第3章 不本意な歳月――都、郷里、都、そして旅
［第3章その一］
治平2年［1065年］、蘇軾30歳。
治平3年［1066年］、蘇軾31歳。
治平4年［1067年］、蘇軾32歳。
煕寧元年［1068年］、蘇軾33歳。
煕寧2年［1069年］、蘇軾34歳。
■【03-1-001】謝蘇自之恵酒
【解題】蘇軾は鳳翔府から治平2年2月に都に帰還し、次の仕事は地方に出るのではなく、都において判登聞鼓院という職務に携わるようになった。「登聞鼓」とは、皇帝に直接訴えたいことがある場合に鳴らす太鼓で、皇城の門外に置かれた。実際に「登聞鼓」を打って訴え出て救われた人の記録が多数残っている。蘇軾が新たな仕事に就いたのと同じ月に、弟の蘇轍は大名府推官を授かった。大名府は都の北東150km余りのところにある政治的に重要な都市である。兄弟は久しぶりに再会したのもつかの間、弟はすぐに都から出て行ってしまったのである。蘇軾はこのあと都に1年余りいたのだが、不思議なことに、その間に詠んだとされる詩はわずかに4首しかなく、出来栄えもあまりよくない。この項の表題に掲げたのは、蘇自之という人が酒を贈ってくれたことに対する謝礼の詩。蘇自之がどのような人なのか、どのような経緯で酒を贈ってくれたのかわかっていないが、ここでは、蘇軾が都で職を得たのを祝して蘇自之が贈ったとの推測に基づいて読んでおくことにしよう。
【訳文】
「高潔な人、高士は酒を憐れむ」
これは唐の韓愈の説である。
私には別の説がある。
「酒は必ずしも高士を憐れむものではない」
荘子にはこういう説がある。
「酔っ払いは車から落ちても怪我をしない、
それは酒の作用で精神が完全な状態になっているからだ、
とはいえ、天の道を得た方が精神はより完全になる」
これにも私には別の説がある。
「道に達した人、達人には欠けるところがないのだから、
どうして、より完全になるのを求めたりしようか」
ある酒飲みはこっそり飲んでは酔いつぶれ、
ある酒飲みは飲むとやたらと威勢がよくなり、
ある酒飲みは酒を盗んでまでも飲もうとして役人に捕まり、
ある酒飲みは飲んで死んだらその場にすぐに埋めてくれと従者に鍤を荷わせていた。
世間はとかく奇異なことを好み、
そうした連中をあたかも賢者であるかのように持ち上げる。
唐の杜甫にしても、
詩を得意とする八人の呑兵衛を詩に詠み、
酒樽を見るとすぐに涎を流したり、
頭に冠を載せない無作法なことを平気でしたり、
「酔うとは禅に逃れることなり」といってみせたりした人を、
あたかも仙人であるかのように称えた。
最も笑うべきことではなかろうか。
私はいまこのように思う。
「飲んでも飲まなくても、
心の月は白く輝いて常に全き円であるのがよい。
時に客人があれば酒を酌み、
そうでなければ、酒を無理に去るまでもなく、忘れていればよろしい」
我が一族の蘇先生が深い心で、
百里の遠方から二甕のお酒を送ってくださった。
そこで私はこう申し上げたい――
「私はお酒はいただきません。世間が同じでも私は異なります」
なんぞといってお高くとまるよりは、
同じとか異なるとか論じるのに疎い方がましで、
ごたごたいえばいうだけ肝心要のものを失ってしまうのだ。
結局のところ、
酒があるなら辞退しないのがよろしいわけで、
醒めているのと酔っているのとどちらがよいかなどと、
理屈をこねる必要はないのである。
【補足】［（1）この詩は、結局のところ何がいいたいのかよくわからない。たくさんの故事をもとに、酔っ払いの千鳥足のようにあれこれ思案する過程を楽しめばよいのだろう。多数の故事に説明を加えるのは煩わしいので、大意が通じる程度に大まかに訳した。（2）官員は地方でのキャリアを10年余り積んで後に都での職に就けたなら、かなり幸運な方だと感じるのであって、蘇軾の伯父の蘇渙のように地方を巡り続けて一生を終える者も少なくなかった。蘇軾は制科に合格していただけに昇進スピードは著しく速かったのだが、英宗皇帝は実はもっと早く自分の近くに召し寄せて重く用いたいと考えていたようで、李廌の随筆『師友談記』［→作品番号01-2-005］はその間に事情を次のように伝えている］
李廌：『師友談記』
東坡［蘇軾］はこのように話された。
英宗皇帝はすぐにも私に知制誥［詔勅の草稿を書くのが職務で、将来の宰相候補が就くことが多かった］を授けたいとお考えになった。すると韓琦がこのようにいわれた。
「蘇軾の才は、時間をかけて大きくなる器であります。いずれは天下の用に当たることになるはずですので、朝廷においてじっくりと育てるべきであります。天下の誰もが蘇軾の才に納得して畏れるようになり、皆が朝廷で重く用いるべきだと考えるようになったところで、おもむろに用いるならば、人々はもはや蘇軾に異論を唱えるようなことはしないでしょう。いまにわかに用いたならば、天下の人々はまだしかるべきことだとは思わないで、禍をもたらすことにもなりかねません」
それで、英宗はいわれた。
「知制誥がまだだめなら、しばらく修起居注［皇帝の日々を記録する係］を与えるのははどうか」
「その職は知制誥と隣同士でありますから、まだ早すぎます。しばらく館閣に置いて仕事を与え、後日に抜擢しても遅くはありませんでしょう」
韓琦がそのよういったので、私は（試験を受けて）直史館を授かった。
【補足】［宋の朝廷では、優れた人物を重要な職務に就ける前に、学術をもって皇帝に仕えるアカデミーの一員として館閣に置いて館職を授けることが多かった。蘇軾は治平2年5月に試験を受け、最優秀の三等で合格し、「直史館」の一員となった。これより蘇軾の肩書には「直史館」の3文字が加えられ、並みの官僚とは異なることが一目で知れるようになった。このときの試験で書いた論文が残っているが、いずれも作品番号02-1-003以下で見た制科のときの論文と同様、儒学の古典的知識に基づいて議論を展開している。このように、蘇軾は、国家の中枢で用いられるようになる過程で何度も試験を受け、そのたびに古典的教養が問われてきたわけで、我々としては果たしてそれが有用な人材をふるい分けるのに有効な手段であったのだろうか疑問を持たずにはいられない。むしろ鳳翔府での勤務実績を評価したほうがよいのではないかと思いもするのだが、実績の評価には主観が入りやすく、またよい評価を得るために賄賂が横行するような弊害が生じて、かえって不適格な人間が出世しやすいというおかしなことになってしまうのが、中国の官僚政治の長い経験から出てきた結論で、それで客観的な試験が重視されるようになったのである。ならば、古典的教養ではなく、より実務的な知識を問うような試験を課すべきであるという考えが当然のことながら出てくるのであって、それを提案したのが王安石であった。そのすこぶる合理的な改革案に対して蘇軾がどのような意見を提示するかは後に見ることになる］
■【03-1-002】入館
【解題】直史館の職場に入っての作。詩の内容から7月初めごろに詠んだのだろう。
【訳文】
黄省［門下省］の文書が道山［直史館］に配布され、
鐘鼓の音だけが静かに建章［宮城］に響きわる。
天辺の玉樹［宮城の樹木］から西風が起って、
新たな秋が世の中へと到るのである。
【補足】［宮城の厳かな雰囲気を重々しい言葉を用いて表現しようとしただけの詩である］
■【03-1-003】妻王氏墓誌銘
【解題】ここまで見て、都での蘇軾の官界生活は順風満帆のようであるのだが、実は5月28日に妻の王弗が亡くなっている。父母が亡くなると礼の定めとして職を辞して足掛け3年の喪に服すのだが、妻の死にはそのような規定はなく、蘇軾は妻の仮の葬儀を行いつつ、館閣に入るための試験を受け、入館したのだった。これより1年余り後に書いた妻の墓誌銘をここで読んでおこう。この一部はすでに作品番号02-2-029として見ている。
【訳文】
治平二年［1065年］五月二十八日、趙郡の蘇軾の妻王氏は都で死去した。その七日後、都の西で仮に棺に納めた。翌年の六月、眉州の東北の彭山県安鎮郷の可竜里にある母の墓所の西北八歩のところに埋葬し、私蘇軾がこの墓誌銘を記した。
君の諱は弗。眉州の青神の人で、郷試［科挙の一次試験］に合格した王方の娘として生まれ、十六歳で軾のもとに嫁いできた。子は邁がいる。
君は嫁す前には、君の父母に仕え、嫁してからは我が父と母に仕えた。いずれのときも謹肅との評判を得た。
嫁したその初めは、書物を知るとは自分からはひと言もいわなかった。軾が書物を読むとき、君はずっとそばにいて、音読するのを聞いていた。理解しているかどうかはわからなかった。その後、軾に忘れたところがあると、君はすぐに思い出させてくれた。他の書物について尋ねてみると、どれもおよそのことを知っていた。それで君が賢く慎ましやかであると知った。
軾が官職を得たのに伴って鳳翔に来てからは、軾が外で為すことを、君は問うこともないのに詳らかに知っていた。
君はこういった。
「あなた様はいまお父様から遠く離れています。よくよく慎まなければなりません」
君は、我が父が私を戒めた言葉を日々に語ってくれた。
軾が客と外で話すのを、君は壁の向こうで聞いていて、客が帰ると客とのやりとりを再現してこういった。
「あの人はいつもどっちつかずのことしかいいません。あなた様がどう思っているかを見て、それに合わせようとしているだけです。そのような人のいうことは聞くに値しません」
あるいは、軾と一生懸命に親しくなろうとしている人がいると、君はこういった。
「あの人とはきっと長くは続かないでしょう。すぐに意気投合するような人は、離れるのもきっと速いのです」
いつも君のいった通りになった。
君が亡くなるまでの一年の間、思えば耳を傾けるべきことがたくさんあった。見識豊かな人と同じであったのだ。
君が死去したのはまだわずかに二十七歳であった。君が死去すると我が父はすぐに軾に次のように命じた。
「君の妻が君の艱難に従ったことを忘れてはならない。いつか必ず君の母の近くに埋葬するのだ」
それから一年で我が父は亡くなり、軾は謹んで我が父の遺令に従って君を葬った。
君はこの墓地で我が母にまみゆることとなった。私は我が母に会うことはできない。ああ、哀しいことである。私は永く母に仕えることができずにいる。君は死んだとはいえ、我が妻としての勤めを為すことができる。だから傷まずともよいのか。ああ、哀しいことではないか。
【補足】［冒頭で、いつものように「眉州の蘇軾」ではなく「趙郡の蘇軾」と書いている。蘇洵が書いた『蘇氏族譜引』［→作品番号01-2-001］を見ると、蘇軾の先祖は趙州出身の蘇味道にまで遡るとされている。蘇軾は特に改まったときに「趙郡の蘇軾」と称することがある］
■【03-1-004】贈蔡茂先
【解題】蔡茂先という人に贈った詩。蔡茂先がいかなる人物かはわかっていない。
【訳文】
都は三日の雨続き、
足止めを食らってしまった人を訪ねる。
漢の時代に国政の乱れを避けて、
門番に身をやつした梅福という隠者がいた。
貴君はまさしくそのような人。
長い鬚に裸足の姿で、好き事を語り、
優美な言葉を並べた新しい詩を見るならもう春の気分。
唐の時代の名宰相であった李泌は、
不遇の時期にはひたすら書物の整理をしていた、
漢の時代に『史記』を書いた司馬遷にも、
各地の史跡を訪ね歩く日々があった。
貴君を勧める手紙を書くのを惜しむものではないけれど、
いまは不用意な交際は慎むべきではなかろうかと心配している。
【補足】［蔡茂先は志を得られずにひとまず都を去ることになったのだろう］
■【03-1-005】弁法帖
【解題】直史館には治平2年夏から治平3年夏までいたのだが、そのころの作品は前述のようにごくわずかしかない。これは数年後に書かれたものであるが、直史館時代のことが記されているのでここで見ておくことにする。法帖［書の手本として先人の筆跡を集めたもの］の真偽の見分け方について論じている。
【訳文】
書の真偽を見分ける難しさは、人の脈を聴き分けるのに似ているだろう。その美し悪しであれば知ることができるとしても、必ず正しく書いた者の名を言い当てられるというのは皆過ちである。……［過ちの二例を挙げる］……私はかつて秘閣で墨跡を観たところ、どれも唐の時代の人が模写したもので、ただ『鵝群帖』だけが王献之の真筆のようであった。後に、李瑋の家で謝尚や王衍［二人とも晋代の人］など数人の書を見たところ、世俗から超然と抜きんでていた。その印記から考えるに、唐の王涯の家の本であったのだろう。その他にも唐人が模写したものがあり、どれも蓄えておくべき価値があった。
【補足】［（1）宮中には貴重な文化遺産が保存されていて、直史館時代にその一部を見る機会に恵まれ、蘇軾は書画の鑑賞眼を養ったようだ。王献之の名は作品番号02-4-021で見ている。後にまた『鵞群帖』についての考察を見ることになる。（2）李瑋は名家の息子で皇帝の娘を娶って裕福であった］
■【03-1-006】蘇廷評行状
【解題】治平3年春、父の蘇洵は病に伏せ、欧陽脩が3度にわたって見舞いの手紙を送ってくれたり、薬を分けてくれたりしたのだが、4月25日に亡くなった。58歳であった。蘇軾も弟の蘇轍も官職を一時的に辞めて、父の棺を携えて郷里に帰り、足掛け3年の喪に服すことになった。欧陽脩が書いた蘇洵の墓誌銘をここで見ておこう。
【訳文】
欧陽脩：『故覇州文安県主簿蘇君墓誌銘並序』
蜀に一人の君子がいて、蘇君という。蘇君の諱は洵、字は明允、眉州眉山の人である。
蘇君は義を行い、一家をきちんと修め、郷里の人々に信望があり、広く蜀において知られることとなった。
蘇君は至和から嘉祐のころに都に来て、さらに二人の息子の蘇軾と蘇轍を連れて上京した。その際に、私欧陽修は、蘇君が書き著した文章二十二篇を得た。それを朝廷の人々に献呈すると、皆は争うようにしてそれを次々に別の人に読ませようとした。二人の息子は科挙の進士科に及第し、しかも成績は上位だった。二人の息子の文章もまた世に称賛されるところとなった。
眉山は都から西南に数千里の彼方にあり、蘇君父子の名はその地に隠れていたのだが、一日にして都の人々に知られ、父子三人の文章はついには天下を席巻するに至った。
蘇君の文章は広い知識に裏打ちされ、力強く、普遍性があり、読む者はぞくっと恐ろしいばかりに感じて、これは一体どのような人が書いたのだろうかと想像せずにはいられなくなる。ところが、実際に蘇君を見ると、あまりぱっとせず、とても鋭いことをいいそうにない。話をしてみて、一緒にしばらくいると、次第に敬愛すべき人だと思えてきて、ふともらす言葉にはっと感じるところがあり、ならばと問うと、尋ねれば尋ねるだけ無限に答えが返ってくるようになるのである。
ああ、この蘇君こそは純明篤実の君子というべきである。
蘇君の曾祖父を蘇祐といい、祖父を蘇杲といい、父を蘇序という。三代にわたって世に顕れることはなかった。蘇序に三人の息子があり、蘇澹、蘇渙、蘇洵といい、蘇渙は進士科に及第した。
蘇君は勉学を好まず、壮年に至っても書物を手に取ることがなかった。父はそのような蘇君を自由にさせていたので、郷里の親族は訝しく思い、どうして放置しておくのかと、ある人が尋ねた。父は笑って答えなかった。蘇君もまた気にすることがなかった。
蘇君は二十七歳になると、突如として発奮し、それまで付き合っていた連中と交わりを断ち、家に篭って書物を読み、文章を書く練習を始めた。歳月を積んで科挙に挑み、二度落第した。制科にも挑んで失敗し、故郷に帰って、こういって嘆いた。
「受験のための勉強は学ぶに値しない」
それまでに書きためた数百篇の文章を全て燃やし、門を完全に閉ざして書物に没頭し、数年の間は筆を持たず、文章を作ることはなかった。儒学の経典、諸子百家の著作等々を大いに究め、古今の治乱成敗は何によるのか、聖賢の窮達出処の機微はどこにあるのかを考え抜き、その本質を把握し、溢れるほどに知識を蓄えても、なおそれを抑えて、内より外に出すことはなかった。
長い時間を経て、あるとき、
「もうよかろう」
そのような思いがふとよぎると、筆を手に持ち、たちまちにして数千字の文章が生まれた。書けば書くほど、縱にも橫にも、上にも下にも自由自在に動きまわって、出ては入り、速く駈け、遠く駈け、必ず深くまた細微なところに至って初めて止まるのだった。
思うに蘇君の才能は豊かで、その発露が遅かったのは慎ましやかであったからで、ひとたび時機を得るや、真髄を掴み取ったのである。
蘇君が都に来ると、人々は一斉にその賢を尊び、その文章を規範とした。父子三人が揃って名を知られたことから、特に「老蘇」と呼ばれるようになった。
始めに私は蘇君の文章を皇帝に差し出し、紫微閣の一員に招こうとしたのだが、蘇君は辞退した。そこで秘書省校書郎の職を用意した。たまたま宋朝が始まって以来の礼に関する書物を編集する作業が始まっていたことから、蘇君は霸州文安県主簿という名目上の職に就いた上で、その編集作業に従事し、『太常因革礼』一百巻を完成させた。ところがその書を皇帝に差し出して労が報われる前に、蘇君は亡くなってしまった。没したのは治平三年四月戊甲、享年五十八であった。皇帝はそれを聞かれると哀れみ、光祿寺丞の名誉職を賜り、公費で船を用意させ、その棺を載せて蜀の地に葬るよう命じた。
蘇君は程文応の娘を娶り、三人の男児が生まれた。長男の景先は早くに亡くなり、次男は軾、三男は轍である。三人の女児が生まれたが皆早くに死んだ。孫は邁と遅がいる。文集二十卷と『諡法』三卷がある。
蘇君は人とよく交わり、人の危難をよく救い、ある人が死んで孤児が残ったときには憐れんで養ったので、村の人々は蘇君には徳があると称えた。
蘇君は最後に『易経』を好み、
「『易経』は深遠な書物で明らかになっていないところが多くあり、これまで学者は牽強付会の説を出して混乱させるばかりであったので、それを取り除くことで聖人の本来の主旨が明らかになる」
といって、『易伝』という著作に取り組み、しかしまだ完成に至らなかった。
治平四年十月壬申［二十七日］、蘇君は彭山の安鎮郷可竜里に葬られた。
蘇君は遠い田舎に生まれ、学問が成るのが遅かったことを常に嘆いていた。
「私を知る者は、ただ吾が父と、欧陽公だけだ」
だから私以外に墓誌銘を書く者はいないのだ。
その銘に曰く、
蘇氏の先祖は唐の世に顕れた。それは欒城の人で、官の仕事で眉州に来てそこに留まり、子孫が繁栄して、曾祖父のころから郷里においてその仁徳が称賛されるようになった。偉大にして明らかな蘇氏の才は蘇君に至ってその文章において大いに発揮された。蘇君には文章があり、さらにその子があった。朽ちることのないものを遺し、その子孫はいよいよ盛んになるであろう。ああ、君の字は明允、その通りに明らかにして亡びることはないというべきである。
【補足】［蘇洵が亡くなった直後に、弔問に訪れた司馬光に蘇轍が懇願して母の墓誌銘を書いてもらった。その訳文は作品番号01-2-017の中で見ている］
【解題】蘇軾と蘇轍は6月上旬ごろに船で都を発ち、大運河を使って南に向かって長江に出て、流れを遡って故郷を目指した。船には父に棺とともに、ほぼ1年前に亡くなった妻の棺も載せられていた。大きな荷を携えて大河を遡るのは容易ではなく、半年かけてようやく三峡に入った。明けて治平4年1月8日に英宗皇帝が亡くなり、その子の神宗皇帝が即位した。そのときもまだ旅の途中であった。ようやく眉山県に到着したのは4月に入ってからで、その後は、葬儀の準備に忙しく過ごしたようだ。その中で、少しばかり文章を書き記している。祖父の蘇序の伝記をまとめたのを見ておこう。
【訳文】
公の諱は序、字は仲先、眉州眉山の人であった。その先祖は趙郡の欒城からきたという。公の曾祖父を蘇釿といい、祖父を蘇祜といい、父を蘇杲といった。その三代はともに官に仕えることはなく、皆世に隠れた徳があった。曾祖父の代から、義を為し施しを好んだことで郷里に知られ、公に至ってますます評判が高かった。しかし公は、自分は先祖に及ばないと思っていた。
公の父は唐王朝の末に生まれ、周王朝の顕德年間に亡くなった。その頃、蜀の地では、王氏と孟氏が順に皇帝を称していたが、公の父はその朝廷に仕えることはなかった。
公の父はかつて蜀の都の成都に遊び、ある道士に出会った。道士は人を遠ざけて公の父だけにそっとささやいた。
「若い人よ、君には優れた徳がある。わしと君にはある縁がある。わしは百物を変化させる薬方を会得した。世が乱れてもこの薬方があれば自分の命を全うできるだろう」
そういって、その術を授けようとした。
公の父は笑い、
「僕はそれを学ぼうとは思いません」
道士は驚き、
「わしは天下を往来し、誰にもいまのようなことを語ったことがない。わしは何でも分かっていると思っていたが、君が学ぼうとは思わないといったのはまことに思いもよらなかった」
道士はそういって去り、それっきり会うことはなかった。
公は若いときから、大らかで小さなことにこだわらず、本を読んで大略がわかればそれでもう閉じてしまった。人より一歩下がり、施しを好み、人が危難に遭遇すると、自分自身に対してする以上の面倒を見た。衣食に少しでも余裕があると、人のためにすぐに使い、たちまちにしてなくしてしまうのだった。それでいつも困窮し、しばしば飢えと寒さに困らされた。それでも一度も悔いることはなかった。施して残りがあると、
「これは困っている人のための使い余しだ」
と、いよいよ惜しむことはなかった。
ある凶作の年に、公は農地を売って飢民を救った。豊作の年が巡りくると、助けられた人は公のために農地を買い戻そうとした。公はいった。
「私はもともと売りたかったから売ったまでだ。そなたのために売ったのではない」
公は、知り合いであろうがなかろうが、人とすぐに打ち解け、笑って腹蔵のない話をした。つまらない人間が公を侮り欺いても、怒ることがなかったので、人々は不思議に思った。
宋の統治が蜀に及んだ初めに、李順が反乱を起こし、眉州は反乱軍に攻囲された。公はこのとき二十二歳で、武器を手に城壁の上で戦った。反乱軍の攻撃がいよいよ厳しくなったときに、たまたま公の祖父が病気で亡くなり、家族は泣くばかりでどうしたらよいのかわからなかった。公だけは落ち着いて死者を送る礼を尽し、そのありさまは平和なときと変わらなかった。祖母がひどく気落ちしていたので、公はごく穏やかにこういった。
「朝廷が民を見捨てることはありません。賊は必ず破れます」
実際に反乱はすぐに収まった。
その後の慶暦年間に、皇帝は州や郡に対して学校を建てるよう詔を下した。蜀の人々は、朝廷が蜀の人を採用してくれるようになると喜び、学校ができたら自分の子弟を真っ先に入れようと待ち構えた。
公は笑って、
「お偉いさんが格好を付けたいだけのことだ」
といい、子供等が入学しようとしても止めた。
このころ郡吏は横暴で、民を苦しめたので、公はそれを批判する詩を作った。
子の蘇渙が朝廷に仕え、公は大理評事という名誉職を授かった。慶暦七年五月十一日に家で亡くなった。七十五歳だった。八年二月に、眉山県修文郷安道里の先祖の墓の近くに葬られた。職方員外郎を贈られた。
史氏を娶り、史夫人は公に先立つこと十五年で亡くなった。公が亡くなったときに、蓬莱県太君を贈られた。
三人の男子がいて、長男が澹で、官に仕えることなく、公に先立って死んだ。
次男が渙で、科挙に合格して官員となった。渙は赴任したところで必ずよい評判を挙げ、任地から去ると、人々は渙を偲んだ。ある人は、渙を漢の時代の優秀な官吏になぞらえた。利州の任地で官職に就いたまま亡くなった。
三男が軾の父、諱は洵である。洵は霸州文安県主簿で終わった。
渙が蜀の閬州の知事になったときに、眉州からさほど遠くないことから、公は息子の仕事ぶりを見に行った。渙がきちんと正しくしているのを見て喜び、数日間そこに滞在した。閬州の人々は、公が賢人であるのを見て喜んだ。
公は晩年に詩を作るのを好み、巧みであることは求めず、いつも即興で、自分の思いをそのままに詠んだ。亡くなったときには数千首の詩が遺された。
娘が二人いて、長女は杜垂裕に嫁ぎ、次女は石揚言に嫁いだ。男子の孫が七人いて、位、份、不欺、不疑、不危、軾、轍という。
唐が滅んで五代の乱れた世になったとき、蜀では学問をする者が少なくなり、学問をしても郷里に留まって敢えて出仕しようとはしなかった。
公がその子の渙に学問をするよう命じると、学んで至らないことはなく、渙はついに進士に及第した。渙が官員となって郷里に帰って来ると、土地の人々は皆で出迎え、その栄えある姿を見て、蘇の家の子に見習って学問をするよう子供等に教えた。これより眉山県では学問をする者が千余人にまで増えたのである。
しかし、軾の父だけは学問に目を向けず、壮年に至っても書物を手にすることがなかった。公はそのような息子に何もいわなかった。ある人が、
「どうして放っておくのですか」
と、問うと、何も答えなかった。しばらく後になって、
「息子は学ばずにはいられなくなるだろう」
と、いった。すぐにその通りになり、軾の父は学問に努め、ついに世に名を顕した。
公に見識があり、人に施すことは郷里の間で知られていたが、世の中で大きな仕事をしたわけではなかった。特に幸運を得ることはなく、世間にその名が聞こえるようなこともないままに老いて亡くなった。しかし、その功名は小さなものであったのだろうか。
古の賢人、君子にも、やはり名が顕れることなく、世に伝えられることがなく終わった人達がたくさんいた。我々が知るのはごくわずかな者だけだ。公に伝えられることがないのは、ただ公が僻遠の地で一生を過ごしたからだけではなく、その子孫が公のことを人に語ろうとしなかったからだ。だから、その始めから終わりについて、為したことの大略をここに記録し、もって当世の君子にお見せするものである。
■【03-1-007】書摹本蘭亭後
【解題】中国で最も名高い書といえば、王羲之が書いた『蘭亭集序』であるとされている。それを模写したものを蘇轍が大名府で手に入れ、郷里に持ち帰った。蘇軾はそれにこの短文を書き添えた。なお『蘭亭集序』の真筆は、それを酷愛した唐の太宗皇帝が自分とともに墓に埋めてしまったので、後世には模写したものしか伝わっていない。
【訳文】
……［模写にある幾つかの文字の異同を記す］……かつて私は別の写しを見たが、これよりもわずかばかりきちんと整っているので、これは下書きであったのかもしれない。しかし、放曠自得なところは、遠くにこれに及ばない。
弟がこれは河朔［大名府］より持ち帰ったところ、宝月大師惟簡がきて、これをもとにして、綿州の僧の意祖に頼んで石に刻みたいといってきた。
治平四年九月十五日。
【補足】［（1）惟簡の名は作品番号01-1-002ですでに見ているように成都の僧で、郷里に帰ってきた蘇軾に会いにきたのだろう。（2）父の蘇洵は、墓誌銘に記されていたように治平4年10月27日に郷里の墓所に、妻の程氏の隣に埋葬された。また、蘇軾の妻の王弗もその近くに埋葬された。蘇軾兄弟は墓所のまわりに松の苗を自分で植えるなどして墓所を美しく整えた。埋葬の前に、墓所を作るのに必要な磚が揃わなくて困っていたときにある人に助けられたというエピソードが残っている。真偽のほどはわからないが、ざっと訳しておこう。
【訳文】
銭功：『澹山雑識』
私が十三歳のときに、東坡［蘇軾］が我が父のもとを訪れ、世間には知られていない隠れた豪傑がいるという話をした。私はその豪傑の名を忘れてしまったが、代々眉山に住んでいたという。
東坡は、その父を葬る期日が迫りつつあるなかで、墓を作るのに必要な磚がまだ用意できていなかった。東坡が人々に相談すると、皆がいうには、
「あの人に会ってみたらよろしいでしょう。きっと何とかしてくれます。ただ、いつも猟に出ていますし、人里離れた山林に住んでいて、会うのは容易ではありません。でも、試してみてはどうでしょうか」
そこで、東坡は二日ばかり探して、ようやくその住まいにたどり着いた。日の暮れ方まで道の傍らで待っていると、数人の者を従えて馬に乗って帰ってきた。まだ若い人で、馬からおりたところで声を掛けると、その者はいったん中に入って衣服を改めてから出てきて、門の前で礼儀正しく挨拶した。中に案内されて坐が定まると、訪問のわけを尋ねたので、東坡はありのままに話した。
「それならたやすいことです。お食事を御用意しましたので、今日はここにお泊りください。期日に合わせて必ず整えましょう」
しばらくすると、食事が運ばれてきた。どれもが今日仕留めたばかりの新鮮な肉であった。大きな盃で、ふんだんに飲みかつ食べた。食事が終わると、寝所に案内された。
翌日は召使が馬で山の下まで送ってくれた。
三日ばかりの間は何事もなく、もう明日には墓地を掘り下げる日になった。東坡は後悔し、最初に教えてくれた者に苦情をいおうかと思った。とうとう夜になっても磚はまだひとつも届けられなかった。
翌日の明け方に、その墓地を見に行くと、五万枚もの磚が整然と積み上げられていた。人々は驚嘆した。
葬儀が終わってから、礼を言いに行こうとしたのだが、その住まいをついに見つけることができなかった。
真に隠れた豪傑だったのである。
【補足】［蘇軾がこの話を語ったという相手の銭功の父がいかなる人であったのかは審らかにしないが、蘇軾が話すのを銭功が聞いていたのが事実であるのなら、例によって蘇軾は若干脚色しておもしろく語ったのだろう。いずれにしても、墓所が地元の人々の助力を得て作られたのは間違いない。磚は棺を納める石室に作るのに使われたのだろうか］
■【03-1-008】油水頌
【解題】父を埋葬した翌年の煕寧元年［1068年］4月8日、先に長安で会った劉敞［→作品番号02-1-015］が亡くなり、蘇軾は祭文を書いた［訳は省略］。7月に喪が明けると、成都に行った。成都では惟簡や侯溥に会ったりした。侯溥は成都の学校の学官であった。侯溥と会ったことが記されている作品を見ておこう。
【訳文】
熙寧元年七月二十八日、侯溥から嘉祐院での食事に招かれ、そこで長老にお目にかかり、仏牙［仏陀の歯］を見せてもらった。趙郡の蘇軾は長老のために仏牙の頌歌を作った。
水在油中、［水が油の中にあると］
見火則起。［火を見て水は跳ねる］
油水相搏、［油と水は打ち合い］
水去油往。［水は油から去って行く］
湛然光明、［水は静かな光を湛え］
不知有火。［火があったとはわからない］
在火能実、［火はその実態を明らかにし］
内外浄故。［内も外も浄化される］
若不経火、［もし火を経なかったならば］
油水同定。［水と油は一緒のままだ］
非真定故、［真と非が定まっていないので］
見火復起。［火を見ると跳ねあがるのである］
【補足】［水との油の関係を歌ったものがどうして仏牙の頌歌になるのか、訳者にはまったくわからないのだが、何か深い意味があるのだろう］
■【03-1-009】四菩薩閣記
【解題】成都で惟簡に会ったのは、ある貴重な絵を託すためであった。そのことがこの文章に記されている。
【訳文】
我が父は元来、物の好みがなく、何もない部屋であたかも斎戒しているかのように静かに過ごし、ときたま言笑するだけだった。それでも画だけは好み、父の門弟は父を喜ばすのが難しいので、父の好みそうな画を持って来て、どうにかして父の喜ぶ顔を見ようとした。それで、父は庶民でありながら、公卿のようにたくさんの画を所蔵するようになった。
かつて長安に、唐の玄宗皇帝が建てた仏教の経典を納める堂があった。四方に扉があり、八枚の扉の板に呉道子が画を描き、表側には菩薩が、裏側には天王が描かれ、全部で十六体の像があった。唐末に黄巣の乱に遭い、賊の放った火がその堂に迫った。その名は忘れてしまったが、ある僧が、兵火の中から四枚の板だけを抜いて逃げた。ところが、重いし、うまく背負うこともできなかったので、賊に迫られて全部を失ってしまうのを恐れ、二枚を荷台にして二枚を運び、西の鳳翔にまで逃げた。とある僧舎に身を寄せ、板をそこに留め、それから百八十年が経過した。この板をある商人が十万銭で得て、私のところに見せに来た。私はそれを手に入れ、父に贈った。父の手元にはすでに百余りの画があったが、この四枚の板を手にしてからは、これが一番であると思うようになった。
治平四年、父は都で亡くなり、私は都から船で汴河を下って淮河に入り、さらに長江を遡って郷里に帰った。そのときに四枚の板も船に載せて持ち帰った。
服喪の期間を終えると、いつも親しくしている僧の惟簡がこのようなことをいった。
「愚僧は、師よりこのようなことを教わりました。故人が最も大切にしていたものを惜しまずに喜捨するのが最も功徳のある行為なのです」
私はその説を用い、父が最も愛していて、私が捨て去るに最も忍び難い物として、四枚の板以上の物はないので、それを寺に喜捨することにした。
そこで惟簡に向かってこのようにいった。
「これは唐の皇帝が守り切れず、賊によって焼かれてしまいそうになりました。まして私などが守れるはずがありません。天下にたくさんの物を蓄えている人を見ますに、三代にわたって守れた者がどれだけいるでしょうか。そもそも始めは、それが欲しくてもなかなか得られないのを苦しみ、得てからはただただ失うのを恐れます。それなのに、その子孫に至ると、衣食に替えずにおくことは稀です。私は自分で考えるにこれを長く守ることはできませんので、貴僧に差し上げようと思います。そこで伺うのですが、貴僧はこれをどのようにして守るお考えでありましょうか」
惟簡はこういった。
「我が身に代えて守りましょう。我が眼を潰されても、我が足を切られても、この画は決して奪われないよう守ります。このようにすればよろしかろうかな」
私はいった。
「それでは十分はありますまい。貴僧が生きておられる間だけしか守れないではありませんか」
惟簡はいった。
「御仏にお願いし、鬼神に守ってもらいましょう。これを取って人に与えようとする者は仏法によって罰せられます。このようにして守るのならばよろしかろうかな」
私はいった。
「それでも十分ではありますまい。世には仏を信じない者、鬼神を蔑む者がおりましょう」
「ならば、どのようにしたら守れるのでしょうかな」
「私が貴僧にこれを与えるのは、父のために喜捨するのです。天下には父のない子はいません。父のためであると知って、取ろうとする者がいるでしょうか。もしそうだと知っていながら、画を見るだけでなく、自分の欲を叶えようと取ってしまうのは、その愚さにおいて、黄巣の乱で都を焼いた賊と同一でありましょう。それほど愚かであれば、子孫が生きながらえるのは難しく、まして画を所蔵し続けることなどできるわけがありません。取るか取らないかは人によるとしても、貴僧に託すこの画はそもそも取ることのできない物なのです。貴僧はこの画を守るために何を勉めたらよいのかといったら、取ってはならない物であると、そのことを示すだけでよろしいのではありませんかな」
こうして惟簡に画を与えたところ、惟簡は百万銭で大きな建物を作って画を内に納め、その上に我が父の画像を置いた。私はその費用の二十の一を負担し、翌年の冬までに完成することを期待した。
かくて熙寧元年十月二十六日にこのように記した。
【補足】［（1）惟簡と蘇軾が実際にこの通りの問答を交わしたのかどうかはわからないが、親しい友人として楽しく語り合ったのは間違いない。（2）このころに蘇軾は青神県の王介の娘、王閏之と再婚した。最初の妻の王弗と同族、同世代で、ことのき21歳であった。妻が亡くなった後に、その妹や従妹と再婚するのはかなりよくあることだった.。（3）郷里にいる間に、王箴［字は元直］、王淮奇［字は慶源］、楊宗文［字は君素］、蔡褒［字は子華］といった人々と交遊があった。王箴は蘇軾の妻になった王閏之の弟で、王淮奇はその叔父である。楊宗文と蔡褒は郷里の先輩である］
■【03-1-010】書王石草書
【解題】蘇軾は11月初めころに眉山を発ち、都に向かった。墓所や生家の管理を、従兄の蘇不危や楊済甫［→作品番号01-2-044］等に託した。蔡褒等が茘樹を植え、「この木が実をつけるころにまた帰ってこられましたら、一緒に食べましょう」といって、蘇軾を見送った。今回の都への旅は、第1章で見た長江を下るルートではなく、鳳翔から長安を経由する北回りの陸路をとった。10年余り前に父に連れられて科挙を受けに都に上ったときと同じである。官員としての最初に赴任地であった鳳翔に着くと大勢の人々に歓待された。その時の様子を、張舜民が『画墁録』に記録している。張舜民はこれより3年前に科挙に合格したばかりで、若い人々にとって蘇軾兄弟は憧れの大スターであったことがわかる。
【訳文】
張舜民：『画墁録』
私が鳳翔に赴任したのは煕寧の初めであったが、公［蘇轍］とその兄は喪が明けて東に旅に出て、道すがら鳳翔にやってきた。そこで、数日間留まり、画を見たり、名所を訪ねたりした。人々はその姿を見ようと、官舎に入った。雅であること仙人のようであった。
【解題】蘇軾は12月の終わりに長安に着き、范仲淹の息子の范純仁や、石蒼舒、王頤など数多くの人々と会った。王頤の持つ『酔道士図』を再度見て跋文を付け加えたことは作品番号02-4-022で見ている。そして、石蒼舒、王頤とともに韓琦に会った。韓琦は朝廷の重鎮であったが、国政の改革に強い意欲を持つ新皇帝の神宗とは何かと齟齬があり、前年の9月に宰相を辞し、都を離れて長安にきていたのだった。その韓琦の前で記した小文。
【訳文】
王頤と石蒼舒が韓琦公の前で草書をしたためると、公はいわれた。
「お二人は馬列の先頭で笛を吹く人に似ておられますな」
座客は誰もその意味がわからなかったので、公は自ら解いてくれた。
「大変な妙手でなければ、誰も敢えて先頭で笛を吹いたりしませんからな」
熙寧元年十二月晦に書く。
【補足】［韓琦もときにはユーモラスなことをいうのだった］
■【03-1-011】上韓魏公乞葬董伝書
【解題】煕寧2年［1069年］1月、長安で新年を迎えた蘇軾が都へ旅立とうとしていると、みすぼらしい姿で董伝が訪ねてきた。董伝は、作品番号02-4-019で見たように、詩文の才能がありながら、科挙に合格できずに貧窮に苦しんでいた人物である。蘇軾は今回の旅で鳳翔に立ち寄った際に、董伝は父が亡くなり極貧の中で喪に服していると聞き、盩厔県にある家に人［恐らく馬正卿であろう］を遣って弔意を伝えていた。その謝礼にわざわざ長安にまでやってきたのである。すると、董伝は、自分は間もなく韓琦の推薦によって朝廷に出仕できるとか、そのことを聞き知ったある官員が婿にしてくれるとか、およそ不可解なことを言い出した。蘇軾は年末に韓琦と会ったばかりで、いまの韓琦の立場からして、無名の人物を朝廷に推薦するなど考えられないことであった。蘇軾は董伝の話を無下には否定しないで、励ましの言葉を与えて別れた。それから3カ月ほど後のこと、すでに都で官職に復帰していた蘇軾のもとに董伝の訃報が届き、蘇軾はこの手紙を韓琦に送った。
【訳文】
再びお手紙差し上げます。私軾は近ごろ秦中［長安、鳳翔のあたり］の友人からの手紙で、董伝君が三月に病死したと知りました。私は先年岐下［鳳翔］で官職に就いたときに初めて董伝君と会い、それから今にいたるまで七八年になり、董伝君のことはよく知っております。
その人となりは、世事には通暁してはおりませんで、ひたすら書物を読むことだけを嗜み、記したものは蕭然と出塵の姿があります。詩に至っては、董伝君と肩を並べられる者を求めましても、いまの世には数人くらいしかいないでしょう。これらのことは私が申し上げるまでもなく、公［韓琦］が自ずと御存知でありましょう。
かつて董伝君は、官職を得ることに公が力を貸してくれないと嘆いておりましたが、私は公が助力を惜しむことはないはずだと存じておりました。董伝君が至って薄幸でありましたのは、ただ官職についてだけではなかったのであります。
今年の正月ことであります。私はそれより前に岐下を過りましたときに、董伝君が二曲［盩厔県］で喪に服していると聞いて、その家に人を使わして弔意を伝えましたところ、董伝君はわざわざ長安にまでやってきて、駅舎で私に会ったのでした。董伝君は饑寒の窮状を述べ、何度も死にそうになったけれども、ただただ公を頼りに生きてきているのだと申しました。そして、このようにいったのでした。
「公が私を朝廷に推薦してくださっているのです。私には妻がいないのですが、近頃、彭駕部様［駕部は職掌名］が、公が私を推薦しておられると聞かれて、その妹殿との結婚を許してくださいました。喪が明けて官職を得られましたなら、妻も得て、これでいっぱしの人間になれるのです。全ては公からの賜わりものなのです」
私は董伝君が嬉し気に語るのを聞いて憂いに沈みました。官職に就くことと妻を得ることの二事は人が常に望むものでありますが、董伝君にとってはそれは常ならぬ福であって、恐らくは遂げられないだろうと考えたのです。いま果たして董伝君は亡くなり、まことに悲しい限りであります。書生の窮薄すること、これ以上のものがあるでしょうか。
董伝君の才器はもとより世事に役立つものではなく、譬えて言えば象や犀から得る珠玉のようなもので、饑寒を補うことはできずとも、泥土の中に置いておくべきものではないのです。それで公が推薦してくださることとなったのでありましょう。
いま董伝君はその父とともに亡骸が寺に置かれていまして、母や弟はどうにか食べて行くことだけで精一杯で、到底葬儀を行うことなどはできないのであります。私や都におります数人の知人が銭を出し合って、その家に贈ろうとしていますが、あまりにも微力であるために、用を為すに十分ではないのを残念に思っております。公がもしも憐れんでくださるのなら、敢えて他のことは望みません、葬るのに十分なようにだけはしていただきたいのです。ちょうど陳繹君が涇州に行くことになっていて、宋迪君が岐下におりますので、公からもしも頂戴できて、私が集めたものに合わせて陳繹君に預けてくださるのなら、宋迪君が葬儀を行ってくれて、その余りをその家に与えることができるでありましょう。
董伝君がこれまでに作った詩文は、その家に人を行かせて集め、諸公に献呈したいと考えています。
以上のこと、なにとぞよろしくお願いいたします。
【補足】［董伝が、韓琦の推薦で官職を得られると語ったのは、恐らく貧窮の余り抱いてしまった妄想であったのだろう。蘇軾はそうとわかっていても、韓琦の助力を引き出すために、董伝の言葉を信じているかのように手紙に記している。韓琦が蘇軾からの手紙を受け取ってどのようにしたのかは伝わっていないが、きっとそれなりのことはしたはずである］