いま思い出したんだけんど。
「坊ちゃんは、かわいそうだけんど、はっきり言って、長生きはできませんな」と、じいさんは言った。四十年も前のことだ。君たちにとっては生まれたときは俺は父親だったから、想像しにくいだろうが、俺だって、君たちよりは年若い「坊ちゃん」のときがあったものだ。
じいさんは俺の手を取り、長い時間、電灯の光にかざしたり、指を引っ張り、皺を撫ぜたり、さんざんにいろんなことをしたあげくに、「はっきり言って」とやったものだから、俺はびっくりした。明日にも死ぬと言われたような気がしたんだ。
俺はきっと青ざめたのだろう。じいさんは大きな目をぐりぐり回して俺を見つめ、「ははあ」と言って笑った。「そんなに心配してなくていいです」。俺は素直にうなずいた。「はっきり言って、長生きはできないのだけんど、坊ちゃんは何かをものにする顔をしていますな。一心不乱に打ち込めばきっと成就する。人相にはそう出ています」
そんなことでは安心できず、「ねえ、いつ死んじゃうの」。恐る恐る聞いてみた。「いつ？ 気になりますか」。それは気になる。じいさんはもう一度、手相をとっくりと見た。「はっきり言って、明日かもしれませんな。十年後か、二十年後か、せいぜい長くても三十年っていうところでしょうかなあ」。俺はがっくりきた。やっぱり明日死ぬかもしれないんだ。長ければ三十年あるのだから、四十歳くらいまでなら生きられるわけなんだけど、とにかく明日にもと思ってしまった。その日から、夜になるたびに、布団の中で眠ったらこれでもう起きられなくなるのかもしれないと、考えるようになった。さっきみんなと一緒に食べた御飯が最後になるかもしれないと思うと、布団の中でひどく悲しくなった。涙を流したことだってある。
「あんまり子供を脅かさないでくださいよ」って、親父が言った。「いやいや、これは脅しじゃなくて本当の話。手相と人相に出ているのをありのままに言っただけです。はっきり言って、坊ちゃんは長生きできないのですから、大事にしなくちゃいけませんな。坊ちゃん、そうでないと、このじいさんのようにろくでもないままに人生を終えないとならなくなってしまいますよ」。じいさんがぐっと俺の目を見据えた。何だか怖いような感じだった。「坊ちゃんには、気の毒なことにやり直す時間がないのですからなあ」とまでじいさんは言った。
どうして、じいさんがこんな話をしたのかっていうと、このころ、じいさんは占いに凝っていたんだ。そのうちに、本当に易者になって、駅を出た脇の道でしばらく商売していた。それは、じいさんの仕事としては割と長続きした方だったかもしれない。妙に合っていたような気もする。だけど、じいさんの話はいつだって長いから、気の短い客には苛々させたかもしれない。
この日は、じいさんは親父に向かって、覚えたばかりの手相についての長講釈をしていた。いいかげん聞いているのに疲れたのか、ちょうど俺が学校から帰ってきたのを幸いと、「ちょっとあいつの手相でもみてやってくれませんか」と親父は俺を呼び寄せた。俺は「ただいま」と玄関から入り、じいさんがまたきているなど、思ったばかりのときだった。縁側のガラス戸を開け放して、廊下に座布団を敷いて座っているじいさんのつるつる頭が見えた。ランドセルを放り投げて、じいさんの脇に行った。「坊ちゃん、このじいさんの飲み残しでよければ、どうですか」と、卓袱台の上のコップを俺に差し出した。俺は喉が渇いていたものだから、遠慮もしないで、手を出した。氷が融けて生ぬるくなっていたが、それでもうまかった。いまのジュースとは違う合成の粉末ジュースだ。その程度のものでも、氷を入れたら、お客さんをもてなすのには十分なものだった。ぱたぱたさせていた扇子を置くと、じいさんは俺の手を取り、「長生きできない」という御託宣を告げたのだ。
じいさんは、自分自身のことをさかんに「じいさん」と言うものだから、本当にお爺さんだと思っていた。今になって、なぜ、じいさんは自分のことをじいさんと言っていたのだろうかと考えてみると、どこかに自分の人生は終わってしまっているという感覚があったのかもしれないという気がしてくる。俺もこのごろは自分を「じいさん」って言ってみたくなる。本当にそう言えたら楽なような気がする。だけど俺はじいさんには到底なれない。
頭がつるつるだった。見た目からして立派なお爺さんではあった。あれでいくつだったのだろう。死んだのが二十年ちょっと前だ。そのときまだ八十になっていなかったらしい。じいさんがよく家にきて、俺がじいさんのところによく行ったのは、それより二十年は前のことだ。とすると、じいさんは六十にもなっていなかったのだ。あと数年もすると、俺はじいさんの年に追いついてしまうわけだ。
せいぜい長くて三十年と、自信たっぷりにじいさんが言っていたのは、幸か不幸か当たらなかった。それより十年、俺は長く生きた。だから、じいさんが不可能だと言っていた「やり直し」を俺はいま始める羽目に陥ったわけだ。「やり直し」は自分で選択したのだが、そんなつもりなどずっとありはしなかった。
じいさんの苗字も名前も忘れてしまった。およそ風貌と合わないごく平凡なものだったので覚えられなかったのだろう。本人は「じいさん」って言うし、おれは「おじさん」って呼んでいた。親父の変わった友人だ。
何のときだったのか、じいさんが死んだと、親父が教えてくれた。名前も年齢もそのとき聞いたはずなのだが、特別な感慨もなくて記憶にとまらなかった。いまだったら、じいさんのことをもっといろいろと親父に尋ねただろうに、親父も死んでしまった。だから、名前のない、じいさんってことで話すしかない。
頭はつるつる、目と鼻と耳と口はどれもが大きい。眉毛が黒々と太く、唇が分厚く、要するに大入道というところだ。身体も、お相撲さんっていうほどではないにしても大きかった。手がびっくりするほど分厚い。たぶん右足だったと思うけど、少しばかりひきずっていた。戦争で傷付いたと言っていた。自転車は、悪いほうの足を大きく広げて、ほとんど片足だけで漕いでいたようだ。あれでリヤカーを引いていたのだから、よほど脚力があったのだろう。扇子と手拭をいつも持っていた。暑がりの汗っかきだった。
学校から帰ると、ときどき、じいさんが家に上がりこんで親父としゃべっていた。じいさんがきているのはすぐにわかった。座敷だったり、縁側だったり、とにかく玄関からそのつるつる頭がすぐに見えたし、ちょっとしわがれた太い声は家の外にも響いた。だけど、外では、じいさんだとすぐにわからないことがある。頭の上にベレー帽を載せて、目印となるつるつる頭が覆われているからだ。
あれは、学校からの帰り道だった。チョコレートを食べたわけでもないのに、突然、鼻血が出た。指で鼻をつまんでも血があふれ、手が真っ赤になって、ぽたぽたと血が落ちた。仕方がないからそのまま歩いたけれど、家の前に続く道路では舗装工事が行われていた。あのころ、町の道の大半はでこぼこの砂利道だった。少しずつ舗装が進んで、アスファルトを敷く前に、下水管を通すために道の中央が深く掘り下げられた。掘り出した土砂が溝の左右に高く積まれ、その脇に細くわずかだけ残った平らな部分を、俺は血を落としながら歩いた。頭がボワーンとして、よろよろとふらついていたかもしれない。ツルハシを持って作業していた人に後ろから抱きとめられた。「鼻血は上を向くと止まるんだ」と、顎を抑えて顔を空に向け、トントンと頭の後ろを軽く叩いてくれた。「さあ、これで押さえて、帰ったらしばらく横になっていなさいな」と、頭を覆っていた手拭をはずして渡してくれた。じいさんのつるつる頭が出てきた。おれは、鼻血を流しっぱなしだったから、何だかよくわからないままに、手拭で鼻を押さえて家に帰った。親父は新しい手拭いをじいさんに渡しに出て行った。
そのときには道路工事をしていたわけだが、じいさんはいろいろな仕事をしていた。俺がよく覚えているのは養老院の用務員さんだったころだ。易者になったのはその後だ。用務員の前が道路工事だったのか、野菜の行商だったのか、海の家の管理人だったのか、鉄工所の作業員だったのか、植木屋の職人だったのか、そのあたりの順番はまったくわからない。親父と知り合った最初のときに、じいさんが汚穢屋さんだったのだけは確かだ。
汚穢屋さんっていうのは、汲み取り式便所の屎尿を汲み取りにくる人だ。バキュームカーができてからは、車で来てホースを突っ込んで吸い出すようになったけれども、それ以前は、リアカーに大きな桶をいくつも積んで、柄杓で汲み出したものだ。もっと昔は屎尿が肥料になったので、農家の人が野菜などと引き換えに汲み取って行ったらしい。あのころは、たぶん、じいさんは役所から委託されて仕事をしていたのだろう。役場から各家庭に配られた「汲み取り切符」、本当の名称は忘れたが、を、汲み取りを終えた後、一枚切り離して持っていったものだ。
汲み取り便所というのはかなり臭いものだ。そのころは、どの家庭でも当たり前な存在だった。いまもしも汲み取り便所の家が近所に一軒でもあったら、町内中がその臭いを気にするかもしれない。特に夏はひどい。虫もわいた。樟脳などをよく撒いた。そんなものを柄杓で汲み取るのだから相当な仕事だ。リアカーは重くて、きつい重労働だったに違いない。
親父が東京から越して間もないころだったらしい。禅僧のような大入道が、黙々と汲み取りをしている姿を見て、何か感じるものがあったのだろう。水を出して庭で休憩してもらったりするうちに、妙に馬が合ったのか、じいさんが休みの日などにはふらっと遊びにくるようになった。じいさんは酒も煙草もやらなかった。せいぜいお茶か、夏は冷たいジュースで、時に蕎麦くらい出前を取ることもあった。「あれは、一度上がると話が長いなあ」と、親父も時にはぼやいたが、しばらく顔を見せないと、「どうしたものかな」と寂しがった。
仕事を変えたというたびに、何かしらお祝いのようなものを渡していた。養老院の用務員になったときは、住み込みだったし、これでようやく落ち着くと思ったものか、親父は菓子折りを持って、珍しく自分からじいさんを訪ねた。俺も連れられて行った。それがきっかけで、その養老院とはすっかり馴染みになった。
じいさんにも奥さんがいた。小柄な人だったという記憶くらいしかない。じいさんと一緒にいれば、誰でも小柄に見えてしまうってことはある。無口なおとなしい人だった。養老院の用務員にはじいさんがなったのだけれど、実際によく働いていたのは、奥さんの方だった。じいさんも仕事をしなかったわけではない。住んでいる年寄りたちと話が始まるとどうしても長くなるのだった。
用務員さんの部屋は、中庭を挟んで二列に並んだ養老院の建物の北の隅だった。狭い土間の台所と流しの奥に、これまた狭い和室があった。小さな箪笥と小さな卓袱台を置くともういっぱいで、親父と俺があがって、じいさんが向かいに座ると奥さんの場所がなくなるほどだった。奥さんは冷蔵庫から豆腐を出して、鰹節をふりかけて卓袱台に載せた。「今日いらっしゃると伺っていたのですが、こんなものしかなくて」と、恐縮した。じいさんは、「古い冷蔵庫が置きっぱなしになっていましたから、掃除して、氷屋に一つ入れてもらったんだけんど、もうほとんど融けてしまっていますなあ。どこか隙間があるんでしょうねえ。どうですか、冷奴、冷えていますかな」。じいさんに勧められて親父は一箸付けた。このころは電気冷蔵庫も使われ始めていたが、ここにあったのは、氷を入れて冷やすもので、今でいうなら保冷庫のようなものだ。
奥さんは「ちょっと用事ありますから」とすぐに出て行った。しばらく話をしていると、女の人が顔をのぞかせた。「あら、お客さんか。だったら悪いんだけど、ちょっとでいいから、きてくれない。ヒロシさんがまた怒り出していて、あんたじゃないとだめみたい」と言った。寮母さんだった。
ヒロシさんというのは、後でヒロちゃんと言って俺たちが知り合いになるお爺さんだ。養老院に住んでいる正真正銘のお年寄りのお爺さんだ。今で言えば痴呆だったのだろうけど、そのころの俺はそんなことはわかっていなかった。そのお爺さんは自分のことを「ヒロちゃん」と呼んでいて、じいさんに向かっては「お爺さん」と呼んでいた。ヒロちゃんよりはどう見ても若いじいさんを「お爺さん」と呼ぶのは何だかおかしかった。そのうち、俺たちが養老院によく遊びに行くようになると、ヒロちゃんと仲良しになった。痩せたヒロちゃんは腰が斜めに曲がって杖をついてよろよろ歩いた。俺たちに対してはそんなことはしなかったけれど、突然怒り出して、杖を振り回して大変な騒ぎを起こすことがあった。不思議と、じいさんには機嫌がよかった。養老院に住む人も働く人もほとんどが女性だったから、数少ない男は自分の味方だと思っていたのかもしれない。
俺たちというのは、俺ともう一人の友達だ。ヒロちゃんと俺たちは何度も会っているのに、ヒロちゃんは俺たちの名前をいつも忘れてしまう。教えると一生懸命覚えようとするのだが、何日かして行くとすっかり忘れている。そのうち俺たちも慣れてしまって、会うたびに別の名を名乗って面白がっていた。ある日、平八郎と希典と名乗ってみた。これは大成功だった。「海軍元帥と陸軍大将と同じ名前が揃うとは珍しい」と、大喜びで、日露戦争のころの提灯行列か何かの話を楽しそうにしてくれた。大昔の戦争をつい一週間くらい前のことのように言うのだった。そのくせ、ヒロちゃんは俺たちと同じくらいの年齢でいると思っているふしもあった。それからは、俺たちは何かというと平八郎と希典になった。そのうち、ヘーちゃん、マーちゃんと呼び合うようになって、元帥や大将のような強い感じはなくなってしまった。俺がヘーちゃんだ。弱そうだろう。
マーちゃんと俺とはよいコンビだったのだろう。俺は痩せていて引っ込み思案で、静かに一人で家にいる方だった。マーちゃんはいくらか太っていて活動的で、友達を引き連れて外で遊ぶのが好きだった。
じいさんが寮母さんに呼ばれたので、親父は帰ることにした。西日の当たる物干し竿に、おばさんがおしめをいっぱい干していた。その光景はなんだかよく覚えている。後では、すっかり見慣れてしまうのだが、そのときはとても印象的だった。赤ん坊でなくても、おしめを使うんだというのが珍しく思えたのだろうか。
このころ親父は四十前後だった。いまの俺よりも十歳ほど若い。親父も思い切ったことをしたものだが、先の時間はいまの俺よりもたくさん持っていた。この話の時期よりも数年前に、東京にあった店をたたんでこっちに引っ込んだのだ。引っ込んだという表現がぴったりするほど、ここらはまだ田舎だった。ベッドタウンとして急速に人口が増え出す前だった。周囲から「どうしてそんな遠くに行ってしまうのか」と、咎められたらしい。店についてはあれこれあったようだが、結局、若い日々に二回も挑み損なった道に入り込もうとした。小説家になろうとしたのだ。二回と言ったのは、学徒出陣と、戦災で焼かれた店の再建だった。戦争から帰ってくると、店は空襲で丸焼けになっていた。親父は長男だったから逃げようがなくて、祖父とともに店のために東京の焼け跡を駆け回らねばならなかった。どんな苦労があったのか聞きそびれてしまったが、首尾よく表通りに看板を再び掲げられた。ところが、戦後十年もすると、商売の仕組みが変わってしまって先が見えなくなった。経済の成長期に入るにつれて、業界の編成替えが進んだ。他にやり方がなかったわけでもないだろうに、祖父の死をきっかけに、もともと商売に情熱の薄かった親父は店をたたんで、昔の夢を追うことにしたのだった。
それで、静かな町に移り、まだ知り合いもいなかったころに、じいさんとの縁が生まれたわけだ。
親父はいつも聞き手に回っていた。普段は親父だってよく話す方ではあったが、じいさんには適わなかった。よくしゃべった。子供心にも、これはおかしいなと思う話がよくあった。親父は一度も否定しなかった。じいさんの言うことを信用していたかというと、それはよくわからない。手相をみてくれた日は、ふだんは占いなど毛ほども関心のない親父が、じいさんの御託宣に真面目にうなずいていた。面白がっていただけなのかもしれないが、俺としては「長生きできない」という言葉を真実味のある恐ろしいものとして受け止めてしまった。
「大事にするって、何でしょうかねえ」と親父は尋ねた。じいさんは目を大きくむくと、つるつるの頭をぴちゃぴちゃと叩いた。「こんなじいさんになったらおしまいですからな」と、大きく笑った。「とんでもないことです」。すぐに口元をきゅっと引き締めて、俺の頭を撫ぜ、「こんないい坊ちゃんが、このじいさんみたいになることは絶対にないはずだけんど、人生どうなるかわかりませんからなあ。坊ちゃんが大事にするのは、たった一つしかない坊ちゃんの人生です」と、ひどく真剣に言った。「これは大げさな話になりましたね」と親父は言った。「いやいや、大げさでも何でもありません。はっきり言って、人生には二種類しかありませんからな。そのどっちになるかっていうことです」。「二種類とは」と親父が訊いた。じいさんは、また額を叩いた。「一つは、自分にぴったり合う定まった道を真っ直ぐに行く人生。もう一つは、何がぴったりかわらぬままにうろうろしてますます遠ざかっていく人生。それだけですな」。「それは厳しい話です。その二種類しかないとすれば、前者になれなかった僕は後者の方になるしかないようです」と親父は苦笑いした。「いやいや、先生は違いますって」。
いまの俺もやっぱり苦笑いするしかない。人生が二種類であるのなら、俺も後者の方になる。確実に前者の側にあった俺の人生が、どうしてこうなったのか。じいさんの御託宣を忘れていたからだろうか。親父を見ていたせいで、俺は間違えまいとして着実な選択として教職に就いた。ベテラン教師となり、定年までの残りは、教頭、校長と出世していく階段だってあったろうに、辞めてしまった。
俺はまだこれから先の可能性が一応はあるとして、あれから四十年経ったいま、親父は死んでしまっているから、その人生には結果が出ている。むろん後者だった。それも悔いのあるものだった。あのころは勝負をかけていたんだろう。じいさんの言う二種類の他に第三のものがあると考えていたのだろう。遠く離れたところまで来てしまったのに、元に戻って本来の辿るべきであった道を歩き直せると考えた。自信があったわけではないのだろう。作家として成功する見通しを獲得できないままに時が経ち、悔いが心を占める比率を大きくしていった。じいさんとよく話していたのは、まだ、そうなる以前だった。どうなるのかわからない時期だった。いまの俺がしきりにじいさんを思い出すのと同じような理由で、あのころの親父にとって、じいさんは気になる存在だったのだろう。なぜ俺がいまじいさんの話をしたがるのか、そのわけはもう少ししたら話そう。
じいさんが人生は二種類しかないって言ったのは、本気だったのだろうか。じいさんこそは、前者からは遠く離れた生き方をしていた。だからといって、後者だったのだろうか。
じいさんはどこまで本気でものを言っていたのだろう。子供であった俺の記憶では、すべてが本気のように話していた。騙そうというそぶりはまったくなかった。本人はいつだって本気だったと思うしかないような気もする。だが、俺はじいさんのようには話せない。
じいさんは、俺の顔をまたじっと見つめた。「坊ちゃんがこのじいさんみたくならないためには、大人になって成りたいものがいまあるのでしたら、すぐに始めた方がいいですな。そうすれば成就します。顔にそう出ていますもの。でないと、大変な後悔をしますな」。じいさんはきっぱりと言った。俺はいよいよ怖くなった。成りたいものなどそのころには特になかった。俺は後悔するしかないんだと思った。しかも、早死をする。俺はそのとき、自分の最後の姿がありありと見えた気がした。病院のベッドの上に横たわっている。「何もできなかった。なのに、もう死んじゃうんだ」と思っている。親父や母さんが死の床にある俺の顔を覗きこむ。二人はぐっと涙をこらえている。俺は、言いたいことがあるのだが、それもすでに遅い。口がきけない。ふうっと息を吐くと、首がかくっとなる。医者が「ご臨終です」と言う。
俺はそんなことを想像して黙っていた。「では、このじいさんが、坊ちゃんが何になったらいいのかみてさしあげましょうかな」と、さらに念入りに俺の顔を覗き込んだ。穴のあくほどって言うが、まさにそんな感じだった。俺の顔ならすでに何度も見ていたのに、なんでまたそんなにも見るのか、不思議だったし、非常に煩わしい感じがした。どうせ早くに死んでしまうのだから、ほったらかしにしてほしいという気分があった。でも、教えてくれるというじいさんに甘えたいような気分もあったかもしれない。「ははん」とじいさんはうなずいた。「ふう」と息を吐き、そのまましばらく何も言わなかった。親父がちょとじれて「こいつは何に向くのでしょうか」と訊いた。じいさんは、おでこをぽんと叩き、「いやあ、これは驚きましたなあ。坊ちゃんは大変かもしれません」と言った。「えっ」。俺は思わず声を出した。何が大変なのか。やっぱり明日にも死んでしまうのか。「坊ちゃんの顔をこうしてじっと見ていたら、驚くことに、見えてくるものがありましてな。坊ちゃんの顔の向こうにです。おやおやって、目を開き直して、よくよく見ますと、いよいよ確かにはっきりとする。これは変だと、目を一度閉じてからまた見直すと、これは間違いなしです」。「何が見えるのですか」と親父が尋ねた。「竜ですな。竜がこうもはっきり見えるということは、坊ちゃんは将来は竜ってことですな」。親父は妙に笑った。「こいつは辰年だったかなあ。次の巳年じゃなかったか」。「そうだよ、僕はねずみだよ」。「竜っていうのはどういう意味でしょうか」と、親父は顎を撫で回しながら訊いた。
じいさんの占いは、どういう訳か、いま思うと奇妙に当たっていたことになるのかもしれない。わかるだろう。あんまり馬鹿馬鹿しいけれど、ラーメンの丼ってことだ。あれにはよく竜の絵が描いてあるだろう。俺がもしも中華の店を持てるようになれば、じいさんの占いはぴったりだったことになる。なんかおかしすぎる符合だ。なぜ、俺はラーメン屋の主人になりたいとこの年になって思うようになったのか、それは俺にとっても謎だ。教師がいやになったといえばそれまでかもしれないが、どうしてラーメン屋かというとよくはわからない。だけど、ラーメン屋しかないと思っているのも確かなのだ。じいさんが竜だと言った意味は、まったく別のところにあったとしても、それも謎のままだ。
四十年後の自分の姿など知りもしない小学生の俺は、わけのわからなさに子供ながらにも反発しようとしたのか、俺はそれまで一度だって考えもしなかったことを口にした。「将来は宇宙飛行士になりたいんだ」。「ほう、宇宙飛行士か、そいつはすごいじゃないか」と親父は驚いたように言った。たぶん、その少し前くらいに、ソ連やアメリカが人間を乗せた宇宙船を打ち上げていたから、とっさに思いついて口走ったのだろう。「やっぱり空高く飛び上がるっていうところは竜なのかな」と親父はちょっと笑いながら言った。
じいさんは、「坊ちゃんは知っているか知っていないか知らんのだけんど、ロケットの打ち上げのときには何Ｇとかいう、ものすごい重さが身体にかかるらしいですな。下手すると胸が潰れて息が止まる。首尾よく宇宙に出られても、無重力の世界でしばらく過ごしてから地上に戻ると、足の筋肉がすっかり萎えてしまって、立てなくなるらしいですな」と、妙に詳しいことを言い出した。じいさんはとにかく変な人だ。たいていのことは何でも知っているように話した。俺は、宇宙飛行士になりたいと言ったくせに、宇宙旅行などぜんぜん知識がなかった。「へええ」とあいまいな相槌を打った。「宇宙飛行士っていうのは、オリンピックで金メダルを取るくらい身体がしっかりしていないと駄目なようですな。見たところ、坊ちゃんの身体は華奢だから、よっぽどこれから鍛えないと、はっきり言って、宇宙飛行士は難しいかもしれませんな」と、身も蓋もないようなことを言った。「僕だって、この前、プールで二十五メートル泳げるようになったんだよ」とちょっと自慢げに胸を張ってみせた。二十五メートル泳げるようになったのは、さっき言ったマーちゃんが毎日のようにプールに誘ってくれたおかげだった。小学校の四年生か五年生のころだ。
「へえ、偉いじゃないか」と親父はほめてくれた。じいさんは「ははん」と言っただけだった。二十五メートル泳げた程度ではたいした自慢にはならない。それも目茶苦茶な泳ぎ方だったから、急に恥ずかしくなって顔を赤くした。じいさんは、「それで、いま思い出したんだけんど」と、まったく別のことを話し出した。「坊ちゃん、泳ぎは大切ですなあ。泳げるようになってよかったですな。こうやって、ぐうっと潜って、どれだけ息が続きますか。三十秒くらい？ それじゃあ駄目。一分でも、二分でも、長ければ長いほどいい。とにかく、息が続く限りぐうっと潜っていて、もう苦して苦しくて仕方なくなったんで、ぱっと顔を出しましてな。すると、そこは一面が火の海でしたよ。水より上に出たものは、人間の髪だって何だって燃え上がってしまう。すごい熱気でしたな。火のかたまりのようなものでできている熱い熱い空気を一瞬吸って、すぐに潜る。胸がただれるほど熱い。それはもうたまらんのですが、潜ったままでは窒息して死んでしまうから、吸わないわけにはいきません。また、苦しくなって顔を出します。上手に出さずに、一遍に高く突き出すと顔を焼かれて死んでしまいます。このじいさんは水練をよくやっていたおかげで、潜りながらどんどん下流へと泳いで行けましたので、どうにか火から逃れられましてな。あれは恐ろしいことでしたなあ」。「それって、いつのことですか」って親父が訊いた。「この前の震災です。あれはひどいものでしたな。みんな焼けちまった。赤ん坊を負ぶって逃げるでしょう。火の粉が背中に飛ぶんです。負ぶっている母親は逃げるのに一生懸命で気がつきません。いつの間にか、背中が熱くなっている。見ると、赤ん坊がもう黒焦げ。あれはかわいそうでしたな。うちの店なぞは全部灰ですよ。昨日まで若旦那って言ってくれていた連中も、大勢死んでしまいましてな。そんなことでしたよ、震災というものは」。俺は何の話かよくわからなかった。とにかく怖いという印象はあった。俺が怯えたのがわかったのだろう、じいさんは話題を変えた。
「このじいさんは、残念ながら宇宙には行く機会はありませんでしたが、それで、いま思い出したんだけんど、飛行船に乗ったことならありましてな。坊ちゃんと同じくらいの年齢だったでしょうか、一番いい洋服を着せられて乗りに行きましてな。ここに蝶ネクタイか何か付けて。ふわっと地表を離れたときに、このじいさんがふっと思いついたことがありました。坊ちゃんは、人工衛星はどのくらいの時間で地球の周りを一周するのか知っていますか」。俺は首を横に振った。「何時間だかよくわかりませんが、すごいスピードで飛んでいることは間違いなしでしょう。このじいさんが考えたのは、飛行船に乗って空に上がって、その場でじっとしていれば、地球が勝手にぐるっと回転してくれて、二十四時間で世界一周ができるっていうことです。いい考えだと思ったものですな。ところが、これは駄目なんですな。どうしてだか、坊ちゃんはわかりますか」。俺はよくわからなかった。思いつきで「風に流されちゃうからじゃない」って答えた。「さすがですな。宇宙飛行士になろうって子は違いますな」。じいさんは妙に感心した。答えに自信のなかった俺は「ほんとにそうなの」と聞き返した。「きっとそうなんでしょう。他の答えは知りませんからな。ということはですな、空気がある地球ではこの方法ではうまくいかないってことです。だったら、月面基地ができたときには、そこで飛行船を上げてみるといいわけです。今度は空気がないから風に流されなくて、じっとしているうちに月世界の一周ができてしまう。すばらしいでしょうなあ」。「でも、空気がないと飛行船は上がらないよ」と俺は言った。じいさんはおでこを叩いて大笑いした。
「それで、いま思い出したんだけんど、じいさんは、昔はどうして月に兎が住んでいたのだろうかって考えてみましてな」。「いろいろなことを考えてみるのですね」と親父がにこにこと言った。俺は「住んでいないよ。やっぱり空気がないんだから」と真面目に否定した。「いやいや、昔はいたらしいんですな。でなければ、あんなにはっきり月に兎の姿が見えるはずがないですもの。ところが、中国では月には蝦蟇が住んでいたと言っています。となると大きな矛盾なわけですが、何も心配はいりません。日本から見える側の月には兎が住んでいて、中国から見える側の月には蝦蟇が住んでいたってことになります。そう言うと、兎と蝦蟇は喧嘩しないのかって普通の人は心配になるらしいのですが、その大問題はこのじいさんは解決しましましてな」。この話ばかりはどうやら本気で言っているのではないと俺も勘付いた。じいさんは、もっぱら俺に向かってしゃべっていたし、とても楽しそうだった。それで俺も親父も口をはさまずに黙って聞いていた。「坊ちゃんもよく御存知のように、蝦蟇というのは蝦蟇の油を採るための生きものです。兎が餅を搗いていると、兎にだってやっぱり不器用なのもいるでしょう。杵で指を叩いて怪我をする奴がいる。そこで役立つのが蝦蟇の油です。一方、蝦蟇という奴は月で何をしているのかっていうと、月では引力が弱いってことはよく知られていますな。蝦蟇はだから高飛びの競争をしている。一番高くまで跳ねたやつが蝦蟇の中で一番偉いっていうことになりましてな。しかし、何でもそうですけれど、一番になったときほど気をつけないとなりませんな。一番跳ねた蝦蟇は、この世で一番はこの俺だとばかりにふんぞりかえる。あんまりふんぞりかえると、ばったり背中から倒れてしまう。月にはもちろん水などありませんから、お腹が上向きになった蝦蟇は太陽に炙られて干からびて死んでしまうんですな。そこで兎が役に立つわけです。一番よく跳ねた蝦蟇がふっと隣を見ると兎がいるわけですな。兎は蝦蟇よりもよく跳ねます。それを見て、世の中には俺よりも跳ぶ奴がいると知って、己の分を弁えて、そんなにふんぞりかえるのをやめるということですな」。
じいさんの話は終わりがない。だけど、突然、ぴしゃりと額を叩いて、「今日はこれで。また寄らせていただきます」と、帽子を頭に載せて帰る。話の途中とかいうことはお構いなしだったし、時計を見るわけでもなく、そのタイミングが他の人にわからなかった。ひどく長居をした日などは、玄関で見送った後に、親父はうんざりしたような表情を俺に見せたこともあった。ちょっと話をしてさっと帰ってしまった日には、しばらく所在なさげに庭をぶらついて煙草を吸うなどしていた。
あのころ、親父は一日の大半を机に向かって過ごしていた。原稿を書いたり、書物を見たりしていた。仕事に興が乗らないときなどに、じいさんが現れてくれると非常によいようだった。お袋は日中は仕事で外に出ていたから、親父の相手は、普段は学校から帰った後の俺しかなく、俺と親父の二人ではそんなに話すことがなかった。玄関のガラス戸ががらがらっと開く音がして、ベレー帽をとりながら、「おられますかなあ」と太い声がすると、親父はいそいそと机を離れた。
煙草といえば、じいさんは煙草は害だからと吸うことはなかった。「焚き火でもくもくと上がった煙を吸い込むと咳き込みますな。咳が出るのは、血液中の泡を押し出すためです。炭酸を飲んだ後でげっぷするの同じですな。煙の作用によって血液中に小さな泡ができます。煙草をよく吸う人は、血液中に細かい泡がたくさんできています。これは、はっきり言って有害ですな。泡が多いと細い血管の通りが悪くなり、ときには血管が破れます。脳で血管が破れれば脳溢血です。それで、いま思い出したんだけんど、大陸にいたころでしたな。狭い部屋で不完全燃焼によって若い二等兵たちが何人も死んでしまいましてな。一酸化炭素中毒です。血液が泡だらけになって身体が固まってしまったためです。あれはかわいそうな事件でしたなあ。お国のために死んだとは言えないのですから」。このような理屈だったから、じいさんが煙草は害を説いても、親父はやめるはずはなかった。
じいさんは、蛸には用心深かった。酢蛸などは、くちゃくちゃといつまでも噛んでいた。「坊ちゃん、いいですかな、はっきり言って、タコの吸盤をそのまま飲み込んでは絶対にいけないのです。吸盤は噛み切ってください。じいさんが子供ときでしたよ、店の若い連中が、洲崎だったかどこだったかで大きな蛸をとって、その場で刺身にして食って帰って来ましてな、夜になって、それは大騒ぎでした。腹が痛い、苦しいって。医者を呼びましたが、もう手遅れでした。なぜ死んだかっていうと、蛸の吸盤が胃袋にいっぱり貼り付いてしまって、胃から下に物が行かずに、胃袋が破裂したのです」。
バナナも用心の対象だった。バナナの皮を剥くと黄色い身に沿って縦に白い筋が残る。「絶対に食べてはいけません」と、じいさんは一本一本ていねいにその筋を取った。その上で、手を洗ってからでないとじいさんはバナナを口に入れなかった。「筋にはコレラ菌が付きます。黴菌というものは、自分の好みの場所を選んで付くわけですが、すべて筋のあるところと決まっております。サルモネラ菌は貝柱の筋に、ボツリヌス菌は肉の筋に、赤痢菌は野菜の筋に、疫痢菌は芋の筋という具合です。コレラ菌はバナナの筋に付きますから、バナナは筋に近い皮から黒く腐っていくのですな」。
「それで、いま思い出したんだけんど、地下には水の筋っていうものがありますな。これは黴菌の巣というわけではありませんが、金や銀の集まる道筋となることがありますな。井戸掘り職人の中でも名人といわれるようになりますと、地面の上に立っていて地下の水の筋が見えるものですから、地下水をぴたりと掘り当てます。火山の周りとなると地下全体が熱いものですから、水ではなくて熱い湯の流れる筋が地下にありますな。そいつを掘れば温泉が湧きます。この温泉の流れの筋が金を集めるのですな。金は岩が熱くなってできるもので、普通程度の熱さでは岩が溶けて溶岩になるだけですが、特別に熱いと金となります。その金が温泉に沿って運ばれて集まると金鉱脈となりますな。いつだったか、九州にその金鉱脈を探しに行きましてな。日本で金というとだいたいは砂金です。金鉱脈が水で侵食されて川に流れ出た金を掬い取るものですから、そんなものを取るよりは、金鉱脈そのものから原石を掘り出した方が効率がいいにきまっているわけです。それで、日本で一番、火山がたくさんあって熱いのは九州ですから、九州の山に登って、最も熱い地の筋がどこを通っているのかを調べたのですな。しかし、この足では、山を登ったり降りたりするのがかなりきつくて大変でしてな。それよりも。熊に会ったら逃げられないという心配も大きかったですな。坊ちゃんは、熊が目の前に出てきたらどうしますかな」と、じいさんは俺に問いかけた。「死んだふりかなあ」。
「それは駄目ですな。野生の生き物は命がけで生きています。相手が病気だったり怪我をしていたり、何かしら弱点を抱えていて、絶対に勝てると確信できますと、そこで初めて襲うのですな。死んだふりなんかしたら、食べてくださいって言うようなものですな。ですから、逆に、自分は元気で強いということを見せてやればいいのです。背伸びをし、腕を広げ、とにかく俺は大きいぞと見せてやる。両足で地面をどんどんと踏んで力のあるところを見せてやるのもいいでしょう。ぴょんぴょんはねて元気一杯だと見せるのもいい。これだけやれば、熊はあきらめますな」。
じいさんのこのような話は本当のようなところもあったが、どこかしらかなり怪しげでもあった。俺もすべてを鵜呑みにすることはなかった。しかし、いまになっても鮮明に記憶が残るくらいに印象的ではあった。
「昼間は人間の時間、夜は化け物の時間」というのもあった。そのせいで、じいさんが夜来ることはまずなかった。だいたい昼間ふらっと現われ、薄暗くなる前に「それではこれで」と、ふらっと帰る。「飯でも」と親父が引きとめようとすると、じいさんは「昼間は人間の時間、夜は化け物の時間ですからなあ」と言うのだった。「そのあたりの区分をちゃんとしてあげませんと、化け物の居場所がなくなりますな。明治からこっち、ガス灯がつき、電灯がともるようになって、都会からは化け物たちがどんどん減ってしまいましたな。じいさんの若いころには、東京にも、化け物が結構いたものです」。「僕も年寄りから、どこそこのお壕でお化けを見たとか、よく聞かされましたよ」と親父が相槌を打った。
「それで、いま思い出したんだけんど、あれは春の終わりでしたか、ちょいと生暖かい晩で、向こうで蕎麦を呼ばれたりしてすっかり遅くなってしまい、根津から谷中に抜けた方が早かろうと、足早に寺と寺の間の道を行きますと、ふっと、先に何か人影のようなものが見えましてな。あれで、このじいさんもまだ二十五、六でしたか、血気に溢れていましたから、夜道で人を襲う悪党なら捕まえてやるぞという気構えで歩いて行きますと、道の脇にうずくまっていて、近づくと着物姿の女でした。どうやら盗賊ではなさそうだが、もしかしたら江戸時代の古い化け物の類かと、いくらか用心しつつ背後まで来ると、女は長い黒髪を乱し、こちらに背を向けたまま細く気味の悪い声を出し、『もうし、道行く人、頼みがございます。これを買っていただけませんでしょうか』と言う。『買えとは何だ』とちょっと荒っぽく答えてやりました。女はうつむいたまま、こちらに向き直りつつ、『買っていただきたいのは、これでございます』と、黒髪の下に隠れた顎の下に手を当て、ぐいと、頭をこちらに差し出した。首が胴からちぎれ、血がたらたらと流れ落ちた。『買えというのはその生首か』と訊くと、ふふっと女は笑いましてな、『自分の生首を売ってどうしようと言うのだ』。『これは本当の私の首ではないのでございます』。『どういうことだ？』。『私はこの首を付けた女として生きてきたのは間違いだったと知り、本当の私の首を探しに江戸へと参りました。それでようやく浅草の仲見世の首屋で見つけたのでございす』。『首屋？ 聞かないなあ』。『これぞ私の首と、店に駆け込みますと、ひどい話ではございませぬか。私の本当の首なのに、十両払わないとだめだと言うのでございます。今のこの首と換えますからと、申し上げたのですが、そんなのはせいぜい二、三両にしかならない駄首だ。だけど、おまえさんもかわいそうだから、奮発して五両で下取りしてあげましょうあと五両持って来なさい。それよりはびた一文だってまけられない、と。ひどいではありませんか。だって、私の首なのでございますよ。しかも、十両出す人がいたらすぐにも売ってしまうと脅すのです。そんなことがあっていいものでございましょうか。ですから、お願いでございます。この首を十両で買ってください』と、ぐいと差し出した首が、けたけたと笑いましてな。それで、いま思い出したんだけんど、人形焼きって、坊ちゃんは好きですかな」。俺はうなずいた。
「お父さんが下町の人だから御存知ですな。このじいさんも小さいころは食べていましたが、それより作るのを見るのが好きでして、職人が鉄の型に生地を流し、餡を置き、ひっくり返して焼くのを、厭きずに店先に立って眺めていたものです。焼き上がったばかりの人形焼が型から出されると、湯気が立ちふっくらとしてとてもうまそうに見えるものです。出来てすぐの人形焼はふくよかないい顔をしていましてな、あるとき、それが冷えるにつれてだんだんと表情が変わっていくことに気が付きましてな。それから、だんだんと、人形焼の顔に寂しさが滲み出してくるということが見えてきました。なぜそうなるのかって、子ども心に考えてみると、人形焼は自分が食べられてしまう運命にあると知るからだろうと思われましてな、それからは、このじいさんは、人形焼が食べられなくなりましたよ」と、じいさんは笑った。「せっかく作ったものだから食べないのもよくないんじゃないかなあ」って俺が言うと、「坊ちゃんはかしこいですな。人形焼は食べるために作っているのですから、出来たものは食べなきゃいけませんよな。ところがですな、人形焼の中にだって一つや二つは変わり者がいましてな、同じ型で焼いたものだっていうのに、顔が違うものがあるのですな」。「失敗したんでしょう、生地の入れ方とかで」。「いやいや、人形焼自身がそうなるのです。なぜかっていうと、人形焼の中にも、皆と同じである自分の運命を甘受できないものがいるからなのでしょう。そいつらは、だいたいつらそうな顔をしていますな。今度、先生に人形焼を買ってもらったら、よく御覧になるといいです」。「皆と同じであるのはつらいですかねえ。普通は逆なのでしょうが」と親父が言った。
じいさんは、親父のことを「先生」と呼んでいた。「先生はよしてくれませんか」と親父が言ったことがある。「これまでいろんなことをしてきましたが、ものを書く仕事はしたことがありません。特別な才能のある人でないとできないことでしょう。作家先生とはお付き合いしたこともありませんでしたし」。「僕は好きに書いているだけです。筆で稼いでいるわけではありませんから、まだ作家になったわけではない」。親父は少し顔をしかめながら言った。「稼ぐか稼がないかはまた別のことでしょう。それで、いま思い出したんだけんど、あれは本所のあたりでしたかに一人の先生おられましてな、何かを教えるでなく、ただみんなから『先生』『先生』と呼ばれていました。何の商売だったのでしょう、筆で字を書いたりして、それだけで暮らしていたのかそのあたりは定かではありませんが、いろいろな人が出入りしていましたなあ」。「どういう人たちですか」。「いろいろです。役者、噺家、曲芸、居合い抜きの達人もいましたな。太鼓持ちや芸者もいたようですな。それで何をしていたのか、かなり年のいった先生で、いま考えてみても見当がつきませんな。江戸の香りをどことなく残しておりましてな、あるとき、店の用事で、御祝儀で配る扇子に文字を書いてもらったのを受け取りに行ったのですが、狭い路地から入ると、赤ん坊の泣き声がわんわんと響いてきまして、先生の家でして、誰か子連れのお客かと覗くと、先生が一人、苦りきった顔で赤ん坊をあやしていましてな。『お孫さんでしょうか』と訊いてみると、『わしは妻を娶った覚えはない。従って孫が生まれたということは聞かぬ』と変な返事で、『かわいい子ですね』と世辞のつもりで言いますと、『そう思うのならば、おまえにくれてやろう』と赤ん坊を突き出す。『まだ嫁さんもいないのに、子供だけ先に出来るというわけにはいきません』と答えました。赤ん坊を抱いた見知らぬ女が先生を訪ね、『伯母と一緒にお邪魔させていただく約束になっているのですが、伯母がなかなか来ないので先に一人で来てしまいました』とか言ったそうです。しばらく先生はその女と話をしていると、『もう小一時間も過ぎているのに来ないのは変です。ちょっと路地の外まで出て見て参ります』とか言って、赤ん坊を預けて出て行って、それきり戻ってこないというのですな。捨て子ですな。何か訳ありで生んだ子だったのでしょうかなあ」。「それで赤ん坊はどうしました」と、親父が尋ねた。「近所でしばらく世話し、貰い手がないものですから、孤児院に引き取ってもらったようでしたな。坊ちゃんは、立派なお家に生まれて、想像もつかないでしょうけれど、このじいさんが若かったころには捨て子や身売りは珍しくもないことでしたな」と、じいさんは俺に向かって言った。ひどく遠い昔のことのように俺には思えた。「いまは世の中がおいおいよくなり、そうした昔話は通じなくなりますでしょう。結構なことですな」。
「東京にお店があったのはいつごろですか」と親父が尋ねた。「震災の前までですな」と、じいさんは答えて、扇子をぱたぱたさせ、ちょっと間が空いた。じいさんは、実に饒舌であったのだが、自身の経歴が具体的にわかるように語ることは滅多になかった。だから、震災で焼けたという店がどこにあって、何を商売としていたのかは、とうとう聞かず仕舞いになった。このとき、じいさんは「先生はお生まれは震災前でしたかなあ」と、親父に問いをすぐに返して話題を変えようとした。「生まれてすぐに震災でしたよ」。「浅草十二階や以前の歌舞伎座は御存知ないわけですな」。「浅草十二階はもしかしたら、母親の背に負ぶさって登ったのかもしれません。歌舞伎座の方は戦災で焼けたのしか知りません」。「逆にそれは知りませんな。あれが建ったころは東京から離れておりましたから」。「芝居など御覧になっていたのですか」。「もう大昔ですな。最初に通ったのは市村座でしたからな。そこで若き日の吉右衛門を見たものですな」。「吉右衛門ですか。兵隊に行く直前、僕はこれがきっと見納めだと思いながら勧進帳を見ました。飛び六法で花道に引っ込んで行くところは、人々の声がかかる中、涙で弁慶の姿が見えませんでしたよ」。俺にはさっぱりわからない話だった。
「それで、いま思い出したんだけんど、軍隊では大砲の整備を命じられましてな、機械に詳しい工兵の指示を受けて作業をしていると、ふとその工兵が『俺は大砲になりたいよ。そうは思わないかい』とつぶやきました。なぜかって訊くと、『こいつは考えないもの』と答えたのですな。坊ちゃん、わかりますかなあ」。俺は大砲がものを考えないのは当たり前だと思っただけだった。きょとんとして「ううん」とだけ言った。「しかし、兵隊は大砲にはなれないのですな。工兵が言うには、『こいつはいい。打てと言われれば打つ。敵の弾に当たれば壊れる。それだけだ。どうして打つのか、弾が飛んだ先で誰が死ぬのか、敵の弾がここに飛びはしないか、当たったらどうなるのか、いつ戦争が終わるのか、そんなことは一切考えなくていい』と」。「軍隊は本当にひどいところだ。人間を人間でなくさせるのですから。死んだ者は帰らず、幸いにも生きた者も、奪われた時間は取り戻すことができない」と、親父は憤った。じいさんは扇子をぱたぱたさせた。
「それで、いま思い出したんだけんど、釣りの極意は魚になることらしいですな」。じいさんは話を急に変えた。「例の蛸を食って死んだ若い者に釣りを教えた男が言うのには、鮎を釣るときは鮎になる、鯛を釣るときは鯛になる、烏賊を釣るときには烏賊になる、何でもそうするのだと。うまいことやって魚を釣り上げてやろうなどと人間の気持ちでいると釣れないと言うのですな。釣り針を垂らしている竿のこちら側に人間がいるとわかると、魚はどんなにいい餌が付いていても食いつかない。竿のこっち側もやはり魚だと、魚は安心して餌に食いつくのですな。その教えを守ると、結構、釣れるようになりましてな、特に大陸の魚というのは、日本のような島国と違って競争相手が多い中でもまれていますから、世知辛くて妙に釣りにくいのですな。その極意を実践すると、まあまあ釣れまして、食糧補充係とか称して、釣りに行ったものですな。成果がないと上官にひどい目に合わされるからと、必死になると、やはり釣れません」。「そういうものですか」。「まあ、釣りばかりしていたわけではありませんが」とじいさんはちょっぴり笑った。「大陸でも前線から離れた場所では余裕があったでしょう。僕も幸いにして実戦は避けられましたが、そういう不公平というのはどうしようもないものです」。じいさんはまた扇子をぱたぱたさせた。
「それで、いま思い出したんだけんど、料理も同じですな。パンを焼くときにはパンになり、肉を焼くときは肉になれと、父親にはよく言われたものです」。「パンを焼くこともあったのですか」と親父は意外にそうに尋ねた。これは俺も驚きだった。じいさんがパンを焼くなんて想像もできなかった。「どんなパンを焼いたの」と俺は訊いた。「硬いフランスパンもクロワッサンも焼きましたよ。このじいさんも、こう見えても、あと一歩でコックになるところだったのですからな」と言って、じいさんは急に寂しそうな顔をした。ひたいを叩くと、「米も同じですな。こっちが米になりきると上手に炊けますな。それでうちの部隊ではいつの間にか飯炊き係のようになりましてな。ですが、坊ちゃんはいいですよ。兵隊に行かなくていいのがどれほど有難いことなのか、行った人でないとわからないでしょう」と言った。
そのころの俺は、日本に軍隊があったのは遠い遠い昔のことだと思っていた。じいさんも親父も兵隊にとられていたのだし、じいさんがそんな話していた二十年前には戦争だったわけだから、そんなに遠くのことではなかったのだ。俺は太平洋戦争も日露戦争も西南戦争も昔むかしの戦争であることに大差がないように感じていた。どのみち俺にとっては生まれる前のことだったのだからだ。
パンを焼くようなハイカラなことをじいさんがしていたのは意外だったが、料理が得意なのはよく知っていた。養老院の賄いのおばさんが休んだりすると、じいさんが代わりに腕を振るっていた。養老院には歯がない人とか、うまく呑み込めない人とかいたから、軟らかくしたり、細かく刻んだり、特別なものも作らないとならない。じいさんは結構、器用にやっていた。賄いのおばさんが作るのとじいさんが作るのとでは味が違った。ヒロちゃんはじいさん好みだ。ヒロちゃんと、いつだったか一緒に午後の散歩をしたとき、ヒロちゃんは用務員室に立ち寄った。「さっきのうどんはお爺さんだろう。おいしかったよ。ヒロちゃんはあれがいいな。いつもは薄くてかなわない。ヒロちゃんも江戸っ子だから、ああじゃなくちゃね。うどんよりは蕎麦がいいけど、贅沢を言っちゃあいけないよね」。いま思うと、じいさんの濃い味は本当は年寄りにはいけなかったのかもしれない。
ヒロちゃんの午後の散歩というのは、養老院の建物のまわりを一周するだけのものだった。一人だと、時に、門から外にふらふらと出てしまうから、誰かがついていないとならない。とくに、夕方はおかしなことが時々起こる。だから、散歩は昼の食事の後から三時ぐらいまでの間だった。ちょうどそんな時間に養老院に遊びに行っていると、俺はヒロちゃんと散歩した。ヒロちゃんも俺と一緒に歩くのを喜んだ。杖をついていても、ヒロちゃんの身体はゆらゆらするから、脇について腕を組んであげるといい。俺にとっても、ヒロちゃんは他の大人と違っていろいろ訊いてきたりしないから、気が楽なところがあった。散歩の始まりと終わりにヒロちゃんは必ず「ありがとうよ」と言った。そのときは老人らしい振る舞いなのだが、歩きながら、昔に返るのか、いろんなことを勝手に話した。
「こないださあ、亀戸の叔父さんがここに来たでしょう。『ここの坂はいつもきついなあ。まだ四月だっていうのに、なんだってこんな暑いんだ』って、手拭で汗ふいていたね。それでさあ『ヒロちゃんは級長さんになったんだだろう、偉らい偉い』って、褒美を持ってきてくれたんだよね。それがね、天神さんのお守りと、葛餅と、それともう一つ何かあったような気がするんだけどさあ、それを、どこにしまっちゃったのか、昨日も探したんだけど、見つからないんだよ。へーちゃん、知らないなあ」。こういうときに「知らないよ」などと言うと、ヒロちゃんは散歩している間、ずっと同じことを繰り返し言うようになる。「じゃあ、後で一緒に探そう」と返事しておくと、だいたいそれですんでしまう。
「豆腐屋のヨネあんちゃん、知っているよね。この前、新内のお師匠さんのところのトキさんってさあ、いつも洋服着て歩いている三男坊だけどさ、一緒に銀座に行ったんだってさ。トキさんがね、『コーヒーでもやっていきますか』とか言うんで、ヨネあんちゃんも『コーヒー、いいですなあ』と答えたものの、ヨネあんちゃん、本当はコーヒーなんか生まれてから一度も飲んだことなかったんだ。目の前に真っ黒なのが出てきたから、こんな墨汁みないなのが飲めるのかと驚いたんだ。だけど、コーヒーも知らないのかって思われたくないから、ぐいって一口にやったものだから、苦いの苦くないのって、口から吐きそうになって、目を白黒させてやっとのことで呑み込んだよ。トキさんの方はね、砂糖と牛乳を入れてよおくかきまわしてから口に入れて、『おつでしょう』って、涼しい顔でヨネあんちゃんに言ったんだってさ。へーちゃんはさあ、コーヒー飲んだことある？ ないでしょう。子供には毒なんだってさ。ヒロちゃんも舐めただけだけど、あれは、おいしくないよ」と顔をしかめてみせた。俺は、「コーヒー牛乳なら時々飲むよ。東京のおばあちゃんの家に行くと、銭湯でお風呂に入るんだ。出てきてコーヒー牛乳飲むと、すっごくおいしいよ」と言った。「おばあちゃんの家って、どこだい？」「鍛冶町なんだ」。「じゃあ、ここからなら、坂を下りて市電に乗ればすぐだね」とヒロちゃんは言った。「ヒロちゃんの家ってどこだっけ」と訊くと、「毘沙門天の前を通って、畳屋の脇を入るんだよ。へーちゃん、よく知っているでしょう。この前だって遊びに来てくれたじゃない」。「そうだっけ」と俺は適当に答える。ヒロちゃんは今も東京に住んでいる気分でいるのだった。
「あの火事のときさ、へーちゃんも一緒に見に行かなかったっけ。坂の脇からどんどん煙が出てきて大変だったでしょう。『子供はあぶないから、こっちに来るな』って怒鳴っていたけど、見たくなっちゃうんだよね、火事って面白いから。でも、真っ赤な炎がぼんぼん高く上がるようになったら本当に怖くなって逃げちゃんったんだけど、あれでさ、かわいそうにサヨちゃんの家が丸焼けになったんだ。おばあさんと二人して行き場がなくなってさ、麹町の叔父さんの家にしばらく住むことになったんだけど、向こうに行くときに『シロオがいなくなっちゃったの』って目をうるませていた。シロオって知っているでしょう、胴が黒くて尻尾が白い猫だよ。サヨちゃんが泣いたものだから、ヒロちゃんはそれからひまさえあればシロオを探してさあ、あんときもヘーちゃんいたんじゃなかったっけ、毘沙門天の縁の下に潜り込んでいる猫を見つけたんだよね。縁の下に入るのやだなあって、ヒロちゃんがちょっととまどっているうちに、猫はさっと消えてしまったんだ。それから、家にあった鰹節の小さくなったのを黙って持ち出して、紐付けてさ、毘沙門天の縁の下に仕掛けて待っていたら、三日目だったかなあ、うまく捕まえられて、そのまま麹町まで駆けていったんだ。サヨちゃんの叔父さんの家って、所番地も何も聞いていなかったんだけど、立派な陸軍大佐の家だって言っていたから、どうせすぐにわかるだろと思っていたら、やっぱり、すぐにわかって、大きな木の生えたお屋敷でびっくりしちゃった。サヨちゃんは喜んでくれたけど、おばあさんは『奥様が許してくださるかどうか』って心配していたな。本当は叔父さんじゃないんだってね。サヨちゃんは大佐の娘らしいんだけど、そこの奥様の子ではないんだよ」。
この猫の話を聞いていたから、俺はヒロちゃんの言うことを信じる気になったことがあった。マーちゃんの家の猫が消えるという事件だった。マーちゃんと二人でまだ目の開かない三毛猫を拾ってきてから二、三ヶ月っていうところだった。猫のことだから、どうせ近所をふらふらして、そのうちに帰ってくるだろうと待っていたのだが、ぜんぜん姿を見せなかった。心配になって、あちこち捜した。三毛を拾った土手のあたりにも何度も行ってみた。川のあたりは、いまと違って畑と原っぱが広がって、猫の隠れるような場所はいくらでもあったから、捜すのはなかなか大変だった。一週間くらいは学校から帰ると毎日のように探していた。マーちゃんが言うには「こうなったら、じいさんに居場所を占ってもらうしかない」となって、土曜日に学校が終わると、すぐに養老院に行ってみた。
「猫ですか。困りましたなあ。猫となると、手相があるのかどうか気にしたこともありませんのでな。とにかくその猫を連れてきてくれましたら、ものは試しでみてみましょうか。何かの手がかりくらいは掴めるかもしれませんな」と、じいさんは言った。「こりゃ、だめだ」と、マーちゃんはひっくりかえった。「その猫がいないからお願いにきたんじゃないか」と、俺が言った。
そのとき俺とマーちゃんは、仕事中のじいさんを中庭に呼び出していた。風呂から出たばかりのヒロちゃんが縁台に座っていた。柿の葉がかさかさ揺れるのを眺めていたようだった。
「なるほど、そういうことでしたら、飼い主の方の手相をみるという手ですかな」。じいさんはマーちゃんの手をとった。「消えたのは雌ですか、雄ですか」。「雌だよ」。「となると、この線ですかな。ははあ、これならすぐにわかりますな。マーくんは良縁に恵まれると出ていますよ。ただし、あんまり早くはないかもしれませんな。ここんところの筋が微妙でして、慌てると失敗する恐れがあると。じっくり待てということでしょう」と、じいさんはなんだか楽しそうに言った。マーちゃんは自分の手のひらをしげしげと覗き込んでいるじいさんの視線の先を見つめ、「それって、結婚線じゃないの」と言った。
じいさんは、額を叩いて、「それで、いま思い出したんだけんど、縁というのは大切なものですな。いくら縁を求めても出会わない場合もあれば、勝手に向こうから縁がやって来ることもありますな。せっかく来た縁を自分からみすみす逃してしまうこともあれば、あえてその縁を切るということもありますな。息子さんを病気で亡くして、母一人、子一人だったものだから、行き場がなくなってここの養老院に入ったおばあさんですが、満州から二人して引き上げてきて、そのとき、息子さんはもう四十を越えていましてな、これから本土でどうやって暮らしていこうかというところで、満州での縁で川崎の工場に運よく就職できまして、しばらくして結婚相手が見つかって、式の相談とかまで進んだところで、その相手の女の人が肺が悪いということがわかったらしいのですな。お母さんがそれで急に反対し出して、気の毒なことに縁談は壊れてしまいましてな。ところが、やはり縁ですよ、数年後に今度は息子さんが肺をやられてしまいまして、人が言うには、破談になってから息子は酒ばかり飲むようになって、それが身体を痛めたようだと。縁というのは、実に難しいものです。そのおばあさんも一人っきりになって、昔、満州で息子と映画館に行った話ばかりしています」。
俺とマーちゃんは、じいさんの話が猫からどんどん逸れていくのを、仕方なく聞いていた。
「それで、いま思い出したんだけんど、空襲ですっかり焼けてしまった隣町に、また映画館ができてそれほどたたないころでしたな、映画なんてもうずっと見ていなかったものですから、一度行ってみようと、うちのやつを後ろに乗せてな、自転車でえっちらおっちら、国道の橋を渡って行きました。朝早く着きすぎて、映画館が開いていないものですから、八幡の境内に自転車を置いて、鳥居の脇で休んでいましたらな、野菜を担いだおばさんが通って、蜜柑が荷の中に見えたものですから、十ばかりも売ってもらいました。あいつときたら皮を剥くとすぐに口にほうりこんでしまうんで、このじいさんが、『そんな食べ方ではおなかを痛くするぞ』って、叱りましてな、皮をむいて筋を一本一本全部とってやって渡したのですよ。そしたら、顔を妙にしかめて食べるものだから、よっぽど酸っぱいのかと思ったら、あいつ泣いておるんですな。『今日はこれで帰りましょうよ。あんまり楽しみが過ぎると悪いような気がします』と言う。『悪いって、何が悪いのか』って訊きますとな、『死んだ人たちに』ってな。坊ちゃんたちは、若いし、世の中はますますよくなっていくでしょう。これからいくらだっていろんなものが手に入るでしょうけど、じいさんたちの時代はそうではなかった。これから年をとればやはりそうはいかなくなりますな。死んだ者は、たくさんのものを失くしたしたままで、永久にずっとそのままです。生きている者だって、失くしたものが戻ってくるってことは期待しない方がいいってことが、だんだんとわかってくるものです」。じいさんは珍しくしんみりして話し方だったから、俺たちは神妙に聞いていた。
ヒロちゃんが手招きをした。「三毛猫だろう。ヒロちゃん、知っているよ」と言った。俺たちはびっくりした。「見たの？」。マーちゃんが尋ねた。「ああ、昨日、見たような気がするよ」。「どこで」とマーちゃんは目を輝かせた。俺が寮の周りをぐるっと見ると、ヒロちゃんは「ここじゃないよ」と言った。「ここじゃなくって、どこなの？」。「それが、さっきから思い出そうとしているんだけどさ、なんだかはっきりしないんだなあ」。俺とマーちゃんは顔を見合わせた。これはやっぱり駄目だよ、と目と目で言い合った。「でも、一つだけははっきりしているさ。猫は、帰りたいよって鳴いていたよ。三毛猫の居場所がどうもはっきりしないんだけどさ、松の根があるんだ。その脇に大きな石がある。一升瓶がころがっていて、その横に猫がいたんあ。そんな気がするんだ。じゃあ、そんな場所がこのへんにあったろうかって、さっきから考えていたんだけど、よくわからないんだ」。
ヒロちゃんの言うことだから、あてにならないと思った。しかし、ほかの手がかりはないし、ものはためしにと、ヒロちゃんが見たという場所を捜してみようという気に俺はなった。ヒロちゃんが猫と縁があるような気がしたのだ。マーちゃんは乗り気ではなかったが、何もしないでいるよりはましだろうと、動き出すことになった。松の根の脇に大きな石のありそうなところといえば、このあたりだったら神社だろう。いくつかの神社を回ってみようと、翌日の日曜日に、自転車を家から持ち出した。俺は大人の自転車を三角乗りで漕いだ。
松の下に石の碑があるのはいくつも見つけたが、一升瓶がなかった。「やっぱり出鱈目かなあ。ヒロちゃんは、適当なことを言っただけみたいだ」と、石段に座り込んで俺はあきらめ気味になっていた。「だけどさ、ヒロちゃんって変なことをいっぱい言うけれどさあ、嘘をついているわけじゃないよなあ。いつも本当だと思っていることを言っているのだろう」と、マーちゃんは言った。「そう思うよ。ヒロちゃんは人を困らせるようなことも言うけれど、騙そうとして嘘をつくことは絶対にないよね」。「だからさあ、猫の話だって、きっとどこかしら本当のところがあるんだよ」と、今度はマーちゃんの方が断然熱心になっていた。「でも、これだけ捜して駄目だったんだから、もう無理だよ」と、疲れていた俺は言った。マーちゃんは、しかし、猫をどうしても見つけようとした。「うーん」とうなって考え込んだ。
「そうだ！ あそこだ、海かもしれない」と、叫ぶと自転車に飛びついた。俺も仕方なく後を追った。マーちゃんはまっすぐ海岸通りにまで出て、広いその道を東に走った。簡易舗装の上に砂利がころがっている国道を行くと、自転車がゴトゴト揺れた。マーちゃんはずんずん漕いで行くが、俺は身体をひねっての三角乗りに疲れていた。道の中央でゆらりゆらりと蛇行していたら、プップーと後ろからオート三輪に鳴らされ、パタンと倒れてしまった。顔を擦りむいて痛かった。オート三輪は「だいじょうぶかあ」と声だけ残して行ってしまうし、マーちゃんは俺のことなど気がつかずにとっくに向こうの方に行ってしまった。顔や腕に張り付いた砂利を払って、また自転車に乗ると、マーちゃんは向こうの松林の中に入っていった。
やっとの思いで、俺がたどり着くと、驚いたことに、マーちゃんが猫を抱えて立っていた。八大竜王の石の碑の下の隙間にいたのだった。本当に一升瓶がころがっていた。小皿の上に鯵の頭が二つ三つあった。「誰かが飼っている猫じゃないの」と、俺が言うと、「いや、これはオリーブだよ。絶対に間違いない」と、マーちゃんは自信たっぷりだった。マーちゃんの猫はオリーブって言うんだ。それは、あのころはやっていたポパイの彼女の名前だった。マーちゃんが近くで網を修繕している漁師さんに聞くと、二、三日前に迷い込んできた猫だと教えてくれた。それなら、オリーブだということになって、マーちゃんと持って帰った。「ヒロちゃんはすごい」と俺たちはひどく感心した。
ヒロちゃんが海に行きたいと言い出したことがあった。マーちゃんと海で遊んだ帰りにじいさんのところに寄ると、浮き輪を持った俺たちをヒロちゃんが見て、「いいな、ヒロちゃん、今年の夏休みはまだ海に行っていないよ」と、言ったのだ。「ヒロちゃんは泳げるの」と訊くと、「もちろんだとも。ヨネあんちゃんの赤褌の先を引っ張って抜かしてやったんだから」と、海のことをいっぱい話し、「海、いつ行けるのかなあ。明日かな。きっと行きたいなあ」と何度も繰り返した。その日はそれですんだのだが、それからヒロちゃんは海に行きたいと、毎日のように騒いだ。
「そんなに行きたいのだったら連れて行こう」と、じいさんはヒロちゃんと約束してしまった。養老院から海までは一キロくらいあった。ヒロちゃんが杖をついて行ける距離ではない。寮母さんは賛成しなかった。今なら車で簡単だろうが、養老院には車なんかなかった。タクシーを呼ぶようなお金もない。だいたい、ヒロちゃんを海まで連れていくような人手だってない。寮母さんたちは毎日大忙しだ。
じいさんは困ってしまうし、ヒロちゃんは行きたがるしで、ならば、俺たちで連れて行こうかとマーちゃんと相談した。マーちゃんは近所の植木屋さんからリヤカーを借りられるかもしれないと言った。寮母さんに話すと、ヒロちゃんの願いを叶えたい気持ちは寮母さんにもあったから、じいさんと三人で、夏の強い日差しを避けて、朝早くに、往復二時間以内だったらいいと言ってくれた。植木屋さんの方も、リヤカーを朝八時までに返すのならいいと言った。ヒロちゃんは毎朝四時前には起きているから、五時に養老院を出発しようと決めた。
俺は、ビーチパラソルを担いで四時に家を出た。マーちゃんは古い座布団をリヤカーに敷き詰め、植木屋さんの納屋の外で待っていた。二人で押したり引いたりして養老院に着くと、ヒロちゃんとじいさんが中庭のベンチに座っていた。
「ヒロちゃん、おはよう。いよいよお待ち兼ねの海だよ。さあ行こう」とマーちゃんが言った。「海ってなんだい」と、ヒロちゃんは眠そうな顔で気のない返事をした。「海に行くんだよ」。「そうなの。誰が？」「ヒロちゃんが、僕らと一緒に行くんだよ」。「ええっ、ヒロちゃんが？ ふうん。ヒロちゃん、海なんかに行かないよ。だって、これから朝ごはんだもの」と、不機嫌そうになった。ヒロちゃんは、七時の朝ごはんまでは、だいたいぼんやりして過ごしているのだった。起きてはいても、ぼーっとしているような時間帯だったのだろう。「朝ごはんはおにぎり用意したから、浜で一緒に食べましょう」と、じいさんが言った。「ふうん。おにぎりか」。「いいなあ。おにぎりを海で食べたらおいしいよ、きっと」と、俺が言った。「そうだろうね」と、ヒロちゃん。「だから、早く行こうよ」と、マーちゃん。「いいね。そうしなよ。おにぎり食べに三人で行ってきなよ」と、ヒロちゃんは言った。「三人って？ ヒロちゃんも行くんだよ。四人だよ」と、俺がヒロちゃんの背をちょっと押した。ヒロちゃんはむっとした。「絶対に行かないよ」。
困った。あんまり無理をするとヒロちゃんは杖を振り回して怒り出すかもしれなかった。ヒロちゃんが海に行きたいって言うからこんな準備をしたのに、今さら何を言い出すのだと、俺たちも怒りかけた。しかし、昨日のことを覚えていないのは、いつも通りのヒロちゃんなのだから、腹を立てたってしょうがないのだった。
じいさんがヒロちゃんの手をった。ゆっくりとそれを膝の上に置かせた。俺とマーちゃんはがっくりと気が抜けた。ミンミンゼミが鳴き出した。
「それで、いま思い出したんだけんど、蝉っていうのは何年もの間、地面の下で暮らしていますな。ほら、そこに穴があいている。あそこから蝉の幼虫が出てきた跡ですな」。「へえ、そうなんだ。蟻の巣かと思っていた」と俺は言った。マーちゃんが「そんなことも知らないんだ」と笑った。つられてヒロちゃんも笑った。じいさんは話を続けた。「蝉の幼虫は地面の下の深いところで、地中の虫を食べたりして、何年もかかって大きくなると、地上に出て、殻から抜け出て蝉になるのですな。ずっと前に、大島に行きましたら、そこでもやっぱり蝉が鳴いていましてな、この蝉はいったいどこから来たのだろうかって考えたのです。鳥だったら、伊豆の方から飛んで来ることはできますが、蝉はそんなに長い距離は飛べないでしょうから、海の上を島に渡っていくことはできそうもない。ならば、どこから来たのかと思って考えましたらな、伊豆と大島は海の下では地面がつながっているってことに気がついたのです。蝉は幼虫の間だったら、伊豆から大島に行ったり、大島から伊豆に行ったりできるに違いないのですな。蝉の幼虫は何年も地下で暮らすのですから、そのくらい移動するのはわけないに決まっています。それで、大島に蝉がいることには何の不思議もなくなったのですが、ひとつ疑問が残りましてな、蝉の幼虫が地面から外に出るときになって、どうして上に大島があるってわかるのだろうかっていうことです。そろそろ地上に出てみようと、幼虫が決心したときに、うっかり顔を出してみたら海の底だったらどうなるだろうかって考えたら、わけがわからなくなりましてな」。
「簡単だよ」と、ヒロちゃんが言った。「どうすんのかなあ。潜望鏡みたいなのを持っているのなあ」と、マーちゃんが言った。「いいんだよ。海の底だって構わないんだよ。ヒロちゃん、知っているよ、蝉の幼虫は軽いんだ。海底に出てしまったら、軽いから、すぐにぷくぷくと浮き上がって海面に出るんだ。そこで、羽化して蝉になれば飛べる。だから、ちっとも困らないんだよ」。「ヒロちゃんってすごいな」と、俺が言った。「そうなると、蝉の抜け殻が海の上に残っちゃうなあ」と、マーちゃんが言った。「抜け殻は波で浜に打ち上げられるんじゃないかなあ」と、ヒロちゃんが言った。「そうだね。きっと。ヒロちゃんの言う通りだよ。すごいなあ」と、マーちゃんが言うと、ヒロちゃんは「そうかなあ」と、嬉しそうに笑った。「波で打ち上げられた蝉の抜け殻って見てみたいなあ」と、俺が言うと、「ヒロちゃんも見てみたいなあ」。そこで、じいさんがにやにやして、「さあ、では、ヒロちゃんの後について、みんなで見に行くことにしますか」と、ヒロちゃんの手を握ったまま立ち上がった。俺とマーちゃんが「賛成！」と叫び、ヒロちゃんも遅れて「賛成」と叫んだ。
ヒロちゃんはリヤカーに乗った。ビーチパラソルを括りつけて日陰をつくった。じいさんが前から引き、俺とマーちゃんが後ろから押した。ゴトゴトと、平坦な道だったけれど、いつもよりずっと長く感じられた。朝の五時を少し過ぎたばかりだったけれど、もう暑くて仕方なかった。マーちゃんと俺は、シャツもズボンも脱いで海水パンツ一枚になった。ヒロちゃんはリヤカーの横にもたれて、「近くにこんなところがあったんだ。まるで田舎みたいじゃないか」と、まわりをきょろきょろ見回した。「まったく、ここは田舎ですなあ」と、じいさんが言うと、「へえ、田舎なんだ。ヒロちゃん、いつの間に列車に乗ったのかなあ。こんな畑のあるところまで、どうして来てしまったんだろう」と、しきりに不思議がった。
防砂林の脇でリヤカーはタイヤを砂にとられて動かなくなった。じいさんがヒロちゃんをおんぶした。俺がヒロちゃんの杖とビーチパラソルを、マーちゃんが朝ごはんの入った籠にやかんと新聞紙を持って、後ろにくっついた。日射病にさせないようにとの寮母さんの厳重注意を守るには、最低限、それだけは必要だった。やかんには、大きな氷の塊が入れてあって、手ぬぐいをぐるぐる巻きにして、氷が少しでも長持ちするようにと工夫をした。その冷たい水を、ビーチパラソルの下に敷いた新聞紙の上に座って飲んだ。「ああ、うまい」と、マーちゃんは一息に飲んだが、ヒロちゃんはちょっと口に含んだだけだった。じいさんは手拭に冷たい水をかけ、ヒロちゃんの顔や腕を拭いた。冷たがって、ひいひい言った。
「ここは品川だよね。広い海って気持ちいいなあ。だいぶ変わったような気がするけど、ここは品川だよね」。ヒロちゃんはまぶしそうに目を細めて海を眺めた。俺たちは誰も否定しなかった。ヒロちゃんが品川だと思っているのなら、それでよかったからだ。「夏休みは、やっぱり海だね。海はいちばんいいよ。ヒロちゃん、海、好きだなあ」。
「海はいいですな。見ていて、邪魔するものがありませんからなあ」と、じいさんは大きく伸びをした。俺とマーちゃんは汗びっしょりの身体を早く海水にひたしたくてうずうずしていた。「お爺さんは泳げるの」と、ヒロちゃんが言った。「あははは。このじいさんですか。泳ぎは得意。いや、得意だったというのが正確ですかな。もう何年も泳いでいませんから」。「ふうん。でも、心配ないよ。大丈夫だよ。泳ぎはいっぺん覚えたら忘れないんだって。ヒロちゃんなんか、この前の夏休みに泳ぎを教えてもらったから、きっと今日だって泳げるよ。泳いでみたくなってきたなあ」と言った。
俺たちはヒロちゃんをはだしにした。ステテコの裾を何回も折り返した。じいさんがまたひろちゃんをおぶった。砂がもう熱く焼けていた。波で湿っている波打ち際まで来て、ヒロちゃんをゆっくりと降ろした。俺とマーちゃんがヒロちゃんの背中を支えた。じいさんはヒロちゃんの両手を取り、波の方へとゆっくり進んだ。ヒロちゃんの足に波がかかった。
「あっ、海だ。海だ。気持ちいいなあ」とヒロちゃんは足踏みした。俺たちは海に駆け込んで、波をバチャバチャと踏んだ。ヒロちゃんは笑いながら、また足踏みした。俺たちは、波が砕けて浜へと上がっていく先から海水を手で軽くすくって、ヒロちゃんの足元に向けて飛ばした。「やったなあ。こらあ。仕返ししてやるぞ」と、ヒロちゃんは少しかがんで手をのばそうとしたが、下には届かなかった。
俺たちはしばらく波をかぶって遊んだ。ヒロちゃんとじいさんはパラソルの下から俺たちを眺めていた。
おにぎりを食べた。「すごい、卵焼きがついている」と、マーちゃんが叫んだ。寮母さんが奮発してくれたのだった。「まるで遠足だよ」と、俺が言った。干瓢の入った海苔巻きまであった。御馳走を頬張っていると、ヒロちゃんが急に涙ぐんだ。「みんなどこに行ってしまったんだろう。一人だけ、品川の海でこんなふうに遊んでいられるっていうのはどういうわけだろう」。「僕らはここにいるよ」と、マーちゃんが言った。その顔を見て、ヒロちゃんは首を横に振った。「父さん、母さん、姉さん、みんなどうしたんだろう」。ヒロちゃんはつぶやき、かじりかけのおにぎりをぽろっと落した。ヒロちゃんはきょろきょろ見回した。「ヒロちゃんはわかっているんだよ。だって、そうだったんだもの。みんな死んだんだもの」。
ヒロちゃんは、おにぎりを拾いなおした。「こんなおいしいものを食べられて、ありがたいなあ」。俺とマーちゃんの顔を見て、ヒロちゃんは言った。「君たちよかったねえ。よく生き延びたよ。焼かれずに、品川まで逃げてこられたんだ。よかったなあ」。じいさんは、やかんの水をコップに満たして、ヒロちゃんに差し出した。「さあ、一杯どうぞ」。ヒロちゃんは、ちょっとだけ口に含んだ。「ああ、おいしい水だねえ。こんな水があったら、焼かれた者たちだって助かったかもしれないのに」。ヒロちゃんは立ち上がろうとした。「さあ、早く行こうよ。こんな浜辺にいたら、敵機に見つけられちゃうよ。君たちもせっかく助かったんだから。うちなんか、みんな駄目だったんだけど」。じいさんは悲しそうな顔をした。「私のところも、そうだったらしいですなあ」。「そうかい。駄目だったのか。力を落すんじゃないよ」と、ヒロちゃんは言った。
俺たちは帰ることにした。
漁師がじいさんの姿を見つけ、バケツをぶさらげてやってきた。「院のじいさん、ばあさんに食わせてやってくれ」。ヒロちゃんは覗いた。「これはいいや、年寄り連中は魚が好きだから、喜びますよ」。取れたばかりの鯵だった。
帰りには、リヤカーがちょっと揺れるとバケツから鯵がこぼれ出て大変だった。その上、ヒロちゃんがウンコを漏らすというおまけもついた。それでも、ヒロちゃんの海水浴は成功したと言っていいだろう。
あのころは何かというと鯵を食べた。肉もたまにはあったがたいていは鯨だ。まれに豚肉や鶏肉があった。牛肉は滅多にお目にかかれない。すぐ近くでとれる鰯や鯵が最も馴染みのおかずだった。安くてうまった。煮たり焼いたり揚げたりと、その繰り返しで食べた。刺身もうまいのだけれど、鯵は小骨を取るのが手間だった。鰯なら、手で開いて身だけを取って御飯の上に載せて酢醤油をかけて食べるというのを漁師さんはやっていた。
親父は、魚屋に並ぶ魚介類の種類が少ないとぼやいていた。別に贅沢をしようというのではなくても、冷蔵や冷凍がそれほど普及していなかったら、地で獲れるもの以外は、生ものが少なかったから仕方ないのだった。「鰹の時期に食べたいと思っても、このへんの魚屋ではいいのを見ませんねえ。昔は鎌倉から江戸に鰹をかついで走ったと聞きますけれど、このあたりでは漁といえば地引網ですから、仕方ないのでしょうけれど」。親父がこんなことを言うと、じいさんは、「はっきり言って、東京あたりとは万事違いますな。東京だったら日本中のものが食べられるようになってきているようですが、ここではほとんど地のものですませていますな。東京は今度のオリンピックを前にして、なんだか激しく様変わりしているようで、のこのこ出かけていったら歩けもしないでしょうけど、こっちは、変化といっても実にゆっくりしたものですな。まだ、年寄り連中は褌一本で地引網やって、平気でそこらを歩いていますから」と、笑った。「そのくらいのところがいいですよ。変化が早すぎるのも困りものです。五年前の商売がもう通用しない。焼け野が原からやっと店を立て直して、軌道に乗ったと思ったら、もはや時代遅れ。そりゃあ、まだしばらくは続けることだってできたでしょうが、この先はじり貧以外にないってことが見えてしまいましたから」。「そういうときに、すいすい波に乗っていく人もいるわけです。景気はどんどんよくなっているようですから、たいていの人は波に乗っているでしょうな」。「いつの時代でも、巡り合わせの悪い人間はいるのでしょう。僕らのように」と、親父は苦笑いした。
「それで、いま思い出したんだけんど、満州の部隊に双子の兄弟の弟の方がいましてな、それが言うには、母親のおなかから生まれ出るときに、ぐいと兄貴を後ろに追いやった記憶があるって。変なことですな。母親のおなかが動き出して、『さあ、生まれるぞ』と二人はもぞもぞし出して、先に行こうとしていた兄貴の腕をそいつや引っ張って、追い抜いて、その上、足で兄貴の額を蹴ったというのです。それで、兄貴の額には痣があるんですが、双子が生まれると、後から出た方を兄にするのですな。それで、先に無理やり生まれ出たそいつは弟になった。それで、しょっちゅう、『兄貴に悪いことをした』って言っていましてな。どうしてかっていうと、同時に召集令状が来たのですが、行き先が北と南、弟は大陸だったけれど、兄貴は南方だったのですな。大本営がどんな発表をしようとも、南方に行ったら酷いことになると、噂では誰もが知っていましたからな。それに、兄貴の方は、家の跡取りを早く残しておこうというので、結婚もして子供も生まれていましたから、『兄貴ばっかりに重荷がかかって悪いことをした』と。後の運命を知った上で、母親の胎内で先陣争いをしたわけではないでしょうから、いつまでもくよくよしていてもしょうがないとは思いはしたのですけどなあ」。「過去は変えられないものですけど、変えられるものなら変えたいと思うことがありますよ」。
「それで、いま思い出したんだけんど、あれは震災のしばらく後でしたかなあ、東京がすっかり焼けて店もなくなってしまったものですから、父は東京に見切りをつけて上方に行きましてな、しかし、生まれ親しんだ場所から離れたくないということもあったものですから、一人でしばらく残っていたのです。ちょっと坊ちゃんの前では詳しくは言えないような仕事もしまして、その世界では御法度とされていることを友達がしましてな、同情から恋へと変わったのですな。若いですからそんなのはいくらでもあるものですよ。女と駆け落ちというところまで相談がいったのです。いよいよ今日の夜中にと、逃げ出す段取りまで相談したところで、間の悪いことっていうのはあるもので、そいつが駆け落ちのためにと、持ち物全部を売り払ってこしらえたなけなしの金を入れた財布を失くしてしまった。観音様に最後のお願いをした帰りに掏られたのかもしれない、無一文では女と逃げてもどうにもならないとおろおろしているところに、その財布が仲見世から親方のところに届けられましてな。質屋の札が入っていて親方のところの若い者だと知れたのですな。親方に『なんだってこんな大金を財布に入れているんだ』と問い詰められて、適当に答えておけばいいのに、ぼろを出してしまい、親方のところを追い出されました。女の方も、間抜けな仕儀に百年の恋もさめてしまったのですな。これなんかも、財布さえ落さなければと、過去を変えたいと何度も思ったことでしょうな」。「しかし、駆け落ちしてうまくいったかどうかはわからないでしょう。しなくてかえってよかったのかもしれませんよ。すぐに恋が冷めてしまうような相手だったら、長続きはしないでしょう」。
「するかしないか、両方一遍にやってみて試せるといいのでしょうけど、一つのことしかできませんからな。やり直しはききませんし。それで、いま思い出したんだけんど、こんな年になると、何か用事を思いついて立ち上がってこっちの部屋まで来るのだが、来てみると用事が何だったのかわからないってことがありますな。それで、また最初の場所に戻ってやり直してみると、なんだあれだと思い出す。それと同じ式で、二度同じ商売をやってみたことがありましてな。田舎に行くと、古い家に大きな蔵などがあって、昔にしまいこんだまま、もう何十年から誰も見たことがないっていうようなことがよくありまして、それをごっそり買っていくということをやっていました。ほとんどは値打ちのないガラクタですが、たまに骨董屋に売れるようなものもありましてな。米軍の兵士が日本の土産にと、古い物を買って行くとかで、いい商売になることもありました。しばらくそんな商売をやっていたのですが、冒険ができない性質なのでしょうな、元手を大きくできなくて、これといったものが買えない。列車がちょうど神戸駅に止まったときに、懐に金があるいまだと、急に思い立ったのですな。父親がやっていた洋食店をもう一度やってみようとしました。首尾よく、店を開くまではいった。しかし、父親の味がどうしても思い出せないのですな。何か違うと感じていても、どこが違うのか、微妙なところがわからない。あと少しで思い出せそうなところまでいくのですが、どうしても何か思い出させまいとする障壁があるのですな。その障壁が何であるかと、あるとき自分で了解できて、神戸の店は、開いて三ヶ月もしないうちにたたんでしまいました。それからは一遍も神戸には戻っていません」。「どういうことだったのですか。その障壁というのは」。「はっきり言って、思い出しても仕方のないものがあるから、味も思い出せないということですな。つまりですな、一生懸命に味を思い出そうとすると、別のことが思い出されてしまうのです。父親の店にいた人たちの顔とかですな。誰一人として残らなかったのです。満州からやっと神戸にたどりついて、焼け跡で知り合いを見つけて聞いたところでは」。「あの空襲ですか」。「そういうことです」。「あれはひどかった。私はちょうどあのときは、本土防衛の高射砲隊にいて、大阪湾をはさんで神戸の対岸の陣地にいました。真っ赤に燃え上がる炎を見ました。あれはひどかったです」。「父親、母親、妻と息子ですな。前の妻ですが」。じいさんは言葉を詰まらせた。
「昔を取り戻そうというのは、やめた方がいいってことです。それだけのことですな」。じいさんは、沈んだ声を急に明るくして笑った。親父はしばらく黙っていた。「しかし、奪われたものなら、取り返したくなるのも当然なのでしょう」と、ぽつりと言った。「それは年齢によりましょうな。震災はどうともありませんでしたが、戦争は違いましたな」。「巡り合わせですか」。「大方の人にとってはいい世の中となってきたいまも、うまくいっている人ばかりではありませんからな」。「そうですね。戦争で奪われ、終戦後の焼け野で奪われ、いまの好景気に奪われ、そういう人だっているでしょう」。「まあ、生きているだけましって考えるしかありませんな」。「どうでしょう。生きているからこそ苦しみがあることを知らねばならないのでしょう」。
この後、どのような話が続いたのか、俺は覚えていない。「それではこれで、また寄らさせていただきます」と、いつものようにじいさんはベレー帽を頭に載せて唐突に立ち上がったのかもしれない。
そんなふうにして、じいさんが帰ってしまうと、親父はしばらくの間、煙草をふかしながら庭でぶらぶらしてから、また机に向かい、原稿用紙に万年筆を走らせるのだった。どんな小説を書いていたのか、そのころは聞いてみようとも思わなかった。
若いころから志していた文学に専念する道を選択できて、親父は幸せだったのだろうか。いま思うと、かえって苦しみを背負っただけだったのではないかという気もする。過去の失われたときにこそやっておくべきだったことが、後になって同様にできるとは限らない。親父自身もそのことには気づいていたのかもしれない。いまなぜこの程度にしか書けないのかと思うことが、過去のあのときに書いていたらという思いとなり、そのときを奪われた悔しさとなる。そこに、留まり続けてしまったのではないだろうか。その無意味さを知るから、きっと、親父はじいさんと話すことを内面のどこかで欲していたのだろう。しかし、親父はじいさんではなかった。
じいさんは、親父に会うのにどういう楽しみがあったのだろうか。月に四、五回はふらっと顔を見せていた。何のためという目的はなかったのだろう。いつくるのかもわからず、ただ話がしてみたくなるとくるという感じだった。話も脈絡ないものだったし、終わりもなく、去っていった。
たった一度だけ、じいさんがある用事を持って現れたことがあった。「坊ちゃんはちょっとあちらで」と、俺は席をはずした。
その後、親父は長いこと庭で煙草をふかしていた。その日だったか、翌日だったかに、「貸し借りは友情を壊すものだ。商売でそんなことをいくらでも見てきた」と、親父がお袋に言うのを耳にした。じいさんが借金を頼んだのだろうと俺は推測した。
その数日後くらいに、俺とマーちゃんは、じいさんに教えられた夜店に行った。神社の境内で植木市が行われ、金魚すくい、綿菓子、的当て、お面や面子の店が出ていた。小さな縁日も、そのころの子供の目には、賑やかな催しに見えたものだ。舐めると七色に変化する飴玉を買った。一個一円だったか二個で一円だった。口の中でころがし、舌に乗せて突き出し、マーちゃんとお互いに、「赤になった」「黄色になった」と見せ合って遊んだ。せっかく神社に来たのだからと、俺は一円のお賽銭を出して、ガランガランと鈴を鳴らした。マーちゃんもパンパンと手を打った。
じいさんが脇でにこにこと立っていた。「先生に仕込まれましたな。先生は、神社やお寺ではきちんきちんと参拝なさいますからなあ」と言った。「おじいさんはお拝まないの」と尋ねると、「このじいさんは、ばち当たりですから、今さら拝んでもどうにもなりますまい。ろくでもないことばかりしてきましたからな。こんな人間がどんなことを願ったところで神様は叶えてはくださらないでしょう」と、笑った。「願いごとはしなくても、神様への挨拶はしなさいって、父さんは言っているよ」。マーちゃんは「僕なんか、お賽銭は出しことないけど、いつもお願いはするよ」と言った。「それがいちばん賢いかもしれないませんな。どんなことお願いをしたのです？」。「すべていいことがありますようにって。これなら、いつでもすぐお願いできるでしょう。いまもへーちゃんのお賽銭に便乗してそうお願いしたんだ」。
「それで、いま思い出したんだけんど、このじいさんはひどく殴られたことがあります。日本は満州にも立派な神社を建てましてな、部隊全員で武運長久を願って参拝したのです。このじいさんは、日本を出るときにお守りさえ持って行かなかったので、真剣に参拝する気はなかったのです。それが、態度に出ていたのですな。『角度が足りない』と殴られ、やり直しを命じられて、それでますます参拝する気がなくなったものですから、尻をひどく叩かれましたな。後で、『みんなと同じにやっていればすむことじゃないか』って、仲間には言われましたが、その通りには違いないのですが、それができないのですな。損だとはわかっていても、おかしなことですなあ」。「神様を信じていないんだね」と、マーちゃんが言った。俺はそのとき、別のことをじいさんに訊こうとしたのだが、マーちゃんの問いで何を言おうとしたのか忘れてしまった。
じいさんは、「神様はいた方がいいかもしれないし、いない方がいいかもしれませんな」と、言った。「人間の都合でいたりいなかったりするものなの？」と、俺が聞き返した。「都合の悪いものを信じるのは難しいでしょう。それでも信じる人がたくさんいるのだったら、神様は本当にいるのかもしれませんな」。「変な理屈だなあ」と、マーちゃんが言った。その通りだった。「人間に都合がいい神は、月の蝦蟇と兎の関係みたいなものでしょうかな」と、じいさんは例の月に住む蝦蟇と兎の話をマーちゃんに聞かせた。「人間が何でも一番と人間に思わせないようにするには、人間を超えた存在である神様がいた方がいいでしょうな。謙虚になることは、人間が全体として生き続けるためには必要なことですから、神様がいるのは人間にとって大変に都合がいいわけですな。逆に都合が悪いのは、神様がお見通しだとすると、人間に許されるのは絶望だけだということになる」。じいさんが急に難しいことを言い出したので、俺もマーちゃんも、さっぱりわからなくなった。じいさんは、きょとんした俺たちを見て、笑い出した。「変なこと言っちゃいましたなあ。この話はもうやめましょう。だけんど、いま思い出したことを一つだけ言っておきたい気がするので、話しておきますよ」。
妙にじいさんが真面目だったので、俺たちも音をたてて飴を舐めるのをやめ、静かに聞き入った。「神戸の教会で神父さんに、このじいさんは訊いたのですな。神戸が焼けるときに神様は見ていたのですか。Ｂ二九に乗った米兵が爆弾を投下するスイッチを押したときに神様は見ていたのですか。この二つを尋ねたのです。神父さんはこう答えました。『神様は地上で行われるすべてのことを御覧になっています。ですから、あなたがお尋ねになった二つのことも御覧になっておられました』。『見ていたのだったら、どうして神様は止めなかったのですか』って、このじいさんは訊きました。『すべては神様のお定めになったことなのです』と神父さんは答えました。『その定めにどんな意味があるのですか』とさらに訊くと、『それを問い続けて生きるのが人間なのです。亡くなった人々のためにも、生きている者は問い続けていかなければなりません』と答えました。神父さんの答えにもよく考えれば大切な意味があるのですが、そのとき、このじいさんは無性に腹が立ちましてな、ものも言わずに教会から飛び出しました。まったくの偶然で死んだのなら、それで仕方ないと思うしかないでしょう。何か意味があって殺されたのだったら、その意味を知って、反駁しなければならない。このじいさんは、絶対に反駁してやらなければ気がすまない。しかし、相手は全知全能の神です。どこにいるかもわからない相手です。絶望するしかないでしょう」。じいさんは、そのように話して俺たちを見た。俺もマーちゃんもまるっきり訳がわからなかった。
じいさんは笑った。「さあ、金魚すくいでもしましょうかな」と、俺たちの背を押した。「僕、苦手なんだ」と、俺が言うと、「坊ちゃんは慎重な性格でしょう。思い切ってさっとやればいいのですよ」と、じいさんは言った。マーちゃんは「僕は二匹一遍に取ったことがある」と胸を張った。「その腕前を見せてください」と、三人で金魚すくいをした。じいさんはそっと俺に「先生、何かおっしゃっていましたか」と尋ねた。俺は首を横に振った。
親父はしばらく機嫌が悪かった。原稿も書いていないようだった。俺が学校に行っている間に、じいさんが来たらしい気配があった。親父は何も言わなかった。
そんなころに、学校の帰り道で、じいさんの姿を見かけた。珍しくワイシャツを着て、黒いネクタイを締めていた。いつもなら、にこにこ向こうから声をかけてくれるのだが、そのときのじいさんは怖い顔をしていた。俺に気づくこともなく行ってしまった。
それからずっとじいさんは家に来なかった。一ヶ月以上は経っていただろう、マーちゃんが「どうしているかなあ」と言うので、久しぶりに養老院に行ってみた。虫が知らせたのかもしれない。養老院では、じいさんとおばさんが、リヤカーに箪笥や鍋、釜を載せている最中だった。
「どうしたの？」と、マーちゃんが訊くと、じいさんは「引越しですよ」と、ちょっと笑ったように答えた。おばさんは寂しげにうなずいた。
俺たちはちょうど居合わせたものだから、荷造りや掃除を手伝った。いざ出発というときに、寮母さんが二人に挨拶した。おばさんは泣いた。ヒロちゃんが門まできて、じいさんの手を握った。「ヒロちゃん、いつでも待っているよ」と言った。
俺たちはリヤカーを押した。三十分くらいかかって、古い公営住宅のちっぽけな部屋に荷物を運び込んだ。じいさんは仕事を失ったのだった。
こういうことのようだった。じいさんの友人の飲食店が借金を作ってどうにもならなくなった。それを助けようとして、じいさんは、自分が何かで必要だからというような話を作って親父に借金を申し込んだ。親父にもお金に余裕はなかった。それより、金の貸し借りをしたくない気持ちが強かった。返事を渋った。じいさんは退職願を出した。辞めればいくらかの退職金が貰えるだろうと考えたのだった。養老院は役場から委託された仕事で、実は役場の方では、おしゃべりばかりしているじいさんを持て余し気味だった。退職願はこれ幸いと受理され、じいさんは辞めることが決まった。退職金といっても勤めた年数が短くわずかなものでしかないとわかったのだが、それでも、その金を友人に渡そうとした。ところが、その友人はその前に自殺してしまった。お金は不要になった。じいさんは退職願の取り下げを役所に頼みに行った。役所は処理済みで変更できないと突っぱねた。ただ、夫婦を路頭に迷わせるのはさすがに忍びなかったのだろう、公営住宅への入居を斡旋をしてくれて、養老院からの立ち退きには若干の猶予を与えてくれていたのだった。
帰りがけに、「先生には何も言わないでくださいよ」と、じいさんは何度も念を押した。
じいさんの家が遠くなってしまったし、ヒロちゃんとも会えなくなったから、俺とマーちゃんは、その後、一回か二回、じいさんの様子を見に行っただけだった。親父には何も言わなかった。養老院を辞めたことはうすうす気づいていたようで、「養老院はこのごろどうなっている」と、俺に聞いたことがあった。「ぜんぜん行っていないよ」と、僕は答えた。それは嘘ではなかった。「そうか」と、親父は寂しげだった。
おばさんが元の養老院で、洗濯や掃除の仕事をするようになり、じいさんは駅前で占いを始めた。
半年くらいたった。「今日は、お留守ですか」と、いつもの太い声が玄関にした。俺は玄関に走り出た。「おじさん」。俺は嬉しくって飛びつかんばかりだったけれど、親父は会うだろうかと、すぐに心配になった。「坊ちゃん、大きくなりましたなあ」と、にこにこ顔でじいさんは立っていた。「隣町に行ったので、坊ちゃんへのお土産です。よかったら召し上がってください」と、菓子の包みを差し出した。「いま、呼んできますから」と俺が言うと、「いえいえ、ちょっとついでがあって、これを持ってきただけですから、これで」と、菓子を置いた。じいさんは早くもベレー帽を頭に載せていた。俺は、そのまま帰ってもらった方がいいかなとも思った。
「でも、待ってて」と、奥の部屋に走った。走るといっても、そんな大きな家ではない。玄関脇の部屋と台所を抜けるだけだった。親父は部屋の真ん中に立っていた。もちろん、全部、聞こえていたはずだった。「きたのか」と親父は小声で言った。「会うでしょう」。親父はいままで仕事を続けていた机の方を振り返った。「早くしないと帰っちゃうよ」と俺は言った。親父は机の前に戻ると、万年筆を置き、玄関に出た。
あとはいつも通りとなった。
「このごろはどうしてますか」と、親父は折をみて尋ねた。じいさんは「駅の脇の路地で見料をいただいております」と、答え、額を叩いた。「易者さんになられたわけですか。どうですか、お客さんのほどは」。「それが、一晩に二人来るのは最も多い方で、誰もこない日が続くこともありますな。それでも、静かに薄暗い中で座っております。列車が着くと、駅から人の流れができて、みな足早に前を通りすぎて行きます。誰もそこに易者が座っているなんて見向きもしませんな。道端の看板やポストと同じっていうことでしょう。人の流れが途切れてしばらくすると、ふっと、前に女性が立っていたりします。それがお客さんというわけですな」。「なるほど。どうですか、当たりますか」。「当たるに越したことはありませんが、当たる当たらぬよりも、このごろわかってきましたのは、じっくりと話を聞いて、ゆっくり話をするのが大切なようですな。占ったことで、ああしろこうしろと、押し付けるのはよくありませんな。人の運命を易者が左右してはいけません。運命はその人のものでしょうからな」。「なるほど」。
「それで、いま思い出したんだけんど、昔はごくあやしげな占いの先生がいたものでして、このじいさんが坊ちゃんと同じくらいのころですから、本当に昔のことですな。あのころは世の中が不景気で、いまのこのじいさんのように食いつなぎに易者になった者がいましてな、不思議と世の中は苦しくなると占いがはやるってことがあるのかもしれませんが、あのころ、とびきり繁盛した易者がおりましてな、父親がひやかしに、このじいさんを連れてその易者先生にみせたのですな。坊ちゃん、どんな占いだったか、おわかりになりますかな」。じいさんは俺に訊いた。「その年の運勢みたいなのを占ったのですか」と、俺は尋ねた。「どういう一生かっていう運勢ですな」。「だったら、波乱万丈とかって」。俺は本で知ったばかりの熟語を使ってみた。「ははは、波乱万丈か。いいですな。このじいさんは紆余曲折はありましたが、波乱万丈というほどではなかったですな。でも、だいたいは近いかもしれません。さすがです。坊ちゃんは賢いですな。易者先生が言ったことはいまでもよく覚えていますよ。この顔をしばらく見ていて、それから、一緒に行った父親の方に向いて、『正直に申し上げてよろしいでしょうか』と言ったのですな。何かとんでもない悪い運勢が出たのかと心配になりました。易者先生というのは、年のころなら四十くらいでしょうか、なかなかいなせな苦みばしったいい男で、若い女たちに人気があって、子供連れの父親というのは珍しかったようですな。『これは長男ですが、あまりこれをあてにはしていませんから』と、息子を目の前にして平気でそんなことを言いましてな、『立派なお店の御曹子ですから、順風満帆、お店の将来も心配なしと言いたいところですが、御曹子のお顔に出ているのは、そうではありません』。『世間から見て立派なお店というのも、あればあったで重荷です。なければないでもちろん困るわけですが』。『では、申し上げましょう』と、易者先生に言われたのが、『八転び七起き』というものでしたな」。「七転び八起き？」と俺は聞き返した。「いやいや、八回転んで七回起きる。それを聞いて、このじいさんは、八回転ぶっていうところもすごいが、七回しか起き上がれないのは困るなって、すぐに思いましたよ。九回立ってみせるってひそかに思ったものですが、あれから半世紀で、確かに八回くらいは転んだような気がしましてな。やっぱり、もう起き上がれなのかもしれませんな」と、じいさんは笑った。「人間は誰でも死にますから、それがいよいよの八回目ということではないですか」と、親父は思い付いたように言った。
「そんな易者先生の占いを受けて、八回も転ぶような者が、他人様を占うというのもおかしなものですが、どうであれ、この老い先短い者の運勢などはどうでもいいことでしてな、それよりも、先生の運勢を占ってさしあげましょうか」と、じいさんは言った。「いやあ、私はいいですよ」。「座興です」。「いや、占いはお仕事としてなさっているのですから、座興というわけにはいきませんでしょう。見料はきちんと取ってくださらないと」。親父がそのように言ったので、じいさんは少し困った様子だった。結局、きちんと見料と払うという約束で、親父は運勢をみてもらった。
じいさんは天眼鏡を出して親父の顔をまじまじとみつめた。親父は照れくさそうにしていた。じいさんは天眼鏡をはずして、ふっと息をついた。「それで、いま思い出したんだけんど、昔、店にいた若い者の中に、賭け事が好きなのがいて、もっぱらサイコロをやっておりましてな。丁か半かのどちらかに賭けるときに、指を組み手のひらの間から片目で覗き、入ってくる光の具合で丁か半かを決めていましてな、いつも同じ方法を繰り返すのです。たとえどんなに負けが込んできても、その方法を信じていて、『今度は取り戻す』って、同じことをするのですな」。こんなことをしゃべってから、「さて、それでは先生の運勢です」と、じいさんは姿勢を正した。「川から同じ水は汲み出せず、風は己の行き先を語れない」。
しばらく考えていた親父は、「どういうことでしょうか」と、尋ねた。「人の運命を易者が左右してはいけないのですな。言えるのは、運勢がそのように出ているということだけです」。
親父はしばらく考えていた。
「それで、いま思い出したんだけんど、父親が震災で店を失ったときに、東京はもうだめだから、大阪に行くと、言い出しましてな、誰もが驚いて、一人として賛成しませんでした。案の定、大阪では大失敗でした。しかし、京都、神戸とうろうろして、ようやく洋食屋で成功した。関西で失敗が続いた間にも、東京に戻るって考えなかったのだろうかって、今になって思ってみるのですが、『今度は取り戻す』ってことをしないと心に決めたいたのかもしれませんな」。
それだけ言うと、じいさんは、頭の上にベレー帽を載せた。「では、今日はこのあたりで。また寄らせていただきます」と、さっさと立ち上がって行ってしまった。
このような日々があったことを、あれから四十年の間、俺はずっと忘れていた。
俺はなぜ教員を辞めたのか。中華料理店を出すなど、およそいままでの仕事と関係のないことをなぜ突然始めようとしたのか。
「せっかく将来の道筋が見えているものを捨てて、先があるかないかもわからないところへ、どうして行こうとするのですか」と、何度も聞かれ、何度も答えた。
どの答えにも自分で納得していない。「人を教えるのはもう御免だから」と言った。それは本当だ。本当の自分という人間がここにあると確信できないのに、人に教えるのがつらくなった。「来る日も来る日もひたすらに、自分の味のラーメンを作り続けるという生活をしたくなった」。それも本当だ。しかし、実際にはやったことのない想像上の生活だから、実現してみたら、まったく違っていたということになるのかもしれない。「もう五十歳だから、あと二十年を次の人生に使いたい」。それは一番よく使う答えだった。嘘ではないが、それがすべてでもない。
親父はいくつかの作品をものにしたが、作家として大成するには至らなかった。じいさんは、どういう意図で、あんな占いを親父に告げたのだろうか。
あの後も、じいさんは時折やってきた。易者が最後の仕事ということではなかった。おばさんが、どこか他所の養老院に正式に雇われ、じいさんも引っ越していった。おばさんが先に亡くなり、じいさんは最後の日々を、養老院で世話を受ける人間として過ごした。
八転び七起きで、新しい仕事を何度も新たに始めるたびに、じいさんはどのような思いを抱いていたのだろうか。俺は、まだ一転びしただけで、起き上がる途中にあるようだ。
いまになってこんなにもじいさんが思い出されるのはなぜなのだろう。いまだったら、じいさんに聞いてみたいことがたくさんあるからなのだろうか。俺は子供だったから、どんな出来事も一回限りのものだというごく当然のことを知らずにいた。だから、親父とじいさんの会話は、いつも変わらずに繰り返し続けていくものと、漠然と思っていた。しかし、そうではなかった。
みんなと同じにやらないのは損だとはわかっていても、それができないと、じいさんが言ったときに、俺は、聞いてみたいと思った問いがあったんだ。
それをいま思い出したから、おまえたちに、こんな話をしてみただけのことだ。