こうしてマイは石ころのちっぽけな物語の中を走り続ける
第13回 こうしてマイは抑えられない怒りに身をまかせる
走っても走っても海が続く。
太陽が西にまわって何度目かの夕方になる。
海一面に低い三角形の波が並んでいる。夕日を受けて波の頂点は白く輝き、波の底は深い青色に沈む。
不意に足が乱れる。
――ああ、美しすぎる。
海の上をすべるようにして投げかけられてくる光の中にマイは立ちすくんでしまう。
――一度過ぎたら二度ともどらない。
オオウミガラスの病いが突然自分のものになったかのように感じる。思えば、このような感覚はマイにとって初めてのものではない。
――この世にボクがいようがいなかろうが、時は進み、未来は過去になる。この一瞬はただ過ぎ去るだけのもの。ボクがどれだけ悩もうともそれは変わらない。
ゴローとして生きる決心がまだつかなかったころに、浜辺で夕日を見てはそのようなことを思っていた。そのときの苦しさはいまも消えていない。
夕日から目を離して前にいる石ころを見て、
――アイツにこんな気持ちがわかるのだろうか？
石ころには勝手に前に行かせてその場に立ち続ける。
――いまはここで少し考えていたいかも。あのころの気持ちと虹を見たときの気持ちと……もう一度きちんと考えたいかも。
もの思いに沈みかけたマイの耳に、ぱしっぱしっと水をたたくような音が飛びこんでくる。
――あれは？
夕日から目を放して前方を見ると、銀色のきらめきが湧き立っている。
水音はたちまち近づいてきて、きらめきは何千、何万というトビウオの群れになる。トビウオが波の上に飛びあがると夕日を反射してきらりと光り、波の間に降下すると海の色に溶けこむ。
ざああっと、トビウオの跳ね飛ぶ音の中にマイは飲みこまれる。びゅんびゅんとトビウオが脇を飛び抜け、後から後から現れるトビウオの多さに海も空も見えなくなる。
「たいへんだ、たいへんだ、たいへんだ」
前のものがそう言うと、中のものが、
「いそげ、いそげ、いそげ」
そして後ろのものが、
「追いかけてくるぞ、追いかけてくるぞ、追いかけてくるぞ」
口々に言いながら通り過ぎる。
目の前の海面から跳んだ1匹のトビウオがマイの頭を越えようとして、胸ビレがパーカーのフードをひっかける。フードがめくれあがって、トビウオはすぽっとその中にはいりこみ、その勢いでマイはひっぱられてよろける。
伸び切ったフードの中でバサバサとトビウオがもがいている。マイはフードを引き寄せて、トビウオを出してやろうとする。
「ごめんなさい。急いでいるんです」
トビウオは泣きそうな声をあげる。
フードを裏返している間に、群れはあらかた通り過ぎて、海と空の視界が開けてくる。
「何をそんなに急いでいるんですか？」
「追いかけられているんです」
「何にですか？」
トビウオはパーカーから解放され、
「あなたも追いかけられているものです」
「ボクも？」
トビウオはぴょんと飛び、あとにひとつの言葉を残す。
「時間です」
マイの体がびくんと動く。
――だから、ボクがいてもいなくても、そんなことにはおかまいなしに時間は流れるって思ったんだ。
夕日は一段と低くなっている。
――ちくしょう！ 美しすぎるのがいけないんだ。
ＧＯＲＯの刺繍に触れる。
――きっと渡す、この尾羽を。あの太陽が沈む前に……。
いきなりそう決めて走る。
波の輝きがうすれかけている。
いままでになく速く走り、すぐに石ころに追いつく。石ころがスピードをあげ、マイもそれを上回るくらいにスピードアップする。
小さな点が水平線の彼方にぽっとあがる。
――あれだ！
瞬時に確信する。
――決意したのだから、こうなるしかない。
水平線までの何十キロかの距離をひとっとびで超え、はっきりとウミネコの姿が見えるようになる。
ふわっと宙に浮く。羽ばたきは小さく、いかにも力がない。
――もうすぐだから……。
銀色の尾羽に語りかける。
太陽はすでに水平線に触れ、するすると飲みこまれて行く。
――待って！
海面を走る光が淡く薄れ、その最後の一筋が金色の尾羽をきらりと輝かせる。ウミネコはすとんと海に落ち、太陽が姿を消す。
前のめりになってかけ寄る。
濃い藍色に変わった海面に翼を広げたままのウミネコが浮かんでいる。首は真北に向けられているが、ぴくりとも動かない。
がくっとひざをつき、ウミネコの顔をのぞく。目をとざし、波に揺られるままになっている。
――まさか……。
おそるおそる指先を翼へと伸ばす。触れて、なんの反応もない。
――何がおこった？
すでにそれは明らかだ。
胸の下に手を入れる。体は冷たく、鼓動は感じられない。
――どうして？
くちびるをかむ。
静かに引き寄せ、一瞬のためらいの後に抱きあげる。首と翼がだらんと垂れる。
銀色の尾羽のウミネコとかわした会話がよみがえる。
「ううっ」
小さくうなり、くちびるをさらに強くかんで、ウミネコを見つめる。
翼はぼろぼろで、首から胸にかけての毛はすっかり抜け、無数の傷が赤くむきだしになっている。
いたんだ翼をいたわりながらたたむ。
――ああ、どうして？
ＧＯＲＯの刺繍と銀色の羽根のあたりに首をそっとあてるようにして、しっかりと抱え直す。
――あと1分早ければ……。だから、太陽が沈む前にって、ボクは決心したんだ。
太陽が姿を消した水平線を見る。赤く美しく染まっている。
――美しすぎる。
すぐ横にいる石ころに目をやる。
「うーん。わかっているよ。君のせいではない。それははっきりしている」
――あのときに止まったのはボクなんだ。そうだよ、ボクだよ。君がもっと速くころがっていたらとか、君が急がせてくれていたらとか、そんなことは絶対に言わない。カッコ悪すぎる。
「これはボクのせいだ」
――いくらだって間に合わせることができた。あのときだけではない、ちょっとだけでいいから速く走り、一歩だけでいいから大きく踏み出していたら……。間違いなくボクのせい。あんときのキアシシギと同じだ。釣針をもっと上手に抜いていたら死ぬようなことはなかったんだもの。あんときも夕日が美しく沈んだ直後だった……。
心の内で思いがぐるぐるとまわる。
――ボクがいようがいなかろうが、時は進み、未来は過去になる。だけど、ボクのせいで……
「ちくしょう！」
海面をたたく。ぽろりとなみだがこぼれる。
「ばか！ 泣くな！」
――泣いたってどうにもならない。
ウミネコを見て、
――渡すって約束をしたわけではない……そんな言い訳は絶対にしない。絶対にしないんだけど、でも、渡すという約束をしなかったという事実にボクはしつこくこだわっている。ばかだよ。だって、渡そうって決心したんだよ。夕日の沈む前にって。そしたら間に合わなかった……だから、絶対にボクのせいなんだよ。
マイはウミネコを抱いたまま立ちあがる。もうなみだは出ていない。
海も空も色を失ってひとつの黒の中へととけこんで行こうとしている。
――なぜなんだ？
海面をぐっと踏みしめると、腹の底からこみあがってくるものがある。
――どうしてこういうことにならなくてはいけないんだ。おかしいよ。わかっているよ、ボクのせいなんだよ。ボクのせいだよ。だから、なぜなんだ？
心がぶうっとふくらんで破裂しそうになる。
それに耐えられなくなって、天に向かって叫ぶ。
「紅羅坊名丸のバカヤロウ！」
――ああ、意味がない。紅羅坊名丸のせいでないことはわかっているよ。だけど、天災だとかテキトーなこと言って、何でもかんでもあきらめたりさせるんじゃねえよ。何が「するが堪忍」だ。
「ばか、くそ、紅羅坊名丸のあほんだら！」
力なくののしって、マイはうなだれる。
――つまり、なんのパクリだか知らないけれど、夢だかなんだか知らないけれど、根性が悪すぎるよ。だから、みんなでくるっとまわってケツ向けて、「いままでのはぜんぶウソでした」って言って、おしまいにしちゃえばいいんだよ。ちくしょう！
文句を並べたところで、それは無意味で、ウミネコが腕の中にあるのはウソではない。
「もう、どうしたらいいんだよ」
――イルカが運命とかなんとか言っていた。これが運命ってこと？ 運命なんだからうなだれて感受しろって……そんなの絶対に許さん！ カンガルーなら、またひとつでたらめなだけだって言いそうだけど、それもアホらしい。これは運命でもでたらめでもなくて、ボクのせいなんだよ。
心が再びぶうっとふくらんで破裂しそうになる。
「てやんでぇ、くそ、ばか、かんちょうれいのバカヤロウ！」
天に向かって小さく叫ぶ。
――かんちょうれいって何かだって？ そんなこたぁ知るもんか！ 落語の中でだれかがそう言ってたよ。そのだれかだって知らないんだから、ボクが知るはずがない。運命だってあるんだかないんだかわからない。かんちょうれいと同じ。つまり、かんちょうれいがバカヤロウだからこんなことになったんだよ。
「くそ、ばか、かんちょうれい！ 許さん！ おとといきやがれって言うんだ！」
声が少し大きくなる。
――ああ、意味がない。無意味な言いがかりです。だけど、無意味なのは百も承知で、言わずにはいられないんだよ。
「かんちょうれい！ 許さん！ おとといきやがれっ！」
せいいっぱい大きく叫んで、星の出始めた天をにらんで立つ。
遠くで低く雷鳴がする。
――はあ？ かんちょうれいの野郎か？ 雷なんか鳴らしやがって。ふん、だれが驚くもんか。
ギシギシと天がきしみ、ドロドロドロと地球が揺れる。
――かんちょうれいの野郎、何をする気だ？
ぱっと電気をともしたように西の空が明るくなる。夕焼けの色がもどって、ぷるぷると空が波打って地平線からぴょこんと太陽が飛び出す。
――ん？
太陽はするすると天を昇り、たちまち東の空へと飛んで水平線に落ち、一瞬暗くなったと思うと、すぐにまた西から出てきて同じように天を飛んで東の水平線に落ちる。また暗くなって少しすると西の空が夕焼け色になって、今度はもう太陽は出てこない。
――これって、あれですか？ おとといになったっていうこと？ まさかでしょ。ボクの言った通りに、おととい、かんちょうれいの野郎が出てくるっていうの？
雷が鳴って稲光が海面を走る。
――ふん、たかが雷じゃないか。
びゅんと風が吹いて、海面がざわつき、夕焼け空はたちまちまっ黒な雲におおわれる。
マイはしっかりウミネコを抱き寄せる。
――かんちょうれいのくせして味なことしやがるぜ。
「やい、出てくるのか、かんちょうれい！ こちとら恐竜どもをこわがらせてきたんだ、かんちょうれいがなんだ！」
ひっきりなしに雷が鳴り、高い波が次から次へと押し寄せてくる。稲光の中で、マイの体は高層ビルのエレベーターのように上下する。
横なぐりの雨が降り、ピシッー、ピシッーと、海をふるわせてすぐ近くに雷が連続して落ちる。
――どうせ、こけおどかしのくせして……笑わせんな！
声を立てて笑ってみせる。
その瞬間に真昼よりもまっ白に明るくなり、いままでにない激しい雷鳴に、思わず首をすくめる。
――ふん、驚いたりなんかしていないから……。
まっ黒な空にざくざくと裂け目が入り、その向こうから金色の光があふれ出てくる。
――いよいよ、かんちょうれいのお出ましだな！
光の奔流とともにそれは出現する。
――ふん、過剰な演出だ。
竜が出てきて、雷はぴたりと止み、風も波も静かになる。
竜はぐぐっと首を伸ばし、マイをにらみ据え、
「おまえはわしを呼んだのか？」
海の底から響くような低い声だ。
「あなたを呼んだかって、そんなのボクは知りません。あなたがかんちょうれいなら呼んだってことにはなるのでしょう」
「運命を許さないと叫んだだろう？ だからわしはきた」
「そんなふうに叫んだのかどうか、そんなことわかりません。心の内でいろいろ思ったり、口に出していろいろ叫んだりして、いちいち覚えてなんかいません。怒っていたから……」
「そうだ、運命を怒っていた。だからわしはきた」
「運命に対して怒っていたかどうか、ボクは知りません。あなたは運命なのですか？」
「わしはおまえの問いには答えない。おまえはわしの言うことに返事をすればよい」
「そんな一方的なのは気分悪いです」
「おまえはわしの問いに答えなければならない。そうすれば、運命はおのずと変わるかもしれない」
竜の目が少しだけ動く。
――変わる？ どういうこと？
マイはウミネコをちらりと見てから、
「運命はどのように変わるのですか？」
「だから、わしはおまえの問いには答えない。おまえはわしの言うことに返事をすればよい」
「同じことしか言わないのですか？ だったら、繰り返すのはムダですね。どうぞ言いたいことを言ってください」
「では聞こう。ウミネコはおまえが着く直前に死んだ。もし、おまえがパイプをくわえたカンガルーだったらどうしたであろうか。運命を許さないと叫んだか？」
「カンガルーですか？ でたらめな世界にまたひとついつものようにでたらめがおこっただけだと、そう言ってパイプをくわえているだけに決まっているじゃないですか」
「カンガルーは運命を冷笑する。それで運命が変わることは決してない。では、もし、おまえがイルカだったらどうしたであろうか。運命を許さないと叫んだか？」
「イルカはうなだれるだけに決まっているじゃないですか。アホらしい」
「イルカは運命を悲しむ。それで運命が変わることは決してない。では、もし、おまえが波間に浮かぶクラゲだったらどうしたであろうか。運命を許さないと叫んだか？」
「クラゲですか？ 世の中のなるようになっただけ、そのようなことさえも思わずにいようとするでしょう」
「クラゲは己を運命とともにしようとする。それで運命が変わることは決してない。では、おまえはどうしたのだ？」
「どうしたのかって、見ていたんでしょう。怒ってかんちょうれいをののしったんです。だから出てきたんでしょう」
「どうして怒ったのだ？」
「そんなことわかりませんよ。わからないから、怒ったんです。怒るって、そういうものでしょう」
「おまえは、銀色の尾羽を渡そうとまっすぐに走った。金色の尾羽のウミネコはひたすらまっすぐに飛んでいた。それはなぜなのか？」
「なぜなのかって、ふたつのことを聞いているんですか？ ボクのことと、ウミネコのことを。ウミネコとボクは違いすぎてわかりません。ごちゃごちゃにして聞かないでください。どっちもわかりませんよ。わけがわからなくてボクは怒っているんです。よけいにイライラするじゃないですか。ボクはかんちょうれいに向かって、おとといきやがれって叫んだんです。あなたはかんちょうれいではないのなら、場違いにも出てきて、ただボクをいらつかせようというだけなんですか？」
竜はしぶい顔をして、
「よろしい。もうよい。おまえは怒り、わしの言うことに答えた」
竜はさっとおごそかな顔を作ってすっと首をあげ、おもむろに宣言する。
「されば、運命はおのずと変わることがあるであろう」
雷がひとつ鳴る。
「あなたが運命を司っているのですか？」
「わしはおまえの問いには答えない。もう一度言う。運命はおのずと変わる。それによってウミネコが生き返ることもあるだろう」
「本当ですか？」
竜はせきばらいをし、
「おまえは最善を尽くすがよい」
竜は長い胴体をうねうねとくねらせて天へと昇り始める。
目のくらむような稲妻が走り、いままでやんでいた雨と風と波が再び強くなる。
マイは雨と風と波にもまれながら、ウミネコをしっかりと抱えて竜を見送る。
――かんちょうれい……いったい何を言ったんだ？
空は再び黒雲にとざされ、竜は頭から消えて、最後に残った尾の先端から電光が放たれ、マイとウミネコはその光に包まれる。
世界が白くなってマイはぱったり倒れる。
「うーん」
気をとりもどしたのはそれからどれほどたってからだったのか。
――ここは？
家のベッドの上にいると思ったのは一瞬で、心地よくゆれる波の上に横たわっている。左の腕はなおもウミネコを抱いている。
あおむけのまま見あげる空には一面の星が輝いている。
――これはおととい？ それとも今日？
石ころのころがる音がする。
ウミネコを落とさないようにして立ち、
――また行くの？ どこへ？ 運命がおのずと変わるところ？ それは「知恵の裁判」の場？