第6章 赤壁の賦――黄州
［第6章その三］
元豊5年［1082年］、蘇軾47歳。
■【06-3-001】書欧陽公黄牛廟詩後
【解題】蘇軾の黄州生活は3年目に入った。年明け早々の1月2日に訪問客があり、話が欧陽脩に及んだ。そのことを記した文章。
【訳文】
右は欧陽文忠公［欧陽脩］が峽州の夷陵県の知事になったときに作った『黄牛廟の詩』である。この詩について、私はかつて欧陽公からこのように聞いたことがある。
「私が西京留守推官ならびに館閣校勘であったとき、私と同じ年に科挙に合格した丁宝臣［字は元珍］君がたまたま都にきていて、こんな夢を見たと語った――丁君は私と一緒に舟に乗って長江を遡り、ある廟の中に入り、本堂の下で拝謁した。丁君が先で私が後から付いて行こうとしたので、丁君はひどく遠慮した。私はそのまま押し通した。堂上で拝すると、神像が立ち上がり、私を近くに召し寄せ、神は私の耳元でしばらく語った。丁君は心ひそかに、神もまた世間と同じく欧陽脩を特別扱いするのだろうと思った。廟の門を出ると、そこに片耳しかない馬がいた。
そのような夢を丁君は見たといったのだが、私も丁君もそれが何を意味するのかわからなかった。それから数日足らずで、丁君は峽州推官に、私は夷陵県知事に、ともに左遷となった。
私と丁君は一緒に任地に向かい、先の夢のことは忘れていた。三峡を遡っていたある日、黄牛廟に詣でたところ、門に入って丁君は何やらぼんやりとした気分になった。そして、以前の夢と少しも変わらないことが起こった。私は県知事であったから立場として丁君の後に従わなければならなかった。門の外に石を彫った馬があり、耳が一つ欠けていた。それを見て二人は大いに驚いた。
私は廟に一つの詩を書き留めた。その中に『石馬繋祠門』［石馬は祠門に繋がれる］の句があるが、片耳のない馬がいることは夢ですでに知っていたのである」
元豊五年、私は黄州に謫居していると、宜都県の知事となった朱嗣先君が立ち寄ってくれた。二人で（これから朱嗣先が行くことになる）三峽の風景について語っていて、たまたま話がこのことに及んだ。朱知事は（欧陽脩の）『黄牛廟の詩』を書いてほしいと私にいい、
「それを石に刻んで黄牛廟に置き、進退出処は人の力だけによるものではないということを、人に示したいと思います。耳が一つしかない馬のごときが欧陽公の事に関わっているはずもありませんが、事は大きく前から定まっているものなのでありましょう。公は神に対して礼を尽くしましたが、それでも詩の中ではその廟を『淫祀』であるといっています。公は信念の人で、神に対しても決して阿らないことがわかります」
その言葉の味わい深さに感じてこの文章を記すことにした。
正月二日、眉山の蘇軾書す。
【補足】［（1）宜都県も夷陵県もともに峡州に属し、朱嗣先はこれからの旅の途中で黄牛廟を通る。それで、蘇軾の書を石に刻んで廟に置こうといったのである。（2）欧陽脩が夷陵県に左遷されたのは、46年前の景祐3年［1036年］で、30歳だった。左遷の原因は范仲淹を弁護したことだった。范仲淹は当時の宰相を強く批判したことで都から追放され、范仲淹の行為を擁護した余靖と尹洙も左遷となった。本来ならこのようなときに朝政を正す役目を担っているはずの高若訥が宰相の顔色をうかがって沈黙を決め込んでいるのは卑劣であるとして、欧陽脩は激しく高若訥を批判し、宰相の怒りを買って放逐された。こうした情勢を見て、蔡襄は『四賢一不肖の詩』［四賢は范仲淹、余靖、尹洙、欧陽脩の4人、一不肖は高若訥］を作り、天下に大いに流布した。蔡襄は蘇軾が本朝第一の書家とした人［→作品番号06-2-013］である。この一連の追放劇は奇しくも蘇軾が生まれた年の出来事であった。なお、蘇軾が夷陵県にある欧陽脩の旧居を訪ねて詠んだ詩を作品番号01-1-039で見ている。（3）あやしげな民間伝承の神を祭った祠を「淫祀」といい、その神が民衆を惑わせるようなことをした場合［もちろん神がするのではなく、神を利用する人間がするのだが］には、神の祟りなどを恐れず、「淫祀」を毀つのが社会に責任のある士大夫の役目であるとされていた。その実例を陳慥［方山子］［→作品番号06-1-015］の父の陳希亮［字は公弼］に見ることができる。、陳希亮は若い頃に地方の長官であったときに、数百の「淫祀」を壊して70人余りのまじない師を追放したと、蘇軾は『陳公弼伝』［→作品番号02-3-015］の中で記している。なお、蘇軾が『陳公弼伝』を書いたのは黄州にいた間のことであったと推測されている］
■【06-3-002】与陳季常
【解題】陳慥［字は季常、方山子］に与えた手紙。
【訳文】
新らたな歳を迎え、心からお祝い申し上げます。今日はやや晴れておりますが、いかがお過ごしでしょうか。いつごろ町に来られるのでしょうか。昨日、李常君から手紙がきて、上元のころに出発するとのことですから、こちらに来られるのは月末のあたりでしょうか。そのときに貴君も来てくださいますか、どうでしょうか。こちらの普請は上元にはまだ終わっていないでしょうし、私は外出がままならない身でありますから、上元の夜遊びのお供はできませんでしょう。……正月二日。
【補足】［（1）蘇軾、陳慥、李常の三人で会うことは年末には実現しなかったようだが［→作品番号06-2-068］、蘇軾は次の機会を期待した。ある人の手紙に、蘇軾は黄州において李常と複数回会ったように記しているので、作品番号06-1-101で見たときのほかにも会っていたのだろう。ただし、そのことを裏付けるような詩文は残されていない。（2）ここにある普請とは、東の坡で新たな建物を作ろうとしていたこと指し、後に詳しく見る］
■【06-3-003】祭堂兄子正文
【解題】元豊3年9月に亡くなった従兄の蘇不欺［字は子正］［→作品番号06-1-103］を祭る文を1月3日に作った。郷里に帰って蘇不欺の葬儀の列に加われなかったのを残念に思い［→作品番号06-2-048］、遠く黄州の地で蘇不欺の霊にこの文を捧げたのである。
【訳文】
元豊五年、歳は壬戊、正月の三日、弟に当たる責授黄州団練副使蘇軾は謹んで酒と果物を供え、亡くなった蘇不欺大兄の霊に申し上げる。
昔、我が伯父［蘇渙］は身を修め、家の内での振る舞いは郷里の手本とされた。剛ならず柔ならず、武功あり文徳あり、喜びも慍りも外に出すことがなかった。十一の官職を歴任し、伯父が治めた土地の民衆は、今に至るも伯父のことを思って泣くという。伯父の立つありさまを見るならば、仁者は勇敢で雷にも動揺しないといわれる、まさにそのままであった。伯父の長男である我が大兄は優にして毅で、甚だ伯父に似ていた。人の中にあって厳粛でありつつおっとりとして、慎み深くて汚点がなく、顔に喜びが見えていた。人にはそれぞれの心があり、酸っぱさと塩辛らさとは好みを異にし、赤と白は合わないものであるが、我が大兄は鷹揚で、衆人から賢者として尊ばれ、よろしくないといわれることがなかった。天は贔屓をしないというけれど、富貴も長寿も我が大兄には無縁であった。それを不幸とはいうまい。我が大兄がそのようであったのは疑いもなく定めであったのだ。
私は黄州に移り、老いと病に見舞われ、ここで土地を耕す身となり、葬列に加わって我が大兄の棺を撫でることができず、残念に思い続けている。いずれ私も先祖伝来の墓所に眠り、木々の高く聳える下で、我が大兄と墓を並べたいと思う。
もろもろの祖先、平生から好としてきた人々は年々我が大兄とともに亡くなり、私だけが生きて異なる場所にいる。このように言えば悲しくてならない。千里の向こうに一樽を捧げる、我が大兄の霊よ、この酒を辞退しないでくれたまえ。
嗚呼哀しいかな。
■【06-3-004】水竜吟
【解題】かつて黄州の知事であった閭丘孝終［字は公顕］のことを夢に見ての詞。序文がある。閭丘孝終とは蘇州で会っていた［→作品番号04-3-036］。
【訳文】
閭丘孝終はかつて黄州の知事であった。棲霞楼を作り、それはこのあたりで優れた景勝地となった。元豊五年、私は黄州にいて、一月十七日、夢に小さな舟で長江を渡った。流れの中ほどで見回すと、棲霞楼から歌と音楽が聞こえてきた。舟の人がいうには、閭丘知事が客人と酒宴をしているのであると。覚めて、不思議なことと思い、この詞を作った。閭丘知事はすでに退官して蘇州にいる。
小舟横截春江、［小さな舟で春の江を横切り］
臥看翠壁紅楼起。［臥して見るのは翠の壁と紅い楼閣］
雲間笑語、［雲の間から笑い声］
使君高会、［それは知事様のすてきな集まり］
佳人半酔。［佳い方々が半ば酔っておられるのです］
危柱哀絃、［高いところからの哀しげな絃］
艶歌余響、［艶やかな歌の余韻］
遏雲縈水。［雲が止まり水が巡ります］
念故人老大、［思うのは、かの人は老いても］
風流未減、［変わらぬ風流］
独回首、［独り首を回らせます］
烟波裏。［靄と波の内で］
推枕惘然不見、［枕をぼんやりと推して］
但空江、［空しく見えません――江も］
月明千里。［千里にわたる月の明かりも］
五湖聞道、［聞くのは］
扁舟帰去、［舟に乗って湖のほとりに去ってしまったと］
仍携西子。［美しい人も携えて］
雲夢南州、［雲夢の南の州］
武昌南岸、［武昌の南の岸］
昔遊応記。［昔遊ばれたところを覚えておられましょうか］
料多情夢裏、［きっと、情の深さのあまり夢のうちに］
端来見我、［私に会いに来てくださったのでしょう］
也參差是。［たぶんそうなのでしょう］
【補足】［（1）棲霞楼については作品番号06-2-049で見ている。（2）夢に人が現れるのは、その人が自分のことを深く思ってくれているからだと、昔の人々は考えていた。あたかも恋する人を夢に見たかのような気分で歌った詞である］
■【06-3-005】正月二十日、与潘、郭二生出郊尋春、忽記去年是日同至女王城作詩、乃和前韻
【解題】蘇軾は毎日のように長江に近い臨皐亭から東の坡へと通い、土地の人々にとってその姿はごく見慣れたものとなり、潘丙や郭遘や古耕道といった人々と連れ立って歩くのも、水戸黄門と助さん格さんではないけれど、すっかり黄州の風光に溶け込んだものとなっていた。この詩の題は「正月二十日、潘丙、郭遘の二人と郊外に出て春を尋ねた。たちまち思い出したのは、去年のこの日も同じようにして女王城に至って詩を作ったのだった。そこで同じ韻を用いてその詩に和した」。1年前の詩は作品番号06-2-003で見ている。
【訳文】
東の風［春の風］はまだ町の東の門から入ってきていない。
我等は去年尋ねた春をまた尋ねようと、
東の門から馬を走らせた。
我等は秋の渡り鳥のように、
義理堅く同じ日にまたきたのだけれど、
事は春の夢のようなもの、
去年のことは痕かたもなく消え去ってしまっている。
江沿いのこの田舎町の酒は濁っているが、
春風のもと、三杯も呑めば十分に酔うほどの濃さがある。
村の老人たちは何だか蒼い顏をしているけれど、
ひとたび笑うと温かな表情になる。
すでに私は皆と約束をした、
毎年毎年ここでこの日に会おうではないかと。
だから、都の友人たちよ、
どうか私を呼び戻そうなどとはしないでくれたまえ。
■【06-3-006】是日、偶至野人汪氏之居、有神降於其室、自称天人李全、字徳通。善篆字、用筆奇妙、而字不可識、云、天篆也。与予言、有所会者。復作一篇、仍用前韻
酒渇思茶漫扣門、那知竹裏是仙村。
【解題】前の詩の蒼い顔の老人とは、浅黒く日焼けし、一見するとやつれた陰気臭い感じの農民をいうのであろう。その一人、汪若谷の家に案内され、あやしげな神様に会って詠んだのがこの詩。詩の題は「この日、たまたま野人の汪氏の家に至ると、その一室に神が降り、自ら称するに、天人李全で、字は徳通であると。篆字が書けるとして、奇妙に筆を用い、しかし、その字は判読できない。神はこれは『天篆』であるという。私と話をし、なるほどと思うところもあった。前の韻を用いて一篇の詩を作った」。一年前にも厠の神「紫姑神」に会っていて［→作品番号06-2-001］、土地の人々は蘇軾と神との面談の場を設けることに熱心であったのだろうか。
【訳文】
酒を飲んで喉の渇き覚え、
茶がほしくて、適当にそこらの門を叩いてみた。
よもや竹の林の中にある村が、
仙人の住まうところであるとは知りもしなかった。
神から聞かされたのは、
亀の甲羅を使って占う天の言葉にも通じているのだと。
筆から竜が躍り出るような墨の痕を見せてもらいもした。
笑うべきは、
都から追放されてすっかり憔悴してしまったという昔の人。
何もあれこれ思い煩うことはないのだ、
ここに神がいて正しい道があることは確かなのだから。
帰ってから、私は独りがらんとした部屋に寝そべりつつ、
天人の意味深長な言葉が夢にまで入ってくるのではないかと、
いささか心配になったりもしている。
【補足】［ここは「天人」がいる土地なのだから、くよくよする必要などないと、蘇軾はこの詩でいっている。ただし、蘇軾が「天人」の真偽についてどのように考えていたのか、主人の汪若谷に配慮してか、かなり曖昧である。次の文章でもう少し深く蘇軾の考え方を知ることができる］
■【06-3-007】天篆記
【解題】上の詩にあった「天篆」について記した文章。
【訳文】
長江と淮河の間のあたりの習俗として鬼［亡くなった人の霊］を尊ぶ。
正月に、箒に衣服を着せて子姑神とし、時に字を書くような子姑神もいる。黄州の郭氏の子姑神が他と最も異なっていることについては去年記した。
今年は黄州の汪若谷の家の神が最も変わっていた。箸を口とし、口の中に筆を置き、人と問答をして響くように応じた。
神がいうには、
「吾は天人である。名は全、字は徳通、姓は李氏。汪若谷が再び世の人になったので、その縁で吾はここに降りたのである」
神は篆字を書き、大した筆の勢いであったが、その字は判読できなかった。
神はいった。
「これは天篆である」
私に三十字を示し、
「これは天蓬［星の名］の咒［まじないの言葉］である」
といった。隸字でわかるように書いてもらおうとしたが、してくれなかった。
神は黄州の進士［科挙を受験したことのある者］、張炳を見ていった。
「しばらくぶりであるが、恙なく過ごしておったのか」
張炳は、
「私のことをご存知なのですか」
「そなたは劉苞を覚えていないのか。吾はまさしく劉苞である」
神はそういって、張炳がかつて劉苞と親しくしていたときのことを詳しく語ったので、張炳は驚いて私にいった。
「昔、私は都で劉苞君と知り合いになりました。青い頭巾を被り、裘を着て、体に入れ墨をし、酒が好きで、斉州の人であるといっていました。いまどこにいるのか知りません。本当に天人になったのでしょうか」
ある人がいった。
「天人が箒となって子姑神として汪若谷のところに現れたりするものでしょうか」
私もそのようには思わない。しかし、鬼とか仙とか、もとよりよく知れるものではない。その全てをいかさまであると疑うべきではないだろう。天篆は判読できないが、神のいうことには古の趣があり、盗み食いをするような愚かしい田舎の鬼ができるようなことではない。
昔、漢の時代に、長陵に住む女が子を産んで間もなく死に、神となって兄弟の妻のところに現れた。霊験があったので民衆はそれを祀った。武帝の祖母もそこに参詣して子孫が栄えたことから、武帝はその神を宮中に祀って「神君」と呼び、天下に大評判となった。このことをそっくり疑うの度を越しているというものであろう。
世の人が見るところのものは常に少なく、見ないところのものの方が常に多い。自分の耳や目の及ぶわずかなところのものをもって、「世外の事」［世に普通ではないこと］までを量り知ることはできないであろう。
天篆のことはとりあえずここに書いておいて、よく知る者を待つとしよう。
【補足】［漢の武帝の「神君」のことは『漢書』の「郊祀志」に記され、「郊祀志」には不可思議なことがたくさん記録されている。『漢書』に限らず、権威ある書物の数々に摩訶不思議な事例が多々記載されていて、その全てを疑うことはできないと蘇軾は考えていたのだろう。人を惑わし社会に害をなすような「淫祠」は許さないが、「天篆」のようなものについては、孔子の「怪力乱神を語らず」に習って、判断を保留しておくということなのだろう］
■【06-3-008】浚井
【解題】春の初めの頃に井戸を浚った。井戸は東の坡で童僕［少年の使用人］が発見したもの［→作品番号06-2-024の其の二］であろう。
【訳文】
荒れ地の雑草の中に埋もれていた古井戸。
その水が飲まれないままであったのを残念がる人はいなかった。
二本の縄に括り付けて罌をおろすと、
百尺の深さから蚯蚓が飛び出してきた。
泥とともに腥い風が吹き上がり、
空洞の奥で水の滴り落ちる音が響いた。
井戸から始まる水路の上の方で、青く伸びた芹を取り除き、
下の方で、石をきれいに洗いあげた。
私はびしょ濡れになって童僕に笑われ、
冷え切った体を酒で温めようとした。
青い空に凍えるような碧色が落ちてくる夕方になって、
ようやく澄んだ水をたっぷり汲み出せるようになった。
それにしても、
もとからあったあの汚れが消滅して、
どこからこの新鮮で清潔な水が出てきたのだろうか。
井戸の深い深いところの、
それこそあるかないかのようなところで、
来るものもなければ失うものもなく、
水が湧き出てきているのだろうか。
【補足】［詩の終わりの部分は、奥深い暗闇の底から澄んだ水が得られる不思議さを、仏教の「無」の概念を使って表現してみたのだろう］
■【06-3-009】紅梅三首
【訳文】紅梅を見て詠んだ詩。
【訳文】
其の一
何かを怕れ、何かを愁えていたのか、
それとも睡を貪っていたのか、
紅梅の開くのは遅い。
そうか、
自身の清らかな姿が時節に合わないのではないかと、
恐れていたのか。
だから、桃や杏の花の色を作って小さく開いたのか。
それでも、
独り雪や霜に耐える梅の姿がやはりそこにある。
梅の心は、春にすっかり溶け込もうとはしていないのだ。
紅いのは、
玉の肌が端無くも酒のためにほんのり染まったためであるのだろうか。
ある詩の大家は、紅梅を見て、
「桃かと見れば緑の葉がなく、杏かと見れば青い枝がある」と詠んだ。
葉や枝を観察するまでもなく、
梅には梅の格があるのを知らなかったのだ。
【補足】［「ある詩の大家」と訳した原文は「詩老」で、実際には石曼卿のこと。詳しくは作品番号06-4-078で見ることにする］
其の二
雪のうちに紅梅は開くけれど、
梅としては遅いのは、
春の初めの時期を、自分だけが我が物としてしまわないためであろうか。
造物者にはいかなる深い意があって、
紅梅には特に朱を施してこの妙姿を作ったのか。
しかし、
寒さが花の肌を一分ずつ損ない、
雨がいつしか花を千粒の涙に変えてしまう。
そして、桃や杏ではないことが明らかになる――
点々と「微酸」がもう枝についているのだから。
【補足】［末句は、花の終わった後に残った小さな実に早くも酸味を感じて、やはり杏や桃ではないと知るオチ］
其の三
今更ながら残念がるのは、
春を探るのが遅かったこと、
紅い花芯が開き切る前に見ておくべきであった。
仙薬ができあがろうとするとき、
あるいは、美女がぽっと頬を染めるとき、
そのようなときの紅色が見られたであろうに。
いまはもう葉に隠されて実を結び初め、
盃に落ちた香りはすでに飲まれてしまった。
ならば、かの徐熙に頼んで新たな画様を描いてもらおうか、
竹の間から斜めに出した枝の先にいましも開こうとする花を。
【補足】［徐熙は五代十国時代に花鳥画で一家をなした人。墨で全体を描いた後に、わずかだけ色を施すことで、強く印象付ける画を描いた］
■【06-3-010】定風波
【解題】上に見た紅梅の詩の第一首を詞の形式に作り直した。より抒情性に富んだ作品になっている。キーワードは梅の「格」である。白かろうが赤かろうが、梅には梅としての風格があるという。そこに蘇軾自身の思いが篭められているのだろう。
【訳文】
好睡慵開莫厭遅、［眠るのが好きなのよ、開くのがだるいのよ、それでぐずぐずしていたのをどうか怒らないで］
自憐冰臉不時宜。［困ったことに、瞼に氷なんかをつけていたら、いまの時節に合わないわよね］
偶作小紅桃杏色、［それで、たまたまですけど、桃や杏と同じ紅の色になってみたの］
閑雅、［どうかしら］
尚余孤痩雪霜姿。［でも、やっぱり痩せて雪や霜に独り耐える姿は残ってしまっているわよね］
休把閑心随物態、［奥深い心までを物のありように従わせてはだめなのよね］
何事、［でもどうしたことか］
酒生微暈沁瑤肌。［お酒のせいでわずかな曇りが白い肌を染めてしまったの］
詩老不知梅格在、［詩の大家のおじさんは、梅には梅の格があるのをご存知なかったのでしょうね］
吟詠、［詠んでみせたのは］
更看緑葉与青枝。［緑の葉や青い枝もよくよく見よう、ですって］
■【06-3-011】武昌西山題名
【解題】長江対岸の武昌県の西山寺［→作品番号06-1-045］に遊んだ記録.。
【訳文】
蘇軾、李嬰、呉亮、趙安節、王斉愈、潘丙、元豊五年二月二十二日に游ぶ。
【補足】［呉亮は武昌県の役人で、李嬰と趙安節は並び順からして、やはり同県の役人なのだろう。王斉愈と潘丙は我々もすでに馴染みである］
■【06-3-012】次韻子由寄題孔平仲草庵
【解題】江州の役人である孔平仲［字は毅甫あるいは毅父］が草庵を作り、蘇轍がそれについて詩を詠んだ。その詩に次韻した。孔平仲は、当時有名な孔文仲、孔武仲、孔平仲の三兄弟の一人で、孔文仲の名は作品番号04-1-061で、孔平仲は名は作品番号05-5-087でそれぞれすでに見ている。
【訳文】
私は人に逢えば「安心の法」を問い求め、
新しい任地に着くと、すぐに道士の草庵を訪ね歩いた。
昔むかし盧敖という人は、
仙人を探し当てて教えを受けたのだけれど、それに従うことはできなかった。
私がむしろ思うのは、
かつて蓋公が自分から曹参のもとに訪れたようなこと。
羨むのは、
貴君［孔平仲］の美しい玉［汚れぬ心］は三度の火を潜り抜けて少しも焼けないこと。
私の精神は蚕に八回も食べられた桑のようにもはや一枚の葉も残っていない。
しかしながら、
この長江は嬉しいことにまさに「同一味」であるのだから、
千里を隔てても貴君と清く甘い味を共にすることができるのだ。
【補足】［（1）盧敖や蓋公は道家の人。蓋公については作品番号05-2-035で詳しく見ている。（2）「安心」「同一味」は仏教の用語。同一味とは、水はいかなる器にも入り、その味は変わらない、人の心も同じである、という意味。（3）蘇軾は仏教と道教を混ぜこぜにしてこの詩に詠み込んでいる。全体として何が言いたいのか、実のところは訳者にはよくわからない］
■【06-3-013】二虫
【解題】「水馬児」と「鷃濫堆」という2種の虫を詠んだ詩。どちらも種名は不明であるが、「水馬児」は水上を移動し、「鷃濫堆」は風に乗って飛ぶ虫であるようだ。前に守宮を詠んだ詩があった［→作品番号05-3-043］。あまり美的ではない小動物をも詩の対象とするのは、先輩の梅堯臣が切り拓いた宋詩の新分野である。
【訳文】
さあ、水馬児を見てくれたまえ。
一歩また一歩と流れに逆らっている。
長江は東に向かって一日に千里流れるのに、
この虫は跳んで跳んでずっとここにいる。
さあ、鷃濫堆を見てくれたまえ。
ひとたび決起して、追い風に乗る。
風に随ってひとたび去ってどこを宿とするのやら。
逆風に遇うと、草の中にぽとりと落ちる。
この二種の虫が賢いのか愚かなのか、私は知らない。
川べりに立って私は虫を笑うが、
人は私のことを知らない。
■【06-3-014】満庭芳
【解題】小さな虫の関連でこの詞を見ておこう。蝸牛の角の先にあるちっぽけな国で超有名人になっても、あるいは蠅の頭の上にあるちっぽけな国で莫大な利益を得ても意味がないと、黄州に流される以前の己を笑うかのように歌っている。戯れの詞である。
【訳文】
蝸角虚名、［蝸牛の角の国で大評判］
蠅頭微利、［蠅の頭の国で大儲け］
算来著甚幹忙。［あれこれ忙しくして何になるのでしょうか］
事皆前定、［名利などはどうせ前から定まっているのだし］
誰弱又誰強。［誰が弱くて誰が強いなどいうことはありはしないのです］
且趁閑身未老、［まだしばらく老いる前の閑なこの身で］
尽放我、［自分をすっかり放り出して］
些子疏狂。［好き放題をしようではありませんか］
百年裏、［人生は百年］
渾教是酔、［すべて酔っ払ったら］
三万六千場。［酔いは三万六千回］
思量。［考えてみたら］
能幾許、［人生がどれくらいでも］
憂愁風雨、［憂愁やら風雨やらが］
一半相妨。［交互に邪魔し合うのです］
又何須、［意味がありませんよね］
抵死説短論長。［命をかけて、何がよい、何が悪いと論じるのは］
幸対清風皓月、［よいではありませんか、清らかな風と白い月があって］
苔茵展、［草の敷物に］
雲幕高張。［雲の天幕がありさえしたら］
江南好、［〽江南よいとこ～］
千鐘美酒、［〽酒は旨いし～］
一曲満庭芳。［～歌いましょうよ、『満庭芳』の曲にのせて］
【補足】［この詞の前半の終わり、「百年裏、渾教是酔、三万六千場」［百年の裏、渾て是をして酔わ教むなら、三万六千場］は蘇軾らしい楽しい句である］
■【06-3-015】与子安兄
【解題】郷里にいる従兄の蘇不危［字は子安］に宛てた手紙。蘇不危は伯父の蘇渙の三男で、蘇不疑［→作品番号06-2-066］の弟である。
【訳文】
近ごろ町の中に十数畝の荒れ地を得て、その中で自ら耕しています。数部屋ばかりの草屋をつくり、これを「東坡雪堂」と名付けました。野菜を植えたり、果樹を接いだりして、いささか老いを忘れております。長い一曲を寄せますので、笑って御覧ください。
遠い路ですから、手紙を書いても届かない恐れがあり、他の皆様にそれぞれ差し上げることはいたしませんから、よろしくお伝えください。
巣谷君はいま東の坡にきております。前からの通りに虎のような男で、風節はますます堅くなっています。我が幼い二人の息子の師匠として極めて厳しく指導してもらっています。いつも自分で豬の頭に血を灌いで煮て、生姜や豆や野菜とともに羹を作り、はなはだ滋味があります。……
【訳文】【補足】［（1）草屋を作って「東坡雪堂］と名付けたとあるのが、先に陳慥に宛てた手紙［→作品番号06-3-002］に記してあった普請中の建物である。完成したのは2月で、この手紙はそれより後に書かれたもの。（2）長い一曲を寄せるとあるのがどの詩詞であるのかは不明。（3）息子たちの教育に当たっていると書かれている巣谷については後で詳しく見ることになる［→作品番号06-4-007］］
■【06-3-016】雪堂記
【解題】上の手紙にあった「東坡雪堂」について記した文章。潘大臨［字は邠老］と交わした問答をもとに書かれたとされ、潘大臨は作品番号06-2-076で見たように、科挙の二次試験を受けるために上京していたので、蘇軾がこれを執筆したのは潘大臨が落第して帰郷した後ということになる。訳者の力不足によるのだが、この『雪堂記』はいささかわかりにくく、十分に理解が及ばないままに訳してある。
【訳文】
私は東の坡のかたわらに廃れた畑を得てから、土塀を修復し、堂を作り、「雪堂」と名付けた。大雪の中でそれを建てたからだ。さらに、四方の壁に隙間なく雪景色を画き、立って見ても、座って見ても、あたりを顧みて雪ではないものが目に入らないようにした。私は雪堂にいると、真にいるべきところを得ていると感じることができる。
あるとき、私は机にもたれ、昼間に目をつぶっていると、どこかに栩栩然行こうとして、はっと気が付いた。まだ意識がはっきりとはしていなくて、何かに触れた感じがあって、すっかり目が覚めた。そして、心は十分に満足しておらず、何かを失ったような感じがした。掌で目をこすり、足に履をつけ、のそのそと堂から下った。
そこに客人が来て、私にこう尋ねた。
「君は、世にいう『散人』［世間の束縛から解放されている人］なのかい、それとも『拘人』［世間に強く束縛されている人］なのかい。散人にしては天性が浅すぎるようだし、拘人にしては嗜欲が深すぎるようだな。繋がれた馬にも似て、どこかに行きたいのに行けずにいるのではないのかい」
私には思うところがあったが、それを口にはまだ出さないで、ゆっくり考えてから答えようと、客人に挨拶をして、堂上に招いた。
客人はいった。
「ああ、わかった。君は散人になりたくても、まだなれずにいるのだな。だったら、散人の道について君に教えてあげよう。
洪水を治める名人や牛を解体する名人のすることを見ると、その知恵を散らしてしまい［つまり、知恵を使わないということ］、敢えてさまざまな障壁に立ち向かってみせたりはしない。障壁を避けるのだ。だから、最も柔い水をもって最も剛い岩に当てながらも、岩をその定紋に従って割ってしまうし、最も剛い刀を最も柔い肉に当てて、たちどころに牛をばらばらにしてしまう。知恵を使って剛い岩や骨をどうにかしようとかいったことはしないのだ。自分の知恵を散らすことができるのなら、対象となった物［岩や牛］は己を縛っておくことができなくなるのだが、自分の知恵を散らすことができなければ、物は己をときほどくことがない。
君は知恵があるらしいな。それを自身の内側で働かせている分にはまあまあよいだろう。それはいわば猬が袋の中にいるようなもので、時々その身体を動かしたところで、外で見ている者には、ただ一本か二本の毛があるようにしか見えない。あるいは、風は縛れないし、影が捕えられないのは、子供でも知っていることだ。名声というものは風とか影のようなものだ。どうかな、君はそんなものに心を懸けているのではないのかな。だから、君は猬が毛をいっぱい立てるようなことをしてみせている。愚かな者はそんな君を見て驚くし、知恵のある者は君を見て悔しく思いもするのだ。［ここまでで、散人になるには知恵を散らすこと［無心になること］が必要条件であるといっているようだ］
だから、私は君が今日のようになるのはむしろ遅かったと不思議に思っていたくらいだ。まあ、君は私に会えたのは幸いであったな。私は君を籠の外の遊びに連れて行こうと思うのだが、どうかな、行ってみるかい」
私はいった。
「私はここで、ずっと籠の外にいると思っていました。あなたはどこに行こうというのでしょうか」
客人はいった。
「ひどいものだ、君はまったくわかりが悪い。
権勢なんぞは籠というほどのものでなく、名誉も籠というほどのものでもない。天候の順不順も籠というほどのものでなく、世間の道徳も籠というほどのものでない。私が籠といっているのは、ただ知恵である。
知恵は内にあって、それが外に出ると言葉になる。言葉は指し示すものがあり、それは行為として形になる。行為にも指し示すものがある。君は知恵があるために、黙っていようとしても、黙っていまいとし、やめようとしても、やめまいとする。それは、譬えるなら、酔って怒った人が怒声を発しようとしているのにも、頭のおかしくなった人が明後日の行動をとろうとしているのにも似ている。その口を覆い、その腕をつかんでも、もごもごとうめき、じたばたしてやめないのだ。知恵が人にとっての籠になっているとは、このようなことである。
人にとって患いとなるのはその身体であり、身体にとって患いとなるのはその心である。君が畑の中に堂を構えたのは、君の身体をそこで安らかにしようとしてのことであろう。堂に雪を描いたのは君の心をそこで安らかにしようとしてのことであろう。堂があれば身体は安らかになれるけれど、人としての形からはもとより解放されるわけではない。心は雪によってすっきりしても、精神がもとより完全な充実を得るわけではない。
君は知恵を焚いて、もう燃やてしまったと思ったりしているかも知れないが、知恵は燃やし尽くしてもまた燃え出してしまう。この堂を作るのはただ無益であるばかりでなく、君をさらに迷妄のうちに陥れてしまうのではないのかな。君は雪の白さを見ると、ぼんやりと目が眩み、君は雪の寒さを見ると、ぞっとして毛が逆立つ。五官に害になることでは、目から来るのが最もはなはだしい。だから、聖人はそのようなことはしない。
ここはなんと雪ばかり。君の知恵と、君が目にしているものを見ると、君は実に危ういものだな」［ここまでで、客人は雪堂を建てた蘇軾の考え方を徹底的に批判してきたのだが、次の言葉はその流れからずれるようだ］
ここで客人は杖を挙げて壁を指していった。
「ここに凹地があり、ここに凸地がある。雪はここ全体に同じように降り積もる。そこに強い風が通りすぎるとどうなるか。雪は凹地には留まり、凸地からは散じてゆくだろう。天は凹地を好み、凸地を嫌うのか。そうではあるまい。勢いとしてそのようになるだけなのだ。勢いのあるところでは、天もそれと違うようにすることはできない。まして人にはどうにもできない。君はここに居て、人から離れているとはいっても、畑に堂を建て、堂に名を付けて、実は人に対して目障りなことをしているのではなかろうか。雪が凹地にあるのには及ばないではないのかな」
私はいった。
「私がしているのは、『適然』［適たま然る、成り行きでこうなった］というだけのことであって、特に考えがあったわけではありません。危ういとはどういうことなのでしょうか」
客人はいった。
「君はたまたまこうしたという。たまたま雨であったのなら、君は雨を画いたのかい。たまたま風が吹いていたら、君は風を画いたのかい。雨を画くのはよろしくないだろう。雲が激しく湧き立つのを見るなら、君には怒りの心が起こるだろう。風を画くのはよろしくないだろう。草木が揺れ靡くのを見るなら、君には懼れの意が起こるだろう。雪を見ても、君の内側で何も動かないわけではない。雪の下にだって水や石がある。だから、雪の絵画によっても怒りや懼れが誘われないわけではないだろう。
徳は心にある。心には眼がある。眼が物を見て、それによって徳が左右されてしまう。雨も風も雪も異なりはしないのだ」
私はいった。
「あなたのおっしゃることは正しいと思います。その教えを聞かないわけではありません。しかし、十分には尽くしていないようにも思われます。どうやら私はまだぐうの音も出なくなるまで承服するには至っていないようです。それはちょうど訴訟をおこして、理屈ではすでに屈しても、なおまだ言辞を絶たずにいられない者のようです。
あなたは、春台［華やかな高台］に登るのと雪堂に入るのとでは異なるところがあると思われるでしょうか。春と雪を比べるなら、雪の方が静かです。台と堂を比べるのなら、堂の方が静かです。静かであるのならば得るものがあり、動くならば失うものがありましょう。
黄帝は太古の神人です。赤水の北に遊び、昆侖の丘に登り、南を望んで還ると、その「玄珠」［貴重な宝物、すなわち自分自身］を忘れてしまったといいます。遊ぶとは意に適うことをいいます。望むとはそこに情を寓することをいいます。意に適って遊び、情を寓して望むなら、意は暢び、情は出て、その本身を忘れるのです。そのときに何か貴重な物があっても、それを宝であるとはしません。だから「玄珠」も忘れてしまったのです。［ここでは「適然」の一例として黄帝伝説を取り挙げたのだろう］
しかし、意はずっと同じところに留まるものではなく、情は出続けるものではありません。必ずまた最初のところに戻ります。そして驚いて失ったものを探し求めます。［これは蘇軾の現在の複雑で矛盾する思いをいうのであろう］
私のこの堂は、遠くにあるものを近くにし、近くにあるものを内に収めるものです。つまり、天地の涯を眉毛の先に置くものです。［つまり黄帝の遊び、すなわち「適然」を実践する場として雪堂があるといっているのだろう］
もののわかった人がこの堂に上がるなら、逆風でなくても息が詰まるような思いがし、寒くなくてもぞっとして肌が凍え、それによって煩わしさがすっかり洗われ、手を炙るような人の譏りはなく、また飲食の疾いから免れられることでしょう。利害のからむ途にぐずぐずしていて、憂患のなかに気持ちをおかしくさせている者は、熱湯の中に手を突っ込んで洗おうとするのに少しも異なることはありません。
あなたのおっしゃることは『上』で、私のいうのは『下』です。私はあなたがおっしゃることができるのかも知れませんが、あなたには私がいうことはきっとできないでしょう。それを譬えるなら、御馳走をたらふく食べている者に、糟糠を食べさせたならきっと怒るでありましょう。美しい衣服を着ている者に武人の帽子をかぶせたならきっと恥だとするでしょう。あなたの説く道は御馳走や美しい衣服の方で、『上』を得ようというものです。［客人が示す散人の道は辿り難いので、いまは「適然」でよしとしようといっているのだが、本文とは裏腹に「適然」を「上」とするかのような口吻がないわけでもない］
私はあなたを『師』とし、あなたは私を『資』［導くべき相手］とします。人は衣食を欠くことはできません。私はあなたと遊ぼうと思います。今日のことはしばらくおいて、また後に論じ合いましょう。
私はあなたのために歌を作ってみました。聞いてください」
雪堂之前後兮、［雪堂の前でも後ろでも］
春草斉。［春の草が一斉に出てきている］
雪堂之左右兮、［雪堂の右にも左にも］
斜径微。［斜めに細い径がある］
雪堂之上兮、［雪堂の上では］
有碩人之頎頎。［大きな人が嬉しそうにしている］
考盤於此兮、［それは賢い隠れ人で］
芒鞋而葛衣。［身に付けるのは草鞋に葛の衣］
挹清泉兮、［清らかな水を酌んで］
抱甕而忘其機。［甕を抱えたままそこに水を入れるのを忘れている］
負頃筐兮、［小さな籠を背負って］
行歌而采薇。［歩きながら歌って薇を採る］
吾不知五十九年之非而今日之是、［五十九年は間違っていて、いまが正しいのやら］
又不知五十九年之是而今日之非。［五十九年が正しくて、いまが間違っているのやら］
吾不知天地之大也、［結局何もわかっていない、天地の大きさも］
寒暑之変、［四季の変化さえも］
悟昔日之臒、［わかっているのは、かつては痩せていたのに］
今日之肥。［今は太っていることくらい］
感子之言兮、［あなたの言葉に感じて］
始也抑吾之縱而鞭吾之口、［初めて勝手なことをいうのをやめて我が口を鞭で打った］
終也釋吾之縛而脱吾之鞿。［ついに我が束縛を解き、我が縄目から逃れられるのか］
是堂之作也、［この堂を作ったのは］
吾非取雪之勢、［雪の勢いを取るためではなく］
而取雪之意。［雪の意を取るため］
吾非逃世之事、［世の事物から逃げるためではなく］
而逃世之機。［世のからくりから逃げるため］
吾不知雪之為可観賞、［雪は観てめでるべきであるとも］
吾不知世之為可依違。［世は反復してやまないものであることも、私は知らない］
性之便、［性情ののびるところ］
意之適、［意の適くところ］
不在於他、［それ以外のところではない］
在於群息已動、［そこではもろもろのものが動き出し］
大明既升、［日がすでに昇っている］
吾方輾転、［私はまさに行こうとして］
一観暁隙之塵飛。［暁の中に塵が飛ぶのを見る］
子不棄兮、［あなたが見捨てないのなら］
我其子帰。［私はついて行こう］
客人は嬉しそうに笑い、よしといって堂より出て行く。
私がその後に従うと、客人は振り返ってうなずき、
「そなたはそなたであるな」
といった。
【補足】［（1）『雪堂記』がわかりにくく感じられるのは、もしかすると、蘇軾がこのころ大きな矛盾を抱え、矛盾を無理にときほどくことなく、からまり合ったままに書き記したためであるのかもしれない。（2）キーワードの一つとして提示されているのが「適然」という概念だ。「適然」とは、適たま然る、適くままに然る、なるようになる、よろしいようになる、自然と最もよろしいようになってゆく……、といったような意味であろうか。「適然」は矛盾を超えるためのあくまでも暫定な解なのだろう。（3）蘇軾は黄州に来て以来、数多くの詩文を記している。蘇軾の心の内は日々複雑に変化し、そこから生まれたのが詩文で、詩文から逆に蘇軾の心の変化を理解するのは実のところ容易ではない。そもそも罪を得たことが蘇軾にとってどれほどの重大事であったのか、現代の我々には窺い知れないものがある。蘇軾は自分を新たにしようと真剣に取り組んだ。しかし、そうしなければならない理由が本当のところはわれわれにはわからない。（4）この『雪堂記』では、蘇軾は「散人」と「拘人」の間でもがいているようだ。そもそも、蘇軾は8歳のときに4人のスーパースターに憧れ、科挙と制科に合格して超エリートの道を歩んできた。国と民のために尽くすことを生涯の目標としてきたのであるから、その意味では徹頭徹尾「拘人」である。だから、「散人」と「拘人」を対比させていたのでは蘇軾は前に進めないはずである。二項対立を超えようとする作品を我々は間もなく見るであろう［→作品番号06-3-057］。（5）東の坡で農作業を始めてから陶淵明に急接近した。蘇軾も陶淵明も、自己の平安だけを求めるのをよしとはしない。常に民衆の労苦を必ず思わずにはいられない。退隠した陶淵明も罪を得た蘇軾も社会に働きかける術を持たない。「適然」は、蘇軾が士大夫を自任する限りは究極的な解答にはならないだろう。だから、『雪堂記』で見たわかりにくさは、結局のところ生涯続くことになる。その点で、作品番号06-1-097にあった草取りの比喩は卓抜で、蘇軾は常に草を取り続け、だからこそ魅力的な作品を生み続けたのであろう］
■【06-3-017】与李通叔
【解題】李通叔に宛てた手紙。通叔は李元直、もしくは李康年の字とされる。どちらにしても篆書を得意とする人で、雪堂に掲げる文字を書いてもらっている。
【訳文】
久しくお手紙を差し上げることもなく恥じ入っております。春の事物は妍やかにして麗わしく、無窮の喜びを与えてくれます。このごろはいかがお過ごしでしょうか。
先に、「雪堂」と篆字で書いてくださったものを頂戴しました。筆勢はまことに美しく、この郊野に光を添えてくださいます。すぐにもお礼に参上しなければならないのに、罪深いことです。なかなかお目にかかれませんが、時節柄万万自重されますように。
■【06-3-018】江神子
【解題】陶淵明の斜川での遊びを想っての詞。序文がある。陶淵明が若い頃に斜川で遊んで詩を詠んだことについては作品番号05-5-008で見ている。
【訳文】
陶淵明は正月五日に斜川に遊び、人々と流れに臨んで並んで座り、南阜［廬山］を眺め、また曽城山の特に秀でた姿を愛で、斜川の詩を作った。その詩によっていまもその場を想い見ることができる。
元豊壬戌の春、私は東の坡を躬から耕し、そこに雪堂を築いた。南に四望亭の後ろの丘、西に北山の小さな泉がある。ふと嘆息して、これもまた斜川の遊びと同じであろうと思った。
夢中了了酔中醒。［夢の中でこそはっきりくっきり、酔った中でこそ醒めています］
只淵明、［きっと陶淵明は］
是前生。［我が前世なのでしょう］
走遍人間、［人間世界を遍く走り］
依旧卻躬耕。［旧にもどって自ら耕します］
昨夜東坡春雨足、［昨夜は東の坡に雨が足り］
烏鵲喜、［烏も鵲も喜んで］
報新晴。［新たな晴れを報せてくれます］
雪堂西畔暗泉鳴。［雪堂の西のあたりで秘かに泉が鳴っています］
北山傾、［北の山が傾き見え］
小溪橫。［小さな渓流が横に流れます］
南望亭丘、［南に望む亭と丘］
孤秀聳曾城。［ひとつ秀でて聳えるのはかの曽城山］
都是斜川当日景、［すべてこれはあの日の斜川の景色］
吾老矣、［私は老い］
寄余齢。［ここに余生を寄せるのです］
【補足】［（1）この詞で、蘇軾は我が前世は陶淵明であるとまで歌っている。（2）最後の句に「寄余齢」［余齢を寄せる］とあるのは、「我が生は寄せるが如きのみ」としばしば歌ってきた末に、最後に寄せるのはここであると思い至ったのであろう。こことは、黄州の東の坡に限定されるのではなく、斜川を想見できるところならどこでもよい。陶淵明の心と蘇軾の心は数百年の年月を隔て共鳴し、そして2人の心はまた誰かの心と共鳴し、宇宙のどこもが斜川であり東の坡となるのである。（3）この序文から、雪堂が四望亭［→作品番号06-1-032］の北側に位置することがわかる］
■【06-3-019】陳季常見過三首
【解題】2月のある日、陳慥［字は季常、方山子］［→作品番号06-3-002］が訪れ、すぐに立ち去った。これが3度目の訪問である。
【訳文】
其の一
仕宦の身である間は常に人に対して畏れを抱かねばならなかった。
退居してからは、人目を気にせず、喜んで客人を迎えることができる。
貴君は黄州に来るときは私の家を宿としてくれ、
何ら馳走ができないのも気に留めることがない。
私はいう。
「東の坡ですばらしいことがありましたよ、
十畝にわたって麦を種えたのですよ」
貴君の目の内にある悦びの光をさらに増すためなら、
貴君の使用人にも、なけなしの白飯を振る舞ってしまいたくなる。
【補足】［「人目を気にせず、喜んで客人を迎える」という蘇軾のもとには、実際のところ頻繁に来客があった。ここ1カ月ほどの間に、詩や文や手紙に記録されていることからわかるだけでも、陳慥の他に沈遼、毛滂、董鉞といった人々が来ている。沈遼は新たな赴任地に向かう途中で立ち寄ったもので、毛滂については作品番号06-3-077で董鉞については作品番号06-3-023で見ることになる］
其の二
貴君を送って行く四十里の道は、
帆を吹く風に任せればよい。
川べりにならぶ千本の柳、
その影が順に酒杯の中へと落ちてくる。
この行は遠い別れではない……
この楽しさは窮まりがない……
ただ願うのは、長くこのようであって、
往き来が一生同じように続くこと。
【補足】［（1）陳慥の住む岐亭と黄州の町は水路でつながっていた。先に岐亭から舟で蘇軾が帰ってきたことは作品番号06-2-009で見ている。（2）この詩の終わりに「来往一生同」［来往一生同じからん］と詠んでいる。むろん一生続くものではなかった。陳慥が黄州に蘇軾を訪ねたのは7回、蘇軾が岐亭に陳慥を訪ねたのは5回であったという。なお、作品番号06-3-005に「已約年年為此会」［已に約す、年年此の会を為すを］と呼んでいたのも同じココロである］
其の三
聞くところでは、貴君は亀軒を開いたとか。
亀軒の東側の欄干からは、高い木々が見おろされるという。
どうして亀軒なのか。
ある人はいう――貴君は事を畏れて、亀のように頭を縮めるのだと。
私は知っている――貴君はそうではないことを。
亀は太陽の気を嚥んで永遠の生を養う、
貴君は朝飯ごとに東側の欄干から入る朝日を食らうのである。
よかったら、その朝の光の余りを私にも分けてほしい。
長寿を独り占めしてはいけませんぞ。
■【06-3-020】柏石図詩、并叙
【解題】陳慥［方山子］が所蔵する画に添えた詩。短い序文がある。
【訳文】
叙
陳希亮の家に『柏石の図』があり、その息子の陳慥に伝えられて、家宝としている。私は詩を作り、この画の銘とした。
二つの石の間から、柏の木が生え出した――
天は生まれたばかりの柏にいきなりこの運命を与えたのだ。
生きるのがいかに困難であっても、
柏は決して石から離れることができない。
唐の韓愈は世を俯瞰する賢人であったが、
平地で自在に伸びてこそ美しいとして、
柏を移植する詩を詠んだ。
しかし、土が肥えているか、瓦礫まじりであるか、
それによって柏の成長にどれほどの差があるというのか。
見るがよい、
石から生えたこの柏の複雑な姿を。
移し替えるべき理由などどこにもありはしない。
蒼い竜が身をくねらせ、黒い虎がわだかまっているかのようではないか。
この画師はなかなかの人で、
私の毛髪を逆立たせるほどの迫力がある。
きっと画いたそのときに、
韓愈なぞは何もわかっていないといおうとしたのだろう。
【補足】［韓愈は詩に「二つの石に挟まれた柏は百年経っても大きくならない。平地に移してやるなら千丈の高さにまでなるだろう」といった趣旨のことを詠んでいる。のびのびと本来の性質を遂げさせるのがよいというのが韓愈の主張である。一方、蘇軾は「愈いよ窮すれば則ち愈いよ工みなり」の方を貴いとしたのだろう。蘇軾は時折、韓愈に楯突くことがある。そうするのは韓愈を尊敬し、その詩文に深く通じているからである。韓愈は華美に陥りがちであった詩文を改革した文学の革命児であった。それから200年余りを経てその精神を受け継いだのが欧陽脩である［そのことを作品番号06-5-009で見る］。だから、蘇軾は広い意味で韓愈の門弟といってよい。門弟であるからこそ敢えて反発してみせるのである］
■【06-3-021】謝人恵雲巾方舄
【解題】雲巾［雲のように高い頭巾］と方舄［底が方形の靴］をプレゼントしてくれた人がいて、その謝礼に、雲巾と方舄に関連する故事をてんこ盛りにした二つの詩を作った。雲巾の方だけを訳す。
【訳文】
其の一
頭巾を燕尾と呼ぶのはあまりぴったりした語句ではない。
雲巾――雲の端くれを剪り取ったとするのはなかなかにうまい。
雲は無心で青山［霊妙な雰囲気のある山］の付き物である。
それを頭に載せるなら、仙人の気分になれようか。
現代の頭巾はかつては俗っぽいと評された新様だが、
いくら古雅を求めるといっても、
濁り酒を頭巾で漉して飲んだ陶淵明の真似はさすがにできない。
唐代の終わりに鹿門山に隠棲した人が、
人に頭巾を贈って添えた詩に、
「黒い霧を裁ち、霜のように軽い」とあるが、
実はこの頭巾こそがそれではなかろうか。
■【06-3-022】丹石硯銘、并叙
【解題】蘇軾はいろいろな人からいろいろなものをプレゼントされ、詩や銘を作ることをもってその謝礼としていた。これは唐垌［字は林夫］［→作品番号06-2-022］から贈られた赤い石の硯への返礼。
【訳文】
叙
唐垌は丹石の硯を贈ってくれた。蓮の花が粲然と水から出てきたかのような趣があり、墨を磨りやすく、筆によく馴染み、硯としての美点を全て具えている。かつて唐詢が天下の硯について叙述した『硯譜』を作ったが、この石の出るところについては知らずにいた。私はそれを知り、この銘を作った。
……［銘の本文は割愛］……
元豊壬戌の春、東坡題する。
【補足】［東の坡に土地を得て農耕を実践するようになってから、蘇軾は東坡を号として用いるようになったのだが、それがいつ始まったのかは明らかではない。残された作品に東坡の号があるからといって、実際に蘇軾自身がそのときに付したかどうかはわからない］
■【06-3-023】満江紅
【解題】董鉞［字は毅夫］のために作った詞。楊絵が編集した『本事曲集』に短文とともに収録されていた作品。『本事曲集』は作品番号06-2-083にあった『本事曲子』と同じで、楊絵はその後も記事の収集を続けていたのだろう。董鉞は蘇軾よりも8年遅れて科挙の合格した人で、蜀の梓州で官職を失い、船で三峡の難所を下って故郷の鄱陽に帰る途中で黄州に立ち寄り、しばらく滞在した。
【訳文】
楊絵：『本事曲集』より
董鉞は罪を得て梓州から鄱陽に帰ることになり、途中で斉安［黄州］で蘇軾に遇った。蘇軾は董鉞がゆったりと得心した様子であるのを怪しんで尋ねると、董鉞はこのようにいった。
「私は再婚して柳氏を娶り、その三日後に官職から去ることになりました。私はもとよりくよくよ憂うことはなかったのですが、柳氏が我が進退についてがっかりするのではないかと、そればかりが心配でした。ところが、柳氏は私と気持ちを一つにしてくれて、むしろ富貴に向かうかのように欣然としているのを見て、私はますます安らかになったのです」
そして、董鉞は家の少年に自作の『満江紅』の詞を歌わせた。蘇軾はそれを聞いて感心し、次韻した。
憂喜相尋、［憂いがあれば喜びがあり］
風雨過、［雨や風が通り過ぎれば］
一江春緑。［川は春の緑に包まれます］
巫峽夢、［巫峽を下る危険な旅も］
至今空有、［いまやすっかり終わって］
乱山屏簇。［山また山の険しさもいまや夢となりました］
何似伯鸞携徳耀、［かの賢人夫婦の伯鸞と徳耀のように］
簞瓢未足清歓足。［食べる物などなくても清らかな歓びに満ちているのです］
漸粲然、［いよいよ粲然として］
光彩照階庭、［庭には光が照り映えて］
生蘭玉。［玉のような蘭が生じることでしょう］
幽夢裏、［まるで夢の中でのように］
伝心曲。［この曲は心に伝わってきます］
腸断処、［深い感動のうちに］
憑他続。［誰が続きを歌うのでしょうか］
文君婿知否、［夫のことがわからない妻には］
笑君卑辱。［勝手に笑わせておけばよいのです］
君不見周南歌漢広、［さあ、古い古い歌を思い出してください］
天教夫子休喬木。［天はときに木の下で休むようにさせるのです］
便相将、［さあ、ともに］
左手抱琴書、［左手に、夫は書物を、妻は琴を抱えて］
雲間宿。［雲の間に宿るのです］
【補足】［（1）前半にある伯鸞と徳耀は、それぞれ梁鴻と孟光の字で、富貴や美醜によらずに互いの徳を認め合って夫婦となったことで有名で、蘇軾も時折詩文に引いている。（2）後半には幾つかの故事が用いられているが、煩を避けて適当に訳した］
■【06-3-024】答李昭玘書
【解題】李昭玘［字は成季］に宛てた手紙。李昭玘は舒煥［→作品番号05-4-110］に代わって徐州の学校の教授になった人で、当時、徐州知事は孫覚であったので、そのつてを使って蘇軾に詩文を送って己のことを知ってもらおうとしたようだ。手紙の最初に王適兄弟［→作品番号06-2-023］の名があるのは、王適はもともと徐州の人で、昨年の秋の科挙の地方試験を受けるために帰郷し［その結果がどうであったかはすぐ後で見ることになる］、弟の王遹は徐州にいたからである。
【訳文】
先に王適君兄弟から手紙を得たところ、貴君のことが具さに書いてありました。また王適君兄弟に会うたびに、必ず貴君のことに話が及びますので、貴君のことが何かと思われ、しばしばお手紙を出そうとしておりました。一方で、私はいまは罪をもって廃されて追放された身で、かねてから知らない間柄でありながらお手紙を差し上げましたなら、私が人を欺く者ではないかと受け止められはしまいかと思われもしました。私が罪を得ましたのは、まさしく実際以上に名前だけが高くなったためです。私は罪を得てからは、これまでは好悪するところがあったものが皆衰えてしまうばかりでありますが、名が高いことだけは依然として畏れておりまして、それは虎以上に畏れているのであります。そのようなことからこれまでお手紙を差し出してこなかったのです。
……［李昭玘の詩文を見ての感想を述べる］……
私は御恩によって黄州安置となりましてからは、処世の困苦を思って、あたかも壁や谷に向かっているかのような気がして、何一つとして遂げ得たものはありません。ところが、勝れた文人を多く獲ることだけはできています。黄庭堅君、晁補之君、秦観君、張耒君といった人々は世の中の人がまだ知らないうちに、私独りが先に知ることができたのでした。いま貴君もまたひとかどの人物として私の前に現れ、貴君と語り合いたく思っております。造物者はどうしたわけか私ばかりにこのような楽しみをたくさん与えてくれているようです。ここに名を挙げた数人の者たちは、私がまだ知らない資質にもきっと限りなくあふれていて、それを窮め続けてゆくでありましょう。
……黄庭堅君は妻を喪ってからは、五感の嗜好を絶ち、菜を食べて水を飲んで過ごしていて、これは最も勇気ある決断です。弟は、「道を学んで三十年余り、いまようやくほぼわかりかけてきた」といっています。その言行を見ると、以前とはまるで違っています。私だけが残念なことに得るところがいまだにないままなのです。
徐州知事の孫覚君からは手紙がくるたびに、教えられることがあります。かつて会って話していたときのように、はっと気づかされるのです。貴君が王適君兄弟と知り合えたのはまことに結構であります。
鋭敏な貴君のことでありますから、たとえ試験に落第しましても、しばしまた磨琢するならば、その立派な本質を成し遂げることでありましょう。……
【補足】［冒頭に王適君兄弟とあるのは、二人からの手紙が蘇軾のもとに届いていたからであろう］
【解題】東の坡で農耕に励む蘇軾はよりいっそう陶淵明に接近する。これは陶淵明の『飲酒』の詩を書いて、その感想を記した短文。
【訳文】
陶淵明：『飲酒』
顔生称為仁、［孔子の弟子の顏回［顔淵］は仁者と称えられ］
栄公言有道。［その昔の隠者の栄啓期は道を得た人といわれた］
屡空不獲年、［顏回はしばしば食べ物が得られなくて若死にし］
長饑至於老。［栄啓期はずっと餓えたまま老いた］
雖留身後名、［死後、その名を残したものの］
一生亦枯槁。［二人の一生は枯れ果てたものであった］
死去何所知、［死んでしまえば、名が残ったところで知ることではない］
称心固為好。［もとより生きていて心にかなうのがよいのだ］
客養千金躯、［千金の価値があるとしてその身体を養っても］
臨化消其宝。［死に臨んでは、その宝を消さなければならない］
裸葬何必悪、［裸で葬られるのも必ずしも悪くはない］
人当解意表。［人は生死の本当の意義を理解しなければならない］
これは陶淵明の『飲酒』の詩である。飲酒の最中に、どうしてこれだけたくさんの事柄を記すことができたのか、私にはわからない。
元豊五年三月三日、私は客人と酒を飲み、客人がこの詩を書くようにいった。それでその後ろにこのように記す。
【補足】［（1）蘇軾は酒は好きでもあまり強くない。酔中にこれだけ味わい深い詩は作れないと素直に感心したのだろう。（2）中国では伝統的に死者を厚く葬ることをよしとし、「裸葬」を嫌った。立派な棺に納められ、豊富な副葬品があることで、死後の世界で豊かに暮らせると信じていたのである。宋代の士大夫は、昔の王侯貴族のように豪奢な墳墓を築くようなことはむろんできないけれども、それなりにきちんとした墓所を用意しようとし、そのためにかなり苦労した。作品番号06-1-055で見たように、文務光にとって父の棺を郷里に持ち帰るだけでも一大事業であった］
■【06-3-026】書淵明乞食詩後
【解題】もう一つ、陶淵明の『乞食』［食を乞う］の詩の感想を記した短文も見ておこう。
【訳文】
陶淵明は一回の食を得て、恵んでくれた主人に、「せめて冥土から恩返しをいたします」と詩中に詠んだ。これは丐者の言い草の類である。
私は実に哀しいと思う。私一人が哀しむのではなく、世を挙げて哀しまない者はいないだろう。
飢えと寒さは常に目の前にある。名声は死んで後に定まる。この二者は互いに矛盾し、それによって士は苦しまなければならない。
【補足】［陶淵明の『乞食』の詩は、官職を得ようと懸命だったころの作。人の恩顧を得るために、わずか一食の恩に対しても、身を屈して卑屈な言葉を並べなければならない辛さを詠んだものである］
■【06-3-027】寒食雨
【解題】冬至から105日目の寒食の日に詠んだ詩。この詩は、蘇軾自身が書いた真筆『行書黄州寒食詩巻』が残っていることで非常によく知られている。その『詩巻』は実に数奇な運命をたどった。蘇軾が書いた後は士大夫の間を転々とし、元の時代にになって皇帝のもとに納められ、明の時代に再び民間に流れて収集家のもとを転々とし、清の時代に再度皇帝にもとに納められた。後に円明園で保管され、英仏連合軍の攻撃によって円明園が全焼したときに、からくも略奪されたことで、一部が焦げたものの生きながらえることができた。そして、再び民間の収集家のもとに渡り、いつしか日本人の入手するところとなり、関東大震災であわや焼け失せようかというところを奇跡的に免れた。現在では、台北の故宮博物院の所蔵物となっている。
【訳文】
其の一
黄州に来てから、
三度の寒食がすでに過ぎ去ろうとしている。
年年春を惜しもうとしているのに、
春はその気持ちを容れてくれずに去ってしまう。
今年はこのいやな雨、
ここ二カ月間は秋の寂しさである。
雨音の下に臥している間に、
なめらかな雪の肌［海棠の花びら］も泥に汚されてしまったと聞く。
誰かがいったように、夜というものはまことに力がある――
暗い中で時間を偸んで背負って行ってしまうのだ。
春とは少年のようなもの――
ふと病んでようやく起きられたと思ったら、
すでに頭は白くなってしまっているのだ。
【補足】［（1）東の坡で畑を耕し、陶淵明と時空を隔てた心の交流をする蘇軾は、それによって心が安定したかのように見えて、実のところはそうではなかった。この詩は重く苦しく、蘇軾の心の基底には常にこうしたものがわだかまっていた。この詩や「花に似て花にあらざるに似る」と楊を歌った詞［→作品番号06-2-016］が元来の蘇軾なのではないだろうか。（2）蘇軾は黄州にきてすぐに定恵院の東の山に海棠の花があるのを見つけていた［→作品番号06-1-028］。海棠は蜀を代表する花で、蘇軾自身の象徴でもある］
其の二
雨の勢いはやむことがない。
戸口から春の川が入り込んで来そうだ。
もはや我が小屋は漁人の舟のよう、
濛濛とした水と雲の中にある。
がらんとした台所、
しなびた野菜を煮ようとしても、
竈は壊れているし、燃やすべき葦は湿っている。
ただでさえ火を使えないのだから、
今日が寒食であると感じるのは、
墓に手向けた紙銭を烏が銜えて飛ぶのを見てのこと。
ああ、我が先祖の墳墓は万里の彼方、
そして、皇城は九重の門の奥深く。
途に窮したと、痩せ我慢をせずに、泣いたってよいのだろう。
火の消えた灰はいくら吹いてももう燃え上がらない……
【補足】［寒食の日には火を使わずに食事をし、紙で作った銭を墓に供えて祭る。蘇軾は逆境にあっても、悲嘆する詩を詠まないのだが、この2首は違う。終わりの部分は、杜甫が、途に窮したと泣きはしないと、詩に詠んでいるのを踏まえている］
■【06-3-028】徐使君分新火
【補足】寒食節には火を使わず、一夜明けて最初につける火を新火という。その新火が徐大受知事から届けられた。寒食節の翌日は清明節。
【訳文】
臨皐亭に独りぽつんと座り、
黄州にきて三度目の清明節、
新火を見ようとしていた。
私なんぞは笑うべき身、
溝の中に落ちた枯木同然で、
折って火をつけようとしたところで、
燃え立ちはしない。
長く病の内にある私を憐れんで、
黄州の知事さんは、
紅く燃える一本の枝を明け方に分け与えてくれた。
我が家の破れた釜はいつもからっぽなので魚が泳ぎ、
飯なんぞは食わなくてもと、痩せ我慢の詩を詠んでいる。
戴いた火を手にして、がらんとした部屋の内を見てまわると、
煮炊きするものが一つもない。
そうか、そうか、知事さんがくださった新火は煮炊きの火ではなく、
仏教でいうところの「無尽燈」であるのだろう。
昏暗のうちにいる人々を順に明るく照らすのである。
【補足】［「無尽燈」とは仏典にあり、ひとつの燈火が百にも千にも増えてゆくように、仏の教えによって明るく照らされる人が無限に増えてゆくことをいう］
■【06-3-029】定風波
【解題】黄州の東南百十里に蘄水県城があり、その途中に沙湖がある。3月の始めに蘇軾はそのあたりを往き来した。それに関連する幾つかの詞と文を見る。最初に詞から。短い序文がある。
【訳文】
三月七日、沙湖に向かう道中で雨に遇った。雨具は先に行ってしまっていたので、同行の者は皆狼狽したが、私だけは気にもしなかった。しばらくすると晴れた。そしてこの詞を作った。
莫聴穿林打葉声、［聴くまでもありません、林を穿ったり葉を打ったりする音は］
何妨吟嘯且徐行。［何の妨げにもなりません、吟唱しつつ徐に行くことに］
竹杖芒鞋軽勝馬、［竹の杖に芒の草鞋――これは馬に勝る軽やかさ］
誰怕。［私は怕れません］
一蓑烟雨任平生。［煙る雨に蓑で包んだ身、そういう暮らしでよろしいのです］
料峭春風吹酒醒、［酒を醒ますのは料峭と吹きくる春風］
微冷、［うっすらと寒く］
山頭斜照卻相迎。［山のあたりが斜めに照らされて迎えてくれます］
回首向来蕭瑟処、［首を回らせば、ここまで来たのは蕭瑟としたところ］
帰去、［帰り去こうか］
也無風雨也無晴。［風雨もなく晴れもないところへ］
【補足】［（1）この詞から、蘇軾は草鞋履きで歩いていたことが知れる。かつての州知事時代には概ね馬にまたがるか駕籠に乗るかしての移動であった。（2）前半の終わりにある「一蓑烟雨、平生を任せる」は一種の自画像。ゴッホといえばあの耳を切った自画像を想うように、後世の人々は蘇軾といえばここにある姿をイメージするようになった。（3）後半は、これまでの歳月は雨の中にあったが、これからは晴れて行くであろうということを暗示し、かつ、雨でも晴れでも構いはしないと結んでいる。先の「寒食の雨」の詩から「新火」の詩を経て、ここでは軽やかな気分を歌っている］
■【06-3-030】遊沙湖
【解題】蘇軾は何のために沙湖に向かっていたのか。この文章に記してある。
【訳文】
黄州の東南三十里に沙湖がある。螺師店ともいう。
私は黄州と沙湖の間に田を買おうと、その田の様子を見に行き、疾いを得てしまった。麻橋の龐安時が善い医者で、かつ聾者であると聞き、行って治療を受けた。
龐安時は聾者であるけれども、人より遥かに知恵の回りが速い。紙に字を書いて話をするのだが、数文字書いただけで、すぐに深く人の意がわかってしまう。私は戯れて、「私は手をもって口と為し、あなたは眼をもって耳と為す。どちらも現代の『異人』でありましょう」といった。
疾いが愈えたので、龐安時と一緒に清泉寺に遊んだ。寺は蘄水の町の門から二里ばかりのところにある。昔ここで王羲之が筆を洗ったという泉があり、その水は極めて甘い。寺から下に蘭溪を臨み、蘭溪の水は西に流れる。私は歌［『浣渓沙』の詞］を作った。
松間沙路淨無泥、［松の間は泥のない沙の道］
蕭蕭暮雨子規啼。［蕭蕭と夕暮れの雨が降る中、子規が啼いています］
誰道人生無再少、［誰がいうのでしょう、人生に若いときは再びないと］
君看流水尚能西。［見てください、流れる水だって西に向かっているではありませんか］
休将白髮唱黄鷄。［鶏が鳴くから白髪が増えてしまうなどと嘆くのはおやめなさい］
この日は劇飲して帰った。
【補足】［（1）東の坡は高台なので、稲を作れるような低い土地を得ようとしたのだろうか。蘇軾は家計が苦しいことを前に述べていたが、具体的にどのような経済状態であったのか、田を買う蓄えくらいはあったのか、使用人は何人くらいいたのか、そういった細かいところはわからない。詩文に「童僕」という語が散見されるので、幾人かの使用人がいたのは間違いないが、給金を与えて土地の少年を雇っていたのか、蘇軾は何も記していない。（2）ここに記されているように、蘇軾は田を見に行って病気になり、次の文などから左肘が腫れたとわかる。麻橋［蘄水県に属する村］の医者、龐安時［字は安常］の治療を受けた。「手をもって口と為す」とあるのは、筆談の情景であるのだが、思うことをたちまち詩文にしてしまう日頃のあり方［それが罪を蒙る要因となった］をもいっているのだろう。（3）詞の後半で「流れる水が西に向かう」とあるのは、中国において川は基本的に東に流れるからで、川が西に流れるなら時間も逆転するだろうというのである］
■【06-3-031】書田
【解題】蘇軾が田を欲しがったことは次の短文にも見える。
【訳文】
私には世の中にこれといって求めるものはない。ただ二頃の稲田があればよい。それで十分に粥が食べられるだろう。あちこち訪ねまわっているのだが、全くもって得ることができずにいる。私が進む道に艱難が待ち受けるときには、どこに行こうとしてもうまくいかないものなのだろうか。そもそも人が生きるには、自ずから定まった持ち分があって、ささやかな満腹といえども、名声や富貴と同じくらいに、軽々しくは得られないようになっているのだろうか。
【補足】［一見すると絶望しているかのようだが、実はそうではない。ここにある「人の生には自ずから定まった持ち分がある」［人生自有定分］とは、運命によって決まっているのだから諦めるしかないという意味ではない。そのような大局観を得ることで、先の詞に見た「風雨もなく晴れもない」［也無風雨也無晴］という境地になれるのである。なお、蘇軾は翌年もずっと田を得ることを模索し続けていて、この短文はそのころに書いたものであるようだ］
■【06-3-032】書呂道人硯
【解題】蘇軾が沙湖に行った折の短文。
【訳文】
沢州の呂道人の沈泥硯は、投壺のような形をしている。首のところに「呂」の字があり、それは刻んだのでもなく画いたのでもない。そして金属のように堅い。呂道人が死んでからはその硯は次第に得難くなった。
元豊五年三月七日、たまたま沙湖の黄氏の家に至り、一枚の呂道人の硯を見た。黄氏はその貴さを知らなかったので、それにこのように記した。
【補足】［「投壺」は昔の宴席で使われた遊び道具。矢を壺に投げ入れて勝敗を競い、負けたものが何か芸をして人々を楽しませた］
■【06-3-033】与陳季常
【解題】蘇軾が沙湖に行ったことについては、陳慥［字は季常、方山子］［→作品番号06-3-019］に宛てた手紙にも記されている。
【訳文】
近ごろ螺師店のあたりを往復して田を看てきました。螺師店の境にまで至ると、黄岡県の潘君と医者の龐安時君が会いにきてくれました。龐君は私の臂の腫れを視ると、「これは風気によるものではなく、薬石の毒によるものです。針でそれを取り去らないと、きっと瘡となってしまうでしょう」というので、一緒に麻橋の龐君の家に行き、数日間滞在して針で治療してもらいました。その結果、龐君がいった通りに愈えたのでした。
家に帰ると、貴君からのお手紙と薬が届けられ、深く御心配してくださったことや、このところ安らかにお過ごしであることなどを審にいたしました。
かつてこの老翁が所望した『伝燈録』なども届けてくださり、一つ一つ感謝に堪えません。『五代史』もまた受け取っております。
看てきた田はそれほどよいものではありませんでした。しばしやめておきましょう。蘄水の溪山はなかなか秀逸でしたし、龐君は熟達した医者で奇士であります。……
【補足】［（1）臂の不調で蘇軾は薬を服していたのだろうか、龐安時は鍼による治療を提案して、よい結果を得たのだった。（2）陳慥からいろいろな書物を借りていたことがわかる。『伝灯録』は仏教の書物で、『五代史』は五代十国時代に関する史書である］
■【06-3-034】単龐二医
【解題】龐安時［字は安常］ともう一人の医者について記した文章。
【訳文】
蜀の人の単驤は、科挙を受けたものの不合格となり、その後、医術をもって高い評判を得た。その術は『難経』『素問』といった古い医学書に基づき、そこから新たな工夫を出し、しばしば巧みな技を発揮してみごとに治した。ただ完璧というわけではなかった。仁宗皇帝が病気になったときに、孫兆とともに単驤が治療に当たった。しかし、よい効果がなくて皇帝は亡くなってしまった。二人は（治療に失敗したことから）死罪になるところを、皇太后［仁宗の曹皇后］の優しさをたのみとして、医者の罪ではないとされ、数年間の官職停止ですんだ。単驤はいま朝廷の官僚となり、孫兆はすでに亡くなった。
私は黄州に来たところ、隣の町に龐安時という評判の医者がいた。その医術は単驤に似ていて、それに加えて鍼の術が絶妙である。ただ、聾を患いそれを自分で治すことはできなかった。人の病を愈やすことでは神のようである。古の人も目を見張り、称賛するであろう。
単驤も龐安時も治療代を厳しく求めることはなく、様々な事物や歴史にもひろく通じていて、それも人より優れている。
元豊五年三月、私はたまたま左腕の腫れを患ったところ、龐安時は鍼ですぐに治してくれた。それでこのことを記しておく。
【補足】［前半は単驤のエピソード。仁宗皇帝の病気は症状から推測するに脳梗塞ないしは脳出血であったようで、何度か発作を繰り返し、後遺症による言語障害や身体麻痺もあった。いかに名医であっても、宋代の医術でそれを治すことは不可能であったろう。朝廷内の権力抗争もからんで、孫兆と単驤が死罪になりかけたのを曹皇后が救った。曹皇后が優れた人であったことは、蘇軾が獄中で詩に詠んでいる［→作品番号05-5-093］］
■【06-3-035】西江月
【解題】同じ時期に詠んだ詞。短い序文がある。
【訳文】
春の夜に、蘄水のあたりを歩き、酒家に寄って飲んだ。酒に酔い、月に乗じてある川の橋の上にまで行き、馬から下り、肱を曲げて休み、しばらく眠った。目が覚めるともう暁に及んでいて、たくさんの山が並び立ち、水が音を立てて流れていた。人の世ではないように思えた。それでこの詞を橋の柱に書き付けた。
照野弥弥浅浪、［野を照らすのは弥弥と流れる浅い浪［によって反射する月の光］］
横空隠隠層霄。［空に横たわるのは隠隠と重なる雲］
障泥未解玉驄驕。［泥除けをまだ解かない白い駿馬は元気いっぱい］
我欲酔眠芳草。［でも私は酔って草の上で眠ってしまうのです］
可惜一溪風月、［愛すべきはこの川べりの月］
莫教踏砕瓊瑤。［美玉のような光を踏み潰してはなりません］
解鞍欹枕緑楊橋。［鞍を解いて枕とします、緑の楊の橋で］
杜宇一声春暁。［杜宇が一声鳴けばもう春の暁です］
【補足】［橋の上で眠って朝を迎えたのが事実であったかどうかはわからない。3月の中ごろはいまの暦で4月後半だとしても、橋の上で夜明かしできるほどに暖かくはないだろう。しかも肘を病んでいるはずなのに、肘を曲げてごろ寝をするといっている。先の詞にあった「一蓑烟雨、平生を任せる」の自画像の一つのバリエーションとしてこのような己を描いてみせたのだろう］
■【06-3-036】次韻答元素、并引
【解題】楊絵［字は元素］［→作品番号06-2-083］から送られてきた詩に次韻した。序文がある。
【訳文】
引［序文］
私がかつて楊絵に贈った詞に「天涯同是傷流落」［天涯同じく是れ流落を傷む］という句があった。楊絵は、（今回送ってきてくれた詩のなかで）この句は今日のありあさまをあらかじめ示すものであったといって、そのとき一緒だった六人の存亡を悲しんだ。六人とは、張先［字は子野］、劉述［字は孝叔］、陳舜兪［字は令挙］、李常［字は公択］、そして楊絵と私である。
【補足】［（1）「天涯同是傷流落」の句は作品番号04-3-088で見ている。（2）上に言及している6人が集まった酒宴については作品番号06-2-054で見ている。張先、劉述、陳舜兪の3人は先に亡くなり［→作品番号05-5-075］、楊絵、李常、蘇軾の3人は健在であったが、それぞれに官界では不如意な状況に置かれていた］
愁うまでもない――
春が終り、柳絮が風に随って飛んだりしても。
喜ぶまでもない――
仙薬の効果があって頬に紅が増したりしても。
あらかじめしるしがあったりするのだろうか――
天の涯に流落することに。
たまたまうまくいってしまうこともあろうか――
銅の像とともに数百年の歳月を見るようなことも。
はっと覚めたら何もかもが夢であった――
というわけではないだろう。
はたと悟ったら全てが空であった――
そういうわけでもないだろう。
生きるか死ぬか、六人の者をあれこれ悲しむ必要などない――
地獄も浄土も結局は同じなのだから。
【補足】［楊絵は、きっと感傷的な詩を返してくると期待していたのだろう。それがわかるから、蘇軾はわざとまぜっかえすような句を並べたのだろう］
■【06-3-037】臨江仙
【解題】この詞は、上の詩と同じころにやはり楊絵［字は元素］に贈ったものであるようだ。
【訳文】
詩句端来磨我鈍、［貴君の詩句がきて鈍い私を磨いてくれましたが］
鈍錐不解生鋩。［鈍い錐である私は袋の中にあっても鋭さを見せるようなことはできません］
歓顔為我解冰霜。［貴君の歓びの顔は私を閉ざす氷を融かしてくださり］
酒闌清夢覚、［酒たけなわにして夢はさっぱりと覚めて］
春草満池塘。［池のほとりは春の草でいっぱいになるでしょう］
応念雪堂坡下老、［東の坡の雪堂で老いるこの私は］
昔年共采芸香。［昔ともに宮中の書庫の香の内にありました］
功成名遂早還郷。［貴君は功成り名を遂げて郷里に帰るのでしょう］
回車来過我、［車を回らせて私を訪ねてくださるのなら］
我喬木擁千草。［私は庭の木、庭の草とともにお迎えしましょう］
【補足】［（1）後段にある「共采芸香」は、宮中の「芸閣」［書庫］でともに仕事をしたことを意味し、この詞が楊絵に贈られたと推測する根拠の一つとなっている。（2）楊絵はこのころに黄州から数十キロ下流の興国軍の知事［「軍」は行政単位の呼称。州と同レベル］となったので、赴任する際に黄州にまで足を伸ばした可能性がある。ここでは、楊絵がこれから黄州を訪問するという詩を寄越した返事であるという解釈に基づいて訳した］
■【06-3-038】二紅飯
【解題】東の坡を開墾して2年目の夏、大麦二十石余りが収穫できた。そのことについて書いた短文。
【訳文】
今年、東の坡で大麦二十石余りが収穫できた。これを売ったところで非常に安い値にしかならないし、ちょうど粳米がなくなろうとしていたので、使用人に課してこれを舂き、飯として食べることにした。大麦の飯は嚼むと嘖嘖と音がし、小さな子供たちは歯を食いしばって、「虱子かみかみ、かみかみ虱子」と声を合わせる。それでも、午後に腹が減っているときなら、水でひたしてふやかしてやると、甘酸っぱくてさらさらと食べることができ、西北の田舎村の風情がある。今日は、料理人に小豆とまぜて炊いてもらったところ、これは最も味がよかった。老妻は大いに笑って、「これは新発明の『二紅飯』でございますね」といった。
【補足】［（1）蘇軾は食についても一家言あったが、贅沢な食事を好むものではなかった。粗食にも喜びを見出す心の大きさがあった。（2）「西北の田舎村」とあるのはかつて赴任した鳳翔のあたりを指すのだろうか。水田は中国の南東側［淮河、長江の下流域］に多く、その米を洛陽や長安に運ぶために隋の煬帝は大運河を建設した。鳳翔は長安よりもさらに西で、米は貴重品であった。（3）どうやって大麦を食べたらよいのか工夫し、小豆と混ぜて炊くのが最もよいと発見した。大麦は薄い紅色を呈するので、小豆と合わせて「二紅飯」というのである］
■【06-3-039】与仏印
【解題】廬山の仏印禅師了元［→作品番号06-2-077］に宛てた手紙。
【訳文】
数百枚の美しい石を収集し、戯れに『怪石供』の一篇を作りました。どうぞお笑いください。ここに記した通りになりましたなら、山中のお食事は今後一切心配せずにすむでありましょう。それを想うとさらにまた大いに笑えます。土地の者が墓中より得た銅盆を一枚持ってきましたので、怪石を盛るのによかろうと、それを買いました。それも結縁のためにお送りいたします。
【補足】［この手紙の内容は次の『怪石供』の文章を読むとよくわかる］
■【06-3-040】怪石供
【解題】蘇軾は赤壁で美しい石を拾っている［→作品番号06-1-082］。これはその後日談。
【訳文】
『書経』の「禹貢篇」に「青州に鉛、松、怪石がある」と記されている。これを解釈する者は「怪石とは石で玉に似たものである」という。
いま斉安［黄州］の長江のほとりで美しい石がよく得られる。玉と区別しにくく、紅、黄、白が多い。石には、人の指にある螺のような、精妙で愛すべき模様がある。巧みな者が意を尽くして描こうとしてもこれには及ばない。これが昔の人のいう「怪石」なのだろうか。
物が醜いとか好いとかは、その形や見栄えから生じるのだろうが、私は醜、好のもとがどこにあるのかいまだにわかっていない。もし世の中の石がおしなべてここの美しい石のようであったなら、いまは平凡とされる石がかえって非凡な怪石となるのではなかろうか。
世界には形態でものを語り合う国があるという。口ではものがいえなくて、身体の形態で伝え合うのだ。形態で語るのは口で語るより速いというけれど、我々がそれをしようとしても非常に難しいであろう。
天の機が動くときには、美しい石だろうが形態でものを語る人だろうが、たちまちできあがるのだが、人はそれをひどく巧みであるとする。そうしたものでありながらも、怪石は、「禹貢篇」の書かれた時代から「怪」であるとされてきた。
斉安の子供等は長江で水浴びをして時々この怪石を得る。私は遊びで餅餌［小麦で作った平たい団子］と石を交換し、すでに二百九十八枚を得た。大きいものは二寸、小さいものは棗、栗、菱、芡の大きさである。虎や豹の首のようで、口、鼻、眼らしいところがあるのも一つあり、それを群石の中の長としている。
古い銅の盆［鉢］が一つあったので、そこに石を盛り、水を汲んで注ぐと、きらきらと輝く。
廬山の帰宗寺の仏印禅師の使者がたまたま黄州にきたので、この怪石を禅師に供えることにした。禅師はもとより道眼［悟りを開いた眼］をもって一切を観ている［世界の本質を得ている］。その観点からすれば、世界は混沌として空虚、一切の物は実は存在していない。夜光の一尺の璧［古来有名な宝玉］も瓦礫と同じである。ましてこの怪石などは取るに足りないものである。
しかし、禅師におかれては、これを供えることをどうか受け入れていただきたい。硯に注ぐ水をこれにかけて、無理にでも一つ笑っていただきたい。そしてこれからは、山の僧や野の人が禅師に何かを供えようとするときに、衣服や飲食や寝具をまかなう力がない者は、浄らかな水を怪石に注ぐということにしてはどうだろうか。私からその慣習が始まったということになるであろう。
元豊五年五月、黄州の東の坡の雪堂で書く。
【補足】［最後は、物として何も供えることのできないような人でもこれならできるという蘇軾のやさしい思いである。そのような怪石が帰宗寺にあるということが評判になれば、参詣する者が増えて寄進される金品も増えるであろうから、寺では食べる物に困ることはもうないだろうというのが、上で見た手紙の内容である］
■【06-3-041】後怪石供
【解題】怪石の後日談。これは1年ほど後に記された文章で、ついでにここで見ておこう。驚くことに、翌年に杭州から参寥［道潜］［→作品番号06-1-081］がきてしばらく黄州に滞在し、その夏頃に交わされた会話の記録。
【訳文】
私が怪石を仏印禅師に供えたところ、仏印禅師は私の文を石に刻んだ。私はそれを聞いておかしく感じ、参寥に向かってこのようにいった。
「そもそも怪石がどこからきたのかといったら、子供たちから餅と交換して得たのです。食べられるものと、何の用にもならないものを交換したのです。それだけで十分に笑えます。仏印禅師は私の文をわざわざ石に刻みました。それもまた笑えます。もしも仏印禅師に初めから餅を供えたのなら、仏印禅師はそんなことを石に刻んだりはしませんでしょう。石と餅はどこが違うのでしょう。これでさらにまた笑えます」
参寥は、
「そうそう。供えるのも幻、受けるのも幻、言葉を刻むのもやはり幻でありましょう。幻で結構ではありませんか」
そして、腕を挙げて私に示し、
「この腕を拱して［両腕を胸の前に組んで］人に挨拶しますと、人はきっと喜びます。この腕を戟して［腕を曲げて肘を突き出す］人を罵りますと、人はきっと怒ります。同じ腕でも喜ばせたり怒らせたり、異なったことになります。世の中はこういったことばかりです。拱も戟もつまりは幻で、喜びも怒りもあるようでいて根には何もないのです。石に刻もうが刻むまいが、どうでもよいではありませんか」
私は大いに笑い、
「あなたはどれがほしいですか」
怪石およそ二百五十を示したところ、参寥は二つを手に取った。
■【06-3-042】哨遍
【解題】しばらく黄州に滞在していた董鉞［字は毅夫］［→作品番号06-3-023］がいよいよ故郷に帰ることになり、蘇軾はこの詞を贈った。これは陶淵明の『帰去来兮の辞』［→作品番号06-2-051］を改作したものである。短文が添えてある。
【訳文】
陶淵明は『帰去来兮の辞』を作った。その詞はあるがその声［節回し］はない。
私は東の坡で耕し、雪堂を建てた。人はその陋ているのを笑うのだが、鄱陽の董鉞君だけはここに来て悦んでくれ、隣に住みたいとまでいった。そこで、『帰去来兮の辞』の詞を使い、やや改変して声律に合うようにして、董鉞君に贈った。
東の坡に行って、家の者にこれを歌わせ、耒を手に和し、牛の角で節を取ったなら、きっと楽しいであろう。
因酒棄家、［酒がほしくて郷里を棄てました］
口体交相累。［口と体がこもごも累となりました］
帰去来、［帰りましょうよ］
誰不遣君帰。［誰が君を帰らせてくれないのでしょうか］
覚従前皆非今是。［わかりましたよ、これまでは全部が駄目、いまがよいのです］
露未晞、［露はまだ乾きません］
征夫指予帰路、［旅人は私の帰り道を指してくれます］
門前笑語喧童稚。［門の前で子供たちがにぎやかに笑っています］
嗟旧菊都荒、［ああ、もとからあった菊はみんな枯れてしまいました］
新松暗老、［新しい松がもう立派に暗い蔭をつくっています］
吾年今已如此。［私の年齢はすでにこうなのです］
但小窓容膝閉柴扉、［小さな窓のある部屋に膝を入れて門を閉ざしましょう］
策杖看孤雲暮鴻飛。［杖をついて、ぽつんと雲が暮れ、鴻が飛ぶのを見るのです］
雲出無心、［雲は無心より出て］
鳥倦知還、［鳥は倦めば還るのを知っています］
本非有意。［もとより何の意もないのです］
噫帰去来兮、［ああ、帰りましょうよ］
我今忘我兼忘世。［わたしはいま我を忘れ、世も忘れました］
親戚無浪語、［親戚とも無駄口はたたきません］
琴書中有真味。［琴と書物の中に真の味があります］
歩翠麓崎嶇、［山の翠の高い低いを歩き］
泛溪窈窕、［谷川の奥深い流れに舟を泛べます］
涓涓暗谷流春水。［暗い谷からこんこんと春の水が流れてきます］
観草木欣栄、［草木が欣び栄えるのを見るのです］
幽人自感、［ひっそりと生きる人は自分で感じます］
吾生行且休矣。［我が人生はこうして終わってゆくのだと］
念寓形宇内復幾時、［思うに、宇宙に自分の形を寓するのはどれほどのことなのでしょうか］
不自覚皇皇欲何之。［遠く遠くどこに行くとも知れません］
委吾心、［自分の心に任せればよいのです］
去留誰計。［行くのも留まるのも］
神仙知在何処。［神仙がどこかにいるかは知れません］
富貴非吾願。［富貴も私の願いではありません］
但知臨水登山嘯詠、［ただ水に臨み山に登って吟唱するだけです］
自引壺觴自酔。［自分で酒を注ぎ自分で酔うのです］
此生天命更何疑、［我が人生はかくあれとの天の定めに疑いはありません］
且乗流、［さあ、流れに乗って］
遇坎還止。［止まるところに遇ったら止まるだけです］
【補足】［免官となった董鉞に贈るのにまことにふさわしい作品であるのだろう。董鉞は罪人となった蘇軾が東の坡で耕す姿を見て感じるところがあった。蘇軾は陶淵明を大きなよりどころとして東の坡で耕していた。この『哨遍』は陶淵明と蘇軾の心の共鳴から生まれた詞で、それがまた董鉞の心に共鳴するのである］
■【06-3-043】与朱康叔
【解題】鄂州知事の朱寿昌［字は康叔］［→作品番号06-2-075］に宛てた手紙。上で見た詞について記している。
【訳文】
閣名については長らく思案していますが、まだ佳い名を思いつきません。閣のまわりの様子や、近隣にゆかりのある故事や故跡についてさらに詳しく教えていただければ幸いです。
董鉞君とは多くの日を一緒にはなはだ楽しく過ごしました。毎日のように貴君のことを褒めておられました。
私はかねてから陶淵明の『帰去来兮の辞』を好んで誦じておりましたが、音律にうまく合わないのを常々残念に思っていました。近頃、少し言葉を足したり削ったりして、『哨遍』の詞としました。言葉を改めたとはいえ、その意は改めていません。……
【補足】［朱寿昌は新たに完成した閣の命名を蘇軾に依頼したのであろう、そのことが冒頭に記されている］
■【06-3-044】蜜酒歌、并叙
【解題】蘇軾のもとには時折「異人」が訪れる。蜀の綿竹の出身の道士の楊世昌が廬山から来てしばらく黄州に滞在した。楊世昌は蜜酒［蜂蜜を水に溶かして発酵させた酒］の製法を伝授し、蘇軾はそのことを詩に詠んだ。短い序文がある。
【訳文】
叙
西蜀の道士楊世昌は蜜酒を上手に作る。極めて醇い釅い酒である。私はその製法を教えてもらったので、この歌を作って贈る。
六カ月もの間、農夫が汗を流し、
真珠にも玉にもたとえられる米ができて、
それからよい酒が作られる。
その香りも、春のうちから自ずと甕に生じるこの酒には及ばない。
これは蜂が耕し、花を米とした酒だ。
作り始めて一日目には、魚が吐くような小さな沫が出て、
二日目には、きらきらと光が生じ、
三日目には、甕を開くとその香りが町中に満ちる。
十分に発酵するのを待てなくて銀の瓶に注ぐと、
いわゆる甘露の少し濁ったもの、
あるいは醍醐の少し澄んだもの、
一斗に百銭を払ってもよいくらいのこまやかさに声も出ない。
見るがよい、
畑の野菜の花に雨が降るように集まる蜂を。
天は蜂に酒を醸すことを教え、
先生［私］を酔わせてくれるのである。
先生はこのところ骨の髄まで困窮し、
人に米を乞うても全く得られずにいた。
世間の万事は先生とは無関係に移り行く。
ただ蜂だけが大いに先生のことを気に掛けてくれているのだ。
■【06-3-045】又一首答二猶子与王郎見和
【解題】上の「蜜酒」の詩に、蘇軾の2人の息子と王適が和し、それに対してさらにもう1首詠んだ。王適は蘇轍の娘の婿で、科挙の一次試験を受けるために徐州に行ったことは作品番号06-2-023で見ていたが、残念ながら不合格となり、舅の蘇轍が待つ筠州に帰ることになり、その途中で黄州に立ち寄ったのだった。
【訳文】
青い苔が乾し肉に、青い蒲が焼肉に、
瓠の実が鴨の肉に、豆の煮汁が乳に、
肉の脂が酥に、菜種の油が蝋燭に、……、
昔から種々の発明は、
貧乏な家に何もなくて、困り果てた人がひねり出してきた。
蜜酒もそのひとつだ。
とはいえ、何でもかんでも代用品でまかなうのでは自然の摂理を乱すであろう。
私は詩書を酒に代わる楽しみとしてきた。
それによって、田舎親爺がいっぱしの先生のようになってしまったのだが、
しかし、根本がなっていないのだから、
いつまでも化けの皮を保っていられなくて、
冠をぬいで、犁に助けられる親爺にまた戻ってしまったのだ。
蜜酒はたとえ代用品でも、暑かろうが寒かろうが味は変わらないので、
ころころ変わるこの田舎親爺はとても及ばない。
田舎親爺の詩の味わいは薄いのだが、
愛すべきは諸君三人が作った詩で、本物の酒のようにうまい。
そういえば、昔むかしある貴族の娘が王君とかいう人のもとに嫁いだところ、
娘がひどく浮かぬ顔でいるので、
一族の長が「夫君に何か不満でもあるのかい」と、その娘に尋ねた。
娘がいうには、
「我が一族の某君、某某君、某某某君……は、
幼いころから見てきましたけれど、いずれも優れた男子です。
世の中の殿方とは全てそういうものだと思っておりましたのに……」
ああ、我が家では全く逆で、
息子どもを見ていたのでは、
王適君のような人が世間にいるとは想像もできない。
【補足】［この詩の終わりは、同じ王姓の男児でも、昔の婿殿は期待はずれだったが、いまの王適は非常に優れているとして、試験に落ちた王適を励まそうとしたのだ］
■【06-3-046】与滕達道
【解題】蘇軾に蜜酒を伝授した楊世昌がしばらく黄州に滞在したことは、滕元発［滕甫、字は達道］［→作品番号06-2-078］に宛てたこの手紙からも知ることができる。
【訳文】
私は時気に感じて時に病み、月を超えて臥せってしまうことがあります。いまはすっかりよくなりました。ただし、幼い者たちがなお臥せっていて、ごたごたしております。楊世昌という道人きていまして、綿竹の人で、多芸でいろいろなことができます。それによって何やら憤懣を晴らしているかのようです。ここに留まってほぼ一年となります。よく知るにつれて、そのことがわかってくることでしょう。
【補足】［（1）楊世昌はなかなかに複雑な人物であったのだろう。（2）楊世昌がいつ黄州にきたのかははっきりとはわからないが、黄州を発ったのはこの翌年の5月9日である。滕元発にこの手紙を書いた時期は確定されていないが、楊世昌は遅くともこの年の初めには黄州にきていたのだろう］
■【06-3-047】帰来引送王子立帰筠州
【解題】王適［字は子立］が筠州に帰るに際して、陶淵明の『帰去来兮の辞』に基づく作品を贈った。この詩は、最初は王適のセリフ、次に蘇軾のセリフ、そしてそれを繰り返すという体裁で訳す。
【訳文】
王適――
帰ろうではないか。
世間に求められなかったのだから、
帰ればよいだけなのだ。
北を見れば水がひどく溢れて流れ、
西を見ればひどく濁った塵に覆われ、
野には馬が乱れて走り回っている。
幸いにも我が首は馬のように繋がれていない。
徐州を出て南に走り、
丘陵が続くのを見て、ためらいが増した。
淮河の流れに乗って、
水面を俯き見て、自分の姿が以前と変わってしまったことに驚かされた。
そして、東の坡に取り残されている老人のことを想い、
千里の道も軽いとして、
老人の家の扉を叩いた――
蘇軾――
私は君と雪堂で清らかな夜をともに過ごし、
明月の光を身に浴びる。
かつて君がここに来たとき、
何の馳走もできず、
がらんとした部屋にあったのは虫の声だけだった。
私は君の袖を曳いて引き留めるのだが、
君の僕夫は早く帰ろうと促す――
王適――
帰ろうではないか。
道は遥かへと窮まることがない。
ここからどこに行くのか、
北の川から南へ、
南の川から北へ……
蘇軾――
ここにいる君を見れば、
厳しく聳え立ち、豊かにして大きい。
貧窮のうちにあっても君が堂々としているのは、
糠を食らっているからではなく、
身の内に道を抱いているからだ。
君がますます穏やかであるのは、
己に打ち克っているからだ。
私はいま荒れた浪の中にいて、
視ても昏昏として暗く、聴いても默默として音がない。
君でなければ私の過ちを救うことはできない。
君をしばらく見ないでいると自分が損なわれてゆくのを恐れる。
私は君とともに行きたいと思う。
しかし、私が行く道はないのだろうし、
君もまた何かに畏れて私と一緒にいようとはしない。
そうだ、君には我が弟がいる。
君は宝玉の原石、弟はそれを磨く工人である。
【補足】［ちなみに、蘇軾の弟子に当たる秦観はこの春に都で科挙の二次試験に挑んだものの不合格となった。蘇軾の高弟といえども科挙には苦労したのだった］
■【06-3-048】与李公択書
【解題】親友の李常［字は公択］［→作品番号06-2-069］は朝廷に召されて都に行くことになり、蘇軾はこの手紙を送った。
【訳文】
行動を治め、用いるところを控えることについて、昔から変わるところがないと知りました。私は五十歳になって、それを初めて実際に活かせるようになりました。
大ざっぱにいうと「慳」に尽きます。飾って美しくいうなら「倹約」です。私がこれをするのはそこらの俗人とは少しばかり異なって、まことに淡いといいますか、味のあるものです。古い詩に「不戢不難、受福不那」［苦難が集まると、たくさんの福を受ける］とある通りです。口や体が欲しがるものは窮まるところがありません。いつもいつもそれを節制するならば、福を惜しみ、寿命を延ばす道となりましょう。これはごく俗なことのようでいて、やむをえないところから出てくるものです。
私が思いますに、これは優れた策で、私独りで用いるよりはと、貴君にも献じたいと思います。貴君はこれから都に行かれるわけですが、ぜひこの策を用いられますように。お笑いくだされよ。
【補足】［（1）蘇軾は黄州にきて経済的に逼迫し、賈耘老の法を用いるようになったことは作品番号06-1-103で見ている。それは単に銭の遣り繰りにとどまらず、一つの哲学となったようだ。それを都に行く李常に授けたのである。（2）同じく李常に宛てた作品番号06-1-043の手紙と合わせて読むなら、蘇軾が友に何を伝えたかったかがよりよくわかってくるであろう］
■【06-3-049】謝陳季常恵一揞巾
【解題】5月に陳慥［方山子］［→作品番号06-3-033］がきて、深く被るタイプの頭巾［揞巾］を贈ってくれたので、それへの謝礼の詩。
【訳文】
陳先生［陳慥］の胸の内はというと、
一万斛の荷を積載する船を容れるほど広いのに、
この丸っこい頭巾はどうしてなかなかに小ぶりである。
陶淵明は頭巾で酒を漉したというが、
この頭巾ではたった半升しか入らないだろう。
杜欽という人は、目の不自由さを嘲るあだ名で呼ばれるのを嫌い、
別のところを目立たせようと、わずか二寸のちんちくりんの冠を被ったという、
この頭巾はそれくらいの大きさしかない。
陳先生は、本来は武勲を挙げて黄金を頭に戴くべき人で、
いつまでも書生のような服を着て過ごしてはいないだろう。
いつかきっと、
弓を手に箭を腰に付け、異国の山を登って、そこの王を捕えることだろう。
【補足】［先に雲巾を贈られた謝礼の詩を詠んでいる［→作品番号06-3-021］。頭巾は贈答品としてよく用いられたのだろう。それとも、蘇軾にはより似合う頭巾を被らせたくなるようなところがあったのだろうか］
■【06-3-050】贈黄山人
【解題】例によって蘇軾の「異人」好みを示す詩。黄山人がいかなる人であったのか、この詩のほかにわかるものはない。
【訳文】
黄山人の頬は赤くて人を照らすほど、
黄山人の眉毛は長くて眼を覆うほど。
道に遊ぶのに倦み、もはや道教の奥義を語ることもなく、
菩薩の教えを説くよりも、鬚をせっせと伸ばしている。
学問を絶ってこそ真の知恵、
禅を説く坊主などお笑い草。
この東の坡で先生とともに、
爐でことこと三年の間、仙薬を煮つめるとしよう。
■【06-3-051】問大冶長老乞桃花茶栽東坡
【解題】東の坡に茶を植えようと、大冶長老に桃花茶という品種の種子を求めた詩。興国軍大冶県に桃花寺があって、そこの泉のまわりで栽培される茶が桃花茶で、絶品だという。大冶長老は桃花寺の僧なのだろう。興国軍は作品番号06-3-037で見たように楊絵の赴任地で、黄州から長江を少し下ったところの南側なので、詩中に「江南」と詠まれている。
【訳文】
古く周の時代の詩では荼は苦いものとされ、
茗飲［茶を飲む］の習慣は近世［南北朝時代］に始まったという。
初めは御馳走を食べすぎたときに、
茶によって腹の滞りを雪ごうとするものだった。
私の畑はちっぽけで、
麦や桑だけももういっぱいいっぱいであるのに、
わずかの隙間も無駄にはしまいと、
なんとまあ、さらに茶の種子をもらって植えようとしている。
飢えから免れられるかどうかもまだわかっていないのに、
たらふく食べた後の算段をしようというのだ。
農業をするのも商売と同じように、
新しい取り引きが成り立つかどうかまず試すべきで、
茶の種子をいただけるか否かのお尋ねをする。
春が来ると、凍っていた地を裂いて、
紫色の茶の芽が鋭く出てくるようになるだろう。
牛や羊がその芽を踏まぬように叱りつけ、
茶道具を用意するのはまだまだ先のこと。
江南の老いた道人［大冶長老］は、
歯や髪が年々抜けてゆくわけだが、
ここ東の坡では年々茶が増えていって、
いつしか「雪堂茶」は名品であるとして知られるようになったりするのか。
その願いは空しく、やはり桃花茶の後裔だと伝えられるのだろうか。
【補足】［雪堂の近くで栽培するので「雪堂茶」の名を得て、天下で評判になると空想した。茶の種子を送ってくれなければ、茶が有名になる絶好の機会を逃してしまうだろうと、大冶長老を冗談で脅したのだ］
■【06-3-052】題温庭筠湖陰曲後
【解題】朱寿昌［→作品番号06-3-043］はこの年の4月に鄂州知事を辞め、後任として陳瀚が赴任した。これは2年後に書かれた文章。題にある『湖陰曲』は、唐代の温庭筠が歴史を題材に詠んだ詩。
【訳文】
元豊五年、黄州に謫居していたとき、蕪湖の東承天院の僧の蘊湘が、劉誼君を通じて、私に書を所望してきた。湖陰の故事を石に刻みたいので、温庭筠の詞を書いてほしいというのであった。私は、鄂州知事の陳瀚君に書いてもらったらよいだろうと、その口添えをした。
元豊七年六月二十三日、舟で蕪湖を過り、その折に詞を書いて渡し、石に刻んでもらうことにした。
汝州団練副使員外置蘇軾が書く。
【補足】［（1）蘇軾の書をほしがる人がたくさんいて、いろいろな手蔓を使って依頼してきたのだろう。仲立ちをした劉誼がいかなる人かはわからない。蘇軾は陳瀚にたらいまわししたものの、結局、2年後に自分で書くことになったのだ。（2）朱寿昌は鄂州を離れてからさほど時をおかずに亡くなった。70歳であった。蘇軾が黄州に流されたのが朱寿昌が対岸の州知事である間であったのは幸運であった］
■【06-3-053】次韻孔毅甫久旱已而甚雨三首
【解題】孔平仲［字は毅甫あるいは毅父］［→作品番号06-3-012］から送られてきた『久しく日照り続いたけれど、たくさん雨が降った』という詩に次韻した。
【訳文】
其の一
飢えた人は夢に見る――
おお、甑に飯が溢れている……
ああ、たらふく食べられる……
いままでの百の憂いがすっかり消える……
夢の中での満腹――それはまさしく「空」である。
そんな夢を見ているくらいでは、
まだ真の飢えが何物であるのかを悟っていないのだ。
私の半生は農地を持たずに、硯から飯を磨り出してきた。
ここにきて硯が枯れ、磨っても何も出なくなった。
去年は太歳［木星］が酉の方角にあったので、
そういう年は、酒食に事欠かないといわれているのに、
隣家に乞い願ってもなお得るところはなかった。
今年はといえば、日照りの趨勢がまだ続き、
この一年、我が竈にどうやって煙を上げたらよいのやら。
青天に向かって叫んでも、天は遥か遠く……
答えはない。
泥の仏に頭を下げても……
やはり何ともならない。
笑ってしまうのは甕の中の蜥蜴だ、
雨を降らせる仕事の見返りに天から秩禄をもらっているはずなのに、
手脚を伸ばしたり縮めたりして這いまわっているだけではないか。
陰陽の入れ替わりにはその時節があり、
雨が降るべきときにはその定めがあるはずだ。
そもそも民は天が生んだものなのだから、
天は民を恤れみ、正しく自然を運行させるべきではないのか。
私はいま窮まり苦しんでいるとはいえ、
他の人より特にひどいわけではない。
要するに自分もまた民の一人であるだけだ。
私の姿は飼い主を失って途方に暮れている狗のようではあっても、
誰かれ構わずに耳を垂れて我が身を委ねようとはしない。
冠は逆さま、頭巾は落としてしまって、
蚊とともに襤褸家に暮らしているさまは、
人に見せられたものではない。
昔からの知り合いは、
私が門を閉ざして開こうとしないと嗔るであろうが、
貴君に見てもらえばすぐにわかる通り、
我が門は歪んで開かないだけなのである。
有り難いことに、
月の光は我が門からも入ってきて、
私の部屋を水が撥ねるような明るさにしてくれる。
南からは風が入ってきて、
疲れ切った私のむしむしとした気分をさっぱりと洗ってくれる。
衣の裾をたくし上げてその風を入れ、
貴君が送ってくれた『快哉の謠』に和そうと思う。
餓えと寒さの心配で、
これまでは明日のことを思う余裕もない私であったのだけれども。
【補足】［（1）孔平仲の詩『快哉の謠』は恵みの雨によって旱魃の危機を脱した喜びを歌っていて、それを読んで明日への希望を得たというのがこの第1首。（2）蜥蜴に水をかけて雨乞いをすることは作品番号05-3-043で見ている。（3）「要するに自分もまた民の一人である」［要亦自是民之一］の句は蘇軾の平等主義を示す貴重な句であろう］
其の二
去年は東の坡に瓦礫を拾い、
三百尺にわたって自ら桑を種え、
今年は草を刈って雪堂を建てた。
日に炙られ、風に吹かれ、
顔は日焼けと汚れで墨のように真黒である。
かつては怠けてばかりだったのを後悔している。
農耕に励むなら、天もその実直さをちゃんと認めてくれるのを、
いまになってようやく知った。
造化の主は無心なのかどうか、
そこのところは測り知れないとしても、
天は三尺にもなろうという雨をざあっと降らせてくれた。
雨を降らせる竜にはそれぞれに持ち場があると聞くが、
いまは四方も上も下も同じ一つの雲のうちだ。
草の下の土が潤ったならば、
明け方を待って耕しに行こう。
夜は燈火のもとで機織りをしよう。
そのように思いつつも、
老いた私は疲れてごろんと横になってしまう。
腐れ儒者であるこの私も、自ら精出して耕すなら、
人々の憐れみを受けることなく、
乏しいながらも百年の暮らしを支えることができるであろう。
そうこうしていると、垣根の東から屐音を響かせてくる人がいて、
「奔流がやまなくて、長江の谷は水でいっぱいです。
折れた葦やら枯れた荷やらが恣に漂っています」
という。
この雨でここらの陂が破れてしまったならば、
水が漏れて、次の日照りのときには大変なことになる。
人力のまだ及ばないところは、
天がよくしてくれるのを求めるしかないのか。
西北側に千歩の長さにわたって塘を作り、
山からの水を遮るようにしたらよいであろう。
人々は私には銭がないのを知っているけれど、
近所の人々はたぶん連れ立って助けにきてくれるだろう。
そうなれば、来年は水路を勢いよく流れる雨を、
何の心配もなく眺めていられるはずだ。
餓えるか飽くかは自分自身の努力にあって、
天が関与することではないのだ。
豊作を祝って、一緒に田の中で誰が飲んでくれるだろうか。
酔って倒れても、我が腕枕さえあれば事が足りるだろう。
其の三
天公［天帝］は号令を一度しか出さないという。
雨が降ったら降りっぱなし、
十日も続けば長雨を愁うようになる。
貴君の家には田圃があるから、田圃は水びたし、
私の家には田圃はないが、家が水をかぶるのを心配しないとならない。
ここに蜀人の楊道士がきたのだが、
己の両膝だけに従って万里を気ままに旅し、
ひとひらの葉っぱのような小舟があれば、
流れに沿うのもよいし、遡るのも悪くはない、
草でも麦でも、食べるものに頓着しない、
泥の中を行こうが地面に寝ようが疾になることもない。
私はといえば、夜になると餓えた腹がぐうぐうと雷のように鳴るし、
ここに身を寄せる愁いは酒がなければ開くことができない。
杜甫は、秋の長雨の下で苔むす白骨を見るときは、
酒を飲まずに哀しむのがよいと詩に歌った。
楊道士が洞簫［笛］を手にして清らかに吹く曲は、
それだけですでに十分にもの哀しい。
【補足】［楊道士とは作品番号06-3-044で名を挙げた楊世昌である］
■【06-3-054】魚蛮子
【解題】詩題の「魚蛮子」は蘇軾の造語なのだろうか。字面は魚獲りをする少数民族の男子という意味。「漁父」や「漁翁」［→作品番号05-1-051］よりも野性味が強いのだろう。
【訳文】
魚蛮子にとっての畑は長江や淮河、
魚蛮子にとっての居室は舟の楫、
魚蛮子の糧は魚に蝦、
耕さなくても、もとよりふんだんにある。
世間の人とは異なる魚蛮子であっても、
他国から来た人間ではない。
舟を連ねて川をすみかとし、
竹の瓦の下に三尺の廬を結び、
長く子々孫々をここに伝えてきた。
背中の曲がった者やら、背丈のごく低い者やら、
風変わりな連中が水を切り開いて、
道で拾うよりもやすやすと魚を手づかみにする。
釜は破れて塩もないので、
魚を刻んで青菜と混ぜて食べる。
腹が膨れたらごろっと寝るだけ、
獺や狙と異なるところがない。
人間界の生きる道は困難ばかりで、
地べたの上に立つなら賦租を納めなければならない。
魚蛮子が波に乗って空虚に浮かぶ暮らしに及ばない。
私がうっかり、
「その空虚というやつも、いつまであてにできようか。
昔の大臣様は舟や車からも税金を徴収することを発案したのだから」
と、いったものだから、
魚蛮子は頭を地面に打ち付けて泣きながら、
「どうかどうか、そのことはお役人さまの耳には入れないでくださいまし」
【補足】［（1）蘇軾は罪を得て黄州に置かれているのに、時にはこの詩の終わりにあるような政治批判をしてしまう。（2）この魚蛮子の詩からすぐに連想されるのは、『水滸伝』に登場する阮氏三兄弟であろう。三人は漁師の息子で、水の中で自在に動き回り、この詩の末尾のように情けなく泣いたりせずに、水上の戦いで官軍を撃滅させてしまう。『水滸伝』のモデルとなった宋江が反乱を起こすのは、この詩が詠まれてから39年後である。蘇軾は京東の地で反乱が起こるのを心配していたが［→作品番号05-4-104］、その予言の通りになってしまうのである］
■【06-3-055】洞仙歌
【解題】唐と宋の間の五代十国時代に、蘇軾の故郷、眉州眉山県の属する蜀の地には、蜀国［前蜀と後蜀］の独立政権があった。後蜀の2代目にして最後の皇帝が孟昶だった。蘇軾は7歳のとき、孟昶の宮中に出入りしていたという尼僧に会ったということが、この詞の序文に記されている。蘇軾が7歳というと西暦1042年で、後蜀が亡んだのが965年であるから、77年を経ている。
【訳文】
叙
私は七歳のときに眉山で老いた尼を見た。姓は朱で名は忘れたが、年齢は九十余りだった。
「かつて師匠に従って蜀主孟昶様の宮中に出入りしておりました」
といい、
「あるとき、ひどく暑い日に、蜀主様と花蕊夫人様が摩訶池のほとりで夕涼みをなさり、蜀主様が一つの詞をお作りになりました。いまもよく覚えております」
それから四十年が経ち、朱氏はずっと前に亡くなり、その詞を知る者はいまや誰もいない。私は始めの二句ばかりを覚えているだけだった。ある暇な折に、その句を吟味し、『洞仙歌令』の曲ではなかろうかと思い、それに継ぎ足してみた。
自清涼無汗。［自ずから清く涼しく、汗をかくことはありません］
水殿風来暗香満。［水辺の高殿に風がくるとひそやかに香りが満ちます］
繍簾開、［刺繍のある簾が開かれていて］
一点明月窺人、［ちらりと明るい月が覗きます］
人未寝、［人はまだ寝ずに］
敧枕釵橫鬢乱。［枕が斜めに、簪が横たわり、鬢の毛が乱れます］
起来携素手、［立って手を携え］
庭戸無声、［庭の戸から声もなく出て］
時見疏星渡河漢。［ふと見ると、天の川を流れ星が渡ります］
試問夜如何、［夜はどれほどかと尋ねると］
夜已三更、［すでに真夜中すぎ］
金波淡、［天の川は淡く］
玉縄低転。［北極星のまわりの星が低く移ります］
但屈指、［指を折って数えるのは］
西風幾時来、［いつ秋がくるのかと］
又不道、［そしてこれはいいません］
年暗中偸換。［暗いうちに歳月がすっかり流れてしまうとは］
【補足】［（1）唐代に始まった詞を洗練された韻文学に育てたのは韋荘であった。韋荘は唐王朝末期の混乱期に辛酸を嘗め尽くした文化人の一人で、蜀の地に国［前蜀］を構えた王建に庇護を求め、宰相にまでなった。王建は、韋荘を始めとして唐の都から逃げてきた人々を保護し、唐の文化の伝統は蜀の地で受け継がれた。前蜀が亡んで後蜀に代わってからも高い文化水準が保たれ、後蜀の二代皇帝の孟昶は自らも詞を作るような風雅を愛する人であった。しかし、文弱で贅沢に耽って国を亡ぼしたと評判ははなはだ芳しくない。（2）蘇軾は、杭州の副知事であったころから精力的に詞を作るようになり、従来の詞とは全く異なる豪壮な作品を生み出し、その代表作がこの後で見る『念奴嬌』［→作品番号06-3-058］である。しかし、優美な詞も決して不得手ではなく、この『洞仙歌』は孟昶自身の作と見まごうばかりで、前半の終わりの部分などはかなり官能的である。後半は後蜀の栄華も虚しく消え去ったことを哀しんでいて、郷里の旧君として孟昶に対して特別な思いがあったのだろう］
■【06-3-056】題伯父謝啓後
【解題】伯父の蘇渙［→作品番号06-2-065］がかつて記した手紙を手に入れたので、この一文を添えて蘇渙の息子の蘇不疑［→作品番号06-2-066］に送った。
【解題】
天聖年間に伯父は眉州での科挙の地方試験に合格した。時に二十三歳だった。このころの試験は規定がまだ緩く、答案用紙に記された受験生の名を採点するときには隠すということをしていなかった。
眉州副知事の蒋堂は、試験が終わって受験生が提出した文を見て、伯父の賦したものに至ると、それが精妙で群を抜いていることに驚き、伯父に向かって「首席となるのは君以外にはいない」といった。伯父は「私はまだまだ若く、もっと年長の者がいます。私は決して選ばれるような者には当たりません」と強い調子で応じた。蒋堂はそれを聞いて、「これはまさしく『論語』にある『君子は人の美を成す』［君子は人の美点を挙げる］であるな」といって、伯父は実に賢いとした。そして伯父を第三位にした。翌年伯父は科挙の最終試験にも合格した。
この手紙は合格後に蒋堂に送った礼状である。伯父が亡くなって十三年後に単錫の家に伝わった。単錫が蒋堂と同じく宜興の人だからだ。それから八年にして私の手元にきたので、自ら表装して、伯父の次男［蘇不疑］のもとに帰すことにした。これを家の宝として、伯父の徳が盛んであったことを忘れずにいてほしいと思う。
元豊五年七月十三日、伯父の甥である責授黄州団練副使軾が謹んで誌るす。
【補足】［（1）科挙では情実や不正の入る余地が一切ないよう、答案用紙に記された受験生の名が採点者に知られないようにした。これを「糊名」というが、伯父の蘇渙の頃にはまだそれが行われていなかったことがこの文章からわかる。（2）蒋堂［字は希魯］は眉州の副知事を勤めた後に泗州の知事となり、朝廷に召されたり地方の高官を務めたりして、長く官界で活躍した。単錫［字は君賜］は蘇軾と同じ年に科挙に合格し、蘇軾の親類の娘を娶った。（3）蘇不疑の弟の蘇不危［字は子安］には、作品番号06-3-015で見た手紙に続けて、伯父の礼状を添えると記している］
■【06-3-057】赤壁賦
【解題】上の文を書いて3日後の7月16日、蘇軾は長江に舟を浮かべ、赤壁［→作品番号06-1-082］に遊び、この賦を作った。賦とは詩や詞とは異なる韻文の一形式で、小川環樹・山本和義選訳『蘇東坡詩選』（1975年）の解説をそのまま拝借すると、「『賦』は楚辞の流れを汲んで、漢代に生まれた文学形式。問答形式をとって韻をふみながら華麗なことばを連ねる叙事文学で、朗誦されるものである」。欧陽脩は賦を外面を飾るものから内容重視のものへと変えようと努め、それを受け継いだのが蘇軾のこの『赤壁の賦』である。
【訳文】
七月既望、［七月の満月の翌日］
蘇子与客汎舟游于赤壁之下。［蘇先生は客と舟を浮かべ、赤壁の下に遊んだ］
清風徐来、［清らかな風が静かにきて］
水波不興、［波は立たず］
挙酒属客、［酒を挙げて客に勧めつつ］
誦明月之詩、［明るい月を待つ詩を朗誦し］
歌窈窕之章。［美しい人を求める古代の詩を歌った］
少焉、［しばらくすると］
月出於東山之上、［月が東の山の上に出て］
徘徊於斗牛之間、［斗宿と牛宿の間をさまよい］
白露橫江、［長江いっぱいに露の気配が横たわり］
水光接天、［光が水に満ちて天と一つになり］
縦一葦之所如、［一本の葦のような舟を行くに任せて］
凌万頃之茫然。［万頃の茫洋とした広がりを超えて行った］
浩浩乎如憑虚御風、［浩浩と虚空に乗って風をあやつるようにして］
而不知其所止、［その止まるところを知らず］
飄飄乎如遺世独立、［飄飄と世間のことなど忘れて独りだけとなり］
羽化而登仙。［あたかも羽化して仙人になったかのようであった］
於是飲酒楽甚、［そこで酒を飲んで大いに楽しみ］
扣舷而歌之。［舟ばたをたたいて歌った］
歌曰：［その歌は］
「桂棹兮蘭槳、［「桂の棹に蘭の槳］
撃空明兮泝流光。［明るい空間を撃ち、流れる光をさかのぼる］
渺渺兮余懷、［渺渺なるかな我が懐い］
望美人兮天一方」。［美しい人を天の彼方に望み見る」］
客有吹洞簫者、［客に洞簫を吹く者がいて］
倚歌而和之、［歌とともにそれに和し］
其声嗚嗚然、［その声は嗚嗚然として］
如怨、［怨むかのよう］
如慕、［慕うかのよう］
如泣、［泣くかのよう］
如訴、［訴るえかのよう］
余音嫋嫋、［余韻は嫋嫋とつづき］
不絶如縷。［糸のように絶えることがなかった］
舞幽壑之潛蛟、［それは深い谷に潜む竜を舞わせ］
泣孤舟之嫠婦。［夫を失った舟上の女を泣かせるものであった］
蘇子愀然、［蘇先生は表情を改め］
正襟危坐、［襟をただし、きちんと坐り直して］
而問客曰：［客に尋ねた］
「何為其然也」。［「これはどうなさったのですか」］
客曰：［客はいった］
「『月明星稀、烏鵲南飛』、［「『月明らかに星稀れに，烏鵲南に飛ぶ』］
此非曺孟德之詩乎。［これは曹操の詩でありましょう］
西望夏口、［ここから西を望めば夏口］
東望武昌、［東を望めば武昌］
山川相繆、［山と川が互いにもつれ合い］
鬱乎蒼蒼、［暗くこんもりとしています］
此非孟德之困於周郎者乎。［曹操が周瑜のために苦しめられたのはここなのではありませんか］
方其破荊州、［曹操はそれまでに荊州を破り］
下江陵、［江陵へと下り］
順流而東也、［流れに従って東に向かい］
舳艫千里、［船を千里に渡って連ね］
旌旗蔽空、［旗は空を覆い］
釃酒臨江、［酒を漉して長江に注ぎ］
橫槊賦詩、［槊を横たえてこの詩を賦したのです］
固一世之雄也、［まさに一時代の英雄でありますが］
而今安在哉。［いまどこにいるのでしょうか］
況吾与子漁樵於江渚之上、［まして、私とあなたは、長江の渚のあたりで魚を獲り木を切り］
侶魚鰕而友麋鹿、［魚や蝦に伴い、鹿を友とし］
駕一葉之扁舟、［ひとひらの舟に乗り］
挙匏罇以相属、［ひょうたんの酒を互いに挙げ］
寄蜉蝣於天地、［かげろうのような身を天地に寄せ］
渺滄海之一粟。［広く青い海のひと粒の粟のような存在でしかありません］
哀吾生之須臾、［我が一生が束の間であるのを悲しみ］
羨長江之無窮。［長江が無窮であるのを羨みます］
挟飛仙以遨游、［空を飛ぶ仙人を両脇に従えてともに遊び］
抱明月而長終。［明るい月を抱いて永遠に過ごすなど］
知不可乎驟得、［にわかに得られるはずもないので］
託遺響於悲風」。［悲しげな風に余韻を託したのです」］
蘇子曰：［蘇先生はいう］
「客亦知夫水与月乎。［「あなたも水と月を知っていましょう］
逝者如斯、［水はこのように逝き続けていますが］
而未嘗往也、［往ってしまってそれきりということでは決してありません］
盈虚者如彼、［月はこのように満ちたり欠けたりしていますが］
而卒莫消長也、［ついには消え去ってしまったり大きくなりっぱなしということもありません］
蓋将自其変者而観之、［そもそも変化するというところから観みるなら］
則天地曾不能以一瞬、［天地は一瞬たりとも変わらずにいるということはありません］
自其不変者而観之、［変わらないというところから観みるなら］
則物与我皆無尽也、［物にしても私にしてもどれも尽き果ててしまうことはありません］
而又何羨乎。［何を羨むのでしょう］
且夫天地之間、［天地の間にある物には］
物各有主、［それぞれの所有者がいます］
苟非吾之所有、［自分が持つものでなければ］
雖一毫而莫取。［毛筋一本だって取ることはできません］
惟江上之清風、［ただし、川のほとりの清らかな風と］
与山間之明月、［山の間の明るい月は］
耳得之而為声、［耳に得てその声を聞き］
目遇之而成色、［目に遇ってその色を見て］
取之無禁、［これをいくら取っても禁じられることはなく］
用之不竭、［これをいくら用いても竭きることはありません］
是造物者之無尽蔵也、［これは造物者の無尽蔵というものです］
而吾与子之所共食」。［私とあなたと一緒にこれを食らおうではありませんか」］
客喜而笑、［客は喜んで笑い］
洗盞更酌。［盃を洗ってさらに酌んだ］
肴核既尽、［酒の肴は尽き］
杯盤狼籍、［杯や皿が散らかり］
相与枕藉乎舟中、［ともに枕となって舟に眠り］
不知東方之既白。［東方がすでに白むのも知らずにいたのだった］
【補足】［（1）同舟の者が洞簫［笛の一種］を吹いたとの叙述がある。廬山からきていた道士の楊世昌が洞簫を吹くことを作品番号06-3-053の其の二で見ているので、楊世昌が一緒であったと推測されている。（2）「造物者の無尽蔵」。これこそが黄州にきて以来、己を新しくしようとさまざまに思索を重ねてきた一つの到達点であったといってよいであろう。『雪堂の記』では「散人」と「拘人」を対比して、「散人」になるには知恵を去らなければならないといっていた。黄州にきた当初は安国寺に参禅して「空」の境地を得ようとした。ここに至って「空」ではなく「無尽蔵」を見出し、「散人」だろうが「拘人」だろうが誰であってもいかなる境遇にあっても、その「無尽蔵」はいくらでも享受できると歌い上げた。一見すると安直な楽観主義のようであるけれど、苦悩の末に見出したひとつの答えだったのだ。（3）かつて『書臨皐亭』［→作品番号06-1-061］で直感的に記したことを発展させたと見ることもできるだろうか］
■【06-1-058】念奴嬌
【解題】上の『赤壁の賦』では三国時代の英雄の名を出したものの、それは脇役でしかなかった。そこで、周瑜を主役にした詞を別に作った。「赤壁懐古」の副題がある。
【訳文】
大江東去、［大いなる長江は東に流れ行き］
浪淘尽、［浪は洗い尽くしてしまいます――］
千古風流人物。［千年にわたる風流な人々をも］
故壘西辺、［古い石垣の西のあたり］
人道是、［人はいいます、これは］
三国周郎赤壁。［三国時代の周瑜の赤壁であると］
乱石崩雲、［崩れる雲のように乱れた岩］
驚濤裂岸、［岸壁を裂くように打ち付ける波は］
捲起千堆雪。［千段に積み重なった雪を巻き起こします］
江山如画、［画のような江と山］
一時多少豪傑。［かのときにどれほど多くの豪傑がいたのでしょうか］
遙想公瑾当年、［遥かに想うのは、そのときの周瑜］
小喬初嫁了、［喬姉妹の妹を妻に迎えたばかり］
雄姿英発。［雄姿は英しく溌剌としていました］
羽扇綸巾、［羽根の団扇に綸子の頭巾］
談笑間、［談笑する間に］
強虜灰飛煙滅。［強い敵は灰となって飛び、煙となって消え去ったのです］
故国神遊、［所縁ある国に神を遊ばせると］
多情応笑我、［情ある人は私に笑いかけ］
早生華髮。［早くも白髪になりましたなぁということでしょう］
人間如夢、［人間世界は夢のよう］
一樽還酹江月。［ひと樽の酒を江の月に捧げようではありませんか］
【補足】［（1）後世の『三国志演義』などでは、赤壁で曹操の大軍を破った最大の功労者は諸葛孔明であったように描かれもするが、実際は周瑜こそが立役者であった。この詞は周瑜を中心に置いている。（2）「風流人物」とあるのは、日本語の「風流な人」とはかなり異なり、何物にも捉われない独立不羈の人物、曹操や周瑜のような人々を指す。（3）「羽扇綸巾」［貴族がくつろいで過ごすときの服装］は、『三国志演義』などでは悠揚迫らぬ諸葛孔明の姿を描く常套語となっているが、蘇軾は周瑜を描写するのに用いている。ただし、ほとんどの解説書では、ここでもやはり諸葛孔明のことであるという解釈をとっている。そうだとしたら、周瑜の存在がかすんでしまって興趣がかなり削がれるのではなかろうか。（4）この『念奴嬌』は、蘇軾の詞の最高傑作と評されることが多い。蘇軾は、酒席の余興から始まった詞を、文学的な鑑賞に十分耐えうるものに変革すべく努め、「豪放派」の開祖とされ、この詞がその到達点であるとされる。「豪放派」はこの作品に見られるように、ごつごつとした印象の語句を使って堅い内容の詞を作る。一方で、蘇軾によって詞は結局のところ詩にされてしまったとする批判があり、「豪放派」を受け継ぐ者はそう多くはなかった。宋代の詞の本流を形作ったのは、蘇軾ではなくむしろ張先や柳永であった。蘇軾が杭州時代に張先と交流があったことはしばしば見ていて、多数の歌妓を連れて西湖で舟遊びをする姿はまさに詞の名手にふさわしい。柳永は蘇軾よりも50年ほど先輩で、若い頃に科挙を受けたものの、色里の流行歌を作っているような者は朕の朝廷にはいらないと皇帝が不合格にしたという伝説がある。柳永は妓女のために詞を作る専門の作詞家になり、都の井戸端で柳永の詞を歌う女性の声が聞かれない日はないといわれるまでにその詞は人々に愛された。その後、50歳の頃に発奮して再び科挙を受け、短い期間ではあったが地方で官僚勤めをし、蘇軾が18歳のときに亡くなった。蘇軾のこの『念奴嬌』がいかに傑作であっても、井戸端で歌われるようなものではなく、大衆が求める詞のあり方からはずれていたのだろう。とはいえ、蘇軾も優美で繊細な詞を多数作っていて、先に見た楊の詞［→作品番号06-2-016］の方が優れているようにも思える］
■【06-3-059】夜坐与邁聯句
【解題】夜、臨皐亭に坐して息子の蘇邁と交互に句を詠む連句をした。蘇軾の句を青字で、蘇邁の句を赤字で示す。
【訳文】
清風来無辺、［清らかな風が無限の彼方から来て］
明月翳復吐。［明るい月が翳ったり雲からまた吐かれたりする］
松声満虚空、［松の声［上の風に対応］が虚空に満ち］
竹影侵半戸。［竹の影［上の月に対応］が戸から入り込んでくる］
暗枝有驚鵲、［暗がりの枝で驚いて鵲が鳴き］
壊壁鳴饑鼠。［壊れた壁で餓えた鼠が鳴く］
露葉耿高梧、［露を帯びた葉が高い梧に輝き］
風蛍落空廡。［風に飛ぶ蛍が人のいない廡に落ちる］
微涼感団扇、［微かな涼しさにもはや捨てられる団扇を感じ］
古意歌白紵。［無官の服のままでいることを嘆く古い歌をうたう］
楽哉今夕遊、［それにつけても、この夕べの遊びの楽しさは］
復此陪杖屨。［こうしてまた父上のお供ができるのだから］
伝家詩律細、［我が家に伝わる詩律は細やかであるが］
已自過宗武。［君はすでに杜甫の息子の宗武を凌ぐもがあるだろう］
短詩膝上成、［我が膝の上でこのように詩を作ってくれて］
聊以慰懐祖。［祖先に対していささか鼻が高い］
【補足】［蘇邁はこのとき24歳であった。24歳といえば蘇軾が官職に就くために都に向かったときの年齢で、そのときの旅で詠んだ詩は第1章で見たように、すでに父の蘇洵を凌ぐものとなっていた。それと比べると、全く酷な比較だが、息子の詩才は特別光るものではなかったようだ］
■【06-3-060】次韻和王鞏六首
【解題】蘇軾に連座して遥か南方の賓州に置かれていた王鞏［字は定国］［→作品番号06-2-050など］から送られてきた詩に次韻した。
【訳文】
其の一
貴君は、近くにある陽朔山のことを詩中に談じて、
一銭の価値も生まない山だという。
その巌には頭が二つある毒蛇が潜み、
千仞の高さを飛ぶ鳥を落としてしまう毒気を放っている。
ならば、極悪人を放逐するのによろしいところで、
舜のような聖人が登ったとの伝説があるのははなはだ訝しい。
この山に少しの間いるだけで、
鏡を見ると顔はもう真っ黒になってしまっているくらいに恐ろしいところなのだ。
苦い霧のために、飲むものも食べるものも味が変わってしまう。
貴君は三年もの間、そんなところで囚われ人となっている。
しかし、善い人は天地の徳を身に荷っているのだから、
決してそこでは死なないはずだ。
私はというと、黄州の岡のもとにいて、
枕に横たわって長江の碧の流れを眺めている。
川の向こうには武昌山があって、
いつも私と顔を向かい合わせにして立っている。
軟らかな土からは春の野菜が生じ、
蒼い崖を裂いて筍が出てくる。
私が貴君を巻き込んで陽朔山のもとに行かせてしまったのに、
私はこの地にきてかえって安らかに暮らしている。
遥かに聞くところでは、
そちらの近くに丹砂の産地があるとか。
だからいつか貴君も仙薬を得て、
仙人の名簿の中に貴君の名を見ることになるのだろう。
【補足】［丹砂は不老不死の薬の原料になると考えられていて、先に王鞏に送った手紙の中でもそれについて言及していた［→作品番号06-1-105など］］
其の二
若いときは、
刀剣を腰に帯びて従軍したら楽しいであろうと思っていた。
老いてからは、
剣を鎔かして鋤にして農事に服することとなった。
少しの武勲も挙げなかったのに、
朝廷は耕す土地を与えてくださった。
春は川の氷を砕いて紙を梳き、
秋は葦を刈って布を織り、
冬は櫟の林を斬って炭とし、
夏には土手の竹から皮を剥き取る。
四季ごとに採るものがあり、
天の与えてくれるものは十分に満足させてくれる。
貴君は裕福な家に生まれたので、
そのような四季の仕事を学ぶ必要はなかっただろう。
貴君の左右におられる腕が細くて白い美女には、
薪を束ねるようなことはできるはずもない。
こんなことを私がいっているとは、
当の美女には聞かせないでほしい、
私だってわざわざ美しい方々を怒らせたくはないので。
笑ってしまうのは、
我があばら家には、
ぎゃあぎゃあ騒がしいだけの女どもがどっさりいることだ。
【補足】［王鞏は名家に育ち、贅沢な暮らしをしていたのだろう。流謫の地にも美しい侍女を多数連れて行ったようで、蘇軾はそのことをかねてから気にかけていて、この一連の詩でもやんわりと教訓めいたことをいっている］
其の三
千年に一度だけ実を結ぶという伝説の桃にしても、
まずは寒い冬を耐えてから二月に花を咲かせる。
骨にまで至るような苦労をしてこそ、
果てしない寿命が得られるのだ。
私は罪による死を免れただけ十分で、
この上さらに長生を求めるようなことはしない。
貴君のいる賓州はどこであろうかと、
棲霞楼に昇って見るとしよう。
【補足】［棲霞楼は作品番号06-2-050で見ている］
其の四
近隣の人々にはそれぞれ異なる趣がある。
だから、互いに往き来するのがよろしかろう。
奇妙な人と思って厭わずに、
数回会えば自ずと親しくなるのだ。
また、何事もなく黙って坐わっているのもよい。
自分の内側から光がめぐりきて、また己を照らすのを覚えるであろう。
いずれにしても、
貴君が宮廷に堂々と立つ姿をきっとまた見ることになるであろう。
【補足】［この詩では、土地の人とも分け隔てなく交際するようアドバイスしている。蘇軾のように土地の庶民とも親しくするというのは、エリートである士大夫の誰もができるようなことではなかったのだろう］
其の五
普段から私は他の人々を軽んじてきたのだが、
老年に到ると、私のことを気に掛ける者など誰もいなくなっていた。
巧みな語を出したように思っていたのは自分だけで、
実際は本物の宝玉と数珠玉の実くらいに違っていたのだ。
せめてまずいことをいってしまわないようにしようとしても、
我が癖を治す薬はどこにもありはしない。
子どもの出来の悪さときたら、
やはり陶淵明が嘆いた通りだが、
ただ妻が慎ましやかであるのは、
馮衍が妻のやかましさに悩まされたのとはえらい違いだ。
私が貧乏であるのはなぜかと聞かれたら、
天の与えたものだと応えよう。
黄州に流されて初めて財布がからっぽになったのではないのだ。
【補足】［（1）陶淵明には子供の出来の悪さを嘆く詩がある。（2）馮衍は後漢の人で、蘇軾自身がこの詩に付した注記で、「私の文章は馮衍に及ばないものの、意気と志では愧じるものではない。当時の皇帝は優れた士を好んだものの、馮衍は不遇で都の遠くに置かれ、私と似ている。しかし、馮衍の妻はひどく嫉妬深く、この一点は私にはない。そこで私の方が馮衍より勝っているということになる」と記している。このことは、もしかすると妻の容認のもと王朝雲を深く愛するようになっていたことを示唆するものであろうか］
其の六
貴君の家の女性は、
青色の衣に美しい腕を通し、
宮廷の女性のように黄色い粉を額に施し、
私のような下等の客はお目にかかることもできなかったのだが、
そちらでも、南国の鄙びた歌を習ったりはしないで、
雅なことばかりを変わらず語り続けているだろうけれど、
衣を薫らせる香が少なくなってしまったのはさすがに嘆いているだろうか。
貴君は北に帰るときには、
その女性を携えて私のところに会いにきてくれるといっているのだが、
雪の山を崩すような大きな浪に阻まれたとかなんとか、
言い訳をきっとすることになるだろうね。
【補足】［第六首のこの訳は原文よりも皮肉な口調がきつくなっている］
■【06-3-061】念奴嬌
【解題】『念奴嬌』の曲で8月15日の中秋節に詞を作った。この詞はかつて密州でやはり中秋節に作った詞『水調歌頭』［→作品番号05-2-028］を踏まえ、地上と月の世界を行きつ戻りつする。
【訳文】
見長空万里、［見えるのは万里にわたる広大な空］
雲無留跡。［雲はどこにも跡を留めません］
桂魄飛来光射処、［月が飛び来て射す光］
冷浸一天秋碧。［ひやひやと満天の秋の碧を浸します］
玉宇瓊楼、［天の上の玉の宮殿へと］
乗鶯来去、［鶯に乗り］
人在清涼国。［人は清く涼しい国に来るのです］
江山如画、［（月から見る）江や山は画のよう］
望中煙樹歴歴。［望み見る靄の中に樹々が連なっています］
我酔拍手狂歌、［私は酔い、手を打っておかしげに歌い］
挙杯邀月、［杯を挙げて月を迎え］
対影成三客。［私と影と月と三人になります］
起舞徘徊風露下、［秋風のもとで起って舞い、あたりを歩き］
今夕不知何夕。［この夕べは月の世界ではいつの夕べなのでしょう］
便欲乗風、［さあ、風に乗って］
翻然帰去、［翻り飛んで帰りましょう］
何用騎鵬翼。［鵬の翼に騎らないでもよいのです］
水晶宮裏、［月の水晶宮で］
一声吹断橫笛。［一声、横笛が吹かれます］
■【06-3-062】与毅父宣徳
【解題】孔平仲［字は毅甫あるいは毅父］［→作品番号06-3-053］に宛てた手紙。
【訳文】
お手紙を頂戴し忝く存じます。安らかにお過ごしのことでありましょう。明日は重九でありますが、その日に会える会えないはいかなる縁によるものなのか、毎回不思議な気持ちになります。貴君は、文人には相手を軽んじる病があるのを嫌っておられ、しかしながら、不肖の私のことを過大に評価してくださっています。それははなはだいわれなきことであります。詩文を断ちましたと先に誓いましたことは隠せませんので、どうぞ私のことをお笑いください。甥婿となる曹煥君が行くのに合わせてこのお手紙を届けてもらいます。これからは冷えてゆきますので、万万自重されますように。……
【補足】［（1）光州知事の曹九章の息子の曹煥［→作品番号06-2-069］と蘇轍の娘との縁談がまとまったので、曹煥は黄州にきて蘇軾に挨拶してから蘇轍のいる筠州に向かった。孔平仲は江州にいて、ちょうど通り道に当たっているので、この手紙を曹煥に託したのである。（2）このときに、曹煥を通じて曹九章に贈った詞があるのだが、意味がよく汲み取れないので訳は割愛する］
【解題】9月9日の重陽の節句に徐大受［字は君猷］知事が酒宴を開き、そこでこの詞を詠んだ。序文がある。
【訳文】
私は黄州謫居となって三度目の重陽の節を迎えた。徐知事は毎年棲霞楼で宴を開いてきたが、今年は任期が満ちて、湖南に移ることを希望しているという。そのことを思うと寂しく、この詞を作った。
笑労生一夢、［笑ってしまうのは、生きる苦労もひとつの夢］
羈旅三年、［遠く三年の旅］
又還重九。［また重陽の節句となりました］
華髮蕭蕭、［まばらな白い髪］
対荒園掻首。［荒れた庭を見つつ頭を掻きます］
頼有多情、［頼みとするのは（知事殿の）情の深さ］
好飲無事、［何事もなく飲むのを好み］
似古人賢守。［古の賢太守に似ておられます］
歳歳登高、［毎年毎年（重陽の節句には）高いところに登り］
年年落帽、［毎年毎年帽子を落としてまいりましたのは］
物華依旧。［昔の結構な故事に従ってのことでした］
此会応須爛酔、［今日の会では大いに酔いましょう］
仍把紫菊茱萸、［菊の花と茱萸の実を手にして］
細看重嗅。［細やかに見て重ねて香りを嗅ぎましょう］
搖落霜風、［間もなく、葉を落とす風が］
有手栽双柳。［手ずから植えた二本の柳にも吹き寄せましょう］
来歳今朝、［来年のこの朝には］
為我西顧、［私のために西を見て］
酹羽觴江口。［川べりで杯を酌んでください］
会与州人、［私はこの地の人々とともに］
飲公遺愛、［知事殿を偲んで飲み］
一江醇酎。［川に酒を注ぎましょう］
【補足】［（1）始めにある「羈旅三年」は、知事の任期が通常3年であることと、蘇軾が黄州に流されて3年になることを兼ねているのだろう。（2）「搔首」とは首がかゆくて掻くわけではなく、思い悩む仕草を表す慣用句。（3）重陽の節句に風に吹かれて帽子を落とす故事は何度か見ている。（4）最後のところは、黄州で長江に酒を注ぐから、新たな任地である下流でそれを受け取ってほしいということ］
■【06-3-064】記夢賦詩
【解題】蘇軾はときどき夢の中で詩詞を聞いたり賦したりしている。本当に夢に見たのか、想像を夢に託したのかはわからない。
【訳文】
私は科挙を受けるために蜀から都に行き、途中で華清宮を通った。夢に、玄宗皇帝が『太真妃裙帯詞』を賦すように命じるのを見た。目覚めてその詞を記憶していた。いまこれを書いて、潘大臨に贈る。
その詞は、
百畳漪漪水皺、［（貴妃の裳の広がりは）百畳もの漪漪と流れる水の皺］
六銖縦縦雲軽。［（その重さはわずか）六銖で縦縦として雲よりも軽いのです］
植立含風広殿、［風を含んで広い高殿にすくっと立つならば］
微聞環佩搖声。［腰に着けた環が揺れる音が微かにします］
元豊五年十月七日。
【補足】［（1）蘇軾が科挙を受験するために都に行ったのは嘉祐元年［1056年］のこと。この短文も一つの根拠となって、そのときの旅は長安を経由する陸路であったと知れる。華清宮は長安の東にある温泉地で、唐の玄宗皇帝が楊貴妃［太真妃］と遊んだところとして有名。（2）潘大臨［字は邠老］は潘丙の兄の子［→作品番号06-3-016］］
■【06-3-065】後赤壁賦
【解題】10月15日に蘇軾は再び赤壁に遊び、この賦を作った。同行の者が2人いたとあり、1人は先の『赤壁の賦』と同じく道士の楊世昌であることは、次の作品番号で明らかである。もう1人は誰だったのか。その者が魚を獲り舟を操ったとすると、先の『魚蛮子』［→作品番号06-3-054］に歌われていた漁師であったりするのだろうか。
【訳文】
是歳十月之望、［この歳の十月の満月の日］
歩自雪堂、［雪堂から歩いて］
将帰於臨皐。［臨皐亭に帰ろうとした］
二客従予、［二人の友が一緒で］
過黄泥之坂。［黄泥の坂を通った］
霜露既降、［霜や露の気配がすでに下り］
木葉尽脱、［木の葉はことごとく落ち］
人影在地、［人の影が地面にあって］
仰見明月、［明るい月を仰ぎ見て］
顧而楽之、［互いに顧みて楽しみ合い］
行歌相答。［歩きつつ歌って唱和した］
已而歎曰、［ふと嘆息していった］
「有客無酒、［友がいるのに酒がありません］
有酒無肴、［たとえ酒があっても肴がありません］
月白風清、［月は明るく風は清らかで］
如此良夜何」［この良き夜をどうしたらよろしいのでしょう］
客曰、［友はいった］
「今者薄暮、［今日の夕方］
挙網得魚、［網を挙げて魚を得ました］
巨口細鱗、［口が大きく鱗が細かく］
状如松江之鱸。［松江の有名な鱸に形が似ています］
顧安所得酒乎」［ただどこで酒を得たらよろしいでしょうか］
帰而謀諸婦。［帰ってそのことを妻に相談した］
婦曰、［妻がいうには］
「我有斗酒、［わたくしに一斗の酒がございます］
蔵之久矣、［これを久しくしまっておき］
以待子不時之需」［あなたさまが急にお求めになるのに備えておりました］
於是携酒与魚、［そこで酒と魚を携え］
復遊於赤壁之下。［また赤壁の下で遊ぶことになった］
江流有声、［長江は音を立てて流れ］
断岸千尺、［切り立った岸は千尺］
山高月小、［山は高く月は小さく］
水落石出。［水量が減って石が出ている］
曽日月之幾何、［日や月はあれからどれだけ巡ったのか］
而江山不可復識矣。［江も山もまるで識らないところであるかのようだ］
予乃攝衣而上、［私は衣をかかげて陸に上り］
履巉巌、［険しく切り立ったところを踏み］
披蒙茸、［草むらを開き］
踞虎豹、［虎や豹のようにわだかまる岩にまたがり］
登虬竜、［竜のようにねじくれた木を登り］
攀棲鶻之危巣、［鶻の棲む危うい巣をよじのぼり］
俯馮夷之幽宮。［馮夷［水の神］の宮殿を見下ろした］
葢二客不能従焉。［どうやら二人の友は付いてこられなかった］
劃然長嘯、［空気を裂くように長く嘯くと］
草木震動、［草木が震動し］
山鳴谷応、［山が鳴り谷が応え］
風起水湧。［風が起き水が湧いた］
予亦悄然而悲、［私はふと悄然として悲しみ］
肅然而恐、［肅然として恐れ］
凜乎其不可留也。［凜乎としてもはやそこにいられなくなった］
反而登舟、［かえって舟に乗り］
放乎中流、［流れの中ほどに放ち］
聴其所止而休焉。［その止まるところにまかせて休んだ］
時夜将半、［時に夜はもう半ば］
四顧寂寥。［四方を顧みると静まり返っていた］
適有孤鶴、［たまたま一羽の鶴が］
橫江東来。［江を横切って東からやって来た］
翅如車輪、［翅は車輪ように大きく］
玄裳縞衣、［黒い裳に白い絹の衣］
戛然長鳴、［鋭く長く鳴き］
掠予舟而西也。［私の船を掠めて西へと飛んだ］
須臾客去、［間もなく友人は帰り］
予亦就睡。［私も眠りについた］
夢一道士、［夢に一人の道士を見た］
羽衣蹁躚、［羽の衣を翻し］
過臨皐之下、［臨皐亭の下を通り］
揖予而言曰、［私に会釈していった］
「赤壁之遊楽」。［赤壁の遊びは楽しかったですか］
問其姓名、［その姓名を問うと］
俛而不答。［俯いて答えなかった］
「嗚呼噫嘻、［ああ、ああ］
我知之矣。［私はわかっております］
疇昔之夜、［昨日の夜］
飛鳴而過我者、［飛んで鳴いて私の前を通ったのは］
非子也耶」。［あなただったのでありましょう］
道士顧笑、［道士は顧みて笑い］
予亦驚寤。［私ははっと目を覚ました］
開戸視之、［戸を開いて道士を見ようとしたが］
不見其処。［どこにもいなかった］
【補足】［（1）この賦を『後の赤壁の賦』といい、それに対して先の賦を『前の赤壁の賦』という。『前の赤壁の賦』は理屈を述べ、『後の赤壁の賦』は幻想的である。二つを合わせて『赤壁の賦』は完成するということなのだろう。（2）5行目にある「黄泥の坂」は後に詳しく見ることになる］
■【06-3-066】帖贈楊世昌
【解題】道士の楊世昌のために書いて贈った短文。
【訳文】
十月十五日夜、楊道士と赤壁に舟を浮かべ、飲みかつ酔った。夜半に、一羽の鶴が長江の南からきて、翅は車輪の如く、戛然と長く鳴いて、私の舟を掠めて西に去った。それが何の祥かわからなかった。いささかまたこのことを記す。
■【06-3-067】弔李台卿、并叙
【解題】光州知事の曹九章［字は演甫］［→作品番号06-3-062］から手紙が届き、かつて黄州管轄内の麻城県で主簿を務めていた李台卿が亡くなったことを知った。李台卿とは生前にわずかな交流があっただけだったが、その人柄を想ってこの詩を作った。序文がある。
【訳文】
叙
李台卿、字は明仲は、廬州の人である。風貌がひどく不細工で、変わり者で、人と群れることがなかった。しかし、博学で記憶力のよさは人の及ぶところではなかった。『春秋左氏伝』を好み、『史学考正同異』を著して新たに発見したところが多数あった。天文や暦も詳しく知り、千年間の暦を知り尽くしていた。私が黄州に謫居となったとき、李台卿は麻城県の主簿で、初めてその名を識った。間もなく李台卿は辞めて廬州に帰ったのだが、光州知事の曹九章から李台卿が亡くなったことを報らされた。李台卿は曹九章の妻の一族である。
初め私は貴君を知らなかった。
人々は貴君のことを、
病気になった鶴がだらんと頭を垂れたような姿をしているとか、
七つの穴が全て土煙に覆われたような顔をしているとか、
そんなことをいって笑いの種にしていた。
ある日、貴君は破れた衣をまとって私のところにきたのだが、
釣り糸を垂れる人であるかのように座っているだけだった。
しかし、容貌の醜さで名を残した古の鬷蔑と同じく、
たった一語を発するとそれは妙所を突いていて、
横顔をちらりと見ただけで賢人を見分けた古の褚裒のように、
私はたちまち貴君に驚かされたのだった。
貴君はのろのろとさざ波の上を渡っているようでいて、
実は極まりない大海の涯までも見ているのだった。
唐の太宗は、画に描いたような頑固一徹の大臣を、
軟弱で朕に媚びているようにしか見えないといったように、
士というものはもとより軽々しくは料り知れない。
貴君が書物を看るのは、
月の光のように隅々までも照らさないところはない。
私は年齢とともに忘れてしまうことが多くなったのに、
貴君はどんどん若くなっていくかのようにより多く覚えるのだった。
諸々の学問に通じ、博くかつ要を得ていた。
しかし、残念なことに、言動に飾り気がなかったために、
老年に至っても外に輝きを見せることがなかった。
だから、その人生は世に識られず、
すでに亡くなって、弔う者は誰もいない。
私は詩を作って貴君を知る人々に贈ろうと思う。
できることなら俗人どもの過ちを正したいのだ。
■【06-3-068】曹既見和復次其韻
【解題】上の詩に曹九章が和したので、それにまた次韻した。
【訳文】
造物者のすることはもとより小児の戯れ、
ゲップをすると大風に、笑うと雷になり、
地上を震わせ、人々をやたらと驚かせてしまう。
人間どもは川でも湖でもやたらと走り回り、
網を投げたり釣糸を垂れたりと忙しい。
偶然にも立派な魚を六匹も獲ったなら、俺は妙手の持ち主だと思ってしまうし、
たまたま空しく海辺に三年間もうずくまったままの者もいる。
長く貧乏するのは辛抱できなくはないとしても、
いつ死ぬのかということは料り知れない。
占ってみたところで、仏の眼でもなければ見えはしない。
李台卿君の学問は誰が嗣ぐのだろうか。
残念なことに、
李君の子息はなお年少であり、
李君を惜しむ私も曹君もすでに老い衰え、世に不要な存在となっている。
いろいろ我々が述べたところで空しく、
李君の学問を救えはしないけれど、
優れた仕事は後に必ず耀くはずである。
貴君［曹九章］が吟じる五言詩は千金の経典よりも価値がある。
この私の詩は貴君だけが見て外に出さないでくれたまえ、
私がおかしなことを言っていると世間の連中から譙られたくないので。
【補足】［よくわからないが、この詩には世間に対する皮肉が篭められているのだろう］
■【06-3-069】弔徐徳占、并引
【解題】同じころにもう一つ亡き人を弔う詩を詠んでいる。序文がある。
【訳文】
引［序］
私は初めは徐禧のことを識らなかった。ただ、呂恵卿の推薦によって、無官でありながら用いられたということだけを聞いていた。元豊五年三月、徐禧がたまたま蘄水に至ったときに、私が駅舎にいると聞いて訪ねてきた。語り合い、人に優れるところがあると知った。この歳の十月、徐禧が禍に遇った聞き、詩を作って弔うこととした。
【補足】［呂恵卿は改革派の中心人物の1人で、西夏との戦争［→作品番号06-2-057］を主導した。徐禧はその呂恵卿に策を献じて用いられ、一旗挙げてやろうと前線に行って戦没した。蘇軾が3月に蘄水に行ったことは作品番号06-3-029で見ている］
優れた人が松を植えるのは、
いつしか門に影を落とすのを見ようと思うからだ。
松は成長が速いとはいえ、実は栽培が難しく、
水の流れが悪いと根が病気になってしまって、
残念ながら、寒さにも負けない堂々の姿を見ることはできない。
あるいは、松も役立ちそうな姿をしていると、
それが過ちとなって斧で切られてしまう。
そうした災難に遭って初めて、
山林の内にいればよかったと覚るのだ。
もとより本当の棟梁は、
どこぞの屋敷に植えられている木などは顧みないもので、
深い山にある大木を求める。
大きな家が傾こうとしているときに、
まわりで牛がわさわさ騒いだからといってどうにもならない。
何といっても、深い谷の奥にあって老い、
子孫が枝を繁らせるのを待つのがよいのだ。
死んだ者は悔いてももうどうにもならない。
私はただ後に残された者のためにいうのである。
【補足】［この詩は何がいいたいのかはなはだ不明瞭である。たぶん敢えてそうしたのだろう。ここでは隠された主旨がいくらか読み取りやすいように無理やり訳している。あけすけにいってしまうと、徐禧は大言壮語して無定見の呂恵卿に用いられて空しく戦場に散ってしまったので、その子孫は、そうしたばかばかしいことにならないよう、十分に注意して己を成長させてほしいということなのだろう。同じ時代の人々による徐禧の毀誉には大きな幅があり、その中で蘇軾は高く評価している方であるという］
■【06-3-070】答李方叔
【解題】李廌［字は方叔］［→作品番号06-2-039］に宛てた手紙。冒頭にある字句から李廌が黄州にきたことがわかり、また別の史料からも黄州を訪問していたことが知られ、それはこの年の初めないし前年の終わりころであったと推測されている［→作品番号06-2-076］。なお、李廌の家は都にほど近い陽翟にあって、しかも貧窮に苦しんでもいたようなので、どのようにして黄州にまで来たのだろうか。
【訳文】
お別れしてから二度にわたってお手紙をいただき、いずれにも御返事を差し上げないままでいたところに、お使いの人がきて、長いお手紙をいただきました。……貴君の文章はまさしく川の水が増すかのようにその至るべきところを極めようとしていて、霜が降り水が落ちるときになって、自ずから涯が見えてきて、その本当の価値がわかるようになるのでしょう。……近ごろの士大夫にはとんでもなく僭侈る者がたくさんいて、ややもすると己を周公旦や孔子にも及ぶかのように誇り、孟子以下の人物に比べられるとひどく不満であるようにいいます。このような風潮を長じさせてはなりません。私がよくよく考えますに、禍を得るのは皆実際よりも評判が高いところから始まるのです。造物者は功績がないのに名ばかりが重んじられる者がいるのに耐えられず、その重さに釣り合った罪を与えるのでしょう。人が言葉を操作して粉飾するのを憎むのでありましょう。……古の君子はなお葬儀が終わらないうちは衣服を変えず、官職に就くこともありませんでした。貴君は大切な葬儀を完了させるべきなのでしょう。後に貴君が世に名を得たときに、埋葬の儀が終わっていればその墓に堂々と報告できることでしょう。親しさの余り、いろいろ申し述べました。冬の寒い折から、どうか自重されますように。
【補足】［李廌の家は貧窮のために三代にわたってきちんとした葬儀がなされていなかった。それを終えて後に官職を得るのを悲願としていた。このことについて蘇軾が支援するのを次の章で見る］
■【06-3-071】跋李康年篆心経後
【解題】篆書を得意とする李康年［→作品番号06-3-017］からは、時折、篆字で記したものが送られてきていた。これは李康年が書いた『般若心経』に添えた跋文。
【訳文】
江夏［武昌］の李康年は古のことを好み、博学で、特に小篆について非常に精しく知っている。その家族の忌日に『般若心経』を篆書で記して追福とし、私に跋文を求めた。
私は、この経典は言語で表わされ文字で記されているとはいえ、文字を見て、言語で理解しようとしても、それによってわかるものではないと聞いている。篆書がいくら巧みであっても、それが理解の助けになることはなく、まして跋文がどうこうできるものではない。
人はその家族のために、仏の道に帰依することを願い、それぞれのできる範囲で仏事を行う。砂を集めて地面に経典を記すのでも十分で、まして篆書がこれほど巧みであるのならいうことはない。ただし、私が恐れるのは、篆書の巧みさばかりを見て、本当に大事なことに目を向けないでいることだ。だから、私はこれを観る者のために、そうはならないようにと書き記すのである。
元豊五年十二月十三日。
【補足】［この短文はかなりひねったかたちで李康年の篆書を褒めたものなのだろう。書かれた字のみごとさから経典が有難いと思ってしまうのは間違いであるというのは、つまり、間違わせてしまうほどに字がみごとであるといっているのである］
■【06-3-072】李委吹笛、并引
【解題】12月19日のちょっとした出来事を記録した詩。序文がある。
【訳文】
引［序］
元豊五年十二月十九日、私の誕生日に赤壁の磯辺に酒を置いた。高い峰の下に踞り、鵲の巣を見上げた。酒酣のころに、流れの上から笛の声が起こった。
友人の郭遘と古耕道は音楽をよく知っていて、
「この笛の声には新しい意匠があります。そこらの俗な笛吹きではありませんでしょう」
と、私にいった。
人をやって尋ねると、笛の主は進士［科挙の一次試験を通過したことのある者］の李委であった。李委は今日が私の誕生日だと聞いていて、新しい曲『鶴南飛』を作ったので、それを献じたいという。
李委を呼んだところ、青い頭巾を被り、紫の上着を着て、笛を腰にしていた。その新曲を演奏してくれ、さらに快く数曲を吹いてくれた。音がよく通り、雲を穿ち石を裂くばかりであった。酒席に並ぶ者はすっかり酔いしれてしまった。
李委は袖から美しい紙一幅を出し、
「私はあなたさまから何かを頂戴しようとこの曲を献じたのではありませんが、ただ一首の絶句なりを詠んでいただけたらと思います」
私は笑って詩を作った。
貴君の曲に誘われ、
山の頂から一羽の鶴が南に向かって飛んだ。
私を載せ、南の空に遊び、九嶷に到った。
下界ではまだ誰かが笛を吹いている。
曲の可憐さのあまり、
鶴は今度は亀茲にまで飛ぼうとする。
【補足】［李委［字は公達］は蘇軾の作った『後赤壁賦』を知っていて、鶴のイメージを音楽で表わそうと『鶴南飛』の曲を作ったのではなかろうか。この詩もまた鶴を歌って、黄州から九嶷へと飛んで行くという。九嶷は古代の聖天子の舜を葬ったところである。次の行き先である亀茲は西域シルクロードの国］
■【06-3-073】酔翁操詞
【解題】李委は笛の名手であったが、琴の名手である崔閑［字は誠老］がこのころに黄州に来てしばらく滞在した。崔閑は若いときは都に出て学問に励み、折々に琴を弾いて楽しんでいたのだが、後に廬山の玉澗に隠棲して、玉澗道人と呼ばれた。崔閑の求めに応じて作ったのがこの詞。序文がある。
【訳文】
滁州の瑯邪の奥深い谷は山水が美しく、人気のない谷間に滝の音が響き、それは音階に適うかのようである。酔翁［欧陽脩の号］はこれを喜び、酒を携えて聴きに行き、欣びのあまり帰るのを忘れるほどだった。
酔翁が滁州を去って十余年の後、好奇の士である沈遵がこのことを聞いて瑯邪に行って遊び、琴でその声を写し、その曲を『酔翁操』と名付けた。その節回しは自在に変化し、その音調は華やかにしてのびやかで、琴を知る者は絶品であるとした。
その曲には声はあっても辞がなかったので、酔翁自身が歌詞を付けた。しかし、琴の音階と合わないところがあった。また、酔翁は楚辞の体裁で『酔翁引』を作ったところ、好事家がそれによって曲を作った。それは辞と曲がほぼ釣り合っていたものの、琴は辞の制約を受けて自然でないところがあった。
それから三十余年が経ち、酔翁はすでに亡くなり、沈遵も没して久しい。ここに廬山の玉澗道人こと崔閑は琴の妙手で、沈遵の曲にぴったり合う辞がないのを残念に思い、この曲を譜に写し、東坡居士に辞を補うよう要請した。
清圜、［清圜と］
誰弾、［誰が弾くのか］
響空山、［ひっそりとした山に響き］
無言。［言はありません］
惟翁酔中知其天。［ただ酔翁だけが酔中にその天の音を知ったのです］
月明風露娟娟。［月は明るく風はしっとりとして清らかです］
人未眠、［人［酔翁］はまだ眠らずにいると］
荷蕢過山前、［竹籠を荷って山の前を過ぎる人がいます］
曰有心也哉此賢。［（酔翁は）いいます「心あるかな、この賢者は」と］
酔翁嘯詠、［酔翁が吟唱すると］
声和流泉。［流れる泉がその声に和します］
酔翁去後、［酔翁が去った後は］
空有朝吟夜怨、［空しく朝に吟じ夜に怨む泉の声があって］
山有時而童巔、［山では時に従って葉が落ち］
水有時而回川。［水は時に従って川を巡るだけです］
思翁無歳年、［酔翁を思って長い歳月がたち］
翁今為飛仙、［今や酔翁は仙人となり］
此意在人間、［ただ（瑯邪を愛した）意だけが人間世界にあって］
試聴徽外三両弦。［それを琴の弦に聴くことができるのです］
【補足】［欧陽脩は30歳のときに夷陵に左遷され［→作品番号06-3-001］、その後中央に復帰したが、39歳ときに今度は滁州に左遷された。滁州の瑯邪のあたりの風光をことに愛してしばしば酒宴を開き、自ら酔翁と号して酔翁亭を建てた。そのことを記した『酔翁亭の記』は現在でも漢文の教科書に載るほどに有名な文章で、簡潔で平易、かつ深い内容があることから、宋代の散文の規範となった。黄州に来てからの蘇軾の振る舞いは滁州の酔翁に見習うところがあり、また『酔翁操の詞』が『酔翁亭の記』を踏まえていることから、ここで『酔翁亭の記』を見ておきたい。
【訳文】
欧陽脩：『酔翁亭記』
滁州をめぐっては皆山である。
森や谷が最も美しいのが西南の峰々だ。望み見てこんもりとして深くすぐれた姿の山がある。琅琊山である。
山道を行くこと六里ないし七里、さらさらと水の流れる音が聞こえて来て、二つの峰の間から湧き出る泉がある。釀泉である。
峰を回って道が折れ曲がる先に、翼を広げるようにして泉のほとりに立つ建物がある。醉翁亭である。
醉翁亭を作ったのは誰か。山の僧の智僊だ。醉翁亭の名を付けたのは誰か。滁州の太守［知事］その人である。
太守は客人と連れ立ってここに来て飲む。少し飲むとすぐに酔い、しかも一番の年長だ。だから自ら号して「酔翁」というのである。
酔翁が思いを寄せるのは酒ではない。山水の内にいることだ。山水の楽しみを心に得るために、それを酒に含ませて飲むのである。
山に日が昇るとき、林の雲気は明るく開かれる。山に雲が帰るとき、巌の穴は暗く塞がれる。明暗がこうして変化するのは、山の朝と暮れである。
野の花が開いてかすかな香りを放ち、木が盛んに繁茂して深い蔭を作り、風が高く吹きわたって清らかな霜を降らせ、水が落ちて石が現れ出る。これは山の四季である。
朝に行き暮れに帰る、あるいは四季それぞれの景色は同じではない。だから、その楽しみは無窮である。
ここにおいて、担う者は路傍に歌い、歩く者は木の下に休み、前の者が呼べば後ろの者が応え、腰の曲がった老人がいれば手を引く童子がいる。往来して絶えることがないのは、滁の人の「遊」である。
ここにおいて、溪に臨んで漁をすれば、溪は深く魚は肥えている。泉の水で酒を作れば、水は香しくて酒は清らかである。山の幸、野の幸を雑然と前に並べるのは太守の「宴」である。
ここにおいて、宴が酣となっての楽しみは、楽器の糸や竹が生む音色にあるのではない。矢を射て当たるか外れるか、碁を打って勝つか負けるか、賞罰の杯が入り乱れ、立つ者もいて座る者もいて、騒がしく言い募るのは、大勢の客人の「歓」である。
ここにおいて、蒼い顔、白い髮で、この「遊」「宴」「歓」の間にあって身を崩しているのは太守の「酔」である。
かくて夕日が山に入り、人影が散り散りとなって、太守が帰るのなら、客人もそれに従う。樹林は陰翳を深くし、上下に鳴く声は、遊ぶ人々が去ってからの鳥たちの楽しみである。
鳥は山林の楽しみを知っていて、人の楽しみを知らない。
人々は太守の遊びに従って楽しむことを知っていて、太守の楽しみは人々が楽しんでいるのを楽しむところにあるのを知らない。
酔えばその楽しみを人々と一緒にし、醒めればそれを文章にして述べる。それをするのが太守である。
太守とは誰なのか。廬陵の欧陽脩である。
【補足】［（1）左遷された者は悲嘆に沈む――かつての常識［というよりは人間の自然の心理］を覆したのが欧陽脩である。地方に飛ばされたなら、その地の課題に鋭意取り組み、土地の人々の喜びを自分の喜びとする――そのような新たな常識を実践して見せたのが欧陽脩であり、それを文章で表わしたのがこの『酔翁亭の記』である。少年蘇軾が憧れた4人のスーパースターのほかの3人、范仲淹、韓琦、富弼も、伯父の蘇渙も、郷里の大先輩の「大任」も「小任」も皆がこの新常識を共有していた。（2）『酔翁亭の記』の冒頭にある「滁州をめぐっては皆山である」［環滁皆山也］は宋代の文章のあり方を端的に示すものである。何の飾りもない原文の5文字を生み出すのに、実は欧陽脩は苦心に苦心を重ねた。始めは滁州をめぐる数々の山々を言葉を尽くして描き分け、推敲を繰り返した末に全てを削ってここに至った。最も大切なことを簡潔に伝えるのを理想としたのである。欧陽脩が何度も推敲を重ねたことについては次のような記録がある。「欧陽脩は文を作り終わると、それを壁に貼り、書き改めて最善を尽くしてからようやく人に示した」（何薳著『春渚紀聞』［→作品番号04-2-091］）］
■【06-3-074】答濠州陳章朝請
【解題】濠州知事の陳章［字は朝請］に宛てた手紙。陳章は杭州で親しくした陳襄［→作品番号04-3-049］の弟である。上で見た催閑について触れている。
【訳文】
……琴を学んで楽しみとしてはどうかとお勧めいただき、私もそのようにしたいものだと思っております。ただし、怠惰な老人は心を奮い立たせることができずにおります。廬山の崔閑君は、琴に極めて通じていて、遠くこられてここに留まり、時に琴を聴かせてくれます。
江副知事の使いの者がきていて、その人が帰るのに合わせてお手紙を差し上げようとしていましたところ、たまたま寒さのために咳がひどくなり、またこの人が急に帰ると言い出したために、十分に申し述べることができません。……
【補足】［詩や書や画については一流の域に到達した蘇軾も、音楽についてそれほどではなく、特に楽器の演奏は不得手だったようだ］
■【06-3-075】与蹇授之
【解題】この12月に、弟の蘇轍がいる筠州を管轄下に置く行政官僚として蹇序辰［字は授之］が赴任することになり、移動の途中で黄州のあたりを通った。そのときに蘇軾は会う機会を得られず、その後にこの手紙を記した。
【訳文】
貴君にお手紙を差し出しますのは、決して徒然の筆のすさびによるものではありません。心に申し上げたいと深く思うものがあるためですが、しかし、いま十分に述べることができないのが残念でなりません。弟が貴君の部下となるのは甚だ幸いで、貴君が早々に交替してしまうのを心配するばかりです。短い手紙を届けるだけでも無闇と吏人を煩わせてしまいます。音信が稀であるのも、きっとお咎めなさりはしませんでしょう。陳慥君の勧めによって、いつしかお目にかかれることがあろうかと思っています。
【補足】［陳慥［→作品番号06-3-049］の名が挙がっているのは、蹇序辰と陳慥には姻戚関係があるからだ］
■【06-3-076】与上官彝
【解題】巴陵県知事の上官彝に宛てた手紙。上官彝は蘇軾よりも20年ほど後に科挙に合格した人。この年に書いたと推測されている手紙が3通あり、一部を拾い読みしておこう。
【訳文】
（1）お使いの方がこられて、お手紙と詩文二冊をいただきました。頂戴するのは何によってであろうかと驚くとともに、喜んでおります。……私は老いて荒廃のうちにあり、筆硯に近づくこともないままにすでに数年を過ごし、あたりを見ても索然としてお返しできるものもありません。ただ頂戴したものを大切にして、永く好むことをもってそのかわりとしたいと思います。たまたま病中にあって、人も還えると申していますので、早々に失礼いたします。
（2）貴君の詩篇は多く洞庭湖の君山の景物を写していて、これを読むと、超然と神がかの地を馳せるのを見るような気がいたします。拝見して詩を作りたくもなりますが、我が才の拙さを思い、また、難多く、人を畏れ、一字も作らなくなってすでに三年となります。居るところは大江に臨み、武昌の諸山を間近に望み、時に一枚の葉のような舟にまかせてその間で遊んでいます。風雨雲月、陰晴早暮、そのありさまは千万に変化し、それをぼんやりとでも写す言葉がないのが残念であります。お会いする由もありませんが、ただ千万自重されますように。……
■【06-3-077】題所書帰去来詞後
【解題】毛維瞻［字は国鎮］の依頼で陶淵明の『帰去来兮の辞』［→作品番号06-3-042］を書き、それにこの短文を添えた。毛維瞻は弟の蘇轍が流された筠州の知事。蘇軾が7歳のときに科挙に合格した官界の大先輩で、筠州では蘇轍と多数の詩を唱和していた。この年で退官することになり、息子の毛滂［→作品番号06-3-019でその名を挙げた］を黄州に寄越して蘇軾に書を求めていた。
【訳文】
毛維瞻は私に書を求め、「林下において眺めて楽しめるものを」ということであった。それで陶淵明の『帰去来兮の辞』を書いて贈ることにした。
毛維瞻は果たして林下の人なのだろうか。譬えていうなら、扇の絹地に、冬の林や雪の竹を画く――世間において得難い高潔さを画く――それこそが毛維瞻で、本当は朝廷の中央におられるのを観るべきなのである。
■【06-3-078】与陳大夫
【解題】前の黄州知事の陳軾［→作品番号06-2-019］とは手紙のやりとりが続いていた。その一部を見ておこう。
【訳文】
……かつてお会いしていたのはすでに昔となり、いつしか年が二度改まりました。閑居の折に夢幻の変化を静かに照らし見て、超然たる想いがいたします。私はお蔭をもちまして、ついに黄州の人となりました。いつの日か手を取り合って笑いをともにしたいものです。書に臨んで悲しくなります。……
【補足】［（1）ここに「年が二度改まり」とあるが、その間には亡くなった人もあり、黄州にきた当初に訪ねてきた杜沂［→作品番号06-1-039］がこの年のうちに他界している。（2）このころに劉攽［字は貢父］［→作品番号05-5-085など］が遠く南方に左遷となり、移動の途中に黄州に立ち寄って、蘇軾が詩を詠んだとされるが、その作品は残っていない］
■【06-3-079】与子明兄
【解題】従兄の蘇不疑［字は子明］［→作品番号06-3-056］に宛てた手紙。
【訳文】
兄上のような才気があれば、どこへ行かれようとも不可なることはなく、蜀中に留まってばかりでなくともよろしいのでありましょう。私は、もしも黄州を離れることが赦されましたなら、家族を荊南の地に残して独りで都に行き、わずかな物だけを携えて、江淮のどこらかに住まいを構えるのも一策であろうかと思っています。いつか子孫が科挙に応じて仕官するのにも便宜がよいでありましょう。弟もまたそのようにしたいと思っています。ただ先祖の墳墓を見る者が誰もいなくなってしまうのは忍びないことであります。……
我が兄弟はともに老い、季節によって自ら楽しむところを得て、世事万端、気にかけないようにしております。自ら楽しむものは、世俗の人の楽しむところのものではありません。胸中は廓然として何もなく、天地の内の山川草木虫魚の類の全てを我が楽しみとするのです。……近ごろ『帰去来引』の一首を作りましたので、お寄せします。どうか歌ってみてください。……
【補足】［（1）前半は長江中流域のどこかに隠棲しようと検討していると記している。沙湖の近くで田を得ることはできなかったので［→作品番号06-3-030］、長男の蘇邁が別の土地を探していた。（2）『帰去来引』とあるのは作品番号06-3-042の『哨遍』のことであろう］
■【06-3-080】書贈王十六
【解題】蘇軾のもとにはいろいろな人がきて、経済的に逼迫していながらも、居候として置いていた者もいたようだ。これは、妻の親戚筋に当たると推測される王禹錫に贈った文章。
【訳文】
王禹錫君は私の書を蓄えることを好み、私に従うこと三年ばかり、嚢がぱんぱんになるまで集めた。都の太学に入ることになり、これほどは持って行けないので、一部を王斉愈君のもとに遺すことになった。王禹錫君が厳重に封印をしたので、王斉愈君は、「お互いに葛の蔓のようなよるべのない身でありますのに、ここまでしますかな」と、ぼやいた。
【補足】［（1）王禹錫は蘇軾の書をとにかく自分のものとして持っていたかったのだろう。（2）その後、王禹錫は科挙に合格し、その祝いとして蘇軾は硯を贈っている］
■【06-3-081】黄泥坂詞
【解題】臨皐亭から東の坡に行くには途中で坂を登り、それを黄泥坂といった。年末にその坂を「詞」に詠んだ。題に「詞」とあるが、既存の曲に合わせて歌うタイプの「詞」ではなく、朗誦するものであるようだ。
【訳文】
出臨皐而東騖兮、［臨皐亭を出て東にせかせかと、兮］
並叢祠而北転。［こんもりとした祠のところで北に曲がります］
走雪堂之陂陀兮、［雪堂に行くにはでこぼこの、兮］
歴黄泥之長阪。［長い黄泥の坂が間にあります］
大江洶以左繚兮、［左側で、長江が湧くようにまわり、兮］
渺雲濤之舒巻。［雲と波が巻き付いています］
草木層累而右附兮、［右側で、草木が重なり、兮］
蔚柯丘之葱蒨。［柯丘がどっしりと構えています］
余旦往而夕還兮、［私は朝にここを行き夕べにここを帰り、兮］
歩徙倚而盤桓。［歩くのはためらったりぐずぐずしたりです］
雖信美不可居兮、［ここは実に美しいけれどずっといられるところではなく、兮］
苟娛余於一盼。［見えるものをとにかく楽しみたいのです］
余幼好此奇服兮、［私には幼いころからおかしな趣味がありまして、兮］
襲前人之詭幻。［昔の人の奇怪なところを真似してきました］
老更変而自哂兮、［老いてますます変で、自分で笑ってしまい、兮］
悟驚俗之来患。［人々をびっくりさせてばかりではまずいということを知りました］
釈宝璐而被繒絮兮、［まともな服などは捨ててしまって、綿のどてらをひっかけ、兮］
雑市人而無弁。［土地の人に雑ざって見分けがつきません］
路悠悠其莫往来兮、［世間の路は遥かに長いけれど、往来することはなく、兮］
守一席而窮年。［ここらをちんまり守って年を終えようとしています］
時遊歩而遠覽兮、［時にぶらりと歩いて遠くを見ても、兮］
路窮尽而旋反。［路が行き止まりになるとすぐに引き返します］
朝嬉黄泥之白雲兮、［朝には黄泥の坂の上の白い雲を喜び、兮］
暮宿雪堂之青煙。［暮れには雪堂に宿って青い煙を上げます］
喜魚鳥之莫余驚兮、［うれしいことに、魚や鳥が私を驚かせることはありませんし、兮］
幸樵蘇之我嫚。［幸いにも、村人は私を阿呆扱いしてくれます］
初被酒以行歌兮、［酒を飲んで歩きながら歌って、兮］
忽放杖而酔偃。［杖を放り投げ、酔って倒れ伏してしまいます］
草為茵而塊為枕兮、［草を敷物にし、土くれを枕にし、兮］
穆華堂之清晏。［それで立派な建物で安らかに眠っている気分です］
紛墜露之湿衣兮、［露が落ちてきて衣を湿らすと、兮］
升素月之団団。［まん丸の白い月が昇ってきます］
感父老之呼覚兮、［ふと感じるのは、老人たちが呼び覚まそうとする声、兮］
恐牛羊之予踐。［牛や羊が私を踏んづけてしまうのを心配してくれたのです］
於是蹶然而起、［私はさっと起き上がり］
起而歌曰、［立って歌います］
月明兮星稀、［「月は明るく、兮、星は稀れに］
迎余往兮餞余帰。［余が往くのを迎え、兮、余が帰るのを餞る］
歳既晏兮草木腓、［歳はすでに晏り、兮、草木は腓み］
帰来帰来兮、［帰来帰来、兮］
黄泥不可以久嬉。［黄泥は久しく嬉ぶべからず」］
【補足】［（1）最後の歌にある「月明星稀」は曹操の詩にあり［→作品番号06-3-057］、「帰来」は陶淵明の『帰去来兮の辞』にある［→作品番号06-2-051など］。（2）蘇軾は臨皐亭と東の坡との日々の往復を楽しみ、これがいつまでも続くことを望む気持ちがありつつも、そのようには決してならない［なっては困る］とも思っていた。（3）このころに岐亭に行って陳慥［方山子］［→作品番号06-3-049］と会ったようだ。4回目の岐亭訪問である］