皇帝になりそこねた男
一
隋の大業十（六一四）年春、淮陽に劉智遠と名乗る学者が現れた。
襤褸同然の衣をまとい、年は三十半ば、小柄でがっちりした身体つき。細く切れ上がった目に、眸はあくまでも澄み、肌の色はかなり黒い。連れは二人。いずれも大柄な偉丈夫、長い鬚、碧の眸に際立って高い鼻。武具を携行し、学者先生の弟子とは見えにくい。前年秋、楊玄感の率いる叛徒に包囲された東都（洛陽）を逃れ、ここに至ったという。
淮陽は淮河の下流に位置する。これより九年前、隋の皇帝は毎月二百万人の役丁を動員して、西の京師（長安）に並ぶもう一つの大都市、東都を建設し、諸州の富商数万戸を強制的に移住させた。同じ年に、皇帝は黄河の南から淮河の北に至る諸郡の民百余万を動員して大運河を掘削した。通済渠という。黄河と淮河はこれによって一本の水路で結ばれ、淮陽から少し東に下れば、長江に通じる運河もある。
劉智遠は崩れかかった廃屋に住み、史書を教授すると近隣に触れ、次第に土地の子弟が集まるようになった。確かな学識があり、多くの書を諳んじている様に人々は感服した。時折人目を忍ぶように荒くれ風情の男どもが出入りし、何者かと怪しまれた。
「ここにも長くはいられまい」
戻って来た劉智遠は戸を鎖す。外は雨だ。日没までは間があるのにすでに薄暗い。秋になって雨が続く。淮陽に来て半年余りが経つ。土間に細い煙があがる。男が屈んで鍋の下の火を見ている。
「どうされました」
劉智遠は笠をはずす。水がしたたり落ちる。
「この家の様子を探る者がある」
「昼ごろから三人ばかり。いま一人、その戸に近づこうとしておりましょう」
劉智遠は戸に手を伸ばしかけてやめ、衣を払う。空中を漂うように降る細かな雨のために内側までぐっしょりと濡れている。
「ここの雨はたちがよくない」
劉智遠は火のそばへ寄る。鍋からの湯気が鼻先に上がる。
「いい香りだ」
「粟と豆を煮ております」
「御馳走ではないか」
ふっと男は笑う。
「蒲山公様ともあろうお方が、こんなものを」
「木の皮と比べたらたいした御馳走だ」
「十分な腹ごしらえをしておきませんと」
「まだしばらくはこの町にいられると思っていたが」
「煮上がるまでの時間くらいはありましょう」
火がちょろちょろと燃える。雨は静かに降り、この家を見張っているであろう人の気配は、火の番をしている男にしかわからない。
細く昇る蒸気に見入る劉智遠の口から詩句がもれる。
金風蕩初節 秋の風が立ち、
玉露凋晩林 露が木々を凋ませる。
此夕窮塗士 この夕べに、道に窮した男は、
鬱陶傷寸心 一寸の心の痛みに苦しむ。
劉智遠の眸に細い火の影が揺れる。
野平葭葦合 遠く広がる野を草が覆い、
村荒藜藿深 荒れた村が草に埋もれる。
眺聴良多感 見るも聞くも心を抉り、
徒倚独霑襟 一人ただ襟をぬらす。
男が顔を上げる。劉智遠より少しばかり年が上。四角い大きな顔、劉智遠とは対照的に色が白く、伸び放題の鬚が厳しい外見を作る。
「おやめなさい。余計に苦しめるだけです」
しかし、詩は続く。
秦俗猶未平 秦の世は乱れ、太平は遠く、
漢道将何冀 漢の世の興るのを待つ時に、
樊噲市井徒 樊噲は町のごろつきであったし、
蕭何刀筆吏 蕭何は小役人でしかなかったが、
一朝時運会 ひとたび時運に巡り会うや、
千古伝名諡 千古にその名が伝わる働きをした。
劉智遠は立ち上がる。男は劉智遠の裾を曳く。
「嘆いて何の甲斐がありましょう」
劉智遠の声は激して震える。
寄言世上雄 世の英雄たちよ、
虚生真可愧 虚しく生きてよいものか。
詩の最後の一語が土間の壁に消えると、劉智遠は崩れるように座り込む。
男は鍋の蓋をあける。粗末な器に盛る。劉智遠は首を振る。
「食べる気にはとてもならん」
男はもう一つの器に自分の分を取り、ずるずると食べる。
「腹ごしらえをしてください。食えるときに食っておきませんと」
「また木の皮をしゃぶるというわけか」
一口すする。男はあっという間に平らげ、器をまた山盛りにする。
「今夜は夜通し走るでしょう」
「いつまでこんなことが続くのか」
男は劉智遠の顔をのぞきこみ、大きな声で笑う。
「まだ一年に満たぬではありませんか。天下を取るには短すぎましょう」
劉智遠は溜め息をつく。
「どうしました。ことのほか弱気になられて」
「こうも意気地がないとは」
「蒲山公様には似合いません。皇帝になるために生まれてきたお方でありましょう」
「嫌な雨だ」
「ここを発つ潮時なのでしょう。さあ、召し上がってください」
男は一気に掻き込む。劉智遠も食べる。
激しく戸が叩かれる。
「奴らの用意ができたようですな」
大きくどんどんと鳴り響くにも構わず男は器を空にするまで食べ、やおら立ち上がる。壁に立て掛けてある矛を手にし、ぐいぐいとしごく。
「さあ、行きますぞ」
劉智遠は腰に刀を帯びる。男は梁から縄梯子を下ろし、劉智遠に登るよう促し、外に向かって言う。
「そのように叩くと戸が壊れます。何の御用でありましょうか」
劉智遠が屋根の上に出たのを見届けつつ、
「そのように騒がしくなさらずとも、いま参りましょう」
男は戸を開ける。剣を構えた者、数人が立っている。男が睨むと半歩ほど下がる。真ん中の者がやや上ずった声を出す。
「この屋に隠れる者を出せ」
「私しかおりません」
「さっき入っただろうが」
「今朝からずっと一人です」
「抜け抜けと偽りを言うでない。全てわかっておるぞ」
男は笑いを顔に浮かべる。
「東都の学者、劉智遠とは真っ赤な偽り。その実は先の乱の首謀者、李密であろうが」
「そんな大層な者はここにはおりません」
「淮陽太守趙佗様の御命令で捕らえに来た。中に踏み込むぞ」
震える声でそういうのを聞き、男は矛の柄でどんと地面を衝く。
「隠し立てすると容赦はしないぞ」
「どのように容赦しないのか」
男は矛をぐるりと回す。連中は後ずさりする。
男は外に出る。夜になっている。闇を透かすと、雨が続く道の奥に、右にも左にも人影がある。
「神妙に首を差し出せ」
「どの首のことか」
男が矛を一振りする。首を出せと言った者の喉元に風が吹く。しゅっと血が噴き出る。悲鳴が上がる。
「声が出るくらいだ、安心しろ、首はつながっている」
男は屋根の上にいる劉智遠に合図を送る。矛の柄の端を持ってぐるっと大きく回す。連中は後ろに跳ぶ。男は走る。劉智遠も屋根の上を走る。
暗がりから矢が飛ぶ。男は矛で払う。ばらばらと捕り手たちが飛び出す。
「命を惜しめ」
矛を縦に振る。一人が真っ二つになる。
小さな町だ。じきに門に当たる。怖気づいたか門番は姿を消している。男が振り向くと、劉智遠が飛び下りる。
矢がばらばらと降る。矛で軽くいなす。男は門の中央を矛の柄で衝く。閂が壊れる。
「さあ、行きましょう」
真の名を李密という。もう一人の男は王伯当。
夜を徹して走るうちに雨が上がり、靄に包まれる川べりに薄明かりがさす。二人は土手に腰をおろす。王伯当が言う。
「これからどこに参りましょうか」
「またも失い、またもこれからとなった」
「まだまだ長いと御覚悟ください」
「わかっている。嘆きはしない」
李密は川の水に見入る。流れはほとんどない。李密は息を漏らす。
「底にあって先は見えず、成すことのないままに終わるのか」
「おっしゃるそばから、また嘆いておられますぞ」
「君の弟はどこまで行ったのか」
王伯当の弟は王仲伯という。
「誰が頼るに値するか。あれが見付けて来るでしょう」
「川は淀んではいても、いずれかへと不断に流れている。天下の情勢も日々に変わっているのだろう」
「今日は、久しぶりに晴れそうです。我々にも良い風が吹きましょう」
李密は顔を上げる。
「ここの湿っぽさは私には合わぬようだ。ならば、北に戻るがよいか」
「どこであれ追っ手がかかるのは同じこと。してみれば、蒲山公様の気が塞がぬお好みのところでよろしいでしょう」
「雍丘はどうか。妹の夫が雍丘令となっている」
「通済渠の途中にある町。悪くはないでしょう。あのあたりには皇帝を恨む連中が大勢おりましょう」
靄が空へと昇る川面を見つつ、二人は今の皇帝が即位してからの十年の歳月を思う。
舟が流れ来る。
「あれをつかまえましょう」
王伯当が立ち上がる。少年が櫓を漕ぐ小さな舟。少年は歌う。
楊氏将滅 楊氏まさに滅びんとして、
李氏将興 李氏まさに興らんとする。
王伯当は李密の顔を見る。李密も立ち上がる。
「聞かれましたか」
李密はうなずく。
「蒲山公様、あなた様はやはり皇帝になるお方なのです」
二
隋朝のこの時の皇帝は楊広。死後に煬帝の諡を受ける人物である。中国全土を統一した隋朝は、煬帝の時に極盛期を迎え、充実した国力を背景に、東都の造営、大運河の掘削、長城の建設といった大事業を次々に興し、皇帝は頻繁に各地を行幸し、さらには高句麗に百万を越す大遠征軍を送り出しもした。
それは、民衆の憎しみを買い、人々は新しい世の到来を待ち望み、誰知らず「楊氏将滅、李氏将興」と謡われるようになった。楊とは隋の皇帝の姓である。では李とは誰か。他ならぬ自分であると考えたのが李密だった。
李密は李弼の曾孫。李弼は、魏朝が東西に分裂して生まれた西魏朝の中核を成す八柱国の一人であった。西魏朝はその後、皇室が交替して周、隋と王朝名が変わり、帝国の版図は長安周辺から中国北半、そして中国全土へと拡大したが、西魏朝誕生時の元勲の子孫たちは常に政権の中枢部に位置し続けた。李密の祖父李曜は周朝の魏国公、父李寛は隋朝の蒲山公となった。若くして父親を失った李密も、父と同じく蒲山公の称号を得た。
李密は皇帝近くに仕える儀仗兵である左親侍だった。煬帝は李密を見て「あの黒い顔の小男は誰か」と近くの者に問うた。蒲山公の息子であると知ると、「目付きが尋常でない。宮中に宿衛させてはならぬ」と命じた。李密は皇帝のその言葉を伝え聞くと、病と称して官より退き、学問で身を立てる決意をした。
煬帝を帝位に就けた功績があり、隋朝の大元勲といっていい楊素が、ある日のこと、馬で郊外を行くと、黄牛にまたがり、一方の手で牛を操り、一方の手で角にひっかけた書を巻いて読んでいる男がいた。その姿に興味を持った楊素は、静かに轡をとって黄牛の後に付いた。男は書物に集中していた。楊素は声をかけた。「どなたであるのか。そのように書に耽っているのは」。男は楊素の顔を見て、牛より降りて再拝し、李密であると名乗った。何を読むかと楊素は尋ね、『漢書』であるとの答えに、項羽について楊素は問うた。李密は項羽が劉邦に敗れた理由を答えた。「民の信を失った者は滅びねばなりません」。「そなたが項羽だったらどうか」。楊素は尋ねた。李密は恭しく礼をすると、「時に巡り合った際にお見せするまでです」。楊素は家に戻ると、息子たちを見て、「おまえたちは李密に到底及ばない」と嘆じた。長男の楊玄感は李密のもとを訪れ、友としての深い契りを結んだ。
楊素は、煬帝との間に深い溝ができつつあったが、かろうじて破局を迎えずに天寿を全うした。煬帝は近習に「あと少し楊素が生きていたら、一族は皆殺しの憂き目にあっただろう」と漏らした。
大業九（六一三）年六月、楊玄感は叛乱を起こした。煬帝は二度目の高句麗征伐、すなわち征遼の途上にあった。前年の征遼は、百十三万三千八百人という大軍を繰り出しながら、高句麗に攻め入った三十万五千人のうち帰還できたのは二千七百人だけであった。隋の面目を潰された煬帝は、必勝を期して再度の遠征に臨んでいた。
楊玄感は黎陽において物資輸送の任にあった。黎陽は黄河北岸の町。煬帝が征遼のために造らせた運河、永済渠がそこより分岐して遠く北方に通じた。楊玄感は王仲伯と謀って北への物資の流れを止め、荷を運ぶ役夫五千余人、水夫三千余人を集め、「主上は無道、民を思わず、天下を騒がせ、遠征で死ぬ者は万をもって数える。いま諸君らと兵を起こし、億兆の民を救おうではないか」と揚言した。人々は躍り上がって喜んだ。
楊玄感は京師から李密を呼び寄せた。秦の始皇帝の暴政の後に、項羽、劉邦が出て天下を争ったのと同じ時代が巡り来たと李密は勇んだ。黎陽に急行し楊玄感に策を授けた。北に向かって皇帝の退路を断つのを上策、西に走って京師に入るのを中策、東都を取るのを下策とした。楊玄感は手近な東都を取って天下に威を示すのを我が上策であるとした。
楊玄感は黄河を南に渡り、東都に向けて西進した。諸方より大挙して合流する者は数知れず、迎え出た隋軍をいともたやすく打ち破った。隋軍は東都に引き篭もった。楊玄感は東都攻略は訳もなく成就すると考えた。しかし、東都は抵抗し、煬帝の主力軍が思いもかけない素早さで引き返した。楊玄感は東都の囲みを解き、西への敗走を余儀なくされた。李密は、京師を急襲すればなお盛り返せる可能性があると急がせたが、楊玄感は途中で無駄な戦を起こし、官軍に追い付かれて大敗。わずか十余騎で逃れる途中、弟と刺し違えて死んだ。
李密は逃げた。潼関(函谷関)を越え、王仲伯の故郷、天水を目指した。天水は京師の遥か西、西域への入り口である。胡兵を集めて再起を図ろうと考えた。
京師の手前で知人の家に寄ったところを隣人に見られ、捕縛された。李密の身柄は皇帝が滞在する高陽に向けて送られた。護送の途中、王仲伯と密かに話をする機会を得た。
「高陽に至れば殺されて身は塩漬けにされよう」
「楊玄感殿が蒲山公様の策に従っておれば、こうはならなかったでありましょう」
「死を恐れるものではないが、天命といはいかなるものか。何一つ成し終えることもなしに死ぬのが我が天命であるのなら、天は何のために私を生んだのか」
李密の口から嘆きの言葉が漏れた。
「道の途中にある今ならばまだ計略がありましょう」
王仲伯は捕まった一同の者が所持している金を集め、護送の役人に見せた。
「高陽でのお裁きがすみましたら、このお金で我々の死骸を埋めてください。余った金は全てさしあげます」
役人は喜び、監視の目がやや緩んだ。道々、市が立っているのを見かけると、王仲伯は酒食を買い求め、護送する者たちにふるまった。それが連日のこととなり、役人たちは何とも思わなくなった。
黎陽にほど近い石梁駅に着いた日、王仲伯は盛大に酒食をふるまった。役人は泥酔して寝入った。李密らは宿舎の塀を破って逃走した。
楊玄感は敗死したものの、それが火を付け、天下の民のうち十に九は盗賊になったと後に評される大乱に突入した。小は数人から、大は千人、万人に至る群盗が各地に相次いで出現した。征遼の賦役が最も重かった黄河下流域は隋への反感が強く、古来、侠気を重んじる気風もあって、豪傑たちが続々と名乗りを挙げた。
李密は平原郡の賊、郝孝徳を訪ねた。黄河の広大な氾濫原、水路が縦横に入り組む中、丈高い草原を隠れ蓑として、郝孝徳は要塞を築いた。王仲伯の兄の王伯当が身を寄せていた。王伯当も楊玄感の反軍の中にいたが、弟とは別になってここに潜伏していた。
王伯当は塞外に待っていた。笑って弟に手を振ったが、李密に目を向けるなり、急に険しい顔付きに変わった。王伯当は地に跪いた。
「ここより一歩も進んではなりません」
当惑する弟を怒鳴り付けた。
「なぜ蒲山公様をここにお連れしたのだ。郝孝徳に殺されてしまうぞ」
「蒲山公様の勇と智は望みこそすれ、害して何の益がありましょう」
「郝孝徳は愚か者だ」
王伯当は吐き捨てるように言うと、李密の方に向き直り、深々と頭を下げた。
「これより私めが蒲山公様に最も相応しい場所へと御案内させていただきます」
「どこへ行かれるのですか」
弟が尋ねた。王伯当は微笑み、立ち上がると、ひと回り小さな李密の肩の上に両手を置いた。
「蒲山公様、今の皇帝に代わって天子の位につくべきお方は、あなた様でございます。私のこの命を、蒲山公様を玉座にお付けするために使うことをお許しいただければ、この身にとってこれ以上の幸いはございません」
「何を言い出すのですか」
弟の言葉に、兄は地を踏み鳴らした。
「おまえは俺と同じに思わぬのか」
弟は黙った。兄には武勇においても智謀においても劣ると弟は思っていた。
王伯当は無言のまま立つ李密の前に平伏した。
「天下の民を救うためでございます」
李密は王伯当の背を見つめ動かなかった。王伯当は顔を上げた。
「蒲山公様、あなた様が玉座に昇らねば、民は塗炭の苦しみを続けねばならぬのですぞ」
李密はゆっくりとうなずいた。
「天が我を生み、為すべきとしたのはそれであった」
王伯当は李密を連れ、男気があると噂される王薄を訪ねた。王薄も目先の利に走る賊にすぎなかった。
天下を定めるに必要な兵を借りるに有望な人物を探し求めて、三人は各地を流浪した。隋の役人は李密の行方を厳しく追及した。楊玄感と少しでも関わりのあった者は尽く殺せと煬帝は厳命していた。処刑された者は三万を超えた。
李密は探索の目を眩ますために劉智遠と名を改め、食うものがなく木の皮を削って煮た。
淮陽の町にようやく一時の落ち着き場所を得て、土地の者とも多少の縁ができつつあったが、素性が役人に知れ、そこも去らねばならなかった。
三
大業十（六一四）年秋、淮陽から水路をたどり、王伯当と李密は雍丘の町に入った。諸国に同志を求めて歩く弟の王仲伯とは連絡が途絶えたままである。
李密は妹の夫、丘君明を頼る。天下の重罪人を匿うには己一人では荷が重すぎると、丘君明は勇み肌の王秀才のもとに李密を案内する。王秀才はその晩のうちに娘を娶わせる。李密は勇猛の士を募って旗揚げする計画を王秀才と練るが、丘君明の甥の丘懐義が褒美を目当てに密告する。役人が王秀才の家を厳重に囲む。たまたま外出していた李密と王伯当は、遠く王秀才の家が火に包まれるのを見る。李密は恩人や妻を救いに戻ろうとする。王伯当が腕を掴む。
「小さな私情のために天下の民を見捨ててはなりません」
李密は妻を思う心があるのを王伯当に恥じ、王伯当と二人、雍丘を去る。
歴亭で、短い時間だけ王伯当と別れた際に、顔を知る者に見咎められ、李密は捕縛される。皇帝のもとへ送られる身となる。
李密は足を怪我したと偽り、どのように小突かれても、一日にわずかの距離しか歩かない。のろのろ進む間に王伯当の助けを待つ。
船着場で李密は切り立った岸辺から滑り落ちる。腕を厳重に縛られる李密は水中に沈む。役人は急いで引き上げ、縄を切り蘇生術を施すが、李密は息をしない。「どうせ死刑になる男だ。首だけ持っていけば手間がはぶける」とあきらめる。役人が背を向けると、無造作に放り出されていた槍に手を伸ばし、立ち上がりざまに李密は衝く。王伯当が飛び込む。手向かうところの者を切り倒して逃走する。
これより先、李密がまだ淮陽の町にいたころ、煬帝は三度目の征遼、すなわち高句麗征伐の命を発した。反対する者は朝廷には一人もおらず、煬帝は先頭を切って遠征の途に上った。急ごしらえの大軍が後を追ったものの、徴発された兵士は行軍の途中で相次いで脱走した。煬帝自身は国境に達したが軍は戦える態をなさなかった。高句麗は二度の戦いで困弊し、高句麗の王が詫びる形で一応の和議が結ばれ、煬帝は引き上げた。
民衆の間に「楊氏将滅、李氏将興」との言葉が流れた。宮中で呪法を行っていた方士の安伽陁は「李氏まさに天子たるべし」との天の声があったとし、李姓の者を尽く殺すのが良いと皇帝に勧めた。煬帝はそこまでは実行しなかった。
征遼失敗後も煬帝の巡幸癖は変わらず、李密が二度目の脱走に成功したころ、豪壮な竜舟を新造して江都（揚州）に向かった。各地に盗賊が横行する時節に巨万の富を費やす行幸は無謀であると諌めた者は、朝堂において杖殺された。
我夢江都好 我 江都の好きを夢みる
征遼亦偶然 征遼はまた偶然のことなり。
この詩句を残し煬帝は京師を発った。大業十二（六一六）年秋である。
李密は、煬帝が通済渠を航行していく様を遠望する。
村はずれの小高い墓地、木の根に李密と王伯当は腰をおろす。夜が明け、遥かな平原に柳の並木の長い列が浮かび上がる。通済渠の幅は四十歩、運河の両側は周りより一段高く築かれ、柳が影を作る御道が通じる。
兵士が乗り込んだ先触れの舟が姿を見せる。御道の上で人夫が舟を曳く。一行のために駆り出された人夫は数万。煌びやかに飾り立てられた舟が何艘となく続く。初めは数をかぞえていた王伯当は飽き、土の上に寝転ぶ。舟の列は早朝から日暮れに至るまで尽きず、ようやく煬帝自身の竜舟が姿を現す。長さ二百丈、高さ四十五丈、四重の御殿が載り、百余の部屋はすべて金玉によって飾られる。後ろに皇后の翔螭舟が従う。規模がわずかに及ばないだけで装飾は竜舟に何ら変りがない。
巨大な竜舟が彼方に消え行くのを見るうちに、李密はみぞおちに刺すような痛みを覚える。木の幹にもたれ、げえげえと苦しみ出す。反吐が出そうだが、胃中にはあいにくと外に出せるものがない。天を睨んでいた王伯当が起き上がる。李密は苦い唾を吐く。
「許せん」
「許す者など誰もおりますまい」
「天もそうであろうか」
「むろんです」
王伯当は立ち上がる。煬帝の一行はなお通済渠に連なる。矛の柄で地面を激しく衝く。日が大地の向こうに落ちる。
秋の夕闇は足早に迫り、通済渠を行く舟の姿が見えなくなる。
二人は黙って座り続ける。
どこからともなく少女の歌声が流れる。風に乗るかすかな声。その言葉を李密ははっきりと聞き取る。
桃李子 もも、すもも、
皇后走楊州 皇后は楊州に行かれて、
宛転花園裏 花園を楽しく散歩する。
勿浪語 でも、人に言ってはだめ、
誰道許 誰がそんなことを言うの。
二人は見回す。闇に沈んだ墓場に人の姿は認められない。風は急速に冷たくなる。歌はそれきり聞こえない。
王伯当はこう解釈する。
桃とは逃に音が通じる。李子は「すもも」ではなく李氏の子の意。「桃李子」は逃げる李密への呼びかけである。皇后は煬帝を指し、煬帝は南方の風光のもとで歓楽に耽ろうとしている。内緒にせよとは、もはや亡びるしかない運命を知ろうとしない煬帝への警告か。「勿浪語、誰道許」の言葉は、そのまま「密」の字の義に通じる。
「やはりあなた様は天子となられるお方なのです」
闇の中に王伯当の声が響く。
「隋に異なる世を作らねばならない」
「民が望み、天が命ずるものです」
「しかし、君と二人、こうしてさまようのも三年。今夜の食べ物もない。こんなところから皇帝の座への道が通じると思うのは容易ではない」
李密は北に向かう。
東都の中央を洛水が東流する。その水が黄河に注ぐ洛口に、隋は一大倉庫群を築いた。洛口倉という。隋の経済は長江下流域の穀倉地帯が支え、大運河を使って南から運ばれた物資は洛口倉で陸揚げされ、半分が東都の民を、残りの半分が京師の民を養った。
李密は洛口に達する。葦原の向こうに巨大な倉庫が整然と並んでいる。その建物群を囲む堅牢な石造りの壁の建設が進められている。
「膨大な食糧があそこにはあり、外には何百万の飢えに苦しむ民がいます」
王伯当の言葉に李密はかすかに笑う。
「我々も常に飢えと道連れだ」
煬帝の止まぬ奢侈と、群盗の横行によって、恐るべき飢餓が広がっていた。数いる盗賊の中でも凶暴な朱粲は、小児婦人を得ると大鍋で煮て手下に食わせ、「食の美の人肉に及ぶものはない」と言い放った。
「城壁が造られ、多くの民がさらに苦しんでおります」
「何の守りにもならぬ。憎む者を増やすだけだ」
李密が吐き捨てるように言う。
「その憎む者たち、何十万の強兵を養うに足る食糧や物資があそこにはございます」
背後に声がある。王伯当は矛を構える。李密は振り返る。王仲伯の笑い顔がある。
「よくぞ御無事でおられました」
王仲伯は跪く。李密は王仲伯の前に座しその手を取る。王仲伯は涙を拭う。
「ようやくお会いできました。まさに良い頃おいに。さっそく参りましょう」
「どこへだ」
兄はなお厳しい表情で尋ねる。
「瓦崗の翟譲です」
「その名は聞いている」
翟譲は東郡の役人であった。暴戻な上役に嫌われ、事に坐して獄に下り死罪と決まった。獄吏が「天の時、人の事は知れず、今が死ぬべきとは定まっておりません」と、翟譲を逃した。「この恩にどう報いればいいか」。翟譲が問うと、獄吏は怒り、「汝を救うのは謝礼のためではない。汝が民を救うのを期待するからだ」と怒鳴った。翟譲は盗賊に身を投じ、その清廉な人柄を慕って人々が集まり、馬上に軽々と槊を振るって飛将と綽名される単雄信と、胆太く雄略に富む徐世勣が、翟譲の最も頼りとする部下となった。二人ともまだ二十歳に満たぬ若さである。徐世勣は富家に生まれ、その父は蓄えを貧者に恵むのを好んだ。徐世勣は「近隣を荒らすばかりでは先がありません。運河を行く官船を襲い、その物資を得て行き場のない民を養うようにすべきです」と翟譲に説いた。この方策によって瓦崗を根拠地とするその集団は近隣に名を轟かせるようになった。その一方で、諸方の賊との争いや官軍の討伐が険しさを増し、瓦崗は厳しい局面を迎えていた。
「世の噂で人はわからぬ。俺が顔を見てくる」
王伯当は李密を弟に託して単身、瓦崗に向かう。
「いま上には昏主がおり、下には民の怨みがあります。鋭兵は無残にも高句麗の地に潰え、突厥との和親は断絶し、この国運の危うき際に、主上は江南において奢侈に耽り、中原の地は虚しく捨て去られております。これぞまさしく秦が亡び、項羽、劉邦の英雄が立つ時と同じでございます。瓦崗には豪傑が集まり、士馬は精勇この上なく、主上の罪を示し暴を誅するに足る力がございます。もしも劉邦を支えた張良のような智謀の士がここに居合わすものならば、暴虐の君を倒すにとどまるでしょうか。翟譲殿の武勲は天下に赫々と輝くこと必定でありましょう」
王伯当は翟譲にこのように説き、古今の兵法に通じる劉智遠を招くよう薦める。翟譲は大いに喜ぶ。
王伯当は、翟譲は郝孝徳や王薄のごろつき連中とはいささか異なると見る。単雄信や徐世勣のような勇敢な若者の上に立つだけの風儀を備え、義侠心に富み、かつ温厚な人柄は、瓦崗の勢力がいずれ黄河南側の地域、河南において、最も大きなものとなる可能性を有すると思わせる。しかし、それ以上のことができる人物ではないと王伯当は踏む。
劉智遠を連れ来るよう翟譲に頼まれ、酒食の振る舞いを受け、王伯当は心地よく酔って瓦崗の塞より出る。一人の道士が背を向けて立つ。脇を抜ける際に、道士が低い声で言う。
「天下の民のためとあれば、一時の義理に背くのは可とされましょうか」
王伯当は足を止める。
「何故にそう言うのか」
「そうでなければならぬとそなたが思っておられるからです」
道士は王伯当に顔を向ける。被りものの下の顔は若く、眼光が鋭い。
「上に立つ者はそうあらねばなるまい」
「最も無知な民の見るのはただ一つ、信義であります」
「そなたは何者か」
「魏州曲城の魏徴と申す者。道士に身を変じて諸国に人を求めております」
「何ができるのか」
「最も聞きたくないことを言います」
「それでは人に用いられまい」
「天下を治める真の王者一人に会えればいいのです」
「では、私について来るがいい」
魏徴は首を振る。
「いずれまたお会いすることもございましょう」
李密の劉智遠は瓦崗に乗り込む。
「頼みましたぞ」
翟譲は劉智遠に頭を下げる。劉智遠は近隣の諸賊を武器を使わずに靡かせることを約束し、馬を借りて王兄弟とともに走る。劉智遠の弁舌は爽やかである。あるいは天下の理によって納得させ、あるいは利をもって誘い、翟譲のもとに人々を集結させる。翟譲は感服する。李密はようやく自分に風が吹いて来たのを感じる。
「四海は沸騰するばかりに乱れ、田畑を耕す暇がありません。瓦崗の兵士はいよいよ多くなる一方で、食は日に日に不足してまいりましょう。野を掠め、水路を行く船より奪うばかりでは、大敵をいざ前にした際には、兵士は四散してしまいます。滎陽を取り、そこに兵士を休め、士馬が肥え充実するのを待って、敵と戦うのがよろしいでしょう」
翟譲は劉智遠の策に顔をしかめる。滎陽は大きな町だ。滎陽の通守である須陁には、翟譲は何度も苦杯を飲まされて来た。
「須陁は勇敢ではあっても無謀。勝ちに驕る須陁を擒にするのは難しくありません」
翟譲は決断をためらう。
「ここまでの人物ということでしたな」
王伯当は翟譲を笑う。
翟譲が二の足を踏むうちに、須陁の方が先手を打つ。大挙して押し寄せて来る敵を前に、翟譲は瓦崗の塞を捨て野に隠れようとする。これではまた無に帰してしまうと、王伯当は李密の背を押し、一つの賭けに出る。
「千人をお貸しください。翟譲様は塞に兵士を並べて待機しているだけで結構です」
他に良策を持たぬ翟譲は、劉智遠のこの言に従う。
須陁は塞に正面攻撃をかける。初めから気を呑まれている翟譲は、小競り合いに破れると早くも浮き足立ち、須陁は一気に攻勢をかける。翟譲は支えられぬと見て塞から逃げ出す。須陁は喜び勇み、陣を乱して翟譲を追う。
「ここです」
王伯当の合図によって李密は兵を出し、須陁を後方より襲う。王兄弟が奮闘する。それに呼応して単雄信、徐世勣もよく働き、須陁の大敵を破る。王伯当は兵を休ませず、そのまま滎陽を襲撃し、一気にそれを手にする。
翟譲の兄が弟に文句を言う。
「あいつの正体を知っているのか。劉智遠などという名ではない。楊玄感の謀将だった李密だ。隋から蒲山公の号を受けた名家の男だ。おまえなど到底かなう人物ではない。今のうちに何とかしないと、乗っ取られてしまうぞ」
翟譲はしばし考えた後に兄に答える。
「劉智遠がいなければ須陁に敗れ、野に屍をさらしていただろう。滎陽にこうして入れたのは劉智遠のおかげだ。もしも、蒲山公殿が望まれるのなら、滎陽も瓦崗も全て譲ったところで構いはしない」
翟譲は李密に兵士を分け、その軍営に蒲山公営の名を付ける。
王伯当、王仲伯の兄弟は盗賊上がりの兵士を一から鍛え直す。李密は倹素な服を纏って静かに見守る。間もなく、蒲山公営では規律が厳整に守られ、士卒の号令は盛夏といえども厳冬のように凛と響くようになる。徐世勣はしばしば蒲山公営を訪れ、訓練の様子を厭かずに見続ける。胡面と綽名される深く窪んだ目と高い鼻の魁偉な徐世勣の顔は、蒲山公営で目立つものとなる。
蒲山公営の部隊は戦に出れば必ず勝利し、敵を破って金宝を獲得すれば、李密は麾下の兵士に全て分け与えて自身は一つも手にしない。
翟譲の兄は李密をますます快く思わず、軍を二つに分け、翟譲は瓦崗より東を攻略し、李密は滎陽より西を攻略すると弟に定めさせる。李密は徐世勣を蒲山公営に誘うが、徐世勣は言下に断る。東に出た翟譲は思うように勝てず、西に出た李密は勝利を重ね、翟譲はすぐに滎陽に戻って、李密に物資を請わねばならなくなる。
王伯当は李密に言う。
「時を逃してはいけません」
「早すぎるのではないか」
「躊躇は無用です」
李密は意を決し、翟譲に説く。
「皇帝が江都に留まり続けているいま、洛口倉を急襲すれば、敵は遠くにあって救うことができません。洛口倉を得て、食糧を発して窮乏の民を賑わせば、一朝にして百万の衆が集まりましょう。その勢いをもって向かうなら、東都は我が手の内に入ります」
翟譲は目を丸くする。
「天下を狙うということではありませんか。それは英雄のよくなすところ、私には及びません。蒲山公殿がなさると言うのであれば、私は後より付いて行くまでです」
大業十三（六一七）年春。李密は精兵七千をもって陽城の北に出て、方山を越え、羅口より洛口倉を襲う。堅牢な壁も民の憎しみには勝てず、李密は洛口倉を手にする。ただちに倉の扉を開く。飢えに苦しむ数十万の民が大挙して洛口倉に向かう。人々が上げる土煙によって洛口一帯は昼も暗がりに包まれる。食を手にし涙する老若男女の群れを見て李密は言う。
「今日ここに我が生命が尽きるとも、この一事によって快しとせんか」
「大事はこれよりです」
王伯当は大きな声を李密の背に発する。
翟譲は「我が力量の及ばざるは我がよく知る」と、李密に魏公の号を授け、主の座を譲り渡そうとする。李密は再三辞退する。王伯当は李密に再び言う。
「躊躇は無用です」
「半年前に、私は洛口倉の蓄えを羨む飢えた民衆の一人であった。その私がかくも早くにこの快事を成し得たのは、ひとえに翟譲様が私を用いて下さったおかげである。主従の立場を逆転させるなど恩義を裏切るに等しくはないか」
「三年の労苦は何のためですか。天下のため、民のためです。誰もが待ち望む蒲山公様の世が開かれる時が来るのです。時を逃してはなりません」
王伯当は激しく李密に決断を求める。
李密は鞏の南に壇を設けて魏王として即位する。
洛口倉に集まった民衆より働けそうな男子を選び出し、李密の兵士は十万と号するまでに膨れる。王伯当、王仲伯を中軍に据え、単雄信を左翼に、徐世勣を右翼に置いて、東都に向けて軍を進める。東都からは官軍二万五千が繰り出され、李密を迎え撃つ。数においても勢いにおいても優る李密が勝利をおさめる。
李密は東都に迫る。一部の兵士は城内に潜入して天津橋を焼き、東都陥落は目前となる。
李密の陣営の前に一人の道士が現れる。王伯当がかつて会った魏徴である。
「項羽は秦の都を焼いて江南に帰り、劉邦は長安の地を得た。有する土地の広さにおいても兵数においても項羽は遥かに優っていたが、天下を定めたのは項羽と劉邦のどちらであったか。魏公様は長安に向かおうとされず、なぜ東都などに執着するのか」
李密は魏徴を招き入れ、一礼し、魏徴の問いに答える。
「いまだ東都を下さぬうちに西には行けぬ。我が方に将兵は多いとはいえ、昨日までの群盗、流民である。西に行くと言えば、河南、山東の自分らの地に帰るであろう」
「時を失って後悔なされませぬよう」
「私の時は東都を取るにある」
魏徴は衣を振るうと陣営を去る。
李密は東都をひと呑みにしようと意気込み、常の服を脱ぎ戎服を身に着けて陣頭指揮に立つ。馬に跨り旌旗を靡かせて前進する。一本の流れ矢が李密を襲う。李密は避け切れず、矢は肩を貫き、ほとばしる鮮血とともに落馬する。
敵も味方も李密が倒れるのを見る。東都の兵はここぞ勝機と攻勢に出る。寄せ集めの人間で水膨れしていた李密の軍は総壊れとなる。駆けつけた王伯当の腕の中で、李密はなお呼吸をし、王伯当は乱戦を斬り抜けて李密を救い出す。
東都の囲みは解かれ、軍は洛口倉へと退却する。
江都にいた煬帝は、王世充に江南の強兵を授け、東都救援に向かわせる。王世充は隋で最も獰猛な将軍である。西域出身で、幼くして孤児となり、人に巧みに取り入って出世を果し、江都周辺の賊を掃討し三万人を坑埋めにして煬帝にその名を知られ、江都の長官となった。豪壮な江都宮を建造して煬帝を迎え、珍宝、美女をもって煬帝に媚ていた。
黄河の北側では竇建徳が大きく勢力を伸ばす。竇建徳は農民の出で、高句麗遠征軍に駆り出されて逃亡した者たちを集めて反乱を起こし、雑草のように強い根を民衆の間に張り巡らし、底知れぬ力を蓄えつつある。
西でも大きな変化が生じる。李淵、李世民親子が太原で兵を挙げ、京師を目指して南下を始める。李淵も、李密ほどではないにしても隋の名家の出である。李淵は李密に同盟を請う書を送る。
「私は時を失ったのか」
李密の傷は痛む。東都を得られずについに敗死した楊玄感と同じになったかと自問する。一本の矢によって兵士が四散したのは、勝利に驕り翟譲の恩を踏みにじった報いかと、李密は己を責める。
王伯当は豪快に笑い飛ばす。
「勝敗は時の運。天命の他所にあるものならば、矢によって死んでおられたでしょう」
李密は李淵との同盟を決する。年長の李淵を兄と敬う姿勢を取りつつも、同盟の主は自分であるとの返事を送る。李淵はそれを良しとし、潼関よりも西は李淵が、潼関よりも東は李密が平定し、互いに干渉し合わないとの約束を交わす。
傷が癒えるとともに、李密は東都攻略に向けての活動を再開する。
黄河北岸の武陽が町を挙げて降服する。折しも武陽に身を寄せていた魏徴は李密の前に召し出される。李密は礼を尽くして迎える。
「そなたがここに参ったのは、天の時が私にある証左ではあるまいか」
「天の時を私は知りません。天が事をいかに定めようとも、為すのは人であります。人なくして事は成らず、人の去るところよりは天の時も去るのみです」
「人を得よとのことか」
「大事を定めるのは人でございます」
李密は武陽の西に隣接する黎陽を取ると決める。黎陽はかつて楊玄感が旗揚げした故地であり、黎陽の官倉には、高句麗征伐以来、蓄積されて来た膨大な穀物がある。
武陽より黄河の岸沿いに軍を進め、一方で徐世勣に五千の兵を与えて南岸の原武から黄河を渡らせる。二方からの攻撃によって黎陽倉は李密の手に落ちる。李密は倉の扉を開け放つ。雲霞の如き民衆が押し寄せ、十日のうちに黎陽の民は二十万に膨れ上がる。
この情勢を見て黄河の北側の郡県は争って李密に降り、竇建徳からは李密と同盟するとの使者が来る。
煬帝に派遣された王世充が東都に入る。十万の大軍を整え、洛口倉を攻撃する。洛水を挟んだ緒戦で李密は負けたものの、勝ちを誇った王世充の隙に乗じてその本営を襲い、三千余りを斬って、王世充を退ける。王世充は一旦、東都に引き上げ、軍勢を立て直して出て来る。李密は再びこれを破る。
西では、李淵が京師に入る。煬帝の孫を皇帝として即位させ、煬帝を勝手に太上皇に祭り上げ、李淵自身は唐王を名乗る。
一つの偶発的な事件が生じる。
翟譲は主の座を譲ったのを悔やんでいると李密に告げる者があった。翟譲の兄は「天下を人に与える馬鹿もないものだ」と弟を罵っていた。翟譲の旧くからの部下の中には、李密を殺して軍権を奪い返すべきだとそそのかす者が多くあった。李密には、翟譲を消して身中の憂いをなくすべきだとの忠告が相次いだ。
ある宴席である。酒食の用意を待つ間に、良い弓を手に入れたと、李密が翟譲に披露する。翟譲は手にする。
「まことにすばらしい。試しに射てもよいでしょうか」
翟譲は矢を手にし弓を構える。誰かが叫ぶ。
「危ない」
多数が飛び出し、翟譲の身体を押さえる。李密のまわりを人々が取り囲んで翟譲から引き離す。翟譲の部下が一斉に剣を抜き、あるいは翟譲を救おうとし、あるいは李密を撃とうとする。人々が思い思いの行動を取り、大混乱となる。何人もの男が血まみれで倒れる。李密は屋外に連れ出される。翟譲は満身に刀傷を負う。騒ぎを耳にした徐世勣が中に飛び込む。「翟譲殿を救え」。徐世勣が叫び、多数が切りかかる。徐世勣を囲んでの乱闘となる。
李密は「止めろ」と叫びかけ、その口は王伯当によって押さえられる。
「かくあるべきところに行き着かせねばなりません」
単雄信が地に頭を擦り付け許しを乞う。
徐世勣が倒れる。翟譲はすでに絶命。騒ぎはおさまる。
李密は人々に言う。
「諸君らは皆、義兵を起こした同志である。貪婪な者、一人を誅し終われば、誰一人として咎はない」
李密は軍営に赴き、衆に何ら心配のないことを説き、今後、王伯当、単雄信、徐世勣の三人が軍を分領すると定める。徐世勣は虫の息ではあったが、李密は敢えてその名を挙げた。旧くからの翟譲の馴染みが反するのを防ぐためだ。
軍営を出た李密の前に魏徴が立つ。
「人の心を失って、天の命を得た者はおりません」
李密は顔を背ける。
武徳元（六一八）年正月、王世充は七万の兵を繰り出す。李密は三十万という大軍で迎え、王世充を大いに破り、東都の前に迫る。北邙山に陣を置き、南からも軍を進めて上春門に矢を放つ。
王世充は固く門を閉ざす。東都内には李密に通じる者があり、門を開く刻限までが定められる。王世充はその一味を尽く殺す。東都城内では殺戮の嵐が吹き荒れ、包囲の続く中、食糧が急速に欠乏する。
三月、江都にいた煬帝は側近に殺害される。謀反の主は宇文化及である。宇文化及は煬帝の甥を新皇帝に仕立て、その他の皇族を殺し、朝廷の百官及び皇帝警護の兵士を引き連れて京師に帰還すると宣言する。兵士の大半は京師周辺の出で、李淵に占領されたと噂される故郷に早く戻りたがっていた。
宇文化及の軍勢は十万を超える。李密にとって容易ならざる事態である。十万の隋の正規軍は、李密の急造軍とは装備からして違う。東都の王世充に加えて、宇文化及に挟まれては持ちこたえる自信はない。
煬帝弑虐の報に接し、東都の王世充は煬帝の孫の楊侗を皇帝に仕立てた。李密は東都との和議を決意する。飢えに苦しむ王世充は喜んで応じ、楊侗は、太尉、尚書令、東南道大行台行軍元帥、魏国公と仰々しい爵位を並べて李密に授け、宇文化及を成敗して後、東都に入って輔政せよとの勅書を送る。
楊侗からの使者を迎えた李密に魏徴は言う。
「何の義がここにありましょうか」
李密は答えない。
李密は東都の囲みを解き、宇文化及の北上に備える。
宇文化及は何よりも食糧を必要とし黎陽倉を目指す。黎陽倉には徐世勣がいる。李密は、傷の治療に専念させるのを名目として、徐世勣を前線より離してここに置いていた。
「徐世勣が宇文化及のために倉を開かぬ保証がありましょうか」
王伯当に言われるまでもなく、李密は自ら兵を率いて黎陽に向かう。
川を隔てて、李密は宇文化及を罵る。
「汝父子は隋の恩を受け、汝は帝より娘を妻に賜り、それでいながら帝の失徳を諌めもせず、弑虐の大罪を犯した。天下にこの上もない大悪人となり、どこに行こうというのか」
宇文化及は怒り、大戦となる。李密は優勢のうちに戦いを進め、童山の麓に陣を敷き、櫓に立って、戦闘の指揮を執る。宇文化及の一軍が決死の覚悟で李密の本陣を襲う。数は少ないが、疾風のように櫓に迫る。乱戦となり、矢が櫓に注がれる。李密は突然の激痛を覚える。矢を握る。この前受けた傷のすぐ隣に立つ。李密は歯を食いしばって倒れず、指揮を続ける。無謀な戦いを挑んできた敵の一隊は全滅する。王伯当が李密の肩より矢を引き抜くと、血が噴き出し、李密は気を失う。
宇文化及は勝機を逃し、黎陽を諦めて東へと移動する。食糧の確保に失敗した宇文化及のもとからは将兵が四散し、瞬く間に勢いを失う。
傷に伏せる李密を魏徴が見舞う。
「隋に反して二度挙兵し、三度東都を囲んでいながら、隋より新たな爵位を受け、逆徒を罵るに隋の恩を説く。何の信がそこにあるのでしょう」
魏徴の言は痛烈である。李密は身を起こし、苦痛を隠し、穏やかな表情を作る。
「天の義、天の信はまさにこの私にある」
四
武徳元（六一八）年九月、決戦の時。
矢の傷が塞がると、李密は王世充との和議を反故にし、東都に向けて兵を動かす。王世充もそうなることは先刻承知である。
王仲伯を始め将軍たちは今度こそは取れると思う。魏徴だけは違う。
「義もなく信もない。その上、兵の利もない。今日まで我々は勝ち続けた。度重なる戦いで驍将、鋭卒の多くが死んだ。将軍たちには驕りの色があり、兵卒には疲労と怠りがある。内がこの有様で敵に当たるのはたやすくない。王世充は食に欠乏し、早い決戦を望んでいる。死を覚悟する鉾先と勝利を争うのはもとより難事である」
李密は玉座に迫っている。猶予している時ではない。李密、竇建徳、王世充の三つ巴の争いから勝ち抜く者が天下統一に最も近付くだろう。王世充や竇建徳に負けるわけにはいかない。血に飢えた獰猛な武将や、土臭い無学な農民に天下を任せてはならない。煬帝が滅んでもその後を王世充や竇建徳が取るのでは、天下の民にとって大いなる不幸である。民衆が謡う「楊氏まさに滅びんとして、李氏まさに興らんとする」に応えなければならない。
「東都の民は王世充の獰猛さを恐れて従うだけ、江南より連れて来られた兵士は帰るのを願っております。王世充が亡びるのを望む者は多く、王世充に一身を投げ打つ者はおりません。これより東都へと兵を進め、城内に向かって一呼すれば、たちまち多数が応じ、城門は自ずと開かれましょう」
李密の背後に立つ王仲伯が言う。
金墉城の柵の前。李密の前を兵士が列をなして行軍する。一人一人、志気に溢れ、日焼けした顔が朝日に輝く。李密は兵士に目を向けたまま王仲伯に応える。
「人々が望む通りに世が成り、天運が滞りなく動くものなら、そうなるだろう。史書を見れば、そうならぬことも多く、人々は嘆き、天には異変が生じた。しかし、私は死ぬべき目に何度も遭いながらも、今こうして兵を東都に向けて進めている。このたびばかりは、人の望み、天の運が正しく実現する何よりのしるしであろう」
横に並ぶ王伯当はゆっくりと振り返り、弟の肩にずしりと両の手を置く。
「この時にこそ働かねば、人の望みは潰え、天の運は離れるのだぞ」
金墉城の守備に王伯当を残し、李密は王仲伯と単雄信を連れて東都に向かう。
東都はすでに丸裸である。李密は洛口倉から着々と東都本体へと迫り、洛水沿いに偃師、金墉城と重要な拠点を抑えた上で、いよいよ東都に兵を進めた。
北邙山の麓に軍を止める。明朝よりの城攻めの手筈を定め、李密は平所に、単雄信はその前に、王仲伯は山に近い奥まったところに陣を取る。
夜明け前、王仲伯はうなされて起きる。暗がりを通して物音が伝わる。王仲伯は跳ね起き、剣を取り、陣幕から飛び出す。罵声が飛び交う。
「どうした」
走り寄る部下が答える。
「わかりません」
すぐに武器のぶつかり合う音。馬の蹄の音が迫る。矢が飛ぶ。
「山からか。魏公様に早くお知らせしろ」
王仲伯は手兵を集める。敵は見えぬ闇の中にいる。
たちまち乱戦になる。どこからともなく矢の雨が降り、突然に騎兵が姿を現わす。敵は当たるを幸い切りまくり、突然姿をくらます。夜こそ自由に飛び回る蝙蝠のような敵に翻弄される。状況が把握できぬままに多くの兵士が斃れる。王仲伯も傷を負う。
その朝は霧がかかり、明るさが届くのが遅れる。
「万歳」
わずかに薄明かりが差すころ、大きな声があたりに響く。
「李密を捕らえたぞ」
王仲伯は走る。小さな林を抜ける。霧の流れる先に、馬が立ち、その背に一人の人物が据えられている。縄で厳重に縛られている。身体付きといい、顔といい、李密だ。
「魏公様」
王仲伯は叫ぶ。馬上の男は腕を動かそうとしても縄によって動かせず、声を出そうとしても猿轡によって口が開かず、ただわずかにうなづくだけだ。
「何ということだ」
王仲伯は飛び出す。
駆けて、はっとする。もしかして、よく似てはいるが李密その人ではないかもしれないと気付いた時にはすでに遅い。深い草の中から伏兵が一斉に飛び出す。王仲伯の身体に無数の剣が立つ。
王世充は必死だった。勇猛で知られる王世充の兵士の中でも最も強い者二百騎を連れ、夜の間に北邙山中に潜入した。
「今日の戦いは勝ちと負けを争うものではない。生きるか死ぬか、その分かれ目である。勝てばおまえたちには富貴が約束される。負ければ一人として生き延びることができない。戦うのは国のためではない。おまえたち自身のためだ」
かねてより李密によく似た男を秘かに養い、夜明けとともに、李密を捕らえたとして万歳を唱えさせた。王仲伯は罠にかかった。
夜襲によって混乱を来たしていた李密の軍営は、王仲伯を失って立て直す術を持たず、王世充が火を放つと、張童仁、陳智略といった李密の将が相次いで王世充に投降した。
一人の兵士が金墉城に逃げ込み、李密が捕らえられたと王伯当に告げた。夜が明けて間もないころだ。兵士の身体はあちこち傷付き、固まらぬ血が流れている。
「そんなはずはない」
王伯当は怒鳴る。だが、前の日にここを発った兵士であり、真実を語っているとしないわけにはいかない。
王伯当に考えられる方策は三つしかない。第一は東都に向かって王世充に決戦を挑む。見回すと、金墉城にはわずかの兵しか残っていない。勝算はない。第二は洛口倉に戻って軍の建て直しをはかる。洛口倉にいる邴元真を王伯当は信用していない。「邴元真を殺さねば後々ためになりません」と王伯当は李密に言っていた。邴元真はかつては隋の県吏だった者で、賄賂をあくどく貪るために告発され、翟譲のもとに逃げ込み、翟譲は字の書ける邴元真を書記として使った。後に李密が翟譲の上に立つようになると、翟譲は邴元真にしかるべき役を与えてくれと頼んだ。李密は邴元真の貪欲さは不快に感じていたが、翟譲の申し出には従った。翟譲を殺した後は、李密は翟譲の旧くからの知己になるべく厚く酬いることにし、邴元真には洛口倉の管理を任せていた。
王伯当は第三の道を選ぶ。黄河対岸の河陽に向かう。いちはやく黄河の北に新天地を開き、捲土重来を図る。これまでに何度も危うい目に遭いながらも切り抜けて来た李密である、もう一度復活できるに違いない。
李密は東に走る。金墉城は王伯当に任せ、自分は偃師に入って四散した兵士を集め、再度東都に挑もうとする。
王世充は先回りし、李密が破れたとの報せを金墉城と偃師に前もって送り込み、偃師には別動隊も派遣した。李密に後を託された偃師の守将は抵抗する構えだったのだが、部下が裏切り城門が開かれた。
李密は偃師が王世充の手に落ちたと見て、さらに東に走り、洛口倉を目指す。一旦は散り散りとなった兵士が少しずつ戻る。単雄信も姿を見せ、李密は幾分か安堵する。
川向こうに洛口倉を望む地点に達する。洛口倉を逃れた者が、邴元真の謀反を知らせる。洛口倉内では朝から激しい戦いがなされ、邴元真一派が勝利し、王世充を迎え入れようとしていると言う。
彼方に土煙が上がる。王世充が後ろから迫る。
李密は川べりから兵士を離し、茂みの中に潜ませる。王世充の軍を先に進ませ、敵の半ばが渡ったところで背後から襲うという、起死回生の最後の手段に賭ける。
王世充の勢いは猛烈だった。李密が立てた見張りが頃おいと襲撃の合図を送り、李密が立ち、兵士が鬨の声を上げて走り出た時、すでに王世充の軍は渡り終えていた。
李密は川べりに立つ。対岸の洛口倉はすでに自分の手を離れた。
「これまでですな」
背後に声がする。単雄信だ。
「いや、まだだ」
李密はすぐに言葉を返すが、声に張りがない。
単雄信は自慢の槊を突き出す。李密の鼻先でひゅっと風が鳴る。
「何をする」
「いや何もしない。これまでの恩義に免じ、何もせぬのを幸いと心得られるがよい」
単雄信は槊を二度三度と振り、馬上にまたがって走り去る。多くの兵士がその後に従う。
単雄信は去就に節操がないと王伯当は言っていた。李密は単雄信の勇猛さを愛し、身近に置き続けていた。
わずかな兵だけが残る。金墉城の出陣からまだ一日しか経っていなかった。
「なぜだ」
李密はふっとつぶやく。
天の時は己にあるはずだった。それがなぜこうなったのか。
李密は項羽を思う。項羽が劉邦に破れた理由をかつて李密は楊素に説いた。
李密はかすかに微笑む。
項羽はそのような理由など知らなかった。
項羽は劉邦に追い詰められて烏江の岸辺に立った。一艘の舟があった。舟の主は「江東は小さいとはいえ千里四方はあり、衆の数は十万、王として君臨するに十分な場所です」と、急ぎ乗るよう促した。項羽は言った。「天が我を滅ぼすのだ」。項羽は川を渡らず、自ら首を刎ねた。
「天が我を滅ぼすのか」
洛口倉を見据える。怒りが沸く。
「私は違う」
天は李密に天子となる命を授けた。その天が李密を滅ぼすはずはない。
李密は残った部下に言う。
「黎陽に行こう」
黎陽倉には豊富な物資の蓄えがある。そこを拠点に再起を図る。
皆が反対する。
「あの傷はまだ癒えていないでしょう」
黎陽には徐世勣がいる。李密は嘆息する。
「翟譲殿の恩を裏切った過ちがここに現れたのか」
滅ぼすものは天でなく己であったのか。
李密は洛口倉より遠く離れ、林中に一晩を明かし、次の朝に見れば、周囲は敵の旗印に埋め尽くされている。
李密は厳しい追撃を受ける。少ない兵士が次々に捥ぎ取られる。
「もう来なくていい。死を共にするばかりだ。諸君らは好きなところへ行くがいい」
言葉通りに去った者もあり、離れようとしない者もある。
「本当にそれでよいのか」
残るは十騎ばかり。疲れ切った馬を捨て、丈の高い葦原の中に身を潜ませる。
夕暮れの迫るころ、洛水が黄河に合流する虎牢に達する。高い土手を上ると、滔滔と流れる大河がある。風が李密の顔を吹く。
「向こう岸に渡りさえすれば、まだ終わりとはならぬか」
またも項羽を思う。
振り返れば、広い葦原。王世充の兵がどこからでも出てきそうな気配がある。
李密は膝を付く。兵士たちも座り込む。一人残らず傷付き、乾いた血に泥が厚くへばり付いている。口を開く者はいない。
秋の日の暮れるのは早い。大河の流れは夕闇に沈み、風が冷たさを増す。
「すまぬ」
李密は頭を下げる。兵士は無言である。
李密は枯れ葦を集めて燃やす。敵の目を恐れるが、疲れ切った兵士に馳走できるのはこれしかない。
人々は何時しか眠りに落ち、李密は一人、火の番をしつつ物思いに沈む。背に川の音が響き続ける。
薄明かりがさす。
李密は立ち上がる。どこからか歌声が流れる。
「楊氏将滅、李氏将興」
声は聞き覚えがある。
土手を走る。朝靄が流れる岸辺に一艘の舟がある。中に男がいる。
「お乗りください」
王伯当だ。
李密の顔は喜びに輝くが、一瞬にして、暗く沈む。
「きっとお会いできると思っておりました。河陽を押さえ、すぐに戻って参りました。これぞ天の運が我らより去らぬ何よりの証拠でありましょう」
李密は崩れるように土に座す。
「すまない」
王伯当は岸より上る。
「君の弟を死なせた」
王伯当は李密の腕を取って立たせようとする。
「あれの働きが悪かったに相違ありません」
眠っていた兵士が集まる。皆を周りに座らせる。李密は地に座し深く頭を下げる。
「皆をここまで苦しめた全ての非は私にある」
「御自身を責めても、何の益もありません」
王伯当は李密の背に立って言う。李密は力なく言う。
「非はそもそもの初めよりあった」
「何をおっしゃいますか」
「もとより私一人が先に死んでいれば、このようなこと全てはなかった」
「天子になるべきお方ではありませんか」
「天はこれまで何度となく私に死ぬべき時を与えた」
「魏公様が常に死を免れて来たのは民の心、天の運によるものです。今回もなお」
「違う」
「弟は死んで悔いはなかったはずです。魏公様が天子になるに役立つ死だからです。もしも、魏公様が天子となる望みを捨ててしまわれるのなら、その時に弟は己の死を悔いるに違いありません」
李密は目を伏せる。ざわざわと風が起こる。
「敵が来ます。早く舟へ」
李密は首を振る。
「これ以上、諸君らを苦しめることをしない」
李密は剣を手にする。
「我が罪に報いる法は一つ。この首をもって、諸君らに詫びるまでだ」
李密の剣が喉に向かう。王伯当は李密の腕を蹴り上げる。李密は仰向けに倒れ、王伯当は剣を取り上げる。李密は身動きしない。
王伯当が声を張り上げる。
「弱気になる時ではありません」
王伯当は大笑する。王伯当の声が葦原を渡り、川面を渡る。
李密を抱き上げる。
「ここは死に場所ではありますまい。玉座につくべきお方が、地にまみれて死んではなりません」
「なおもそのように言うのか」
「私がおります限りは」
李密は目を閉じる。
「さあ、舟にお乗せするのだ」
兵士は李密を担ぎ、舟中に運ぶ。
舟は黄河の広い流れへと進み出る。王伯当は再び歌う。
「楊氏将滅、李氏将興」
李密は河陽城に入る。
集まり来る兵士がある一方で、何時の間にか姿をくらましてしまう者もある。武器や食糧の蓄えは乏しい。王伯当は、一万の勢力をもって東都攻撃を再開するとの噂を外に流す。実数はその一割に過ぎない。
「南は大河をもって王世充を防ぎ、北は太行山までを我が地となし、東に竇建徳と盟を結ぶ。来年の春に再び黄河の向こうに兵を進める。ひとたび魏公様の声が河南の地に響けば、それに応じる者は数知れず、洛口倉はただちに我が手に戻る。さすれば、間違いなく東都にも入城できよう」
王伯当は河陽城の兵を前に、熱を込めて語る。人々の反応は鈍く、李密は目を閉じ沈鬱な表情で王伯当の背後に腰掛ける。
魏徴が口を開く。
「衆心は時の勢いによって靡きやすく、黄河の南は遍く王世充に屈し、我が方には自らを養う食糧にも不足しております。兵は報いるものがなければ戦い続けることができず、民は食えるもののないところには集まりません。河陽の小城をもって太行山までいかにして攻略するというのか。いかなる威をもって東は竇建徳と盟を結ぶというのか。春に黄河を渡ると言いつつ、これからの冬をいかに凌げばいいというのか。人々の情にそぐわぬ言葉は人心を不安に追いやるのみです」
王伯当は怒る。
「人心を阻喪させる言に何の益があろうか。容赦はせぬぞ」
「民の信がなく、明日の食もなくして、どこを大計を立てる礎とするのか。天下に示す義がなく、天下の情勢を見定めることもせずに、どこへ一歩を踏み出そうというのか。そのどちらもない大言壮語は人の気を腐らせるのみです」
「臆病風に吹かれたのなら、ここより去るがいい」
王伯当は殴らんばかりの勢いで魏徴を睨む。
李密は目を開く。
「窮地に追い込まれながらなおもここに留まる者たちである。一人残らず勇気に溢れ、罵られるべき者はおらぬ。誰もが王世充の兵士千人に匹敵する」
李密は王伯当を座らせ、皆の前に立つ。
「ここにはこれだけのつわものが揃っている。古今にこれほどの勇者を揃えた者が幾人いただろうか。しかるになぜこの窮状に及んだのか。罵られるべき者がここにいるとすれば、私一人をおいて他にない。私一人の故に東都を目前に敗れた。虎牢において自刎しようとしながら、なぜ今もなお生き続けるのか」
王伯当が立ち上がる。
「天下を定めるためです。天下の民は魏公様が玉座に昇るのを待ち望んでおります」
「そうは思わない」
「民間に謡われる楊氏将滅、李氏将興こそは、天の意を示すものです」
李密は微笑を浮かべる。
「その歌は、天の意、民の心を示すものだ」
「であるからこそ、今日もなお」
王伯当の言葉を李密は遮る。
「であるからこそ、私は敗れたのだ」
「何をおっしゃいますか」
「李氏将興。この李氏を私であり、天の命は私にあると思ったのが誤りであった」
「そんな」
「非は己にあるのを知っていながら、なぜ私は生き続けるのか。なお一つの仕事が私にはある」
李密は魏徴の前に立つ。
「そなたの言に幾度となく背いた。今日はそれを繰り返さない。そなたの言う通りに民は今日の食をこそ求める。天下を定めるとは、民が明日の食に心を煩わせることのない世を作ることだ。洛口倉を開いた時に、黎陽倉を開いた時に、何十万という民が集まり、何万という強兵が得られた。民が何を望んでいるのかは明らかだ」
王伯当が口を挟む。
「ですから、天子の位を目指して」
「いや、天下の情勢を大きく見据えず、信義を持たぬのなら、為すのはただの誤ちでしかない。今日まで私がしたのがそれであった。世を乱す群盗と何ら変わらず、天下を定めるのに何の益もなかった。翟譲殿に遥かに及ばぬのを恥じねばならない」
「そんなことはありません」
「諸君らには無用の労苦を強いるばかりであった。幸いにも諸君らがなお私を見捨てぬとあれば、我が誤りの償いには小さすぎるものではあるが、天下の民を安んじるとともに、諸君らには富貴をもたらす約束を私はしたいと思っている」
「魏公様が天子となる他に何があるというのですか」
李密は人々の顔を見渡す。
「諸君らを関中に連れて行く」
王伯当は立ち上がり、両手を振り上げ、うめき声を出す。
「関中には李淵殿がいる。そこに諸君らを連れて行く。李淵殿こそが隋の後の王朝を開く李氏である」
王伯当はがっくりとうなだれる。
「李淵に天下を譲るのですか」
「そのように言ってもいいだろう。李淵殿は諸君らを粗略に扱いはしないだろう」
「我々は李淵のために戦ったのではない」
王伯当が再び激する。李密は静かに応じる。
「天下が早く鎮まる。民が望み、天が良しとするのは、その一事である。李淵殿は天子にふさわしい方であろう」
「そのようなことはありません。魏公様こそが天下に君臨すべきお方です。私は李淵なぞが皇帝となる世に生きていようとは思いません」
「私は関中に向かう。もしも君が私を見捨てると言うのなら仕方ない。関東には君の名を慕う者が大勢いる。君はなおここで戦い続けてよい」
王伯当は李密の顔を見つめる。
李密こそが関東で戦い続けるべき男だと王伯当は思い、李密もそう思っているに違いないと王伯当は思うのだが、李密の表情は少しも動かない。
王伯当はばったりと足元に伏す。
「いかなることがあろうと、魏公様のもとを去ることがありましょうか。屍を山野に晒そうとも甘んじて受ける覚悟は最初からでございます」
五
李密は河陽城を発ち、西に向かう。
潼関を越えるころ、李密に従う人間は二万となる。
李淵は、自ら皇帝に仕立てた煬帝の孫より皇位を譲り受け、唐の皇帝として即位し、その皇帝からの使者が毎日のように道中にある李密を訪れる。同行する者は、京師に着けば大歓迎を受けるだろうと期待する。そうした人々の気持ちに添うよう、「いずれ唐の宰相となり、諸君らも思いのままの地位に昇れる」と李密は口にする。
武徳元（六一八）年十月八日、李密は京師に入る。
五年ぶりの都である。城門をくぐれば、都の姿は元のままである。戦火を蒙るところが少なく、隋の繁栄時の面影が変わらずにある。李密は目眩を感じる。楊玄感に誘われ勇んでここを出た思いが蘇る。
「なぜ戻ったのか」
つぶやく李密の袖を王伯当が曳く。
「二万の兵があります」
「もうその時ではない」
李密にあてがわれた宿舎は狭く、李淵と会う機会はなかなか来ない。隋の世からの知己で唐の高官に昇った者が訪れる。敗残の将を哀れむもあり、万事窮して降伏した男を蔑むもある。よい官位が得られるよう口利きをすると賂を要求する者もある。日を重ねるにつれ支給される食糧が不足がちとなる。
ようやく李淵に会い、李密は愕然とする。唐の皇帝は凡庸な男だ。飾り気のない好人物ではある。心の底から滲み出るような親愛の情を示し、李密を「弟」と呼び、君臣の礼を取らせない。光禄卿上柱国の職が与えられる。宰相には下る。李密の将士たちもそれなりの待遇を受けるが、さほどのものではない。
李淵は関中での基盤を固めるのになお難儀し、西と北で強敵との戦いを続けていた。李淵の子、李世民は薛挙、薛仁果父子との長く苦しい戦闘の末、李密が京師に入った直後に、豳州における睨み合いに焦れて撃って出た敵を破り、最終的な勝利を得た。薛父子にさんざん手こずらされた李淵は、敵の一味を尽く殺せと李世民に命じる。
「薛挙、薛仁果は残虐を恣にして滅びました。陛下が遺恨とされるのももっともでございます。しかし、民には何らの罪はなく、慈しまずにおいていいものではありません」
李密は李淵を諌める。李淵は「弟」の助言をよしとして、李世民に直接言うようにと、李密を豳州に向かわせる。
王伯当は道中ずっと怒り続ける。
「子どもの使いだ。お上が手紙を書いて送ればいいだけです。魏公様ともあろうお方がわざわざ遠く出向くことでしょうか」
「皇帝に仕えるとはこのようなことだ。皇帝の命の有無によらず、薛父子に与した者を救うとあれば、豳州に行くのを厭うものではない」
「民を思うお心からでしょうか」
「私と共に戦う人々であったかも知れぬ。楊玄感殿が敗れ、私は君の弟と共に天水に逃れようとした。潼関の西で捕まっていなければ、西方で旗揚げしたのは、薛挙、薛仁果ではなく私だっただろう。そうであれば、私とともに京師に入城できたかも知れぬ民が、薛父子に従ったがために悲惨な目にあい、唐にも敗れた。これを哀れまずにいられようか」
「魏公様こそが京師の最も中央におられるべき方なのです」
「その夢は終わった」
二人は馬を並べて走る。
李密はぽつりと漏らす。
「明らかに己に及ばぬと知る者を上に戴くのを辛いと言ってはならぬのか」
王伯当は李密の横顔を見る。李密は遠くを見ている。李密は言う。
「親侍衛であったころ、隋の宮中を闊歩する高位高官の者を見た。楊玄感殿の叛軍に加わり、乱を好む士を見た。諸国を流浪し、野の豪傑を見た。そのどこかに私に及ぶ者がいたであろうか」
王伯当は首を横に振る。
「宇文化及、竇建徳、王世充と戦った。勝ちもあり負けもあったが、そのいずれかで私に及ぶ者があっただろうか」
王伯当は再び首を横に振る。
「私は京師に来た。ここの宮中に誰か一人でも私に及ぶ者がいるだろうか」
王伯当は三度首を横に振る。
「天下は唐のものとなろう。それは隋とどこが異なるのか」
王伯当は四度首を振る。
李密は拳を握る。王伯当は馬を寄せ、その腕を取る。
「ここに剣をお取りください」
李密は目を閉じる。
「しかし、人を信じるという一事において、私は翟譲殿に及ばなかった。もう遅い」
李密は李世民に会う。
営舎の外で待機する王伯当の前に、李密がゆっくりと戻る。たっぷりと酒食の接待を受けた赤い顔に夕日がさす。その光を避けるかのように、李密は深く目を伏せる。静かな歩みが、王伯当の控える膝先に止まる。
李密は大きく息を吐く。もとより小柄な李密である。地に落ちる影の長さのためか、これまでになく小さく見える。
李密は再び大きく息を吐き、そして、ふふっと笑う。
林の向こうに日が沈み、李密の影が消える。
「さばさばした」
李密は王伯当の肩に手を乗せる。
「君は相手を間違えた」
李密は小さく笑う。王伯当には悲しげに聞こえる。
「あの男こそが真の英主だった」
京師に戻ると、李密は朝廷での仕事に精を出す。李密は熱心に職務をこなすが、王伯当にはその姿が痛々しく見える。
朝廷の重要な儀式である大朝会のために、李密は光禄卿の職柄として、何日も前から食事の準備をし、配膳の手配をし、当日は、儀式の進行に従い、朝廷の人々に食を勧めた。
大朝会が終わると、人々は残った食物を皇帝からの賜りものとして持ち帰り、家人に分け与える。李密は王伯当にその賜りものを見せる。長安中に材料を求め、王伯当も奔走してやっと用意した豪華なものだ。
李密は美しく盛られている器の一つを手にする。それを睨み、ぐいと腕を振り上げ、床に投げ付けようとし、器が手を離れる寸前で止める。
「木の皮にも及ばない」
「どうなさいました」
「何もない。大朝会は滞りなくすみ、お上も御満悦の御様子であった。勤めは十分に果せた。だがな、この料理のどこが旨いのだ。君が煮てくれた豆と粟の粥がなつかしい」
王伯当はしばらく李密の顔を見つめ、頃おいを計って静かに言う。
「魏徴が黎陽の徐世勣のもとに向かいました」
李密は嘆息する。
「私もそのように聞いた」
「大きな悔いが残ります」
「言うな」
李密はいつになく口調が荒い。
「いえ、申し上げます。徐世勣は王世充と戦い続け、河南の地に呼応する者も多いと聞きます」
「よせ」
東都で敗れた李密は徐世勣を疑って黎陽に向かわなかった。河陽城に入った後も、徐世勣には一人の使者も送らず、李密は西に去った。しかし、徐世勣は関東でただ一人、魏公の臣を名乗り、王世充との戦いを止めずにいる。
李密は拳を握りしめる。
「天の命を信じようとしながら、人の心を信じなかった。徐世勣の情の厚さを疑いながら、魏徴の理屈には従った」
「李淵の書があり、唐に帰順するよう魏徴が説けば、真正直な徐世勣は、その通りにするでしょう」
「それでいいではないか」
王伯当は賜りものを脇に押しやる。
「こんなものを用意するために汲々とし、ずっとこうしているおつもりなのですか」
「決まったことだ。李世民にはかなわない。無益な争いを続けるのは民のためにならない」
「黎陽には魏公様の臣である徐世勣がいるのですぞ」
李密は翟譲を救おうとして飛び込んだ徐世勣の姿を思う。胡面と言われたその顔を今にも見たくなる。
李密は賜りものに拳を振り下ろす。皿が割れ、血が飛び散る。
「もう遅い」
「己を屈し続けることに慣れては終わりです。本当に時を失いますぞ」
「時か」
李密はつぶやく。何度その時なるものを思ったことか。
李密は顔を上げる。
「そうか、魏徴ではない。私が行かねばならない」
「唐の世は民を幸せにしません」
王伯当の言葉を李密は黙ったまま聞く。
李密は皇帝に願い出る。
「臣は陛下の恩寵を蒙り長安において安閑と暮らし、いまだに何ら功を挙げておりません。臣の深く恥じるところであります。河南、山東の地はなお唐に従わぬとはいえ、その衆は皆かつて私の麾下にいた者です。これより山東に趣き、陛下の命に従うよう号令をすれば、たちまちにして唐に帰順し、王世充は塵芥を捨てるように消し去ることができましょう」
唐の群臣は魚を池に投げ、虎を山に放つものだと反対する。李淵は「弟」の言を信用し、出発に際して「弟」を御榻に昇らせ、手に手を取って盃を交わす。
「こうして酒を共にするのは心を共にすることである。丈夫は人と約束したならば、その一言は千金をもっても変えることがない。弟よ、君のこのたびの行を疑う者がいる。朕は赤心をもって弟の心を思い、弟が赤心をもって兄の心に応えてくれるのを、朕は少しも疑わない。兄弟でなければわからぬことである」
六
武徳元（六一八）年十二月、李密は京師を発つ。
都の城門を東に出る。
「ここに来て二ヶ月。長すぎたかも知れぬ」
何のためにここに来て、何のためにここを出るのか。
李密は都を振り返る。
「二度とここを見ることはあるまい」
「いえ、きっとこの次は」
王伯当はその先を言わない。
同行する兵士はわずか数百。唐に一緒に帰順した二万のほとんどを京師に残す。再び京師に戻る意を皇帝にはっきりと示すためだ。李密は東へと進み、華州に兵士の半分をさらに残す。
徐世勣は魏徴の訪問を受け、その説得によって唐に降る決意をする。「黎陽の地と民は、魏公様より預かったもの。それを唐に献じるのを我が功とするは、主の敗北を利用して己の富貴を求める、まことに恥ずべき行為である。この地と民はまず魏公様にお返しし、魏公様より唐に献上していただくのがよい」とし、李密に手紙を書き送る。その使者が西へと走り、潼関を通って京師に向かう。
入れ違いとなって李密が潼関より東に出る。関を後にすると、李密の足は自ずと速まる。潼関を預かる春宝徳は、隊伍を整えて去っていく李密一行の後ろ姿を見送り、不安を覚える。異様な気迫に満ちている。後に罪を問われるのを恐れ、朝廷に急使を送る。李密には叛意が見えると春宝徳は報じる。
李淵に李世民からの手紙が届く。李密は尋常ならざる男であるから信用せぬようにとある。徐世勣の使者が長安に到着する。使者は李密に宛てた書だけを持ち、唐の皇帝に宛てた書を携えていない。
李淵は大きな疑いを抱く。李密を呼び戻す。山東の地で兵を自由に動かしてよいとする節度を授けるため、単騎、朝廷に戻るようにと勅書を送る。
李密は黄河に沿って東に進み、稠桑において勅書を携えた使者が追い付く。野に幕を張り巡らして李密は使者を迎え入れる。勅書を拝受し、使者をねぎらう酒食を出す。
李密は幕の外に出る。
「戻るべきか」
王伯当にささやく。
「お戻りになるべきでしょう」
「お上は私を疑っておられる」
「宮中には魏公様を疑う者が多数おります。しかし、直接お会いすれば、疑いは解けましょう」
李密は王伯当の腕を取る。
「君は本当にそう思うのか」
「もちろんです」
「丈夫の一言は千金をもっても変えぬと、お上と約束をした。であるから、私が戻らねばならぬのは明らかだ」
「その通りです」
「君は本当にそう思うのか」
「では、どのように私が思っているとお考えなのでしょうか」
「私が今思っている通りだろう」
李密は王伯当の手を握る。王伯当は強く握り返す。
「その通りです」
「ならば、最初に会った日に、君が言ったことをもう一度ここで君は言うことになる」
王伯当は李密の前に立ち、厳かに言う。
「今の皇帝に代わって天子の位につくべきお方は、あなた様でございます」
「唐の臣としていかに高い位に昇れようとも、それは私の為すべきことではない。唐の臣として生きれば、子々孫々にわたって繁栄が約束されよう。それは私の為すべきことではない。私には、為さねば悔いの残ることがある。今をも、子々孫々の将来をも台無しにしてしまうかもしれない。それでも為すべきことだ。その一つを私は失いかけていた。気付くのが遅すぎたようだ」
「お気付きになったのですから、遅すぎはしません。今こそがその時となったのです」
「そう思うか」
「今です」
李密は戻ると、ただちに使者を斬り捨てる。
一行は静かに桃林の関へと進む。
関を守る役人に向かって李密は言う。
「自分は勅命を受け京師に戻る。ここに同行の者を留め置かせてほしい」
県舎を借り受け、夕暮れを待ち、婦人の服を着し裙の下に刀を隠して外に出る。関の門がまさに閉じられようとしている。薄暗い中に現れた婦人の集団を役人たちは不思議そうに眺める。李密が号令をかけると、一行は役人を斬って関を破り、外に躍り出る。
服を変え、南山へと走る。
李密は笑う。
「君とまた逃れる。よくよくそういうことなのだろう」
「山を越え熊州に行けば、かつての仲間が集められます。兵食を得、黄河を渡り、黎陽に至れば、大事はきっと成ります」
「常に君は楽観する」
「義士の志は、存亡をもって変易するものではありません。魏公様が天子の位に昇るまで働くのが私の務め。それができねば死ぬだけです」
「なぜ、そこまで私を」
「魏公様に賭けたのです」
「己の信、己の義、己の思いに揺らがぬことにおいて、私は君に遠く及ばなかった。しかし、これよりは君と同じである。我が悔いを残さぬために、為すべき一つを為す」
王伯当は追っ手を警戒し、険阻な山道を選ぶ。李密が逃亡したと知れれば、唐の兵はもちろん、王世充の兵も血眼になって追って来る。早く安全に熊州に着かねばならない。
一行は陜県の境を越える。桃林に隣接する陜県には多数の唐兵が駐屯している。それに捕まえられるのを王伯当は最も恐れる。
幸い敵を一人も見ずに峠に達する。山中は後ろも前も静まり返っている。
「これでひとまず安心でございましょう」
李密は前途を見て、胸の高鳴りを抑えられない。
京師は遥かに遠い。これより先にはついこの前で戦っていた河南の地がある。そこに再び自分の身を置き、天下平定のために駆け回る。
「徐世勣が待っている」
「山東、河南の民、全てが待っております」
「天下は概ね唐のものと定まった。李世民に私は劣る。天の運、民の心は唐にあるだろう。人に劣り、天の運は他所にあるとも、私は己を捨てることができない。これより私は己の命に、己の心にのみ従う。非を招いたのは、時運に迷い、己が己に屈していたからだ」
「私は信じております。李氏将興はなお魏公様を待つ歌であると」
「私は己の思うところへと進むだけだ」
「今こそ時が来たのです」
「時ではない。己の一心のみだ。君がその一心を貫いて来たように、私もこの一心を貫く。それだけだ」
李密一行は尾根筋を巡って谷へと下る。冬、沢の水は落ち、険隘な峡谷は絶好の逃げ道を提供する。
細い道を一列に進む。
一行の前に、丸太を組んだ頑丈な柵が不意に現れる。王伯当は警戒し、李密を後ろに下げる。
柵から矢が飛び出る。急峻な斜面を人馬が猛烈な勢いで下って来る。後方から伏兵が出現する。
王伯当は前の敵と戦う。李密は後ろの敵と戦う。兵を乱しての戦いとなり、二人は互いに離れ、声が届かなくなる。
強烈な痛みを覚える。李密の背に槍が立つ。かつて矢を二度受けたのと同じ痛みだ。
「なんの」
李密は二度の大怪我でも死ななかった。死ぬべき目に何度も遭いながらも生きながらえた。この最も大切な時に、死ぬはずはない。
李密は王伯当を求めて左右に敵を切り払う。前から次々に剣が迫る。そのうちの一本が李密の腹を抉る。
血が噴き出し、激烈な痛みが全身を貫く。
「まだまだ」
李密は前進する。周りの味方は全て倒れる。
胸に矢が立つ。痛みはない。
「これでいい」
李密は矢をぐいと握る。
「為すべきことを持って生まれ、それを今日まで為した」
李密は矢を引き抜く。
「悔いることはない」
この言葉を李密は王伯当に言いたかった。王伯当は別の場所に倒れた。
李密は絶命する。三十七歳であった。
李密の首は京師に運ばれ、李淵はそれを黎陽の徐世勣に送る。徐世勣は君臣の礼をもって李密の首を拝し、黎陽山の南に手厚く葬る。李密を慕って地に伏して哭する者は万を超える。
徐世勣は竇建徳と王世充の間にあって、関東でただ一人の唐臣として奮戦する。武徳二（六一九）年十月、黎陽は竇建徳の前に陥落する。徐世勣は黄河を渡って逃れたものの、父親と魏徴が囚われの身となり、徐世勣はやむなく竇建徳に投降する。武徳三（六二〇）年春、徐世勣は竇建徳のために幾つかの城を下すと、これで義理は果したとばかりに父親を奪って脱走し、京師に行く。
武徳四（六二一）年三月、かつて李密が黄河を渡った虎牢において、李世民は三千五百騎をもって、十二万と称する竇建徳の大軍を迎える。李世民は東都に王世充を包囲していたが、王世充は長年の敵の竇建徳に救いを求め、竇建徳は李世民を挟み撃ちにすべく総力を挙げて出撃した。李世民の将士は二敵に挟まれるのを恐れ京師に帰ることを主張したが、李世民は自ら先頭を切って敵陣に突っ込む。竇建徳を擒にし、ただちに軍を東都に返す。王世充は最後の決戦と精兵を繰り出す。その先鋒にかつて李密を裏切った単雄信が立つ。単雄信は飛将の名の通りに目覚しい働きをし、その槍先があわや李世民に及ぼうとする。徐世勣が間に入り、李世民は危うきを免れ、単雄信は城内に引く。王世充は敗れ、単雄信は洛水のほとりで斬られる。
もう一人、李密を裏切った邴元真は王世充から滑州を授かっていた。李密の将兵であった杜才幹という者が偽って邴元真の臣となり、機に乗じてその首を取り、李密の墓に献じる。
李世民はこれより五年後に即位する。唐の太宗である。貞観の治として称えられる太宗の治世を支えるのが徐世勣と魏徴である。