我が父、陶淵明

第一回　　長安

　今日も兄貴は機嫌がいい。だからよく食う。

「おまえもやりな」

　地面に骨を投げ捨て、つゆだらけになった鬚を手で拭う。

「では、おためしといきますか」

　俺はようやくと手を伸ばす。奇妙な匂いがし、かぶりつく兄貴を横目に、腕を組んだままでいた。しかし、兄貴に言われては仕方がない。

　ぼこぼこと煮え立つ鍋の中で肉の塊がひしめいている。ばあさんがときどき掻き回す長い箸で取ってもらえばいいのだろうが、兄貴の真似をし、汁から突き出ている骨の先をつまんで引き抜く。肉から湯気が立ち上る。汁が地面に垂れる。肉の端を噛む。酸っぱい。匂いのままの妙な味だ。思わず顔をしかめたのを兄貴に見られる。

「どうだ？」

「腐っているのか」

　兄貴は笑って首を横に振る。もう一度口にし、歯の先で小片を噛み切る。

「よく噛んでみろ」

　それほど硬くはない。少しばかり甘いような味がする。豚にいくらか似ているようだが秣のような臭みがある。

「旨いだろう」

　兄貴は俺の顔を上から覗き込む。

「旨い」

　俺は笑顔を作る。

「そうだろう」

　兄貴は鍋からもう一本つまむ。俺はやっと飲み込む。

「食べ慣れると、なかなかおつなものだ」

　長安に来てからのこのひと月ほどの間、兄貴はずっと機嫌がいい。こんなことを言ったら怒るだろうが、死ぬの生きるのという心配がなくなったからだろう。機嫌がいいとよく食う。もともと大きな身体がますます大きくなった。

「何の肉だい」

「知らないのか。羊だ」

「この酸っぱい妙な味が羊か」

「石榴の汁で煮たんだ」

　兄貴の目を盗んで袖の下からぽろりと肉を落とす。兄貴はひょいと首をまわして、地に落ちた骨に肉片がたっぷり残っているのを見る。

「なんだ食わないのか」

「どうもな」

「これが駄目なら、あっちはどうだ？」

　兄貴は鍋をかきまわしているばあさんに銭を放り投げ、人ごみをかき分け、向かい側の出店へと移動する。すっかり物慣れしている。何しろ兄貴は仕事のほとんどを俺に任せ、毎日出歩いているのだ。今日は珍しく俺を供に連れてくれた。

　店の前に煙が充満している。また肉だ。石を積んだ中に炭が燃え、油がはね、じゅうじゅうと音が立つ。

「旨そうだろう」

　兄貴はさも嬉しそうな顔だ。今日の機嫌のよさは格別だ。

　長い串に大きな肉の塊が三つずつ、炭火の上にずらりと並び、煙がもうもうと立つ。この光景を見るだけでげんなりだ。兄貴は煙の中に首を突っ込み鼻をうごめかす。

「豆汁に漬けておいた羊だ」

「よくそんなことがわかるな」

「顔の真ん中に鼻があればわかることだ」

　兄貴は串に手を伸ばす。団扇の先がさっと兄貴の手を払う。

「なんだ」

　兄貴は腕を突き上げる。

「まだ早い」

　炭に風を送っていた鬚面のあるじが無愛想に言う。鷲鼻にぎょっろとした目玉はいかにも胡人という風貌だ。兄貴は炭火の前にしゃがむ。

「いだろう。肉のことはおやじに任せよう。俺は羊のように従順な男だからな」

　兄貴はじくじくと油が沁み出す肉に見入る。俺は立ったまま横向きになって、兄貴の背中に言う。

「羊っていうのはおとなしいのか」

「もちろんだ。俺のようだと言っただろう」

「兄貴はおとなしいのか」

「当たり前だ。でなければ好きにしていられない」

「兄貴はうまいよな」

「何が」

「結局いちばんいいところにおさまるのだから」

「それはそうだ」

　本当に今日の兄貴は機嫌がいい。少しも怒らず俺の言うことに同意した。

　兄貴はそれなりに腕は達者なくせして、戦の場では決して人より前に出て働こうとしない。うまく立ち回って後方に居場所を見つけ、しかもよい働きをしているふりができる。荒くれ者に似せて粗暴な口のききかたをするが、細かく先々に思いを巡らせている。豪放であるように見せかけて気が弱く、心が晴れぬときは機嫌が悪く酒を浴びるように飲んでますます機嫌を悪くする。時には大胆なこともして、さすが兄貴だと感心させられることもある。俺はそんな兄貴にもっぱらへばりついて長安にまで来た。

「たいしたものだよ」

　調子に乗って兄貴の肩を叩く。兄貴はくくっと笑う。

「だが、やりすぎは禁物だ。適当な加減が大事だ」

「そこが難しい。兄貴でないと」

「腕の見せどころだ。おやじ、もういいんじゃないか」

　団扇で火を煽るあるじは、

「まだ」

　と、ぼそっとつぶやく。愛想のない男だ。

「長安の連中はこんなものを食っているのか」

　肉はもう黒く焦げている。あんなもの口に入れる気にならない。

「胡どもが持ち込んだ。夷狄でも何でも構わない。旨ければいい。おまえはまさかこれを食わないのか」

「さあどうかな」

　あいまいに答える。昼前からずっとだ。歩きつつ何かを食っている。腹はもう十分過ぎるほど膨れている。

　長安の市には何でもある。九月に劉裕が長安に入城し、その命令によって市が再開された。劉裕の威光は大したものだ。近隣から人と物が集まり、食い物ばかりでなくありとあらゆる品が市に溢れ、押すな押すなと一日中人がひしめき合っている。俺たち兵士はたんまり銭を持っている。どんどん銭を使い、品物は飛ぶように売れる。市が繁盛するはずだ。

　劉裕は羌族が建てた国を滅ぼした。長安はほぼ百年ぶりに我が晋朝の手に取り戻された。劉裕の偉大な功績だ。劉裕が宮殿に入ると、敵の皇帝がしこたま集めた金玉、�鋤蛛A珍宝が府庫に山積みとなっていた。劉裕はそれらを惜しむことなく俺たち兵士に分け与えた。兵士は大喜びしたし、町は一気に賑いを得た。劉裕のうまいやり方だ。

　兄貴は連日のように市に出歩いている。兄貴が仕事をするのは早朝だけだ。宮殿に出向いて点呼を受け、営所に帰って今日の用事を言い付け、ふらりと消えてしまう。俺は兄貴の代役としてせっせと筆を走らせ、参軍としての兄貴がやるべきことを大過なくしおおせる。

　俺たち兵士の懐には使い切れないほどの銭がある。だいたいは酒、女、博打に使う。摴蒱でたった一夜に全てを失ったつわものもいる。何しろ、俺たちの親分である劉裕は、若いころには一回の博打に百万を賭け天下無類の強さを誇った。総大将に習って天下を取る運を掴もうと摴蒱に熱を上げる奴が大勢いるのは無理からぬことだ。俺も兄貴も摴蒱には夢中にならない。ころころと転がるあの六角の棒に自分の運を託そうという気になれない。

　女に銭をつぎこむ連中も多い。兄貴も女は嫌いではないようだが夢中になるほどではない。だいたい酒を呑むとつい深酒となって、大声で人と激論し、高吟して周囲を驚かせ、その挙句に不意に寝入ってしまう。俺はその兄貴の面倒を見なければならないから女どころではない。北伐の途上、勝つたびに兵士仲間が逃げ惑う町の女を捕まえ慰みものにするのをさんざん見てきたせいか、女に対して味な気分になることがない。そんな俺を兄貴は子どもだと笑うが、そのうち気が変わるかも知れないと俺は思っている。

　兄貴は女よりも食い物に御執心だ。驚くほどの食欲だ。身体の大きさが違うから俺とは食う量が違っていい。兄貴は俺たち兵士仲間で柄の大きさではかなりのものだ。ところが長安に来てみたら、ここの連中は概して兄貴よりも大きい。夷狄どもは我ら漢人に比べて腰の位置が高く、肩幅ががっちりと広く、何とも御立派な身体つきだ。その上に、高い鼻に窪んだ目、大きな口に蛇のようにくねった長い鬚、見るからに恐ろしげな彫りの深い顔だ。近くで見るとよくまあこんな連中を相手に戦って勝ったものだと思う。俺たち江南の人間ときたら、顔はのっぺりと平らだし、足は短く、身体は見るからにずんぐりと小さい。俺は特にそうだ。肉を焼いているここのあるじに比べて、俺はやっと肩に届くくらいしかない。夷狄どもは身体が大きいからこんな大きな肉の塊を平気で食うのだろう。

　兄貴はよく食いよく呑む。胃袋の大きさが違うようだ。俺はすぐに腹が一杯になる。子どもころからろくなものを食って来なかったせいだと思っている。あってもほんの少ししか食えないのだから、それに腹を慣らさないとならなかった。

　兄貴は焼けて行く肉を見つめる。俺は見る気も起こらず、膨れきった腹を撫ぜる。この小さな胃袋には首陽山の蕨がふさわしいか。ふとそう思う。

　首陽山の蕨か。一人かすかに笑う。久し振りに親父を思い出した。

　　　＊　　　＊　　　＊

　首陽山の蕨はよほど旨いものかと子ども心には思っていた。

「美味はあれに窮まる」

　親父がそう言っていたからだ。

　我が家は決まって貧乏で、しばしば箪と瓢は空になって食べ物が底をついた。いつかの夏は特にひどかった。その前の年が日照りで不作。蓄えが尽きたころから雨続きとなり、その年の秋の収穫もおぼつかなかった。

　すきっ腹を抱えて雨の音を聞いていても仕方がないから、一番上の兄を先頭に俺たち五人の兄弟は野に出て、蛙でも蛇でも蜂でも魚でも貝でも狢でも鼈でも、食えそうなものなら何でも片端から採って集めた。五人は揃って痩せて目ばかりを異様に光らせていた。遠くの池まで行って鯰を取ったのは大収穫だったが、そこの村の大人たちにこっぴどく叱られた。土竜を捕まえ焼いて食ったこともあれば、罠を仕掛けて鷺を狙ったこともある。どちらも旨くなかった。

　どんな奇妙なものでも採ってくると親父か小父さんが食い方を教えてくれた。変なものは母は目をそむけて食わなかった。俺たちも親父も平気で、ただ、いつだったかの秋に、林で採った茸のせいだったのだろう、一番下の妹が水だらけの便を一日中流し続けて死んだ。妹を埋めたとき、親父は天を仰ぎ、母は泣いた。俺は干からびた蜥蜴の死骸のようだと思った。

　ようやく晴天が訪れた。親父は田の様子を見回った。

「西の田は水びたしのままだが、東の田は水が引き始めている」

　西の田は高所にあって早瀬からの出口に当たり冷たい水がよく溢れる。そこを耕すのは親父だけだ。

　親父は何やら嬉しそうだった。土間から樽を引っ張り出し庭の中央に据えた。いつか誰かが贈ってくれた酒の樽だ。とっくに空だ。親父はその上に座し、琴を抱えた。

　本当に久しぶりの青空だった。今でもその美しさを覚えている。大きく伸び上がった桑の木の葉先がまぶしく輝いていた。雨続きの冷え冷えとした日々から、強烈な日差しの照りつける暑い真夏の日となった。

　親父の琴には弦がない。胴をひと撫でし、唇の間から奇妙な音を出した。驚いた鶏が羽ばたき、桑の枝に登った。犬が親父の足元にうずくまった。家族が空腹で苦しんでいるときにも、親父はその鶏も犬も殺すのを許さなかった。鶏には名がないが、犬は阿黄と言う。

　親父はしばし嘯いた。目を閉じ、余韻が遠くに消えるまでの間、ゆったりと顎の鬚をしごいた。そうしてから、目を開き、頭巾をわずかに後ろにずらし、大きく息を吸い込み、そして詩を吟じた。いつもの段取りだった。

　　　あの南の山に登り　　　陟彼南山

　　　あの蕨を採る。　　　　言采其蕨

　何度か聞かされた詩だった。この詩が始まれば、「美味はあれに窮まる」という話になると、俺たち兄弟は皆知っていた。だから、こっそり目と目を合わせ、また始まったぞ、という顔をした。

　　　あの人を見なければ　　未見君子

　　　心は憂いに痛む。　　　憂心惙惙

　　　会えたならば　　　　　亦既見止

　　　心はすぐに喜ぶ。　　　我心則説

　親父の吟じ方は異様だ。ほとんど口を閉じたまま低く小さく唸ったかと思うと、突如かっと口を開き高い金切り声を張り上げる。唇を尖らせゆったりと長く音を伸ばしたかと思うと、口をぱくぱくと動かし短く区切った音を次々に畳み掛ける。どれもが予想できぬ順序で行われ、同じ詩であっても、吟じ方が同じであったためしはない。

　こんな奇怪な親父の吟詠など聞きたくないのが本心であっても、俺たち兄弟は渋々ながも親父の周りに輪を作って地に座らねばならない。それが陶家の決まりだからだ。親父はやかましく命じたりはしない。敢えて口に出さなくても、陶家の決まりというものが厳然としてあり、それを誰一人として破ろうとしなかった。飢えた日々に、俺たち兄弟は「腹が減った」という言葉は、家では一切口にしなかった。兄弟だけで外に出れば、「腹が減って死にそうだ」とわめき合っても、家に戻れば、空腹など全く感じていないかのように振る舞った。親父は家に食べるものが何もなくても平然としていて、どうにかしようというそぶりさえ見せなかった。こんな家だから、俺はたった一度だけ陶家の決まりを破った。それで長安に来た。「父母在ませば遠く遊ばず」。孔子の言葉は陶家の決まりだ。破ったからには二度と親父の元には戻らない。

　親父は詩を吟じ終わると、誰がそこにいるのかを見て確かめた。家の者全員が集まっていた。俺たち兄弟五人、妹が二人、それに母、このときは陶敬遠の小父さんもいた。もの静かな人で、親父は弟と呼んでいた。本当は従兄弟だ。ずっと親父の近くにいて、三十一歳で死んだ。敬遠の小父さんが生きていたら、ひょっとしたら俺は家を出なかったかも知れない。

　例の話になった。空腹には何の足しにもならないその話を、最も空腹のときにするのが親父の常だった。俺たち兄弟は神妙な顔を作った。

「あれはもっともっとずっとひどい飢えだった」

　親父は目を細め、昔の記憶を辿るかのように首をかしげ、しばし無言の時が過ぎた。

　兄弟でも成長して年齢が上になっていくと、それが本当にあった話ではないとの確信を持つ。一番年下の俺は長い間、親父は真実を言っているのだと思っていた。

　琴の胴を軽く叩き、親父は語り始めた。

「長い長い旅の果てだった。行く先々の村はどこも人影がなく、家は崩れて草土に埋もれ、道の脇に、野犬に踏みにじられた骨がさらされていた。草の根をしゃぶり、木の皮を舐め、よろよろと歩き続けた。死ぬより他になかった。そうであるのならば、一度は登っておきたい首陽山に行こうと、最後の力を振り絞り、山に向かった。首陽山こそはこの世の最後に見るべきものと思いを定め麓にまでたどり着いた。杖を突き、ゆっくりゆっくりと登り始めた。もはや歩く力はほとんど残っておらず、痩せ細った己の身体でさえも、まるで巨大な岩を背負って運ぶかのように重く感じられた。心も同じように重かった」

　　　心は憂いに痛む。　　　憂心惙惙

　親父は話を区切り、琴を撫してまた詩を吟じた。

「この世に生を得てより、時はたちまちにして逝き、山中で虚しく餓死する仕儀となった。それを天の定めと思い、死んで黄泉の下の鬼となって安らぎの時を迎えるのを喜ぶべきか。天道は幽かにして遠く量り難く、鬼神は茫昧として捉えようがない。振り返って己の知るこの世において、果たして己は何をしたのか。遠く旅をしたのは何のためだったのか。何かをすることもなく、何かを得ることもなく、己はこの旅の途中にこの生を終える。そのように思い、心は深く憂いに鎖されないわけにはいかなかった。うなだれ路傍にしゃがみこんだ」

　親父は琴を軽くひと撫でした。横で陶敬遠の小父さんが真剣な目で親父を見ていた。

「このままではここで死んでしまうと、木の幹にすがり、草の蔓を引き、やっとの思いで立ち上がった。細い道を再びうねうねと辿った。山の奥へ奥へと進んだ。どれくらいの時がたったことか、意識は朦朧とし、記憶にない。ふと、これは不思議なことではないのかとの思いに襲われた。山の奥に、行っても行ってもなお道が前に通じている。道があるからこそここまで来られたし、先へも進める。なぜここに道があるのか、考えてみれば奇妙だ。下の平地には人影が一切なかった。飢えのために村は崩れ、乾いた風が吹いているだけだった。この山の奥には草木に塞がれることなく道が劃然と通じる。ここを往来する者があるからなのか。とすればそれは誰なのか。自分と同じように死ぬ時が至りこの道を辿った者があるのか。それは誰なのか」

　　　あの人を見なければ　　未見君子

　親父は詩を静かに吟じた。枝より鶏が降り、声をたてて庭を走った。犬の阿黄がむっくりと首を上げてその動きを目で追った。

「よし、その人に会おう。たとえ骸になって地に横たわっていようとも、その人に会おうと心に定めた。なおも奥へと進むと、ぽっかりと木々が開け、小鳥の声が耳に響いた。軟らかな日が草むらに差していた。腰をおろし、草の葉にたまった露をすすった。微かに寄せる風に心が和んだ。あるいはここで死ぬのかと思った。この静寂の中で最後の時を迎えるのは、願っても得られない心地良さがあるだろう。そう思いながらも、ふと心の隅を見れば、なお絶ち難い思いの端があるのに気付かざるを得なかった。それは何か。目を閉じて心に尋ねた」

　　　心は憂いに痛む。　　　憂心惙惙

「宇宙まことに悠々たるもの。人生は百に至るは稀である。歳月は人に逼り人を促し、窮達は人を嘆かせ人を喜ばす。そのようなことのうちに、己の生きた跡をどこにも残さずに人は消える。この素抱を惜しむ。この固窮の節を痛む。己の本然の生より離れること遠いままに、そこへと戻る道筋を得ぬままに死んでいく。それでいいのか。心はいっそう苦しくなった」

　親父は琴を叩いた。

　　行くうちにもとの路を失い　　　　　　　　　行行失故路

　　本当の道に任せればあるいは通じるのか。　　任道或能通

「このように吟じ、幽草の間に身を沈め目を鎖した。しばらく横たわっていると、微かな物音が彼方でした。気にも留めずにいたが、音はどうやらこちらに向かって来るようだった。起きる気力はすでに失せ、鳥であろうと獣であろうと、このままでいようと、目を閉じていた。草を分けるざわめきが近くなった。目を開いた。二人の男が立っていた。初めて会う人だった。心の底から旧く懐かしい味が湧き上った。長く会わずにいた真の知己のようだった。立って深く礼をした。二人は微笑を浮かべた。陶淵明と名を告げると、伯夷、叔斉の兄弟であると名乗った」

　親父は、囲んで話を聞いている者たちの顔を見回した。

「伯夷、叔斉の兄弟は知っているか」

　何度も聞かされた話だからむろん知っていた。俺たちは大きくうなずいた。親父は少し微笑み、髭を顔の前の方に突き出すようにしごいた。軽い咳払いをした。

「汝輩もよく知るように、伯夷と叔斉は殷の孤竹君の二子だった」

　これは人にものを教えようとするときの親父の癖だ。

　俺たち兄弟は皆、親父に勉強を仕込まれた。早朝とか、雨の日とか、畑仕事が一段落した夕方とかに、兄弟は並んで座らされ、まずは大きな声を上げての素読から始まった。二度繰り返し読むと、親父が字句を解説した。ふと何か思うところがあると、「汝輩もよく知るように」と前置きをして、古い昔の話などをした。それから横に逸れて話があちこちへ飛び、いつか元々は何を勉強していたのかわからないままに終わる。だいたいそんなところだった。

　親父は三十になるかならないかのころ、親父の伯父さんのつてで初めての職を得た。江州祭酒だった。州の学校において、これから官職に就く子弟に、儒家の教えを授ける役目だ。相手はだいたいが良家のお坊ちゃま方だ。上品な雰囲気の中に身を置いて、手っ取り早く知識を得られればいいと思う連中だ。親父は、背が低く、色は黒く、見るからに風采が上がらぬ土臭い男だ。それだけでお坊ちゃま方には受けがすこぶるよろしくない。言葉に訛りがあり、話し方は少しも優雅でない。その上、常に話が逸れて肝心なことはそっちのけで愚にもつかぬ話をして日がな飽きない。お坊ちゃま方はすぐに呆れて学校に来なくなった。もっとも、そのときにはさすがに「汝輩」とはやらずに｢諸卿｣とやったようだが、あまり行儀がいいとは言えない。親父は偉い人に叱られた。それで嫌になってさっさと辞めてしまった。貧乏で暮らしが立たないからどうにかしてくれと伯父さんに頼み込んでやっと世話してもらったというのに、そんなことになって、伯父さんはかんかんだったらしい。俺が生まれる数年前のことだ。

　親父はものを教えるとき噛んで含めるような口調で話をした。

「二人の兄弟の父親は、自分の後を弟の叔斉に継がせたいと思っていた。叔斉の方が自分により似ていると感じたのだろう。ところが、父親が死ぬと、兄こそが後を継ぐべきだとして、叔斉は伯夷に譲ろうとした。兄は父の遺言だからと断り、自分がいなくなれば弟も観念するだろうと、姿をくらました。弟は、兄の継がぬものを自分が継ぐわけにはいかないと、同じく姿をくらました。二人ともが国を去ってしまったので、二人の間にいたもう一人の兄弟が後を継いだ。その後、殷は周によって滅ぼされた。伯夷と叔斉は、周が殷を滅ぼしたのは不義だとして、周の土地で収穫される穀物を食べるのを潔しとせず、首陽山に隠れ住んだ。兄弟の語るこうした顛末を聞き、ここで一緒に暮らさせてほしいと二人に頼んだ」

　　　会えたならば　　　　　亦既見止

　　　心はすぐに喜ぶ。　　　我心則説

「二人は顔をしかめた。『ここは天道の外の場所です。現世との縁の切れていない人の来るべき所ではありません』。こう言って、私を下界に戻そうとした。『私は飢えて死ぬより他になく、現世からはすでに捨てられた身であります。ここが私に残された唯一の場所です』。そう言ってさらに頼んだ。『飢えとは身が清浄としている者には付きものです。現世との縁の途絶を意味するものではありません』。『私は飢えてはいても、それが身の清浄さを証するのではありません』。兄弟は穏やかな微笑を浮かべた。『これを食してみなさい』。兄弟は手に下げていた蕨の若い芽を差し示した。促されるままに口に含んだ。噛む前より口中にえも言われぬ味が広がった。たちまちにして腹中は満ち、身体に気力が漲った。兄弟は顔色が一変したのを見て取った。『この味を知るのは、なお現世との縁が切れていないしるしです。そなたは、本然の生を求め、行くべき道を探さねばなりません』。『いえ、全ての道は窮し、残る唯一の道を辿ってここに至ったのです。こここそが私の来るべき所です』。『違います。直ちにここより去り、現世においてその道を探すのです』。兄弟の言葉が冷たく響いた。『ではどこに道を求めたらいいのでしょうか』。そう問うても、『御自身がよく御存知でありましょう』と兄弟は答えてくれなかった」

　親父は樽より立ち上がった。

「飢えて首陽山の蕨を食してより、遠く我が道を求め、西は張掖に至って沙漠の地を踏み、東は幽州に至って凍土の地を踏み、渇しては易水の流れに喉を潤し、九州の内をくまなく巡り、ついにここに至った。北に廬山に対し、南に沃野を望む。東はなだらかな柴桑の丘に包まれ、西は繁華な潯陽の町に隔たる。村を叢々と緑竹が巡り、家を桑、柳、楡、桃、李の五樹が守る。遠く見やれば田中の小祠に一本の青松が聳え、返り見れば丘の尾根に一本の古柏が抜きん出る。西に歩み入れば酒泉の飛瀑が掛かり、東に歩み去れば酔石の巨岩が横たわる。悠々たる宇宙にこの場所は一つしかなく、悠々たる太古よりこの方、ここにこの一つの場所が変わらずにあった。それがこの求めるところであった」

　親父は静かに歩み、ゆっくりと屈み、楡の下に生える草を引き抜いた。

「首陽山からここへと一本の道がつながり、ここの土は首陽山と地において一つである。この草もまた首陽山の蕨の味がするであろう」

　親父は草を口中に含み、さも旨そうに舐めた。

「美味はこれに窮まる」

　親父は満足気な顔をした。

　首陽山に、伯夷、叔斉が隠れたのは千年の昔である。庭の草は舐めても苦いだけだ。こんな埒もない話で飢えが凌げるはずはないのだが、一家が死に絶えるよりも前に、どこからか不思議と人の助けが陶家には及んだ。この夏も誰だったかが米と酒を贈ってくれた。

　去年の冬はこのときほどには窮してはいなかったが、潯陽刺史の檀韶が物を贈ってくれたのには助かった。その檀韶の息子が、俺が兄貴と呼んでいる檀臹である。俺より十歳余り年が上で、確か今年三十だ。

　　　＊　　　＊　　　＊

「焼けたよ」

　屋台のおやじが言うと、さっきから店前にたかっていた多数の手が一斉に伸びる。一番すばやかったのが兄貴だ。ずっと目を付けていた大きな塊の串を手にする。代わりに銭を投げる。食らいつく。油がまだ音を立てて中より沁み出し、肉汁がぼたぼたと落ちる。俺は急いで兄貴の袖をつまんで後ろに引く。べっとりと垂れる。

「これでは台無しだ」

　今朝初めて袖を通した官服だ。上等の絹の生地で作ったばかりだ。すぐに洗えば何とかなるかも知れないが、兄貴は全く気にもとめない。

「おまえは取らないのか」

　一つの肉塊を食い終ると、兄貴は串を俺に向ける。

「ほら、食えよ」

「いや、肉はたくさんだ」

「どうした？　旨いのに」

　兄貴は二つ目に取り掛かりながら歩き出す。もうもうと上がる煙から離れられてほっとする。頬に風が心地よい。見上げると、空は真っ青だ。

　長安の秋の風。この上なく爽やかだ。晩春の建康の風は湿って重く、初冬の洛陽の風は暗く腥く、それに比べて、ここの風には何物も含まれておらず、ただ風だけがある。この気持ちの良さは初めて経験する。それだけでも長安に来たかいがあると言えようか。

「何もいらなのか」

　兄貴が肉を噛みながら言う。

「まあな」

　市にはありとあらゆる店が出ている。兄貴と一緒に端から端まで、ごく細い路地にも入ってみた。俺はいくつかの食べ物をためしただけだ。特にほしいと思うようなものはない。

「酒は飲まないし、女は買わない、賭博はしない。おまえは本当に安上がりな男だ」

　酒は飲めない。女に執着はない。賭博は嫌いだ。

「貧乏に慣れているから、銭の使い方を知らないだけだろう」

　俺は笑いながら言う。それが本当のところかも知れない。

「どうかな。貧乏だった奴ほど銭に汚い。物を欲しがる。そのくせ、本性を隠して、君子面をしたがる。俺んところの親父がそうだ。醜い野郎だ」

「俺の親父だって、本性はどうだかわからない」

「おまえんところの親父さんは本物だと思う」

　兄貴は真面目な顔で俺を見る。

「違う」

　俺は吐き出すように言う。

「外からはなかなかわからないものだ」

　兄貴はまだ口を動かしている。三つ目の塊だ。

「今日は飲まないのか」

　すぐ先にある酒店を指差す。今日は酒店の前を全て素通りだ。

「飲むなと言われたからな」

　兄貴は不快そうな声だ。

「だから肉を食ってごまかしているのか」

「そういうことだ」

　酒屋の中から罵声が轟く。

「喧嘩だな」

　俺が言うより早くに、人を殴る音が響く。兵士が酒を呑めばこうなるのはお定まりだ。兄貴は俺の腕を曳く。

「君子危うきに近寄らずだ」

　酒店の前に人だかりができるのを尻目に兄貴はとっとと歩む。

「誰に止められたんだ？」

「酒か？　竜驤将軍だ。大事な命令が出るらしい」

　兄貴の酒は機嫌さえよければ行儀もいい。むやみとたくさん呑むだけだ。ある量に達するとぱたっと寝てしまう。寝るとなると、泥の上だろうが雪の上だろうが構わずだ。叩こうが抓ろうがどうやっても目を開けない。仕方なく、押したり引いたりして寝床に運ぶのが俺の役目だ。

「寝てしまっては役に立たないものな」

　俺が言うと、兄貴も笑う。

「将軍も俺をよく知っている」

　竜驤将軍王鎮悪は我が晋朝軍の先鋒を指揮し、昨年は洛陽を、今年は長安を蛮族どもの支配から取り返した。総大将である太尉劉裕の懐刀だ。俺たちは王鎮悪の指揮のもとにあって、都建康から洛陽を経てここまで戦いつつ勝ち進んで来た。

「命令って何だ？」

「わからん。とにかく今日は食うだけにしておく」

　足早に行くと、地面に並ぶ野菜を踏みつけそうになる。瓜が目に入る。立ち止まり、かがんで手を伸ばす。

「何だ、どうした？」

　先に行った兄貴が振り返る。軽く指で瓜を叩く。いい音だ。

「いくらだい」

　地面に胡坐をかき、被った笠の下で、眠っているのか身動きしない爺さんに尋ねる。

「おまえそんなの買う気か」

　買う気があるのかどうかわからない。市を朝から歩いて初めて自分で立ち止まった店がここだ。

「さあ」

　俺は首をかしげながらも瓜を両手で抱える。

「どうするつもりだ」

　兄貴に言われるまでもなく、大きな瓜など買っては邪魔になるだけだ。

　爺さんはゆっくりと顔を上げる。長い真っ白な鬚が顎の下にある。眉も真っ白だ。上品は顔をしている。これは漢人だ。

「お好きな値で結構です」

　爺さんは穏やかに言う。

「好きな値か。まさか、ただってわけにはいかないだろう」

　爺さんは微笑む。

「結構です。王旗を持ってきて下さった皆様方から、お足をいただいたんではばちが当たりましょう。生きてこの身が王化に霑う幸いを得られるとは思ってもおりませんでした。この年まで生きたかいがありました。こんな瓜でよろしければ、あなた様に全部差し上げます」

「ただでは貰えない。俺たちがここまで来られたのは太尉様のお力だ。その太尉様は市で使えと銭をたくさん下さった。だから、ただというわけにはいかない」

　俺は大真面目に言った。爺さんは感心したようにかぶりを振る。

「さすが王師の兵でおられる」

　俺たち先鋒が長安に入ってから一月ほど遅れて太尉劉裕が到着した。灞上まで出迎えに出た王鎮悪とともに劉裕が長安に入城した。道の左右に土地の古老が並び、皆が涙を流して劉裕を伏し拝んだ。それは儀礼の涙ではなくて、真実心から出たものであることは、はたで見ていた俺たちにわかった。何しろ、長安は百年の長きにわたって夷狄のもとにあったのだ。古くから都の置かれてきた長安は匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の五族の争奪の的となり、あまたの漢人が蛮族どもによって虫けらのように殺された。古老たちは言いようのない苦難の末に生き延びた者たちだ。我が晋朝の正しい衣冠を身に付けた劉裕の一行を目の当たりにして感激しないはずはなかった。この爺さんも劉裕を迎えた一人だったかも知れない。

「どうぞお持ちください」

　爺さんは杖で瓜を俺の方へとごろごろと押し出す。どれも見るからにいい瓜だ。

「形といい、艶といい、いい出来だ。どこで採れたんだ」

　爺さんは着物の袖を振るい、杖で東の方を指す。

「青門の外の丘に畑を耕しております」

　それでやっと俺はこの瓜になぜ気を引かれたのかがわかった。東陵の瓜だ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　親父の口癖の一つだ。

　家の裏手から西の田に至る途中の小高い畑に、親父はいつも瓜を植えていた。大きく立派な瓜が実れば、「東陵の瓜と並べてひけをとらぬ大きさであろうか」と言い、色合いのよい立派な瓜が実れば、「東陵の瓜と並べて遜色ない色であろうか」と言い、実際に瓜を食べて美味である場合には、「東陵の瓜の甘さに近い」と言ってさも満足そうに目を細めた。茹でて塩を舐めつつ食べるのを好み、長安の東市を逍遥して見たという東陵の瓜について俺たち息子に話して聞かせた。

「秦の始皇帝が死んだころの記憶がまだ人々に残り、劉邦が項羽を滅ぼして漢の世が落ち着き出したばかりのときだ。長安と言えば誰もが知る高さ三十丈の金茎が支える承露盤はまだなく、宮殿さえも造りかけの貧弱なものだった。それでも、長安に住む人は増え続け、市は年々賑いを増すようになっていた。今の都の建康はどれほどのものであるのか知らないが、当時の未完成な漢の都でもその方が遥かに立派だった」。

　親父はわざわざ建康は知らぬと言った。そんなはずはなかった。漢の長安を歩いたと言うのと同じ作り話だ。

「都の東にある青門にほど近い市をぶらぶらと歩いて行くと、ひときわ大きな人だかりがあった。地に立つ四本の木に筵をひっかけただけの店だ。何を売るかと、人の肩の間に首を突っ込むと、大きな瓜がごろごろところがっていた。作物を売る店なら他にいくらでもあるのに、瓜しか置かぬそこがなぜか異様に繁盛していた。人だかりから瓜を抱えて出てきた女に尋ねた。『旨いのか』。女は憮然とした顔を向けた。『この味がわからなければ渭水に身を投げな』。『そんなにか』。『疑うのならあっちに行きな。旨さを知る者の邪魔だ』。女は人を罵った後、瓜にうっとりと眺め入り足早に立ち去った。女の言葉は偽りではなかった」

　親父は、それを食ったのが昨日のことであるかのように一人うなずいた。自分が作った瓜をひとかけ箸でつまみ、

「この瓜の味に、それに似たところがいささかあるとしても、真の旨さから離れること遥かだ」

　と、口に放り投げた。

　俺は青臭い瓜がもともと好きでなかった。そんなにも旨いという瓜がこの世にあるとは初めから信じられなかった。

「瓜の味は驚くべきものであり、瓜を売っている男もまた驚くべきものだった。短い衣服からむき出しになった腕や足は真っ黒に日焼けし、手は皺だらけで節くれだち、どう見ても親代々の農夫に他ならなかった。しかし、目深に被った笠の下に常人と異なる鋭い眼の光があるのは隠せなかった。これぞ秦の始皇帝の世に、東陵侯として世に知られた召平だった。秦が亡んでから行方が知れず、遠く世を離れて生きているらしいとの噂もあった。まさか長安にいて、しかも瓜売りになっているとは思いもよらなかった」

　　こもごもに定めなき衰と栄　　　　　　　　衰栄無定在

　　それはこれにあってこれはそれにある。　　彼此更共之

　　寒さ暑さの交代と同じく　　　　　　　　　寒暑有代謝

　　人の世とは常にそうである。　　　　　　　人道毎如玆

　親父は詩を吟じた。例の奇怪な調子に、瓜の味はいっそうまずくなった。

「折りしも蕭何が相国に任ぜられた。五千戸が加増され、五百の衛兵が授けられた。かつて劉邦が長安の外で項羽と戦っていた間に、蕭何は内にあって物資と兵員の補給を完璧に行った。それが己の勝因として最も大きいと劉邦は常々口にしていたから、蕭何を相国にするとの皇帝の恩寵は、人々には格別なものとは感じられなかった。人々は蕭何の屋敷を訪れ口々に慶辞を述べた。蕭何は満足気に祝いの品々を見た。汚い爺さんが蕭何の門前に現れた。『悔やみを言いに来た』と告げた。門番は追い払おうとした。爺さんが背に瓜を負っていると聞き、蕭何は急いで門に出た。爺さんに恭しく頭を下げた。召平であった。『今日はいかなる御用でお越しくださったのでしょうか』。蕭何の問いに、召平は瓜を差し出した。『来夏には瓜を食せぬ身になると聞き、今のうちに御賞味いただこうと慌てて参りました』。蕭何はたちまちに悟った。『お上は私を疑っておられるのでしょうか』。そのころ、劉邦の旧臣たちが相次いで反乱を起こしては誅殺されていた。召平は言った。『世の人はこれを東陵の瓜と申し、今日このおかげで私は日を仰ぐことができます』。蕭何はひざまづいた。『いかにすれば災厄から逃れられましょう』。『いかなる卑賤の者も、いかなる高貴の者も、この瓜一つがあれば腹は満ち、それ以上を必要としません。加増も衛兵も全てを辞退され、お持ちになっているものをお上の軍に捧げなさい。それ以外に助かる道はありますまい』。蕭何は召平の忠告に従った。蕭何は条件の悪い土地に家を構え田畑を作った。屋敷が痛み雨が漏れ風に破れても修繕を一切せず、丞相の身にありながらこの上なく質素に暮らし、天寿を全うするを得た」

　親父は箸でつまみ上げ、自分の瓜にしげしげと見入った。

「これには東陵の瓜の万分の一の知恵も篭っていない。召平はもって生まれた鋭い洞察力と強い克己心を以って瓜を作った。他の人に到底作れぬものができたのも道理だ。いかに努力したところで、この瓜は東陵の瓜には及ばない。西は張掖、東は幽州を旅し、渇しては易水の流れで喉を潤し、飢えては首陽山の蕨を食らい、長安で召平を見る幸運に恵まれながらも、瓜の作り方を習って来なかったのは、悔やんであまりある失敗だった」

　親父はこう語った。

　召平が生きていたのは漢の初め、今から六百年前だ。親父は南に窮した我が晋国の外より一歩も出たことがなく、張掖、幽州はおろか、洛陽、長安にも行っていない。

　親父は十年余りの間に官職に四度就いて柴桑の村より四度出た。一人で行き、一人で帰った。四十一歳で彭沢の令を辞してからは、村の周辺より遠く出ることはなくなった。俺はその時は七歳、十一年後に村を出るまでほとんど村の外を知らずにいた。その俺が、こうして親父が見たことのない長安の市で、まさしく瓜を手にしていると知ったなら、さぞ驚くことだろう。むろん知ることなどない。親父とはもう会わない。俺は親父について聞かず、俺について親父には聞かせないつもりだ。

　ただひとつ気がかりがある。洛陽で偶然に出会った大酒呑みの顔延之が親父に余計なことを告げるかも知れない。顔延之は一昨年の春に潯陽に来てから、酒を持って何度か家に押しかけてきた。呑むとすぐに大きな声で騒いだ。朝まで呑んでも顔延之は疲れを知らず、大声を張り上げ続けた。二十も年が上の親父は同じようにはできず、夜が更ける前にごろりと眠った。それでも顔延之は一人呑むのをやめなかった。

　その顔延之が、太尉劉裕に宋公の爵位を授ける皇帝の使いとして、去年の暮れに洛陽に到着した。王鎮悪の率いる俺たち北伐軍の先鋒は十月に洛陽に入っていた。主力軍を指揮する劉裕は続いてすぐに船で黄河を遡って洛陽に入る手筈であったが、黄河の北を占める鮮卑族の魏国との間につまらぬごたごたが生じ到着が遅れていた。劉裕を待つ間、顔延之は洛陽周辺の故地を訪ねて詩を作ったり、盛り場に出て例の調子で呑んだくれたりと気ままな日々を送っていた。兄貴にくっついて酒店に居て俺はばったり顔延之に会った。顔延之は俺の顔を覚えていてひどく驚いた。俺が家を出てからも、顔延之は親父を一二度は訪ねたらしく、それでも俺がいなくなったとは知らずにいた。親父は何も言わなかったのだろう。顔延之は俺のことを聞きたがり、親父の様子をしゃべりたがったが、俺は適当な相手をした。顔延之とまた呑もうと別れたものの、劉裕の到着を待たずに王鎮悪は長安攻撃に発ち、それっきり会わずじまいになった。

　　　＊　　　＊　　　＊

　俺は瓜を小脇に抱え直し、懐の内をさぐり、手が掴んだままを爺さんに投げる。召平の子孫だか知らぬ爺さんの膝の上にじゃらじゃらと銭の塊が載る。爺さんはのけぞりながら銭に目を注ぐ。

「こんなに。どういうことでしょう」

「取っておいてくれ」

　爺さんは銭を数え出す。

「これは、これは。ここにあるものではとても合いません。家の畑のもの全部をさしあげても、足りますかどうか」

「いいんだ」

「これ一つあれば十分です」

　爺さんは返そうとする。

「もうやったんだ」

　そう言いつつ手にしていた瓜を下に置く。

「どうぞお好きなだけお持ちください」

「重いのはいまちょっと邪魔なんだ。後でまた来る。その時にもらう」

「ならばお屋敷にお届けしましょう。畑からもたくさん持ってまいりましょう」

「後で来るから、いい」

「お代はそのときで」

　爺さんは杖にすがって立とうとする。

「正直な爺さんだ。また来るから」

　俺は歩き出す。

「お待ちください」

「この次会うまで達者でいろよ」

　軽く手を振り、小走りになって人ごみに紛れ込む。

　市のはずれで兄貴が追い付く。肉は平らげ終わっている。

「変なことをしたな。何だってあんな爺さんにただで銭をやったんだ」

「さて」

　自分でもよくわからなかった。

「可哀想になったのか」

「あの爺さんをか」

「これからまたひどい苦労をするだろう。それでなのか」

「ひどい苦労？」

「この市の賑わいは長くは続くまい」

「そうか。どうかな？」

「太尉殿が長安にいつまでもいるはずがない。そうだろう」

　兄貴は小声になった。俺は少し考え、

「たぶんな」

　と、やはり小声で返事をする。

　長安が匈奴族の前に陥落したのは百年も昔だ。それに先立つこと五年、永嘉五（三一一）年六月、我が晋朝の当時の都洛陽は、匈奴族の長である劉聰が派遣した二万七千の兵に攻め立てられた。十二度戦って全て敗れ、三万余の死者を出し、懐帝は洛水の流れに舟を浮かべて都を脱出した。入れ替わって匈奴の兵が都に入り、宮殿は略奪され、士民三万余が殺戮された。懐帝は捕らえられ殺された。

　長安において皇族の一人が即位し、我が晋朝の命脈を保とうとしたが、建興四（三一六）年、同じく劉聰の派遣した匈奴軍の攻撃を受け、長安は外城を奪われ、城中の過半が飢えて死に、なお死を厭わずに戦おうとする者はわずか千人となった。皇帝は降伏し長安を匈奴に明け渡した。我が晋朝は中原の地を完全に失い、南に逃れた皇族が即位して晋朝の名目をかろうじて繋いだ。江南の地を中心とする半分以下の大きさの国となった。

　以来、匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の五つの夷どもが中原の覇権を巡って争い、その時どきに隆盛を得た者が長安に乗り込んでは皇帝を名乗った。そもそも皇帝とはこの地上に一人でなければならないとすれば、真の皇帝は我が晋朝の皇帝であるのが道理だろう。洛陽、長安もいずれは我が晋朝の元に戻らなければならない。太尉劉裕は、晋朝の御旗を掲げて軍を進め、我が晋朝の悲願としてきたところの洛陽、長安の回復を実現させた。

「太尉殿が長安にまで来たのは何のためか知っているだろう？　まさか漢の諸皇帝の御陵を祭るためではあるまい」

　長安は漢の都のあった故地だ。それを夷狄のもとに置くのは我が晋朝にとってこの上ない恥辱だ。劉裕は長安に入ると、漢朝を興した劉邦を初めとする漢の諸皇帝の十の御陵の祭を行った。劉裕は漢朝の劉氏の遠い子孫であると自称している。祭祀は晋朝にとってだけでなく、劉裕個人にとっても重要な意味を持つものだった。

「違うのだろうな」

　俺はわざとあいまいな言い方をする。

「洛陽、長安を足がかりにして、さらに北へ、あるいは東に西にと兵を進め、中国全土に我が晋朝の威令を及ぼすためでもあるまい」

「たぶん違うのだろうな」

　ますますあいまいに答える。

「そうだろう」

　兄貴はにたりと笑う。

「太尉殿は南に帰るのか？」

「決まっている。大して先ではないだろう」

「そうか」

「太尉殿の狙いは初めから一つだ。そうでなければ苦労してわざわざ長安にまで来るものか」

「皇帝か」

　俺は嘆息まじりに言う。

「しっ。声が大きいぞ。誰だって何かをするのは自分のためだ」

　兄貴がそう言い切ったので、瓜売りの爺さんが確かに可哀想になる。

　匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の五胡の勢力が入り乱れ、百年の間、ずっと戦乱の絶えなかった中原の地にも、取り残された漢人が多数いた。資力のある者は一族を連れて南に逃れたが、大方の庶民は置き去りとなった。瓜売りの爺さんのような漢人が今日に至るまで生き延びるには、筆舌に尽くせぬ苦労があっただろう。それだけに、我が晋の王朝の旗を掲げて太尉劉裕が長安に入城したのは、瓜売りの爺さんには夢のような出来事であったに違いない。劉裕の力によって長安の市は賑わいを得て、それが長く続くのを瓜売りの爺さんは願っているのだろう。残念ながらそうはならないようだ。

　長安回復というこれまで誰もが為し得なかった赫々たる成果を持ち帰れば、劉裕が帝位に就くのを妨げるものは何一つとしてない。劉裕は五十五歳だ。早く南に戻りたいだろう。劉裕が去れば、長安がいつまで我が晋朝の威令の及ぶところとして保って行けるかどうかわからない。再び夷狄の手に落ち、瓜売りの爺さんが生きながらえられるのか、その先は全くわからない。

「ただ気がかりは統万城の劉勃勃だ。劉勃勃が動き出すようだと太尉殿は南にやすやすとは帰れない」

　と、兄貴が言う。匈奴族の劉勃勃は、北の高原に難攻不落の統万城を築いて夏国を興し、長安を都とする羌族の秦国と敵対関係にあった。劉裕が秦国を攻撃している間は、劉勃勃はじっと動かず、二者の戦いを見守っていた。その決着が付いたいま、劉勃勃がどう出てくるのかで長安を巡る情勢は大きく変わる。

「太尉殿は統万城を攻めるのか」

「まさか。劉勃勃は不気味な男だ。下手をすればせっかく得た自分の威名を台無しにする。そんな危険を太尉殿はおかしはすまい」

「あくまでも自分のためか」

「そうだな」

　兄貴は声をいっそう低くした。瓜売りの爺さんがますます可哀想だ。

「どうした。太尉殿に不服か」

　兄貴は俺の顔を覗き込む。

「そんなことはない。太尉殿のおかげで俺たちはここまで来た。どうして不服があるものか」

　すぐにそう言ったが、劉裕のすること全てがいいと思っているわけでもない。

「むきになるな。俺たちだってここまで来たのは自分のためだろう。忠義のためではない。長安で苦しんでいた瓜売りの爺さんを救うためでもない。ただ、太尉殿ほど大きな望みは持っていないという違いがあるだけだ」

「たぶんその通りだ」

「太尉殿が長安を去るのなら、俺たちもこれからどうしたら自分にとって一番いいのかを考えないとならない」

「そうか、これからか」

　俺はふっと息をつく。出てきた郷里を思い出し、ずしんと心に重いものを感じる。

「さて、俺たちはどうするかだ」

　兄貴はいかにも大儀そうに言う。朝からの機嫌のよさに曇りが出てきた。

「南に帰るのか」

　最も嫌なことを俺は口にする。

「それしかないだろう。それも意外と早くに」

「そうなのか」

　俺はまた溜息をつく。

「畜生、酒が呑めればな」

「今日は駄目なんだろう」

「酒があればいい知恵も出る」

「本当か。兄貴は寝てしまうだけだ」

「酔中にこそ知恵が湧くのだ」

「大酒呑みの顔延之みたいなことを言うな。どう考えたところで、南に帰るしかないのだろう」

「気が進まないのか。だったら、あの爺さんとここにいたっていいぞ」

　兄貴は笑いながら言う。

「それはつまらない」

「太尉殿はある程度の兵力をここに残すだろう。その中に加われば南に帰らずにすむ」

「太尉殿がいなくてこの長安はもつのか？」

「長くはないだろう。せいぜい二三年か」

「夷狄どもと戦って死ぬのは御免だ」

「瓜売りの爺さんを助けてやらないのか」

「まさか」

「ならば帰るのか」

「さあて」

　俺は思案に窮し、空を仰ぐ。真っ青だ。すばらしい色だ。

「嫌なのか」

「たぶん。兄貴は？」

「俺か」

　兄貴も空を見上げる。

「長安はいい所のようだ」

「兄貴もやっぱり、帰りたくないのか」

「そうかも知れないし、そうでもないかも知れない」

「どっちなんだ。兄貴らしくもない言い方だ」

　兄貴はふふっと笑う。

「長安には残らず、建康にも帰らない。それができればいい」

「どういうこと？」

「どこかに消えようか」

「山にでも隠れるのか」

　俺が言うと、兄貴はわざと驚いたような顔を作る。

「隠者になる？　やっぱり親子だな」

　その一言で俺はいささか傷付けられる。親子か。俺は陶淵明の息子だ。それは事実だ。親父は彭沢の令を擲って潯陽は柴桑の郷里に隠棲してすでに十年を超えた。俺は自分なりに物を考えられるようになってから、隠者となった親父の姿だけを見てきた。俺は隠者の息子だ。

　親父が隠棲していることはいささか世に知られるところだ。だから、その息子である俺も、親に似て隠れ栖む心を生まれながらに持ち備えるか、隠者の心を親父より授けられているかと見られてしまう。それは悔しいことだ。親子だからといって同じではない。まして親父は似非隠者なのだから。

　だが、兄貴の言葉に傷付けられ、自分ながらに悔しいと思ったのは、実は今まさに、心のうちで秘かに山に隠れることを確かに思っていたからだ。結局のところ「やっぱり親子だ」の一言で済んでしまうのだったら、これほど疎ましいことはない。それにしても、「やっぱり親子」なのか。俺は、隠れる山があるとすれば、それは商山であろうかと場所までも思い描いていた。

　　　＊　　　＊　　　＊

　商山は首陽山についで親父がよく語る山だ。

　秋の始めが最も多かった。日の暮れるかかる時分に、農作業からの帰り道、空を翔る鳥の影が親父の目をかすめると、立ち止まってその行く手を追った。ときにそれは畑から出たばかりの道の上であり、ときに田へ水を注ぐ堰の脇であり、ときに古びた祠を覆う松の蔭であり、ときに肥しを溜める穴の前であり、ときに菊の籬の前であり、ときに家の五本の柳の下であった。鳥は一羽であるか群れであるか、家の軒を横切り、木々の枝を潜り、草を間を縫い、水の流れを渡り、茫漠と広がる田畑を越え、遠く彼方へと去った。

　親父は、暮れ行く空に鳥の影が小さく紛れ、黒く沈む平原か、空に溶けこむ山か、そのどこかへと消えたかどうかわからなくなるまで、立ち続けた。

　しばらくしてから親父は大きく息を吐き、歩き始めた。もしもそこに、俺たち息子の誰かが近くにいると、親父は聞かせる風でもなく、しかしただの独り言でもなく話し始めた。

「鳥よ鳥、鳥の翼に吹く風は和やかなものであろうか。鳥よ鳥、翼を並べるのは旧くから心を知る友であろうか。鳥よ鳥、道はいかに遥かであろうとも、鳥は己の場所を知り、鳥はそこへと帰り行くのか」

　親父はいつもの調子で吟じた。

　　　天の道はまことに遥かではあっても　　遐路誠悠

　　　本来愛するものを忘れはしない。　　　性愛無遺

「鳥は、己の本性が愛するところがあるのを決して忘れない。遠く翔り飛ぶとも、天高き雲より下り林に心を寄せる。鳥にはそれができる。悲しいかな、人は違う。人は遠く八表を行き、天路を求め、雲の嶺に昇ろうとする。旧き棲みかを喜ばず、昔の侶を忘れる。己の本性の愛するところがあるのを顧みず、帰るべき場所からひたすら遠くへと離れ、得るあてもないものを求めてさまい、そのまま死を迎える。稀に思い出す者がいても、帰り行く道がどこにあるのか知らない。鳥は己の心に従って飛ぶが、悲しいかな、人は最も簡単であるはずのそれができない。ごく稀に帰り行く道を得る者があっても、人はそれを辿れない。身は惑わせるものに繋がれ、鳥のように翔られない。もしも稀に道を辿る者があっても、行くべきところへと至りはしない。網に捕らえられ、中途に苦しむ。もしも稀のうちにも稀な者だけが至るとしても、それでも人は留まることがない。外より曳かれるもののためにまたも何処かへと出て行く。人はなぜそうなのか。悲しいかな、鳥はできても、人は人であるからそうであるより他はないのか。それがそもそも是であるのか非であるのか。是であろうとも、非であろうとも、他にありようがないのか。こうしたことを一体誰が知るのか」

　親父は腕を伸ばし、北の方角を指差した。

「遥かこの向こうに商山がある。商山こそは帰り行くべき山、留まるべき山であった。しかし、悲しいかな、まだ若かったせいであろう、それを知らず、商山を登ったのはただ人を面罵するためであった。是と非の二つは確かな境をもって分かれ、その弁別はすこぶる容易であると、悲しいかな、まだ思っていた。是非によって人を誉め謗るのを恥ずべきとするわずかな思慮さえ持たずにいた」

　あたりはすでに夕暮れに包まれ、明かりのなお残る空が縁取る山並みと、間近な親父の姿の他は、等しく一つの暗さの中に沈もうとしていた。

「あれは呂太后の暴虐が宮中の外にも漏れ聞こえ始めたころだった」

　親父は咳払いをした。

「汝輩もよく知るように、呂太后は劉邦が微賤であったころからの妻だ。劉邦は皇帝になり、呂太后が生んだ息子を皇太子と定めた。ところが、劉邦は若く美しい戚夫人を寵愛し、呂太后とは次第に疎遠になった。劉邦は、戚夫人の願いを聞き入れ、戚夫人が生んだ息子を皇太子にと考えるようになった。皇太子の交代は国家の重大事、戦乱の種となることも多い。劉邦を押しとどめるのに一役買ったのが商山の四皓だった。商山に隠棲する東園公、綺里季、夏黄公、甪里の四人だ。白髪白髯の真っ白な姿から、四皓と呼ばれた。四人は、もとは秦の始皇帝の時代に世の乱れを嫌って商山に隠れた。そのころより名高い高潔の隠者だ。劉邦は病気がちとなって、後のことがしきりに気にかかり、いよいよ皇太子を戚夫人の息子に代えようと考えた。ある酒宴だった。皇太子が劉邦の前に歩み出ると、その後ろに、眉も鬚も真っ白ではなはだ立派な四人の老人が従った。劉邦が四人に名を問うと、まさしく商山の四皓であった。劉邦は驚き、『朕は公らが朝廷に出るのを求めた。公らは朕を避けて山を下ろうとしなかった。それがなぜいま我が息子の後ろにいるのか』と尋ねた。『太子様は慎みと敬意をもって士に接し、太子様のために命を投げ出すのを望まぬ者は天下に一人としてありません。それ故に私どももここに参ったのです』。四人はそう答えた。劉邦ははなはだ感心し、『太子を盛り立ててやってくれ』と頼んだ。四人は杯を挙げて皇帝の長寿を祝った。これによって劉邦は皇太子の交代を断念した」

　話がここまで進むと、親父の声はぐっと低くなった。

「劉邦が死ぬと、定めの通りに皇太子が即位した。呂太后は皇太子の座を奪おうとした戚夫人とその息子を憎んでいた。戚夫人の息子を毒殺した。次いで戚夫人を捕らえ、両手両足を切断し、両目を刳り抜き、両耳を薫べて塞ぎ、薬によって声を出せなくした。便所の中に置き人糞を食わせた。手足がなくうごめく姿を人彘と呼び、皇帝となった息子にそのありさまを見物させた。皇帝はそれが戚夫人であると知ると、大声で泣き、以来、日夜酒を飲んで淫楽に耽り、政治に関らなくなった。呂太后がこれより政治全般を行うこととなった」

　親父は歩き出した。

「道というものがある。一本貫く天の道は人の目には見えず、この目に見える地上の道は無数に分かれる。ここより彼方に道が通じれば、彼方よりここに道が通じる。外より山の奥へと通じる道は、山より外へと通じる道である。山へと入る道がなければ人は山に隠れられず、その道がある以上、山から外に出る道は常に通じている。長安より商山へと通じる道を辿って四皓は山に隠れ、その同じ道を辿って四皓は山を出て長安に戻った。劉邦の前でまことにつまらぬ諂いごとを言った。その結果が何を招いたのか、よもや知らずにいるのではあるまいと、商山に踏み入って、四皓を直接詰問しようとした」

　親父はここで、ふっふう、と笑うかような息をして、天を見上げた。すでにすっかり暗く沈んでいた。

「鳥は夕べに山に帰り、朝に山を出る。帰り行く道があれば、出て来る道がある。商山の四皓は、問責する男に対し、穏やかな顔を向けるばかりで何も言わなかった。四人はいずれも優に九十を超えた。肌はつやつやと輝き、目に強い光が篭っていた。四皓は無言で全てを語った」

　　　高い山が重なり　　　　　　　　　　　　　　漠漠高山

　　　深い谷がめぐる。　　　　　　　　　　　　　深谷逶迤

　　　妙なる紫の霊芝が　　　　　　　　　　　　　奕奕紫芝

　　　飢えを癒す。　　　　　　　　　　　　　　　可以療飢

　　　富貴は人を畏れさせる。　　　　　　　　　　富貴之畏人兮

　　　貧賤にして志をおもいのままにするがいい　　不如貧賤之肆志

「四皓は口を開かなかったが、四人の歌声が耳に響き、四皓の言葉が心に届いた。四皓は言った。是非を弁じるのは人である。人が己の心をもって弁ずればすでに是非よりは遠い。弁をもって弁に勝とうとすれば、是非より最も遠いところに行かねばならない。天は道について弁ずることがなく、是非の理は自ずと紛れない。商山の奥に隠れようとも、人である限りは是非の弁よりは免れず、弁ずれば是非より遠く離れ、己の本性が本来愛するところのものから遠のく。四皓はこのように言った。四皓が何故に劉邦の前に出たのかはわからなかったが、天の道を離れぬ唯一の方法は是非を弁じないことだと無言のうちに教えてくれた」

　親父は星の光り出した北の空を指差した。

「ひたすらに恥じ入り、四皓に深く深く頭を下げ、商山を降りた。商山を降りてよりここに至るまでにいかなる道があったのか。鳥のように己の本性の帰るべきところを知って辿った道であったのか。それを弁ずれば、やはりまた遥かに遠く違えた道を辿ったことになるばかりなのか」

　親父は暗闇の中で首を横に振った。

「鳥よ鳥、鳥はただ悠々たる道を飛ぶ」

　親父の声が闇に響き、話は終わった。

　こんな作り話をなぜ息子たちに聞かせたのか。四皓が商山に隠れたのは六百年も前だ。馬鹿馬鹿しい限りだ。

　なのに、親父の話す声が今ありありと耳元によみがえる。商山に登れば、俺も親父と同じように四皓に会えるような気がする。ならば、商山に登ってもみようか。

　どうしてそんなことを思うのか。俺が陶淵明の息子だからなのか。悔しくともそういうことなのか。だからこそ、俺は南に帰りたくないのか。

　　　＊　　　＊　　　＊

　市場の雑踏を離れた。

「先のことは先だ。今日は気ままに歩こう。どうせ酒も呑めぬ。歩くしかない。何かは知らぬが命令が出れば、先のことなどどうせ考えていられなくなる。世は気楽になるがままだ」

　そういう兄貴の言に従う。ただし、兄貴の言うことをそのまま受けてはいけない。「気楽になるがままだ」と言いながら、結構緻密に考えている。己に不利となることは絶対にしない。大したものだ。

　長安の町を足の向くままに歩く。王鎮悪が平朔門を突破して長安に入ってから、俺も時たまは町を歩いた。何しろ漢代の有名な都だ。興味はある。親父から聞かされたことも多い。長安は広い。まだごくわずかしか見ていない。漢代の面影はどうやらほとんど残っていないようだ。

「見ろ、また仏寺だ。大きな建物といえば仏寺ばかりだ」

　兄貴の言う通りだ。少し歩くとすぐにまた仏寺だ。

「夷狄の連中は本当に分かって信じていたのか」

　我が晋朝でも仏教は大流行だ。都を始め各地に大きな仏寺が建つ。親父が住む柴桑の村から北東に望む廬山は、山一つが丸ごと仏寺だ。朝廷に居並ぶお歴々は小難しい仏教談義を好んでかわし、高尚な会話ができないようでは高位高官の仲間にはしてもらえない。

「分かっていようがいまいが、俺たちが勝ったのはこいつのおかげだろう」

　高い塔を見上げながら兄貴が笑う。

　我が晋朝の都建康にも多数の仏寺があるがここほどではない。羌族の姚萇、姚興、姚泓の三代の皇帝は熱心な仏教の信奉者で、長安の皇城の内にも巨大な波若台が築かれ、千人の沙門が毎日そこで座禅を組んでいたという。

「無残なものだ。国を守るに何の役にも立たない」

　俺は傾いた門の柱を叩く。

「逆に、国を滅ぼすには大いに役立った。姚萇、姚興の親子が、これほど仏教に御執心でなければ、俺たちもやすやすとは長安の地を踏めはしなかっただろう」

「そうだな」

　あきれるばかりに多くの仏寺を建てるのは並大抵でない。仏寺が建てばそれぞれに沙門が大勢巣食う。そいつらを食わせたり着せたりしてやらないとならない。田畑を耕さず、兵として働きもしない連中を大勢飼っておくわけだから、国の費えは膨大だ。食って愚にもつかぬことを言い糞を垂れるだけの沙門だ。そいつらがまともに働けば強大な国になっていただろうに、せっせと国を傾けてくれたわけだ。国を駄目にしてまで無駄飯を食わしてもらっていた沙門どもはどうだ、俺たちが来る前に、あたふたと仏寺を捨てて長安から逃げ出した。いったいどこに消えたのか。どの仏寺ももぬけのからだ。今ではほとんどが兵士の営舎になって役に立ってはいる。

　ただ、この仏寺の壊れ方はひどい。人の姿がない。

「何の助けにもならないものを信じていたのを、姚泓は今頃になって大いに悔やんでいることだろう」

　壁板が無残に剥がされた本堂に向かって進む。中を覗きながら兄貴が言う。

「江南の連中も五十歩百歩だ。虚妄の談論ができねば朝廷では偉くなれない。釈迦だか老子だか、どっちも俺は知らぬが、とかく難しいことを言ってみせないとならない。太尉殿だって戦では負けたことがなくても、それだけでは朝廷の連中を威服させられないと知り、一時は無理に人の口真似をした。結局は付け焼刃だ。ぼろぼろとおかしなことが口を衝いて出た。いかに噴飯ものであっても、まさか太尉殿の目の前で笑うわけにはいかず、皆黙って下を向いていた」

「鄭鮮之だけは、太尉殿が言うだけ言うと、おもむろに反駁を始めたらしい」

　と、俺は人から聞いたことを口にする。

「あいつは特別だ。世の中には人とは違う大きな幸いを得てしまう奴がどうしたっているんだ」

「羨ましいのか」

　俺はわざと訊く。兄貴は笑う。

「何が羨ましいことがあるものか。苦労が増えるばかりだ。お追従によって得た幸運を保とうとすれば、ますます大仰な追従を言い続けなければならなくなる。おまえは知っているか、太尉殿が数日前に阿房宮、未央宮の址を見に行った折のことだ。鄭鮮之はいつものようにのこのこついて行って、なんだかんだとうまいことを言ったらしい」

　阿房宮は秦の始皇帝が築いた宮殿、未央宮は漢の劉邦の築いた宮殿だ。いまはどちらも何も残っていない。ここにあったらしいという場所を劉裕は訪れた。

「どんなことを言ったんだ」

「始皇帝は是非を見分けられるだけの見識を備えた人物であったようだが、己のまわりに人を得なかったのかはなぜかと、太尉殿は尋ねた」

「そんなことを聞くのは、やはり皇帝になる気でいるからか」

「そうだろう。皇帝になるとすれば、むろん始皇帝のようではなく、劉邦のようになると考えているのだろう」

「太尉殿は同じ劉姓で、二十何代かの子孫らしい」

「あてにはならん。元は俺と少しも違わない馬の骨だ」

　兄貴は笑う。

　劉裕は、都建康から長江を少し東に下った京口の、半分傾いた粗末な官舎で生まれた。父親は木っ端役人だった。劉裕の母親は息子を産んだ代わりに命を失い、父親は貧乏で乳母を雇うこともできず息子を間引こうとした。それを救ったのは、同じころに子どもを生んだばかりの父親の姉だった。しばらくその伯母の元で育てられた。十歳のころに父親は死に、劉裕は一家の生計を立てるべく、父の後妻の命じるがままにさまざまな賃仕事をした。貧乏人が出世できる場所がもしあるとすれば戦だった。劉裕は兵士となった。兵士仲間に檀慿之がいた。劉裕は四十二歳のときに一か八かの反乱を起こした。初めから計画に与っていた檀慿之は従兄弟の子である檀韶、檀祇、檀隆、檀道済の四兄弟を誘った。檀慿之は死んだものの反乱は成功し、劉裕は朝廷における実権を手にした。この四兄弟の長男である檀韶が俺が兄貴と呼ぶ檀臹の父親だ。

　兄貴は父親と絶縁しあえて名もない一兵士として竜驤将軍王鎮悪の軍に加わった。もしも父親の名に依って劉裕に直接仕えていたならば、鄭鮮之のように羽振りをきかせていられた可能性だってないわけではない。そんなこともあってか、兄貴は鄭鮮之をよく思っていない。

「それで、鄭鮮之はどう答えたんだ」

「佞言は忠に似、姦言は信に似る。中くらいより上の人間は時に良いことも語ろうが、始皇帝は中くらいよりも下の人物であったから、人を見る目がなく、佞言と姦言を聞いてしまった。こんなふうに答えたらしい」

「そういう鄭鮮之こそ、佞言の士だ」

「まったくだ。おまえはいいことを言う」

　本堂の中は何もない。むしり取られてぼろぼろになった天蓋の残骸がだらんと下がっている。

「みんな盗まれたんだな」

　俺の声が堂内に反響する。

「どうせ沙門どもが人から盗んでこしらえたものだ」

「取り返されて当然ってことか」

「全くだ。沙門どもは難しいことを言うくせに何もわかっていない。忠に似た佞言や、信に似た姦言が言えればまだしもだ。沙門どもが言うのは結局は虚しく屁のつっぱりにも及ばない。知っているか、去年の元会で、沙門の賀僧とかいう馬鹿者が突然泣いたそうだ」

「元会？　どこのだ」

「長安の太極殿だ。姚興がまだ生きて皇帝だった最後の元会だ」

「賀僧は群臣が居並ぶ皇帝の前で泣いたのか」

「賀僧っていうのはどこから来たのか素性が知れぬ奴で、言うことにいちいち効験があるとかで、姚興はすっかり有難がっていたらしい。いつも近くに置いていた。それが元会で大声で泣いたものだから、群臣は大いに怪しんだ。それから姚興は病が重くなり、二ヶ月足らずで死んだ。賀僧は皇帝の命運を知って泣いたっていうことになっているのだが、愚かな話だ。知っていたなら何か手立てがあっただろう。沙門どもの得意とする霊法はどうしたのだ。病を救うくらい簡単ではないのか。姚興を生かしておけば、ここだって仏像一つ残らぬ惨めな有様にはならずにすんだだろうに。馬鹿な話だ」

　兄貴は大きな声で笑う。

　姚興は、父親の姚萇が建てた秦国の二代皇帝だった。姚萇の秦国は、苻堅が皇帝であった同じ名の秦国が瓦解した後に誕生したいくつかの蛮族の国の一つだった。苻堅は氐族、姚萇は羌族で、仇敵同士だ。

「姚興はなかなかの皇帝だったようだ」

　姚興は在位二十二年、国域を広げ長安に富を集積をした。仏寺が林立するようになったのは姚興のためだ。

「それにしても姚泓はからきし駄目な奴だった」

　姚興が病死し次の皇帝になったのは息子の姚泓だった。跡目争いもあり、若い姚泓は国をまとめられず、劉裕の指揮する我が晋国軍に洛陽、長安を攻め取られ、在位わずか二年目にして国を滅ぼした。

　王鎮悪の率いる我が先鋒が長安城内に突入すると、姚泓は抵抗をあきらめあっさり降伏した。姚泓の十一歳になる息子は、降伏しても死は免れないのだから戦うべきだと父親を叱咤した。姚泓は聞き入れず、妻子、群臣とともに宮殿を出て、王鎮悪の塁門の前で降伏を受け入れてくれるよう請うた。姚泓は生け捕りとなった。息子は宮殿の塀より飛び降りて死んだ。

「姚泓は今日にも建康に送り出されるらしい」

「そうか。ならばそいつの顔を拝んでやるのも一興だろう。国を失った間抜けな皇帝がどんな顔をしているのか見てやるか」

　兄貴は愉快そうだ。

「太尉殿は大したものだ。去年の八月に建康を出発してから一年で秦国を滅ぼしてしまった。いくら相手が間抜けでも、できないことだ」

「それはそうだ」

「近く太極殿で大々的な戦勝祝いがあるらしい。兄貴は聞いているだろう。姚興、姚泓の使っていた玉座に太尉殿が座わるらしい」

「おべんちゃらの鄭鮮之の考えたことだ」

　兄貴はいまいましそうに言う。鄭鮮之となると少々むきになる。兄貴は本心では鄭鮮之を羨むところがあるのだろう。

　劉裕は何万里の大海を渡る鵬のように大空高くを飛翔している。その翼にしがみつき我も空へと昇ろうとする者が大勢いる。兄貴の父親の兄弟はそれで高い地位を得た。檀韶は江州刺史になり、弟の檀道済はこのたびの北伐軍で、竜驤将軍王鎮悪と並ぶ冠軍将軍の地位を授かった。檀韶はひたすら劉裕に媚び、得た地位を利用して財をむさぼり、士の仲間入りをしようと俄かに文雅を気取り出した。そんな父親を嫌って兄貴は家を出て、あえて叔父の冠軍将軍の方ではなく、竜驤将軍王鎮悪の幕下に加わった。

　しかし、兄貴だって、上向きの風にうまく吹かれたい気持ちがないはずがない。別にそれで悪いわけではない。誰だってそうだ。人は時流に乗りたいのだ。そうでない方がおかしい。時流に背を向ければ身を滅ぼすだけだ。劉裕に反する姿勢をわずかでも見せた者は、旧くからの仲間といえども容赦なく殺された。幸いに死を免れても、時流に乗り損なった者は、先を見る目のない愚物と笑われる。魯の二儒がそうだった。魯の二儒は鄭鮮之や兄貴の父親とは全く違う道を選んだ。

　これまた親父の話だ。どうして今日に限って俺はこうも親父の話を次々と思い出すのか。おかしなことだ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　親父が退隠して十年ともなると、潯陽の三隠とか言われるようになり、風雅の士を自任する人々の間にそれなりに名が知られた。まこと世の中には酔狂な連中がいるもので、わざわざ道を曲げて柴桑の村へと親父を見にくる連中がいた。大酒呑みの顔延之もそうだったし、兄貴の父親の檀韶もそうだった。親父は常に貧乏をしているし酒が好きだから、銭やら帛やら酒やらを持ってきてくれるのなら、それはそれで有難く頂戴した。よほど酷い人物でない限りは適当に歓待しておくと、顔延之のように何度も物をくれるようになってまことの結構である。ただし、銭や物あるいは名誉で釣って、自分のところに親父を呼び寄せようとする横着な手合には一切応じなかった。

　潯陽の三隠のあとの二人は、廬山に入って沙門の慧遠に仕えた周続之と、匡山に隠れた彭城の劉遺民だ。劉遺民はかつて柴桑県令をしていた。親父よりも先に山に入り、隣に来ないかと親父を誘ったらしい。そのころはまだ親父も決意がつかなかったようだ。匡山は廬山の一峰だ。家から北を望むと、廬山より西へ続く山並みの端の方に見える。山がくっきりと映える夕暮れ時には劉遺民の居宅まで見えるような気がしたものだ。一度だけ、親父の後に従ってそこを訪ねた。細い谷田に稲の花が開く夏のころだった。粗末な小屋だったが、大きな黄色の向日葵が明るく印象的だった。

　もう一人の周続之について、洛陽で顔延之から笑うべき話を聞いた。周続之は、兄貴の父親の檀韶に頼まれ、去年の夏に廬山より降り、潯陽城の北で賑々しくも礼学の講義を行ったのだそうだ。祖企、謝景夷という二人の隠者も一緒だった。馬隊の近くの官舎に何日も泊り込んで、檀韶のために経典の校合もしてやった。これを酔っ払った顔延之から聞いたときには、さすがの兄貴も嫌な顔をして、「俺の親父は生まれながらの愚物だが、周続之も相当なものだ」と苦笑した。顔延之によれば、檀韶は親父にも声を掛けたのだ。親父は潯陽には出向かずに、一篇の詩を書いて、礼学講義に骨を折る三先生に送った。

　　　道が喪われて千年になろうとするのに　　　　　　　　　　　道喪向千載

　　　今朝はまたそれが聞けるとのこと。　　　　　　　　　　　今朝復斯聞

　　　しかし、今回ばかりは諸先生には御遠慮させていただき　　願言謝諸子

　　　頴水のほとりで耳を洗わせていただきます。　　　　　　　従我頴水浜

頴水は、堯帝から天下を譲ると言われた許由が、汚らわしいことを聞かされたと耳を洗った川だ。顔延之がいつもの大声でこの詩を吟じたときには、兄貴も笑った。親父は時々こういった悪ふざけをした。

　あるとき、誰だったか名は忘れたが、どこかの将軍が熟したばかりの酒をたくさん車に載せて訪ねてきた。将軍は見かけは恭しげな態度をとっていたが、目はきょろきょろと動き回り、顔には珍奇なものを見られるぞという興奮が浮かび出ていた。町に帰ったら目にしたことを吹聴して回るのだろう、親父の仕草を一切見逃すまいとじろじろとねめまわしていた。親父はその期待にみごと応えた。酒が門口より運び込まれると、大袈裟に喜んでみせ、さも我慢できないと足踏みをしつつ床に置かれるのを見つめ、将軍が口上を述べ出したのも聞かずに壺の蓋を乱暴に開いた。酒の香りが屋内に充満した。親父は生唾をごくりと呑み、葛布の頭巾をはずし、一方の手に柄杓を取り、頭巾を使って酒を漉した。器が満ちると、酒粕でいっぱいになった頭巾をそのまま頭に戻し、酒をぐびぐびとうまそうに飲んだ。俺は兄たちと壁の蔭から覗き見ていた。鬚面の将軍が目を大きく剥き、あんぐりと口を開けているのがおかしくて、噴き出しそうになった。

　親父は一気に器を干すと、

「葛巾漉酒の礼法であります」

　と、将軍に頭を下げた。頭の天辺から酒の汁がぼたぼたと垂れた。将軍はしたり顔で微笑んだ。親父の奇癖を見せられて将軍は大満足で帰った。

　将軍の車が坂を下り楡の蔭に消えてしまうと、親父は裏の小川へと杖を曳いて歩んだ。犬の阿黄が従った。西の田へと注ぐ速い流れの岸辺にしゃがみ酒粕だらけの頭巾を洗った。

　　　広い広い野の渡し場　　　　洋洋平津

　　　口を漱ぎ足を洗う。　　　　乃漱乃濯

　親父は頭巾を裏返しに水を潜らせつつ吟じた。

　　　川の流れを見やりつつ　　　延目中流

　　　遥かに清き沂水を想う。　　悠想清沂

　頭巾をしぼって頭に載せ、立ち上がった。親父は咳払いをした。始まるなと俺は思った。

「汝輩もよく知るように、魯の都の曲阜には沂水の流れがある。孔子の教えを受け、その日の学業を終えた弟子たちは、詩を吟じつつ沂水のほとりをゆったりと歩き、それぞれの家に帰った。この水にその姿が映り、この響きにその声がまじるようではないか」

　親父は小さな流れの立てる音に耳を傾け、水の泡立ちの先へと目を走らせた。俺たち息子は黙って親父を囲んで立った。

「孔子は弟子たちに言われた。汝らが世に知られたなら何をするか。弟子はそれぞれの志を告げ、最後に、曽�ﾙがそれまで静かに奏していた瑟の手を止めて答えた。『暮春には春服すでに成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴して、舞雩に風し、詠じて帰りましょう』。孔子は曽�ﾙこの言を最もよしとされた」

　親父は頭巾を再び取り、屈んで水を中に汲み取り、ざあっと岸辺に空け、頭巾を振るった。水が左右に飛んだ。

　　　この杯を振るって　　　　　揮茲一觴

　　　ゆったりと一人楽しむ。　　陶然自楽

「礼によれば、玉の杯は余滴を振るってはならぬとある。いかにも無作法であり、壊す恐れがあるからだ」

　親父は頭巾をしぼって頭に載せた。

「沂水のほとりを吟じて歩いた孔子の弟子たちは礼にかなう人々ばかりであっただろう。その人たちと世を異にするのを恨む。自ら楽しむに礼は必要なのか。杯を振るってはいけないのか。頭巾で酒を漉してはいけないのか。いかなる礼を人は守るべきなのか。世が変われば礼は変わるのか。礼とは何か。その答えは沂水の水音になお含まれていようか」

　親父は小川の流れに沿って腕を右から左へと動かした。

「飢えて首陽山の蕨を食してより、西は張掖に至って沙漠の地を踏み、東は幽州に至って凍土の地を踏み、渇しては易水の流れに喉を潤し、ついに曲阜を前にして沂水の流れを渡ろうとした」

　親父は目を細めて小川の水を見た。

「折りしも、劉邦の命を受けた叔孫通が慌しく通りかかり、追い越して先に曲阜に入った。叔孫通は、礼学に通じる儒者はただちに集まるようにと町にふれた。長安において劉邦の側近になりおおせた叔孫通の評判はその故郷である曲阜に遠く知れ渡っていた。あわよくば叔孫通の裾にしがみつき自分も朝廷に居並べぬものかと思う連中や、大した出世を遂げた叔孫通の顔を見てやろうと思う連中や、うっかりすると叔孫通に手荒い仕打ちをされるのを恐れる連中など、三十人の儒者が集まった。その中にこっそり混じってのこのこと出かけてみると、叔孫通は自分の仕草に重みを付けようというのか、わざとらしくゆったりと構えて人々の前に現れた」

　親父は叔孫通を真似るかのように、杖を使い、杓を前に捧げ軽く会釈するそぶりをした。

「汝輩もよく知るように、秦の始皇帝が死んで息子が皇帝なったとき、叔孫通は博士として二世皇帝に仕えた。二世皇帝は言動が不安定で、その近くにいてはいずれ殺されるだろうと叔孫通は考え、宮中から亡命した。叔孫通の懸念の通りに世は乱れ出し、叔孫通は項梁、懐王、項羽と仕える相手を変えた。より強者を求め、彭城において劉邦に投降した。叔孫通は儒者としての正式な服を纏って劉邦の前に出た。劉邦は、いかにも重々しいその姿は戦の最中には不釣合いなものであると嫌った。叔孫通は劉邦の顔色をすばやく読み取り、即座に楚の国の短い軽快な服に着替えた。面会は許された。劉邦は漢の皇帝として即位し、その儀式の次第を叔孫通が定めた。劉邦は煩わしいことを嫌い、叔孫通はその好みに合わせて簡素な儀式を行った。酒宴で群臣たちは酔って喧嘩を始め、宮殿の柱を剣で撃つなどの乱暴を働いた。戦の世での酒宴は常にそのようなものであった。世の中がおさまってくると、劉邦は次第にそうした群臣たちの乱暴狼藉を不快に感じるようになった。劉邦の好みの変化を叔孫通はすぐに察し、『魯の儒者を召し出し、漢の世の礼法を定めましょう』と皇帝に言った。魯こそは孔子以来の正しい礼法のありかたを伝えるところだからだ」

　濡れた頭巾より額に垂れる水を親父は拭った。

「叔孫通は長安より来た次第を得意満面に語った。魯の儒者も、自分たちが代々学び守ってきた礼法が。ついに世に出ると大いに喜んだ。もちろん個々人の出世の道も約束される。三十人にうち二十八人までが長安に行くと答えた。行かないと言った者二人が残った。二人は叔孫通に向かって言った。『あなたは主人を十回代え、その都度諛い仕えてこられた。いまは天下が平定されたばかり、死者はまだ葬られず、傷付いた者はまだ立てずにいる。それなのにあなたは礼楽を起こそうという。礼楽は徳を百年積んで初めて起こるもの。あなたの為すことは古えの道に合いません。あなたの為すことは耳にするに耐えません。あなたは早く長安へ行きなさい。私は行きません。私を汚さないでいただきたい』。二人が罵るように言うと、叔孫通は重々しく笑った。その笑い方は、今しがた帰ったあの将軍にも似ようか。叔孫通はおもむろに口を開くと言った。『おまえたちは真の田舎儒者だ。時世の変化を知らぬ者である』。叔孫通は二十八人を連れて長安に去った」

　親父は杖で地に二本の線を引いた。俺たち兄弟を線に沿って向かい合わせに立たせ、号令とともに深々と礼をさせた。犬の阿黄も首を下げた。

「叔孫通は長安に戻ると、野外に縄と茅で区画を作り、魯の儒者二十八人と自分の弟子百人とともに一ヶ月にわたってこのような礼の練習をした。百二十八人が寸分の狂いもなく動くようになると、その成果を劉邦に見せた。劉邦は『よし』と言い、群臣たち全てにその礼を習わせた。長楽宮が完成すると、劉邦はその礼法によって大々的な朝歳の礼を行った。要所要所に御史が立ち、少しでも礼法にはずれた振る舞いをした者は即座につまみ出された。朝歳の礼は完璧になされ、劉邦は『今日、皇帝の貴さを初めて知った』と大いに満足した。叔孫通に黄金五百斤が与えられた。漢の礼制はこの叔孫通によって定められたものであった」

　親父は再び号令を掛け、俺たちはもう一度深々と頭を下げた。

「それでは長楽宮の御史の目はごまかせぬぞ」

　親父は杖で地を叩き、笑った。

「魯に残った二人の儒者は葛の衣をひっかけた貧乏暮らしを続けた。いまごろはどうしていることか。長楽宮の御史の目に怯えることなく、沂水のほとりをゆったりと吟じつつ歩いていることだろう。あの二人を遠く思いつつ、さて、残りの酒を呑むとするか」

　親父は楽しげに川を離れた。

　　　＊　　　＊　　　＊

　仏寺から出るとあたりが騒がしい。足早に移動する人の流れができている。皆が同じ方向に向かっている。小走りの者もある。一人をつかまえて兄貴が尋ねる。

「姚泓を載せた檻車が東に向かった」

　兄貴は俺を見る。

「行くか」

　俺はうなずき、兄貴はにやりと笑う。俺たちも人の流れに乗る。

　反対側から人を分けながらこちらへと向かってくる兵士がいる。きょろきょろとあたりを眺め回す顔に見覚えがある。

「おい、どうした」

　兄貴が手を挙げ、声を掛ける。兵士は走り寄り、大きく息をつく。

「やっと見つけられました。どこを探したらいいのかあてもなく歩いていたところに、こんな騒ぎで、困っていました」

「俺に用か。御命令が出たのか」

「ええ」

「で、なんだ」

「統万城です。太尉殿の使者として夏王にお会いするのです」

「俺がか」

「明日早朝の出発です」

「そんなに早くか」

　兄貴は腕組みをする。兄貴が待っていた命令がこれだった。

「統万城か。命がけだ。兄貴も大変だ」

「他人事みたいに言うな。おまえも連れて行くからな」

　兄貴は俺の腕をつかむ。

「俺も？　いえ、兄貴がそうしろと言うのなら行くが、しかし、統万城とは思いもよらなかった」

「下手をすれば殺される。夏王の残虐無比は天下一だ。どうだ、行ってみたいだろう」

　兄貴は俺の顎を軽くはじく。

「まあな」

　夏国の皇帝を名乗る劉勃勃は、虎視眈々と長安を狙っている。もともとは姚泓の父親の姚興に仕えていた。北の僻地に拠って反旗を翻し、匈奴族と羌族の互いの憎悪を剥き出しにして姚興との間に激しい戦いを繰り広げた。姚興が死んで姚泓に代替わりすると、劉勃勃は長安を手中にすべく準備を始めたが、折りしも劉裕の北伐軍が横から出てきた。劉勃勃は兵を留め、劉裕と姚泓の戦いの行方を静観した。

　統万城は草も生えぬ北方の高原に劉勃勃が建てた城だ。絶対に落ちない堅牢な城として世に知られる。一見に値するだろう。劉勃勃は残忍な性格で恐れられる。劉勃勃が何を狙っているかによっては、使者に立つ者は危ない目に遭わざるを得ない。劉裕との雌雄を決する前の血祭りとされるかも知れない。

「嫌なのか」

　兄貴は俺の襟をつかんでぐいと引き寄せる。

「行きたいと思っても行けぬ場所。そこへ兄貴と行けるのだから、願ってもない」

　俺は笑顔を作る。

「本当にそう思うか」

「天下一の不落の城。天下一の暴虐天子。その両方を見られる機会を逃す手はない」

　俺は強がってそう言う。口に出してみると、その通りのような気分にもなる。廬山の麓の柴桑から遥か北に離れた長安にまで来たのだ。さらに先の統万城に行くのは悪い話ではない。

「おまえも物見高い」

　兄貴は笑いつつ手を離す。

「まあな」

　なぜか知らぬが愉快な気分になる。さっき南に帰るのかと重苦しい気持ちで話していたのとは、がらり変わった心の軽さだ。それは自分でも驚くほどだ。

　もっと北に行ける。いいではないか。あの家を出てからまだ二年に満たないのに、長安にまで来て、さらにまた遠くに行ける。楽しいと思わなければ嘘だ。家を出たときはもっと不安だった。それでももっと楽しく昂揚した気分もあった。それを思えば、家からまたまた遠くなるのだ。嬉しくないはずがない。

　寝床に向かう親父を見たのが最後だった。やけに背中が丸くなったとそのとき思った。前の年に熱病に罹って死にそうになり、何だか急に老け込んだ。その病気がなかったなら、家を出るのはまだだったかも知れない。

　　　＊　　　＊　　　＊

「歯なし八十の韓元長、怨まず七世の氾稚春」

　親父の蔭で俺たち男兄弟はこう言い合っていた。一番よくこれを口にしたのは、一番下の俺だ。兄弟喧嘩で負けそうになったときの呪文だ。こう言われると、挙げた手が一瞬にして止まり振り下ろせなくなる。兄弟は仲よくせねばならぬと、親父は常に戒めた。韓元長と氾稚春がお手本である。この呪文を唱えられると、親父の教えにそむく気がし、手足がすくむ。

　二年前の、夏に先立つ雨の続く季節だった。親父は床に臥せった。下痢と高熱が何日も続いた。若い頃に同じような病気をし、次にまたこの病に襲われたら助からないと言われていた。親父は死を覚悟し、ある昼下がりに俺たち兄弟五人を枕元に呼び寄せた。長い雨に屋根が耐えられず、ひどい雨漏りに黴臭く、その上、親父の穢した衣類の臭気が部屋中に篭った。親父は、枕を欹てぼそぼそと遺言のようなことを俺たちに告げた。そのときも韓元長と氾稚春だった。「兄弟同居して没歯に至る」と言った親父の声は弱々しかった。それがいけなかった。親父が死んだら必ず家を出ると俺を決心させた。

　遺言の始まりは、死について平生考えていることで、耳新しさはなかった。

「生があるところ必ず死がある。天地が授ける運命だ。古の賢人、聖人も免れない。だから、孔子の弟子の子夏は言った。『死生に命あり、富貴は天にあり』。子夏は孔子の声を最も近くに聞く四友に並び、子夏のこの言は孔子の教えだ。富貴は天の定めるところ、身の窮達はおのが心で妄りに求めるべきでない。死と生は天の授けるところ、受けた寿命以上のものを請うべきでない。孔子はそう言われた」

　全てを天の定めとする。そう思うことに俺は疑いを持つ。人が世を乱し人が死ぬ。戦乱によって思いもよらぬ死に遭遇する。それも天の定める寿命を満たして死んだとするのか。人が世を乱し、ある者は地に伏して死に、ある者は宮殿に昇って富貴を得る。戦乱によって奪い得た地位と財は天の定めにより授けられたものなのか。世を乱す者にとって天はまことに良い定めをする。

　俺は黙っていた。

「おまえたちの前に横たわるこの父は五十を過ぎた。若くして窮乏しいつも貧苦に攻められた。家の暮らしのためと西に東に走り回った。だが、この父は性質は剛直、才能は愚拙、世と合わぬことばかりが多かった。己の何たるかを思えば、俗世に満ちる患いに陥るに違いあるまいと、身をよじるように考え、世より離れることにした。それがために、おまえたちは幼いときから飢えと凍えとに親しまなければならなかった。この父がある故だった」

　まさしくその通りだ。親父は官職を得るたびにそれを捨て、最後は二度と奉職しないと決意して擲ってしまった。陶家には常に貧が同居した。親父は自らのためにそうしたと、このときに言った。俺たちは親父のために耐え忍ぶことを強いられた。

　俺は黙っていた。死ぬ間際の人間だ。自分に都合のいいように話をしても許しておこう。俺だって十七歳だ、それくらいの分別は持っていると、心の内で思った。しかし、俺たちに向けての謝罪の言葉でもあればまだしも、親父はとんでもないことを言い出した。

　親父は得意の咳払いをした。

「汝輩もよく知るように、王覇は節のある人物であり、その妻もまた賢であった。王覇の妻の言葉を聞こう。『破れた衣服を着せているからといって、子どもに恥じ入ることはない』。まことに感じるものがある。汝輩もよく知るように、かつて王覇は漢の孝武帝から何度も召喚を受け、ついに出仕しなかった。王覇の旧くからの友であった令狐子伯は楚の相となった。令狐子伯は我が子に託して王覇への手紙を届けた。令狐子伯の子は立派な服を着て村に現れた。王覇は襤褸を着せている我が子を恥ずかしく思った。このとき、王覇の妻は、『人に息子を恥ずかしく思うのか。息子にそうさせている己を恥じるのか』と王覇に尋ねた。王覇は『人に恥じるものではない』と答えた。妻は『令狐子伯の富貴と、夫の高節とどちらが優ると、妻も子も知らぬと思っているのか』と言った。これが死ぬに際して心に浮かぶ古えの良き一つの事である」

　勝手なものだ。俺たちは襤褸を纏った王覇の息子の仲間に、俺の母は王覇の妻の仲間にさせられてしまった。

　親父はいつも手にしてきた琴を引き寄せた。

「若いころより琴と書を学び、閑静であるのを好んだ。巻を開き見て得ることがあれば欣然として食を忘れた。樹木が蔭を交え、季節の鳥が声をかわせば、それだけで歓然として喜びに満ちた。それで常に言っていた。五月か六月か、北の窓の下に臥し、涼風の吹き来るのに遭うと、己は太古よりもさらに昔の人になるのだと。これこそは若さの至り、考えは浅く、知るところは少なく、北の窓の下にある日々がいつまでも続くものと思っていたのだ。月日はどうあっても過ぎ行き、自分には機知も巧妙なることもはなはだ少なかった。昔を慕ったところで、遠く離れるばかりだった。これが死に際して心に浮かぶ今の及ばぬ一つの事である」

　親父は琴を身体より離し、苦しげに息をし横たわった。

「この病に冒されて身は次第に衰え損なわれた。親しい者たちは忘れずに薬石を与えてくれるが、自分で推し量るに、これでほぼ限りの時だ」

　親父は深い息を何度かし、ようやく息が静まると、ゆっくりと身を起こした。親父は目を細め、俺たち息子を順に見回した。

　俺は兄たちの並ぶ端にあって親父から最も遠くにいた。親父が俺を見たのはほんの一瞬だった。心のうちを親父に知られずにすんだと、思った。

「おまえたちは幼少のころより家は貧しく、薪や水の労苦に役せられ、常にそれを免れなかった。これを思うこの心のうちにあるものをどのように言えようか」

　親父は深く嘆息した。

　ならば何を思うのか言えばよい。親父はいつもこんなものだ。自分だけでわかった気になっている。やはり親父は言わなかった。

　親父は母に視線を送り、また息子たちを見た。

「おまえたちは母を同じくするものではない。だからよく思うがよい。再び子夏の言葉だ。『四海の内は皆兄弟である。君子は兄弟のないのを憂えたりしない』。これを思えば、おまえたちには兄があり弟がある。汝輩もよく知るように、鮑叔と管仲は兄弟ではなくても財を分かちあって猜むところがなかった。帰生と伍挙は仕える国を異にしても会うとすぐに草の上に座して旧交を温め合うことができた。他人であってもこうだ。まして父を同じくする兄弟だ。鮑叔管仲、帰生伍挙よりも良き仲であって当然であろう」

　俺たち兄弟の仲は悪いものではない。だからここまでだったらまだ我慢ができた。

　親父はここで咳払いをした。

「汝輩もよく知るように、漢末の韓元長は卿佐の高位に昇り八十歳で世を去った。その兄弟の全ては歯がなくなる年を越えてずっと一緒に暮らし続けた。晋の世の氾稚春は節操をもって知られた。七世代の家族までが同居し互いにいがみ合うところが一切なかった」

　例の韓元長と氾稚春だ。

　親父は琴を寄せた。肉の落ちた手で撫し、かすれる声で詩を吟じた。

　　　高い山を仰ぎ見よ　　高山仰止

　　　明るい道を行け。　　景行行止

「韓元長、氾稚春の通りになるのは難しかろうか。しかし、常に高い山を仰ぎ、明るい道を歩むがいい。至心を尽くして努めるがいい。おまえたち五人、ただこればかりを慎め。そうであるのなら、これ以上言うことは何もない」

　韓元長と氾稚春だ。これが親父の最後の言葉なのか。八十で歯がなくなるまで兄弟が一緒に住み、七世の親族が同居する。五人の兄弟はずっと柴桑の村で一緒にいろ。親父の死んだ後に、俺たち兄弟がそうせよと言う。俺は、兄たちが嫌いでない。だが、死に際してそのように親父に命じられ、ここでの暮らしをこのままにずっと続けるというのは、何とも言えず煩わしい。無性に腹が立った。こう言って死ねば逆らえぬと思うのだろう。

　親父は何をしたのだ。自分の好きに生きたのではないか。嘘ではあるにしても、西は張掖、東は幽州を旅したと言う。俺たちには生涯この村にいろと言う。親父は幾度か仕官しそのたびに辞めて戻った。己は外の世界を見ていながら、息子にはこの村を出ずに畑を耕して一生を過ごせと言う。何という身勝手だ。

　親父は言うだけ言って安心したのか、横になって眠ってしまった。それで死ぬのかと思った。死んだらすぐに家を出てやるはずだったが、数日のうちに快方に向かい、そのうち治ってしまった。それでまだしばらく家に残った。

　親父のこの遺言は俺の心にのしかかった。一生この村にいるなどとんでもない。村にいて何をするのか。田畑を耕す。悪い仕事ではない。食えればだ。そこそこ食えれば嫌いな仕事ではない。だが、本当に親父はそれを望んでいるのか。だったら、俺たちに稼圃の業のみを学ばせればいいのだ。孔子の弟子の樊須が五穀の栽培、野菜作りを学びたいと孔子に言ったとき、孔子は樊須を小人と評した。親父も孔子と同様だ。稼圃を後として礼義信を先とした。親父は俺たちを老農、老圃に就けて学ばせようとはしなかった。自らの手でもって詩書を授けた。どういうことだ。親父の遺言の中に出てきた人の名を思えば、親父が第一とするのは、やはり孔子の智であって老農の技ではない。陶家の本分がどこにあるのか、親父はそれが農であるとは心の底から思っていなかったのか。

　勉学において、俺たち息子はどれも出来がよくなかった。息子の中に一人でも際立って優れた者がいたならば、親父はそれを世に出そうとしただろうか。残念ながらと言うか、幸いと言うか、一人として親父の目に適う才を持ち合わせた者はなかった。だから、息子たちに、村から出ることなく畑仕事せよと、未練なく命じることができたのかも知れない。それもまた息子には面白くない話だ。

　俺が九歳のころだ。俺たち息子がいかにぼんくら揃いであるか、親父は詩に歌った。後になって俺はその詩を見て、大いに笑い、少し悔しがった。ぼんくらでなければ柴桑の村でじっとしてはいない。ぼんくらでこそいいはずなのに、何を嘆いてみせているのかと笑った。しかし、親父が詩に描く通りの俺たちであるのは悔しくもある。親父を驚かすほどの才があれば、見返してやるのだが、それが出来ない。

　五人が五人とも紙筆を好まずと、親父は詩の初めに歌った。題からして『子を責める』と言う。実にけしからんものだ。

　一番上の兄はどうにもならない怠け者だ、十六にもなって懶惰なることたぐいなしだ、と親父は言う。長男だけに手厳しい。身体が大きく動作がのそのそしている。のろまそうに見られても仕方がない。気のいい奴だ。この兄がいると何となく安心だ。幼名を舒、本名は儼。俺より七つ年が上だ。ゆくゆくは親父の百姓仕事を継ぐつもりでいて、それ以外のことは考えていないようだ。しばらく前まで、陶敬遠の小父さんがいて、親父が官職に就いている間は陶家の畑を守り、親父が村に戻ると一緒に耕していたものだが、小父さんは三十一歳で死んでしまった。例の遺言の四年前だ。そのとき長兄は二十歳を超え、次第に風貌が小父さんに似てきたこともあって、親父は長兄と並んで鍬を持つのを喜びとするようになった。なかなか結構なことだ。

　二番目の兄は、もうすぐ志学、十五歳だというのに文術を愛さぬ困った奴だと、親父は歌った。逆に、十五にならずで文術を愛さすというのなら、やに大人びてかえって困った奴だと俺なら思う。俺の目から見すれば、この兄が兄弟の中で一番の勉強家だ。書物が好きだ。親父の話もよく聞く。詩文の才だけで言えば親父に一番良く似るのかも知れない。ただ素直なところが違う。親父の偏屈さに一番似たのは俺だ。

　遺言の通りに、親父は息子たちを柴桑の村の外に出す気はないのだが、実際のところを言うと、五人の兄弟があの狭い田畑で生きていけるはずがない。誰かが家を出ねばならない。それに、陶氏の家が柴桑の村にこのまま埋もれて終わっていいと親父が本気で思っているかどうかは怪しい。でなければ、父祖の業を誇らしげに俺たちに歌って聞かせるはずがない。二番目の兄は、そんな親父の隠された本心を察して、勉強熱心になっている様子がないわけでもない。親父もあるいはそれに気付いていて、その健気さ故に文術を愛さぬ奴だと謗ったのかも知れない。この兄は幼名は宣、本名は俟だ。

　三番目と四番目は双子だ。年は十三だが、六と七の足し算もできないと、親父は歌った。むろんそんなことはない。二人とも数字は得意で、秋に栗の実を拾ってくれば、一人当たりいくつになるかという計算は兄弟でこの二人が一番速い。双子だということもあるのか、とにかく食べ物に目敏い。家に蓄えがなくなってくると真っ先にそわそわし出すのがこの二人で、例の鯰を獲ったのもこの二人の働きだった。食うものがあればまず自分の分を誰よりも早くできるだけ多く確保しようとする。一番上の兄はこの二人が我勝ちに手を伸ばしてもおっとり構えて見ているだけだ。二番目の兄は悠然と自分の分は何時の間にか確保する。さすがに賢い。一番の割を食うのは最も小さな俺だ。双子は、幼名は雍と端、本名は份と佚だ。

　俺は上の四人の兄、特に双子との競争で食べ物には意地きたなくなった。だから、親父は、俺のことを、九歳になろうとするのに梨と栗を求めるのみと歌った。その詩を読んで、俺はいくらか悔しいと思った。どうせ俺のことなどその程度にしか見ていないのだろうと、それからは食べ物には執着しないよう自分を鍛錬した。食べ物にがつがつしなくなり、それで今でもたくさん食うことができない。本当のところは双子のようになりふりかまわず手を伸ばしたかったものだ。

　食べ物に限らず俺は兄弟五人の中で一番意地がきたない。何にでもそうだ。その意地きたなさをできるだけ隠そうとした。母への執着もそうだ。素直に思えば、母に甘えたかったのだろう。母は俺には常にそっけない態度をとった。兄たちにはやさしい言葉をかけるのに、俺にはなかった。

　俺の幼名は通、本名は佟だ。五人の兄弟は、儼、俟、份、佚、佟とみな人偏の付く名だ。同じ親父の息子である故だが、俺だけが母を異にする。四人の兄たちを生んだ母は、親父が三十歳のころに死んだ。その母は美しくかつ素直な良い人であったらしい。兄たちはそれを受け継いだのだろう。親父は後妻を迎え、俺はその息子だ。母は先妻の子と自分の子を一切分け隔てなく育てようとした。そのことに関して親父は厳格だった。母は自分の子を特別扱いしてはいけないと、俺を生んだときから強く意識してきたのだろう。俺に対してあえてつれない態度を取り、それが常のこととして定まった。母には母なりのつらさもあったのだろうし、俺も全くわからないではなかったのだが、母の頑なさのために、俺は母に対して普通には接し難くなった。

　それがまた親父を嫌う大きな要因ともなった。だが、この意固地とも言える俺の性格は、実は俺が兄弟の中で最も親父に良く似ているせいなのだろう。拙であり、独であり、固であり、窮であり、陋であるとする親父の片意地さは俺と良く似ている。だから、俺一人が家を出ることになった。

　兄たちはいい連中だ。食べ物を先に取ってしまうあの双子だって、俺と違っておおらかなところがある。悔しい思いはしても、嫌いになったことはない。よくこんな俺を兄たちは弟として認めてくれたものだ。

　ともあれ俺は梨と栗を求めるだけしかできない愚かな子だと親父には思われたわけだが、それでも親父があきらめずに教えてくれたおかげで人並みに読み書きができる。儒家の教えもそれなりに覚え、史書にも無知ではなくなった。こればかりは親父に感謝しないとなるまいと、兵士になってしばらくしてから思うようになった。

　家を出た俺は兄貴の檀臹のところにころがりこんだ。兄貴とはかねて顔見知りだった。兄貴の父親の檀韶とともに柴桑の親父の家に押しかけて来たことがあった。檀韶も世に知られる隠者を見物したがる御仁の一人だった。親父はそうした手合いに対するいつもの調子で応接した。兄貴は座をはずし、火の気のない竈を覗いたり、垣の菊を捻ったり、あちこち自分の家のように勝手にうろつきまわった。犬の阿黄を見つけると、衣服が泥で汚れるのも厭わずに戯れたりした。犬との遊びに飽きると、俺たち兄弟に向かって、都の大官の誰それは無能だの某将軍は貪欲だの、訳知りの態度で批評し始めた。そのうち俺がどこか気の合う奴とみたのか、もっぱら俺を相手に、天下の情勢について言い立てた。今をときめく劉裕さえも兄貴は平気でこき下ろした。両方の父親がいる部屋を庭から見て、酒を酌み交わす姿を指差し「化かし合いだ」と笑った。

　俺は兄貴の言いたいことがすぐにわかった。似非隠者と似非君子の化かし合いだ。

「どっちの勝ちになるか」

　と、俺が言うと、

「下衆の性根が隠せない俺の親父に勝ち目はない」

　と、兄貴が楽しそうに言った。

「うちの方だって、あれで相当に脂ぎっている」

「見ればわかる。どうだ、おまえは父親が好きか」

「似非の正体を間近に見て好きになる者がいたら会いたいものだ」

「俺もそう思う」

　兄貴はそれでまた笑った。

　このことを覚えていたので、俺は兄貴を頼って都へと走った。折もよく、兄貴の叔父の檀道済が劉裕の北伐軍の先鋒を指揮する将軍に任命され、兄貴はそこに加わろうとしていた。あわよくば、洛陽、長安にも行ける。戦いながら進むのだから、どうなるかわかったものではないにしても、血を湧かせる話だ。兄貴は父親への反発から、檀道済の指揮下ではなく、先鋒を指揮するもう一人の将軍である王鎮悪の配下の方に入ることになった。しかも下級の兵士としてだった。兄貴となら何でも構わなかったから、俺も一緒にしてもらった。

　北伐軍は連戦連勝だったが、下級の兵士というのはなかなかに大変だ。特に俺は飢えてばかりいたせいか身体が小さくて力も弱い。兵士として人並みの仕事をするのはひどい苦労で、つらいことだらけだった。兄貴はさほどではないようだったが、利に聡い兄貴だ、洛陽攻めの本格的な戦闘が始まる前に、叔父にどうわたりをつけたのか、王鎮悪幕下の参軍の役職をもらってきた。兵士の名簿や物品の帳簿を管理する役だ。俺はその書記になった。おかげで俺は実際の戦闘はしないですむようになった。これによって今日まで生き延びられたようなものだ。武具を携えて戦場をのそのそ駆け回っていたら、とっくにつまらない死に方をしていたかも知れない。

　文字を親父に教わっていたから書記になれたのであって、これは感謝しないといけない。それで生きて長安に来られたし、さらには統万城にも行けるというものだ。

　　　＊　　　＊　　　＊

「ここはひとつお互い物見高さを大いに発揮しておくことにしよう」

　兄貴はさっきそうしようと思った通りに姚泓を見物すると言う。むろん反対しない。竜驤将軍の命令を伝えに来た兵士を帰し、再び人の流れに乗る。

　姚泓は東の覇城門に向かいつつあるという。門へと通じる大通りに人が流れる。どうせならよく見てやろうと、人を押しのけて進む。

「よくまあ有象無象が湧いてくるものだ」

　兄貴は幾分かいまいましげに言う。後から後から人が出てくる。長安には夷族、漢族合わせて六万余戸と聞いてはいたが、それにしても恐るべき人の多さだ。

「俺たちだってその有象無象の一人だ」

　俺は笑いながら言う。

「ただの有象無象ならまだしも、人の不幸を喜ぶ不人情な連中ばかりだ」

「ひどい皇帝だったのだろう」

「いや、民衆はもともと薄情なんだ」

　俺たち兵士は喜ぶのが当たり前だ。王鎮悪に指揮されて戦った敵の頭目が姚泓だ。その哀れな末路を喜んで見物する。劉裕とともに後から長安に到着した兵士もいいだろう。しかし、もともと長安にいた連中や、市が開かれてから近隣より集まってきた連中は、いずれもがついこの間までは姚泓を皇帝として上に戴いていたのではないか。それが、これだけ集まってくるというのは、姚泓やその父親がよほど悪辣な天子だったのか。どの顔もいきいきとしている。

　大路は何重もの人垣だ。兄貴が大きな身体をねじ入れ、人を押しのけて前に進む。俺はその後ろにくっついて行く。

「皇帝が檻車に入れられて敵国に送られて行く。またとない見世物だ。木戸銭を取ったっていい」

「皇帝なんかなるものではないな」

「そういうことだ。忠は一日、恨みは百年。そんなものだろう」

「誰の言葉だ」

「たぶん孔子ではないだろう」

「当たり前だ」

「禍福は門なし。どうだ、これなら知っているだろう」

「左伝だ」

「おまえも一応は書物を習ったようだ」

「まあな」

　知っていたのは親父が使う文句の一つだったからだ。禍福はどこを訪れるか誰も知らない。左伝に載るこの言葉を親父は時折口にした。

「最も来そうにもないところに禍が及ぶと、人々はこうも喜ぶ」

「兄貴は相当の皮肉屋だ」

「いや、当たり前のことを言っているだけだ」

　人垣の前に縄が張られ、兵士が見張りに出ている。それより先には進めず、大路の中央部分は広く帯のように開けられている。

　兄貴は縄の手前の最前列にまで出た。俺も脇から顔を出す。都の西と東を貫く最も広い通りを、見渡す限り人が埋めている。

「兄貴の言う通りかも知れない。皇帝の即位を祝うのだったら、こんなにも人は来ないだろう」

「太尉殿の入城は、これと比べると閑散としたものだったな」

「そんなことを言ったら叱られるぞ」

　東の覇城門にほど近い場所に俺たちはいる。人垣の最前列を作る人々の顔を眺め、西の方へと目を転じて行くと、遠くに土煙が上がっている。

「あれだな」

　兄貴の言葉に、ぞくっと身震いが走る。俺も他人の不幸を人一倍喜ぶ嫌な奴ということだ。皇帝の座から突き落とされた人間の顔を見るなど滅多にない機会だ。どうしたって気分が高揚する。

　　　＊　　　＊　　　＊

「禍福は門なし」

　今日は福に満たされた者が、明日には禍の底に落ちる。息子に聞かせるためなのだろう、そうしたありふれた教訓話をときどきはした。

「明日には花を咲かせ、夕べには花を喪う」

　畑より帰りきて、垣根のしぼんだ木槿の花に、このようにつぶやけば、次に何を言いたいのかは聞かなくてもわかった。福は明日には禍となり、富は明日には貧となり、世に羨まれる地位にあっても明日には世に蔑まれる身に陥る。

　　　人生は寄せるようなもの　　人生若寄

　　　つねに憔悴の時がある。　　顦顇有時

　親父は詩を吟じた。

　この詩を聞くといつも俺はこう思った。人生は禍福の定めなさに寄せるようなものだ。福は禍となって憔悴の時が来る。ならば、禍は福となって絶頂の時も来るのではないか。憔悴の時だろうが、得意の時だろうが、当てにならない禍福などは考慮の外に置き、いま咲いている木槿はその一瞬をこそ好しとすればいい。木槿が凋むのは当たり前のことで、木槿はそれをいちいち憂いたりしない。人もそれでいいではないか。そのように俺が思うのとは逆のことを親父は息子に教えようとした。

「禍福門なき世に、人ができるのは、己を堅固に保つか、あるいは、己を脆く折ってしまうかのどちらかだ。堅固に保つにはどうすればよいのか。道に依る他はあるまい。だから善を励めというのである」

　依るべき道とは何か。善とは何か。俺にはわからなかった。わからなくてもいいだろう。たとえ道に依ろうとも、あるいは善を為そうとも、夕べに凋む花の寿命が延びるものではない。禍福に門なしということを変えることもできない。

　寄せるがごとき人生と親父は言った。寄せる相手は道であるか善であるか、永続するものであるとしても、寄せるがごとき者には、この寄せている一瞬しかない。花は夕べには凋み、福は禍となる。だから、道も善もなく、この一瞬で生きればよいではないか。俺はそう考え、親父は変だと思ったが、賢明にも俺は黙っていた。

「木槿は一日、人は百年。いかなる名馬も一度に十歩はならず、いかなる駄馬も十日走れば名馬の一日に及ぶ。功はやめず続けることにある。孔子は言われた。四十にして聞こえるものがなければ、畏れるに足りない」

　親父はこのころすでに五十歳に近かった。親父は隠者として世に聞こえる者となっていた。それは孔子の言った「聞こえる」とは異なるだろう。親父は何らの功も遂げておらず、人として注目するに値しないというわけだ。

　そのどこが悪いのか俺にはわからなかった。親父が良いとか立派とか言うのではない。禍福は門なしなのだから、四十までに評判になる幸いに恵まれる奴もいるだろうし、そうならない奴もいる。それだけのことだ。どっちになってもいいではないか。

　親父はなおも教訓を続けた。

「千里を走れ。千里は遥か遠くといえども、前に進み続けるならば、至らぬことはない。絶えず己に鞭を当てよ。ただ心すべきはそれである」

　窮屈な話だ。己は隠者として聞こえながら、息子にこのような教訓を垂れる。親父の似非ぶりはこのようなものだった。

　　　＊　　　＊　　　＊

　濛々たる土煙が流れくる。

　これが長安の難点だ。何ものも含まぬ澄み切った空も、ひとたび砂塵が舞い始めるとひどいことになる。ここのところ晴天の続く長安の大道は乾き切っている。細かい土が風に乗るきっかけを得てしまうといつまで経っても落ちなくなる。

　土煙が紗のように大道に垂れ下がり、その向こうより影絵のように黒く車馬の列が静かに迫りくる。道の両側を埋める人々の顔を黄色に染め土煙が近づく。

　長い馬の列だ。先頭に立つ騎馬の背に旗が流れる。罪人姚泓を誅するがために建康に送ると記す。罪人か。姚泓が罪となるどんなことをしたのか。特別の悪事をしたのか。だから檻車に閉じ込められ、人々の目に晒されるのか。たまたま父親の姚興が病気で死んだために皇帝になっただけだ。折悪しくもたまたま劉裕が北伐を思いついたものだから、こういう憂き目に遭った。まさに禍福は門なしだ。それだけだ。

　馬列の先にうっすらと大きな檻の形が浮かび上がる。

「万歳」

　誰かが叫ぶ。

　俺は姚泓を哀れに思いはしない。万歳と喜びもしない。姚泓の不幸はただ福と禍が今はたまたま入れ替わっただけのことだ。それでも、檻車の中にこの間まで皇帝だった男がいると思うと、よく見てやろうという気になる。

　土埃が一段と激しくなり、目をあけていられない。長安のからっとした空と風は好ましいにしても、この乾いた土が舞い上がるのは御免だ。こういう目に遭うと江南の湿った風土も悪くないと思う。

　兄貴の新調したばかりの衣服は、肉汁で汚れた上に、全体に埃がかかって早くも古びた感じだ。兄貴はそんなことには気にもとめず、近づいてくる檻車を身じろぎもせず見守っている。

　どんな面をした奴なのか。埃の入った目を擦る。

　檻車の中にいる姚泓はこんな風に人から見られて、それはそれでなかなか御苦労なことだ。その一事には少しは同情してやってもよい。ただし、国を滅ぼしたことに同情を寄せるほどお人よしになる必要はない。姚泓は実に不甲斐ない負け方をした。

　春に竜驤将軍王鎮悪が洛陽を発ったとき、長安を攻めるのはさすがに容易ではないと思われた。太尉劉裕は、途中の黄河で難儀してまだ洛陽に到着していなかった。「我が大軍の到着を待て」というのが劉裕の命令であったが、王鎮悪は独断で長安へと兵を進めた。いきなりの出発に兄貴も俺も驚いた。王鎮悪は洛陽に奄留するのが長引けば士気が落ちるのを恐れたのか、功を独り占めしたかったのか、劉裕の命令に背いて、少ない軍勢で敵の都へと挑んだ。兄貴は無謀だと呆れた。「俺は博打は嫌いだからな」と言ったものだ。

　三月に潼関の難所に到達した。敵は頑強に抵抗した。全く前に進めなくなった。食糧の補給路が絶たれた。命令に違背したためだろう、劉裕からの援助がなかった。食うものが底を尽き、これで駄目だと思った。「廬の目どころでない。まるっきりへぼな樗蒲だ」と兄貴は笑った。太尉劉裕は博打が好きだ。偉くなるといろいろあるもので、しばらく前に昔からの兵士仲間の劉毅が邪魔になった。取巻き連は殺すよう勧めたが、劉裕は「腹を割って話せばわかる」と、劉毅と会い、酒を呑み、昔と同じように樗蒲を行った。劉毅が骰を振ると雉の目が出た。「廬の目が出なければ俺の勝ちだ」と劉毅は叫んだ。劉裕は五つの骰を投げた。四つが黒となり、残り一つも黒が出れば廬の目で劉裕の勝ちだった。骰が止まるとそのようになった。

　王鎮悪が長安攻めの大博打に勝てたのは、廬の目ならぬ自身の名だった。王鎮悪は王猛の孫だ。我が晋朝が南遷した後、中原の地は夷狄どもが蹂躙するがままに任された。初めのうちはなお抵抗を試みる漢人もいたが、順次撃ち滅ぼされ、南に逃げるか、夷狄の支配に甘んじるか、どちらかしかなくなった。中原に残ってやむをえず夷狄の偽皇帝を上に戴いた漢人の中で、王猛ほど慕われた人物はいなかった。王猛は氐族の建てた秦国の宰相を勤めた。時の皇帝の苻堅に、王猛は国を寧んじる法を説き、苻堅は王猛の感化を受け、二人の間は蜀の劉備と諸葛孔明に似るとまで言われた。苻堅は、氐、匈奴、羯、鮮卑、羌の五族および漢人の争いをやめさせ、全ての民が相い和して一つとなる夢のような国を造る意欲に燃えた。苻堅は戦場においては勇猛果敢、皇帝として君臨しては大度量ぶりを発揮し、王猛の高潔無比の人柄に支えられ、その夢は思いもよらぬ速さで実現に向かった。王猛の死後間もなくのこと、苻堅は中国北半の統一を果たし、氐、匈奴、羯、鮮卑、羌の五族は一つに合わされた。苻堅はその勢いに乗って、我が晋朝にも秦国の皇恩を及ぼすべく南征の途に上った。八十七万と称する符堅の大軍が南下した。迎えたのは、謝玄の率いる我が晋朝の兵、わずか五千。謝玄は淝水において勝利し、符堅の夢は一朝にして消え去った。氐、匈奴、羯、鮮卑、羌の五族はたちまちばらばらになり、中原は争奪の坩堝となった。夢の国はまさしく夢だった。符堅はどうにか長安に逃げ帰ったものの、羌族の首領である姚萇に殺された。姚萇は姚泓の祖父だ。姚萇は符堅の国と同じ秦の名を冠した国の皇帝となった。

　符堅が殺されたとき王鎮悪は十三歳だった。王鎮悪は長安を逃れ、澠池において李方の家に身を寄せた。李方は王猛の孫を厚く遇した。王鎮悪は「もしも英雄に遭うことがあったならば、このお礼は必ずします」と言った。王鎮悪は我が晋朝に帰順し、「将門に将ありとはこのことである」と劉裕に見出され、数々の武勲を挙げ、このたびの北伐で先鋒を任された。王鎮悪は洛陽から長安に向かう途中で澠池に立ち寄り、李方との昔の約束を果たした。

　王鎮悪が潼関において進退に窮したとき、李方は近隣より義粟を集めて王鎮悪に送った。王猛の孫に中原の漢人は心を寄せ、王鎮悪の陣営はたちまち賑わった。俺たちは危機を脱した。劉裕の大軍も到着して潼関突破に成功し、王鎮悪は水軍を率いていちはやく長安を目指した。北方の連中は馬によって戦い、艦船による戦を知らない。渭水の急流を遡って進む我が水軍を、敵は神業ではないかと目を見張った。俺たちは敵の前を悠々と進み長安のすぐ脇にまで至った。王鎮悪は兵士を陸に上げ、艦船の全てを川に放って下流に押し流した。

「ここは長安城の北門の外、家を去ること万里の地である。船も衣食も悉く流れに放った。我らにあるのは死戦ばかりだ。長安に入らねば生きる道はない。大功を立てよ」

　王鎮悪は号令した。俺たちは渭水の流れに没する船を見送り、戦う決意を固めた。

　長安城に突入してしまえばあとは簡単だった。羌族の秦国は、姚萇、姚興、姚泓の三代、三十二年で亡んだ。王鎮悪は我が晋朝のために大功を立てるとともに、父祖の仇も討ったのである。まことに讃えられるべきことだ。しかし、父祖とは嫌な言葉だ。俺にも子ができることがあっても、この言葉だけは使いたくない。

　しばし目の前のことから思考が離れていた間に、檻車は俺の前に来ていた。

　木枠の組まれた隙間に、姚泓の姿がおぼろげに浮かぶ。椅子に座しているのか、うなだれたような上体がわずかに認められる。姚泓は三十歳だという。大秦国の寿命とほぼ同じだ。「四十にして聞こえるものがなければ」と孔子は言ったが、三十にしてこうして人目に晒されて死んでいくのはどういう聞こえ方であるのか。ここから何を教訓として汲むのか。何もない。

　姚泓は揺れる檻の中で動かない。遠く建康に到着するまで、こうして座り続けるのだろう。それはどういう意味を持つ旅か。親父の言うように千里の道も至らぬことはない。いずれ姚泓は建康に着く。何がそこに待っているのか。見物の人の目に供せられ、そして殺される。皇帝に一度なったためにそうやって死ぬのだ。つまらぬことだ。

　姚泓も祖父の姚萇が皇帝にならず、父の姚興が病死していなければ、こういう目には遭わなかっただろう。姚興なら我々に対してもっと強く抵抗し、劉裕といえどもこうも簡単には長安に入れなかったかも知れない。

　姚泓がいま檻車の中にあるのも父祖のせいということか。父祖とは何とも煩わしいものだ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　春秋のよく晴れて暖かな折にというだけで日の定めはなく、親父は家の者を連れて陶家の墓に遠遊した。

　柴桑の村から西にゆるやかな丘の裾を下り、北に潯陽に至る道を少しばかり歩き、川の流れ出るところより丘へと登る。川より離れて林の脇を登り小村に出る。眼下に田畑が棚のように積み重なるのを眺めつついくばくかの道を登り、目印となる公孫樹の大木の下をくぐる。今までの道と別れて小径をやや下ると、南東にゆるやかな見晴らしが広がる。そのどこかに柴桑の村もある。公孫樹の立つところから上に出ると、廬山が柴桑の村から見るよりも大きく向かいに聳える。小径の先に陶家の墓がある。墓は二本の柏で守られる。

　はるばる歩いてきた陶家の一同は墓に酒食を供え、年長の者より順に拝礼した。陶敬遠の小父さんが笛を吹き、親父が弦のない琴を弾じて詩を吟じた。犬の阿黄が親父の脇に座った。

　　　悠々たるかな我が祖　　　　　　　　悠悠我祖

　　　ここに陶唐より始まる。　　　　　　爰自陶唐

　　　遠くそのかみには虞の賓客となり　　邈為虞賓

　　　世を経つつ光輝を重ねた。　　　　　歴世重光

　陶家の遥かなる歴史を語る長い詩の始まりだ。陶唐とは古の大聖人、堯のことだ。堯は初めは陶の国に封ぜられ、後に唐の国を建てたため、陶唐と呼ばれることがある。我が陶氏はこの陶唐に始まるというわけだ。虞は、堯に見出されて次の天子となった舜のことだ。舜は堯の子の丹朱を賓客として迎え、その丹朱から我が陶氏へと系譜が連なり、世々、輝かしい歴史を重ねてきたというのである。堯、舜は理想の聖天子であり、陶という文字の繋がりによって、堯、舜の時代に我が陶氏の淵源があるとした親父の作り話だ。俺は初めからこの話は信じていない。

　夏王朝においては御竜氏と名を変え、商王朝においては豕韋氏と名を変え、周王朝にあっては唐杜氏と名を変え、六卿の一人である司徒の陶叔が出てと、親父は何千年にわたる我が陶氏の歴史を吟じた。漢の世にあっては陶舎、陶青の父子の名を挙げ、陶の姓を有する者なら全てが己の先祖であるとした。ただ親父が吟じ続けるこの詩もここまでは長い前置きにすぎなかった。

　親父は咳払いをし、力を込めた。

　　　我が晋朝の世にあって　　　　　在我中晋

　　　功業輝く長沙公が現れた。　　　業融長沙

　　　長沙公の武威は麗しく　　　　　桓桓長沙

　　　ああ、その勲よ、その徳よ。　　伊勲伊徳

　親父は感に堪えないとばかりにここはほとんど絶叫するばかりだった。

　長沙公は親父の曽祖父、陶侃である。陶侃は死後に大司馬の称号を贈られ、確かにその武威は当時まことに輝かしいものがあった。我が晋朝が洛陽、長安を失って南遷した際に、長江中流域で相次いだ諸反乱を鎮め、さらに南方の賊を征伐し、建康に都を置く新たな我が晋朝の基礎を築くのに比肩する者のない働きをした。もしも陶侃がいなければ、我が晋朝は南東の隅の小国に転落したか、場合によっては命運が尽きていたかも知れない。それほどの偉大な仕事をし、皇帝の厚い寵を受けながらも、怠ることなく驕ることなく、慎ましく己の地位に安んじたのは、近頃稀な心栄えであったと、親父は誇らかに吟じた。

　親父が生まれたのは陶侃が死んで三十年後だった。そのころまでに我が家系においては陶侃の遺徳も薄れ、家はすっかり貧乏になっていた。

　　　厳粛であった我が祖父は　　粛矣我祖

　　　終始行いを慎んだ。　　　　慎終如始

　親父の祖父の陶茂は武昌の太守になったから、まだそのころは家は裕福であったのだろう。ただ、この祖父について親父は、謹厳で廉直で、千里四方の人の手本になったと言うばかりで、特に功績があったとは語っていない。実情は凡庸な人物で、家運は次第に傾いたのだろう。

　親父は父親の陶逸になるとますます語らない。

　　　身を風雲に寄せ　　　　　　　　寄迹風雲

　　　怒りや喜びを表にしなかった　　冥玆慍喜

　大した官職に就けず、世の浮沈のままに喜怒哀楽を外に出さなかったらしい。陶逸は親父がまだ十歳にならぬころに死に、家はすっかり没落した。この陶家の墓は、親類が援助してくれ、陶逸の棺を納めるために築いたものだ。我が家は大司馬陶侃の傍系の子孫で、直系の者たちにはなお要路に地位を占める者もいる。

　　　ああ私のふがいなさ　　　　　　　　嗟余寡陋

　　　祖を仰ぎ見て及ぶところがない。　　瞻望弗及

　親父は墓に向かって己の不才、不徳を詫びた。緑酒を地に注ぎ、持参した食べ物を開き、日が傾きかけるころまで墓の傍らで過ごした。

　親父が生まれたのは興寧三（三六五）年。我が晋朝が一度は取り戻した洛陽をまたしても失った年に当たる。

　洛陽は我が晋朝の元々の都である。永嘉五（三一一）年、匈奴族の攻撃の前に洛陽は陥落し、以来、夷狄に蹂躙されるがままになった。その旧都を取り戻したいというのは、我が晋朝が抱き続けてきた長年の願いだ。今回の劉裕の北伐の前にも、それを一度は叶えた者がいた。桓温だ。桓温は親父の生まれる九年前に北伐の遠征に出て、長安にはあと一歩で及ばなかったものの、洛陽はみごとに取り戻した。

　しかし、周りを蛮族に囲まれる洛陽を保持するのは難事業だった。親父が生まれた年の春、鮮卑族の慕容恪が洛陽に迫った。慕容恪は近隣の諸塢に利害得失を説き、戦いを始める前に洛陽を丸裸にしてしまった。洛陽の守将は陳祐という男だった。手元の兵は二千に過ぎず、食糧は絶え、勝てる見通しは全くなかった。陳祐は許昌の町を救援するのを名目として兵を率いて東に出た。後を託されたのが沈勁だった。

　沈勁の父、沈充は、先に王敦の反乱に加わった者だった。王敦は我が陶侃と晋の皇室とを結びつけた人物で、朝廷において絶大なる力を有した。朝廷内の勢力争いから、王敦は皇位を奪おうと目論見んで反乱を起こした。陶侃は動かず、王敦の計画は失敗した。沈充は首を斬られ、沈勁は父の罪をもって朝廷に仕えるのを許されない身となっていた。

　沈勁は敵に囲まれた洛陽に残り、ここで勲を立てて父の恥を雪ぐ決心をした。陳祐の去った後に残る兵はわずか五百だった。沈勁は死こそ望むところと必死に戦った。衆寡敵せず、洛陽は陥落し、沈勁は捕えられた。慕容恪の前に引き出された沈勁は神気自若とし、その人となりを見て慕容恪は殺すのが惜しまれた。しかし、周囲の者が「沈勁は人に用いられる者ではない」と警告し、結局、沈勁は殺された。

「父親の悪を正した孝子である」

　親父の言う沈勁の評である。孝子という語は実に憂鬱だ。沈勁は父親の汚名を雪ぎ孝子とされたが、父親の志を継ぐ者もまた孝子と讃えられる。

　親父は陶侃、陶茂、陶逸の後を継いで、輝かしい我が陶氏の歴史に、自分の名を連ねたいと考えていた。それは実現せず、だから墓で父祖に詫びたのだろう。

　親父が最も慕う曽祖父の陶侃が、長江中流に築いた西府の軍団を受け継いだのは桓温だった。桓温は陶侃と同じく大司馬の称号を得た。桓温が北伐の遠征に出て、洛陽を回復させたのは、我が晋朝への忠義心によるというよりは、その成功を梃子にして皇帝の座を手にするためだった。親父の父親の陶逸が死んだころ、桓温はいよいよ皇帝に昇る準備を進めたが、己の寿命が許さず、桓温は皇帝になれないままに死んだ。

　桓温にはそのとき五歳になる末子の桓玄が残された。桓玄は父親の無念さを忘れず、成長しての後に西府の軍団を手中におさめることに成功した。俺が生まれた隆安三（三九九）年に、親父は桓玄の幕府に出仕した。勤めは長く続かなかった。二年して母親の喪に際して帰郷した。

　それから二年、桓玄は長江を東に下って都を攻め取り、晋朝の皇帝を退位させて帝位に昇り、国号を楚国と称した。父桓温の遺志を果たしたのだから孝子と言えようか。しかしながら桓玄を讃える声は聞かない。かえって逆賊として謗られる。それは楚国がわずか半年しか続かなかったためだ。長く続けば皇朝の基を開いた太祖として長く讃えられたはずだ。劉裕が反乱を起こし、桓玄はあっけなく敗れた。我が晋朝は再興され、桓玄は逆賊となった。劉裕はこのとき北府軍の長であった。西府軍と北府軍は我が晋朝を支える二大軍団だ。

　劉裕が北府軍の長になったきっかけは俺が生まれた年に、劉裕が孫恩と戦ったことにあった。孫恩は天師道の頭目だ。天師道の教えは古く漢代に始まった。漢の滅びる大きな原因となった黄巾の乱を起こした太平道と、巴蜀に漢朝の命を聴かぬ国を建てた五斗米道が天師道の淵源だ。五斗米道の教祖であった張魯は、天からの教えを受けた天師として尊崇された。

　天師道は晋代に至って杜子恭に伝わり、孫泰、孫恩、盧循と受け継がれた。杜子恭は秘術をよくした。人から瓜を割る刀を借り、持ち主にその返却を求められると、「還るべきときに」と答えた。持ち主が嘉興を旅した際に、舟中に魚が躍りこみ、裂いてみるとその刀が腹中にあった。杜子恭に術を習った孫泰は、民衆に教えを広げただけでなく、晋朝の高位高官も巧みに信者にした。特に司馬元顕の尊崇を受けたのは、孫泰の教団を大きくする大きな力となった。司馬元顕は皇帝と同じ司馬氏であり、その父親の司馬道子は当時の朝廷の実権を掌握していた。司馬道子は酒ばかりくらい、その政治の無軌道ぶりは並大抵でなかった。司馬道子に対する民衆の反感は日に日に募り、各地に反乱が勃発した。民衆に教団の基盤を置く孫泰も挙兵の準備をした。しかしその謀り事が漏れて司馬道子は孫泰を誅殺した。孫泰の甥の孫恩は海に逃れた。島に百余人を集め再起を賭けて対岸の会稽を攻めた。このとき会稽の内史だったのは王凝之だ。王凝之は五斗米道の信者で、孫恩の軍が町に迫っても何の備えもせず、ただ天を祈り、「大道に請い、すでに鬼兵の助けを許された。賊どもは自ずと敗れる」と泰然自若としていた。孫恩は会稽を落し、王凝之は殺された。孫恩の兵は数万に膨れ上がった。孫恩は征東将軍を名乗り、その党に集まる者は仙堂に昇って不老不死を得ると触れてまわり、教団の者は長生人と号した。民衆は続々と会稽に集結した。婦女の中には、孫恩の元へと馳せるに足手まといとなる嬰児を袋や箱に詰めて水に投げ込む者もあった。「おまえが先に仙堂に昇るのを祝う。私もじきに後を追うから」と婦女たちは言った。

　孫恩は都建康を目指して軍を進めた。ここに立ちはだかったのが劉牢之の率いる北府軍だった。孫恩は北府軍に敗れて海に逃れ、勢力を再び盛り返してまた都を目指したこのようなことの繰返しのうちに三年ほどを戦い、孫恩はついに追い込まれて、海に身を投じて死んだ。この孫恩を討伐した北府軍の中で最も目覚しい活躍をしたのが劉裕だった。

　桓玄が西から長江を下って都を占拠したのは、孫恩が北府軍と戦っている最中だった。桓玄が都に入城すると司馬道子、司馬元顕父子を殺し、その無軌道な政治に終止符を打った。それは民衆に歓呼の声をもって迎えられた。しかし、翌年に桓玄が自ら皇帝となると、その政治は司馬道子と変わるところなく、劉裕が反乱を起こすと、民衆の支持を得ない桓玄は都から追い払われた。この桓玄が都落ちした年に、親父は劉裕の幕府に出仕した。

　親父は桓玄に仕えた日々も、劉裕に仕えた日々も語らない。ただ陶侃だけを讃える。陶侃は本当に我が晋朝に忠節を尽くしたのか。俺はよく知らない。親父がそうだと言うのを聞いているだけだ。陶侃、桓温、そして桓玄と続く西府軍団の系譜には強い思いがあるらしかった。だから、親父は桓玄に仕えたのか。それなのに、どうして桓玄を滅ぼした劉裕にも仕えたのか。劉裕が我が晋朝を再興させたからなのか。

　皇帝に仕えるのを忠というのか。桓玄は短い時期だったが皇帝だった。そのときに仕えた者は忠であっただろう。俺たちが滅ぼした相手の姚泓も皇帝だった。姚泓に忠実に仕えた者は秦国では賞賛されただろう。しかし、我が晋朝からすればそれは敵に仕える大悪人どもだ。劉裕は桓玄を滅ぼして晋朝を再興させ、しかも洛陽、長安を夷狄から取り戻した。我が晋朝にとってこの上ない忠義の士である。姚泓の側からみればこの上ない大悪人だ。この先、劉裕が帝位を奪えば、我が晋朝にとっても大悪人となろうが、新しい朝廷では創業者として後々まで讃えられるのだろう。

　世の中はだいたいそういうものだ。

　　　悠々たるかな我が祖　　　　　　　悠悠我祖

　　　ここに陶唐より始まり　　　　　　爰自陶唐

　我が陶氏が堯に始まるなど、まさに突拍子もないことだが、大聖人の堯にしたところで、堯の敵となった連中からすれば悪人であるに違いない。

　父祖が偉業を成し遂げようが、不始末をしでかそうが、忠義の士であろうが反逆の徒であろうが、どちらにしもそれは子孫にとって有難いことではない。まして誇りとするようなものではない。親父にしたって墓で詫びたのだ。父祖とは邪魔な呪縛だ。父祖などはなければそれに越したことはない。

　残念ながら、親がなければ子は生まれぬ。父祖があるのは避けられない。ならば父祖の呪縛から解き離れたいと願う子や孫にできることはただ一つだ。父祖から離れよ。父祖の屍が埋まる土地から離れよ。それだけだ。その他にはない。

　だから、俺は長安にまで来た。

　　　＊　　　＊　　　＊

「憐れなものだな」

　姚泓の檻車がちょうど真正面に来て、兄貴がつぶやく。

　少し意外だ。兄貴も父親の檀韶に反発して北伐軍に入った。素直に父親の後を継いで皇帝になった者の末路を目の当たりにし、憐れさを感じたのだろうか。

　姚泓の周りにどれほどの忠臣がいたのか俺は知らない。長安は大した抵抗もせずに陥落し、今や姚泓は檻車の中にたった一人だ。それはそれで惨めで憐れなものだ。もしも姚泓の祖父の姚萇が心の底からの忠臣であれば、己が仕える皇帝の苻堅を殺さなかっただろうから、その孫の姚泓が皇帝になるということはそもそもなかったわけだ。あるいは、姚萇が、王猛の孫の王鎮悪をひっとらえて殺していれば、長安はこう易々とは陥ちなかったかも知れない。

　そんな父祖について考えるまでもなく、ついこの間まで皇帝だった者が檻車に閉じ込められ、殺されるためだけにはるばる遠く南方に送られて行くのを見れば、多くの人間はそれだけで憐れと思うものらしい。物見高く喜々として駆け付けた大路の人々も、姚泓の檻車がすぐ近くにまで来ると、一転してみな一様に押し黙る。目を伏せる人、手を合わせる人、天を仰ぐ人、それぞれに姚泓に一片の同情を寄せるかのようだ。

　姚泓だって一人の男だ。檻車から解き放ち、元は皇帝であったことなど忘れてやれば、三十歳の普通の男ではなかろうか。都から離れた山中で木の実でも拾って暮らさせれば、誰にも大して害になるまい。これから二十年や三十年の寿命だってあるだろう。

　そんなことをここで俺が思ったところで、姚泓には何の足しにもならない。姚泓の運命はすでに定まっているのだから、建康に至る道中の厳しさに耐えられずに死ぬのでなければ、建康で殺されるだけのことだ。俺や大道の人々が憐れに思うか思わぬか、姚泓の運命には無関係だ。

　檻車は目の前を通り過ぎる。木枠の隙間から、姚泓の肩、背の輪郭が見える。あまり大きくない華奢な体つきだ。生まれたときからの宮殿育ちだ。何の苦労もしなかった奴だ。同情を寄せるのは損だ。

　不意に見物の列が乱れる。ざわめきが起こり、群集の列から一人が飛び出す。警備の兵が張る縄をくぐり抜け、檻車に向かって走る。

　左右を固める馬上の兵士が動く。馬が前を阻む。槍先がぐるりと回わる。その下をすり抜け、檻車に斜めに走り寄り、腕を振って、投げる。石礫だ。格子の隙間を抜け、姚泓の背に当たったのか当たらなかったのか、ことんと軽い音がする。

　兵士が走って周りを囲み、取り押さえようとするのを、左右に身を翻して跳んで出て、縄の上をさっとはね、群衆の中に身を隠す。

「来い」

　兄貴が俺の背を叩く。兄貴はぐいと人の波をかきわけて入る。その後につく。

　ほとんどの人には何が起こったのか見えなかっただろう。前方の列で生じたざわめきが、次第に後ろへ、左右へと広がっている。兵士が人々の中へと跳び込み、先に走った者の後を追う。

　兄貴はすばやい。俺には見えないが、背の高い兄貴は目で追い続けている。大路を離れ、路地に入り、角を幾度となく曲がる。大路の喧騒が少しばかり遠のく。

　兄貴はまた角を曲がろうとして首を振る。

「いや、あっちだ」

　兄貴は走る。先に誰もいない。人々はみな大路に見物に出た。逃げた者もいない。後ろを見ると兵士はいない。追うべき相手をあいつらはとっくに見失ったのか。

　兄貴はまた走る。また曲がる。俺は懸命に追う。

「どこへ行ったんだ」

　後ろから兄貴に言う。兄貴は左右を見て、斜めの道を選ぶ。

「こっちだ」

　兄貴は猛然と走る。もう一つ角を曲がると、真っ直ぐ長い道が延びている。午後の陽が低く西にまわり道の半分は影になっている。その先の方に一人、背を丸め、顔を胸のあたりに埋ずめるように早足に歩いて行く者がいる。黒づくめの服だ。

「あれだ」

「あれ？」

　俺にははっきりそうだとは思えない。石礫を放った者に似てはいる。しかし、同じ人物だとは思いにくい。頭巾があったはずだ。前を行くのはざんばら髪だ。後ろ姿からすると兵士ではなさそうだ。華奢な感じのする、若い書生かも知れない。さっきは確か青っぽい服だったようだ。今は黒っぽい襤褸だ。職を失った貧乏職吏か。そうでなければただの乞食だ。

「間違いない」

　兄貴は確信に満ちた返事をする。

「どうする」

「わからんが、興味がある」

「姚泓に恨みのある奴か」

　兄貴は俺の言うことには答えない。

「見失わないようにこのまま追え。あまり近寄りすぎるな」

「兄貴は」

「あの先に仏寺がある。あそこに引きずり込む」

　兄貴は言い終わる前に激しい勢いで駆け出す。次の路地に跳び込む。先回りするつもりだ。

　俺はそのまま後を追う。前を行くのは、首を埋めるように俯いて歩いている。随分と早足だ。一定の距離を保ち、目に付きにくいよう道のなるべく端を追う。時折ちらっと振り返る。俺は急いで目を伏せる。道には俺の他には誰もない。

　速さを変えずに歩いている。同じは速さでついていく。何者か。袖からのぞく腕は細い。ろくなものを食っていないのか。貧乏書生か乞食だ。とんだ人違いかも知れない。細く痩せたこんな奴が、大勢の兵士に囲まれて護送される元の皇帝に石礫を投げたのか。そんな大胆なことをするようなふてぶてしさは後ろ姿からは伺われない。

　本当にこいつなのか。そうならどうしてあんなことをしたのか。よほどの訳があるのか。檻車に閉じ込められただ殺されに行く惨めな境遇の男にあんなことをしても仕方ないだろうに。

　寺の門にさしかかる。実にあっけなかった。門の内から兄貴が飛び出ると、もう地面にころがって組み敷かれた。

「やはり女か」

　乱れた襟から胸の中を兄貴が覗く。

　俺は駆け寄る。胸元に何かが光る。

「何をする」

　その声は、低くくはあったがやはり女のものだ。女は身もだえをして抵抗するが、兄貴はその上に馬乗りになって押さえつける。異様に黒い顔だ。黒いのは首までだ。その下は白い。兄貴が女の顔を拭う。一筋白くなる。

「とんだ予譲だ」

　大きな目に高い鼻、四角い顔、どこの胡族か。

「私をどうするつもりだ」

　女は兄貴を見上げる。兄貴はもう一度女の顔を拭う。白い肌の部分が広がる。はだけた乳房のあたりはもっと白く、金色に何かが光る。

「俺のものにする」

　兄貴が言う。

「ふん」

　女は兄貴の顔に唾を吐く。兄貴は軽く拭う。

「惚れたのかも知れない」

「手篭めにする気か」

　女が侮蔑するように言う。兄貴は大声で笑う。

「惚れたのは、おまえが石礫を投げたからだ。女だからではない」

　兄貴は襟を掴み、仏寺の門の内へと女を引きずり入れる。

「惚れたおまえの話を聞かせてもらおうか」

　兄貴は門の裏手に回わり、建物との間の狭い隙間にぐいと女を据える。女は兄貴の腕を振り払う。兄貴は女の前に立ち、逃げる余地はない。女は座したまま襤褸の着物の襟を寄せ合わせる。

　俺は兄貴の後ろに立つ。女が下から兄貴を睨む。墨を拭われた女の顔は黒と白のまだらだ。それでも醜くはない。目元はむしろ美しいとさえ思える。俺は黙って女の顔に見入りつつ、「とんだ予譲だな」と言った兄貴の言葉から、また一つ親父の話を思い出していた。

　　　＊　　　＊　　　＊

　それは唐突に始まった。

　親父と並んで草をむしっていた。昼までに一つの畑を終わらせるつもりだった。数日間続いた雨のせいだろう、草は思いの他に根強く張っていた。仕事ははかどらず、親父は考え事でもしているようで手が遅く、子どもの俺の方が早く先に進みがちだった。これではとても昼までには終わらないと、親父に文句を言いたい気分でいた。もちろん黙っていた。自分ばかりがたくさんしない手加減もした。

　親父は不意に声を立てた。

「士は己を知る者のために死し、女は己をよろこぶ者のために容づくる」

　奇妙に大きな声に振り返ると、親父はしゃがんだまま手を止め、地面を睨んでいた。

「こう言ったのは誰だったのか」

　俺に向かって尋ねたのかと思ったが、そうではなかった。

「この言葉があるがために、予譲は漆で顔を醜くくし、荊軻は短刀を潜ませて易水を旅立ったのか。二人の志の高さに剣の腕前が等しければ、目的を果たさずにはすまなかったものを、それが及ばなかったのは、なぜなのか。人を動かす言葉はありながら、事を成就させないでおいたのはなぜなのか。天は何を示そうとしたのか」

　親父は手にしていた草の束をぽろりと落とした。地より目を離し、天を見上げた。

「そうではあっても、二人には己を知る者がいた。天の事は知らぬ。しかし、この天のもとに、たった一人であっても己を知る者がいたのは何よりの幸運ではないのか。その幸運を得るならば、死を賭して良しとするのに何の覚悟がいるものか。予譲と荊軻の行いは千載の後にも余情を香らせる。士は己を知る者のために死すとの言葉に従うのは本来容易であった。しかし、その道は絶えて久しい。なぜか。己を知る者が絶えたからだ」

　親父は立ち上がった。親父を見上げた。こわばった表情は、いつもの奇怪な調子で詩を吟じるに違いないと思ったら、その通りになった。

　　　蕭蕭として哀しい風はゆき　　　　蕭蕭哀風逝

　　　淡淡として冷たい波は生じる。　　淡淡寒波生

　畑には親父の他には俺しかいなかった。親父は何を言っているのか。なぜここでこんな振る舞いに及んだのか。俺がそこにいたからなのか。他の兄たちの前でもこのようなことをするのか。今日は特別に何かに触れて激発し、たまたま俺が近く居合わせただけなのか。

　俺は上手に隠しているつもりだった。俺は親父のすること一つ一つに反感を抱いている。覚られないようにしているつもりだったが、どうやら親父は気付いているようでもあった。だから、親父は特に俺に聞かせようとしてこの妙な話の始め方をしたのかも知れない。それはなかなか気分の悪くなることだ。

　親父は咳払いをした。来るなと思った

「汝輩もよく知るように、予譲は、己を認めてくれた智伯が趙襄子によって滅ぼされると、その仇を討とうと、漆を身体に塗り、炭を呑んで声を変え、物乞いとなって、趙襄子の命を狙った。しかし、失敗して殺された」

　親父は俺は見つめた。俺は土の上に座して親父の話を聞いた。

「飢えては首陽山の蕨を食し、西は張掖、東は幽州と旅を重ね、渇して易水に水を汲んだとき、折りしも易水には荊軻を見送る人々が集まっていた。中央に座すのが燕国の太子丹であった。このとき燕国は秦国のために滅亡寸前まで追い詰められていた。太子丹は、後に始皇帝となる秦国の王の暗殺を荊軻に頼み、荊軻はひとふりの匕首をひっさげて秦の都へと旅立とうと、その別れの宴が易水のほとりで開かれているのだった。太子丹は小刻みに身体を揺すっていた。荊軻は人々の前に一人立っていた。寒風が音を立てて吹きすさび、荊軻の髪は冠を貫いて逆立った。荊軻は太子丹に背を向けていた。荊軻が旅立つのはこの男のためではないと思えた。では誰のためなのか」

　親父はしゃがんでなぜか再び草をむしろうとした。何のために話を始めたのか。親父はかがんだ姿でしばらく身動きしなかった。

　どうやらこれは俺に向かって話しているのではなさそうだと思えた。親父は自分に対して語っているのだった。

　親父は不意に立ち、一人語りをまた始めた。

「荊軻は易水の流れを睨んだまま一向に出発しようとしなかった。太子丹の動きが次第に激しくなった。周囲をきょろきょろと見回し、『まだか』とつぶやいた。それは小さな声だった。荊軻は微動だにしなかった。太子丹はいっそうそわそわとして腰を宙に浮かし、周囲の者に手で合図を送り、『早く行かせろ』と言った。幾分か大きな声だった。荊軻は振り返った。荊軻の形相に太子丹はのけぞり、床几にどさっと腰を落した。荊軻は口を開いた。『ひとたび行けば帰らぬのは私です。一緒に行く友を待ち、それで遅いと言われるのならば、これにてお別れとしましょう』。荊軻は太子丹に一瞥し、馬車に乗り、即座に出立した。一度も振り返らなかった。荊軻が待っていたのは誰だったのか、ついにわからぬままだった」

　　　惜しいかな、剣術が未熟なために　　　　惜哉剣術疏

　　　ついに奇功は成らなかった。　　　　　　奇功遂不成

　　　しかし、その人はすでに没しながらも　　其人雖已没

　　　情を千載に余したのである。　　　　　　千載有余情

「荊軻はあと一歩のところで始皇帝を殺しそこなった。荊軻はそうなるのを予感していた。荊軻にとって太子丹は己を知る者ではなかった。己を知る者は田光だ。易水にもしも田光が姿を見せたなら、荊軻は行かなかっただろう。かつて荊軻が己を知る者を求めて諸国を巡り歩いていたとき、荊軻の非凡さを認め厚く遇したのは、燕の処士の田光だった。太子丹は秦王の暗殺を誰に頼むのがいいのか田光に相談した。田光は太子丹に荊軻を推薦した。田光は屋敷に戻ると荊軻に太子丹のもとに赴くよう頼んだ。荊軻が田光の依頼を入れると、田光はその場で我が首を掻き切って死んだ。荊軻は秦に向かうにあたって田光を思い、田光が再び姿を見せ、やはり行けと言うかを待ったのだった」

　親父がなぜそのように考えたのか俺にはわからなかった。親父は何事もなかったかのように草をまたむしり始めた。

　己を知る者は得がたい。親父には己を知ると思う者はいなかったようだ。若くして死んだ二人の従兄弟だけが例外だった。

　俺はむろん親父を知らない。知ることを求められてもお断りだ。冗談でない。

　　　＊　　　＊　　　＊

「なぜ石を投げた」

　兄貴は腕組みをして女に問う。女は無言で首を横に振る。眼がきらりと光る。それが俺の眼を射る。

　俺はその光に引きつけれられてしまったのか、女の顔から目が離せない。女の眼が光ったのは、斜めになった日差しが女の瞳に入り、俺に向かって反射しただけのことだったのだが、その光が俺の眼から胸の内に入り、いつまでもあやしく輝き続ける。

「なぜ石を投げた」

　兄貴はもう一度言う。女は右左を見る。三方を壁に囲まれ、前に兄貴が立つ。その後ろに俺がいる。逃げることはできない。

「石など知らない」

　落ち着いた声だ。

「おまえが投げたのを見た。隠すな」

　女は口を強く結び、顔をそむける。

「強情を張るな。あんなことで気が晴れたのか」

　女は兄貴を見返す。女の目は大きく、瞳は碧だ。何も言わない。

「どうだ。違うだろう」

　兄貴は仁王立ちのまま威圧的に言う。女はわずかに眼を伏る。

「畜生」

　小さくつぶやく。

「姚泓を殺せたら気がすんだか」

　女は目を上げ兄貴を睨む。

「百回なら。いや千回だ」

　吐き捨てるように言う。

「たったそれだけか」

　女は眼を大きく見開き、口をかすかに動かす。しかし、何も言わずに顔をそむける。

「ふん」

　かすかに鼻が鳴る。

「いい度胸だ。ますます惚れさせる」

　兄貴は女の鼻先に腕を伸ばす。女は見向きもせずに強く払う。兄貴は右腕を頭上に振り上げ、拳を作る。

「晴れやらぬ胸のうちさえ聞かせてくれたら悪いようにはしない」

　女が視線を向けると、兄貴は拳で左の掌をびしびしと打つ。

「黙っていたら、どうする気だ」

「惚れた女をどうするかは俺の勝手だ」

「どうにでもするがいい」

「どうにでもさせてもらうか」

　兄貴は拳を開き、女の顎先をつまむ。

「どうせ、生きていたって仕方ない」

「あれで終わりでいいのか」

　兄貴は女の顎をぐいと上にあげる。

「惚れた女にそんな無作法をするのか」

　兄貴は女の顔をまじまじと見つめる。

「どうかな」

　女は兄貴の腕をつかんでふりほどく。兄貴は笑う。

「本当に惚れたのなら、肌に触れる手は震えるだろう。打たれればかえって喜びもしよう。生憎とそうならない」

　兄貴は剣を抜く。俺は兄貴の袖を引く。

「殺すのか」

「止めるのか」

　兄貴は振り返らずに言う。俺は握った袖を離さずに言う。

「訳を聞かないのか」

　兄貴は剣を軽く一振りし、切っ先を女に向ける。

「石を投げたのは何のためだったのか、ここでおまえが死ねば、誰にも知られずに終わってしまう。それでいいのか」

　俺は袖を離す。女は立ち上がる。

「切れ。おまえなんかに話しても何にもならない」

「行きずりの俺たちだ、何かになるはずがない」

「だったらなぜ聞くのだ」

「おまえが言いたいのを知っているからだ」

　女は兄貴を睨む。何も言わない。ふっと息を吐き、胸に掌を当て、眼を閉じる。唇がかすかに動く。

「晴らせぬ恨みを言うがいい」

　兄貴は静かに諭すように言う。女は顔を歪める。

「畜生」

　小さくつぶやく。

「どうする」

　俺はささやく。兄貴は剣を斜めにし、刃を夕日に光らせる。

「脅して言わせる気か」

　女はそう言い、口を強く結ぶ。

「脅したら言わぬ気だな。いいだろう」

　兄貴は剣をおさめる。

「畜生」

　女はまたつぶやき、眼がわずかに潤む。顔に塗った墨に一条、涙の細い筋が付く。兄貴は黙って立ち続ける。

　女は静かに言う。

「言ったところで何にもならない」

「石礫は何かになったのか」

　兄貴の声も静かだ。女は口を歪める。

「八万の恨みがたった一つの石礫。それが何かになったと訊くのか」

　女は一人で笑う。

「姚泓を殺すつもりだったのか」

「この手であいつを殺せなくてどうするのか」

「殺していれば満足したのか」

「百回なら」

　女はまた同じことを言いかけ、急に奇妙な声を立てる。噎び泣いた。兄貴は女の肩に手を置く。

「聞き方が荒々しかったようだな」

「構わない」

　女は笑い、

「私が泣くはずがない」

　と、言う。女は胸を押さえ、眼を伏せ、唇をかすかに動かし、何かを唱える。

「そんなにも深い恨みなのか」

　兄貴は穏やかに言う。女は眼を伏せたまま、

「二十八年生きて、最後はこういうこととは」

　と、うめくような低い声を出す。

　俺よりも十歳上とは、少し驚きだ。兄貴も意外だったようだ。

「おまえは二十八か」

「たった一つの石礫で二十八年の生涯は終わりだ」

　女は顔を上げずに言う。

「終わったのか。おまえは誰なのか」

　女は顔を上げる。女の顔は涙によって黒白の斑だ。俺は少しも目を離せない。女は俺ではなく兄貴の方を見る。

「南から来た漢人の兵だな。漢人に名乗る気はない。名乗ったところでわかるまい」

「漢人は嫌いか」

「何とも思わない」

「いいだろう。俺も名は言わぬが、竜驤将軍の参軍で、北方の事情にはいささか通じている。わからぬことはない。こいつは俺の弟分で、父親に仕込まれてなかなか学問がある」

「余計なことを言うな。親父とは関係がない」

　俺は急に口をはさむ。

「親のことを言うとこいつはむきになる。こいつも俺もそれぞれに父親を嫌って北伐軍に逃げ込んでここに来た。他の連中とはいささか違う」

「おまえたちの父は生きているのか」

「あれから死んだとは聞いていない。たぶん生きているだろう」

「親が健在という幸運に恵まれていながら、なぜ嫌うのか」

「おまえに親はないのか」

「父も母も顔を覚えていない。生まれて間もなく母は殺され、父とは遠く離れたままとなり、五年後に父も殺された」

「誰にだ」

「それを聞くのか」

「言わぬのか」

「言うまでもないことだ。姚萇と姚興だ」

　女は怒ったように言う。

「なるほど。それで復讐しようとしたってわけか」

「復讐？　そんな言葉では足りない。武侯神主様に代わって罰する。許されぬ罪に対する当然の報いを受けさせる」

　女は胸を押さえる。

「武侯神主とは誰だ」

「言う気はなかったが、隠す気もない。我が曽祖父にして、秦の武侯帝だ」

　兄貴は一瞬のけぞり、

「おまえは秦の武侯の曾孫なのか」

　と、納得したように言う。俺はかすかにうなる。秦の武侯帝とは苻堅だ。目の前の女はかつて秦国の皇帝であった苻堅の曾孫なのか。

「驚いたか」

　女が言う。

「いや、それでよくわかった」

「何がわかったのか。劉裕に姚泓を取られ、罰する機会を奪われてしまった者の苦しみがおまえにわかったのか。晋もまた憎んで余りある敵だ。その敵にかたきを奪われた。二十八年、かたきを罰するために生きてきたというのにだ。おまえらにわかることではない」

　苻堅の率いる百万の大軍は我が晋朝の五千の兵に敗れ、それが第一の原因となって苻堅の秦国は倒壊した。

「それはどうかな」

「この虚しさを誰がわかろうか」

「虚しい？」

「二十八年生きてきた結果がたった一つの石礫だ。虚しくないことがあろうか」

「殺せたならば虚しくはなかったのか」

　女はゆっくりと首を振る。

「百回殺したとて、やはり虚しいだろう。母とともに殺された三万の人々。そのとき姚萇に掠め取られた五万の人々。父とともに姚興に殺された二万の人々。それとの引き換えが、姚泓のような愚ろかな者の命では虚しいにも程がある。我が曽祖父、武侯神主様が夢に描いた国を破壊した者たちへの恨みが、あの愚かな姚泓へのたった一個の石礫とは。この虚しさをどう言ったらいいのか」

　苻堅の百万の大軍が淝水において我が晋朝に大敗すると、苻堅は長安に逃れたが、五族の寄せ集めからなる国はもろくも崩れ、羌族の姚萇に裏切りによって苻堅は殺された。苻堅亡き後、子の苻丕、孫の苻登と帝号は受け継がれ、姚萇、姚興の親子と戦いを続けた。ついに苻登が殺される及んで、秦国は完全に息の根を止められた。この女は世に知られることのなかった苻氏の生き残りなのか。

　この女はどのような思いで二十八年を生きてきたのか。俺はそれを知ってみたい。女は虚しいと言う。一人でも女の心を知る者がいれば、その虚しさはわずかながらでも軽くなるのではないか。

　俺がそんなことを思ったのは、生まれながらに父母のかたきを狙って生きてきたという女を目の前にしながらも、親父の得意のもう一つの話を思い出していたからだ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　家は貧乏で小さく、酒は滅多に手に入らなかった。稀にしか香りに触れられぬ酒がどこからかやってくると、親父は狭い部屋をますます狭くして牀席を並べ、近隣の老人を招き、酒を惜しまずふるまった。朝より夜更けに至るまで、皆と四方山の話をした。老人たちは今年の作物の出来を語り、親父は聞こえてくる町や都の噂を語った。そうした今の話よりも、老人も親父も古い昔の話を好み、老人は村に語り継がれる鄙びた話を口々に披露し、親父は史書に記される珍談奇談の類を語った。字を知らぬ老人たちは、世に知られると知られざるとにかかわらず、聖人、英雄、隠者の逸話を学問のある親父の口から聞けるのを喜び、親父は親父で胸の内にある数限りない物語を倦むことなく滔々と語った。俺たち息子も、村の老人たちと一緒に聞くのは、普段聞く教訓臭さの強い話よりは楽しく思われた。親父は酒を少しずつ嘗めながら、熱を入れて語った。あまり面白すぎる場合は、そんなことが本当に史書に記されているのかあやしく思えることも多かった。

「まず断っておきますが、これは昔むかしのこと。同じ晋の名ではありますが、むろん、有り難い我が晋朝ではなく、遠い遠い世の周代の晋国であります」

　そのように前置きをしてその物語は始まった。語り始めのわざとらしさは、我が晋朝への寓意もありそうだった。

　こういう物語の際には、親父は酒の樽を叩いて調子を取るのが常だった。

「晋の霊公は、世の皇帝、国王とは断然異なり、贅沢好きな上に傲慢この上ない性格でありました」

　親父は樽を叩いて老人たちを見回した。今の世の皇帝が何をしているのか人々は知らなかった。いてもいなくても関係なく、政治は常に誰か他の者によって牛耳られていた。桓玄によって殺された司馬道子が実権を握っていた時代は最もひどく、司馬道子は酒ばかり呑んで贅沢三昧に暮らし、政治は無法図を極めた。

「晋の霊公様が莫大な金を使って何をするかと言えば、宮殿の壁に細かな彫刻を施して御満悦。強力な弾打ち機を作って何をするかと言えば、楼台に立ってむやみと打って人々が逃げ惑う様を見て大喜び。好物は熊の掌をとろとろに煮たもの。あるときそれが生煮えだったから大いに怒り、料理番を呼び出して、その場で殺してしまった。残虐な仕打ちに真っ青になって震える女官に、『死骸を捨てて来い』と命じた。女官たちは仕方なく、死骸を莚でくるんで宮殿の外に持ち出した。力のない女のすることだ、死骸は隠し切れず、筵からだらんと腕が垂れ下がった。ちょうど通りかかったのが重臣の趙盾だ。趙盾はかねから霊公の粗暴な振る舞いに心を痛めていた。霊公も衆望を集める趙盾ばかりは苦手にしていた。趙盾は御前に進み出て霊公を諫めた。霊公は神妙に聞くそぶりを作っていたが、長い趙盾の説教をどうにか我慢して聞き終わり、趙盾が出て行くと、鉏麑という者を呼び出し、『趙盾を殺して来い』と命じた」

　親父は樽をとんと叩き、老人たちを見た。皆が話に引き込まれているのを確かめると、顎鬚をしごき、咳払いをして続けた。

「霊公は趙盾が煙たいだけではなく、殺そうとするにはもう一つのわけがあった。かつて霊公の父親の襄公が死んだときに話はさかのぼります。このときに霊公は太子だったが、すんなり王になれたわけではなかった。跡継ぎを誰にするかでひと騒動があった。異論を唱えたのが、実は他ならぬ趙盾だった。『晋には国難が多く、年少の太子を立てたのでは国は保てません。秦国に人質となって出ている弟君を呼び戻して王とすべきです』と主張した。実力者の趙盾がそう言ったのだから、反対する者はなく、秦国に迎えの使者が出された。太子の母親はそうと聞くと、息子を抱いて朝廷に走り、大臣たちの前で号泣した。『幼い太子に何の罪があるのでしょう。国の外から王を迎えて、この子はいったいどこにやったらいいのでしょう』。涙ながらに訴えて、人々の同情を大いに買った。太子の母親はそのまま涙も拭わずに、趙盾の屋敷に行った。頭を地にすりつけ、『息子を見捨てないでください』と趙盾に頼んだ。さすがの趙盾も哀れになり、朝廷の面々が太子に同情を寄せていることを思い、先君より太子を頼むと言われた言葉も思い出し、先の決定を翻して太子を王とすることにし、秦国に向かった使者をあわてて呼び戻した。これで、霊公にはいささか含むところがあったのです」

　老人たちはなるほどとうなずいた。

「趙盾を殺せとの命令を受けた鉏麑は、その日の夜が明ける前に片付けてしまおうと、ただちに趙盾の屋敷に向かった。着いてみると、屋敷の門や入り口は全て開け放たれ、鉏麑は易々と中に入った。時はまだ夜中だというのに、趙盾は早くも朝廷に出仕するための準備を始めていた。落ち着いたその動作は全て礼にかなっていた。鉏麑はうめくと言った。『忠臣は殺せない。王の命に従わないわけにはいかない』。鉏麑は、庭の木に頭を打ち付けて死んだ」

　親父はひときわ大きく樽を撃った。老人たちがふうと息を吐いた。

「ここに霊公におもねる家臣で、屠岸賈という者がいました。屠岸賈は、趙盾さえいなくなれば政治は己の思いのままになると、趙盾を殺すようしきりに霊公をそそのかした。霊公は一度の失敗に懲りずにその話に乗り、趙盾を酒宴に招いた。部屋の外に大勢の兵を忍ばせ、合図とともに趙盾を殺してしまおうと企んだ。兵の中に示眯明という者がいた」

　親父はいよいよ熱を込めて語った。

「示眯明とは何者でしょう。かつて示眯明は故郷を遠く離れて仕事に出ておりました。三年の歳月が満ち、故郷に一人残してあった母の安否を早く知ろうと急いで戻ってまいりました。ところが、首山の麓まで来て携えた食糧がすっかり尽き、桑の木の下でとうとう動けなくなってしまった。そこにたまたま猟に出た趙盾が通りかかった。男が苦しみ倒れている様子に、趙盾は食物を与えた。示眯明は半分だけを食べ、あとを残して懐に入れた。飢えているはずなのにどうしてか訝しく思った趙盾が尋ねると、『残りは母に持ってまいりたいと思います』と示眯明は答えた。趙盾はその孝心に感じ入り、さらに多くの飯や肉を与えた。

　この示眯明が趙盾を殺そうと部屋の外に控える兵の中にまじっていた。酒宴が始まると、示眯明は趙盾の前に出てささやいた。『御主君からの酒は、杯が三度巡ったらやめるのが礼です』。趙盾はその言葉に従った。示眯明は趙盾を立たせ、厠に案内すると言って、部屋より外に出した。兵は、趙盾が示眯明と一緒なのを見てまだ襲おうとしなかった。趙盾は建物の外に出た。霊公はよく噛み付く猛犬を屋敷の庭に放しておいた。犬が趙盾に飛びかかった。示眯明が犬を撃ち殺した。示眯明は趙盾を屋敷の外に出した。伏兵が後を追った。示眯明が反撃し、趙盾は逃れられた。趙盾はもはや国内にはいられまいと逃亡の旅にのぼった。

　騒ぎを聞き、趙盾の一族の趙穿という将軍がすぐに反乱を起こした。霊公を襲撃して殺してしまった。趙盾はまだ国境を出ておらず、呼び戻された。国人はもとより霊公を恨み、趙盾を尊敬していたから、趙盾が元の地位に戻るのに何の問題もなかった。霊公の叔父にあたる成公が新しい王となった。

　こうして晋の政治は安泰を取り戻したのだが、後に成公が死に、その子の景公が位について三年目、趙盾も死んだ。趙盾の後は息子の趙朔が継いだ。このときだ｣

　親父は樽を強く叩いた。調子のよい親父の語り口に、酔いが回って居眠りをしていた老人が目を開いた。

「それまでじっと鳴りを潜めていた屠岸賈が動き出した。密かに趙氏の抹殺を計画した。趙朔の友人に韓蕨がいた。韓蕨は屠岸賈の悪企みを漏れ聞き、早く逃げろと趙朔に警告した。趙朔は『重臣の家柄として国を捨てて外に逃げるわけにはいかない』と助言を拒んだ。なおも逃亡を勧める韓蕨に、『万一の場合に、趙氏の祭祀を絶やさぬようにしてくだされば、死んでも恨みとはしません』と言った。これより韓蕨は病と称して朝廷には出なくなった。屠岸賈は王の許しを得ずに勝手に兵を動かし、とうとう趙氏を皆殺しにした」

　親父は息をついた。水を飲んだ。

「話はこれでは終わりません。趙氏は残らず死んでしまったのではありませんでした。趙朔の食客に公孫杵臼がおり、趙朔の友人に程嬰がおりました。屠岸賈が兵を動かしたとき、二人は趙朔の夫人を匿って景王の屋敷に逃した。夫人は前の王の成公の姉であり、今の王の伯母に当たります。夫人はこのとき子を宿していた。程嬰は公孫杵臼に向かって言った。『幸いにも男子が生まれれば俺はその子を守り立てる。もしも女であれば、ゆっくりと死ぬ』。間もなく夫人は男子を産んだ。どこからかそれを聞きつけた屠岸賈は、王の屋敷をしらみつぶしに探して趙朔の忘れ形見を殺してしまおうとした。

　夫人は生まれて間もない子を袴の中に隠した。天に祈り、子に言った。『趙の家が滅びるのなら泣け。もし滅びないのなら声を出すな』。捜索の間中、赤ん坊はひと声も上げなかった。程嬰は公孫杵臼に言った。『今回は見つけられずにすんだが、もう一度調べられたなら逃れられまい』。公孫杵臼は応えた。『孤児を守り立てるのと、ここで死ぬのとどちらが難しいと思うか』。程嬰は『死ぬ方がやさしい』と答えた。公孫杵臼は『ならば俺にやさしい方をやらせてくれ』と言った。二人は固く約束した。

　二度目の捜索がなされた。公孫杵臼は他人の赤ん坊を麗しいむつきにくるみ、王の屋敷を飛び出て山中に逃れた。程嬰は屠岸賈のもとに走った。『褒美をもらえるのなら趙朔の子の居場所を教えましょう』と言った。程嬰の手引きで兵士が山を囲んだ。公孫杵臼は山中を逃げ、追い詰められ、もはやこれまでと見ると、赤子を肩に乗せて人々の前に現れた。程嬰を睨みつけ激しく怒って叫んだ。『見下げ果てた奴だ。先に趙朔殿とともに戦って死ぬ勇気がなく、孤児を匿って育てると約束していながら、褒美のために売るとは』。公孫杵臼は程嬰に唾を吐きかけた。程嬰は平然と『もう逃れらぬ身。何とでもほざくがいい』と嘲け笑った。公孫杵臼は急に悲しい顔になり、赤ん坊を胸に抱き、『この子に何の罪がありましょうか。この子ばかりを生かして、私を殺してください』と、頭を深く下げて程嬰に頼んだ。程嬰は再び嘲け笑った。『おまえの命には用はない。その赤子の命が要るのだ』。程嬰はそう言うと、兵士に命じ、公孫杵臼と赤ん坊を殺した。程嬰は屠岸賈から莫大な褒美を受けた。それより程嬰は屠岸賈に阿り、人々は蔭で程嬰を人でなしと罵った。

　十五年の歳月が流れた。景公が病気になった。占うと『大業の後の遂げざる者、祟りを為す』と出た。景公がその理由を臣下に尋ねると誰も訳を知らなかった。韓蕨が密かに『それは趙氏のことでありましょう』と景公に告げた。景公は趙氏が滅ぼされたのを残念に思っており、国の政治が一人屠岸賈によって壟断されているのを快く思っていなかった。『趙氏の後を継ぐ者がどこかにいるのか』と韓蕨に尋ねた。『います』と韓蕨は答え、趙朔の真の子がなお生きていることを告げた。『どこにだ』と景公が息せき切って聞くと、『程嬰が遠く山中で育てております』と韓蕨は言った。景公は非常に驚き、人知れず孤児を宮中に呼び寄せた。子は趙武と言った。景公の病は癒えた。景公は、屠岸賈に内緒で趙武を将軍たちに引き合わせた。『趙武を守り立てるように』と景公は将軍に命じた。将軍たちは涙を流し、『やむをえず屠岸賈に従って来ました』と詫びた。ここに、韓蕨と程嬰は力を合わせて屠岸賈の一族を滅ぼした」

　親父が樽をとんとんと叩いた。老人たちはほっと顔を明るくした。

「話はまだ終わりません。趙武が成人すると、程嬰は趙武に別れを告げた。『泉下に向かい趙朔様と公孫杵臼に対面し、事の次第を告げて参ります』。『我が身をいかに苦しめてもそなたに大恩を返したいと思っている。それを見捨てて行ってしまわれるのか』。趙武は涙ながらに引き止めようとした。程嬰は断った。『私が告げに参らねば、公孫杵臼は事がいまだに成就したとは知らずにおるのです』。程嬰は自害した」

　親父は立って詩を吟じた。

　　　命を捨てるほど難しいことはない　　　　　　　　遺生良難

　　　しかし、士は己を知る者のためにそれを為す。　　士為知己

　　　故郷に帰りゆくように義を為すのは　　　　　　　望義如帰

　　　まことに程嬰、公孫杵臼の二人である。　　　　　允伊二子

　　　程嬰が剣を揮って己の首を切ったのは　　　　　　程生揮剣

　　　恥を後に残すのを懼れたためだ。　　　　　　　　懼茲余恥

　　　それがために徳は長く語られ　　　　　　　　　　令徳永聞

　　　百代の後まで記録が残ったのである。　　　　　　百代見紀

　調子のはずれた親父の吟詠も老人たちを十分に感動させた。「士は知己の為にする」と親父は静かに繰り返した。親父の好みの言葉だ。親父もそのようでありたかったのか。

　昔むかしの話を調子よく語るだけなら簡単だ。俺は心の内で親父を笑った。俺はきっと違うと思った。

　　　＊　　　＊　　　＊

　人の声が門の外にある。あたりが少しばかりにぎやかになっている。俺は兄貴の背より離れ、通りを見る。薄暗くなった中、大路の方向から人々が歩いて来ている。姚泓を見物していた連中が三々五々町に散り始めたようだ。

「人が来る」

　兄貴は振り返る。

「おまえは匿う気か」

　そう聞かれて返事に困る。

「姚泓に石を投げたのは罪になるのか」

「檻車の列を乱したのは重罪だろう。おまえが匿いたいのなら、手を貸そう」

　俺の気持ちを探っているようだ。

「まだ話の続きだし、兄貴は聞きたいだろうから」

　兄貴の気持ちを探ろうとする。そもそもこの女を追いかけて捕まえたのは兄貴だ。

「これは相当の美人だ。おまえが気に入っても文句は言わない」

「何を言い出す」

　俺はとまどう。言うのほどの美人ではない。ただ女の顔から目を離せずにはいた。

「違うのか」

「兄貴が捕まえて、話を聞き始めてまだ途中だから」

「そうかい」

　兄貴は俺の顔を覗き込む。俺は意味なく顔が赤らむのを感じる。兄貴はちょっと微笑んで、女に顔を向ける。

「おまえ、家はどこだ」

「大界の営を失ってより、家などない」

「ならば、俺たちのところに来い」

「行ってどうする」

「こいつが匿いたいと言っている」

　兄貴は俺を指差す。

「俺は違う」

　女は俺を見る。

「いや、話の続きを聞かせてほしいのだ」

　と、俺は急いで付け加える。

「女だと思って、慰みものにするつもりだろう」

「違う」

　俺は声を大きくする。兄貴は言う。

「それが望みならそうしてやってもいい。しかし、俺は惚れた女をそんなふうには扱わない。こいつもそういう男だ」

　兄貴は俺の腕をつかみ、ぐいと女の前に立たせる。

「俺は惚れちゃいない」

　兄貴は笑う。

「本心を隠すな」

　何を兄貴は言い出したのか、少し腹立たしくなる。女は顔をしかめる。

「下らん。おまえたちに話すことなどない」

「いや、ある。人は己の思いを話したいものだ。まして、虚しさに満たされたときに、話さずにいられるわけがない」

　兄貴は不思議な男だ。人の心を読むのがうまい。女は兄貴の顔を真面目に見る。俺は俺で女の気持ちを少なくとも俺だけはわかってやりたいという思いを強める。

　女は俺の顔も見る。俺はうなずく。

「話したってわかるものか。これほどの虚しさを味わうとは自分でも思ってもいなかったのだから」

「ほら、話そうとしているではないか」

　兄貴が言い、俺はもう一度大きくうなずく。女の表情が少しばかりゆるむ。

　兄貴は女の脇に寄り腕を取る。意外にも女は抵抗をしない。

「さあ、来い。幸いと夕暮れに向かう。人の流れにうまくまぎれ込むとしよう」

　俺は土にまみれた女の着物を払う。ぼろぼろになった黒い戎服だ。遠目には女であるとは思えないが、服に触れると、尻のあたりに男にはない柔らかさが感じられる。

　門を出ると人がばらばらと通って行く。兄貴は舌打ちする。

「思い出した。明日の早朝には出ないとならない」

「そうだ。連れて帰っても、困るぞ」

　俺はそう言って、急に詰まらない気分になる。困るという言い草はない。

「さて、どうするか」

　兄貴は足を止める。

「だったら、手を離せ」

　女は兄貴の腕を払おうとする。たいして力は入っていない。兄貴はぐいと女を引き寄せる。

「よし、こいつも一緒に連れて行く」

「どこへ」

　俺が尋ねると、兄貴は俺の方に女を突き出す。

「おまえ、しっかり逃さぬようにしろ」

　兄貴は俺の両腕を取り、女を抱えさせる。女の体温が伝わる。

「で、どこへ行くんだ」

　俺はもう一度訊く。

「当たり前じゃないか。統万城だ」

「統万城まで一緒に連れて行くのか」

「他にどうするのだ」

「しかし」

「俺たちには男に見えた。おまえの従者にすればいい。簡単なことだ」

「俺の」

「従者では不服か。妻にしたいのだろう」

「馬鹿を言うな」

　俺は強く言い、腕を緩める。女は動かない。

「統万城？　劉勃勃の城か。そこに行くのか」

　と、女は言う。

「明日、出発する。太尉殿の代わりに俺が行く」

　兄貴が答える。

「劉勃勃の統万城なら行ってやってもいい」

　女は言う。

「天下に名高い不落の城だ。見るに不足はあるまい」

「我らにその城があれば、姚萇などには負けなかっただろう。武侯神主様亡き後、我ら氐族はどこにもとどまるところがなく、草原を移動しつつ姚萇と戦った。雨が降らず草の枯れた年には、馬を養えず、食うものがなく、それでも我らは戦った。敵兵を殺しその肉を食った。敵を食って力を付け、また敵を殺して食った。姚萇は我らの勢いを恐れ、前線で戦っていたお気に入りの将軍を『おまえも食われてしまう』と長安に呼び戻した。そんな将軍などどうでもよかった。姚萇をこそ我らは刻んで食おうとしていた」

　女の身体は熱くなって声を大きくする。

「大きな声を出すと、人の注意を引くぞ」

　兄貴が低い声で言う。女はかすかに笑う。

「今さら忍んでどうするのだ。生きていたって何もない。あの石礫で終わりだ」

「そうなのか」

「他に何がある。この虚しさの他に何があるのか」

「俺は知らない」

「ならば、もう言うな」

　女は押し殺すような声で言う。兄貴は女の正面に立つ。

「統万城なら行ってやってもいいとおまえは言った」

　女は兄貴を一瞬だけ見て、目を逸らせる。

「おまえの心にはまだ何かがあるのではないか」

　女は唾を吐く。

「おまえなんかにこの心がわかるか」

「さあ、どうかな」

「誰にもわからない」

　女がそう言い、俺はわかりたいと思う。

　だが、親父が珍しくこの女のように興奮して同じように言ったときには、そうは思わなかった。

　　　＊　　　＊　　　＊

　三年前の春だった。

　俺たちは陶家の者全員が門の前に並んだ。殷景仁の車馬が斜めに道を下って行った。一度は消えたその姿が畦の先に現れ、墟里のはずれにある梨の木の下をくぐり、とうとう完全に見えなくなるまで俺たちは見送り続けた。

　殷景仁が車に乗り込んだとき親父の顔には笑みがあった。その前まで二人は談笑していた。車馬が門を離れ、次第に遠のくにつれて笑みは消え、眉根に皴が寄った。折りしも純白の花が満開となった梨の木の下に殷景仁の車が達したころ、親父の顔は紅潮し、眉が吊りあがった。

　車が見えなくなると、親父は無言のまま家に戻り、即座に一篇の詩をしたためた。

「何も言わずに渡し、何も聞かずに戻れ」

　一番上の兄が殷景仁の後を追った。兄に命じる親父の声は幾分か震えていた。それほどに親父は興奮していた。

　殷景仁はそれより一年ほど前に南隣りの村に来た。時に殷景仁が家を訪れ、時に親父が殷景仁を訪ねた。穏やかな風貌の人物で、言うところも行うところもまた穏やかだった。親父を見物に来る通例の他の連中とは多いに異なった。殷景仁は官職より離れ、村に住み、親父に習って農耕に励んだ。口数は少なく、老荘の道に話が及んでも、もっぱらものを言うのは親父の方で、殷景仁はうなずいているだけだった。酒はあまり呑まず、殷景仁と会えば親父は夜明けまで静かに語ることが多かった。

　この日、殷景仁は突如として立派な車馬に乗って親父を訪ねた。着るものも立派な官服となっていた。殷景仁はやや苦しげな表情で、これより都に向かい永の別れになると、告げた。劉裕に召されて参軍になると言う。親父はにこやかに聞き終わり、職を得たのを言祝ぎ、官にある者の注意すべきいくつかを教えた。親父の穏やかな表情に殷景仁は顔を緩めたものの、ぎこちなさは最後まで残り、そそくさと車馬を来た道に戻した。親父は、身体に気をつけよと言って殷景仁と別れた。

　兄は親父の詩を持って走った。

　親父は兄を見送ると、書いたばかりのその詩の一節を低い声で吟じた。

　　　語ると黙るとは自ずから姿勢が異なり　　　語黙自殊勢

　　　いつかは離れて分かれるものであった。　　亦知当乖分

　二人が会えば語るのは親父であり、黙るのは殷景仁だった。しかし、時世に従って口を開いたのは殷景仁であり、口を鎖すのは親父だ。もとより二人は隔たるところ遠いものがあったと親父は詩に歌ったが、親父はもともとはそうは思っておらず、殷景仁を己を知る者として遇していた。

　親父が最後に官職を擲って退隠してこのときまでに七年が経っていた。親父の隠者ぶりを見にくる者は多く、親父が村に住む真意を知る者はまずいなかった。殷景仁はようやく現れた例外であると親父は受け止めていたようだ。殷景仁の農村暮らしは、結局のところ世にまた出るまでの一時的なものでしかなかった。親父はそれをその日が来るまで見抜けずにいた。俺に言わせれば、それは当然だ。親父自身だって似非隠者なのだから。

　親父は兄の去った方に背を向け、門より西に歩み、五本の柳の下に立った。穏やかな風に枝が揺れた。残った四人の息子はその後に従った。親父が詩を吟じるとき、その後に続くであろう物語を聞くのは息子たちの勤めだった。

　　　飄飄と西より来る風　　　　　　　　飄飄西来風

　　　悠悠と東に去る雲。　　　　　　　　悠悠東去雲

　親父は見上げた。

「西から風が吹けば東に靡き、東から風が吹けば西に靡く。柳はそれでよい。柳は風に逆らわぬ娯しみを知る。人もまたそれでよいのだろう。それでよいと思うから、ここに五本の柳を植えた。よもやその柳を厭う日があるとは思いもしなかった。西から風が吹けば東に流れ、東から風が吹けば西に流れる。雲はそれでよい。雲は太古の純白のままに天意の趣くままに東に西に流れる。人もまたそれでよいのだろう。それでよいと思うから、雲を仰ぐのである。よもやその雲を厭う日があるとは思いもしなかった」

　　　すぐれた才能は世に隠れず　　　　　良才不隠世

　　　江湖には貧賤ばかりが多く残る。　　江湖多賤貧

　親父は詩を吟じつつ、西の田に通じる道より折れ、丘の奥に至る道を登り始めた。

「柳は風に靡き、雲は風に流れる。才ある者にして、風に乗じて空高く馳せるのを望まぬ者のあろうはずはない。世に吹く風はどこへ向かうのか。都にはよりよい風が吹くであろう。その風に上手に身を載せるのもまた才なければ叶わぬことだ。才ある者は、風を見、風こそは己を望むところへ導くものと見る。柳は風に靡き、雲は風に流れ、才ある者は風に載る。風はその上に載る人をどこに連れるのか。才ある者は連れていかれたそこを我が望むところだったと思うのか」

　親父は振り返った。五本の柳へ、家の門へ、梨の木へ、潯陽の町、さらに都へと視線を転じるかのように顔を動かした。

「この無能無才の田夫は、才ある者の行くところは、帰るべきところより最も遠く離れる場所であると知る。才ある者はなぜそれを知ろうとしないのか」

　親父は大きく息を吐いた。

「狂馳子」

　短くつぶやいた。狂馳子とは走り回る人々だ。走るのは何のためか。世に隠れまい、名利を逃すまいとしてだ。親父はそういう振る舞いをする連中を狂馳子と呼んだ。

　殷景仁は狂馳子という言葉から遠く離れた人物であるように親父は見えていた。その前の日までは。殷景仁は普通の男だ。親父に別れを告げに来たとき、どこか申し訳ないという顔をしていた。己が親父に背いたとの思いがあったのだろう。善良な男だ。

「誰もわからぬ」

　親父は小さくつぶやいた。

「行くがいい。もう求めまい」

　親父は再び丘の道を登った。

　親父は随分と無茶を言うと、俺は思った。殷景仁にはそれほど非難されるべき点はない。まだ若い。親父のようになれるはずがない。親父だって何度も官職に就いたではないか。殷景仁に都に出るなと求めるのは酷だ。

　親父の興奮はなお続いた。

「なぜ都に行くのか。車馬があるのなら、なぜ徐無山に行かぬのか。なぜだ」

　親父は怒ったように言った。

　親父はそれより黙々と歩き、丘の一つの頂に至ると不意に立ち止まった。俺たち息子に顔を向けた。

「徐無山を知っているか」

　兄たちはうなずいた。俺はわずかに横に振った。

「佟は知らぬのか」

　俺は隠しはしなかった。知らないものは知らぬ。俺は親父の好む事の全てを知るものではない。親父は微笑んだ。

「そうか。子が知らぬは親の責任である。知らぬのなら聞くがよい。よく知る汝輩はよく知るように、徐無山に入ったのは田疇だ。田疇は一族従者数百人を連れ、険しい山奥に深くに隠れた。『君王の仇を討たねば世にあるかいがない』と、自ら鋤鍬を取って父母を養い、時が来るのを待った。漢の命運のまさに尽きようとするときだった。田疇は乱賊どもが互いに争い合う世の中より逃れ、再び漢の世が戻るまでは外に出ぬのを誓った。田疇の徳を慕う人が後に続き、数年にして、徐無山の奥には五千の家が軒を連ねた」

　ここで親父は話を区切った。

　眼下には、親父の家の屋根からその先の道、白い花を咲かす梨の木、その向こうの柴桑の村の中心部の家並みがあった。

「我が隣に軒を連ねる家はない」

　親父は小さくつぶやいた。実際に陶家の家は村の他の家から離れていた。親父は殷景仁を思ってそう言ったのだろう。

　親父はその思いを振り払うかのように首を振った。

「君王の仇とは何か。漢の皇帝は、横暴な将軍の董卓によって洛陽の都から連れ去られ長安に幽閉された。世にはなお皇帝に節義を捧げる者がいるのを皇帝に知らせるべく、劉虞は田疇を使者として長安に派遣した。田疇は賊の満ちる長く危険な道を長安へと辿り、使命を果たし、劉虞への皇帝の返書を受けた。しかし、劉虞はその間に公孫瓚によって殺され、帰るべき場所を田疇は失った。田疇は大きくは漢室の仇を、小さくは劉虞の仇を雪がぬ限りはと、山中に隠れた。田疇の名は、生きている間にその節義をもって世に高く聞こえ、死んでからもなお無窮に伝えられている。短い一生の間に世に出ることばかりに汲々とし、人に先んじて時運に乗じようとする者たちは、一度は世に虚しい名を広めようとも、死ねばたちまち忘れ去られるだけだ。そんな狂馳子とは、田疇は大いに異なっていた」

　親父は興奮気味に言葉を切り、俺に視線を向け、

「どうだ、これでわかったか」

　と、言った。俺はうなずくだけですませておけばよかったのだが、つい余計なことを尋ねた。

「徐無山には田疇の子孫が今もいるのですか」

　親父は少し困ったような顔をして、俺の肩に手を置いた。

「むろん、田疇の郷里にはその遺風が残っている。そうでないはずがない」

　親父はそう言った。後になって俺は、親父が困った理由がわかった。

　田疇はその後、魏の曹操に従った。曹操は、衰えて名ばかりとなった漢室を己の保護下に置き、漢の名を借りて己の勢力を拡大した。曹操は、北方に跋扈する烏丸族を討つ兵を出し、その際に田疇に道を借りた。田疇は曹操の道案内を買って出て、曹操の烏丸族征伐は成功した。曹操は田疇を侯爵に取り立てようとしたが田疇は辞退した。田疇は君王の仇を討つと誓ったことと行動とが首尾一貫しないのを恥じた。しかし、結局のところは、田疇といえども世の流れの外にいることはできなかったのだ。

　魏の曹操自身は皇帝にはならなかったが、曹操の息子は漢朝を滅ぼして帝位に就いた。劉裕は桓玄を滅ぼして我が晋朝を再興させ、その力をもって晋の皇室を己の保護下に置いた。劉裕は曹操に近い。劉裕の元に馳せ参じて村を去った殷景仁に失望しながら、曹操に道を貸した田疇を讃えるのは、矛盾がなしとはしないだろう。しかも、親父自身も劉裕の幕下に出仕し、殷景仁が任じられたのと同じ参軍になっていたのだ。

　俺はこのときはそうした事情の全てはわかっていなかった。それでも親父の言うことに腑に落ちないものを感じ取っていた。

　親父は苦しげに息を吐き、再び殷景仁に贈った詩を吟じた。

　　　すぐれた才能は世に隠れず　　　　　良才不隠世

　　　江湖には貧賤ばかりが多く残る。　　江湖多賤貧

　似非隠者の強がりではないか。本当の隠者であれば、殷景仁が何をしようが少しも動じはしないだろう。

　一人世の外にあろうとする者は、江湖に隠れて、貧賤でなければならない。しかし、貧賤であるからといって、それが志ある隠者であるとは限らない。多くは、不才にして不義であるから世に捨てられて貧賤であるのだろう。節義を保つ士なのか、身を持ち崩した愚昧の徒であるのか、いったい誰に知れるのか。貧賤の下に隠れた心が何であるかを誰が知るのか。

「誰もわからない」

　親父はまたつぶやいた。

　知られぬのを嘆くのは、世に知れたいという心があるからだろう。世に知られたいとするのは、時流に乗って都に靡く人々とどこが異なるのか。

　親父の似非ぶりはこうだった。田疇も同じだろう。仇を雪ぐと誓いながら、一族の平穏な暮らしを享受するためには、曹操に尻尾を振るのも厭わなかった。似非隠者が殷景仁をどうしてなじれるのか。親父は縁者に頼んで役人の口を何度か得た。口に糊するためだったと言う。己の名利のためではなかったと言えるのか。気に食わないところがあると、すぐに郷里に帰った。そうしてまた貧賤に責められてと言って縁者に頼んで職を得て外に出た。最後の彭沢の令などはたったの三ヶ月で帰った。何も知らせずに突然親父は村に戻り、「もう二度と外には出ぬ」と言った。その言葉を聞いた母の顔といったらなかった。俺は七歳だった。それでも母の気持ちがわかった。あれからなのだろう、親父が何を言っても心の内で反発するようになったのは。親父を嫌い、憎むまでになった。だから元は母のために親父を嫌ったはずなのに、親父の全てに従っている母もいつしか嫌っていた。それも親父のせいだ。

　親父が何を思っているのか常に俺にはわからなかった。「誰にもわからない」などと嘆かれるのは不快この上なかった。俺に向かって嘆いたところで、俺は決して親父をわかろうと思わない。

　　　＊　　　＊　　　＊

「そうだな。おまえのことは俺にはわからない」

　兄貴は女に言う。

「だったら、もう離せ」

　俺は女をもう捕まえていない。女は動こうとはしない。

「統万城には連れて行く」

「なぜだ」

「なぜかな。おまえをもう一度奮い立たせてやるためか」

「何のためにそんなことを」

「これで終わらせるのは勿体ない」

「もう終わりだ。私にはすることなどない。姚泓は建康に送られた。生きている用は私にはない」

「生きている用？　そんなもの初めから人にはない。生きているから用ができる。死んでしまえばそれで終わりだ」

「おまえたちは用もなく生まれたのだろう。私は違う」

「ほう。どんな用があって生まれたのか」

「武侯神主様に代わって罰する。父と母の仇を討つ。姚萇、姚興を殺すためだ」

　女の声はまた少しばかり大きくなる。兄貴はぐいと女の肩を抑える。

「気をつけろ。小さい声で話せ」

「誰に聞かれて困るものか。生きるに未練はない」

　女は兄貴の言葉に逆らって余計に声を大きくする。

「好きにしろ」

　女は口を閉じる。

　女が黙ってしまって何も言わないので、俺は少し心配になって女の腕を軽く取る。女はなされるがままだ。女のそばに寄ると息遣いがよく伝わる。黙ってはいるが、興奮はおさまっていない。これなら言わずにはすむまい。

　兄貴も俺もしばらく黙っていると、やはり女が自分で語り出す。

「私が生まれた年だ。姚萇は三万騎でもって大界の営に夜襲を仕掛けた。先に我が父が姚萇の軍を破った報復だった。大界の営には老人、女、子どもがいた。わずかな守備兵を残して、父を初めとして屈強の男たちは他所に敵を求めて出ていた。姚萇は卑怯にも、父の留守を狙って我が氐族を根絶やしにする作戦に出たのだ。母が戦った。たった三百の兵を指揮して姚萇の三万の大軍に立ち向かった。母は馬を走らせ、姚萇にあとわずかと迫った。寄せ来る敵を振り払い、姚萇を目指し、鉾を投げつけた。兵力の差は決定的だった。母は敗れ、姚萇の前に引き出された。姚萇は母の美しさに、『妾になれば他の者を許す』と言った。母は平気で武侯神主様を弑した姚萇に約束を守る気などないのを知っていた。姚萇を罵った。『皇后であった者が、羌族の辱めを受けようか。おまえは先に皇帝を害し、いまは皇后を犯そうというのか。皇天后土においておまえの悪事を知らぬ者はいない』。姚萇は怒って母を殺した。大界の営にいた五万の民は長安に連れ去られ奴隷にされた。これによって我が氐族は女と子どもを失った。そのときまだ生まれて日の立たぬ私は、攻撃が始まる前に、機転の利く乳母の背に負われて山中に逃れた」

　女の声は次第に落ち着いたものになる。

「氐族で残ったのは父が率いていた兵士だけとなった。父は各地を転戦し、姚萇が死んで姚興に代替わりすると、ここぞ好機到来と、姚興に決戦を挑んだ。姚興は父の鉾先を避けた。父は姚興との戦いを求めて行軍を続けた。不運にも日照りが父を襲った。父の軍は水場を失い、渇きで死ぬ者が三割にも達した。そこに姚興が襲った。馬毛山にて父はついに敗れた。五十二歳だった。氐族の我が苻氏は、たった一人、私だけを残してここに亡んだ。なぜ私だけが残ったのか。私が苻氏の仇を討つために生まれたからだ」

　女の声は誇らしげだ。

「よくわかった」

　俺は小声で言う。この女のことを俺はよくわかってやりたいといっそう思う。俺の言葉に女の腕が反応したように感じられる。

　女は少し間を置いて話を続ける。声は暗く沈む。

「物心ついてからは長安の町に潜み、姚興の命を狙い続けた。しかし、姚興は病気で死んだ。ならばせめて姚泓に一太刀なりともと思っていたのだが、晋の奴らに先に取られた。事は如何ともせず、ただ一つの石礫で終わった」

　女の声が詰まる。女の身体を俺は支える。女は右手で胸を押さえ、口中で何かを念じる。

　兄貴が急に笑う。

「なぜ笑う」

　女は胸から手を離す。兄貴は応えずに笑い続ける。無理に作った奇妙な笑いだ。女を怒らせようとしているのだろう。実際にそうなる。

「笑うのなら私を放せ。薄汚い男どもだ。なんだかんだ言いながら、どうせ二人で慰みものにしようというのだろう。私が女であるから、それが目的なのだろう」

「違う」

　俺が言う。俺は女の手を握っている。女は俺の顔を見る。暗くなっていたから、俺の顔が上気しているのには気付かないだろう。

　兄貴は笑う。今度は軽い笑いだ。

「まあ、俺はそうでも、どうやらこいつは違うようだ。弟はおまえに惚れた」

「俺は惚れてなんかいない」

　俺は女の手を離す。

「惚れたとさっき言ったのは、偉そうに言うそっちの方だろう」

　女は兄貴に向かって言う。

「そうだったろうか」

　兄貴はとぼけた声を出す。俺は女の背を押して言う。

「逃げるのなら逃げろ」

　女は振り返る。遠くにともった灯りに女の眼が光る。女の背を押した俺の手は、なぜかまた女の腕を取ろうとする。

「惚れた女を捨てるな」

　兄貴が言う。

「違う」

　俺は強く否定する。女は動かない。兄貴は女の肩に手を置き、

「行こう。歩きながら話そう」

　と、言う。女は素直に従う。

　兄貴と俺が女をはさんで歩く。兄貴が話し出す。

「おまえの身の上を聞いて、俺たちが黙っているわけにはいかないだろう。俺たちが長安にいるのは、さっきも言ったかも知れんが、家を捨て親を捨てたからだ。俺たちにはわざわざ危険な戦場に身をさらす兵士になって遠くここにまで来る必然性はなかった。親元にいればよかったのだし、親もそれを望んでいた。あいにくと俺も弟も親を嫌って外に飛び出した。弟と言っても本当の兄弟ではない。しかも、こいつの親と俺の親はまるで正反対の人間だ。こいつの親は役人生活に見切りを付けて村に隠遁した。弟はそれを似非隠者だと嫌っている。俺の親は人を斬るくらいの能しかない暴れん坊だったが、太尉殿の近くにいたお陰で柄にもない刺史にまで大出世した。偉くなっても何をしたらいいのかわからず、何の能力もなく、やることは出鱈目だ。妙に士風を気取るみっともない似非君子となった。俺もああなるのかと思うと耐えられない。家を飛び出した。どうだ、俺たちは二人とも、おまえとは違いすぎるだろう。一族や親の仇を討つために命を投げ打って懸命に生きてきたおまえは、俺たちにはまぶしすぎるくらいだ。弟はそれでおまえに惚れたのだろう」

「勝手に俺のことを言うのはやめてくれ」

　女に惚れているなどとどうして何度も言うのか。それに、親を嫌って家を飛び出したとたった一言で言われると、何だか自分がよほど情けない男に思えてくる。

「馬鹿馬鹿しい」

　女は吐き捨てるように言う。寂しい気がする。女の真剣さは俺にも兄貴にもなく、親父にもない。

「惚れたかどうか、自分のことはかえって自分ではわからぬものだ」

　兄貴は明るく笑う。その言葉は、女に思いがけない影響を与える。女は急に大きな吐息を漏らす。

「駄目だ」

　と、つぶやく。その声が、奇妙な連想で親父の深い嘆息を思い出させる。

　女は胸に手を当てる。何度も繰り返す仕草だ。兄貴が言う。

「首から胸に吊り下げているのは何だ」

　女は口中でしばし何かを唱えた後で答える。

「武侯神主様の像だ」

「曽祖父の像を常に首に下げているのか」

「生まれてから一度も離したことがない。これが我が身を守ってくれた」

　女はまた胸を押さえる。

「それはたいしたものだ」

　兄貴は半分呆れたように言う。それで女は少し怒ったようになる。

「聞くがいい。武侯神主様の御子、二代皇帝の苻丕様が姚萇に敗れて地に倒れると、我が父が三代目の皇帝として即位した。祖父と父の仇を討つため、東へ長安へと向かった。このとき我が父は、武侯神主様の像をお作りし、輜輧に載っていただいた。車の上を羽葆青蓋で覆い、黄旗を立て、武賁の士三百で神像をお守りした。父は神像を拝して神主様に告げた。『いま義旅に出るはこの五万の衆。精甲勁兵は功を立てるに足るものです。これよりただちに賊庭に至り、生命を顧みずに憤激突戦し、皇帝陛下の酷冤に酬い、臣子の大恥を雪ごうと存じます。帝の御霊よ、ここに降られて我らの誠を御覧ぜよ』。父が涙ながらに告げる言葉に悲慟せぬ将士はなく、鎧や鉾に『死休』の文字を刻み、死ぬまで戦いをやめぬと誓った。父はこれより戦うごとに敵を破り、長安へと勝ち進んだのだ」

　女は誇らしげな表情で胸を張った。それはかつて見た天師道の信者の顔を思い起こさせ、あの深く嘆息をした親父の記憶へと繋がった。

　　　＊　　　＊　　　＊

　六年前のことだ。俺はまだ十二歳だったが、この年の夏は忘れられず、はっきりと覚えている。

　親父の住む村の近隣一帯において数次にわたる大掛かりな戦があった。戦ったのは盧循を頭目とする天師道の信者と、晋朝の官軍だった。劉裕はこの前の年から鮮卑族の燕国を従えるべく北伐の途にあった。その留守に、盧循が広州から北上し、この年の五月、潯陽の東の桑落洲において晋朝の主力軍を撃破した。盧循は十万の大軍を擁して都建康へと向かった。軍旅にあった劉裕は燕国を滅ぼすことを成功させ、急遽都へと帰還した。都には盧循の大軍に立ち向かうに足る十分な兵力がなかった。朝廷の大官の中には皇帝を連れて都を出ようと言い出す者もいた。劉裕はなけなしの軍勢を一箇所に集中させて盧循軍を迎えた。劉裕は徹底的に抵抗した。盧循は都を奪うのは容易でないと考え、ひとまず潯陽に退却した。七月だった。

　盧循は孫恩の妹婿だ。かつて孫恩は東から都を目指して晋朝の北府軍団に敗れた。そのときに劉裕の活躍が目覚しく、北府軍団の一部隊長であった劉裕の名が一躍天下に知れた。劉裕はその後数々の武勲をあげ、朝廷を牛耳るまでになった。土地と民を支配する貴族、豪族を己の下に置いた。孫恩は海上に逃れて再起を図ったものの、官軍に敗れ続け、ついに自ら身を海に投じて死んだ。数百人の天師道の信者が後を追った。生き残った者たちは盧循を頭目とし、南方の僻地でなお活動を続けた。盧循は天師道の教えによって民衆を再び集め、教えのためなら命を捨てるのも惜しまぬ若者を兵士に仕立て、豪族、貴族の財産を民衆の手へと奪い返し、ついに晋朝そのものを敵として都へと進軍した。盧循の都攻撃は不首尾に終わり、潯陽に退却した。劉裕は盧循追討軍を各地に派遣した。潯陽の周辺で追討軍と反乱軍の戦闘が続いた。この盧循の反乱に呼応して桓石綏が挙兵した。桓温、桓玄の一族の最後の生き残りだった。

　十二月、盧循の水軍と劉裕の水軍が、潯陽東方の長江上で激突した。盧循はこの一戦に全てを賭け、長江は盧循の率いる大船団で埋め尽くされた。数では盧循が圧倒したが、劉裕はそれを火攻めにして大勝利をおさめた。盧循は南方に敗走した。桓石綏も敗死し、桓氏の一族は滅亡した。

　親父が深く嘆いたのはこうしたことが進んでいた九月のはじめだった。幸いにも柴桑の村は戦争の直接の災厄を免れ、田の稲は深く頭を垂れ、刈り取りの時期を間もなく迎えようとしていた。親父は田を見て回り、稲の穂を手に稔り具合を確かめていた。最初のうちは親父は元気に歩いていた。ただ、右足の病がこのころから始まっていたようで、ほんのわずかだけ重そうにしていた。田を巡るうちに、歩みが次第に遅くなり、穂を手にしては、ふうっと苦しげに息を漏らした。親父の様子が変だったので、別の田にいた俺はわざわざ近くまで見に行った。親父は穂を手にしたまま深くうなだれ、顔は暗く沈んでいた。

　親父は俺に気付くと、稲の間を少しばかり歩んだ。背を丸めて数歩進み、また深く吐息を漏した。そんなことを数回繰り返したあげくに、畦の横に崩れるように座り込んだ。俺は親父に近寄った。親父は何かつぶやいた。

　親父の脇に立った。俺の影が親父の膝に落ちると、親父は顔を上げた。目を俺の方に向いていたが、口ではおかしなことをつぶやいていた。

「於陵に行くか。於陵に行くか。於陵に行くか」

　謎のような言葉の繰り返しだった。親父が何を言っているのかわからず、俺は黙って脇に立った。

　親父は俺から目を逸らし、深い吐息を漏らした。しばらくすると、別の言葉をつぶやいた。

「衣食はそのはじめ。衣食はそのはじめ。衣食はそのはじめ」

　何を意味するのか見当がつかなかった。俺に対して言っている様子はなかった。

　俺はとまどったが、親父が急に詩を吟じたりするのはよくあることなので、とりあえずは黙って立ち、様子を見た。親父はしばらく無言で座ったままでいた。やおら足元より一匹の蚯蚓の死骸をつまみ上げた。

「蚯蚓となって操を充たすか。蚯蚓となって操を充たすか。蚯蚓となって操を充たすか」

　親父はそう唱え、蚯蚓を顔の前に掲げた。

「浩然の気はこの虫にも宿るのか。あるいはこれは於陵の仲子その人であるのか」

　親父は蚯蚓を土に投げた。俺を見た。

「夜中に土を出て朝陽に灼かれれば昼を迎えずに死ぬ蚯蚓と、我々はいかほどの差があるのか」

　それは俺に聞かせているようでもあった。親父はもう一度嘆息すると、

「ここに座れ」

　と、言った。俺は親父の隣にしゃがんだ。

「汝輩もよく知るように、大司馬桓温は高士伝を読み、於陵の仲子の条に至ると声を発し、『このような無茶はできぬ』と、書物を投げ捨てた。このことをおまえはどう思うか」

　汝輩と親父は言ったが、俺一人しかいなかった。それに、於陵の仲子は初耳だった。あるいは聞いたことがあったのかも知れないが、覚えがなかった。

「於陵の仲子は知りません」

　正直に答えた。

「まだ教えていなかったとすれば父である私の責任だ。ならば聞け」

　長い話になると覚悟した。

「昔、斉の国に陳仲子という廉士がいた。兄の陳戴は斉の国において高禄を食む者だった。陳仲子は、兄の禄は不義によるとして、兄の家を出て於陵に隠れた。仲子は履を織り、妻が麻を績み、それらを食物に換えてかろうじて暮らしを立てた。あるとき食べる物がなくなり、仲子は目がかすみ耳が聞こえなくなり、路上に腹ばいに倒れた。道の脇に立つ李の木より熟した実が落ち、仲子の顔の脇にころがった。仲子は実を口にすると、力の失せた顎で三度噛みようやく飲み下した。かろうじて目が見え耳が聞こえるようになった。それほどの貧苦に苦しんでいた。あるとき兄の家に帰ってみると、庭で鵞鳥が騒いでいた。斉の高官である兄に取り入ろうとする誰かが贈ったものだ。仲子は『があがあ鳴くこいつは何だ』と眉をひそめた。しばらくして、仲子の母は、痩せ衰えた息子を呼んで羹を馳走した。仲子は母の料理を有難がって食した。そこへ兄が外より戻り、仲子を笑った。『それはこの前おまえががあがあ鳴くとうるさがっていた鳥の肉だ』と言った。仲子は庭に飛び出し、食ったばかりのものを全部吐き出した」

　親父は息を大きく吸って、いつもの調子で詩を吟じた。

　　　高い位の誘いを蔑み　　　　　　　蔑彼結駟

　　　畑に水を注ぐ仕事に甘んじた。　　甘此灌園

「仲子の評判を聞いた楚の王は、四頭立ての馬車に乗る宰相の地位で仲子を招いた。仲子は楚に赴かず、畑に水を注ぐ雇われ仕事でわずかな米を買って暮らした。後の時代に、斉の匡章が孟子に会った際に、我が郷里の誉としてこの仲子を自慢した。孟子は、『路傍の李はかつて盗賊が植えたかも知れず、人より買う米は聖人の子孫が作ったものとは限らない』と匡章を笑った。『母の料理した鵞鳥を、不義によって得たものだと吐き出すのは、孝という大倫を忘れ、己の小さな操を充たそうとするものだ。あくまでも小さな操に拘泥するのなら、乾いた土を食い、地下の水を飲む蚯蚓とならねばならないだろう』。孟子はそう言って、仲子は蚯蚓の操であると全く評価しなかった。はからずも大司馬桓温が書物を投げ捨てたのは孟子の言に通じるではないか」

　親父は俺の裾を引いた。

「おまえは仲子に従うか、孟子に従うか」

　そう尋ねられ、このときに、親父が盧循の招きを受けていたと俺は確信を持った。子ども心にもそういうことはわかるものだ。

　親父は彭沢の令を辞してから、二度と出仕せず、どんな招きにも応じないと決めていた。天下第一の高僧である慧遠に廬山に来ないかと誘われときも、酒がいくらでも飲めるのならとふざけたことを言って断った。盧循が親父に誘いをかけたとすれば、慧遠とのつながりからだっただろう。慧遠は盧循の父と同学で、幼い盧循を見て、「容貌は風素であるが志は不軌であると」と評したという。慧遠と盧循は手紙によって、釈迦の教えと天師道の教えについて問答を交わす間柄だったらしい。孫恩には酷忍な面が多かったが、妹婿の盧循は常に義兄を諫め、多くの者を救った。慧遠は釈迦の教えの前には地上の世界における高下を認めず、朝廷の権威に屈するところがなかった。盧循は直接の武力によって朝廷の権威を破壊しようとした。どこかしら両者には通じるところがあったのだろう。

　盧循からの誘いに親父は幾分かは心を動かしたのだろうか。かつて桓玄の幕下に赴き、劉裕の幕下にも赴いた親父だ。盧循によって新しい世が始まるのを期待したのではないのか。桓玄、劉裕の二人にはどうやら幻滅して親父は村に戻ったようだが、三度目の幻滅は味わいはしないと考えたのか、二度と出仕しないと決めたのを破るまいとしたのか、そのあたりのことはわからぬが、親父は柴桑の村を離れなかった。そういうことが深い溜息をもたらしたのか。

　親父が息子にどの答えを期待しているのかは明らかだった。盧循の誘いに動かず、仲子の蚯蚓の操を親父は貫こうとしている。まして盧循は都を奪えずに退却したのだから、誘いに乗らなくてよかった。そうでなければ、この秋の稲の稔りは見られなかったわけだ。しかし、素直には答えられなかった。

「仲子にしても孟子にしても、人を動かす力においては、死ねば仙堂に登れるとする教えに劣るのではありませんか」

　言い終わった途端、とんでもないことを口走ったと思った。しかし、言ってしまった。

　親父は立ち上がった。

「そんなことを誰に教わった」

　案の定、興奮した。

「皆が言っていることです」

　以前から柴桑のあたりにも天師道の祭酒や鬼吏がしばしば姿を見せていた。盧循が広州から北上するに先立って、天師道の教えを広める者たちが多数各地に送り込まれた。桑落洲で盧循が官軍に大勝した直後には、柴桑の近くで塗炭斎が行われもした。

　祭酒は村人から家を借り、人を集めて天師道の教理を教えた。老子の道徳経を暗誦する。その一字一句に天師道独自の解釈を施す。その解釈は老子から隔たること万里であると、親父は歯牙にもかけなかった。終日続く教えの後に、祭酒は酒肉を振る舞う。教理はどうでもよくてそれが目当てで祭酒の話を聞きにくる者も多かった。祭酒は、天師道の教団に入ればいつでも好きなだけ食べられると人々を勧誘した。

　鬼吏は黄色い頭巾を被って村から村を歩いた。初めての村に到着すると、どんな病も治すと触れて歩き、村中の病人を人の集まりやすい広い場所に呼び寄せて並ばせた。柴桑の村に鬼吏が来たとき、俺は親父に内緒で見物に行った。鬼吏が集めた病人の中に俺の知っている顔があった。一人は、しばらく前に草をむしりの最中に派手に転んで腰が立たなくなった婆さんだった。婆さんは家族の者に担がれて筵の上に転がされた。鬼吏は一人一人の病人に身体のどこが悪いのかを順に尋ねた。聞き終わると、婆さんに向かって、「なぜおまえは腰が立たないのか」と訊いた。「今申した通り草を引いて後ろに転がったのです」と婆さんは言った。「違う。おまえの腰が立たないのは、おまえが犯した罪の償いができていないからだ」。鬼吏は凄まじい形相を作り、「いかなる罪を犯したのだ」と婆さんを怒鳴りつけた。婆さんはその勢いに仰天し、鬼吏を伏し拝んだ。「とんでもありません」。か細い声で言った。鬼吏は怖い顔をますます怖くした。「ならば、おまえの腰は立たないままだ。おまえは間もなく死ぬ。全てはおまえの罪のせいだ」。婆さんはしょげかえった。鬼吏は急にやさしくなり、「病を治したいとは思わぬのか」と尋ねた。婆さんは顔を上げてうなずいた。「どうしたら治るのでしょうか」。「簡単なことだ。この符を上に戴き、犯した罪を告白すればいい」。「私は大それたことは何もしておりません」。婆さんは悲しそうに言った。鬼吏は「隠すのなら治らぬ」と厳しい声で言った。婆さんはしばらく考え、昔々に姑の食事に毒虫を磨って混ぜたと鬼吏に白状した。「どう考えてもこの他に罪はありません」。その婆さんは底意地の悪い欲張りとして近所でも有名で、いくらでも罪がありそうだと俺は思った。鬼吏は家族に命じて、婆さんを地に座らせた。符を額に貼り付け、「天を拝め」と言った。婆さんは手を擦り合わせて天を拝んだ。鬼吏は呪文を唱え、杯から婆さんの頭に水をかけ、婆さんの口にも一滴注いだ。「飲め。飲めば歩けるようになる」。婆さんはごくりと飲んだ。鬼吏が「やっ」と気合を入れ、婆さんの腰を衝いた。婆さんはぴょんと立ち上がり、ひょこひょこと歩いた。

　柴桑の村の近くの田で行われた塗炭斎は見ていない。男は完全な裸体、女は布一枚でわずな部分だけを覆い、身体中に炭を塗る。一枚の田のまわりに香を並べて焚き、真っ黒になった男女が一斉に泥中に入る。男も女もなしに互いに身体をくっつけあいつつ泥まみれとなり、天に向かって己の罪を告白する。天の赦しを請うのだ。それを見に行くのを親父は厳重に禁止し家族の者を監視したので、さすがに俺も見に行けなかった。

　祭酒も鬼吏も、「晋の出鱈目な世は間もなく終わり、誰もが食うに困らず、病もなければ戦もなく、一人の罪人もいない天師道の世が来る」と言い歩いた。「皇帝もいなければ官吏もおらず、豪華な宮殿もなければ巨大な仏寺もなく、誰もがその日に食べられるだけの食物と、その身を包むだけの衣服と、その夜に休むだけの夜具と寝る場所を得る。それ以上のものを求めて貪る者はいない。そうした天師道の世の訪れを妨げる者どもを成敗する兵となれ」と若い男を誘った。戦場での死を恐れる者には、「天師道の世をこの地上に実現するために努め、惜しいことに天師道の世を目の当たりにする前に死んだとしても、何ら嘆くことはない。天師道に命を捧げた者は、天界高くに聳える仙堂の住人となって永遠にそこに生きることができる」。祭酒や鬼吏はそう言った。

　親父は俺の正面に立った。

「皆が言っているのか。だからお前もそう思うのか」

　親父は静かな口調だった。

「この村からだって大勢の者が盧循に従いました」

　俺は興奮して早口で言った。

「おまえはどうなんだ」

　親父の口調はいっそう穏やかだった。俺はその顔を見ずに言った。

「蚯蚓の操を自ら強いるよりは、仙堂に昇ると信じる方がたやすくありませんか」

「おまえはどうなんだ」

　親父はもう一度言った。

「蚯蚓になれと言われていったい誰がなるのですか。孟子でさえ仲子を退けたではありませんか」

　親父はなお穏やかに言葉をかみ締めるように言った。

「たやすいか難いかはおまえの言う通りだ。天師道を説く盧循も虚妄だ。王道を説く孟子も虚妄だ。虚妄であるからこそ信じれば心は金鉄よりも堅くなる。盧循の教えは十万の民を敵の武器の前に立たせ、孟子の言葉は未来永劫君子の心を奮い立たせる。もしも虚妄を疑う者があれば、それはただ蚯蚓となるより他ないではないか」

　親父は深く嘆息した。

　俺はそれで黙ってしまった。今もしその続きがあるのなら、俺は親父に「天の道はあるのか」と聞くだろう。天の道も虚妄だと親父は答えるだろうか。もしもそう答えるとしたら、一体何か一つでも確かなものが残るのだろうか。親父はどう考えるのか。

　いずれにしても親父とは二度と会わぬのだから、どうでもいいことだ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　この女は何を信じているのか。皇帝であった曽祖父を武侯神主と呼ぶ。それこそ虚妄の最たるものではないか。ただの蛮族の長だ。

　しかし、女は一点の疑いもなしに信じているようだ。この顔の輝きは信じている者にのみ生じるものだろう。信じている神は、女にとっては実在するもので、俺があるかどうか時に疑いを挟む天の道よりも遥かに確かなものなのだろう。

　この女の信じる武侯神主は虚妄だと俺は思う。その俺は確かなものを持っていない。その点でこの女に俺は及ばない。郷里を遠く離れて俺は長安にまで来た。それは何のためだったのか。それで何かを得たのか。何もない。俺はただ親父を嫌って家を飛び出し、遠くに行きたいという思いだけで、ここまで来た。何の信念もなく、何の目的もない。それで時に虚しさに襲われもした。不安を兄貴に訴えると、兄貴は「考えるのはよせ」と言った。「考えたって溜息が出るだけだ。孔子だって『終日食らわず、終夜寝ねず、もって思う。益なし』と言っただろう。思う間など作らぬように動くのが最もよいのだ」。兄貴はその通りにしているように見える。だから俺は兄貴に従っている。兄貴の通りにしていると思うと安心できる。俺が抱く虚しさなどはこの女の虚しさに比べてどれほどのものなのか。この点でも俺はこの女に及ばない。及ぶはずがない。この女はこれまで見た誰とも違う。

　女は再び深く嘆息する。

「もう終わった」

　女の顔の輝きは薄れた。

　兄貴は言う。

「終わりはしない。おまえは溜息をついた。溜息をする時間がおまえにはある。終わっていないということだ。溜息をする間があるくらいなら他のことをしたらどうなのか。おまえを統万城に連れて行く。事はそれから始まる」

　兄貴は不思議とうまいことを言う。

「もう何もすることはない」

　女はうめくように言う。

　兄貴はひゅうと口を鳴らす。

「おまえは二十八だと言ったな」

「歳などどうでもいいことだ」

「人生は百年。まだ三分の一にも満たない」

「百年生きる者はいない」

「おまえの父親が殺されたのはいくつだ」

「五十二だ」

「ならまだ二十年以上もある」

「二十八年で石礫一つ。これから二十年があってもそれが何だというのだ。我が苻氏は亡んで戻らない」

「二十年は長い。我が太尉殿が孫恩と会稽に戦い、初めてその名が世に知れたのは三十七歳だ。五十五歳になられたいま長安を手にした。おまえはまだ二十八ではないか」

　兄貴はそう言った。俺の耳に五十二という数字が残った。

　去年、俺が家を出たとき、親父は五十二歳だった。それでまた親父を思い出し、ひょっとしてこの女の言うこと全てが、親父のような作り話ではないかとの疑念がふと生じた。苻堅の曾孫の腕を俺が握っているというのはいかにもあり得そうもない。女は俺たちを騙しているのか。何のために。

　女の話し方は真剣そのものだ。嘘は微塵も混じっていない。親父のようではない。

　　　＊　　　＊　　　＊

　親父は五十二歳で死んだ。俺がそう決めた。

「生があれば必ず死がある。早く終わる者も遅く終わる者もある。全ては天命であり、早く終わる者は命数が縮まったからではなく、長く生きる者は命数が延びたからではない」

　親父はそう言っていた。そのくせ、長命であった栄啓期を慕い、長沮、桀溺と耦耕するのを夢みた。

「大いなる変化に身を任せ、喜びもせず恐れもせず、命が尽きるときには尽きるに任せる。あれこれ慮ることはない」

　親父はそうも言っていた。そのくせ、一日のうちに二度朝はないと早朝より何かしら動いていた。固窮の節を守らねば百世の後に名は伝わらぬと、時には何かに追い立てられるようにもしていた。

　あの日、俺は親父が起きるよりもずっと早くに家を出た。真っ暗だった。

　よく晴れた春の初めの朝だった。空の星が凍りつくほどに冷え込んだ。門を出て五本の柳の下で立ち止まった。柳の細い枝がかすかに見分けられるだけで、家は闇に沈んでいた。

「五柳先生、歳五十二にしてここに死し、梨と栗のみを知る息子、歳十八にしてここを出でて帰らず」

　俺はそう口ずさんだ。柴桑の村での窮屈さ、一生続くと思われたものから、これで免れられる。俺の心は躍った。

　家は二年間に新しくしたものだった。俺が十歳のときに家が焼け、村の南に移った。それから五年をかけて親父は元の場所に家を建て直し、ここに戻った。五本の柳はみごとに大きくなり、親父は五柳先生と自称した。

「何が五柳先生だ」

　俺は柳の根元を蹴った。

「五柳先生は遠く黔婁の弟子であろうか」

　親父はそう言った。もう二度とその声は聞かなくてすむ。

「五柳先生は死んだ」

　おれはつぶやいた。

　親父は五柳先生の短い伝記を書いた。

「五柳先生はどこの人かを知らない。姓も知らず、名も知らない。宅に五本の柳があるをもって号となす。家はあっても小さい。高さ二尺、幅一丈の板を五枚並べた塀の内におさまる。冬の寒風も防げず、夏の日差しも遮れない。着るものはつんつるてん。無数の穴をしばってごまかす。米の篭も酒の瓢もしばしば空である。五柳先生は少しも気にとめない。詩文を作るのを楽しみとして、そこに己の志を示した。世の得失は思案の外に置き、こうして五柳先生は世を去ったのである」

　俺は一人で笑った。

「そうだ、五柳先生は世を去ったのだ。親父はいない。だから俺は自分の思いのままに外に出てよい」

　俺はくるりと向き直った。足先が軟らかいものに触れた。犬だった。柳の下の小屋を住いとする犬の阿黄だ。首だけを外に出して腹ばいに眠っていた阿黄が俺を見上げていた。闇の中でその顔が妙にくっきりと見えた。

「おまえだけには別れを言っておこう」

　小声で言うと、阿黄は這い出して俺の足先に立った。

「おまえが楊生の犬の子孫なら、俺の命をいつかは救ってくれるのか。だが、おまえとはもう会うことはあるまい。楊生の犬の子孫であるとの証明をおまえはできなかった」

　俺は一人で笑った。

　阿黄は親父が拾ってきた。火事で焼けた家の修復が終わったばかりのころだった。生まれてすぐでろくに目も開いていなかった。抱いて連れてきた親父は「楊生が飼っていた犬の仔だ」と息子たちに示した。むろん誰も信じはしなかった。楊生とは親父の作り話に出てくる人物だからだ。

　楊生は酒好きでいつも酔っ払っていた。町からの帰り道、途中の野原で寝込んだ。折りしも冬のこと、野火が起こり、風にあおられた火がまたたくまに楊生の周りを包んだ。楊生が常に連れ歩く犬が、衣服をひっぱり、声を限りに吠えたが、酔いつぶれた楊生は目を覚まそうとしなかった。犬は近くの池へと走り、全身を濡らして駆け戻り、身を震わせて水を振りまいた。犬は幾度も同じことを繰り返し、周囲の枯れ草は水びたしとなり、楊生は焼け死ぬことを免れた。

　親父は「こいつがいればいくら酒を呑んでも安心だ」と、嬉しそうにいつも言っていた。阿黄は賢い犬で、本当に主人の命を救いそうに俺にも思えた。

　阿黄は俺の別れの言葉に軽く吠えて答えた。俺を助ける約束をしてくれたのかも知れない。それでも、家の中の者に気付かれるのを恐れ、阿黄におとなしくするよう手振りで示した。

「お願いだから静かにしてくれ」

　阿黄は素直に脚を折ってしゃがんでくれた。

「ありがとう。おまえは本当にいい犬だ」

　阿黄の脇を抜けた。

「そうだ、俺のことはどうでもいい。親父を助けてやってくれ」

　ふと、阿黄にそう言った。何を俺は言っているのか。親父は死んだと決めたのではないか。そうだ五柳先生は死んだのだ。かわいそうに、阿黄は主人を失った。

　阿黄をもう一度だけ見て、すぐに一目散に走った。もう振り返らない。

　歩き慣れた坂を下った。寒さはすでに感じていなかった。胸の内は叫びたいほどに熱くなっていた。闇の中、道は見えなくてもわかっていた。生まれてからずっと柴桑の村で暮らした。隅々まで俺は知っている。梨の木の下で曲がればいい。

　急に俺は足を止めた。思うまいとしていたものが、心に浮かんだ。母だった。ずっと家を出たかった。母が悲しむと思うとつらく、しかし、家にいて母を見ているのもつらかった。親父に何も言わず従い続ける母を見るのは耐え難いほどに苦しい。だからこそ、家を出てしまいたかった。しかし、俺がいなくなれば母が悲しむのはわかっている。四人の兄は母が生んだ子ではなく、母の息子は俺一人だ。

「忘れろ」

　自分に言い聞かせて走った。こうしなければこの村に一生いなければならなくなる。

「何が黔婁だ」

　親父が書いた五柳先生の伝記をまた思い起こした。

「貧に安んじ、賤を守った者は、古えにおいては黔婁がいた。魯公が粟三千鐘、斉王が黄金百斤で宰相、大臣に迎えようとしたが、黔婁は爵位を栄誉とせず、贈り物に見向きもしなかった。黔婁が死に、曾子が弔うと、窓辺に置かれた遺骸はぼろぼろの衣服を纏うのみで首や手が外に出ていた。千年このかたこのような人を見ない。黔婁の妻は言った。『貧賤に戚戚とせず、富貴に汲汲たらず』。五柳先生はこの人の類なのだろうか」

　思い出しながら俺の腸は煮えくりかえった。

「いい気なものだ」

　黔婁を見習おうがどうしようが親父の勝手だ。しかし、母は黔婁の妻ではない。そうあることを親父に強制させられたのだ。かわいそうに。

　俺は泣きたくなった。

「畜生」

　俺は黔婁の息子ではない。走った。走って村の外に出た。

　家を出て何のあてがあるのか。檀臹の兄貴を頼りと思うだけだ。兄貴がおまえなど知らんと言えばそれまでだ。どうにもならないかも知れない。それでも構わない。むしろそれでいい。五柳先生は死に、俺は家を出た。母を捨てた。そんな者に何かがあると期待してはいけない。

　栄啓期のように長生きをし、長沮、桀溺と耦耕するという、そんな図々しい夢を親父のように俺は見ない。戦の場で顔も見たことない敵に切られ、葬られることなく髑髏を野にさらせばいい。百年か千年の後に、旅人が通りかかり、その髑髏を踏んで言うだろう。

「この髑髏は死を憂えているのか、喜んでいるのか」。

　俺は答えてやる。

「大いなる変化に身を任せているだけだ」

　人には四つの大化があると親父は言っていた。嬰孩、少壮、老耄、死亡だ。生まれですぐの嬰孩は、損なわれるものがなく加えるべきものがなく完全な徳を備えた和の至りである。少壮は血気が溢れ欲が盛んで外物に攻められて徳が衰える。老耄は欲が柔らぎ身体を休め外物に攻められることがなくなり、嬰孩に及ばすといえども少壮とは比べられぬ徳がある。死亡は憩いであり究極に帰る。十八で死ねば、まだ嬰孩を離れること遠くあるまい。和の至りよりさほど遠くに行くことなく死の憩いに入り究極へと帰る。

　泰山に住む栄啓期は鹿の皮を縄で結んで琴を鳴らして歌っていた。

「我はすでに行年九十。貧は士の常である。死は人の終わりである。常のところにいて終わりを待つ。これほどの楽しみがあろうか」。

　終わりを待つのにどうして九十まで生きる必要があるのか。

　長沮と桀溺は世を避け、二人並んで畑を耕していた。孔子は仕えるべき主君を求めて旅をする間に道に迷い、長沮と桀溺の姿を見かけた。弟子の子路を遣わし、渡し場がどこにあるのか尋ねさせた。長沮と桀溺は、「天下の道を知る者が渡し場への道すら知らぬはずがない」と、言った。孔子は二人に背を向け、「鳥獣の類とは一緒になれない」とその場を去った。長沮と桀溺は、「天下は滔滔として流れ変わり、誰もそれを革めることができない。悪を避けて世に善を行おうとするよりは、世を避けて畑に農を行うのがよい」とも言った。

　親父は孔子を先師と仰ぎながらも、長沮と桀溺と並んで畑を耕すのを夢とした。孔子は、稼圃を学びたいと言った弟子の樊須を小人と評した。親父はそんな孔子を、道徳に耽りすぎたと言い、長沮、桀溺の心は千年を隔ててもわかると言った。

　ああ、どれもこれも、柴桑の村の小さな暮らししかできないのを、理屈をつけてあれこれと言い訳しているだけだ。矛盾だらけだ。その上、妻や子も小さなつまらぬ己の世界の中に閉じ込めて終わらせようという。

　俺は全部を捨てた。十八歳で死ねるのなら幸いだと、考えた。

　　　＊　　　＊　　　＊

「死ぬのはいつだってできる」

　兄貴は女に言う。

「そうだ、いつだってできる。だから、生まれた年に、母とともに死んでよかったのだ。あれからの二十八年は虚しく終わった。たった一つの石礫を投げるだけだった」

「同じことを何度も言うな。飽き飽きだ。黙って統万城に行け。統万城を見ればきっと考えが変わる」

「匈奴の奴らが造った城だ。そんなものなど見ても仕方がない」

「統万城のあるじの劉勃勃の父、劉衛辰が鮮卑族に殺されたのはいつだ。おまえの母親が殺されたのと同じころだろう」

「二年の違いだ」

「劉勃勃が父親と一緒に死んでいたらいまの統万城はない。幼い劉勃勃は必死に生き延び、おまえが不倶戴天の敵と思う姚興に偽り仕えて力を蓄え、機を見て匈奴の仲間を集め、姚興に反旗を翻した。姚興と死闘を繰り広げてついに夏国を興し、難攻不落の統万城を築いた。鮮卑族の燕国、羌族の秦国を滅ぼした我が太尉殿が恐れるは、ただ一人、劉勃勃だけだ」

「劉勃勃のようになれと私に言うのか」

「そうするかどうかはおまえが決めることだ。俺は知らない」

「今さら匈奴の真似などできるか」

　女は吐き捨てるように言った。

「匈奴は嫌いか」

「ふん」

　女は鼻を鳴らす。

「俺たちは竜驤将軍に仕えている。竜驤将軍が誰なのかをおまえは知っているだろう。王猛の孫ではないか。王猛はおまえが神と仰ぐ苻堅の宰相だったのではないのか」

「その通りだ」

「王猛は漢人だ。漢人にして氐族の国づくりを助けた。それは苻堅が優れた人物だと見込んでのことではなかったのか」

「むろんだ。我が曽祖父、世祖宣昭皇帝ほど優れた人はこの世にいない。氐、匈奴、羯、鮮卑、羌の五族の違いを超えて一つの国にまとめた」

「立派なものだ」

　兄貴は軽く相槌を打つ。それが少し気に入らなかったのか、女は語気を強める。

「武侯神主様の御苦労がおまえたちごときにわかろうか。氐族の者からは、我が部族よりも匈奴、羯、鮮卑、羌の四族を大事にしすぎると不平不満の声が多数上がった。武侯神主様はそれくらいにしないと五族の垣根は払えないと、耳を貸さなかった。互いに相手を殲滅させるまで手を弛めない戦いが続いてきた中で、武侯神主様のなさり方は並みの人間の理解の及ぶところでなかった。武侯神主様は五族の融和にとどまらず、東南の隅に縮こまった晋の圧政のもとにあえぐ漢族をも救い出して、天下を一つにして平和の世を作ろうと、百万の兵を率いて南に向かった。これほどの理想に燃えた皇帝がいつの時代にあっただろうか」

　女の顔は先程の輝きを取り戻し、すっかり暗くなった中でも美しく光って見える。

「なるほどそうなのだろう」

　兄貴はまた軽く相槌を打つ。それがまた女の気に障ったようだ。

「武侯神主様があれほど可愛がってやったのに、姚萇の奴は裏切り、我が氐族の抹殺を図った。五族が一つとなった国ができたばかりだったのに、またばらばらになり互いに殺し合い憎しみ合うようになった」

「ひどい話だ」

「おまえなんかにわかるものか。二十八年、この胸に抱いてきたこの気持ちが」

「わかれと言われても、まあ、無理というものだな」

　兄貴の言い方は皮肉っぽい。

「もう言うまい。私を放せ」

　女は腕を振る。強いものではなかった。俺は女の手首をとったまま離さない。

「姚萇、姚興をよほど憎んでいたのだろうな」

　兄貴が言う。

「当たり前だ」

「しかし、それはどうだろう、おまえが神と仰ぐ苻堅の心に合致するものなのか。違うのではないか」

「何を言う。姚萇は武侯神主様を害したのだぞ」

「五族が憎み合い滅ぼし合って苻堅は喜ぶのか」

「言うな」

「もう言わない。俺は黙る。だから、おまえも黙って統万城を見に行け」

　兄貴はどうしてここまでこの女に深く関ろうとしているのか。苻登の娘というのは十分に興味ある相手だ。だからなのか。

　それだけではあるまい。兄貴も俺も長安にまでは来た。家を捨ててここまでは来たもののこれから先どうしていいのか何らの目論見もない。劉裕はじきに南に帰るだろう。俺たちは従うことになるのだろうが、南に帰りたいとは少しも思っていない。だからと言ってどうかしたいと思うこともない。とりあえず、さらに北に上って統万城を見るというのは、少々魅力的なことと感じられた。そこにこの女も行く。俺は心高まるものを感じる。兄貴もそんなところなのだろう。

「ふん」

　女は鼻を鳴らす。

「決まったな」

「そうしないと気がすまないのだろう。私にはどうせ他に何もすることがない」

　俺は女の手を握り、そしてゆっくりと離す。

　この女とこれで当分の間は一緒にいられる。女はこれまで俺が見てきたあらゆる人間と違う。親父のように言葉が多くしかし信じるもののない人間とは明らかに違う。母のように何も言わずにただ夫に従っている人間とも明らかに違う。劉裕、王鎮悪のような武将とも違い、大酒呑みの顔延之ともこの兄貴とも違う。この女を俺はもっとよく知り、俺が最もよく女のこと知っていると、女にも思わせてやりたい。兄貴は女を統万城に連れて行くことにうまく成功した。しかし、この女を本当によく知るのは兄貴ではなく俺の方だ。そうでなければならない。

　だが、この女が俺の脇にいるのは何と言っても兄貴のおかげだ。それはもともと、今日も一日ずっと兄貴の機嫌がよかったおかげだ。

「さて、一件落着してみると、どうだ、腹が減らないか」

　と、兄貴が言う。

「もう？」

　あれだけ食っておきながらと、俺は呆れる。

「明日は早い。食っておいた方がいい。おまえはどうだ」

　兄貴は女に聞く。

「いくらかは」

　女は穏やかな口調になっている。

「もう一回、市に行くか」

「兄貴が行くのなら俺も」

「じゃあ、決まりだ」

　三人は並んで歩く。

「名は？」

　女は俺に言う。

「陶佟」

　俺が短く答えると、

「柴桑の隠者、陶淵明の五男だ」

　と、兄貴が言う。

「余計なことを言うな」

　俺は、少し怒ったように言う。兄貴は笑いつつ、女に言う。

「おまえは？」

「淑」

　女はそれだけを言った。

第二回　　桃花源

　岸を挟み亭亭と連なる桃の林が、紅の淡い色と馥郁たる甘い香りで芳華鮮美を極めたのはつかの間のこと、風に誘われる落英の繽紛と渓谷を埋めて春は去り、いつしか萌え出る緑葉に、諸山の木々が扶疏として村々を巡り、衆鳥の欣欣として枝に上下する初夏の頃となった。今しも村を囲む山の上方においては靄が胎動を始め、近く遠くの木立の間から目覚めたばかりの鳥の声が漏れ、下方においては家々の屋根が灰色にぼんやりと浮かび上がる。桃花源の朝を満たすこの穏やかさとはまるで似ずに、木の蔭に立つ俺の心は、抑えようとしても如何ともするなき慄きに震え続ける。

　鶏が処々に鳴くと、靄の流れが次第に早くなり、足元にある数丈の高さの切り岸ははっきりとした土の色を示し、下を固める石垣、その先の竹林、まだ木の芽の開かぬ桑と栗の林圃、さらには細い流れとともに下り行く小径が順次姿を見せ、この村で唯一の飛甍を載せる建物が屋根から壁へとその全体が見えるようになる。葦で葺かれた小門へと飛び石の小径が通じ、家の内より一人の男が現れ出る。

　胸が苦しいほどに鳴る。その衝撃の強さは、違っていてほしいというわずかな願いを打ち砕く。ここからは遠くただ一つの点のようにしか見えず、目がはっきりと見定めたわけではないのだが、もし違っていたならば胸がこれほど激しく動き出すはずはない。桃の花が満開となったころからこの桃花源に滞在していると聞いていた男だ。それが誰であるのか俺はもうわかった。しかしそれでもなお一縷の望みを無理に抱き直し、目を凝らす。

　内より数人の男が出てくる。村の長老たちだ。昨夜より送別の宴が催され、日が間もなく昇るいまが出発の時である。最初に出た男が振り返り、長老たちに腰をかがめて挨拶する。もしかすると背が高すぎるかも知れない。俺はそう思う。あの男は他の者たちに比べて小さくないどころか大きくすらある。その差はわずかではあっても確かにある。俺はほっとしようとして、すぐに自分自身で否定する。ここの人々は誰もが非常に小さい。世間では俺は小さく周囲を見上げていたが、ここでは背が案外高い方だ。とすればあの男も背が高いとは言えない。それに高く尖った頭巾を被っている。それが遠目には男を高く大きく見せる。

　門の脇にしゃがんでいた少年が立ち上がる。長老が手で少年に合図する。少年が村はずれまでの道を案内するのだろう。少年は門をくぐり出て、男が後に従う。あの男が違わないのなら、これからすることになる俺の行為を思い、すでに決心を固めていたはずなのに、ぶるっと身体が震える。

「思うまい」

　俺は自分に言い聞かせる。

　長老たちも門の外に出て、男は道に脇に立ち、人々にもう一度頭を下げる。俺は目を逸らす。気付きたくない。むろん気付いている。遠く小さく、いかにも微妙ではあるが、男の身体はやや傾いている。身をかがめるとその傾きがより確かになる。俺はそれを見まいとし、すでに見ている。

　唇を噛む。誤魔化して何の意味があるのか。俺は男に目を向ける。

　男は手を振り上げる。腕の折れ曲がり具合も、俺の見慣れていたそのままだ。俺は息を詰め、木の幹に腕をからめる。

　男は門の内に向かって手招きする。何か言い、俺の耳に微かな響きが届く。犬の吠え声だ。

　木に支えられて、俺は自分自身を納得させる。

　建物の裏より犬が現れ、すばやく門をくぐって男の脇へと走る。そのすばやい動きでも見誤りはしない。阿黄だ。五本の柳の横に、土を掘り下げて岩と木を組み合わせた小屋を棲家とする阿黄だ。阿黄が駆け寄る相手は一人しかいない。親父だ。

　俺は親父を殺すか、苻淑を捨てるか、二つに一つしかない。苻淑とは片時も離れずにいてすでに二年半。別れられるはずがない。

　　　＊　　　＊　　　＊

　どういうわけで苻淑と常に一緒にいるようになったのか、苻淑と俺との間にあったことは何一つとして忘れてはないが、今もって思い出してみて不思議な気がする。

　統万城から長安への帰途、身を寄せてきたのは苻淑の方だった。その夜に俺がどのような気持ちで苻淑を抱いたのか、苻淑がどのような気持ちで俺に抱かれたのか、そのときから不思議であったし、今も不思議だ。それから起こったことの一つ一つの全てを辿り直すことができる。俺の心の内で何があったのかも思い出せる。ただそれは捉えどころのない漠としたもののようでもある。過ぎ去ったためにおぼろになったのではなく、その時点においてすでにおぼろだったようだ。自分の心も苻淑の存在もわからないままに、いつの間にか苻淑がそばにいてくれなければ生きられなくなった。いや、いつの間にかではない。最初に会ったあの日からすでにそうなっていて、次第にどうしようもないほどにまでなった。兄貴が言ったように、確かに俺はあのときから苻淑に惚れていたのだろう。

　長安から統万城へと向かう間、馬上にあって俺はしばしば親父の句を思い起こしていた。

　　　清らかな音は激しくも私を感じさせ　　　　　　　　　　　　激清音以感余

　　　願うところは、膝を接して言葉を交えること。　　　　　　　願接膝以交言

　　　自分から誓いを結びに行きたくも　　　　　　　　　　　　　欲自往以結誓

　　　礼において過ちを犯すのを恐れる。　　　　　　　　　　　　懼冒礼之為●

　親父は櫃の底に「閑情賦」と題する長い作品を隠していた。そればかりは息子たちに見られるのを好まなかった。俺は盗み見て覚えた。親父がいつ誰を思って書いたのか知らない。誓いを結びたいと願う女は、美しい目が瞬くたびに親父の心にざわめきを与え、かすかな含み笑いが親父の胸を焦がし、瑟を奏でる姿が親父の魂を奪い取った。親父はその女と結ばれることのみを願った。それが俺の母だとは到底思えない。死んだ最初の妻か、それよりも以前の女か、あるいは官職に就いて家を出ている間に出会った女か。とにかく異常なまでの執着を親父に抱かせる女がいた。

　　　願うところは、衣にあっては襟となり　　　　　　　　　　　　願在衣而為領

　　　華の首の余り香を我が身に受けること。　　　　　　　　　　　承華首之余芳

　　　願うところは、裳にあっては帯となり　　　　　　　　　　　　願在裳而為帯

　　　なよなよとした細い身を我が身が締めること。　　　　　　　　束窈窕之繊身

　　　願うところは、髪にあっては油となり　　　　　　　　　　　　願在髪而為沢

　　　撫肩の上の黒い鬢に我が身をなびかせること。　　　　　　　　刷玄鬢於頽肩

　　　願うところは、眉にあっては黛となり　　　　　　　　　　　　願在眉而為黛

　　　目の動きに従って我が身を静かに上がり下がりさせること。　　随瞻視以閑揚

　同様の願いを親父は連ねる。あまりの執拗さに俺は全てを記憶し、統万城に向かう馬上において、俺はこの願いをとめどなく繰り返した。

　　　願うところは、昼にあっては影となり　　　　　　　　　　　　願在昼而為影

　　　常に形により添って我が身が西に東に行くこと。　　　　　　　常依形而西東

　　　願うところは、夜にあっては燭となり　　　　　　　　　　　　願在夜而為燭

　　　玉の顔を二本の柱の間にあって我が身が照らすこと。　　　　　照玉容於両楹

　時に正気に戻り俺は呆れた。この詩の執拗さに呆れ、俺自身に呆れた。どうして苻淑に惚れるなどということがあるのか。あり得るはずのないことだ。明日にも柴桑に帰るのと同じくらいにあり得るはずのないことだと、自分自身に言った。親父を嫌って家を出て二度と戻らぬと決めた。その親父が書いた賦をどうして馬上に思うのか。

　　　願うところが必ず違えるのを思い　　　　　　　　　　　　　　考所願而必違

　　　いたずらに身はさいなまれ心は苦しむ。　　　　　　　　　　　徒契闊以苦心

　親父のこの異様な情欲がどういう結末を迎えたのか知らない。賦を書いたのは邪心を抑えるためだと取って付けたような言い訳を序文に記し、柴桑の村においては男と女の欲念などからはすでに遠く離れたような顔をして暮らしていた。

　俺は親父とは違う。こんな執拗さはない。たとえ苻淑を思うようなことがあっても、それはせいぜい一時の気の乱れだ。万に一つ苻淑に惚れているとしても、苻淑と俺が結ばれるなどおよそあり得ない。冷静になって忘れろ。それで終わりだ。親父の賦を吟じていたずらに情念をかきたてるのは愚かしい限りだ。苻淑は氐族の皇帝の娘だ。年は俺より十歳も上。生まれてから三十年もの間、父祖の復讐のためにのみ生きてきた。親父を嫌って家を出た不届きな若造に惚れたりするはずがない。

　気持ちを静めようとしつつ、目は苻淑の姿を追い、馬を並べれば心が躍り、一人になれば「閑情賦」を吟じ、親父の書いたように「願うところが必ず違えるの思い」悲しんだ。

　統万城は聞きしにまさる驚くべき城だった。人煙の滅多に昇らぬ広大な高原を旅し、うねうねと坂を登れば、果てがどこにあるのか知りようもない平原が広がり、うねうねと坂を下れば、深さがどれほどあるのか知りようもない細い谷が刻まれていた。登り下りを幾度となく繰り返し、北へと遠く進み、この先は草木一本生えぬ沙漠という境界に達し、黄色い土が空を暗く覆う荒涼とした場所に、統万城が幻のように聳え立っていた。

　白色の城壁は高さ十仭、城壁の上に五仭の宮牆が巡らされ、高大な台榭が築かれ、飛閣が相い連なり、全てに細かな彫り物や綺繍が施され、屋根は丹青でもって飾られていた。下に立って城壁を叩くと金属のような音が響いた。土を蒸して作られたというその城壁はいかなる石よりも硬かった。その壁を作るために、工人たちは、錐で突いて一寸でも入ったならば命はないと言われ、作りそこなった工人は殺されて土に捏ね入れられた。

　統万城の主、劉勃勃は際立って大きかった。身の丈八尺五寸、腰のまわりが十囲。堂々たる皇帝の衣服を身に付けて現れ、その巨大さに俺たちは圧倒された。鮮卑族のために父とその配下の兵士全てを殺され、ただ一人高原を逃れ、他族のもとに身を寄せ、本心を隠して羌族の皇帝に仕え、時来ると見るや、舅を殺して独立し、匈奴族の国を再興した一代の凶雄だ。角ばった顔は人並みはずれて大きく、広い宮殿を震わせて大声を轟かせ、見開いた目は獅子のように恐ろしげだった。しかも剣の達人だと聞くから、戦の場に出会えば、いかなる敵といえどもひるむと思えた。

　兄貴は三拝し、劉勃勃の許しを得て、劉裕の書を読み上げた。劉勃勃を兄と敬い、兄弟の盟を結びたいと記してあった。劉勃勃は満足気にうなずき、劉裕への返答を述べるから筆記せよと言った。俺は紙筆を出し、劉勃勃の言葉を記した。劉勃勃は微笑を浮かべつつ大きく聞きやすい声でゆったりと述べ出した。俺は筆を滑らせた。劉勃勃の声はあたかも歌うかのようなほどよい抑揚があり、その心地よさは人を酔わせるものがあった。書き取り終わると、文意は明瞭、表現は華麗、音律の整った見事な文となった。

　劉勃勃は酒宴を開いた。長安を遠く離れた沙漠との境目にどうしてこのようなものがあるのかと思える珍肴が並んだ。楽工の演奏も見事、宮女の踊りも優雅だった。劉裕が敢えて兄と敬するのもなるほどと思えた。ただ宮殿には一種異様な雰囲気があった。夏国の家臣が並び、宦官、楽工、宮女が大勢いても、ただ一人、劉勃勃しかそこにはいないようだった。

「憎悪をもって皇帝となった者は憎悪をもって滅ぼされる」

　酒宴の後で苻淑は言った。

「おまえも憎悪によってのみ生きてきたのではないのか」

　兄貴は相変わらず苻淑に対して皮肉な口をきいた。

「だから、残るのが虚しさだけだった。統万城に来てよくわかった」

　苻淑は胸に手を当てた。その下には武侯神主の像があった。

「ならば連れて来たかいがあった。統万城は幻の城だ。劉勃勃が作った幻だ」

「もしも武侯神主様の思いが挫折していなければこの城は存在していなかった。この城は元来あってはならぬものだ。武侯神主様は五族の間の憎悪を断ち切ろうと、昨日まで激しく戦い合っていた敵も、ひとたび戦が終わった後は憎しみを消し、最も信頼する友として遇した。匈奴族であろうが、羯族であろうが、鮮卑族であろうが、羌族であろうが、漢人であろうが、そこに差は全くなかった。劉勃勃の父も姚萇も、部族の違いなどなしに武侯神主様は高い地位に就けた。武侯神主様は人を憎み人を疑うことがなかった。武侯神主様の世が続いていれば、人の血で固めたようなこの城などはあるはずがなかった」

「姚興、姚泓の命を狙い続けたそなたは劉勃勃とどこが違うのか」

　兄貴は棘のある言い方をした。俺は少々不快だったが、苻淑はあっさり認めた。

「武侯神主様の子孫として大いに恥じ入る」

　苻淑の顔はこのとき少しばかり和らいだ。

　兄貴は無事に使者としての役目を果たし、統万城から引き上げた。長安への帰途、苻淑は穏やかな眼差しを俺に向けるようになり、交わす言葉が増えた。ある日、馬を寄せて孔子の教えについて尋ねてきた。俺は意外な問いにとまどいつつも、聞かれるがままに答えた。苻淑は生真面目に問いを重ね、俺はその都度丁寧に答えた。実はその全てが親父より教わったことだった。苻淑が神と崇める曽祖父の苻堅は、宰相の王猛から儒家の教えを受けて理想の国を作ろうとした。苻淑は復讐のための武術は習っても儒家の教えについて聞く機会を持たなかった。だから知りたいのだと言った。

「道は確かにあるのか」

　苻淑は尋ねた。道は、万物の根底にあると誰しもが考えるものだ。道が万物を生み、道が人の営みを生む。道について聞かずに育った苻淑は素朴に訊いてきた。俺には道があるとの確信がなく、悲しいかな、自分の言葉では答えられず、親父の詩句をもって返答をした。

　　　道でなければ何に依るのか　　　　　匪道曷依

　　　善でなければ何につとめるのか。　　匪善奚敦

　道がないとまでは親父は疑ってはいなかったようだ。道がいまの世において姿を現すとは思っていなかった。道は失われて千年になるというのが、親父の口癖の一つだ。しかし、道の他に依るべきものがあるかと言えば、それはなく、道に裏打ちされる善の他に努めるべきことはないと、親父は言った。俺も道についてそれ以上の考えを持たないことに気付き、苻淑と話しながら道について真剣に考えるようになった。人に教わるのではなく、また単に親父に反発するのではなく、初めて自分でものを考えた。いや自分一人ではなかった。苻淑の力が大きかった。

　ある夜ふけだった。やはり道について二人で話をしていたとき、不意に苻淑が腕を曳いた。俺はそのまま苻淑に抱き寄せられた。俺は苻淑を抱き返した。そのまま俺たちは身体を重ね合わせた。願いはかなった。しかし、苻淑がどうして俺を求めたのか、不思議でならなかった。最初の日に言っていた虚しさを埋めるためなのだろうか。年上の女に弄ばれたのか。それでもよかった。とにかく俺は苻淑という女と一つになれたのを喜んだ。

　長安に着くまでの間、俺たちは時折同衾した。長安に着けばこのようなことは終わってしまうだろうと思い、苻淑を求める気持ちがいっそう激しくなった。しかし、苻淑をこの腕でいくら強く抱いても、苻淑がそこにいないかのような奇妙な感覚にしばしば襲われた。「願うところは必ず違える」との親父の詩句が脳裏をよぎった。実に不思議だった。さらに不思議だったのは、苻淑が一途に俺を思うようになったことだ。長安に戻ると、俺と苻淑はそのまま一緒に住むようになった。兄貴は当然そうなるのを見越していたかのように驚きもしなかった。

　劉裕が長安にとどまっていたのはわずか三ヶ月間だった。兄貴は劉裕に従って南に帰ると決めた。統万城においてその城主を見れば、劉裕が去った後にも長安が長く保てると思うのは無理だ。兄貴は、ここで殺されるのは詰まらない言い、俺もそう思った。しかし南には帰りたくなった。苻淑と別れたくなかった。苻淑を連れて南に帰るということは俺の頭には浮かばなかった。

「戦の場で敵同士となってまみえるか、山奥に隣り合わせに庵を結んで棲むか、そのどちらになるか知らぬが、また会うこともあるだろう」

　兄貴はそう言って長安を去った。その前に、苻淑と俺を竜驤将軍王鎮悪に引き合わせてくれた。王鎮悪は苻淑の話に感嘆し、苻堅を漢の劉邦、魏の曹操を凌ぐ大英雄と持ち上げた。もしも祖父の王猛が長生きをしていれば、天下はつとに一つとなっていただろうと、晋朝の将軍としてはいささか不謹慎なことを言った。

「そうであれば、私は宰相として、そなたの父君に仕えていたでありましょう」

　王鎮悪は恭しく苻淑に礼をした。

「ありもしない昔の話です」

　苻淑は深く頭を下げた。

「そうばかりとは言えますまい」

　王鎮悪は意味ありげに笑い、苻淑に多大の金品を与え、俺には兄貴の代わりとして参軍の地位を授けてくれた。

　劉裕は次男の劉義真を長安に残して名目上の総大将とした。劉義真は十二歳だった。実質的な指揮権は王鎮悪にあった。かつて長安においては、世に晋朝があるのを知らぬ童子も王猛の名は父老より聞かされていた。長安を容易に奪還できたのは、姚泓が愚かであったことが助けとなり、劉裕が晋の朝廷の権力を掌握して強力な北伐軍を組織できたからだったからだろうが、王鎮悪が王猛の孫だったことも極めて大きかった。長安周辺の豪族たちに王猛の名を慕う者は多く、劉裕の去った後、王鎮悪が引き連れて来た軍勢はもとより、在地の漢人たちも、王鎮悪の号令にこそ従う者ばかりで、十二歳の少年の劉義真の命令を聞く者は少なかった。劉義真の取り巻き連中は王鎮悪に二心があるのを疑った。王鎮悪もまた野望を抱かずにはいられなかっただろう。

　劉裕が南に去ると劉勃勃がすぐに動き出した。劉義真の側近たちは王鎮悪の威名がこれ以上高くなるのを嫌い、王鎮悪を長安に留め、劉勃勃を迎え撃つ部隊を別に組織して派遣した。大敗した。側近たちは王鎮悪の怒りを恐れるあまり、王鎮悪を騙し討ちにした。王鎮悪が死んでは長安の命運は尽きたも同然だった。劉勃勃はじりじりと長安に迫り、本格的な攻撃が始まる直前、劉義真は長安を脱出した。

　そのときまでに、苻淑と一緒になって一年が経っていた。相変わらず俺は南には帰りたくなかったが、劉勃勃が来る長安に居残るのはほとんど死を意味した。苻淑が劉勃勃を皇帝として戴く国に居るのを望むはずもなかった。俺たちも劉義真とともに長安を出た。王鎮悪の死後も参軍の官職にあり続けられた俺としては当然ではあった。

　一行は無数の車を曳いた。車に珍宝が山積みされ、宮廷の美女も満載された。宝と女に対する将軍連中の貪欲ぶりを劉義真少年は抑えられなかった。俺は車ごとに符号を付け、どの宝とどの女がどの将軍の持ち物であるのかを帳簿に記録し管理した。実に結構な仕事だった。馬に乗って車の列の中ほどに従い、苻淑も男装して隣に馬を並べた。

　長安を出てから、一行の列はずるずると長くなった。車が足を引っ張った。先頭に立つ劉義真は早く逃げることを思ってずんずん進むのに対し、車はのろのろとしか進めなかった。車の上には重すぎる宝と女があった。急ごしらえで数だけを揃えた車は重さに堪えられず、車輪が壊れ、車軸が折れるものが続出した。大勢の美女がいて夜の規律は乱れた。列の前の方からは速く進めと幾度となく伝令が走ったが、命令通りにできるものではなかった。車を捨てろと騒ぐ者もいた。劉義真にそう忠告する将軍もいたようだが、劉義真は決断できなかった。

「こんな自堕落ぶりでよく姚泓に勝ったものだ」

　苻淑は呆れたように言った。

「いや、竜驤将軍がおられればこうではなかった」

　長安に向かって勝ち進んでいた一年前の秋を思った。兵士は心を一つにしていた。

「仲間内の争いで竜驤将軍を殺してこの様だ。晋朝はこのような姿であるから、百年前に長安、洛陽を失ったのも当然だ」

　その通りだが、苻淑の言葉は少しばかり俺を不愉快にした。俺も晋朝の民、漢人の端くれだ。そうは言っても俺は晋朝の忠臣ではない。なのに、氐族の女にあからさまに漢人の朝廷を謗られると穏やかではいられないようだ。そんな思いが俺の心の底にあるのが俺の胸糞を悪くさせた。苻淑なしでは俺は生きられないのに何を思っているのか。

「このままでは建康に行くなどは到底無理だ。関中からも出られずにあえなく劉勃勃に殺されるだろう」

　俺はわざとらしく笑った。

「一人も青泥を越えられない」

　苻淑は長く伸び切った列を冷ややかに眺めながら言った。

　幸いにも俺と苻淑は殺されずにすんだ。それは阿黄のおかげだったと俺は思っている。

　　　＊　　　＊　　　＊

　阿黄は敏捷な犬だ。その動きを見れば、他の犬と間違えようがない。

　空を飛ぶばかりの勢いで門より飛び出し、軽く挙げた男の腕の下にぴたりと止まる。確かに阿黄だ。とすれば、男が親父であることに微塵の疑いも残らない。

　親父がどこからか阿黄を拾ってきた日、楊生が飼っていた犬の仔だと言った。酒好きの楊生は野火で焼け死ぬところを犬によって救われ、親父によれば、楊生はもう一度犬に助けられた。そのときもやはり酔っ払っていて、夜道を歩いていて空井戸に落ちた。地の底に激突して楊生は正気に戻ったが、見上げても真っ暗で自分がどこにいるのかわからなかった。犬の吠え声が遥か彼方で響いた。夜が明けて人が通りかかった。犬は人と空井戸を交互に見つつ何度も吠えた。人は空井戸をのぞいた。楊生は「望み通りのお礼をしますから助け出してください」と頼んだ。人は犬の知恵に感心し、「この犬をくれたらな」と言った。楊生は「この犬に命を助けられたことがあります。こればっかりはあげられません」と言った。「ならば駄目だ」と、人は行ってしまおうとした。犬が井戸の上から顔を出し楊生に目配せをした。楊生はその意を察し、「犬はあげます」と言った。楊生は引き出され、その人は犬に縄をつけて連れて行った。五日たって、犬は楊生のもとに帰った。

　親父は阿黄がいれば大いに安心だと可愛がった。親父が語る犬にまつわる奇談はこの他にもあった。妻と下男が共謀して毒殺しようとした主人を救った犬、人に化けて博打に興じた犬、身の丈三尺、首が二つの大男となった黒犬。奇談は犬だけではなかった。息子や近隣の人々に、史書に記されたまともな話と同様に、とうてい現実のものとは思えない怪奇譚を親父は聞かせるのを好んだ。蛇、蝶、狐、熊、虎などさまざな動物や、虹、雷、鬼、得体の知れぬ化け物など、ありとあらゆるものが、登場した。「怪力乱神を語らず」という孔子の教えには大いに反したのだ。

　俺は遠く阿黄を見つつ、阿黄が親父を助けるのだろうかと、漠然と思う。親父の命を狙っている俺がそう思うのはおかしなことではある。

　あたりがじんわりと明るくなる。周囲の山々を覆っていた朝霞が薄れ、山の端より日が昇り淡い光があたりに注がれる。男の姿が幾分かはっきりと見える。頭に載るのはいつもの葛の頭巾。親父は阿黄に手を伸ばし二三歩歩む。背がやや丸く、左に杖を持ち、右足をわずかに引きずる。これが親父でない他人ということはあり得ない。

　なぜ親父がいるのか。外の世界からは絶対に入れない桃花源にどうやって親父は来たのか。絶対ではない。俺と苻淑も外から来た。道はどのような山の奥にも通じている。親父がよく言っていた通りだ。その道を辿って人は山の奥に隠れ、同じ道を辿って山の奥から外に出る。この桃花源にも外と通じる道はある。俺と苻淑が辿ったのは摩訶不思議な道だった。もう一度行こうとしてもそれがどこにあるのか知らない。桃花源に来て半年、俺と苻淑が辿ってきた道と似る場所はあれからどこにも見ない。ここから出ようなどとは少しも思っていない。

　先程から門外に立っていた少年に、鬚の長い村の長老が歩み寄る。長老は腕を左右に挙げて少年に語りかける。少年は背に荷を負い、腰に瓢箪を下げる。道案内の少年に、長老が行くべき道を示しているのだろう。少年が左の道を取るなら、俺は山の中腹を巡って北に回る。右の道を取るなら、山の中腹を巡って南に回る。長老は最初に右を指したようだ。南に行くと予想していた。北に行くと俺が普段住んでいる所に通じ、そこは外とは遠いと常々感じていた。

　門の前に立つ人々を見守りつつ後ずさりして上へと登る。樟の大木をくぐった先に山を巡る道がある。

　少年が歩き出す。男が続く。阿黄が脇に従う。数えてみると親父は五十六歳だ。二度とその姿を見ることはあるまいと思ってから丸四年が過ぎた。歩き方がいくらか老けたのかも知れない。四年前の春の初めに俺は家を飛び出し、その年の内に兄貴とともに洛陽に至り、翌年の秋に長安に入った。苻淑と出会って統万城に行き、冬に兄貴は劉裕とともに南に帰り、俺と苻淑は長安に残った。その一年後に俺たちは長安を脱出した。一年近く二人で各地を放浪し、去年の秋この桃花源に来た。四年の間に親父には何があったのか。柴桑の村での変わらぬ日々だけがあったのか。それが親父の最も望むものだ。その親父がどうしてここにいるのか。

　親父の右足が悪くなったのは十年ほど前からだ。いま見るところ大きな変わりはないようだが、地に引きずる歩みはもしかして少しばかり緩慢になっているのかも知れない。それは俺には好都合だ。山の中腹を大きく回り道をしても遠く離されずにすむだろう。木立の間から親父の姿に目を向けつつ、山の道を歩き出す。

　桃花源は山また山だ。その山に四方を囲まれた窪地が所々にあり、人が住む。桃花源の人々は村のある場所を洞と呼ぶ。桃花源にいくつの洞があるのか俺は知らない。俺が見たのは三つだ。この洞と普段俺が住んでいる北隣の洞、そしてこの洞の南東にある玉台の峠から眺めた南側の洞。親父が右の道を取るのならきっとその玉台に行く。親父がよほどゆっくり歩いてくれても、山の中腹を巡る道で玉台まで行くとかなりの遠回りになる。少し足を速める。

　穏やかな天気だ。山になお残っていた薄い霞がゆるやかに動く。空は淡い水の色。長安で見た天高くどこまでも抜ける澄み切った青と異なり、水気が今にも滴り落ちて来そうな潤いがある。日が高さを増すにつれ、日の光はわずかずつ強まってきても、枝を通して林の道に注ぎ込む光はなお柔らかだ。鶯の声がしきりにこだまし、時折、杜鵑が鳴きつつ空を横切る。これほど穏やかな日に俺は何をしているのか。

　苻淑に約束した。俺が一人でやると。俺たちは放浪の日々に多くの酷さを見た。弱い者の小さな生活がいともたやすく無残に破壊された。守るのは限りなく難しい。この桃花源も細い細い一本の糸によってかろうじて天より釣り下げられているように俺には思える。外からわずかに乱すものがあれば糸が切れてしまう。

　俺と苻淑も外部から乱すものだ。本来ここに来てはいけない。俺たちは迷い来て、村の中にかろうじて入れてもらった。一時的でさえ許されないはずが、苻淑の語った身の上が桃花源の人々の心を開かせた。この平和な地に俺たちは半年の間、村人と同様の暮らしをして来られた。しかし、いつまでも桃花源に住んでいられるものではない。桃花源には来てはならないのと同様に、外に出て行くことも誰にも許されていない。ずっと住むのが許されず、外にも出られないのならいつかは殺されるということだ。桃花源を守るためだ。それが嫌なら戦ってでも逃げるしかない。桃花源の人々と争う気はない。ここに来てそうした厳しい事情を知った。ただ時間が経つうちに、桃花源の人々が俺たちを真の仲間として受け入れてくれる可能性が万に一つでもあろうかとほのかな期待も抱いた。その期待が全く叶わぬものでもないかのように、静かに半年の時間が流れた。

　苻淑が一人だったならもしかして問題はなくなっているのだろう。苻淑への疑いは消えている。苻淑は桃花源の人々と完全に溶け込んでいる。苻淑は外の世界とのつながりを持たず、苻淑は桃花源の人間にすでになったと言っていい。俺は違う。桃花源の人々と同じになりたいと熱望しても、桃花源の人々と俺の間に大きな障壁がある。そのことは苻淑も承知し、俺もよくよく承知している。なぜ苻淑はよく俺は駄目なのか。俺が陶淵明の息子だからだ。

　もちろん俺が陶淵明の息子であることは隠している。杜という姓を名乗り、杜弢の子孫だと言っている。それで一応の信頼を得た。もし俺が杜弢の子孫に偽り切れるのなら、桃花源の人間になれるかも知れない。すでに偽り、偽り続ける以外にないとわかっていても、それで潔しとしないものが俺にはある。苻淑はそれをよく承知している。苻淑は俺よりもずっと偽りのできない一途の女だからだ。俺が陶淵明の息子でなければと、親父を憎んでみてもどうにもならない。苻淑の心を思えば、苻淑だけを置いて俺一人が桃花源を出るか死ぬのが良いのかも知れない。そうすれば、苻淑は桃花源で暮らせるようになるだが、俺は苻淑から離れられないし、苻淑には一生の間続く悲しみを負わせることになるだろう。

　昨日だった。暗い表情で一人の村人が訪ねてきた。苻淑はちょうど水を汲みに出ていた。村人は端的に切り出した。

「近頃この桃花源に滞在する男がいる」

　隣の洞に来ているその男の噂は俺も聞いていた。俺たちに続いてまた一人、半年の間に二度続いた事件に、桃花源の人々は不吉なものを感じていた。何やらただごとではない村の雰囲気から、俺たちに遠からず変化が起こるだろうと覚悟しつつあった。

「明日、その男を外に送り出す。男は善良そうであり、我々は手荒な真似は極力避けたい。だが、そなたも承知しているように、外部とは通じぬこの桃花源に紛れ来た者を再び外には帰せない。ましてその男は我らの仇敵とわかった。その男には死をもって報いるしかない。ここに迷い込んだためにその男に降りかかった不幸だ。止む得ぬことだ。我々はそなたたちを同じ目に会わせるのは忍びがたく、今日まで二人がここで暮らすのを許してきた。もしもその男をそなたたちが葬り去ってくれるのなら、我々はそなたたちがここに永久に住むのを許すことにした」

　断れば俺たちにも死が待つのは村人の表情からわかった。俺たちは試されるのだ。俺は引き受けた。苻淑がたまたま不在だったのは何より好都合だった。俺は一人で村人に約束した。「必ずその男を仕留めます」と。

　俺には一つの予感があった。桃の花のころに突如としてこの村に現れた男は、俺たちのときと同様に、まずは歓待された。酒を設け、鶏を殺し、村人が囲み、外の世のありさまを尋ねた。その返答からその人がいかなる人物であるのかを探る。苻淑は何も隠さずに身の上を語り、俺は用心して杜弢の子孫としての物語を告げた。新たに来た男は晋の世の乱れた有様を語り、村人は、俺たちに語ったの同様に、秦の世の乱れを避け、妻子、邑人を率いてこの絶境に逃れ、以来、外人と隔絶して数百年になるという物語をした。この後、噂によれば、男は、商山の四皓を語り、徐無山の田疇を語り、この地を讃え、酒を呑みつつ詩を吟じた。俺は苻淑には黙っていたが、もしや親父ではないかとの疑いを持った。ただ柴桑の村に住む親父がここに来るはずがないと、疑いを強く否定した。親父程度の似非隠者ならどこにでもいるはずだ。

　村人は外から来た男を仇敵だと言った。それが否定した疑いを強め、迷い来た男が親父であることを確からしくした。その男が親父であるのならば、曽祖父陶侃の名を漏らしたのだろう。それで父祖伝来の仇敵を殺す決心を長老たちは固めた。もちろん別の人間だということもある。そうならその男を殺すのにさほどためらう必要はないし、実際に親父であるのなら、その男を殺せば、俺は陶淵明の息子ではもはやなくなる。親殺しの罪を一生負うが、俺は陶家の者ではなくなり、苻淑と桃花源にずっと住める。

　俺は村人から大小二本の剣を受けた。村人が帰り、苻淑が戻ると、俺が一人でやると告げた。苻淑の手を血で汚したくないと言い、親父かも知れないという疑念については何も言わなかった。苻淑が知れば止めるだろう。俺が一人で全てを引き受けなければならない。苻淑が一人ならこんなふうにして村人から試されることもなかったはずだ。

「桃花源との引き換えであっても失ってはならぬものがあります」

　昨日の夕方、俺が家を出るときに苻淑はそう言った。苻淑は賢い女だ。全てを見通しているのかと思い、これが苻淑の顔を見る最後になるかも知れないと思い、しかし、苻淑の顔をまともに見ることができなかった。それ以上に、苻淑を抱きたいとの強い衝動が湧き上がってきてもいた。

　俺は視線を地に落とし、

「簡単に終わるだろう」

　と、言って、見返ることもなく歩き出した。

　俺は苻淑の言葉に反することをしようとしているのかも知れない。そうではあっても、苻淑をこの桃花源に住まわせてやるとの決意を揺るがせてはならない。桃花源ほど苻淑にふさわしい場所はない。桃花源にとっても苻淑は必要なはずだ。俺はそのためなら何でもやる。

　俺は間違いなく親父だとわかったあの男を追っている。この穏やかな風光のもと、父親を殺そうとしているこの男は、きっと醜い顔で鳥の囀りの中を急いでいるに違いない。父親を殺す息子がまともな顔をしているはずがない。

　親父はいま何を思っているのか。桃花源の美しさに魅せられ、立ち去りがたい思いを抱いているのか。桃花源は美しい。これまで俺が見たどの場所よりも美しい。今日のこの朝だけが格別に美しく穏やかなのではなく、秋の日も、冬の日も美しかった。

　この地上にこの桃花源があるのを知って親父は驚いただろう。かねて夢として描いた場所、老子が理想郷として描いたそのままの場所がここにある。老子は言った。国は小さく、民は少ない。舟はあっても乗ることがなく、兵はあっても陳らねることがない。採れるだけの食を旨いとし、作れるだけの服を美とし、そこの住まいに安んじ、そこの風俗を楽しむ。隣に国があるのを望み見ても、鶏や犬の声が聞こえても、民は老死するまで国と国の間を往来しない。

　桃花源の村は小さな洞に一つずつある。洞の四周は山が巡り、洞と洞が互いに通じる峠には樹齢何千年の松柏が聳え、洞と洞が互いに通じる谷には数千本の桃の木が連なる。山より洞を望み見れば豁然として平曠な土地が開け、阡陌が交わり通じ、良田、美池、桑竹を供え、寄り添い建つ屋舎は簡素にして堅牢である。往来し種作する男女の衣は粗末な短褐。老若男女、いつどこで会う人々もみな楽しげである。

　少年に先導されて親父が峠への道を登り始めている。木の間より距離を測れば、少しばかり遅れすぎたようだ。こちらの道はこれから尾根を一つ回る。急がねば同じころに峠に着くのが難しくなる。峠から先の道を俺は知らない。遅れれば親父を見失う恐れがある。

「それでもいいか」

　追いつけば俺は親父を殺すことになるのだからと思う。首を振る。今は考えるのはよそう。桃花源と外との境に至り、まさにその時が来るまでは考えるのは止めておこう。少年と親父と阿黄。その歩みを追うだけで、考えたりするのは止めておきたい。

　　　＊　　　＊　　　＊

　阿黄はどうして青泥に現れたのか。苻淑は見ていないと言う。現れなかったのか。阿黄がいなかったなら俺たちは死んでいたはずだ。それは間違いない。

　長安を脱出して数日が経っていた。青泥を越えられたらひと安心だと人々は言っていた。一行の歩みは遅く、普通ならとうに青泥を越えかなり先にまで行っているころに、まだたっぷり一日分の道程を余していた。その日の夜中までもし進み続ければ越えられるかと期待を持っていた。

「よくもここまで来たものだ」

　苻淑に向かって俺は言った。それさえ無理かと思っていた。

「敵の作戦だ」

　苻淑の目は後方に向いていた。朝日に馬や車の影が長く伸び、その先に淡い朝靄が流れていた。

「何も来ない。劉勃勃は長安占領に専念しているのだろう」

　と、俺は言った。

「これだけの車を逃すはずがない」

「青泥の先には行かせてくれないのか」

「どうせ江南に帰りたくはないのだろう」

　苻淑は俺の顔を見て笑った。

「戻る気はない。ただこんな連中と死ぬのはつまらない」

「この漢人たちは本気で戦う気があるのか」

「俺にもない」

　俺は笑った。速く遠くへ逃げたいと誰もが焦っていた。車は遅々として進まない。車を曳く人夫は喘ぐが車の痛みが激しく次々に壊れる。兵士は遅すぎる歩みに疲労が増し、堆く積まれた重い荷を恨めしげに見上げる。車上に、息もできぬくらいに押し込められた宮女はすでに死ぬ思いを続けている。誰も戦う気力など持ち合わせていない。

「こんな連中になぜ姚泓は敗れたのか」

　苻淑はまた同じようなことを言った。

「竜驤将軍がおられたときはこんなではなかった」

　俺もまた同じようなことを言った。王鎮悪に指揮されて洛陽、長安を目指したときは、この十倍ではきかない速さで進んだ。兵は規律を守り、王鎮悪の号令一つで全軍が手足のように動いた。

「漢人は敵と争うよりも前に仲間同士の諍いをする」

　これもいつもの苻淑の言葉だった。その通りだ。劉勃勃の攻撃を前にして王鎮悪は仲間によって殺された。晋朝が都を建康に移してからの百年、何を為してきたかを見ても、仲間同士の諍いばかりだ。晋朝が敵とすべきは夷狄の王朝のはずだ。洛陽、長安を取り戻すために夷狄と戦ったのは桓温と劉裕の二人だけだ。その二人でさえも真の意図は国土の回復にはなく、己が皇帝に取って代わるための武勲を必要としたからだ。桓温は帝位に就く前に死に、劉裕は息子の劉義真を長安に残して都に帰り帝位を手中にする工作に邁進している。

「だからここで死ぬのはつまらない」

「ここでの死を逃れても大した違いはない」

「竜驤将軍がおられれば違っていただろう」

　俺はまた王鎮悪のことを言った。

「今になってみればそれも虚しさを埋めるものではなかった」

　苻淑の言葉は俺の胸を突いた。この一年の間に苻淑の虚しさを埋めかけたものが二つあった。その一つであった王鎮悪は殺された。もう一つは俺だ。俺は苻淑を虚しいと言わせない何かができたのか。俺は黙って馬首を前に向け、土煙を上げてのろのろと進む一行に従った。

「何一つとして武侯神主様には遠く及ばない」

　苻淑は胸の武侯神主像に手を当ててつぶやいた。

　苻淑は何かというと曽祖父の武侯苻堅を讃える。初めのうちは煩わしく感じた。次第に気にならなくなり、苻堅は実際に偉大な皇帝であったようだと俺も思うようになった。苻堅については苻淑から聞くだけで本当のことを知るわけではない。いかにそれが身贔屓なものであっても、自らは何もできない晋朝の皇帝に比べて劣るはずはないだろう。並みの人間であれば姚泓よりは劣らない。劉裕や劉勃勃と比べて苻堅はずっと立派だろう。とすれば、苻淑の話を相当に割り引いても、苻堅は皇帝の中でかなりよい部類に入る。苻淑が言う通りに、五族の融和を目指したのならば大した理想家だ。何と言っても苻淑の曽祖父だ。どうせなら偉大だったと俺も思いたい。

「だからこそ、こんなところで死ぬのはつまらない」

「だからといって生きて何になるのか」

　一年前にも苻淑はそう言っていた。

　俺は笑いながら言った。

「おまえと二人、畑でも耕して呑気に暮らすか」

　ふざけて言っただけだったが、不意に長安の瓜売りの爺さんを思い出した。爺さんはどこかに逃げただろうか。あの爺さんの隣に住まわせてもらい、苻淑と一生を送れたらいいだろう。全くもってあり得ない話ながら、想像すると俺の心が妙に暖かくなった。しかし、苻淑の返事は厳しかった。

「他にやることがなくても、この虚しさには耐えられない」

　俺は黙った。

　もしもこのまま青泥を越えられたならば命は助かる。しかし、この一行とともに都に帰るのは本意でない。俺が晋朝の下級官吏になっても苻淑の虚しさは余計に募るだろう。俺も本意でない。ここで敵に襲われて死ぬのはもっと本意でない。では、本意と思えるのは何か。

　昼過ぎまで俺たちは一言も口をきかなかった。ごろごろと車輪の響きを耳にしつつ、二人はそれぞれの思いの中にあった。

　長い坂を一つ登り終わり、見晴らしのよくきく地点にさしかかり後方を顧みた。峠に向かって全体としてゆるやかな登りが続いた。山裾が波打ち、時には下りもあった。この先にまだ半日分以上の登りがあり、先頭は二つばかり先の高まりを越えつつあり、最後尾は一つ後ろの高所にさしかかりつつあった。

「来た」

　苻淑が腕を伸ばして言った。一行の最後尾よりもう一つ後方の丘に敵の幡が頭を出した。たちまち我々の間に動揺が走った。

「勝利の勢いに乗る者と、浮き足立って逃げる者と、勝敗の行方は戦うまでもない」

　苻淑が静かに言った。

「車に乗せられた女たちを救うために戦わぬのか」

「大界の営で我が母は姚興と戦った。我が氐族の子どもと女を救うためだった。ここで戦うのは何のためか」

「氐族とそうでない者を区別するのか」

　俺はわざと苻淑に問い掛けた。

「敵が剣を向けて来れば戦わずにはいられない。建康に連れて行かれようが、長安に連れ戻されようが、この女たちの命運に大差ない。どちらにしても男に蹂躙されるだけだ。ここで戦さとなれば巻き込まれて死ぬ者も出るだろう」

「戦わずして見殺しにするのか」

「生きていても虚しく、死ぬのに何の覚悟が要るのか」

　苻淑は馬のわき腹を軽く叩き馬首を前に向けた。俺も向き直り、苻淑の背中に言った。

「生きて何の意味もないのか」

「事は潰えるためにあるのなら」

　苻淑は胸の武侯神主像を押さえつつつぶやいた。俺はすぐ脇に馬を寄せ、鐙に手を置いて言った。

「潰えぬものもあるはずだ」

「そう願わぬものではない。だが潰えてはならぬものが潰える。それを見るために人は生きているかのようだ。虚しさにいかに耐えよというのか」

「そうではない」

「潰えぬ何かがあるのか」

「ある」

「それは何だ」

「道だ」

　俺たちはすでに何度かこのような問答を繰り返していた。道だと言う俺の答えも常に同じで、それはただの苦し紛れであるのを俺は知っていた。苻淑を虚しさから救い出すためだった。俺は道のあるのを必ずしも信じていなかった。しかし、このときは違った。黙って馬上にいた間に考えていた。

「本当に道はあるのか」

　苻淑はいつものように訊いてきた。それまでに俺は老子、荘子、孔子、孟子について知るところ全てを苻淑に教えていた。親父に教わったことを口伝えに教えただけで、俺自身必ずしも得心のいくことではなく、苻淑も納得しなかった。苻淑は相変わらず武侯神主だけを信じた。その武侯神主の夢は潰え、真に正しいものが滅びる理不尽さを苻淑は受け入れることができず、武侯神主の理想はいつか甦らなければならないと思いつつも、現実を前にしてその確信を保ち続けるのは困難で、虚しさばかりが募るのだった。だから道について聞きたがり、しかし道を信じようとはしなかった。教える俺が信じておらず、俺に教えた親父からして本当には信じていなかったように思えるものを、人に信じさせるのには無理があった。まして苻淑は俺より遥かに深く物事を考える聡明な女だ。親父が似非隠者であるのは俺のような息子でさえ見抜けた。その似非隠者からの受け売りで話すだけの俺がいかに似非であるのか、苻淑にわからないはずがなかった。苻淑に向かって道を説くとき、常に親父の詩の一句が思い出された。

　　　君よ、酔人のたわごとを許されよ。　　　　　　　君当恕酔人

　道の伝承について詠んだ長い詩の締めくくりがこれだった。道についてあれこれ私は言いはしたものの、酔中の語として許されよ、と言うのだ。俺はその酔中の語を聞きかじりで苻淑に伝えているだけだ。

　　　伏羲、神農の上古より久しく下るにつれ　　　　　羲農去我久

　　　世を挙げて真に返ることはなくなった。　　　　　挙世少復真

と、その詩は歌い出された。伏羲氏は蛇身人首の帝王、神農氏は牛身人首の帝王。最初の帝王である三皇の二人だ。その上古の時代は道に従った真のままの世であったが、時代とともに遠くに離れた。あるとき、魯の国に孔子が現れ真の世に戻そうと虚しい努力をした。

　　　御苦労にも魯の爺さんが　　　　　　　　　　　　汲汲魯中叟

　　　綻びを縫って淳朴に戻そうとした。　　　　　　　弥縫使其淳

　　　鳳鳥の舞う太平の世は来なかったが　　　　　　　鳳鳥雖不至

　　　礼楽はしばらくの間は新しくなった。　　　　　　礼楽暫得新

その後いろいろあったが、今や道の教えは廃れ、聞いて喜ぶ者もいなくなった。

　　　来る日も来る日も車を走らせてみたが　　　　　　終日馳車走

　　　孔子が渡し場を尋ねた場所には行けなかった。　　不見所問津

真の道のあるところを求めて車を走らせたが孔子の姿はどこにもなかったと親父は歌った。孔子は旅の途中で、畑を耕す長沮と桀溺に渡し場を尋ねた。長沮と桀溺は、渡し場の位置さえ知らぬ者に真の道がどこかわかるのかと言い、孔子は、この二人とは志を同じくしないとその場を去った。親父は渡し場において孔子にまみえ、孔子につくか、長沮、桀溺につくかを定めようとしたのか。親父は長沮と桀溺のように畑を耕す生活に憧憬を抱きつつも、孔子をも慕った。似非隠者でありつつ似非儒者だった。その中途半端さを自ら恥じ、酔っ払いを許せと言わなければならなかったわけだ。

　親父は本当に信じる何かを得ていたのか。仏道を学んだこともあり、廬山の慧遠から山に入るように誘われもした。親父は柴桑の村を出なかった。一つの理由は、慧遠の考えとは根本で一致しなかったからだろう。慧遠は、形は滅んでも神は不滅であると言った。神とはその音が通じる真であり心である。永久不変の真理が人の身の内に宿したのが神であり心である。肉体である形が尽きても神は滅びないと、慧遠は言った。親父は、形と神に加えて影というものを持ち出し、形が尽きれば神も滅びるとの議論を立てて慧遠に反駁した。

「ある」

　俺は苻淑の問いに力強く答えた。俺は親父の口真似をするうちに、親父が考えた跡を何度も辿っていた。慧遠の説を否定すれば、身が尽きるとともに神も滅びる。人生は拠り所のないはかないものと見なさなければならなくなる。だから、

　　　生について考えすぎるのは逆に生を傷つけるだけで　　　　甚念傷吾生

　　　適宜、運に任せていくのがいいのだろう。　　　　　　　　正宜委運去

と、親父はそれ以上に思考するのを避けた。

　ここで、運が道に因るものだとし、天地の間において道は粛々と貫かれていると考えれば、運に任せるのは、すなわち道に全幅の信頼を寄せるということになるのだが、親父にはそうした確信はなかったようだ。むろん、そうであることを願ってはいただろう。

「では道はどこにあるのか」

　苻淑はすぐに訊き返した。

「ここだ」

　俺は答えた。

「こことはどこか」

「こことはここだ」

　俺は胸を指した。苻淑ならそこに武侯神主の像があるが、俺にはない。

「心の内か」

「俺はここだと言い、心とは言っていない。ここはここだ」

「言葉の遊びか」

　音が通じる神、心、真が一つのものとするのも言葉の遊びかも知れない。俺たち漢人には当たり前に思えるこのことも氐族の苻淑には不思議に思えるらしい。

「そうだ、言葉だ。道について俺たちが確かにあると知っているのは道という言葉だ。その言葉を指して俺はここと言った」

「やはり言葉を弄んでいるだけか」

「道について唯一確かなものは道という言葉だ。道という言葉は、道の形だ。道について俺たちが目にし耳にできるのはそれだけだ。道が何かの働きをすると、物の影が地に落ちるように、道の影が天地の間に映る。この世において為されることがら全て、史書に記録されているもの全て、それらが道の影だ。では道とはそもそも何であるのか、その真実のもの、意味するもの、道の道たるものとは何か。それが道の神なるものだ。道があるからには、道の形、道の影、道の神は一体である。俺たちは道の形を確かに見ている。道の影も確かにある。とすれば、道の神もある。だから、俺は言う、道はここにあると」

「こことはどこだ」

「こことはここだ。道の形は道という言葉だ。道という言葉が存在し、道の形、影、神の三者が一体不可分であるからには、道という言葉とともに、道の形、道の神もここにある。つまり、道が道という語によって形を現したとき、そこに影もあり神もある。だから、俺が道と口から発するとき、ここに道の影があり道の神がある」

「わからない」

「残念ながら、おまえにわかってもらえるように話すことが十分にできない。ただ、形、影、神は常に一つであり、道はここにある。それは確かなことだ」

「そうであるとしても、その道に照らしたとき、今の我らは何をすべきと言うのか」

「照らすのではない。道はここにあるのだから、己の為すことが道となる。俺はそう思う」

「では何をしてもいいのか」

「たぶん違うだろう」

「では、これからどうするのか」

「道の為すことをする」

「わからない。それが何なのかを訊いている」

「道はここにある。ここはすなわち己だ。己が為そうと思うところが道の為すことに他ならない」

「己の気ままにしていいのか」

「たぶん違うだろう」

「さっきから同じことを言っているだけだ」

「残念ながら、ここでも、おまえにわかってもらえるようには話せない。ただ、道はここにある。ここにあることを行えばいい。そうとしか言えない」

「それは何なのか」

「おまえはきっとそれを初めから知っている」

「何を？」

「おまえには、道はその胸にある武侯神主として備わっている」

「武侯神主様は殺された。悠久不変の道があるのなら、そうなるべきとは思えない」

「殺された武侯神主が道なのではない。道はここにある」

「わからない」

「道はここにあり、道のままに生きる。それだけだ」

「何をしろと言うのか」

「死ねば、おまえのここはなくなり、道はなくなる」

「生きていろと言う、それだけのことか」

「まずはそうだ」

「それでどうするのか」

「おまえのしようと思うことをすればいい」

「姚泓に石礫を投げて以来、虚しい思いがあるだけで、したいと思うことはない」

「そうなのか」

「あそこで終わっていればよかった」

「本当にそう思うのか」

「虚しさのままに終わらせてしまう痛みに耐えられるほどに私は強くない」

「道はある。道の形、影、神は一つだ。道と口にし、道の為すことを為したときに、道の真がそこにある。道と言ってみろ」

　苻淑は俺の顔を見た。俺の言うことを得心していなかった。

「道だ。信じていなくてもそう言えばいい」

　俺は自分自身の疑念を払うようにそう言った。

　苻淑は唇を動かした。声は出なかったが、それは「道」と唱えていた。

「そうだ、そこに道がある」

　俺は自分の言うことにそのときに確信を持った。

「で、どうするのだ」

　苻淑にまた尋ねた。

「それはおまえが知っている」

　苻淑は唇を噛んだ。心の内でもう一度、「道」と言っているに違いないと俺は思った。

「ここでは死なない」

　苻淑は言った。

「よし、俺もここでは死なない」

「南には行かない」

「よし、俺も南には行かない」

「西に行く」

「よし、俺も西に行く」

「道が道として、言葉だけでなく、道が道として現れるところを求めてここより西に向かう」

「よし、俺もだ」

「蜀だ」

「よし、蜀に行こう」

　長安を出たときから密かに俺もそう思っていた。

　蜀には氐族の流れを汲む李特が建てた国がかつてあった。李特の父祖は天師道の教えを受け、天下大乱の時に遭遇して流民を率いて各地をさまよいつつ、諸勢力との戦いの末に、天師道の教えが理想とする楽土に似せた国を建てた。後に暗主が続き、桓温によって滅ぼされた。その蜀に、李特の遺徳を慕う氐族の遠い子孫が今なおいるのかも知れない。長安を追われ、南の晋国に行くのを欲しなければ、自ずと行き先は西しかない。西には蜀があり、蜀の地には氐族の者に会えるとの期待がある。苻淑が蜀に行くのを望むのは当然だった。俺から蜀に行くのを勧めるのではなく、苻淑自身の口で蜀に行くことを決めてほしかった。しかし、苻淑には俺への配慮があった。俺は南から来た人間だ。口ではいかに南に帰りたくないと言いつつも、そこは故郷だ。参軍の地位もある。

「いつ行く？」

「今夜だ」

　俺は答えた。苻淑の顔が輝いた。一年前に会ってから初めて見るような生き生きとした表情になった。苻淑を抱きしめたくなり、この女とならどこへでも行くと改めて思った。

　一行の先頭を進む劉義真から後方に向かって伝令が走った。敵が攻撃をしかけてきたら最後尾の部隊は踏みとどまれとの命令だった。その間に劉義真は逃げるのだろう。王鎮悪を殺した取り巻き連中は、劉裕の息子だけはどうあっても救い、建康に帰ってから劉裕の歓心いかにを買うかを考えているのだろう。

　敵は一定の距離を保ったままそれ以上には近づこうとしなかった。先頭の劉義真は速力を上げ、車の列は後方に取り残された。敵の目当ては車の上の財宝にあり、それを易々と手にできる夜を待っていた。俺と苻淑には好都合に思えた。

　道は長い下りに入った。山裾を巡る河のほとりへと向かった。河に着くころに夜が来る。河沿いにしばらく進み、左に折れて狭い谷筋に入ると峠に至る。俺は西の方角を見た。河の彼方、山また山の遥か向こうが蜀の地だ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　山また山の桃花源の一帯からすっかり離れ去ろうとする霞を凌いで、西に白い岩壁が聳え立つ。太陽の光を反射する岩壁は玉のように輝く。岩上に攀じ登れば十数人が座して憩える平らな台がある。玉台だ。

　岩壁へとつながる道を見上げる。道案内の少年と親父と阿黄の姿はすでにそこにない。岩壁を登ったのだろう。玉台の名に親父が惹かれないはずがない。もう二度と来ないであろう桃花源において、玉台の脇に来ていながらその上に立つ機会を逃すとは思えない。

　俺はこの春の三月三日に玉台の上に立った。桃花源の盛大な祭りの一つだった。桃花源の全ての洞ごとに藁で編んだ狡の像が用意された。狡は、形が犬に似て、豹の文様を持ち、牛の角が生え、犬のように吼える獣だ。かつて親父がよく広げていた山海経に添えられていた画とそっくりの姿に桃花源では狡の像が作られる。

　親父は怪異なことを好み、雨に降り込められた日などには山海経をよく読んだ。山海経には人の足が及ばぬ地に何があるのかが記される。人界の外はおよそ珍奇な場所と珍奇な生き物に溢れる。俺たち息子もその挿絵を飽かず眺め、摩訶不思議な生き物の数々をあらかた覚えた。山海経に記載される玉台は遥か西方にある。西王母が住み、その傍らに狡という獣が控える。狡が人里に姿を見せるときその国は大いに稔る。それで、桃花源の人々は狡の像を作って玉台にかつぎあげ、西王母にその年の豊作を祈るのである。

　西王母は天地とともに生まれ、その齢を知る者は誰もいない。不老不死、永遠不滅の存在である。親父は、深山幽谷に隠れて不老長生の術を得ようとする道士との交わりもあったが、慧遠の形は尽きても神は不滅だとする説は否定し、不老不死もあり得ないとした。それなのに、西王母には並々でない関心を持っていた。さまざまな怪異を好み、息子たちに山海経を見せ、干宝の記した奇談を読み聞かせ、自ら怪奇な物語を作って語りもした。

　西王母が住む玉台は黄河の源よりもさらに西方にある。黄河は、天帝が下界において住む都である崑崙の丘に染み出す水に始まる。崑崙の丘では、天帝のために陸吾神が農耕を行い、陸吾神が畑に濯ぐ水が黄河の最初の一滴に他ならない。黄河は東へと流れ出て無達山に注ぐ。崑崙の丘からは赤水が東南に流れ出て氾点山に注ぎ、洋水が西南に流れ出て醜塗山に注ぎ、黒水が西に流れ出て大杅山に注ぐ。黒水の流れに沿って西へ行くこと三百七十里で楽游山があり、四百里で流沙があり、二百里で臝母山があり、さらに三百五十里で玉台がある。

　玉台に住む西王母にまみえた人間は穆天子ただ一人だ。穆天子は不老長生の術を得ようと、八頭の駿馬の曳く車に載って西へ西へと旅し、玉台にほど近い瑶池において西王母と会った。西王母の姿は人のようでありながらも、豹の尾、虎の歯を持ち、蓬の髪に玉の簪を載せた。人のように話すのではなく、天と地を震わせる声でよく嘯いた。

　いましも不意に岩壁の上に声が起こる。微かに聞こえるのは、穆天子に向かって西王母が歌った句だ。

　　　白雲は天にあり　　　白雲在天

　　　道は遥かに遠い。　　道里悠遠

　四年ぶりに聞く親父の声だ。独特の吟じ方は少しも変わらない。詩は短く終る。上は静かになり、岩壁の下に寄って耳を澄ませてみるが、それっきり声は聞こえない。親父はかつて俺たち息子に対して行ったのと同じように、詩を吟じ終わると顎の髯をしごき、例えば西王母にまつわる何かの話を道案内の少年にしているのだろうか。

　俺は自分を笑う。耳を澄ませて何をしているのだ。親父の話を聞きたいのか。そんなはずはない。西王母の話など十二分に知っている。今さら聞くまでもない。西王母は三千年に一度だけ実をつける仙桃を育て、実を食べれば不老長寿が得られる。穆天子は仙桃の実が得られず、西王母に「死ぬことがなければまたここに来るがよい。そのときにこそ不老長生の術を授けよう」と、言われた。果たされ難い約束だった。西王母に再び会うには不死でなければならず、西王母に再び会えば不死となれる。穆天子は再び玉台を訪ねられなかった。「一度でも西王母に会えたのなら幸いではないか。穆天子を載せて崑崙山へと走った八駿馬が今はないのを恨むばかりだ」と、親父は言っていた。不老長生を親父は願っていたのか。不変にして不滅なもの、その存在を親父は信じなかったはずだ。生あるものは必ず滅び、悠久の山河といえども時とともに改まるのを免れない。その中にあって、ただ一人だけ老いることなく滅することを許されぬ西王母はいかなる思いを持つのか。「また来るがよいと西王母が言った相手の穆天子が決して来れぬのを誰よりもよく知っていたのは西王母だ。虚しい言葉であるのを知りつつあえて穆天子に言ったのは、その言葉の虚しさで自らの心を苦しめるためだったのか」。親父はそんなことも言っていた。

　玉台の上に今あって、親父は同じようなことを道案内の少年に向かって言っているのだろうか。不老長生は望むべくもない。不老長生に憧れずにいるのは人として難しい。世から完全に隔絶されて隠れ棲むのは人として望むべくもない。隠者となる憧れを持つ者が一人として存在しない世が来るのは望むべくもない。同じ一人が永久に行き続けることは、西王母以外にはいかなる帝王にも許されていない。世から完全に隔絶されて隠れ棲むこともいかなる人にも許されない。人は年々代わり、草木は年々代わり、山河の姿も変わる。桃花源の有する佇まいはほとんど不変であり、ほとんど老いることがない。桃花源の外は常に変わる。今日とほとんど変わらぬ日は後には二度と来ない。だから親父は桃花源に強い憧れを持っただろう。玉台に住む西王母が不変であるように、玉台のある桃花源は不変であり得るのか。人は不老長生になれない。桃花源も永久不変ではあり得ない。西王母に会った穆天子は二度と玉台に戻れなかった。桃花源に来た親父は二度とここには戻れない。戻れないどころかここから出ることすらできない。俺のために。

　親父は何をいま語っているのか。俺は、岩壁に手をかけて登り始める。足の病がありながら親父はよくここを登ったものだ。二度とは来れぬとの思いが、親父を駆り立てたのか。桃花源の若者は狡の大きな像を皆で担いでここを登る。壁を登り切る前に、俺は細心の注意を払う。親父も少年も阿黄も、そこにいる気配がないのをよくよく確かめ、そろりそろりと首を伸ばす。

　玉台の上には何もない。親父はすでに去った。腕に力を込め壁の上へと身を乗り出す。ぐるりと見回す。玉台から南に連なる山並みが目に入る。次第に高くなりゆく山々の先にひときわ高く控えるのは槐江山だ。玉台で道は二つに分かれる。西の洞に下りるか、南に槐江山に続く山を登るかだ。西の下りの道に親父の姿はない。とすれば登ったのだろう。南の道は木々に覆われて見通しがきかない。槐江山の名も親父の心を誘うだろう。

　山海経によれば、槐江山は崑崙山の東にある。兵時の水が発して北流し泑水に注ぐ。山中に巨大な蝦蟇である羸母が棲み、石青、雄黄、琅玕、黄金などの玉石鉱物を産し、山の南に丹粟が多く生じる。山上は天帝の園圃で英招神が管轄する。英招神は人面馬身、虎の文様があり、鳥の翼を持つ。山海経の絵を眺めて過ごした雨の日、夕方になって晴れ上がり、田に出た親父は畦で鳴く蛙を指差し、「あれは槐江山の羸母と同じ声だ」と、息子たちに言った。

　今も道案内の少年にそんなことを話しているのだろうか。俺は足音をあまり立てぬようにと気を払いつつ南への道を追う。親父が語っている声が聞こえないかと耳を澄まし、「馬鹿な」と首を振る。俺は親父を嫌って家を出たのだ。二度と親父とは会わぬと決めたのだ。まして俺はその親父をこれから殺そうとしている。どうしてその俺が親父の声を聞こうとするのか。

　俺は腰に下げた剣を叩く。これで親父を殺す。それ以外に何があるのか。俺はまがりなりにも戦場で戦ってきた男だ。ひと振りで簡単に決着がつく。若い二十二歳の兵士の剣に、足の悪い五十六歳の似非隠者の杖がかなうはずがない。もしも面倒があるとすれば阿黄だ。阿黄も切るのか。青泥で俺を助けてくれたのは阿黄であるのに、その犬を俺は切るのか。

　　　＊　　　＊　　　＊

　俺は剣を握り締め、同じ瞬間に苻淑が囁いた。

「来た」

　予想していた通りの夜だった。闇の向こうから不気味な音が迫った。馬が土を踏む音か、武具が触れ合う音か、馬の嘶きか、人のおめき声か、全てが混じりあい、大風に森が動くような、大水に山が崩れるような音であり、波のようにひたひたと近づいてきた。

　暗くなっても休むことなく俺たちは進んでいた。車を曳く人夫の疲労は限界に達した。馬も疲れ切った。あえぎつつ河べりへと坂を下った。振り返れば、敵の松明の火が赤々と丘の上に燃えていた。河の脇にまで来たとき、敵の動きが急に変わった。いよいよだった。

「敵だ」

　誰かが叫んだのを合図に、人夫たちが一斉に散り、林の中へと駆け込んだ。

「行こう」

　苻淑が俺の腕を取った。俺たちの行き先は決まっていた。蜀だ。

　先頭の劉義真たちはすでに河と分かれて峠に続く谷間の道に入っただろう。谷の入り口は狭い。河のままに行くと瀑布に当たる。袋小路のようなこの場所を選んで敵は襲撃をかけた。ここに追い詰めれば、車は放り出され、やすやすと手にできる。

　俺たちは馬首を反転させた。敵の囲みを破り、河を渡って逃げる。それに以外になかった。苻淑は槍を持ち、俺は剣を持った。最初に行き会う敵の第一撃を破りさえすれば、あとはどうにかなるだろう。敵の狙いは車上の財宝にある。闇にまぎれて逃げおおせると、俺たちは考えた。思慮深い人間の選ぶ手とは言えぬが、後ろから追われ逃げ場を失って惨めな羽目に陥るよりはましだ。

「逃げるな。戦え」

　俺は叫んだ。人々は敵に背を向けて走った。真っ先に逃げた人夫に続いて兵士が逃げた。止まった車から女が飛び出した。それらを掻き分け俺たちは敵が来る方へと向かった。

「返せ。戦え」

　俺は叫び、その実、俺たちこそは逃げようとしていた。

　敵の松明が火の奔流のように前から流れてきた。戦いが始まった。あえて踏みとどまった者か、逃げ遅れた者か、剣と剣がぶつかり、叫び声が聞こえた。その中へと突っ込むのはさすがに勇気が必要だった。松明の流れの左側は暗い。そこに河があった。ばらばらと木が立ち、その下が切り立った崖となり、流れがその下を洗った。

　馬は前方の火に目を眩まされ、足をよろめかせつつも我武者羅に進んだ。休みなしの行程で疲労し切り、本来ならもう動けないだろうが、燃える火に興奮し息荒く猛然と走ってくれた。わずかな味方が抵抗をしていた。

「こちらを引き受けた」

　俺は大声を張り上げ、馬を左側に進めた。

「崖があるぞ。気をつけろ」

　誰かが応じた。

　苻淑は槍を、俺は剣を水平に構え、ぐいと手綱を引いた。俺は腕に覚えがあまりなく、腕の確かな苻淑が自ずと前となった。闇に敵の姿があった。矢が流れた。

「あれを撃つ」

　苻淑が槍を突き出して走った。闇より敵が現れ、横から苻淑の肩先へと敵の剣が光った。馬を躍らせ、脇から俺の剣を当てた。火花が散った。苻淑は槍先の向きを変えた。鈍い音がし、敵は落馬した。俺は左から右に回った。前から来る敵の前に剣を突き出した。敵がよけようとしたところへ、横合いから苻淑の槍が走った。敵は喉笛を切られ、叫び声を上げる間もなく倒れた。

　正面から敵の一団が俺たちに迫った。

「進め」

　苻淑が叫んだ。後ろからも敵の気配があった。振り向くと、すぐそこにいた。俺は大声を発し、敵をひきつけて剣を振り下ろした。敵は斜めに走った。苻淑は前の敵を払い、さらに俺の脇を駆け抜けようとした敵を槍で突いた。敵は泥の流れのように押し寄せてきた。

「進め」

　苻淑がまたも叫んだ。俺は馬の首を左に向けた。敵が右手から来た。防ぎ切れそうになかった。苻淑が前に走り、俺は追った。敵の矛先をかろうじてかわした。前で苻淑の馬が倒れた。苻淑の身体が放り出された。敵の槍が俺の肩をかすめた。馬から飛び降り、馬の脇に身を隠した。敵の槍が馬の胴を貫いた。俺は走った。河の音が聞えた。

「飛ぼう」

　起き上がった苻淑が言った。馬の蹄の音が後ろに響いた。地に屈んだ。矢が走った。木の根に掴まり、身を幹の向こう側へと滑らせた。遥か下に白い筋が見えたような気がした。考えている間はなかった。苻淑が先に飛び、俺も続いた。

　足先が枝にひっかかった。身体が前のめりになり、激しく背中を打った。空を切る音が走った。矢がかすめた。身を回して腹ばいになった。矢が背の上を走った。

「どこだ」

　俺は小声で言った。

「早く、降りて」

　返事は下方にあった。ずるずると滑り降りた。矢がまた降った。

「飛んで」

　苻淑が言った。矢がまた来た。

「うおっ」

　俺は叫び声を上げた。同時に、腕に力を入れて崖から身を離した。さほどの高さはなかった。足が草を踏んだ。

「当たった？」

　苻淑のささやきがすぐ近くにした。

「死んだとみせかけてやった」

「よかった」

「おまえは」

「平気だ」

　俺の叫び声がきいたのか、矢はそれで終わった。

「渡ろう」

　苻淑が言った。草の先に水音があった。ざわざわと波立っていた。かなり流れが速そうに聞こえた。明るい間に遠望したときも水量豊かな広い河だと思った。

　手足でさぐると、俺たちが立つのは崖の下のわずかな隙間だった。そこだけに草が生えていた。

「かなり深そうだ」

　手を伸ばしても水面には届かず、水の上を走る風がひんやりと冷たかった。

「渡ろう」

　苻淑がまた言った。もともと河を渡るつもりでいた。馬の背ならば立つのではないかと俺は期待を持っていた。

「泳げるのか」

「水に入ったことはない」

　思っていた通りの答えだった。北方の人間は自在に馬を乗りこなすが川で泳ぐことがない。南方の俺は兄弟で川遊びをよくしていたから泳ぎを知っている。それでも、泳げぬ苻淑を連れて闇の河を渡る自信はなかった。

「ではどうするか」

　俺は独り言のように言った。

「渡るしかない」

　苻淑が言った。そうだ、渡るしかない。河はぼんやりと白い帯として見えるか見えないかで、対岸がどこにあるのか見当がつかない。無闇に水に入れば下流へと流される。河の屈曲が見えれば、どこに浅瀬があるのか判断がつこうが、崖の下の深い淵で渦巻く流れに足をとられたらそれまでだ。

「明るくなるまで待つか」

「いや、渡ろう」

　苻淑は水の怖さを知らない。

「手を離すな」

　俺は苻淑の腕を握り、足先をずるずると下ろしてみた。速い流れだ。靴を通して冷たさが伝わり、ぐいと水底に引き込まれるような感じがした。

「難しい」

　俺は言った。

「朝になったら敵が逃がしてくれるのか。剣も槍もない。どうやって戦う」

　俺たちは幸運にも、崖の縁に生えた木が支えるごく狭い土の上に落ちた。他の場所だったら、いきなり深い水にはまっていただろう。下は崖をえぐる速い流れだ。河を渡るには、崖にへばりついて浅瀬のある場所を求めないとならない。それが右なのか左なのか見当がつかない。

「無理だ」

「渡れないのか」

「とにかく少しでも明るくなってくれなければ」

「待つとどうなるのか」

「わからない」

　俺の言葉に苻淑が大きく嘆息した。俺は苻淑の肩に腕を回し身体を寄せた。

「おまえと一緒なら、どこで死のうが構わない」

　苻淑は答えなかった。そのようなことを喜ぶ女ではない。俺も喜ばせるために言ったのではなく、本心を口にしただけだ。俺の人生がこうした形で終わるのはなかなかにふさわしいことだ。

　闇の中に苻淑の身体のぬくもりを感じた。苻淑は黙り、強く引き寄せておかないと遠くにいなくなってしまうような感覚にふと襲われた。苻淑と一緒になってから、時折、似たような感覚があった。苻淑がすぐ近くにいるのに、苻淑はそこにはいないかのように思えるのだった。裸で抱き合っているときでも、肉体同士は密着しているのに、苻淑がそこにはいないかのように思われた。肌と肌が触れ合っているのが確かでも、そんな感じがした。この崖下でも、そうした不思議な感覚になり、どうしたら胸の不安を拭いされるのかと思っていたときに、苻淑はゆっくりと俺の腕を肩からはずした。

「何か手はないか」

　苻淑は一途だ。苻淑は蜀に行くと決めた。その決心を促したのは俺だ。その俺が苻淑と二人でここで死ぬことを考えていた。苻淑のために河を渡る、ここで死んではならないと、自分に言い聞かせた。しかし、崖の上には敵が充満し、下は深い淵だ。何も見えない闇の中でどんな手段があるのか。

「夜明けまで待とう」

　どう考えてもそれしかなかった。

「夜が明ければいいことがあるのか」

「河の様子が見える」

「敵も同じだ。敵に見られない闇こそ我らの味方ではないか」

「しかし」

　その先の言葉はなかった。

　再び俺たちは沈黙した。闇に川音が響き、上方には人馬の行き来する音が続いた。見上げると崖に生える木々が時折赤く浮かび上がった。

　どうすることもできぬままに時間が経ち、苻淑はいっそう遠く不確かな存在になって行くかのように感じられた。何とかしなければならないと焦りつつ、何の知恵もなかった。押し黙ったまま思考は同じところを巡り、上では戦が続き、それも次第に自分とは関わりのない遠いよその出来事であるかのように感じられていった。そればかりか、崖下の縁に座っていることにすら無感覚となり、俺の意識は現実から離れ、奇妙な一つの物語の中へと入り込んだ。親父が語っていた。

　晋朝が洛陽を失った永嘉五（三一一）年のことだった。各地に夷狄の兵や、悪さをする賊軍が満ち溢れた。高平の町でも土塁を築いて賊の来襲に備えた。山中に火が起こった。夜空に十余丈の高さの炎が立ち上り、ごうごうと音を立てて山が燃えた。人馬の声、鎧の音が響いた。賊に違いないと、高平の土塁から騎馬武者が繰り出された。山裾に向かうと、火の粉が激しく降りかかり、鎧にも馬のたてがみにも火がつくほどだった。兵士は火に追われて逃げ帰った。翌朝になって火がおさまり、恐る恐る山中を検分すると、火の燃えた痕跡はどこにもなく、ただ百個ばかりの髑髏がころがっていた。

「苻淑」

　と、俺は小声で呼んだ。苻淑は黙ったままでいたが、苻淑が確かにすぐ近くにいるとの感覚を俺は取り戻した。そのまま独り言のようにこの話を苻淑に語った。

「それで？」

　話が終わると、苻淑はぽつりと言った。

「いや、これで終わりだ」

「髑髏は何？」

「さて、何だろうか。たぶん明日になったら、上の騒ぎもおさまり、劉勃勃の兵士たちはみな髑髏になっているのかも知れない」

　俺はかすかに笑った。

「死が最も相応しい劉勃勃のような者は、決して地にころがる髑髏になったりはしない」

　苻淑が言ったことから劉勃勃の異様な宮殿の雰囲気が思い出され、親父から聞いた別の話が頭に浮かんだ。

　晋の大司馬桓温の物語だ。桓温が北伐を成功させいよいよ帝位を奪う決意を固めつつあったときだ。ある尼僧が桓温の屋敷に逗留した。尼僧は常の人を超えた風体をしていた。いつもひどく長い時間をかけて入浴し、桓温は不審に思って、こっそり覗き見た。尼僧が着物を脱ぐと、見掛けは百歳の老婆のようでありながら、その裸体は十四五の娘のように美しかった。桓温は目を細めて白い肌を見つめた。尼僧は剣を手にした。いきなり自分の腹に突き立てた。切っ先を横に引き、真一文字に切り裂いた。両手で腹中を探り出し、赤く長い腸が湯場いっぱいに広がった。尼僧は剣を持ち直し、今度はえいとばかりに己の首を切り落とした。首は嬉しそうに笑った。剣は尼僧の手を離れ、手と足を細かく刻んだ。桓温は恐ろしくなり部屋に駆け戻った。しばらくして、尼僧は浴室より出た。元に姿のままだった。青冷めた表情の桓温に向かって尼僧は微笑み、「天子に代わろうとする者はあのようになる」と、言った。間もなく桓温は皇帝にはなれないままに死んだ。

「尼僧はどこの誰？」

　苻淑は俺に訊いた。

「さて、誰だろうか」

「姚萇こそ切り刻まれるべきだった。あるいは劉勃勃もだ。尼僧はどこにもいない。刻まれるべき者は見逃される」

「そうだな」

「とすれば、道もないのか」

「違う。道はこんな物語とは違う。確かにある」

「大きな悪事をした者が皇帝となり、名もない善良な民が髑髏となって野に積まれ、河に浮いて流される。それが道の為すことなのか」

　それで俺はまた一つの話を思い出した。

　桓温が死んだ後の一時期に晋朝の西府軍を手にした殷仲堪の物語だ。殷仲堪が若くまだ官に就く前のことだった。夢に一人の男が現れた。「私の棺が今長江を流れております。明日この土地に到着します。棺を高燥の地に葬っていただければ御恩は決して忘れません」。翌日、殷仲堪は従者を連れて川のほとりに出た。水の流れを眺めていると、ゆらゆらと一つの棺が流れ来て、目の前に止まった。殷仲堪はそれを引き上げさせた。車に載せ、丘の上に運び、酒食を供えて祭った。その夜、先の男が夢に現れ、殷仲堪に礼を述べた。

「それだけ？　後にその男が殷仲堪の難を救ったとかはないのか」

「桓温の息子の桓玄は殷仲堪の庇護を受けて成長した。桓玄は殷仲堪を殺して西府軍を己のものとした。そのときに殷仲堪を助けた鬼などはいなかった。要するのに殷仲堪は普通の善人だったようだ。善人であれば人を葬るのは当然だ」

「死んでしまえば、野に晒されようが、水に浮こうが、地に埋もれようが、同じようなものだ。生きて安楽でいられず、死んで安楽でいられず、それでいいではないか」

　俺は別の話を語った。

　馮述という役人が休暇で村に帰りつつあった。馬に乗る馮述に、前方から縄と杖を手にした四人の男が近寄ってきた。盗賊であろうかと、馮述は馬に鞭を当てて逃げようとした。馬は動かず、足で蹴っても動かなかった。四人の男はたちまち馮述を囲み、馬の足に手を掛け、ぐいと肩の上に担ぎ上げた。川のほとりへと運んで行った。「川を渡りたいか」と四人の男は言った。「川は深さが知れず、舟もなく、渡れるはずがない。私を殺すつもりだろう」。馮述は気丈にも言った。四人の男は「連れて行くところがある」と、馬の足を担いだままざぶりと川に入った。馮述は水の流れる音を下方に聞いたが、川がそこにあるような気がしなかった。向こう岸まであと少しのところで、四人の男が「この男は清浄ではないようだ。俺たちは間違えたんだ」と言い出した。馮述は弟が死んでまだ喪が明けていなかった。四人の男が手を離そうものなら川にはまって溺れてしまう。馮述は怖くなり、「違う」と叫び、馬に鞭を当てた。馬は水上を跳ね、岸に飛び移った。

「それで？」

「これで終わりだ」

「四人の男はどうした？　どこに連れて行くつもりだったのか」

「わからない。そのような四人の男がここに来てかついでくれたらいいだろうとは思う」

　空が赤くなった。上流の方で激しく火が燃えた。晋朝の兵が破れたのだろう。多くの者が殺されているのだろう。車に載っていた大勢の女たちはどうなったか。火の勢いは激しさを増し、空の赤さを映して河の姿が黒々と浮かび上がった。それでもなお対岸がどこにあるのかはわからなかった。

　逃げる手段を思案するのを俺は諦めていた。空がこれだけ赤く染まる中で俺たちだけが生き延びられるとは思えなかった。

　親父から聞いた愚にもつかない話を語るのにも倦み、俺は黙った。苻淑も黙った。赤い空を眺めるうちに、長安を脱出してからのここ数日間の疲れが出たのだろう。いつの間にか寝入ってしまったようだった。

「後ろを見ろ」

　耳元に声が響いた。目を開けると、顔の前に犬がいた。

「後ろだ」

　犬が言った。振り返ると、身の丈が三尺、首の二つある男が立っていた。驚いて身を起こすと、黄色い着物の男十人ばかりが前に控えた。

　首が二つの男はにょきにょきと六尺余りにまで伸び上がり、二つの首の下からもう一つ首が生え、目が火のように赤く燃え、歯がむき出しとなり、舌を吐いて、けらけらと笑った。苻淑が懐剣を手にし化け物に切りつけようとした。その剣の先が化け物に届く前に、俺と苻淑はすでに車の上にあった。車は黄色い十人の男に綱を曳かれて進んだ。六尺の鬼が後ろに従った。下に水の音がし、車は少しも揺れることなく河を渡った。

　岸に着いたかと思う間もなく車は消えた。俺と苻淑は河原の石を踏んで立っていた。犬の声があたりを包み、犬に変じた黄色い十人の男が岸辺の林に消えた。六尺の鬼は高らかに笑い、それも犬と変じて一声吼えた。

　阿黄だった。

　　　＊　　　＊　　　＊

　阿黄は親父の後ろについて最後の坂を登り、上からせり出す岩の向こへと消える。岩蔭を抜けてその先に進めば槐江山の山頂となるのだろう。見え隠れに親父を追ってきた俺は、林の外に出て道を急ぐ。

　桃花源の山や川は山海経と符合する名で呼ばれる。槐江山と言うからには、上に平坦な土地があるに違いない。山海経は、槐江山の山頂に天帝の園圃があると記す。ここの槐江山にそれがないはずがない。それに桃花源の中で槐江山が最も高い山だと言われ、崑崙の山々が見えるとも聞く。

　音を立てぬように坂を登る。崩れやすい急な坂では存外それは難しい。たとえ親父には聞こえなくても阿黄が気付くだろう。気が急きながらも慎重に岩の下に到達する。さらに進んでいいものかどうか。岩をくぐったらすぐに山頂に出そうだ。天帝の園圃と呼ばれるにふさわしい平らな場所であるのなら、身を隠すのは難しいだろう。どうするか。

　山頂には行かずに降り口を探ってみるか。岩に手をかけ、身体を伸ばし、足を踏ん張って右側へとそろりと動いてみる。巨大な岩だ。俺の重みくらいではびくともしないだろう。手と足を使い、岩にへばりついて進む。風が顔に当たる。日の翳る山の北側が見える。岩また岩だ。この取り付いている岩よりもさらに大きな岩が折り重なって続く。高く切り立った断崖がある。降り口はなさそうだ。もしもあったとしても、玉台から直接に下ったのと同じ方角になる。そちらには行かないだろう。

　元に戻り、岩の下の窪んだ道に立って、見上げる。日の当たる南の側は、案外緩やかそうだ。岩が割れて階段状になった壁に取り付く。しばらく登ってみると、草の生える斜面になる。ここを辿って山頂に通じそうだ。姿勢を低くして這うように進む。尾根筋に連なる背の低い松の中へ身体をこじ入れる。枝を左右に分けて林の中で少しもがくと、ぽっかりと前に空が広がる。

　足元から下がすっぽりと抉れる。切り立った高い崖の下方に、巨人が手で土を掬い取ったような丸みを帯びた大きな窪地がある。黄色の輝きが目を射る。窪地全体が瑞々しい緑色で覆われ、その中に際立って明るい無数の黄色の点がある。花だ。丹木の花だ。

　足が震え出す。俺は丹木の花を見ている。丹木はしなやかな赤い枝に円い緑の葉を付け、煌く黄色の花を咲かす。五年に一度、五色の実を結び、五味に馨る。実は飴のごとくに甘く、食べれば飢えることがない。黄帝がこの丹木の花を摘んで山の陰に投じると瑾瑜の玉となる。玉は堅く水中に置けば五色の光を発し、天地鬼神の食するものとなる。君子が採って腰に佩びればあらゆる不祥を祓う。その丹木がそこに咲いている。

　窪地を囲むのは高くそそり立つ岩の崖だ。崖の上を縁取る山の稜線はごつごつと鋭く、その中で一番の高いところが槐江山の山頂、天帝の園圃だろう。そこに人影はあるか。俺は松の枝から身を乗り出すように伸び上がる。目を見張る。

　天帝の園圃の向こうに、白く輝く一条の筋がある。崑崙の山々だ。桃花源の中でも最も高い槐江山からのみ見られる崑崙だ。空が少しでも濁れば決して見えず、日が東にあって嶺に光が反射するときだけ白く輝くという。一条と見えた筋は複雑な凹凸を持ち、様々な光を放っている。崑崙山の光気に匹敵するものはこの世にないと言われる。

　これを親父も見ているだろう。俺の胸は弾む。親父と俺は同時にこの絶景を見ている。俺は笑う。それが嬉しいことなのか。馬鹿な。

　視線を転じ、窪地を見下ろす。丹木の林の間からは丹水の流れが発するだろう。丹水は稷沢へと注ぐ。そこには白玉があり、沸々湯々と玉膏が生じ、黄帝がそれを食す。黄帝が玉膏を丹木に灌ぐと丹木は花を咲かせる。山海経の記すところだ。この丹木の花を見て、親父が窪地に降りぬはずはない。窪地の内に丹水の流れがあるのなら、親父は川の流れを辿るだろう。その先がもしかしたら桃花源の外へと通じるのか。

　俺は幾分か緩やかそうな場所を見つけて足を下ろす。今にも崩れそうな岩場だ。ほとんど腹ばいになってずるずると滑る。

　俺が思う通りにはならずに親父が窪地に降りなかったらどうなるか。俺は親父を見失う。槐江山に登り直して親父を探すか。きっと見つからないだろう。親父がたとえいなくても丹水の流れに沿って下ったらどうなるか。稷沢だろうがどこだろうが、川の向く方向に行けばいい。崑崙までも行けるかも知れない。

　それで親父はどうするのか。知らない。俺は親父を殺さない。それで何が悪い。俺は親父を嫌って家を出た。親父を殺すのを躊躇したりはしない。しかし、親父を見失えば別だ。どこに通じるのかもわらかぬ丹水の流れのどこかで俺は行き場を失うだろう。玉膏を見つけられても、黄帝ではない俺は食えない。俺は流れに伏して死ぬ。

　身体が大きく滑り、後ろにのけぞる。逆さになって落ちればここで死ぬ。どこで死んでも同じだ。空を見る。実に青い空だ。いい色だ。こんなところで俺は何をしているのか。岩にへばりついて空の彼方を凝視する。天だ。天の道は遥かなあそこにあるのか。

　違う。道はここにある。俺はそう言っていた。道があるのはここだ。それならここで死ぬのもよいのか。そのように考えながらも手はしっかりと岩を捉える。

　顔の脇を横切るものがある。目の先をかすめ、頭の上へと舞い昇る青い輝き。目を天よりそちらに向ければ鳥だ。蝶のようにゆらゆらと飛び、三本の足をだらんと垂らす。三青鳥だ。西王母のために木の実を拾って集め、話し相手となる鳥だ。

　鳥の姿を追いつつ、ふと苻淑を思う。苻淑はこの三青鳥のように幻の存在なのか。あるいは、かの西王母のように永遠の存在なのか。苻淑はいまもこの桃花源にいるのだろうか。俺はこれまでずっと苻淑と一緒にいたのだろうか。道が道として現れる場所を求めて一緒に旅をしたのは苻淑だったのか。道が道として現れている場所は、まさしくこの桃源郷だと、一緒に喜んだのは苻淑だったのか。苻淑はいまもいるのか。俺の帰りを待っているのか。俺が首尾よく事を終えるのを待っているのか。俺が殺しに行った相手が俺の親父だとは知らずにいるのか。それとも知っているのか。俺が苻淑の言葉に背くと知っているのか。

　俺が陶淵明の息子でなければ、俺たちはもっと早くに落ち着く場所を得ただろう。苻淑が一人であるのならば、桃花源で生きるのに何の障害もなかっただろう。俺が陶淵明の息子でなければよかったのだが、俺が苻淑に出会わなければよかったのだが、その二つとも俺が俺であるが故に避けられず、苻淑を生き難くした。

　　　＊　　　＊　　　＊

「ここも俺たちのいる場所ではない」

　声を潜めてささやいた言葉を苻淑がどのように受け止めたのか気配で感じ取れた。驚くのも当然だ。

　この家のあるじと意気投合したのはつい今し方だった。あるじは秘蔵の酒をあけた。呑めぬ俺に代わって苻淑が杯を重ねた。あるじが意気に感じたのは俺よりも苻淑だった。苻淑に聞き惚れ、苻淑の顔から片時も目を離さなかった。苻淑は美しい女だ。あるじが惹かれていい。そんなことを俺は問題にしない。どこでも苻淑は男を魅了し、勇猛な者ほど苻淑に惚れる。当然だ。苻淑のような女はいない。俺が苻淑に惚れた。苻淑に惚れないようでは真の男でない。苻淑はどんな男にも心を動かさない。苻淑は一つに決めたらわずかでも逸れはしない。何事もだ。苻淑が心を一つに決めた男は俺だ。どれほど武勇に優れる男が苻淑に惚れようが、どれほど智謀に溢れる男が苻淑に惚れようが、苻淑が男として惚れているのは俺だけだ。俺はそれを良く知っている。

「なぜ」

　苻淑が耳元で言い、俺は苻淑の手を取った。最も短い言葉を探した。薄い戸を一枚隔てた向こうにあるじ夫婦が寝る。大きな鼾が響いた。

「姚萇の子孫をおまえは家に入れるか」

「仇？」

「俺はそうは思わぬのだが」

　苻淑の手を強く握った。これでわかってほしかった。

　苻淑はふうっと息を吐いた。酒の匂いが漂った。苻淑は大いに酒を呑んだ。呑みつつあるじと世を痛罵した。同じ酒を呑むにしても、親父と大酒呑みの顔延之の場合とではまるで違った。あの二人は杯をかわしつつも心は通じず、顔延之が大酔して悲憤慷慨しても口から出るのは虚妄の談だけだった。苻淑とあるじの話は一つ一つに実があった。二人は似た境遇にあった。あるじの話に陶侃の名が出て、あるじが最も恨む男の子孫が俺であると知った。

「そう」

　苻淑は俺の手を握り返した。

「すまない」

　苻淑が心を定めた男がこの俺でなければこのようにはならなかった。苻淑は一途だ。俺は苻淑に惚れた。苻淑がなぜ俺を選んだのか、その理由がどうであれ、苻淑は一度定めた思いをいささかも変えない。俺がそれに値いする男かどうかは知らぬ。それだけにこの俺が苻淑のそばにいていいのかと思わないわけにはいかない。しかも、陶淵明の息子だ。俺は親父を嫌って家を出たが、なお陶淵明の息子であり続ける。当たり前だ。俺は陶淵明の息子として生まれたのだから。しかし、悪いのは俺ではない。俺がたまたま陶淵明の息子だったということだけが悪い。腹の中が焼けるように熱くなった。

「出る？」

「ああ」

「いつ」

「朝までには」

「ならば、いま」

「すまない」

　俺はもう一度謝った。苻淑はすぐに上体を起こし、俺の腕を引いた。俺は苻淑の胸の内に抱かれた。涙が出かかった。

「行こう」

　苻淑は立った。隙間風が入り込んで来ていた窓の輪郭が闇に白く浮かんだ。外は月か。夜の山中にうっかり出ればまた熊に会うかも知れない。そんなことを恐れているときではなかった。

　ここのあるじに会ったのは熊のためだった。山中に道を失い、目の前に熊が現れた。俺と苻淑は身を固め熊と対峙した。「子路」。俺は口の中でつぶやいた。親父に聞かされた話が脳裏に浮かんだからだ。熊は冬になると大樹の穴で眠る。猟師は樹を叩き「子路、起きろ」と呼ぶ。熊は寝惚けてふらふらと穴を出る。やすやすと熊は捕まえられる。熊は「子路」と呼ばれると人の言いなりになるのだ。子路とは孔子の弟子と同じ名で、論語を読むたびに俺は熊の姿を思い浮かべた。

　熊に「子路あっちへ行け」と小声で言った。苻淑は「脅しては駄目だ」と言った。熊は腕を振り上げた。「子路」と俺は大きな声で言った。熊は吼えた。鋭い矢音が走った。一本の矢が熊の喉に立ち、仰向けに倒れ、この家のあるじが現れた。

　大きな獲物にあるじは喜び、俺たちは熊を運ぶのを手伝った。あるじは熊の肉を煮て馳走してくれた。肉を調理する妻の風貌がどこか普通と異なるのを見て、苻淑はそれとなく氐族の言葉を口にした。妻は鍋に茸を入れる手を止め、苻淑の顔をまじまじと見た。苻淑は誰が見ても氐族の女だとすぐにわかる。妻は、懐かしい響きを聞いたと言った。妻の祖母が氐族の言葉をときどき使っていた。それをきっかけとし、苻淑は己の素性をありのままに語った。苻淑は秦王苻堅の曾孫であるのを誇りとし、どのような場合にもいささかたりとも隠そうとしなかった。あるじは苻淑の話に触発されて晋朝に恨みを持つと語った。

　俺と苻淑はそれよりほぼ一年前に、阿黄の助けによって青泥を逃れ、蜀を目指した。蜀には氐族の流れを汲む李特が興した国がかつてあった。李特の一族は張魯に始まる天師道を信じ、李特は天師道の理念をそのまま実現する国を作ろうとした。李特、李雄、李班、李期、李寿、李勢と李氏の国は続いたが、歴代の王は必ずしも徳を具えていたとは言えず、国内の混乱につけ入られて桓温のために滅ぼされた。氐族は四方に散った。俺と苻淑は、その氐族の子孫がどこかに残っていないかと蜀の地を巡り歩いた。李氏の国が滅んでからすでに七十年が経ち、蜀の事情は大きく変わっていた。蜀が桓温によって晋朝に帰属させられた後、桓温の息子の桓玄が晋国の西半分を手にし、ついには皇帝にまでなったものの、あえなく劉裕に敗れ、桓玄の一党は西に落ちのびようとした。蜀の刺史は桓玄一党を迎え撃つべく軍を東に進めた。蜀の人間は遠征を嫌って反乱を起こし、長安の姚興を頼って晋朝から独立した国を建てた。それよりほぼ十年を経て、劉裕の遠征軍がその国を滅ぼした。俺たちが蜀に入ったのは、それからでも六年が経っていた。氐族はすでに蜀のあたりにはおらず、西方の青海へと移り、さらには遠く崑崙あたりにでも行ってしまったのではないかと聞かされた。そこでもしも苻淑が西方に行きたいと強く言ったならば、俺は崑崙にまでも行ったかも知れなかった。苻淑と別れるなどあり得ないからだ。

　苻淑は東か南に行こうと言った。長江中流の柴桑の村人である俺を、黄河の源流よりも西に連れて行くのを忍びないと思ったのだろう。苻淑は決してそうとは言わなかった。別のことを言った。「氐族一つに執着するのは返って武侯神主様の御心に反する。武侯神主様は晋朝によって虐げられる人々を救い出そうと南に兵を進めた。淝水での戦いによってその夢は潰えたが、いかなる人々が武侯神主様の救いを待っていたのか見ておきたい」。

　苻淑がそう言ったのには理由があった。蜀には様々な風貌をした人がいた。最も多いのは漢人だったが、匈奴、羯、氐、羌の四族のいずれかの血を引くと思われる者が町を歩き、それとまた違った風貌の人々も多数いた。それらの人々は侮蔑的に獠と呼ばれていた。南方から来た人々だった。蜀に異貌の人々が少なくないことに苻淑は驚き、獠がいつの時代にも常に討伐の対象とされてきたと聞いて憤った。「晋の他の土地はどうか」と苻淑は俺に尋ねた。「漢人ばかりが住むのではない」と答えた。「それはどんな人間か」と苻淑は訊いてきた。俺はそれまで一度も口にしたことがなく、親父も口をつぐんでいたことを、初めて言った。「俺がその一人だ」。

　疑いはこのときに確信に変わった。俺の身体の特徴が一つだった。短頭にして矮小。この身体つきは蜀蛮、越蛮、楚蛮、巴蛮、谿蛮、俚蛮、荊蛮などと呼ばれる蛮族に共通する。鼻が低く幅広くつぶれ、唇が厚く、肌の色が濃いのも蛮族の由縁である。俺は、五渓蛮でなければ武陵蛮であるに違いない。親父は、陶氏の淵源は堯、舜にあるとあり得もしない話を繰り返した。嘘の度合いが甚だしいだけにその裏には何かがあるに違いないと思わせた。陶家の者の風貌は普通の人とはいささか異なった。漢人たちは、蛮族を言葉の通じない鳥や獣と同じとみなす。陶家の者が話す言葉には妙な訛があった。漢人たちは、蛮族は蛇、鼈、狢、虫など人のおよそ口にしないものを平気で食うと考える。俺たち兄弟は飢えると、食えそうなものなら何でも探して食った。親父や小父さんはその食い方をよく知っていた。蛮族は町から遠く離れた山間の狭い土地に住む。穴に棲む犬や熊と同じだ。蛮族の居場所は洞と呼ばれる。親父は怪異譚を好み、犬や熊などの獣も鬼や化け物も自在に登場した。それらの話は漢人の間に伝わるものではなかった。

　俺は蛮族の子孫ではないかとの疑いを少しずつ強めていた。蜀で異貌の者を見るたびに異様な親近感を覚え、いよいよ俺は蛮族であると思うようになった。苻淑に向かい「俺がそうだ」と言った途端に、揺ぎない確信となり、予想もしなかった思いが開けた。親父の家を出てからはただ遠くに行くことだけを考えていた。どこに行こうとの目標はなかった。成り行きで洛陽に行き、長安に行き、統万城に行き、蜀に来た。このとき初めて俺は目的の地を持った。自分がそこから出てきたはずの蛮族の洞を探す。

　東か南に行くと言う苻淑の言葉に乗り、蜀から南東に向かう旅を始めた。間もなく、元の洞にこだわりを持つのは大して意味がないと思いを改めた。そんなことはどうでもよい。大事なのはいつか流浪の旅を終わらせ、苻淑が安心して棲める場所を見つけてやることだ。苻淑は生まれてから三十年、父祖の仇を討つのをたった一つの目的をとして生きていた。それは虚しい結果に終わった。たまたま俺と出会ったために、旅に出る羽目になった。俺のような男に惚れてくれた苻淑にしてやれることがあるとすれば、安心して生きられる場所を見つけることだ。人と人が争わず、氐、匈奴、羯、鮮卑、羌が夷狄として蔑まれることがなく、蜀蛮、越蛮、楚蛮、巴蛮、谿蛮、俚蛮が蛮族と排斥されることがなく、どのような人々も生き生きと暮らしていられる場所を見つけ、そこに苻淑を落ち着かせる。それは苻淑の言う武侯神主の夢とも合致するだろう。それはあくまでも夢で、そのような場所はどこにもないのかも知れない。漢族は蛮夷を禽獣とみなし、蛮夷同士はいがみ合うのが常だ。苻淑が神と仰ぐ苻堅が為したように、理想の地は武によらねば築けないかも知れない。かつて李特が蜀に築いた国も、孫恩、盧循が晋朝と戦って築こうとした国も、武によって夢へと近づきかけた。しかしいずれも消え去った。だから現実にはあり得そうにない場所だ。それでもどこかにあるとすれば、青泥で俺が言った、道が道として現れる場所であり、間違いなく蛮族の洞のはずだ。

　苻淑はそうした俺の思いをわかってくれた。そればかりでなく、探しても存在しないのなら、自分たちで作ればいいと言った。苻淑は苻堅の曾孫だ。口でそう言い、心でそう思い、実際に為すこともできるだろう。ただし苻淑とともにいるのがこの俺一人だけではどうにもならない。志を同じくする多くの者が要る。苻淑は同志を求め、熊を仕留めた男、俺たちが出て行こうとした家のあるじは、その同志だと思えた。

　今から遡ること百二十年の昔、晋朝の都であった洛陽が失われる十年ほど前に、李特は蜀に入った。そのころ蜀の地は大いに乱れ、多数の人々が流民となって東方にさまよい出た。蜀に残った人々は晋朝に見切りをつけ李特とともに新しい国を建てた。あるじは流民の一人、杜弢の曾孫だった。一族とともに蜀を逃れた杜弢は長江の南の湘州にかろうじて居を得た。晋国には西方や北方から五胡が相次いで侵入し、それに押されて各地で流民が発生していた。未開の土地が広く残る長江中流域から湘水流域に向かって続々と人々が押し寄せた。流民は身を入れるだけのわずかな場所が得られればそれで望みは足りたのだが、土地の人々は流民の受け入れを拒み、流民の中にはやむを得ず盗賊となる者もあった。杜弢は盗賊を取り締まる役目を授かり、賊を捕らえては良民に戻れと教え諭し、流民を土地に馴染ませる努力をした。流民はますます増え、広い土地を占有する富裕な者たちは己の権益が脅威にさらされていると感じ、「流民は大々的な謀反をたくらんでいる」との噂を流し、人々の間に恐怖の念を植え付け、武力をもって流民を追い払い始めた。多数の流民の屍が野に晒された。盗賊と化す者が増え、杜弢の努力とは逆に、流民は暴徒化していった。朝廷が流民の大々的な掃討に乗り出した。追い詰められた流民は杜弢に救いを求めた。流民の窮状をよく知る杜弢は、流民の命を救うため、急ごしらえの軍隊を編成して掃討軍に立ち向かうことになった。杜弢は湘州の軍を破った。次いで南から攻めて来た広州の軍を破り、北の荊州の軍をも破った。杜弢の本来の思いは流民を安堵させることにあった。朝廷は杜弢征伐の命を、当時最強の西府軍団を率いる陶侃に下した。杜弢は流民には何の罪もないと苦衷を訴える手紙を友人に送った。その友人は朝廷を動かし、皇帝は、杜弢が降伏するのであれば受け入れるとの詔書を出した。杜弢は平和的な解決を願って降伏すると返事した。しかし、陶侃は暴徒は撃滅する以外にないとあくまでも兵を進めた。杜弢は憤りに耐えず、精兵三千を出して西府軍団に立ち向かった。如何せん杜弢が率いるのは流民の寄せ集め軍団だ。戦いに慣れた陶侃の西府軍団の前に杜弢は敗れた。山中に逃がれ、再起を期したが果たせぬままに死んだ。子孫は蛮夷の中に暮らし、この家のあるじがその曾孫だった。あるじは、蜀が劉裕によって平定されたときに逃れ出た娘を己の妻とし、いつしか晋朝に一矢報いんものをと、己の腕を磨き、蛮夷、流民と連絡をとり合い、時の来るのを待っていた。

　あるじは大司馬陶侃を深く恨んでいた。陶侃を罵る言葉は激烈で、苻淑が姚萇、姚興を恨むのに近いものがあった。家を捨てた俺は、親父のことはせいぜい名前くらい、陶侃のことなどは苻淑には何も告げていなかった。あるじと苻淑が意気に感じ合う傍らで、俺は一人暗い思いに沈んだ。あるじは共に力を合わせて晋朝と戦おうと苻淑の手を強く握った。そのあるじが仇敵と思う陶侃の子孫の俺が、その家に逗留しているわけにはいかなかった。まして同志にはなれるはずもなかった。親父が敬慕してやまない陶侃はそういう人物だったのだ。

　　　＊　　　＊　　　＊

　夏だった。親父が俺たち息子を集めて遺言をしたあの病が癒えた後の夏だ。

　東の田を望む小さな樹叢に隠れ居眠りをしていた。朝からひどい暑さで勉学などできるものでなかった。中庸を筆写するのがそのころの日課だった。俺は四角な文字を丹念に書くのにすっかり倦み、家を抜け出した。外は日差しが強くとんでもない暑さになっていた。畑仕事などなおさらできるものではなかった。丘の畑にも行かず、西の田にも行かず、親父の目の及ばぬところを求めて坂を下り、東の田をまわって樹叢にもぐり込んだ。蝉がよく鳴いていた。木陰はいくらか涼しかった。それでも暑さのせいか、眠りは浅く、あまり心地の良くない夢を見た。親父に見つかるのを気にしていたせいだ。親父が出てきて、夢の中でもあの例の奇妙な調子で詩を吟じた。

　　　人の生命には根もへたもなく　　　　　　　　　　　　人生無根蔕

　　　ひょうと舞う路上の塵のようなものだ。　　　　　　　飄如陌上塵

　　　分かれて散って風とともに転ろがれば　　　　　　　　分散逐風転

　　　我がこの身はすでに常のものではなくなっている。　　此已非常身

　この詩が好きだということはなかった。どちらかと言えば嫌いな方だ。それでもわかりやすく調子もいいので、何度か聞くうちにすっかり覚えた。人間なんて塵と同じで、風に吹かれてあっという間に死んでしまう。それはそんなものなのだろう。だから、生きている間くらいは楽しくやりたい。死んでしまえば昼寝もできない。夢の中で反発し、親父は夢の中で詩の続きを吟じた。

　　　地に落ちて人となればみなが兄弟だ　　　　　　　　　落地為兄弟

　　　骨肉を分けた者だけが親しくなるのではない。　　　　何必骨肉親

　　　喜びを得たときは一緒に大いに楽しむがよい　　　　　得歓当作楽

　　　近所中が集まって酒を飲もうではないか。　　　　　　斗酒聚比隣

　親父が好むいくつかの言葉がある。「四海の内、皆兄弟たり」。これも口癖の一つだ。この言葉通りには世の中はなっていない。どこもかしこも憎しみと殺し合いだ。殺し合いがあれば憎しみが生じ、父祖伝来の仇を執念深く思い続け、どこまでいっても終わらない。「四海の内、皆兄弟たり」などと呑気なことを言っていると真っ先に血祭りにされる。さらに親父に反発しながら詩の続きを聞いた。

　　　若いときは重ねて来ない　　　　　　　　　　　　　　盛年不重来

　　　一日に二度の朝はない。　　　　　　　　　　　　　　一日難再晨

　　　時を得たならば努め励むがいい　　　　　　　　　　　及時当勉励

　　　歳月は人を待ってくれない。　　　　　　　　　　　　歳月不待人

　詩の前の部分とのつながりでは、酒を呑めるときにはうんと呑め、楽しめるときにはうんと楽しめ、そう言っているようにも思える。似非隠者はそんなに単純でない。若いうちによく勉強しろ、それも朝早く起きてと、それが本当は言いたいに違いない。だが、一日に二度の朝がないのなら、木の下の気持ちのよい昼寝だってそうそうあるものではない。

　親父の詩に悪態をついていたら、妙に手がこそばゆくなった。目を開いた。阿黄が舐めていた。はっと上体を起こした。本物の親父が立っていた。

「そこは気持ちがいいか」

　親父はにこやかな表情だった。それに騙されてはいけない。樹叢から跳び出た。

「日差しにやられて気分が悪くなりここで休んでいました」

　そうとでも言っておかないと格好がつかない。

「それで、よくなったのか」

「はい」

「動けるのならばついてこい。畑の仕事は一日といえども人を待ってくれない。病に臥せっている間に今年は大幅に遅れてしまった」

　親父の後ろに従った。親父の足取りは重そうだった。とくに右足は上にあがらずに地面を摺っていた。身体が斜めになっていた。阿黄が俺の足にじゃれつき、俺も歩きずらかった。坂を上った。汗が出た。親父は苦しそうだった。畑に行ってもこんな様子では仕事にならないだろうと思った。親父はずっと黙っていたが、それですむはずはなかった。西の田への分かれ道で親父は口を開いた。

「孔子の弟子の宰予は弁の立つ男だった。昼寝をしているのを孔子に見られた。孔子の不快そうな顔を見て、宰予は言い訳を数多く並べた。それで孔子はお怒りになった」

　親父は咳払いをした。明らかに俺の言い訳を親父も怒っていた。

「汝輩もよく知るように、このときの孔子の口調には、昼寝を叱るにしては激し過ぎるもがあった。『朽ちた木には彫刻ができない。駄目な土は壁に塗っても駄目だ。おまえなどは叱っても無駄である』。孔子はこう言われた。それでも気がおさまらなかったのか、『これまで私は、人が言うところを聞き、その行うところもあると信じた。しかし、これからは、その言うところを聞き、その行うところを見てから、その人を信じるようにする』。孔子がこれほど厳しい言葉を弟子に向けたのは稀だった」

　俺はうなだれた。俺は兄弟の中では口が達者な方だ。他の連中は素直過ぎる。親父が百を言えば返したいことが俺には百ある。親父の言うことなどそのままに受け入れられるものでない。賢明な俺は、言いたいことの百のうち九十九は黙っていた。しかし、一くらいはどうしても口から出る。顔も隠せない。百のうち二か三は顔に出るだろう。だからなのか、親父は事あるごとに、他の兄弟ではなく俺一人だけに話を聞かせようとすることがあった。

　俺は宰予の同類かも知れないが、親父は遺言の中で、五月、六月に北の窓の下で伏して涼風の至るに会えば、上古の人になったような気がしたと言っていた。俺が同じようなことをしていてどうして文句を言われるのか。心の内でまた反発していた。それも顔に出たのだろうか。

「おまえは我が曽祖父たる大司馬について聞いているか」

　親父は振り返って言った。

「もちろんです」

　そのように言わないことには許されないとわかった。大司馬陶侃こそは何よりも偉大な父祖だ。

「ならば知っていよう。大司馬は姿勢をわずかに崩すこともなく一日中仕事に励んだ。遠く近くからの多数の手紙、決裁すべき多数の案件、それら全てに自ら目を通し、自ら筆をとった。筆翰は流れるようにいささかも遅滞せず、千�事恍[、何一つ遺漏を生じなかった。その間にも多数の客を引接し、いかなる込み入った事情も即座に飲み込み、迅速な処置をただちに講じ、門に順番を待つ人の列ができるようなことはなかった。大司馬は常に言っていた。『大禹のような聖人であっても寸陰を惜しんだ。まして我らのような衆人は、分陰を惜しんで当然である。遊びに呆け、みだりに酔うなどあっていいはずがない。生きて無益の時を過ごして、死んで後にその名が聞こえたためしはない。時を惜しまぬのは、自分を棄てるのと同じだ』」

　陶侃については多くを聞かされていた。陶侃は時を惜しんだだけでなく、物も惜しんだ。俺は小さいころに道に出る稲穂を手に取ってむしったことがあった。親父は言った。「大司馬が役所より郊外に出た折に、ある者の手にまだ熟していない稲の穂が一本あるのを目にした。『それは何の用にするものだ』。大司馬がその者に尋ねた。『道すがら取ったまでです』。そう答えると、大司馬は大怒した。『おまえたちは吏となって耕すことをしていない。それでいながら人の耕作した田より戯れに稲を盗むのか』。大司馬はその者を怒鳴りつけただけでなく鞭で打った」。そう親父は言い、ただし俺は鞭で打たれはしなかった。

　木屑を捨てると別の話を聞かされた。「大司馬は西府軍の水軍を整え多数の船を建造した。木屑や竹の切れ端などが大量に出た。大司馬はその種類と多寡を全て記帳させ保管させた。どうしてそのようなことをするのか誰にもわからなかった。後に、元旦の正会の前に積雪があり、雪は除いても地はまだ湿って泥となっていた。大司馬は倉庫より木屑を運び出し地に撒いた。大司馬が亡くなって数十年の後、桓温が蜀を征伐した際に、大司馬が蓄えていた竹で釘を作って船をすばやく整備できた」。

　食べ物を粗末にすると別の話だった。「庾亮が大司馬のもとに逃げ込んだときのことだ。庾亮討つべしとの旗印のもとに反乱が起こり、庾亮は都を脱出し大司馬に保護を求めようとした。大司馬は庾亮と面談し、庾亮がいかほどの人物であるのか吟味した。食事になり、韮が出た。庾亮は青いところだけを食って白い部分を残した。大司馬はそれを見咎め、『白い部分はどうされるのか』と尋ねた。庾亮は即座に『植えることができます』と答えた。大司馬はこれによって庾亮はただの風流人ではなく、実のある政治家であると認め、助けてやることにした」。

　この日、俺は昼寝の代償として、孔子と大司馬の二人を持ち出されて叱責された。つまり陶家の息子としては最も厳しい叱られ方をしたわけだ。人間として正しく生きる規範は孔子に学ばねばならず、陶家の人間として正しく生きるには大司馬を範として仰がねばならない。俺は心中はともあれ、首を深く垂れて神妙にしているよりなかった。親父は歩き出し、夢の中と同じように詩を吟じた。

　　　思えば、若い頃には　　　　　　　　　　　　　　　　憶我少壮時

　　　楽しみとするものがなくても自ずと喜びがあった。　　無楽自欣豫

　　　我が猛志は四方の海より溢れて行き　　　　　　　　　猛志逸四海

　　　翼を高く挙げ遠く飛ぶことを思った。　　　　　　　　騫翮思遠翥

　　　しかし、歳月はもろくも崩れ去り　　　　　　　　　　荏苒歳月頽

　　　若い心は次第にそしてすでに去った。　　　　　　　　此心稍已去

　　　もはや歓楽に会っても楽しくはなく　　　　　　　　　値歓無復娯

　　　いつもいつも憂慮だけが多い。　　　　　　　　　　　毎毎多憂慮

　　　じわじわと気力が衰え損なわれ　　　　　　　　　　　気力漸衰損

　　　日々に駄目になっていくのを覚える。　　　　　　　　転覚日不如

　　　時の流れには片時の休みもなしに　　　　　　　　　　壑舟無須臾

　　　私を引っ張り、留めて置いてくれない。　　　　　　　引我不得往

　　　前に残された道はあとどれだけなのか　　　　　　　　前塗当幾許

　　　泊するところがどこかにあるとも知れない。　　　　　未知止泊処

　　　古人は寸陰を惜しんだという　　　　　　　　　　　　古人惜寸陰

　　　それを思うと、私は懼れずにはいられない。　　　　　念此使人懼

　古人は寸陰を惜しんだ。大司馬陶侃はそれよりも短い分陰を惜しんだ。とすれば、まして我ら凡人はさらに短い時間を惜しみ昼寝などしている間はない。親父はそう俺を叱ったのだが、親父はいったいこの歳になって何を焦っているのか。死を目前にして覚悟を決めたのはついこの前のことだ。俺たち息子に八十に至るもこの村に同居し、七世が財を同じくせよと、言い残して死のうとしたのではないのか。それで世に未練はなかったのではないか。今さら寸陰を惜しんで何をしようというのか。そう俺は思いつつ、親父ことは知らぬ、俺には関わりのないことだと、それ以上を考えるのをやめた。

　俺は親父と違う。陶侃とも違う。「我が猛志は四方の海より溢れて行き、翼を高く挙げ遠く飛ぶことを思った」と親父は歌うのに、息子たちにはこの柴桑の村から出るなと言う。それは許せない。陶侃もちっぽけな村から出たのではないか。

　陶侃の父親は呉の国の揚武将軍だったという。その父は早くに死んで家は貧乏だった。若い陶侃は県吏に雇われた。魚梁吏という役職だった。川に設けられた漁場を管理する仕事だ。その役目が本当に県吏になるほどのことだったのかは怪しい。村人が貧乏な孤児を憐れんで仕事を与えてくれた程度だったのではないか。陶侃はあるとき仕事場から坩に魚を入れて母に贈った。母は使いの者に坩を持たせて息子に返した。「おまえは吏として官の物を私してこの母に贈ろうとした。無益であるばかりでなく、私に心配をかけさせるだけだ」と陶侃を叱った。

　陶侃の幼馴染だった范逵という男は早くに世間に名を知られ、孝廉に推挙され官職に就いた。范逵は都洛陽に上る途中、陶侃の家に泊まった。冬のこと、幾日も氷雪に鎖された陶侃の家では櫃も壺も全て空だった。范逵は多くの馬と下僕を連れていた。母は陶侃に「おまえは外で客人を留めておきなさい。私に考えがあります」と、長い髪を二束切って数斛の米と代え、柱を切って薪とし、筵を刻んで馬の餌とし、夕方までに立派な食事を整えた。下僕たちに至るまで、もてなしに足りないところはなかった。翌朝、范逵が発つと、陶侃は送って百里に達しても帰ろうとしなかった。范逵は言った。「路は遠い。君は帰られよ」。陶侃はそれでも帰らなかった。「洛陽に着いたら、君のことを人々に話そう」と范逵が約束するに及んで陶侃はようやく帰った。范逵はその約束を果たし、陶侃の名が都に聞こえるようになった。范逵は旅の途中に廬江の太守にも陶侃を褒めちぎった。廬江太守は陶侃を試しに使ってみた。陶侃は有能かつ勤勉であった。郡の主簿になった。あるとき陶侃の郡に州の従事が監査のために回ってきた。従事は賂を欲しそうな様子を見せた。陶侃は門を鎖し、郡の諸吏を並べて従事に言った。「もしも私の郡に少しでも過ちがあれば、自分で我が身を縄に縛りましょう。もしそうでなく、私に非礼をもって迫るのなら、私は防ぐだけです」。従事は陶侃の勢いに恐れをなし何も要求できずに帰った。

　陶侃は極貧の少年時代から、晋朝に並ぶ者のない大将軍へと出世を遂げ、少壮の時に抱いた猛志のままに四海を飛んだ。

　その有する武力のために朝廷の人々は陶侃を畏れた。しかし、必ずしも都人は陶侃を心から重んじたわけではなかった。兄貴が教えてくれた一つの話があった。

　例の韮の白い部分を残した庾亮だ。庾亮が陶侃のもとに逃げ込んだのは、庾亮討伐を名目とする反乱軍によって都を追い出されたからだった。庾亮は宰相として国政を壟断し、反感を持つ者が多く、陶侃ももとより快く思っていなかった。庾亮は共通の友人である温嶠を頼って陶侃に会おうとした。陶侃は「庾亮兄弟を全て誅滅しても天下に謝するには不足する」と言って会おうとせず、庾亮は恐怖のあまり為すすべを知らなかった。温嶠はそれでも陶侃に会うように庾亮に勧めた。陶侃の力を借りなければ反乱軍を平定するのは不可能だからだ。庾亮はなお躊躇して行くことができなかった。温嶠は言った。「私はあの渓狗をよく知っている。会えば必ず憂うようなことはない」。渓狗とは渓谷に棲む野犬だ。温嶠は陶侃のことを侮蔑的にそう呼んだ。対する庾亮は風姿神貌と人々から評され、洗練された都人の代表と見られていた。陶侃は雅やかな庾亮の姿を一目見るなり思いを改め、一日中語り尽くし、ことのほか敬愛するようになった。

　兄貴からこの話を聞いた当座はいささか不快ではあった。温嶠は、陶侃が若いころに魚梁吏だったのと、容貌の粗悪さとを合わせて、「谷川の犬ころ」と呼んだのだろう。陶侃が典雅な都の宰相に一目で参ってしまったのは、己が野卑であることに強い引け目を持っていたからだろう。これを聞いたのは洛陽の酒店で、大酒呑みの顔延之に会って少し後のことだった。兄貴は、顔延之が劉裕に媚びるために洛陽にまでわざわざ来たのを笑い、劉裕や己の父親が都の貴族たちの真似をしたがっているのを笑い、「大司馬陶侃でさえも容姿を重んじたのだ。他の者が気にするのもまあ仕方ないのか」と言った。それ以上の他意はなく、俺も陶侃をけなされて不快に感じている自分を笑って、それ切りになった。

　蜀に行ったころになってこの話が思い出され、温嶠が陶侃を渓狗と呼んだのは、陶侃が実は蛮族の一つである五渓蛮の出身であるとの認識を持っていたからではないかと思えてきた。その思いに至ると、多くのことが腑に落ちた。陶侃が五渓蛮であれば、俺の容貌も、陶家の暮らしぶりも、陶侃にまつわる話の全ても、みな辻褄が合う。

　陶侃にまつわる伝説があった。陶侃は子どものころ雷沢で魚を獲っていた。雷沢がどこにある沢なのかは知らない。網に織梭が一本ひっかかった。陶侃はそれを壁に掛けておいた。ある雷雨の日、梭は竜に化した。大官に昇った者には幼児よりこうした瑞祥があるというのは世によくある物語だ。これも考えてみれば、陶侃は奥深い山で魚を獲って生きる五渓蛮であったことを示すものだ。

　別の伝説が違った意味を持ってよみがえった。陶侃は夢に八つの翼を得た。空を飛び、上天に達した。九重の天門があり、そのうちの八つの門までは登ったが、最後の門だけは開かず、門番に杖で撃たれて地上に落ち、左の翼が折れた。目が覚めると左の脇腹がまだ痛かった。これはただ不思議な話として聞いていたが、陶侃が帝位を望んで得なかったことを示す話ではないのか。陶侃は親父が言うような晋朝の忠臣ではなかった。五渓蛮より出た野心に満ちた猛者なのだ。

　親父は堯、舜の時代より始まる陶氏の堂々たる歴史を詩に歌いあげた。五渓蛮の血を引くなど微塵も漏らしはしなかった。孔子を先師と仰ぎ、漢人の正統な礼教の流れの末に己を位置づけた。しかし、心の隅に五渓蛮である父祖に引かれるものが皆無ではなかったのかも知れない。世を離れて山の奥に隠れるのに憧れたのは、洞に住む五渓蛮への回帰をどこかで思っていたからではないのか。山海経にかなり入れ込んでいた。世の人も西王母を崇めはするが、それは西王母が不老長生であり、三千年に一度実を結ぶ仙桃を育てるからだ。親父の関心は西王母の魁偉な容貌にあった。西王母は豹の尾、虎の歯を持ち、蓬の髪に玉の簪を載せる。人のように話すのではなく、天と地を震わせる声で嘯いた。親父の奇怪な詩の吟じ方は西王母を真似するかのようだった。半分は人であり、半分は獣のようである西王母は、渓狗と呼ばれた陶侃に繋がるものがあるのか。遠く玉山に住む西王母に思いを寄せるのは、洞に住む異貌の蛮夷に心を寄せるからか。道に疑いをさしはさむのは、本当の漢人ではないからか。

　とは言え、親父は山奥深くに隠れることはせず、柴桑の村で漢人として生き続けた。古人は寸陰を惜しんだと、古の聖人を讃え、大司馬は分陰を惜しんだと、洞より出た偉大なる父祖の、道に適った生き方を語ってやまなかった。長沮、桀溺と畑を耕すことに憧れながらも、つまるところは孔子を最も慕った。矛盾だらけの似非隠者だ。

　もしかして、あの夏、昼寝をしていた俺を厳しく叱ったのは、そのうち俺が何か仕出かすかも知れないとの予感があったからなのだろうか。親父の遺言を俺は怒りながら聞いていた。兄弟の末席にいた俺は、親父の視線から遠いと思っていたが、親父は見ていないようで見ていたのか。だから、孔子と陶侃の二人を持ち出して俺を正しい道に引き留めようとしたのか。全くの無駄だ。似非隠者の言うことなど結局は逆効果でしかない。俺はこうして五渓蛮に戻ったのだから。

　　　＊　　　＊　　　＊

　西王母の好む風景が目の前にある。

　丹木の林を巡りつつ上に登って見晴らしが開ければ、彼方の山に扶木が望まれる。扶木の枝は百万尋に広がり、太陽がそこより昇るという暘谷を覆う。川に沿って下れば、三珠樹が聳え立つ下の道をくぐる。三珠樹は柏のように高く、葉はどれも珠をなす。行き行けば風に応じて妙なる音が響き、八本の桂が枝を無方に広げる壮麗な林となる。霊鳳、神鶯の二鳥が、雲を抱いて舞い、玉音を奏でて歌う。

　この世にあるべきとは思えぬ光景が連続する。これは西王母ばかりが愛でるものであって、俗界に住む者が見るのは許されない。この光景を見る喜びには耐えられないかのように、俺は苦しくなる。

　なぜ俺はここを歩いているのか。そう問えば、答えは簡単だ。親父を追っているからだ。問いたいのはそのことではない。なぜここを歩いている俺がいるのかだ。親父を殺すか、苻淑と別れるか、二つに一つしかないところに俺は追い詰められた。だからここを歩く俺がいる。それは本当なのか。親父を追っているのは俺なのか。

　あの岩陰に阿黄が消えてから親父の姿を見ていない。それでいながら追っていると言えるのか。親父は全く別の道からどこかへ消えたのではないのか。俺はそれを望んでいるのではないのか。親父が他所に行ったと知りつつ、俺はそれとは別の道を歩いている。親父を追っている俺などはどこにもおらず、俺はただこの光景を賛美するために歩いている。

　親父のことをどうして常に考えるのか。俺は柴桑の家を飛び出した。二度と帰るまいと心に定め、春の初めの未明に家を出た。長安で苻淑と出会い、二人で蜀に行き、東に向かって桃花源に迷い込んだ。そのどこに親父が関ったというのか。

　西王母は天地の生まれた初めよりここにいる。その長さを俺は知らない。俺は知らぬが、初めの時というものがあって、初めの時よりこれまでの時間というものがなければ、これらの風景はここにはない。俺がここを歩くこともない。俺がここを歩くからには、初めの時があり、初めの時よりこれまでの時間があった。だから、ここを歩く俺が今いる。

　よそう。そんなことを考えてますます己を混乱させている場合ではない。俺にはやるべきことがある。そのためにここに来たのだ。

　大きな池だ。日が池の中央に映る。日はすでに西へとまわっている。三珠樹を揺らしていた風がゆるやかにここへも吹き来て、小さな波が生じる。水面に日がゆらゆらと揺れ、ゆったりと水浴びをしている。この池は暘谷より出た太陽が一日に一度水浴びをする丹淵だ。今朝から初めてここで腰を下ろす。手を水にひたす。温かい。ひと掬いし口に含む。甘い。

　水面に黒い影が映る。甲高く痺と音が響く。見上げると大きな鷹に似た鳥が飛ぶ。翼を左右に広げ上空を滑る。翼の先は人の手の形状をし、これは山海経にある●だ。この鳥の現れるところ放逐された士が多く出る。●は池の上で大きく旋回し、対岸の林の上へと飛び去る。

　●が出るのなら、放士ともいうべき親父がここらあたりにいてもよいだろう。目を凝らしても池の周りに人の姿はない。あるいは、放士とは俺か。世に役に立たぬ俺だ。ここで親父を見失い、帰るところも行くところもなくなった。そういうことかも知れぬ。

　池の水をもう一口呑む。いよいよ甘い。これが酒なら、余計なことを忘れて酔境に遊ぶこともできようか。あいにく俺は酒が呑めない。

　　　酒は百の慮いを払い　　　　　　　　　　　酒能祛百慮

　　　菊は崩れゆく歳を制する。　　　　　　　　菊為制頽齢

　親父はこんな風に歌った。この水の甘さはいま俺にまつわる憂慮を払ってはくれるのか。西王母にちなんで長久を愛でようにもあいにくと菊の花はない。

　　　蓬の盧にすむ放士よ、どうして　　　　　　如何蓬盧士

　　　時運の傾くのをむなしく見ているのか。　　空視時運傾

　あにくと俺には詩才がない。自らの言葉を持たず、親父の詩をなぞって吟じるだけだ。もし俺に詩を作る力があれば、いま何を歌うだろうか。

　　　襟をおさめて一人謡えば　　　　　　　　　斂襟独間謡

　　　言い知れぬ深い情が起こる。　　　　　　　緬焉起深情

　このように吟じれば、心の奥底深くからも湧いてくるようなものがある。それは何なのか。

　　　隠棲には楽しみが多いものだ　　　　　　　棲遅固多娯

　　　ここにいて成ることもないのだろうが。　　淹留豈無成

　俺は口を鎖す。

　一体何をしているのか。自ら親父の詩の罠に落ちようとしているのか。親父の詩は人を居ても立ってもいられぬ思いへと誘う。わからぬ何かを人に抱かせるのは、似非隠者の親父と同じ所へと人を誘う罠だ。こんな詩を甘い水のせいで思い出したのは大きな間違いだ。ここで淹留していてはいけない。俺にはやるべきことがある。

　立ち上がり空を見る。日は先程よりも半分の高さに落ちている。たった二口の水を啜り、親父の詩を吟じただけだった。ここは西王母の住む山の下の池だ。西王母は天地と齢を等しくする。とすれば、一日がよほど速やかに過ぎない限りは、時というものを持て余す。速やかに時の走るここにいて時を無駄にはできない。分陰も惜しまねばならない。俺には今日のうちに為すべきことがある。

　為すべきこととは何か。親殺しは途方もないことだろうが、もしも夸父の志に比べてよければ、誕宏の度合いはいずれが勝るのか。夸父は西方に進む日を追い抜こうと走った。夸父は速く、日とともに虞淵のほとりに至り、勝負がつかないように見えた。夸父は俄かに喉の渇きを覚え、黄河に口を付けて水を飲み出した。黄河を呑み干してもなお足らず、北方の大沢の水をも呑もうと走り出し、渇きのために途中で死んだ。捨てられた夸父の杖は�ｹ林の大森林となった。日に挑んだ夸父はまことに誕宏であった。夸父のように死ねれば本望と言うものだろう。俺の為すことなど、俺にとっては大事のように見えても、世にありふれるところの親殺しの一つでしかない。世に皇帝を殺す忠臣が尽きぬように、親父を殺す孝子は数知れない。どうせなら夸父のように世に一つしかない虚しい志を立てなければならない。

　池のほとりに沿って歩む。日の沈みゆく西の岸辺へと向かう。それだけなら日を追った夸父と似ようか。日を追った夸父の行為に何の意味があったのかわからぬように、俺のこれからの行為の先に何の意味があるのかは知らない。

　呵と脇に声がする。鳩のような鳥が枝にいる。鳥は頭を下げつつ呵とまた鳴く。灌灌だ。手を伸ばす。灌灌を佩びれば惑わないと言う。両手を広げて灌灌を左右からはさむ。灌灌は頭を下げて呵と鳴き、掌が翼に触れるばかりに迫って、灌灌は首をかしげて胸を膨らませまた呵と鳴こうとする。手を止めそのまま呵と鳴かせる。灌灌は虚空に飛び去る。所詮、惑いから抜け出すのは無理だ。

　灌灌が消えるのと入れ違いにふわふわと三本足の鳥が池の上を飛んで来る。三青鳥が再び姿を見せた。朝に西王母の使いとなり、暮れには三危山に帰る。まさにその通りに三危山へと向かうのだろうか。三青鳥は静かに鳴く。その声は詩となる。

　　　世にあってほしいものはなく　　在世無所須

　　　ただ酒と長生きだけだ。　　　　惟酒与長年

　親父の詩句ではないか。周りを見る。誰もいない。池の縁に沿って目を凝らしても誰もいない。

　なぜ親父の詩を鳴くのか。そんな三青鳥など飛んで行ってしまえ。どうせなら代わりに精衛は飛ばぬのか。長生きをして何になるのか。酒を呑んでそれで終わりか。精衛のように生きてこそ初めて良く生きたと言えるのではないか。精衛は「女娃」と鳴く。炎帝の娘であったときの名だ。女娃は東の海に遊んで溺死し、鳥となった。精衛は死んだ怨みを晴らそうと、西山の木石をくわえて東の海へと運び、海を埋めようとした。それこそ虚しい行為だ。だからよい。三青鳥がふわふわと西へと飛び行き、首に斑模様があり、白い喙、赤い足の精衛の姿はない。

　虚しさで言えば、刑天をこそ慕おう。刑天は天帝と争って敗れた。天帝は刑天の首を切って常羊の山に埋めた。刑天はなお屈せず、残った胴体を使い、乳を目と為し、臍を口と為し、盾と斧を手にし、舞踏し、天帝と戦う意志を示し続けた。舞って何の意味があるのか。何もない。だからいい。

　酒を呑んで何になるのか。酔境に遊ぼうかと俺自身さっきは思った。これこそ親父の罠ではないか。

　　　必死に名利を追う者は迷いの内に留まっているが　　悠悠迷所留

　　　酒の中にこそ深い味わいがある。　　　　　　　　　酒中有深味

　こんな詩を親父は吐いた。酒中に何の味を求めるのか。名利を追う者はもとより一顧だにする価値がない。何もせず酒に逃げるだって同じだ。

　　　粟を搗いて美酒を作り　　　　　　舂秫作美酒

　　　酒が熟せば自分で酌んで呑む。　　酒熟我自斟

　　　遥かに遥かに白雲を望み　　　　　遥遥望白雲

　　　深く深く古えを思う。　　　　　　懐古一何深

　親父は酒を呑み、しばしば上古の時代に思いを寄せた。そこに生きるのは傲然と粗野な人々であったが、自ら耕すもので足りると為し、素朴であって、真を抱いていた。智巧というものが萌し、上古の民が拠り所としたものが崩れた。今さら返らぬ上古を思っても、やはり虚しいことだ。

　しかし、ここ桃花源はその上古に近い。ここは実在する。桃花源の人々が傲然と粗野であるのは蛮夷の民であるからだ。上古の民を崩れさせた智巧は親父が学ぶ聖人の知恵だ。その糟でもって親父は弁じまた詩を成した。似非隠者の詩は似非だ。どうしてそんな詩を俺はここで吟じたりしたのか。

　俺には為すべきことがある。似非である親父の命と引き換えに、桃花源を外の世界の者に知らせてはならない。親父を桃花源の外に出してはならない。俺の為すべきことはとうに決まっている。剣の柄を握る。これしかない。

　三青鳥はふわふわと池の対岸へと至る。そこはすでに日が翳って暗く、木々の姿が黒く夕暮れの暗さへと沈みつつある。三青鳥の微かな鳴き声がまた響き、黒い林の前に動くものが目に入る。岸辺の草の陰に俺は身を潜める。

　親父だ。二人いて犬もいる。俺は親父の後を追っていたのだ。俺は正しい道を歩いてここまできた。もう一度剣の柄を確かめるように握る。これしかない。

　間もなく夜になる。二人は池のほとりで夜明けを待つだろう。とすれば夜の間に事を終えてしまうのがいい。不老長生を願うべき西王母の膝元で生を終える人がいるのは何とも気の毒なことだ。しかし、水辺で眠っている間に死んでしまうのなら、親父の好きな姑舒泉の娘と同じだろう。それもいいだろう。

　柴桑の村の東の田のそのまた東の丘の中に酔石と呼ぶ大きな岩がある。冬は日が射して暖く、夏は葉に覆われて涼しい。その岩に座して酒を呑むのを親父は好んだ。小父さんや村人など、せいぜい数人とともに座ると岩の上はいっぱいになった。岩のほど近くに水が湧き、親父はそれを姑舒泉と呼んだ。本物の姑舒泉は臨城県の南方四十里にあるという。

　　　清らかに歌い、新たな声が風に散じ　　　清歌散新声

　　　緑の酒に良き顔がほころぶ。　　　　　　緑酒開芳顔

　　　明日のことは知られぬものだ　　　　　　未知明日事

　　　我が胸はすでにさっぱりした。　　　　　余襟良已殫

　酔石の上で親父は例の弦のない琴を奏で、例の調子で吟じ、興に乗ると、人々を姑舒泉に誘い、その水を酌み、本物の姑舒泉の話をした。

　　　＊　　　＊　　　＊

　姑舒泉のこの話を俺は苻淑に語った。

　陶侃を父祖伝来の仇と怨む杜家のあるじのもとを去ってより、南へ東へ、山から山へ、目的はあったがどこへ行けばよいというあてはなくさまよっていた。あてがないのはつらくもあるが、苻淑と二人であればどうということもなかった。いつ死んでもという思いは青泥から変わっていなかった。常に食う物に困ったが、苻淑との日々は幸福といってよかった。ある夕方、渓流で釣り上げた魚を焼きつつ、ふと姑舒泉の物語を苻淑にした。

「臨城県の南、蓋山の頂より百歩のところに、清い水が湧き、小さな流れを成して山の麓へと落ちていた。あるとき、舒の家の娘が父とともに山中に薪を拾った。娘は疲れ、泉の脇に座り、そのまま寝入った。父が声をかけても娘は目を開けず、揺すっても起きず、引いても押しても動かなかった。父は担いで帰ろうとしても娘は地と一つになったかのようで持ち上げられなかった。父は異変を知らせに町に帰り、家人を連れて山に戻った。娘の姿はなく、泉に水が湧いて静かに流れるだけだった。山中をいくら探しても娘の姿はなかった。母は悲しみ、娘が琴の音を愛していたことから、泉のほとりで琴を奏し、歌った。すると泉は勢いよく溢れ、渦を巻き、中にひとつがいの紅色の宋鯉が姿を現した。驚いた母の琴の音がやむと、泉は静まり宋鯉は姿を消した」

「娘は宋鯉に魅入られた。よくあることだ。蛇に魅入られた者は蛇となり、鷹に魅入られた者は鷹となり、石に魅入られた者は石となる」

「姑舒泉でもそうだったように魅入られるのはやはり女だろうな」

「男が女に魅入られることもある」

　苻淑は俺の顔を見て言った。俺は笑った。

「俺の場合がそうだったのか」

　苻淑も笑った。

「最初に惚れたのは私の方ではない」

「いや、それも実は魅入られためだろう」

「そんなことをした覚えはない」

「おまえに魅入られた俺は何になったのだろう」

　苻淑は首をかしげた。

「もちろん蛮夷だ」

　俺は大きく笑った。

「蛮夷に戻ったのが、おまえに魅入られたおかげなら、いくら感謝しても足りない。思えば、我が陶家は蛮夷を出て漢人の仲間入りを企て、陶侃が大司馬になるに及んで成功した。陶侃の直系の子孫たちは晋朝のそこそこの地位に今も就いている。俺の家は傍系で親父が偏屈だったから零落した。それでも漢人としての矜持を保とうなどというおよそ理に反することをしている。それが大きな誤りで恥ずべきだと知ったのはおまえのおかげだ」

「私は何もしていない。それよりも、こんな明日の宿りがどことも知れぬ旅を、いつまでも続けていて後悔していないのか」

「それこ俺が訊くことだ。どうなのか」

「東か南に行こうと言ったのは私だ。後悔するはずがない」

「では聞こう。姑舒泉の娘は宋鯉になったのを後悔したのだろうか。俺は違うと思っている。おまえのおかげで蛮夷に戻った俺はそう思う」

「母の琴の音に姿を現したのは元の人間の生活に思いが残るからではないのか」

「そういう思いがないとまでは言わない。しかし後悔してはいない」

　苻淑は焼き上がった魚を俺に渡した。姑舒泉の娘には宋鯉になっても人の心が残り、母の琴の音に心を引かれた。ならば、俺は蛮夷に戻っても漢人の心が残り、そして何かに引かれるのか。まさか親父の琴と詩ではあるまい。

　魚はほどよく焼けていた。塩があればもっと旨いだろう。そう思うのも漢人の名残か。苻淑と二人ここにいる。塩などいるはずもない。苻淑の顔だけを見て、苻淑の声だけを聞いて、苻淑にだけ話しかける。これ以上に望むものはない。俺を元の漢人の世へと呼び戻すものはない。それよりも俺たちには目的の地がある。どこにあるのかわからぬが、蛮夷が昔ながらに暮らす洞だ。

「おまえはこそ後悔しないか。氐族の居場所を見つけに西へ行かず、かえって東に進む。俺がいなければ西に行っていたであろうに」

「後悔などしない」

　苻淑はまた言った。

「俺がいなければ杜家のあるじのところにだっていられた」

「それよりもこうしていた方がずっといい」

「こんな俺と、どうして？」

「どうして？　わからないのか」

　苻淑は俺をまじまじと見た。俺も苻淑を見つめた。

　なぜ苻淑に惚れたのか。苻淑が本物だったからだ。

　俺たちは魚を食べ、苻淑がぽつんと言った。

「たぶん、わかろうとしてくれたからだ」

「何を？」

「私を」

　最初に会った日の思いが甦った。俺は確かに苻淑をわかろうとしていた。

「だからなのか」

「それに、迷っていた」

「おまえは虚しいと言っていた。あれは迷っていたのか」

「迷っていたのは私ではない」

「俺か」

「そう。ずっとだった」

「俺が？」

「そう、いまも」

「いま迷ってなどいない。元の蛮夷に戻れ、迷いなど一切ない」

「いや、本当のところは違う」

「おまえにそれがわかるのか」

「わかる。だから私がそばにいる」

　自分では迷っているなどと思っていなかった。それでも、苻淑が言ったのは正しいようにも思えた。苻淑がいなければ生きていけない。それは迷っているからなのか。俺は一人では苻淑のように一途になれない。

　日が山の陰に隠れ、秋の冷気が空より降り落ち始めた。森は黒く沈み、木々は一つになって見分けられなくなり、ふとその中に白く見えるものに視線が引き付けられた。

「山羊だ」

　苻淑が先に見分けた。どこから来たのか、数頭の山羊が森より出て、渓流に沿って上り始めた。俺はすぐさま弓を手にした。

「待って。あれは塩を舐めに行くところだ。後を追おう」

　獣のことは苻淑にはかなわない。

　山羊は対岸の岩場へと取り付き、俺たちは川を渡ってその後に従った。山羊は人に追われているのに気付く様子もなくゆったりと岩場を越えた。あたりは次第に暗くなったが、山羊の白い姿ばかりはよく目立ち、俺たちはぴったり後についた。

　深く急峻な谷が切れ込み、一箇所、細い石の橋が渡っていた。人の手になるものか、自然にできたものか、山羊はためらいもなくその橋を渡った。人の足の幅ほどしかなく、爪先から小石が、闇に沈む底知れぬ彼方へと音もなく消えた。俺の足は震えた。苻淑は平地を行くように橋を渡った。

　山羊はなお上り下りを重ね、高い絶崖に行き当たった。ごつごつとした岩壁が赤黒い不気味な色で切り立っていた。山羊は崖の下を駆けた。なおしばらく行くうちに、どうどうと地を揺るがせる音が伝わってきた。崖の裾を巡ると高さ百丈はあろうかという飛瀑があった。白い滝の落ちる先は見おろす深い谷の底にあった。滝の上端はまだわずかに明るさの残る空だった。水しぶきが俺たちにも飛びかかった。山羊は足を速めて崖の中ほどへと駆け上った。激しく落ちる瀑布の中に、山羊の白い姿が吸い込まれて消えた。

　俺と苻淑は顔を見合わせた。しばらくたっても山羊は出てこなかった。

「行ってみよう」

　苻淑が言い、俺たちは山羊と同じにように崖を駆け上った。滝の水が顔に激しく降りそそいだ。流れ落ちる向こうの蔭はほんのり明るく、門が開くのがわずかに見えた。

「行こう」

　苻淑の声とともに、山羊と同じように、飛瀑に向かって飛んだ。

　広い洞窟だった。中は明るく平坦だった。遠く白い山羊の姿があった。俺たちは山羊を追った。

　それからどれだけ歩いたのか。ごく短い時間であったのか、何日間もかかったのか、その違いがわからない時の間を、白い山羊の姿を追って歩き、いつであったかわからぬときに、豁然としてあたりが開け、香しい草が一面生える場所に立った。

　山羊の姿はどこにもなかった。振り返ると通ってきたはずの洞窟もなかった。そこが桃花源だった。

　山が四周を巡り、山より洞を望み見れば平曠な土地が開け、阡陌が交わり通じ、良田、美池、桑竹を供え、寄り添い建つ屋舎は簡素にして堅牢である。往来し種作する男女の衣は粗末な短褐。老若男女、いつどこで会う人々もみな楽しげである。

　探し求める蛮夷の洞だった。村は上古の姿をし、住むのは上古の人々だった。道が道として現れているのが見えた。

　苻淑は氐族の女のまま桃花源に来た。俺はここに来てついに五渓蛮に戻ったと感じた。苻淑は何も隠さずに己を境遇を語った。俺は陶の姓を押し隠し、あの杜家のあるじの姓を借りた。

　　　長沙公の武威は麗しく　　　　　桓桓長沙

　　　ああ、その勲よ、その徳よ。　　伊勲伊徳

　　　天子は我が功に報い　　　　　　天子疇我

　　　南国の征伐を任せてくれた。　　専征南国

　親父はこのように誇らしげに曽祖父陶侃を讃えた。「南国を征する」とはもしかして蛮夷のことかと、俺は用心して杜弢の子孫になりすました。ほどなく、桃花源の人々は恐るべきことを教えてくれた。杜弢が陶侃に攻められたときだ。杜弢は流民を率いて戦い、晋朝の圧政に反発する流民に蛮夷が呼応した。舟の技に通じる五渓蛮が陶侃軍の糧道を断った。杜弢は一時期優勢になった。陶侃は五渓蛮の殲滅を図り、数千を斬り、一万余を生け捕りとした。陶侃は五渓蛮の出身だ。桃花源の人々の陶侃に対する怒りは杜家のあるじよりも激しかった。桃花源に住むのは五渓蛮と同じ蛮夷であり、桃花源の人々にとって陶侃は言語道断の裏切り者だった。

　俺は陶淵明の息子であることをひた隠しにした。そうでなければ桃花源には一日たりともいられず、しかし、いくら杜弢の子孫と偽っても本当は違うことを俺は知っている。苻淑は俺の苦しみを口には出さずともよくわかってくれた。それだけに俺は余計に辛かった。だから、桃花源に迷いきたもう一人の人物が親父かも知れないという疑いは苻淑には隠した。全ては俺一人だけのことだ。俺は陶淵明の息子であるのかいけないのだ。俺はどうあっても陶淵明の息子だ。この苦しさを親父は知らない。親父はいったいいかなるつもりで陶侃などを誇りとしたのか。その上、陶侃の曾孫でありながらどうして桃花源にのこのこやって来たのか。

　　　＊　　　＊　　　＊

　陶侃の他に、親父にはもう一人、誇りとしていた父祖がいた。親父の外祖父の孟嘉だ。

　孟嘉は蛮夷ではない。正しく漢人の家系だ。孟嘉は陶侃の十番目の娘を娶り、親父の父親が孟嘉の四番目の娘を娶った。つまり孟嘉の娘が俺の祖母で、その祖母は俺が三歳のときに死んだ。祖母の記憶はおぼろげにあるようでいて、しかしどんな顔をしていたのか覚えていない。祖母が死んだとき親父は桓玄の幕下にいた。桓玄が皇帝の位を奪う二年前だ。母親の喪のために親父は柴桑に帰り、その途中で詩を作った。終わりの部分はこうだった。

　　　悲しげに歌って己を売り込みはしない　　商歌非吾事

　　　心引かれるのは二人耕すことだ。　　　　依依在耦耕

　　　冠を投げて旧里に帰る　　　　　　　　　投冠旋旧墟

　　　高い爵位などに繋がれるものか。　　　　不為好爵縈

　　　襤褸家の内にあって真なるものを養い　　養真衡茅下

　　　善をもって自らの名としたい。　　　　　庶以善自名

　俺は聞きはしなかったが、この詩について親父に問えば、咳払いをして教えてくれただろう。

「汝輩もよく知るように、王の車に近づき、商の歌をいかにも悲しげに歌って己を売り込んだ御仁が昔いた。寧戚という者だ。寧戚は願い通りに登用された。汝輩も寧戚の名をよく覚えておくがいい。良い官位に就くのはそれほどに難しく、己の名を世に知らせるにはどのような手段でも用いるべきなのだ。孔子でさえも職を求めて諸国を巡り歩いたのだから。孔子はその旅の途中に、長沮と桀溺に渡し場の位置を尋ねたが、二人が真の隠者であると知ると、話をせずにそこを去った。汝輩はこのこともよく覚えておくがいい。もしも、長沮と桀溺のように己を知る友と二人して畑を耕すことに心を引かれたならば、たとえ高い地位にあったとしても、冠を投げ捨て村に帰らねばならなくなる。茅の茎で建てた襤褸家に住み、己の内にもとより具わる本然の真を養い、善なるものを希求すると痩せ我慢を言って生きる羽目に陥るのだ」

　真を養い、善をもって自らの名とする。そのためだと言って親父は柴桑の村に帰った。桓玄の幕府には真や善はなかったのか。そこで何があったのか。親父は一度も語ったことがない。親父は母親の喪に入り、それっきり桓玄のもとに戻らなかった。

　母の喪の最中に、親父は母について書く代わりに、その父親である孟嘉の伝を記した。親父はその孟嘉伝を俺たち息子に何度か朗唱させた。父祖のことをよく記憶させるためだ。そのかいあって「君の諱は嘉、字は万年、江夏の鄂の人なり。曽祖父の宗は、孝行を以って称せられ、呉に仕えて司空たり」から始まる孟嘉伝を俺はいつでも暗唱できる。

　孟嘉は幼くして父を失った。二人の弟とともに母に孝を尽くす姿は近隣でも評判であった。沖黙にして遠量があり、弱冠にして同輩の者から尊ばれるようになったと、親父は記す。父祖のことを悪く書き始める子孫はまずいない。

　孟嘉の名は都にまで届き、庾亮に召されて廬陵郡の従事となった。庾亮は皇帝の舅として権勢を張り、このときは武昌に鎮守し、江州、荊州、豫州の三州の刺史を兼ね、天下の半分を荷う朝廷の重鎮であった。この庾亮は、かつて反乱軍によって都を追われた際に陶侃に助けを求めた男だ。陶侃は庾亮の風姿に惚れ込んで手を貸し、そのお陰をもって都に返り咲いた。陶侃が死ぬと、陶侃が育てた西府軍団をそっくり受け継いで征西将軍となって武昌に鎮守したのだった。

　孟嘉が赴任先の廬陵郡から武昌に帰還した折に、庾亮に「どうだ、廬陵郡はうまく治まっているか」と問われた。「私は知りません。宿舎に戻って部下に訊いてみましょう」と孟嘉は答えた。庾亮は払子で口を覆い「ほほっ」と笑った。後で弟に向かい「孟嘉はなかなか徳のある者だ」と言った。孟嘉はその日のうちに辞表を出し、歩いて家に帰った。母、兄弟ともに喜んで孟嘉を迎えた。

　孟嘉伝はこう記し、孟嘉が辞めた理由を明らかにはしない。己の統治に瑕疵のあろうはずがなく、わざわざ詰まらぬことを問う庾亮に腹を立てたのだろうか。親父は幾度か職を辞して村に帰ったが、その理由を家人に告げたことは一度たりともなかった。親父が官職を擲って帰ったときに、職を斡旋した伯父たちは大いに怒ったらしいが、孟嘉の娘である母は、孟嘉の母と同じように笑顔で迎えたのだろう。孟嘉伝は親父とその母を記すかのようでもあった。

　孟嘉は辞めて十日余り、勧学従事に召された。庾亮は学校を整備しつつあり、孟嘉の名望がその計画には是非とも必要だった。

　都から朝廷の大官である褚裒が武昌の庾亮を訪ねてきた。褚裒は人の器量を見抜く眼力があるとされていた。折りしも元旦のこと、州の人士が挙って庾亮のもとに集まった。褚裒は「君のところには孟嘉がいると聞いていたが、どの人か」と尋ねた。庾亮は「どうぞ御自身でお探しください」と言った。褚裒は並び居る人々を一瞥し、「あの人ではないか」と孟嘉その人を指差した。庾亮はそれを大いに喜び、孟嘉をますます重んじるようになった。庾亮が死に、その次に西府軍団の兵権を握ったのが桓温だった。孟嘉は桓温の参軍となった。

　今もって桓温ほど人の口の端に上る人物はいない。それほどの話題の持ち主であり、魅力的な人物だった。親父もしばしば桓温について語った。単に大司馬と言えば桓温を指し、桓公と人々は呼ぶ。豪爽にして風概あり、姿貌は甚だ偉であったと伝えられる。生まれて間もない桓温を見て温嶠は言った。「この児は奇骨がある。試しに啼かせてみよう」。桓温の泣く声を聞き、「これは真の英物だ」と言って己の姓を桓温に与えた。温嶠は庾亮を陶侃に引き会わせた際に、陶侃を渓狗と言った人物だ。

　桓温は若いときは貧乏だった。賭博に大負けし、債主に厳しく責められ、陳郡の袁耽に泣きついた。袁耽は賭博の名人として知られていた。袁耽はあいにくと喪中だったが、桓温のためならばと嫌な顔もせずに、喪中用の帽子を懐にねじこんですぐさま債主のもとを訪れた。賭博の借りは賭博で返すとひと勝負に及んだ。二人は大いに熱が入り、債主は「おまえなんぞはどうころんでも袁彦道の真似はできまい」と一度に十万銭を賭けた。彦道とは袁耽その人のあざなだ。債主は袁耽が喪中にあるのを知り、袁耽の顔は知らず、まさか目の前の人物はその人であるとは思ってもいなかった。袁耽は債主の上を行く豪快な勝負に出て百万銭を稼ぎ、懐より喪中用の帽子を投げつけ、「どうだ、この俺が袁彦道だとやっとわかったか」と言った。

　桓温は荊州刺史になり、徳治を旨とし、刑罰をもって民を脅すのを恥とした。杖で罪人を撃つ際には衣をかすめる程度に緩やかにせよと命じていた。あるとき桓温の第三子である桓式が遠くの任地より荊州に帰って父に言った。「先ほど杖罰を施しているのを見ましたが、杖は上にあっては雲をかすめ、下にあっては地を払うというありさまでした」。桓式は身体に少しも当たっておらず刑罰の態をなしていないと遠まわしに言ったのだが、桓温は「あれでも重過ぎるのではないかと心配している」と答えた。

　桓温は蜀の征伐を計画した。朝廷の人々は賛成しなかった。蜀は李特に始まって李勢まで六代ほぼ五十年続く国であり、長江の上流の好地を占め、攻めるには途中に三峡の要害があり、到底勝てないと口々に言った。一人、劉尹だけが賛成した。「桓温の賭博のやり方を見ればわかる。必ず勝つとわからぬときには、勝負をしない」。

　桓温は蜀征伐に向かった。三峡を遡っていたとき、部下の一人が猿の子を捕らえて舟中に繋いだ。子猿の母は岸にあって哀号し、百余里もの間、舟を追い続けた。岸の迫る場所で母ついに舟に飛び乗ったが、そのまま息絶えた。その腹を裂いてみると、悲しみの余り腸がずたずたに切れていた。桓温はこれを聞いて怒り、子猿を捕らえた兵士を免職にした。

　桓温は蜀を平定した。李勢の朝廷のあった宮殿で酒宴を開いた。蜀の国で官職を得ていた全ての者が桓温の前に集まった。桓温はもとより雄情爽気を備えていた。その日はことのほか音調英髪、凛とした声で、古今の成敗は人により、国家の存亡は才によると、豪放磊落に論じた。人々は桓温の姿と論旨を嘆賞し、散会して後も長く余韻を味わうという有様であった。

　桓温は李勢の妹を妾とした。寵愛は厚く、ただ妻の嫉妬を恐れて部屋の後ろの秘密の場所に隠していた。桓温の正妻は皇帝の娘の南康公主だった。公主は始めはそのことを知らなかったが、秘密を嗅ぎつけ、数十人の侍女を率い白刃を抜いて桓温の留守に妾を襲った。妾はちょうど髪を梳いているところだった。白い肌は玉のように輝き、公主の姿を見ても驚く様子はなかった。「国が破れ家が亡び、心に覚えずここにおります。今日ここで殺していただけるのなら、本懐です」。妾のその言葉に公主は恥じて退いた。

　桓温は長安の回復を目指して北征の途に上った。かねて若い日々にその地で内史をしていた金城を通りかかった。三十年前に植えた柳が十抱えほどの大木になっていた。桓温は柳を見上げて言った。「木でさえこのようである。まして人であれば、成すものなくして堪えられようか」。桓温は枝を引き葉を手にし涙を流した。

　桓温は洛陽を取り戻した。帝位に昇るお膳立ては全て揃ったがなかなか思い通りにいかなかった。寝床の中にあって「このように静まり返っていては、文王、景王に笑われてしまう」とつぶやいた。文王、景王とは先の魏朝の時代に、皇位簒奪の準備をして晋朝への道を開いた兄弟だ。桓温ははね起き、「後の世に芳名を流すことができないうえに、臭名さえも万歳に遺すことができぬのか」と言った。

　桓温が荊州刺史であった時代、九月九日重陽の節句に、桓温は竜山に遊んだ。桓温幕下の主だった者全てが集まり、みな戎服を着て桓温に従った。ときににわかの風によって孟嘉の帽子が飛んだ。孟嘉は気付かなかった。桓温は左右の客に目配せをし、教えぬないようにさせ、孟嘉がどうするかを見ようとした。孟嘉は頭の上に帽子がないのを知らぬまま、しばらくして厠に立った。桓温は、孫盛という者に孟嘉をからかう文章を書かせ、それを帽子の上に載せて孟嘉の坐所に置かせた。孟嘉は戻ってそれを見ると、笑いながらさらりとお返しの文章を書いた。その文辞はまことに超卓、四座の者は感嘆した。

　桓温はあるとき孟嘉に言った。「人には勢いというものがある。たまたま今はそれが私にある。だから、あなたを駕御できるのだ」。

　孟嘉は長吏となった。役所にあってはもの柔らかな姿勢でありながら、正順だけはきちんと通した。家に俗な客は一人として訪れず、心に思うところがあると、人より離れて車に乗り、竜山に登り、景色を見つつ酒を呑み、夕べに至って家に帰った。

　孟嘉は酒が好きだった。多く呑んでも乱れず、懐うところに任せて意を得れば、融然として遠くに心を寄せた。傍らには人のいないような様子だった。桓温は孟嘉に言った。「酒に何の好いところがあって嗜むのか」。孟嘉は笑って答えた。「公は酒中の趣を得ておられぬのでしょう」。桓温はまた言った。「妓の歌を聞くと、糸の音は竹の音に及ばず、竹の音は人の声に及ばない。それはなぜか」。孟嘉は答えた。「少しずつ自然に近づくからでしょう」。

　孟嘉は、行いを人に合わせるようなことはせず、己を誇ることもせず、喜びも怒りも顔に出さなかった。病を得て家に帰り、五十一歳で没した。

　孟嘉伝の最後は次のように結ばれる。

　道は遥かであり、孟嘉の運は短く、遠業を終えられなかった。惜しいことだ。「仁者は必ず寿を久しくする」と言うが、この言は誤りであろうか。

　遠業とは何か。孟嘉伝には幾分か奇妙な一節がある。親父は、叔父の陶夔か聞いたこととして一つのことを記す。陶夔は劉耽に尋ねた。「孟嘉が今も生きていれば三公の地位まで昇ったでしょうか」。劉耽は桓温の幕府で孟嘉と同僚であり、孟嘉の人となりをよく知っていた。三公とは朝廷の最高の地位だ。劉耽は答えた。「もともと三公となるべき人であった」。

　孟嘉は、大司馬陶侃、大司馬桓温と並ぶ人物であり、桓温自らが言うように、たまたま勢いが桓温の方にあったために孟嘉は桓温の下役として終わった。とすれば、遠業とは何か。大司馬陶侃、大司馬桓温と並ぶことか。そしてこの二人はともに皇位に就くのを目指しながら果たせずに終わった。

　晋朝から皇位を奪い取るのに成功したのは桓温の末子の桓玄だ。桓玄は桓温が死んだときまだ五歳だった。桓温の部下が献上した妓女の子である。阿薛、阿郭、阿馬の三人の妓女が一緒に献上されたが、ある夜、流れ星が庭の甕に落ち、その三人が覗くと、径二寸ほどの火の玉があった。吉兆を授かろうと、三人がこもごも柄杓で掬おうとし、三番目に試みた阿馬だけが上手に柄杓に掬い入れ、そのまま呑んでしまった。阿馬は胎中に不思議な気配を感じ、ほどなく桓玄を身ごもった。

　桓温が死んで喪が明けると、桓温に仕えていた文官、武官が別れを告げて去っていった。桓玄は伯父とともに人々を見送った。伯父は桓玄に言った。「この人たちはおまえの家の吏佐だったのだぞ」。桓玄は大声で泣いた。周囲の人々は深く感じ入った。

　桓玄はそれから三十年にして、父親の思いを果たした。皇帝となり、国名を楚と号した。もとの晋朝の皇帝であった安帝は廃されて柴桑にほど近い潯陽に幽閉された。このとき俺はなお五歳、母の喪のために桓玄の幕府を辞して柴桑の村に引っ込んだままになったこのころの親父の思いは知るべくもなかった。

　　　昔から南畝のことを聞いていたが　　　　　　在昔聞南畝

　　　この年になるまで実践はしていなかった。　　当年竟未践

　このように始まる詩をその年の春に書いた。南畝は詩経に歌われる古代の畑だ。遥か昔から人々が行ってきたように、親父も鋤を荷っての畑仕事を始めた。親父が官職にあって留守の間は、陶敬遠の小父さんが家の田畑を管理していた。

　　　日が落ちて一緒に帰り　　　　　　　　　　　日入相与帰

　　　酒を開けて近隣の人々と互いに労う。　　　　壺漿労近隣

　　　長吟しつつ門を閉じると　　　　　　　　　　長吟掩柴門

　　　農に生きる民になれたようだ。　　　　　　　聊為隴畝民

　親父はこの春からは陶敬遠の小父さんとともに本気になって農夫になろうとしたはずだったのだが、その翌年、桓玄を滅ぼしたばかりの劉裕の幕府に出仕した。劉裕の元へと向かう途中の舟で一篇の詩を記した。

　　　若いころより俗事の外に心を寄せ　　　　　　　　　弱齢寄事外

　　　琴と書に懐いを委ねてきた。　　　　　　　　　　　委懐在琴書

　　　葛の衣をはおって自らを満足するを喜びとし　　　　被褐欣自得

　　　しばしば食えなくても安閑としていた。　　　　　　屡空常晏如

　　　時が来たのか、かりそめの符合によってか　　　　　時来苟冥会

　　　轡を曲げ大きな通りの中へと出ることとなった。　　宛轡憩通衢

　　　杖を投げ捨て、旅の朝仕度を命じ　　　　　　　　　投策命晨装

　　　しばらくはと田園と遠ざかったのだ。　　　　　　　暫与園田疏

　　　遠く遠くこの一艘の舟は進みつつあり　　　　　　　眇眇孤舟逝

　　　綿々として帰りたいとの思いがまつわる。　　　　　綿綿帰思紆

　　　この旅はすでに遥かなものではなく　　　　　　　　我行豈不遥

　　　登り降りは千里余りとなった。　　　　　　　　　　登降千里余

　　　目は次々に変わる川の光景に倦み　　　　　　　　　目倦川塗異

　　　心は山沢にある我が家を思う。　　　　　　　　　　心念山沢居

　　　雲を望んで高く飛ぶ鳥に恥じ　　　　　　　　　　　望雲慚高鳥

　　　水に臨んで泳ぎ回る魚に恥じる。　　　　　　　　　臨水愧遊魚

　　　真の想いは初めから襟の内にあった　　　　　　　　真想初在襟

　　　形や行為のために束縛されるものではない。　　　　誰謂形跡拘

　　　しばらくは時世の変化に乗って遷ろうとも　　　　　聊且憑化遷

　　　ついには我が隠棲の盧に帰るのである。　　　　　　終返班生盧

　漢代の班彪のように隠棲するつもりだと詩に歌いながらも劉裕のところに向かった。それはなぜなのか。形や行為に束縛されるためか。真の想いに反しながらも時世の変化に乗ろうというのか。

　違うだろう。孟嘉の遠業だ。桓温と孟嘉のように桓玄と陶淵明もなると思い描き、桓玄は桓温に及ばず、再び、桓温と孟嘉のように劉裕と陶淵明もなるとのを思い描いたのだろう。劉裕は確かに桓玄を凌いだ。

　親父は一年ほど劉裕の幕僚として各地を旅し、翌年の秋に彭沢の令となり、三ヶ月にしてその職を捨てて家に帰った。それからのほぼ十年、俺は退隠した親父を見続け、親父が五十二歳の年に、親父は死んだものとして家を出た。

　　　＊　　　＊　　　＊

　丹淵の水辺の向こうに、親父と道案内の少年と阿黄がいる。日が落ちたころに親父たちは足を止めた。火を起こし、少年は背負ってきた荷より食物を出し、腰に下げていた瓢箪より酒を出した。俺は遠くその様子を覗いながら、懐に入れてあった雑穀の団子と芋を食った。火の傍らに座す二人の様子から、親父が少年に向かってしきりに何か話していると見えた。親父の声など二度と聞きたくもなかったが、夜が更け、池を渡る風が次第に冷くなるにつれ、親父の声が勝手にこちらの岸へと近づき、俺の耳に入り込むまでになった。

　親父はいつものように詩を吟じる。

　　　古えを仰ぎ東戸の時を想えば　　　　　　　　　仰想東戸時

　　　食うに余る食物を田に残していた。　　　　　　余糧宿中田

　　　満ちて腹鼓を打って、思うところはなく　　　　鼓腹無所思

　　　朝に起き暮れに帰って眠るだけだった。　　　　朝起暮帰眠

　　　こうした世にはもはや会えぬなら　　　　　　　既已不遇茲

　　　ともかくも自分の畑に水をそそぐとしよう。　　且遂灌我園

　かねて知る親父の詩だ。微かでも耳に達すれば了解できる。相変わらずの調子だ。

　水面に火が映り、燃える火の影に親父の背が黒く浮かぶ。火の向こうで少年が親父を見守っている。阿黄が火の脇に寝そべる。親父は吟じ終わると瓢箪の酒を一口含み咳払いをする。これも変わらぬ癖で、次に何を言うかも予想がつく。

「汝輩もよく知るように、上古の東戸季子の世に、道を行く人は落ちるものを拾わず、余剰の食べ物は田畑に残された。そのような世に巡り会えなかったのは嘆いて余りあるが、しかし、この桃花源こそは東戸季子の世に優るとも劣らぬようだ。そなたはどう思うか」

　聞きなれた親父の声た。その一音を得れば、親父の言う意を解するのは容易だ。

「私はここより外の世界を知りません」

　少年は高くよく通る声で答えた。賢い子だ。洞の長老たちが道案内として選んだだけのことはある。

「鼓腹して思うところがなく、朝に起きて暮れに帰り眠る日々を送っているそなたを羨む」

「ここの人々は昔よりそうして来て、これからもそうし続けるでしょう」

　親父は、徐無山について語り出す。漢末の乱れに山に隠れた田疇とともに世を逃れた者は五千に達した。かつて俺は、その子孫は今も山にいるのかと問うた。親父は、田疇の遺風が郷里に残らぬはずがないとあいまいな答え方をした。

　親父は再び詩を吟じる。

　　　遥かに遥かなる昔　　　　　　　　　　　　悠悠上古

　　　初めの初めに生きた人々よ。　　　　　　　厥初生民

　　　胸をそらし自ら足りるとする生活に　　　　傲然自足

　　　素朴であり真を心に持っていた。　　　　　抱朴含真

　　　智や巧みが萌すや　　　　　　　　　　　　智巧既萌

　　　欲しいものと出来るものの間が崩れた。　　資待靡因

　幾度か聞いた詩だ。親父の吟じる声が耳に入り、耳に入れば心に入り、心に入れば、俺は考えねばならなくなる。だからこそ俺は聞きたくない。

　朴とは何か、真とは何か。親父は一度たりとも語っていない。だからこそ、朴とは何か、真とは何か、俺は考えてしまう。少年も考えているだろうか。似非隠者の言うことに惑わされてはならない。

　親父の吟じる奇怪な声は、朴と真のままに生きたとされる上古への憧憬を抱かせる。奇妙に長く短く上下する親父の声は、不思議と胸を焦がるばかりにする。聞いてはならない。

　遠くの過去に憧れて何になるのか。悠々たる上古の時代から人は特に変わりはしないだろう。今生きる者も上古に生まれ合わせれば、朴を抱き真を含む、当時としてはごく普通の人として生きただろう。上古の生民も今に生まれ合わせれば、智と巧を具えた俗な民となるだろう。

　親父の詩に引き摺られてはならない。親父は身勝手にも彭沢の令を擲って柴桑の村に帰り、似非隠者となった。似非ではなく真であるかのように詩文と見かけで人を騙した。騙した相手は、俺たち息子、親類縁者、近隣の人々、都の人士、それに親父自身だ。親父はかつては己を孟嘉に比し、あるいは、桓温、桓玄、劉裕の上を行き、大司馬陶侃の後に繋がろうとした。それが果たせぬとわかると、村に帰り、首陽山の伯夷、叔斉、あるいは、商山の四皓、徐無山の田疇に己を比した。親父は似非隠者だ。親父の思うところへと人々を引き摺って行こうとする。あのときの遺言は、死後も息子たち己の思うところから放すまいとするものだった。

　親父は再び吟じる。

　　　伏羲、神農の上古より久しく下るにつれ　　　　　羲農去我久

　　　世を挙げて真に返ることはなくなった。　　　　　挙世少復真

　　　御苦労にも魯の爺さんが　　　　　　　　　　　　汲汲魯中叟

　　　綻びを縫って淳朴に戻そうとした。　　　　　　　弥縫使其淳

　上古を仰ぎ、道の伝承について詠んだあの長い詩だ。上古の時代より下るにつれて世は真に返ることが少なくなった。またも真だ。真とは何なのか。

　魯の爺さんとは孔子だ。孔子はせっせと弥縫策を施し淳なる世に戻そうとした。孔子によって一時期礼楽は面目を新たにしたものの、秦の時代に詩書は焼かれ灰燼に帰し、漢代に叔孫通のような輩が出て礼を興そう努めた。人はただ名利を求めるばかりとなった、と親父は続けて歌う。

　　　こんな歴史を見ては、飲まないことには　　　　若復不快飲

　　　頭の上の頭巾に背いたとされよう。　　　　　　空負頭上巾

　　　とは言え、私の言うことには誤りも多かろう　　但恨多誤謬

　　　君よ、酔人のたわごとを許されよ。　　　　　　君当恕酔人

　そうだった、これが親父の常だ。前々からわかっていたではないか。上古について、朴について、真について、親父が似非隠者であるのは知りながらも、考えようとしていた。親父の詩の逃れられない罠だ。それこそ親父の思う壺だ。人を罠に落としておいて、酔人のたわごとだと言う。ならば初めより言わぬがいい。無性に腹が立つ。

　親父の声をもう聞くまいと拒もうとし、しかし、池の風は親父の声をいよいよはっきりと運んでくる。

　　　友人たちが私の生き方を愛でて　　　　　　　　故人賞我趣

　　　壺をひっさげて一緒にどうだと来てくれた。　　挈壺相与至

　　　草を敷いて松の下に座し　　　　　　　　　　　班荊坐松下

　　　しばし酌み交わせばすぐに酔う。　　　　　　　数斟已復酔

　　　老人は言葉を乱して話し　　　　　　　　　　　父老雑乱言

　　　觴の巡り方は順番を失う。　　　　　　　　　　觴酌失行次

　　　自分があることさえ忘れれば　　　　　　　　　不覚知有我

　　　貴いとするものがあろうとは思えない。　　　　安知物為貴

　　　必死に名利を追う者はそこに留まっているが　　悠悠迷所留

　　　酒の中にこそ深い味がある。　　　　　　　　　酒中有深味

　親父は酒を呑みつつ吟じている。桃花源における最後の夜こそ、深い味があろうか。桃花源の古老との酒宴はこのようであったと親父は感じたろうか。古老は親父を殺せと俺に命じた。智と巧がなく、朴であり真である上古の民などどこにもいない。今だけでなく、初めからいなかったのかも知れない。

　親父の詩を否定する。聞くまいと、声を押し返そうとしても詩はいつまでも響き続ける。東方にほんのり明かりがさし、歪んだ月が空に昇る。

　　　白い日は西の山に沈み　　　　　　　　　白日淪西阿

　　　白い月が東の嶺を出ずる。　　　　　　　素月出東嶺

　　　遥か万里までも輝かせ　　　　　　　　　遥遥万里輝

　　　溢れるばかりの中空の光。　　　　　　　蕩蕩空中景

　　　部屋の中へと風が入り来て　　　　　　　風来入房戸

　　　この夜ふけ、枕も床も冷える。　　　　　夜中枕席冷

　　　季節の変わりやすさを覚え　　　　　　　気変悟時易

　　　眠られぬままの夜の長さを知る。　　　　不眠知夕永

　　　言おうとして和してくれる者はなく　　　欲言無予和

　　　杯を揮って己の孤独な影に勧める。　　　揮杯勧孤影

　　　日月は人を擲つように去り行き　　　　　日月擲人去

　　　志はあっても駈けることができない。　　有志不獲騁

　　　これを思うと、心は悲惨な思いに沈み　　念此懐悲惨

　　　暁になっても静まらない。　　　　　　　終暁不能静

　志とは何か。似非隠者が何を為そうというのか。孤独な己の影に杯を勧めていればいいではないか。志とは上古の世に戻すことか。この世において桃花源は最もそれに近い。道が道として現れる場所があるとすればいまの世においては桃花源しかなく、全ての世を桃花源のようにするという志を抱くのは尊いことであろうが、朴を抱き真のままの民はそのようなことを敢えて願いはしないし、朴を抱き真のままの民であれば桃花源は一日もこの姿を留められず消えてしまうだろう。

　親父がもしこここより柴桑の村に帰れば、上古に近いこの桃花源を賛え、桃花源の存在は世に知られるところとなろう。親父が最も誇りとし、追慕してやまない大司馬陶侃のような男が、この理想郷を我が手中にしようと、すぐさま来て蹂躙するだろう。桃花源は必ず滅ぼされる。桃花源といえども永遠に同じではいられないとしても、一日でも長く保つためであれば親父などは殺してよい。親父の賛美する上古に似たこの場所を残すためだ、それで死ねるのなら親父も本望と言うものだ。

　月明かりの広がる空を睨む。俺のすべきことは決まっている。昨日から決めていたその通りのことをする。いつ実行するのか。親父と少年の眠るのを待つ。

　冷えてきた。膝を抱き寄せる。もう聞くまいとする親父の声の響きが、いつしか低く少しずつ遠ざかっていく。人の声とも水の音とも風の音ともわかたぬわずかなざわめきばかりが耳にあって、我知らずのうちに浅い眠りへと落ちていく。

　ただ、眠っていても、心のどこかではこれからすることを考え続け、外界にわずかな変化があってもそれが何であるのかを認識できる程度に意識は覚醒している。池で魚がはねるのも、森で眠る鳥が声を上げるのも、遠くに獣が吠えるのも、俺は全て知る。むろん、親父の声がやまずに続いているのも知っている。一方で、それは夢なのか、親父の家を飛び出した夜明けが甦り、兄貴と洛陽に入城した秋が甦り、苻淑を初めて抱いた夜が甦り、桃花源に桃の花が満開となった春が甦る。あの男を斬ればここにいられると村人が言い、俺は「必ず仕留めます」と約束をしたのが甦る。それを実行するのは夜の間であるから、もう間もなくとなっているのだが、この眠りが永久に続けばいいと夢うつつの中で思う。

　瞼の裏に光が走る。目を開ける。赤い光だ。

　中天に月がある。その青白い光を掻き消す明るさがある。林の枝が赤黒く染まっている。立ち上がる。俺の影が黒く草の上に落ちる。光の源が背後の池にある。振り返る。赤い光の柱が立つ。

　強い光に目が眩み、俺は倒れそうになる。顔を伏せる。わずかばかり光に慣れ、柱の中央に巨人が立っている。全身が血にまみれ、その血が強烈な光を放っている。巨人の膝元に黒い三つの影がある。輪郭は親父と道案内の少年と阿黄だ。

　巨人は両足を開いて立つ。左の足は前に踏み出され、右の足は太い桎によって水面と繋がれている。脛のあたりを捉える桎は深く食い込み、骨が半ば剥き出しとなっている。両腕は大きく後ろに反り返る。遥か山上の木の幹と結ばれる。髪は八方に逆立ち、巨大な目を開き、口から鋭い歯を露わになり、憤怒の形相すさまじく、その怒りもまた赤い光の源となっている。

　喉の奥を鳴らし、竜巻のような吠え声を出す。頭を震わせ、両腕を揺り動かし、足を踏む。腕に繋がれた木々がしなり、山が波打ち、池の水面が大きく湾曲し、桎がいっそう強く足に食い込み、血が溢れ出る。吠え声は長く続き、赤い光はいよいよ強まり、山は燃えるばかりとなる。

　虚空に二羽の巨鳥が現れる。一羽は翼を広げて真っ直ぐに飛ぶ。姿は雕に似て、黒い文様に覆われ、白い首の先に大きな頭があり、赤い嘴が不気味に映え、虎の爪がきらりきらりと輝く。一羽は翼を広げて旋回する。姿は鴟に似て、黄色い文様に覆われ、白い首の先に大きな頭があり、長い嘴が不気味に突き出し、赤い足が鈍く輝く。二羽は巨人の頭上で、あるいは晨鵠のように鳴き、あるいは夕鵠のように鳴く。

　巨人は身体を震わせて叫ぶ。その声は長く長く続き、ついには永久に続くかと思われてついに息が尽き、声はやみ、巨人はうなだれる。巨人の放つ光が弱まり、西に傾きゆく月が天上に姿をくっきりと輝かせ、二羽の鳥が巨人の左右の肩に止まる。

「危よ、怒るのをやめるがいい」

　響いたのは親父の声だ。巨人は顔をわずかに上げる。

「誰だ、俺に命じるのは」

　巨人は虎のような声を出す。

「柴桑の隠士、陶淵明、字は元亮」

「それが俺に命じるのか」

「そうだ。危よ、怒るのをやめるがいい」

　巨人は山海経に記される危だ。危とは貳負の臣だった者。貳負は●窳に仕えていたが、危を使って●窳を殺した。人々は●窳の死を悼み、巫彭、巫抵、巫陽、巫履、巫凡、巫相の六人の医師がその屍を挟んで不死の霊薬を使って蘇生させた。●窳は蛇身人面の姿となって息を吹き返した。天帝は●窳殺しの罪を怒り、危を疏属の山に縛りつけた。右足に桎をはめ、両手を山上の木に繋いだ。

「やめはせぬ」

　危は声を震わせる。

「天地が続く限りその怒りを続けるのか」

「さもなければ、この桎が切れ、この腕がほどけ、自由になるまでだ」

　危は身体を捩る。池と山が揺れる。桎は切れず、腕はほどけない。

　親父は静かに言う。

「天帝の為した仕置きだ。あがいても身を傷付けるばかりだ」

「ならば、あるいは大鶚のように、あるいは鵔鳥のように、翼ある身に変じ、大空を飛ぶまでだ」

　危は左右の肩の鳥を見る。大鶚は欽駓が変じた鳥、鵔鳥は鼓の変じた鳥だ。

　人面竜身の鼓は、欽駓を誘って、崑崙の南で葆江を殺した。天帝は怒り、二人を鍾山の東の瑤崕で罰した。二人は殺され、欽駓は大鶚に、鼓は鵔鳥となって逃れた。大鶚が現れるところ大兵乱が生じ、鼓の現れるところ大旱魃が生じる。

「天帝に罰せられながら、なおも鳥と変じてさらに世に悪を為そうと言うのか」

「柴桑の隠士ごときに詰問されるいわれはない」

　危は吠える。危は再び憤怒の形相を現し、赤い光が山を燃やし、大鶚と鵔鳥が空を舞う。危は山と池を揺さぶりつつ叫び、長い長い息が尽きてようやくに止み、光が薄れ、大鶚と鵔鳥が危の肩に降りる。危はうなだれる。

　親父は大きく息を吸い、いつもの調子で詩を吟じる。

　　　天帝の鏡は明明たるもの　　　　　　　　　　　　　明明上天鑒

　　　悪を為すともしおおせはしない。　　　　　　　　　為悪不可履

　　　長く足かせに繋がれる刑はすでに激しく　　　　　　長枯固已劇

　　　大鶚、鵔鳥のように変じようとも恃めぬ願いだ。　　鵔鶚豈足恃

　危は怒る。危は唯一自由になる左足を大きく上げ、親父を踏み潰そうとする。親父は平然と動かない。真っ赤に輝く危の足は踏み下ろされ、大きな足の下に親父の身体が潰れようとするとき、阿黄が跳び、危の足の親指に食らい付く。阿黄は危の足を捩じ上げ、危は怒って吠える。阿黄は危の鼻へと飛び移り、顔を引っ掻いてから、池の水面に降り立つ。

「永遠に続く刑罰に苦しむ俺をいたぶるのはよせ。なぜそのようなことをするのだ」

　危はうめくように言う。

「そなたが私であるからだ」

「おまえが俺だと。おまえの腕は木に繋がれておらず、おまえの足は桎をもって水に繋がれていない。おまえが俺のはずはない」

「私はこの身に繋がれ、桎をもってこの世に繋がれている」

「おまえは天帝に罰せらるようなどのような罪を犯したのか」

　親父は両手を上げる。

「大鶚よ、鵔鳥よ、汝たちはここにいるべきでない」

　親父は詩を吟じる。

　　　羽ばたき帰る鳥よ　　　　　　　　　　　　　　　　　　翼翼帰鳥

　　　翔んでさらに飛ぶがいい。　　　　　　　　　　　　　　載翔載飛

　　　遠く遊ぶことは思わず　　　　　　　　　　　　　　　　雖不懐遊

　　　林を見て情を寄せるがいい。　　　　　　　　　　　　　見林情依

　　　雲に会えば上に下に飛び　　　　　　　　　　　　　　　遇雲頡頏

　　　互いに鳴き交わして帰るがいい。　　　　　　　　　　　相鳴而帰

　　　その道は遥かに遥かに遠くとも　　　　　　　　　　　　遐路誠悠

　　　君らの本性の愛するところは忘れはしないのだから。　　性愛無遺

　親父の声に合わせて、大鶚は晨鵠の声を立て、鵔鳥は夕鵠の声を立て、危の肩より離れる。虚空を舞い、月の光を浴びつつ、静かに彼方へと飛び去り、いつしか夜の空に消える。

「大鶚、鵔鳥はどこに行ったのだ」

「本来いるべきところ、本性の愛するところへと帰っただけだ」

「おまえの犯した罪は何か」

「鳥ならば知るところ、帰るべきところを失った」

「なぜだ」

「人であるから」

　親父は静かに詩を吟じる。

　　　ああ、私は何をしているのか　　　　　　　　　　伊余何為者

　　　人生という苦役に勉励している。　　　　　　　　勉励従茲役

　　　この形ある身は制約に似て　　　　　　　　　　　一形似有制

　　　元の思いだけは変わらぬものとしてあるのか。　　素襟不可易

　　　田園こそを日々に夢想し　　　　　　　　　　　　園田日夢想

　　　どうして離れたままでいられようか。　　　　　　安得久離析

　　　ついには帰りゆく舟を思いつつ　　　　　　　　　終懐在帰舟

　　　霜にも凋まぬ柏のようであればよいのだが。　　　諒哉宜霜柏

「そう言うのなら、元の思いのままに帰ればいいではないか」

　危は言う。親父は深く嘆息する。

「元の思いなどもとよりなければいいとは思わぬか」

「おまえは鳥を帰した。そのおまえが、元の思いなどなければいいと言うのか」

「危よ、そなたは怒っていた。桎は足よりはずれず、腕は木よりほどけぬからだ。外れるものであり、ほどけるものであるのなら、怒りはしないだろう。そなたが天地が続く限り怒り続けるのは、桎は足よりはずれず、腕は木よりほどけぬと知るからだろう」

「そうだ」

「遂げるを得ない私の素襟は、そなたの怒りと同じだ」

「おまえは隠士と言った。園田を日に夢想する元の思いはすでに果たしたのではないのか」

　　　若いとき心は壮にして激しく　　　　　　　　少時壮且��

　　　剣を撫して独り大地を歩いた。　　　　　　　撫剣独行遊

　　　近くに遊んだだけだろうと誰が言うのか　　　誰言行遊近

　　　西は張掖より東は幽州にも至った。　　　　　張掖至幽州

　　　飢えては首陽山の蕨を食らい　　　　　　　　飢食首陽薇

　　　渇しては易水の流れを飲んだ。　　　　　　　渇飲易水流

　　　しかし、互いに己を知る人に会えず　　　　　不見相知人

　　　見たのは古い墳墓だけだった。　　　　　　　惟見古時丘

　　　路のかたわらに高く土を盛った二つの塚に　　路辺両高墳

　　　伯牙と荘周が葬られていた。　　　　　　　　伯牙与荘周

　　　この二人のような人物は再びは得られない　　此士難再得

　　　私の旅は何を求めようとしたのか。　　　　　吾行欲何求

　巨人の危がもしも伯牙と荘周とは誰かと問えば、親父は咳払いをし「汝輩もよく知るように、伯牙は琴の名手、友人の鐘子期が死ぬと琴を聞かせる相手はいなくなったと弦を切り二度と琴を抱かなかった。荘周は荘子、友人の恵施が死ぬと議論する相手はいなくなったと口を閉じ二度と思索を語らなくなった」と言うだろう。

　危はそのようには問わずに、別の問いを親父に発する。

「知己を得ぬのを元の思いを遂げぬと言うのか」

「それのみではない」

「いずれは墓の下となるはかない人の生であるから元の思いを遂げぬと言うのか」

「違う」

　親父はきっぱりとした口調で答える。

　空よりひらひらと鳥が舞い下り、親父の目の先の中空に停止する。それは飛び去った大鶚、鵔鳥ではなく、昼間に二度見た、三本足の三青鳥だ。三青鳥は歌う。

　　　上古の三人の皇帝は大聖人であったが　　　　　　　　　　三皇大聖人

　　　今となっては三人ともどこにもいない　　　　　　　　　　今復在何処

　　　彭祖という人は長生を愛して八百年を生きたが　　　　　　彭祖愛永年

　　　この世に留まろうとして結局は逝かざるを得なかった。　　欲留不得往

　　　老いにも若きにも同じく一つの死があり　　　　　　　　　老少同一死

　　　賢人でも愚人でも特別な運命があるのではない。　　　　　賢愚無復数

　　　酔っ払っていればそんなことも忘れられようが　　　　　　日酔或能忘

　　　酒は歳をとるのを早めるだけだ。　　　　　　　　　　　　将非促齢具

　　　善を為すのはいつも喜びだろうが　　　　　　　　　　　　立善常所欣

　　　誰かが誉めてくれるとは限らない。　　　　　　　　　　　誰当為汝誉

　　　生について考えすぎるのは逆に生を傷つけるだけで　　　　甚念傷吾生

　　　適宜、運に任せていくのがいいのだろう。　　　　　　　　正宜委運去

　　　大いなる変化に身を任せて波の間に間を漂い　　　　　　　縦浪大化中

　　　喜びもしなければ、恐れもしないでいるのがいい。　　　　不喜亦不懼

　　　尽きるときが来たら尽きればいいだけ　　　　　　　　　　応尽便須尽

　　　あれこれ一人で考えるのはやめておくがいい。　　　　　　無復独多慮

　親父は三青鳥に向かって言う。

「西王母様の使いである三青鳥よ、そなたはそのように歌ってくれるが、人である限りはそうはいかぬのだ」

「生を傷付けてまでなぜ考えるのです」

「そのために考えるのだ。三青鳥よ、そなたはそのことを良く知るはずだ。そなたが根碩の袋から出た鳥であるのならば」

　三青鳥はうなずく。

「三青鳥よ、三青鳥。やはりそなたはそうであったのか。根碩よ、根碩。君は山羊の後を追って瀑布を潜り、洞穴を抜け、香草の敷く野原を歩んだ。一人の娘に会い、娘は『あなたが来るのをずっと待っていた』と言った。二人はそこで一緒になった。そこはこの上なく美しい場所。何の患いもなく、自ら作る物を自ら食して自得した。根碩よ、根碩。君は自得していながら、元いた村が恋しくなり、娘のところをこっそり離れ、香草の敷く野原を歩んだ。娘は根碩を追い、根碩の心を知り、根碩に袋を渡した。『これを開けてはなりません』。根碩は洞穴を抜けて元の村に戻った。根碩よ、根碩。君は、元に村に戻ると、今度は娘が恋しくなり、袋を開けた。中より出たのは、三青鳥よ、君ではなかったのか」

「そうです」

「ああ、根碩よ、根碩。君は畑の中に立ったまま死に、後に蝉の抜け殻のような君の身体が残った。根碩よ、根碩。君は娘のところに帰ったのか。そうではあるまい。人は鳥ではない。帰るべきところを持たない」

　三青鳥はふわふわと舞い上がる。

「そなたは西王母の元に帰るがいい」

　三青鳥は飛び去る。

　危が叫ぶ。

「柴桑の隠士、陶淵明よ。そなたが天帝に対して犯した罪とは以上のようなことか」

「そうだ」

　親父の返事を聞き、危は吼える。

「そなたを人として天地の間に置いたのは天帝ではないか。そなたが天帝に対して犯した罪とは、遂げ得ぬ元の思いを抱いたことだ。ならば、なぜ天帝はそなたが遂げ得ぬのをわかっていながら元の思いをそなたに抱かせたのか。天帝こそまことに罪が深い。朴も真もこの世にないものでありながら朴と真があると思わせ、天地間に道はないにもかかわらず道があると思わせる。そもそもそなたに罪を犯させようと天帝は偽りを為すのか。その偽りのためにそなたは罰せられるのか。俺と同じように」

　危は赤く燃える。激しい怒りに危は吼え、首を震い、足を踏み鳴らし、腕を揺する。天地の続く限り堅く結ばれ、きつく締められているはずであるのに、腕は山の木からほどけ、足は桎からはずれる。両手、両足が自由になった危は喜びの声を上げる。

「柴桑の隠士、陶淵明よ、俺は天帝に勝った。俺はおまえの元の思いを遂げさせてやる。帰るべきところにおまえを連れて行く」

　危は両腕を大きく広げる。旋回を始める。危の動きにつれて池の水が回る。危はぐるりぐるりと回転を速め、池の水が速さを増し、波打つ水が渦に巻かれる。

　親父と少年と阿黄は渦の上に静かに立ち続け、危はいよいよ速く回ってその背と腹が一つになり、池全体が深い渦となり、中心が無限の彼方へと遠くえぐれる。危の巨大な身体は渦巻きの深淵へと沈み行く。

「柴桑の隠士、陶淵明よ、来るがいい」

　危の声が轟き、親父は前に歩み出る。

　渦の中心は限りなく深い洞。どことも知れぬ奥の奥が白く輝く。危はその光に吸われて沈んで行き、親父はその危に向かって進む。

　ここで逃してはならない。何のために俺はここまで来たのだ。親父を殺すのだ。

　親父と桃花源は引き換えにできない。俺は五渓蛮の民、陶佟だ。柴桑の隠士、陶淵明は、桃花源の仇敵、大司馬陶侃の曾孫だ。すなわち俺の仇だ。俺は陶淵明を殺す。苻淑のために。

　俺は親父への怒りを募らせ、草むらより飛び出る。池に駆け込み、渦の上を踏む。

　親父は巨人の危に招かれつつ渦の奥へと進んでいる。その先に何があるのか。親父はそこに帰り着くべきところを得るのか。そうはさせない。

　剣を抜き放つ。ぐるぐると回る渦の中に突進する。親父の背が見る見る大きくなる。親父は杖をつき、いつものように右足を引き摺る。剣を水平に構え、親父の背中に真っ直ぐに向ける。全身の力を腕に込める。

　ここだ。

　俺はぐいと突く。その切っ先が親父の背に届こうとしたとき、阿黄が現れ、俺の剣は阿黄の口の中へと滑り行く。剣を止めようとする。俺の命を救ってくれた阿黄だ。しかし、全身の力を抜いても剣はそのまま突き進み、阿黄の脳蓋を貫く。

「阿黄」

　俺は叫びつつ、剣は進み続け、親父の背中に達し、確かな手ごたえを得る。

　親父が振り返る。俺を見る。にこやかに笑う。何かを言う。

　手から剣が落ちる。背中が引かれる。振り向くと、道案内の少年だ。その顔を見れば苻淑だ。なぜ。

　ああ、俺は本当に親父を殺したのか。見返ると渦は消え、桃花源の外にたった一人立っている。

第三回　柴桑

　陶家の墓は行き慣れた丘の一角にある。

　人のあまり通わぬ裏手の細道を辿ってきた。昇ったばかりの初夏の太陽が木々の間より漏れる。あの日、桃花源で親父の後を追ったときに似る。十年が経ち、親父が死んだとの噂を聞いてからも二年の歳月が流れた。

　柴桑の家を出たのは十四年前。そのとき親父は五十二歳で死んだと俺は決めた。実際に親父が死んだのは、噂を耳にしたよりも半年前の秋だったようだ。とすれば六十三歳だった。俺が定めた寿命よりは十一年も長く生きた。結構なことだ。桃花源で俺がその背中を剣で突いてからだって七年も生きた。まことに結構な死に方をして地下に眠っている親父に、良い生涯を送ったものだと言ってやるために、俺は陶家の墓を目指している。

　馬鹿な。以前ならそういう言い方もできただろう。本気でそう言えたかも知れない。そのように言うことで己を誤魔化せたかも知れない。今は違う。俺は十四年前に親父を嫌って家を出た俺ではない。あのときの俺と今の俺は違う。今の俺も家に戻る気はない。それは同じだ。柴桑の村の近くにまで戻っては来たが、これ以上近づく気はない。

　ならばなぜここにいるのか。なぜ親父を埋めた墓へと道を辿っているのか。正直に言えば俺にもわからない。墓に行っておかないと気がすまない。だから行く。なぜ気がすまないのか。よくわからない。親父が死んだとの噂を聞いてから二年も経ったのは、行くべきだとの確信を持てなかったからだ。今だって持っていない。それでもここに来たのは、行っておかずにはすまない気持ちがどうしても消せないからだ。

　この二年の間に、俺は潯陽の近くに二度来た。二度とも墓への道を辿りかけて戻った。行くべきだとの確信がなく、行って自分がどうなるとの予想もつかなかった。道の途中で逡巡し、前へ進もうとする足が竦むように感じられ、それに打ち勝ってまで行くだけの強い意志がなかった。行かねば気がすまぬのに、なぜ足が竦むのかわからなかった。

　今回は三度目。同じことをいつまでも繰り返してはいられないと、とにかく先へは進むと決めてここまで来た。決して戻りはしない。これで終わりにしたい。

　陶家の者には誰にも会わない。兄にも妹にも、生きているか死んでいるかわからぬ母にも会わない。俺は家を捨てた。会わぬと決めておかないと墓にまで行けそうにない。だから、誰にも見咎められぬよう、潯陽から人里離れた丘の裏手の道をずっと辿ってきた。

　ようやく、行き慣れた丘のいつもの歩き慣れた道にまで来た。緩やかに下る坂の向こうに、常に目印としていた公孫樹の大木がある。俺は立ち止まり、振り返る。ここで道は林の縁から出る。下に小さな崖があり、向かいに低い丘の連なりが見晴らされる。波打つ大地を隔て、彼方に凸兀とした幾つかの峰がそそり立つ。廬山だ。昇りゆく朝日を受け、丘は淡白く光るが、廬山の山容はまだ日の光を受けぬかのように黒く重々しい。

　親父の最も好んだ山だ。柴桑の村からだと北東に見るこの山を、土地の人々は南山と呼ぶ。家の庭からの南山はやや小さく穏やかに、この場所からの南山は大きく厳しく見える。そのどちらも親父は好んだ。庭の菊の籬を手入れしつつ南山を眺め、陶家の墓に行く前か帰りにはこの場所に南山を臨んだ。

　最も高い峰が南嶺。その頂に神廟がある。南に霄石の岩壁があり、虹を貫いて聳え立つ。東の黄竜の嶺の南に高さ四百丈の瀑布がかかる。白水だ。親父はそうした廬山の名所を、ここより腕を伸ばして一つ一つ俺たち息子に示した。親父が実際に廬山のそれらを巡ったかどうかは知らない。廬山の西のはずれなら俺も行った。潯陽の三隠に数えられた劉程之の庵があり、葵の花が咲いていた。そこらは廬山の内とは言いつつも、ここらの丘と大差なかった。

　廬山には慧遠が創始した白蓮社の仏寺、東林寺がある。親父は慧遠から山に入って仏弟子になってはどうかと勧められた。親父は南山をこよなく好んだが、その話は断った。柴桑を二度と出ぬとの誓いに背くのもさることながら、仏の教えを受け入れられなかったのだろう。慧遠は俺が洛陽にいたころに死んだ。慧遠と交流があった天師道の盧循からの誘いも親父は断った。天師道の教えは仏の教えよりも親父からは遠いところにあった。

　俺は天師道の祭酒だ。桃花源を出てからこうなった。俺は天師道の教理を信じていない。信じていないが、祭酒として人々に天師道の教えを広めている。儒家の教えについて必ずしも信じていなかった親父がそれを教えていたのと大差ないはずだ。

　廬山から慧遠の誘いが来たのは、俺が十六歳、親父が四十九歳のときだった。親父は一篇の詩を使いの僧に託した。人の形は尽きても、人の神は不滅であるとする慧遠の考えに同意できない旨を詩に記した。神とは何か。真であり心である。人にあっては精神であり、天地にあっては道であり、万物をそうあらしめている真理である。目に見え手に触れる形は滅びるのを免れないが、形の奥にある真実重要なもの、すなわち神は滅びないというのが慧遠の説だった。仏教であっても天師道であっても儒家の教えであっても老荘の道であっても、最も究極の真理ともいうべきものは永遠の存在であると信じられている。

　形と影と神。親父はこの三者の関係を考えていた。慧遠からの誘いを受けたころ、親父は歩きつつ自分の影を見、自分の身体に触れ、胸を押さえ、思案を続け、ようやくにして返事となる詩を記した。形とは人においてはその肉体だ。実際に目にも見え手にも触れられ、確かに存在していると知られる。影とは日が射せば形の背後にできるものだ。影は目には見えるが、形としての実質はない。神とは人においては人たらしめている真実のもの、心である。

　その詩において親父は形から影に向かってこう言わせた。

　　　天地はとこしえに没することがなく　　　　　　　　　天地長不没

　　　山川の姿は改まるときがない。　　　　　　　　　　　山川無改時

　　　草木は常なる不変の道理を得て　　　　　　　　　　　草木得常理

　　　霜露のままに栄えてはしぼんでいる。　　　　　　　　霜露栄悴之

　　　人は最も霊にして智であると言われるのは　　　　　　謂人最霊智

　　　人だけが他の存在と異なるのか。　　　　　　　　　　独復不如茲

　　　たまたま世に人があるのを見ても　　　　　　　　　　適見在世中

　　　たちまち去ってしまえば帰るときがない。　　　　　　奄去靡帰期

　　　一人ぐらいいなくなっても気付かれないし　　　　　　奚覚無一人

　　　死んでしまえば親類縁者ももう思ってくれない。　　　親識豈相思

　　　平生使っていたものが後に残るくらいだ　　　　　　　但余平生物

　　　そう思うと、世を見るのはまことに悲しい。　　　　　挙目情悽洏

　　　形である私は登仙の術でも得ないかぎりは　　　　　　我無騰化術

　　　必ずそのようになるのは疑いの余地がない。　　　　　必爾不復疑

　　　影である君よ、私の言うことをよく聞き　　　　　　　願君取吾言

　　　酒があるときは一緒に呑むのを辞退しないでくれ。　　得酒莫苟辞

　親父のこの詩を口ずさんでみる。「一人ぐらいいなくなっても気付かれないし、死んでしまえば親類縁者ももう思ってくれない」。全くその通りだ。死んで二年も経てば親父を思う者などいないだろう。今もってこだわりを持つ俺はどうかしている。廬山は変わらずにあり、親父は墓の下に入った。「天地はとこしえに没することがなく、山川の姿は改まるときがない」。それだけのことだ。

　形と影と神。俺もしばしば考えてきた。長安を脱出して青泥においてどうするかを苻淑と話したとき、俺は一つの考えを苻淑に伝えた。あのときは心の内で信念として確かなものを得て語ったと思っていた。それは揺るがぬもののように思え、桃花源において生涯この信念のままに生きていけると思っていた。苻淑と別れ、俺はその信念を失ったのだろう。だから、信じてもいない天師道の教理を平気で人に教えていられる。

　形は必ず滅する。それは誰もが知る。だから、人は悲しみ、不滅のものを求める。形としては、酒を呑んで苦しみを忘れようというわけだ。影は形に答える。

　　　生とは言うべからざるものだ　　　　　　　　　　　　　　　　存生不可言

　　　影である私は、拙いこの生をせいぜい守るのに苦しむ。　　　　衛生毎苦拙

　　　まこと願うところは崑崙、華山の仙界に遊ぶことであっても　　誠願游崑華

　　　遠いそこへの道は絶たれている。　　　　　　　　　　　　　　邈然茲道絶

　　　形である君と遇ってから　　　　　　　　　　　　　　　　　　与子相遇来

　　　私たちは、悲しみも喜びも別にしたことがない。　　　　　　　未嘗異悲悦

　　　君が蔭に憩うとき私はしばらく離れるようでも　　　　　　　　憩蔭若暫乖

　　　日の下に出れば決して別れてはいない。　　　　　　　　　　　止日終不別

　　　しかし、ずっと一緒とはやはりいかない　　　　　　　　　　　此同既難常

　　　暗く滅びるときが来てしまう。　　　　　　　　　　　　　　　黯爾倶時滅

　　　身が没すれば名も尽きるというわけだ　　　　　　　　　　　　身没名亦尽

　　　その思いは心の内を熱く燃えさせる。　　　　　　　　　　　　念之五情熱

　　　生前に善を立てると死後にも恵みを残すという　　　　　　　　立善有遺愛

　　　君も頑張ったらいいではないか。　　　　　　　　　　　　　　胡可不自竭

　　　酒はよく憂いを消すものだというが　　　　　　　　　　　　　酒云能消憂

　　　善を積む努力がもたらすものに比べたらかなり劣るだろう。　　方此詎不劣

　酒で憂いを消そうとする形に影は必ずしも同意しない。「生前に善を立てると死後にも恵みを残す」ということをせよと言う。影は形の痕だ。人が正しく生きれば、その痕は死後にもくっきりと残る。これはこれで一つの言い分だ。形は滅び、日が当たる場所でしか見えない影はその形よりもはかなげであるが、実は永久に残る可能性がある。

　だが、人はなかなかそれでは安心できない。慧遠のように、神は不滅であると言って、形や影の嘆きを突き抜けた高みへと昇り、永遠なるものと自己を同化させたいと願うものだ。それが信じられれば、それに越したことはない。だから、ほとんどの人は何かしら永遠不滅のものを設定し、そこへ自己を回帰させようとする考えに惹かれる。親父も例外ではなかったはずなのだが、慧遠に与えた詩においては、神の不滅を否定した。

　　　大いなる造化は力を私することがなく　　　　　　　　　　　　　大釣無私力

　　　万象の理は自ずからくっきりとしている。　　　　　　　　　　　万理自森著

　　　人が天、地、人の三つの中央にあるのは　　　　　　　　　　　　人為三才中

　　　たぶん人には神が具わるからだろう。　　　　　　　　　　　　　豈不似我故

　　　神は、目に見える君たち形や影とは異なるものだ　　　　　　　　与君雖異物

　　　ただ人が生れてから、神も形も影も互いに依存し合ってきた。　　生而相依附

　　　善も悪も三者は一緒に行ってきたわけだから　　　　　　　　　　結託善悪同

　　　神である私も語らないわけにはいかないだろう。　　　　　　　　安得不相語

　　　上古の三人の皇帝は大聖人であったが　　　　　　　　　　　　　三皇大聖人

　　　今となっては三人ともどこにもいない。　　　　　　　　　　　　今復在何処

　　　彭祖という人は長生を愛して八百年を生きたが　　　　　　　　　彭祖愛永年

　　　この世に留まろうとして結局は逝かざるを得なかった。　　　　　欲留不得往

　　　老いにも若きにも同じく一つの死があり　　　　　　　　　　　　老少同一死

　　　賢人でも愚人でも特別な運命があるのではない。　　　　　　　　賢愚無復数

　　　酔っ払っていればそんなことも忘れられようが　　　　　　　　　日酔或能忘

　　　酒は歳をとるのを早めるだけだ。　　　　　　　　　　　　　　　将非促齢具

　　　善を為すのはいつも喜びだろうが　　　　　　　　　　　　　　　立善常所欣

　　　誰かが誉めてくれるとは限らない。　　　　　　　　　　　　　　誰当為汝誉

　　　生について考えすぎるのは逆に生を傷つけるだけで　　　　　　　甚念傷吾生

　　　適宜、運に任せていくのがいいのだろう。　　　　　　　　　　　正宜委運去

　　　大いなる変化に身を任せて波の間に間を漂い　　　　　　　　　　縦浪大化中

　　　喜びもしなければ、恐れもしないでいるのがいい。　　　　　　　不喜亦不懼

　　　尽きるときが来たら尽きればいいだけ　　　　　　　　　　　　　応尽便須尽

　　　あれこれ一人で考えるのはやめておくがいい。　　　　　　　　　無復独多慮

　神と形と影とは一体で、一つだけが不滅ということはないと親父は主張した。だから、永遠不滅のもの全てを否定したかというと微妙だ。道が存在するのが暗黙の前提になっている。「大いなる造化は力を私することがなく、万象の理は自ずからくっきりとしている」。まさに道だ。「大いなる変化に身を任せて」と言うのも、道に委ねるということだろう。道に帰り行くのならば、神は永遠性を得てもいいはずだ。

　やや曖昧なままのこの詩を、親父はどこまで確信を持って書いたのか。桃花源の丹淵の池において、三青鳥はこの詩の後半を歌った。親父は三青鳥に同意しなかった。なぜか。その親父を巨人の危は、帰るべきところに連れて行くと言って、渦の中に親父を導いた。親父はどこに行ったのか。全てはわからぬ。親父は死んだ。親父に問うことはできない。

　廬山だ。俺は先ほどからこの場所に立ったままだ。今度こそは墓に行こうと決めたのに、なおも思い留まろうとしているのか。行ったところで何かがあるわけでない。それはわかっている。廬山をここで見てもう十分なのではないのか。

　　　我が家は人里にある　　　　　　　　　　　　　　結廬在人境

　　　ただ車馬の喧騒はここに及ばない。　　　　　　　而無車馬喧

　　　どうしてなのかと問われれば　　　　　　　　　　問君何能爾

　　　心が遠くにあるからここは辺境だと答えよう。　　心遠地自偏

　　　東の垣根で菊を採ろうとし　　　　　　　　　　　採菊東籬下

　　　ふっと南山が遠く目に入る。　　　　　　　　　　悠然見南山

　　　夕方の最も山がよく見えるとき　　　　　　　　　山気日夕佳

　　　鳥はその山へと帰っていく。　　　　　　　　　　飛鳥相与還

　　　その景色の中に真の意がある　　　　　　　　　　此中有真意

　　　それを言おうとすると言葉を忘れる。　　　　　　欲弁已忘言

　親父は廬山を見てこのように歌った。真の意は言えないと言った。親父はいかなる真の意を掴んだのか。言葉を連ねなければ気のすまぬ親父でありながら、その言葉があるがために真の意は実は掴み損なったのか。親父が死んだ今はわからないし、生きていたときもこのようにしか言わなかった。墓に行っても何かがわかるわけでなく、何の意味もないのだろう。もちろんその通りだ。最初からわかっている。墓に行って何かがあるなどとは期待していない。

　たとえ親父自身が否定した神が滅びずに残っており、墓でそれが俺を迎えたところで、親父は最も大事なことは言わないだろう。「言おうとすると言葉を忘れる」。真意を掴んで言わぬのか、掴めないから言えないのか、掴んでも人には伝えられぬと知るからなのか。漠然としたところに放り出す。肝心なことは明言しない。つまりは逃げた。親父はいつもそうだった。

　　　言おうとして和してくれる者はなく　　　欲言無予和

　　　杯を揮って自分の孤独な影に勧める。　　揮杯勧孤影

　　　日月は人を擲つように去り行き　　　　　日月擲人去

　　　志はあっても駈けることができない。　　有志不獲騁

　　　これを思うと、心は悲惨な思いに沈み　　念此懐悲惨

　　　暁になっても静まらない。　　　　　　　終暁不能静

　親父には心に激しく波打つ何かがありながら、言おうとして言わず、言わずして言おうとし、何が親父の真意であるのかは明らかにしなかった。酒で誤魔化してはいけないと、自分の詩の中で神に言わせたのは親父だった。しかし、親父は真意は黙したまま酒を呑み、酒に逃げようとした。桃花源でも親父はこの詩を歌っていた。

　時には情けないことも歌った。

　　　人は皆うまいことをやっているのに　　　　　　　　　　人皆尽獲宜

　　　拙い私は生きる向きを失っている。　　　　　　　　　　拙生失其方

　　　これはどういう理によるものか　　　　　　　　　　　　理也可奈何

　　　それはそれとしておいて、一杯やって陶然となろう。　　且為陶一觴

　どういう理由か、問いかけだけがあって、その答えを出そうとしない。

　　　自分があることさえ忘れれば　　　　　　　　　　　不覚知有我

　　　貴いものがあろうとは思えない。　　　　　　　　　安知物為貴

　　　必死に名利を追う者は迷いの内に留まっているが　　悠悠迷所留

　　　酒の中にこそ深い味わいがある。　　　　　　　　　酒中有深味

　酒によって得られる陶然とした気分、それ以上のところは言わない。逃げていた。いや、本当にそうなのか。確かにはっきりと言うのからは逃げた。世の中からも逃げた。言葉で言うことから逃げながらも詩を吟じ多くを語ろうとした。世の中から逃げて柴桑の村に戻りながらも、しかし世に対して何かを為そうとする思いは抱き続け、俺たち息子に何がしかを教えようとした。ならば真に思うところを語ればよく、真に為したいことを為せばよいのに、為さず語らず逃げた。逃げたならば、口を閉じて言わず、目を閉じて世を見ねばよいのに、なお言おうとし、なお為そうとした。つまるところ隠者になれぬ似非隠者だった。だから俺は親父を嫌って家を出た。

　ならばなぜその似非なる親父の墓を訪ねようとしているのか。

　ここで俺はあえて笑う。

　　　それを言おうとすると言葉を忘れる。　　欲弁已忘言

　そういうことだ。来なければならないとする理由はどこかにありそうだ。しかし、それは言うとしたらそのときに消えてしまう。だから行ってみるしかない。ようやく廬山を臨むここを離れるきっかけをこれで俺は得る。

　歩き出す。行けば理由がわかるかも知れないし、来た意味はまるでなかったということになるかも知れない。どちらでもいいだろう。

　一つはっきりしていることがある。知りたいと思うことがある。俺は桃花源で親父の背中を刺した。確かな手ごたえがあった。その感触はまだ覚えている。親父は振り返り、微笑んだ。親父は口を開き、何かを言おうとした。それが何だったのか。

　あれから十年。桃花源への道はどこにもなく、俺はそれまで生きてきた歳月を忘れようとした。柴桑の村を出たときに、親父は死んで俺を束縛するものは全てなくなったと思ったのと同じように、そのときまでの俺はいなくなり、別の人間になったのだと思うよう努めた。親父などはむろん初めからいなかったし、桃花源がどこを求めてもないようにそれは元々なかったのだし、苻淑とは会ったことすらない。もしもそうであったらどれだけよかったか。親父の最後の顔は俺にまとわり続け、まして苻淑は。

　俺は苻淑を桃花源に残すために親父を刺した。この結果に満足していい。苻淑が桃花源で安らかに暮らしていると想像するのは大いなる慰めとなる。そこに疑念がなければだ。俺は苻淑の最後の言葉に背いた。失ってはならぬものがあると苻淑は言った。それが何であるか苻淑は明言しなかったが、俺がしたのはまさしくそういうことだった。とすれば、苻淑は安らかでいるはずがない。俺は苻淑なしに生きられない。苻淑を忘れることはできない。

　とすれば、別のことで自分の頭を一杯にしてしまうしかない。心の底から何かを信じてしまおうと、天師道の教団に入った。我武者羅に教理を覚えた。俺はもともと字を識り、老子の道徳経くらいは読めた。さほど時間をおかずに、人々に向かって教える立場になった。俺の力で多くの人を信じ込ませた。人は信じさせられたが俺自身は信じなかった。信じはしなかったが、天師道の教団に共感するところもあった。天師道が朝廷と戦い、この世に実現したいと考えているものは、桃花源のあり方にほぼ似る。人を天師道に導き、その人が戦いの場で死ぬようになっても、俺がさほど恥じ入らずにすんでいるのは、天師道の目指すものが虚妄ではないと知るからだ。天師道の教えを説くとき、桃花源の風景が目の前に浮かぶ。それは多くの人が実現を希求する場所だ。桃花源を思えば、自ずと親父や苻淑を思わずにはいられない。苻淑を忘れようとして天師道に入り、天師道の教えを広めるたびに苻淑を思い出す。一体俺は何をしているのか。

　あの道案内の少年は苻淑だったのか。そんなことはない。苻淑だと見えたのはむろん俺の思い違いだ。少年は俺が親父を刺したのを見た。俺と親父が渦の中に消えたのを見た。俺が約束を果たしたと、少年は桃花源の古老たちに報告しただろう。だから、苻淑は間違いなく桃花源にいられるようになったはずだ。それは最もよい結果だ。それこそが俺の望んだことだ。俺は苻淑と一緒に暮らして何ひとつ苻淑のためになることをしてやれなかった。陶淵明の息子である俺がいたために、苻淑が思う通りにならないことが幾つあっただろうか。俺などが苻淑にはふさわしくないというのは最初からわかっていた。せめて苻淑を桃花源に住まわせてやることができたのは、俺としてはこれ以上にない成果だった。俺はそのことを為すために苻淑のそばにいたのだ。それが終わったいま、俺の役割はすみ、苻淑のことはもう忘れなければならない。俺はそう思うよう努めてきたが、苻淑の最後の言葉に背いた事実は残った。

　親父はどうか。俺は親父を刺した。それで親父が死んだわけではなかったにしても、親父を殺そうとしたのは事実だ。親殺しは大罪だ。俺はその前にも、柴桑の村を出るときに親父を殺した。心の中ではあったが、親父は死んだことにした。桃花源では実際に親父の背中に剣を突き立てた。憎悪の念を最大限に燃やし、剣に全身の力をこめた。それほどまで親父を憎んでいたのか。ところが、親父は振り向き、俺に対してほほえみを見せた。親父は何かを言おうとした。それは何であったのか。親父を忘れようとしてもそれは常に気に掛かる。それを知るまでは親父を忘れられないに違いない。墓に行ったところでわかるはずがない。行かずにいてわかるはずがない。ならば行ってもみてもいい。

　廬山を背にする坂を下り終え、公孫樹の根元に立つ。この樹は何百年にわたってここに立っているのか。人より遥かに長く生きていながら、こうして初夏となれば、淡い色の生まれたばかりの新葉を開かせる。公孫樹の下から左の小径に入る。幾たびここを歩いたことか。親父がこの丘に墓を作って以来、陶家の人々は常にこの小径を通って墓に詣でた。親父も墓の下に入り、陶家の人々はなお折々にこの小径を通っているのだろう。今日は俺が行く。

　俺が幼いころ、この小径を行くとき、先頭に立つのは決まって陶敬遠の小父さんだった。小柄な小父さんは、一人だけ前に出て黙って同じ歩幅でゆっくりと歩いた。墓に到着すると、落ち葉を一枚一枚丁寧に拾い、土の壇を築き直し、背負ってきた供物を整然と並べた。小父さんが笛を手にすると、無弦の琴を抱える親父が横に並んだ。小父さんの笛の音は丘によく響いた。小父さんは俺が十四歳のときに死んだ。

　小径をたどる陶家の列の最後は常に陶敬徳の小父さんだった。陶敬遠の小父さんの弟だ。陶敬徳の小父さんも小柄だったが、おしゃべり好きだった。俺たち子供は道々虫を追い草を採り、陶敬徳の小父さんと話をした。陶敬徳の小父さんは、陶敬遠の小父さんが死んでから三年後に死んだ。死んだとき、陶敬遠の小父さんは三十一歳、陶敬徳の小父さんは二十九歳だった。親父は二人を陶家の墓に埋葬し、自分よりも若くして先に逝った二人の従兄弟の死を悼んだ。

　陶敬遠の小父さんが死んだのは義煕七（四一一）年八月十九日。親父は畑の作物、庭の木の果実、新たに出来た酒を携え、小父さんを埋葬するためこの小径をたどった。そのとき先頭は陶敬徳の小父さんに代わっていた。いつもとは違って小父さんはずっと無言だった。葬列の目印となる旗を手にし、背中を丸め、小柄な小父さんがますます小さく見えた。共に来た村人が穴を掘り、陶敬遠の小父さんの粗末な棺が土の中に据えられた。親父は地中に横たわる小父さんに向かって、いつものように弟と呼びかけた。細くしわがれた声だった。

「ああ、我が弟よ、君は節操があり気概に富んでいた。孝は幼齢においてより始まり、友愛の情は天より授かったそのままだった。思いは少なく、欲も少なかった。執着するところ、拘泥するところがなかった。ああ、我が弟よ、君は己を後にして人を先にし、もし財があるときには人に恵むことを考え、得失を計って世俗とかかずらう気持ちは全くなかった。君の表情は温和そのものだが、言うことの理非ははっきりとしていた。優れて高いことを楽しみとし友とし、ただ文芸を好んだ」

　陶家の人々の中で陶敬遠の小父さんは親父に最も似ていた。違うところと言えば、似非ではなかったことだ。

「ああ、我が弟よ、君は遥かな仙境に奇心を感じ、いつであったか、穀物を食うのをやめ、人の世の努めを捨て、山中へと入った。美しく流れる川、霞のかかる林に、君は朝には仙薬を採り、夕べには琴を奏でた」

　陶敬遠の小父さんは一時期、本当の隠者になろうとした。我が陶家には陶敬遠の小父さんが慕う真の隠者がいた。大司馬陶侃の孫の陶淡だ。陶侃には十七人の男子があった。長男と次男が早くに死に、三番目の息子である陶夏が後継ぎとされていた。陶夏はろくな功績を挙げられなかった上に病気で死んだため、その息子の陶淡は幼くして不遇の身となった。仙道を好み、養生の術を習い、十五六で、服を改め、穀類を絶ち、妻を娶らず、家には親の遺産として千金がありながら、俗世の営みに全く関心を示さず、易経を読み、卜筮を好んだ。臨湘の山中に廬を結び、白い鹿を養って友とした。近縁の者が様子を見に山を尋ねると、陶淡は川を渡り、谷水を越え、人を近づけさせようとしなかった。州の長官は陶淡を秀才として官職に推薦し、それを聞いた陶淡はさらに遠くの山に逃れた。それより陶淡は帰って来ることなく、どこで死んだかも知れずに終わった。陶淡はどこに行ったのか。陶侃に反して、陶家の元の住処である五渓蛮の洞へ帰ろうとしたのか。

　陶敬遠の小父さんも陶淡のようになりたかったのだろうが、小父さんは陶淡よりも親父により近かった。山の奥には消えずに、柴桑の村に戻り、親父の近くで普通の村人の一人として暮らした。親父が官職を得て外に出ている間には、小父さんが親父の田畑の面倒を見た。親父は陶敬遠の小父さんを信頼し、田畑だけでなく俺たち家族も小父さんに任せた。

　親父は土を棺にかぶせながら言った。

「ああ、我が弟よ、思うに私と君は親友であるのみならず、二人の父は兄弟であり、二人の母は伯母と姪であった。二人とも子どものうちに父を失い、互いの情愛はそのころより深く友愛は厚かった。一つの部屋で寝起きしたのは、今思い出しても楽しいことだった。冬に暖かい服などはなく夏に飢渇を満たす食べ物はなかったが、二人とも正しい道を志し、互いに笑顔で過ごした。乏しいことばかりであっても、二人でいれば飢えも寒さもなかった」

　俺も無口な陶敬遠の小父さんが好きだった。小父さんの家に行くと、小父さんは何も話さずにいるが、そばにいるとなぜかほっと安心できた。親父はよくしゃべるがそばにいると気が休まらない。もしも陶敬遠の小父さんが生きていたのなら、俺は柴桑の村にまだいたかも知れない。小父さんはそういう人だった。

「ああ、我が弟よ、私は仕官してからは人事に纏いつかれ諸方を流浪した。ついには本来の志に背いてしまうのを懼れ、官を辞して村に帰った。君は私の心を知り、世の衆議などは抛って置けばよいと言ってくれ、常に手を携え秋の刈り入れに行くようになった。舟を並べて川を渡ったこともあった。川べりで三泊したのはいつだったか。楽しかったではないか。川に水を酌み、月が静かに昇り天空高く澄むのを二人で見上げた。暖かな風がゆったりと吹き、杯を撫ぜながら、ああ、我が弟よ、無口な君はあのときはこう言った。『物は久しく、人は脆い』と」

　親父はここで声を詰まらせた。小父さんの棺はあらかた土で埋もれた。

「聖人は言った。『仁者は命久しい』と。私はこの言葉を信じていた。しかし、聖人の言葉は私を欺いた。君はようやく三十を過ぎたばかりの歳に、忽奄としてこの世を辞し、死者が帰り行く蒿里の人となった。茫漠として彼方に行き、こちらに帰還することはない。どうしてなのか、ああ、我が弟よ、君はなぜ私よりも先に逝ってしまったのか。もとより旧事は戻らぬ。しかし、思いは戻り戻って極まることがない。月日は流れ、暑さ寒さが交替し、死と生は二つに分かれ、、存と亡の境が引かれる。時を区切って君は永遠なるところに帰る道を登った」

　親父は墓に居並んだ人々を顧みた。

「遺された幼子はまだ正しく話すことができず、遺された妻は正しい礼儀をわきまえている。君の家の庭の木は元のままでも、家の中はがらんとし、幼児の泣き声が響き、妻がぽつねんと座す。『敬遠が帰ってきたぞ』と言う者はない。私はこの世の人であって彼の世の事情に昧い。君が帰る日のあるを知らない。ああ、我が弟よ、よって、吉日を占い、今日ここに道のほとりに君を祭ることとした。葬列の先に靡く旗の翻るを見て、ここに君に述べれば涙が目に満ちる。君の心がどこかにあるのならば、私の中誠を知ってくれるであろう」

　親父は

「嗚呼、哀しいかな」

　と、言葉を結んだ。

　あの葬列の旗もこの公孫樹の下を通った。陶敬遠の弟の陶敬徳の小父さんが死んだとき、旗を持ったのは一番上の兄で、やはりこの樹の下を通った。陶敬徳の小父さんも柴桑の村の内に住んでいた。

　　　悲しさに君が住んでいた家に行くと　　　　　　　　　銜哀過旧宅

　　　心に呼応して涙がしたたり落ちる。　　　　　　　　　悲涙応心零

　　　誰のために悲しむのか　　　　　　　　　　　　　　　借問為誰悲

　　　思う人は遥かな冥土にいるというのに。　　　　　　　懐人在九冥

　　　私のこの喪服は従兄弟の間柄を示しているが　　　　　礼服名群従

　　　恩愛は兄弟と同じだった。　　　　　　　　　　　　　恩愛若同生

　　　この門前に君と手を取り合ったあのとき　　　　　　　門前執手時

　　　君の命が先に傾くとは思いもしなかった。　　　　　　何意爾先傾

　　　命数だとすれば免れぬのだろうが　　　　　　　　　　在数竟未免

　　　山を成すべき君の一生は中途で終わってしまった。　　為山不及成

　　　母は悲しみの余りに病み　　　　　　　　　　　　　　慈母沈哀疚

　　　二人の遺児はわずか数歳だ。　　　　　　　　　　　　二胤纔数齢

　　　夫婦ともに位牌となった君の家は空しく　　　　　　　双位委空館

　　　朝夕に泣く声すらも起こらない。　　　　　　　　　　朝夕無哭声

　　　坐していた人がいない場所に塵が集まり　　　　　　　流塵集虚坐

　　　前庭は勝手に伸びる草でいっぱいだ。　　　　　　　　宿草旅前庭

　　　階段には見えずとも君の踏んだ痕があり　　　　　　　階除曠遊迹

　　　庭の木々にくっきりと君の思いが残る。　　　　　　　園林独余情

　　　大きな変化に乗って君は見えなくなり　　　　　　　　翳然乗化去

　　　永久に君の形は戻らない。　　　　　　　　　　　　　終天不復形

　　　遅々として歩みつつ帰ろうとするとき　　　　　　　　遅遅将回歩

　　　惻惻として悲しみが襟に満ちる。　　　　　　　　　　惻惻悲襟盈

　陶敬遠と陶敬徳の二人の従兄弟を親父はいつも弟と呼び、それ以上に友としていた。二人とも親父の深い信頼を得ていたから、陶敬遠の小父さんに続いて陶敬徳の小父さんも死んでしまって親父は大きな支えを失ったようになり、それで間もなく熱病に罹って例の遺言を俺たち息子に告げるということになった。あのときは本当に死ぬと思っていたようだ。俺にとってどちらがよかったのかわからぬが、親父は回復してさらに十二年余りを生きた。

　二人の小父さんのときと同じようにして、二年半前に親父自身の葬列がやはりこの小径を通り、誰かが旗を持ったのだろう。陶敬遠の小父さんがもしも生きていたならば、親父を祭る文を墓で読み上げただろうが、陶家には他にそんな文章の書ける者はいないし、誰かに頼む金もない。親父の旧宅もその人なしに虚しくなっているのだろうが、それを詩に詠む者もいないだろう。俺は親父の葬列に加わらなかったし、祭る文をここで読まない。親父の家を見に行く気はなく、親父の死を悼む詩も詠まない。なのに俺はここに来ている。それはなぜなのか。

　この小径に来て初めて一つの答えを得たと敢えて言うのならば、俺が今日ここに来たのは、親父との完全な絶縁のためだとするのはどうか。柴桑の村を出たときに俺は親父を殺した。それだけでは俺の心から親父を消し去れなかった。しばしば俺は親父を思い出し、それに悩まされた。桃花源で俺は憎しみを持って親父の背を剣で突いた。親父がそこで死んでいれば全て終わっただろうに、親父は死なず、奇妙なほほえみを残して俺の前から消えた。俺は桃花源から知らぬ土地に放り出され、親父が何を言おうとしたのか、わかるはずのないことを気にし続け、それがために親父は俺に付き纏い続けた。今や親父は本当に死んだ。ならば、今度こそはもう二度と親父を思わぬようになりたい。その決着を付けるためにここにまで来たということかも知れない。それならそれでわかる気がする。これで少し安心できる。

　公孫樹からの短い道が終わる。陶家の墓だ。

　何も変わっていない。丘からの見晴らしはもちろんのこと、墓の様子に少しの違いもない。背後に二本の柏が聳え、粗末な碑が立つ。わずかに盛り上がった土は、親父の棺を埋めるために掘り、また土をかぶせたのだろうが、昔から見ていた土の高まりと違いがあるとは見えない。陶敬遠の小父さんが直していた土の祭壇が、いつものように風雨によって少し崩れているのも同じだ。親父をここに埋めたことを示す新たな物はない。陶敬遠の小父さんを埋めたときも、陶敬徳の小父さんを埋めたときも、親父は何ら新たな印を残さなかった。兄たちも、親父の遺志を汲んでここには何も付け加えなかったのだろう。そもそもここが墓であるのを示すのは、俺の膝くらいの高さしかない碑だけだ。

　その碑を一瞥してすぐに背を向ける。ここに来たのは墓に詣でるためではなく、あたかも丘からのこの風景を見るためであったかのように、そちらに目を向ける。風景は少しも変わっていない。上下に波打つ丘があり、そこのあのあたりに柴桑の村がある。どこであるのかを意識をしないままに探し出そうとし、遠く鳥が鳴き、ふっと、

「俺は行かない」

　と、呟き、その景色に背を向ける。

　不意に俺の膝が崩れる。思いもよらず、土に手をつき、墓に向かって頭を垂れようとする。

「そうだったのか」

　胸の内にこみあがってくるものに己を任せる。それは俺の口を開かせ、小さな声で吟じさせる。

　　　悠々たるかな我が祖　　　　　　　　悠悠我祖

　　　ここに陶唐より始まる。　　　　　　爰自陶唐

　　　遠くそのかみには虞の賓客となり　　邈為虞賓

　　　世を経つつ光輝を重ねた。　　　　　歴世重光

　陶家の遥かなる歴史を語る長い詩の最初。俺は親父さながらの奇妙な調子で吟じる。静かに息をふっと吐き、親父のように父祖の墓に謝ることを思う。

「そうだったのか」

　これ以上は頭を下げまいと首を持ち上げ、しかし、なおも吟じている。

　　　我が晋朝の世にあって　　　　　　　在我中晋

　　　功業輝く長沙公が現れた。　　　　　業融長沙

　　　長沙公の武威は麗しく　　　　　　　桓桓長沙

　　　ああ、その勲よ、その徳よ。　　　　伊勲伊徳

　絶叫するかのように詩を吟じれば親父そっくりになる。俺はここで口を閉じ、傲然と胸をそらす。

「俺は墓に謝らない」

　敢えて口に出す。このとき、謝れば心が楽になると、すでに了解していた。父祖の輝かしい歴史に比して俺一人が不徳であると謝るのは心地よいはずだ。謝り終われば心は清浄とし、身は軽やかになり、安らかな思いでここを去って行けるだろう。それこそここに来たかいがあったとなる。いかに俺が不肖の子孫であろうとも、謝った瞬間に、陶家の赫々たる家系の最後に連なる一員としての俺の確かな居場所が定められる。俺は本来その場所にいたのであって、最も正しいそこにまた収まる。

　十八歳で柴桑の村を出て、今や信じてもいない教理を教えている天師道の祭酒だ。陶家の人間でこれほど酷い者はいなかっただろう。確かにそうか。信じてもいないものを人に教えるのは、天師道に限るものでない。忠義など信じてもいないし、自らは行わないくせに、得々として説くのが世の君子諸君だ。己はそうではなくても、民衆が忠義であってくれれば、上に居る者はすこぶる好都合だ。地位も財も保てる。誰だって己の暮らしのために地位と財は重要だ。明日手にできるとわかっている食べ物を失いたいと思いはしない。かつて、親父の友であった殷景仁は劉裕の参軍となって都に出て行った。親父は嘆いて一篇の詩を殷景仁に贈った。殷景仁に非難されるべき点はないと、そのとき俺は思ったし、今も思う。村にいては食えぬのだから、良い官職があれば都に行くのは当然だ。俺も、天師道の祭酒であるから食っていられるし、あちこちを歩けもする。こうして墓にだって来られた。

　　　遥かに遥かなる昔　　　　　　　　　　　　悠悠上古

　　　初めの初めに生きた人々よ。　　　　　　　厥初生民

　　　胸をそらし自ら足りるとする生活に　　　　傲然自足

　　　素朴であり真を心に持っていた。　　　　　抱朴含真

　親父はこう歌った。自ら耕しそれで足りるとする生活が上古にはあったという。桃花源はそれに近く、天師道の描く理想の世もまた同様だ。しかし、現実には桃花源の人々は必ずしも素朴ではなく、外界と完全な遮断を保つために戦い続け、天師道の人々もまた官軍と幾度となく戦ってきた。俺は天師道の教団に入り、かつて盧循が長江において劉裕との決戦に臨んだとき、盧循の船団の中に、大勢の五渓蛮たちが船の漕ぎ手や兵士としてまざっていたことを知った。桃花源と天師道は思いのほか近い。世は人々が理想を託す上古より遥かに遠いところにあり、ますます離れるばかりだ。陶侃は五渓蛮の裏切り者であり、そんな男を祖とすることは俺を苦しめたが、父祖を尊崇するのは子孫たるものの務めだ。

　　　智や巧みが萌すや　　　　　　　　　　　　智巧既萌

　　　欲しいものと出来るものの間が崩れた。　　資待靡因

　上古より離れたのは人の智のためだと親父は言った。その通りだろう。智なくして人はない。人である限りは上古よりますます遠ざかるしかない。だからこそ、桃花源を希求する思いはいよいよ強く、天師道は人々に強く信仰される。

　親父は二十九歳で江州祭酒となったのを手始めに何度か官職に就いた。親父自身が言うように貧に迫られてということであったのだろう。家族を養わなければならなかった。志すところもまた何かしらあっただろう。世を正すため己を役立たせたいと思ってもいただろう。儒家の教えは正しい道に世を戻すための智だ。智は世を上古より遠ざけたが、正すにはやはり智がいる。親父が桓玄の幕府に出仕したのは、孟嘉の大業を継ぐためか、己の内に流れる曽祖父陶侃の血のためか。智と武が親父を外へと駆り立てたのか。いずれにしても親父は短期日のうちに柴桑の村へと帰った。陶侃、孟嘉のように世に名を馳せることなく終り、陶淡のように真の隠者にもならず、慧遠の誘いに乗って仏門に入ることもせず、天師道に背を向けた。どこにも向かわねば、己を置くところは、ただ父祖の功業輝かしい歴史の末にあるとするしかなかった。ならば父祖の功業は輝かしければ輝かしいほどよい。父祖の功業の前に身の至らぬを謝れば自ずと己がその一族の一員であることが証明できた。俺もまたここで墓に額づけばそれが一つの解決となる。

　しかし、俺はそれをしない。俺は親父とは違う。もしも俺が謝るとしたらこの墓にではない。頑なに拒んできた思いが崩れたとき、俺は謝るだろう。誰にか。母にだ。親父を嫌うが故に母をも嫌った。母を嫌う理由は本来はなかった。親父がこの世にいなくなったのだから、母を嫌い続ける理由もない。母を嫌った俺は間違いなく不孝である。しかし、母に謝ることも拒もう。でなければ、俺は柴桑の村を出てからの十四年というものを全て失ってしまう。

　母をこれ以上は思い出すまいとし、代わって叔母を思う。俺が七歳、親父が四十一歳の年に死んだ叔母だ。叔母はこの墓には埋もれていない。程家に嫁し、遠く離れた武昌に住んだ。叔母が死んだとき、親父は彭沢令の職にあった。妹の喪に服するのを理由に、彭沢令を辞して柴桑の村に帰った。親父はそれより二度と職に就かなかった。

　親父が彭沢令に就いていたのは八十日余りだった。陶家の者は、親父のしばしばの帰還に慣れていたものの、わずか三ヶ月足らずで帰ってくるとは思いもしなかった。彭沢は柴桑から百余里の地、家には何も知らせぬまま、湖を渡っていきなり親父は帰った。陶家の者は呆然と親父を迎えた。親父は晴れ晴れとした顔をしていた。母は困惑した。職を辞したのは妹の喪に服するためだと言い、もう村の外には出ないと言った。それより六年前に桓玄の幕府に出仕してからの親父の行動は意表を衝くことばかりが多く、桓玄の幕下にあったのは二年間、母の喪に服すと休暇をとって帰村し、それきり桓玄のもとに戻らなかった。四十歳で突如として劉裕の幕府に出仕した。桓玄を滅ぼした当の相手である劉裕のもとになぜ向かったのか親父は言わず、一年余り各地を回って後に彭沢令となった。

　親父は妹の喪には服した。武昌の程家を訪れはせず、陶家の墓で妹を祭る営みをした。叔母が死んでちょうど十八ヶ月目だった。

「ここに晋の義煕三（四〇七）年五月甲辰、程氏の妹の服喪の期間九ヶ月をふた巡りした。わずかな物をここに供え、俯して酒をこの土に注ぐ。まことに悲しいことである」

　親父は酒を土にかけた。親父の後ろには陶家の者全員が居並んだ。陶敬遠の小父さんも陶敬徳の小父さんもいた。

「寒さが往き、暑さが来て、日月は次第に遠くなった。君の家の梁に塵が高く積もり、庭に草が荒れ茂り、家の内は寥々として空しく、遺された子らが哀々とうなだれているだろう。遠く私はここに虚しく供えものをする。ああ、人は死んでどこへ逝くのか。

　誰しも兄弟があり、私と君も、父を同じくする兄と妹だった。二人の情は常の兄妹の百倍どころでなかった。我が義理の母、君が生母は早世した。時に私は十六歳、君は九歳だった。私たちは物心つかぬうちより互いに髪を撫で合い助け合って生きてきた。君は徳があり、操があり、静かにして恭しく、言葉は少なく、善いことを聞くのを喜び、正、和、友、孝のいずれをも具えていた。嫁してより為したことは模範として人が習うべきことばかりだった。『善を為せば、慶は己より踏まる』と私は聞いていた。君はまさしく善を為したのに、天はなぜか偏りをもって君に良い酬いを与えなかった。思えば、昔、江陵にいた日々に、私たちは父を喪い、兄妹は楚と越のように離れ離れとなり、百もの哀しみに見舞われ、黯々たる雲に塞がれ、蕭々たる月に照らされ、ときに白雪に身を被われ、ときに激しい風に吹かれ、その思いは切なるものがあった。そのころを思えば、今しもここに崩号し、泣血するばかりとなる。

　ああ、昔は遠くにあるとは思えない。そのころの書はなおも存し、遺された子もある。君ばかりはひとたび往って永久に帰ってこない。寂々たる君の家への道を君が再び踏むことはない。されば、たった一人の君の娘は誰を頼りとし誰を恃めばいいのか。君のさまよう魂よ、誰がこれから君を祀る主催者となるのか」

　親父は再び酒を地に注いだ。

「如何にせん、妹よ、ここにおいて永久に終わった。死んで互いに知ることがもしもあるのならば、彼の地で会うこととしよう。ああ、悲しいことである」

　親父が妹の死を悲しんだのは間違いない。妹を祭った文の通りだっただろう。それは嘘のないものだが、彭沢令を喪に服すために辞めたと言ったのは、方便に過ぎなかった。親父は妹を喪った悲しみにいつも沈んでいたのではなかった。むしろ楽しそうに見えることが多かった。親父に連れられて一家で村の周囲を遊び歩いた記憶がある。遠く歩かされるのは七歳の俺にはなかなか大変だったが、親父の浮き浮きした気分が伝わり、俺も楽しいと感じた。親父はこんな詩を書いた。

　　　久しく山沢の遊びから離れていたが　　　　　　　久去山沢遊

　　　林野の娯しみを気ままにできるようになった。　　浪莽林野娯

　　　ふと、子や甥たちを連れ　　　　　　　　　　　　試携子姪輩

　　　榛を開き荒れた村へと歩いてみた。　　　　　　　披榛歩荒墟

　　　墓地の間を徘徊していくと　　　　　　　　　　　徘徊丘壟間

　　　昔の人の住まいがそのままにあった。　　　　　　依依昔人居

　　　井戸にも竃にもかつての面影があり　　　　　　　井竃有遺処

　　　桑や竹の株が朽ちたまま残っている。　　　　　　桑竹残朽株

　　　薪を採る者に尋ねた　　　　　　　　　　　　　　借問採薪者

　　　ここの人は皆どうしたのか、と。　　　　　　　　此人皆焉如

　　　薪を採る者は私に向かって言った　　　　　　　　薪者向我言

　　　死没して誰もいません、と。　　　　　　　　　　死没無復余

　　　一世代で朝廷も町も変わるとよく言うが　　　　　一世異朝市

　　　その言葉は嘘でない。　　　　　　　　　　　　　此語真不虚

　　　人生は幻にも似て　　　　　　　　　　　　　　　人生似幻化

　　　ついには空無に帰してしまうのだから。　　　　　終当帰空無

　山沢の散策はただ楽しいだけではなく、その裏に、死を思う心があったようだ。妹の死のためか、官職に二度と就かぬと言った己がいかに生きていくか不安にならずにはいられなかったためなのか。幼い俺は親父の心を推し量ることなど全くせずに、ただ母を気の毒に思っていた。母は親父がせっかくの官職を捨てたことに明らかに落胆していた。貧乏暮らしから抜け出す方途は永久に鎖された。親父はそんなことはどうでもよいとばかりに、一人でふらっと出て行ってしまうことがあった。

　　　一人心重く杖をついて帰りつつ　　　　　　　悵恨独策還

　　　上り下りの林を過ぎ行く。　　　　　　　　　崎嶇歴榛曲

　　　山の間の水は清く浅く　　　　　　　　　　　山澗清且浅

　　　吾が足を濯ぐのによい。　　　　　　　　　　可以濯吾足

　　　新たに熟した酒を漉し　　　　　　　　　　　漉我新熟酒

　　　一羽の鶏で近くの人々を招いてみようか。　　隻鶏招近局

　　　日が沈んで部屋の中が暗くなれば　　　　　　日入室中闇

　　　薪を明かりの代わりに燃せばいい。　　　　　荊薪代明燭

　　　喜びが来れば、夜の短さを残念がるうちに　　歓来苦夕短

　　　また夜明けとなるだろう。　　　　　　　　　已復至天旭

　一人さまよい出て、「山の間の水は清く浅く、吾が足を濯ぐのによい」と歌っても、足の俗塵をきれいに洗い流し、かつて陶淡がし陶敬遠の小父さんもしようとしたように、山中に入って隠者になりはしなかった。ふらりと家に戻り、村人と酒を飲んで一夕を歓楽の内に消した。村に居を構えたままの似非隠者だった。親父のすることはとかく徹底せず、常に中途半端だった。することばかりでなく考えることも中途半端だった。死について「人生は幻にも似て、ついには空無に帰してしまう」と確かに言い、同じようなことを繰り返し詩に歌った。

　　　大いなる変化に身を任せて波の間に間を漂い　　　　縦浪大化中

　　　喜びもしなければ、恐れもしないでいるがいい。　　不喜亦不懼

　　　尽きるときが来たら尽きればいいだけ　　　　　　　応尽便須尽

　　　あれこれ一人で考えるのはやめておくがいい。　　　無復独多慮

　このような達観は本当だったのか。親父はかつて己自身の挽歌を作り、そこでも似たようなことを歌った。

　　　生があれば必ず死がある　　　　　　　　　　　　　　　　　有生必有死

　　　意外にも早く私が死んだのは命が縮まったせいではない。　　早終非命促

　　　昨夜まで同じく人であったが　　　　　　　　　　　　　　　昨暮同為人

　　　今朝は私はすでに鬼籍に入っている。　　　　　　　　　　　今旦在鬼録

　　　魂気は散ってどこかに行ってしまい　　　　　　　　　　　　魂気散何之

　　　枯れた形だけが木の上に横たわっている。　　　　　　　　　枯形寄空木

　　　かわいい子たちが父を求めて泣き　　　　　　　　　　　　　嬌児索父啼

　　　良い友人たちが私の遺骸を撫ぜて哭している。　　　　　　　良友撫我哭

　親父は自分の死の光景をこう歌った。「かわいい子たちが父を求めて泣き、良い友人たちが私の遺骸を撫ぜて哭している」。なかなか結構な想像だ。棺に入った親父はどうしているのか、もっと結構な想像をする。

　　　私が生きていた間の得失など知れたものでなく　　　　　　　得失不復知

　　　是非など今さらわかるものでない。　　　　　　　　　　　　是非安能覚

　　　どうせ千秋万歳の後には　　　　　　　　　　　　　　　　　千秋万歳後

　　　人の栄辱など誰も知りはしない。　　　　　　　　　　　　　誰知栄与辱

　　　ただ生きていた間に　　　　　　　　　　　　　　　　　　　但恨在世時

　　　酒を飲むのが足りなかったと残念がるだけだ。　　　　　　　飲酒不得足

　例によって酒だ。

　　　昔は飲もうにも酒がなかった　　　　　　　　　　　　　　　在昔無酒飲

　　　いま棺の前の觴は虚しくも酒で満たされている。　　　　　　今但湛空觴

　　　春に仕上がったその酒は泡立っているのに　　　　　　　　　春醪生浮蟻

　　　どうやっても私は嘗められない。　　　　　　　　　　　　　何時更能嘗

　　　私の前の机に御馳走が並び　　　　　　　　　　　　　　　　殽案盈我前

　　　親戚や友人が私の傍らで泣いている。　　　　　　　　　　　親旧哭我傍

　　　語ろうとしても私の口には音がなく　　　　　　　　　　　　欲語口無音

　　　見ようとしても私の眼には光がない。　　　　　　　　　　　欲視眼無光

　　　昔は立派な家の高いところで寝たものだが　　　　　　　　　昔在高堂寝

　　　今からは荒れた草の中を住まいとする。　　　　　　　　　　今宿荒草郷

　　　ひとたびこの家の門から出たならば　　　　　　　　　　　　一朝出門去

　　　帰ってきて夜が終わるということはない。　　　　　　　　　帰来夜未央

　自分の死をとりたてて嘆いたりしない。心残りは酒だけだ。

　　　荒れた草が茫茫と茂り　　　　　　　　　　　　　　　　　　荒草何茫茫

　　　白楊が蕭蕭と揺れる。　　　　　　　　　　　　　　　　　　白楊亦蕭蕭

　　　霜が厳しく降るこの九月　　　　　　　　　　　　　　　　　厳霜九月中

　　　私の野辺の送りに人々は遠く郊外に出る。　　　　　　　　　送我出遠郊

　　　あたりに人家はなく　　　　　　　　　　　　　　　　　　　四面無人居

　　　盛り上がった墓の土だけが高く聳えている。　　　　　　　　高墳正嶕嶢

　　　馬が天を仰いで鳴き　　　　　　　　　　　　　　　　　　　馬為仰天鳴

　　　風が蕭条と吹く。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　風為自蕭条

　　　ひとたび墓が閉じられてしまえば　　　　　　　　　　　　　幽室一已閉

　　　千年たっても棺の中には朝が来ない。　　　　　　　　　　　千年不復朝

　　　千年たっても棺の中に朝が来ないのは　　　　　　　　　　　千年不復朝

　　　賢人でもあっても達人であっても同じだ。　　　　　　　　　賢達無奈何

　　　送りに来た人たちはそのうち　　　　　　　　　　　　　　　向来相送人

　　　各自それぞれの家に帰る。　　　　　　　　　　　　　　　　各自還其家

　　　親戚はもしかしたらしばらくは悲しむだろうが　　　　　　　親戚或余悲

　　　他人はすぐに歌って楽しむだろう。　　　　　　　　　　　　他人亦已歌

　　　死んでしまえば何も言うことはない　　　　　　　　　　　　死去何所道

　　　身体を土に託して山と一つになるだけだ。　　　　　　　　　託体同山阿

　達観か強がりかは知らない。己の死の光景を楽しむかのように親父は描いた。二年前の親父の葬列はどうだったのか。親父は山と一体になるだけだと平然と棺の内に横たわったのか。

　俺が家を出る前の年の熱病で、「死生は命であり、富貴は天にあり」との子夏の言葉を引いて、親父は、死に際しても動じない心を示した。例の「歯なし八十の韓元長、怨まず七世の氾稚春」が特別に嫌な印象を与えて、俺は家を出る決心を固めた。思ってみれば、くだくだと息子に遺言したのは、「どうせ千秋万歳の後には、人の栄辱など誰も知りはしない」と言った己の言葉にいささか反するものだったのではないか。死んだ後で息子たちがどう生きようが一向に構わぬではないか。まして七世の先までも自分の思う通りにしようとは、呆れるばかりだ。

　これも親父が中途半端であり矛盾だらけだったことの一つだ。世の人々には世を捨てた者らしく己の姿を見せながら、常に世に執着があった。親父はもとより似非隠者であるばかりでなく、他の全ての点においても似非だった。真を求めていながら、真が何であるかを語らず、真の意を得たかどうか曖昧なままにし、一方で神は滅すると言いつつ、道はあるかのように考え、しかし時にそれも疑った。一体何を考え何をしようとしたのか。結局、何もかも矛盾だらけの中途半端のままに似非者として生涯を終えることになったのだ。そんな似非者が眠る墓に俺は何のために来たのか。似非者に今さらどんな用があるのか。

　今ここに至るまでの間に、ここに来る理由をいくつも考えてみた。どれか当たっているかというと、どれも当たっていないようでもある。理由もはっきりしないというのに、なぜ俺はここにいるのか。

　先程来ずっと俺は墓の前に膝をついたままだ。それは親父のように父祖に詫びるためでは断じてない。詫びたら気が楽になるのはもうよくわかっている。それも悪くないだろう。陶家の息子として結構なことではないか。本当か。そうしたならば、俺は家を出てからの十四年を自分の手で無に帰してしまう。俺は家を出のを一度だって後悔していない。あのときに俺は陶家の一員でなくなった。家を出ずにいたらと想像するのは恐ろしい。「歯なし八十の韓元長、怨まず七世の氾稚春」に縛られて一生を終える。親父の葬列にも己の心を隠して従っていただろう。身震いする。そうであるのに、なぜここに来ているのか。いや、そんなことは今ここにいて問うべき重要なことではない。陶家がどうとか言うことは、なおこだわりは残るにしても、それが俺をここに連れてきたのではないと、知っていなければならない。墓に謝って安心して終わりとなるようなものではない。では、なぜここに来ているのか。

　当たり前の否定できぬ答えが一つある。親父が死んだからだ。死んでいなければここには来ない。家を出て俺は何をしたか。いろいろなことをしたと思っている。しかし、何かをする際に、どうだろうか、俺は常に親父を思ってきたのではないか。親父を思わぬ時があっただろうか。この十四年の間、ずっと親父を思ってきたのではないか。それは否定しにくい。だから素直に認めよう。それで俺はここに来たのだ。そんなことなのか。そんな単純すぎることなのか。他の理由に納得できない以上、こういうことではないのか。

「親父は死んだ。この下にある」

　敢えて口に出して言う。

「この下にあって、親父はもう詩を吟じない」

　つまりはそういうことだ。俺は親父が死んだのを確かめるためにわざわざここに来た。成程そうなのか。

　俺はさらに言う。

「親父は死んだ。だから、俺は安心していい」

　口から出てきたこの言葉にとまどう。安心なのか。

　これまで俺は安心していなかったのか。親父が死んだのを確かめるまで安心できなかったのか。そうかも知れない。いや、そればかりではない。親父が埋まる墓の前に来た今だってまだ安心できていないようだ。だからこんなにもあれこれ考えなければならないのではないか。

　もう俺は、俺を安心させていい。膝をついていなくていい。ゆっくりと立ち上がる。どうだろうか、身が軽くなっているだろうか。ここが陶家の墓であることを示す粗末な石の碑の前へと進む。地を踏む。一歩一歩に力を入れる。親父はこの土の下だ。

　　　語ろうとしても私の口には音がなく　　　欲語口無音

　　　見ようとしても私の眼には光がない。　　欲視眼無光

　親父の言う通りに親父は千年待っても朝にならない闇の中にいる。だから懼れなくていい。懼れるのは何にか。「歯なし八十の韓元長、怨まず七世の氾稚春」に縛られることか。功業輝かしい父祖の重さか。違う.。断じてそのようなものではない。

　碑に手をかける。碑は俺の膝ほどの高さしかない。

「似非隠者め」

　口を衝いて出たこの言葉はすでに言い慣れたものであったにもかかわらず、耳に達した俺自身のその声は、思いのほか毒気を含んでいる。あたりを見回す。誰もいない。誰にも聞かれていない。

　聞かれてはまずいのか。そんなことはない。当然すぎることを言ったまでだ。もう一度同じことを言ってやろうと、口を開く。声を出そうとして、息も吐けぬほどに胸が苦しくなる。なぜだ。

　初めて知る。思いもよらぬことに気付く。懼れていたのはそれだったのではないか。他ではないその一点だったのではないか。どういうことだ。頭が混乱する。

　常に親父を罵ってきた。似非隠者だと。だが、もう似非とは言えない気がする。なぜか。どうして似非を似非と言えないと感じるのか。親父を似非だと俺は罵れなくなっている。俺はこれまで繰り返し似非だと親父を罵ってきた。それはなぜだったのか。それがわかったから、もう罵れないのか。罵っていたのは懼れる気持ちの裏返しだったからなのか。最も懼れていたのは、実はその似非だったのか。しかし、なぜ似非を懼れるのか。訳がわからない。

　親父は似非だった。むろんその通りだ。しかし、親父が陶淡のような真の隠者だったなら、俺は親父を懼れるだろうか。少しも懼れないだろう。陶侃だろうが桓温だろうが桓玄だろうが劉裕だろうが、俺は懼れはしない。そういった連中は力によって俺に死を与えられる。俺は死を怖がるが、そんな連中を懼れはしない。俺が懼れるものは何か。親父の似非なのか。なぜそう思うのか。訳がわからない。

　しかし、親父の似非に俺は適わない。そのことは素直に認める。俺は似非者にもなれない。

　不意に一つのことを思い付く。これで気が静まるかも知れない。親父は最後まで似非のままだったのか。桃花源の後、俺はずっと親父を見ていない。その間に親父は真の隠者になったのではないか。平生、詩に歌っていたように、死生を達観し、死の悲哀から超越したところに至って死んだのではないのか。矛盾は解消され、真の意を得て、親父は目出度く真の隠者になった。そうであるのならば、俺にはもはや親父を懼れる理由はない。なぜ似非を懼れるのか訳がわからないにしても、親父が似非でなくなったのなら、ともかくも懼れなくていいわけだ。俺がここに来たのはそういうことだったのではないか。親父が真の隠者になったのを確かめるためだったのか。初めて納得できた気になる。

　地を足で踏んで親父に問う。

「おまえは真の隠者として死んだのか」

　親父は悩みを断ち切り、矛盾のない真の意を得て、死に向かったのだろう。

「そうだと答えよ」

　地を踏む。親父はついに真の隠者となった。そうでないはずがない。思ってみれば当然すぎることだ。桃花源で、巨人の危は帰るべきところへと連れて行くと言った。それはもちろん真の隠者になることだ。危は親父を白く輝く光の源へと導いた。間違いない。なぜこんな簡単なことが今までわからなかったのだろう。これ以外のことが桃花源の丹淵の池であったはずがない。親父は帰るべきところを求めて桃花源に至り、巨人の危に導かれて最終の目的の地に到達した。それまで抱えていた矛盾が全て解決し、中途半端に留まっていた思考が真の意を得て、真の隠者となった。俺に向けたほほえみは、真の隠者になる喜びから出たものだろう。あのときにまさに得た真の意を俺に告げようと口を開いたのだろう。むろん、真の隠者とは縁のない俺にはそんな無用の声は届かない。

　俺は大いに安堵する。真の隠者となった親父と俺は、全く違うところにいる。十年前に丹淵でそれに気付き、俺はもっと早くに安心してよかったのだ。だが、十年の歳月が必要だったのだろう。今の俺には行き場がない。帰るところがない。俺が知る人はなく俺を知る人もない。信じるものもない。それらの全ての点において今の俺は親父に勝る。親父は十年前に似非隠者を脱したが、俺は十年をかけて完璧な似非天師道になった。真実似非なのは俺の方だ。

　俺はかすかに笑う。来たかいがあった。心が軽くなったようだ。

　振り返る。日は中天に昇っている。低い丘の緑が明るく輝く。時節は盛夏へと向かい、新緑が濃い緑になりつつある。その緑の中に柴桑の村がある。一人の隠者があそこで暮らしあそこで死んだ。それは俺とは関わりのない男だ。

　風を胸に吸い込む。ずっとあったわだかまりのようなものがこの風によって消されるだろう。晴れ晴れとした気分に間もなくなるだろう。何しろ俺は本当の意味において親父より離れられたのだから。親父は別のところへ行ってしまった。これからは何も懼れず、俺は俺として生きていける。家を出て十四年かかったが、それだけに喜びは大きなものであり、まだ実感は十分には得られない。少しずつ確かなものとなっていくのだろうが、この丘に轟く雄叫びでも上げてみようか。それをきっかけとして喜びがはじけるかも知れない。大きく息を吸おう。

　一つのものが眼に飛び込む。丘を駆け登りくる何かがある。点のように小さなものがたちまち大きくなり、目の前に現れて犬の姿へと変じる。犬は真っ直ぐに駆け登り来て、阿黄であるとはっきりと見える。阿黄に手を差し出す。

「おまえ、生きていたのか」

　丹淵の池で俺の剣は阿黄の脳天を貫いた。青泥で救ってくれた阿黄を殺した。その阿黄が生きて、こちらに向かって走ってくる。胸がはずむ。

　阿黄は俺の問いに答えない。地より高く跳ね、俺の掌を踏んで、高く頭上を越える。ひと声吠え、俺の上から、墓の碑に前足を掛け、次の瞬間、裏側へと消える。阿黄の姿はすでにどこにもない。わずかな間の出来事だった。

　碑の裏に回る。阿黄はおらず、阿黄がいた痕跡もない。ただ碑の裏側に刻まれた文字が眼に入る。白く鮮やかな彫り痕で、小さな文字がびっしりと並ぶ。碑の裏にかつてこのようなものはなかった。

「自祭文　陶淵明」

　右端にこう記される。親父が書いたものか。

「歳はこれ丁卯、律は無射にあたる」

　書き出しにこうある。丁卯は二年前の元嘉四（四二七）年。無射は九月。親父が死んだと俺が伝え聞いたことと合致する。親父は己の死に際して自分を祭る文を書いたのか。文字を追う。阿黄はこれを読めというのか。そのためにここに姿を現したのか。

「天は寒く夜は長く、風の気が蕭索として、雁が南に飛び去り、草木が黄色く落ちるこの今、陶子は旅の宿りであるこの世を辞し、本来の家である死へと永久に帰ろうとする」

　死をこそ本来の家と言う。帰るべきところをそこと思う。真の隠者にふさわしい。

「友は痛み悲しみ、旅立ちを送ろうと、嘉い食べ物を供え、清い酒を勧める。友は私の顔を覗き、すでに黒く変じたのを知る。私の声を聞こうとし、耳にするのは口から出る漠とした音だけだ。哀しいことである」

　挽歌の詩とほぼ同じ想像だ。

「茫茫たる大地、悠悠たる天空、万物はその間に生じ、私は人と成るを得た。人と成った私は運の貧しさに逢い、食べ物はしばしば尽き、冬も夏の衣を着た。それでも谷の水を汲むのを歓びとし、薪を負って道を歌い歩き、粗末な門の内に朝夕を過ごした。春が秋に代わる季節の流れの中で、田畑の仕事に努め、草を刈り土を耕し、努めれば育ち励めば繁った。書を読むのが欣びであり、七弦の琴が心を和やかにした。冬は日向に身を曝し、夏は泉に水を浴びた。労働に勤めれば力を余すことはなく、心は常に長閑であった。天分を楽しみそこに己を委ねた。よって我が寿命を満たし得た。人の一生は百年である。それを人は惜しみ、成すことなく終わるのを懼れ、日々を貪り時をいとおしむ。生きている間は世に珍重されたいと願い、没した後は人に追慕されたいと願う。私一人は別のところへと行き、普通の人々とは異なる生き方をした。天子の寵愛も光栄とせず、世の黒さに染められもしなかった。小さな家に一人居て、酒を呑み、詩を賦すだけだった」

　結構なことだ。親父は普通の人々と異なり、隠者として生きたと言う。それでいい。

「運を知り命を知ると言いながらも、世に未練を残さずに死ぬ者はいない。私は、生より死に化すに際し恨みはない。この一生の間に、私は世を逃れ心豊かであるのを慕ってきた。その思いのままに老いてここに死に至ったのだから、世に恋するものなどあるはずがない。寒さが往けば暑さに代わる。存は亡へと移って異なるものとなる。それだけのことだ。私が死ねば、朝に親戚が来て、夕に友が来て、私は原の中に葬られ、人々は私の魂を静めようとする。私の身体は暗いところに埋められる。墓が立派なのは恥じるべきだが、粗末すぎるのも笑うべきだ。いずれにしても、滅してしまえば後は虚しく遥かなところに行くだけだ。土は盛らなくていいし、木は植えなくていい」

　この文章の通り、陶家の墓は昔のままだ。親父が埋葬されて変わったところと言えばこの碑に文字が刻まれただけ。それさえも俺は気付かずにいた。

「日月は過ぎ行くだけだ。生きて誉れを貴ばなかったのだから、死後の栄光など誰が重んじるものか」

　それで結構。真の隠者として死んだ親父だ。生前の栄誉も死後の栄光も要らぬと達観していいのだ。親父は俺の期待した通りの死に方をしたわけだ。読み進むうちに気持ちがじわじわと和らいでいくのを感じる。ふふっと笑う。

「いい気なものだ」

　それが真の隠者の為すことだ。結構な男だ、陶淵明という人は。

　碑を一瞥し、真の隠者が書き連ねた文字を見返す。あとは残り一行だけだ。親父は悠々と死に向かったのだ。結びも結構なことが書いてあるに違いない。俺は文字に目を向ける。

「人生は実に難しい。死はどうしたものか。ああ悲しいかな」

　何を言っているのか。俺はもう一度見る。見間違いではないのか。いや、確かにいま見た通りに書いてある。

「そんな馬鹿な」

　親父は何を言っているのか。違うだろう。最後になって一体何を書いているのだ。取ってつけたような最後の一行で、その前に書いたことを全てひっくり返してしまっている。人生を達観し、真の隠者として死の安らぎへと帰ったのではないのか。最後になって「人生は実に難しい。死はどうしたものか。ああ悲しいかな」とは何事か。

　俺は再び混乱し、碑の裏側に立ち尽くしたままになる。何かわからぬうちに、腹の底が熱くなってくる。あのときに似る。「歯なし八十の韓元長、怨まず七世の氾稚春」の遺言だ。それを聞いたときもこうだった。俺は腹が立っているのだ。あのときと理由は同じではないのだろうが、親父はまたも俺を怒らせた。死んでまでそんなことをするのか。

「畜生」

　碑を叩く。

「どこまでおまえは似非なのだ」

　これは怒りではない。熱いのではない。重いのだ。大地よりも遥かに重い鎖が俺の心に投げつけられた。俺の心を縛り上げ、晴れやかな空にまさに浮き立とうしていた俺の心を無理矢理引き摺り下ろした。どこ下ろされたのか。親父からもう決して逃れられないところへとだ。

　重さに耐えず、膝をつく。地に両手を置き、地面を見る。

「観念せよとか」

　所詮、親父に遥かに及ばぬ息子だ。俺は親父と張り合おうとしたのか。それが無理だとわかっていたから家を出たのか。逃げたと言うのならそう言われても仕方がない。逃げても逃げても俺は親父から少しも離れられなかった。だから、桃花源において親父を刺し殺そうとしたのか。親父を殺せば俺の勝ちだと思ったのか。親父は死なず、俺に何かを言った。それは分からないままになり、しかし、親父が勝手に遠くへと行っていてくれたのなら、俺は助かっただろう。親父が真の隠者になっていれば、俺とは無縁だ。俺は親父のことなどひとかけらも考えずに生きていられる。それが俺の抱く期待だった。

　親父はあくまでも似非のままだった。俺は、依然として親父を嫌い続けなければならない。親父に張り合えないとわかっていながら、なおもそれを続けなければならない。親父は死に、俺は生きている。俺は永久に親父に勝てない。俺はどうしたらいいのか。

　地面を叩く。泣いたところでどうにもならない。誰かが助けてくれるわけでない。泣いて俺が変わるわけでない。俺は一人だ。行き場もなく帰る場もない。親父に負け続ける人生をこれからも生きるだけだ。

「観念するか」

　父祖に詫びた親父のように、俺もここで親父に詫びるか。そうするか。その決意はすぐにはできないながらも、重い心に抗してどうにか立ち上がり、墓の前へと位置を変えようとする。

　目の前に男がいる。息を呑んだまま何も言えない。相手は笑って俺を見ている。大柄なこの男。兄貴だ。檀韶の息子の檀臹だ。

「どうして」

　やっと口にする。兄貴は手を伸ばし俺の袖をつまむ。

「なかなかのなりだ。姚泓に石を投げた苻淑だって少しはましなものを着ていたように思うぞ」

　祭酒としての俺の服は相当な襤褸だ。数年前に教団から貰ったそのままだ。兄貴は立派な官服だ。

「どうしてここへ」

　俺はもう一度言う。

「苻淑はどうした」

　兄貴は俺の問いに答えない。兄貴はにこやかな顔をしている。以前と変わらない。

「わからない。十年になる」

「縁を切ったのか」

「そうではない。別れ別れになって互いに消息が知れない」

「ならばとんだ見込み違いだったか」

「何の見込みだ」

「おまえも知っているだろう。寇を為す蛮族どもがなお各地に絶えない。荊州蛮にすこぶる強い一団があり、その頭目は女だと噂される。蛮族どもがその頭目のもとに集結して一斉に蜂起すると言う者もある。本当だとしたら、そんなことのできる女はこの地上に一人しかいない。苻淑だ。だとすれば、おまえが苻淑の蔭にいて我が宋朝の転覆を狙っているのだろう、そう俺は思った。何しろおまえは大司馬陶侃の子孫だ。そのくらい勇ましいことをしていい」

　兄貴は愉快そうだ。

「本当に苻淑なのか」

「噂だ。俺はこれから蛮族どもの息の根を止める戦いに出る。おまえを敵にするのは少々気の引けるところだが、違うとわかって安心した」

「兄貴は討伐軍を指揮するのか。さぞ偉くなったのだろうな」

　兄貴の立派な服を見つめる。兄貴らしいことだ。

「俺が号令をかけるわけではない。その次くらいの地位だな。世の中は大いに変わった。おまえと長安で別れたのはまだ晋の世だったが、今や宋も三代目だ」

「そうらしいな」

「他人事のように言うな。おまえは滅んだ晋に義理立てしている連中の仲間か。まあそれでもいいだろう。晋の忠臣大司馬陶侃の子孫だけはある。宋が興って十年になるとするのに御苦労なことだ」

「違う。晋などどうでもいい」

　劉裕が晋の最後の皇帝を廃して自ら皇位に昇ったのは、俺が桃花源を出てすぐの夏だった。劉裕は国号を宋とし、即位後わずか二年で死んだ。

「やはり蛮族とともに宋の転覆を狙うのか」

「残念ながら違う。俺は五渓蛮を裏切った大司馬陶侃の子孫だ」

「ならば、その身なりはどうやら天師道か」

「そんなところだ」

「よすがいい」

「不忠を咎めるのか」

　兄貴は大きな声で笑う。

「忠義など俺が信じないのをおまえはよく知っているだろう。俺は俺のためにだけ生きている。皇帝のために命を投げ出す気はない。何しろ、俺たちは二代目の皇帝を殺して今の皇帝を建てた。それが忠なのか不忠なのか、俺にはどうでもいい」

「俺たちって誰だ」

「おまえは何も知らないのか。俺の叔父の檀道済が陰謀の首謀者の一人だった。しかもその罪を他の連中に擦り付け、今は大いに羽振りをきかせている」

「北伐のときに先鋒の一翼を指揮した冠軍将軍か」

「叔父で思い出した。俺がここに来たのはおまえにこれを渡すためだ」

　兄貴は懐から絹の布を出す。

「何だ」

「おまえの親父さんに頼まれた」

「親父に？」

　兄貴が突き出す布に俺は触れる。親父がこれを。手が一瞬ぶるっと震える。

「ほら」

　兄貴は俺の手の内に布をぐいと押し付ける。ためらいながらも畳まれた布を広げていく。黒く文字が記される。親父の筆だ。

「叔父は江州刺史になり、都の西方は叔父の号令するところとなった。偉くなると士を気取りたくなるものだ。俺の親父と同じで、叔父も世に名高いおまえの親父さんに会ってみたいと言い出した。俺が柴桑の村への道案内役になった。無駄だろうなと俺は思っていた。おまえの親父さんが俺の叔父に会うわけがない。親父さんは晋の徴士として宋の元号を使うのさえ潔くしないと噂されていた。叔父は二代目の皇帝を殺した男だ。胡散臭いことこの上ない」

　兄貴が話している間に親父の書いた文字を追う。一篇の詩だ。

「行ってみると、おまえの親父さんは床に臥せっていた」

　俺は目を上げる。

「いつのことだ」

「四年前だな」

「死ぬ前の年か」

「親父さんは病気のために叔父を拒絶する元気もなかったのか、意外にも家の中にまで通してくれた。昔のままの小さな襤褸家だった。おまえと最初に会ったときと少しも変わっていない。親父さんは汚い夜具より身を起こし叔父に挨拶した。叔父は言った。『天下に道がなければ世より隠れ、道があれば世に出る。それが賢人の為すところでありましょう。いまや新しい天子の御世となり大いに治まるときです。どうしてこのような辺鄙な村で苦しんでおられるのですか』と。叔父は親父さんに朝廷に出仕するよう勧めた。親父さんは頭を下げて答えた。『私は賢人ではありません。賢人を志しても及ばぬ者です』。叔父は穀物や肉類、絹を贈り、さらに出仕を強く勧めた。親父さんは手を振って贈り物を拒んだ。そのやり取りの間に親父さんは俺の顔に気付いた。俺は軽く会釈した。親父さんは言った。『倅とはまだ御一緒か』と」

「親父は俺のことを言ったのか」

「そうだ」

「知っていたのか。兄貴と一緒だったのを」

「大酒呑みの顔延之から聞いたと言っていた。俺は『長安で別れたきりです』と答えた。親父さんは『では官には仕えておらぬのですな』と言った。『長安の後でどこに行ったのか、私の知るところではありません。青泥で殺されたとも、官位を得たとも耳にしておりません』と俺は答えた。親父さんは不思議と安心したような顔になり、『この絹の端切れだけを頂戴しましょう』と、筆を執り、そこに詩を記した。『万一倅に会うことがあったならばお渡しください』と言った。『会うことがあろうとは思えません』と俺は答えたが、『それならそれで結構です。もとは私が言い損なったのですから』と親父さんは言った」

「言い損なったと、親父は言ったのか」

「親父さんとどこかで会ったのか」

「いや、家を出てから一度も会っていない」

　俺は嘘を言った。

　親父の背を剣で確かに刺したと思ったとき、親父は振り返り何かを言おうとした。それがこれだったのか。布を見る。やや擦れた筆跡の向こうに、あの刺したときの親父の顔が甦る。親父はかすかにほほえんでいる。口を開き、そして吟じる。

　　　窓の下に蘭が盛んに伸び　　　　　　　　　　　　　　栄栄窓下蘭

　　　部屋の前に柳がこんもりと茂っていた。　　　　　　　密密堂前柳

　　　君と別れたそのとき　　　　　　　　　　　　　　　　初与君別時

　　　旅がそれほど長くなろうとは思ってもいなかった。　　不謂行当久

　　　君は門を出て万里の客となり　　　　　　　　　　　　出門万里客

　　　道のどこかでよい友とでも逢ったのか。　　　　　　　中道逢嘉友

　　　杯の酒を交わしもしないのに　　　　　　　　　　　　未言心先酔

　　　言葉を出す前から酔ったのか。　　　　　　　　　　　不在接杯酒

　　　今は欄も枯れ柳も衰え　　　　　　　　　　　　　　　蘭枯柳亦衰

　　　私の思いは背かれた。　　　　　　　　　　　　　　　遂令此言負

　　　さあ、若い人に言おう　　　　　　　　　　　　　　　多謝諸少年

　　　真心厚く知り合っていたのではなかったのかと。　　　相知不忠厚

　　　意気を感じ合えば命も投げ出すものだ　　　　　　　　意気傾人命

　　　離れ隔たり、また何があるだろうか。　　　　　　　　離隔復何有

　兄貴は詩を読む俺を見下ろしている。

「それはおまえに対して詠んだ詩なのだろう。どうやら親父さんはおまえに期待していたようだな。離れ隔たるとも意気相通じるものがあるはずだと言っている」

　離れ隔たりもう何もないと親父は嘆じたと俺は読んでいた。俺は親父の言に背いた。旅に出て、その道の半ばにおいて別の惹かれるものと出会い酔ってしまったようになったのか。それは何であったのか。黙って文字を見続けていると、兄貴が言う。

「最初の日からおまえが親父さんに一番よく似ていると思っていた。だから、おまえは家を出た。俺が親父によく似るから家を出たのと同じだ。笑うべきは、あの大酒呑みの顔延之だ。親父さんが死ぬとすぐにその死を悼む誄を書いて人々に見せて回った。お節介にも靖節徴士という謚までも作った。前々からあの大酒呑みは、自分こそは天下一の文雅の士であると自負し鼻高々だった。天下に名高い隠者の陶淵明の無二の親友であるのなら、ますます箔が付くというものだ。とんでもない話だろう。大酒呑みの顔延之ときたら、あのとき洛陽でうまく武帝に取り入ったものだから、宮廷に出入り自由となった。そんな野郎におまえの親父さんがわかるわけがない」

　大酒呑みの顔延之などはどうでもよい。顔延之が武帝と謚された劉裕に歯が浮くような詩を贈り寵愛を受けるようになったのは俺も聞いていた。初めからわかっていた通りのとんだ食わせ者だ。親父が顔延之に心を許したことは一度だってなかった。

「大酒呑みの顔延之が親父さんの誄を書き、それがまた人々にもてはやされたのだから、親父さんとしてはとんだ迷惑だろうな」

　兄貴は一人で笑う。

「で、誄にはどんなことが書いてあったんだ」

　どうでもいいことだが、一応聞いてはおきたい。

「妙に気取った文章だった。俺には意味のわからないところが多い。おまえの親父さんの書くものとはまるで違う」

「雅と鄙の違いだ」

　親父は都人には合わない土臭い男だ。文章もそのままだ。

「誄の序文は『それ璿玉は美を致すも、池皇の宝たらず、桂椒は信芳なれど、園林の実にあらず』。こんな出だしだったようだ。雅というのは始末に悪い。美しいが意味のよく通じない文字をくだくだと並べる。そんなところは忘れてしまったが、親父さんの一生が短くこんな風にまとめてあった。『晋の徴士、潯陽の陶淵明は、南嶽に幽居する者だった。幼くして遊びを好まず、長じてはまこと素朴な心を持ち続け、学んでは人の師とならず、達意の文を書き、衆の中にあって寡であることを失わず、もろもろの言辞が溢れる中にますます黙であるのが際立った。若いころより家は貧苦、下男も下女もなく、井戸の仕事も臼の作業も自分で行い、母が老い子が幼いなかで、食物に事欠きながらも、孝養を尽くし仕事に励んだ。始めは州府より仕官せよとの命令を再三にわたって断り、後に彭沢の令となったものの、愚物どもと合わず、官を棄て好むところに従った。世の煩いより身体を解き、志を世の外に結び、世より遠く隔たった。畦に水を灌いで蔬菜を作り先祖への供えものとし、靴を自ら編んで米を買う代金を得た。心に世俗と異なる書を好み、本性として酒の徳を楽しんだ。簡にして煩促を棄て、成るところにゆったりと物事をまかせた。その生き方は、家人に貧を忘れさせるものであった。詔によって著作郎に召されたが、病と称して都に赴かず、六十三歳、元嘉四年、潯陽県柴桑里に卒した』。まあこんなところだ。どうだ」。

　兄貴に返答を求められ、親父なら軽くほほえんでうなずくところだろうなと思う。頭巾で酒を漉したときに将軍に見せたあのほほえみだ。世間にかく見られたいと親父が思う通りに顔延之は書いた。さすがに阿諛追従によって劉裕に取り入っただけはある。

「遠く隔たるとまでは言えないが、そこに描かれたのが親父であるとは思い難い」

　最も違うのは「家人に貧を忘れさせるものであった」だ。親父は大いに喜ぶかも知れないが、家人の一員であった俺に言わせればとんでもない話だ。

「誄の本文はさらに親父さんとは異なるとおまえは笑うだろう」

「大酒呑みの顔延之が何を書こうがどうでもいい」

「まあ、聞けと言いたいところだが、あの呑んだくれが書いたものの全部を暗唱できるわけでない。覚えているのは一部分だ」

　兄貴は息を大きく吸い、誄を吟じ始める。大きく伸びやかないい声だ。

　　　帰りなんとの辞を賦し　　　　　　　賦辞帰来

　　　高きを踏んで独り善を愛した。　　　高踏独善

　　　明らかなるものの上に出て　　　　　亦既超曠

　　　心に適わないものはなくなった。　　無適非心

　　　馴染みの谷に水を汲み　　　　　　　汲流旧巘

　　　家の林で屋根を葺いた。　　　　　　葺宇家林

　　　朝の霞に夕べの靄　　　　　　　　　晨煙暮靄

　　　春の日差しに秋の木陰。　　　　　　春照秋陰

　　　そこに書を広げ書を綴じ　　　　　　陳書綴巻

　　　酒を置き琴を奏でた。　　　　　　　置酒絃琴

　　　挙止は勤倹に励み　　　　　　　　　居備勤倹

　　　身は貧と病いを兼ねた。　　　　　　躬兼貧病

　　　人の耐えられぬその思いを　　　　　人否其憂

　　　先生は然るべき運命と心得た。　　　子然其命

　土の下にいる親父は、兄貴の声を聞いているだろうか。これほどまでに賞賛されて親父は大いに満足なのか。人を騙しおおせたとほくそ笑むのか。違うだろう。親父がここに描かれたこのままの人間であったのなら、親父はあれほど多くの詩文を書きはしなかった。大酒呑みに何がわかるか。

　兄貴は腰に下げていた瓢を取り出し、酒を地に注ぎ、自らも一口ごくりと呑む。

「親父さんは酒が好きだったな。おまえはどうだ。呑めるようになったか」

「いや」

「相変わらずか。そこばかりは親父さんと違うわけだ」

　兄貴は笑う。他はどうだと言うのか。

　　　年は百年の半ばにあって　　　　　　　　　年在中身

　　　ひどいおこりを病んだ。　　　　　　　　　疢維痁疾

　　　死は帰るだけのことだと見なし　　　　　　視化如帰

　　　凶事に臨みながら吉事のように待った。　　臨凶若吉

　　　薬剤を嘗めず　　　　　　　　　　　　　　薬剤弗嘗

　　　祈祷も願わなかった。　　　　　　　　　　禱祀非恤

　　　終わりを告げて幽界に向かい　　　　　　　傃幽告終

　　　和を胸にして長き終わりについた。　　　　懐和長畢

　　　ああ、哀しいことである。　　　　　　　　嗚呼哀哉

　兄貴はまた酒を地に注ぐ。

　碑の裏に刻まれた自祭文に記される通りの死に方をしたと顔延之も言うわけだ。ただし碑文の最後の行だけは別だ。

「この後に、葬儀が簡素に行われたことを詠んでいたが、忘れた。ただ、大酒呑みの顔延之の野郎がちゃっかり己を宣伝しているところは、腹が立ったので覚えている」

　　　あなたが退隠してから　　　　　　　　　　　　　　　自爾介居

　　　私も暇が多くなったことがあった。　　　　　　　　　及我多暇

　　　よしみを通じるのを喜んで　　　　　　　　　　　　　伊好之洽

　　　村を接し家を隣にした。　　　　　　　　　　　　　　接閻隣舎

　　　宵はとぐろ巻き昼は憩い　　　　　　　　　　　　　　宵盤昼憩

　　　舟に乗るまでもなく車に乗るまでもなく往来した。　　非舟非駕

　　　昔を思いつつ二人で酒を交わし　　　　　　　　　　　念昔宴私

　　　杯を挙げて互いに戒め合いもした。　　　　　　　　　挙觴相誨

　　　私は言った。「独りだけ正しくしているのは危うく　　　独正者危

　　　筋を通そうとしすぎればかえって通らなくなる。　　　至方則閡

　　　哲人が思いをゆるやかに制御したのは　　　　　　　　哲人巻舒

　　　昔から例の多いことです。　　　　　　　　　　　　　布在前載

　　　鏡とすべきは遠くにあるだけではなく　　　　　　　　取鑒不遠

　　　私の言うこともよく聞いてください」　　　　　　　　吾規子佩

　　　あなたはまことに愀然として　　　　　　　　　　　　爾実愀然

　　　言葉の途中で声を発した。　　　　　　　　　　　　　中言而発

　　　「衆に違えば速やかに誤り　　　　　　　　　　　　　違衆速尤

　　　風に逆らえばすぐにつまずく。　　　　　　　　　　　迕風先蹶

　　　身も才も実のないものだ　　　　　　　　　　　　　　身才非実

　　　栄誉も名声も消えるだけだ」　　　　　　　　　　　　栄声有歇

　　　叡智の言葉は永久に聞けなくなり　　　　　　　　　　叡音永矣

　　　誰が私の欠点を戒めてくれるのか。　　　　　　　　　誰箴余闕

　　　ああ、哀しいかな。　　　　　　　　　　　　　　　　嗚呼哀哉

　俺は立ち上がる。

「大酒呑みの呑んだくれに何がわかる」

「やはり怒ったな」

　兄貴は俺の顔を見てにやりと笑う。

「兄貴はどうして俺が怒ると思ったのか」

　興奮し、やや詰問調だ。

「俺はおまえの兄貴だ。おまえのことは俺が一番よく知っている。おまえを見ていればおまえの親父さんのことはよくわかる。おまえは親父さんに一番よく似ている」

「兄貴はまたそのように言う。本当にそう思うのか」

「ああ。俺もそうだからだ。見ろ、俺は親父と同じように上に諂ってこの官服を着ている。おまえはその襤褸を着て歩いている」

「俺は親父のような似非隠者になろうと思ったことは一度だってない」

「俺も親父のような似非君子になろうと思ったことは一度だってない。だが、今はそうなっている。おまえもそうだ」

　俺は唸る。俺はやぶれかぶれだ。

「大酒呑みの顔延之にはわかりっこない」

「わかるのはおまえだけだ」

「兄貴はこれからどうするんだ。さっき言っていた通りに蛮族の征伐に行くのか」

　俺は急に話を変える。これ以上親父のことを話しているのは苦しい。

「むろんそうだ。俺は俺の似非を通すしかない」

　兄貴は少し悲しげに言う。

「俺はどう俺の似非を通せばいいのか」

「そのまま流浪するのだな。それがいやなら苻淑のところへ行け。俺を相手に戦え。それも大司馬陶侃の子孫にふさわしいだろう」

　兄貴は腰に佩びる剣をほどいて俺の前に差し出す。長安で別れたときに兄貴が言った言葉を思い出す。「戦の場で敵同士となってまみえるか、山奥に隣り合わせに庵を結んで棲むのか」。俺は兄貴と戦うのか。苻淑に会いたい。しかし、俺は手を振る。

「いや、そうはしない」

「苻淑のことを思わぬのか」

「思わぬはずがない。思えば胸が裂けそうになる」

「では、行くがいい」

　兄貴は剣を俺の身体に押し付ける。唇を噛む。

　桃花源から一人で消えた俺を苻淑は恨み、漢人の朝廷に対する憎しみを駆り立て、蛮夷とともに戦っているのか。そうであるのなら、俺は行かない方がいい。いや、苻淑はそんな女ではない。恨みによって戦うことはもうないはずだ。苻淑は真を抱く上古の人として、道が道として現れている桃花源を守るべく戦っている。俺は上古の人間ではなく、智に冒され、真を失った人間だ。桃花源を追い出され、二度とそこには戻れない人間だ。苻淑はそのことを知っていたのだろう。だから、あの日、俺に最後の言葉を告げたのだ。苻淑はすでに覚悟を決めていたのだ。

　俺は手を後ろに回す。

「いや、行かない。苻淑とはもう会わない。俺は苻淑には似つかわしくない男だ。俺は親父のもとを去った。苻淑のもとからも去らねばならない」

「おまえは親父さんの墓に戻った。苻淑のところへだって帰ればいい」

「違う」

　俺はそう言ったが、自分がいま言っていることの意味が自分にはわかっていない。苻淑に会いたい。いますぐに会えるものなら飛んで行きたい。なのに俺は苻淑には会わないと言っている。なぜなのか。

　兄貴はわかってくれているのか。兄貴は目を逸らす。

「大酒呑みの顔延之は親父さんを知っていると思っていた。俺はそれほどもおまえのことがわかっていないのかも知れない」

　兄貴は冷たく言う。俺は無理に明るい声を出す。

「それで、兄貴はどうしてここに来たんだい」

　最初に俺が兄貴に訊いたことだった。

「おまえがこれを寄越したからに決まっている」

　兄貴は一枚の紙を俺に見せる。

「何だい？」

「お前が書いたのだ。今日のこの刻限にここに来いと。あの犬に届けさせただろう」

「俺は何もしていない」

「阿黄とか言っていた犬だ」

　俺は兄貴が手にする紙を見る。紙は真っ白で一字の文字もない。

「なんだ。何も書いていない」

　紙から目を離し、見上げると、そこに兄貴の姿はない。紙も消え、絹の布も消えた。

　丘を風が吹く。日が西に傾いている。

　丘のあのあたりが柴桑の村だ。そのあのあたりに松の木が立ち、坂を登ると五本の柳がある。粗末な門をくぐると我が陶家の小さな家だ。

　我が陶家の小さな家の載るこの丘に風が吹く。その風に乗って一つの声が聞こえる。その声は歌う。それは、俺が家を出て以来、聞くのを最も恐れていたものだ。親父はこれを歌いつつ、彭沢より帰り、二度と柴桑の村から出なくなった。俺はこれを聞いてどうすればいいのか。

　　　帰りなん、いざ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　帰去来兮

　　　田園が荒れようとしているいま帰らずにいていいのか。　　田園将蕪胡不帰

　　　心を形のために使ってきた　　　　　　　　　　　　　　　既自以心為形役

　　　それを独り悲しんでどうしようというのか。　　　　　　　奚惆悵而独悲

　　　過ぎたことは今さら諫めようがないと悟るがいい　　　　　悟已往之不諫

　　　これから来ることならまだ追えると知るがいい。　　　　　知来者之可追

　　　道に迷いはしたがまだ遠くではない　　　　　　　　　　　実迷途其未遠

　　　今が正しく昨日までは間違っていたと自覚をしろ。　　　　覚今是而昨非

　　　さあ、舟は遥かを目指し、軽やかに揺れる　　　　　　　　舟遥遥以軽颺

　　　風は緩やかに衣を吹く。　　　　　　　　　　　　　　　　風飄飄而吹衣

　　　旅人に路のほどを問おうではないか　　　　　　　　　　　問征夫以前路

　　　残念ながら朝の光に先はなお朦朧としている。　　　　　　恨晨光之熹微

　親父はこうして彭沢を後にした。

　　　あれは我が家の門だ、屋根だ　　　　　　　　　　　　　　乃瞻衡宇

　　　喜び走ろうではないか。　　　　　　　　　　　　　　　　載欣載奔

　　　下男たちが歓び迎え　　　　　　　　　　　　　　　　　　僮僕歓迎

　　　幼い子どもたちが門で待っている。　　　　　　　　　　　稚子候門

　　　庭の道は荒れてしまったが　　　　　　　　　　　　　　　三径就荒

　　　松も菊もまだある。　　　　　　　　　　　　　　　　　　松菊猶存

　　　幼子を連れて部屋に入ると　　　　　　　　　　　　　　　携幼入室

　　　酒が樽に満ちている。　　　　　　　　　　　　　　　　　有酒盈��

　　　壺と觴を引き寄せて自分で酌み　　　　　　　　　　　　　引壺觴以自酌

　　　庭の木を眺めるうちに顔がほころんでくる。　　　　　　　眄庭柯以怡顔

　　　南の窓辺にこの気持ちを寄り添わせよう　　　　　　　　　倚南窓以寄傲

　　　膝を入れる広ささえあればこの心安さがある。　　　　　　審容膝之易安

　　　庭は日が経てば趣を増すだろう　　　　　　　　　　　　　園日渉以成趣

　　　門はあっても常に閉じておこう。　　　　　　　　　　　　門雖設而常関

　　　老いを支える杖をつきつつ気ままに歩き　　　　　　　　　策扶老以流憩

　　　時には顔を上げて遠くを見晴らそう。　　　　　　　　　　時矯首而遐観

　　　雲は無心に山の峰より出て　　　　　　　　　　　　　　　雲無心以出岫

　　　鳥は飛ぶのに倦めば帰るのを知っている。　　　　　　　　鳥倦飛而知還

　　　日はかげり沈もうとしているとき　　　　　　　　　　　　景翳翳以将入

　　　一本の松を撫ぜてしばしそこに佇もう。　　　　　　　　　撫孤松而盤桓

　俺は十四年の間、これだけは思い出すまいとしてきた。この親父の声を聞いたなら、俺は親父に屈してしまう。俺も親父と同じように帰らずにはいられなくなる。それがわかっていたから、俺は思い出さずにいた。なのに、今、なぜ親父の声が響くのか。

　　　帰りなん、いざ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　帰去来兮

　　　もう交際を止め、交遊を絶たせてくれまいか。　　　　　　請息交以絶遊

　　　世と私とは相違するのだから　　　　　　　　　　　　　　世与我而相違

　　　私を仕官させて何を求めよというのか。　　　　　　　　　復駕言兮焉求

　　　親戚たちの心なごむ話に悦びを見出し　　　　　　　　　　悦親戚之情話

　　　琴と書を楽しんで憂いを消そう。　　　　　　　　　　　　楽琴書以消憂

　　　農夫がやってきてそろそろ春だと言ったら　　　　　　　　農人告余以春及

　　　西の田ではいよいよ仕事が始まる。　　　　　　　　　　　将有事於西疇

　　　あるときは幌のついた車を出させ　　　　　　　　　　　　或命巾車

　　　あるときは一人舟に棹をさそう。　　　　　　　　　　　　或棹孤舟

　　　遠く深い谷を尋ねたならば　　　　　　　　　　　　　　　既窈窕以尋壑

　　　次は険しい丘を越えてみよう。　　　　　　　　　　　　　亦�ｱ嶇而経丘

　　　木は欣欣と喜びつつ栄えに向かい　　　　　　　　　　　　木欣欣以向栄

　　　泉は涓涓とあふれて流れをつくるだろう。　　　　　　　　泉涓涓而始流

　　　よろしくも万物はその時を得ている　　　　　　　　　　　善万物之得時

　　　私の生も行く行くは安らぎを得ると感じる。　　　　　　　感吾生之行休

　親父は柴桑の村に帰り、そこに「よろしくも万物はその時を得ている」と知り、「私の生も行く行くは安らぎを得ると感じる」と言った。その安らぎは死のことか。もしもここに歌う通りに親父が思い、そこに何の疑いもさしはさまずにいられたならば、何の不安もないままに真の隠者となったはずだ。そうであれば、俺もこの詩に誘われて帰ってもいいのではないか。

　親父はなおも歌う。

　　　どうにもならない　　　　　　　　　　　　　　　　　　　已矣乎

　　　形をこの世に寓するのはあと幾時もない。　　　　　　　　寓形宇内復幾時

　　　心に委ね、去るも留まるも任せればいいのに　　　　　　　曷不委心任去留

　　　あわただしくもどこに行こうとしているのか。　　　　　　胡為乎遑遑欲何之

　　　富貴は私の願うものではないし　　　　　　　　　　　　　富貴非吾願

　　　天帝の郷などあるものでもない。　　　　　　　　　　　　帝郷不可期

　　　良い日があれば一人で行くことを思えばよく　　　　　　　懐良辰以孤往

　　　杖を脇に立てて、田畑を耕すのもいいだろう。　　　　　　或植杖而耘耔

　　　東の丘に登ってゆったりと嘯き　　　　　　　　　　　　　登東阜以舒嘯

　　　清い流れに臨んで詩を賦す。　　　　　　　　　　　　　　臨清流而賦詩

　　　大いなる変化に乗り、帰り尽くすだけだ　　　　　　　　　聊乗化以帰尽

　　　天命というものを楽しもう。何の疑いがあろうか。　　　　楽夫天命復奚疑

　親父は最後の仕官を擲って家に帰った初めからこうだった。「天命というものを楽しもう。何の疑いがあろうか」と言った。疑いを持たない人間がそう言うだろうか。「どうにもならない」などと歌い出すだろうか。形と心が乖離するのを必死に押し留めようとしているから、心に委ねようとあえて言い、富貴に執着があるから願わずと言い、天帝の住む仙界にあこがれるからそれはないと言うのではないか。大酒呑みの顔延之が描いた陶淵明なら、疑いを持たず、苦しみもせず、こんな詩を書いたりしない。

　親父は弦のない琴を抱き、詩を吟じ、俺たち息子に向かって虚構の話をした。それはなぜだったのか。

　振り返る。陶家の墓を見下ろす二本の柏が立つ。古く高い木だ。

　俺は親父と同じ苦しみの中に自分を置くことはできない。それは俺には無理だ。親父の苦しみを俺は引き受けられない。「歯なし八十の韓元長、怨まず七世の氾稚春」。ああ、それは息子に苦しみを継がせないための親父の知恵だったのか。

　柏を見上げる。この木よりも遥かに親父は高い。陶淵明は似非隠者であった。だからこの柏よりも遥かに高かった。真の隠者ならこのように俺が見上げることはない。似非であったからこそ、親父はこの柏よりも堂々とこの丘の上に高く今も屹立する。

　俺にはできない。全てを疑い続けながら、ごく普通の農夫として生きることなど、一体誰にできようか。真の隠者になるのはたやすく、似非隠者であり続けるのは難しい。誰にもできない。

　親父は柴桑の村に帰った直後には真の隠者になろうとしたのかも知れないが、大酒呑みの顔延之が描いた陶淵明のように、郷里に帰って安らぎを得て、満たされた心のままに残りの二十年を生きたのでは決してない。

　　　帰りなん、いざ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　帰去来兮

　　　田園が荒れようとしているいま帰らずにいていいのか。　　田園将蕪胡不帰

　親父は帰り得たのか。違う。親父は柴桑の村に帰った。しかし、そこは帰り尽くした場所ではなかった。桃花源において、巨人の危は帰り行くところに導くと言った。あの渦の先には何があったのか。帰るべきところがあったのか。そこは柴桑の村でもなく、桃花源でもなく、死でもなかった。帰るべきところは実はどこにもなかった。あったのは、あの渦のように帰り行く道だけではなかったのか。

　　　君は門を出て万里の客となり　　　　　　　　　　　　出門万里客

　　　道のどこかでよい友とでも逢ったのか。　　　　　　　中道逢嘉友

　　　杯の酒を交わしもしないのに　　　　　　　　　　　　未言心先酔

　　　言葉を出す前から酔ったのか。　　　　　　　　　　　不在接杯酒

　ああ、これは俺に対して言ったのか。親父が己を歌ったのではないのか。親父は人生に何かを求め、しかし得られず、求めてなお出て行くのではなく、帰り行くことによって得ようとした。それは得られたのか。得ようとして得られぬもの、それを求めて常にさまよったのではないのか。それは親父にとっての戦いだった。親父が戦っているのを知る者は誰もいなかった。陶敬遠の小父さんと、陶敬徳の小父さんはもしかしたらわかっていたのかも知れない。いや、二人ですらわかっていなかったのかも知れない。でなければ、あれほどまでに知己と意気にこだわりを持たなかったはずだ。あの深い嘆息はなかったはずだ。

　親父を知るのは俺だけか。俺はかすかに笑う。親父もそう思っていたのだろうか。

　柏の木が歌う。

　　　若いころから世俗と合う調べを持たず　　　　少無適俗韻

　　　本性はもとより丘山を愛していた。　　　　　性本愛丘山

　　　誤って世俗の塵でまみれた網の中に落ち　　　誤落塵網中

　　　ひとたび去って十三年となった。　　　　　　一去十三年

　　　捕らわれの鳥はもとの林を恋い　　　　　　　羈鳥恋旧林

　　　池の魚はもとの淵を思う。　　　　　　　　　池魚思故淵

　　　私は、荒れた土地を村の南に開こうと　　　　開荒南野際

　　　拙ない己を守って田園に帰ることにした。　　守拙帰園田

　　　土地は十畝余り　　　　　　　　　　　　　　方宅十余畝

　　　草葺きの家に部屋は八か九だ。　　　　　　　草屋八九間

　　　楡と柳が裏の軒を覆い　　　　　　　　　　　楡柳蔭後簷

　　　桃と李が部屋の前にある。　　　　　　　　　桃李羅堂前

　　　遠くの村が曖曖とかすみ　　　　　　　　　　曖曖遠人村

　　　近く家の煙が依依と立ち昇る。　　　　　　　依依墟里煙

　　　奥まった道に犬が吠え　　　　　　　　　　　狗吠深巷中

　　　鶏が桑の木の天辺で鳴く。　　　　　　　　　鶏鳴桑樹巓

　　　門や庭に俗塵はなく　　　　　　　　　　　　戸庭無塵雑

　　　がらんとした部屋に閑かさがある。　　　　　虚室有余閑

　　　長いこと籠の中に捕らわれていたが　　　　　久在樊籠裏

　　　こうしてまた自然に帰ることができた。　　　復得返自然

　親父は帰る喜びを歌う。帰ればそこにも喜びがあるが、しかし、すぐに親父はこう歌う。

　　　野を離れたこの村に人との関りはなく　　　　　　野外罕人事

　　　奥まった道に車馬などは来ない。　　　　　　　　窮巷寡輪鞅

　　　真昼間も門扉を鎖し　　　　　　　　　　　　　　白日掩荊扉

　　　誰もいない部屋に俗な思いは絶えてない。　　　　虚室絶塵想

　　　時には村のあたりを　　　　　　　　　　　　　　時復墟曲中

　　　草を分けて行くこともある。　　　　　　　　　　披草共来往

　　　村人とは余分な言葉などなく　　　　　　　　　　相見無雑言

　　　ただ桑や麻が伸びたとだけ言う。　　　　　　　　但道桑麻長

　　　桑や麻は日に日に伸び　　　　　　　　　　　　　桑麻日已長

　　　私の畑も日に日に広くなっていく。　　　　　　　我土日已広

　　　恐れるのは、霜や霰がきて　　　　　　　　　　　常恐霜霰至

　　　作物がそこらの草のように駄目になることだ。　　零落同草莽

　親父の喜びは持続しない。恐れるのは霜や霰によって作物がやられることだけではない。己の心が零落してしまうこともだ。

　帰り着いたことに安心したならば、心は日に日に駄目になっていく。それを親父は恐れた。だから親父は喜びのうちにとどまろうとして、田畑の仕事に励んだ。

　　　衣食は我が手で収めるべきだ　　　　　　　　　衣食当須紀

　　　力を尽くして耕やすことは、私を欺かない。　　力耕不吾欺

　自ら耕すことばかりは欺かないと言い、他はどうなのか。つまりは、帰り着いたとて、そこに安住はできなかった。だから、衣食のために力を尽くしかなく、しかしふと思えば、常にその先へまた帰ろうとする己に気付かざるを得なかった。喜びはただ帰って行く途中にあり、帰った先にあるのではなかった。親父は生涯をかけて帰り続けようとした。

　帰るのはどこへか。人が本然の性のままに生きられるところだ。それは本来あるべきところだ。しかし、それが最も至り難い最も遠くにある。だから、それはもともとないと疑わせる。強い意志なくして帰り続けることはできない。安易に至ったと思いたがる者は、心が零落して駄目になる。それが世の隠者だ。

　では俺はどうするのか。俺も親父と同じことをするのか。親父の苦しみを俺などが引き受けるのは無理だ。ならば、兄貴には否定したが、苻淑のところへ行くのか。苻淑ととも戦うのか。兄貴を剣で切るのか。親父もまた桓玄、劉裕の幕府に出仕し、武によって理想とするものを追い求めた。刺客の荊軻を詩に詠み、主君の仇を討った程嬰と公孫杵臼の話を熱を込めて村人にした。だからこそ仏門に入って独り己の安心を得ることは拒絶した。俺は桃花源をこの世に実現するために戦うのか。この世は桃花源であるべきであるのに、そこは最も至り難く、外からは誰も入れない。

　桃花源のあの渦の中で俺は前に親父を見て、後ろに苻淑を見た。もしかして、あれは前と後ろは同じではなかったのか。前に苻淑を見て、後ろに親父を見たのか。親父と苻淑は同じだったのか。親父は俺の前で全てをさらけ出していた。だからあの冗舌があった。苻淑は俺を一途に思ってくれた。二人は俺を知己と思い、俺は二人に遠く及ばなかった。

　親父は俺に刺される覚悟を決めていた。だからあの笑みがあった。父祖が桃花源に対して犯した罪を、息子の剣で斃されることで償おうとしたのか。苻淑は俺が二度と戻らぬのを知っていた。だからあの言葉があった。

　　　意気を感じ合えば命も投げ出すものだ　　　　　　　　意気傾人命

　　　離れ隔たり、また何があるだろうか。　　　　　　　　離隔復何有

　親父と俺は呼応していたのか。あれほど嫌って逃げたのに。苻淑と俺はどうか。今も呼応しているのか。初めから苻淑と俺の心は呼応し、しかし、互いに抱き合っていても苻淑がなぜここにいるのか不確かな感覚が常にあった。とすれば、遠く離れた今も同じか。

　　　帰りなん、いざ　　　　帰去来兮

　俺は柴桑の村に帰るべきか。兄妹がいて母がいる。親父や小父さんたちのように生きるのか。それとも、どこであるのかわからぬ桃花源への道を尋ね、苻淑のもとに行くべきか。親父と苻淑は心において同じだ。苻淑のあの虚しさの先に親父の帰り行く道がある。とするならば親父のした通りのことをするのか。

　この丘に日が翳り、廬山に向かって鳥が帰る。

　　　羽ばたき帰る鳥よ　　　　　　　　　　　　　　　　　　翼翼帰鳥

　　　翔んでさらに飛ぶがいい。　　　　　　　　　　　　　　載翔載飛

　　　遠く遊ぶことは思わず　　　　　　　　　　　　　　　　雖不懐遊

　　　林を見て情を寄せるがいい。　　　　　　　　　　　　　見林情依

　　　雲に会えば上に下に飛び　　　　　　　　　　　　　　　遇雲頡頏

　　　互いに鳴き交わして帰るがいい。　　　　　　　　　　　相鳴而帰

　　　その道は遥かに遥かに遠くとも　　　　　　　　　　　　遐路誠悠

　　　君らの本性の愛するところは忘れはしないのだから。　　性愛無遺

　俺の本性の愛するところはどこか。親父はその愛するところへと導かれるままに桃花源に至った。しかし、そこがそのまま親父の終着点ではなかった。巨人の危に導かれて行った先も終着点でなかった。土の下に横たわる今も終着点に達していない。

　帰り行く心は永久に満たされない。ならば俺はどうするのか。いつか兄貴が官服を脱ぐのを待って庵を隣り合わせに並べるのか。どれとも俺は選べない。

　振り返ればここは陶家の墓だ。なぜここに来たのか。犬の阿黄が導いたからなのか。そうだとすれば、ここに来てここで起こるべきことはこれで全て終わったようだ。それは俺の期待していたようなことだったのか。

　わからない。わからないが、俺はどうやらこれで救われたようだ。俺は一人生きることをようやく決められたようだ。

　碑に手をかける。楊生の犬は主人を二度救った。阿黄も俺を二度救ってくれた。青泥とここで。阿黄は立派な犬だ。親父も二度救った。一度は渦の中で俺の剣を受け、そして二度目はやはりここだ。俺がここに来なければ、親父は大酒呑みの顔延之によって真の隠者にさせられてしまったままになっていただろう。