第6章 赤壁の賦――黄州
［第6章その二］
元豊4年［1079年］、蘇軾46歳。
■【06-2-001】子姑神記
【解題】黄州での謫居生活は2年目に入り、土地の風習にも徐々に親しむようになった。これは、子姑神という厠の神との面談記録である。
【訳文】
元豊三年正月一日、私は都を出て黄州に向かい、二月一日に到着した。
その明くる年の正月に、潘丙が私にいった。
「不思議なこともあるものでございます。ここに赴任せよとのお上の御命令を先生が受けられて、黄州の人々がまだ誰もそれを知らずにいましたときに、神様が郭遘さんの家に降りまして、あたりによく響く声で人に告げ、詩を賦したのでございますが。神様がいわれるには、『蘇公が間もなくここに来られます。しかし、吾はちょうど会うことができません』。そして、先生が黄州に着かれたまさにその日に、神様は去ってしまいました」
そのまた明くる年の正月、潘丙が私にいった。
「あの神様がまた郭遘さんの家に降りました」
そこで私は見に行くと、神というのは、草木を衣として婦人の姿を成し、手の内に箸を持ち、二人の小さな童子がそれを支えているのだった。箸で字を書いて私にこのようにいった。
「吾は寿陽の人、姓は何氏、名は媚、字は麗卿でございます。幼いころから書物を読み、文章を書き、立派な人の妻となりました。ところが、唐の垂拱年間に、寿陽の長官が私の夫を殺害し、吾を妾として納れたのでございます。その妻はひどく嫉妬深く、吾は廁の中で殺されてしまいました。吾は死んで、どこにも訴えることができずにおりますと、天の使いが吾を御覧になり、罪なく殺されたことをお知りになって、人間世界において神として仕事をするようにしてくださったのでございます。世にいうところの子姑神［厠の神］は大勢いましょうが、吾ほど優れた者はいませんでしょう。貴公はここにしばらく留まっておられますので、お慰みに詩を賦し、舞ってさしあげたいと思います」
神は詩数十篇をたちまち作り、どれにも妙所があり、時に嘲笑を雑えるものであった。
私が神仙鬼仏の変化の理について尋ねると、その答えはどれも人の意表を衝くものであった。
部屋にいた者が拍子をとって『道調梁州』の曲を歌うと、神は起って舞った。音楽にぴったり合い、曲が終わると私にお辞儀をしていった。
「貴公の名は天下に知られています。吾のことは世間に知られていません。どうか一寸ばかりの紙を惜しまないでください」
私は何氏の人生を聞き、酷い役人に掠め取られ、嫉妬深い妻に殺され、その怨みの深いことを知った。しかし、その悪い長官の姓名をいわなかったのは、慎ましやかで礼に適うところである。自分の苦しみは知らせても、人が隠している悪事を敢えて暴露しないのは、知があるといえる。また、詩文をよくしながら、それが世間に聞こえるまでにならなかったのを恥としているのは、賢であるといえる。これらのことを記すなら、何氏の望みにほぼ沿うことになるだろう。
【補足】［（1）淮河と長江にはさまれたあたり、そのなかに黄州も含まれる、には、厠の神を正月に祭る風習があった。それを子姑神あるいは紫姑神といった。その風習は姿を変えつつ、ずっと後世にも及んだ。（2）この文章には潘丙と郭遘の2人が登場している。潘丙は樊口で酒店を営む潘革の次男で、科挙の一次試験には合格したものの二次試験には受かっていなかった。作品番号06-1-068では、「潘丙解元」と記されていたが、ここでは原文では「進士潘丙」と記されている。潘丙の弟の潘原は獄中にあってまだ解放されていなかった。郭遘は原文で「僑人郭氏」と記されていて、薬屋の主である。（3）この文章によると、蘇軾が子姑神に会ったのは黄州に到着した翌々年の正月ということになるが、記述に若干の混乱があるのだろうか、実際は翌年の正月、つまりいま見ているときであったと推測されている。（4）子姑神の存在など全く信じない訳者の邪推ではあるのだが、郭遘らは入念に準備をして蘇軾を子姑神に会わせたのだろう。蘇軾が敢えて麗々しく礼、知、賢を兼ね備えていると記したのは、うすうすまやかしものであると知りつつも、洒落でこの文章を書いたからなのかもしれない］
■【06-2-002】少年遊
【解題】紫姑神の求めに応じて蘇軾が作った詞。短い序文がある。
【訳文】
黄州の商人である郭遘は毎年正月に紫姑神を迎える。箕をもって腹となし、箸をもって口となし、盤に盛った灰に字を書き、すばやく詩を作る。私が見に行くと、神は『少年遊』の詞を作ってほしいといったので、戯れにこれを作った。
玉肌鉛粉傲秋霜。［貴君は、秋の玉の肌に赤く化粧をして］
準擬鳳呼凰。［鳳［雄のおおとり］に呼ばれる凰［雌のおおとり］のようでありましたのに］
伶倫不見、［夫はいなくなってしまい］
清香未吐、［清らかな香りは絶えて］
且糠秕吹揚。［糠のかすのようになってしまったのです］
到処成双君独隻、［誰もがペアでいるのに貴君だけは一人ぼっち］
空無数、［むなしさばかりのなかでも］
爛文章。［文章は輝いています］
一点香檀、［香の立ち上るもとで］
誰能借箸、［貴君に箸を貸しますのは］
無復似張良。［かの張良のようなはかりごとが聞けるやもしれぬと……］
【補足】［（1）紫姑神の実態を知らない訳者にはこの詞を訳すのは難しすぎる。ごくいい加減な訳である。（2）先の文章とこの序文を合わせて考えるに、紫姑神は操り人形のように、少年たちに支えられて、箸で字を書くようである。神が少年を動かしているのか、郭遘らにあらかじめ指示された通りに少年が操作しているのか、本当はどちらなのだろうか。（3）最後に漢の天下統一を支えた軍師の張良が出てくるのは、張良が箸を使って劉邦に作戦を説いた故事による。（4）蘇軾にはこのときの子姑神との面談について書いたもう一篇の文章があり、神との問答の内容がより詳しく書かれ、また神が詠んだ詩も記録されている。読めばそれなりに興味深いところもあるのだが、どうせまやかしだと思うと訳す労力を注ぐ気になれないので割愛する］
■【06-2-003】正月二十日、往岐亭、郡人潘、古、郭三人送余於女王城東禅荘院
【解題】この詩は、後に見る作品番号06-3-005と06-4-003と合わせると、訳者が特に好む作品群となる。蘇軾は岐亭に陳慥［方山子］［→作品番号06-1-015］を訪ねようと思い立ち、1月20日の朝、臨皐亭を出発した。道案内を買って出たのが、上の文章に登場した潘丙と郭遘、それに古耕道の3人であった。古耕道は赤ん坊救済基金の実務担当者［→作品番号06-1-042］である。3人は道の途中の女王城の東禅荘院まで蘇軾を送り届けた。潘、古、郭の三人の姓が詩の題に入っているところが何とも嬉しい。もしも蘇軾が黄州に流されて来なかったならば、この三人がこのときにここで生きていたことなど我々は知りようもない。蘇軾が詩文に幾つかの手がかりを書き残してくれたことで、三人のそれぞれの人生をあれこれ想像し、潘、古、郭のいずれかになって黄州での蘇軾の日々を見ていると空想することもできるだろう。実際に訳者は古耕道を主人公にした小説を書こうとしたことがあった。残念ながら訳者のあまりの非力のために、蘇軾が黄州に現れるところまで書いて力尽きてしまった。もしもさらに書き進んでいたならば、超エリートで改革に反対した蘇軾に始めは反感を抱いていた古耕道が、逆に蘇軾の人間性に強く惹かれるようになる場面が、この1月20日の道中のどこかで描かれるはずであった。
【訳文】
春の初めの寒さのために、
ここ十日ほどは門から出ないでいた。
村々の柳がもう芽を吹いて、
川べりで枝を揺らしているのも知らずにいた。
凍りついていた谷から、決決と水音が聞こえてくるし、
野焼きの痕を隠すようにして、青青と草が一斉に萌え出てきている。
東禅荘院の小さな庭が私を引き留め、
徳利に半分ほどの濁り酒を温めてくれる。
そういえば、去年のこの日、
私は峠の路で細かい雨に降られつつ、
梅の花に、魂を断たれるような思いをしていたのだった。
【補足】［「去年のこの日」とは麻城県の春風嶺でのこと［→作品番号06-1-010］。間もなく到着する黄州にはいかなる日々が待っているのかおぼつかない思いでいたのだった。そのときは全く知りもしなかった潘丙と郭遘、古耕道といった人々と親しくし、黄州とかなり馴染んできたことに、ある種の感慨を覚えてこの詩を詠んだのだろう］
■【06-2-004】黄州隋永安郡
【解題】少し寄り道をして、上の詩の題にあった女王城についての考証を見ておこう。女王城は、黄州の町の北東5キロほどのところにあった古い町［城］の址。土地の人は、楚王の娘が築いたので女王城と呼ぶのだといっていたが、蘇軾は疑っている。
【訳文】
昨日、『隋書』の「地理志」を読んだところ、黄州は、当時は永安郡と呼ばれていて、いまの黄州の町から十五里ばかりのところに永安城があった。これを俗に「女王城」と呼んでいるのだが、その説ははなはだ怪しい。『図経』によると、女王城は戦国時代の春申君の故城である。それも正しくないだろう。春申君が居場所としたのはもとの呉国のあたりで、いま無錫県の恵山の上にある春申廟のあたりではなかろうか。
【補足】［（1）無錫県の恵山について言及しているが、蘇軾はかつてその山を何度か訪れている［→作品番号05-5-041など］。（2）黄州に来て以来、蘇軾がいろいろな書物を読んでいることがこの文章からもわかる］
■【06-2-005】応夢羅漢記
【解題】女王城の東禅荘院に泊まった翌日は団封というところで一泊し、不思議な夢を見た。
【訳文】
元豊四年正月二十一日、私は岐亭に行く途中に団封で宿り、夢に一人の僧に会った。顔から血を流し、何かしら訴えたいことがあるような様子であった。
その明くる日、岐亭に着き、一つの廟の前を過ったので、ふと立ち寄ると、中に阿羅漢の像があり、左に竜、右に虎を従え、はなはだ古めかしい姿であった。しかし、その顔面は人によって破壊されてしまっていた。それを見て呆然としたのは、昔もきっと会っているような気がしたからだ。
そこでその像を車に載せて帰ることにし、修復して仏龕に収め、安国寺に置いた。
四月八日、我が母、武陽君の忌日に安国寺で仏事を行い、このことを記す。
【補足】［夢で見た僧は、破壊された羅漢像ということなのだろうか。昔も会っていると思ったのは、何かしら母と関係があるのだろうか］
■【06-2-006】王翊夢鹿剖桃核而得雄黄
【解題】蘇軾は、岐亭に関連して似たような夢の話を記録しているので、ついでながらここで見ておこう。
【訳文】
黄州の岐亭に王翊という者がいた。家は富み善行を好んだ。
王翊はある日、夢に、誰かに殴られたのか、水辺でほとんど死にそうになっている者を見た。その者は王翊を見ると叫び、王翊は助けてやった。
翌日、たまたま水辺に行くと、猟師に捕えられた一頭の鹿がいた。鹿には槍が突き刺さっていた。王翊ははっとして、数千銭を出してそれを買った。鹿は王翊に付き従い、それからはいつも王翊と一緒に過ごし、一歩も離れなかった。
王翊の住まいの背後に林があり、実の成る木があった。ある日のこと、村の婦人が林の中で一つの桃を見つけた。たった一つだけよく熟れた非常に大きな実がたった一つだけ木の枝にあった。婦人はそれを取って食べた。ちょうど通りかかった王翊はそれを見て大いに驚いた。婦人は食べ終わると種を捨てた。王翊はそれを拾い、割ってみると、桃の仁の形をした「雄黄」のかたまりであった。それを噛むとはなはだ美味であったので、すっかり呑んでしまった。それから王翊は生臭い野菜や肉を断ち、日に一食だけで、殺生をしなくなった。
これもまた不思議なことである。
【補足】［（1）「雄黄」は光沢のある明るい黄色の鉱物で、神秘的な作用があると思われていた。実際はヒ素の硫化化合物で毒性がある。（2）蘇軾は、夢に不思議な働きのあることは、かなりの程度信じていたようで、しばしば夢を詩文に記している］
■【06-2-007】岐亭道上見梅花、戯贈季常
【解題】岐亭への道中に戻ると、岐亭に至る途中で陳慥［字は季常］に会い、梅の花とともにこの戯れの詩を贈った。
【訳文】
季節の移り変わりとともに、
蕙は死に蘭は枯れ、菊もまた摧かれてしまった。
しかし、魂を呼び返す霊薬「返魂香」が峠の梅に入ったのだろうか、
風によって緑が吹き尽くされた枝に、
雀がくちばしで叩いたのに応じて、
一点の芳しい心が開いた。
花は長江の上を行く雲が落ちてきたかのようで、
その香りは野辺の店で嘗める美酒のようだ。
さあこれから行って貴君の奥方にお会いするなら、
すでに病より起って、梅の花は満開となっておられましょう。
【補足】［このとき陳慥の妻が病んでいたという説があり、詩の終わりの部分は、それに基づいてかなりの意訳をした］
■【06-2-008】蜀僧明操思帰書竜丘子壁
【解題】明操という蜀出身の僧がいて、雲水の旅を重ねて黄州にしばし足を留めていた。たまたまこの岐亭訪問の折に、蘇軾は明操に会ったようだ。蘇軾も陳慥［方山子］も蜀の人であることから、明操は同郷のよしみで、故郷に帰ってみたいというようなことを語ったのだろう。それで蘇軾は戯れにこの詩を作り、陳慥の家の壁に書いた。詩の題に「竜丘子の壁」とあるのは、作品番号06-1-017で見たように、岐亭の近くに竜丘山があり、漢の時代に竜丘子がここに隠れ住んだということから、蘇軾は陳慥を竜丘子になぞらえた詩を作り、以来、陳慥は竜丘と号するようになっていたからである。
【訳文】
生きるのは苦労ばかりだとしても、
それはあと幾日ほどのことであるのだろうか。
帰りたいとの思いによって、
晩年を乱すのはよろしくないだろう。
貴僧はいかに見るのか――
あの一片の雲は無心を会得しているだろうか。
南も北も東も西も同じ一つの天である。
【補足】［「晩年を乱すな」とは明操だけでなく自分自身に向かってもいったのであろう］
■【06-2-009】書所獲鏡銘
【解題】蘇軾は陳慥に会った後、帰りは川に船を浮かべて黄州に戻った。その折のことを記した一文。
【訳文】
元豊四年正月、私は斉安［黄州］から岐亭に行き、舟を泛べて還った。古黄州を通り、そこで一枚の鏡を見た。周囲が一尺二寸ほどで、その背に銘が記され、「漢代に白陽から善い銅が出て、それを取って鏡を作った。澄んで明るく、左に竜、右に虎を配してこれを守らせる」とある。その字は豆粒くらいで、篆書と隸書を交えてはなはだ精妙である。白陽とは南陽を流れる白水の北岸のあたりだろうか。その銅は漆のように真黒で、その背は玉を刻むかのようだ。鏡の明るさはわずかに人を照らすだけである。聞くところの古代の鏡はだいたいこのようで、道家の「聚形の法」によるものである。
【補足】［後にこの鏡は眉州眉山県出身の道士陸惟忠に渡されることになる］
■【06-2-010】与滕達道
【解題】作品番号06-1-089などで見た通り、宝月大師［惟簡］の弟子の悟清が黄州にきて、勝相院に新たに造った経典を納める建物を記念する文章を書いてほしいと依頼され、昨年の秋のうちにそれは書いたはずなのだが、伝わる記録に混乱があるのか何かしら事情があったのか、悟清は年が明けてもまた蘇軾の文章を持ち帰ることなく黄州に留まっていた。蘇軾はその文章を刻む碑の題字を、滕元発［字は達道］に頼もうと考え、この手紙を送った。
【訳文】
……罪を得てからは、文章を書くようなことはしないでおりましたが、近頃、成都の僧の惟簡が『経蔵碑』に刻む文章を堅く求めてきまして、断ることができませんでした。惟簡は私の一族の年長の者です。……ここにその写しを添えて、差し上げることにします。よろしければ、貴君に題字を書いていただいて、石碑を輝かすことができたらと思っています。蜀にまだ貴君の筆の跡がないのははなはだ欠けるところでありますので、もし書いていただけましたら、まことに一段の奇事となりましょう。いかがでしょうか、御返事をお待ちします。いまここに一人の蜀僧がいて間もなく帰ることになっていますので、書をいただけましたなら、その者に託すことができます。
【補足】［（1）悟清が成都に帰る道すがら安州の滕元発のもとに立ち寄って、書いてもらおうという段取りである。（2）宝月大師には、悟清に全てを託したので、詳しくは悟清に尋ねてほしいという手紙を書いている］
■【06-2-011】四花相似説
【解題】3月に長江対岸の王斉愈［字は文甫］、王斉万［字は子弁］兄弟［→作品番号06-1-030］の家［達軒］を訪ねた。書や花について論じ合い、それぞれ文章を残している。これは花について記したもの。
【訳文】
荼糜花は通草花に似ている。桃花は蝋花に似ている。海棠花は絹花に似ている。罌粟花は紙花に似ている。
三月十一日、王斉愈の家に集まり、皆で花を評議し合った結果である。
【補足】［似た者同士を並べたというだけのことで、わいわい楽しく論じ合ったのだろうと想像すればそれでよく、それぞれの花がどのようなものであるかを吟味するまでもないだろう］
■【06-2-012】王文甫達軒評書
【解題】これは書について評議した文章。
【訳文】
唐末から五代の時代に、文章は品がなく、書も同様であった。そのころの人としては楊凝式［字は景度］の筆を雄として、唐代の顔真卿［字は清臣］や柳公権［字は誠懸］と肩を並べるといわれることが多い。しかし、私はひどく怪しいと思っている。宋代になってからは李建中［字は得中］と宋綬［字は公垂］が特に挙げられるが、私はそうは思っていない。宋綬の筆は寒く、李建中の筆は俗で、二人はみだりに名を得ているだけではなかろうか。最近の人では蔡襄［字は君謨］は天から与えられた資質からしてすでに高く、学んでさらに至り、まさに本朝第一とすべきである。
【補足】［ごく簡略ながら、五代から北宋前半の書家を蘇軾がどのように見ていたかがわかる。唐代までの書家の流れについては作品番号04-1-044の詩で詠んでいるし、本章のこの後にも見るようになる。ここに名が挙がっている人々について一人一人見ることは避け、蔡襄についてのみ以下の文章で見てゆくことにする］
■【06-2-013】論君謨書、跋君謨書賦、評楊氏所蔵欧蔡書、跋君謨飛白
【解題】かつて蘇軾は海会寺で蔡襄［字は君謨］が書いた『海会寺記』を見ていた［→作品番号04-3-056］。黄州にいる間に蔡襄の書について記した四つの文章があるのでここでまとめて見ておこう。
【訳文】
（1）『論君謨書』［蔡襄の書を論じる］
欧陽脩は書を論じてこのようにいった。
「蔡襄の書は当世独歩である」
これは至論である。思うに、蔡襄は行書が第一で、楷書が第二、草書が第三である。その長ずるところからあえて短所をいうなら、大字の楷書は小字の楷書に劣る。
蔡襄は天から与えられた資質からして高く、それを補うに篤く学んだことから、当世独歩となったのである。近頃、蔡襄の書を論じる者にはいろいろと異論があるので、とくにこのことを明らかにしておきたい。
（2）『跋君謨書賦』［蔡襄が書いた賦に添えた跋文］
私は近年の書を評して蔡襄を第一であるしている。ところが、そうではないという論者もいる。それは何も知らない者とほとんど変わるところがない。書法はまず楷書に始まり、正しく楷書が書けなくて行書や草書がうまいわけがない。蔡襄は二十九歳で楷書の法をこのように会得していたのであって、ここにそのおおもとを知ることができる。
【補足】［蔡襄が29歳のときに書いた賦に書き添えたのだろう。『海会寺記』はその1年前に書いたもので、「天から与えられた資質が高い」というのは、そうした若い頃の書を見たことに基づく評であろう］
（3）『評楊氏所蔵欧蔡書』［楊氏が所蔵する欧陽脩と蔡襄の書を評す］
顔真卿と柳公権が没してからは筆法が衰え絶えてしまい、加えるに唐末の喪乱で人物が雕落磨滅したために、五代の時代には文芸や芸術は地を掃うようにして尽きてしまった。ただ独り楊凝式だけは筆跡が雄傑で、王羲之や王献之、そして顔真卿や柳公権の名残をとどめていて、まことに書の豪傑、時代の流れの中に沈み込まれてしまうことがなかったといえるだろう。
宋代の初めに李建中は「能書」と呼ばれたが、その格調は低く、与える印象は濁っていて、唐末以来の衰え卑しくなった風気にやはり染まっている。その他には、卓然として前の時代の人々を追うような者はいなかった。
ここに独り蔡襄の書は天資がすでに高く、学びを積んで深くに至っている。心と手が応じあい、変化すること窮りなく、ついに本朝第一となった。そして、行書が最も勝れ、小字の楷書がそれに次ぎ、草書がまたそれに次ぎ、大字の楷書がまたそれに次ぎ、八分と隸書は少し劣る。また新たな意匠を出して飛白の書を作り、蔡襄本人は「天を翔ける竜、舞う鳳の勢いがある」といい、識者はそれは言い過ぎであるとはしなかった。
欧陽脩の書は学ぶ者が手本とすべきもので、まさに欧陽脩その人を見るに近いものがある。工みではないとしても、なお宝として伝えるべきである。しかも精勤敏妙で自ずから一家を成している。
楊君は蔡襄と欧陽脩の書を所蔵していて、黄州に立ち寄った際にそれを出して私に見せてくれたので、たまたまこれを評するものである。
【補足】［（1）蘇軾に2人の書を見せた楊君がいかなる人であるのかはわかっていないようだ。（2）蔡襄について蘇軾は「天資高し」と繰り返し記している。（3）李建中の名は作品番号06-1-048で見ているが、蘇軾の評価は高くない］
（4）『跋君謨飛白』［蔡襄の書いた飛白に添えた跋文］
物の理は一つである。その意［本質］に通じるなら、何をしてもうまくいかないということはない。
専門の科を分けて医術を行うのは医を衰えさえ、画法を分けて画を描くのは画を卑しくする。古代の名医は老人も子供も分けずに診たし、古代の名画家は人も物も分けずに描いた。これに長じているといわれるのがよいとしても、これはできるがあれはできないといわれるのはよろしくない。世間の書家が、篆書はできても隸書はできないとか、行書が草書のようには書けないとかいうのは、書の意［本質］にほとんど通じていないからである。
蔡襄は、楷書も行書も草書も隸書も思いのままに書けないということはなかった。その力と思いが余ったものが変じて飛白となった。これは愛すべきではあっても、学ぶことはできない。その意に通じないでは、このようにはできないのである。
【補足】［物の理は一つで、それに通じなら何でもできるようなるというのは、蘇軾の根本にある考え方である。だから、親友の文同も蘇軾自身も、詩も文も書も画も本質は同じとして広く己のものとし、そのようにできないのなら、結局は何もわかっていないとしたのである］
■【06-2-014】西江月
【解題】蘇軾は人を喜ばせるのが好きだった。黄州に来てからの手紙などで、詩文は廃したので作れないと断りつつも、実際には求めに応じているのを何度か見てきた。ずっと後のことになるが、蘇軾が訪問する予定の寺の前で待ち構えていた人々のために、あかたもアイドルのサイン会のように、筆を手に何十枚も書き続け、蘇軾はそれを少しも嫌がらず、むしろ書をもらえなくてがっかりする人が出てしまうことを心配したというエピソードが残っている。新たに黄州知事となった徐大受［字は君猷］［→作品番号06-1-100］はかなりの風流人であったようで、技芸をもって仕える女性が少なくとも4人はいて、嫵卿、勝之、慶姫、懿懿の名が伝わっている。その女性たちに蘇軾が贈ったとされる詞が7篇残っている。ここでは勝之に贈った『西江月』の詞を見ておこう。この詞には、「建渓の双井茶と、谷廉泉の水を勝之に贈った。徐大受の家の侍女は非常に美しく、勝之は家柄のよいところの生まれだと自分でいっている」との添え書きがある。二つともブランド品で、困窮生活を強いられていた蘇軾であるから、誰かから贈られた物を惜しまずプレゼントしたのだろう。
【訳文】
竜焙今年絶品、［竜焙［建渓の地名］の茶といえば現在の絶品］
谷簾自古珍泉。［谷簾の水といえば古から珍品とされています］
雪芽双井散神仙。［雪のような茶の芽は神仙の趣］
苗裔来従北苑。［仙界の宮殿からきた子孫なのでしょう］
湯発雲腴釅白、［泉の水から濃い白い雲が湧き］
盞浮花乳軽円。［まろやかな花が浮かびあがります］
人間誰敢更争妍。［人間世界にこれより美しいものがあるとしたら］
闘取紅窗粉面。［紅い窓から見える化粧した顔でしょうか］
【補足】［プレゼントした品物について歌っているように見えて、実は勝之を称えているのであろう］
【解題】ある人の随筆に、蘇軾の詩に次のような題のものがあると記されている。「鄂州の役人である張商英［字は天覚、号は無尽］が黄州に来た。黄州の徐知事には四人の侍女がいて、姓は孫、姜、閻、斉という。たまたま知事の妻である張氏がその一人を連れて婿の家に行き、暮れ方に帰って来た。それは閻姫であって、徐知事が最も寵愛する侍女であった。よって絶句を作った」。つまり、張商英も同席する場で、蘇軾が閻姫のために詩を贈ったのである。ただし、その詩は意味が取りがたいので、ここでは慶姫［すなわち閻姫であると推測されている］に贈った詞を見ておこう。これは相手を喜ばせるために心地よい言葉を並べただけで内容は乏しい。敢えて堅苦しい読み下し文で訳してみた。このようにするとわれわれには何やら立派げな作品に見えるから面白い。
【訳文】
容態温柔心性慧。［容態 温柔にして 心性 慧し］
響亮歌喉、［響き亮らかな歌の喉］
遏住行雲翠不収。［行雲を遏住て翠に収らず］
妙詞佳曲、［妙詞の佳曲］
囀出新声能断続。［新声を囀出して能く断続す］
重客多情、［重客 多情］
満勧金卮玉手擎。［満たして金卮を勧め玉手にて擎げる］
【補足】［張商英が黄州にきたのはこの年の春ないし翌年の春であったと推測されている。張商英は蘇軾より5年後れて生まれ、章惇によってその才能を認められて中央で活躍していたが、改革派か保守派かという区分におさまる人ではなく、独自の政治的立場をとり、時には改革派から、時には保守派からの批判を浴び、このときは改革派によって左遷されて移動する途中に黄州に立ち寄ったのだった。蘇軾が黄州にいた間に張商英に宛てた手紙が4通残っていて、その一つに、「羈旅の索漠を久しくし、貴君を一見できるなら思いを発散できましょう」と、張商英の来訪を歓迎する字句がある］
■【06-2-016】水竜吟
【解題】章◆［字は質夫］［◆は次の下に呆という字］［→作品番号06-1-099］から楊の花を詠んだ詞が送られてきたのでそれに次韻して返した。
【訳文】
似花還似非花、［いったいそなたはなにもの、花のようですけど、でも花ではないみたい］
也無人惜従教墜。［だから、落ちたら落ちたで、惜しむ人はいないのでしょう］
抛街傍路、［すみかをすてて、道ばたをころげゆくのは］
思量却是、［どういうこと？］
無情有思。［そなたには情がないからなの、それでいて、思わせぶりで］
縈損柔腸、［わたしのはらわたをきりきりとねじり］
困酣嬌眼、［わたしの目を疲れさせ］
欲開還閉。［開こうとしても、きっと閉じさせてしまうのです］
夢随風万里、［そのままわたしは夢に誘われ、そなたとともに風に乗って］
尋郎去処、又還被、［万里の彼方を尋ねようとします、でもでも目覚めなさいと］
鶯呼起。［うぐいすが呼ぶのです］
不恨此花飛尽、［花であって花ではないのですから、そなたが飛び尽きてしまっても恨みはしません］
恨西園、落紅難綴。［恨むのはわたしの紅が落ちてしまって、もう枝にはもどれないこと］
暁来雨過、［朝がきて、雨が通りすぎたあとで］
遺蹤何在、［そなたのなごりはどこかと見れば］
一池萍砕。［池一面の浮き草がそれなのでしょうか］
春色三分、［いまや春の色は三つに分かれ］
二分塵土、［二つは塵となって消え］
一分流水。［一つは水とともに流れてしまいました］
細看来、［もう一度こまやかに見るなら］
不是楊花、［そなたと思った浮き草は、もとよりそなたではありません］
点点是離人涙。［わたしの紅のなごり、ひとしずくずつの涙だったのです］
【補足】［（1）楊の花は一見すると花らしくない。だから「花に似てまた花にあらざるに似る」と詠み出し、その花にこそ無限の情趣があると連綿と歌いあげる。蘇軾の詩は往々にして理屈が勝る印象を与えるのだが、この詞を見れば、天性の詩人であると知れるだろう。詞の後半にある「紅」を自分自身のこととして訳しているが、あくまでも一つの解釈である。（2）作品の優劣は読む人の判断に任せるべきであるが、訳者が見るところ、これは蘇軾の詞の中でも特に優れた作品であるといってよいだろう。次韻の達人である蘇軾は、むしろ制約があってこそ計り知れない力を発揮するようだ］
■【06-2-017】黄州上文潞公書
【解題】政界の大物ある文彦博［潞公］に送った手紙。文彦博はこのころは実質的な権限は持たないものの太尉という名誉ある称号を受け［→作品番号06-1-096］、大きな存在感をなお保っていた。それだけにこの手紙は重々しく綴られているのだが、この訳文はいつも通りの軽さで、特に荘重なところは割愛してしまっている。なお、宿州で船を捜索された部分についての訳は作品番号05-5-090ですでに見ている。
【訳文】
夏の初めの次第に暑くなりゆくときに、恭しくも留守太尉執事殿の万福をお伺いいたします。……［荘重な言葉を並べて文彦博の徳を称える］……都よりお手紙を賜り、爛然と輝く行草によって、無用の身となった私でありながら、重き宝のように遇していただけましたような気がいたしております。
私が罪を得てあわただしく獄から出ましたときには、まだ生きるか死ぬかもわからず、家族親類が無事であるのかもわかりませんでした。自分自身について思いを巡らす暇もなく、ただこれまでも名と義を最も重んじてきましたことから、もはや聖賢の方々からは絶縁され、君子の方々にお会いできることはないと考えておりました。そもそも罪は赦されるものでありません。それでもなお我が身を改めることができるのかと、ひたすら思案したのでありますが、十日に及んでも考えがまとまることはありませんでした。結局は恥を忍んで強いて顔を上げ、卑しい言葉を飾ってかつてのよしみの方々に申し上げて、これからについて探ることにしたのでした。……［そのようなときに文彦博からの手紙がきたことを重々しく記す］……
私が逮捕されて獄に赴いたときに、長男はすでに長じておりましたので、徒歩でついてきましたが、その他の者は湖州の官舎に残りました。いずれも婦女ないし幼稚の者でありました。
宿州に至りますと、私が家に所蔵する文書を取り集めるようにとの御史台の命令が下り、各地の役所はそれに従って役人を捜索に派遣し、私の乗る船も役人に囲まれ、文書類を持ち去っていきました。家でも捜査を受けて、老人や幼い者は死ぬばかりに怖がり、役人が去ってから、女たちは、「こんなことになったのも日ごろからものを書くことを好んでいたからで、書いていったい何を得たかといったら、私たちをひどく怖がらせただけではありませんか」と、怒り罵り、残ったものことごとく焼いてしまいました。事が定まって後に調べてみますと、書いたもののうち十に七ないし八は失われてしまっていました。
黄州にきましてからは、ほかに心を用いることもなく、ただ『易経』と『論語』を繰り返し読んで深く考え、得たところがあるように思い、ついに父の研究の上に立って『易伝』九巻を作り、また自らの考えによって『論語説』五巻を作りました。窮苦多難の身であり、寿命はあてになりませんから、この書物が埋もれて後世に伝わらなくなるのを恐れ、数冊の写本を作って人間世界に留めおこうと思っております。文字によって罪を得た私ですから、人はこれを凶衰不詳の書として収めようとはしてくれませんでしょう。また一代の偉人でなければこれを託して必ず伝えてくださるものではありません。そこで明公［文彦博］に献じる他はないと考えたのであります。『易伝』は文章が多く、まだ写し終わっておりませんので、ただ『論語説』五巻のみをお届けいたします。公におかれましては閑暇の折にでも御一読いただけましたなら、たとえ取るところがないとされましても、窮まってもなお道を忘れず、老いてもなお学び続けていることを見ていただけましょうかと、それだけで十分なのであります。
私が徐州におりましたときに、諸郡が盜賊のために患いを受けているのを見まして、それらの人々が乱暴不遜であるのは飢饉によるものであって、いつまでも騒動がやまないのを恐れ、考えるところを具に記して公に申し上げようとしました。その後、湖州への移動を命じられたために事はそのままになってしまいました。家に所蔵していた書類の多くは失われてしまったのですが、その草稿は故紙として篋に貼られていたために焼かれるのを免れました。篋を開くと思いがけずそれが出てまいりましたので、惘然と夢の中の出来事のように感じたのでありました。それでそれらを写して、合わせてここに献じさせていただきます。罪人としてここに廃逐されながら、あえてまた天下の事を申し上げようとするものではありません。世に有益であるはずのことが行われないままであるのを残念に思うだけであります。かねてからの私の心がなお消え去っていないことを公に知っていただけましなら、それでよいのです。御一読の後には、どうぞ焼き捨ててください。
黄州は物価や安く、風土は安らかで、いまは去りがたいくらいに感じておりますし、またここを去って帰るところはありませんでしょうから、きっとここで老いて行くのでありましょう。お会いすることはもうないのでしょう。紙に臨んで憂悶に堪えません。公におかれましては国のために身を重じられますよう願うものです。
【補足】［（1）『易経』の研究をしていることは陳慥への手紙［→作品番号06-1-047］でも触れていて、計画通り半年ほどで完成したのだった。合わせて、『論語』の研究書も書き上げたのである。なお、『易経』の研究はさらに深められ、後年、改訂版が作られる。（2）文彦博には、密州にいたときに、塩の専売についての意見書を提出していた［→作品番号05-1-066］。徐州でも政策提言を文彦博にしようとしていたのである。朝廷には蘇軾の意見を聞いてくれるような人がいないので、文彦博を頼りにしたのであろう］
■【06-2-018】与杜道源
【解題】杜沂［字は道源］［→作品番号06-1-045］に宛てた手紙。
【訳文】
窮陋に謫居の身を寄せる私のところに、友として最初に貴君が訪れてくださり、流落の嘆きがからりと晴れたような気がしました。私はとにかく人に累を及ぼすばかりで、独自の見識を持って、進退など意にかけない者でなければ、敢えて私と付き合おうなどとはしてくださいません。常にこのことを思って、貴君のことは忘れるときがありません。
お別れしてからまた夏がきました。募る思いは言葉になりません。いかがお過ごしであろうかと遠くより想い見ています。
二度にわたってお手紙を頂戴していながら、怠慢にもすぐには御返事せず、いつもそれで人様に罪を得ております。かねてからの友は、私がもとからのものぐさでなかなかものを書けないのは御存知でありましょうから、他意のないことと大目に見ていただけると望んでおります。
貴君はすでに官職に就かれて、交替を終えられたとのこと、高い志をもって、何事も適宜こなしていかれるでありましょう。
江綖君はもはや少しも留まることはありません。その決断は並みの人の及ぶところではありません。
お会いすることはできませんが、時節柄御自愛されますように。
【補足】［（1）この手紙から杜沂は新たな官職に就いたとわかるので、蘇軾を訪ねときにはまだ職に就いていなかったのだろう。（2）終わりに名の挙がっている江綖は武昌県知事だった人で、かつて一緒に武昌の西山寺に遊んでいる［→作品番号06-1-045］。江綖と鄂州知事の朱寿昌と関係に微妙なところがあったようなのだが［→作品番号06-1-096］、それとここに記してあることとが関係するかどうかは全くわからない］
■【06-2-019】与陳大夫
【解題】先の黄州知事であった陳軾［→作品番号06-1-077］への手紙。陳軾は黄州を離れた後も、蘇軾への支援を続けていたのである。
【訳文】
竹簟［竹で編んだ敷物］や剪刀などを頂戴し、御厚意に敬服いたしております。欧陽文忠公［欧陽脩］の文に「暑い風も竹簟によって涼む」とあります。その味わいがこれで得られます。
このごろは己を省みて、出て歩くことは少なくなっています。去年の冬至には斎戒して四十九日間を過ごし、我がおおもとに帰ろうとして、得るところがあったように思います。たちまちまた夏となり、また門を閉ざして思いを掃おうとしています。昔の人は、「国を治めるにはゆったりゆるゆる行うのがよい」といいました。つまらない想念が絶えれば、太古の民のようにもなれましょうか。道家が老いを退けて寿命を延ばすといっているのは、たぶんそのようなことであるのでしょう。もしも毎日汲汲として外物に随ってあたふたとしていたなら、たとえ長い寿命を授かっていたとしても、一寸の隙間を馬が駆け抜けるようにして終わってしまうでしょう。この福を自分だけが享けるのではなく、皆様にもお分けしようと、このように記したまでであります。
■【06-2-020】少年遊
【解題】現在の黄州知事である徐大受が主催する端午の節句の宴で詠んだ詞。座を盛り上げるための作である。
【訳文】
銀塘朱欄麹塵波。［朱い欄干から臨む池には麹の色のような波］
円緑捲新荷。［蓮の緑の葉は新たに円くなったばかりです］
蘭條薦浴、［蘭の茎が誘う沐浴］
菖花醸酒、［菖蒲の花が旨くさせる酒］
天気尚清和。［天気もまことに清く和やかです］
好将沈酔酬佳節、［さあ、この佳節に酔いつぶれましょう］
十分酒、［酒はたっぷり］
一分歌。［歌はちょっぴり］
獄草煙深、［獄は草に深く埋もれ］
訟庭人悄、［訴訟をする人もいませんから］
無吝宴遊過。［遠慮せずにこの宴遊を徹底しましょう］
【補足】［（1）5月5日には、蘭［いわゆるランではなくキク科の香りのよい草］を入れて沐浴したり、菖蒲の花を漬けた酒を飲んだりする古くからの習わしがあった。（2）「獄は深い草に埋もれ」とあるのは、黄州はよく治まって獄に入れなければならない者はいないということで、徐知事を讃えたのである］
■【06-2-021】跋子由棲賢堂記後
【解題】弟の蘇轍が書いた『廬山棲賢寺新修僧堂記』に添えた跋文。最初に蘇轍の文の一部を掲げる。
【訳文】
蘇轍：『廬山棲賢寺新修僧堂記』
元豊三年、私は罪を得て高安［筠州］に遷った。（筠州に移動する途中の）夏の六月に廬山を過り、そこが風光に勝れているのを知ってはいても、長く留まることはしないで、二日間だけ山の南側を歩き、棲賢谷に入った。
谷の中には、互いに重なり合うようにして巨大な岩が多数あり、その間を流れる水は雷のような音を立て、千台の車が走り抜けるかのようにしてあたりが揺れ、立って見ているのさえ難しい。その険しさは長江の三峡をも上回るほどで、そこに架かる橋は三峡橋という。橋を渡って東に行くと、山に沿って水が巡り、そこでは水は平らで白い練り絹のようで、横ざまに巨大な岩にぶつかると、そこに水が集中して大車輪のように回転し、沸き立ち上がって水の変化を窮める。
その川の上流に寺があり、寺の右側は石の壁に寄り添い、左側は流れる水を下に見る。僧堂は石の壁の真下にあって、そこの簷先で鋭い峰や奇怪な形の岩が翔んだり舞ったりしているかのようである。杉や松や竹が橫に生えたり逆さまに伸びたりして、互いにからまりあっている。大風や大雨のときは堂中の人は押しつぶされてしまうのではないかと恐れる。
廬山に詳しい人に問うと、「この山の景勝地として、棲賢谷は必ず一ないし二に数えられるでしょう」といった。
翌年、智遷長老の使者として恵遷が高安にきて私にこのようにいった。「我らの僧堂は建ててから六十年になり、瓦が傷み木が朽ちて、四方からの客人を受け入れることができなくなりました。私恵遷は力を尽くしてこれを新しくし、ついに立派に完成しました。以前とは面目を一新しましたので、そのことについて文を記してくださるようお願いします」。
……［以下、堂を新しくした意義について述べる］……
四年五月九日、眉陽の蘇轍が記す。
弟が作った『棲賢堂記』を読むと、まさに堂中にいて、水石が陰森として、草木が膠葛するありさまを見ているようかのようになる。私はこの記を書き、石に刻んで堂のあたりに置いて、廬山との縁を結びたいと思う。そうすれば、後に廬山に入ったときに、ただの通りすがりの客人であるとは思われずにすむであろうから。
■【06-2-022】書唐氏六家書後
【解題】唐垌［字は林夫］からの依頼で、隋から唐の時代の6人の書家についての評論を書いた。唐垌は政治的には王安石に近く、朝廷の重要な役を勤めたこともあったが、このころは職から退いていたようだ。筆法に詳しく、蘇軾の書を愛し、長く交流が続いた。書を言葉によって的確に論評するのは、恐らくかなり困難であろう。蘇軾は漢字を駆使して視覚的イメージを伝えようとしているかのようだ。それでこの訳文では幾つかの漢語は訳さず生のままにしておく。
【訳文】
智永禅師の書は、骨気は深穏で、体は集妙を兼ね、精密な技能が極ってかえって疏淡となっている。陶淵明の詩を観るかのようだ。初めて見ると散漫で締まりがないようだが、反覆して何度も見ると、その奇趣が識れてくる。今に伝わる法貼の中に「不具釈智永白」と文末にあるものがあって、（「具せず」をよく用いていた）王羲之の作品群の中に誤って収められたりもしているが、智永禅師の書ではない。また「謹此代申」と文末にあるのは唐末五代の俗語で、その書は下手くそである［やはり智永禅師の書ではない］。
欧陽詢の書は群を抜いて引き締まって美しく、小字の楷書に最も巧みである。高麗国からの使者がその書を買い求めたとき、唐の高祖皇帝は嘆息してこういった。「高麗国の人は欧陽詢の書を見て、その人はさぞ魁梧奇偉［堂々の偉丈夫］であろうと思っただろうな」。これは書を知る者の言葉ではない。書というものはその人となりに似るものだ。欧陽詢の容貌はさえないけれど、頭の切れは圧倒的であった。いまその書を観ると、強く険しく削いだような厳しさがあって、まさしくその風貌に合致していたのだ。
褚遂良の書は清遠にして蕭散、いくらか隸書体が雑ざっている。昔の書を論じる人は、兼ねて平素の暮らしも論じた。もしもそれなりの人でなければ、書が巧みであっても貴ぶことはなかった。褚遂良はもとより忠臣であったが、劉洎を讒言で殺したという事件があり、人の心を曇らせる。私はかつてその事件の実情を検討したが、きっと劉洎が晩年には片意地で怒りっぽくなり、天子の廃立について実際に口にしたのであって、褚遂良が讒言したわけではないのだ。もしそうでないのなら、馬周が劉洎に有利な証言をしていながら、太宗皇帝が劉洎だけを罰して馬周の罪を問わなかったことと辻褄が合わなくなる。つまり、褚遂良が讒言したというのがそもそも後の人がでっちあげたことであって、歴史家がそれを見破れなかったのである。
張旭の草書は頽然と酔って天に放たれたよう、点や画はどうにかそのところにある程度だが、意のおもむくところを十分に示している。号して神逸と称せられる。今の世で草書を善くするとされる者は楷書や行書が上手に書けなかったりするのだが、これは大きな間違いである。楷書が行書を生み、行書が草書を生むのであって、楷書は人でいえば立つ姿、行書は行く姿、草書は走る姿である。立つことも行くこともできないのに走れる者はいない。いま長安に張旭が楷書で書いた『郎官石柱記』があり、その字は簡素で俗っぽさを超え、南朝時代の人が書いたかのようである。
顔真卿の書は雄にして秀で独り突出している。古法を一変させたことでは詩における杜甫と同じだ。その力は天を縦横に翔け、漢、魏、晋、宋［南朝］以来の風流を超えている。後の作者はほとんど迫ることすらできない。
柳公権の書はもとは顔真卿から出たもので、自身の工夫で新意を出した。柳公権の書を見るなら、「一字百金」という言葉も虚しいものではない。皇帝に筆法を問われて「心が正しければ筆もまた正しい」と答えたのは、皇帝を遠まわしに諌めただけでなく、道理としてまさにその通りなのである。世間のつまらない人間どもは、字がたとえうまく書けても、その心持ちはいつも睢盱として側媚の態があるものだ。そのように思うのは、私の思い込みであるのかもしれないが、その書を見て心持ちが悪くなるのでは、やはりそれを書いた人のありようが知れるというものだ。
私は黄州謫居となり、唐垌が湖口から手紙をくれた。そにに「吾が家にこの六人の書があります。私のために六人を短く評して、書の後ろに書いてください」とあった。唐垌の書は私よりずっと優れているのに、かえって私に書を求めるのはどういうことなのか、私には全く理解ができない。
元豊四年五月十一日、眉山の蘇軾、書く。
【補足】［作品番号06-2-012で、顔真卿と柳公権は唐代を代表する書家として挙げられていた］
■【06-2-023】武昌酌菩薩泉送王子立
【解題】弟の娘の婿である王適［字は子立］が黄州にきた。王適は、蘇軾が湖州で逮捕されたとき、その家族を蘇轍のいる南京応天府に送り届け［→作品番号05-5-088］、その後はずっと蘇轍のもとにいたらしく、蘇轍の左遷先の筠州にも付いて行った。そして、この年の秋に行われる科挙の一次試験を徐州で受けるために筠州を発ち、途中で黄州に寄ったのである。この詩は武昌の西山にある菩薩泉で水を酌んで王適に別れを告げたもの。菩薩泉については作品番号06-1-101などで見ている。
【訳文】
君は行く。
私には酒もなく銭もない。
君に勧めるのは菩薩泉で酌んだ一杯の水。
君は頭を垂れ、私を見ることができない。
そう悲しむでない――
別れてどこに行こうとも、
四方の全てはこの水に映る天の内にあるのだから。
■【06-2-024】東坡八首、并叙
【解題】蘇軾には数々の号がある。自称するのは、東坡、東坡居士、老泉山人、鉄冠道人、戒和尚、玉局老、眉陽居士、雪浪斎。他称では、無邪公、仇池翁、▲陵先生［▲は田＋比］、泉南老人、水東老人、東坡道人、海上道人、蘇仙、坡仙［以上『蘇軾年譜』による］。最も知られているのが「東坡」で、その号を用いるようになったのがこの年、元豊4年である。東坡とは東の坡の意味で、先に見た四望亭のある竜王山［→作品番号06-1-032］のあたりの小高い場所［黄州の町の中心から北東の方角にある］に対して、蘇軾自身がその名を与えた。この年の春の初めごろから、蘇軾は東坡の一角のかつて兵舎があった土地で開墾を始め、夏までの間に、東坡について詠んだ8首の詩を作った。序文がある。
【訳文】
叙
私は黄州に来て二年目となり、日々に生活が苦しくなった。昔からの友である馬正卿は食べるものさえ欠乏しているのを哀れみ、郡中にあるもとの兵営地、およそ数十畝ほどの土地をお上に請い願って、そこで私が自ら耕作ができるようにしてくれた。
土地は長らく荒れ果て、茨が繁茂し、瓦礫がころがる場所となっていた。しかもこの年はひどい日照りで、開墾の労働だけで筋力がほとんど尽きてしまった。耒を投げ捨て、嘆いてこの詩を作り、自分で自分の辛い努めを哀れんだ。
切望するのは、来年からの収穫がこの労苦を忘れさせてくれることだ。
【補足】［蘇軾は、家計のやりくりに関し、賈収の法を実践することでこの先1年くらいは大丈夫だろうと書いていた［→作品番号06-1-103］。行き詰まるのは目に見えていたので、馬正卿が奔走して、わずかながらも耕作地を、たぶん無償で、手に入れることに成功した。いつかは役人生活から足を洗って自作農に回帰しようというのが蘇軾の初めからの願いであったから、はからずもそれが早々と実現したような格好になった。馬正卿と知り合ったのは最初の赴任地である鳳翔に行く前のことで［→作品番号02-1-012］、それ以来20年になるが、詩中にその名が現れたのはこれが初めてである］
其の一
廃墟となった跡地は人に顧みられることがなく、
土の塀は頽れ、雑草が生え放題だ。
ここに筋力を投入したところで、無駄に捐るようなもの、
一年の終わりにその労力を償ってくれはしない。
そこに他郷から、
広大な天地にも逃れるところがなく、
行くに窮してさすらい来た独りの男――
最初に手掛けたのは瓦礫拾い、
あいにくと日照りの年で、土は痩せている。
男は草の中に埋もれながらも、
ここからわずかでも収穫物を刮り取ろうとしているのだ。
ああ――
男は耒を投げやって嘆息する。
「我が廩はいつになったら高く聳えるのだろうか」
其の二
この全くとりとめもなく荒れた土地、
それでも高い低いがあるのを見れば、
それぞれに適した使い方があるだろう。
低くじめじめしたところは稲を植えるがよろしかろうか、
東の高まりには棗と栗を蒔くのがよろしかろうか。
長江の南の岸辺には蜀から来た友人がいて、
桑の種子をくれることになっている。
姿のよい竹を植栽してもよいのだが、
根があちこち勝手に張ってしまうのはちょっと心配である。
いましばらく佳い場所を検討した上で、
我が家族が安心して住める敷地を定めるとしよう。
そんな算段をしていると、
枯草を焼いていた家童［少年の使用人］が走って来て叫ぶには、
「隠れていた古井戸が出てきました」
ここから一食分の作物だって収穫できるかどうかもわからないけれど、
とりあえず一瓢［瓢で作ったひしゃく］の水を飲めることだけは確実になった。
【補足】［蜀から来た友人とは王兄弟［→作品番号06-1-030］のこと］
其の三
昔からここには小さなせせらぎがあって、
遠い峠の背後からきているという。
それは城壁を穿って黄州の町へと入り込み、
集落を通過する間に汚水が流れ込み、
草が高く生い茂るようになる。
ここから去って、流れは、
十畝ほどの広さの柯氏の陂となり、
そこには魚や蝦がいる。
今年は日照りで小川の水は尽き、
陂の浮き草も枯れて泥にべったりと付いてしまっている。
昨夜、南の山に雲が湧いたかと思うと、
雨が来て、犁で一回盛った土を超えて降ってくれた。
水はもとの溝を尋ねてちょろちょろと流れ、
あたかも私が荒れ地を切り開いているのを知ってくれているかのようだ。
溝の底の泥には去年の芹の根があり、
見れば、一寸ばかりのが確かにある。
白く芽が伸び出すのはいつだろうか。
そのときには鳩の肉とともにあえたらよいだろう。
【補足】［（1）ここにある柯氏の陂は、四望亭の下の魚池のことであろう［→作品番号06-1-032］。その近くにある柯氏の林を買うかどうか検討していると弟に語っていた［→作品番号06-1-059］。東の坡はそれよりも少し北に位置し、この詩にあるように北の峠から流れてきた小川が東の坡を経由して柯氏の池に注ぐのである。（2）この詩の最後には蘇軾自身の注記があって、蜀の人は芹の芽を細く刻んで、鳩の肉と合えたものを好むとある］
其の四
【補足】［この詩にも蘇軾自身による注記がある。（1）蜀の人は、細かい雨を「雨毛」といい、稲の芽が伸び始めることを「水に鍼を刺す」という。（2）蜀の地では、稲が稔るころに蚱蜢が田に群がって飛ぶ。形状は小ぶりの蝗のようで、稲を害することはない］
清明節の前に稲を種える。
私はすぐにそれから続く楽しいことを数え上げる――
春の沢辺を雨毛が暗く覆うと、
「水に鍼を刺した」との嬉しい言葉を聞く。
苗を分けて植え終わるのは初夏のころ、
稲の葉が風に翻るのは喜ばしい。
夏は、月の明りに照らされて、稲の穂に露が上り、
幾つもの珠を連ねたように見える。
秋になれば、稲の穂が重くなり、
倒れかかるのを互いに支え合う。
そして畔道のあたりからは、
蚱蜢の飛び交う音が風雨のように聞こえる。
新らたに舂いた米をすぐに甑に入れて炊けば、
竹籠の中で玉の粒が輝きわたる――
私はお上から支給される米ばかりをずっと食べてきた。
それは紅く変色して泥のようなものだ。
ゆくゆくは収穫したばかりの米の本当の味わいを知ることができると、
いまから我が口と腹に約束しておこう。
其の五
良い農民は地力を惜しむという。
ならば、ここが十年も荒れ地であったのは幸いではなかろうか。
桑の木はなかなか成長しないにしても、
麦くらいなら望みがありそうだ。
種を蒔いてまだ一カ月にならないけれど、
土の塊を覆ってすでに蒼蒼と出てきている。
農夫は私にいう。
「苗のうちから、葉ばかり繁らせちまったらどうにもなりませんぞ。
麦で団子をたんとこさえたかったら、
牛やら羊やらを放し飼いにするとええがな」
繰り返し教えてくれることに何度も礼をいう。
腹を満たすためとあれば、
助言を忘れることなどありはしない。
其の六
棗を種えるのは、実を剥ち落とす時がくると思うから、
松を種えるのは、材を斫り出す時がくると思うから。
そうなるのは十年以上も先であろうが、
我が計画は愨なまでにひたむきである。
十年などどうということもない、
千年だって雹が風によって吹き過ぎるようなものだ。
学んだらよかろうと思っていたのが昔聞いた「李衡の召使い」の話――
呉の国の李衡は千本の蜜柑を植えて子供らにこういった、
「これでおまえたちの将来には何の心配もない、
ここに千人の『木の召使い』がいるのだからな」
よい塩梅に私にはその名もまさに李君という同僚がいて、
いまは舒州で官の務めをしていて、
たまたま三寸もの大きさの蜜柑を贈ってくれた。
その輝きといったら、見る者皆を驚かせるほどだ。
もしも、春の氷がまだあるうちに、
その苗木を百本ばかりももらえたらと思いもする。
竹の籬の先、軒端のあたりに、
青い実、黄色い実が垂れるのがもう目に見えるようだ。
【補足】［同僚の李君とは李常のことであると、蘇軾自身の注記がある。李常と手紙のやりとりをしていることは作品番号06-1-043で見ている。三国時代の李衡の故事と李常が贈ってくれた蜜柑とを結びつけたのである。米、麦、蜜柑と次々に収穫物を想像してゆくのである］
其の七
潘丙君は、長らく官の仕事にありつけないために、
長江の南の村で酒を売っている。
郭遘君は、もともとは将軍を輩出してきた家柄だが、
町の西側にある市場の城壁の際で薬を売っている。
古耕道君は、人とは変わったことを好み、
たぶん唐代の侠客、古押牙の子孫なのだろう。
古耕道君の家には十畝の広さの竹林があり、
いつでも門を叩いて訪れてよいことになっている。
私は生きるに窮して旧くからの交わりを絶ったのだが、
この三君だけはたえず声をかけてくれ、
東の坡での労苦も私と一緒にしてくれる。
せめてものねぎらいにと、ささやかな弁当を用意して共に食べる。
気の毒なのはかの杜甫である、
何しろ朱のじいさんと阮のにいさんしか相手をしてくれないと嘆いたのだから。
私はかの子夏を師匠とすると決めたのだ、
「四海の内、皆、兄弟なり」なのだ。
【補足】［（1）もしも蘇軾の多数の詩に対して、宋代以来の約千年間にわたる無数のファンが人気投票をしたならば、この『東坡八首』は必ずベストファイブの中に入るであろう。その詩に、潘丙、郭遘、古耕道［→作品番号06-2-003］が詠まれたのは、三人にとってこれ以上にない幸運であったろう。（2）古耕道の先祖かもしれないとされた古押牙は伝説の人物で、約束したことは必ず果たし、己の命を犠牲にしてある人の許嫁を救出している。（3）黄州のいわば無名な人々と気安く付き合った蘇軾は、そこまで突き抜けることのできなった杜甫を哀れんでいる。杜甫は安禄山の乱をどうにか乗り切った唐の朝廷の一員に加えられものの、己の信念に忠実に従ったために周囲と馴染めず、職を辞して浪々の身となった。杜甫は常に国家のことを考え、自身は庶民とは一線を画す士大夫層に属するとの意識と責任感を強く抱いていた。それは極めて尊敬すべきことであると蘇軾も考える一方で、蘇軾には意識の底層に自身は本来は農民であるとの思いがあり、荒れ地を耕し、潘、郭、古の3人と付き合うなかでそれを強めのだろう。孔子の弟子の子夏の言葉「四海の内、皆、兄弟なり」を実践できると歌ったこの詩の末の句は、黄州に来て1年余りで、蘇軾の精神が力強く蘇ったことを示すものであろう。それを導いたのが、東の坡の地を得た馬正卿であるので、最後の第八首は馬正卿のことを歌う］
其の八
馬正卿君は士大夫としてもとは苦しい境遇にあった。
私に付き従って二十年、
馬正卿君は、日夜、私が高位に昇ることを望んできた。
それは、隠棲するための土地を買う銭を私からもらうためである。
ところが、私は馬正卿君に何もしてやれず。
かえって馬正卿君に面倒をかけ、
この土地を借り受けて、ここで農耕ができるようにしてくれた。
馬正卿君は自身の人生設計を放棄して、
ここで収穫することを目論んでいるのだが、
それは亀の甲羅から毛を刮り取って毛氈を編もうとするようなものだろう。
馬正卿君が癡なのはそれだけではなく、
いまもって私が賢人であるかのように誇らしげに人に吹聴しているのだ。
誰もがそれを笑うのに、いっかな改めようとしない。
憐れなことに、
私に一つ施せば、千倍になって返ってくるといまもって思っているのだ。
【補足】［馬正卿がいかなる考えから20年もの間蘇軾に仕え、流罪になってもなお離れずにいるのか。この詩に詠まれている通りではないことだけは確かである］
■【06-2-025】馬正卿守節
【解題】蘇軾を「蘇東坡」にした最大の功労者は馬正卿である。馬正卿について記した二つの短文を見ておこう。一つ目はすでに作品番号02-1-012として見ているが、もう一度ここに掲げておく。
【訳文】
杞［雍丘］の人の馬正卿は都の太学の年長の組の学生だったが、はなはだ潔癖で気骨があり、学生仲間からは好かれず、教授連中からは敬遠されていた。私は若いときにたまたまその下宿を訪ねたところ、壁に杜甫の『秋の雨の嘆き』の詩が書いてあった。それを見ても、そのときは特に何も思わなかったのだが、馬正卿は間もなく太学を辞めて、二度と世に出ようとしなかった［よって、都の人々に己が理解されない苦しさを杜甫の詩に託したのだと知れた］。馬正卿はいまや白髪で、やはり困窮しているが、節を守ることはいまも変わらない。馬正卿の字は夢得である。
【補足】［蘇軾が馬正卿の下宿を訪ねたのは制科の受験を控えて勉強に励んでいたころであった。そのときに2人がどのような話をしたのかわからないが、翌年には、馬正卿は自身が科挙に合格して官僚になるのは断念して、蘇軾の従者になることを選択したのであるから、よほど蘇軾という人物に惹かれたに違いない］
■【06-2-026】馬夢得同歳
【解題】馬正卿［字は夢得］についてのもう一つの短文。
【訳文】
馬正卿は私と同じ年の同じ月の生まれで、私よりも八日だけ若い。この年に生まれた者で富貴な者はいない。私と馬正卿はその中でも困窮の冠たる者である。そして、私と馬正卿を比べてみるなら、やはり馬正卿を首位として推さなければならないだろう。
■【06-2-027】与王定国書
【解題】新たに土地を得て耕作を始めたことを、この頃に王鞏［字は定国］［→作品番号06-1-105］に送った手紙に記している。
【訳文】
（1）王詵君が都に召し還されると聞きました。その娘たちが泣いて訴えたために、皇帝が哀れまれたからだとか。その通りなのでしょう。
送ってくださった詩はいよいよすばらしく、和したいと思いながらも、戒めを破るのは望むところではありません。こちらに来てからは歴史を学ぶのを楽しみとしています。お上に仕えて以来、学問から離れていましたので、これでいくらかまともになれるでありましょう。
私は荒れ地数十畝を得ました。牛を一頭買い、自分でそこを耕しています。今年は日照りの歳に当たり、米の値段が非常に高くなっています。近ごろ折よく雨が降りましたので、日夜開墾し、麦を植えようとしています。苦労ではありますが、かえってそこに味わいがあります。近隣の人々と顔を合わせればわいわいがやがや賑やかにやっています。自分では「鏖糟陂裏の陶淵明」との号を思いついたのですが、どんなものでしょうか。
貴君の数枚の書を拝見して、筆法が次第に晋の時代の人々に迫ってきています。私の筆法はどうでしょう、少しは進んでおりますかな。画はどうもうまくいきません。酔って後に、十枚、二十枚と描いて、時に見られるものが一枚くらいあるかどうかで、多くは人が持ち去ってしまいます。貴君は画をお好みでしょうか。いま急には描けませんが、今後、酔ったときにうまくできたなら、お送りいたしましょうか。
【補足】［（1）最初に、蘇軾に連座して均州に流された王詵［→作品番号06-1-001］について記している。どうやら蘇軾は誤った情報を聞いたようだ。王詵は先帝の婿で、その娘は皇室の血を受け継いでいるからいかにもありそうな話なのだが、王詵が実際に都に帰還したのは3年後であった。（2）戒めを破りたくないので詩に和すことはできないと記している。詩を作ることを完全に断っていたわけではないが、罪人同士が唱和するのはさすがに控えたのだろう。（3）晋の時代の人とは王義之などである］
（2）荒れ地を耕して詩を詠んでいます。その中に、「枯草を焼いていた家童が走って来て、／叫ぶには、／隠れていた古井戸が出てきました／一食分の作物だってここで採れるかどうかもわからないが、／一瓢の水を飲めることだけは確実になった」［家童焼枯草、走報暗井出。一飽未敢期、瓢飲已可必］。とか「亀の甲羅から毛を刮り取って毛氈を編もうとするようなこと」［刮毛亀背上、何時得成氈］といった句があります。万里の彼方で笑ってくださることもあろうかと、紙の余白を埋めておきます。
■【06-2-028】与章子厚書
【解題】自分で土地を耕すようになったことは、章惇［字は子厚］［→作品番号06-1-079］への手紙にも記している。
【訳文】
私は東の坡に住まいし、棚田を作り、稲を植えています。農地は五十畝あり、自ら耕し、妻も自ら蚕を飼っています。それによって一年のやりくりをしようとしています。
昨日は一頭の牛が病気のためにほとんど死にかけました。牛の医者はその病状を識りませんでした。老妻はそれを識っていて、「この牛は豆斑瘡です。治療法は青い蒿を粥にして食べさせることです」というので、その通りにしてみると効果がありました。
私は謫居の後、すっかり村の翁のようになった気でいたのですが、まだまだです。老妻の方がよほど黒牡丹［牛のこと］の扱いを知っています。
千里の向こうで、貴公に笑っていただきたく思います。
【補足】［（1）章惇に対して、こうした日常の些事を記して送っているのは、政治的立場は異なっていても友人としての関係は変わらないと自分は考えていると伝えたかったからなのだろう。（2）元来自分は農耕をする民であると考える蘇軾であっても、農事の実体験は少年の頃に少々あった程度で、ここにあるように妻やあるいは馬正卿や近隣の人々の手助けを必要とした。蒿を粥にして食べさせるとは、要するに下剤を施したのだろう］
■【06-2-029】題織錦図上回文三首
【解題】蘇軾はいかなる遊び心からだったのだろうか、このころに回文の作品をいくつも作っている。ここに掲げるのは、「タケヤブヤケタ」のように右から読んでも左から読んでも同じというタイプの回文ではなく、終わりから逆に読んでもちゃんと意味が通じる詩になるというタイプの回文。3首のうち1首だけを書き下し文にして示す。言葉を操る名手である蘇軾は、荒れ地を耕しながらこうした遊びに耽ったりしたのだろうか。
【訳文】
春晩落花余碧草、
夜涼低月半枯桐。
人随遠雁辺城暮、
雨映疏簾繍閣空。
左上から読めば、
「春晩れて落花は碧草に余し、夜涼しくて低い月は枯桐に半ばす。人は遠雁に随う辺城の暮れ、雨は疏簾に映じて繍閣空し」
右下から読めば、
「空閣の繍簾は疏にして雨に映じ、暮城に辺雁は遠く人に随う。桐は枯れて半月は涼夜に低れ、草は碧にして余花晩春に落つ」
■【06-2-030】書鶏鳴歌
【解題】先に「女王城」についての考証［→作品番号06-2-004］を見たが、黄州の自然、歴史、習俗に関していろいろな考察を加えている。これは民謡について記したもの。
【訳文】
私は黄州に来て、二月、三月のころに、黄州の人々が群がり集まって歌うのを聞いた。その詞はわからないし、その音律は正しい音階に合っていない。その声はなめらかに高くなったり下がったりし、鶏が鳴くのにも似ている。
遠く周の時代に、祭祀に携わった「鶏人」が廟堂において時を告げた声が、もしやこうであったかと思わせるところがある。ただしひどく田舎臭い。
後漢時代の応劭が書いた『漢官儀』には「宮中では鶏を飼っていない。汝南郡には長く鳴く鶏がいて、宮殿の朱雀門の外を守る兵士は、その鶏の鳴く声を伝える」とあり、「これはいまの『鶏鳴歌』のもとである」といっている。晋の時代の『晋太康地道記』には「後漢のときに固始県など四県では、宮中の護衛兵がこの曲を習って天子の御前で歌った。いまの『鶏鳴歌』のもとである」とある。唐の時代の顔師古は事の本末を考えることなく、みだりにこの説を否定した。
いま私が黄州で聞くのは『鶏鳴歌』のなごりなのではなかろうか。土地の人はこれを「山歌」といっている。
【補足】［古い文化が、都から離れた辺縁の地に残るという現象がある。周の時代の祭官や漢の時代の衛兵が鶏の声を真似た名残が、黄州に今も伝わっているのかも知れないと蘇軾は考えたのである］
■【06-2-031】雑書琴事十首
【解題】6月、陳慥［方山子］［→作品番号06-2-007］が黄州に来た。2回目の訪問である。蘇軾は琴に関する10篇の短文『雑書琴事十首』、および琴の曲に関する12篇の短文『雑書琴曲十二首』を書いて陳慥に贈った。まず『雑書琴事』から5篇を訳す。序文が付いている。
【訳文】
元豊四年六月二十三日、陳慥が岐亭から訪ね来た。精巧な筆、佳い紙、妙なる墨を携えて、私に書を求めた。たまたま客人の中に琴を善くする者がいて、私が所蔵する琴を求めて弾じた。それで全て琴に関する十の事柄を書いた。
【補足】［旧い中国において「琴棋書画」は文人の嗜むべきものとされた。囲碁について蘇軾が語ることはあまりないが［→作品番号06-4-087］、書や画については頻繁に語り、琴についても深い知識があった。訳者は「琴棋書画」の全てに無知で、ここの訳文もまたはなはだ心もとない］
其の一 家蔵雷琴［家に蔵する雷琴］
我が家に琴がある。雷文が造ったので雷琴という。琴の全ての面に蛇の皮が張られている。上池［琴の部位の名称。以下の下池、嶽山も同じ］にある銘に「開元十年に雅州霊関村で造る」とあり、下池の銘に「雷家、八日合に記す」とある。「八日合」とは何の意味かわからない。嶽山には指を入れられず、そのために弦を収めることができない。これがこの琴の最大の特徴で、雷文の琴だけがそのようになっている。その理由がわからないかと家蔵の雷琴で探ってみた。琴の声は上池と下池の間から出る。琴の背面はやや隆くなっていて、薤の葉のような形をしている。琴の声はその隘いところから出ようとして徘回して去らないので、余韻が残る。これが雷琴の最大の妙所であろうか。
【補足】［かつて蘇軾は舟の上で父の蘇洵が弾く琴を詩に詠んでいた［→作品番号01-1-008］。そのときの琴がこの雷琴であったのだろうか。「八日合」とは数字の判じ物であることを考証している宋代の随筆がある］
其の二 欧陽公論琴詩［欧陽公が琴の詩を論じる］
唐の韓愈の詩に『穎師の琴を聴く』があり、
昵昵児女語、［ぺちゃぺちゃと男女がしゃべるかのようであり］
恩怨相爾汝。［愛と怨みがこもごもであるかのようでもある］
画然変軒昂、［にわかに高くなったり、勢いづいたり］
勇士赴敵場。［勇士が戦いの場に赴くかのようでもある］
とある。
かつて欧陽公［欧陽脩］は私に「琴を詠んだ詩で最も佳いのはどれだろうか」と尋ねられ、私はこの韓愈の詩を挙げた。
欧陽公はこのようにいった。
「この詩は確かに巧みである。しかし、これは琵琶を聴いての詩で琴の詩ではない」
後に私は『杭州の僧の惟賢の琴を聴く』という詩を作った。
大弦春温和且平、［琴の大弦は春のように温かで、和らかく平らである］
小弦廉折亮以清。［小弦は高く折れ、亮かにして清らかである］
平生未識宮与角、［私はもとより宮の弦とか角の弦とかの区別さえつかなくて］
但聞牛鳴盎中雉登木。［牛が盎の中で鳴いたり、雉が木に登って鳴いたりしているようだと聞くだけである］
門前剥啄誰扣門、［惟賢師が弾く琴を聴いていると、門をほとほとと叩く者がいた］
山僧未閑君勿嗔。［師は山にあっても閑がなく、琴は中断されてしまった］
帰家且覓千斛水、［それを残念に思う前に、私は家に帰って千斛の水を求め］
浄洗從前箏笛耳。［箏や笛の音に慣れてしまった耳を洗って出直さないとならない］
詩ができて欧陽公に寄せたいと思ったが、公はすでに亡くなっていた。いまに至っても残念でならない。
【補足】［（1）惟賢の琴を聴いたのは蘇軾が杭州の副知事であったときのことで、欧陽脩の訃報が届く直前だったのだろう［→作品番号04-1-056］。（2）続く其の三も杭州副知事時代の思い出で、張先のエピソードを記している。張先が何やらジョークをいっているのだが、何がおかしいのかさっぱりわからないので割愛する。（3）さらに其の四は、琴と外来の音楽との関係が記していて、これもさっぱりわからないので割愛する］
其の五 琴貴桐孫［琴は桐の孫を貴ぶ］
木は普通は根元の方が堅くしまっていて、末の方が軟らかくて緩い。桐だけはそうではない。試しに小枝を取って削ってみると、どこも堅実で蝋のようであるが、根元側はどこもが緩い。世間の人が桐の孫枝を貴ぶのは、その堅実さを貴ぶからである。堅実であると、糸の音の中に木の声が入るのである。
其の六 戴安道不及阮千里［戴安道は阮千里に及ばず］
阮瞻［字は千里］は琴を上手に弾いた。そのことを聞いた人が、阮瞻のもとを訪れて琴を聴きたいと求めると、貴賤長幼を問わず、誰にでも弾いて聴かせた。音が自然に和し、人が演奏しているようには思えなかった。義兄の潘岳が琴を所望すると、夜遅くになっても嫌な顔をすることなく弾き続けた。その恬淡として栄辱にこだわらないありさまに人々は感心した。
戴逵［字は安道］もまた上手に琴を弾き、武陵王が人を使わして召そうとすると、戴逵は使者の前で、「わしは王侯のための芸人にはならない」といって、琴の弦を破った。
戴逵の介［臍曲がり］は阮瞻の達［こだわりのなさ］に及ばない。
【補足】［（1）晋の時代の戴逵と阮瞻のエピソードを記して、蘇軾の価値観がよく表れている。蘇軾もまた庶民の求めによく応じる人であった。（2）其の七から其の九は訳者の理解が及ばないので割愛する］
其の十 文与可琴銘［文同の琴の銘］
文同の家に古い琴があり、私はそれに銘を記した。
攫之幽然、［これを攫むなら幽然として］
如水赴谷。［水が谷に赴むくかのようである］
醳之蕭然、［これを醳くなら蕭然として］
如葉脱木。［葉が木から脱するかのようである］
按之噫然、［これを按じれば噫然として］
応指而長言者似君。［指に応じて長く言うところは貴君に似ている］
置之枵然、［これを置けば枵然として］
遺形而不言者似僕。［形は遺っても、もうものを言わないのは僕に似ている］
文同は楚詞［古風な詩］を好んで作ったので、「長く言うところは貴君に似ている」の句がある。
「醳」と「釈」は同義である。
昔むかし鄒忌は琴を論じてこのようにいった。
「これを攫むこと深く、これを醳くこと愉し」。
この言葉は指の使い方の妙所をいっている。
【補足】［（1）親友の文同［字は与可］［→作品番号06-1-055］が所有する琴のためにかつて作った銘についての一文。「攫」「醳」「按」「置」は弦の操作法をいう。（2）演奏を終えて琴を置いたさまは無口の自分のようだとは、実態の逆をいうユーモアであろう］
■【06-2-032】雑書琴曲十二首
【解題】陳慥に与えた『雑書琴曲十二首』は、琴の曲にまつわる豆知識を記したごく短い十二篇の文章で、『瑤池燕』の曲について記した一文だけを訳す。
【訳文】
其の十二 瑤池燕
琴の曲に『瑤池燕』があり、怨み咽ぶ声調で、その詞はあまりよろしくない。ある人［実は蘇軾］はこの詞を改めて、女性の悩ましさの歌とした。
飛花成陣。［花が一斉に飛ぶと］
春心困。［春の心の苦しみは］
寸寸。［ずたずた］
別腸多少愁悶。［別れてからの愁い悶えはどれほどなのですかと］
無人問。［尋ねてくれる人もなくて］
偸啼自搵。［忍び泣きを抑えて］
残妝粉。［化粧が崩れてしまうのです］
抱瑤琴、［琴を抱いて］
尋出新韻。［新しい曲を尋ね］
玉纖趁。［指が音を追います］
南風未解幽慍。［南からの風もこの思いをといてはくれません］
低雲鬢、［頭を垂れ］
眉峰斂暈。［眉の間を曇らせ］
嬌和恨。［なまめかしくも恨むのです］
この曲の妙なるところは、人に与えないでくれたまえ。
■【06-2-033】与彦正判官
【解題】琴に関連してこの手紙も読んでおこう。彦正判官は何者であるのかわからないという。字が彦正というこの界隈の官員なのだろう。
【訳文】
「響泉」と「韻磬」の二つの古い琴は、まさにいまの世の宝というべきものであります。すばらしい音色で、このようなものを頂戴して、忝さに汗が流れてやみません。……私はもとより琴は弾けないのですが、たまたま海印禅師紀公殿が道を枉げて立ち寄ってくださり、その従者がたちまち数曲を作って披露してくださいました。湧き出る音はまるで人が語っているかのようでありましたので、試しに一偈をもって尋ねてみました。
「もしも琴に琴の声があるのならば、琴が匣の中に置かれていても鳴るはずだ。もしも声が指の頭にあるのならば、指の上で聴けるはずだ」
そのことをここに記しましたので、千里の彼方でお笑いください。佳い紙に名高い茶も寄せてくださり、重ねての御厚意に感謝いたします。
【補足】［海印禅師紀公は詳しいことはわからないが、黄州を訪れて蘇軾に会ったことは次の文章からも知れる］
■【06-2-034】送海印禅師偈
【解題】海印禅師紀公について記した文章。偈の本体は意味がきちんと掴めないので割愛する。また、文章の終わりに元豊元年九月十五日の日付があるのだが、それは明らかな間違いであるので、元豊六年であろうとの推測もある。琴に関連してここで読んでおこう。
【訳文】
海印禅師紀公は峨眉山に行こうとして、まず太子少保趙公［趙抃］を衢州に尋ねた。趙公は三首の詩を禅師に贈った。禅師はさらに道を枉げて斉安［黄州］に私を尋ね一偈を求めた。趙公は宋朝の元臣大老で功成って帰られたのに対して、私は非才でありながら禄を竊み罪を得て都を去ったのである。このような二人を禅師の道眼は区別しない。仏法の大海のような恵みは、大小縦橫一切関わりなしに万の殊を照らすのである。……［以下、偈が続く］……
【補足】［（1）趙抃が政界を引退して衢州に隠棲したことは作品番号05-5-065で見ている。（2）海印禅師がどこから旅を始めたのかわからないが、衢州と黄州を経由して峨眉山に至るのは、大陸を東西に横切る長大なコースである］
■【06-2-035】水調歌頭
【解題】琴に関連してもう一つ見ておこう。章◆［字は質夫］［◆は次の下に呆という字］［→作品番号06-1-099］に贈った詞。序文が添えてある。
【訳文】
欧陽文忠公［欧陽脩］がかつて私に尋ねた。「琴の詩で何が最も優れているだろうか」。私は、「韓愈が穎師の琴を聴いて詠んだ詩が最も善いと思います」と答えたところ、「この詩は非常に奇麗であるが、琴を聴いての詩ではなく、琵琶を聴いての詩である」といわれ、私はその通りだと深く思った。建安の章質夫君の家には琵琶の上手な者がいて、私は歌詞を作るよう頼まれていた。私は長らく作れずにいたのだが、韓愈の言葉を取って、やや手を加え、音律を整えて詞に直し、これを贈ることにした。
【補足】［序文の前半は作品番号06-2-031の其の二と多く重複している。この詞は韓愈の詩から多くの語句を採って再構成したもので、ざっとした訳文を添えておく］
昵昵児女語、［ぺちゃぺちゃと男女が語っています］
燈火夜微明。［夜の灯のほのかな明るさのなかで］
恩怨爾汝来去、［思ったり怨んだり、私とあなたでいったりきたり］
弾指涙和声。［指で弾くのは涙と声のハーモニー］
忽変軒昂勇士、［たちまち打って変わって勇ましい人］
一鼓填然作気、［太鼓がどんと鳴ると勢いづき］
千里不留行。［留まることなく一気に千里だって行くのです］
回首暮雲遠、［振り返ると、遠く夕暮れの雲］
飛絮攪青冥。［楊の絮が遥かな空へと飛んで行きます］
衆禽裏、［たくさんの鳥の中で］
真彩鳳、［本物の鳳だけは］
独不鳴。［独り鳴くことがありません］
躋攀寸歩千険、［一歩一歩と高く険しいところへと登り］
一落百尋軽。［さっと軽やかに飛んで落ちるのです］
煩子指間風雨、［指の間から風雨が起こり］
置我腸中氷炭、［我が腹の内が熱くなったり冷たくなったり］
起坐不能平。［居ても立ってもいられなくなります］
推手従帰去、［手を押さえて、もう帰りましょう］
無涙与君傾。［涙をおさめてあなたとともに］
【補足】［音楽が喚起するさまざまなイメージを歌っていて、曲とともに聴くなら、情感豊かに鑑賞できるのだろう］
■【06-2-036】祭任師中文
【解題】陳慥［方山子］が黄州にきた時点に戻ると、蘇軾はそのときに大切な祭祀を行った。ここまでに何度か登場してきた郷里の大先輩である任伋［字は師中］が3月24日に蜀の遂州で亡くなり、その霊を遠く離れたこの地で陳慥らとともに祭ったのである。その祭文を見ておこう。任伋が程之才の告発によって嫌疑をかけられたことは作品番号06-1-006で記したが、任伋はその結果譴責処分を受け、瀘州から遂州に左遷となり、その間の心労がたたったためか、遂州に到着後間もなく亡くなったのだった。
【訳文】
眉州の陳慥と蘇軾、犍為の王斉愈と弟の王斉万、黄州の潘丙と古耕道は先の瀘州知事の任伋を祭り、その霊に申し上げる。
貴君はまことの知事として蜀の地の偉人であった。『詩経』にいうところの「老成」であり、『易経』にいうところの「丈人」であった。私と別れてから十年、その徳は日々に新たになり、いま一度お会いしたいと思っていたのだが、ついに元の身ではなくなってしまった。
陳慥と蘇軾と王斉愈と王斉万は貴君の友であるか親しい者であり、潘丙と古耕道は貴君が治めた州の民である。
貴君が郷里を離れた地で亡くなったことを哭し、その酸辛を痛ましく思う。禍福の来たる所以は誰も知らない。長生きしようとも若死にしようとも、貴君は己の道を歩んだ。天が為すのでも鬼神に左右されるのでもなかった。生きている間に誉れがあり、死んで後に哀れまれるのは昔から難しいとされる。貴君ばかりは立派な名を持って彼方の世に行くのだ。
【補足】［任伋がかつて黄州に赴任したことは作品番号03-2-002で見ている。だから、潘丙と古耕道は任伋に縁のある者として祭祀に加わったのである］
■【06-2-037】任師中挽詞
【解題】任伋［字は師中］の挽歌。任伋は兄の任孜［字は遵聖］とともに科挙に合格し、郷里の人々から兄は「大任」、弟は「小任」と呼ばれた［→作品番号01-1-009］。先に亡くなった「大任」の挽歌を作品番号05-3-022で、また蘇軾が若い頃に見た「小任」の印象を歌った詩を作品番号05-3-053で見ている。この詩はこれまでに任兄弟を歌った数々の詩の総まとめに当たる。
【訳文】
大任ほど剛烈な人は世にまたとなかった。
強いて挙げるならば、
後漢の時代の「悪を疾むこと風のごとし」といわれた朱震が匹敵しようか。
小任は温雅にして剛毅、老いてはさらに恵み深い徳に満ちた。
比べるならば、
前漢の時代に聡明かつ慈愛と讃えられた小馮君が似ているだろうか。
兄弟の才行が優れていたことは説くまでもない。
敢えて付け加えるなら、
昔、我が父が二人を友としたことをいっておこうか。
父の友は暁の星が消えゆくように次第にいなくなり、
哀しいことに、いつしか月［大任］に金星［小任］が対するだけとなった。
その大任が先に亡くなって墓を覆った土がまだ乾かないうちに、
小任が続き、呼んでももう声が還ってこなくなった。
一樽の酒を生死の別れに寄せようとすると、
樽の中に涙がこぼれ、酒の味が酸っぱくなってしまう。
貴賤、賢愚、いかなる人も命が尽きないということはない。
しかし、任君の家は賢子が続いたことで尽きることはない。
人間世界の得失にはこれに拠ればよろしいというものはない。
ただ、賢子を生じさせる天公［造物者］だけに拠ることができるのであろう。
【補足】［任伋と黄州とのつながりは、弟の蘇轍の『黄州師中庵の記』に詳しく記されている。参考までに見ておこう］
【訳文】
蘇轍：『黄州師中庵記』
師中の姓は任氏、諱は伋である。先祖代々眉山の人である。私の父の友人であることから、私はその人となりを知っている。
かつて斉安［黄州］の副知事を務め、去って後にも黄州の人々は任伋のことを思って忘れなかった。黄州の人々は任伋が立派な役人であることを知っていたのである。
任伋は普段から書物を読むのを好み、大義［本質］に通じると、細かな字句にはこだわらなかった。本性として任侠の人で、勇ましいことを喜び、役人としては融通をきかせつつだらしなくなることはなく、厳しいけれども暴虐になることはなかった。人々は畏れつつも任伋のもとで安んじていられ、また任伋を欺くことはできなかった。
始めに新息県の知事になったときに、その民衆から愛されていることを知って、そこに土地を買って家を構えた。新息県の人々は「我等の『故君』［もとからの主君］である」といった。互いに親しみ合って変わることがなかった。
黄州にきてからは、任伋はいつも定恵院に遊んだ。黄州を去ってからは、人々は任伋が遊んでいた亭を「任公亭」と呼ぶようになった。我が兄の蘇軾が罪を得て黄州に遷ってからは、兄と任伋が親しいことを知って、任公亭の西に「師中庵」を作った。土地の人がいうには、「任伋はきっと蘇軾を訪ねにここに来るはずだ。だからここに庵を建てるのだ」と。
その翌年の三月、任伋は遂州で亡くなった。黄州の人々はこれを聞いて、定恵院に集まって哭する者が百人を超え、任公亭で飯僧［読経］し、師中庵で霊を祀った。任伋が黄州を去ってすでに十余年が経っていた。
そもそも役人と民衆の関係は、役人が民衆から取るだけで民衆に与えるものがなく、罰を加えるだけで恩を恵まないのなら、役人が去った後に民衆はその人を忘れる。せめて怨むところがないのなら、まだしも善い役人であるのだろう。しかし、任伋だけは、十年以上後になっても民衆はその人を思い、皆が声を失って哭したのである。これは普通にあることではない。
漢の時代に朱邑は若いときに桐郷の村長となり、その民に徳があった。朱邑は死に際して息子にこういった。「必ずわしを桐郷に葬ってくれ。後の世に我が子孫が我が墓を守ってくれるのは、桐郷の民が厚く奉仕してくれるのにきっと及ばないだろう」。朱邑は桐郷に葬られ、その祠は後々絶えることがなかった。
任伋は生きている間に新息に家を構えた。亡くなってから黄州の人は亭と庵で任伋を待っている。もしも死んで後にも知ることがあるのならば、任伋はきっと新息県と黄州の間を往き来しているのではないだろうか。私はそれを知りたいができない。
元豊四年十二月、眉山の蘇轍記す。
【補足】［（1）任伋が新息県に土地を得て官職を退いた後にそこに住もうとしていたことは作品番号06-1-006で見ている。（2）漢の朱邑の故事は地方を転々とする官員の一つの理想像とされ、蘇軾も何度か詩文に引いている［→作品番号05-1-010など］］
■【06-2-038】答李琮書
【解題】李琮［字は献甫］の問い合わせに答えた手紙。李琮はこのときは淮南路転運副使の職にあり、蜀の西南の地で生じた変事についての情報を蘇軾に求めたのだった。手紙の冒頭の一文から半年前に会っていることが知れる。淮南路は淮南東路と淮南西路に分かれ、黄州は淮南西路に属するので、李琮は職務を帯びて黄州に立ち寄っていたのだろう。
【訳文】
お別れしてからたちまち半年、貴君のことを深く思い、また御家族に御不幸があったと聞きましたので、慰めのお手紙を差し上げようしておりましたが、なかなか便宜がなく、また手紙ではなかなか思いを晴らすのは難しく、さらに憂いに沈むこともあろうかと、ためらっておりましたところに、そちらからお手紙を頂戴し、はなはだ恥じ入っております。……夏になってからは門を閉ざして外に出ることもありません。このひどい暑さは過ごし難く、住まいが西向きであるために遷居を勧める人も多くいます。しかし、遷居はひと月くらいでは定められませんので、そうこうするうちに暑さの方が衰えてゆくでありましょう。……
お問い合わせの、王天常が辺事［国境地帯での不穏な動き］について申していることの件でありますが、王天常の父の王斉雄は髪を結んで西南の地で夷と戦い、夷は王斉雄を畏れておりました。王天常は若いときにその父に随って夷の地に入ったことがあります。近頃、朝廷から遣わされた王中正が蜀に入り、王天常に命じて、近傍のもろもろの夷を宋朝のもとに招こうとしましたところ、夷は王天常が王斉雄の子であることをもって、その言うことを信じたのでした。かつて王天常は私に瀘州の状況を詳しく聞かせてくれまして、……［以下、王天常から聞き取った情報を詳述する］……
【補足】［この手紙は非常に長文で、王天常から聞いたことを詳細に記している。蘇軾が情報を収集し分析する力に長けていたことを示すものであろう。訳者としては辺境の事情にそれほどの関心を持てないので訳は割愛する］
■【06-2-039】答李方叔
【解題】李廌［字は方叔］への返書。李廌は、蘇軾と同じ年に科挙に合格した李惇［字は憲仲］の子で、父が亡くなったために苦労しつつ学問に励み、このころに蘇軾に詩文を送って自分のことを認めてもらおうとしたようだ。
【訳文】
（1）長らく御返事をしないままで恥ずかしく思っています。……今年の暑さのひどさといったらいつもの年の十倍くらいでしょうか。昼も夜も雨が降り続いて十日以上もやまず、門の外では水と天が接するばかりです。いまは晴れ上がりましたけれど、地面は水びたして、空気は蒸しあがり、病の身は息もたえだえです。貴君は門を閉ざして著述に専念して、それを楽しんでおられることでありましょう。時に優れた人々と唱和し議論しておられるのは羨ましいかぎりです。いつお会いできるかわかりませんが、万万自重されますように。
（2）間もなく科挙の一次試験がありますが、服喪の期間は終えられたのでしょうか。もしも受験が可能であれば、大いに希望がありましょう。
暑さの中で酒を飲むこともできず、字を書くこととも縁がなく、たまに一字か二字を書くと、すぐに人が持ち去ってしまいます。物好きな連中の意に応じることはとてもできませんし、貴君にはそのようなものを好む癖はないものと願っています。
近頃、一枚の銅鏡を得ました。漆のような色で、光明は冷たく透き通っています。背に銘があって、「漢有善銅出白陽、取為鏡、清如明、左竜右虎輔之」と記してあります。字体は篆書と隸書が混じっていて、まさしく漢のときの字です。白陽の所在はわかりませんが、南陽の白水の北なのでしょうか。「如」の字は「而」の字に作ってあり、「左竜右虎」の意味はまだわかりません。閑な折にでもさらに考えてみます。
【補足】［（1）服喪について触れているのは父の李惇が亡くなっていたからである。（2）ここに記されている鏡については作品番号06-2-009で見ている］
（3）我が甥婿である王適君、字は子立、が近頃ここを過って、科挙を受けるために彭城［徐州］に行きました。あるいは試験場で会うことがあるかもしれません。王君は議論する相手としてよく、詩文も学問も徳性もいずれも人より優れています。その弟は、名は遹、字は子敏といい、兄とほとんど変わるところがありません。我が息子についてお尋ねくださいましたが、何かと用事が多く、まだお手紙を書いておりません。王文甫君はすでにお手紙を出したとのことですから、お受け取りください。
【補足】［（1）王適が科挙を受けるために徐州に向かったことは作品番号06-2-023で見ている。試験場とあるのは、都で二次試験を受けるようになったらという意味であろうか。李廌は都の西南の陽翟の人で、徐州とは離れている。（2）作品番号06-1-068の補足で、徐州の民で無実の罪に落とされてしまった人について、章惇に配慮してくれるよう頼んだことを記したが、このころにその者は無罪放免となり、その件について蘇軾は朝廷に感謝状を提出している］
■【06-2-040】与王正夫朝奉
【解題】王讜［字は正夫］に宛てた手紙。
【訳文】
（1）お手紙を頂戴し、気持ちがさらに慰められます。このごろはいかがお過ごしでしょうか。御葬儀のことを伺い、はなはだ哀しく思います。何の手助けもできず、紙に臨んで、余りある残念を嘆くばかりです。……
【補足】［ここ記されている葬儀とは、王讜の父の王彭が亡くなったことを指す。王彭は、蘇軾がかつて鳳翔に赴任していたときに監軍としてその地にいた人物である］
（2）王彭君の哀詞は、私の拙さのためにその盛德を十分に表現し尽くすことができませんが、貴君の孝心の万分の一ばかりを塞ぐことができますでしょうか。……
【補足】［蘇軾は王讜のために王彭の哀詞を作った。それを次に読んでおこう］
■【06-2-041】王大年哀詞
【解題】王彭［字は大年］の哀詞。
【訳文】
嘉祐年間の末に私は岐下［鳳翔］に赴任し、そのとき太原の王彭君、字は大年、が監府諸軍の任にあった。互いに隣り合わせに住み、日々に顔を合わせていた。そのとき知事の陳希亮は下の者を非常に厳しく馭していて、その威令は傍らの郡を震わせるほどで、役人たちは陳知事の顔をまともに見ることもできなかった。王君だけは独り泰然自若として、陳知事に対して怖気づく様子がなく、陳知事もまた王君のことを敬っていた。私は始めはこのことを不思議に思っていて、王君のことを知る者に尋ねたところ、皆がこのようにいった。
「この人は武寧軍節度使であった王全斌の曽孫で、武勝軍節度観察留後であった王凱の子であります。若いときに父に従って甘陵で賊を討伐し、城下で接近戦となり、部下が七十余人を斬り、自身も二人を射殺しました。そのことは報告されたものの賞せられませんでした。ある人が、自分から賞を求めるよう勧めると、『私は父のために戦ったのであって、賞のために戦ったのではありません』と、答えたのでした」
私はこのことを聞いて、王君は賢人であると知り、それからはさまざまなことを論じ合う仲になったのだった。
王君は博学で学問に鍛錬し、通じていない書物はなかった。私の文章を非常に喜んでくれて、一篇を出すごとに膝を打ち、一日中喜んでいた。私はまだ仏法について知らなかったので、王君がその大略を話してくれて、奥深く隠れているところまで、疑いの余地なく明らかにして見せてくれた。私が仏書を喜んで読むようになったのは、思えば王君がそのきっかけを与えてくれたのだった。
その後、王君は将軍となり、その評判は日々に高まり、自ら辺境の地に出ることを願った。そして、韓琦も文彦博も王君を用いたのである。先帝は王君の才能を存分に発揮尽くさせようとしたが、王君は病となり、亡くなってしまった。
その子の王讜は学問と弁論をもって世に聞こえ、私に従って勉強に励んだ。私は王君が不遇であったのを悲しむが、この子が後に残ったことを喜ぶ。その葬儀にあたって、挽詩を作ってお別れを申し上げる。
……［以下、一句四字の韻文が続くが訳は略す］……
【補足】［（1）鳳翔のパワハラ知事の陳希亮こそが陳慥［方山子］［→作品番号06-1-015］の父である。（2）王彭の曽祖父の王全斌は五代十国時代の終わりから宋の初めにかけて活躍した武将で、蜀を平定して宋朝の天下統一に大きく貢献した。ただし、蜀の民衆を手荒く扱ったために、長く恨みをかった］
■【06-2-042】記王彭論曹劉之沢
【解題】王彭がふとした折に蘇軾とかわした会話が、中国の芸能史において必ず引用されるはなはだ有名なエピソードとなっている。
【訳文】
王彭がかつてこのようなことをいった。
「巷では、道理をわきまえない少年たちがいて、家の者がその扱いに困ると、銭を与えて集め、古い昔の話を聞かせます。三国時代のことを説いて、劉備が負けたと聞くと、少年たちは顔をしかめ、涙を流します。曹操が負けたと聞くと、喜んで、やったやっと叫びます。このことから、君子や小人の行いの余沢は百世に及ぶということがわかるというものです」
王彭は王愷の子で、字は大年で、武官でありながら、学問をよく知っていて、私は『哀辞』を作ったことがある。
【補足】［これは中国における講談の始まりのころの姿を伝える貴重な証言とされている。子供たちを教化するために、三国時代の歴史を語って聴かせていたのである。後に『三国志演義』などで定着するように、早くから曹操が悪者で、庶民は劉備を贔屓していたのだ］
■【06-2-043】答呉子野
【解題】呉復古［字は子野］への返書。呉復古は4年前に済南［斉州］で出会った神出鬼没の不思議な人物である［→作品番号05-3-005］。その使いの者［原文では専人］が手紙を届けにきて、それへの返事。この年に呉復古に書いたと推測されている手紙が4通あるので、ここで合わせて見ておくことにする。
【訳文】
（1）済南の境目でお別れしてからたちまちいまに至りました。その間に何があったかといったら、どれも言うに足りないことばかりです。専人が来られてお手紙を頂戴しました。安穏に、そしてお健やかに郷里でお暮しとのこと喜んでおります。私は黄州にきてすでに一年半になり、窮乏のなかにあって、昔からしてきたことをまた習っております。思えば、罪は大きく、罰は軽く、いま生きていられるのは君父からの賜りものでありましょう。自ら耕し、自ら魚を獲り、自ら木を刈り、そこに真の楽しみがあります。千里の彼方からの古い友人のお尋ねを得て、真心の深さをしみじみ感じております。いつまたお会いできるのでしょうか、紙に臨んで呆然としてしまいます。
（2）承れば三年の間、墓をお守りし、葬事に誠を尽くされ、さらには園亭を整え、子弟を養い教えておられるとのこと、これらは古の人のしていたことで、呉君でなければそれを望むことはできません。……弟からは間断なく手紙がきていて、恙なく過ごしております。お尋ねの数人の方々の消息は必ずしも詳らかにはしませんが、馮京君は河陽に、滕元発君は安州に、沈括君は延州に、王君は都にいます。……
【補足】［4人の名が挙がっているが、これは呉復古の交遊範囲の広さを示すものである。馮京と滕元発はこれまでに何度かその名を見ている。沈括は蘇軾より5年上で、すこぶる理系的人間で、改革派ではあるけれど、政争に関わるよりも政策の実効性を高めることに意欲を注いだ。蘇軾との接点はわずかしかなかったようだ。王君は誰を指すのか不明］
（3）寄せてくださった建茗［茶］などの数品はいずれも絶品です。そちらでは茶は手に入れにくいはずでありますのに、このようにしていただき、はなはだ恐縮しております。沙魚、赤鯉は皆珍物で、言葉にならないくらいに感じ入っております。ただ私はそれが何物であるかもわかず、珍しさに大切にしまっておくだけで、用い方もわからないところに、幸いにもお手紙に詳しく書いてくださり有難く思っています。近ごろ李明という人が山水を画いて新たに名を知られつつあります。墨の用い方が俗でないので、一巻を得たところ、すこぶる長いもので、屏風のように巡らせて、人を囲ませることができます。……
【補足】［沙魚は南方の海の産物で、呉復古が潮州の人であるからこその贈り物である］
（4）李師中君が亡くなったことを思うたびに、俗世にあることの虚しさを覚えます。その詩を読むと、いつも涙が下ります。黄州の風物は楽しむべきものがあり、暮らしに必要な物は手に入れやすいです。住まいは長江のほとりにあって、切り立った岸を下に見て、天を洗う波の上に座っているような気分になります。対岸は武昌の諸山で、時折、小さな舟で独りそちらに渡っています。もしも呉君が北に旅することがありましたら、少しばかり遠回りをしていただければ、お会いできましょう。
【補足】［（1）李師中は官界の大先輩で、作品番号05-3-007から済南で呉復古と会っていたと推測されている。その後亡くなったのだろう。（2）これらの手紙だけからでも呉復古が不思議な人物であることがわかるだろう。呉復古は道士であるのか商人であるのか、とにかく幅広い人脈を持ち、財力も豊かで、そして自在に各地を移動するのである。後にまた登場する］
■【06-2-044】書淵明酬劉柴桑詩
【解題】蘇軾は東の坡を耕す日々を送るなか、陶淵明により深く共感するようになった。夏と秋の境に陶淵明の詩の感想を記した。
【訳文】
夏から秋にかけて、毒熱が七、八十日もゆるまなかった。炮り灼く理が極まって、もはや清涼の時はないと思わせるくらいであった。今日、たちまち涼しい風が吹き、細かな雨が降り、ついには重ね着をするようなってみると、今年も指折り数えれば終わるばかりになってきたのを思うのである。
陶淵明の詩にいう。
今我不為楽、［このときに楽しまなければ］
知有来歳不。［来年もあるかどうかわからない］
この言はまことにはっと思わせるものがある。
【補足】［ここに引かれているのは、陶淵明の『劉柴桑に酬いる』の中にあり、その詩の全体は次の通り。
陶淵明：『酬劉柴桑』［劉柴桑に酬いる］
窮居寡人用、［田舎暮らしには人としての用事が少なく］
時忘四運周。［時には四季のめぐりも忘れてしまう］
櫚庭多落葉、［庭に落ち葉が多くなって］
慨然已知秋。［ああもう秋になったのだと知る］
新葵郁北牖、［北の窓辺で新たに植えた葵が咲き］
嘉穗養南疇。［南の田圃で稲穂が美しく稔る］
今我不為楽、［このときに楽しまなければ］
知有来歳不。［来年もあるかどうかわからない］
命室携童弱、［妻に命じて子供たちを連れて］
良日登遠遊。［良い日に遠く登って遊ぼうではないか］
【補足】［劉柴桑は廬山に隠棲した人で、官職から離れた者として陶淵明とともに知られていた］
■【06-2-045】跋陶潜詩
【解題】もう一つ陶淵明の詩に感想を添え書きしたものを見ておこう。まず陶淵明の二つの詩を写し、それに短い文章を付した。
【訳文】
陶淵明：『帰園田居』［園田の居に帰る］其の三
種豆南山下、［豆を南山のふもとに植えた］
草盛豆苗稀。［草ばかりが盛んに伸びて、豆の苗はわずかしかない］
晨興理荒穢、［朝早くに起きて荒れた土地の世話をし］
帯月荷鋤帰。［月明かりのもと、鋤を担いで帰る］
道狹草木長、［道を狭くして草や木が生え］
夕露沾我衣。［夕べの露が我が衣を濡らす］
衣沾不足惜、［衣が濡れるのは構わないけれど］
但使願無違。［ただ我が願いは裏切られないでほしい］
陶淵明：『庚戌歳九月中於西田穫早稲』［庚戌の歳の九月中ごろに西の田で早稲を穫った］
人生帰有道、［人の生も一つの法則のもとにある］
衣食固其端。［衣食足ることがまずは第一である］
孰是都不営、［そのことを営まずして］
而以求自安。［安らぎの境地を得た者はいない］
開春理常業、［春の初めからいつもの仕事をきちんとして］
歳功聊可観。［一年の終わりにその成果をいささか見ることができる］
晨出肆微勤、［朝早くに出て我が力を尽くし］
日入負耒還。［日が落ちてから鋤を荷って帰る］
山中饒霜露、［山の中は霜や露の気が多く］
風気亦先寒。［風もまたよそよりも先に寒くなる］
田家豈不苦、［田家の暮らしは苦しいものだが］
弗獲辞此難。［この難しさから逃れることはできない］
四体誠乃疲、［身体はまことに疲れ切ってしまうが］
庶無異患干。［願うのは戦災や天災がないことだ］
盥濯息簷下、［手と足を洗って軒下に憩い］
斗酒散襟顏。［酒を手にして胸と顔をほころばせる］
遙遙沮溺心、［遥か昔の隠者の心が］
千載乃相關。［千年を経て我が心と通い合う］
但願常如此、［どうかいつまでもこうであってほしいものだ］
躬耕非所歎。［自ら耕すことは少しも嘆くことではないのだ］
陶淵明は、晩年は節を守って躬耕［自ら耕す］した。いつも詩を作って自分の心をときほぐした。思うに、その心の内は平らなものではなかった。私は黄州に流寓して二年、たまたま困難な歳に当たり、往々にして食べる物は乏しい。耕すべき田を自分では持っていない。陶淵明のようになりたいと思ってもなれない。この二篇の詩は最も善く、親しく録した。
元豊四年八月十六日。
【補足】［（1）ここに蘇軾が写した2篇の詩のうち最初の『園田の居に帰る』は、陶淵明が官職を棄てて郷里に帰った翌年の作とされる。このとき陶淵明は42歳であった。次の詩は題に「庚戌の歳」とあり、陶淵明は46歳で、黄州2年目の蘇軾とまさに同じ年齢だった。（2）ここのキーワードの一つは「躬耕」である。俸給を得て生きるのではなく、自身で耕して食物を得て生きることをいう。「耕すべき田を自分では持っていない」とあるのは、東の坡の農地はあくまでも借りているものだからだろう。（3）陶淵明の詩の終わりの方にある「遥か昔の隠者の心」の原文は「遙遙たり沮溺の心」で、これは『論語』に登場する長沮と桀溺という古代の隠者のことを歌っている。2人は隠者の理想とされ、蘇軾の詩文によく登場するので、後で詳しく触れることにする［→作品番号06-5-008］。陶淵明から千年ほど昔の人で、そして蘇軾からすれば、「遙遙たり陶淵明の心」ということになるだろう］
■【06-2-046】書鄭君乗絹紙
【解題】これは蘇軾の書を求める人が大勢いたことが具体的によくわかる一文である。
【訳文】
私は黄州に謫居し、鄭元輿、字は君乗、は黄州で官職に就いていた。ある日、この紙一軸を持ってきて、私に書を所望し、このようにいった。
「私の旧い友人で孟陽という者がおりまして、とにかく貴君の書をひどく好んでおります。私にこれを託して、貴君に書を頼んでくれといっているのです」
そして、孟君が書いた数枚の紙を出して私に見せたくれた。孟君は善い筆遣いで、筆の痕は灑然として、私には何も加えられるものがなかった。しかし、鄭君があまりにも熱心に頼み込むので、とても断ることができなかった。
それから数日後、たまたま中秋にあたり、私は江亭で客人と飲み、酔いがまわり、この数枚の書を作った。時に元豊四年である。
翌日になって書いたものをよく視ると、紙ではなく絹であった。昔は絹紙というものがあったが、近世には失われたという。
【補足】［鄭元輿の名はここでしか見られないので、どのような人物なのかわからない］
■【06-2-047】水竜吟
【解題】つれづれの思いを詠んだ詞。
【訳文】
小溝東接長江、［小さな川が東へと流れる先は長江］
柳堤葦岸連雲際。［柳の堤、葦の岸が雲の際まで連なっています］
煙村瀟灑、［靄に包まれたこざっぱりとした村で］
人間一閧、［人間界のさざめきが起こり］
漁樵早市。［漁師や樵たちの朝の市が始まります］
永昼端居、［私は永い昼をもてあまし］
寸陰虚度、［時は少しも進まなくて］
了成何事。［何もできずにいます］
但糸蓴玉藕、［蓴菜とか蓮根とか］
珠秔錦鯉、［米やら鯉やら］
相留恋、［食べたい思いにつながれて］
又経歳。［また歳を過ごしてしまうだけなのです］
因念浮邱旧侶、［思うのは、かの仙界にあったもとの住まい］
慣瑶池、［いつも瑶池でくだを巻き］
羽觴沈酔。［觴を飛ばしてへべのれけ］
青鸞歌舞、［青い鶯が歌って舞って］
銖衣揺曳、［軽やかに衣を翻す］
壺中天地。［そんな別世界にいましたのに……］
飄墮人間、［人間世界に漂い落ち］
歩虚声断、［虚空を歩いて、仙界の声は断たれてしまって］
露寒風細。［冷たい露に風がそっと吹き寄せるのです］
抱素琴、［弦のない琴を抱き］
独向銀蟾影裏、［独り月の影に向かいつつ］
此懐難寄。［この懐いはどこに寄せればよいのでしょうか］
【補足】［誰かに聞かせるのではなく、ただ自分のために作った詞なのだろう］
■【06-2-048】与子明兄
【解題】郷里にいる従兄の蘇不疑［字は子明］［→作品番号04-1-070など］に宛てた手紙。
【訳文】
久しくお手紙を差し上げずにおりましたのは便宜がなかったためであります。これも送られて行く途中で失われてしまうこともありましょうか。いかがお過ごしでしょうか。
大哥［蘇不欺］が亡くなってたちまち一年が過ぎ、いまも念って忘れることがありません。大葬のことを承り、墓所に臨めなかったのが残念でなりません。いま王君の使用人が郷里に帰るのに合わせて、お墓に供えていただく一文をお送りします。……私は何事もなく日常を過ごしておりますが、この土地に不慣れで、食に窮することに困るくらいで、ほかに心配事はありません。……九月一日
【補足】［（1）蘇不疑の兄の蘇不欺が亡くなったことは作品番号06-1-103で見ている。（2）ここに王君とあるのは果たして誰なのだろうか。蘇軾の妻の王閏之の一族なのだろうか］
■【06-2-049】南郷子
【解題】9月9日の重陽の節句に、涵輝楼［棲霞楼という説もある］で催された黄州知事の徐大受［字は君猷］が主催する宴で詠んだ詞。涵輝楼も棲霞楼も黄州の町の西側、赤壁より少し北側の、長江に臨む場所にあった。
【訳文】
浅碧鱗鱗露遠洲。［浅くなった水に碧いさざ波が立ち、遠くまで洲が現れ出ます］
酒力漸消風力軟、［酒の力も次第に消え、風の力も軟らかく］
颼颼。［ただ颼颼とやさしく鳴ります］
破帽多情却恋頭。［その風に飛ばされたらよいのに、帽子は頭をしっかり恋い慕っています］
佳節若為酬、［この佳き節句の応酬は］
但把清尊断送秋。［酒樽を空っぽにして秋を送るのです］
万事到頭都是夢、［何事もつまるところは夢］
休休。［休めよう、休めましょう］
明日黄花蝶也愁。［明日には褪せてしまった菊の花を蝶が愁いてくれるでしょう］
【補足】［重陽の宴といえば、すぐに思い浮かぶのが、帽子を飛ばされた孟嘉の故事［→作品番号06-1-100］。折よく風によって自分の帽子が飛んでくれたら宴も盛り上がるのに、あいにくと帽子は頭が好きだとしがみついているというのがこの詞の前半の眼目］
■【06-2-050】与王定国
【解題】王鞏［字は定国］［→作品番号06-2-027］に送った手紙。上の詞を詠んだ場所が棲霞楼であろうかとするのはこの手紙があるからである。
【訳文】
お手紙と新しい詩をいただき、感慰無窮であります。貴君が恙なく、長く辺地にあるのも問題にしていないのを知りました。それが何よりであります。馬黙君がそちらに行くのでこの手紙を託しました。きっと届くでありましょう。いま馬黙君がどこにいるのかわかりませんが、桂州のあたりをぐるりとまわって帰ることになるのでしょう。
重九には棲霞楼に登って、貴君の方を望んで、哀しく思いつつ、『千秋歳』を歌いました。満座の人々で、貴君のことを知る人も知らない人も、皆が貴君のことを思ったのでした。
そして詞を一首作りました。……［上で見た『南郷子』の一篇を記す］……終わりの部分は、徐州の逍遙堂での夜に貴君の詩に和した詩を踏まえたものです。
貴君からの詩に、私が画いた竹を御所望とありますが、何の足しになるのやら、貴君のためとなるのなら一枚画いてお寄せしましょう。
弟は安らかにしています。我らはかつて禅について知るところはありませんしたが、弟がいま禅をいうのは、鬼を仏とするものではないかといささか疑っています。
丹砂は果たして送っていただけるでしょうか。便宜がありましたらお寄せください。私は薬について強い興味があり、暇な折に珍しいものを観てみたいと思うだけで、決して服用するものではありません。
張方平様からは長らくお手紙がきませんが、きっと安らかにしておられることでしょう。……r
【補足】［（1）馬黙［字は処厚］の名が挙げられている。馬黙は官員で、このころに黄州に立ち寄ってから、職務を帯びて南方に旅立ったので、王鞏宛ての手紙を託したのである。いろいろな機会を得ては手紙を送っていたのである。（2）『千秋歳』とあるのは、3年前に王鞏が徐州にきていたときに、重陽の日に蘇軾が作った詞。宴席で作った平凡な内容の作であるので、第5章では訳さなかったが、その中に「明年人縦健、此会応難復」［来年はたとえ元気であったとしても、この会をまた持つのはきっと難しいでしょう］の句があった。平凡な句であっても、二人の境遇ががらりと変わった時点で見ると、深い意味合いが自ずと生まれ出てくるであろう。まして、蘇軾自身が思いを込めて歌えば、満座の人々は感動するのである。（3）逍遥堂での夜とは、まさに王鞏と過ごした重陽のことで、そのときに詠んだ詩は作品番号05-4-075で見ていて、その終わりの句に「明日黄花蝶也愁」とあって、上の詞の終わりと同じである。（4）弟の禅は「鬼を仏となす」とあるのは、意味がさっぱりわからないままに読み下しただけである。弟は年齢とともに仏教に深くはまり込み、儒学、道教、仏教の三者の絶妙なバランスの上に立ち続けた兄とはいさかか異なって行く。（5）この手紙でも丹砂［硫化水銀］を所望している［→作品番号06-1-105］。注目すべきは、研究するためで、服用する気はないと明言していることだ］
■【06-2-051】集帰去来詩十首、并引
【解題】これは、陶淵明の作品である『帰去来兮の辞』の語句を使って10首の詩に編集し直したもの。短い序文がある。参考のために『帰去来兮の辞』の原文を後に掲げ、両者に共通する文字を赤色で示す。なお、十首のうちの六首は黄州で作り、残りの四首は遥か後年に作ったとされるが、ここでは合わせて見ておく。
【訳文】
引［序文］
私は陶淵明の『帰去来兮の辞』を読み、その字を集めて十の詩にした。いま子供らにこれを吟唱させている。題して『帰去来集字』という。
【補足】［「子供らに吟唱させている」とあるが、むろん自分で吟唱しつつ農作業に携わり、陶淵明に作品を一字ずつ深く味わっていたのである］
其の一
命駕欲何向、［私はどこに行こうとしているのやら］
欣欣春木栄。［春の木が喜んで栄えているこのときに］
世人無往復、［もはや世間の人と関わることはない］
郷老有逢迎。［故郷の老人たちが迎えてくれるであろう］
雲外流泉遠、［雲よりも遠くで流れる泉］
風前飛鳥軽。［風に誘われて鳥は軽やかに飛ぶ］
相携就衡宇、［さあそこにある我が家に帰って］
酌酒話交情。［酒を酌んで心置きなく話そうではないか］
其の二
渉世恨形役、［世渡りの奴隷となっていたために］
告休成老夫。［やめると告げたときにはもう老人になっていた］
良欣就帰路、［よろこんで帰路につき］
不復向迷途。［迷いの途に向かうことはもうない］
去去径猶菊、［去り行く道に以前通りに菊が咲き］
行行田欲蕪。［行き去る田は荒れてしまっている］
情親有還往、［これからは心親しむ者とだけ行き来し］
清酒引罇壺。［酒壺からうまい酒を飲むとしよう］
其の三
与世不相入、［私は世間とはうまくいかなくて］
膝琴聊自歓。［膝に琴を載せてせめてもの歓びを味わってきた］
風光帰笑傲、［自然の風光は帰ってきた私を笑って迎えてくれ］
雲物寄遊観。［雲を眺めて自由に遊ぶ気持ちを寄せる］
言話審無倦、［自然との包まぬ対話は飽きることがなく］
心懷良独安。［心にうちの懐はまことに安らかである］
東皐清有趣、［東の皐はことに清らかな趣があり］
植杖日盤桓。［杖をついて日に何度も行きつ戻りつする］
【補足】［この詩に終わりにあるように、蘇軾は東坡、陶淵明にとっての東皐に、臨皐亭から毎日のように通っていた］
其の四
世事非吾事、［世間のあれこれは私には関係がない］
駕言帰路尋。［いざここにと帰る路を尋ねる］
向時迷有命、［これが我が定めかとの迷いもあったが］
今日悟無心。［今はもうきっぱりと無心でいられる］
庭内菊帰酒、［庭の内の菊のもとに帰って酒を飲めば］
窓前風入琴。［窓辺の風が琴の音に入りこむ］
寓形知已老、［形をこの身に寓してすでに老い］
猶未倦登臨。［高いところに登って臨むに倦むことはない］
其の五
雲岫不知遠、［雲の立つ峰は遠くにあり］
巾車行復前。［車は前へ前へと行き進む］
僕夫尋老木、［伴う僕夫は老いた木のもとへ］
童子引清泉。［伴う童子は清らかな泉のもとへと行く］
矯首独傲世、［頭を上げて世の中を見回し］
委心還楽天。［天の与えてくれた運命に心を委ねて楽しもうとする］
農夫告春事、［農夫が春の農作業を教えてくれたので］
扶老向良田。［老いの身を助けて田畑に向かうとしよう］
其の六
富貴良非願、［富貴などはもとから願っていなかった］
郷関帰去休。［故郷に帰ればよいだけなのだった］
携琴已尋壑、［琴を携えて谷を尋ね］
載酒復経丘。［酒を載せて丘を巡る］
翳翳景将入、［日が蔭って沈もうとし］
涓涓泉欲流。［泉はいつまでも流れ続ける］
農夫人不楽、［農夫の仕事は楽ではないけれど］
我独与之遊。［私は独りそれに遊ぶのである］
其の七
觴酒命童僕、［童僕［少年の使用人］に酒を命じ］
言帰無復留。［帰ると己に言って、もう留まることはない］
軽車尋絶壑、［車を軽やかに走らせて谷の奥を尋ね］
孤棹入清流。［舟を清流に浮かべよう］
乗化欲安命、［自然の変化に任せて運命に安んじ］
息交還絶遊。［世間とのつまらない交わりは絶ってしまうのだ］
琴書楽三径、［琴と書物の楽しみだけで十分で］
老矣亦何求。［老いてはそれ以外に求めるものはない］
其の八
帰去復帰去、［帰ることだけがある］
帝郷安可期。［神仙の世界も期待しない］
鳥還知已倦、［鳥が帰るのはもう十分であると知っているから］
雲出欲何之。［雲は出てどこに行こうとするのか］
入室還携幼、［部屋に入るときには幼い子を伴い］
臨流亦賦詩。［流れに臨んで詩を賦す］
春風吹独立、［春の風に独り吹かれて］
不是傲親知。［何かを人に誇るわけでもない］
其の九
役役倦人事、［ごたごたとした世間の事がいやになり］
来帰車載奔。［車を走らせて帰って来た］
征夫問前路、［この先の道を問いつつ来ると］
稚子候衡門。［幼い子供たちが門で待っていた］
入息亦詩策、［家に入って詩を吟じ］
出遊常酒樽。［外を出歩くときには酒樽を携える］
交親書已絶、［親しい者からの手紙も絶えて］
雲壑自相存。［雲と谷があるのを見るだけだ］
其の十
寄傲疑今是、［心豊かないまがたぶん正しくて］
求栄感昨非。［栄えを求めていた昔は間違っていたのだ］
聊欣樽有酒、［樽にいくらかの酒があるのを喜ぼうではないか］
不恨室無衣。［着るものがなくてもどうということはない］
丘壑世情遠、［丘や谷は世俗から遠く離れ］
田園生事微。［田や園にはささいな事柄しかない］
柯庭還独盼、［庭の木々は実に美しく］
時有鳥帰飛。［帰り行く鳥がその上を飛ぶ］
陶淵明：『帰去来兮辞』
帰去来兮、田園将蕪胡不帰。既自以心為形役、奚惆悵而独悲。悟已往之不諫、知来者之可追。実迷途其未遠、覚今是而昨非。舟遙遙以軽颺、風飄飄而吹衣。問征夫以前路、恨晨光之熹微。
乃瞻衡宇、載欣載奔。童僕歓迎、稚子候門。三径就荒、松菊猶存。携幼入室、有酒盈樽。引壺觴以自酌、眄庭柯以怡顔。倚南窓以寄傲、審容膝之易安。園日渉以成趣、門雖設而常関。策扶老以流憩、時矯首而遐観。雲無心以出岫、鳥倦飛而知還。景翳翳以将入、撫孤松而盤桓。
帰去来兮、請息交以絶遊。世与我而相違、復駕言兮焉求。悅親戚之情話、楽琴書以消憂。農人告余以春及、将有事于西疇。或命巾車、或棹孤舟。既窈窕以尋壑、亦崎嶇而経丘。木欣欣以向栄、泉涓涓而始流。善万物之得時、感吾生之行休。
已矣乎、寓形宇内復幾時。曷不委心任去留、胡為乎遑遑欲何之。富貴非吾願、帝郷不可期。懷良辰以孤往、或植杖而耘耔。登東皐以舒嘯、臨清流而賦詩。聊乘化以帰尽、楽夫天命復奚疑。］
【補足】［（1）先人の詩句を借りて別の詩に組み立て直す「集句」という行為は、宋代に入って行われ始めたようで、王安石にもその作例があり、約150年後の文天祥の『集杜詩』が最も有名である。文天祥は宋が元［モンゴル］によって滅ぼされたときに最後まで抵抗した宰相で、北京で獄死したのだが、獄中において、杜甫の様々な五言詩から句を抜き出して約200首の五言絶句に組み替え、そこに自分の思いを託すということをした。言葉の遊戯だとの批判もあるが、文天祥の考えは、杜甫は人間の代表として詩を作ったのであるから、それは人間の共有財産として普遍的な価値を持ち、それを並べ直したものは人間の一員である自分の作品になるというものであった。集句に対する蘇軾の見解は後に作品番号06-4-005で見ることになる。（2）参考までに陶淵明の『帰去来兮の辞』の訳文を添えておこう］
【訳文】
陶淵明：『帰去来兮辞』［帰去来兮の辞］
余の家は貧しく、耕して植えるのでは以で自給するのには足り不かった。幼稚が室に盈ちて、缾には儲の粟も無かった。生きて生らすためのものを資める所について、其の術を見られ未ったのだ。親や故の多くが余に長吏に為るよう勧めたので、脱然して懐うところが有って、之を求めたものの途が靡かった。会たま四方之事が有って、諸侯は（賢人を）恵愛を以って（用いるのを）徳のあることと為たし、家の叔が余の貧苦を以って（推薦してくれもしたので）、遂に小さな邑に於いて用い見れることとなった。時に於いて風波［世の騒乱］は未だ静まっていなかったので、心のうちでは遠くに役ことに憚りがあった。彭沢は家を去ること百里で（近く）、公の田から之利は、それで以って酒を為るに足りるので、故で便に之を求めた。（それから）少しばかり日がたつに及んで、眷然から帰ろう歟と之情が有れた。何則とういうと、（わたしの）質は性から自然であることを（よしとして）、（おのれを）矯げて励むのは（わたしが）得る所のものでは非いからだ。饑や凍を（さけるのは）切ことではある雖も、己と違うことをすると交これ病んでしまうのだ。嘗て人事に従ったのは、皆て口腹に自ら（無理して）役のである。是に於いて悵然として慷慨って、深く平生から之志に（反していることを）愧しくおもった。それでも猶も望んでいたのは（秋になって）一たびの稔りをえることで、それから当に裳を斂て宵のうちにも逝ってしまうつもりだった。尋と程氏にとついでいた妹が武昌に於いて喪り、情は（もはや）駿奔ことのほうに在って、自ら免めて職を去ったのだった。秋の仲から冬に至るまで、官に在ること八十余日であった。しかじかの事を因けに心に順えたわけで、この篇を命て帰去来兮と曰う。乙巳の歳［405年］の十一月で也った。
帰去来兮、［帰去来兮］
田園将蕪胡不帰。［田園は将も蕪れようとしている、胡して帰ら不いということがあろうか］
既自以心為形役、［既に自でわが心を以って形のための役に為てしまったのだ］
奚惆悵而独悲。［いまさら奚て惆悵して而て独り悲しむのか］
悟已往之不諫、［悟ったのは、已に往ったことに之ては諫めようが不いということ］
知来者之可追。［知ったのは、これから来る者に之ては追か可るということ］
実迷途其未遠、［実に途に迷ったものの、其は未ださほど遠くではなくて］
覚今是而昨非。［今が是て而て昨が非っていたのが覚ったのである］
舟遙遙以軽颺、［舟は遙遙と、以て軽やかに颺り］
風飄飄而吹衣。［風は飄飄と、而てわたしの衣を吹く］
問征夫以前路、［征く夫に前の路に以て問うたところ］
恨晨光之熹微。［晨の光之まだ熹で微なのが恨である］
乃瞻衡宇、［乃てわが衡や宇が瞻えてきたので］
載欣載奔。［載に欣び、載に奔った］
僮僕歓迎、［僮僕たちが歓んで迎えてくれて］
稚子候門。［稚い子らが門で候っている］
三径就荒、［わがやへの三の径は荒れ就ているけれど］
松菊猶存。［松や菊は猶ももとのままに存る］
携幼入室、［幼らを携えて室に入ると］
有酒盈罇。［酒が有って罇に盈ちている］
引壺觴以自酌、［壺と觴を引きよせて以て自ら酌んで］
眄庭柯以怡顔。［庭の柯を眄て以て顔を怡ばせる］
倚南窓以寄傲、［南の窓に倚て以てわが傲を寄せる］
審容膝之易安。［膝を容れるのがやっとの之でこそ安らかでいられ易ことを審のである］
園日渉以成趣、［園は、日が渉るに以て趣を成し］
門雖設而常関。［門は、設けてある雖も而し常も関している］
策扶老以流憩、［老を扶けるつえを策いて以で流つつ憩い］
時矯首而遐観。［時に首を矯て而して遐くを観たりする］
雲無心以出岫、［雲は無心で、以で岫を出るが］
鳥倦飛而知還。［鳥は飛ぶに倦んで、而から還るを知る］
景翳翳以将入、［景は翳翳なって以で将そろ入ろうとし］
撫孤松而盤桓。［孤の松を撫で而ら盤桓いる］
帰去來兮、［帰去来兮］
請息交以絶遊。［請よう、交るのを息めて以で遊を絶つのだ］
世与我而相違、［世 与 我とは而く相違のだ］
復駕言兮焉求。［復た駕言したところで、兮て焉を求めようというのだ］
悦親戚之情話、［親戚之情のある話を悦び］
楽琴書以消憂。［琴と書を楽しんで以で憂いを消すのだ］
農人告余以春及、［農の人が余に告げるのには、「以れ春が及たよ］
将有事于西疇。［将いよ西の疇に于て事が有りますよ」と］
或命巾車、［或ときは巾つきの車を命じもし］
或棹孤舟。［或ときは孤の舟で棹さすこともある］
既窈窕以尋壑、［既は窈窕と以んで壑を尋ね］
亦崎嶇而経丘。［亦は崎嶇と而んで丘を経てゆくのである］
木欣欣以向栄、［木は欣欣と、以して栄えに向かい］
泉涓涓而始流。［泉は涓涓と、而して流れ始める］
善万物之得時、［万物之よい時を得たことを善ろしいとして］
感吾生之行休。［吾の生之行ゆくは休むことを感じるのである］
已矣乎、［已矣乎］
寓形宇内復幾時。［形を宇の内に寓しておくのは復ても幾の時でもないのだ］
曷不委心任去留、［曷して去るも留まるも心に委ねて任せないなどいうことをするのか］
胡為乎遑遑欲何之。［胡為てこうも遑遑して何に之こうと欲いるの乎］
富貴非吾願、［富貴は吾が願うものでは非いし］
帝郷不可期。［帝郷などは期に可るものでは不い］
懐良辰以孤往、［良い辰は懐して以で孤りで往くし］
或植杖而耘耔。［或いは杖を植いて而して耘たり耔たりもする］
登東皋以舒嘯、［東の皋に登って以して舒と嘯き］
臨清流而賦詩。［清い流れに臨んで而して詩を賦したりする］
聊乗化以帰尽、［聊くは［大自然の］化に乗って、以れで尽きるところに帰るのだ］
楽夫天命復奚疑。［夫の天命を楽しんで復う奚て疑わないのである］
■【06-2-052】楽全先生生日、以鉄拄杖為寿、二首
【解題】王鞏に出した先の手紙［→作品番号06-2-050］で、大恩人の張方平［字は安道］からは長らく手紙がこないと書いていた。その一方で、蘇軾は張方平の誕生日［9月23日］に間に合うように鉄の杖を贈った。それは昨年得た鉄拄杖である［→作品番号06-1-086］。張方平が楽全堂を作って「楽全堂居士」と称したことは作品番号05-1-052で見ていて、ここでは張方平のことを楽全先生と呼んでいる。
【訳文】
其の一
楽全先生はまさに地上の仙人というべきお方、
この世に住まってかれこれ五百年になる。
いつも銅人に向かって昔話をし、
この鉄拄杖と清らかさと堅さを競うのである。
先生の胸には氷雪が入って透徹した思想が生まれ、
先生が昼寝をするときには四方の壁を竜が守る。
遥かに想像するのは、
天の方丈に仙人たちが集まり、
先生が語り出すや、一同の者が驚倒するありさま。
【補足】［張方平を500年よりも長く生きる仙人に譬えた戯れの詩であるが、張方平に対して、普通の言葉ではとても言い表せない思いがあるから、このような表現になるのだろう］
其の二
この杖は二年の間、影のように我が身に随い、
江湖［田舎の自然］の草木の春を遍く踏み鳴らしてきたもので、
杖で石を突いた痕がなお眼に明らかに見える。
もしも、門を閉ざして家に置くなら、
杖はいずれ気高い竜に変じて鱗を生じるであろうか。
この杖とともに身を守りつつ慎重に歩くときは、
途で敵に脅かされることはないのだが、
もしも、先を争って近道を行こうとすると、
かえって人に累わされることになるだろう。
遠く公にこの杖を寄せるのは、
この重さを嫌いはしないと知るからである。
なぜなら、公が文章を記すときは、
筆の端で自在に千鈞の重さを操っているのだから。
■【06-2-053】与潘三失解後飲酒
【解題】潘丙の弟の潘原［潘三］は法に触れることをしたとされて、しばらくの間拘束されて官の取り調べを受けていた［→作品番号06-1-068］。この頃になってようやく解放されたので、蘇軾はこの詩を贈った。詩の題にある「失解」は、科挙の試験に不合格になったときに用いられことが多い語句で、直接的に落第とはいわずにややぼかした表現であるのだろう。それをここではより不名誉な事柄に対して用いている。
【訳文】
我が家に伝わるおんぼろの箒、
それには千金の価値があると思い込んでいたところで、
誰も買ってくれはしない。
額の半分ほども長く引いた眉、
それがいまの流行だからといって、
本当に美しいわけではない。
私自身を顧みるなら、
どの箒がよいのか、どの眉が美しいのか、
鈍い頭で何もわかっていない。
それでも、貴君がちっぽけな嬋娟［美点］を争うのを残念に思っている。
青雲の上に昇る志を果たすことができるのかどうか、
将来のことはいまはわからない。
黄色い菊は去年と同じように咲き、
長江を満たす風と月の光には値段が付いていない。
さあ今日は酔って、
人生の得失など忘れるがよい。
【補足】［この詩を読んで、われわれには詳しい意味を汲み取ることができなくても、潘原には思い当たるところがあるのだろう。要するに、目の前のことにひかれておかしなことをしたりせずに、大きな目標を持てというのであろう］
■【06-2-054】記游垂虹亭
【解題】この文章は作品番号04-3-077としてすでに見ている。7年前の楽しい遊びをいま思い出して記したものである。
【訳文】
私は昔、杭州から密州に移ったときに、楊絵と同じ舟に乗って杭州を発った。そして、陳舜兪と張先とともに湖州の李常を訪ねた。さらに、劉述とともに松江に至ると、夜半に月が出て、垂虹亭の上で酒を置いた。このとき張先は八十五歳で、歌詞で天下にその名が聞こえ、『定風波令』の詞を作った。その中に、
見説賢人聚呉分、［いま賢人が呉の分野に集まっているとか］
試問、［ちょっと聞いてみましょう］
也応傍有老人星。［星々のかたわらにあるのはきっと老人星でしょうね］
坐客は非常に喜び、酔い潰れる者もいた。このときの楽しさはいまも忘れることができない。
あれからわずかに七年であるのに、張先も劉述も陳舜兪もこの世の人ではなくなってしまった。そして松江の橋のたもとにあった亭も、今年の七月九日に海からの風で水位が上がって一丈余りの水が平地上に溢れたために、跡形もなく消えてしまったという。
昔を思えばまさに一つの夢である。
元豊四年十月十二日、黄州臨皐亭で夜に坐して書く。
【補足】［（1）ここに記されている人名や事柄については作品番号04-3-077を見ていただきたい。（2）ここまで読み進めてくると、「昔を思えばまさに一つの夢である」ということが実感として伝わってくるだろう。（3）最後の日付は、作品番号04-3-077では元豊四年十二月十二日としたが、ここでは別の考証に従って十月十二日としておく。（4）なお、上の文章にある李常と楊絵は健在で、李常は作品番号06-1-043などで見ているし、楊絵は作品番号06-2-083でまた登場する］
■【06-2-055】飲酒説
【解題】これは酒についての短文。
【訳文】
私は酒を飲んでも多くはない。しかし、毎日盃を手にするのを楽しみとしていて、この君なしでは一日も過ごせないほどである。
黄州で造られる酒は少なく、官が扱う酒は質が悪くしかも高い。つまるところ、門を閉ざして自分で醸さなければならない。ところが、材料となるものがよくない上に、我が腕がだめなので、全くもって口に入れるに値しないようなものしかできない。がっくりして、世間に生きることに窮した者は何一つとして成すことができないのだと、嘆息するのである。
とはいえ、甘かろうが酸っぱかろうが苦かろうが、瞬時に口を通過してしまって、それを追いかけようとしてももう及びはしないのだから、味などはさておいて、人を酔わせることができるという点なら、私の酒だって悪くはないだろう。客人は私の酒では楽しめないだろうが、客人が喜ぼうが怒ろうが、いずれにしても私の知ったことではない。
元豊四年十月二十一日
【補足】［蘇軾は自分で酒を造ろうとして、なかなかうまくはできなったのだろう。「門を閉ざして醸す」とあるのは、酒は課税の対象で、お上に届けずに私的に酒を造るのは、厳密にいえば禁止されていたからなのだろう］
■【06-2-056】飲酒説
【解題】もう一つ酒についての短文。これは翌々年に書いたものであるが、ついでにここで見ておこう。
【訳文】
飲酒を嗜む人は、一日酒がないと調子が悪くなり、酒を断つと居ても立ってもいられなくなる。そして、
「酒は断ってはならないのだ。酒で死ぬなら本望だ」
という。
酒を断って病むのは、それはすでに病があるからだ。常に飲んでいるから病にならないという者は、一つでも病があると死んでしまう。
私は平生から「熱薬」を服し、飲酒は多くないとはいえ、盃を手にしない日はない。ところが、去年から「熱薬」を服さず、今年になってからは飲酒も至って少ない。すると、日に日に病んでしまい、大きな害にはなってはいないものの、飲酒をし、「熱薬」を服して無病であったころとはまるで違っている。
いま眼に痛みがある。よく考えてみれば、それはこのような理由によるのではないだろうか。
【補足】［要するに、酒は飲んだ方がよいといいたいのだろう。「熱薬」の語は意味がよくわからないのでそのままにしておく。熱くして飲む薬なのか、熱を上げるか下げるかする薬なのか。とにかくいつも飲んでいる薬があったのだろう。獄に入って以降はそれを飲めないでいるのだろうか。なお、後に見るように［→作品番号06-4-004］、元豊6年春に蘇軾が眼を患っていたとわかる記録があるので、この文章が書かれたのはその頃であるとされている］
■【06-2-057】聞捷、并引
【解題】対岸の王斉愈［→作品番号06-1-030］を訪ねたときの詩。序文がある。
【訳文】
引［序文］
元豊四年十月二十二日、長江の南で王斉愈に会ったところ、ちょうど陳慥からの手紙が届いていて、「この月の四日、种諤が兵士を率いて敵地に深く入り、西夏の兵士六万余人を破り殺し、馬五千頭を獲た」と報せてきていた。一同は喜び、勝利を祝う楽を唱え、おのおの大きな觥を飲み干した。
聞くところでは、
官軍は敵の塞を取ったと。
将軍の軍団の速さは鬼神のようである。
よっていますでにわかるのは、
かの地の無定河の柳も、我が都の柳とともに、
来年は同じ一つの春の内にあって、
白い絮を飛ばすであろうこと。
【補足】［蘇軾は、西方の西夏国との戦争を始めることに強く反対していた［→作品番号05-3-024］。皇帝はこの年の6月、西夏国との開戦を決断し、ただちに种諤らが攻撃を始めた。宋軍は連戦連勝で、ここにあるように大勝利をおさめたとの報せが10月4日に都に届き、皇帝は大いに喜んだ。陳慥は独自の情報網を持っていたのだろうか、いち早くそのことを知って、王斉愈に報せた。そもそも戦争には反対であった蘇軾も、捷報を聞けば嬉しいもので、皆で祝ってこの詩を作った。座興の詩で、蘇軾の作とは思えないほどひどく拙いとの評がある。緒戦の勝利は実は西夏側の計略で、宋軍は敵地に深く誘い込まれて補給が困難になり、反撃に遇ってたちまち瓦解してしまうのだった］
■【06-2-058】杭州故人信至斉安
【解題】杭州の知人たちから手紙や差し入れが届いての詩。
【訳文】
昨夜は風月が清く、夢で西湖のほとりに行った。
朝になると、戸を叩く者があり、
杭州からの好い言葉が聞けただけでなく、
呉の地の食べ物ももたらされた。
円く軽やかな白曬荔［果実］、
濃くてまろやかな紅螺醬［調味料］、
さらには西庵茶もあって、
それらで江瘴［川べりの地の風土による病］を洗えと勧めてくださる。
昔の友人は情義が重く、
一年雇いの二人の召使を従えて、
千里の彼方から西に向かって必ずお訪ねするであろうといってくれる。
そして、詩文の集まりを結ぼうとの提案であるのだが、
詩帳を編んだりしたならまた罪を蒙りかねないのがわかっておられない。
私はまた夢に魂を飛ばし、
次の夜は杭州の江漲橋に到るのである。
【解題】杭州の銭塘県で主簿の職にある陳師仲から手紙が届いたのでそれへの返事。陳師仲は徐州の人で、後に蘇門六学士の1人として数えられるようになる陳師道の兄である。
【訳文】
……先に徐州におりましたときに再会する機会があり、顔復君らに聞いたところ、皆が貴君の文詞が特に優れ、志節が高く明らかで、毎日語り合いたいと思っているということでありました。たまたま貴君に関わりのある訟訴事があって、それからはお話することもなくなってしまいました。貴君の一門の不幸であり、また官員にとって楽しいものではありませんでした。かれこれ思うところであります。私は私で罪を負って遠くに追放され、ますます消息を聞くことがなくなってしまいました。いまお手紙を頂戴して、昔に増すお気持ちの厚さに感じ、また前の事は意に介していない御様子で、はなはだ幸いに存じます。
私が罪を得てから後には、かつては親しくしてくださった人も何もいってこようとしなくなったのですが、貴君だけが多くの人が忌むところをなさるのはどうしてなのでしょうか。送ってくださった詩文を拝見して、数篇を見たばかりで、手を打って嘆息したのでした。これはいまの世に珍しい人で、世俗の人にはその価値を量ることはなかなかできないであろうと思いました。詩文はどれも優れて美しく、寄せる思いは多岐にわたりつつも、すべて大道に合致しています。私にはなかなかいえないものです。また十のうち四ないし五には弟について触れていて、その情愛の深さが現れています。世俗とは齟齬するところが多くあって、それで己を厭い、他人についてとやかくいうところはありません。そうしたところは私も同様でありますので、私はこのままでよいのだろうという気にならせてもらえます。……
御祖父様［陳洎］の詩を幸いにも拝見でき、諸公が書かれた後ろに数文字を書き添えました。
『超然台』と『黄楼』に関連する作品を集めた二集は大変貴重な賜りものです。かつて私は編集したことがなく、幾つかの作品がありましたのも、私が罪を得たときに焼き尽くしてしまいました。まさか貴君のところにあるとは思いもしませんでした。道理に合わないところを添削して残したいと思います。
私は銭塘［杭州］の人々に何も恩恵を施していなかったのに、人々はどうして私のことをいまも念っていてくださるのでしょうか。私もまた年に何度も夢で西湖に行きます。俗にいうところの前世の縁なのでありましょうか。私は杭州にいたときに寿星院に遊んで、門から入ってすぐにここにはかつてきたことがあると悟りました。寿星院の後ろの山に石があることを言い当て、それでそのとき詠んだ詩に「前生已到」［前生已に到る］の語があったのです。貴君はいま銭塘主簿として寿星院に出入りすることも許されて、かのときの私のように自由に遊ぶことができるのでしょう。山水の極めて絶妙なところには、しばしば私の題字があるでしょうし、その後で誰かが書いたものもあることでしょう。貴君が至ったならば、詩体によらずに年月の順序に従って記録してください。その一つでも二つでも寄せてくださるならば我が思いは大いに慰められます。
【補足】［（1）徐州で顔復と親しくしていたことは作品番号05-4-080などで見ている。（2）祖父の陳洎の詩集に添えた文章は次に見る。（3）『超然台』『黄楼』の二集とは、蘇軾と蘇轍の作品に触発されて諸家が唱和した作品を集めたものであろう。作品番号06-2-017で見たように、当局の捜査を怖れた家人によって蘇軾の家にあった文書類の多くは焼かれてしまったので、陳師仲のような蘇軾ファンのもとにあったものから蘇軾の作品群は復元されたのであろう。その後も何度か散逸や消失の危難を乗り越えて現在にまでに伝わったものを我々は読んでいるのだ。（4）後半には、杭州への蘇軾の思いが綴られている。寿星院に遊んだことは作品番号04-2-082で見ている。「前世已到」の語は、そのときの詩ではなく、作品番号05-1-068に「前生我已到杭州」［前生 我已に杭州に到る］と詠まれている。あるいは寿星院で確かに詠んだけれどもその詩は失われてしまったのかもしれない］
■【06-2-060】題陳吏部詩後
【解題】上に見た陳師仲の祖父の陳洎の詩集にこの後書きを記した。陳洎はかつて朝廷の高官であった。
【訳文】
もとの三司副使吏部の陳公［陳洎］とは、私はお会いすることができなかった。私が若い頃、当時の名高い方々の多くが陳公のことを尊んでいた。それから先輩方は徐々に減り、ほとんどおられなくなるにつれて、公の詩を称えて誦じる人を見ないようになった。しかし、公のちょっとした言葉や遺した事柄を見ると、どれも記録し、宝物として大切にしておくべきものばかりで、まして文章は非常に優れている。公の孫の陳師仲君が公の詩の二十五篇を集めて私に見せてくれた。再三感嘆しつつ、公のありしお姿を想像するものである。
元豊四年十一月二十二日、眉州の蘇軾が書く。
■【06-2-061】跋所書摩利支経後
【解題】仏典の『摩利支経』を書き写し、この跋文を書き添えた。この経は従兄の蘇不疑［→作品番号06-2-048］の息子の蘇安節のために写したものである。
【訳文】
甥の蘇安節は元豊庚申六月の大水の中を舟で峡谷を下り、常にこの経を持って険難を脱することを得た。あくる年の十二月に黄州に至り、私に会った。そして、この経を私が写したものを持って蜀に帰りたいと願った。
眉陽の蘇軾が書く。
■【06-2-062】侄安節遠来夜坐三首
【解題】上に見たように、甥の蘇安節が前年の夏に蜀を出て、この年の12月の黄州にきた。そのことを詠んだ詩。
【訳文】
其の一
私が蜀を離れて南の地に来てから、
それと思わぬうちに、流れた月日が山のように積み重なってしまった。
今夜は君と坐し、
冷たくなった灰をかきまぜながら雨音を聴いている。
私はもはや眼に文章をさらして読むようなことをしていない。
人に伴う燈火にしみじみ情があると感じるだけだ。
私は自身の出鱈目のために郷里に帰ることができない。
君はここまでの人生で何もかもがうまくいかないという。
それでも、燈火が短くなるまで君と話し込んで、
白髪になったことをただただ嘆いてばかりでなくすんでいる。
其の二
私も君も心が衰え、顔貌も改まり、ひどく痩せてしまった。
しかし、会って語り合えば声は互いに昔と変わらない。
私は秋の夜長に遥か故郷のことを思っていたのだが、
一年の終わりのときに、君が遠く来てくれたその情の深さを知る。
私は人を畏れて癡鈍のように黙んまりを決めてきた。
君に旧知の人々のことを次々に尋ねて、
その半ばが死生を異にしたことに驚かされる。
人生の夢は断たれ、酒は醒め、雨も絶たれた。
笑って看ようではないか、
飢えた鼠が燭台の上に登って行くのを。
其の三
落第した君に、酒はいかなる味なのか。
私は詩を吟じても、ただ飢えが耐え難いと嘆く声しか出ない。
思うに、穀類を絶って仙人になろうとするのはよい方策でないだろうし、
郷里に帰って田を耕せばよいと、そればかりを説くのは、
人の情として物足りないものがある。
それでも、昔、剣を売って牛を買うことを勧めた賢者がいたように、
牛にまたがるなら心はのどかでいられるし、
川洲に勝手に成長する水草を採っても生きられないことはない。
君の弓はひとたびは緩んでしまったようにみえても、
何もそっくり作り直さなければならないというものではないのだ。
【補足】［蘇安節が黄州に蘇軾を訪ねた事情は上の短文とこの詩から推測するしかない。其の三に「落第」の二文字があるので、蘇安節はこの秋にどこか［たぶん都］で科挙の地方試験を受けて不合格となったのだろう。失意の帰郷の途中で黄州に立ち寄り、今後の支えとなるよう『摩利支経』を書いてほしいと蘇軾に頼んだのだろう。蘇軾の父の蘇洵には蘇澹、蘇渙の兄がいて、蘇澹もその息子も科挙には合格しておらず、孫の蘇林は受験に失敗して失意のうちに亡くなっている［→作品番号03-3-028］。蘇渙が蘇家で初めて科挙に合格して官員となったのだが［→作品番号02-4-017］、その息子たちは、昨年亡くなった蘇不欺も、蘇安節の父の蘇不疑も、三男の蘇不危も科挙に合格できなかったので、次代のホープとして蘇安節にはかなりの重圧がかかっていたのだろう。それで、其の二に「心が衰え、顔貌も改まり」と詠まれているのだろう］
■【06-2-063】冬至日贈安節
【解題】蘇安節が来たのは冬至の直前で、この詩を冬至の日に贈った。
【訳文】
私の人生で幾度の冬至があったろうか。
少年の頃のことがいまも昨日のように思い出される――
長寿を祝うために、膝をむき出しにして、当時の年長者に拝礼した。
私はこの十年間を官舎で過ごし、
白髮は衰えと疾いを催すばかりだ。
かつて私の前には不欺、不疑、不危の三人がいて、
私の後には轍が一人だけいた。
いま、近い者［弟］も長江を隔てているし、
遠い者［従兄たち］は天の向こう側の壁のあたりにいる。
今朝は何の幸いか、
万里の向こうからきた君を見ることになった。
憶い出すのに、君はまだ子供の髪をしていて、
泣くといえば、梨や栗をほしがってのことだった。
今来た君を見れば、
天下のことを慨嘆し、志気は鉄石のように堅い。
蘇の家の子孫がみな君のようであるなら、
我が一族はいつまでも続いてゆくであろう。
この詩ができてみると、
超然として涙など滴り落ちるようなことはないのだ。
■【06-2-064】記与安節飲
【解題】同じ日に蘇安節と飲んだことを記したごく短い文もある。
【訳文】
元豊辛酉、冬至の日。
私は黄州にいて、蘇安節は千里の道も遠くはないとして訪ねてきた。酒を飲んではなはだ楽しく、蘇安節は黄鐘で『梁州』の曲を吹いた。少年がそれに合わせて舞った。酔いから醒めてこの一時の楽しさを識るす。
【補足】［黄鐘は管楽器である］
■【06-2-065】伯父送先人下第帰蜀詩云、人稀野店休安枕、路入霊関穏跨驢。安節将去、為誦此句、因以為韻、作小詩十四首送之
【解題】蘇安節が短い滞在の後に帰ることになり、この一連の送別の詩を贈った。詩題は「我が父が科挙に落第して故郷に帰ったとき、伯父の蘇渙が詩を送ってくれた。その中に『人稀野店休安枕、路入霊関穏跨驢』［人稀れにして野店で枕に安んずる休し、路は霊関に入って穏やかに驢に跨がる］という句があった。蘇安節が行くにあたって、この句を誦し、それぞれの文字を韻にして小詩十四首を作って送った」。この詩は六言四句という珍しい形式で作られていて、それで「小詩」といったのだろう。蘇軾の父の蘇洵が科挙の二次試験を都で受けたものの不合格になったのは宝元元年［1038年］で［→作品番号01-2-001］、これより43年前であった。そのときに兄［蘇安節の祖父］が弟を慰めた詩を引いて、今度は叔父が甥を慰めたのである。一族の情誼の厚さを感じさせる。
【訳文】
其の一
ここ黄州は、
昔から放逐された官員が住むところとなっている。
ただでさえ索漠としているのに、
風雪のなか、
独り帰る人を見送る。
【補足】［「放逐された官員」とは、例えば王禹偁［→作品番号06-1-044］であり、任伋［→作品番号06-2-036］であった］
其の二
我が痩せた骨は、寒さのために断たれるばかり、
我が衰えた髯は、摘まんでいよいよ稀れである。
これが死別となるとも、
それに甘んじようとまでは思わない。
しかし、生きて故郷に帰れまいとの恐れはある。
其の三
日が上るとき、
長江の上に満ちる気にまず曙光がくる。
雪が晴れるとき、
東の坡の野に目が眩むほどの光がくる。
君が家に帰ったとき、
きっと思い出してほしい――
ここで私が鋤を手にしていることを。
其の四
君の破れた裘に、月の明るさが注ぎ、
君の剣は、寒気の厳しさのために鈍ってしまうだろう。
私は家に戻って戸を閉めて座し、
君がこれから経て行く道筋の宿を黙々と数えるのである。
其の五
故郷の人々に寄せるべき言葉、
そのようなものはいまはない。
いつかきっと自分の口からいおう。
すっかり白髪になった者どうしが顔を見合わせて、
「全てもう終わったのだ」と。
其の六
故郷の人々がもしも私のことを念ってくれるのなら、
君はこのようにいってくれたまえ。
「とにかく痩せていました。
身には患いがあり、
心を安らかにすることもできないようでした」
其の七
吾が兄［従兄の蘇不疑］は酒を喜ぶ人だ。
君もまたよく飲む人である。
帰ってから一緒に一杯やりながら、
兄にこういってほしい、
「万事、邯鄲の枕である」
其の八
あの東の道……
寒食の日に君とたどったあの川べりの路……
その先にある魏城君［蘇軾の妻］の墓、
哀しいことに、
真新しかったあの墓もいまでは草に埋もれていることだろう。
【補足】［蘇軾が最初の妻の王弗を夢に見て詞に詠んだのは9年前であった［→作品番号05-1-029］］
其の九
いよいよ別れに臨んでまたしおしおとなるのは、
互いに道に窮しているのを泣くのではない。
あの東の道を思うからだ。
君がまたそこに行ったならば、
牛や羊が我がもの顔で出入りすることがないようにしてくれたまえ。
其の十
夢に私は君の後を追って行く……
東の道では松が青々としているであろうか。
そして我が父が住まいとしていた門に入るなら、
先祖の霊に対して永く恥入らなければならないだろう。
其の十一
どれほど旨いものでも、
人からの施しものなら羨むに足りない。
自ら得た米を背負い、
百里の道を親のもとへと運ぶのは、
少しも苦労ではない。
身の栄華を飾る車馬がないのを恥じて、
私は故郷への道を取らないでいるのではない。
其の十二
私は実態よりも評判ばかりが高くなって、
そのために騒動を起こして身を損なった。
君がまだ世間に知られていないことこそ幸いではないか。
穏やかな気持ちで故郷に帰ることができるのだ。
それ以上にすばらしいことがあるだろうか。
其の十三
竹の笥と練り絹の着物、
佳き時を得て婚を終えた後に、
私が無事でいるだろうかと気になったりしたならば、
また旅の鞍にまたがって来てくれたまえ。
【補足】［この詩から推測するに、蘇安節には縁談が進んでいたのだろう］
其の十四
万里の向こうから、
君がまたやって来る日にも、
私はなおここで同じわび住まいだ。
君は笑わずにはいられないだろう、
石磨を回す驢馬と同じく、
私がいつまでもぐるぐるしているのを。
■【06-2-066】題子明詩後
【解題】蘇安節の父の蘇不疑［字は子明］の詩に書き添えた短文。終わりに、黄庭堅［字は魯直］の添え書きがある。
【訳文】
吾が兄の蘇不疑はかつては酒をよく飲み、二十蕉葉［底の浅い盃で二十杯］に及んでようやく酔った。兄と一緒に遊ぶのは眉州の蟆頤山観の侯老道士で、歌いかつ飲んでいた。そのとき、気が猛り、韻をはずれ、天地の大きさも、毛筋の小ささも知らないようなありさまであった。
それから兄を見ないこと十五年、蜀の政事について特に噂されるなかに、昔のような兄について聞くことはなくなった。
蜀から甥の蘇安節がきて、兄は酒を飲んでもいまでは三蕉葉を過ぎることはないという。私は年少のころは酒の杯を見ただけで酔ったようになってしまったのだが、いまは三蕉葉くらいなら飲むことができる。しかし、かつて学んだことは地を掃うようにして消え去り、世に無用な枵然の廃物となってしまった。つまり、得られるものがあれば必ず失うものがあって、二つをともに得ることはできないのである。
侯老道士とは東坡［蘇軾］の従叔の蘇慎言である。今年、その孫の蘇汝楫が進士に及第した。東坡はここで三蕉葉を飲むといっているが、これは酔中の語で、私は東坡の家に行って二人で飲んだことがあるけれど、一大觥を尽くすことができないうちに酔って眠ってしまった。
魯直題す。
【補足】［この短文からもわかるように、蘇軾は酒に弱く、すぐに眠ってしまうのだった］
■【06-2-067】浣渓沙
【解題】十二月二日と三日に作った詞。短い序文がある。
【訳文】
十二月二日、雨の後にわずかに雪が降った。徐大受知事が酒を携えて訪ねてくれた。その場で『浣溪沙』の詞三首を作った。翌日に酒が醒めると大雪になっていて、また二首作った。
【補足】［ここでは、最初の3首から第一首と第二首を、後の2首から第二首を訳す。始めの2首は知事の訪れを歓迎する詞、終わりの1首は翌朝の思い］
其の一
覆塊青青麦未蘇。［土くれを覆って青々と伸びる麦はまだ蘇ってきていません］
江南雲葉暗随車。［知事殿の車に随って、長江の南からのひとひらの雲がついてきます］
臨皐煙景世間無。［臨皐亭からの煙るような景色は、世間にまたとはないのです］
雨脚半收簷断線、［簷から落ちる雨脚の線が半ば断たれると］
雪林初下瓦跳珠。［雪は林へと下り、すぐに瓦に珠が飛びます］
帰来冰顆乱黏鬚。［知事殿が帰るときには、鬚に氷の粒がくっつくことでしょう］
其の二
酔夢醺醺暁未蘇。［酔っての深い暁の夢からまだ蘇ってきていません］
門前轆轆使君車。［そのときに、門前でごとごとと音がするのは知事殿の車です］
扶頭一盞怎生無。［頭をあげ、一杯の酒くらいならないことないでしょう］
廃圃寒蔬挑翠羽、［小さな畑から冬野菜の翠の羽でもつまんできましょう］
小槽春酒滴真珠。［小さな酒の槽から滴るのはあたかも真珠］
清香細細嚼梅鬚。［梅の鬚［花蕊］からの清らかな香りをよくかみしめましょう］
【補足】［其の一で使った蘇、車、無、珠、鬚の四つの韻をそのまままた用いている］
其の五
万頃風濤不記蘇、［酔って見た長江一面の波の記憶はまだ蘇ってきません］
雪晴江上麦千車。［雪が晴れ上がった長江のほとりに想見するのは、麦を満載した千台の車］
但令人飽我愁無。［人々が飽くまで食べられるのなら我が愁いはないのです］
翠袖倚風縈柳絮、［柳の絮が風にめぐるように翻る妓女の袖、それは昨夜の宴］
絳唇得酒爛桜珠。［酒闌にして桜桃の花に見まごう赤い唇］
尊前呵手鑷霜鬚。［私は凍えた手で白い髭をひねっておりました］
【補足】［最初の句は、大雪で激しく波立ったのが思い出せないほどにきれいに晴れ上がったことをいう。雪は豊作の吉兆ということから、麦を満載した車が川べりの道に連なるありさまを想像したのが第二句。そして後半は、昨夜の宴席を回想して、自分だけは鬚をひねって思案に沈んでいたという。どのような思案かというと、東の坡を開拓してきたこの1年間の自己の労苦に、民衆の労苦を重ねて合せて考えていたのだろう。それが第二句の空想を呼んだのである］
■【06-2-068】与陳季常
【解題】陳慥［字は季常、方山子］［→作品番号06-2-031］に宛てた手紙。
【訳文】
昨日は、人が還ってきて、お手紙を拝見し、こちらからのものがすでに届いたのを知りました。そして、今日は馬鋪からの報せを見ますと、李常君が二十一日に光州との境を通るとありますので、いまはもう光州に入っているのでしょう。黄州知事に特別に人を出してもらって、手紙を李常君に届け、岐亭で会う約束をしたいと思っています。私は一日にすぐに発てば、二日の晩にはそちらにきっと着きます。こうして会えるのなら稀有のことでありましょう。貴君におかれては、我らをもてなすために決して殺生はなさいませんように。そして李常君には貴君からもお手紙を出して迎えてくれましたら、さらによいでしょう。とにかく急ぎますので、思うところは尽きませんが、これで失礼します。
【補足】［李常は1年ほど前に公務で黄州に来た折に会っていた［→作品番号06-1-101］。やはり公務による移動の途中に黄州と光州の境のあたりを通ると聞いたので、蘇軾は岐亭の陳慥の家で三人が会えるかもしれないと思い付いたのである。二十一日とあるのが十一月で、一日、二日は十二月であろうと推測されている。しかし、12月2日には、上の詞で見たように徐大受知事の訪問を受けているので、思う通りにはならなかったのだろうか］
■【06-2-069】与李公択
【解題】李常［字は公択］との再会を模索していた前後に李常に送った手紙を二通見ておこう。
【訳文】
（1）門を閉ざし、来客を断って、甚だ快適に暮らしております。気術［気をコントロールする健康法］について簡便な方法を得ました。これは面と向かってでないと伝えられないものなので、私一人だけを長生きさせたくないのなら、早々にこちらにお越しください。
弟は恙なく過ごしておりますが、娘を喪って十月で足掛け三年となりました。このような悲しみはしばしばあるものですが、心に慣れるのは難しく、自ずと解けるのを待つしかないのでしょう。光州知事の曹九章君のお気持ちについては、私の考えも添えて、弟に手紙を書きました。きっと話が成立することでしょう。
……回文の『菩薩蛮』の四首をお寄せします。お笑いください。貴君はかつて劉攽君が作った回文の詞を見たことがありましたでしょうか。これと似たようなものを劉君が作って見せてくれたのですが、いまは失ってしまいました。劉君からは何か消息がありますか。孫覚君からはきっとお手紙が来ていることと思います。いまは徐州におられるのでしょうか。
【補足】［（1）最初の部分は李常に会いたい気持ちをちょっとひねって記したもの。岐亭で会おうとしたのはこの手紙の少し後であろう。（2）光州知事の曹九章［→作品番号06-1-112］の気持ちとは、その息子の曹煥と蘇轍の娘との縁談で、初めに曹九章が希望して李常に口添えを頼み、李常が蘇軾に話を持って行き、蘇軾が弟に伝えたのである。これだけの手回しをされたのでは断るわけにはいかないだろう。（3）李常に寄せた回文の詞はこの後に訳す。劉攽［→作品番号05-1-064など］は蘇軾に似て諧謔好きで、孫覚［→作品番号05-5-059］は李常と蘇軾の共通の友人である。三人とも蘇軾に連座して処分を受けている］
（2）しばしばお手紙を頂戴し、お心遣い痛み入ります。このごろはいかがお過ごしでしょうか。しばしば雪が降り、農耕に勤しむ思いを慰めてくれます。昨日、船が至り、橘の実やお酒が届きました。これまでに頂戴した絹を数えると三百匹にもなります。新年の杯を交わすことは叶いそうにありませんが、いずれはきっとお会いできましょう。このように窮して退いて自ら耕す暮らしとなったのも、人々からいろいろな頂戴でますのも、どれも賜り物であるのでしょう。寒さの厳しい折から、万万自重されますように。
【補足】［どうやら岐亭では会えなかったようで、新年にも会えそうにないとここに記している］
■【06-2-070】菩薩蛮
【解題】上の手紙にあった『菩薩蛮』の4首の詞から2首を見ておこう。回文の詩は作品番号06-2-029ですでに見ているが、この詞はそれとは違うタイプの回文で、第一首の最初の14文字を見ると、「柳庭風静人眠昼。昼眠人静風庭柳」で、前から読んでも後ろから読んでも同じ字の並びになっている。1文字が1音である日本語や中国語の特質を活かした言葉遊びである。面白いことに、前の句では「風が静か」であるのに対して、後の句では「人が静か」と主体が入れ替わる。後半では、「藕」の字が4回繰り返されていて、本来の「藕」の意味と同音の「偶」の意味を兼ねている。また「糸」も同音の「思」の意味を兼ねている。とにかく言葉の遊戯をふんだんに盛り込んでいて翻訳には向かない。内容的には、詞が本来得手とする女性の愁いを歌っている。
【訳文】
柳庭風静人眠昼。［柳の庭に風は静かで、人の眠る昼］
昼眠人静風庭柳。［昼に眠る人は静かで、風は庭の柳を吹きます］
香汗薄衫涼。［香る汗に薄い衫は涼しく］
涼衫薄汗香。［涼衫は薄くて汗が香ります］
手紅氷腕藕。［手には紅をほどこし、氷のような腕は藕の花のように白く］
藕腕氷紅手。［藕の腕は氷のように涼しげで紅の手を添えます］
郎笑藕糸長。［かの人は笑い、藕の糸のように思いは長く］
長糸藕笑郎。［長い糸はかの人に藕うのです］
其の二 回文秋閨怨
井桐双照新妝冷。［井戸端の二本の桐は照らし合って新たな妝も冷しく］
冷妝新照双桐井。［冷しく妝った新りのひとは二本の桐のある井戸の水に照り映えます］
羞対井花愁。［羞じらって井戸に向かうのは花が愁うよう］
愁花井対羞。［愁いを含んだ花は井戸端で羞じらうのです］
影孤憐夜永。［影は孤だけ、憐れをもよおしつつも夜は永く］
永夜憐孤影。［永い夜に憐れをおもう孤の影があるのです］
楼上不宜秋。［楼閣の上は、秋にはよろしいものではなく］
秋宜不上楼。［秋によろしいのは、楼閣には上らないことです］
■【06-2-071】送牛尾貍与徐使君
【解題】黄州知事の徐大受から牛尾貍の肉が送られてきたので、それに応えた詩。牛尾貍とはハクビシンのことであるらしい。この日は大雪であったと、蘇軾の注記が添えられている。
【訳文】
風が飛花［雪］を巻いて帷から入ってくるなかで、
貴君が杯を手にしつつ、
この詩を見て笑ってくれるであろうか想像している。
この雪のために泥が深くなるのが心配である。
なんとも意地悪く鶏頭鶻が鳴いている。
酒の方は浅く飲むくらいにして、
牛尾狸を喜んで嘗めてみる――
天下に旨いものといえば、「通印の子魚」に「披綿の黄雀」されるが、
子魚は骨が多くていけないし、
黄雀はやたらと脂ぎっている。
心を篭めて送ってくださったこの牛尾狸は、
繊細な腕前の人が刀を磨き、
白玉を削るようにして調理してくれたまたとない絶品である。
【補足】［（1）要は、珍しい肉を送ってくれたことへの謝礼であるから、もとより味わい深い詩というわけにはいかない。「鶏頭鶻」やら「通印の子魚」やら「披綿の黄雀」やらの珍品を持ち出して、知的興趣を誘おうとしたのだろう。鶏頭鶻はシギの一種で、蜀の人々はその声を「泥滑滑」と聞きなしていると、蘇軾の注記がある。「通印の子魚」とは、子魚という美味な魚があり、とりわけ額に印を押したように見えるのが旨いという。「披綿の黄雀」とは、白い綿を被ったように脂身がたっぷりの鳥の肉である。（2）このころに『四時詞四首』という作品があって、女性の愁いを四季ごと詠んでいる。徐大受のもとにいる女性のために作ったのであろうか、優美な詩ではあるが、内容に乏しいので訳は割愛する］
■【06-2-072】雪後到乾明寺遂宿
【解題】この冬は雪がよく降ったようだ。これは雪の日に乾明寺を訪ねて一泊した翌朝の詩。乾明寺［→作品番号06-1-032］は東の坡からさほど遠くないところにあった。
【訳文】
乾明寺の門の外は、
馬も驚くほど光に満ちている。
階段から先は下駄の痕もなく、
私が一番先に行く。
皇城の庭園に誤って入ったかのように、
一面に白い花が咲き、
皇城の宮殿をとこしえに照らすかのように、
月の光が満ちている。
この純白の至上の潔癖さを、
牛も羊もまだ損なっていない。
新たに晴れ上がったのを鳥たちが喜んでいる。
今朝私がここでこうしているのは、
軒端の竹から雪解けの水が滴り落ちる音を聴いてみてはと、
寺の僧が勧めてくれたからである。
■【06-2-073】次韻陳四雪中賞梅
【解題】陳慥［方山子］［→作品番号06-2-068］が雪の中で梅を賞玩する詩を送ってきたので、それに次韻した。
【訳文】
歳の終わりには、
雪と梅が新たな装いを競い合い、
酒が熟するにつれて貴君の詩も熟してゆく。
梅だけが独り咲くありさまは人の目を驚かせ、
花びらが地に落ちれば、隠者が臥す趣がある。
杜甫も老いを嘆くだけでなく、
春に先んじて咲く梅を見るときには詩を詠んだ。
三度雪を見ると、翌年は豊作になるとか。
ならば、人生の安楽を高らかに歌ってもよいであろう。
【補足】［雪は豊年の吉祥であるから、作品番号06-2-069で「しばしば雪が降り、農耕に勤しむ思いを慰めてくれます」と書いていたのである］
■【06-2-074】書雪
【解題】このころに書いたと思われる短文があるので見ておこう。
【訳文】
今年、黄州では大雪が降り、一尺以上も積もった。私は東の坡にちょうど麦を植えたので、この雪を得てむろん喜んだのだが、他所の家を見れば、薪もなく米もなく、雪に苦しんでいる者がいる。そのためにあれこれ思案して夜も眠れなくなった。悲しいことである。
【補足】［この一文は、黄州に赴く途中で雪に遇い、「民衆のために悲歌する」［悲歌為黎元］と詠んだ［→作品番号06-1-005］のを思い出させる］
■【06-2-075】江神子
【解題】鄂知事の朱寿昌［→作品番号本章06-1-096など］に送った詞。短い序文が付いている。
【訳文】
大雪のときに朱寿昌知事のこと懐った。それはきっと知事が私のことを念ってくださっているからだと知り、『江神子』の詞を作って寄せる。
黄昏猶是雨繊繊。［黄昏どきは、まだまだしとしとと雨が降っていました］
暁開簾。［暁に簾を開けたのです］
欲平檐。［檐まで平らになろうかとしていました］
江闊天低、［広い江、低い天］
無処認青帘。［酒店の青い旗はどこにも認めることができません］
孤坐凍吟誰伴我、［独り座って凍てつく声で吟じれば、誰も伴う者はなく］
堦病目、［病んだ目をこすり］
撚衰髯。［衰えた髯をひねるのです］
使君留客酔厭厭。［知事殿は客人を留め静かに酔い続けます］
水晶塩。［水晶のような澄んだ酒］
為誰甜。［知事殿のためのよい味わい］
手把梅花、［梅の花を手に取り］
東望憶陶潜。［東を見て思うのは陶淵明［すなわち蘇軾］のこと］
雪似故人人似雪、［雪が人に似るのか、人が雪に似るのか］
誰可愛、［愛すべきなのでしょうか］
有人嫌。［人を嫌うのでしょうか］
【補足】［（1）これは、朱寿昌の側に立って詠んでみたらという趣向の作品。（2）終わりの三句は、雪は愛すべき存在でありつつ、人の行き来を妨げる存在でもあるということから、人の心理にも二面性があるということを含意しているようだ］
■【06-2-076】蝶恋花
【解題】潘大臨［字は邠老］を送るとの添え書きがある詞。潘大臨は酒店を営む潘革の孫である。潘革には潘鯁［字は昌言］、潘丙［字は彦明］［→作品番号06-2-003など］、潘原［字は昌宗］［→作品番号06-2-053］の息子がいて、潘鯁の息子が潘大臨と潘大観である。潘大臨はこの年の秋に行われた科挙の地方試験に合格し、二次試験を受けるために上京するので、その送別の詞を蘇軾が作ったのである。一家から一人でも合格者が出れば社会的地位ががらりと変わるので、潘革は酒店の稼ぎを子弟の教育に注ぎ、何とかして一家から科挙の合格者を出そうとしていたのだろう。蘇軾の家ももとは絹を扱う商人であったろうと推測されていることから、潘の家に親近感を抱いていたのだろう。
【訳文】
別酒勧君君一酔。［別れの酒をあなたに勧めましょう、まずは酔いなさい］
清潤潘郎、［潘さんはまことによい男］
又是何郎壻。［あの何妟だってかないませんよ］
記取釵頭新利市。［釵をお買いになったのは知っていますよ］
莫将分付東隣子。［まさかそれをお隣さんにあげたりはしませんよね］
回首長安佳麗地、［思い出せば、繁華な都で］
三十年前、［三十年前のこと］
我是風流帥。［わたしは風流の総大将でした］
為向青楼尋旧事、［色街にいってそのころのことを聞いてみなさい］
花枝欠処余名字。［花の枝を折り取った向こうにわたしの名が記してありますよ］
【補足】［（1）この詞は、詞本来の世界である男女の情愛を下敷きにして、楽しく潘大臨を励ましたものなのだろう。戯れの作である。（2）前半は、晋の時代に潘岳という美青年がいたことを踏まえて、潘大臨を讃えたもの。（3）後半は、都の色街で三十年前にその名を轟かせたと歌っているは、実は蘇軾が科挙に合格したことをいっているのだろう。つまり、潘大臨も蘇軾と同じように合格してたちまちその名を天下に知られるようになるというのである。（4）このころに李廌［字は方叔］［→作品番号06-2-039］が黄州にごく短期間だけきて、蘇軾が詩を贈ったとされているが、その詩はいまに伝わっていない。李廌は身内の不幸によってこの秋の科挙の一次試験は受けなかったようだ］
■【06-2-077】与仏印
【解題】廬山の仏印禅師了元［→作品番号06-1-080］からまた使いの者がきたので、それへの返事。
【訳文】
お使いの者がきて、忝くも重ねてのお手紙を頂戴しました。お心遣いの深さに感じ入っております。まさに十二月の雪の季節、山中はさぞお寒いことでありましょう。法体の安らかであることを祈っております。廬山とは長江を間に挟むだけでありますのに、道場に詣でる縁がなく、お声に接することができません。ただ馳せ赴くことを想うばかりです。
■【06-2-078】与滕達道
【解題】滕元発［滕甫、字は達道］［→作品番号06-2-010］に宛てた手紙。
【訳文】
蜀からきた僧は貴君が書いてくれた楷書の大字を獲て帰りました。お蔭で私も胸を張ることができ、大いに感じ入っております。
蕭相楼での詩は前に見ていて、弟が楼の雄傑を説き、貴君の風烈を称えるのを聞きました。蕭相楼についての文書を記すのは名誉なことでありますが、私の拙い腕に適うものではありませんし、罪を得てからは敢えて文章を作ることはしていません。『経蔵記』は仏教に関連する語ばかりで、あれこれ詮索されるような畏れはないので、特に書いた次第です。蕭相楼の文はさらに何年か待って作るというのではいかがでしょうか。
仲殊の気訣は詳しく知りたいもので、もしも伝授を許されたなら、その賜りものは莫大でありましょう。仲殊は長らく廬山に遊ぶことを望んでいたと聞きましたが、その後はどうしているのでしょうか。もしこちらを過ることがあるなら、望外の喜びです。……
【補足】［（1）蜀からきた僧とは悟清［→作品番号06-2-010］のこと。滕元発の揮毫を得て成都に帰ったのである。（2）蕭相楼の詩は作品番号06-1-051で見ている。蘇軾は詩文をもってまた罪に落とされるのを警戒して、滕元発からの執筆の依頼を断ったのである。（3）気訣は気術と同様で、体内に気を正しく循環されることで長生を得ようとするもの。仲殊は当時名の知られた道人で、10年後に会うことになる。（4）蕭相楼の記の執筆は断っているが、このころに滕元発に頼まれて、遥かに政治的な文章を記している。宋は西夏国との戦争を始め、緒戦の勝利をおさめたものの、反撃にあってたちまち苦境に陥ってしまった［→作品番号06-2-057］。戦争のすみやかな終結を願う文章を滕元発のために代筆して皇帝に提出したのである。それは戦争を人の病に譬え、故事を織り込んで巧みな構成であるのだが、訳は割愛する］
■【06-2-079】陳太初尸解
【解題】上の手紙にあった仲殊は黄州には現れなかったが、道士の陸惟忠がこの年、黄州を訪問している。陸惟忠は眉州眉山県、すなわち蘇軾と同郷の人。陸惟忠は自作の詩を示したり、丹薬の作り方や養生の法について教えたりした。そのことについて15年後に記した文章があるので見ておこう。
【訳文】
私は八歳で小学に入り、道士の張易簡を師とした。童子およそ百人がいたが、師は私と陳太初ばかりをいつも褒めていた。陳太初は眉山の市井の子であった。
私は成長するにつれて学問がますます進み、ついには科挙にも制科にも合格した。一方で陳太初は田舎の小役人になった。
その後、私は黄州に流され、そこに眉山の道士の陸惟忠が蜀から訪ねてきた。あれこれ話すなかで、「道を得た者に陳太初がいます」というので、詳しく尋ねてみると、我が同学の陳太初その人であった。
昨年［紹聖三年［1096年］］、私は恵州でまた陸惟忠に会った。陸惟忠はこのようにいった。
「陳太初はすでに尸解しました。蜀の人の呉師道が漢州の知事であったときのことです、陳太初は初めて知事に会いにきて、しばらくそこの客人となっていました。ちょうど元日の朝に、陳太初は知事に衣食と餞別の銭を求め、別れを告げました。陳太初は受け取ったもの全てを町の貧しい人に与えると、城門の下に座り、そのまま死んでしまいました。それを聞くと、知事は役場の小使いに、亡骸を担ぎ出して野原で焼くよう命じました。小使いは亡骸のもとに行き、『このクソ道士め。なんだって元旦からこの俺さまに死人を担がせたりなんぞさせるのだ』と罵りました。すると、陳太初はにやりと笑い、『おまえを煩わせたりはせん』といって、門から金雁橋のたもとまで歩き、そこで座り、改めて死にました。小使いがそれを焼くと、もうもうと立ち昇る焔と煙の中に、くっきりと陳太初の姿が浮かびあがりました。見物に出た町中の者がそれを見たのです」
【補足】［この文章は幾つかの興味深い内容を含んでいる。（1）蘇軾が8歳で張易簡の寺子屋に入ったことは、すでに作品番号01-2-002などで見ている。（2）そこに陳太初という優秀な同窓生がいて町の庶民の子であった。眉山県の人々は教育に熱心だったのだろう。（3）蘇軾が制科にも合格して超エリートとなった一方で、陳太初は小役人［原文は「小吏」］になった。科挙に合格した高級官僚は地方官となっても原則3年の任期で各地を転々とする。下級の役人である吏人は同じ土地に留まる。庶民にとっては吏人になれるなら実に結構なことであるのだが、高級官僚と吏人とでは社会的地位に雲泥の差がある。陳太初には何かしら不満があったのか、思うところがあって、せっかくの職を棄てて道士になった。（4）道士は社会のしがらみの枠外に出て自由に移動することができた。その代わり、衣食や住まいを得るには、地方官や庶民や社会のいろいろな階層の人々の心をうまく掴む必要があった。それで、いかさまな呪い事をしたり、インチキ薬を売ったりする道士が少なからずいたのである。陳太初はきちんとした教育を受けていたから、知事クラスの人を相手にして道教の教義をきちんと説くことができたのだろう、呉師道のもとにしばらく居候をした後に死んだのだった。知事としては、城門の下で元日に死なれたのはいささか迷惑なことであったのだろう。（5）道士の最終的な目標は、生死の枠外に出て仙人になることだ。それを達成する一つのやり方として、現世に死骸を遺して自分は昇天する尸解というものがあった。尸解に関する古い伝承は数えきれないほどあるが、宋代においても衆人の目の前で尸解が行われたというのはおもしろい］
■【06-2-080】寒熱偈
【解題】寒と熱に関する思索を記した短文。黄州の夏を蘇軾は特に暑いと感じたようで、昨年もひどい暑さを嘆いていたが［→作品番号06-1-068］、この年も酷暑であったとここに記している。
【訳文】
今年は大熱で、熱さが八十日余りにわたり、物も我も同じく病み、この熱さは虚しいものではなかった。まさに熱いときにはまた涼しくなるとは思えなかったのだが、すでに涼しくなると、熱さは果たしてどこにいってしまったのかと思うのである。およそ世の寒と熱は交互に顕われ、熱がなくなると、涼が何かに従って立ち、私は涼しさがまたあると認めるのである。後に涼しさが改まって、また熱さが還ってくる。つまり、寒と熱は、それぞれが互いにあるときはないという関係になっている。
世のすべてこのように分かれていて、心に去来する塵によって浮想が生じるのも同様で、あるとかないとかで迷いが生じるのである。一方で、火が木を焼くように、また生じることがないものもある。火によって木は炭になり、炭は灰になり、灰はすっかりなくなってしまう。はてさて、これはいかなることなのかと、我が弟に問うものである。
これは私が黄州で戯れに書いたもので、江夏の李康年がこれを持ち去った。それから七年後に、また李康年に都で会うと、これを出してきた。茫然と夢の中の語のようである。
元祐戊辰三年三月三日。
【補足】［（1）この短文［偈］の、「世のすべて」以降は意味が十分にわからないのでいつも「ずっぽ訳」である。（2）李康年［字は楽道］は篆書に詳しい人であったという］
■【06-2-081】書孟東野詩
【解題】馬正卿［→作品番号06-2-026］に贈った短文。
【訳文】
元豊四年、馬正卿と黄州の東禅で飲んだ。酔って後に、孟郊の詩を誦じた。
我亦不笑原憲貧。［我も亦た原憲の貧を笑わず］
この句に、思わず笑ってしまった。孟郊には原憲を笑える理由はないからである。
このことを書いて馬正卿に贈る。馬正卿はまだまだ孟郊を笑いはしないのである。
【補足】［（1）東禅とは作品番号06-2-003にある東禅荘院のことであろうか。（2）孟効について作品番号05-4-009などで見ている。蘇軾は孟郊の詩をさほど高くは評価していないが嫌いではなかった。（3）原憲は孔子の弟子で、孔子の死後、非常な貧乏でありながらも学問に励んだことで知られる。終わりの部分はかなりひねっているのでわかりにくいが、孟郊よりも馬正卿の方が腹が座っているといいたいのだろう］
■【06-2-082】与任徳翁
【解題】任伯雨［字は徳翁］に宛てた手紙。任伯雨は「大任」といわれた任孜［→作品番号06-2-037など］の子である。
【訳文】
……貴君の甥がこられて手紙を受け取り、感慨無量であります。御尊体の佳勝であることを審らかにし心が慰められます。お二人の御子息が科挙の地方試験に合格されたと聞き、喜びの余り、我が衰病の身も奮い立ちます。きっと天下に冠たる士大夫となって、任氏の名を慕うのは蔡州の人々だけではなくなるでありましょう。陳慥君が帰ってくれば、さらにまた詳しく知ることができるでしょうが、小四君［任伋の四男］がいるので、任伋殿は亡くなっていないようなものです。近頃のあれこれは綴り尽くせません。お会いする機会はなかなかありませんが、万万御自愛されますように。
【補足】［（1）科挙の試験結果は士大夫にとって一大関心事であった。秋の地方試験の合否が何かと話題になっている。任伯雨のところでは二人の息子が合格したのだった。（2）蔡州は「小任」といわれた任伋が退隠後に住むと定めていた場所で［→作品番号06-1-006］であったから、蔡州の人々が任氏を慕っているのは前からであるけれど、いずれ天下の人々がそうなるといっているのである。（3）陳慥の名が挙がっているのは、任伋の四男がたぶん蔡州にきていて、その手助けをしていたのだろう］
■【06-2-083】与楊元素
【解題】楊絵［字は元素］に宛てた手紙。楊絵はかつて杭州で親しくした人［→作品番号06-2-054など］。
【訳文】
筆が凍り、写そうとしてもうまく字になりません。弟からは近頃も手紙がきて、恙なきことを知り、何百里も離れているような気がしません。ただ、手紙が届くまでには半月ほどかかります。
いろいろ秘蔵の話を記してくださり、感嘆してやみません。最近になって知り合いが貴君の編集した『本事曲子』を写したものを拝見しました。広く奇聞が集められていて、閑居の身の賑やかしとなります。竊かに思いますに、さらに知人たちからそれぞれ知るところの話を集めたなら、もっと手広く逸話を載せることができるようになるでしょう。そこで三件ほど記して献じます。さらに錬択されて百四十篇ばかりにもなりましたなら、十分でありましょうか。
【補足】［ここにある『本事曲子』は詩詞に関する逸話を集めた著作である。原本は失われ、数篇だけが他の書物に引用されるなどして残った［→作品番号06-3-023］］
■【06-2-084】与趙昶晦之
【解題】趙昶［字は晦之］［→作品番号06-1-106］に宛てた手紙。
【訳文】
お教えくださいます通りに、患難の中にあっておたおたすることもなく過ごせるのは、脳みそのない愚人であるか、鹿か豚か、はたまた木か石とも異なるところがないものでありましょう。それがかねてから夢にも見るような道を得た者なのでありましょうか。
かつて得ていた蜀人の蒲永升の山水四軸は近年の名筆であります。蒲永升はすでに亡くなってしまいましたが、贅沢にも書斎にこの画を掲げております。
ここの風土は美しく、訴訟事は少なく、優遊と歳を終えて、これ以上何を求めましょうか。私はこのことをはなはだ楽しみ、この地に安らかにいて懐いを忘れ、まさしくもとより黄州の人であって、一度も出仕していないかのようであります。
【補足】［（1）前半は、反語的なユーモアなのだろうか。よくわからないままに訳した。（2）蒲永升については作品番号06-1-107で見ている。水を描いた蒲永升の画を飾って楽しんでいたのである。（3）最後は、すっかり黄州の人になったといっている］
■【06-2-085】与杜孟堅
【解題】杜沂［字は道源］［→作品番号06-2-018］の子の杜伝［字は孟堅］に宛てた手紙。
【訳文】
私のこのごろの様子からすると必ずしも罪は深くないのでありましょうか。郡中のもろもろは変わりがなく、同僚とともに遊んで、かつて壁に題した詩を見ると、いつも悵然とした想いになります。貴君は何事もなく、きっと著述するところが多くあることでしょう。拝見できないのが残念であります。今年は近しい人々が黄州に来てくれたりし、あれやこれやとあって、去年の独り寂寞としていたのとはまるで異なっています。
【補足】［上の趙昶への手紙とともに、蘇軾は1年前とはかなり異なる心境で年末を迎えたことがわかる。自ら耕すことで精神の充実を得たとすると、馬正卿［→作品番号06-2-081］の果たした役割は大きく、我々が蘇軾の黄州時代の詩文を味わい深く読めるのも馬正卿のお蔭であるのだろう］
■【06-2-086】記夢回文二首、并叙
【解題】夢の中で回文の詩を詠んだ。その序文だけを見ておく。
【訳文】
十二月二十五日、大雪が晴れ上がった。雪を解かした水で小団茶を烹て飲ませてもらった夢を見た。傍らで女性が歌っていた。私は回文の詩を作って女性に示した。夢から覚めると、「乱点余花唾碧衫」［乱点して余花 碧衫に唾す］の句を記憶していた。袖に誤って唾をかけられた趙飛燕が、さらりととりなした故事を用いたものである。これに続けて二首の絶句を作った。
■【06-2-087】三朶花、并叙
【解題】この年の終わりに「異人」を詠んだ詩の序文だけを見ておこう。
【訳文】
房州の副知事の許安世からの手紙にこのようにあった。
「吾が州に異人がいます。常に三朶花［三本の花の枝］を頭に戴いています。その姓名を知る者はなく、郡の人々は『三朶花』をもってその名としています。よく詩を作り、どれにも神仙の意がこめられています。また自分の姿をよく画に写します。それをある人から得ました」
許副知事はその一枚を送ってくれるというので、この詩を作った。
【補足】［その詩は碩学の注釈家も理解不能としている。例えば、対句を成り立たせるために、「三朶花」のペアになる語として「一宿覚」という仏典にある特殊な用語を引っ張ってきているのは、蘇軾の恐るべき語彙力に脱帽するしかないとしても、「一宿覚」をどのような意味合いで使っているのか、いくら頭をひねってもわからないのである］