こうしてマイは石ころのちっぽけな物語の中を走り続ける
温泉の湯煙の中で言う
「きはった、きはった、きはったで！」
もうもうと立ちこめる白い湯気。何も見えない中で声がする。
つま先でさぐるようにして用心しながら2歩、3歩と前に進む。
ぼんやりと影が浮かんできて、
「えろう、ごくろうさんでんな。さあさあ、こっちはいりいな。いい湯でっせ」
妙な関西弁の陽気な声だ。その様子に危険はなさそうだと、もう少し進むと姿がいくらかはっきりしてきて、肩にマサカリをかつぎ、赤い腹がけをしたまるまると太った人が突っ立ている。
――なんのコスプレ？ ゆるキャラ？ まさか、金太郎？
よく見ると、腹がけにはたしかに○で囲った金の字がある。しかし、歳のころはといえば、十分にオッサンだ。
「ちょっとぉ、あんさん、そこんとこ、ちいっとあけてやりいな。せっかくきはったんでっせ」
――金太郎といえば、関東の足柄山で育ったはずなのに、どうしてこんなヘンなしゃべりをするんだろう？
「はいはい、どうぞ、どうぞ、こちらへ、どうぞお越しなさいまし」
頭のてっぺんから抜けるようなかん高い声を出して、湯気を押し流しつつもそっと動いてくれたのは桜の木だ。
「着ているものはそのままでかまへん。温泉にはいるマナーがどうたらこうたら、うるさいことはいっかな言いまへん。さあさあ、ずうーっとはいりいな」
軽く手をひかれると、足先に湯が触れる。
「どうぞ、どうぞ、こちらにいらっしゃい。だんだん深くなるから、すべらないように注意だけはして……。みんなでなかよく、ここでのんびりしましょう。楽しくね」
桜にも誘われてさらに進むと、
「ようごんざりました」
大きな前掛けをしたクマが思いっきりのあいそ笑いで出迎える。
――ここはどういうところ？ 温泉の露天風呂らしいのはわかるけど……。
「そこにすわりなはれ」
石積みのベンチのようになっていて、言われた通りにすると、腰まで温かい湯につかる。
「湯加減はどうでっしゃろ」
「まあ、いい感じですけど……」
そのように返事はし、実際に湯加減はよろしくてもとまどいはある。
――旅の疲れをここで癒すということ？
石ころは横でぷかぷか浮いている。
「わてらはあんたはんがきはるのを、ずっと待っていたんやで。となりにすわらしてもらいまひょ」
お相撲さんのように大きな体がぼしゃんと湯にはいるとわさわさと波が生じる。
「あのう、失礼ですが、あなたはやっぱり……」
とりあえずひとつの疑問を解決しておこうと、
「わてか？ この姿でっせ。わてがだれかって、聞く必要おますかいなあ」
「お姿は金太郎さんのようでも……」
「えろう年くっているやおまへんかと、そうおっしゃりたいんでっしゃろ」
「金太郎さんは足柄山から京都にのぼって坂田金時とかいう立派なお侍さんになったんですよね。それが、どうして子どものときと同じ格好をしているんですか？」
「仕方ないんや。この腹掛けをしてはらへんと、わてが金太郎だとはなかなか気づいてくれはらへんのや。金太郎ゆうたら、立派なブランドでっしゃろ。ブランドを樹立したらしたでつらいところもありまんねん」
「はたで見ていて、よくやっているなあと、いつも感心してごんざりますよ」
とクマが言うと、桜は、
「世間の無言の圧力ってかなりのものなのよね。そういうあたしも、桜っていうと、とにかくぱあっと咲いてぱっと散るということになっているでしょう。だから、いやでもそうしないとならないのよ。でもね、うまい仕組みかなって思うこともあるわよね。桜らしくしてさえしていれば世間はそれで納得してくれますから」
「あのう、金太郎さんはボクを待っていたとおっしゃってましたけれど、それはどういうことなのでしょうか？」
「わてだけではおまへん。みんなで待ってたんやで」
「そうそう、ここにはね、あなたへの期待が充満しているのよ。それもよくある世間のひとつよね。でも、あんまり気にしすぎないことね。期待にこたえようとして身を固くしたらだめよ。出たとこ勝負で、ぱあっと行けばいいのよ」
――ボクへの期待って？ もしかしてここが「知恵の裁判」の場？ そんな雰囲気でもないようだけど……。
「せっかくのお湯でごんざりますから、いまはゆったりするとようごんざりますよ。そこに抱いてごんざりますウミネコさんにもこのお湯をかけてあげるとようごんざりますよ。なんにでも効く湯でごんざりますから」
「そうなんですか？」
様子はよくわからないながらも、善良そうなクマのアドバイスに従ってウミネコの体に湯をかける。湯ざわりにはなんともいえないやわらかさがある。
「まあまあ、ゆっくりしなはれ」
石ころは浮いたまま動かずにいて、心持ち赤く染まってきたように見えなくもない。
――とりあえずいまは湯につかっていればいいってことなんだろう。「知恵の裁判」の前のちょっとひと息といったところかな……。
足を伸ばしてしばらく温泉気分にひたることにする。
――長い旅だったもんな。どれだけ時間が経ったのか、さっぱりわからないし。
始めからいままでを順に思い出してみる。
――いろいろあったけど、結構それなりにがんばったかも。
温泉の効果なのか、気持ちがほぐれてきて、これからもなんとかなりそうな気になってくる。
さあっと弱い風が吹いて湯気が音もなく流れる。うっすらとした光のもと、あたりの様子がすうっと見えてくる。
大きな円形の露天風呂だ。マイの家の近くにある野球場よりも広いくらいだ。マイはその一方のへりにいて、左隣りが金太郎、その隣りがクマ、さらに桃太郎らしき人もいて、イヌ、サル、キジといった動物たちがみんなで湯につかっている。マイの右隣りが桜で、そこからずらっと植物たちが並んでいる。
全体を詳しく見てとる前に風がおさまり、湯煙によって視界がとざされる。
桜がまた高い声で、
「昔からあたしは疑問に思っていたことがあるのよねぇ。金太郎さんと桃太郎さんといったら、どっちも気はやさしくて力持ちの超一級のブランドでしょう。その2人のどっちがより力があるのかなあって、思ったりしません？ ねえ、どっちかしら、あなたわかる？」
問いがマイに振られたので、
「えっ、ボクですか？ どっちかって言われても、金太郎さんと桃太郎さんは同じ話には出てこないですよね。比べ方がわからないです」
「ぼくに聞いてくれたら、もちろん金太郎さんでごんざりますよ」
「そりゃあね、あなたは金太郎さんの幼なじみだから金太郎さんをひいきするわよね」
「金太郎さんは相撲をとってぼくを投げとばしましたけれど、桃太郎さんはきび団子を使ってイヌ、サル、キジを手下にしたんでごんざりますよ。桃太郎さんは力を使っていないんでごんざりますよ。だから金太郎さんの方が力があると思うんでごんざりますよ」
「ははん、ということは、クマさんは力で屈服したから金太郎さんに従っただけなのね」
「あねさん、そうじゃないんでごんざります。負けたからではなくて、体からあふれ出る不思議なすばらしさが金太郎さんにはあって、それに心からひかれたんでごんざります。ほれたんでごんざります」
「まあ、男が男にねえ。そんなに魅力的かしら？ あたしの方が魅力にあふれているはずよ。あたし、なんか焼き餅を焼きたくなっちゃうわ」
「かなわんなぁ、2人して勝手なこと言うて。桃やんとわてとが力比べをしたってなんもならへんやないか。桃やんとわてとはな、力を合わせないとならんのや。退治する相手があるさかいな」
「へえ、そうなんですか？ 退治しなくてはならないような相手がまだいるんですか？ いったいだれなんです？」
「わては大江山の酒呑童子を退治し、桃やんは鬼ケ島の鬼を退治しはって、おとぎ話ではそれで一件落着、めでたしめでたしなんやけど、わてらかて、過去の栄光にいつまでもあぐらをかいていてはあかんのや。このごろつくづく思うんやけど、ぼかんと一発くらわしてやって、『かんにん！』って言わせたら、『はい、ごくろうさんでおました』という単純なもんやないんや」
「まあ、そりゃあ、あたりまえのことのようですけど……」
「問題は、ぼかんと食らわすんやなくて、もっと奥深いところ、つまりこのあたり、たぶん心にあるんやな。そこにあるものをわてらは退治せんとあかんかったんやけど、ぼかんとくらわしたらすっとして、すっかり安心してな、それっきりがんばらずにいたもんやさかい、きょうび、とんでもないことになってしもうたんや。だから、わてらはここらで大いに気張らんとあかんと思っているんや」
桜はマイの肩をつついて、
「ねえ、あなた、金太郎さんって、単純でかわいいと思いません？ あれで結構もうかなりいいトシになっているんですよ。何しろ、平安時代から生きているんですものね」
と、ささやいてから、
「金太郎さん、かっこいい！ まだまだがんばって！ すてき！ いよっ、日本一！」
その嬌声に、金太郎は、
「さようか。でへへへへ」
頭をかきながらにやける。
「でも、日本一はふつうは桃太郎さんでごんざりますよ。桃のエンブレムにそう記されていますから、パクリは感心しないでごんざります」
「さよか。えろう、すんまへん。桃やん、かんにんな」
――なんのことやら……。
金太郎と桜とクマは、マイを間にはさんで、つかみどころのない会話を続ける。その間に、マイの耳は、露天風呂のほかの場所からの声を拾い始める。
「いつスタートなのでしょう？」
「これでもうだいぶたちましたなあ」
湯煙の向こうからそのように聞こえてくる。
――スタート？ なんのだろう？ やっぱり「知恵の裁判」？
温かい湯の中でも少し緊張が走る。
――この露天風呂がもしも裁判の場だとしたら、ハネつきのお姉さんたちが言っていたのとは違って、人間はボクひとりではない。金太郎も桃太郎もいて、2人に親しい動物もいて、桜は人間とは仲よしだ。孤立無援ということではないのかもしれない……。
マイは、ウミネコにお湯をかけながら、自分にとってよさそうな材料を並べて、気持ちを落ち着かせようとする。
次第にあたりはなんとはなしにざわつき出す。いろいろな話し声のトーンが徐々にあがって露天風呂の中を行きかい、それらの中からひとつの声がマイの耳をつかむ。
「こうして私たちは永久にもとにはもどれなくなってしまったのです。望まないにもかかわらず、ほかの生き方ができなくなってしまったのです」
それは小さな声なのに、ほかの声とはっきり区別されて聞こえてくる。
「私たちは人間が開いた畑にまかれ、人間の世話を受けて育てられ、実をつけ、そして人間に食べられる。そういう生き方だけが唯一許されるようになったのです。自由にあこがれて畑の外に出てみても、残念ながら私たちは生きて行けません。自然の中で生きる力をなくしてしまったのです。体のあちこちをいじくりまわされて、もともととはまるで違う生き物になってしまったのです」
桜は自分たちの話をやめ、
「あれは、辛気臭いムギよ。いやあね、いっつも暗い話ばっかりするの。待ちきれなくて、勝手に始めてしまったみたい……」
ムギは続ける。
「見渡すばかりの私たちの畑を見て、私たちがえらく繁栄していると思ったら、それは大間違いです。本来の私たちはもはやどこにもなく、人間の都合でつくられた抜け殻があるだけなのです。自分たちのために生きる自分たちの生活は永久に終わってしまったのです。私たちだけでなく、ほかにも大勢のものが同じような目にあっています」
「そうだ、その通りだ」
いくつかの別の声があがる。
「私たちの暮らしが本来とどれほど違ってきてしまったのか。たとえばバッタやイナゴが大発生すると一夜のうちに私たちが全滅してしまうようなことがかつてしばしばありました。人間たちの悪知恵に便乗して、バッタやイナゴは私たちをむさぼり食い、私たちが全滅したばかりでなく、昆虫どもも増えすぎて、ある日ばったり全滅するようなこともありました。愚かな人間の知恵の尻馬に乗った浅知恵のなせるわざです。人間は昆虫に対抗して薬をまき、私たちの体をもっともっといじくりまわして昆虫にとって毒となるものを入れこんでみたりと、ますますむちゃくちゃになりました」
クマがため息をついて、
「桃太郎さんのお好きなキビも、ムギと同じような考えであったりするんでごんざりましょうか？」
「キビあたりは野生に近いんと違いまっか。だから、イヌ、サル、キジがうれしがったんやろ。桃やん、どうでしゃろな？」
桃太郎の返事は、ムギの声だけがさらに鮮明になったために聞こえてこない。
「というようなことから、知恵の存在が悪であると私は申しあげるものであります。厳正な裁判によって、知恵にぜひとも死刑のお裁きを下し、この世から永遠に知恵を消し去ってくださるよう訴える次第であります」
ムギが言葉を結ぶと、拍手がおこる。
――そうか、思った通り、「知恵の裁判」なんだ。
足を縮め、背筋を伸ばして身構える。温泉気分でいるわけにはもういかない。
「まだ、いいのよ。始まってはいないのですから。いまのは明らかにフライングですもの」
桜がささやくと、クマも、
「肝心の裁判官がきてもいないのに、えらい気の短いことでごんざりますよ」
「ああまであわてなくてもねえ。そのときがきたら、ぱあっとやってぱあっと終わればいいのよ」
拍手がやむと、大きな声で、
「ムギさんよ、悪だかなんだか知らんが、あてつけがましくおれたちのことまでガタガタ言わないでもらいたい」
「あれは、イナゴの声でごんざりましょう。体は小さくても声は大きい」
「おれたちがどう生きようと、浅知恵だとかとやかく言ってほしくない。おれたちの知恵は自然にさずけられたものだ。自然はおれたちに対して、こう使えだの、こう使ってはならないだのとは何も言っていない。人間だって同じだ。知恵は自由に使っていいものとして自然は与えてくれたのだ。人間が薬をまいたからといって、その知恵が悪いとはおれたちは思わない。おれたちは負けまいと、あんたの言う浅知恵を使うだけだ。知恵を使ってまずいことがおこれば、それは知恵を与えた自然の責任だ。人間にもおれたちにもなんの責任はない。何かを標的にして断罪し、うっぷんをはらすような裁判などまったく無意味だ。完全に無効だ。やめてもらいたい」
イナゴががなり立てたのに対しては、ムギのときのような拍手はおこらない。
――あのイナゴは、ハネつきのお姉さんが言ってたのと似て裁判の無効を訴えたけどこの反応か。「知恵の裁判」が一方的なものだというあかしなのだろうか？
「裁判官がまだきてはらへんうちに始めてしまうのもどないなもんかと思うし、裁判が無効とか言うのも余計にゴチャゴチャするだけやないかと思うし、ややっこしいことは抜きにして、わてとしては、退治しそこねた連中を懲らしめて、老いたとはいえ金太郎ここにありっていうのを見せつけてやりたいんやけどな」
金太郎は指をぽきぽき鳴らして力んでみせる。
――この人はどういう立場なんだろう？
イナゴの後は気まずい沈黙がしばらく続き、湯気にとざされた中で、できるだけ音を立てないように注意を払ってウミネコにお湯をかけていると、どこからともなく澄んだ声が聞こえてくる。
「知恵が悪とされるのは、知恵が体というものに宿ってしまっているからではないでしょうか。」
クマがきょろきょろして、
「あれはだれでごんざりましょう？」
「知恵は体が滅ぶと自分も滅びてしまうという恐怖にいつもさらされています。その不幸を避けるために、知恵は体を生かし続けることを最優先課題としなければなりません。ここに知恵の悲劇があります。知恵は地上のどこへでも、空のどこへでも、過去でも未来でも瞬時に移動することができます。しかし、体はそうではありません。知恵は体の制約に縛られて、ひとつの場所にとどまっていなければならないだけではなく、体に奉仕しなければならないのです。そのために、知恵はその本来の美しさからはほど遠いつまらない働きばかりをしなければならないのです」
静かに風が忍び寄ってきて、湯煙が少しずつ薄れ、頭の上にかぶさっていたおおいがとれるようになると、声は空から降ってきていると知れる。
「知恵は宇宙の彼方へ、永遠の時間の向こうへと飛翔しようとしても、体は腹の虫を鳴らしてそれをやめさせ、食べ物を探し、獲物をしとめるようしむけます。もしも知恵を体から解放できるのならば、知恵は真に美しい働きをすることでしょう」
湯気を白く見せていたほのかな明かりがすっと消え、露天風呂は暗くなり、上に星空が広がる。それをバックに、背の高い照明塔の骨組みが黒々と浮かび出る。ここはまさに野球場と同じ構造になっている。
「ああ、美しいわ」
桜の嘆息につられて視線をはるか上空に放つと、無数の星をひたすようにして、青や赤や黄色の淡い光がゆらゆらと波打って流れている。
――オーロラだ！
「知恵には限りない美の可能性があります。知恵を悪と決めつけるのは根本的に間違っています。知恵が悪をなすのは、それを宿している体のせいなのです。体の束縛から知恵を解き放つべきなのです」
オーロラの美に魅せられたのか、それとも別の理由からか、露天風呂は水を打ったように静かになる。
しばらくオーロラを見ながら、
――大ダコの話に出てきた白ウサギはオーロラのようになることを望んでいたのだろうか？ だけど……
マイが自分の考えを展開できていないうちに、
「いまのはまるっきり逆ではないでしょうか？」
声とともに、オーロラのきらめきをまっぷたつに切断するかのように、下から上へと直線が引かれる。竹が立ちあがったのだ。
「もしも、体のない知恵と、知恵のない体と、そんなものがあったとして、いったいどちらがよいのでしょうか？ 体のない知恵は、体の束縛から解放されて無限の美しさを発揮するとオーロラは言いますが、本当にそうなのでしょうか？ 考えてみてください、体のない知恵というものがこの世に存在したときの状況を。それ以上におぞましいものはないのではありませんか？」
――それだ。竹に先に言われてしまったけど、オーロラはヘンだって感じたんだよ。
マイは幽霊船で聞いた竹の話を思い起こしつつ考えていると、
「実を言うとな、わてもそう思いかけていたんや」
金太郎もつぶやく。
「私たち竹はかぐや姫を生みました。かぐや姫は顔も心も美しい娘でした。ところが、いざ月に帰るというときに地上の体を失い、同時に地上の心も失って、地上の世界への愛着を一切もたない非情な存在となって月に帰って行きました。かぐや姫の美しさは、自慢をするわけではありませんが、私たち竹が生んだものです。竹のすらっとした体に心が宿っている限りにおいて、かぐや姫の心は美しさを保っていることができたのです」
――大ダコは「心と体とどっちが偉い？」っていう問題をボクに投げかけて、かぐや姫の話もしてくれた。ボクに考えるヒントを与えてくれていたんだ。ホントに親切だったんだ。
「かぐや姫の知恵にはもともと月の世界の非情さが潜んでいました。求婚してきた男たちにできもしない難題をふっかけて苦しませたのは、かぐや姫の心がもともとは体が存在しない月の世界で生まれたものであったために、人の痛みに対する思いやりに欠けていたからです。竹の体の中にあってもなお時にそのような非情さを見せつけたのです。まして、体といっさいの関わりを持たない知恵であれば、他者の痛みへの配慮は皆無であるに違いありません」
金太郎は腕組みをし、
「よーくわかる。一発食らわすときに、最も肝要なのは相手への思いなんや。負ける相手への思いがなかったなら、本物の勝者にはなれへんのや。相手の痛みを知ることができるのは、こっちにも痛みを感じる肉体があるからなんや」
――そうだよ。ネット上のいじめだって、オーロラになったような気分でいるからできるんだよ、たぶん。
竹は続ける。
「体のない知恵ほどおぞましいものはないでしょう。地上の生きものをすべてを滅ぼすような悪だくみをしても、殺される生きものの痛みを感じることがないのですから、その悪だくみを抑えるものはどこにもないのです。このことをもってオーロラへの反駁とします」
竹が話し終えると、今度は大きな拍手がわく。
――コンピュータは将棋に負けても煙を噴いて悔しがったりしないっていうのがあったけど、だから人工知能とかいうのは信用できないんだよ。痛みを感じる肉体がなければおぞましいだけのものになってしまうもの。ああ、やっとわかってきた。だから大ダコもカラカサお化けもボクのなかまなんだ。ボクのこの肉体はボクを悩ませてきたけれど、この肉体があるからボクはゴローになれるんだ。
ここでことさらにオーロラの光を消すかのようにして照明があかあかと点灯される。
「おれもそう思う」
太くよく通る声がして、大きなマンモスが立ちあがる。
「おれはどちらなのかと言ったら知恵のある側の生き物だ。しかし、おれは知恵のない世界を夢みている。知恵のない世界と知恵のある世界のふたつの世界があったとしたら、どちらが幸せに満ちているのか？ 知恵のある世界に無数に存在する不幸せが、知恵のない世界には存在しないのだから、答えは明らかすぎるだろう」
マンモスは話しながら露天風呂の中央へと出てくる。
「昔むかしおれたちは幸せに暮らしていた。気ままに草やコケを食べ、この体の大きさのおかげで敵はまったくいなかったし、ふさふさの毛のおかげで寒い冬もへっちゃらだった。その幸せも、いまになって思えば、ほかのものたちの不幸の上に成り立っていたのだった。おれたちに手向かおうとする動物はこの足で踏みつぶしたし、とくに意識しなくても、足の裏で毎日たくさんの虫たちを踏み殺していた。そのころはそんなことを思わずに、とにかく満ち足りた暮らしをしていた。ところが、その幸せな時代は、あるとき崩れ始めたかと思うと、あっと言う間に終わってしまった。それは、むろん人間の出現によるのだ」
マンモスが「人間」と言ったことで、マイは知恵と肉体の問題からひっぱり出され、顔をあげると、マンモスの向こうにあるふたつの目と視線が交差する。
――ああ……。
深い悲しみに襲われる。そこには幽霊船で見たオオウミガラスがいる。
「人間がひとりで正面からくるのなら踏んづけてぺしゃんこにしてやるだけだ。人間どもは、おれのおやじのわき腹に、槍をいっせいに投げつけた。すべてが片側の腹に刺さったので、おやじは鼻を伸ばし、体をねじってなんとかしてそれを抜こうとした。苦しんでやたらめったらぐるぐるまわったので、人間のしかけた落とし穴にはまり、足を折って動けなくなった。その後はなぶり殺しだ」
――人間によって滅ぼされたものの告発だ。「知恵の裁判」はそのまま「人間の裁判」なのか？ 振袖のお姉さんが言っていたように、それは「知恵の裁判」の名に反しているのではないかと疑問を投げつけるようなことはしたくない。ろくでもない世界であるのはその通りなんだから。
マンモスは続ける。
「おふくろは、おやじの死にざまを見ていたので、脇を見せずに人間どもから逃れようとした。まっすぐに走って行くと、地面からいきなり槍が何本も飛び出してきておふくろの胸に突き刺さった。おふくろは後ろ足で棒立ちになり、ぐきりと足の骨を折って動けなくなった。やっぱりなぶり殺しだ。そして、このおれがどうやって殺されたのか、もっともっとひどいことがあったのを聞きたい者はいないだろう。おれはおだぶつとなり、ほかのなかまもみんな殺された。知恵とはこのように使われるという典型だ。知恵のある限り同じような不幸が繰り返される。もうごめんだ。知恵をなくし、これ以上の不幸が生じないようにしてもらいたい」
マンモスの話が終わると、一瞬静まり返った後に、ざわざわと拍手がおこる。その中でクマはうなり、
「ぼくらのなかまもかなり危ういんでごんざりますよ。生まれ故郷の足柄山にはとうになかまはいませんし……」
「クマやんには謝るしかない。悲しいでんな。わてらの理想はどないしてこうも遠くへきてしもうたんやろか。クマやんと相撲をとって遊んだ日々が無性になつかしい。桃やんがイヌ、サル、キジといっしょに鬼ケ島に行かはったのも夢のようではおまへんか」
「でもね、あたしから言わせると、体ばっかり大きくてのそのそ知恵のなさそうなものとか、知恵があっても3本毛の足りないものとかが、うまい具合に使われてしまったということなのかもしれないわよね。あたしをごらんなさいな。この美しさのおかげで、世界中にふえているのよ。あなたがたは工夫が足りないのよ」
「あねさん、何を言い出すんでごんざりますか？」
また別の話が始まる。
「私はすべての知恵をいっしょくたにしてしまうのはよくないように思います」
スイカくらいの大きさのものがぷかぷか湯に浮いてしゃべっている。
「マンモスさんが、かつては幸せだったと言ってましたが、その幸せを感じるためには知恵というものが必要なのではないでしょうか？ 私はいまにも滅びてしまいそうな木から落ちた実です。こんな大きな実を食べることのできる動物はなんでしょうか？ ゾウです。ゾウが食べてくれて、実のなかにあるタネがゾウの消化液に刺激されて発芽できる状態になって、ゾウのウンチといっしょに外に出ると、そこで芽を出せるようになります。ゾウが食べてくれないと芽を出せないのです。私たちは木から落ちて熟すと、ゾウの好きなにおいを出してゾウを呼びます。ゾウは幸せそうに私たちを食べてくれます。動物と植物、知恵のあるものと知恵のないものはお互いに対立するのではなく、いっしょに生きていく隣人どうしなのだと思います」
「そやな。ほんとうはそうでなくてはあかんのや」
金太郎がつぶやく。
「ところが、最近は、私たちがいくらにおいを出してもゾウはきてくれません。私たちは親の木の根もとでむなしく腐って行くだけとなっています。親の木はどんどん歳をとり、実は腐るばかりでは、私たちは滅びてしまいます。なぜゾウはきてくれないのでしょう。ゾウが減り、ゾウの歩ける場所が減ってしまったからです。そうなったのはもちろん人間のせいです。ですから、私が申しあげたかったのは、知恵のすべてが悪いと断じるのは性急すぎて、あるレベルを超えたものが問題だと認識すべきではないかということなのです」
木の実の話が終わるのを待たずに、
「そんな中途半端なことではいけない。断じて知恵は悪である。あいまいにしてはならない。知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪なのだぁ！」
絶叫とともに立ちあがったものを見た瞬間に、マイは激しい不快感に襲われる。
「いまレベルだとか言った。知恵は進めば進むほど悪になる。それは知恵そのものが初めから悪だからだ。あるレベルから悪になるというのではない。ひたすら悪くなるだけなのだ。だから、知恵の進んだ人間ほど悪いものはいない。断じて知恵は悪である。あいまいにしてはならない。知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪なのだぁ！」
こぶしをあげて再び絶叫したのはひとりの人間だ。
――ろくでもない世界をつくった人間の知恵を、ほかのものたちといっしょになって非難したらいいって、振袖のお姉さんにすすめられたけれど、それってやっぱりカッコよくない。ホントにカッコ悪い。いま心の底からはっきりと思う。ボクだって一応は人間をしているんだから、ホモサピエンスの誇りをもってアマゾンの森の底を歩いたんだから、他人事のようにして人間の知恵を糾弾してはいけないと思うんだよ。そんなことをしたら、きっと反感を呼ぶだけだもの。カッコ悪すぎる。ああ、見てられない。よりによってあの人はあんなにも不格好で、主張だって非論理的で拙劣で、これはひどすぎる。やめてほしい！
絶叫する人はいかにも不細工だ。ぼろぼろの毛皮のようなものを身にまとい、髪の毛もヒゲもぼうぼうに伸び放題で、背が低く、もっさりと前屈みで、見るからに汚らしくてちんちくりんだ。顔をななめ上向きにして、つばきをそこらに飛ばしながら、同じようなことばかりをがなり立てている。
「いまの人間どもに至って知恵は悪を極めた。おれたち人間のなかまが言うのだから間違いない。知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪なのだぁ！」
その声にマイは耳をふさぎたくなる。
――ああやって叫ぶばかりで、だれも納得していない。本人は気分よく叫んでいるつもりなのかもしれないけど、こっちはもう恥ずかしくてたまらない。カッコ悪すぎて、おぞましいくらいだ。
マイはぞっと身ぶるいする。
――ん？ 待てよ、カッコ悪い？ おぞましい？ あの人はホントにカッコ悪い。だからといって、どうしてボクはこんなにもいやがっているんだ？ ボクもカッコ悪いなかまだと思われたくないから？
「人間のなかまとおれは言ったが、いまの人間はおれたちをなかまだとは思っていない。カッコ悪いと見下している。知恵の進んだ連中は自分より知恵の進んでいないものをなかまだとは思わない。自分よりも少しばかり劣るものを、いまの人間たちはずっと迫害してきた。知恵の進んだ人間ほど悪いものはいない。断じて知恵は悪である。あいまいにしてはならない。知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪なのだぁ！」
――そうか……ああ、これは悲しすぎる……わかったよ、あの人はネアンデルタール人なんだ。ボクは、カッコ悪いネアンデルタール人をなかまだとは思わない人間のひとりなんだ。
マイはがっくりとうなだれて、大ダコやカラカサお化けを思う。
ネアンデルタール人は声を低くし、
「あのとき、おれたちは飛ぶように逃げて行くシカの群れを、息をきらして追いかけていた。ピュッピュッと何かが草むらの中から飛び出した。そのとたんに、シカがぱたぱたと倒れた。何がおこったのかわからなかった。草むらからすっといまの人間たちが出てきた。背がすらりと高く、顔が細長く、おれたちとはかなり違っていた。おれたちは弓矢というものを知らなかった。いまの人間たちは倒れたシカをなわでしばってかついで持って行った。それをおれたちは呆然と見ているしかなかった。
次は森の入り口だった。いつものように木の実を採るために森にはいろうとした。いまの人間たちがいた。おれたちはなかまにするあいさつをした。いまの人間たちはあいさつをかえさないばかりか、槍で地面をどんと突いて、槍先をおれたちに向けた。おれたちは驚いた。槍をなかまに向けるなんてしたことがなかったからだ。おれたちは言った。『通してくれ、木の実を拾いにきたんだ』。いまの人間たちは笑った。そして何か言ったけれど、おれたちにはわからなかった。おれたちのひとりがその前を通ろうとすると、胸を槍で突かれて倒れた。
それからがたいへんだった。どこに行ってもいまの人間がいて、おれたちの姿を見ると槍で地面を突き、おれたちに槍を投げ、おれたちに弓を射かけてきた。おれたちが倒れて死ぬのをいまの人間たちはニヤニヤ笑いながら見ていた。おれたちはなかまと思う連中に滅ぼされた」
マイは耳をふさぎたくなるのを懸命にこらえる。
――これは聞かなければいけないんだ。
「だから、はっきり言うことができる。知恵の進んだ人間ほど悪いものはいない。断じて知恵は悪である。あいまいにしてはならない。知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪、知恵は悪なのだぁ！」
ネアンデルタール人の絶叫に対して拍手がおこると同時に、たくさんの声がいっせいに激しい勢いでしゃべり出し、露天風呂は騒然となる。
――ああなんということ。気持ちわる～と、いつも言われているボクなのに、ネアンデルタール人をカッコ悪いって思うって……。
深くうなだれて小さくなっているマイにあたかも狙いをつけて襲いかかってくるかのようにして無数の声が飛んでくる。。それはたとえば巨大なアザラシに似たような動物の低い声。
「なんの抵抗もしないぼくたちは次々に人間に殺されました。ぼくたちは海草を食べ、体が大きいのでだれも襲うものがなくて、戦いということをまったく知りませんでした。なかまがなぐられて悲しい声をあげると、そばに寄って助けようとしました。そのために、よけいに次々になぐり殺されてしまったのです」
「……これはもう大騒ぎでごんざりますよ。どうなってしまうんでごんざりましょうか」
すぐ近くのクマの声はやっと聞こえるかどうかなのに、人間の知恵を糾弾する声はマイの耳にするどく突き刺さってくる。
――人間のしてきたことに弁解の余地は……ないでしょう。もっともっとひどいことをいまも続けているもの。ボクはこの中で被告として何か答えたりしなければいけないのか？ いったい何を……。
マイは顔をひざの間に埋め込むようにしていると、突然、ぱったりと声が止む。
――どうした？
静かすぎるので、
――終わり？
幽霊船で場面が急に変わったのを思い出し、またどこか別の場所に移ったのかもしれないと、石ころの様子を見ようと顏を少しだけあげる。
――えっ？
すぐに顔を伏せる。一瞬見たのは、露天風呂が真昼よりも明るく煌々と照らされていて、そこにいる動物も植物もすべてがマイの方に向いている光景だ。
――どういうこと？ もしかして……つまり、ここでボクが被告として何か言うっていうこと？ いまなんですか？ 無理でしょう。このタイミングで、しかもボクには何も言うことがない……。
マイの目にはＧＯＲＯの刺繍と銀色の尾羽と抱きかかえるウミネコが見えている。
――ボクがボクなりに努めるとしたら……ああ、なんの考えもない。だけど、こうやって隠れるようにしてじっとしているだけだったら、自ずと運命が変わるようなことは絶対にないだろう。どうしよう？
わからないけれど、もぞもぞと動こうとすると、
「まだ早いわよ」
桜が肩を抑え、マイにだけ聞こえるようにささやく。
「ものには時機というものがあるのよ。いくらあたしがきれいだといっても、冬の寒いうちに咲いたのではだめなの。暖かくなり始めて、みんなが花を待ち焦がれるようになって、ぱあっと咲くから喜ばれるのよ。時機をはずしてはだめ。あなたはまだ早いわ」
――でも、みんなはボクの方に向いている。それって、いまが時機ってことなのでは……。
おそるおそる、ちらっとでも様子を見ようとすると、露天風呂を圧して立ちあがったものがいる。
大きなイチョウの木だ。
「いま進行中なのは皆さんがご存知の通り『知恵の裁判』です。いま皆さんの関心はもっぱら人間の知恵だけにあって、厳しく糾弾しておられます。裁判のこのような進め方にいささか疑問を感じないわけには行きません。それをとやかく言い出すのは本筋からそれてしまう恐れがなきにしもあらずでありますが……」
「やめろ！」
「手続き論でごまかそうとするな！」
あちこちからヤジが飛ぶ。
「結構でしょう。『知恵の裁判』は何を裁くのかという問いにもどることは控えます。それで、私はここで、ご参考までに、人間の知恵について私なりに知ったことをご提供したいと思います。私はとある神社で500年にわたって人間たちの近くで生きてきました。でありますから、人間についていくらか知っていると申しても、あながち間違いではなかろうかと思うのであります」
「手っ取り早く話せ！ 500年間の長話にはつきあっていられないぞ！」
「神社というのは人間たちが祈りを捧げる場です。私は人間たちが何を祈るのかつぶさに見てきました。神社で人間たちが祈るのはほとんどがごく小さな幸せです。健康でいられるよう、子供が試験に受かるよう、恋が成就するよう、赤ん坊が無事生まれるよう……そのような小さなことを心をこめて祈るのです。人間の知恵というものは、本来そんな小さな幸せを生み、その幸せを味わうためにあるものなのです」
「問題を矮小化するな！」
「ところが、残念なことに、人間は知恵の使い方を間違えることがときどきあります。それによって困ったこともおこってしまいます」
「ときどきだと！ そんな生やさしい言い方ですむものじゃない！」
「人間は自分自身の小さな幸せのために知恵を使うのですが、それが思わぬ結果をもたらして、ほかの生物に大きな影響を与えてしまうこともあります」
「思わぬ影響だと。ふざけた言い方をするな！」
「人間の知恵は、間違ってほかの生き物を滅ぼしてしまうこともありますが、滅びかけている生き物を救うこともできます。この私がその実例です。私は樹木としてはごく古いタイプで、自然界では消え去るばかりになっていて、とある小さな村はずれに数本残るだけとなっていました。それを人間が見出してくれて、救ってくれたのです。私たちは大切にされ、おかげであちこちの神社や寺や公園などで長寿を全うできるようになりました」
「そいつはラッキーだったな。おめでとうさん。そんなやつの言うことが信じられるものか！」
「人間の知恵が未熟だった時代には多くの不都合を生じたのは否定できません。しかし、人間たちはそれに気づき、自然を保護し、再生しようと知恵をしぼっています。共生ということを真剣に考えているのです」
「共生だと。ふざけんな！ おまえみたいにたまたま気に入られたものは、そりゃあ共生でもなんでもしてもらえるだろうよ。いい子ぶりやがって！」
「そうだ、人間の手下になりさがったやつの言うことなんか信じないぞ！」
飛び交う怒号の中で、イチョウを超える巨木がぬっと立ちあがる。
縄文杉だ。
「わしは5000年間というもの、人間の歴史を見てきた。まだ人間が自然の中であまり大きくはない一員であったころから、だんだんと大きくなり、ついには自然を圧倒してしまうまでを、ずうっと見てきた。その5000年の間に、人間は地球をすっかり変えてしまった。地球のすみずみまでをすっかり変えてしまった」
「そうだ、その通りだ！」
「5000年前のなつかしい地球の風景は、いまの地球の上にはどこにも残っていない。みんな、5000年前を思い出してみたまえ。さあ、獣の諸君、そのとき君たちの声は幸せの喜びに満ちていなかっただろうか？」
「そうだ。そうだった！」
「さあ、鳥の諸君、そのとき君たちの声は自然の美しさを心ゆくまで歌っていたのではなかっただろうか？」
「そうだ。そうだった！」
「さあ、木の諸君、そのとき君たちはゆるやかに変化していく自然界の時間をおおらかに刻んでいたのではなかっただろうか？」
「そうだ。そうだった！」
「さあ、花の諸君、そのとき君たちは生命の豊饒さの結晶として限りなくあでやかに開いていたのではなかっただろうか？」
「そうだ。そうだった！」
「さあ、みんな、みんなはそのとき一体になってあのなつかしい地球の風景をつくっていたのではなかっただろうか？」
「そうだ。そうだった！」
縄文杉に呼応する声はなみだまじりになる。
「あのなつかしい地球の風景。それはもう2度とかえらないのだ。あのころは人間もまだほかの生物たちとたいして変わらぬ存在だった」
「いいや、あのころから人間はすでにとんでもない連中だったぞ！」
「5000年。あのころの風景を思うと、わしは、これまで生きてきてしまったのがつらくなる。もっと早く生まれるべきだったのか、若いうちに死ぬべきだったのか、いずれにしても、いまにいたるまで生きているべきではなかったのだ。こんななれのはてのような世界を日々見なければならないのだから……」
「ああ、その通りだ。なんと悲しいことだ！」
「わしの生きているこんなにも短い時間のうちに、世界をめちゃくちゃにしたのは、むろん人間の知恵だ」
「そうだ！」
「人間の知恵は悪の極まったものだ。世界を破壊する悪以外の何ものでもない。そんな悪のかたまりの、人間の知恵の肩を持ったりするものが、人間以外にどうしているのか不思議でならない」
縄文杉の話に露天風呂全体は割れるような拍手に包まれる。
――昔はよかったみたいな話をされると、ボクなんかはもう完全に手も足も出ない。人間を弁護する気なんかはさらさらないんだからなおさらだよ。
小さくかたまっているマイの背中が押される。
――えっ？
「さあ、いまよ！ 時機がきたのよ」
桜が言う。
――ウソでしょう！ さっきのがまだマシだったじゃないですか？ いまってもう最悪も最悪ですよ。だから、いまってこと？ うーん。
石ころを見る。
――どっかにころがって行ったり……は、しないんだよなぁ。
石ころはぷかぷかと、いかにものんきそうにお湯に浮いている。いい感じにピンク色に染まってさえいるので、
――そういう態度なんですか？ いいですよ、君がいてもいなくても関係ないんですよ。ボクはボクでやらせてもらうだけだから……。
マイはふてくされたように立ちあがる。すべての視線が一瞬にしてマイに集中する。
――いっけねえ。ああ、だからボクって……沈着冷静にって何度も思ったのに。むっとしたりするとダメなんだよ。もう立っちゃってるんだけどさ……ここで「くそ、ばか」ってののしって、「愛宕山ジャンプ」で逃げるっていう手はないんだろうなぁ。ニヒルに知らん顔？ クジラみたいに泣く？ それとも「あたしってやる気ゼロの人じゃないですか」って言って、わけのわからないことわざを並べてみる？
石ころのピンク色どころではなくて顔をまっかにして、胸はドキドキ高まる一方で、立ったままどうすることもできなくて、仕方なしに息をひとつ吸う。
――ボクはボクなりに努めるって言ったけれど、それってなんなのだろう？ ゴロー、どうする？
ＧＯＲＯの刺繍を見る。
緊張の頂点に達したマイの耳の底に、かすかに聞こえてくるものがある。
――えっ、まさか、これ？
聞こえるのは、三味線と太鼓のお囃子だ。
――しかも『木綿のハンカチーフ』？ 馬子さんは「おらたちを相手に稽古のつもりでしなせえよ」って言ってたけど、いまが本番？
横を見ると、桜が身をゆすってマイの頭を指さしている。
――ん？
その桜の木の幹の模様が不意にオバコちゃんの顏に見える。
――えっ、えーっ！ あれってこと？ オバコちゃんが絶賛していたあのネタですかぁ？
「待ってました！ たっぷり！」
クマが掛け声を発する。
目の前にぴょんと高座が出現し、空中に大ダコの手、足というべきかもしれないが、が現れて、センスと手拭いを渡してくれる。
――やっぱりなかまだから、ボクに稽古をつけてくれた……。
出囃子の響きが大きくなり、それに誘われてマイの体が勝手に動き出し、湯の上を歩いて高座に乗り、座布団の上にちょこんとすわる。ウミネコをひざの上にのせ、深々と頭を下げる。
――ここは裁判の場ではなく寄席ですよ、寄席！ それで、えーと、ボクは実は人間国宝ということなんですよ。
まばらな拍手の中で自分に言い聞かせて、顔をあげる。
「えー、こんちはようこそのお越しであつく御礼申しあげます……と、ふつうは申しあげるのでございますが、ようこそお越しになったのは、今日はあたくしの方でありまして……はるばる地球を巡ってまいったのでございます。
地球というのはたいそう大きなものでございますなぁ。あたくしも、この年になりまして、今回ばかしはつくづくそのように感じました。何しろ、道中それはもういろいろとございましてな」
――えーと、ここからどうしよう？ 『うそつき弥次郎』のような感じで旅の話をする？ でも、自分のことをそのまま話してはよくないって大ダコが言っていたから、なんかワザをかけないと……えーと、いいや、テキトーに進めちゃえ！
「その昔のことでございます……地球が神様の前で大きさ比べをしたなんて話がございますな。
どうせ比べるのなら、相手は大きい方がいいってんで、宇宙。なんせ広大な宇宙でございますから、地球ごときに負けるはずがないと、自信満々でやってまいりました。
神様は大きさを厳密に測るために100円ショップで30センチのものさしを買ってきて、ぴらぴらさせながら地球に、
『まずはおまはんからだ。おまはんのはっしこからはしっこまでを測ってやる。はっしこはどこだ？』
『あたいのはっしこといえば南極と北極です』
思いっきり背伸びをしながら答えまして、神様は、ちまちまとものさしを当てて測り始めました。30センチのものさしですからな、測り終わるまでに途方もない時間がかかりまして、地球はくたびれて背伸びが続かず、直径は正確に1万2800キロメートルということになりました。
『たったのそれだけか、ぶははは』
宇宙は、もう勝ったも同然とバカにして笑いました。
『おまえのはしっこはどこだ』
神様は30センチのものさしを宇宙の前でぴらぴらさせましたので、あんなもんで測られたのでは宇宙の終焉がくるまでかかっても終わらないと思いまして、
『おれっちには、はしっこなんぞというものはありません。測るまでもなくとにかくでかいのです』
『この世に存在しながら、はっしこがないなんて、そんなばかげたことは聞いたことがない』
『アインシュタインというたいそう知恵のあるえらーい学者先生がそう言ったんです』
『わしは神様であるぞ。アインシュタインがわしより知恵があるとでも言うのか？』
神様はたった6日間で世界をつくったくらいでありますから、意外と短気でありまして、宇宙が、
『アインシュタインはすごいんですよ、神様だってE=mc2くらいは高校の物理で習ったでしょう。まさかそんなことも知らないんですか？』
などと口答えしますと、
『くそ、ばかっ！ わしは文系だ。偉そうに数式なんか出してきおって、きさまなんぞどっかに消えてなくなれ！』
と、ものすごい剣幕でお怒りになりましたので、宇宙はおろおろと、地球に助け船を求めましたので、地球は、
『神様、神様、どうか落ち着いてください。宇宙さんのはしっこをここでお見せできればよろしいのでしょう？』
『そうだ。そうしてくれればわしはこれで測る。理解不能のことをこやつがほざくものだからわしは怒ったのだ』
『地球君、頼みますよぉ。神様に「消えてなくれ」って言われても、はてのない宇宙はいったいどこへ行ったらいいのやら……おれっちにはどうすることもできません』
『神様、神様、今日はぼくと宇宙さんの大きさ比べで、それで、神様の前にこうしてぼくと宇宙さんがいるわけですよね』
『そうだ』
『大きさを比べるわけですから、ぼくと宇宙さんとはべつのものだってことですよね。ということは、宇宙のはしっこはぼくのどこかしらにあって、それはきっと、こことここなんですよ』
地球は自分の表面の2点を指さしまして、神様がそこに30センチのものさしを当てるとぴったしはまりましたので、
『宇宙の大きさはたったの30センチか、こいつは地球の勝ちじゃな……』
てなわけで……」
――えーと、ボクはなんの話をしているんだろう？ ちっともおもしろくなってこないよ。もう十分にシラケさせてしまったみたいだし……。
「大きさ比べの番付で、地球が大関、宇宙は関脇と決まりましてな……ことほど左様に世の中にはなんにでも番付というのがございます。しちめんどうな計算の大関はオオミズナギドリ、パイプいじりの大関はカンガルー、インチキの片棒かつぎの大関はワニ、そして落語の方での大関といいますと『あたま山』という噺ですな」
――これでどうにかつながりましたよ……。
オバコちゃんに教わってＣＤで何度も聴いた昭和の大名人の声を頭の中で響かせながら、それをなぞるようにして口に出して行く。
「ここにケチべえさんという人がいまして、ケチべえさんというくらいですから、つまり、ケチなんですな。
花見どきなんかになって、人が浮かれて出かけましてもケチべえさんは行きません。人がなんか食べてるのを見たら、自分だって食べたくなる。なんか飲んでいるのを見たら、自分だって飲みたくなる。そうすりゃぁ、どうしたってお金がいります。だからそういうとこには行かない。
花が終わって、葉桜もすぎた時分になって出かけると、だあれもいなくって、
『ああ、こんなら、人がなんにも食ってねぇから、おれも、食いたくねぇや。なんにも飲んでねぇから、おれも、飲みたくねぇや。桜の葉だって、もとは花があったと思えばいいんだ、ここんところに、花があって、きれいだなあって。ああ、ここにいろんなものが落っこってるよ、なんだ、こりゃ。あっ、さくらんぼうだ。どれ、こりゃうまいね。こりゃ、ただだよ。ありがたいよ』
ってんで、さくらんぼうをむやみに食べちゃった。根がケチですからな、種をほきだすのももったいないってんで、みんな飲んじまった。
あくる年になると、頭がムズムズしてきた。
『おい、ちょいと、おっかぁ、見てくれぇ』
『どうしたのさ？』
『頭がムズムズしてしょうがねえんだ』
『おやおや。桜の芽生えが出てきたよ』
『弱ったねぇ、そりゃ、どうも』
そのうち、これがだんだん大きくなって、しまいには、ケチべえさんの頭の上で、満開の桜が咲いた。
『どぉです、ケチべえさんの頭の桜、みごとじゃありませんか』
『きれいですなぁ』
『今年は、上野とか飛鳥山とかに行かないで、ケチべえさんの頭の上で、花見をしようじゃありませんか』
『それがいいや、近くっていいや』
ってんで、頭の上にのぼって、花見をする、どんちゃんどんちゃん騒ぐ、酔っ払ってケンカする、どうにもやかましっくってたまらない。
『しょうがねえなぁ、こりゃ。人の頭の上で……。あっ、だれだい、いけないよ、飲みすぎてヘドをはいたよ。ああ、だめだ、だめだ。静かにしてくれなきゃ困るじゃないか』
ケチべえさんがしかりましても、人は花見に夢中ですし、当の桜も知らん顔で、それからもますます大きくなりましてな……」
――ＣＤで聴いたままっていうのも芸がないよ。トカゲのひやかしみたいに、ちょっとイタズラしてやれ！
「はてはすっぽり地球をおおうまでに桜は大きくなってしまいましてな。こうなると花見の客が100億人を超えるというとほうもない大騒ぎ。
どうして桜がそこまで大きくなったのかってぇと、この桜はソメイヨシノとか大島桜とかではありませんで、その名をチエザクラとか申しまして、どんどんふくれてふくれてとどまるところを知らないのですな。
想像してごらんなさいな、自分の頭の上に地球よりも大きな桜があるのですよ、
『弱りましたよ、こりゃ、もうなんとかしなくっちゃいけませんよ』
ケチべえさん、この桜を根こそぎ抜いちまうしかないと、力のある者に頼みました。力のある者と申しますと日本一なら桃太郎さん、はたまた足柄山の金太郎だというので、2人に頼んでみましたが、とてもじゃないけど抜けません。
こうなったら、人類文明がこれまでに生み出した最強のヒーローに頼んでみるしかないと、呼んできましたのがオオトカゲ……ではなくて、ゴジラ。ゴジラってえのは、水素爆弾の申し子ですから、図体はでかくて力はべらぼうだけど、あんまり知恵はないんで、とにかく力まかせにもうやたらと引っ張った。
『痛いよ、痛いよ、頭が割れますよ！』
ケチべえさんが泣こうがわめこうが、ゴジラは気にしない。引っ張って引っ張って、とうとうぼこんと根こそぎ抜けまして、ケチべえさんの頭に大きな穴があいてしまいました。その大きいのなんのといったらありませんで、雨が降ると池になり、湖になり、海になっちまった。7つの海を合せたよりも広い「どたま海」といいましてな。
できあがったばかりの「どたま海」なら安心して暮らせるんじゃないかと、クジラやらマグロやらウナギやらが地球の海から引越しますと、欲にくらんだ連中がそれを追いかけ、密漁船がわんさとやってくる。
『だめですよ、ここでは漁はさせまんよ』
体当たりをくらわせる船もある。果ては、この海は古来わが国の領土であったとか言って、浅瀬をコンクリートで固める国が出てきたり、そうはさせないと空母が出てきたり、戦闘機は飛ぶはミサイルは飛ぶはという始末。
ケチべえさん、
『ああ、あたしほど、因果なものはいない』
と、ある晩、女房に書き置きをして、自分で、自分のどたま海へ、身を投げた……」
センスで軽く頭をたたいて、ぺこんとお辞儀する。
頭を低くしたまま、ウミネコを左腕で抱え直し、座布団から中腰で立つ。足元に、いままでにない冷え冷えとした風がすーっと吹いてきて、小さく身をふるわす。
――失敗だ！ 下手な上に、妙なノリだったし……。
うなだれて高座をおりる。
――せっかく稽古をつけてくれたけど、活かせなかったみたい。ごめんなさい。
湯の中から出てきた大ダコの手、足というべきかもしれないが、にセンスと手拭を返してあやまる。
「そんなに悪くなかったんと違うやろうか。わては拍手を送るで」
金太郎が立ちあがって手をたたいてくれる。それにつられて、ぱらぱらとまばらな拍手がおこる。
「だからなんなの？」
そんなささやきが聞こえる。
――そうなんですよ……なんなのって言われたら、なんにもないです。だれも落語をやってくれなんて言ってませんよね。どうしてこういうことになったのかって……ボクがボクなりに努めると、こういうことなんだよ、たぶん。
顔をあげることができないままにもとの場所にもどる。
足元の湯が凍りつくばかりに感じられ、すわることができずに、悄然と立ちすくむ。
ウミネコに目をそそぐ。
――ダメだった。こんな寒々しいことになって、これでは運命は変わらない。ボクにできたのはこれだけ……何かほかに話そうとしたって、みんなが賛同してくれるようなことには絶対にならないだろう……だって、ボクは人間……何を話しても、人間としてのヘンな癖からは抜け出せないんだから。ごめんなさい。
両手で抱きよせる。
「ああ温かい……」
ウミネコの目は閉じられたままで心臓の鼓動もないのだが、間違いなくこれまでよりも温かくなっている。
――あと少しでよみがえるところまできているんだ。運命が自ずと変わる直前まできているんだ。ウミネコはがんばっているんだ。それなのにボクの力が及ばなかったんだ。もしもこれがボクじゃなかったら、もしもボクじゃなかったら……ああ、ごめんなさい、ボクって……
ほかの人ではなくゴローだというのを示したいと意気込んでいたのをにがく思い起こす。
突如として大きなファンファーレが響き渡る。
「あっ、いよいよだ！」
「きますよ、きますよ！」
にわかにざわめきがおこる。
再度のファンファーレとともに、スポットライトが次々に点灯され、露天風呂の湯の上を縦横に動き出し、うつむくマイの目にもきらめきが飛びこんでくる。
大地をゆるがすような声で、
「裁判官のお出ましぃ！」
「おーっ！」
生き物たちはいっせいに立ちあがる。
3度目のファンファーレが鳴り響き、あたりをどよもす大歓声が湧きあがる。
それにつられてマイが顔を少しだけあげると、全体を照らしていた照明は落ちていて、さまざまな色のスポットライトの光が交差し、たくさんのペンライトが揺れ動いている。
「あっちだ！」
だれかの声とともに、あちらこちらを走っていたスポットライトが露天風呂の中心でひとつに集まって強い白い輝きとなり、するするとマイの方へと向かってくる。
――えっ、どういうこと？
スポットライトはマイを直射し、そのまぶしさに手をかざすと、光はマイを通り抜け、はっと思って振り返る。
――げっ！
声は出さない。いや、出せない。息をつまらせて、ずるっと下がる。
ぴったり後ろに、まっ黒な巨体がどさっとおおいかぶさってくるくらいの近距離に、みんなが待っていた裁判官がスポットライトを浴びて威風堂々と立っている。
スポットライトはさまざまな色に変化し、そこにあるよくよく知っている顔、もう2度と見たくなかった顔を、華やかに、あるいは不気味に、はたまたあほくさく浮かびあがらせる。
「いやはや、いやはや、お嬢様、こんにちは。またお目にかかれましたなあ。実に光栄で。お変わりございませんでしたかな」
裁判官はまさにあの声で、あのスタイルで、ぎくしゃくと中世の騎士のように動いてマイにあいさつする。
黒いぴしっとした燕尾服に身を包み、黒のシルクハットを頭に乗せ、金縁のメガネをかけ、金文字で背中に何か書いてある黒い表紙の大きな本を抱えている。
――マジですか？
「お嬢様、これはマジでございます。あいかわらず、礼儀正しいお嬢さんですな。こんにちはと言われたら、こんにちはとこたえたいものですな。ぼんやり突っ立ったまま、『マジ！』とは、あまり上品なおふるまいとはいえますまい。お嬢様に似つかわしいとは思えませんですな。ふわっふわっふわっ」
マイは口を押え、
――いましゃべっていなかったはずだけど……無意識に口から出した？ ボクってそうなのかも。ヤバいよ！
「お嬢様、これはヤバいでありますかな。わしがきてはヤバいでありますかな？ それともわしがカッコよすぎるという意味での『ヤバい』ですかな？ それともわしを食ったらうますぎるかもという意味での『ヤバい』ですかな？ 『ヤバい』はお使いにならないと、お嬢様はご決心されたのではなかったのですかな？ さよう、『ヤバい』はいずれの用法においても上品なお嬢様には似つかわしくないので使わない方がよろしかろうと、わしからもご助言申しあげますぞ。いつまでも『ヤバい』を使い続けていたのでは、まじ、ヤバいっすよ！ ふわっふわっふわっ」
――ちょっと、ちょっと、なんでいろいろ知っているの？ それより、また「お嬢様」の連発で。もうやめてほしいよ。こいつに「お嬢様」って言われると、こっちの調子がおかしくなっちゃうんだよなぁ。
オオトカゲはにたぁと笑い、
「お嬢様、お嬢様、お嬢様、よろしいですかな。もう一度申しあげましょう。こんにちはと言われたら、こんにちはとこたえましょう。それが気品あるお嬢様には似つかわしいとわしは思っております。人間の世界はいざしらず、わしらはきちんとした教育を受けているので、あいさつされたらあいさつするということくらいはだれでも知っておりますぞ。いやいや、知っているだけでなく、きちんと実行をします。もちろん、あいさつをされてあいさつを返さない、これはお嬢様もご存知のように、重大事件でありますな。本来ならここで、わが国の法律を調べるところなんだが、いまはもっと重要な案件があるので、やめておくことにしますかな……ふわっふわっふわっ」
――うーん。とにかく冷静にならないと……。
マイは一歩後ろに離れ、姿勢を正し、ゆっくり上体を正確に45度にまで傾け、もとにもどってオオトカゲに顏を向け、口角をアヒルのようにあげて、
「こんにちは。またお目にかかれて大変うれしゅうございます。あなたさまにおかれましては地球の向こうからはるばるお越しになられ、ご機嫌うるわしくあらせられ、恐悦至極に存じたてまつります。キョウコウキンゲン。おほほほほ……」
手の甲を口にあてて品よく笑う。
――あ～あ、ばっかみたい。
「まことに結構なごあいさつ、さすがお嬢様というところを見せてくださり、いやはやいやはや、上出来、上出来！ ただいまのあっぱれなごあいさつは、わが国の女性活用大臣に表彰状を用意させるに値しましょうかな。ふわっふわっふわっ」
――あのね、「女性活用」とか、ボクには絶対に関係ないですから。
オオトカゲはスポットライトとともにのっそり前進し、マイも光を浴びるようになる。
「しかしながら、いまのふるまいはまことにあっぱれではありましても、お嬢様のそのお顔を仔細に拝見しますと、法の番人でありますところのこのわしに対して抱いてしかるべき尊敬の念なんぞは、残念ながらみじんもなさそうですな。違いますかな？」
「いいえ、そんなことはございません。福神漬けくらいならあるかもしれませんです」
――こんなやつ、あんときに天狗の羽団扇でみじんにしてやれたらよかったんだよ。
「福神漬け？ なんのことですかな？」
「いえ、おやじギャグを言おうとしてつくりそこなっただけです」
「ほっほう、おやじギャグとは、この期に及んで余裕ぶちかましですな」
――あんまりばかばかしいからだよ。
「おやおや、ばかばかしい？」
マイはまた口を押え、
――どうしてなんでもわかっちゃうんだ？ サイコーにいやな感じ！
「サイコーとは恐れいりますな。サイテーよりはランクが上だとしても、大したなぐさめにはなりませんな。いずれにしても、お嬢様のいまのご様子は、察するところ、もとからあるわしへの不快感が、ここにきて爆発的に増幅されてしまったという感じでありましょうかな？」
「そんなことはニンジンほどもありません」
「それは、みじんとニンジンのダジャレですな。やっと思いついたのがその程度とは、お嬢様にとっておやじギャグへの道のりはかなり遠そうですな」
「あのですね、『お嬢様』はやめてほしいんです。前にもそれは言ったと思います。ボクはフジンだとはミジンも思っていなくて、オジンになるのがカンジンだと浜の大マジンが……」
「はあ？ 何がおっしゃりたいのでございますかな？」
――そんなのわかるもんか。だから、こいつが出てくると調子狂っちゃうんだよ。
「調子が狂うのはこちらでありますぞ。これでは一向にものごとが進みませんな」
「ものごとっていうのは……これは本当に『知恵の裁判』なのですか？」
「ご明察でございます」
「そして、あなたさまは本当にこの裁判の裁判官であらせられるのですか？」
「おやおや、『本当に、本当に』と、お嬢様のそのおっしゃりようは100パー疑っておられるのでありましょうかな。わけもなく人を疑うのは、むろんこれも、重大事件でありますぞ。本来ならここで、わが国の法律を調べるところなんだが、いまはもっと重要な案件があるので、やめておいてですな、ご立派なお嬢様のお疑いをさらりと解くために、そこにおられる金太郎くんに、この件についての見解を聞いてみましょうかな。ウッホン、金太郎くんに答弁を許します」
スポットライトが金太郎に向かう。
「わてに答弁？ この件と言うてはりましたのは、裁判官殿に向かって『マジですか？』と、言いはった件やろか？ そやったら、むろん重大事件でっしゃろな。いわゆるよく言いはるように、便所に行って糞を垂れないのに等しい重大事件で、罰金32円、もしくは懲役18年というところやなかろうかと、わては思いまんねん」
桜が口をはさんで、
「懲役万年まんねんって言わなかったので、まだよかったですけど、罰を与えるにしても懲役っていうのは無粋すぎません？ 『そりゃ、ご無体な、金太郎さん』って言いたくもなりますよ。もっと風流に、同じ数でも、大きな盃でお酒18杯というのはどうかしら。飲んでぱあっとやったらいいのよ」
「お酒は無理でごんざりましょう。まだ未成年でごんざりますよ」
「そうなの？ 若そうに見えて、案外と年いっているのかもよ。いまはなんでもごまかせるから。15、6に見えて、二十歳を過ぎているってこと、あるんじゃないの。ひょっとしたら、30くらいだったりして……もしかしたら、40？」
「あねさんじゃあるまいし、そんなことごんざりませんでしょう」
「これこれ、金太郎くんには答弁を許したが、おまえたちに許可は出していないぞ」
「そんなかたっくるしいこと言わずに、楽しくぱーっと行きましょうよ。せっかく派手にファンファーレを鳴らしたんですもの、は・で・に！」
「こまった連中だ。ここは神聖なる裁判の場。勝手にさわがしくべちゃくちゃしゃべるのは、むろん重大事件。本来ならここで、わが国の法律を調べるところなんだが、いまはもっと重要な案件があるので、やめておいてですな、金太郎くんに尋ねたのは、わしが本裁判の裁判官であるのかどうかということについての君の見解でありますぞ」
「それでっか？ ほなら、正直言うたら、わてにはわからへんのや。トカゲはんとはこれまで親しくしたことがまるっきりないさかいな」
「ふうむ。金太郎君とわしとの親密度は多分相当に低かろうかな。ＬＩＮＥもつながっておらんし、金太郎君が得手とする昔話のライブ会場にトカゲは登場しないしな。トカゲに出番があっても、せいぜい戸のかげにいるくらいで、だからトカゲなんちゃって、ひひひひ……」
「あのう、いまのは、ボクと同じレベルのつくりそこねでしょうか？」
オオトカゲは軽く例の本をたたき、
「笑いがすべっても、それは重大犯罪のカテゴリーには入れないほどにわが国の法律は寛大でありますぞ。さきほどのお嬢様の『あたま山』がこの湯を凍らせるほどに不出来であったことも罪に問われたりはしないので、どうぞどうぞ、ご安心めされよ！」
――そりゃぁね、不出来に決まってますよ。だけど、ボクはボクなりに努めたんだよ。あんなにも緊張してがんばって、それをこいつにこんなふうに言われると、気分悪いよなぁ。
マイはぎゅっとくちびるをかむ。
金太郎は、
「わてにはおもろかったんやけど……。トカゲはんとは笑いのセンスが違うんでっしゃろうな。まあ、あんたはんは裁判官やから、やたらと笑っては重みがなくていかんってこともあるやろうしな」
オオトカゲはせきばらいをし、
「金太郎くんのいまの発言は、わしが裁判官であることを認めたものと理解すべきでありましょうな。ということで、お嬢様、わしがここの裁判官であることはご承知いただけましたかな」
スポットライトは金太郎を離れてオオトカゲに注がれる。
「ボクが承知してもしなくても、どうせそういうことなんでしょう」
「その半分ふてくされたような態度こそが、お嬢さまが完全に是認してくださったあかしでありましょう。まことに光栄であります」
オオトカゲはぎしぎしと胸を張り、
「砂漠で少々はめをはずし、二日酔いもあってだいぶ遅刻したようだが、裁判官であるところのわしがここに到着したので、いよいよ本裁判を始めるといたしますかな」
腕をぎくしゃくとあげ、指をパチンと鳴らすと、またもファンファーレが響きわたる。
「お嬢様、お手をどうぞ。あなたさまが当裁判の被告であります。わしとともに中央にまいりましょう」
湯の上に赤いじゅうたんがくるくると敷かれて通路ができ、その上をスポットライトが行き来する。
――げっ！ こいつのエスコートで……ありえません！
差し出された手を露骨に無視する。
オオトカゲは指をぴろぴろと振り、ぎっくりばったりじゅうたんの上を歩き出す。スッポットライトがそこに集中し、ペンライトがウエーブをつくる。
オオトカゲの背中に向かって、
「あのう、ちょっといいでしょうか？ ボクの理解では、裁判はあなたがくる前にとっくに始まっていました。みんなが真面目に話していました。ボクは場を凍らせてしまったのかもしれませんけど、それでも懸命に話をしたのです。それなのに、あなたがはいってきたとたんに、なんだか雰囲気ががらっと変わって、すっかりぶち壊しになってしまったようなのですが、こんなことでいいのでしょうか？」
オオトカゲはぎりぎりと首だけをまわして振り返り、
「どうもどうも、お嬢様はお見受けするところ、どうやらかなりカッカとされていますな。ここは神聖なる裁判の場であります。どうか冷静になっていただきたい。沈着冷静に願います」
「それはボクも望むところです」
「お嬢様は懸命に話をしていたとおっしゃる。よろしい。このわしも負けずに常に懸命に話をしておりますぞ。自分だけとはくれぐれも思いませんように！」
「ボクだけなんて言っていません。みんなで真面目に話をしていたのです」
「さよう、みんなで真面目に、実に結構です。ならば、わしもその一員でありますぞ。『みんな』とはそういう意味でありますからな。しかしながら、お嬢様は『みんな』からわしは除外しようとのお考えですかな。きらいなものは『みんな』には入れないのですかな？」
「好きとかきらいとかの感情の問題ではなくて、裁判というものは真面目な雰囲気でなされるべきであって、あなたがいつものヘンな調子でふるまわれたのでは、話が通じなくなるのではないかと懸念せざるをえないと、そういうことです」
「ほっほう。『懸念せざるをえない』ときましたか。さすがお嬢様、難しい言い回しをなさいますな。『せざるをえない』のは、ふうむ、むしろそれは当然でありましょうかな。お嬢様は人間、わしはオオトカゲ。そもそも話が通じるはずがないところを、わしがなんとかして合わせよう合わせようと努めておるのですからな」
「あなたが合わせているですって？」
「さよう、さよう。お嬢様はどうあっても人間の考え方のヘンな癖から離れることができない。さっきお嬢様ご自身がそう思っておられたのではなかったですかな」
――もう、なんでもわかってしまうんだから……。
「それはまあ、おっしゃる通りですけど……」
「さすがお嬢様、ご自分の非をすぐに率直にお認めだ。結構、結構。わが国の風紀大臣に表彰状を用意させるに値しましょうかな。ふわっふわっふわっ」
「表彰状はいりません！ おたくの国のなんとか賞がどっかの国の文化勲章よりも価値があるとしてもほしくありませんから。とにかく、ボクはボクなりに懸命に話をしました。裁判をするのなら、あなたさまもどうぞ真面目に懸命に、そして公平にお願いしたいです」
「公平をプラスしてきましたな。さすがですな、お嬢様は実にいいことをおっしゃいます。公平こそ肝要！ こうした全生物の集まった裁きの場に偏見は禁物であります。結構、結構。いまのお嬢様のご発言は、わが国の一兆一丸大臣に表彰状を用意させるに値しましょうかな。ふわっふわっふわっ」
「もう、同じようなことばかり言うのはやめてください。とにかく、あなたがおっしゃる通り、ここには全生物が集まっているのですから、その前で裁判官としてさすがと思わせるような立派な振る舞いをしてもらいたいです」
「わしが立派であるかどうかは、わし自身のよく判断するところではなく、ここに集まった全員の判定に委ねるよりありませんな。自分で立派だとか思ったりしたら、それ以上に鼻もちならないものはありますまい。人間界にならそういうやからがいて、おべっかつかいが臆面もなく持ちあげたりもするのでしょうが、わが国にそのような者がいるとは聞いたことがありません。わしとしては粛々と進めて行くだけであります」
「どうぞ、そうしてください」
「結構、結構」
オオトカゲは首をもとにもどし、スポットライトとともにのしのしと露天風呂の中心に立ち、おもむろにぎしぎしと体を回してぐるっと見わたす。オオトカゲの顔の向きに合わせてペンライトの光の波が動く。
「よろしい、みんなそろっておりますな。では、始めるといたしましょうか。お嬢様もどうぞこちらに」
ぎくしゃくと手招きをする。
――もう、「お嬢様」ばっかりだもんな。でも、それに対していちいちむかついたら、おかしなことになっちゃうんだよな。こだわらないようにしないと。
マイは冷静になろうと努め、赤じゅうたんの上を歩く。スポットライトがマイに注がれる。
オオトカゲは少しそり加減になって、左右に体を小さく揺らしながら、進んでくるマイをしげしげとながめ、
「お嬢様、お嬢様、ここでひとつご忠告申しあげてもよろしいでしょうかな」
マイは足を止め、
「はあ、なんでしょうか？」
「さきほどからお嬢様はこのわしに対してカッカとしておられますが、少しは鎮めていただけましたかな」
「ですから、沈着冷静です。ボクはまるっきり、これっぽっちも、ほんのわずかだってカッカとなんかしていません。ボクはこう見えても恒温動物ですから、セ氏36・5度よりカッカとすることはないんです、インフルエンザにでもかからないかぎりは……」
カッカとさせる原因となっている冷血のオオトカゲに対するちょっとした皮肉のつもりだったのだが、口に出してすぐに、
――これって、裁きの場に禁物と言った偏見のひとつだった？ ちょっと、まずかったかも……。
そう反省しつつ冷静さを装っていると、オオトカゲはぎしぎしと意味ありげにうなずき、
「しかしながら、いまはセ氏36・5度であってもですな、過去の一時期において、お嬢様がカッカ64度くらいになっておられたのは、この法廷に集まっておられる一同がそれに対する証人になってくれるであろうと思いますが、どうですかな」
「それって、ハッパ64のダジャレでしょうか？ 64度はともかくとして、感情的になっていたのは事実として素直に認めます」
「よろしい。実に素直で結構。わが国の国家従順顕彰大臣に表彰状を用意させるに値しましょうかな。ふわっふわっふわっ」
「だから、表彰状はいりません！」
「ほらほら、またカッカとされていませんかな。そのカッカのためにですな、お嬢様の元来の聡明さ、あるいは備え付けのシロクロ判定回路がショートして、いま何かがおこっているのかお気づきになっておられないと拝察する次第ですが、いかがですかな」
オオトカゲは中腰になって顔をにゅうっとマイの方に伸ばし、左右の目をくるっと反対回しにする。
「どういうことですか？ ボクはいま100パーセント冷静ですけど」
オオトカゲはぎくしゃくと体を動かして敬礼し、
「お嬢様閣下！ 閣下、閣下、閣下はやはりカッカとしておられますぞ」
「もう、ヘンなダジャレで、いらつかせる気ですか？」
「まだお気づきではないのですな。このわしにはよーく見えておるのですが」
オオトカゲは敬礼であげていた手をぎしぎしと伸ばし、指を1本、マイに向けて突きつける。
「えっ？」
オオトカゲの指先はパーカーに差したウミネコの銀色の羽根に向けられていて、スッポットライトがそこに集中する。
見ると、羽根は光を帯びている。スッポットライトに照らされているからではなく、羽根自体が光を放っている。
「お嬢様、マドモワゼール、それでありますぞ。その羽根はなんのためにそこにさしてあるのですかな」
「渡してほしいと頼まれて……」
「ほう、渡してほしいと頼まれて、『うん』と言って、そのまま放置しておくのは、わが国の法律では重大犯罪になっておる。これは法律を調べないとならんのだが……」
「えーと、正確にはボクは『うん』と言ったわけではありません。でも……」
――そうなんだ……金色の尾羽のウミネコが死んでしまったので、渡そうとはしていなかった……
急いで銀色の羽根を引き抜く。
「お嬢様、それはいまかいまかとずうっと待っていたのではありませんかな」
「教えてくれてありがとうございます」
「なんの、なんの、ふわっふわっふわっ」
オオトカゲはぎしぎしとそっくりかえる。
羽根の先をウミネコの首に当てる。そのままやわらかくなぜおろすと羽根の光が増し、ウミネコの体全体を包むようになる。
スポットライトが消え、ペンライトも消え、羽根からの光だけになる。
ウミネコに何かがおこる。露天風呂は闇の中でしーんと静まり返る。
――これは……きっとくる。
マイはゆっくりと羽根でなぜながら、ある感触が手に伝わってくるのを待つ。
暖かな風がふわっと寄せてきて、温泉の湯煙がゆるやかにうずを巻き、ウミネコを包み、そしてその時が訪れる。
ドキ、ドキ、ドキ……。
鼓動が始まる。
「ああ、ウミネコさん」
ウミネコのくちばしがかすかに開く。わずかにできたすきまに、銀色の尾羽の軸をはさむ。光はますます強くなる。
――運命がおのずと変わるとは、こういうことだったんだ。
「目があいたわよ」
桜が言う。
「ほんまやで。生き返りなはった」
「これは、すごいことでごんざります」
ウミネコはぱちっと丸い目を開け、銀色の羽根をしっかりとくわえ、すっと首を持ちあげる。
照明がいっせいにともる。
「ふわっふわっふわっ」
オオトカゲの笑いが感じよく聞こえる。
ウミネコは首をまわし、銀色の羽根を自分の金色の尾羽の脇に差し入れる。そして、自分の体の各所に目を配り、ゆっくりと翼を広げる。
マイはウミネコの脚を支え、頭上高くにかかげる。ウミネコは翼をわずかに上下に動かす。露天風呂全体に拍手が静かに広がる。
ウミネコは両方の翼に目を注いでからそっと閉じ、
「ありがとうございます。あなたのおかげです」
「いえ、ボクではありません。銀色の羽根の力です」
オオトカゲは、
「あっぱれあっぱれ、めでたしめでたし、ハッピーハッピーハッピーエンド、これでおしまい、また明日と、あとは湯につかってぐだーっとできたらいいのだが、無粋にもこの裁判を継続させなければならないのが、わしのつらいところでありますな。わしは、真面目に懸命に公平に沈着冷静にと、こちらのお嬢様とお約束をしましたし、なんといってもわしは法の番人、裁判官にして裁判の進行を放棄するのは、むろん重大事件でもありますからな」
オオトカゲがのろくさくぐだぐだぼやくかげで、ウミネコは小さなささやき声でマイに、
「私にはまだ飛ぶ力がないようです。肩を貸していただけますか」
「どうぞ、ここにいてください」
マイはウミネコの脚を支えて肩に乗せる。
オオトカゲは大きくため息をつくと、金縁メガネをちょこんとあげ、しっぽで一発ぴしゃりと湯をたたき、
「ではでは、ここに高らかに『知恵の裁判』の始まりを宣言してですな、話は早い方がよろしいのでありますからして……」
ここから急に早口になり、
「さくさくっと進めて、先ほどお嬢様が高邁なるご高説を陳述されたところまではもうよろしいとして、それに続いて何か意見の陳述を希望する者がおられますかな？」
オオトカゲは小さく跳び、両手、両足をぱっと前に突き出し、しっぽを起点にしてくるっと1回転し、
「だれもいませんな。ふーむ、お嬢様のご高説を聞いて、もやはぐうの音も出ないということでありますな。さすがたいしたものでありますな。されば、意見の陳述はすべてすんだということでよろしいですかな」
2・7秒間でそこまですませて、にたりと笑い、両足で立つ。
マイは手を大きく振りあげて、
「ちょっと待ってください。いまのは早口すぎて何を言っているのかよくわからなかったです。それで意見陳述を打ち切りにするのっておかしくないでしょうか？」
「どっかの国の国会審議よりもおかしいですかな？」
「そんなこと知りません。それに、確かめておきたいことがひとつあるのですが、そもそもボクが話をしたときにあなたはこの場にはいなかったではないですか？」
オオトカゲはいかにも面倒そうな顏で、また早口で、
「確かめておく必要がありましょうかな。お嬢様が熱演されていたときにわしがこの場にいなかったのはここにおられる紳士淑女の皆様があまねくご存知の通りでありまして、アリバイも完璧です。いかに不埒な検察官といえども、わしがそのときにこの場にいたという濡れ衣を着せることは不可能であるとわしは確信しております。お嬢様が、わしはこの場にいたと冤罪をおっかぶせようといかに画策されたところで、そのような不正義は断じて成功することはないとご忠告申しあげるものであります」
マイはわざとのろくさく、
「あのですねぇ、そーんな画策はだぁれもしませーん。とぉーにかく、あなたはですよぉ、ボークの下手な落語もどきを、ぜーんぜーん聞いていなかったというのは、ゲーンゼーンたる事実なわけですよね」
オオトカゲは口をまったく動かさずに早口の度をさらに強め、
「お嬢様、ものごとは正確にご理解いただきたいものですな。わしはこの場にはいませんでした。それはおっしゃる通りに厳然たる事実です。しかしながら、そのことと聞いていなかったというのとは等価ではありません。等価ではない証明は簡単です。わしは法の番人、法の番人はすべてを見通していなければならない、よってこのわしはすべてを見通している、すべてはすべて以外の何ものでもない、よってお嬢様のご高説もその中にはいる、したがってわしは聴いていた。かようなきわめて単純明快な直線の論理によってわしが聞いていたことは証明されたのであります」
「あのですねぇ、わけのわからないことをペーラペーラとしゃべられても証明になんかになっていません。でたらめです」
オオトカゲはさらにスピードアップし、
「おやおやおや、先ほどは冷静になられたご様子でありましたのでわが国の粛々淑女大臣賞にご推薦してもよろしかろうかと思ったのですが、お嬢様閣下におかれましては、またしてもカッカとなさってきたのではありませんかな。法廷においてはどうか冷静に願いたい。法廷とは言うまでもなく証拠と論理によって白か黒かを明白にする場であります。感情に左右されるのは有益ではないのであります。しかし、よろしいでしょう、お嬢様閣下がいつまでもカッカされているのはわしとしても不本意であり、本裁判の進行の妨げともなりましょうから、この場にいなかったわしはお嬢様の熱演を耳にしていなかったと、あえて理非を曲げてですな、お嬢様の主張を暫定的に認めるという妥協案を提出させていただきましょうかな。どうです、それならいくらかご満足いただけますかな」
「満足も何も、それが事実ですから当然です」
「よろしい。されば、ここに遅刻してきたわしは、お嬢様の熱演を聞いていないし、ついでに、その前にだれかしらが発言したのも一切聞いていないと、そういうことであるとしてですな、そのことがですな、裁判にとって最も大切であると、先ほど論じた公平性をいささかも損なうものではないということは、声を大にして申しあげるものであります。なぜならば、わしはこれまでの意見陳述を何も聞いておらず、これからのすべての意見陳述にも耳を傾ける気はさらさらなく、すべてに対して一顧だにしないのであれば、完璧に公平だからであります。わしはいかなる声も聞かず、わが良心と法に基づいて判決を下すものであります。判決を下した後に、それがいかなる法律に基づくものであるかを、お嬢様はじめ、紳士淑女の皆さま方には、すでにこれまでも十分にしてまいりましたように、ていねいにていねいにご説明させていただきます。それがすなわち裁判官としてのわしの流儀であり義務なのであります。ふわっふわっふわっ」
笑いだけはいままで通りにのろっちく、それからオオトカゲはぎしぎしと胸を張り、しっぽでばしばしと湯をたたき、例のダンスを始める。
「あのですね、いまおっしゃったのは、ひとりよがりの1万パーセントのひどいでたらめじゃないでしょうか」
マイが抗議しても、オオトカゲはダンスを続け、マイの顔に湯のかたまりがびしゃびしゃ飛んでくる。
「もう、やめてください！」
オオトカゲに向かって湯をけりあげる。オオトカゲはダンスをやめる気配がまるでない。
「ここで私が話をしてもよろしいでしょうか？」
か細くウミネコが声を出す。
その瞬間にオオトカゲはぴたりと動きを止め、うやうやしくお辞儀をして、ゆったりとした調子で、
「ただいま意見陳述を求めるお声が発せられました。どうぞ、どうぞ。何度も申しあげますように、本法廷は公平性を重んじております。いま生き返ったばかりのあなたにも発言の機会は平等に開かれているのであります。そちらのお嬢様ばかりがペーラペーラとしゃべってこの場をずっと独占してるのは不自然でありますし、どうぞ、どうぞ」
「お許しくださりありがとうございます。私はいま目覚めたばかりで、これまでの皆様のお話は夢うつつの中でぼんやりと耳に響いていただけですので、ここで何かを申しあげる資格などは本当はないのだろうと思います。でも、この人へのお礼の気持ちも込めて、ひとつだけは申しあげさせていただきたいのです」
ウミネコはマイの顔を見る。
「人間の味方をするのか！」
どこからかヤジが飛ぶ。
「ボクにお礼なんか……。ボクは何もしていません」
「あなたのおかげです」
――キアシシギと同じなのか……ボクが助けたわけではないのに。
「ボクはここで裁かれる立場にあるのです。ボクは皆さんには好かれていない人間のひとりです。ボクのことなど気にかけないでください。あなたにとって不利益になるかもしれません」
「裏切るのかぁ！ やめろ、やめろ！」
マイの制止にも、ヤジにもかまうことなしに、ウミネコはぴんと首をのばし、そこにスポットライトが注がれ、
「私は思うのです。このような場で、知恵が善であるのか悪であるのか、白か黒かを分けることにいったいどのような意味があるのでしょうか？」
「話をごまかそうとするな！」
「裁判を妨害するな！」
オオトカゲはせきばらいをし、
「法廷は白か黒かを分ける場でありますぞ。しかしながら、それに対する疑義も含めて、発言の自由は保証されております」
ウミネコは続ける。
「他者の命を奪うことは悪といえるでしょう。私たちウミネコが生きようとするとき、他者の命を奪うという行為が必ず伴います。その行為のために知恵が発達してきたのは間違いのない事実です。悪を避けようとするのなら、私は他者の命を奪うことをやめなければなりません。それは私自身の命を殺すことになります。私の命からすればそれは悪といえるでしょう。善であるのか悪であるのかふたつに分けたのでは行き詰まってしまうように思います」
「やっぱりだ、話をあいまいにごまかそうとしているんだ！」
「花はなんのために咲くのでしょうか？ 子孫を残すためでしょう。花が咲くと、蜜を吸おうと昆虫や小鳥が集まってきます。花から花へと昆虫や小鳥が飛ぶことで花粉が運ばれて、植物は実を結ぶことができます。昆虫や小鳥が蜜を吸うのは自分の命を生かすためであって、花粉が運ぶことを目的としたものではありません。自分の命を生かすための行為であるという点では、私たちウミネコが他者の命を奪うことと同じと言えるのではないでしょうか？」
「そうやって、自分を正当化するのか！」
「生き物はすべて単独では生きて行けません。一方では他者の命を奪い、一方では他者の繁栄を手助けします。その一部だけを見ると、善とも言え、悪とも言えます。善か悪かの二分では全体を見失ってしまうのではないでしょうか？」
「きたないごまかしだ！」
「善か悪かを超える可能性はないのでしょうか？」
――ああ、そうだった。ボクってどうしてにぶいんだろう。大ダコだ。大ダコに、体と心とどっちが偉いと思うかと聞かれたときに、そういう比べ方は好きではないとボクは答えた。あのときはなんとなくわかっていたのに、この「知恵の裁判」にきて、知恵が善か悪かのふたつにひとつを選ぶということにとらわれすぎてしまった。やっぱり大ダコは稽古をつけてくれていたんだ。それなのに、ボクはそれを活かせなかった……。
「もしかすると私たち生物は生物界全体を包み込むような新たなものを手にしつつあるのではないかと思うのです。きっと皆さんは甘いとおっしゃるに違いありません。でも私はそこに可能性を見たいと思うのです。それは……」
ウミネコは首を曲げ、ためらうようにしてから、
「美と愛です」
その瞬間にスポットライトが消え、
「あまーい、あまーい、おおあまだ！」
ヤジが四方から投げつけられる。
ウミネコはひるまずに、
「植物と昆虫や小鳥との関係はより美しい花を生み出してきました。それが美の一例です。親が子を育むこと、雌雄が互いに相手を求めることが愛を生み出しました。雌雄の関係は相手をひきつけようとしてより美しいものを生み出しました。美と愛は密接に結びついています。生物界は食うか食われるかの、あたかも善悪に二分されるだけのような関係から、美と愛によって密接に結びつきあう関係へと発展してきているのではないでしょうか？ 生物界全体を包み込むような新たなものがそこから生まれてくると私は思いたいのです」
「おまえが勝手に思っていればいい！」
「新たな可能性の芽を、私は、他の生物を美しいと感じ、他の生物を愛する心に見たいと思います。そのような心はいまようやく地球上に生まれたばかりです。その心は例えば私を救ってくれたこの人に具わっています」
――ボク？
マイは首を強く横に振る。
「笑わせるな！ 茶番だ！」
「いいえ、私もウミネコさんと同じように思います」
その声とともに、キアシシギが飛び出てきて、
「この人は私の母を救ってくれようとしました。そこに人間の愛のこれからの可能性があると私は信じたいと思います」
マイはもう一度、首を強く横に振る。
――ボクはどっちも救っていないんだ！ 愛と美とか言われても……そんなメルヘンの世界ではないんだよ。ろくでもない世界なんだよ。
ウミネコは言う。
「キアシシギさんの言う通り、可能性なのです。人間の知恵は皆さんが指摘されている通りに、悪と断ずべき多々の要素があります。しかし、可能性があるのです。人間の知恵は現在の地上では最も優れた知恵なのでしょう。人間の知恵は人間だけのものではありません。花の美しさが花だけのものではなくて虫や鳥とともに生まれたように、人間の知恵も生物界の中でほかの生物とともにいっしょになって生まれてきたのものです。人間だけがこの世に存在できないように、人間の知恵も生物界なくしてはこの世には存在できません。生物界はなんのために人間の知恵を生み出したのでしょうか？ 美の可能性、愛の可能性のためではないでしょうか？ たしかにまだまだ不完全です。だからといって、可能性を無にしてはいけないと思うのです。私は申しあげたいのは以上で終わりです」
ウミネコは口を閉じると、そのままがっくりと首を垂れる。生き返ったばかりで気力を使い切ってしまったのだ。
「くだらん！」
「たわごとを言うな！」
「笑わせんな！」
怒号が飛びかい、ウミネコの体がぐらっと傾き、肩から落ちかける。マイはあわてて左腕でまた抱える。
「ありがとうございます。ボクのために話してくださって……」
ウミネコはぐったりと目をとざす。
――だけど、いまのは買いかぶりすぎ……。
ヤジがおさまると、金太郎が立ちあがり、
「いまのはまことによろしゅうおましたなぁ」
ぱちんぱちんと手をたたくが、ごくまばらな拍手が続くだけで、
「さようか、こんなもんでっか。ちいっとさびしいでんな」
頭をかきながらひっこむ。
キアシシギもさびしげに露天風呂の縁に歩み去る。
オオトカゲは、
「ほかに意見陳述はありませんかな」
今度はゆっくりと露天風呂を見わたして、
「もうよろしいですかな」
マイはするすると右手をあげる。
「ほっほう、またお嬢様でございますか。結構です。お嬢様は被告であります。法廷の完璧な公平性を期するには、被告にはお好きなだけご発言いただけるようにしないといけませんからな」
ここでマイは言うべき何かを用意して手をあげたのではなかった。
――このまま黙っていたのでは、ウミネコの弁護を自分に都合のいいものとして認めたことになってしまう。
ウミネコがもぞもぞと動こうとする。
――止めないで！
マイは中央へと進み出る。耳にお囃子は聞こえてこない。
スポットライトがマイを照らす。
――今度は論理的に話さなければ……。
「ボクは人間です。だから被告としてこの場に呼ばれました。ボクは人間なので、ボクはよく知っているのです。人間の知恵はひどく未熟で、人間の愛はひどく偏っています。好ましいものには愛をそそいでも、それほどでもないものには知らん顔で冷淡です。生きるために、お金をもうけるために、知恵を使ってそれこそ勝手なことをなんでもします。悪いことにはたっぷり知恵を働かせ、よいことには少ししか使いません。ほかのものへの愛ではなしに、自分自身への愛でもって知恵を使い、愛よりも憎しみをもって知恵を使います。そんな人間の愛など、信頼するに値しないとボクは思っています。美についてはむずかしくてわかりません。人間が美しいと感じるのは、やっぱり自分勝手であるのだろうと思います。この裁判でボクは人間の代表であるかのようにここに立っているわけですが、人間を弁護する気にはなれません。さきほどボクは下手な落語を披露するのでせいいっぱいでした。ああ、ボクは……ボクはいま何が言いたいのでしょう……なんのために手をあげたのでしょう……ボクが言いたいのは……この世界をますますろくでもないものにしている人間の知恵をどうか信頼しないで……」
ここでマイは息を継ぎ、レアの走っていた姿を思い起こす。
――レアは自分が地上でいちばん速いはずだというプライドのために命をも失うような勝負をする。人間にもしも自分たちが地上でいちばん知恵があるとのプライドがあるのならば、そのために命を失うような勝負をすべきではないのか？ 肉体をもたない人工知能なんかに知恵のトップランナーの地位を明け渡さないためにも、レアのように走り続けるべきではなのか？
「違います……ボクが言いたいのはそういうことではないのです。人間の知恵を人間であるこのボクが非難するのは卑怯であるように思えてなりません。ボクは人間です。人間であるからには、あくまでも人間の知恵を弁護し、矢が尽き、刀が折れるまで、この法廷で闘うべきなのです。みなさんのすべてを敵にまわしてボクは闘わないといけないのです。この世界をますますろくでもないものにしている大人たちと、結局ボクは同じ人間です。ボクはいくら非難されても知恵をしぼり続けないといけないのです。
もっと正直に言います。ウミネコさんは人間の知恵の可能性についておっしゃってくださいました。ボクのための過剰な弁護であるのは明らかです。でも、可能性はまったくゼロではないとボクも思いたいです。それはもちろん人間の身びいきではあるのですが……。
あっ、いま、思い出したことがあります。ボクは鳥の翼が生み出されてきた歴史を聞いたことがあります」
それはオバコちゃんに聞いたことだ。
――オバコちゃんだ！
ここであえてオバコちゃんの名を出そうと考える。オバコちゃんがこの夢と何か関係しているのではないかとマイは何度か感じた。オバコちゃんの名を出すことで、ひょっとしたら思わぬ展開が期待できるのかもしれない。
「いまから申しあげることは鳥マニアのオバコちゃんから教わりました。オバコちゃんです。オバコちゃんは言いました。オバコちゃんは、進化にはなんのためにといったような目的はないと言ったのです」
オバコちゃんと4回連続して言っても完全にスルーされる。
――水戸黄門の印籠のようにはいかないのか……。
マイはおじけることなく、
「鳥の翼は空を飛ぶことを目的として進化してきたものではありませんでした。翼の最初は、飛ぶということとはまったく関係なしに、腕のまわりを包むふわふわとした毛のようなもので、体を保護するか、体を暖めるためのものだったそうです。それがだんだんと大きくなって、あるときからは、速く走るときにからだをふわっと浮かせてくれる便利な道具になりました。たまたまそうなったのです。そして、枝から枝へ飛び移ることにも使えるようになって、だんだんと空を飛ぶ翼に近いものとなって行ったのです。初めは飛ぶこととはまったく関係のなかったものが、たまたま空を飛ぶ翼になって行ったのです。人間の知恵は、たぶん翼の話でいうと、腕のまわりに毛がふわふわついた程度なのだろうと思います。この先、知恵がどのようになるのかはまったくわかりません。翼で空が飛べるようになるまでに必要だったのと同じくらいに長い長い時間がたったころに、知恵とはこういうものに進化してきたのだと、振り返ってみることができるようになるのでしょう。いまの時点では、知恵は美と愛に向かって進化して行くとかいうようなことはまったくわからないのです。遠い将来になって振り返って、人間の知恵は進化の途上の、たぶん失敗作であったとされるのではないでしょうか。ボクはいまそのように思っています」
そこでことばが尽きて、スポットライトが消える。
冷たい風がさあっと吹いてくる。
――ああ、ボクはいま何を言ったのだろう？ 何が言いたくて手をあげたのだろう？ なんだかわからない。なんだかわからないし、ボクに言えることはもう何もない。さっきの落語よりひどかったのかもしれない。
なんの反応もなく露天風呂は完全に静まり返る。
しばらくしてオオトカゲはおもむろにせきばらいをし、
「では、ほかに意見陳述はありますかな」
ギシギシと露天風呂を見わたす。
桜がぼそっと、
「なんか雰囲気が重すぎるわ。辛気臭い裁判はここらで打ち切りにして、、『おつかれさん。あとは楽しくみんなでぱあっと乾杯！』ってなことには……きっとならないか……」
そのつぶやきが露天風呂全体に響いてしまうほどに静まり返っている。
オオトカゲは一周見終わると、ばしっとしっぽで湯をたたき、
「もうありませんかな。意見陳述は自由にいくらでもやっていただいて結構ですぞ。いまお嬢様はいみじくもおっしゃったように、人間の知恵の進化の結果を見届けるまでのながーいながーい時間を意見陳述に費やしてもわしは一向にさつかえないと思っております。よい退屈しのぎになりますからな。どのような意見も結構、いかなる突飛な意見も歓迎です。憎悪に満ちた醜い罵声も、偏見に満ちた愚かしい意見も、なんらさまたげるものではありません。それによってこの裁判の場がどれほど荒れても、裁判の公正さはいささかもゆらぐものではありません。なぜならば、先ほど申しあげました通り、いかなる意見陳述もわしには聞く気がいっさいなく、さらに言えば、よろしいか、判決はすでに決まっているからでありますぞ」
オオトカゲはにんまりとして、
「ふわっふわっふわっ」
よだれを垂らしながら、高らかに笑う。
それを聞くと、気落ちしていたマイであっても、何か言わずにはいられなくなる。
「あのう、それってどういうことでしょうか？」
オオトカゲはマイの方を向いて、直立不動の姿勢を取ってから、上体だけをメトロノームのように左右に90度ずつビローンビローンと傾けながら、
「どういうことか、どういうことか、どういうことか、どういうことかって、それはお嬢様はとっくにご存知でありましょう」
「ボクがですか？ ボクが何を知っているんです？」
オオトカゲは静止し、
「忘れてもらっては困りますな。重大なことですぞ。わかりませんかな」
「わかりません」
「いやはや、手間のかかるお嬢様でありますな。判決はすでに下っておるではありませんか。また繰り返すのですかな。わしはしつこいのはきらいでな。島であれほどていねいにご説明しましたのに……」
「あれは、だって関係ないでしょう！」
オオトカゲは顔をひんまげ、しっぽでばしばしと湯をたたき、
「神聖なる国法にもとづいて言い渡した判決でありますぞ。いまそれをまた繰り返さないといけませんかな？」
「あんなでたらめがなんだと言うのですか？」
「あのとき、よおくご説明しましたぞ。あなたがたのお国の法律の方がよっぽどでたらめであるということは……」
「あれと、この『知恵の裁判』と、どういう関わりがあるのですか？ 関係ないでしょう！」
「そこんところは、お嬢様がご自分でよーく考えていただきたい。うまくすれば関係づける屁理屈のひとつやふたつ、千や万くらい出てくるでありましょう」
「めちゃくちゃ言わないでください」
「お嬢様のために一点だけお知らせしておくとですな、わが神聖なる国法は実に慈悲深いもので、一度死刑の判決が下ったものには、もうそれ以上の刑を加えないことになっておるのでありますぞ。つまり、2倍悪いことをしたからといって、2度死刑にはならない。だから、死刑が決まった後こそはチャンスで、たとえ立ち小便のような重大な犯罪でも、銀行強盗のようなチャチな犯罪でも、やったもん勝ちということになる。言ってみれば、死刑の判決を受けたらしめたもんで、無敵ということですな。不死身と言い換えてもよろしかろう。というわけで、お嬢様は、幸運にも、島において、めでたく死刑の判決を受けておるのだから、ここの『知恵の裁判』でも同じ死刑の判決が言い渡されるだけなのであーる。よーくわかりましたかな」
「ちょっと待ってください。これは『知恵の裁判』でボクの裁判ではないはずです。島での裁判と『知恵の裁判』との関係をあなたは説明できていないではありませんか。それに、島では『知恵の裁判』なんて知らないって、あなたはおっしゃっていなかったですか。それにですよ、ボクの死刑は砂漠で消えたはずです。特赦ってあなたがご自分で叫んだではありませんか」
「ほっほう、いろいろとつっこんできましたが……そうでありましたかな……なにしろ砂漠でしこたま飲んだので、あの前後のことはさっぱり覚えておらんのだ。どうやらわしには記憶障害の疑いもあって……」
「世界中にとどろくお声で『特赦』ってお叫びになりましたのを、スマホで撮っていた人がいっぱいいましたから、ネット上にきっともうたくさんの画像がアップされているはずです」
「ふうむ……ストロボをたくさん浴びたような気はする……すべてはＣＧであると強弁するのも見苦しい……ぶはっ！」
オオトカゲは急に口調を変え、
「やあやあ、ウミネコくん、ウミネコくん、そこにいるのはウミネコくんではありませんかな。わしは、おまえさんがまっすぐ南に飛んで行くのを見ておったのですぞ。あれはすばらしいものだった。おまえさんの目はまっすぐ前だけを見ておった。おまえさんは一生懸命だった。おまえさんの気高さにわしは胸を打たれ、この世に重大事件がもう2度とおこらないように、わしに死刑の判決を出させるようなことなど決してもうないようにと、わしは天に祈り、地に祈り、海に祈った。一生懸命に祈った。それなのに、お嬢様、あんたが現れて、わしの願いをたちまち打ち砕いてしまった。何しろ、わしの目の前で重大事件がおこってしまったのですからな」
「何が重大事件であるものですか。ご自分に都合が悪くなってきたので、話を変えてごますそうというのですか？」
「よろしい。ここはお嬢様の疑義を率直に認め、特赦によって先の判決はチャラになったということでよろしかろう」
オオトカゲはぐっと腰低く身構え、ドスドスと横綱の土俵入りのように四股を踏み、例の黒い表紙の本を使って湯をバサーっ、バサーっと動かし、
「こうして一切を水に流して、チャラチャラのチャラ！ チャラチャラのチャラ！」
オオトカゲは雄叫びをあげながら得意のダンスを始める。
「チャラチャラのチャラ！」
露天風呂の一同が手拍子で囃し立て、スポットライトが縦横に走る。
マイは呆然と見ているしかない。
オオトカゲは数分間のダンスを終えると、
「ぶはっ、これよりわしは初心に立ち返り、ウミネコくんに習って、気高くも裁判官としての勤めを清く正しく務めることといたそう。ではすまんが、もう1回ファンファーレを鳴らしてもらいたい。あれがないと気分が出んのでな」
「あのう、裁判は最初からやりなおしなのですか？」
「お嬢様の疑義によりかようになったのであーる」
オオトカゲは黒い本を振ってしずくを払いながら、
「神聖なる法にもとづいて粛々と進めるといたそう」
オオトカゲにスッポットライトが注がれ、メガネの縁をちょんとあげてエリをただし、黒い本をがしっと抱え直し、もったいぶった態度で後ろにふんぞり返り、
「開廷！」
鳴り出したのは高らかなファンファーレではなく、三味線、太鼓によるお囃子で、ひどく調子っぱずれな『どんぐりころころ』だ。スッポットライトがすっと光を失い、石ころが湯からあがって赤いじゅうたんの上をころころところがり出す。
オオトカゲは立っていられる限界ぎりぎりまでふんぞりかえっていて、石ころがころころと進んでそのアキレス腱のあたりにちょこんとぶつかる。そのわずかな衝撃で、オオトカゲはすてんころりんとバランスを崩し、両足が天を向き、かろうじてしっぽで全体重を支え、そこに力がはいりすぎて、バネの反動のように逆に前にビローンとつんのめり、
「おっとっとっと……」
なんとかして立とうして手の方がお留守になり、黒い本がぽろっと落ちて、湯の上にばさっと大きく開かれる。そこにスポットライトが当たる。
そのときマイはしっかり見る。
「ああ、いかんいかん。神聖な国法を……」
オオトカゲはぎっくりばったり不細工に動いて本を拾いあげようとして、手がすべって、ばさっと別のページが開かれてまた落ちてしまう。そこにスポットライトが当たる。
そのときマイはしっかり見る。
「うっほん」
オオトカゲはせきばらいをし、もがくようにして今度はなんとか拾いあげることに成功し、何くわぬ顔で小脇に抱える。
お囃子が止む。
「では、神聖なる国法に基づき、公平にして公正なる裁判を行うことといたそう」
マイは手をあげ、
「あのう、オオトカゲさん。ボクは見てしまったんですけれど……」
「ほう、お嬢様、どうかなさいましたかな。この期に及んで裁判の進行を邪魔なさる作戦ですかな？ 裁判の妨害となりますと、むろんこれも重大事件でありますぞ。本来ならここで、わが国の法律を調べるところなんだが」
本を抱え直したところで、
「その本はもしかすると、どのページもまっ白なのではありませんか？ 何も書いていないその本が神聖なる国法なのでしょうか？」
オオトカゲは悠然とマイに向かって一礼し、
「ほっほう、ご覧になりましたか？ 実に結構。わしは何も隠しはしません。この本は神聖なる国法を記したもの、しかしてどのページもまっ白である。疑いあらばとっくとご覧いだたきましょうかな」
オオトカゲは姿勢をただすと、メガネの縁をちょんとあげ、大きな本をばっと開き、それを外に向けて両手で高くかかげ、しっぽの上に全体重をのせて2本の足も前に突き出した格好でゆっくりと回転を始める。本にスポットライトが注がれ、オオトカゲはページをさーっとめくって皆に見せる。
「ほら、まさしくすべてまっ白でありますぞ」
オオトカゲは2本の足で立ち、
「では、諸君、この本の背中をよーく見ていただきたい」
黒い本の背には金文字がある。妙にくねくねした字で書いてあるのでひどく読みずらいが、よくよく見ると、
『すべて書いてあることは嘘の大法典』
オオトカゲはよだれを垂らしてにたりと笑い、
「ということで、ここには何も書いていないのであるからして、わしの言うことはすべてが真実なのであーる」
オオトカゲは胸をどんとたたく。スポットライトが消える。
「それって、意味がありません」
マイが言うのをオオトカゲは無視して早口になり、
「ここは神聖なる国法に基づいて行われる裁判の場。基づくべき国法について論じ出したならば論理矛盾を起こすのは論理学の初歩の初歩でありますぞ。というわけで、いとも厳かに『知恵の裁判』の開始をここに宣言したからには、粛々と進めて行ってですな、その結果として、これより判決を下すとする。判決！」
オオトカゲはまた雄叫びをあげる。スポットライトがまたつく。
「ちょっと、ちょっと、それはおかしくないですか。さっき『開廷』と言って、まだ何もしていませんよ。それでいきなり判決っていうのはありえないと思います」
「いきなりではない。粛々と進めましたぞ。わしはいますべてを見て、すべてを聞いた。それで、全部わかった。神聖なこの国法はすべてお見通しであーる」
「すべてを見て、すべてを聞いたって、いつ見たり聞いたりしたのですか？」
「だからわしは、『いま』と言ったではないか」
「いまって、いつですか？ お囃子が鳴ってからだってものの5分もたっていませんよ。そのほとんどは、その本がまっ白だっていうことに費やされてしまったし……それで、何を見て何を聞いたんですか？」
「わしは言ったはずだ。すべてを見て、すべてを聞いたと。すべてとはすなわちすべてであーる」
「だれも何も言っていないではないですか？」
「一例をあげれば、お嬢様は、バカは死ななきゃ直らない、と言いましたな」
「そんなこと言ってません」
「そうかな。お嬢様は人間の知恵は未熟だと言われた」
「ええ、それは言いました。だけど、それはあなたが『開廷』と宣言する前です。その前のことはチャラチャラのチャラになさったのではないのですか？」
「前だの後ろだの、見方を変えれば簡単に入れ替わる」
「とにかく、前でも後ろでもいいです、『バカは死ななきゃ直らない』なんてことは言ってません」
「わしらの誇るべき先祖の恐竜が滅んで、お嬢様方の哺乳類が栄えることになった。そのくらいのことはお嬢様もご存知であろう」
「ええ、恐竜の時代にも行きましたから」
「お嬢様はさきほど進化について深い洞察を巡らしておられましたから、わしが申すまでもなく、未熟な知恵の持ち主である人間が滅んで、初めて次の知恵の持ち主が出てくるということになるであろうことは容易にご推察なさるところでありましょう。つまり、人間のようなバカは死ななきゃ、地球によりよい知恵は生まれてこない、そうは思いませんかな」
「それはまあそういうことであるのでしょう」
「というわけでだ、わしは深い深い思索の果てに、バカを直そうと考えるものでありますぞ」
スポットライト以外の照明が落とされ、オオトカゲのまっ黒な姿だけが浮かぶ。
オオトカゲがぎしぎしと背筋を伸ばしてカッコをつけている間に、マイは少し考え、そのまま口に出す。
「あのですね、ボクはさっきケチべえさんの話をしました。ケチべえさんは頭に生えて大きくなりすぎた桜に手を焼き、ひっこ抜きました。ケチべえさんは悲嘆のあまり、抜いた後にできた海に飛び込んで自殺しました。ボクはいまここでケチべえさんと同じ思いを抱くに至りました。地球は大きくなりすぎた人間の知恵に手を焼き、このような裁判を開かなくてはならなくなったのだと思います。ボクは自分の話したことに責任を持ちます。人間のしていることは、ケチべえさんと違って、ほかの生物もまきこんだ壮絶な自殺行為です。ほかの生物すべてを巻き込んだ無理心中のようなものなのかもしれません。それを避けるのはケチべえさんになるしかないのだと思います。手に負えなくなった知恵をひっこ抜いて、人間の知恵の次に、ウミネコさんやキアシシギさんが本当の可能性を見出せるような新しい知恵が生まれ出てくるであろうことに地球の未来を託したいと思います。だから、ボクは決めました。裁判官が島で下された判決を受け入れたいと思います。」
オオトカゲはぴょんと跳ね、
「いやはやいやはや、お嬢様におかれましてはまことによいご決心でありますな。ふわっふわっふわっ」
オオトカゲの笑いがいままでほどには不快ではない。
――オオトカゲの判決を待つより潔くふるまいたい。ボクはゴローなんだから……ん？ ゴローなら、なんかまだ言うべきことがあるのかも……オバコちゃんが言っていた、「ゴロー君を成長させてあげて」……それはどうすればいい？
オオトカゲは黒い本を構え直し、
「では、神聖なる国法に基づいて、『知恵の裁判』の判決の主文を被告人に言い渡すとしますかな」
「お願いします」
マイはオオトカゲの前に立ち、ウミネコに目を向け、
――運命がおのずと変わって生き返ったのだから、ボクの役目はもう終わったんだ。でも……ゴローは……
「まっすぐ前に！」
ウミネコが小さくつぶやく。
――ん？
反射的にマイは足をわずかに前に出す。
石ころが、オオトカゲのしっぽの先から向こうへところがって行きつつある。
――ん？
オオトカゲは黒い本を上にかかげ、
「すべては白紙、すべては白紙、すべては白紙！ 神聖なる国法に基づき、お嬢様にはご希望通りに死刑を宣告し、ただし、白紙の余地を残して執行猶予をつけ、あなたさまの首はしばし残してあなたにあずけておくといたそう。その首の上にあるガラクタ頭も、もしかしたら桜を生やすよりはいくらかましな使い道がまだあるかもしれんからな」
オオトカゲは悠然とせきばらいをし、
「執行猶予期間は次にお嬢様がもう一度ここにくるときまで。それまでの間に、そのガラクタ頭をせいぜいうまく使って、1人でも1匹でも1本でもいいから笑わせることができて、笑いの輪を1ミリでも広げるるのならば、次回の法廷で判決を取り消すこともあるであろう。なぜなら、笑いとは知恵の最高の姿のひとつでありましょうからな。ふわっふわっふわっ」
――あっ！ それだ！ どうして？ どうしていつもボクは言われてしまうんだろう。ゴローならいまのそれを言わなければいけなかったんだ。ほかはいいけど、それだけは絶対に絶対に言わなければいけなかったんだ。なんで思いつかなかったんだろう。
オオトカゲは朗らかに笑いながら、
「これも、お役御免であーる」
黒い本を思いっきり投げあげる。
オオトカゲの手を離れ、見る見る小さくなって行く黒い本をスポットライトが追う。本はスポットライトの届かない先へといたり、夜空にとけこんで消える。その航跡に7色のきらめきが現れ、ふわふわと夜空を渡って行く。それはオーロラではない。
――あっ、あれだ！
見た瞬間にマイは理解する。
――あのときに、パチンと夢は割れてしまった。ちがう！ ボクが割ったんだ。だから、元凶はボク、ボクが黒幕なんだ！
「まっすぐ前に！」
ウミネコはまた小さくつぶやく。
マイは進み出る。
――そうだよ、裁判はまだ終わりではない。執行猶予は甘い。解決になっていない。夢を割ったことをボクはオオトカゲに言わなければ……金太郎が「たぶん心にあるんや」と言ったことをもっともっと考えないと……そして、夢を、夢を取りもどさないと……でも、それはどうやって？
石ころはころころと露天風呂の外に出て行く。