蚯蚓の詩
己の姿はこのようなものと見切ったか、いかにも貧相な枝振りの柳が一本、これまたありがちに、その下にうな垂れ姿の一人の男、年の頃なら四十半ば、己の人生に見切りを付けるべき年齢か、町はずれのいじけた柳が、貴人に愛でられる宮殿の御柳へと変じる将来がないように、身なりは官人風情でも、衣服の古びた様子から知られる暮らし向き、せいぜい柳と同様に、ここらで折り合いが付けば上出来と、しかし、憂いの顔は、まだそこまでの観念が出来ていないか、いかなる思いを宿してかここに置く身、いずれ柳は朽ちればそれまで、何千何万とある人生のただの一つ、この男の背負うものが重たかろうが軽ろかろうが、人とはそう言ったもの、誰であれ昇り降りすれば石段もいつしか磨り減り、深く窪んだ一段目の手前、男はふっと足を止める。
石段より通じる小径の奥、木の屋根も石の壁も崩れかかった小さな祠、世間の片隅に息づく人々からも、見捨てられたような佇まい、霊験を失った土地の神か、あるいは、不運のままに死んだ恨みを鎮めようとの由来も不明となったか、今は寂れても、一時ばかりの華やかさはあったろう、男が来てまだ日の浅いこの町、目に止まるものはとりあえずは見ておこうとの事か、そうなら、ひしゃげた粗末な門の上の黒ずんだ扁額に、なお残る文字の跡を判ずればよかろうに、男の目はと言うと、石段の最初の踏み石に向けられ、次第に深く垂れる首、肩をすぼめた姿で身動き一つしなくなってしまったのは、半ば枯れた柳に良く似るとは言え、幾分かは風変わりな光景かも知れない。
気散じにぶらぶら歩き始めながら、よく見知った一本道から少しも逸れずに、そそくさと早足に進む、それもよくある事なら、真っ直ぐな大道を大手を振って行くはずが、見も知らぬ脇道へと踏み入り、いつしか迷う袋小路、ふと気付けば道ばかりでなく心の内もそれらと同じよう、どちらにしてみた所で、結局は気を詰まらせるだけ、この男がそうなる性向を有するのを、知っているのはやはり息子であるから、当面はこの道を真っ直ぐ行くはずと、父より先へとしばらく進み、後ろにあるべき足音が聞こえず、とすれば、想像されるのは、陰気な顔で立ち止まっている父の姿、軽い吐息とともに振り返る。
姓は梅、名は増、向き直る顔に注ぐ秋の朝日、ことさらに輝いて見えるのは十八歳の若さのためか、男にしておくのがもったいないほどの色白、髯のない細面の艶々とした肌、水がしたたり落ちるばかり、緩やかに湾曲する眉、長く涼しげな眼差し、どれをとっても、鰓が張って浅黒く太い眉に小さな丸い目の父の面相と大違い、ならば母親似か、ただし、眉間に寄った縦皺は、心に塞ぐものが父と同様にあるからか、俯く父の後ろにもう一人、所在なげな小さな姿、黒く見えるのは斜めに射し来る光の眩しさのせい、まだ八歳の妹、顔の四角い輪郭、広い肩のずんぐりとした体型は父から受け継いだに相違なく、すらりと背の高い兄ばかりがこの三人で異なる、では、石段の前に立ち止まった父の心、それをよく知るのは、兄と妹のいずれであろうか。
この父、梅堯臣、この年、宋の仁宗皇帝の慶暦五（一〇四五）年、滞在していた都において、忠武軍節度判官に任ずるとの辞令を受け、ここ許州に赴任、ひと月になるかならないか、忠武軍とは地方行政組織の一つ、その長である節度使の補佐役、節度判官とは要するに地方行政の事務長、賦税、断獄、訴訟、その他の行政上の庶務等で必要な公文書全般の処理に関わる、なかなかに煩瑣で多忙な職務、宋の官僚機構において、皇帝より人民の統治を任される高級官僚は「官」、その官に仕える小役人は「吏」、官と吏の二つは画然と区別され、節度判官とは官の職であるからそれなりに堂々とした身分、しかし、官の中で見ればいわば下積み、梅堯臣が地方から地方へ転々とする事すでに十数年、ここが何箇所目の赴任地なのか、よくよく数えてみないと本人にもよく分からない。
これまでがこうであれば、これから先もせいぜい良くて同じことの繰り返し、官位が一つでも上がれば願ってもない、この節度判官の職が得られたのも都での懸命の就職活動の結果、下積みからの転落はたやすく、なかなかに辛い状況下で得た職、その任地がここ許州だったのは、旧い縁故の巡り合わせ、叔父の梅詢が最後の日々を過ごしたのがこの町、功成り名遂げた叔父のいわば隠居仕事がここの知事、その職にあったまま死んだのが四年前、梅堯臣もすぐに駆けつけたから、この町は初めてと言う訳でなく、叔父が暮らしていた屋敷はほとんどそのままに残り、懐かしさがあっても屋敷の主は代わり、梅堯臣に住まいとしてあてがわれたのは、役所から表通りを辿って幾つかの角を曲がった先、陋隘な一画の小さな下宿家、親子三人に、下男一人、賄いの老婆も合わせて五人、住むには困らず、俸給とも釣合いが取れた、ただ叔父と甥との落差は歴然、そんな事に思いを致せば、己の身の内にしぶとくある願望と直面、この町に来たのは必ずしも良い訳でない。
叔父梅詢こそは一族の誉れ、梅氏の中で皇帝と直接話の出来る地位に初めて昇った人物、一人が高官になれば後は芋蔓、特に功績のあった者の子弟は無条件で官職に就ける任子という制度があるし、一族の見込みのありそうな子弟に家庭教師を付けて金にあかしての英才教育、文官登用試験の科挙に合格すれば前途洋洋たる未来が開けると言うもの、まさに梅堯臣が官職にあるのはこの叔父のお蔭、幼児より文才が具わると見えた甥を、十三歳で手元に引き取って学問を仕込み、成人となるに際して、任子の制度を使って太廟斎郎と言う皇帝の廟に仕えるささやかな官職を授け、ここ許州に来たのも亡き叔父の遺徳によると言えばそう、しかし、任子の特典で官界入りをする輩は次第に時代遅れ、中央政界への出世は科挙の試験を通った者でなければまず望めず、もちろん梅堯臣にしても試験に幾度か挑んだものの失敗、こうして職があるだけましか、なおも死んだ叔父にすがって生きるとは内心忸怩たるもの、地方巡りから解放され、叔父のように朝廷に居並ぶ晴れの日は、願いばかりはあきらめ切っていなくても、来るとは思えない。
叔父梅詢は皇帝の前で勇ましくも兵を論じ、時の宰相と真っ向から対立、それを恨んでか、宰相は死に際に、あの男は決して用いてはなりませんと、皇帝に言い残したとか、あるいは、天より降った瑞祥と、怪しげな天書なるものを皇帝が崇めたのを難じて逆鱗に触れ、左遷されても意気軒昂、いずれも先帝の時代にあったそうした事跡が語り継がれ、ならば剛直一本の男であったかと言えば、宮中に向かう朝に竜麝を入念に焚き込め、座の定まったところで縛っておいた袖口を開いて芳香を漂わせ、「梅香」の異名を取った風流人、その香を梅堯臣も幾度かは嗅ぎ、叔父にいくらかでも似ようと、故郷を出てから三十一年、叔父に所縁のこの許州で迎えた秋、どこか叔父のようになれたか、次はまたどこへ流れ、どこの旅の空に死を迎えるか、それまでの間、うまく職にありつけても、上役の顔色を伺いつつの文書処理、気を擦り減らすばかり、それはそれでお上より預かる重要な仕事、だが、叔父のように世に名を馳せる大事はなく、叔父あって口に糊し得る甥、いや、叔父を羨むのではない、生きるに足るだけの奉給を頂戴できるのは何と言っても叔父のお蔭、これからもこの身にふさわしく小さく生きるよりはないだろうと、しかし、まだ見切る事は出来ない。
背を丸めた姿はいかにも小役人、そんな父を見返る息子、後ろに束ねた髪を手の甲で撥ね上げるのは何時もの癖、首の後ろから背中、脇のあたりをもぞもぞ掻くのも何時もの事、眉目麗秀に似合わぬばさばさの髪と汚れの滲んだ衣服、これでは、梅詢との対比で「梅香孫臭」と笑われた垢まみれの孫何のようなものか、小ざっぱりとした身なりにでもなれば、街の娘たちの気も引くであろうに、この許州だって色街のないはずはなく、天性の好男子ぶりに磨きをかけぬのは惜しいとは余計な事、当の梅増は、謹厳な父のもとにあって遊びと縁遠く、ならば父に従順、官人の子弟らしく勉学に励むかと言うと、表立って父に逆らいはせぬが、父でさえ叶わぬ科挙に合格など望むまでもない凡才、心がねじけぬのがせめてもの取り柄、嫌でも書物の前に座す日々、狭い家で、父が近くにいる重さに耐え、外を歩く時くらいは少しは離れていたいもの、後れた父はと見れば、石段の前に立ち竦んでいるよう、もしや父の体に異変がと、不意に胸が高鳴るのは、そうは言ってもさすがは孝子とわざわざ賞賛する程の事でなく、ここに三度目の不幸を見るのではないかと、嫌な思いに駆られたから、二三歩寄れば、幸いにも、父の目は開いてもいるし息もしている、しかし、息子が足音を立てて傍らに来たのに気付く様子はなく、こわばった顔、地面にはりついたような視線の先、何か特別なものがあるのか、息子の目で、石段のあたりに人の注意を引くものは見当たらない。
なお置いた三歩ばかりの距離、慎み深さより、父を敬遠しているため、訝しくはあってもそれよりも近づこうとせず、声をかけようともしない、そんな兄の姿がちらりと目に入り、妹は、自分も父と同じに下を見続けていたと気付き、ふっと上げる顔、もう結構と、くるっと父に背を向けたのは、ここは兄に任せておけばいいとの事か、視線は朝日の射し来る方、気持ちが自ずと明るさを欲したか、何しろ妹には、父の足元に何があるのか分かっており、ごくありふれた、しかも詰まらないもの、普通は凝視するなどとんでもない、目をそむける、父につられて見ていたまで、目の内に残るその像を太陽の光で消し去りたいと、思って当然、父の足元にあるのは黒ずんだ細長い一本のもの、干からびかけた蚯蚓の死骸である。
娘の目は朝日を捉える前に、道の先に止まり、彼方よりのっそり歩き来る、折れるばかりに曲がった腰、両の腿に手を当てがい右に左に揺れて、初めは黒い影のような姿が、次第に表情を持ち、縦に走る深い皺、垂れた下がった瞼の内側の柔和そうな小さな目、よいしょと繰り出す腿の上、手のひらで押さえる脇に覗く幾本かの蔓、どこで採って来たか、みすぼらしい家が離ればなれに並ぶこの町はずれ、いま道を行くのはこの老婆が一人、遠くに酒旗が小さく翻り、許州の町の賑わいはせいぜいあのあたりまで、そちらの方角より、父、兄、妹の三人が歩いて来たのは、久し振りに役所の仕事が休み、それでも何時もなら父は家に篭って官書の下書きや推敲、今朝ばかりは机に何も広げず、秋の上天気、来る日も来る日も狭い家にいては気分がくさくさする、外へ出ようと、兄にとっても妹にとってもそれはいささか嬉しい事、出た当初は、朝の爽やかさに気分も良かったが、さほど時は経っていないのに、娘はもう家に戻りたくて仕方がない。
気が挫けたのは気味の悪い蚯蚓の死骸のせいばかりでなく、今日に限らずしばしばある似たような、戻りたいと、今なら、路地奥のあの狭い家を思い描くのだが、とにかくどこかへと、はっきりとした対象に行き当たらなければ、なおのこと戻りたいと、無性に思えるただその一心、まこと辛かったのは今年の一月十五日の宵、やはり父と兄と三人で連れ立って、歩き始めた時は珍しく弾むような心持ち、何しろ元宵節、一年に一度、宋の全土が最も賑わう夜、夕暮れが迫るとともに、どの軒にも灯篭に火が入り、街に溢れ出る人々、しかも都、一生に一度は見たいと願うこの世ならぬ夢の夜、地上の民の全てがここに集まったような人の波、地上の富をここに費やす絢爛たる輝き、酒楼、妓楼より夜空に昇る管弦の調べ、道を埋める露店より種々雑多な食べ物の匂い、繁華に酔い痴れ夜を徹して遊ぶ中、不意に、この華やかさこそが疎ましくなれば、人々の嬌声に耳を塞ぎたく、着飾った女の脂粉に吐き気を催し、顔を伏せ、ただ戻りたいとの一心、娘一人がそうなったのではなく、父も兄も黙りこくり、互いに何も言わず、逃げるようにして宿に帰れば、三人三様に心が砕け、娘は床に突っ伏し、声を漏らさぬ忍び泣き、そうでなくても涸れかけていた涙はこれでとうとう一滴も残らなくなったか、その時から泣かなくなり、胸の内は虚ろ、ひたすら戻りたいとの気分ばかりは常にある。
どうにか立ったまま、己の心と体を崩さずに、少なくとも見かけはしていられるのは、繰り返しのうちにいくらか強くなったため、とりあえず老婆に注意を向け、ぽつねんと立つその姿だけなら、普通の娘と変わらぬか、老婆は何の気なしに、にっと笑い、
「嬢ちゃん、一本やろうかいのう」
引き摺って来た足を止め、片方の手で蔓を一本抜き、娘は、小さな目でその動きを追い、そのようなものをもらってもと、真面目に考えて困りつつ、とにかく言われた通りにするのが良いかと、前に進み出そうになって、すぐに父の方へ少しばかり退き、
「さあ、取んな」
差し出す手の前で、娘の体は硬くなり、それが伝わったか、老婆は困ったようにあたりを見回し、やっと気付いたか、梅堯臣の背を見上げ、ゆっくりうなずき、
「何だか要りそうに思えたが、これはこれは、立派なおうちのお嬢様だ。こんなものはな」
一人で合点し、一人で笑い、掲げた蔓を手と腿の間に戻し、ふうと大きな息、
「お屋敷には素敵なおかみ様、たくさんの召使、何でもござろう。こんな蔓なぞ、余計なお世話」
体を揺すって去って行く老婆の細い足、焦げたような濃い肌の色、踝から先を包むのは蔓で編んだ草鞋、地を擦るたびに立つ小さな土煙、陽射しを受けて朝露は乾いたのだろう、歩む姿は埃の中に薄れ、いかに草臥れてはいても、父、兄、妹が身に付けるのは、老婆のと比べればまだしも相当に立派な衣服、父の頭巾姿も自ずと官人とわかろうもの、襤褸を纏った老婆に恵みを施されるいわれは毛頭なく、娘にも老婆に助けを請う理由はないのだが、後ろ姿に小さく見える蔓に気が残る、せっかくの好意を無にした気まずさか、あるいは、懐かしいようなものがあってか、稀な機会がするりと手の内から抜けてしまったよう、胸の内は虚ろになり行くばかり、娘は耐え難くもそっと父の袖口をつまんで引く。
少し離れて立っている息子にも、全く気付かず、梅堯臣が見る一匹の蚯蚓の死骸、八月の、秋とは言うものの、今朝のように良く晴れ上がれば陽はなお強く、夜の間に土より出て、自在に動き回わってしばしの遊びに熱中、その余り、明るくなる前に土に戻り損ない、さてこの身をどこに置くべきか、行き場を失い慌ててもがくうち、昇り来る太陽に先を越されては、蚯蚓は陽に灼かれる他はなく、かくて死に至るのも、この許州だけで何千何万匹、乾き切って風に飛ばされるか、真っ黒に蟻にたかられるか、いずれにしても半日も経たずに消えてしまう、そのどこにも珍しさはないのに、徐々に水が去って縮んで行く変化が分明に見えるとでも言うのか、全身全霊を奪い取られたかのように死骸に目を注ぐ父、引いても何の反応もない袖口より娘は指を離し、さすがに父の心を計り兼ね、ただもしかして、己のこの虚ろさに似たものがあるかと、幼い心、はっきりと考えた訳ではないが、何かしら感じ取れもし、父と同じものをもう一度覗いてみる。
この時に、父が見ているものを息子はようやく了解、分かった途端、蚯蚓の死骸のおぞましさにではなく、それからいっかな目を離さずにいる事実にいささかぎょっとし、顔をしかめ、俄かに湧き上がるのは、どうやら嫌悪の情、激しいものではないにしても、蚯蚓の死骸等はいい、その前に立っている父を確かに厭うのだと、意識されて来ると、こう言う事は実は今朝が初めてではないと知れ、少々のたじろぎ、しかし、感情のままに己を任せ難いのは性分なのか、それとも、己を縛るものから解き放す勇気がないのか、この父がいるから己は今朝ここに立っている、父がいなければ己はここにいない、だから疎ましいのか、謹厳実直な官人として日常を過ごしている父、だから疎ましいのか、聖人の教えを説く言葉の裏側に暗く何かが隠されると仄見える、だから疎ましいのか、理不尽にも渦巻く嫌悪感の底に、ふっと覚える愛おしさ、蚯蚓にか父にか、息子は唇を噛んで目をそらし、相反しつつ強まる情念を鎮め、その葛藤の脇をすり抜けようと、かえって心の内に膨れ出すもう一つのもの、それこそは押し留めておきたい、なぜならどうにか出来るものでないから、しかし、強く唇を噛んでも、それは力を得てますます大きく、ならば、おぞましい蚯蚓の死骸を見て、気持ちを元に戻そうか、父の脇より地面を覗けば、不意にあの時に見ていたものがあるかのような錯覚、どうした事か、理由は分からずとも、こうなっては、しばらくは回想に心を占拠されるのを許すしかない。
一年が経った、その時も、父をはさんで兄と妹、やはり互いに口をきかず、身が崩れようとするのに堪え、そんな力がまだ己にあるのが不思議なくらい、体を支えつつ見下ろすのは浅く掘られた穴、並べられた二つの棺、ただ、その穴は二つの棺が本来おさまるべき所でなく、止むを得ず仮にここで埋葬、例えば帰るべき場所を失った蚯蚓が干からびるのに幾分か似ていようか、父は所持する銭の少なさから、運河沿いのそこに棺を埋めるより他に策がなく、何時しか費用を整えられたならば、故郷の町にと、棺の内なる人への詫び、しかし、町から町へと漂う地方の小官、何時この地に立ち戻れようか、つまりはここに捨て去って行くのか、三人こもごもの思い、うな垂れて動かず、息子はこのままここで永遠の時が終わり、天地も潰えてしまえばと思うのは、一つの棺の内には母、都に上る舟旅の途中、三十七歳で死に、もう一つの棺の内は弟、母の死から一月も経たずに十三歳で死に、それは母を追ったものか、ならば、己もこの先、生きて何になる、全てを嫌う気持ち、もしもあの時にと苦く思い出されたのは、一人だけだっただろうか。
母の死がそれより一月程も早ければ、不幸であるに変わりはないにしても、棺は父の故郷、宛陵に葬られたであろうか、梅堯臣は春に呉興の監税官の役を解かれて無職となり、次の職を求めて都に上る前、立ち寄って家族五人で過ごした故郷の夏、妻や息子の命がまだあるうちに幸福な一時を恵んでおく天の計らいだったか、
「我が曽祖父が、我が祖父の生まれた年に植えた。すでに百年を超える」
梅堯臣が誇らしげに叩いた幹、この土地で鴨脚樹と呼ばれ、他の樹を圧してこの地の風貌を形作る最も重要な樹、すなわち公孫樹、中でも、この一本にこそは会いたく、妻や子に見せたかったもの、遥か樹の先を見上げ、
「甘くなく、酸っぱくなく、淡い苦味、衆人の狎れ狎れしさがなく、この実こそは、百果のうちで最も気高いもの」
いよいよ胸を張って公孫樹を礼賛した時、梅堯臣の声は堂々と自信に満ちて、憂いの影はどこにも見えず、真向かいは敬亭山、「衆鳥 高く飛び尽くし、孤雲 独り去って間なり。相い看て両つながら厭わざるは、只だ敬亭山のみ有り」と、李白の詩を知らぬ者のない天下の名山、この公孫樹のよう、この敬亭山のよう、己の才をもって天下に名を挙げるものと、故郷の風光の中で気分を高揚させたか、一時的に無職にはなったものの、都へ行けば次の職もすぐ得られ官位も進むであろうと、この時は楽観していたのだが、公私ともに暗転、梅堯臣が頼みとする人々が危ういとの噂が聞こえ、急ぎ上京の旅へ、妻の体内で進みつつあった異変に全く気付かず、息子も、公孫樹の脇に立つ父に微笑みかけていた母を、輝くばかりに美しく、麗しい宛陵の風光が母を一層際立たせたと思ったのはまことの誤り、透き通るばかりに母の肌が白かったのは、病魔によるものであったと、ようやく知ったのは、すでに棺に土がかけ始められた時、もう二度と母の顔を見られぬ悲しみとともに、深い悔恨へと沈んで行った。
この瞬間より父を厭う気持ちが芽生えたか、今になって息子は思い当たり、母は父のせいで死んだのか、敢えて思うまいとの抑制が崩れ、さらに募る父を厭う情、なお蚯蚓の死骸に見入る父の脇より離れ、この男は何を考えているのか、父はいつもただ一つ、蚯蚓を見ていても考えているのは一つ、二つの棺が埋められていた間も考えていたのは一つ、そうに違いない、常に己の事だけ、だから母の病にも、弟の病にも気付かず、今も息子や娘に全く気を払わない、ここまで父を厭う情が極まれば、どうにもならぬと留めて置こうとしたものも、噴いて出る、もしも、あのまま宛陵に留まり都に向かわなければ、母の病は癒えたかも知れない、あの南方の潤んだ柔らかな空気、あの夏に今すぐにも戻りたいと、胸は焼けるばかりの熱さ、敬亭山からの風に母と弟と一緒に身を任せる、もはやそれは叶わぬ、
｢少しばかり横にならせていただきます｣
炎暑を押して北への舟旅、母がそう言ったのは七月七日の昼過ぎ、夕暮れとともに秋を思わせる涼風が立ち、もう虫の息、奇しくも七夕の夜が永遠の別れ、そうなって初めて、己の妻が尋常でない痩せ方だったと、体の不調も苦痛もその日まで一切訴えずにいた妻はすでに亡骸、
「どうしてなのか」
問うも愚か、己に非があると、梅堯臣は舳先に出て、暗黒の水面に目を向け、明け方の頃、細く吟じ始めたのを、息子の梅増ははっきりと覚えている。
結髪為夫婦 髪を結び妻と夫となって
于今十七年 十七年の今。
相看猶不足 互いにいつまでも見ていたいのに
何況是長捐 どうしてかこの永遠の別れ。
我鬢已多白 早くも鬢は白くなり
此身寧久全 この身も長くはもたない。
終当与同穴 同じ穴に埋められるだろうけれど
未死涙漣漣 まだ死なぬ前は涙ばかりだ。
低く、夜風に切れ切れに聞こえた父の声、同じ深い悲しみにあると、息子は感じ、確かに詩は胸を打つ響き、妻の死を切々と歌った詩は古来多くなく、梅堯臣の真実の思いがあればこその作、二十六歳で結婚してからと言うもの、常に妻に誠実に接し、それは太子賓客という称号を持つ高官の謝濤の娘だからという理由だけでなく、本当に大切と思う妻、梅堯臣がまだ官職を得られずにいた頃、叔父が勧めるがままに妻に迎え、これで強力な後ろ盾を得るとの計算があったのも事実、そうした事を超え、娶ってみれば我が妻であるのが不思議にさえなる心魅かれる女性、夢とも言える日々、何時しかそれにも慣れ、妻の病の重さも知らずに突然の別れ、
従来有脩短 なぜ長寿と短命があると
豈敢問蒼天 青い空に問うたところで。
見尽人間婦 人の世の妻を見尽くしても
無如美且賢 あのように美しく賢いのは一人。
譬令愚者寿 愚か者が長く生きるのなら
何不仮其年 その分を貸してほしい。
忍此連城宝 十五の城よりも貴い宝物が
沈埋向九泉 黄泉の国に沈もうとは。
その夜が明けて、町に出て棺を購い、仮に葬るに良い場所をと、今しばらく舟で移動する途中、次男が突然の下痢と高熱、二晩苦しんで、やはり舟の中で死に、もしも母がいれば息子は救えたか、父は一人で目も足らず、手も足らず、つまり二人とも己のために、死なずにすんだものを死なせたかと、再び舳先に苦しんで、
天既喪我妻 我が妻を喪わせ
又復喪我子 天は我が子までも。
両眼雖未枯 眼は枯れずに涙を出し続け
片心将欲死 心は死んだ。
雨落入地中 雨は地に落ちて
珠沈入海底 地の底でまた水に会い、
赴海可見珠 珠は海に落ちて
掘地可見水 海の底でまた珠に会う。
唯人帰泉下 人は死に落ちれば
万古知已矣 永久の終わり。
拊膺当問誰 なぜだ、胸を叩くのは
憔悴鑑中鬼 鏡の中の憔悴したこの鬼。
吟じる声に、父の悲しみを思ったのは、詩の途中まで、不意に息子の心に、ぴしっとひびが走った奇妙な違和感、それが何であるかはよくわからぬまま、記憶しておくのはどこか悪いようで、何となく忘れ去っていたのだが、今日ここに小さな社の境内に機会を得て返って来てみれば、実は脳裏にくっきりと刻み込まれた強い感覚だった。
「違う」
息子はそう叫びたく、舟中で己の心にあったのは悲しみ、それでいっぱいだった心、どうしてそこに他のものが入れよう、そんな心のどこで詩を作るのか、詩を吟じるのを聞けば、確かな悲しみが父の心にあると伝わって来る、だからこそだ、だから違和感がある、それほどに悲しいのになぜ詩を作るのか、その詩が疎ましい、息子としてそう思ってはいけない、母と弟の死は悲しく、父の悲しみも偽りのないもの、詩も真実であるに違いない、しかし、疎ましい、父そのものが厭わしい、そんな己の思いが忌まわしい、一切を振り払えればと激しく頭を動かし、蚯蚓からも父からも完全に目を離す。
斜めに見上げる貧相な柳、宛陵に聳え立つ公孫樹と比ぶべくもなく、江南のあの夏の湿った風と、河南のこの身を吹き抜け行く乾いた秋の風、二つは比べようがなく、宛陵にあっては敬亭山の前に誇らしげであった父、ここでは蚯蚓の死骸にうな垂れて、なぜかと、父の心を忖度するよりも、まずは己の心はどこへ向くか、父を厭うのなら一人で生きてみせるとは、まだ十八歳、際立った才能が備わるとは思われぬこの身、勇気はなく、とすればやはり父を頼るか、他に誰かを頼みとするか、この世の内でもしも思い浮かぶとすれば、ただ一人、祖父、その名は梅譲、去年の夏に宛陵に家族五人で着いた日、祖父は畑に出ていて、従兄弟が走って呼べば、一匹の赤犬を連れ、満面の笑みをたたえ戻って来た、真っ直ぐに伸びた腰、真っ黒に日焼けした肌、八十六歳とは到底信じられず、朝廷の大官に昇って世に知られた弟の梅詢はすでにこの世になく、故郷より出る事のなかった兄はなお野山を自在に歩き、その颯爽とした姿、その背に起こる風こそは香しく、弟の梅詢が竜麝を焚き込めて作った香が如何なるものであれ、「梅香」の名は兄の梅譲にふわさしいか、弟は度々兄に仕官を勧め、しかるべき官職を用意しても決して故郷を出ず、古びた家の内、弟から贈られたと思しき贅沢な品物は一切なく、それもまた清々しく、この宛陵を離れて父はなぜ叔父の梅詢に身を寄せたのか、世の多くの人々と同じく父も立身出世を願ったから、その当然の答えで釈然としないのは、公孫樹の樹の下に故郷を誇ったあの姿、矛盾ではないか、己の真の心が分からなくなっている父、それが厭うべき本体かと、息子は少しばかり腑に落ちた気分になる。
「うっ」
低い呻くような声、妹もあの日の同じ場面に返っていた、あの穴の縁に立ち、土が投げ込まれ、次第に二つの棺が見えなくなっていく時、土くれとともに自分も放り込まれ、二つの棺とともに地中へと閉ざされて行く、吸い込まれるような感覚、むしろそれは怖いものでなく、母と共ならきっと温かい、穴の外に無理に立っているより、三つ目の棺に入るのがずっと自然、そう思えて、勝手に足が動いて穴へと跳びそうに、
「土に返るが汝の天命」
つぶやいたのは、その時の父であったか、今、蚯蚓に向かっての事か、ぶるっと足が震え、穴には跳ばず、己の身がここにあると確かに気付き、娘は無理と力を込めて首を持ち上げ、見上げる父の髯、
「汝の生は潰えた」
梅堯臣ははっきりと蚯蚓に向かって言葉を落とし、死骸が横たわっている石段をまたいで超え、娘も引っ張られるようにして石段を上り、兄は、父が去った後、もう一度蚯蚓へ目を向け、黒く乾いた死骸をしばし見入るに、いじましく思われ、なおしばらくはその場に残っていなければと、すでに行ってしまった父への反発、二つの棺を埋め終わった時も、事は済んだとばかりに真っ先に立ち去ったのは父、冷淡に思えたは今朝もまた同じ、蚯蚓にもしも心があるのなら、それを知るのは父ではなく己の方かも知れぬと、秘かな思い、
蚯蚓在泥穴 蚯蚓は泥の穴いっぱいに
出縮常似盈 伸びたり縮んだり。
低い父の声、小径を歩み行く後より流れ、たちまち息子はむらむらと、
「また詩か」
吐き出せるものなら、腹よりすっかりぶちまけてしまいたい、この疎ましさ、息子はこぶしを握り、いよいよ哀れなのは蚯蚓、父は何時だってそうだ、今もあの時も、結局は詩、先程までじっとうつむいていたのは他ならず詩を作っていたから、蚯蚓の死骸の前でそうであれば、舟の上でも、蚯蚓よりも哀れなのは母と弟、詩が出来るまでの間だけは深くうな垂れ、いかにも悲しみに耐えている様子、しかし、詩が出来れば、思いは言葉に載り、形となって残り、父の気は晴れ、事は済んだ、何という冷淡さ、父の詩となるために今朝蚯蚓はここに死骸を横たえたのか、父の詩となるために弟は死に、母は死んだのか、もしも己がここで突然死んでも、父は詩を吟じるだろう、それだけだ、実におぞましい、詩は言葉、言葉は心を写し、心より発せられる、確かに父の詩は心を写し心より出たもの、しかし、偽り飾るものがないと言い切れるのか、偽りとまでは言うまい、だが、言葉はその及ぶ所のものだけを表し、その及ばない深くの最も真であるものには近づけぬのではないか、梅増は十分に精密には思案できぬものの、父の詩を厭う思いから、蚯蚓への同情を深める。
竜蟠亦以蟠 竜が蟠ると蟠ってみせ
竜鳴亦以鳴 竜が鳴くと鳴いてみせる。
自謂与竜比 蚯蚓は竜を気取りつつも
恨不頭角生 角がないのを残念がる。
父は詩の続き、詩の題材を提供し終わればもう顧みられない蚯蚓の死骸、息子は、
「おまえも可哀想な奴だ」
声を掛けつつ首を振り、蚯蚓は竜に似て竜になれぬのを恨むか、否、それは父の勝手な想像、詩をものするがためにひねり出した珍奇な着想、父の思いと蚯蚓は無縁、蚯蚓は蚯蚓、竜に似ようが似るまいが関係がない、わざわざ竜に似ると言って蚯蚓に恨みを抱かせるのは、父がそうした恨みを持つからか、父は蚯蚓の心を知らぬ、己を竜に無理に比べ、果たせぬ恨みを持つのは蚯蚓ではなく父だ、それは嫉妬、梅詢のような高官になりたい、己の名を天下に轟かせたい、そんな途方もない願望、自然の摂理のままに死んだ蚯蚓に託して己を歌うのは、蚯蚓に対し傲慢ではないか、結局は己のことのみを考える小さな男、みすぼらしい柳に遥かに劣る父、だからこそ、あの故郷の聳え立つ公孫樹に憧れるのか、小径を行く父の後ろ姿こそいかにも貧相、それに重ねてふと思い浮かぶ父の友人、父より五歳年少の欧陽脩、
「千年の後にも伝わる人だ。良く目におさめておきなさい」
わざわざ父が離れた所より姿を見させたのは、遠くからも伝わる大らかな風格、高らかな気品、あれこそが竜であるのだろう。
父が最初の地方官の職を得た年に、欧陽脩は科挙に合格、官界の険しい階段を一気に駆け上り、世を浄化しようとする改革派の中心人物の一人となり、改革の理念を華麗で強靭な文章にして、大きな渦を巻き起こし、天翔る竜の華々しい活躍、蚯蚓の身でありながらそのようになりたいと父は羨むか、所詮蚯蚓は蚯蚓、それぞれに相応しい生き方をしてこそ生を全うしたと言えるに、嫉妬に身を苦しめてどうするのか、こんな愚かな父に、命の限り仕え、まだ死ななくてすんだはずを旅の途中で息を引き取った母が哀れ、幼い弟が可哀想、こんな父に従うのはもう懲り懲りと、強まる思い、しかし、傍らよりすぐに浮かぶは、妹をこれ以上辛い目に合わせたくないとの思い、己がどこかへと行ってしまったなら、自分にとってはそれでよくても、妹はどうなるのか、それでは自分の事しか考えない父と変わる所がない、ここらで叶わぬものを思うのは本当に止めねばなるまいと、兄は蚯蚓より離れて石段を上る。
母と一人の兄が死んでから、妹は笑った事がほとんどない、もともと歳の離れた上の兄はどこか近づきにくく、話をするのはもっぱら下の兄、母が死んだ時も下の兄とは抱き合い声を限りに泣いたが、上の兄は一人離れて押し黙ったまま、妹にはそんな様子が少しばかり怖く、下の兄だけが頼り、その兄が間もなく死に、それからと言うもの、上の兄と父はどこかよそよそしく、今朝がまさにそう、一緒にいても三人が口をきくことは少なく、母や下の兄がいた時はこうではなかった、思えばふっとあふれそうになるが、涙として出るものはもうないのである。
あれが錯覚ではなく、二つの棺とともに埋められていたならば、土の温もりの中、母と下の兄と決して離れず、時に襲いくる得体の知れぬこの感覚、朝よりも夕方に多く、居ても立っていられない、どこかへと戻りたい、戻れぬのなら逃げたい、今まさに、父の後から石段を上がりつつざわざわと胸の内に起こるのがこれ、とりあえずは家に戻りたい、しかしそれは本当に求める場所ではない、逃げたい、何かに追われて逃げるのではない、何かを求めに行くのでもなく、ここに自分が居る事そのものがそぐわない、どこかへ戻れば、どこかへ逃げれば、それは消えるか、もしも行くべき先があるとすればやはりあの穴、そこにこそは安らぎがある、それでも、投げ込まれ来る土によって光から永遠に切り離されてしまうのは恐怖ではないか、むろん怖いが懐かしい、この思い、どう受け止めていいのか、分かろうが分かるまいが、一切を無条件で抱擁してくれるのは、父ではない、上の兄も自分の事など分かってくれそうにない、いっそのこと、さっき通り過ぎて行った老婆についてどこか知らぬ所へ、定まらぬ思いに、娘は潰れてしまいそうである。
娘と息子に背を見られているとの意識はなく、父の目は、己の思考の進みにぶつかるものを見出し、詩は中断、立ち止まったのは、そこにまた蚯蚓の死骸があったか、再び首を垂れて、しばし動かず、軽く裾をたくし上げて屈み、腕を伸ばして拾い上げる、長さ三寸ばかり、幅の狭い一本の竹の棒、平らに削ってある側へと裏返す、薄れてはいるがかろうじて弁別できる絵柄、高く盛り上がった髷の女、とすれば竜女、これは竹珓に違いなく、束より引き抜いてか宙に投げてか、とにかく吉凶を知る道具、いつ誰が何をこれで占ったか、地に捨てられていたのは望む結果が得られなかったからか、この竹珓に触発されいかなる想念が浮かぶか、仔細に竹に見入る父の姿、
「またか」
口では言わぬが、息子は敢えて力を込めて首を捻じ曲げ、視界から父を追い払い、どうせまた詩だ、蚯蚓の詩を吟じ終わらぬうち、新たに目に入ったものが次の詩の題材、何でも詩にする、万事は詩にするために存在するのか、そうであるのかも知れない、珍しい題材詩に仕立て、欧陽脩を初めとする友人に示す、詩によって父の名はいくらか世間に知れ、父は常に新たな題材を求めて詩作に耽る、母の死も弟の死も父の詩になり、父は詩をものにして満足かも知れないが、父の詩にさせられたものはどうなのか、母も弟も、あの蚯蚓の死骸と同じ、父の詩が出来ればそれで終わり、母の死も、父にしてみればいい詩が出来て良い按排だったと言っては酷か、そんな詩のどこがいい、汚らわしい、泣きじゃくるばかりだった妹がどれだけ深く母を慕っていたか、父は母を思わずただ己の詩を思う、詩が疎ましい、父が厭わしい、息子は大股で歩いて父の脇をすり抜け、祠の横の小さな樹叢の縁へ、木々の間より、その向こう、思いもかけず一本の水路が通じるのが透け、枝をくぐり幹を廻り、抜けて出れば、たちまちに広々と、全身に受ける涼風、きらりきらりと水面が輝き、この日初めて晴れやかな気分となる。
葦の茂る向こう岸は許州郊外の田園、一条の青白い煙が上り、群れる木立がぽつりぽつりと島のように、彼方を指して飛び行く鷺、背中の純白が息子の目を射て、あの後をこそ追うべきか、もしもここに一艘の小舟があるのなら、ひらりと跳び乗り、纜を解き放ち、誰にも告げず漕ぎ出し、旅行く先は人に知られず、この水辺より、幾人の者が同様に遠くの空、鳥は天の連なる限りどこへなりとも自在に、舟は水の連なる限り黄河、長江、果ては東海、蓬莱島も、人ばかりは、広い大地の上、たった一つのこの場所に繫がれ、あるいは、行きたいと少しも思わぬ道を、今までそこを辿っていたからという理由だけで歩き続けねばならぬ、それは理不尽だと嫌うのは奇妙か、官人の息子に生まれたならば、学問に励んで望むべきはただ一つ、科挙に合格して高官に昇る、もしもそれが出来ぬとあらば、せめては吏人の口にありつき、どこぞでしがないお上の仕事、僕として官人に諂いながら、下には威張って善男善女を脅しての薄汚い儲け算段、そんな一生しかないのなら、陽に灼かれて死ぬと極まった蚯蚓と、己はどれだけ異なるのか、少しの差もないだろう。
死ねば父の詩に詠まれるのも蚯蚓と同じ、それでは悔し過ぎよう、蚯蚓は日の光のもとに置かれて、行き先を見る目を持たぬが、己はこの水がどこへ通じるかくっきりと見て取れる、水は水のある限り八方に繋がる、ここに立つ己を導き行く場所があるとすれば、この地上に一つ、一艘の小舟に身を任せ、心はすぐに馳せ着くのだが、身はなおここに留まって捩れるよう、それはむろん宛陵、父の故郷だからではない、父と二度と会わぬため行こう、宛陵に祖父、梅譲がいる、昨年の夏のある日、祖父と二人だけ、玉山の会勝院を往復、あの晴れ晴れとした思いは十八年の一生にただ一度、山上に通じる道の途中に見返れば、中州を挟んで流れる川に輝く南国の陽、足元の清流の音、赤犬を先へ立てて亭々と聳える松の間を抜け、境内の奥にひっそりと立つ小さな書院、その階に祖父と座り、吹き来る山中の風、汗が爽やかに引いた頃、
「書を読むのは好きか」
祖父の突然の問いに、梅増は正直には答え兼ね、もじもじとするばかり、祖父は孫の肩をぽんと叩き、
「わしには一人の弟がおった。この書院に篭り、来る日も来る日も、真四角な文字と睨めっこ。書物にある膨大な文字を、一字たりとも間違わずに覚えようと、心を磨り減らしおった。わしも書物を見たには見たが、眺め、何かしら得心する事があればもう十分。後は野山を駆け巡って浩然の気を養うだけ。弟は、詰め込めるだけ詰め込んだ文字を、頭から一つもこぼすまいと、そろりそろりと都へ出て、そのお蔭で科挙に合格、朝廷の高官になりおった。あんまり偉くなったものだから、この世にやることがなくなり、疾うに死んでしまいおった。わしは書物を廃してから六十余年、お蔭で、齢は八十を超え、こうして孫よりも速くに山道を登っていられる」
祖父は笑って、孫の頭の上、大きな手のひらを載せ、ぐいと揺すり、
「この頭が、わしに似たものか、弟に似たものか、気になっておった。わしには六人の倅がおった。一人は成長せずに死んだが、残った五人のうち、二人がわしに似、三人が弟に似た。その三人は仕官した。長男であるおまえの父が最も弟に似て、今はあのざまだ。どうだ、おまえは書物は好きか」
二度目の問い掛けに、梅増は思い切って、
「好きではありません」
「まだ遠慮しておるだろう。正直に嫌いだと言ってよい。おまえは弟にではなく、わしに似ていると、この道で知った。それでわしは安心した」
祖父は太い腕で孫の肩を引き寄せ、笑った声は公孫樹のように真っ直ぐ天へと昇り、これより、己一人都へ行かぬ算段はないかと思案したが、長男であり、母も行くのにどうして許されよう、決心のつかぬままに舟の旅、母と弟が死に、一年が経って、父と共にいて何が良いのか、募る宛陵への思い、公孫樹は宛陵にあってこそのあの姿、なぜ父は詰らぬ学問を背負って都に出て、汲々と我が身を磨り減らすのか、息子まで同じ人生を歩ませようとするのか、父はなぜか拘泥の身、宛陵の公孫樹のように自ら生きられなくしている、一切の束縛を持たず遥かに飛び行く鷺の背を、切なくも梅増の目は追う。
十八歳である、およそいかばかりの丈を持って己が生まれ出たか、人に言われるまでもなく分かり出す年齢、父梅堯臣が親元を離れて叔父の梅詢を頼ったのは十三歳、実の息子よりもこの甥に後を継ぐ才があると見て、梅堯臣も都に出てこそ己の才は花開くと、その時の父よりすでに五歳上回る梅増、呼び寄せようと言ってくれる都の高官がいないのは、才能のなさからして当然、父のような大それた望みはない、梅堯臣も、己でさえ受からなかった科挙に息子を挑ませるのは無理かと、しかし諦められないのは、学問を修めるのは全うな人間になるため、全うな人間が道に基づく政治を行うのが孔子以来の理想、幸いにもこの世に生を享けたのであるから、その理想に励むべき、まず始まりは学ぶ事、毎日読むべき課題を息子に与えて役所に向い、帰って来ればどう理解したか問い、正しい解釈を逐一伝授、梅増は父の手前その課業をする日々、梅堯臣の含蓄ある解釈も、梅増にはどこが面白いのか、聖人の言葉がありありと耳に聞こえ心に響く感動をどうにか伝えようとの父の力みは空回り、次男を喪い残る息子はこの梅増一人、まだ十八歳、この先どう変化するとも知れぬもの、ならばと己の持つ全てを注入しようとするのだが、息子にはなかなかに迷惑、息が詰まって何もかもこの水辺で投げ捨ててと、秋の風へと寄せる思い、そうそう断ち切れるものでない。
きらめく小波より浮かび来る祖父の顔、
「どうして仕官ならさなかったのですか」
尋ねてみたあの時の柔和な笑み、
「弟も何度も訊いて来た。世間体の良い職をあれこれ用意してくれたが、全部断った。わざわざこの町に戻って勧めてくれた時に、わしはな、こう言ってやった。仕官すれば、出世して栄禄を得るくらいはたやすかろう。しかし、男が志す所を行おうとして、心に恥じずにいられるのは難しい。官位に就き、志す所を行えず、禄を貪り、恥を抱いたままでいる事は、わしにはできない。父祖が生まれて死んだ邦にあって、長老に仕えて恭、朋友に接して信、この二つに恥じる所は今のわしにない。墳墓を守り、我が里閭に安らかに暮らし、老いて死ぬ、それがわしの志だ。そう言ってやった」
祖父の穏やか表情の奥、恥が押し隠されている疑いはなく、弟に恥があると祖父は見たか、「梅香」と綽名された弟、芳香を漂わせた衣の内側に実は腐臭が渦を巻いたか、その梅詢を手本と仰いで都へ上った父、その結果が今の鬱屈した姿、これこそ志す所を行えていないからだ、父の事などどうでも良い、梅増自身はどうなのか、そもそも学問を積んで官人となり世のために働こうなどとの志はない、それは父のものだ、人に押し付けないでほしい、望みがあるとすれば、患いなく平穏に生きる事、ここに置く己のこの身より離れ、勇躍水へと跳び、銀の鱗を輝かす魚、大江を泳いで自由自在、一瞬にして全てが満ちる時、あらぬ想像、己はどこにでもいる小さな人間、いやどんな人より小さな男、恐らくは蚯蚓の死骸にも遠く及ばない、だからこそ小さな生を満たしたい。
小さな体をより小さく縮める妹、ここに身を置く辛さは兄に同じか、兄とは別の方向へ父の背後より離れ、一人とぼとぼと祠の前、これは悲しみと言うものなのか、もう涙は流れず、同じ想念に慣れ、わずかでも楽しさをと、ほのかな期待は何時も裏切られ、華やかな都の元宵節もあの始末、世間の隅に見放された祠、ここに何の喜びが潜むか、母がいて下の兄がいた日々、母の優しい眼差し、兄の朗らかな笑い、何もかも楽しかった、父と兄と三人になって一年余、これからもこうした日々が続くのか、父は凝視する対象を蚯蚓から竹珓へ代え、そのすぐ脇にいる自分はまるで見返られずにいる、この小さな体などあってもなくても同じ事、ならばそれをどこに置くのがふさわしいか、やはり二つの棺の間、祠に向かい、いずれの神とは知らぬが、手を合わせ、叶うものなら母に会わせ、下の兄に会わせ、このような一日はもう来なくて良い、決して日の光の射さぬ土の中、苦しみのないそこが憧れの場所である。
カランと小さな音、放り上げた竹珓、落ちた所に歩んでのぞく梅堯臣、竜女の絵は下向き、とすれば、占いは凶、
「所詮、厭うべき蚯蚓」
低いつぶやきが達するのはただ己の耳、ゆっくりと頷き、地より目を離し、澄み切った青い空、光の満ちる広大な天は竜が昇る至高の場所、蚯蚓はわずかだけ竜に似ると言っても、肝心な角はなく、暗く鎖された地中でうごめくだけ、たまに外へ出れば日に灼かれてあえない最期、天を翔る雄々しい竜、その心を卑小な蚯蚓は知るべくもない、自在に飛ぶ竜もまた干からびて死ぬ蚯蚓の心を知る事はないと言っても、醜悪な蚯蚓の心など誰が知りたいものか、蚯蚓の仲間の草むらの虫けらは加勢するか、声を限りに夜通し鳴き、憂いに沈む人のわずかな眠りを妨げ、人はその声を憎む。
螻蟈似相助 虫けらどもが蚯蚓の応援
草根無停声 草の根で鳴きに鳴く。
聒乱我不寝 騒々しさに人は寝られず
毎夕但欲明 早く夜が明けてくれと願う。
詩の続きを、天つ空なる竜に聞かせようとか、長く低い嘯きを波立たせ、息を限りに続ける声、梅堯臣の顔は赤味を帯び、身まで震わし何やら興奮の体、詩句を聞くだけなら、そう息巻くものか、「厭うべき蚯蚓」と、その前に言ったのとこの様子、通じる所があるのやら、さすがに息が切れて大きく吸い、すぐに軽い吐息、
「凶こそが幸いか」
眉をひそめての舌打ち、詩を吟じる傍ら、占いの結果を気にしていたか、何を占ったのか、まだ見切っていない己にいかなる将来を期待するのか、凶と出ては、しがない柳と観念するしか、未来に希望が持てねば、思索の糸筋は過去をたぐり寄せ、一つ浮かび出て来る以前の詩句、
露才揚己古来悪 才能を露わにして己を顕示すれば嫌われよう
巻舌噤口南方馳 舌をこわばらせ口をつぐんで南に行こう。
四年前の送別の席、送られたのは新たな任地へ向かう梅堯臣、送る一人に欧陽脩、せいぜい人に憎まれぬよう口を閉じてと、自嘲気味に吐いたのは、今になって思い起こせば、腹の底を炙られる痛み、その時はその場にそれなりに合うと思って披露、蚯蚓の詩を竜に聞かせたようなもの、今思い出すのは敢えて身を責めるに等しく、口をつぐむのはむろん身の安全を確保するため、己の立場は人々も分かってくれよう、一方で、才を露わす事こそが真の願い、男児と生まれてそれを願わぬ者はいないはず、だから、この自嘲の底に何がある、微妙な所を、人々は分かってくれるに違いないと、考えたのは実に己に甘かった、一体微妙な何かが己にはあったのか。
蚯蚓の詩などに何程のものか、まことにたわいもない、しかし、大いにこれを誤ったのは、「二百年来この人なし」の言葉、そう言って梅堯臣の詩を絶賛したのは銭惟演、十四年の昔、宰相も経験した銭惟演は、叔父梅詢と古くからの知り合い、友人の甥の才を愛で、詩を良くする人々に引き合わせ、お蔭で、官位が低いにもかかわらず梅堯臣は世の名士との交わりを得て、運命的と言っても過言でなかったのは、科挙に合格して一年目の欧陽脩との出会い、欧陽脩は政治と文学は不可分であるとの信念、両者をともに改革しようとの意欲に燃え、眩しいばかりの輝き、文学の面で独自の世界を開拓し始めていた梅堯臣を、欧陽脩は我等が先達であると大いに称揚、梅堯臣の名が気鋭の若者の間に知られ、欧陽脩は天へと昇る勢いの大いなる活躍、梅堯臣は相も変らぬ地方の小官、銭惟演は間もなく他界、梅堯臣を官界の出世街道に引き上げてくれぬままに終わり、ただそれはある意味幸いだったか、欧陽脩は改革の旗手、一方で銭惟演は旧勢力側の老大家、欧陽脩が銭惟演と衝突すれば、梅堯臣と欧陽脩の関係も微妙なものとならざるを得なかった。
いかに勢いのある竜でも全てが思いのままではない、宰相以下の要職は旧勢力の占める所、欧陽脩が苦難に突き当たるのは必然、改革派が伸張するにつれ反発も強まり、徒党を組んで世を乱す不埒な連中と、根こそぎ地方へ放逐、改革派は次の時が来るまでしばしの雌伏、とは言え、中央で一度は名を挙げた者なら、左遷されても悪くて州や町の知事、風向きが変われば再び皇帝の前に出られる、そうした浮沈のある年々、「噤口南方馳」と別れの席で梅堯臣が歌ったのは、改革派の勢力が上向きになりかけていた頃、梅堯臣は欧陽脩等と心意気を同じくしたいと思っても、地方の小官勤め、改革に貢献できる事はこれと言ってなく、政治的立場を露わにすれば、風向きによっては上手く行って、知事の書記にでもなれればしめたもの、風が逆向きになれば、わずかな禄さえすっかり失う、この時の梅堯臣の後ろ盾はまだ存命であった叔父の梅詢、梅詢はまぎれもない旧勢力側、欧陽脩との付き合いは純粋に文学的なものであると、叔父の手前は取り繕い、口をつぐむのが無難、こうした言うに言えない心の奥を友は分かってくれるはず、送別の席で吟じた詩、一体己は何を分かってもらいたかったのか、年月を置いて見れば、詩の底に透けて、痛ましいまでの己の卑小さ、小さな身を必死に守り、それでいながら虚名を馳せたいとの強烈な願望、そんな己に凶と出るのは当然、ここで己を見切ってしまうよりなかろうと、裏返った竹珓に目を落とす。
こんな己、薄っぺらな詩を、年齢は下でありながら大きな度量で受け容れてくれた欧陽脩、それこそが竜と蚯蚓の違い、送別の席で欧陽脩は、
「詩人にして、達する者は少なく、窮する者ばかりが多いと、世に言うが、君はどう思うか」
急所を突く問い掛け、詩に囚われの身となった者が困窮するのが必然であるのなら、梅堯臣が苦しむのはそれだけの事、むしろ困窮を誇りとして詩に励むのがいい、欧陽脩はそう言いたかったのだろうが、数は少なくても栄達する詩人がいて、もしもそれは例えば欧陽脩であるとすねて受け止めるのなら、欧陽脩の問いいささか残酷、そう勘ぐる梅堯臣の品性が疑われようが、そんな思いを隠そうと、それに、己は言われる程の詩人でもないと、梅堯臣が苦笑したのに対し、欧陽脩はゆったりと微笑み、
「古来、優れた詩として伝えられたものは、どれも世に窮した人の作。溢れる才能を有しながら、世に志を得ぬ者は、世の外に出て山水に遊び、虫魚草木、風雲鳥獣を目にし、その内に奇怪なるを探り取り、それによって心に憂思感憤を積み、怨刺の留め難きを発し、人情の言い得ぬ奥を言葉に写した。窮して初めて詩は成り、窮すれば窮する程に詩は巧みとなる。詩人が困窮すると世に言うのは、結果より原因を見誤ったもの、正しくは、窮して後に詩人となるのである」
欧陽脩ならでは明快な論、梅堯臣の目をじっと見据え、もしも詩を己の業と志すのなら窮するのを望めと、口では言わずとも、強い期待、しかし、欧陽脩ならば、窮してこそ詩は熟す大才があろうが、己は窮したならば圧し潰されるだけか、、欧陽脩の言の果敢さにたじろぎ、相手の視線から目を逸らしかけ、欧陽脩は破顔一笑、
「二百年来この人なし。まこと、その窮する所も、二百年来この方なしとなってこそ釣り合うであろう」
これは梅堯臣へのこの上ない励まし、決して挫けぬ人物と認めていなければこうは言わぬ、それに恥じぬ己でありたいとは強く願う所、ここに竹珓が凶と出ているのは、いよいよ身は窮すとの証、これは己の詩にとって幸いの訪れか、官位の低い己がわずかでも世に名が知られるのは詩があればこそ、窮して詩に殉じ、万世に不朽の名を残すのなら本望、妻の死も息子の死も、本意ではない許州への赴任も、詩を大成させようとの天の計らいか、
「所詮、厭うべき蚯蚓」
またしてもつぶやくのは、己の詩が竜の言とはならぬを知るから、せいぜいが蚯蚓に加勢する虫の鳴き声、人に憎まれても虫は鳴き、己は不才に苦しんで詩を吟じ、身を苦しませても低きに留まる詩、己の身に貼り付いたまま高みへと昇らぬ、この程度にしか成らぬ詩が疎ましく、それでも断たれぬ詩への執心、我ながら煩わしく身を苛むよう、いっそ詩など初めよりなければと、自棄になれば、いや、詩の大成に二百年来なき窮迫を望むべき、真正の詩人となってこそ己の生を全うし、妻の死も息子の死もそのための試練、この許州の職などなくて貧困にあえぐのを甘受すべきであったか、我が詩のために妻を死なせ、息子を死なせ、残った二人の子も顧みない、それこそが我が為す事か。
「愚劣だ」
拙過ぎる己の心を吐き捨ててしまいたい、木々の向こうの水辺に離れて立つ息子は、この父を見抜いているのか、父の詩を厭い、父自体を疎ましく感じる、梅堯臣が己の詩に己の心に感じるのと、同じではないにしても、遠く異なるようでなく、片や妻と息子を失い、片や母と弟を失い、父と子としてここまで歩いて来た一つの道筋、これからもなお辿るべきか、互いに逸れて行くべきか、蚯蚓は地表にうごめいて、行き場を失い干からびた、そうなる前に己の求める所へと、息子は水のつながる先、宛陵を想い、祖父と交わした言葉の追憶、ここより離れてしばしの慰め、柳は己の姿を見切るまでにどれだけの時間を要したか、若ければ思いを彼方に放つは当然、父は愚劣と吐いて捨てたい己、より強い痛みをそれに与え、ついに己を見切ろうとか、都で、ある人物に返したあの言葉を思い起こす。
「不服はあろうが、叔父上殿に所縁の地だ。私が出来るのはこれくらいだ」
そう言ったのは王挙正、忠武軍節度判官の職に空きがあるから推薦してもよいと、思いがけない話、心を鎖していた暗雲に一条の光が射すと感じたのは、それより半年余り前に、妻と息子の埋葬を終えて到着した都は政争の真っ只中、梅堯臣は欧陽脩等改革派の手助けを少しはしたい、改革派が勝てば良い職も得られよう、それで急いだ旅であったが、守旧派は手段を選ばぬ徹底抗戦、皇帝の側近を抱き込み、改革派を誹謗中傷、皇帝は初めは信じなくても、度重なり、異口同音に多くの者から聞かされれば、疑いの生じるのは止められず、改革派は皇帝の信頼を失って一人また一人と地方へ転出、このまま改革派と運命を共にしては、無一文になりかけの梅堯臣は野垂れ死にか、敗れて都を出て行く人も地方においてはそれなりに立派な地位に就く、無職の梅堯臣とはまるで違う、ここで二百年来なしの窮乏を我が身に与える試練と踏ん張ってこそ真正の詩人になれるかと、覚悟を決められなかったのは、妻と息子を己のために死なせたとの悔い、職を得られなくては残った二人の子も死なせてしまう、そんな不人情な男がどういう詩を作るのか、結局は我が詩を亡ぼすだけ、とにかく食い扶持を得ねばと、改革派が頼みとならないのなら、わずかでも伝があれば手紙を書いて職の斡旋を頼み、かつて面識を得た人の元に足を運んでの懇願、多くは門前払いの中にあって、珍しく会ってくれた王挙正、願ってもない就職口に、梅堯臣は深々と頭を下げ、
「有難き幸せにございます。御推薦を頂きますれば、この御恩、生涯忘れません」
その時の己の声はまさに哀願、座より離れ、、床に膝を付き王挙正を拝礼したのは度が過ぎたか、それでも王挙正の心を動かすのに成功、すぐに許州でのこの職を得る事が出来た。
職を得るためならどのような相手にも泣き付く、見苦しい限り、己の矜持はどこに行ったか、否、その矜持こそが愚劣か、都を出て許州に向かう折、見送りの友人に応えた詩の一節、
誠知子心苦愛我 君がそれ程までに私を思ってくれるのは
欲我文字無不全 私の文学が完全になってくれと願うからだろう。
己には詩がある、詩を書くのが己の役目、宋代の新しい詩を生み出す、己が目指すのも友人が望むのもその事、全ては詩のためである、己の詩は己一人のものではない、我が詩を亡ぼしてはならない、だから我が命を繋ぐのである、そのためにこの職を得た、王挙正に哀願したのは単に禄を食むためではない、友人もそう理解してくれると思ったし、人には詩に専念する高潔な人物であると己の姿を見せていると思っていた、しかし、王挙正の推薦を得たのは、見苦しくないと言い切れるものだっただろうか。
王挙正は悪い人間ではない、平凡だが善良な男だ、薄い縁故しかない梅堯臣でも哀願すれば、心を動かす情に厚い男だ、四年前に死んだ叔父の梅詢、それより七年前に死んだ岳父の謝濤、同じ年に死んだ銭惟演、梅堯臣と深い繋がりのあった三人と折々に親交があり、親子二代にわたって朝廷の高い位に就いたと言えば、王挙正は自ずと守旧派、もともと朝廷の中核を成していた人達は、かつて対外政策で決定的な失敗をし、改革派はそこで実績を築いて中央政界へ進出、皇帝の期待を受けて内政の改革に着手、改革が広範かつ根本的であると明らかになると、守旧派の巻き返しが本格的に始まったのは、例えば、改革派の示した方策の一つ、高官の子弟に無条件で官職が与えられる任子の制度の縮小があり、任子の濫用は冗官を増やし、かつ、科挙に合格した有為の人物に対する門口を狭める弊害がある、任子の制度の縮小は理に適ったもの、しかし、任子の制度がなければ、梅堯臣にしても王挙正にしても官職は得られなかった訳、もっとも王挙正は後に科挙に合格しているのだが、いずれにしても、任子の縮小はすでに高位高官にある者にとって面白くない、それはほんの一例、改革は守旧派にとって不満だらけ、改革派と守旧派の対立は先鋭化し、王挙正は朝廷の重要な職にあったから、改革派はその地位を我が陣営が手にすべく、王挙正を弾劾、その急先鋒に立ったのが他ならぬ欧陽脩、「懦黙にして事を任すに耐えない」と、王挙正の凡庸振りを批判、確かに激烈な政争に勝ち残れる器ではないと王挙正自身も判断、地方への転出を願い出たのは、成る程善良かつ平凡な人物であるから、王挙正は許州知事に任命され、許州と言えばそこで死んだ梅詢を思い出し、そこに当の甥が職に困ってと頼みに来て、節度判官の職に空きがあるとの親切心、まことに有難い巡り合わせだった。
王挙正は争い事を好まない、だから改革派の好戦的な姿勢も好まない、穏健な自分がなぜ非難の的になるのか理解できず、梅堯臣が改革派の端くれとして守旧派をあてこする詩を書いていた事もほとんど気に留めず、窮地を救ってやろうとの単純な好意にすがり、詩のためだからとの言い訳も用意し、いよいよ許州に向かって都を出ようとした時、守旧派の最後の攻撃が欧陽脩に向けられた、欧陽脩は明快な論理で守旧派を論破、名文を以って己の主張を天下に明らかにする、正面攻撃ではとても適わない、ならばと守旧派が放った窮余の一策は、恐ろしくも下卑た手、欧陽脩は恥ずべき色狂いとの告発、それが本当なら高邁な言説も笑止千万、事実とは必ずしも証明できなくても、下賤な話が世間で取り沙汰されればそれだけで名声は傷付く、そこが敵の狙い、欧陽脩は妹婿の娘と私通し、その娘が嫁した家の財産を欺き取ったとまことしやかな話、欧陽脩がこの陰湿な罠に落ちかけつつある時に、欧陽脩が「懦黙にして事を任すに耐えない」と痛烈に批判した王挙正の手助けによって、節度判官の職を得て許州へと向かったのである。
新しい職に胸を膨らませてとは、どうしてなろうか、如何ともしがたい思いでの旅、鬱々と気は晴れず、妻の死から間もなく一年となる六月末、夜明け前に目覚め、舟縁を叩きつつ夜空に吟じた詩、天の川へと昇り、上天に我が真情を訴える、先程まで見ていた夢、この耐え難き思いを分かってもらいたい、決して欧陽脩を裏切ったのではない、職のために恥ずべき行為をしたのではない、全てを見通す上天に、己の思いを訴えれば、返って己の愚劣さと向き合わねばならぬか、神官に非礼を咎められ、身の置き所を失い、
「臣が言は大いに狂を為す」
全身に大汗をかいて地上に逃げ、舟中に起き上がり、吟じる己の言は狂でしかないと、これより己の詩を厭う気持ちが始まったか、しかしそうは言っても、詩は詠まずにはいられず、詩を詠めば厭う思いが強まり、判官の職に忠実に、ひたすら文書に埋もれればその時ばかりは気が紛れ、これも国家を担う官人の重要な職務、誇りを持って励もうか、叔父に比べてこの官位の低さ、いつか皇帝の前で国家の大計を論じると夢見て故郷を出たのは十三歳、せいぜいの所がこの職であったとは、詩を取り去ったならばただ実直な下級官僚、それこそが四十を過ぎた己にふさわしい姿と見切ってしまえばいいのだが、詩があるからこそこの己があると、どこまでも愚かな蚯蚓の矜持、詩は捨てらず、捨てようと決心しても、心に詩句が浮かぶのは止められない、自ずと出てくる詩は己の心の真実を言うのか、どうもそうとは限らない、それが己の詩を疎ましく感じさせ、詩は大体からして何のため、妻の死も息子の死も、詩は出来たものの、死の虚しさより取り返せる何かがあったか、
我非忘情者 情を忘れられぬこの我
夢故不夢新 夢は昔を見るばかり、新たなものはない。
同じく許州への舟旅で、妻と言葉を交わしたと夢に見ての目覚め、やはり舳先に出て吟じれば、己の情に溺れて何もかもがどうでもよく、己の人生が吉となろうが凶となろうが、過去も未来もどうでもよい、詩は心をくたす他の如何なる働きがあろうか、全てを否定して行く思いの連鎖から脱出しようと、梅堯臣は身を屈め、竹珓を拾い、裏から表に返し、薄れた竜女の像を仔細に眺め、立ち上がり、ひょいと再び宙に放る、カランと落ちたのを見れば、またも裏、
「やはり凶」
目を閉じてうなずいたのは、ついに柳の観念か、ふっと息を吐き、
天地且容畜 天地はこいつらも容れてやり
憎悪唯人情 嫌ったりするのは人だけだ。
蚯蚓の詩の続きにして最後の結び、何を憎み何を好むか、人の情の在り方である、何かを善しとし何かを悪しとする、何かを吉とし何かを凶とする、天地はその全てを内に容れ、全てはあるがままにあるだけ、ならば、蚯蚓は干からびても別に竜を羨みはせぬ、蚯蚓に及ばぬ卑小にして愚劣な己、明らかな天の理をわきまえず、何故ここに詩を吟じるか、二度の凶は、いよいよ窮してこそ真正の詩人となれとか、それがこの朽ちかけた祠の神の御託宣か、己の望みはそこにあってしかるべき、だが、蚯蚓は蚯蚓、凶にしても吉にしても、己はこの程度、詩人の矜持も官人の矜持も愚劣、あるがままの、干からびた死骸の蚯蚓でしかない己があるだけ、自棄と言うべき程にまで至り、ついに虚像ならぬ己の姿を見切ったとの感覚を得て、ここに思いも寄らぬ安らかさ、初めて波が静まった大海のよう、それはただの一刹那、突如として、海は渦巻き、蚯蚓が竜となるのを望んで何がいけない、天地はそんな蚯蚓の望みも容れるはず、詩人にして達する稀な人間もいて、それに己がなれぬとは一体何時定まったか、身は高官に昇り、詩は真正のものとなる、死んだ妻の改葬も果たせ、子供達も安楽に暮らせ、そもそも学問をして来たのは何のため、詩を書いてこの心を慰めるためか、官人となって裕福になるためか、否、聖人の教えを今の世において踏み行い、後世に正しく伝えるため、それが欧陽脩の目指す文学と政治の改革、そこにこそ身を投げ出して励むのが学問をした者の責務、それを目指す限りにおいては、欧陽脩とも恥らう事なくまた会えよう、己も竜となる、梅堯臣はここに空飛ぶ身の軽さを覚える。
それは凶が吉に反転したのか、あるいはそれこそが凶なのか、そもそも梅堯臣は故郷を出た初めからその心を持っていただけなのか、凶とも吉とも分からぬ行く末、ならばこそ大きな望みを抱くべきか、はかなく過ぎ行く今のこの時に、はかなく生きる者たちのはかない思い、それがより優る真実か、息子はここを離れて宛陵へと、公孫樹の暢びやかさ、叶わぬからこそいよいよ思われ、馳せて遠く流離う心、ぐいとばかりに引き戻したのは、もう一つのはかない心、黙って祠の前に立つ妹、その妹を一人置き去りにしてどうなるか、死んだあの弟に同じ、弟よりもまだ幼い、己が妹を死なせてなるものか、あの妹ばかりはそうはさせまい、何の絆しも持たず、自在に飛び行く鷺を羨む心、それを断ってこそ兄、彼方へ連なる思いを浮かべる水に背を向け、木々の間より、小さく見える妹の姿、その心の内は自ずと知れて、いっそ誰もが知らぬ間に、土に消えてしまいたい、思うおぼつかなさ、
「まだおられたかのう」
石段のあたりより響く声、聞き覚えがと振り返れば、先程の老婆、
「何だかのう、あのままではいけないような気がしての。まだおってくれたか。ちょうど、三つばかし、残っておったのがあったでな」
独り言のようにつぶやき、のったりのったり段を上がり、娘の前まで来て、握っていた手を腿より離して開けば、中にある焼き栗、娘はきょとんとした顔、老婆のゆっくりした微笑みに、つられて少しばかり緩む顔。
「さあさ、お取り」
栗から湯気が立ちそうなのは、老婆が握りしめていたから、
「でも」
「いいんだよ。ほれ」
まだ手が出ない娘に、老婆は口を大きく開け、
「ほっほっほう」
満面の笑み、
「あんまり寂しそうでの、これでも食べてもらおうかとな」
その言葉に、ふっとひとしずく、涸れたはずの涙か、老婆は歩み、娘の手を取って一つの栗、温もりが伝わり、娘はこっくりと、
「ありがとう」
「いい子だのう。竜神様にお祈りすると、味も良くなる」
老婆は祠に深々と頭を下げ、何やら口中に唱え、娘はただその仕草を真似、
「昔は賑やかに祭りもしたが、今は誰も世話をせん」
振り向きつつ、そこに寄って来ていた父と兄、
「有難い神様にだって、いい時、悪い時。わしなどは何時も貧乏。それでもまだ手足が動く。竜神様のお蔭かの」
二人の男を見上げ、
「御立派なお方にも、思い患いもあるだろうて。だがな、幼い子を悲しませてはならんぞ」
娘がぎゅうっと握るのは、小さな栗のはかない温もりが逃げてしまわないようにか、
「母を失いまして」
梅堯臣の言葉に、老婆は深くうなずき、
「お気の毒よのう」
「私もすっかり気を病んでおりましたが、それも今日までと致しましょう。天地は何物も容れてくれましょうから、このような身にもまだ良き時がありましょう」
老婆は落ちたままの竹珓を見やり、
「昨日が凶なら、明日は吉。またその裏もあるかの。一粒の栗にも何の定めか、ほら、これはあなた様のお口へ」
官人の己が貧乏な老婆からとは要らぬ偉ぶり、
「有難く頂戴します」
両手で受ければ、息子も次に、老婆は再び笑い満足そう、左右に体を揺すりつつ去り、三人が、それぞれに手にした栗、天地の間にあって、老婆もまた、父と兄と妹も、栗のように小さく、貧相な柳の枝の風に揺れるはかなさ、志を得ない蚯蚓は干からび、天に昇る竜といずれが誠の言葉を持つか、なかなかに見定め難い吉と凶、ついに大成せぬ詩とは、柳と違って見切れぬのが人と言うものであろうか。