第2章 最初の赴任地――鳳翔での3年間
［第2章その一］
嘉祐5年［1060年］、蘇軾25歳。
嘉祐6年［1061年］、蘇軾26歳。
■【02-1-001】賀欧陽枢密啓
【解題】前の章で見たように、蘇軾は、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに嘉祐5年［1060年］2月に都に到着し、実際に官職を授かるための審査を受けた上で、兄は河南府福昌県主簿、弟は河南府澠池県主簿の職を授かった。都からさほど遠くない中都市の事務局長のような職務で、それは科挙の最終試験の成績に見合ったものであったのだが、欧陽脩や楊畋らは、そのようなありきたりの処遇では2人には役不足で、特別試験の制科を受けさせて、もっと高いレベルからスタートさせるべきだと考え、制科の実施を朝廷に働きかけた。楊畋は欧陽脩と近い関係にある朝廷の高官で、2人のために何かと尽力してくれた。2人は任地に赴くことを辞退し、事態の推移を見守ることにした。楊畋は兄弟のために制科を実施すべきだとする根拠として、2人が書いたものを朝廷に提出した。蘇軾は50編の小論文を出し、それは服喪中に書いた『春秋』に関するものであったと推測されている。こうした運動が実って、翌年の秋に試験が行われることになった。その一方で、4月8日に恩人の梅堯臣が都で亡くなっている。梅堯臣は官員としては低い地位に留まり、都の片隅で質素に暮らしていたので、欧陽脩を始めとする著名人が続々と弔問に訪れるのを見て、近隣の人々は何事かと驚いたと伝えられている。兄弟は都の南側の懐遠駅に住み、家に閉じこもって試験の準備に専念した。父は息子たちとは一時期離れて郊外の雍丘に住んだようで、8月に秘書省試校書郎の官を授かった。欧陽脩や趙抃の推薦によって特別に官職を与えられたのである。趙抃は父子にとっての恩人として後にしばしば蘇軾の詩文に登場する。欧陽脩は11月に枢密副使に任命された。国防副大臣のような重職である。この項の表題に掲げたのは、枢密副使就任の報せを聞いての祝賀状で、伯父の蘇渙のために代筆したものであるされている。祝賀状は一定の形式に則って重々しく書く必要があり、蘇渙は蘇軾が書いた方がより立派なものができると考えたのだろう。形式ばった荘重な文章を訳すのは訳者の能力を超えるので、一部だけを見ておく。なお、父の蘇洵もこのときに祝賀状を書いている。
【訳文】
伏して審らかにいたしましたのは、王庭において御恩を拝し、兵府を署事されますとのこと。［「伏して審らかにする……」という書き出しは祝賀状の決まった形式で、蘇洵の書き出しは、「伏審光奉帝詔、入持国枢」である。要するに、欧陽脩が枢密副使に任命されたことを聞いたと冒頭に記しているのである］
これは、儒者にとって大きな誉れであるだけでなく、実に天下にとって特別に祝うべきことであります。……［以下に、国の機構は軍事を司る部門と、民事を司る部門に二分され、文官が軍事部門を指揮するのは容易ではないのだが、欧陽脩であれば文武の二職を兼ねることができて、人々を喜ばせるであろうと述べる］……
私は遠く離れた郡を守っておりますが、いま都近くに寓居し、大賢［欧陽脩のこと］が登用されましたことを窺い、士大夫が歓ぶのに率先して、そのお祝いを申し上げるものであります。
【補足】［最後の一文は、蘇渙がこのとき衡州知事の任務を終えて、次の職務を授かるまでの間に都に滞在していたことを示している。蘇軾が伯父に会ったのは、恐らく13年ぶりで、伯父と次のような会話をかわしたと伝えられている。蘇軾が、政治の要諦を伯父に尋ねると、伯父は、「そなたが書いた『刑賞忠厚論』［→作品番号01-2-012］の通りにすればよろしいであろう」と答えた。蘇軾は、「私は文章を書くことならできますが、政治の実際はまだ学んでいません。どうしたらよろしいのでしょうか」。「そなたは試験の場で一つの論文の題を与えられ、すぐにそれに対処し、これでよいと考えがまとまったところで筆を下し、それがついには佳い文章となった。政治もそれと同じだ。ある事柄が目の前に持ち上がって、まだ何が問題であるかを見破ることができていないうちは手を下してはならない。すっかりわかって後に実行するなら、錯誤が生じたりはしないのだ」］
■【02-1-002】次韻水官詩
【解題】嘉祐5年は勉強に明け暮れるうちに終わり、嘉祐6年も秋まで勉強に専念した。5月に、制科を実施するよう働きかけてくれた楊畋が竜図閣直学士知諫院に昇任すると、蘇軾は祝賀状を書いて贈った。7月、父の蘇洵は覇州文安県主簿を授かった。実際はそこに赴任するのではなく、宋初以来の礼の変遷についての記録をまとめる仕事に携わることになった。同じころに、伯父の蘇渙は利州知事として赴任することが決まり、蘇軾兄弟は都の西郊外で伯父を見送った。蘇洵には人を引きつける独特の魅力があったのだろう、都での交遊範囲はますます広がり、浄因寺の懐璉［大覚禅師］という名高い僧と懇意となり、唐の時代に閻立本が描いた画をプレゼントされた。それは水官［水神］を描いた画で、国宝級といってよいほどに価値あるものだった。蘇洵はその謝礼として一篇の詩を作ったのだが、さすがにそれだけでは釣り合わないと思ったのだろう、蘇軾にも同じ韻で詩を作らせて謝礼を2倍にした。蘇軾の詩には短い序文がある。
【訳文】
浄因寺の大覚禅師懐璉は閻立本の水官の画を編礼公［蘇洵のことで。礼書の編集に当たっていたのでこのようにいう］に贈られた。編礼公はその謝礼として詩を贈り、私にも詩を作るようにいった。私は頓首再拝して次韻し、二篇の詩を録して一巻として大覚禅師に献じた。
高人［自然の理に通じた人］は画を学ばずとも、
天性のままに絵筆を用いることができるのだろう。
泳ぎの上手な人は、
水というものをよく知っているので、
初めて船を漕いでも巧みに操れるという。
閻立本は元来は儒者で、
文章の妙に通じた先人を慕い、
画はたまたま戯れに始めただけだった。
好んでいつしかやめられなくなり、
筆の勢いは翻る風のようであった。
唐の太宗皇帝はあるとき池に舟を浮かべて遊び、
珍しい水鳥が水に戯れるのを見て、
一人に詩を作らせ、閻立本に画を作らせた。
閻立本は家に帰ると、子に向かっていった。
「私は学問をした人間でありながら、
今日は画によって天子のお召しを受けた。
おまえたちは決して私のように画を習ってはならない」
時に太宗皇帝は四方の平定を成し遂げ、
南の国からは白い雉が、西の国からは青い蓮が献上された。
そのときのありさまを閻立本は水神の集まりになぞらえて描いた。
竜にまたがって天に昇ろうとする神が皇帝、
大亀の背に乗って左右に従うのが大臣、
熊や豹のような面々は異国からの使者だ。
唐の太宗皇帝の功績はまさしく神のようであって、
後世に並ぶ者がなかった。
しかし、その唐朝にも亡ぶときがきて、
あまたの盗賊が国土を偸み合い、
都は三日間の猛火に包まれ、皇室の至宝は煙と消えた。
天の神には天官、地官、水官がいて、
閻立本の画は水官を描いたものであり、
しかも神のわざによるといってよいものであったから、
天もこれを焼かせてはなるまいとしたのだろう、
火より脱出させ、東に出て、いまや宋の都にきたのである。
都の貴人はこの画をほしがり、
あの手この手で大覚禅師に話をもちかけた。
高僧は一切心を動かすことなく、
我が父が頂戴することになった。
あまたの宝物を積んだところで高僧のお心にかなうべくもないので、
父は一篇の詩をもって返礼とし、
画の前に清らかな紙片を置かせていただくものである。
【補足】［このころ兄弟はひたすら勉強に励んでいたのだが、一説によると、試験の当日が迫るなかで、蘇轍は病に倒れ、一時期は受験をあきらめかけたという。李廌の随筆『師友談記』［→作品番号01-2-005］がそのことを伝えている］
【訳文】
李廌：『師友談記』
東坡［蘇軾］はこのようにいわれた。
「弟とともに制科の招集に応じて都に行くと、試験を受けようと集まってきた者が大勢いた。ある日、宰相の韓公［韓琦］が客人と話していてこのようにいわれた。『蘇君兄弟がいて、敢えて兄弟と競おうとする者がいるのはいったいどういうつもりなのだろうか』。この語が伝わると、十人中九人までも試験を受けずに帰ったのだった」。
東坡はこのようにもいわれた。
「国の定めとして制科の試験は八月中旬に行われるとされていた。弟はまさに試験を受けようとしていて、ある日、突然病に倒れてしまった。弟は自分の状態から判断して、試験には間に合わないと考えた。韓公はそのことを知ると、すぐに朝廷にこのように奏上された。『今年、制科の受験生を招集しましたのは、ただただ蘇軾と蘇轍の声望が高いからであります。いま聞けば、蘇轍はたまたま病気に伏せって試験を受けられそうにないとか。この兄弟の一人が受験できないとなると、衆望に反することになりましょう。病の癒えるまで試験を延期するのがよろしかろうと思います』。お上はそれをお許しになった。韓公はしばしば人を使わして弟の様子を尋ねられ、もう万全であると聞かれると、試験を実施した。こうしておよそ通例よしも二十日間も延期したのだった。これより制科は九月に実施されるようになったのである」。
このことは、宰相の呂微仲が、「制科はどうして秋の末に行われるようになったのでしょうか」と尋ねたことから、東坡が話したものだった。このように聞いて、呂微仲は「韓公はまことに賢人でありましたな。深く慕わしく思います」と、いった。
【補足】［蘇軾自身がこのように語っているとのことであるから、事実であったと思ってしまうのだが、考証家はかなり疑わしいとしている。次の項目で見るように、蘇軾兄弟が受けた制科はいつも通り8月に実施されている。蘇軾は座談の名手で、聴衆の反応を見て、話を面白く飾ることがよくあったようだ。科挙の試験で捏造まがいのことをしてしまうくらいであるから［→作品番号01-2-012］、座興で話に尾鰭を付けるくらいはお手の物であったのだろう。それを聞いた人が、さらに面白く味付けして記録したということも大いにありうるだろう。蘇軾にまつわる楽しいエピソードはそのようなプロセスを経て伝えられてきたものであるので、安易に鵜呑みにするわけにはいかない］
■【02-1-003】形勢不如徳論
【解題】8月17日に、呉奎、楊畋、王疇、王安石が試験官となって、秘閣において制科の一次試験が実施された。そのときの科目名は賢良方正能直言極諫科であった。6篇の論文が課せられ、王介、蘇軾、蘇轍の3人が合格した。ここに訳すのはそのうちの1篇で、「形勢は徳に如ず」［戦略的に見て、地理的、社会的な形勢が最大の決定要因ではなく、徳こそが最も重要である］というテーマについて論じたものである。
【補足】［以下に制科で蘇軾が書いた論文を幾篇か読んでゆく。いずれも我々にとっては、訳者の力不足もあって、読みやすいものではないので、読み飛ばしていただいて少しもさしつかえない。それでも敢えて訳文を掲げるのは、儒者としての蘇軾の思索の在り方がここに端的に表れていると考えるからである］
【訳文】
「天の時は地の利に及ばない。地の利は人の和に及ばない」
と（『孟子』に）あります。これは、形勢は徳に及ばないということをいったものです。
呉起［戦国時代の軍略家］は、
「（国の守りの要は）徳にあって、（地形の）険しさではない」
と、いいました。
司馬遷は、いくら形勢［地理的条件に加えて、情勢の流れも含めている］が強かろうとも、仁義を根本としなければならない、と述べています。
儒者が兵［軍事］を議論するときには、必ず以上の言説をもとに据えます。ここでは、遺された問題を拾って、この議論を補いたいと思います。
形勢の説には二つあります。
第一は、人が形勢をつくるということで、三代［夏、殷、周の三王朝］において諸侯を封じたことがその例であります［「封じる」とは、領土を与えて領主にすること］。天子と天下との繋がりは、微妙かつ危ういものです。歓んで一つに合して、去ることがないときに、君臣の関係が成り立ちます。臣が善いことをすれば君は賞し、悪いことをすれば罰し、君が与える米穀によって臣は食べ、臣の功力は君のための役を為します。このようなときに、君臣の勢いははなはだ強固であります。しかし、ひとたびその関係が崩れて、臣が去って返らなくなるなら、それは寇仇の間柄となります。強者が起って君は攻められ、智者が起って君は謀られ、君はあたりを彷徨して四方を顧みてもはや何を恃みとしたらよいのかわからなくなってしまうのです。このようなときに、君臣の勢いははなはだ危ういのであります。先王［三代の聖君主］は君臣関係の固さも恃むには足らないものであって、その危うさはゆるがせにしてはならないことを知っていて、諸侯を封じて、親族と賢臣を相互に混ぜて配置し、天下の形勢の在り方を示したのでした。（晋の時代に）劉頌は「よく国を為す者は、勢いに任せて、人には任せません。勢いに任せるとは、諸侯を封じることで、人に任せるとは郡県に賢臣を派遣することです。賢臣によって郡県を厳しく管理することは、小さな政の理であって、大勢を危うくします。諸侯に邦の統治を任せることは、多くの相違が生じるように見えて、遠く固い慮りがあることなのです」と、いいました。以上が、人をもって形勢とするということであります。周が衰えたのは、諸侯がほしいままに振る舞っても制御できなくなってしまったからで、平王以降の時代でも、諸侯が王室から去ったわけではありませんでした。徳が衰えて、人の形勢をもってしてももはや救えなくなったからであったのです。
第二は、地が形勢をつくるということで、秦、漢の都を（自然の要害に囲まれた関中にある長安に）建てたことがその例であります。秦が天下を取ったのは、天下の人々が心服したからではなく、臣として服従させたからでした。富で圧倒し、力で撃ち、それでも服従しない邦に対しては、詐術をもってその君を囚らえ、その将を虜とするなどして、かろうじて天下を得たのでした。秦の臣下として朝貢した者も、かつて戦場に骨をさらした者の子孫でありました。これでは長く泰然としていられるはずがなかったのであります。漢が天下を取りましたのは、秦ほどには暴力的ではありませんでしたが、仁義に基づくものでは決してありませんでした。この当時にあっては、諸侯に大国を与えるのでなければ、功臣の望みに応えることができませんでした。諸侯が大きければ、都は安らかではいられません。その勢いとして、地理的に強固な関中をもって天下に臨むしかなかったのです。堯、舜、湯、武のような聖天子［つまり先王］といえども、その徳によって一日で天下の信を得ることはできません。荀子がいうように、天、地、人の三者が合しなければならないのです。秦や漢は地をもって形勢としたのでしたが、その衰えたときには、大臣は勝手に命令を出し、危うさはその内側から起こったのであって、関中の形勢をもってしても国の衰えはどうすることもできませんでした。徳が衰えて、地の形勢をもってしてはもはや救うことはできなかったのです。
三代、秦、漢の君が、その後世を慮って、患のための備えをした点では、十分ではなかったということはありませんでした。しかし、衰亡に至ったのは、常に慮りの外から出たのでした。これこそ形勢は徳に及ばないということの明らかな証ではないでしょうか。
『易経』に「神にして之を明らかにするは、其の人に存す」［神妙な理が明らかになるのは、人が存在することによる］とあります。人が存在するなら徳が存在し、徳が存在するなら、諸侯がなくても安らかであり、障壁がなくても固いのであります。
【補足】［この論文を読んで、なるほど与えられた論題に対して明快に答えていると納得するのは、我々にとってはかなり難しい。我々に理解できるのは、論題に関連する古典が適宜引用されていること、議論の道筋が整理されていること、そして、道徳性を重んじる儒学の伝統に則っていることなどであろうか。採点基準もたぶんそのようなところにあったのだろう］
■【02-1-004】孟子論
【解題】制科の一次試験に合格した王介、蘇軾、蘇轍は、8月25日に崇政殿において、仁宗皇帝の御前で制科の最終試験を受けた。歴史と政策を論じた25篇の小論文を提出し、胡宿、沈遘、范鎮,、司馬光、蔡襄が試験官として審査した。その結果、蘇軾は三等で、王介と蘇轍は四等で合格した。制科の最終成績は一等から五等まであって、四等以上が合格で、慣例として一等、二等を付けることはなく、特な優秀な人だけが三等になった。宋代を通して三等で合格したのは4人だけで、蘇軾の前には呉育がいただけだった。この制科の試験によって、蘇軾はエリート中のエリートであると認定されたのである。25篇の小論文から幾つか選んで読んでおこう。最初に見るのは孟子についての論文。孟子といえば、儒学の本道を守って、孔子の学問を継承発展させた人として知られているが、孟子が高く評価されるようになったのは、ちょうど蘇軾が活躍し始めたころからであった。
【訳文】
昔、孔子は衛の国から魯の国に帰ると、三代から伝わる旧聞を網羅して、礼についての細則、いわゆる「経礼三百、曲礼三千」について研究しましたが、その説を究め尽くすことはできませんでした。
孔子は弟子の子貢に、
「そなたは、私のことを、たくさんのことを学び、それを識る者だと思うかい」
と、尋ねました。子貢が、
「はい、そのように思います。違うのでしょうか」
と、答えると、孔子は、
「違うのだよ。私は一をもって貫くだけなのだ」
と、いったのでした。
天下の人々は、孔子のこの言葉に従うのは非常に難しいと受け止めました。孔子が何をもって貫いたのかを知ることができなかったからです。堯、舜、禹、湯王、文王、武王、周公が定めた法度、礼楽、刑政に始まって、当世の賢人君子による書物もあれば、あまたの工の技芸もある上に、中国国内だけでなく外国までも含めたなら、とにかくたくさんの事柄がありすぎて、とてもすべてに考察を巡らせられるものではないのですが、それらの全てを胸の中に並べて、乱れることなくすっくと現れ出るものこそが、まさにしく貫く一であるのでしょう。広く学んで乱れず、深く思って惑わない、それは天下の至精でなければとてもできないことなのでありましょう。
しかしながら、そもそも六経［儒者が特に重んじる六種の古典］を研究して、『詩経』や『春秋』に至ると、聖人の道の始終、本末には一つの条理が具わっているとわかってきます。王化［天子の徳による教化］の根本は、天下の人が行いやすいところから始めるということであります。天下の人はもとより父子の関係というものがあるのを知っています。父子が互いに害い合うことがなければ、すでにそれは十分に孝なのです。天下の人はもとより兄弟の関係というものがあるのを知っています。兄弟が互いに奪い合うことがなければ、すでにそれは十分に悌なのです。孝と悌があれば王道の備えとしてすでに十分であって、それは深遠で見るのが難しく、苦労しても行うのが難しいような事柄では少しもないのです。それで、『詩経』が教えているのは、歌ったり舞ったりして楽しみつつ、万事に及んで正しさを失わないようにさせるということだけであるのです。しかしながら、聖人が甚だ畏れていたことがありました。ひとたび容が失われると礼は廃れてしまい、ひとたび言が失われると義は亡んでしまいます。君臣が互いに攘し合い、上下が互いに残い合うようになると、天下は大いに乱れて、初めから道はなかったかのようになってしまいます。それで、『春秋』は事件の細事にまで立ち入って深く疑わしいことを究明して、決してしてはならないことをはっきりとさせたのでした。『詩経』を見なければ王道がたやすいことはわからず、『春秋』を見なければ王政が難しいことはわからないのです。
孔子が亡くなってから、もろもろの弟子はそれぞれに聞いたことを書き記し、そのどれもが孔子の学の源流を得たものではなく、それらの主張には最も大切なことが欠けていました。孟子だけは、『詩経』に深く通じ、『春秋』をよく理解していましたので、孟子の説くところは、まことに大まかなところから始まりながら、極めて精緻なところに至り、天地全体に満ちて四海を自在に覆うほどに広大で、しかも細微に至るまでぴたりと合っているのです。広くて漏れがなく、緻密で揺るぎがなく、その中に必ず守るべきことがあって、後の世に匹敵するものを見ないのであります。
孟子はこのようにいいました。
「人を害おうとは思わない心を大きくして行くのなら、仁はそれでもう十分なのである。盗みをしようとは思わない心を大きくして行くなら、義はそれでもう十分なのである。言ってはならないようなことを言うのは、言で盗るものである。言うべきことを言わないのは、やはり言で盗るものである。どちらもつまり盗みと同じなのである」
盗みをしないのなら、義はそれで十分なのです。言ってはならないこと言い、言うべきことを言わないのは、その罪は盗み以上のものになるのです。
ですから、私は、孟子について、まことに大まかなところから始まりながら、極めて精緻なところに至り、天地全体に満ちて四海を自在に覆うほどに広大で、しかも細微に至るまでぴたりと合っていると述べたのです。後世の孟子を観る者は、必ずここを見なければならないのであって、ここを観れば十分なのであります。
【補足】［（1）この小論文は、孔子の後の儒者として孟子が最も偉大であると称えているのだが、その論理構成は我々にとって必ずしもわかりやすいものではない。最初に「一をもって貫く」という孔子の言葉を掲げて、その「一」を孟子が明らかにしていると論述するなら納得しやすいのだが、それでは当たり前すぎるのだろう。つまり、身近で行いやすところから始めて天下の統治に及ぶのが儒学の基本原理としたのが孟子であると素直に説くのでは、書く者も読む者もさほど楽しくないのだろう。十分に教養がある人々にとっては、丁寧に説き尽くされるよりも、思惟を飛翔させる刺激を与えてくれるものの方が喜ばれるのだろう。蘇軾の文章にはそのような傾向があるといえるだろう。（2）初めのあたりで、堯、舜、禹、湯王、文王、武王、周公と列挙しているのは、儒学が伝統的に特に重んじてきたいわゆる聖人［先王］の面々である。堯、舜、禹は古代の伝説的な聖天子で、堯も舜も自分の息子ではなく、賢人を選んで後継者とした。禹は洪水を鎮めて国土を安全にした人で、これ以降は世襲が一般的になる。湯王は殷王朝を開き、文王と息子の武王は周王朝を開いた。周公［周公旦］は武王の弟で、武王の没後に、武王の息子を補佐して天下を治めた。この7人の名は、蘇軾の詩文に頻繁に登場する］
■【02-1-005】楽毅論
【解題】これは、中国古代の戦国時代［秦による全国統一前の分裂期］の武将楽毅を論じたもの。楽毅は小国の燕の昭王を助け、隣の大国の斉に対して軍事的攻勢をかけ、あと一歩のところにまで追いつめる活躍をした。蘇軾の原文は種々の歴史的事実を前提として書かれているが、ここの訳文では大意がわかるよう適宜補足した。
【訳文】
為政者が徳をもって天下を治めるのを「王道」といい、武力をもって治めるのを「覇道」といいます。「王道」を用いて「王者」になった例としては古代の三人の王が有名であり、「王道」を用いることができなくて「覇者」になった例としては春秋時代の五人の王が有名です。
ある人は、「王道を用いようとするならば、もしもそれが成功しなかった場合でも、一歩下がって覇道を成し遂げることができるであろう」と論じています。本当にそうなのでしょうか。五人の覇者がもしも三人の王者の真似をしていたなら、ただ単に大失敗するだけだったのではないでしょうか。
私が考えますに、王道というものは小さく用いることはできないものなのであります。大きく用いれば王者になりますが、小さく用いたならば亡ぶだけなのです。
昔、徐の国の偃王は、仁義を重んじて王道政治を志し、民衆を戦争に動員するのをためらいました。そのために、敵国の侵入を防ぐことができず、結局は国を亡ぼしてしまいました。宋の国の襄公も仁義を重んじて王道政治を志し、人の弱みに付け込むのはよくないことであるとして、戦闘の好機を自ら逃し、国の命運をかけた戦争で大敗してしまいました。
二人はなぜ国を亡ぼすような失敗をしたのでしょうか。二人が実際に行ったことと、二人が求めたものとがかけ離れていたからなのです。二人は王者であるとの評判を得たくて、王道を矮小化して用いただけなのです。天下の人々の評判を気にするのではなく、徳によって天下に正しい統治を及ぼせる者だけが、真の王者となり得るのです。
この二人とは逆に、王道などは念頭になかったけれど、剛毅にして果敢にも迷わず事を成し遂げた者がいました。その一例が范蠡です。越の国の王の勾踐は艱難辛苦の末に呉王の夫差を破りました。越王の軍に包囲された夫差は懸命に命乞いをし、越王は夫差を憐れに思い、赦してやろうとしました。そのとき范蠡は、呉王の使者を追い帰して軍を進め、夫差を自殺に追い込み、将来の禍根を絶ち切りました。もう一つの例が張良です。漢の高祖は、旗色が悪くなった項籍が戦闘を止めて東に引き上げようとしたとき、自分も戦闘を止めて西に帰ろうとしました。項籍と天下を二分することで満足しようとしたのです。しかし、張良は、「天が項籍を亡ぼそうとしているのです。いま急襲し、それを逃してはなりません」と言って高祖に戦わせ、ついには項籍を撃ち取って天下を統一しました。
この二人は、ちまちまとちっぽけな仁義を守ることを、大きな成功を勝ち取ることよりも優先させはしなかったのです。
楽毅はいかなる人物であったのでしょうか。戦国時代の英雄の一人であったといえるでしょう。しかし、王道が大きなものであるということを知りませんでした。王道を聞きかじっただけで、自分も使ってみようとしたがために、我が身を破綻させてしまったのです。
楽毅は、燕の昭王が自分を全面的に信頼して用いてくれたことに応えようと、宿敵の斉国に攻め入り、五年にわたって敵地で戦い続け、斉国の七十余りの町を占領し、残る敵の拠点は二カ所だけとなりました。そのとき昭王が死に、息子の恵王が立つと、斉国の間者［スパイ］は、「楽毅がたった二つの町をぐずぐずいつまでも征服しないでいるのは、斉の地で独立して王になる機会を伺っているからだ」との偽の情報を燕の国に流しました。もともと楽毅の存在を煙たく思っていた恵王とその取り巻き連中は、別の将軍を派遣し、楽毅を本国に召還しようとしました。楽毅は帰国すれば殺されてしまうかも知れないと恐れ、隣の国に亡命しました。楽毅がいなくなると、斉国はたちまち息を吹き返し、占領されていた土地をことごとく取り返し、昭王と楽毅の努力は虚しく消えてしまったのでした。
このことから、燕の恵王が愚かで、間者のいうことを信じたために、楽毅の事業は不幸にも成就しなかった、楽毅自身の軍事的失敗ではないと、多くの人は論じています。
私はそのようには考えません。もしも昭王が死ななくて、間者が放った偽の情報が無効であったとしても、楽毅はきっと失敗したに違いないのです。どうしてそのように考えるのでしょうか。
第一に、燕国が斉国を併合することは、当時、秦国、楚国、晋国などの列強にとって利益にはなりませんでした。燕国は百万と号する軍団を外に出して、残る二つの町を攻めて、数年かかって決着がつかずにいました。大軍が長く外に出ていれば、国は疲弊し、必ず事を為そうとする者が内に出てくるものです。国の内側が乱れ、そこを外から攻めたならば、いかなる名将であっても防げるものではありません。
第二に、楽毅はわずか二つの町を、百倍の兵力で攻めて、数年がかりでも勝てずにいたのは、その智力が不足していたからではありません。楽毅は聞きかじりの王道を用い、仁義の心で斉国の民衆を己に靡かせようとしたからでした。一気に攻めて斉国の民衆の怨みを買うことになるのを避け、王道を用いたとの評判を立たせたいものだと思っているうちに、長い時間を使ってしまったのです。
楽毅のその考えには根拠がなかったわけではありません。斉国の民衆は、斉の湣王の横暴に苦しんでいたので、もしも楽毅が一度戦闘を止め、法令を整え、税金を安くし、斉の民衆を村落に帰還させて、安定した暮らしを保障したならば、一体誰が斉国ために立ち上がって戦おうなどと思ったりしたでしょうか。それこそが王道というものなのではないでしょうか。
しかるに、楽毅は百万の軍団を率いたまま、斉の民衆が心服するのを待ったのです。これは、斉国にじっくりと国土回復の謀を為させるための時間を与えただけであったのです。
この当時は戦国の世でした。軍事的に強いところが弱いところを併呑することが普通に行われていました。楽毅が斉を攻めて滅したところで、誰も非難できませんでしたし、楽毅が王道を真似てみせたところで、それを褒める者は誰もいませんでした。
つまり、王道を大きく用いる者は王者になるが、王道の何たるかを心得ずに形ばかり用いたのでは、失敗しても覇者になるということではなくて、結局のところ王者にも覇者にもなれず、ただ天下の笑いものとなってしまうのです。
【補足】［（1）蘇軾は歴史を論じるのを好んだ。この論文には蘇軾の史論の特徴がよく出ている。一般的に流布している見方に対して異説を提示し、それを意外にも儒学の基本的な理念に基づいて論証してゆくのである。独自の見解を提示できないのなら書く意味がないということであろう。（2）楽毅の名は作品番号01-2-013ですでに見ている。そこでは、楽毅が燕国を去ってからはもはや活躍できなくなってしまったことを惜しんでいて、それは楽毅に対するごく普通の見方であった。蘇軾が歴史上の人物を詩文に引くときには、必ずしも同じ評価で一貫しているわけではなく、あるときには賞賛し、別のときには非難するということもある］
■【02-1-006】韓非論
【解題】儒家から見て、仏教はむろんのこと、道家［老子や荘子の学問］や法家も、国の安定的統治を妨げる異端であった。これは韓非［韓非子］を代表とする法家を批判した論文。徳治主義を唱える儒家に対して、法家は法治主義を唱え、緻密な法律と厳しい刑罰で民衆を縛ることによって天下は永続的に統治できるとした。その説を採用した秦の始皇帝は天下を統一することに成功したのだが、あまりに過酷な法治主義は、どうせ刑罰によって殺されてしまうくらいなら反乱を起こした方がましだと、民衆を過激な行動に走らせ、秦は短期間で亡んでしまった。蘇軾はこの小論で、法家の淵源は道家にあったとする見方を提示している。
【訳文】
聖人が異端なるものを憎み、力を尽くしてそれを排除しようとするのは、異端が天下を乱すからではなく、天下の乱れから異端が出てくるからです［逆にいえば、異端をなくすには天下を乱さないようにすればよいのであって、それをするのが聖人であるという意味］。
昔、周が衰えたときに、（道家の）老聃［老子］、荘周［荘子］、列禦寇［列子］のような連中が出てきて、それぞれ虚無やら淡泊やらを論じて浮ついたとんでもないことを言い出し、とっちらかったり逆立ちしたりして、ついにはあるはずもないところへと行ってしまいました。その道による者は、雲をつかむような訳のわからないことになって、富貴の楽しみを忘れ、死も生も等しいとして、天下を治めるなどということは志したりしないで、世間から高く遠くに出て、心を自由に放ち、それによってもはや憂いはないとしたのでした。これは聖人の道ではないにして、それに意を用いたところで、天下にとって悪をなすものではありませんでした。
老聃が死んで百年余り経って、（法家の論者である）商鞅や韓非子が出て、書物を著し、天下にとって最も大切なのは刑名［実体と名称を一致させること］を厳重にすることであると主張しました。秦はその説を用いて天下を統一したのですが、陳勝と呉広の乱によってたちまち亡んでしまいました。（法家のために）民衆の教化は行きわたらず、法ばかりがたくさん残され、秦の王室は祀られず、そして天下は害毒を被ったのでした。
後世の学者は、そのようになったのは申不害や韓非子の罪であることは知っていますが、老聃や荘周がそのようにさせたことは知りません。それはどういうことなのでしょうか。
仁義の道は、夫婦、父子、兄弟が愛し合うところから生まれ、一方で、礼の法や刑罰の決まりは君臣が上下互いに畏敬し合うところから生まれたものでありました。愛し合うなら忍びない心があり、畏敬し合うなら敢えてしないところがあります。敢えてしないところと、忍びない心とが合わさって、その後に聖人の道がその中に存在することになるのです。
老聃や荘周は、君臣や父子の関係などは、川や湖にふわふわと浮き草が流れてたまたま出会っただけのものでしかないとを論じています。父であっても愛するまでもなく、君主であっても畏敬するまでもないのです。君主を畏敬しないで、父を愛さないのなら、仁は心に抱くまでもなく、義は勧めて行うまでもなく、礼も楽も教えるまでもないのです。仁、義、礼、楽はすべて用いる必要がないとして、天下を無に置こうとするのです。それで本当に天下は治まるのでありましょうか。商鞅、韓非子は、その説によっては天下を治められないと知って、しかし、天下を治めることを軽んじ、生と死は等しいとする術については老聃や荘周から得て、残忍な統治法を何ら疑いなく敢えて取ることにしたのでした。
もしも、人を殺すのも忍びないことではなく、仁はなすまでもないもので、仁をもって民を治めることはできないとするのなら、人を殺すのは不仁ではなく、不仁であっても天下を乱しはしないということになります。そうであるなら、天下を挙げて己の為すがままでよく、刑罰として刀でも鋸でも斧でも鉞でも施していけないものはないということになります。昔、孔子はその言葉でさえも軽々しく発することは一日もありませんでしたし、天下のどれほど小さなものであっても畏れるに足りないとすることはありませんでした。それがもはや天下でさえも小さなものだと見なして、天下を治めるなど為すまでもないことだということに（道家とそれを受け継いだ法家が）してしまったのです。こうして、軽々しく人を殺すようになってしまったのでした。
司馬遷はこのように書いています。
「申不害は生真面目に名と実について論じ、韓非子は基準を設けて事情を分析して是非を明らかにしようとし、その行き着く先は、残酷で恩愛の少ないところに到ってしまった。そのもとは老子の道にあったのだった」
これをかつて読んだときに、物事は思いがけないところで感応し合うことになるのだと考えました。老聃や荘周の後に、その禍は申不害や韓非子となって現れたのです。三代の衰えから今に至るまで、聖人の道を乱した者の弊害はすでにたくさんあり、まだそれが終わったわけではありません。ですから、またどこで何が為されるのかわからないのであります。
【補足】［（1）蘇軾は、老子や荘子の思想の強い影響を受けているが、儒者として公的な見解を述べるときには、ここで見るように道家を厳しく批判している。（2）第3章で見るように、王安石が国政の大改革を提議すると、保守派の人々は王安石の改革案は法家の思想に基づくものであるとして激しく批判した。王安石の改革案は数々の新たな法を作り、それに基づいて種々の施策を実行して国家を富ませて行こうするするもので、確かに法家思想に基づいて秦が採った富国強兵策と類似する面もあった。ただし、それは表面的なものでしかなかったのだが、保守派は執拗にステレオタイプの批判を繰り返したのだった］
■【02-1-007】留侯論
【解題】次は留侯を論じたもの。留侯は先の「楽毅論」で少しだけ触れられていた張良である。張良は劉邦［漢の高祖］を助けて天下統一を成し遂げ、留の領地を授かったので留侯と呼ばれる。
【訳文】
古の豪傑とされるような士は、必ず人よりも勝れて堅い心根、すなわち「節」を備えていました。
人の情として我慢できないものがあります。匹夫［並みの人間］は恥辱を加えられたなら、剣を抜いて起ち、身を奮って闘います。これは「勇」というほどのものではありません。天下には「大勇」というべきものがあります。突然目の前で事が起こっても驚かず、理由なく恥辱を加えられても、大勇のある者は怒らないのです。心の内に抱くものがはなはだ大きく、志すところがはなはだ遠大であるからです。
張良は橋の上にいた老人と出会い、いろいろと振り回された末に軍書を授けられたといわれています。それは非常に怪しいことのようではありますが、秦の世に隠れた君子がいて張良を試してみたということがなかったとはいえないでしょう。老人が何を考えていたのか、微かに見えるところから推測するに、古の聖賢が世の人々を戒めたのと同じ意味のことがその根本にあったのでしょう。世間の人々はそういうことをきちんと考察しないで、軍書はまがいものだったと決めつけるのは誤りなのであります。そして、本当に大切なのは、実はその書物でありません。
戦国時代の終わりに、張良の母国の韓が亡ばされ、秦がますます盛んになったときに、秦は首を切る刀と煮殺す釜を使って天下の士を意のままに動かそうとしました。そのため罪なく殺された者は数えきれないほどでした。秦は法をはなはだ過酷に用いたので、その鋒先は触れることもできませんし、その勢いは逃れようがなく、どれほどの勇者であっても手も足も出ませんでした。
張良は怒りに耐えられず、我が力でもって一発ぶちかまして、思いを晴らそうと、始皇帝を暗殺しようとしました。そのときに張良は紙一重のところ死なないですんだのですが、非常に危うかったのです。
大金持ちの子は盜賊によって殺されることはありません。なぜなら、金などよりもその身が大切であって、盜賊のために死ぬなどありえないのを知っているからです。張良は世を蓋うばかりの才能をもっているのに、古の名宰相のような謀を用いるよりも前に、単なる刺客となって死んでしまわなかったのはまことに僥倖でありました。それこそが、橋の上の老人が張良のことを深く惜しんだ理由なのです。老人は尊大かつ傲慢に振る舞って張良の意気を挫き、よく忍ぶことができるのをみた後に、大事を成し遂げられると見なしました。それで老人は張良に「こやつ、教えがいがある」といったのです。
その昔、楚の荘王は鄭の国と戦って破りました。鄭の主は荘王の前に完全服従の姿で現れ、我が身と国を荘王に委ねました。荘王はいいました。「人に対してこれほどへり下ることができるのだから、きっとその民に信頼されてよく治めることであろう」。荘王は鄭の主に今まで通りにしてよいと許しました。その昔、越の国の王は会稽で呉の国の王に敗れました。それから三年の間、倦むことなく呉の王に徹頭徹尾仕え、報復の機会がくるのを待ったのでした。
相手に報いてやろうとの志があって、しかし相手に下ることができないのは匹夫の強がりでしかありません。だから、かの橋の上の老人は、張良には才能が十分にありながらも、その度量が不足しているのを憂い、その若さ故の強く鋭い気分を挫いて、小さな怒りを耐え忍んで大きな謀をさせるよう導いたのです。
張良と老人は平生から馴染みだったのではありません。偶然出会い、老人は張良を下僕のようにこきつかい、それでも張良が平然としていたのは、後に秦の皇帝も張良を驚かすことができず、楚の項籍も張良を怒らせることができなかったおおもとがそこにあったからです。
漢の高祖と楚の項籍が天下を争い、最終的に高祖が勝利して項籍が敗れました。その理由は、耐え忍ぶか耐え忍ばないかの違いだけでありました。項籍は忍ぶことができなかったので、即座に戦い、百戦して百勝し、軽々しくその鋒先を用いました。高祖は忍ぶことができ、その鋒先を大切に養い、項籍が疲れるのを待ちました。これは張良が教えたのです。高祖と行動をともにしていた韓信が自立して王になろうとしたとき、高祖は怒りを発して、そのことが言動に現われ出ました。これを見れば、高祖には剛強で忍ぶことのできない気分があったことがわかります。そのときに張良がいなかったならば、高祖は韓信と無用な戦いを起こしてしまって、最終的な成功を果たすには到れなかったでありましょう。
司馬遷は張良の事跡を史書に著し、張良のしたことは驚くばかりに偉大であったけれども、その顔や身のこなしは婦人のようであったと伝えられていて、姿と志気が一致しないのは奇妙であると考えました。しかし、これこそがまさに張良が張良であった所以であるのでしょう。
■【02-1-008】賈誼論
【解題】ここでは、前漢時代の天才、賈誼を論じている。賈誼はわずか22歳で、文帝の側近として用いられ、数々の意見を具申した。しかし、宰相等に憎まれて数年で左遷されてしまい、賈誼は己の不遇を屈原に重ねて傷んだ。3年余りの後に、文帝に呼び戻されて、再び数々の意見を具申したのだが、憂うることがあって33歳で亡くなってしまった。蘇軾は、儒学の本道に基づいて国家の基本政策を堂々と論じた偉大な先人として、この賈誼と唐代の陸贄をしばしば挙げているので、ここでこの論文を読んでおきたい。ただし、ここでは賈誼を厳しく批判している。やはり、敢えて異論を提示しているのである。
【訳文】
困難は才能の有無にあったのではなく、才能を自分で適切に用いられるかどうかにあったのです。
惜しまれるのは、賈誼には王者を補佐する才能が十分にありながら、それを自分で適切に用いられなかったことであります。
君子は、取ろうとするものが遠くにあるときには、必ずじっくりと待ち、成し遂げようとすることが大きいときには、必ずじっと耐え忍びます。古の賢人で、事を成就させる才能がありながら、ついにその万分の一も行うことができなった場合に、それは必ずしもそのときの君主の罪だというわけではなく、時には賢人自身に原因がありもしました。
私が観るところ、賈誼の論は三代の論といえどもそれ遠く過ぎるものではありませんでした。君主として漢の文帝ほどの立派な皇帝が上にいながら、それでも賈誼の論は用いられることなく、賈誼は若くして死んだのでした。ならば、堯や舜のような聖人がいない限りは、天下は正しいことがきちんと行われはしないということなのでしょうか。
孔子は聖人でありましたが、天下を遍歴して、己を用いてくれる国があるかどうかを試しました。そして、極端に無道の国でなければ、懸命に努力して政治を支え、たった一日でもよいから王道による政治が行われることを願ったのでした。楚の国に行こうとしたときには、先に弟子の子夏を行かせ、さらに冉有も行かせて、国の様子を探りまし。君子が仕えるべき君主を得ようとするときには、それほどまでに慎重に勤めるものなのです。
孟子が斉の国を去ったときには、さらに三泊してから日中に出て、なおも、「王はまだ私を召そうと願っているかもしれない」といったのでした。君子が君主を棄てて去るときの忍び難さは、これほどまでに厚い思いがあるのです。そのとき、弟子の公孫丑［これは蘇軾の誤記で実は充虞］は、「先生はどうして悲しげにされているのでしょうか」と、問うと、孟子は、「いま天下を安らかにできる人がいるとしたら、私を置いて他に誰がいようか。私には悲しげにしている間などはないのだ」と、答えました。君子はこれほどまでにその身を大切にするものなのです。ここまでしても用いられることがなく、果たして天下をともに治めるに足る君主がいないとわかったならば、もはや遺憾に思うことなどないのです。
賈誼についていえば、漢の文帝が賈誼を用いることができなかったのではなく、賈誼が文帝を用いることができなかったのでした。
遡れば、周勃が（呂氏の乱を鎮めて）天子の璽を握って親しく文帝に授けたことで、文帝は天子の位に就いたのでした。灌嬰は数十万の兵を率いて、劉氏［漢の皇室］と呂氏［外戚］の雌雄を決したのでした。二人とも高帝［劉邦］に仕えた旧将でありました。文帝と旧将との関係は、君臣であるという以上に、父子ないしは骨肉、手足ほどの強いつながりがありました。賈誼は洛陽から出てきたばかりの若者で、わずか一朝の間に、旧将を棄てて、国政について新人と謀るというのは、実に難しいことでありました。
賈誼としては、上に文帝という立派な君主がいて、その下には周勃や灌嬰のような立派な大臣がいたのですから、それらの人々とゆっくりと親しくして深い交わりを結び、天子には疑われることなく、大臣には忌まわしく思われることのないようにしてから、天下を己の思うように治めて行くようにしたならば、十年を過ぎることなくその志を得たはずです。ところが、立ち話をする程度の短い間に、にわかに国政について痛哭するような勢いで見解を披露してしまったのです。
賈誼が都を追放されて湘水を通り、屈原を弔うために作った賦を見ると、悲しみ悶えて、躍り上がって遠くに挙がりたいとの思いが記されています。その後、自ら傷み、泣き続けて、ついには若死にしてしまったのでした。つまり、逆境によく対処できる者ではなかったのです。謀が一度用いられなかったからといって、この先二度と用いられないわけではありません。静かに世の変化を待つことを賈誼は知らずに、自分で自分を害ってしまったのです。嗚呼、賈誼の志は大きく、しかしその度量は小さく、その才能は余りあるほどでありながら、その識見は足りなかったのです。
古の人で、世俗を高く超えた才能のある者は、必ず世俗から離脱しようとする欠点がありました。それでは、聡明で睿智に溢れて惑うことのない君主でなければ、十分に用いることができないのでした。昔から、苻堅が庶民の中から王猛を見出し、たちまち旧臣を斥けて、王猛と天下のことを謀ったのを賞賛しています。匹夫でしかなかった王猛が天下の半分を攻略するに至ったのは、苻堅の決断によるものでした。
私が賈誼について以上のように論じたのは、賈誼の志が大きく、それが成し遂げられなかったことを悲しむからであります。また、君主が賈誼のような臣を得たならば、ときに度量に小さいところがあって、ひとたび用いられなくなったならば憂い傷んで病んで死んでしまうというさえあると、君主に知っていただきたいからでもあります。そして、賈誼のような者には、己のすることをよく謹んでもらいたいからでもあります。
【補足】［（1）蘇軾は人を驚かせるのが好きである。冒頭の11文字で、「非才之難、所以自用者実難」［才の難きに非ず、自ら用うる所以の者実に難し］で、読む者をはっと思わせて、ぐいと引き寄せている。（2）この賈誼論は後の蘇軾の振る舞いを暗示するかのようで興味深い。蘇軾は賈誼のことを「不善処窮者也」［善く窮に処せざる者なり］と評している。蘇軾自身が逆境に置かれたときにどのように処したのか、この後の章で見ることになる］
■【02-1-009】教戦守策
【解題】これは政策を論じたものの1篇で、平和を維持するには民衆に軍事訓練を施して自衛能力を高める必要があると主張している。
【訳文】
現在の民衆の患いはどこからくるのでしょうか。安きを知って危きを知らず、安逸に走って労苦に耐えようとしないことからです。この患いはたとえ今は見えていなくても、将来は必ずはっきりと見えるようになるでありましょう。いまその対策を採らなければ、将来は救いようがなくなってしまうのです。
昔の偉大な為政者は、「兵」［武器および兵士］をなくすことはできないと考えていましたし、天下が安定していても戦を忘れることはありませんでした。秋と冬の間に、民衆を引き連れて猟を行い、そこで武を指導し、進み方、退き方、留まり方の作法を教え、鐘や太鼓や旗による合図を習わせて乱れずに行動できるようにしました。そのようにして、いざ切ったはったの事態になっても民衆が怖がらないようにしたので、盜賊が異変を起こしても民衆が驚いて大混乱に陥るようなことはありませんでした。
ところが、後の世においては、学者が机上の空論を展開し、兵をなくすことをもって王者の最も優れた行為であるとしました。天下が定まると、甲を仕舞い込み、数十年もするうちに軍を用いることはすっかり廃れ、民衆は日に日に逸楽に流れてしまいました。そこに突如として盜賊が現れ出ると、民衆は恐れ慄き、流言に驚き、戦わずに逃げ去ったのです。
実際に、唐の玄宗皇帝の治世の後半には、天下は大いに治まっていたのではなかったでしょうか。民衆は太平の楽しみにふけり、遊戯や酒食の中で過ごし、剛き心も勇気もすっかり鈍って消え去り、腰抜けとなってまったく奮わなくなっていました。だから、安禄山なるつまらない男がひとたび出ると、その世情に乗じて増長し、四方の民衆はただ走って逃げるか、急いで囚われの身になるしかなかったのです。これより天下は分裂し、唐の皇室は衰微してしまいました。
このことについて少し論じてみましょう。天下の勢いは譬えれば人の身体のようなものです。王公、貴人は、自身の身体を養うこと至れり尽くせりでありましょう。それなのに普段から病が多いことに苦しんでいます。農民や身分の低い者は一年中辛苦してばかりいるのに、かえって病気にはなりません。風雨、霜露、寒暑の変化は病が生じるもとです。農民や身分の低い者は盛夏にも力を込めて作業し、冬にも身を寒さに曝し、その筋肉や骨はいつも衝撃にさらされ、その肌はいつも寒さ暑さに侵されているので、霜露にも風雨にも慣れて、寒暑の変化も身体に毒となることはありません。王公、貴人は大層な屋敷に住み、外に出るときは駕籠に乗り、風が吹けば皮の上着を着て、雨が降れば傘で蓋って、患いを慮っての道具の備えが十分でないことはありません。患いをひどく畏れ、それに備えることがはなはだ過剰であるので、少しでも意のままにならないところがあると、寒暑の変化が身体に入り込んでしまうのです。だから、その身を本当に養う者は、上手に患いから逃れようと、身体に労苦を味あわせ、歩行、動作においてその四体を寒暑の変化に慣れさせるのです。それによって、身体は剛健、強力となって険しいところを渡っても損なわれることがないようになるのです。民衆もまた同じです。
今、天下は久しく泰平で、民衆は驕って怠惰となり脆く弱々しく、婦人や子供が家から出ずに籠っているのにも似ています。だから戦闘について論じたりするだけで首を縮めて震え、盜賊の名が出ただけで耳を覆って聞くまいとします。そして士大夫も用兵について言おうとしません。用兵について言えばそれが民を乱し、次第に乱れが大きくなってしまうと考えています。それはあたかも畏れることがはなはだしくて、養うことが過剰であるのと同じではないでしょうか。
そもそも天下にはいつでも意外な患いがあるものです。愚者は四方に事がないのを見ると、変事などもうありはしないと思い込んでしまいます。しかし、いまは四方に事がないわけではありません。我が国の北には遼国、西には夏国があって、この二国に対して我が国は毎年百万をもって数える歳幣［平和を維持するための経済支援］を贈っています。二国に奉仕する我が国の財力は有限であり、それを求める二国は満足することが決してないのですから、その勢いの延長上には必ずや戦が生じるに違いありません。戦が必然の勢いであるときに、我が方が先んじなければ、彼の方が先んじるでありましょう。それは西から出なければ、北から出ることでしょう。予測できないのは、遅いか早いか、遠いところからか近いところからかであって、いずれにしても免れることは決してないのです。
兵を用いることがどうしても免れられないときに、徐々に用いられるようにしておかないで、民衆を安楽無事の中に置いたままにして、ひとたび事が起こってから、初めて民衆を危うい場に行かせようとしたならば、その患いはきっと予測できないことになってしまうでありましょう。だから臣は、最初に、安きを知って危きを知らず、安逸に走って労苦に耐えようとしないと指摘したのです。これこそが天下の最も大きな患いであると臣は考えるものであります。
臣はこのように提案いたします。士大夫には武勇を尊尚させ、兵法を講習させます。庶民でお上の仕事に就いている者には行陣の決まりを教えます。盗賊を取り締まる役を担う者には剣や鉾の術を授けます。一年の終わりには人々を役場に集めて、古の武芸試験のように、勝負をさせ、勝ち負けによって賞罰を与えます。このようにすることが久しくなるならば、民衆は軍法によって事に従うようになるでしょう。
しかし、議論を建てる者は、故なく民を動かし、軍法で脅かすと、民衆は安らかでなくなってしまうといいことでしょう。臣はそうでなく、このようにすることこそが民衆を安んずるものであると考えます。天下は兵を去ることはできません。何か事があったときには、用兵について何も教えていない民衆を駆り立てて一体どうやって戦おうとするのでしょうか。故なく民衆を動かして小さな怨みを引き起こすかも知れないことと、備えをしないこととの一体どちらが危ういのでしょうか。
いま兵士として集められている者は、傲慢にも驕り、しかも国家に怨みを抱く者が多くいて、民衆を圧迫し、国に不法な要求さえしています。なぜそのようになっているのでしょうか。その連中は、天下の内で戦を知るのは我等だけだと考えているからです。もし、民衆に兵を習わせたならば、このような連中も対抗する者がいると知って、その驕った気分が挫かれて悪だくみをしなくなるでしょう。
利害の判断ははなはだ明確なのではないでしょうか。
【補足】［（1）宋の人々にとって、唐の世を揺るがした安禄山の乱は常に回顧しなければならない歴史的大事件であった。とりわけ蘇軾が生きた時代は宋の極盛期に当たり、唐の玄宗皇帝の時代とまさに対比され、太平のうちにも国家衰亡の危機が迫りつつあると常に警戒しなければならないのだった。（2）宋の統治機構は、その根幹を士大夫［科挙に合格して官僚になった者、およびそれに準じる者］が占め、文官優位で武官は軽んじられた。宋は東アジアの超大国であっても軍事的実力ははなはだ心もとなく、北の遼国と西の夏国からの圧迫に常時苦しめられ、遼国との間では多額の歳幣を宋国が贈ることで平和が保たれていた［→作品番号01-2-007］。蘇軾はこの論文で歳幣は民衆にとって負担になっているとしているが、実際には平和が持続されていることによる経済的利益の方が大きかったようである。（3）蘇軾はこの論文で宋軍の規律が乱れていることを指摘しているが、蘇軾の死から20年後に宋江［後に『水滸伝』の主人公となった人物］が反乱を起こしたときに、民衆は宋江の反乱軍よりも正規軍による略奪の方をより恐れた。（4）蘇軾がここで主張した民衆に軍事訓練を施して国防と治安に当たらせるという考えは共有する者が多くいた。後に王安石が主導する国政の大改革で「保甲法」として実施されるようになる］
【補足】［制科の試験委員の一人であった王安石が、蘇軾の論文をどのように見たのかということを、邵博の随筆『邵氏聞見後録』が伝えている。邵博は、当時の著名な学者であった邵伯温の次男で、邵伯温は、司馬光、吕公著、范純仁といった著名人と親密な交遊関係があって、『邵氏聞見録』という随筆にそうした人々の言行を詳しく記録している。邵博の『邵氏聞見後録』は父の作品を継いでやはり各界の人々の言行を記録し、両随筆とも信頼性はかなり高いとされている］
【訳文】
邵博：『邵氏聞見後録』
東坡［蘇軾］が制科に合格すると王安石は呂公著に尋ねた。
「蘇軾が制科で記した政策論をどのように御覧になりましたか」
呂公著が褒めると、王安石はこのようにいった。
「どれも戦国時代の遊説家の文章の類でありましょう。もしも私が試験委員であったならば、きっと不合格にしたはずです」
王安石は後に『英宗実記』［英宗皇帝の時代の公式記録］を編集したときに、蘇洵は戦国時代の縦橫家の学の風があったと記した。
【補足】［（1）王安石は制科の最初の試験の委員を務めたが、最終試験の委員ではなかったので、この評は最終試験で提出された25篇の論文のうちの政策論についていっているのだろう。（2）戦国時代の遊説家［縦横家］の代表は蘇秦や張儀で、切れ味鋭く人々の耳目を驚かすような議論を展開して、諸侯を説き伏せる弁論術に長けていた。蘇洵や蘇軾の文章には確かにそのような傾向がある。一方で、蘇秦や張儀の師匠であった鬼谷子を蘇軾が厳しく批判している詩をすでに見ている［→作品番号01-1-037］。自分のことは自分ではわからないのかもしれない。（3）邵博の『邵氏聞見後録』の記事は信頼性が高いとされているが、この項については若干注意が必要かもしれない。蘇軾のエピソードは往々にして話を面白く飾っていることが多くあり、それに加えて、政治的党派性からくる偏見が混じっている恐れも多分にある。次の章で詳しく見るように、王安石は国政の大改革を提案し、蘇軾も含む多くの人々が反対した。しかし、王安石は神宗皇帝の支持のもと、かなり強引に改革を押し進めた。それ以降、改革派［新法党］と保守派［旧法党］の激しい抗争が繰り広げられるようになり、政敵に対しては事実とはかなり異なる事柄が言い広められることも少なからずあった。特に、王安石については偏見に満ちた記録が数多く残されている］
■【02-1-010】答李端叔書
【解題】蘇軾が受けた制科の試験は「賢良方正能直言極諫」という名称のもとで行われた。つまり、賢良方正で、皇帝に対して直言して強く諫める能力がある者を選ぶという主旨で実施されたものだった。蘇軾がその名称をどのように受け止めたのか、19年後の元豊3年［1080年］に記した手紙から伺い知ることができるので、その手紙の一部をここで見ておこう。これは李之儀［字は端叔］という若い友人に送ったもので、そのときにはまだ直接の知り合いではなかったのだが、後に深い間柄になる。
【訳文】
……私が若いころに書物を読み文を作りましたのは、もっぱら科挙を受験するためでした。すでに科挙に合格すると、その次を貪るようにして望み、制科も受けました。制科に合格して私は何をしたのでしょう。そのときの制科の科目の名は「直言極諫」でありました。その意味するところは何かというと、古今の事例を参照して是非を議論することにあります。人というものは自分のしていることが知られずにいるのを残念に思うもので、私は制科に合格したからには、実際にそれにふさわしいことをしていると知られたいと思い、多くのことを論じて今に至りました。そのために罪を得てほとんど死ぬばかりとなりました。これはまさに昔漢の高祖が「口先だけで官職を得た奴め」と罵った相手と同じで、真に笑うべきことでありました。……
【訳文】［この手紙は、まさに「直言」のために罪を得て黄州に流されていたときに書かれたものである。つまり、逆境に置かれたときのものでありながら、いたずらに悲嘆することなく、己を客観視して自嘲している。賈誼［→作品番号02-1-008］とは大きく異なっている］
■【02-1-011】空塚小児
【解題】蘇軾は超難関の制科に合格し、しかも宋が始まってから2人目の第三等の優秀な成績であったから、その名は一躍官界に鳴り響いた。合格と同時に蘇軾は簽書鳳翔府判官を、蘇轍は商州軍事推官を授けられた。どちらも地方都市の幹部クラスの職で、特に鳳翔府は政治的、軍事的に西方の重要な拠点で、初めて官職を授かる者としては破格の処遇であった。ここで見る短文は制科に合格して鳳翔に向けて発つまでの間に書かれたと推測されている。
【訳文】
富弼が青州知事になると、そのころ河北の地は大きな飢饉に見舞われ、民は争って富弼の庇護を求めて青州に逃れた。その中に、赤ん坊を背負った夫婦がいて、まだ青州に着かないうちに、飢えに迫られ、このままでは生き延びられないと、道の左側にあった塚の空洞に赤ん坊を棄てて立ち去った。その後、飢饉がおさまり、夫婦は帰郷することになり、その塚をまた過った。せめて赤ん坊の骨を拾って帰ろうとすると、塚の中で赤ん坊はまだ生きていて、しかも棄てたときよりも太って元気であった。赤ん坊は父母を見ると這って出てきた。塚の中を見ると、そこには何もなく、ただ蛇や鼠が出入りできそうな穴があって、車輪ほどの大きな蝦蟇がいて、蝦蟇は穴の中からしゅうしゅうと気を吐き出しているのだった。思うに、赤ん坊は塚の中にいて常にこの気を呼吸していたので、何も食べなくても健やかであったのだろう。それからも赤ん坊は食べることなく、六、七歳まで育ち、肌は玉のようにつやつやとしていた。その父はその子を連れて都にきて、小児医の張荊筐に見せた。張荊筐は、「霊力のある生き物は土に籠ることができます。燕、蛇、蝦蟇などがその例です。土に籠れるものは食べなくても平気で、食べずに長生きをします。塚にいたのは千年も生きる蝦蟇であったのでしょう。この子に薬を与える必要はありません。もし、食べることもなく、娶ることもないままであれば、きっと長生きをして道を得ることでしょう」と、いったので、父は喜んでその子を連れて帰った。いまはどこにいるのかわからない。
嘉祐六年［1061年］に張荊筐が私に話してくれた。
【補足】［（1）富弼が青州知事であったときに、備蓄米を大々的に放出して飢えた民を救ったのは有名な話で、五十万人余りがそれで生き延びたといわれている。（2）燕が土に籠る生き物であるとされていたのは、秋になると土に籠って、春になると出てくると信じられていたからである。（3）「道を得る」とは、道教の真髄を究めること、つまり仙人になるという意味である。蘇軾がこのような奇談をどこまで真実であると信じていたのかよくわからないが、好んでいたことは間違いない］
■【02-1-012】馬正卿守節
【解題】蘇軾は鳳翔府に赴任するために嘉祐6年［1061年］11月19日に都を発った。そのとき、家族の他に馬正卿［字は夢得］という風変わりな人物も連れていた。馬正卿は蘇軾よりもわずか8日だけ若く、科挙を目指して勉強していたのだが、なぜか官界入りを目指すのではなく、蘇軾の従者になることを選び、鳳翔府へと同行した。後に、馬正卿は蘇軾にとって一大転機となるきっかを作り、そのころに馬正卿についてのこの短文を記している。
【訳文】
杞［雍丘］の人の馬正卿は都の太学の年長の組の学生だったが、はなはだ潔癖で気骨があり、学生仲間からは好かれず、教授連中からは敬遠されていた。私は若いときにたまたまその下宿を訪ねたところ、壁に杜甫の『秋の雨の嘆き』の詩が書いてあった。それを見ても、そのときは特に何も思わなかったのだが、馬正卿は間もなく太学を辞めて、二度と世に出ようとしなかった［よって、都の人々に己が理解されない苦しさを杜甫の詩に託したのだと知れた］。馬正卿はいまや白髪で、やはり困窮しているが、節を守ることはいまも変わらない。馬正卿の字は夢得である。
【補足】［宋代には各地に官営の学校があり、都の太学は高位高官の子弟の学びの場となっていた。学生のほとんどが科挙を目指し、特別に熱心な教授がいるところ以外は、教育機関としてそれほどの役目を果たしていなかった。馬正卿は両親を早くに失ってひどく貧乏であったが、恐らく親類の支援によってであろう、太学に入学し、国家有用の人物になろうと励んでいた。非常に真面目であったために、周囲から浮き上がり、とうとう退学してしまった。蘇軾が馬正卿の下宿を訪ねたのは、制科の受験勉強に励んでいた嘉祐5年［1060年］の終わりころであったと推測されている。どうして、馬正卿に会ってみようと思い立ったのか、一つ推測できるのは、そのころは父の蘇洵は雍丘に住んでいたので、蘇洵が馬正卿のことを耳にして、息子に教えたのかもしれない。馬正卿と会ってどのような話をしたのかわからないが、杜甫の詩が壁に書いてあるのを見ただけで、蘇軾はその人物が確かであると知ったのだろう。馬正卿もまた蘇軾に惚れ込んで、官員になるよりも蘇軾のために尽くそうと思ったのだろう。蘇軾は馬正卿を使用人としてではなく、一人の友人として迎えたようであるが、詳しいことはわかっていない］
■【02-1-013】辛丑十一月十九日、既与子由別於鄭州西門之外、馬上賦詩一篇寄之
【解題】蘇軾は都を発つと、城門を出てからもしばらく同行してきていた弟の蘇轍と別れ、馬上でこの詩を詠み、弟に送った。兄弟が長期間にわたって離れ離れになるのはこのときが初めてであった。弟も兄と同時に官職を授かっていたのだが、何らかの事情で赴任は留保されていた。一説によると、蘇轍が制科の試験で書いた論文の中に現在の政治を謗る文言があるとして、朝廷のとある高官が立腹し、蘇轍を官職に就けることに疑義をさしはさんで辞令を交付させまいとしたので、ごちゃごちゃいわれるくらいなら任官などするものかと、蘇轍は、父を一人残して都を離れることはできないとの理由で辞退したとされている。国家のいかなる大事よりも親孝行の方が優先順位が高いと認識されていたから、親孝行を理由に挙げれば、皇帝の命令を断っても咎められることはなかった。表題にある「鄭州西門」とはどこなのかということについていくつかの考証があるが、我々にとっては都から少し出たところで弟と別れたということがわかりさえすればそれで十分であろう。
【訳文】
酒に酔ったかのような、
ゆらゆらするこの感覚。
僕の心はふわふわと抜けて、
君の馬に追いすがろうとする。
君と一緒に父上のもとへと戻って行けない僕は、
置きどころを失ったこの心を、
誰と慰め合ったらよいのだろうか。
酔いの醒めぬままに坂を登り、
とうとうここで振り返る。
波打つ丘が広がる。
際立って背の高い君のことだから、
黒い帽子が丘の高低の間に上下するのが見えるのではなかろうか。
寒さが身に染みるようになったこの時季に、
薄い衣でやせ馬にまたがる君の姿を、
僕はいつまでも探し求める。
同道する者がいう。
「道を行く人々は誰もが楽しげに歌い、
家の内にいる人々は誰もが楽しげに話しているではありませんか。
どうして若旦那だけが苦しげなのですか」
僕は酔いから引っ張り出され、
「人生に別れは必然だ。
ただそれだけのことなのだよ」
悲しみは僕だけにあるのではなく、
楽しみはほかの人々だけにあるのではない。
すぐにもう一つの必然を僕は思う。
歳月とはたちまち去ってしまうものだ。
君と二人、
夜の雨をしみじみ耳にしながら、
灯のもとで今を昔と語り合うようなときが、
必ずあると、思ってよいのかい……。
このことをわかってくれているのならば、
君も高位高官に昇ろうとは決して強く望んだりはしないはずだ。
【補足】［（1）この訳文は原詩には忠実ではない。原詩では「童僕怪我苦悽惻」［童僕は怪しむ 我が苦はだ悽惻するのを］とだけあるのを、2人の会話としてかなり引き伸ばしている。会話の相手としては馬正卿を想定している。馬正卿はこの後長く蘇軾の詩文に登場することがないので、訳者としてはここで口をきかせてみたかったのである。「童僕」とは少年の使用人で、26歳の馬正卿を「童僕」と呼ぶのはふさわしくないのだろうが、詩は必ずしも事実を忠実に表現するものではないであろう。（2）終わりの数行は、蘇軾兄弟にとって重要なキーワードとなる「夜雨対牀」［雨の夜に牀を並べて一緒に眠る］を詠んでいる。兄弟が制科の受験勉強に励んでいたある日のこと、弟は唐の韋応物の詩を示して、「試験が終わればきっと別々の任地に赴かなくてはならなくなるでしょう。それでも、必ずまたこの詩にあるように『夜の雨をしみじみ耳にしながら語り合う』ことをしましょう」といった。制科に合格することは兄弟の大きな目標であったが、合格後には必然的に兄弟の別れが待っていた。父の蘇洵と伯父の蘇渙の兄弟は、親の喪に服すときでもなければ会うことがなかったのを間近に見ていたので、兄弟で会えるのが希になるのを早くも弟は悲しく思ったのである。（3）この詩をもって蘇軾は習作段階を脱したと見られていて、多くの選集はこの詩を冒頭に掲げている。原詩に忠実な訳を知りたい方はそちらを御覧いただきたい］
■【02-1-014】和子由澠池懐旧
【解題】鳳翔へは陸路をほぼ真っ直ぐに西に進む。都から200キロ弱で河南府［洛陽］に至る。長い歴史を誇る古都で、引退した高官など多数の著名人が住むところであるのだが、ここで蘇軾が誰かと交流したといった記録は残っていない。さらに数十キロほど進んだ澠池という町に着くと、弟からの手紙が先回りしていて、それには『澠池の旧を懐う』と題する詩が添えられていた。「旧」とは、これより5年前の嘉祐元年［1056年］に、科挙の受験のために父に連れられて上京したときのことをいう。そのときの旅は、ちょうど今回と逆向きに、鳳翔、京兆府［長安］、澠池、河南府を経由して都に至ったものだった。弟の詩には、兄と別れたときのことや、5年前に澠池の僧房に宿をとり、その壁に詩を書いたことなどが素直に歌われていた。兄はその詩に次韻して、同じ韻を用いるという制約がありながら、全く趣の異なる詩を生み出している。
【訳文】
この世にあまねく存在する人生なるものは、
何に似ているだろうか。
大空を飛ぶ雁がふわりと降りて、
融けた雪にちょこんと付ける足跡か。
泥の上に爪の痕が残っても、
雁は西に飛んで行ったのやら東に飛んで行ったのやら、
見当を付けることさえできない。
あのとき澠池の寺にいた老僧は、雁が飛ぶようにこの世を去り、
真新しい墓だけが遺されている。
僧坊の壁は崩れ、かつて題した詩を見ることもできない。
あのとき僕等の前にあったのは、
長く遠く遥かな道だった。
折悪しくも、乗ってきた馬に死なれ、
かろうじて貧弱な驢馬を手に入れたものの、
その嘶きはまことにわびしげに聞こえたのだった。
【補足】［（1）弟の詩の第一句と第二句は、「相携話別鄭原上、共道長途怕雪泥」［相い携えて話して別れる 鄭原の上り、共に道う 長い途に雪泥を怕れるを］で、都の郊外で別れたときに、冬に時期の旅の厳しさについて心配したことをごく普通に詠んでいる。兄が次韻した詩では「人生到処知何似、応似飛鴻踏雪泥」［人生 到る処 知らん 何に似たるかと、応に似るべし 飛ぶ鴻の雪泥を踏むに］で、いきなり卓抜な警句で人を驚かせる。蘇軾の詩才が一気に爆発したもので、しかも次韻の詩であるというのが二重に人を驚かせるのである。（2）蘇軾のこの詩には、自身の注で、「かの歲に二陵で馬が死んでしまい、驢馬に乗って澠池に至った」と記されている。科挙の受験生は官営の宿舎がある場合にはそこに宿泊できるという特権が与えられていたが、旅費は全て自弁であったから、多くの受験生はそれを用意するために大変苦労し、貧乏人でありながら郷里の人々の支援によって上京して合格できたという佳話がたくさん残っている。蘇軾の家は先祖から受け継いだものと母の努力によって暮らしに困るようなことはなくすんでいたようだが、親子3人の旅は恐らく様々な人の支援に頼ったものであったろうから、旅の途中で大切な馬に死なれてしまったのは、前途に不安を覚えさせるような出来事で、驢馬の嘶きが普段とは異なって重く心に響いたのであろう。もしも科挙に合格していなかったならば、親子3人の人生は全く異なるものになっていた］
■【02-1-015】次韻劉京兆石林亭之作、石本唐苑中物、散流民間、劉購得之
【解題】任地先の鳳翔へと急ぐ旅ではあったが、京兆府［長安］では少しばかり留まり、その地の人々との交流を楽しんだ。これは知事の劉敞［字は原父］が詠んだ詩に次韻したもの。劉敞は蘇軾よりも17年先輩で、28歳で科挙に合格し、早くから中央政界で活躍して大臣候補と目されていたが、宰相と衝突するなどして、このころは地方官として各地を転々としていた。博学で知られ、特に歴史に詳しかった。劉敞は欧陽脩と親しい関係にあったので、蘇軾がどのような青年なのか見てやろうと待ち構えていたのだろう、次に見るように、2人は意気投合し大いに歓談したのだった。この詩の題は、「京兆府知事の劉敞の石林亭での作に次韻した。そこにある石はもとは唐代の庭園にあったもので、散り散りになって民間に流れて行ったものを、劉知事が買って集めたものである」。栄華を誇った唐の都は、唐末の戦乱で何度も戦火に包まれ、唐朝の滅亡とともに地方の中都市に転落していた。
【訳文】
かつての都は日々に荒廃し、
往時に還ることはもはやない。
やんごとなき方々の庭に置かれていた石は、
散り散りとなったものの、
なお人間界には留まっていた。
一人の好事家がここにくると、
それを買って蓄え始め、
石の重さも道の遠さも厭わずに石林亭へと曳いてきた。
塵の中に埋もれていた石も、
ここにくるとすぐにもと通りになって、
ある石は氷雪に削られた顔をしかめ、
ある石は痩せ細った肩をそびらかし、
ある石は青々と水をしたたらせるかのようになった。
唐の世に、奇石を好んだある人が、
石に等級を設けて刻印したのだが、
ここにあるのはさだめし最上級のものばかりだ。
思えば、これらの石は、
ある人が失えばある人が得て、
集まっては散じ、散じては集まり、
いつまでもいつまでも循環を繰り返して、
結局のところ環の外に出ることはないのだろうか。
人間界もまた変転を繰り返す。
自然の要害に守られたこの地に、
漢の都も唐の都も置かれ、
王朝は隆盛を極め、そして滅び去った。
これらの石はかなり重いものがあるとはいえ、
都を囲む山々に比べたら羽根のような軽さだ。
転々とし続けるのもやむをえないのだろうか。
酒を酌んで石に向かって問いかけようとしたものの、
答えの出ないような問題は、
そっくり放り出すのがよいと思うのであった。
■【02-1-016】書黄州詩記劉原父語
【解題】このときの劉敞［字は原父］との交歓について、遥か後年の元祐4年［1089年］に書き記した短文があるので、それを見ておこう。
【訳文】
昔、鳳翔府の役人になったときに、長安を過り、劉敞に会った。
劉敞は私を数日間引き留めて劇飲した。酒酣のときに、劉敞はこのようにいった。
「昔（三国時代に）、（魏の）陳矯は、（知事の陳登に招かれて役人になり、陳登のために魏の都に行き、帰ってくると、陳登から『都でのわしの評判はどうであったろうか』と聞かれて）このようにいいました。『あちこちで人々が論じるのを聞いたところ、知事殿は驕慢でうぬぼれていると思われているようでした』。すると、陳登がいうには、『家の中が和やかで徳があって行いもすぐれていることでは、わしは陳紀兄弟を尊敬している。淵の水のように清らかで、礼にかなった振る舞いがしっかりできていることでは、わしは華歆を尊敬しておる。清らかな行いを修めて悪を憎み、知識があって義を具えていることではわしは趙昱を尊敬しておる。広く知って記憶力が強く、人より抜きんでて優れていることではわしは孔融を尊敬しておる。雄姿が傑出して王霸の才略があることでは、わしは劉備を尊敬しておる。尊敬する相手がこれだけいて、どうして驕慢でありえようか。いま挙げた人以外のちまちました連中が何をいおうが、何も気に掛けることなどありはしないのだ』、と」
そして、劉敞は天を仰いで、大きく嘆息した。
ここに劉敞の雅趣を見ることができたのであった。
私は後に黄州にあって、このように詩に詠んだ。
「平生我亦軽余子［平生 我も亦た余子を軽んじ］、
晩歳誰人念此翁［晩歳 誰が人か此の翁を念わん］」
これはまさしく劉敞のことを思って詠んだ句であった。
このときに劉敞は亡くなってすでに久しく、弟の劉攽はなお存命であった。劉攽と語るたび、私の心は強く力づけられた。
いまはその人までも亡くなり、もはやこれほどの俊傑の人を見ることはできないのである。悲しいではないか。
【解題】［（1）劉敞が語ったとして書かれている言葉は、『三国志』に記されている文章そのままである。劉敞も蘇軾も歴史に精通していたので、ごく短い言葉を交わしただけで2人には通じ合ったのだろうが、ここでは敢えて詳しく記している［あるいは後人の補筆であるのかもしれない］。そこに引用されている陳登の言葉は、尊敬する人物を多数挙げつつも、実はそれらの人々の美点を全て自分は具えていると、この上ない自負心を示したものである。劉敞は蘇軾と会ったときは不遇の時期で、心に強く思うところがあったのだろう。（2）引用されている詩は、蘇軾が黄州に流されていた元豊5年［1082年］の作で、大意は、「かつて自分は（劉敞あるいは陳登のように）他の連中を軽んじていたのだが、いまやこの老人を思ってくれる者などいないのである」と、流謫中の孤独感を詠んでいる。（3）最後に名が挙がっている劉攽［字は貢父］は劉敞の3歳下の弟で、やはり歴史に精通して、後に『資治通鑑』の編集に加わわっている。劉攽は、蘇軾の親しい友としてこの後何度も登場するようになる］
■【02-1-017】与楊済甫
【解題】蘇軾は12月14日に鳳翔府に到着し、いよいよ官員としての日々がスタートした。到着の日付は、翌月に故郷の楊済甫［→作品番号01-2-044］に送ったこの手紙から知ることができる。
【訳文】
お別れしてから三回年が改まり、貴君を思うことがますます強まります。この新春を迎えて、佳き日々を過ごされ、皆様いずれも安らかでありましょう。
私は前月十四日に鳳翔に到着し、十五日には着任の届けも終わりました。……
いま、范元が帰るに当たって、お手紙を差し上げる次第です。これから気候がよくなりますので、きっとよいことがありますでしょう。
【補足】［范元が何者であるのかはわからないが、成都や眉州の役人ないしは商人で、ちょうど鳳翔から帰るところだったのだろう。成都と鳳翔は大きな山地を挟んで数百キロ離れているが、都から見れば、成都と鳳翔はほぼ隣同士である］
■【02-1-018】鳳翔八観
【解題】このときの鳳翔府の知事は宋選［字は子才］で、同じ年の8月に赴任してまだ間がなかった。前任の知事が汚職で左遷されたために、そのようなことが繰り返される恐れのない人物として宋選が選ばれたのだろう、清廉で温厚な人柄で、蘇軾が希に見る優秀な成績で制科に合格したことを重んじて、かなり優遇してくれたようだ。新任の官員でありながら蘇軾には時間的余裕があったようで、早速鳳翔周辺の文物を見て回り、『鳳翔八観』という8首連作の詩を詠んだ。これは、青年蘇軾が渾身の力を込めて作ったもので、これによって詩人としての名が一躍天下に轟きわたったのだった。序文が添えられている。
【補足】［原詩は、恐らく当人にはそのような意識はなかったのだろうけれど、あたかも己の才を誇るかのように、晦渋にして含意に富んだレベルの高い詩句を縦横に駆使しているためにかなり難解である。訳詩は、含意を説明的に露わにしたり、重厚な語句を軽々しい言葉に移し替えたりしていて、つまり「ずっぽ訳」の典型となっている。この訳詩に不服な方はぜひ原詩と向き合っていただきたい］
【訳文】
序文
『鳳翔八観詩』は鳳翔で観るべき八つのものについて記した作品である。昔、司馬遷は会稽山に登って禹穴を探るために千里も遠しとせずに訪れ、李白は七沢を観るために荊州に至った。この二人は世が俗に流れるのを悲しみ悼み、古の人を自分で見られないのを傷み、その遺迹をひとたび観るためだけにこれほどまでに勤めたのだった。鳳翔は秦の文物と蜀の文物の交わるところで、士大夫が朝夕に往来するところである。この「八観」はいずれも町から歩いて行ける場所にあるのだが、好事の者でもなかなか全てを遍く観ているわけではない。それでこの詩を作り、古のものを観ようと思っていてもこれらを知らない人に告げようとするものである。
【解題】『鳳翔八観詩』の第一首は、鳳翔府の孔子廟に保管されていた石鼓について詠んでいる。石鼓とは、高さが2尺、直径が1尺ほどの加工された花崗岩で、鳳翔近郊の野原に10個ころがっているのが唐の時代の初めに発見された。表面にごく古い形態の文字が刻まれ、古代の文化を知る貴重な物として大切に扱われ、現在は北京の故宮博物院に第一級の文化遺産として保管されている。
【訳文】
其の一 石鼓
季節は冬、月は十二、年は辛丑。
政治に携わるようになったばかりの私は、
鳳翔の孔子廟に詣でた。
昔から聞いていた石鼓がここにあり、
いま初めて見ると、
蛇がじぐざぐに走りまわった痕のようなものがついている。
じっと観察し、指を使って腹の上でそっくりになぞってみる。
それを読み上げようとして、
唇が貼り合わされたかのように何もいうことができない。
唐の韓愈は古を好み、この石鼓を見て、
自分は生まれるのが遅かったと嘆いた。
それから二百年以上も経ったいま、
当てずっぽうに点や線、偏や旁を見つけようとして、
一つか二つだけなら、それかとわかるような気にもなれるであろうか。
これまでに解読されたのは、
「ワシノ車ハツヨイゾヨ、ワシノ馬モツヨイゾヨ、
魚ハコレトソレ、柳ノ小枝デツラヌクゾ」
残りの八つか九つはとんとわからない。
太古の青銅器の破片がごろごろするなかから、
どうにか見分けられるのは鼎の脚だけであったり、
天上界に細かに散らばる星のなかから、
どうにか見分けられるのは北斗だけであったり、
イボやらタコやらカサブタやらがぐちゃぐちゃになったなかから、
どうにか見分けられるのは肘やら膝だけであったりで、
つまりは、雲や霧の向こうに月を、
あるいは、雑草がぼうぼう生い茂る野原に一本だけの稲を、
見出そうとするようなものだ。
石鼓は百回の戦火をくぐり抜け、
かつては文字を発明した伝説の人たちと語り合いもし、
名書家とされた人たちを教え導いたりもしたのだが、
千年の間にただ一人ぼっちになって、
もはや友とする相手はいなくなってしまった。
回顧すれば、遠い昔、乱れた政治に人々はほとほと愛想をつかし、
聖王、賢臣の出現を待ち望んだときに、
天は周の宣王とその老臣を生んで、天下を立て直させた。
東方では虎のような猛将が争いを鎮め、
北方では犬のように諸民族が素直になついた。
宮殿には白い狼や白い虎が次々に献上され、
功臣が並んで参内するとたくさんの恩賞が与えられた。
勇ましく太鼓が打ち鳴らされ、将軍に耳目が集まったときに、
雅な音楽を奏して歌おうと思った者はいなかったのだが、
どのようなわけかは知れず、
宣王を讃える『鴻雁の歌』が流れてきたのだった。
その歌が石鼓に刻まれたのだろうか。
それまではおたまじゃくしのような形をしていた文字が、
そのときに改められたのだろう。
宣王の勲は偉大であるのに、石鼓にはあえて誇るようなところがない。
周の文王から遠くないこのころには、
奥ゆかしい真心がなお伝わっていたのだろう。
刻まれた年を示すような字を探そうとしてもないし、
まして、刻んだ人の名は記されるはずもなかった。
その後、周が衰えると、
七つの国が競い合った末に、秦が天下を手にした。
始皇帝は儒学の経典を放り投げさせ、
民衆に法律だけを学ばせ、
先祖を祀るための道具は片付けられ、
刑罰に使う鞭や手かせ、足かせの類が並べられた。
始皇帝を補佐したのは李斯という人物で、
始皇帝が山に登るたびに、功業を讃える文章を作って石に刻ませた。
「皇帝ハ四方ノ国々ヲ巡ッテ凶暴ナ連中ヲ滅ボシテ人民ヲ救ッタ」
そのような手放しの賛美は前にも後にもないことだった。
始皇帝によって儒家の経典は焼かれ、石鼓も砕かれそうになった。
周が滅んだときに、王者の徳の象徴とされた九鼎は川に沈んだ。
始皇帝は万人を使ってそれを掘り出して自分のものにしようとした。
暴君は己の欲望を満たすために人民の力を使い尽したけれど、
神聖な九鼎は秦に汚されることはなかった。
石鼓はどこで始皇帝の横暴から逃れたのだろうか。
天が鬼神を遣わして守ったのだろうか。
世の興亡は百変し、富貴はつかの間でしかない。
物質それ自体は変化を免れ、名というものは朽ちることはない。
物の道理をよくよく考え、
人生の長さが石鼓の寿命とは比べようもないのを思って、
私は深く嘆息するのだった。
【補足】［（1）詩の始めに韓愈の名が挙げられているのは、韓愈も石鼓を実際に見て、それを詩に詠んでいるからである。それは韓愈の自信作で、非常に有名な作品であった。韓愈は唐のなかごろの人で、詩文および儒学の復古運動、つまりルネッサンスを主導した。蘇軾の作品を読む上では、儒学の正統は、おおざっぱにいって孔子、孟子、韓愈、欧陽脩の順に受け継がれてきたと理解しておくのがよいだろう。それほどに偉大な先人である韓愈を意識してこの詩を作ったので、蘇軾が力むのも当然であった。（2）蘇軾はこの詩で、石鼓は周の宣王のころのものであろうかと歌っているが、現在では、それよりもずっと新しく、戦国時代の秦の24代公主の献公のときに作られたものであろうとする説が有力となっている。この詩で、石鼓は始皇帝の横暴から奇跡的に逃れられたと歌っているが、始皇帝は秦の31代公主であった。それはそれとして、古代の遺物として貴重であることには変わりない］
【解題】第二首は、「詛楚文」について詠んでいる。「詛楚文」とは「楚を詛う文」である。秦の穆公のときに、和平の約束が秦と楚の間で結ばれたのだが、楚の次の代の王が一方的に破ったので、それを秦の人々が呪ったとされる文章である。蘇軾自身の注で、その由来は次のように記されている。「鳳翔の開元寺の土の下から（詛楚文が刻まれた）石碑が得られ、いまは知事の執務室に置かれている。秦の穆公は雍橐泉の祈年観［豊年を祈る社］のもとに葬られ、いまその墓は開元寺の東南数十歩のところにある。つまり開元寺はかつて祈年観があった場所に建てられたのだろう。淮南王［劉邦の第七子の劉長］は（罪を得て）蜀に遷される途中で、雍において病で亡くなったとされている［実は自ら絶食して死んだ］、その雍とは長安に近いそこではなく、ここの古い雍であったのだ」。開元寺は唐の玄宗皇帝が勅命で各州に建てさせた寺で、現在も幾つか残っている。後半の淮南王のことは、この詩とは直接関係のない豆知識である］
【訳文】
其の二 詛楚文
高く聳える開元寺を見上げると、
古代の祈年観がぼんやりと想像される。
その旧い建築は地上から空しく消えてしまったが、
古い石碑は土に埋れて破れずに残った。
石碑に刻まれた詛いの書は判読可能ではあっても、
長い間に字法がすっかり変わってしまった。
その詞は次のようだという。
「秦の嗣王［穆公の次の公主］は瓚を神前に供えて申し上げる。
先君穆公の世に楚の先君と互いに守ると約束し、
神に誓って万代にわたって叛くことはないとした。
しかし、楚の嗣王は敢えて多くの悪事を為し、
胎児を刳り出したり罪のない者を殺したり、
親族を捕らえて獄に繋いだりした。
それはかの桀や紂が天下を乱したのと変わらない」
このように楚が盟に背いたことを詛ったのであるが、
私が聞いているところでは、
むしろ古代の秦の風俗こそが、
背中に冷や汗をかくことなく平然と人を騙すというものであった。
秦に騙されたのは、
休戦を結んだばかりの場で捕まってしまった衛の公子卬だけではなく、
鬼神までも欺かれたのだった。
その秦がどの口で楚を詛ったのやら、
遥か千年余りを隔てたいま、
私を大いに笑わせてくれるのである。
【補足】［この詩の終わりで蘇軾が笑っているのは、秦に対して連綿と続いてきた偏見に基づくものであろう。周朝の後半期に、文明圏の外側と見なされていた西方で秦が勃興し、東方の諸侯を脅かすようになった。南方の楚もまた新興勢力で、一時期は楚と秦の実力が拮抗し、両国が牽制し合うことで、東方の諸侯は比較的安泰でいられた。秦の9代公主であった穆公はそのような時代の人で、楚と同盟関係を結ぶことで、東方に圧力をかけることに成功した。穆公が死ぬと主だった家臣が200名近く殉死し、国力は一時的に衰え、楚に脅かされるようになり、このような呪いをかけたのだろう。最終的に秦は始皇帝のもとで天下統一を果たしたので、その軍事力に屈服させられた側には秦のことを悪くいう記録が多く残され、強固な偏見が形作られたのだろう。司馬遷の『史記』を初めとして、秦に関する歴史の記述は、秦の敵側からの見方に基づくものである］
【解題】第三首は、開元寺にあった王維と呉道玄の画を見て詠んだもの。二人とも唐の玄宗皇帝の時代に活躍した人で、王維は詩や画に優れ、呉道玄の画は唐代第一と評価されることが多い。
【訳文】
其の三 王維と呉道玄の画
呉道玄の画は鳳翔のどこにあるか。
普門寺と開元寺である。
開元寺の東塔には王維の筆の痕も残っている。
私はそれらの画を観て、
呉道玄と王維に優る者はいないと思った。
呉道玄の画は、雄々しくも奔放で、
大海原に波が翻るかのようだ。
呉道玄が手を下すと、
風が吹き、雨が飛び、
筆がまだ到る前から、その勢いに万物が呑まれてしまう。
呉道玄が描いたのは、
高く聳える沙羅双樹の間へと、
五色の雲から朝日がさしこみ、
釈迦がまさに涅槃に入ろうとして、
寂滅を説いている場面。
菩薩たちは泣き、
衆人は手をこまねき、
千万の異界の者が悲嘆にくれている。
王維はもとより詩に優れ、
それは水辺に草が放つ芳香のよう。
この壁画を観ると、
その詩と同じく清らかで、まことがこもっている。
画かれているのは釈迦の十人の弟子、
みな鶴のように痩せ、
その心は火の消えた灰のように静まり返っている。
門の前にふた群れの竹があり、
雪や霜のような気節を真っ直ぐに貫き通し、
無数の枝や葉が交差して乱れ動き、
それらすべてにその本質を見てとることができる。
呉道玄の作品は絶妙であるけれど、
画の巧みさで論じることができるだろう。
王維の作品は形の外から得た画で、
仙界の鳥が自由に飛びまわるかのようだ。
二人ともに神技であるのだが、
王維に関しては画を論じるのをやめて、
口を閉ざすしかない。
【補足】［蘇軾が芸術において具象よりも精神性を重んじたことがこの詩から読み取ることができる］
【解題】第四首は楊恵之が作った維摩詰の塑像を見て詠んだもの。詩の題にあるように、塑像は鳳翔府の天柱寺にあった。楊恵之は唐代の人で、初めは画業に励んだのだが、ライバルの呉道玄に劣るのを憤り、筆を棄ててもっぱら塑像に打ち込むようになったといわれている。維摩詰は釈迦の在家の弟子で、病気になったときに文殊菩薩が見舞いに訪れ、二人は仏道について奥深い問答を交わした。この詩はそのことを踏まえて詠まれている。
【訳文】
其の四 維摩詰の像。唐の楊恵之が作った塑像が天柱寺にある
『荘子』によると、子祀、子輿、子犁、子来の四人は、
「頭が無で、背が生で、尻が死という者がいたら友だちになりたいものだ」
と、いつも笑って言い合っていたという。
あるとき子輿が病気になり、子祀が見舞いに行くと、
子輿はひょろひょろと歩み出てきて、水辺に立って自分の姿を映し見た。
子輿の肩は頭のてっぺんよりも上にそびえあがり、
背中は大きく湾曲し、顎は臍の下に隠れていた。
そのありさまはかつて笑い合っていたものに近かった。
子輿は言った。
「造物者は私をどうしたいのだろうか」
子祀は言った。
「君をそんなふうにした造物者を憎んでいるのかい」
「自分の体がこれよりもっと変わったところでそれはそれまでのこと。
どうして天を憎んだりしようか」
楊恵之の維摩詰像は、
亀のごつごつとした骨格をからからに干したかのようで、
あたかも子輿を思わせる奇怪さだ。
子輿も維摩詰も、
つまりは道の奥深くに達した至人で、
自分の体の変化など浮き雲が移り行くのと同じと見て、
生とか死とかの境界を超えたところにいたのだろう。
世の中には、堂々した身体を備え、
病ということではないのに、
心を疲れさせてしまっている者が少なくない。
維摩詰は精神が完全な状態にあって、
千人の猛者がかかってきても笑いながら退けた。
ある人が、いかなる法をもってそうであるのかと尋ねると、
維摩詰は首を垂れたまま言葉を発しなかった。
問うた人は心の内で了解した。
そのときと変わらずに、維摩詰の像はいまも言葉を発しない。
この古びた像に、
村の爺さん婆さんは目をくれず、
野鼠が髭をかじったりもする。
本来なら、この像の前で大悟するはずであるのに、
無言の師弟となろうとする者はいまはいないのである。
【補足】［この詩は維摩詰の像が主題であるのに、蘇軾は最初に荘子の寓話を引いている。仏教が印度から伝来したときに、中国の人々は道教の哲学的諸道具を応用してその新しい外来思想を理解しょうとした。蘇軾は少年の頃から道教の経典に馴染んでいたから、やはり道教を媒介として仏教に接近しようとする傾向が顕著であった］
【解題】第五首は鳳翔の町の東にあった東湖について詠んでいる。東湖は周囲が一里ほどで、景勝地であった。
【訳文】
其の五 東湖
私は蜀江のほとりに生まれ、
清らかな川は藍よりも青く澄んでいた。
いま塵で濁ったこの世間を走りまわっていて、
耐えられない思いになることもある。
岐山のふもとのここの風光ときたらどうだろうか。
山はあっても赤く禿げ上がり、
川はあっても白いとぎ汁のようだ。
たまたま町の東に足をのばし、
ふと門をくぐってみたところ、
その先が何やら奥ゆかしい雰囲気に包まれていて、
小さな湖があった。
ここの水だけは澄んで故郷を想わせ、
うっとりと夢見心地になった。
水の源は山の高いところにあり、
波を立てて走り、地をひたして走り、
東の丘にぶつかって、
ことごとくこの湖に呑み込まれるのである。
そのありさまは、青い竜が山に寝そべって、
清く甘い水を湖に吐き出していると見ることもできようか。
いずれここに蓮の花が開く季節になったら、
夕べの涼を求めて舟を出し、
ざわざわと蓮の葉を分けて湖の中心へと入ってみよう。
葉が風に翻り、遠くも近くもわからず、
世間とのつながりをすっかり忘れて、
ゆったり息つくことができようか。
たちまち晴れて、たちまち雨が降り、
水の深いところには魚や亀、
水の浅いところには巻貝や二枚貝、
それこそうようよ浮いたり沈んだり、
餌をやるまでもなく、糸を垂らすまでもなく、
すぐさま篭がいっぱいになるまで採れるであろうか。
聞くところでは、昔むかし周の世が始まったときに、
青い鳳が岐山に棲みつき、この池に飛んできて水を飲み、
いろどり豊かな己の姿を湖面に映したという。
鳳が好む梧桐がいまもここにあり、
樹の太さは一千年の齢があるかのようだ。
いまは鳳の姿はなく、鷹やら鶉やらを見るだけだ。
私は遅く生まれ過ぎたのか。
鳳について記した古の書物は時の彼方にぼんやりとかすんでしまった。
それでも、私は古の意を好んでここに遊び、
鳳の詩を古の人のように詠んでみたいと思う。
ここ鳳翔は長安を守る三つの町の一つだった。
湖のほとりで飲んで、酔って歴史を談じてみようか。
鳳はおそらくこのところの王朝の興亡などには関心がないだろう。
もとの門にもどると、
道行く人はここで馬を止めることもなくひたすら通り過ぎて行く。
どのような用事に追われて、
湖に目を向けようともしないのか。
私がいまここでこうしていられるのは、
幸いにも知事殿がおおらかに見ていてくださっているからだ。
ならば、一日に二度ずつここにきて、
そのまま三年の任期を満たしてしまおうか。
暮れ方の鐘や太鼓の響きを聞きながら、
連日、千鳥足で町へと帰って行くのだ。
【補足】［（1）終わりのあたりで、鳳翔府知事の宋選に厚遇されていることについて触れている。それが例外的な特別なものであるのを蘇軾は承知していたのだろう。（2）「三年の任期」とあるように、中央から派遣された官員の任期は原則として3年間であった］
【解題】第六首は、鳳翔府の町の中にあった真興寺を訪れて詠んでいる。真興寺は五代十国時代の終わりから宋代の初めにかけてこの地を治めていた王彦超が建てたものである］
【訳文】
其の六 真興寺の高閣
真興寺の高閣に登る。
遠くの山や川も、近くの町並みも、
ぼんやりとしたひとつの形に溶け込み、
上を飛ぶ鳥の声も、下を行く人の声も、
ほのかなひとつの響きに溶け込んでいる。
ここの高さはどれほどであるのか。
背を伸ばして落ちる日を見送った後で、
手を伸ばせば流れ星をすくい取れるだろうか。
この閣は誰が作ったのか。
南の山から木を切り出し、
すっかり赤禿山にしてしまったのが王彦超だ。
王彦超の往時の姿を写し取った画がこの閣にある。
黒い鉄のような顔面、
切れ上がった眼差し、
身の丈はさながらこの高閣と競うかのようであった。
昔の人は横暴をほしいままにし、
今の人を驚かせる大きな事業を成し遂げた。
この閣は昇るだけでも息が切れて苦しいのに、
建設に携わった人々の労苦はさぞや耐え難かったであろう。
さあ、この高閣を見るがよい。
作った人は果たして勇者にして英邁であったのか。
【補足】［前の詩でもこの詩でも、鳳翔周囲の山が赤い禿山になっていることを詠んでいる。その全てに王彦超の責任があったわけではないだろうが、大規模な建築等によって山の自然のバランスが崩されてしまったのである］
【解題】第七首は、町に北側にあった李茂貞の庭園を訪れて詠んだもの。李茂貞は、唐の末期から五代十国時代の初めにかけて鳳翔を本拠地とした軍閥の長で、唐の皇室を手玉に取って天下に号令をかけようとして力及ばなかったものの、混乱の世を巧みに乗り切って地方政権の王として生き延びた。
【訳文】
其の七 李茂貞の庭園
朝のうちに馬にまたがって町の北へと行く。
東に向きを転じると、
青々とした竹が高く伸び上がり、
その下に赤い門がある。
壊れかけた塀に囲まれた古い家。
鞭を挙げて扉を軽く叩くと、
谷間に低く音がこだまする。
馬より降り、門から十歩ばかり進む間に、
早くも九回は目を向けて見るべきものがある。
いろいろな花が四方に咲き乱れ、
百種の鳥がさえずり合っている。
谷の水が西から引かれ、
塀際を音を立てて巡り、
東の林へと入って行く。
その奥に緑に包まれた窓が見える。
竹と水は清らかさを競うかのようで、
その間に一羽の鷺が立っている。
ひとかかえ百尺もあろうかという松の巨木があり、
その幹に歳久しく経た青い鱗が縮こまっている。
これほどの松はこのあたりに珍しく、
長安の周囲でこれ一本であるのかもしれない。
橋を渡って流れの南に行くと、
道の左右に高い木が多くあり、
日の光が淡くさえぎられ、
凜とした空気が蓄えられている。
東の四角い池では、
野生の鳥と飼われている鳥とが入り混じっている。
私は問いかける。
「この庭園は誰が築いたのですか」
「その昔、李将軍が世の衰えに乗じてこの地で威を張り、
民衆からさまざまな口実で税を徴収しました。
課税を免れたのは、一杯の粥、一杯の汁だけ。
耕作地を取り上げてこの庭園を築いたのです。
生業を失った人々は、
李将軍が怖くて泣くことさえできませんでした。
いま鳳翔に名高いこの大庭園ために、
破滅した家は千を数えたのです。
勇壮を誇った李将軍の戦衣にはいまでは虱がわき、
ここで飲んだ美酒はむなしく消え、
李将軍は我々からその名を呼び捨てにされ、
冷笑されるだけとなりました」
この地にきた私は、李将軍と違い、
吹けば飛ぶような小役人だ。
それが李将軍の庭でぶらぶらと遊んでいられるのだから、
人生というものはどうなるかわからない。
李将軍のような力などはないこの私でも、
後世の人から笑われるという点においては、
同じということになってしまいかねない。
いつしか俗世間の事柄からすっかり解放されて、
清らかな風光にひたり続けていたいものだ。
【解題】第八首は、秦の穆公の墓について詠んでいる。秦の穆公は、第二首の『詛楚文』の詩で触れられていたように、雍橐泉の祈年観のもとに葬られ、その墓とされるものが残っていた。
【訳文】
其の八 秦の穆公の墓
町の東の一角にちょっとした泉があり、
そのかたわらに秦の穆公のだとされる小さな墓がある。
当時はここに町はなく、
昔の人は泉を目印に墓を訪れたのだろう。
穆公が死んだ後に、
特に優れた三人の重臣が殉死した。
人々は三人を失って深く悲しみ、
それから国は病み疲れてしまった。
だから、穆公は後始末をきちんとしておかなかった愚かな君主だったと、
歴史家からは批判された。
だが、穆公はかつて敗軍の将を罰しなかった。
戦に敗れたのは、自分が欲深く領土の拡大を求めたからで、
将軍のせいではないとして、
その才能を惜しんで起用し続けた。
そのことを思えば、
有用な人物を冥途の旅の道連れにするようなことを、
穆公は果たして望んだりしたのだろうか。
三人はそれぞれの気持ちから殉死したので、
誰も止められなかったのではなかろうか。
昔々の人々は、たった一回の食事の恩でも、
意気に感じると己の身を殺すことも厭わなかった。
いまはむろんそのような人を見ない。
いま見ないから、昔もいなかったはずだと、疑ってはいけない。
遠い昔の人には会うことができない。
だから、いまの人は古の人の心が理解できない。
そのことを私はただ傷むばかりである。
【補足】［儒学において、殉死は極めて不道徳な行為であるとされ、秦の穆公の死後に多くの人々が殉死したのは、当時はまだ中華文明の圏内に完全には入っていなかった野蛮な国での野蛮な出来事であったとするのが一般的な見方であった。しかし、敢えて異論を唱えるのを好む蘇軾は、この詩で穆公を擁護している。しかし、このような解釈は殉死を美化することにつながりかねない危険性がある。孔子は墓に人形を埋めることさえも強く嫌った］
■【02-1-019】次韻子由除日見寄
【解題】弟の蘇轍が除日［大晦日］に詠んだ詩を送ってきたのでそれに次韻した。終わりの部分に「詩成十日到」［詩は成りて十日で到る］という句があるので、弟の詩は翌年の1月10日に届いたのだろう。都から鳳翔まで10日間というのは驚くべきスピードで、実際にその通りであったのかもしれないし、兄のもとに着くように大晦日より前に詠んで送ったのかもしれない。いずれにしても、大晦日の当日に兄弟が瞬時にやりとりをしたとして読むのが最もよい鑑賞法であろう。
【訳文】
しがない役人としての仕事が僕を西へと駆り立てたとき、
君と遠く別れるのがさほど惜しまれたわけではなかった。
いまになって、この次に会えるのが遠いことが憂わしくてならず、
一年が終わり行くのを惜しむ心のゆとりはない。
酒を酌んで強いて楽しもうとしても、
このあたりのご馳走は羊のスープに熊の干し肉とかで、
飲んでも食べても、気分は冷や冷やとしたままだ。
子どものころの年越しがしきりに思い出される。
指折り数えると、すでにとっくの昔だ。
行ってしまったことは、放った矢と同じ、
いまさら追いかけられるものではない。
あれから得たものは、あれから失ったものを償ってくれない。
時の推移に感じ、事の変化を嘆くばかりだ。
そんなことを思っていたら、
役場の年老いた小間使いがやってきて、
「鬼やらいをやんべえよ」
と、いう。
その矍鑠としたありさまは驚くばかりだ。
もしかして、いまのこの愁いが鬼の仕業であるのなら、
ひとつここは小間使いを煩わして、
厄払いをしてもらうのがよいのだろう。
寒く凍てつくいまに、
梅や杏の枝を手に取ってみると、
小さな幼い芽は麦粒くらいしかなく、
花はいつ開くとも知れない。
華やかな春の到来が遅いと嘆いてはいけない。
春の次には夏がきて、幼いころは過去となって、
花の終わった後にはもはや顧みられなくなってしまうであろう。
人生はただ楽しむべきだと、古の人がいった。
名声などどうでもよいではないか、ともいった。
どうして僕はこうも多くのことを感じ、
身を焦がさなければならないのか。
油が、油であるが故に我が身を炙らなければならないのと同じなのだろうか。
君の詩がきて、
遠くから僕の心を言い当ててくれ、
胸の内をゆるやかにしてくれた。
まざまざと君の顔を見るような気がして、
すぐそこに君がきているのではないかと疑われるほどだ。
兄はちっぽけな役人になったばかりだが、
かたじけなくも知事殿をお手伝いする仕事をいただいている。
知事殿の御厚意で官舎の北側に池を掘ることになり、
川から青い水を引いてくるつもりだ。
いずれはその池に臨んで酒を飲みつつ、
ゆったりと日を送るようなこともできるであろう。
君の詩に和して詠み始めてみたけれど、
僕の詩は力が弱く、君の詩と競ったならば、
負けた罰として首をちょん切られてしまうことだろう。
君の詩は作られて十日でここに着いた。
これから一カ月に一篇の詩を寄せ合うのなら、
千里の距離など何でもなく、
憂愁を軽く擲ってくれることだろう。
【補足】［（1）「役場の小間使い」と訳した原語は「府卒」。府の役場で雇っている卒［使用人］である。（2）「鬼やらい」と訳した原語は「駆儺」。中国では古くから大晦日に魔物を追い払うことが行われ、それが日本の宮中に伝わって「追儺」となった。「鬼の仕業」と訳したけれど、原文では「魔」となっている。中国の「鬼」は日本の「鬼」とは異なり、死んだ者の霊で、生きる者に対して必ずしも悪さをする存在ではない。生きる者と「鬼」は様々な交流をする隣人同士である。（3）池を掘ると詠んでいることについては後に詳しく見る］