第3章 不本意な歳月――都、郷里、都、そして旅
［第3章その四］
煕寧4年［1071年］、蘇軾36歳。
■【03-4-001】送文与可出守陵州
【解題】蘇軾は前年の暮れに首都の仕事との兼務を解かれ、新しい年の初めに太常博士に遷った。これは窓際族に追いやられたということであるのかもしれない。蘇軾が何を言おうとも改革は急ピッチで進められ、いつ足元をすくわれるかわからない状況にあって、地方への転出を真剣に考えるようになった。官職を擲って帰郷するということは、ひとつの可能性として時に夢想することはあっても、現実的な選択肢にはなりえなかった。超エリートとして国や民に対して立派な仕事をしなければならないとの強い使命感があり、その一方で、先の従兄への手紙で見たように、一族の暮らしを支えていかなければならない立場にもあったから、官員という地位は簡単に棄てられるものではなかった。精神的に苦しいなかで、友人の文同［字は与可］［→作品番号03-3-014など］が郷里に近い陵州の知事として都を出て行くことになった。別れの前に一緒に浄因院を訪れ、この詩を文同に贈った。浄因院の壁にはそこの長老の道臻に頼まれて文同が描いた竹の画があった。浄因院は、かつて蘇洵に国宝級の名画を贈ってくれた大覚禅師［→作品番号02-1-002］がいるところである。
【訳文】
壁に描かれた墨君［墨で描かれた竹］は言語を理解しない。
それでも墨君を見れば百の憂いを消すことができる。
我が友は墨君に似て、しかも言語を理解する。
友の節義は秋の霜のように純白で凛々しく、
健やかにして清らかな詩を詠み、
思想性は道家の真骨頂に迫る。
地位を下げられても意に介することはない。
暁の風に髪を自在になびかせて、
舵を操って長江を遡って行くことだろう。
川を巡る山々が朝焼けに赤々と照り映え、
千山のそのまた彼方に友の行く陵陽はある。
我が友は、遠く別れて行ってしまうと、
私の心持ちが悪くなるのを知っている。
だからこの墨君を見て、
己の憂いを解くようにといってくれるのだ。
■【03-4-002】玉堂硯銘
【解題】浄因院には孫洙［字は巨源］も同行した。孫洙は蘇軾より5歳上で、気心が合ったのだろう、この後もしばしばその名を見るようになる。蘇軾が書いた『玉堂硯の銘』の序文だけを見ておこう。
【訳文】
文同は陵州に赴くことになり、孫洙は玉堂の大硯を贈った。文同は私にその銘を作ってほしいといった。
■【03-4-003】題趙屼屏風与可竹
【解題】文同［字は与可］が去ってしまった後の喪失感を、趙屼という人が所蔵する文同の屏風画に次のように書き添えている。
【訳文】
文同が行くところ、口からはいつも詩が溢れ出て、手からはいつも竹が描き出される。文同は都にきて一年にもならないのに、地方に出ることを願って、故郷に近い町へと去り、詩も画もみな西に行ってしまった。
一日でも文同を見ないと、文同のことが想われてならない。文同という人は厳めしくも冷静で、とげとげざわざわした気分を静めてくれるし、せこせこぺらぺらな気持ちを厚くしてくれる。
いまやここを去ること数千里。その詩は求めることはできるだろうし、その竹の画は描いてもらうこともできるだろう。しかし、その静めて厚くしてくれるところのものはもうないのだ。私は竹の画を眺めて嘆くしかない。
■【03-4-004】朱寿昌郎中、少不知母所在、刺血写経、求之五十年、去歳得之蜀中。以詩賀之
【解題】朱寿昌が、生き別れになった母と40年余りを経て再会を果たしたことは作品番号03-3-014で見ているが、朱寿昌は皇帝に呼ばれて前年の秋に母とともに上京し、皇帝に褒められて官職に復帰した。朱寿昌は母の郷里に近い町に赴任することを希望したので、河中府の知事となって、この春に都を発った。その折に多くの人が朱寿昌に詩を贈った。これは蘇軾が贈った詩で、題は、「朱寿昌は幼いころに母の所在がわからなくなり、自分の血で写経し、母を求めること五十年に及び、去年、蜀で母に会うことができた。詩をもってそのことを祝う」。
【訳文】
ああ、貴君は七歳のときから母を想ってきた。
ああ、貴君の心の苦しみは成長するにつれて強まった。
ああ、貴君は老いに臨んでついに母と会うことができた。
喜びが極まり、涙が雨のように流れるばかりで、言葉は出なかった。
貴君は、宰相の地位に昇ることも羨ましいとは思わず、
貴君は、仙人になって天に昇ることに憧れもせず、
母の前で赤ん坊の服を着て、
赤ん坊の泣き声で甘えることを宿願として、
五十年を経てようやく成し遂げたのだった。
竜を煮て、宝玉を酒に変えて、母のための祝いの膳とし、
千年万年の寿命を祈った。
皇帝は美々しい駕籠を使わして母を宮中に迎え、
金文字の詔書で貴君を官職に戻された。
貴君が母と別れ、そして再会した経緯を聞いて、
私は強く感じるものがあった。
現代ではこのような事例を他に聞かないが、
昔にさかのぼればなかったわけではない。
漢の武帝は、
母がかつて卑しい身分にあったときに生み落とした姉がいると聞き、
自ら尋ね回って姉を宮中に迎えた。
漢の大将軍の霍去病は、
夫なき母より生まれたのだが、
遠征の途上でついに父を見付け出した。
隋朝のある皇后は、
自分には親族が一人もいないのを日頃から悲しみ、
ある農夫が「おいらの叔母は皇后様だ」と自慢していたと聞くと、
すでに死んでいたその男に高い位を贈った。
唐朝のある皇帝は、
自分の生母を知らないままに育ち、
戦乱で行方不明になったと後に聞くと、
四方に命じて捜したのだが、
ついに会うことはできなかった。
ところが、ある男は、
大臣になるまで帰らないといって故郷を出ると、
母が亡くなったと聞いても、本当に帰らなかった。
とかく地位を優先する者が多い世の中であるから、
貴君を見て我が身を恥じる者が、
果たしてどれほどいるのだろうか。
【補足】［（1）この詩の最後には、実は痛烈な皮肉が篭められているという。「母が亡くなっても郷里に帰らなかった人物」が、実際によりによって官員の不祥事を告発する部署の責任者におさまっていたのである。李定は、改革こそは自分が出世する絶好のチャンスと見て、亡き母の喪に服すべき期間にあることを隠して急いで都に上り、改革を絶賛して王安石からにわかに高い地位を授かった。王安石は自分の改革案に絶対的な自信があったので、口から出まかせの誉め言葉であっても、真実をいっていると安易に信じてしまったようで、王安石は自分に近づいてくる者の人物評定は極端に甘かった。蘇軾を根も葉もない罪状で告発した謝景温［→作品番号03-3-023］と李定は同じ穴のムジナであった。李定は、蘇軾にこの詩で嘲笑されたと感じたのだろう、謝景温のように失敗することなく必ず蘇軾を死地に追いやろうと牙を研ぎ澄まし、数年後に満を持して襲いかかったのである。（2）朱寿昌を讃える詩を王安石も司馬光も詠み、そこは保革同舟であったのだが、司馬光も2月5日に許州知事として都を去った。ちょうどそのころに、郷里の従兄の蘇不疑に送った手紙に、司馬光の子の司馬康［もとは兄の子で司馬光が養子にした］が最近妻を喪ったので、蘇家の娘を嫁がせたらどうだろうかと相談を持ちかけている。士大夫同士は、密に姻戚関係を結ぶことを好んだ。この縁談はその後不発に終わっている］
■【03-4-005】韓縝酷刑
【解題】4月、秦州知事の韓縝が、残虐な振る舞いで罷免になるという事件があった。ある者が酒に酔って、夜に誤って州知事の家に入ってしまったところ、韓縝は下僕に命じて鉄の棒でその者を滅多打ちにして殺した。殺された者の妻は、血の染まった夫の衣を持って、都の登聞鼓院［→作品番号03-1-001］の門を叩いて、皇帝に直訴し、韓縝は譴責処分となった。その事件を巡って蘇軾が記した短文。
【訳文】
韓縝が秦州知事であったとき、酷い刑罰を与え、恩愛に欠けていた。罪のない者を賊として殺したために、罷免になった。
秦州では、
「韓縝に出くわすよりは、子育て中の虎に遭う方がましだ」
と、言い合っていた。
都の孫臨という者は、対句を作るのを得意としていた。ある者に、
「『莫逢韓玉汝』にうまい対句を付けてみよ」
と、いわれて、孫臨は即座に、
「可怕李金吾」
と、応じた。
この対句は天下に広まった。
【補足】［これは蘇軾の諧謔好みを示すものなので訳したのだが、若干の説明が必要である。原文のまま掲げた最初の句の「莫逢韓玉汝」［韓玉汝に逢う莫かれ］は、玉汝は韓縝の字で、つまり韓縝に逢ってはならないという意味。次の句の「可怕李金吾」［李金吾こそ怕る可き］は、実は杜甫の詩にそのままある句。杜甫はあるとき李金吾［都の警備を担当する金吾将軍の職務にある李という人物］のお供をして都の花を見てまわり、即興で詩を詠んだ。その中で、「酔って歩いてもう夜になり、閉門の刻限を過ぎてしまったから、こわいこわい李金吾将軍に叱られてしまう」と、歌ったのである。杜甫は李金吾将軍本人と歩いていたわけだから、その句は楽しく笑えるけれど、韓縝の方は笑えないので、対句として皮肉がきいてちょっとおもしろいのである。なお、ここに名の挙がっている孫臨がいかなる人物であったかは不明］
■【03-4-006】浄因院画記
【解題】5月、浄因院の道臻長老［→作品番号03-4-001］に頼まれて次の文章を記した。これは蘇軾の画論として特に有名である。
【訳文】
かつて私は次のように画を論じた。
人物、動物、建物、器物などには皆それぞれに固有の形、つまり「常形」がある。山や石や竹や木、あるいは水や波や靄や雲には決まった「常形」はないけれど、それぞれに固有の本質、つまり「常理」がある。
画を描いて「常形」を失っていれば、人は誰もがそれに気付く。しかし、「常理」から離れている場合には、画を理解している人でも気付かないことがある。だから、世間を欺いて画で名を成そうとする者は、必ず「常形」のないものを描くのである。
画を描いて「常形」を失った場合には、そのものの形がおかしくなるだけで、画全体が台無しになってしまうわけではない。しかし、「常理」が当たらない場合には、画全体がすっかり駄目になってしまう。「常形」がないだけに、よくよく謹んで「常理」に心を用いなければならないのである。
「形」を徹底的に正確に描き切るのは、世間の技量の優れた人なら為し得るところである。「理」までを画に描いて見せてくれるのは、世間から超越した「高人」であり、卓抜した才能「逸才」の持ち主でなければならない。
文同が描いた竹、石、枯木は、まことにその「理」を得たというべきである。その画を見れば、竹はこのように生じ、このように死に、このように屈まり、このように曲り、このように痩せ、このように縮まり、このように枝が伸び、このように葉が茂るものだと、人の心を十分に満たしてくれる。根、茎、節、葉、牙、角、脈筋は千変万化し、始めから終わりまで同じものはないのだけれど、それぞれが全てあるべきところにあって、天の造化の「理」に合致していると、完全に人を得心させる。それはすなわち画を見る者が、達人の精神の内に包み込まれるということであるのだろう。
文同はかつて浄因院浄因院の方丈にふた群れの竹を描いた。そして、西に出て陵陽［陵州］に赴任するに当たり、浄因院の長老の道臻師に別れを告げに行き、私も同行した。文同は方丈の隣の部屋に、二本の竹と一本の枯木を描き、さらには、本堂の四方の壁を白く塗り替えたばかりであるので、そこにも竹を描いてくれぬかと道臻師に頼まれた。文同は快諾し、そうした経緯を私が記すことになった。
後にここに「理」をよく知る者がきて、深く文同の竹の画を観るならば、私がここに書いたことが妄言ではないとわかってくれるであろう。
■【03-4-007】送劉道原帰覲南康
【解題】また一人、保守派の人物が都を去った。劉恕［字は道原］は史学に詳しく、司馬光に招かれて『資治通鑑』の編集に携わった。もともと王安石と親しくしていたので、王安石は劉恕を条例司［改革の実行部隊］に加えようとした。劉恕は面と向かって新法を激しく批判し、王安石は怒りの余り顔色を変えた。劉恕は都には留まれないと覚り、親の世話をすることを理由に帰郷した。劉恕の父は劉渙で、欧陽脩と同じ年の科挙に合格して官員になったが、剛直の余り50歳で退隠し、以来、廬山の南に籠った。劉恕が権威に屈しないのは親譲りであった。
【訳文】
漢の時代に宰相であった晏嬰は、
身体は小さかったがその節義は見上げるばかりに高かった。
身分が低かろうが、白髪の老人であろうが、
己を高く保っているのなら、
富貴は天の定めるところ、
目の前にあっても何ら心に迫ってくるものではない。
劉恕君は科挙に合格してからも、
十年の間は戸を閉ざして独り楽しみ、
百金を出して世に散り散りになってしまった書物を買い集めた。
たちまち宮中にやってきて筆を揮い、
歴史を叙述して悪を正した。
三国時代の孔融は、権力者の曹操に対してもへりくだることなく、
漢の時代の汲黯は、苛烈に法を用いる張湯を恐れることなく軽侮した。
劉恕君もまた孔融や汲黯と同じく、
手には刀もなければ鞭もなくて、
ただ口だけで烈風のように相手を撃つのである。
劉恕君がいうには、
「静中に我が身を置いて世俗を観ると、
まるで酒に酔って狂っているかのようではないか。
衣やら冠やらを乱して舞い踊り、
傍らの者は大いに笑いころげている」
我等の友人は次々に去ってしまい、
いまや貴君と私だけが都でのたのたしていた。
世間の人は皆私を棄て、
貴君だけは厚く付き合ってくれていたので、
私にとっては有り難いけれども、
貴君にとっては危ないことではないかと心配していた。
朝、貴君は別れを告げにきて、
たちまち去るという。
帰郷の意はすでに翔ける鴻を追うばかりであるのだろう。
匡廬先生［劉恕の父の劉渙］は古の君子のような人、
冠をはずして廬山に籠り、
それから二十四年、まだ髪は黒いという。
きっと貴君を膝に載せるくらいに喜んで迎え、
近隣の人々を呼んで猪や羊を煮て酒宴を催すだろう。
貴君はどうか私の姓名を匡廬先生に取り次いでほしい、
いずれ隠者となった私がその座敷に上がることができるように。
【補足】［幾人かの歴史上の人物が挙げられているのは、強引に改革を進める王安石に屈しない劉恕を讃えるために故事を引いたものであって、細かく吟味する必要はないだろう］
■【03-4-008】賀欧陽少師致仕啓
【解題】蔡州知事の欧陽脩は政界から引退することすでに心に決めていたが［→作品番号03-3-021］、6月11日、朝廷から正式に認められ、欧陽脩はかねてから用意してあった潁州の隠居所に移った。蘇軾は晴れて自由の身となった欧陽脩に祝賀状を書いた。
【訳文】
……［初めに身の去就を決めるのは難しいということを古典を引いて述べる］……伏して思い見るに、観文殿学士太子少師［欧陽脩］の徳は形容しがたいほどに完全で、その人としての大きさはいかなる器にもおさまるものではありません。三代の皇帝のもとでのお仕事は高く人々から仰ぎ見られ、その文章は百世にわたる師というべきであります。人には知られていない国家を安んじた功績があり、艱難の中にあってその節義は現れ出たのでありました。……［以下、賛辞が続く］……外においては天下の人々は老成の去るのを惜しむのでありますが、私においては明哲によって身の全きを保たれることを喜ぶものであります。これより夏はますます盛りに向かいます。くれぐれも自重されますように。
【補足】［ここでのキーワードは「明哲保全」であろう。これは消極的な保身の術ではなく、叡智によって禍を避ける積極的な行為である。蘇軾自身もまたその道を探っていたのである］
■【03-4-009】与子明兄
【解題】蘇軾にも新たな辞令が下り、杭州副知事として都から出て行くことになった。そのことを従兄の蘇不疑［字は子明］へ報せる手紙。
【訳文】
……［従兄が巻き込まれた訴訟事件のその後の経緯］……先ごろお手紙をいただきながら、忙しさにまぎれてお答えできずにおりました。官職に在っては常に何かしら事があるのは意に介するまでもありませんが、近頃、外任を願い出たところ、御恩を賜って杭州副知事となりました。近日中に皆を引き連れて宛丘［陳州］に行き、弟の家族と一緒に四五十日ばかり過ごし、涼しくなるのを待って杭州に向かうつもりです。……六月十七日
【補足】［都から杭州まで、隋から唐の時代に造られた大運河によって、水路で結ばれていた。大運河は当時にあっては新幹線のようなもので、高速大量輸送を可能にして、中国の経済発展を支えた最も重要なインフラであった。大運河からは数々の運河が派生して、各地を縦横に結ぶ「新幹線網」が発達し、蘇軾は生涯の間に、幾度となくこの「新幹線網」の中を行き来する。弟がいる陳州は「新幹線網」の中にあったので、杭州に赴任するに当たって、まずは陳州に行って弟に会おうと計画したのである］
■【03-4-010】与宝月大師
【解題】同じころに成都にいる宝月大師［惟簡］［→作品番号03-1-009］に送った手紙。
【訳文】
久しくお手紙を差し上げませんでした。これは怠惰なためで、いつも通りのことです。史厚秀才と蔡褒君が来て、お手紙を届けてくれました。貴僧が佳勝でありますこと、皆様が安らかでありますことを知りました。私は外任を願って、御恩によって杭州副知事となり、まもなく都を発ちます。まずは陳州に行って弟のもとに集まり、九月の初めに杭州に向かいます。ますます郷里から遠くなります。
士瑜、士隆の二人のお弟子さんの紫衣師号について重ねて書いておられますが、近頃、王詵殿が士瑜に海慧大師の号を与えるよう奏上し、十日ほどのうちには許しが出るはずです。……
【補足】［幾人かの名が挙げられている。史厚は、蘇軾の母の実家の程氏と姻戚関係があり、これより8年後の元豊2年に科挙に合格したが、それからわずか1カ月後に亡くなっている。蔡褒［字は子華］は蘇軾の郷里の隣の青神県の人である。士瑜と士隆は宝月大師の弟子で、その二人に大師号を授ける朝廷の認可が下りるよう、蘇軾が助力していたのである。王詵は作品番号03-2-011で見たように、皇帝と姻戚関係にあることから、朝廷への働きかけをしてもらうには頼りになる人物であった。王詵は蘇軾が杭州に赴任するに当たって、茶や薬など様々な贈り物をしている］
■【03-4-011】王仲儀真賛
【解題】蘇軾は都にあって王素［字は仲儀］の子の王鞏［字は定国］と親しく付き合うようなったのだが［→作品番号03-2-010］、蘇軾は杭州に赴任するに当たって、王素に挨拶するためにその屋敷を訪ねた。そのことについて8年後の元豊2年に書いているので、それを見ておこう。
【訳文】
孟子は梁の恵王に向かってこのようにいった。
「いわゆる故国［伝統のある立派な国］とは、高い木が繁る国土をもっていることをいうのではありません。世臣［代々仕える大臣］がいることをいうのです」
孟子はこのようにもいった。
「政治は難しいことではない。巨室［代々仕える重鎮］の信頼を失わなければよいのである。巨室に慕われるということは、一国全体から慕われるということであって、一国全体から慕われるということは、天下から慕われるということである」
「世臣」とは単に代々禄を食む者をいうのではないだろう。「巨室」とは単に富んだ大きな家をいうのではないだろう。その時代において著しい功績があって徳を具えているとして、人々から信頼を得ている者であって、それを、人に愛され養われて幹が大きく太って高くなった木に譬えたのである。「世臣」や「巨室」は一日でそのようになったのではない。そのような人は普段は何もないかのように振る舞い、商売で利を得ることや税を徴収することにおいては新進の者に及ばないのだが、ひとたび国家の一大事となったときには、大きな決断を下し、大衆を安堵させ、呼べばたちまち皆が集まり、事が終われば皆がもとのところに戻ってゆくようなことができるのは、ただ「世臣」や「巨室」だけなのである。
私は嘉祐年間に初めて懿敏王公［王素は死後、懿敏の名を皇帝から贈られた］と成都で知り合いになり、その後、私は鳳翔府に赴任し、公は許州から平涼へと移られた。そのときに、夏国の兵が大挙して国境を犯し、転運使が軍の指揮を執ったのだが、副総管と意見が合わなくて、軍の規律が乱れたために、人々は大いに恐れて、西方の地域に動揺が広がった。そのときに公が平涼に赴任してくることになった。人々は喜んで公がきたことを伝え合い、旗を輝かせ、戦太鼓を鳴らして大いに勇んだので、敵軍はたちまち去ってしまった。公が実際に至ったときには、その地にあっては老臣［長く務める役人］や宿将［経験豊かな将軍］とのんびり酒宴を催すしかすることがなかったのである。これによって、老臣や宿将の用い方とはかくあるべきだと私は知ったのだった。公の代わりにもしも新進の者が事に当たっていたならば、古の名将のような勇気や古の名相のような機敏な策を有していたとしても、このように黙っていてもたちまち事が成るようにはならなかったはずである。
熙寧四年秋、私は銭塘［杭州］に行くことになり、都にある公の私邸の佚老堂でお会いし、日暮れに及ぶまで酒を飲みかわし、時代の状況についても論じ合った。公はいわれた。
「わしはもう老いた。恐らくはもうまた会うことはないだろう。君は厚く自愛するがよい。わしのこの言葉を忘れずにいてほしい」
それから二年して公は亡くなった。その六年後に、公のこの真筆に賛を書き添えて、公の子の王鞏に与える。
……［以下、王素を讃える韻文が続く］……
【補足】［（1）王素と初めて成都で会ったことは作品番号01-2-021で見ている。（2）王素の業績の評価は明らかに誇張されている。熙寧4年のころは、まさに「世臣」「巨室」がないがしろにされて、新進の者が大いに起用された時期であったので、「世臣」「巨室」の代表者である王素を特に賛美したのである。この賛を書いた元豊2年はまだまだ改革派の時代が続いていて、その年の秋に蘇軾には恐ろしい運命が襲いかかるのであった］
■【03-4-012】題晋人帖
【解題】蘇軾は王詵だけでなく、やはり皇族と親類関係のある李瑋とも交流があった。李瑋の父は仁宗皇帝の舅であり、自身も皇帝の娘を娶った。
【訳文】
唐の太宗皇帝は晋朝時代の人の書を買い集め、王羲之父子のほか千軸ほどあった。王羲之の『蘭亭序』は玉匣に納められて昭陵［太宗の墓］に埋められ、世の人はもう二度と見られなくなった。そのほかのものは、宮中に秘蔵されたのだが、則天武后のときに張易之兄弟がそれを竊み取り、後に民間に流れ出て、多くは王涯や張延賞［いずれも唐代の名家］の家に納まった。王涯が失脚すると、軍人に掠め取られ、軸から金や玉が剥ぎ取られ、書は棄てられた。
私はかつて李瑋の家で晋人の書を集めた数帖を見たが、どれにも「涯」の字の小印があったので、王涯の所有物であったのだろう。謝尚、謝鯤、王衍などの帖があり、いずれも優れものであった。なかでも、王衍の書は独り超然と抜き出ていて、鶴の群れが翼を広げていまにも飛び立つばかりの勢いがあった。
【補足】［南北朝時代の晋朝の時代には王羲之を初めとして名筆家が輩出し、後代の人々は少しでもそれに近づくことを目指した。ここには、重要な文化財がどのような命運をたどるかがよく示されている。王朝が隆盛のときに、文化に理解のある皇帝がいると、宮中に集められて厳重に保護されるのだが、皇帝が無関心であると、空しく宮中の奥深くで虫に食われたり水に濡れたり、あるいはいつの間にか民間に流出したりし、戦乱の中で散り散りになって、失われてしまうのである。そのような繰り返しを経て、わずかなものだけが現代に遺されているのである］
■【03-4-013】与堂兄
【解題】都を発つに当たって従兄の蘇不疑［字は子明］に送った手紙。
【訳文】
……［司馬光の子との縁談はまとまらないだろうということが書かれている］……
私は長らく郷里の墓地のことを思い、親しい友は帰ってくることを望んでいますが、敢えて帰郷することは願い出ないで、朝廷に一切をお任せしましたところ、行き先が杭州に定まりました。陛下は初めは州知事にしようとされたのですが、中書省が不可として、潁州副知事の辞令が出されました。陛下はそれに同意されなかったので、杭州に決まったのでした。杭州は豊かな大きな州でありますから、中書省が私を知事にしたくなかったのは、新法を執行しなくなるのを恐れたからなのでしょう。……
蘇林君の妻と二人の息子は元気にしております。一緒に杭州に行くことを望んでいますので、連れて行きます。最終的にはどのようにしたらよいでしょうか。兄上はいかにお考えでしょうか。……
【補足】［前年の秋に亡くなった蘇林の遺族の扱いに蘇軾は頭を悩まし続けていた。夫を亡くした女性とその子は、厳しい状況に置かれ、例えば、范仲淹とその母もそうであった。母は夫の死後、息子の范仲淹を連れて夫の郷里に帰ったのだが、夫の親類に冷たく迎えられ、かろうじて朱氏と再婚できたので、息子とともに朱氏のもとに身を寄せた。後にそのような経緯を聞いた范仲淹は、発奮して苦学の末に科挙に合格したのである］
■【03-4-014】出都来陳、所乗船上有題小詩八首、不知何人作有感余心者、聊為和之
【解題】杭州までは船旅で、都の中を貫通する蔡河を下って南に出た。船は官が借り上げたもので、その船室の壁に誰かが詠んだ8首の詩が記されていた。蘇軾は旅の折々に、その詩と同じ韻を用いてやはり8首の詩を作った。
其の一
船着き場の青い草の内で鳴く蛙、
川の合流点に垂れる柳の内で騒ぐ蝉、
そして偶然ここに居合わせた旅行く私――
新たに雨が通り過ぎる。
其の二
鳥が楽しむとき、獲り網があるのを忘れ、
魚が楽しむとき、釣り餌があるのを忘れる。
安らかにいられる場所はどこかと選ばなくても、
流転してやまぬ広大な天下には、ここというところがきっとある。
其の三
炊事の煙が村から上り始め、
朝日が投げかける光はまだ弱々しい。
田園はどこも懐かしさを誘うのに、
どうして郷里に帰らずにいるのだろうか。
【補足】［後半の二句の原文は「田園処処好、淵明胡不帰」［田園 処処に好く、淵明 胡ぞ帰らざる］で、「田園はどこもかしこもすばらしいところであるのだから、陶淵明が帰郷しないはずはない」と、自身を陶淵明になぞらえて詠んでいる。船は次第に湿潤な地域へと入って行き、船から眺める風景は穏やかで美しかったのだろう］
其の四
私の旅は速くもなく遅くもなく、
軽やかな櫂の動きにゆらりゆらりと進んで行く。
船が止まると村の市はにわかに賑わい、
水門が開くと勢いづいた波が川にみなぎる。
其の五
船上の人間は炎熱に一日苦しめられ、
高い木々に囲まれた入り江に船を停泊させる。
空にはまだ月が上ってこないかわりに、
黒い雲が今にも崩れそうな形でそそり立つ。
其の六
地上の万の穴が一斉に共鳴するかのように雷が轟き、
天上の池の水をまき散らすかのように風が吹き過ぎる。
雷と風が撃ち合う騒動は一瞬にして終わり、
天空に北斗と南斗がかかる。
其の七
ここは潁水であって漢水ではない、
しかし、水は同じく若い葡萄の実の色をしている。
もしも漢水であるのなら、我が故郷へと通じ、
子供等が懐かしい童謡を歌うのが聞こえてくるであろうに。
【補足】［蘇軾を乗せた船は蔡河から潁水に入った。漢水は故郷の蜀を源とする川で、作品番号01-2-028に漢水を詠んだ詩があった］
其の八
私のこの詩は拙いものであるけれど、
心が平らになるにつれて、調べは良く和すようになった。
年来の煩悩もいずれは尽き、
波の立たない古い井戸のようになるであろうか。
【補足】［このときの旅には、妻の王閏之、長男の邁［13歳］、次男の迨［2歳］、乳母の任採蓮、使用人兼友人の馬正卿、それに蘇林の妻と2人の息子が同行した］
■【03-4-015】次韻子由初到陳州二首
【解題】上の一連の詩では潁水に入るまでを歌っていたが、旅を最初に戻すと、蘇軾はまず弟がいる陳州を目指した。弟は前年の初めに、陳州の学校の教授として張方平に招かれ、陳州に着くとすぐに2首の詩を蘇軾に送った。蘇軾は都を出て陳州に向かう途中で、その弟の詩に次韻して返した。
其の一
孔子の時代から遠く離れ、
道徳が失われて久しいとはいえ、
僕らは円熟した人々に出会うことができた。
その人達も、そして僕らも、もはや老い衰え、
いまさら実用の学に転じることなどできもしない。
役立たずの独活の大木を決め込み、
この有り難い御代に阿呆の身を委ねるとするのか。
昔から、無名の貧乏人であればこそ、
生涯親から離れずに孝行できるというではないか。
己の暮らしを大切にして行きたいものだ。
【補足】［「円熟した人々」［原文は老成］とは欧陽脩や張方平のような人々を指し、皆改革に反対して地方に去った］
其の二
故郷と別れて三年、
山の松は生き生きと育っているだろうか。
故郷を思い続け、
その心はいつまでも変わらない。
時には、戸を閉ざして夢に故郷を尋ねもする。
行ってみると、僕の愁いを語る相手はそこにはいない。
夢より醒めれば、
やはり、僕の愁いを語る相手はいない。
流れる涙を添えて、
君がいる南の地へと送ろう。
■【03-4-016】次韻子由柳湖感物
【解題】陳州に着くと、そこで70日余りを過ごした。それだけ長期にわたったのは、夏の暑さを避けるためと、弟とできる限り長く一緒にいたかったためであろう。弟が教授を務める州の学校は、町の北側の柳湖のほとりにあった。柳湖のまわりにはその名にふさわしく1万株にも及ぶ柳が植えられていた。弟は柳湖についての詩を詠み、その中で、池の柳と山の松とを比較して、風に靡きやすい柳より、どっしりと構えて動かない松を堅固であると褒めた。それに対して、蘇軾は異なる見方をする。
【訳文】
思えば昔、杜甫が夔州の東の村にいたとき、
茅葺のちっぽけな家は青い山の下にあった。
杜甫は詩を詠み過ぎて辺境の地をさすらう身となり、
猿や鳥と愁いの声を競ったのだった。
君もまた都の人から棄てられてしまい、
いつも独りぼっちで馬に乗って歩み、
柳湖の一万株の柳だけが、
朝に夕に、君のために清らかな蔭を作って待っていてくれる。
そうであるのに、
柳に対して酷な評価をしたのでは、
柳もがっかりして元気に繁ることができないだろう。
柳は口がきけないし、怒ることも知らないけれど、
君の言い方では世間の人々だってがっかりするだろう。
春の柳の光り輝くさまは、
女性のあでやかな姿の譬えによく用いられる。
ねじ曲がった松の根が、
空腹に苦しむ蛇に譬えられるのとは大きな違いだ。
朝には、柳の葉の緑の蔭は、炎天下の松の蔭より濃いものがあるし、
夜には、柳の枝には、松の枝には見られない揺れる月の光がある。
春には、花が風に乗って雪のように翻り、
秋には、啄木鳥の虫を啄む音が高く鳴り響く。
四季によって、繁っては落ち、繁っては落ち、
寒さにつけ暑さにつけ、盛衰の異なる姿を見せてくれる。
山の松は、積雪に埋もれようとも凍え死ぬことなく、
常に同じ緑を保っている。
だからといって、
柳と松とどちらかがより賢いということはないのではないかい。
【補足】［弟が右といえば、兄が左というのは、いつものやりとりである］
■【03-4-017】次韻張安道読杜甫詩
【解題】上の詩の冒頭で杜甫に言及しているのは、張方平［字は安道］が陳州で杜甫の詩を熱心に読んでいたことと関りがあるのかもしれない。張方平が杜甫の詩の感想を詩に詠んだので、蘇軾はそれに和した。唐代を代表する詩人といえば杜甫と李白であって、さらには杜甫こそが中国の最大の詩人であるとするのがごく標準的な見方となっているが、杜甫の詩が際立って高く評価されるようになったのは蘇軾の時代のころからで、この詩には後に定説となる杜甫の詩に対する見方が打ち出されている。
【訳文】
古代の詩の輝きが薄れると、
詩の流れは横暴な君主達によってねじ曲げられ、
宮廷詩人が媚びた賦を作る一方で、
中央から放逐された屈原が新しい詩の形式を創った。
それからさらに詩は変転し、
崩れもし壊れもし、
たくさんの俊英が現れもした。
辺鄙な土地に奇怪な物産が出現するように、
源流から離れたところで詩は狂乱の態を呈した。
厚化粧が真の美しさを凌駕するかのように惑わせ、
神に供える神聖な豚や羊よりも生臭い魚や蝦が大切にされもした。
今では誰もが知るように、
杜甫が現れ出て、
その名は李白と共に高く並び、
大地はきれいに掃き清められ、
ただ二人の足跡だけが並ぶのを見るようになった。
詩を作る者は追い詰められて苦しむのが常で、
天の意志がそうさせるのだろう。
唐の天下が暗い塵に覆われ、平和が崩れ去ったとき、
皇帝は暴れる化け物を切って捨てようと、
勇猛な武将だけを求め、
文に優れた者は顧みられなかった。
李白も杜甫も失意に沈んで遠く辺境の地をさまよい、
その悲しみの声が遠く万里の彼方に聞かれた。
李白は鯨にまたがって大海の向こうに行こうとし、
杜甫は虎にまたがって大地の向こうに行こうとした。
杜甫の大いなる筆は竜をも退治するものだったのだが、
官に就いたときにはしがない厩番ほどの役しか与えられず、
世知に疎いために、手にした物は何もなく、
あるとき久し振りに大いに酔った日に亡くなったのだった。
今では杜甫の詩を手本とすべしと見られているが、
児童は単にそれをなぞる努力をするだけである。
現代の詩文において、
先頭に立って旗を振る者は誰であろうか。
他ならぬ張方平殿である。
張方平殿は杜甫の詩巻を開いて遥かに思いを馳せ、
会って語り合えないのを残念に思っている。
人は響き合う友を得ることを願い、
共に自在に才能を飛翔させるとき、
この天下も狭いと感じるのである。
残念ながら、私には張方平殿に見ていただけるような佳句はない。
たまたま重陽の節句を前にしてお酒を頂戴したので、
菊の花を丁寧に世話し、
草の中に埋没させてしまわないようにしたいと思うだけだ。
【補足】［結びの部分は、張方平から教わったことを菊の花に譬えて、それを守って行こうとの決意を示したものであるのだろう］
■【03-4-018】送張安道赴南都留台
【解題】張方平は改革に反対して都を出て陳州に知事として赴任した。知事としての任務を誠実に果たそうとすると、中央からの指令に従って改革の実践に努めなければならない。張方平は自身の信条と実際の行動の乖離に悩み、実務から離れた閑職に移ることを朝廷に願い出て、「南都留台」となることを許され、知事職から解放されて陳州を去ることになった。送別に当たって蘇軾はこの詩を作った。「南都」とは南京応天府のこと、「留台」とは皇帝が前線に出た場合などに、皇帝に代わって朝廷を指揮する役のこと。ただし、実際には名誉職であって、張方平は南京応天府にある私邸に退くことになったのである。
【訳文】
我が公［張方平のこと］は古の仙伯［仙界の伯爵］の生まれ変わりであり、
世俗から超然と抜きん出た姿は羨門［伝説の仙人］と変わらない。
ところが、たまたま世間を救おうなどという志を抱いたために、
俗世に繋ぎとめられることになってしまった。
譬えてみれば、竜が皇帝の御苑に遊びにきたようなもの、
あるいは、鳳凰が皇城の儀式に参列したようなもので、
いつまでもせせこましいところに留まっているはずもなく、
いずれは遥かなる仙界に帰るのである。
我が公は皇居に出入りすること四十年に及び、
ただの一度も自身の憂患を口にすることはなかった。
そして、ふと「帰ろう」と漏らしたならば、
朝廷を挙げて引き止めようとしても無駄だった。
我が君［皇帝］はまことに叡智に溢れ、
草の根を払って有用の士を探し求めておられる。
昔の君主は、
佳き人を朝廷に引きとめておきたいのなら、
その人の傍らに誠意をもって応じる人がいなければならないのを、
よく知っていた。
我が公は、「帰ろう」と漏らすと、
すぐに居室をきれいに掃除し、
そこには何もかもなくなって、日光が差し込むだけとなったのを喜んだ。
こうして、我が公は、
万物が生まれ出る以前のところで遊ぶ境地に至ったのだが、
世俗の人はそのようなことは理解できない。
私もまた世渡り術に疎く、
世間においてぐずぐずするうちに、
鬢に白髪が出るようになってしまった。
出処進退などはまことにちまちましたことだ。
いずれ我が公の後を追うときがくるであろう。
【補足】［張方平が南京応天府に行くことが決まったのが8月26日。その前の8月10日、蘇軾はやはり陳州の学校の教授であった催度とともに月を見て遊び、翌年の同じ日にそのことを回想している］
■【03-4-019】傅堯兪済源草堂
【解題】このころに、傅堯兪という人が引退後は別荘［済源草堂］で悠々自適の暮らしをするつもりであると語るのを聞いてこの詩を詠んで送った。傅堯兪は孟州の済源県の知事であったときにそこの風光が気に入り、家を建てた。傅堯兪はこのころは許州にいて、新法に不満で、退隠の志があったのだろう。後の話だが、保守派が政権を奪還したときに、保守派はたちまち分裂し、傅堯兪は蘇軾の政敵となる。
【訳文】
私もしがない役人仲間の一人として、
やはり田園の暮らしに興味を持っている。
いざ老いて身を引くときになって、
どこに廬を結んだらよかろうかと初めて慌てふためいても、
植えた木が立派な蔭を作るには十年どころではないし、
そもそも買い求めるための資金もないということになってしまうに違いない。
先生は、清らかな川の流れに臨む地がよいとの占いを得てより、
すでに高い木々が画のような景観を作っているとのこと。
隣近所の人々も竹を愛しているようなので、
春ともなれば、
さぞかしおいしい筍がわんさと出てくるであろう。
■【03-4-020】陸竜図詵挽詞
【解題】陸詵という成都の知事が、新法の弊害を訴え続けている最中に亡くなったと聞き、その死を悼んでの詩。
【訳文】
陸先生の真っ直ぐな節義は衆に抜きん出て、
峨眉山よりも高く聳え立っていた。
正しい道を行うことだけを考え、
自分のためになどということはなかったから、
亡くなったときには家にわずかな蓄えさえもなかった。
四川を行き交う人々は、
陸先生が亡くなったのを皆が悲しんできるのを聞く。
思えば、陸先生とは都で塵降る中でお見送りしてから三年になる。
陸先生の遺像は成都の思賢閣にきっと飾られるであろうから、
鳳翔で樽酒を酌んで旧交を温め直したことがあるように、
何十年後かにはそこでまたお会いして、
私は涙で手巾を濡らすに相違ない。
【補足】［（1）蘇軾は鳳翔府にいたときに陸詵と会っていた。（2）思賢閣は成都にあって、成都の偉人の肖像を飾ると、蘇軾自身の注が付記されている］
■【03-4-021】次韻柳子玉過陳絶糧二首
【解題】先に都で会っていた柳瑾［字は子玉］［→作品番号03-3-003］が、手持ちの食糧が絶えてしまうような難儀なありさまで陳州にやってきた。柳瑾もやはり改革派に睨まれて、寿春の地に追いやれたのだった。柳瑾の詩に和した。
【訳文】
其の一
天帝は、
多才である貴君の真価を十分に試そうと、
激しい風雨の真っ暗闇の中を旅させているのだろう。
貴君は、
一羽の鶏が鳴けば、自分も合わせて鳴くようなことはしない。
それがために、
「なんとまあ米櫃がからっぽじゃわい」
と、飯炊き婆さんを驚かせる始末となった。
杜甫という人は、
つんつるてんの着物はいくら引っ張っても膝までこないと詩に詠んだ。
顔真卿という人は、
家計に無頓着で、数カ月にわたり一家で薄い粥を啜っていると記した。
苦労を嘗め尽くしてこそ詩人の情味は深くなるものだ。
それでお尋ねするけれど、
貴君はいまどれくらいまで嘗めたのかな。
【補足】［杜甫や顔真卿と比べたらまだまだではないか、「詩人情味真嘗遍」［詩人の情味は真に遍く嘗めてこそ］と、もっともらしいことをいえば、当然の切り返しとして、「そういうあなたはどうなのか」といいたくなるであろう。それに対する答えが次の詩である］
其の二
私のごときは、自分で自分に愛想が尽きる。
貴君の他には、誰も洟もひっかけてくれない。
青い灯のもとで夜更けまで貴君と語り続けつつ、
書物の読み方が出鱈目のままで、
年齢だけを重ねてきてしまったことに悲しみを覚える。
若い頃は荘子の哲学にのめり込んだのに、
世を救おうなどと、しがない官員になってしまった。
今は南に行く旅の途中で、
向こうで何をするのかといったら、
秋の潮が遡ってくる際の、
一万の太鼓を轟かすような音を聞くだけであるのだろう。
【補足】［終わりにある「秋の潮」［原文は秋濤］とは、銭塘江の海嘯のこと。杭州の南東で東シナ海に注ぐ銭塘江は、河口付近の潮の干満の差が非常に大きく、とくに大潮のときには激しい勢いで遡る潮と川の水とが激突して大きな音を立てる。海嘯見物は現在でも銭塘江の観光資源となっている。杭州に行ってすることといえば海嘯を見ることくらいだと、蘇軾は自虐的に戯れたのである］
■【03-4-022】書李簡夫詩集後
【解題】陳州滞在中に、蘇軾は同地に隠棲している李宗易［字は簡夫］を訪問しようとしたが、李宗易は病に伏し、果たすことができなかった。李宗易は10年余り前に官界から身を引いていた。これは、これより20年後の元祐6年［1091年］に、李宗易の詩集の後ろに書き添えた短文。
【訳文】
孔子は微生高を褒めなかったし、孟子は於陵の仲子を褒めなかった。どちらも極端な行動を取り、それが人の情がはずれているのを嫌ったからである。
陶淵明は仕えようとしたときには仕えたので、仕えるのを求めるのを嫌ったわけではなかった。陶淵明は隠れようとしたときには隠れたまでで、隠れることが立派であると思っていたわけではなかった。飢えれば門を叩いて食を乞い求め、鶏や黍が豊富にあれば客を呼んだ。昔からいまに至るまで陶淵明を賢人であるとするのは、真実の心のままであったのを貴んでのことである。
李公［李宗易］はその学問と政事で天聖年間以来、その名が天下に聞こえ、嘉祐年間の末から熙寧年間の初めにかけて、事を避けて退居された。普段から名利に惑わされることもなく、困窮にひるむこともなく、遇うところに安んじて、一生それを楽しんだ。陶淵明の真実にほとんど近かったのである。
熙寧三年、私は初めて陳州を過り、李公にお会いしようとした。しかし、李公は御病気であった。それから二十年が経ち、公自ら編集された七十篇の詩集を孫の李徳載［字は公輔］から頂戴した。それを読み、深く嘆息して、私はいう。
「君子とはこのような人である。今はもうそのような人はいない」
元祐六年十二初四日。
【補足】［弟の蘇轍はこれより前に李宗易を訪ねて言葉を交わしている］
■【03-4-023】記鉄墓厄台
【解題】蘇軾の陳州滞在は70日余りに及び、その間にあちこち見てまわった。そのことを記した短文。
【訳文】
余はかつて陳州を過り、七十日余り留まり、町の近くの観るべきところは全て訪ねた。
柳湖のかたわらに丘があり、これを俗に「鉄墓」と呼び、陳の胡公［古の聖天子の舜の妻］の墓だといっている。町を巡る濠の水がその足元を噛んで、鉄の囲いが現れ出ている。
また、寺があって「厄台」と呼ばれている。そこが孔子が陳と蔡の間で災厄に遇った場所だというのだが、その説は荒唐無稽で、信じるべきではない。あるいは漢の時代の陳湣王の劉寵の「散弩台」で、ここで黄巾の賊と戦ったともいわれている。この説が事実に近いのかもしれない。
■【03-4-024】陪欧陽公燕西湖
【解題】蘇軾が陳州を発ったのは9月になってからで、弟の蘇轍も一緒に船に乗って潁州へと向かった。潁州には政界を引退した欧陽脩が隠居所を構えていた。陳州、潁州、そして杭州が水路で結ばれた線上にあったことから、兄弟揃って久し振りに大恩人に会うことができたのだった。潁州には西湖という美しい小さな湖があり、欧陽脩の大のお気に入りであった。欧陽脩には引退してから西湖の風光を詠んだ作品群があるので、それを先に一首だけ見ておこう。
【訳文】
欧陽脩：『采桑子』其一
軽舟短棹西湖好、［軽やかな舟、短い竿、西湖はまことによろしくて］
緑水逶迤。［青い水がのたりのたり］
芳草長堤。［長い堤に芳しい草］
隠隠笙歌処処随。［どこからかぼんやりと歌声が聞こえます、私の気持ちに合わせるかのように］
無風水面琉璃滑、［風のないときの水面はガラスのようになめらかで］
不覚船移。［船が動いていることもわかりません］
微動漣漪。［ほんのかすかなさざ波］
驚起沙禽掠岸飛。［ぱっと飛び立った鳥が岸辺をかすめて飛んでゆきます］
【補足】［（1）これは詩ではなく詞。詞と詩は異なる文学形式で、詞は楽曲に合わせて歌うための歌詞で、ここのタイトルの『采桑子』は楽曲の題名［詞牌］である。『采桑子』という曲があって、その音律に乗せて歌う歌詞なのである。曲名と内容はほとんどの場合に関連性がない。詞は上下二つの段落［闋］に分かれることが多く、これもその例。詞は、既存の曲の音律に合うよう語句を埋め込んで作るので填詞ともいい、詩が五音とか七音とか句の長さが揃っているのに対し、詞は句の長さが不揃いであることから長短句ともいう。曲はもともとは酒席で妓女が演奏しつつ歌うようなものであったので、詞は男女の情愛を主題にすることが多かった。宋代に入って多くの文人が詞を作るようになってその内容が豊かになり、特に詞の発展に大きく貢献したのが欧陽脩だった。（2）詞を日本語に訳すのは難しい。歌詞であるから、音楽とともに言葉が耳に入ってきて頭の中であるイメージが作られ、次に入ってきた言葉がそのイメージを変化させ、イメージの連鎖がうまい具合に大きな世界を広げていくようなときに、優れた詞だということになるのだろう。日本語で歌われる歌詞を、その意味だけをとって外国語に訳し、もとの曲と切り離して読んでみて果たしておもしろいだろうかと想像してみると、翻訳の難しさが理解できるであろう。ただし、幸いにもわれわれは漢字にある程度のなじみがあり、詞は詩に比べると語彙がかなり平易であることから、聴覚の代わりに視覚を活かして詞を鑑賞することがもしかしたら可能であるのかもしれない。そこで、音楽を聞く代替手段として、漢字からの視覚的刺激に依拠する詞の翻訳を試みることにする。つまり、目で漢字の並びを眺めて楽しむのである］
【解題】蘇軾の作品に戻ると、欧陽脩は潁州にまできてくれた兄弟を大歓迎し、何はともあれ西湖へと2人を連れた。詩の題は「欧陽公の西湖での酒宴のお伴をした」。欧陽脩はこのとき65歳だった。
【訳文】
欧陽公はなお壮年であるのかというと、
髭は雪のように真っ白である。
欧陽公はすでに老年であるのかというと、
頬はてかてかと赤く光っている。
欧陽公のもとに参上すると、
早速湖の畔で美酒のお相伴に預かることとなった。
欧陽公は酔えば酔うほど縦横に談じ、
ついには激烈な言辞を吐くまでになる。
湖辺の草木に霜が降りるような季節になったけれど、
芙蓉や菊の花が競い合うように明るく咲いている。
花を手にし、欧陽公の長寿を祝して舞うと、
欧陽公はこのようにいう。
「百年生きたところで、
ぴゅうと風が吹き過ぎるようなものだ。
仙人の仲間入りをして遊ぶのも悪くはなかろうが、
そのためには飢えを忍んで仙薬を飲まなければならないのなら御免蒙ろう。
若死にするか長生きするか、勝手に決めてくれと、
疾うから天帝に任せてある。
どっちを選ぶか頭を悩ませるのは天帝であるのだから、
私はこの世で楽しんでいればよいだけなのだ」
視線を上げると、
烏が町から夕靄の中へと飛び去って行く。
視線を下げると、
灯に照らされた銀の酒缸が湖の水面に映っている。
この詩を歌って、
まだまだ飲んでいただこうと欧陽公に勧める。
残念であるのは、
我等兄弟には、宴席において琴を奏し、
その音で皇帝と大臣のわだかまりをときほぐしたような腕前がないことだ。
【補足】［この詩の最後は、そのような故事に基づいて歌われている］
■【03-4-025】欧陽少師令賦所蓄石屏
【解題】欧陽脩は考古学の研究家としても知られ、潁州の家には古い物がたくさん集められていた［『六一居士伝』［→作品番号03-3-021］には「金石の遺文」という考古資料が「五つの一」の中に挙げられていた］。欧陽脩は収集品の一つである「石屏」を蘇軾に見せ、それを詩に詠むようにいった。それがこの作品なのだが、「石屏」とはどのようなものかというと、おそらく文人が愛好する硯屏［硯の脇に置いて塵や風を防ぐもの］の一種なのだろう。あるいは、石の衝立で、実際にそこに画が描いてあったのかもしれないのだが、ここでは、石の模様を画に見立てているという解釈で訳すことにする。
【訳文】
誰がこの石の屏風を欧陽公のために遺したのか。
石の上にあるのはかすかな墨の痕なのか。
描かれているのは林とか草ではない。
それとなく見えてくるのは、
雪を載せた峨眉山の西の嶺か。
そこに一万年を超える不老の松がある。
嶺に近付こうとしても、
崖が崩れ、谷は断ち切られている。
もわもわと空を覆う靄、
力強く差し込む夕日、
風の真の姿がそこにある。
これを見て初めて天の巧みを知ることができるであろう。
私が恐れるのは、
畢宏、韋偃のような昔の画工が、
死んで葬られて、骨はすでに朽ち果ててしまっても、
心はなお苦しみの内にあること――
「まだ画を極め尽くしていない、
それなのに、もはや我が腕を揮うことができない……
我が思いを描き表せない……」
そのような果たせぬ思いが墨の痕と化して、
この石に宿ったのか。
古来、画師は俗士ではないとされ、
物と現象を掴んで描き出そうとするのは、
詩人とほぼ同じである。
願うのは、欧陽公御自身が詩を詠んで、
畢宏、韋偃の二人の不遇を慰め、
幽明宮で憤りの余り泣いていないでもよいようにしてさしあげることだ。
【補足】［畢宏と韋偃は唐代の画師。「二人の不遇」とは、志を果たせずに引退を余儀なくされた欧陽脩のこともいうのであろう］
■【03-4-026】銭塘勤上人詩集敘
【解題】先の西湖での詩に「酔後劇談猶激烈」［酔後の劇談 猶お激烈］とあったように、若い弟子を前に欧陽脩は思いのたけを縦横に語ったのだろう。しかし、その具体的な内容はわからない。当時の政治情勢からして、文字として記録するのが憚られたのだろう。そのわずかな手掛かりが以下に見る文章の中にある。これは、欧陽脩を訪れてから3年後の煕寧7年に書かれたもので、杭州の恵勤上人の詩集の序文である。
【訳文】
昔、漢の時代のこと、翟公が朝廷の要職である延尉を罷めると、家には一人も客人が訪れなくなった。後にまた朝廷に用いられると、客人がわんさか押し寄せようとしたので、翟公はその門に大きくこのように書いた。
「一人が死に一人がまだ生きている。そのときに二人の友情がどのようなものであったかがわかる。一人が貧しいままで一人が富む。そのときに二人の交わりの態度がどのようなものであったかがわかる。一人が高い身分に昇り一人が低い身分に落ちる。そのときに二人の友情がまさしく明らかになる」
世間の人はこのことを言い伝えた。
私は翟公の人となりはやや軽薄であると考えている。それは翟公は客人を下に見ているからである。翟公が客人に接する姿勢は実は小さくせせこましいのではないだろうか。
もとの太子少師の欧陽公は士を好むことでは天下第一であった。士の言辞に一言でも道にあたることがあると、千里も遠いとはせずに公は士に会うことを求め、それはその士が公に会うことを求めるのよりも強いものがあった。天下の豪俊とされる人々の非常に多くは、公によって衆人の中から世に顕れるようになったのだった。しかし、時には公に背く者もあった。公は、人は知り難いものであると嘆き、士を好むことの戒めとした。思うに、公が士を好むことにはこれより少し倦み飽きるようになっていったのだった。
公は潁水のほとりに退隠し、私が会いに行くと、公は賢者とされる士についてなおも論じ、その名が世に聞こえないままになるのをただただ恐れていた。公に背いた者については、「あれは私に罪があったのだ。あの者に過ちがあったのではない」といわれた。
翟公の客人が翟公に背いたのは、死生や貴賤の変化を経てのものであった。公に士が背いたのは、ほんの一瞬のような短い間のことであった。翟公は背いた罪は客人にあるとし、公は罪は己にあるとした。公はますます士を厚く重んじようとしたので、翟公よりもはるかに優れていたのである。
公は仏教や道教を喜ばなかったけれども、そちらの方の弟子であっても、『詩経』や『書経』のような儒学の古典を修め、仁義の説を学んだ者なら、必ず世に出られるよう推薦した。仏徒の恵勤は公に従って遊ぶこと三十余年、公はいつも恵勤が聡明で才智があって深く学問に通じ、特に詩に長じていると称えていた。
公が汝陰［穎州］で亡くなると、私は恵勤の僧舎で哭した。その後も恵勤と会って話が公に及ぶと、恵勤は必ず涙をこぼした。恵勤にはもとより世に求めるものはなく、公もまた恵勤に何か益になるようなことをしたわけではなかった。恵勤が公のことを忘れずに泣くのは、利に基づくものではない。そのことから私は恵勤が賢であることをますます知るようになった。もし恵勤が士大夫の一員であって、政事に関わったならば、公の期待に応えるような仕事をきっとしたであろう。
熙寧七年、私が銭塘［杭州］より高密［密州］に赴こうとすると、恵勤は数篇の詩を取り出して、それに文を添えて広く世に伝えてほしいと私に求めた。私が考えるに、詩は文があって世に広められるものではない。恵勤の人となりがこのようであるのだから、その詩が世に広まらないことはないはずである。
【補足】［（1）これは少々不思議な文章である。恵勤の詩集の序文でありながら、欧陽脩が人を遇する姿勢について大半の字数を費やしている。（2）退隠後の欧陽脩の様子を伝える文章として3年後の作品を先走って訳したものであって、欧陽脩が亡くなったことや、恵勤がどのような僧であるかなどについては、次の章で改めて見てゆくことになる］
■【03-4-027】潁州初別子由二首
【解題】9月末に、蘇軾は潁州を発って杭州に向かい、弟は陳州に帰った。蘇軾、蘇轍、欧陽脩の3人の別れに際し、弟に与えた詩。
其の一
旅行く帆を西風に掛けると、
別れの涙が、清らかな潁水の流れへと滴り落ちる。
ぐずぐず留まろうとしても益はない――
わかってはいても、
いまのこの瞬間の光景を惜しまずにはいられない。
我が人生において、
君との別れはかつて三度あったけれど、
この四度目が最も痛ましい。
思うに、君は父上に似ていて、
木訥にして、「剛」かつ「静」である。
『易経』にいうところの、
「良い人は言葉数が少ない」とは君の「静」、
「石のように固く、機智に富み賢い」とは君の「剛」である。
今に至るまで、天下の士で、
朝廷を去るに当たって君ほど勇猛であった者はいない。
僕は長らく「狂」を病む者となり、
ぽっかりと大きな穴が開いているのにも気付かずに歩いていたようだ。
酔っ払って落ちてしまって、
幸いにも、醒めたら傷を負っていなかったようなものだったのだ。
これからは、暇を得た折などには、
黙って座って日を送るようにするつもりだ。
君がもう心配しないですむよう、
そのことをこうして詩に詠み込み、
一日に三度は反省するようにするよ。
【補足】［今回が4度目の別れとあるとのは、蘇軾が鳳翔に赴任したときが1回目、蘇軾が鳳翔から都に帰り、入れ替わりに弟が地方官となって出て行ったときが2回目、そして弟が陳州の学校の教授に招かれて都を出たときが3回目であるからだ］
其の二
別れがすぐ近くに行くだけのものなら、
ことさらに表情を変えることもないだろう。
別れがひどく遠くに行くものなら、
涙が胸を濡らすであろう。
しかし、隣にいても会わないでいるのなら、
大地の端と端にいるのと変わりはしない。
人生に別離というものがなければ、
恩愛の重さを知ることはない。
僕が宛丘［陳州］に着いたばかりのとき、
君の子どもたちは僕の衣を引っ張って踊った。
その瞬間に、僕は別れの悲しみがあると知った。
だから、秋風が吹き過ぎるまではと、
君のところに留まったのだった。
もうとっくに秋風は終わってしまい、
別れの恨みは窮まるところがない。
君は問う。
「いつ帰ってこられますか」
僕はいう。
「木星が東の空に見えるときだろうか」
天界の星は常に巡り巡っている。
別れと会うも常に巡り巡っている。
そして、憂いと喜びが常に攻め合っているのだ。
こうしてここまで詩を詠んできて、
僕は大きく長く嘆息する。
我が一生は結局のところ、
根がなくて風のままに飛ばされる蓬のようなものであるのだろう。
ああ、憂うのはもうよそう。
憂いが多いと髪が早く白くなってしまう。
その最たる証拠として、
君も見るがいい、
六一翁がそこにおられるのを。
【補足】［（1）宛丘とは陳州にある丘の名で、背の高い弟をその丘になぞらえて宛邱先生と呼ぶようになる。（2）「根がなくて風のままに飛ばされる蓬」とは、中国の乾燥地帯に生える蓬の一種で、秋に地上部が枯れると根が抜けて風の吹くままに飛ばされる。寄る辺ない姿の「飛蓬」は、旅ないし人生の悲哀の象徴として唐代の詩に多用された。蘇軾はその「飛蓬」を、この詩以降、むしろ肯定的に捉えて用いるようになる。（3）この詩の終わりは、欧陽脩の髪が真っ白であることに基づくジョーク。欧陽脩が若い頃から白髪が目立ったのは有名な話［→作品番号01-1-039］］
■【03-4-028】十月二日、将至渦口五里所、遇風留宿
【解題】蘇軾の乗る船は潁水を南に下って淮河に入った。淮河は、中国を北の華北と南の華南の二つの文化圏に分ける境界であるとして認識されてきた大河川である。北は乾燥した麦作地帯、南は湿潤な稲作地帯である。潁水と淮河の合流点を渦口といい、10月2日に渦口まであと5里のところで風のために前に進めなくなった。都から遠く離れたからなのか、このころから蘇軾の詩は俄然生き生きとしてくる。
【訳文】
淮河に向かっていた間は、
久しく風がなく、流れのままに、
滑るような心地良さを存分に味わっていた。
今朝は、
雪を投げつけるような白い波が一面に立ち、
平野が狭まってきたと感じ始めると、
我が前に二つの山が立ち塞がった。
その間から吹き出てきた風のために、
川の水は吐かれるのか、呑まれるのか、ここで滞ってしまった。
桑の木の根元に船を繋ぎ、
ざぶんざぶんと波間に舞い続けながら、
夜を明かすことになった。
船頭達は懸命に声を掛け合い、
草を綯っただけのような弱々しい綱を頼みとして、
どうにかこうにかしのごうとしている。
私は普段から偉そうに、
「憂患なんぞ何ものぞ、
奇怪なことにも驚くものではない」
と、いっていたので、
鬼神どもは私をこの危難に置いて、
「ぐう」といわせてやろうと、
このような戯れを仕掛けてきたのだろうか。
どれどれ、
瓶の中にはまだ酒があったはずだ。
酒があるのなら我が運も尽きはしない。
それが今夜の結論である。
■【03-4-029】出潁口初見淮山、是日至寿州
【解題】風が止んで、潁水の出口から淮河に入り、淮河沿いの山々を眺めながら、船はゆるゆると川を下って寿州に至った。
【訳文】
我が旅は、
長江へ、そしてその先の海へと、
日夜、向かいつつある。
河畔には、
楓の葉が赤く色付き、蘆の花が白く突き出し、
秋の感興は深まるばかりだ。
淮河の流れは平ら過ぎて、
天と水と、どちらが遠くどちらが近いのやら――。
彼方の青い山々の並びは、
船とともに高くなったり低くなったり――。
すでに寿州の白石塔が見えている。
それでも、船の棹はいつまでも黄茅の岡の下にある。
波はなく風は軟らかく、
望み見てもなお到ることができない。
あの青くぼんやりとした夕靄の中で、
友は久しく立っていることだろう。
【補足】［この詩は、船の旅を情感豊かに歌った詩として非常に有名であるので、旧来の鑑賞法である訓読法による訳文も添えておこう］
我行日夜向江海、［我が行は日夜 江海に向う］
楓葉蘆花秋興長。［楓葉 蘆花 秋興 長し］
長淮忽迷天遠近、［長淮 忽ち迷う天の遠近］
青山久与船低昂。［青山 久しく船与低昂］
寿州已見白石塔、［寿州 已に見ゆ白石の塔］
短棹未転黄茅岡。［短棹 未だ転ぜず黄茅の岡］
波平風軟望不到、［波は平らに風は軟らかく望んで到ら不］
故人久立煙蒼茫。［故人 久しく立たん煙の蒼茫たるに］
■寿州李定少卿出餞城東竜潭上
【解題】寿州では長官の李定らに歓待された。この人が上の詩に詠まれていた夕靄の中で待っていた友人なのだろうか。竜潭という池のほとりで、送別の宴が開かれ、その折に詠んだ詩。なお、この李定は先に作品番号03-4-004で言及した李定とは同姓同名の別人である。
【訳文】
カーカーと山の鴉が騒がしい――
神霊が宿っていそうなこの古い池。
竜潭の名の通り、
竜が吐いた息のような泡がぷくぷくと水面に浮き、
竜が吐いた涎のような淀みが船のぐるりを取り巻く。
闇に潜む妖怪を照らし出すために、
犀の角を燃やすようなことはできなくても、
底に潜む竜を誘い出すために、
雀を焼くくらいのことはしてみたいものだ。
長官が別れを惜しんで笛を吹いてくださると、
その音が近隣の村々に響き渡り、
猿たちが聴きに集まってくる。
いつの年かこの土地を訪れる人が、
猿にも及んだ長官の仁愛を讃えて歌うときには、
この池の魚にも聞いてほしいものだ――
長官がここで私と荘子たちと同じような問答をしたということを。
【補足】［（1）竜潭には何か怪異な雰囲気があったのだろう。犀の角や雀を焼くといった奇怪な伝承を織り込みつつ、長官の徳を称え、宴席での楽しい挨拶とした。（2）終わりにある「荘子の問答」については次の詩の其の四を参照］
■【03-4-031】濠州七絶
【解題】寿州から二百二十里で濠州に至り、しばらく濠州に留まって近くの名所を見て歩き、7首の七言絶句を詠んだ。
【訳文】
其の一 塗山
太古の昔、
禹［古代の聖天子］は無支祁の助けを得て淮河を鎮め、
そのお蔭でいまも川はゆったりと濁って流れる。
禹は従順でなかった者を成敗し、
その骨がこの地にまだ残っているという。
塗山の下にある黄能廟は、
治水に失敗して刑死した禹の父の鯀を祀ったもので、
いまも土地の人は薪を供えている。
塗山の前には禹会村があり、
そこは禹が諸侯を集めた場所であるとされ、
いまは烏や鵲が毎朝そこに集合しているのである。
【補足】［濠州には古代の伝説的な聖天子である禹に所縁の遺跡があり、それを詠んだこの詩は、禹に関する知識を前提としているので、この訳文は説明を織り込んで冗漫になっている］
其の二 彭祖廟
彭祖は殷と周の時代をまたがって生き、
時代の盛衰を見つつ、亀と長寿を競った。
それでも、山中の雲母を仙薬にして飲んだのも虚しく、
三千年に一度だけ結ぶ西王母の桃の実は見られなかったのだ。
【補足】［これは800歳まで生きたとされる彭祖を祀った彭祖廟を詠んだもの。西王母は古代神話の女性の仙人で、その庭には3000年に一度実を結ぶ桃があり、それを食べると無限の寿命が得られるとされていた］
其の三 逍遙台
晋の時代のこと、常に酒を飲んでいた劉伶は、
「わしがどこかで死んだら、ただちにその場に埋めよ」
と、いって、従者にはいつも鋤を持たせていた。
己の遺骸の始末が気になっていたのだから、
死生を超脱していたわけではなかった。
荘子先生にはそのような思いはなく、
死に臨んで、弟子から埋葬の仕方を問われると、
「野にさらせば烏や鳶が食らうだろう、
それを奪って地に埋めて螻や蟻に与えたところで、
同じであろう」
と、いった。
【補足】［濠州には荘子を祀った荘子祠があり、そこに逍遥台があった。それにちなんで、荘子の死生観を詠んでいる］
其の四 観魚台
ごく些細な点にこだわって同じであるか異なるかを吟味したら、
隣り合う肝臓と胆嚢だって、
楚国と越国くらいに大違いということになるだろう。
万物は一つの理に帰るということがまことであるのなら、
今僕が魚の楽しみを知ったことを君は直ちに知るのである。
【補足】［荘子とその友人の恵施が問答を交わした場所だとされた水辺に観魚台が設けられていた。その問答は、人は他者［人でも魚でもよい］の心の内を知ることができるのかということをテーマとし、荘子は知り得ると主張した。蘇軾はこの詩で「万殊 一理に帰す」［様々に異なる幾千万もの物も一つの原理から始まり、一つの原理に帰納される］という句で荘子の考えを首肯した］
其の五 虞姫の墓
項羽が最後に漢軍に囲まれたとき、
虞姫は涙を拭って、項羽が悲歌するのに和した。
このとき項羽の意気はなおも天を覆う雲のようであった。
最後の最後まで項羽の心に背かなったのは、
虞姫ともうひとり鄭君がいただけだった。
【補足】［濠州には虞姫の墓と伝えられる塚があった。虞姫は項羽に最後まで付き従った女性で、項羽が殺されると自ら命を絶った］
其六 四望亭
晋の時代に築かれた四望亭、
頽れた垣と破れた礎が叢によって覆われている。
『四望亭の記』を書いた李紳の背が低かったことから、
「短李亭」の異名が残っているのは、
あまりに無粋であるので、
知事殿には、この廃墟に四望亭を再建して、
もっと風雅な「落霞孤鶩」［夕暮れの雲は鳥とともに飛ぶ］を新しい銘としてほしいものだ。
其の七 浮山洞
浮山洞は遠く東の海の底無しの谷に通じていると人はいう。
底無しの谷の上には波と共に五つの島が浮き沈みしている。
船に乗ってその島を見るなら、上がるやら下がるやらわかりようがない。
大地は水に浮き、水は空に浮いている。
そもそも物の浮沈など誰も知りようがないのだ。
■【03-4-032】泗州僧伽塔
【解題】濠州からさらに淮河を下って泗州に至った。蘇軾が泗州にきたのはこれが2度目。これより5年前に、父と妻の亡骸を船に積んで故郷に帰る途中にもここにきていた。そのときは都から汴河の流れに乗り、今回とは別のルートでここに至った。泗州は水上交通の要衝に当たり、大きな町であった。唐の初めの頃に、西方の何国から僧伽という人がきて仏教を広め、泗州のあたりで亡くなった。その後、僧伽は淮河のほとりにあった仏塔の上に姿を現し、人々の様々な願いを叶えたので、僧伽信仰が盛んになり、その地に僧伽塔などの大伽藍を連ねる大寺院が作られた。僧伽はとくに航行の安全を守ってくれるとして船乗りに厚く信仰された。なお、この後も、蘇軾は何度となく泗州のあたりを行き来するようになる。
【訳文】
私はかつて南へと旅し、汴河のここに船を繋いだ。
逆風が吹くこと三日、砂が顔に当たり続けた。
船頭達が、
「一緒に祈ってください」、
と、勧めたので、
それに従って僧伽塔に赴いたところ、
供えた香の火が消えないうちに、
帆柱に掛けてあった吹き流しの向きが早くも変わった。
船に乗り込み、わずかの間に、
振り返ると、泗州の長橋はもう見えなくなっていた。
そして亀山の下に着いたのはまだ朝飯前だった。
そのときは、私の願いを叶えてくれたと喜んだのが、
思えば、道を窮めた至人は無心であるのだから、
誰かには厚く報い、誰かには薄くということはないはずだ。
田植えの時は人は雨を望み、稲刈りの時は晴れを望む。
行く人は追い風を喜び、来る人は向かい風を恨む。
もしも人それぞれの祈りを全て遂げようとしたなら、
造物者はあれもこれもと一日に千回も変化しなければならないだろう。
今私は世の趨勢から遠くにこの身を置いて、
去るものを追うことも、来るものを恋い慕うこともない。
僧伽塔から先へと進むのはもとより願うところ、
しかし、留まるのも悪くはない。
ここに来る者があるたびに願いをかけられたのでは、
さすがの神だってうんざりであろう。
唐の澄観がここに営んだ塔を、
韓愈は高さ三百尺と詩に詠んだけれど、
当時と今とでは姿が変わっている。
神の霊験を信じようとしない俗物の私を嫌って、
塔の階段を昇らせてくれないということでなければ、
雲を載せた山が淮河の左右を取り巻く景色を上から一目見るとしよう。
■【03-4-033】如夢令
【解題】これは詞。「如夢令」は曲名で、「淮山楼に題す」という副題がある。淮山楼は泗州にあった楼閣。蘇軾は後に詞の達人と目されるようになるが、若い頃には詞にあまり関心がなかったようで、ごくわずかな作品しかない。
【訳文】
城上層楼畳巘。［町の上に仰ぐのは高く重なり合った楼閣］
城下清淮古汴。［町の下に見下ろすのは清らかな淮河と古い汴河］
挙手揖呉雲、［手を挙げて挨拶するのは南の呉の雲］
人与暮天俱遠。［暮れ行く空とともに人は遠くを想います］
魂断、魂断。［心が断ち切られてしまいます］
後夜松江月満。［真夜中の松江に、月の光が満ちていることでしょう］
【補足】［詞は、もともとは楽曲に合わせて主として男女の情愛を歌うものであった。この作品は、男女の情愛と旅情とを混ぜ合わせて詠んだものであろう。淮山楼に登って南を眺め、これから旅して行く呉や蘇の地へと寄せる思いを、あたかも遠い地に去ってしまった恋人を想うかのように歌っているのである。松江は蘇州の太湖に注ぐ川で、昔から風光明媚なところとして知られていた］
■【03-4-034】亀山
【解題】前の前の詩で「朝飯前に着いた」と詠んでいた亀山での詩。
【訳文】
我が生はゆらりゆらりと揺らぐばかり――
どこに行き、何を求めようというのか。
再び亀山の前にくるまでの間に、
五年の歳月が流れ、
万里を旅し、天下の半分ほども巡っただろうか。
亀山に庵を営む僧は、
ひたすらここで寝起きをして老齢に至った。
都はすでに遠く北に地を隔てるところにまできて、
私はなおも海に連なる潮に乗って、
東へ東へと游を続けなければならない。
六百年余りの昔、
南朝の皇帝は北朝の侵攻を防ごうと、
ここに砦を築いたという。
そのことを今誰が知り、
砦の崩れ去った址はどこにあるのだろうか。
■【03-4-035】発洪沢、中途遇大風、復還
【解題】淮河が長江に合流しようとするあたりには多数の湖沼が存在する。長さ八十里の洪沢湖で一晩停泊してから出帆したところ、激しい向かい風に遭い、また湖に引き返した。
【訳文】
風と波がたちまちこのようになっては、
私の旅の行く末は一体どうなることやら。
とりあえずは、帆を掲げて西に戻るしかあるまい。
そう決めたのは悪い選択ではなかった。
洪沢湖までの三十里は飛ぶが如く――
我が船が帰ってきたのを見て、
「難儀でござりましたなぁ」
土地の人々が親しく労ってくれ、
酒を携えて売りにきてくれる者もいる。
この人情の温かさは変わらずにあってほしいものだ。
酒を飲んで一眠りするとすでに夜半、
川岸の風の音は静かになりつつある。
ならば、明日はきっと淮陰県にまで行けるだろう。
そこの市場に、名産の肥えた白魚が出ているに違いない。
我が行はもとより南も北もなく、
たまたま意に適ったところが行きたかったところなのだ。
波が澎湃と押し寄せ、船の窓を終夜揺らしたところで、
心配することは何もない。
妻や子等にも憂いの様子はない。
さしあたり質に入れられる衣類がまだ箱にあるのだから。
■【03-4-036】十月十六日記所見
【解題】淮陰県を過ぎたあたりで、10月16日に見たままを記したという詩。
【訳文】
風が空高くを吹き、月が暗く曇り、
雲も水も黄色味を帯びていた。
淮陰を夜に発ち、山陽に着いたのはその翌朝。
細かい雨のような暁の霧が漂い、
朝日が出ても光は弱く寒々しい。
霧が巻き上がって雲の内に収まったのはすでに正午の頃、
北からの冷たい風が、人を押し倒さんばかりに吹き出し、
たちまち窓にばらばらと音がして雹が落ちてきた。
突然のことに人々は避ける間もなく、
市場はひっくり返るような騒ぎで、
売り物があちらこちらに乱れ飛ぶ。
そこに雷が、壁を崩さんばかりに一発鳴り響き、
それで事が終わった。
「今夜一杯いかがでしょうか」
県知事さんからのお迎えが呼びにきてくれて、
宴席の座が定まると、
折よく夕日が射し込んで廊下を明るく照らし出す。
百種の変異、怪異もすっかり消え去って、
全てが夢ではなかったかと疑われる。
人々はいう。
「竜が古びた穴に飽きて、全部の魚を引き連れて移って行ったのでありましょう」
それは何の兆しなのか、黒か白かと論じ合うのだが、
我等愚かな儒者は揃いも揃って無知であるから、
経典の文句を好き勝手に引用して言い募るだけである。
その中で、ただ県知事の言葉だけは用いるべき価値がある。
「寒くなり、雪が降るようなこの時候には、
まさしく何もよりも酒がよいとの徴でありましょうな」
■【03-4-037】広陵会三同舎、各以其字為韻、仍邀同賦
【解題】船は広陵［揚州］に到着した。揚州は大運河の長江側の入り口近くにあり、古くからの大都市であった。特に、隋の煬帝はこの地を酷愛し、そのもとで揚州は大きく発展し、華麗な町としてのイメージが形成された。このときの州知事は銭公輔という人で、蘇軾と気の合いそうな3人を呼び集めてくれた。蘇軾は3人の字から1文字をとって韻字として1人に1首ずつ詩を贈った。第一首は劉攽［字は貢父］について詠んだ。かつて劉攽が都から出て行ったときに蘇軾は送別の詩を詠んでいる［→作品番号03-3-018］。この詩は「貢」を韻にして、子貢という孔子の弟子の名に使っている。
【訳文】
其の一 劉貢父
去る年に都で貴君を見送った際に、
貴君と私の酔っての言葉は、
人々を驚かせたものだった。
今や二人とも漂泊の身となり、
筆硯の世界に遊ぶのもままならない。
我が命運は天の定めによるのであろうか。
古の弓の達人も己の技だけで必ず的を射抜いたのではなかったと聞く。
詩を作って思いを晴らそうとしても、
誹りの声が物憂くてならない年齢になってしまったようだ。
孔子は、若い者はとかく雄弁を誇りたがると、
口先ばかりが達者な弟子［子貢］を常に叱っていた。
矢で一度翼を傷付けられた鳥は、
飛ぼうとしても前の痛みを念ってしまうという。
広陵で貴君とこうして三日飲み続け、
全てが夢のように思えてくる。
誉れ高き州知事のもとで、
良い酒を酌んで早くも春の心地がすればなおさらだ。
互いに手を振って入り江で別れる時がきて、
羨ましく思うのは、
貴君が都を去って以来ここで安閑としていること。
私が行く杭州は、どうも何かと騒がしいらしい……
【解題】第二首は孫洙［字は巨源］について詠んだ詩。孫洙は早くから欧陽脩に認められて官界で活躍し、王安石の新法に反対して地方官として都の外に出ていた。劉攽とは対照的に孫洙は無口だったようだ。この詩は「源」を韻として用いている。
【訳文】
其の二 孫巨源
三年の間、私は都にいて、
その時の憔悴ぶりときたら、
今思うと、言いようがないくらいだった。
都の街路に舞う塵の中でびっしょりと汗をかき、
ふらふらと馬の歩みに任せるばかりのこともあった。
人というものは付き合いの良さをとかく貴ぶので、
少しばかり同調しないだけでも恨みを生じてしまう。
昔からの友人でさえ、
私には近付かないようになってしまった。
南にきて、気持ちは実にからりとして、
ただ一緒に語る相手がいないのを残念に思っていた。
広陵の町で、こうして劉君や孫君に会えるとは、
思いがけないことであった。
仲間のように見えても、
いささか趣が異なれば一緒にはいにくいもので、
例えばオランウータンとチンパンジーがそうなのだろう。
我々のここでの集いを長く続けると、
疑われて排斥されることになりかねないのを恐れる。
私は偏屈であるが、貴君にはこだわるところがない。
違いはあっても、交わりを断つということにはならない。
私はさらに南東に向かうけれど、
ほんのしばらく貴君と離れるだけのことである。
【補足】［ここでオランウータンとチンパンジーと訳したのは王孫と猿。王孫は猴の別名で、猴はおとなしく、猿はさわがしく、両者は同じ山にはいられないとされた。明らかに改革派と非改革派についていっている。都を離れて気の合う人々と自由に語り、自由に詩を詠めることを蘇軾は何よりも喜んだのだ］
【解題】第三首は劉摯［字は莘老］について詠んだ詩。劉摯は王安石に才能を認められて抜擢されたのだが、すぐに新法を鋭く批判したために、地方の小官に落とされてしまった。この詩は「莘」を韻としている。
【訳文】
其の三 劉莘老
ここ広陵でかつて会ったときは、
貴君は地域の重要な職務を勤めていた。
二度目に皇城で会ったときは、
貴君は堂々とした高官の衣服を身に付けていた。
そして三度目に会った今の貴君は、
都落ちの境遇にある。
朝には、雲の峰の高いところにあって、
宰相と席を一つにするほどであったのに、
暮れには、水のほとりに追いやられてしまったのだ。
しかし、貴君は喜びも怒りも見せることなく、
真に「できる人」というべきである。
士たる者は、
元来田園にいるべきであって、
世に出て用いられようとすると大いに誤るものなのだ。
まじないに使う草で編んだ犬を見るがよい。
草の犬は飾り立てられていい気になっているようだが、
まじないが終わってしまえば道ばたに捨てられ、
人々に踏みにじられるのである。
さあ、もう年の暮れは近い。
故郷に帰って耕作を始めるによい時期である。
■【03-4-038】遊金山寺
【解題】揚州からは長江北岸まではわずかな距離で、蘇軾は11月初旬に長江を渡って南岸の潤州［鎮江］に到った。潤州には、鎮江三山といわれる名所があり、最初に三山のうちの金山に登った。当時の金山は陸地から離れた島であった。
【訳文】
我が家があるのは、
長江の水が初めて源を発するあたり――
官界に遊ぶ身となって、
長江の水が海に入るのを見送るようにしてここにまできた。
聞くところでは、
海からの潮が遡るときには高さが一丈ほどにもなるという。
冬の今は川の水位が下がっているので、
砂の上に流れの痕跡が認められるだけだ。
金山の南側の水際に、
天下第一の名水とされる中泠泉があり、
それを囲む石の盤は、
波濤に従って見えたり見えなかったりしている。
金山の絶頂に登り、
試みに郷里の方角を見る。
長江の南側も長江の北側も、
ただただ青い山並み連なっている。
旅愁に駆られ、
夜になるのを恐れて陸に帰る船を尋ねる。
山の僧は、
「せっかくですから、落日を御覧なさいませ」
と、ねんごろに引き留める。
かくて、日が長江の彼方へと沈み行くと、
わずかな風によって、
皮革の皺のような細かな波模様が、
万頃にわたって広がる。
空に、無数の千切れ雲が、
魚の尾のように赤く染まる。
細い新月は薄暗い魄が伴い、
その月もじきに落ちてしまうと、
天は漆黒の闇となる。
その時に、
長江の中央に松明のような明るい何かが生じる。
飛ぶばかりの焔が山を照らし、烏を驚かせる。
寺に戻って床に伏せると、
あの火が何であったのか、
心に納得できるところがなく、
思案の余り嘆息する。
鬼が為したのでもなく、
人が為したのでもなく、
ついに何物であるのか。
金山より見る川と山はこのようであるのに、
自分は郷里の眉山に帰ろうとしていない。
だから、長江の神が異変を示して、
自分の頑な心を驚かせようとしたのだろうか。
ならば、私は江の神に謝ろう。
「ただ食うためにやむをえずこうしているのです。
暮らすに足りるだけの田がありながら、
もしも帰らないでいるとしたら、
誓って、長江の水を全部飲み干してみせましょう」
【補足】［（1）金山の頂上からの眺望は天下の絶景とされるが、その高さは実は44メートルである。（2）新月の魄とは、地球からの反射光で月の暗い部分がうっすら見えるのをいう。昔の人はそれに神秘的なものを感じたのだろう。（3）夜の川の中央に現われた焔の正体は不明だが、蘇軾は見たままを詠んだと添え書きをしている。（4）余計な話だが、中国語の「鬼」と日本語の「鬼」とは全く異なり、「鬼」は死者の霊魂、あるいは幽霊である。幽霊といっても、薄気味悪くぼんやりとした存在ではなく、もっと生々しく、一見すると、生きている者と大差がない。「鬼」は人に対して福をもたらすこともあるし、禍をもたらすこともある。木の精霊のような死者の世界のものではなくて現世のものは「神」であるのだが、どちらも超自然的な現象を引き起こすことがあるので、「鬼神」としてまとめて言い現わすことも多い］
■【03-4-039】自金山放船至焦山
【解題】金山から船で、鎮江三山の二つ目の焦山に渡った。
【訳文】
金山の楼観は堂々として奥深く、
鐘を撞き、太鼓を打つと、
向こう岸の淮河南方一帯に響きわたる。
私は金山に泊まり、
ここにまで来ていながら焦山に行かないのでは、
我が心に恥じねばならぬと思うようになり、
焦山には何があるのかと尋ねた。
「そうですなぁ、立派な竹がありましょうか。
それと、薪を採ったり、水を汲んだりする僧が二、三人ばかりいましょうか。
しかし、雲から土でも降りかねないようなこの空模様、
しかも川波が高くて、
船で焦山に渡る者など誰もおりますまい。
せいぜい川べりの農民が、
春の蚕がよく育つようにと祈りに行くくらいでありましょうか」
それを聞いて、
一緒に金山に遊んだ人々は、
ここだけでもう十分だといったのだが、
ならば、私だけでも行こうと決意したのだった。
お上の勤めを為すときには、
その報酬があろうがなかろうが、
川を渡り、湖を渡る労を断じて厭うものではない。
まして自分で行きたいと思うところなのだ。
朝、私は船を雇い、金山を発った。
風はなく、自ずから波が湧いて、我が船を後押ししてくれる。
流れの中ほどで船歌が湧き、
酔ったような心持ちでその声を聞く。
山から老いた僧が一人下ってきて、
「なんとまあ、こんな日に、客人がこられましたわい」
驚きつつ出迎えてくれる。
老僧と話すうちに、笑って喜び合うのは、
いつの間にか二人とも郷里のなまりになっていることだ。
老僧はいう。
「久しくここでは弥勒菩薩様とだけ一緒に過ごし、
郷里のことなどすっかり忘れておりました」
腹がくちくなるほどではなくとも、
もてなしてくれた山の食べ物は旨く、
紙を突っ掛けただけの夜具でも、
疲れていたので暖かくぐっすり眠れる。
かくして別れの朝に、私は老僧にいう。
「山林に生きて飢えに苦しむのは昔からありましょう。
田がないから身を退くことができないとの言い訳をして、
実のところは俸禄を貪るような人間ではないと思っております。
その昔、三回左遷させられ、ついに職を辞した人がいましたけれど、
その回数には、私はまだ達していません。
その昔、七つの耐えられないことを挙げて職を辞した人がいましたけれど、
それくらいの数なら、私にはもうすでにあります。
行く行くは官服を自ら脱ぐ時がきっとくるでしょう。
どうか私のために、
庵を立てるによい場所をこの山の中に残しておいてください」
【補足】［蘇軾自身の注で、このときの焦山の寺の長老は蜀の人であると添え書きがある］
■【03-4-040】甘露寺
【解題】鎮江三山の三つめは北固山で、そこには甘露寺がある。
【訳文】
長江があって、山もあるのなら、
結構でなかろうはずがない。
好風景であるだけに、一人だけで遊ぶとなると、
気持ちが昂ぶり過ぎてしまいかねない。
ともに行く人がいるのなら、
もとよりまことによろしくないはずがないであろう。
甘露寺に行こうとして、
官職に就いている方々には暇を持て余している人がなく、
面識のない二人ではあったけれど、
喜んで鞍を並べて北固山に向かうことになった。
古い歴史のあるこの山は、
そのまま一つの城のようになっていて、
階段が層を成して山を巡り、
朱色の欄干がぐるぐる巻きになっている。
その先端で大地が窮まって断崖となり、
その上に楼台が立ち、
楼台の尖端の一点の上から大空が広がり、
空の下に水が広がっている。
楼台から一覧するなら、
数州を呑むばかり、
山が長く連なり、漫漫と江が流れる。
対岸を望み見ると、
靄の彼方にぼんやりと竿のようなものがあるのは大明寺であろうか。
甘露寺の庭には、
羊が伏すような弓なりの岩がある。
遥かに想うのは臥竜公［諸葛孔明］のこと、
天下を鎮める策を携えてここに来て、
獰猛な犬に譬えられた孫権をたった一言で説き伏せ、
もう一言用いただけで老獪な曹操を敗走させた。
諸葛孔明の名は高く、
心に想わせるものは多くあるのだが、
事はすでに去り行き、
目に見える形で留まっているものはない。
巨大な二つの鉄の釜があり、
これは梁の武帝が寄進したものだという。
百斛もの水を湛えて、皇帝の威信を示したそれも、
長年の雨にさらされて錆びて腐りかけ、
虚しく向き合っているだけである。
周代の巨大な青銅の鼎も川に沈み、
漢代の巨大な銅の盤も土に埋もれ、
山や川でさえもとの形態を失っているのに、
甘露寺のこの鉄の釜ばかりがなぜ今も残っているのだろうか。
晋の時代に張僧繇が描いた六枚の菩薩像があり、
その衣は氷のように真っ白である。
裏側にもまた画があり、
観る者はそれが壮麗すぎると感じる。
破れた板には斉の時代の陸探微が描いた画があって、
青い猊［獅子のような伝説の獣］がじゃれつき合い、
その上に二人の天人が翔ける鸞のように手を振っている。
墨の痕はもはや消えようとしているけれど、
その完璧な造形は不朽である。
唐の時代の李徳裕を描いた画像には、
凜としたその英姿がありありと残っている。
その李徳裕が親しく植えた柏が、
人を寄せつけないまでにあたりから抜きん出て高く聳え、
その枝は雲を支え、根は地中深くに入り込んでいる。
この地では草を刈ったあとから石碑が出てきたこともあれば、
崩れた崖から金の棺が出てきたこともある。
天がかたく隠し続けるのは難しくはないであろうに、
どのような理由でまたその姿を現わしたりするのだろうか。
諸葛孔明、孫権、梁の武帝、李徳裕の四人の英雄は、
皆竜であり虎であって、その残した痕は今もくっきりと残っている。
四人が活躍した時代は争奪を専らとして、
安んじられるときは少しもなかった。
興廃は造物者の手の内にあり、
世の移り変わりについて、
誰かがおざなりにいえるようなことはない。
昔も今も大きな法則は変わらないのだ。
ところが、凡庸な者に限って、
難しい事を為そうとする。
昔の英雄に遥かに及ばない後世の凡人は、
徒に辛酸を嘗めるばかりである。
古の琴の名手は、
久遠の時間の推移を想わせて人を泣かせたという。
その音を聞かずとも、
かつて阮籍が無限の思いを込めて、
「もはや英雄はいない」
と、叫んだのに声を合わせて、
私は深く慨嘆せずにはいられない。
【補足】［（1）長いこの詩の終わりに名が挙がっている阮籍は「竹林の七賢人」の一人［→作品番号01-2-041］。阮籍は、楚の項籍と漢の劉邦が争った古戦場に立って「もはや英雄はいない」と叫んだ。それは阮籍自身も含めて、時代の混迷から国家を救い出せるような人物が一人もいないことを嘆いたものであった。そして、蘇軾は甘露寺に遺された様々なものを見て、やはりいまの時代を正す人物はいないと嘆いたのである。（2）蘇軾はこの後、蘇州を経由して、11月28日に杭州に到着した］