第1章　游(たび)の奇絶の始まり――郷里から都へ

［第1章その二］

嘉(か)祐(ゆう)5年［1060年］、蘇(そ)軾(しょく)25歳。

■【01-2-001】眉州遠景楼記

【解題】蘇軾は江(こう)陵(りょう)府［荊(けい)州］に1カ月ほど滞在して新しい年を迎え、1月5日に都に向かって出発した。ここで蘇軾のこれまでの歳月を見ておくことにしよう。始めに簡単な年譜を掲げる。

〇景(けい)祐(ゆう)3年［1036年］12月19日、蘇軾は、眉(び)州眉(び)山(ざん)県紗(しゃ)縠(こく)行(こう)において、蘇(そ)家の次男として生まれた。父は蘇(そ)洵(じゅん)［字(あざな)は明(めい)允(いん)］、母は程(てい)氏。祖父は蘇(そ)序(じょ)、その妻は史(し)氏、曽祖父は蘇(そ)杲(こう)、その妻は宋(そう)氏。紗縠行は絹などを扱う商人が集まり住む場所であったと推測され、蘇軾の先祖は商人であったようだ。蘇家は曽祖父のころから次第に豊かになり、余財で土地を買い求め、祖父のころから子弟に教育を受けさせられるようになった。天(てん)聖(せい)2年［1024年］、伯父の蘇(そ)渙(かん)が科挙に合格し、蘇家で初めて官界デビューを果たした。そのとき父の蘇洵は16歳になっていたが、勉学を嫌い、恐らくは商人としてであろう、しばしば眉州を離れて各地を旅する日々を送った。蘇洵は19歳のときに、同じ眉山県の程氏から妻を迎えた。妻の実家は官員を複数輩出する名家で、妻も一通りの教育を受けていた。妻は、夫がいつまでもふらふら出歩いてばかりいるのをよいとは思わなかったものの、何も言わずに、夫のいない間の家を守った。蘇洵が24歳のときに、母［蘇軾の祖母］の史(し)氏が亡くなり、兄［蘇軾の伯父］の蘇渙が喪に服すために帰郷した。その兄の姿を見て蘇洵は発奮し、25歳のときから学問に身を入れるようになった。蘇軾が生まれたのは、ようやく蘇洵が学問に励むようになって3年目のころであった。なお、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が夷(い)陵(りょう)県に流されたのは蘇軾が生まれた年のことであった［→作品番号01-1-039］。

〇宝(ほう)元(げん)元年［1038年］、蘇軾の兄の蘇(そ)景(けい)先(せん)が幼くして亡くなった。この年に、蘇洵は上京して科挙の二次試験を受けたが不合格となった［科挙は三次試験まであった］。

〇宝元2年［1039年］2月20日、弟の蘇(そ)轍(てつ)が生まれた。以降、任(にん)採(さい)蓮(れん)が蘇軾の乳母として、楊(よう)金(きん)蝉(せん)が蘇轍の乳母として兄弟の養育に当たった。2人の乳母は母が蘇家に嫁いだときに連れてきた女性で、そのまま生涯蘇家に仕えた。母の実家は使用人を添えて娘を嫁がせるほどに裕福で、蘇洵は程家に対して頭が上がらなかった。

〇慶(けい)暦(れき)元年［1041年］、伯父の蘇渙が近くの閬(ろう)州の副知事になり、祖父の蘇序はその働きぶりを見に行った。この前年に、夏(か)国が北西の国境線を越えて攻め入り、郭綸(かくりん)が奮闘した戦いがあった［→作品番号01-1-001］。

〇慶暦2年［1042年］、蘇軾はこのころに書物を読み始めたといわれている。

〇慶暦3年［1043年］、8歳の蘇軾は張(ちょう)易(い)簡(かん)の私塾に入学した。塾は道教の寺院である天(てん)慶(けい)観(かん)の北(ほっ)極(きょく)院(いん)にあった。張易簡から、当時の賢人を称える石(せき)介(かい)の詩、『慶(けい)暦(れき)聖(せい)徳(とく)詩(し)』を教わり、韓(かん)�g(き)、范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)、富(ふ)弼(ひつ)、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)の名を聞き、強い憧れを抱いた。このとき都では范仲淹が副宰相として政治の大改革「慶暦の新政」に取り組んでいた。

〇慶暦4年［1044年］、弟の蘇轍も張易簡の私塾に入学した。この年、范仲淹らが進める政治の改革は保守派の強烈な巻き返しによって頓挫し、改革を担っていた人々は次々に都を逐われた。

〇慶暦5年［1045年］、父の蘇洵は友人の史(し)経(けい)臣(しん)とともに長(ちょう)安(あん)から都のあたりへと旅をした。蘇洵は留守がちであったから、子の教育はもっぱら妻に任せ、蘇軾兄弟は母から史書を教わるなどした。

〇慶暦6年［1046年］、制(せい)科(か)［科挙以外に不定期に行われる文官登用試験］が実施され、蘇洵は史経臣とともに受験したが不合格となった。制科は科挙よりも遥かに難関で、受けられるだけでも大変なことで、しかも合格者はごく少数であった。制科に合格するとたちまち国家の重要な職務に就ける道が開け、その代表的な人物として富(ふ)弼(ひつ)がいた。富弼は優れて論理的な思考をする人で、詩が不得手であったために科挙には合格できなかったのだが、その才能を惜しむ人々が特に富弼のために制科を行うよう皇帝に要望し、論文審査を中心とする試験で天(てん)聖(せい)8年［1030年］に合格し、即座に県知事に任命され、後に宰相にまで昇った。

〇慶暦7［1047年］、祖父の蘇序が亡くなった。制科に落第した後、そのまま各地を旅していた蘇洵と、地方で官職に就いていた伯父の蘇渙が相次いで帰郷した。蘇軾兄弟が伯父と直接話をしたのはこのときが初めてで、2人は強烈な印象を受けた。蘇洵もまた兄と会ったことから己の考えを改め、以後は家に籠って独り学問に専念するようになった。

〇皇(こう)祐(ゆう)元年［1049年］、郷里の先輩である任(にん)伋(きゅう)が官職を一時的に辞めて帰郷した。任伋は「大(だい)任(にん)、小(しょう)任(にん)」の弟である［→作品番号01-1-009］。

〇皇祐2年［1050年］、蘇軾の姉が程(てい)之(し)才(さい)と結婚した。程之才は、蘇軾の母の程氏の兄である程(てい)濬(しゅん)の子、つまり母方の従兄弟である。姉は蘇軾よりも1歳上で、このとき16歳であった。昔の中国では女性に関する記録は極めて少なく、蘇軾には3人の姉がいたらしく、そのうち2人は幼いころに亡くなったようだ。

〇皇祐4年［1052年］、程之才に嫁いだ姉が亡くなった。舅の程濬、姑の宋(そう)氏に虐待され、それに追随した夫の程之才の不道徳な振る舞いによって、わずかに18歳で命を落としたのだった。44歳になってもなお貧乏な落第生であった蘇洵は、娘の非業な死にも泣き寝入りするしかなかった。

〇至(し)和(わ)元年［1054年］、蘇軾は王(おう)弗(ふつ)と結婚した。蘇軾は19歳、王弗は16歳であった。王弗は隣の青(せい)神(しん)県の名家の娘である。蘇軾は范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)や欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)のように国と民のために働こうとの志を抱くとともに、山に籠って隠者として生涯を送ることにも憧れていたので、結婚することにはかなりの葛藤があったようだ。

〇至和2年［1055年］、父の蘇洵は、学問に専念してきた成果として書き上げた数々の論文を携えて成(せい)都(と)に行き、張(ちょう)方(ほう)平(へい)知事に見せた。成都は眉山県の北数十キロにある大都市で、蜀(しょく)の中心地である。張方平は当時の政界の実力者で、これより先に南方で儂(のう)智(ち)高(こう)が反乱を起こし、蜀の地に攻め入ってくるとの噂が流れて人心が動揺したために、それを鎮めるために都から派遣されてきたのだった。張方平は蘇洵の論文を見て感心し、成都の学校の教授に迎えようとしてくれたが、実現しなかった。蘇軾兄弟もこのとき父に同行して張方平に会い、また同郷で同族の僧である惟(い)簡(かん)［→作品番号01-1-002］に会ったりした。弟の蘇轍はこの年に史(し)氏と結婚した。

〇嘉(か)祐(ゆう)元年［1056年］、この年の初めか前年の終わりに、父の蘇洵は雅(が)州に行って知事の雷(らい)簡(かん)夫(ふ)に会い、やはり書き溜めてきたものを見せた。雷簡夫も蜀の人心を鎮めるために張方平とともに都から派遣された人物で、雷簡夫は蘇洵の文章を高く評価し、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)や韓(かん)�g(き)に蘇洵のことを薦める手紙を書いた。それが蘇洵の名が都の名士に知られる大きなきっかけとなった。蘇軾兄弟も父に同行して雷簡夫に会っているのだが、後年、蘇軾は雷簡夫については一切何も記していない。後に雷簡夫には不届きな振る舞いがあったためだと推測されている。一方で、張方平に対しては大恩人としてずっと敬意を表し続けた。蘇洵は張方平と雷簡夫に会って思うところがあり、2人の息子を連れて都に行くことを決意した。普通は科挙の一次試験は郷里で受けるのだが、蘇洵には何らかの目算があって息子達には最初から都で受けさせようとした。春、3人は再び成(せい)都(と)に行って張方平に挨拶し、そのまま北上して陸路で都に向かい、長(ちょう)安(あん)を経由して5月ないし6月に都に到着した。興(こう)国(こく)寺(じ)の浴(よく)室(しつ)院(いん)に寄宿し、兄弟は受験の準備をする一方で、蘇洵は欧陽脩を初めとして名高い人々を次々に訪問した。蘇洵はしっかりと学問を身に付けていただけでなく、不思議な人間的魅力にも溢れていたのだろう、多くの人々から優れた人物であると認められ、特に欧陽脩は蘇洵を朝廷で用いるよう推薦してくれた。秋に兄弟は科挙の一次試験を受け、蘇軾は第二位で、蘇轍は中程度の成績で合格した。そのころに張方平が都に帰還したので、蘇洵はすぐに会いに行った。

〇嘉祐2年［1057年］1月、礼(れい)部(ぶ)において実施される科挙の二次試験の実行委員長に欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が任命された。これは蘇軾にとってまことに幸運であった。二次試験では5本の論文と1首の詩を作ることが課せられ、当時流行していた装飾過多の文章で答案を書いた者は、欧陽脩の方針によってことごとく不合格となった。蘇軾は第2位で合格し、首席は曾(そう)鞏(きょう)であった。蘇轍も合格し、3月に皇帝の前で科挙の最終試験が行われ、兄弟揃って合格した。こうして晴れて官界入りが約束された2人は、欧陽脩、韓(かん)�g(き)、富(ふ)弼(ひつ)らに会い、兄弟はたちまち時の人となり、父もまた何らかの官職が獲得できそうであった。ところが、郷里に残っていた母の程(てい)氏が4月7日に亡くなり、その訃報が5月に都に届くと、3人はあわただしく帰郷した。

〇嘉祐3年［1058年］、郷里に帰っていた蘇洵は、朝廷の学士院のメンバーを選抜する試験を受けるよう皇帝からの招聘を受けた。学士院は学術をもって皇帝に仕える者の集まりで、極めて名誉ある役職である。しかし、蘇洵は老い［実際は50歳であった］と病気［それは事実であった］を理由に辞退した。蘇軾兄弟は礼(れい)の規定で母が亡くなった後は足掛け3年の喪に服さねばならず、行動を慎み、詩文などはほとんど作ることなく静かに過ごした。

〇嘉祐4年［1059年］、兄弟の喪が明けると、蘇洵は息子2人を連れて都へと向かった。蘇軾兄弟はいよいよ官職に就くためで、蘇洵には蘇洵なりの目算と堅い意志があった。それは、もしも朝廷が己の学識を必要としているのなら、試験など課すことなく用いられるはずだというものであった。

以上の年譜は、蘇軾や関係する人々が書き残したものなどから抽出された事柄を年代順に再構成したものである。以下に、年譜の記述のもとになった幾つかの作品を見て行こう。まず、蘇軾の出自について、蘇軾が亡くなった後で弟が記した墓誌銘の初めの部分だけを訳出する。この墓誌銘が蘇軾の伝記の第一の基礎史料である。

【訳文】

蘇(そ)轍(てつ)：『亡(ぼう)兄(けい)子(し)瞻(せん)端(たん)明(めい)墓(ぼ)誌(し)銘(めい)』

公(こう)［蘇軾］の諱(いみな)は軾、姓は蘇氏、字(あざな)は子瞻、もう一つの字は和(わ)仲(ちゅう)。家は代々眉(び)山(ざん)にあって、曾祖父の諱は杲(こう)、太(たい)子(し)太(たい)保(ほ)を贈られ、その妻は宋(そう)氏、昌(しょう)国(こく)太(たい)夫(ふ)人(じん)に追(つい)封(ほう)された。祖父の諱は序(じょ)、太(たい)子(し)太(たい)傅(ふ)を贈られ、その妻は史(し)氏、嘉(か)国(こく)太(たい)夫(ふ)人(じん)に追封された。父の諱は洵(じゅん)、太(たい)子(し)太(たい)師(し)を贈られ、その妻は程(てい)氏、成(せい)国(こく)太(たい)夫(ふ)人(じん)に追封された。

公が十歳の頃、先(せん)君(くん)［父］は各地を巡って学び歩いていたので、太(たい)夫(ふ)人(じん)［母］が自分で書物を教え、古今の歴史の肝要なところを語って聞かせた。母はあるとき『後(ご)漢(かん)書(じょ)』を読み、「范(はん)滂(ぼう)伝(でん)」に至ると、慨然として太くため息をついた。公はそばにいて、「私がもしも范滂になったら、母も范滂の母のように私を許してくださいますか」と言った。母は「そなたが范滂になれるのなら、私が范滂の母になれないはずはありません」と言った。公は奮起して世のために働こうとの志を持った。母は喜び、「私にはこの子がいる」と言った。

【補足】［（1）曾祖父以下が「太(たい)子(し)○○」を贈られ、その妻が「○○太(たい)夫(ふ)人(じん)」に追(つい)封(ほう)されたとあるのは、子や子孫が大官に昇ったことで、そのような称号が朝廷から贈られたからである。（2）范(はん)滂(ぼう)は後(ご)漢(かん)時代の人で、当時の国政を乱していた宦(かん)官(がん)と対立し、都を逐われて郷里に帰った。范滂を憎む人々は皇帝の命令書をでっちあげ、范滂を逮捕する役人を派遣した。県の知事は范滂に逃げるよう勧めたが、范滂は法を破る悪行はできないと、自ら赴いて逮捕された。范滂の母は息子の行動を讃えた。蘇轍が兄の墓誌銘にこのエピソードを記したのは、母のことを書き残しておきたかったのと、蘇軾の後の人生をまさに暗示するものであったからである］

【解題】ここの項目の表題として掲げた『眉(び)州(しゅう)遠(えん)景(けい)楼(ろう)の記(き)』は、本章で見ている都への旅の20年ほど後の元(げん)豊(ぽう)元年［1078年］に執筆されたもの。蘇軾の郷里がどのような土地柄であったのか、蘇軾自身が詳しく記している。

【訳文】

我が眉(び)州の風俗には、古(いにしえ)に近いものが三つある。

（一）士(し)大(たい)夫(ふ)は儒学の古典を貴び、一族の伝統を重んじる。

（二）民衆は役人を敬い、法を畏れる。

（三）農民は一緒に農作業に励み、互いに助け合う。

これは、夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)の三代や、漢(かん)や唐(とう)の昔の風俗の名残がいまに伝わるものであって、他の地域の及ばないところである。

宋(そう)の朝廷は、始めのころは音律の整った美文を書ける者を官僚として採用した。そのため、四代皇帝の天(てん)聖(せい)年間以前の学者は宋の前の五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時代の（上辺を飾って中味がない）欠陥をそのまま受け継いでいた。我が州の士大夫だけは、古典に通じて古(いにしえ)を学び、漢の時代の文学を手本としていた。このとき、他の地域の人々は我が州の人々は迂(う)闊(かつ)である［古臭いことばかり言って世事に疎く役立たずである］と批判した。郡や県の下役人に至るまで、皆が古典を手元に置き、それを範として筆を執り人に応対し行動したので、なかなかに立派なありさまであった。そして、名門の人、世に顕(あらわ)れた人は互いに家柄を尊重しあい、甲乙の序列がきちんと定まっていた。このような人たちを「江(こう)郷(きょう)」といい、たとえ高位に昇ったり富んだりしても、「江郷」同士でなければ婚姻することはなかった。

眉山の民衆が州知事や県知事に仕えるありさまは、古の君臣関係を想わせるところがある。知事が去った後でも、その肖像画を描いて奉仕し続ける。特に賢明であった知事に対しては、その人が行ったことを記録し、語り継いで、四十年、五十年経っても忘れないようにする。商人や町民はいつも善い物を別にして、官からの求めにすぐに応じられるようにしている。家には法令書が備えられ、いつもそれに通暁して、誤ったことをしないようにしている。ごくごく小さな罪も、一生の間に犯さない者がたくさんいる。

我が州では二月に農事が始まる。四月の初めは、穀類はまだ稚(おさな)く雑草の勢いが盛んである。このときに人々は一斉に草刈りに出る。数十人から百人が一つの班を構成する。目印を立て、漏(ろう)［水の流れで時間を計る道具］を据え、太鼓を鳴らして人々を集める。皆から尊敬をされている者を二人選び、一人が太鼓を鳴らし、一人が時間を計る。進むのも退くのも、作業に掛かるのも止めるのも、ただこの二人の指図に従う。太鼓を鳴らしても出てこない者、きても力を出して努めない者には罰金が課せられる。農地の広さと作業量を測り、仕事が終わるとそれらを評価し、農地が広いのに働き手が少なかった者は、銭を出して皆への償いとする。七月の満月の翌日、穀物はすでに収穫され、雑草は衰えているので、太鼓をはずし、「漏」を壊し、罰金と人々に償う銭を集め、羊や豚の肉、酒や醴(あまざけ)を買う。田の神を祭り、音楽を演奏し、飲みかつ食べ、酔って満腹となってから帰る。これが毎年の恒例である。

以上が我が州の風俗のあらましで、このようであるから、我が州の人は皆が聡明で才智があり、基本に忠実で一生懸命に働くので、治めやすく、しかし服従させるのは難しい。新しい知事がくると、その人が話すこと、その人がすることを見て、その人となりを納得するまで観察する。もしも頭脳明晰で能力があると知れると、何か事を起こして知事の出方を確かめようとするようなことはもはやなく、後は知事は朝から晩まで静かな日々を過ごしていればよい。もしも知事のすることが道理に合致しないようであれば、筋を通し法を根拠として知事を徹底的に批判する。だから、我が州の風俗を知らない者は治め難いというのだ。

いまの知事の黎(れい)�ﾛ(じゅん)侯は、私の父の友人であった。つつましく、一方で華やかであり、剛直であり、一方で仁愛に富み、明察であり、一方で苛酷ではない。それで人々は仕えやすいと思い、任期が満ちて交替になるときがくると、去ってしまうのを残念がり、皆で引き留めようとした。朝廷はその請願を聞き入れ、さらに我が州に留まること三年となり、民衆は知事をますます信頼して、何事もなく治まっている。そこで、知事は住まいの北側の土塀に寄り添うようにして建物を増築し、これを遠(えん)景(けい)楼(ろう)と名付け、その上で日ごと客人や役所の人間と遊んで過ごしているのである。

私はいま徐(じょ)州にいて、我が州の人と手紙のやりとりをするたびに、黎侯のすばらしさが書かれていないことはない。そして、遠景楼について文章を書くよう我が州の人に依頼され、このように記すこととなった。

私は、故郷を去ってすでに久しい。遠景楼はそのあるところを想い浮かべることはできても、その詳細を述べることは私にはできない。州の人々がこの楼があるのを喜び、そのことを記してほしいと思う気持ちは、私にもよくわかる。上に仕えやすい長官がいて、下に治めやすい風俗がある、そのことこそが何よりもよいのだ。

孔(こう)子(し)はこのように言っている。「昔の史官は不明の文字があると空白のままにした。昔の人は馬を手に入れると他の人に貸して乗り馴らしてもらった。いまはそのようなことはない」。この二つのことは、道(みち)［根本の道理］を大きく損なったり、大きな益をもたらしたりするような事柄ではない。それでも、人の世の美徳が失われて行くのは残念あるとして孔子のこの言葉が記録されたのだ。

我が州の古に近い風俗がここにだけ世を累(かさ)ねても変化しないでいるのは、昔の人やいまの老人たちが生きることを楽しんできた恵みによるものであり、賢明な知事が倦まずたゆまず民衆を慈しみ指導してきた力によるものである。これは記録しないでよいものではない。

遠景楼に登ってあたりを見ることの楽しさ、そして山川風物の美しさを記述するのは、私がいつしか隠退して故郷に帰り、老隠居の姿で知事のお供をしてそこに登り、酒が闌(たけなわ)となって演奏される音楽を聞きながら、筆を執って賦を作り、黎侯の遺(のこ)された愛を讃えるときであっても、まだ遅すぎはしないであろう。

元(げん)豊(ぽう)元年［1078年］七月十五日に記す。

【補足】［（1）これは眉(び)州(しゅう)知事の黎(れい)�ﾛ(じゅん)［字(あざな)は希(き)声(せい)］が建てた遠(えん)景(けい)楼(ろう)について記した文章。本文中にあるように黎�ﾛは蘇(そ)洵(じゅん)の友人で、嘉(か)祐(ゆう)7年［1062年］ごろには都で隣同士住むほど仲がよかった。（2）この文章で蘇軾は過剰なまでに郷里の風俗を讃えている。郷土愛の表れと理解すべきだろう。古(いにしえ)を尚(とうと)ぶ姿勢はここでも顕著である。（3）この文章で、眉州の人々は士(し)大(たい)夫(ふ)［中でも特に家柄がよいのが江(こう)郷(きょう)］、農民、商(しょう)賈(こ)小(しょう)民(みん)［商人・職人］の三階層に分けられている。蘇軾の先祖は商人であったと推測されているが、蘇軾自身がそのことを明確に記したことはない］

【補足】［先の墓誌銘には蘇軾の曾祖父までの名が挙げられていた。それ以前の人々については父の蘇(そ)洵(じゅん)が書いたものが残っている。以下に蘇洵の二つの文章の部分的な訳を掲げる。唐(とう)末(まつ)から五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時(じ)代(だい)の混乱期を経て貴族の時代が完全に終わり、新たに勃興してきた宋(そう)代(だい)士(し)大(たい)夫(ふ)は次第に自己意識に目覚め、このころから自己の出自を調査して系図を作成することが行われるようになり、蘇洵がその先鞭を付けたとされている］

【訳文】

蘇(そ)洵(じゅん)：『蘇(そ)氏(し)族(ぞく)譜(ふ)引(いん)』

この「蘇氏族譜」は蘇氏の一族の系譜を（表にして）示すものである。

蘇氏は（太古の五(ご)帝(てい)の一人である）高(こう)陽(よう)から、天下に広まったものである。唐(とう)の高(こう)祖(そ)皇帝の時代に、蘇(そ)味(み)道(どう)が眉(び)州の知事となり、そのままその地で亡くなると、息子の一人が眉州に留まった。それが眉州の蘇氏の始まりである。

この「譜」の記載がそこにまでは及んでいないのは、「親(しん)」［親族としての近しい関係］がもはや尽きてしまっているからである。どうして「親」が尽きたところにまで記載が及ばないのかというと、「譜」は「親」のために作るからである。

この「譜」では、子(こ)［旧中国の通例として男子のみ］としての名は書いてあって、孫としての名は書いていない［孫は、子のまた子として譜面には表記されている］。どうしてかというと、世代をはっきり示すためである。私の父から私の高祖［四代前］まで（の直系の先祖）については、官に仕えたか仕えなかったか、誰を娶ったのか、享年は幾つで、何日に亡くなったのかを記してあって、他の人についてはそうしたことは何も記していない。どうしてかというと、この「譜」は私の出自を詳しく見るために作ったものだからである。私の父から高祖まで（直系の先祖）については「諱(いみな)は某(なにがし)」と断り書きを入れて記し、他の者はすべて直(じか)に名を書いている。それは私の出自を尊ぶからである。「譜」は蘇氏のために作るといいながら、私の出自だけを詳しく、しかも尊ぶのは、私が「譜」を作ったからである。

嗚呼(ああ)、私の「譜」を見る者は、孝悌の心が自然と湧き上がってくるであろう。情は「親」から現れ出て、「親」は喪に服す在り方によって表現される。喪には最も近い者の「衰(すい)」から始まって「緦(し)麻(ま)」までの五段階があり、その先になるともう喪に服すことはない。喪に服さなくなれば「親」が尽きたことになり、「親」が尽きれば「情」も尽き、「情」が尽きれば喜びごとがあっても祝うことはなく、憂いがあっても弔うことはない。喜びごとがあっても祝うことがなく、憂いがあっても弔うことがないというのは、つまりそれは「途(と)人(じん)」［赤の他人］ということである。我々が会って「途人」と見るような者も、その初めにおいては兄弟であったのかもしれない。兄弟もその初めは一人の父であった。一人の身から分れていつしか「途人」になってしまうというのは、悲しいことではなかろうか。私がこの「譜」を作ったのはこのような思いからである。

分かれて「途人」に至るのは（必然の）「勢い」である。「勢い」は我々はどうすることもできない。幸いにしてまだ「途人」に至らない間は、忘れ去らないでいるようにすれば十分なのだろう。嗚(あ)呼(あ)、私の「譜」を見る者は、孝悌の心が自然と湧き上がってくるであろう。このことを詩としてここに示しておこう。

吾父之子、（吾が父の子）

今為吾兄。（いまそれは我が兄である）

吾疾在身、（私の身に病があると）

兄呻不寧。（兄は心配して安らかではいられない）

数世之後、（数世代を経ると）

不知何人。（互いに誰であるのか知らなくなる）

彼死而生、（誰が死のうが生まれようが）

不為戚欣。（悲しむことも喜ぶこともない）

兄弟之親、（兄弟として親しむときは）

如足如手、（互いに手のようであり足のようである）

其能幾何。（それはどれほどの間のことなのか）

彼不相能、（そうであるのに兄弟で親しむことができないとしたら）

彼独何心。（それはどのような心によるものなのか）

【補足】［（1）この文章は、蘇(そ)氏の6代にわたる系譜を表にした「譜」に添えた序文で、「譜」の凡例を記している。それがかなり理屈っぽいところに蘇(そ)洵(じゅん)らしさがよく表れている。この凡例がその後の系譜作りの一つの典型とされたようである。（2）蘇氏は太古の高(こう)陽(よう)から始まったとあるのは、様々な姓の淵源を太古に求めることが昔から行われていて、そのなかの一説に拠ったものである。眉(び)州の蘇氏の始まりが唐(とう)代(だい)の蘇(そ)味(み)道(どう)の息子であったというのは事実かどうかはわからない。自分の先祖を歴史上の著名人に結び付けたがるのはよくあることだ。蘇洵は自力で調査したのだが、系譜作りを商売にする者も現れ、そうなると立派な御先祖様と巧みに繋ぎ合わせることが系譜職人の腕の見せ所ということになる。（3）細かいことだが、普通は「蘇(そ)氏(し)族(ぞく)譜(ふ)の序(じょ)」と書くところを、ここでは「蘇氏族譜の引(いん)」となっている。それは、蘇洵の父の名が序(じょ)で、あからさまに父の名を記すのは不敬になるので、それを避けて同義語でなる「引」を使ったためである。蘇軾も「序」の字を避けて「叙(じょ)」と記すことが多い］

【訳文】

蘇(そ)洵(じゅん)：『族(ぞく)譜(ふ)後(こう)録(ろく)』

……［初めに、高(こう)陽(よう)から始まる蘇族の壮大な系譜とそれに関連する考察が記される。特に、趙(ちょう)州に移り住んだ蘇族から蘇(そ)味(み)道(どう)が出て、蘇味道が眉(び)州にきたことによって眉州の蘇族が始まったことが詳しく記述される。このことから、蘇軾は自身のルーツは趙州にあるということもある］……

蘇味道から吾が高祖に至るまで二百年余りで、三十年を一世とすると七十世余りある。七十世余りの間には賢者もいれば不賢者もいて、不賢者のことは時間とともに消え去って聞こえなくなり、賢者としていまも七人だけがその名が聞こえている。七十世余りで賢者がわずか七人しかいなかったというわけではなく、その他の者は単に名が伝わらなかったのだろう。これまでに「譜」を作ってこなかったことによる過ちである。だから私はここに「譜」を作り、また聞いているところの先人の行いを以下に記しておく。

私はかつて吾が先(せん)子(し)［蘇洵の父の蘇(そ)序(じょ)］からこのように聞いた。

「私がまだ子供だったときに我が父は亡くなってしまったので、父から先の世のことについて聞くことができなかった。これまでに耳にしてきたのはおよそ次のようなことであった：

蘇氏は眉州に遷り、そして眉(び)山(ざん)に住むようになった。高祖は蘇(そ)��(けい)で、詳しいことはもうわからない。曽祖父は蘇(そ)釿(きん)で、ここからは少しわかることがある。蘇釿は黄(こう)氏を娶り、男気があることで知られていた。子［男子］が五人いて、吾が祖父の蘇(そ)祜(こ)が最も下で、最も賢く、しっかりとした才覚があって機敏であるといわれていた。吾が祖父は唐(とう)の哀(あい)帝(てい)の天(てん)祐(ゆう)二年［905年］に生まれて、周(しゅう)の世(せい)宗(そう)の顕(けん)徳(とく)五年［958年］に亡くなった。ほとんど五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時(じ)代(だい)を生きて、亡くなって一年後に、宋(そう)の太(たい)祖(そ)皇帝が即位されたのであった。その時代には王(おう)氏と孟(もう)氏が前後して蜀(しょく)の地に割拠し、蜀で才能がある者、あるいは人格者は王氏や孟氏は輔(たす)けるに足りないとして、敢えて出仕する者はいなかった。未熟な軽薄者だけが仕えたのだった。王氏も孟氏も亡ぶと、宋の太祖皇帝の号令を受けるようになった。吾が祖父はまだ宋の世になるのを見なかった。吾が祖父は李(り)氏を娶った。李氏は唐の皇室の末裔である。唐の太(たい)宗(そう)皇帝の子の曹(そう)王(おう)の李(り)明(めい)の子孫で李(り)瑜(ゆ)という者がいて、遂(つい)州の長(ちょう)江(こう)県の役人となり、失官した後に眉州の丹(たん)稜(りょう)に住むようになった。吾が祖母の李氏は毅(つよ)く厳しい人で、豊かな知恵があり、家の中は肅(しゅく)然(ぜん)としていた。あたかも竇(とう)太(たい)后(こう)［唐の高祖の妻］や柴(し)氏(し)主(しゅ)［唐の高祖の娘］の烈しさを受け継いだかのようであった。子が五人あり、その性格はそれぞれに違い、宗(そう)善(ぜん)、宗(そう)晏(あん)、宗(そう)昪(へん)は平凡で可もなく不可もなく、五男の宗(そう)晁(ちょう)は軽薄で手のつけられない向こう見ずであった。四男の吾が父の蘇(そ)杲(こう)が最も善行を好み、父母に仕えて極めて孝であり、兄弟を愛して篤実で、友人に対して篤く信義を守った。郷里の人は誰もが蘇杲のことを敬った。吾が父は宋(そう)氏を娶った。宋氏は上には謹んで仕えて極めて孝であり、下には非常に厳しかった。子が九人いたが、私だけが成長できた。吾が父は家業を善く治め、余財があった。このころは蜀を統治していた孟氏が破れたばかりで、孟氏政権の高官たちは蜀の田地を棄てて宋朝のもとに走ったのだが、吾が父はそのようなことはしなかった。吾が子孫に累が及ぶのを恐れたのである。二頃(けい)に満たないわずかな土地を耕し、粗末な家に住んでいた。人に施すのを好み、『財産がありながら施さないでいると、きっと他人によって陥れられるであろう。施しをしているとことが人に知られたなら、きっとよい評判が得られるようになるだろう』と、言っていた。つまり、施しをしつつ悪を咎めていたのである。一族の叔父の蘇(そ)玩(がん)が重罪を犯し、捕まりそうになったことがあった。叔父は『獄に入れられて死んだなら、家族のことで兄上を煩わせることになります。我が刑罰がどのように定まるのかを見て、もしも軽くすみそうなら獄に肉を差し入れしてください。もしも重いようでしたら野菜を入れてください。野菜がきたなら、私は食べないで死にます』と、言った。蘇玩は釈放されると、『私には他に兄弟がいないわけではないのですが、命を託せるのは兄上だけです』と言った。吾が父が亡くなったときに、母は私の手を執って、『あなたにあなたの兄弟をすべて任せます』と、言った。私は笑って、『賢者であるなら兄弟であろうがなかろうがともに生きるでしょうし、賢者でなければ兄弟であっても見捨てるだけです。任されましても、ただ善く教え導くことしかできません』と、言った。吾が父が亡くなったのは淳(じゅん)化(か)五年［995年］で、五十一歳であったから、生まれたのは晋(しん)の少(しょう)帝(てい)の開(かい)運(うん)元年［994年］であったのだ」

以上が私が先子［蘇序］から聞いたことである。

父の諱は序、字は仲(ちゅう)先(せん)、開(かい)宝(ほう)六年［973年］に生まれ慶(けい)暦(れき)七年［1047年］に亡くなった。史(し)氏を娶り、子は三人。長男は澹(たん)、次男は渙(かん)、三男がすなわち洵である。父は若くして父親を喪い、善行をなすことを喜んだけれども、書物を読むことは好まなかった。晩年に至って詩をつくるようになり、見たままを詠んで、たちどころに作り、十年ほどの間に数千篇となった。上は朝廷や郡県のことから、下は村で子孫が農地で働き漁をするありさままで、みな詩にしたのだった。その詩は工(たくみ)ではなかったけれども、物事の表裏を貫いて、人にはっきりとわからせるものがあった。父の本性は素朴で、偉ぶるところがなく、己のためより人のために物事をなした。人との交わりでは、貴賤の分け隔てがなく、誰もが歓んだ。士(し)大(たい)夫(ふ)に会うときは身を曲げて十分に敬ったので、それを見て人は諂(へつら)っていると思ったが、農地で老人と会うときにもまったく同じようにするので、その後は誰も怪しまなくなった。顔の外に現わすことはなかったが、心の中では人の軽重を甚だ厳しく見ていた。村の中では馬に乗らずに、「わしよりひどく老いた者が歩いているのに、わしが馬に乗ったら、会わせる顔がない」と、言っていた。おんぼろの衣を着て、粗末な物を食べて、恥とはしなかった。人々がいやがることを自身で務めて行った。『老(ろう)子(し)』を学んだことはなかったけれど、その教えに符合していた。家に居ても家のことには関わらないで子供たちに任せていた。一族のなかで問題を起こした者があると、その者のために心を尽くし、何度でも厭わなかった。凶作の年に田を売って飢えた人々を救ったことがあり、豊年になって人々がそれを弁済しようとすると、「わしは自分のために売ったのだ。そなたたちとは関係ない」と、言って、ついに受け取らなかった。人知れずいろいろなことをして、世間で評判になることはなかった。何かをしてかなり経ってから、人々に知られることがあった。古の隠れた君子でも及ばないものであった。息子の蘇渙が官員となって大(だい)理(り)評(ひょう)事(じ)を授かった。妻の史氏は眉州の大家の出で、心優しく、穏やかな人であった。姑の宋氏は非常に厳格であったけれど、史氏はいつも宋氏を喜ばせ、一家を和やかにさせた。父よりも十五年早くに亡くなり、蓬(ほう)莱(らい)県(けん)太(たい)君(くん)を追封された。

私はこのように聞いている。唐朝が衰えてからは賢人は山や野に隠れ、五代十国時代の乱れを避けた。その後、偽政権［王(おう)氏と孟(もう)氏］の国があい継いで亡び、聖人［宋(そう)の太(たい)祖(そ)］が出て天下は一つになったのだが、かつて隠れた人々の子孫はなおその父祖のもとから去って新しい天下に出て仕えようとはしなかった。それで立派な才能がある者でも世に顕れることはなかったのである。宋朝の教化が天下に広く及んで風俗が変化するようになると、深山窮谷の中にいた者たちの子孫は日に向かように初めて官に仕えるようになった。その才気は先人の実直で真心があるのには及ばないにしても、重い任務に耐えられることは間違いないのである。このような先人の行いが隠れて聞こえなくなってしまうのを私は深く恐れ、ここにその万分の一を記して、これを家に保存して、子孫に示すものである。

至(し)和(わ)二年［1055年］年九月一日。

【補足】［（1）この文章で注目すべきは、一般庶民の普通の人生にも高い価値があるとして、蘇(そ)洵(じゅん)が祖父や父の日頃の振る舞いを記していることである。これもまた宋(そう)代(だい)士(し)大(たい)夫(ふ)の自意識の高まりを示すものであるのだろう。（2）蜀(しょく)の地に宋朝の支配が及んだころの変化に蘇洵の先祖がどのように対応したのかということが記されている部分は、宋朝に対して相当に配慮した記述になっている。かつて蜀を支配していた孟(もう)氏の政権は民衆に対して決して仁政を施したわけではなかったけれど、宋朝が蜀を支配し始めたときの暴力的な統治に比べたら遥かにましであった。蜀の民は、宋朝支配のもとでしばし苦難の歳月を過ごさねばならなかったのである。それについては後の文章で見ることになる。（3）最後にある至(し)和(わ)二年九月一日の日付は、先の年譜で見たように、蘇洵が息子を連れて都に旅立つ前年のことで、蘇洵はいよいよ世に顕れ出る決意を固めつつあったときで、そうした思いもこの「族譜」には込められているのである］

■【01-2-002】衆妙堂記

【解題】これは遥か後年の元(げん)符(ぷ)元年［1098年］に記した文章。蘇軾は8歳のときに、父に連れられて張(ちょう)易(い)簡(かん)の「小(しょう)学(がく)」［寺子屋］に入ったことがこの文章の冒頭に記されている。

【訳文】

眉(び)山(ざん)の道(どう)士(し)の張(ちょう)易(い)簡(かん)は「小(しょう)学(がく)」で教え、いつも百人ほどの生徒がいた。私も幼い頃にその一人であった。学校は天(てん)慶(けい)観(かん)の北(ほっ)極(きょく)院(いん)にあり、三年ほど張先生について学んだ。

私はいま海(かい)南(なん)島(とう)に流され、ある日、夢に学校に行き、昔のままの張先生とお会いした。

庭も部屋も掃き清められていて、先生は誰かが来るのを待っているかのようだった。

「老先生がじきやってこられるのだ」

張先生はそう言った。

すると、二人の者を連れて老先生が現れた。二人は『老(ろう)子(し)』の言葉を朗唱した。

「玄(げん)のまた玄、衆(しゅう)妙(みょう)の門……」

かつて私も張先生の学校で同じように朗唱していた。

私ははたと思った――「玄(おくふかさ)」のまた奥に「玄(おくふかさ)」がある。そのまた奥の奥にものの根源、「妙(たえなるもの)」がある。その「妙(たえなるもの)」からたくさんの「妙(たえなるもの)」が出てくる。だから、「衆(しゅう)妙(みょう)の門」という。ならば……

私は張先生に尋ねた。

「妙(みょう)とはものの根源、そうならばそれは一(いち)であるのではないでしょうか。一でありながらどうして衆(しゅう)を容れられるのでしょうか」

張先生は笑って言った。

「一だけではつまらんだろう。つまらなくては妙(たえなるもの)ではるまい。本当に妙(たえなるもの)なら、たくさんあったほうがよくはないかな」

張先生がそのように言うと、二人の者の一方は水を撒き、一方は草を刈り始めた。

「おのおの一つの妙(みょう)を見せてくれるであろう」

張先生がそう言ったので、私は注視していると、二人の者は手をものすごい勢いで動かし、庭の内で風雨が渦巻いた。たちまち雲が散じ、霧が晴れると、見たこともない花々があたり一面に咲き乱れ、無数の鳥や虫が輝く姿を現した。

私は驚き、

「これが衆(しゅう)妙(みょう)なのでありましょうか」

と、言った。

一人の者が言った。

「何のこれしき、あなたはまだ真の妙を見ていない。我等の技はまだまだ道半ばで、これより先は空(くう)の空(くう)へと入り行き、そこは行こうと思って行けるところではない」

もう一人の者が言った。

「あの蝉を見るがよい。蝉は木に登って鳴き続けて止むときがない。蝉は木に登ろう、そして鳴こうと思ったから、あのようになったのではない。地中の闇にいたときには、見ることもなく聞くこともなく、飢えることもなく渇くこともなく、ぴくりとも動かずにじっとしていた。あるとき忽然と地上に現れ出て、あのようになった。いかなる聖人の知恵も及ばず、いかなる名工の技も及ばない」

すでに姿を消していた老先生の後を追って二人の者は庭から出て行こうとした。

茫然としている私に向かって張先生は言った。

「まあ、心を落ち着けるがよい。老先生がまたこられたときにさらに問うてみよ」

すると二人の者が振り返って言った。

「老先生も御存知ではない。蝉に問うべきである。養生と長生が得られるであろう」

――夢はここで終わった。

広(こう)州に道士の崇(すう)道(どう)大師の何(か)徳(とく)順(じゅん)がいる。道を学んで妙に至る者である。堂を作って、「衆妙」の額を掲げた。海南島に手紙が来て、そのことについて書いてほしいとの依頼があった。私は書くだけの暇がなく、ただ夢の中の話を記して、崇道大師への返事とするものである。

元(げん)符(ぷ)元年三月十五日、蜀(しょく)人の蘇軾が書く。

【補足】［（1）この訳文は原文からかけ離れた極端な意訳である。張(ちょう)易(い)簡(かん)先生との問答には訳者に理解し難いところがあり、当て推量も交えて、とりあえず日本語訳としては読めるかたちに整えた。「自由訳」といえ許容されうる自由の幅を超えるものであるかもしれない。そのようなものを以下では「ずっぽ訳」［当てずっぽうの訳］と称し、その度合いがひどい場合に断りを入れるようにする。（2）8歳の蘇軾は張易簡の学校でまずは『老(ろう)子(し)』を朗誦し、『論(ろん)語(ご)』の「子(し)曰(のたまわ)く……」を唱えていたのではなかった。儒(じゅ)教(きょう)よりも先に道(どう)教(きょう)の経典に親しみ、蘇軾の精神の基底を構成する重要な要素となった］

■【01-2-003】范文正公文集叙

【解題】張(ちょう)易(い)簡(かん)の学校で、ある日、蘇軾の進路を決定づけるような印象的な出来事があった。そのことについて、元(げん)祐(ゆう)4年［1089年］に蘇軾が編集した范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)の文集の序文の中で書いている。

【補足】［范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)の名はすでに見ているが、ひとことでいうと、宋(そう)代(だい)の士(し)大(たい)夫(ふ)のあるべき理想像を体現してみせた人物であった。父はあまり地位の高くない官員で、范仲淹が2歳のときに任地の官舎で亡くなった。残された母子はたちまちその日の暮らしにも困るようになり、母は生きるために朱(しゅ)文(ぶん)翰(かん)と再婚した［当時は女性の再婚を戒めるような狭苦しい道徳律は一般的ではなかった］。范仲淹は朱家の子として、実の父のことは知らずに育てられたが、他の兄弟とは何かと差別されたことから自身の出生に疑問を持ち、范氏の子であると知って、何としてでも科挙に合格して立派な官員となって范の家を再興しようと決意した。それは20歳のころで、そこからの苦学ぶりは有名で、僧舎に寄宿して一日を一碗の粥とわずかな野菜と塩だけで過ごし、寝る間も惜しんで勉強したのだった。27歳で科挙に合格して官界に入り、29歳で范姓に戻った。科挙に合格すれば、出自によらずに国家有用な人材として活躍できるという宋代の人々が抱く願望を実現したのだった。その後、范仲淹は国家と人民のために誠実に職務に勉め、37歳のときに低い位にありながら国家の抱える問題点を指摘する論文を朝廷に提出して人々を驚かせ、39歳のときにも国政の早急な改革を訴える文章を宰相に提出した。以降、常に堂々と物を言い、言説通りに行動し、昇進と左遷を繰り返した。景(けい)祐(ゆう)3年［1036年］に当時の宰相呂(りょ)夷(い)簡(かん)を激しく攻撃して左遷され、それを弁護した欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が夷(い)陵(りょう)に流された。その後で宋朝は夏(か)国との戦争で苦境に立ち、范仲淹を左遷先から西北の前線に移し、事後処理に当たらせた。范仲淹は宋の防衛体制をみごとに立て直したのだが、朝廷の命令に従わない独断専行が多いとして、職務を外された。慶(けい)暦(てき)3年［1043年］、范仲淹は副宰相になり長年抱いてきた国政改革のプランを実行に移した。しかし、保守派の強烈な反撃に遇い、皇帝の改革熱があっさり冷めてしまったために、翌年には范仲淹は朝廷から去らなければならなかった。その後は、地方の知事を歴任し、様々な事績を挙げて、64歳のときに病を押して新しい任地に赴く途中で亡くなった。蘇軾が17歳のときである］

【訳文】

慶暦(けいれき)三年［1043年］のこと、私は八歳で土地の学校に入った。間もなく、ある文士が都から石介(せきかい)の作った『慶暦(けいれき)聖徳(せいとく)の詩』を携えてやってきた。学校の先生がそれを読んでいるのを私は横からのぞき見た。

それが現在特に優れる十一人を讃える詩であると聞いて、

「どのような方々なのでしょうか」

と、私は先生に尋ねた。

「君のような子どもにはまだわかるまい」

と、先生は言った。

「それが天の上の人であるのならわからないということもあるでしょう。でも、同じ地上の人であるのならわからないことはないはずです」

私の返答に先生は驚き、その詩を読んでくれた。そして、

「このなかでも韓(かん)�g(き)、范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)、富(ふ)弼(ひつ)、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)の四人は人傑である」

と、言った。

このときはまだきちんと理解できたわけではなかったが、四人の名ははっきりと記憶に刻まれた。

二十二歳のときに［科挙に受験するために］都に行くと、范仲淹はすでに亡くなっていて、欧陽脩が記した墓誌を読み、私は、

「その人のあることを知って十五年、しかし、ついにお顔を見ることがかなわなかったのは運命なのだろうか」

と、嘆き悲しんだ。私は科挙に合格し、初めて欧陽脩に会うことができ、その紹介で韓�gとも富弼とも会えた。三人は口を揃えて、

「残念なのは君が范仲淹に会えなかったことだ」

と、私に言った。

それから三年後に私は許(きょ)州で范仲淹の次男の范(はん)純(じゅん)仁(じん)に会い［これは母の喪が明けて都に上る途中のこと［→作品番号01-2-040］］、また六年後に都でその弟の范(はん)純(じゅん)礼(れい)に会い、さらに十一年後に末の弟の范(はん)純(じゅん)粋(すい)と同僚になった。皆と会ってすぐに旧知の仲のようになった。

私は范兄弟から父上の遺稿を託され、文集を編集して、それに序文を添えてほしいと頼まれた。それから十三年が経っていまようやくその約束を果たせるに至った。

范仲淹の功績と徳は、その文章があって初めて世に知れるのではない。その文章は、序文があって初めて世に遺されるのではない。それでも文集を編集し序文を記すのをあえて辞退しないのは、八歳で范仲淹を敬うことを知って四十七年になり、他の三傑とは交わりを結ぶことができたのに、范仲淹一人とは知り合えなかったのを平生の恨みとし、その人の書いた文章の脇に我が名を掲げることでその人の門下生の最後の一人であるかのようになれるのならば、ついに願いを叶えたのに近かろうかと思うからだ。

古(いにしえ)の立派な人々が天下のために貢献した事績を見ると、それを為しとげた基本的な姿勢は、国に仕えてから学んで得たものではなく、庶民のなかで暮らしていたときからすでに身に備わっていたものであった。漢(かん)の劉(りゅう)邦(ほう)が天下を平定するのを助けた韓(かん)信(しん)は、劉邦と会った最初のときすでに遠い見通しを持っていたし、諸(しょ)葛(かつ)孔(こう)明(めい)も草庵に訪ねてきた蜀(しょく)の劉(りゅう)備(び)と初めて会ったときすぐに何をすべきかを語り、終生それを貫いた。人に尋ね、聞いたことを試してみて、成功したらよしとするようなことではなかったのである。

范仲淹は母上が亡くなって喪に服していた間に、天下のありさまを見て、いかにして民衆に泰平をもたらすかをつらつら考え、［39歳のときに］一万字に及ぶ文章を書いて時の宰相に送った。天下の人々はその文章を読んだ。後に范仲淹が国政の改革に取り組んで副宰相にまでなってしたこと、あるいは平生に為したところのものは、皆この文章に記されていた通りであった。

范仲淹の遺稿二十巻をここに編み、詩賦は二百六十八、文章は百六十五に及ぶ。これらを見れば、范仲淹が仁義礼楽忠信孝悌を思うのは、飢えて食するのを思い、渇いて飲むのを思うのと同じで、片時も忘れようとしてもできなかったことであったとわかる。その心は火のように熱く、その情は水のように潤い、天性からしてそのようであった。慰めに、あるいは戯れに、もしくは瞬時に作った詩文であっても、その天性から出たものであるから、天下の人々はその真心に打たれ、争って師として尊ぶのである。

孔(こう)子(し)は、

「徳ある者には必ずしかるべき言葉がある」

と、言った。それはしかるべき言葉が初めにあってその人の口から出てくるのではない。徳のある人の口が発するからしかるべき言葉となるのである。

また『礼(らい)記(き)』には、

「私は戦えば必ず勝つし、子孫が私を祭るなら福を受けるだろう」

と、ある。これは戦いの能力について言ったのではない。礼に基づき、徳をもって戦うなら、必ず勝つことを言ったのである。范仲淹は戦う人生であったが、その怒りは徳から現れたものであった。

元(げん)祐(ゆう)四年［1089年］四月二十一日。

【補足】［この序文に記されている通り、8歳の蘇軾は、韓(かん)�g(き)、范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)、富(ふ)弼(ひつ)、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)の4人の名を聞き、いつかその4人とともに天下のために働きたいと思った。范仲淹が手掛けた改革は頓挫し、後の課題として残され、蘇軾は自身がその担い手になることを志したのだった。范仲淹のように自身の信念を貫く生き方への憧れは、先の墓誌銘で見た范(はん)滂(ぼう)を読んで奮い立った［→作品番号01-1-042］ことと共通している。なお、蘇軾が読んだとここに記されている欧陽脩による范仲淹の墓誌は、宋代墓誌類の傑作である。蘇軾も幾つかの墓誌類を書き、後に見ることになるが、人を感動させる力は欧陽脩によるものに遥かに及ばない。范仲淹が後々まで偉大な「忠臣」として仰ぎ見られたのはその墓誌によるところが大きいといっても過言ではないだろう］

■【01-2-004】史経臣兄弟

【解題】蘇軾が10歳のときに父の蘇(そ)洵(じゅん)は史(し)経(けい)臣(しん)とともに長(ちょう)安(あん)を経由して都に行き、翌年に特別試験の制(せい)科(か)を受け、2人とも不合格となった。史経臣がどのような人物であったのか、蘇軾は「豪(ごう)偉(い)の人」であったと評している。これは蘇軾が50歳を超えて都にいたころに書いたと推定されている文章。

【訳文】

我が父の友人であった史(し)経(けい)臣(しん)は、字(あざな)は彦(げん)輔(ほ)、眉(び)山(ざん)の人であった。我が父と制(せい)科(か)を受け、蜀(しょく)中に名を馳せ、二人は世に知られる人物となった。史(し)��(こう)、字(あざな)は子(し)凝(ぎょう)はその弟である。史��は人を圧倒する才気があったが、徳に薄かった。史経臣の才気は弟に劣るものではなく、節義に篤かった。博識でよく弁じてよい文章を書き、『思(し)子(し)台(だい)の賦(ふ)』は最も優れている。その作品は、漢(かん)の武(ぶ)帝(てい)と晋(しん)の恵(けい)帝(てい)は天資が遠く隔たっていたけれども、惑いから誤ったのは同じであったことを詠んだものである。史経臣はついに官に仕えることなく六十歳で亡くなった。子がいなかったので、我が父は葬儀を行い、一族の者をその跡継ぎとして立て、いまは農夫となっていて、特に評判を聞くことは無い。史��も子がなかった。悲しいことである。

【補足】［（1）この短文を書いた10年ほど後に、蘇軾はここに挙げている史(し)経(けい)臣(しん)の『思(し)子(し)台(だい)の賦(ふ)』を復元することを試みている。その序文に、上の短文とほぼ同じことを記し、弟の史(し)��(こう)は科挙に合格して官員になったことを付け加え、「『思子台の賦』は若いときに読み、大意は記憶していても字句は忘れてしまったので、息子の蘇(そ)過(か)に命じて失われた賦を復元させた」と書いている。（2）史(し)経(けい)臣(しん)が亡くなったのは、嘉(か)祐(ゆう)2年［1057年］の終わりのころで、蘇洵は葬儀を行い、祭(さい)文(ぶん)［亡き人の霊に捧げる韻文］を作り、後継者を定め、友人のためにできる限りのことをしている］

■【01-2-005】却鼠刀銘

【解題】これは蘇軾が10歳のころに作ったと伝えられている作品。鼠を退治する刀に寄せた銘文である。1句4文字の韻文で作られている。訳者には解し難いところがあるので、大意を取って訳す。

【訳文】

ここに鄙(ひな)びた男がいて、

ひどく大切にしている刀がある。

長さは一尺にも満たないので、

剣とか鉞(まさかり)とかにはならない。

環を連ねたような模様があって、

上から下までとりまいている。

よく磨くとその模様が現れ、

手入れをしないと見えなくなる。

この刀を得てからは、

いつも随えて持っている。

この刀があると、

なんと鼠の害をたちまち取り除いてくれる。

鼠は垣根に穴を開け、

建物や部屋に侵入し、

すばやく床を跳びまわり、

一日中ちゅうちゅう鳴いていた。

怒鳴っても去らずに、

棗(なつめ)も栗も齧ってしまい、

杯やら瓶やらを舐めまわして、

ひと粒残さず食べてしまうのだった。

どこへでも走って行き、

壁も登ってしまう。

鼠の家には二つの門があり、

こちらからひっこむと、あちらから出て、

身が軽く、ずるがしこく、

とても捕らえることができなかった。

吾が刀が家にくると、

なんと鼠は跡形もなく消え去った。

ひどいものは集まって妖しいことをし、

昼は群れをなして出てきて、

互いに見合って騒ぎ、

そこらで舞い踊り、

家の主人とも混じってくらしていた。

猫はそれを見ても噛まないので、

鼠は子を育て、

我がもの顔で家を滅茶滅茶にしてしまった。

吾が刀を磨いて、

水のように澄み切ると、

たちまち肅然(しいん)として鼠の痕さえなくなった。

このようなことがあるとは、

初めは信じなかったのだが、

十日経っても驚くべきことにそのままだった。

猫は鼠を捕らえるのを得手としていて、

夜も昼も伺い見て、

身を構えて目にするや走って、

首を砕いて腹を破るのであるが、

それでもついに鼠は去らなかった。

ただこの一尺の刀だけが、

爪もなく牙もないのに、

どうしてできたのか。

鼠はどうして刀を畏れて、

連れ立って逃げたのだろうか。

ああ、この刀さえあれば、

何もしなくても、何も言わなくても、

労せずして鼠を遠ざけられるのである。

【補足】［祖父の蘇(そ)序(じょ)はこの銘を見て大いに誉め、佳(よ)い紙を選んで写させ、装飾を施して壁に掲げたという］

【補足】［蘇軾が祖父の蘇(そ)序(じょ)をどのように見ていたのか。後年、祖父について次の訳文に示すように語ったと、李(り)廌(たい)の随筆『師(し)友(ゆう)談(だん)記(き)』は伝えている。李廌［字(あざな)は方(ほう)叔(しゅく)］は、蘇軾と同じ年の科挙に合格した李(り)恂(じゅん)の息子で、李廌自身も蘇軾と交流があったので、『師友談記』が蘇軾について伝えることは信憑性が高いと考えてよい。李廌は、蘇軾が科挙の試験委員長を務めたときに受験して不合格になったことは後に見るが、以下の記録はそのころのことである。なお、李廌は3年後の試験でもやはり不合格となり、官に就くのをあきらめ、鬱々として50歳で亡くなったという］

【訳文】

李(り)廌(たい)：『師(し)友(ゆう)談(だん)記(き)』

東(とう)坡(ば)［蘇軾］は新たに東(とう)闕(けつ)［都の官庁群の東側］の第(たてもの)に遷ったので、私は李(り)之(し)儀(ぎ)や秦(しん)観(かん)［2人とも蘇軾の弟子］とともに会いに行った。すると東坡は言った。

「今日、五月十一日は祖父の命日に当たります。祖父は非常に英(えい)偉(い)な人で、人を超えた才気があり、書物は読まなかったものの、甚だ優れた見識がありました。長年、郷里の郊外に住み、畑は多くはなく、そこにはもっぱら粟を植えていました。そして田から取れた米も粟に換えて倉に蓄えていました。どうしてそうするのか知る者はいませんでした。こうして年々蓄えを増やしていって、およそ四千石ほどにもなったときに、眉(び)州は大飢饉に見舞われました。祖父はすぐに蓄えていた粟を放出して、一族の者から外戚の者、さらには小作人や村の貧しい者に至るまで順にそれをわけてやり、誰も凶作の害を受けずにすんだのでした。ある人が、『どうして粟なのでしょうか』と尋ねると、祖父は『粟は堅くて長く保存できます。だから多く蓄えてしかるべきときに備えておけるのです』と答えたのでした。また、家のまわりにはどこも芋類を植えて、たくさん収穫できると、薪や藁を被せて蓄え、食が乏しくなって人々が困ったときに、大きな甑(こしき)で蒸して、門の外に並べ、ほしいと思う者に自由に取らせました。それで飢えずにすんだ者がいたのでした」

また、東坡はこのようにも言った。

「祖父は酒が好きで、村の老人たちと車座になって、高らかに歌いつつ大いに飲んだものです。我が伯父［蘇(そ)渙(かん)］が科挙に合格したときに、同時に親戚の程(てい)舅(きゅう)も合格したとの報せが届きました。程の家は非常に富み、我が蘇家とは姻戚関係となっていて、子がともに官員となったのでした。程の家では、新たに官員となる者を迎えて祝宴を開く用意を始め、祖父に、『そちらではどのような準備をされているのですか』と、尋ねてきました。祖父は、『息子から手紙がきて、必要な物は全て用意すると書いてありました』と答えて、平然としていました。ある日、いつものように祖父が大いに酔っていると、そこに役人がきて、官員が着る衣服や使う諸道具等一切を詰めた嚢を届けたのでした。祖父は頭に指先ばかりの小さな冠を載せていただけの格好で、酔っぱらったまま役人を迎え、あぐらで手紙を読み、それをまた嚢に入れて担ぎ、食べ残しの牛肉やら何やらをまた別の囊の中におさめ、村の子供に担がせて家へと還りました。祖父が驢馬にまたがって町へと戻ってくると、町の人はもうそのことを耳していて、なかには町の外に出て迎える人もありました。人々は二つの囊を担った祖父を見て大いに笑ったのでした。程の家の主人はそれを聞いて、そのざっくばらんなありさまに渋い顔をしましたが、心ある人々は奇(めすらし)いことであると感じ入ったのでした」

【補足】［（1）上の記録の後半にあるように、祖父の蘇(そ)序(じょ)は飾り気のない素朴な田舎親父であった。それを、蘇軾は恥ずかしがるのではなく、むしろ誇らしく思っていたことがこの話から伺い知ることができる。（2）伯父の蘇(そ)渙(かん)が科挙に合格したのは、蘇軾が生まれる12年前である。科挙に合格した者は、一度故郷に帰って郷里の人々の祝賀を受け、改めて上京して官職に就くのが通例であった。科挙に合格するとは、現在でいえば、上級公務員試験にも司法試験にも合格した上に、オリンピックでメダルを獲得するくらいの快挙で、故郷ではお祭り騒ぎで合格者を迎えた。蘇渙と同時に合格者を出した程(てい)の家では、すでに合格者を輩出して財力もあったので、すぐに祝賀会の準備に取り掛かったのだが、蘇序は用意することなく［実情としては用意したくてもできない］、息子の帰りを待ったのだった。］

■【01-2-006】記里舎聯句

【解題】これは、蘇軾が十代の初めのころのことを、40年余り後に思い出して書いたもの。張(ちょう)易(い)簡(かん)の学校での出来事であったのだろう。

【訳文】

幼いときのこと、同郷の程(てい)建(けん)用(よう)、楊(よう)堯(ぎょう)咨(し)と我が弟とともに、学舎で「天(てん)雨(う)」の題で六言［一句が六文字］の聯句を作った。

程建用の句は、

「庭松偃仰如酔」［庭の松はまるで酔って伏せているかのよう］

楊堯咨はそれに続けて、

「夏雨淒涼似秋」［夏の雨は涼しくて秋のよう］

そして、私が、

「有客高吟擁鼻」［鼻を覆って風流人の声色を使って高く吟じる人がいる］

すると、弟は、

「無人共吃饅頭」［しかし、ここにはともに饅(まん)頭(とう)を食らう友さえもいない］

これを聞いて一同が笑い転げた。いまから四十年余り前のことだ。

【補足】［（1）程(てい)建(けん)用(よう)は蘇軾と同じ眉(び)州の人で、蘇軾よりも遅れて科挙に合格している。伯父の蘇(そ)渙(かん)と同時に合格した程(てい)舅(きゅう)の一族である。楊(よう)堯(ぎょう)咨(し)がどのような人物であったかは知られていない。（2）蘇軾の句は、他の二人と違ってわかりにくい。これは、謝(しゃ)安(あん)という南北朝時代の著名な文人の故事を用いて句を構成したものである。謝安は鼻が悪く、くぐもった声で詩を吟じたので、それを真似して鼻を覆って吟じるのがはやったという。故事を組み入れてユーモラスな句を作るのは蘇軾の得意とするところで、それはもう少年のころに始まっていたのである。（3）最後に蘇轍がひどく子供っぽい句を作ったので、皆は笑ったのであるが、蘇轍はたぶんまだ10歳にならないころであったのだろう］

■【01-2-007】天石硯銘

【解題】蘇軾は12歳のときに、地中から掘り出した石を天然の硯とし、その銘を作った。これはそのことを37年後に記した文章。

【訳文】

私が十二歳のときのこと、（眉(び)山(ざん)県の）紗(しゃ)縠(こく)行(こう)にあった宅地の隅で、子供等と地面に穴を掘って遊んでいたところ、珍しい石が出てきた。魚のような形で、表面がつやつやで、浅い碧(あお)色であった。表も裏も細かくきらきら光り、叩くとかんかんと音がした。試しに硯として使ってみると、うまく墨がすれて、水が貯まって残ることはなかった。

父は、

「これは天が生んだ硯である。硯としての徳が具わっていて、ただ形が十分ではないのだ」

と言って、私にくれて、

「これは、そなたの文字［文学ないし学問全般］が進む祥(しるし)であろう」

と言った。

私はこれを宝として使い、この銘を作った。

父上の言葉をいただき、

それに違えるようなことはしない。

徳を主とし、

あるものは形も完全である。

徳と形と、

どちらを取るのを願うのか。

形にとらわれてへつらう、

世間にはそういう例も多い。

元(げん)豊(ぽう)二年［1079年］秋七月、私は罪を得て獄に下され、流されて家族は離れ離れに、書物は散り散りに乱れた。翌年に黄(こう)州に至ってからこの硯を探したところ、見つからなかった。それでなくなってしまったのだと思った。元豊七年［1084年］七月、（罪を赦されて黄州を離れて）舟で進んで当(とう)塗(と)に至り、書物を収めてある箱を開くと、忽然とこの硯がまた出てきた。甚だ喜び、息子の迨(たい)と過(か)に渡した。硯を入れてあった匣(こばこ)はあまり工(たくみ)なものではないけれど、父上が手ずから硯を受けるところを刻み、職人に仕上げさせたものであるから、これはほかのものと換えてはならない。

【補足】［（1）蘇軾が12歳とは慶暦(けいれき)7年［1047年］で、その年の5月に祖父の蘇(そ)序(じょ)が亡くなり、制(せい)科(か)に落第した後で放浪の旅を続けていた父の蘇(そ)洵(じゅん)が久し振りに帰郷した。その父が、蘇軾の学業が成就する祥(しるし)として天が硯を与えてくれたとみたのである。父はこのときの帰郷をきっかけに試験によってではなく己の学術によって身を立てようとの決意を固め、家に籠って学問に専念するようになった。（2）硯を得手から数年後であろうか、蘇洵が息子の学業の進捗状況を確かめようとしたエピソードを、馬(ば)永(えい)卿(けい)の『元(げん)城(じょう)語(ご)録(ろく)』が伝えてくれている。『元城語録』は、元(げん)城(じょう)先生こと劉(りゅう)安(あん)世(せい)から馬永卿が聞いたことを書き留めたものである。劉安世は蘇軾より12歳下の友人で、蘇軾が最晩年に罪を赦されて海(かい)南(なん)島(とう)から大陸に帰還したときに、劉安世も同じように罪を赦されて帰還する途中で蘇軾と出遭い、2人はしばらく同道して日々に語り合った。あるとき蘇軾は60年近い昔のことを回顧して、以下に訳すようなことを話した］

【訳文】

馬(ば)永(えい)卿(けい)：『元(げん)城(じょう)語(ご)録(ろく)』

劉(りゅう)安(あん)世(せい)先生はこのように話された――

私は北へ帰るときに、東(とう)坡(ば)［蘇軾］と途中で遇い、それぞれの船が前後して進み、しばしば会って話し、間が三日もあくようなことはなかった。あるとき、東坡は少年のときにその父［蘇(そ)洵(じゅん)］とともに鄭(てい)公(こう)［富(ふ)弼(ひつ)］の『使(し)北(ほく)語(ご)録(ろく)』［富弼が北の遼(りょう)国に皇帝の使者として行ったときのことを語った記録］を読んだことを語った。『語録』を読み進み、鄭公が遼国の王に次のように説いたところに至った。

「兵(へい)を用いれば［つまり戦争をすれば］、士(し)や馬が失われ、国家はその損害を受けます。一方で、人臣は地位が上がったり褒賞を与えられたりして、利を得ます。ですから、貴国の大臣で用兵を勧める者は、自身のためにそれを計っているのであって、貴国にために計っているのではないのです。王様の明(めい)知(ち)によって利害の所在がどこにあるのかがおわかりになれば、きっと兵を用いたりはなさらないでありましょう」

三人［蘇洵、蘇軾、蘇轍］は、その言説が明白で、機微を突いていることに感じ入った。父は息子たちに向かって言った。

「昔の人で、同じようなことを言った者がいただろうか」

東坡は答えた。

「漢代の厳(げん)安(あん)が同じような趣旨のことを言っていますが、これほど明白ではありませんでした」

父は笑って同意した。

劉安世先生はさらにこのように話された――

諸先輩方は必ずこのようにして書物を読んだのである。学問は実際に役立つことを貴ぶのだ。そうしないのは腐れ儒者である。

漢(かん)の武(ぶ)帝(てい)のときに厳安は兵を用いることを諫める意見書を皇帝に差し出した。その主旨は次のようであった。

「いま南方の夷(えびす)の国である夜(や)郎(ろう)を従えて朝貢させ、北西では匈(きょう)奴(ど)の地に深く入ってその竜(りゅう)城(じょう)を焼き、朝政を議論する者は、それはよいことであるとしています。しかし、これは人臣にとって利となるもので、天下の長久の策ではないのです」

鄭公の言説の源はここにあったのである。

【補足】［以下にかなり長い補足を記す。（1）富(ふ)弼(ひつ)が北方の軍事大国である遼(りょう)国に行って、遼国の皇帝に上記のようなことを説いたのは慶(けい)暦(れき)2年［1042年］のことで、蘇軾はそのとき7歳だった。蘇軾父子はそれから10年ほど後に、外交上の一大事を巡って、古典を引用しつつ話し合ったのである。それで、劉(りゅう)安(あん)世(せい)は「学問は必ず実際に役立つことを貴ぶ」と弟子に教えたのである。（2）富弼が遼国に派遣された経緯を簡単に記しておこう。宋(そう)国(こく)の北方には契(きっ)丹(たん)族の建てた遼国があり、軍事的に見れば、当時の中国大陸の主役は遼国であった。遼国は、宋国側が本来は自国の領土であると認識している広大な土地を占拠し、そのような状態は宋国の建国以前から続いていた。宋国はそこを取り返そうと挑んだものの連戦連敗で、一度は宋の都近くにまで遼国軍に攻め入られたこともあった。宋はかろうじてそれを退け、多額の「歳(さい)幣(へい)」［毎年支払う定額の賠償金］を宋側が贈ることで講和が成り立った［これを澶(せん)淵(えん)の盟(めい)という］。それは景(けい)徳(とく)元年［1004年］のことで、それによってようやく二国間の国境線が安定化した。ところが、40年ほど経って、遼国は宋国が講和の条件を守っていないと難癖を付け、一部領土の割譲を要求し、もしも応じないのなら武力行使をあり得ると、国境付近に軍隊を集結させて脅しをかけた。宋側は不当な要求であると強く反発し、朝臣の多くは実力行使もやむをえないと声高に主張した。それこそ遼国側の思うつぼで、客観的に見れば軍事力の差は歴然で、戦えば宋側に勝てる見通しはほぼなかった。宋国皇帝は和平交渉に命運を懸け、宰相の勧めで富弼を遼国への使者として送った。実は宰相は富弼を嫌い、和平交渉は必ず決裂して遼国皇帝は富弼を斬るであろうから、それによって宋の国論が沸騰するのに乗じて開戦に踏み切ろうと考えていた。富弼自身は遼国の不当な要求に怒っていたのだが、皇帝の心中を察し、また彼我の軍事力の差を正しく認識してもいたので、死を覚悟して遼国に赴き、遼国皇帝に戦争を思いとどまらせようと懸命に説得に務めた。そのときに宋と遼のどちらに義があるかといったことは論じないで、もっぱら遼国皇帝にとって戦争は本当に得になるのかということを論じた。上の訳文にあったのは、戦争は一部の臣下の得にはなっても、遼国皇帝には得にならないと説いた部分である。さらに富弼は、今後の交渉によっては「歳幣」が上積みされて、それは丸々遼国皇帝の得になるからと、和平への道に誘った。このときの直接交渉の後にも富弼は、朝臣の反発や宰相の妨害に遭いながらも困難な交渉を続け、ついに戦争を回避することに成功した。（3）蘇(そ)洵(じゅん)が「昔の人で、同じようなことを言った者がいただろうか」と尋ねたのは、息子が史書をどれだけ真剣に読んでいるかを確かめるためで、蘇軾はそれに対して的確に答えたのだった。厳(げん)安(あん)の言説は、漢(かん)代(だい)の歴史を記録した『漢(かん)書(じょ)』に記されていて、『漢書』は科挙を受ける者にとっての必読書で、読んで理解しているだけでなく、重要な個所は完全に記憶していなければならなかった。科挙では小論文が課せられ、『漢書』などの古典を縦横に引用しつつ議論を展開する必要があったし、政治の実践は必ず古典に基づくものであると考えられていた。（4）厳安が何を言ったのかもう少し詳しく見ておこう。小竹武夫訳『漢書』（ちくま学芸文庫、1998年）から当該箇所を以下に引用する。「……いま南(なん)夷(い)を徇(したが)え、夜(や)郎(ろう)国を朝貢させ、羌(きょう)僰(ほく)を降し、薉(わい)州を攻略し、城(じょう)邑(ゆう)を建置し、また深く匈(きょう)奴(ど)の地に入って、その竜(りゅう)城(じょう)を焼きはらい、議者たちはこのことを賛美しました。しかしこれは人臣の利であって、天下長久の策ではありません。いま中国に狗(いぬ)が吠えて警(いまし)めるほどの事変もないのに、国外で遠方に対する備えにわずらわされ、国家を疲弊させているのは、民を養うこと子のごとくにする所以ではありません。限りなき欲望を行のうて心意を満足させ、怨みを匈奴に結ぶのは、辺境を安んじる所以ではありません。禍は相連引して解けず、兵(いくさ)が休(や)んではまた起し、辺境に近い者は愁え苦しみ、遠い者は驚きみだれる、これは持久する所以ではありません」。つまり、厳安は外国と戦って勝っても、一部の者の利になるだけで、国のためにはならないと説いたのである。（5）この蘇軾親子の議論を引いて、南宋(なんそう)時代の周(しゅう)�W(き)は、『清(せい)波(は)雑(ざつ)志(し)』という随筆の中で、類似の言説を史書から探して並べている。戦争はそれによって利益を得る者によって引き起こされるというのはいつの時代でも教訓とすべきことであるので、その記事も訳しておく］

【訳文】

周(しゅう)�W(き)：『清(せい)波(は)雑(ざつ)志(し)』

私周�Wが調べてみると、『三(さん)国(ごく)志(し)』の顧(こ)雍(よう)伝に、次のような記事がある。

呉(ご)の孫(そん)権(けん)のもとで、国境を守る諸将はそれぞれが功績を立てようと、敵に攻撃を仕掛けるためのいろいろな提案をした。孫権はそれらについて顧雍に尋ねた。顧雍は言った。「兵法は小さな利を戒めます。これらの者が述べているのは、自分のために功名を得ようとするものであって、国のためになるものではありません」

また『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』には、次のような二つの記事がある。

唐(とう)の武(ぶ)�ｺ(とく)五年に突(とっ)厥(くつ)が国境を犯した。鄭(てい)元(げん)璹(じゅ)は突厥の王の頡(けつ)利(り)のもとに行ってこのように言った。「唐と突厥は風俗が同じではありせん。突厥が唐の土地を得ても、そこを居住地とすることはできません。また我が方の人間を獲てそちらに連れ帰っても、何の役にも立ちません。それよりは軍団を返して、和平を結び直したほうが、面倒な労力を使うことなく、座して財産を受け取れましょう。それらはみな王様の庫に収まります。貴国と我が方との長年のよい関係を棄てて、子孫に及ぶまでの怨みを結ぶのとどちらがよりよいのでしょうか」。頡利はこの言葉を�ｽ(よろこ)び、兵を引いて還った。

唐の開(かい)元(げん)六年、吐(と)蕃(ばん)は和を求めてきた。忠(ちゅう)王(おう)は皇帝に申し上げることを求め、和親の利を説いた。玄(げん)宗(そう)皇帝は同意しなかった。忠王は懸命に説いた。「辺境で事があれば、将軍や役人はどさくさに紛れて国の物を盗んだり隠匿したりします。嘘の功績を報告し、昇進しようとします。これは奸臣どもの利になるだけで、国家にとっての福にはなりません」。それで玄宗皇帝は和親を許した。

思うにこれらはいずれも厳安の言説を祖述したものである。後に、蘇東坡は同じ説を『鄭(てい)公(こう)神(しん)道(どう)碑(ひ)』の初めに置いたのである。

【補足】［（1）最後に記されている『鄭(てい)公(こう)神(しん)道(どう)碑(ひ)』とは、元(げん)豊(ぽう)6年［1083年］年に富(ふ)弼(ひつ)が亡くなった後で、富弼の墓に至る道、すなわち神(しん)道(どう)に建てる碑に刻むために蘇軾が書いた文章である。後の章にその訳文を掲げるが、遼(りょう)国皇帝との交渉過程が詳細に記されている。（2）蘇軾が父とともに富弼の外交記録を読んだころには、蘇軾も父も遼国や西方の夏(か)国には対しては毅然とした姿勢で向き合うべきだと考えていたことが、他の文書からは見えてくる。とりわけ遼国に毎年贈っている「歳(さい)幣(へい)」は宋国の民衆にとって重い負担となっているし、そもそも不名誉なものであるので、いずれ断固たる措置によって廃止すべきであると考えていた。だから、「歳幣」を増額した富弼の和平交渉は必ずしも成功であったとは見ていなかった。蘇軾父子が感心したのは、道義よりも利を優先する遼国皇帝の貪欲さをうまく利用して和平に応じさせた富弼の手腕の巧みさであった。蘇軾はその後は平和をより重んじる方向へと徐々に姿勢を変化させ、朝廷の議論が武力を行使する方向に傾いて行ったときには、抑制的な主張を唱えるようになった］

■【01-2-008】子由幼達

【解題】聯句で饅(まん)頭(とう)の句を詠んで学友を笑わせた蘇(そ)轍(てつ)も、それから数年もすると、兄のレベルに早くも追いつくようになり、兄弟で切磋琢磨し合うことで、2人の学業は驚くべきスピードで進展して行った。兄弟には共通点が多くあったが、異なる点もいろいろあり、むしろそちらの方が注目されがちである。父の蘇(そ)洵(じゅん)は2人の違いを最初から見通していたかのように、2人の名の由来について次のように記している。これは蘇軾が14歳のとき、皇(こう)祐(ゆう)元年［1049年］に書いたと推測されている。なお、「軾(しょく)」の原義は馬で曳くようなタイプの車の前に付けた横木で、遊園地のジェットコースターの安全バーのようなもの。「轍(てつ)」の原義は車輪の通った跡、すなわち「わだち」である。

【訳文】

蘇(そ)洵(じゅん)：『名二子説』［二(に)子(し)に名づける説］

車に具わっている輪(りん)［車輪の輪の部分］、輻(ふく)［車輪のスポークの部分］、蓋(がい)［車を覆う幌(ほろ)の部分］、軫(しん)［車体の枠組み］にはそれぞれのきちんとした役割がある。軾(しょく)はどうなのかというと、それがなくても車は十分にその機能を果たすことができる。そうはいっても、軾を取り除いてしまうと、完全な車であるとは見えなくなる。

我が子、軾よ、そなたは外側をきちんと飾ることを気にかけないようだ。だから、無用なようでも完全であるためには必要な軾をもってそなたの名にした。

天下の車は轍(わだち)を付けないものはなく、道に轍があれば天下の車はそれに準拠して進もうとする。しかしながら、車の性能をいうときに、轍が関わっているとされることはない。その一方で、車が倒れて巻き添えになって馬が死んでも、轍に非難が及ぶことはない。轍というものは、福の面では恵まれないけれども、禍(わざわい)の面では及んでこないので、ちょうど両者の間にいることができる。

我が子、轍(てつ)よ、そなたは跡を残して天下の人がそれに拠るようになるとしても、きっと福からも禍からも免れるに違いない。よって轍をもってそなたの名にした。

【解題】この項の表題として掲げたのは、蘇軾自身が少年時代の弟のことをどのように見ていたのかを記した短文。執筆年代はわかっていない。表題は「子(し)由(ゆう)［弟の字(あざな)］は幼いときから達(たつ)であった」で、「達」とは、物事の道理や軽重についてよく理解していて、とっぴなことを考えたり、軽はずみなことをしたりしないという意味であろう。上の文章で父が記していた通りに、弟は自ら規範とすべき「轍(わだち)」を残し、「轍」からはずれることがないのだった。といっても、これは兄と比べたらそうであるということで、蘇(そ)轍(てつ)にも父や兄に似て不軌なところがあった。

【訳文】

弟が達(たつ)であったのは、幼いときからで、自然とそうであったのだ。

父と私はひどく書画を好み、書画を集めることをこの上ない楽しみとしていた。弟は書画を観ても、眺める程度で、さほど気にもとめなかった。だから、いまに至って、弟に先を見通す目があるのはなるほどと思えるのである。

【補足】［（1）蘇軾兄弟は成長するにつれて、張(ちょう)易(い)簡(かん)の学校で学ぶだけでなく、劉(りゅう)巨(きょ)や史(し)清(せい)卿(けい)にも指導を受けた。それぞれの先生に得意とする分野があったのだろう。劉巨には家(か)定(てい)国(こく)、家(か)安(あん)国(こく)、家(か)勤(きん)国(こく)の三兄弟も師事していた。三兄弟の名はこの後、時折見ることになる。眉(び)州は都から遠く離れ、蜀(しょく)の中心都市である成(せい)都(と)からも数十キロ離れた田舎の小さな州であったが、蘇軾より一世代ほど前から続々と科挙の合格者が出るようになっていた。天下の秀才が挙って受ける科挙で勝ち抜けるだけの力を養える基盤が眉州には具わっていたのである。その背景としてもともと蜀が文化の先進地であったことがある。唐(とう)王朝が衰亡すると、蜀では王(おう)建(けん)が地方政権を樹立して、他の地域に比べて平穏であったことから、唐朝の文化人が続々と避難してきた。王建は文化人を保護したので、唐王朝の文化は蜀の地で生き延びたのだった。王氏の政権は外からの武力によって一度は滅ぼされたものの、孟(もう)氏が再び地方政権を樹立し、やはり唐朝文化を継承した。しかし、孟氏の政治は乱脈で、文化は奢侈に流れ、勃興してきた宋王朝にもろくも滅ぼされたしまった。当初、宋は蜀に対して暴力的な統治を進め、成都にあった文化遺産を略奪して都に運び、蜀の民から激しく収奪した。それは当然、蜀の民衆の反発を受けて、反乱が相次いだ。宋がようやく融和政策に転じたことで、蜀は落ち着き、富を蓄積して、本来の文化的な力を発揮して、優秀な人材を続々と中央に送り込むようになった。（2）少年時代の蘇軾は部屋に籠ってひたすら勉強していたわけではなく、上の文章にあった書画のほかにもいろいろなことに興味を持ち、硯や筆のような書画の道具、植樹、農耕、医学、音楽にも及び、野山を歩き回ることも好んだ。岩を跳んですばやく渓谷を遡って弟を驚かせ、山奥で隠遁生活をする道士から自然の中で生きる術を教わったこともあった。科挙に合格して范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)や欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)のような立派な官員になるという目標は変わらなかったものの、自然への憧れは強く、張易簡に『老(ろう)子(し)』と教わったこともあって、道士になりたいとの思いも打ち消しがたいくらいにあった。そのために結婚話が持ち上がりそうになると、蘇軾は懸命に避けてまわったようである。当時は、早くに結婚して落ち着いた方が勉強にも打ち込めると思われていたので、二十歳前に結婚するのは珍しくなかった。なお、道士の多くは最終的には仙人となって現世を超越することを目指し、それが現実的に可能であるかどうかについて、蘇軾は明確な判断を示していない。（3）蘇軾が結婚に乗り気ではなかったことには別にもう一つの理由があったと推測することも可能であろう。それは蘇軾が17歳のときにすぐ上の姉が嫁ぎ先で病死したことであった。その顛末について、父の蘇洵は当初黙して胸の内に押し込めていたのだが、娘の死から7年が経って、ようやく鬱屈していたものを吐き出した。それが次に訳す『自(じ)尤(ゆう)』という題の詩である。「尤」とは「とがめる」という意味で、『自らをとがめる』という題である］

蘇(そ)洵(じゅん)：『自(じ)尤(ゆう)』

序文

私は生まれてからずっと他人を害するようなことはしてこなかった。村で育った幼いころも、大人になって遠く旅するようになってからも、きちんとした人とばかり付き合い、不義を為すような人からは遠く離れていた。五十一歳になったいまに至るまで、人から尤(とが)められたことはなく、人を尤(とが)めたこともなかった。たった一つの例外を除いては。

思うに、壬(じん)辰(しん)の歳［皇(こう)祐(ゆう)4年］に我が末の娘を喪ったとき、その始めにその夫の家を尤(とが)めたのだった。いまは我が身を深く尤(とが)めている。

我が娘は幼いころから学問を好み、正しいことを貫こうとする気概は男以上に強いものがあり、文章を書けばしばしば私を喜ばせるものがあった。娘は十六歳で我が妻の兄の程(てい)濬(しゅん)の息子の程(てい)之(し)才(さい)の妻となった。そして十八歳で死んだ。

程濬は儒学を修めた者であったのに、その普段の振る舞いには不謹慎なところがあり、その妻は好いことを尤(とが)め、無法の行いをしていた。我が娘はその家の人々のありさまを見て、心に楽しまないところがあった。我が娘が病気になったとき、その夫もその舅もその姑も全く顧みず、さっさとこれを棄てて死に至らしめた。

娘が死んだとき、私は怨み、我が郷里の人々も程濬が不実であるとした。

我が友人が深く悲しんで私に言った。

『君はなぜ程濬を尤(とが)めるのかな。君は程濬が賢者であると思って娘を嫁がせたのではなかったのか。過ちは、人をきちんと選ばなかった君にあるのではないのかい。なのに誰を怨もうというのか』。

私はそれを聞いて深く悲しんだ。

それから（足掛け）八年が経ち、私は自分を尤(とが)めるこの詩を作った。

詩

五月のいずれの日であったろうか、

一人の女が死んだ。

何も訴えることができずに、

この女は無理やり死なされたのだった。

この女の父は意気地なしで、

この女の無実の魂を小さな塚に埋めてやることしかできなかった。

生と死、長寿と短命は定めなきものであるから、

これも仕方ないということにしてしまってよいのだろうか。

この女の死は人々を驚かせ、

聞く者は顔をつらそうに歪めた。

この女の家は代々学問を好み、

この女は女ひと通りのことだけでなく、

書物を読むことも文章を書くこともきちんと教えられた。

家は貧乏だったけれども、

あえて裕福な家に嫁がせようとはしなかった。

父は釣り合わぬのは不幸のもととなるのを恐れていたのだ。

この女の母の兄が、この女を息子の嫁にほしいと求めた。

人々は母の家は豪族であるからまことによい話だと言った。

この女の父はそういう理由ではなしに、

母の兄も学問を好み、

役人としても立派な人であると思ったので、

この女は十六歳で嫁いだ。

嫁いだその日から、

この女には憂いばかりが増え、

喜びというものがなくなってしまった。

里帰りしたときに、

この女は両親を見て泣いた。

自分の家のことは言えませんと、

この女は口を閉ざしたけれど、

およその様子は知れた。

舅も姑も夫の姉妹も道理をわきまえず、

家の中はでたらめなことになっていた。

この女は元来曲がったことが大嫌いで、

しかし、たった一人ではどうすることもできず、

見て見ぬふりをするのもまた辛いことであった。

この女の父は心の内で憤りを発したけれど、

妻として夫を諌めてよき方向に導くようにしなさいと諭した。

この女は父に言われた通りに努め、

翌年には子を授かり、

嫁としてまずはひと安心ということになったのだが、

この女はじきに病気になり、

家の者は誰も看病しようとしなかった。

この女の母はそれを聞いて憂いに沈み、

この女の父はただ驚くばかりであった。

このときこの女の舅は愛妾に溺れ、博打に興じていた。

この女の父はとうとう娘を家に連れ帰ることにした。

舅は「えせ学者め」と女の父を罵り、

言うのもはばかれるようなごたごたの末に、

この女は里に帰ることができ、

十日余りで薬が効いてきて快方に向かい始めた。

病の根を断つまでには至らずとも、

息が通って、滋養のあるものを少しずつは食べられるようになった。

しかし、舅と姑はこの女の再生を許すまいとしたのか、

悪巧みを巡らして、この女を連れ去った。

「ここにはどんなことがあっても二度と帰らせないぞ」

舅と姑が吐いた言葉を、

病んだこの女はどのような気持ちで聞いたのだろうか。

この女の父と母は泣くしかなかった。

この女の病はたちまちもとにもどり、

三日の間放置されて死んでしまった。

この女が不義をなす者であったのなら、

死んでも何も言えないだろう。

この女は、正しいこと、慎ましやかであることを好み、

鋭敏で明晰であったのだから、

このような譴責を受けなければならない理由はどこにもなかった。

この女の父は天を仰ぎ見て、

信じるに足るものはどこにあるのかと思わないわけにはいかなかった。

このことを聞いた者は、

この女の父には勇気がなくて、

この女が罪なく死んだことをはっきりさせないのを不満とした。

この女は果たして恨まずに死んだのか。

誰かの罪であると尤(とが)めつつ死んだのか。

この女の父はそのことを思ってずっと苦しんだ。

宝玉などというものはもともとは価値あるものではないのだから、

溝に棄てたところで少しも構わない。

親として大切に育てた娘を野に棄ててよいものか。

ああ、罪はまさしくこの女の父にあったのだ。

【補足】［（1）蘇(そ)洵(じゅん)は、娘が婚家で虐待死させられたことに対して、そのときには黙って泣き寝入りするしか手がなかった。ここに記されているように、婚家の主人である程(てい)濬(しゅん)は妻の兄であり、科挙に合格したお役人様であった。程家はもとより土地の有力者で財産家であったのに対して、蘇洵の家はもともとは商人で、兄がようやく官員になったものの、蘇洵自身は貧乏な浪人暮らしであった。娘の死から7年後にようやく思いを吐き出しのたは、その間に2人の息子が科挙に合格し、また妻がすでに故人となったからだった。（2）姉の死と、父の苦しみを間近に見て、蘇軾が結婚により消極的になったと推測するのはさほど見当はずれではないだろう。それでも、周囲に強く勧められて、19歳のときに王(おう)弗(ふつ)と結婚した。王弗は眉(び)州の青(せい)神(しん)県の名家の娘で、そのとき16歳であった。弟の蘇(そ)轍(てつ)は結婚を渋ることもなく、兄に後れること1年ほどで結婚している］

■【01-2-009】正統論

【解題】父の蘇(そ)洵(じゅん)は息子たちに古典を学ばせるだけでなく、同じ時代の人々の著作も読ませ、とく欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)の文章をまねて書くように指導した。蘇軾は1日に数千字の文章を作って修練したと弟が墓誌銘に書いているように、おびただしい数の詩文を作ったのだろう。それらは練習作品としてほとんど残されておらず、すでに訳した銘や詩と、ここに訳す『正(せい)統(とう)論(ろん)』という論文が伝わるくらいである。これには「至(し)和(わ)二年［1055年］の作」とわざわざ添え書きがあり、世に出る前の蘇軾の文章として珍しがられたのだろう。「正統論」とは、例えば、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の三つの王朝が並び立った三国時代に、どの王朝が正しいとするのかの議論である。皇帝とは天に託されて人民を統治する存在であって、天は複数の皇帝を選ぶはずがないから、この地上に正しい皇帝は一人でなければならない［先に遼(りょう)国皇帝と訳者は記したが、宋国の人は決してそのように記すことはなく、「遼主」と書いた］。歴史家が歴史を記述する際にどれかの王朝を正統であると選んだならば、その根拠を示す必要に迫られるだろう。欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)は歴史家でもあったので、正統論に関する論文を書き、それに対して章(しょう)望(ぼう)之(し)が反論を書いた。蘇軾はその二つの論文を踏まえて独自の議論を展開し、欧陽脩の側に立つと結論している。蘇軾は、正統の判断基準に「実(じつ)」と「名(めい)」の二つがあるとし、重・軽、賢・不肖、貴・賤といった幾つかの二項対立の概念を使って、「実」と「名」の複雑な相克を論じている。かなりごちゃごちゃした議論で、理解するには相当に骨が折れ、苦労してある程度わかったところでさほど有益ではないので、冒頭の部分だけを訳す。後に巨大な歴史書である『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』を編集した司(し)馬(ば)光(こう)は、誰もが納得できるような普遍的な判断基準は存在しないので、正統か否かを論じることはしないと宣言している］

【解題】

正統とは何か。「名(めい)」によるのか、「実(じつ)」によるのか。

正統の語義はこうである。

「正(せい)とは、天下が正しくないのを正すという意味である。統(とう)とは、天下が一つでないのを合わすという意味である」

不幸にして、天子としての「実」がありながら、天子の位には就いていない者がいて、一方に、天子としての「名」がありながら、天子としての徳がない者がいるときに、そのどちらが正しいとして一つに合わせるのがよいのか。それを決めようとするのが正統の議論である。

正統を論じるのは、天下を保つために重要だからである。名も実もある人がいるのならば議論するまでもない。もしも、その実がないのに名を得ている者がいるときに、実がないからといって名をなくすことはできない。しかし、名があるからといって、それだけで実があるようにすることはできない。だから、名は軽く、実は重いのであって、実があるときには名がなくてももはや天下を争うことはないのだが、名はあっても実がないときには天下は実のある方へ動いて行くであろう。

……［以下、省略］……

【補足】［至(し)和(わ)2年［1055年］は蘇(そ)洵(じゅん)にとって大きな転機となった年である。蘇洵は息子たちの勉強ぶりを見てすでに天下に通用するレベルに達していると確信し、一方で、自身も十分に学問的修練を積んだとの手応えがあったのだろう、年譜で示したように、都から蜀(しょく)に派遣されてきた張(ちょう)方(ほう)平(へい)や雷(らい)簡(かん)夫(ふ)に会いに行って自己を売り込むとともに、息子を連れて都に行くことを決意したのだった。嘉(か)祐(ゆう)元年［1056年］春、蘇洵は郷里を発ったのだが、それに先立って、蘇一族の人々を「蘇(そ)氏(し)族(ぞく)譜(ふ)亭(てい)」に集め、次に訳す文章を示した。蘇軾が一族の系譜を編んだことは先に見ていて、「蘇氏族譜亭」はそれを納めるために作った小さな建物である］

蘇(そ)洵(じゅん)：『蘇(そ)氏(し)族(ぞく)譜(ふ)亭(てい)記(き)』

一介の庶民であってもその村を教え導くような人であるならば、私はその人の言葉に耳を傾ける。

国に君主がいて、町に大(たい)夫(ふ)がいる。争いごとが生じたときには、君主や大夫に訴え出る。村には庠(しょう)［学び舎］があり、町には学校がある。道(みち)を学ぶ者はそこで教わる。

村人で、家の中で善くないことをしている者がいると、村の人々は誰もが、「あの者の言うことは誰も聞かないようにしよう」と、言う。村人はどうしてそのように考えるのか。思うに、そうなるのは初めから積もり積もってきたものがあって、順にそこにまで至るのである。［以上は、道義によって地域が正しく治まる経緯を記している］

我が一族が一族としていまなお関係が保たれているのは百人くらいでしかない。しかし、毎年の祭事に全ての人が集まって喜びごとを分かち合えるわけではない。次第に縁遠くなった者とは往来がなくなり、我が郷里の人々に一族の間柄であることを示せなくなってしまう。

私は『蘇氏族譜』を作り、高(こう)祖(そ)［四代前の先祖］の墓の西南に亭(あづまや)を立て、それを石に刻み、「ここに名のある者は全て、誰かが亡くなったなら必ず弔問に訪れるように。冠(かん)［成人の儀］のときや妻を娶るときには必ず知らせ合うように。幼くして孤児になった者がいたときには、年長の者が必ず世話をするように。貧しくて行き場がなくなった者がいたときには、富む者が必ず保護するように。もしもそのようにしない者がいたならば、一族の者は挙って非難してよい」と、記した。

この歳の正月、一族一同は墓に詣でて奠(まつ)り、その後で亭に列坐した。一人の老人が若い者たちを顧みて、嘆息しつつこのように言った。

「諸君等は、かつての吾が郷里の風俗の美しさを見ておらぬのだ。わしが子供のころは、もしも不義を為す者を見たならば、皆でそいつを憎み、化け物でも見てしまったかのように心がやすらかでなくなったものだ。その後、その風俗はやや衰えはしたけれど、不義を為す者を見れば軽蔑して笑ったものだ。しかし、いまは不義を為す者を見ても何とも思わなくなってしまった。そのように吾らの風俗を変えてしまったのは誰なのか。他ならぬあの人物なのだ。

あの人物は人の上に立つような者であるのに、吾が郷里の風俗を滅茶滅茶に乱してしまった。あの人物は速やかに人々を不義へと誘い、深く深く我らを害ったのだ。

あの人物には肉親の情というものがなく、その兄の子が孤児となったのを少しも憐れまないで、棄てて顧みなかった。あの人物には兄弟を助け合う心がなく、先祖の財産をその孤児に分け与えなかった。あの人物には節度がなく、孤児が訴訟を起こすとそれを打ち砕いた。あの人物には倫理観がなく、妾を愛して正妻の上に置き、息子とともに声色にふけって、家の中の秩序を破壊した。あの人物は飽くことなく財産を求め、富むことが賢さの証であるとして、廉恥というものを消し去ってしまった。

これらのことは我が一族は大いに恥じてとても許容できないものであったのに、いまでは『あの人もやっているのだから』と我が郷里の人々全体を惑わすまでになってしまっている。

あの人物は高い地位にあって力があり、我が郷里ばかりでなく、もっと広い地域を惑わし、巧みな言葉で飾ってごまかし、人々を欺いている。

あの人物はまことは大盗賊なのだ。わしは皆に向かってこのことを言わずにはいられない。吾が一族の者を戒めないわけにはいかない。あの人物を見て我が身の戒めとして、決してあの人物と付き合ってはならない。あの人物と少しでも似たようなことをした者がいたならば、わしの目の届くところにそやつをこさせてはならない」

私はそれを聞いて懼れを抱き、そのことを書いてくれるように願った。老人は言った。

「そのことは書いてもよい。しかし、あの人物の名は書いてはならぬ。他人がそれを観てもあの人物が誰であるかはわからないだろう。しかし、あの人物が観たならば、顔が熱くなり、心の内で恥じて、冷や汗が出て食べ物が喉を通らなくなるだろう。もはやあの人物を敬う者がなくなって、悔やんでくれたならそれでよいのだ」

私は承知して、それをこのように記したのである。

【補足】［蘇(そ)洵(じゅん)が『蘇(そ)氏(し)族(ぞく)譜(ふ)』を作ったのは、一族の結束を固め直して、一族全体で道義的に正しい道を歩んで行くという目標を掲げることにあって、この文章でも、その前半にそのことが記されている。後半では、「一人の老人」が、郷里の倫理観を破壊してしまった「ある人物」を徹底的に批判している。「一人の老人」とはむろん蘇洵その人である。では、「ある人物」とは誰なのか。南(なん)宋(そう)時代の文人、周(しゅう)密(みつ)はその随筆『斉(せい)東(とう)野(や)語(ご)』で明らかにしている］

周(しゅう)密(みつ)：『斉(せい)東(とう)野(や)語(ご)』

滄(そう)洲(しゅう)先生こと程(てい)公(こう)許(きょ)は眉(び)山(ざん)の人である。あるとき我が父とゆったりと語り合って、蜀(しょく)の旧(ふる)い事を話し、聴くべきことがたくさんあった。その中で、このようなことを言った。

蘇(そ)洵(じゅん)の『族(ぞく)譜(ふ)亭(てい)記(き)』に、郷里の風俗を悪くさせたある人物を批判して、その名を記していない。これは蘇洵にとっては妻の一族の程(てい)氏の者であったので、その名を出せなかったのである。つまり、ある人物とは妻の兄なのである。蘇洵は『自(じ)尤(ゆう)』の詩で、娘の嫁ぎ先について述べていて、娘は心ならずも死んでしまったことを詠み、その言葉は甚だ痛切である。蘇洵は怨み、程家との不仲は長い年月に及んだ。その後、蘇軾兄弟は母のことを思って、程家と和解するようになった。程(てい)之(し)才(さい)［蘇洵の娘の夫］は蘇軾の従兄弟である。蘇軾が南方に流されたとき、時の宰相は蘇家と程家の間には先代からの怨恨があると聞いて、程之才を本(ほん)路(ろ)の憲(けん)［蘇軾の流された地域の統治を監督する役］に任命し、蘇軾を脅かしてやろうと考えた。程之才は赴任すると、かえって私的にも公的に蘇軾に篤くし、盛んに交流があった。蘇軾と程之才が唱和した詩に、その概略を見ることができる。

【補足】［蘇洵が「一人の老人」が語ったとして、徹底的に罵った「ある人物」とは、妻の兄の程(てい)濬(しゅん)だったのである。「あの人物が観たならば顔が熱くなる」と書いた文章をわざわざ石に刻んでから蘇洵は都に向かったのである。妻の兄で、郷里の有力者に対して、激烈な啖呵を切り、後ろ足で砂を蹴って去ったのである。もはや断じて程家の風下に立つことはないとの宣言であって、蘇洵の胸の内には十分な勝算があったのだろう。一方で、我々は妻の心中も察しなければならない。娘を失った悲しみは夫と共有するものであったろう。しかし、程家と間に挟まれて、妻は非常に苦しい立場にあった。蘇軾兄弟が幼いころは蘇洵は外に出ていることが多く、その間の暮らしは、妻が実家からの支援を受けて維持していたらしいことは他の史料から推測されるのだが、妻は夫にはそのことは秘していたようだ。妻はかねてから難しい立場にあったのだろう。こうして、夫が出て行った後で、妻は息子が科挙に合格するのを望みつつも、いかなる心境で郷里に一人残っていたのだろうか。蘇洵等が旅立ってほぼ1年後、合格の報せが届くか届かないかのときに、妻は亡くなったのである］

■【01-2-010】書章詧詩

【解題】嘉(か)祐(ゆう)元年［1056年］3月に郷里を発った蘇洵は、まず成(せい)都(と)に行って再び張(ちょう)方(ほう)平(へい)に会った。張方平は蘇洵を推薦する欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)宛の手紙を書いてくれた。蘇軾兄弟もそのときに張方平に会い、しばし成都の名所を巡り歩き、李(り)士(し)寧(ねい)という奇妙な人物と会った。李士寧はその後、著名人となって、当時の人々の著作物にしばしば登場するようなる。この蘇軾の文章は、初めて李士寧に会ってから30年ほど後に書かれたものである。

【訳文】

章(しょう)詧(さつ)、字(あざな)は隠(いん)之(し)は、もとは閩(びん)州の人で、数代前に成(せい)都(と)に遷った。文章が得意であったが、官には仕えなかった。晩年に成都知事の王(おう)素(そ)の推薦で、沖(ちゅう)退(たい)処士の号を賜った。

ある日、夢に人が来て、手紙を示し、章詧を招いた。それは東(とう)嶽(がく)道士からの手紙だった。

その明くる日、章詧は李(り)士(し)寧(ねい)と青(せい)城(じょう)山(ざん)に遊んだ。水辺で足を洗いつつ、章詧はにやにやしながら李士寧に言った。

「さて、西の溪の流れを踏んで、水とともに行くことにしますかな」

李士寧はそれに応じて言った。

「東嶽道士からもらった手紙を持ってでしょうかな」

章詧はひどく驚き、李士寧がどうして夢のことを知ったのかわからなかった。

それから間もなく、章詧は果たして亡くなった［仙人になった］。

章詧の子の章(しょう)禩(し)もまた隠遁者であったが、小さな官の仕事に就いて死んだ。

李士寧は蓬(ほう)州の人で、普通ではないことを言い、道(みち)を得た人だという者もいた。百歳で死んだ。

私はかつて成都で李士寧と会ったことがあり、

「君にははなはだ貴い相がある。きっと科挙で首席になる」

と言った。果たしてそのようになったのだった。

【補足】［（1）この文章にその名が記されている章(しょう)詧(さつ)も東(とう)嶽(がく)道(どう)士(し)も李(り)士(し)寧(ねい)も仙界に遊ぶ人で、蘇軾はそのような人々に終生親しみを覚えた。李士寧は「科挙で首席になる」と予言したのだが、予知能力がなくてもわかるくらいに蘇軾の才気は外に溢れ出ていたであろう。（2）蘇洵ら3人は長(ちょう)安(あん)を経由して5月ないし6月に都に着いた。蘇洵は欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)に手紙を送って面会を求めた。蘇洵にとって重大な局面を切り開くことになった手紙であるので、ここで読んでおこう。表題の最初に「上(じょう)」とあるのは、朝廷の重要ポストにある人へ一介の庶民が差し出し手紙だからである。「欧(おう)陽(よう)内(ない)翰(かん)」とあるのは、欧陽脩は皇帝直属のアカデミーの一員として翰(かん)林(りん)学(がく)士(し)という学士号を与えられていたからである］

【訳文】

蘇(そ)洵(じゅん)：『上欧陽内翰書』［欧(おう)陽(よう)内(ない)翰(かん)に上(たてまつ)る書(しょ)］

私蘇洵はその日の暮らしにも困る無位無官の者でありますが、嘆息しつつ密かにこのように考えております。

天下の人は皆が賢人というわけにはまいりません。また皆が不肖というわけでもありません。ですから、世に賢人である君子がいましても、君子が集まることもあれば離れることもあって、合えば必ず離れ、離れれば必ず合うのであります。

先の時［慶(けい)暦(れき)3年［1043年］］に、天子［皇帝］にはまさしく政治に意欲があって、范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)公が朝廷の中枢におられ、富(ふ)弼(ひつ)公が枢(すう)密(みつ)副(ふく)使(し)で、執(しつ)事(じ)［貴殿＝欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)］と余(よ)靖(せい)公、蔡(さい)襄(じょう)が諌(かん)官(かん)で、尹(いん)洙(しゅ)公が都と地方の間を行き来して前線の地において力を尽くしていました。このときに、天下の人々は、髪の毛や米粒ほどのわずかばかりの才能がある者までも続々として起ち、一つに合わさったのでした。私は自分自身を見て、愚かな無用の身で、その中に混じって奮闘するに足りない者であると思い、退いて心を養い、幸いにして学問の道(みち)が成就したならば、そのときになってから当世の賢人、君子と会うのがよろしかろうと考えました。

ところが、不幸にして、道がまだ成らないうちに、范公は西に出て、富公も北に出て、執事も余公も蔡公もそれぞれ四方に出て、尹公もまた勢いを失って小さな官職で苦労することになってしまいました。私はそのころは都にいて、近くでそのような変化を見て、がっかりして天を仰いで嘆息しました。こうして賢人が去ってしまったのでは、学問の道が成就したところで、何ら栄(さかえ)とすることにはならないと考えたのでした。

また、このようにも考えました。先に君子が次々に朝廷の要職へと進んだのは、その始めにきっと善人［具体的には、皇帝あるいは天命］がそれを推したのでありましょう。いまはきっと小(しょう)人(じん)［賢人の逆で、愚かな不善を為す者、具体的には反動的な政治家］がそれを邪魔するようになったのでありましょう。今の世にもう善人がいないのならどうすることもできません。そうでないのなら、私は何も憂うことはないのです。しばらく我が心を養って、道を大きく成就させて、また善人の推すときがくるのを待てばよいだけなのです。

こうして、退いて故郷にいること十年となり、道が成ったとは考えていませんが、胸の内は浩浩乎(ひろびろ)として、以前とは異なっているように感じるようになりました。一方で、余公は南方で功を挙げ、執事と蔡公は相次いで朝廷にまた昇られ、富公もまた外から戻って宰相になられ、その勢いはまた一つに合わさろうとしています。喜びかつ自ら祝って考えたのは、道もほぼ成就して、まさしく発表すべきときがここにきたのだと。その一方で思いましたのは、先に慕い望みながら会うことのできなかった人が六人いて、いま会いに行こうとしても六人のうち范公と尹公の二人はすでに亡くなってしまいました。私は潸然(さめざめ)と涙を流して悲しんだのでありました。ああ、二人にはもう会えないのです。それでも私が恃(たの)みとして、会って心に嬉しく思う者がなお四人おられるので、できればひと目だけでもそのお顔を見て、我が心より発するものを言ってみたいと考えたのでした。しかしながら、富公は天子のおそばにお仕えする宰相でありますから、遠い田舎の寒(かん)士(し)［窮乏の士］がにわかにものを申し上げることは叶わないと考えました。また、余公と蔡公は都から万里の彼方の外にあって、ただ執事だけが朝廷にあって、その位が非常に高いというわけでもなく、ならば何とかすがってものを申し上げることも可能かもしれないと考えたのでありました。ところが、飢えと寒さと老いの病が私を田舎に閉じ込めさせてしまい、執事のもとに至ることができなくなってしまいました。それでも、慕い望みながら十年の間に会えないままに亡くなってしまった范公や尹公のような方もありますので、いまは四人がおられるときに、このまま言葉を通じないでいたならばどうなってしまうだろうかと思えば、己のために行けないくらいで決してあきらめてはならないと考えたのであります。

執事の文章は、天下の人でそれを知らない者はありません。一方で、密かに自分で思いますに、私こそがその文章を深く知っていて、天下の人に勝っていると考えるものであります。それはどういうことなのかというと［以下に、蘇洵がいかに欧陽脩の文章の特長を深く理解しているかを示す］、孟(もう)子(し)の文章は言葉は平淡でありながらその意を尽くし、難しく険しい語彙を用いていないのにその矛先は犯すべからざるものがあります。韓(かん)愈(ゆ)の文章は長大な河が広々と渦巻きながら流れ、その中に万(よろず)の水の化け物が潜んで人を驚かせるかのようで、しかも抑制がきいて露骨に示すものではなく、人はその淵に潜む深く青い光を望み見て、自ずと畏れて避けて敢えて迫って視ようとはしません。執事の文章は、微細を尽くして曲折に富み、しかも流れるように意味が通じて途切れることがありません。十分に言い尽くして言葉が窮まったところで、一気に結論に迫るのであります。その上、穏やかで平易で、難しさは少しもないのであります。この三者の文章は、いずれも他とは断然異なる一家の文を成しています。韓愈の弟子の李(り)翱(こう)の文だけが執事の文章と雰囲気が似ていて、唐の名相の陸(りく)贄(し)の文章だけが執事の文章とその実質が似ています。しかし、執事の才はこうした人々よりも優れたところがあります。執事の文章は孟子の文章でも韓愈の文章でもなく、まさしく欧陽先生の文章なのです。

人の善(よ)いところを言うのを喜び、しかし諂(へつら)うことをしないのは、誠実にそこのことを為す者であります。そうしたことを知らない者は、人を誉めるのは、その人に喜ばれて目をかけてもらおうとするためだと考えます。その人に喜ばれて目をかけてもらうために人を誉めるたりすることは、私のできることではありません。私が、執事の徳の光明が盛大であることを言って止むことがないのは、私のことを執事がきっとわかってくださると思うからなのであります。

執事の名は天下に満ちて、その文を読んでいなくても、欧陽先生がおられことは誰もが知っています。一方で、私は不幸にして草の野、泥に道に堕ちて、それでも道を知る心が近ごろほぼ成るに至りました。吾が手には何もなく、短い手紙だけを差し上げて、執事に我が事を託そうとするものであります。私は執事にどのようにして知っていただき、何によって執事に信じていただけばよいのでありましょうか。

私は若いときには学ぶことをしていませんでした。生まれて二十五年目にして初めて書物を読むことを知り、君子であろうとする士と交わるようになりました。年齢的にすでに晩(おそ)かったので、懸命に勉強し続けて古(いにしえ)の人のようになろうと自ら期すこともなく、自分と同じような人々の中で誰にも劣らないようになれればそれでよいだろうと思っていました。その後は困難が増すばかりであったのですが、そのなかで古の人が書いた文を読んでみると、言葉を出して考えを表現するのが自分とは大きく異なることが始めてわかってきました。また、時に自分自身を顧みて、我が才能はここに留まっているものではないと思えることもありました。それで、それより前に作った数百篇の文章は焼いてしまって、『論(ろん)語(ご)』や『孟子』、『韓(かん)子(し)』、およびそのほかの聖人、賢人の文章を手に取って、じっと座って一日中それを読むことが七、八年に及びました。その始めのうちは、中に入ると恐ろしいほどに開けていて、外よりもむしろ広いのを見て、とにかく驚くばかりでありました。長く読み続けて、ますます詳しく読むうちに、胸の中がからりと開けて明るくなり、もとより当然のことを言っているだけのように思えてきました。それでも、まだ自分の言葉を出すことはしませんでした。またしばらく経つうちに、胸の中にある言葉が日に日に増えてきて、もう抑えきれないまでになりましたので、試しに出して書いてみました。何度か繰り返してそれを読んでみると、川が流れるように自然と言葉が出てくるような感じを覚えました。それでもまだこれでよいとは思っていません。近頃、『洪(こう)範(はん)論(ろん)』、『史論』などの七篇を作りました。執事はそれをどのように観てくださいますでしょうか。

あれこれ申し上げました。私のことを知らない者は、自分で自分を誉めて、己のことを人に知らせようとしていると思うでありましょう。ただ、執事だけは、十年間考え続けてきた結果がこれであることをきっと察してくださるでありましょう。執事だけが私のことを知ってくださると私は信じているのであります。

【補足】［（1）これは自薦の手紙として非常に工夫されている。欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)の文章を誉めているところは、原文では豊富な語彙を駆使して、孟(もう)子(し)や韓(かん)愈(ゆ)よりも遥かに高く評価しているとの印象を強く与えている。そこまでべた褒めするのは、自分が媚び諂う人間ではないと欧陽脩が必ずわかってくれるからだとして、欧陽脩がわかってくれる根拠として、ここに至るまでの蘇洵の確固たる経歴があると書いているのである。（2）欧陽脩との面会を果たしてからの蘇洵は、中年でデビューしていきなりミリオンセラー作家となった小説家のように、たちまち都の名士の間にその名を馳せたのであった。欧陽脩は蘇洵を朝廷で用いるように推薦し、一方で、蘇洵は富(ふ)弼(ひつ)や韓(かん)�g(き)にも手紙を書いて面談する機会を得て、すぐに上客として遇されるようになった。（3）欧陽脩が翰(かん)林(りん)学(がく)士(し)の号を与えられていたことに関連して若干の補足をしておく。科挙出身者の中でも特に学識に優れるエリートは、試験による審査などを経て、皇帝直属のアカデミーの一員に加えられて学士号が与えられる。学士号は多種類あって、その中で翰林学士が最も重んじられ、翰林学士の多くは朝廷の大臣クラスの任務に就くようになる。実際に欧陽脩は後に副宰相になっている。なお、宰相とか副宰相の職名は宋代にはなかったのだが、宋代の官僚制度は非常に複雑でわかりにくいので、この「自由訳」では簡便を旨として、あまり深く立ち入らずに、一般的に相当する職名でもって適宜表記する。ついながら、宋代の官員の正式の肩書はごちゃごちゃと非常に長い。肩書には、「差(さ)遣(けん)」、「寄(き)禄(ろく)官(かん)」、「館(かん)職(しょく)」の三要素があり、「差遣」は実際の職務を示し、「寄禄官」は官位を示し、「館職」は学士号を示す。官位はあからさまに一位から九位の数字で表すのではなく、唐(とう)代(だい)においてその官位の者が就いていた職務の名称で表すのが慣例になっていた。皇帝に差し出す文章ではこれらを全部並べた長い長い肩書を記すのだが、一般的にはその一部分だけを用い、学士号を持つ者は他は省いて「館職」だけを示すことが多い］

■【01-2-011】謝秋賦試官啓

【解題】父の名がにわかに都の著名人の間に知られて行く一方で、蘇軾兄弟は受験の準備に専念し、当時の世界で間違いなく世界最大であった都の賑わいにも心を奪われるようなことなかった。都に到着して間もなく洪水による惨状を見たこともあって［→作品番号01-1-006］、都の印象はあまりよいものではなかったようだ。その後も、都の繁栄を賛美するような言辞を蘇軾が口にすることは生涯を通じてほとんどなかった。嘉(か)祐(ゆう)元年［1056年］秋、都の開(かい)封(ほう)府主催の科挙の一次試験が実施され、兄弟は揃って合格した。合格者は、試験を実施した人々に感謝の手紙を記す慣例があり、蘇軾はこの手紙を書いた。表題にある「啓(けい)」とは、儀礼的、形式的な手紙のこと。このような謝礼の手紙は普通は誰が書いても同じような内容になるものだが、蘇軾は自身の学問観を盛り込んで書いている。一部分だけを訳しておく。

【訳文】

伏して思うに、聖人が文章の教えを設けたのは、それに基づいて民を統治するためでありました。田野にある君子であっても、文章の教え学ぶのは政(まつりごと)のためであったのです。……時代が下ると、道は二つに分かれ、王の政は刑書［法律書］から出ることになり、その一方で、儒学は吏事［行政の実際面］には疎いとされました。それで、民を治めることは学問に基づくことなく、また、学問を学んだ者がそれを民に施すこともなくなったのでした。学校に学ぶ者は朝廷のことは考えず、法律を読む者は詩賦などは捨ててしまいました。試験の場では、よい声で朗誦する技を誇ったのでした。……［以下、学問と政治が一体であるべきことを述べる］……私は他の人に長じる才能はなく、自分で独自に学んできただけで、文章は拙く、現代の人々の心に適うものでありません。ところが、科挙の合格者の中に私の名前があり、賢材を推挙する試験を辱めてしまったのではないかと大いに懼れております。俊才の群れを追って翼を翻して飛び、船を並べて大河を渡るようなことがもしもできましたならば、ほぼ合格者の名に適うようにもなるでありましょうか。……［以下、謝礼の言葉を連ねる］……

【補足】［蘇軾兄弟が科挙の一次試験を突破した後に、張(ちょう)方(ほう)平(へい)が成(せい)都(と)から都に戻ってきた。そのころに蘇洵と張方平が会った際のエピソードを曾(そう)慥(ぞう)の随筆『高(こう)斎(さい)漫(まん)録(ろく)』が伝えている。曾慥は北(ほく)宋(そう)と南(なん)宋(そう)にまたがる時代を生きた学者で、先祖に北宋の高官であった者がいた］

【訳文】

曾(そう)慥(ぞう)：『高(こう)斎(さい)漫(まん)録(ろく)』

三(さん)蘇(そ)［蘇(そ)洵(じゅん)、蘇軾、蘇(そ)轍(てつ)］が蜀(しょく)から都に来て以来、張(ちょう)方(ほう)平(へい)と欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が朝廷の人々に誉め伝え、これより三蘇の名声は大いに振るうようになった。

ある日、張方平は蘇洵にこのように尋ねた。

「御子息は近頃は何を一生懸命に勉強されていますか」

蘇洵は答えた。

「軾はちょうど『漢(かん)書(じょ)』を読み直しております」

張方平は、

「ほほう。本は二回も読むものなのでありますかな」

と言った。

蘇洵は宿に帰ってそのことを蘇軾に伝えると、蘇軾は言った。

「あの先生は、世間にはまさか三回も読む者がいるとは御存知ないのでありましょう」

張方平はかつて十七の史書を借り、ひと月経つと、

「すべて読み終わりました」

と言って還した。張方平は生まれながらに記憶力に優れ、すぐに覚えて暗唱できた。どのような優れた学者も張方平に及ぶ者はほとんどいなかった。

【補足】［蘇軾の記憶力もまた尋常ではなかったというエピソードは別の機会に見ることになるだろう］

■【01-2-012】刑賞忠厚之至論

【解題】嘉(か)祐(ゆう)2年［1057年］1月、蘇軾兄弟は宮中で行われた二次試験に、全国から集まった受験生とともに挑んだ。試験では5本の小論文を書き1首の詩を作ることが課せられた。そのうち、「『刑(けい)賞(しょう)は忠(ちゅう)厚(こう)の至り』について論ぜよ」という課題に応じて書いた小論文を読んでおこう。「忠厚」とは真心で、為政者は刑や賞を民衆に与えるときに真心の限りを尽くさなければならないという意味のことが昔からいわれていて、それについて現代的意義を論じろというのが課題である。細かいところは省いて大意を訳す。

【補足】［上で、記憶力に関わるエピソードを見たが、科挙は記憶力だけを問うものではなかったことが、この小論文を吟味して行くとよく理解できるであろう］

【訳文】

大昔の理想の天子(てんし)は、民を深く愛し、民を切に思いやり、人を尊重することを基本として天下を治めました。一つでも善い行いがあれば、それを賞した上で、歌って讃えたので、人は楽しんで善行を始め、最後までそれに努めました。逆に一つでも悪い行いがあれば、それを罰した上で、憐れんだので、人は悪いことはやめて、善いことをしようとしました。

このような言葉がありました。「賞を与えるべきか疑わしく思ったときには与えるのがよい。恩愛を広く民に及ぼすことができるからだ。罰を与えるのを疑わしく思ったときにはやめておくのがよい。刑を慎むことができるからだ」。実際に聖天子の堯(ぎょう)の時代にこのようなことがありました。皋(こう)陶(とう)という人が死刑を行おうとして、執行を三回申請しました。しかし堯は三回とも赦すように言いました。天下の人々は皋陶が厳格であるのを畏怖し、堯が寛大であるのを喜びました。また、四(し)岳(がく)という人が、ある犯罪人を赦して仕事に就けるようにしたらどうかと提案しました。堯はそれはできないと一度は言いましたけれど、その後で、試しに用いてみようと言いました。この二つの例から、堯の心は明らかであります。

こういう言葉もありました。「罪の疑わしいときは刑は軽くせよ。功績の疑わしいときにも賞は重くせよ。無実の者を殺してしまうよりは、罪ある者を取り逃す方がまだましである」。すべてはこれに尽きます。賞を与えるか与えないか、与えなくてもよいときにまで与えるのは思いやりが過ぎます。罰を与えるか与えないか、与えなくてもよいときにまで与えるのは厳し過ぎます。思いやりが過剰であっても人として欠陥があるとはいえません。しかし、厳し過ぎるのは残忍であって人間性を失います。

昔は賞として地位や俸禄を与えることはなく、罰として刃物を用いることはありませんでした。地位や俸禄を与えれば、賞はそこだけにとどまって、それ以上の広がりを持たないからです。刃物を用いれば、刑はそこだけにとどまって、それ以上の広がりを持たないからです。天下にあるありとあらゆる善を全て賞するのに、位や俸禄はまるで足りません。天下にあるありとあらゆる悪の全てに刃物を用いたら悲惨なことになります。昔の天子は賞も刑も疑わしいときには全てに思いやりを及ぼし、世の人を正しい生き方へ導いたのです。ですから刑罰は厚い真心、すなわち忠厚のこの上なきものであると言ったのです。

【補足】［蘇軾が書いたこの論文については、極めて有名なエピソードが語り継がれてきた。弟が書いた墓誌銘からその部分を見ておこう］

蘇(そ)轍(てつ)：『亡(ぼう)兄(けい)子(し)瞻(せん)端(たん)明(めい)墓(ぼ)誌(し)銘(めい)』

嘉(か)祐(ゆう)二年、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が礼(れい)部(ぶ)進(しん)士(し)の試験委員長になり、いまの時代の文章が奇矯なものになっているのを嫌って、修正したいとの思いがあった。梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)も試験監督になっていて、公［蘇軾］が（試験の答案で）刑賞を論じた文章を（読んで感心して）欧陽脩に示すと、欧陽脩は驚き喜び、公は並みの者ではないと考え、首席にしたいと思った。しかし、もしかしたらこの文章は［欧陽脩の弟子の］曾(そう)鞏(きょう)が書いたのではないかと疑い、公を二番にしたのだった。また、『春(しゅん)秋(じゅう)』について問う試験では首席で、殿(でん)試(し)［科挙の最終試験］は乙科として合格した。そして、蘇軾は諸公に合格した謝礼の挨拶をし、そのときに欧陽脩に初めて会った。欧陽脩は梅堯臣に手紙で、「私はこの人を敬って避けなければならない。人より頭一つ抜きん出ている」と記した。人々はそれを聞いた始めは面白く思わなかったが、後に信服した。

【補足】［上の記述についていくつか補足する。（1）二次試験を担当する試験委員長に欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が任命されたのは蘇軾兄弟にとって幸運であった。当時は、先の『遠(えん)景(けい)楼(ろう)の記』にも記されていたように、装飾過多の美文が書けることを重視する傾向がなお強く残っていて、受験生は徹底してその技を鍛え、合格間違いなしと前評判の高かった美文家が幾人もいた。欧陽脩は委員長になったのを機に、美文偏重の風潮を一掃しようと、上辺ではなく内容重視で採点すると決め、自分と文学観を共有する者を試験委員として集めた。王(おう)珪(けい)、梅(ばい)摯(し)、韓(かん)絳(こう)、范(はん)鎮(ちん)が招集され、また、梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)、鮮(せん)于(う)侁(しん)らを採点の実務を担当する委員として呼んだ。宋代には、情実によって合否が左右されたりしないように科挙の制度が整備され、試験委員長といえども自身の気に入った者を贔屓して合格させたりできないようになっていた。具体的には、受験生の答案は第三者によって筆写し直されて、受験生の名が完全に秘された状態で採点されるなどの対策がとられた。試験委員長が個性を発揮できるのは、出題の傾向や採点の方針を決めるときで、欧陽脩はそこで己の考えを強く貫いたのであった。欧陽脩の文学観は、初めて会った蘇(そ)洵(じゅん)を高く評価したように、蘇洵と完全に一致し、その蘇洵の薫陶を受けた蘇軾兄弟ともまた一致するものであった。（2）梅堯臣は採点委員として蘇軾の小論文を読み［もちろん蘇軾が書いたことは知らずに読んだ］、これぞまさしく欧陽脩が求める優れた答案であると考え、特に委員長に読むことを勧めた。梅堯臣は欧陽脩の先輩であるが、官員としてはごく地味な存在で、一人でこつこつとやはり地味な詩を作っていた。その地味な詩こそが、欧陽脩が宋代の詩はかくあるべしと模索していたものに合致していたので、欧陽脩が高く評価し、にわかにその名が知れ渡ったのだった。欧陽脩は低い官位にある梅堯臣を特に試験委員に抜擢し、それが梅堯臣の生涯を通じての最高の仕事となった。そのときにたまたま蘇軾の論文を担当して読んだのは何かしら運命的なものを感じさせるできごとであった。（3）欧陽脩は梅堯臣に勧められて蘇軾の小論文を読んでみると、確かに非常に優れていたので、これを書いた者を首席に据えようと考えた。受験生の名は伏せられているので、蘇洵の息子が書いたとは欧陽脩にはわからず、もしかしたら自分の弟子の曾(そう)鞏(きょう)が書いたのではなかろうかとの疑念を抱いた。文章の変革を強引に押し進めるだけでも物議を醸すのに、自分の弟子を首席にしたならひどい身贔屓だとの誹りを受けるかもしれないと、最終的に2番目の者と順位を入れ替えた。すると、発表当日、欧陽脩が驚いたことに、首席が曾鞏で2番が蘇軾であった。試験前に評判の高かった美文家は軒なみ二次試験で不合格となり、それを不服とした落第生たちが欧陽脩の家を囲んで示威行動をするといった騒動が生じた。（4）蘇軾のこの小論文は、歴史上の事例を幾つも織り込みつつ、自分の考えをきちんと述べていて、科挙の模範答案としてだけでなく、名文の代表として高く評価された。しかしながら、ここに引かれている堯(ぎょう)と皋(こう)陶(とう)の問答は実はどこにも基づくものがなかった。あからさまにいえば蘇軾が「捏造」したものであった。論文の構成と内容があまりにもみごとであったので、採点者全員が何らかの出典があるものと思い込んでしまったのだ。そのことについて楊(よう)万(ばん)里(り)の随筆『誠(せい)斎(さい)詩(し)話(わ)』が次のように伝えている。楊万里は南(なん)宋(そう)の時代の詩の大家である］

楊(よう)万(ばん)里(り)：『誠(せい)斎(さい)詩(し)話(わ)』

欧(おう)陽(よう)公は省(しょう)試(し)［科挙の二次試験］の試験委員長になり、東(とう)坡(ば)［蘇軾］の文章を得て驚きかつ喜んで、首席として合格させようと思ったが、自分の門下生の曾(そう)鞏(きょう)の文章ではないかと疑い、物議を招くことを恐れて、抑えて第二とした。

（科挙に合格して後に、その）謝礼に東坡が欧陽脩に挨拶をしに行くと、東坡が作った『刑賞は忠厚の至りの論』を取り上げて、

「『皋(こう)陶(とう)が死刑の執行を三回申請したが、堯(ぎょう)は三回とも赦すように言った』と書いてありましたが、この故事はどの書物に書いてあるのでしょうか」

と、尋ねた。東坡は、

「そのことは『三(さん)国(ごく)志(し)』の孔(こう)融(ゆう)伝の注にあります」

と、答えた。欧陽脩は後でそれを閲したところ、書いていなかった。

後日また東坡にもう一度尋ねると、東坡はこのように言った。

「曹(そう)操(そう)が袁(えん)紹(しょう)［曹操の強大なライバル］を亡ぼしたときに、［袁紹の息子の］袁(えん)熙(き)の妻を息子の曹(そう)丕(ひ)に与えようとしました。すると、孔融はこのように言いました。『昔、（周(しゅう)の）武(ぶ)王(おう)が（殷(いん)の）紂(ちゅう)王(おう)［残虐な王であったとされる］を征伐したときに、（紂王の妃であった）妲(だつ)己(き)を（武王の弟の）周(しゅう)公(こう)に与えようしました』［妲己は紂王の暴虐をより酷くさせた悪女であったので、聖人と目される周公にそれを与えるなどということはあってはならないことで、曹丕に袁熙の妻を与えるのもまたあってはならないことである、という意味］。曹操は驚いて、『そのことは何に書いてあるのか』と尋ねますと、孔融はこのように言いました。『今日の事を見れば、その意(ココロ)からして、必ずそうであったとわかります』と、答えました。堯と皋陶のことも、その意(ココロ)からして、必ずそうであったのです」［つまり、孔融が捏造したのに倣って自分も捏造したと言ったのである］。

欧陽脩は大いに驚いて、

「この人こそ善く書物を読み、善く書物を用いるものであると言うべきである。後にその文章はきっと古今独歩のものとなるだろう」

と、言った。

【補足】［この後に、楊万里は『礼(らい)記(き)』という書物に蘇軾が記したのとよく似た記述があることを考証している。楊万里とほぼ同じ時代を生きた陸(りく)游(ゆう)の随筆『老(ろう)学(がく)庵(あん)筆(ひっ)記(き)』には、若干異なる記述がある］

陸(りく)游(ゆう)：『老(ろう)学(がく)庵(あん)筆(ひっ)記(き)』

東(とう)坡(ば)先生の省試の『刑賞は忠厚の至りの論』に「皋(こう)陶(とう)は死刑の執行を三回申請したが、堯(ぎょう)は三回とも赦すように言った」とある。梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)は採点委員としてこの論文を得て、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)に示した。

欧陽脩が、

「このことはどの書物から引いたのだろうか」

と、言うと、梅堯臣は、

「出所が明らかでなければいけませんでしょうか」

と、言った。欧陽脩はたまたま皆が忘れてしまっているだけだろうと考え、大いにその論文を称えて、初めはそれを首席にしようと思ったが、結局はそうはしなかった。

合格発表を見て、書いたのは東坡であることを知り、梅堯臣に、

「あの者なら必ず拠り所があって書いたに違いありません。我らが記憶していなかったのは残念ですな」

と、言った。

東坡先生が合格の謝礼に欧陽公を訪れると、欧陽公は最初にこのことを尋ねた。東坡先生は答えて、

「出所が明らかでなければいけませんでしょうか」

と、梅堯臣と同じことを言った。欧陽公はその豪胆ぶりを誉め、大いに嘆息してやまなかった。

【補足】［蘇軾がいかにも史実としてありそうなことを捏造したのは非難されるどころか、一生を左右する大きな試験において堂々とやってのけた豪胆ぶりがかえった称賛されたのであった。見識の高さとともに、そのような肝の太さが国政を担って行く士(し)大(たい)夫(ふ)には必要だからである。科挙は知識を問うものではなく、人を問うものであるというのが、本来の建前であって、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)が科挙を改革しようとした基本はそこにあった］

■【01-2-013】謝欧陽内翰書

【解題】科挙の二次試験に合格した兄弟は3月5日に皇帝の臨席のもとで行われた最終試験に進み、2人とも合格した。そのとき成績上位者の262人には「進(しん)士(し)」の称号が、下位者の126人には「同(どう)出(しゅっ)身(しん)」の称号が与えられた。首席は章(しょう)衡(こう)で、蘇軾兄弟は上位グループの中ぐらいであった。最終試験では基本的に不合格者は出さず、皇帝の名をもって順位を決めるのが主目的であった。それは、皇帝によって国家有用のエリートとして選ばれたことを合格者に印象付けるためであった。事実として、科挙の制度を充実させて、その合格者に宰相職までも任せることにしたのは、宋の初代皇帝と二代皇帝の英断であって、蘇軾にしてもそのような科挙がなかったならば、一介の商人で終わった可能性の方が遥かに高かったのである。中国の全ての時代を通じて、宋代の科挙の合格者が皇帝の恩義を最も強く感じて、最も忠であろうとしたのは、この科挙制度の効果であった。皇帝が定めた合格順位は重い意味を持ち、「進士」と「同出身」では官僚としてのスタート時から区別され、とりわけ上位三人は特別扱いをされた。順位の差はあっても、同じ年の科挙で合格した者は「同(どう)年(ねん)」と呼ばれ、いわば同窓生のような仲間意識を持った。蘇軾と同年では、先に欧陽脩の弟子として挙げた曾(そう)鞏(きょう)が最も有名で、後の時代に編まれた『唐(とう)宋(そう)八(はち)大(たい)家(か)文(ぶん)』では、宋代を代表する6人の名文家のうちの1人として選ばれている。ちなみに、宋代の残りの5人は、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)、蘇(そ)洵(じゅん)、蘇軾、蘇(そ)轍(てつ)、王(おう)安(あん)石(せき)である。同年で次いで有名なのは章(しょう)惇(じゅん)で、最初は蘇軾の親友として付き合い、後に政敵となり、宰相に昇って辣腕を振るった。蘇軾は合格すると、試験の実施に関わった人や、父と交流がある人々に合格できた感謝の手紙を多数記している。ここに表題として掲げたのは、科挙の最終試験に合格した後に欧陽脩に出した謝礼の手紙である。

【訳文】

私が竊(ひそか)に天下の事を考えますのに、人にその行為を改めさせるのは容易ではありません。

（宋(そう)の前の）五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時代の終わりから、文教は衰落し、風俗は安易に流れ、日々に地にまみれるまでになってしまいました。聖(せい)上(じょう)［皇帝］は深く嘆息し、その源から澄ませ、そこから清らかな水を引いてこようと考えられ、天下に詔を出して、その主旨を諭(さと)らせて、雄(ゆう)俊(しゅん)、魁(かい)偉(い)、敦(とん)厚(こう)、朴(ぼく)直(ちょく)の士(し)を招き寄せ、浮(ふ)巧(こう)、軽(けい)媚(び)、叢(そう)錯(さく)、采(さい)繡(しゅう)の文をやめさせ、漢(かん)代(だい)の学問を追って、次第に三(さん)代(だい)の理想の政治を復活させようとなさったのでした。ところが、士(し)大(たい)夫(ふ)は天子の心を正しく察することなく、過当な受け止め方をしたのでした。深く凝らしたり、迂遠なところに行ったりして、奇妙に偏った読むに堪えない文章を作ってきた余風がまだ消え尽くさないうちに、新たな別の弊害が起こったのでした。腕のある者は難しい言葉をちりばめて自分の文章を後世にまで伝えようとし、腕のない者は昔の人のものを模写して「古(こ)文(ぶん)」だと称したのでした。あれこれ勝手なことが行われ、止めることができなくなってしまいました。

そもそも唐(とう)の時代に古文といわれたものは、韓(かん)愈(ゆ)から始まったのでした。その後で韓愈に学んで、そこにまでは至らなかった者として皇(こう)甫(ほ)�G(しょく)がいました。皇甫�Gに学んでそこにまでは至らなかった者として孫(そん)樵(しょう)がいました。孫樵以降は見るに足る者はいませんでした。

伏して心の内に思いますに、天が先(せん)王(おう)の遺文を集めて託そうとする人、そして覚悟を持った学者として天が待っていた人、それが内(ない)翰(かん)執(しつ)事(じ)［欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)］であったのです。王命を承って、自ら文学を指揮して、必ず天下の奇士を招いて、天子の詔に応じようとしたのでありました。

私は遠方の田舎の者で、家にいて何もできず、道を称することもなく、都に来て長くその名が知られないままで、もう西に帰ろうと準備をしていたときに、思いがけず執事の抜擢を受けて、第二位に据えていただきました。しかし、私がもとから蓄積していたものは士大夫の心を慰められるものではなかったので、群れ集まって嘲笑し罵声を浴びせる者がややもすれば千人にもなったのでした。それでも、ただ執事に知っていただいことを恃(たの)みとして、多くの君子と議論し、落ち着いて心を動かすことはありませんでした。

なおも幸いなことに、御(ぎょ)試(し)［科挙の最終試験］で当局から排斥されることなく、笏(しゃく)を取って立ち、執事の門のもとで謝礼を申し上げられることとなりました。

古の人がこのように言っています。士に賢愚はなく、ただ遇うところによると。楽(がく)毅(き)は燕(えん)国を去ってからはもう戦って勝つことはできませんでしたし、范(はん)蠡(れい)は越(えつ)国を去ってからはついに何も為し遂げることはできませんでした［楽毅と范蠡は戦国時代の人物で、それぞれ優れた戦術家であり計略家であったが、燕国ないし越国という舞台を失ってからは活躍できなくなった］。私はこれからも長く執事の風下に立って、執事の賓客の末席に置いていただいて、この小さな心をこれからも長く発奮させていけるならば、私の幸いとするところであり、執事もまたいささか喜んでいただけるのでありましょうか。

【補足】［（1）宋(そう)代(だい)の士(し)大(たい)夫(ふ)がいかに議論好きであったか、その議論の進め方がいかなるものであったのかということがよくわかる手紙である。この手紙は以下のような構成になっている。�@冒頭に大きな命題を掲げ、おやっと思わせる。�Aその命題に関して、歴史を追って考察して行く。その際に、遠い昔の理想の時代［三(さん)代(だい)と称される］の理想の君主［先(せん)王(おう)と称される］のもとに模範とすべきものがあったということが大前提として置かれている。�Bその命題に関する現代的な課題を提示し、自分とどのような関わりがあるかを述べる。ここでの課題は文学の革新運動で、革新とはとりもなおさず古代への回帰、つまりルネッサンスであると認識されていたので、新しい文学のかたちは「古(こ)文(ぶん)」と称され、その方向性を最初に定めたのが唐(とう)代(だい)の韓(かん)愈(ゆ)で、現代における指導者は欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)であって、蘇軾はその後に続く者であると自身を位置付けている。（2）欧陽脩の革新運動は当時はまだ十分に社会の支持を得ていたわけでなく、この手紙には、蘇軾ら合格者を非難する者が千人もいたと書いてある。旧来の美文を何年もかけて習得してきた者からしたら、いきなり門前払いを食わされて官員としての未来が閉ざされてしまったわけだから、怒るのは当然であった。（3）科挙の合格者は、その年の試験委員長と疑似的な師弟関係にあると見なされた。それで、楽(がく)毅(き)や范(はん)蠡(れい)の故事を引いて、自分は欧陽脩の導きがあって初めて活躍できるので今後とも指導を仰ぎたいと記して手紙を結んでいる。実際に、蘇軾兄弟は終生欧陽脩を師として慕い続けることになる。なお、楽毅や范蠡がいかなる人物であったのかということは、蘇軾が詳しく論じている文章を後に見ることになる］

■【01-2-014】謝范舎人書

【解題】蘇軾は科挙に合格できた謝礼の手紙を、欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)に呼ばれて試験委員を務めた王(おう)珪(けい)、梅(ばい)摯(し)、韓(かん)絳(こう)、范(はん)鎮(ちん)にも出している。いずれも今後の蘇軾と様々な場面で関係してくる人物で、それぞれの人柄に応じて蘇軾は手紙を書き分けているので、読めばそれなりに興味深いところもあるのだが、煩わしさを避けて、ここでは范鎮への手紙を読んでおこう。范鎮は蜀(しょく)の先輩で、特にそのことに思いを込めて書いてある。

【訳文】

私は古(いにしえ)の人からこのように聞いています。民に常に変わることのない性質があるわけではない、と。土地の風気に影響されるところがあり、また、人の好悪はそれぞれに異なるところがあるのです。

文章の流れを見ると、漢(かん)の時代が最も盛んでした。蜀(しょく)の地からも、文章によって名を顕し、高位に昇った者が多く出ました。司(し)馬(ば)相(そう)如(じょ)がその早い例で、王(おう)褒(ほう)がその後に続きました。この二人が頭に高々と冠をかぶり、大官の印の組紐をなびかせ、大きな四頭立ての馬に乗って、堂々と郷里に帰ってきたときに、蜀の人々は初めて文章を好むことがいかに大切であるかを知りました。書物を朗誦する声が、［文化の先進地である］鄒(すう)や魯(ろ)と同じように、蜀でも盛んに聞かれるようになったのでした。しかし、この二人が蜀の人を中央に推薦したということは聞いていません。我が身の富貴を遂げてからは、郷里の人々のことなどは忘れてしまったのでしょうか。

私はかつて老人からこのように聞いています。［五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時代に蜀に地方政権を立てた］孟(もう)氏が宋朝に降伏して、民はようやく息を継ぐことができたものの、死地から救われた傷を癒すのに精いっぱいで、それからの数十年間は学校は衰えたままであった、と。天(てん)聖(せい)年間に我が伯父［蘇(そ)渙(かん)］が科挙に合格して西に帰ってきたときに、その姿を見ようと土地の人々が道を塞ぎ、大いに感心しました。その後、執事［范(はん)鎮(ちん)］や諸公が相い継いで朝廷に登用され、蜀の人の文章の功業が天下に聞こえるようになったのでした。そのようになって、どの家でも、農具を棄てて筆と硯を執るようになりました。その盛んなありさまは、漢の時代を超えるばかりであります。蜀には数十の州があり、私にとって近いところの通(つう)義(ぎ)郡を例に引きますと、それは蜀の中でも小さな郡で、眉(び)山(ざん)県はその中の一つの県であるに過ぎませんが、昨年の科挙の一次試験を通過して、礼(れい)部(ぶ)の二次試験に進んだ者が四、五十人ほどもいました。そして執事と梅(ばい)公(こう)［梅(ばい)摯(し)］が試験委員として親しく考査して、その中の十三人を合格者として得たのでした。その他の蜀の州もまた同様に多くの合格者を出したのは言うまでもありません。

君子の心の用い方として、天下のどこかを片寄って愛するということはないのですが、父母の邦からもしも合格者が出て、その人とともに喜ぶのは、行きずりの人が合格したと漫然と聞くのとはやはり同じではありません。執事と梅公［范鎮も梅摯も実は蜀の成(せい)都(と)の人］が蜀の人々に大きな影響を与えて、先(せん)王(おう)の道［古代の理想時代の教え］を学ぶように誘い、また、その力量と裁断によって天子の光を輝かせているのは、司馬相如や王褒を遥かに凌ぐのであります。

私もまた十三人の中にあって、謹んでお役の人に導かれて合格させていただいたお礼を申し上げたく、また、執事が故郷から多くの後輩を得たことにお祝いを申し上げたいと思っています。

【補足】［（1）蜀(しょく)から出た文化人の大先輩として漢(かん)代(だい)の司(し)馬(ば)相(そう)如(じょ)の名を挙げている。司馬相如は著名な人物で、蘇軾はしばしば詩文にその事績を引くが、ここがまさにそうであるように、褒めることはほとんどない。（2）欧陽脩が科挙の試験委員として呼び集めた王(おう)珪(けい)、梅(ばい)摯(し)、韓(かん)絳(こう)、范(はん)鎮(ちん)の4人のうち、韓絳を除く3人が成(せい)都(と)の出身者であった。そのことからも蜀の人々がいかに熱心に勉強していたかがわかるが、小さな眉(び)山(ざん)県から、合格者388人中13人を出したというのはかなり驚くべきことである。13人の中には、一緒に学んだ家(か)定(てい)国(こく)［→作品番号01-2-008］がいた。（2）蘇軾が王珪や梅摯に出した手紙では同郷であることは強調されていない。恐らく、范鎮が特に強い郷土愛の持ち主であることを蘇軾は知っていたのだろう］

■【01-2-015】上韓太尉書

【解題】蘇軾は試験委員の面々に謝礼の手紙を書いただけでなく、そのとき宰相の地位に就いていた韓(かん)�g(き)にも手紙を書いて、面談の機会を願い出ている。科挙に合格したばかりの者に宰相が面談を許すということは普通はあまりないのだろうが、この手紙にもあるように、父の蘇(そ)洵(じゅん)がすでに韓�gの知遇を得ていたので、蘇軾は弟とともに面会を求めたのである。

【解題】

私は生まれてから二十二年になりますが、七、八歳のころに書物を読むことを知り、大きくなるにつれて、現在のことにはあまり興味がなくて、過去の世の盛衰の跡や、時代による風俗の変化を観るのを好み、（夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)の）三(さん)代(だい)以降の歴史をよく知るようになりました。

前漢(ぜんかん)が衰え出してからは、大臣は現状を守るだけで、大きな計略に務めることはなく、後(ご)漢(かん)の末になると、異常なくらいに節義を貫こうとした士(し)大(たい)夫(ふ)が多くいたものの、それは正しい道に従うものではありませんでした。前漢の元(げん)帝(てい)、成(せい)帝(てい)のころは、天下に事は無く、高官も将軍もその地位と俸禄に安住して、己の子孫のためになるようにと私的な恩義を施し、農地や邸宅を買い込み、変化を嫌って姑息にそれを忌避し、歳月がいたずらに過ぎ行くままにして、儒学の古典からやや近そうな言葉を取ってきて、そのようにしているのがよいとする口実としていました。孔子は「下(か)流(りゅう)に居(い)て上(かみ)を訕(そし)る者(もの)を悪(にく)む、訐(あば)いてそれを直(ちょく)と為(な)す者(もの)を悪(にく)む」と言いました［これは『論(ろん)語(ご)』ある言葉で、「君子も憎むことがあるか」という問いに、孔子は四つの事柄を挙げて、その一つに、下位者がぶつぶつ上位者の悪口を言うのを憎むと答えた。弟子の子(し)貢(こう)は三つの事柄を挙げて、その一つに、人の秘密をあばくのが正しい行為だと思い込んでいる者を憎むと答えた］。劉(りゅう)歆(いん)や谷(こく)永(えい)は互いにかばい合って、この言葉でもって自分たちの行為を飾ったのでした。こうして、竜は雲に乗り風に乗る勢いを失い、生け簀の魚の安楽な暮らしがよいとして、衰えてゆくのを悟らないままに、ついにはつまらない連中の俎の上で肩から股まで裂かれてしまったのです［つまり前漢が衰亡したことをいう］。

後漢の桓(かん)帝(てい)、霊(れい)帝(てい)はそのような昔の弊害に懲りて、皇帝の権威を樹立しようとして、厳しい刑罰を用いて臣下の者を責め使いました。忠臣や義士は朝廷には受け入れられず、草野に群起して世を驚かせるような奇矯な振る舞いに力を尽くし、天下の豪俊は挙ってその仲間に加わって、刑罰を受けるのをむしろ喜び、高位に昇ることを誉れとはしなかったのでした。こうして天下の士は無用の虚名を騒ぎ立て、実際に天下にとって有用なことには向かって行きませんでした。人が病んで狂うようにして後漢は滅亡へと向かい、国を安らかにすることを知らないままに叫び走って、ついに自ら倒れてしまったのでした。

昔［周(しゅう)の時代の初め］、太(たい)公(こう)［呂(りょ)尚(しょう)］が斉(せい)の地を治めたときに、賢人を登用して、その功績を称えました。それを見て、周(しゅう)公(こう)［周の文(ぶん)王(おう)の弟で孔子が尊敬した聖人］は、「後の時代に君主を殺して位を奪う臣がきっと出るであろう」と言いました。一方で、周公は魯(ろ)の地を治め、親族を大切にし、年長者を敬いました。太公はそれを見て、「後の世にきっと徐々に衰えて行くだろう」と言いました。漢の歴史はまことにこの言葉に類似していました。

人々の振る舞いや風俗が時代によって変るのは何によるのでしょうか。古の君子は剛毅であり正直であり、義を守りながらも�ｪ大で、忠であって恕であって仁に厚く、義によって行動しました。士大夫が朝廷にあっても切磋琢磨して、国のために力の限りを尽くし、奇矯な振る舞いに及ぶことはありませんでした。これが三代の王政が興った理由なのです。曾(そう)子(し)は「上が其(そ)の道を失い、民が散じること久しい」と言いました［これも『論語』にある言葉で、孔子の弟子の曾子は、為政者が道義を喪うと民心が離れてしまって戻らないということを言った］。天下に幸いにも上に媚びて言葉を飾る者がなくても、寄り集まって奇矯な振る舞いを競い合うようにして為すのでは、悲しいことであります。

私は幼いころに、富(ふ)弼(ひつ)公(こう)と韓(かん)�g(き)太(たい)尉(い)が寛大で仁に厚い長者であって、しかも非義を犯すことは絶対に許さないと聞きました。都に来るに及んで、二公が同時に宰相になっておられました。私は二公のお心を知ろうと、道に立ってひそかにその容貌を望み見ましたところ、�ｪ然としたお姿で、悪を見ても怒りを発することなく、善を見ても喜びを表すことなく、まことに古の大臣のようでありました。循(へこ)循(へこ)と流されるような者はもとより何もしませんし、翹(びん)翹(びん)と枝を伸ばすような者は聖人の中道を行くのではありません。私は太尉にお目にかかって、その一言だけでも聞いてみたいと願うものであります。太尉と我が父とは親しくさせていただいていて、かたじけなくも私の名も通じさせていただいておりますので、お目にかかれることもありえなくはないでありましょうか。お会いできればこれに勝る幸いはありません。

【補足】［（1）この手紙の前半は漢(かん)の歴史を論じて、前(ぜん)漢(かん)と後(ご)漢(かん)の士(し)大(たい)夫(ふ)を比較している。前漢の士大夫は高位に昇ってそこに安住しようとし、後漢の士大夫は野にあって過激な行動に走った。そのどちらであっても、結果として国は滅びてしまった。このことは、一見すると、韓(かん)�g(き)に面会を求めることと関係がないように思えるのだが、実は当時の時代状況と深く関わっていた。先に見た蘇洵に手紙に、君子が集まるときもあれば、離れるときもあると書いてあったように、当時の朝廷では保守派［いわば前漢の士大夫］と改革派［一歩間違うと後漢の士大夫になりかねない人々］との抗争が繰り返されていた。改革派は范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)を中心に一度は改革に着手したのだが、足元をすくわれてすぐに失敗し、いままた改革派が朝廷に集結しつつあって、富(ふ)弼(ひつ)と韓�gが宰相として並び立ったのだった。ここで、改革派と保守派の対立が再燃して、改革がまたしても失敗してしまうのを蘇軾は恐れ、「聖人の中道」へと士大夫を導くことを韓�gに期待したのである。韓�gは北宋の名臣とされ、確かにどっしりと構えて、国家の中心にあるべき人であったのだろうが、後世の人間からするとあまり面白味がなく、先走って書くと、年齢とともに「中道」から「反動」へと傾いて行ったようである。なお、便宜上、「前漢の士大夫」という訳語を用いたが、漢の時代と宋の時代では、学問を修めて実際に政治に活かそうとする人々の社会的階層は大きく異なっていた。漢代には門閥と縁故が絶対的に物を言い、宋代には科挙によって門閥と縁故は打ち砕かれたのだった。（2）蘇軾は、少年のころにそれこそ後漢の士大夫の典型である范(はん)滂(ぼう)に憧れたように、実はどちらかといえば「翹(びん)翹(びん)と枝を伸ばすような者」で、韓�gや富弼は、欧陽脩ほどには蘇軾のことを高く評価しなかったようである］

■【01-2-016】梅直講書上

【解題】蘇軾は梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)にも手紙を書いた。梅堯臣は採点委員として蘇軾の論文を最初に読んだ人である。この手紙の冒頭で周(しゅう)公(こう)［周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)の弟で、周(しゅう)公(こう)旦(たん)とも記される］の故事を引いている。周公の名は韓(かん)�g(き)への手紙でも記されていたように、儒学の伝統において模範とすべき人物として常に仰ぎ見られ、孔(こう)子(し)は晩年に「久しく周公旦の夢を見ない」と言って学問への情熱の衰えを嘆いたほどに尊敬してやまなかった。だから、手紙の最初にいきなり周公の名が出てきたならば、士(し)大(たい)夫(ふ)は姿勢を正して目を凝らすのであって、蘇軾はまさしくそれを狙って梅堯臣を驚かしたのであろう。

【訳文】

私は書物を読んで、周(しゅう)公(こう)旦(たん)が苦しい胸の内を詩や手紙に託したところに至ると、いつも悲しく思いました。周公旦は甥の成(せい)王が位に就いて以来、誠心誠意補佐しようと努めていましたのに、弟が間に入って、周公旦は王位を奪おうとしていると成王の耳に吹き込んだのでした。周公旦ほどの人であっても、不遇の時があったのです。

その周公旦を誰よりも尊敬してやまなかったのが孔(こう)子(し)で、孔子にもまた不遇のときがありました。孔子は、陳(ちん)国と蔡(さい)国の大臣に嫌われ、野において囲まれて進退に窮しました。食糧の道は絶たれ、一行に病人も出ました。それでも、孔子はいつも通りに琴を奏でて歌い、弟子の子(し)路(ろ)や顔(がん)回(かい)らと学問を論じ合っていました。

孔子は言いました。

「昔の詩に、『犀でもなく虎でもない。なのに我等は荒野を行かねばならない』とあるのは、戦に駆り出された民衆の嘆きの声だと聞いている。私もまた荒野を行く者なのだろうか。私は間違った道にきてしまったのだろうか」

顔回は言いました。

「先生の道はとても大きいのです。ですから、天下はそれを容れることができません。容れられなくても苦しむことはないのです。容れられず、しかしその後偉大な人物になった人だっているではありませんか」

孔子はにっこり笑い、

「顔回よ、君が財産家になったら、私は君の家の金庫番になりたいものだ」

と言いました。

孔子は、天下に容れられなくても、その弟子たちとこのような冗談を交えた問答を楽しんでいたのです。

周公旦は実際には富貴で、孔子は貧賤でありました。孔子の貧賤に周公旦の富貴は及ばないのではないでしょうか。周公旦は賢人でありましたけれど、その弟でさえも周公旦の心の内がわかっていませんでした。周公旦にはその富貴をともに楽しむ相手がいませんでした。孔子には貧賤をともにする人々がたくさんいて、いずれもが天下の賢才でした。そしてともに楽しむことができたのです。

私は七、八歳のころ、初めて書物を読み、いまの世には欧(おう)陽(よう)公［欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)］という人がいて、その人なりは昔の孟(もう)子(し)や韓(かん)愈(ゆ)のようであると聞きました。また、梅(ばい)公［梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)］という人がいて、欧陽公と交流があり、二人の議論はどちらが上でどちらが下ということはなく、互いに磨き合っているということも聞きました。

それから成長して後に、初めて梅公の詩文を読み、その人となりを想像しました。俗世間の楽しみから飄然と抜け出て、自ら楽しみとするものを楽しんでいるのであろうと思いました。

さらに成長して、美文調の文章を書くことを学び、お上(かみ)の下さる禄を食(は)もうと願いましたが、自分のことを自ら評価するに、とても官員の仲間には入れないだろうと思いました。このたび上京して年を越えましても、いまだかつて官員の誰かの門を訪れたことはありませんでした。春に天下の優れた人々が宮中に集まり、欧陽公と梅公が親しく審査された試験を受けましたが、全く思いもよらず、私は第二位の成績で合格させていただきました。ある人から伝え聞いたところでは、梅公が私の文章を孟(もう)子(し)のようで結構ではなかろうかと評価してくださったとか。そして、欧陽公もまた世間の並みの人が作る文章ではないとして、私を採ってくださったとか。私を指導してくださった方々が私を採ってくださったわけでもなく、かねて親しくしてきた方々に採ってくださいと願ったわけでもなく、お二人が採ってくださって第二位となったのです。

その結果、先の十余年の間に、その名だけを聞いて見ることもできなかった方々と一朝にして知り合いにもなれたのです。

さて、考えますに、人は何のわけもなく富貴になるものでもなく、何のわけもなく貧賤になるものでもないのでありましょう。立派な賢人がいて、その仲間となるのならば、富貴も貧賤も関係なしに互い心と心を支え合うことができましょう。たまたま一時の幸運によって、数十人の従者を引き連れる身となり、町の人々が見物に出て讃嘆するようなことになったところで、賢人同士がまじわる楽しみには替えられないのです。

孔子は不遇であり続け、亡くなる前の年に、「天を怨まない、人を咎めない」と、言いました。まことに悠然と遊ぶようにして一生を終えたのでした。

梅公のお名前は天下に知れわたっています。それでいてその位は五品でしかありません。その容色は温和で怒らず、その文章は寛(かん)厚(こう)敦(とん)朴(ぼく)にして怨みの言葉はありません。それはここに申し上げた賢人の集まりを楽しんでおられることによるのでしょう。私もその楽しみにあずからせていただきたく願う次第です。

【補足】［（1）梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)はこのとき56歳で、官位はここにあるように五品であった。官位は最上位の一品から九品まであり、五品はちょうど真ん中であるから、56歳にして五品は遅い出世であるのだろう。表題に「梅(ばい)直(ちょく)講(こう)」とあるのは、このとき梅堯臣は国(こく)子(し)監(かん)直(ちょく)講(こう)という国立の学校の教授の職務に就いていたからで、それは欧陽脩の推薦によるものであった。（2）梅堯臣はこの後、『曾(そう)鞏(きょう)と蘇軾を送る』という詩を作って2人に与えている。その詩の中で、それぞれの出身地である楚(そ)と蜀(しょく)の過去の偉人になぞらえて2人を讃えている。「送る」とあるのは、科挙の合格者は帰郷して盛大に祝われた後に、改めて上京して官職の就くのが通例で、梅堯臣は2人の帰郷に合わせて詩を贈ったのである。ただし、曾鞏は確かに合格の喜びを携えての帰郷であったが、蘇軾は、年譜に記したように母の死の報せを受けての悲しい帰郷であった］

■【01-2-017】記先夫人不残鳥雀

【解題】蘇軾の母の程(てい)氏が亡くなったのは4月7日で、科挙の最終試験の合格発表の3月11日から1カ月も経っていなかった。母の訃報が都に届いたのは5月に入ってからだったようで、それを聞いた父子は慌ただしく帰郷の途についた。蘇軾の母がどのような人であったのか、それは後に司(し)馬(ば)光(こう)が書いた墓誌銘によって知ることができる。司馬光は巨大な歴史書『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』を編集した人で、蘇軾よりも17年先輩で、蘇軾が3歳のときに20歳の若さで科挙に合格している。「同年」に范(はん)鎮(ちん)［→作品番号01-2-014］がいた。司馬光は蘇軾の母と交流があったわけではなく、蘇軾兄弟の依頼を受けて、提供された資料に基づいて墓誌銘を書いただけで、いわば墓誌銘に箔をつけるために名を貸したのである。士(し)大(たい)夫(ふ)の間ではしばしばそのようなことをした［ただし、蘇軾自身はそのような依頼は滅多に引き受けなかったようである］。この墓誌銘の執筆の時期は本文の冒頭にあるようにこれより9年後である。本文に「程(てい)夫人」とあるのが蘇軾の母である。

【訳文】

司(し)馬(ば)光(こう)：『程(てい)氏(し)墓(ぼ)誌(し)銘(めい)』

治(じ)平(へい)三年［1066］年夏，蘇(そ)府(ふ)君(くん)［蘇(そ)洵(じゅん)］が都で亡くなったので、私が弔問に行くと、遺族の蘇軾と蘇(そ)轍(てつ)が泣きながら次のように言った。

「私達は父の棺を蜀(しょく)の地に埋葬するために帰郷します。蜀(しょく)人(じん)の習慣として、夫婦は墓を一つにし、内に二つの室を設けることになっています。かつて父が母を埋葬したとき、母の室に墓誌銘を刻みませんでした。この機会にあなたさまに託して墓誌銘を刻みたいと思うのです」

私は固辞したのだが、ついには引き受けることになり、このように答えた。

「程(てい)夫(ふ)人(じん)の�ｺを残念ながら私は存じ上げません。どうかその概略をお教えください」

よって二人の子息は程夫人の事略を私に授けてくれた。

程夫人は程(てい)文(ぶん)応(おう)の娘で、十八歳で蘇府君に嫁いだ。蘇府君はこのとき極めて貧乏で、その一方で程の家は裕福だった。そこで蘇府君の家にきて程夫人がどのような振る舞いをするのか、一族の者はしげしげと見たのだが、程夫人には少しの落ち度もなく妻としての仕事を立派に努め、孝恭にして謹倹であったので、誰からも賢い女性であると認められた。

ある人が程夫人に言った。

「あなたの御両親は財産が乏しいわけではないのですから、援助を求めたならば、父母の愛で応じてくださいますでしょう。それなのに、苦しい暮らしに耐えて、どうしてあちらにひと言もおっしゃらないのですか」

程夫人はこう答えた。

「おっしゃる通り、私から父母にお願いすれば、きっと聞いてくださらないことはありませんでしょう。でも、もしもどなたかが、我が夫に『妻子を養うために誰かにすがったらどうだい』と言ったりしたときに、我が夫はどのようにするでしょうか。私は夫と同じようにするだけです」

程夫人はついに実家に援助を求めなかった。

このとき蘇府君の祖母［もしくはその姉妹］がなお健在で、老いてますます厳格であった。家の者はその部屋の近くを通って、祖母の声が耳に入ると、何か叱られるのではないかと非常に恐れた。ただ程夫人だけは祖母の気持ちに適い、祖母はにこにこと話かけたのだった。

蘇府君は二十七歳になるまで勉強には見向きもしなかった。ところが、ある日のこと、興奮した様子で、程夫人に言った。

「私は我が身を顧みて、いまならまだ学ぶことができるように思う。しかし、家業のためには働かなければならない。学べば家業は廃れる。どうしたらよいだろうか」

程夫人は答えた。

「私はずっと申し上げたいと思っておりました。しかし、私からあなたさまを勉強に仕向けるということではきっとよろしくないと思っておりました。あなたさまが自分のお心から勉強されるのであれば、家業はどうぞ私にお任せください」

程夫人は自ら経営に乗り出し、数年の内に家は裕福になった。蘇府君は思い通りに学問に専念し、ついに大学者として大成した。

程夫人は読書を好み、書物の要点を把握し、息子の軾や轍が幼い頃は、程夫人は二人を自分で教え、常にこのように言って戒めた。

「書物を読むときに、同輩のことを気にするようであってはいけません。書物を読むとは、己をひとかどの人間にするためなのです」

さらに、程夫人はいつも古人の名言を引いて、二人を厳しく励ました。

「おまえたちが正しいことのために死ぬのであれば、私は少しも寂しいとは思いません」

二人は同じ年に科挙に合格し、さらに二人は（4年後に）同じ年に制(せい)科(か)にも合格した。宋朝が始まってから、制科に第三等で合格したのは呉(ご)育(いく)と軾だけである。

轍が鋭い直言で人を驚かせるのは、程夫人の教えによるのであろう。程夫人は息子のことをよく知っていたと言うべきである。

程夫人は家財がようやく豊かになったときに、嘆息してこう言った。

「これは福と言うべきなのでしょうか。そうではありますまい。これは我が子孫を愚かにするものです」

財産を一族の困窮するものに分け与え、その生業を成り立たせ、結婚の仲立ちをした。地域の人が危難に遇うと財産を与えて救済した。そのために程夫人が亡くなったときには家には一年分の蓄えもなかったのである。

程夫人は嘉(か)祐(ゆう)二年［1057年］四月癸(き)丑(ちゅう)［7日］に郷里で亡くなり、その年の十一月庚(こう)子(し)［22日］に墓地に葬られた。享年は四十八であった。軾が朝廷に用いられたことから武(ぶ)陽(よう)県(けん)君(くん)の称号を贈られた。

程夫人は六人の子を生み、長男の景(けい)先(せん)と三人の娘は早くに亡くなった。特に三女は程夫人によく似ていて、学問にも通じていたが、十九歳で嫁ぎ先で亡くなった。

ああ、婦人が従順でその親族を仲睦まじくさせ、家の内をきちんとさせる知恵があれば、それで十分に賢いとされるだろう。まして、程夫人はその夫と子を発奮させ、教え導き、三人とも学識をもって天下に重んじられるようになったのだから、その見識の高さはとても真似のできないものであったのだ。古の人は、国でも家でも、その興ると衰えるとに妻が関わらないことはないと言った。程夫人を見れば、古の人の言うことがますます信ずべきだと知れる。

その銘に曰く。

貧乏のときはその夫の名を汚さず、

裕福になってもその子孫に累を及ぼさず、

学問に努めることが一家の名を顕すことであると知っていた。

真直ぐに世に栄をなし、

夫を励まし、子を教え、

その光は大きかった。

しかし、その寿命はその徳に見合わなかった。

その余った福を子孫に施すということなのであろうか。

【補足】［（1）この墓誌銘に、蘇軾の母は実家に援助を求めなかったと記してある。これは実際には援助を受けていたので、敢えて否定してみせたと推測させるものである。蘇軾の母が家を豊かにしたという記述もまたその裏に実家の援助があった推測させるものである。蘇軾の母の名誉のためには、墓誌銘の記述を素直に受け止めるべきなのだろう。（2）母の訃報を聞いて蘇軾父子が都からどのルートで帰郷したのかはわかっていないが、非常に急いで帰ったと推測され、上の墓誌銘にあるように、蘇軾の母は亡くなって半年ほど後の10月22日に眉(び)州(しゅう)武(ぶ)陽(よう)安(あん)鎮(ちん)郷(きょう)可(か)竜(りゅう)里(り)の墓所に葬られた。夫の蘇洵は妻の墓の前で次の祭文を読み上げた］

【訳文】

蘇(そ)洵(じゅん)：『祭(さい)亡(ぼう)妻(さい)文(ぶん)』

ああ、君との好(よしみ)は百年と約束していた、

その半ばで私を棄てて先に逝ってしまうとは――

私は都に行き、遠からず帰ることになっていた、

君がこうも早くに逝ってしまうとは――

君は去って帰らない、

私は永く哀しみ続ける、

反復して君を思うのなら、

もしや帰りくるのではなかろうか……。

人は言う、

死生の短い長いは思い通りにならない、

誰もがそうなのだと、と。

それはわかっていても悲しまずにはいられない、

生きてこれほどの災いはないのだから。

君には六人の子があった、

いま誰がここにいるのか。

ただ軾と轍だけだ。

ああ、君は二人を慈しみ育て、

二人はすでに成人となり、すでに結婚もした。

君は二人に学問を教え、

世に何も聞こえるところがないままではいないのを願っていた。

昼となく夜となく、君が子等のために尽くしていたのを、

ほかでもない私は知っていた。

私が子等を連れて東に旅立とうとしたとき、

門を出るのをためらわずにはいられなかった。

いま出発して、もしも思うところが叶わなかったら、

いつの時に帰ればよいのだろうか、と――

二人の息子は、私に言った。

「どうしてぐずぐずしているのですか、

　後に悔やむことなどがあるでしょうか」

二人の息子は郷里を遠く離れ、寒さにも暑さにも耐え、

一つの試験に合格して宮中での試験に挑み、

堂々の文章を書いて、お歴々の方々を驚嘆させた。

二人の息子が喜んだのは、

官に就けるよりも何よりも、

自分等の文章が世に称えられたのを、

きっと母が喜ぶと思ったからだった。

二人の息子は、母が長生きすることを願っていた、

千里の彼方の故郷に帰ってみれば、

家は無人になっていた。

いくら泣いても母の姿を見ることはできないのだった。

私は、君が平生手にしていたものを見るにつけ、

しみじみと泣かずにはいられない。

ああ、私は老いて一人になった。

君が逝ってしまって、家の内の良き友がいなくなった。

終日孤独であるばかりではない、

過ちを為しても正してくれる者がいないのだ。

昔、私が若かった頃、

私は遊び呆けて勉強をしなかった。

君は何も言わなかったけれど、

心の内は穏やかではなかったのだろう。

私がいつまでたってもふらふらしているのを、

君が心底憂いているのを知り、

私は慨嘆し、ついに気持ちを入れ替えた。

そこから、今日に至った。

ああ君は死に、再び君と時を同じくすることはできない。

安(あん)鎮(ちん)の郷(きょう)、里(り)の名は可(か)竜(りゅう)、

武(ぶ)陽(よう)県に属するところ、

州の北東の小高い丘、

そこに君の墳墓がある。

墳墓には二室を掘った、

いつしかそこで私は君と一緒になる。

骨や肉は土に帰るが、魂はそうではない。

私達の旧い家は一切を改めずにおこう。

我が魂は帰るべきところに帰るであろう。

【解題】蘇軾と蘇(そ)轍(てつ)の2人は足掛け3年の喪に服した。宋(そう)代(だい)の士(し)大(たい)夫(ふ)は服喪の期間を厳重に守ろうとした。服喪中であることを隠して官職に就いて、後にそれが知られて厳しく弾劾された者もいた。服喪中は何かと行動を慎み、その期間の蘇軾の作品はあまり存在しない。この項の表題に掲げたのは、執筆年代はわからないが、後になって母の思い出を記した短文である。題名にある「先(せん)夫(ふ)人(じん)」が母のことだ。

【訳文】

私が少年の頃、勉強部屋の前に竹柏(なぎ)や桃の木があり、その左右にたくさんの草花があった。木にはいろいろな鳥がきて巣を作っていた。

母は生き物を殺すことを嫌い、子供にも使用人にも鳥を捕まえるのを許さなかった。何年かすると、鳥は低い枝にも巣をかけるようになり、その雛を上からのぞくこともできるようになった。

羽根が五色に輝く桐(どう)花(か)鳳(ほう)も、毎日、四、五羽やってきて、そこらを飛び回るようになった。この鳥の羽毛は珍重され、なかなか見るのさえ難しかったのだが、我が家では人に馴れ、恐れることはなかった。近くの人が見にきて、これは珍しいと言い合った。

これはほかでもなく、生き物に害を加えることのない母の誠の思いが、鳥にも信用されたからである。

土地の老人はこのように言った。

「鳥は人から遠く離れたところに巣を作ると、その雛は蛇や鼠や狐や貍(むじな)や鴟(ふくろう)や鳶(とび)に食べられてしまう憂いがある。だから、人が殺さないとわかれば、むしろ自ら人に接近して、雛を危険から免れさせようとするのだ」

ということからすると、鳥が遠くに巣を作って人に近づこうとしないときは、人が蛇や鼠よりも悪さをすると鳥が考えていることになる。「苛(か)政(せい)は虎よりも猛(もう)なり」という孔(こう)子(し)の有名な言葉があるが、鳥の判断も全く同じで、思いやりのない人間のそばにいるよりは、自然の苛酷な環境下にあった方がまだよいと考えるのである。

■【01-2-018】記先夫人不発宿蔵

【解題】これも執筆年代はわからないが、後になって母の思い出を記した短文。

【訳文】

母は眉(び)山(ざん)県の紗(しゃ)縠(こく)行(こう)に住んでいた。ある日のこと、二人の女中が絹の布を熨(の)していて、足が地中に落ちてしまった。よく見ると、数尺の深さの穴があって、一つの甕(かめ)があった。甕は黒い木の板で覆われていた。母は土で穴を塞ぐように命じた。甕には何か入っていたのだろうか、それから一年ほどの間は、人が咳をするような音がしていた。

何かしら隠してあったものがあると、普通の人はそれを出してみようとする。母の甥がこのことを聞いて、甕を開けてみようとした。私はたまたま別のところで暮らしていたので、このことを聞いて急いで家に行き、一丈余りも掘ってみたが、甕は見つからなかった。

その後、私は鳳(ほう)翔(しょう)で官職に就いたときのこと、雪が降り、古い柳の下にだけ、一尺四方ばかり雪の積もらないところがあった。雪がやんでから見ると、そこの地面は数寸ばかり盛り上がっていた。私はここは昔の人が丹(たん)薬(やく)［仙人になる薬］を埋めたところではなかろうかと疑い、掘ってみようとした。すると、亡(ぼう)妻(さい)［王(おう)弗(ふつ)］が言った。「先にお義母(かあ)さまがおられましたときには、決して掘り出しはなさいませんでしたのに」と言ったので、私は恥じて止めた。

■【01-2-019】猪母仏

【解題】これも執筆年代はわからないが、服喪中に蘇軾がどのように過ごしていたのか、わずかながら窺い知れる文章である。

【訳文】

眉(び)州の青(せい)神(しん)県の道のかたわらに小さな仏(ぶつ)屋(おく)［仏像を納めた小屋］があり、俗に「猪(ちょ)母(ぼ)仏(ぶつ)」と呼んでいる。

百年ほど前に、ここで牝(めす)の猪(ぶた)が倒れ伏して、泉に化したといわれている。泉には二匹の鯉がいて、「これは猪(ちょ)竜(りゅう)［体は猪で首が竜の怪物］になるべきものだ」ともいわれている。蜀(しょく)の人は、牝の猪が猪竜の母であると考え、泉のほとりに仏堂を立て、「猪母仏」と名付けたのである。泉の水は石から湧き出し、泉の深さは二尺にも及ばない。しかし、大日照りのときにも水はなくならない。

二匹の鯉を見た者はほとんどいなかったのだが、私はある日、たまたま鯉を見た。そのことを妻の兄の王(おう)愿(げん)に告げた。王愿は深く疑い、私が誕(でたらめ)を言っているのだと考えた。私は疑われたのが不満で、王愿を泉に連れて行き、泉のほとりで祈った。

「私が誕(でたらめ)をいっているのでなければ、魚はきっとまた現れるであろう」

そのようにいうと、鯉はまた出てきたので、王愿は大いに驚き、再三謝って去って行った。

この場所では昔から霊異があるいわれていた。青神県に朱(しゅ)文(ぶん)及(きゅう)という者がいた。父が病んだので医者を呼びに行こうとして、夜にこの近くを通った。すると、髪を束ねた女性がいて、琴を負い、手招きをして家の内へ入れようとした。朱文及は、父が病気なので、ここには留まれないと断った。ところが、女性に強く引き留められてしまった。そして、暁になろうとするときになって朱文及はそこを去り、数里も行かないところで、道のかたわらに賊のために殺されてしまった人を見た。まだ殺されたばかりで冷たくなっていなかった。もし女に引き留められていなかったならば、朱文及もきっと賊に襲われていたのだろう。

泉は石(せき)仏(ぶつ)鎮(ちん)の南五里ばかり、青神県からは二十五里ばかりのところにある。

【補足】［（1）青(せい)神(しん)県は妻の王(おう)弗(ふつ)の実家があり、蘇軾は服喪中に眉(び)山(ざん)県から時折そこを訪ねていたのだろう。道の途中で泉に鯉がいるのを見て、妻の兄の王(おう)愿(げん)に告げたのである。（2）朱(しゅ)文(ぶん)及(きゅう)を引き留めたのはむろん遊女であったのだろう。神霊によって救われたという話として完結するには、後で朱文及が戻ってみたら、女に呼ばれた場所には人家などはまったくなくて、仏(ぶつ)屋(おく)だけが存在したといったことが記されているべきであろうが、蘇軾は自ずとわかると思って省いたのだろう］

■【01-2-020】池魚自達

【解題】上の話に関連して、郷里に伝わる怪奇譚を見ておこう。

【訳文】

眉(び)州の人の任(にん)達(たつ)が私にこのように話した。

こどものときのこと、深い池に数百匹の魚を飼っている者がいた。池は石や瓦で囲ってあって、一周は一丈ほどで、四方に建物が並んでいた。およそ三十年余りの間に、魚は大きく育った。ある日のこと、よく晴れて、雷などは鳴っていなかった。池の中から突然大きな音が起こり、激しい風雨であるかのようだった。すると、魚が躍り上がり、竜巻が起こり、魚は空へと昇ってゆき、どこに去ったのかわからなかった。

任達はこのようにいった。

「昔からいわれているのは、池の魚は神に守ってもらわないと竜に取られてしまう、と。きっと、そういうことで、竜に取られたのだろう」

私が考えるに、竜がくるときには必ず風雨を伴うものである。この魚は三十年余りも池に閉じ込められていたので、騰(のぼ)り抜けたいとの思いを増していったのだろう。その誠の心が長く衰えることがなかったので、ついに自らそれを達成したのだろう。それがきっと理に適っているのである。

【補足】［（1）任(にん)達(たつ)は、兄弟で科挙に合格した「大(だい)任(にん)」「小(しょう)任(にん)」［→作品番号01-1-009］の一族なのだろう。（2）蘇軾の解釈は、いかにも宋(そう)代(だい)士(し)大(たい)夫(ふ)の心意気を示すものである。学問に励んで、科挙に合格すれば、出自によらずに宰相にまでなれるというのは、中国史上、宋代になって初めて開かれた道であった。自分の意志を強く保ち続けるのならば、魚も天に昇るのである。（3）郷里に帰った蘇(そ)洵(じゅん)について記しておく。嘉(か)祐(ゆう)2年［1058年］秋、帰郷後1カ月ほど経ったときに欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)に手紙を送り、老いたこの身で数千里の道を超えてまた都に行くことはもうないだろうと記している。その翌年の春か夏のころだろうか、梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)から出仕を促す詩が届いた。それを見ておこう］

梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)：『題(だい)老(ろう)人(じん)泉(せん)詩(し)』

泉上有老人、（泉のほとりに老人がいる）

隠見不可常。（泉はいつもあるのではなく隠れたり現れたりする）

蘇子居其間、（蘇(そ)先生［蘇(そ)洵(じゅん)］がいると泉が現れ）

飲水楽未央。（先生は泉の水を飲んで楽しみが尽きることがない）

泉中若有魚、（泉に魚がいれば）

与子同徜徉。（先生は魚とともに気ままに歩み）

泉中苟無魚、（泉に魚がいなければ）

子特玩滄浪。（先生は波とともに遊ぶ）

歳月不知老、（歳月が流れても先生は老いることがなく）

家有雛鳳凰。（先生の家には鳳(ほう)凰(おう)の雛［蘇軾兄弟］がいる）

百鳥戢羽翼、（他のあまたの鳥はその雛の前では翼をおさめ）

不敢呈文章。（あえてものを言うことがない）

去為仲尼嘆、（先生は泉のもとへと去って、世に用いられないことを嘆いていたのだが）

出為盛時翔。（いまこそ勢いよく飛翔すべきときである）

方今天子聖、（いまはまさに聖天子の時代）

無滞彼泉傍。（泉の傍らでぐずぐずしてなどいられないのだ）

【補足】［上の詩の届いた後、嘉(か)祐(ゆう)3年［1059年］10月に雷(らい)簡(かん)夫(ふ)から、様々な人々の運動が功を奏して蘇(そ)洵(じゅん)を学士院に入れるための試験を実施する運びとなったと知らせてきた。学士院のメンバーになれば、いきなり皇帝との距離が近くなる。試験を行うことは11月5日に正式に決定され、蘇洵を試験に呼ぶ皇帝からの指示が届いた。絶好の機会であるはずなのだが、蘇洵は思うところあって、老病を理由に辞退する手紙を書いた。合わせて国政の改革すべき10箇条をそこに書き添えた。その後で、梅(ばい)堯(ぎょう)臣(しん)に手紙を送り、50歳の衰病の身で名利のために都に行くのは人々の失笑を買うであろうし、かつて制(せい)科(か)を受けて不合格となったときの苦しみをまた味わうことになるかもしれないと思うだけで耐え難いので、皇帝の招きを辞退したと記している］

■【01-2-021】上知府王竜図書

【解題】これは嘉(か)祐(ゆう)4年［1059年］春ごろに成(せい)都(と)知事として赴任してきた王(おう)素(そ)に送った手紙。王素は、三代皇帝の真(しん)宗(そう)に仕えて名宰相と讃えられた王(おう)旦(たん)の末の子で、蘇軾よりも29歳年長である。高官の子弟には科挙によらずに官位が得られるという特典があって、王素はそれによって官員になり、すでにいろいろな官職を歴任していた。王素は後にまた登場することになるので、手紙の一部分だけでも読んでおこう。なお、王素の名はすでに作品番号01-2-010にも出ていて、「成都知事の王素の推薦で……」と記されていたのは、まさにこの時期のことであった。

【訳文】

執事(あなた)が来られてまだひと月にもなりませんが、蜀(しょく)の士(し)大(たい)夫(ふ)は近頃にない慶賀すべきことであると喜んでおります。町の庶民は君子の心の用い方などは知らないはずでありますのに、やはり喜びを広く伝え合って留まるところを知りません。たとえ米や布をもらったところで、そこまで喜びはしないものです。明(めい)公(こう)［王(おう)素(そ)］は何の術でこの喜びを与えたのか、私が言うまでもありませんでしょう。

……［以上のような人々の大きな期待に応えて、王素がみごとに成都を治めるのは難しくないと,、蘇軾はその根拠となる二つの理由を挙げる。第一は、父の王(おう)旦(たん)は18年にわたって宰相を務め、王素はその才能を受け継いで、すでに定(てい)州知事としての立派な実績があること。第二は、蜀の人々はこれまで厳しくは統治されてきたので、少しでも重荷を軽くしてやりさえすれば十分に感謝するであろうこと。その一方で、統治には二つの困難があることを挙げる。第一に、国には兵［軍隊］を養って民を守る責務があり、一方で、兵を養うには民に税を課さなければならないので、両者のバランスを取るのが難しいこと。第二に、蜀の人が「怯(きょう)」［意気地なくおびえる］であるために、何かしら問題があっても、ものをいうと我が身に返ってくるのではないかと恐れて黙ってしまうので、問題点が見えてこないこと］……

伏して思うに、明公［王素］の世に秀でた才能をもってすれば、施して可ならざるものは何もないでありましょう。統治がやさしいとして私が挙げた二点をもって急ぐのではなく、難しいとして挙げた二点を深く考えて徐々に実行して行くならば、蜀の地ばかりでなく、広く天下は明公の恩沢を被ることになるでありましょう。私は喪に服しており、貴人の門を訪れることは遠慮し、妄りにものを申し上げるべきではないのですが、内なる思いを抑えきれず、明公のおそばにお仕えする者に以上のようなことを申し上げる次第です。これまでに政事に関することなどを記した十五篇の文章を添えますので、御笑覧いただければこれにまさる幸いはありません。

【補足】［（1）この手紙の冒頭には、歯の浮くような賛辞を並べている。名宰相の子であって、年長の王(おう)素(そ)にはこれくらいは書いておかないと失礼に当たるのだろう。王素が本当にこの賛辞に値する人物であったかどうかはわからない。名家の出として驕慢なところもあったようである。（2）逐語的な訳文は示さなかったが、なかほどで蜀(しょく)において、兵を養うことと民に税を課すことのバランスを取るのが難しい理由として、蜀では民の怨みから勃発した「甲(こう)午(ご)の大乱」があったことを挙げている。民の怨みとは何か。蜀の地が武力によって宋朝の支配下に組み入れられたとき、宋朝の統治方法は粗雑で暴力的で、蜀の地に蓄えられていた富はことごとく略奪されて宋の都に送られ、正規の税の他にも様々な税が課せられて蜀の民は激しく収奪されたのだった。特に、蜀の特産品の絹は、宋朝の厳しい管理下に置かれ、商人による自由な取引は禁止された［蘇軾の先祖は絹を扱う商人であったと推測されているので、このときに大打撃を受けたであろう］。淳(じゅん)化(か)4年［993年］初め、王(おう)小(しょう)波(は)という人物が、「貧富の差を均しくする」ということをスローガンとして掲げて決起すると、圧政に苦しんでいた各地の民衆が呼応し、たちまち大きな反乱に発展した。その年の終わりに、王小波は矢に当たって死んだのだが、李(り)順(じゅん)がその後を継ぎ、淳化5年［994年、甲午の歳］の初めに成都を占領した。李順は大(だい)蜀(しょく)主(しゅ)と号して四方の攻略に乗り出したので、宋朝は大規模な討伐軍を送り込み、反乱はそれから半年ほどで鎮圧された。蜀の民はその後も強圧的な政治に苦しめられ、結果として、蘇軾が手紙で指摘するように、蜀の人は「怯(きょう)」［つまり裏を返せば面従腹背］となったのである。こうした蜀の民の苦難の歴史に配慮して統治することを蘇軾は王素に期待したのである。（3）王素に会うために成都に行った蘇軾は僧の惟(い)簡(かん)［宝(ほう)月(げつ)大(だい)師(し)］［→作品番号01-1-002］との交流を深めてもいる。（4）王素に提出した15篇の文章がどのようなものであったのかわからないが、喪中の間に儒学の古典である『春(しゅん)秋(じゅう)』を研究して多数の小論文を書いていた。『春秋』は孔(こう)子(し)が編んだ編年体の史書で、極めて簡潔な年表のようなもので、それだけでは何が書かれているのか理解が難しいのだが、孔子は一字一句に深い意味を込めて編集したと考えられていた。蘇軾はそうした意味を読み取ることに、喪中の時間をあてたのだった］

■【01-2-022】咏怪石

【解題】珍しい形状の石を詠んだ詩。嘉(か)祐(ゆう)4年［1059年］の作とされるが、喪中には詩を作らなかったはずであるからそれは疑わしいとする説もある。後に見るように、蘇軾は無類の石好きであるから、ついつい詩を作ってしまったということはありえなくはないだろう。

【訳文】

家にごつごつと荒々しい姿の岩があり、

軒先のまばらに生えた竹の間に据えてある。

ほかの人は皆が喜んで見に来るのだか、

私だけは棄ててしまおうと思っていた。

何の使い道もないくせに、

朝から晩まで威張って立っているだけなのだ。

砧(きぬた)や礎(いしずえ)にしようとしても割れてしまうだろうし、

砥(と)石(いし)や硯にしようとしてもざらざらで馴染まないだろう。

鳥を捕らえる投げ輪に付けるには重過ぎるし、

碑文を刻むには硬過ぎるだろう。

六つの用途のどれにも役立たないのだから、

無用の長物とされてしまうのは免れようがない。

ところが、この岩は本来霊妙怪奇な存在であったようで、

夢の中で私に会いにきた。

幽霊のように現れ出て、

肩をいからし股を開いて、何ともいかめしい格好であった。

ごろごろと岩が転がるような声を立て、

しばらくしてから言葉が聞き取れるようになった。

「わしは石の精(せい)だ。

　君がわしを辱めたことに憤り、

　一つ言ってやらねばと出てきたのだ。

　天地がわしを生み、

　わしの仲間は広くたくさん存在している。

　君が言う六つの用途に適した石なら、

　星や雹の数ほど山や谷にころがっておる。

　割られたり砕かれたりして世間に使われたところで、

　ちっぽけな用を果たすだけのことだ。

　とても賢者であるとはいえないだろう。

　わしのようなものは非常に少なくて、

　ときたま経典や史書に記されることがある。

　『書(しょ)経(きょう)』に記されているのは、

　海(かい)岱(たい)にあって雅さを賞賛された岩、

　『春(しゅん)秋(じゅう)左(さ)氏(し)伝(でん)』に記されているのは、

　驕慢な君主を改心させるために白昼に語った岩。

　あるいは驪(り)山(ざん)にあって秦(しん)国から攻め入る敵を拒み、

　一万頭の牛で牽いても動かなかった岩があった。

　あるいは揚(よう)州にあって廬(ろ)仝(どう)［唐(とう)代(だい)の詩人］を動かし、

　己に代わって立派な詩を作らせた岩があった。

　君がわしを得て無益ということはない。

　雷が鳴ろうが、寒さが厳しかろうが、わしはびくともしない。

　彫っても文字は刻めず、磨いても輝かない。

　君にこの言葉を贈ろう――

　君の節義をわしくらいに堅くしてみるのだ。

　ちまちまと私を責めるのはもうやめるのだな」

そのように岩が言うのを聞いて私は愧じて謝ると、

その奇怪な姿はたちまち消えてしまった。

はっと目覚めて、坐り直してその語を思い、

この詩を作って、机の横に書き記した。

【補足】［（1）この詩は、喪が明けていよいよ実際に官界に出て行こうとする蘇軾の決意を表したものであるのかもしれない。（2）蘇(そ)洵(じゅん)は、息子達の服喪期間が終わると、上京の準備を始め、子とともに東に向かうと書き記した手紙を欧(おう)陽(よう)脩(しゅう)に送った。2人の息子は科挙に合格していたから官職に就けるのは確実であったけれど、蘇洵もまた己の才能によって特別に官職を与えてもらえるとの確信を抱いていたのだろう。また、それまで胸の奥にしまい込んでいた娘の死についての思いを、『自(じ)尤(ゆう)』の詩［→作品番号01-1-049］に託して詠んだのもそのころであった。こうして、嘉(か)祐(ゆう)4年［1059年］10月に眉(び)山(ざん)県を発ち、本章の初めに見たような長(ちょう)江(こう)を船で下る旅が始まったのである］

■【01-2-023】荊州十首

【解題】ここから旅の続きに戻る。江(こう)陵(りょう)府［荊(けい)州］に滞在していた蘇軾はそこで新年を迎え、25歳になった。江陵府にいる間に見聞きしたことを十首の詩にまとめたのがこの作品で、杜(と)甫(ほ)の『秦(しん)州(しゅう)雑(ざつ)詩(し)二十首』を念頭に置いて作ったものと思われる。

【訳文】

　其の一

旅人が三峡(さんきょう)を出ると、

その先はどこまでも平らだ。

蜀(しょく)の川は山地を切断し、

楚(そ)の川は平野を切断する。

蜀から下って来た船は、

呉(ご)から上って来た船に囲まれる。

蜀の山から来た人間は平地の商売人にまどわされ、

砂を巻き上げる平地のつむじ風にもまどわされる。

荊(けい)州の町を囲む堂々とした城壁を見れば、

思わないわけにはいかない、

蜀と楚の間には長い興亡の歴史があったことを。

【補足】［第一首では、江(こう)陵(りょう)府［荊(けい)州］が交通の要衝で、戦略的に重要な場所であることを詠んでいる。山がちの蜀(しょく)から長(ちょう)江(こう)を下ってくると、荊州から先はおおむね平野である。長江をライン川に置き換えると、蜀はオーストリアに、楚(そ)はドイツに、呉(ご)はオランダに相当するであろうか。この一連の詩では、蘇軾が蜀の人間であることを強く意識しているのが特徴的である］

　其の二

荊(けい)州から南を見やれば、

古戦場が多々あり、

英雄の猛き思いや、

忠臣の清き思いが、

いまも感じ取れるかのようだ。

古く繁栄した町は消え去り、

かえって井戸を囲んだだけの小さな村が残り、

そこには昔ながらの姓を保つ人々が住んでいる。

古今に変わらぬ大地のありさまは目には明らかでも、

歴史の上がり下がりは、

軽々しく論じるわけにはいかないのだろう。

　其の三

楚(そ)の地は限りなく広く、

遠くぼんやりとどこまでも田畑が連なる。

そこに汗水垂らして働く人の姿を見ないのは、

植えたら植えっぱなしということなのだろうか。

己の怠け癖を何とかしようという様子がまるでないのは、

愚かというべきか、哀れというべきか。

これで凶作に見舞われたら、

年のめぐりが悪かったと、恨んですませるつもりなのだろうか。

【補足】［楚(そ)の人たちに対してかなり批判的な見方を提示している。このような地域的偏見は蘇軾の後の詩にはほとんど見られなくなる］

　其の四

荊(けい)州の町を囲む高い城壁の東の隅に、

望(ぼう)沙(さ)楼(ろう)の朱塗りの欄干がある。

かつて高王(こうおう)はここに隣国の使者を招き、

盛大な宴を催して接待に努め、

楼から見渡す大地をもって、その隣国に奉仕すると誓った。

いくつもの国に対して高王は同様の約束をしつつ、

いまにもどこかで烽火(のろし)が上がるのではないかと、

びくつきながら欄干から眺めていた。

いまは霞む彼方に屋根の先がぼんやり見えるだけであるのだが、

野にはなお戦に倒れた人々の骨がそのままに埋れているのだろう。

百年にわたって競い合った豪傑は誰もいなくなり、

いまとなっては魚と蝦(えび)が争ったようなことになったのだ。

【補足】［宋(そう)の前の五(ご)代(だい)十(じっ)国(こく)時代に、荊(けい)州には高(こう)氏が建てた小さな国があった。大国の狭間で生き延びるために、高(こう)氏は徹底した弱腰外交で周囲の全ての勢力との揉め事を起こすまいとした］

　其五

沙(さ)頭(とう)の市(いち)はもやもやとした水煙の中。

往き来するのは、どうにも騒がしくて下卑た人々ばかりで、

野の市は、鹿が群れて争うかのようなありさまだ。

ただ川を行く官船だけはゆったりと進んでいる。

旅の人の多くが占ってもらおうとするのだろう、

田舎の老人が大勢、亀を携えて、問われるのを待っている。

日が暮れて江(かわ)の空が静まってゆくときに、

古(いにしえ)の楚(そ)辞(じ)を唱えるような声は聞こえてこない。

【補足】［荊(けい)州の町から南東十五里にある沙(さ)頭(とう)の市(いち)に行ってこの詩を詠んだ。最後の句にある楚(そ)辞(じ)とは、楚(そ)の偉大な先人である屈(くつ)原(げん)や宋(そう)玉(ぎょく)が作った韻文で、それを朗誦する人がいないことや、占いが盛んであることをもって、楚の人が野卑であるとしているのだが、さすがに強引すぎる見方であろう］

　其六

知事の王(おう)夫(せん)子(せい)は、

山(さん)東(とう)から出た俊英である。

壮年のころは猛烈をもって聞こえ、

老人になっても雄豪と目されている。

どこに行ってもその地の名物を食らうことなどには関心がなく、

車を駆って実地に民を治めることに熱心である。

いま朝廷には立派な宰相がおられるから、

屈(くつ)原(げん)が放逐されたときに鬱屈する思いを詠んだ『離(り)騷(そう)』のような作品を、

知事殿が作ることはないのである。

【補足】［江(こう)陵(りょう)府の知事の王(おう)兵(へい)部(ぶ)［→作品番号01-1-041］のことを詠んでいる。「名物を食らう」と訳したあたりは、同じ王(おう)姓の昔の人の故事を用いていて、それがわかる人には含蓄に富んだ句として味わえるのだが、我々にとっては煩わしくもあるので、大意を取って訳した］

　其の七

年末の荊(けい)州は風雪の日が多く、

そうでなくても旅人の心は落ち着かない。

町の人や村の人が嬉々としているのは、

昔から季節行事を重んじる土地柄で、

鬼やらいの日を待っているのだ。

いよいよその日になると、

竹を爆発させる音に、

子どもたちがわんさと集まってくる。

その賑わいのなかで、

私はしみじみと故郷の友人を想うのである。

　其の八

江(かわ)の水は深く、

底の窟(あな)に潜む魚は犀(さい)のように大きい。

赤い鱗は琥(こ)珀(はく)のように輝き、

頭の中にある老(ろう)枕(ちん)の骨は玻璃(ガラス)よりも美しい。

上等の客人があるとその魚は俎板に挙げられ

老枕は女性の髪に揺れる翠(みどり)の釵(かんざし)となる。

料理されるにしても器物に作られるにしても、

どちらにしても切り刻まれてしまうのである。

【補足】［この詩の発想は『咏(えい)怪(かい)石(せき)』の詩［作品番号01-2-022］と類似している。いかにも有用そうなものは、つまらない役に使われてしまうだけだと詠んでいるのである］

　其の九

雁(かり)は北の国から南の国に来る。

その頼りないありさまは旅人と似ているだろう。

自由に飛んでいた翼が折られてしまった雁を見れば、

涙で巾(ハンカチ)を濡らさずにはいられないだろう。

普通なら人が捕らえようとしても、

高く飛んで人には近づかないはずであるのだが……。

我が友がこの雁を持ってきて贈ってくれた。

三度嗅いで、

いかなる珍味であろうかと考えるのである。

【補足】［荊(けい)州の人々は、冬に飛来する雁を珍味として賞玩していたのだろう。知人から雁を贈られて、蘇軾は食指を動かすよりも、鳥を哀れむ心の方が先んじたようである。後に、蘇軾は厳密ではないけれども菜食主義者になるのだが、その端緒をここに見ることができるだろう］

　其の十

荊(けい)州城の南門から始まる大(だい)道(どう)を馬で走り、

春の陽射しが注ぐ野に至ると、

秋の枯れ草を焼いた跡から、

風に誘われて緑が芽生えようとしている。

荊州から道は縦にも横にも北にも南にも通じ、

天下を自在に往来できるというのに、

かつてのここの王様はどうしてああまで弱々しかったのだろうか。

【補足】［（1）最後の句は、戦国辞時代の楚(そ)くにちの懐(かい)王(おう)のことを詠んでいるようである。懐王は当時大国であった楚国の国力を十分に活用しなかったために、結局は西から勃興してきた秦(しん)国の勢いに呑み込まれてしまった。（2）最初にこの十首の詩は、杜(と)甫(ほ)の『秦(しん)州(しゅう)雑(ざつ)詩(し)二十首』を念頭に置いて詠んだと推測されると記したが、杜甫の詩と比較するのは、いかに大才であっても25歳の蘇軾にとっては酷な話であろう。杜甫の詩は、思うところあって朝廷の職を辞して西に出て、秦州の小さな町に至って詠んだもので、叙景、叙情ともに緊迫感に満ちている。苦難に満ちた歳月を経た杜甫の詩境へと蘇軾が近づくのはまだまだ先であった］

■【01-2-024】渚宮

【解題】渚(しょ)宮(きゅう)とは春(しゅん)秋(じゅう)時代の楚(そ)国の王が建てた宮殿で、その遺跡が荊(けい)州にあった。上の詩に見た懐(かい)王(おう)よりもさらに昔、楚国の最盛期のころのことである。当時、黄(こう)河(が)の中下流域は中華文明の先進地域で、諸侯が一定のルールに従って勢力争いを延々と繰り広げていた。一方で、長(ちょう)江(こう)流域は文明の後進地域と見なされていたのだが、南方の広大な土地を配下に置いた楚国が着々と実力を蓄え、独自の価値観で北方諸国に圧力をかけるまでに成長した。この詩の前半は、ややエキゾチックに楚国の繁栄ぶりを歌い、後半は、渚宮の近くの他の遺跡について詠んでいる。

【訳文】

古(いにしえ)の楚(そ)の都にあった渚(しょ)宮(きゅう)もいまは寂しくその名残をとどめるだけ、

楚の地はいまも遥かに広がっているものの、

かつての楚の国ではない。

五代(ごだい)十(じっ)国(こく)時代の王が建てた台閣でさえすでに草に埋もれてしまったのだから、

春(しゅん)秋(じゅう)時代の遠い昔を問うすべはもはやない。

かつて楚王が猟から帰ってきたときに、

おどろに太鼓が打たれ、

猛々しい兵士が喜び勇んで船を操っていた。

釣り上げられた魚や亀は数知れず、

千(せん)石(せき)の大きな鼎(かなえ)で蛟螭(みずち)までも烹(に)たのだった。

このとき楚の都の人々は宮殿を造るために、

古(いにしえ)の名匠もかくやと思わせる絶妙の工夫を凝らし、

高さ百尺の高楼が湖水に照り映え、

上には燕(えん)国や趙(ちょう)国から連れて来られた美女が並び、

楚王は意気揚々と風に臨み、

宋(そう)玉(ぎょく)に命じて賦を作らせたのだった。

楚の栄光は永くは続かず、

西から秦(しん)の軍団が来て、

宮殿の宝物は持ち去られてしまい、

その跡地には草が生えるだけとなった。

千年前の壮観はもはや蘇るはずもなく、

いま見るのは小さな片鱗だけである。

池は干上がり、野原に小さな楼閣があるだけ、

深い竹林は狐や貍(むじな)のすみかとなっている。

渚宮の近くには、後(ご)漢(かん)の時代に馬(ば)融(ゆう)が建てた絳(こう)帳(ちょう)台(だい)があった。

その姿はいまはないけれど、

台閣の下を流れていた水はいまも清らかなさざ波を浮かべている。

馬融は学問を教えながらも、

緑の窓と朱(あか)い扉を閉ざした奥深い部屋のなかに、

大勢の女性を置いて音楽を演奏させていた。

声色を愛するそのような腐れ儒者は、

孔(こう)子(し)や周(しゅう)公(こう)について議論してはならない。

泉が砂に埋もれて半ば涸れてしまったその先に草堂があり、

窓の紙は破れたままで風が颸(しゅう)颸(しゅう)と鳴っている。

ここは陳(ちん)公(こう)［宋(そう)の三代皇帝に仕えた陳(ちん)堯(ぎょう)咨(し)］のゆかりの建物で、

その事績はまだ遠く隔たっていないのだが、

人の世は百年の間に幾度も変わってしまい、

何もかもが廃墟となってしまうのではないかとの恐れを抱く。

今日私がたどった跡をまた訪ねようとする者がいたなら、

草の中にある湘(しょう)東(とう)王(おう)［南朝時代の梁(りょう)の元(げん)帝(てい)］が建てた碑が目印となるのだろうか。

■【01-2-025】荊門恵泉

【解題】蘇軾は1月5日に江(こう)陵(りょう)府［荊(けい)州］を発ち、陸路で北に進んで都を目指した。数十キロほど行った荊(けい)門(もん)軍の恵(けい)泉(せん)に立ち寄ってこの詩を詠んだ。

【訳文】

泉の源は高いところにある。

石の脈に従って走り下り、

白い水を乱れ飛ばすかと思えば、

蒼い崖に隠れ、それを裂き破る。

ぐるぐると廻って曲がった沼となるときは、

清らかに澄んで底までも見え、

流れ注いで長い谷川となるときは、

速く走って蛙も流してしまう。

初めは一椀にも満たなかった水が、

次第に絹の反物を流すような大きさになるのである。

伝え聞くところでは、

この山の神(しん)物(ぶつ)［竜］は怠け者であったので、

ここに謫(たく)されて、雷雨を起こせなくされてしまい、

灔(さら)灔(さら)と冷たい碧い水を吐くだけとなったのだった。

こうして、山の前に住む人々は、

千古の昔から稲田や麦畑に水を灌(そそ)げるようになったのである。

【補足】［（1）泉のもたらす恵みは竜が怠け者だったたまものであるというのがこの詩の眼目であろう。（2）この詩に続いて『次韻答荊門張都官維見和恵泉詩』［荊(けい)門(もん)の張(ちょう)都(と)官(かん)維(い)が恵(けい)泉(せん)の詩(し)に和(わ)せ見(ら)れしに次(じ)韻(いん)して答(こた)える］という詩がある。荊門軍の役人である張維という人が蘇軾の恵泉の詩に和したので、それに次韻して答えたのである。「詩に和す」とは、元来はもとの詩と同じテーマで詩を詠むことを意味し、韻も違えば、詩形が違っても構わなかった。一方で、「次韻」とは、もとの詩と同じ形式で同じ韻をそっくりそのまま用いて詩を作ることを意味し、両者は同じではない。ところが、唐(とう)の半ばごろからは「和す」といいつつ実は「次韻」するようにもなり、蘇軾の場合には「和す」と「次韻」はほぼ同義である。「次韻」という行為はすこぶる社交的なもので、同じ韻を用いるという制約を課して楽しむ知的なゲームで、その性格上、優れた作品が生まれることはほぼ期待できない。蘇軾の恵泉の次韻の詩もかなり生硬で興趣に欠けるのでここでは訳さない。後に蘇軾は「次韻の達人」となり、制約があってこそ一段と力を発揮し、そこから幾つもの傑作が生まれるようになる］

■【01-2-026】浰陽早発

【解題】浰(り)陽(よう)を早朝に発ち、馬上で詠んだ詩。

【訳文】

富貴なるものがもともとから定まっているのではないとしたら、

栄えたり衰えたりするのはその人自身によるということになろうか。

だとすると、功名心が身の内でやかましく騒ぐのが当然で、

私に限ってそのようなことはないなどとは言っていられない。

それでちんまり縮こまっていられなくて、

こうしてそろりそろりと旅に出てきた。

それでも西に故郷を想うことがある。

我が田園が荒れるのは覚悟の上だ。

外に出てきて何をするのかというと、

あくせく富を稼ぐ気はない。

天下に何かしら足りないものを補うのだ。

それができなければ、怠け者で愚か者だったということになろう。

人生は意気を重んじる。

出処進退にためらいがあってはならない。

春を迎えたいま、

故郷の水辺では蓮が葉を広げ始めているだろう。

湖をおおいつくすまでに蓮を育てあげてきた先人の営みに、

何かしら敵うようなことが私にできるのだろうか。

■【01-2-027】夜行観星

【解題】早朝の出発は星を上に仰ぎ見ることもあった。

【訳文】

どこまでも高く涯のない天空は、

夜の厳かな雰囲気に満たされている。

無数の星が正しくその位置におさまり、

大きな星は射るような光を放ち、

小さな星は闇から湧き出てくるかのようだ。

星とはそもそも何ものなのか。

天界と人界とは干渉し合うものなのか。

世の人々は、星に一つひとつ名を付け、

あれは箕(み)の形、あれは柄杓(ひしゃく)の形と、

無理に見立てようとする。

箕も柄杓も人の道具で、

天にとっては無用であるのだから、

星は自分からそのように名乗りはしない。

遠くから何かに似ていると想像するのではなく、

近くに迫って星を見たらどういうことになるだろうか。

考えてもまるで掴みどころがなく、

溜め息をつくしかない。

【補足】［蘇軾は旧い中国の文人の代表のように思われているが、もしも違う時代に生まれていたら、すぐれた科学者もしくは技術者になっていたかもしれない。この詩はそうした想像へと誘う一つ例で、この想像をより強めてくれるものを多数見ることになるだろう］

■【01-2-028】漢水

【解題】北上してきた蘇軾は、北から流れ下る大きな河川、漢(かん)水(すい)に出合い、この詩を詠んだ。漢水は蜀(しょく)の地から東向きに出て、このあたりで向きを転じ、南南東に下って長(ちょう)江(こう)に合する。

【訳文】

竿を捨ててからのこのひと月ほどの旅は、

ずっと砂ぼこりに悩まされ通しだった。

襄(じょう)陽(よう)の手前で滔(とう)々(とう)と流れくる大河に出合い、

その清らかさにさっぱりと身を洗われる気分になる。

この心持ちは故郷の蜀江(しょくこう)のほとりに立つのに似る。

それもそのはずで、聞けばこの川は、

蜀の地から我らの旅とは反対まわりで流れ出てきた漢水(かんすい)なのだ。

蜀江はなかに鯨も棲もうかというくらいに水量が豊かで、

漢水もまた広々として、軽々しく渡ってみるようなことはできない。

遥か二千年の昔に、このあたりにも周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)の教化が及び、

遊女も礼儀正しさをわきまえるようになったと聞く。

漢水の水の音はそれから変わりはしないのだろうけれど、

世の変転とともに、古(いにしえ)のよき風(ふう)はすたれ、

川風が寒々しさを帯びて吹き過ぎてゆく。

私は文王の時代を偲び、

蜀から流れてきた川に向かって、

我が身なりをきちんと整えるのである。

【補足】［中ほどに詠まれている周(しゅう)の文(ぶん)王(おう)は儒家が崇める聖天子である。殷(いん)の時代には襄(じょう)陽(よう)は都から見て遠い辺縁の地で、文王のころからようやく文明圏に組み入れられるようになった［むろんそれは為政者側の視点による］。蘇軾は広義の故郷である蜀(しょく)の地から流れてきた漢(かん)水(すい)と出合い、また文王の教化が及んだ地、すなわち中華文明の歴史的中心地［そこは「中(ちゅう)原(げん)」と呼ばれる］に近づいたことから、二重の感慨を抱いてこの詩を詠んだのだろう］

■【01-2-029】襄陽古楽府

【解題】襄(じょう)陽(よう)はこのあたりの大きな都市で、戦略的に重要な場所である。蘇軾はしばらく襄陽に滞在して幾つかの詩を詠んだ。これは古くから伝わる詩賦のスタイルである楽(が)府(ふ)に似せた詩。三首連作の第一首だけを訳す。

【訳文】

　野(や)鷹(よう)来(らい)

野の鷹よ、来るがよい、

万(ばん)山(ざん)［襄(じょう)陽(よう)の西にある山］の下に。

山が荒れ、食べるものがなく、飢えに苦しむ鷹よ、

飛んで来るがよい。

来たら美しい糸で繋いでやろう。

北の原には老いて真っ白な兔がいて、

毎年、子を養って秋には菽(まめ)を食らってしまう。

鷹を使ってこの兔を撃ってやるのだ。

しかし、兔は老練で鷹の力は弱い。

野の鷹よ、来るがよい、

町の東に高い台が聳えている。

台には皮の小袖を来た公(こう)子(し)［後(ご)漢(かん)の終わりの劉(りゅう)表(ひょう)のこと］がいて、

万里向こうの東を望んで、遥かな思いにふけっている。

思いは遥かで、

鷹はどこにいるのか。

ああ、公子よ帰るがよい、

呼べば来るような鷹は凡庸なのだ。

天は曇り、月は黒く、夜に狐が吠える。

【補足】［（1）蘇軾のこの作品に限らず、「楽(が)府(ふ)」と称するものはおおむねその地に伝わる故事を踏まえて作られる。この詩は、後(ご)漢(かん)の終わりの劉(りゅう)表(ひょう)のことを詠んでいる。襄(じょう)陽(よう)には劉表が築いた景(けい)升(しょう)台(だい)があり、劉表はその台に昇って『野(や)鷹(よう)来(らい)』の曲を歌い、鷹を呼び寄せようとした。鷹はすなわち天下の俊英で、劉表は優れた人物を己のもとに集めて天下を制覇しようと考えていた。劉表は一時期は曹(そう)操(そう)のライバルと目されたのだが、決断力に欠け、天下に雄飛する機会を逃してしまった。蘇軾のこの詩は、劉表は凡庸な鷹しか集められなかったので、老練な兎［曹操］を撃つことができなかったと歌っているのだろう。史実としては、劉表のもとにはまことの鷹である劉(りゅう)備(び)が身を寄せたのだが、劉表は劉備の大才を活かすことができなかった。（2）蘇軾の『襄(じょう)陽(よう)古(こ)楽(が)府(ふ)』の第二首は三国時代の孟(もう)達(たつ)が歌った『上(じょう)堵(と)吟(ぎん)』を、第三首は南朝の宋(そう)の時代の劉(りゅう)道(どう)産(さん)が歌った『襄(じょう)陽(よう)楽(らく)』を、それぞれ踏まえた作品で、歴史に関する予備知識が十分にないと読み味わうことができないので、ここでは割愛する］

■【01-2-030】峴山

【解題】襄(じょう)陽(よう)の町の南に峴山(けんざん)という山があり、襄陽を訪れた文人で登らない者はいないほどに有名な山で、蘇軾も山頂に立ってこの詩を詠んだ。三国時代の終わりに羊(よう)祜(こ)は峴山に登り、「宇宙ができてからこの山はあり、無数の人がこの山に登って遠くを見た。その人たちはいまはどこにもいない。そして、後に来る人もまた見ることができない」と嘆いた。それ以来、峴山は悠久の時間の流れに思い巡らす場所となったのである。

【訳文】

遠く南からきた我らの前に、

ぼんやりと春の塵に包まれる山があった。

登ってみると、山頂の幅は百歩にも満たないけれど、

眼下には、広々とした大地をひと呑みにする。

たちまちもの悲しさに襲われるのは、

千年変わらぬ感慨がここにあるからなのだろうか。

私のこの憂いを後に誰が知るのか。

私はいまを生きているのに、

未来を想ってここに苦しんでいる。

山の上には堂々とした不変の檜(ひのき)の巨木があり、

年々緑を取り換える柳を見下ろしている。

大才と小才はもとから異なっているのか。

永久性と一体化することは可能なのだろうか。

旅人が山の上にいる時間などは、

星の光が魚篭(びく)の底に達する一瞬のきらめきにも及ばない。

現時点では、賢と愚はまだ分かれていないようであっても、

後からくる人にはすでに明明白白となっているのであろう。

未来へと思いを馳せると苦しみばかりが生じる。

■【01-2-031】万山

【解題】襄(じょう)陽(よう)の町の西十一里に万(ばん)山(ざん)という山があり、なぜか蘇軾は行かなかったので、弟から山の様子を聞いて、この詩を作った。

【訳文】

西に行き、いくつかの山を越える。

北に出て、下に漢(かん)水(すい)を望む。

漢水はここでは蹙(ちぢま)って潭(ふち)になっていて、

山の裾を巡り回ってゆく。

永く壊れたままの禅寺があり、

古い敷き瓦だけがつやつや光っている。

下に王(おう)粲(さん)［後(ご)漢(かん)末の文人］が住んでいた名残の井戸があり、

深く食い込んだ井戸縄を指で触れることができる。

頭(こうべ)を回らせて西北を望むと、

亀の背中のようなこんもりとした山があり、

無数の桑が美しく繁っている。

そこが隆(りゅう)中(ちゅう)であるという。

すなわち、世に出る前の諸(しょ)葛(かつ)孔(こう)明(めい)が寓居していたところである。

山の際から明るい月が出ると、

川洲が長く延びるありさまが山の上からも見え、

平らな沙のかたわらを、

耳飾りを抱くようにして緑の水が流れてゆく。

これほどまでに美しい山や川が近くにありながら、

そこに到らないのは怠け者だと恥じなければならない。

弟に尋ね、地面にあれこれ描く面倒をかけたものの、

結局、十分にはわからないのだった。

■【01-2-032】隆中

【解題】上の詩に詠まれていた隆中(りゅうちゅう)を訪ね、この詩を詠んだ。隆中には、諸(しょ)葛(かつ)孔(こう)明(めい)の旧宅があった。劉(りゅう)備(び)がいわゆる「三(さん)顧(こ)の礼(れい)」で諸葛孔明を軍師として迎えたところである。

【訳文】

諸(しょ)葛(かつ)孔(こう)明(めい)が西の蜀(しょく)にきて以来、

諸葛孔明への蜀人の愛は千年変わることがない。

今朝、諸葛孔明の故郷にきて、

蜀を故郷とする私は悲しみに耐えられない。

この山がちの何の変哲もない土地から、

天子の軍団を指揮する人が出ようとは、

当時の人々は思いもしなかっただろう。

世に出る前の諸葛孔明を臥(が)竜(りゅう)と呼んだ人がいた。

竜がわだかまっていたときには、

ここの山水も秀でて見えたのだろうか。

竜がここから去ってしまうと、

棲んでいた淵も消えてしまったのだろうか。

せめて竜が尻尾を引き摺った跡だけでも見たいとの願いは、

むなしく叶わず、はらりと涙を落したのである。

■【01-2-033】竹葉酒

【解題】襄(じょう)陽(よう)には「竹(ちく)葉(よう)春(しゅん)」という名の美酒があった。

【訳文】

古くから楚(そ)の人は漢(かん)水(すい)を汲んで、

宜(ぎ)城(じょう)の町［襄(じょう)陽(よう)の南九十五里にある］で酒を釀(かも)してきた。

春風が吹くと酒が熟し、

漢水に似て清らかな酒になる。

その酒を造った人々はもはやいなくなり、

その墓も平らになってしまったであろうが、

竹(ちく)葉(よう)酒(しゅ)の名は残り、

千古の情を留めているのである。

■【01-2-034】鯿魚

【解題】襄(じょう)陽(よう)の名物に「鯿(へん)魚(ぎょ)」という魚がある。「春(しゅん)眠(みん)暁(あかつき)を覚(おぼ)えず」の詩で知られる唐(とう)代(だい)の孟(もう)浩(こう)然(ねん)は襄陽の人で、鯿魚を詠んだ詩があり、そのことからも襄陽の鯿魚はよく知られていた。

【訳文】

朝日が川の水を照らすとき、

水に遊ぶ魚は玉のように美しくみえる。

鯿(へん)魚(ぎょ)は項(うなじ)を縮めたような姿から「縮(しゅく)項(こう)鯿(へん)」とも呼ばれるのだが、

項を縮めないで餌を貪り食らうので、

つまるところは烹(に)られてしまうのだ。

杜(と)甫(ほ)は、遠く離れた地で孟(もう)浩(こう)然(ねん)の死を聞くと、

襄陽の人はもはや孟浩然を想うこともなく、

漫然と鯿魚を釣っているのだろうと、

悲しみの詩を詠んだ。

私もまた鯿魚を前にして箸を置き、

孟浩然と杜甫に思いを馳せて涙をこぼすのである。

■【01-2-035】食雉

【解題】「雉を食べる」という題の詩。

【訳文】

雄の雉は長い尾を曳いて悠然と歩き、

いきなり日に向かって斜めに飛び上がり、

空中でくんずほぐれつの格闘をし、

彩り鮮やかな羽が散る花のように落ちる。

勝って勇んで高らかに鳴く雉も、

投げ網に捕まってはもう嘆いても無駄で、

二羽が百銭で売られ、

時季によってはまことに結構な味わいである。

鶏やら鶩(あひる)やらと一緒にされて、

煮たり焼いたりされて、

蹴爪だけがつまらなく残される。

雉は冬になると海に入って蜃(はまぐり)に化し、

蜃は気を吐いて海上に楼閣を現わし［いわゆる蜃気楼のこと］、

その楼閣で休もうとする鴉(からす)は海に落ちてしまう。

そのようなこともできないままに雉は食われてしまうのだ。

【補足】［終わりの部分は、雉が蜃(はまぐり)に化すという不思議な伝承を踏まえている］

■【01-2-036】新渠詩

【解題】襄(じょう)陽(よう)からは向きを北東に転じ、ほぼ直線コースで都を目指した。途中の唐(とう)州で、趙(ちょう)尚(しょう)寛(かん)知事が数年前に改修した用水路［新(しん)渠(きょ)］を見て、蘇軾はこの詩を詠んだ。短い序文がある。

【訳文】

　　序文

庚(こう)子(し)［嘉(か)祐(ゆう)五年］正月、私は唐(とう)州を過(よぎ)った。知事の趙(ちょう)尚(しょう)寛(かん)は近ごろ、三つの陂(つつみ)を修復し、「召(しょう)渠(きょ)」を開き、遠くからも人を招き寄せて唐州に住まわせて農耕に従事させようとしている。私は旅人であるから、食べ物や什器を用意して、四方から来る者を知事とともに迎え入れることができない。それで、『新(しん)渠(きょ)の詩』五章を作って、道行く人に告げ、知事の意(こころ)を伝えることにした。

　一

新(しん)渠(きょ)の水は、舒(ゆる)舒(ゆる)と流れくる。

野に溢れ、あまねく四方にゆきわたる。

この水路は神(かみ)業(わざ)のようにしてできあがったので、

民はまだそれがあるのを知らない

誰がこれを作ったのかというと、

この邦(くに)の趙(ちょう)知事である。

　二

新渠の左右に新たな農地がある。

後から後から水が来て、

自ら赴くかのようにそれぞれに注がれて行く。

雲のように稲穂が広がり、

山のように米が積まれるであろう。

かくて唐(とう)州の人は初めて米の味を満喫するのだ。

　三

新渠の民になろうと、

遠く淮(わい)州からも潭(たん)州からも、

妻や母を連れて押し寄せる。

中には急いで走ってころぶ者さえもいる。

陛下は趙知事に命じて、

新らたな民を慰撫することを優先し、

朝廷の仕事に戻ることなく、

七年の間ここに留まらせたのである。

　四

知事は新たにきた民に言う。

「見よ、ここに広大な土地がある。

　好きな場所をおのおの選び取るがよい。

　自分で耕し、自分で得たものは自分で食べてよい。

　いずれ土地は諸君らのものになる。

　もといた村に帰ってこのことを吹聴し、

　大勢の人々をここに連れくるがよい」

　五

知事はこのようにも言う。

「唐州に家を築くのだ、

　堂々とした頑丈な家を。

　唐州の民として生きるなら、

　十分に食べられるだろう。

　唐州の民として死ぬなら、

　子孫がたくさんの供え物をして祀ってくれるだろう。

　すべては天子の御命令による、

　諸君らには何ら心配はない」

■【01-2-037】双鳧観

【解題】葉(しょう)県にある道教の寺院、双(そう)鳧(ふ)観(かん)を訪ねての詩。ここには漢(かん)の時代に県知事であったとされる王(おう)喬(きょう)が祀られていた。

【訳文】

王(おう)喬(きょう)は仙人だったという。

たまには人の世でものぞいてみようと思い立ったのか、

するにことかいて漢(かん)朝(ちょう)の役人になり、

毎月きちんと都に上って皇帝に行政報告をすることまでもこなした。

皇帝は、王喬が馬に乗ってくる様子がないのを不審に思い、

王喬の現れる日に、ものかげからこっそり観察した。

すると、南方から二羽の鳧(けり)が宮殿に向かって空を飛んできたかと思うと、

たちまち王喬が宮殿に姿を現したのだった。

そこで、網を用意させ、

次に鳧が飛んできたときに、ぱっと広げさせた。

網には二つの靴がひっかかり、

それから王喬はぱったり姿を見せなくなった。

王喬がもしも本当に仙人であるのなら、

そんなどじを踏むはずがない。

人々にあっと言わせるための洒落だったのか。

そもそも、仙人がこの世にのこのこ出てきて、

役人になるというのがおかしな話だ。

われわれは現実の世の縛りのなかでしか生きられない。

こんなふうにおちょくられたのではたまったものでない。

つまり、王喬の話はそもそもひどいいかさまで、

笑って聞き流せばよいだけなのだ。

■【01-2-038】潁大夫廟

【解題】この詩には、蘇軾自身の注で、「潁(えい)大(たい)夫(ふ)とは潁(えい)孝(こう)叔(しゅく)で、その廟が汝(じょ)州の潁(えい)橋(きょう)鎮(ちん)にある」と記されている。潁孝叔は、『春(しゅん)秋(じゅう)左(さ)氏(し)伝(でん)』に記載がある人物で、鄭(てい)の荘(そう)公(こう)が母と仲たがいしてもう二度と会わないと誓ったときに、荘公の心を巧みに和らげて母子の再会を実現させた。

【訳文】

人の情を無理やり変えるのは難しい。

できるのは、人の本性にわずかに感じさせることだけだ。

世の人はとかく是非を争い、苦言を並べ立て、

何としてでも揺り動かそうとする。

潁(えい)大(たい)夫(ふ)の言葉はまことに柔和で、

感情を高ぶらせていた荘(そう)公(こう)も、

心を痛めて自から考えを改めたのだった。

潁大夫の墓の脇の祠はいまは荒れてしまい、

荘公が母と再会を果たしたという隧(ずい)道(どう)も名残の穴があるだけになっている。

潁大夫から千年の後に茅(ぼう)焦(しょう)が出て、

始(し)皇(こう)帝(てい)と母との関係を修復したのではあるが、

裸になって井戸に飛び込むさまを見せつつ始皇帝を諫めたのであって、

微(び)言(げん)ということを知らず、

いたずらに勇敢だっただけなのだ。

【解題】［（1）この詩の冒頭で蘇軾は、「人情難強回、天性可微感」［人(にん)情(じょう)は強(し)いては回(かえ)し難(がた)く、天(てん)性(せい)が微(わずか)に感(かん)ず可(べ)きのみ］と歌っている。しかし、後の蘇軾はどちらかというと、その句に続いて、「世人争曲直、苦語費搖撼」［世(せ)人(じん)は曲(きょく)直(ちょく)を争(あらそ)い、苦(く)語(ご)して搖(ゆ)り撼(うご)すに費(ついや)す］と歌っている方に近かったのかもしれない。（2）このあたりの数篇の詩には、都が近づくにつれて、蘇軾は官員としての己のあり方について思索を巡らせつつあったことが反映されているのだろう］

■【01-2-039】昆陽城賦

【解題】葉(しょう)県の北に昆(こん)陽(よう)の故城があり、千年余り昔の更(こう)始(し)元年［23年］にそこで有名な合戦があった。当時、漢(かん)朝(ちょう)から皇位を奪った王(おう)莽(もう)に対して反旗を翻す者が続々と各地で立ち上がり、劉(りゅう)秀(しゅう)［後の光(こう)武(ぶ)帝(てい)］もその一人として、昆陽城を奪い取る戦いに加わっていた。昆陽城が陥落したと聞いた王莽は、反乱の連鎖を食い止める重大な局面であると判断し、百万と号する大軍を昆陽城に送った。反乱軍の将軍連中は恐れをなし、会戦を避けて昆陽城に籠り、さらには軍団を解散してそれぞれの土地に帰ってしまおうと考えた。劉秀は独り戦うべきだと主張し、八千ばかりの兵を率いて昆陽城を出て大軍に挑み、圧倒的な大勝利を得た。蘇軾はその古戦場に立ってこの賦を作った。

【訳文】

遥か遠くまで淡くかすむ平野の先、

たちまち一つの塊のような古(いにしえ)の城(まち)が現れる。

風が沙を蒼(あお)く吹き上げて走るなか、

かのときの楼(ろう)櫓(ろ)はどこにあったのだろうか。

城の門はいまも四方に向かって開かれ、

道は昔から変わらずに通じている。

野にいるあの農夫、

背中を丸めて菜の手入れをしているあの者は、

果たして知っているのだろうか、

かの昆(こん)陽(よう)の戦いを。

一瞬にして百万の敵を壊滅させて、

千年に一度の快挙をなしたかの戦いを。

想うに、（王(おう)莽(もう)が出した）王(おう)尋(じん)、王(おう)邑(ゆう)の軍団は、

雲を駆り、海を擁する勢いの大軍勢だった。

猛士が無数の戦車を走らせ、

虎や豹までも入り混じって大地を踏み潰すばかりであった。

天下を挙げての一戦で、再びの戦いはもうなかった。

迎える諸将は降伏を願っても許されず、

顔色を変え、（王莽に逆らって反乱を起こしたことを）悔いたのだが、

（劉(りゅう)秀(しゅう)は）千騎を率いて独り城を出た。

劉秀が敵前に現れ、鋒を最初に交える前には、

王尋、王邑は大いに笑って眺めていた。

しかし、たちまち陣太鼓も武器も棄てて走り去ることになり、

大混乱のなかで倒れ死んだ者は、果たして何人いたのか、

そこに雑兵もいれば高位の者も混じっていた。

王莽は狂ったように天子の名を盗み取ったのだが、

踵を巡らすようにたちまち敗れた。

（王莽が）町の無頼漢の全てを寄せ集めたところで、

豪傑は得られるものではなく、

（王莽に）媚びて瑞祥を献じる者が群れをなして集まろうとも、

たちどころに死に就くのは何ら怪しむに足りないのだった。

ただ残念だったのは厳(げん)尤(ゆう)で、

劉秀を侮ってはならないと見抜くだけの才能がありながらも、

敗戦を免れることができなかった。

厳尤とて必ず負けるとは思っていなかったので、

独り身を保つために逃げ惑わなければならなかった。

古い城を過って古戦場を弔い、

この賦を作って、士(ひと)が永く慨嘆する志(こころ)を増そうとするものである。

【補足】［この賦を書いた蘇軾の真筆が現存するようである］

■【01-2-040】許州西湖

【解題】許(きょ)州で、先の唐(とう)州の新(しん)渠(きょ)とは対照的な事業の痕を見てこの詩を詠んだ。

【解題】

春の雨が軽やかに降り注がれて、

からりと晴れ上がると、

許(きょ)州の西(せい)湖(こ)はことのほか美しさに映える。

さざ波を立ててここに流れこんでくる水は、

古い城郭の角で、

昨夜、その響きを耳にしていたものだ。

かつてこの地の知事は春の遊びの場を作ろうと、

千人の男の腕を使って沼地をさらった。

民衆が土を掘り出して担いで運んだありさまは、

蟻の大群がうごめくかのようであったという。

いま、桃の花が咲こうかという時分になっても、

寒さが残っているのが恨めしく思われるのだが、

いくつかの梅の花がまだ落ちずに品のよい姿を保っている。

いずれ春の野遊びをする人々がここに集まり、

酔って杯を持ったまま道に伏せ、

助け起こしてもまた倒れるというようなことになるのだろう。

湖のほとりに建つ楼閣は立派で美しく、

沼を穿って池を作った知事は、

その楼閣で民衆とともに春の風光を愛でたという。

町のお歴々は知事とともに喜んだであろうが、

労働に駆り出された農民の痛みは知らずにいたのだろうか。

このあたりでは七年もの間、十分な稔りがなく、

村は長く寂しげであったという。

遠く旅をしてきた私は、

湖の岸に立ってしばし思いにふけるのだった。

【補足】［（1）許(きょ)州の西(せい)湖(こ)の風光を賛美する詩かと思って読んでゆくと、実はそれを作った知事を痛烈に批判する詩なのである。（2）許州では范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)の次男の范(ぼん)純(じゅん)仁(じん)に会っていて［→作品番号01-2-003］、地方行政官としての心得などについて教わったのかもしれない］

■【01-2-041】阮籍嘯台

【解題】都の南九十里の尉(うつ)氏(し)という町に、阮(げん)籍(せき)が琴を弾きつつ嘯(うそぶ)いていたという嘯(しょう)台(だい)があった。阮籍は晋(しん)の時代のいわゆる「竹(ちく)林(りん)の七(しち)賢(けん)人(じん)」の一人で、頭脳明晰で世を改めたいとの志もあったが、当時は文化を担う士(し)にとって苦難の時代で、ものを言う士はほぼ生命を全うすることができなかった。阮籍はひたすら酒を飲んで世間の目を晦まし、真情は象徴的な詩に託し、かろうじて自我を保って生き抜いたのだった。

【訳文】

阮(げん)籍(せき)は達人にして狂人だった。

世を逃れ、言葉を発しなかった。

高い志は万物の上に出て、

世俗の論に関わらなかった。

胸の内に意気が充満すると、

独り高台に登り、

身もだえし、

息とともにそれを吐き出した。

阮籍の激越な思いは、

大地を揺り動かさんばかりであった。

酔っては昏々と眠り、醒めては嘯(うそぶ)いた。

乱世に生きながら己を貫いたことにおいて、

阮籍に比べられる者がほかに誰かいただろうか。

【補足】［（1）冒頭の「阮生古狂達」［阮(げん)生(せい)は古(いにしえ)の狂(きょう)達(たつ)］の句は、阮(げん)籍(せき)の本質をみごとに言い表している。「狂」も「達」もその意味は深い。（2）己の考えをはっきりと主張してそれに従って堂々と行動した范(はん)仲(ちゅう)淹(えん)は宋(そう)代(だい)の士(し)大(たい)夫(ふ)の手本であったが、それとは全く対照的な阮籍も蘇軾は己を導く偉大な先人であると考えていたようである］

■【01-2-042】朱亥墓

【解題】尉(うつ)氏(し)には戦国時代の朱(しゅ)亥(がい)のだとされる墓があり、そこは俗に「屠(と)児(じ)原(げん)」と呼ばれていた。朱(しゅ)亥(がい)は賢者であったが、世間から隠れて家畜を解体する仕事をしていた。趙(ちょう)国が秦(しん)国の大軍に攻め込まれたとき、信(しん)陵(りょう)君(くん)は趙国を救おうとして朱亥に全てを託した。朱亥はひとりで晋(しん)鄙(ぴ)という将軍に会いに行った。晋鄙は大軍を擁しながら、秦国と趙国の争いの行く末を見守って動かずにいた。朱亥は晋鄙の前に通されると、いきなり撃って殺し、大軍を奪って指揮し、秦国軍を退けたのだった。

【訳文】

昔々の朱(しゅ)亥(がい)の雄(ゆう)豪(ごう)ぶりは誰も及ぶ者がいない。

いまその故国に来てみると、

大きな塚は「屠(と)児(じ)原(げん)」と称され、朱亥の名はない。

朱亥は普段から公卿も大臣も軽んじ、

千金の宝も棄てて見向きもしなかった。

このあたりの人はややこしい議論を好まないので、

昔から伝わるままに「屠児」としているだけなのだろう。

『春(しゅん)秋(じゅう)』を編んだ孔(こう)子(し)は、

朱亥と似たようなことをして人を殺した斉(せい)豹(ひょう)は不義を為したとして、

ただ「盗(とう)」とのみ記して、その名を史書に残さなかった。

朱亥は己の名を伝えない世俗の人を恨んではならないだろう。

朱亥は幸いにも孔子には遭わなかったので、

司(し)馬(ば)遷(せん)がその名を史書に書き記してくれたのだから。

【補足】［孔(こう)子(し)は『春(しゅん)秋(じゅう)』を編んだときに、大義を明らかにするために一文字もゆるがせにしなかったとされる。暗殺は不義であるから、それを為した者の姓名は後世に伝える価値はないとして、「盗(とう)」とのみ書いたのだった。一方で、『史(し)記(き)』を編んだ司(し)馬(ば)遷(せん)は任侠の者を好む傾向が強く、朱(しゅ)亥(がい)の事績を詳しく書き記した。蘇軾は、『春秋』の一文字ずつに孔子が籠めた深い意味を読み解く論文を服喪中に多数書いていて、それは儒者としての表の顔であるのだが、内心は司馬遷と似たところがある。この詩にはその両面が写し出されているようである］

■【01-2-043】大雪独留尉氏有客入駅呼与飲至酔詰旦客南去竟不知其誰

【解題】何かの事情があったのだろう、蘇軾が尉(うつ)氏(し)の町に一人で留まっていると、大雪になり、ある旅人と出会った。

【訳文】

どこもかしこも雪がいっぱいに積もり出し、

古びた宿場はひっそりとして人影がない。

そこに北から一人の旅人がやってきた。

降り続く雪のために、払っても払っても追いつかないのだろう、

笠にうず高く雪を載せて、その人はやってきた。

馬から降りて、宿へと入ってきたその顔を見ると、

寒さのせいでこわばり、青を通りこして黒いくらいである。

私は旅人を招き寄せ、

宿の者に言い付けて、

温めた酒をすぐに持ってこさせた。

旅人は酒を手にしたものの、

体が凍えすぎてしまったのだろう、

飲み下すこともなかなかかなわないようである。

どこの誰であると互いに言い出すこともないままに、

二人で酒を酌み交わし始めた。

私は杯に軽く注いでちびちびやるのだが、

旅人は体が温まってくるとともに調子が出てきたのだろう、

いつしか樽をさかさまにして呑み尽すまでになった。

大雪のために宿は昼間のうちから門を閉ざし、

二人は大いに語り合って、

夜が更けるのも知らずにいた。

翌朝、ぴしりと馬に鞭を当てると、

旅人はたちまち走り去った。

とうとう最後まで二人は名乗り合うことがなかった。

【訳文】［時は2月の初めで、昔の暦では春の半ばである。その時期に果たしてこのような大雪が降ったのだろうか。季節が食い違うので、この詩は都への旅ではなくて別のときに詠んだものであるとする説もあるが、訳者は蘇軾が幻想に託して思いを詠んだ詩であると解したい。都までもうわずかで、都に着けばそれからは官員としての人生が始まる。もしもそれとは異なる人生を選べるとしたら、いまが最後のチャンスなのかもしれないと、もう一人の自分を旅人に投影して詠んだのではないだろうか。父の蘇(そ)洵(じゅん)は長く放浪の旅を続け、それによって強靭な人格が形作られた。蘇軾も父のような放浪の旅に憧れていたのかもしれない。故郷を発って数カ月の旅がいよいよ終わってしまうときに、何かしら焦燥感のようなものに駆られてこの詩を詠んだということもありうるだろう。なお、蘇軾にはもう一つの人生を空想するような詩が時折あり、すでに作品番号01-1-012でその一例を見ている］

■【01-2-044】与楊済甫

【解題】嘉(か)祐(ゆう)5年［1060年］2月中旬に蘇軾は宋(そう)の都、東京(とうけい)開封(かいほう)府(ふ)［汴京(べんけい)］に到着した。これはそれから1カ月ほど後に故郷の楊(よう)済(せい)甫(ほ)に送った手紙。楊済甫の詳しいことはわからないが、蘇軾とは少年時代からの友で、その交情は最晩年まで続き、楊済甫に宛てた10通の手紙が残っている。そのような純然たる私信も蘇軾が書いたものなら珍重されて後世に伝えられ、蘇軾の多様な側面を知る大切な資料となっている。ただし、手紙は独特の文体で書かれ、訳者にはそれを読みこなすだけの能力がないので、理解可能な箇所だけを選んで、大意が通じる程度にごまかして訳すことしかできない。

【訳文】

お別れしてからたちまち半年となるなかで、遠く離れるにつれて、貴君を思うことがますます強くなります。このごろの日々はいかがお過ごしでしょうか。皆さま御健勝のことと存じます。家を離れて荊(けい)州に至る間に何度かお手紙を差し上げましたが届いていますでしょうか。

先月の半ばに、一行は恙なく都に到着しましたところに、十二月に書いてくださったお手紙が届き、はなはだ心が慰められました。いまは、西(せい)岡(こう)にある小さな家を借りて住んでいます。これからどのようになってゆくのかまったくわかりません。春のよい季節でありながらも、お会いできるわけではありません。くれぐれも御自重されますように。