。池州知事の王琦［字は文玉］に会い、ともに蕭丞相楼に昇り、作品番号06-1-051で見た文章を記した。これはその後で王琦に送った手紙。
【訳文】
……お召しを受けて、敢えて参らぬことはないのですが、突然、ひどい瘡癤が起こり、長く座っていることができず、食事を用意させて、渡し場に船を泊めて横たわっております。山婦［妻の王閏之のこと］を煩わしてよい薬を調合してもらっています。……
【補足】［瘡癤は何かのできものであるのだろう。この手紙を受けて、王琦は蘇軾の看病をする人を派遣している］
■【07-1-034】天石硯銘
【解題】腫れ物を患いながらも蘇軾は船を進め、蕪湖に至ると持ち前のサービス精神を発揮して、東承天院の蘊湘のために筆を揮った。その経緯は作品番号06-3-052ですでに見ている。その後、当塗に至る船中でこの文章を記した。これは作品番号01-2-007として先に掲げたものであるが、もう一度ここで見ておこう。
【訳文】
私が十二歳のときのこと、（眉山県の）紗縠行にあった宅地の隅で、子供等と地面に穴を掘って遊んでいたところ、珍しい石が出てきた。魚のような形で、表面がつやつやで、浅い碧色であった。表も裏も細かくきらきら光り、叩くとかんかんと音がした。試しに硯として使ってみると、うまく墨がすれて、水が貯まって残ることはなかった。
父は、
「これは天が生んだ硯である。硯としての徳が具わっていて、ただ形が十分ではないのだ」
と言って、私にくれて、
「これは、そなたの文字［文学ないし学問全般］が進む祥であろう」
と言った。
私はこれを宝として使い、この銘を作った。
父上の言葉をいただき、
それに違えるようなことはしない。
徳を主とし、
あるものは形も完全である。
徳と形と、
どちらを取るのを願うのか。
形にとらわれてへつらう、
世間にはそういう例も多い。
元豊二年［1079年］秋七月、私は罪を得て獄に下され、流されて家族は離れ離れに、書物は散り散りに乱れた。翌年に黄州に至ってからこの硯を探したところ、見つからなかった。それでなくなってしまったのだと思った。元豊七年［1084年］七月、（罪を赦されて黄州を離れて）舟で進んで当塗に至り、書物を収めてある箱を開くと、忽然とこの硯がまた出てきた。甚だ喜び、息子の迨と過に渡した。硯を入れてあった匣はあまり工なものではないけれど、父上が手ずから硯を受けるところを刻み、職人に仕上げさせたものであるから、これはほかのものと換えてはならない。
■【07-1-035】郭祥正家、酔画竹石壁上、郭作詩為謝、且遺二古銅剣
【解題】当塗での詩。題は「郭祥正［字は功夫］の家で酔い、石壁の上に竹を画いた。郭祥正はその謝礼として詩を作り、二振りの古い銅剣を贈ってくれた」。郭祥正は官界の先輩で、このころは政界から引退していた。
【訳文】
酒を得ると、
空っぽだった我が腸に、何やら植物の生気が生じ、
肝臓や肺臓から、もぞもぞと竹が伸び始める。
林を作らんばかりの勢いとなり、
もはや止めようがなく、
貴君の家の、雪のように白い壁に向かって、
ばっと吐き出す。
普段から私は詩を好むだけでなく、
画も好んで、塀や壁を汚したりしてしまうので、
いつも罵られてばかりいる。
怒られなければそれだけで十分にお釣りがくるのに、
謝礼までくださったりするのは、世間に貴君のほかにいない。
ふたふりの銅剣は秋の水の光を発し、
貴君の二首の新詩は切っ先の鋭さをその剣と争う。
いま剣は我が傍らに置かれ、詩は我が手の内にある。
さてさて、竜のように吼えるのは、
銅剣であろうか、詩を吟唱する貴君であろうか。
【補足】［この詩からは郭祥正となかなか楽しく過ごしたと知れるのだが、蘇軾は実は郭祥正をひどく怒らせてしまったということが陸游の紀行文『入蜀記』［→作品番号06-5-026］に記されているので見ておこう］
【訳文】
陸游：『入蜀記』巻二より
李白の詩集に『姑熟十詠』という作品がある。私の一族の伯父である陸彦遠がかつてこのようなことをいっていた。
東坡が黄州から帰還して当塗を過ったときに、（石に刻まれていたその詩を姑孰堂で）読むと、手を打って大きく笑っていった。
「ひどい贋作です。李白がこのような語を吐くはずがありません」
それに対して郭祥正は、李白の真作であると強く主張した。
すると、東坡はまた笑って、
「もしかすると、李白の生まれ変わりが作ったのでありましょうかな」
といった。
それで郭祥正はすっかり怒ってしまった。
郭祥正はまだ少年だったころから特に詩に優れ、諸先輩から一目置かれて、李白の生まれ変わりだといわれ、郭祥正はそれを自負していたのだった。東坡はそのことで戯れたのである。
【補足】［（1）蘇軾の諧謔好きは、このように人を怒らせてしまうこともあった。郭祥正の顔色が変わったのを蘇軾は見てとると、その詫びとして竹の画を描き、さらに和解のしるしとして郭祥正が銅剣を贈ったという順序であるのなら、まるくおさまったことになる。（2）なお、『姑熟十詠』が偽物だと論じる蘇軾の文章が残っているが、郭祥正を怒らせたということは書かれていない］
■【07-1-036】竜尾硯歌、并引
【解題】当塗では方彦徳にも会い、この詩を作った。序文がある。方彦徳は上で見た郭祥正の友人である。
【訳文】
引［序文］
私はかつて『鳳咮石の硯の銘』を作った。そこに、「私は鳳咮の硯を一目見て、竜尾の硯も、この硯の前にあっては牛尾になってしまうと、恥ずかしがるであろう」［蘇子一見名鳳咮、坐令竜尾羞牛後］と記した。後に歙州の硯を求めたところ、歙の人から、「あなたには鳳咮の硯があるではありませんか。その上何をお求めになるおつもりなのですか」といわれてしまった。きっと鳳咮の硯を褒めたのが気にさわったのだろう。
方彦徳は竜尾の大きな硯を持っている。非常に優れたものだ。方彦徳は、「詩を作って前言を撤回するなら、この硯をさしあげましょう」といった。そこでこの詩を作った。
【補足】［いくつもの固有名詞があってかなりごちゃごちゃしているので整理しておこう。歙州の硯［歙州硯］は天下に知られる名品である。歙州硯の一つに竜尾山の石で作られる硯がある。その竜尾の硯よりも、別の産地の硯の方が優れていると書いたのが、『鳳咮石の硯の銘』である。その銘には、「竜尾」と「牛尾」［原文は「牛後」。すなわち「鶏口となるとも牛後となるなかれ」の「牛後」］をかけたかなり皮肉なジョークがあった。それは歙州硯を愛する者にとっては笑ってすますわけにはいかないものだったのだろう。なお、鳳咮石の硯については次の項で詳しく見ることにする］
黄色い玉も透明な琥珀も、
天はそれを出し惜しんだりしない。
天が恐れるのは、
凡夫が貪って死んでも手放すまいとすることだ。
竜尾は単なる石材ではない。
それには玉の徳と金の声が宿っている。
その徳と声から天が石を作ったのはいつだったのか。
人が初めてその石から硯を作ろうとしても石は嫌がらなかった。
鮑照や謝霊運といった詩の達人が、
その硯を詩に詠んだところで石は気にも留めなかったし、
鐘繇や王羲之といった書の達人が、
その硯で筆を使っても石は知らん顔であった。
錦で包もうが、玉飾りのある箱に納めようが、極美の石の机に置こうが、
石にとっては塵芥の中にあるとの変わりはない。
まして蘇先生が『鳳咮石の硯の銘』を作って、
戯れに「牛後」の語で嘲ったところで、怒ったりするはずもない。
竜尾の硯に水を湛えるなら、
碧い天を映し、雲を吹く風が生じ、
窓辺からも机の上からも塵が消えてあたりは清らかになる。
それでも石はいうだろう。
「わしは天地の間に生まれ出た一つの余り物でしかない」
蘇先生は支離な人間で、
行きあたりばったり、大きなこともいえば、ちまちましたこともいい、
筆を持って書くのは、春の蚯蚓やら秋の蛇がのたくった跡である。
東坡老人が何をいおうとほったらかしにするがよい。
仁者は細かい是非を問うことなどしないのだ。
【補足】［蘇軾はのらりくらりと弁を弄し、はっきりと前言を撤回したのではなかった］
■【07-1-037】書鳳咮硯
【解題】上の詩の序文にあった鳳咮硯とは、建州の鳳凰山に産する石で作った硯に対して、蘇軾がその名を与えたもので、その経緯がこの短文に記されている。なおこの文章はこれより4年前に書かれたものである。
【訳文】
建州の町の北に鳳凰山があり、鳳が飛んで舞い下るような形状をしている。山の下に、叩くと銅や鉄のような音のする石がある。それで硯を作ると至って美しい。表面は青竹のようにつやつやとしていて、ほとんど玉のようである。墨が滑ってしまうように見えるのだが、墨との相性はとてもよい。
熙寧五年［1072年］、国子博士の王頤が初めてこの石で硯を作り、私にその名を求めた。それで私は「鳳咮硯」と名付けて、戯れにその底に銘を記し、「坐令竜尾羞牛後」［坐ろに竜尾をして牛後を羞しめん］とした。すると、歙の人々がこの言葉を非常にうとましく思った。
あるとき私は人伝てに歙の人に硯を求めると、歙の人々は、「鳳咮石をお使いになればよろしいでありましょうに」といって、ついによい硯を得ることができなかった。それによって、名は物の累となり、嫉み争うもとになると知ったのである。ある人は、「嫉み争うもとになるとか、そんなことは石は知りませんでしょう」といったので、私は、「嫉み争うことを知らないのだったら、美しい名を好むことも知らないはずです」と応じた。
【補足】［（1）熙寧五年とは、蘇軾が杭州にいたときで、そのころに鳳咮堂を建てているので［→作品番号04-1-011］、「鳳咮」は当時の好みのワードだったのだろう。（2）王頤はかねてから親交のあった人物で、王頤が建州に赴任するのを見送ったときの詩を作品番号03-2-005で見ている。建州は現在の福建省の北部の町で、蘇軾は生涯のうちに一度も足を踏み入れたことがない。（3）蘇軾は王頤に与えたものも含めて『鳳咮硯の銘』を三回作っているが、他の二つの訳は割愛する］
■【07-1-038】張近幾仲有竜尾子石硯、以銅剣易之
【解題】竜尾の硯も鳳咮の硯の前では牛尾になってしまうと戯れ言を書いていた蘇軾だが、その実、竜尾の硯に御執心であったというのがこの詩。張近［字は幾仲］が竜尾山の子石で作った硯を持っていると知り、手持ちの銅剣と交換しようと申し出た。類をもって前の詩に続けて訳すが、詩中で「雪堂」に言及しているので、黄州で詠んだものであろう。銅剣はもしかすると鄭文から贈られたもの［→作品番号06-1-049］なのだろうか。
【訳文】
我が家の銅剣は赤い蛇のようだ。
貴君の家の石硯は蒼い璧のようで、窪んだ楕円形をしている。
貴君が我が銅剣を得たなら、どこに行くのか――
剣の飾りをがちゃがちゃ鳴らしつつ、唐朝の宮殿をのっしのっしと歩くのだ。
私が貴君の硯を得たなら、何に使うのか――
雪堂の窓の下で、古代の詩歌をさらさらと写すのだ。
銅剣も石硯も、この世に存在するものとしては、
人と異なることはないし、風に随う花と同じく、
高くに飄ったり、下に落ちたりする。
剣を飾るのが草であろうが宝玉であろうが、
いずれにしても剣自体とは関わりのない外物であり、
皇帝の詔を書こうが道家の教理を書こうが、
どちらにしても硯自体にとっては価値に違いはない。
誰もが知っているように、
昔、秦国の王は趙国が有する宝玉が欲しくて十五の町と交換しようと申し出た、
趙国の藺相如は秦国に乗り込んでその偽りを見抜いて宝玉を守り抜いた、
昔、鮑という男は、親戚の韋君が乗る二頭の馬がほしくなり、
家にいる二人の歌妓と交換したところ、女も馬ももとの家を思って泣き続けた。
そうした交換に比べたら、
銅剣も石硯も同じく無情のもの、釣り合うのではなかろうか。
永く好を結ぼうではないか。
【補足】［（1）この詩に応じて、張近は蘇軾に硯を贈るとともに、詩を添えて銅剣を返却した。その詩にさらに応じた蘇軾の詩があるのだが、解し難いところがあって、残念ながら訳出することができない。（2）ついでながら、この詩には以下のような跋文が付してあったともされる］
【訳文】。
『剣易張近竜尾子石硯詩跋』［剣をもって張近の竜尾子の石硯に易える詩の跋］
私は若い頃は、人が声色を好むように書画筆硯の類を好んだ。大人になるにつれて自覚が生まれ、老いてからは己を笑い、この病はもうなくなったように思った。ところが昨日、張君の卵石の硯を見て、この病がまた萌え出て、ついに剣と交換した。硯を手にすると、果たしてこれに何の益があるのだろうか、己の習性を除き尽くすのは難しいと知ったのだった。
【補足】［ここで「卵石」と記しているのが「竜尾石］であろう。なお、蘇軾には『卵石の銘』という作品があるが、訳は割愛する］
■【07-1-039】眉子石硯歌贈胡誾
【解題】これはもう少し長江を下ってからの詩であるが、硯を詠んだ詩としてここで見ておこう。眉のような形をした硯「眉子石硯」の歌。胡誾という人に贈った。蘇軾の遊び心が充満した詩だといえるだろう。
【訳文】
誰もが知っているように、
唐の玄宗皇帝は成都の画家に命じて「十眉図」［女性の眉の十種のモードを写した図］を描かせた。
そのころ「橫雲」とか「却月」とか名付けられた眉の新奇を競い合っていた。
風流人は、少々顰める眉［楊貴妃のこと］を描いた図を指さし、
「ここに、漁陽［反乱を起こした安禄山の根拠地］の馬の嘶く声が潜んでいたのだ」という。
やはり誰もが知っているように、
卓文君は青い扉の細い隙間に碧の眉を寄せ、司馬相如［漢の時代の成都の人］の姿を盗み見た。
司馬相如は卓文君に見染められてその運命が決まってしまい、
色に迷って健康を害し、千金を費やして薬を買わなければならなくなった。
司馬相如や楊貴妃に所縁のある蜀の地では、
とかく女性の眉のために天帝が憂うほどの騒乱が続いたので、
眉を流罪に処し、
貴君の家に伝わる硯に閉じ込めたのだった。
その眉が、小窓の薄い幌の下で流し目を使い、
暁の夢に貴君の顔を赤く染めさせようとしたところで、
古の維摩居士のように空を談じる貴君であるから、
いかなる花が飛びかかっても衣に触れることさえできないのだ。
試みにこの硯で天女に墨を磨らせてみるがよい、
貴君はたちまち千の偈を書くであろうけれど、
その実、そこには一語もないのである。
【補足】［（1）詩は成都つながりで、漢代の文人の司馬相如を引き出してくる。司馬相如が色に迷って健康を害したというのは不確かな伝説である。（2）詩の後半で、硯が流し目を使って胡誾を誘惑すると想像するところは、異界の女性と恋に落ちる中国の伝奇小説によくあるパターンと類似する。（3）結びの句は、真理を伝える言葉はいかに多言であっても実は無言であるということいっているのだろう］
■【07-1-040】与王文玉
【解題】蘇軾は6月末頃に金陵［江寧府、現在の南京］に到着した。金陵は南北朝時代に長く南朝の都が置かれ、また五代十国時代には南唐国の都が置かれた由緒ある大都市である。これは到着後すぐに池州知事の王琦［字は文玉］［→作品番号07-1-033］に宛てた手紙。
【訳文】
昨日、お手紙を頂戴しました。その後もお健やかにお過ごしのことを承りました。私は金陵に至り、瘡毒はまだ解けません。今日は下剤を服し、ひどくやつれてしまいました。来客があっても、長く話すことはできません。極めて短いお手紙で失礼します。暑さが続く折から、万万自重されますように。
■【07-1-041】白鷺亭題柱
【解題】蘇軾は金陵に半月余り滞在したことがこの短文から知れる。金陵の名所である賞心亭の西にある白鷺亭の柱に記したもの。つまり落書きである。
【訳文】
東坡居士は黄州から汝州に行く途中で、この亭の下に船を半月ほど泊めた。日頃の想いを傾けて江山を楽しんでいる。元豊七年七月十四日、蘇軾が題す。
■【07-1-042】張庖民挽詞
【解題】詩の題にある張庖民［字は翔父］は金陵の人で、2年ほど前に他郷で亡くなり、黄庭堅がその死を悼む詩を作った。誰かがその詩を蘇軾に見せ、張庖民の挽歌を作るよう頼んだ。この詩はさほど興趣を誘うものではないが、頼まれれば断らずに、それなりに巧みに応じるという蘇軾の義理堅さを知ることができるであろう。
【訳文】
張庖民は、
晋の時代の陶淵明、漢の時代の東方朔のような人――
心安らかに山水に向かい、文章を作ることに長じ、
侯公の地位などは軽んじ、嚢いっぱいの銭も羨んだりしなかった。
天から与えられた才能が高い人は鬼神に憎まれるというけれど、
骨が朽ちてもその名は永久に芳しい香りを残す。
張庖民が葬られた地は暗く閉ざされた遠くにあり、
金陵の旧宅は荒れたままになっている。
張庖民を偲ぶ人々よ、
私のこの詩は刻むまでもない、
優れた哀悼の辞をすでに黄庭堅が作っているのだから。
【補足】［蘇軾が依頼を断らずに応じることが多いのは、サービス精神に溢れ、義理堅いからだけではなく、恐らく、実益を伴うこともあったからなのだろう。この詩を作ってもらった人にしても、何がしかの金品をもって謝礼に代えたであろうから、それは長旅を続ける蘇軾にとって大いに助かることであったはずだ］
■【07-1-043】次韻段縫見贈
【解題】金陵は大きな町で、蘇軾が来たと知れるとたちまち大勢の人が会いに訪れ、にわかに次韻の詩が多くなる。これは段縫［字は約之］から贈られた詩に次韻したもの。段縫は州知事などを歴任し、このころは政界を退いて金陵にいた。
【訳文】
戦国時代に全国を遊説してまわった策略家の蘇秦だって、
洛陽の近くによい農地を持っていたなら、
代々の家業に打ち込んでいたはずだ。
蘇秦の知恵をもってすれば、
五十本の薤を植えることから始めて、
ついには三百軒分の稲を収穫するにようになったであろう。
金陵の町の北、貴君の隣で農耕に励めるのなら、
私はきっと（洛陽の近くの汝州に行くことはおろか）故郷に帰ることも忘れて、
ここで老いるであろう。
短衣匹馬［世の中に使役されること］は元来、吾が事ではない。
門を閉ざし、吾が運命を虚心に天に問うまでもないのだ。
【補足】［（1）蘇秦は「わしは農地も持たぬ貧乏人であったから、六つの国から宰相並みに遇されるまでになった」と反語的に豪語した。蘇軾はそれを敢えて逆の意味でここに引いている。（2）「短衣匹馬」は、軽装で使役される平民と馬に乗る兵士を指すのだが、ここでは役人もその中に含めている。（3）恐らく、段縫はその詩でほんの挨拶代わりに、隣に住んで一緒に退隠生活を送りませんかと誘ったのだろう。それは意外にも蘇軾の急所を衝き、この詩には本心が漏れ出ているようだ。これがきっかけとなったかどうかはわからないが、蘇軾は汝州に行かないもう一つのプランに本格的に取り組むようになる］
■【07-1-044】次韻杭人裴維甫
【解題】金陵で杭州出身の裴維甫と会い、贈られた詩に次韻した。裴維甫は蘇軾より2年遅れて科挙に合格した人。
【訳文】
杭州の門の外に葉が舞い飛ぶあの秋を、
私はなおも覚えている、
町の人々は、去り行く私の舟を引き留めようとした。
私は（杭州西北の）臨平山の上の塔に別れを告げた。
この五年の間は、雲夢沢の南の州［黄州のこと］をさすらい、
我が心からは、淒涼とした悲歌が生まれた。
貴君との出会いによって、私はしばしここに留まることとなった。
貴君の手づるで、
西湖の馴染みの風月に謝りたいものだ――
私はいまそこには行けない、
時に夢の中で遊ぶことを許してほしい……
【補足】［蘇軾が杭州を去ったのは10年前の秋だった］
■【07-1-045】次韻答宝覚
【解題】金陵の定林寺の宝覚の詩に次韻した。
【訳文】
宝覚師は、
脚に脚絆を巻き、足に芒鞋を履き、そして手には竹の杖、
千山、万山もなんのそのだ。
唐代の禅僧の馬祖は尋ね来た僧にこう尋ねた。
「あんたは何者か」
「石頭」
「石の頭は滑る。ひっくり返るぞ」
「ひっくり返っていたら、ここには来ておらぬ」
脚がなければ滑らないし、道の困難を知ることもない。
宝覚師の脚固めは何のためなのか。
【補足】［馬祖と石頭は唐代の著名な禅僧。その問答を踏まえた戯れの詩。訳者には意味がほとんどわからない］
■【07-1-046】次荊公韻四絶
【解題】金陵滞在中に蘇軾は思い切った行動に出た。金陵の南に隠棲する王安石［荊公］を訪ねたのである。先に見た段縫も宝覚も日頃から王安石と交流があり、その縁で訪問が実現したのだろうか。王安石は大改革の立案者であり、それを激しく批判する蘇軾とは政治的に鋭く対立した。それから十数年が経ち、会って何を話したのか。邵伯温の随筆『邵氏聞見録』という書物は以下のように伝える。
【訳文】
邵伯温：『邵氏聞見録』より
王安石と蘇軾は初めは何ら隔たりがなかった。呂恵卿が蘇軾の才が高いのを忌み、その間を割いたのである。
神宗皇帝が蘇軾を間近で用いようとしたとき、王安石はそれを難じた。蘇軾は文士であるから行政の実際には通じていないだろうと、開封府の副知事にして困らせてやろうとした。蘇軾は（実務をこなした上で）憚ることなくますます政事について論じ、科挙制度の改革に対して長文の意見書を提出し、現在の政治は甚だ危ういと警告した。王安石は蘇軾をいよいよ悦ばず、蘇軾は地方官として都を出た。
李定が王安石によって用いられると、李定が母の喪に服さなかったことをもって、蘇軾は李定のことを不孝者であるとして憎んだ。李定は恨み、蘇軾は詩を作って朝政を誹謗したと弾劾した。李定は湖州知事であった蘇軾を御史台の獄に下して殺そうとした。神宗皇帝は殺すに忍びず、散官［仕事のない名目上の職］に落とし、黄州に安置［軟禁］した。
蘇軾が汝州に移ることになったとき、金陵を通り、王安石と会って非常に歓んだ。
蘇軾が、
「某には公に申し上げたいことがあります」
というと、王安石は表情を変えた。蘇軾がかつてのことを言い出すのではないかと思ったのだった。
蘇軾はいった。
「某が申し上げますのは天下の事です」
王安石は顔色をやわらげ、
「いわれるがよかろう」
「漢朝も唐朝も大兵［外国と大いに戦火を交えること］と大獄［政敵を政治犯として厳しく弾圧すること］が滅亡の兆しとなりました。宋朝はその弊害を革めようと、太祖皇帝、太宗皇帝は仁政をもって天下を治められました。いま西北では戦争を起こし、何年経っても終わりが見えません。東南［都］ではしばしば大獄を起こしています。これを救うために公はどうして何もおっしゃらずにいるのですか」
王安石は手を挙げ、二本の指を示して蘇軾にいった。
「その二事は皆、呂恵卿が始めたことだ。私は朝廷の外にいる者、それらについて何も申すべきではないのだ」
「一般的にはそうでありましょう。朝廷にあるときは政治について述べ、外にあるときにはいわない。これは君に仕える者の普通の礼法です。しかし、お上は普通の礼法によらずに公を特に遇されたのです。公がお上にお仕えするのに、どうして普通の礼法によるのでよろしいのでしょうか」
王安石は語気を強め、
「私に何をいわせようとするのか」
そして、
「私の口から出れば、貴君の耳に入るではないか」
王安石には、かつて「このことはお上には知らせてはらなない」と密かに呂恵卿に書いたことを、呂恵卿によって神宗皇帝に明かされてしまったという苦い経験があった［それが失脚の原因の一つになった］。それで蘇軾が泄すことを恐れたのである。
王安石はさらに蘇軾にいった。
「不義とわかっていてそれをする。無実の人を殺す。天下を得たとしても、この二つをしないのなら、人としてよろしいであろう」
蘇軾は戯れにいった。
「いまの君子は、半年早く昇進できるのなら、人殺しだってしかねません」
王安石は笑ったが、何もいわなかった。
【補足】［（1）以上のことを記した邵伯温は蘇軾より20歳年少で、父の邵雍は著名な学者で司馬光等と親しくし、自身もまた若くして司馬光等当時の著名人と直接に交流があった。だから、ここに記してあることが必ずしも事実そのままではないとしても、当時の事情通の間でこのようなことが語られていたのであろう。（2）邵伯温の息子の邵博が記した［したがって信憑性はより薄れる］『邵氏聞見後録』［→作品番号06-1-001で引用がある］には、王安石は蘇軾に三国時代の歴史書を編集し直すことを勧めたと伝える。蘇軾が歴史好きで、黄州では赤壁の戦いに材を得た詩詞を詠んでいたこともあって、政争よりも学究に生きるよういったのだろう。（3）蘇軾と王安石が会ったのは、当時としては大きな事件であったので、さまざまな書物にいろいろなことが記されている。ここではこれ以上あれこれ吟味することはせずに、王安石が示した4首の七言絶句に次韻した蘇軾の作品を見ておこう］
【訳文】
其の一
李の葉が青々と繁っている。
そこには自ずと鳥が集まりくる。
清真な王羲之［王安石を指す］が手ずから栽えたのである。
深い紅、浅い紫、様々な花が争って咲き、
白い鷺、黄色い鵝鳥も翼を広げる。
【補足】［これは王安石の住まいの様子を美化して歌ったもの］
其の二
先生は、
竹を斫り、花を掘り去り、綠の苔を破ってこの庭を造られ、
榿の苗木を得るために、詩を作ることまでした。
造物者のするところを仔細に見るなら、
初めから物を造ろうとの意思などはなく、
万物は自然に生まれ出たのだった。
春が江南に到るとき、
花は自ずと開くのである。
其の三
驢馬に騎って、私は渺渺と荒れた陂をやってきた。
想い見るのは先生がまだ病気になる前のとき。
先生は三畝の宅［小さな家］を求めてみてはと勧めてくださる。
しかし、先生の教えに従うのは十年遅かった……。
【補足】［金陵の町から王安石の住まいまで数キロの道のりであったという。王安石はこの年の初めに病気になり、神宗皇帝が侍医を派遣したほどであったが、このころには回復していた。10年という数字は概数で、王安石が提唱する改革を蘇軾がさかんに批判したころに遡って、腹蔵なく議論したかったというのである。もしもそうしたことが行われていたならば、その後の展開は大きく異なっていたであろう］
其の四
立派な屋敷があったところで真に我が物ではない、
趣のある花にしてもたまたま栽えただけのものだ。
先生は家を仏寺に替えて清浄の場として供し、
仏道を求める人のために門を開いている。
【補足】［（1）王安石は、長男の王雱を喪うと政治的意欲が急速に薄れ、政界を引退する一因になったといわれる。その王雱の菩提を弔うために私宅を仏寺にしていた。（2）王安石はこれより2年後に亡くなっているので、蘇軾のこの訪問は唯一無二の機会を生かしたものであった］
■【07-1-047】同王勝之遊蒋山
【解題】金陵の東に風光明媚な蒋山［鐘山］がある。現在名は紫金山で、標高448メートル、中国の国家重点風景名勝区の一つに選ばれている。蘇軾は政界の大先輩である王益柔［字は勝之、このとき72歳］とともに蒋山に登り、この詩を詠んだ。王益柔も王安石の改革を強く批判した一人であった。
【訳文】
貴君は金陵に赴任してきたものの、
席の暖まる間もなく、新たな辞令によって他郡に移ることになり、
この地の人々は口をあんぐり開けて呆然としている。
町から十里足らずのところにすばらしい山がありながら、
行かずにおいたならばこの先ずっと悔いが残るであろうと、
貴君は南朝時代の寺を敲いて廻ることにした。
私も小舟に乗せてもらって一緒に山に向かうと、
かつて高貴な人々が朱色の門を並べていたところは、
仏寺に代わって紺色の門を連ねている。
舟を降りると、道の両側には高々と松が聳え、
山裾が斜めに傾いて人を出迎えてくれる。
蒋山は古くゆかしい国に竜のようにわだかまり、
山の重なりの上に鳥の爪のような峰が抜きんでている。
竹の杪の先に、飛ぶようにして屋根が見え、
松の根もとに細い泉が湧き出ている。
多数の山が巧みに日を支えているかのようであり、
遠く長江は天に浮かんでいるかのようだ。
丸木橋が秋の水の上に横たわり、
高い塔の先端に夕暮れの靄がまつわりつく。
帰るときになって、己の影を踏んだので、
ふと見ると、ちぎれ雲の間に細い月がある。
【補足】［この詩のなかほどでは多数の比喩的表現を並べている。「多数の山が巧みに日を支えているようであり、遠く長江は天に浮かんでいるかのようだ」［峰多巧障日、江遠欲浮天］」の句を王安石が称賛し、この詩に次韻している］
■【07-1-048】書子由金陵天慶観詩
【解題】4年前の4月に弟の蘇轍は金陵に立ち寄り、天慶観で詩を詠んでいた。その詩を天慶観の壁に書いた。
【訳文】
興廃不可必、冶城今静祠。［世の荒廃は定めがなく、いまここは静かである］
松声聞道路、竹色浄軒墀。［松の音や竹の色はいつも変わりがない］
江近風雲改、庭深草木滋。［川からの風に雲は飛び、庭の草木は深く生い茂っている］
孤墳弔遺直、銘暗閔元規。［古い墓に昔の人を遠く偲ぶ］
元豊三年四月、弟の蘇轍がここを過って詩を留めた。七年七月十六日、それを壁に書く。
【補足】［弟の詩は金陵の変遷について思いを巡らせたもので、特に新味はないので大意だけを添えた］
■【07-1-049】去歳九月二十七日、在黄州生子名遯、小名幹児、頎然穎異。至今年七月二十八日、病亡於金陵、作二詩哭之
【解題】蘇軾は金陵で大きな不幸に見舞われた。この詩の題は、「去年九月二十七日、黄州において子が生まれた。名は遯、小名は幹児である。体が大きく非常に賢かった。今年の七月二十八日、病のために金陵で死んだ。二詩を作ってこれを哭す」。遯が生まれたことは作品番号06-4-057で見ている。
【訳文】
其の一
私の年齢は四十九、
旅の間に幼い子を失った。
幼い子は真に吾が子、
生まれながらにして顔の形が私に似ている。
まだ好き嫌いの判断などできそうにない年齢であるのに、
這い這いで書物の後を追いかける。
梨とか栗などは頭を振って退け、
そんなものを欲しがるのは恥であるのを知っているかのようだ。
私は老いるにつれて歓ぶものが少なくなり、
この子を見ての一笑一喜だけを頼りとしていた。
しかし、忽然と奪い去られた――
悪業の報いだとしたら、私の罪が及んだのだ。
薪をもって亡骸の衣とする、
世間のそのやり方に従って葬る以外に何ができようか。
人は一瞬にして変滅してしまうものなのだ。
事を終えて帰りくれば、抱く懐いは空しい。
水を瀉ぐばかりの老いの涙……
其の二
我が涙は拭うことができる。
日が経って遠くなれば、きっと日に日に忘れてゆくのだろう。
母が哭すのは聞くに堪えない。
おまえとともに亡んでしまおうとしている。
おまえの衣が今も衣桁に懸かっている。
乳が漲って寝床に流れる。
ここに痛み、私は「生」というものを忘れようとする。
ひとたび臥して終日じっと倒れたままとなる。
中年に至って忝くも「道」について聞き、
「生」は夢幻であると、すでに詳しく知っていた。
しかし、おまえのために山のように薬を用意し、
病気が重くなってからはさらに方士の術も求めた。
恩愛の刃によってこの衰老の腸はずたずたにされてしまった。
これは迷いなのだ……
もとの自分に反ろうではないか……
ひとたび慟哭して、心に残る傷を送り去るのだ……
【補足】［子を喪った母［王朝雲］の悲しむありさまが何よりも辛かったのである］
■【07-1-050】葉濤致遠見和二詩、復次其韻
【解題】葉濤［字は致遠］が上の詩に和したので、それに次韻した。葉濤は王安石の弟の王安国の婿で、王安国は兄が進める改革には賛同せず、政治的には恵まれずにすでに8年前に他界していた。葉濤はこのころは金陵にいて、しばしば王安石のもとを訪れて詩を唱和し合っていた。葉濤は、蘇軾のもとの詩の韻字の位置を入れ替えて和したので、それに蘇軾が和した詩も韻字の位置がもとの詩とは異なっている。蘇軾の最初の詩は真情から発したもので、葉濤も深く同情して和したのだろうが、時間の経過とともに悲しみもやや薄まり、次韻するという知的作業がさらにそれを助けたということもあったのだろう、この詩は言語遊戯へと流れて行ってしまったかのようで、2首のうち1首だけを訳す。
【訳文】
其の一
私には娘がないので、
娘の可愛らしさにめろめろになるようなことはなかった。
黄州に滞在する間にこの子が生まれ、
流謫生活を十分に慰めてくれた。
それが真実のものではないとは知るべくもなかった。
造物者がいささか私に戯れを仕掛けたのだ。
煩悩も、初めから根となるものがあるのではなく、
恩愛が種子となって、そこから生えてくるのだ。
貴君を煩わし、
恩愛などは仮のものであると、反復して御教示いただいた。
苦海の浪を除くには、愛の河の水を乾かさなければならない。
かつて韓愈は、
たかが一寸ばかりの魚に執着して終日釣り糸を垂れる者を笑った。
貴君も同じように私を笑うであろう。
私は貴君への返事としてこの詩を作ったのだが、
これとて酒の上の一時の恥に異ならない。
■【07-1-051】次韻葉致遠見贈
【解題】同じく葉濤［字は致遠］から贈られた別のテーマの詩に次韻した。興趣に乏しく、意味不明の箇所もあるが、このころ悩ましい心情にあったことを示唆すると読むこともできるであろうか。
【訳文】
五畝ばかりの地を得て農民になりたく思いながら、
官に仕える身として行商人ように各地を転々としている。
私は我が命運に任せるだけで、
行き先についてとやかくいうことはないのだけれど、
人に逢って語るときには、
いまだにあれこれ言を左右してしまいがちである。
酒を飲めと勧めてくれる言葉よりも、
私には貴君の詩（にある助言）の方が好ましい。
文章などはひとつの遊びであって言うに足らないものだ。
知るべきは仏の教えの深い意味合いである。
【補足】［葉濤の詩に和した作がもう一首残っているが、著しく興趣に欠けるので訳は割愛する。黄州にいたころは次韻の詩が少なくてどの作品も味わい深く読めたことを思うと、罪を赦されたのは詩にとっては幸いではなかったのかもしれない］
■【07-1-052】題孫思邈真
【解題】隋から唐の時代に名高い道士であった孫思邈を描いた画を見て作った詩。
【訳文】
先生が世を去ってから五百年、
いまもなお峨眉山の西の峰の中におられるとか。
本当は天上の仙界の高官になっているのであって、
尸解して地上に残した亡骸を蛆虫に食わせるようなへまはしないのである。
【補足】［肉体を地上に残して昇仙することを尸解というが、孫思邈はもっと高度なわざで仙人になったはずだと蘇軾はいうのである。郷里の山に隠れた仙人に託して、我が心を解放させようとした詩なのだろうか］
■【07-1-053】戯作鮰魚一絶
【解題】鮰魚という魚についての詩。昔、鐘山にいた宝公という僧の故事に基づいて詩を作ったものであるという。
【訳文】
紅い斑の石首魚は頭だけは堅けれどぷるぷるの骨なし、
雪のように白い河豚はうまいけれど毒がある。
ちっぽけな鮰魚はなんぞはさらにろくでもないもの。
あるとき宝公が川べりを歩いていて、
魚をむさぼり食らう男を見て、
「愚僧も御相伴にあずかりたい」
といってつまんで口に入れた。
僧侶がそんなことをしたので人々が呆れて見ていると、
宝公は口の中のものを川に吐き出し、
たちまち無数の鮰魚となって泳ぎ出したのだった。
してみると、天公だか河伯［川の神］だか知らないが、
鱗の輝くものたちを生じさせたのは、確かに意味のあることなのだ。
■【07-1-054】与滕達道
【解題】滕元発［字は達道］に宛てた手紙。滕元発は作品番号06-5-003で見たような経緯によって湖州知事となり、このころは湖州に向かって移動の途中であった。
【訳文】
私は金陵に来ておりまして、荊公［王安石］にお会いしましたところ、はなはだ喜んでくださいました。公は時に詩を誦し時に仏典について説かれています。貴君は王安礼君にはお会いになったことがあるでしょうか。私はまだその機会がなく、よく存知上げません。
先ごろ筠州に行き、弟に会いました。弟もまた都に近い地に移ることになるでありましょう。いまごろはすでに移動を命じられているかもしれません。
呉興［湖州］の風物は貴君のお心を慰めるに足るものでありましょう。土地の人である賈収君は、行いが正しく、詩が極めて上手で、李常君も章惇君も優れた人として賈収君には礼をもって接していました。ただし私が最もよく賈収君のことを知っています。貴君もときに尋ねられて、互いに牢落た身を慰め合うとよろしいでしょう。
先に文肅公楼［盛度を記念する楼閣］を過り、そのあたりを歩きつつ、盛度公の人柄を想って立ち去ることができませんでした。私としては、楚州、泗州のあたりに参りましたら、朝廷に願い出て、常州あたりに住まうことができるようになればと考えています。幸いにもこの願いが聞き届けられましたなら、小さな舟に乗って、お目にかかりに参れましょう。
【補足】［（1）この手紙にはいろいろなことが盛り込まれている。蘇軾のことをよく知る滕元発であるから、きっと理解してもらえるだろうと説明抜きに書き並べている。（2）王安礼は王安石の弟で、王安国とともにその三兄弟は「臨川の三王」として郷里の誉れと称された。王安礼もまた王安国と同じく、王安石の改革には必ずしも同調しなかった。蘇軾が獄中で厳しい取り調べを受けていたとき、王安礼は皇帝に直接蘇軾の罪を赦すよう進言したといわれ、きっとそのことが蘇軾の耳にも入ったので、この手紙でとくにその名を挙げているのだろう。（3）弟の蘇轍はこれより少し後に績渓県の知事に任命される。県知事であるから前職よりは地位が高く、筠州よりは都に近くはなるが、山間の小さな町である。（4）賈収［字は耘老］は湖州の隠者で、賈収から学んだ倹約術で経済的苦境を乗り切ろうとしたことを作品番号06-1-103で見ている。李常も章惇も一時期湖州知事を勤めていた。（5）北宋の初めのころの人である盛度の功績を記念した文肅公楼が筠州にあって、弟を訪ねた折にそこに昇っていた。盛度は杭州の人で、湖州や杭州などの江南の地への思いが募るということから、汝州には行かないもう一つのプランがここに記されている。蘇軾の予定された船路は、この後大運河に入って都へと北上するのだが、楚州や泗州にあたりに到ったところで、朝廷に退隠を願い出ようというのである。そして退隠先として湖州に近い常州を挙げている。（6）この後も蘇軾と滕元発との間で何度か手紙が交わされ、潤州で落ち合う約束が成立する］
■【07-1-055】漁家傲
【解題】8月中旬に王益柔［字は勝之］［→作品番号07-1-047］は新たな任地である南京応天府に赴くために金陵を去り、その送別の宴で蘇軾はこの詞を詠んだ。短い序文がある。
【訳文】
金陵の賞心亭で王益柔を送った。王益柔は金陵の知事として政務を視ること一日だけで南郡［南京応天府］に移ったのだった。
従公一弔興亡処。［公に従って興亡の跡を見渡すのです］
渺渺斜風吹細雨。［遥か彼方からの風によって吹き込んでくる細い雨］
芳草渡、［渡し場の芳しい草］
江南父老留公住。［江南の父老は公をここに引き留めようとします］
公駕飛車凌彩霧、［公は空飛ぶ車を走らせて彩なる霧を凌ぎます］
紅鸞驂乗青鸞馭。［紅い鸞が同乗し、青い鸞が車を馭します］
却訝此洲名白鷺。［（南京応天府に至って）そこに白鷺州があるのをいぶかしく感じます］
非吾侶、［僕らはここの仲間ではないと鶯は思い］
翻然欲下還飛去。［下りかかって、また飛び去ってしまうのです］
【補足】［最後の部分は、王益柔は南京応天府に行っても、こっちがよかったと金陵にまた戻ってくるという期待を込めたものであるとの解釈によって訳した］
■【07-1-056】至真州再和二首
【解題】蘇軾は王益柔とともに金陵を発った。長江を少し下った真州に至るまでの間に、先に蒋山で詠んだ詩［→作品番号07-1-047］に王益柔が和したので、さらに和して返した。2首のうち1首を訳す。
其の一
詩の妙手にして朝廷の高官であった王維、
窮乏した無官の孟浩然――
王維は宮中に宿直した晩に孟浩然を呼び、二人で詩を論じあった。
貴君も、境遇の違いや年齢の上下を忘れ、
私との旧交を温めてくださった。
北上する貴君のお伴をするのは難しいけれど、
しばしの間、東に向かって貴君の船を追ってきた。
送別の宴が開かれた金陵の賞心亭では、
貴君は花の輝きに照らされ、
私は、酔ったような目で蓮を窺う鷺と同じように、貴君を見つめていた。
船が進むにつれて、金陵の三山が消え去り、
順風を受けて船上の旗が向きを転じた。
瓜歩にある江の女神を祀る祠の前を通ると、
松並木の下に古い石畳が連なるのが見えた。
これから行く真州の清香閣には、
酒のような水の湧く白玉泉があると聞いている。
そこに坐して夜も門を掩うことなく、
月が天に流れるのを待とうではないか。
紫檀の琵琶の音が華やかに部屋から流れ、
庭には樺の皮を巻いた蝋燭の煙が立ち昇ることだろう。
そのときに、貴君の詩を朗誦しよう、
かの名妓の小嬋娟のような女性に命じて。
【補足】［官員同士の社交上の詩で、さほど興趣を誘うものではないだろう。最初の部分は、王益柔を王維に、蘇軾自身を孟浩然に喩えて、かつて蘇軾が都にいた時期に王益柔が先輩として目をかけてくれたことを詠んでいる。それは鳳翔での任を終えて都に帰還したころで、蘇軾の官界人生は順風満帆と見えていたのだった［第3章の初め］］
■【07-1-057】与袁真州
【解題】次の目的地である真州では知事の袁陟［字は世弼］が蘇軾の到着を待ち受けていた。袁陟は蘇軾よりも10年早く科挙に合格した先輩である。金陵滞在中から真州に到るまでの間に袁陟に出したと推測される手紙が4通残っていて、そのうちの2通を見ておこう。
【訳文】
（1）私は金陵にきて一カ月になろうとうしています。赤ん坊が病気になり、ついに助かりませんでした。何かと労苦があって、そこに悲悩が重なり、ほとんど耐え難い思いです。いますぐにも貴君にお会いしたいところですが、残念なことに飛んで行くわけにもまいりません。貴君から深く真心のこもったお尋ねを頂戴しながら、これまで御返事をさしあげず、まことに申し訳ありません。お詫びの言葉もありません。
（2）再びお手紙を差し上げます。王益柔君によって少し足止めを食らっております。残念ながら飛んで行くことはできず、風向きがよくなりましたら出発いたします。秦観君の手紙を受け取りました。それへの返事を書きましたので、どうか秦観君に御送付願います。金山にいなければ潤州にいることでしょう。お手数を煩わせて申し訳ありません。
【補足】［袁陟は州知事として官の郵便網が使えたので、秦観［→作品番号07-1-016］の手紙を蘇軾に届ける中継ぎをしたのだろう。秦観はもう少し下流で蘇軾が到着するのを待っていた］
■【07-1-058】贈袁陟
【解題】蘇軾は王益柔とともに真州に到着すると、王益柔はそのまま任地への旅を続け、蘇軾はそこにしばし留まった。
【訳文】
この身は元来、虚空であるのだろう。
だから、万物はみな我がものである。
どうして、強いて内と外を分別するのか。
百金を出して田や家を買う必要などはない。
袁先生は心の馬、尻の輿に乗って、
無何有に遊び、
一椀の飯のほかに願うものはない。
官界の湖を我が池とし，官の学舎を我が家とし、
子孫に遺すものは何もなく、
我が身は竹の筵にくるんで葬ればよいとしている。
春の風は自ずと柳を暗く繁らせ、
秋の水は自ずと蓮を清らかに咲かせる。
袁先生のことを私はよく知っている。
袁先生はきっと魚の楽しみを知っているのである。
【補足】［（1）この詩の最初の二句「此身如虚空、万物皆我儲」［此の身は虚空の如く、万物は皆我が儲］は『赤壁の賦』［→作品番号06-3-057］で述べた思想を10文字に要約したといってよいだろう。（2）終わりの部分は、魚の心がわかるのだろうかという『荘子』の問答［→作品番号03-4-031］を踏まえている］
■【07-1-059】次韻蒋穎叔
【解題】真州で蒋之奇［字は穎叔］に会い、その詩に次韻した。蒋之奇は蘇軾と同じ年に科挙に合格した仲で、そのころに蒋之奇から出身地の常州宜興県の風光のよろしいことを聞かされ、ならば政界を引退した後に一緒にそこに住もうではないかと、蘇軾は軽口で応じたというエピソードがあることを作品番号04-3-026で触れている。この詩はそのことを踏まえて歌われている。
【訳文】
月明かりの中で鵲が騒いでいる、
その身を安んじる枝がまだ得られていないのだろう。
貴君は想う――
小舟に棹をさして飄然と自分の影だけを随えて行くことを。
江の上に秋風が吹き、波は限りなく広がる。
官界で過ごす人生など短い春の夢のようなものだ。
私は貴君と同じ年に科挙に合格し、
都の瓊林苑での祝宴で語りあった――
そのとき、貴君は故郷の罨画溪の美しさを語り、
ならばいつしかともに陽羨渓に住もうではないかと私は応じた。
しかし、本当に約束したのは、
隣同士で仲良く行き来することではなく、
宮中で国家の案件を論じ合うことだったのではなかったのか。
【補足】［（1）ここに詠まれている罨画溪や陽羨渓は蒋之奇の故郷である常州宜興県にある景勝地で、かつて蘇軾は杭州副知事であったときに、しばしば常州を訪れ、陽羨渓を訪れていた［→作品番号04-3-026］。真州で蒋之奇と再会し、話が自ずと昔の約束に及んだのだろう。蘇軾は、このとき作品番号07-1-053で見たように、常州に隠棲するプランを心に抱いていいたのだが、どうやら蒋之奇にはその本心をぎりぎり明かさなかったようである。蒋之奇はこのとき州の上のレベルの路の役人としてかなり高い地位にあったので、うかつに口に出すことは憚られたのだろう。しかし、この詩に詠まれた陽羨はこの後すぐに見るように、蘇軾にとって特別な場所になる。（2）終わりの部分で「仲良く行き来する約束」と訳した原文は「雞黍の約」。互いにいつ訪ね合っても「雞や黍」、つまり自らの収穫物で歓待することを約束するという意味である］
■【07-1-060】次韻滕元発、許仲塗、秦少游
【解題】蘇軾は真州から長江を少し下って潤州［京口］に至ると、約束していた通り滕元発［字は達道］［→作品番号07-1-054］がそこで待ち受けていた。秦観［字は少游］もまた、作品番号07-1-057で触れていたように蘇軾の到着をここで待っていた。これは、滕元発が最初に詩を作り、それに潤州知事の許遵［字は仲塗］と秦観が次韻し、最後に蘇軾が次韻したもの。
【訳文】
二公［滕元発と許遵］の詩の品格は老成し、かついよいよ新鮮である。
野人［蘇軾］が酔って狂おしく吟じるのをお許しくだされよ。
南の海の遥か二十五万里に青丘があって、
中国などは沢に浮かぶ芥であるかのように呑み込んでしまおうとしているという。
二公にはまさにその勢いがある。
私は恥ずかしいことに、
小さな水たまりにちょろちょろと生える草のようなものだ。
湖州と潤州と二つの旗は輝いて互いに照らし合い、
私は十畝ばかりの農地を自ら鋤や犁で耕すだけの者。
ここにさらに天下の妙手である秦君が現れ出たのであるから、
来年あたりはひとつお上にこちらにお出ましいただいて、
御前においてお三方の詩の優劣を競ったらよいだろう。
【補足】［潤州までくれば、そこからは杭州副知事時代に行き来した馴染みの地である。親しい人々と会えば、蘇軾の心が当然浮き立ち、このような戯れの詩が生まれることになる］
■【07-1-061】以玉帯施元長老、元以衲裙相報、次韻二首
【解題】潤州には有名な金山がある。蘇軾は潤州に行くたびに金山に登っていて、今回もやはり訪れた。金山にある金山寺で蘇軾は仏印禅師［了元長老］に会った。仏印禅師とはすでに廬山で会っていて［→作品番号07-1-023］、詳しい経過はよくわからないが、仏印禅師はもともと金山寺の僧で、一時期廬山に行き、このころに金山に帰ったもののようである。この詩が詠まれた状況は次のようであったと伝えられている。蘇軾と仏印禅師が話をしていると、傍らからある僧が蘇軾に戯れて、「公［蘇軾］が長老と問答をなさり、もしも公が返答に窮したならば、佩びるところの玉帯［官員のしるしである玉飾りの付いた革の帯］を山に寄進されるというのはいかがでございましょうか」といった。蘇軾が同意し、問答が始まるとすぐに蘇軾は答えに詰まり、玉帯を差し出した。仏印禅師は玉帯を受け取ると、その代わりとして衲裙［僧侶の衣］を贈り、2首の詩を添えた。これはそれに次韻したもの。
【訳文】
其の一
この病骨の身を玉帯で囲むのは苦しくてかなわない。
しかし、本性からして鈍く、いまだに煩悩の矢や鋒で突かれ続けている。
師は、そんな私に、歌姫の集まるところで乞食をさせて鍛えようというのであろう、
特に雲山の古びた法衣を与えてくださるのである。
其の二
この帯は駅舎のようなもの。
次から次へと人が入れ替わり、
ようよう私がやってきた。
ごたごた飾りのついた錦の袍なんぞは私には合わない。
そうだ、
あの老万回の阿呆坊主にくれてやったらよいのだ。
【補足】［唐の時代に万回和尚という者がいた。遥か西方のシルクロードにいる兄に会うために、朝に都を出て夕方に帰ってくるということを日々繰り返して1万回になるといっていた。皇帝は万回和尚を尊崇して錦の袍を与えた。蘇軾は玉帯や錦の袍よりも、衲裙の方が自分に似つかわしいと言って受け取ったのである］
■【07-1-062】送金山郷僧帰蜀開堂
【解題】金山寺に同郷の蜀出身の僧がいた。間もなく故国に帰って寺を開くということを聞き、この詩を贈った。
【訳文】
浮玉山［長江の水に浮かぶ金山のこと］で鐘が撞かれ、
三千の指［つまり三百人の僧］が私を迎えてくれた。
衆僧が談笑するなかから、
まだ語り合わないうちに、貴僧が郷里の人であることが知れた。
私が「箇中の人」［ここにいるべき人、つまり縁のある人］でなければ、
どうして黙ったままで貴僧のことを知り得ようか。
貴僧は衣を振るってたちまち帰り去るという。
千山の彼方にぽつんと貴僧の影が消えて行くのを私は見送る。
さあ、飲みたまえ、
金山の中泠泉の水は蜀の涪江の水と同じ味がする。
氷の上に載せられた琥珀のような砂糖よりもずっとずっと甘いのである。
【補足】［金山の中泠泉の水が天下第一の名水であるとされていることは作品番号03-4-038で見ている。蜀の涪江と中泠泉は長江でつながっているので同じ味であるといっているのである］
■【07-1-063】金山夢中作
【解題】金山に泊まって夢の中で作ったという詩。
【訳文】
江東の商人はみな木綿の裘。
商人たちの宴会が終わって人々が去ると、
酒楼は金山にかかる月の光で満たされる。
夜半になり、よい潮がきて、風もまたよし――
船にごろりと臥せ、簫を吹きつつ、
商人はたちまち揚州に至るのである。
【補足】［（1）ここでいう江東とは潤州より南東側の地であろう。江東は温暖なので、商人は毛皮ではなく木綿を身にまとう。揚州は、潤州から長江を横切って大運河を少し北上したところにある交易の一大中心地。（2）この詩は天下を自在に往来する商人への一種の憧れを歌っているかのようである。蘇軾の先祖が絹を扱った商人であったらしいことを思えば、官員としての束縛を離れて先祖の業に戻ってみたいとの想いを込めているとみることもできるであろうか］
■【07-1-064】秦少遊夢発殯而葬之者、云是劉発之柩、是歳発首薦。秦以詩賀之、劉涇亦作、因次其韻
【訳文】これも夢に関する詩。秦観［字は少游］が妙な夢を見たのが事の始めであった。詩の題は「秦観は夢に葬列に加わった。葬る者が『これは劉発の柩です』といった。すると、その歳に劉発は官職に就くべく推薦されたので、秦観は祝いの詩を作って贈った。その詩に劉涇が和し、さらに蘇軾が和した」。葬列の夢は不思議と縁起がよいものだと考えられていたようである。
【訳文】
雉は死んでも節義を失わない鳥――
古代の士は雉のように、
国に少しでも補うところがあるのなら己を殺すこともした。
官に就いて職務に死ぬのは戦で死ぬのと同じ、
だから、屍を夢に見るのは、官職を得る兆しであると、昔からいわれてきた。
（世界を構成する木火土金水の）五行が正しく身の内に整う者が官に就くのであって、
私などは「土」で、五行の最も下の人間である。
仕官して禄を得ていない者は君主にとっては賓客である。
だから、無官の者が「純良の臣」などと自称するのは古例に反している。
禄を授受することで、君主と臣は仲間内とは異なる呼び方をし合うようになる。
世が衰え、道が微かになって、士は己を失い、
官に就く者のあり方が本来のものとは異なってしまった。
官員でありながら、衣服や住居、車馬のことに気をとられ、
群れをなして飲酒して遊ぶのをもっぱらとしている。
科挙に合格した者は喜びのあまり、川に船を浮かべ、月に毬を蹴って遊び、
葬儀には舞わない、墓所では歌わないとの禁も平気で破り、
花を見て浮かれ、馬でやたらと走り回る狂態を見せる。
秦観君と劉涇君はまだ年少であるが豪逸、
詩を作り酒を飲んで、お上に仕える苦しみを知らない。
天は官の厳しさを示すために、劉発君の棺を夢に見させたのであろう。
諸君等にいおう、
「官員になっても己に本来あるものを腐らせてはならない、
葬礼に用いる泥で作った車、草で作った馬などはみな仮のものだ、
世の中の何が真であるかを仔細に見て、誤るようなことはあってはならない、
時がきたならば、大空に飛翔して鳴くのだから、
諸君等を敢えて朝廷に推挙せずともよいであろう」
【補足】［劉発と劉涇がどのような人であるのかわからないが、劉涇は秦観と同じくまだ科挙に合格していなかったので、蘇軾は二人を励ます意味合いでこの詩を詠んだのであろう］
■【07-1-065】送沈逵赴広南
【解題】潤州に滞在する間に、遠く南の広南［いまの広東あたり］へと赴任する沈逵に出逢い、この送別の詩を作った。
【訳文】
ああ、私と貴君はともに丙子［景祐三年］の生まれの四十九歳、
窮したとはいえまだ死んではいない。
貴君は幕府に従って西方で戦い、
凍り付いた河を夜に渡り、
雲のように高い要塞へと切り込んだ。
天に飛塵が漲り、甲に矢が降り注いだ。
そのような中から帰還し、妻子と再会したとき、
これは夢ではないかと疑った。
私は黄州に五年ほど流され、
長江の波にもまれるちっぽけな舟のようであった。
知り合いからの音信は絶え、
病と飢えと寒さによって死んでしまうのではないかと疑った。
貴君と会って手を握り合い、大きく笑う。
「白髪でやつれた顔が互いにそっくりではないか」
私は長江から離れて北に、
貴君は万里も軽いと南に行こうとしている。
功名は幻のようなもの、期待して得られるものではない。
学問の道を歩むのならば必ず得られるものがあることこそを喜ぶべきである。
貴君の行く地には丹砂があるという、
貴君はきっと仙薬を得るであろう。
私が行く地には瘤の生じる病があるという、
私は運命に甘んじて病んでも恥はしない。
今度貴君が帰還したときには、
私と「雞黍の約」を結んで果たそうというのなら、
私は今から田を買い、家を建てることを始めておこう。
【補足】［（1）四十九という年齢にはちょっとした思い入れがある［→作品番号06-5-006、07-1-027など］。（2）「雞黍の約」は作品番号07-1-059でみている。ここではいわばリップサービスとして「雞黍の約」を結ぼうといったのだろう］
■【07-1-066】次韻周穜恵石銚
【解題】これも潤州滞在中の詩。周穜という官人が詩を添えて石の銚［茶や飲食物を煮たり温めたりする器］を贈ってくれたので、それへの謝礼。
【訳文】
銅の腥い臭いや鉄の渋みは泉水によろしくない。
この石の器の蒼然とした色合い、深くかつ寬やかな形は愛すべきである。
これを火に置けば、
蟹の眼のような泡が浮かんで湯がすぐに沸き、
竜の頭のような柄は火をよく防いで冷たいままである。
新鮮な生姜と少々の塩を加えると、
湯に漬かった茶葉は雲に蒸された苔のような状態になって、
よい仕上がりの茶ができあがる。
昔からいうように三本足の鼎はたいていどれかが折れてしまう。
無脚こそが軽やかで安らかなのである。
【補足】［茶に生姜や塩を加えるのは郷里での古風な飲み方である［→作品番号06-4-027］］
■【07-1-067】贈潘谷
【解題】墨を作って売る潘谷という人に贈った詩。最初に同姓の潘岳の故事を引いている。
【訳文】
晋の潘岳が河陽県の知事だったとき、
自ら植えた桃や李の花を、多数の美女を連れて見に行き、
町の人々はそのありさまに驚嘆した。
潘岳は天下第一の大金持ちの石崇に憧れ、
馬の蹄の下にかしこまって石崇の姿を拝んだ。
つまるところ、潘岳の胸の中は泥と塵だらけだったのだ。
今日の潘谷君は全く異なり、
身にまとうのは真っ黒な破れた衣、
手は亀のようにひび割れ、
黒い笏で墨の長さを測り、からからと音を立てて切って売っている。
しかし、心を内は、氷の壺に秋の月を貯えている。
世間の人はとかく耳で聞いたことを重んじ、目の前に見えていることを軽んじる。
張遇とか李庭珪とかの名を聞くだけで、
その墨が極上であるかのように言い争う。
仙界に帰った李白を訪ねに、ある日ふらりと潘谷君が行ってしまったならば、
人間界にはただ「墨仙」［潘谷のこと］を描いた画だけが虚しく残されることになるのだ。
【補足】［（1）「大金持ちの石崇」はこの後に見る「豆粥」の詩［→作品番号07-1-079］にも登場する。贅沢三昧に暮らしただけの愚物の最高峰として蘇軾はよくその名を引いている。それに憧れたのだから潘岳はよほどの愚か者だということになる。先にさんざんな評価を下した『文選』には、潘岳のかなり感傷的な作品が幾つか収められていて、すこぶる有名である。（2）蘇軾は世間の評判よりも自身の眼が確かだとして、しばしば異論を唱え、定評のある張遇や李庭珪の墨よりも潘岳の方が優れているというのである。もっとも李庭珪の墨が優れていることは作品番号06-4-065などで蘇軾自身が記している］
■【07-1-068】書潘谷墨
【訳文】潘谷について記した短文。これより数年後に書かれたものであるようだ。
【訳文】
墨を売る潘谷について私はその人となりを識っているわけではないが、その為すことを聞くと、そこらの町の人とは異なっている。墨は精妙でありながら、その値は一つに定まっていない。銭をあまり持たない人が墨を求めると、その多少によらず墨を与える。これだけでただ者ではない。かつて私は詩を潘谷に与えたことがあり、
一朝入海尋李白、［仙界に帰った李白を訪ねに、ある日ふらりと潘谷君が行ってしまったならば］
空看人間画墨仙。［人間界にはただ「墨仙」を描いた画だけが虚しく残されることになるのだ］
と、詠んだ。
潘谷はある日、墨の銭をまだ支払ってもらっていない書き付けを焼き、三日間酒を飲み続け、狂を発してやたらと走り回り、井戸に赴いて死んでしまった。人が井戸を見下ろすと、井戸の中で趺坐して、手には数珠を持っていた。
張元明に会ったときに、このように話してくれた。
【補足】［（1）潘谷が不思議な死に方をしたので、蘇軾の詩がそれを予言していたのだと評判になったという。（2）張元明は未詳］
■【07-1-069】与滕達道
【解題】滕元発［字は達道］［→作品番号07-1-060］は蘇軾と会った後に湖州に向かい、その際に、皇帝に着任を報告する「謝表」の代筆を蘇軾に頼んでいる。滕元発は文章を書くのが苦手だったのか、蘇軾は何度も代筆を引き受けている。これは潤州で会った後に滕元発に宛てた手紙。
【訳文】
かつてお別れしてから四年の間は、互いに流離し無沙汰を重ねておりましたが、思いがけずまたお目にかかることができました。手を取り合い、恍然としていつの間にか涙がこぼれておりました。
日に日に風俗が悪くなり、忠義というものがほとんど見られなくなり、そのようなときに貴君を見ると、人は勇気が増すのを感じます。かつてお別れしてからの懐いは佳ろしいものではありませんでしたが、このたびお教えを受けてすっかりそれが解けました。お手紙で貴君が日々御佳勝のことを審らかにし、安堵いたしました。
まだ少しばかり用事が残っていますので、さらに数日をここで過ごしてから北に向かいます。宜興の田についてはすでに問い合わせをしています。もしもやや佳いところがあったなら、舟で行って視ることになるでしょう。その折に湖州にも参れましょうか。貴君とお会いするのはもとより願うところですが、配慮すべきこともありますので、あるいは行けないかもしれません。もしも常州に住みたいとの願いが聞き届けられましたなら、もとよりすぐに湖州に参ります。それまでには数カ月ほどかかるでありましょうか。万万自重されますように。
【補足】［（1）冒頭に4年前に会っているように記されている。黄州では二度のすれ違いがあったことを前の章で見ている。実際には会えていたということであろうか。（2）「宜興の田」とは、作品番号07-1-054で触れていた常州に退隠するプランで、滕元発と具体的な場所を挙げて相談を始めていたのだろう。作品番号07-1-059で上げていた陽羨渓は常州宜興県にある。（3）ここには、数日中に北に向かうと記してあるが、潤州滞在は意外と長引き、しかも長江をまた遡って真州に行くことになる。潤州と真州の間を行き来する間にも滕元発に何通かの手紙を出しているが、それらを時間順に並べるのは難しい。いよいよ「小児の遷延」が本格化して、はたから見ると蘇軾はふらふらと迷走をする］
■【07-1-070】蒜山松林中可卜居、余欲僦其地、地属金山、故作此詩与金山元長老
【解題】上の手紙で見たように、蘇軾は「宜興の田」を得ることを模索しつつ、もっと手近によい場所があると聞いて、そちらにも強い関心を示した。長江のほとりにある蒜山の松林の中に手頃な土地があり、そこは金山寺に属するというので、詩を作って金山寺の仏印禅師［了元長老］［→作品番号07-1-061］に己の希望を打診してみた。
【訳文】
太古の魏王の巨大な瓠、
そんなものが本当にあったかどうか誰も知らない。
その種を植えたら、五石の水を入れることのできる実が成り、
割ると二つの大きな樽船ができたとか。
ただ困ったことに、
どこの川も湖も、浅くて狭くて、それを浮かべられなかった。
私は現代の魏王の瓠なのか、
本来何の役にも立たないのに、
虚名ばかりが大きく膨らんで世間を驚かせている。
大きな駄法螺を吹くやからは昔からいて、
漢の東方朔先生は「知恵と勇気は孔子の高弟二人分」とほざいていたし、
唐の杜甫先生は「老いて愚かなことは古代の大馬鹿者二人分」とぼやいていた。
私なんぞは孟子が褒めた柳下恵の奥ゆかしさを学ぶとかいっているくせして、
これは酸っばいだの塩辛いだのとつまらない言い争いに首を突っ込んでしまう。
金山にもおかしな人がいると、以前から聞いていたけれど、
ようやく今になって知り合うことができた。
我は酔うといつも「世間とはもうおさらばだ」というのだが、
傍の人は笑い飛ばして聞こうとしてくれない。
金山のその和尚だけは本気であると見抜いていて、
「どこに帰るつもりかね」
と私に尋ねてくれる。
私は笑って蒜山を指さし、
「『生は浮くがごとく、死は休むがごとく』といいます。
あそこが浮いて休む身を寄せるところです。
どうかこの『無家一房の客』［定まった住処を持たない旅人］を招き入れてください」
【補足】［この詩はたぶんダメ元で仏印禅師に送ったのだろう。よい返事は得られなかった］
■【07-1-071】蘇子容母陳夫人挽詞
【解題】蘇軾は潤州で二篇の挽歌を作っている。ただし、この後で見るように、蘇軾は「小児の遷延」の間に何度も潤州を通過しているので、そのいずれの時期に詠んだのかは必ずしもはっきりしない。すでに上で読んだ作品のいくつかも同様である。これは蘇頌［字は子容］のために作ったその母の陳夫人の挽歌。蘇頌は蘇軾よりも16歳年長で、その名を作品番号06-5-016、05-3-038などで見ている。蘇頌はこのとき母の喪に服して郷里の潤州に帰っていた。この詩は、この訳文を見ればわかる通り内容は乏しい。かつて蘇軾が母の墓誌銘を司馬光に書いてもらったことを思い返すなら［→作品番号01-2-017］、当時の士大夫が互いにその両親を重んじる付き合い方をしたことが知れてくるであろう。
【訳文】
陳家の舅翁［陳夫人の父］は氷のように清く、
蘇家の甥［蘇頌の父］は玉のように輝き、
その始まりからして頽れた風俗を正す風儀を具えていた。
陳夫人の高い節義はその家風に適い、
凜凜として寒さにも映える松や竹のようであった。
鶏が鳴くころから日日に新たなる善に努め、
八十三年を一つの朝のように過ごした。
家を守り母君の長寿に仕えただけでなく、
朝廷のために優れた人を生んだのであった。
身を忘れて国ために殉じる人こそがその子で、
三度朝廷に仕えて喜びや怒りを表すことはなく、
正しいことをいおうとするだけで、官位の高下にこだわることはなく、
人の世の去来はすべて夢のように見なしていた。
ここに誦じる挽詩などはまことに小さなもの、
墓碑の千字もまた陳夫人の行いを十分に記すものではない。
後に歴史家がこの家に伝わる文書を見たならば、
史書に掲げるべき立派な夫人がここにいたと知るであろう。
■【07-1-072】王中甫哀辞、并叙
【解題】潤州で王沇之［字は彦魯］と出逢い、その父の王介［字は中甫］を偲ぶ詩を作った。王介は嘉祐6年［1061年］に一緒に制科に合格した間柄で、その死を悼む詩を作品番号05-2-024で見ている。序文がある。
【訳文】
叙
仁宗皇帝の御世に制科に合格したのは十五人。私が忝くも合格となったときにはそのうちの九人が世にいた。すなわち、富弼、張方平、銭明逸、呉奎、夏噩、陳舜兪、銭藻、王介、それに私と弟の轍であった。それから十五年、密州で王介の死を哭し、詩を作って弔った。このときすでに銭明逸、呉奎、陳舜兪が亡くなっていた。さらに八年、私は黄州から汝州へ量移となり、たまたま京口［潤州］で王介の子の王沇之と遇い、手を取って泣き合った。このとき十五人のうち生きているのは三人だけとなっていた。すなわち張方平と私と弟の轍である。ああ、悲しいではないか。
ここに先に王介を哭した詩と同じ韻を用いて王沇之に詩を与える。ときに王沇之もまた罪を得て流謫となり、銭塘［杭州］に住むという。
貴君の父上は、一束の藁でその篤い心を示した昔の高士のような人であった。
貴君は、一束の藁を盗んだ童僕のために連座した昔の忠臣のような人である。
貴君は達観し、これからいかになろうかと思い煩ったりしない。
私は衰え、これからいかにしようかと、夢の中で空想することさえできない。
昔の寓話に、
Aさんは世間のために何もしないで長生きをしたが、最後は虎に食われてしまい、
Bさんは世のために奔走したけれど、若くして病死してしまった、
CさんがDさんに「おまえは間もなく死ぬ」といったところ、
Dさんは「俺が死ぬなら、俺は俺の死んだことを知らないし、おまえが生きていることだって知らない、どっちが死んだのかわかりはしない」と答えた、
つまるところ、A、B、C、Dのどれがよいのかわかりはしないのだ。
はっきりしているのは、東の坡にぐずでとんまな野郎がいるということ。
その者は、
舟から川に剣を落して、急いで舟ばたにしるしを付け、
「ここで落とした」と叫び続けているようなことばかりしているのだ。
【補足】［（1）「哀詞」という題ではあるが、哀しみは序文で十分に書いたということなのだろうか、詩は王介のことよりもむしろ蘇軾自身のことを多く歌っていて、しかも諧謔の作である。（2）原詩は、いくつかの故事を並べ、その解釈は読む人に委ねている。この訳詩は含意するところのものをやや顕わに出している。全体として、運命に翻弄される身ではあるけれど、いたずらに己の過去に縛られることなく、高潔な志は失わずにいたいということがいいたいのだろう。（3）仁宗皇帝の世に制科に合格した15人中の最後の3人であるとは、蘇軾の強烈な自負心を示すとともに、時代の流れと乖離してしまった焦燥感をも示すのだろう。両者の葛藤からは、これ以上罪人としての屈辱を味わうよりは、誇り高く退くべきであろうとの結論が出るのは容易に推測できる。（4）この年の8月に官界の大先輩の趙抃［→作品番号06-4-030、05-5-082］が亡くなっている。8年後に蘇軾は趙抃の墓所に建てる神道碑に刻む文章を記す。それは父の蘇洵以来趙抃に特に世話になった感謝の念から執筆を引き受けて、遺族から示された資料に基づいて綴ったもので、蘇軾らしさをそこに見出すことはほとんどできない］
■【07-1-073】減字木蘭花
【解題】蘇軾は9月中頃に潤州を発った。船に乗り込もうとすると、2人の女性が「どうかあのときのお願いを叶えてくださいませ」とすがりついた。見れば、潤州知事の許遵が催した宴席にいた鄭容と高瑩という妓女で、2人は宴の隙を見て、「我らは『落籍』［官妓の身からの解放］と『従良』［良い夫のもとに嫁ぐ］を願っております。どうか手助けしてください」と蘇軾にささやきかけていた。蘇軾はうなずいただけであったが、蘇軾がかつて官奴［官に仕える妓女は自由を奪われているのでこのようにいわれていた］を解放してきたことを知っていたので［→作品番号04-1-052］、この機会を逃すまいと、蘇軾が旅立つ前にと懸命に追いかけてきたのだった。蘇軾は微笑み、「これを知事殿のところに持って行きなさい。見ればわかってくださるであろう」と、一篇の詞をさらさらと書いて渡した。それが以下の詞で、詞としての意味は特にないので訳さないが、各句の頭の文字を並べると「鄭容落籍、高瑩従良」となっていて、2人の妓女の希望をこの詞に托して許遵に知らせたのだった。
鄭荘好客。
容我樽前先堕幘。
落筆生風
籍籍声名不負公。
高山白早。
瑩骨氷膚那解老。
従此南徐。
良夜清風月満湖。
【補足】［この詞によって2人の妓女が解放されたかどうかは伝えられていないが、許遵はきっと無視することはなかっただろう。なお、妓女の身を管理する権限は知事にあった］
■【07-1-074】与王荊公
【解題】ようやく潤州を発った蘇軾は北に向かうのではなく、西に長江を遡って再び真州を訪れた。これは金陵で会った王安石［荊公］に宛てた手紙。一通目は会って間もないころのもの、二通目は二十日余り経ってからのもの。二通目から、蘇軾は潤州に行ってからまた真州に戻ったことがわかる。
【訳文】
（1）私はかねてから公の門下生でありながら、これまで長らく、お訪ねしてお近くでお声をお聞きすることありませんでしたので、今回のことは幸いの極みでありました。お別れしてすでに日が経ち、なお仰ぎ見る気持ちは言葉では尽くせません。敢えて重ねて参上することはありませんが、今後の御康勝をただただ願うものであります。
【補足】［ここで門下生であると記しているのは、蘇軾が制科の試験を受けたときに王安石が試験官の一人であったからだ］
（2）……私は初めて金陵に田を買って、できればお膝元にお仕えして、鍾山の下に老いたいとの気持ちを持ちましたが、それを遂げることはできず、いままた真州に来ております。あれから二十日余り、田を求めようとしていますが、まだ成否のほどはわかりません。もし幸いにもうまくいきましたなら、舟によって往来して、公にお会いするのも難しくはないでありましょう。
先にしばしば高郵の秦観君について申し上げました。公もまたあらかたその人となりを御存知でありましょう。いま秦観君の詩文数十首を得ましたので、差し上げることにします。……［秦観を褒め、王安石の支援を願う言葉を並べる］……
【補足】［（1）金陵に来てから以降は、もはや汝州に行く気をなくし、とにかく土地を得ることに懸命であった。（2）この手紙の後半は秦観を支援してほしいと、言葉を尽くしている。才能がありながら科挙には縁がない秦観のために何とかしたいと蘇軾は力を尽くしているのである。このとき王安石に送った秦観の詩文は、潤州で会ったときに受け取ったものであろう］
■【07-1-075】菩薩蛮
【解題】二度目の真州訪問で蘇軾が何をしたのかはわからない。また潤州にもどり、潤州から今度は大運河を南に下って常州に向かった。先に作品番号07-1-069に記してあった「宜興の田」を得られる目途が立ち、宜興県の陽羨にまで行き、土地の人である単秀才という人物に伴われて現地を見て、そこを買うと決めた。得た土地の管理は蒋公裕という者に頼んだ。もしかすると、蒋之奇［→作品番号07-1-059］の一族の者であるのかもしれない。土地を獲得するに当たっては、湖州知事になっていた滕元発の助力もあっただろうし、郷里の大先輩である范鎮［→作品番号06-4-017］からの資金援助もあったようだ。これは土地を得たことを歌った詞で、弟に向かって詠んだという解釈のもとで訳す。筠州で弟と会ったときに［→作品番号07-1-010］、このようになるとの方向性を告げていた推測しても、たぶん大きな間違いではないだろう。
【訳文】
従来只為渓山好。［これまではただ渓山のよろしいところでありました］
来往一虚舟、［これからは舟に一人乗って行き来し］
聊随物外遊。［世俗の外に出て遊ぶのです］
有書仍懶著。［君からの手紙に物憂くてまだ返事をしていません］
水調歌帰去。［かつて『水調歌頭』の詞に早く退隠すべきことを歌いました］
筋力不辞詩。［僕の身体の力は詩を詠むくらいならまだできます］
要須風雨時。［待たれるのは、君と牀を並べて夜の雨の音を聞くことです］
【補足】［かつて詠んだという『水調歌頭』の詞は作品番号05-3-051で見ている。「夜雨対牀」は兄弟の最も望むものである［→作品番号02-1-013］］
■【07-1-076】艤舟迎恩亭題
【解題】宜興県で土地を見て引き返すときに迎恩亭で記した短文。
【訳文】
朝早くに宜興を発ち、わずかな酒で酔い、机の上に拳を置き、頭を垂れ、そのまま寝てしまい、舟が出たのも知らずにいた。迎恩亭は門の外を見るだけでとりわけ風味があり、千年の歳月を想像させるものがある。
■【07-1-077】陶淵明詩
【解題】上と同じ舟中で陶淵明の詩を写した。蘇軾自身の言葉はないが、このときの心情を十分に窺い知ることができるであろう。
【訳文】
丈夫志四海、［男児たる者、天下を志せというけれど］
我願不知老。［私が願うのは――老いを知らずに］
親戚共一処、［親戚が一緒に暮らし］
子孫還相保。［子や孫もそろって元気で］
觴弦肆朝日、［朝から盃やら楽器やらを並べ］
樽中酒不燥。［樽の中の酒が途切れずにあって］
緩帯尽歓娯、［帯を緩めて楽しみを尽くし］
起晩眠常早。［起きるのは遅くて、いつも早く眠ること］
孰若当世士、［どっちがましなのだろうか――いまの世間の連中が］
冰炭満懐抱。［氷と炭のような互いに反することをいっぱい願って］
百年帰丘壟、［百年後に墓に納まるまでの間に］
用此空名道。［ずっと虚名にひきずられっぱなしでいるのと］
元豊七年十月二日、宜興の舟中で写す。東坡居士記す。
■【07-1-078】楚頌帖
【解題】土地を獲得できることになって、蘇軾の気分は高揚していたのだろう。上と同じ日にこの短文を記している。
【訳文】
私は陽羨にきて、舟で荊渓に入った。気持ちが豁然として、ふだんからの望みがまさに遂げられかのようである。ゆくゆくはここに帰って老いるのが、ほとんど前世からの縁だったのだろう。王羲之は、「私は東山で死ぬのだ」といった。死ぬべき場所が定められているとするのは虚言ではないのだろう。私はもともと農作業を好み、果樹の接ぎ木ができ、橘を植えるのを最も好む。陽羨は洞庭山の近くにあり、柑橘類を得やすいところだ。暇な折に小さな畑を買い足し、柑橘類を三百本ばかりも植えるとしようか。屈原は『橘の頌歌』を作った。我が果樹園ができたなら、そこに一つの亭を作って、それに「楚頌」と名付けるとしよう。
元豊七年十月二日。
【補足】［（1）将来の楽しい計画について記しているのは作品番号06-2-024の其の六に似ている。（2）蘇軾の死ぬべき場所がどこに定められていたのか、第13章の終わりで見るであろう］
■【07-1-079】豆粥
【解題】この詩は常州で詠んだか定かではないが、このころの心情を推し量るよすがにはなるであろう。
【訳文】
誰もが知っているように、
劉秀［後の光武帝］が戦に敗れ、滹沱河の流れで車軸を折られてしまったとき、
将軍の馮異は急いで豆粥を用意し、
参謀の鄧禹は湿った薪を破れた竈にくべ、
劉秀は濡れた衣を自分で乾かした。
豆粥で飢えと寒さを免れた以上に、
劉秀は馮異と鄧禹の心に感じ入った。
やはり誰もが知っているように、
金谷にあった晋の石崇の邸宅では、
不意の客人があっても、帳のもとに美女をずらりと並べて豆粥を煮させ、
そのときが氷を敲いて割る厳冬の季節であっても、
粥には春の野菜がふんだんに入れられていて、
どのようにしてそれを用意したのか知る者はいなかった
石崇は戦が迫ってきても、声色にまとわれつかれたまま心は酔い続け、
どこにも身を寄せるところがなくなってしまった。
身も心も顛倒いるのが自分でわからなくて、
どうして人間世界の真実を知ることなどできようか。
石崇の贅を尽くした豆粥などは、
川のほとりの葦原の茅ぶきの小屋で細い煙を上げて煮た劉秀の豆粥にはとても及ばないのだ。
粗末な碓でも秔を挽けば玉のように輝き、
粗末な瓶でも豆を煮れば酥のように柔らかくなる。
私はいま老いて所有するものは何もない。
東の地に来て、書物を売り払って、ここに住もうと思っている。
臥したまま鶏の鳴き声を聞き、
寝癖のついた髪のままで杖をついて君の家に行くと、
ちょうど豆粥が煮え上がっているのだ。
【補足】［（1）この詩は先に見た『眉石硯の歌』［→作品番号07-1-039］と同じ構成になっていて、対照的な二つの故事を並べて、己の考えを提示している。（2）最初に引いた故事は、漢王朝を再興しようと立ち上がった劉秀［光武帝］が命運をかけた一戦に大敗し、最大の危機に陥ったときのことである。蘇軾もいま大きな岐路に立っていると感じていたのだろう。（3）石崇は作品番号07-1-067にも登場していた大金持ちの大馬鹿者である。朝廷の実権を握る人々に靡いて、その石崇のような贅沢な暮らしを手に入れようとするのは論外としても、汝州に行けばさらなる恥辱を蒙る恐れは多分にあった。かといって量移の命令に背くことはできない。ならば退隠する以外にないと、ささやかな農地を獲得したのだった。（4）この詩の最後の句にある「君」とは誰なのか、次に見る手紙の人であるのかも知れない］
■【07-1-080】答賈耘老
【解題】宜興県から常州に戻る間にこの手紙を書いた。賈収［号は耘老］への返書である。賈収は湖州の隠者で、滕元発に会うことを勧めていた［→作品番号07-1-054］。
【訳文】
私はすでに陽羨に農地を買いました。我が余生に憐れみをかけてくださいますよう聖主［皇帝］に申し出て、そこに住むことをお許しいただくつもりでいます。幸いにも許可が得られましたなら、荊溪のほとりに住まいを築き、そこで老いを迎えるつもりです。私は門を閉ざして外出しませんので、貴君におかれてはどうか舟でお越しください。酔ってまともな字が書けません。お許しください。
■【07-1-081】答秦太虚
【解題】蘇軾は常州からさらに潤州に戻り、知事の許遵［→作品番号07-1-060］に送別の詞を送って長江を渡り、揚州に至った。ようやく汝州に至る順路に乗ったことになるのだが、陽羨で土地を得られることになった蘇軾は汝州には行かずにすませる算段を思案して実行して行くことになる。皇帝の指示に反することをしようというのだから簡単に実現できるものではない。そのことについて秦観［字は太虚、少游］［→作品番号07-1-064］に宛てた手紙に記している。秦観は潤州で蘇軾と会った後に郷里の高郵に帰り、大運河を北上してくる蘇軾を待ち受けていた。
【訳文】
お別れしてからお手紙を書こうと思いつつ、紛紛して暇がなく、またすぐにお会いできるであろうと思ってもいたので、ついつい書かずにいましたところ、一日また一日と過ぎて、ついに今に至ってしまいました。重ねてのお手紙を頂戴してこの日々の御様子を伺い、心が慰められます。
私は宜興に少しばかりの田を手に入れました。揚州に至りましたなら、遞［官の通信網］に附して常州に住むことを皇帝に乞い願うつもりです。いま宜興県に銭を納めるために甥の息子を遣わしており、その者が帰ってきたなら出発するつもりでいるのですが、まだ戻ってきていません。その母が私と別れ難くしてもいます。舟は竹西で待っていて、二三日のうちには必ずそこに行くでしょうから、貴君には冬至の前にお会いできるでしょう。若い者は事に慣れていなくて、いささか心配でもありますので、そのまま抛って進んでしまうこともできません。お会いするのが遅くなり、一日が一年のように感じられます。……
【補足】［（1）「甥の息子」とあるのが具体的に誰であるのかはわらかない。また、訳者はこの時代の土地の売買について無知なので、「宜興県に銭を納める」と記されているのが何のためであるのかわからない。後に、土地の所有権を巡って若干のトラブルが生じたようなのだが、それが何に起因するのか、どのように解決されたのか理解する力がないので、その件について触れることができない。（2）皇帝に願い出る文章とあるのは、次にそれを見る。（3）竹西は揚州の町を通り抜けた先で、後でまた見ることになる］
■【07-1-082】乞常州居住表
【解題】常州に退居することを願う文章。「表」とは皇帝や役所に願い出る文章。
【訳文】
汝州団練副使本州安置不得簽書公事騎都尉の臣蘇軾、
右の者は狂妄をもって罪を得ましたが、伏して聖恩を蒙り、なお余りの生を賜り、善い地に置いてくださいました［黄州に流されたことをいう］。それより歳月がいまだいかほどでもないのに、お目こぼしを蒙り、都に近いころに量移されなることとなりました。この再生を賜り、万死をもってしても酬いることができません。
臣の家は貧乏を重ね、すぐに安置される所へと向かうべく船に乗りましたが、黄州を離れてからは、波風の恐ろしさに驚かされ、一家を挙げて病気となり、幼い子を喪いました。今はすでに揚州に至りましたが、旅費が尽き果て、陸に上がることもできません。汝州に参りましても、そこに土地があって農業を営めるわけでもなく、いかに生きたらよろしいのか、飼い主のない犬や馬と同じように憂い、飢えや寒さに厳しく迫られることとなりましょう。密かに思いますに、朝廷は仁の至りによって臣の命を全うさせてくださいましたからには、それが失われることはきっと憐れんでくださるでありましょう。
臣は先にわずかな農地を得まして、それは常州宜興県にあります。薄い粥くらいならどうにか得られますので、聖慈をもって特に常州に居住することをお許しいただきたく希望するものであります。もしも罪の深さにもかかわらず生きながらえられ、さらには身を捨てて酬いることができるのならば、死んでも留まるものではありません。
臣はいまここで敢えてぐずぐずすることなく南京応天府に至り、朝廷からの御指示を仰いで従うようにいたします。
天威を犯し、伏して罪を待つこと戦々恐々の至りにございます。謹んでお伺いを立て、伏して勅旨をお待ちいたします。
元豊七年十月十九日、汝州団練副使本州安置不得簽書公事騎都尉臣蘇軾、状を以て奏します。
【補足】［皇帝からの指示に従わずに自分の願いを申し出るのであるから、蘇軾は非常に気を使ってこの文章を書いたのだろう。移動の旅の困難を書き、旅費が尽きたと記している。自分がいかに困難な状況にあるかを強調したものではあろうけれど、実際に蘇軾の懐具合はかなり苦しかったはずである］
■【07-1-083】広陵後園題申公扇子
【解題】揚州は物流の一大拠点で、北宋の四大都市［都、揚州、杭州、成都］の一つで、ここでも蘇軾は積極的に大勢の人々と交流している。その1人に呂公著がいた。そのときの様子が邵博の随筆『邵氏聞見後録』［→作品番号07-1-046］に記述されている。呂公著は蘇軾より18歳年長の保守本流の超大物政治家で、蘇軾とは時折接点があった［→作品番号05-4-117など］。この項の表題に掲げたのは、蘇軾の詩のタイトルで、以下の訳文では、詩の前後に邵博が記した文章を添えてある。
【訳文】
呂公著が揚州知事であったとき、蘇軾は黄州から汝州に移る折に揚州を経由し、呂公著に会った。呂公著は蘇軾に酒を出したが、終日一語も交えなかった。蘇軾は酔って眠り、「夜は寒く、羅衣の薄さをそぞろに覚えます」と歌妓が歌う声に、蘇軾は驚いて目を覚ました。歌妓はこっそり笑い合った。酒が終わって庭に出て、座が改まると、蘇軾は筆と墨を求め、歌妓の団扇に詩を書いた。
露を宿す葉、風に揺れる枝、
暁の風儀はともに等しい。
そして、緑の陰の青い実は浄く塵もない。
家を巡って樹木がたわわに繁ると歌ったのは陶淵明であった。
ここでその句を吟じると、
なるほど陶淵明は可人であったと知れる。
呂公著はこれを見ても何もいわなかった。
【補足】［（1）蘇軾の詩は、呂公著を陶淵明に比して讃えただけのもので、内容は乏しい。（2）歌妓が歌った歌詞は「夜来走卻羅医博」という当時の諺にひっかけた駄洒落になっているようなのだが、その諺の意味が訳者にはわかっていないので適切な訳ができていない（3）呂公著が終始無言であったのはなぜなのか。朝廷の目を気にしてのことであるのは間違いないだろう。呂公著は名門の大物であり、蘇軾は人気随一の文人、2人が会って何を話したのか、必ず世間の耳目を集めることになる。（4）上で見た皇帝に願い出る文章を、蘇軾は官の通信網を使って揚州から都に送ろうとした。ところが、役人は規則に反するからと受け取りを拒否した。朝廷の中心人物たちから嫌われている者の勝手な願いを受理したらどのようなお咎めを受けるかわからないので、細々した規則を盾に拒否するのが役人としての当然の態度であったのだろう。その際に、知事の呂公著は何ら手助けをしなかったようである。管轄外のことで介入できないということであるとしても、蘇軾と会っても終始無言であったというところに呂公著の姿勢がよく現れているといえるだろう］
■【07-1-084】書韓魏公黄州詩後
【解題】蘇軾が8歳のときに憧れたスーパースターの1人に韓琦がいた。韓琦は若い頃に一時期黄州に滞在していたことがあり、それから40年後に黄州出身の孫賁という官員の訪問を受け、韓琦は一篇の詩を詠んだ。孫賁はそれを石に刻んで黄州に置きたいと考え、蘇軾に記念の文章の執筆を依頼した。これはそれへの返事として書いて送ったもの。揚州滞在中に書いたと推測されている。
【訳文】
黄州は、山水は清遠、気風は厚善である。その民は求めることが寡なく、争いごとがない。そこの士は静かで風采があり、朴訥であっても陋びていない。路地裏の貧者であっても、賢者を敬愛することを知っている。
黄州の人々は、「吾が州は都から遠く、ちっぽけなところではあっても、かつて王禹偁様も韓琦様もお住まいなされた」と、四方の人々に向かって誇らしげにいう。王禹偁は黄州から蘄州に移り、そこで亡くなったのだが、世の人が王禹偁を語るときは必ず黄州をいい、黄州の人は「吾が王禹偁様」という。韓琦は黄州を去って四十余年経っても黄州のことを思い、忘れることなく詩に詠んだ。
そもそも賢人、君子は天下の民のために何かを遺し、天下の民はそれを共有する。黄州の人だけが二公の遺したものを専有しているのだろうか。あるいは、徳を尊び、道を楽しむことが他の土地の者と異なっているのだろうか。二公と黄州の人の間に、遠い昔から知ることできない契りがあったのだろうか。
王禹偁は黄州の郡守となりその民に対して徳があった。だから、黄州の民が王禹偁のことを懐って忘れないのは理解できる。韓琦は家人の喪に服し、その兄に従って黄州に住んだだけだった。それでいながら、黄州の民はどうして韓琦のことを知ったのだろうか。
『詩経』にはこうある。「匪たる君子［立派な君子］あり、金の如く、錫の如く、圭の如く、璧の如し」。この句は、金、錫、圭、璧のあるところを瓦礫や草木が覆ってその光沢を隠したとしても、その本質を失わせることはないということから、君子の徳も隠せないことを歌っている。韓琦はまさにそういう人なのである。
奉議郎の孫賁は黄州の人で、韓琦の客人となり、韓琦は孫賁のことを深く知って、属官として用いた。私は韓琦の門人で、五年の間、黄州に謫居した。東の坡を耕し、雪堂を築き、そこに老いることとなって、自分もまた黄州の人であると考えた。我等二人は、韓琦の詩を写して石に刻み、もって黄州の人々が韓琦を思うことを無窮に伝えようとするものである。そして、我等二人はここに託して韓琦と黄州のつながりを忘れまいとするのである。
元豊七年十月二十六日、汝州団練副使蘇軾記す。
【補足】［なお韓琦は9年前の熙寧8年［1075年］に亡くなっている［→作品番号05-1-053］］
■【07-1-085】与徐得之
【解題】徐大正［字は得之］に宛てた手紙。徐大正は、かつて黄州知事の任にあった徐大受の弟で、兄が亡くなったために、その棺を携えて帰郷したのだが［→作品番号06-5-011］、蘇軾に会おうとして揚州の方に向かってきているとの手紙が蘇軾のもとに届いた。これはそれへの返事。徐大正の故郷は閩中［福建省］の建安で、揚州からは南に遠く離れている。徐大正が黄州を発ったのはこの年の3月で、半年余りのうちに、郷里での葬儀をすませてさらにまた揚州にくることになったのだろうか。もしかすると、まだ郷里にへの旅の途中で、兄の棺をどこかに留めて蘇軾に会いにこようとしたのだろうか。
【訳文】
貴君とは足掛け二年にわたって家族と等しいような気持ちでお付き合いし、たちまち遠く別れることになって、いまも残念に思っております。お手紙をいただき、お健やかにお過ごしのこと、結構に存じます。こちらに来られるとのことですが、遠くに水に隔てられ、難儀でありましょう。果たして十五日までに間に合いましょうか。すでにそちらを発たれたでありましょうか。私はこの間にあれこれ努め、ついに定住するよい場所を得ました。万万自重されますように。
【補足】［ここにある「十五日」とは、11月15日のことであろう。後の経緯を見ると、11月15日には揚州を離れることを予定していたので、それまでに来てくれれば会えるというのである］
■【07-1-086】徐大正閑軒
【解題】幸いにも徐大正［字は得之］と再会でき、蘇軾はこの詩を贈った。徐大正の住まいである「閑軒」に寄せた詩。
【訳文】
氷雪の中で繭を作るという「氷蚕」は、寒さというものを知らない。
火山の中で毛を伸ばすという「火鼠」は、熱さというものを知らない。
だから、閑ということを知り、閑なるところを知る者は、
実は閑を侶とする者ではないのである。
ここに東の坡の翁がいる。
誰よりも懶散で、身体を酔夢の内に置き、
暮らし向きのことはほったらかし、
早くに眠るから灯火を見たことがなく、
遅くに起きるから普通の人の晩飯が昼飯になる。
盗人が毛氈を盗っていこうとしても横になったまま眺め、
麦が雨に流されても座ったまま眺めている。
話すのが稀であるから舌はこわばってしまい、
歩くのは少しだけであるから足腰は屈まってしまう。
黄州の町にいること五年、黄州の太鼓の聞こえないところにまで出たことがない。
人はいう、
「東の坡の翁はもともと閑人であるから、閑なるところに置かれているのだ」
翁は問う、
「はて、閑とはどういう味わいのものなのだろうか」
眼が自分の眼を見ることができないように、
翁には閑というものがわからない。
翁が訝るのは、
「徐君は閑軒とかいっておるようだが、どれほどの閑を得ているものやら」
とかく世間の者は閑には耐えられない。
伝介子という人は、遠く西国に刺客として行くことを敢えて志願したし、
尹翁帰という人は、文官と武官を分けたときに敢えて両方を兼務したいといった。
二人はこうして家の名を輝かした。
翁は閑であるから詩でも作るしかない。
かくてこの詩を作るうちに、
だんだんと閑でないことをいうようになってしまった。
徐君は閑軒に住んでいながら、
いったいどういうわけで千里を走る汗血馬のように遠くやってきたのだろうか。
まあ背に鞍を載せるくらいなら、
鞭で打たれつつ塩を満載した車を曳くよりはましだろう。
【補足】［詩の後半は、蘇軾と会うためにあたふたやってきた徐大正を、「閑」とは正反対のことをしていると、少々手荒くからかったものであろう］
■【07-1-087】与徐得之
【解題】徐大正［字は得之］は遠くから来て、たちまち去って行ったようだ。
【訳文】
聞けば舟を操って数百里の道のりも遠いとはせずに来られたとのこと、風義の重さに感慰の極みであります。お疲れではないでしょうか。揚州には数日間留まるとはいえ、御一緒できる機会は少なく、一緒に宿泊することもできないままにまた遠く別れてしまうのでしょうか。残念なことであります。
■【07-1-088】元豊七年十一月十三日、与幾先自竹西来訪慶老、不見、独与君卿供奉、蟾知客東閣道話久之
【解題】この詩の題は、「十一月十三日、杜介［字は幾先］とともに竹西寺からある寺に来て慶老を訪問したが不在であった。寺には君卿［元の官員］と供奉［接待役の僧の］蟾がいたので東閣でしばらく仏教について語り合った」。杜介の名は作品番号06-1-110で見ていて、蘇軾が湖州で逮捕されて都へと護送されて行く途中で揚州を通過したときに、舟から杜介の隠居所を見て、何ともいえない気持ちを抱いたのだった。竹西寺は揚州郊外にある禅宗の寺。慶老と君卿については不詳。
【訳文】
黄色い落ち葉が長い廊下を走る。
香の煙は長く垂らした簾の内に籠ったまま。
主人［慶老］が帰り来るのを待っているのだが、
ついに帰って来ない。
紅い火は消え尽くし、香は灰となって雪のようになる。
【補足】［これより10年余り後に、蘇軾はふとこの詩を思い出して書き留めた。そうしていなかったら消えていた作品である。蘇軾の記憶力は驚異的で、日付も、一緒にいた者の名も正確に覚えていたのである］
■【07-1-089】秦少游真賛
【解題】竹西寺には秦観［字は少游］［→作品番号07-1-081］の肖像画があり、蘇軾はそれに賛を記した。
【訳文】
貴君をもしも仕えさせたなら、粗末な服を着て、その行動は正しい。貴君をもしも隠れさせたなら、美しい言葉をいい、心は豊かである。貴君が一人置かれて、人が求めなければ貴君は一人のままでいる。人が求めるのなら貴君は腹蔵なく話す。仕えさせるか隠れさせるか貴君が預かり知るところではなく、そうなるようになるところにたまたま遇えばそれに乗るだけで、そのようにして世に遊び、ついに郷里に帰るようなこともないのである。
■【07-1-090】別択公
【解題】禅僧の無択［択公］と別れたときの詩。無択とは今回初めて揚州で知り合ったようで、揚州郊外の竹西寺にまで蘇軾に同行し、そこで別れた。無択とは後にまた会うことになる。
【訳文】
揚州の北に、隋の煬帝を葬った塚がある。
わざわざそこに立ち寄って煬帝を弔うほどの暇は、
無択師は持ち合わせていない。
それでも、竹西寺に来られたのはなぜなのか。
揚州から流れくる遊興の音楽を聴こうというのだろうか。
【補足】［揚州は繁華な都会であったから、歓楽街も繁盛し、その賑わいが竹西寺にまで聞こえるのだろう。巷の喧騒を耳にするのもまた仏道に帰依する縁になるというのだろうか］
■【07-1-091】邵伯梵行寺山茶
【解題】蘇軾は竹西寺から船で発ち、大運河を北上した。杜介［→作品番号07-1-088］が同行し、邵伯鎮の梵行寺に立ち寄り、山茶花を詩に詠んだ。
【訳文】
山茶花の木が対をなしている。
誰が植えたのだろうか。
細かい雨が降り、あたりに人はない。
私は独りここに来て君［山茶花］に問う。
「爛紅 火の如くに 雪中に開く――
その真実の意味は何か」
問いかけたところで、君は理解しない。
【補足】［山茶花は蘇軾の問いを理解しないのではなく、真理はもとより山茶花に宿り、それを理解しないのは蘇軾の方であるということであろう］
■【07-1-092】高郵陳直躬処士画雁二首
【解題】蘇軾は11月下旬に秦観の故郷、高郵県に至る。ここに画を得意とする陳直躬という官に仕えない者がいた。陳直躬が描いた雁の画を見ての詩。
【訳文】
其の一
野の雁は、人が来たと見ると、
飛び立つよりも前に、まずその意を改める。
貴君はどこから看て、
人がいないときの雁のこのありさまを写し得たのか。
雁は枯れた木とも変わらないかたちで、
その雁を写した貴君も同じく「自在」［自ずから在るがまま］であったのだろう。
北風が枯れた葦を振るい、小雪がきらきらと落ちかかる。
雲水は淡く昏く、水際に細かい砂礫がある。
矢を負って雁を獲ろうとしたところで無駄だ。
ひとたび起つなら、
雁はもう江海の遥か向こうを飛んでいるのだ。
其の二
もろもろの鳥はしばしばもめごとを起こす。
野の雁だけは静かで潔い。
意に自得して徐に進み、
首を上げ下げする動作にもきちんとした節義がある。
私は衰えた身を江湖に寄せ、
老に伴うのは鵞鳥やら鴨やらの騒がしい連中だ。
書を作って陳先生に尋ねたい――
この夕暮れの景色は苕水あたりなのか。
雁は互いに依依て円い沙のあたりに集まり、
斜めになった月のもとで稍稍に動いている。
一羽が鳴いて翅を鼓つと，
蘆についていた雪が一面の花吹雪となって舞い上がる。
【補足】［描かれた雁に託して自身の心情を詠んだのだろう。苕水は湖州の名勝であることは作品番号05-5-070などで見ている。苕水の名を出して、土地を得た江南の風光に思いを寄せているのだろう。官職から退いて常州に住むというプランは、朝廷に差し出す文書を送り出すことができず、宙ぶらりんのままであった］
■【07-1-093】蔡景繁官舎小閣
【解題】高郵で杜介は帰り、蘇軾は秦観を伴って船を進め、冬至［11月22日］のころに楚州に到着した。そこで官職に就いていた蔡承禧［字は景繁］の官舎にある小閣でこの詩を詠んだ。蔡承禧の名は作品番号06-4-078などで見ていて、蘇軾が黄州の臨皐亭の南に南堂を築いたときに支援をしてくれた人で、そのころは海州にいて、その後、楚州に移ったのである。
【訳文】
貴君は東南の地の誇りであるだけでなく、
お父上の立派な振る舞いをそのまま保っている。
昔むかし、蔡謨は権力者の激怒を買っても連中の阿呆な行為を嘲り笑った。
昔むかし、蔡廊は権力者に強要されても愚かな政策に署名するのを拒んだ。
貴君は都を出されて三年、
風月のうちで千首の詩を詠んで懐を放ってきた。
小閣の扉を開いて、秋の清らかな光のもとに座り、
東の川の明るい照り返しに目を細める、
傍らにあるのは琴と酒、
夕日が靄を染めるまで眺め続け、
千里の彼方へと独り鳥が飛び去るのを見送ると、
貴君は窓の紙に詩を記す。
いつしか小閣の前の柳に、
都から来た立派な船が繋がれるであろうか。
近頃朝廷は制度を一新し、才ある人を集めようと大騒ぎになっているとか。
私と貴君がここで会うのは天の定めによるのか。
貴君は寂寞としてこの東南の地にいる……
【補足】［（1）都から見て楚州は東南の地である。（2）同じ蔡姓の人の優れた行為を挙げて、蔡承禧父子の節義を讃えている。（3）神宗皇帝はこれより3年前に官制の大改革を断行した。宋朝の官僚制度は唐朝からの制度を受け継ぎつつ、新たなものをその都度付け足してきたために複雑かつ無駄の多いものになっていた。制度変更に伴い、出世の道が開けるかと期待する者が大勢いたのだろう。蔡承禧も蘇軾もそういうこととは無縁であるというのがこの詩の終わりの部分。（4）なお、蔡承禧はこのときは楚州を離れて不在であったのかもしれない］
■【07-1-094】和王斿二首
【解題】楚州で王斿［字は元竜］に会い、その詩に和した。王斿は王安国［字は平甫］［→作品番号07-1-050］の子。王安国は王安石の弟で、兄が推し進める改革には必ずしも賛同しないところがあり、特に兄が呂恵卿を重用するのを見て警戒するよう忠告した。そのため呂恵卿によって罪に陥れられ、政界を去って郷里に帰り、これより10年前に47歳で亡くなっている。この詩の第1首は父の王安国のことを詠んでいる。
【訳文】
其の一
かの李白は仙界から人間世界に追放された人であろうといわれていた。
貴君のお父上は、
その謫仙人が長くそのままこの世に留まったその人ではないかと怪しまれた。
舌を動かせば雷の勢いがあり、筆を揮えば神のようにすばやかった。
聞くところでは、
いまは鯨にまたがってのんびり遊んでおられるとか。
思い出されるのは、
かつて大官の前でも虱をつぶしつつ辛辣な批判をしていたお姿。
その気迫は衆人を呑み、人々は目を開けてお父上を見ることができなかった。
お父上の詩は子弟に伝えられ、いまも絶倫の技を誇っている。
旧知の私も白髪となり、
心空しくお父上の詩巻を掩い、
涙を河に注ぎ、天に問うのである。
其の二
私はかつて軟らかな春風に送られて、
ここから遠い地に行き［黄州に向かったことをいう］、
澄み切った冬の月の光もと、
ここに還ってきた。
一年が終わろうとしているいま、
長江と淮河の間に留まったまま、
もっぱら貴君一家の人々の間を行き来している［先に王安石を訪ねたことをいう］。
洛陽から新たに掘削された運河に氷が流れるのを嫌うわけではないけれど、
しばらくはここらの山々の松に雪がつくのを眺めていようかと思っている。
野の梅や官道の柳に春の兆しが動くのはいつだろうか。
貴君の車はそのときに長い橋を飛ぶように走りたいと、
貴君が閑になるのを待っているのだ。
【補足】［このあたりは水路が複雑に交差し合い、都に行くことも洛陽方面に行くこともできた。真冬に向かって運河に氷が浮かぶようになってきたのだろう。それを理由に、蘇軾の歩みは一段と遅くなる］
■【07-1-095】王平甫夢霊芝宮
【解題】上の詩で見た王安国［字は平甫］とは、蘇軾がかつて都にいた頃に交流があり、その縁で、王安国が亡くなった後に遺族からの依頼でこの文章を書いていた。楚州に来たこのときから7年ほど前のことである。
【解題】
王安国は熈寧癸丑の歳［1073年］に（皇城の）崇文館に宿直し、夢を見た。
人に連れられて海上に至った。見ると、海の中に極めて堂々とした宮殿があり、音楽が聞こえてきた。笛を吹き太鼓を叩く人が大勢いるようだった。宮殿に「霊芝宮」の額が掲げられていた。出迎える人がいて、王安国は一緒に行こうとした。すると、宮殿のかたわらにいた人が、水を隔ててこういった。
「まだその時ではありません。しばらくお帰りなさい。いずれそのときにお迎えがまたあるでしょう」
そこで恍然と夢から覚め、禁中の鐘が鳴った。
王安国は心にはっきりと知ることがあり、詩にしてこのことを記した。
万頃波濤木葉飛、［木の葉のような船が万頃の波濤の上を飛び］
笙歌宮殿号霊芝。［笙の聞こえる宮殿があって「霊芝」と号した］
揮毫不似人間世、［額の文字は人間世界のものには似ていなかった］
長楽鐘来夢覚時。［皇城の長楽殿の鐘が鳴って夢から覚めた］
それから四年で王安国は病気で亡くなった。家の人々は哭し、その霊に向かって尋ねた。
「かつて霊芝宮に行かれた夢を御覧になりましたが、その通りになりましたでしょうか。私たちにどうか教えてください」
夕暮れに香を焚くと、人々に語りかけるような声がした。家の人々は紙銭を燃やし、
「霊芝宮に本当に行かれたのでしょうか」
と尋ねて占うと、「そうだ」という答えが出た。
昔、ある人が海の彼方の蓬莱島に行き、楼閣が並ぶ中に白易居［白楽天］の部屋があるのを見た。白居易は詩にそのことを記した。王安国の夢とよく似ている。思うに二人は天が生んだ逸材で、その精神が寓するものは特別で、物の道理がそこに具わり、窮め尽くすことができないほどであった。
王安国の家の人々は泣いてこのことを書いてほしいと私にいい、それでこの文章を書き、家の人々の心を慰めることにした。
【補足】［この夢のことを踏まえて、上の詩の第1首で王安国を仙界から来た人、「謫仙人」といったのである］
■【07-1-096】銭子飛施薬
【解題】これは王安国の子の王斿［字は元竜］から聞いた話を記録した短文。
【訳文】
王斿がこのような話をしてくれた。
――銭明逸は大風の治療法を知っていて、はっきりとした験があり、常に人に施していた。ある日のこと、銭明逸は夢の中で、このように告げられた。
「天がこの者を病気にしたのだ。おまえは天の怒りに違うことをしている。もしも治療を施してやまないのなら、おまえをこの病気にし、おまえの方法でも治癒できないようにしてやるぞ」
銭明逸は懼れて、ついには治療を施さないようになった――
私が思うに、天が病を為すなら、治すことはできなくて、薬を与えても効果がないはずだ。薬を与えて効果があるのなら、それは天も病を為すことができないのである。この話は病の祟りによるものであって、病が薬を畏れ、天を借りて人に薬を使うのを禁じただけなのだ。
昔、晋侯が病になったとき、二人の豎子が体内の薬の及ばないところに入り込んでしまったと夢に見て、やはり治らなかった。昔、李子予の弟が激しい腹痛に襲われたとき、夢で兄が持ってきてくれた薬によって腹中の鬼が退治されるのを見て、実際にその通りになった。
銭明逸は十分に考察しなかったために、鬼によって脅かされてしまったのだ。私ならば銭明逸のようにはしないで、もしも病を治すことができるのなら、たとえ天の怒りによって苦痛を受けるとしても、薬を与えるであろう。
我が家には一つの薬方があって、腹中の悪いものを下すことができる。黄州で試したところ、病は良くなったので、それからは常に人にも施している。
【補足】［（1）銭明逸［字は子飛］は蘇軾よりも一世代上の人。（2）「大風」とは麻風病、すなわちハンセン病のことであるようだ。（3）晋侯の話は、「病膏肓に入る」のもとになった故事。（4）李子予の話は巷間に伝わる奇談の類で、そのときに用いた薬は八毒赤丸であった］
■【07-1-097】和田仲宣見贈
【解題】楚州知事の田待問［字は仲宣］から贈られた詩に和した。
【訳文】
江南の酔っぱらい知事さんは大らかで、
町の人々にも気さくに声をかける。
旅を続ける私には川の水さえ応えてくれず、
月だけが情があるかのように一緒にいてくれる。
知事殿に弟子入りすることは叶わないとしても、
「酒の友として貴君に勝る者はいないなあ」
といってもらえたりするだろうか。
知事殿のすばらしい歌に、
私のこんな悪声では和しようがないので、
とにかく燈火を継いで、觥を重ねるとしよう。
【補足】［詩の冒頭で、「酔っぱらい知事さん」［原文は酔司馬］とあるのは、「酔吟先生」と号した白居易の故事を踏まえている］
■【07-1-098】浣渓沙
【解題】楚州知事の田待問のもとに小鬟という妓女がいて、2首の詞を贈った。第2首を訳す。
【訳文】
其の二
一夢江湖費五年。［あれは一つの夢、川や湖で費やした五年のこと］
帰来風物故依然。［ここに帰りくれば風物はもとのまま］
相逢一酔是前縁。［互いに会って酔いをともにするのは前からの縁によるのでしょう］
遷客不応常眊▲、［さすらいの旅人が憂いに悶えて何もいわずにいると］
使君為出小嬋娟。［知事殿は嬋娟い女性を出してくださいました］
緑鬟聊著小詩纏。［その緑の鬟にこの小さな詩を付けましょう］
［▲は目＋喿という字。眊▲は煩悶するありさまをいう］
■【07-1-099】虞美人
【解題】船は楚州から淮河に入り、少し上流に遡った維揚で、同じ船に乗ってきていた秦観とも別れ、この詞を詠んだ。蘇軾は川の流れを遡ってさらに西に、秦観は川の流れに乗って東に行く。
【訳文】
隙月窺人小。［隙間から人を覗くのは、小さな月］
無情汴水自東流。［無常にも川は東へとひたすら流れ去ります］
只載一船離恨、［君と離れてしまう恨みを載せて船は］
向西州。［西へと向かって行くのです］
竹渓花浦曽同酔。［君と竹林の谷や花咲く川辺でともに酔いました］
酒味多於涙。［酒の味にはいつも多くの涙が混じっていました］
誰教風鍳在塵埃。［君の顔を看て占うに、どうして君の相には塵埃があるのでしょうか］
醖造一場煩悩、［ひとつの煩悩が造り出され］
送人来。［君は人を送ってここにまで来てしまったのでしょう］
【補足】［（1）後半でかつてともに酔ったといっているのは、先に潤州で会ったことを指すのだろう。（2）「塵埃」や「煩悩」は、才能がありながら秦観が科挙に合格できずにいることをいうのであろう］
■【07-1-100】木峰偈
【解題】蘇軾は水上交通の要衝である泗州に到着し、しばらくの間そこに滞在する。十二月一日、香積寺の襄師の僧房を訪ね、この偈を作った。
【訳文】
元豊七年臘月［十二月］朔日、東坡居士は臨淮を過り、普照王塔に詣で、襄師の部屋に立ち寄り、所蔵するところの仏骨舎利を観て、山の木の一枝を喜捨して供養した。その偈にいう、
枵然無根、生意永断。［虚しく根のない枝は生意を永久に断たれ］
劫火洞然、為君作炭。［ぼうぼうと燃える劫火によって我らのために炭となる］
【補足】［（1）普照王塔は、作品番号05-5-032、03-4-032などで見た僧伽塔である。（2）同じころに『僧伽賛』を作っているが、訳すのが難しいので割愛する］
■【07-1-101】与王定国
【解題】泗州から王鞏［字は定国］に手紙を送った。王鞏は蘇軾に連座して遥か南方に流されるという重い罰を受け、前の年に赦されて都への帰還を果たしていた［→作品番号06-4-089］。このときは、舅の張方平がいる南京応天府に滞在していた。
【訳文】
今日、蔡承禧君が泗州に到着して、十月二十三日に送ってくださったお手紙と新詩六首、妙曲一首を受け取り、大いに心が慰められました。河が凍って舟が貼り付き、ほんのわずか進むだけでも千里を行くかのようで、ひどくじりじりとしておりましたので、貴君の佳作を得て、一日中喜びのうちにいられ、あたかも氷から解きほどかれたような思いです。
私は揚州において、一つの文章を書きました。常州に住むことをお上に願うものです。当地の役所を通じて朝廷に提出しようとしました。しかし、規則に反するということで、受理してもらえませんでした。すでに改めてもうひとつ書いて、都に使いの者を行かせようとしています。
近ごろ常州の宜興県で得た小さな農園は、年に百碩余りの収穫が得られ、食べるに足ることでしょう。揚州のよさを知らないわけではありませんが、追い詰められた猿が逃げ場を求めて、木を選んでいる余裕はないのです。
黄寔君が人を南都［南京応天府］に人を遣わすというので、急いでこの手紙を書き、和した一詩だけを添えます。新済の運河は非常に浅く、凍って進むことができません。夕方にわずかに水が流れるだけで、恐らく来年の初めのころになると全体が水になるでしょうか。それからようやく私が南都に行ったなら、貴君はまだそこにいるでしょうか。
もしも私の願いが叶うものでしたら、張方平殿のお力添えによって南に戻ることができるのかもしれません。そうならなければ、川を遡って西都［洛陽］にまで至り、後は陸路で汝州に行くことになるでしょう。ただし、乳母をきちんと埋葬したいと思っているので、南都には一カ月ほど滞在するようになるでしょうか。
夜に入って疲れてきまして、意を尽くすことができません。万万自重されますように。
【解題】［（1）冒頭に名が挙げられている蔡承禧［→作品番号07-1-093］は広範囲の行政区である路の役人で、あちこち移動していたので、南京応天府で王鞏の手紙を預かったのだろう。（2）揚州で皇帝に願い出る文章を書いたものの［→作品番号07-1-082］、役所から受け取りを拒否されてしまったことは先に見ている。「改めてもう一つ書く」とあるのはこの後で見る。文書を提出した後に、朝廷からの指示は南京応天府で待つ心積もりでいるので、泗州からそちらに向かうのである。（3）黄寔はかつて弟の蘇轍と非常に親しくした官員で、黄寔の娘と蘇轍の息子が結婚している。また、黄寔は章惇とも姻戚関係があったので、蘇軾とは何かと近い関係にあった。このころ黄寔は路の役人で、たまたま泗州から南京応天府に使いを出すので、それに便乗したのである。（4）「乳母」とあるのは、蘇轍の世話をしていた楊金蝉のことで、これより7年前に徐州で亡くなったことは作品番号05-3-032で見ている。（5）この手紙にあるように運河は凍り付いていたのだろうか。泗州は北緯33度で、長崎県とほぼ同じである。この年の冬が特に厳寒であったとしても、蔡承禧は南京応天府から泗州にきているのだから、水上交通が完全にストップしていたとは考えにくい。恐らく、氷よりも心理的バリアが蘇軾を泗州にしばらく留めたのではないだろうか。（6）手紙の終わりで、蘇軾は「窮猿」と自分のことを表現し、窮余の策で宜興県に隠退することを決めたといっている。王鞏が、同じ隠棲するにしても揚州の方がよいのではないかと勧めたことは次の詩にも出てくる。（7）なお、黄寔と高麗の風俗について会話を交わした記録が残っている。そこには蘇軾が泗州滞在中に、三仏斉国［スマトラ島にあった国］の朝貢使が賑やかに通過してゆくさまが記してあったりして興味深いのだが、訳者には理解が及ばないところがあって、残念ながら割愛する］
■【07-1-102】次韻王定国南遷回見寄
【解題】王鞏［字は定国］の詩に和して返した作品。王鞏のもとの詩は都への帰還を果たしたことを詠んだものであった。
【訳文】
秋の水のような輝きを放つ銅剣。
土の中に置かれると、剣に曇りが生じ、光が蝕まれてしまう。
それでも、硬い砥石でごしごし磨けばよいのだ。
美食と美服によって具わってしまったなまくらな習性だって、
苦い木の実を十年間食べ続け、万里の荒波に洗われるなら、
すっかり鍛えなおすことができる。
帰還を遂げた貴君の詩は清らかにして激しく、
百丈の高さから落ちる滝壺の中に鯉を見るかのようである。
代々の名家の余沢を享受するさまはもはや消え去り、
仙境で香草を摘むかのような風情をかもし出しつつある。
貴君は遠い流謫の地はいずこであったかと思いを馳せ、
かつての彭城での遊び［徐州知事であった蘇軾を王鞏が訪ねたことをいう］はまことに夢であったと詩に歌う。
貴君も知るように、
甘い水を湛える井戸はすぐに汲み尽くされてしまう。
私が願うのは、
苦い李こそが大きな実を全うできるようになるということ。
妄らな心によって九回もねじくれてしまった腸はもとにもどらないというし、
道の奥義を究めるには骨の髄を三回も洗わなければならないともいう。
貴君は陽羨［宜興県］よりも広陵［揚州］の方がよいといってくれるのだが、
大切なのは私にとっての無何がどこなのかということだ。
楽全老子［張方平］は現在の禅の大家で、
雷を掣え鋒を制する勢いは他に及ぶ者がいない。
楽全老子は人の心を見通し、
あれこれ問うまでもなく、印可すべき者には「如是」というだけである。
貴君と逢うなら話が尽きることなく続き、
桃の花のもと、春の川にいつまでも舟を浮かべることになるだろう。
【補足】［詩の構成がごたごたしているのは韻字の位置に制約される次韻の詩であるからだろう。それでも王鞏への気遣いは伝わってくる。終わりの部分は南京応天府での再会を楽しみにしているということ］
■【07-1-103】乞常州居住表
【解題】常州宜興県に土地を得て、そこに退くことを朝廷に願う「表」を先に書いたが［→作品番号07-1-082］、揚州の役人は受け取ってくれなかった。そこで、より委細を尽くした文章に書き改めて朝廷に提出することにした。
【訳文】
臣蘇軾が申し上げます。
臣が聞いておりますに、聖人が法を行いますと、その怒りの威力は雷が草木を震わせるように甚だしいものがありましても、最終的には人は聖人のもとで生きようと帰するのであります。また、人の上に立つ君主が人を罪しますと、父母がその子孫を譴責するように鞭打つことが甚だ厳しくても、死なせるまではしないのであります。
臣は棄てられて漂流する者、枯れてなお生きながらえている者、血を流して泣いて詞を書き天を呼んで命を請う者であります。願うところは、日月の光がいま一度臣を照らしてくださり、向日葵が日に向かうのと同じ心が臣にもあると明らかにされることであります。このことが朝にお上のお耳に達するなら、夕べに死んでも憾みはないのであります。
臣蘇軾、誠惶誠恐頓首頓首。
臣はかつて宮中の便殿において皇帝陛下の前にこの身を置き、陛下の徳あるお声をお聞きし、陛下にお知りおかれること人を超えるものがありました。しかし、妄りに狂狷を発し、お上の御恩に背いてしまったのであります。しかるべき職務にあった者は臣を誅すべきであるとし、いかなる明主でありましても決して赦せるものではありませんでした。しかし、お上は衆議に従われ、臣は官職を廃すること五年となりました。臣は憂いを積み、心は塞がれ、たちまち歯が抜け髪は白くなってしまったことに驚き、罪を犯した悔恨を骨に刻み、傷ついて皮や肉がわずかに存するのみとなってしまったのであります。
近ごろ御恩を蒙り、汝州に量移となりました。伏してその訓詞を読みますに、「人の材は実に得難く、ついに棄ててしまうのは忍びない」の語がありました。単に獄に繋がれることを免れただけでなく、晩年に望みをつなぐものであります。まだ死なずにいてついに天に日を見ることができたのであります。こうなりましたからには、独り年老いることを嘆いたり、僥倖を望む心をさらに生じさせたりすることにはもはやならないのであります。
しかしながら、禄を頂戴することが久しくなかったために、衣食を継ぐことができずにおります。臣には係累が多く、汝州への道は遠くて舟で行くよりなく、黄州を離れましてからは、波風の激しさに驚き恐れ、一家を挙げて重い病となり、一子を喪うに至りました。いますでに泗州に着きましたが、ここで旅費が尽き果て、汝州はなお遠く、ここから陸地を行くこともできません。汝州には住むべき家はなく、食を得る田もありません。二十余人の者が帰するところがないのです。飢えと寒さの憂いが朝夕に迫っております。恥を忍んで周囲の者に無理強いして求めるよりは、誠の心を投じて、父のごときお上に命を託すのがよいと思う次第にございます。臣には常州宜興県にわずかばかりの農地があります。薄い粥くらいはどうにか得られるでありましょう。聖なる慈悲によって常州に居住することをお許しくださいますよう切に望むものであります。
臣の罪が至って重いことから、臣のこの希望に従うことが許されないのを恐れます。そこで、臣にもわずかながらの功労がなきにしもあらずでありますことをここに述べ、お上の御恩をお貸しいただきますのを願うものであります。臣が徐州知事でありましたときに、黄河の水が町を浸し、ほとんど沈みかけたのでありますが、臣は日夜守り防ぎ、どうにか町の安全を得ることができました。それによって朝廷からお褒めのお言葉を頂戴しました。また、沂州の民の程棐を選び用いて凶悪な連中を捕えさせましたところ、謀反を企てた妖賊の李鐸、郭進等一十七人を捕え、聖恩を蒙りまして罪を赦して保釈したのでありました。このようなことは臣下として普通に行うべきことであって、小指の先ほども言うべきではないのですが、敢えて自ら申し上げますのは、現在の窮迫した状態によるものであります。願いますのは、僥倖を仰ぎ、臣の功罪を比べ、羈囚の身から少しく出て臣の便宜とするところに従ってもよろしいとしていただけることであります。
重ねて念いますに、臣の本性が強情にして偏狭で、その運命はもとより窮迫すると決まっておりまして、すでに天には罪を得て、下には助けてくれる者はおりません。怨み仇とする者がこもごも集まって、臣の罪悪をたくさんに明らかにしました。群臣の言はあるいは愛憎より起こることもあり、孤忠もついには疑わしきに陥ることもあります。臣の心に愧ることはないと自ら明らかにできないいま、人主より保全を賜ることがなければ、臣のささやかな命は今日存在することもないのであります。
伏して思いますに、皇帝陛下は聖神天縱、文武生知、天下の英才を得て、すでに三楽を完全にしておられます。皇帝陛下はその民の天寿を全うさせ、一人もお棄てになることはないのであります。まことに善を尽くされたというべきであります。臣は百年続く嘆きを抱き、そのために一回の満足な食事さえ得ることもできずにおります。貧病にこもごも攻められ、命を保ち難くしております。鳥は川や湖があれば生きられましょう。しかし、犬や馬でも君父のような主人を求めます。敢えて仁聖に祈り、憐みをかけてくださいますようお願い申し上げます。
臣は前に進んで南京応天府に至り、朝旨をお待ち申し上げます。
干冒天威、臣無任。
■【07-1-104】書唐林夫恵硯
【解題】蔡承禧は王鞏の手紙［→作品番号07-1-101］だけでなく、唐垌［字は林夫］の手紙と贈り物も持ってきてくれた。唐垌は蘇軾にしばしば書の道具をプレゼントしてくれる人である［→作品番号06-4-061］。
【訳文】
泗州に至って蔡承禧君に会ったところ、蔡君は唐垌君の手紙に合わせて余端の硯一枚と張遇の墨半螺を渡してくれた。硯は極めて佳いもので、小さくて凸型ではあるけれど、墨を磨るのに不便というわけではない。この硯を作った者の意図は数百年後に知れるのだろうか。硯が平らになったときに、墨にとって極めてよいのだろう。一つの硯であっても数百年の計がある。事を為すのにせいぜい明日の計を立てるだけでは、大いに惑っているというべきではなかろうか。
【補足】［唐垌から贈られる道具はいつも最上級の品であったのだろう］
■【07-1-105】贈梁道人
【解題】泗州に滞在する間にいくつかの作品を残していて、それを順不同で見てゆく。これは梁道人という奇行の人に贈った詩。例によって蘇軾の異人好みである。
【訳文】
貴君は市で薬を売る。
夕方に市が閉まると、かの仙人と同じく、壺の中に身を投じて消える……
長安に行ったなら、
銅人の手を撫ぜ、「五百年ぶりだなあ」と微笑み合う……
老人や長老は貴君のことをずっと昔から知っている。
貴君からしたら、造物者だって小児のようなもの、
貴君が気ままに振る舞うのを見ているだけだ。
山では、暦がないから、寒さが尽きると春が来たと知る。
川では、雨が降ろうが蓑をまとって、舟に任せて自由に行く。
聞けば、神仙の世界はどこかの官界のように序列がやかましいとか。
それで貴君はいまも人間界に留まって、
酔って歌いつつ歩むのである。
【補足】［死後の世界にしても仙人の世界にしても、現世のコピーのように厳重なヒエラルキーがあると考えられていた。社会モデルとして、皇帝を頂点とするピラミッド構造以外のものを考えつかなかったのだろう］
■【07-1-106】亀山弁才師
【解題】泗州の近く亀山という小さな山があり、かつて杭州に赴任した際に亀山の詩を詠んでいた［→作品番号03-4-034］。今回は山に立ち寄って弁才大師にこの詩を贈った。なお、杭州の西湖のほとりの寺にいる弁才大師［→作品番号07-1-015］とこの亀山の弁才大師は別人である。
【訳文】
我が人生は、一念ごとに、空に浮く雲のように変化する。
淮河よ、そなたは変わることなく流れ続ける。
淮河にかかる虹の橋の南、
亀山の背後に新たな運河が開削され、
そのほとりに我が師はいま宴坐している。
木魚の音が林を震わして私を迎え、
鉄の竿の先に赤い旗が靡いている。
進むにつれて堂宇が大きく奥深くなり、
聞くにつれて大師の声から風が生じ雷が鳴る。
大師が浮漚［空である世］の間に遊び戯れるのを羨み、
指を弾く間に栄枯が入れ替わる中にいる己を笑う。
大師のもとで、茶を嘗め画を看るだけでもよい。
仏法について問い、詩を求めれば、融通無碍に応じてくれる。
私は千里の旅の途中で再び亀山に立ち寄り、
五年も一つの夢、
そのときに会った人はいま誰がいるのだろうか。
来世においては香火の縁を結び、
永く名山の内で大師のために井戸の水を汲んでお仕えしたいものだ。
【補足】［終わりのあたりで「五年も一つの夢」というのは、都から黄州に流されてからのことをいう。先にも5年ぶりに戻ってきたと歌っていたが、黄州に向かう際にはここは通っていないようなので、広く淮河の流れに立ち戻ったことをいうのであろう］
■【07-1-107】如夢令
【解題】泗州の僧伽塔［雍熙塔］［→作品番号07-1-100］の下で沐浴して、この詞を詠んだ。2首のうち第1首だけを訳す。短い文章が付いている。
【訳文】
元豊七年十二月、泗州の雍熈塔の下で沐浴をした。戯れに『如夢令』の詞を二首作った。この曲はもとは後唐の荘宗が作ったもので、一名を『憶仙姿』という。その曲名が雅でないのを嫌って後に『如夢令』と改めた。荘宗の詞にはその終わりに「如夢、如夢、和涙出門相送」［夢の如く、夢の如く、涙とともに門を出て送ります］とあり、そこから曲名を取ったのである。
【補足】［荘宗は、五代十国時代の後唐の初代皇帝李存勗である。約300年の歴史を誇った大唐帝国の末期、李克用と朱全忠が激しく争い、勝利した朱全忠が唐を滅ぼして皇帝の位に就いて梁王朝を立てた。それが五代十国時代の始まりであった。李克用の息子の李存勗は復讐を誓い、朱全忠の後継者を破って梁を滅ぼし、自身は大唐帝国の後継者だとして唐王朝を立てた。李存勗は天才的な戦術家で、戦争には滅法強かったことから自信過剰になり、遊興に耽り、将兵の信頼を失い、その身を滅ぼした。李存勗による原曲は、仙界での宴を歌ったもので、宴を終えて、泣きながら別れた後は夢のようであるというのが「如夢」である］
【訳文】
其の一
水垢何曽相受。［冷たい水で垢を落す修行などしなくてもよろしいのです］
細看両倶無有。［よく考えてみれば、水も垢ももともと無なのですから］
寄語揩背人。［背中を擦っている人に申し上げます］
尽日労君揮肘。［ひねもすあなたの肘をどうぞ疲れさせなさい］
軽手。［軽やかな手］
軽手。［軽やかな手］
居士本来無垢。［東坡居士は本来無垢なのです］
■【07-1-108】行香子
【解題】泗州知事の劉士彦とともに南山に遊び、この詞を詠んだ。都から南東側は水流が縦横に走る低地で、初めて行き当たる山が南山だという。
【訳文】
野水荒湾。［野の水が勝手放題に流れます］
共尋春、［ともに春を尋ね］
飛歩孱顔。［急な斜面も飛ぶように歩きます］
和風弄袖、［やわらかな風が袖にまとわりつき］
香霧縈鬟。［香しい霧が髪を巡ります］
正酒酣適、［ちょうど酒酣］
人語笑、［人は笑い合います］
白雲間。［白い雲の間で］
飛鴻落照、［落ち行く日に向かって鳥が飛び去り］
相将帰去。［さあともに帰りましょう］
淡娟娟、［淡く美しく］
玉宇清閑。［玉宇は清らかに長閑です］
何人無事、［誰なのでしょうか、何事もなく］
晏坐空山。［この山で安らかに座っている人は］
望長橋上、［ところが、長い橋の上を見ると］
燈火乱、［灯火が乱れています］
使君還。［知事殿は還ってしまうのです］
【補足】［（1）後半は、山中に留まるわけにはいかず、残念ながら多忙な日常に戻らなければならないと歌っている。（2）この部分について王明清の随筆『揮麈後録』は次のような話を伝えている。王明清は南宋の人で、眉唾の話を好む癖があり、記事の信憑性はあまり高くないようだ］
【訳文】
王明清：『揮麈後録』巻七
東坡先生は黄州から汝州に移る途中で泗州に停泊し、この詞を作った。
「晏坐空山。望長橋上、燈火乱、使君還」。
泗州知事の劉士彦は法家の学問を学び、山東出身の堅物であった。この詞のことを聞くと、東坡先生のもとを訪ねていった。
「新しい詞について伺いました。先生のお名は天下に知られています。詞はきっと都にも伝わるでありましょう。ところで、法として、夜に泗州の長橋を渡った者には二年の徒刑が科せられることになっています。まして知事が禁を犯したならどうなるでしょうか。どうかその詞を引っ込め、人に見せないようにしていただけないでしょうか」
東坡先生は笑っていった。
「私の一生は罪過ばかりです。口を開けば、いつでも徒刑二年どころではすまないのです」
【補足】［（1）黄州の『牛酒帖』［→作品番号06-4-053］で見たように、蘇軾が禁令を犯したという話は人々に好まれる。それだけに、これは作り話であるのかもしれない。（2）知事が山東出身であるとわざわざ断っているのは、規律にうるさい人が多いと思われていたからだろう。逆に、江南出身なら、先に江南の商人を歌った詩で見たように、目端の利く小器用な人間ということになるだろうか。（3）上に見た朝廷に提出した文章の重々しさとこの詞の軽さの落差がいかにも蘇軾らしいのだろう］
■【07-1-109】次韻張琬
【解題】泗州の張琬という人の詩に次韻した。張琬は官職にある者であろうが、詳しくはわかっていない。
【訳文】
両岸が高くなったかのように見えたのは、新たに霜が降ったからだ。
塵埃にまみれた袂を挙げて、初冬の風の冷たさを識る。
淮河に臨むこの地には古より名士が多く、
他郷より寄寓する人がいれば酒を携えて楽しませようとする。
貴君は半日の閑を偸んで、
私が歌嘯の内で過ごせるようにしてくれているけれど、
人の一生の百年などは、
知らず知らずのうちに往来の内で尽きてしまうのである。
それでも、貴君は窮愁のうちにあっても老いることはなく、
詩を詠めば虹を吐く勢いがある。
■【07-1-110】泗州南山監倉蕭淵東軒二首
【解題】泗州の南山に遊んだ帰り道に、官の倉庫を管理する蕭淵［字は潜夫］という人の東軒に立ち寄り、この詩を詠んだ。南山には都梁という香草があるので都梁山ともいうと、蘇軾自身の注記があり、詩の冒頭にその草のことが詠まれている。
【訳文】
其の一
樵に従って都梁草を採取しようとした。
竹葺きの屋根、松の枝を編んだ扉があったので、水を求めたところ、
机によりかかって悠然と過ごすにちょうどよいところであった。
まさかここの主人が倉の管理をするお役人であるとは誰も気がつかない。
前を流れる溪川の底には石が乱れ、
ここを囲む垣根には古びた趣がある。
寒い山中で採った草を茹で上げると、箸までも高く香る。
私は江南の地から来た旅人、
冠が無造作に門にひっかけてあったのを見て、
ここに白居易が褒めた蕭爺さんのような風流人がおられると知ったのだ。
【補足】［唐の白居易に蕭という隠者を讃えた詩があり、同姓の蕭淵になぞらえたのである］
其の二
北を望むと塵が飛びかい、
ここから先に進んだなら、昼間も空から降り来る土に苦しめられるのだ。
心を洗って、しばらくこの東軒にこの身を寄せたく思う。
珍しい鳥の声がするのは、
南方の地を想って鳴いているのだろうか。
野の橘の香りがすがすがしいのは、
まだ淮河を北に渡っていないからだ。
有信［まごころがある］のせせらぎは遠くの嶺からここへと流れ来て、
無心の明月が誰もいない階段の上で光を移して行く。
小さな役目を担う役人として老いることこそがよいのだろう、
松の根が断崖に絡みつくありさまを坐して看ていられるのだから。
【補足】［詩の初句「北望飛塵苦昼霾」［北に望めば飛ぶ塵、昼も霾ことに苦しめられる］は、実際の光景として間もなく黄砂の季節がくることをいいつつ、蘇軾の心象風景を表すものでもあるのだろう。つまり、淮河を渡ってさらに都に近づくなら、自分は土の降るような中に置かれてしまうと感じているのである。かくて蘇軾は泗州に留まり続ける］
■【07-1-111】題雍秀才画草虫八物
【解題】泗州に画を得意とする雍秀才という人がいた。8種の虫を描いた画を見てこの詩を詠んだ。
【訳文】
其の一 促織
草むらに注ぐ月の光の声は耿耿、
露を宿す葉の裏に鳴くおまえの声は溥溥。
長い夜に、
おまえは自分自身を暖めることもできないのだから、
世に容れられない男児が寒さに震えているのを憂う余裕などはない。
其の二 蝉
濁り汚れた中で脱皮すると、
おまえはたちまち羽を広げてみごとに飛ぶ。
しかし、秋になるとなんとも迂闊なありさま、
枯れた茎を抱いて寒さに震えるのである。
其の三 蝦蟇
睨みつけているのは誰を瞋っているのか。
腹ばいになってやたらと脹らんでいる。
百足を困らせるようなことはしない方がよいのではなかろうか。
そうしているうちにおまえだって飢えた蛇に呑まれてしまうだろうから。
【補足】［蜣螂を詠んだ其の四は意味が掴めないので割愛する］
其の五 天水牛
おまえの二本の角はやたらと長い。
よくいうように、牽牛星は美しいけれど箱にしまってはおけない。
おまえも牛仲間だから箱に入れられまいとぴょんと飛ぶ。
しかし、牛だという割にはできることといったら、
枯れた桑の葉に穴を開けるだけなのだ。
【補足】［牽牛星は箱にしまえないとは、真に価値あるものは独占できないというような意味の諺］
其の六 蠍虎
跂跂と這うのは足のある蛇なのか、
脈脈と走るのは角のない竜なのか。
笑ってしまうのは、
虎は虎でも、食らうのはつまらない虫どもである。
【補足】［蝎虎を主題にした詩は作品番号05-3-043でも見ている］
其の七 蝸牛
ねばねばの液は殻を満たすほどはなく、
どうにか己を潤すだけである。
高いところに上るだけでもとに戻ることを知らないものだから、
壁に張り付いたまま涸れて死んでしまう。
其の八 鬼蝶
二つ眉は鉄の糸を巻くかのよう、
両の翅は金粉をまぶしたかのよう。
初めは花とあでやかさを争っていたのだが、
去るとたちまち跡形もなくなる。
【補足】［これらの一連の詩は何か諷するものがあるとされ、例えば、蝸牛の詩は王安石のことを歌っていると解釈されたりする。しかし、特定の人物を指すとするのは牽強付会の説であるのを免れないだろう。それでも、泗州から先に進むのをためらう心理を映し出すものであるのは確かであろう］
■【07-1-112】与藩彦明
【解題】泗州から藩丙［字は彦明］に贈った手紙。藩丙は、黄州で親しくした藩一家の次男で、恒例となった1月20日のピクニック［→作品番号06-3-005など］に毎回同行していた。
【訳文】
別れてから貴君のことをずっと思って心を去りません。変わらずに安らかにお過ごしのことと遠く想像しています。皆さまも恙なくされておられましょうか。
地方試験の結果を見ていないので、お祝いを申し上げるのを控えておりましたが、必ずやよい結果を得たものと想っています。二度ほどお手紙を差し上げましたが、届いていますでしょうか。
東の坡で笑って語り合う夢をしばしば見ます。覚めた後で呆然としてしまいます。
宜興に小さい農場を買うことができ、そこに住むことをお上に願い出ています。ついには常州の民になるのです。
貴君はすでに都での試験を受けるために向かっていることでありましょう。このお手紙は出したものの、見てはいただけないでしょうか。
どうぞどうぞ御自愛ください。
【補足】［潘丙については、第6章で見た蘇軾の文章に「進士潘丙」と記されているものがあり、科挙の地方試験には合格したものの都での試験には受からなかった人物であると理解したのだが、この手紙によると、潘丙はこの年に地方試験を受けている。これが二度目のチャレンジであったのかもしれない。残念ながら、この後で潘丙が科挙に合格した形成はない］
■【07-1-113】与千之侄
【解題】甥の蘇千之に与えた手紙。従兄の蘇不欺の子で、作品番号06-5-005で見た蘇千乗の弟である。蘇千之もその兄とともに都にいて科挙の地方試験を受けたのだろう。その結果がここに記されている。
【訳文】
……お手紙を受け取りました。安らかにしていると知り、喜んでおります。皆様も恙なくお過ごしであるとのこと何よりです。秋の試験ではよい結果が得られず、まことに残念に思います。決して心を左右されることなく、ますます学問に励まれますように。人は道を知ることが肝要で、得失は初めから計ることはできません。
君はしばし郷里に帰ろうとしていると聞きましたが、そうなのでしょうか。私は舟の旅に出てもうすぐ一年になります。近ごろ陽羨に少しばかりの田を買いました。そこで老いる考えです。常州に住むことを願い出ていて、その許可が南京応天府で得られるでしょう。かの地に乳母を葬ろうとしていますので、行き来に二十日ほどかかるでしょうか。その後、舟に乗って陽羨に還ります。君がもし南京応天府に行かれるのなら会えるでしょう。私は罪廃の余りの身でありますから、ややもすれば人に累を及ぼすのかも知れません。ただ君に会って話がしたいのです。面と向かってでないと言い尽くせないものがあります。どのような距離も厭わない思いがあります。寒暖が定まりません、万万自愛されるように。
【補足】［（1）蘇軾兄弟の次の世代は科挙になかなか苦戦していた。（2）南京応天府に向かう今後の予定は作品番号07-1-101にも記されていた］
■【07-1-114】祭蔡景繁文
【解題】蔡承禧［字は景繁］［→作品番号07-1-104］はこの年の終わりに泗州で急死し、蘇軾はこの祭文を作った。
【訳文】
嗚呼哀しいかな。貴君の人となりは清厲孤峻、経に仁義、緯に忠信をもってし、……［蔡承禧を讃える美辞を並べる］……私が黄州に遷ったとき、衆人からは遠く除け者にされたのだが、貴君だけが私を罪人視することがなかった。ここに来てまさか貴君の棺を撫でることになるとは思いもしなかった。……天は貴君の窮したのを哀れみ、ここに祭り送るのだが、私は旅に苦しみ、貴君に捧げるものがないのを愧じ、ここに奠詩を歌って、葬送の曲に和すものである。嗚呼哀しいかな。
【補足】［蔡承禧とは個人的な関係がさほど深くなかったためなのだろう、蘇軾の語彙力によって形よく整えられた祭文であまり深い内容がないので、一部分だけを訳した］
■【07-1-115】浣渓沙
【解題】蘇軾は泗州で年末を迎える。この詞には「元豊七年十二月二十四日、泗州の劉倩叔に従って南山に遊ぶ」との蘇軾自身による添え書きがある。劉倩叔がどういう人であるのか、土地の人間であろうとだけ推測されている。
【訳文】
淡煙疏柳媚晴灘。［淡い靄とまばらな柳が媚びるのは晴れてきた川辺］
入淮清洛漸漫漫。［洛水の流れは淮河に入ってますますのびやかです］
雪沫乳花浮午盞、［雪か乳のように白い泡が花のように開いた午後の茶］
蓼茸蒿筍試春盤。［蓼茸に蒿筍を盛った春を迎えるための御馳走］
人間有味是清歓。［人間世界の味わいとは、こうしたちょっとした歓びなのです］
【補足】［（1）前半は眼前の風景のスケッチ。朝は寒いけれど、流れに注ぐ日の光は明るい。遠く洛陽の方から流れてきた水は、淮河に合流した後もその本性を保っていると見ている。（2）後半は、一服の茶や新年を迎える用意といったささやかなことに喜びを見出している。5種の辛いものを盆に盛った「五辛盤」を元旦に食べる風習があるということは作品番号04-3-001で見ている］
■【07-1-116】満庭芳
【解題】泗州で偶然、古い友人に出逢い、この詞を詠んだ。序文がある。
【訳文】
私は十七歳のときに始めて眉山において劉仲達と行き来するようになった。今年四十九歳となり、泗州において劉仲達に逢った。洛水が浅く凍ってしまっているために私はしばらく泗州に留まっていて、十二月三十日に劉仲達とともに南山に遊んだ。昔のことを語って感じるところがあり、この詞を作った。
飄流江海、［川に海にさすらい］
万里煙浪雲帆。［万里の煙る浪、雲に帆を掲げて私はここにきました］
故人驚怪、［古い友人同士驚き怪しむのは］
憔悴老青衫。［憔悴し、老いて落ちぶれてしまった姿］
我自疏狂異趣、［もとより私は人と趣を異にする物狂い］
君何事、［貴君はいったいどうしたことなのでしょうか］
奔走塵凡。［塵のなかを奔走し続けているとは］
流年尽、［今年も流れて尽きようとし］
窮途坐守、［道が行き詰まってここ留まるしかなくなり］
船尾凍相銜。［並ぶ船は凍りついたように船尾を銜え合っています］
巉巉。［巉く巉く］
淮浦外、［淮河の浦の外に見えるのは］
層楼翠壁、［楼閣の翠の壁］
古寺空巌。［人気のない巌の上に古い寺があります］
歩携手林間、［手を携えて林の間を歩き］
笑挽纖纖。［笑って曳くか細い指］
莫上孤峰尽処、［峰の尽きる先まで上るのはもうよしにしましょう］
縈望眼、［遠く望んで眼に入るのは］
雲海相攙。［雲と海とが支え合うありさま］
家何在、［我らの家はどこにあるのでしょうか］
因君問我、［貴君も問い、私も問うのです］
帰夢繞松杉。［夢は帰り行きて故郷の木々を巡ります］
【補足】［劉仲達の名はここにしか出てこないようで、どのような人であるのか不明。恵まれた境遇にはなかったのであろう］
■【07-1-117】如夢令
【解題】泗州での年の瀬に清淮楼でこの詞を詠んだ。『如夢令』の曲は作品番号07-1-107でも見ている。
【訳文】
城上層楼畳巘、［町を上から見下ろすのは高い楼閣と重なり合う峰々］
城下清淮古汴。［町の下を流れるのは淮河と古汴河］
挙手揖呉雲、［手を挙げて南の雲に挨拶すると］
人与暮天倶遠。［暮れの空は人から遠ざかって行きます］
魂断、［魂は断たれ］
魂断、［魂は断たれ］
後夜松江月満。［夜更けの松江に月の光がいっぱいに満ちていることでしょう］
【補足】［松江は蘇州のあたりを流れる川。その名を借りて、そこからほど近い常州の隠棲地を想っているのだろう］
■【07-1-118】題清淮楼
【解題】清淮楼で詠んだ詩。蘇軾にしてはごく単調な詩である。
【訳文】
恵施の観魚台はすでに草むらの中に埋もれ、
夢で蝶になった荘子の塚は木の葉を落した木が立っているだけ。
清淮楼からの四方の眺めで変わらないのは、
年々昔のままに町の背後を流れゆく川だけである。
【補足】［荘子とその友人の恵施が問答を交わしたとされる場所に建てられた観魚台については作品番号03-4-031で見ている］
■【07-1-119】泗州除夜雪中黄師是送酥酒二首
【解題】泗州で除夜を迎えた。雪が降る中、黄寔［字は師是］［→作品番号07-1-101］が酒を贈ってくれたので、その謝礼に詩を詠んだ。
【訳文】
其の一
暮れの雪が、砕けた米を投げ付けるかのようにしきりと降りくるなかでも、
春の流れが、ひそやかに沙の上を走り始めているのだろうか。
これまで過ごした日々は夢にも似て、
だらだらとした無駄話のようなもの。
世間から逐われた旅人は、
僧と同じくもはや定まった家を持たない身である。
何か書こうとして、硯の水は凍ってしまい、
かたわらの燈火は蝋がたまって薄暗い。
そんな夜更けに、貴君から酒が贈られてきた。
妻は驚いて起き上がり、
我が宿はいっとき賑やかな笑いにつつまれたのだった。
【補足】［続く第二首はいくつもの故事を用いて意味が取りにくいので割愛する］
■【07-1-120】章銭二君見、和復次韻答之、二首
【解題】上の詩に、章と銭というその地の人が和したので、それまた和して答えた。章と銭は詩とともに蘇軾に何かプレゼントをしたのだろう、その返礼としての詩であるらしく内容に乏しいので、一首だけごくいい加減な訳文を作っておく。
【訳文】
其の二
いまの私の分際では、
春の服を縫ってくれるような御婦人はいないし、
正月の酒を注いでくれるような御婦人もいない。
鬚につららが垂れさがるような寒さのなかで、
貴君等が贈ってくれた酒に酔って、
夢からかえると、我が衣が風除けとして垂れ下がっている。
貴君等は、冷たい風のために眼を大きくあけられなかったりするのだろうけれど、
私なんぞは、己の腹がぐうぐう鳴る音で夜中でも目が冴えてしまう。
明日になれば南の山では春の気配が動き出すのだろうが、
のんきに正月の遊びができるのは、はてさてどこの誰かさんだろうか。
【補足】［黄州での困窮生活を経て、長い船旅を続けるなかで土地を買った蘇軾の懐具合は、いったいどのようになっていたのだろう。有難く支援を頂戴するために蘇軾は詩や書や画を次々に人に与えなければならなかったのだろう］