錆びた槍
一
貞明元（九一五）年十二月、汝州官舎の奥のひと間。麻の布を床に敷き、中央の床几に座す一人の男。王彦章。純白の木綿を手に、静かに槍を磨く。足元にもう一本の槍。手入れがすんで、薄暗い部屋の中、冷たい光を淡く放っている。
この二本の槍を使えるのはこの世に王彦章のみ。各々の重さが百斤。槍の穂先から柄の根元まで鍛え抜かれたひとつながりの鉄。王彦章は三十年余にわたり梁国軍の先鋒をつとめる。一本を馬の鞍に、一本を手に、真先に敵陣に突入すると、前を遮る者はことごとく槍先に倒れる。王鉄槍と綽名され、敵はその名を聞くだけで震え上がる。
傍らに一通の手紙が投げ捨ててある。乱れた巻き紙の上に七月の日付。届いたのは十二月も十日ほど経った今日のこと。庭の片隅に放りこまれていたのを息子が見つけた。手紙の主は夏魯奇である。
夏魯奇は王彦章より二十歳余り若い。矟をよく使い、かつて同じ陣中に並んだ。ともに戦った敵の晋国に夏魯奇が走ったのは三年前だ。夏魯奇は気持ちの良い若者だった。外見は王彦章とことごとく異なった。背が高く、細面で涼しげな眼差し、柔らかな身のこなし、遠くより眺めても惚れ惚れする美々しい武者振り。王彦章は我が意のままに動かぬ弱兵を容赦なく殴ったが、夏魯奇は兵士一人一人の技量を見極めてから役目を与え、十分にそれが果たせ得ぬ者は丁寧に指導し、それでも使いものにならなければ村に帰した。若い兵士は夏魯奇のもとに配属になるのを喜び、王彦章の下になった者はそれを羨んだ。
手紙は晋国への帰順を誘うものだ。王彦章の家族は、次男と四男の二人を除き、晋軍の手にある。六月からだ。家族は晋の都に護送され、以来、丁重に保護され、晋王は王彦章がくるのを一日千秋の思いで待ち望んでいると、手紙にはある。夏魯奇の文章は、かつて耳にしていた穏やかな口ぶりそのままだ。晋王はかねてより王彦章の勇猛さに惚れ込み、王彦章に撃ち破られてもかえって賛辞を惜しまず、「なぜ我が軍中に王鉄槍がおらぬのか」と長嘆息していると、夏魯奇は書く。晋王の格別の恩顧も、ただし十一月末日が限度であり、家族の命はその後は保証されず、一日も早い決断をと、夏魯奇は手紙を結ぶ。王彦章はそこまでを読み、手紙を床に投げ捨てた。それより始めた槍の手入れは、二本目の柄から穂先へと進み、間もなく終わろうとしている。
「この槍に恥させはせぬ」
王彦章は槍の穂先に映る己の眼を見る。三十年余、敵を睨みつけてきた眼だ。
王彦章、五十四歳。汝州防禦使という軍の要職にある。しかし、官舎の門は閉ざされ、昼夜を通じて監視され、七月以来、一歩も門の外に出ていない。この官舎にくる前に、王彦章は晋王からの使者を切り捨てていた。それでもなお王彦章は疑われている。官舎の内にあっては、身を鍛え、槍を磨くよりすることがない。百斤の槍を自在に操る腕の筋肉は隆々と盛り上がり、槍はここ三十年余でも最も美しく輝く。時に夜には、息子に文字を尋ねつつ史書を繙く。
二本の槍のうちの一本を引っさげて大梁の門をくぐったのは二十一歳のときだ。郷里の近くにものすごく強い武将がきたと聞き、己の運を賭けた。同じように考えた腕自慢が五百人いた。その連中を見回し、「俺がこの長だ」と王彦章は言い放った。人々は怒った。「田舎からぽっと出てきた若造が、笑わせるな」。罵声を浴びせられながらも、王彦章は平然と部隊長の前に進み出た。「天が与えてくれた我が壮気に及ぶ者がここにいようとは思えません。ぐずぐず言うのなら勝負で決めよう。血気にはやる者は、何かというと、死など恐れぬと叫ぶ。ならば、裸足で荊棘の中を走るくらいは何でもないだろう」。人々はふざけたことをと嘲笑した。王彦章は即座に裸足になって荊棘の中を走り回った。棘が刺さろうが、血が迸ろうが、平然と笑みを浮かべ、人々はその姿に気を呑まれた。
大梁にきたものすごく強い武将とは朱全忠だった。盗賊上がりの暴れん坊で、黄巣の起こした大乱に飛び込み、後に黄巣を裏切って唐の朝廷に帰順し、皇帝より、黄河下流域を鎮めよとの命を受けた。朱全忠は王彦章の振る舞いを伝え聞き、「神人である」と褒めた。朱全忠は戦いに明け暮れ、王彦章はすぐに目立った働きをし、もう一本の槍を朱全忠から賜った。
槍の刃先に無数の傷がある。多くは晋軍との戦いで付いた。唐の末期、中原の覇権を巡って、朱全忠と李克用が激しく競い合った。朱全忠は梁国を興し、唐の皇帝から皇位を奪って即位した。対する李克用は、唐の復興を大義名分に掲げ、皇帝とはならずに晋国の王を称した。黄河流域一帯を占めて地の利を得た朱全忠が優位に立ち、北方の山がちな地にあった李克用は志を果たせぬままに死んだ。後を継いだのが二十四歳の息子の李存勗だ。父の仇を討つと心を燃やした李存勗は戦争の天才で、攻守がすぐに入れ替わった。朱全忠は形勢が不利に傾きつつあるなか病没し、その後継を巡って息子兄弟が争い、四男の朱友貞が二代皇帝となった。
朱友貞は即位してから一度たりとも戦場に立とうとせず、前線の将兵の信望を失った。国境に近い地域から晋に寝返る者が続いた。夏魯奇はその早い例で、深謀遠慮で知られた夏魯奇の行動は将軍連中の間に少なからぬ波紋を広げた。夏魯奇の気持ちは王彦章に理解できぬものではなかった。晋の李存勗は自ら死地に赴いて自軍に勝利をもたらす。梁の朱友貞は宮中の奥で豪奢な暮らしを続ける。死ぬか生きるかで戦場を駆け回る将兵に、二人のどちらを主君に選ぶかと問えば、答えは自ずと明らかだろう。しかし己は違うと、王彦章は思う。大梁の門をくぐってからの歳月がある。槍の傷にそれは刻印されている。敵を恐れさせてきたこの槍だ。それを手におめおめと晋王に頭を下げられるはずがない。
この槍を思うように使えなかったのはわずかに二度。一度は若いころ、次の一度はこの三月だ。その月の初めに楊師厚が死んだ。強大な天雄軍団を擁する梁国の実力者だった。先帝の朱全忠が死んで宮中がごたごたしたとき、楊師厚の支持を取り付けた朱友貞が二代皇帝になった。二代皇帝の側近は、楊師厚の死を好機ととらえ、天雄軍団を分割して朝廷の直接指揮下に置こうと企てた。朝廷の狙いは完全に裏目に出た。父と子、兄と弟を分けるような分割を嫌って兵士が反乱を起こした。王彦章は分割の見守り役にあったが、予期せぬ出来事に、自慢の槍を使えず、猛火の中から脱出するのがやっとだった。反乱に呼応して晋軍が国境より攻め入った。晋軍は澶州の町を占領し、そこにいた王彦章の家族を捕えた。免れたのは、王彦章に同行していた四男と、都にいた次男だけだった。
夏魯奇の手紙にある十一月末日の期限はすでに過ぎている。たとえ今が十二月になっていなくても何かが変わるものではない。
「この槍に恥させはせぬ」
王彦章はもう一度つぶやく。
外に足音が響く。槍の先に最後のひと拭きを施し、静かに床に横たえる。扉が開き、息子が走り込む。
四男は十五歳。父に似ず華奢な体つきだ。己の後を継がせて武官にするよりは、文官がふさわしいかと、この息子には学問をさせた。それでも前線の軍の姿を見せておこうと天雄軍団の分割の場に連れ、以来、汝州に至るまで行動を共にしてきた。この官舎では、四男の他にはほとんど誰とも会わない。
息子は麻の布の縁にひざまづき、手を床につき父に一礼する。細い腕だ。肩で小刻みに息をしている。気が動転しているのが外に露わだ。
「何だ」
王彦章の声は太くよく響く。息子は顔を上げる。涙を流した跡がある。王彦章は眉根を寄せる。これが配下の兵士だったなら怒鳴りつけるだろう。息子は顔を左右に振り、言葉を出し渋る。
「何だ」
王彦章は再び言う。息子は喉にものが詰まったように何も言えない。戦陣において兵士がもし即答できねば王彦章は鉄拳を飛ばす。息子は細い体をゆすって声を搾り出す。
「兄上はじめ、母上もすでに殺害されたとのことでございます」
息子は咽び泣き、王彦章は上下する息子の背をしばし眺め、ゆっくりと立ち、二本の槍を順に壁に立てかける。一点の曇りもない。
王彦章は手紙を拾い、息子の前に投げつける。
「おまえが拾ってきた手紙だ。読むがいい」
息子は涙を拭い、膝の前に落された手紙を手にする。
「声に出して読め」
父に命じられるままに息子は読む。かすれた小さな声だ。王彦章は腕を組み、天井を睨み、それを聞く。最後の十一月末日の期限に至ると、息子は号泣する。
「なぜ泣く」
王彦章は怒鳴る。
「もし早くにこれが届いておりましたなら」
「だったらどうだったのだ」
「兄上も母上も、あるいは」
「馬鹿を言うな」
その父の声は、息子が意外だと感じるほどに静かである。息子は夏魯奇の手紙を畳む。
「門を固めておりました兵士どもが、先程、帰って行きました。口悔しいではありませんか」
息子はそう言い、拳で床を叩く。
「何がだ」
「お上に疑われて。なのに、兄上も母上も」
息子は唇を噛む。
「黙れ」
王彦章の声は今度は厳しかった。歩み寄って、息子の脇腹を蹴り上げる。息子は床に転がる。
「父上のお気持ちがお上に伝わらぬのが口惜しいのです」
息子は床に身を伏せ、うめくように言う。
「お上がお疑いになろうがどうしようが、わしにどうこうできるものではない」
「しかし」
「よいか、わしはわしの生き方をするだけだ。おまえも聞いておろう、豹は死んで皮を留め、人は死んで名を留める、とな。わしの名は王鉄槍だ。これから先、どこぞの誰かが王鉄槍の名を唱えるとき、あれは国を裏切った者だったと顔をしかめるようなことがあるならば、わしは恥辱に耐えられぬ。お上のお疑いなど何でもない」
「しかし、晋に走った夏魯奇様を悪く言う人はいないではありませんか。父上さえも、夏魯奇様は良くものが見えているとおっしゃっていたではありませんか」
「そうだ、夏魯奇は良い男だ。夏魯奇は間違ったことをしていない。しかし、わしとは違う。わしは王鉄槍だ」
王彦章は壁に立つ二本の槍を指差す。
「あの槍に恥させてはならぬのだ」
息子は涙で曇る目で槍の輝きを見る。
二
妻子を殺された王彦章の望みは、晋王李存勗と戦場においてまみえることだ。
門を監視していた兵士は去ったが、王彦章は為すことがないままに官舎に留め置かれた。本来はこの地方の軍の指揮を預かる役職でありながら、朝廷から一篇の公文書も回されず、部下であるはずの武官も誰一人として訪ねてこない。焦れて前線に出たいと願い出ても何の沙汰もない。
汝州は梁晋が戦う場から遠く、時折、息子が町から聞いてくる戦況は、梁に不利な話ばかりだ。梁にもまだ戦術の心得のある将軍が多少はいても、李存勗の敵ではない。ずっと以前から、李存勗を恐れないのは王彦章一人しかいなかった。「李の小僧など、せいぜいのところ、鶏で戦ごっこをするのがお似合いの餓鬼だ」。王彦章は李存勗を軽侮していた。
戦況よりも王彦章を苛立たせるのは都の様子である。張一族の誰某がまたも官位を進めたと息子が伝えると、王彦章は腹立ちの余り庭に飛び出し、槍をぶん回す。
「苦労知らずどもが」
王彦章は遠く都に罵声を浴びせる。
朝廷では、もともと実権を握る趙巌に加え、このところ張一族の台頭が著しく、年末以来、来る日も来る日も張某が要職に就いたとの知らせが続く。梁国は二代目の時代である。先帝とともに戦った王彦章はこうして汝州官舎で無為の日々を送り、先帝時代の重臣であった敬翔と李振は都の屋敷に閉じ篭ったままだ。戦場に立とうとしない二代皇帝のまわりをかためるのは、王彦章の言う苦労知らずの二代目ばかりである。
息子は父の怒りを黙って見ている。息子もまた苦労知らずの二代目である。父の槍を持ち上げる筋力などない。
二代皇帝の側近第一位は趙巌である。
趙巌の父は唐朝の官人だった。後に朱全忠に仕え、気骨ある人物と認められた。朱全忠は娘を趙巌に与えた。皇帝の娘婿となった趙巌は宮中に自由に出入りし、戦とは全く無縁のまま高い位に昇った。
かつての先帝の時代に、王彦章は宮廷において趙巌と一度だけすれ違った。王彦章は、趙巌なぞは、皇帝の娘や息子に追従笑いをするだけの能なしの大馬鹿者と、全く眼中に置いていなかった。先帝に召されて奥に向かっていた王彦章には、やけに気取った歩き方で前からやってくる色白でしまりなく太った男が趙巌であるのがわかっていたが、ことさらに足を大きく開いて通路の中央をそのまま進んだ。宮中での位は趙巌の方が遥かに上だった。王彦章はかなり小柄で、大男の趙巌は、髯をひねりつつ突進してくる王彦章に思わず恐れをなし、身を翻して壁際へと逃げた。
「ただの槍持ちが」
趙巌はそれより王彦章を憎悪するようになった。
趙巌の最大の功績は、朱友貞を二代皇帝にしたことだ。
朱友貞は初代朱全忠の四番目の息子だ。普通なら皇帝になれない。長兄の朱友裕は若くして死んだ。朱友裕はある戦いにおいて敵を十分に追撃しなかったために、決定的な勝利を逃した。朱全忠は大怒し朱友裕の兵権を剥奪した。朱友裕は死は免れまいと慄いた。朱全忠は激情に駆られると容赦なく酷い刑罰を科した。朱友裕は母に泣きついた。朱全忠の行動を抑制できたのは妻だけだった。朱全忠は貧乏な村学者の息子で、妻は村の有力者の娘だった。朱全忠は無名時代に妻に幾度となく助けられた。妻が止めたおかげで、朱友裕は殺されずにすんだが、父を恐れるあまりその後、病気で死んだ。
次男の朱友文が朱全忠の後継者と目された。朱全忠は英雄色を好むの甚だしいものがあり、妻がいたころはまだしもある程度の自制をしていたが、妻が死ぬと歯止めがきかなくなった。息子達を都の外に出し、その間に、その夫人を我がものとするのを何よりの楽しみとした。朱友文の妻の王夫人は美人で、朱全忠はことのほか寵愛した。
そうした不摂生がたたったのか朱全忠は病気がちとなった。その一方、敵の晋は代替わりし、李存勗はまさに日の出の勢いであった。李存勗には自ら立ち向かう以外にないと、朱全忠は病を押して都を発ったが、前線においていよいよ重くなり、軍を引き上げざるを得なくなった。
「朕は天下を経営すること三十年。李の孤児がかくも燃え盛ろうとは思いもしなかった。あの者の志は小さくないと見えるに、天は朕の齢を奪おうとしている。朕が死ねば、我が息子どもはあの者の敵ではない。朕が葬られる土地さえなくなってしまうのか」
朱全忠は嗚咽した。
都に帰った朱全忠は危篤に陥り、いよいよと自ら覚えた時、王夫人の手を握って言った。
「おまえの夫を呼べ」
その言葉を、王夫人とともに看病をしていた張夫人も聞いた。張夫人は三男の朱友珪の妻だ。張夫人は夫の元に走った。
「皇帝の位がお兄様に行ってしまいます」
朱友珪は恐怖に陥った。ついこの前、父が重臣に向かって、「友珪には一つの郡を与えてやれば十分だろう」と言ったとの噂を耳にしていた。その意味するところは何か。考えれば考えるほど、それは己の死であると、朱友珪には思えた。朱友珪は張夫人と抱き合って泣いた。
「御自身の運命は御自身で開きなさい」
ある近習が諫めた。朱友珪は気付いた。直ちに病床に伏す朱全忠を襲った。
「おまえを殺しておかなかったのは失敗だった」
朱全忠は、息子を罵倒する言葉を残して死んだ。
朱友珪は父を殺すと、兄の朱友文が皇帝を暗殺したとでっちあげ、弟の朱友貞に、謀反人の兄を誅殺せよと命じた。朱友貞は朱友珪の悪巧みに気づいていた。
「父を殺し、皇帝を殺す、二重の大罪を犯した者を罰せずにいていいのか」
朱友貞は趙巌に尋ねた。
「お二人の兄上がいらしては皇帝になれません。罰するのは後でもできましょう」
趙巌の言葉に従い、朱友貞は朱友文を捕らえて殺した。
朱友珪は父が貯め込んでいた金繒をばらまき、人心を収攬しようとしたが、朱全忠の重臣たちは病と称して邸に篭って朝廷に出なかった。この状況を見て、趙巌が動いた。北方の天雄軍団を率いる楊師厚の力を借り、謀反を起こした。朱友貞は兄の朱友珪を殺して梁の第二代皇帝となった。これが四年前のことだ。
朱友貞が皇帝につくと、その妻の徳妃が皇后になるはずだった。不運にも、正式に皇后になる前に病没した。王彦章が汝州官舎で監視されていた九月のことだ。徳妃は、朱全忠がまだ名を挙げる前から行動を共にしていた戈の名手の張帰覇の娘だ。徳妃の葬儀の夜に、朱友貞の弟の朱友敬が、刺客を放って兄を殺して帝位を奪おうとした。朱友貞は寝殿より跣で逃げ、危ういところを助かった。朱友敬は誅殺された。二代皇帝朱友貞はこれより己の朱氏の親族を嫌い、徳妃の兄弟の張漢鼎、張漢傑、従兄弟の張漢倫、張漢融を重く用い、張一族が続々と朝廷に居並ぶようになったのである。
王彦章は、朝は身の鍛錬、昼は槍の手入れ、夜は読書を日課として、汝州官舎での無聊の日々を埋めるしかない。
しばらくすると、鄭州への移動を命じられる。より立派な官職になるが、実際のところは何も変わらず、公務のない単調な日々が続くばかりだ。かつて戦場で苦楽をともにした腹心達とは遠く隔てられ、もう一人の息子の次男は都に留め置かれたままで、それは人質のつもりであるらしい。王彦章は趙巌から毛嫌いされ、依然として疑われている。
梁と晋の熾烈な戦いは黄河の北で続く。晋はじわじわと圧迫し、黄河以北の土地を少しずつ奪い取っていく。梁にとっての最後の防衛線は自然の障壁である黄河だ。敵の騎馬軍団が黄河を渡るようになっては梁は終わりだ。
王彦章はさらに鄭州から許州へと任地を代えさせられる。
汝州も鄭州も許州もいずれも都大梁に比較的近く、黄河より南方の町である。妻子が殺されてからこうして三年が経ち、王彦章は戦場から虚しく引き離されている。
「楊劉をついに失いました」
槍の鍛錬を終え、素っ裸になって水を浴びる王彦章に息子が告げる。
王彦章は一瞬だけ手を止めたものの、何も言わず、さらにもう一杯の水を頭から浴びる。筋肉の盛り上りに添って水が流れて落ちる。
楊劉は黄河を南北に渡る重要な戦略地点だ。この渡し場をめぐって激烈な戦いが続けられた。ここばかりは敵に渡さぬと、梁軍はこれまでにない踏ん張りを見せた。梁軍の頑健な抵抗に戦況はしばし膠着状態に陥った。それを打開すべく、李存勗が先頭に立って、梁陣に切り込みをかけた。俄かに梁の伏兵が出現した。李存勗に雨のように矢を降らせた。李存勗を討てば梁は起死回生の勝利をおさめ得たかもしれない。李存勗は乱戦から逃れた。王の命を惜しまぬ戦いぶりに晋軍は奮起し、ついに楊劉の渡しを手にした。
王彦章は水を拭う。
「それを持ってみろ」
顎で槍を指す。息子は井戸端に立てかけてある槍を両手で抱え込む。両足を左右に踏ん張り、地面から少しだけ持ち上げる。王彦章は息子の背に立ち、片腕を伸ばし、ぐいと頭上に掲げる。
「おまえには到底使いこなせまいと槍のわざを教えなかった。太平の世になればもとより不要なわざだ。今はおまえがたとえ槍を立派に使いこなせても、そのわざは使いようがない。どの道、同じであった」
王彦章は静かに笑う。
息子は父の鋼のような体から己の細い腕へと目を転じ、地に膝をつき、
「今日より、私にも槍をお教えください」
王彦章は大笑する。
「何のためだ」
「父上がおっしゃったではありませんか。豹は死んで皮を留め、人は死んで名を留める、と。私は王鉄槍の息子として生まれて十八年、いまだひとつのことも成しておりません。このまま死んでいかなる名を留めるのでありましょうか」
「悪しき名を留めるのと、無名のままであるのと、どちらがよいとおまえは思うか」
「忌まわしきことながら、我が朝にもしものことがあった場合に、先帝の御世は文武にわたって人を得ていながら、二代目はいずれもが愚昧揃い、たちまちにして滅ぶ他はなかったと言われ、この私とて謗り受けぬ無名の一人のままでいられましょうか」
「三年待って、わしも全く使えぬ槍だ。おまえに使える日がくると思うか」
「己にわざがなければ、たとえその日がきても何もできません。父上が毎日、鍛錬に励んでおられるのは何のためでしょうか」
王彦章は息子を見る。目の光に、この息子にも己の何かしらが受け継がれていると認め、槍をぐるりと回し、
「よし、これをおまえに与えよう。決して錆びさせてはならない。槍が錆びては美しく生きられぬと知れ」
李存勗は渡し場を守るために楊劉の南岸に城を築き、次いで上流側の、大梁により近い徳勝の渡しへと軍を進めた。そこの攻防を巡って晋梁間の第二の死闘となった。
王彦章は許州から滑州に移る。黄河の南側の町で戦場に近い。それでも王彦章の日課は変らない。息子は父とともに鍛錬に励み、槍を両手で抱えて走れるまでになる。近くの村々を歩き、黄河の畔より北を望見し、いくらかこのあたりの地理に通じるようにもなる。
「必ずこれを使う日がくる」
息子も父と同じように日々槍を磨く。
徳勝の攻防は四年間の戦いの末に、晋側の勝利に終わった。晋は鉄鎖を渡して黄河の流れを断ち、浮橋を造って南北の通行を自在にし、北岸と南岸に塞を築いて夾寨と称した。晋は五千の兵を渡らせた。騎馬軍団の蹄の音が黄河の南に高らかに響いた。晋軍は鄆州の城を急襲した。鄆州は王彦章の故郷である。晋軍を指揮したのは李嗣源。先代の李克用の養子で、晋国きっての名将である。
「なぜここにこないのか」
王彦章は李嗣源が走っていった南東の空を睨む。徳勝から滑州は一日の距離だ。滑州など眼中にないかのように、敵は遠くの鄆州に向かった。
「ここにくれば、あの日の不始末にけりをつけてやるのに」
李嗣源とはいさかさ因縁があった。かつて王彦章は李嗣源を討ち損なった。己の恥となるそのことを王彦章は誰にも告げずにいる。あのときに殺しておけば、李嗣源なき晋軍の力は数等劣るものになっていたに違いない。
李嗣源に無視され、ならば背後から襲ってひと泡ふかせてやろうと、朝廷に軍を動かすことを願い出た。その手紙が都に着く前に、鄆州は陥落した。経験豊かで智謀に富む李嗣源の前に、鄆州は何ら為す術を知らなかった。梁は黄河の南の重要拠点をあっさり失った。
「何もかも消えてしまうのか」
故郷の町の陥落の報に、王彦章は悄然と南東の空に向かう。三十余年前、朱全忠に己の運命を賭けるべく、王彦章は鄆州を出た。以来、戦場を駆けずりまわって築き上げてきたものが無に帰そうとしている。頬にひと筋の涙が流れる。妻子を殺されても泣かなかった王彦章である。息子は父の涙を初めて見た。
晋の李存勗は皇帝の位に就いた。敵の都を手にするのが確実となったからだ。梁の二代皇帝朱友貞はなおも都から一歩も外に出ない。このまま都に留まって敵に囲まれるのを待つのか。それとも国の命運を賭けていつかは外に撃って出て敵と戦うのか。梁にまだわずかな望みが残るとすれば、皇帝が外で指揮を執る以外にはないはずだが、皇帝は別の者に全軍の指揮を委ねようとした。
「段凝様らしいです」
息子は町で聞いてきた噂を父に告げる。梁軍の総指揮を執る北面招討使に段凝が任命されるという。
王彦章の眉がぴくりと動く。槍を磨いていた手が止まる。膝からぽろりと百斤の鉄槍がころがり落ちる。
「終わりか」
王彦章はかすかにつぶやき目を閉じる。妻子を殺されてからすでに八年である。段凝の捻じ曲がった顔が思い出される。
「なぜに先帝はあのような者をお好みになったのか」
王彦章は目を見開くと言う。
「おまえは段凝を知っているか」
息子はうなずく。
「よりによってあの者が起用され、我が梁が滅びずにすむはずがない」
王彦章は内より湧き上がる怒りにからだを震わせる。
段凝もまた二代目である。段凝の父は初代皇帝朱全忠に仕える文官だった。ある事件を起こして罷免となった。娘が美人であったところから、それを皇帝に献じ、皇帝の手が付いて父は復官を果たした。段凝は妹のおかげで朱全忠の近くに召された。朱全忠は喜怒哀楽の情が激しく、傍で仕えるのは非常な気苦労だったが、段凝は巧みに取り入り、大いに気に入られた。朱全忠は段凝を監軍使にした。前線で将軍が皇帝の命令通りに働いているかを監視し、将軍の行状を逐一皇帝に報告する役目である。
段凝は王彦章の陣中にもきた。段凝が朱全忠に可愛がられているのは誰もが知っていたから、他の将軍連中は様々な贈り物を用意して段凝を迎えた。王彦章は段凝がくる日にわざと敵地へと攻め入り、「わしに会いたければここまでこい」と、段凝を嘲笑った。段凝は都に帰ると、王彦章を悪しざまに朱全忠に告げたが、朱全忠は耳を貸さなかった。
それでも朱全忠は段凝のあからさまな諂いを喜んだ。朱全忠の最後の遠征の際、段凝は懐州の知事として、皇帝の行軍を道の途中に迎えた。州の領内を皇帝が通過する間中、段凝は、宮廷にあっても得られない珍菓をもって皇帝の膳を飾った。皇帝は段凝の忠義を褒めちぎった。次の相州に行くと、そこの知事の李思安は通常と同じ迎え方をした。皇帝は、己を軽んじるものして怒り、李思安を処刑した。
王彦章は大きく息を吸うと、息子の前にころがった槍を拾い、壁に立て、その前に座す。
「わしは下手な槍遣いであった。おまえに恥させぬとの誓いを果たせなかった。おまえは他の者の手にあれば、こうはならなかっただろうか」
王彦章は床に頭を摺り付け、槍に詫び、そこに瞑目したまま半日を過ごす。
夜に入り、息子が父の背に書見台を据え、灯をつけると、王彦章はようやく目を開く。
「今日は何を読むのか」
息子は蜀書の姜維伝を差し出す。
姜維は諸葛孔明に見出されてその後継者となった。諸葛孔明の遺志を果すべく中原に兵を進めたが魏軍の堅い守りに阻まれ、一方で、蜀の二代皇帝の側近である宦官の黄皓に嫌われ、存分な働きができぬまま、国の滅亡を目の当たりにした。姜維は魏の将軍鐘会に投降し、鐘会に重んじられると、巧みに鐘会をそそのかし、魏に対する反乱を起こさせた。鐘会が魏軍に勝てば、ついで鐘会を殺し、蜀を復活させるという奇策であった。しかし失敗。姜維は一族もろとも殺された。姜維の真意は理解されず、人々の非難が集中した。史書を書いた裴松之は、「功は理の外に成って、然る後に奇を為す」と評し、姜維の志を初めて讃えた。
王彦章は読み終え、
「なぜこれを選んだのか」
「父上がお読みになりたいと思いまして」
「おまえはいくつになった」
「二十三です」
「わしが大梁の門をくぐった歳を越えたか。おまえもいささかこのわしの心がわかるようになったようだな」
「奇を為すときが必ずきます。今の世にそれは知られずとも、後の世には現れるはずです」
「あるいはそのようなことも稀にはあろうか」
王彦章は微かに笑う。
王彦章の心を知る一人の男がいた。敬翔である。
先帝朱全忠の宰相を勤めた敬翔は、二代皇帝が即位してから屋敷にずっと引き篭っていた。段凝が北面招討使に任命されると聞くと、宮中に赴き皇帝に面会を求めた。皇帝は奥に通した。本当は会いたくなかった。しかし、先帝があれほどまでに重んじた男が十年振りに宮中に出てきたのである。無下に帰すわけにいかなかった。
朱全忠には敬翔と李振の二人の宰相がいた。二人とも唐の時代に科挙に落ちて志を得ず、新たな可能性を求めて朱全忠のもとに身を寄せた。朱全忠の周囲に学識のある者はおらず、二人は重用された。李振は唐の皇位を梁に移すための道筋を巧みに作った。唐の皇帝に最後まで仕えた人々は李振の所業を憎み、唐に忠義を尽くす自分達を清流派と称した。李振はそうした連中を一網打尽にし、白馬駅において黄河に叩き込んだ。「おまえたちが清流なら、この濁流を澄ませてみせろ」。そう言い放つ李振を朱全忠は笑って眺めていた。敬翔は温厚な人柄で人々に慕われ、梁の朝廷の秩序は敬翔によって保たれた。しかし、朱友貞を二代皇帝につけた趙巌は、敬翔や李振がいたのでは己の意のままにならぬと、二人を追い払った。
敬翔は皇帝の前に進み出た。
「先帝は、天下をお取りになられてより、臣を不肖とはなさらず、臣のお謀り申し上げたことで、用いてくださらなかったものは何一つとしてありませんでした。敵の勢力がますます強くなる今、陛下が臣の言を棄ててお用いにならないのならば、臣の身は不要にございます。ここで死ぬよりありません」
敬翔は靴に忍ばせてあった縄を取り出し、首にぐるりと巻きつけ、その場で自経しようとした。皇帝は慌てて止めた。
「言いたいことがあるのなら聞こう」
敬翔は床に伏した。
「事は急でございます。王彦章を大将とせねば、梁を救うことはできません」
命を賭けた敬翔の申し出を皇帝は許した。
三
竜徳三（九二三）年五月、梁の二代皇帝朱友貞の前に王彦章は進み出る。
「敵を破れようか」
皇帝の問いに王彦章は即座に答える。
「三日で破りましょう」
事もなげなその言葉に、皇帝は唖然とする。趙巌は冷笑する。
「この老いぼれに何ができよう」
口には出さずとも、王彦章はこれで終わりだと趙巌は思う。趙巌は王彦章の起用に反対した。皇帝は「敬翔との約束だ」と珍しく我が意を通した。ここに至って先帝時代の亡霊どもが息を吹き返してきたことに趙巌は我慢がならなかった。しかし、どうせ六十を超えた王彦章なぞに何もできまいと思い返し、渋々皇帝に同意した。
王彦章は顔を上げ、大きな眼を、睨むかのように皇帝に向ける。
皇帝は吐き気を覚える。父の顔が浮かぶ。父のために尽くした者が、その子に命を捧げるとは限らない。すでに多くの武将が敵に走った。先帝は王彦章の槍をことのほか愛した。「これが敵陣に向かうのを見るとき、我が勝利は微塵も疑わずにすむ」。穂先を撫して目を細めた。二代皇帝は猛烈な後悔に襲われる。
皇帝は脇の趙巌の顔を見る。趙巌は軽くうなずく。段取り通りに進めてよいとのいつもの合図だ。
「存分に働くがよい」
王彦章は平伏し、皇帝より招討使の印綬を受ける。
直ちに都を発つ王彦章を次男が見送る。王彦章は持ち前のよく響く声で、
「李存勗をこの槍で殺したならばすぐに都に帰り、奸臣ばらをことごとく串刺しにしてくれる」
と、愉快そうに槍をしごく。次男はあたりを見回す。趙巌や張一族の息のかかった連中がいる。王彦章は意に介さず、豪快に笑う。
二日間、走りに走り、滑州に至る。そこでは、父が都に行った後に、四男が準備を進めていた。王彦章が連れてきた兵士の前に酒と肉がふんだんに並べられ、すぐに大酒会となる。夜になるにつれ、酒会はいよいよ盛大に、飲み騒ぐ声が近隣に響き渡る。
黄河畔の楊村の岸辺には舟が集められている。甲冑を身につけ大斧を持った六百余名のつわものと、革の袋と炭を携えた数十名の鍛冶職人が舟に乗り込む。刻限を測って、舟は岸辺を離れ、黄河の流れに乗って、十八里下流の徳勝へと向かう。
大酒会の酒と肉は尽きない。王彦章は衣を更えると言って酒会の座を離れる。
王彦章は槍をひと振りする。風が唸る。八年を待った思いを果たせる時がきた。燃える篝火に鉄槍は眩く輝く。
陣門の外に出る。精兵三千が整列している。
「行くぞ」
王彦章の号令で、東、徳勝へと走る。四男は父の出陣を見送る。
徳勝を守る敵将は朱守殷だ。朱守殷は、李存勗が幼いころから身の回りの世話をしてきた男で、戦術の心得はほとんどない。人の長短をあげつらうのが好きで、李存勗の耳にあれこれ注ぎ込み、それをもって出世し、徳勝という重要拠点の守将となった。
王彦章の兵士が酒を飲み、肉を食らって騒いでいるとの報せを受け、朱守殷は、戦いは明朝になると予想した。朱守殷は、兵士に十分な食物を与え、早めに休むよう命じる。朱守殷は念のため、自身は北側の塞に移る。
小雨が降り出し、夜は暗く鎖される。
舟は静かに水面を滑り、黄河の南北の岸を結ぶ鉄鎖に達する。
舟中で火を起こしていた職人は、革袋で炭を煽り、真っ赤に燃え盛る火の温度を高め、鉄を焼き切り、兵士は巨大な斧を振りまわし、鉄鎖に寄り添って渡された浮き橋を破壊する。
濡れた地面は馬の足音を消す。南岸の塞の手前にまで達した王彦章は、浮き橋がすでに落ちた頃居合いと見て、総攻撃を命じる。
「おまえに一番乗りをさせるためにわしは生きてきた」
王彦章は鉄槍を水平に据え、先頭に立つ。磨きに磨いた槍は敵の血に飢えている。王彦章は戦場に立つ喜びに雄叫びを上げる。梁軍は一斉に火を放ち、矢を注ぎ、柵を破る。
朱守殷は南の岸に火の手が上がるのを見る。急ぎ救援の兵を出そうとして、すぐに、浮き橋が落ちたのを知る。小舟に兵士を分乗させて馳せ向かおうとして、それも敵の舟に妨げられる。
夜明けとともに、徳勝の南の塞に梁軍の旗が高々と翻る。王彦章が皇帝の前で答えてからちょうど三日目である。
李存勗は魏の地にあって、王彦章が梁軍を率いて都を出たと聞いた。
「朕が恐れていた唯一がこれだ。王鉄槍は驕勇、朕も幾度かその矛先を避けざるを得なかった。王鉄槍さえ用いられねば、梁は朕の手の内にあるも同然だった。朱守殷では敵わぬ。王鉄槍の兵は少なく、速戦に利を求め、南の塞を急襲するに違いない。朱守殷に十分に備えるように言え。朕もこれより救援に向かう」
李存勗は直ちに発って走ることわずか二十里、徳勝の南の塞がすでに落ちたとの報せに接する。
「王鉄槍はいかなる速さを用いたのか」
李存勗は唸り、
「勝機は敵に移ったか。王鉄槍をあの時に、朕の元に連れてきていれば。今日、妻子を生かしておけば、なお、この時に使えたか」
一瞬の後悔もすぐに思い直し、次の命令を下す。
「徳勝の北の塞を壊して筏を造れ。残った兵士を載せて楊劉に向かわせろ。楊劉が決戦場になる」
王彦章は徳勝の周辺にあった潘張、麻家口、景店の小さな塞も落とし、大いに気勢を挙げ、北の塞で解体が進められている様子を遠望し、ただちに南の塞もばらばらにさせる。
「若造に先を越させはせぬ」
両岸で筏の組み立てが進められ、双方に長い列をなす。筏は同日に発し、睨み合いつつ東へ下る。
王彦章は陸路、楊劉に向かい、都大梁に使者を走らせる。王彦章は俄かの出陣であったために、梁軍の本隊はまだ都にあった。それを指揮するのは副将の段凝だ。
都には、王彦章が約束通りに三日で敵を破ったと報じられた。
皇帝は素直に喜んだ。趙巌は形ばかりの祝賀を述べたが、腹の中では舌打ちした。王彦章が都を出る前に息子に語った言葉を聞いていた。王彦章を凱旋将軍にしてはならない。
「老いぼれがまぐれの勝利を上げただけだ。そのうち襤褸を出すだろう」
趙巌は段凝にそう言い、急いで出発することはないと、のんびりと準備させた。皇帝はこの機会に勝利をより確実なものにしようと、段凝の出陣を催促した。趙巌は何かと口実を設け、皇帝に日延べを納得させようとしたが、それにも限度があり、段凝は仕方なく都を出た。
徳勝より下った敵味方双方の筏の列は、互いに先を争う。楊劉の城も落とせば、黄河の支配権は再び梁の手に戻る。
黄河の湾曲部に至ると流れが滞る。ここで敵を沈めようと、双方が河の中央部へ漕ぎ出し、戦闘となる。空を覆って矢が飛び、筏をぶつけて沈め合い、乗り移って切り合う。湾曲部を出て再び流れに乗ると、先を争って速さを競う。
筏は下りつつ一日に幾度となく戦い、楊劉に到着するまでに、両軍ともに兵の半ばを失う。敵は城に入り。味方は柵を築く。
王彦章は楊劉の城の前に立ち、
「段凝はなぜこない」
苛立ちの声を上げる。
楊劉の城は徳勝の塞とは違い、頑健な構えが十全に整った立派な造りである。急遽都を出た王彦章に本格的な城攻めの用意はない。
王彦章は兵に命じ、城の外で敵を挑発させる。敵が出てきたならば、一気に撃ち、勝ちに乗じて城に乗り込もうとの心積もりだ。敵は門を堅く鎖して全く応じない。
北岸の様子を探りに行った者が、李存勗自身が大軍を率いて楊劉に向かっているとの情報をもたらす。
「よし」
王彦章の顔が輝く。
「こいつがものを言う時だ」
王彦章は鉄槍を撫で、黄河を渡る。
李存勗の旗が黄河北岸の台地の上に流れる。堂々の援軍を迎え、楊劉の城より喜びの声が上がる。
「たったあれしきり。ひともみでございましょう」
黄河を背にし、前に塹壕を掘って、王彦章が小さな陣を構えているのを見た李存勗の部下が言う。李存勗は首を振る。
「見よ、あの槍は朕一人を狙っておる」
李存勗は、王彦章の陣を遠巻きにしたまま、決して攻撃に出るなと命じ、後方より静かに兵を動かし、一部の兵だけを楊劉に残し、自身はさらに東へと進む。
李存勗は下流の馬家口で黄河を渡る。南岸に急ぎ塞の建設を始め、順次本隊を渡河させる。
王彦章は李存勗との一騎討ちを望み、幾度となく挑発に出るが、敵は一切応じてこない。
ようやく段凝の援軍十万が楊劉に到着。巨艦九隻を伴う堂々の軍団だ。
「遅い」
段凝のひん曲がった顔を見て、王彦章は怒鳴る。蹴殺してやりたいくらいだが、敵を前にしてそうもできぬと思いとどまる。段凝は薄ら笑いを浮かべるばかりだ。
李存勗がすでに黄河を渡ったとの急報が飛び込む。
「どこでだ」
馬家口との返事に、
「あの若造め。目の前にいると思っておったのに」
王彦章は足を踏み鳴らす。段凝は鼻で笑う。王彦章は段凝の顔に唾を吐きかける。段凝は表情を変えない。
「おまえは大船九隻で、河を渡る敵を沈めろ。わかったか」
王彦章は、段凝が連れてきた兵より半分を分けて馬家口に向かう。
王彦章が馬家口に到着したとき、塞は着工から六日目を数えていた。まだ四周を板で覆ったばかりだ。
「取れる」
王彦章は槍を振って攻める。
しかし、王彦章と腹心の武者がまっしぐらに突き進んでも、新参の兵は後方でもたもたと動かない。柵から無数の矢によって迎えられ、王彦章の乗る馬の足は止まる。
王彦章はいったん引き上げ、自軍を立て直して再度攻撃に出ようとする。兵の士気は著しく低く、太鼓を鳴らしての出撃の合図に、全くばらばらな行動をとる。
「段凝はぐずぐずと何の用意をしていたのか。これでは烏合の衆と変わらぬではないか」
今回、新たに王彦章に従ったのは、都周辺から駆り出された新兵ばかりだ。戦場に出るのはこれが初めて、矢石の飛び交う音を聞くだけでも恐ろしいのに、まして柵の内には李存勗がいる。李存勗の名を聞けば、歴戦の猛者も怖気づく。
王彦章は塞が未完成なうちなら十分に勝機があると、幾度かの攻撃を試みたもののことごとく失敗に終わる。王彦章はここにきて思い通りにならないことに苛立ち、酒をあおり、だらしのない兵士を捕らえては次々に殴る。
李存勗は、柵の内から応戦するだけで、筏と小舟を使って兵士を渡らせ、もっぱら自軍の増強に努める。段凝に命じた大船はいくら待ってもこない。堂々の大船がくれば、黄河を渡る敵を蹴散らすのは訳ないはずなのに、日に日に敵の勢力が増すのを指をくわえて見ているしかない。彼我の差が開き、これでは持ちこたえられないと、王彦章は馬家口の囲みを解き、鄒家口まで退く。李存勗はこれぞ好機と、塞を出て、大地を覆って鄒家口へと押し寄せる。王彦章はここで一戦を交えるのは不利だと判断し、さらに楊劉まで兵を引く。梁軍は浮き足立ち、我れ先にと逃げる。多くの兵士がどこかへと消え失せてしまう。
楊劉に戻ると、段凝は敵の城を包囲しているだけ、攻撃に出た痕跡もなければ、馬家口に援軍を出す準備をしていた様子もない。
「敵が不穏な動きを見せましたので、ここを失っては元も子もないとよくよく堅めておりました」
段凝がべらべらしゃべり出したのを王彦章は遮り、
「李存勗さえ討てば、楊劉など十でも二十でも束にしてくれてやっていい。なぜこなかった」
「深入りは禁物にございます」
段凝は涼しい顔だ。王彦章が殴りかかろうとすると、背の高い段凝は薄笑いを浮かべて見下し、
「天下に誇る膂力も味方に用いては何もなりますまい。兵はお上より預かりました国の宝にございます。一時の怒りに任せて損なうのは、いかがなものでございましょうか」
王彦章は段凝を睨んだまま怒りの余りものが言えない。段凝は言う。
「先程、急使が参り、清丘駅で我が軍が敗れました由にございます。もしも西方より晋兵が黄河を渡り、我らの退路を絶ちましたならば、我らが立ち往生するばかりでなく、敵が大梁を狙うのを許すことになりかねません。ここは引くべき潮時でございましょう」
言葉だけは丁寧である。
「楊劉も捨てるというのか」
「左様でございます」
「わしがここまで取り戻したものを」
「大梁と楊劉といずれが肝要でございましょうか」
「許さぬ。李存勗をここで討つ以外に大梁は救えない」
王彦章は段凝の言葉に耳を貸さず、楊劉に踏みとどまる。
李存勗の大軍が楊劉に迫ると、段凝は勝手に撤退し、残った梁軍の兵士も戦意を失う。敵軍は李存勗の到着に勇気百倍となり、城門を開いて撃って出る。梁軍は二方からの攻撃に遭ってもろくも崩れ、自慢の大船も焼かれる。
王彦章は徳勝に退き、李存勗は休む間を与えずに追る。王彦章は再び敗れ、わずかの手勢を率いて都に向かう。徳勝より走ること三十里、滑州を守っていた四男に出会う。
「まだだ。この槍がある限りは」
王彦章は己の槍と息子の槍を地面に立てる。
「見ろ。美しく輝いているではないか」
その言葉の通りだ。
「いかにされますか」
「お上のお許しを得て段凝を斬る。そうすれば梁軍は引き締まる。まだ勝てる。李の小僧にわしは決して負けない」
王彦章は槍を取り、再び都へと走り始めると、先方より、旗を靡かせて勅使が到着する。地に跪いて待つ王彦章に、勅使は、招討使の任を解くとの皇帝の命を伝える。
「なぜだ」
王彦章は立って使者を睨みつける。
「私は何も聞いておりません。招討使の印綬を受け取るよう言われて参りましただけでございます」
勅使の声が震える。
「わしの他に、梁国を救える者がいるとでも言うのか」
王彦章は鉄槍の石突で地を鳴らす。勅使は両手で頭を抱える。
「貴様の手は煩わせない。この印綬はお上より頂戴したもの。わしが自分でお返しする」
四
「此度の敗北によって、我が梁は累卵の危機に陥った。汝の罪ははなはだ重い。先帝へのかねての忠勤に鑑み、特に死のみは許し、これより後、門外に出るを禁ずる」
趙巌が精一杯の声を張り上げる。王彦章が階の下に平伏している。
王彦章が都に戻って皇帝への目通りを求めたとき、趙巌は、印綬を勅使に渡さなかったのは重罪で、即刻、入牢させるべきと主張した。皇帝には、「三日」の約束を果たした王彦章の顔をもう一度見たい気持ちがあった。
「恐れながら」
王彦章の低い声が、皇帝の座す殿上の柱を揺するばかりに轟く。
「此度の敗北、我が過ちによるものか、果たして、佞弁の相、惰弱な将の邪まな企みによるものか、某がいかに戦って参りましたかを、これより御説明申し上げますによって、とっくと御吟味頂きたく存じます」
王彦章は立ち上がり、笏を手に、地に一本の筋を曳く。
「これが黄河にございます。我が都はここにございます」
王彦章は足で地を踏みしめる。
「某、お上の命を授かり、都を出ましたとき、美酒美食に飽き柔かき布団にくるまり戦場に一度も立ったことのなき者どもは、三日にては河岸に到達するもあたわずと、某を嘲笑いたしましたが、二日にてここ滑州に至りましてございます」
王彦章は大股で一歩進み出る。
「巨斧を持つ兵六百に舟で流れを下らせ、某は三千騎の先頭に立ち、我が鉄槍を手に、ここなる徳勝の塞へと向かったのでございます」
王彦章は笏を槍に見立ててしごき、徳勝の塞を約束の通りに三日目に取り、筏を並べて戦闘を交えつつ楊劉に至り、河を渡って李存勗と対峙し、その首級を上げるべく攻め入ろうとして果たせず、陣を馬家口に移し、敵が築きつつあった塞を破ろうと奮戦したものの勝ちを得ず、無念をかみ締めて軍を引くまで、流れるように語る。
「楊劉と馬家口において、二度、李存勗をこの槍で仕留める機会を逃したがために、此度の戦は敗北に終わらざるを得ない仕儀となったのでございますが、それが何故かと申せば」
王彦章がぐいと睨みつけると、趙巌は座より立ち、
「お上の前である。己の罪状に伏さず、のうのうとたわ言をほざくは無礼」
王彦章を引っ立てるよう指図する。階の下に並ぶ警護の兵が王彦章を取り巻く。しかし、怖がって手を出さない。王彦章は微笑みかけ、
「残り少なくなった我が梁の貴重な兵だ。汝らを損なうようなことはせぬ。某が生きている限り、我が梁は滅びはしない。今一度、某に命が下ったとき、汝らには存分な働きをしてもらいたい」
王彦章は衣を払って地に座し、
「これ以上語りはせぬ。思えば、舌を使うのは某の仕事ではない。某のやるべきは、我が鉄槍、それにものを言わせるだけだ」
地に伏し皇帝に非礼を詫びる。皇帝が何かを言おうとするのを趙巌は押しとどめる。
「王彦章は、常に酒を食らい、兵士を無闇と殴り、敵を軽んじて忠言を聞かず、無謀な戦をして、自らこの敗北を招いたのでございます」
趙巌の元には、戦場における王彦章の行動を逐一記した段凝の手紙がある。
王彦章は招討使の印綬を皇帝に返し、都の次男の家に入る。戦に出る前の八年間と同様の日々となる。異なるのは、そばにいるのが二人の息子になったことだけである。
招討使の印綬は都の外で待っていた段凝に授けられ、段凝は意気揚々と大軍を指揮し、黄河のほとりへと向かう。趙巌は、滑州において黄河を決壊させ、下流にいる敵軍に水を注ぐという策をひねり出し、皇帝の同意を得て、段凝に命じる。
敬翔が再び皇帝に面会を求める。趙巌は不承不承ながら許す。
敬翔は、第一に、段凝は国家の安危の際に用いるべき将でないこと、第二に、黄河を決壊させるのは我が梁の国土と人民を害するものであること、此度の策は二つながらに不可であると進言する。
皇帝は動揺する。皇帝は父を恐れ、その顔色に怯えながら成人したために、非常に猜疑心が強く、また、何事も自身で決めるのを放棄していた。趙巌は、皇帝が敬翔によって再び動かされるのを嫌い、先に推薦した王彦章が敗れた一事もって敬翔の言は聞くに足りないと切り捨てる。皇帝は趙巌に従う。もとより、皇帝は先帝に大切にされた人々を敬遠して、己と同じように先帝を恐れていた二代目の小人達と一緒にいるのを好む。
段凝は五万の兵を率いて高陵の渡し場で黄河を渡り、黄河を決壊させる準備を始めるとともに、北岸の村々を荒らしてまわる。物資の補充に勤しんだのである。
ここで段凝にとって幸運だったのは、李存勗が黄河の北の魏にまで兵を引いたことだった。李存勗には、黄河の南で大軍を動かすだけの食糧の用意がなかった。それに、お気に入りの俳優連中が本国より魏に到着していた。李存勗は何よりも歌と踊りを好んだ。一年のほとんどを戦場で過ごし、本国に帰るともっぱら歌舞に興じた。李存勗は、武器を取っても歌っても踊っても天下一であると誇った。
李存勗は魏に戻り、三日三晩、歓楽を尽くす。徳勝の守将、朱守殷は、その間に、お気に入りの俳優の口添えを得て敗北の詫びを入れ、罪を許される。十分に遊ぶと、「今年のうちには、おまえたちに大梁の都を見せてやる」と、俳優と約束し、李存勗は将軍達の前に戻った。
将軍は皆浮かない顔である。物資の不足が深刻だ。晋の本国はこの年は不作で、自国内の民を養うのも困難なほどである。梁から奪い取った地は相次ぐ合戦のために疲弊し、農生産がほとんど停止している。徳勝の塞に蓄えておいた食糧は、朱守殷の無策のために、王彦章に焼かれたり奪われたりした。黄河の南の鄆州を梁に返して一時の和議を結び、兵を養って後、再び戦を起こすのが万全と、一人が持久策を提案した。李存勗は笑う。
「おまえたちがほしいのは何だ。腹いっぱいにする食物か。身を飾る衣服か。女どもにくれてやる宝玉か。それらが簡単に手に入るというのに、いつまで待つというのだ。大梁に行きさえすれば何でも取り放題ではないか」
李存勗は南征を命じる。黄河の周辺でうろうろする段凝を相手にせず、楊劉で渡河の準備を進める。鄆州の李嗣源は主軍と呼応して梁の都へと出撃する動きを見せる。
梁の皇帝は不安に駆られる。
「この都はどうなる」
「段凝が黄河を切れば、楊劉にいる敵は大河の藻屑と消えましょう」
趙巌の答えに、皇帝は顔を歪める。
「大梁を守るために戦おうとする兵はおらず、頼るは水ばかりだと申すのか。それが唯一の手だとしても、では、趙巌はいつ黄河の堤を切るのか。聞けば、李存勗はすでに楊劉を渡り始めていると言うではないか。堤を切って、黄河の水が楊劉に達する前に、李存勗がここにきてしまうではないか」
皇帝に問い詰められて、趙巌は笑って答える。
「されば秘策がございます」
「何だ」
「これより西の洛陽に移り、遠くきた敵の疲れるを待って、都を奪い返すのでございます。大梁には一人の民も一粒の麦も残さずに我らが去るものなら、敵は自軍を養えず、北に引き返すより生きる道がなくなります。そこを我が方より攻めれば、やすやすと勝利を得るのは必定でございます」
黙って趙巌を見つめる皇帝の顔が次第に紅潮する。
「それが秘策か」
「今となってはこれ以外の手はございません」
「今となってはだと。いったい誰がこのような事態を招いたのか」
「私は国のために全力を尽くして参っただけでございます」
「この大梁を李克用の子倅に渡し、朕はいかにして、泉下において、先帝とまみえたらいいのか」
皇帝は声を荒らげる。皇帝には、父、朱全忠の激怒する顔がありありと見える。父に怒鳴られるくらいなら、李存勗に切られた方がましである。
皇帝は大きく呻き、
「大梁を救える者は誰もおらぬのか」
趙巌は静かに引き下がり、皇帝は王彦章を思う。
王彦章は槍を携えて皇帝の前に出る。こうなることは、槍がこの手にある限り必然であった。
「くれぐれも頼む」
皇帝の言葉に王彦章は平伏し、心の内に思う。
「皇帝のために戦うのか。槍のために戦うのか。どちらでも同じだ」
皇帝は横にいる趙巌に尋ねる。
「彦章に幾人の兵を授けるか」
「ただいま都に残る兵はごくわずかでございます。都の諸門を固め、宮中を警護するに足る兵ばかりは残しませんと、この都はそれこそ空になってしまいます。どのように多く見積もりましても、せいぜいのところが、五百騎ばかりかと」
「それだけで彦章に李存勗と戦わせるのか」
「都に残る数を勘定しますと、五百でも多すぎるほどでございます」
「大梁にそれしか兵がいないのか」
「左様でございます」
「新たに集められぬのか」
「もとより、都におりますのは、大半が新参の兵にございます。相次ぐ合戦で多くが失われ、主要な者どもは段凝の指揮下にあります」
「ならば、仕方がないのか」
皇帝の嘆息まじりの言葉に、王彦章が顔を上げる。
「勝敗は兵の多寡にはございません。この王彦章が一人居り、この鉄槍が一本ある限り、李存勗にこの都門は決してくぐらせませぬ」
王彦章は立ち上がり槍をひと振りする。
「先帝は、そなたの槍は天の与えと言っていた。そなたが先頭に立って敵陣に向かえば、先帝は必ず勝利を得た。此度は、そなたの槍によって、朕に勝利を与えてくれ」
趙巌はつぶやく。
「老いぼれの大口を聞くのもこれが本当の最後だ」
趙巌はささやかな抵抗をした。張一族の一人、張漢傑を見張り役の監軍として添えた。皇帝にその必要性を説いた。李存勗は前より王彦章を欲しがっており、何度も誘いをかけていた。ここで王彦章を都の外に出せば、喜び勇んで李存勗のもとに走るかも知れない。軽々しく人を信じるべきではないとの趙巌の言葉に、皇帝の持ち前の猜疑心が頭をもたげ、趙巌の提案に同意した。
王彦章は皇帝の前より下がると、宮殿を出て、建国門へと向かう。石を敷き詰めた広場の先に敬翔が待ち受けている。遠くより二人は目と目を合わせる。
敬翔の前で王彦章は立ち止まる。
「こいつを休ませる時はとうとうこずに終わりますな」
王彦章は地に立てた槍先を見上げる。
敬翔はその槍から、建国門に添って高々と聳え立つ建国楼の遥かな甍へと視線を移す。
「全土を統一し、天下に太平の時をもたらして、初めて、我等が役目も全うできるはずでありましたな」
大梁で最も高い建国楼の最上階より、己が手中にした中国全土を見やるのが朱全忠の夢であった。
敬翔の言葉に王彦章は笑う。
「いやいや、この槍をもって太平の世に戻し、またここでお会いいたしましょう」
王彦章は軽く会釈して行き過ぎようとする。その背に敬翔の声が響く。
「我らが生きた跡は、どのように残りますか」
「生きたままに自ずと残りましょう」
振り返らずに言う王彦章の脇に敬翔は進み、
「そうはなりますまい」
「いや、某には、我が身に照らし、天に背くものは何らありません。このままの身であります」
「天下に太平をもたらそうと、一日も休まずに先帝にお仕えして参った我らの働きも、先帝の大望も、今日、奸悪な臣のために、このように潰え去るとは、無念ではありますまいか」
「後悔は無用でありましょう」
「我らは無益なことに一生を費やしたのではないか」
敬翔はそう言って王彦章の袖を引く。
「人の一生には益も無益もありはしません」
王彦章は前を見たまま答える。
「そうではあろうが、今、ここに一つの疑念が残るのだ。聞いてはくれぬか」
「何でありましょうか」
「もしもが時が昔に戻り、梁晋いずれの元に行くも可となったならば、より早くに世を太平にできたのはいずれであったかと、思いを巡らすのは、許されぬことであろうか」
「何をお考えか。先帝にお仕えしたのは誤っていたと言われるのか」
「我が忠信の揺らぐところはいささかもない。しかし、天下の民にとっていずれがよかったのか。佞弁の士によって全てが無に帰そうとしている今、そう思わぬことはないか」
王彦章は槍を握り締める。
「この鉄槍であります。これが李克用を突き殺す機会はあった。某が先帝に仕えて間もない頃だ。我が大梁は黄巣の大軍に囲まれ、明日にも落城という折であった。唐の皇帝の命を奉じ、李克用が救援にきてくれた。遥か太原より李克用がくるとは思いもしなかった黄巣は大敗し、先帝は生涯最大の危機を脱した。先帝は、李克用を陣屋に招き祝宴を張った。李克用と初めて言葉を交わすや、先帝は我らを呼び、李克用を殺せとお命じになった。『これより天下を争うのはこやつ一人だ』とな。某の目にも、李克用は他の者と異なって見えた。我らは酔い潰れた李克用を襲った。敵は死に物狂いで戦った。某はこの鉄槍を持って後を追った。李克用の逃げ足は速かった。一人の少年が遅れた。某はそやつに追いつき、槍で突こうとした。その途端、槍先が止まった。『こんな子供を殺して何になるのか』。迷ったその一瞬に少年は走り去った。某は以来、四十年、誰にも告げずにいたが、逃した少年こそは李嗣源であった。無傷で逃れた少年を李克用は褒め、養子にして李嗣源の名を与えた。もしも、この槍が李克用を倒し、李嗣源を逃さなかったならば、先帝は疾うに天下の統一を果たしておられただろう。某はこの槍に恥させぬため、四十年前の後始末をつけねばなりません」
王彦章は敬翔の手を振り切る。敬翔は言う。
「もはや時は去った。晋は人を得て、梁は人を得なかった。我らの死には何らの大義も備わらない。ただ己一人に恥じねば良しとするよりはあるまい」
王彦章はついに振り返らない。
王彦章は二人の息子を連れて都を出る。
四男は父より授かった鉄槍を手に戦の場に初めて向かう。重い槍を父のように自在には操れない。功名を残せる可能性はまずないだろう。それでも、梁を滅亡の淵へと追い込んでしまった他の二代目連中と己は違うことが示せるだろう。何よりも、この槍に恥じぬ死に方ができればそれでよい。
王彦章が印綬を解かれたときに階の下に並んでいた兵達はとくに志願して五百騎の中にある。監軍の張漢傑は、わずかな兵では何をしても無駄、戦わずに敵を避けるのが利巧だと、兵士の気を挫くようなことばかりを言う。
王彦章は汶水を渡り、鄆州へと走る。鄆州を取り戻せば情勢を好転させられる。鄆州は王彦章の生まれ故郷だ。周辺の地理を熟知している。不意を衝いて城内へと入り、乱戦に乗じて李嗣源を仕留める。王彦章は十分に勝算があると踏む。
しかし、李嗣源の智謀は王彦章を上回る。この道ならば絶対に敵に気づかれぬと王彦章が選んだ進路に、李嗣源は大軍を差し向ける。王彦章の小さな部隊は逓坊鎮において捕捉され、何重にも敵に囲まれる。白兵戦となる。王彦章は鉄槍を振るい、初陣を果たした二人の息子は死に物狂いで戦い、少数の兵は慣れないながらも懸命に武器を操る。元来が大半が新参の弱兵からなる小部隊、大軍との真っ向勝負では大敗を喫する他ない。
王彦章は敵の囲みを斬って出て、かろうじて死地を脱する。半分になった兵を集め、中都郡にささやかな陣を敷く。
「兗州に拠るべきであろう。ここは何もない。いかにして敵を防ごうというのか」
張漢傑は王彦章を詰る。平原の中の寒村である中都郡よりは、まがりなりにも城壁を備えた兗州に入るのがましというのは全うな考えである。
「この槍一本あれば兗州一つを保つのは訳もない。しかし、鉄槍ここにありと聞こえるならば、李存勗がくるのは必定。そこに唯一の勝機がある」
王彦章の言葉通りになる。
李存勗は王彦章が中都郡に引いたと知って大いに喜ぶ。
「事は成った。王鉄槍は死ぬつもりだ。大梁はすでに落ちた」
李存勗は黄河を渡り、李嗣源と合流して、中都郡に押し寄せる。
王彦章はわずかな兵を二手に分ける。一手を急拵えの塞の外に出して並べる。自身は十数騎ばかりを率いて、秘かに敵軍の背後へと回る。塞の内には張漢傑と数名だけが残り、ありとあらゆる布切れを木や竹に縛り付けて旗指物として掲げる。
晋軍は中都郡に到着する。盗賊の根城よりも貧弱な柵があり、せいぜい二百ばかりの兵がその外で何をするでもなくばらばらに座っている。晋兵は笑う。
「梁に何十万の武将がいようとも、朕の気がかりは王鉄槍ただ一人だ。それも今日で終わりだ」
勇む李存勗を李嗣源が止める。
「敵は王鉄槍。何かあると見ねばなりますまい」
李嗣源に李存勗はうなずく。皇帝が耳を貸すのはこの老練な李嗣源の言葉だけである。李存勗も、王彦章の計り知れぬ勇猛さを警戒し、軽々しく戦いを挑まぬよう命じる。
晋軍は柵より離れて陣を構え、そのまま夕刻となる。塞より炊事の煙が、一条、二条と昇る。それはおびただしい数に増えていく。李存勗は不審の念をもってそれを見やりつつ、自軍にも食事の準備を命じる。黄昏の中、柵外にある梁の兵は悠々と食事をとる。
いつしか夜に入り、柵の内に煌々と火が燃える。その火の前に、梁兵の動きは丸見えである。李存勗はますます疑念を抱く。
深夜に及んで、突然、柵の火が消る。同時に太鼓が激しく打ち鳴らされる。
「敵はくる。ならば待つまでもない。こちらから先に撃つのだ」
李存勗は号令を発し、陣門を開いて撃って出ようとする。その前に李嗣源が立つ。
「王鉄槍一人にお上が行かれるまでもありますまい」
「朕が行かねば、あの槍を結局は恐れていたと笑われる。朕の武勇を超える者が天下にあるのを朕は許さぬ」
李存勗は李嗣源の制止を振り切る。晋軍が外に出ると、梁兵はたちまち消え失せる。李存勗は敵の塞の前に立つ。太鼓を鳴らし、兵士に大声を発して挑発させる。中は静まり返っている。矢の雨を降らせる。それでも敵の反応はない。総攻撃を命じる。晋軍は柵を越えて雪崩れ込む。中に敵兵は一人もいない。
「王鉄槍め、いかなる謀り事を用いようとしているのか」
李存勗は柵の内を慎重に検分し始める。突然、、塞を囲んで、三方に火が燃え上がる。李存勗は塞の外に飛び出る。
「あれだ」
王彦章は李存勗の姿を認める。
王彦章は二人の息子とともに、夜の間に晋兵の中に紛れ込んでいた。
柵より出てきた李存勗が揺れる炎に照らされる。四十年前に見た李克用の面影がある。
「ついにこのときがきた」
王彦章は鉄槍にささやきかける。
李存勗は自陣へと馬を走らせる。
王彦章は追う。徒歩だ。次男と四男が後に続く。
晋軍は混乱している。兵士が思い思いに自陣へと急ぐ。李存勗は味方に邪魔されて真っ直ぐに走れない。
王彦章は突進する。李存勗との距離が縮む。背中が確実に大きくなる。敵が陣門に入る前に、槍の届く距離に達すると、王彦章は測る。
「こうなるはずだったのだ」
王彦章は鉄槍を握る手に力を込める。
「おまえは、この時をわしに用意してくれた。わしは、おまえに恥させぬ」
王彦章はさらに足を速める。重い槍を持つ四男は遅れがちだ。
李存勗の脇を走る晋兵の持つ松明が、ぼっと火花を散らして燃え上がる。
ここに、李存勗と王彦章の間に、夏魯奇がいた。異様な気配に振り返る。王彦章の顔が、その一瞬に赤く照らされる。よく知る王彦章の顔だ。夏魯奇は驚嘆する。
王彦章は李存勗の姿だけを追っている。鉄槍を構え、最後の歩数を合わせ、えいと突き出せば、間違いなく李存勗の背を貫けると思う。夏魯奇の姿は闇の中に輪郭だけがあり、王彦章は気付かない。後方に離れた四男にはわかった。
「あっ」
息子が叫んだとき、すでに、夏魯奇は矟の先を回し、踏み込んできた王彦章の腿を突く。王彦章の槍は空を切り、身は地にころげる。
「王鉄槍だ」
夏魯奇は叫ぶ。
夏魯奇に剣を浴びせようとした次男は切り伏せられ、父を救おうと槍で突進した四男は矢の標的となる。
五
王彦章は腿に重傷を負った。
最後の突入を敢行した兵は一人残らず殺され、王彦章だけが囚われの身となった。敵は倒れた王彦章をいたわり、傷を縛り、薬を塗り、陣中へと運び、軟らかい夜具の上に横たえさせる。王彦章は為されるがまま、敗れた者に今さら何ができようか。
腿はひどく痛み、矟で刺したのが夏魯奇と聞かされ、憤りにきりきりと腹が裂ける。かつてともに戦い、八年前に帰順せよと手紙を送ってくれた夏魯奇だ。夏魯奇さえ居合わさなければ、鉄槍は李存勗の背を貫いていたはずだ。
こうなるとわかっていたなら夏魯奇を殺しておけばよかったと思う。しかし、そうなるはずはなかった。夏魯奇はいい奴だった。
夜が明ける頃には、痛みの感覚が麻痺し、夏魯奇への恨みもやや薄れる。
梁から晋に走ったのは夏魯奇一人ではない。夏魯奇は当然ことをしたと、王彦章は思っていた。夏魯奇が良しと思って仕えた主君のために矟を振るうのは当然だ。かつての同輩がよい手柄を立てたと褒めてやってもいい。
「わしが拙かっただけか」
王彦章は眼を開く。ほんのりと明るくなっている。周囲を見ようと、体を起こしかけると、激しい痛みが戻る。
小さな仮小屋の中だ。王彦章が一人。外に警護の兵がいるようだ。手を縛られ体の自由は効かない。そうでなくても、この傷では動けやしない。倒れるまで携えていた槍はここにはないようだ。
「あいつがいなければ、このわしも終わりか」
傷の療治など受けても意味がない。恨むべきは、むしろ、夏魯奇の矟が胸を貫かなかったことか。
「下手な矟遣いめ」
王彦章は笑おうとして、不意に、建国楼の下での敬翔の顔が甦る。「もしも時が昔に戻り」と、敬翔は言っていた。
夏魯奇は下手な矟遣いでも、先を見る眼があった。梁の二代皇帝と李存勗と何れが天下の主としてふさわしいのか、夏魯奇に尋ねるまでもなかった。夏魯奇は当然の理に従っただけだ。
「なぜ、留まったのか」
敬翔も王彦章も、二代皇帝の朝廷から疎んじられた。命に代えてその朝廷に尽くす信義を保たねばならぬ理由はない。ただ先帝には重く用いてもらった。だからなのか。
もしも敬翔が言うように、時が昔に戻り、先帝と李克用の二人が前に立ち、｢お前の一生をどちらに委ねるのか｣と、問われたならば、どうか。李克用は常人と異なっていた。だから、先帝も即刻殺さねばならぬと考えた。
王彦章はわずかに呻く。
「何を考えているのか」
この傷が愚にもつかぬことを思わせるのか。
「夏魯奇は下手な矟遣いだ。このわしはもっと下手な槍遣いだ」
小屋の口が開く。明るい光が差し込み、中に一人の男が立つ。
傷の痛みに疲れ、夢うつつとなっていた王彦章は、一瞬、敬翔の言葉通りになったかと眼を見張る。四十年前の李克用がそこに立ったかと錯覚する。
男は中に入る。李存勗だ。李克用と良く似てはいるが、独眼竜と言われた父と違い、両眼ともに明らかだ。李存勗は三十九歳、王彦章は六十二歳、かつて見た李克用は二十九歳だった。
李存勗は王彦章の脇に椅子を置いて座る。王彦章は眼だけを李存勗に向ける。父の李克用に遥かに及ばない。
「そのままで良い」
王彦章はもとよりそのつもりだ。この男に礼儀を用いる気はない。
これが李存勗か。この男に敗れたのか。傷の痛みが急に激しくなる。
「梁将どもは皆が朕を恐れたが、そなた一人は、朕を李亞子と言って、小児扱いしたと聞いておる。どうだ、今日、この小僧に服する気はないか」
李存勗は王彦章の勇猛さに前から惹かれていた。昨夜はすぐ間近にまで王彦章が徒歩で迫ってきていたと知って、己の身の危うさに驚くよりも、王彦章の武勇をより慕うようになっていた。
王彦章は李存勗の眼を見る。この者に天下は保てまい。子は父に及ばない。梁がそうであるように、敵も同じだ。
李存勗は王彦章の返事を待つ。王彦章は眼を大きく開いて敵の皇帝を睨んだまま何も言わない。李存勗は眼を逸らし、
「そなたは善き将と聞く。なのに、なぜ兗州を守らずに中都郡に陣を敷いたのか。兗州を固めれば、我が大軍も支えられたであろうに」
李存勗の問いに、王彦章はふっと息を吐く。
「天命はすでに去り申した。某には、言うに足るものは何一つとしてございません」
李存勗は立つ。
「手厚く介抱するように」
一人になると、王彦章は槍を想う。
あれがあの男の背中を貫いていれば、まるで違う今日になっていた。
「わしは下手な槍遣いだった。すまないことだ」
王彦章は槍に詫びる。
夏魯奇も、良い主人を持ったわけではなかったようだ。
「気の毒な奴だ」
そう思って、少し可笑しくなる。敵の虜となった者が、余計な心配をして何になる。
この乱れた世に、良き主人と出会い、己の思うがままに生きる幸運など、求めるのが土台無理というものだ。蜀の姜維もそうだった。姜維は諸葛孔明に見出されたが、暗愚な二代皇帝のためにその智謀を虚しく抱いたまま死に、最後の奇策も人に謗られた。
良き名を留めるのはごく稀な者だけなのだ。
昼ごろ、李存勗の使者がきて、再び帰順を勧める。
「お上は大将軍の地位を御用意しておられます」
王彦章はわずかに頭を上げる。はっきりと断らねばいつまでも同じ繰り返しだろう。
「某は貧農の生まれ。先帝の御恩を蒙り、梁の上将の位に昇らせていただきましてより、晋と戦を交えること三十年。拙くも戦に敗れ、力の窮まった今、死こそが某の為すべき唯一であります。大王が某を憐れみ、生かしておこうとなさいましても、某には何の面目があって天下の人々とまみえましょうか。朝には梁の将として戦い、夕には晋の臣となるなど、某のよく為すところではございません」
使者はそれでも李存勗の深い思いを縷々伝える。王彦章は承服しない。
夕暮れ近くに、また一人、訪れる。
眼を閉じていた王彦章は気配を感じ、入り口に顔を向ける。暗く闇に鎖されかけていた小屋の内が、突如として、輝きに溢れ、清々しい気に満たされる。誰が入ってきたのか。王彦章は眼を凝らす。自然と上体が起きる。
小柄な男だ。
「ああ」
この男だったか。王彦章はたちまち了解する。かつてその背だけを見た男だ。李嗣源だ。
なぜあのときに殺さなかったのか。四十年前に見逃した少年だ。あのときに情けをかけずに殺しておけば、晋はずっと弱かったに違いない。幾度となく悔まれた李嗣源を見逃した理由が、今ここにわかる。
あのときの少年の背が眼の前に浮かぶ。あそこで刺さなくてよかった。これは生かしておかねばならぬ男だった。鉄槍にはそれがわかったから、それを握る王彦章の手を萎えさせたのだ。
敬翔の言葉がまた甦る。もしも昔に戻って、初めより会っていたならば、己が仕えていたのは誰であったか。その答えがあった。朱全忠でも李克用でもない。この李嗣源だ。
王彦章は鉄槍を眼に浮かべる。
「おまえはわしをどうするつもりなのか」
鉄槍とともに駆け巡った四十年間を思う。鉄槍に命を賭け、鉄槍に全てを任せれば良いと考えていた。
李嗣源は眼の前で微笑を浮かべている。王彦章の心はすでに李嗣源に服した。それが鉄槍の導くところだ。
王彦章は李嗣源の足元に唾を吐く。気持ちを振り払う。
「何だ、おまえは邈佶烈ではないか。何の用があってきた」
李嗣源の顔色が変わる。
邈佶烈とは遊牧の民の孤児であった李嗣源の幼名だ。それを知る者は少なく、まして面と向かって口にするなど侮蔑の極みだ。
李嗣源はものも言わずに小屋から出る。
「王彦章を用いるのは不可能であります」
と、李存勗に告げる。
李存勗は大梁に向かって中都郡を発つ朝に、王彦章を己の前に呼ぶ。
「朕に仕えぬか」
なおも李存勗は優しい言葉をかける。
ここまで己を思ってくれる李存勗に、王彦章も心動かぬものではない。無下に断る言葉を一度は避ける。
「某のこの体では、大梁までの従軍はかないません」
「輿を用意し兵士どもにかつがせよう。大梁までは楽な旅だ」
王彦章は高らかに笑う。
「段凝はなお六万の精兵を率いております。汝自らも、大梁まで無事に着けるとお思いでございましょうや。己の危うさも知らず、某の身まで御心配くださるとは、まことに有難く、余りの可笑しさに涙がこぼれます」
李存勗は王彦章を用いるのをついに諦め、王彦章を斬れと命じる。
「言い残すことはないか」
李存勗は最後まで寛大だ。
「願わくば我が鉄槍に別れを告げとうございます」
「よい」
李存勗が指図するのを、李嗣源が止める。
「王彦章に槍は禁物でございます」
「構わぬ。縄で縛られた身、今さら何ができようぞ」
李存勗は王彦章の前に鉄槍を置かせる。
王彦章は鉄槍に目を注ぐ。わずか三日ばかり離れていただけであったが、薄く錆が浮かび出ている。
「美しく保つのは難しい」
王彦章は心の内に思う。
「おまえはわしを使い損なった。おまえは拙い槍だ」
この槍を引っさげて朱全忠の募兵に応じ、荊棘の中を走った王彦章を、朱全忠は「神人」であると讃えた。無数の棘が刺さった感触が昨日のことのように肌に甦る。痛くも何ともなく、むしろ心地良かった。その同じ足が今は矟に傷つき動かずにある。
「神人もこうなっては終わりだ」
王彦章は一人笑う。
四十年は瞬く間に過ぎた。朱全忠は唐を亡ぼして皇帝になった。その朱全忠は死に、梁はわずか二代で亡びようとしている。槍も初めて錆びた。
王彦章は顔を上げ、
「某は、人々が王鉄槍と綽名するのに気を良くし、愚かにも、天下に敵する者はいないと思っておりました。しかし、四十年を経て、この一本の槍さえ美しく使いこなせぬ、へぼであったと、ようやく知れました。まことに天下の笑われ者として、この王鉄槍の名は残るのでありましょう」
李存勗は王彦章を斬り、敵の都大梁へと出発した。
六
中都郡の敗兵が大梁に走り、張漢傑は逃げる途中で捕らえられ殺された。
梁の第二代皇帝は皇族を集め、王彦章が敗れたと自ら告げた。
「我が皇統の命運もこれにて尽きた」
皇帝は声を上げて泣く。この場ではそうするのが最もふさわしいからだ。宮殿の内に己の泣き声が反響し、壇下にひれ伏す人々の背は見渡す限り木像のように身動き一つしない。朱一族に滅亡の時が迫っているのに、人々にはまるで他所事のようだ。
皇帝は正殿に移る。群臣が集まっている。
「敵を退ける方策はないか」
皇帝は虚しい問いかけであると知りつつも尋ねる。人々はここでもひれ伏したままだ。長い沈黙の後に、皇帝は不意に名を呼ぶ。
「張漢倫」
張漢傑の従兄弟だ。張漢倫は床の上でびくんと跳ねる。
「直ちに馬を走らせ、一日も早く大梁へ戻れと、段凝に命じろ」
「かしこまりました」
張漢倫は、床に伏したままずり下がり、正殿の外に出る。日の光を浴び、助かったと思う。張漢倫は馬を飛ばし、乗り慣れぬため、、滑州に至るころには腰と臀部を痛め、馬より落ちて動けなくなる。黄河を前にしてぼんやりと河を見やるだけだ。
皇帝は敬翔一人を奥に呼ぶ。敬翔は用意されていた椅子には座らず、脇に伏して皇帝の出を待つ。
部屋の内に入った皇帝は敬翔に歩み寄る。
「かつて唐の太宗は、宰相と同列に対座し、天下を論じたと聞く。そこに座すがよい」
敬翔はいよいよ身を低くする。
「臣は先帝の御厚恩を受けて三十年、名は宰相でありましたが、その実は、朱家の老僕でございました。家の代が変わりましたなら、老僕などは、新しい主人に気に入られなければそれまででございます」
皇帝は膝をつき、敬翔の前に頭を垂れ、
「朕はこれまで卿の言葉をないがしろにしてきた。それ故に、事ここに至った。今、この危急を前にし、朕を怨まず、いかにしたらよいのか、教えてほしい」
「すでに遅うございます。老僕の言はただの戯れではございますが、忠を尽くさぬということはございませんでした。陛下が段凝をお用いになりましたときに、その可ならざるを申し上げました。朝廷には小人どもが居並び、老僕など顔を出す隙がなかったのでございます」
「今日の仕儀となったのは朕の誤りであった。許してほしい」
「されど、敵がまさに大梁にこようという日に、段凝は黄河の北にあって、救援には参れますまい。陛下をここよりお連れし、夷狄の矛先を避けようと申しましても、陛下はきっとお聞き入れにはなりますまい。あるいは、陛下が剣をお取りになり、決戦に出られるようお勧め申しても、陛下はその勇断はなされないでありましょう」
皇帝は無言のまま答えない。
「臣はただの老僕にございます。たとえ、ここに古代の忠臣、名将が甦って居並びましょうとも、陛下に良計をお授けするのは不可能でありましょう。されば、臣の願いはただ一つでございます」
敬翔は初めて顔を上げる。
「どうぞこの老僕に死をお恵みください。我が梁の滅ぶのを見ずにすみましょうほどに」
敬翔は嗚咽し、皇帝は慟哭する。
大梁には数千の近衛兵があった。指揮官の皇甫麟は皇帝自身による出陣を願った。皇帝は同意しない。一族、あるいは群臣の背中が思い浮かぶ。
「あの者たちは、朕一人で事がすむと思っている」
甲冑に身を固めて都を出た途端に、背後で門が閉じられ、行き場もなく、無数の敵の剣に刺し殺される己の姿を皇帝は想像する。
案の定、都の内に謀反の動きがあるとの噂が流れる。皇帝は、首謀者と見られた者を直ちに捕らえる。二人の弟も疑って殺す。誰も彼も信用ならない。
皇帝は都で最も堅牢な建国楼に篭る。最上階に重臣を集め、下を兵士に囲ませ、誰かに怪しい言動があれば殺そうとする。
「いかにしたらよいか」
皇帝の問いに答える者はいない。
皇帝は欄干に寄る。十月の晴れ上がった朝だ。外には大梁の都の街並みが広がっている。陽は暖かく甍に輝き、都は穏やかに何事もないかのようである。昨日と同じ日が今日もここにあり、そして明日もそのままであると思える。
「張漢倫はどこまで行ったのか。段凝はいつくるのか」
皇帝はそう言ったが、何のあてにもしていない。皇甫麟が応じる。
「段凝はきますまい。もはや危急の際、機に臨んで勝ちを制するのみでございます。いかに難しくとも、敗を転じて功と為す道を求める以外に手はありません」
「そなたは、朕に剣を取れと申すのか」
「先帝は常に陣頭にお立ちになり」
「黙れ」
皇帝の顔色が変わる。
「先帝の事は二度と口にするな」
皇帝の言葉の蔭で、趙巌が皇甫麟にそっとつぶやく。
「今このときに、この楼を下って、心安らかでいられようか」
皇帝は外を見たまま、
「この佳き陽差しのもと、なぜ朕だけが皇帝であらねばならぬのか」
長い沈黙の後に宰相が言う。
「某、伝国の璽を持って李存勗のもとに参り、偽りの降服をいたしましょう」
伝国の璽とは皇帝の印である。
「で、どうするのだ」
趙巌は薄ら笑いを浮かべる。
「李存勗は喜んで、某を近くに呼び寄せましょう。そこで機を見て、李存勗を刺し殺すならば、敵は自ずと瓦解いたしましょう」
「貴殿にそれができましょうや」
趙巌の問いに、宰相は頭を掻き、
「たぶん、できないでしょうな」
皆が笑う。
「もうよい。そなたたちは心配しないでよい。朕の心は決まった」
趙巌は都を落ちて西に走る。温韜を頼る。墓のあばき人として知られた男だ。唐の諸陵を盗掘して金銀を貯め込み、それを趙巌に献じ、州知事におさまった。
「あいつはわしを悪くはしないだろう」
次々に梁から晋へと寝返る中で、己一人が梁の皇帝と運命を共にしなければならない理由は微塵もない、と趙巌は考える。世の乱れに、片意地を張って、命を無駄にするのは愚人のすることである。
皇帝は、伝国の璽を脇に置き、酒に耽る。
建国楼の外には変わらずに都の景色がある。酔えば、永久にここで眺めていられるような気分になる。
十月九日の朝、ふと、手を伸ばすと、そこにあるはずの伝国の璽が消えている。皇帝は身を起こし、酔眼をこする。夢であったか、ぼんやりとした記憶がある。宦官が近くにきて、何か言ったようだった。
「持って行ったのか」
皇帝は驚かない。いかにもありそうだ。
帳を出て、窓辺に向かう。日の光が差し込んでいる。今日もよく晴れ上がっている。欄干に寄ると、昨日とほぼ同じ朝のようだが、微妙な違いがある。遠くに一点、低い空に黒いしみのようなものがある。
「きたか」
皇帝は寝台に戻ると、一度横になり、すぐに起きて、昨夜の酒の残りを飲み干し、
「皇甫麟を呼べ」
と、叫ぶ。皇甫麟は建国楼を登ってくる。
「李嗣源の大軍が封丘門へと真っ直ぐに向かっております」
皇帝は皇甫麟の前に玉剣を置く。
「先帝の御世より、朱李は宿敵同士であった。朕のこの身に、敵の者どもの刃を立たせる訳には断じていかない。この剣で、朕の首を刎ねよ」
「臣は剣を振るって敵と戦うのが役目。出陣の詔をこそ頂戴いたしとうございます」
そう言う皇甫麟の頭を皇帝は蹴る。
「卿は朕の身を敵に売りに行く気か」
皇甫麟は泣く。
「陛下に疑われましては、ここで死ぬばかりです」
皇甫麟は剣を抜き、我が身を突こうとし、皇帝はその手を押さえ、
「すまぬ。疑いは晴れた。頼むからその剣で朕を斬ってくれ」
皇帝は哀願する。皇甫麟は皇帝を刺し、自らの首を刎ねる。
李嗣源は一切の抵抗を受けずに大梁に入る。都は平穏そのものだ。李存勗も同日のうちに入城する。
「全ての者の位を元通りのままとする。今日より、朕に仕えるがよい。元は梁臣だからといっていささかの分け隔てもしない」
李振がそのことを聞いて敬翔の家に走る。
「新しい朝廷に一緒に出仕しようではないか。小人どもが跋扈して滅ぼしてしまった梁朝に、貴殿も未練はあるまい。李存勗こそは一世の英雄である。主人と仰ぐに不足はあるまい」
敬翔は答える。
「先帝の御世に卿とともに梁の宰相となった。主上代わられて、奸臣がはびこり、君を諫めることかなわず、我らは国の滅亡を救えなかった。李存勗は名君であると卿が言われるのならなおのこと、李存勗より、我が梁は何故に滅亡したのかと問われ、卿はいかに答えようというのか」
「趙巌どもが」
李振が言い掛けるのを敬翔は遮る。
「そのことはもうよい。ならば一事をのみ尋ねよう。卿はいかなる顔をして、建国門をくぐろうとのお考えであるのか」
李振は黙る。
その夜、明るくなるより前に、李振は新朝廷に出向いた。
「身を誤ったな」
敬翔は深く嘆じ、
「国は滅び、皇帝は死に、我が為すべきことの全てが終わった」
首をくくって死んだ。
段凝は大軍を率いたまま投降した。李存勗のお気に入りの俳優に莫大な賄賂を贈り、その口利きで段凝は大将軍の位を授かった。段凝は、梁を傾けたのは趙巌と張一族であり、敬翔と李振は先帝の恩を蒙りながら奸臣の為すがままに放置したと李存勗に告げた。李存勗は、張一族、並びに、李振、敬翔の一族を誅殺した。
黄河のあたりをうろうろしていた張漢倫は捕まって殺された。趙巌は温韜のもとにたどり着いたが、温韜に騙されて李存勗のもとに送られ殺された。温韜はすぐに李存勗の皇后に莫大な宝物を贈り、己の地位を保つのに成功した。
李存勗は父の仇を討つとの望みを果たし、やるべきことがなくなった。俳優に囲まれて遊び暮らし、大梁を占領してからわずか三年、最も信頼していたはずの兵士の大反乱を招き、自ら命を絶った。このとき、かつて徳勝の守将であった朱守殷は、大兵を擁していながら李存勗の救出に赴かず、皇帝が死んでから初めて兵を動かし、都に入って兵士の好むままに略奪させた。
この混乱を鎮めて、新たな皇帝となったのが李嗣源だった。王彦章の鉄槍を逃れて李克用の養子となって四十数年、李嗣源はすでに六十一歳になった。その治世は七年しかなかったが、戦乱の続いたこの時代では珍しく平和で安定した時期となった。
段凝と温韜は年来の不埒な行為によって、李嗣源に死を命じられた。朱守殷は反乱を起こして殺された。王彦章を矟で刺した夏魯奇は、出ては敵とよく戦い、居ては民をよく治め、李嗣源に重く用いられたが、敵国に攻め込まれて救援の路を断たれ、降服するよりはと自刎を選び、四十九歳で死んだ。李嗣源は深く悼み、斉国公の称号を贈った。
李嗣源が死ぬと後継者争いの末、後晋によって亡ぼされた。後晋を興したのは、かつて徳勝の塞にあって王彦章の強さを目の当たりにした石敬瑭だった。石敬瑭はその武勇を偲び、王彦章に太師の称号を贈った。王彦章を葬った郷里の寺は鉄槍寺と呼ばれるようになったが、王彦章の槍は誰も扱える者がないままに改鋳されて姿を消した。
後晋は十年で後漢に滅ぼされ、後漢は三年で後周に滅ぼされ、中原の王朝は目まぐるしく入れ替わった。最後に天下を統一したのは後周より出た宋だった。その宋の隆盛期の文官、欧陽脩は鉄槍寺において王彦章の肖像に接した。鄙びた寺の片隅に置かれ、墨痕は摩滅し、王彦章の姿は隠々としてあるかないかの如くだった。静かに対座するうちに、己の事跡がすでに明らかでなくなっているのを悲しむ王彦章の声を聞いたような気がした。欧陽脩は新たな史料を得て史書の誤りを正し、王彦章こそは乱世に稀の義勇忠信の士であったと讃えた。
それより後、明から清への王朝の交替期を生きた王船山は、乱世に己を貫く者は稀であると痛感し、梁晋が争った時代を振り返って、唐から皇位を奪った朱全忠は禽獣以下の者だったと罵倒し、その宰相を勤めた敬翔と李振は媚び諂いのみを事とした愚昧極まりない連中と切り捨てた。王彦章の如きに至っては、戦場に出て人を殺めるのを喜びとし、用兵の略を弁えぬ血勇小慧の輩と断じたのだった。