第6章 赤壁の賦――黄州
［第6章その五］
元豊7年［1084年］、蘇軾49歳。
■【06-5-001】和秦太虚梅花
【解題】黄州で4回目の正月を迎え、黄州暮らしは足掛け5年となった。いつものように1月20日に潘、郭、古の諸氏と郊外に出て梅を見たのかどうか、伝わる詩がないのでわからない。これは秦観［字は太虚］［→作品番号06-1-103］から送られてきた梅の詩に和したもの。
【訳文】
宋代に入ってから、梅を詠んでの絶唱といえば、
西湖の孤山に棲み、骨までも枯れているといわれた林逋の詩。
貴君の詩はそれをも圧倒しようか。
東坡先生の心はすでに火の消えた灰となっていたはずなのに、
貴君の詩の愛すべきによって、
花に悩まされ、あれやこれやと乱れ初め、
黄昏時を待って馬にまたがることとなった。
残りの雪は消えるのが遅く、月の出るのは早く、
川べりの千本の梅の樹が春の暗がりのなかにある。
竹の向こうに一枝だけ斜めに見えるのはさらに好い。
西湖の孤山といえば、かつて酔って眠ったところ、
山の梅は、美女の裙に点々と散りかかったのを払わずにいるかのようであった。
あれから万里の彼方に放逐された私のもとにも春はきてくれたけれど、
孤山の梅は人を見送ること十年、その繰り返しのうちに老いたであろうか。
去年の梅の花が開いたころは私は病気がちで、
今年は花と向かい合うことができたものの花は早々に去ってしまう。
雨と風が春を巻き取って帰ってしまうのか……。
梅の香りもそっくり拾い集めて天へと持ち去って行く……。
【補足】［（1）林逋は蘇軾より70年前に生まれた人で、孤山に隠棲し、清らかな詩を詠んだ。（2）1年前のこの時期は眼病を患うなど蘇軾は何かと不調であった］
■【06-5-002】再和潜師
【解題】前年から黄州に滞在していた参寥［道潜］［→作品番号06-4-093など］が秦観の梅の詩に和したので、蘇軾がさらにそれに和した。この詩も前の詩と同様に、杭州の寒梅を念頭に置いて詠んでいる。
【訳文】
造化の工［天帝］は、
枯れたもろもろを蘇らせてやろうとまだ決めていないうちに、
まずは寒梅に向かって合図を送る。
江南の地には雪がなく、
春のうちから早くも熱の毒気が生じてしまうので、
氷のような梅の花で熱の悩ましさを除こうとするのだろうか。
風が清らかで月が落ちて人の姿のないときに、
早朝の鐘とともに装いを整えて、
梅の花は開く。
そこに二羽の白鷺が飛びきて、
羽と花が清らかな好さを競い合う。
呉山道人［参寥］の心は水に似て静寂で、
眼には掃うべき塵もない。
似ても似つかぬ多情なる身の私に妙語をもって寄せるのは、
私がいかばかりの縦横の気を具えていようかと試めすのであろう。
東坡居士の習気［俗気］は除いても尽きることがなく、
凝りもせずに長々と詩を作ったり乱れた草書を書いたりしている。
長い梅の枝を揺り動かし、落ちてくる花びらを食べてもみようか。
飢えの堪えがたさに天に向かって叫ぶような真似はしないですむように。
【補足】［参寥と唱和する詩は概ね仏説を踏まえて難解であることが多く、この訳詩はおよその大意を汲んで作った「ずっぽ訳」である］
■【06-5-003】代滕甫弁謗乞郡狀
【解題】昨年の終わりごろに都に呼ばれた滕元発［または滕甫、字は達道］［→作品番号06-4-084］は、たちまち強烈な逆風にさらされた。滕元発を嫌う人々が画策して、たまたま滕元発の親類に罪人が出たことと結び付けて、遠く筠州に流してしまおうとした［筠州には蘇轍がいる］。1月6日にその辞令が出ると、滕元発はすぐには従わずに、自分は無罪であるとの弁明書を朝廷に差し出した。実はそれは滕元発の草稿をもとに蘇軾が書いたものであった。人のために代筆した文章でありながら、それは、散文の名手である唐宋八大家の名品を集めた『唐宋八家文読本』に納められている。皇帝に提出する弁明の手本として読まれたのだろう。皇帝に判断の変更を乞うのであるから、非礼にならぬよう細心の注意を払わなければならない。長々とした前置きがあるのはそのためである。
【訳文】
臣［滕元発］が聞いておりますには、賢人であろうが愚人であろうが、人情として、天を畏れ父の厳しさを憚るものであると。しかし、痛み苦しむときは父を呼び、窮まり差し迫ったときには天に叫びます。身の内より情が発して、言葉を選ぶことなく呼んだり叫んだりしてしまうのであって、憚り畏れる心がなくなったわけではありません。
いま臣が患いますのは痛み苦しむのにとどまらず、憂うのは窮まり差し迫るよりもはなはだしいものがあります。君父に呼び叫ばずして何人のところに走って赴いたらよろしいのでしょうか。伏して聖慈を望み、少しく憐察を加えていただきたく思うものであります。
臣はもとより学術がなく、また材能もありません。ただ忠義の心があることだけは生れてより自負するところのものであります。
昔、（春秋時代の）季孫はこのようにいました。
「君主に礼ある者を見たなら、孝子が父母を養うようにその者に仕えよ。君主に礼のない者を見たなら、鷹や鸇が雀を追うようにその者を誅殺せよ」
臣は不肖ではありますが、この言葉をきちんと踏まえるようにしてまいりました。道［正しく普遍的な道徳］をひたすらに信じて真直ぐに進み、他の人々も己のようにしていると考えておりました。すでに聖主に深く知っていただくことを蒙りましてからは、他の人々との交わりを結ぶようなことは考えませんでした。そのためか、そこらに愚かしい考えがうごめいて、ついには仇怨を積むこととなってしまいました。ひとたびお傍から離れ去ってすでに十二年、（私を誹謗する）言辞が、水が潤し浸すようにあまねく行き渡ったのでした。臣がひそかに国に反する者と一党となり、罪人を見逃しているという者さえ出るありさまとなりました。もしもその通りであるのならば、死刑となってもその罪を塞ぐことはできません。
伏して心の内で思いますに、漢の宣帝は英主でありましたが、ほんの言葉の端を耳にしただけで楊惲を誅殺してしまいました。唐の太宗は唐朝を興した帝王でありましたが、たった一つの詞を耳にしただけで劉洎をやはり誅殺してしまいました。古より忠臣、烈士が時運に遇って君主に仕えることができて、しかも禍を免れた者は果たしてどれほどの数がいたのでしょうか。
臣だけは皇帝陛下が一部始終を照察してくださり、愛惜し保全することをこれまで蒙ってまいりました。これはすなわち、陛下の聖なる度量が宣帝、太宗を超えておられ、なおかつ臣が時運に出会いましたのは古からかつてないものであったからで、日月が上にある限りは、何ら憂い虞れることはないのであります。
ただ気になりますのは、世には臣を憎む者が大勢いて、臣が天より授かりました命が至って薄いことであります。積もる毀りは骨をも消滅させ、巧みな言葉は金をもとろかすものであり、三人が同じことを言い募るなら、いかに落ち着いた人でも驚き立つといいます。それらしいことを人々が言い続けるなら、時がくれば自ずと真実が明らかになるはずではありましても、陛下におかれましてもあるいは赦し難く思われるやも知れません。ここをもって今はまだ何事もない間に、少しばかり危惧する詞を申し述べる次第です。
晋朝の王導は王敦の従弟で、王敦は国に反逆しましたが、王導は元臣のまま害われることはありませんでした。唐朝の崔造は源休の甥で、源休は国に反逆しましたが、崔造は宰相のまま廃されることはありませんでした。臣と国に反するとされている者との関係は、路ですれ違う者と変わらぬ程度の淡いものでしかありません。それでありながら寬大な朝廷において、臣にとって終身の累いとなってしまうのは悲しいことであります。
およそ仕官した士で、貴い位の人と少しでも親類関係があり、あるは半面識でもありましたならば、あちこちで特別に優遇され、人もまた批判がましいことはいいません。臣は陛下の中興の治の初めに知っていただきましたが、衆人の知遇に遇うよりも前に、臣は容赦なく毀られ、恣に踏み潰されてしまい、もはや何かを申し上げるすべもありません。臣は涕泣して自ら傷むばかりであります。
いま臣はすでに善地に安んじ、清班を忝くしています［遠く追放されたことを逆にいっている］。敢えてこれよりほかに僥倖を求めるものではありませんし、さらに登用していただくことを思うものでもありません。ただこれまでの患難の後で積もる憂いが心を傷め、風波の間を移動する間に、怖れる思いが疾いと成ってしまいましたので、敢えて陛下が臣の余生が幾ばくでもないことを憫れまれて、かつての特別な御恩をさら究めていただきますよう乞い願うものであります。もしも臣を淮浙の間の小郡に移していただきましたなら、少しばかり先祖の墓所の近くになり、漸う退隠を謀れることとなりましょう。さらにいつの日にか、枯れ朽ちた余りの身で、天日の表［皇帝の顔］を仰ぎ見ることができましたなら、その後は田野に退き隠れ、自ら老臣と称して、かつての出会いの始終を語り、もって郷里の父老に誇るつもりです。区々たる願いはそれで永久に終わるものであります。伏して陛下に願います。この志を憐れみ、その愚を察して、罪を赦されますように。
臣は恩に感じ罪を知り、激切屏営の至りであります。
【補足】［（1）一読して知れるように、はなはだへりくだっていて、蘇轍が兄ために皇帝に差し出した文章［→作品番号05-5-094］と似ている。（2）この弁明書が皇帝の心を動かしのだろうか、5月23日に滕元発は筠州よりももっと都に近い湖州知事に改めて任命された。湖州といえば蘇軾も一時期そこの知事となった風光明媚なよい土地柄である］
■【06-5-004】師中庵題名
【解題】春のある日の遊びを記した短文。
【訳文】
元豊七年二月一日、東坡居士は徐大正、参寥師と雪堂から歩き、柯氏の池を通って乾明寺に行って竹林を見て、乳母の任氏の墓に詣で、茶畑の手入れをし、さらに趙氏の園に至って梅堂を探り、尚氏の屋敷に行き、老いた枳が竜のように曲がりくねっているのを見てから定恵院の僧舎に憩い、任公亭と師中庵で茶を飲んだ。かくて、また後日、酒を携えて春をここに尋ねようと約束した。
【補足】［（1）徐大正は先に亡くなった徐大受前知事の弟［→作品番号06-4-082］。これより後の2月28日に、徐大正は、兄の棺を載せた船がなかなか出発できずにいると記した手紙を蘇軾に送っている。（2）この遊びは、東の坡にある雪堂から、府城の中に入らないルートをおおむね南へと歩んだもの。柯氏の池、乾明寺、定恵院などの名は先の諸作品で見ている。（3）黄州で乳母を葬ったことは作品番号06-1-083で見たが、その墓は乾明寺の近くにあったことがここから知れる。（4）「枳」は慣例に従って「からたち」としたが、似た別種であるようだ。（4）任公亭と師中庵は郷里の大先輩である任伋［字は師中］に所縁の場所［→作品番号06-2-037］。（5）「後日の約束」は1カ月後に果たされる］
■【06-5-005】与千乗侄
【解題】甥の蘇千乗に宛てた手紙。元豊3年に亡くなった従兄の蘇不欺［→作品番号06-3-003］の子である。
【訳文】
お別れしたまままた春が深くなってきて、君への思いが心を去りません。邁が北から還ってきてお手紙を得ました。数首の詩を見て、心が慰められ、言葉にならないくらいに嬉しく思います。日月は留まることがなく、もう喪服を脱がれたとはいえ、折々に何ともいえない哀しみが湧き上がってくることでありましょう。長らく郷里からの手紙はきていませんが、皆安らかに過ごしているのでしょう。……我が家門は今や凋落し、老いたこの私にはもはや何の望みもなく、不疑君も我が弟もころんで起き上がれずにいて、ただ望むべきは我等が甥たちばかりです。このことだけが心にあります。いつ会えるともわかりませんが、千万自愛されますように。
【補足】［（1）蘇千乗は科挙の受験に備えて都にいたのだろう。息子の蘇邁が、土地を取得する件で上京した折に会い、蘇軾への手紙を携えて帰ってきたのだった。（2）蘇の家は科挙の合格者を2世代にわたって3人出したのだが、その後に続く者はまだいなかった。高い地位にまで昇れば息子たちが特例で官僚になれる特典はあるにしても、士大夫一家の浮沈はやはり科挙にかかっていた］
■【06-5-006】次韻曹九章見贈
【解題】光州知事の曹九章［字は演甫］［→作品番号06-3-067］から詩が送られてきたのでそれに次韻した。
【訳文】
昔、蘧伯玉が五十歳になったとき、
「我が四十九年は間違っていた」といった――
私はこの人を師と仰ぎたい。
五十本ある占いの竹の棒を、
すでに四十九本まで使ってしまった――
我が命運は窮まったのか。
そんな私であるのに、
貴君一人だけがともに学びたいといってくれるのなら、
一切出し惜しみすることはない。
しかし、いまの私がしていることといったら、
剣を売り牛を買って老いるだけ。
さらに疑いようもなく確実なのは、
銭を得たなら酒を買うこと。
いつの日か鶏や豚を煮て一緒に村の祭りを楽しむなら、
貴君と千篇の詩を唱和するであろう。
【補足】［蘧伯玉は孔子と同じ時代の人である］
■【06-5-007】書淵明帰去来序
【解題】前の詩で「剣を売り牛を買って老いる」と詠んだ。これは、本来は、戦争が終わった後ないしは戦乱を避けて、武器を手放して平和に暮らすことをいうが、蘇軾は公の仕事を放棄して田園に生きる意に転用している。そうした生き方の先達はむろん陶淵明である。黄州において陶淵明について書いた短文をさら三篇まとめて見ておこう。
【訳文】
世俗にこのような笑い話がある。
ある書生［科挙の受験勉強をしている者］が役所の庫に入ったところ、銭が積んであるのを見てそれとはわからずにいた。ある人が不思議に思って、「まさかあれが銭であるのがおわかりにならなかったのですか」と尋ねると、書生はいった。「銭であろうかとは思ったのですが、銭というものは紙にちんまり包んであるものであって、ああもどっさり積んであるのが不思議で、別のものに違いないと思いまして」。
［書生というものは貧乏で、せいぜい代筆などでわずかな謝礼を稼ぐくらいであるから、たくさんの銭を見たことがないというオチ］
私はたまたま陶淵明の『帰去来兮の辞』を読んだところ、そこに「幼稚盈室、瓶無儲粟」［子供たちは部屋にどっさりいるのに、瓶には米の蓄えがない］とあった。これによって、なるほど世俗の笑い話は実際にあるものなのだと知った。瓶に米を蓄えたところではなはだわずかなものでしかない。陶淵明は普段から瓶の中のわずかな米しか見ていなかったのだ。
後漢の馬皇后の女官は、馬皇后が着ている大練［粗い絹の織物、馬皇后は日頃から質素な暮らしを心がけていた］を見て、変なものを身に付けていると思った。晋の恵帝は飢饉で民衆が餓死したと聞くと、「米がないのなら、肉の糜を食べればよいだろうに」といった。
よくよく考えれば、これらはみな同じ理屈からきているのである。
ついでながら、欧陽脩はこのようなことをいっていた。
「（唐の）孟郊の詩に『白髪辺有糸、不堪織寒衣』［鬢の辺りには糸［白い毛］があるけれど、冬の衣を織るほどではない］とあるが、たとえ織れたところで、どれほどのものになろうか」
以上、もの好きな人の笑いに供するまで。
【補足】［（1）貧乏に関係するいくつかの話を並べ、陶淵明も笑いの種にしている。この当時、蘇軾も同様に暮らし向きで、強い親近感を持ったのだろう。（2）晋の恵帝の話は、マリー・アントワネットが民衆が餓えていると聞いて、「パンがなければケーキを食べればいいじゃないの」といって、民衆の怒りの火に油を注いでフランス革命が勃発する要因となったという話と同様、かなり眉唾ものである］
■【06-5-008】題淵明詩
【解題】これは陶淵明の詩に添えたごく短い文章。それを味わうために、蘇軾が引いている陶淵明のもとの詩と、それと関連する『論語』の文章を先に見ておこう。陶淵明の詩は、『帰去来兮の辞』を書いて最終的に隠棲するよりも前の39歳の作。『論語』に記されている事柄は孔子が61歳の頃のこととされる。
【訳文】
陶淵明：『癸卯歳始春懐古田舎』［癸卯の歳、春の始め、田舎で懷古する］其の二
先師有遺訓、［孔子が遺した教えに］
憂道不憂貧。［「道を会得できないことを憂い、貧乏であることを憂うな」とある］
瞻望邈難逮、［その教えは遥かに仰ぎ見るだけでとても及ばないのだが］
転欲志長勤。［長く努力しようとだけは思っている］
秉耒歓時務、［鋤をとって春の農作業を歓び］
解顔勧農人。［顔をほころばせて農民に仕事を勧める］
平疇交遠風、［平らな田畑に遠くからの風が吹いてきて］
良苗亦懐新。［良い苗から新しい芽が育まれる］
雖未量歳功、［まだ今年の稔りのほどは量れないけれど］
即事多所欣。［目の前のことがたくさんの欣びとなる］
耕種有時息、［耕したり植えたりしつつ時に休息するのだが］
行者無問津。［そこに渡し場を問う旅人は現れない］
日入相与帰、［日が落ちると人々とともに帰り］
壺漿労近隣。［酒壺をもって隣人を労う］
長吟掩柴門、［長く吟じて柴の戸を閉ざすと］
聊為隴畝民。［いささか田畑に生きる民になれるのだ］
【補足】［この詩の途中にある「渡し場を問う旅人」［津を問う行者］は次の『論語』の一節に基づく］
【訳文】
『論語』「微子編」より
長沮と桀溺が並んで耕していた。
孔子がそこを通りかかり、（弟子の）子路に津［渡し場］を尋ねさせた。
長沮はいった。
「あの手綱を持つ者は誰かね」
子路はいった。
「孔丘［孔子］です」
「魯国の孔丘かね」
「そうです」
「あれなら津を知っておろう」
「どうしてそのようにいわれるのですか」
子路は桀溺に尋ねた。
桀溺はいった。
「そなたは誰かね」
「仲由です」
「魯国の孔丘の弟子かね」
「そうです」
「いま天下はどこも洪水のようになっている。誰がそれを変えられるというのかね。悪人を避けるようなあの人物［孔子のこと］といるよりも、世を避ける人物といた方がよいのではないのかな」
そういって土をかぶせる仕事をやめなかった。
子路は孔子に告げた。孔子は憮然としていった。
「鳥や獣とは一緒に群をなすことはできない。私は世の人と一緒にいるのでなくて、誰とともにいようするのか。天下に道があるのなら、私は敢えて変えようとはしないのだ」
【補足】［これは『論語』の中でも特に有名な一節である。孔子は長沮、桀溺という二人の隠者に出会い、隠者は、天下を変えようとしているくらいの者なら、人に渡し場を尋ねなければならないほどの無知であるはずがないと、渡し場への道を教えなかった。孔子は、隠者の生き方は鳥や獣と同じであると強く否定した。しかし、長沮、桀溺は理想の隠者とされ、並んで耕す「耦耕」は、世が乱れたときに賢者が採る生き方を象徴する語となった。先の陶淵明の詩では、陶淵明は長沮、桀溺のように農地を耕しつつも、まだ完全に隠棲したわけではなく、津を問う者［孔子］が来たなら、それに従いたいという思いを含ませているのだろう。なお、陶淵明が詩中に長沮、桀溺を詠んだ作品は作品番号06-2-045でも見ている］
【訳文】
陶淵明の詩にいう。
平疇返遠風、［平疇 遠風 返し］
良苗亦懐新。［良苗 亦 新を懐く］
古の並んで耕し［耦耕］、杖を突き立てて草を刈る隠者でなければこの語をいうことはできない。
私のように代々の農民でなければ、この語の妙所を識ることはできない。
【補足】［蘇軾は、東の坡を耕すなかで陶淵明の詩を深く味読できるようになったのを喜んでいるのである。ただ代々の農民であったかどうかはやや疑念がある］
■【06-5-009】書淵明羲農去我久詩
【解題】陶淵明の作品を読みたいと思ったなら、現代のわれわれは現存する全作品をネットで容易に閲覧することもできる。蘇軾にとってはたやすくはなかった。岐亭の胡定之が万巻の書物を所蔵していて気安く貸してくれると作品番号06-1-103にあったが、陶淵明の作品集を手にするにはいささか労力を要したということがこの短文に記されている。
【訳文】
私は江州の東林寺に陶淵明の詩集があると聞き、人を遣わしてこれを求めようとした。すると、江州の李知事がすぐに一部を送ってくれた。字が大きく、紙が厚く、非常に喜ぶべきものである。
体調が佳くないときに、いつもこれを手に取って読む。ただし、一篇だけにしておく。読み尽くしてしまったなら、その後では自分の思いを慰めるものがなくなってしまうのを恐れるからである。
【補足】［（1）これは陶淵明の詩の「羲農去我久」［羲農 我を去ること久し］」の句に書き添えたもの。羲農とは伝説上の古代の帝王で、人間に農業を教えたとされる。（2）江州の東林寺は廬山にある有名な寺。（3）本を得るのが難しかったことでは、恩人の欧陽脩は若い頃に非常に苦労している。そのことを記した文章を参考までにここに掲げる］
【訳文】
欧陽脩：『記旧本韓文後』［旧本韓文の後に記す］
私は年少のころは漢東［随州］に住んでいた［欧陽脩は四歳で父を喪い、随州の叔父に養われ、母から文字を教わった］。漢東はひどい田舎で、学者はいないし、我が家は貧乏で、蔵書はなかった。州の南に豪族の李家があり、そこの息子の李堯輔はなかなかに学問を好み、子供のころよくその家に遊びに行った。ある一間に壊れた筐が置いてあり、古い書物を貯えていた。開けてみると、唐の時代の『昌黎先生文集』六巻［韓愈の文集］があった。脱落があったり入れ違いがあったりで、順序が乱れていた。李氏に乞うてこれを持って帰って読んだ。その言葉が深厚で雄博であるのを見たものの、私はまだ幼く、その意味を十分に知ることができなかった。ただそれが浩然として涯しなく、愛すべきであるのを見てとっただけだった。
そのころは、天下の学問をする者は、楊億や劉筠の作風をいまの時代の文であるとし、それを上手に書く者が科挙に合格し、名声をほしいままにし、世間に対して誇り、栄を得ていた。韓愈の文章についていう者は一人もいなかった。
私は科挙を受け、都の礼部で行われる詩賦の試験に挑もうとした。十七歳のときに、州で行われた一次試験を受けたものの落ちてしまった。家にあった韓愈の文集を手に取って読み、大きく溜め息をついて、「学ぶ者は必ずこれを目標にすべきである」と考え、いまの時代の人がどうして韓愈のことをいわないのか不思議に思った。しかし、我が身を顧みると、韓愈の文章を学んでいる余裕はないのだった。何かにつけ自分独りで次のように思った。科挙に合格して俸禄を得て親を養うのだ、もし俸禄を得られるようになったならば、きっと韓愈の文を読むことに力を尽くし、本来の志を遂げようと。
その七年後に、科挙の進士科に及第し、洛陽で官職に就くと、そこには尹洙らがいて、一緒に古文［韓愈が提唱した復古調の、実は新しい文体］を作るようになった。私は所蔵する『昌黎先生文集』を出して補綴し、ほかの人の家にある古い本を求めて校定した。その後、天下の学ぶ者も次第に古に赴くようになり、韓愈の文体が世に行われるようになった。それから三十余年、韓愈の文でなければ学ばないほどにまでなった。実に盛んになったのである。
道は遠く昔に行われて近い時代に滞ることがあり、あるいは、昔はゆるがせにされて今は貴ばれることがあるのは、世間の人の好き嫌いによってそのようになるだけではなく、しかるべき理由があるのだろう。昔、孔子や孟子の学問がすたれた時代もあったが、しかしそれは千世、万世にわたる師法である。韓愈の文も二百年にわたって顧みられることがなかったのだが、いまでは大いに行われている。これは好き嫌いが上下するだけによることではないのだ。時間が経つことでいよいよそれが磨滅すべからざるものであることが明らかになったのであって、しばし蔽われていたといえどもついには無窮に輝くのは、まさしくそれが正しいものであるからなのだ。
私が初めて韓愈の文を知ったのは、埋もれ棄てられていたときに当たる。私はもとより時代の流行を追って地位や利益を得ることなどは取るに足りないと考えていた。韓愈の文を学ぶのは、それで名誉を得たり地位を得たりするためのものではない。長くこれを志していたのである。私が官に仕えて昇進することを喜びとはせず、退くのも恐れないのは、志が最初から定まっていて、学ぶものがきちんとしているからである。
私が蔵する韓愈の文集はもとは蜀の地から出たものだ。文字は今世の俗な本よりも精緻であるが、脱漏や誤謬が非常に多い。この三十年間に、善い本を持つ人があると聞くと、必ず求めて改正した。ただし最後の巻が欠けていて足らないのを、今もって補わずにいる。それは原本を変えてしまうことを憚るからだ。私の家には万巻の書物があるが、この『昌黎先生文集』だけが旧いままのものである。
ああ、韓愈の文の道は万世にわたって尊ばれるものであり、天下に伝えて保つべきものである。私はこの本が前々から家にあることをもって特に大切に思うのである。
■【06-5-010】上巳日、与二三子携酒出游、随所見輒作数句、明日集之為詩、故辞無倫次
【解題】先に参寥、徐大正［徐大受の弟］と遊び、再び同じように春を尋ねようと約束していた［→作品番号06-5-004］。3月3日、催閑［字は成老］［→作品番号06-3-073］も加えて酒を携えてあちこち見て回り、その先々で数句の詩を作り、翌日に一つにまとめた。必ずしも時間順に並んではいないと詩の題で断っている。
【訳文】
空は一面の薄い雲、
それでも雨にはならないので、
暁から杖をついて、千の花の乱れる土手を歩く。
柯氏の丘の林の奥で独り笑う海棠、
その侮ることのできない姿をかつて私は詩に詠んだ。
卯酒［朝酒］を三杯もひっかければ人はたちまち酔い、
竹林に棲む老人に請うて枕を借りると、
春の睡りはすぐに正午になる。
ここの主人は書物などは読まないはずなのに、
誰に教わったのか、
昔の風流人の故事に倣って門を閉ざして私を留めようとする。
簷から出る枳の株は十囲もあり、
その影こそが真実を写すのだろう、
それはつまり壁に千の竜が舞っているのである。
竹林の外には東の坡に作った塘が通じ、
今では幾尺もの深さになっていて、
ときに酒を携えてそこで農工の苦を労うことがある。
流れる川のあたりを尋ねようと東門の外を行くと、
壊れた垣根、古い堀のあたりに、
誰にも世話されずに下に臥して桃や李が開き、
鵁鶄が向き合って格好のよさを競っている。
春の晴れ着が泥に汚れるのも構わずに、
道端に草を敷いて勢い付けに酒樽をまた開く。
再び衣服をまくり上げ、
春草亭のあたりを通り、
門を叩いて韓家［韓毅甫］の農地に入る。
井戸の轆轤の縄は切れ、底には深い碧の水がある。
鞦韆が垂れ下がっているので、
これに乗る女性はどこにいるのだろうかと、
水を請うふりをして門より声をかけてみるが応じる声はなく、
小さな桃の枝が簾の前あるだけだ。
南に行って古い見晴らし台に上り、
長江の断岸に臨むと、
雪をはらんだ雲が空に翻って、
上が下やら下が上やら、くらくらとする。
知り合いが我等に羹を振る舞ってくれるが、
誰のためにいつ煮たものなのか、
煙は消えて火は冷えてしまっている。
荒れた急な道を助け合って下ると、
花を隔てて女性たちが楽しそうに話をしている。
町のはずれの僧房に立ち寄り、
落ち行く日を追うようにして残った酒を片付ける。
主人が足を洗って眠るよう勧めてくれたので、
牀に倒れ込んだが最後、
鐘の音も耳に入らぬままに朝を迎える。
なんと門の外は一尺の深さの泥で、
夜中にひどい雨が降ったのを初めて知る。
普段から私は、行く先々で何一つとして成し遂げたものはないのだが、
今回の游びだけはなぜか天も阻むことがなかった。
これはまことに我が友が決して窮迫することがないお蔭であるのだろう。
友とすべき君子を神が与えてくれているのだ。
【補足】［ここに詠まれた場所は、我々にもすでに馴染みとなっているところが多い。鞦韆も作品番号06-1-032ですでに見ている］
■【06-5-011】記游定恵院
【解題】上の詩で見た遊びを記した文章がある。詩と文とで違うところがあるのは、上の詩題に「倫次無し」とある所以なのであろう。
【訳文】
黄州の定恵院の東の小さな山の上に、一株の海棠があり、よく繁茂している。毎年、盛んに開くときに、必ず友人と連れ立って酒を置き、花のもとで酔うことすでに五回となった。今年は参寥師および二、三の友と訪れた。
園の主はすでに替わっていた。主は市井の人であるが、私のために海棠の木を大切にしてくれている。この山には老いた枳の木がたくさんあり、樹皮がごわごわとし、筋脈が露わで老人の首のようである。花は白くて円く、大きな珠が重なり合うように咲き、香りもたたずまいも非凡である。この木は人に喜ばれるものではなく、ややもすると伐られてしまうのだが、主人はやはり私のために伐らずにいてくれている。
ここで飲んでから、尚氏の屋敷に行って休憩した。尚氏もまた市井の人である。居処は清潔でよく整い、呉越のあたりの隠棲者の住まいに似て、竹林も花圃もどれも喜ぶべきものがある。酔って小板閣の上に臥せた。
ようやく目覚めたころに、一行中の崔閑が雷氏の琴を弾くのを聞いた。錚錚として暁の月の下を悲しげに吹く風のようで、人間世界にいる気がしなかった。
晩に出て町の東を歩いて、大きな木の桶を買った。泉から清らかな水を瓜と李に注ごうと思う。
そこから小さな溝に沿って何氏［何聖可］、韓氏［韓毅甫］の竹園に入った。何氏はちょうど竹の間に堂を作っていて、すでに地ならしがしてあった。竹の陰に酒を置いた。
役場に勤める劉唐年が油煎餌［かりんとうのようなもの］を持ってきてくれた。その名を為甚酥［なんでこんなサクサク？］といって、味が極めてよい。友人たちはさらに飲もうとしたが、私はもう興が尽きたので帰った。道の途中で何氏の小さな店を過り、そこにある橘のひとむれを求め、雪堂の西に移すことにした。
一行の中に徐大正がいて、間もなく閩中に行くことになっている。これから後にまた会えるかどうかわからないので、今回の遊びを記してほしいと私にいった。それを読んで後の楽しみの種にしようというのである。
このとき参寥師は酒を飲めないので、棗の湯を代わりに飲んだ。
【補足】［（1）催閑は作品番号06-3-073で現れてからずっと黄州にいたのか、再び廬山からやってきたのか、そのあたりのことはわからない。（2）「雷氏の琴」は雷氏の作った琴の名器［→作品番号06-2-031］。（3）「為甚酥」は蘇軾の命名で、次にそれについて詠んだ詩を見る。（4）徐大正はいよいよ兄を故郷に葬るために遠く閩中に行くのである］
■【06-5-012】劉監倉家煎米粉作餅子、余云為甚酥。潘邠老家造逡巡酒、余飲之、云莫作醋、錯著水来否。後数日、余携家飲郊外、因作小詩戯劉公、求之
【解題】長い詩の題は、「劉唐年の家では米の粉を煎て餅子を作る。私はこれを『為甚酥』と呼んだ。潘大臨の家では逡巡酒を造る。私はこれを飲み、『莫作醋』と呼んで、『誤って水に著けたのかい』といった。その数日後に、私は家族を連れて郊外で飲み、この小さな詩を詠んで、戯れに劉君に為甚酥を求めた」。潘大臨の名は作品番号06-3-064などで見ている。その自家製の酒は、薄くて酸っぱかったのだろう。
【訳文】
野原に飲み、
ここにあるのは花だけ、
目につくのは、高く伸びた一本の葦くらい。
すでに潘君の水のような酒は飲んでしまったので、
劉君の為甚酥を所望するとしようか。
【補足】［これは上の文章で見た遊びの折の作であるのかもしれない］
■【06-5-013】海棠
【解題】上の遊びで触れていた海棠を詠んだ詩。
【訳文】
東の風［春の風］が嫋嫋と吹いてきて、
崇の光が泛び出る。
香る霧［春の霞］が空濛と立ちこめ、
月が回廊のあたりを廻る。
心配なのは、
夜の深さに花が眠ってしまっていること。
ことさらに高く蝋燭を焼いて、
紅の粧を照らし出すとしよう。
【補足】［いまや黄州には馴染みの人々が大勢いて、どこも馴染みの場所となっていて、折々の楽しみがあった。このような日々がこれからも続いていくのだろうと蘇軾は思っていただろうし、蘇軾ファンはもっともっと黄州での作品を読みたいと思うのだが、春の盛りのときに、新たな辞令が都から届いた］
■【06-5-014】謝量移汝州表
【解題】神宗皇帝が蘇軾を赦して都に呼ぼうとしているという話は何度か噂として流れたようだが、この年の1月25日、皇帝は蘇軾を検校水部員外郎汝州団練副使に量移するとの辞令に署名した。蘇軾の罪が確定したときに与えられた肩書［→作品番号06-1-001］と比べると地名だけが異なっている。「量移」とは、遠方に流されていた官員が、罪を赦される前段階として都に近いところに移動させられることをいう。汝州は都の西方約150キロ、洛陽の南方約60キロの町で、黄州と比べたら遥かに都に近い。この報せが蘇軾のもとに届いたのは、3月5日から3月8日の間であったようだ。先に見た『定恵院に游ぶ記』にはこれから黄州を離れるような気配は全くなく、後で見るように3月9日にはすでに黄州を離れる用意が始まっている。皇帝の命令書が届くと、蘇軾はすぐに感謝状を書いて朝廷に提出した。
【訳文】
臣軾は申し上げます。
臣に汝州団練副使本州安置不得僉書公事を特に授けるとの正月二十五日の誥命を、臣は伏してお受けいたしました。都にやや近い地に遷して、永久に棄てるものではないということをお示しくださいました。我が罪は万死に当たるとすでに甘んじておりましたので、この御恩は実に生き返るよりも大きなものがあります。謹んで訓辞に服し、ただ感涕あるばかりです。
臣軾、誠惶誠恐頓首頓首。［ひたすら恐縮する意］
伏して念いますに、臣は先に実態を過ぎた地位、他の人を超えた俸禄を頂戴しておりました。兄弟ともに進士合格を竊み取りましたところ、衣冠［官僚］はこれは盛事であるとして、たちまち館職を頂戴し、都より出て諸郡を治めることとなりました。しかし、わずかな善いこともなく、記録すべきことは毛筋ほどもなく、重罪を蒙って、まさに処刑の鋮を我が血で濡らすべきに至りました。
有り難い思し召しを蒙りましたのは［死罪にならずにすんだことをいう］、臣の平生のあり方からして愧じるばかりでありました。一人我が影を憐れみ、川のほとりに我が命を寄せたのであります。我が魂は驚き入ったまま定まらず、夢の中でも常に縄で縛られておりました。人間ではないほどまでに憔悴し、心を失うまでに惑い狂い、妻や子はひそかに冷笑し、親類も友人も交わりを絶つに至りました。毎年病気にかかり、人はすでに臣は死んだと言い伝えました。飢えと寒さに攻められ、臣はこの先も生きるのを嫌いました。
草むらに捨てられた賤しい微々たるこの存在が、まさか朝廷の記録簿になお記載されていて、痛恨の苦しみを開いて、また用いて試してみるなどということがあろうとは思ってもみませんでした。
これは皇帝陛下の「湯徳日新、堯仁天覆」［古代の聖天子のように日々に新たに天を覆うばかりに広がる仁徳］に遇うものであると伏して感じるものであります。いま皇帝陛下は新たに廟を建てられて歴代皇帝を祀られ、官制を改正して今後の範となる型を作られ、百の眠っていたものが次々に興り、多くの才能ある者が集まって官位を授かり、共に千年に一度の聖世との出会いを欣んでおります。そこに一人の男が顔を覆って天下の隅で泣いているのを偲び難く思われて、一滴の水を枯れた草木に注がれたのでありましょうか。
臣の身を顧みますに、死をもって御恩に酬いようとしてもその方途はなく、いま身を殺しても何の益もありません。天に向かって我が思いを言おうとしましても、口に出すならなお我が身を苦しめることになりましょう。ただこのような思いだけはありますので、いつの日にか果たしたいと思います。
臣、無任。［歓喜に耐えないの意味］
【補足】［このときの量移の命令について陳鵠の随筆『西塘集耆旧続聞』に次のような話が記録されている。『西塘集耆旧続聞』は作品番号05-5-092で触れたように、記事の信憑性は必ずしも保証されないようだ］
【訳文】
陳鵠：『西塘集耆旧続聞』より
蘇軾が黄州に謫された元豊年間の末に、汝州団練副使に移されることになったときの制詞に、
「蘇軾は謫居すること久しく、咎を念うことすでに深い。人の才能は実に得難いものであるから、終身これを棄てたままにしておくのは忍ぶことができない」
とあった。蘇軾のこの部分に非常に嘆服し、きっと王震が起草した詞であろうと考えた。
元祐年間の初めに蘇軾が朝廷に入ると、王震と同僚になった。そのとき王震の詩に和した蘇軾の詩に次の句があるのは量移の命令を受けたときのことを詠み込んだものであろう。
清篇帯月来霜夜、［清篇が月を帯びて霜の夜に来ると］
妙語先春発病顔。［その妙語は春に先んじて病いの顔を発いてくれた］
【補足】［（1）「人の才能は実に得難い」の原文は「人才実難」である。神宗皇帝が蘇軾が死んだとの噂を聞いたときにつぶやいた言葉が「才難」であったことは作品番号06-4-016で見ている。（2）ついでながら同じ『西塘集耆旧続聞』は次のような興味深い逸話も記録されている］
【訳文】
陳鵠：『西塘集耆旧続聞』より
朱載上がかつて黄岡県にいたときに、蘇軾は黄州に謫居となった。蘇軾がまだ朱載上のことを知らずにいたころに、ある客人が朱載上の次の詩句を誦じた。
官間無一事、［官は間で一事無く］
蝴蝶飛上階。［蝴蝶は上階に飛ぶ］
蘇軾は驚いていった。
「これはどの人の作品ですか」
客人が朱載上の作だと答えると、蘇軾は再三称賛し、幽雅の趣を深く得たものだといった。
後に蘇軾は朱載上と会い、朱載上はその門弟となった。
ある日、朱載上が蘇軾のもとを訪ね、来たことを伝えてもらったのだが、長い時間が過ぎても蘇軾は奥から出てこなかった。さらに待とうとして、しかし倦み疲れ、やはり去ろうとして、また奥に我が姓名の伝えてもらうと、ようやく蘇軾は出てきて、長く待たせてしまったことを謝り、
「たまたまいささかの日課を勤めているうちに失念してしまいました」
といった。坐が定まり、ほかの話が終わってから、朱載上は尋ねた。
「先生のおっしゃる日課とはいかなるものでしょうか」
「『漢書』の抄録です」
「先生は一度書物を開いたなら、終身忘れることがないと伺っております。手ずから抄録なさる必要があるのでしょうか」
「そうではありません。私は『漢書』を抄録すること三度目となります。最初は一段のことを三文字にしてその題とし、次には二文字にし、今回は一文字にしているところです」
朱載上は膝を進め、
「先生はどのように抄録なさっているのでしょうか。よろしかったら教えていただけますでしょうか」
蘇軾は老いた召使に机上にあった一冊を取ってこさせた。朱載上がそれを見ると、その意味がまるでわからなかった。
蘇軾はいった。
「試しにそこにある一字の題をおっしゃってみてください」
朱載上がそうすると、蘇軾はその声に応じてすぐに数百字を唱え、一字の過ちもなかった。数回同じように繰り返したが、皆同じであった。
朱載上は辞去すると嘆息すること久しく、
「先生は真に人間界に降りた仙人のような天才である」
といった。
【補足】［前に政敵の李定の話［→作品番号06-1-001］でも見たように、蘇軾の記憶力は尋常ではなかった。だからこそ故事をてんこもりにした詩もたちどころに作れるのである］
■【06-5-015】贈別王文甫
【解題】「量移」の命令は朗報とはいえ、手放しで喜べるものではなかった。上に見た感謝状に「汝州団練副使」の後ろに「本州安置不得僉書公事」とあり、指定された場所以外のところには住んではいけないし、公の事は何もしてはならないという制約はそのままで、つまり、罪がすっかり赦されたわけではなかった。この先、たとえ公職に復帰できたとしても、また同じようなことになってしまう恐れもあった。実際のところ、蘇軾の感謝状が朝廷に届くと、その字句を細かく詮索して蘇軾は何も反省していないと難癖を付ける者がいた。それはそれとして、蘇軾は汝州に移る準備を大急ぎで進め、黄州の人々に順次別れを告げた。真っ先に蘇軾の頭に浮かんだのが長江の対岸に住む王斉愈［字は文甫］とその弟［→作品番号06-1-030］で、すぐにこの文章を送った。
【訳文】
私が黄州に到着したのは元豊三年二月一日であった。このとき家族は南京応天府にいて長男の邁だけが一緒であった。黄州には旧くからの知り合いは一人もいなかった。
私はしばしば杖をついて長江のほとりに行っては、雲や濤の渺然な彼方を望み見ていた。このとき長江の南の地に王兄弟がいることなど知りもしなかった。
十日余りして、長い髯の人がわざわざ立ち寄ってくれた。それが王斉愈の弟の王斉万であった。留まって語ること半日に及んだ。
王斉万がいうには、
「間もなく寒食です。ひとまず車湖に帰ります」
そこで私は川岸まで送った。弱い風に細かい雨が降り、王斉万は木の葉のような小舟に乗って長江を橫切って去って行った。私は夏隩尾の高い丘に上り、舟が武昌の船着き場に着くのがぼんやりと見えるまで眺め続け、それから還った。
以来、互いに往き来し、四年の間に百回以上にもなるであろうか。ついには近くに田を買ってそこで老いを送ろうと思ったこともあった。しかし、それは果たせなかった。
近ごろ突然、汝州に量移させられることになり、間もなくここを去る。後にまた会えるとは限らないと思うと、何につけても寂しく感じられ、懐いに耐えることができない。
「仏僧は同じ桑の下に三晩宿ることをしない」［執着心が生じるからである］というのは理由があることではなかろうか。
元豊七年三月九日。
【補足】［この文章を読んでから、黄州に到着したころの詩文にまた立ち戻ると、より情感深く味わうことができるであろう］
■【06-5-016】与蘇子容
【解題】汝州への移動を命じられて、出発準備をしている間に蘇頌［字は子容］に宛てて書いた手紙。蘇頌の名は作品番号05-3-038などで見ている。
【訳文】
先に罪を得て譴責されましたのは私自身から出ましたもので、今回の量移の命は実に望外のことであります、貴君より重ねての御助言にますます感激しております。長らくの困苦が累重し、陸路ではとても行けませんし、舟の手配ができたとしましても、汝州には夏の間にはまだ到らないでありましょう。
貴君が苦しんでおられるのは、恐らくさほど深刻なものではなくて、平凡な医者がそれについての知識がないために、適切な薬を用いることができないだけなのでしょう。蘄水の人である龐安時君は、脈や薬について詳しく、博学多識で、試しに診てもらったところ、古の名医にも負けるものではありませんでした。その技芸がどれほどのものか量ることもできません。病気の状況を詳しく書いたものを見るだけでも、龐君は処方を考えて、十に五ないし六は的中します。人を遣わして龐君に手紙を送られたならきっと益がありましょう。龐君は操行高雅で、利益について考えることはありません。私は龐君のことはよく知っていますので、貴君からの手紙が届くということを知らせておきましょう。……
【補足】［（1）このころ蘇頌は都にいたようで、蘇軾に量移の命令が下ったのを聞いて、移動するについての支援を申し出たのであろう。（2）龐安時は何度も見ている名医である［→作品番号06-4-093］。（3）別の手紙に、蘇頌が落馬したので、蘇軾は家伝の接骨丹を送る由を記している。たぶんこのときはそれとは別の病気であったのだろう］
■【06-5-017】大別方丈銘
【解題】蘇軾は3月10日ごろに黄州を離れたのだが、そのときの詩文を読む前に、黄州において書いたと知られる作品を幾つか見ておこう。蘇軾はあるとき、大別山に遊び、そこにある方丈を訪れてこの銘を作った。大別山は黄州から少し長江をさかのぼった漢陽県にある。
【訳文】
目を閉じて視る。目が見るところのものは冥冥蒙蒙としている。耳を掩って聴く。耳が聞くところのものは隠隠隆隆としている。目や耳が使えなくなっても、見たり聞いたりすることは断たれないで、冥冥蒙蒙あるいは隠隠隆隆の中で揺らいでいる。目を開いていながら、全く視ることなく、ものを写す鏡のようであることは誰にもできないだろうし、耳を傾けていながら、全く聴くことがなく、風を受ける穴のようであることは誰にもできないだろう。見ていながら視ない、聞いていながら聴かない、それは塵空の内にあるためだ［これは煩悩などに妨げられて本当の仏の道を知ることができないことをいっているのだろう］。塵がからりと晴れるならば、遍く十方が地獄までも天宮までも明るく照らされて、水や火を踏み、鉄や石を通り抜けることさえできるのである。
私が大別山を観るところ、三門の外には長江が東へと流れ、東西万里にわたる千の溪、百の谷がそこで一つになっている。私が大別山を見るところ、方丈の内には常に紅くともる一つの燈火があって、門は閉されて開かれないが、隙間から光が長い虹のように曄いて出ている。どうしてそうなのかと問うと、方丈の僧は笑って答えない。近づくと、盲にして聾の僧である。見るに、龐然として月のように美しい顔で、瞳は漆のように黒い。
私はこの銘を作り、その僧が叩く木魚と鼓鐘とともに唱える。
【補足】［（1）この銘の意味するところはよくわからないので、何となく雰囲気が伝わるように訳してみただけである。（2）大別山の才長老に送った手紙が3通残っていて、才長老が黄州にきたり、蘇軾が大別山を訪れたりしたことが知れる。この方丈の主はその才長老ではないようだ］
■【06-5-018】石恪画維摩頌
【解題】石恪が画いた維摩像に添えた頌歌。石恪は蜀の人で、蜀が宋によって併合されたころに都に行き、都で第一といわれる寺の相国寺の壁に画を描くよう命が下ったのだが、蜀に帰ることを願い、結局描かずに帰郷した。石恪は宋の都が気に入らなかったのだろう、蜀の人々に様々に吹聴したという。仏陀の弟子である維摩詰について歌った部分は省略し、石恪に言及している終わりの8句だけを訳す。
【訳文】
……石処士君はと観るに、麻の鞋を履き、破れた帽子を被り、両肘を露わにした姿、筆を取り出すと、その先から維摩詰を描き出し、その神力は維摩詰を超えるものがあった。もしもこの画が実相でないとしたら、（維摩詰が住んでいた）毗耶城もまた実はなかったことになるだろう。仏弟子が維摩像を作るならば、まさしくこの画に観る維摩詰をもって維摩詰の正観とするに違いない。
■【06-5-019】夢弥勒殿
【解題】これはずっと後年になって書かれたと推測される文章。
【訳文】
私は黄州にいたときに、夢で西湖のほとりに至った。夢の中でありながら、それが夢であるのを知っていた。湖のほとりに大きな建物が三つ並び、その東の建物に「弥勒下生」の額が掲げてあった。夢の中で私は、
「これは私が昔書いたものだ」
と、いった。
大勢の僧がそのあたりを行き来し、その大半を知っていた。弁才師、海月師といった方々がいて、皆が私を見て不思議なことだと驚いた。私はざっくりとした衫に杖を携えていて、人々に向かって会釈し、
「夢の中でこちらにきてしまいましたので、きちんと冠帯を身につけるいとまもありませんでした」
と、言い訳した。
夢から覚めると全てが消え去った。
その翌日に芝上人からの手紙が届いた。夢はそのしるしであったのだろう。そこれでこのことを書いて、芝上人に寄せるものである。
【補足】［（1）蘇軾が夢を語ることは本章だけでも、作品番号06-2-005、06-2-086、06-3-064、06-4-095などがある。（2）弁才師は作品番号04-2-053や06-1-081で見た弁才大師元浄、海月師は作品番号04-2-090で見た海月禅師慧弁のことである。（3）芝上人は曇秀という僧で、ずっと後に蘇軾が記した文章から杭州にいたときに若干の交流があったことがわかる］
■【06-5-020】書黄州古編鐘
【解題】古代の打楽器である編鐘について記した短文。
【訳文】
黄州の西北百里余りのところに欧陽院があり、そこの僧が古代の編鐘を蓄えている。農家の者から得たという。それを発見したところからは、四つの鐘が出土し、そのうちの二つは激しく壊れていて、一つからは銅が取り去られてしまい、残ったのがこの一つである。それを叩いた声は空籠として、すこぶる古風な感じがある。周の時代の「韶」や「濩」の音はいまは聞かれないが、あたかもこのようであったろうかと想像することができる。
【補足】［古代の楽器について記した短文はほかにもあるが、訳者の理解が及ばないので割愛する］
■【06-5-021】書李岩老棋
【解題】李岩老の碁について記した短文。李岩老とは李樵という名の黄州の人であるという。
【訳文】
南嶽の李岩老は居眠りが大好きである。人々が食事を終えて碁を打ち始めると、李岩老はたちまち眠ってしまう。数局を打ち終わったころに、李岩老は寝返りを打って目を開け、
「わしはまだ一局目を打ち始めたばかりであったはずだが、諸君らはもう何局も打ったのかな」
と、いった。
私はこのように応じた。
「李岩老君はいつもの四脚の碁盤を持ち出し、黒い石を一つ置く。初めは、辺韶［漢代の人］が相手だったけれど、いまは陳摶［宋代初めの隠者］が打とうとしている。初めは、勝ち負けがあったのだが、いまは一切何もない」
これは欧陽公［欧陽脩］の『夢の中の詩』と同じココロである。
夜涼吹笛千山月、［夜の涼しさのなか、千の山を照らす月の下に、笛の音が広がる］
路暗迷人百種花。［路は暗く、百種の花の間で人は迷ってしまう］
棋罷不知人換世、［ここに碁を打ち終わると、世の中が換わってしまったのも知らずにいる］
酒闌無奈客思家。［酒闌のうちに夢に落ち、旅人は家を思う気持ちをどうすることもできない］
【補足】［（1）碁に夢中になると時間の経過を忘れてしまうことから、仙人が一局打つ間に何百年も経ってしまったというたぐいの伝説がある。それを踏まえて、蘇軾のセリフと欧陽脩の詩がある。（2）辺韶は後漢時代の人で、弟子たちを指導している間に居眠りをしてしまい、うとうとしながら、弟子たちがひそひそ先生をからかう言葉をささやいているのを耳にし、即座に絶妙な切り返しをしたというエピソードがある。陳摶は宋代初めの非常に有名な隠者。（3）欧陽脩の詩は、中央政界から追放されていた時期の作で、地方を転々とする悲哀を夢に託してさらりと詠んでいる。黄州謫居の蘇軾が引くにはぴったりの詩であろう］
■【06-5-022】徐問真従欧陽公游
【解題】これはずっと後になって書かれた文章であるが、黄州での出来事が記され、また欧陽脩と関りがあるので、ここで読んでおこう。例によって「異人」の話である。
【訳文】
道人の徐問真は自ら濰州の人であるといっていた。酒を嗜んでほしいままに狂い、葱や鮮魚を生のまま啖らう。指をもって鍼とし、土をもって薬とし、病を治して神のような験がある。
欧陽文忠公［欧陽脩］が青州知事であったとき、徐問真は公に従って遊び、しばらく過ごした後に辞去した。
公が引退したと聞いて徐問真は潁州に来た。公は徐問真を屋敷に住まわせ、息子二人に世話をさせた。公は以前から足を病んでいて、病状が少し悪くなったのを、やわらげることができずにいた。徐問真は、気血を踵から頭の頂に汲引するよう教えた。公がその言を用いると、病はすぐに治った。
ある日、徐問真は突然出て行くことを強く求めた。公は引き留めたが、徐問真は、
「私には罪があります。私はこれより公卿と遊ぶのです。もはや留まることはありません」
といって聞かなかった。
公は人を付けて徐問真を送らせたところ、身の丈八尺ばかり、鉄の冠を頭に載せた人が道に待っていた。徐問真は町を出ると、村の子供を雇って薬筒を持たせた。数里ほど行くと、子供はもう帰りたいといった。徐問真は髪の中から棗くらいの大きさの瓢を取り出し、掌の中で何度もひっくり返してから、子供の手の内に酒を注いだ。手にいっぱいになること二度、子供にそれを飲ませた。よい酒であった。これより徐問真がどこに行ったのかはわからない。その子供は後に頭がおかしくなり、その後どうなったのかやはりわからない。
私はかつて潁州で公に会い、以上のことを具に聞いた。その後、私は黄州に流されたときに、黄岡県知事の周孝孫が俄かにふくらはぎを重く患った。私が徐問真の方法を授けると、七日で癒えた。
元祐六年十一月二日、私は欧陽棐、欧陽弁と夜にこのことを語り合った。はなはだ怪異なことであるので、あまり書くに気にはなれなかったのだが、徐問真はまことに異人なのであろう。
【補足】［（1）欧陽脩が政界を引退して潁州に退隠したのは、熙寧4年［1071年］6月で、蘇軾が杭州に赴任する途中に潁州を訪問したのはその年の9月であったから、徐問真はその間にきていたことになる。（2）徐問真の「汲引気血」の治療法が実際にどのようなことをするのかはわからない。（3）元祐6年は蘇軾が黄州を離れてから7後である］
■【06-5-023】陳昱再生
【解題】耳にした不思議な話を記録した短文。
【訳文】
今年の三月、陳昱という中書省の小役人がにわかに死に、三日後に甦った。そしてこのように語った。
初めに壁に孔があるのか見えました。人がいて孔から一つの物を擲げました。それが地に落ちると人に化し、それは亡き姉でした。
私は姉と手を携えて孔の中に入り、通り抜けると、
「冥界の役人がそなたを追っています。私が先に行くので、ついてきなさい」
と、姉がいいました。
見ると、役人がすぐそこにいました。あたりは夜のように暗く、遠くに明るいところが見え、そこに橋がありました。立札に「会明」とありました。そこでは泥の銭を使って渡り賃を払うのでした。橋は非常に高く、橋の上を行く者がいました。姉は、
「あれは生天です」
と、いいました。
私たちは橋の下を行きました。そこを行く人もいて、鳥に突かれている者もいました。
「あれは網で捕われた鳥なのです」
と、姉がいいました。
また一つの橋があり、「陽明」と書かれていました。ここでは紙の銭を用い、十人余りの役人がいて、書類を手にして、税金を徴収するようにして、紙の銭を厳しく取り立てていました。
私は冥官様［閻魔大王］にお会いすることになりました。見ると、それは陳襄様でありました。冥官様は、
「どうして乳母を殺したのか」
と、私にお尋ねになり、
「そのようなことはしていません」
と、答えると、冥官様は乳母を呼びました。乳母は顔から血を流し、赤ん坊を抱いていました。乳母はじっと私を見て、
「この人ではありません。門下省の小役人の陳周です」
冥官様は私を解放して還してくだることになり、
「路は遠い。竹の馬を貸してやろう」
と、いわれ、また係の者に名簿を調べさせると、
「この者は六十九歳で死ぬことになっています。最後は左班殿直に至ります」
と、いったので、
「普段から先祖の供養に熱心でないので、寿命があまり長くないのだな。行いを改めるのなら、これとは少し異なるようにしてやろう」
冥官様はいわれました。
私はこうして帰ることができ、道の途中で、陳周が役人に追われてくるのが見えました。
こうして陳昱は蘇生し、陳周は果たして死んだのだった。
【補足】［（1）この種の臨死体験談は類話が非常に多い。（2）蘇軾が杭州にいたときに知事を努めた陳襄は昨年のうちに亡くなっている［→作品番号06-4-022］。その後で、このような話が都で語られるようになったのだろうから、冒頭に「今年の三月」とあるのは、早くてもこの年のことであろう。（3）官員として厳正な仕事をした者が死後に冥界で裁きを下すようになるという伝説は多々ある。（4）なおここで小役人と訳した原文は「吏」で、基本的に科挙に合格した高級官僚である「官」とは厳密に区別されている。ここの登場人物で陳襄だけが「官」で、他の者はすべて「吏」である］
■【06-5-024】魚枕冠頌
【解題】陳慥は古風な方山冠を愛用していたので方山子と呼ばれていたのだが［→作品番号06-1-015］、魚枕冠という珍しいタイプの冠も所有していた。蘇軾はそれへの頌歌を作った。魚の頭骨の中に魚枕［あるいは魚魫］という骨があって、それを飾りにしたのが魚枕冠である。
【訳文】
美しく清らかな魚枕冠、初めて細やかに観て、はてされこれは何物なのだろうか。
形と気がたまたま一つになると、忽然として魚となる。不幸にして網に遭い、剖かれてしまうと、そこから魚枕骨が得られる。魚枕骨を得て見るならば、それはもはや魚ではない。魚が火と湯で煮られても魚枕骨が得られ、冠の上に載せられて五嶽のように聳え立つ。冠となったときにはもはやもとの魚枕骨ではない。
成ると壊れるには永久にやむことがなく、ついには冠もまたなくなってしまう。もしもまだ壊れてはいないときであっても、これを髪のない人に与えるならば、簪を挿すことがでず、冠としての用をなさない。我が身を観れば、幻のごときものでしかなく、露が乾く間のもの、あるいは雷が光る間のものである。我が身といえども己の物ではなく、露も雷もまたあるかないかのものである。
仏の慈悲を思うならば、私はこの冠を愛おしく見るべきであろうが、冠は果たして冠であるのだろうか、そして私は果たして私は私であるのだろう。濁った五つの煩悩のなかにあって、美しく清らかなものに遇うときに歓喜を覚えるのである。
【補足】［訳者はこの頌歌の意味がわからないままに日本語に置き換えているだけで、つまり「ずっぽ訳」の最下等のものである］
■【06-5-025】与王文甫
【解題】黄州を発つ準備を進める蘇軾にもどると、出発の少し前にこの手紙を王斉愈［字は文甫］［→作品番号06-5-015］に出した。
【訳文】
ここ数日、どのようにお過ごしでしょうか。先に御恩によって汝州に量移となり、黄州にいる間にお世話になった方々とも間もなくお別れとなります。つらつら思いますに、私の罪は大きく、しかし責めは軽く、君恩はまことに厚く、直ちに汝州に赴かなくてはなりません。ここ数日間考えて、いよいよ発つと決めました。すでに一艘の舟を得ましたので、この月の下旬までには出発します。長江の流れに乗って進み、淮河に入り、汴河を溯って雍丘と陳留の間に至ったところで陸に上がって汝州に至ることになるでしょう。かなりの費用を必要とするのはやむをえないところです。本心としては、江湖［田舎］に老いて、貴君と小舟で行き来し続けたいのですが、事と心がこのように違うのは仕方がないと、深く慨嘆するよりないのでしょう。貴君もこのことを聞くなら、淒然とされるでありましょう。是非是非お会いしてお話したく思います。まだ準備が整わず、たくさんのことが切迫しています。貴君におかれてはここ二、三日の間に特に来てはいただけないでしょうか。強く強く望む次第です。……
【補足】［（1）出発は「この月の下旬」とあるのは、3月下旬のことであろう。実施には4月10日にずれこんでしまった。（2）ここに示されている汝州への経路は、船を使った場合の最短ルートで、実際にどうなったのかは次の章で見ることになる。（3）この手紙に応じて王斉愈がきたかどうかはわからない。すぐ後で見るように、船に乗って下る途中で王斉愈の家に立ち寄っている］
■【06-5-026】満庭芳
【解題】黄州を発つに当たってこの詞を作った。序文がある。
【訳文】
元豊七年四月一日、私は黄州から汝州に行くことになり、雪堂で近隣の二、三人と送別会をした。たまたま李翔が江東から来ていて座中に加わったので、この詞を書いて渡した。
【補足】［李翔［字は仲覧］は楊絵［→作品番号06-4-047］の使者として時折黄州にきていた。今回は、黄州を発ったならば、楊絵のいる興国に寄ってほしいという希望を伝えるためにきたもので、この詞はそれへの返事となっている。興国は黄州から長江を数十キロほど下ったところにあり、この詞では「江東」といっている］
吾帰何処、［私はどこに帰るのでしょうか］
万里家在岷峨。［家は万里の彼方の岷河、峨眉山のあたり］
百年強半、［人生は百年、その大半が過ぎてしまい］
来日苦無多。［これから来る日々はさほど多くはありません］
坐見黄州再閏、［黄州で二度の閏月を見て］
児童尽、［子供等はみな］
楚語呉歌。［この地の言葉や歌に慣れました］
山中友、［山の中の友は］
鶏豚社酒、［鶏に豚に村の酒を携えて］
相勧老東坡。［老いた東坡居士に勧めてくれます］
云何。［私は何をいいましょうか］
当此去、［ここを去って］
人生底事、［人生に何があるのでしょう］
来往如梭。［往くも来るも梭が飛ぶようなもの］
待間看秋風、［秋風が吹くのを看るころには］
洛水清波。［洛陽［汝州の近く］の川に清らかな波が立っていることでしょう］
好在堂前細柳、［雪堂の前にあるあのなよなよとした柳は］
応念我、［きっと私のことを念うでしょうから］
莫翦柔柯。［柔らかな枝をどうか切らないでおいてください］
仍伝語、［（楊絵への）言伝は］
江南父老、［長江の南にいる父老［楊絵のこと］よ］
時与曬漁蓑。［漁師の蓑をともに日に乾かしましょう［共に釣りをする＝歓談する意］］
【補足】［（1）この詞の前段にいう「山の中の友」とは送別の宴に集まった黄州の人々。人生の困難な時期に親しくした人々との別れは悲しいものがあったであろう。（2）この詞に詠まれているように雪堂は愛着の篭った場所で、それは潘大臨［→作品番号06-3-016］に託した。蘇軾が去った後、雪堂は教育の場として使われたようだ。その後、黄州の東の坡が蘇軾の詩文を愛する文人墨客の訪れる名所と化すにつれて雪堂は重要な観光資源となった。これより86年後にそこを訪れた陸游は次のように記している。「朝、東坡に遊ぶ。黄州の城門から東は、岡が高くなったり低くなったりしているが、東坡まで来ると、平坦で広く開けた地形で、東の方にやや高くなった岡がある。三間の構えの家屋があり、亀の頭のように突き出した部屋があって居士亭とよばれている。亭の下に南に面した堂があり、なかなか立派で、四面の壁にはみな雪景色が描いてある。堂のなかには蘇東坡の像が置かれてあり、烏帽子と紫の裘を着け、筇杖を横に構えている。これが雪堂である。堂の東に大きな柳があり、公が手ずから植えられたものといい伝えている。堂の真南に橋がかかっていて、札に「小橋」と書いてある。「小橋 流水を忘るる莫かれ」の句から名付けられたものである。その下にはもともと小川はないのであるが、雨が降ると、細い流れができる。昔は平たい石を流れの上に敷いていただけにすぎなかったが、近ごろになって幅を広くして木の橋をかけ、屋根で覆ってしまったので、いささか気分を害してしまう」（岩国秀夫訳『入蜀記』（1986年、平凡社））。雪堂に置かれていた蘇軾の像は、これぞ蘇軾というイメージとして定着していったものである。「堂の東の大きな柳」は上の詞にある柳である［本物かどうかはわからない］。東の坡が観光地化し、大衆受けするよう「気分を害する」加工が施されていったことがわかる］
■【06-5-027】記張君宜
【解題】蘇軾は黄州を去るまでに間に、人々から請われるままに数々のものを書き残した。雪堂を託した潘大臨には『赤壁の賦』を書いて渡し、4月6日には安国寺の継連の望みに応じて『黄州安国寺の記』［→作品番号06-1-024］を作り、4月7日にこの文書を記している。
【訳文】
近世の医者である仇鼎は病気を治療すること当時第一とされた。仇鼎が死んでからはそれを継ぐ者がいないのだが、いま張君宜の能力はほとんど仇鼎に負けないほどである。仇鼎は性格が純淑ではなく、世間の人を畏怖させていた。張君宜は心のほどが平安で、人を救うことを専らとしているので、治療の効果は仇鼎を遠く超えるものがある。
元豊七年四月七日。
【補足】［蘇軾はサービス精神旺盛であるから、地域の医者に対してご祝儀気分でこのような文章を書いたのだろうか。さらに妓女にもサービスしたというエピソードが、先にも引いた『春渚紀聞』［→作品番号06-4-053］に記録されている］
【訳文】
何薳：『春渚紀聞』より
蘇東坡先生が黄州にいた間のこと、人々が集まって宴会を開くと、先生は酔った勢いで墨をしたたらせて書をしたため、それを惜しむことなく人に与えた。接待に出た妓女にも、扇に書いたり、帯に画を描いてやったりした。
李琪という妓女がいて、なかなか賢く、書を読んでよく理解し、先生も李琪の顔を見ると喜ぶのだが、李琪は先生から何も頂くことがなかった。先生が汝州に移ることになり、まさに出発しようというときの送別の宴で、酒酣のときに李琪は觴を捧げて蘇軾に再拝し、領巾を取り出して書を乞い願った。蘇軾は少しばかり李琪を見ていたが、李琪に墨をするよう命じ、墨が濃くすり上がると、先生は筆を執り、大きく書いた。
東坡五歳黄州住、［東坡居士は黄州に住むこと五年］
何事無言及李琪。［どうして李琪についていうことがなかったのか］
ここで筆を擲って手を袖に入れ、座客と笑談した。
人々は先生の書いたものを見て、
「語が平凡に見えます。それに一篇の詩はまだ終わっていません。どういうことなのでしょう」
と言い合った。
いよいよ宴会が終わりそうになったときに、李琪がまた挨拶して、続きを願った。先生は大笑いしていった。
「ほとんど忘れて出て行くところだった」
書を継いでこう記した。
恰似西川杜工部、［それはつまり、杜甫が蜀にいたときに］
海棠雖好不留詩。［すばらしい海棠があっても詩に詠まなかったのと同じである］
一座の者は喝采し、酔いを尽くして散会となった。
【補足】［杜甫は蜀の地にしばらく滞在して数多くの詩を残したが、蜀の名花である海棠を詠んだものはないという。蘇軾が蜀の人で、こよなく海棠を愛しているのを黄州の人々は皆知っていた。だから、この即興の詩は李琪に対する大変な賛辞であると感嘆したのである］
■【06-5-028】別黄州
【解題】蘇軾はいよいよ黄州を去り、この詩を残した。
【訳文】
病みかつ傷だらけの老馬であるこの私は、
もはや手綱を付けられての活躍などできるものではない。
それでも君王は馬の亡骸を包むための使い古しの帷をくださった。
同じ木の下に三泊すると去り難い愛着が生じるというのに、
私は五年もの間、黄州にいた。
酒樽の前に置くこの身を、
そのまま保っていることができたのを喜びとしよう。
昔のある人は、腸の内に五千巻の書物が詰まっているといったが、
私の腸はせいぜい米を入れ込んでいるだけだ。
汝州の人間は瘤が多いといわれているから、
瘤を隠すような衣を作っておく必要があるだろう。
我が身は江湖［田舎の地］に投げ捨てられはしたものの、
終いには失われることはなかった。
これからはもう人のことをあげつらうようなことはいわないでいよう。
【補足】［（1）「使い古しの帷」とは、昔の名将が、辺境の地で命を落として襤褸布にくるまれてその地に葬られても国のために捧げる命であるから何も悔いはないといった故事に基づく。（2）汝州の人には瘤が多いとあるが、前に商州の人には瘤が多いという話を見ている［→作品番号02-2-027其の二］。風土病のようなものであるのか、土地への偏見であるのか、同じようなことがいわれていたのだろう］
■【06-5-029】和参寥
【解題】蘇軾が黄州を去ったときに、そのときまで黄州に滞在していた参寥［→作品番号06-5-002］も一緒に発つことになった。これは雪堂との別れを詠んだ参寥の詩に和したもの。
【訳文】
大河に浮かぶ塵のような舟、
これは小さな窪みにあるべきものだ。
貴僧に使ってもらった粗末な紙の帳、
これは我が妻のせめてもの心づかいであった。
山の人［参寥］は、ここから去るとはいわない、
月の光の残る暁の空、
そこに悲しく響く猿の啼き声……。
■【06-5-030】過江夜行武昌山聞黄州鼓角
【解題】蘇軾は船で黄州を発ち、対岸の武昌に渡った。最後まで別れを惜しんだせいか、すでに夜になっていた。黄州の町から夜風に乗って太鼓や角笛の音が聞こえ、この詩を詠んだ。
【訳文】
清らかな風が水とともに戯れ、月は山に銜まれようとしている。
この夜に、
私は呉王峴［武昌の山の中の高い峰］の下へと渡りつつある。
よほど情が深いのか、
黄州の鼓角が、
遠い距離をも辞さずに、私を送って南へとやってきてくれる。
聞えるのは『出塞の曲』［塞を出て敵地に向かう勇壮な曲］、
川の音と雑じり合って、悲壮にして雄健である。
杜甫は、「国中に戦の角笛の音が響くいま自分はどこに行くのか」と、嘆いた。
ならば、この私は……。
江の鼉は憤り、竜は愁え、そして私のために曲調が変わる。
私はきっと覚えていよう、
江辺の枯れかけたあの柳の樹を。
互いにまだ死なずにいられたなら、
真の顔見知りとしてまた逢おうではないか。
いつの年にか小舟に乗って長江を遡ってきたときに、
黄州の人々よ、
またこの曲を吹いて迎えてくれたまえ。
【補足】［杜甫は安禄山の乱の余燼がおさまらない時期に、放浪の旅人となって、「我が道はついにどこにゆくのか」と悲壮な句を吐いた。それと比べたら蘇軾の境遇は遥かに穏やかなものではあるはずなのだが、それでも「江の鼉は憤り、竜は愁え」というように激しい感情の起伏があった。罪が完全にはまだ赦されないままに都の近くに行くよりは、完全に政界を離れて東の坡で農民として生きた方がよいのではないかと、きっと思ったことだろう］
■【06-5-031】再書贈王文甫
【解題】蘇軾は車湖の湖畔に住む王斉愈兄弟［→作品番号06-5-025］のもとに行き、そこで二泊した。車湖を離れるに当たってこの文章を残した。
【訳文】
昨日は大風で、行こうとしてもできなかった。今日は風がなく、行くことはできるのだが、私の意は留まりたいと思っている。
王斉愈君は私を行かせたいと思っているのだろう。王君は私の意に会うように風水を操ることができたりするのか。そうであるのなら、客人を何年でも留めておける準備をいますぐにするべきである。
■【06-5-032】自興国往筠宿石田駅南二十五里野人舎
【解題】蘇軾は長江を下り、なおも別れを惜しむ人々が多数同行した。王斉愈兄弟、潘丙ら潘一家の面々、郭遘、陳慥［方山子］、参寥師［道潜］、趙吉といった面々である。その全てが官職に就く者ではないいわゆる「異人」揃いであった。「異人」に囲まれた蘇軾こそは己を新たにしようと懸命にもがいた末の到達点であったのではなかろうか。蘇軾は楊絵の求め［→作品番号06-5-026］に応じて興国に行き、楊絵と会って沈酔するまで飲み交わした。作品番号06-4-074で見たように趙吉はそのまま興国に留まった。一行には楊絵も加わって陸路で石田駅に行き、その南二十五里で野人［土地の農家］の家に宿をとった。
【訳文】
溪のほとりの青い山は三百畳の大きさ。
軽い衫をつけた身を馬に乗せて、
筆をさっとひと抹りするように、その前を走る。
山に倚りかかる竹のもとに人家があり、
私の渇きを知って道の横に冷たい水が湧いている。
草鞋は軽く、竹の杖でつく土は軟らかい。
蒲の薦も松の床も香りよく手触りもよい。
夜深く風露が中庭に満ち、
ただ一匹の蛍が明滅するのを見る。
■【06-5-033】跋先君書送呉職方引
【訳文】石田駅のあたりで楊絵は引き返したようで、一行は慈湖に行き、そこで呉子上に会った。呉子上のもとには、蘇軾の父の蘇洵が呉子上の父のために書いた『送別の辞』が遺されていた。蘇軾はそれを見てこの文章を書き添えた。子上は字であろうが、本名はわからない。
【訳文】
私の伯父［蘇渙］は［呉子上の父の］呉中復とともに科挙に合格した。私は呉子上とともに科挙に合格したので、二代にわたる「同年」となった。互いに深い契りがある。
我が父がまだ家にいたとき、父のことを知る人はほとんどいなかった。呉中復は我が父の文章を携えて都に行き、欧陽脩に見せた。欧陽脩はそれで初めて我が父のことを知った。
呉中復と欧陽脩は交わりを結ぶことが長く、欧陽脩が夷陵に流されたときに呉中復に贈った詩に「落筆妙天下」［筆を下せば天下一］の語があった。
私は黄州より汝州に遷るに際して舟で慈湖を過り、呉子上とその弟は我が父のこの文を出して見せてくれた。私は泣いてこれを書いた。
元豊七年四月十四日、蘇軾謹んで記す。
■【06-5-034】記参寥竜丘答問
【解題】慈湖までで一行の大半は帰ったようで、残った陳慥［方山子、号は竜丘］、参寥師［道潜］とともに程氏の草堂を訪れた。程氏とは、才学徳行がありながらも仕官することを求めなかった程師徳であろうと推測されている。草堂での楽しい問答を蘇軾は記録した。
【訳文】
慈湖には程氏の草堂がある。二つの山の間から滝が流れ出て、草堂の後ろに落ちる。それは山に掛かる布、あるいは風の中の雪、あるいは鶴の群れが舞うかのようだ。
参寥は草堂の主人に老いをこの地で養うことを乞い、主人はそれを許した。
私が、
「そのときには、お布施集めの発起人として名を連ねるとしましょうか」
といったところ、陳慥は、
「施主の筆頭は私ですな」
といったので、参寥は首を振り、
「まあ、この滝を一口で呑み干された後で、そうしていただきましょうか」
といった。陳慥はよい切り返しができずに黙ってしまった。
■【06-5-035】岐亭五首、并叙
【解題】4月23日、蘇軾は九江に近い瑞昌県に到着し、陳慥［方山子］もここで帰ることになった。別れに際して、5年の間に陳慥との交流の折々に詠んだ詩を書いて贈った。序文がある。
【訳文】
叙
元豊三年正月、私は始めて黄州に謫せられた。
岐亭の北二十五里の山の上に至ると、白馬に乗り、青い蓋を連ねて迎えにきた者がいた。私の旧い知り合いの陳慥であった。陳慥のもとに留まること五日、一篇の詩を賦して去った。
明年正月、陳慥の家に会いに往った。陳慥は人を遣わして途中で私を労わり迎えてくれた。私は長らく殺生をしていなかった。陳慥が私を歓待するために殺生をするのではないかと恐れ、前の詩の韻を用いて詩を作り、陳慥に殺生を戒めた。陳慥はそれからは殺生をしなくなり、岐亭の人々にも見習う者が出て、肉を食べない者が多くなった。
その後、しばしば往って会い、往くたびに必ず詩を作った。詩は必ず前の韻を用いた。
私は黄州にあることをおよそ四年［足掛け五年］、岐亭に三回往って陳慥に会い、陳慥は七回来て私に会った。一緒にいたのはきっと百日余りになるであろう。
元豊七年四月、私は汝州に量移となり、長江、淮河を経て洛陽［汝州は洛陽に近い］に行くことになった。見送る者は慈湖までで終わった。陳慥だけは九江まできた。また前の韻を用いて詩を作った。
通算五篇としてこれを陳慥に贈る。
其の一
昨日は陰気な雲が重く垂れこめていた。
今日は東の風［春の風］が雪を融かして水にする。
遠くの林は木々がこんもりと暗い。
近くの家からは湿り気を帯びた煙が上がっている。
その下に俗世から隠れた君子がいて、
自得の境涯を楽しんで歌っている。
寒さを冒して私がやって来るのを知って、
酒を用意し、はなはだ意を傾けて迎えてくれる。
掌を撫ぜるだけで近隣の人々が動き、
村を巡って鵝やら鴨やらを捕えてくる。
台所で鏘と器の音が響いていたかと思うと、
幔幕を照らすばかりに野菜や果物が並べられる。
蔞蒿はうまいものだと聞いてはいたが、
ここで初めてその新芽が赤いのを見る。
盞を洗って鵝黄［美酒の名］を酌み、
刀を磨いて熊白［熊の脂身のような美味な肉］を削る。
すぐに私は酔い、座ったまま眠って被り物を落としてしまう。
醒めたのはもう夜中になろうというころ、
唧唧と銅の瓶から湯の湧く音がしている。
黄州は遠いからどうとかいうのではない、
ただそこに友人がいないのを恐れるのである。
しかし、ここに安心して一緒にいられる主がいる。
主にとってもこのような客人はいないであろう。
静かなこの庵で朝を迎えると、
まわりにはただ山の峰が集まっているのが見えるだけだ。
【補足】［これは黄州に到着する直前の詩。『方山子伝』［→作品番号06-1-015］とは、2人の出会いの場面の記述が若干異なっている］
其の二
私は籃の中の蛤を哀れむ、
口を閉ざしてわずかに残った水を護ろうとしている。
私は網の中の魚も哀れむ、
口を開いてわずかな湿り気を吐いて身を濡らそうとしている。
蛤も魚も腸を刳かれて苦痛を病む。
そのようなことをしたもてなしは、分を過ぎたものとして私はいただくことができない。
まだ会って寒暖の挨拶もしていないのに、
このことを私は是非とも頼むのである。
昔、盧懷慎は客人を迎えると、
あたかも鴨を蒸しているような音を、豆を煮る鍋で立たせたのだが、
客人は皆笑いを我慢し、ついには冪を開けて知れてしまった［貧乏暮らしが露見した］。
昔、王武子は毎回、刀を血で赤く濡らして食事の用意をし、
武帝を迎えたときには琉璃の盆に蒸した豚肉を載せて出した。
肉に白いものがかかっているので武帝が尋ねたところ、
人の乳であるとの答えに、武帝は（気分を害して）中座して帰ってしまった。
盧懷慎は貧乏であったけれども長生きをし、
王武子は豪勢な暮らしをしたが死ぬ前から神を泣かせた。
先生は万金の璧のような立派な人であるのに、
ただこの蟻の一穴のような欠点［殺生］がある。
一年も一回の夢のようなもの、
百年の一生も一時の旅のようなもの。
何が肝要であるのか――
この詩篇を棄てずに、貴君の詩集の末尾にでも入れておいてくれたまえ。
【補足】［この詩は黄州に来た翌年の正月、作品番号06-2-007の詩と同じときの作である］
其の三
貴君の家には蜂が巣を作り、
毎年たくさんの蜂蜜がとれる。
私の身は、鼻を穿たれて縄を付けられた牛だ、
舌を出していささか自身を潤おすことしかできない。
二年の間に三度貴君の門を過り、
この訪問は真に心に得るものがある。
貴君は昔の侠客の劇孟に似て、
緩急の際に門を扣けばすぐに応じてくれる。
貴君の家には頬に紅をさした女性がいて、
上手に『緑頭鴨』の曲を歌ってくれる。
簾を隔てて見ると、花のような霧がその髪にまとわりついている。
貴君は私のために酒を取り、
親しく茶の包みを開いてくれ、
そして女性の白い手を煩わして茶を煎れてくれる。
楽しいかな、
貴君には何事もなく、
十年の間、頭に幘［正式な場でのかぶりもの］を載せることなく暮らしているのは。
門を閉ざして子供等と遊び、
孫の泣く声、笑う声が雑じりあっている。
西の方では苦しい戦が行われていて、
よい将軍がいないことに困っている。
貴君は（諸葛孔明の）八陣図を開いて、
攻守交替するありさまを論じる。
貴君自身が戦に行く必要はない、
ただ坐して兵法を教授すればよいのである。
【補足】［この詩は、黄州に来て2年目の冬、作品番号06-2-073と同じころの作であろう］
其の四
酸っぱい酒は齏湯のようであるし、
甘い酒は蜂蜜の汁のようである。
黄州の町に三年いて、
酒を飲んでも（ろくなのがないので）喉をちょいと湿らせるだけだ。
酒を選ぶことができたなら、
よく酔うことができるだろうにと、
いつも圧茅柴［黄州の人々が私的に作る酒］を思うのだが、
密造酒の禁令は日夜厳しくなり、
西隣では役人に踏み込まれ、
ちょうど酔っていた主人は食事をひっくり返して逃げ、
酒を入れた甕は砕かれてしまった。
貴君の家はさほど大きくもなく、
壊れたところを覆う幕もないのに、
どこからこの酒を得ているのだろうか。
素面の者は貴君が赤い顔をしているのを妬ましく見ている。
きっと世間の好事家が、
かの李白に千石の酒を供したようなことを貴君にしているのだろう。
貴君のおかげで私も三日間酔うことができ、
ぼさぼさに乱れた頭に被り物を載せることもない。
夜更けになると、
隣の家の甕から酒の熟した音が漏れるのを聞いて、
垣根を超えて盗みに行った昔の下僕のようなことをしてみたい気にもなる。
頭は禿げて歯が抜けるような年になってもこんなざまの私を見て、
貴君の召使たちにはさんざ笑われている。
三年の間にすでに四回ここにきて、
年々貴君はこの悪い客に遇っている。
人生は二つの屐物を履きつぶす間のもの、
こうしてしばしばくることを嫌わないでくれたまえ。
【補足】［この詩は、作品番号06-3-081と同じころの作であるという］
其の五
枯れた松から膏を採ることができるだろうか。
槁れた竹から汁がしたたることがあるだろうか。
枯れた松と槁れた竹とが出会い、
互いに哀れみ、互いに湿らせ合うことができるだろうか。
私と貴君との交遊は、
一体何の得るところがあったのか。
幸いにも、心法［仏教の真髄］を語り合うことができるのなら、
頭の上が燃えようがどうということはない。
願うのは、
雲を穿って飛ぶ鶻となること。
人に食べられてしまう鴨にはなりたくない。
私の旅はすでに初夏に及び、
別れの酒を温める火が幔幕に映る。
我が故郷はどこか、
西を望めば千山が赤く染まっている。
私の游はどこで終わるのか、
東には万頃の広さに波が白く泛んでいる。
貴君との歓びが再びまたあるだろうか。
起って舞えば、花が頭に落ちてくる。
いま行こうとして、
苦しくて何もいえない。
だからといって、子供のように泣きはしない。
私にはもとより非とすべきことが多い。
貴君とて一つの欠点もない人間ではあるまい。
それぞれに別れの言葉を思い、
他の人々を退けて戸を閉ざし、
がらんとした部屋で向かい合う。
虚白［何もない透明］は道［最高の真理］の集まるところ、
――ーもはや何も語らずにいよう。
【補足】［（1）蘇軾の黄州での日々は、このようにして陳慥との出会いに始まり、陳慥のとの別れに終わり、ここに新たな游が始まったのである。（2）蘇軾の作品を好む人々は、黄州時代に作られたものをとりわけ喜ぶ。蘇軾の人間性の奥行の深さがにじみ出て、何とも深い味わいがある。しかし、世の中にはそのように思う人ばかりではない。同じ時代の人々のなかには、罪人でありながら好き放題をしていると、苦々しく思っていた者が少なからずいた。政治的に対立する改革派の人々であればそのようであって当然であるとしても、同じく保守側の人であっても、蘇軾の黄州での振る舞いを嫌悪する人々がいた。その代表が程頤であった。程頤は学者肌の人で、後の朱子学につながる儒学の新思潮を切り開いた人物である。程頤は黄州における蘇軾は「猖狂放肆」であったとはなはだ厳しく断じ、後に二人は修復不能となるまでに対立し合うのである］