第2章 最初の赴任地――鳳翔での3年間
［第2章その三］
嘉祐8年［1063年］、蘇軾28歳。
■【02-3-001】和子由踏青
【解題】年の初めに、弟の蘇轍から、故郷での春の行事を詠んだ二首の詩が送られてきたので、それに和して返した。この第一首は、草が芽生えてきた野に出て遊ぶ「踏青」を詠んでいる。
【訳文】
東からの春風に、道にわずかな塵が舞うと、
新しい年の華やかさを楽しもうとする遊び心が湧いてくる。
閑があるのなら、路傍で飲むのにちょうどよいし、
麦はまだ短いから、車輪で踏み敷いてしまっても構わない。
町にちんまり篭っているのに飽きた人たちが、
朝早くからがやがやと、
そこらじゅうをからっぽにして出かけて行く。
歌だ、太鼓だと、野山で騒げば、草も木も動こうというもの。
酒だ、料理だと、野原に散らかせば、烏も鳶もやってこようというもの。
どこの誰やらがいかめしい顔をつくり、
道をさえぎって大きな声を張り上げる。
「さあて、お立会いの皆々さま、
我こそは道を極めた達人でありまする」
右に左にお符を振り上げ、
「これこそは養蚕によろしいもの。
繭を大きな甕のようにしますぞ。
これこそは畜産によろしいもの。
羊を大きな麕のようにしますぞ」
道行く人はそんな言葉を信じるわけではないけれど、
新春の縁起かつぎに買っておこうと思案する。
達人はひとわたり銭を稼ぐと、
すぐに酒を買い、酔って倒れて、こういうのだ。
「ほうらみろ。このお符はこんなにも効き目がある」
■【02-3-002】和子由蠶市
【解題】2首目は、養蚕に必要な道具類を売る「蠶市」について詠んでいる。
【訳文】
蜀の人間は、着る物、食う物のためにいつも苦労している。
蜀の人間は、遊楽に出たら帰ってくることを知らない。
蜀の人間は、千人が田畑で仕事をすれば、
蜀の人間は、万人が遊んで食っていられる。
蜀の人間は、一年中働きづめだ。
それでも、春ばかりはのんびりしていて、
養蚕市がにぎにぎしく開かれると、
いつもの辛苦を忘れて大いに楽しもうとする。
去年の霜が降ったころに刈った荻で、
蚕を飼うための簾を編んで今年の市で売る。
糸を繰るための瓢や土釜を作って並べておくと、
金や絹なんかよりも争って買い求められる。
君も僕も童子だった昔は、
勉強をほったらかしにして市へとすっ飛んで行ったものだ。
市の商人は巧みな知恵を働かせ、
その口数の多さに、農家の人々はたいていだまされてしまう。
君の詩がきてそのころを思い出し、
故郷を離れている悲しさよりも、
それだけの歳月が流れてしまった悲しさの方が、むしろ大きいのだと知った。
■【02-3-003】題鳳翔東院王書壁
【解題】鳳翔府の東院の壁に王維の画があり、この一文をそれに書き添えた。
【訳文】
嘉祐癸卯［嘉祐八年］上元の夜［一月十五日の夜］、ここにきて王維の筆を観た。時に夜はすでに更け、消え残りの燈がちらちらと光るなかで、画中の僧が踽踽と動かんばかりである。しばらく我を忘れてそれを見ていた。
■【02-3-004】書摩詰藍田烟雨図
【解題】この文章はいつ書かれたのかわかっていないが、王維の画について論じているので、ここで一緒に見ておこう。題名にある『藍田烟雨図』とは、藍田にあった王維の別荘である輞川荘が雨に煙るありさまを描いた画であろう。
【訳文】
王維の詩は、詩の中に画がある。王維の画は、画の中に詩がある。
このような詩がある。
藍渓白石出、［藍渓には白い石が出て］
玉川紅葉稀。［玉川に紅葉は稀である］
山路元無雨、［山路には元より雨は無いのだが］
空翠湿人衣。［空翠によって人の衣は湿めるのである］
これは王維の詩だとも、そうではないともいわれている。好事家が王維の遺した作品を補ったのであろう。
【補足】［（1）冒頭の一行は特に有名である。蘇軾は画と詩、さらには書も一体のものであると主張し、王維がすでにそれを実践していたと考えていた。（2）引用されている詩は、普通は最初の二句が「荊渓白石出、天寒紅葉稀」［荊渓 白石 出で、天寒く 紅葉 稀なり］となっている。蘇軾は藍田と結び付けて、ここにあるように記憶していたのだろう。いずれにしても、『藍田烟雨図』の中に詩があり、この詩の中に画があると見たのである］
■【02-3-005】和劉長安題薛周逸老亭、周最善飲酒、未七十而致仕
【解題】2月に、何らかの用事があって蘇軾は京兆府［長安］に行った。その折に、知事の劉敞［字は原父］［→作品番号02-1-015］に会い、薛周の逸老亭に寄せた詩を見せられたので、それに和した。薛周は酒をよく飲む人で、七十歳になる前に致仕［官職から引退すること］していた。一般論として、七十歳以前であれば引退は早いとされていた。
【訳文】
近ごろ聞いたところでは、
薛公子が早くに退いたので尋常の人々を驚かしたと。
庭園を買って野の鶴を招き、
深く井戸を鑿って虬を潜ませている。
薛公子は、
「昔、一斗の葡萄酒を賄賂に贈って知事の座を得た大馬鹿者がいた。
酒は飲むべきもの、
酒の中の趣は知事の位よりずっとよいのじゃよ」
と、いって、衣を払って官職から去り、
親しい人が引き留めようとしても聞かなかった。
「隠居に何の楽しみがあるかって、
もとからの志をこれによって求めることができるんじゃ。
失うものはほとんどなくて、
得られるものがどれだけあるかわからんじゃろうが」
いまのこの春の陽気が結構なのも薛公子のため、
いまのこの日ざしがのんびりしているのも薛公子のため、
山の鳥は薛公子のために琴や笛を奏し、
野の花は薛公子のためにのどかな美しさを見せている。
「功績や名声からは離れ、
この楽しみはまさに無冠の王者であるのじゃ。
しかし、いまになっても静かな夜の夢に、
頭にかかる冠の重さに驚いて、
はっと飛び起きることもあるのじゃが」
美酒をたっぷり載せて持って行き、
薛公子に大杯をあおらせてみたいものだ。
私はまだ薛公子とは知り合いになっていないので、
劉知事を通してともに遊ぶとしよう。
■【02-3-006】中隠堂詩
【解題】京兆府［長安］に滞在する間に、王紳［字は公儀］の中隠堂を訪ねてこの詩を詠んだ。このとき王紳は鳳翔府内の岐山県の知事であったので、中隠堂に王紳本人はいなかった。短い序文がある。
【訳文】
岐山県知事の王紳君の先祖はもとは蜀の人であった。戦乱を避けて長安にきて、そのまま住み着いた。王紳君の邸宅や庭園は長安の中でよく知られている。中隠堂と呼ばれているものがそれである。私が長安に行くことになると、王紳君は中隠堂で留守番をしている子弟に手紙で報せ、必ず私を迎えて遊ばせ、詩を乞うようにとくどくどと書いた。それで、この五篇の詩を作ったのである。
其の一
蜀を去ったのは初めは難を逃れるためだった。
秦に遊ぶうちについに帰らぬままとなったのだ。
ここにあった庭は荒れて高い木が茂り、
建物はあっても昔の人はいなくなっていた。
石を鑿つ清らかな水が勢いよく流れ、
開かれた門から野の鶴が飛び入る。
このようなところに隠れ住むことを私はいつも思っている。
その心に違えることになるのではないかと、
ずっと恐れていなければならないのかもしれない。
【補足】［かつては世界一の国際都市であった長安は、唐の終わりから宋の初めまで、見る影もなく興廃していた。王紳の先祖は、宋朝の初期のころに蜀で反乱があったときに長安にきたのだろう］
其二
径は蛇のようにくねくねと転じ、
堤は亀のようにのっそりと伏している。
この樹はいつの時代からあったのか。
ここの人はこの建物のように高雅で、
古を好んで遅く生まれたことを嘆き、
世に出る苦労を厭うて閑を偸もうとしている。
王君よ、早く帰って隠れるがよい、
世間の塵が君の上着を汚してしまうから。
其三
もう二月だというのに、
驚くことに、長安では梅が咲くのが遅く、
その奥ゆかしい香りがない。
この庭にきて初めて、
梅の花が遠くきた旅人を慰めてくれる。
梅は白く輝く呉国の娘のようで、
故郷から遠く離れている恨みを忘れさせてくれるのだが、
よい季節が過ぎ去ってゆくのを嘆くようになりもする。
春が深くなって桃や杏が乱れ咲くころになると、
独りぼっちで咲いていたと、梅の花は笑われてしまう。
【補足】［「呉国の娘」と訳した原文は「呉妹」で、「秋田美人」とかいうように、「呉妹」は美しい娘の代名詞であった］
其四
鸚鵡のような翠の岩がある。
この岩はいつのときに海の彼方からきたのだろうか。
唐朝には遠く南方から貢物が贈られ、
渭水を遡る船に満載されて長安へと運ばれた。
岩はかの王子喬や赤松子とともに老い、
王朝の変遷など気にもかけない。
漢の武帝が作らせた巨大な銅の仙人像は、
長安から洛陽に遷されたときに泣いたというが、
この岩ならそのようなことはしないだろう。
【補足】［王子喬や赤松子は最も有名な古の仙人。蘇軾の詩文にもしばしば登場する］
其五
都の主は何度その姓を変えたことか。
長安のいたるところに壊れた石碑がある。
あるものは古い隧道から、あるものは崩れた崖から出てくる。
都では壮麗な建物を並べ、莫大な金が費やされた。
韓愈は遥か南方の岣嶁山で神禹碑を見てひどく悲しんだけれど、
わざわざ遠くに行かなくても、
世の変転に思いを馳せるには、
ここに残る石碑で十分ではなかろうか。
■【02-3-007】題宝雞県斯飛閣
【解題】京兆府［長安］からの帰路に宝雞県にある斯飛閣に登ってこの詩を詠んだ。
【訳文】
ここより西南には故郷へと帰って行ける道がある。
欄干に寄せる我が身から、
するりと魂が抜け出て、
寂しげなその道をたどって行こうとする。
我が魂が飛んで出たならら、
もう二度と戻ってはこないだろう。
野はあくまでも広く、天はあくまでも長い。
牛や馬は雁や鴨とともに空を飛ぶように見え、
雲の峰は樹木とともに野に生えているように見える。
山の麓は水の気配を帯び、春の風が麦の苗を揺り動かす。
農事や漁労に携わらずに、
官職を愛して軽々しく故国を去り、
老いの日々まで帰らずに過ごそうとしているのはいったい誰なのか。
■【02-3-008】重遊終南、子由以詩見寄、次韻
【解題】同じときに再び終南山を間近に見上げるあたりを巡り、そのことを弟への手紙に書き記すと、それに基づく詩を送ってきたので、それに次韻した。詩の題に、「重ねて終南に遊び」とあるのは、前年の2月に同じところ巡っていたからである［→作品番号02-2-002］。
【訳文】
去年ここにきたとき、
柳が芽をふいて春の巡りを報じてくれた。
今日ここにくると、
柳の花は緑の苔の上に落ちていた。
川のほとりの堂に一人でまた泊まった。
重ねてここにくるまでに何があったのか。
琴を弾こうとしても、吹きくる風に音が止まってしまう。
杯を手にしても、さしくる月の光に酔いが醒めてしまう。
このようなもの憂い僕であるから、
新しい詩を求める君の期待にはしばらく応えられずにいた。
この詩はこれまでの負債を弁じてくれるだろうか。
■【02-3-009】和子由寒食
【解題】弟から詩が送られてきたので、上の詩のように詫びないですむよう、今度はすぐにそれに和して返した。現代の日本において、春の訪れとともに人々が何よりも待ち望むものといえば、満開の桜の下での花見であろうか。旧い中国でそれに相当するのが春分から15日目の清明節で、御馳走を携えて一族総出で先祖の墓参りに出かけた。その少し前、冬至から105日目に寒食節があり、その前後は火を使うことが禁じられた。弟の詩は寒食について詠んだものであった。
【訳文】
今年の寒食は二月の晦日だった。
緑深い樹林に春の霞がまとわりつくようになったので、
郊外を巡るのによい駿馬を誰かが貸してくれたなら、
意のままにいたるところの名園を見てまわりたいと思ったりした。
とはいえ、何やら物憂いのはそのままで、
酒は飲むことは飲んでも、杯を重ねるほどでなく、
詩は作ることは作っても、紙に記すほどでない。
ときに、鵙の声がしたのに僕は驚かされた。
鵙という鳥は、七月に、農作業に励めよと人に鳴きかける鳥だ。
季節はずれのその声に、
故郷の川のほとりの農地が荒れ果てていないだろうか、
いまは誰が耕しているのだろうかと、
僕の心はちくんと痛んだ。
■【02-3-010】記所見開元寺呉道子画仏滅度、以答子由
【解題】鳳翔の開元寺には呉道玄［呉道子］が描いたとされる壁画があった［→作品番号02-1-018］。その壁画には、釈迦が生まれてから亡くなるまでが描かれていた。弟から文殊菩薩と普賢菩薩の画について詠んだ詩が送られてきたので、それへの返事として、開元寺の壁画を見ての印象を詠んだ詩を作った。
【訳文】
西方の真人［釈迦］のこの姿を誰が見たのか、
衣に七種の宝を着け、二頭の獅子を従えている。
そのころの修行は、大変に苦労するもので、
両肘には柳が生じ、肩には烏が巣をつくるほどであった。
初めは暗く山に隠れた玉であったものが、
次第に水から出てきらきら輝く蓮の花になったように、
道が成就し、
そして空滅に就いたのだった［釈迦が亡くなったことをいう］。
すると、四海の果てから人も天人も走り集まってきて、
鳥も飛びきて林や谷を動かすばかりに哀しみの声を響かせ、
獣も鬼も足摺をして涙を滝のようにほとばしらせた。
その中にまじる、大いなる眉に奥深い眼差しの人は誰であったのか、
釈迦の牀を巡りつつ指を叩き、
そのあたりを穏やかな空気で包んでいた。
釈迦が亡くなったのは昼間に月が落ちたようなもの、
光はなおももとのままに残っているのである。
僕は、春に古い寺に遊び、
壁の塵を払って、遺された釈迦の像を見た。
それは長らく香煙に暗く籠められていたもので、
画師の姓名は書かれていないが、
人々は呉道玄であると言い伝えてきた。
縦橫の筆力は、孫知微や鄧隠といった画師と比べると、
巨大な鰐が小魚を呑むほどの違いがある。
君からきた詩が誇るところの画と比べてどうなのだろうか、
ここに並べて観たいものである。
■【02-3-011】次韻子由以詩見報編礼公、借雷琴、記旧曲
【解題】父の蘇洵が雷琴［琴の名］を借りてしばらくぶりに曲を弾き、そのことを弟が詩に詠んだので、兄が次韻した。
【訳文】
琴は長らく弾じられることがなく、
琴の上でその音はずっと発せられることはなかったのだが、
琴の中には古の意が長らくあり続けていた。
曲を覚えておこうと苦心しても、
昔の道筋はどこであったのかといつも迷ってしまうものなのだが、
指にまかせてしまうなら、自然と帰り道に足跡を付けて行くようなことになる。
父上の琴の音に、
仙人が樹によって聴き入り、
痩せた鶴が風に乗って舞ったという。
僕が谷川に立つ堂で琴を聞いたときには、
悲しみのあまり猿が竹を揺り動かしていたのだよ。
【補足】［終わりの部分は、太平宮の道士の趙宗有［→作品番号02-2-002］が琴を弾いたことについて詠んだと、蘇軾自身が注記している］
■【02-3-012】送虢令趙薦
【解題】虢県知事の趙薦［→作品番号02-2-028］が他所へ転任することになったので、送別の詩を作った。この詩によれば、趙薦は蜀の人で、それだけではないけれど気の合うところがあったようだ。
【訳文】
ああ、私は故国を長く離れているのを嘆いていたのだが、
貴君に会って、故国に帰ったかのように思った。
今、貴君は私を捨てて行ってしまうので、
これからはよく知る者は稀になってしまう。
よく知る者が稀になるのが残念なのではない、
語り合う相手がいなくなるのを恐れるのだ。
佳き人は西方の人、
優れた才気を帯び、
にこやかな乙女のようである。
そういえば、貴君の家を訪ねたことはなかったが、
家は知らなくても困りはしない、
玉は潜めていた輝きをきっと光らせるものであるのだから。
【補足】［都では、3月29日に仁宗皇帝が亡くなって、4月1日に英宗皇帝が即位するという、国家にとって重大な出来事があった。仁宗皇帝には男子がなく、後継者を定めることをひどく嫌い、宰相以下の人々が皇帝の不興を買うのを覚悟で何度も願った結果、ようやく弟の息子を皇太子にすることに合意したので、皇位の継承はとにもかくにもスムーズに進んだ。しかし、その後すぐに、我々からするとごく些細な問題が、朝廷を二分するような大論争に発展し、国政がほぼマヒ状態に陥ってしまうようになる。それによって、仁宗の晩年に棚上げとなっていた国政の改革がそのまま放置されてしまうのである。そうした中央の動きとは遠く距離を置いた鳳翔府にも皇帝死去の影響は及び、蘇軾もそれに巻き込まれた。皇帝が死ねば立派な墓所を作らなければならない。それに必要となる木材を早急に用意するよう鳳翔府に命令がきて、蘇軾はその実務に関わり、すでに過重な負担に喘いでいる民衆にさらなる苦役を強いることに心を痛めた。蘇軾は、鳳翔の民がどれほど困難な状況に置かれているかという問題点をまとめて、墓所建設の総指揮者となった韓琦に宛てて手紙を書いた。その手紙は、蘇軾が地域の実情を的確に掴んでいたことを示すものであるのだが、社会の仕組みに無知である訳者には到底訳せるものではないので、残念ながら割愛せざるをえない］
■【02-3-013】与蒲誠之
【解題】6月ごろに親戚の蒲誠之が鳳翔府を過るとの報せがあり、それへの返信。先ごろ亡くなった伯父の蘇渙には、蘇不欺、蘇不疑、蘇不危の3人の息子がいて、そのうちの蘇不欺の妻が蒲氏で、蒲誠之はその兄弟ないし従兄弟であったようだ。
【訳文】
もう間もなくこちらにお越しになると聞きました。お手紙をいただかずとも、お会したい気持ちが非常に強くありながら、生来の怠け者であるために、これまで一文字もお応えできていませんでした。何ともお恥ずかしい次第です。
夏の暑さはまだ過ぎ去っていないなかでも、御健勝のことを承り、喜びに堪えません。私は恙なく、また、都にいる父も兄も安らかであるとの手紙がこちらにきています。
ただし、近頃、山南［蜀のこと］からの手紙で、伯母［蘇渙の妻の楊氏］が六月十日に亡くなったと知らせてきました。伯父が亡くなってまだ一年にもならないのに、このように不幸が重なって、心の整理がつきません。従兄である三男が伯母の近くにいましたが、長男も次男も蜀に帰って、伯母を故郷に埋葬することになるでありましょう。人の一生には艱難が伴うものではありますが、これはその極みでありましょう。悩ましい限りです。
貴君のお仕事は忙しくはないとのことですから、改めて学び直すことができましょう。同僚の中で楽しみをともにする者がいることでしょう。こちらでは新しい知事がきています。お会いすれば詳しくお話できるでしょう。
【補足】［（1）伯父の蘇渙が亡くなったのは前年の8月であった［→作品番号02-2-019］。（2）蒲誠之宛の別の手紙から、その後、蒲誠之は成都府知事の韓絳［→作品番号01-2-014］に呼ばれてそちらに赴任したことがわかる。（3）この手紙の終わりに、鳳翔府に新しい知事がきたと記してある通り、宋選が去って、新たな上司として陳希亮が赴任してきていた］
■【02-3-014】客位仮寐
【解題】これは本来はかなり深刻な詩である。蘇軾はユーモアで包み込もうとしているが、あまり笑えないであろう。そもそもこのような詩を詠んでいるということが、もはや耐えられる限界を超えてしまったということなのだろう。詩の題は「客間での仮寝」で、蘇軾自身の注で、「鳳翔府知事の陳希亮にお目にかかろうとして作った」と付記されている。
【訳文】
知事殿に会おうと控えで待つ。
いつまでも呼ばれない。
だからといって帰ってしまうわけにもいかないから、
枯れた切り株のようになってじっと座っている。
知事は私のいることなど忘れてしまっているのだろう。
だったら私も私のいることを忘れてしまうのがよい。
そうすれば本当の枯れた切り株がここにあるだけとなる。
人々はそうしたことを理解しないので、
ひげをふるわせて私のために怒ってくれもする。
その昔、謝安が当時権勢を振るっていた将軍に会おうとして、
半日待っても呼ばれないことがあった。
一緒にいた王坦之がこらえられずに帰ってしまおうすると、
「ほんのひとときの辛抱と命を引き換えにする気ですか」
そういって、その後も悠然と待ったという。
私には命の心配まではないのだから、
辛抱するまでもなくただの切り株になっていればよいのだ。
【補足】［（1）この詩は、執務上の必要性から知事に会おうとして、無意味に長時間待たされているという状況を詠んでいる。前の知事の宋選は蘇軾の才能を高く評価し、面談を求めればたぶん他の用事を置いても即座に応じてくれていたのだろう。新たに赴任してきた陳希亮は全く違って、控室で半日待たされるようなことがざらであった。都では欧陽脩を初めとした多数の名士と交遊関係のあった蘇軾が、このような目に遭うのはきっと初めてのことで、その屈辱感は非常に大きかったと推測される。（2）謝安は南北朝時代の晋朝の名宰相で、何事にも動じることなく常に平静を保ち、国家と皇室の危機を何度も乗り越えた。この詩に引かれているのは、謝安らしい一つのエピソードである。蘇軾はしばしば謝安を手本としようとしているが、この詩を詠んでしまっているように、内心を露わにすることなく悠然としているということはなかなかできなかった。（3）陳希亮との間に何があったのか。邵博の随筆『邵氏聞見後録』［→作品番号02-1-010］が伝えている。これからずっと後までの経過がまとめて記述されているのだが、ここで先に読んでおこう］
【訳文】
邵博：『邵氏聞見後録』
陳希亮、字は公弼は、天より与えられた資質として剛にして正であった。嘉裕年間に鳳翔府知事になった。
東坡［蘇軾］は制科に合格して抜擢されて、鳳翔府簽書判官事になったばかりで、吏人［下級の役人］たちは蘇賢良と呼んでいた。陳希亮は、
「府の判官をどうして賢良などと呼ぶのか」
と、怒り、そのような吏人を杖［罰を与える棒］で撃った。
あるいは、東坡が陳希亮に会おうとしても顔を見ることさえできなかった。それで、東坡の『客位仮寐』の詩には、
雖無性命憂、［性命の憂い無しと雖も］
且復忍須臾。［且し復た須臾を忍ぶべし］
とある。また、『重九不預会』［→作品番号02-2‐021］の詩には、
憶弟涙如雲不散、［弟を憶いて涙は雲の如くに散らず］
望郷心似雁南飛。［郷を望んで心は雁に似て南に飛ぶ］
とある。これほどまでに耐え難いものであったのだ。
さらに、『東坡詩案』［蘇軾が詩文でもって朝政を誹謗したとして裁かれときの調書］にはこのようにある。
「鳳翔府簽判の任にあったときに、中元節に知事の庁舎に出向かなかった罰として、銅八斤を科せられた。これもまた陳希亮の裁きであった。
庁舎の祠の神に祈るためのようなちょっとした小文でも、東坡が書いたものを陳希亮は墨で真っ黒に塗って直させ、それが往復すること数回に及ぶこともあった。
しかし、陳希亮のために『凌虚台記』［→作品番号02-3-033］を作ったときには、
『……この高台に託して、虚を凌いで長く久しくあろうとしてもできるものではありません。まさしく理に反しているからです。人間世界において得たり失ったりするものは、たちまち来てはたちまち往くだけのものなのではないのでしょうか』
と、書いてあったのだが、陳希亮はこれを見て笑い、
「わしは、蘇洵を子のように親しく見ている。蘇軾はわし孫のようなものだ」
と、いって、それは一文字も変えることなく、石に刻むよう命じた。……
【補足】［上に書かれているのは、しばらく確執があった後に和解したというストーリーである。『重九に会に預からず』の詩は、陳希亮との不和から生まれたという解釈に基づいて引用されているのだが、本自由訳では別の考証に基づいて1年前の作品としてすでに訳している］
■【02-3-015】陳公弼伝
【解題】蘇軾に対して種々のパワハラをふるった陳希亮とはいかなる人物であったのか。どうして陳希亮がそのような行為に及んだのか。蘇軾が書いた陳希亮の伝記を見ると、およそのことがわかってくる。この伝記の執筆時期は十数年後であるが、ここで読んでおくのが適切であるだろう。
【補足】［伝記の冒頭に、陳希亮は眉州青神県の出身と記されている。青神県は蘇軾の妻の生地で、蘇軾と郷里の眉山県の隣である。また、伝記の終わりに陳希亮の妻は程氏とあり、恐らく蘇洵の妻の程氏と同族であるのだろう。それで、上に引用した随筆の中で、陳希亮は蘇洵は子のようなものだといったのであろう］
【訳文】
公の諱は希亮、字は公弼、眉州青神の出身。先祖は京兆［長安］の人で、唐の広明年間［唐朝の終末期で、長安付近はしばしば戦火に見舞われた］に初めて眉州に移った。曾祖父は延禄、祖父は瓊、父は顕忠、みな官に仕えることはなかった。
公は幼くして父を喪い、学問を好み、十六歳のときにきちんとした師について学びたいと考えた。公の兄は思案の末に学資として三十万銭余りを公に貸すことにした。公は銭を受け取ると証文を焼き捨て、町を離れて師のもとに入門した。公は学問を習得すると家に帰り、兄の子に学問を教えた。天聖八年［1030年］、公は兄の子とともに科挙に合格した。これより町の人は公の家のある一角を三雋坊と呼ぶようになった。三人の雋れた者がここから出たからだ。
公の最初の任地は長沙県だった。そこには海印国師という仏僧がいて、土地の貴人たちと交わり、あくどいもうけをしていた。人々は海印国師を恐れ、その顔をまともに見ることもできなかった。公は法をもってその僧を捕え、長沙県の人々は公を畏れた。
次いで雩都に行くと、そこでは老練な吏人［科挙によらずに地元で採用される下級役人］が銭次第で裁判を左右していた。吏人は公がまだ若いのを見て与しやすいと思った。公はいきなりその吏人に重罪を宣告した。吏人は血が流れ出るまで額を地面に打ち付け、「必ず身を改めます」と詫びた。公は教え諭して後に釈放した。公は町の文化水準を高めるために学校を建てた。釈放された吏人は家財を売って学校建設のための資金を提供し、自分の子弟を入学させた。後にみなよい吏人になり、科挙を受けた者もいた。
この地にはたくさんのまじない師がいて、春になると鬼を祭るためだといって民衆から銭を集めていた。民間には、赤い衣を着た火の神様、「緋衣老人」がいるとの言い伝えがあり、まじない師はそれをきちんと祭らないと火災がおこると脅していた。公はその祭りを禁じたが火災はおこらなかった。公は、火の神様以外にもあやしげな神が祀られている数百の祠を壊し、七十余人のまじない師を追放した。村の老人は「出て行かないでくれ」とまじない師を引き止めようとした。まじない師は泣いて「陳公がわしらを捨てるのだ。わしらがいなくなれば緋衣老人がまた出てくるだろう」といった。
公は、母が老いたので故郷の近くに帰りたいと願い出て蜀の劍州に移り、次いで母が亡くなり、喪のために官職から去った。喪が明けると、都で職を得た。
都の福勝塔が火事で焼け、国は再建のための費用を用意した。このとき、西方で趙元昊［夏国の王］が宋との間に紛争を起こしていたので、その費用は軍の食糧にあてるべきであると公は主張し、塔の再建はとりやめになった。
これより先、趙元昊がまだ宋と事を構える前に、青州の趙禹は、趙元昊はきっと反乱を起こすであろうから警戒するようにと朝廷に申し上げていた。宰相はそのようなでたらめをいってはならないと、趙禹をよその土地に追放した。趙元昊が実際に反したので、趙禹は上京して「自分は正しいことをいった」と訴えた。宰相は怒って趙禹を獄に下した。公は「趙禹に罪はなく、むしろ称賛すべきです」と、宰相と争った。皇帝は公の主張を認め、趙禹は徐州に栄転となった。
皇帝はそのような公を見て、官員の罪を裁く御史に抜擢しようとした。たまたま公の外戚の沈氏の子が強盗殺人の疑いで捕えられて獄中に置かれ、まだ己の罪を認めずにいた。公はその者から直接に実情を聞こうとして獄を尋ね、第一問を発すると、その者は恐れのあまりその場で死んでしまった。沈氏は公が息子を殺したと訴えた。公および獄の役人が取り調べの対象となった。公は「あの悪者は自分一人が殺した」と、自ら罪を被って罷免となった。
都の西で盗賊が村を襲って役人を殺した。盗賊の勢いはさかんで、房州が次の標的になりそうだった。富弼の推薦で公が房州知事に任命された。公が赴任すると、房州には兵備がなく、民衆は盗賊を恐れて次々に逃げ出していた。公は役場の雑役係や民間人や囚人から数百人を集めて日夜軍事訓練を施し、その号令があたりに響いた。それを聞いて民衆は安堵し、盗賊も房州には近づかなかった。
雷甲という者が朝廷から派遣されてその盜賊の征伐に乗り出した。しかし、雷甲には兵士を統率する力量がなく、兵士は至るところで悪さをした。一方で、別の大盗賊が房州に近づいてきているとの報せが公のもとに入った。公は人々を率いて、その盗賊と川をはさんで対峙した。公は「じっとしたままで動くな」と人々に命じ、一人だけ前に進み出た。新たな盗賊とされていたいのは実は雷甲で、雷甲は目の前の相手が盗賊であると誤認して公に向かって矢を放った。公は動かず、ほかの人々もまったく動かなかったので、雷甲は人形ではないかと疑った。馬から降りて様子をさぐり、ようやく公であると知った。雷甲は地に伏し、「官軍であるのを知らなかったのです」と詫びた。人々は雷甲を切るべきだといったが、公は民に対して暴虐を為した者十余人だけを捕え、その他の者は許し、「盗賊と戦って己の罪を贖え」と雷甲を放った。
ここに党軍子なる賊の勢いがさかんになった。崔徳贇がそれを捕えようとして逃がしてしまった。そこで、崔徳贇は、党軍子が一度居座ったことのある向氏という者の屋敷を囲み、そこの父子三人を殺して、これぞまさしく党軍子であると偽って、その首をさらしものにした。公はまやかしであるの見抜き、崔徳贇を獄に下した。崔徳贇は白状しなかったが、党軍子本人が別のところで捕まった。国は向氏に絹を贈り、その冤罪を晴らし、家の名誉を回復させ、崔徳贇を流罪にした。
ある者が、華州の張元が西方の趙元昊に仕えようと逃亡したと訴え出た。張元の一族百余人が捕えられ、房州で取り調べることになった。百余人は厳重に監視されて房州に連れて行かれた。飢えと寒さのために途中の道でいまにも死にそうになった。公は「張元が趙元昊のもとに走ったかどうかさえまだわかっていない。もしそれが本当だとしたら、張元は家を棄てて行ったわけだから、親類一族に罪はない」と考え、お上の意向を秘かに聞いた上で、これらの人々を釈放した。皆は泣いて感謝し、公の画を描いて祠におさめた。いまに至っても公を祀るのを絶やさずにいる。
公を中央で用いようとする声が上がった。しかし、「地方での実践こそが私の願うところです」といって、公は宿州の知事になった。宿州には汴河が流れ、そこに架かる橋が舟運の邪魔になるというので、水に生きる者と陸に生きる者との間で論争が絶えなかった。そこで公は初めて飛橋というものを造った。飛橋は高く大きな弧を描いて川をまたぎ、橋を支える柱を河中に立てることもないので、船の航行を妨げることはなくなった。それ以来、汴河にかかる橋はみな飛橋になった。……［この後、六つの事績が記される］……
公は鳳翔府の知事となった。そのとき鳳翔府には十二年分もの穀物が貯えられていた。管理する者はそれが腐敗してしまうのを悩んでいた。公が着任した年に飢饉となり、貯蔵庫から十二万石の穀物を放出して民間に貸し出すこととした。役目の者はそれをどう処理したらよいのか頭を抱えてしまい、公が自身で取り行った。翌年は大いに稔り、貯蔵庫の穀物はすっかり入れ替えられ、官民ともによい処置だったと受け止めた。
西方の于闐国からの使者が都に行くに際して、鳳翔府が管轄する地域を通過した。そのとき、接待役の者は定め通りに饗応したのだが、使者は甚だ驕慢で、一カ月以上も留まり、駅館の器材はおろか建物までも壊す狼藉を働き、さらには市場に行って飲食物を奪い取りもしたので、人々は恐れて昼間も戸を閉ざし、大騒ぎとなった。公はこのことを聞くと、このようにいった。
「わしはかつて遼国への使者として向こうに行き、その実情を見た。外国の人間とて初めから暴橫なのではない。通訳の者がそのようにさせてしまうのだ。私は通訳の者に対して宋国の法をもって厳しく接したところ、通訳の者は恐れ畏まり、遼国の人間も特におかしなことはしかなった。まして于闐国は遼国よりずっと小さな国ではないか」
公は気の利く役人を派遣し、通訳の者に向かってこのようにいわせた。
「我が国境の内側に入ったからには、もしもほんのわすかでも法を犯すようなことがあった場合は、わしはおまえを斬る。軍の定めに従ってそのようにし、于闐国の使者には還ってもらうことになる」
于闐国の使者はもとより公の威名を聞いていたので、庭に並んで公のいる鳳翔府に向かってひれ伏した。公の命令で使者を馳走し、鳳翔府の管轄する境にまでついて行って送り出した。その間、誰一人として騒動を起こす者はいなかった。
そのころ、州郡の知事は訪問客があると酒宴を開いて歓待し、私的な交際相手に対しても普通にそうしていた。しかし、法としてはもとよりよろしくないことなので、きちんと取り締まるようになった。公は貧乏な旅人に酒食を与えていたから、「これは私的な行為であった」と費用を弁済した上で、法を犯したことを自分から朝廷に申し上げ、辞職を願い出た。そのことから官職を去り、その後間もなく六十四歳で亡くなった。
公は程氏を娶り、四人の男児がいた。陳忱、陳恪、陳恂はそれぞれ官職に就いたが、四男の陳慥だけは官に仕えなかった。
公の人となりは清廉かつ寡欲であった。並みの人より背が低く、顔は黑く、目は氷のように光り、普段から心の内を表情に出すことがなく、王公貴人も憚るほどの厳めしさであった。義を行おうと勇んだときには禍福を勘定することなく、必ずその志を果たすまでやめなかった。公が赴任したところでは悪い民や狡猾な役人は心を入れ替えて行為を改めた。そうしなかった者は必ず厳罰に処した。それは真心からしたことであったので、厳しくとも残酷ではなかった。学問を教えて士を育成することを熱心に進め、財産を軽んじで施すことを好み、恩義に厚かった。
若い頃に蜀人の宋輔と親しくしていて、宋輔が都で死ぬと、老いた母と幼い息子が残されたので、公はその母の面倒をみることにし、自分の娘と宋輔の息子の宋端平とを結婚させ、自分の子どもたちと一緒に勉強させた。宋端平は陳忱と一緒に科挙に合格した。
公は高位に昇った特典で、子弟の幾人かを科挙によらずに官職に就けることのできる恩恵を皇帝より頂戴し、自分の子よりも親類の子の方を優先して官員とした。それで四男の陳慥にはその恩恵が及ばなかった。
公は私の父の蘇洵とは一家のような関係にあった。私は風翔で官職に就いたときに、二年にわたって公に仕えた。この時、私は若くて意気盛んで、愚かにも自分の行動を改めようとせず、しばしば公と衝突した。顔色を変えてひどい言葉を発したこともあった。後にそれを後悔した。
ひそかに思うに、公は古の真っ直ぐだった人たちの生き残りであったのだろう。国家においてもっと用いられて、もっと大きな仕事を成し遂げることができなかったのを残念に思う。公が没してすでに十四年、当時活躍していた士大夫でも公の事跡をきちんと知る者は少なく、ゆかりのある人も日に日に老いて少なくなっているので、いつしか全てが埋もれてしまうのを畏れ、私はその事績を書き残したいと思っていた。しかし、詳しくは知らないので困っていたところ、范鎮が書いた墓誌を入手したので、それに自分が知っていることを補って、公の伝記を作ることができた。私は普段から伝記や墓碑の類は書かずに今日まできた。だから、書いたのはただこの文だけである。そうするのは、後の君子に見てもらいたいからだ。
賛に曰く。
年配の諸公からこのように聞いている。
陳希亮の容貌は冷厳で、話し方はじっとり問い詰めるかのようで、面と向かって相手を説き伏せるのを好んだ。士大夫が集まって遊宴しているところに陳希亮が来ると、笑いが消え、話に味がなくなり、酒を飲んでも楽しくなくなるので、座っていた人が次第に消え去ってしまうのだった。持って生まれた性質としてそうであったのだ。そして、人を遥かに超えたところに立っていた。漢の時代に、鄭昌有が、「山に猛獣がいると、それを畏れて草木を採る者が入らない」といって、朝廷で厳しく目を光らせていた蓋寛饒のことを讃え、やはり漢の時代に淮南王が謀反したときに、「宰相を説き伏せるのは布をはがす取るくらいに簡単で、憚らねばならないのは汲黯だけだ」と、いった。陳希亮はまさにその二人と同じで、陳希亮は朝廷にあるときには、その威は千里の外にまで及んだのであった。
【補足】［（1）途中に省略したところがあったが、陳希亮は年季の入った老練な官員として鳳翔府に赴任したのだった。一方の蘇軾はまだ官員としての経験が2年も満たない未熟者であった。蘇軾が下級役人たちから別称で呼ばれてちやほやされているのを見て、陳希亮はこれではだめだと思ったのだろう。伝記には、陳希亮がまだ官員としては駆け出しだったときに、土地の顔ききや吏人に対して極めて厳しく対処したことが記されている。科挙に合格した者は地方行政の幹部クラスとして赴任するのだが、土地の実情を知らないので、生え抜きの下級役人の支えがなければ何もできない。ともすると、吏人のいいなりなってしまうこともある。吏人は土地の有力者と結び付いて利権を握って不正を行っていることもあり、吏人は官員に利益の一部を供与することで、利権の構造の温存を図ることが多かった。官員はスムーズに事が運べ、なおかつ私財を積むこともできてまことに結構な次第であるのだが、民衆はたまったものではない。陳希亮は蘇軾のまわりに腐臭を感じ取り、徹底的に鍛え直さなければならないと考えたのだろう。蘇軾の妻が人の付き合い方に注意するようアドバイスしたのも［→作品番号02-2-029］、同様の危うさを夫に感じたからなのかもしれない。（2）この伝記は、文中に記されている陳希亮の四男の陳慥に依頼されて書いたもので、蘇軾はパワハラ上司の息子と後に深い親交を結んだのである］
■【02-3-016】七月二十四日、以久不雨、出祷磻溪。是日宿虢県。二十五日晩、自虢県渡渭、宿於僧舎曾閣。閣故曾氏所建也。夜久不寐、見壁有前県令趙薦留名、有懐其人
【解題】この年も雨が不足し、太公望が釣りをしていたとの伝承がある磻溪［→作品番号02-2-002］で雨乞いをし、その後でその周辺を巡った。陳希亮知事から離れられる出張に心が浮き立ったのか、五首の詩を詠んでいる。最初の詩の題は、「七月二十四日、長らく雨がないので、鳳翔府を出て磻溪で祈ることになり、この日は虢県に宿った。二十五日に虢県より渭水を渡って、遅くに僧舎の曾閣に宿をとった。この閣はもとは曾氏が建てたものである。夜なかなか眠れずに壁を見ていると、前の虢県知事の趙薦の名が留めてあったので、その人のことを想った」。趙薦は作品番号02-3-012などで見ている。
【訳文】
夢に驚き、枕から頭を上げる。
いまはすでに真夜中であろうか、
人気のない寺に、ともしびが消えかかっている。
風の音が、深い谷間に、ざわざわとずっと響いている。
山の峰から月の光が射し込んできて、
壁に記された詩がぼんやりと浮かび上がる。
消息を聞かないと想っていたまさにその人の姓名がある。
その詩を繰り返し吟唱する間に、
そろそろ太公望に祈りに行く刻限になったろうかと、
北斗七星の傾き具合を人に尋ねる。
【補足】［翌朝は磻溪に行って雨乞いをするので、意識が覚醒して眠りが浅かったのだろうか］
■【02-3-017】二十六日五更起行、至磻溪、天未明
【解題】上の詩の後、日の出前に宿所を出て、磻溪に行って雨乞いをした。
【訳文】
山を照らす松明に驚いたのか、
猿がどさりと枝から落ちる。
細い月がぽつんと浮かぶ下を、
狭い谷へと入って行く。
川底の岩を洗う川の波が、
暁に向かって、冷たい音を一段と強める。
太公望は遠い昔に白雲の彼方に飛び去り、
神々しい跡だけがいまここに残っている。
どうかして、太公望によって力を得て、
雷神の後ろに付き従って馬を天へと走らせ、
瓢を傾けて地上に大いに雨を降らせたいものだ。
■【02-3-018】是日自磻溪、将往陽平、憩於麻田青峰寺之下院翠麓亭
【解題】詩の題は、「この日、磻溪から陽平鎮に行こうとして、麻田の青峰寺の下院である翠麓亭で休憩した」。雨乞いの後に別の公務で陽平鎮に向かったのだろう。
【訳文】
青峰寺を目指すもまだまだ着くには至らない。
渭水のほとりの村にまできて、
翠麓亭の名と小路のゆかしさにひかれる。
朱の欄干が谷合いにくっきりと映え、
まわりの山を超えて古い木が高くそびえる。
小路は岩の崖に突き当たり、
そこで林が切れ、下に河の流れを見る。
疲れた馬は青い草をほしがって鳴き、
翠麓亭を守る僧が「ここで休まれよ」といってくれる。
私がきたのは秋の昼さがり、
日照り続きであるから、石の台はことのほか熱くなっている。
どうかして、空を覆う傘のような雲を得て、
盆をひっくり返す雨を降らせることができないだろうか。
山のふもとに広がる田圃の稲が、
いかにも涼しげに濡れた葉をひるがえす夕べの景色を、
ここで見たいものだ。
■【02-3-019】二十七日、自陽平至斜谷、宿於南山中蟠竜寺
【解題】詩の題は、「二十七日、陽平鎮から斜谷に至り、南山の中にある蟠竜寺で宿をとった」。褒斜谷という長さ百七十里の大きな谷があり、その北の出口を斜口という。そこで川を渡って山中を進み、郿県の西南三十里にある蟠竜寺に至ったのだろう。
【訳文】
槎を横たえて晩に碧い澗の口を渡り、
馬に騎って夜に南山の谷に入る。
谷の中の暗く見えないところで水が瀧瀧と響き、
嶺の上でまばらな星が煜煜と輝き出す。
寺は千万仞の巌の底に隠れ、
路は山の腰を三百回も曲がり転じる。
風が吹き出したのは、飢えた虎が林の奥で嘯くのか。
月がないこの暗さは、竹林の奥に大きな鹿を忍ばせているのか。
門から入ると、奥深くに堂宇が聳え、
燃え残りの灯火が青く仏像を照らしている。
「お恥ずかしいことに、
この寺には、立ち寄られる方をもてなす酒も食べ物もございません。
杉や松を切って谷の山菜を煮てしんぜましょうか」
かくて、板張りの僧舎に独り眠って、
旅の枕に時折目覚めたりするうちに、
暁の木魚が鳴らされ、
僧とともに朝の粥を頂戴する。
起って改めて堂宇を見ると、万の瓦が重く重なり合っている。
目が眩むばかりの高さの巌に、紅い花がちらほらと咲いている。
門前を山椒や茶を負った商人が歩くのは、
山のすぐ向こうに連なる蜀の地から来たのだろうか。
いつしかあの川べりの田に帰って耕すことがあるだろうか。
心は南に飛ぶ鵠を追いかけて行こうとする
■【02-3-020】是日至下馬磧、憩於北山僧舎。有閣曰懐賢、南直斜谷、西臨五丈原、諸葛孔明所従出師也
【解題】詩の題は、「この日、下馬磧に至り、北山の僧舎で休憩した。懐賢閣という建物があり、南は斜谷に向かい、西は五丈原を臨む。諸葛孔明はここから出陣したのである」。「この日」とあるのはたぶん七月二十八日であろう。五丈原は『三国志』ファンでなくてもよく知られている古戦場で、諸葛孔明はここで魏軍に対して短気決戦を挑んだのだが、魏軍によって持久戦に持ち込まれ、決着がつかないままに諸葛孔明は陣没した。
【訳文】
南に斜谷の口を望む。
三つの山が犬の牙のように突き立っている。
西に五丈原を見る。
長く蛇のようにうねうねとわだかまっている。
想うのは、諸葛公が万騎を率いて蜀を出たときのこと。
軍士は水のように静まり返り、
蕭蕭と馬の鞭の音だけが聞えていた。
諸葛公の才を魏の王の曹丕と比べたなら、
十倍どころの違いではなかった。
敵地を睨んだ諸葛公の勢いは、
沙を巻き上げる風のようであった。
しかし、突如として長星が墜ちた［諸葛孔明の死をいう］ために、
蜀の妻たちは皆が喪に服さねばならなくなった。
山の僧はこのようなことなどは知らぬかのように、
一室で座禅を組みつつ、
山の霞のなかで老いてゆくのである。
昔は雲とともに消え去り、
川に沿う山々は変わることがない。
私はたまたま来て古を弔うだけであるのだが、
涙をこぼさずにはいられない。
■【02-3-021】妬佳月
【解題】出張から戻ると、陳希亮知事との関係は一段と悪化し、知事が主催する8月15日の中元節の行事に無断で欠席した罪で銅八斤の罰金を科せられた。その事件と関係しているのだろう、秋の名月にちなむこの詩を詠んでいる。月を蘇軾に、雲を陳知事に譬えていると見ると、かなり悪趣味な詩ということになるが、それだけ不快感を募らせていたのだろう。
【訳文】
雲は佳い月を妬んで猛り狂い、
飛んで飛んで千里の彼方まで空を真黒にしようとする。
佳い月は怒りはしない。
月の白さそのものが汚されることは決してないからだ。
昔、李白が仙界から人間界に降ろされたときに、
月と自分と我が影の三人が友だといった。
今夜は黒い雲のせいで月が見えず、影もない。
その寂しさに、風の神がきてくれないか思う。
しかし、変わりやすい風の神などあてにしない方がよいだろう。
頬杖をついてしばらく待ってさえいれば、
空にはいずれ何もいなくなり、
黄金の丸い盤が燦々と輝き出して、
その光が青い天空の隅々までも満たすだろう。
星はそのために輝きを失い、
夜露は洗いたての秋の色を宿すであろう。
月がガラスの玉のような光のかけらをぽろりと落とせば、
それは我が胸の内へと入ってくる。
永遠にかげることなき光を得て、
私は月の友となるのだ。
■【02-3-022】南溪有会景亭、処衆亭之間、無所見、甚不称其名。予欲遷之少西、臨断岸、西向可以遠望、而力未暇、特為制名曰招隠。仍為詩以告来者、庶幾遷之
【解題】これは9月ごろに鳳翔府近郊の南溪にある会景亭に遊んで詠んだ詩。詩の題は、「南溪に会景亭がある。いくつかある亭のなかで特別に見るべきところはない。その名にあまりふさわしくないので、私はそれを少しばかり西に移して、崖に臨むようにしたならば西側を遠くまで望むことができるであろうと考えた。ただそれを行う暇がまだないので、とりあえず『招隠亭』の名を付け、詩を作ってここに来る者に我が思いを告げることにした。これが移されることを強く期待するものである」。南溪の名はすでに作品番号02-2-002の詩の題でも見ている。
【訳文】
もしもこの亭を移したならば――
空を飛ぶような檐が古い道を見下ろし、
高い榜がここで遊んで行くようにと人に勧めるであろう。
まだ隠棲するには至らずとも、
そこに行けば、世間の塵を洗い落してくれるだろう。
亭から見えるのは、
まことに野趣豊かなありさま、
茅葺の家がところどころに集まり、
門に沿って炊事の煙がなびき、
林が欠けた先から湖の光が漏れるのである。
この地の人々はゆったりと暮らし、
朱塗りの車に乗った高貴な人ものんびりとやってきて、
帰ろうとしても、山の好さになお留まり、
被り物が風に吹き落とされても、酒に酔って気づかないだろう。
いつの年にか、このように改築してくれるだろうか。
もとの形にこだわることはない。
そのときに訪れる私は老いてしまっているだろうけれど、
座客の一人としてどうか加えていただきたい。
■【02-3-023】扶風天和寺
【解題】扶風県にある天和寺で詠んだ詩。この詩は石に刻まれ、「葵卯九月十六日、家族を連れて遊びに来た。眉山の蘇軾が題す」と添え書きがあったという。
【訳文】
遠くから見たとき、
朱色の欄干や青い瓦が山に映え、
なかなか愛すべき景色であると感じた。
近づこうとすると、
一歩登るごとに足を止めて息を継がねばならず、
百回以上も寺を見上げることになった。
川の底には水がなくて石が現れ、
野の上には塵が上がって遠くの町の楼閣は見えない。
風に臨んで声を出すのはよそう。
我が思いのほどを抑えられなくなってしまうだろうから。
■【02-3-024】贈楊耆并引
【解題】扶風県を訪れた蘇軾は鳳鳴駅館［→作品番号02-2-023］に泊まったのだろう。そのときに楊耆という人物と会い、一篇の詩を贈った。それから20年ほど後に楊耆と再会し、かつての詩に序文を添えてまた贈った。その作品を見ておこう。序文がある。
【訳文】
西蜀の楊耆は、二十年ほど前に会ったときに甚だ貧乏であった。いま会うとやはり貧乏である。昔と何が異なるかというと、顔がやつれ白髪になったことだけだ。
女性は容貌の美醜にかかわらず富む者は優美であるという。男子は賢であろうが不肖であろうが貧乏であると田舎びてしまうともいう。たまたたま時代にうまく合うと造作なく当世風の士となる。
かつて扶風の宿で、夜に外からの歌声を聞いた。はなはだ悲しげであったので、起きて声の主を呼んで尋ねた。すると、その者は、昔は富んでいたがいまは貧乏になってしまったといった。私は身につまされ、一緒に酒を飲み、詩を作った。
今日は冷たい雨が降り続き、かのときのことがまざまざと思い出される。楊君の困窮はもとのままだ。そして私も楊君と同じく故郷を離れた旅の身である。よって、そのときの詩をまたここに書いて楊君に贈る。
小さなこの村にも、
わずかばかりの雨が秋の涼しさを送ってくれたこのときに、
旅の宿では、
夜長に愁いてずっと嘆き続ける人がいる。
眠れぬままに、馬がまぐさを食らうのをただ見つめていると、
虫が悲しげに歌い、それにまた虫が応える。
天候はこれからは寒くなり、
実らなかった穂は畦に横たわるようになるだろう。
歳は暮れようとするが、
機織り機は糸がないためにむなしく壁に立てかけたままとなるのだろうか。
君にもう一杯の酒を勧める。
しばしここで眠ろうではないか。
人間界の貧富など、
どうせ大海の波のようにあてどないものなのだ。
■【02-3-025】和子由聞子瞻将如終南太平宮溪堂読書
【解題】弟から、「兄が終南山の上清太平宮の溪堂に行って書物を読もうとしていると聞いた」という題の詩が送られてきたので、それに和した。手紙が鳳翔府と都の間を行き来する間に、蘇軾はとっくに太平宮に行って帰ってきていたであろうけれど、詩は瞬時に送り返したかのように詠まれている。太平宮はすでに作品番号02-2-002の旅程の中で見ている。
【訳文】
外なる名に使われると、ただただ役目を勤めねばならず、
内なる身に任せると、ただただ安楽を偸んでしまう。
まことに愚かで拙い僕は、
名と身の二つをともにうまくやりくりすることができない。
いまさらのように僕は、
官員としての口の利き方、公文書の書き方を学ばなければならなかったし、
ここにきてようやく罪人の訊問の仕方を会得したばかりだ。
官員というものは、
いま何をすべきか知ろうとしたら、
何はともあれ先例を調べなければならない。
官員というものは、
望む地位を得られずにいる間は、得られないことをひたすら憂い、
得られたら得られたで、それを失うことをひたすら憂う。
だからその心は決して落ち着くときがない。
疲れた旅人が道の途中で清らかな流れに出合い、
しばし休んで水を掬って飲んでも飽き足らず、
塵にまみれたまままた道を進まなければならないのと同じである。
僕は、春の鳥のさえずりを聞いたころに、
自然の内へと入ってみたいと思った。
あれこれ決めかねているうちにいまはもう秋の終わりだ。
御陵造営の期限が迫りきて、府県の役人は仕事の手配に忙しい。
国家の事業であるから不平をいうべきではないけれど、
民衆を煩わせることに恥じらいを覚えないわけにはいかない。
しかも、いまは日照りの嘆きがある。
僕は何よりも雨を呼ぶ術を学ばないといけない。
川の水は涸れ果て、川底の泥まで乾いてしまった。
一本の木を千人がかりで曳かなければならない。
人々は十歩進むために八回も九回も息継ぎをする。
こうしたことを見ていると、食事さえ欲しくなくなり、
何かをする気力の一切が失せてしまう。
もしも秋の雨が十分に降ってくれたならば、
公務の合間に新酒を味わうこともできようかと想像はするのだが、
いまの骨折りが幸いにも終わったとしても、
朽ちた自分はもはや任務に耐えられなくなってしまっていることだろう。
だから、秋の風が僕を丘へと誘い出し、
せめて一日の楽しみだけでも得て、
百日の愁いを慰めようと思うのである。
【補足】［（1）役人暮らしの鬱屈した思いが率直に歌われている。陳希亮知事との不仲は都にも聞こえ、弟は兄の身を案じていた。（2）御陵造営とは、この年の3月に亡くなった仁宗皇帝の陵墓を造る事業で、鳳翔府は大量の木材を期日までに搬出しなければならず、蘇軾は現場監督として山に派遣され、重労働に喘ぐ民衆を実際に見て心を痛めていた。公務が一段落したところで、太平宮を訪れたのである］
■【02-3-026】将往終南和子由見寄
【解題】上清太平宮に向う前の夜に弟を想って詠んだ詩。
【訳文】
人生はたかだか百年、
髭や髪が白くなるだけの時間しかない。
富貴なんぞは葦の若い茎の中の薄皮ほどのものでしかない。
墨をしたたらせて詩文を書くなどという行為は、
酔いつぶれてきれいなお姐さんに介抱されるよりは、
いくらか体裁がよいだけのことだ。
ここのところ僕は学問をやめてしまったので、
しばらく吹かずにいた笛が詰まって音が出ないようなありさまだ。
今年も残すところ少なくなり、
秋の風がもたらす水のような涼気が身に沁み入る。
明日は南の川に行って鳥や獣を友としようと思っている。
寝床で落ち着かぬまま夜明けを待っている。
昔むかし、一生涯ただ筆だけを弄んで、
烏のように全身真黒になりたいと願った人がいた。
僕もまったく同じことをいま思っている。
門を閉ざして一日中僧侶のように座り続け、
官爵などは泥のように見下すのだ。
僕はどうしてこうもぐずぐずしているのだろう。
歳月は自分と一緒にぐずぐず留まっていてはくれない。
もう夜が明けるのか。
僕の馬に秣が与えられようとしている。
■【02-3-027】読道蔵
【解題】上清太平宮には道教の経典である道蔵の一式が納められた。蘇軾は道蔵を見ることを一つの目的として太平宮を訪れたのだった。
【訳文】
どのような幸いに恵まれたのか、
この道教の寺にたまたまくることになった。
何がここにあるかというと、
千の箱にぎっしりと書物が詰められている。
赤い錦の嚢に納められ、
青い霞の裾のような紙でくるまれ、
仙人が箱に鍵を掛け、
神がその部屋を守っている。
神の隙を窺って書物を覗こうというのだから、
ゆっくり眺める時間はない。
それでも、真理を知る人は一言で悟れるというし、
道は静かな心に集まるともいうから、
心を長閑にして蓮のつぼみを想い見るならば、
おのずと純白の大輪を咲かすこともあるのだろう。
かくて俗世を離れて千年の彼方に去れたならば、
その後に遺した我が屍を包む蓆に、
我がこの詩がなるであろう。
人はかりそめの身をいい加減に扱って、
土くれ、草きれで養おうとしている。
私は道教の真理を得て我が憂いを除きたいと思っている。
それさえできなくて、
天下を治めることにどうして関わろうなどとしているのだろうか。
■【02-3-028】書太宗皇帝急就章
【解題】上清太平宮で太宗皇帝が書いた『急就章』を見て、この短文を書き添えた。『急就章』は漢の時代の史游の作で、手習いの教本としてよく使われた。太宗は宋の二代皇帝である。
【訳文】
私は近ごろ終南山の太平宮に行って、三聖［太祖皇帝以下の三代の皇帝］の遺墨を観ることができた。太宗皇帝の『急就章』一巻の章は非常に優れている。
古から英主で書に巧みでない者は少ない。『孟子』に、魯国の君主が宋国に行ったときのことが記されていて、魯国の君主が門で声を掛けると、門番が「これは吾が君ではないけれど、その声は何と我が君に似ていることか」といったとある。同じ境遇にある者は自ずと似るということなのであろう。
蘇軾が記す。
■【02-3-029】上清詞
【解題】冬にまた上清太平宮に行き、この詞を献じた。太平宮は、太宗皇帝の時に、道士の張守真のもとに神が降って天の命令を記した符を授けたことから建てられたのであるが［→作品番号02-2-002］、この詞では、張守真が天帝に派遣されて世を鎮めたとして歌っている。
【訳文】
南山の奥の雲が重なる中、
ここに誰がいるのか。
天帝のかたわらに侍る神君［張守真］である。
神君はどうしてこの山の奥に、
天の宮殿を顧みつつ久しく淹留していたのか。
どうしてある日ここを去って、
もはや下界を顧みることもなく、
この山の人々を悲しませたのか。
神君が来たときのことはもはや知りようがなく、
去ったときのことももはや尋ねようがない。
――神君が来たときのこと、
天の門が開かれ、
神君は飛ぶ竜にまたがり、
千騎を従え、辰星と金星を引き連れ、
白昼に雷が鳴り響くなかを、
厳かにも下って来られたのだった。
天帝の庭を発ったのは朝、
この山の宮に着いたのは夕方であった。
このとき妖魔どもが下界を虐げていた。
妖魔どもはおびただしい血が流されるのを愛し、
疫病や害虫を好んでいた。
嘯いて疾風を走らせ、
泣いて大雨を降らせ、
時に乾いた火を吐いて大地を融かしていた。
神君は天帝の命によってそれを討ち、
千仞の鋒を建て、
妖魔のもとに集まってきていたものどもを衝き崩し、
海や山に跋扈していたものどもを走らせ、
天を暗く覆っていた旗を掃い去り、
耳を塞ぐほどに鳴り合っていた剣も掃い去り、
稲妻に乗って逃げまどうものどもを追い、
たちまち跡形なく一掃してしまったのだった。
神君の裁きは必ず正しく、
上帝は決して汝らを容赦しないことを知らしめたのであった。
妖魔どもは天帝の命に従うと約束し、
震えつつ退き、
それからは恭しく仕えるようになったのだった。
神君の恩沢は世界を覆うものであったが、
神君は淡然としてその功を誇ることもなく、
ここを去って行った。
天の門はまた開かれ、
神君が宮殿へと入って行くと、
多数の仙人が出迎え、
厳かに前へ導き、ざわざとその後に従った。
神君が玉堂の階段を昇ると、
天帝が迎えて労った。
神君ははなはだ疲れていたけれど、
人の世の厳しさを述べ、
天帝に憐憫を下されんことを申し上げた。
かくて立ち並ぶ天の宮殿のうちへと帰り、
万霊に慰労され、
清静のうちに黙って無為に過ごすこととなった。
ときに宮殿のうちを進んで、
天帝に大事の献策することはあっても、
もはや下界に帰ることはない。
それでも、表裏を貫く光は輝き、
下界をくまなく照らし出しているのである。
時に神君が目を遊ばせて下界を見ると、
五嶽は高坏のよう、四海は杯のようで、
太平宮の千本の柱は毛筋が集まるかのようである。
神君が来るときは楽しみのためではなかったし、
去るときに悲しんだわけでもなかった。
神君はすでに帰ってしまったけれども、
そのお顔はこの像と少しも違わないのであって、
秘殿に昇ってそれを見るならば、
我が胸は高鳴り、
魂は緊張して上に飛び出すかのようである。
私はたちまち気を失い、
そのときに何かを得たのか
沐浴してこの辞を献じることとなった。
これが真実を述べているのかそうでないのか、
私には知ることができない。
【補足】［これか神君の功績というよりは宋朝の天下統一の偉業を讃えた詩なのだろう］
■【02-3-030】書上清詞後
【解題】これより24年後、上の『上清詞』を書いて、それに添えた短文があるので、ここで見ておこう。
【訳文】
嘉祐八年冬、私は鳳翔府の官員として、公務で上清太平宮の真君［張守真］にしばしば詣でて、敬ってこの詞を作り、また弟にも同じく賦すようにいった。それから二十四年が経ち、薛紹彭が上清太平宮の監宮となり、この二篇を石に刻みたいので書いてほしいといってきた。
元祐二年二月二十八日記す。
■【02-3-031】思治論
【解題】この年に蘇軾は現在の政治の課題と解決に向けての理念を論じたこの文章を書いている。いま何が問題であるかを指摘している冒頭の部分だけを読んでおこう。
【訳文】
いま天下は何に病んでいるのか。初めに正しく見据えておかなければ、何ら成果が上がらないだけでなく、ますます立ち行かなくなってしまうだろう。
凡人の気分としては、一度試みて効果がなければ、その方策を疑い、再び同様のことになれば倦み疲れ、三度目にはもはやめてしまう。いまの世の士を見渡して、敢えて為そうとする者がいないのは、忠義の心を強く持っている者がいないからではなく、才術や思慮が優れている者がいないからではなく、成果をすぐに挙げるのが難しく、再度為すことができなくなるのを恐れるからである。決して成果が挙げられないわけではなく、罪は為そうとしないところにあるのだ。為そうとするならきっと成るのである。
いまの世には三つの患があって、ついにそれを去ることができずにいる。それが生じてからすでに五六十年になる。
数々の宮殿、神殿を建設し、茶税や塩税の法が破綻し、さらに軍事費が増大してからは、天下は常に財政困難を患ってきた。下には人々が寄り集まってあれこれ論じ合い、上では政治を改め法令を変えて財を豊かにしようとし、実に数えられないほどの策が講じられたのだが、ついに財政は豊かにならなかった。
［大挙して遼国軍が攻めてきた］澶淵の役から、遼国は和が求めてきたとはえ、ついにはそれは要領を得ない結果となり、さらには西の夏国の変も加わって、国境が静かになることはなく、二国はますます驕ってしまった。戦っても勝てず、守っても固くなく、天下は常に軍備の不足を患ってきた。五六十年の間に、下には人々が寄り集まってあれこれ論じ合い、上では政治を改め法令を変えて軍備を増強しようとし、実に数えられないほどの策が講じられたのだが、ついに軍備は強くならなかった。
科挙を厳格にし、官吏を法によって縛るようになってから、官吏は功名を志さなくなった。官吏を評定する仕組みは壊れ、賢者が推薦されることはなく、不肖の者も懼れ憚るところがなく、天下は常によい官吏がいないことを患うようになった。この五六十年の間、下には人々が寄り集まってあれこれ論じ合い、上では政治を改め法令を変えて、よい官吏を求めようとし、実に数えられないほどの策が講じられたのだが、ついによい官吏が選び出されるようにはならなかった。
財政が豊かにならず、軍備が強くならず、官吏がきちんと選ばれない、このようなことでよいはずがないのだ。……［以下、省略］……
【補足】［ここで述べている三つの問題点は、40年以上前に范仲淹が指摘したことと本質的には変わっていない。そして、何度か国政を改革しようと試みて失敗してきたこともここに記されている通りである。ではどうしたらよいのか、蘇軾がこの論文で論じていることは抽象的で訳者には理解できないので、残念ながらここに訳出することができない。抽象的であるからといって、必ずしも問題の解決に役立たないわけではないだろう。本質は抽象的に論じてこそ明らかになるものであって、理系的指向のある蘇軾は、根本をまず解き明かそうとする傾向が強くあり、宋代士大夫の多くもまた理屈を言い募るのを好んだ。しかし、抽象的理念と緊密に結びついた具体策がなければ、実効性は期待できない。本質論に基づいた総合的かつ緻密な具体策を蘇軾は残念ながら提案できていない。宋代においてそれができたのは王安石ただ一人であったことを後に見るであろう］
■【02-3-032】稼説
【解題】鳳翔府には張琥という「同年」の同僚がいた［→作品番号02-2-021］。その張琥が鳳翔府での任が満ちて都に帰ることになり、この文を贈った。
【訳文】
富む人の田で穀物がどのように稔っているのか、君は見たことがあるだろうか。富む人の田は良質でしかも広いから、食べるに十分な収穫が得られて余裕がある。広いから交替で田を休ませることができ、地力は完全なままに保たれる。余裕があるから、種を植えるのに時期遅れになることはないし、すっかり熟してから収穫することにもなる。だから、富む人の田では穀物の稔りはいつも上質で、中身がすかすかの籾は少なく、実が充実していて長く保存しても腐ったりしない。
もし私が十人家族で、百畝の田しかなかったとしよう。一寸の幅の田からも逃さず収穫を得ようと、日夜それを望んで耕したり均したりする。いつも魚の鱗のように人がびっしり張り付いて仕事をするから、地力は竭き果ててしまう。収穫は家族が食べるのに足りないから、種を植えるのはどうしても時期に間に合わないし、刈り取るのは熟すのを待ってなどいられない。これでどうして上質の穀物が稔ったりするだろうか。
古の人は、その才能が今の人よりもずっと優れていたということはないであろう。古の人は普段の暮らしでも、自分の持っているものを自分でよく養い、軽々しく用いるようなことはせずに、十分に熟成するのを待った。それは赤ん坊がゆっくりと成長するのを待つのと同じようであった。弱いところがあれば養って剛くなるのを待ち、うつろなところがあれば養って充ちるのを待った。
こうして古の人は三十歳になってようやく出仕し、五十歳になって高い地位に就いた。長らく身の内に貯め込んでおいた末に、十分に充実させ、大きく伸ばしてから世の中で用いられたのだ。あるいは、身の内から溢れ出て余りあるまでになってから外に流し出し、あるいは、十分に弓を引いてから放ったのである。これが、古の人々がいまの人々よりもずっと優れていた理由である。
私は子供のころに学問を志し、不幸にして早くから成果を得て、君と同じ年に科挙に合格した。君もまた早くなかったわけではない。私は自分の学問はまだまだ不足していると考えていたかったのだが、まわりの人がむやみと推薦してくださり、今のようなことになった。
君はここを去って後に、どうか学ぶに努めてほしい。広くいろいろなものを学び、肝心なところを掴み取り、厚く積み上げて外に出すのは少しだけにする――私が君に告げるのはこれにとどまる。
君は都に帰ったら、是非訪ねてほしい人がいる。それは蘇轍、私の弟だ。同じことを弟に君から語ってほしいのだ。
【補足】［張琥はこの送別の文章を読んでどのように感じたのだろうか。焦らず己を成長させることに努めてほしいとの助言を素直に受け止めたのなら、張琥は立派な士大夫になったであろう。蘇軾は、弟への伝言としてほしいと書き添え、押しつけがましくならないような配慮もしていたから、もしもその通りに張琥が実行していたなら、「同年」である3人の友情が長く続くことにもなったであろう。しかし、十数年後に張琥は蘇軾に対してひどい敵対行為をしているので、張琥はこの送別文を読んで、堪えがたい屈辱感を味わったと推測するのも、あながち見当はずれではないだろう。ただし、張琥が蘇軾を死罪にしようと躍起になったのは、私怨ではなくて真実の正義感に駆られての行為であったと弁護する余地も皆無とは言い切れないであろう］
■【02-3-033】凌虚台記
【解題】陳希亮知事は鳳翔府の官舎の近くに凌虚台という見晴らし台を築き、その完成を記念する文章を書くよう蘇軾に依頼した。不仲の部下、しかもねちねちと文章を添削してきた相手に、記念の文章を執筆させるというのは、なかなか不可解なことであった。上司からの依頼というよりは指令であるから、蘇軾として断るわけにはいかない。このような記念の文章では、先の「鳳鳴駅記」［→作品番号02-2-023］で見たように、それを作った人の徳を称えて祝意に満ちた文章を書くのが普通である。まして、ここで陳知事を少しでも持ち上げた書き方をしておけば、関係改善が期待できるであろうから、何はともあれ陳知事を誉めておくのが穏当なのだが、蘇軾は何を考えたのか、はなはだ無作法な文章を記した。
【訳文】
ここ鳳翔は終南山の麓に位置し、起居、飲食、常に山と接している。
鳳翔の四方に終南山より高い山はなく、終南山の近くに鳳翔よりも立派な都市はない。互いに近くにあって、互いに最高であることを求めるならば、必ず終南山と鳳翔ということになる。
知事陳公は鳳翔に住まうようになってからも、終南山がすぐそこにあるのを知らずにいた。山があるのを知らなくても政務にさしさわりがあるわけではない。とはいえ、ものの道理として終南山を知らないというのはありえない。そもそもが理に反していることから始まってここに高台は築かれることになったのである。
あるとき陳公はたまたまこのあたりを歩いていて、林の木々の上に山があるのに気付いた。自分が歩くとともに山が林の上を移ろうのを見て、塀の向こうを道行く人の頭が移ろうのと似ていると感じた。
「特に優れた眺望がここに得られそうだ」
陳公はそう思うと、ここの前面を掘って四角い池とし、その土を盛って家屋の軒より上に出る高さにせよと人々に指示した。こうして高台を作れば、そこを登る者は、自分が高みへと上がって行くとはあまり意識しないで、終南山が自ら高々と飛び出して来ることに驚くであろうと、陳公は考えた。
「山が中空に突き出る、つまり虚空を凌ぐ、凌虚という名がよろしかろう」
陳公はそのように高台の名を定め、完成した暁には記念となる文章を書くよう私蘇軾に求めた。
そこで私は次のように申し上げた。
「物があるいは廃れ、あるいは興り、あるいは成り、あるいは毀たれるのは必ずしも人の意のままにはなりません。それでも、とどのつまりだけは知ることができます。昔ここが荒れた野であり、わびしい田であり、露や霜に繰り返し覆われ、狐や狸がすみかとしていたときに、いずれ凌虚台が築かれると誰が予想したでしょうか。あるいは廃れ、あるいは興り、あるいは成り、あるいは毀たれるという連鎖は無窮に続き、凌虚台が後にまた荒れた野ないしはわびしい田になるということは知らずにいようとしてもできるものではありません。
凌虚台が完成しましたら、試しに一緒に高台に登ってみようではありませんか。望み見るのは、東に秦の穆王の祈年宮や橐泉宮のあったところ、南に漢の武帝の長楊宮や五柞宮のあったところ、北に隋の仁寿宮、唐の九成宮のあったところです。それらが最も盛んであったころには、その規模は宏大、外観は美麗、堅固で動かぬありさまは凌虚台の百倍どころではなかったでありましょう。しかし、王朝の繰り返しを経たいま、せめてそのよすがを彷彿とさせるようなものを求めようとしても、割れた瓦、崩れた塀さえ存在していません。麦畑や茨の荒野を載せる丘だけがあります。この高台がこれから先にどのようなことになるのか、いうまでもありません。
この高台に託して、虚を凌いで長く久しくあろうとしてもできるものではないのです。まさしく理に反しているからです。人間世界において得たり失ったりするものは、たちまち来てはたちまち往くだけのものなのではないのでしょうか。
世に誇るべきものを作って自己満足を得ようとするのは大きな過ちです。長く久しくあるとたのむに足るものがもしもあるとしたら、この高台の存亡などとは関わりがないに違いありません」
私は陳公の前から退くと、そのままを文章に記した。
【補足】［（1）凌虚台を築く意図そのものが愚かしいと、蘇軾は傲然と言い放ったのである。陳知事はこれを読むと、一文字も改めさせることなく碑に刻んで凌虚台の下に置いたと、邵博の『邵氏聞見後録』は伝えている［→作品番号02-3-014］。これより陳知事と蘇軾の間は改善され、すこぶるよい関係になっていった。『陳公弼伝』［→作品番号02-3-015］にあった飢餓対策や于闐国の使者への対応などには、蘇軾が関わったと推測される［だからこそ詳しく書かれている］。実は、記念の文章を蘇軾に書かせたのは、陳知事による特別な試験であったのかもしれない。もしも、蘇軾が歯の浮くような言葉を並べたてて陳知事を褒め讃えでもしたならば、蘇軾は箸にも棒にもからぬ遊蕩児であるとして完全に見捨てられていたのかもしれない。己が正しいと信じることだけを堂々と述べる姿勢を蘇軾が貫いたので、陳知事はそれを正当に評価したのだろう。一方で、蘇軾はこのころに陳知事の末っ子の陳慥と偶然出会って意気投合していたので、そのことが好影響を与えたということもあったかもしれない。陳慥については後々の章で詳しく記すことになる］
■【02-3-034】十二月十四日、夜、微雪、明日早、往南溪小酌、至晩
【解題】詩の題は、「十二月十四日、夜にわずかに雪が降り、翌朝早くに南溪に行き、酒を少し飲んで晩に至った」。南溪の名は作品番号02-3-022などにあり。蘇軾はそこの風光が特に気に入ったようである。
【訳文】
両岸に雪が積もった南渓の景色は、
とてもではないが値などつけられはしない。
雪の消えないうちにと馬を走らせ、
木々の間から抜け出て、
雪の中に道を探して、
まだ足痕のない朱塗りの橋を一番に渡った。
興に乗じてなおも行くと、崩れた家があった。
この家の人は雪に埋もれたままでどうやって眠ったのだろうか。
さらに小さな村に行き着くと、
ひっそりとして人の声が全く聞こえない。
人々はすでに飢餓に迫られているのか。
年の暮れの烏の鳴き声だけがあたりにこだまする。
我が馬の足音に、烏が驚いて飛び立ち、
枯れた枝からぱらぱらと雪のかけらが落ちてきた。
【補足】［蘇軾は雪景色を見に南溪に行ったのだが、人々のわびしい暮らし向きに愕然とし、官員としての務めを果たせていないではないかと、烏にからかわれたと感じたのだろう。鳳翔府のあたりは雨の少ない年が続き、飢饉が迫りつつあった。そして、陳知事とともに飢餓対策に取り組んだのである］
■【02-3-035】九月中曾題二小詩於南溪竹上、既而忘之、昨日再遊、見而録之
【解題】詩の題は、「かつて九月中に二首の小さな詩を南溪の竹に記した。忘れてしまっていたのだが、昨日、南溪に遊んでそれを見たので記録しておく」。つまり、これは9月に詠んだ詩である。
其の一
湖の上をぱらぱらと雨が通り過ぎてゆく。
堤から水がひけて蓮の花は終わってしまった。
山の上には夕暮れの雲が横たわり、
人々は家へと帰って行く。
とすると、虎がそろそろ出てくるのだろうか。
其の二
人里離れた家々は、
いずれ虎の住まいになってしまうと、
人は心配している。
虎を追い出すには山を焼けばよいというのだが、
私には千の碧の竹が惜しまれてならない。
【補足】［実際にこのあたりには虎が出没したようである］
■【02-3-036】南溪之南竹林中、新構一茅堂、予以其所処最為深邃、故名之曰避世堂
【解題】詩の題は、「南溪の南の竹林の中に新たに茅葺の庵を構えた。私はそこがひどく奥深いので『避世堂』と名付けた」。この題と詩の内容から推測するに、9月に南溪を訪れたときに気に入って庵を建てることにし、12月の雪の朝にその庵を訪ねたのだろう。
【訳文】
この溪川の堂も、
世を避けることがなお浅いのが残念に思われ、
蒼い竹の林をさらに穿って進む。
山水を愛する者は虎を畏れないという。
世を避けようとしてすでに無心であるからだ。
そのような人は、
机に寄り掛かった姿はぐんにゃりとして病気のようであるし、
言葉を忘れて黙りこくっているのは口をきけないかのようである。
その住まいは太古の草ぶきの小屋に似て、
当今のお歴々とは一切縁を断っている。
暁には、猿に呼ばれて夢から覚め、
秋には、鳥とともに季節の思いを歌う。
私などはここに来てしばし帯を解くだけ、
去るたびに今度は夜具を携えてこようと思うのである。
湖のあたりはすでに行き来する人が絶え、
石段には夕暮れの雪が深く積もろうとしている。
かの緑毛仙人がひょっこり現れて、
戸を叩きそうな雰囲気である。
【補足】［この詩の終わりの部分は、二つ前の詩の題に「晩に至った」とあるのと符合しているのだろう。「緑毛仙人」とあるのは、唐の時代に、長安の南の山に、髪が緑色の大柄の仙人がいたという伝説を踏まえている］