第1章 游の奇絶の始まり――郷里から都へ
［第1章その一］
嘉祐4年［1059年］、蘇軾24歳。
■【01-1-001】郭綸
【解題】中国の宋の時代は、都が東京開封府［汴京］に置かれた北宋［960～1127年］と、臨安府［杭州］に置かれた南宋［1127～1276年］に二分され、蘇軾［1036～1101年］は北宋が後半期に入ろうとするころに生まれた。最初に見るこの詩は、嘉祐4年［1059年］の作品で、当時の皇帝は4代目の仁宗であった。仁宗皇帝は、儒学が最も重んじる「仁」の文字が廟号［天子の霊を祀るときに贈られる名で、亡くなった後の皇帝は廟号で呼ばれることが多い］として選ばれていることからも推測できるように、北宋の人々からは非常に優れた天子であったとして敬われ、実際に仁宗皇帝のもとで北宋は最盛期を迎えた。仁宗皇帝は温厚で生真面目であったが、決断力と忍耐力に欠けていたようで、国勢が最盛期から徐々に下り坂に向かい始めたなかで、国政改革の大きなチャンスを逃し、国力の衰退と民衆の疲弊の進行に歯止めをかけることができなかった。嘉祐4年は、42年間に及んだ仁宗皇帝の治世の38年目で、最晩年に至った皇帝は、2年前に風眩［恐らく脳血管障害］を病んだこともあって、国家の抱える諸矛盾の解決に取り組もうとする意欲はもはや失っていた。この年の10月上旬、蘇軾は父・蘇洵、弟・蘇轍とともに郷里の眉州眉山県［現在の四川省眉山市］を船で発ち、都に向かった。軾と轍の兄弟は2年前の春に高級官僚の登用試験である科挙に合格していて、いよいよ官職に就くための上京であった。船は長江の支流の岷江［蜀江］を下り、嘉州の嘉樹という町に停泊したところで、退役軍人の郭綸と出会い、この詩を詠んだ。この詩には、蘇軾自身の注で、「郭綸はもとは河西の弓箭手で、しばしば戦って功があったのだが、賞されなかった。黎州都監の任期が満ち、しかし貧しくて帰ることができなかったので、いまは仮に嘉州監税となっている」と書き添えられている。河西は当時の北西側の国境地帯で、隣国の夏国としばしば軍事衝突があり、郭綸はそこで兵士として戦い、その後、前線を離れて黎州で都監という低い官職に就き、さらにそこから100キロほど東の嘉州にきて、通行税を徴収する仕事に就いていたのである。なお、この詩よりも前に蘇軾が過ごした歳月については船旅が一段落したところで見ることにする。
【補足】［一行には、父子3人のほかに、兄弟のそれぞれの妻［王氏と史氏］、それぞれの乳母［任採蓮と楊金蝉］、そして軾の生まれたばかりの長男の邁がいた。この時代に朝廷の高官が移動する際に使った船でも、せいぜい現在の屋形船くらいの大きさで、収容人員は多くても20人くらいであったようだ。蘇軾一行に上記の家族の他に使用人が付いていたとしても2、3人くらいであったのだろう。船員とともに船上でどのような日常を送ったのかといった些事を記録することは旧中国の文人の関心外であったようで、以下の詩にもほとんど詠み込まれていない］
【注記】［この自由訳では、2種類の括弧を、次のようにおおまかに使い分けている。①カギ括弧［ ］は、その中に簡単な補足説明を記す。②丸括弧（ ）は、訳文中において、原詩にはそれに対応する語句はないけれど訳文につなげて読むことで意味が通じやすくなる語句をその中に記す。ただし、この自由訳は逐語的な訳ではないので、特に括弧を使わずに原詩にはない語句を記すことはむしろ普通に行っている。括弧を明示するかしないかは、訳者のちょっとした感覚に左右される］
【訳文】
老いた郭綸が河西の勇猛な戦士であったのを知る人は、
いまこの町にはいない。
郭綸は日が暮れるまで船着き場にいて、
通過する船を調べている。
この町の人は、
郭綸の乗る馬がひどく痩せ細っているのをいつも見ているだけで、
仮のやどりのぼろ小屋に、
巨大な鉄の槊［柄の長いホコ］が置かれているのを見た者はいない。
郭綸はいう。
「あの槊を振りまわして、
わしは三日間の猛攻に耐え抜いた。
それで敵は引き揚げたのだ。
だが敵は亡び去ったわけではない。
だから、わしはずっと一つのことを願っている。
いつかこの髪を切って誓いを立て、
必ず一万の騎兵の先頭に立って、
今度は敵地へと攻め入るのである」
私はいう。
「そのときがきたならば、
私も戦場に出て、
あなた方の放つ矢が敵陣に雨のように注がれるありさまを、
必ず見させてもらうと約束をしよう」
【補足】［（1）この船旅で、父も弟も数々の詩を詠んでいる。郭綸については弟も詩に詠んでいて、その事績を詳しく叙述している。蘇軾はそれとの重複を避けたのだろう、簡潔過ぎてわかりにくいところがあるので、この訳文では弟の詩から一部を引いて補足している。（2）郭綸とはこのとき初めて会ったようだ。恐らく、父の蘇洵が郭綸から身の上話を聞き出したのだろう。父は強い独立心に満ちた性格である一方で、不思議と人を引き付ける魅力にあふれ、2人の息子の目の前でたちまち郭綸の心を開かせてみせたのだろう。そのような才はより多く兄の方に受け継がれたようだ。（3）郭綸が戦ったのはこれより19年前のことであったと推測される。宋国の北西にはチベット系のタングート族が建てた夏国があり、特に李元昊が宝元元年［1038年］に皇帝位に就いてからは宋国と激しく対立するようになり、宋国が不用意に挑発したことで、慶暦元年［1041年］に夏国との戦争が始まった。宋国は気位の高い大国であったが、その軍備は張子の虎で、夏国側の機動力を駆使した果敢な攻撃によって重要な軍地拠点を次々に失い、たちまち苦境に陥った。そのときに、防御態勢の立て直しに力を尽くしたのが韓琦と范仲淹で、後に見るように、蘇軾が特に尊敬する4人の先輩のうちの2人である。前線での実情は正しくは中央に伝わらず、郭綸は活躍に見合う処遇を与えられなかっただろう］
■【01-1-002】初発嘉州
【解題】嘉州を過ぎると岷江は二つの川を合わせて水量がぐっと豊かになる。その流れに乗ったときの詩。この詩には、蘇軾自身の注で、「この日、郷里の僧である宗一と、釣魚台の下で会って別れを言う約束をしていた」と、添え書きがある。
【訳文】
朝、にぎやかな太鼓に送られて船は嘉州を発った。
折よく西風に送られ、帆柱の先で旗が軽やかにはためく。
故郷はすでに遠く、
気持ちは船に先んじて遥か前へと飛んで行こうとする。
ともに下ってきた岷江の水はもはやそれだと見定めることはできず、
新たに加わった水はまことに清らかである。
川の勢いのままに、
高さ三百六十尺の石仏の足元を瞬く間に通過したかと思うと、
今度は川幅が広がって悠然と平地を行くかのようになる。
ある禅僧と、
小さな町の釣魚台で会おうと約束しているのに、
船の歩みは少しも速くならない。
川面から夕靄が湧き立つころになっても、
まだまだ先は遠い。
さらさら流れる水のほとりにずっと立ち続けて、
僧はいまも待っていてくれるだろうか。
【解題】［（1）蘇軾の友人には、仏教の僧侶や道教の道士が数多くいた。上の詩に詠まれていた僧のほかにも、嘉州の嘉樹で数日間滞在する間に、惟簡という僧と会おうとした。しかし、惟簡はついに現れなかったので、残念な思いを抱いて嘉州を去るという手紙を、蘇軾は惟簡に送っている。惟簡は蘇軾と同じ眉山県の蘇族の出身で、蘇軾と同世代のやや兄貴分に当たる。蘇軾は蘇族の同世代の男子のなかで93番目であったという説があり、蘇族の規模がおぼろげながらに推測できる。惟簡は宝月大師の号を贈られるほどの名高い僧となり、蘇軾との交遊は長く続く。（2）惟簡への手紙には10月12日の日付が記されていて、それによって最初に眉山を出発したのは10月4日ないし5日であったと推測されている。蘇軾がいつどこで何をしたのかということを知る一番の資料は蘇軾自身が書き残したもので、それらを綿密に突き合わせることで蘇軾の詳しい年譜が編まれている。この自由訳は、孔凡礼撰『蘇軾年譜』（1998年）に全面的に依拠し、ごく希に他の書物に拠ることもある］
■【01-1-003】犍為王氏書楼
【解題】犍為という町で父の知人の王斉愈の書楼を訪ねた。あいにくと王斉愈は遠方に出ていて留守であった。
【補足】［眉州から嘉州までは百二十里、嘉州から犍為までは百五十六里であるという。この自由訳で使う「里」は中国の単位で、一里は約600メートルである］
【訳文】
木々が谷を埋めるその先に、
高くそびえる楼観がある。
昔から知られる書庫で、
今も万巻の書物が塵をかぶっている。
朝日に赤く染められていた川べりの霧が消え、
書楼のもとへと上って行くと、
趣のある青い楼閣の美しい飾りのついた窓が見てくる。
山の風に乗って窓辺に鳥が飛びかい、
水のせせらぎにまじって猿の声がする。
私たちは尋ねた。
「書楼のご主人はいまどちらなのでしょうか」
「ここしばらく遠くの地で辛苦に耐えています。
ときには、頭に甲を載せて敵陣に突っ込み、
首を斬り合うようなことも覚悟しなければならないようです。
読書三昧の暮らしはもうできなくなってしまいました」
「書物を友としていた者でも、
戦陣に臨んだ例はたくさんあります。
諸葛孔明がまさにそうだったではありませんか」
そのように私はいったものの、
閑雅と思えたこのあたりの風景が、
まるで違ったものに見え、
この世界に生きる悲しみを覚えた。
【補足】［（1）王斉愈の家は立派な書楼を建てられるほどに裕福であったのだが、何らかの事情で経済的に苦しくなり、やむなく西北での危険な仕事に携わっていたようだ。その後、王斉愈はますます窮乏して書楼を手放し、長江を下っての留寓生活を余儀なくされ、21年後に思いがけない場所で蘇軾と出会うことになる。（2）諸葛孔明［諸葛亮］を引いて相手を励ましているのは、諸葛孔明が三国時代の蜀の国の宰相で、眉州も犍為も蜀の地に含まれ、郷里の偉大な先人だからである。蘇軾はしばしば蜀の先人の事績を詩文に引用する。なお、地域名としての蜀は、四川盆地を中心とする現在の四川省のあたりを指す］
■【01-1-004】過宜賓見夷中乱山
【解題】犍為から川を下って宜賓を過ぎると、左右は山また山のいわゆる「夷中の乱山」となる。
【訳文】
山々にはさまれた谷の底は天から遠く離れ、
空が晴れているのかどうかもわからなかった。
明け方はことのほか寒く、
立ち昇る靄によって、高い峰はすっかり包み込まれていた。
やがて湧き出るようにして岩の壁に光が射してくると、
雲の動きとともに、
崖の木々の一本一本がまざまざと見えてくるようになった。
ついに谷の底にまで日の光が落ちてきた――
私はそれを手ですくい取ろうとした。
そのとき谷の底から鳥が飛び上がり、
深い青空の中へと吸い込まれて行った。
蛮夷の地であるここの風光を愛する者はいない。
心に適うものなどどこにもない。
だから、世を避ける人であるのなら、
心の鍛錬をするのにここをよしとしないとも限らない。
そのような人を尋ねてみたいと思っても、
山中の道には狼や虎の足跡ばかりがあって行くことができない。
■【01-1-005】夜泊牛口
【解題】牛口の岸辺に船を繋いで一晩過ごした。
【訳文】
川から上り立つ薄い霧が、
落ち行く夕日によってほんのり赤く染められるようになったころに、
ようやく船を岸辺に繋いだ。
古びた柳の下にたむろしていた三、四人が立ちあがり、
そろりそろりとこちらに寄ってきて、
「薪はいらんか」
と、売り始めた。
あたりには茅葺の小屋がぱらぱらと建っている。
船から上がり、その小屋を見に行くと、
壁の間から星がのぞくような粗末な作りで、
夕食に煮ているものはといえば、
せいぜい野菜があるだけだ。
肉らしいものなどはなく、むろん酒もない。
それでも、子供たちの声は楽しげで、
わびしさを感じさせるものは一切ない。
もしかしたら、
人生とは本来このようなものなのではあるまいか。
何か事があるわけでもないのに、
世の中のあれやこれやに誘われて、
苦しみが生じてしまうのだろう。
富貴の輝きが目の前にちらつけば、
貧賤を守り通そうとするのは難しい。
ここに生きる子供らは自然の友であろうとしている。
深い山の中の、いわゆる夷の地に身を置きながらも、
その姿にみにくさを感じさせるものは何もない。
あくせく世間を走り回るこの私は、
いったい何をしようとする者なのだろうか。
【補足】［（1）「人生とは本来……」以下に、若い蘇軾の人生観が端的に示されているといえるだろう。蘇軾が合格した科挙は、まさしく「富貴の輝き」を目の前に見せるものであった。宋の時代に入って科挙の制度が整備され、朝廷の高官は概ね科挙の合格者が占めるようになり、高位に昇ればもしもその気になるなら自ずと蓄財の道も開けた。蘇軾は決して富を得ようとの欲望に駆られて都に上ったわけではなく、別の志があったことは後に見ることになる。（2）終わりの部分で「夷の地」と訳した原文は「蛮荒」［野蛮で未開なところの意味］である。ひとつ前の詩にも「蛮夷の地」という表現があった。蜀の南部の山岳地帯から南は、漢民族以外の異民族が入り混じって住む土地で、異民族に対しては差別意識に基づく語句を何ら躊躇なく用いるのが普通であった。漢民族と異民族は支配者と被支配者の関係になることが多く、蜀の南方でしばしば戦乱が生じ、古くは諸葛孔明が蜀の国を固めるために、まずは南方の諸族を平定しなければならず、そのことが『三国演義』でも一つの見せ場となっている］
■【01-1-006】牛口見月
【解題】牛口で泊まった夜に月を見て詠んだ詩。
【訳文】
人々が静かな眠りにつくと、
閉じられた船の窓の細いすき間から、
ひそやかに月の光が忍び込んでくる。
私はそっと衣をまとって外に歩み出る。
すぐに夜露が降りてきて裾をぬらす。
山と川がひとつの色に染まっている。
大空をひろびろと渡って行くような気分になって、
あたりをあてもなくさまよう――
いつしか私は都にきていて、
「川が切れたぞ」
との叫び声に驚かされる。
見ると、すでに都の半分はすっかり水びたしで、
さっきまで馬や車が行き来していた道は、
いかだでなければ渡れないありさまになっている。
一度水の出た町が、
ぎらぎら輝く真夏の太陽に照らされると、
むっとする臭気でいっぱいになる。
今度は、どこからともなくさわやかな秋の風が吹いてきて、
「竜津橋のあたりで夜市が開かれるぞ」
という声がする。
ふらふらとそちらに行ってみると、
無数の燈火が真昼のように煌々と輝き、
ものすごい人の多さだ。
あまりの喧騒に、逃げるようにして光の輪の外に出ると――
私は再びもとの川べりに立っている。
月の光に乗じて、
三年前の都に帰っていたのだろうか。
これからはるばる旅路を重ね、
世間の塵を浴びるためにわざわざまた都に行こうとしているのは、
いったいどうしてなのだろうか。
【補足】［この詩の終わりに、「三年前の都」［原詩では「丙申の年」と記されている］とあるのは科挙の受験のために上京したときのこと。科挙は地方で受ける一次試験から、都で受ける二次試験、皇帝の面前で受ける三次試験まであり、蘇軾兄弟は地方出身者であるにもかかわらず一次試験から都で受けた。多くの人が憧れ、当時世界第一の繁華を誇った宋の都も、蘇軾にはあまり好ましい印象を与えなかったようだ。受験のときのことはまた後で詳しく見ることにする］
■【01-1-007】戎州
【解題】犍為から百五十里の戎州で詠んだ詩。ここでは少数民族との交易のための市が定期的に開かれていた。
【訳文】
古くからのこの町は無数の山に囲まれている。
山は痩せ、耕す土地はわずかしかない。
それでもここに町があるのは、諸民族との境目であるからだ。
かつては異変の報せに、
軍馬があわただしく出て行き、
そのまま帰らぬこともあったと聞く。
いまは夜ものどかに時の鐘が響きわたるだけだ。
我が宋の文化が広く浸透したのだろう、
あちこちから人々が宋の物品を求めてさかんにやってくる。
ただし金の耳飾りのようなものには関心がなく、
それぞれの民族特有の装飾品で満足しているようだ。
諸民族が互いに強弱を争って何の意味があろうか。
いまやすべては等しく宋の民であって、
見れば皆がそれぞれにいい表情をしているではないか。
【補足】［この訳詩では「諸民族」という穏やかな表現にしているが、原詩では「群蛮」で、伝統的な中華意識が顕著な言葉である。蘇軾のみならず旧中国の文化人にとって、高度に進んだ中華文明の圏外にいる人々を野蛮な「夷、狄、戎、胡」とみなすことは不道徳であるとは考えられておらず、「群蛮」を教化して文明圏に招き入れないことが不道徳なのだった。ここで「宋の文化が広く浸透した」と訳した原文は「従化」［化に従う］で、高いところから低い所へと水が流れるように、低い文明社会が高い文明社会に自然と従うことを意味する。たとえそこに支配・被支配の関係が入り込もうとも、「従化」が善であることに疑念の余地はなかった。前に触れたように、蜀の南部以南は諸民族との紛争がしばしば生じる地であったが、もしも諸民族が同じ文明圏に順化するならば、もはや争う意味のない同じ国の一員になると、若い蘇軾はこの詩で歌っている。蘇軾といえども時代による制約は免れなかったと我々は感じるのだが、当時の支配者層の多数はもっと狭量で、蜀の出身者でさえも中原［都開封や洛陽など国の中心地域］出身者からは差別視されることが少なくなかった］
■【01-1-008】舟中聴大人弾琴
【解題】父の蘇洵が船上で奏でる琴を聴いて詠んだ詩。表題にある「大人」は父を意味する。
【訳文】
川岸につないだ船の上、
父が奏でる琴の音に、襟を正して耳を傾ける。
夜が更けるにつれ、
我が心のうちが次第に高ぶってくる。
琴の音は、
松を吹く風、あるいは山にかかる滝、
清らかさを窮めるかと思えば、
宝玉が当たるように、からころと愛すべき音を響かせもする。
遠い昔に生まれたつつましく雅な音楽が、
いつしか快感を呼び起こす淫らな楽曲にとって代わられて、
太古の楽器の数々がすたれてしまった。
幾千年を経て琴だけが残り、
老いた仙人が世の興亡を閲しつついまも生きるかのようだ。
世間の人々は昔に返るのを好まず、
新しい曲を作っては、
琴に無理強いをして演奏してきたので、
本来のひそやかな音はことごとく崩されてしまった。
それでも非情の存在である琴はいまなおここにある。
古の人々の心はすでに遠く彼方に堕ちてしまったのか。
川の上に広がる広大無辺の空に月が昇り、
人々の暮らしが立てる音がすっかり途絶えた真夜中に至って、
父は太古の音楽をその当時さながらに奏でるのであった。
【補足】［ここでは、大意が見えやすいようにさらりと訳したが、原詩には幾つかの含意がある。その前提として、遠い昔に理想の世があり、政治制度も文物も完全なものが整っていたとする尚古主義がある。それは儒学を中核とする旧い中国の伝統的価値観であった。理想の世のことをいまに伝える象徴的存在として、この詩では、古い琴と古い音楽が詠まれている。同時に、琴を演奏している父蘇洵が「古の人々の心」［原詩では「古意」］を伝える人として詠まれている。蘇洵は後に見るように、独学で当時の学問の潮流の最前線に立った人で、最後の句に「太古の音楽をその当時さながらに奏でた」［原詩は「夜闌更請弾文王」［夜闌にして更に文王を弾じるを請う］とあるのは、父こそが学問の正道を行く人であって、自分はその教えを直に受けているのだということを高らかに宣言するものである。なお、文王は周朝を開いた人で、儒学が伝統的に尊んできた古代の理想の聖天子の一人である］
■【01-1-009】泊南井口期任遵聖長官到晩不及見復来
【解題】南井口に船を泊め、父の知人の任孜［字は遵聖］と会おうとした。しかし、任孜は約束の場に現れなかった。日暮れにもう一度行ってみると、ようやく任孜がやってきた。
【訳文】
川のほとりに始まる一本の細い道。
深く草が茂ったその道は雨に煙っている。
山路の険しい道の先で貴君に別れを告げようとした。
貴君は現れなかった……。
そして、夕暮れ遅くにまた行ってみると、
貴君はやって来た。
貴君はひらりと馬から降り、
誰もがまだ口をきかないうちに、
長く抱いていた思いはすでに慰められた。
貴君は言う――
「どこまでも長い川、
どこまでも広い大地、
そのどこへ行くとも知れぬ身。
いついかなるときであっても、
あなた方と一緒にいられる、
というわけではないのです」
貴君はそのまま去って行った。
【補足】［（1）任孜は蘇軾と同じ眉州眉山県の人で、弟の任伋とともに科挙に合格して官職に就いていた。任孜、任伋は郷里の誉れとして「大任、小任」と呼ばれ、今後、蘇軾の詩文にしばしば登場する。（2）旧中国の人々は本名［諱］の他に字があり、諱を直接呼ぶのは非礼とされ、字を用いた。それでこの詩の題も「任遵聖」と字で記されている。この自由訳では煩瑣になるのを避け、原則として諱を用いる。なお、諱や字の他に「号」もあり、これには自称も他称もある。さらに、国家に大きな貢献のあった者には死後に皇帝から特別に諡が贈られることもある。ちなみに、蘇軾の諱は軾、字は子瞻で、号は東坡を始めとして多数あり、諡は文忠で、そのほかに、蘇翰林、蘇学士、蘇密州、蘇徐州などその時の地位や任地による呼び方もある］
■【01-1-010】過安楽山聞山上木葉有文如道士篆符云此山乃張道陵所寓二首
【解題】安楽山で詠んだ詩。安楽山にはかつて道教の教派の一つ五斗米道の始祖である張道陵が住んでいたことにちなみ、道教の寺院［道観］があった。詩題によると、安楽山に生える木には、葉の裏に文字のように見える模様があり、それは道士［道教の修行者］が重んじる篆符［天の意向を表わす符］であるいわれていた。篆符が現れるのは張道陵の霊威がいまも残るからである。
【訳文】
其の一
天師と崇められた張道陵は不老不死の仙人になったとか、
ならば、いまもどこかにいるのか。
天師の刻んだありがたい玉印が、
それからずっと子孫に伝わってきているらしいが、
肝心の不老不死の術は伝えられなかったのだろう、
子孫はこれまで一人残らずみんな死を免れなかった。
どうして山に満ちる秋の葉に、
特別な神の力が宿っているといえるのか。
【補足】［この詩では、安楽山の道観において、張道陵が自ら刻んだとする玉印なるものの印章を押した符を頂けば病気が治ると喧伝していることを冷ややかに詠んでいる。蘇軾は道教にも仏教にも深く通じ、実践もしたのだが、道士や僧侶が摩訶不思議な霊力があるとして庶民をたぶらかすようなやり方は厳しく非難した］
■■
其の二
天師［張道陵］だけが生死の境を抜けて、
この世界の外に出て行ったのなら、
それはそれで結構であろうけれど、
なぜかよい評判を得ることにいまもすこぶる熱心で、
ひと山に万本もある木の億兆もの葉の裏に、
せっせと文字を書き続けていなさるとは、
なんとご苦労千万ではあるまいか。
【補足】［原詩の表現はこの訳文よりは穏やかである］
■【01-1-011】渝州寄王道矩
【解題】渝州で王道矩に寄せた詩。王道矩は蘇軾と同郷の人であろうと推測されているだけで詳しいことはわっていない。この詩によると、かつて王道矩は渝州に住んでいたのだろう。
【訳文】
かねて聞いていたのは、
五月に渝州に行くと、
駅亭の砌の下を拍つようにして水が流れると。
これまではただ夢の中だけで遠く渝州へと行き、
貴君と唐の歴史をあれやこれやと論じていたのだった。
いま舟で貴君にゆかりのここに来てみると、
季節はすでに改まっていて、
あたりには霜が落ち、寒々しい川には波も立たない。
冬の夜は長く、
我が故郷へと帰る夢も結ばれぬままに、
舟の上で時を告げる声を疎ましく聞いているのである。
■【01-1-012】江上看山
【解題】江から山を看て詠んだ詩。
【訳文】
船から見る山は、
まるで馬が駆け行くかのようだ。
前方から山が現れ出ると、
がらがらと馬に変身して、
足音も高らかに私のかたわらに向かって走ってくる。
山は次々に出てきて、
たちまち数百頭の馬群となって私の横を駆け抜ける。
振り返り見ると、
馬の群れはひしめき合いながら遠くへと走り去り、
がらがらと山に戻って消える。
いましもまた走り行く馬の背に、
見れば、一人の男がまたがっているではないか。
船の上の私は手を挙げ、
その人に向かって叫んだ。
すると、その声とともに私は飛んで山の上に至り、
船はその間にたちまち流れ去った。
うねうねと続く崖の小道に私は一人残され、
馬上にいた彼の人はというと、
船とともにいずこかに行ってしまった。
【訳文】［終わりの数行は、原詩の言外の余韻を露わにしてみたものである］
■【01-1-013】涪州得山胡
【解題】涪州で山胡［鸚鵡］を得て詠んだ詩。
【補足】［この作品は、最初に弟の蘇轍が詩を詠み、蘇軾がそれに次韻したもの。「次韻」とは、もとの詩と同じ韻を用いて詩を作ることで、この詩の場合は、弟の詩の2句目、4句目、6句目、8句目の末尾にそれぞれ置かれていた「茸」「重」「峰」「容」の韻をそのまま同じ場所に置いて詩を構成している。弟の詩は、籠に囚われの身となった鸚鵡を憐れむというごく普通の発想で詠んでいるのに対して、蘇軾はひとひねり加え、おやっと思わせるところがあり、兄弟の詩風と力量の違いが知れる。とはいえ、都に着くまでの間に詠まれた一連の詩は、蘇軾としてはまだ習作段階であったとされ、一般的なアンソロジーでは多くても2、3首が選ばれるだけである］
【訳文】
一日中、竹籠に鎖されていて、
頭を回らせつつ翠の羽を惜しんでいるかのようである。
その㗲㗲と鳴く声に、
どのような深い思いがあるのだろうか。
いま鸚鵡は、
夜は霧の生じる浦辺に宿り、
朝は峰に日が上ると歌い出す。
そうだ、もとの巣などはもはや恋するまでもない、
鷹や隼はこの竹籠には入ってこないのだから。
【補足】［「もとの巣など恋するまでもない」［原文は「故巣何足恋」［故巣何んぞ恋するに足らん］］というところに、故郷を離れた蘇軾の思いが込められていると見ても大きな間違いではないだろう］
■【01-1-014】留題仙都観
【解題】船は涪州から忠州に入り、平都山にある道教の寺院、仙都観に立ち寄り、この詩を詠んだ。平都山には、王遠、陰長生の2人が仙人［真人］になってここから天に昇ったという伝説があった。
【訳文】
山の前には川が広々と流れ、
山の上には木が高々と茂っている。
旅人は船を置いてそそくさと坂を登る。
路傍の秋の草が冬を迎えてたちまち枯れて行くように、
千年という歳月もそそくさと過ぎ去った。
そびえたつ仙都観に至ると、
この頂から、竜の曳く車、虎のかつぐ駕籠に乗って、
二人の真人が遥かな仙界に飛び去ったという。
真人はもはやこの世間を顧みることはなく、
人が生まれたり死んだりするのは、
せいぜい朝と夕の入れ替わりくらいにしか思っていないのだろう。
仙術を獲得しようとして、
米粒を断ち霞を食らう苦行に耐える人がいまもいる。
私が望むのは、
無も有もないという哲理を会得して、
風に乗り雲に乗り、
世を超越した境地に至ることだ。
■【01-1-015】仙都山鹿
【解題】仙都観のある山にすむ鹿について詠んだ詩。同じときに父の蘇洵も詩を詠み、それには次のような序文が添えられていた。「忠州の豊都県に至り、仙都観に遊ぶと、県知事の李長官に出会った。知事はこのように言った。『貴君がちょうど来られるとわかっておりました。この山にはひどく年老いた鹿がいます。猛獣も猟人も決してその鹿を害おうとはしません。客人の訪れがあるときには、前の夜にその鹿がきっと鳴きます。それで、鹿が鳴くと、いつもここで待ち受けるようにしているのですが、一度も誤りだったことはありません』。私はそれを聞いて不思議なことだと思い、この詩を作った」。その鹿はかつて仙人になった道士と一緒に暮らしていた白い鹿の子孫だという言い伝えもあった。
【訳文】
太陽と月があくせくと天空を走る下で、
人は地上の塵の世にがっちりとつながれている。
仙人は跡形もなく飛び去り、
山には鹿が遺された。
鹿は霞の彼方に真人を追い求めて悲しみ、
心が通じ合えそうな人がくると知ると、
松を揺らす風とともにしきりに鳴くという。
その鹿が夜の間に鳴いていたと聞いて、
はたして私がそれに該当する人間なのか、
鹿に尋ねてみたいと思っても、
山は秋の草におおわれ、
鹿の行方はどことも知れない。
【補足】［（1）季節は冬で、時に大雪が降ることもあり、この詩と同じころに、弟が雪を詩に詠んでいる。蘇軾はその詩に次韻しつつ、実験的な試みをした。当時の文学改革の指導者であった欧陽脩は、かつて、雪を詩的に表現する常套句を一切使わないというルールを課して雪の詩を作ったことがあった。蘇軾は、そのルールに白を表現する語も使わないという制約も加えて作った。斬新な表現を求めるために敢えて手足を縛るようなことをしたのである。その詩は蘇軾の力量が並み並みならぬことを示すものであるのだろうが、内容的には我々の興味を引くようなものではないのでここでは割愛する。なお、欧陽脩は蘇軾父子にとっての最大の恩人で、都に着けば必ず会うことになるので、欧陽脩に見せる意図で蘇軾はその詩を作ったのだろう。（2）同じころにもう一つ実験的な詩を作っている。楚の地方に伝わる民謡に材を取って作られた『竹枝歌』という詩のジャンルがあり、蘇軾はまだ『竹枝歌』に歌われていない題材を集めて9章からなる詩を作った。これもまた蘇軾の力量を示す意欲作ではあるのだろうが、やはり内容的には我々の興味を引くようなものではないのでここでは割愛する］
■【01-1-016】屈原塔
【解題】屈原の塔を見て詠んだ詩。蘇軾自身の注で、「忠州にはもとより屈原にちなむ塔などあるはずもない。それがここにあるのは、屈原のことを思う後の人の心によるものである。それでこの詩を作った」と、書き添えられている。屈原は蘇軾よりも1300年ほど昔の人で、当時の楚国の大臣として国のために尽くしたが、讒言によって遠くに流され、悲嘆の余り水に身を投じた。優れた文学作品も遺した節義ある人物で、蘇軾は一貫して見習うべき偉大な先人として極めて高く評価している。
【訳文】
楚の人々は屈原のことを悲しみ、
その意は千年たってもやむことはない。
屈原の魂はいまもなおどこかをさまよっていると、
心ある人々は泣き続け、
屈原の魂が飢えぬようにと、
五月五日には竹筒に飯を詰めて川に投げ入れている。
屈原こそは古の壮士で、
死に就いたときの意も甚だ壮烈であった。
屈原があくまでも楚王に忠義を尽くそうとしたことは、
世俗の人にはなかなか理解されない。
ここ忠州は旧くは楚の国に属したことがあるからなのか、
山の上に屈原を偲ぶ塔がある。
しかし、塔は仏教を奉ずる者が建てるものであって、
屈原のための塔であるとするのは根拠がないようではあるのだが、
屈原の事績が消えてしまうのを強く恐れての故なのだろう。
古から死なない人はいないのであって、
短命であるか長寿であるかは問題ではない。
名声こそが無窮であって、
富貴などはしばしの熱狂でしかない。
屈原はこの理を知っていたから、
死んでまでも節義を守ったのであった。
■【01-1-017】望夫台
【解題】忠州から南に数十里のところに望夫台と呼ばれる岩があった。
【訳文】
川が曲がり、船が廻り行くと、
山の上に連なる岩の壁は、
屏風を折り曲げるように姿を変える。
中に一つ、とりわけ抜きん出た岩があって、
あたかも人が屹立しているかのようだ。
かつてここに一人の妻がいて、
旅に出たままの夫がいまに帰ってくるのではないかと、
山に立って川を見続けるうちに、
岩になってしまったという。
岩は千古の昔も、昨日も同じ形であるけれど、
船は来ては船は去り、いつまでもとどまることなく、
川は流れては川は去り、いつもまでもとどまることがない。
私たちは川に浮かぶ木の葉のように大海へと流れ下る。
ああ、できることなら、あの山にしばし残って、
月が昇るのを待ちたいものだ。
月光が岩に当たって、
気高い妻の姿を浮かび上がらせるのを見たいから――。
【補足】［夫の帰りを待ち望む望夫台を仰ぎ見つつ、蘇軾は亡き母に想いを馳せたと想像してもたぶん間違いではないだろう。後に詳しく見るように、蘇軾の父はしばしば放浪の旅に出て、その間は母が2人の息子を教え導いた。その母は蘇軾兄弟が科挙に合格した直後に郷里で亡くなり、兄弟はそれから足掛け3年の喪に服した。その喪が明けたので、今回の旅に出たのである］
■【01-1-018】厳顔碑
【解題】蘇軾は歴史好きで、しばしば歴史を論じ、歴史を詩に詠んだ。すでに屈原を詠んだ詩を見たが、これは後漢の末の厳顔を詠んだ詩。厳顔は、蜀の地を治める劉璋に仕えて巴郡を守っていた。そのころ、劉備［三国志の英雄で、蜀国の皇帝になる］は落ち着ける場所がなくて各地を転々としていたのだが、策略をもって劉璋から蜀の地を奪い取ろうとした。劉璋はもとより人望がなく、劉璋に仕えていた者のほとんどがすんなり劉備に従ったのであるが、厳顔だけは、「我が州には降将軍［降伏する将軍］はなく、ただ断頭将軍［首を斬られる将軍］がいるだけだ」と豪語して、劉備に従うことを拒絶した。そうした厳顔の事績を称える碑が忠州にあったのを見て、蘇軾はこの詩を詠んだのである。
【訳文】
先主［劉備のこと］が劉璋に反して戦争を仕掛けたのは、
明確に不義であった。
［劉備の軍師であった］諸葛孔明は古の豪傑であるのに、
どうしてこのようなことをしたのか。
劉璋はもとより凡庸な主であったから、
ふた心を抱くまいとする者は誰もいなかった。
独り厳顔だけが賢人であって、
刑具を前に置かれても笑って話をした。
国は亡び、もとの主君は囚われの身となり、
厳顔はいったい誰のために死のうとしたのか。
この岩に碑文を刻んだのは誰なのか。
それ見る我が眼からは涙がこぼれ落ちる。
吁嗟、断頭将軍よ、
その心意気は千年経っても人を悸かせるのだ。
【補足】［三国時代の歴史を語る『三国志演義』などの書物は、劉備に正義があるとして描くのがお定まりで、劉璋から蜀を奪うところでは、劉璋が暗愚であることをもって劉備に正当性があるとしている。それでもモヤモヤとした感じが残るのは否めない。蘇軾のこの詩では「不義」であると断じている］
■【01-1-019】過木櫪観
【解題】万州武寧県の木櫪山にある道教の寺院の木櫪観の下を通過して詠んだ詩。
【訳文】
石の壁の高さは千尺、
細い道は遠く消え行き、
飛ぶ勢いの簷は剣を突き上げるかのよう、
柏［日本でいう柏とは異なる針葉樹］の古木が立ち並ぶありさまは仙界の都のよう。
そこは、晋の時代に許邁が高く飛び去ったところ。
いま悔いているのは、
我が行く舟をそこへと回らせなかったこと。
許邁は異人から術を得て、
民に害を為す蛟を斬って捨てた。
剣を提げたそのときの崎嶇い姿を想像すべきである。
いまや棺が遺されているだけで、
許邁が修めた道術を崇める者はいない。
世から隠れることの意味も知らないままに、
許邁が仙人になったということにだけ感心している。
仙界は霧の彼方に遠く、
人間界にある我等は爪や髪がひたすら枯れて行くのをどうにもできない。
飄飄と夕陽に乗って去って行った許邁は、
俗界に遺した躯を顧みることはないのである。
【補足】［許邁はもとは地方の知事として民衆のための力を尽くし、後に「異人」と出遇って道術を得て、山中に隠れた。蘇軾はそうした生き方を一つの理想として捉えていて、類似の人々をしばしば詩文で賞賛している。「異人」とは世間の規範とは何かしら異なる哲学に従って独自の生き方をしている人で、蘇軾は「異人」との交際を特に好んだ］
■【01-1-020】八陣磧
【解題】夔州にある八陣磧の遺跡を訪ねてこの詩を詠んだ。諸葛孔明は神のように戦術に長け、絶対に破れることのない最強の陣法である「八陣」を発明したとされる。諸葛孔明は河原に石を積んでその陣法を記録した「八陣図」を作り、その遺構が八陣磧であると言い伝えられていた。
【訳文】
広い河原に、ごろごろと岩がころがっている。
あれとこれ、それとも、それとあれなのか、
ぼんやりと見えてくるものがある。
川に水がみなぎる季節がくると、
どの岩も流れの下に隠れてしまう。
諸葛孔明は死んで久しく、
岩の並びを弁別することはもはや誰にもできない。
たとえ岩の並びがきちんと保たれていても、
諸葛孔明の神のような用兵をそれから会得できはしないだろう。
真に優れた人は自分で心に悟るのであって、
その要諦はかたちにして留めて置けるものではない。
後世の人々は何もわからぬままに自説を立てるだけだ。
かつて英雄が並び立って競い合ったとき、
禍が次から次へと長く続き、
民衆は戦に駆り出され、野に倒れ川に血を流し、
町からは人影が消え、炊事の煙が立たなくなった。
英雄が大勝負に出ると、
民衆の命は雪に湯を注ぐようにしてかき消されたのだった。
目の前の戦闘にひたすら追いまくられ、
遠く先を見通したはかりごとはどこにもなかった。
そこに諸葛孔明が現れ、群雄どもを一掃しようとした。
蜀は小国であったから節制を旨とし、
困難に耐えに耐えてその日がくるのを待った。
諸葛孔明の志は立派だったが、
計画は壮大すぎて遠回りをし、
歳月は瞬く間に流れ、
軍団が十分に整えられる前に、
英気は折れ、諸葛孔明は死んでしまった。
夔州の峡谷に八陣図だけが残され、
千年にわたってその壮図が伝えられてきたのである。
【補足】［（1）諸葛孔明は蜀の人々にとっては、何かにつけて語られることの多い郷里の英雄であった。この詩で蘇軾が諸葛孔明に批判的であるように見えるのは、尊敬の念が極めて深いことの裏返しなのだろう。（2）この八陣図について記した短文があり、それによると蘇軾は山の上からそれを見下ろし、石は百丈余りにわたって八列に並んでいたようである］
■【01-1-021】諸葛塩井
【解題】八陣磧の近くに、塩を採るための井戸があり、諸葛塩井と呼ばれていた。かつて漢の時代に、ここの塩井によって巨万の富を得た者がいた。この詩には、蘇軾自身の注で、「井は十四あり、山の下から山の上にまである。そのうちの十三はいつもは空で、盛夏になって江に水が漲ると、いつもは江の水が及ばないところでも次第に井から水が出るようになる」と、書き添えられている。
【訳文】
五行の原理からして水は塩辛くなる。
江の水であろうと井戸の水であろうとそれは変わらないはずだ。
しかし、塩井の水はどうして塩辛く、
江の水はどうしてそうではないのか。
人の心というものはまことに満足させ難く、
物の理が人の欲をたくましくさせてしまうことがある。
いまも人々は利を得ることが少ないのを嫌うかのように、
塩井から汲み上げる縄に休むいとまはない。
【補足】［五行の原理とは、自然界を構成する木、火、土、金、水の五つ基本要素の相互作用によって諸現象を説明しようとするものである。その理論によると、我々には理解しがたい推論過程によって、水は自ずと塩辛くなると結論付けられる。蘇軾は当時としてはかなり合理的な思考をする方であったが、自然現象の説明原理としては旧来の素朴な自然哲学しか持ち合わせていなかったために、我々にとっては意味不明の不思議なことをしばしば口にする。蘇軾の言っていることを正確に捉えようと五行の原理を掘り下げてみたところでさほど得るものはないであろうから、ここの訳文は適当にごまかしている。五行の原理だけでなく、儒学、道学、仏教等についても同様のごまかしが今後多くなるので、それでは満足できないという方は、原文に当たっていただきたい］
■【01-1-022】白帝廟
【解題】夔州にある白帝廟を訪れてこの詩を詠んだ。白帝廟に祀られているのは公孫述で、前漢と後漢の間の混乱期に活躍した群雄の一人で、蜀の地に拠って皇帝と号した。
【訳文】
北風に押されるようにして峡谷に入って来た。
憂いを帯びてどこに行くのか。
蒼い山の路を目指し、
白帝の祠に詣でるのである。
荒れた城に秋の草が満ち、
古い樹から野の藤が垂れ下がっている。
ここから荊州［江陵府］はまだ遥かに遠く、
蜀から来た旅人は独り悲しみに沈む。
ぶらぶらとまわってこのあたりの風俗を問い、
ここで繰り返された興亡を思って涙をこぼす。
公孫述が拠った地はいまもそのままであるけれど、
遺された民はもはや公孫述のことを知らない。
公孫述は天子が出入するときの儀を具え、
天子の旗を押し立てて、
初めは天下を併呑する遠い計略があった。
雄大な志はここ夔州のあたりだけに留まるものではなかったのである。
とぼとぼとこの野の廟に来て、
当時を思い、黙って哀れを噛みしめる。
粗末な甑で山の麦を蒸し、
竹枝歌［土地の民謡］をゆったりと唱える。
公孫述に荊州を取ることを説いた荊邯は真の壮士であったが、
天命を待つべきであると学者の呉柱に止められた。
大計を失ってもはや公孫述の勢いは挫かれてしまったのだが、
それでも、天命に拠る王道を採ろうとしたのは立派であった。
だからこそいまもなお廟がここにあり、
その門にはくっきりと帝王の号が遺されているのである。
【補足】［山地に囲まれた蜀の地には、中央が乱れたときに、自立した地方政権が生まれることが多い。前漢と後漢の間の公孫述、三国時代の劉備、五代十国時代の王氏、孟氏がその例である。蘇軾は蜀の人であるから、そのような地方政権に肩入れする傾向があるようだ。公孫述は一般的には、地の利に頼って虚勢を張っただけの人物と見られているが、蘇軾は、王道［倫理的に正しい政治］に拠ろうとしたとしてやや肯定的に評価しようとしているかのようだ］
■【01-1-023】灩澦堆賦
【解題】船は長江最大の難所であり景勝地である三峡へと入って行く。白帝城から下流の200キロほどの間に、瞿塘峡、巫峡、西陵峡の三つの峡谷が連なることから三峡の名がある。瞿塘峡の入り口には、川を塞ぐようにして灩澦堆の巨石が立ちはだかり、蘇軾はそこで『灩澦堆の賦』を作った。「賦」は古くからある韻文の形式で、詩とは幾つかの違いがあるのだが、訳者の能力ではその差異を訳文で示すことはできない。序文が付いている。
【訳文】
序
瞿唐峡の口にある灩澦堆は天下で最も危険であるといわれている。ここで舟を覆した者は、その咎はこの巨石にあるときっという。私は灩澦堆を見て、巨石はむしろ人にとって功績があるのではないかと考えた。蜀江は百もの河川を合わせて夔州に至り、水量は極めて大きく、水の勢いは極めて強い。大きな平野があれば、水は縦横に放たれるのだが、三峡の大きさは蜀江の十分の一もない。もしもその勢いをあらかじめ挫いてくれるものがなかったならば、蜀江は遠くから速やかに奔り下って来た勢いのままに瞿塘峡の口に鋭く当たることになり、その危険の度合いはいまとは比べものにならないほど畏るべきものとなってしまうであろう。それでこの賦を作って、好事の者が試しに観てこのことについて考察してくれるのを待ちたいと思う。
天下において最も信があるものといえば、きっと水であろう。
河川の大きさや海の深さは測ろうとすれば測れなくはないだろう。水は自分からは形を作らないで、物に因って形を作る。だから、千変万化するそのありさまを計り知ることはできない。そこに必然の理がある。
水が奔騰して怒り狂うときには、万人といえどもそれに当たって進むことはできない。水を穏やかにさせ、言うことを聞かせることができるのは、ただ聖人だけである。
私は瞿唐峡の入り口に舟を泊め、灩澦堆の岩が崔嵬としているのを見て、峡谷が開けるすぐ近くにそれが存在するのは理由があることだと知った。
蜀江は遠く千里の彼方から来る間に、一度として何かに流れを阻まれたことがない。水はその意を驕らせ、くじくことができないほどにふてぶてしくなってしまっている。
峡谷の入り口に至ると、たちまち狭いところが迫って来て、万頃［頃は面積の単位］の水を一つの杯の口に入れなければならないようなことになる。
灩澦堆があることによって、水はその先に峡谷があるのをまだ知らないうちに、岩の下で轟音を響かせ、岩を震わせて、力の限り闘うことになる。まさに、一万騎の兵団が西からやって来て、突如として目の前に一つの城が現れ、鉤縄を懸け、車をぶつけて城壁の下で戦うようなものである。城は堅くてついに取ることができず、矢は尽き、剣は折れて、軍団はすごすごと城の下をまわって東に去って行くのである。
このようにして滔滔汨汨とした大河の水も、安らかになって進んで峡谷へと入り、もはや敢えて怒るようなことはないのである。
ああ、物は、そもそも安らかなところから変化が生じ、また、危ういときには安らかなることを求めるのである。私のこの説を得て、推して考えるなら、自然界にはもとより道理が具わっているとわかるであろう。
【補足】［この賦には、蘇軾のみならず宋の文人が理屈を好んだことが如実に現れている。宋の文人は叙情にも叙景にも何かしら腑に落ちるような理屈を持ち込むと、言うべきことが言えたと満足するのだった］
■【01-1-024】入峡
【解題】いよいよ瞿塘峡に入ってこの詩を詠んだ。
【訳文】
昔から三峡の勝れた風光を想っていた。
今しもそれをほしいままに見てとれるところにまできたのだ。
長江は蜀と楚を結び、
蜀の山から出てきた万本もの川がここで一本に束ねられ、
東南の楚の平地へと注ぎ込まれるのである。
北東からきた水は電光のようにすばやく走り、
西からきた水は藍に似た緑で、
その他のところからきた水はどれがどれだか見分けようもないけれど、
互いに勢いを競おうとここに集まってきたのである。
陸地に道らしきものがなくなって、
いよいよ深い峡谷のなかへと入る。
連なる山並みが一つの箱型の壁に変わり、
流れは、あるときは大きくゆるやかに巡り、
あるときはまっすぐに伸びて急流となり、
またあるときはぐっと縮んでどっと落ち込みもする。
風は呼吸をするように谷を行きかい、
あるいは雲の上へと吐き出され、あるいは下へと吸い込まれる。
迫りくる崖は、
垂れ下がる緑の蔓、懸命にしがみつく青い竹、ぽつんと生きる石楠花、
それらもろともに、大きな音を立てて倒れかかってくるかのようだ。
滝となって落ちる水は吹雪のように宙を舞い、
駆け下る馬のように岩が落ちかかる。
不意に絶壁の高さが不揃いなると、
忽然としてそのなかほどに子供の姿が現れ出る。
岩にまとわりついて人家の煙が流れ、
山あいの小さな村の真下に船は着く。
船をやっと繋げるだけの狭い岸辺から、
竹駕籠に乗ってその村へと登ってみる。
このようなところにでも人は住めるもので、
粗末ながらも役所の建物がある。
この地の名産という蜜柑を村の役人が勧めてくれるかたわらで、
夕べの太鼓がドーンドーンと鳴らされる。
村役はいささか誇らしげに、
ここらでは寿命を延ばす薬草がたくさん採れると教えてくれる。
しかし、食に満ち足りて十分に長生きをしているような人は見当たらない。
それでも、ここでは昔からのことがらがよく語り継がれていて、
先人の苦労を大切に偲んでいるようだ。
家は板で屋根を葺いただけで瓦はなく、
巌を削り込んだごく狭い住まいもある。
気候は冬も暖かであるというが、
薪を伐るにはかなりの危険を冒さねばならないだろう。
米を作るような土地はほんのわずかしかなく、
暮らしの厳しさは並大抵ではないようだ。
土地の人が舟を操る腕前はさすがにみごとで、
大波がどこで生じるのかすべてよくわきまえ、
木の葉のような小さな舟でかるがると大河をさかのぼる。
人々の矍鑠とした姿は見惚れるばかりだ。
残念なことに、土地の言葉はよくわからないので、
私などはここには住めそうになく、
この地の奥深い趣きを味わうには至らないだろう。
いましも一羽の鶻が飛び上がり、
大河の上の百尺の厚みのある靄を超え、
その上へと出て行こうとしている。
横に滑空する鶻には、自ら心に得るものがあるように見え、
遠く消え去る前に翻るのは、
あえて楽しみを貪るまいとしているのだろうか。
そして悠々と翼を振るって雲間に遊び、
他の鳥のことなど気にもかけていないようだ。
人の世は塵にまみれ、病んでいるのではあるまいか。
そこであくせくすることに私は耐えられるだろうか。
万物は自然の内に生きるよさを知っているのに、
人は富貴の喜びを優先させてしまう。
飛ぶ鳥の楽しみを見るがよい、
高くにあって心満たされているではないか。
■【01-1-025】巫山
【解題】船は巫峡に入り、この詩を詠んだ。峡谷中の特に大きな山の連なりを大巫山といい、十二のピークがあって、その下に神女廟がある。
【訳文】
迤邐とした瞿塘峡が尽きると、
崢嶸しい巫峡が立ち上がる。
連なる峰は怪しさいっぱいで、
岩の色はあるいは青くあるいは緑で、
天の職人が神技を駆使して、
奇偉なものを作ってみせようとしたのだろう。
その勢いは際限なく深くにまで及び、
その意匠はいまも未完成であるのだろう。
見ていて一瞬も目を離すことができないままに、
一歩また一歩と奥に入って行く。
たちまち蒼い崖が迫ってきて、
絶壁の厳しさに震えあがってしまう。
仰ぎ見るのは八つないし九つの頂、
そのすっくとした姿は天地の気を凌ぐほどで、
その上の空は光も揺らぐような高さにある。
川の水は、峰の下を沸き立つ奔流となって下って行く。
まわりから抜きん出て、
畏れるものなどないかのように勇み立つ一つの峰がある。
そこに神女廟があると聞いて、
川岸から攀じ登って行く。
岩に腰をおろすと、
ごうごうと音を立てて流れ下る大河の水が、
ようやくわが身から離れて、ほっとする。
廟を守る役人にあれこれ問いかける。
遥かに見上げるのが神女石で、
その美しい姿はまことにその名の通りで、
うつむき気味に鬟を斜めにし、
日に染まる雲を衣としてまとっている。
人の心は物に随って変化するもので、
それを見ていると、
遠くからでも深い意があそこにあると知れてくる。
土地の老人がにこにこと話してくれる――
「若いときにはよくあそこまで行ったものです。
猿と一緒に登って、
縄にすがって降りてくるのです」
石の筍のような尖った峰があり、
そのごっついありさまは他に類がない。
世間の人は不思議なことを喜ぶもので、
子供らをびっくりさせるようなおかしなことを言いたがる。
楚の王が巫山の神女と契りを交わしたと『楚賦』は歌うけれど、
それは虚伝にすぎないのだろう。
川岸に連なる竹林のことを老人に問うと、
「それはいまもあります。
翠の葉が下に垂れて、
ばさばさと鳳が尾を揮うかのようです。
風によって臥せたり仰いだりするのは、
神に使われているかのようです。
絶頂には三つの碑がありまして、
折れ曲がった古い篆字なのでしょうか、
まったく読めないので、
見てはいましても、覚えておりません。
峰の背後にまわりますと、
石の上に黄楊子が生えていまして、
堅く痩せた木で、しわしわの模様があって、
よく伐り採ったものです。
もっと奥を見てやろうと、
縋るようにして狭い谷へと降りたことがあります。
山が高くて虎も狼もこないようなところで、
深くに入るとかえって平らになっていました。
岩穴に湧き出る泉があり、
甘く滑らかな水で、
手を洗い口を漱ぐと、
その冷たさが心臓や胃に染み入ります。
衣を洗って樹の梢に掛けておきます。
斧を磨いて石鼻山に分け入ったこともあります。
あちこちめぐるうちに日が暮れてきますと、
そろそろ人里が恋しくなって、
帰ろうという気になります。
行かなくなってもう十年にもなりましょうか。
老い衰えて筋力が疲れてしまいました。
あのころに伐り残した木から芽ばえたのが、
もう臂くらいの太さになっておりましょう」
老人が語るのを聞いて、
私はしきりに嘆息し
神仙の世界はもとより存在するのだろうと思いもする。
難しいのは世俗の欲を忘れることだ。
貧賤は愛すべきものではない、
富貴などは履を脱ぐように棄て去らなければならない。
この老人だって、
もしも山の奥に入ったまま還ることがなかったならば、
たとえ食べるものなどなくても、
不死が得られたのだろう。
【補足】［（1）蘇軾は、興味深いことに、もう一つの異世界があると信じていたようだ。そこへと接近しようとするのを、今後幾度が見ることになる。（2）『神女廟』と題する詩がもう1首あるが、この詩で「虚伝」と断じた『楚賦』をなぞるような内容であるので割愛する］
■【01-1-026】巫山廟上下数十里有烏鳶無数取食於行舟之上舟人神之故亦不敢害
【解題】長い詩題は、「巫山の神女廟の上下数十里の間は、烏や鳶が無数にいて、食べる物を行く舟の上から取っている。舟人はこれは神の使いであるとして、害うようなことはしない」。巫峡の烏や鳶が行き交う舟から餌を得るありさまはなかなかの壮観であったようで、様々な詩文がそのことを伝えている。
【訳文】
烏や鳶が群れをなして飛び来ると、
旅行く人をひととき騒がし、
それから飛び去って行く。
食べ物が得られて憂うことがなく、
人にすっかり馴れている。
江のほとりの飢えた烏などがそうするのは怪しむまでもないが、
野の鷹までも頻々と来るのはどうしてなのだろうか。
【補足】［終わりの部分は、気高くあるべき鷹までくるのは情けないというようなことであろう。「野の鷹」は何か諷するものがあるのだろうか］
■【01-1-027】過巴東県不泊聞頗有莱公遺跡
【解題】巫峡を出ると帰州の巴東県で、船はそこに停泊することなく通過したのだが、巴東県には莱公の遺跡があると前々から聞いていたので、それを詩に詠んだ。莱公とは寇準のことで、蘇軾よりも70年余り先輩で、宋代の士大夫の手本として仰がれた。宋代の士大夫とは、科挙に合格して官僚になった人々、あるいは官僚にならなくてもその志があった人々を指す。宋という時代の最大の特徴は、出自によらずに学問を修めてその実力によって政界に入った人々が社会の主役となったことで、士大夫はいかに生きるべきかということが宋代の始まりから実践的に模索され、寇準を経て范仲淹に至ってその規範的モデルが完成したと、同じ時代の人々からは見られていた。寇準の父は下級の役人で、寇準は19歳で科挙に合格し、最高位の宰相にまで昇り、国家存亡の危機を救う活躍をした。
【訳文】
若き日の寇準は不遇をかこち、
ひっそりとしたこの巴東に赴任した。
山の中には、
寇準が植えた松がいまもあるという。
山と川の織り成す自然の厳しさが、
豪俊の気を養い育てるのだという。
だから、運命の定めとして、
英雄をまずは困難のうちに置くのである。
そのときの寇準は視察にきた知事殿を出迎えるために、
衣冠を整えて塵の中を走って風下に立った。
そのときの知事殿は誰であったか、
よもやこの人が三公［国家の中枢を担う三役］に昇ろうとは知る由もなかったのである。
【補足】［中ほどの句「江山養豪俊」［江山は豪俊を養う］は、後の蘇軾の運命を暗示するかのようである。蘇軾は中央から追われるごとに、江山に養われようにして、より大きな人物となって行ったのである］
■【01-1-028】屈原廟賦
【解題】帰州にはかつて屈原［→作品番号01-1-016］が住んでいたとされるところがあり、そこに屈原廟があった。屈原廟は漢の時代に創建され、現在は屈原記念館がある。蘇軾は屈原廟で賦を作った。
【訳文】
小さな舟を浮かべて楚へと行き、
屈原の遺跡の廟を過る。
長江のまわりに重なる山々、
ここがまさしく屈原の故郷なのである。
かの昔、屈原は楚の都から放逐され、
江の波を渡って南へと遷り、
家を去ること何千里、
生きて帰るところもなく、
死んで葬られるところもなかった。
悲しいことに、
人にはもとより一つの死があり、
難しいのはいかに死ぬかである。
屈原はそのとき、
川のほとりを歩き、もう立ち去ろうとして行くことができないで、
千仞の深さの淵を覗き込み、
『懐沙の賦』を作って己の心を傷んだ。
そのとき屈原は何を思っていたのか、
賦の終わりは悲しさを窮め、
深く沈み込んで吟じたのだった――
「自分だって、気持ちも高らかに遠くに行けないことはない、
自分だって、深く退いて口を閉ざして生きることだってできないことはない、
君臣の間がますます疎くなってゆくのを、
自分だけが悲しみ続けている、
生きていてももう強く諫めることはできない、
我が死によってあるいは発奮して行いを改めてくれるのかもしれない、
国が転覆の危機にあるときに、
命を惜しんでいつまでも生きているわけにはいかない、
長江の神に託して自分に罪がないことを告げ、
黄河の神に頼んで天帝に訴えようか、
たとえ九つの天の門を通って天帝に会っても、
この悲しみから救われはしないだろう、
自分は美しい玉を抱き、清く香る蘭を携えている、
それでも帰り行くところはなく、
ただ独り水辺をさまよっているのだ」
長江をはさむ山は髙く高く聳え、
いまは屈原の旧い住まいはなく、
旅人はここに哀しむ。
屈原の子孫はいまどこにいるのか、
高台にかつての迹を見るだけである。
屈原がここを去って千年、
世はますます狭く生きるのが難しくなっているではなかろうか。
賢者は譏られるのを畏れて考えを改め、
世俗に従って変化して円満であろうとする。
乱れた世にも漫然と仕えて、
臣下として君主を補佐しているのだと言い張り、
屈原がその思いを託した玉のような賦を見ても、
屈原はあまり知恵がないとほざくのである。
屈原は言う――
「高い節義こそが最も大切なのだ。
他人と自分とは同じではない。
国と別れて世俗から去って死を顧みないのなら、
後世から非難されるのを免れるであろうか。
ああ、君子の道は完璧にはできない。
我が身を全うするために、
害されることから遠く離れるのは、
あってしかるべきなのだろうか」
屈原だけが独り難しいことをしたのだ。
屈原は最善ではなかったのかもしれないが、
まさしく賢者であったのだ。
私はなおも悲しむ、
屈原よ、安らかであれ。
■【01-1-029】昭君村
【解題】帰州の興山県には昭君村があり、王昭君の故郷であるとされていた。王昭君は漢の時代の有名な女性で、昔から数々の詩に歌われてきた。もはや歌い尽くされてしまったようなテーマであったのだが、蘇軾は少しでも新味を出そうとしてこの詩を詠んだ。
【補足】［王昭君は絶世の美女であったことから後宮に召された。しかし、皇帝の目に触れる機会がないままに容色の衰えてゆくのを嘆く日々を送ることを余儀なくされた。伝説によると、当時の後宮の女性は皇帝の寵愛を得るために、画師にたっぷり袖の下を与えて自分の肖像画を美しく描かせていたのだが、王昭君はそのようなことをしなかったために、画師は醜く描いたので皇帝から顧みられることがなかったのである。当時、漢の西方では異民族である匈奴の力が非常に強く、朝廷は匈奴との融和を図るために匈奴の王と姻戚関係を結ぶことにした。後宮の女性から一人を選び、皇帝の養女として送り出そうということになり、最も醜く描かれていた王昭君が選ばれた。史実として、王昭君は遠く西方の地に送られ、匈奴の王の妻となってその地で没した］
【訳文】
王昭君はもとは楚の人、
その艶やかな容色は江の水を照らすほどであった。
楚の人々は敢えて王昭君を娶ろうとはしなかった。
漢の皇帝の妃になるべき娘であると考えたからだ。
王昭君が故郷を去った日に、
誰が予想したであろうか、
万里の向こうの胡の国で亡くなることになるとは。
人々は語り合っていた、
美しい女性を生むと家門を輝かすことになると。
王昭君は後宮にいた当時は、
容色が年々衰えてゆくのを憂いていた。
古来、人の世のことはこのようであるのだろう、
上と下、右と左、その入れ替わりは知りようがないのだ。
■【01-1-030】新灘
【解題】帰州から下流は三峡で最長の西陵峡で、そこを三十里ほど下ったところに、崖崩れによって落ちた多数の巨岩が流れを塞ぐ新灘があって、航行の難所になっていた。そこで詠んだ詩。
【訳文】
小さな舟が山の裾を回りかけると、
まだ見えてもいないのに、
早くも驚きに打ちのめされてしまう。
白い波が川幅いっぱいに湧き立ち、
あたかも雪の城壁のようで、
それが山の高さにまでせり上げられたかと思うと、
たちまち深い谷底へと下り落ちるのだった。
大きな魚はそこをさかのぼることができなくて、
灘の下で腹びれをさらし、
小さな魚は散り散りになってさかのぼろうとして、
瀺灂と鍋が沸騰するような音を立てる。
鵜は水に入ろうなどとはしなくて、
翼も軽やかに飛んで通過し、
白い鷺は己の敏捷さを誇るかのように、
身体を傾けながら脚を流れに突っ込んでいる。
舟の上の人などはいかにもちっぽけで、
その腕前はとてもあてにはできないからと、
灘のほとりにある神様の廟に、
とにかく酒を供えて無事を祈るのである。
■【01-1-031】新灘阻風
【解題】やっとの思いで新灘を通過したのもの束の間、今度は強い風によって進めなくなってしまった。
【訳文】
北からの風がこの寒い江を吹き抜けて行く。
それは二つの山の口からやってきた。
始めは扇であおぐくらいの風だった。
だんだんと河原の上を、砂を飛ばして走るようになった。
雲が飛んできて峡谷を塞ぎ、
雪が船の窓を打つまでになった。
とうとう新灘の下で三日も留まることになり、
土地の老人たちともすっかり仲良くなった。
ぎしぎしと船体がきしる音に大いに悩まされ、
纜を短くして何度も繋ぎ止め直した。
昔から、悪い天気も明け方までというのに、
ここではいつまでたってもおさまらなかった。
これは、ここを司る神様が遠来の客を大いに歓迎しようと、
長く引き止めるための有難すぎる厚意だったのだろう。
幸いにも我等は無事でいられて、
戸を閉ざして酒を飲んで過ごしたのだった。
■【01-1-032】黄牛廟
【解題】新灘から八十里、高く切り立った崖の下に、刀を負った人が牛を牽く姿に見える岩があり、そこに黄牛の神を祀る廟があった。
【訳文】
江べりの石の壁、
高くて路がないのに、上に黄牛廟がある。
牛といっても箱を牽く労役に服すことはない。
廟の前で旅人は拝み、そして舞う。
太鼓を撃ち、簫を吹き、白い羊を屠って捧げる。
山の下で人に使われている牛は、
石ころだらけの土地を耕さなければならない。
両方の角を崖で磨き、四つの蹄を水に濡らすような苦労をしても、
青い芻を半束しかもらえない。
いつも飢えに苦しみながら、
黄牛が安穏としているのを仰ぎ見ているのである。
■【01-1-033】蝦蟇培
【解題】崖の下には奇怪な形状の岩が数多くあり、蝦蟇そっくりで、蝦蟇培［あるいは蝦蟇背］と呼ばれるものがあった。その背後の洞穴から水が流れ出ていて、蝦蟇の背中を通って鼻のあたりから落ち、川に注がれていた。
【訳文】
蝦蟇の背は盂を伏せたかのよう、
蝦蟇の頤は偃月のようである。
これは月にすんでいた蝦蟇で、
口から月の液を吐くのだという。
蝦蟇の由来ははなはだ遠く、
あるとき、百尺の高さの蒼い崖が裂かれ、
山を破って竜が飛び出し、
それとともに水が流れ出るようになったのである。
水は江に入ると、
江の水は濁っているのに、
なおも深い碧色を保っている。
この水は極めて潔清な性質を受け、
そこらの平凡な水とは大きな隔たりがある。
茶を煮るのに好いだけでなく、
酒を釀しても敵うものはきっとないのである。
■【01-1-034】出峡
【解題】長い三峡をついに通り抜け、この詩を詠んだ。
【訳文】
峡谷に入ったときは、巉い巌を喜んだ。
峡谷を出るときには、曠く平らであるのが恋しくてならなかった。
もはや我が心は圧迫されることがなく、
何を見ても淡く安らかで暢である。
西から東へ千里の径、
風光の勝れたところをしばしば訪ね、
よいところを見るためなら、
どれほど遠かろうが厭うことなく、
どれほど高かろうとも人々の先頭に立って上った。
先の詩には詠み残しがあり、
いま記しておかなかったならば、
時が経つうちにきっと忘れてしまうであろう。
まず思い出すのは、神女廟からの帰り、
道の中ほどで冷たい水が泉から溢れ出ていたこと。
汲んで帰ると真に愛すべき水で、
翠碧の光が器に満ちたのだった。
いきなり驚かされたのは巫峡の終わりだ、
巌の腹を穿つ空洞があって、
蒼い空を仰ぎ見るように、
南向きに石の部屋が開いていた。
それは古い孔子廟だとか、
木々が幃帳のように取り巻き、
鉄の手すりが中空にあって、
上から見下ろすと計り知れないほどの高さがあった。
下では常に油断のならない波が打ち付けているのに、
いったい誰がそれを作ったのだろうか。
岩穴には天の星座がかたどられ、
瓦の棺が残っていたのは、古代に葬られたものだったのか。
新灘では風雪に阻まれ、
杖を携えてあたりの村を尋ねた。
竜馬溪にも行ってみたが、
茅のぼろ屋で村酒を売っていた。
悔いが残るのは玉虚洞に至らなかったこと、
ひどく遠いと舟人にだまされたのだ。
非常に奇怪な石があると聞いて、
夢の中でそのありさまを見た。
峡谷と山々は奇偉に富み、
私は一を得ただけで、
喪なったものがどれほどあったのかわからない。
残念なことに名を知らなかったために、
ただ姿を想い見るだけにとどまってしまうものも多い。
今朝はついに重なる危険から脱し、
見渡す限り楚の水が広くゆったりと流れている。
ここは魚が多く、料理は旅人を満足させてくれるだろう。
風は順調で、旅心はますます盛んである。
思い出しつつたまたま作ったこの詩篇を、
三峡を舟で行く人が唱えたりしてくれるだろうか。
■【01-1-035】遊三游洞
【解題】峡州の三游洞に遊んでこの詩を詠んだ。唐の時代に白居易［白楽天］が友人とともに3人で遊んでそれぞれ詩を詠んだことにちなんで三游洞の名がある。蘇軾もまた父と弟と3人でそこを訪ねた。
【訳文】
凍てつく雨が、
いつしか霏霏と舞い出して、半ばが雪となった。
ここに遊ぶ者の履までも凍ってしまい、
苔は滑りやすい。
夜具を被って巌の底に眠るのを嫌がるわけではないけれど、
洞穴の口は深い雲に閉ざされ、
しかも、今夜は月が出ないのだから、
いまのうちに引き返すしかないのである。
【訳文】［この詩を詠んだ経緯や、「巌の底に眠る」ことの意味は、次の詩から知れるであろう］
■【01-1-036】遊洞之日有亭吏乞詩既為留三絶句於洞之石壁明日至峡州吏又至意若未足乃復以此詩授之。
【解題】三游洞に遊んだ翌日に二十里ほど下った峡州の町についてこの詩を詠んだ。詩題は以下の通り。「三游洞に遊んだ日、同行してくれたその地の役人から、詩を詠むよう請われた。それで父や弟とともに三首の絶句を作って洞の石壁に書き留めた。翌日に峡州の町に着くと、その役人も来て、何か物足りない様子であったので、この詩を作って授けた」。同行した人の名は伝わらないが、地方の行政長官レベルの人であったのだろう。父子3人の訪問は三游洞の名にぴったりであったから、その人は特に詩を求めたのだろう。ただ、そのときの詩はいかにも即興の作であったから、役人は再度の詩を望んだのだった。というよりも、蘇軾自身が不満足であったので、自ら進んで作ったのかもしれない。白居易のもとの詩は20韻［40句］の長い詩で、わずか4句の絶句ではまるで釣り合わないので、新たに12韻［24句］の詩を作った。
【訳文】
一本の径が山の翠を繞って、
縈紆と蛇のように進んで行く。
溪の水が急であることに、はっと驚かされ、
つるつる滑る石段を、蔓にすがって攀じ登り、
古い筏を踏むようにして、中空の橋を渡る。
洞穴の口がぽっかりと開いているのを、代わる代わる覗き込む。
北からの風を迎え入れるかのように三つの扉があり、
もう一つ、西に向かった斜めの穴がある。
雲に籠められたここでは、
どれほどの歳月が流れ去ったのか。
唐の時代の人々が到るよりも昔に、
古くここに住む人がいたという。
洞穴の中には風も雪も入らないので暖かく、
山の奥深くには鹿や豭がたくさんいて、
草を衣にし、ざんばら髪を束ねただけの人だったという。
竈の跡が岩壁に黒く残り、
窪んだ石は盃に使われたものだとか。
あまりに遠い昔のことなので記録はないが、
想像するに、伏羲や女媧［伝説の太古の帝王］のころなのだろうか。
もはや残るものもないこの遺跡で私は独り嘆息する。
山の翁が強く句を留めるように勧めたので、
強いて槎牙と写したまでである。
【補足】［（1）この洞窟には石器時代の遺跡があったのだろうか。中国の太古の神話時代の伝承にはいろいろなものがあるが、一説では、伏羲、神農、黄帝の「三皇」が最初の帝王であったという。伏羲と女媧は兄妹で、大洪水によって2人だけが生き延び、そこから人類が生じたという伝説もある。（2）地名の表記について若干の補足をしておこう。宋代の地方行政は「州県制」で、全土は300ほどの州に分割され、その下に複数の県が属した。首都など重要な地には州と同レベルの府が置かれ、地域によっては州と同レベルで監、軍という単位が置かれることもあった［例えば、荊門軍と書いてあれば、それは行政区の名称であって、そういう名の軍団があったわけではない］。またいくつかの州をまとめた路という単位もある。州を統治するための役所は、その州で最も繁華な町におかれるのが普通であるが、その町は必ずしも単一の県だったわけではなく、分割されて複数の県に属していることもあった。一般的に「峡州」といった場合に、その州全体を指すこともあれば、州の中心地を指すこともある。州の中心地を明確に示すために州庁の置かれている県名を用いることもある。また、文学作品においては、しばしば古い時代の地名を用いることもある［東京を江戸というようなもの］。いずれにしても、この「自由訳」ではおおざっぱな書き方をするに留める。（3）大都市には、路、州、県の役所が近接した場所に置かれ、それぞれの役人は相互に協力し、かつ監視し合う関係にあった。唐代の後半から節度使という地方官に権限を集中させたことが五代十国時代の分裂期を生み出す大きな要因になったとの反省から、宋代は特定の個人に権限が集中しないよう官僚制度を複雑化した。そのために我々には非常にわかりにくい。路、州、県のトップや役職にはそれぞれ固有の名称があるが、この「自由訳」ではトップは長官ないし知事とし、それ以下の役職名にはあまり触れないようにする。地方行政の長官や幹部クラスの人は、ほとんどが科挙に合格して中央から派遣された高級官僚で、おおむね3年で次の任地に移った。科挙の合格者は必ず詩を作る技量を具えていたので、交遊の道具として詩を活用した。これから見て行くように、蘇軾は様々な行政レベルとの人々と詩を交えた交流をするようになる。まれに詩を苦手として蘇軾との詩の贈答を避ける人もいた。そのような人のために、蘇軾は親切にも代作を買って出て自分の詩に自分が応えるということもしている］
■【01-1-037】寄題清溪寺
【解題】峡州の清溪寺で詠んだ詩。蘇軾自身の注記によると、ここには、鬼谷子［鬼谷先生］が昔住んでいたといわれていた。鬼谷子は、蘇軾よりも1300年ほど昔に活躍した謀略家の蘇秦、張儀の師匠だったされる人物。2人は弁舌でもって当時の国際情勢を動かしたのだが、その成果は実際にはごく表面的で短期的なものでしかなかった。
【訳文】
弁舌は恃むに足るものでは決してない。
韓非子は弁論の難しさを説き、弁論の不首尾で死んだ。
鬼谷先生は自分では用いようとしなかった弁論術を弟子に授けたのだから、
まことにいかさまな人間であった。
鬼谷先生が遺したという書物がいまに伝わっているが、
読むまでもないちっぽけなことが書いてあるだけだ。
弟子の蘇秦や張儀は、
見かけが新しいだけの学問を振りかざし、
目先の利だけを見て、後の患いを知らなかった。
当時はまともな見識を具えた諸侯がいなかったから、
蘇秦や張儀が馬鹿騒ぎをしでかしたのだった。
二人の策略がすぐに破れて、終わりをよくしなかったのは当然で、
それはもとより鬼谷先生がそのようにさせたのである。
これでよくわかっただろう――
巧みを窮めるのは、
愚のままに安らかであるのには及ばないのである。
もしもこの寺に鬼谷先生の神霊が残っているのなら、
私がいうことに大きくうなずくであろう。
【補足】［先走り過ぎる補足を一つ記しておく。第一句の「口舌安足恃」［口舌は安んぞ恃むに足らん］は、「口先だけでは何も生まない」というごく一般的な言説であるのだけれども、後に蘇軾および宋代の高級官僚集団がたどった運命を暗示していると読めなくもない。科挙に合格した人々は超難関を突破したエリートで、豊かな知識を具え、己の才能に強い自負があった。自身の見識を誇り、信念をもって自説を貫き通そうとし、もしも反論されたなら、該博な知識を背景に徹底的に抗弁した。「口舌の巧みさ」を競い合い、往々にして「ああ言えばこう言う」の泥試合となって、ついには決着を付けるために政治力をもって争い、絶え間ない政争に突入した。その兆候は蘇軾の一世代前から現れていたが、蘇軾の時代に顕著となり、蘇軾の次の世代に至って、この詩の後半にあるように、「策略がすぐに破れて、終わりをよくしなかったのは当然」［原文は「死敗無足怪」［死敗 怪しむに足る無し］］となって、ついには争い合う人々が丸ごと国を亡ぼすまでに至ってしまうのである］
■【01-1-038】留題峡州甘泉寺
【解題】峡州の甘泉寺で詠んだ詩。蘇軾自身の注で、ここには姜詩の住まいがあったと記されている。姜詩は後漢の時代の人で、その妻は孝女として名高かった。その事績は現代の我々の感覚からすると荒唐無稽としかいいようがないのだけれど、蘇軾は何度か詩文に引用している。あらましを記しておくと、姜詩の母はある泉の水を特に好み、妻は毎日数里の道を歩いて汲み行った。また母は鯉の刺身を好み、夫婦は日々苦労して鯉を獲っていた。ある日、妻は水を汲みに行き、風に阻まれ刻限までに戻ることができなかった。喉が渇いた母は怒り、姜詩に迫って離縁させた。妻は隣家に留まり、糸を紡いで市場で売って母の好む物を買い、隣家の女性がそれを届けた。それが何度も続いたので、母が隣家の女性に尋ねて実情が知れ、母は心を動かしてまた家に呼び戻した。すると家のかたわらに泉が湧き出し、その水は母の好む水の味と少しも変わらず、また、泉からは毎日鯉が飛び出したので、夫婦は十分に孝行を続けることができた。
【訳文】
小さな舟で江を横切り、
ここで古の純孝の迹を弔う。
逶迤と遠く道を尋ね、
婉孌った女性の面影を偲ぶ。
清らかな泉はすでに涸れ尽き、
石の囲いがあるだけで汲むことはできない。
古の人は飄とどこかへと行ってしまい、
いまは風に吹かれて竹が騒がしく鳴るだけ。
ぶらぶらと村を歩くと、
どこの家にも漁網が懸けてある。
人々の暮らし向きはまことに穏やかで、
夜に戸を開けたままでも盗人に入られることがない。
林には筍が多く、野に虎はいない。
ここにこの楽郷があるのは、
きっと姜先生の教えによるのであろう。
【解題】［姜詩とその妻を称えるこの詩を詠んで、蘇軾の女性観は死ぬほど古臭いとがっかりするのは早合点すぎるだろう。儒学の伝統を受け継ぐ一人として蘇軾も厳格な道徳律を唱えもするのだが、実際にはかなり柔軟で、より普遍的な人道主義に立った考え方をしていたことを、後に見るであろう］
■【01-1-039】夷陵県欧陽永叔至喜堂
【解題】峡州の夷陵県には欧陽脩［字は永叔］にちなむ至喜堂があり、そこでこの詩を詠んだ。恐らく必ずここを訪ねようと、旅の初めから蘇軾は考えていたはずで、その念願が叶って詩を詠んだことで、旅の前半の目的はほぼ達成されたのだった。欧陽脩は、すでに記したように、蘇軾父子にとって大恩人で、すべての面において蘇軾が手本と仰ぐ人物であった。欧陽脩は蘇軾よりも29年先輩、4歳で父を喪い、母から字を教わって学問に励み、24歳で科挙に合格し、将来を嘱望されて早くから中央政界で活躍した。しかし、保守派の大物を公然と批判した范仲淹が朝廷から追われると、部外者であったにもかかわらず欧陽脩は猛然と范仲淹を弁護したために、それは越権行為であるとして弾劾され、夷陵県に流された。それは欧陽脩が30歳のときだった。欧陽脩はその後も信念を貫き続け、中央と地方を行き来した。また、華美で技巧的な文章を喜ぶ風潮に抗い、内容重視の簡明な文章をよしとする文学改革の旗手となった。手本を唐代の韓愈に仰ぎ、古文復興運動として後の宋代の文学の方向性を決定付けた。蘇軾の父の蘇洵は、後に見るように独自の歩みで欧陽脩と同じ文学観に至り、欧陽脩に絶賛されたのだった。
【訳文】
夷陵は長江の中流域の小さな町である。
しかし、三峡を出て東に荊や呉の地が控えていることから、
戦略的に重要な場所とされた。
平和な時代になると、
この優れた地勢も用いられなくなり、
ここで英雄が活躍することは長らくなかった。
そこにひょんなことから、
文学上の勇者が遠く都から流されてきて、
このあたりを歩いては詩を詠み文章を書いたので、
一躍、夷陵の名がまた高められた。
その人がここを去ってから幾年もが経ち、
その人が住んでいた至喜堂がややもすると傾いてしまうのを、
土地の人は毎年きちんきちんと修繕している。
そしていまも当時のことを思って、
その人を流した宰相の呂夷簡をなおも咎め、
その人のために朱慶基が至喜堂を建てたことに改めて感心するのである。
その人がかつて植えた橘は霜にあたって枯れたけれど、
その人がかつて植えた楠は大きく立派になっている。
三遊洞にはその人が詠んだ詩が残され、
夷陵の絵図にはその人が題を記した墨蹟がある。
土地の人は私たちに尋ねる。
「うちらの長官様はもう髪がまっちろでありましょうなぁ」
「ええ、ええ、その通りですとも。
何しろ自分の楽しみなど少しもなしに、
国のために年がら年中頭を悩ませて文章を作っておられるのですから」
――というわけで、土地に人に代わって、
先生に遠く言葉を寄せようと思う。
「たまにはゆったりなさって、
お酒でも召しあがるのがよろしいのではありませんか」
【補足】［（1）この詩には蘇軾自身の注で、「当時の朱慶基知事が欧陽脩のために至喜堂を建てた」と記されている。欧陽脩を夷陵県に流したのは、詩中にあるように宰相の呂夷簡で、長く政権の中枢にいた保守派の大ボスで、その人に睨まれて流されてきた欧陽脩のために住まいを建てるというのは勇気ある行為であった。（2）この詩の終わりの部分は「楽屋落ち」で、欧陽脩が若い頃から白髪が多かったことは、よく知られる事実であった。大恩人でありながら笑いを誘うような結びを置いたのは、欧陽脩は度量が大きく、こうしたユーモアを喜ぶとわかっていたからである。実は、この詩だけでなくここまで見てきた詩も、欧陽脩を中心とする都の人々に見せる意図で作られたものであった。そのことは次に見る『南行前集の叙』で明らかである。（3）欧陽脩が至喜堂について記した文章があるので、参考のために読んでおこう］
【訳文】
欧陽脩：『夷陵県至喜堂記』
峽州の夷陵県は大河のほとりの町で、山椒、漆、紙など売ることのできる産物があることはあっても、民俗はひどく質素で田舎じみていて、常に自らの産物だけで足りて、四方から物を得ようとすることがない。商人が売る物は、せいぜい土地の者の食べる魚や貝くらいで、れっきとした大商人がここに商いに来たりはしない。まことに辺鄙な貧しい町であるから、夷陵は県のなかでも下に見られ、峡州も州のなかでは下に見られている。
町に城郭のようなものはなく、馬車が通れるだけの幅の広い道もない。市場があっても様々な品物が陳列されているわけではなく、魚が売られているところは臭くてもとても入れない。州知事が市場の視察にやって来ると、馬車から地面に降りて立ち、魚や貝の半分腐ったような臭いに鼻をおおいながら、自分で歩かなければならない。
民の住まいは竈や倉や井戸を別々に配置することもなく、一部屋の中に人も家畜も一緒に住んでいる。しかも家屋を覆うのは茅や竹であるために、毎年のように火災が生じる。しかし、人々は鬼神［土俗的な信仰対象］を信じていて、瓦の家を作るとよくないことがあると言い伝えている。
夷陵は楚の地の西の境で、昔の史書の『春秋』では（夷陵の東の）荊州であっても夷狄［漢人以外の諸民族］の地とされていて、詩を詠む人は「蛮荊」と呼んでいた。だから、田舎じみた風俗は古からのこのようであったのだろうか。
景祐二年［1035年］、尚書駕部員外郎の朱慶基はここの州知事となると、すぐに樹木を植え、土を盛って城壁を増築し、南北の街路に石を敷き、市場に門を作り、街の区画を整備した。民に瓦で家を作ること、竈と物の置き場を別々にすることを教え、土地の風俗を変えようとした。また、夷陵の人の劉光裔に命じてその県を治めさせ、庁舎を整備させた。景祐三年の夏に県の仕事は完了した。
私は罪を得てこの地にきてみると、朱公とは旧くからの知り合いであったことから、罪によってここにきたことを哀れみ、県の役所にまで様子を見にきてくれた。そして、庁舎の東側の地を選び、ここならば清潔で明るく、ここで日々を過ごせば心が休まるだろうと、堂を作ってくれた。堂が完成すると、朱公は人々と連れ立って落成祝いをしてくれた。
そもそも罪人は土地柄の悪いところに棄て、ひどいところに住まわせ、憔悴させ、憂いに沈ませ、自らを悔い、自らを咎めるようにさせるべきである。ところが、私は朱公のおかげで、よい場所を得て、安楽に過ごし、罪を犯した憂いなどはすっかり忘れてしまった。流された主旨とはまったく異なることになったのである。
夷陵は僻遠の地で、陸路を使うと、荊門、襄陽を経由して、都まで二十八駅ある。水路を使うと、長江を下り、淮河、汴河を結ぶ運河を通って都の東の水門まで五千五百九十里ある。だから、官吏となった者は遠くのこのようなところには赴任したがらない。一度赴任すると任期が満ちても代わりの後任がこないので、仕方なく官職を棄てて去るということもある。
しかしながら、夷陵の風俗は実は純朴で、盗人はいないし、争いごともないということは知られていない。米と魚は食べるに困らないだけあるし、橘、柚子、茶、筍といった四季の味も揃っている。その上、川も山も美しい。住まいがきちんと整っていさえすれば、ここを愛さずにはいられなくなる。これはただ罪人が憂いを忘れるだけではなくて、官吏たる者はここにきて楽しまないということは決してないはずなのである。だから、ここにすでに至るならばきっと喜びがあるのである。これが「至喜堂」の名の由来で、私は『至喜堂の記』を記して、その壁に掲げるものである。
土地柄や民の暮らしが卑くても、その風俗を変えて善くすることができるということを記して、後にここに来る者の考察に供するものである。
【補足】［この訳文からでも、欧陽脩のおよその文学観、人生観を知ることが可能であろう。物事を具体的に淡々と記し、自身の思うところを簡潔に明瞭に述べている。中央から遠く流されたことを悲観して哀れっぽく嘆くような言辞は吐かずに、逆にどのような場所に置かれても喜びがあると力強く宣言している。後に見る蘇軾の文章とよく似ていて、より軽快であるのが特徴といってよいだろう］
■【01-1-040】南行前集敘
【解題】蘇軾は12月の初めごろに江陵府［荊州］に到着し、そこで船を降りてしばらく滞在した。旅の間に詠んだ父子3人の詩を集めて『南行集』と題する詩集を編み、この序文を書いた。後に、旅の後半の詩を編集して『南行後集』としたので、この序文は「南行前集敘」と呼ばれるようになった。
【訳文】
昔の詩文を作った人たちは、作るのがもとから上手だったから、巧みな詩文ができあがったのではない。作らずにはいられなかったから巧みな詩文になったのである。
山や川には雲や霧がある。草や木には花や実がある。ふつふつと何かしら内側に充満するものがあって、それが外に現われ出たのが、雲や霧、花や実であって、雲や霧、花や実が存在しないままでいようとしても、それはできないのである。
私は若いころから家君［父］が文を論じるの聞いて、古の聖人はどうしても止めることができなくて詩文を作ったのだと考えるようなった。だから、私と弟はたくさんの詩文を書いてはいるけれども、詩文をこしらえようとの気持ちはこれまで持ったことがない。
己亥の歳［嘉祐4年］に、父の旅に伴って楚に向かった。舟の中では何もする事がなく、かといって、博打や飲酒は家族で楽しむものではない。一方で、山や川はすぐれて美しく、川沿いの風俗は素朴であったり粗末であったりし、そこには賢人や君子の遺跡もあり、それらありとあらゆる耳目に接するものが、さまざまに身の内にあるものに触れ、詠嘆となって外に出てきた。こうして生まれ出てきた詩文は、家君の作と弟の作も合わせるとおよそ一百篇となった。これを『南行集』と名付ける。
一回限りの事をこのように記すことで、後に繰り返し尋ねるよすがにしようと思う。これらは談笑する間に生まれ出たもので、書こうと思って書いたのではない。
時に十二月八日、江陵駅にて書く。
【補足】［（1）この文章は短いけれども、蘇軾の文学観がよく表わされているとして知られ、蘇軾の若い時期を代表する作品として、多くの選集に収録されている。注目したいのは、「詩文をこしらえようとの気持ちはこれまで持ったことがない」［原文は「未嘗敢有作文之意」［未だ嘗て敢て文を作るの意は有らず］］の句で、作為をもって詩文を作ることはないと言っている。さすがに100パーセントそうであったとは考えにくいが、理想としてはこうであると蘇軾は考えていたのである。（2）文章全体から若い蘇軾が自信をもって書いていると感じ取ることができる。父子3人が一緒に旅して多数の詩を応酬し合って詩集を編んだという例は恐らくそれまでになく、文学史の新しいページを自分たちが開きつつあるとの強い自負に支えられて、欧陽脩を初めとする都の人々に見せようと『南行集』を編んだのであろう。後に唐代と宋代の散文の名手が8人だけ選ばれた「唐宋八大家」のなかに蘇洵、蘇軾、蘇轍の3人が揃って入っていて、中国の文学史上の奇跡の父子となっている。そして、蘇軾自身は杜甫や李白とならぶ詩の名手として揺るぎない評価を得ている。（3）『南行集』はもとの姿では伝わらず、後世に残された3人の詩から復元が試みられ、いま読めるものとしては、蘇洵の詩が10首、蘇軾の詩が44首、賦が2首、蘇轍の詩が26首がある。蘇軾の作品は後の時期のものと比べると見劣りするのは否めないが、父や弟の作品よりは格段に優れている］
■【01-1-041】上王兵部書
【解題】蘇軾は江陵府で王兵部［兵部は官員の肩書］にこの手紙を出して面会を求めた。王兵部はこのとき江陵府の知事であったと推測されているが、詳しいことはわかっていない。ここでは「相」という語がキーワードになっている。「相」は手相や人相の「相」で、外見に現れ出ている特質で、それを見て内に秘められている本質を見抜いたり将来の運命を予見したりするという意味もある。
【訳文】
荊州［江陵］は南北の交差するところ、士大夫が往来する交通の要衝であります。執事［貴殿という意味、以下では知事殿と訳す］は高い才能と盛んな名声とによって、ここの知事となっておられます。
知事殿はかつて相馬の説［馬の良し悪しを見分ける秘訣］について聞かれたことがありますでしょうか。私が聞きましたところでは、駿馬は一日に千里を走っても疲れず、その背中はほとんど動きません。走っているときに足は地についていないかのようで、高く上るときには前かがみならず、低く下るときには顔を前に上げたりしません。その卓絶した伎芸の結果が、これほどまでに明確に外に現れ出るのです。しかし、天下の人はそのことを知らずにいます。どうしてなのでしょうか。その「相」を見ないで、技のうまさばかりを求めているからなのです。
そもそも馬は、目が上に高く向いていて、まつ毛が密集し、胸が豊かで、蹄が四角くで、山奥にいる虎のように敏捷で、秋の兎のように真っ直ぐに走り、太陽を見るように遠くを望み、かいばなどには心を寄せたりしないようなものが、疾風のように跳び出て、留まるところを知らずに走って行くのであります。
このような「相」があるわけですから、馬をよく見分けた古の人は、五差路の角に立って、ちらりとひと目見て、ひと声鳴くのを聞くと、その外見だけから、技量がどれほどあるかを知り尽くしたのでした。馬の「相」は外に溢れ出て、覆うことができないものであるのです。
士［世のために働こうとの志をもった人］が賢者であるのか愚者であるのかも、やはり顔に出て、言葉の端々に漏れ出るものであって、はっきりと目や耳でわかるのです。人物をよく見分けられるといっている者が、しばらくともに過ごしてじっくり観察するのがよいと主張しているのは、実は誤りなのであります。
私は、西の州［蜀のこと］の田舎の人間で、荊州に来た旅人でありまして、たまたま知事殿の門に至りましたので、後世に伝えたいと普段から書き溜めておいて、お手元に差し出せるようなものは携えておりませんので、知事殿のお心に合わずに疎遠にされてしまいましても仕方のないことでありましょう。それでも、蜀から楚まで舟で六十日ばかりの間に十一の郡、三十六の県を通過して、郡県の役人の数十から百人ばかりと会ったところ、誰もが口々に知事殿が賢者であると論じて、役所の下役人を通じて面会を申し込んだらよいだろうと教えてくれましたので、このようにして参上した次第にございます。知事殿はどのようなことをなさって、このように称えられておられるのでしょうか。
私は、知事殿の知遇を得て、知事殿の「仕進之門」［出世する登竜門］の前に並ぶ行列に加えていただこうとする者ではありません。天下の五差路に立っておられる知事殿にひと目見ていただいて、古の馬の相を見る人の話が私が思っていたとおりであったとの確信を得たいだけなのです。
いまの世においては王公が士を選ぶだけではなく、士もまた選ぶのでありましょう。私はここ楚から魏［都］へと旅をして、魏からは天下のどこへでも行くことになるでしょう。後にここで知事殿にお会いしなかったのを後悔しないように、敢えていま知事殿の門へ進まずにはいられないのであります。
【補足】［この手紙を要約すれば、「ひと目みてもらえたなら自分が賢者であるか否かはすぐにわかるでしょう」と蘇軾はいっているわけで、かなり自信たっぷりの態度である。たぶん、この手紙の前に知事に面会を求めたものの断られたので、ならば相手の度肝を抜いてやろうと、この手紙を書いたのではないだろうか。これで会わなければ、知事が自分で「相」を見る力量がないと白状していることになってしまうわけで、知事はこの小生意気な青年を招き入れるしかなかったであろう。結局のところ、知事には「相」を見る力量がなかったのだろう、この後、王兵部と蘇軾の間に麗しい交流があったとの痕跡は残されていない］