皇帝を騙す
新たに王朝を開いた者は、単に時の運に乗るに機敏であっただけでも、少なくともその一つの面において偉大だったと言えるだろう。初代の皇帝が死に、新王朝を誕生させた格別の時の恵みが去り行き、二代三代の皇帝がせいぜいのところ並の人物であったならば、多くの場合において王朝の屋台骨は揺らぐ。何時の時代でも、王朝に限ることなく、人が為す事業とはおよそそのようなものなのだろう。唐王朝が滅んだ後の数十年間というものは、五つの王朝が次々に興りながらいずれもが短命に終わった。五代十国と呼ばれるその時代は、宋の天下統一によって終焉を迎えたが、そう言えるのは後から見てのことで、宋の時代を生きていた当事者には、我が宋王朝が何代続くかなどむろん分かりはしなかった。
宋の三代皇帝はなかなかの読書家であったらしい。姓は趙、名は恒、普通は真宗と呼ばれる。史書を一つ読み終わるごとに詩を詠じ、近臣がそれに和した。史記を読んでの詩、読史記三首以下、前漢書、後漢書、三国志、晋書と順に、五代十国の最後の王朝であった周の歴史を記した五代周史に至るまで、その一つ一つに対して詩がある。どの程度までそれらの史書に通じたかはともかくとして、いくつかの王朝の歴史を概略でも知るならば、三代皇帝とはなかなかに難しい立場であると否が応でも認識せざるを得なかっただろう。短命な王朝は三代目辺りで滅ぶ。漢や唐のように理想と仰がれる大王朝でさえも、二代目三代目の時期には皇統を危うくする事件が持ち上がった。漢の初代皇帝高祖、唐の二代皇帝太宗は史上名高い名君である。その輝きの蔭に暗く沈むかのように次の皇帝の評判は芳しくない。漢の高祖の息子は母親に大権を奪われ、精神に異常を来たして早世した。唐の太宗の息子は妻の言いなりになり、己が死ぬとその妻が中国史上ただ一人の女性皇帝となった。
宋では、初代、二代と名君が続いた。もし三代皇帝が十分に愚かな人間であれば、過去の歴史に照らして我が身を心配したりはせずにすんだであろうが、そこそこに優れた資質を受け継いだ真宗は、重い悩みにつきまとわされた。最も望ましいのは、真に偉大であった初代の伯父、二代の父の二人の皇帝に並ぶか、できることならそれをも超えることだ。そこそこに明敏である真宗は、それがどれほど難しいか、分かりすぎるくらいに分かっていた。王朝の基を開いた伯父、天下を統一した父、二人がいかなる仕事を成し遂げたのか、見上げればそのあまりの高さに身が竦む。たとえ己の資質が二人と同等であったとしても、二人に並ぶか超えるような仕事は実際上もう残されていない。宋は国家としてほぼ出来上がった。宋の国力が漢や唐に匹敵するものであるのならば、まだ外征という大いなる仕事が残っている。北方、西方、南方へと国域を広げ、輝かしい事績を残すのである。残念ながら、宋という国は、漢唐とは違って武力の面で周辺国家に及ばず、常に守勢に立たされている。それは武よりも文を基本とする宋の国家としての基本設計に由来するのであって、三代皇帝がどうとかできる性質のものではない。しかも、三代皇帝には、己が伯父や父のように一人の男として本源的に偉大ではないことも、悲しいながらにそれなりに見えていた。伯父と父は、王朝の命運のかかった決断を事もなげに下し、一度たりとも過たなかった。宮中で育った真宗はそうした決断を迫られることなく皇帝の地位に昇り、真宗は己が優柔不断であると自覚していた。
ならば、真宗としては、せいぜい大過なく己の代を終えられるのならば、それで良しとすべきだったのだろうが、それはそれで伯父や父の資質を受け継いでいたために、己の名を歴史に輝かしたいとの望みを抱き、伯父や父にどうにかして勝ちたいと痛切に思い、時に己を大いに発奮させようとした。その甲斐はあったと言うべきか、真宗の認識において、己は宋王朝の御稜威を四方に燦然と輝かせ、伯父や父に引けをとらぬ偉大な皇帝になったと、ほとんど確信と言っていいものを持つに至った。宋のおかれた歴史的あるいは客観的情勢からしても、真宗の個性からしても、それは不可能なはずであるのだが、その確信を真宗を得させたのは一人の男の働きがあったからだ。王欽若である。王欽若は真宗の願望を的確に掴んだただ一人の男であり、それを一人で叶えさせた男だった。
真宗の息子、第四代皇帝の仁宗は、父の死から十数年を経たある日、近臣の者に尋ねた。
「王欽若は父の御世に政府にあること久しいものがあったが、その所業を点検してみるならば、真に姦邪と言う他ないようだ。実際にどうであったか」
王欽若が生きていた時代を親しく見ていた王曽が答えた。
「王欽若、丁謂、林特、陳彭年、劉承珪を、当時の人々は五鬼と申しておりました。その者どもが姦邪、険偽の輩であるのは、聖諭の通りにございます」
王欽若というと、仁宗はまず真っ先に猛烈な睡魔を思い起こす。眠りに落ちまいとする彼方に甲高い王欽若の声が響き、それがいっそう眠りへと誘った。皇太子であった仁宗が十一歳のとき、五十九歳の王欽若が資善堂で儒教の経典を説いた。その有難い講義を仁宗は聞いた。幸いにも、睡魔との闘いの日々は一ヶ月ほどで終わった。王欽若が都から放逐されたからだ。
次に王欽若を見たのはそれから三年後だ。仁宗が即位した次の年である。幼少の天子とともに、母の劉太后が御簾内にあって大臣等に接していた。
劉太后はなかなかの術数家だった。真宗の晩年に実権を握って専横の振る舞いの多かった宰相の丁謂を、劉太后は王曽と手を組んで失脚させた。王曽等はこれで自分たち若手官僚が政治の主役になれると期待したが、劉太后が一枚上手だった。大権を一人我が手に握り込んだ。
劉太后は王欽若の恩義を忘れていなかった。劉太后が真宗の皇后になれたのは王欽若の力があったからだ。その恩返しにと、劉太后は王欽若を宰相として都に呼び戻した。
王欽若が朝廷に返り咲いてから初めての朝儀に臨んだ少年皇帝は、王欽若の項に視線を注いだ。そこに大きな痣があると聞いていたからだ。目を凝らしても、簾越しではっきりとは確かめられなかった。それよりも、王欽若の身体の小ささ、風貌の貧弱さに改めて驚かされた。三年前の講義の記憶は眠かったことばかりで、王欽若の姿はおぼろげだった。皇帝になった少年は、宮殿の庭の片隅で草むしりでもさせたならば、そこにいることさえ誰も気付かない作男のような風采の上がらぬ男が、名に聞く王欽若だったとはと、可笑しいような気持ちになった。
王欽若が口を開くと、確かに聞き覚えのある少々甲高い声が朗々と響いた。その弁舌は淀みなく、かつて宮廷を支配した力の片鱗を見たような気分になった。このほどよい抑揚のためにあれほど眠くなったのかと、少年皇帝は了解した。隣で劉太后が笑みを浮かべて耳を傾けていた。父の真宗も同じように、王欽若の振る舞いに目を細めて眺めていたのだろうかと思いもした。
ただ真宗の時代はとうに終わっていた。宰相となった王欽若であったが、その意見は他の大臣の反対にしばしば会い、劉太后の後押しで、かろうじて宰相としての面目を保つだけだった。劉太后はひたすら王欽若を重んじ、冀国公という称号を贈った。
王欽若は中央に戻って二年で病に倒れ、白金五千両が皇帝からの見舞金として下され、六十四歳で死んだ。太師中書令の名誉職号が追贈され、文穆の謚も与えられた。そうした優遇ぶりは際立ったもので、宋朝始まって以来、宰相として皇帝の恩沢をこれほどまでに受けた者はいなかったと人々は語り合った。
王欽若は鹵簿記、彤管懿範、天書儀制、聖祖事跡、翊聖真君伝、五獄広聞記、列宿万霊朝真図、羅天大醮儀等、六百余巻の書物を記した。道教の奥義に深く通じ、多くの新しい知見を、己の明哲さの不朽の証になるものと、心血を注いで書き残した。宰相として中央に復帰した後、真宗の事跡を記録した真宗実録を編んだ。これによって真宗の偉大さが正しく伝えられるとともに、その御代における王欽若自身の功績も永久に残るだろうと王欽若は考えた。
真宗は王欽若を誰よりも厚く遇した。新たに高い官位を拝した者は、それを下した皇帝の格別の恩遇に対して礼を述べる中謝と言う儀式に臨む。王欽若が中謝に参内する度に、真宗は「今度の官で満足してくれたかな」と心配そうに尋ねた。ある事情から王欽若が閑職に退かねばならないことがあった。一時的にそれを忍ぶのが王欽若にとっても利益のあることだった。皇帝は王欽若のために、資政殿学士という皇帝の近くにあって学問上の助言をする新しい職を設けてやった。当時宰相であった寇準は、資政殿学士の席次は翰林学士の下であるとした。かつて王欽若は翰林学士の職を経ていたから、こうなると王欽若は降格したことになる。寇準と王欽若は犬猿の仲で、王欽若は不満を皇帝に訴えた。皇帝として宰相の顔を潰すわけにいかず、一考すると、任命書に記された資政殿学士に、一文字「大」を書き加えた。資政殿大学士は資政殿学士の上にあるべきだから、翰林学士よりも上に来ていいというわけだ。このとき王欽若のために作られた資政殿学士、資政殿大学士という官職は、宰相や執政を退いた者の老後の名誉職として後々までも続くことになった。
劉太后の垂簾聴政は太后の死をもって終わり、仁宗は二十四歳にして皇帝として独り立ちした。大臣以下の入れ替えが順次行われ、新しい世代への先導役として王曽が宰相となった。
道教に関する王欽若の書物を仁宗は一度開いてみたが、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。王曽は、虚誕の説、見るに足らずと、言った。真宗実録も、皇帝の義務として目を通したが、王欽若の姦邪険偽ぶりが随所に透けて見えた。
しかしながら、あれほどまでに父真宗が寵愛した王欽若である。その所業を今になって敢えて暴き出すのは、父皇帝を貶めることに通じかねない。孝子の範となるべき皇帝として、慎むべきであろう。王欽若の姦邪険偽がいかに醜くとも、仁宗としては、ぜいぜい王曽のような心許せる者だけを相手に語る他はなかったのである。
一
「朕はだまされていたのか」
真宗皇帝は戸惑いを見せ始める。
八分は成ったと王欽若は測る。もとより六分は行くと踏んでいた。すでに二分の上乗せを得て、残るはあと二分。ここでやり損なってはならない。
王欽若は一人の男を陥れつつある。寇準。皇帝がいま最も信頼する宰相である。不首尾はただちに己に跳ね返り、全てが失われよう。
先程も、御前より退いた寇準が広い宮殿の彼方に消え去るまで、その姿を皇帝の目が追い続けていた。その眼差しには敬愛の念が溢れ出ていた。脇より密かに見上げていた王欽若は、身を焦がす痛みに耐え忍んだ。
あの皇帝の眼差しは本来は己に向けられるべきである。不届きにも寇準によって横取りされている。そう王欽若は考える。だから取り戻す。寇準が二度と皇帝の前に出られぬようにするのは、正しい収まりを付けるためだ。不当な行為で人を陥れるのではない。
寇準は思い上がっている。皇帝より先に席を立つのがそもそも恐るべき非礼である。臣下の者は皇帝がお出ましになるのを平伏して待ち、皇帝が奥に下がって後、しばらく時をおいておもむろに身を動かすものである。宮殿より出て行く姿を、皇帝に見送りさせるなど不遜極まりない。まして、あのような眼差しを背に受けるなど、断じて許せるものでない。王欽若の身体がよじれるばかりに痛んだのは、世の小人どもが抱く嫉妬の類とは全く異なる。分際を弁えぬ不届きな輩に対する怒りであって、そのもとには皇帝への忠誠心があると、王欽若は考える。
なにしろ君寵を恃む寇準の増長は目に余るものだ。いずれ手の施しようのない専横となる。すでに取り返しがつかないほどに危うく、寇準は自分以外の者を傲慢な態度で見下している。朝廷の面々に職務を授ける除官において、「宰相は賢を進め不肖を退ける。前例によって任命するのは能なしの書記連中がすることだ」と、一人一人の実績など見もしないで、己一人の印象だけで全てを決している。寇準の官名は同中書門下平章事、すなわち宰相であり、前年十月にもう一人の宰相であった畢士安が死んだために、この年、宋の真宗皇帝の景徳三（一〇〇六）年の初めの時点において、宰相は寇準一人となっている。驕りたかぶることすでに甚しい寇準が実権を一人で握ってしまえば、これからどれほど危い事態になるか、強く警戒しないわけにはいかない。直ちに手を打たねば後に大きな禍根を残す。王欽若はそう考える。
唐の時代の宰相は皇帝と対座して意見を述べ、宰相が「諾」と言わない限り、皇帝も裁可できないほどの権威を持っていた。宋の時代になると皇帝の独裁が強化され、皇帝と宰相の間に多くの文書が往来するようになった。皇帝に問うべき政治上の問題は、事の大小によらず、箚子に記して宰相が皇帝に進呈する。皇帝はそれへの答えとなる聖旨を文書にして宰相に下す。宰相は聖旨に基づいて人々と議論し、全員が一致したとする結論を記して奏聞する。これらのやりとりの基本は、宰相は皇帝の意志がどこにあるかを尋ねる立場にあるということ、全ては皇帝が己の意志によって決めるということに尽きる。宋の初代、二代の皇帝は、皇帝と宰相のこうした関係の規範を作った。一方で、二人の皇帝は直諫の士を好んだ。皇帝の力が絶対であり、絶大な権力を自由に振えるだけ皇帝が偉大であれば、敢えて皇帝に反駁する者がいるのは、皇帝にとって望ましいものだ。
真宗が寇準を優遇しすぎるのは、初代二代の立てた規範から逸脱するものだ。まして寇準は過去の直諫の士とは違い、皇帝の意志をないがしろにする横暴な不忠の徒である。寇準を朝廷から追い払うのは、初代二代の皇帝の意を体して、宋朝の礎を揺るがさぬための誠の行為である。国家が必要とする人間を、私欲をもって貶める多くの小人の為すのとは訳が違うのである。王欽若はそう考える。
王欽若の官職は資政殿大学士である。前年の正月までは宰相に次ぐ執政の地位にあった。現在は実際の政務から遠い閑職である。皇帝の格別の計らいで新たに設けられた資政殿大学士という職であるが、本来己はそこに居るべき人間ではない。己に相応しいのはただ一つ、宰相の地位である。国家にとっても、己が宰相になることこそが最も望ましいはずである。そうでしかあり得ないのだが、己の才を嫉む連中から身を守るために、敢えてこの地位に甘んじている。賢者が一時の日蔭者となるのは世に良くあることで、当面は耐えねばならないが、ただ身を縮めているわけにはいかない。己ほど有能な者が、下らぬ讒言によってこれ以上皇帝から遠く離されてしまっては、国家にとって重大な損失となる。多大の害を皇帝に与えつつ、しかし皇帝の寵愛をほしいままにしている者がいるのは断じて許せない。寇準には鉄槌を下さねばならない。今ここにその時が来た。逃してはならない。宋の政治を正道に戻す。一つ間違えれば身の破滅となる危険を冒してまで踏み出した己には一片の私心もない。王欽若はそう確信している。
王欽若は、「朕は騙されていたのか」と言った皇帝の心の内で何が起こりつつあるかを推し量る。
寇準に対する嫉みからの讒言だなどと間違っても皇帝に誤解されてはならない。皇帝の全幅の信頼を得ている宰相である。皇帝の寵の厚いこと、人に決して引けを取らぬと自任する王欽若であっても慎重でなければならない。真宗は好悪の情が激しく、最初の印象を後々まで持ち続ける性癖がある。寇準は長く信頼されて来た。それを、この一時でひっくり返すのである。
王欽若はよくよく言葉を選りすぐっていく。
「左様なことがいかにしてあり得ましょうか。恐れ多いことでございます。臣下の誰一人として、かような不届きを企む者はございません。まして大功ある社稷の臣でございます。御心配はゆめゆめ御無用です」
恭しく頭を下げる。皇帝は不審の顔である。
「寇準は社稷の臣。かように言ったは朕である。しかるに、そなたが、城下の盟は小国も恥じるところと申したではないか」
王欽若はさらに一段と深く頭を下げる。
「私めの言葉が足りず、お上には徒なお心配り、宰相殿にはあらぬ疑いが及びましたこと、深くお詫び申し上げます。私めは、ただ世には、澶淵の盟は城下の盟にして、春秋の小国も恥じるところであると、申す者もあると」
澶淵の盟とは二年前に北方の強国、契丹との間に交わした講和である。
王欽若が言い終わらぬうちに皇帝が口を開く。王欽若の予想していた通りに事が運ぶ。皇帝の明敏さの度合いを王欽若はよく知っている。
「その恥ずべきことを強いられながら、朕が気付かぬのをよいことに、社稷の臣でござますとの面をひっさげ、この宮中を傲然と歩き回っているのは、まさしく朕を騙すものではないかと言ったのだ」
皇帝は気色ばむ。皇帝は明敏、一を聞いて二を知るが、三には及ばず、深くには達しない。皇帝を量る己の目に狂いはないと王欽若は思う。皇帝の才を量るのは非礼ではない。皇帝の性向に合わせるのが臣下の当然の務め、皇帝に足らざるものがあれば補うのが臣の仕事である。
王欽若は微笑を浮かべる。
「澶淵の盟を城下の盟に比すのは余程思慮の足りぬ者でございます」
王欽若が穏やかに言うと、皇帝はしばらくその顔を見つめ、ふうっと大きく息をし、背もたれに身を寄せる。
「そうなのか」
「もちろんでございます。ここで正しく事を見るために敢えて申せば、そもそも城下の盟とはいかなるものでございましょうか。『左伝』宣公十五（紀元前五九四）年の条にございますよう、小国の宋が大国の楚に囲まれ、頼みとする晋からの救援が来ないと定まったとき、宋の華元は楚の将軍の子反の寝所へと忍び入り、このように申したのでございます。『我が国は貴国の軍勢に包囲され、窮乏はなはだしく、子どもを交換し合って食べ、人骨を折って薪とするに至りました。それでもなお城を開けずにいるのは、ただ一つ、城下に迫られての降服を恥とし、そればかりは断じて受け入れられないからでございます。もしも、楚が三十里だけ兵を引いて下さるのなら、いかなる仰せにも従いましょう』と。このとき、遠くより兵を動かして来た楚は、己の食糧も尽きかけ、宋がさら頑健に抵抗して包囲が長引くのを嫌い、あるいは自暴自棄の戦いに出て来られるのを怖れ、華元の言に従って兵を引きました。宋の面目はかろうじて立ち、講和の盟が結ばれたのでございます。この故事と我が大宋のかの澶淵の盟とどこが似ましょうか」
王欽若は言葉を強める。
しばし目を閉じて聞いていた皇帝は愀然としてつぶやく。
「我が国は契丹に攻め入られたではないか」
これでさらに一分を得たと王欽若は計る。あとの一分を決めるものを王欽若は用意してある。それを使うにはもう少し待つがいい。
時に皇帝は三十九歳。真宗の伯父の太祖は宋王朝を興し、父の太宗は国家の礎を築いた。真宗は生まれてより八年間を太祖の世に、二十一年間を太宗の世に生き、三十歳で即位した。伯父と父の二代の皇帝の事績は間近に見、人からさまざまに聞き、記録をも読み、偉大さを骨の髄に沁みるほど知っている。三代皇帝という時期の難しさと、己の器の小ささからして、二人に遠く及ばないのが己の定めとなるかも知れぬのを恐れ、伯父や父と肩を並べたいとの願望を激しく抱く。それはただ己一人のためではなく、大宋の民のためにそうならねばならぬのである。
その真宗に、一つは誇るべき実績を得たと考えられるものがあった。それが澶淵の盟である。
二年前の景徳元（一〇〇四）年閏九月、契丹の聖宗が、その母の太后とともに三十万と称する大軍を率いて南下を始めた。契丹は北方の強国である。伯父、父の二代の皇帝はその勇猛さに悩まされ続けた。漢や唐と異なり、宋が周囲の国々に対して軍事的に劣位に立つのは、宋という国の宿命である。前朝の唐は軍閥の台頭を抑えられずに国家としての体を失って滅亡し、五十余年の大戦乱期を将来した。唐の轍を踏むまいと、宋は軍人の力を押さえ込む文治主義を徹底させた。武将を育てなければ軍は弱くなる。契丹に対する皇帝の親征も行われたが、はかばかしい成果は得られなかった。
景徳元年の契丹の南進は宋の命運を根底から揺るがす一大危機だった。急使が一夕に五度都に至った。それを受けた宰相の寇準はいつものように客人と飲み続けていた。
翌朝、契丹南下の報を受けて、皇帝は恐懼した。大臣連は首を垂れて身を縮こまらせるばかりだった。
真宗は寇準を見た。寇準は胸を張り顔を傲然と上げていた。
寇準は皇帝の視線を感じ、皇帝に顔を向けた。大きな眼が動き、皇帝の視線を捉えた。皇帝は身動きの自由を失い、寇準の他に人はいないと感じた。
寇準は立ち上がった。
「よろしい。思うがままを申してみよ」
皇帝は言った。
寇準の堂々たる体躯より、朗々と声が響き出た。
「陛下がこの件を、一事にて終わりにさせるとの御意志をお持ちであるのならば、五日も要しますまい」
皇帝は身を乗り出し、一考し、そして大きく嘆息した。人々は寇準の言ったことを心の内で繰り返し、次第に顔色が青褪めて行った。
寇準は親征を請うた。終わらせるとは、契丹を討つ以外にない。初代、二代の皇帝が煮え湯を飲まされ続けた相手である。その契丹が、満を持して攻め込んで来た。真正面から受けて立つのは無謀であろう。
皇帝はそうしたことをすぐに思い、顔を歪めた。
五日でかたがつくとは、大言壮語にも程がある。契丹を迎え撃つのは勇ましい行為である。敗れれば国の滅亡ともなりかねない。己は、一時の勇に駆られた暴挙によって王朝を滅ぼした無能な皇帝として史書に名を残すのだろうか。
宰相の言葉、無下に否定はできない。もしも伯父や父がここにいたならば、契丹の攻撃を正面から受けて出ただろう。伯父や父は勇猛であり、二人は戦いに慣れ、二人には戦上手の武将が大勢いた。今の宋においては戦に強い将軍は皆年老い、宮廷に居並ぶのは文官ばかりだ。真宗に大軍を陣頭指揮する技量はなく、己が先頭に立って軍を指揮する姿を思い浮かべることはできない。伯父や父にはそれができた。寇準の言葉を採れば、伯父や父に一歩近づけよう。しかし、と、真宗は俄かにどちらとも決めかねた。
皇帝は立ち上がった。
ここでは結論を出さず、間を置きたかった。国の大事はそう易々と決めるべきでない。奥殿に帰ろうと一歩歩み出すと、大臣の間に安堵の空気が広がった。とりあえず、皆は先送りを望んだ。
寇準が大声を発した。
「御出陣である。玉駕を呼べ」
皇帝の足が止まった。
「まだ何も決まっておらぬ」
皇帝は振り返った。寇準は立ったまま皇帝を見返した。ほとんど睨んだと言っていい。
皇帝はその視線に屈するのを拒否するように、すぐに身を翻し、奥へと大股で向かい始めた。背に再び寇準の声が響いた。
「陛下が内にお入りになりましたなら、臣はこれより二度とお目にはかかりません。大事は去ったのでございます」。
皇帝の身体に雷に似た衝撃が走った。
もしも一生に一度だけ、己の真価が問われる時があるとするならば、この今の時である。真宗は寇準にそう言われたように思った。あるいはそれは父の声だったかも知れない。己は大宋の皇帝である。その皇帝たる所以を人にも己にも見せ付けねばならない。わずか二代、三代の短命に終わった多数の王朝や、漢の二代皇帝、唐の三代皇帝などと、大宋の己は違わねばならない。伯父や父に近づき、あるいはそれを超える。今それを逃してならない。
真宗はゆっくり向き直り、寇準の顔を見た。
「よろしい。百官の全て大殿に集め、親征を議論させよう」
皇帝が奥に入ってしばらくすると王欽若がやって来て、金陵への遷都を進言した。
寇準一人を除き、契丹の矛先をまともに受けては我が方に利はないと、宮中の人々が思っていることを、王欽若はよく承知していた。宮廷に経験豊富な武官はほとんど残っておらず、多くは文官登用試験である科挙に合格した秀才連中である。頭脳明晰な秀才たちは、彼我の優劣をたちどころに計算する能力に長け、安全な策を捻り出すのが上手である。
宋の都は開封である。黄河と長江を結ぶ大運河に沿う、黄河にやや近い平地に位置する。当時の生産の中心は長江南方の江南地域である。そこからの物資を集積するに有利な場所に開封はある。南より集められた富によって都は繁栄し、国家財政は賄われた。
しかし、開封へと北方から大挙攻め寄せて来る敵があったとき、それを防ぐ天然の要害があるとすれば、ただ黄河一本である。契丹軍がもしも黄河を渡ったならば、それを止めるものはなく即座に都は包囲され、あるいは陥落、宋は滅亡の憂き目をみるやも知れぬのである。人々は今にも契丹軍の馬の嘶きが開封城下に聞こえるような錯覚を覚えた。
ならば、宋の本拠地を富の源泉である江南の地に一時的に移して、契丹の矛先を避けるのはなかなかに賢い策である。金陵は長江の南岸にある。黄河、長江の二本の大河をもって契丹に対する防衛線とすれば、たとえ契丹が宋の一部を占拠したとしても、江南の地を確保している限りは、宋それ自体が滅ぶことはなく、国土の回復もいずれ可能になる。王欽若はこれが最も理に適った策であると皇帝に述べた。
「先程、陳堯叟が来て、成都への御幸を提案した。そなたは金陵であるか。成都は、唐の玄宗皇帝が安禄山の反乱を避けた故地。どちらがよかろうか」
真宗はそう言った。
陳堯叟に先を越されたのは意外だった。それほど気のきく男だとは思っていなかったからだ。しかし、陳堯叟ごときに引けをとるはずはなく、挽回は極めて容易である。
「陳堯叟は成都の出身。唐の都は長安にあって、成都はその奥殿とも言える場所でございました。しかし、大宋の都開封からは成都は僻遠の地でございます。成都は到底お上を受け入れられるような場所ではありません。己の田に水を引く陳堯叟は笑うべきであります」
王欽若の言葉に真宗は簡単にうなずいた。
王欽若は江南の出身である。だから、金陵に皇帝を誘うのではない。陳堯叟のような了見の狭さとは無縁である。
当時の朝廷には、出身地別に閥を作る悪弊がまだ残存していた。宋は開封に興り、初代、二代の二人の皇帝が、各地の政権を征服して国家の統一を成し遂げた。成都や金陵にもそこを都とした国があった。宋の高官は、初めのうちは開封周辺の北方出身者で占められていた。次第に成都を中心とする四川出身者や金陵を中心とする南方出身者も多くなりつつあったが、宰相のような要職は北方の者に限ると言う者も少なからずいた。寇準はその代表である。王欽若はそうした出身地へのこだわりは愚かしいと考えていた。どこであろうと等しく皇帝の地である。金陵への遷都を進言するのは、己が江南人であるからではない。成都を主張する陳堯叟とはそこが違う。大宋の全土を曇りのない目で見て、金陵が最も良いから皇帝に進言するのである。金陵は長江の南岸の要害の地。遠く三国志の呉国以来、幾つもの王朝がそこを都として来たのには十分な理由がある。しかも、佳麗の地と称えられる美しい都市である。皇帝をお迎えするのにこれ以上ふさわしい場所はない。
皇帝の気持ちは王欽若の提案へと傾いて行った。それは安全着実な策であり、宋の皇統を揺るがさぬ最良の策と思えた。百官を集めて国の大方針を決める場において、寇準の言う北征ではなく、王欽若の言う南方への遷都を採るべきと真宗は思いつつも、王欽若自身に金陵遷都を提案させるのは、いい手段だとは思えなかった。王欽若は江南人である。私欲を図る者と邪推されるかも知れない。それに、今の王欽若には皇帝が期待するほどの人望がないということを皇帝は承知していた。
ある小事件がまだ尾を引いていた。王欽若が科挙において不正を働いたと告発された記憶が薄れるにはもう少し時間が必要だった。文官登用試験の科挙は、合格すれば高位高官への道が開け、世の秀才が挙って受けるため、厳正な上にも厳正でなければならない。王欽若が監督官を勤めたとき、任懿という者が王欽若に賄賂を贈ったとの疑惑が持ち上がった。
任懿は都での試験を受けるために仁雅という僧のもとに寄宿した。仁雅は恵秦という僧と親しく、恵秦は王欽若の家にしばしば出入りしていた。任懿は銀三百五十両を王欽若に贈ってほしいと仁雅に頼んだ。仁雅は恵秦に頼んだ。恵秦は銀を持って王欽若を訪ねた。王欽若はすでに試験場に入っていた。試験の期間中、試験官は試験場に篭りっきりとなる。王欽若の妻は恵秦の依頼を受けると、召使の祁睿の肘に任懿の名を記し、銀の数量を王欽若に告げるよう、試験場に行かせた。祁睿は王欽若に湯を注ぎつつ、肘に書かれた字を見せ、「銀二百五十両」と告げた。数の差は間に入った恵秦がくすねたのだった。仁雅はその誤魔化しを知って怒り、自分は銀三百五十両を預かりそっくり恵秦に渡したと、任懿の書いた依頼状を人に見せて息まいた。それで事が露見し、任懿が及第とされる前に王欽若は告発された。
取り調べに当たった役人は、王欽若が皇帝の寵臣であることを知っていた。任懿を捕らえて問い詰めてみると、任懿の妻の兄の張駕という者が、かつて試験監督をしたことのある洪湛の知り合いであり、任懿はかつて張駕とともに洪湛の家を訪ねたとの事実が判明した。そこで、任懿が二人の僧に銀三百五十両を預けたのは確かであっても、銀を王欽若のところに持って行くのを依頼したわけではなかったという話にして報告した。このとき張駕は死んだ後であり、王欽若の召使の祁睿はどこかに出奔して行方知れずとなっていた。王欽若の屋敷の他の召使は口を揃えて、「仁雅も恵秦も、それに似た僧も一度も見たことがない」と言った。それで、任懿の銀三百五十両は洪湛に贈られたのが真相であるという事になった。洪湛はたまたま都を離れていたために申し開きをする機会を得ぬままに南方への流罪が確定した。
王欽若に罪の意識はなく、詰まらぬ嫌疑をかけられたことに大いに迷惑した。銀二百五十両という数字を耳にし、祁睿の肘にある任懿という文字を見たのは事実だった。王欽若がこの事件と関わりがあるとすればそれだけである。試験において不正はしていない。銀を受けたのは妻である。しかも、それは不当にも百両が抜き取られた銀である。金が目当てで何でもする薄汚い僧達の巻き添えになるのではたまったものでない。このようなことで、皇帝の懐刀になるべき身が破滅では、国にいたずらな損害を与えるだけだ。王欽若はそう考えたのだが、人々の疑惑の眼差しを感じないわけにはいかなかった。世間から不当な扱いを受ける理不尽さに怒りはしたが、これも己に辛抱というものを身に付けさせるための試練であろうと、耐えるようにした。国家の大任を担うためにこの世に生まれて来た己である、それくらいで挫けてはならないのである。
そようなことがあったほとぼりがまだ冷めやらぬため、百官が集まった場所において、皇帝は、王欽若を最初に指名するのを思いとどまった。陳堯叟に言わせるのも適切ではなく、皇帝自身が最初に口を開くのにためらいがあるのならば、いったい誰が真っ先に口を開くのか。当然、寇準であった。
「聞けば、ここに人々が集まるまでのわずかの間に、下らぬ策を画する者が一人ならずあったとか。その策が何であるのか、画したのが誰であるのか、ここでは知らぬこととしよう。知れば、その罪は斬るべきと直ちに決めねばならぬからだ」
寇準は群臣をぐるりとねめつけた。
「むろんその者どもを血祭りにして、太祖、太宗の廟社の捧げものとするのが最もよいのである。朝廷を清めた後に、大駕を北へと巡らされるならば、夷狄の者どもはたちまち地に隠れるより他はない」
王欽若は目を閉じた。自分への当てつけであるのは明らかだ。怒るだけ男がすたるというものだ。
「陛下は神武にあらせられ、臣下の者が心を一つに協和するいま、大駕をもって親征されるのならば、賊は自ずと遁走するのみである」
寇準は語気をいっそう強めた。
「もしも、珍奇な考えをもってこの神策を撓め、優れた軍をただ守りに使うのみとするのならば、今の勢いは徒に失せ、我が勝算はいかに得られるというのか」
王欽若は、時は去ったと思う。宰相が大きな身体を揺すって吠える前で、この小さな体で理非分別のある言葉を発したところで、勝ち目はない。このような時は無謀な言葉の方が心地よく聞こえ、筋の通った言葉はかえって泣き事のように聞こえてしまうものだ。
「まして、廟社をここに棄て、僻遠の地への御幸を謀るなど、人心を崩潰させるのみ、賊が勢いに乗って深く入るのに手を貸すに等しい。天下がいかにして保てられるというのか」
真宗は唇を噛んだ。
誇り高い大宋の皇帝である。初代二代の皇帝を祭る廟社を、夷狄どもが蹂躙するに任せるなどこれほどの恥辱はない。
寇準はさらに威勢のいい言葉を並べる。
王欽若はあきらめた。無謀と勇猛とは全く違う。だが、ここではどちらであってももう勝ち目はない。正しい理は己にあるのだが、その正しさも勢いを得ぬ時がある。
皇帝の顔は壇上の遠くにあっても、一瞬間でその内に何があるのかが分かる。王欽若は目を開き、やはりもう時は去ったのを知る。
真宗は己の誇りにかけて、決意せねばならぬと考えた。真に偉大な皇帝になる機会がここに来たのだった。
寇準の大演説が終わると、誰一人としてものを言わず、、宮中は静まり返った。寇準はぐるっと見回し、人々は頭を垂れた、王欽若も人の背に身体を縮めた。
皇帝が口を開いた。
「よろしい。朕は澶州に向かうことにした」
その声はやや震えていた。
王欽若は暗澹たる気持ちになった。無思慮が生む雄邁さが国家を危殆に瀕しせしめる。それを止められるすべを持たずにこの場に居合わせたのは己の不運である。最良の策が臆病者と同じ外見をしているのはまことに不幸である。
しかし、すでに親征と決まったからには、ただちに皇帝の意に沿う行動を起こさなければならない。名こそ出さなかったが、寇準が王欽若を非難しているのは明らかであり、己には寇準をしのぐ勇敢さが備わっているのを見せ付けてやらなくてはならない。王欽若は、その日のうちに、大駕が都を発する前に、自分こそが先立って北へと向かって、露払いとなるのを許してほしいと、皇帝に願い出た。国家のための盾となる勇気は十分にある。が、こう言い出せば、皇帝は朕に同行せよと言うに違いないと、王欽若は考えていた。
寇準は、王欽若が皇帝の近くにいたのでは大事はならぬと見た。王欽若には天雄軍を監督させるよう考えた。黄河の北側にある重要な拠点を守る天雄軍、その監督は王欽若の申し出にまさに沿うものである。王欽若としては当てがはずれたが受けざるを得なかった。皇帝から遠ざけられるのは愚かな妬みによるものと、己を納得させた。
都を離れたとき、大宋の首都としての開封を見るのはもしかするとこれが最後かも知れないと思った。縁起でもない事を思わざるを得ないのは寇準の建てた愚策のせいである。ましてそんなもののために死ぬのはまっぴら御免だ。いかなることがあっても生き延びてみせると決意した。その思いの通りに、天雄軍が契丹軍からの攻撃を受けたとき、王欽若は、城の門を固く閉じ一人の兵も外に出してはならぬと命じた。大敵と戦いを交えるのは一見勇気ある行為のようであっても、無謀な戦いを仕掛けてかえって大敗を喫したのでは何の意味もない。天雄軍は微動だにせず、王欽若は部屋に一人篭って、齋を修し、経を読み続けた。契丹軍は鳴りを潜める宋軍を笑い、脇を通り抜けて行った。
王欽若のこのときの行動を、後になって人々は、敵の大軍を恐れて、ひたすら鬼神に祈るばかりであったと陰口をきいた。王欽若は、怒涛の勢いで南下して来た敵に正面から当たるのは無思慮の極み、遠征を長引かせて敵が疲れるのを待ってやおら攻撃を加えるのが兵法の基本、だからこそ金陵への遷都も勧めたのだと、心の内で、己の行動の正しさを主張した。しかし、それを口に出すのは、自分には有利ではないとの情勢判断は的確にしていた。黙って陰口がおさまるまで耐えた。科挙にまつわる疑惑でもそうだった。とかく人々に誤解されるのは己の常の不運であるらしいと王欽若は考えた。
皇帝は親征を決断はしたものの、いざとなるとまたためらう心が生じた。寇準に強制されるようにして都から連れ出され、黄河を北へと渡り、契丹の大軍と対峙した。皇帝を迎えたことで、前線の宋軍の士気は大いに揚がった。契丹はその気にやや呑まれ、続く戦いで契丹軍の中心的な将軍がたまたま命を落した。実際には宋軍の方が非力である事は否定できないところだったが、敵地に深く入り込んだ契丹側には、早いところ有利な条件で和議を結び、情勢が悪くならないうちに軍を引きたいという雰囲気が強くなった。
寇準は、この機会にこそ契丹を撃滅させるべきだと様々な秘策を練って皇帝に献じた。
「かようにすれば百年の無事を保てます。そうしないのならば、たとえ今日のところは和議を結べても数十年の後に、戎どもはまた背く心を持つようになりましょう」
宮中育ちの皇帝に、寇準が期待する武勇は、残念ながら備わっていなかった。契丹を撃滅するのは伯父や父にもできなかったことだ。これ以上の軍事的成果を期待するのは欲張って元も子もなくすようなものだ。契丹軍の南下をここで食い止められただけでも望外の出来というものである。和議が結べるのなら、それで十分に伯父も父もできなった大成果と言えるはずだ。
真宗は寇準に向かって言った。
「数十年後に、もしも今日のような大事が生じれば、再びそなたのような者が出て、敵を防ぐであろう。朕は、これ以上、戦さを長引かせ、民草を苦しめ続けるのを忍び難く思う。我が朝の始まりより四十余年、契丹のために河北の民は安眠する日を一日たりとも得なかった。ここに、契丹の望むように和を結んでやり、人民にゆったりとした休らぎの時を恵んでやろうではないか」
この皇帝の言により、和議は個々の条件を巡る具体的な交渉へと入り、世に言うところの澶淵の盟が結ばれた。宋はこれによって都を失うかも知れないという危機を免れただけでなく、北方からの脅威をすっかり取り除くことができた。これは三代皇帝の偉大な事績として、史書に燦然と輝くはずだと、真宗は考えた。寇準が望む決戦にまでは踏み切れなかったものの、寇準がいればこそこの成功を得たのである。寇準こそは大宋を救った功労者、社稷の臣である。
その寇準への信頼が、澶淵の盟から二年近く経った今、王欽若の言葉によって、もろくも崩れ去ろうとしている。
澶淵の盟は小国も恥じる城下の盟なのか。その非難が当たっているのならば、真宗が誇るに足る偉大な実績と思ってきたものの意味が全くのところひっくり返ってしまう。史書に燦然と名を輝かすどころではない。恥辱を恥辱と知ることもできぬ暗愚な皇帝であったと、笑われる続けることになる。笑われるのは後世の史書においてだけでない。すでにいま、誰もが恥ずべきことと考えているのに、己一人ばかりが逆に名誉だと思っていたとあっては、皇帝の面目は一体どこにあるのか。
顔から火が噴き出るような感覚に、真宗はうめく。寇準に引き摺りまわされて、恥をかかされに行っただけだったのか。
誇り高き皇帝に二つの記憶がよみがえった。
真宗の父の太宗は後継者をなかなか指名しなかった。太宗の即位から二十年を超えたときに、早く皇太子を立てねば人臣の不安を招くと進言した者は、遠く南方に左遷された。寇準はその時は朝廷での言い争いがもとで地方に放出されていたが、しばらく後に、寇準が都に戻って来ると、太宗は、
「朕の息子達の中で、神器を付すべきは誰と思うか」
と、尋ねた。
「陛下が天下のために一人を選ぶにあたっては、婦人と相談するのも、宦官と相談するのも、不可でございます。近臣と相談するのも、やはり不可でございます。ただ陛下御自身がお選びになることでございます」
太宗はしばしうつむいて考え、左右の者を遠ざけると、寇準にささやいた。
「襄王はどうか」
寇準は答えた。
「子を知るは父に及びません。聖慮がすでにそれを可とされたのですから、早くお決めなさることです」
ここにおいてついに皇太子が定まった。
襄王の姿を見て、宮廷内の者も外の者も、「少年天子」と、大いに喜び湧いた。太宗は人々の喜ぶ様を見て不快になり、
「人心はもう倅の方に行ってしまった。朕はどこにこの身を置いたらいいのか」
と、寇準に向かってぼやいた。寇準は皇帝を再拝し、
「これこそ国家の幸いであります」
と答え、太宗も納得した。
この襄王が真宗である。このとき二十八歳であった。真宗が皇帝になれたのには寇準の力が大きかったのである。
もう一つの記憶は、澶淵において契丹の大軍と対峙していたときのことだ。
数千騎の敵が皇帝の居場所のすぐ近くに迫って、戦いを挑んだ。皇帝の耳にただならぬ物音が達した。敵は銅鑼や太鼓を鳴らし大いに騒いだ。不意に皇帝の身体に震えが走った。ここで戦闘が始まれば、己はその中に巻き込まれ、敵の白刃を間近に見ることになるのかと皇帝は怯えた。どうなることかと、側近の者を寇準のもとに急ぎ走らせた。寇準は、いつもと同じように、同僚等と酒を飲み歌を聞き遊んでいた。
「寇準がそうしているのなら、朕が憂うことはないだろう」
と、ひとまず息をついた。敵は、挑発しただけで帰って行った。
この記憶に、真宗の顔は赤くなる。
寇準は何者なのか。寇準がいなければ、この己は何者なのか。
己は偉大な皇帝である。今はそうではなくても、いずれは必ず偉大な皇帝になる。寇準などはいなくても己は偉大な皇帝でなければならない。小国も恥じる城下の盟などを、臣下の者に引き回されて結ぶような愚かな男では断じてない。
王欽若は皇帝の心の内を読んでいたかのように言う。
「澶淵の盟は断じて城下の盟ではございません。陛下は大軍を率いて黄河を渡られたのです。もしも契丹がこの開封府の城下に迫ってのことなら、城下の盟と言われても已むを得ぬとしても、陛下は契丹が黄河を渡るのを身を以って防がれたのではありませんか」
王欽若は力を込めて言う。
王欽若が寇準を謗る必要はもうない。それは皇帝自身が心の内で十分にすませているのである。
「むろんそうである」
真宗はそう答える。自信のない声だ。
「万に一つも疎漏があってはならぬと万全の策を練るのが臣下の務めであると、私どもは考えるのでございますが、さすがに宰相殿でございます。国家の大計を担われるお方は、違います。天下を己の物と思われる大度量に感服するよりありません」
王欽若は静かに声を落として言う。
真宗の眉が動く。
国家の大計を担うとは誰のことか。それは皇帝の仕事だ。天下を己の物と思うとは誰のことか。天下は宰相の物なのか。寇準は真宗を皇帝にしてやったと思い上がり、皇帝など意のままに使ってやればいいと思っているのか。確かに皇帝である自分は寇準の言いなりになっていたと、はらわたが煮えくりかえる思いで振り返る。結局のところは、大宋が寇準の物だったということなのか。
真宗はそうした心の内での思いとは違って、
「寇準は社稷の臣である」
と、口にする。
王欽若はその皇帝の声に、いよいよ最後の一分の仕上げにかかるときが来たと考える。
王欽若は悲しげな顔を作る。
真宗はすぐに気付く。
「どうしたのか」
王欽若はわずかに微笑み、
「いえ、やはりこればかりは申し上げるに忍びないことでございます」
「何だ。言いたいことがあるのなら、遠慮せずに申せ」
王欽若は首を傾けて思案する。皇帝は少々苛立つ。
王欽若は、うんと、腹に決めたような声を立てて言う。
「下世話に孤注と申します」
王欽若はそれで言葉を切り、皇帝の顔を見上げる。
「それはなんだ」
皇帝は苛立っている。王欽若は再び悲しげな顔になり、またわずかに微笑んで言う。
「御存知ないのは当然でございます。渡世人どもの言葉でございますから」
「それがいったいどうしたのだ」
皇帝の身の内側に先程からある不快な気持ちを露わにする。
王欽若は声を潜める。
「ばくち打ちどもは勝負に窮し、いよいよ自分はお仕舞いだとなった瀬戸際に、あらん限りの全てを差し出し、のるかそるかの大勝負に出るのでございます。それを孤注と申すのです」
王欽若は皇帝の目を真っ直ぐに見据える。
真宗は王欽若の顔を見、その目に吸い込まれるように、自分の思考を働かせる。
王欽若はこれで成ったと思う。
「寇準は朕を孤注と成したのか」
王欽若は頭を下げ、何も言わない。
「契丹の敵の前に、朕を孤注として差し出したというのか」
真宗はそれっきり押し黙り、王欽若をそのまま残して内に入った。
王欽若を皇帝の背中を見送ると、無表情を装って宮廷より下がった。
二
寇準は罷免となり、代わって宰相となったのは王旦だった。
皇帝が真に必要としているのは誰か。王欽若は、むろん己であると考える。それは絶対に間違いない。あるいは、皇帝はまだそこまでの認識は持っていないのかも知れないが、王欽若は己こそはと思っている。ただ物事は順にしか起こらない。今は待つべき時である。
待つと言っても、そうは長くはあるまい。宋という国が、そして宋の皇帝が待てないはずである。
王欽若の見るところ宰相には二種の系列がある。一つは直諫の士である。真に偉大な皇帝は、己に真っ向から反対する意見をも受け入れるだけの大きな度量を持っているものだ。唐王朝の基礎を築いた太宗には、皇帝と対等に話すのを許された房玄齢や杜如晦らの宰相がいたし、その下に魏徴がいた。魏徴は皇帝が最も嫌がることをも平気で堂々と述べた。太宗は不快の感情を適度に抑制し、魏徴の進言をおおむね採用した。この二人の間で交わされた問答は君臣間の理想の姿と見なされた。
宋の太祖、太宗には趙普がいた。宋が宋であるのは趙普を抜きには考えられない。ある時、趙普はある人物にある職を与えようとした。それは太祖の意に合わず、太祖は同意しなかった。翌日、趙普は同じ人物をもう一度推薦した。太祖はまた却下した。その翌日もまた趙普は同じ奏上を繰り返した。太祖は怒り、奏上文を引きちぎって投げ捨てた。趙普は静かに拾い集め、その翌日、貼り合わせてまたも皇帝に奏上した。ついに太祖は趙普の言うところを採り、こうして用いられたその人物は後に立派な功績を挙げた。
寇準はこの系列を継ごうとした。太宗の在世中、寇準は朝廷の席次でいうとまだ下の方であった。しかし、寇準は上位の者をさしおいて、皇帝の意に逆らうのも平気で己の意見を開陳した。あるとき、寇準が言い募って止まないために、皇帝は不快感を露わにし、衣を払って席を立った。寇準はつかつかと歩みより、皇帝の衣の裾を引き、もう一度席に戻らせ、己の意見を繰り返した。皇帝が根負けし、「わかった」と言うまで、掴んだ手を離さなかった。太宗は怒った様子を見せながらも、若い寇準のそのような振る舞いを結局のところは喜び、寇準は太宗が信頼する臣下の一人となっていった。
真宗も、太祖や太宗を真似て、この第一の系列の人物を重んじようと努めた。己にも二人に匹敵するだけの度量があると見せたかったからでもある。ただ、真宗が即位して寇準がすぐに宰相になったわけではなかった。
国家の基礎が固まり、もはや変革も建設もその必要性が薄れたとき、王欽若の考える第二の系列の宰相の出番となる。それは祖法を守る人物である。真宗のもとで最初に宰相になったのは、この第二の系列の人物、李沆だった。「用を節して人を愛し、民を使うに時をもってせよ」。孔子のこの言葉を李沆は政治上の大原則とした。大事なのは節約、民を愛し、民を使役するときは民の仕事を妨げぬようにする。李沆は常にこの言葉を誦し、政治においても個人においても、自制を旨とした。
二十一歳年上の李沆は、真宗にとってもう一人の父親のようなものだった。李沆は言葉によって真宗を導こうとはしなかったが、皇帝のあるべき姿を身をもって示した。李沆に任せておけば国は安泰であり、李沆のように身を慎んで、李沆の期待する皇帝になれば、太平の世の君主として穏やかに過ごせるのは確実だったろう。しかし、それでは、史書に特筆される事績は残せまい。真宗の本当の父親は、李沆とは全く異なる人間だった。真宗の父は初代の皇帝の弟である。皇位が初代の息子にではなく弟の方に伝えられた真の理由は皇帝しか知らない。初代皇帝が死んだときに、その脇にいたのは真宗の父だけだった。もしも、真宗の父が李沆のような人物だったら、皇帝には決してならなかっただろう。真宗は父の性格を幾分か受け継ぎ、できれば父を超えたいとの思いが強かったから、李沆の教えに従うのは何か物足りなく感じられた。
李沆が死んだのは、契丹の三十万の大軍が南下する直前の不穏な空気の流れる時期だった。李沆は次には王旦が宰相になることを期待していた。しかし、国家に危機が迫りつつあるときには、静よりも動、沈着さよりも豪胆さが求められる。真宗も李沆には足りないところのものを欲し、寇準が宰相に選ばれた。
そのときも、王欽若はこれが順序というものであろうと受け止めつつ、素手で虎に向かいたがる寇準に国を任せるのは危険であると考えた。それはそれで寇準の退場を早めるわけで、己に好都合な面もないわけではないのだが、国家が転覆するような大事に至っては元も子もない。案の定、寇準は暴挙に出た。契丹軍が南下すると、寇準は大いに吠え、王欽若の万全の策は退けられ、真宗も一時の蛮勇に駆られ、皇帝の親征となった。王欽若はこれも時の順序として諦観するよりなかったが、皇帝を孤注として差し出した大博打に寇準は勝ち、契丹との和平が成った。その代償として宋は毎年多額の金品を契丹に贈らねばならなくなったものの、平和と戦争は雲泥の差、宋には空前の繁栄がもたされた。
政局が安定すれば、第一の系列の宰相の必要性は薄れる。皮肉なことに、己の為した仕事の故に寇準は用なしとならないわけにはいかなくなった。それを意識していたのかどうか、寇準は己一人の手に権力をおさめてしまおうとした。寇準は途方もない増長を企んでいると王欽若は見た。王欽若の観察するところ、寇準にとって不幸の原因は生まれるのが遅かったことだ。太宗に認められるのに間に合ったのはせめてものことだったが、寇準のやり方は真宗の時代にそぐうものではない。平和なときに、寇準の大声は朝廷を掻き回すだけ、皇帝にも国にも害でしかない。粗暴な宰相は早く退場してもらわないと困る。だから王欽若はいささか力を出したのだった。
寇準が朝廷を追われたのは必然であり、次に王旦が宰相になったのもやはり当然の順序であると、王欽若は冷静に受け止めた。平和な時代の宰相として王旦ほどうってつけの人物はいない。しばらくはそれでいいだろう。しばらくと言うのは、己が出るまでの間という意味だ。己が宰相となるまでにいま少しばかりの時間が必要だ。王欽若は情勢を的確に見通す高い能力を持っていると自任し、大事な時を読みはずすようなことは絶対にないと思っている。それがまだ来ないうちに早まっては、足を踏み外し、全てを失うだろう。
王欽若は、二つの系列のどちらの宰相ともなる気はない。己が目指すのは、他の者が決して真似できぬ第三の系列の宰相である。それは系列とは言えない。己一代限りの、誰にも真似のできぬものだからだ。朝廷には、我こそは将来の宰相と自負する者が多数集まっている。科挙の難関を通り抜けた俊英揃いである。その誰よりも優れるのが己であるのだから、その誰とも異なる宰相にならなければならないと王欽若は考える。それはどのような宰相なのか。無私の宰相である。
第一の系列は己を激しく主張する。皇帝をへこませてまで己の信じる策を採らせようとする。第二の系列はそれと正反対に見えるが、結局、皇帝に新規な事は何もさせないという点において己の主張を通し、己の思う通りに皇帝を操ろうとする点は同じである。どちらにしても、宰相は己の我を通し、皇帝を従わせる。それでは、絶対的に偉大であるべき皇帝よりも宰相の方が上にあるということになりはしないか。いろいろ理屈はあるにしても、皇帝を騙して己に従わせるもので、大いに間違っている。宰相は私というものを捨て、あくまでも皇帝を絶対的に偉大な存在にするために働かなくてはならない。
王欽若が無私の宰相像を考えるようになったのは、真宗が即位した翌年にまでさかのぼる。寇準失脚から数えると八年前だ。皇帝がふと宰相に漏らしたという言葉を王欽若は伝え聞いた。王欽若がまだ中程度の地位の事務官だったころだ。
「先帝は、課せられた税を納め切れず獄に繋がれてしまった者がいると聞き、細民がいたずらに苦しめられるのを憐れみ、たびたび法を緩めるよう命じた。しかし、それは今も行き届かず、獄中に苦しんでいる者があるらしく聞いている。実態はどうなのか」
王欽若はただちに精査し、一千余万の負債のために三千余人が獄中に繋がれていると、詳細を記した帳簿を添えて皇帝に奏上した。
真宗は嘆じた。
「かくも大勢の者が獄にあると、先帝は知らずにいたのか」
王欽若は恭しくも答えた。
「先帝は天下のことは全てお見通しでございました。ただ、お上が民のためになされることがあるようお残しになったのでございましょう」
真宗は大いに喜び、王欽若の名をしっかり頭に刻み込んだ。
即日、真宗は三千余人の釈放を決めた。民を慈しむ偉大な皇帝への第一歩であった。
このとき真宗は三十一歳、王欽若は三十七歳。王欽若は初めて皇帝と言葉を直接交わし、皇帝がどのような性向の主であるのか明確に掴み取った。真宗は自身の前に聳え立つ伯父、父の二代の皇帝を強く意識し、二人に少しでも近づき、できれば超えることを切に願っている。その願いを叶えるのが己となるであろうと直観した。その役割を十全に果たすには宰相の地位へと昇っていく必要がある。宰相になって皇帝を偉大にすることだけを己の仕事とし、私などは捨てねばならぬ。その時が来るまでには、ある程度の歳月を待たねばならないだろうが、それは必ず来る。皇帝のためにそうでなければならない。
真宗には己を絶対視したがる傾向があった。己が好しとした事は必ず好い。最初に意に適った人物は気に入り続け、最初に意に適わなかった人物は嫌い続けた。時に、実際の行動に照らし合わせてその評価に変更を加えねばならなくなり、気に入っていた者を遠ざけ、嫌っていた者を近づけることもありはしたものの、時間が経つと、また元通りに、気に入っていた者は近くに戻され、嫌っていた者は遠くに離されてしまう。寇準、王旦、王欽若は、互いに似たところはなかったが、真宗に気に入られたという点は共通していた。偉大な皇帝の近くにいるべき人物として真宗をその三人を認めていた。
王欽若の祖父は地方の小官であった。長江の氾濫に遭い、一族を伴って黄鶴楼に避難した。楼に向かって不思議な光が差すのが遠くから見られた。その夕べ王欽若が生まれた。父は早くに死に、祖父のもとで育てられた。
太宗が太原征伐に出た際、王欽若は皇帝を讃える賦を書いた。祖父はそれを陣中の太宗に献じた。王欽若十八歳のことである。
祖父は死に際して言った。
「私は官途にあること五十年。常に刑罰を緩く用い、多くの人々の命を生かそうとした。その余慶は子孫に及び、吾が後に、この家を興す者が出ると信じる。この孫を得たのはまさにその徴であろうか」
王欽若は科挙に合格し、地方で税を集める仕事をした後、中央に呼ばれ、税収の不足を補う仕事に就き、三千余人の囚人の釈放で皇帝の恩顧を蒙った。祖父が法を緩めた余慶か、皇帝の側近として用いられるようになった。
王旦は王欽若より五歳上。
王旦の父、王祐は文章の名家として名高く、太祖、太宗の二代にわたって要職を勤め、皇帝より名臣と誉め置かれた。王祐は庭に三本の槐を植えた。
「我が後世、三公となる者が必ず出るだろう。これをもってその徴とする」
王旦は幼いころより学を好み文に優れた。寡黙で思慮深い息子を見て、
「これが宰相になる子に違いない」
と、王祐は考えた。
王旦は太平興国五（九八〇）年、二十四歳の若さで科挙に合格した。同年の合格者に十歳年長の李沆がいた。
李沆は、真宗が即位した翌年に宰相となり、その位にあること六年で死んだ。李沆は、王旦を高く評価し、己の後に国家を託せるのは王旦の他にないと常に語っていた。
李沆が没する少し前、王旦は、契丹との和睦の可能性を尋ねた。
「和睦できるのなら、それは国のために善いと言えば善いだろう。しかし、外に患いがなくなれば、お上の心が奢侈へと移るのを、恐れねばなるまい」
真宗が即位して間もないころ、李沆は毎日のように、水害、日照り、盗賊等の各地の事情について事細かに奏上した。
「このような些細なことで、お上の耳を煩わせるまでもないのではありませんか」
王旦は李沆に尋ねた。
「まさしく些事である。お上は位に就かれて日も浅く、お若くあられる。このような些事に御関心をお持ちになりにくいことも重々承知している。しかし、民は常にこのような些事で悩み苦しんでいるのである。国や民には、誰の目にも明らかな大なることばかりでなく、ごく小さな艱難がある。このことを、今のうちによくお上に知らせておくべきである。この後、お上の治世が長く続き、血気盛んなお年頃になられたとき、国に大事がないとなれば、声色の遊び、狩猟の遊びにお心をひかれるか、さもなくば、御自ら国に大事を起こし、軍事、土木、宗教にお熱を入れられるか、そのいずれかになると心配せねばならぬであろう。私は老いてその日が来るのを見ることはあるまいが、そなたの心の深い憂いとならぬよう、いまこの些事を日々、奏上申し上げているのだ」
李沆は静かに深く考えるのを常とし、朝議における発言は少なく、皇帝を直接諫めることは一度もなかった。私的に人と対座するときも寡言で、家への訪問客はごく稀だった。私的な生活に他人を関わらせず、家にあっても朝廷にあるときと同じ姿勢を保ち、論語を読んで自省した。王旦はその全てを見習った。
寇準は王旦より四歳若く、王欽若より一歳年長である。父は王族の書記を勤め、家は富貴だった。幼いときから英邁さを見せ、豪侈を好んだ。家は常に大勢の客で賑わい、夜は広い屋敷の全ての部屋に煌々と明かりがともされ、明け方まで劇飲した。
十九歳で科挙に合格、若き英才、かつ大胆な振舞いですぐに朝廷にその名を轟かせた。
太宗皇帝の淳化二（九九一）年、寇準が三十一歳、その年は蝗の害が春から早くも出始めていた。皇帝は蝗害の報告を聞き、
「これは天の咎めであろうか。もしも三日間、雨が降らないのならば、朕は天譴を受けねばならない」
宰相らは平伏し、
「私どもが天に恭順ならざる故であります」
と、皇帝に謝罪した。
翌日、折よく雨が降った。蝗はことごとく死んだと報告された。皇帝は我が政治の得失を人々に尋ねた。宰相が皇帝の徳を讃え、皇帝が宰相以下の精勤を嘉し、君臣相和す麗しい光景が現出するというのがここでの望ましい段取りであった。出るべき折でない寇準が進み出た。
「春の蝗は大旱魃の兆し、天の咎めであるのは明らかであります。その故は、刑が公平に行われていないことにあります」
皇帝は思いもよらぬ展開に不快感を顕わにした。宰相以下全員がうつむき、白けた雰囲気を誰も修復できぬまま、皇帝は内に入った。しばらくして、皇帝は寇準を呼び入れ、刑が公平でないとする根拠を尋ねた。
「先頃、祖吉、王淮の二人が賄賂を受け、法を犯しました。祖吉は当然の処置として死罪になったものの、王淮はその罪を免れております。王淮は王沔の弟であります。王沔が千万の財を各方面にばらまき弟の罪を隠蔽したのだと、人々は申しております」
このとき王沔は皇帝の寵臣であった。それで誰もが口を拭っていたのである。皇帝は王沔を厳しく叱りつけ、以後、寇準に一目を置くようになった。
李沆は己の後継者として王旦を高く買っていたが、寇準は、王旦はただ文章が巧みなだけで何ら取り柄がなく、国家を担う力量は皆無であると、歯牙にもかけなかった。
寇準が高く評価したのは丁謂という五歳下の能吏だった。丁謂は文章に優れた。科挙に及第したとき、当時の名士、王禹偁がその文を見て大いに誉め、同年の及第者の孫何とともに、「三百年来、文が振るわなかったのは、韓柳の後に孫丁が来るためであった」と、激賞した。韓柳とは唐代の名文家、韓愈と柳宗玄である。丁謂はその文以上に、実務者として際立って高い能力を発揮した。財政面で圧倒的な手腕を見せた。その種の仕事は寇準のひどく苦手とするところで、寇準は丁謂を己の片腕にすべき人材であると認めた。
李沆に、丁謂をもっと高い地位につけるよう、寇準は盛んに薦めた。李沆は聞き流し、丁謂を用いようとしなかった。
寇準は怒った。
「丁謂のような優れた者を、いつまで人の下に置いておく気なのか」
李沆は静かに答えた。
「丁謂の人となりを見て、人の上に置くべき者と言えましょうか」
寇準は憤懣やるかたない表情で李沆を睨んだが、
「いつか私の言ったことを思い出されましょう」
と、李沆は微かに笑った。
李沆が死んで寇準が宰相になると、朝廷の人事はほとんど寇準一人が定めるところとなり、丁謂に飛躍の時が訪れた。
寇準が失脚すると、寇準に無能扱いされていた王旦に順番が回った。
王旦は宰相を拝した礼を言いに皇帝のもとに詣でた。
「寇準は国家を担う宰相として、ただ誉れを求めることに過度であり、それがために大臣としての体を失った。朕は、寇準のためにその重い役割をほどいてやり、余生をゆっくり過ごせるよう計らってやったのである」
寇準は地方に出され、王旦は、皇帝の言葉から、大臣は慎ましくあらねばならないという日頃の思いをいっそう強めた。
王旦は、何事も李沆を範とした。人に接して寡黙であり、感情を外に出さず、笑うことは滅多になかった。朝廷において甲乙議論が沸いたとき、王旦は口を開かず、人々の意見が出尽くすのを待った。理非自ずと明かになったとき、王旦は一言で事を定めた。家に帰って姿勢を崩さずいたのも李沆と同じだった。その日の朝議が結論の出ないままであった場合は、冠帯をはずさずに部屋で独坐し、黙考し続けた。李沆に似たのはやや表面的なところで、李沆ほど遠くまでその目は見ていなかった。
宰相王旦のもと、王欽若は尚書左丞となり、政治の実際に再び関わるようになった。
そんときから王欽若は王旦以上に寡黙になろうと努めた。寇準の失脚は王欽若の讒言によるものだと、あらぬ陰口が聞こえて来ていた。嫉妬から人を謗る小人物ではない。しかし、他人には違って見えるらしい。真意が伝わらぬのを悔しく思いながらも、今は自重こそが肝要、時が来れば自ずと明らかになり、道が開けるものと、黙々と政務に励むことにした。
そう決めても、朝議において黙り続けるのはなかなかに苦痛だった。愚にもつかぬ理屈をしたり顔で喋り続ける連中を、一喝してやりたいという衝動に駆られた。王旦はいつまでも口を開かないから、堂々巡りの議論になることが多かった。事が素早く結着するという点では横暴な寇準の方がましだった。己が宰相なら、目が覚めるような捌きをするのだがと、王欽若は思いつつも、なんとか沈黙を守った。狙い通りに、人々は王欽若の存在を余り意識しなくなり、陰口はほぼおさまった。
間もなく、勲功著しい老将軍である高瓊が病に臥した。
高瓊は一字も読めないながら軍政に通じ、大軍を意のままに動かし、太宗に厚く信頼された。宋朝において無学者でありながら高官になった最後の生き残りだった。
真宗も高瓊を重んじ、契丹の南進に対して寇準が親征を主張したとき、真宗は王欽若から金陵遷都を進言される一方で、高瓊に秘かに意見を尋ねていた。実戦経験豊かな将軍の助言は重要だからだ。高瓊は当時七十歳だった。
「お上が御自身で大軍を督戦されるならば、大事は必ず成りましょう」
高瓊のこの一言は、百官の前で、真宗が親征を決断する際の一つの重要な要素となっていた。真宗は都を出てからも、契丹を恐れる心にたびたび挫けそうになった。黄河を前にし、ここを渡っていよいよ契丹軍と直接向かい合う時になって逡巡した。皇帝とともに怖気づく側近連中を、高瓊は怒鳴りつけ、皇帝を河の北へと渡らせた。
高瓊が危篤に陥ったと聞いた真宗は、今生での別れを告げに見舞おうとした。王欽若が止めた。
「お上が御自ら臣下の家をお訪ねされるのは、特別の勲臣に限られます。もしも高瓊にその恩を施されたならば、どこを区切りとしていいのか定めがなくなります」
これは立派に筋の通った意見である。高瓊は国の元勲というにはかなり落ちる。高瓊くらいの地位の者は多数あり、それが病になるたびに皇帝が見舞っていたのでは切りがない。皇帝は思い留まった。
王欽若は正しい具申をしただけである。ただ、高瓊が根っからの武人であって、寇準と大いに馬が合ったのも事実だ。高瓊が今わの際に、寇準のことを皇帝に何か進言しはしないかと、王欽若が気を回さなかったとは言い難いのである。
寇準の去った後の朝廷は静かなものだった。
王旦は祖法を守る宰相である。何事も前例の通りだった。国内は静かであり、国の外も静かであれば、宋の国力は自ずと充実していく。六年間で、宋の戸数は五十五万、賦入は三百四十六万も増加したと、皇帝に報告された。こうした詳細な全国の統計を纏めるのは丁謂の得意とするところだった。寇準が失脚しても、丁謂はその有能さ故に、着実に出世を遂げていた。丁謂のそつなさは誰からも好かれ、真宗も王旦も大いに丁謂を力とし、王欽若も丁謂は使えそうだと考えていた。
真宗の関心は獄にまた向いた。
「四方の刑獄には、官吏に人を得ないため、無実の罪で繋がれる者がまだ多くいるのではないかと心配である。もしも貪濁弛慢の官吏がいるのならば、その名を明らかにせよ」
王旦にこのように指示した。
再びいくばくかの囚人が解放された。しかし、かつて王欽若の報告を受けて三千人を釈放したときのような満足感は得られなかった。二度目ともなれば新鮮さはない。
真宗はこのとき四十歳、まさに血気盛んな年となり、赦免の詔くらいは、皇帝の仕事として取るに足りないものだ。
ふとした折に、鬱々として楽しめぬ思いに陥っていることに、真宗は気付くようになっていた。思い起こせば、怒りに任せて寇準を罷免した後からそれは始まり、次第に頻度が増していた。寇準を辞めさせたのを悔いるのではない。寇準には明らかな非があった。王旦は煮えきらぬようでいて、確実に朝廷を一つに束ねている。それでも、大声で皆を黙らせてしまう寇準がともすると懐かしく思い出されもする。
契丹との間に結んだ澶淵の盟は恥ずべき城下の盟であった。しかしそれは、真宗自身、一度は太祖、太宗に並ぶ偉大な事業と思ったもの。大いなる達成感を得た。寇準を罷免してみると、澶淵の盟は宋にとって大変な汚辱であったと、内外に大々的に明示したのと等しい事をしたと分かった。そんな事を意図して寇準を辞めさせたのではない。寇準の非礼を責めたのだが、結果として、宋の面目を自身で潰してしまった。こう思うと、真宗は居ても立ってもいられない。
初代、二代の皇帝に並ぶどころではない。歴史に残るのは恥ずべき城下の盟だ。その屈辱を消すには、正真正銘の大いなる仕事をしなければならない。囚人の釈放など物の数にも入らない。だが何をすればいいのか。このまま愚かな三代目皇帝に成り下がるのか。もしや得られるものがないかと書物開いても、憂さを晴らそうと酒色に耽ろうとしても、焦燥感は強まるばかりだ。真宗は四十歳である。その歳になってもまだ事を成し遂げていなかった英雄はまずいない。
真宗のこの焦りは、真宗に何を求めさせようとしているのか。その何かに明らかな形を与えるのが、まさしく今の己の仕事であると王欽若は考えた。どうするのか。真宗を真に偉大な皇帝にするのである。
王欽若は慎重に時を待ちつつも、遅れてしまわぬよう機敏に動かねばならないと、注意を続けていた。早まれば朝廷内に十分な基盤を持たぬ己は身の破滅となりかねない。だから沈黙が必要だった。しかし、ゆっくりしすぎて、他人に先を越されるようなことがあってはならない。警戒すべきは王旦である。王欽若の見るところ、王旦は何一つ新たな事を生み出せない無能人であり、その重々しい振る舞いは、見かけだけだが、意外にも真宗の信頼を着実に獲得しつつある。寇準が去った後、真宗にとって王旦は頼りがいがあると感じられるようだ。王旦の言葉は時に深い意味を持っているように見えることもある。
朝士が互いに推薦し合うことの得失を皇帝が尋ねたことがあった。
「人の情の真偽は測り難いものであります。人を誉めながら、その実、人を貶めようとする意図を隠すものである場合がございます。唐の時代、劉仁軌は李敬玄を嫌い、李敬玄を朝廷から追い出す策を考えて、皇帝の前で、李敬玄ほど軍事に明るい者はないとその才を盛んに誉めそやしました。皇帝はそれを真に受け、李敬玄を将軍にしたところ、劉仁軌の思惑通りに李敬玄は大敗し、李敬玄は罷免されました。このようなことが国家のためにならぬのは明らかであります」
王旦の答えに皇帝は膝を打った。
「そのようなことであるから、世に険偽の輩は絶えないのであるな」
皇帝の言葉は妙に王欽若の気にかかった。王欽若はむろん「険偽の輩」とは正反対の極にいる人間である。しかし、王旦が皇帝の心を掴みつつあるのは、危険である。
その一方で、丁渭が力を付けつつあるのも気がかりになり始めていた。丁謂はうまく使えば己のためになるだろうが、あの有能さには恐るべきものがある。後から来た者に、旨いところをさらわれてはたまらない。
まだ早いか、手遅れにならぬかの二つの間で迷い、寇準が罷免されてから二年に満たぬとき、あるいは時期尚早かと思いはしたものの、時を失うよりはと、王欽若は動き出した。
景徳四（一〇〇七）年十一月、中書省の面々は顔を見合わせた。
提出された一枚の上奏文を前に、一同は困惑の色を隠せずにいた。殿中侍御史の趙湘が提出したものだ。記す文言は、要するに、今は封禅を行うべき時か否か、中書省において検討してはどうかという提案だった。
封とは、泰山の上に土の壇を築いて天を祭り、天の功に報いること、禅とは、泰山の下の小山において地を祭り、地の功に報いること、合わせて封禅は、至高の皇帝だけが為すのを許される最高の儀礼である。
趙湘の奏上はなかなかの難題である。検討すると言っても、今は封禅を行うべき時ではないと、臣下として言明はできない。我が皇帝は徳薄く、封禅などは到底許されぬと、臣下として言えるものでない。とすれば、封禅を行うべき時であると答えるよりない。しかし、封禅は一大事業である。安直に良しと言って行えるものでは決してない。
封禅は、朝廷の内外にそれに向けての気運が十分に満ち、誰もが今が最良の時と思えるようになって、宰相のようなしかるべき人物が奏上して、皇帝が裁可するという段取り踏べきものである。今、そのような気配は特にない。趙湘の奏上はひどく唐突であると受け止められた。趙湘はいかなる思惑からこの上奏文を提出したのか。人知れず皇帝自身の意向を受けてのことか。誰もが思案に暮れ、互いの顔色を伺い、発言する者は一人もいなかった。
長い沈黙の後、ごく異例のことに、王旦が最初に口を開いた。
「封禅の礼はすでに廃れて長く、聖朝承平の時でなければ、できるものでない」
趙湘の上奏文に対して、反対と取れなくもないが、ごく当たり前のことを言ったにすぎなかった。その日の議論はこの一言で終わった。
中書省から報告を皇帝は受けると、
「朕の不徳を見れば、軽々しく議論すべき時でないのは明らかである」
趙湘の上奏を退けるよう命じた。
皇帝は、その後で、王欽若を呼んだ。
趙湘の上奏を仕組んだのは王欽若ではないかと疑ったからだ。
王欽若は答えた。
「封禅は人臣の心より始まるものではありません。私が意図するということはなく、趙湘とて同じであります」
「ではなぜ趙湘は上奏文を出したのか」
「封禅は天より始まるもの。されば、この度の上奏は、趙湘の私心からなるものでは全くなく、天に感応した公の心からなるものでありましょう」
「そのようなことがあるのか」
「真にそうであるかどうか、今後、天がいかなる兆しを示すかによって自ずと明らかとなりましょう」
封禅は特別な儀礼である。真宗の以前になされたのは、実に二七〇年の昔、唐の玄宗皇帝による。玄宗皇帝は唐の最盛期を現出させた皇帝である。
宋代になって、太宗が即位して八年目、泰山の父老千余人が皇居に赴き、
「泰山にお出ましになり、封禅の儀を行っていただきたい」
と、願い出たことがあった。皇帝は己の不徳を理由に、その願いを退け、わざわざ遠く旅してきた父老に厚く褒美を与えて帰した。
その翌年、宰相以下の群臣が、再び封禅の実施を願い出て、ようやく決まりかけようとした矢先、折悪しく宮中で火事があった。
「これは天の戒め、まだその時でない」
皇帝の言で沙汰やみとなった。
皇帝とは天より天下を治める命を受けた者である。中でも抜きん出てすぐれた皇帝が現れ、民に遍く徳を及ぼし、この世の楽土というべき太平の御世を現出させたとき、天はまこと我が意に適ったと、地上に様々な瑞祥を降す。同時に、民草の間に自ずと封禅を渇望する心が生じる。民衆は誰に指図されたわけでなく、都に詣でて封禅をと皇帝に乞い願う。宰相以下の大臣も願い出る。しかし、皇帝は謙譲の美徳を発揮し、自分はそれに値しないと、何とか封禅をやらずにすませようとする。それでもなお瑞祥が止まず、人々の願いがいよいよ切であるとき、皇帝はついに意を決して泰山へと赴く。高い山頂に自ら登り、天を祭る儀式を行い、山を降って地を祭る儀式を行う。これが国家最高の儀礼、封禅である。
太古の聖天子はいずれも封禅の儀を行った。天の道がそのまま地上に行われていた佳き時代であった。世が衰えるにつれ、瑞祥は現れなくなり、祭儀は途絶えた。春秋戦国の長い混乱期を経てようやく天下統一を果たした秦の始皇帝は、己の治める九州全土を巡り歩き、泰山において、千年ぶりといわれた封禅を行った。始皇帝は己こそ古の聖天子をも超える大天子であり、天の恵みを一身に受け、秦王朝は永久に続くと考え、封禅を行った。始皇帝は封禅を終えて間もなく死に、十二年後に秦も滅んだ。始皇帝は本来、封禅を行う資格がなかったのにもかかわらず、自らの驕る心のままに、瑞祥もなく民の願いもなしに、勝手にそれを行ったために、天の怒りを蒙り、身をも国をも滅ぼしたと言われた。あるいは、始皇帝は泰山には登ったものの、暴風雨のために実際には封禅は行えなかったと、言う者もあった。
始皇帝の後に、漢の武帝、後漢の光武帝、唐の玄宗といった国家の一大隆盛期を築いた大皇帝が封禅を行った。宋朝の初代、二代の皇帝は、そうした皇帝に並ぶ事業を成し遂げたとも言えるが、封禅を行わなかった。
趙湘の上奏を退けてしばらく後、真宗は王欽若に尋ねた。
「大宋の威令を四周に及ぼす方法には何があるとそなたは考えるか」
皇帝は王欽若に茶を賜り、くつろいだ様子で、いかにも何かのついでであるかのような気楽な問いかけをした。
王欽若は茶を置き、衣を振るって平伏し、そのまま遠くへと退き、皇帝を再拝した。
真宗は王欽若の動きに目をしばたたかせた。
「国家の大事を私ごときにお尋ねくださり、まことに光栄にございます。大宋の威令を四周に及ぼす方策との御下問でございますが、臣の見ますところ、それはお上のお考えと同じく、ただ一つでございます」
「それは何であるのか」
王欽若は頭を下げる。
「お上のお心を申すのは恐れ多いことでございます」
「よい、言ってみよ」
王欽若はもう一度頭を深く下げる。
「城下の盟の恥を雪ぐことの他に何がありましょうか」
皇帝はむっとした表情になった。
「城下の盟とは何だ」
皇帝は床をどんと踏み鳴らした。
王欽若は伏したまま何も言わない。
王欽若を見据える真宗の顔が朱に染まる。
「あれを城下の盟だと思っているのか」
王欽若はゆっくりと顔を上げる。
「契丹との和睦が城下の盟でないこと明らかであります。それは、以前に申した通りでございます」
真宗はうなずく。
「では、なぜ城下の盟だなどと今さら申すのか」
「愚夫どもがかく申し、夷どももかく考えておりますのは、今もって消し去れません。愚夫どもは理非明らかならざる頭でそのように申し、夷どもは大宋に畏れを抱かず己ばかりを尊しとする愚昧さからそのように考えております。この者どもの愚かな心を改められずにいるのを、私は城下の盟の恥辱と申したのでございます」
「改めさせるにはどうすればいいのか」
「この上もなくたやすいことでございます。兵をもって契丹を挫くのでございます。幽州、薊州を契丹から取り戻すのでございます」
「契丹と戦うのか」
「契丹どもは、陛下の兵の前に敗れて、澶淵の盟はお上より下された慈悲深き恩恵であったと思い知るでありましょう」
王欽若の答えは至極明快だった。
しかし、すでに平和に慣れた宋に契丹を破る力のないことも明々白々だった。
「契丹との和平でようやく休息を得た民草を再び戦地へと駆り出すのは、朕の忍びざるところである」
皇帝は自国の非力さをこのように表現した。
王欽若は深く頭を下げる。
「お上の深き御慈愛に、民になりかわって心より感謝申し上げます。お上の御世に生まれ合わせた幸いに優るものはございません。愚夫にも及ばぬ臣の不明を恥じ入る次第です」
皇帝はわずかな笑みを浮かべる。
「戦の他に、何かよい方法はないのか」
王欽若は皇帝の顔を見上げる。
「愚夫に及ばぬ不明の臣に、もはや何らの知恵もございません」
「そなたほどの者に、考えがないはずはなかろう」
「いえ、兵をいささかも用いず、しかし、四海を鎮服させるに足る功業があろうとは思いもよらぬところでございます」
「そうではあるまい。そなたがそれを知らぬはずはあるまい」
「いえ、私には」
「夷狄どもも、また我が民草も迷信深いものである。敢えて武力を用いずとも威服させる手段はあるだろう」
「一向に思いもよりません」
「そうではなかろう。過日の趙湘の上奏は、そなたが知らぬとは、朕にはどうしても思えぬのだ」
「とんでもないことでございます」
「違うのか」
「恐れ多くも封禅とは、人の世にある者、それはたとえお上であらせられても、図って為せるものではございません」
「朕にもできぬと言うのか」
王欽若は平伏する。
「こればかりは憚からずに申し上げねばなりません。お上のお心がそこにあっても為すことはできぬのでございます。秦の始皇帝のためしもございますれば」
「朕を始皇帝に譬えるのか」
真宗は少々の怒気を含んで言う。
「たとえお上のいかなるお怒りを蒙りましょうとも、人の心によって巧んで封禅を行えば、始皇帝と同じと申さねばなりません。お上の御心に逆らうとも、正しいことを申すのが臣の務めであります」
「ならば、契丹を征伐するのができぬと同じく、朕は封禅も行えぬというのか」
皇帝は不愉快そうな声を出す。
王欽若はしばらく時を計って言う。
「天のはからいがあるとき、人は意図せずとも、天の意のままに事は為されるでございましょう」
王欽若は顔を上げる。皇帝はその目を見る。
「天のはからいとは何だ」
「封禅は人が行おうと考えて行うものではなく、無理に行えば、始皇帝のように自身の命を失い、国を滅ぼします。一方、天の導きのあるときは自ずと行われ、その場合にはたとえ人が行うまじとしても、為されずにはすまないのでございます」
「天の導きとは何だ」
「天より降される瑞祥が最初の導きでございましょう」
「瑞祥は何時どのように得られるのか」
「得るものではございません。自ずと天が示すのであります」
「天が示すのを待つより他はないのか」
「左様でございます」
「何時ともわからぬのを待つだけなのか」
「人智の測るところではありません」
「朕が世にある間に天瑞があるのかどうかそれは分からぬのか」
「お上は千秋万歳、その間に天瑞のなきことがありましょうか」
皇帝の天井を仰いでしばし考え、ぽんと膝を打つと、王欽若に言う。
「太古の世には、封禅の儀の前に、河図、洛書などという画や書が河中より現れたと聞くが、それは天が降したに間違いないものなのか。天には画を描き、書を記す手があるのか」
皇帝がわざと素朴な疑問を投げかけて来たことに王欽若は微笑む。
「学の浅い私には古き世のことは分かりません。ただ、天自らが書けぬとすれば、聖人が神の道によって教えを設けたものと考えて、あるいは大きな間違いはなかろうかと思われます」
王欽若の言葉に大きくうなずく。
「そうであるな」
王欽若はこれで意図したものはまず成ると見た。
その夜、真宗はなかなか寝付けなかった。王欽若との問答を思い出し、あれこれ考えた。眠れぬまま、ふらりと秘閣を訪れた。そこには、不意の皇帝の御下問に応じられるよう学者が詰めている。その夜の番は杜鎬だった。思いがけない皇帝自身のお出ましに、慌てて衣服を整えた。博学で知られる老儒者である。
皇帝は、杜鎬にいたわりの言葉をかけ、脇に座らせた。皇帝は孔子の言葉のいくつかについて尋ねた。杜鎬はいつか聞いた王欽若の言葉を思い起こした。「お上には迷うところがおありの御様子。何か御下問があった際には、よくよく御疑念を解かれるよう」。杜鎬は言葉を尽くして答えた。杜鎬は地味な学者だ。杜鎬ならではの創見は持ち合わせていないが、それだけに安心して聞くことができる。静かな話が続くうちに、皇帝はふとつぶやくように言った。
「河図、洛書というものがあったのを思い出したが、あれはどういうものか」
杜鎬は即座に答えた。
「易経繋辞伝上に、天は神物を生じ、聖人これに則り、天地は変化し、聖人これに効らい、天は象を垂れ吉凶を見せ、聖人これに象り、河は図を出し洛は書を出し、聖人これに則る、とございますよう、天の示すところのものを見て、聖人は天下の道を知り尽くし、天下の志に通じ、天下の業を定め、天下の疑いを断じたのでございます」
皇帝はしばし黙し、声を潜めて言った。
「黄河から図が出て、洛水から書が出るようなことがまことに起こったのか」
杜鎬にも、ようやく皇帝が何を聞こうとしているのか分かって来た。趙湘の上奏を杜鎬も聞いていた。もとより慎ましい杜鎬である。用心深く答える。
「天の玄妙なること、臣の測り得るところではありません」
「遠い古のことだ、誰にもわからぬのだろうな」
杜鎬は頭を下げる。
「その通りでございます」
「遥か昔だ。天が画を描き、天が書を記すこともあったであろうな。天に筆を握る手があり、河は文字を濡らさず、水は書を差し出したのか。まこと不思議なことだ」
真宗は奇妙な感嘆の仕方をした。杜鎬はつい余計な事を口にした。鬼神を語らぬ孔子の忠実な弟子である。
「古といえどもそのようなことがあったと、素朴に信ずべきではありますまい」
「左様か。天が筆を執って自ら書いたのではないのか。ならば、河図洛書は誰かが書いたのであろうか。天を偽って作ったのか」
「いえ、河図洛書は天の降されものです。人為によるまがい物ではありません」
「天が書かず、人が書かぬとすれば、誰が書いたのか」
「聖人が神の道によって教えを設けたのでございます」
杜鎬の言葉に真宗は深くうなずく。昼間、王欽若が言ったのと全く同じだった。
「では、河図、洛書は聖人が設けたものなのか」
「いえ、そうは申しておりません。河図洛書は天の降されたものにございます。聖人は教えを設けたのでございます」
「天が書いたのではないのだろう。聖人は何を為したのか」
「天に則ったのでございます」
杜鎬が曖昧な所で済ませようとするのを、皇帝はさらに問い詰める。
「河図洛書を書いたのは聖人であるのか。しかし、それは、天が降そうとした機運に応じて為したのであるから、天が書いたに等しく、河図洛書の出現は神の道が正しく貫かれていることを明らかにし、よって人々は天の教えの導きを受けるようになった、そういうことであるのか」
「恐らくは」
「では、ここに天が降した真の瑞祥と、人の賢しらによってこしらえ上げた偽の瑞祥とがあったとき、その二つはいかにして区別されるのか」
杜鎬はいよいよ質問が核心に触れたのを悟った。
「聖人が神の道を受けて為すのなら天の為すに等しく、それが真か偽かを測るのは人智の及ばぬところでございます」
杜鎬はそこまでに己が話したこととは矛盾せず、かつ、なお曖昧さの残る言い方を工夫した。
真宗はそれでは許さなかった。真宗は立ち、杜鎬の手を取った。
「もしも朕が為すとしたらどうか」
杜鎬は床にひざまずき、頭を伏せて答えた。
「恐れ多くもお上がお考えになりますこと、天の意に則らぬはずがございましょうか。愚かな臣の遠く及ばぬことでございます。今のお言葉、すでに人智を超えたところにございます」
「朕が思うは天が思うに等しくあるのか」
真宗はもう一度尋ねた。
「それはただお上御一人のお心が知るばかりでございます」
真宗は微笑むと、床にひれ伏したままの杜鎬を一人残して部屋を出て行った。
翌日、王欽若は真宗に呼ばれた。晴れ晴れとした顔を見て、皇帝の意が定まったのを知った。杜鎬は期待通りの働きをしたのだ。
皇帝は、王欽若には余計な言葉は不要であると知っていた。
「気がかりが一つある」
真宗はそれだけを言い、昨夜の事は何も話さなかった。
「いかなることでございましょう」
「宰相である」
王欽若は皇帝の気がかりを即座に理解した。
もしも王旦を一人だけここに呼んで封禅の可否を問えば、王旦は賛同しないだろう。祖法を守るのを旨とする王旦が、太祖、太宗さえ為さなかった封禅をやるべしと言うはずがない。封禅には莫大な費用と労力がかかる。都から泰山まで、何千、いや何万という人間が往復する。途中の道の整備はもちろん、皇帝のお出ましにふさわしい建物を随所に建てる。たった一度の儀式のために、国庫が空になるほどの費用をかける。いやそれでも足りないかも知れない。逆に言えば、それだけの財を投じるからこそ、歴史に残る偉大な大事業となる。大唐の盛時から二七〇年を経た今でしかできない。
「用を節して人を愛し、民を使うに時をもってせよ」。孔子の言葉を常に胸に繰り返していた李沆の忠実な後継者である王旦が、封禅に賛同するとは思えない。もしも宰相が反対すれば皇帝といえども押し通すのは容易でない。王旦を罷免し、別の者を宰相にすれば可能だが、そんな荒っぽいやり方は、万民が祝うべき慶事にふさわしいとは言えない。王欽若は、皇帝はそのように考えたであろうと推察する。
しかし、王欽若には目算があった。
「これまでに聖意をお示しになられて、宰相殿が異を唱えられたことがありましょうか」
王旦は寇準ではない。皇帝の言葉に逆らったことがこれまでにない。李沆もそうだった。実際に、宰相が具申したことに対して皇帝が可否なり何らかの意見を述べ、それに基づいて大臣連が議論し、その上でもう一度皇帝に諮って決めるという段取りであるから、皇帝の意思が最初に示されて、それに逆らって宰相が意見を出すという場面がそもそも生じにくくはなっている。
「確かに」
皇帝はうなずいた。
王旦には何も言わせないのがよいという点で真宗と王欽若は完全に同意した。
皇帝は王欽若を下げると、代わって王旦を呼び入れた。
「過日の趙湘の奏上であるが、決して取り上げてはならぬ」
王旦は皇帝の睿慮の深さを讃えて下がった。
皇帝のこの一言で、封禅について宰相らが議論する必要はなくなり、王旦は安堵した。
数日後、いつもの年よりも早くに雪が降った。朝議が終わった後も雪は続き、宮中は真っ白な雪景色に包まれた。
皇帝は王旦等重臣を奥に呼び寄せた。
「雪が尺に満ちるのは、来年の収穫が良い徴だと聞く。この雪の降る様子は、天の瑞祥というものであろうか」
真宗がそう言うと、王旦は宰相の勤めとして、
「まさに仰せの通りにございます」
と、言祝ぎの言葉をもって答えた。
真宗は人々に酒を振る舞い、崇文院に出て雪を眺め、瑞雪の詩を作った。重臣達はそれを朗誦し、皇帝に和して詩を書いた。
夜に入って、皇帝は王旦だけを奥に呼んだ。
「今日は佳き日であった。天の瑞祥とはまことこのようであるか」
皇帝はことほか上機嫌だった。
「太平の極みにございます」
王旦はそう応じた。
皇帝は最高の酒を出し、王旦と盃を交わした。
「佳き日にはこの佳き酒が似合う。そなたの家の者達にも分けてやるがいい」
真宗は、黄金の瓶に入った尊酒を王旦に下賜した。
王旦が持ち帰って開くと、瓶の中身は酒でなく、おびただしい数の珠だった。
皇帝が己に何を期待しているのか、王旦はじっと思案した。
真宗と王欽若が何を計画していたのか、人々に分かるようになったのは、翌年の一月三日だった。それまでは、丁謂と皇帝の周りの宦官だけが、何かあるらしいとうすうす感じ取っていただけだった。
丁謂は、唐の玄宗皇帝の御世と今とを比べて、どちらが豊かであるかと皇帝に尋ねられた。丁謂はさまざまな数字を並べ、「間もなく追い越せましょう」と答えた。
宦官はいくつかの仕事を言い渡された。宮殿内に道場を設けたり、巻物を書いたり、輿を作ったり、普段にはないことを命じられたが、それらが何のためであるかは聞かされなかった。
十一月十七日の夜半、真宗が眠っていると、にわかに周囲が明るくなった。
真宗の寝殿は青絁の帟幕で厚く囲まれ、夜が暮れて燭が消されると、中は真暗で何も見えない。眠っている真宗の瞼を通して光が皇帝の目に入った。
皇帝は起き上がった。
すぐ傍らに異貌の人が立っていた。星冠絳袍を身に着けた神人だった。
神人は言った。
「来月三日、正殿に黄籙の道場を建てよ。ひと月して、天書大中祥符三篇が降るであろう。ゆめゆめこの天機を泄してはならぬ」
皇帝が立って問いかける前に、神人は姿を消した。
皇帝は、寝殿の外に控える従者を呼び、いまあったことを記録させた。他言は禁じた。
十二月一日より皇帝は密かに蔬食斎戒を始めた。
教えの通りに三日に朝元殿に道場を建て、采壇九級を結び、木を彫って輿を作り、金宝で飾った。
毎日、人目を忍んで道場に詣でて祈り、神人の言葉が真実となるのを待った。
年が明けて一月三日。
皇城司が急な知らせを持って宮中の奥へと走った。皇帝は左右の者を遠ざけ、皇城司の知らせを聞いた。
左承天門の聳え立つ屋根の南東、鴟吻より黄帛が長くたなびいていると、皇城司は言った。皇帝は驚き、宦官を呼び寄せ、人に知られぬよう左承天門まで行って見てくるよう命じた。
宦官が目を凝らして見上げると、新春の陽を浴びてきらめく屋根の上に、確かにひらひらと動く黄色い布のようなものがあった。鴟吻、すなわち鬼瓦から長さ二丈余りであろうか、軟らかな風に動く黄帛には、その根元に書巻のようなものが緘られていると見えた。よくよく見ると、青縷が書巻を三周し、封じられたところに文字らしきものがあった。
宦官は奥に戻ると、見てきたままを報告した。
真宗は直ちに、王旦以下、主だった者を崇政殿に呼び集めた。
ここで初めて十一月十七日以来のことを人に語った。
「朕はつらつら思うに、鴟吻にあるというものは、先に神人が言っていた天書なのではあるまいか」
崇政殿は静まり返った。
遠い太古の昔の河書洛図は誰もが知っている。しかし、今の世に、天から書が降るものなのか。
「皆はどう思うか」
皇帝の言葉に応じる者は誰もいなかった。
王旦はわずかに顔を上げ、皇帝の表情を覗った。奥に強い意志が漲っているように見えた。王旦は皇帝と目が合わぬようにすぐに下に視線を落とし、一考した。
黄金の瓶の尊酒が思い起こされた。
王旦はそっと顧みた。斜め後ろに王欽若がいた。王欽若はわずかにうなずいた。
王旦は自分ほどではないが察しの良い男だと、王欽若は考えている。王旦の一言によって、ここに居並ぶ全員が心を一つにする、その重要な瀬戸際であると分かっているはずだ。
王旦は王欽若から目を逸らせ、己の膝を見てさらに一考し、唇を強く結び、皇帝に深く一礼した。
「陛下は至誠をもって天地に仕え、仁孝をもって祖宗に奉じ、慎ましくも人を愛され、日夜、治を求めておられます。民が互いに和し、吏が職に励み、干戈おさまり、年穀いよいよ豊かでありますのは、みな陛下が兢兢業業として日に謹み日に致されておられる故でございます。臣が聞くところ、天道は遠からず、必ず昭かな報いがあると。されば、神人が先に期を告げ、霊文が果たして降りますこと、実に陛下の徳を彰するもの、その他のものであろうはずがございません」
途中から王旦の声はやや上ずったが、さすがにただで宰相をしているわけではないと、王欽若はその背中に微笑を送った。
王旦が言葉を結ぶと、崇政殿内は一時の静寂が支配し、人々はお互いに左右を見、ここで何をすればいいのかを探りあった。もちろんそれはただ一つしかない。
万歳を一斉に唱えた。
人々の声が静まるのを待って、真宗は厳かに言った。
「朕の不徳は朕がよく知る。今、宰相が申したようなことはまこと思いもよらぬ。朕には天の戒めこそがふさわしい」
王旦は深く頭を下げる。
王欽若はもう安心して王旦の背を眺めていられる。すでに一歩を踏み出したのだ。ここで躊躇することはあり得ない。
「誰の目にも徴は明かでございます」
王旦は、王欽若の期待する通りを言った。
「いや、天の機は人には知れぬものである。もしも天書が降されたのなら、そこには朕への戒めの言葉が記されているであろう。見れば直ちにわかることだ。誰か取って参るがいい」
「ここはひとまず人々を下がらせ、お上御一人が、天書の封を開かれるのがよろしいかと存じます。天機はみだりに漏らさぬがよろしいものでございますから」
王欽若には王旦の心が透けて見えた。このまままっしぐらに事が進んでしまうのを、王旦は食い止められないかと、一拍、間をあけようとしたのだ。自分自身ですでに戻れぬところへと踏み出していながら、どうしようというのか。
皇帝は答えた。
「天書がいかなるものであるのか、そこにいかなることが記されているのか。人々とともにこそ見るべきであろう。もしも天書が偽物であるのなら、それは朕の不徳のいたすところ。もしも真の天書であって、朕の欠けたところを叱るものあるのならば、朕は天に対し詫び、民に謝らねばならない。いずれにしても、事は衆人の前に明らかにすべきである」
王旦は微かにうめいた。
「そのどちらでもありますまい。天書であるならば佳きことでなかろうはずがありません。佳きことはすぐに千里に知れますもの。今は人を遠ざけ、天書を御心静かに御覧になるのがよかろうかと」
「恐らく、そうではあるまい。しかし、もしもそうであるのならば、朕はますます身を修めるべきであって、これもまた人々の前に隠すべきでない」
王旦には皇帝の賢明さを褒め称える以外のすべは残っていなかった。
「よろしい。ならば、ここ崇政殿で待つまでもあるまい。皆の者と、直ちに見に行こうではないか」
皇帝は人々の先頭に立って左承天門へと歩んだ。
門の前に壇を設け、香を焚き、遥か上の鴟吻を拝した。
周懐政、皇甫継明という二人の宦官を屋根に登らせた。二人は鴟吻の前で三度礼をし、一人が黄帛を、一人が根元にある巻物を手にした。頭上高くに掲げ、屋根の上を後ろ向きに退き、門を下り、王旦のもとへと届けた。
王旦は天書の前にひざまづいた。宦官は立って天書を王旦に授けた。王旦は両手で受け、両膝をついたまま皇帝の前へと進み出た。皇帝も天書の前にひざまづき、王旦が両手を挙げて掲げる天書を再拝し、深く礼をしたまま受け取り、恭しく立ち上がって数歩歩み、かねて用意の輿に載せた。
王旦の先導で、輿の上の天書を奉じて、皇帝以下、朝元殿の道場へと入った。
輿は祭壇に置かれ、皇帝がその正面に座した。陳堯叟が脇より進み出て、天書の封を啓いた。封には二十一文字があった。
「趙受命、興于宋、付于 、居其器、守于正、世七百、九九定」
要は宋の王朝が永久に続くということ。
天書を開くと、中は黄色の文字で記されていた。黄とは最も神聖な色である。
陳堯叟は朗々と読み上げた。その文章は、尚書洪範や老子道徳経に似て、古体の趣があった。帝が至孝至道をもって世を紹いたことを誉め、次に、清浄簡倹をもって諭し、終わりに世祚延水の意を述べた。朗読が終わると、天書は金匱におさめられ、王旦以下百官が祝賀した。
興奮と困惑が混在していた。このような事が起こるものなのか。人々は戸惑った。しかし、皇帝、宰相以下、朝廷の重臣が全て居並んで行われたことである。宋という国の中心で、最も優れた人々が行ったことである。それが、真実のものでなければ何が真実なのか。
王旦はなおそう思い切ることができず、散会した後、中書省の一室で一人黙考を続けた。自分がしたことを恥ねばならぬのか、まだ事は元に戻せるのか、さまざまな思いに乱れた。そこへ、今夜は天書を守って道場に泊まるようにと、皇帝からの命令が届いた。
刻限になり、灯の揺れる中を王旦は道場に詣でた。壇の前に香を炊く人の影があった。皇帝だった。王旦は皇帝の後ろに歩み寄り、静かに座し、それから平伏した。
しばらくして皇帝は立った。王旦の肩に手を置き、言った。
「頼んだぞ」
王旦は一段と姿勢を低くした。
皇帝は衣擦れの音を残して道場を去った。
翌日、群臣は崇政殿で吉事を賀し、皇帝は宴を賜った。出されたのはつつましやかな蔬食であった。
翌日も同様の儀式があった。
その次の日は大赦、改元が行われた。新しい元号は大中祥符。神人が告げた天書の名である。大中とは大いなる中央のもの、すなわち天下を治める唯一の王である。祥符は吉祥の記された符。これ以上にこの時にふさわしい元号はない。
王欽若は着々と準備を進めた。
三月、泰山のある袞州より父老千二百八十七人が都に到着した。皆、新しい衣服に着替え、呂良という者を先頭にして門をくぐり、宮城内へと通って行った。
「封禅をなされますよう」
人々は皇帝に乞い願った。
皇帝は、特別に崇道殿に人々を招き入れ、親しく酒食を与え、遠くからの旅をねぎらった。
「封禅は大いなる事、軽々しく議するわけにはいかぬ」
そう言って人々の願いを退けた。
その五日後、袞州ならびに諸路の進士、八百四十人が宮殿に集まった。ただの民衆から、科挙に合格した者へと格が上がったわけだ。八百四十人は奥に通され、やはり封禅をと願い出た。同じように酒食を賜ったものの、申し出を皇帝は受けなかった。
次は高位大官となるのが段取りというものだが、王欽若はここで己の技量を示そうと、皇帝を驚かせた。
三日後、封禅を願い出た三度目の人々は、途方もない人数であった。夜明け前から東上閤門の前に整然と並び始めたのは、宰相王旦以下、文武百官、諸軍の将校、州県の官吏、蕃夷、僧道、耆寿、つまりありとあらゆる階層を代表する者達、二万四千三百七十人であった。王旦が封禅を願う上奏文を捧げ持ち、皇帝の前に進み出た。二万四千三百七十人が一斉に地に伏して三拝した。王旦は上奏文を読み上げた。二万四千三百七十人がもう一度三拝した。王旦は上奏文を持って皇帝の膝元へ進み、これを受けてくれるよう願った。皇帝は宰相以下の人々をいたわりながらも、上奏文を受け取ろうとはせず、封禅の願いを退けた。王旦は静々と元に下がった。
しかし、宰相の上奏を受け入れてもらえなければ、その上はないのである。王旦は再び進み出て、切に願った。二万四千三百七十人が三拝した。それでも皇帝は、己の不徳を理由に、頑として受け取ろうとしなかった。三度目も同じ、四度目も同じだった。早朝から始まった同じ繰り返しに、時はすでに昼となった。皇帝は四度断り、ついに五度目、
「天の明かな奇瑞、民の切なる願望を、これ以上拒むのは、かえって天地に背き、民を失望させることになろうか」
上奏文は受け取ったものの、なお封禅を行うとは言明しなかった。
四月一日、大内の功徳閣に再び天書が降った。
その三日後、真宗はついに本年十月に封禅を行うとの詔を発した。
封禅は国家の大事業である。大礼を行う五使の職は、国家の大官を充てるべきであるとの皇帝の意を受け、大礼使は王旦、礼儀使は王欽若、儀仗使は馮拯、 簿使は陳堯叟、橋道頓遞使は趙安仁が任命された。これより宋の朝廷の仕事はただ封禅一つとなった。
四月、天書を納めるため昭応宮を作るよう真宗が命じた。天書が降るなどかつてなかったことである。それを納めるのであるから、昭応宮は都にある全ての建物の遥かに凌ぐ壮麗なものであるべきだ。
真宗は昭応宮の建設の可否を、一応は大臣達に議論させた。皇帝としてもやや気の引けるところがあった。封禅という一大事業をすると決めたばかり、その準備が始まろうとしている中で、さらに大土木事業を興すというのである。皇帝の一存でというわけにはいかないだろう。王旦は、せめて封禅が終わるまで待ってほしいと思った。王旦はいつもの流儀で意見をすぐには言わずにいたが、封禅と合わせて巨額の出費となるのを危惧する意見は多かった。朝廷の良識ある人々にとって、せめてここは抵抗したい所だった。
皇帝は丁渭を呼んだ。
「国庫は今いかなる状況になっているのか」
皇帝の問いに、丁渭は胸を張って答えた。
「十分の余裕がございます」
「十分とは、昭応宮を建ててもという意味か」
「もちろんでございます」
丁謂の言葉に真宗はうなずいた。
丁謂は自分よりも上位にある人々をぐるっと見回した。
「皆様、どうかお考えくださいませ。天下の富を有しておられる陛下が、たった一つのお宮をお建てになるだけなのです。しかもそこは、上帝を奉じ、皇嗣の永遠に続くをお祈りになる所でございます。お上の朝廷に名を連ねておられる皆様でございます、よもや、お上のお気持ちを阻もうとされているなどと、私は思いたくありません」
事は決まった。
王欽若が予想していた通りの段取りであったが、見事に運び過ぎて、少し不安にもなった。丁渭は国庫を握っている。その強みを見せ付けられたような気がした。封禅も昭応宮の建設も、王欽若が考えたことだ。真宗を偉大な皇帝にし、偉大さを全ての民に見せ、後世にも残すためである。そのためには膨大な出費が必要である。丁渭がいなければその出費を支えることは不可能である。かつて税の取立てを仕事としていた王欽若にはよくわかっていた。宋の国庫は、普通に考えれば、封禅の一事でも支えるのは厳しい。丁謂が事も無げに大丈夫と言うのには、成算があるからだ。そういった丁謂の手腕を買って、王欽若は丁謂と誼を通じた。
しかし、もしかすると丁謂に先を越されてしまうのではという不安が急にもたげて来た。王欽若は、寇準が去った後を受けて、軍事面をほぼ掌握した。平和な時代に軍を権力の基盤とするのはやや心許ない。国庫を握る丁謂の方が有利のようだ。皇帝に無私で仕える点では誰にも引けを取らない。真宗を真に偉大な皇帝にするための道を、今や歩み出したばかりである。余計な心配は取り越し苦労というものだろう。王欽若はさらなる次の手を考えた。
五月、王欽若は厳かに奏上した。
「泰山に霊妙な酒が地より湧き出し、錫山に蒼い竜が現れました。これはまぎれもなく、封禅が行われるのを天が嘉する瑞祥でありましょう」
これより、各地から瑞祥の報告が続々と届くようになった。その数は日々に増え、記録するのが追いつかないほどとなった。地方の官僚は、隣の県に瑞祥があるのに自分の県にないのは、自分が政務を怠っていると証左であると叱責されるのを恐れ、競って報告に精を出した。国の隅々にまでありとあらゆる瑞祥が溢れ、およそ考えられない珍奇な祥獣が発見された。
封禅が行われる前に、数多の瑞祥があるのはごく当然のことである。瑞祥、瑞祥と人々が狂奔するのを見て、人心を動かすのはこうもたやすいのかと、王欽若は意外に感じたが、もちろん、瑞祥は人々が偽り作ったものでない。天が降そうとするものを、人が手伝うのであって、それは天が為したのと何ら変わらない。私を消し、天に則って為すのは、天がそれを為したのと同じである。
そのように考える王欽若は、皇帝の言はまさに天の言であると、受け止めた。
「あれは夢であったか、確かにこの目で見たか、我が寝殿に再び神人の姿があり、来月上旬に、泰山に天書が降るであろうと、言った。天機は漏らすべからず、決して他言してはならぬ」
皇帝にそう言われた王欽若は、日数を計って、恭しくも奏上した。
「六月甲午の日、先ごろ湧き出た醴泉のほとりで亭を建築中の折しも、木工の董祥なる者、屋根の上より北方、泰山を眺めやるならば、遥か林の木の上に、黄色い布のようなものがはためくのが見え、目を凝らすに、何やら文字のようなものがあり、ただ董祥は字を識らず、不思議と思うままに皇城使の王居正に報告しました。王居正は人々を連れて山を登り、木の上に人を登らせ、取らせて見ると、恐れ多くもそこには御名が記され、王居正はただちにそれを畳んで人の目に触れぬようにし、麓へと下りました。本日、急使が到着し、王居正が間もなく天書を奉じて都に到着するとのことでございます」
真宗は驚き、先月の夢を初めて人々に告げた。
「まさに、それこそ夢と符合するものである。朕の名がそこにあることこそ、大いなる不思議。朕が書いたのでなければいったい誰が書いたのか。天の他にあるまい」
皇帝の本名、趙恒の文字を皇帝以外の者は記すことができない。皇帝の本名をあからさまに記すのはこの上ない不敬、死罪に値する。宋にどれだけ多くの人間がいても、趙恒と書いていいのは真宗一人だけである。だから、木の上にかかっていた黄色の布に趙恒と書かれていたなら、それは真宗が書いたのでなければ、天が記したとしか考えられない。王居正が慌てて畳んだのも、趙恒の文字を見ぬためだ。
王旦は衛使を連れて皇城を出て、天書を奉迎した。
真宗は含芳園の正殿に百官を連ねて天書を迎え、再拝して受け取ると、陳堯叟に授けて朗読させた。
皇帝は天書を手に取り、百官に示した。黒々と文字が記され、とりわけ授趙恒の三文字に、人々の目は眩んだ。
人々が天書を三拝する間に、近習が皇帝に向かって、
「さきほど、苑中に五色の雲が立ち、天書を読むに従って、黄雲が鳳駐殿の上へと昇って行きました」
と、報告した。
皇帝は、醴泉より酌みとった酒を百官に賜った。極めて濃厚な美酒であった。
九月、真宗は崇徳殿において天地を祭る儀式を念入りに練習した。
二百七十年ぶりの封禅である。それをいかに行うのが正しいのか、唐代の史料が徹底的に調べられた。詳細は秘事とされて、不明のところもあったが、唐の故事にできる限りならって封禅の詳細が定められた。真宗は逐一吟味し、十九の疑問が残るとして、さらに研究を深めさせた。
天を祭るため、泰山山頂に設けられる円形の壇、すなわち圜壇は径五丈、高さ九尺とされた。圜壇の東南に設けられる燎壇は、高さ一丈二尺、一辺一丈の方形である。それらと同じものが崇徳殿に造られた。皇帝はそこで儀式の練習を何度も行った。
「帝王が練習をしたとの記録はございません」
唐代の故事を調べた礼官は、そのように皇帝に具奏した。
「天への恭謙の意を示すのに労を厭うてどうするのか」
真宗は己を最高の皇帝にしてくれる儀式を完璧に行うため、練習に励んだ。
十月。
真宗は都を発った。天書を先頭に奉じ、泰山に向かった。
翔鑾駅において、天書より神光が立つ奇瑞が現れた。皇帝は、乾封県奉高宮に車駕を止め、香を焚いて神光に感謝を捧げた。
占城、大食など西方の諸国より、この慶事を祝うための使者が、道に待って皇帝を迎えた。
「これは私どもの五代の祖が、西天の屈長者より得たものであります。これこそは、中国に聖君が現われ、封禅の礼が行われる時を待って献じるために、私どもの手に入ったものにございます。今こうして、馳せ参じ、陛下に献じられますこと、これに優る喜びはありません」
大食の使者は、そのように述べて長さ一尺二寸の玉圭を献じた。
真宗の偉大さは遥か異国にまで轟きわたった。
真宗は、都を出るに先立ち、契丹に特使を派遣した。特使は国境で契丹の大臣と会い、このたび都より大行列が東に向かうが、これは軍事行動ではないから驚かぬように、そして、世に稀な封禅ではあるが、貴国の皇帝にわざわざお越しいただくには及ばないと、皇帝の言葉を伝えた。契丹の人々は、宋の配慮に感謝すると応えたが、真宗が秘かに期待していた契丹からの高官の派遣はなかった。
都を発って十七日、皇帝は泰山の麓に到着し、奉高宮に入った。
皇帝は、このたびの封禅が民にとって負担にならぬよう、土木事業を控えよとの詔をしばしば出した。都から泰山への道は大々的に整備され、奉高宮の建物群もまた短い期間に築かれた。
泰山で採れたと称する霊妙な紫芝草三万八千本が、美しい絹に包まれ、真宗の前に並べられた。献じたのは王欽若である。穆清殿の大広間に、紫芝草の香りが充満した。
ここは王欽若の見せ場であった。
王旦が儀礼使の名目上の最高責任者であったが、実際上は王欽若が取り仕切って来た。すでに、宋は他国と異なり、天書の降る、天に通じる国であることを国の外に示し得た。我が朝の威光赫々たること唐の時代に並び、城下の盟の恥辱は完全に拭い去られた。封禅が行われれば、真宗は大皇帝の仲間入りを果たす。国中はその時を前にして喜びに湧いている。ここに至る全てを王欽若が用意したのである。
明日の朝には、泰山山頂に五色の雲がかかる瑞祥が現れることになっている。唐代にも、皇帝が泰山に登った前日に、山頂に五色の雲がかかった。封禅にはなくてはならぬことである。その瑞祥を皇帝に告げるのは王旦の役割だ。それより、封禅が終わるまで、王旦が皇帝の脇につく。国家の最高の儀礼である。宰相が補佐するのが当然である。明日から王欽若は一歩引くが、今日の紫芝草の献上は王欽若が主役である。
皇帝は草の香りの中で、満足気な笑みを浮かべている。
王旦が宰相でいられるのもこの儀式が終わるまでだろう、王欽若はそう考える。封禅に関して王旦が自ら積極的に関わったことは何一つとしてない。役割として担わされてしまったことを、内なる心を抑えてこなして来ただけだ。心の底ではこうしたことに疑念を持ち続けている。心ならずも引き摺られて苦しげである。
儀式が終わったならば、王旦は宰相から解放されるだろう。王旦はそれで安堵するはずだ。王旦が天書を本当は信じていないのは、皇帝も分かっている。皇帝に十全に信頼されていない者は宰相の座を去るべきだ。王旦が、本心とは裏腹な行動を取っているのは不誠実だ。そんな者がいつまでも宰相でいるべきでない。だから、王旦にとって、封禅で皇帝を補佐するのは、最後の花道のようなものだ。せいぜい張り切って行うがよく、手助けもしてやろうと、王欽若は考える。
ここまで来れば、次に己が宰相になるのは確実であるから、気持ちにも余裕が生じるというものだ。
翌朝、王欽若は美々しく着飾り、時が来るのを一人静かに待っていた。
夜が明けたばかりの室内は暗い。王欽若は目を閉じ、ここまでの一年を思う。皇帝と周到に計画し、一切の遺漏なくここまで来た。
二度に渡って降った天書は誰が書いたのか。趙恒の文字は誰が記したのか。王欽若は知っている。文案は確かに王欽若が考え、黄色い布に向かってはある人物が筆を走らせた。それを確かに王欽若は見守っていたのだが、それら全ては人が為したのではない。天が為したのである。聖人が民に天の道を示すとはこのようである。己が聖人であるとは言わぬが、事の本質はこうである。
もし、人が為し、そこに天の意志がなかったならばこのような大事業は成し遂げられない。九分通りまですこぶる順調であるのは、このたびの封禅を成し遂げようとする天の意志があることの明かな証左である。人が思い立った最初から、天の意志が働いていたのである。すなわち、王欽若が天に代わって思考したのであろう。己より私を去った無私となったから、天に等しくなれたのだ。天書も瑞祥も、誰か人が用意したものだろう。天下は挙ってあれも瑞祥、これも瑞祥と報告をした。どれほどの作為があってもいい。全て天が為すことなのである。
この朝は、泰山に五色の雲がかかることになっている。昨夜から雨音が続いているが、それは何ら妨げになるものでない。封禅に向けては、定められた通りに事が運ぶだけである。天がそれを好しとしているのであるから、間違いはない。
背後に気配がある。人が入って来た。従者が呼びに来たのではあるまい。皇帝の元へと向かうにはまだ早い。王欽若は目を開き、ゆっくりと振り返る。
薄暗い広間の向こうに人影がある。静かな衣擦れの音とともに姿を見せた男、そこに、幾分か左に傾き揺れる様子を見出し、王欽若は立ち上がる。
両手を前に、王欽若は会釈する。近付く男の顔を、薄暗い中でも、上目遣いにすばやく読み取る。床に視線を落とす相手は、王欽若にさぐられていることに気づかない。
背の低い王欽若はますます腰を低くして、その前を通り抜けて男は上座につく。男が何も言わないでいるのを、王欽若はゆったりと呼吸して待つ。
「どうぞお掛けください」
頃合いを見て王欽若は言う。
宰相の王旦である。王欽若よりも五歳年長の王旦はこのとき五十二歳。地位も王旦が上で席を譲るのは当然だ。このとき王欽若には王旦に対し鷹揚に構える余裕があった。
「いや、ゆっくりはしておられぬからな」
王旦は腰を降ろそうとしない。しかし、そう言った後も、しばらく無言である。
王旦の目が右に左に不規則に動く。朝廷における以前の落ち着き払った様子とこのごろはどこか違っている。特に、都を出てからはいっそうおかしい。
「いかがなされました」
王欽若は、間を見てまた声を掛ける。
王旦ははっと気付いたように、
「このような時に、そなたの邪魔をするのもどうかとは思ったのだが」
朝廷での重々しい言い方と異なり、あわてたような言い方だ。
「私は時の至るを待つばかり。格別何をするということもございません。私のような者でも、何か御用がございますのなら、何なりとおっしゃってください」
昨夜も眠れなかったのか、王旦の眼の下に黒ずんだ隈がある。封禅は王旦の気に染まぬことだ。心に反して無理をするから、こうなる。ここにまで来ていながら肝の据わらぬ男である。蔑むよりは憐れにさえなる。
もしも、本当に封禅を快く思わぬのなら、皇帝を諫めればいい。今までに何度でもその機会はあっただろう。それが受け入れられず、人と同調できぬのなら、朝廷から去ればいい。そうはせずに、相変わらず宰相の地位にありながら、いよいよ封禅の当日を直前に控え、このように憔悴した様子を見せる。宰相としての力量もないのに重責を負わされてしまったから、このようなことになる。可哀想なことだ。ただそれもあとわずか。間もなく己が代わって宰相になる。今少しの間だけ辛抱していればいいのだ。
「いや、何ということではない」
王旦はここで王欽若の顔を見た。わずかに笑みを浮かべようとして顔が奇妙に歪む。王欽若は軽く頭を下げる。
「ただ気になることがあり、あるいは、そなたも、もしや心配しておられるのではないかと、それでやって来てみただけなのだ」
「それがしへのお気遣いまことに痛み入ります。しかし、私は時の至るを待つだけ。何らの心配もございません」
王欽若は両手を前に組んで深く頭を下げる。
「ならばよい。ならばよいのだが、それでも、そなたも、もしや外の様子を気にしておられるのではないかと」
「はあ」
王欽若は息を吐き出すように応じる。思った通り雨のことか、詰まらぬことを気にする男だ。王欽若はますます王旦を憐れむ。
「で、どうなのか」
「何がでございましょう」
王欽若はじっと王旦の目を見る。
「外が」
王旦は低くつぶやく。
王欽若はゆっくりと微笑む。
「外？ 外は、まことに、まことに麗しい天候にございます。今日の佳き日に最も似つかわしく、この上もない上天気にございます」
王旦は天井を見上げる。
「まことにそうであるのか」
「そうでないことがございましょうか」
王旦はゆっくり視線と落とし、目を閉じて言う。
「お上を騙しているのか」
王旦は脇の王欽若にも聞こえぬくらいの声でつぶやく。
「誰の目にも、今日の上天気は明らかでありましょう。泰山山頂でこれより起こる事を待つばかりであるのですから」
「天に恥ぬか」
今度は聞こえるように言う。
「もしそのようなことがあれば、封禅は悪天候に阻まれましょう」
王欽若はきっぱりと言い切る。
王旦は天井をまた見上げる。外は雨である。
「確かに、そうであろう」
「むろん、ですからこの好天に恵まれたのでございます」
「そうに違いなのか」
王欽若はうなずく。
「間もなく刻限でございます」
「そうであるな」
「では、御安心なされて、お上の元へお越しなさいませ」
王欽若は腕を回し、部屋の出口を示す。
「わかった。そなたの言う通りである。天に恥じる事はせぬ」
王旦は歩み始め、王欽若の前に来て、足を止める。
「そなたが頼りである」
王旦が王欽若にそのようなことを言ったのは初めだった。王旦は何を言ったのか。
ここで助けてくれれば、宰相を譲るという意味か。王欽若はそう理解した。王旦は己の小さなこだわりから、宰相の地位を投げたのだ。
「泰山山頂に五色の雲がかかっております」
王旦の声に、穆清殿の奥で昨日より斎に入っていた皇帝はうなずく。
皇帝は長い回廊を進む。王旦、王欽若が後ろに続く。地に静かに雨が注がれる。
この日のために穆清殿の背に築かれた高殿へと、回廊は通じる。楽が奏せられ、皇帝は階段を登る。
最上階に立ち、すぐ後ろに控える王旦、王欽若にだけ聞こえる小さな声で、皇帝は尋ねる。
「泰山はいずれだ」
王旦は隣の王欽若の顔を見る。王欽若はさっと袖を振るい、南の軒の先を示す。
「あれなる奇しき山にございます」
皇帝は朱塗りの柱の間を歩み、欄干に身を寄せる。軒より滴が落ち、垂れ込めた雲、降り続く雨の他に、高殿より見えるものはない。
「あれであるか」
皇帝は言う。
「まことに」
王欽若が応じる。
「みごとな山であるな」
皇帝の身体に雨が降りかかる。
王旦は身をかがめ、わずかに前へと進み出る。そのとき、王旦がふうっと大きく息を吐くのが、王欽若の耳に達する。王旦は一歩だけ進んで、膝が床に落ちかけ、止まってしまう。
「さあ。宰相殿」
王欽若がささやく。
王旦は手の甲で額を拭う。
皇帝は雨に濡れるのも一切気にかけず、欄干の外へと身を乗り出し、虚空を見続けている。
王旦はもう一歩進み出る。
高殿の周りに儀仗兵が立ち並ぶ。その外側を、この地に住む民衆が囲んでいる。雨の中、早朝から皇帝のお出ましを待っていた。これらの人々には、泰山にかかる五色の雲を、皇帝とともに見る幸運を、皇帝の格別の恩顧によって与えられたのである。
軒より吊るされた幕が風にぱたぱたと揺れる。
王旦は咳払いをする。
「まこと麗しい今朝の天気」
王旦の声は震えている。
左天承門の天書以来、主だった吉祥のほとんど全てを宰相王旦が皇帝に報告した。今朝もその役は王旦である。王旦も宰相としての己のやむを得ぬ役回りとしてこなしてきた。
今朝はこの雨、泰山の姿さえも見えない。儀仗兵、村の人々、ここには数知れぬ目があり、数知れぬ耳がある。宰相が何をしているのか、何を言うのか、人々の前に明らかとなる。
皇帝は無上に尊い存在である。このたびの封禅がどこかいかがわしく、民衆にいくばくかの疑いの心があるとすれば、それは誰かが皇帝を騙しているのではないかということである。皇帝が嘘を演じ天下を騙したりはしない。皇帝も天下も騙されているとすれば、誰が騙しているのか。雨が降っていながら、麗しい天気という宰相に違いない。
王旦は己の置かれたそうした立場を知っていてか、激しく咳き込む。
しかし、ここまで来てやめることはできない。
王旦は懸命に声を出す。
「美しくも泰山山頂には」
喉がかすれ、言葉がつながらない。
王欽若はここで代わろうかと考える。王旦より一切をここで引き継ぐ。むろん宰相の地位もである。
時に一陣の風が起こる。幕が激しく動く。
真宗の顔に雨が降り注ぎ、衣が大きくふくらむ。天より一条の光がさす。大きく腕を広げ、皇帝は雨の彼方の天を見上げる。
雲が割れる。なお降り続く灰色の雨の向こう、突如として、鮮やかな青が浮かび出る。雲が左右の二手に分かれ、聳え立つ泰山。その山頂に紅い輝きがある。
王旦は両手を挙げる。
「ああ、まさしく五色の雲。これぞ、まごうことのない奇瑞にございます」
王旦の声は激しく震える。
「うむ」
皇帝はうなずく。
「万歳」
民衆の声が沸き立つ。
王欽若は五色の雲を見る。天の意によって封禅が行われるのである。今朝ここに五色の雲が出ることに何ら疑いはない。これぞ正しい瑞祥である。
王欽若は王旦の背を見る。
運のいい男だ。
そう思った瞬間に、王旦に大事なものを横取りされた気になった。一瞬早くに代わってやればよかったのだ。天書を信じぬ男にすっかり取られてしまった。
王欽若は五色の雲を見上げつつ、王旦に敗れたと感じた。
三
王欽若がこのとき味わった敗北感と落胆は、あたかもそれからの歳月を暗示するかの如くであった。
封禅から九年、天禧元（一〇一七）年九月、王旦は六十一歳で死んだ。その時まで王旦はずっと宰相であり続けた。宰相であること十一年、執政になってから十八年、王旦は常に真宗朝廷の要の存在であった。
死んだ年の五月、王旦は病気のため宰相を罷めさせてほしいと皇帝に願い出た。皇帝は許さず、王旦は宰相の職に留まった。病に伏せて、朝廷に出ることはなかった。
七月、王旦は宰相の職から退けてほしいともう一度皇帝に願い出た。皇帝は滋福殿に王旦を呼び寄せた。人の助けを借りてかろうじて殿上にあがった王旦の姿は、想像して以上に痩せ衰えていた。皇帝は顔を曇らせた。
「朕は国の大事をこれからも卿に託そうと思っていたが、卿の病がこのようであっては、どうしたらよいのか」
皇帝は深く嘆息した。
それは真実の言葉であった。王旦がいなければ宋の朝廷はもたないと真宗は考えていた。泰山に五色の雲がかかった朝より、王旦への信頼は一度たりとも揺らぐことはなかった。王旦のいない朝廷は考えられなかった。
皇帝は皇子を呼んだ。
「この宰相があって宋があることを、よく記憶しておくがいい」
皇帝は皇子に王旦を拝するよう命じた。皇子は八歳、後宮の李氏の生んだ子である。
王旦は病み疲れた目で、己の前に進み出て来た皇子を認め、不自由な身体で下がろうとした。皇子はそれを追い、深く拝した。
これをもって王旦は宰相の職を解かれた。
代わって八月、王欽若が宰相を拝命した。
それまでに、真宗は、何度となく、
「王欽若を宰相にしてはどうだろうか」
と、王旦に尋ねていた。王旦はそのたびに、
「王欽若が陛下の御世に遭っての恩礼は、すでに十分に受けております」
と、決して賛同しなかった。
宰相拝命の知らせを受けて、王欽若は家人に向かって言った。
「王旦のために、宰相となるのが十年遅れた」
封禅からの九年間は長く平坦でなかった。
泰山に五色の雲がかかった朝に、「そなたが頼りである」と王旦に言われて以来、王欽若は、王旦に対し粗略な態度をとることは一度もなかった。王欽若は、それは己の義理堅さから来るものだと考えた。己は信義を守っているのに、王旦は何らの報いを返して来ないどころか、蔭で皇帝に問われれば己を謗っていると、恨んでいた。互いに誹謗し合うのが当たり前の世の中に、そんなことでいちいち怒ったり恨んだりせず、己は恬淡と生きるだけだと、王欽若は自分に言い聞かせていた。実際には、王旦に恭しく接することが王欽若にとって最も有利であったのだ。
はからずも泰山に五色の雲が実際にかかったために、宰相王旦の地位は不動のものとなった。真宗が王旦を信頼すること絶大であった。王旦の補佐によって封禅は立派に為され、その後の宗教的行事の全てを最高責任者の立場で王旦は成功させた。王旦は本来、天書を苦々しく思っていたのだから、封禅が終われば、宰相は己に代わるはずだと王欽若は期待していた。周到な準備を重ね、天書という離れ業まで使って実現させた封禅であったのに、その果実を王旦に横取りされて、王欽若は切歯扼腕した。真宗が日に日に王旦を厚く遇するのを見れば、かつて寇準を失脚させた舌鋒をここで振るうのは間違っていると思わざるを得なかった。王旦は身を慎み、ことさらに取り出すべき落ち度はなかった。天書はまやかしものであり、封禅は民に負担を強い国を疲弊させるものだと、秘かに批判する人々も、王旦ばかりは敬い続けるのを見れば、ここで王旦を追い落とそうとするのは、無茶であることぐらいは王欽若によくわかった。王旦がいなくなれば、王欽若が矢面に立たねばならない。己の利のために当面は宰相王旦のもとで実直らしく勤めているのがよかった。自然と王欽若は王旦に押さえつけられてしまった。
王旦は死に際して、息子に言った。
「李沆は真に聖人であった」
先輩李沆の予言で当らぬものはなかった。李沆の教えのままに宰相を勤めて来たはずなのに、なぜか肝心の時に流されてしまった。王旦には大きな悔いが残った。
「他に何も過ちというものはない。ただ、天書を諫めれらなかったのは我が一つの、贖うことのできぬ過ちである。人並みに死ぬのは許されまい。死んで後、剃髪し、袈裟をかけてから、葬ってくれ」
王旦はそう言って息をひきとった。
左承天門の鴟吻に黄色い布が翻るという子どもじみた事件に端を発したことで、宋は国の姿を根底から変えた。王欽若の最初の思い付きはおよそ馬鹿げたものでしかない。皇帝の寝所に神人が現われて予言し、ついで宮中の屋根に天書が降る。こんなことで世の中を騙せるとは普通は思いもしないものだ。しかし、皇帝の言は何よりも重い。神人に会ったと皇帝がまことしやかに語れば、誰一人としてあからさまに疑いの言をはさむことができない。しかも、人臣として最高の地位にある宰相が、壮大な茶番劇の先頭に立てば、宰相に遅れまいと、他の人々は天書を崇め皇帝を讃える競争に馳せ参じる。信じようが信じまいが、奇瑞だ奇瑞だと大騒ぎをすることにためらう必要はない。皆がやっていることに背を向けるには勇気がいる。せいぜい遠まわしに乱費を憂うくらい。それでも、上から蹴落とされ、下から足を引っ張られ、官界の急坂をころげ落ちて行く恐怖がある。
かくて、天下を挙げて、虚妄な宗教行事に向かって、怒涛にように流れ、封禅は実行された。もとがいくらまやかしものであっても、巨費を投じ、皇帝から高位高官、地方官の全てが参加して賑々しく儀式がなされれば、そこに自ずと実体が備わる。民衆を畏怖させ、皇帝の権威は高まり、真宗は大いなる達成感に浸った。真宗は王欽若が用意したからくりで、一気に偉大な皇帝への道を登り、伯父や父を超え、漢の武帝、唐の玄宗と並んだ。王欽若の狙った通りの大成功を封禅はおさめた。しかし、その結果は、王欽若の思惑を超えるものとなった。
泰山に五色の雲がかかったその次の日、泰山一帯は強風に襲われた。とりわけ山頂は大荒れで、式場に張り巡らされた帟幕は風によって切り裂かれた。夜に入ってなお強まるばかり。翌日に控えた皇帝の登山はどうなろうかと人々は気をもんだ。夜明けとともにぴたりと風はおさまり、皇帝が山門に達したとき、からりと晴れ上がった麗しい天候となった。天がこの行事を望んでいることのこれ以上に明らなしるしはなかった。
参道に、黄麾仗衛士、親従卒が二歩に一人ずつ立ち並び、その間を、皇帝の乗る輦が登った。険峻な場にさしかかると、輦を担ぐ人々の苦を思い、皇帝は降りて徒歩で登った。人々が長い山道に倦み疲れる中、皇帝ばかりは意気ますます壮、顔を輝かせ、山頂まで休みを取らずに登り切った。天を祭る封の儀は、練習の甲斐があったのだろう、滞りなくみごとに行われた。山上山下の人々が一斉に万歳を唱え、それがために泰山の山谷は大きく揺れ動いた。真宗は生まれてこのかたこれほどの高揚感を味わったことはなかった。高位高官も、無位無官も、人々は尋常でない興奮を共有し合った。皇帝の威光がかくも輝かしいものであるのを、民衆は、宋の建国以来初めて知った。
次いで、社首山で地を祭る禅の儀が行われた。このときも、前の夜は悪天候であったのが、儀式の始まる時刻に合わせて、風が止んで麗らかに晴れ上がった。四方より献上された珍禽奇獣が放たれ、太陽が二重に見え、五色の雲が天に浮かんだ。
封禅を終え、往還四十七日にして皇帝が都に帰ると、皇帝の徳を讃える献賀が全土より数限りなく寄せられた。絵画もあれば詩文もあり、宝玉もあれば珍奇な生き物もあった。国中でこれも瑞祥、あれも瑞祥と大騒ぎになり、国の上下を問わずあらゆる階層の人々が逆上せ上がった。その様子は、後の史書に、国を挙げて狂うがごとしと記された。仕掛けた王欽若にしても、こうなるとまでは思ってもいなかった。
封禅は大皇帝だけに許される大事業である。今回は二百七十年ぶりのこと。史書に特筆され、真宗の偉大さは永遠に書き継がれ、偉大な皇帝の下で宰相となって、王欽若の名も不滅のものとなる、それが王欽若の見通しだった。天書が降るという実に怪しげなことをあからさまに行ったのは王欽若の独創だった。
国中が一気に加熱したのは、もとが嘘であったからかも知れない。熱に浮かされでもしなければ、たちまち虚偽に気付かざるを得ない。人々はそうならぬのを自ら求めるかのように、異様に熱狂した。しかし、突如としての熱狂は、急速に冷めてしまうと恐れるべきである。用意周到であったはずの王欽若もその先までは考えていなかった。まずは、封禅を実現することで精一杯だった。それはそれで当然であろう。
真宗は、泰山において、これまでにない高揚感を味わっただけに、これがたちまちに凋んでしまうのを非常に恐れた。嘘で固めた儀式に悪酔いしていたと皆が気付いたならば、たちまち皇帝の権威は失墜する。真宗は、自身より以上の昂まりを求め、人々を熱狂させ続けようとした。
宋は虚構の宗教帝国へと変貌すべく邁進した。真宗が偉大な皇帝である故に、それ以外の道を歩むをことはできなかった。天の命を受けて国土を治める唯一絶対の存在が皇帝であるという考えは、中国の王朝の全てに通じるものである。その意味で、どの王朝も宗教国家であったと言え、統治の道具として祭事は必要であり、天を祭り地を祭るのは皇帝の重大な任務であった。真宗の宋は、祭事を行うことが唯一無二の国家が存在する目的となった。国の姿が逆立ちしたのである。
こうした転換点が自分の宋には必要であると、真っ先に感じとったのは真宗だった。次いで王旦も知った。封禅によってこれまでにない高みに達した皇帝の権威をそのまま保つためである。真宗は積極的に、王旦は消極的という違いはあったにしても、真宗にとって王旦はなくてはならない宰相であった。
さすがに王欽若である。当初の予想を超えたとは言え、皇帝の意図をすばやく汲み取り、王旦が宰相でなければならない意味もよく了解した。宋を新しい国にするための珍奇な策をあれこれと捻り出した。
天書が宮中に降った日を天慶節、天書が泰山に降った日を天貺節として毎年祝うことにした。封禅の興奮を忘れさせぬためである。天書を納めるために皇城内に建てることが決まっていた昭応宮を玉清昭応宮と名を改め、一層壮麗なものとし、さらに全土に遍く天慶観を建てて天書を祭ることにした。これだけではまだまだ不十分と王欽若は感じた。次なる手を打ち続けねば時はもたぬのだ。
大中祥符三（一〇一〇）年七月、文武官、将校、耆艾、道釈三万余人が整然と皇居の中へ導き入れられた。三年前と同じ光景が再現された。人々は広場にひざまづいて宮殿を拝礼し、皇帝のお出ましを乞うた。汾陰の地において后土をお祭り下さいと願った。后土とは土地の神であり、漢の武帝が封禅の前に、汾陰で后土を祭っていた。皇帝は、例によって、己の不徳を挙げて民衆の願いを退けた。三度上表が繰り返されて後、皇帝は人々の切なる願いの強さに折れ、来年の春に汾陰に行くと詔を下した。
真宗はそれなりに聡明で、国家財政に無頓着だったわけではない。数多の道観を全土で建設する中で、汾陰に出向いての儀式を行えるかどうか、国庫の状況を気にかけた。丁謂は何ら問題はないと皇帝に答えた。
「大唐の盛時に、江淮より長安に運ばれた米は四十万、いま我が開封に至るのは五百余万、しかも年々それは増えております」
「国のこの隆盛は天地宗廟の賜物である。誠意を篭めて天地宗廟を祭ればこそ、瑞祥が降り、国は殷賑を極める。国にこれだけの蓄えがあるのは、まことにそなたのおかげである」
皇帝はそのように丁謂の働きを褒めた。
丁謂は、皇帝が望むだけの出費を用意した。通常の租税収入では足りない。民衆の負担は重くならざるを得ない。この当時の地方官は、瑞祥の多さ、租税収入の多さを競い合った。五鬼の一人に数えられた林特は、おびただしい数の奇瑞を発明し、民衆を震え上がらせる苛斂追求ぶりで頭角を現し、丁謂の右腕となった。
この時期に宋が疲弊せずにすんだのは、契丹との和平によって宋が経済発展期に入っていたことが大きい。税を厳しくしても、経済はそれを上回る成長をした。儀礼や土木事業は、租税が民へと還流していく仕組みともなって、宋の経済はそれなりにうまく回った。宋は政治面、経済面の両者において、宗教儀礼消費国家に変わったのだった。
汾陰で后土を祭るまでの日々に、瑞祥は数知れず、天書を奉じて皇帝が都を発った際には、太陽の上に黄気が匹素のごとく現われ、五色の雲が蓋のように皇帝一行を覆った。
二度目の巨大な儀式も成功した。それは終わってしまうと、王欽若の立場は微妙なものとならざるを得なかった。新たな宗教儀礼を発明し、成功させるまでの間が王欽若の腕の見せ所である。終われば活躍の場が失せ、無理をした歪みが残る。宗教儀礼には金がかかる。宗教儀礼が増えれば増えるほど、財政に関わる部門の人間が国家の中枢において重要な位置を占めて行く。丁謂および、林特を初めとして丁謂の息のかかった連中が朝廷で羽振りを利かすようになった。宰相を罷免されて地方に出されていた寇準も、かつて目をかけてやったことのある丁謂に伝を求めて、都への復帰を画策するほどだった。
宰相の筆頭は依然として王旦だ。儀礼にうつつを抜かす皇帝のもとに、王欽若のような皇帝の側近、丁謂のような国庫を握る連中、そして心ある若手官僚たち、それらをどうにか一つに束ねていられたのは、王旦がいればこそだった。王旦は宋の要である。皇帝は、朝廷の重要な人事について常に王旦に相談した。王旦は、祖法を変えぬことを大原則として人を選び、沈着冷静で重みのある人物を推薦した。そうした連中が朝廷に居並んでこそ宋朝が成り立つことを聡明な皇帝はわかっていた。王旦は、王欽若や丁謂は軽佻浮薄と見ていたが、この二人がいるからこそ皇帝の願望の叶えられていると知っていた。王旦は、皇帝と衝突しない範囲内で己の意志を通し、皇帝が望むのであれば、己の信念に反することでも口出ししようとはしなかった。それで、王旦は真宗の信頼を死ぬまで保つことができたのである。
丁謂は能吏だっただけではない。機知に富んだ会話で人を魅了し、詩の名手として皇帝を初めとする宮廷の人々の賞賛をほしいままにした。丁謂を好みのままに使えれば、これほど気持ちのいい臣下はいない。かつて寇準は丁謂に大いに目をかけたし、皇帝は何かというと丁謂を呼んだ。李沆は丁謂の人となりを軽んじ決して重く用いようとせず、それを受け継いで王旦も丁謂をあまり評価していなかったが、皇帝の寵愛を受ける者をあえて排斥しようとはしなかった。
王欽若は丁謂と手に手を取り合って、封禅という大事業を成し遂げたわけだが、己が手にすべきものを、丁謂が横取りしようとしていると、次第に強く感じるようになっていた。王旦からもらい受けるのを失敗し、その上、後から来た者に盗まれてしまう。丁謂に怒りを覚えるようになった。封禅にしても玉清昭応宮の建立にしても、全て考え出したのは己であって、己ほど皇帝のために働いている者はいない、丁謂は全てが己の手柄であるかのような顔をし、皇帝も頻繁に丁謂と相談している。丁謂は金集めのうまさで出世し、その袖にしがみついて一緒に上に昇ろうとする多くの者を周囲に集めている。取り巻き連中に囲まれて丁謂は得意満面だ。本来は逆の立場であるべきなのに、己のまわりにほとんど人がいないのは丁謂のせいであると、王欽若は恨みに思った。今は下手に出ている丁謂だが、いつ仲間を使って王欽若を罠に落とすか知れたものでない。理不尽にも己が疎外されてしまうのは、いまに始まったことでない。幾度となくそうした目に遭うのは、持って生まれた才の大きさが小人どもと合わぬからであろう。そう考えても、後から来た者に抜かされかねない焦燥感に王欽若の心はじりじりと焼け焦げた。
幸いにも、一つの幸運が用意されていた。
ある日、真宗は何げなく王欽若に尋ねた。
「いまの大臣の中で最も人格者であるのは誰か」
ここで皇帝は王旦の名が挙がると期待したのだろうか。あるいは丁謂か。それとも、王欽若が歯に衣着せぬ舌鋒で人々をこき下ろすとでも思ったのか。何を意図したのかは別として、王欽若はそれを、一瞬にして己に幸運を引き寄せる機会へと変えた。
「趙安仁殿でありましょう」
王欽若は間髪置かずに答えた。
真宗はぎょっとした顔をし、王欽若を睨んだ。
「どういう根拠があって、そんなことを言うのか」
皇帝の声には怒気が含まれていた。
王欽若は静かに、ゆっくりと答えた。
「趙安仁ほど恩義を重んじる者はいまの朝廷におりません。趙安仁はかつて沈倫によって認められ、世に名が知られるようになりました。沈倫が亡くなって何年も経った今もその旧徳を決して忘れることなく、常にその恩に報いようとしておられます。すばらしいことではありませんか」
王欽若が趙安仁の名を挙げたのには理由があった。
先に皇后が死んでより、その後に誰が皇后になるのかしばらく定まらないままになっていた。皇帝と朝廷の主だった者との間で思惑が大きく隔たったためである。
真宗は劉氏を皇后にしたいとかねてより考えていた。かつて真宗が皇太子であった時代に、真宗は劉氏を激しく愛した。真宗はとかく思い込みの強い人で、並みの愛し方ではすまず、周囲から健康を損ねていると訝しがられるほどに劉氏の肉体を愛した。劉氏は元は娼婦であったと噂のある女で、皇太子の乳母達が父皇帝に訴え、劉氏は皇太子邸から放逐された。真宗は劉氏を外に匿い、こっそり通い続け、父皇帝が死んで自身が皇帝になると、劉氏を後宮に呼んだ。このような苦労をかけた女を、皇后にしてやりたいとの思いを真宗は強く抱いていた。
しかし、群臣の抵抗は思いの他に激しかった。宰相の王旦も口には出さないが反対であることは分かっていた。劉氏の明らかに出来ない素性が何よりも問題だった。真宗も、封禅を行うような聖天子の皇后に、元は娼婦である女がふさわしいかは疑問に感じないわけでもなかった。しかし、それ以上に劉氏を愛する気持ちが強く、偉大な皇帝の意志が、臣下の反対で阻まれることに我慢できぬ思いがあった。反対の急先鋒は、執政の一人である趙安仁だった。
「劉氏は賤しい出、天下の母になるべきでない」
非常に直裁なものの言い方に、皇帝も劉氏も趙安仁への嫌悪の情を募らせた。しかし、反駁すれば、氏素性を洗われて劉氏が余計に傷付きかねない。そんなことで、皇后問題は君臣間で膠着状態にあった。
趙安仁はかつての宰相であった沈倫の孫娘を皇后にふさわしいとして強く押していた。それは一般的に言えば文句のない話である。
王欽若の言葉に、真宗は怒った。
「危うく朕は騙されるところだった」
王欽若は深くうなずき、しかし、
「いえ、趙安仁は恩義を忘れぬ人格者でございます」
と、言った。
「朕の恩は忘れることを除けばな」
「陛下の御明察には及びもつきません」
王欽若は平伏した。
「いや、そなたこそ、真実をよく見る目を持っている。朕の心を知るのは、やはり、そなただけだ」
真宗は趙安仁の罷免を決意した。しかし、執政の罷免は重大事である。
真宗は王旦に内々に相談した。王旦は趙安仁を辞めさせる理由は何もないと、珍しく皇帝の意向に反する意見を述べた。皇帝は、ここでは結局、我を通した。王旦の意見を聞き入れず、趙安仁を罷免させた上に、代わって、王欽若を執政に任命した。
真宗はここで決して退かぬ己の意志を示し、王欽若は皇帝が己に何を期待しているのかを的確に掴んだ。
二ヶ月後の大中祥符五（一〇一二）年十月二十四日、延恩殿に九天司命上卿保生天尊が降った。真宗の遥かな祖先、趙氏の始祖である。
この日、延恩殿の道場において皇帝は夜中より天尊が降り来るのを待った。それより八日前に神人の予告があったからだ。六年前に寝殿に現われたのと同じ神人だった。天帝である玉皇の言葉を皇帝に伝えた。
「吾は汝の祖である趙某に命じ、汝に二度の天書を授けさせた。今度は趙某自身が降るであろう。汝は唐の皇帝が玄元皇帝に奉じたのと同じにするがよい」
その翌日も神人は現われた。今度は、天尊の言葉を伝えた。
「吾は西に座すであろう。斜めに六位を設けて待つがよい」
皇帝は言われた通りにした。
天の真上が白み始めるころ、俄かに殿中に妙なる香りが満ち溢れた。少しくして、東南より黄光が至り、燈燭の火を圧した。光の中に、霊仙の儀仗兵が現れ、雲に乗る天尊がその中央に姿を見せ、真宗は再拝し、階を下った。黄色い霧が地より湧いてあたりを埋め、たちまちにしてそれが消えると、道場の内に天尊と六人の者が座に就いた。従者は東の階に居並んだ。
皇帝は殿中に昇り天尊を再拝し、六人に対しても同じことをしようとすると、天尊はそれを止め、揖するだけにさせた。
天尊は榻を設けさせ、皇帝を召して座らせ、碧玉湯を飲ませた。甘く乳のように白かった。
天尊は言った。
「吾は人皇九人の一人である。趙氏の始祖である。再び降って軒轅皇帝となった。世に軒轅皇帝は少典の子と云うがそれは誤りである。母が電に感じ天人を夢見て寿丘に生んだのである。後に後唐の時に至って、七月一日に天より降り、下方を総治し、趙氏の族を主とせよと命じ、今すでにそれより百年となった。汝皇帝、よく蒼生を撫育し、前志を怠るでない」
天尊は坐を離れ、雲に乗り東の空へと去った。
曙に及ぶころ、皇帝は近臣の者を呼び集め、延恩殿へと連れ、天尊がつい今しがたまでいた坐を示し、そこであったことを物語った。
翌日、大赦、減税が行われ、退職した官員に一年分の俸給を与え、幕職州県の官を五百人増員した。
皇帝は、天尊を崇奉する儀制を定めさせ、崇政殿で群臣の賀を受け、万歳殿で宗室諸親の宴を設けた。宗廟、社稷に、天尊の降臨があったことを告げる使者を派遣した。
七月一日を先天節、十月二十四日を降聖節とし、先に定めた天慶節、天貺節と同じく、毎年の祝いを行い、官員に五日の休みを与えることとした。
天下の州、府、軍、監の全てにはすでに天書を祭る天慶観が建てられていたが、その隣に天尊、すなわち皇帝の聖なる祖先を祭る聖祖殿を建てるよう命じた。
聖祖の母にはそれを祭る宮殿がないことから、寿丘に景霊宮、太極観を建て、聖祖とともに祭ることとした。寿丘のある曲阜県は名を仙源県と改められた。
聖祖を奉じる儀式のために新たな音楽、新たな舞が作られた。
皇城にも聖祖を祭る宮殿が建てられることとなり、星を見てその場所を選び、錫慶院を大々的に修建して景霊殿とすることが決まった。
こうして、天尊降臨に伴う慶事が連日続き、それに関する詔が矢継ぎ早に出されるなか、人々の虚を衝くかのようにして、劉氏を皇后に立てる詔が出された。その日、王旦は病で宮中にはおらず、趙安仁が罷免された記憶はまだ生々しく、かつ祝い事に幻惑され、異を唱える者は一人もなかった。
王欽若が思い描いた通りに、真宗は長年の思いを遂げることができた。
こうなればもう宰相は間近だと王欽若は思った。
このとき宰相は王旦と向敏中の二人。向敏中は王旦以上に控えめな人間で、専ら王旦を補佐するだけだ。執政は、王欽若、陳堯叟、馬知節、丁謂の四人。陳堯叟はかつて成都に逃げることを進言した男で、それなりに弁は立つが、強い者に靡く男、たいていは王欽若の言いなり、怖いことは何もない。馬知節と丁謂の二人は少々用心がいる。
馬知節は軍人の息子。早世した父の後を継いで、十八歳で彭州の兵を指揮し、その厳格さは老将のようだと、衆兵を怖れ憚からせた。朝廷における振る舞いはかつて勢いのあったころの寇準に似るところがあり、激しい気性をそのまま外に出すのは、このごろの朝廷では珍しい存在だった。王欽若は、いずれそれが馬知節の命取りになるだろうと考えていた。
対照的に丁謂は物腰が実に柔らかであった。他の宰相、執政の言うところ全てに頷き、一見、これほど従順な人間はいないかのようであった。当意即妙の会話で人を楽しませることを心得、皇帝も丁謂が口を開くと相好を崩した。しかし、王欽若の見るところ、これはなかなかに危険な人物である。丁謂は宋の財政を完全に手中に納め、地方官から中央の高官に至るまで恐るべき閥を形成しつつある。ここまでのところ、王欽若は丁謂と良好な関係を保っている。丁謂がいないと王欽若が考え出す様々な宗教的事業は何一つとして動かないから、王欽若は丁謂に特に礼を尽くしている。しかし、丁謂に横取りされてはならない。皇后の冊立で、丁謂を引き離しはしたが、情勢は厳しいものがあるかも知れないと王欽若は警戒心を強めた。せっかく間近まで来たのだ、横取りは絶対にさせない。
それでも、王欽若は出し抜かれた。翌大中祥符六（一〇一三）年七月、亳州の父老、道釈、挙人三千余人が突如として皇居の門前に現われた。人々は内に招ぜられると、亳州の太清宮へぜひお参りくださいと皇帝に願った。太清は道家の重んじる三清の一つ、亳州の太清宮には、太上老君、すなわち老子に比せられる道教の最高の神の宝冊が秘蔵されている。唐の玄宗皇帝は老子を遥かな祖先と考え、太上老君を尊崇し、様々な儀礼を行った。玄宗皇帝以来の封禅を行った真宗が、太清宮を訪れるというのはなかなかに結構なことである。后土を祭ってから二年半、真宗はそろそろまた都を出て、盛大な儀式をやりたくなっていた。亳州から人々が来るとは前もって聞かされていなかったから、非常に驚き、かつ喜びもした。
皇帝は三千余人を目を細めて眺めやり、わざわざ都まで来た労を厚くいたわった。しかし、行幸は民の負担になるからと、その願いを聞き入れなかった。それはいつもの決まり事だ。王旦以下、文武の群臣が亳州太清宮への参詣を請い願い、再三の上奏もだしがたく、八月、皇帝は、来年春に太清宮に謁するとの詔を出した。これもいつもの段取りであったが、今までと決定的に違っていたのは、王欽若がそこに全く関わっていないことだった。むろん、王旦等はまた王欽若の企みと考えたのだが、王欽若は寝耳に水で仰天した。誰が仕組んだのか容易にわからなかった。建前通りに亳州の民衆が自発的に上京したのならそれほど目出度い話はないのだが、宮中の誰かが裏にいないはずはなかった。丁謂が最も怪しいと感じたが、丁謂はそんな素振りを一切見せなかった。
丁謂は奉祀経度制置使に任命され、準備のために亳州に赴き、その帰り、三万七千本の霊芝を持ち帰って皇帝に献じた。
十二月、皇帝に従って宰相および執政以下の高官が揃って亳州に出てしまう間に、都を預かる東京留守の役目が、寇準に与えられた。これも王欽若を仰天させた。かつて追い払った相手が都に帰って来るのである。誰が手引きしたのか。これも丁謂が最も疑わしかった。
大中祥符七（一〇一四）年一月、皇帝は天書を奉じて都を出発した。王旦が奉祀大礼使、向敏中が儀仗使、王欽若が礼儀使、陳堯叟が鹵簿使、丁謂が橋道頓遞使である。道々、数々の奇瑞に恵まれて亳州に到着。丁謂は白鹿一頭、霊芝九万五千本を献上した。丁謂は努めて無表情を装っていたが、その振る舞いは自信に溢れていた。
儀式は無事に済み、都に帰った後、三月に含元殿で祝賀の大宴会が開かれた。丁謂には皇帝より特別のお褒めの言葉があった。真宗の喜びに満ちた顔、丁謂の落ち着き払った様子、それを見る王欽若の胸には、かつて寇準を見送る皇帝の顔を見たときに感じたのと同じく、焦げるような熱さがあった。しかも、その寇準も同じ含元殿の内にいるのだった。
王欽若は焦った。丁謂に完全に横取りされてしまう。丁謂は寇準と手を組んでいる。これほど危険なことはない。
二人を忌むのは嫉妬からではない。そこが小人と違うところだと、王欽若は考える。二人が皇帝にとって害になる人間だからだ。今のところ丁謂は皇帝の役に立っているが、国庫を握り、どれだけ私腹を肥やしているか知れたものでない。寇準がかつてのように周囲を威服させ、その蔭で丁謂が思いのままに振る舞えば、宋の富はすっかり丁謂のところに行ってしまう。それは断じてあってはならない。丁謂はただの金庫番に留めておくべきである。そのためには、国政の重要な決定に、丁謂が口を挟めないようして行くしかない。
王欽若は挽回をはかり、一つの工夫をした。王欽若の強みは皇帝との距離の近さである。他の君臣の間柄を超えた親しさがある。もっとも王欽若にはそれしかないとも言える。天書は皇帝と王欽若がこしらえた。そうしたからくりは二人だけの秘密である。
王欽若は、他の大臣達が皇帝と一対一で話せる機会を持てなくなるよう、巧妙に操作した。宦官達を手なずければ造作ないことだった。皇帝が大臣を呼ぶときには、宦官は王欽若の元に走り、他の大臣が皇帝に会おうとすれば、宦官は様々な理由で皇帝は今は都合が悪いと阻んだ。皇帝に奏上する文章を持って奥に行き、皇帝の意向を聞くのは、常に王欽若の役となった。王欽若は数通の奏上を懐に入れて皇帝の前に出て、一つ一つ開いて読み上げ、皇帝に裁可を仰いだ。
「後は、好きに任せる」
二つか三つ、上奏状を聞くと、皇帝は倦んで、たいていそのように言った。
次第に、王欽若は、一二の詰まらぬ上奏文だけを読み上げ、後はそのまま皇帝に知らせることなく御前を下がり、皇帝の意向であるとして、王欽若の胸から出たことを宰相、執政に告げた。いちいち細かなことで皇帝を煩わせるには及ばないし、最も高い見識のある己が決めることに間違いはないとの自信があった。
王欽若はこうして他の連中を押え付け、宰相になる足固めをしているつもりであったが、やり方が少々露骨過ぎた。あるとき、いつものように王欽若が奏上し、一二について皇帝の判断を仰ぎ終わると、それで退出しようとした。そこに馬知節がいきなり入ってきた。
王欽若の懐を指し、
「そこにあるものをなぜ出し尽くさないのか」
馬知節の怒声が轟いた。
王欽若は落ち着き払って、懐中から書を全て出し、皇帝の前に差し出した。
「それはよい。朕は全部それを読み終わっている」
皇帝はそう言って、王欽若に微笑みかけた。
王欽若の専決はいっそうひどくなった。馬知節は剛直一点張り、王欽若とことごとく対立するようになった。
皇帝はふと思い立って中書省を訪れた。言い争う声が部屋の外に漏れ聞こえた。皇帝は宦官に命じ、戸を少し広く開けさせた。王欽若と馬知節が怒鳴りあっていた。甲高い王欽若の声はきいきいと天井を擦るよう、太く低い馬知節の声はゆさゆさと壁を揺するようだった。ある将軍の行賞をいかにするかで揉めていた。二人の執政が剥きにならねばならない大事ではない。一向に止む気配はなく、罵り声は激しさを増した。皇帝は他の大臣達はどうしているのかと訝しく、部屋に足を踏み入れた。
皇帝が姿を見せれば、二人は静かになるはずだった。王欽若も馬知節も、ちらりと皇帝の姿を認めた。皇帝の前では余計に負けられぬと思ったか、声を一段と大きく張り上げた。
王旦と向敏中の二人の宰相、陳堯叟、丁謂の二人の執政は、床に膝を付き、皇帝の前に首を垂れ、止めようとはしなかった。
「何のざまだ」
皇帝はつぶやいた。
王欽若と馬知節は、もう当の将軍のことなどそっちのけ、互いに相手の欠点をあげつらう罵り合いとなっていた。
「やめよ」
皇帝はうなるように言った。
二人は皇帝の顔をちらりと見た。ここで先に黙れば、皇帝の前で己の非を認めることになるとでも思ったのか、一向に矛先をおさめようとしなかった。もとより馬知節は大声で相手を黙らせるのが己の本領であると心得ていたし、王欽若は皇帝の心を掴んでいるのは己であるとの強い自負があったから、いっそう激するばかりだった。
「やめよ」
皇帝はもう一度言った。
まるでそれが合図になったかのようだった。馬知節と王欽若は同時に立ち上がり、互いに手を出した。陳堯叟がさすがに驚いて割って中に入ろうとした。馬知節は邪魔立てする陳堯叟の胸を衝いた。陳堯叟はよろけ、広げる王欽若の腕の中に入った。王欽若は陳堯叟を跳ね除けた。陳堯叟は皇帝の足元にころげた。
王欽若が罵声を発した。馬知節は唾を吐いた。王欽若は汚れた袖に目をやると、馬知節の頬を打とうとした。馬知節は身体を引いた。王欽若の腕は空を切った。馬知節は王欽若の腕をとらえ、ねじりあげようとした。王欽若は肩から馬知節に当たっていった。馬知節の腕を払い除け、もう一度、殴りかかった。馬知節が首をひょいと引いた。王欽若の手が冠に当たった。冠は宙を飛び、皇帝の膝に当たった。
「狼藉者」
皇帝はうなるように言った。
王旦と向敏中が立って二人を制止した。
「見るがいい」
王旦は皇帝の足元に落ちた冠を指差した。
王欽若と馬知節はすぐに平伏した。
「見苦しい。朕の宮廷にこのような者はいらぬ」
皇帝はそう吐き捨て、荒々しく出て行った。
まさしくその通りであった。真宗は並みの皇帝ではない。封禅を行った史上数少ない聖天子なのである。その大臣にこれがふさわしい行為であるとは到底言えなかった。
王欽若、陳堯叟、馬知節の三人は、即日、執政の職をはずされた。王欽若と陳堯叟は都に残れたものの、馬知節は地方に出された。
皇帝はその処分を発表する前に王欽若を内に呼び入れた。
「そなた一人を許したのでは、そなたが困るであろう。しばらくの間、辛抱するがいい」
そう言う皇帝に王欽若は深く頭を下げ、感謝を述べた。
聖天子の前であってはならない不始末である。罰せられて当然と、王欽若も考えた。こうなったのは馬知節のせいではあるが、皇帝の言う通り、馬知節一人が罰を受けたのでは、事情を知らぬ人々は納得せず、王欽若自身が返って傷付くことになる。ここは潔く罰を受けるのがよい。
しかし、ようやく、宰相まであと一歩と迫っていながら、ここで後退するのは残念である。己のために残念なのではなく、皇帝にため、国のために残念なのである。皇帝は歴史に比類のない聖天子のよりいっそうの高みへと昇り、宋が繁栄を極めるときが至ったというのに、そこで最も必要とされる己がこうなってしまうのは、どうにもならない損失である。自分が去った後の朝廷が心配でならない。そうなった原因を作った馬知節こそ民衆は憎むべきであろう。
素直に罷免の命を受けたが、その直後に、恐るべき知らせを王欽若は聞いた。王欽若が罷免された代わりに新たに執政に任命されたは寇準であった。
寇準を推したのは丁謂かと、王欽若は最初は思ったが、しばらくして真相が知れた。寇準を皇帝に強く推したのは王旦だった。
王欽若は憤った。泰山に五色の雲がかかった朝から王旦には慇懃に仕えて来たではないか。それなのに、執政から滑り落ちたことへの当て付けか、よりによって寇準をその後に据えるとは、どういうつもりなのか。
かつて寇準が宰相であったとき、寇準は王旦を軽んじ、丁謂の方を高く評価していた。なのになぜ王旦は寇準を推したのか。孤注の一語に怒って寇準を罷免させた皇帝が、今度はどうして再び用いる気になったのか。王欽若にとってそれはなかなかに不可解であった。
真宗は封禅を行って偉大な皇帝になって六年。偉大な皇帝にふさわしい重みのある大臣を欲した。王旦は立派である。気品がある。穏やかな風貌、落ち着いた話しぶり、悠揚とした立ち振る舞い、長者の趣がある。寇準も立派である。寇準には風格がある。堂々たる体躯、張りのある声、人を自ずと威圧する所作、かつて宰相であったころの寇準を思い出せば、あのような者が今の自分の朝廷に不足していると真宗には思えた。かつて、寇準は孤注として皇帝を使ったかも知れないが、今や真宗は父を超えた大皇帝である。今度は寇準を意のままに使ってやろう。真宗はそこに魅力を感じた。
王旦は寇準を強く推薦し、寇準の良いところを無数に挙げた。かつて寇準が宰相であったとき、寇準は、王旦の短所を数多く挙げ、到底宰相になる器ではないと言っていた。真宗はそれをよく記憶し、王旦も知らぬことではなかった。なのに王旦は寇準を誉めるばかりである。真宗は王旦を信頼する気持ちをいよいよ強めて、寇準を執政にした。
六月、寇準が帰って来た。
百官が皇帝の前に居並んだとき、寇準の大きな身体が王旦のすぐ脇、皇帝のごく間近にあった。そこはついこの前まで王欽若のいた場所だった。王欽若は今は遥か遠く末席でそれを見ているである。
寇準の眼中には王欽若などまるでなかった。皇帝が下がり、散会となると、大股で歩く寇準の足音があたりに響いた。王欽若は脇に寄って道を譲った。両手を前に掲げて会釈する王欽若の前を、寇準は誰もいないかのように通り過ぎた。寇準の巨体が起こした風が王欽若の冠より垂れる紐の先を揺らした。王欽若は唇を噛み、眼に涙がにじんだ。
十月、七年の歳月を要して玉清昭応宮が完成した。
最初に真宗が造営を命じたとき、少なくとも十五年はかかると言われた。丁謂は夜に昼を継いで急がせ、半分以下の歳月で終わらせた。玉清昭応宮は巨大な建物で、中は二千六百十に区切られ、全てに華麗な装飾が施された。丁謂は、一つの壁を、二本の蝋燭が燃える時間の内に仕上げさせた。
皇帝は落成なった玉清昭応宮を見てまわり、集禧殿に近臣を集めて宴会を開いた。王欽若も末席に連なった。丁謂の得意の顔が皇帝の間近にあった。
王欽若は激しい焦燥感に克つために、再び宰相への道に情念を燃やした。そうしなければ、腹の内の熱さで身が爛れてしまいそうだったからだ。国のため、皇帝のために、己を埋もれさせてはならない。
これより、王欽若、寇準、丁謂、の三つ巴の争いとなった。それは熾烈を極めたものだったが、この当時、誰が宰相、執政になろうとも、宋にはさして変化の起こりようがなかった。天書事件に始まり、宋は宗教儀礼国家として完成された一つの姿に近づきつつあった。国の外の情勢も比較的落ち着いた。いかに奇妙なものであっても、宋は己の論理によって動いていればいいのだった。王欽若が新しい宋の姿の元を作ったのであるが、完成してしまえば、王欽若がいなければ困るということは特段残っていなかった。
当時の民衆にとって人気があったのは、豪放磊落な寇準だった。契丹の南下の際に怯える真宗を引っ張り出し、敵の大軍に対して真っ向から受け出たことは、赤子でも知り、寇準と言えば、右に並ぶ者のない大英雄と思われていた。その寇準の朝廷復帰は当然のことながら民衆に歓迎された。
機知に富み、詩文の名手である丁謂は宮廷でなかなかの人気者だった。恰幅がよくて恐ろしげな寇準と違い、細面で涼しげな眼差しの丁謂は、後宮の女性達の間でよく噂の種となった。当時、梅詢、孫何、盛度、丁謂の四人は清貴と並び評され、梅詢の衣服からは常に竜麝の香がし、孫何の衣服は逆に垢にまみれ、盛度は馬に跨ると身体がこぼれ落ちそうなくらい太り、丁謂は木を鉈で刻んだかのように精悍な顔付きであったから、「梅香、孫臭、盛太、丁痩」と言い習わされた。しかし、民衆の間では嫌われ者だった。厳しい税の取り立てをする役人どのも大元締め、恐るべき鬼だった。
王欽若は小柄で貧相だった。後宮の女達にとっても、民衆の間でも、王欽若はどうでもいい存在だった。皇帝の近くでただちょろちょろして機嫌を取り、天書のような見え透いた嘘で、皇帝と民衆を騙そうとする愚かな鬼でしかなかった。
寇準、それに王欽若と大喧嘩した馬知節は、武闘派の最後の生き残りだった。宋が国家統一を目指して全土に割拠していた地方政権と戦い、北方の契丹と戦っていたころには、数々の名将がいた。契丹軍の大軍と対峙したのが、武闘派の最後の華やかな舞台だった。馬知節もこのときに大いに気を吐いた。数十万の兵を擁しながら臆病風に吹かれて動こうとしない大将軍王超を叱咤して前進させ、橋がないから河を渡れぬと、なおぐずぐずする王超の目の前で、一晩のうちに橋を架けるという離れ業をやってのけた。
寇準も馬知節も生まれるのが遅かった。今は、丁謂たち能吏の時代だ。宗教儀礼国家は多額の出費をしてこそ成り立つ。国運営の鍵は金である。丁謂達こそが朝廷の主流で、武闘派が本領を発揮する余地はない。王欽若はまた違う独自の道で、これは王欽若一人だけ、派閥を成すようなものではない。だから、丁謂に勝とうというのは土台無理なのだったが、丁謂にしても洋々たる未来があったわけではない。珍妙な宗教儀礼国家は真宗一代限りより長く続くものでない。その先には何が来るのか。先を見越していたのは王旦だった。科挙を合格した秀才たちが続々と朝廷に集まり、科挙に受からねば高位高官にはなれない時代になっていた。王旦も寇準も王欽若も丁謂も全員が科挙に合格している。王旦と他の三人が違うのは、学問が科挙を通るためのものか否かという点にあった。王旦は学問は人格を作るものであると考えた。学問によって高潔な人格を形成した者は、自ずと科挙に合格し、皇帝と民のために、身を捨てて働くようになるのである。王旦の先輩の李沆は夙にそのあるべき一つの姿を指し示していた。王旦自身は、李沆に遠く及ばぬが、その理想を次に伝えるのが己の役割と心得ていた。期待は若い秀才達である。王旦は、寇準を呼んで朝廷の雰囲気を一新させ、丁謂を抑え、次代の若者達の成長を待とうとした。その筆頭は王曽であると見ていた。
寇準は王旦の期待に応えられなかった。執政の地位を一年と保てず、大中祥符八（一〇一五）年四月、罷免された。
寇準は、中央政界復帰に当たっては丁謂を頼りにしたこともあったから、丁謂には一応、一目置いていたが、心の底では能吏連中を小馬鹿にしていた。林特を毛嫌いした。林特が得々として数字を並べて財政について報告する声を聞くと吐き気がした。寇準には理解できないことであった。国はそんな数字で動くものでない。こんな奴は戦場に連れて行ったら、怖さに小便を漏らすに違いないと、白眼視した。
林特には悪い噂が多かった。林特は苛烈な税の取り立てでのし上がった人間で、有力者は手を緩めてもらうために林特に賄賂を贈った。寇準は信憑性のあるいくつかの情報を得ると、皇帝の前で林特を激しく責めた。
林特は一切抗弁しなかった。丁謂が抑えたのだった。
寇準が一人わめいた。
「見苦しい」
真宗はつぶやいた。
寇準はそれでも怒鳴り続けた。
真宗は立ち上がり、退席した。
真宗が寇準に求めたのは、粛然たる空気を朝廷にもたらすことだった。寇準が黙って睨めば皆が黙る。そういうことを期待したのに、寇準が真っ先に怒鳴り散らすのではお話にならない。聖天子のもとこのような朝廷であっていいはずがない。
王旦は真宗の後を追った。
「寇準こそは次の宰相、国家を支える器として、私は寇準に遠く及びません」
寇準を懸命に庇った。
しかし、馬知節と同じだった。寇準はまた都の外に出されてしまった。
真宗は約束を守った。王欽若は十分に罪を償ったとして、執政に戻された。
王旦は不賛成だったが、皇帝の意志は強かった。
さすがに王欽若である。意気揚々と執政の座に戻るようなことはしなかった。これほど意外なことはないと、実に謙虚な振る舞いをして、人々を驚かせた。
王欽若は己自身と寇準の失敗から十分に教訓を汲み取った。真宗の好む執政になるべく、人との対立を徹底的に避け、言葉は少な目、よく選んで的確なことのみを言い、いついかなるときも穏やかに振る舞った。まるで王旦を手本にしているかのようだった。以前にも一度、王旦を真似たことがあった。その繰り返しだったからなかなかに堂に入ったもので、王欽若は人が変わったと本気で思う者もいた。
丁謂は王欽若が皇帝の信頼を取り戻したさまを観察し、宮中で競っても今は王欽若に勝てないと計算した。皇帝の意を迎えること、王欽若にかなう者はいない。大中祥符九（一〇一六）年九月、丁謂は自ら願い出て地方官となった。王欽若がいずれつまづくのを待つことにした。
淡々と月日は流れた。
天禧元（一〇一七）年一月、四月一日を新たに天祺節と定めた。四月一日とは、封禅の詔を出す直前に二度目の天書が降った日である。九年も前のことをまたここで持ち出したのは、真宗がいかに偉大であるかを民衆に忘れさせないために、常に新たに顕彰し直さねばならないからだ。これで天書に関連する節日は五つにもなった。
新たに為したのこれくらいで、王欽若は自身感心するほどによく自重した。今度こそ宰相になるのであるから、いくらでも耐えるべきところは耐えねばならない。
その甲斐あって、王旦がその年の九月に死ぬと、ついに王欽若は宿願の宰相となった。王旦のせいで十年遅らされたと、王欽若が言ったのは、事実としてほぼ当たっていたのだろう。
真宗は、お気に入りの王欽若がようやく幾分か風格を備えるようなり、少々不安を抱きながらも、宰相にしてやれたことで安堵した。
真宗はだいたいやるべきことをやってしまった。聖天子として昇るべき所まで昇り詰めた。そのためであったか、時折、体調を崩すようになった。
念願叶って宰相になってみると、困ったことに特にやるべきことはもう残っていなかった。十年前なら、様々な儀式を考え出しただろう。すでに三回も都の外で大規模な儀式を行ったし、全土に遍く道観は建てたし、際立って壮麗ないくつかの宮殿、社殿も建てた。節日も五つ、そのたびごとに都を灯りで飾って盛大に祝い、官員には五日の休みである。これ以上に何をするのか。皇帝をこの上さらに偉大にする方策はない。健康の優れない皇帝に、四度目の行幸を勧めるわけにもいかない。
王旦とそっくりになって宰相になった王欽若ではあったが、王旦のような自ずと備わる気品などまるでなかった。むろん寇準のような風格はない。真宗の寵臣であるから王欽若に頭は下げても、心ある者で新宰相に信服する人間は一人もいなかった。逆に、世の小人どもが新宰相におもねようと群がり集まった。そうした連中は王欽若の弱点をすぐに見抜いた。王欽若は己ほど高潔な者はいないと思っていた。だから、己を律するに非常に甘かった。金品を贈られても、己の行為に間違いはないとの思い込みから、不道徳なことしているとの認識は持たずにいた。常に自分は正しいのだから、あらゆる自分の行為は正しいのである。贈る者も、悪びれることなく贈るのがよいと理解した。なぜなら、世に言う贈賄ではなく、公明正大な贈りものであるとの認識でよかったからだ。
それですむ道理はなかった。贈賄の噂は人々の口の端にしばしば上り、皇帝の耳にも達した。ある人物をよい地位に就けた見返りとして多額の金品を受けていた。王欽若そうは理解していなかった。その人物が、その地位に相応しい人間だったからしかるべき地位に就けただけである。金品は、人間として自然に起こる感謝の気持ちの発露であって、どこにもやましいものはない。不正を常にする小人どもは、人を己と同じ基準で見るから、怪しいと疑うので、下らぬことを言い立てられるのは迷惑だと思っていた。
「どうあっても人々の疑いがやまぬのなら、私を御史台に下して調べて下さい」
皇帝の面前で、ある者が王欽若の非をあばきかけたとき、王欽若は皇帝にそう願った。
御史台とは罪を裁くところである。そこで潔白と出れば、誰も文句は言えない。御史台には王欽若におもねる連中がたくさんいる。
このとき王欽若はやや剥きになっていた。
何も返事をしない真宗に向かって、持ち前の甲高い声で、もう一度叫んだ。
「見苦しい」
皇帝はつぶやいた。
王欽若の背に冷たいものが走った。
「国家が御史台を置くのは、人に虚実を弁明する機会を与えるためではない。宰相として、御史台に下されるのが名誉とでも言うのか」
皇帝の言葉に王欽若は惶恐した。真宗が何を嫌うかは最もわかっていたはずだった。聖天子のもとにある宰相として、何が求められているのか。執政復帰からの努力が水泡に帰した。
それでも、さすがに王欽若である。
地に伏すと、自ら罷免を願い出た。地位に恋々としない潔さを見せた。
王欽若は罷免になった。天禧三（一〇一九）年六月、宰相の地位は二年と保てなかった。王欽若は皇太子のお守り役である太子大保になった。それは名目上の職だ。宰相ほどの人物をいきなり地方官に落とすわけにはいかない。いったん実質的な仕事のない名誉職に就かせ、それから地方に出すという段取りが踏まれた。王欽若は杭州知事として都を後にした。
王欽若を都に留まらせなかったのは、真宗の怒りがそれだけ大きかったためだ。真宗は病気がちで感情の起伏が大きくなっていた。
杭州は都からは離れていても、風光明媚な大都会である。宰相の隠居場所として相応しいものだ。しかし、王欽若はこれで終わりだとは思わなかった。また必ず戻って来ると、心に誓った。
次の宰相は寇準だった。
「ついに無節操ぶりを露呈させたあの男は、まともな最後は迎えられまい」
自分と入れ替わりに都へ戻って行く寇準を、王欽若はせせら笑った。
それは負け犬の遠吠えではなく、根拠のあること、これならば宰相復帰も十分にあり得ると思わせるものだった。
宮中の人々は寇準をどのような顔で迎えていいのか困惑した。
寇準の外見は昔と変わらなかった。威風堂々としていた。剛毅なその姿に、皇帝は目を細めた。いったん辞めさせた者を呼び戻し、この男の運命を完全に手中に握った満足感が真宗にあった。
寇準に接する人々の雰囲気は冷ややかであった。それよりわずか三ヶ月前のこと、寇準は都へ急使を走らせていた。
「乾祐山に天書が降りました」
その時、まだ宰相だった王欽若は、その報告を聞いて思わず吹き出した。宮中の人々はあんぐりと口をあけてあきれ返った。もちろん、皇帝の前でそのようなことはしない。
寇準は敢えて口にしていなかったものの、天書の存在を信じていなかった。何しろ王欽若の仕組んだことである。意地でも天書を崇めたりしない。その寇準が、山に天書が降りましたと、今ごろになって言って来たのである。
「生まれるのも遅かったが、天書も遅かった」
王欽若は可笑しくてならなかった。
寇準は都に帰りたくて皇帝の歓心を買おうとしているのが明らか過ぎた。寇準も衰えてものだ。それにしてもあまりのことだった。寇準ばかりは気骨があって、天書事件を苦々しく思っていると誰もが考えていたから、内外の人々は驚嘆し、失望し、民衆の間にあった寇準人気も地に堕ちた。喜んだのは皇帝一人だけだった。
寇準は天書の実物を届けた。寇準でさえ天書が降るというのである、世の愚民たちにまだ疑っていた者があったとしても、これで完全に信じ込むだろうと、真宗は考えた。それに、寇準がとうとう己に屈服したと感じられ、寇準がかわいい存在に思えた。いつか機会があれば中央に呼んでやろうと思った矢先、王欽若が転んだために、寇準の宰相復帰となったのだった。
天書が降ってから三ヶ月で宰相復帰とは、これでは天書をでっちあげれば誰でも宰相になれると言うようなものである。
しかも、この乾祐山の天書には怪しげな背景があった。真宗の最も近くに仕える宦官の一人に周懐政がいた。左承天門に降った最初の天書を取りに登った二人の宦官の一人である。周懐政は皇帝の寵愛を鼻にかけて威張り散らす下衆な人間だった。天書を心から信じてしまうほど妖妄に弱い質でもあった。朱能という者がそこにうまく取り入った。賂を贈って周懐政に近づくと、怪異を見せてすっかり心服させてしまった。周懐政の手づるで御薬使という職を授けられた。天書や瑞祥が相次いだために、宮中には怪異に惑う風潮が蔓延していた。朱能は言葉は巧みに人々を信じ込ませ、多くの者が朱能を神のように崇めた。朱能は終南山の道観を修理する使いとなって長安に出向き、折りしも執政を罷免されて都を出ていた寇準と出会った。朱能は天書らしきものを寇準に示し、
「これをお上に奉れば、きっと都に帰れましょう」
と、言った。
天書を最初から信じていなかった寇準は逡巡した。
「宮廷では周懐政が口添えをいたします」
朱能はさかんにそそのかした。寇準は娘婿からも強く勧められ、ついに、乾祐山に天書が降ったと奏上した。
そうした事情も、宮中の人々の間に知れわたるところとなり、寇準の声望は落ちるところまで落ちた。
ここにただ一人、寇準に恭しく仕えたのが丁謂だった。丁謂は、寇準が宰相に返り咲いたのと同時に、執政として都に復帰していた。王欽若が出れば寇準、丁謂が戻るというわけだ。丁謂は、朝廷において浮き上がった存在になった寇準を助けることで、寇準に素早く宰相に引き上げてもらおうと考えたのだった。
寇準は宮中の雰囲気に鈍感だった。相変わらず豪放一本槍で、昔と同じに、己の意のままに何事も決めたがった。丁謂が恭しい態度に出れば、寇準の方はそれを非常に軽くあしらった。
高官が一堂に会しての食事の場で、羹が寇準の髯に垂れた。寇準はそんなことには気付かず、談笑を続けた。丁謂はそっと立ち上がり、寇準の髯についた汁の糟を拭ってやった。
寇準は大きな声で笑った。
「国の大臣として、官長の髯を払うは、その職務ではあるまい」
同席の者も寇準と声を合わせて笑い、丁謂も微笑んで応えた。だが、満座の笑いものにされたことを決して忘れなかった。
真宗の病は重くなり、死んだ後のことをくよくよと思い患うようになった。
その心配を皇帝がふと漏らしたとき、寇準はごくあっさりと答えた。
「皇太子様は衆望を集めておられます。陛下におかれましては、宗廟の重きを思われ、神器を皇太子様にお伝えになり、万世の基本をお固めになれば、御安心でございましょう」
寇準の言葉はそれはそれでもっともではあったが、真宗は不快な顔になった。
寇準はあくまでも豪胆、人の心の襞に分け入るのは得意でない。
「後の事で御心配なのは、皇太子様を誰が補佐するかでございます。丁謂は佞人、皇太子様のお近くに置くべき人間ではありません」
寇準はそうも言った。
真宗は寇準を疑った。己を譲位させ、丁謂を遠ざけて、権力を独り占めするつもりかと、不快になった。思えば、昔、寇準は丁謂を高く評価していた。それが今になって佞人と言うのも気に入らなかった。王旦は人を見誤ることがなかったのに比べて、寇準は劣ると感じた。
さらにまずいことに、皇帝と二人だけでなされたこのやりとりを、寇準は酒に酔って人に漏らしてしまった。
丁謂はそれを耳にし、急ぎ皇帝のもとに走った。
「寇準は不埒であります。神器の事は、臣下の軽々しく論ずべきものではありません。まして、酒に酔って放言することでございましょうか」
真宗は激怒した。
丁謂はここぞとばかりに寇準の専横ぶりを訴えた。かつての王欽若の言葉を真宗は思い出した。
「あれは朕を孤注にした男だ」
六月、寇準は罷免となった。
王欽若のときと同様、まずは太子太伝という名誉職が与えられた。
王欽若はその知らせを当然のことと受け止めた。次は丁謂が落ちれば、自分が戻れると思った。そうあるべきだ。
ただ気がかりは皇帝の健康状態だ。王欽若が頼みとするのは皇帝の寵愛ただ一つ。真宗が皇帝であればこそ、もう一度、宰相になる可能性もある。
七月、丁謂が宰相になった。
皇帝の病は一進一退で、時に朝廷に臨めるように回復するかと思えば、時に長く臥せった。
あるとき、皇帝は周懐政の膝に頭を載せてうつうつらとしていた。熱にでも浮かされたのか、
「皇太子を監国に」
と、寝言を言った。
周懐政は耳にしたことをこっそり寇準に告げた。寇準は宰相を罷免になったとはいえ、皇太子を補佐する名目上の職にあってなお都にいた。皇太子を監国にするとは、国の大権を譲るに等しい。そうなれば、己に光がもう一度当たるだろうと寇準は考えた。皇帝の意が確かにそこにあるのなら、事は早く進めた方がいい。誰かに先を越されてはならない。寇準は誰を仲間に入れて、朝廷でどう建議するのがいいかさぐり始めた。
丁謂がその動きを察知した。ただ皇太子の処遇に関わること、事は慎重にかつ隠密に進めねばならない。丁謂はまずは寇準を攻めずに周懐政を攻めるのがいいと考えた。寝言とは言え、皇帝の秘事を漏らしたのはむろん大罪、死刑に値する。
周懐政は丁謂の動きを知った。
真宗は小康を得て、久しぶりに後苑に出た。少し歩くと喉が渇いたと訴えた。女達が飲み物を取りに行くと、周懐政だけが残った。
周懐政は矢庭に皇帝に前にひれ伏して行った。
「社稷の大計をお立てになるのは今でございます。皇太子様に御位をお譲りになり、陛下は太上皇とならてこそ、国は永遠の繁栄を得ましょう。私が真心より申し上げます証拠に、この胸を切り開き、赤心を御覧に入れましょう」
周懐政は隠し持っていた小刀を取り出し、我が胸を突き刺した。激しく血が噴き出た。真宗は動転し、再び病を発して倒れた。
周懐政は破れかぶれになったのか。丁謂を殺して寇準を宰相に戻すという陰謀を計画し、弟らを仲間に引き入れた。その企みは丁謂に知るところとなり、ついに周懐政は捕えられ、誅殺された。
寇準に天書を勧めた朱能は都から逃げたが、追っ手に迫られ、桑林の中で自ら縊死した。
この陰謀に寇準が直接関与したわけではなかったが、地方に放逐となった。相州と行き先を告げられて寇準は都を出たが、途中で、道州に変えられた。道州とは遥か南方の地だ。寇準が二度と帰れぬよう、熱病の流行る地を丁謂が選んだのだ。
皇帝には、寇準が都から出されたことさえ知らされずにいた。一年ほどして、病の小康状態を得た朝、
「このごろ寇準の顔を見ていないように思うが、どうしてか」
と、近習に尋ねた。
誰も答えられなかった。
王欽若は都での政変を耳にすると、杭州を発って都に向かった。ここを逃しては、二度と浮かび上がれないと考えた。
このとき王欽若はなお太子太保という職を兼務していた。これは名前だけのものなのだが、皇太子に大事が迫った今、自分がそのそばにいなければならないはずだと、都に帰る理屈を作り上げた。
真宗は王欽若の勝手を認めた。
皇帝さえいれば、自分は大丈夫であるとの確信を、王欽若は強めた。であればこそなおのこと、皇帝に万一のことがあった場合の先に向けての手を打っておかねばならない。
十月、王欽若は資善堂において、皇太子に学問を教え始めた。皇太子の先生という立場で己の将来を安泰にしようとしたのだ。
丁謂にぬかりはなかった。十一月、丁謂は宰相として正式に皇太子に会う儀式を行い、今後、皇帝の代理として朝廷に臨席するよう願った。
十二月から、皇太子の前で朝儀が行われるようになった。
皇太子はこのとき十一歳。周囲の言いなりになるだけで、王欽若の講義も、丁謂の朝儀も、面白くないものだったが、王欽若と丁謂の引っ張り合いに身を任せるしかなかった。
結局、宰相の前に勝ち目はなかった。皇帝の病が重くなったときを狙って丁謂は人事を出し、王欽若は西京留守、すなわち洛陽の長官にさせられた。またも都を後にしなければならなかった。
王欽若は洛陽にあること一年、天禧五（一〇二〇）年十二月、病気になった。本当に病気であったかは王欽若しか知らないことで、都の医師の治療を受けたいので、一時的に帰ることを許可してほしいと、王欽若は朝廷に願い出た。
折り返し、丁謂からの使者が都から来た。
「陛下はしばしばそなたのことを話され、どうしてももう一度会いたいとおっしゃっております」
真宗に会うこと、それが王欽若の狙いだった。病床にある皇帝に会って、何とかして自分の地位を回復させたい、そう願う王欽若は、丁謂の言葉をまことと思い、職を息子に預けて都に帰った。
都に着いた王欽若を丁謂は捕らえた。勝手に職務を放棄した罪である。
王欽若はさらに降格、河南府に移された。
その翌年、乾興元（一〇二二）年二月、真宗は死んだ。
王欽若は死の場に居合わすことができなかった。真宗が生きていればこそ、返り咲きの可能性は残っていたのだが、これでもう駄目であると、都の空に向かって号泣した。
泣き続けるうちに、非常な悔しさが込みあがって来た。己ほどの者が、丁謂に負けたままで終わってなるものか。丁謂は横取りした卑劣な男だ。このまま天が許すはずがないと、王欽若は思った。
皇太子が即位した。宋の第四代皇帝、仁宗である。
先帝の陵墓を作る山陵使に丁謂が任命された。前朝から大臣を勤める者としてこれ以上の名誉はなかった。丁謂は絶頂期にあった。
それでもなお都の遠くにある寇準が心配であったらしく、寇準を道州からさらに南の雷州に移した。ほとんど地の涯といっていい場所である。南方の炎熱に灼かれて、早く死ぬのを願った。
皇帝は十二歳。劉太后、すなわち真宗の劉皇后が御簾内で朝廷に臨むようになった。丁謂は、劉太后の垂簾聴政は形式上のもので、全権を自分の手の内にするための手段と考えていた。しかし、劉皇后は聡明、侮りがたい政治手腕を持っていることがすぐに明らかになった。
丁謂は宦官の雷允恭と結託し、劉太后の動静を全て筒抜けにし、劉太后を完全に押さえ込もうとした。劉太后は始めはそうしたからくりに気が付かず、朝廷の主導権をすっかり丁謂に握られてしまった。
雷允恭は、他の宦官と同様に、自分も山陵の工事に行かせて下さいと、劉太后に哀願した。劉太后は丁謂に頼んで、雷允恭に山陵都監の職を与えてやった。雷允恭がその職を望んだのは、工事の監督となれば、何かと見返りが得られるからだった。劉太后にわざわざ頼むことで、丁謂と自分は親しくないと思い込ませることにも成功した。
雷允恭は貪欲過ぎた。工事の現場は混乱し、陵墓の位置を当初の場所とは変えるという奇怪なこと雷允恭を企てた。それでどのような利が得られたのかはわからないが、新たな場所で工事を始めたところ、石と水が出て、とてもそこは陵墓に向かないことが分かり、大問題となった。
王曽が雷允恭の悪事の全てを劉太后に告げた。雷允恭が丁謂とつながっていることも明らかになった。劉太后はまず雷允恭を死罪にした。陵墓の位置を勝手に変えたのはそれだけ大罪である。
次いで、承明殿において、劉太后は丁謂を面罵し、即日、罷免とした。
王曽は、丁謂がいなくなれば、自分達若手が政治の主役になれると思ったのだが、劉太后が国家の大権を完全に掌握した。
丁謂には例によって太子少保の名誉職がまず授けられ、次いで朱崖州に放逐となった。朱崖州とは、寇準のいる雷州から海を渡った海南島である。
天聖元（一〇二三）年九月、王欽若の待ち望んだ日が来た。
劉太后は王欽若を呼び戻し、宰相に据えた。劉太后は恩義を忘れていなかった。劉氏が真宗の皇后になれたのは、王欽若の一言があったからだ。
「臣に邪なこと何一つなく、無私をもって先帝にお仕えしましたことが、今日こうして宮中に戻れる結果となり、この上のない喜びでございます」
王欽若は劉太后の前で泣いた。
だが、王欽若が朝廷で必要とされる時はずっと昔に終わっていた。真宗あっての王欽若だった。朝廷で王欽若が何かを言っても、誰も聞こうとしなかった。王欽若が自慢の熱弁を振るえば、その数倍の反駁がお返しに来た。王欽若は劉太后の面前で、しばしば屈辱を味わった。
「王旦が宰相であったときはこんなことはなかった。人々は宰相の言を重んじたものだ」
王欽若はぼやいた。
ある大臣がそれに応じた。
「王旦が先朝で重んじられていたのは、人々がそうしようと企てたからではありません。公がもしも政治を執ること公明であるのなら、私でも服さないことはないでしょう」
人々の失笑が漏れた。
天乾二（一〇二四）年十一月、王欽若は冀国公に封ぜられ、外見的な地位だけはますます高まっていった。
寇準は、王欽若が宰相になった翌月に雷州で死んだ。
かつて太宗は通天犀を得て、二本の帯を作り、一つを寇準に与えた。寇準は都に人を派遣し、その帯を取り寄せた。帯が届いてから数日、沐浴して身を清め、朝服束帯に改め、都に向かって再拝して後、人を呼んで臥具を設けさせ、榻に就いて間もなく息を引き取った。
寇準の不幸は、生まれ出るのが遅かったことである。自身もそれをよく知り、王欽若もそう思っていた。寇準の才を見出したのは太宗であり、太宗のもとでこそ人を憚らぬ直言が生きた。真宗は父皇帝を真似て寇準をそばに置きたがったが、真宗には寇準を使うだけの度量がなかった。時代も違っていた。王旦や王欽若や丁謂は、それぞれ真宗の時代に合う宰相像を求めたが、寇準は宋の草創期の宰相に相応しい人物だったのである。
丁謂が寇準を都から追い払ったとき、都にこんな言葉が流行った。
「天下の寧を得るには、まさに眼中の釘を抜くべし。天下の好を得んと欲せば、寇老を召すに如くはなし」
眼中の釘とは早く抜くべきものである。釘は丁謂の姓と同音である。
半年も経たずに丁謂も都を追われた。
丁謂が朱崖州に向かう途中、寇準がいる雷州を通過した。道に人々が待ち、一匹の蒸した羊を丁謂に献じた。道中の労苦の慰めに寇準が送ったものだった。丁謂は寇準に会って礼を言おうとしたが、寇準は拒絶した。寇準の家の者たちには、この際、仇を討とうではないかと勇む者もあったが、寇準は門を鎖し、人々を外に出させなかった。
丁謂は朱崖州にあること三年を超えた。
ある日、客人との談笑の折に、
「天下の州郡ではどこが大きかろうか」
と、丁謂は尋ねた。
客人は答えた。
「もちろん首都、開封でございましょう」
「いや、そうではあるまい」
丁謂はぐりぐりと眼を動かして、客人の顔を見た。
「はあ、都より大きな州郡がどこにございましょうか」
「ある。ここだ。ここ朱崖州だ」
「まさか」
「いやいや、都で宰相であった者もな、ここに来ては、ただ司戸というつまらぬ役職にしかありつけぬのだよ」
丁謂はそう言うと、客人とともに大いに笑った。
丁謂の機知とはそのようなものであった。
後に、海を渡って本土に戻ることを許され、かつて寇準がいた雷州に移った。そこで五年を過ごして、次は道州に移った。遥か南方ながらも、わずかずつだが都に近づいていき、最後は光州にまで戻って死んだ。晩年はもっぱら仏教に耽溺していたという。
王欽若は天乾三（一〇二五）年十一月に死んだ。
王欽若が危篤に陥ると、病状を尋ねる使いがひっきりなしに宮中から送られた。白金五千両が見舞として届けられた。
王欽若は朝廷からの使いに向かって言った。
「お上に一言だけお伝えいただけませんでしょうか。天下を治める要諦でございます。難しいことではありません。それはただ一つ、最も信頼できる臣下を得ることでございます。それもただ一人でよろしいのでございます。天は一人の天子に天下を任せ、天子は一人の宰相に政治を委ねるのでございます。己を去り、お上のためを思う無私の宰相、それが一人いればよいのです。他の連中は民を惑わせ、お上を騙す不届き者ばかりでございましょう」
寇準、丁謂は、民を惑わせ、皇帝を騙した罪の報いを受けて遠く南方に送られた。ただ一人、真宗のために尽くし抜いた無私の宰相、王欽若は、宰相の地位にとどまったまま最後の時を迎えようとしているのである。
天の道理の貫かれていること、これ以上の明白さはない。
王欽若が死ぬと、劉太后は太師中書令の称号を贈り、文穆と謚をし、ほとんど自らその葬儀の次第を整えてやった。宋の始まって以来、これほどの恩恵を受けた宰相はいないと人々は言い合った。
王欽若の最後の言葉は皇帝には伝えられなかった。王曽が誰の耳にも入れずに消し去った。王欽若は数え切れぬ多くの贈り物を受け、山と積まれた金帛、図書、奇玩が家に残った。火災によって一朝にしてその全てが消えた。それよりも先、真宗があれほど崇め、真宗を偉大な聖天子へと導いた天書は、真宗の墓の内に納められて、地上から姿を消していた。真宗は封禅を行った史上最後の皇帝だった。