昏虐の帝王

　中国歴代の皇帝の中で賢明と評される人物はさほど多くない。凡庸であればまだしも、大方は愚昧の範疇に入るであろう。皇帝とはそういうものらしい。並み居る愚帝の中で特筆すべき者となれば、それ相応の愚劣さでなければなるまい。

　その名を蕭宝巻という。七代二十四年で滅んだ斉王朝の六番目の皇帝である。皇帝の地位に正しく就きながら、死後に帝王としての謚号を受けなかった。父の明帝、弟の和帝の間に挟まるこの皇帝は普通は廃帝東昏侯と呼ばれる。この忌まわしげな名を冠せられて史書にその事跡が記される。

　蕭宝巻が即位したのは永泰元（四九八）年七月。父皇帝が四十七歳で病没し、南北朝時代の南の帝国である斉の皇帝となった。十六歳だった。父皇帝の遺詔は、徐孝嗣、沈文季、江祏、江祀、劉暄、陳顕達の六人を大臣として定め、徐孝嗣を第一とし、内外の衆事は大小となく徐孝嗣、蕭遥光、蕭坦之、江祏に委ね、特に重大な事となれば沈文季、江祀、劉暄にも意見を聞き、軍政は陳顕達に任せよとあった。即位の翌年、蕭宝巻は遺詔に記された八人をことごとく殺した。

　即位とともに褚氏の娘が皇后に定められた。皇后らしく遇されることはなかった。もっぱら寵愛されたのは潘貴妃だった。神仙殿、永寿殿、玉寿殿の三殿が潘貴妃のために造営された。総金壁造り、都中の諸寺から削り取った数多の宝物で飾り立てられた。莫大な量の金を鑿って無数の蓮の花が作られ、潘貴妃の歩む先に金の花が撒かれた。「歩歩、蓮華を生ずる」と蕭宝巻は興じた。潘貴妃を釈迦に比したのである。

　蕭宝巻は皇城の外に出遊するのを好んだ。己の姿を民衆に曝すのを嫌い、先触れが出て皇帝の行く先々で厳重な人払いがなされ、道筋の家々はすべて空にされた。禁を犯して蕭宝巻の姿を見た者はその場で殺された。出遊は月に二十回を超え、東西南北どの方向に行くか定まらず、突然の皇帝のお出ましに都の民衆は常時悩まされた。出産が始まって逃げられなくなった女が取り残された。陣痛に苦しんでいるのを見て、蕭宝巻は腹を裂き、中にいるのが男か女かを検分した。

　蕭宝巻の振る舞いのごく一部である。「先帝が御覧になったならばお怒りになられましょう」とある者が意見した。「それならば見てもらおう」と、蕭宝巻は菰で明帝の姿を作らせた。人形を北向きに置いて父と対峙した。上位の者が南に向き、下位の者が北に向くのが礼法である。蕭宝巻は父の人形を平伏させ、罵声を浴びせ、剣で斬った。菰の首は苑門に吊された。

第一回　廃帝即位

　　　　一

　暗愚な皇帝には阿諛追従の小人が寄り添い、皇帝をよりいっそうの愚昧さに導くのが定めであるらしい。蕭宝巻にも当然のようにして悪名高き嬖臣がいた。その一人を梅蟲児という。

　梅蟲児は百戯の徒である。呉興出身と言われるが、実際のところその父が誰であるのかはわかっていない。母方の祖は天竺から流れ来た幻術師とされる。晋の世に截舌の術をもって人々の耳目を驚かせた。

　左手の親指と人差し指で舌先をつまんで長く引き出す。優に鼻の先に届いたという。右手に剣を持ち、「うん」という腹からの掛け声もろともに、その舌を中央で切り落とす。舌は宙を飛び、血が激しく噴き出る。たちまち生じた血の池の中より切断された舌先を拾い上げる。皿に載せて人々の間を回す。舌はぴくぴくと動く。口を開き、切られた残りの舌を突き出す。半分になった舌からは赤い血がなおどくどくと流れ落ちる。人々が十分に見終わると、切った舌先をやおら口中にほおりこむ。しばし時を置いて口を開くと、舌は元に戻っているのである。

　梅蟲児は、そうした幻術や技巧遊芸を民衆に見せるのを生業とする一座の中に生を受けた。母は素行が悪く、一座の流れ行く先々で男を作っては一座を離れ、男に捨てられるか自ら飽きると一座に舞い戻った。梅蟲児の父は当の母もよくわからず、梅蟲児を生んで一年ほどたったころに、どこぞの村の若旦那だか道士だかを誑かして消えてしまった。梅蟲児は、血縁であるのかよくはわからない叔父、叔母たちに芸を厳しく仕込まれた。父無し母無しで梅蟲児には辛い幼年時代であったが、天性の身軽さに加えて口達者なところから、五歳のころより早くも一座の人気者となった。歌って踊る樂舞から始めて、跳丸弄剣、旋盤流星、履絙登幢、呑刀吐火と何でもこなした。おかげで一座は常に賑わい、稼ぎが大いによくなり、都に見世物小屋を構えるようになった。折よく斉国が盛時を迎え都が繁栄の時期に入ったのも一座に大いに幸いした。

　截舌の術が絶えてすでに数十年が経っていた。梅蟲児は一座の古老より父祖の見事な術を聞かされ、いつかは自分のものにしてやろうと決心した。古老は、そのためにはまず身の修練が肝要であるとして、神仙養生の道を教えた。梅蟲児は導引、行気、錬形の法を学んで日々鍛錬を怠らず、食事は一日一回として必ず松の実を食した。截舌の術が行われなくなったのは、天竺にはない房中術を行って精気を損なうからであると古老は言った。

　梅蟲児には妹と弟があった。

　妹といっても父も母も違う捨て子である。父母のない同士で兄妹となった。妹は一座の大人から随分と酷い目に合わされた。芸の覚えが悪く常に鞭で打たれ生傷が絶えなかった。無口で我慢強く決して泣かなかった。梅蟲児と妹の二人で芸を披露すると見物衆にはそこそこ受けた。幼い妹はよくしくじった。梅蟲児はそれを上手に補ったが、妹は後で激しく叱られた。妹は七歳になったばかりで、はやり病のために死んだ。激しい高熱におかされても、苦しいとは一度も口にしなかった。梅蟲児は懸命に看病した。

　それからしばらくして母親がどこからともなく戻り、弟を産み落とした。弟が歩けるようになったころ、母親はまた消えてしまい、それからは二度と戻らなかった。

　兄が十二歳、弟が四歳となったころ、弟も小屋で芸を見せるようになった。人前でも物怖じせず、愛嬌もあり、一座の者は兄より筋がよさそうだと思った。

　だからだったのだろう、梅蟲児を欲しいという人物が現れたとき、叔父や叔母たちは梅蟲児を売り飛ばしてしまった。小屋に届けられた珍宝の山に一も二もなかった。買った者の名が後に知れ、一座の連中はびっくり仰天すると同時に、もっと高く売りつけてやればよかったと後悔した。無理からぬことだ。買い主は豫象王蕭鸞であった。時の皇帝の従兄弟である。

　梅蟲児は弟と別れの言葉を交わす間もなく小屋から連れ出され、途中で立派な衣装に着替えさせられた。見たこともない飾りの付いた車に乗せられ、ごとごとと運ばれた。着いたのは東府で第一の大邸宅であった。

　当時の都は長江に面する建康にあった。今の南京である。三国志の時代以来、呉、晋、宋、斉の四代の王朝がこの地に財を集積し、広壮にして華麗な都を築き上げて来た。梅蟲児がそれまでいた小屋は下層民の雑居する南西の卑湿な地であったが、蕭鸞の邸宅は都城の外の東府城の中にあった。街路から門をくぐって邸内に入ってからの先が長かった。

　梅蟲児が車より降りて導かれたのは、広いと思っていた一座の小屋の十倍はある広間だった。蕭鸞に目通りをした。蕭鸞は遥か遠くの壇上にあり、背後に金銀の衝立が輝き、梅蟲児の目は眩んだ。大貴人の顔はとても見てとることができなかった。

　芸を披露するよう命じられた。梅蟲児は剣を取り、歌いながら踊った。剣を高く放り上げ、それが落ちてくる間に三度とんぼを切り、床に片膝をついて剣を受け止めた。一曲終わると、剣を頭上高くに掲げた。人々は喝采を送った。梅蟲児は軽く会釈をすると、「しっ」と静まるよう合図した。蕭鸞は身を乗り出した。梅蟲児は真っ直ぐに高く伸ばした腕の先で剣をくるりと回し、切っ先を顔に向けた。口を開き、「はっ」と掛け声を出し、するすると剣を呑み込んで行った。柄だけが顔の上に残り、あとは腹中におさまった。人々が感嘆すると、今度はするすると剣を吐き出した。

　蕭鸞の脇より一人の少年が駆け下りた。飛び付くようにして梅蟲児の右手を掴むと、剣を奪い取った。大きな丸い目で、切っ先をぐいと睨み、唇を大きく開き、いきなりそれを口中に入れようとした。梅蟲児は一本の紐を投げた。紐は剣の先にからみつき、切っ先は少年の歯の間より外に出て、刃は中空で旋回した。「やっ」と梅蟲児が引くと、剣は少年の手より離れた。少年は剣を奪い返そうと跳び上がった。剣は梅蟲児の手中におさまった。少年は梅蟲児に飛び掛った。梅蟲児は少年を両手で受け止めると、高々と空中に放り上げた。少年は二度三度と回転して梅蟲児の腕の中に落ちた。

　人々は二人の動きに目を見張った。

　少年は美しい衣装を着て、顔もまた美しかった。細面で瞳が大きく、唇は赤く輝いていた。

　少年は己を抱える梅蟲児の顔を見た。真ん丸の顔に横一文字の細い目、渦高い鼻、尖った口。その造作で滑稽な笑顔を作ったから、こわばっていた少年の表情がにわかに崩れた。大きな声で笑った。

　梅蟲児は少年を床に立たせ、自分は跪いて頭を垂れた。

　少年は梅蟲児を見下ろすと、

「おまえが好きだ」

　と、言った。

　壇上の蕭鸞は安堵したようにふうっと息を吐いた。

「息子だ。相手をしてやってくれ」

　梅蟲児は少年の顔を見上げた。自分より三歳か四歳下だろうと思った。大きな目がきらきらと輝いていた。少年はにっと笑った。

　これが蕭宝巻であった。

　時は武帝の治世下にあった。斉の最初の皇帝は高帝であり、武帝はその息子である。高帝には蕭道生という兄がいた。その息子が梅蟲児を買った蕭鸞である。蕭道生は若くして死に、高帝は蕭鸞を引き取り父親代わりになって育てた。我が子以上に蕭鸞を愛したという。

　蕭鸞は、高帝、武帝の二代にわたって朝廷における重要な地位を占めたが、一つの悩みは男子になかなか恵まれないことだった。二十代も後半になって殷氏の娘がようやく最初の男を生んだ。蕭宝義という。しかし、蕭宝義は幼くして大病を患って口がきけなくなり、立ち振る舞いも人の常を失った。屋敷の奥深い部屋で人に知られず育てられ、公の場には一切出ることのない身となった。

　蕭鸞が三十歳のとき、正妻の劉氏が初めての男子を生んだ。これが蕭宝巻である。このときから蕭鸞には立て続けに男子が生まれ出し、劉氏はその後、宝玄、宝寅、宝融の三人の弟を生んだ。別の女からも相次いで四人の男が生まれ、蕭宝巻には一人の兄があって、七人の弟が生じたのである。

　蕭宝巻の母は末弟の宝融が生まれて間もなく死んだ。蕭宝巻が六歳のときだった。その直後、蕭宝巻は宝融の寝ている部屋に入り、弟の鼻と口を両手で押さえ付けた。女官が見つけて蕭宝巻を引き離したときには、宝融はぐったりしていたが、命はかろうじてとりとめた。

　蕭宝巻は礼を教える教師の腹を蹴り、文字を教える教師の腕を噛んだ。蕭鸞は、礼は臣下の為すもの、文字は臣下の知るものだと、息子を叱らなかった。蕭宝巻は武芸を好んだ。馬に乗り、剣を振り、矢を射るのを喜び、倦むことを知らなかった。それでも相手が教え諭そうとする態度をとれば、蕭宝巻は激しく反発し、剣をもって傷つけることさえあった。逆に蕭宝巻を恐れて卑屈な態度をとれば、蕭宝巻は殴ったり蹴ったりした。蕭鸞は大人たちに対する息子の粗暴な振る舞いを見て、同じ年頃の遊び仲間を付ければ落ち着くこともあろうかと、何人かを試した。相手をさせられた少年はいずれも怯え、蕭宝巻は苛立ち、馬に繋いで引きずったり、矢の的にしたりしていたぶった。

　蕭鸞は、人の気を取るのに長けて身の敏捷な者をと、都で評判の梅蟲児を買った。蕭宝巻は梅蟲児を「阿兄」と呼び、すぐに馴れ親しんだ。兄ちゃんというような呼び方である。

　同じころに、梅蟲児よりも二歳ほど上の茹法珍も加わった。茹法珍は会稽の人とされるが、蕭鸞が戦場で拾った孤児である。年齢の割に大柄で、剣の腕前もなかなかであったところから、将来は強い兵士になると蕭鸞は見込んでいた。茹法珍は都に連れて来られると、武芸百般、何に対してもたちまち腕を上げ、大人でも適う者はほとんどいなくなった。蕭鸞は、息子に武芸を仕込む役として茹法珍を使ってみた。蕭宝巻は茹法珍を気に入り、「阿丈」と呼んだ。おじさんというような呼び方である。

　初めて梅蟲児が会ったときから、茹法珍は見上げる大きさがあった。十代の半ばだというのに、長い鬚を蓄えてずっと大人に見えた。四角い顔はいかつく恐ろし気だったが、笑うともともと小さな目がいっそう縮んで、愛らしい表情になり、やはり少年だとわかった。

　蕭宝巻十歳、茹法珍十五歳、梅蟲児十三歳の三人は、常に一緒に過ごすようになった。梅蟲児は蕭宝巻と一対一でいたときよりも気が楽になった。広い屋敷の中は遊びに困ることはなく、三人で勝手気ままな遊びをいろいろに工夫した。

　間なく武帝が死んだ。武帝の息子の皇太子は早世し、武帝の孫が皇帝となった。鬱林王という。王は不逞の小人と毎夜淫宴に耽り、父の愛姫であった霍氏と通じた。霍氏は尼となって寺に出たと偽り、密かに宮中に置き続けた。暴虐の行いが多く、蕭鸞は兵を率いて雲竜門より宮中に踏み込んだ。王は霍氏と裸で接している最中に走って逃げ、捕らえられた。後に殺された。二十二歳であった。

　次いで、鬱林王の弟の海陵王が皇帝となったが、兄と同様に皇帝としての資質に欠けるとされ、即位からわずかにして病没した。十五歳であった。

　二人の皇帝が廃された後、皇帝となったのは蕭鸞であった。これが明帝である。明帝が強引に帝位を己のものとしたのは誰の目にも明らかであった。

　父親が即位し、蕭宝巻は皇太子となった。

　梅蟲児は皇太子に従って皇城内に入った。都の建康は二重の城壁で囲まれる。都の外周は都城の壁で囲まれ、皇帝が住む建康宮は皇城の壁で囲まれる。皇城内において斉国の政治万般が執り行われた。

　梅蟲児は、初めて来たとき蕭鸞の屋敷の大きさと豪華さに驚嘆したが、皇城はその何十倍も広く、堂々たる御殿、高い楼閣が威容を競うように立ち並んでいた。

　蕭宝巻は東宮の入り口に至ると、三人が同乗して来た輿より跳んで降りた。

「阿丈、阿兄、おまえたちはここに住めるのを幸運だと思っているだろう」

　金玉が輝く朱塗りのこの門一つに、梅蟲児はすでに圧倒されていた。この門をくぐれるだけでも幸運以外の何ものでない。

　梅蟲児は皇太子に続いて跳び、空中でくるりと一回転して地に降り立った。

「もちろんでございます」

　幼いころ、旅の先にあって、村はずれで食べ物もなく豚とともに寝た記憶がよみがえった。御馳走を毎日飽きるほど食べ暖かいものにくるまって眠れるなどというのは、そのころは考えられもしない贅沢であった。それが今では毎日できている上に、今日からは普通の人が絶対に入ることのできない皇城に住めるのだった。

「阿丈もそう思うか」

　茹法珍はゆっくりと跳んだ。

　梅蟲児は蕭宝巻と茹法珍の間にはさまれて二人を見上げた。茹法珍はもともとの大男だ。蕭宝巻はここのところめきめきと成長し、一方で、少しも大きくならない梅蟲児はとうに超されてしまった。わずか二年前には蕭宝巻を両腕で受け止めたというのに、今では完全に逆転している。

「敵をここで迎え、武勲を輝かすことができるのなら、幸運でありましょう」

　茹法珍は剣を鳴らした。

「阿丈がそれを望むのなら、そうなるようにしてやってもいい」

　蕭宝巻は笑った。

「お屋敷よりも、広い馬場があるでしょう。早速、馬を走らせましょう」

「阿丈は楽しそうだ。阿兄は中に入れば、ますます驚くだろう。大きな建物がいくらだってある」

　梅蟲児は額に手をかざし、蕭宝巻、茹法珍を見上げ、その隙間から天を仰いだ。

「小さな私なぞは肝を潰すばかりでございます」

　蕭宝巻は聳える一つの楼閣を指差した。

「だがな、あんなものは本当のところは少しも大きくはない。こんなところは少しも広くはない。おれは、これからずっとここの狭い場所に閉じ込められてしまう。そんな不幸が他のどこにあるというのか」

　十二歳の少年としては不気味なほどに低い声であった。

　とは言え、三人はまだ少年だった。

　茹法珍と梅蟲児は豪奢な飾りのついた戎服を与えられた。蕭宝巻は討鼠大将軍と名乗り、茹法珍、梅蟲児以下の十数人の一団を率いて宮殿を練り歩いた。金で造られた特別の道具を使い、蕭宝巻は鼠捕りに耽った。

　広い宮殿には鼠がいくらでもいた。夜を徹して、屋根裏を這いずりまわり、汚水の流れる溝に潜り、美しい服を台無しにして鼠を追った。身体が小さく身のこなしの軽い梅蟲児が一番獲物が多かった。

　成果が最もあった晩は、数百の敵を誅し、明け方、その死骸を庭に積み上げた。戦場において敵兵の死骸で築く京観に比し、皇太子は東宮中の女官を集めてその戦果を見せた。女官たちは気持ち悪がって青い顔をした。明帝は息子の武勇を賞賛した。

　一年ほどして、蕭宝巻は褚澄の娘を妻に迎えた。褚澄はその兄とともに明帝に即位前から仕えて来た功臣である。

　褚妃はまだ十歳になったばかりの幼さで、結婚は形だけだった。褚妃は蕭宝巻の粗暴さを耳にし、茹法珍や梅蟲児を初めとする下賤で無軌道な若者たちの野蛮な遊び場と化している東宮に入るのを恐れたが、一族の命運を賭けて親が取り定めたものであったからどうすることもできなかった。

　褚妃が初めて皇太妃の部屋に入ると、蕭宝巻は茹法珍と梅蟲児を連れてそこを訪れた。褚妃は蕭宝巻の連れる二人の男の姿に動揺した。それでも、型通りの挨拶を新しく夫になった者にしようとした。蕭宝巻は「よせ」と言い、部屋に置かれた塌の中央に褚妃を座らせた。その左右に茹法珍と梅蟲児を腰掛けさせた。塌は三人が座ると肩が触れてしまう大きさしかなかった。褚妃は貴族の子弟として立派な教育を受けていたから、身も知らぬ男子と同席するのを極度に恥ずかしがった。蕭宝巻は褚妃の前に立ってその手を取り、左右の茹法珍と梅蟲児と繋がせた。褚妃は青ざめた。梅蟲児は褚妃の手が小刻みに震えているのを感じた。

「阿丈と阿兄だ」

　蕭宝巻が手を離すと、褚妃はすぐに手を引いてうつむいた。

　梅蟲児はその横顔を見て、妹にどこか似ていると思った。

「俺の妻となるからには、二人を俺と同じように呼べ」

　蕭宝巻は無理やりだった。褚妃がどうにかこうにか、消え入るような震え声で阿丈、阿兄と呼ぶまで許さなかった。

　蕭宝巻は褚妃と会うときには必ず二人を連れ、これまで三人で行って来たのと同じ遊びを褚妃に強制した。

　褚妃は生まれて初めて馬にまたがり、剣を持ち、弓を引いた。鼠捕りさえもやらされた。褚妃は茹法珍に従って黙々と武芸を習った。腕前は次第に上達した。

　梅蟲児は、無口で大人たちに逆らったことのない妹を思った。妹も器用ではなかったが、真剣に術に取り組んでいた。

　梅蟲児は、蕭宝巻を笑わせるため、始終面白い仕草をしたり軽口を叩いた。初めは梅蟲児がどのようなことをしても褚妃は無表情であったが、月日が経つにつれ時折は笑顔を見せるようになった。

　時に、蕭宝巻は茹法珍と梅蟲児の二人を残して褚妃の部屋から出てしまうことがあった。褚妃は身体を硬くし、蕭宝巻が帰るか二人が出て行ってしまうのを無言で待った。稀に茹法珍までいなくなってしまうと、褚妃はほっとした表情を浮かべた。その顔は梅蟲児には愛らしく見えた。ただ、大人の男が喜ぶような美人にはならないだろうと思った。それは褚妃に不幸を招くような気がした。

　二人だけとなるごく少ない折に、梅蟲児は小屋で見聞きした話を褚妃に聞かせた。褚妃は下々の者の奇妙な暮らしぶりを興味深そうに聞いた。そうした話のできることは滅多になく、あっても短い時間に過ぎなかった。だからこそ、そういう機会に恵まれると、梅蟲児はひどく幸運だと感じた。

　皇太子には一日に二度、朝廷に出て政治に預かる務めがあった。東宮で遊び呆けたまま出ないことがたびたびであった。父親はそんな息子の様子から、三日に一度でよいと規則を緩めた。蕭宝巻も最初はそれくらいは守るようにしていたが、東宮に潘宝慶の娘が入ってからは、三日に一度の義務も果さなくなった。

　蕭宝巻も十五歳になった。身体の内側から強く欲するものが生じ、それを解放したのが潘宝慶の娘だった。潘宝慶は、蕭宝巻の好みに合うように自分の娘に武芸、遊芸を徹底的に仕込んだ。潘女はもともと身体が豊満な質であったが、鍛錬によってよく引き締まり、独特の色香を漂わせた。顔立ちはこの上ないものであった。

　蕭宝巻は戦の真似事を好んだ。女だけで編成した部隊と、宦官だけで編成した部隊を作り、一方を自分が、一方を茹法珍に指揮させ、広い東宮の庭を縦横に使って日々興じた。女の部隊の中では、褚妃が最も働きがよく見えるように茹法珍は仕組んでいたが、潘女がそこに加わるようになると、どのように茹法珍が努めたところで、潘女ばかりが圧倒的に目立った。腕が立ち、身のこなしは優美であり、その笑みは男をとろけさせた。

　潘女は蕭宝巻より年が上でこのとき十八歳。匂い立つばかりの若い魅力に溢れ、蕭宝巻はすぐに虜となった。遊び方が一変した。毎夜の酒宴、夜が更けての後は潘女と二人で過ごした。自ずと蕭宝巻の朝は遅くなり、朝廷に顔を出すことがほとんどなくなった。それでも明帝からのお咎めはなかった。

　酒宴となれば歌舞音曲に様々な座興が欠かせない。それこそが梅蟲児の活躍の場であった。もともと見せる芸はたくさん持っていたし、修練は常に怠らずに続けていたから、技は極めて多彩だった。茹法珍も武芸ばかりでなく宴席を盛り上げるための工夫に精を出した。

　蕭宝巻はただでさえ縁遠かった褚妃の部屋に行くことがなくなり、梅蟲児は褚妃と話す機会を完全に失った。ただ、褚妃の顔を見るだけなら、毎晩のように可能になった。蕭宝巻は酒宴に褚妃を必ず同席させたからだ。しかし、一言も口をきくことはなった。

　　　　二

　永泰元（四九八）年四月、蕭宝巻が即位する三ヶ月前。

　東宮の開け放たれた広間から、人々の歌い踊る声が漏れ出ていた。夜の皇城の隅々にその喧騒が伝わった。日暮れとともに始まる蕭宝巻の常の遊びであった。初夏の長い黄昏から深い闇の夜へと移り変わったこの晩は、とりわけ賑やかであった。

　父、明帝は宮殿の奥深くにある仏間に一人で篭っていた。仏教の信奉者である明帝は読経を日課としていたが、このころ病が進み怠りがちであった。この夜ばかりは多種さまざまな香を焚き、念入りに経を読んでいた。

　蕭宝巻は大小二つの塌を用意させていた。小さい方に褚妃が座った。大きい方に蕭宝巻と潘女が座った。二つの塌の間に茹法珍と梅蟲児が立った。褚妃の背後に王宝孫が控えた。十歳ばかりのかわいらしい宦官である。蕭宝巻と潘女の背後に徐世標が控えた。獰猛な武人である。これがいつも通りの配置である。蕭宝巻と潘女が並ぶと、この世のものとは思えぬほどの美しさに二人は輝いた。若く美しい男は隣の女を引き立て、若く美しい女は隣の男を引き立てた。二人の前では多数の女が、この夜初めて披露された薄く透ける絹の衣装をまとい、猥雑な踊りをしていた。

　明帝の仏間の外に、一人、蕭遥光が坐していた。明帝の甥である。明帝には兄と弟が一人ずつおり、蕭遥光は早くに死んだ兄の息子である。明帝は自分の子がまだ十六歳と若いこともあって、三十一歳のこの蕭遥光を親族の中で最も頼りとした。蕭遥光は生まれながらに足が悪かった。皇帝の目の届くところでは小走りで移動し皇帝の面前では床に伏しながら前進するなどの礼法を蕭遥光は免除された。朝廷で他の大臣たちと一緒に居並ぶことは少なく、望賢門より輿に乗ったまま宮中の奥まで入って明帝と直接に会うのが普通だった。この日、蕭遥光は、病床にある明帝のもとを人知れず訪れ、しばらく密談をこらし、その後で、明帝は病み疲れた身体を起こして仏間に入ったのだった。

　蕭宝巻は潘女と腕をからめあっていた。声を合わせて歌い、視線を合わせて笑った。同じ杯で酒を呑み、贅を凝らした食事を同じ箸で取った。茹法珍と梅蟲児は多忙だった。茹法珍は蕭宝巻と潘女の様子を見て、酒食、歌舞の次の段取りを考え、ひっきりなしに来ては飛んでいく宦官に矢継ぎ早に指示を与えていた。梅蟲児は音楽の合間には早口でしゃべりまくって興を繋ぎ、時折、広間の中央に進み出て自らの芸を披露した。どれほど蕭宝巻と潘女が喜ぶものであっても、二晩続けて同じ技を見せてしまうことがないよう、常に工夫を怠らずにいた。歌い手や踊り手たちも、二人の顔色をのみ伺っていたが、ただ儀礼上、皇太子の正妻である褚妃にも挨拶を送った。それ以外は褚妃は一人で放っておかれ、宴の間、一度も口を開くことはなかった。それがいつもの通りであった。

　明帝は仏間の外に出た。目の下に涙の痕があった。蕭遥光に「よし」と合図を送った。足の悪い蕭遥光に手をとられて、よろよろと明帝は歩み、再び床に横たわった。荒い息が次第に静まり、かすかな寝息が聞かれるようになった。蕭遥光は宦官を呼び寄せ、一枚の紙を渡した。「いつものように」。宦官はそこに記される名前の数の夥しさに青ざめた。蕭遥光は手を振って早くせよと促した。宦官は走った。

　蕭宝巻は潘女に戯れた。潘女は赤子をあやすように抱き寄せ、頬をすり寄せ、口を吸った。潘女の肉体のまわりには噎せ返るばかりの色気が充満し、潘女にもたれた蕭宝巻の鼻先に、乳房の間から強烈な芳香が立ち上った。潘女と蕭宝巻は人目を憚ることなく痴態を繰り広げるのを常とした。褚妃はそれを全く見ない。それもいつものことだ。蕭宝巻は一晩の間に一度たりとも褚妃を見ない。それでも必ず褚妃を同席させた。

　宦官たちはにわかに忙しくなった。夜も宮中に詰めている書記が多数の勅書を記した。墨が乾かぬうちに、それを表の羽林兵のところに運び、武装した兵士が勅書を携えて当該の人物の屋敷へと走った。宮中では太医が夥しい量の毒を調合し始めた。都水官は数十の数に足るだけの木材を倉庫より運び出し、急ぎ棺の製作を始めた。明帝が長らく仏間に篭もっていたのは、この夜のうちに死ぬであろう数十人のために経を読んでいたからだった。

　蕭宝巻が何をしたのか、潘女が甘い嬌声を発した。梅蟲児は脇の皇帝をちらっと見た。いつものこととはいえ、梅蟲児は頬を赤らめた。梅蟲児は幼いころに習った神仙養生の道を忠実に守って女の肌には近づくことはなかった。十九歳の男子にとってそれはたやすいことではなかった。身体の一部が熱くなった。梅蟲児は目を逸らせて、褚妃へと視線を転じた。褚妃は無表情のままいささかも動くことなく座り続けていた。梅蟲児は胸に痛みを覚えた。

　明帝の出した勅命によって人々が続々と宮中に連れて来られた。いずれ自分の順番が来るであろうことは少なからず予測されていたとはいえ、誰もが恐怖に怯えた目をしていた。安らかな心でいられたのは乳母に抱かれて寝たままでいた何人かの乳児だけだった。一人一人に小部屋があてがわれた。ここに集められたのは、いずれも高帝、武帝の子孫たちであった。

　蕭宝巻はいつ果てるとも知れぬ踊りを眺めているうちに、酔いがまわり、潘女の胸に顔を押し付けてとろとろと寝入った。潘女は若い蕭宝巻の寝顔を見続け、褚妃は中空を見続けた。蕭宝巻はふっと目を開き、梅蟲児に時を尋ねた。「二更から三更へと移るころでありましょう」。蕭宝巻は大きく欠伸をした。梅蟲児は眠気覚ましにと、二回三回ととんぼを切って広間の中央に進み出て、大皿を空中に放り上げて足で受け止める技を披露した。蕭宝巻の顔が少しばかりはっきりした。褚妃の表情はわずかに和んだ。

　真夜中の三更が刻限であった。時を告げる太鼓が皇城内に静かに響いたなら、人々は毒をあおるのであった。自ら毒杯を持てぬ乳児の口はこじあけられる。明帝が寝床の中で動く気配がし、蕭遥光は近寄って覗きこんだ。明帝は細く目を開けた。「すんだのか」。蕭遥光は「間もなくでございましょう」と答えた。明帝は目を閉じると、うっすらと涙がにじみ出た。「すべてはあれのためだ」。明帝はつぶやいた。蕭遥光は明帝の意志に変わりがないのを確かめると、御前を下がった。

　蕭宝巻は潘女の手を取って立ち上がった。寝所に向かうのだった。大勢の宦官と女官がお供をした。蕭宝巻の姿が広間から消えると、ようやく解放された褚妃は自分の部屋に下がった。王宝孫だけが後に従った。梅蟲児は、誰にも気づかれないよう注意しながらだったが、褚妃の小さな背中に視線を送り続けた。こうした日々がいつまで続くのだろうかと、ふと思った。東宮に来て五年目、潘女が寵愛されるようになって一年余りが経っていた。

　　　　三

　このとき、斉の都、建康には王敬則の大軍が接近しつつあった。

　王敬則は大司馬にして会稽太守。大司馬とは名誉職と化してはいたが、軍事を司る最高の地位である。斉朝が基をひらいてよりの功業耀かしき旧将である。六十四歳。

　この国家の重鎮も、これより五年前に明帝が即位してから、不安な日々を過ごして来た。坐して一族が誅滅せられるのを待つよりはと、明帝の病に付け込んで一か八かの挙兵に及んだのだった。

　時を遡ること二十四年、まだ宋朝の世であった元徽二（四七四）年、桂陽王が朝廷に反旗を翻すという事件があった。桂陽王の大軍は首都建康に二十里まで迫り、朝野の人士は色を失った。右衛将軍の蕭道成ばかりは「賊は多いとはいえすぐに乱れる。尋常に当たりさえすれば必ず破れる」と動じなかった。蕭道成の指揮のもと、水軍を率いて勝利を導いたのが王敬則だった。桂陽王の反乱を鎮めた功績をもって、宋朝における蕭道成の地位は確固たるものとなり、五年後の建元元（四七九）年、蕭道成は宋朝より皇帝の座を譲り受けた。斉朝の始まりである。このときの宋から斉への王朝交代劇、すなわち禅譲に王敬則が一役買った。

　禅譲の当日、王敬則は宮殿の庭に兵士を並べ、宋朝最後の皇帝である順帝を迎えに宮中の奥に入った。皇帝の姿はなかった。太后は恐懼し、宦官を率いて探し求めた。皇帝は仏像を覆う宝蓋の下に隠れていた。泣いて抵抗する皇帝を王敬則はひっぱり出し車に乗せた。皇帝はかろうじて涙をおさめると「朕は殺されるのか」と尋ねた。王敬則は「別の宮殿に行くだけです」と答えた。順帝の曽祖父が晋朝から皇位を譲られたときもこのようであったと聞かされ、皇帝は観念した。車が動き出すと、皇帝は有名な言葉を吐いた。

「願わくば後身世世に復た天王の家に生まるることなかれ」

　我が身の生まれ変わりにしても、子孫にしても、二度と皇帝の家に生まれることのないようにと願ったのだ。宮中の人々は大声で泣いた。

　皇帝は王敬則の手をとって自分の生命が全うされるよう頼み込んだ。

「朕が最も心配するようなことが起こらなかったら、そなたに十万銭をきっと贈ろう」

　皇帝は汝陰王に身分を落され、丹徒宮に幽閉された。それから間もなくして、汝陰王は外から丹徒宮に向かって馳せ来る蹄の響きを耳にした。汝陰王は怯え宮殿内を右に左に走り回った。乱入した何者かが殺害した。十一歳だった。

　このようにして斉朝最初の皇帝となった蕭道成が高帝である。その息子が二代皇帝武帝であり、武帝の次は孫の鬱林王が三代皇帝となり、次いで弟の海陵王が四代皇帝となり、その二人を皇帝の座から追って、五代皇帝となったのが明帝である。

　明帝が皇帝になった時点で、人前に出ることのない蕭宝義を除けば、明帝には十二歳の蕭宝巻を筆頭とする年少の息子しかなかった。一方、高帝、武帝の子孫には多数の成人男子がいた。せっかく我が手にした皇位を、再び高帝、武帝の家系に取り戻されてしまうのを恐れ、明帝は高帝、武帝の直系の子孫の抹殺を図った。高帝には十九人の男子がいた。一人が武帝で、六人は明帝の即位する前に死に、四人が幼くして死んだ。残りの八人を明帝は殺した。武帝には二十三人の男子がいた。長男の太子は早世し、一人は戦死し、四人は幼くして死んだ。聡明で明帝が最も恐れていた蕭子良は病気で死んだ。残る十六人を明帝は殺した。武帝の孫は四人いて、全員を明帝は殺した。

　高帝、武帝の子孫が続々と消されて行くのを見て、高帝の時代から仕えて来た王敬則が穏やかでいられるはずはなかった。

　明帝は即位から四年余りで重い病気となり、東に対する備えを厚くした。王敬則は都の南東に位置する会稽にいたから、自分が皇帝によって警戒されていると知っていよいよ憂懼した。

　王敬則の娘は謝朓の妻となっていた。謝朓というのは大貴族の子孫である。かつての晋の時代に謝氏は宰相を輩出し、皇帝の家よりもはむしろ謝氏の方が国家にとって重要な家柄とさえ認識されていた。晋、宋、斉と時代が変わってかなり衰えたとはいえ、なお謝氏と言えば家名の重さは十分にあった。斉朝の皇帝となった蕭氏は武力による成り上がり者で、その部下であった王敬則に誇るべき家系などあるはずもなかった。王敬則が謝氏のような貴族と姻戚関係を結びたがったのは当然のことであり、一方の謝朓にしても、家柄は立派でそれなりの官位はあっても、実際の力は弱かったから、真の実力者と近づくのは己の利になると受け止められた。王敬則は謝氏から貴族の仕来りを教わり、王敬則の息子たちは貴族を真似した振る舞いをするようになった。そのような息子の一人が、謝朓に対して父親の悩みを漏らした。名家の徳にすがって父を救ってもらおうと思ったのかも知れない。

　謝朓はその期待と反対のことをした。成り上がりの武将と運命をともにするよりはと、王敬則に反情ありと皇帝に密告したのだった。

　王敬則は猶予はならぬと、南康侯蕭子恪を奉じるを名目として挙兵した。蕭子恪とは武帝の弟の子である。「生かしておいてやったのに」と、明帝は怒った。さすがの明帝も、高帝、武帝の直系でない縁者にまで殺戮の手を広げることはしていなかった。

　明帝の甥である蕭遥光は、この際、反乱の芽を完全に摘むために、高帝、武帝の子孫でまだ生き残っている者をことごとく殺すよう明帝に勧めた。明帝は、勅令をもって高帝、武帝の子孫を西省に集め、近習の兵士二人ずつに監視させ、夜中の三更を刻限として毒殺するよう命じた。

　蕭子恪は王敬則のもとを脱出して都に向かっていた。偶然にも同じその日の真夜中、二更の時刻に蕭子恪は建陽門に達した。門衛に己の名を告げ、皇帝への忠誠を明らかにするために都に帰って来たと、一刻も早く明帝に伝えるよう頼んだ。兵士は奥に走り、取次ぎの宦官が皇帝の部屋に走った。このときすでに蕭遥光は御前を下がり、中では明帝が一人安らかに眠っていた。宦官は皇帝を起こすのをためらい、そのまま三更となった。

　時を告げる太鼓が宮中に鳴り響いた。西省の役人は顔を見合わせた。号令を出すべき役割の者が、「今しばし」となぜか思った。

　明帝は目を開いた。宦官が蕭子恪の帰還を告げた。明帝は布団を蹴って寝床より身を起こした。

「もうすんでしまったか」

「いえ、まだのようでございます」

　明帝は嘆息した。

「止めてこい」

　宦官は西省に走った。

「危うく誤るところであった」

　明帝は蕭子恪を宮中に入れ、足に血を滲ませて逃げて来た蕭子恪をいたわった。

　さらに、勅令をもって西省に集めた人々に食事を与えるよう明帝は命じた。夜が明けると、全ての者は生命を保って各自の屋敷に帰ることができた。

　蕭遥光は明帝の無用な慈悲心を嘆じた。命を長らえ得た人々はこの夜の出来事を深く記憶に刻み込んだ。

　梅蟲児は後にその夜にあったことを聞き、蕭宝巻の周りの小さな世界だけで過ごして来た自分が、実はとんでもない場所にいるのを、ようやく知った。

　　　　四

　翌五月。

　王敬則の軍勢がいよいよ都に近づいたと聞いた蕭宝巻は、梅蟲児を東宮で最も高い建物の屋根に上らせた。梅蟲児は何の道具もなしにするすると上った。

「阿兄、どうだ。見えるか」

　梅蟲児はくるくると舞うように身体を回し、四方をぐるりと見た。夏の陽は西へと傾きかけていたが、地上はひどい熱気に蒸されていた。何もかもがその暑さに息を潜めているようだった。梅蟲児は小さな目をくりくりと回すと、はずむような声で言った。

「大江が東に流れるばかり、動くものは他にはありません」

「そこから大江が見えるのか」

　梅蟲児は伸び上がってみせたが、この建物の屋根からは、都の西を巡る長江は見えない。

「物を素通しする目があれば楽に見えましょう」

　蕭宝巻はかすかに笑った。先ほどまで少しばかり上気していた顔がいつもの白さに戻っていた。

「世の中はまだ無事というわけか。この暑さを紛らわすものはなしか」

　蕭宝巻はうんざりしたように言った。梅蟲児はいささか意外な返答にとまどい、声を幾分か低くして言った。

「上っておいでなさい。地上と違い、ここにはいい風が吹いております」

　五月の炎天も、夕刻へと向かう屋根の上は涼しげに見えた。

　蕭宝巻は、梅蟲児が垂らした縄梯子を伝って上がった。瓦はまだ熱かった。二人はその上に坐した。

　夕陽がゆらゆら揺れつつ地上を覆う暈気の中に輪郭を溶け込ませてしまうと、幾分かの涼気が風に含まれるようになった。

　蕭宝巻は梅蟲児の脇に大の字になった。雲ひとつない空がわずかずつ藍色を濃くしていった。足元から胴、頭と吹き上がってくる風に蕭宝巻は身を任せた。

「もう飽き飽きだ」

　蕭宝巻は大きな声を出し、ぴゅっと唾を吐いた。しぶきが顔に散り、胸に唾の塊が落ちた。蕭宝巻は舌打ちした。梅蟲児が笑った。

「天に唾するの意味が今日初めてわかりました」

「全くだ」

　そう言いながら蕭宝巻はまたぴゅっと唾を吐いた。腹のあたりに落ちた。

「こうするのです」

　梅蟲児は大きく息を吸い、力強く唾を吐いた。ぴょんと起き上がり、屋根の上でとんぼ返りをし、足の裏で自分の唾を受けた。

　蕭宝巻は笑った。笑いがおさまると言った。

「天に逆らってやる」

　梅蟲児はびくっとした。蕭宝巻の声の調子が微妙に変わり、息遣いが荒くなっていた。蕭宝巻の横顔を覗った。眉間に皴が寄っている。

　梅蟲児には、蕭宝巻がかつて蕭鸞の屋敷で遊んでいたころとあまり変わらぬ子供に見えることもあれば、この世に一人しかいない皇太子として近寄りがたい威儀を備えた大人に見えることもあった。潘女と戯れているときはおぞましい痴れ者とも見え、こうして息遣い荒くものを言うときには全てを見通す眼を具えた道士のようにも見えた。いずれにしても蕭宝巻は並の人間とは思えなかった。皇太子という高貴な人の最も近くに自分がいられるのは、何といっても幸運なことであったが、蕭宝巻がそのうちとんでもないことをするのではないかとの恐れもあった。

　蕭宝巻の心中は常に測り難い。変な刺激は与えまいと、梅蟲児は口を閉じ、蕭宝巻の呼吸が静まるのを待った。

　蕭宝巻がぽつりと言った。

「こうしている間に、王敬則が攻めて来て、都中に火を放ち、下の様子など何も知らぬ間に、下の連中がここに俺たちがいるのに気が付かぬ間に、この屋根の上で焼け死ぬというのはどうだ。阿兄はいやか」

　穏やかな口調だった。梅蟲児は少し安心して言葉を返した。

「火に攻められるのは熱いでしょう。煙に囲まれるのは苦しそうです」

「いつだって同じようなものだ」

「はあ」

「俺はいつだって火に炙られ煙に噎せている。熱く苦しくて仕方ないのだ」

　蕭宝巻は苦し気に咳をした。ふざけているような様子だった。これなら大丈夫だろうと梅蟲児は言葉を返した。

「いずれは皇帝になられる身でありますのに」

「だからだ。うんざりだ」

　蕭宝巻は大きく息を漏らすと、黙り込んだ。

　明帝は重病だった。蕭宝巻が次の皇帝になるのはさほど先のことではないだろう。蕭宝巻の様子がどこか奇妙なのは、そのせいかも知れないと梅蟲児は考えた。

　蕭宝巻には、皇帝になるのを待ち望んでいる様子はなかった。むしろ、皇太子であるのを嫌っているようだった。皇太子として期待されることを何一つしていないのは、そうした心情の明われのようでもあった。

　蕭宝巻が即位したら自分はどうなるのかと、梅蟲児は思う。

　皇帝とはそもそも何であるのか、梅蟲児には見当もつかない。ただ偉いのだろうと思うだけだ。自分もその側近として偉くなるのかも知れない。人々の蔑みを受ける百戯の徒から、宮中の奥を大臣たちにまじって歩く身になれるとしたら、とんでもない大出世である。旅の芸人など虫けらと同一視する貴族連中を、逆に怒鳴り散らすことだってできるのかも知れない。

　そんなことを思っても、なぜか梅蟲児にはあまり愉快な感じがしなかった。世間的に偉くなるのを思うよりも、いつか截舌の術を得ると想像する方が、梅蟲児の胸を高鳴らせた。そのための修行は常に怠ることなく続けていた。

　屋根の上で無言のままに時が流れた。

　梅蟲児はこうした沈黙が苦手だった。おもむろに詩を吟じ始めた。

「白日　飛甍に麗しく

　参差として皆見るべく、

　余霞　散じて綺を成し

　澄江　静かに練るが如し」

「謝朓の詩だな」

　蕭宝巻が反応した。梅蟲児は少しほっとした。

「都の風光を余すところなく歌っているではありませんか」

　梅蟲児が続きを吟じようとすると、

「下らん」

　蕭宝巻が吐き捨てるように言った。梅蟲児は次に言おうと思っていた言葉を呑み込んだ。

「謝氏が何だというのだ。何が名家だ。人の顔色ばかり見ている。密告して自分だけ安泰でいられると思っているのか」

　梅蟲児の背に冷たい汗が流れた。眼前の景色に相応しいと口ずさんだ詩句だったのだが、よりによって王敬則の企てを告げた者の詩を選ぶことはなかったのだ。

「皇帝陛下への忠でございましょう」

　梅蟲児は苦し紛れに言った。

　蕭宝巻は鼻を鳴らした。

「忠？　阿兄はそんな言葉を信じているのか」

　梅蟲児はぴょんと飛び上がると、屋根の上に平伏した。

「私は殿下にこの上ない忠誠を誓っております」

「俺は忠など信じない。皇帝が何だというのだ。下らん」

　蕭宝巻の声の調子が高くなった。梅蟲児は用心した。気持ちを静めるようなことを言おうと考えかけたが、思いつく前に蕭宝巻が言葉を継いだ。

「この世には天と地があり、天においては造物主が、地においては皇帝が最も偉いものであるらしい。だが俺は知っている。天において一番の苦労をしているのが造物主であり、地において一番の苦労をしているのが皇帝だ。あいつは好き好んで皇帝になったからいい。俺はどうなるのだ。皇帝などになってどうなるんだ。実に下らん。阿兄だってそう思うだろう」

　梅蟲児はここではうかつなことは言わないのがよさそうだと思った。

　しかし、蕭宝巻は返答を求めた。

「どう思うかって聞いているんだ」

　梅蟲児は横顔を見た。薄暮の中、奇妙に白く見えた。

「苦労などなさらなくても、大いに遊べばよろしいではありませんか」

　梅蟲児は蕭宝巻の表情を覗った。少し微笑んだように見えた。梅蟲児はわざと危うい姿勢をしながら屋根の上でおどけた踊りをした。

　蕭宝巻は横を見てぶっきらぼうに言った。

「邪魔するだろう」

　その口調はいっそうきつくなっていた。梅蟲児は踊りをやめ、腰をかがめて言った。

「皇帝の邪魔などは」

「寄ってたかって邪魔をするに決まっている」

「はあ」

「人間だけでない。造物主も邪魔をする」

　蕭宝巻はかなり興奮し出していた。梅蟲児はおとなしく黙ることに決めた。

「息が詰まる」

　蕭宝巻は上体を起こした。

「復讐してやる」

　蕭宝巻はそうつぶやき、自分の言葉にうなずいた。

「俺は復讐してやる。皇帝になったら、俺を皇帝にしたもの全てに復讐してやる。望みもしない皇帝にした奴らをどうするかみせてやる」

　梅蟲児は、深い藍色の空を背景に、蕭宝巻の肩が震えているのを見た。

　梅蟲児は蕭宝巻とこのまま二人きりで屋根の上にいるのが怖くなって来た。梅蟲児は周囲を見た。地上は黒一色になり始めていた。

「俺がここで焼け死んだ方が俺のためにも皆のためにもいいだろうな」

　蕭宝巻は奇妙な声を出して笑った。

　梅蟲児は遠くに一条の煙を発見した。黒の大地からまだほんのり明るさの残る空に煙が昇っている。南東の方角だった。

「あれは？」

　梅蟲児はその方向に腕を伸ばした。蕭宝巻は立ち上がった。

「阿兄、あれは何だ」

　梅蟲児は小さな身体を思いっきり伸ばした。

「賊でしょうか」

「いや、あの煙の細さは、どうだろう、戦ではなさそうだ。ただの火事ではないのか」

「そうかも知れません」

　梅蟲児は少しがっかりしたように答えた。

「だが、どっちだっていい。下の連中はまだ知らないだろう」

　蕭宝巻はそう言うと、突然、大きな声を張り上げた。

「敬則が来たぞ」

　梅蟲児はびっくりした。

「阿兄も叫べ」

　梅蟲児も大声を出した。

　茹法珍が建物の下に走って来た。

「阿丈、戦の仕度をしろ」

　茹法珍は取って返すと、徐世標を先頭に東宮のごろつき十数人を軍装させて連れて来た。

　蕭宝巻と梅蟲児は屋根から下りた。

「阿丈、騒ぎを起こすんだ」

「敵が来たと走り回れば、蜂の巣をつついたような騒ぎになりましょう」

　茹法珍が答えると、梅蟲児は、

「面白い、面白い」

　と、手を打った。

　茹法珍は、中庭に火を焚き、銅鑼を鳴らした。

　東宮にいる人間の全べてが駆り集められ、鬨の声を上げた。篝火に、剣、槍、鉾など掻き集められたありとあらゆる武具がきらきらと輝いた。

　茹法珍は十数人を引き連れ、「敬則が来たぞ」と叫び回りながら、女たちのいる奥に走った。悲鳴が上がった。真っ青な顔して宦官たちが散り散りに飛び出た。

　蕭宝巻は笑いころげた。

「いざ出陣だ」

　蕭宝巻は輿の上に乗った。

　茹法珍の合図で東宮の門が開かれた。

　百人余りが刃を振り回しながら外に繰り出した。宮中は大騒ぎになった。蕭宝巻の輿は縦横に駆け、やたらと鏑矢を放った。

　茹法珍は皇城の門までも開けた。蕭宝巻は皇太子となって初めて皇城の外に出た。

　都の街路に繰り出した一団はまず西へと走った。夜の都に騒ぎが広がった。面白がって騒ぎに加わる者もあれば、敵が来襲したと聞いて逃げ惑う者もあった。輪をかけて広がる混乱に乗じて乱暴狼藉を働く者が出て、怪我する者、死ぬ者もあった。

　病の床にあった明帝は騒ぎを耳にした。王敬則がすでに都に入ったという者もあった。重臣たちを集め、明帝は病を押して人々の前に姿を現わした。

「何を騒いでいるのだ。王敬則はなお遠くにいる。その首は時を置かずしてもたらされるはずだ」

　皇帝の凛とした言葉に人心はやや鎮まった。

　茹法珍を先頭にし、都のごろつきを加えて膨れ上がった一行は統率を失い、都の東西南北を出鱈目に走り回った。盛り場において蕭宝巻は女を集めて一兵団を編成し直した。建康第一の酒楼へと突入した。簡単に陥落した。

　梅蟲児は踊りながら蕭宝巻を広間の中央へと導き、そこを本陣と定めた。梅蟲児は、酒や料理を運ばせ、楽人を並べて演奏させ、女たちに剣を持たせて踊らせた。蕭宝巻は酒を浴びるように呑んだ。大騒ぎをした後の大酒に、誰もがすぐに酔い、人々はたちまち酩酊した。

　梅蟲児だけは酒が呑めず、騒ぎを盛り上げながらも、その心が逆に重く沈んだ。口では大声で歌いながら、耳は異様に澄み、周囲に対して神経が尖って行った。

　突然、外の雰囲気が一変したのを感じとった。この酒楼の賑やかさが、何かしら壁のようなものに跳ね返されて戻って来た。

　梅蟲児は騒ぎから抜け出て、酒楼の外を覗き見た。真っ暗だった。よくよく目を凝らすと、闇の中に時折、光るものがあった。酒楼の明かりを反射する剣だった。

「囲まれている」

　それは、明帝の命を受けた羽林兵だった。蕭宝巻の居場所を突き止め、酒楼を厳重に取り囲んだのだった。

　十二分に酔っていながらなお酒をあおり続ける茹法珍の袖を梅蟲児は引いた。

「阿丈、こんなことをしていていいのか」

　茹法珍は目をぎょろつかせた。

「なんだ、怖がっているのか」

　茹法珍はとてもつもなく大きな声で笑った。

　半分眠っていた蕭宝巻が目を開いた。

「何がおかしいんだ」

「阿兄があんまり気が小さいので」

　蕭宝巻も笑った。

「阿兄はいつだってそうだ。心配ばかりしている。阿丈とはそこが違う」

　蕭宝巻は懐から小袋を出した。

「これは、いざというときのためのものだ」

　袋からぱらぱらと粉を杯に落した。

「これをあの女に呑ませろ」

　蕭宝巻は杯を突き出し、三人の様子をこわごわ覗き見ていた女に視線を送った。茹法珍は杯を持ち、刀で脅して女に飲ませた。女は悶死した。

「阿丈、阿兄、目を閉じろ」

　蕭宝巻は、二人の前に杯を置いた。

「さあ、呑め。二つのうちのどちらかに薬を入れた。運試しだ」

　梅蟲児は青くなった。茹法珍は平然と、

「こちらをいただきます」

　と、近い方の杯を手にした。

　梅蟲児は、そちらを先に取ればよかったと思った。だが、

「阿兄は残った方でいいのだな」

　と、蕭宝巻に念を押されて、梅蟲児はうなずいた。

「さあ、呑め」

　二人は杯を手にし、同時に口に運んだ。梅蟲児の手が震え、まだ口に酒が入らぬうちに、茹法珍の方は飲み干してしまった。何ともなかった。

　梅蟲児は全身が総毛だった。

　蕭宝巻は笑いころげた。

「呑めないのか」

「いえ」

　梅蟲児はいつの間にか膝まで下げてしまっていた杯を懸命に口へと運んだ。身体が震えた。

　蕭宝巻は立ち上がり、梅蟲児の手から杯を奪い取り、ぐいと呑み下した。

「あっ」

　梅蟲児は叫んだが、蕭宝巻は何ともなかった。

「俺は阿兄が好きだ。殺すはずがないだろう」

　蕭宝巻はごろっと横になった。

「あいつも同じ」

　蕭宝巻はすぐに寝息を立てた。

　梅蟲児は寝顔を見た。まだ幼さが残っていた。

　突然に、蕭宝巻は上体を起した。

「阿丈、阿兄、おまえたちは俺が好きだろう」

　蕭宝巻の言葉に、二人は同時に答えた。

「もちろんでございます」

　蕭宝巻は、

「だが、俺はあいつを憎んでいる」

　と、言い、そのまままた寝込んでしまった。

　酔いつぶれた蕭宝巻は、羽林兵によって車に押し込められて宮中に連れ戻された。

　　　　五

　翌日の昼近くなって蕭宝巻は叩き起され、明帝のもとに連れて行かれた。

　夕方に戻って来ると、蕭宝巻の顔から血の気が引いていた。

「阿兄は祝いの歌を知っているか」

　梅蟲児は、都で大官に叙せられた者が田舎に帰り、故郷で開かれる盛大な祝賀会で歌われる曲を思い出した。かつていた一座がそうした祝賀会に呼ばれて皆で合唱した。

　梅蟲児は始めの部分を少しばかり歌った。蕭宝巻はどしんどしんと足を踏み鳴らした。ひどく激しく、梅蟲児は歌うのを止めた。

「続けろ。俺は皇帝になるぞ。祝え、祝え。もっと歌え」

　梅蟲児は続きを歌った。

「あいつは間もなく死ぬ。なのに、俺を叱りつけた」

　蕭宝巻は柱を素手で撃った。梅蟲児は歌を止めた。

「いいんだ。歌え」

　梅蟲児は歌を続けた。

「あいつは、愚か者だと言った。俺が愚かなのか、あいつが愚かなのか、それは俺がよく知っている」

　明帝は明日をも知れぬ重い病の床にあったが、この日ばかりは厳しい言葉をはっきりと口に出して、息子を叱責した。父親に罵られたのは、蕭宝巻にとってこれが初めてであり、最後であった。

「さっさと死んでしまえばいいのだ」

　蕭宝巻は壁を蹴った。梅蟲児は歌を止めた。

「歌え」

　梅蟲児は歌を最初から始めた。

　蕭宝巻は笑い出した。梅蟲児は歌を続けた。

「いくら俺が親孝行でも、あいつを救うことはできない。あいつは間違いなく死ぬ」

　蕭宝巻が叱られながら上目遣いに見た明帝の顔は、人間のものとは思えない色をしていた。

「あいつの言った言葉を教えてやろう。息もたえだえのくせして、偉そうに言った。『皇帝たる者は己を人に見せてはならない。事を為すときは、あくまでも秘しておき、人に後れずして為さねばならない。それをなんだ。真っ先に慌ておって』。それで口から泡を吹き出した」

　蕭宝巻はまた笑った。

　梅蟲児は歌を止めた。

「止めるな」

　梅蟲児は歌った。

　父親は息子が心配でならなかった。明帝は、自分自身が若い皇帝から位を奪い取って即位していたから、まだ幼い顔をしている息子が自分の亡き後に皇位を保持していけるのかどうか大きな不安を抱いていた。明帝は先回りして息子の邪魔になりそうな者はあらかた始末した。しかし、根絶できていなかった。思いがけないところから危うい敵が新たに湧いて出てくるかも知れない。息子が適切に対処できるのか気がかりでならない。己の寿命があと十年延びれば、心配の種は徹底的に潰せもしようし、息子も成長するだろうにと、父親は己の命を奪い取ろうとしている病を呪った。

　蕭宝巻は笑いすぎて目から涙を流した。

「あいつは泣いていた。俺にこんな笑われているに」

　梅蟲児は懸命に歌を続けた。

「馬鹿な奴だ。『愚か者』と怒鳴り、身体がぶるぶる震え出したから、これで死ぬと俺は思った」

　明帝は苦しい息で息子を叱ったためにひどく咳き込み、口がきけなくなって横に倒れた。それで、蕭宝巻は解放されて東宮に帰ることができた。

「じきに死んだとの知らせが来るだろう。そうなったら、俺は皇帝だ。俺は皇帝となり、すぐに王敬則に囲まれて、首をちょん切られて、斉朝はおしまいだ。どうだ目出度いだろう。皇帝なんか一日もやれば十分だ。だから、阿兄、祝いの歌をうたってくれ」

　蕭宝巻は甲高い声で笑った。

　梅蟲児は歌を何度も繰り返した。

　明帝はすぐに死にはせず、王敬則は都にまで到達できなかった。

　王敬則の挙兵ははなはだ準備不足だった。だからこそ都へと一気に迫ろうとしたのだが、その実、勢いがいいのは声ばかりで、正規軍が総攻撃をかけると王敬則軍はあえなく崩れた。王敬則は、混乱の中で落馬し、別の馬の背に上ろうとするところを刺されて地に倒れた。王敬則の一族は皆殺しにされた。

　謝朓は王敬則の反乱を知らせた功によって、階位を超えて尚書吏部郎に任ぜられた。謝朓の妻は夫を恨み、刀を懐に忍ばせてその命を狙った。謝朓は妻とは二度と顔を合わせなかった。

　反乱の鎮圧から三ヶ月、かろうじて保たれていた明帝の命が尽きた。

　息子の蕭宝巻が即位し、これより類例を見ない暴虐が始まった。最初の犠牲者となるのが謝朓であった。

第二回　名流獄死

　　　　一

「これからどうなるんだ」

　梅蟲児は茹法珍に尋ねた。

「俺たちか。変わらないだろう」

　明帝が死んだ日、蕭宝巻の即位の大礼が行われた。その間に二人は奥殿に初めて入り、皇帝が普段起居する幾つかの部屋を見て歩いた。

　東宮より遥かに広く、一段と贅を凝らした調度品の数々に、梅蟲児は目を見張った。これからの日々をここで過ごし、己の生活が大きく変わるのを思った。茹法珍はどの部屋も軽く一瞥しただけ、金銀宝玉の輝きに何ら関心を示さず、梅蟲児の問いにも素っ気ない返事をした。

　梅蟲児は、皇帝の座の上の天蓋から垂れる煌びやかな飾りを目を細めて見上げた。

「皇帝を間近に見ていいものなのか」

　梅蟲児のつぶきに茹法珍はかすかに笑った。

　皇帝とは地上に一人しかいない最も偉大な存在である。皇帝をすぐ近くで直視したならば目が眩んでしまうのではないかと、梅蟲児は真面目に心配した。

　茹法珍は梅蟲児の顔を覗き込んだ。

「怖いのか」

　そう聞かれると、怖いような気がした。

　明帝は恐ろしい人であった。平気で血縁の者を殺し続けた。皇帝とは常人と懸け離れたところにいて、懸け離れたことを考え、懸け離れたことをする人であると、梅蟲児は思っていた。人と言ってはいけないのかも知れない。

　皇帝が目の前に現れたならば、どうしたらいいのか梅蟲児にはわかっていなかった。下賤の身であった自分が、普通なら遠くからでも皇帝を見るなど到底あり得ないことだ。それが、間もなく、自分のすぐ近くに現れるのである。目を向けていいものなのかどうか、それからして心配であった。

　皇帝となるのは、よく知っている蕭宝巻ではある。しかし、即位すれば、これまでとは全く別の人となってしまうかのように梅蟲児には思えた。いや、人ではない、そのずっと上の特別な存在になるのだ。

「どうなるんだろう」

　梅蟲児はまた同じことを言った。

　全てが不安だった。

　蕭宝巻が皇帝になった今日から、昨日とはどこも似ていない日々が始まるような気がした。自分の日常生活が変わるだけでなく、これから何かとんでもないことが起こる不安もあった。

「変わらない」

　茹法珍はぶっきらぼうな返事をした。

　茹法珍は茹法珍なりに考えているのだろうと、梅蟲児は思った。

「だが皇帝だ。俺たちに勤まるのか」

　梅蟲児は宮中の作法などろくに知らない。東宮では何事も野放図であった。

「今までと同じだ」

「それでいいのか」

「良くないとしたら、阿兄はどうするのか」

　茹法珍は皇帝の座に腰掛けた。

「そんなことをしていいのか」

　梅蟲児は茹法珍の手を引いた。

　茹法珍は笑った。

「誰だって同じだ。錦繍にくるまる皇帝だろうが、穴を掘って眠る乞食だろうが、俺たちと同じだ。俺たちは俺たちのやり方しかできない。それは変わらない」

「どういうことだ」

「俺は戦場で拾われ、阿兄は金で買われた。他にも同じような連中がいたが、残ったのは俺たち二人だ。俺たちが俺たちのやり方をして、それをお上が気に入ったからだろう。これからも、他に何をしたらいいと言うのだ」

「何もできない。だけど、皇帝だろう」

　茹法珍は立ち上がった。

「皇帝か。阿兄は皇帝と言おうとすると舌がこわばるようだ。身体だって緊張している」

　茹法珍は梅蟲児の肩から腕を揉み下ろした。

「心配なんだ」

「お上は変わらないし、俺たちも変わらない。お上はたまたま皇帝の息子だったから皇帝になるだけだ。それだけのことで、今と何も変わるものではない」

「ずっとそうなのか」

「先のことなど考えたって仕方ないだろう」

　確かに茹法珍の言うように、先のことなど考えても仕方なかった。梅蟲児は、そもそも皇帝がどのような生活をするのかも知らないのだから、先を考えろと言われても土台無理なのだった。

　茹法珍の落ち着き払った態度は、梅蟲児を少しばかり安心させるとともに、羨ましく思わせた。

　通路が俄かに騒がしくなった。先触れの宦官が小走りにやって来て、続いて、前後を多数の宦官に囲まれた蕭宝巻が姿を見せた。仰々しい冕服を身に付けていた。皇帝の正式の装束である。足に履いた高い舃を蹴り上げるようにしてのしのしと歩き、頭上の大きな冠がゆさゆさと揺れた。

　妙に厳しい表情をしていたが、茹法珍と梅蟲児を見ると、蕭宝巻は笑った。いつもと同じ顔になった。

「阿兄、これを被ってみろ」

　蕭宝巻は冠をぽんと投げた。冕旈の長い飾りが左右に広がった。梅蟲児は走りよって受け止めた。

「これも歩きにくくて仕方ない」

　蕭宝巻は舃を空中に飛ばした。梅蟲児は冠を手にしていたので、舃が床をころがるのを目で追うしかできず、宦官が慌てて拾いに走った。

　蕭宝巻は冠に手を伸ばして梅蟲児の頭に載せた。

「朕は皇帝になった。こんな服を着て、こんな冠を被って、あんな舃を履いたら、それで皇帝なのだ」

　蕭宝巻は梅蟲児の顔をしげしげと見た。

「似合うではないか。どうだ、冠を被った気分は」

　梅蟲児は冠を両手で支えた。

「ことのほか重いものでございます」

「それだけだ。せいぜい首を痛くする。皇帝なんてそんなものだ」

　蕭宝巻は上衣を脱ぎ、梅蟲児に頭から掛けた。小柄な梅蟲児はその中に埋もれた。

「似合うぞ。阿兄、明日からその姿で皇帝になってくれていいぞ」

「とんでもないことでございます」

　梅蟲児は上衣を身体から離して、上に押し戴いた。

「愚か者どもは天の命によると言う。そんなものがどこにあるのか。こんなものを着るようになったのは、ろくでもないあいつが皇帝になりたがったからだ。あいつは鬱林王と海陵王を殺した。二人は恐るべき暴虐天子だったと言う。誰が言ったのか。あいつだ。正真正銘の暴虐天子とはどのようなものか、あいつは知らない」

　梅蟲児は蕭宝巻の面前から茹法珍の脇に下がった。

　梅蟲児は茹法珍よりも自分の心配の方が当たるということもあるのかも知れないと感じた。

　蕭宝巻は荒々しく足を踏み鳴らして歩んだ。

「宋の順帝は、願わくば後身世世に復た天王の家に生まるることなかれと言った。そう言わせたのは我が高祖皇帝だ。朕は子孫に決してそのように言わせない」

　梅蟲児は蕭宝巻の背を見送った。

　茹法珍の顔を見た。

「何も変わるものではない」

　茹法珍は自信ありげだった。

　新皇帝の最初の重要な仕事は先帝を葬ることだ。

　一定の期間は喪服を着し、蔬食をせねばならぬのだが、蕭宝巻は一日も平常を改めることはなかった。茹法珍は、野菜と豆だけの粗末な料理を突き返し、肉を盛った料理と酒を出すよう宦官に命じた。

「これでいいのか」

　梅蟲児はささやいた。

「だから変わらないと言っただろう」

　全く変化がないわけでもなく、かつてのような夜宴を開くまでには至らなかった。梅蟲児は、蕭宝巻が食事をする間、近くにいて、たわいもないことを喋ったり、ちょっとした芸を披露したりした。褚妃や潘女は奥からは出て来なかった。それで、褚妃の姿はもうこれで見られなくなるのではないかと、梅蟲児は寂しく思った。

　明帝の遺骸は太極正殿に置かれた。蕭宝巻は定められた日数の間、定められた時刻に、定められた礼法に従って、遺骸に向かって哭さねばならなかった。一日目だけは、短く小声ではあったが、一応は哭した。その後は、哭すべき時刻が来ると、太極正殿に姿を現わしはしたものの、喉が痛いと言って、哭するそぶりだけをした。

「阿兄、今日は禿鷲が啼いたぞ」

　太極正殿から戻った蕭宝巻は、こらえていた笑いを爆発させた。

　その日、太中大夫の羊闡が入臨して慟哭した。地に伏し、天を仰ぎ、顔を真っ赤にして大声を張り上げて哭するうちに、被っていた幘が頭から転げ落ちた。痩せて細く長く前に突き出た羊闡の首の先に載る頭頂には毛がなかった。

「それはこうでありましたか」

　梅蟲児は哭する真似をした。

「もっと激しかったぞ」

　梅蟲児は首を前後に大きく振って、地に伏せては、大声で叫んだ。

「そうだ、そうだ、似て来たぞ」

　梅蟲児は金切り声を上げて、被り物を頭から落した。

　蕭宝巻は笑いころげた。

　梅蟲児は、皇帝の前でもこれまで通りに振る舞えばいいらしいと、幾分か安心した。

「もう面倒だ。腐ったものなど早く埋めてしまえばいい。阿丈、何とかしてくれないか」

　茹法珍は、宦官と相談して、明帝の遺骸を運び出す段取りを定めた。大臣の筆頭である徐孝嗣が奥殿にやって来て皇帝を諫めた。

　茹法珍と梅蟲児は蕭宝巻の後ろに控えて徐孝嗣の顔を初めて見た。もったいぶった態度で、肉の垂れた頬を揺らしながら、親への孝を十分に尽くさねばならないと説いた。

　蕭宝巻は黙って聞いていた。

「臭いからな」

　蕭宝巻はつぶやいた。徐孝嗣の耳には入らなかった。

「わかった」

　徐孝嗣の話が終わると、蕭宝巻は答えた。徐孝嗣は笑みを浮かべてゆっくりとした動作で出て行った。

　蕭宝巻は欠伸をした。

「間延びしたあの声も、どうせ聞けなくなるだろう。そのうちにな」

　梅蟲児は茹法珍の顔を見た。蕭宝巻がいま言ったことを茹法珍も聞き、その意味がわかったのか見ようとした。茹法珍は眉根を寄せていた。

　蕭宝巻は徐孝嗣の異見の通りにし、明帝の遺骸は定められた日まで太極正殿に置かれた。

　皇帝には従うべき礼があり、並みの人よりもむしろ厳重であった。蕭宝巻が明帝の遺骸に向かって哭さなかったのは、実際のところ並々でない重大事であった。

　かつて漢の昭帝が死んだ後には子がなく、大臣たちは武帝の孫の劉賀を次の皇帝に立てるべく都に呼んだ。劉賀は昌邑より多数の馬を乗り潰して都へと急いだ。長安の東の東都門にさしかかると、国都を望みみて哭するのが礼であると言われた。劉賀は喉が痛いと拒絶した。宮殿の門にさしかかると、再び哭するように言われたが、ここでも同じだった。劉賀は即位から二十七日にして廃位となった。その理由の第一に挙げられたのが、喪主としての礼儀に反したことだった。劉賀は都を追い出され、海昏侯という不名誉な名を付けられた。

　蕭宝巻の即位の日から、徐孝嗣、江祏、江祀、劉暄、蕭遥光、蕭坦之の六人が日を分けて内省に入って勅書を記すようになった。国の実権は明帝の遺詔に従い、若い皇帝ではなくて、まずはこの六人に委ねられた。蕭宝巻は皇太子のとき、政事には全くの無関心ぶりを示していたから、ごく自然の措置であった。

　国政の大事は皇帝の臨席のもと朝廷において決められる。蕭宝巻は即位すると、皇太子時代の態度をすっかり改めたかのように朝廷に真面目に出るようになった。朝廷は朝早くに開かれ、皇帝が玉座につくと、その日に出席している百官の名が読み上げられる。蕭宝巻は一人一人の顔をじっくりと観察した。次いで大臣たちがその日の案件について述べる。蕭宝巻はその一つ一つに対して、ただ「好し」とのみ言った。あらかじめ六人が定めておいた通りに事が運ばれ、蕭宝巻は異を唱えなかった。

　この朝廷での決定に従って大臣が勅書を起草した。書き上げられた勅書は、茹法珍か梅蟲児が内省に出向いて受け取り、蕭宝巻のもとに運んだ。蕭宝巻が目を通して、再び「好し」と言えば、玉璽が押されて正式の勅書として国の法となる。茹法珍か梅蟲児がそれをまた内省に運ぶ。事は全て形式的に進められた。

　勅書を恭しく捧げ持って宮中の通路を歩むと、梅蟲児は晴れがましさで胸が一杯になった。大臣たちの顔を間近に見ることもでき、自分は皇帝の最も近くに仕える特別な人間なのだと感じた。宮廷での生活がこのようであるのなら、続けて行けそうな気がした。

　明帝は興安陵に葬られた。蕭宝巻は病と称して陵に出向かなかった。奥殿に留まって一日を無為に過ごした。

「わざわざ行くものか。上帝よりもあいつが偉かったというわけではあるまい」

　明帝は非常に疑い深い人物だった。皇帝になってからは皇城の外に出ることがほとんどなかった。外に出ればそれだけ身を危険に晒すことになるからだ。皇城内でさえも、吉凶を占ってからでないと動かなかった。東に行くと決めたときには西に向かうと前触れさせ、西に行くときには東に向かうと前触れさせた。天子は即位後に珪幣を奉じて南郊において上帝にまみえるものとされていたが、明帝は外に出るのを嫌ってそれさえも行わなかった。

　明帝のこととなると苛つくのが蕭宝巻の常であるのを知る梅蟲児は、気を紛らわせようと、大皿を持って来て棒の先で回して見せた。

　蕭宝巻は頬肘をついて、ぼんやりと眺めていた。

「阿兄はいつまでも子供だな」

　ぽつりとつぶやいた。

　梅蟲児の耳に達した。背中にすっと冷や汗が流れた。大皿が傾いた。梅蟲児は急いで棒を突いて皿を空中に飛ばした。落下して来るのを待って両手で受け止めた。

　蕭宝巻の顔は笑っていた。

　梅蟲児は気を取り直して言った。

「では、綱渡りでも」

　梅蟲児はおどけた風にぴょんと跳び上がった。

「そんなことしなくて、ゆっくりしていていいぞ」

　梅蟲児はびくんと身体を折り曲げて止まった。

「そうさせていただきます」

　梅蟲児は大げさに頭を下げた。

　「そんなこと」というのが耳元から離れなかった。確かにそんなことしか梅蟲児にはできなかった。

　勅書を運ぶようなことをして、皇帝の側近らしく振る舞ってはみたが、それはただ持って歩くだけのことで、それくらいなら誰にでもできる。梅蟲児は百戯の徒である。元来が宮廷にいるような人間ではない。いざとなったら、本当にできるのは、そんなことと言われる皿まわしとか綱渡りの芸しかないのだった。

　自分は宮中では役に立たつことのない身なのかと、梅蟲児はにわかに自信を失った。

「北の戎どもも禿鷲と同じ似非者だ」

　蕭宝巻は嘲笑った。

「まことに」

　茹法珍が同意した。

　明帝が死んだとき、斉国は北の魏国と交戦状態にあった。当時、中国は南北に二分され、南は漢人の斉国、北は鮮卑族の建てた魏国であった。魏国は、百年以上にわたって諸民族の争いの止まなかった北中国を優れた軍事力によって統一し、南の斉国に対して圧力をかけていた。明帝が死んだ年には、斉国から雍州諸郡を奪い取り、南伐の体勢を整えつつあった。

　魏国の皇帝は、明帝死去の報を聞き、「礼として喪を伐らず」と兵を引いた。

　魏国皇帝は鮮卑族の旧来の習慣を捨てて中国化をはかっていた。支配を強固にするにはそれが必要と考えたからだ。兵を引いたのは、魏国こそ礼を重んじて正統な王朝の資格を有することを内外に示そうとするものだった。

「似非者どもに思い知らせるにはどうすればいいか」

「首を斬るしかないでしょう」

　茹法珍は即座に答えた。

「誰をやるのか。陳顕達か」

　明帝の遺詔には、軍事は陳顕達に任せよと記してあった。

「陳顕達は使いものにならないでしょう。隠居することばかりを考えております」

　その通りだった。陳顕達は、車乗を朽ちるにまかせ、弓の弦は切れ、剣は錆びたままにしていた。かつて明帝に招かれた宴席において、帝に枕を乞い、それを撫しつつ「臣は老いました。富貴は満ち足りておりますが、ただその上で死ぬべき枕に不足するばかりです。これをいただいてまいりましょう」と言った。明帝は陳顕達の退隠を許さなかった。

「老いぼれの陳顕達は敗れる。だから行かせよう」

　蕭宝巻がそう言うと、茹法珍は短く笑った。

　二人が話すのを、梅蟲児は黙って聞いていた。何を話しているのか見当くらいは付いたが、自分が言えることは何もなかった。北の戎について梅蟲児は何も知らなかったし、陳顕達も名前を聞いただけだった。

　梅蟲児はわかるふりをして時々はうなずいていた。

「二人で、大臣たちに北伐を行うと告げて来てくれ。あいつらはどう答えるか」

　茹法珍は意気揚々と内省に向かった。梅蟲児はその後ろにくっついた。内省で口をきいたのは茹法珍だった。茹法珍は大臣の前で堂々と物を言った。梅蟲児はその横に突っ立ているだけだった。

　魏を伐るのは国是であったから、大臣たちは蕭宝巻の考えに賛同した。成功すれば新朝廷の最初の手柄になるし、失敗すれば全責任は陳顕達になすり付ければいい。

　蕭宝巻は茹法珍の報告を聞いて、

「これからだな」

　と、言った。

　梅蟲児は何もしなかったのに、背中が汗で濡れているのを感じた。茹法珍には平気なことが、自分には非常に難しかった。

　宮中では役に立つことがないらしいと、梅蟲児ははっきりとした不安を感じた。

　即位から三ヶ月ほどして、褚妃が皇后となった。

　皇太子の正式の妻が皇后になるのはごく自然であった。

　梅蟲児は褚妃が遥か遠くの存在になってしまったと感じた。これからは顔を見ることさえかなわないのかも知れない。

　宮廷での新しい生活のどこに張り合いを求めたらいいのか。梅蟲児には難しいこととなった。自分が特に役に立つことはないらしい。むろんそうだと認めたいものではない。まだ希望はあると思いたかった。取りあえずは日常の瑣事に己を埋没させた。そもそも、宮殿の部屋の配置、宮廷の習慣、宦官、女官、大臣の顔と名、調度品の扱いなど、覚えるべきことは無数にあった。茹法珍はそんなことには無頓着だった。

　梅蟲児は人を使うのが苦手だ。梅蟲児のために働く者が何人もついた。その者たちが自分の顔色を覗っているのを見ると、梅蟲児は大いに困惑した。梅蟲児は常に人のために気を遣って来た。それは何でもないことなのだが、人に気を遣われるのは重い気苦労だった。自分が少しでも関わりを持つような人に対し、最も下の端遣いに至るまで、梅蟲児は少なからぬ気を配った。人に嫌な思いをさせず、誰でも楽しくさせてやりたいと、梅蟲児は思う。目の前にいる全ての人に喜びを与えていられると思えるとき、梅蟲児の心は最も落ち着いた。人に喜びを与える人間であると、全ての人に認めてもらうのが、梅蟲児の平生抱く願いであった。

　梅蟲児のそのような思いは、力の渦巻きの中心である皇帝の最も近くあっては実現するはずのないものだったが、梅蟲児にはその認識がほとんどなかった。だから、自分の気遣いに対して、わずかに冷ややかな視線が返って来るだけでも、梅蟲児は少なからずひるんだりするのだった。

　茹法珍は、変わらないと自分で言っていた通りに、これまでと同じように行動していた。梅蟲児も、表面的には以前と同じに、むしろ明るいくらいに振る舞っていた。しかし、気持ちは次第にふさぎがちになった。蕭宝巻や茹法珍には、そのような自分の気分を覚られまいとした。自分の弱さ、宮廷で人並みになれない体たらくを二人に見せたくなかった。二人の目を気にしなければならないのは初めてであり、それ自体がまた梅蟲児の気分を重くした。

　しばらくして、潘女に潘貴妃の称号が与えられた。その祝いが開かれることになった。即位以来初めての夜宴だ。自分の本来の働く場が与えられたと、梅蟲児は喜んだ。準備に邁進した。

　奥殿で最も広い部屋のある仙宮殿が選ばれた。楽士や踊り手は、皇太子時代よりも多くの人数が自由に使え、これまでにない派手な出し物を考案した。

　金銀宝玉で飾られた衝立の前に大小二つの塌が並べられた。大勢の付き人に前後を挟まれ、音楽とともに蕭宝巻と潘貴妃が仙宮殿に入った。二人は大きな塌に並んで座った。以前と同じであった。いくらか違いがあるとすれば、潘貴妃が一段と豪奢な衣装をまとっていたことだ。無数の宝玉が目も眩むばかりに輝き、それ以上に潘貴妃は美しく見えた。

　続いて皇后が現れた。お付きは宦官の王宝孫一人。音楽もなかった。梅蟲児の胸は高鳴った。無理もない。皇后の姿を見るのは久しぶりだった。皇后は小さい塌に座った。以前と同じであった。身に付ける衣装もまた皇太子妃時代と同じ、ごく地味なものだった。潘貴妃との大きな違いに、梅蟲児の胸に熱いものがこみあげた。それに美しさも大いに違った。皇后の容貌は醜いとまでは言わないが、潘貴妃と比べるのは気の毒過ぎた。蕭宝巻にしなだれかかる潘貴妃は妖艶な女であり、ぽつんと俯いて座る皇后は青くくすんだ少女である。

　梅蟲児はその場に居たたまれない気分になった。皇后はここに来るべきではないと思った。とりわけ今日は潘貴妃のための祝宴である。褚妃が皇后となったとき、このような祝宴は一切とり行われていなかった。

　宴が始まった。楽士も踊り手も、演技を始める前と後に必ず潘貴妃に祝いを述べた。華やかな出し物が続き、豪華な料理が並べられた。茹法珍と梅蟲児は忙しく動き、宴は段取り通りに進んで行った。

　この日の最大の呼び物となった。

「これより巨象行乳を御覧に入れます」

　周到に準備し、成功間違いなしと自信を持って梅蟲児は声を出したのだが、己の声を耳にした途端に、思いがけず強い悲しみに襲われた。この出し物はもちろん潘貴妃の祝いのためだ。潘貴妃のために自分はこれほどのものを用意した。それを皇后に見られてしまうのがひどくつらく思えた。

　そんな思いに沈んでいる暇はなかった。もしここで失敗でもしたら、自分はそれこそ宮廷に無用の存在となってしまう。梅蟲児はさっと身を翻し、皇帝の前より姿を消した。

　代わって、象の巨大な張りぼてが広間の中央へと導かれた。宮廷の腕のいい職工が作ったものだ。梅蟲児も夜を徹しての作業を手伝った。形といい色といい、本物の象と見まごうばかりの出来栄えであった。かつて宋の時代には宮廷で象が演技をした。梅蟲児はその再現を意図したのだった。

　象は長い鼻を曲げたり伸ばしたりしながら、広間をのし歩いた。張りぼては十人がかりで巧みに動かされた。それだけで耳目を驚かせるに十分であった。続いて、子どもの象の着ぐるみをまとい、梅蟲児が軽やかに登場した。梅蟲児は鼻を愛らしく動かしながら歌いかつ踊った。巨象と戯れつつ親子の情愛描いた場面はなかなかに見ごたえのあるものだった。

　蕭宝巻と潘貴妃は手を打って喜んだ。

　梅蟲児は子象の眼の穴より、ちらりと皇后を見た。少しばかり表情を緩めてくれているようだった。梅蟲児はいささかほっとした。

　　　　二

　永元元（四九九）年一月一日。

　朝廷においては毎月一日および十日ごとに節朔の朝見の儀が行われた。これは日々の朝会よりも重要な儀式で、主だった朝臣全てが夜明け前から太極正殿に集合して皇帝の目通りを受ける。

　正月元旦には、さらに重要な儀式の元会がある。百官が一堂に会し、紅日が東昇するのを皇帝とともに迎え、皇帝への忠節を誓い、国家の安泰を天に祈る。皇帝は一年の大計を述べ、群臣に酒食を振る舞う。

　蕭宝巻が皇帝となって初めての元会が行われた日、夜半のころより、皇城のいたるところに華灯が火樹銀花のごとくに掲げられた。大司馬門が大きく開け放たれ、元旦朝服を身に着して、大臣将軍以下朝臣が続々と登城した。夜明け前に太極正殿の扉が開かれ、人々は威儀を正して一斉に中に入場した。正殿内は無数の灯火で輝き、白昼よりも強い光で満たされた。全員が着座し、静粛が支配すると、蕭宝巻は皇后以下の数多の妃嬪を連れて登壇した。蕭宝巻は特別豪華な冕服、皇后妃嬪は目も眩む衣装。蕭宝巻は金銀宝玉をもって飾られる玉座に着いた。茹法珍と梅蟲児も壇上にあった。

　梅蟲児は自分のために用意された椅子に座った。妙に居心地が悪かった。殿内の明るさよりも、壇下に居並ぶ人の多さに目が眩んだ。それを見下ろしている自分が今ここにいるのを信じることができなかった。下にいるのは大臣以下の百官であった。広い殿内にいる者は、その一番の末席に至るまで、梅蟲児がかつての賤しい身のままであれば、道で行き逢うことでもあろうものならば、土に坐し顔を伏せて通り過ぎるのを待たねばならない人たちばかりである。それを皇帝とともに椅子に坐して見下ろしているのである。

　百官は床に跪いて三拝を始めた。梅蟲児はそれを椅子に凭れたまま受けていればよかった。明るい輝きに満ちた太極正殿内に、ずらりと並んだ人々の頭が、寸分の乱れもなく上下するのを、梅蟲児はただ呆然と眺めた。床に頭を擦り付ける者の中には大将軍もいれば、名門貴族もいた。百戯の徒である梅蟲児にとって、謝氏、王氏、江氏、褚氏などの名流貴族は、その名を聞くことはあっても、顔を見るなど生涯あり得ない雲の上の存在だったはずだ。それがずらりと自分の足元の壇の下に並び、身体を平らにしているのだった。

　この時期、朝廷には二つの勢力があった。成り上がりと名流貴族である。

　成り上がりの代表は皇帝である。斉王朝を開いた蕭氏一族はどこの馬の骨とも知れぬ連中だ。戦場において幸運を掴み取った一人が皇帝の座へと駆け昇ったおかげで、親族は朝廷に名を連ね、皇帝と戦場を駆け巡った同志は政権の中枢部へと流れ込んだ。それら成り上がり連中は、名流貴族からすれば、昨日までは洟もひっかけなかった下賤な者どもなのだが、時の運によって一朝にして自分たちの上にのし上がって来てしまったのだった。

　名流貴族としてどれほどの誇るべき家柄であっても、その始まりを見れば、成り上がり者と指弾された時期がなかったとは言えないだろう。かつて漢の衰えが目に付くようになったころ、土地に根ざした新たな勢力が芽吹き始めた。漢の滅亡から三国志の時代を経るうちにそれは次第に力を蓄え、新たな統治階層へと成長した。成り上がり者も三代四代と繁栄を保つ幸運に恵まれれば、いつしか由緒正しい立派な家柄の貴族となる。これが斉代まで続き、数百年の歴史を有する名家となった。

　名家といえども無限に永続するものではない。没落の時期に居合わすべき不運の誰彼がその家系にもいつかは必ず生じる。名家であるほど没落には時間がかかり、何代にもわたって悲運を背負う者が出ねばならなくなる。

　斉代とは、名流貴族と、武力を背景にのしあがった新興勢力とが激しく入れ替わる時期であった。新興勢力の頂点を成すのが皇帝であるが、土地に根を張る貴族集団を無視しては国は成り立たない。皇帝が国の統治のために貴族に傾斜すれば、新興勢力の中から皇帝の地位を脅かす者が新たに出る。王朝は勢い短命となり、禅譲が繰り返される。自ら皇帝となった者はよいが、皇位を受け継いだ子孫がそれを維持するのは並大抵のことではない。宋の順帝が「願わくば後身世世に復た天王の家に生まるることなかれ」と叫んだのは至極当然の理であった。

　舅の王敬則の謀反を告発した謝朓は、数ある名流貴族の中でも名門中の名門であった。

　かつて晋王朝が北方諸民族の圧力に抗しきれずに黄河流域の土地を失ったとき、多くの貴族は南方に移住した。代表格が琅邪の王氏であり、陳郡の謝氏であった。王氏は晋の皇室の一人を守り立てて建業に新しい政権を樹立した。東晋王朝の始まりである。東晋王朝は建国から六十五年目に最大の危機を迎えた。符堅が百万の兵を率いて南征に乗り出したのである。迎えたのは時の宰相謝安であり、東晋軍を指揮したのは甥の謝玄だった。謝玄はわずか七千の兵で奇跡的な大勝利を収め、貴族が支える東晋王朝は最盛期を迎えた。

　貴族たちは一つの規範を築いた。士風と言う。名流貴族の理想とされたのが謝安である。謝安は褚裒という人物を高く買い、「褚裒は言わずといえども、四季の気が備わっている」と評した。このような士風は得ようとして得られるものでなく、家の長い歴史から生まれ出るものだった。時代が下って斉の世となっても、貴族たちは気位高く士風を保ち続けようとした。

　斉の武帝の倖臣に紀僧真という者がいた。もとは県の軍人で蕭氏の近くにいた幸運によって出世をとげたのだが、容貌や話し振りが雅で士風があるとされた。紀僧真は貴族たちの仲間入りをさせてほしいと皇帝に頼んだ。武帝は、「そなたが士であるか否は朕のよく定めるところではなく、謝瀹や江斅による」と諭した。江氏も名流である。紀僧真は江斅の屋敷を訪ねた。紀僧真が榻に腰掛けると、江斅はおもむろに背を向け、「私を客人から遠ざけなさい」と近習に命じた。意気阻喪した紀僧真は宮中に帰り、「士とは天子の命ずるものではないと知りました」と武帝に告げた。武帝は苦笑し、「門戸の高低は計れるものではない。朕はそなたをどのような貴人も及ばないようにしてやる」と待遇をいっそう厚くした。紀僧真は士にはなれずとも、皇帝のお蔭で権力や財を得た。

　謝安が宰相であった謝氏の全盛期に、実は貴族と武人との力関係の逆転が始まろうとしていた。謝玄の軍団の一兵卒だった劉裕が、国内の反乱を鎮圧したことから頭角を表し、さらに北伐を成功させ、その目覚しい軍事的成功を背景にして、ついには東晋王朝から皇位を奪ってしまうのだった。それが宋王朝の始まりである。

　この宋代に、貴族らしい貴族の生き方をなお貫こうとしたのが謝玄の孫の謝霊雲だった。謝霊雲は優美な才に恵まれ、江南の美しい自然を詠じた山水詩を数多く作った。風光の美を求めて山野を跋渉した。時に、数百の従者を連れ、ひたすら木を伐り道を開いて海に至り、土地の太守が山賊の来襲かと驚愕する事件を引き起こしもした。この他にも伝えられる奇行は多い。貴族の時代から武人の時代への変化に抗しようとし、しかし現実に負けてしまう謝霊雲の苦悩がこのような形で噴出したのだろう。謝霊雲は宋朝廷から疎んじられ、四十九歳で刑死した。

　謝朓はこの謝霊雲と同族で、謝霊雲から遡って四代の祖が、謝朓から遡って五代の祖である。

　宋朝が蕭氏によって乗っ取られて斉朝の世になると、いよいよ貴族は武人たちの風下に立つのを甘んじねばならなくなったが、なお挽回を夢見る貴族たちの期待を集めた人物に王融がいた。

　王融は琅邪の王氏の嫡流、母は謝氏の慧敏な女性。幼児より神明警恵と評せられ、才能を順調に伸ばし、朝廷において素早い出世を遂げた。斉の武帝の次男の竟陵王は文学を好み、文人たちを身近に集めた。特に著名な者は「竟陵の八友」と称せられた。王融はその中で第一の才と自負した。謝朓もこの八友の一人に数えられた。後に梁朝を興す蕭衍もいた。

　王融は第二の謝安となるを目指した。武帝が死ぬと、王融は貴族的趣味を理解する竟陵王こそが皇帝にふさわしい考え、竟陵王を帝位につけ自分が宰相となるのを目論んだ。しかし決断が遅く行動も鈍かった。武帝の遺詔通りに孫の鬱林王が先に即位した。鬱林王は即位から十日余りで王融を獄に下した。王融は竟陵王に救いを求めたものの、竟陵王は怖気づいて動けず、王融は獄中で死を賜った。時に二十七歳であった。その翌年に、竟陵王も憂いの余りに死んだ。鬱林王の背後にいたのが後の明帝であった。鬱林王は明帝によって殺されてしまう。

　明帝の時代になると、高帝や武帝の子孫が次々と殺され、高帝や武帝に厚遇されていた者たちは疑心暗鬼となり、感覚の鋭い謝朓は心を苛まれた。隠遁生活を夢見るが、謝氏一族の命運を両肩に荷う身に勝手は許されなかった。

　明帝が即位して二年目、謝朓は宣城太守に任ぜられた。宣城は大郡であるからその太守となるのは明帝の恩寵と理解してもいいものだったが、謝朓は強い不安感を抱いた。謝霊雲の最後が脳裏に浮かんだ。謝霊雲は六十二年前に臨川太守に任命されて都を離れ、その任地において逆志ありとして刑死した。謝霊雲は臨川に向かうに当たって、都建康の西にある石頭城に登って詩を書いた。その詩に歌う。

　　　迢迢たる　万里の帆

　　　茫茫として　終に　何れかに之く。

　謝朓は出発するに際して、石頭城よりも西南にある三山に登った。北東に都を遠望し、足元を大河が流れ下る。自分も都を見るのはこれが最後になるかと、己の持てる力のすべてを注ぎ込んで、目にする風景を詩にした。

　　　都に聳える無数の甍の上を、　　　　　　　　　白日麗飛甍

　　　きらきらと陽の光が移りゆき、　　　　　　　　参差皆可見

　　　淡い靄が白い残影となって消えると、　　　　　余霞散成綺

　　　澄んだ川が白い絹のように下る。　　　　　　　澄江静如練

　　　塒を求める鳥の声が覆う中州は、　　　　　　　喧鳥覆春洲

　　　夕暮れにも花の鮮やかな春である。　　　　　　雑英満芳甸

惜別の辞をもって詩を結んだ。

　　　このよき時がまた巡りくるのは何時のことか、　佳期悵何許

　　　涙は止められない。　　　　　　　　　　　　　涙下如流霰

　　　望郷の心を知る者は、　　　　　　　　　　　　有情知望郷

　　　たちまち白髪となるほかはない。　　　　　　　誰能鬒不変

　幸いにも一年で都に戻った。帰って来た謝朓を見て人々は驚いた。竟陵の八友と呼ばれたころの明朗さは影を潜め、心を病んだ初老の男となっていた。

　それからの二年、謝朓は地方に出たり都に戻ったりと、明帝に命ぜられるがままに動いた。

　謝朓は己の身を保つために舅の王敬則の謀反を皇帝に密告した。王敬則の一族は滅亡し、謝朓はより高い地位を得た。明帝は死に、蕭宝巻が皇帝となった。

　謝朓は、蕭宝巻が即位して最初の元会に出席した。

　自分の年齢の半分でしかない若い皇帝は、謝朓の目には、明帝以上に恐ろしげに見えた。その上、茹法珍や梅蟲児のような皇太子時代からの遊び友達が壇上に並んでいた。字も読めぬ下賤な連中が高いところにいて、何百年の赫々たる歴史を有する謝氏の自分が頭を下げねばならないのは、苦痛以外の何物でもなかった。皇帝はそういった連中と愚にもつかない酒宴にうつつを抜かしている。謝朓は苦々しい思いを噛み締めた。国の行く末は危うく、謝氏一族の将来にはそれ以上の深い不安を抱かざるを得なかった。

　　　　三

　同じ一月、陳顕達は、平北将軍崔慧景の率いる四万の兵士を指揮し、雍州奪還に出発した。

　陳顕達は、梅蟲児や茹法珍と同じように卑賤の出であった。戦場を駆け巡り、歴戦の猛者として名を売った。斉王朝を開いた蕭道成に見出され、王敬則の同輩として一軍を率いた。元徽二（四七四）年の桂陽王の反乱は、乱を鎮圧した蕭道成には皇位へと昇る道を開き、王敬則や陳顕達には天下の大将軍へと出世するきっかけとなった。

　陳顕達は味方を勝利に導く軍功を挙げたものの、左目に鏃が刺さる大怪我を負った。鏃は深く食い込んで抜けなかった。死ぬ以外にないと言われた。血まみれの身体が地黄村の潘嫗のもとに担ぎ込まれた。潘嫗は陳顕達を診ると釘を柱に打ち付けた。潘嫗は陳顕達の周りを何やら唱えながら歩きまわった。身体を震わせて柱に気を吹き込んだ。柱に刺さっていた釘がぽろりと抜けた。同時に陳顕達の目から鏃が落ちた。

　陳顕達は高帝、武帝に仕え、勤倹にして智計があった。ごく微賤の身から一気に高い位へと昇った。

「こうなったのは自分の本意ではない。おまえたちは人を凌ぐような富貴を得てはならない」

　常にこのように子どもたちを戒めた。しかし、十余人の子はいずれも豪富を誇り、王敬則の子息たちと濫費を競った。贅を凝らした車を造り、麗服で牛を飾り、都を練り歩いた。人々は陳氏と王氏の子息の誰の車が最も華麗なのかを噂し合った。陳顕達は喜ばなかった。

「奢侈にして破滅しなかった者は少ない。牛が引く車などは王家、謝家のものだ。おまえたちが持つべきではない」

　南朝の二大貴族である謝氏と王氏を陳顕達は言ったのであって、王敬則は貴族の代表である琅邪の王氏とは何らつながりがなかった。

　王敬則は謀反を企てて滅んだ。陳顕達は、いつか自分も同じように一族滅亡の憂き目に遭うのではないかと不安を抱いた。蕭宝巻の命を受け、このたびの北伐は一族のために何としてでも成功させねばならないと考えた。

　蕭宝巻は南郊に上帝を祀る儀式を行った。

　梅蟲児は、その儀を終えて宮殿に戻った蕭宝巻を、金ぴかの衣装をまとって迎えた。

　梅蟲児は元会以来、自分が皇帝の近くに仕える特別な人間であるとの意識を強めていた。元会において梅蟲児が壇上にあったのは、蕭宝巻が皇帝だからである。皇帝である蕭宝巻の近くに梅蟲児がいられるのは、一座から買われて以来ずっと蕭宝巻を楽しませ続けて来たからである。梅蟲児はその他に宮廷人らしい何かができるわけではなかった。そんなことと言われても、そんな芸しかできなかった。もしも蕭宝巻を楽しませられなくなったら、梅蟲児は皇帝の近くにいるという特別の座を失ってしまう。それは悲しいことであった。

　梅蟲児は、金ぴかの衣装をきらきらさせて蕭宝巻の前に飛び出した。

「上帝はこんな顔をされていましたか」

　小さな身体を思い切り伸ばし、厳かな顔をつくった。

　蕭宝巻は首を横に振った。

「では、こんな顔でしょうか」

　梅蟲児はくるっと身を翻すと、一瞬のうちに顔を真っ赤に塗って向き直り、丸く目を見開いた。

　蕭宝巻はわずかに笑った。

　梅蟲児は後ろ向きに飛び、身体を中空で回転させる間に今度は顔を青色に変じた。細長く目を吊り上げた。

「阿兄は、上帝に会えなかったと思っているんだろう」

　梅蟲児は動きを止めた。蕭宝巻は真顔だった。

「まさか、天より下って来たのでしょうか」

「そんなはずない。上帝だって相手を選ぶ。皇帝としてこれほどふさわしくない者はいない」

　蕭宝巻の笑みが梅蟲児の問いを誘った。

「では、なぜ？」

「儀式をしたというのか。上帝に文句を言うためか」

　梅蟲児は両手を上げ、身体を斜めにしならせた。

「俺様は天上の一番の上帝である。この俺様がそなたを皇帝にしてやったのに、何の文句があるのだ」

　蕭宝巻はまた笑った。

「そうやって上帝が姿を見せたらな」

　蕭宝巻は腕を回した。梅蟲児はつられて身体をくねらせた。

「俺様が姿を見せたらな」

　梅蟲児は顔を蕭宝巻に突き出した。

「こいつを突き刺してやろうと思ったのだ」

　蕭宝巻はいきなり鎗先を梅蟲児の鼻に突きつけた。

　梅蟲児はのけぞった。上帝の衣装を脱ぎ捨て、後ろに飛び退いた。ぶるっと身体が震えた。

　陳顕達は馬圏城を攻めた。

　包囲すること四十日。城内では食が尽き、魏兵は人肉、樹皮を食らった。ついに堪えきれず、門を開いて遁走した。逃げる兵士千人余りを斬り、陳顕達は入城した。斉兵は町に蓄えられていた絹を奪い合って敵将を追わなかった。

　このとき魏の皇帝は病に伏せていたが、陳顕達に対しては自ら指揮して向かわねばならぬと洛陽を発った。

　陳顕達は均水を渡り鷹子山に陣を敷いた。魏皇帝が十万の大軍を率いて来ると聞いて斉兵は怖じけづいた。魏の将軍は斉兵の動揺を見て取ると、甲冑を脱いで身軽になり、先頭を切って敵陣に突入した。多数の魏の将兵が続くと、斉兵は総崩れとなった。陳顕達は陣幔にくるまれて兵士に担なわれ、川を渡ってかろうじて救われた。三万人余りがこの戦いで死んだ。

　陳顕達の威名は大いに損なわれた。

「思った通り、何の役にも立たない遺詔だったわけだ」

　蕭宝巻は楽しげに言った。

「全く無能無才の者ばかり。そんな連中に国を任せても何もなりませんでしょう」

　茹法珍が言った。

「まだいい。急ぐことはない」

「ゆっくり楽しみますか」

「朕は失敗をしない」

　梅蟲児は、すぐ近くにいる二人を遠い存在のように感じた。何を話しているのか、言葉の表面はわかった。奥にある意味は取れない。

　前の年の五月、東宮の屋根の上で「復讐してやる」と言った蕭宝巻の言葉を、梅蟲児は思い出した。そのことと今ここで二人が話していることとは結び付くように感じられた。それ以上考えるのはひどく恐ろしい気がして梅蟲児はやめた。楽しい遊びをこそ考えたかった。

　蕭宝巻は命じた。

「大臣どもが陳顕達をどうするつもりなのか、阿丈、阿兄、聞いて来てくれ」

　二人は内省に出向いた。

　徐孝嗣、沈文季、江祏、江祀、劉暄の五人が顔を揃えていた。陳顕達自身は敗戦の責任をとって解職を願い出ていた。江祏、江祀の兄弟は厳罰を以って臨むべきだと言った。沈文季は、陳顕達の申し出を入れるのがいいと言い、劉暄はそれでもいいし、より寛大な処置でもいいのではないかと言った。四人はこもごもに自分の意見を言って収拾がつきそうになかった。

　部屋の隅に立って、梅蟲児は自分はひどく場違いなところにいると感じた。早くここを出て、今夜の酒宴の出し物の準備に取り掛りたかった。聞いていても、それぞれの主張するところの理屈はよくわからなかったし、大臣たちの仲は良さそうでなく、一緒の部屋にいたくない雰囲気があった。

　大柄の茹法珍は不動の姿勢で五人を睨みつけるように立っていた。

　人々が議論に疲れたころ、それまでずっと何も言わずにいた徐孝嗣がやっと口を開いた。

「大将軍の処遇は臣らのよく決めるところではない。陛下に御一任しよう」

　その言葉を持ち帰ると、蕭宝巻は笑った。

「思った通り、遺詔は何の役にも立たない」

　同じことをまた言った。

　蕭宝巻は、陳顕達の罪は一切問わず、しかも江州刺史に任命するとした。

　徐孝嗣はそれを聞き、蕭宝巻の度量の大きさを賛嘆しつつ、即座に勅書をしたためた。

　書きあがった勅書を梅蟲児が内省から運び、蕭宝巻の前で玉壐を押した。

　蕭宝巻はつぶやいた。

「苦しめるだけ苦しむがいい」

　茹法珍は、ふふっと笑った。

「一年も辛抱できますかな」

　二人がいよいよ遠のを感じた。

　二人の言うことはよくわからないながらも、陳顕達は邪魔であるらしかった。そうであるのなら、すぐに官位を剥奪すればそれですみそうなものだ。

　玉壐は美しく押せた。この仕事にはたいぶ慣れ、満足の行く出来栄えだった。これで皇帝の正式の命になったのだと思うと、梅蟲児は誇らしい気分になって勅書を見つめた。見ても、一つか二つの簡単な文字しか解することができなかった。

　蕭宝巻は即位からしばらくの間は定刻に朝廷に顔を出していた。元会を過ぎると、次第に遅れが目立つようになった。直接的な原因は、そのころから頻度を増した夜宴にあった。梅蟲児は夜宴でこそ水を得た魚のように大いに働いた。梅蟲児が張り切るからというわけではなかったが、夜宴は長くなることが多かった。

　皇帝が遅れようが、あるいはまるっきりいなくても、朝廷で決めるべきことは大臣があらかじめ用意しているのだから、特段困ることはなかった。それで、蕭宝巻としてはわざわざ出るだけの理由はなかったし、大臣たちにしても皇帝を敢えて諫めたりはしなかった。それはそれで双方にとって平穏な日々がしばらくは続いたのだが、陳顕達の処遇の決定が蕭宝巻に委ねられてから、蕭宝巻は大臣の起草した勅書に対して、自分の意見を少しばかり言うようになった。蕭宝巻はあれほど学問を嫌っていながら、その実、美辞麗句を連ねた勅書の文言くらいはわけなく解した。勅書の内容に関しての質問程度から始まり、次第にそれではすまなくなっていった。

　潘貴妃の父は都の小商人であった潘宝慶である。娘が貴妃となってから羽振りが大いによくなった。潘宝慶は、ある富豪が不法を働いていると訴え出た。役人は訴えの主が潘貴妃の父であることから、その富豪を捕らえ、ろくに調べもせずに獄に下した。富豪の親類から援助を求められた江祏、江祀の兄弟は、根拠が不確かであるとして、厳密な調査を命じた。蕭宝巻は、その命は無効であって富豪を早く処罰するようにと、茹法珍と梅蟲児に内省で言わせた。梅蟲児は例によって何も言わなかったが、茹法珍は大臣たちに向かって居丈高であった。江兄弟は反発した。徐孝嗣と劉暄が、たかが商人同士の争いに、朝廷の大官が関ることはないとして、結局、皇帝の意向が貫かれた。富豪は獄中で死に、その財産は潘宝慶のものとなった。

　潘貴妃のために莫大な浪費がなされた。奥向きで使える金はたちまち底をついた。茹法珍と梅蟲児は内省に出向き、様々の名目で潘貴妃のために金が自由になるようにした。このときも江祏、江祀の兄弟は抵抗したが、他の人間は奥向きのことに関るべきではないと皇帝との対立を避けた。

　都の大きな邸宅が茹法珍と梅蟲児のそれぞれに与えられた。元は富豪が住んでいたものか大貴族が住んでいたものかは知らないが、何らかの方法で元の持ち主から奪い取ったものであったのだろう。梅蟲児が行ってみると、贅を凝らした家具調度の備わる風格のある大邸宅だった。召使も大勢与えられた。そんな大邸宅を一人でどうしたらいいのかわからなかったし、召使をどう使っていいのかもわからなかった。一晩だけ泊まってみたもののひどく落ち着かず、すぐに宮中に帰った。

　梅蟲児がそうした大出世を遂げたことは、昔の百戯の仲間たちに知れ、叔父や叔母と呼んでいた者から、誰だったか顔も名前も覚えのない者まで、いろいろな手蔓を使って、昔のよしみだと言って梅蟲児に接近して来た。金品を欲しがる者には、自分の自由になるものを惜しまず与えた。特に、一座には弟の猿児がいるのだから、叔父や叔母にはことのほか厚く酬いた。それらの中には、昔は梅蟲児に酷い仕打ちをした連中もいるし、母を売女と罵った連中もいるし、妹を情け容赦なく鞭で打った連中もいる。梅蟲児は区別なく全てによくしてやった。皆に喜ばれるのは梅蟲児には何よりも大切なのだった。

　茹法珍は自分の屋敷ことはすっかり徐世標に任せた。

　徐世標は新蔡の人、茹法珍が東宮に引っ張り込んだ男である。腕は茹法珍を凌ぎ、高く聳える鷲鼻、飛び出したような眼、大きな口。その魁偉な面相から鬼面と仇名された。蕭宝巻が皇太子になってからはその最も近くにいて身辺警護の任に当たっていた。公の儀式であろうが酒宴の席であろうが、蕭宝巻が人前に出るときにはその背後に必ず徐世標の姿があった。

　徐世標は、都のあぶれ者を茹法珍の屋敷にいっぱい集めた。酒食をふんだんに与え、武芸を教え、そいつらを己の言うことなら何でもきく私兵として養った。

　蕭宝巻は、大臣の起草した勅書に玉璽を押すのを渋るようになった。

「阿兄、押さなくていい」

　そう言われれば、梅蟲児は手を止めざるを得ない。

　玉璽が押されずにいつまでも放っておかれると国政は滞る。大臣は茹法珍や梅蟲児に早くせよと督促する。茹法珍は何を言われても知らん顔だが、梅蟲児は大臣にやいやい言われると、仕方なくそれを蕭宝巻に伝える。

　蕭宝巻は聞かないどころか、茹法珍や梅蟲児を内省に派遣し、勅書に難癖を付ける。だいたいは些細な事だが、蕭宝巻はいろいろな言いがかりを考え出す。内省に徐孝嗣がいる場合には、諍いを好まない徐孝嗣は、蕭宝巻の意向に従うように事を運んで、勅書を書きかえた。徐孝嗣がいなくて江祏、江祀の兄弟がいると厄介だった。蕭宝巻の異議申し立ては理不尽であるとして二人は敢然とはねつけた。茹法珍や梅蟲児が蕭宝巻の考えを押し通そうとしても、江兄弟はその不可なる理由を様々に挙げ、頑として譲らなかった。梅蟲児はもともと何も言えないのだが、茹法珍が大声を張り上げたところで、老練な政治家である江兄弟の理路整然とした弁舌には太刀打ちできなかった。

　茹法珍がいくら睨んでも、結局は言い負かされて蕭宝巻の前に帰った。

「今度は力づくで」

　憤懣やるかたない表情で、指を鳴らし腕を回した。

　蕭宝巻は笑った。

「今はそれほどのことではない。もう少し待て」

「しかし」

「一度に全部は無理だ。一人ずつゆっくりでいい」

　茹法珍と梅蟲児は、とりあえず江兄弟がいない時を狙って内省に出向くことにした。江兄弟は意地を張った。昼となく夜となく、内省には二人のうちどちらか一方が必ずいるようにして、茹法珍と梅蟲児に対抗した。

　こうしたことを続けるのは梅蟲児にはことのほか苦痛であった。

　江兄弟にまたも負けて帰ると、茹法珍は怒りながら仔細を蕭宝巻に報告した。

　梅蟲児は黙りこくった。当事者でありながら、事は遠くの知らぬ場所での出来事のように感じられた。少しばかり人が不機嫌そうにするだけ自分のせいではないかと気にする梅蟲児である。何度も諍いの間を行き来するのは辛いことであり、それを我が事として引き受ける限度に達していた。

「阿兄、なんだか浮かぬ顔をしているではないか」

　蕭宝巻が言った。

　梅蟲児は急いで笑顔を作った。それは、どう見ても非常に不自然なものだった。

「ちょっと家で休んでいてもいいのだぞ」

　家とは梅蟲児がもらった大邸宅だ。一度だけ泊まってからは見にも行っていない。

　梅蟲児はさらに大きな笑顔を作った。

「私はここにいるのが最も楽しいのです」

　梅蟲児は唐突に早口で歌い出し、足を大きく振り上げて踊った。

　屋敷で泊まった夜、急にひどい不安に襲われた。朝起きて、自分のためだけに働いている数多くの召使を見て、こんなことがあっていいのかと恐怖に近いものを覚えた。

　昔のよしみのある連中によくしてやれるのは嬉しく、父親が誰であるのかもわからぬ下賤の身からここまでよくも出世できたと、言い知れぬ感慨を覚えもした。しかし、出来過ぎである。こんなことはあり得ない。一夜の夢で、忽然と消え去ってしまうのではないかと思え、それも恐怖のもととなっていた。

　屋敷には二度と行く気が起こらなかったから、ここにいるのが最も楽しいと、梅蟲児が言ったのは嘘ではなかった。

　梅蟲児は踊った。突然の振る舞いに茹法珍は唖然とした表情で、部屋の中を左右に動きまわるのを眺めていた。

　梅蟲児は足をすべらせたのか、急にぱったりと床に伏した。

　顔を床に付けると、不意に涙が溢れた。自分でもこれは異様なことであると、梅蟲児は思ったが、止めることができなかった。

　しばらく見守っていた蕭宝巻は屈み、梅蟲児の背に静かに手を置いた。

「阿兄、どうしたのだ」

　梅蟲児は必死に涙を抑えようとし、やっとのことで言った。

「いえ、何でもありません」

　しわがれた奇妙な声だった。

「疲れているのではないのか」

　梅蟲児はわずかに顔を上げた。滑稽な表情を作ろうとした。出来なかった。

　蕭宝巻はその顔を見て、袖で涙を拭ってやった。梅蟲児はその袖を押し頂いた。

「どうぞお許しください」

　梅蟲児は言った。

「許すも許さぬもない。阿兄は、阿兄の好きなようにしていればいいんだから」

　蕭宝巻の言葉は優しかった。

「私はこのような歌や踊りの、習い覚えた、こんな芸の他には何もできないのです」

「こんな？」

　蕭宝巻はゆっくりと微笑んだ。

「そうだな。阿兄はいい。阿兄のまま、変わらなくていい」

　梅蟲児は顔を伏せ、嗚咽した。

　梅蟲児はその日から、内省に赴くことはなくなった。宮殿の奥にいて夜宴の場で蕭宝巻を楽しませることに専念した。

　梅蟲児は落ち着きを得ると、宮中の中庭で薬草の栽培を始めた。神仙養生のためである。百戯の芸を極め、いつかは截舌の術が得られるようにと、身体を鍛えるのである。

　永元元（四九九）年の春がこうして終わった。

　　　　四

　陳顕達は江州に赴くと、それ以来、身を削るような不安に苛まれた。

　戦場に立てば引けをとらない歴戦も雄も、自分ではどうすることのできない心の内の恐れにほとほと消耗した。

　陳顕達の息子たちはあいもかわらず都で豪奢な生活を続けた。いつ何の罪で一族誅滅となるのか、怯える父の心を全く知らずにいた。

　陳顕達は数々の政変を見て来ただけに、息子たちのように無思慮に暮らすことができず、むしろ必要以上に恐れおののいていた。眠れぬ夜が明けると、今日こそは、死を命じる皇帝の使者が町に来るのではないかと、埒もない心配をして、部屋からなかなか出ることができなかった。そんな心配を打ち払って事を起こそうと思っても、都にいる息子たちが人質となっていては、難しかった。

　花々の溢れる初夏の風光も、老将軍には少しのなぐさめにもならなかった。

　危うかったのは陳顕達だけではなかった。自覚があるかどうかは別にして、明帝の遺詔に名を記されていた者は全て同様だったのである。中でも、最も自信を持っていた人物こそが実は一番危険な状態にあった。江祏、江祀の兄弟である。

　江兄弟はわずかに貴族の流れを汲むらしく、真の名門である江氏本家とつながりがあると兄弟は誇っていた。叔母が明帝の生母であることから、江兄弟は幼少より宮中に出入りした。明帝と兄弟のように親しい仲となり、明帝は二人が智謀に長けているのを知って、何かにつけて江兄弟に相談した。明帝が首尾よく皇帝になったのは江兄弟の優れた手腕によるところが大きく、明帝即位後は大きな権力を握った。明帝は死に際して、息子にこの二人を頼りにするように言い残した。明帝と兄弟同然の仲であった江兄弟から見れば、新皇帝はまだ嘴の黄色い子供であった。皇帝が勅書を巡って横車を押して来ても頑としてはねつけた。

　徐孝嗣は江祏に向かって言った。

「主上に異論を挟むことの多いのは危くありませんか」

　士たる者は小論に齷齪すべきでなく、鷹揚に構えてこそ身を保ち国のためにもなるというのが徐孝嗣の処世訓であり、それによって自身の地位を得ていた。逆に、小論にかかずらい、己の小さな信念を通そうとして命を失った者を多く見ていた。徐孝嗣は皇帝を恐れようとはせぬ江兄弟を危ぶんだ。

「正しいことをしていて、何の憂いがありましょうか。私にお任せください」

　江祏は勢いよく答えた。

　江祏は確かに患いの心を持っていなかった。王敬則や陳顕達のように、武人として高帝、武帝に仕えた者は、明帝の世になって居心地の悪さを感じ、不安を抱いたのに対して、明帝と親しかった江兄弟は朝廷内における自分たちの地位に自信を持っていた。明帝の死後にはその遺詔があった。

　江兄弟から見れば、放縦な蕭宝巻に唯々諾々と従う徐孝嗣は、明帝に不忠であると映った。徐孝嗣は大臣の筆頭とされるが、朝廷を今後担っていくのは自分たちをおいてはないと自負した。

　江兄弟が内省に寝泊りしてまで蕭宝巻に対抗したのは、単に意地を張ものではなかった。蕭宝巻には帝王としての徳に欠ける振る舞いが多く見られた。明帝の葬儀にしても、潘貴妃に対する莫大な浪費にしても、潘宝慶、茹法珍、梅蟲児らのろくでもない小人に対する恩寵にしても、皇帝としての資質が問われる行為であった。「喪を伐らず」と魏国が兵を引いたにもかかわらず、敢えて出兵して手痛い敗北を喫したのは、礼に反した蕭宝巻の重大な失政であった。

　江兄弟は皇帝の交代もあり得るかと語り合った。弟の江祀は即刻決すべきと主張した。兄の江祏も交代そのものは必然だとしても、即位からの時間が短すぎ、まだその時期ではないと考えた。国の最重大事である皇帝の廃位は兄弟二人だけで決められるようなものではない。他の大臣たちとも慎重に協議し、力を合わせて進めねばならない。下手に動いて事が漏れれば反逆の罪を問われる。全ては秘密裏に運ばねばならない。

　江祏はこのようなことから、人目を忍んで動き始めたのだが、秘そかなることは疑心暗鬼を招くのであった。

　江祏は、劉暄に、蕭宝巻の弟の宝玄の素行をそれとなく尋ねた。

「あれは真実の愚か者です」

　劉暄は一言で切り捨てた。

　劉暄は明帝の正妻劉皇后の弟である。劉皇后は宝巻、宝玄、宝寅、宝融の四人の兄弟を生んだ。

　劉暄は叔父甥の関係から、かつて蕭宝玄のお目付け役をしていた。蕭宝巻が父親によって甘やかされ素行が悪くなっていくのを見ていたから、蕭宝玄は正しくしつけてやろうと、劉暄は何事にも厳格に臨んだ。蕭宝玄に名馬を献上した者があった。蕭宝玄はその馬が見たいと劉暄に言った。劉暄は「馬など見ても何の役に立たない」とつっぱねた。蕭宝玄の妃が豚の脛肉を食べたいと劉暄にねだった。劉暄は「今朝、鵞鳥を煮たばかりで何を言うのか」と怒鳴りつけた。蕭宝玄は、劉暄には甥を思う心がないと恨んだ。小事にこだわる蕭宝玄は確かに愚人であったが、劉暄もただ威張るだけの小人の常から漏れず、蕭宝玄が成長にするにつれ、いつか己に仕返しをするのではないかと恐れを抱くようになった。

「宝寅殿は穏やかな方と聞きます」

　劉暄は、さらに下の弟の蕭宝寅がよかろうと劉暄に薦めた。

　江祏は幼すぎると思った。

　江祏は次いで蕭遥光に相談した。

　蕭遥光は明帝の兄の子である。

「若輩の者を立てたのでは国は治まりますまい」

　それは正論であったが、その言葉の裏側には、年長である自分こそが皇帝にふさわしいという蕭遥光の野心がのぞき見えた。

　血筋からしても帝位につく資格は十分にあった。英明であると世間に知られ、弟の江祀は蕭遥光を皇帝にすぐに立てるべきだと腹を決めた。

　兄の江祏はなおぐずぐずとした。

　江祏は蕭坦之に相談した。

　蕭坦之は蕭一族の年配者である。

「明帝がお立ちになったそもそもが順序を乱すものであり、天下はそれからいまだに落ち着いておりません。そのような状況で、また廃位などあっては、四方は瓦解するでありましょう。私はそのような話は耳にしたくありません」

　蕭坦之は、折りしも死んだ母親の喪に服すとして、門を鎖して家に閉じこもった。

　蕭坦之の意見は一応の筋が通っていた。

　蕭坦之は根っからの武人で、自分が正しいと思ったことに執着し、豪傑を気取って空威張りした。その実、先を見通す知恵には欠け優柔不断でもあった。

　江祏はなお人の意見を聞き歩いた。

　謝朓に相談した。王敬則の場合もそうであったように、名流というものには神秘的な魅力が備わるものであるらしい。謝氏のように歴史を持った家には難事を解決する力があるとでも思うのか。あるいは、最も正しい道を指し示してくれるとの期待を抱かせるのか。

「蕭宝玄様は若すぎて恐らくは位の重さに耐えないでありましょう。とするならば、蕭遥光様が入朝するのは国の安定を求めることになりましょうか」

　江祏は謝朓にはっきりと廃位について尋ねた。

　謝朓は返答するのを避けた。

　それより前に、謝朓は、蕭遥光から、自分に協力する気はあるかとの打診を受けていた。それにも明確な答えを返していなかった。

　二方から尋ねられ、謝朓はついに来るべきものが来たと思った。

　謝霊雲や王融と同じ運命が自分にも課せられ、逃れられないその時がここに来たのを覚った。名流貴族に生まれていなければこのようなことはないものだった。

　江兄弟や蕭遥光の誘いに魅力がないわけではない。蕭遥光がもしも皇帝になれば、謝朓には宰相となる未来が開けるだろう。蕭遥光が失敗すれば一族の破滅である。断ればそれもまた危険を伴う。実力者である江兄弟や蕭遥光を敵に回せるものではない。

　謝朓は迷って返答をしなかった。諦めていたのかも知れない。

　蕭遥光は謝朓を兼知衛尉事に任命することにした。

　蕭宝巻はそのための勅書を見て笑った。

「妻に命を狙われている男に何の価値があるのだ」

　蕭遥光は謝朓を一段と出世させる代わりに、己の側に立つよう謝朓に決断を迫ったのだ。

　謝朓はいよいよ懼れた。この任命を受ければ蕭遥光の一派に加わるのを天下に公言するようなものだった。謝朓は進退に窮した。

　謝朓は都を出てどこかに隠遁したいとの思いにかられた。何度それを思ったことか。名門謝氏の行く末を一身に担う謝朓には望んで得られるものではなかった。

　謝朓には逃げる場がなかった。ただ屋敷の庭をさまよい歩くだけだ。その小さな空間が唯一自由に動ける場所だった。

　夏の風光が謝朓の目をとらえた。暗く沈んだ心の下に、天分の詩才は凍り付いていた。新しい詩句は全く浮かばず、ただ古い句が思い出された。

　　魚の遊戯に蓮の新葉が動き、　　　　魚戯新荷動

　　鳥の飛翔に名残の花弁が落ちる。　　鳥散余花落

　生き生きとしたこのような詩はもはや書けなかった。

　己の詩才が尽きたとの自覚は、余命いくばくもないのを予感させた。生き続けるのは醜さをさらすだけと思わせた。

　月光のもとに出て謝朓は一人吟じた。

　　帰ってくる時なのに　　　　佳期期未帰

　　陽が沈んでいくばかり。　　望望下鳴機

　　あてなき東の小道に　　　　徘徊東陌上

　　月は出ても人はいない。　　月出行人稀

　謝朓の心ははなはだ痛んだ。それはかつて王李哲に送った詩だった。王李哲は王敬則の子である。詩を好み、謝朓と交流が深かった。王李哲は反逆の罪で殺された。

「人を売ってなお生き延びている」

　謝朓は、そのように自分を責める思いをどうにかして断ち切ろうとした。

　人に尋ねれば、今は蕭遥光につくしかないと、誰もが答えるだろう。謝一族にとっては何十年ぶりかで宰相が誕生する幸運に恵まれる。蕭宝巻は帝位にあるべき徳を持たない。皇帝は代わるべきだろう。

　しかし、蕭遥光の側に付くことは、先帝の裏切りにつながる。王敬則を密告したのは明帝に忠であったとの名目がある。今の皇帝は明帝が後継者として定めた。明帝が後を託した大臣たちが、即位間もない皇帝の廃位を目論むのは人倫に反する。蕭遥光の野心に与すべきではない。

　謝朓は躊躇し、

　　月出でて行人稀れなり

　と、吟じ、自分の思いを語る相手を一人も持たないのを悲しんだ。

　謝朓のはっきりしない態度は江兄弟と蕭遥光を苛立たせ、劉暄を不安にさせた。謝朓にはすでに舅を売った前歴があった。

　謝朓は気が塞ぎ、自分の感情と戦うだけで消耗して、言行に無防備となった。様子を見に来た劉暄にうっかり妙なことを言った。

「遥光様が南面されますと、あなた様の代わりには誰がなるのでしょうか」

　南面とは皇帝になること、劉暄が六大臣の一人でいられるのは、劉暄が皇帝の外戚に当たるからだ。蕭遥光が即位すれば、劉暄ではない者が同じ立場として代わるだろう。

　謝朓は、劉暄の意向をさぐろうとして、露骨すぎることを言ってしまった。

　劉暄は非常に驚いた振りをした。

「いったい何をおっしゃっておられるのか、皆目見当もつきません。私はただただ先帝の遺詔を守ることだけを責務と考え、陛下にお仕えするばかりです」

　と、真顔で答えた。

　劉暄は謝朓が余計なことを人に漏らすのを恐れた。蕭遥光の元にすぐに走り、謝朓の口を塞がないと危険だと告げた。蕭遥光は謝朓を都の外に出し、片田舎に蟄居させようと考えた。

　江祀はそれでは手ぬるいと言った。もともと江祀は謝朓を快く思っていなかった。家柄の良さではどうあっても勝てず、詩文の才も己のはるか上を行き、宮中では人を見下す視線を自分たちに向けていると、江祀は受け止めていた。兄の江祏に、謝朓は殺すべきだと迫った。名流の矜持がそうでない者の反発を招くのは自然であった。

　口を塞ぐには消すのが最もよい。蕭遥光、江祏、劉暄の連名で謝朓は告発された。内外を扇動して上を危うきに陥れようとした罪が問われた。

　蕭宝巻は玄武湖に舟を浮かべていた。

　玄武湖は建康の北東にある湖である。東の蒋山を始め山に囲まれ、高楼の並ぶ都の姿を湖面に映す、風光明媚な場所である。

　皇帝の乗る舟は、蓮の大きな葉を左右に分けて進んだ。花の芳香が舟を満たした。蕭宝巻と潘貴妃が並んで座り、後ろに梅蟲児が立った。

　　魚　戯むれて　新荷　動き

　　鳥　散じて　余花　落ちる

　梅蟲児が吟じた。

「阿兄はいろいろな詩を知っているな」

　蕭宝巻は振り返らずに言った。

「恥ずかしながら字は読めませんので、耳で聞いて覚えるのでございます」

「たいしたものだ」

「眼前の風光にぴったりではありませんか」

　潘貴妃は舟縁より手を伸ばして蓮の葉を引いた。

「極楽にでもいるようです」

　潘貴妃の言葉に蕭宝巻は喜んだ。舟は静かに岸辺に着いた。

　阿亭の下では、湖面を行く舟を皇后がずっと見守っていた。

　蕭宝巻は潘貴妃の手を取って、阿亭の屋根の下に入った。皇后はそちらには視線を向けず、芙蓉の花に見入っていた。

　茹法珍が馬を走らせて来た。一通の告発状を携えていた。

　蕭宝巻は一読すると、

「阿兄、どうだ、これはまた使えるだろう」

　と、梅蟲児に投げて渡した。

　梅蟲児は告発状を広げて威儀を正して読む振りをした。

「さっき、阿兄が吟じた詩を書いた男が謀反をたくらんだ。どうだ。そう書いてあるだろう」

　蕭宝巻が楽しそうに言った。

「まことに」

「皆に聞こえるように読んでくれ」

　梅蟲児は告発状を高く掲げ、大きく咳払いをした。

　一字の文字も読めぬ梅蟲児は、大きな抑揚を付けて、読み上げ始めた。文句は出鱈目である。謝朓を腐った肉片に譬え、その臭気と蛆虫によって、国中に迷惑を及ぼしているとし、肉片に対して死罪を宣し、豚に食わせるよう厳かに命じた。

　蕭宝巻は笑った。潘貴妃も微笑んだ。

「腐敗した貴族どもの肉か。食わされる豚の方が気の毒というものではないか」

　蕭宝巻が言った。

「もちろんでございます」

　梅蟲児はうなづいた。その言葉には、最下層の出である梅蟲児の本当の思いがいくらかは篭ってもいた。

　しかし、皇后の横顔を見て、梅蟲児は自分が軽はずみであったとすぐに後悔した。

　皇后は唇を噛んでいた。

　皇后は褚澄の娘である。かつて謝安が「四季の気が備わっている」と賞賛した褚裒は、褚澄から五代遡るところの祖である。皇后こそは名流貴族の出であり、梅蟲児もそのことを知っていた。

「腐った連中は一人ではありませんでしょう」

　潘貴妃が言った。

「告発状の名を入れ替えて、今から書かせておきましょうか」

　と、茹法珍が言った。

「慌てなくていい。これからだ」

　蕭宝巻は静かにつぶやいた。

　永元元（四九九）年八月、謝朓は獄死した。

「私は王敬則を殺しはしなかったが、王一族を滅亡させたのは私だ」

　謝朓の最後の言葉だった。王敬則の反乱に加わるべきであったと悔やんだのかどうかはわからない。

　ここまでに蕭宝巻の即位から一年が経過した。

　梅蟲児にとってそれは長い時間であった。初めの半年余りがとくに辛かった。皇帝の側近であるのは梅蟲児には気苦労であり、夜宴だけが自分の仕事なってからは、いくらかは気持ちが楽になった。

　ともあれ一年をひと巡りできたことで、これからは慣れていけそうな気持ちになった。今後は同じような一年ごとの繰り返しになるのだろうと思った。

　しかし、その期待はすぐに裏切られた。梅蟲児には、想像することなど到底できない秋になった。

第三回　大臣殺戮

　　　　一

「無用な連中ばかりだ」

　景陽楼から長い間、下界を眺めていた蕭宝巻がつぶやいた。その声は茹法珍にも梅蟲児にも聞こえないくらいに小さかった。

　梅蟲児は、蕭宝巻の脇に歩み出て、欄干から上体を乗り出して眼下を覗いた。遥か下に人馬が行き来している。目を少し上げれば、街路が縦横に走り、都の家々の屋根が上下に波打っている。

　蕭宝巻は手摺を叩いた。

　その音に梅蟲児は身をわずかに縮めた。

　人々が蠢く地上にはなお暑さが残っているのだろうが、楼上には涼さを含む秋の風が吹いている。その風に心穏やかに身を任せることは、今の梅蟲児にはできない。

　謝朓が獄死してから、少しずつ蕭宝巻の様子が違って来ているのを、梅蟲児は感じ取っていた。いつもの夜宴ではそれはわからないのだが、こうして息遣いがわかるほどの近さにいると、これまでになかったような気配が感じられた。蕭宝巻の向こうに立っている茹法珍にも幾分か似たものがある。

　二人は何かをしようとしている。梅蟲児はそれが何であるのか少しは勘付いていた。しかし、深くそれを考えたくなかった。二人がやろうとしていることに自分が加わるということも考えたくなかった。自分は夜宴で芸を見せてさえいればいいのだということが、あえて考えなくでもいいと、梅蟲児をいくらか安心させる支えとなってはいた。それでも、自分ばかりが二人とは違うというのは、梅蟲児の気持ちを穏やかにさせるものではない。

「阿兄、わかったぞ」

　蕭宝巻が低く太い声を出した。

　梅蟲児はそっと蕭宝巻の横顔を見上げた。蕭宝巻は目を細めて遠くを見ている。

　蕭宝巻はこの一年間でさらに背が伸び身体全体がひとまわり大きくなった。かつて、梅蟲児はこの少年を両腕で抱えたことがあったのだが、もしも試してみるならば、今は逆に、蕭宝巻に軽々と抱かれてしまうだろう。梅蟲児には蕭宝巻の身体は実際以上に大きく見えた。指先一つでこの欄干の外へと弾き飛ばされてしまうくらいだ。

　梅蟲児は顔を逸らした。蕭宝巻の視線が自分に向き、目を合わせてしまうのを避けたのだ。

「はっ」

　梅蟲児は軽い相槌だけを送った。

　蕭宝巻はもう一度手摺を叩いた。先程よりは軽い音がした。

「どいつもこいつも無用の連中だ。それだけのことだ。造物主はあんな連中の一人一人にまで命運を授ける暇はない。朕とて同じだ。天はあの連中に構うものではなく、天は朕に構うものでない。だから朕もあの連中には構わない」

　梅蟲児は、蕭宝巻が何かを思索し、その結果としてこのようなことを言ったのだろうと推し量ったが、蕭宝巻の言葉の奥にあるものはわからない。

　梅蟲児は諧謔をもって返事することもできず、黙って次の言葉を待った。

　蕭宝巻はしばらくしてから言った。

「阿丈はどう思う」

　梅蟲児は茹法珍に話が向けられて少しばかりほっとするとともに、無理をしてでも何かを言っておけばよかったと思った。蕭宝巻と茹法珍ばかりが知り、自分にはわからないことがこうして増えていく。わかりたくないようなことだと思いつつも、わからぬのは寂しい。

　俯き加減に立つ梅蟲児は、蕭宝巻の身体の向こうに茹法珍の腰から下ばかりを見る。茹法珍は蕭宝巻よりも体格がよく、梅蟲児には茹法珍もまた実物よりも大きく感じられた。それでも、梅蟲児が受け止める感覚としては、蕭宝巻の方が大きい。

　茹法珍は腕を伸ばし、南に真っ直ぐに伸びる御街を往来する人々を指した。

「無用な連中にしては多すぎます」

「その通りだ。こんなにも多くいるから、こいつらのために皇帝がいなくてはならない。邪魔な連中ばかりだ」

「まさしく」

「邪魔をする者を消さねばなるまい」

「大儀ながら」

　蕭宝巻はうなずいた。

「次は誰だ」

　蕭宝巻の低い声が梅蟲児の腹に響いた。

　うすうす思っていた通りだ。次というのは謝朓の次という意味だろう。それは誰なのか、知りたくはあったが、現実に誰かが死ぬのだと思うと知りたくなくなる。

　梅蟲児は顔を上げて茹法珍の顔を見た。笑っているようだった。

　梅蟲児は自分だけが黙っているのはまずいような気になり、急に弾むような声を出した。

「陛下の思し召しのままでございましょう」

　何の意味もない言い回しだった。蕭宝巻も茹法珍は梅蟲児の言葉に反応をしなかった。

　梅蟲児は黙った。楼台の下を見た。そこを行く人々よりも自分は小さなものであるように思えた。

　蕭宝巻はぽつりとつぶやいた。

「阿丈はどう思う」

　茹法珍は重々しく答えた。

「よくよく考えてございます」

「では、告発状に書くのは誰の名だ」

「面倒な手続きは不要です。御覧のように連中は多すぎるのですから」

「阿丈がやってくれるか」

「今回はうってつけの者がおります」

「誰だ」

「まあ御覧になってください」

「楽しみに待っていよう」

　蕭宝巻は欄干にもたれて遠くを見続けた。

「天は朕の邪魔をするために天地を作ったのか」

　梅蟲児は三人で楽しく遊んでいた昔を思った。そのころも蕭宝巻は不思議な少年であった。多くの人が手を焼いた。ただ梅蟲児は茹法珍とともに身体をぶつけあって遊んでいれば、余計なことを考える必要はなかった。三人だけの楽しい日々だった。あれから梅蟲児の気分は変っていないのだが、二人はいつのまに全く違ってしまったようだ。

　梅蟲児は蕭宝巻の後ろから茹法珍に身を寄せて袖を引いた。

「誰をやるのか」

　梅蟲児のささやきに、茹法珍はかすかな笑みを顔に浮かべて答えた。

「江兄弟だ」

「やっぱりそうか」

　自分も始めからそう思っていたというような顔を梅蟲児は作った。確かにそれは大いにあり得ることだった。

　梅蟲児はひゅうと唇で音を立てた。

「都の人士があっと驚く見世物の始まりですな」

　明るい声で、とんとんと足を踏み鳴らし、欄干の上へとひらり飛び乗った。

「兄が先か、弟が先か」

　梅蟲児は左右の腕を交互にまわした。袖の内から二枚の手巾が現れた。

「右が弟、左が兄。どちらが先に地に伏せるでありましょうか」

　空に二枚を放り上げた。

　手巾は都の上を吹く秋風に舞った。

　　　　二

　劉暄の耳には死んだ謝朓の言葉がはっきりと残っていた。

　劉暄は上に弱く下に強い男だった。下の者は容赦なく叱り付け、上の者はその一挙止一動を慄きをもって見つめた。

　謝朓が獄死してしまうと、蕭宝巻がとんでもなく恐ろしい人間としての正体を現したと、劉暄は思うようになった。蕭宝巻は劉暄の甥である。自分の思うままにできると思っていた子供に、逆に自分の運命を手にされてしまっていると考えるのは愉快ではなかった。そればかりか、どうにも手に負えない相手なのだ。蕭宝巻が皇帝の資質に欠けるのは十分に明らかだ。もとより近親の者を殺戮して倦まなかった明帝の息子である。非常に恐ろしいことがこの皇帝の御世には起こるだろう。謝朓が死んでその何かはすでに始まった。自分がその何かの当事者とならぬ保障はなく、この先、永久に安心して過ごせなくなるのだろうかと思い、劉暄は居ても立ってもいられなくなった。

　だとすればどうしたらいいのか。謝朓が言った通りに、蕭宝巻が皇帝であるからこそ、皇帝の外戚としての劉暄の今の地位があった。蕭宝巻に代わって弟の宝玄、宝寅、宝融の三人のいずれかが皇帝になっても外戚としての立場は変わらないが、宝玄には恨まれている。かつて宝玄を怒鳴りつけたのを今さら悔いたところで仕方がない。その兄弟たちではなくて実力者の蕭遥光が皇帝になれば、劉暄は極めて不利な立場に追い込まれるだろう。そのことを謝朓が言っていた。劉暄も蕭宝巻とともに始末されてしまうかも知れない。それを避けるには、一刻も早く蕭遥光の側に身を寄せておくのが得策というものかも知れない。しかし、下手に慌てるのは大きな過ちとなる危険もある。蕭遥光の企みが腰砕けになりでもしたら元も子もない。そもそも急に尻尾を振って見せたところで蕭遥光が己を信頼してくれるかわからない。

　劉暄は考えれば考えるほどに不安ばかりが先走った。己にとって最も利となるものを選び出す決断ができなかった。劉暄はとりあえずは蕭宝巻にも蕭遥光にも媚びる姿勢を懸命に見せた。

　江兄弟のうち弟の江祀は心を定めていた。蕭宝巻を廃し蕭遥光を皇帝に就ける。自分たちにとっても国にとってもそれが最善であると考えた。

　兄の江祏はなお逡巡していた。兄は弟よりは少しばかり先を読んでいた。蕭遥光が皇帝となった当座はそれでいいかも知れないが、問題はそこから先だ。蕭遥光は自分たちの意のままには動かせる小物ではない。自分たちを必要としている間はいいが、ひとたび皇帝となって己の意のままにしたいと思うようになったとき、蕭遥光は自分たちを邪魔者扱いする恐れが多分にある。

　江祏が考えた最善の策は、蕭宝巻の弟の蕭宝玄を皇帝に祭り上げ、劉暄とともに朝廷を牛耳るというものだったのだが、劉暄は小さなしこりからそれに同意しなかった。劉暄なしに自分たちだけでその手を選ぶのは危険すぎるように思えた。

　蕭遥光は苛立っていた。

　蕭遥光にしてみれば、謝朓を獄死に追い込んだ時点で、江兄弟と劉暄は己の擁立に同意したはずのものであった。今もってぐずぐずしているのはなぜなのか、まことに理解し難い。

　蕭遥光は明帝とともに皇族の多くを殺した。それは蕭宝巻に安全に皇位を伝えたいとする明帝の意向に沿うものであって、蕭宝巻にとってみれば、本来は、蕭遥光は恩義ある功労者というべきなのである。その功績のために蕭遥光が人々の恨みを買ったのは確かで、だから時を失するならば己の身を滅ぼすと蕭遥光には焦燥感があった。

　蕭遥光は天文候道の術を得ていた。占星術である。かつて明帝は人の誅罰と賞功に関してはこの蕭遥光とのみ相談をした。明帝が高帝、武帝の子孫を根絶やしにしようとしたとき、蕭遥光は天文候道によって殺すべき人物と日時を定めた。

　蕭遥光は此の度も星を見て、事は急を要すると読んでいた。それで、弟の蕭遥欣に都の外で挙兵させ、自分は内に応じ、実力で帝位を奪う強行策に思い至った。しかし、実行のための計画を練る前に蕭遥欣が俄かに病没した。

　蕭遥光は苛立ちを強め、いっそう焦り出した。江祏と劉暄は一向に決断しそうになかった。そうでありながら劉暄が無闇と媚を売って来るのが、蕭遥光には気に入らなかった。上目遣いに人の心を読もうとする態度は裏で何かを企んでいるように見えた。蕭遥光は邪魔になりそうな劉暄を葬り去ることにした。蕭遥光は英明で皇位に昇る器ありと評判されていたが、その実は遠き謀のできない堪え性のない人間で、明帝とともに気に入らない人物を消してしまうのに慣れていた。かつては明帝の勅命という武器を使えたわけだが、今回はそうはいかず、私的な手段を選ぶしかなかった。黄曇慶という腕の立つ腹心を使った。皇位を奪うという最も自重すべき時期にあっては短慮という他ないのだが、先にやらねば自分がやられるという世でもあった。

　黄曇慶は夕暮れ迫る青渓橋で劉暄を待ち伏せした。小心者の劉暄は常日頃から警戒を怠らず、外出の折は前後左右を多数の武装した兵士で厳重に固めていた。黄曇慶は一行を襲ったものの、劉暄自身に切りかかることができず、護衛兵に捕らえられた。

　ここで取った劉暄の対応はまことに劉暄らしかった。己を襲った刺客を保護して蕭遥光の屋敷に送り届ける一方で、自身はすぐに宮中に入り、江兄弟に反意ありと蕭宝巻に告げた。江兄弟を売ることによって、蕭遥光と蕭宝巻の両者に媚び、ひとまず自己の安全を確保しようとしたのだった。

「叔父上のおかげで命拾いをいたしました」

　蕭宝巻は酒宴を中断し、奥殿の小さな一室において、茹法珍、梅蟲児の三人だけで劉暄と会った。

　劉暄は小さな身体をいっそう縮め、上目遣いに蕭宝巻の顔色を懸命に覗っていた。額に汗がいっぱい浮かんだ。

　見るからに卑屈そうなその態度を、梅蟲児は可哀相に感じた。一国の大臣を賤しい百戯の徒弟が憐れむというのもおかしなものだが、梅蟲児は歩み寄って、その汗を拭ってやりたくなった。

　蕭宝巻は夜も暗くなってからわざわざやって来た叔父を労り、酒食を運ばせ、劉暄と杯を交わした。劉暄をしきりに褒めそやした。劉暄は皇帝の威徳を称える美辞麗句を並べた。

　劉暄は勧められるがままに杯を重ねた。次第に饒舌になり、何を言っているのかわからなくなった。皇帝の甘心を買おうとする心の内ばかりがはっきりと透けて見えた。

　梅蟲児は、できることなら劉暄の止め処ない言葉の羅列をどこかで遮ってしまいたかった。それは聞くに堪えないもので、このまま続けるのは劉暄のためにならなかった。劉暄の酔態は、なぜかこの男を憐れむ梅蟲児の気持ちをより強めた。劉暄の常軌を逸した懸命さに、梅蟲児は酒宴の場にある自分の姿を見るような思いを抱いたのかも知れない。

　劉暄を酔わせるだけ酔わせ、言わせるだけ言わせると、蕭宝巻は叔父の身体を抱くようにして部屋より送り出した。劉暄はしきりに頭を下げ、足をふらつかせながら、あくまでもしゃべり続けたまま下がって行った。

　劉暄が消えると、梅蟲児はほっとした。

「阿丈、これからどうすればいいのかな」

　蕭宝巻は言った。

「夜半までには片付きましょう」

「さすがに阿丈だ。ゆっくりと待っていよう」

　こうしたことには自分が役立たずなのを梅蟲児はよく自覚していた。目をくりくりと回し、

「私はどういたしましょうか。いかなる御趣向をお見せいたせばよろしいでしょうか」

　と、おどけた調子で言った。

「いいんだろう。阿兄はいつも通りで」

　蕭宝巻は茹法珍に顔を向けつつそう言った。

「酒宴が続いておれば、あいつらは安心するでしょう」

　茹法珍の言葉に、梅蟲児の顔が少し明るくなった。

　この夜、江祀は内省に宿直していた。

　兄の江祏は、青渓橋でひと騒動があったと聞き、弟に使いを送った。

「劉暄が慌しく宮中に入ったらしい。細心の注意を払うように」

　弟は奥殿の様子をさぐった。人々が歌い笑う声が響いていた。蕭宝巻のいつもと変わらぬ酒宴だった。

「静々と当たれば、たとえ何事かがあっても易々と鎮めることができましょう」

　弟は短く認めて使いの者に渡した。自分がこうして宮中に構えている限りは、どのような事が起ころうとも即応できるとの自信が江祀にはあった。

　茹法珍は使者を捕らえ、返書を奪った。代わって「即刻、中書省に来るように」との偽の手紙を江祏に届けた。

　江祏は急いで宮中に入った。

　管弦の音が奥から流れていた。中書省の入り口に達してもおかしな様子はなかった。

「杞憂であったか」

　江祏が内を覗くと暗がりに一人の男が背を向けて立っていた。弟ではないようだった。

「あれはどこに？」

　江祏は一歩踏み入れた。

　男が振り返った。揺れる灯の光に、奇妙な笑いが浮かんだ。

「そなたは」

　その顔にかすかな記憶があるような気がした。

「俺の封爵を二度と掠め取れぬよう、おまえの腹に覚え込ませてやる」

　男は江祏の腹に剣をのめりこませた。

　袁文曠といった。反乱に失敗した王敬則が落馬した際、とどめを刺した男だ。その手柄によって袁文曠には封爵の授与が一旦は決まったのだが、江兄弟は、王敬則を最初に刺したのは崔恭祖であって、袁文曠はそこに居合わせただけで手柄とするに足ることは何もしておらず、袁文曠のような無頼の徒に土地を与えるのは不可であるとした。袁文曠はそれがために一切の恩賞を得られなかった。

　袁文曠は剣を引き抜くと、刃を兄の血で濡らしたまま、内省へと走った。誰にも咎められなかった。むろん茹法珍が手を回していたからだ。

　江祀は、兄が急に来たと知らされ、驚いて迎えに出たところを、刺し殺された。

「よく切れる剣があれば何でもできる。思い知ったか」

　袁文曠は江祀の死骸に唾を吐きかけた。その背を槍が貫いた。

「大臣二人を殺害した謀反人をしとめた」

　槍を手にするのは徐世標だった。

　徐世標は、都のあぶれ者を茹法珍の屋敷に集めて私兵として養っていたが、殿内主師という後宮の護衛兵の指揮官に任ぜられた。茹法珍の屋敷に巣食う無頼漢どもを部下に組み入れ、恐ろしげな鬼面をもって宮中に睨みをきかせるようになっていた。

　酔って家に帰った劉暄は、江兄弟が殺された時刻に、寝床でうなされていた。

　突然跳ね起き、何事かをわめき、建物の外に飛び出した。裸同然の姿、真っ暗な庭を裸足で走り回わった。

　主人の突然の異様なふるまいに近習が明かりを持って後を追った。その火を見て劉暄は怯え、

「誰だ、来たのは誰だ」

　と、叫んで逃げた。

「誰も来ていません」

「ほら、来ているではないか」

　劉暄は逃げ惑い、足をすべらせて池に落ちた。

「誰だ、捕まえに来たのは、誰だ」

　水の中でも劉暄は叫び続けた。

　近習は数人がかりで劉暄を引き上げた。明るい室内に連れ戻し、暖かい布で拭き、薬を飲ませ、劉暄はほどなく正気を取り戻した。

「誰か宮中の様子を見て来い」

　劉暄は、全身の震えに時折襲われながら、見に行った者の帰りを待った。

　江兄弟が袁文曠によって殺されたとわかった。劉暄は声を立てて泣いた。

「江兄弟が行けば、自分も行くことになる。なぜそれに気が付かなかったのか」

　劉暄は真っ青な顔をして考え込み、意を決すると宮中に走った。

　夜明け前。蕭宝巻の酒宴がようやく終わるころだった。

　劉暄は呼び入れられた。足をもつれさせながら蕭宝巻の座る塌の前に進み出た。

　蕭宝巻は潘貴妃の手をとったまま叔父を見下ろした。

　梅蟲児は遠目に劉暄を見た。顔が光っていた。汗のせいだ。先程も汗は多かったが、それでも額に玉を作る程度だった。いまは顎から滴が落ちるほどの汗をかき、それでいながら顔は青ざめ、小刻みに震えてもいた。

　蕭宝巻は同じ晩に二度も宮中にやって来た叔父にことのほか和やかな言葉をかけた。

　劉暄は前置きもなしに大事を告げた。

「申しそびれたことがあり、急遽再び参内いたした次第でございます。実は、蕭遥光殿がかねてより謀議を凝らしているのでございます」

　蕭宝巻はゆったりと左右を見回した。

「ここでは大勢の者が聞いている。叔父上が万一誤ったことを言っても、それは直ちに天下の知るところとなるが、それでもよろしいのか」

「私は真実よりは申し上げません」

　蕭宝巻は立ち上がり、劉暄の前に進んでその手を取った。

「叔父上なくば、朕はその大事を知らずにいた。まことに感謝にする」

「そのようにおっしゃっていただき、喜びにたえません」

　蕭宝巻は劉暄の身体を起こし、脇に置かれた杯を渡した。劉暄はそれを捧げ持ち、中身にじっと目を注ぎ、一気に飲み干した。

「叔父上への礼に、一つ楽しいものをお見せしよう。阿兄、象を見せてやってくれ」

　梅蟲児はすぐ走った。

　梅蟲児は大慌てで象に扮した。子どもの象となって滑稽な仕草で踊った。劉暄は床に座したまま踊りに顔を向けはしたが、その目はまるでものを見ていなかった。

　蕭宝巻は潘貴妃の耳に口を寄せた。

「哀れな男だ」

　潘貴妃はくくっと笑いを漏らした。

　踊りながら、梅蟲児は劉暄の顔を見た。視線は宙をさまよい、口は半開き、ひどく汗を流し、魂が抜けてしまったようであった。朝廷の高官であり、皇帝の叔父がこのような状態になっていることに、梅蟲児はひどくとまどった。それで踊りの出来はよくなかった。

　ふと皇后に目を向けると、目を閉じていた。瞼に力が篭り、自分の目を見たくないものから遮断しているかのように思えた。梅蟲児は息が苦しくなり、踊りの所作をそれ以上は続け難くなった。

　　　　三

　蕭宝巻は蕭遥光を即座に呼び付けた。

　蕭遥光の屋敷は東府城にあり、皇城に至るには時間を要し、宮中に入ったのは、朝廷が開かれる定刻をいくらか過ぎたころであった。

　蕭遥光は参内してから江兄弟が殺されたのを初めて知り、劉暄が己を密告したと耳にした。激しく怒り、同時に、ここに来るべきではなかったと悔やんだ。明け方の呼び出しという皇帝からの異例の急使に、もっと慎重に対応すべきであったのだが、時すでに遅く、蕭遥光は皇帝の面前に出る以外になかった。

　蕭宝巻は眠らずに朝廷に臨み、蕭遥光の到着を待っていた。

　蕭遥光は宦官に先導され、百官の居並ぶ中央を玉座に向かって歩んだ。蕭遥光は足が悪く、明帝は蕭遥光が輿の上に坐して御前に進むのを許していたが、この朝、蕭宝巻はそうした特例を認めなかった。蕭遥光は巨体である。もともと悪い足はその重い身体を支えられず、肩を借す宦官は重みに顔を歪めた。懸命に足を引き摺る蕭遥光は二度三度ところびそうになった。

　蕭遥光がどうにか玉座の間近へと進み、膝をついて礼を始めると、蕭宝巻は立って壇より下り、蕭遥光に腕を添えた。

　蕭宝巻に腕を取られて、蕭遥光の身体がびくんと動いた。

　蕭宝巻は蕭遥光の顔を覗き込んだ。

「顔色がすぐれぬようだが」

　蕭遥光は確かに青白い顔をしていた。酒臭い息が蕭遥光の鼻先にかかった。蕭遥光は顔を顰めた。すぐにそれを見られまいと、顔を伏せ、床に這う礼を続けようとした。

「そのようにせずともよい。父でさえ、そなたには許したのだから」

　蕭宝巻は腋に手を添えて蕭遥光の身体を起こそうとした。

「いえ、私などは」

　蕭遥光は床の上を滑って身を退かせた。

　蕭宝巻は立ち上がると、言った。

「江祏、江祀はまことに気の毒であった。袁文曠とかいう狼藉者は即座に成敗されたが、朕が蒙った大きな損失を償うものではない。二人は父の代より仕える国家の重鎮であり、朕が最も頼りとしていたのは誰もが知ろう。なぜそのような二人が、所もあろうに宮中で殺害されてしまうのか。国家の安危に関るこの重大事について、諸君らの思うところを今朝は聞かせてほしい」

　蕭宝巻は百官を見回した。誰一人として身動きさえしなかった。

　蕭宝巻は静かに壇上に戻った。

「誰か答える者はないのか」

　誰もが下を向き口を開かなかった。

「袁文曠のように身分が低く、二人に恨みを抱くような者がなぜやすやすと中書省から内省にまで出入りできたのか。そなたはどのように考えるか」

　蕭宝巻の指が真っ直ぐに蕭遥光に向けられた。

　蕭遥光は腹の底が熱くなるのを感じた。蕭宝巻自身か、あるいは茹法珍のような連中が袁文曠を操ったに違いなかった。それをここで口にするわけにはいかない。

「どう考えるのか」

　蕭宝巻はもう一度静かな口調で言った。

「一向に見当もつきません」

　蕭遥光は深く頭を下げた。

　蕭宝巻はふっと笑いを漏らした。

「朕はそのようには思わぬ。どうだ」

「いえ、私は全くもって何の考えもありません」

　蕭遥光は頭を下げた。

　劉暄の密告をここにいる誰もが知っているのだろうと、蕭遥光は思った。それを承知で、皇帝は自分を叱責しているに違いなかった。

「江祏が殺されたのは中書省であったと聞く。その中書省を統括する中書令は今は誰であるのか、そなたは知っているのか」

　蕭遥光は床に伏したまま答える。

「私であります」

「そうであったのか。ならば、あらぬ疑いがそなたにかからねばよいのだがな」

　蕭遥光は何も言えなかった。

　ここに来たのを深く悔やんだ。ここが自分の死に場所となるのかも知れなかった。

「江祏、江祀は真の忠臣であった。そうではないか」

「まことにそうでございます」

「兄弟が交互に内殿に宿し、片時たりとも朕が傍を離れずに、朕が誤りの道に落ちるのを防ぎ続けてくれた。これほどの忠臣はいない。そうは思わぬか」

「おおせの通りでございます」

「ところが、朕の誤りを正そうとせず、唯々諾々と追従する者が大臣の中にはいる。それが、国のためになり、朕のためになるのか。そなたはどう思う」

「命を賭して諌めてこそ真の忠臣でございましょう」

「朕が誤りを重ね、不徳によって身を滅ぼすのを待つかのように、口をつぐんでいる者がいる。何も言わぬその裏で、朕に成り代わる企みを張り巡らせている輩もいる。そのような者がこの斉国にいていいはずがないと朕は思うのだが、そなたはどうか」

「斉国には陛下の御徳を慕わぬ者など一人もいないと存じております」

「まことにそうか」

「しかと思います」

「ならば、なぜ、江祏、江祀は殺害されたのか。二人がいては困るような者がいるのではないのか。その者は朕が頼みとする腕をもぎ、次に何をしようとしているのか。そなたは知っているか」

「いえ、一向に何のことか見当もつきません」

「誰もそなたを疑っているわけではない」

　蕭宝巻は身を翻し、百官の前から姿を消した。

　蕭遥光は中書省に下がった。

　湯を一口啜ると、しばし宙を睨み、俄かに号泣を始めた。それははなはだ奇怪なものであった。

　大声で泣き続けたあげく、急な病を発したとして、蕭遥光は皇城より下がった。

　蕭遥光の乗る輿は、病人を慎重に運ぶかのようにゆるゆると皇城を出た。大路をしばらく東に進むと急に速力を上げた。都城の門より外に出てからは全速力で蕭遥光の住まいがある東府城に走った。

　屋敷に着くなり蕭遥光は転げるように輿より降りた。

「まだ首が繋がっているか」

　出迎えた劉渢、劉晏に言った。

　二人は即座に状況を覚った。

「一刻も猶予はなりません」

　挙兵を勧めた。

「何の名義大分があるか」

「国を乱そうとする君側の奸、劉暄を除くを名としましょう」

「勝てるか。兵はどこにあるか」

「荊州と豫州の部曲を集めれば数百の数となりましょう」

　建康には首都防衛のために地方から出張して来ている兵士がいる。先に謀反を計画しながら病没した弟の蕭遥欣は荊州の刺史であり、また同じころに死んだもう一人の弟の蕭遥昌は豫州の刺史であった。それぞれの領地から来た兵士は、まだ新しい刺史が決まらないままに首都に留まっていた。

　劉渢、劉晏はすぐにその両者の部曲を呼び、東府城の門を固めた。東府城は首都を守るために都城の東南に築かれた支城である。この小さな城をもって皇帝といかに戦うかを劉渢と劉晏は考えた。

「蕭坦之殿を抑えませんと」

　母の喪で家に篭もっている蕭坦之をまず警戒した。蕭坦之の屋敷も東府城内にあった。武勇に優れる蕭坦之を仲間に引き入れないことには、東府城を抑えるのさえ難しい。

「蕭坦之をここに連れて来い」

　蕭遥光は命じた。

　このときはまだ蕭遥光は反乱を起こす決意を完全に固めてはいなかった。都城内には皇帝直属の台軍数万がいる。俄かな謀反を企てて勝てる見通しがあるとは思えなかった。しかし、何もせずにいていい状況ではない。

　劉渢、劉晏は驍騎将軍の垣歴生を呼び寄せ、蕭遥光に目通りさせた。垣歴生は勇猛で知られていた。

「ただちに攻めるべきです。城門を焼き、兵を都城に突入させ、殿下が輿にお乗りになって皇城へと進めば、人心の帰するところに、自ずと天下は向かいましょう」

　垣歴生は自信たっぷりに言った。

「兵が足りぬであろう」

　垣歴生は囚人を使えばよいと答えた。

　蕭遥光は決断を控えた。屋敷に戻ってからしばし時間が経つ間に、気持ちの落ち着きを取り戻していた。宮中より下がったばかりの当初は、今にも殺されるとの恐怖心があった。今そこまで慌てる必要があるのかと思い始めていた。下手に動かない方がいいということもありそうだった。

「夜を待とう」

　蕭遥光は天文候道を読む。反逆が吉と出るか凶と出るか、星を観て、天の定めるところに従おうというのであった。

　垣歴生は屋敷の内外を行き来し、劉渢、劉晏に対し、一刻も早い挙兵を決断させるよう再三迫った。蕭遥光は動かなかった。

　劉渢、劉晏は百人余りの兵士を派遣し、牢獄から囚人千余名を外に出して東府城に連れ込んだ。

　夜に入り、蕭遥光は戎服、すなわち戦のための服装を着した。垣歴生は一刻も早くと督促したが、天は厚い雲に覆われた。蕭遥光は屋内に坐したまま空が晴れるのを待った。

　垣歴生は火を焚き、いつでも攻撃に出られる態勢を整えて待った。

　時は刻々と過ぎた。

　ようやく雲に切れ間が生じたのは暁に近いころであった。

　蕭遥光は外に出た。その姿を見て、垣歴生は勇んだ。

　蕭遥光は天を仰いだ。

「進むは可ならず。宮中に自ずから変の兆しあり」

　蕭遥光はそう読んだ。

　垣歴生は歯噛みをした。

　日が昇ると、蕭遥光は徐孝嗣、沈文季の二人の大臣に使者を送った。この二人が宮中に変を起こすのを期待した。

　蕭坦之を捕らえに行った者が戻った。蕭坦之は屋敷の垣を越えて逃走し、東府城内を一晩中追ったものの、見失ったと報告した。

　劉渢、劉晏は慌てた。

「今ならまだ先手を打てます」

　垣歴生も挙兵を促した。

　蕭遥光は時を待った。

「徐孝嗣殿と沈文季殿が動けば、無駄に血を流さずとも勝てる」

　この朝、梅蟲児はいつものように技の修練をしていた。一人でいるこの時間を梅蟲児は最も好んだ。このときばかりは心が落ち着くからである。古老にかつて習った通りに導引、行気、練形の法を行い、天地の気と心身とを一つにし、それより技の修練に入れば、梅蟲児の心を乱すものは何もない。

　ところが、この朝は、技に集中できていなかった。大きな異変が始まっていた。劉暄の卑屈な顔が浮かんだ。死んだ江兄弟の顔が思い出された。兄弟の弁舌には何度も苦い思いをさせられた。江兄弟が死ぬべき運命にあったことを梅蟲児は知っていた。しかし、それが何故であるのかはわかっていなかった。蕭宝巻は復讐と言い、邪魔と言うが、江兄弟を消すべき理由がそれであるとは梅蟲児のよく理解するところではなかった。昨日は病となった蕭遥光が東府城に下がって行った。これからどうなるのか。蕭宝巻は何をしようとしているのか。梅蟲児には考えてもわかるはずのない問いであった。そんなことに心を向けまいと、技の修練に打ち込もうとしても、劉暄の顔がまた浮かんで来てしまう。

　梅蟲児は目を閉じ、右足の親指一本で立ち、早く気持ちを集中させ、世界を親指の先の一点だけにしようとした。しかし、内省で激しい言い合いをしていた江兄弟の顔や、巨体を揺すって歩む蕭遥光の顔が、梅蟲児の脳裏に去来した。

　宦官が駆け込んだ。

「蕭遥光様、御謀反でございます」

　梅蟲児は身体の均衡を失い、目を開いた。

「蕭坦之様が裸足で宮中に駆け込んで参られ、お上にこのことをお知らせいたしました」

　宦官はすぐに出て行こうとした。梅蟲児は呼び止めた。

「お上から何か御指示は？」

「いえ、お知らせするようにとのことだけでございました」

「そうか」

　昨日の様子からして蕭遥光の謀反はあり得ることだった。

　実際に謀反となったのなら、いずれ戦が始まるのだろう。それでどうなって行くのか。梅蟲児は先のことを知りたいと思ったが、自分で何かを予測して思い描くことはできなかった。遊び事としての戦の真似事はさんざんやったが、実際の戦とは全く別である。梅蟲児は剣でも槍でも使うが、それは人を喜ばせる芸のためで、人を殺すためではなかった。自分の剣が人を切り、自分の槍が人を突くなどは想像したくないことだった。

　酒宴の場においてしか梅蟲児の役割というものはなかった。それが自分から希望したことであり、梅蟲児にはそれしかできないのは明らかである。しかし、それが皇帝のためにできる唯一のことと定まってしまうのは必ずしも嬉しいことではなかった。強固な城壁に守られた皇城に敵が入って来るなど到底ありそうもない。もしそうなったとしても、梅蟲児には何もすることがない。皇帝からの命令はないだろう。それが当然なのだが、何かしら不本意な気もした。

　梅蟲児は鎧兜に身を固め、蕭宝巻の前に現れ出た。

「このたびの戦、私一人にお任せくださいませ。この穂先に謀反人の首を貫いて帰って来ましょうぞ」

　大音声を上げ、槍を持って踊り始めた。

　謀反人とそれを成敗する者の二役を一人で演じた。右に左に暴れ、槍を突き出し、槍を払い、右に追い、左に逃げ、追い詰め、追い詰められ、謀反人に向かって槍を「えいっ」と衝き出した。謀反人は避け、また衝き、また避け、しかし、ついに衝いて衝かれた。ぐいととどめを刺せば、穂先が喉笛に立った。首を貫かれ、梅蟲児は仰向けに倒れた。

　次の瞬間、後ろ向きにとんぼを切って立ち上がり、右手に持った槍をとんと床に突き、真っ直ぐに立てた。その先に梅蟲児の首があった。

「かく謀反人を仕留めて参りました」

　梅蟲児は槍先の首を差し出した。

　蕭宝巻は首を検分した。

「本物よりも強そうだ」

「はっ。いかがでございましょうか」

「みごとな働きであった」

「では、早速、東府城へと」

　梅蟲児が走り出す格好をすると、

「阿兄に戦を任せるくらいなら、朕には何の心配もない。休んでいていいぞ」

　と、蕭宝巻は言った。

「まことに、まことに」

　梅蟲児は笑いつつ蕭宝巻の前を下がった。

　蕭宝巻は隣に立つ茹法珍に言った。

「こうも早く事が進むとは、阿丈もいささか予想外だろう。ゆっくり長く楽しむつもりではなかったのか」

　茹法珍は落ち着いていた。

「蕭遥光の輿は東府城から外には決して出られますまい」

　自分の部屋に戻って鎧を脱ぐと、梅蟲児の心に急に心配の種が生まれた。一つ事を終えると次が出て来るものであるらしい。こんな悪ふざけをしている場合ではないのかも知れない。弟の猿児の顔が思い起こされた。

　戦のことはわかならい。東府城は都城に比べてずっと小さく、蕭遥光が抱える兵は台軍に遥かに及ばないだろう。だから、東府城から宮中にまで蕭遥光が攻め込んで来る心配はまずない。それでも、東府城と都城の間でかなりの戦闘となるかも知れない。そうなった場合に、どこでどんなことが起こるのか。弟のいる見世物小屋が戦火に巻き込まれたりはしないのか。大いに心配になって来た。

　こんなことになるとわかっていたら、弟を引き取って自分の近くに置いておくのだった。なぜそんなことを今まで考えもしなかったのかと、梅蟲児は悔やんだ。

　徐孝嗣と沈文季が宮中に呼ばれた。蕭遥光からの二人への使者は一歩の違いで遅れた。

　蕭遥光謀反の知らせに、皇城内の人心はいやでも揺れ動いていた。徐孝嗣は普段の服のまま、まことに落ち着いた態度で宮中の奥へと通り、皇帝にまみえた。悠揚迫らぬその姿に、皇城内は平静さを取り戻した。

　徐孝嗣は都に戒厳令を出した。

　徐孝嗣、沈文季、蕭坦之は揃って戎服を身につけ、蕭宝巻の命によって三分された台軍を率いて東府城へと向かった。

　徐孝嗣は沈文季を呼び止めた。

　徐孝嗣は大臣の筆頭である。その体躯といい、態度といい、その地位に相応しい実に立派なものであった。ただ、国家の重鎮としての遠謀と定見は持ち合わせていなかった。この日も徐孝嗣が至極落ち着いているように見えたのは、内に己の信念があるためではなく、常日頃からそのような態度を取ることに長けていただけのことだった。心の内では、蕭遥光の反乱にどう対処すべきかを知らず、皇帝や人々の意向を探り、自分が何をすべきかは、自ずと作られて来るであろう大きな流れに乗るようにするということのみを考えていた。それが徐孝嗣の常であった。

　徐孝嗣は沈文季に二言、三言声をかけた。遠まわしにその腹を探ろうとした。沈文季は内心を明かさず、逆に徐孝嗣の腹を探り返そうとした。二人は互いに相手の本心を知り得ぬままに別れ、東府城の包囲についた。

　東府城は三方より囲まれ、ここに及んで蕭遥光は意を決した。

　垣歴生は最も敵の少ない西門より打って出た。決死の覚悟を決めた垣歴生の攻撃を台軍の兵は支えられず、大きく退いた。この一戦もまだ太刀合わせ程度のもので、この日は小競り合いを繰り返し、蕭遥光側が優勢を保って日暮れを迎えた。

　夜、星がよく出た。蕭遥光は己の勝ちと見た。

「天子となる日はいつか」

　蕭遥光は占った。夜半まで天を睨んでも日限は定められなかった。

　翌日はさしたる戦はなく、睨み合いのうちに時が過ぎた。

　蕭遥光は決戦の命令を出さず、台軍は昨日に懲りて東府城を遠巻きにしたまま戦を仕掛けなかった。兵員は着々と増強され、頑丈な柵が作られ、囲みが厚くなった。垣歴生はそれを遠望し、勝機が遠のいていくのを知った。

　昼過ぎ、何者かが東府城の南門を開き、少なからぬ兵士が脱走した。

　さらに翌日、垣歴生は自ら先頭に立って打って出た。馬を走らせ、台軍の柵に立つ顔見知りの将軍を見つけると、にわかに武器を投げ捨てて降参した。

「皇帝になるというから手を貸したのに、あれほどの意気地なしとは思わなかった」

　将軍は垣歴生を捕らえた。垣歴生は将軍との父祖代々の縁を説き命乞いをしたが、将軍は耳を貸さず、切り捨てた。

　蕭遥光は垣歴生の裏切りを怒り、東府城内に残っていた垣歴生の息子を殺した。兵士の心は蕭遥光から離れた。

　夜に入り、東府城に火矢が注ぎ込まれた。東北の角楼が炎上した。

　蕭遥光は空高く上がる火を見上げた。

「ここに我が運命は窮するのか」

　星影は煙に隠れた。

　蕭遥光は戎服を脱ぎ、人々を遠ざけ、仏間に入った。

　燭を燈し、一人座し、雑念を退けて天命を聴こうとした。

　耳に入ったのは、外から屋敷を襲う兵士たちの鬨の声であった。蕭遥光は燭を吹き消し、真っ暗闇の中、巨体を床下に潜り込ませ、腹ばいになった。

　兵士が乱入し、天命を聞き取ろうとし続ける蕭遥光を引きずり出して首を刎ねた。

　　　　四

　劉暄、徐孝嗣、沈文季、蕭坦之は蕭遥光の乱を鎮めた功によって位階を進めた。

　蕭坦之は、己こそがその功第一であると誇った。蕭遥光の反乱を皇帝に真っ先に知らせたのは蕭坦之であり、東府城攻囲で最もよい働きをしたのは蕭坦之が指揮した一軍であった。そもそも江兄弟たちが謀反を計画し始めたときに頑として耳を貸さなかったのは蕭坦之ただ一人でもあった。朝廷の堅壁は我であると蕭坦之は自負した。

　蕭坦之は皇室の蕭氏と同族の出である。斉朝の初めから軍事面で多くの実績を重ね、明帝が皇位を奪った際にも力を尽くした。明帝の信頼厚く、政治のあらゆる面に睨みをきかせた。母親の喪を理由に屋敷に篭もったのは、皇帝への忠誠も一つの理由ではあったが、江兄弟はもとより、蕭遥光さえも己の下風に立つべきと見下し、その他愛もない企てに関わるのを嫌ったからであった。

　蕭坦之は侮りがたい実力者である。蕭坦之の帰趨如何によっては蕭遥光が皇帝になる可能性もあっただろう。だから蕭遥光は蕭坦之の身柄をいち早く確保しようとしたのである。蕭遥光の使いが来たとき、蕭坦之は裸で寝ていた。蕭坦之は陣中にあっても寸鉄を帯びずに寝るのが常であった。蕭坦之は何者かが来て、武人の直観で、屋敷に不穏な気配が持ち込まれたと知ると、褌を締め、即座に垣を越えて飛び出した。追って来る相手の目を一晩走ってくらまし、宮中に駆け込んで蕭遥光の謀反を知らせたのだった。

　蕭坦之は短気だった。怒るのは豪胆の証であって、己の感情を抑制するのは惰弱な者のなすところであるとみなし、徐孝嗣のようなもったいを付けた態度を毛嫌いした。蕭坦之は怒りを爆発させると、言葉が出ず、馬の嘶きのような奇態な声を口から発した。身を震わせて嘶くその姿を蕭瘂と人々は呼んだ。

　乱後、蕭坦之は喪を切り上げて宮中に乗り込み、そこらを自由に闊歩するようになった。皇太子時代から蕭宝巻を取り巻いている小人たちを忌み嫌い、宦官なぞは虫けら以下のものと見なし、随所で馬の嘶きをした。

「皇帝のそばから馬鹿者どもを一掃してやる」

　蕭坦之は怒鳴った。

　昨日まで肩で風を切っていた徐世標も兵屯所に篭り、蕭坦之の歩く先からは兵士も宦官も姿を消した。蕭坦之はまるで無人の野を行くように宮中を歩いた。

　蕭坦之は皇帝の夜宴にも乗り込んだ。

「馬鹿者ども」

　仙宮殿の中央に仁王立ちして発せられた大声に、踊っていた女たちは驚いて逃げた。梅蟲児はその怒号に肝を縮めた。

　茹法珍と徐世標が皇帝の脇から進み出ようとした。蕭坦之は両腕を広げ、二人を殴りつけようと構えた。

「大将軍殿に無礼をするな」

　蕭宝巻は茹法珍と徐世標を後ろに下がらせた。

　蕭坦之は轟然と胸をそびらかし四方を睥睨した。

「大将軍殿にわざわざお越しいただき、この酒宴も世に誇れるものとなります。まずは、杯を一つお取りください」

　蕭宝巻は手にしていた杯を前に差し出した。

　梅蟲児は腰をかがめ、皇帝の杯を蕭坦之に運んだ。

「ふん」

　蕭坦之は腕を回して梅蟲児を追っ払った。

　蕭坦之は皇后の視線に気付いた。皇后は、威勢のいい蕭坦之を見つめていた。蕭坦之は跪き、恭しく礼をした。

　続いて潘貴妃に顔を向けた。足をどんと踏み鳴らし、鼻から息を吐いた。

　潘貴妃は立ち上がった。腰をくねらせつつ歩み、梅蟲児の手にあった杯を取り、蕭坦之の顔の前に差し出た。

「いかがでございましょうか」

　潘貴妃は嫣然と微笑んだ。

　蕭坦之は例の馬の嘶きをした。

　潘貴妃は片目をつぶると、杯に唇を押し当て、蕭坦之の胸の内に投げ入れた。

　蕭坦之はすぐに杯をつまみ出して床に投げつけた。

　潘貴妃は首に巻かれた絹の布を取った。無数の宝玉が光をこぼし、肉付きのいい肩が露わになった。布を蕭坦之の顔の前でひらりと翻した。甘い香りが蕭坦之を包んだ。

　蕭坦之は目をむき、真っ赤な顔をしていよいよ激しく嘶いた。

　潘貴妃はしなやかに腕を回して蕭坦之の顔を布で覆った。

　身を翻して蕭宝巻の前へと戻り、手を取って小指を軽く口に含んだ。

「お待ちしております」

　潘貴妃は出て行った。蕭宝巻はその後ろ姿を見送った。

　蕭坦之はいまいましそうに布を取り払い、足で踏みにじった。

「これが帝王のざまか」

　いかにも腑抜けた顔で潘貴妃の歩み去った後を見続けている皇帝に向かって言った。

　蕭宝巻は穏やかに蕭坦之の方を顧みた。

「朕もそのように思う」

　こう言った蕭宝巻の心を梅蟲児は推し量れなかった。皇帝の本心はその言葉のままではあるまいと思えたが、蕭坦之に対してなぜそのように言うのかわからなかった。

　自分自身の心の内を知ることもできなかった。皇后に対する礼儀正しさに梅蟲児は好感を抱いた。今までに誰一人として蕭坦之のようにはっきりと皇后を重んじる態度を見せた者はいなかった。しかし、その一方で、蕭坦之に夜宴を台無しにされたのは不快だった。馬の嘶き一つで、皆が追い散らされてしまった。蕭坦之が自分を嫌っているのは明らかだ。蕭坦之がこのように威張り続けたなら、梅蟲児も茹法珍も居場所がなくなるだろう。宮廷がどうあるべきかを考えれば、本当は蕭坦之が正しいのだろうし、蕭坦之を男らしく思い、何も恐れずに怒鳴れるのを羨ましくも思うのだが、強く憎む心もあった。

　蕭坦之はまことに威勢がよかった。

　乱から二十日余り、蕭坦之を恐れぬ者は宮中には誰もいなくなり、夜宴は開かれず、皇帝は毎日定時に朝廷に姿を見せた。国政は正しい姿を取り戻しつつあった。蕭坦之はそれを徹底させるべく、皇帝の近くに巣食う小人どもを一掃しようと目論んだ。

　しかし、蕭坦之は緻密な計画を練ることを怠り、いたずらに豪胆さを誇るばかりであった。屋敷に戻ると例によって素裸で寝た。

　茹法珍は徐世標に手筈を任せた。徐世標は延明殿護衛兵の指揮官である黄文済を使った。これも例の私兵上がりの男である。黄文済はわずかな手勢を率いて蕭坦之の屋敷を囲んだ。

　蕭坦之は外の異様な気配に目を覚ました。剣を手にしようと起き上がった。すでに煙が充満していた。

　蕭坦之の武勇を恐れる黄文済は屋敷を遠巻きにして火を放った。蕭坦之は煙に巻かれ、抵抗もできずに焼き殺された。

　蕭坦之が死ぬと、梅蟲児はまずはほっとした。

　馬の嘶きに肝を縮めずにすむ。夜宴も再開されるだろう。短い期間であったが、馬の嘶きに怯え、することもなしに部屋に篭ってばかりいるのは不快な日々であった。それから解放されて、梅蟲児は伸び伸びした気分になったのだが、馬の嘶きが聞こえなくなってみると、取り返すことのできない何かを失ってしまったような気がした。

　宮中の雰囲気は一変した。静かになった。馬の嘶きがなくなったのもあるが、宦官や護衛兵が以前のように歩き人の姿が多くなったにもかかわらず、人々が固く口を結んで言葉を発しなくなったのである。それは奥殿ばかりでなく、百官の出入りする外殿ではより顕著であった。

　わずかな期間に四人の大臣が死んだ。それだけですでに十分に異常であった。これから次に何が起こるのかも容易に想像できた。明帝の遺詔に記された徐孝嗣、沈文季、江祏、江祀、劉暄、陳顕達、蕭遥光、蕭坦之の八人のうち四人が死んだのである。とすれば、残る四人のうち誰かが次の犠牲者となるのだろう。そればかりでなく、謝朓の死を見れば、八人の中に入っていないからといって安心はできない。

　自分だけは巻き込まれたくないと誰もが思った。明帝も殺戮を好んだとはいえ、その対象は親族にほぼ限られた。今後は誰に及ぶのかわからない。保身に走るしかない。まず、皇城内の兵権を握る茹法珍や徐世標に目を付けられないことだ。蕭坦之の死を見ればわかるように、どんな荒っぽいこともやりかねない。二人に睨まれぬように細心の注意を払うのだった。

　蕭宝巻は、茹法珍や徐世標、その他の側近を百官のいる内省に送り込み、大臣連中に対してさまざまな無理難題を言わせた。かつて皇帝に抵抗した江祏、江祀の兄弟は殺されたわけだから、あえて異を唱える者はなかった。蕭宝巻は大臣たちが怯えるのを楽しむかのように、いろいろなことを思い付いては内省に人を送った。理屈は無用だった。茹法珍や徐世標が腰の刀に指を触れながら「勅書を書け」と言えば、それがいかに非法であり、明らかに国のためにならないものであっても、意見を言う者は一人もなかった。即座に美文で飾られた文書が作成された。

　刀の威力によって勅令を書かせる茹法珍たちを人々は「刀勅」と呼んだ。刀勅は、潘貴妃のために神仙殿、永寿殿、玉寿殿の三殿の造営を手がけた。三殿の壁は金璧をもって飾り立てられるとされ、それだけの費えは斉国といえども国庫にある貯えだけでは賄えそうになかった。刀勅は、都にあるすべての仏寺、道観から所蔵する財宝を供出させる勅令を書かせた。荘厳寺の玉九の子鈴、外国寺の光相の仏面、禅霊寺の諸塔を飾る宝珥など、名高い珍宝貴宝が潘貴妃を飾るために奪われることになった。

　潘貴妃の父親である潘宝慶や刀勅に手蔓を持つ商人たちが都の財を独占した。どんなことも皇帝の勅書でまかり通った。金儲けに走る連中は買占めと投機を事とし、物価が急速に上昇した。潘貴妃の買う琥珀釧が一隻で百七十万金という途方もない値段となった。国庫の不足を補うために都下の酒に法外な税が課せられた。それがまた潘宝慶たちを潤した。民は刀勅や大商人を憎んだ。

　梅蟲児は猿児を宮中に呼んだ。

　蕭遥光の反乱の際に梅蟲児は弟の身を案じた。反乱はあっけなく鎮圧され、梅蟲児の心配は杞憂に終わったが、その後、宮中にいる梅蟲児にも、刀勅の評判の悪さが聞こえるようになった。梅蟲児自身は刀で大臣を脅したりはしないが、他の人々からは刀勅の一人と見なされた。皇帝の近くにいるのを笠に、縁者の便宜をはかっているのは確かだ。縁者は懐を潤して喜んでくれるが、利を得る者がいれば損をして恨みを持つ者がいる。今度また蕭遥光の反乱のようなことが起これば、その恨みがどのような形で噴出するか知れたものではない。弟の身が危険にさらされる恐れは十分にある。

　蕭宝巻から阿兄と呼ばれる身となったのは幸運とはいえないのかも知れないと、梅蟲児は思うようになっていた。かつて東宮に初めて入ったとき、ここに来たのを幸運と思うかと蕭宝巻に問われた。幸運以外の何物でもないとそのときは思った。その後の我が身に起こったことも、全ては幸運と言うべきことであった。しかし、昨日まで世をときめいていた大臣大将軍が今日は生きていない。梅蟲児が今こうして宮中にあって羽振り良くしていられるのはただただ蕭宝巻のおかげである。それも、世の中におよそ役にも立たない芸で皇帝を喜ばせているだけのことである。茹法珍のように政治向きのことで働くのは免除してもらってから、夜宴に出る以外の用は何もない。もしもその芸が飽きられ、無用の存在になって皇帝に見捨てられでもしたなら、どこにも行く場はないだろう。どれほどの恩義を施してやった縁者でも、皇帝に見捨てられた者などには洟もひっかけないだろう。ましてそうでない者はどうか。一度はひどく羽振りがよかっただけに、とりわけ世間の風は冷たく当たるに違いない。大臣大将軍よりもずっと惨めな最後を迎えるだろう。

　唯一の頼みの綱が自分の芸である。それに梅蟲児は必ずしも自信を持っていたわけではない。芸は誰にも引けをとらない。修練を怠ったことはない。しかし、夜宴が毎日何年も続けば、いくら芸達者でも底が尽きるというものである。皇帝は大人になって行き、いつまでも同じ子供騙しのような芸で喜ばせられるものではない。目新しさが必要だ。いろいろと工夫は重ねても、基本的には同じことの繰り返しから出るものではない。

　そうしたあれこれを考えたあげく、梅蟲児は弟を蕭宝巻に目通りさせた。

　猿児は十二歳になっていた。愛嬌のある実にかわいらしい少年であった。丸く大きな目がきらきらと輝いた。最初に会ったときの蕭宝巻に幾分か似ていた。そのせいもあったのか、軽やかに足を踏んで広間の中央に進み出た猿児を見て、蕭宝巻の顔がほころんだ。潘貴妃も身を乗り出して猿児を見つめた。

　初めて皇帝の前に出たというのに、猿児は少しも物怖じしなかった。兄よりも度胸がよかった。早速二人で芸を披露した。梅蟲児は弟を肩の上に立たせた。足首を持って「えいっ」と上に放り投げた。弟は空中で三回転し、梅蟲児の肩の上にぴたりと立った。

　弟の技はかつて小屋で一緒に芸をしていたときから格段に進んでいた。芸の勘も自分よりもよさそうだと、梅蟲児は思った。

　猿児は歌った。声変わりする前の澄んだ声がよく響いた。兄より上手だった。歌いながらのあどけない仕草が潘貴妃を大いに笑わせた。

　梅蟲児はほっとした。弟を呼んだのは大成功だった。

　この晩から、梅蟲児は猿児と一緒に芸を披露した。演目がずっと多くなった。同じことをしても、一人でやるのと二人でやるのとでは、面白さが格段に違う。壺を回すだけの単純な技でも、弟と交互にやったり、一緒にやったりと、それだけで結構盛り上げることができた。

　猿児は素直だった。兄の言うことをよく聞き、誰からも愛された。茹法珍は猿児を肩に載せて宮中を歩き、潘貴妃は自分の部屋に猿児を呼び入れた。皇帝以外の男子で潘貴妃の部屋に入れたのは猿児だけだ。猿児は宮中での生活をすっかり気に入った。

　梅蟲児は弟といると気持ちが和んだ。一番いいのは、弟と芸の鍛錬をしているときだった。自分の身に付けた芸を弟に伝え、自分は新しい技に挑んだ。うまくいかないと、弟がどこが悪かったかを教えてくれた。自分で自分の身体の動きは見えないから、弟の忠告は大いに役立った。

　　　　五

　こうして久しぶりに安心できるような日々を送れるようになり、梅蟲児の気がいくらか緩んだ。そのためだったのだろうか、ある日、うっかりしたことを口にしてしまった。

「叔父上にあたる方でございましょう」

　言った瞬間に、余計なことだったと梅蟲児は慌てて口をつぐんだ。こうしたことには口を挟まないはずであったのにどうしたことかと、後悔した。

「叔父だから裏切らぬということがあろうか」

　茹法珍は普通に言ったのだろうが、声を荒ららげたように梅蟲児には感じられた。

　次は劉暄の番だと徐世標が言ったのだった。役立つことが何もないから消してしまえと。

　乱暴な話だ。役に立たないのは梅蟲児も似たようなものだ。

　梅蟲児は劉暄の顔を思い起こした。劉暄は己の命を守るために密告を繰り返した。愚かで卑劣な男だ。だから同情する理由は何もない。しかし、劉暄の顔を思うと、どうしてか哀れに思われてしまう。

　多くの人が死ぬのは喜ばしいことではない。役に立たぬからといって消してしまわなくてもいいだろう。まして、劉暄は蕭宝巻の叔父である。それがふっと口をついて言葉として出てしまった。

　梅蟲児は茹法珍の言葉に、自分はもう決してこのようなことは何も言うまいと改めて思い、頭を深く垂れた。蕭宝巻は茹法珍を頼りとし、茹法珍は徐世標を頼りとしている。自分が出る幕はない。

　目を閉じていた蕭宝巻がつぶやくように言った。

「気の弱い男だ。常に震え上がってばかりいる」

　梅蟲児はその通りだと思った。わざわざ殺さなくてはならないような男ではない。そう言いたかったが、黙った。

　徐世標が薄笑いを浮かべた。その顔を梅蟲児は嫌った。徐世標とは長く一緒にいるのだが、徐世標とはまともに話をしたことがない。徐世標は梅蟲児の芸をいつも馬鹿にし切ったような目で見ていた。

　梅蟲児は、ここにいる四人の中で、自分一人が場違いであると思った。弟が来て少しの間だけ忘れられていた思いが戻って来た。およそ役に立たない芸しかすることのない自分はいずれは皇帝に見捨てられるのだと。

　徐世標が言った。

「明帝は武帝とは従兄弟の間柄にありましたが、明帝は武帝の子孫を根絶やしにしました。血のつながりなどは何ら安心できるものではないとよくよく知っていたからです。まして姓を異にする叔父、甥の間、それをいかに頼りがいのあるものと思われるのでありましょうか」

　蕭宝巻はふっと軽く笑うような息をし、目を開いた。

「朕は叔父上を大切に思っている。朕の心を知らず、いたずらに右往左往する姿はまことに哀れでならない。人を死に陥れ、次は自分の番ではないか怯え、別の者を死に陥れる。常に怯えている有様は気の毒の限りである。夜は眠れず、たまに眠れてもうなされて飛び起きると聞く。甥として惻隠の情に耐えない。その苦しみ断つのが甥としての努めであろう。何かよい方策があるか」

「もちろんございます」

　徐世標は胸を叩いた。

　その夜、悪い予感のあった梅蟲児は、猿児に、呼ぶまでは部屋に留まっているようにと言い置いて酒宴の場に臨んだ。

「叔父上殿がお見えになりました」

　徐世標が広間の入り口に立った。

「よろしい」

　蕭宝巻の前に劉暄は現れた。徐世標の掲げる剣の先に刺さった生首となってである。

「まあ」

　潘貴妃は蕭宝巻にすがりついた。

　皇后は目を閉じた。

　それだけであった。

　酒宴はそのまま続けられ、劉暄も最後まで見物を続けた。

　梅蟲児は弟にはこの光景を見せたくないと思った。

　自分が呼び寄せた宮中でこのようなことを起こっていると、弟に知られたくなかった。弟は宮中を楽しいところだと感じている。そのままでいてほしい。兄が宮中に呼んだのは、そこがすばらしい場所だからなのだと、ずっと思い続けていてほしい。しかし、現実には違うのだった。

　弟をここに呼んだのは正しい選択ではなかったのかも知れない。宮中というのは誰もが想像できないことがごく容易に起こるところなのだった。先帝の時代にはそうであった。しかし、蕭宝巻が皇帝になってからは以前と同じはずはないと、梅蟲児はどこかで思っていた。蕭宝巻に限って先帝のような理不尽なことはしないと今も思いたいのだが、剣の先にある劉暄の首を見れば、むしろ今の方がいっそう何が起こるのかわからないところになっているようであった。

　そうしたことが全くわかっていなかったわけではない。弟を宮中に呼んだ方がいいと考えたこと自体が、皇帝や刀勅が都の人々から恐れ嫌われていることを慮ってのことだった。だから、弟の安全のためには、確かな選択であったと今も思うのだが、こんなことの起こってしまう場所に弟をいさせてよいのかどうか、兄としては大いに悩ましいところである。

　梅蟲児は自分のしたことを早くも悔やみ始めた。

　ごく荒っぽいやり方で、蕭坦之に続いて劉暄が殺されたのを見れば、徐孝嗣と沈文季は当然のこととして次は自分の番であると思わざるを得ない。

　徐孝嗣は、蕭遥光の反乱に加担しなかったのを今さら悔いるよりも、諦める気持ちが大きくなっていたようだ。

　徐孝嗣と親しい許準が、機先を制する以外に手はないと徐孝嗣に説いた。元来、諍いを好まぬ徐孝嗣の性格は変えようがなかった。

　徐孝嗣は非常に温厚な人物で、人となりの良さで出世した。上に立つ者の意を汲み取るのに長け、先回りして事を為し、お歴々たちに重宝された。下の者に対しては偉ぶった態度を決してとらなかった。若くして、上からも下からも、将来は必ず宰相になる人物と嘱望された。地位が昇るにつれて、人との対立を回避する術を覚え、争い事が避けられない場合には巧みにその渦中に入らぬようにし、機を見て勝者の側に回り、より一段上へと出世を遂げた。明帝の心を掴んで大臣の筆頭の位置に昇った。歳とともに身につけた悠揚迫らぬ風儀は国家の重鎮にふさわしいものと見られ、些事に異論を挟まぬ姿勢はその言に重みを添えた。朝廷での協議は徐孝嗣がいれば、常に穏便に丸くおさめられた。そのようなことが度量の大きい士の振る舞い方であると、本人はもとより周囲も思っていた。

　許準は今はそのような態度でいるべきときではないと言ったが、徐孝嗣は自ら動こうとしなかった。やむをえず許準は賭けに出た。蕭宝巻が皇城の外に出た隙をとらえ、城門を鎖し、城内に残っていた百官を太極殿前に集め、徐孝嗣をその場に押し出した。

「この機を逃してはなりません」

　許準は徐孝嗣に決断を促した。

　許準の言葉に徐孝嗣はうなずいたものの、人々を前にすると、自ら何かを言う先に人々の思惑をまず読み取ろうとした。皆の顔を順に見た。それが徐孝嗣の常であった。徐孝嗣は誰かが口を開くのを待ち、衆の意の趣くところに自分を合わせようと構えた。

　人々は徐孝嗣の一言こそを待った。国家の大事について、徐孝嗣をさしおいて言い出せる者はなかった。無言のうちに時が過ぎた。

　許準は苛立った。

「皇帝が帰還して城門に迫っております」

　徐孝嗣はおもむろに口を開くと、何を思ったのか、

「門を開けろ」

　と、言った。人々は大きく嘆息し、うなだれて散って行った。

　皇帝は皇城に戻った。

　皇帝からいかなる命令が下るかと人々は戦々恐々となったが、その日は穏やかに暮れ、その後も何の音沙汰もなかった。皇帝は、人々が慄く様をただ楽しんでいるかのようだった。

　もう一人の重鎮である沈文季は、蕭坦之の死後、老疾に託して屋敷に篭り、朝廷に顔を出さなくなっていた。

　沈文季は六十になる老将である。武勲は数知れない。宋朝から斉朝への交替に際しても、明帝の皇位奪取に際しても、著しい軍功があった。誰が勝ちを取るかを見極めるに敏で、蕭遥光の反乱に際しても、蕭宝巻が勝者になると沈文季は見て取ったから、宮中にいち早く参内した。そのときの状況判断としては正しかったが、後から見れば大きな失敗であった。己の生きる道が万に一つでもあるとすれば、蕭遥光に加担するしかなかったと覚った。しかし、今となっては手遅れで、これからどうにかなるものではなかった。

　沈文季は都から離れた遠隔地に隠棲するのを夢想した。この時代の政争に疲れた者は誰もがそれを思うようだった。実行できた例はほとんどない。政争は勝つか、さもなければ死の床に安らぎを得るか、二つに一つしかないのだった。

「憎しみだけで生きているのではないか」

　訪ねて来た甥の沈昭略に向かって、蕭宝巻をこう評した。

　沈文季がこれまで仕えた皇帝と蕭宝巻ははなはだ異質だった。明帝は高帝、武帝の子孫を多く殺戮したにしても、より近親の者や側近たちには親愛の情をもって接していた。蕭宝巻にはそうしたものが一切ないようだった。

「であれば、どこに逃れられる場所などありましょうか」

　沈昭略は叔父に決断を迫った。

　沈昭略は先の蕭遥光の乱に際しては、反徒の側に身を置いていた。沈昭略は、叔父も蕭遥光側に立つに違いないと考えていた。しかし、叔父は官軍の指揮を執り、沈昭略はやむを得ず反乱軍側から脱出した。沈文季は甥の不行跡を隠した。

「この老いぼれには弓を引く力がない」

　沈文季は甥にどのように言われてもただ笑うばかりだった。気力がすでに萎えていたのか、時すでに遅しと諦めていたのだろうか。

　十月。冬の始まりとなった。

　蕭宝巻は、徐孝嗣、沈文季、沈昭略の三人を華林省に呼んだ。衣服を賜るということであった。

　沈文季は車に乗り込む際に家人に言った。

「あの枝に開く花は見られまい」

　庭の梅をいま一度顧みると、車を進ませた。

　蕭宝巻は上機嫌で三人を迎えた。これまでの功績を讃え、これからもよく励むようにと言った。

「朕が帝位に昇り、今こうしていられるのは、そなたたちのおかげである。大臣の多くは己の身を保つことのみを考え、蔭でさまざまな陰謀を企てた。そなたたちばかりは違う。その礼を今日はいたそうと思う」

　蕭宝巻は笑顔でその場をはずし、代わって茹法珍が徐世標を連れて入った。

「どうぞお召し替えを」

　徐世標が差し出しのは喪服であった。

「それを着て死ねというのか」

　沈昭略は怒り出した。茹法珍は静かに答えた。

「どうぞ」

　沈昭略は衣を鷲づかみにして放り投げた。

「お上からの賜りものでございますぞ」

　徐世標の太い声が響いた。

　徐孝嗣と沈文季は衣を受け取り、座の後ろに置いた。

「家人が今夜にも召すでありましょう」

　徐孝嗣は細く笑った。

「では、お杯を」

　茹法珍が言い、徐世標が杯を差し出した。沈昭略は徐世標に唾を吐きかけた。徐世標は無表情のまま顔を拭った。

　沈昭略は大声を発した。

「昏を廃し、明を立てるは、古今の変わらぬ令典である。宰相が無才であるから、今日のこととなったのではないか」

　沈昭略は徐孝嗣を睨みつけた。

　徐孝嗣は穏やかな表情で遠くを見ていた。

「その愚昧な面を破ってやる」

　沈昭略は杯を徐孝嗣の顔に叩き付けた。額から血が流れた。

　徐孝嗣は血を拭おうともせず、徐世標に向かって腕を伸ばした。

「これへ」

　徐世標は床にころがった杯を徐孝嗣の手に載せ、薬酒を注いだ。

　徐孝嗣は顔色を一切変えることなく呑み干した。

「そなたも」

　徐孝嗣は沈文季に杯をまわした。

　沈文季は微笑み、受け取った。徐世標はなみなみと注いだ。

　沈文季も一気に呑み干した。

「相変わらずお強いことですな」

　徐孝嗣は笑った。

　沈文季の酒豪ぶりは有名だった。常に五斗を呑んだ。妻は三斗、娘も三斗を呑んだ。三人は終日酒から離れることがなかったという。

　徐孝嗣と沈文季はかわるがわる徐世標に薬酒を注がせ、一斗を呑むに及んで死んだ。苦悶の表情はなかった。

　沈昭略は雄叫びを上げた。

　徐世標は冷ややかに笑い、二つの死骸の間にころがる杯を取り上げて、沈昭略に突きつけた。

「お前なんぞの世話にはならん」

　沈昭略は柱に己の頭を叩きつけて死んだ。

　　　　六

「一人だけ残っていては、さぞ苦しみも大きなものがあろう。そろそろ安心させてやってもいいのではないか」

　蕭宝巻がこのように言うと、茹法珍がすぐに応じた。

「まことに」

「今度はどういう手か」

「よくよく考えてございます」

　徐世標が言った。

　三人にはそれで話が通じていた。傍らに控える梅蟲児には、こうしたことがしばしばであり、それはそれで仕方がないことだった。この異様な宮廷からそのうち自分は捨てられてしまうのだろうかとの思いもまた抱いた。大臣でさえやすやすと殺されるのである。自分なぞがどうなっても当然である。

　しかし、自分は別であるとも、梅蟲児は思っていた。蕭宝巻がまだ小さかったころからずっと一緒に過ごして来た。それは、茹法珍よりも少しばかり長く、徐世標などとは比べようがない。

　梅蟲児は、蕭宝巻の本来持っていたきらきら輝く目を思った。

「阿兄。何だかぼんやりしているぞ」

　蕭宝巻の声に梅蟲児はぴょんと跳ねた。

「いえいえ、私めはかように元気であります」

　梅蟲児は三度ばかり宙返りをした。

　蕭宝巻は軽く微笑んだ。それだけで梅蟲児の心は晴れた。

　しかし、その脇で、徐世標が胸を轟然とそらせ、例によって人を見下した態度をとっていた。

　梅蟲児の気はすぐに萎え、足が少しばかりふらついた。

「阿兄には心配事でもあるのではないか」

　蕭宝巻の声は存外に優しかった。

　梅蟲児は真っ直ぐに爪先で立った。

「いえいえ、私もよくよく考えておったのでございます」

　梅蟲児はすこしばかり徐世標の口調を真似てみせた。

　徐世標が眉根が動いた。

「ほう」

　蕭宝巻が言うと、梅蟲児は腕組みをして考えるふりをしながら、くるりと回った。

　徐世標は顎をしゃくりあげて、鼻先をふんと鳴らした。

「さよう、さよう、この私めも今度使う手を考えておったのでございます」

　梅蟲児は顎の下に拳を置き、首をかしげ、三回ほど足を大きく踏み鳴らした。

　徐世標がせせら笑うように言った。

「何をだ」

　梅蟲児は目をくりくりと回して、茹法珍を見た。

「むろん、皆様方と同じことをでございます」

「阿兄も、陳顕達を始末する方法を考えてくれたのだろう。披露してくれないか」

　梅蟲児は大きくうなずいた。茹法珍が助け舟をうまく出してくれた。

「さよう、さよう」

　梅蟲児はしたり顔で身を大きくくねらせた。

　明帝の遺詔にその名を挙げられていた徐孝嗣、沈文季、江祏、江祀、劉暄、蕭遥光、蕭坦之、陳顕達の八人のうち、このときもなおも生きていたのは陳顕達ただ一人だった。確かに、一人だけ残ってはと言ったのは陳顕達のことだと、梅蟲児もすぐに了解した。

　梅蟲児は両腕を広げ、両腕を組み、また広げた。

「もちろん、もちろん。いい手がございます」

　梅蟲児は、爪先立ちでくるくるとその場で回転した。

　こうして時間を稼ぎながら、何かしら気の利いた言葉を見付けようとした。すぐに思い付くものはなかった。そもそもこうした事柄は梅蟲児の思考の範囲内にあるものではなかった。焦れば焦るほど、知恵は出ない。脂汗がにじんだ。

　その顔を見て蕭宝巻が手を打った。

「阿兄、うまいぞ。そのしかめっ面、陳顕達にそっくりだ」

　茹法珍も口を添えた。

「ああやってくるくる回って苦しみ、ついには思い窮まって、自ら網に飛び込んで来るでありましょう」

　梅蟲児は苦悶の表情を作り、

「きゃっ」

　突然に叫び、大きく跳ね、空中で一回転し、床に腹ばいになって落ちた。

　蕭宝巻は大笑した。

　陳顕達はまさにそのようにして死んだ。

　陳顕達は都から離れた江州にあった。大臣たちが次々に殺されて行くのを聞き、心を苛まれていた。

　自分に番が回るのを今かと待っているようなものだった。梅蟲児が演じた通りの脂汗のにじむ苦悶の日々を送っていた。

　苦しんだ末に、大将軍としての誇りが最後に残った。己の本領は戦の場にこそあり、そこにしかなかった。

　皇帝は一度も戦の場に立ったことがない。そんな若造に遠くから苦しめられている自分が情けなかった。戦となれば負けるものではない。坐して誅せられるわけにはいかない。都にいる息子たちが足枷となっていた。王敬則は同じ立場にあって、逡巡したあげくに反旗を翻して失敗した。自分も同じ轍を踏むのかと、ぎりぎりまで自重したが、徐孝嗣までもが殺されるに及んでは猶予はないと、息子を捨てる覚悟を決めた。

　ここに茹法珍の誤算があった。茹法珍は息子たちを使って陳顕達を都に呼び出し、宮中にて殺害する計画を立てていた。

　十一月、陳顕達は、暗愚な皇帝を廃し弟の蕭宝寅を立てることを名目として挙兵した。手持ちの兵を率い、都を目指して長江を下った。速戦こそが勝利を導くと、陳顕達は一気に都を衝くことにした。

　茹法珍はいささか慌て気味に官軍を采石山に送った。魏国に敗れた老いぼれ将軍に何ができるかと内心では高をくくっていた。

　連夜の酒宴は少しも変わらずに行われた。

　ある日、酒宴が始まるとすぐに、ころげるようにして宦官が駆け込んだ。

　猿児と皿の投げ合いをしていた梅蟲児は手を止めた。

「新林に陳顕達が陣を敷きました」

　宦官が大声で告げると、茹法珍はわずかによろめいた。

「采石山はどうなったのだ」

　茹法珍は問いただした。

「大敗を喫し、新林も敵の手に落ちたのでございます」

「まさか、そんなことが」

　新林といえば、都建康の目と鼻の先である。茹法珍は青ざめ、広間を飛び出した。

「少しばかり面白いことになりそうだな」

　蕭宝巻は潘貴妃にささやいた。

「阿兄、続けてくれ」

　梅蟲児は弟に向けて皿を投げた。

　徐世標は腕を組んで立ち続け、奇妙な笑みを漏らしていた。その顔に梅蟲児は不快になった。

　茹法珍は、新林と都の間にある新亭に官軍を集結させるよう命令を出した。

　陳顕達は新林の近くに無数の篝火を連日焚いた。

　茹法珍は、官軍が揃い次第、新林を包囲し、陳顕達を撃つ心積もりであった。

　陳顕達は新林に篝火を焚き続けながら、秘かに兵士を長江沿いに動かし、新亭の脇をすり抜けて、都と長江に間に聳える落星岡に突如としてその姿を現した。

　陳顕達は丘より都の方向を見下ろした。要害の地を占め、陳顕達には五千の強力な兵士がいた。

「勝てる」

　陳顕達は確信した。

　蕭宝巻、茹法珍、梅蟲児、徐世標は皇城の西の楼閣に登った。陳顕達の旗が落星岡高くに翻っていた。茹法珍はうなり、梅蟲児は身震いした。

　茹法珍はすぐに楼閣を下り、新亭の官軍を急ぎ落星岡へと移動させる指令を出しに走った。

　茹法珍の背を見送りながら、蕭宝巻は言った。

「阿丈に簡単に負けるようでは、斉国大将軍の名が泣くというものだ」

「では都は？」

　梅蟲児はいかにも心細げな声を出した。

　蕭宝巻は笑った。

「阿兄は臆病だな」

「いえ、そんなことはありません」

「落星岡から大軍が下って来ては、都はひと呑みにされてしまうと、阿兄は思っているのだろう」

「とんでもありません」

「大将軍の力が十分に発揮されればそうなるのが当然だ。そのくらいの力がないようでは大将軍にはなれぬ」

「まさか」

「それでいいではないか。阿兄の心配することではない」

　蕭宝巻が平然と言った。

　陳顕達が都に乗り込んで来たらどうなるのか。皇帝は廃位となって弑せられ、側近は誅殺されるのか。たぶんそうだろう。

「皇帝などは一年もやれば十分だ」

　蕭宝巻は静かにつぶやいた。

　これで終わりになるのか。突然降って沸いた事態に、梅蟲児はとまどった。こうも簡単に皇帝が負けて世の中がひっくり返ってしまうものなのか。去年、王敬則も都を攻めようとしてあっけなく敗北した。陳顕達も同じようになるのではないか。

　しかし、蕭宝巻は諦めてしまっているように見えた。蕭宝巻がこれで終わりと言うのなら終わりになるのだろう。自分は皇帝の最も近くにいるのだから、皇帝が死ぬのなら一緒に死ぬのが当たり前だと思うのが普通だろう。それでいいのだと思うこともできる。いや、心からそう思わなければいけないのだと、梅蟲児は自分に言い聞かせた。

　皇帝に見捨てられてしまうよりは、こうして一緒に死ねる方がいいだろう。だから、これは幸いだと考えるべきかも知れなかった。

　梅蟲児は一瞬のうちにそんなことを考えて、猿児の顔を思い浮かべた。自分はこれでよくても、猿児は別だと思った。自分が宮中に呼んでしまった猿児を一緒に死なせたくはない。

　そう思っている自分に気付き、梅蟲児は即座にその思いを打ち払おうとした。蕭宝巻の目の前でそんなことを考えていてはいけない。

　徐世標が半歩進み出た。

「心配は御無用でございます」

　蕭宝巻の背に向かって言った。

「朕はもとより何の心配もしていない」

「私が参りましょう」

「ほう。そなたがか」

　蕭宝巻は振り返らずに言った。

　徐世標は剣をがちゃがちゃと鳴らした。

「崔慧景を使いましょう」

　蕭宝巻は遠くを見たままだった。

「それも悪くはないだろう。陳顕達は己の武を誇り過ぎる。それは志気を振るい立たせて勝利を導くこともあるだろうが、崔慧景が何かをするまでもなく終わることもあるだろう。そなたの好きにするがいい」

　崔慧景はこの春に魏と戦った平北将軍である。陳顕達が無様に敗れて遠征は失敗したが、崔慧景は敵地によく入り込んで戦果を挙げていた。

　徐世標は走った。

　どうなるのか、梅蟲児には予想もできなかったが、蕭宝巻の言葉からして、完全に敗北が決まったわけではないらしいということはわかった。とりあえず、皇帝の前で、あれこれ悪いことを考えるのはよそうと、梅蟲児は思った。

　崔慧景は徐世標より皇帝の命を受け、都に残る兵士を連れて出た。

　新亭から急いで移動を開始した官軍が落星岡の西南に姿を見せつつあった。

　陳顕達は岡の上から官軍の動きを眺め、勇み立った。

「戦の仕方を教えてやろう」

　矛を振るって陳顕達は岡を西南に下り、移動中の官軍の列へと突入した。官軍は歩兵、騎兵が雑然と入り組んだ状態にあったために、敵の攻撃に即応できなかった。

　陳顕達は自ら五人の敵将を倒し、大勝をおさめた。いったん岡に引き上げ、兵士に食を与えた。

　崔慧景が丘の東側に整然と陣営を整え始めた。

　陳顕達はそれを見て取ると、

「あれが動く前に決着を着けねば」

　と、次の攻撃を急いだ。

　第二戦に挑んだ。怒涛の勢いだった。官軍はたじたじとなった。

　陳顕達は攻めを急いだ。

「進め」

　陳顕達の号令で反軍は突進した。

　不運が襲った。陳顕達の矛が不意に折れた。

　陳顕達は手元に折れ残った矛を投げ捨て、新たな武器を取りに岡へと戻ろうとした。後ろ向きになった馬に、雑兵の投げた槍が命中した。馬が棒立ちになった。陳顕達の身体が宙を舞った。腹ばいに落下した。雑兵が取り囲み、首を斬った。

　崔慧景の軍が前進し、陳顕達の軍は瓦解した。

　陳顕達は七十二歳だった。その矛を折ったのは天のいかなる配剤だったのか。もしも、陳顕達が自重し、後陣に控えて指揮を執っていたならば、これほど簡単に勝負が付くことはなかったのかも知れない。

　明帝の遺詔にあった八人の全てがここに死に、十七歳の皇帝の幸運はこれからなおも続いた。

第四回　皇弟伏誅

　　　　一

　陳顕達が死ぬと梅蟲児は新しい出し物の準備に取り掛かった。

　陳顕達の反乱では死を覚悟した。それから解放されたのは大きな喜びであった。陳顕達誅滅の祝賀の宴において、その喜びを思い切り表現したかった。反乱を鎮めるのに、梅蟲児は何ら役に立たなかった。済んだ後ではあっても少しは自分の存在を蕭宝巻に見せておきたい。考えられる限り大掛かりなものをと全力で取り組んだ。

　まことにそれは大掛かりなもので、仙宮殿の改造までも伴った。扉が大きく広げられ、邪魔になる何本かの柱が取り除かれた。猿児は目を丸くした。たった一晩の座興のためにそこまでやるのだった。

　十日余りの間に、梅蟲児は広間の大改造から大小様々な道具作り、人々との入念な練習と、準備に明け暮れた。成功させなければ、自分はもう宮中にはいられないくらいの気持ちになっていた。

　茹法珍は気落ちしていた。官軍の指揮を誤り、陳顕達に危うく都へ攻め入られるところだった。逆に、都を救うのに大きく貢献した徐世標は意気揚々と宮中をのし歩いていた。

　陳顕達の乱の後始末がひと通り終わり、年末の夜に神亀抃舞の演目が披露された。

　先頭を切って、錦の綱を曳く女の列が入場した。長い綱が曳き入れられ、その先に、長さ一丈、高さ三尺ほどの亀が繋がれた。亀はごろごろと音を立てて入った。東の海に棲む神亀である。神亀は全身が紫、甲羅は銀の筋で縁取りされ、背に紅の絨毯が被せられた。上が小さな舞台となり、金繍、銀繍の飾りを纏った女が音楽に合わせて舞った。神亀は九匹続いた。最後の九匹目はひときわ大きく、数十人の女が三組に分かれて太い錦の綱を曳いた。神亀の上に立つのは猿児だった。猿児は飛び跳ねつつ、細く長く織った布を四方に投げた。神亀が進むに連れて、床は七色に染め上げられた。

　大きく銅鑼が鳴り響くと、拡幅された扉が全開になった。眩い光が広間に差し込み、その中から、巨大な山が出現した。九丈の天井を擦るほどに高く、多数の神亀によって支えられた。遥か東方の海上に浮かぶ鰲山である。鰲山がどのようにして動いているのか、見ただけではわからなかった。鰲山の上に象、豹、麒麟などの珍奇な動物が載り、玄妙な踊りを見せた。山の頂には滝が掛かり、その脇に鰲山に棲む仙女、娥皇が静かに佇んでいた。

　鰲山は広間の中央に据えられた。先に入っていた神亀はその周りへと集まり、猿児は掛け声もろとも亀の背より空中を高々と飛び、山頂の娥皇の前に降り立った。それを合図に、仙界の音楽が演奏され、娥皇がいとも美しい声で歌った。

　歌がなお終わらぬうちに、突然、広間が暗くなった。銅鑼の音が激しく轟き、風が音を立てて吹き過ぎ、電光が走った。娥皇が空を見上げて歌を止めると、大音響とともに床が左右に割れた。暗く深い淵が覗き、中より大魚が跳び出した。青い鱗を輝かせ、金色の眼が妖しい光を放ち、身をくねらせて激しく暴れた。娥皇がよろめくと、猿児がその身をかばい、すらりと剣を抜いて山より飛んだ。みごと大魚の頭に降りると、えいっと、剣を突き立てた。

　大魚の体がたちまち二つに割れた。内より光が差し、金銀の鱗に身を包む竜が出現した。竜は身をよじらせて空へと昇った。天井すれすれを飛翔し、広間の上を一周巡ると、するすると降りた。その頭の上に、長い白髭を生やした竜神が立っていた。梅蟲児であった。

　梅蟲児は手に持つ杖を振った。竜の目より光が放たれ、鰲山が左右に激しく揺れ、神亀たちは苦しみもがいた。

　竜は再び上に昇り、梅蟲児の笑い声が高く響き渡った。

　鰲山は音を立てて崩れ始めた。

　娥皇は足を踏ん張り、剣を振り上げた。幾条もの電光が走った。竜は急降下し、娥皇に挑みかかった。娥皇の剣から紫の光が放たれ、竜は赤い炎を吐いた。鰲山は激しく壊れて行った。

「やっ」

　娥皇が剣を投げた。剣は梅蟲児の胸を見事に貫いた。四方に赤い血が飛び散った。光が消え、広間は闇に包まれた。一瞬の後に明るくなると、竜の姿も鰲山も消え、ただ一人、娥皇だけが立って、朗らかな歌い声を響かせた。

　娥皇を演じるのは潘貴妃であった。

　茹法珍は片隅で梅蟲児の活躍を見守っていた。徐世標はその間中、相変わらず冷笑を浮かべ続けていた。

　永元二（五〇〇）年元旦。

　蕭宝巻は、いつものように夕方に始めた酒宴を続けたままこの日の朝を迎えた。

　徐孝嗣、沈文季の二人が死んだころから蕭宝巻は朝廷にはほとんど顔を出さなくなっていた。目を覚ますのはだいたい昼ごろだった。起きると、政務には見向きもしない代わりに、武術の鍛錬に励んだ。晴れの日も雨の日も中庭に出て武芸十八般の全てを行った。茹法珍や屈強の兵士が相手をした。剣を振ってたっぷりと汗をかくと、昨夜の酒が身体の外に出た。次に槍を持った。人の形をした的に向かって突いた。次が弓である。これも人の形をした的に向かって射る。それから馬に乗る。奥殿には広い馬場が設けられている。馬上からの矢を射て的に当て、また馬上で重い槊を振るった。馬が終わると、大きな鉞を何度も何度も持ち上げる。裸になって相撲をとる。蕭宝巻の鍛え抜かれたみごとな身体が顕わになる。弩、盾、斧、戟、鞭、叉、何でも扱った。最後に旌を高々と挙げてぐるぐるとまわすと、一連の鍛錬が終わった。湯を使って汗を落とし、ゆっくりと食事をとり、たいていは午睡をする。起きれば日は傾いていて、夜の遊びが間もなく始まる。だから、蕭宝巻の日常は忙しく、稀に気が向いて朝廷に姿を見せて群臣を恐れさせる他は、政務は刀勅に任せた。

　重臣連中が皆殺しになり、国政の決定に自ら関わろうとする意欲を持つ者は一人もいなかった。重要な案件があっても刀勅の気に入るものでなければ放置され、大臣が作成した書類は皇帝の裁可を待つ間にどこかに消えた。宴席の食べ残しの魚肉を宦官が惜しんで家に持ち帰る際に、そうした重要文書が包み紙として利用された。

「お出ましの時刻を過ぎておりますが」

　宦官が梅蟲児に耳打ちした。

　元旦には、朝見の儀の中でも最も重要な儀式、元会が行われる。蕭宝巻が即位して二度目の元会である。外には朝の明かりが満ち始め、百官は疾うから太極正殿で待っている。

　昨夜半より皇城のいたるところで華灯が輝き、大司馬門から元旦朝服に装束を改めた朝臣が登城し、太極正殿に入っていた。皇帝がそれらの人々の朝賀を受ける刻限はとっくに過ぎていた。

　梅蟲児はずっと元会のことが気になっていた。宦官の言葉に改めて周囲を見回した。歌と踊りがなお賑やかに続いていた。どの顔にも疲労の色が濃くなっていた。先ほどまで跳び回っていた猿児は広間の片隅で小さくしゃがみ込んでいる。居眠りをしているようだ。蕭宝巻の夜宴はいくら長くても朝にまで及ぶことはなかった。今日に限って蕭宝巻はありとあらゆる演目を出すよう次々に命じ、宴は延々と続いた。

　外が白みかかったころから人々は宴が今にも終わるだろうと期待し、しかしいつになっても少しもその気配がなく、広間の雰囲気はどことなく浮き足立っていた。茹法珍も落ち着かず、時折、梅蟲児に視線を送って来ていた。潘貴妃さえも、外から日が差し込むに及んでは、肩を寄せて座る蕭宝巻の横顔をたびたび覗いていた。

　皇后はいつもと変わらなかった。真っ直ぐに背を伸ばした姿勢を崩すことなく中空をじっと見ていた。

　徐世標もまた変わらなかった。不動の姿勢を保って皇帝の背後に立ち続けていた。

　梅蟲児は茹法珍に目を向けた。茹法珍はわずかに首をかしげた。蕭宝巻の顔色を覗った。目を閉じていた。酒はかなり呑んでいたが酩酊するほどではなかった。朝になるころから、小刻みに身体を揺すったり、普通でない様子も幾分かないわけではなかった。

　梅蟲児は意を決して進み出た。蕭宝巻の足元に身を寄せ、小さくささやいた。

「お召し換えはいかがいたしましょうか」

　蕭宝巻は目をわずかに開き、梅蟲児の顔を見ると、軽くうなづいた。

　梅蟲児はほっとした。

　蕭宝巻は頭を潘貴妃の肩から離し、大きく伸びをした。

「では、行くか」

　梅蟲児が静かに退いて行くと、蕭宝巻は急に激しい語気で言った。

「いや、食事だ。食事の支度をさせろ」

　梅蟲児は茹法珍の顔を見た。

「お食事の御用意だ」

　茹法珍は宦官たちに命じた。

　元会において、この日のため特別に用意された酒食を皇帝は群臣に振る舞う。食事は何日も前から元会の時刻に合わせて準備されている。元会が正しく始まっていれば、そろそろそれを出すべきときとなるのだが、蕭宝巻が向かったのは潘貴妃の部屋だった。そこにおいて、二人はゆっくりと食事を取り、それから着替えに取り掛かった。

　蕭宝巻が太極正殿に入ったのは、新春の日が真南に達するころだった。皇后も蕭宝巻の後に従った。茹法珍と徐世標は中には入らず、太極正殿の警護に付いた。

　刻限は遥かに過ぎていたが、それでも儀式は淡々と進み、群臣の前に御馳走が並べられた。夜半より何も口にすることができず、人々はこのときを待っていた。

　ここで皇帝は人々に短い言葉を賜り、杯を口にし、それを合図として皆も食事に手を付けるのであるが、蕭宝巻は酒食が行き渡ったのを見届けると、何も言わぬままに席をはずした。

　人々は顔を見合わせた。皇帝が最初の杯を挙げなかったため、敢えて食事に手を付けるのは憚れた。いずれ皇帝が戻るのを待つしかなかった。

　蕭宝巻が太極正殿に向かったころ、梅蟲児は猿児とともに自分の部屋に戻った。

　昨年の元会には梅蟲児も出たのだが、夜宴だけを職務とするようになった梅蟲児は、今年はこの時間には休めた。

　猿児はすぐに寝台に跳び乗り、小さく丸まってたちまち寝息を立てた。梅蟲児は、弟の横顔を見てふうっと大きく息を吐いた。

　かわいい奴だと思う。

　梅蟲児は端座して導引の術を始めた。腹を使って息を吸い込み、全身にくまなく天地の気を送り込む。朝のうちにこれを行うのが梅蟲児の日課である。まだ一睡もしていない今日であっても、朝の空気を入れておかないと己の身体が廃れてしまうように思われ、欠かすことができない。普段は猿児も一緒だが、耐えられないほどに眠そうにしていたので、今日ばかりは許した。

　こいつがいるから自分は今こうしていられる。

　梅蟲児は弟の顔を見つめた。

　こいつがいなかったら、宮殿での毎日はどうなっていただろうか。常に心配と苦しみばかりになっていたかも知れない。

　皇帝の前で芸をし、都に広大な屋敷を構え、多くの財産を持つ、それは人の羨むことであるに違いない。梅蟲児にとってそれはさほど魅力のあるものではない。芸ができればいいのであって、身の程知らずの贅沢はむしろ不安の種でしかない。それに、宮殿という場所は得体の知れぬ恐ろしい所であった。昔から知る蕭宝巻が皇帝なのだから、もっと安心していられていいはずなのだが、そうはならない。

　蕭宝巻が即位した最初から不安はあった。一年ほど経ったころには、ここでの生活にもそろそろ慣れて行けるのではないかと思ったものだ。しかし、秋から立て続けに呆れるばかりの事件が起こり、慣れとは程遠いことになった。秋からの数ヶ月はそれ以前の一年よりずっと長く、その一年はそれ以前の二十年よりも遥かに長い月日であった。時折、昔の日々が無性に懐かしく思われた。明日の食事ありつけるかどうかわからず、叔父や叔母に苛められた惨めな境遇であったが、それが今とは比べようのないほどに楽しいことのように思える妹の顔がしきりに思い出された。

　目の前には猿児がいた。

　弟と一緒に芸の練習をし、その芸を披露しているときには全てが忘れられた。兄弟で皇帝に芸を見せられるなど、天下にまたといない幸運児であるに違いない。猿児は楽しそうにしている。皇帝に気に入られ、潘貴妃に可愛がられ、このごろは年齢が近い王宝孫と仲良くなって皇后の部屋にさえ行っている。宮殿内で猿児は実に幸福そうに見える。

　それを見れば、こいつをここに連れて来てよかったと思うことができる。しかし、本当によかったのか。何度となく考える疑問にまた行き着く。

　気持ちを静めるために始めた導引の術であったのだが、梅蟲児はいつの間にか、呼吸が乱れていた。

　陳顕達の軍が都に迫ったころ、梅蟲児は死を覚悟した。敵が宮中に乱入して来れば、皇帝は殺され、当然、自分も殺される。それは逃れられない。皇帝は多くの大臣を殺し、陳顕達ばかりでなく多くの人々の憎しみを買っている。その最も近くに自分はいる。だから、自分が死ぬのは仕方ないことだ。諦めというよりは、皇帝と一緒に死ねるのを喜ぶべきなのだろうと思った。

　しかし、弟は別だった。弟は巻き添えにしたくなかった。弟を宮中に呼んだのは間違っていたのかも知れないと思ったのだが、そんなことを考えてはいけないと、自分の思いを打ち消そうとした。

　幸いにも陳顕達は死に、梅蟲児は猿児と共に神亀抃舞の演目を披露することができた。そうなってみると、今度は別の考えが梅蟲児を捉えた。

　こいつを宮中に呼んだのは、こいつの安全のためだと思っていたが、自分のためだったのではないか。一人では皇帝を喜ばす自信がないから、こいつを使おうとした。それはその通りで、最初からそう思っていたのは確かだ。自分の都合が先にあって、実はそのために弟の命を危うくしてしまったということではないのか。

　梅蟲児は己を責め、腹中がかっと熱くなった。

　いずれまた反乱が起こるかも知れない。昨年は蕭遥光と陳顕達と続いた。三度目はどうなるのか。その前に、こいつを宮中の外に出しておくべきかも知れない。

　病気ということにして屋敷に下げる。そして、都からどこか遠くに送り出す。そうすれば、今度ここで万一のことがあっても、こいつの命は助けられる。

　そんなことができるだろうか。皇帝も潘貴妃も気に入っている猿児だ、一日や二日なら外に出すことはできても、ずっとということになると無理だろう。何を言い訳とするのか。正直に己の不安を告げたらどうなるか。許されないだろう。二人とも命がなくなるかも知れない。

　もしも何らかの手段でうまくいったとして、こいつを外に出し、こいつがいなくなって、それから自分はどうやって行くのか。その後、こいつなしで過ごしていけるのか。

　梅蟲児は大きく息を吐いた。

　やはり自分のためか。

　梅蟲児は立ち上がり、鏡の前に行った。

　厚く化粧を塗った自分の顔が映し出された。

　このごろでは、夜宴に出るときには、顔にいろいろな色を塗っていた。滑稽な顔を作るために試してみたのが始まりで、塗ると何か安心できることに気づき、やめられなくなった。色は次第に濃くなり、塗り方が派手になった。

　なんて顔だ。

「くくく」

　梅蟲児は己の顔を笑った。その顔が歪んでいた。

　卑屈な笑いだ。

　ふと殺された劉暄の顔を思った。同じに見えた。

　梅蟲児は鏡を押しのけた。醜い己の顔をこれ以上は見ていられなかったし、ひどく悲しくもあった。

　ふっと気付くと部屋の入り口に人の影があった。

「笑いは朗らかにするものだ」

　梅蟲児は椅子から飛び降りた。朝服を纏った蕭宝巻が立っていた。

　梅蟲児は深々と礼をした。自分の顔を隠したかった。今まで考えていたことが少しでも知られては大変だ。梅蟲児は蕭宝巻の足元に視線を注ぎ、そこから皇帝の心の内を探ろうとした。

　蕭宝巻は猿児を覗き込んだ。

「よく眠っているな」

「疲れたようです。まだ子供なものですから」

　そう言って、梅蟲児は何か余計なことを口にしてしまったと思った。

「阿兄には苦労かけるな」

　蕭宝巻の口調は穏やかだった。

　不意に梅蟲児は夢でも見ているような気になった。

　蕭宝巻がなぜここに立ち、なぜそのようなことを言うのか。胸が熱くなった。

　蕭宝巻は大あくびをした。

「阿兄も眠いだろう」

「いえ、私は」

　梅蟲児はわずかに顔を上げた。

　蕭宝巻は一心に猿児を見ているようだった。

「かわいい子だな。大事にしろよ」

　蕭宝巻はそう言い残して梅蟲児の部屋を出ると、西殿に入って寝てしまった。

　蕭宝巻が再び太極正殿に姿を見せたのは夕暮れ近くであった。

　百官は朝の状態のままだった。

「もう食べ飽きたであろう」

　蕭宝巻は誰一人手をつけていなかった酒食を下げさせた。

　上帝を祀る楽曲の演奏が始まった。音楽はゆったりとした調子でいつまでも続いた。

　群臣が空腹のまま太極正殿を出たのは、深更に及んでからだった。ほぼ丸一日を群臣はひたすら正殿に座って過ごしたのだった。

　このさんざんな元会の様子を梅蟲児は後に聞き何度も嘆息した。

　蕭宝巻が何を考えているのか、梅蟲児には謎であった。

　昔の少年のままであってほしいと梅蟲児は切実に思う。現実に蕭宝巻はそうだと思えることもある。しかし、ほとんどの場合は違う。八人の重臣を立て続けに殺したのはどう考えても尋常の振る舞いではない。そこにどういう理由があるのか。理由があっても、異常であることに変わりはない。

　そしてこの元会。蕭宝巻のこの日の振る舞いを見る限りでは、この年の終わりまで生きていられる可能性はほとんどないのかも知れないと思った。来年の正月にも、このような元会がもう一度繰り返されるようになるとは、考えにくかったからだ。

　無学な梅蟲児にしても、臣下たちの恨みをわざわざ買うような行為を皇帝はとっていると思えた。大臣たちを殺して臣下を怯えさせ、その上にこの仕打ちであった。こんなことが長く続く道理はないだろう。蕭遥光や陳顕達に続く者がきっといるだろう。

　それでも、自分は蕭宝巻の近くにずっといたいと、梅蟲児は思った。それが自分が富貴になり安全に暮らせるからというのではなかった。

　　　　二

　春の日差しが暖かくなると、蕭宝巻の遊びに大きな変化が起こった。

　蕭宝巻はかつて皇太子になりたてのころ合戦遊びを好んだ。それを再び行うようになった。ずっと大規模だ。華光殿の前の広い場所に軍陣を連ね戦闘を習った。

　金銀の糸をもって編み上げ、孔雀の羽と翡翠の飾り付けた鎧冑に身を包んで、蕭宝巻は指揮を執った。刀勅、宦官、宮人等、後宮の者たち全て、男も女も戎服を纏った。二陣に分かれて、馬を競い、剣を交え、槍を突き、鉾を当て、鉞を投げ、矢を射た。男同士、女同士が戦うこともあれば、男と女が戦うこともあり、男と女が混じって戦うこともあった。蕭宝巻が一方を指揮し、他方を茹法珍や徐世標が指揮することもあれば、潘貴妃が指揮することもあった。潘貴妃の戎服姿は美しいばかりでなく、腕前もなかなかであった。皇后も特に命じられれば、馬にも乗り、剣も握り、指揮もした。

　この遊びは戦いの場面をただ真似るばかりでなく、戦場と同じようにして食事を作り、あるいは負傷した者を板に載せて運び、治療するところも行った。

　蕭宝巻はこの遊びを大いに気に入り、連日倦むところなく続けられた。

　蕭宝巻はここで使う武具を自ら製作することにも熱中した。槍や鉾の柄に蔓を巻き、金糸、銀糸で飾り、宝玉を垂らした。金繍の帽子を編み、仕上がるごとに名を付け、その日の気分によって被るものを選んだ。錦繍の馬具が雨に濡れるのを嫌い、細かい采珠をもって覆いを編み、雨滴が馬具にかかるのを防いだ。竹を細工して柄杓を作って腰に吊るし、喉が渇くとそれで自ら水を汲んで飲んだ。

　こうして蕭宝巻は日中は合戦遊びに、夜は武具作りに時間を費やすようになり、自ずと夜宴は開かれなくなった。

　梅蟲児は活躍の場を失った。

　梅蟲児は昼間は合戦遊びを遠くより眺め、夜は武具作りの手伝いをした。軽口によって蕭宝巻は笑わせることはあっても、得意の芸を見せる機会はなかった。朝のうちに行う弟との鍛錬は一日も欠かさずにいたが、張り合いが薄れた。

　これは一時の気まぐれで、蕭宝巻はまた夜宴に戻ると梅蟲児と期待したが、そうはならなかった。

　ある日、梅蟲児がいつものように導引の法を行っていると、蕭宝巻が突然に現れ、

「今日は城を出るぞ」

　と、言った。すこぶる上機嫌な顔であった。

「今でしょうか」

「この天気を逃してなるものか」

　春の朝がゆっくりと明け、日がそろそろ昇ろうかというころであった。

　梅蟲児はお出ましの準備をするよう宦官に命じた。皇帝の一言で宮中は上へ下への大騒ぎとなった。

「どこへ参りましょうか」

　蕭宝巻は青く晴れ上がった空を指差した。

「この空の下だ。どこへなどと考えて出るのはつまらん」

　蕭宝巻を待たせることはできなかった。

　豪奢に飾り立てられた車が引っ張り出され、蕭宝巻は跳び乗った。

「あいつは入念に占ってから行き先を決めた。朕はどこかなど決めずに行く」

　蕭宝巻は父の明帝のことを言った。

　茹法珍と徐世標が今起きたという顔をして走って来た。

「みんなも来るんだぞ」

　蕭宝巻は、出発の用意に走り回る梅蟲児に言った。

　大司馬門が開かれた。

　最初に皇帝を護衛する羽林兵が出た。金の轡、銀の轡の馬によって曳かれる皇帝の車が続いた。後ろに羽林兵が従った。それから少し置いて、慌しく用意された皇后の車、そして潘貴妃の車が出た。

　大司馬門から真っ直ぐ南へ、宣陽門へと続く御街の大路には、急遽駆り出された人々が立ち並んだ。皇帝の列に向かって万歳を唱えた。

　三台の車が出た後、しばらく遅れて、長い人々の列が続いた。皇帝の行幸にふさわしい体裁を整えるために、急ごしらえの行列が用意されたのだった。楽士や踊り手も一行に加えられ、酒食を送り届ける方策も整えられた。

　蕭宝巻は都城の外に出た。そこからも南に御街は伸びる。城外にも人家が連なり、かつて梅蟲児のいた小屋はその南西の一角にあった。東に離れて東府城が春霞の中に浮かんでいた。

　二百年ほど昔、呉の孫権が建業と呼ばれていたこの地を都として定めたとき、ここはごく小さな町でしかなく、城檣は土で築かれ、城門は竹で編まれた。晋の時代になって皇城は周囲八里、二重の城壁で囲まれ、城濠の巡る立派なものとなった。外側の都城はなお土檣であった。斉の世になって全てが石で固められた頑丈な礫檣となった。都は壮観さをもって江南の他の諸都市を圧した。都の発展とともに人口も増え、町域はその都城の外へと広がり、南を流れる秦淮河までが市街域となった。御街は河を浮橋で渡り、朱雀航と呼ばれるそのあたりは商家や船乗り相手の娼家が並んだ。

　蕭宝巻の一行は御街の途中で西へ折れ、長江を臨む延祚寺の近くにまで達した。

　蕭宝巻は車の扉を押し開けた。

「ここでいい」

　幕が張り巡らされ、蕭宝巻お気に入りの合戦遊びが行われた。宮中と違って広い場所で、馬を存分に走らせ、弓を遠くに放ち、剣戟を自在に打ち合い、蕭宝巻は大いに満足した。

　梅蟲児は食事を持ってその場に到着した。

　蕭宝巻は潘貴妃と並んで馬を颯爽と走らせ、人の形をした的に鉾を投げ付けていた。

　この日以来、蕭宝巻は天気が好いと必ず城の外に出るようになった。

　ひと月も続いたある日、蕭宝巻は大司馬門で、

「道に立つ人間は目障りだ」

　と、つぶやいた。

　茹法珍はそれを聞いた。

　兵士を走らせ、大路に出ている人々を追い払った。

　都城の外までも人払いがなされ、蕭宝巻は無人の街路を車で走った。

　その日の夕方、皇城に帰ると、

「都を、幾分かはいい場所だと初めて思えるようになった」

　と、蕭宝巻は、茹法珍と梅蟲児に言った。

　翌日、蕭宝巻は豪華極まりない皇帝の車に乗りかけ、踏み台を蹴り、車に背を向けた。

「朕はこれに乗る恥辱に耐えられない」

　梅蟲児が走り寄った。

　蕭宝巻は襟を開き、皇帝の衣を引き裂くようにして脱いだ。上半身が露わになった。

「阿兄、これを着てみろ。そして、ここに乗ってみろ」

　蕭宝巻は衣を放り上げた。

　梅蟲児は宙に舞う衣を跳んで受け止め、後ろ向きに宙返りし、衣を頭上に押し戴いて跪いた。

「皇帝がどんなものか、一度、味わってみるがいい」

「滅相もないことでございます」

　蕭宝巻は羽林兵に歩み寄った。兵士は馬より飛び降りた。蕭宝巻は手綱を取ると馬に跨った。

「ついてこい」

　蕭宝巻は馬のわき腹を蹴った。馬は大きく嘶いた。

　梅蟲児は衣を手にしたまま後を追って走った。皇帝の車も後に続いた。皇后、潘貴妃の車も動き出した。

　大司馬門が開き、蕭宝巻の馬が躍り出た。蕭宝巻は大路を疾走した。人々は列を乱してその後を追った。

　梅蟲児は息を切らして門外に出たが、皇帝の姿はすでに遠く小さくなっていた。

「乗れ」

　後ろから来た茹法珍が拾い上げた。茹法珍が鞭を当てると、馬は蕭宝巻を追った。

　驚くべき速さで蕭宝巻は馬を走らせた。

　茹法珍は、

「やっ」

　と、馬に声を掛けた。

　梅蟲児は茹法珍の腰に腕を回し背にしがみついた。茹法珍の息遣いがはっきりと聞こえた。

　こんなにも茹法珍に近づいたのは、蕭宝巻が皇太子となったときから初めてかも知れなかった。

「お上はどうされたのだろう」

　梅蟲児が言った。

「やっ」

　茹法珍は再び馬に声を掛けた。

　茹法珍の大きな背の後ろにいる梅蟲児に前の様子は見えない。前方の馬の蹄の音はずっと遠くあった。なぜこれほどまでに速く走るのか。

「どうされたのだろう」

　梅蟲児はもう一度つぶやいた。

「速く走りたいのさ」

　梅蟲児は振り返った。土煙が上がって、多数の車馬が後に従っていた。誰もが大慌てで皇帝を追っている。

　こんなことがどうして行われるのか。

　梅蟲児は振り落とされそうになり、茹法珍の背に身体をぴったり付けた。

「阿丈は何の心配もないのか」

　茹法珍は何の返事もしなかった。

　馬の走る音に聞こえないのかと、梅蟲児は大きな声でもう一度言った。

「阿丈は何の心配もないのか」

「何を心配するのか」

　茹法珍の声が風に走った。

「俺にはわからないことだらけだ」

「それで」

「怖くないのか」

　茹法珍は大声で笑った。

「心配したり怖がったりするのが俺たちの仕事か。違うだろう」

「俺たちの仕事？」

「もう十年になるではないか」

「屋敷に来てからか」

「そうだ。ずっと俺たちは同じことをして来た。それだけだろう」

　梅蟲児ははっとした。

「それだけか」

「ずっとな。よく俺につかまれ。ずっとこうしていればいいんだ」

　茹法珍は言った。

　最初は皆が子供だった。三人一緒に身体をくっつけ合って遊んでいればそれだけで楽しかった。あのような日々が今も続いていたならよかったのだが、それはすでに遠い。そして、今のこのような日々はすぐにも終わりそうな気が梅蟲児にあった。こんなことが長く続くはずがないと思えた。

　茹法珍はさらに馬の速力を上げた。梅蟲児はいっそう強くしがみついた。

「阿丈も本当はわかっているんだろう」

「何がだ？」

　茹法珍の太い声が返って来た。

「いいや、いいんだ」

　梅蟲児は言ってもわかってもらえない気がした。

　しかし、すぐに、言わなくてもわかってもらえるような気がした。

　蕭宝巻は宣陽門を出て、馬の首を東に向けた。

　東府城の北側を回り蒋山の裾を巡って広い野に出た。

　不意に茹法珍がぽつりと言った。

「わかっているさ」

　梅蟲児の瞼が熱くなった。

　蕭宝巻は馬を止めた。腰に結わえた柄杓を取って小川の水を汲んだ。

　茹法珍の馬が追いついた。

「うまい水だ」

　蕭宝巻は柄杓を投げた。流れ出る汗で蕭宝巻の裸体は日光に美しく輝いた。

　梅蟲児は馬の背より跳び、小川の脇に立った。小脇に挟んでいた皇帝の衣が落ちた。

　蕭宝巻は笑った。

「阿兄はこんなものを後生大事にまだ抱えていたのか」

　蕭宝巻は拾い上げると小川に投げ捨てた。金糸銀糸で縫った高価な衣が水に流れた。

「さあ、始めるぞ」

　人々が少しずつ追い着くといつもの合戦遊びとなった。

　しばらくして皇后と潘貴妃の車が到着した。蕭宝巻は車輪の音を耳にすると、持っていた槍の柄で地面を突いた。

「車など持って来るな」

　と、怒鳴った。

　皇后はそのまま引き返した。潘貴妃は車から出て皇帝の遊びに加わった。

　一日の遊びを終えると、潘貴妃は馬に跨り、皇帝と並んで皇城に帰還した。

　蕭宝巻は先に馬から降り、潘貴妃の腰を抱いて地面に下ろした。

「今日ほど楽しかったことはない」

　蕭宝巻の言葉に潘貴妃もうなずいた。

「ただ私の姿を見た者があったのではないかと少し心配でございました」

　蕭宝巻は、茹法珍と梅蟲児に向かって言った。

「街の家の中よりこちらを覗き見る様子があった。明日からは朕の姿を決して人に見せてはならぬ」

　翌日、蕭宝巻が皇城を出るよりも遥か前の早朝に先触れが出た。皇帝の通る道およびその両側の家はすべて空にさせられた。

　蕭宝巻は馬に跨った。潘貴妃も馬に乗った。

　二人の馬は錦繍をもって飾られ、二人は綵珠を織り込んだ白い袴を穿き、上には赤い絹の衫を着し、金の房の垂れた薄い帽子を被った。

　大司馬門を出ていつも通りに南に走った。

　蕭宝巻が急に馬を止めた。

「あれは？」

　角の奥に、荷を高く積んだ車があった。蕭宝巻の目は鋭かった。

　兵士が走り、荷の陰にいた子どもがつまみ出された。

　五歳ほどのその子は兵士の腕の中で身体を硬直させ、目だけが左右に動いた。母親らしい女が飛び出した。子どもにすがりつこうとした。兵士が女を蹴倒した。

　蕭宝巻は七宝を巻いた矟を手にし、子どもの顔に切っ先を向けた。

「朕の姿を人に見せてはならぬと言ったではないか」

　茹法珍と梅蟲児が皇帝の前に進み出た。

「落ち度は私どもにあります」

　二人は地面に頭を擦り付けて謝った。

　蕭宝巻は矟を立てた。

「では、阿丈か阿兄が斬るのか」

　蕭宝巻は矟を投げた。梅蟲児が受け止めた。梅蟲児は矟を地に倒した。

「斬らぬのか」

　梅蟲児はぶるっと身を震わした。

　脇の茹法珍を見た。

　口をへの字に曲げていた。茹法珍も子どもを切るのはかなわないという顔だった。しかし、皇帝の命令だった。

　梅蟲児は立ち上がると、矟をぐるぐると二回まわした。

　子どもに矟の先を向けた。

　母親が叫んだ。

　梅蟲児はまた矟をぐるぐると回した。

「やっ」

　矟の先を子どもに向けた。

　母親はもう何も言えなくなっていた。

　梅蟲児はまた矟をぐるぐると回した。回転がどんどん速くなった。

「やっ」

　梅蟲児がもう一度を声を出した。

　矟は梅蟲児の手から消えていた。

　蕭宝巻は笑った。

「阿兄はやはり阿兄だ」

　梅蟲児はほっとした。これで終わったと思った。

　茹法珍の顔にも安堵の色が浮かんだ。

　母親が子どもに飛び付いた。子どもを捕らえていた兵士は手を弛め、母親の手に子どもが戻った。

「なぜ手を放した」

　蕭宝巻は兵士に言った。兵士は慌てて剣を抜いた。母親が子どもの身体を上から覆った。兵士は剣を振り上げなかった。

「できぬのか」

　蕭宝巻が言った。

　兵士は立ち往生した。

　徐世標が歩み出て母親と子どもをもろともに二つに斬った。

　梅蟲児は目をそむけた。

　先触れは厳重になった。

　皇帝が出る支度を始めると、役人が太鼓を叩いて大路を走った。その後を兵士が念入りに検分し、もしも居残っている者がいたならばその場で殺した。

　蕭宝巻の出遊は激しさを増した。天候がよほど悪くなければ休むことはなかった。月に二十回を超えた。そのたびに都の大路は無人になった。

　大司馬門を出て真っ直ぐに南の宣陽門へと走るのが皇帝の常の道であったが、時には大司馬門から東に建春門へ走り、あるいは逆に西に西明門へ走るようにもなった。郊外からの帰りに、茹法珍や梅蟲児、あるいは刀勅の誰かの屋敷で休息を取ると言い出し、突如として町中に踏み込むこともあった。

　出遊は昼間とは限らなくなった。夜中に突然鳴り響く太鼓の音によって、人々は眠りを妨げられた。着る物も着られず、履く物も履けずに、暗闇の中を人々は逃げた。皇帝の行く道には、天を焦がすばかりに火が焚かれた。

　皇帝がいつどの方角に行くのか、事前に予測するのは不可能であった。町の要所に幔幕を張った高鄣が設けられ、役人が常駐した。皇帝がそちらの方角に向いそうになると、太鼓、角笛を鳴らした。それを耳にしたなら即座に街の人々は家を飛び出さなければならない。高鄣の役人も皇帝の行く方向はわからないのだから、少しでも危なそうだと感じたらすぐに太鼓、角笛を鳴らした。皇帝が皇城を出ると、都の方々の高鄣から無闇と打ち鳴らされる音が轟き、人々は逃げ惑った。右往左往したあげくに運悪く皇帝の一行に出くわしてしまえば即座に斬り殺された。このようにして皇帝の行く先々からは人々が徹底的に排除されることは屏除と呼ばれた。

　屏除によって都の正常な営みは失われた。逃げるのに足手纏いとなれば、親だろうが赤子だろうが捨てられた。身分の高い王儇という人物は病篤く家に臥せっていたが、高鄣の太鼓、角笛に追われて家人に担がれて家を出たものの、逃げ惑ったあげくに道の隅に置き去りとなった。皇帝はその日は街のあちこちを走り回わったために、家人がようやく取りに戻ったのは夕刻だった。王儇は土の上で冷たくなっていた。王敬賓の遺骸は郊外の墓に運ばれる途中で皇帝の一行と遭遇しそうになった。人々は棺を投げ出して逃げた。皇帝が走り去ってから戻ると、王敬賓の両眼は鼠によって食い取られていた。皇帝が雑踏する市場に突如として踏み込めば、逃げる人々の足で多数の子どもが踏み潰された。

　蕭宝巻は合戦遊びにも飽き、雉狩りに熱中した。

　雉の多い場所を求めて蕭宝巻は都の近隣をくまなく走った。雉を射るによい場所、二百九十六箇所が皇帝の占有地として定められた。その射雉場には帷帳、歩障が巡らされ、人の出入りが厳重に禁止された。

　緑錦、紅錦の揃いの袷を着、金銀で飾った弓を持って、人々は皇帝の雉狩りに参加した。鷹犬隊主、媒翳隊主と名づけられた二人の者がまず馬を走らせて雉を追い出した。蕭宝巻と潘貴妃が先頭に立って雉に向かって走り、矢を放った。

　ある雉狩りであった。

　蕭宝巻は喉の渇きを覚え定林寺に立ち寄った。定林寺は射雉場の中に組み込まれ、寺には誰もいてはならぬのであったが、寺僧たちは密に住み続けていた。皇帝一行が寺に向かいつつあるの見て、皆は一斉に逃げた。一人の病僧が遅れ、叢に身を隠した。

「あそこにいい獲物がいる。朕と勝負をする者があるか」

　蕭宝巻が言った。

　皆が勝負を挑むと言った。むろんそうせねば皇帝の怒りに触れる。

「誰が勝ちかは私が見定めましょう」

　潘貴妃が言った。

　後れをとった梅蟲児は、人々が叢に狙いを定めたころに追いついた。

　蕭宝巻は梅蟲児の姿を認めると、

「阿兄、合図の旗を振ってくれ」

　と、言った。

　梅蟲児は状況を飲み込めていなかった。背中から旗を引き抜いて、皆の脇に立った。

「えいっ」

　と、旗をひと振りした。

　百の矢が一斉に放たれた。

　人々が馬を寄せると、針鼠のようになって病僧は死んでいた。

　眉間に刺さった矢を潘貴妃が抜くと、皇帝の印があった。

「朕の勝ちだな」

　皆が万歳を唱えた。

「口が半開きになっておる。おおかた経文でも唱えていたのだろう。矢の一本を避けることすらできぬ経文であるな」

　蕭宝巻は笑った。

　梅蟲児は後に残って、病僧の遺骸から全ての矢を抜き、土をかけてやった。

　雉狩りの次は幢を担って走る遊びだった。

　幢とは戦の指揮に使う旗である。長い竿の先に、大きな吹流しのようなものが垂れ下がる。

　蕭宝巻は特大の幢を作らせた。真っ直ぐに伸ばした片腕でその幢を支え、どれだけ走れるのかを競った。風が吹き凹凸のある野で幢を立てて走るのは、なかなか勇壮な遊びであった。川や沼があれば余計に愉快なものとなった。

　蕭宝巻は人々が手加減して皇帝に負けるのを許さなかった。全力を出さぬ者には容赦ない仕打ちを加えた。誰もが必死に頑張った。蕭宝巻が一番になるとは限らず、勝ったり負けたりするのを蕭宝巻は大いに好んだ。

　梅蟲児は身体が小さく力も劣ったから、持って走るだけの勝負では常に最下位となった。しかし、幢を操る曲芸なら他の人間には真似のできない技を見せた。

　皆が使うのよりは少し小ぶりの幢を用意し、それを地面に立て、するすると猿児を昇らせた。竿の天辺に猿児はぶらさがった。梅蟲児は両手で竿を持ち、掛け声とともに上に引き上げ、自分の額の上に立てた。もう一度、掛け声を出すと、梅蟲児は両手を放し、同時に猿児が逆立ちをした。

　圧巻は、高さ七丈五尺の白虎幢を額の上に立てるものであった。竿から両手を放し、風が強い日でも、どのように揺れても、幢は決して倒れなかった。頃合いを見て、梅蟲児は幢を宙に飛ばし、足で受け止めた。

　蕭宝巻は、梅蟲児に習って白虎幢を額の上に乗せてみた。両手を使って立たせることはできたが、手を放すとすぐに倒れた。何度ためしてもうまくいかなかった。

「ならば」

　と、蕭宝巻は口にくわえた。

　歯を食いしばった。幢が傾いた。蕭宝巻は顎をぐいと持ち上げた。ばりばりと歯が折れた。蕭宝巻はそれでも白虎幢を立たせ続けた。

　　　　三

　徐世標が馬を走らせて乗り込んだ。

　竹に刺した雉を火で炙っている蕭宝巻を見つけると、徐世標はその傍らに馬を止め、下りるなり、

「裴叔業を始末しましょう」

　と、言った。

　じくじくと油が肉から滲み出て、いい匂いが立ち始めていた。蕭宝巻が自ら羽をむしり、潘貴妃が串に刺し、二人して薪をくべていた。

　雉狩りのいつもの光景であった。煙は野の何箇所からも立ち昇り、梅蟲児と茹法珍は、皇帝から少し離れた場所で肉を焼いていた。

「裴叔業は兵士を集め、諸君らが富貴を願うのなら叶えてやると言ったと聞きます。明らかな反意を示すものです」

　徐世標の声に、梅蟲児と茹法珍は近くへと歩み寄った。

　梅蟲児は茹法珍にささやきかけた。

「裴叔業って誰だ」

「阿兄は何も知らないんだな。豫州刺史だ。魏に走ろうとしているとの噂だ。徐世標の奴め、何かを聞きつけたのだろう」

　豫州は北に肥水を臨み、魏国との国境に近い重要地点である。

　蕭宝巻は顔を上げなかった。

　野にあって蕭宝巻が潘貴妃と二人でいるとき、茹法珍と梅蟲児は遠慮して近くには寄らぬようにしていた。

「今のうちなら簡単にすみます」

　徐世標は裴叔業をどう始末するかを述べ始めた。

　蕭宝巻は火中に手を伸ばし、鳥の向きを変えた。油がぼっと赤く燃えた。

　徐世標は言葉を続けていた。

「たかが一人の刺史ではないか」

　蕭宝巻は低い声だった。

「しかし」

「よい」

　徐世標は不満そうに口を閉じた。

　茹法珍は徐世標に口添えをしなかった。

　陳顕達が都に迫ったとき、茹法珍は適切な対応ができず、崔慧景を動かした徐世標に引けをとった。徐世標はもともとは茹法珍が引き立ててやったのだが、このごろは徐世標は茹法珍を見くびるようになっていた。茹法珍ばかりでなかった。「五百の兵の指揮官が万人の兵の指揮官を使って敵を破った」と徐世標は己の功を誇り、世の将軍連中を小馬鹿にする態度をあらわにしていた。

　徐世標は、茹法珍の屋敷で集めた私兵を自分の手下として使い、都の内にも地方にも密かに放ち、人々の動きをさぐらせていた。

「阿丈、阿兄、そっちのが焼けたら、世標に食べさせてやってくれ。すぐに都に帰らねばならぬのだから」

　蕭宝巻は徐世標を追い払うかのように手を振った。

　徐世標はいつもの薄ら笑いを浮かべて、蕭宝巻の前を下がった。

　徐世標が警告した通りになった。

　裴叔業は州を挙げて魏国に降った。魏とは鮮卑族が建てた国であり、漢人の多くは夷狄の人間を皇帝として戴くのをよしとしていなかった。しかし、蕭宝巻と比べたならどちらがよいかは明らなところであった。

　魏皇帝はすぐに豫州に兵士を送った。その到着前に裴叔業はたまたま病死した。後を託された僚佐たちも相談の結果、もはや斉国に戻ることはないと、裴叔業の立てた方針を変えなかった。

　豫州の動向を伝える使者の前で、徐世標は鼻を蠢かして己の慧眼を誇った。

「ではどうしたらいいと思う」

　蕭宝巻は徐世標に尋ねた。

「崔慧景を遣わしましょう」

「そなたのお得意の男だ。いいだろう」

　五百の兵の指揮官に動かされた万人の兵の指揮官とはこの崔慧景のことだ。

　確かに崔慧景は徐世標に言われて陳顕達の討伐に乗り出したのだが、それは皇帝の命令だったからだ。宮廷のごろつきに過ぎない徐世標に使われた覚えはなかった。

　崔慧景にしてみれば、徐世標が偉そうにしているのは実に不快だった。それでも、皇帝の側近であり宮中の兵権を握っている以上、大人しく従っているより仕方がないのだった。

　徐世標は崔慧景が腰を低くするのを見て、ますます付け上がり、崔慧景を自分の子分のように見なした。それで、豫州討伐軍の総指揮官に任ずるとの皇帝の命を持って、崔慧景を喜ばせてやろうと意気揚々と向かって行った。

　徐世標が姿を消すと、蕭宝巻は茹法珍に言った。

「面白いことになるだろう」

　三月、崔慧景は平西将軍の称号を授かり、水軍を率いて都を出発した。

　蕭宝巻は都城を出て、長江の岸辺に建つ琅邪城においてその水軍を見送った。

　楼上に座す蕭宝巻の左右に茹法珍と梅蟲児が控えた。晩春の風が、大河を渡って高い楼の上へと吹き昇った。朝のうちは、風がまだ少しばかり冷たく感じられた。

　梅蟲児は眼下の光景に目を見張った。

　無数の大船があった。厳しく軍装した船が楼台の下を次々に通って東に向かった。船上に金銀で刺繍された巨大な旗が翻り、槍の穂先を輝かせた兵士が並んだ。楼の真下に船が来ると、兵士は槍を天に掲げ、皇帝に挨拶を送った。

　斉国とは偉大な国であると梅蟲児は感じ入った。後から後から続く船の数は幾艘とも知れない。斉国とはこれほどの大艦隊を遠くの戦場に送り出せる力を持っているのだ。

　そのような国を一言を以って意のままに動かせるのが皇帝であった。その皇帝が梅蟲児のすぐ隣にいる。蕭宝巻とは十年にわたって日々接して来た。しかし、改めて蕭宝巻が皇帝であることに、梅蟲児は強い感銘を受けた。

　蕭宝巻の静かな息遣いが横にあった。しかし、皇帝とは己の想像の到底及ばぬ存在なのだと、梅蟲児はこのとき強く感じた。

　蕭宝巻が何を考え、どういう人物なのか、それはいよいよわからなくなっていた。今のこの瞬間もわからない。しかし、わからないのはある意味当然なのだろうと、梅蟲児は思った。蕭宝巻が偉大な皇帝だからなのである。自分のような者がわかるはずはないし、わかってもいけないのだろう。

　梅蟲児は、偉大な皇帝の近くにいる己の幸運を、もっと有難く思わねばならないと、自分に言い聞かせた。

　蕭宝巻は大きく欠伸をした。

「阿兄、このうち何隻が戻ってくると思うか」

　梅蟲児は欄干より身を乗り出した。腕を真っ直ぐに伸ばし、東の彼方を進む艦隊の先頭から、目の下へ、そして西の彼方の艦隊の最後尾へと動かした。到底数え上げられなかった。

「この全てのうち何隻が戻って来るとのお尋ねでありましょうか」

「そうだ」

「陛下の武威を輝かせて、一艘たりとも失われることなく、ここに凱旋の旗を靡かせるでありましょう」

　ただ美辞麗句を吐いたのではなかった。船団のみごとさに目を見張る梅蟲児の思いのままの答えであった。これらの船に立ち向かえる敵があると想像するのは難しい。

　蕭宝巻は微笑むと、茹法珍に顔を向けた。

「阿丈はどう思うか」

「一艘も戻って来ないかも知れません。短慮な平西将軍など魏の敵ではありますまい」

　梅蟲児は不吉な答えに驚いた。茹法珍は徐世標が推薦した崔慧景を快く思っていないのは明らかだった。

　蕭宝巻はうなずいた。

「平西将軍は知恵が足りない。己ほど知恵のある者はいないと自惚れ、人が己の右に出るのを嫌う。それ故に一艘も戻って来ぬと、阿丈は思うのだろう」

「その通りでございます」

「それも一理だが、朕は、一艘余さずここに戻って来るのを知っている」

　梅蟲児は明るいを声を出し、

「魏に勝ってでございましょう」

　と、言った。

　蕭宝巻は笑った。

「あの男は魏とは戦わずしてここに戻る」

　茹法珍にとってもそれは意外な言葉であった。ひと呼吸置いてから茹法珍は言った。

「都を取るためでありましょうか。その気があるのなら、陳顕達とともに反旗を翻していたでありましょうに」

「知恵が足りず自惚れが強い男だ。陳顕達の下には居られなかった。今度も短慮と嫉妬深さで破滅するに違いない。面白い見世物になるだろう」

　楼台の下に崔慧景を載せた船が近付きつつあった。

「崔慧景を呼べ。あれが必ず戻って来るようにしておこう」

　長江に纜を解いた崔慧景は風に身を任せていた。

「何という気持ちのよさだ」

　不思議なほどの高揚感があった。これまで幾度かの出陣を経験し、勇み立つのはいつも同じであっても、その裏に大なり小なりの不安もあった。時には行かずにすませたいと心の底で思わぬこともないではなかった。

　今回は違った。不安は微塵もない。心は喜びだけで満ちている。不安があるとすれば都にあって、己の内にはなかった。船尾の彼方に遠く建康が消えてしまえば、己は不安と無縁となり、己の手には自由に動かせる大軍があるばかりとなる。

　崔慧景は前方に眼を据える。大河が流れ下る地平線の向こうに、輝く何かが出現しようとしている。

　艦上に旗が高々と掲げられた。いよいよ琅邪城の真下を通る。

「これでお別れだ」

　崔慧景は楼閣を見上げる。形ばかりの挨拶を送りさえすればよい。高いところにいる皇帝には人の心の奥までは見えない。

　崔慧景ははやる思いを抑えられなかった。

　小舟が岸辺を離れた。崔慧景の船へと一直線に走り、楼に登れとの蕭宝巻の命令を伝えた。

　崔慧景はよろめいた。顔が一瞬にして青く萎んだ。遠くを見据えていた眼は深い皺の下に埋もれ去った。

　命令を拒絶するという手を咄嗟には思い付かなかった。崔慧景は肩を落して小舟に乗った。

　琅邪城を登る足は鉛のように重かった。船から付き従った部下は楼台の下に留め置かれ、崔慧景は一人で段を登った。一段ごとに崔慧景は深くため息をついた。

　ここに来るべきではなかったと、今になって悔やんだ。

　最上階に達すると茹法珍が立っていた。茹法珍は深々と礼をした。

「剣をこちらに」

　崔慧景は躊躇した。

　生きてこの楼を下りられぬ定めか。おめおめとそうなるのは武人として耐えがたい屈辱である。だが、たった一人でここにまで来て、今さらどうにかなるものでもない。平西将軍に任命しておきながら、その出立の日に殺すというのは、いくら蕭宝巻でもあり得そうにないことだ。

　茹法珍は穏やかな表情をしていた。崔慧景はためらいの心を残しながらも剣を渡した。

「鎧もどうぞ」

　観念を決めて鎧をほどいた。

　梅蟲児が中へと招き入れた。屏風が巡らされていた。

　立て回された屏風の隙間から崔慧景が入ると、露わになった白刃が目に飛び込んだ。

　蕭宝巻にあり得そうにないことなどないのだった。

　崔慧景は一瞬足を止めた。中央の床机に蕭宝巻が座っていた。輝く鎧兜に身を固め、その右手に白刃が光っていた。

　ここまで来てしまってはどうにもならなかった。

　崔慧景は両手を前に組んで挨拶し、次いで床に膝をつき、皇帝を拝した。

　崔慧景は思った。

　陳顕達と行動を共にすべきだった。なぜそうしなかったのか。戦う相手を間違えた。陳顕達がいなくなれば、その次は自分だったのだ。

　崔慧景は平伏し、心の内に思うことではなく、皇帝に向かってこのような場合に言うべき儀礼的言辞を口にした。

　蕭宝巻は言葉を発しなかった。

　崔慧景は顔を上げていいのかわからなかった。皇帝と目を合わせたくなかった。皇帝の目を見た途端に、その瞬間に刃が光るような気がした。

　崔慧景が平伏したまま沈黙が続いた。

　蕭宝巻は無言だった。

　崔慧景の額から汗が床に落ちた。息苦しくなり、いつまでも続く静寂に耐えられず、口を開いた。

　豫州周辺の軍事的情勢と己の戦略の説明を始めた。皇帝は聞いているのかいないのか何も言わなかった。

　崔慧景は長々と説明を続け、一つの区切りとなったところで、

「必ずや勝利を持ち帰りましょう」

　と、誓った。

　ここで、思い切って、わずかに顔を上げた。

　真っ直ぐに注がれている蕭宝巻の視線があった。崔慧景はすぐに首を下げた。剣は少しも動かなかった。

　蕭宝巻はなおも無言だった。

　崔慧景は生唾を飲み、次に水軍の軍備がどのようなものであるかを話し出した。崔慧景は話しを途切れさせないために説明を細部へと入り込ませて行った。

　どうしてこのようなことをしているのかわからなかった。しかし、黙るわけにはいかなった。

　崔慧景の喉が嗄れた。声を絞り出すのがやっとになった。

　日は西にまわり、低く傾いた光が崔慧景の眼に入った。夢中で話し続ける崔慧景も、すでに半日の時が過ぎたのを知った。

　意識が朦朧となりかけた。限界であった。

　不意に蕭宝巻がつぶやいた。

「朕はそなたの心の内を知っている」

　崔慧景の背中に冷い汗が流れた。

「衷心より主上の御為に働いてまいる所存。それよりはございません」

「そうか」

　蕭宝巻は剣をゆっくりと持ち上げ、刃を静かに回転させた。

　床に伏す崔慧景は、光の反射の輝きに、剣の動きを感じ取った。

　切っ先が真っ直ぐ崔慧景に向けられた。

　全てがこれで終わりになるのかと崔慧景は思った。しかし、これでは悔いが残る。素手であっても抵抗すべきかと思った。

　崔慧景は顔を上げた。蕭宝巻の顔を見た。思いがけず穏やかな笑みを浮かべていた。

「ならば、行け」

　蕭宝巻は言った。

　ふと気付くと、崔慧景の顎の下に蕭宝巻の持つ剣の先があった。微動だにしなかった。

「行け」

　蕭宝巻はもう一度言った。

　崔慧景は後ずさりして、屏風の外に出た。身体が汗でびっしょり濡れているのを感じた。

　梅蟲児が鎧を着せた。

「船までお送りいたしましょう。大事な将軍の御身体でございますから」

　茹法珍は崔慧景を船まで連れて行った。

　このとき崔慧景は六十三歳、蕭宝巻は十八歳であった。

　崔慧景は船に戻った。

　鎧をほどき、脂汗で汚れた衣服を脱いだ。濡らした布で顔から胸、腹を拭った。腹の内に重く苦しいものがあった。

　崔慧景は舌打ちをした。

「負けたのか」

　戦場では敵なしの猛者が、宮殿の奥でぬくぬくと育った青二才にしてやられたのか。確かに負けだった。こんなにも汗まみれにさせられたのだから。

　何に敗れたのか。相手が皇帝だからか。幾人もの大臣を故なく殺してきた理不尽さのためか。そんなものをなぜ恐れるのか。

　崔慧景は首を振った。心の底の重苦しさは払えない。

　船が動き出した。新しい衣服を身に着け、崔慧景は船上に立った。

　日は西に落ちた。船が長江を下り行くと、後方の夕暮れの中に琅邪城は消えた。

　大河に広がる水音ばかりが耳に入った。流れの後ろも先も闇の中に沈んだ。

　老将軍の心に朝の高揚感がゆっくりとだが戻って来た。

「いったい何を恐れるのか」

　崔慧景は微かに笑った。

　笑うのは、心の内にある恐れるものを認めるからか。

　恐れるのならそれに勝てばいい。戦場で敵に負けぬ方法はただ一つ、勝つことだ。

「そうだ」

　崔慧景は前方に目を据える。そこには心を浮き立たせるものがある。それは何か。

　崔慧景ははっきりと自覚した。今ここに、自分は皇帝への道を踏み出したと。

　いついかにして事を起こすのか。崔慧景は思案した。蕭遥光も、蕭坦之も、陳顕達も、先には王敬則も失敗した。自分は違うと、崔慧景は思いたかった。皇帝がわざわざ自分を楼上に呼んだのは、反乱を企てても無駄であると暗に示すためだったのか。あの場で殺せば簡単にすむはずであるものを、それをしなかったのは、皇帝に絶対的な自信があるからなのか。

　崔慧景は蕭宝巻の顔を思い起こし、胃の内が燃えるように熱くなった。

「小僧め」

　崔慧景は強く甲板を踏み鳴らした。

「皇帝の玩弄物にはならぬ」

　崔慧景の水軍は長江を東に下り、欧陽において大河を離れ、北への水路に入った。

　長江北辺の大都市である広陵の東方を通過したところで、息子の崔覚が追いついた。都を脱出した。崔慧景に後顧の憂いはなくなった。

　広陵を離れること数十里、崔慧景は諸軍の指揮官を己の船に集めた。

「高帝、武帝、明帝の御厚恩を蒙り、皇帝の御命令の重さに己一身の命を軽くし、これまで五十年を戦の場に過ごした。しかるに今の主上は昏狂、朝廷は壊乱、危きを支える者はなく、国家の落ち行く先は今日にも現れようとしている。諸君らとともに大功を立て、国を安んじようと思う。いかに諸君らは判断するか」

　喜ばぬ者はなく、崔慧景は舳先の向きを直ちに反転させた。

　たまたま同族の崔恭祖が広陵の地を統治していた。崔恭祖は崔慧景の決断を喜び、広陵の城門を開いて崔慧景を迎えた。広陵にいること二日、崔慧景は崔恭祖と手を携えて都への進軍を開始した。

　長江の南の南徐州に使いを送った。蕭宝巻の弟、蕭宝玄がいた。人心はすでに蕭宝巻を離れている。しかるべき新皇帝を立てれば己のもとに人は集まると崔慧景は考えた。そうすれば勝利はたやすい。むろん真の狙いは己が皇帝になることにあったが、その思いは崔恭祖にも隠した。段取りが重要であった。

　蕭宝玄は徐孝嗣の娘を妻としていた。蕭宝巻は徐孝嗣を殺すと、蕭宝玄に離婚を命じ、蕭宝玄は兄を恨んでいた。蕭宝玄は崔慧景の誘いを喜んだが、怒ったふりをして使いの者を斬り、反徒を討つと称して兵士を集めた。崔慧景の水軍がいよいよ南徐州に近づくと、もはや皇帝を恐れて上辺を飾る必要はなくなったと、城門を開いて崔慧景を迎え入れた。

「思った通りだ」

　蕭宝玄が反徒の側に回ったとの急な報せを受けて、蕭宝巻は茹法珍と梅蟲児に言った。

　梅蟲児は軽く頭を下げたまま身動きしなかった。

　琅邪城以来、梅蟲児は蕭宝巻を直視し難くなっていた。もちろん皇帝をまじまじと見るのは非礼である。茹法珍と梅蟲児は特別で、他の者には到底許されないことも二人ばかりは違った。しかし、梅蟲児は蕭宝巻に畏れを抱くようになっていた。

　蕭宝巻は皇帝である。琅邪城で見たあの大軍を意のままに動かせる力を持っている。途方もなく偉大な力を備えている。その上、蕭宝巻は全てを見通している。大臣たちの命を弄び、此の度は、一隻の船も欠かさずに崔慧景が都に戻ってくると予言し、それがまさに現実にものとなろうとしている。

　蕭宝巻が全てを見通しているのなら、近くに常にいる梅蟲児の心の内などその底の底まで見抜いているだろう。蕭宝巻に対してあえて隠し事をしようと梅蟲児は思っているわけではないが、全てを見抜かれているというのは、梅蟲児に大きな畏れを抱かせた。

　思えば蕭宝巻が即位した最初の日から宮廷生活に不安を覚えていた。それは今も続き、弟を宮中に呼んだことを後悔している。そのような心の内をこれまでも今もすっかり見抜かれていると考えるのは、安心のできることではない。

　それは些細なことである。自分には大きな心配事も皇帝には一つの些事でしかなく、皇帝は大いなる天下の全てを知る。それこそが梅蟲児に言い知れぬ畏怖の念を抱かせるものだった。だから、蕭宝巻を直視できない。

　蕭宝巻は崔慧景が謀反を起こすのを見抜いていた。それがわかっていながら、なぜか琅邪城で殺してしまわずに、謀反を起こさせた。不思議である。蕭宝巻は梅蟲児の心を知りながらも今まで通りに遇している。二つは同じなのか。

　梅蟲児は、自分は崔慧景とは違うと思う。蕭宝巻は他の人に対してとは異なる思いを自分に持ってくれているはずである。だから、今もこうしてそばにいさせてもらえるのだと思いたい。そうであるから、自分は蕭宝巻に対して、他の人とは異なる思いを持たなければならない。ただ単に皇帝だから仕えるというのではない。他の人にはわからぬ何か、蕭宝巻の偉大さを自分はわからなければならない。それが何であるのか。

　普通に見れば、蕭宝巻は残虐な皇帝である。極悪非道と言っていいのだろう。もしもその暴力が自分に向けられたなら、梅蟲児などはいとも簡単に生命を失うことになる。だから蕭宝巻を恐れるのかというと、それは違うし、そんなことで恐れを抱いてはいけない。蕭宝巻によって殺された大臣や、無辜の民衆を、梅蟲児も人並みに憐れと思い、その命を救えないかとささやかな努力を払ったこともある。無闇と人が死ぬのは梅蟲児の好まぬところである。しかし、蕭宝巻の残虐さが、その偉大さを最もよく示すもののように、梅蟲児は感じることがある。

　崔慧景の謀反を「思った通りだ」と事も無げに言う。それこそが蕭宝巻の偉大さの証だ。蕭宝巻にはもっともっと偉大になってほしい。その偉大さの前に、あらゆる人がひれ伏し、あらゆる人が犠牲になるのは、悪いことではない。

　蕭宝巻は限りなく偉大な皇帝なのである。梅蟲児ごときが蕭宝巻の心の内を読めないのは当然である。崔慧景の謀反に対してどのように対処しようとしているのか見当もつかないが、それでいいのである。蕭宝巻はその偉大さを大いに示すようなことを今回もするに違いない。それを期待するのは、自分の心の底を見られているのを不安に思うことや、弟の身を心配することとはまた別である。

「どういたしましょうか」

　茹法珍にしては妙に自信のない声を出した。茹法珍にしても、今回のことに関しては、蕭宝巻の胸の内を推し量ることができないようだった。

　蕭宝巻に慌てる様子は全く見られない。

　琅邪城から出航した水軍は斉国の誇る最強の部隊である。あれがそっくり建康を攻撃しに戻って来るのは実に由々しき事態のはずである。余程の覚悟を決めて対処しなければ尋常ではすまぬだろう。茹法珍は、どういう算段を蕭宝巻が考えているのか読めなかったし、自分自身に問われても、これと言える良策の持ち合わせはなかった。

「阿丈は心配しなくてよい」

　蕭宝巻はごくあっさりと言った。

　茹法珍の顔が少しこわばった。

「外より誰かを救援に呼びましょうか」

　茹法珍は蕭宝巻の心を探るように言った。

「百人隊長が自分で始末を付けるだろう」

　徐世標のことだった。

　茹法珍は肩を落として梅蟲児に顔を向けた。

　茹法珍がこれほど困惑した表情をしているのを梅蟲児は初めて見た。悪い予感がした。

　徐世標は怒った。己の子分と思う崔慧景が謀反を起こしたのである。ひと思いに潰してやろうと思った。

　早速、二方面に部隊を派遣した。敵の水軍を迎え撃つために琅邪城へと、陸路来るかも知れぬ敵に備えて都の東方の蒋山へである。

　蒋山は、建康の北東に接する玄武湖の東にある。蒋山は元は鐘山と言った。漢末に、自分は死んだら神になると常々言っていた蒋子文が賊に追われてこの山で死んだことから、人々は蒋子文を神として鐘山に祭り、以来、蒋山と呼ばれるようになっていた。

　徐世標は水軍の方をこそ警戒し、陸路の方は一応念のため、大した力を入れなかった。自身は琅邪城に入った。

　歴戦の猛者である崔慧景は裏をかいた。主な兵士を船より下ろし、陸地を走らせた。官軍の主力が琅邪城に結集しつつあるのを見て、崔恭祖に先遣隊を指揮させ、一気に都を突くよう命じた。崔恭祖は蒋山の東に展開しつつあった官軍の脇をすり抜けた。

　琅邪城や蒋山で敵を撃退し、もしものことがあっても戦いはまだまだ先と思っていた都のすぐ前に、崔恭祖の率いる軍勢が突如として姿を現わした。

　崔恭祖は太鼓や銅鑼を叩いて気勢を上げ、城中に向かって大いに騒ぎ立てた。蒋山の兵士は背後に出現した敵に驚愕し、戦うどころか勝手に四散してしまった。暴虐を常とする皇帝のために戦う気持ちなど初めからなかったのである。

　崔恭祖は十余騎を率いて玄武湖の南岸を走った。北掖門が手薄だと見て取ると、いきなり都への突入を敢行した。気を呑まれた官軍は、門で防ぐことができず、敵が乱入し、都の大路を縦横に走って暴れるのを手をこまねいて見ているだけだった。崔恭祖は今日はこれくらいで都の連中を十分に驚かしてやっただろうと、時を見計らって外に出た。配下の兵士で傷付いた者は一人もなかった。

　崔恭祖とは何者か。蕭宝巻が即位する直前に王敬則が反乱を起こした。王敬則が都にまで迫ったときに、迎え撃ったのが崔恭祖であった。崔恭祖は獅子奮迅の働きをして王敬則を追い詰め、落馬したところに一太刀を浴びせた。とどめを刺したのは袁文曠という男で、この恩賞を巡って袁文曠は江兄弟を恨み、宮中で二人を殺害する事件を起こすわけだが、崔恭祖は広陵の地を授かったのである。

　かねてより武名高き崔恭祖の活躍と、官軍のあまりの無気力ぶりを見て、都周辺の諸城は、琅邪城一つを除いてことごとく崔慧景に降服した。信じ難いほどの急転直下の展開であった。

　崔慧景は蕭宝玄を連れて玄武湖畔に達した。ほとんど何もせずに都が丸裸になったのを見て、早くも有頂天であった。都城を守る台軍も日を置かずして瓦解し、自分が間もなく皇帝になれるのは確実だと思った。

　崔恭祖は崔慧景を迎えると、北掖門の奥に聳える北掖楼を火矢で焼き、混乱に乗じて都城内に突入すれば、戦いは一晩のうちに決着すると説いた。

　北掖楼は建康第一の美しい高楼である。その尖塔が玄武湖に映る姿は華麗な都の象徴であった。崔慧景は都をすでに自分の物にした気分になっていたから、北掖楼を焼いてしまうのはいかにも惜しまれた。皇帝になって後、それを再建するとなると莫大な費用がかかる。崔恭祖の作戦に難色を示した。

「少し待てば、敵は自壊する」

「手を緩めてはなりません。相手は皇帝。今の踏ん張りが肝要です」

　崔恭祖は己の主張を譲らず、自分の作戦の優れている点を繰り返し述べた。崔慧景もそれもそうだとは思う点がありながらも、崔恭祖が己の功を誇り、意固地になって言い張り続けたために、次第に不快になった。

「いたずらに不要な戦をしかけて都を焼き、民を苦しめるのは、仁者のすることではない」

　崔慧景の言葉に崔恭祖は怒った。

「仁者ぶりをして勝てると思っているのか」

「戦は好んでするものではない」

　崔慧景は澄ました顔で言った。

　崔恭祖の顔が朱に染まった。

「謀反が仁者のすることか」

「天下のための戦は謀反ではない」

「どうにでも言え」

　崔恭祖は崔慧景のしたり顔に我慢できなくなり、意味のない言葉を吼え、床机を踏み潰した。

　崔慧景はその粗暴な振る舞いに、始末に終えない奴だと、いっそう不快になった。今回の都攻めでは、その武勇を買い、かつ同族のよしみをもって崔恭祖に先遣隊の指揮を執らせたのだが、それは失敗だったと思い始めた。

　崔恭祖は確かに勇猛である。その活躍が官軍を総崩れにし、これまでのところ崔恭祖の働きが目立った。もしもこの先これ以上の手柄を崔恭祖が挙げ続けるとなると、面倒になりかねない。つまり、己が皇帝になった暁に、崔恭祖をどう処遇したらいいのか、大いに問題となるだろう。崔恭祖は我を張る男だ。手に負えないどころか、下手をすれば皇帝の位を横取りしかねない奴かも知れない。

　崔慧景は珍宝をもって崔恭祖をなだめ、結局のところ、水軍が到着し、琅邪城を落として後、都城への総攻撃を始めるということで二人の話は一応のおさまりをみた。

　崔慧景は郊外の大刹、法輪寺を居場所に定め、都城を厳重に包囲した。

　徐世標は琅邪城にいたが、水軍からの攻撃を警戒して動くことができなかった。都が陥落し、いずれ崔慧景が新しい皇帝になるのはかなり確実と見えた。

　都の人々は、崔慧景軍が乗り込んで来たなら、残虐な振る舞いに及ぶかも知れぬと危惧する一方で、今の皇帝の暴虐から救われることには大いに期待を寄せた。朝臣の中には早くも崔慧景に手紙を送り自分を売り込もうとする者があった。

　官軍の士気は低く、都の内から外に逃亡する者が続出した。特に、貴族の子弟で蕭宝巻の朝廷では冷遇されている者は、挙って法輪寺に詣でた。崔慧景は武将であると同時に風雅の士でもあったから、都の才人たちが己のもとに集まり来るのを大いに歓迎した。

　崔慧景は悠揚迫らぬ態度で、人々と仏教談義を楽しんだ。崔慧景が何の益にもならぬ荒唐無稽な議論にうつつを抜かすのを見て、崔恭祖は腹を立てた。

　　　　四

　都の周囲は敵軍で埋め尽くされた。むろん蕭宝巻は外での雉狩りができない。その憂さを晴らそうというのか、しかし、夜宴が復活した。

　梅蟲児は久しぶりに活躍の場を得た。嬉しいことではなかった。

　梅蟲児の抱いた悪い予感が当たった形になった。これほど早くに都が厳重に包囲されてしまうなど、誰もが予想せぬことであった。

　城壁の外に敵がいて、今にも入って来ようとしている。崔慧景軍が宮中にまで押し寄せて来れば全ては終わりだろう。琅邪城での仕打ちを思うまでもなく、崔慧景が皇帝を許すはずがない。茹法珍と梅蟲児も真っ先に殺されるだろう。

　官軍の不甲斐なさを見れば、勝つ見込みはありそうにない。最後の時が刻一刻と迫っているとしか言いようがない。それなのに、連日の夜宴で、歌って踊って芸を見せるのである。陽気に派手に振る舞うのは容易ではない。夜宴は明け方にまで及ぶのが普通だった。

　蕭宝巻はこうなると予想していたのか。まさか。とすれば、予想外のことが起こっているのか。そうとは思いたくない。梅蟲児にはどちらともわからない。茹法珍もとまどっているようだ。

　どちらにしても、現状を見れば、都はいけないと思わなければならないらしい。蕭宝巻は間もなく最後となるのを知っていて、それで自棄になって連日の夜宴なのか。それはそれで辻褄の合う話ではある。しかし、偉大な皇帝に相応しいことではないと、梅蟲児には思えた。

　夜宴が終わり、夜も白み始めころになって梅蟲児はようやく寝床に入った。疲れているはずなのに、思いが乱れて、梅蟲児は眠れない。むっくりと身を起こし、傍らの猿児の寝顔を見つめ、大きく溜息をつく。それが毎日のことであった。

　自分が死ぬのは仕方がない。だが弟は違う。

　その思いがいっそう強まった。猿児は宮中に呼ぶべきではなかった。

　悔やんでも遅い。

　呼んでしまったのは仕方ないとしよう。こうなる前に弟を外に出しておくべきだった。陳顕達の反乱の後も考えたことだ。どんなに遅くとも、崔慧景の謀反を知ったときには出しておくべきだった。

　ちりちりと胸が焦げるような思いがした。

　偉大な皇帝の目を恐れたのか。

　自分がどのように疑われようとも、猿児を皇城の外の屋敷に下がらせ、そして都の外に出しておくべきだった。弟一人が一生を過ごすに困らない程度の財宝を用意するのはそれほど難しくない。事が皇帝に知れ、処罰を受けても、弟が救われればそれでよかったのだ。

　そうではない。偉大な皇帝は間違いをするはずがない。皇帝の偉大さの前に、崔慧景の謀反など簡単に決着がつくはずだ。皇帝の最も近くにいる自分がそれをわずかでも疑ってはならない。なのに、弟のことを心配するなどあるまじき行為である。

「だめだ」

　梅蟲児は苦しげにうなった。

　自分はこれでいい。しかし、弟は別だ。

　早くも外には光が差し始めていた。今日も眠れずに終わってしまう。

　猿児に顔を近づけた。その目、その鼻、その口、すべてがひとしお愛おしく思われる。

「こいつだけは」

　弟を抱きしめたくなる。しかし、起こすまいと、ぐっとこらえた。不意に涙がこぼれ落ちた。

　猿児は目を開けた。顔のすぐ上に、生気が抜け小さく萎んだ兄の顔があった。

「どうしたの」

　梅蟲児は首を横に振った。

「何でもない」

「そう」

「ちょっと眠れなかっただけだ」

「そう」

「ああ」

　梅蟲児は身体を横たえた。

「だったらいいんけど」

「まだ早い。もう少し寝ていな」

　しばらくすると、猿児の寝息が聞こえ出した。

　この弟だけはと梅蟲児はまた思った。崔慧景が皇城に入る前に外に出さなければ。どうにか方法がないか。しかし、それは自分が考えていいことではない。

　梅蟲児の思考は同じところを回っている。

　不意に猿児が言った。

「まだ眠れないの。兄ちゃんは崔慧景がそんなに怖いの」

「そんなことはない」

「そうなの」

「あんな男はすぐに滅びるさ」

「そうだね。お上もそうおっしゃっていたよ。まだまだだって」

「まだ？」

「こんなことでは足りないって」

「足りない？　何が？」

「わからないけど、崔慧景は間もなく滅びるんだって」

「そう」

　梅蟲児はふっと息を漏らした。

　偉大な皇帝がそう言っているのなら、きっと間違いないだろう。自分は心配し過ぎなのか。だとしたら、今は決心しなくてもすむ。

　梅蟲児はそうであってほしいと願い、ようやく浅い眠りへと落ちて行った。

　夜宴は毎晩続いた。

　敵に囲まれた都は日中も死んだように静まり返り、夜は、皇城からの管弦の音が風に乗って都下全域に流れた。どの家のどの戸の裏にも皇帝の夜遊びの様がまざまざと伝わった。それは人々の憎しみを募らせ、皇帝のために戦おうという気を喪失させた。

　建康はこのときまさに風前の灯であった。崔慧景が攻撃を控えていたから、なお夜宴を続けていられた。

　崔慧景は、夜宴にうつつを抜かす皇帝のこの体たらくと、抵抗の意思を持たない都の人々の様子によって、急いで攻撃に出る必要性を全く感じていなかった。

　崔慧景のいる法輪寺には、誼を通じようとする都の人士からの手紙が渦高く積まれた。

　皇城内は陰鬱な空気に沈んだ。百官も宦官も女官も、武人までもが俯いて歩いた。誰もが負けを覚悟し、多くの者が崔慧景に手紙を送ったことを知られまいと、ひたすら沈黙を貫いた。

　梅蟲児は皇城の異様な雰囲気をひしひしと感じ取っていた。猿児から聞いた蕭宝巻の言葉だけが頼みの綱であったが、実際のところは、それが頼み甲斐のあるものとは思い難かった。偉大なる皇帝は間違うはずがない。だとすれば、崔慧景は滅びる。しかし、それはありそうにない。皇帝が間違わぬとすれば、都を滅ぼすために崔慧景を呼んだのかも知れない。崔慧景もその後で滅びるのか。

　思いは乱れても、夜宴となれば、梅蟲児は己の務めを懸命に果たした。

　梅蟲児の役目は蕭宝巻は喜ばせること、その一つである。それは蕭宝巻と出会った最初の日から変わらない。梅蟲児はこの状況下でも、新しい出し物、新しい芸を皇帝に見せようと努力した。

　しかし、楽人にしても踊り手の女にしても、敵に囲まれている中で気持ちが沈まないはずはなかった。歌も踊りも湿っぽくなった。あまり陰気になると蕭宝巻が苛立ちの表情を見せるから、梅蟲児が懸命に盛り上げねばならない。梅蟲児にしても無理があるから、動作がぎこちなくなって危うく失敗しそうになる。時にはそれが笑いの種となることもあったが、皇帝の不興を買うこともあった。

　猿児は救いだった。今までと少しも変わらず、楽しい技を決め、自然な笑顔を見せた。蕭宝巻も潘貴妃も猿児が前に出ると目を細めた。

　ある夜のことであった。

　蕭宝巻は、皇后の後ろに控えている宦官を指差した。

「おまえも歌えるだろう」

　指名された王宝孫が一歩前に進み出た。

「いえ」

　王宝孫は小声で答えた。

「いつもの歌は厭きた」

　この一言は梅蟲児の胸を突いた。自分は皇帝を厭きさせるようなことしかできないのか。確かに、包囲されてからの夜宴は梅蟲児の努力にもかかわらず低調であったのは否めない。

「私には」

「何でもよい。朕に聞かせてくれ」

　蕭宝巻の声は穏やかだった。

　王宝孫は皇后に顔を向けた。皇后は広間の中央に視線を注ぎ、そこに進み出るようにと無言で促した。

　王宝孫は深く礼をすると言った。

「どのような歌がよろしいでしょうか」

「おまえの好きなのであれば、朕は何でも満足する」

　王宝孫はゆっくりと前に進み出た。

　しばし考えて、決意を固めるかのようにうなずくと、口を開いた。

　　彼の黍は離離として　　　彼黍離離

　　彼の稷は苗をだす　　　　彼稷之苗

　少年宦官の声は優美で広場によく響いた。

　しかし、皇后の顔は青ざめた。王宝孫の唱え出したのは詩経の有名な詩であった。

　一文字も読むことのできぬ梅蟲児も、多くの詩を耳で記憶し、この詩も知っていた。国が破れ、廃墟となった都に黍や稷が伸びているさまを嘆く詩である。崔慧景に囲まれている今のこの酒宴の場にこそは最もふさわしくない詩だった。

　座が異様に緊迫した。

　王宝孫は息継ぎをして、座の様子を察して、その次の声を出すのをためらった。

「よい」

　蕭宝巻の声が響いた。明るい声であった。

　それを合図に王宝孫が続けようとすると、

「待て」

　と、蕭宝巻が言った。猿児を指差した。

「詩に合わせて踊れ」

　猿児は軽く跳んで出た。

　腰を曲げて礼をした。顔を上げつつ、困ったような表情を兄に向けた。梅蟲児はうなずき、口中で「大丈夫だ」とつぶやいた。蕭宝巻の声の様子から、猿児なら何をしても平気であると踏んだ。

　猿児は、とんと足を踏んで進み出た。

　猿児の歩み出る姿を見て、梅蟲児はにわかに緊張した。大丈夫だと思っていても、これまでになく胸の鼓動が速くなった。自分自身が踊るのだったらこれほどは緊張しない。

　猿児は軽やかに動いた。

　王宝孫は再び詩の初めから歌った。

　　彼の黍は離離として　　　彼黍離離

　　彼の稷は苗をだす　　　　彼稷之苗

　猿児は廃墟の光景と、そこに立って嘆く人を、即興の踊りによって巧みに描いた。

　詩は、都を廃墟にしたのは誰であるかを天に問う言葉で終わる。

　　悠々たる蒼天　　　　　　悠悠蒼天

　　此れ　何人なるかな。　　此何人哉

　猿児はするすると柱に登り、天を仰いで嘆き、両足で柱を抱え、両手を広げて慟哭し、そのままひらりと身を翻して柱より飛び、中空で二度三度と回転し、床の上に下り立ち、すぐに跳びはね、皇帝の前へと進み、床にぱったりと伏した。

　蕭宝巻は立ち上がった。

　王宝孫と猿児の二人の少年を左右の腕で抱え上げた。蕭宝巻は順に少年の顔を見た。

「朕の心を知るのはこの二人である」

　蕭宝巻は猿児を宙に放り上げた。猿児はくるくるとまわって梅蟲児の胸に飛び込んだ。

「弟をかわいいと思うか」

　猿児を立たせ、梅蟲児は膝をついて答えた。

「もちろんでございます」

「この者たちが朕の弟であれば、朕もそう思うであろう」

　蕭宝巻は王宝孫の腰を抱えて高々と持ち上げた。

　都城の外には蕭宝巻の弟の蕭宝玄がいたのである。

　この夜も気の早い一番鶏が鳴くころになって、蕭宝巻は潘貴妃と寝所に入った。

　梅蟲児は、湯に布を浸し、顔の化粧を落そうと、皇帝からの賜りものである鏡に顔を映し出した。派手な色に塗りたくられていた。その下にある本当の自分の顔はこの明るい色のものではない。

「早く終わってほしい」

　梅蟲児は目の周りを拭った。窪んだ小さな目が現れた。

「早く終わってほしい」

　梅蟲児はもう一度つぶやき、己の声にはっとした。

　自分は何を言っているのか。

　何が終わってほしいのか。

　隣の部屋では猿児が眠りについていた。

　何であれ全てが終わってしまうのがいい。梅蟲児はまたも思った。

　全てとは何か。

　敵に囲まれた城内で迫り来る終末を待つのはつらい。蕭宝巻が言うのが正しければ、崔慧景は勝てない。その先はどうなるのか。元に戻るのか。

　違うのだろう。崔慧景は来る。たとえ崔慧景が敗れるとしても、今日の蕭宝巻の振る舞いは、都がいずれは廃墟になるのを予感しているようだ。終わりは必ず来る。いつどのようにしてそれが来るのかは別としても、必ず来る。恐れつつそれを待つくらいなら、早く終わってしまった方がいい。終わるのは今日でもいい。

　だが、猿児は別だ。自分は早く終わってしまいたいが、猿児は違う。

　ふっと、背後に人の気配がした。

　それは自分の最後の時を告げに来たのであるかのように、梅蟲児は思った。

　振り返ると、王宝孫が立っていた。

　梅蟲児のきょとんとした顔を見て、王宝孫が心配そうに言った。

「申し訳ありません、お疲れでございましょうか」

　王宝孫の顔が曇った。梅蟲児は慌てた。相手が誰であってもまずは人を喜ばせたいと梅蟲児はいつでも思ってしまう。

　梅蟲児は微笑んだ。中途半端に化粧を落とした顔は滑稽なものではあった。

「猿児はもう寝ていますが」

　王宝孫は仲のいい猿児に用事があって来たのだろうと梅蟲児は思った。

「こんな時刻にたいへん申し訳ありません。皇后様がお越しいただけないかとおしゃっておられます」

　梅蟲児はあんぐりと口を大きく開けた。

　声が出なかった。皇后に呼ばれるなどあり得ることではなく、もちろん初めてだった。

　皇后が皇太子妃として東宮に来たのは五年前、妃がまだ十歳、梅蟲児は十六歳であった。蕭宝巻が茹法珍と梅蟲児に引き合わせ、阿丈、阿兄と呼べと命じたとき、美しい着物に包まれた小さな妃は震えていた。

　梅蟲児は急いで化粧を落とし、王宝孫に従った。

　歩みつつ、梅蟲児はふと思う。こんな時刻に皇后の部屋に忍んで行ったと蕭宝巻に知れたなら、とんでもないことになるだろう。ここで引き返すのが賢明だ。

　梅蟲児の胸がざわざわと騒いだ。

　梅蟲児は王宝孫に従い続けた。

　胸のざわめきは別のものになって行った。心の奥から、じわじわと熱い何かが湧き出し始めていた。それを押しとどめ、引き返すのが賢明であると、梅蟲児はもう一度思った。

　この湧き出すものは何なのか。それを知る前に、梅蟲児は皇后の部屋の前に到着していた。もう帰るわけにはいかなかった。

　王宝孫に手を曳かれて、梅蟲児は皇后の部屋に初めて足を踏み入れた。広い部屋の奥が御簾で仕切られていた。そこから漏れるほのかな明かりによって、その向こう側に、皇后の姿がぼんやりと浮かび上がっていた。

　梅蟲児は御簾の前に置かれた座についた。

　梅蟲児は影を見た。そこに、先程の宴席にいた今の皇后の顔ではなく、妹に似た以前の皇后の顔を思い描いた。

「兄上にお願いがございます」

　御簾の向こうに声があった。思い詰めたような響きだった。

　梅蟲児は、王宝孫に勧められても椅子には座らずに床に跪いていた。

「私のような者を兄などとはお呼びくださいますな」

　梅蟲児の心の奥はいっそう熱くなっていた。それが何であるのか、自分自身とまどった。

「聞いてくださいましょう。頼れるのは兄上しかいないのです」

「いえ、私は」

　梅蟲児は何を言っていいかわからなかった。皇后の声で心の奥の熱さは耐え難いほどになった。

「兄上にここに来ていただいた以上、私には後戻りは許されません。お聞きいただかねば、私には死ぬ以外にありません」

　梅蟲児は熱くてたまらぬ腹をぐっと押さえた。

「いえ、私は」

　梅蟲児は同じことを言って、その後が続かず、床に身を伏せて頭を付けた。

　死を覚悟しての皇后の願いとは何か。

　それを自分が聞いていいのか。しかし、皇后に言われたなら、どのようなことであっても断れないような気がした。いや、どのようなことがあっても、断りたくないと思った。

　なぜそう思うのか。

　衣擦れの音がした。

　梅蟲児は伏せたまま、気配に耳を澄ませた。

　皇后は御簾を上げ、そこより歩み出た。

　梅蟲児はいよいよ頭を低くした。見てはいけないように思われた。

　皇后は梅蟲児の前に膝をついた。梅蟲児は伏せたまま退いた。それを止めるかのように、皇后は手を伸ばした。

　梅蟲児の胸が鳴った。

　皇后の願いとは、まさか。

　皇后の指先が触れようとしたとき、梅蟲児は前に差し出して床についていた手を後ろにまわした。

　わずかに見上げた。皇后の顔には強い決意がにじみ出ていた。

　こんなにも間近に皇后を見ることはなかった。

　梅蟲児の目は皇后の目に引き寄せられた。皇后も梅蟲児の目を見た。梅蟲児は息ができなくなった。

　皇后は梅蟲児の手をとらえた。指が触れ、そして強く握った。暖かい皇后の体温が伝わった。梅蟲児は身を震わせた。

「私にできますことなら」

　梅蟲児は答えた。

「兄上であればきっとできます。いえ、兄上にしかできないことです」

　皇后は梅蟲児の手を押し戴き、ゆっくりと頭を床につくくらいまで下げた。

　この夜のうちにこの身が破滅となってもいいと梅蟲児は思った。

「どうぞおっしゃってください。私はどのようなことであれさせていただきます」

　皇后は顔を上げた。少しばかり表情が緩んだ。

　皇后は部屋を見回した。入り口に王宝孫が立っている他に誰もいなかった。王宝孫も周囲を見た。部屋の外には誰もいなかった。

「お願いとはたった一つでございます」

　梅蟲児は、皇后の胸も自分と同じように高鳴っているのを手を通して感じ取った。

　自分の腕を皇后の背へと回わそうとする衝撃が梅蟲児の身体を貫いた。そんな思いが自分にあることに驚いたが、腹の熱さはいよいよ燃えるようだった。

　しかし、皇后の一言は梅蟲児の全身を凍らせた。

「兄上に、弑逆の罪を負っていただきたいのです」

　梅蟲児の手から力が抜けた。皇后は逆に手に力を込め、その手を握り締めた。

「兄上が、お断りになることはないと思っております」

　梅蟲児の身体が小刻みに震え出した。それを隠そうとしたが、皇后にははっきりと伝わった。

　梅蟲児は頭を垂れ、するりと自分の手を皇后の手の内から抜いた。

　皇后の顔が歪み、今にも泣き出しそうになった。

　梅蟲児はその顔を見た。

　もう一度決心した。

「もちろんでございます」

　何ということを自分は言っているのか。

　しかし、もう言ってしまっていた。

　皇后はふっと息を吐いた。梅蟲児はその息をかすかに頬で感じた。胸が焦げそうになった。

「おっしゃる通りのことをさせていただくか、この場で死ぬかのいずれです」

　梅蟲児はそう言った。

　すぐに、自分の身がよじれるばかりの苦しさを味わった。なぜこんなことを言うのか。まだ言い逃れをしようとしているのか。梅蟲児は自分自身に対していきり立った。

　しかし、逃げたいのは本心であった。

　皇后は悲し気な顔になった。

「なぜかをお聞かせください」

　梅蟲児は続けて言った。

　自分の言葉を聞き、梅蟲児は泣きたい気分になった。わけを聞いてどうするのか。場合によっては断ろうとでも言うのか。何という卑劣漢だ。

　自分は百戯の徒。賤しい身。卑劣でいいのだと、梅蟲児は思った。

　皇后は立ち上がった。

　梅蟲児は、これで皇后が永久に自分から離れてしまうと感じた。

　終わった。自分は先程の言葉によってここで死なねばならない。皇后を裏切った卑劣漢として。

　胸が焼け爛れた。

　皇后はもとの御簾の内に戻った。

　梅蟲児は御簾に映る影を見た。また妹の顔が浮かんだ。

　皇后は静かに吟じた。

　　悠々たる蒼天　　　　　　悠悠蒼天

　　此れ　何人なるかな。　　此何人哉

　王宝孫がさっき歌った詩だった。

　余韻がおさまると、皇后は静かに話し始めた。

「呉の最後の皇帝は非道の行いが多く、皇帝は従兄弟の孫秀を故なく殺そうとし、孫秀はやむをえず北の晋国に逃れました。その十年後、呉の皇帝は人々から見捨てられ、呉は晋によって攻め滅ぼされました。晋の都にいた孫秀は呉の滅亡を耳にし、深く嘆じ、悠々たる蒼天、此れ何人なるかなとこの詩を吟じたと伝えられます。呉の滅亡と、今の私たちは、どこかに違うところがあるでしょうか。非道の皇帝は国を必ず滅ぼします。崔慧景が勝てぬとしても、晋が呉を滅ぼしたように、斉は滅びましょう。罪なき多数の命が失われ、この都が廃墟となる日が必ず来ましょう。私はそれを防ぐ一つの手段を知っております。罪深い一人の命を害することです。お上の昏虐をこれ以上長く続けさせてはならないのです」

　皇后の言うことに一つの誤りもないと、梅蟲児は思った。

　全てを早く終わらせるとさっき思ったのはこのことだったかも知れないと、梅蟲児は考えた。

「私たちは死を免れることはできません。たとえ崔慧景が失敗しても、いつかは誰かが斉国を滅ぼし、私たちを殺すでしょう。いたずらにその日を待つよりも、人々を救うために命を使った方がどれほどよいのか、兄上は私と同じ考えでございましょう」

　梅蟲児はうなずいた。

　そのとき、梅蟲児の心には皇后の言葉しかなかった。

　梅蟲児は皇后の願いをきくとすでに約束していた。途方もない願いではあったが、今さら約束を変えるなどということはしたくない。この妹を裏切ることはできない。

　うなずいた顎が元に戻ったとき、蕭宝巻の顔が脳裏を過ぎった。

　約束とは皇帝を殺すということだ。自分がそんなことを約束している。それでいいのか。

　否、いいか悪いではなかった。

　弑逆は大罪である。この上なく悪いことである。しかも、蕭宝巻である。十年を最も近くで過ごして来た蕭宝巻である。

　皇后の言う通りに非道な蕭宝巻はきっと国を滅ぼすだろう。蕭宝巻自身そう思っているようでもある。人々の不幸を少しでも軽くするには皇帝を殺すのがよいという、皇后の考えは理にかなっている。

　しかし、蕭宝巻は偉大な皇帝である。偉大な皇帝は人智の及ばぬことをするのである。大臣を殺し、将軍を滅亡させ、これからは国を破滅させる。それは悪いことのように見えるが、偉大な皇帝の為す偉大な行為なのである。それを完全に成し遂げてほしいとの思いが梅蟲児にはあった。自分はその手伝いをしなければならない。まして、蕭宝巻を裏切るなどとんでもないことである。偉大なる皇帝の偉大な事業を自分が途中で止めてはいけない。

　しかし、この妹の願いはきかないわけにはいかない。一度は聞くと言って、ここで裏切ることなどできない。

　御簾には皇后の影があった。

　梅蟲児の胸は限りなく熱くなった。

　決意し、深く一礼した。

「兄上を信じております」

　梅蟲児の胸に皇后の言葉が響いた。

　蕭宝巻は朝臣を太極正殿に集めた。全ての朝臣に召集が掛かったのは、例の元会以来であった。

　決戦に向けて人々に檄を飛ばすのか、あるいは、弟に譲位して都を明け渡すのか、二つのどちらかであろうかと人々は考えた。ほとんどの人は後者を期待した。そうなれば、平和裏に都は崔慧景に渡され、崔慧景に手紙を送ってかねてより通じている人々は新朝廷でしかるべき地位を得られる。前者の場合にはただ悲惨な結末が待ち受ける。

　夜であった。

　煌煌と明かりのともされた元会とは異なり、太極正殿は異様に薄暗かった。広い正殿内に揺れるのはわずか数本の蝋燭の炎だけ。隣に誰がいるのかどうにか見分けられたが、少し離れればぼんやりとした黒い影となり、高い天井は闇の彼方であった。

　人々が揃った。蝋燭の火がかすかな音を立てて燃えた。人々の顔に長引く包囲の疲労が深く暗い皺の影となって刻まれた。

　人々は無言の内に控え、蝋燭が半分ほども燃え進んだころになって、正殿の奥に新たな灯がともった。輿に乗った蕭宝巻が姿を現した。蕭宝巻は静かに玉座についた。群臣は床に伏した。

　蕭宝巻は言った。

「悠々たる蒼天、此れ何人なるかな。天が国を滅ぼすのか、人が国を滅ぼすのか。天は何をするものか、人は何をするものか。天は人に命を下すのか、人は天の命に従うのか。諸君らはその何を知るか」

　蕭宝巻は立ち上がった。

「朕はそのいずれをも知らぬ」

　蕭宝巻はそのまま黙り、ちりちりと蝋燭がまた半分の長さに燃え進んだ。

「顔を上げて見るがいい」

　蕭宝巻の声が響いた。

　人々はためらいながらも言われた通りにした。

　壇上に大礼服姿の蕭宝巻が立っていた。蕭宝巻は右手をさっと前に掲げ、袖を払って、指先をゆっくりと上に向け、正殿の天井の中央を真っ直ぐ示した。

「諸君らはここにその全ての答えを見るであろう」

　上方は真っ黒な闇であった。

　蕭宝巻はそのまま微動だにせず、蝋燭はさらにちりちりと燃え進んだ。

　半分ほどの長さにまたなったとき、闇にかすかに白いものが現れた。

　皇帝は膝をつき、両手を上に掲げた。

　その先に人々は目を凝らした。白いものははためくように揺れた。

　ふっと、大きくなった。ふわり、下に向かって降り始めた。

　南へと斜めに下り、その後ろから光がこぼれ落ちた。

　天井の縁まで来ると、ふわりとまた大きくなり、北へと向きを変えて下った。

　見れば、無数の宝玉がそこに輝き、長く金糸、銀糸が後ろになびき、朱色の布が波を打った。

　人々は息を呑んだ。

　はっきりとそれが何であるかがわかった。

　虚空を飛行する神であった。

　神は広い太極正殿を縦横に飛んで後、ひらりと蕭宝巻の前に舞い降りた。

　蕭宝巻は神の前にひれ伏した。三度叩頭し、その姿を拝んだ。群臣も習った。神の全身からは光が溢れた。

　蕭宝巻は言った。

「悠々たる蒼天、此れ何人なるかな。天が国を滅ぼすのか、人が国を滅ぼすのか。天は何をするものか。人は何をするものか。天は人に命を下すのか、人は天の命に従うのか。ここに朕は蒋子文神にこれを問う」

　神は蒋山に祭られている蒋子文神なのだった。

「そのいずれでもない」

　神は高く響く声を出した。

「ならば、その答えとは」

　蒋子文神が衣を揺すると、金銀の光が波を打ち、蕭宝巻の身体を包んだ。

「ただ一人、汝のみが知ろう」

　蕭宝巻は神の前に立ち上がった。

「まこと朕が心に適う言葉である」

　蕭宝巻は高らかに笑った。

　神が蕭宝巻の脇に膝をついた。

　蕭宝巻は神を見下ろして言った。

「汝、相国大宰大将軍録尚書揚州牧鐘山王蒋子文神に黄鉞を授けよう」

　蕭宝巻は黄金で飾った鉞を両手で高々と掲げた。妖しい光を刃から放たれた。

　それは巨大な鉞だった。蕭宝巻は片手に持ち替えると二度三度と振った。刃より光がこぼれ、人々の頭上に降りかかった。

　蕭宝巻は両手で黄鉞を捧げ直し、神の前にうやうやしく差し出した。

　黄鉞とは天子が自ら征伐に出る際に携えるものである。天子の印である。王朝交代の儀式である禅譲の際には、皇帝は次に皇位につく者に黄鉞を授けた。

　神は蕭宝巻に頭を垂れ、両手を上に掲げた。蕭宝巻はその手に黄鉞を置いた。

　黄鉞の重みを手に受けたのは梅蟲児であった。

　蒋子文神となった梅蟲児は右手で黄鉞の柄を握り、左手で鉞の刃の先を支えた。そのまま黄鉞を頭上に高く掲げた。

　梅蟲児は群臣たちの方に向きを変え、顔を上げ、立ち上がった。

　黄鉞の刃は研ぎ澄まされていた。梅蟲児はしっかりと柄を握った。刃の先は蕭宝巻の胸に向かっていた。

　梅蟲児の右腕がぴくりと震えた。ひと突きすれば、黄鉞の湾曲した刃の鋭い先は蕭宝巻の胸を深く抉る。

　ここで蝋燭が尽きた。黄鉞の光も神の光も消えた。太極正殿は闇に沈んだ。

　一切の気配も、一切の物音もなかった。

　群臣は身じろぎもせず暗黒の下に置かれた。

　長かった。人々は息が詰まり、胸が裂けそうになった。

　外に鬨の声が上がった。皇城を攻める戦がいよいよ始まったのか。

　群臣がわずかにざわつき始めた。

　光が外に走った。

　淡い光が太極正殿内に達した。

　黄鉞の切っ先が蕭宝巻の胸に当たっていた。蕭宝巻は神の右手を強く抑えていた。

　梅蟲児ははっきりと蕭宝巻の声を聞いた。

「朕はおまえが好きだ」

　　　　五

　この夜、ついに戦いが始まった。

　崔慧景にはまだ都城を攻撃する意思はなかった。できれば無血入城をこそ期待していたのだが、情勢がそれを許さなかった。

　崔慧景がこれまでずっと攻めずにいたのは、崔恭祖との関係ばかりではなかった。蕭宝巻の弟の蕭宝玄も一つの理由となっていた。

　崔慧景は名目上、蕭宝玄を祭り上げて連れ来ていた。飾りに過ぎないのだが、蕭宝玄は、手に絳毫を持ち、兵士八人が担ぐ輿に乗って、すっかり大将軍を気取って建康に乗り込んだ。

　崔慧景はそれを見て、

「愚鈍なだけ兄よりましだ」

　と、評した。我侭で礼儀知らずなところは兄と変わらなかった。成長すれば兄と同様に愚帝になるのは確実だ。いずれ皇位を奪うつもりの崔慧景にとっての問題は、当面の間だけ扱いやすければいいのだった。

　法輪寺に武帝の次男の息子が姿を見せた。蕭昭冑と蕭昭頴の兄弟である。この二人は、明帝が高帝、武帝の子孫を残らず抹殺しようとした永泰元（四九八）年四月の夜に危うく死を免れ、再び同じようなことが起こるのを恐れ、仏弟子となって都を離れて西方に逃れていた。崔慧景の挙兵を聞いて駆けつけて来た。蕭昭冑、昭頴兄弟の立ち振る舞いは温雅で、仏の教理にもよく通じており、崔慧景と話が合った。

　蕭昭冑、昭頴兄弟の出現は、明帝の残虐さを人々に思い出させた。蕭宝巻は明帝以上の残虐ぶりを見せ付けている。蕭宝玄はその弟である。それを皇帝にするのはどうみても望ましいことではなかった。崔慧景も、蕭昭冑、昭頴のどちらかを立てた方が人々の支持をより多く得られるだろうと考えた。とはいえ、いきなり蕭宝玄を捨てるのは無定見の謗りを免れない。何らかの段取りを整える必要があり、それには少しばかりの時間がいる。

　水軍はなかなか到着しなかった。気の利く武将たちは崔慧景と行動を共にしていた。水軍に残った連中は果報は寝て待てとばかりに、西に進むのを何かと遅らせていた。それでも、時間を必要とする崔慧景は敢えて督促しなかった。

　こうした膠着状態に、ただ一人、徐世標が動いた。

　徐世標は己が引き立ててやった崔慧景を怒っていた。ある夜、敵の目を忍んで琅邪城を脱出し、長江を渡って、小峴へと馬を走らせた。

　小峴には蕭懿がいた。

　蕭懿は、血筋は少しばかり離れるが皇室と同族である。九人の弟とともに蕭懿兄弟は揃って斉国の枢要な地位についていた。とくに次男の蕭衍は、文雅の才に恵まれ、かつて王融、謝朓らとともに竟陵の八友に名を連ねていた。

　蕭懿は崔慧景と同様に、斉国を裏切って魏国に走った豫州を征伐するため、兵士を引き連れて北上しつつあった。蕭懿は崔慧景謀反の知らせを聞き、皇帝からの新たな命を待って小峴にとどまった。

　蕭懿が朝の食事を取ろうと箸を持ち上げると、そこに徐世標が駆け込んだ。徐世標の衣は血に染まっていた。城を脱出した際に敵兵を切った返り血だという。

　蕭懿は箸を投げ捨てて立った。

「わかった」

　蕭懿は直ちに東に向かうと、徐世標に約束した。

　蕭懿は、何よりも意気を重んじる剛直な武将だった。一度口にしたことは絶対に守り、兵士には絶対服従を求め、皇帝の命こそは絶対であると考えていた。

　前年のこと、蕭宝巻が大臣を次々に殺戮していくのを見て、弟の蕭衍は謀反の誘いを蕭懿に仕掛けた。いずれ自分たち兄弟は身を滅ぼすことになると再三にわたって兄を説いた。蕭懿は頑として耳を貸さなかった。

　蕭懿は徐世標と馬を並べて都に向かった。

　蕭宝巻が蒋子文神に黄鉞を授けた夜、蕭懿の出した先遣隊は長江を渡り、都を臨む岸辺に到着した。船より、都を囲む崔慧景軍に火矢を注いだ。崔慧景軍がそれに応じて火矢を放つと、都城を守る兵士が鬨の声を上げ、崔慧景軍に向かって火矢を放った。

　火矢が四方に乱れ飛び、膠着状態は終わった。

　突こうと思ったのか。確かにそうだったのだろう。

　しかし、本当に胸を突いたのか。そうではなかったようだ。

　突けば皇后との約束が果たせた。右手には力を入れた。それ以上のことをその後でしたのか、梅蟲児ははっきりとした記憶がなかった。

　闇に包まれ、次に覚えているのは、蕭宝巻によって自分の手がしっかりと押さえられていたことだった。

　蕭宝巻は微笑みを残して太極正殿より去り、梅蟲児はその場で死んでしまおうかと思った。しかし、宦官によって蒋子文神は群臣の前に座らされ、この戦を遂行する命を群臣に向かって出した。

　ようやく部屋に戻ると、首を吊って死のうか、あるいは、薬を飲んで死のうかと迷った。皇帝を殺そうとした者は生きるのを許されない。当然のことである。

　死のうとほとんど決心をしつつ、弟を思った。自分が死ねば罪を認めたことになる。罪は弟にも及ぶだろう。

　蕭宝巻は梅蟲児が胸を突こうとしたのを知っていたのか。手を押さえたのはなぜか。突かれる気配を感じたからか。自然とそのような姿勢になっただけだったのか。別の意味があったのか。

　蕭宝巻は言った。「朕はおまえが好きだ」。なぜそう言ったのか。

　考えれば、死ぬしかないようであり、どこかに希望があるようでもあった。

　猿児を思うと、わずかでもあるかも知れないのなら、その希望にすがりたかった。

　しかし、偉大なる皇帝は全てを知るはずだ。

　皇后はどうなるのか。

　蕭宝巻の言葉があった。「朕はおまえが好きだ」。もしかすると、全てが救われるのかも知れない。

　まんじりともできぬ夜が明けると、本格的な戦闘となっていた。

　蕭懿は東に進むに際して、崔慧景の強力な水軍を警戒した。都を救うにはどこかで長江を渡らねばならない。敵の水軍にそれを阻止されては万事休すである。蕭懿は迅速な行動を取り、先遣隊に包囲軍を攻撃させて敵を混乱させる一方、自身は都から南西に離れた牛渚に急行した。

　崔恭祖はかねてより長江の西岸に兵士を置くべきだと主張していた。崔慧景は崔恭祖の言は何かと難癖をつけて斥けていたから、「皇帝を助けに来る者など誰もいない。我が水軍が航行する長江を渡れる者などいない」と、笑い飛ばしていた。

　蕭懿の急襲を受け、崔慧景は都城攻撃を大々的に始めた。崔慧景の攻撃は激しく、都城、皇城の二つの壁を越えて宮中にまで矢が飛び込んだ。

　長江対岸に蕭懿の大軍が集結しているように見えた。崔慧景は水軍に急ぐよう命令を送った。

　蕭懿は牛渚において長江を渡りつつあった。崔恭祖が迎撃に出ようとした。崔慧景はそれを止め、息子の崔覚を送った。

　都ではあちこちで太角が鳴りわたり、銅鑼が響き、鬨の声が上がった。城中のどこもかしこも戦の音で満ち溢れた。

　梅蟲児は意を決して鎧兜に身を固めた。兵士の中に混じり、どこか激しく戦われている場に出て、そこでいくばくかの戦いをして後、殺されてしまうのが最もいいとの思いに至った。どうせもう生きてはいられぬのである。せめて忠義の士として戦って死ねば、猿児は救われるだろう。

　いよいよ出陣と思っていると、猿児がやって来て、皇帝のお呼びを告げた。

　梅蟲児は、聞かなかったことにして戦に赴いてしまおうかと思った。

　猿児は兄の勇ましい姿を見て喜んだ。その手を握り、

「お上にお見せしましょうよ」

　と、兄を引っ張って、皇帝の前に連れて行った。

　梅蟲児は床に伏し、腹這いののまま皇帝の前に進んだ。顔を上げることができなかった。

「阿兄、よく似合うではないか」

　蕭宝巻の声はいつもと変わらなかった。

「立ってみせてくれ」

　梅蟲児は仕方なく立ち上がった。蕭宝巻と目を合わせることはできなかった。

「勇ましいぞ。だが、朕は阿兄に守ってもらおうとは思わない」

　梅蟲児はびくっとした。己は不要ということだろうと梅蟲児は思った。

　実際には、不要どころではない。皇帝を害しようとした謀反人である。

「阿兄の腕は朕がよく知る。弱い阿兄は朕が守ってやる。ここに座って待っているがいい」

　蕭宝巻は立ち上がると、梅蟲児の手を引き、玉座に無理やり座らせた。

「朕は阿兄のためにひと働きして来るぞ」

　蕭宝巻は外に出た。

　皇帝は兵士とともに城壁の上に立ち、敵に弓を放った。

　戦闘が始まったこの日から、蕭宝巻はすこぶる上機嫌であった。

　戦いは日を追って激しさを増した。

　崔慧景は、蕭懿が来る前に皇城を落としてしまおうと、猛攻撃をかけた。

　蕭宝巻は兵士の先頭に立った。皇帝自らが戦えば、将兵もいい加減にはできず、頑強に抵抗し、崔慧景が都城に入る隙を与えなかった。

　茹法珍も懸命に戦った。

　梅蟲児は鎧を着込んだものの、実戦に出るのを蕭宝巻は許さなかった。梅蟲児は戦いの音が響く中、何もできずに玉座に座って無為な時を過ごした。

　ひどく落ち着かないし、気も滅入った。

「どうせ死んでしまうのだ」

　自分にそう言い聞かせた。

　皇帝に対してどのような罪があろうとも、城が陥落し、皆が殺されてしまえば、同じことである。そう思って、無理に気持ちを落ち着かせようとした。

「どうせ死んでしまうのだ」

　そんなことばかりを思っていると、急に、蕭宝巻が戻って来た。

「阿兄、見ろ」

　蕭宝巻が大きな声で言った。

　梅蟲児は玉座から立った。

　蕭宝巻はいつもの甲冑姿であったが、腕に赤子を抱いていた。

「朕の子だ」

　梅蟲児は驚き、赤子の顔より先に蕭宝巻の顔を見た。

　蕭宝巻は険しい表情をしていた。自分の子を抱く父親の顔とは思えなかった。

　黄貴嬪の生んだ子だった。潘貴妃に不都合のある晩に、蕭宝巻の寝間の相手は黄貴嬪が勤めることが多かった。

「男だ」

　とすれば、お世継ぎであった。蕭宝巻の最初の子であり、世継ぎであるのに、蕭宝巻には少しも嬉しそうな様子はなかった。むしろ不快きわまりない表情でさえあった。

　梅蟲児は蕭宝巻の顔色ばかりを気にした。

「見ろ」

　と、また促されて、ようやく赤子をのぞきこむと、赤子は小さな声で泣いた。

「どうだ」

　蕭宝巻は赤ん坊をぐいと梅蟲児の前に突き出した。

「まことにかわいい子でございます」

　蕭宝巻は笑った。

「くしゃくしゃの猿だ。かわいいことがあるものか」

　蕭宝巻の声は怒気を含んでいた。梅蟲児は言葉を継げなかった。

「こいつは母親を殺してこの世に出た」

　黄貴嬪は出産後すぐに死んだ。

　梅蟲児は目を伏せた。

「それはそれは貴嬪様にはお気の毒に」

　梅蟲児はそれで蕭宝巻が怒っているのだろうかと思った。しかし、黄貴嬪をそれほど大切に思っているとはついぞ知らぬことであった。

「抱け」

　蕭宝巻は放り投げるように赤子を渡した。梅蟲児は受け止めた。

「黄貴嬪が死んだのは幸いだ。こいつは母親によい孝行をした。これから黄貴嬪に起こるであろう不幸の一切を見せなくしたのだからな」

　梅蟲児は蕭宝巻の言う意味がわからなかった。

　赤子は泣き声を上げた。梅蟲児はあやした。目の辺りが父親に似ていると思った。

「こいつが阿兄の子だったらな」

　蕭宝巻は赤子の額を指で突いた。

「滅相もないことでございます」

「この戦の最中に何の意味があってこいつは生まれたのか。ただ母親を殺すためだったのか」

　蕭宝巻は急に陽気に笑い出した。

「そうか、こいつは幸せな奴だ。こいつは朕のように皇帝にはならずにすむだろう。皇帝の子として幸せだった者などこの世には一人としていない」

　蕭宝巻は赤子の顔を見た。

「ただし、こいつが幸せと言うのは、崔慧景がすぐにもこいつを殺してくれればの話だがな」

　蕭宝巻は大声で笑った。赤子は激しく泣いた。梅蟲児は懸命にあやした。

　黄貴嬪の生んだこの赤子は蕭誦と名付けられ、潘貴妃の母親に預けられた。

　牛渚に向かった崔慧景の息子の崔覚は蕭懿の敵ではなかった。

　崔覚は戦を知らなかった。わずかに一戦を挑み、形成不利と見るや、逃げ腰になった。その気分は兵士に伝わり、大敗した。崔覚は父親のもとに逃げ帰った。ろくな戦いもできずに、二千余人がむなしく死んだ。

　崔恭祖の憤懣が爆発した。崔覚につまらぬ恨みもあった。先に崔恭祖は都城に乱入した際に東宮の官女伎を掠め取っていた。崔恭祖はそれを見せびらかし、崔覚はその中の一番の美女を欲しくなった。父親にねだった。崔慧景はそれを崔恭祖より奪って息子に与えた。崔恭祖は、崔覚が尻尾を巻いて逃げたと聞くや、女を取り返し、都城に使いを送って降伏を申し出た。

　崔恭祖の寝返りで情勢は一変した。

　崔慧景の反乱の結末は余りにもあっけなかった。

　崔慧景の多数の将軍が崔恭祖に続いた。都城の包囲網はたちまち崩壊した。

　蕭懿が都を目指して進んだ。

　崔慧景は、最後の頼みとする水軍に合流すべく東に走った。崔慧景のもとから人々が次々に脱落した。

　長江の岸辺の蟹浦で船影を求め、馬に鞭打っていたとき、崔慧景はただの一騎となった。恩賞を目当てとする漁師が襲った。崔慧景の首は鰌を入れる籃に収められて蕭宝巻のもとに送られた。

　崔覚も道で殺され、降伏した崔恭祖も人知れず殺された。

　　　　六

　崔慧景がいた法輪寺には、都の百官たちが崔慧景や蕭宝玄に送った多数の手紙が残された。

　蕭宝巻は太極殿前に群臣を集めた。手紙の束が渦高く積まれた。自分の書いたものが中にあるのを知る者は死を覚悟した。

　蕭宝巻は穏やかな表情であった。

「朕はこれらをまだ見ておらぬ」

　蕭宝巻は手に火を持ち、手紙の上に放った。全ての手紙はたちまち灰になった。

「朕の弟でさえ迷った。諸君らが誰を頼るべきか、心細く思った罪は朕にあり、諸君らを咎める者は誰もいない」

　皇帝のこの言葉を伝え聞き、身を隠していた蕭昭冑、蕭昭頴の兄弟が、皇城の守将である胡松に連れられてやって来た。

　蕭宝巻は笑って二人を許し、胡松によく労るように命じた。

　数日後、蕭宝玄が自らの手足を縛って兄の前に姿を現わした。

　弟は床の上に身を縮めて小さくなった。

　蕭宝巻は玉座より立ち、弟の縄を切った。

「憎むべきは、朕のかけがいのない弟をたぶらかした者である」

　手足に深く食い込んだ縄目の痕を撫した。蕭宝玄は涙を流し兄に謝罪した。

　蕭宝巻は弟を抱き起こし、ふだん潘貴妃とともに座る塌へと手を引いた。

　酒食が運ばれた。蕭宝巻は弟のために皿に盛ってやり、箸を渡した。弟は箸を持ったまま身体を硬くした。

「阿兄、何か楽しいものを見せてやってくれ」

　梅蟲児は猿児と細い綱の上に立ち、そこで皿を回す技を披露した。

　蕭宝玄は虚ろな目でそれを見た。

「どうだ、この二人はよい兄弟だろう」

　蕭宝巻は弟に言った。弟はわずかにうなずくだけで身をいっそう硬く縮めた。

　蕭宝巻は蕭宝玄に杯を渡した。弟の手が震えた。

　蕭宝巻は杯をもう一度自分で持ち直し、半分を飲んでみせた。兄は弟に穏やかな目を向けた。蕭宝玄は自分も飲んだ。

　女たちが出て踊りを始めた。

　蕭宝巻は蕭宝玄に肩を寄せて踊りを見た。

　信じられないような光景だった。至極にこやかな蕭宝巻の顔が、梅蟲児には何とも不思議なものとして映った。

　いや、これが蕭宝巻の本来の姿なのだと、梅蟲児は思い返した。兄弟が仲良く楽しげにしている、そのどこが不思議なのか。これこそが蕭宝巻の本当の顔だと、梅蟲児は信じたい気になった。

　酒がいくらかまわると、蕭宝玄から身体の硬さが少し取れた。

　兄は皿に肉を取り、弟に食べさせた。弟は箸を付けた。

　ひと口呑んで、

「兄上とこうしていられるなど夢のようです」

　と、蕭宝玄は涙ながらに言った。

「まさに夢のようだな」

　蕭宝巻は塌より立ち上がった。

　突然、弟の周りはぐるっと歩障で囲まれた。急に視界を遮られて蕭宝玄は驚き、立ち上がった。

　歩障の外で、耳をつんざく激しい音が鳴り響いた。角笛が吹かれ、陣太鼓が叩かれ、弓が鳴り、剣と剣をぶつかり合った。

　耳を裂くばかりの音がしばらく続いた。

　蕭宝巻が歩障を取り払った。

　弟は塌の上にうずくまって耳を覆っていた。

　蕭宝巻は笑った。

「どうだ。おまえが外にいる間に、朕はこういう目に遭っていたのだぞ」

　蕭宝玄は兄に詫びた。蕭宝巻はその肩を抱いてやった。

「朕とおまえは兄弟である。朕はおまえの苦しみを知り、おまえは朕の苦しみを知る」

　梅蟲児は猿児と手を握り合ってこの兄弟の姿を見た。

　翌日、蕭宝玄が目覚めると、机上に杯があった。

「お上からでございます」

　徐世標が立っていた。

　蕭宝玄は徐世標を見上げた。

「なぜ」

　徐世標は表情を全く変えることなく、杯を突き出した。

「どうぞ」

　蕭宝玄は兄から送られた毒をあおって死んだ。

　五月のことであった。

第五回　稟質凶愚

　　　　一

　建康を救った最大の功労者は蕭懿であった。

　蕭懿は戦いが終結して十日、皇城に入り、蕭宝巻を初めて間近に見た。蕭宝巻は想像していた粗野な虚ろ目の昏主ではなかった。くっきりと開かれた眼は麗しく、遠くを見やる視線は鋭く、身体つきはいかなる戦士よりも逞しく、衣服に隠されてもその下に隆々とした筋肉のあるのがまざまざとわかった。動作は機敏かつ優雅、言葉に才気が溢れ、一言でいって匂い立つばかりの凛々しい青年天子であった。

　蕭宝巻は蕭懿に深く礼を述べ、尚書令に任じた。尚書令とは朝廷の要、かつて明帝の遺詔によって徐孝嗣がこの役職にあった。

　梅蟲児はその日まで蕭懿の前に出たならばどのように振る舞えばいいのか、頭を悩ませていた。蕭懿にはきっと嫌われると思った。

　蕭懿は身体ばかりは小柄であるが、顔は人の二倍もあるかと思えるほどに大きく、発せられる声は雷のように轟き、かっと見開いた目は鷲のように鋭く、戦場の猛者もその声で怒鳴られ、その目で睨まれれば、失禁してしまうと言われた。軟弱な音楽、詩歌の類は心を腐敗させるとして忌み嫌い、甘く美味なるものは身体を腐敗させるとして遠ざけて口にせず、男子の一言を重んじ、浮華な言辞には耳を貸さず、要するに剛直無比の武人であった。

　梅蟲児こそはそうした蕭懿が最も嫌う惰弱の徒である。梅蟲児がおそよ世の役に立つことのない芸を披露しようものなら、蕭懿は怒り出すだろう。蕭懿が初めて登城した日、幸いにも梅蟲児には蕭宝巻からの呼び出しはなかった。

　その日ばかりではなく、それからずっと梅蟲児は蕭宝巻から何の命も受けず、蕭懿を雉狩りに連れ出したときにも同行を命じられなかった。

　しかも、都城の本格的な攻防戦が始まった夜から、蕭宝巻の夜宴はぴたりと開かれていなかった。だから、梅蟲児はただ自分の部屋で控えているばかりとなった。そうした日々は、表面だけを見れば、梅蟲児としては、蕭宝巻が即位して以来、最も落ち着いた暮らしぶりのようであった。夜は早くから静かに眠ることができたし、朝は日の出の前に起き、心身の鍛錬にたっぷりと時間を使うことができた。弟とともに新しい技の修得を進め、盛夏を前にしての薬草の世話が十分にできた。

　心の内は少しも穏やかでなかった。香を焚き呼吸を整え心の平静を得ようとしても、ざわめくものを鎮めることができなかった。身体を激しく動かしているごく短い時間だけはそれを忘れられる気がした。身体を止めればすぐに言い知れぬ茫漠としたざわめきが存在しているのを感じないわけにいかなかった。

　蕭宝巻が全てを見通す力を有した偉大な皇帝であるというのは、梅蟲児のますます強い確信となっていた。崔慧景の反乱が失敗に終わったのは、徐世標が活躍したからでもなく、蕭懿に軍功があったからでもなく、もともと蕭宝巻がそうなるように崔慧景を動かしたからなのだと、梅蟲児は考えた。崔慧景は成敗されるべくして成敗されただけ、蕭宝巻はその全てを知っていたのだ。

　とすれば、梅蟲児が蕭宝巻への反逆の罪を犯したことなど、蕭宝巻の目から逃れられるはずのないものである。ところが、梅蟲児は今のところ何の咎めだてもなく許されている。それがなぜなのか。蕭宝巻のみが知る理由があるのだろうか。それが何であれ、蕭宝巻に全てを委ねてしまう他はないのだが、梅蟲児には猿児という弟があった。

　梅蟲児自身は皇帝に命を託し、それがどんな結末になってもいいと思えるのだが、猿児に関しては違う。猿児ばかりはこの先の寿命を全うさせたいというのが、梅蟲児が繰り返し何度も抱く願いだ。

　だが、皇帝に命を託すというのは、皇帝を裏切ってしまった今となっては、実に怪しげなことである。一度は皇帝を殺そうとしていながら、その近くにこうしてのうのうと生きている。そんな不忠者が他にいるだろうか。

　それに、弟を救い出すためなら、自分の命を犠牲するのは少しも厭わないと思えるのだが、その実、自分の身の安全を確保するために弟を使っているのが現実である。弟が皇帝や潘貴妃に気に入られていることを、自分は大いに頼みとしている。兄として酷すぎるではないかと、梅蟲児は己を責めた。

　そして、皇后がいた。皇后のことをどう考えていいのかわからなかった。皇后と約束して皇帝を裏切った。皇后のために太極正殿で皇帝を殺そうとした。それが失敗に終わって、皇后がそれをどのように受け止めているのか知りたかった。自分が約束を果たさずに何もしなかったと、皇后は思っているのだろうか。そうかも知れなかった。皇后のために自分はこれほど苦しんでいると、知らせたい気持ちがあった。しかし、自分は大事な約束を果たせなかった。皇后はそれで梅蟲児を情けない酷い男だと思っているのかも知れなかった。皇后は梅蟲児が失敗し、身に迫る危険に怯えているかも知れなかった。もしかしたら、梅蟲児が約束を果たさないばかりか、蕭宝巻に密告したと疑い、大いに恨んでいるかも知れなかった。

　皇后つきの宦官である王宝孫と仲の良い猿児から、皇后の様子をそれとなく聞き出そうかとは思っても、そんなことをしていると皇后に知られるのを恐れ、梅蟲児はうっかりしたことを口にできなかった。

　蕭宝巻は蕭懿と何度も雉狩りに出かけた。鷹犬隊主、媒翳隊主が雉を追い出すと、二人は轡を並べて獲物を追った。蕭宝巻と蕭懿は同時に弓を引いた。蕭懿は、弓を引く強さ、狙いの正確さで軍中一を誇っていたが、蕭宝巻の方が常により急所に近く深く獲物を射抜いた。蕭宝巻は地上をすばやく走る小さな獣も造作なく仕留め、空高く飛ぶ鳥も易々と射落とした。狩に飽きると蕭宝巻はもろ肌脱ぎとなり、重い鉾を馬上で軽々と操った。蕭宝巻のたくましい筋骨が躍動し、蕭懿は目を見張った。

　蕭懿は蕭宝巻と行動をともにする日を重ねるにつれ、蕭宝巻に深く惚れ込んだ。

「かくも武に優れた天子がこれまでにいただろうか」

　蕭懿は元来が忠節心厚い武将であり、文弱な貴族を嫌った。弟の蕭衍がその文才をもって王融、謝朓らとともに竟陵の八友に数えられてもてはやされるのを苦々しく眺め、自身はもっぱら武に励んだ。卑劣な陰謀を憎み、王融と竟陵王が死んだときにも何ら同情しなかったし、蕭衍が謀反を勧めたときには怒って穢れた耳を清流で洗い流した。皇帝の絶対的権威が貫徹されるべきであるとの信念を持ち、徐孝嗣以下の明帝の遺詔にあった大臣が尽く殺されたのは自業自得であると考えていた。

　蕭宝巻にこれまでに粗暴な振る舞いがあったのは、皇帝自身の本来の性質によるものではなく、皇帝の近くに巣食う者どもが仕向けたものに違いないと、蕭懿は考えた。特に悪いのは、茹法珍、梅蟲児、徐世標の三人であり、それに加えて潘貴妃がいた。蕭宝巻はまだ二十歳に満たない若者である。近くにどのような人間がいるかによって左右されてしまうのはいたしかたない。今後しかるべき人間が正しく補佐すれば、この勇武な若者が古今にない偉大な武人皇帝となるのは十分にあり得ると思えた。

　むろん、しかるべき人間とは蕭懿自身である。北の魏国を成敗し、中国全土を統一し直すという大事業を成し遂げる者がいるとすれば、この若武者をおいて他に誰がいようか。蕭懿は、斉国を挙げての大軍の先頭に立って大号令を発する蕭宝巻の姿を想像した。もちろん、その隣には蕭懿自身が控えている。漢人の悲願である中原の回復という偉業を我が手で為すという夢想に蕭懿の心は躍った。

　蕭懿は、茹法珍、梅蟲児、潘貴妃の顔はまだ見ていなかった。その三人がおよそ愚劣極まりない連中であるのは伝え聞くことから十分に想像がついたし、徐世標一人を見れば後は押して知るべしでもあった。徐世標は、単騎、蕭懿を呼びに出て以来、蕭懿とは肝胆相い照らす友であるかのように振る舞っていた。徐世標は蕭懿に対して極めて親しげに話し掛けた。皇帝の手前、蕭懿はさりげなく対応していたが、その実、内心では徐世標を嫌った。蕭宝巻の残虐な行いとされるものの多くは、実際には徐世標が手を下したものだ。徐世標の残忍さが皇帝を害しているのは明らかだと蕭懿は見ていた。

　徐世標は陳顕達に続いて崔慧景をも破る功績を挙げ、直閤驍騎将軍の地位を得て、皇城の兵を自由に動かせるようになった。蕭懿が就いた尚書令に比べたら直閤驍騎将軍などは遥かに下である。徐世標はそんな上下関係を少しも気に留めず、兵士仲間でかわす粗野な言葉遣いで蕭懿に話し掛け、猥雑な話を大声でしては一人で勝手に笑った。それだけなら徐世標の出自の卑しさを示すだけのことかも知れないが、徐世標は将軍の地位を笠に着て都の金持ちから好き勝手に財宝を強奪していた。こんな者は一日も早く皇帝の近くから除かねばならない。茹法珍、梅蟲児、潘貴妃も同類で、皇帝のために一掃せねばならないと、蕭懿は思った。

　崔慧景の反乱で何の対応もできなかった茹法珍に対し、徐世標は明らかに見下した態度をとるようになった。徐世標が胸をそらせて歩み、茹法珍がその後を追うようになった。

　茹法珍は小走りで徐世標に歩み寄った。

「お気をつけください」

　茹法珍はあたりをはばかるように耳元にささやいた。

　徐世標は偉ぶった態度で茹法珍の顔を覗き込んだ。

「なんだ」

　茹法珍は身を屈め、目を伏せながら言葉を続けた。

「蕭坦之殿、崔慧景殿が御身によって成敗される前に何をしていたのかを、よくお考えになるべき時ではございませんか」

　徐世標は首を傾けた。茹法珍は上目遣いに一瞬だけ徐世標を見ると、身を翻した。

　徐世標は、去って行く後ろ姿に、ふんと鼻先で笑ったが、急に不安を覚えた。

　蕭坦之も崔慧景も、蕭宝巻に勝利をもたらした。この者たちがいなければ、蕭宝巻はとうに死んでいたかも知れない。蕭宝巻はその二人をたちまち死に追いやった。蕭坦之や崔慧景と同じ立場に自分が今いると茹法珍が警告したのだと、徐世標は気付いた。

　そんなはずはないと、徐世標はすぐに否定した。茹法珍のやっかみに違いない。疑心暗鬼に陥れる罠であるかも知れないと考えた。

　今度会ったら茹法珍を脅し付けてやろうと徐世標は思ったのだが、それから数日の間、茹法珍の姿を見かけず、徐世標は苛立った。

　ようやく茹法珍の顔を見つけ、徐世標は荒々しく駆け寄った。茹法珍は驚いたように徐世標を見つめた。

「何をなさっているのです。よもや無為にこの日々を過ごしていたわけではありませんでしょう」

　徐世標はむっとした。

「そんなことはない」

「ならばいいのです」

　茹法珍は足早に行ってしまった。

　徐世標は唾を吐いた。

「馬鹿な奴だ」

　徐世標は相手を脅し付けるつもりが、逆に自分の不安を強くさせられてしまった。

　茹法珍におかしな真似をされる前に、うまく利用してやらねばと、徐世標は考えた。

　しばらくして茹法珍の姿を見つけると、偉ぶった姿勢で茹法珍を手招きした。茹法珍は腰を屈め、手揉みをしながらするすると歩み寄った。その卑屈な態度を徐世標は鼻先で笑った。

「阿丈殿にお尋ねしたい」

　徐世標は幾分か丁寧な音調を心がけて言った。

「私などに何でございましょうか」

　茹法珍は徐世標を見上げた。茹法珍は元来が徐世標とほぼ同じ体格だが、このときはそれだけ身体をわざと小さくさせていた。

「他でもない、いずれの世にあっても、天子は、己の手足となって働く大臣、将軍を大事にするものではないのか。このことを教えていただきたい」

　茹法珍は顎の鬚を撫した。

「むろんそうでありましょう」

「ところが俺たちの場合はどうなのか」

　徐世標は探るような目付きで茹法珍をのぞきこんだ。茹法珍は渋い顔を作ったが、言葉は至極静かな調子で答えた。

「この上なく大事にされておりましょう」

「そう思うのか」

「他にどう思うのでしょうか」

　茹法珍は目を伏せた。

「よりよい男がいるとしてもか」

　徐世標は茹法珍の腕を取った。茹法珍は顔を上げて徐世標の目を見た。徐世標は微笑んだ。

「そのような方がおられるのでしょうか」

　茹法珍が声を低めて言った。

「だったらどうするのか」

　徐世標は再び探るような目付きで茹法珍を見た。茹法珍は顔を伏せた。

「いえ」

　そう言いながらも徐世標の手を強く握った。

　徐世標は強く握り返し、深くうなずいた。こいつは使えると思った。

　徐世標は秘かに蕭懿の屋敷を訪ねた。

　蕭懿は歓待した。

　蕭懿と杯を交わし、轡を並べて建康に軍を進めた蕭懿との絆は固いと、確信した。その蕭懿を蕭宝巻に代わって皇帝に就ければ、自分の地位は安泰だと徐世標は考えた。そのために、まずは茹法珍を使って蕭宝巻を殺す。

　この日は、徐世標は己の考えを告げるつもりで蕭懿を訪ねたのだった。酒を酌み交わすうちに徐世標は気が大きくなり、蕭懿は一も二もなく己の話に乗って来ると思い込んだ。

　徐世標は蕭懿の前で蕭宝巻の悪逆ぶりをあげつらった。蕭宝巻が即位以来どのようなことをしたか、徐世標は明け透けに語った。

　蕭懿は始めは黙って聞いていた。徐世標が微に入り細に入り蕭宝巻の不徳をあげつらい、悪口雑言をほしいままにすると、蕭懿は不快な表情をあからさまに外に出した。徐世標はそれに気付かずに話を続け、こんな悪童天子は古今にないと言った。蕭懿は突如として杯を床に叩きつけた。

　徐世標は蕭懿を見た。蕭懿は立ち上がり、全身を震わせ、徐世標を睨み付けた。

　徐世標は口を開け放しのまま、何が起こったのかを理解しようとした。

「そのときそなたはどうしたのか」

　蕭懿が激しい口調で言った。

　徐世標は気を呑まれて返答ができなかった。

　蕭懿は椅子を蹴って部屋を出た。

　蕭懿の姿が目の前からいなくなると、徐世標は額の汗を拭った。無性に腹が立って来た。今すぐに殺してやろうと思った。しかし、ここが蕭懿の屋敷であることくらいは酔った徐世標にもわかっていた。

　徐世標は荒々しくそこを出た。

「せっかく俺が皇帝にしてやろうと思ったのに」

　徐世標は宮中に戻り、蕭懿を消す算段を考えた。

　尚書令という地位にある者を殺すには、皇帝の命令が必要だ。皇帝にどのように話を持って行くかをあれこれ思案するうちに、そんな面倒なことをしなくてもいいのだと、徐世標は思い付いた。

　もう一つの別の手を打つのが手っ取り早いと思った。蕭宝巻の代わりに蕭懿を皇帝にできないのなら、自分が皇帝になればいいのだと徐世標は考えた。こんな簡単なことをどうして今まで思い付かなかったのかと、徐世標は自分自身を笑った。蕭懿を皇帝にするよりも、自分が皇帝になった方が遥かに己の身を安全にするのは、子どもでもわかる理屈だった。

　では、どうやって皇帝になるのか。蕭宝巻を殺せばいい。やはり茹法珍だ。それに梅蟲児も仲間に引き入れれば余計にやりやすくなる。茹法珍は完全に追い越してやったから、俺の思うままに動くはずだ。梅蟲児はと思って、徐世標は笑った。梅蟲児の弱みは握っていた。

　皇帝を殺すのはあの二人に任せておこう。後で弑虐の罪を二人になすりつけて成敗すればいい。悪童天子の蕭宝巻が死ぬことは百官連中一人残らず大歓迎だろう。そいつらを手なずけるのは簡単だ。警戒すべきは蕭懿だ。あれを何とかしないとならない。

　徐世標は名案を得たと一人喜んだ。

　蕭懿は徐世標を追い返した夜から、病と称して皇城には出向かずに屋敷に篭った。

　その隙を狙ったということなのか、蕭宝巻は久しぶりに夜宴を開いた。

　梅蟲児の心は半ばは張り切り、半ばは臆した。本来の活躍の場を得たのは喜びであった。新しい演目も入れた段取りを定め、入念に準備した。臆したのは、皇帝が己の裏切りをどう捉えているのかなお大きな不安があり、そして皇后を思うからであった。夜宴となれば、皇后が姿を現す。自分はどのように皇后の前に立てばいいのか。皇后の前で自分は冷静さを失ってしまうかも知れなかった。そうなったら、蕭宝巻はそれを見て、自分と皇后と通じていたのを見抜いてしまうかも知れない。この夜宴が二人の最後の場となるということも、全くあり得ない想像ではないように思えた。

　しかし、いくら臆してもその時は来た。

　蕭宝巻はいつもと変わらずに現れ、いつもと変わらずに潘貴妃と手を取り合って席に付いた。皇后もいつも通りにやって来て、いつも通りに座に付いた。梅蟲児の胸は激しく鼓動したが、皇后は無表情だった。

　梅蟲児は猿児とともにまずは最初の座興を軽く披露した。いつもと変わらずにできた。猿児のお陰であった。

　楽士たちの優美な楽曲の演奏に移り、梅蟲児は広間の隅に立ち、酒食が滞りなく運ばれるのを見守った。

「今日かも知れぬと思うことはないのか」

　いつのまに徐世標が梅蟲児の脇に擦り寄って来ていた。徐世標がこうして声を掛けて来るなどついぞないことだった。

　徐世標とは東宮時代から近くにいるのだが、互いに口をきくことはほとんどなかった。梅蟲児は座を陽気に盛り上げるのが職分であり、徐世標は陰で血腥い役を努めるのが職分であった。二人の間には茹法珍がいて、徐世標に対して親しみを感じるような関わりを持ったことはなかった。

　珍しく徐世標が頭の上から掛けて来た声には不気味な響きがあった。

　嫌な心持ちがしたのを梅蟲児は押し隠した。背の高い徐世標を見上げた。化粧をした宴席での顔は己の気持ちを知られぬには便利であった。

「俺は阿兄が心配でならない」

　徐世標はあらぬ方を見ていた。その先には皇后の席があり、梅蟲児はさらに嫌な心持ちになった。

「何をおっしゃっておられるのですか」

「今日がその日かと少しでも思ったりしたなら、さぞ、不安であろうな」

　徐世標は、ふふっと笑った。

「何のことか一向に」

「そうか」

　徐世標は上から覗くように見下ろした。梅蟲児はその顔を見ないようにした。

　梅蟲児の胸の内にあるいつも消すことのできないざわめきがことのほか強くなった。

「わかりません」

　梅蟲児は首を振った。

　徐世標は腕組みをした。

「いずれにしても、俺が阿兄を心から心配しているってことを忘れないでほしいんだ」

　徐世標はまた嫌な笑みを浮かべた。

「はあ」

「この曲はもうすぐ終わるな。次は阿兄の出番ではないのか」

「ええ」

「うまくやれよ。そうでないと、杯を乾すことになるかもわからない。蒋子文神といえども例外ではないだろう」

　梅蟲児の全身から血の気が引いた。

　徐世標はすでに歩み去っていた。

　この男は見ていたのか。

　梅蟲児は徐世標の背中を見つめた。

　蒋子文神に扮した自分が蕭宝巻の胸を突こうとしたのを徐世標は知っていたのか。それでいま自分を脅そうとしたのか。

　梅蟲児は背筋に冷たいものを感じた。徐世標がもしも知っているとしたら、梅蟲児だけでなく皇后の命もその手に握っているということになる。

　梅蟲児は額を拭った。

　銅鑼が鳴った。

　猿児が赤い旗を左右に振り回しつつ登場した。軽やかに二度三度と跳ね、皇帝の前に立った。

　梅蟲児は大きく呼吸し、衣服を整え、右足を高く上げ、左足を高く上げ、交互に高々と足を上げながら歩み出た。黄色い衣装の弟の脇に立った。梅蟲児の衣装は青だ。

　猿児は旗を中空に放り上げた。落下して来るのを、柄の最も下を掴んで受け止め、すぐさま水平に低く構えた。梅蟲児は両手を前に伸ばし、高々とつま先を蹴り上げて横ざまに歩み出した。猿児は二本の旗を床すれすれの高さでゆっくりと大きく回し始めた。

　梅蟲児は旗の回転とは逆向きに足を進めた。猿児の回す旗は次第に速くなり、梅蟲児は速く歩んだ。旗の回転はいよいよ速くなり、猿児の周囲は赤く染まった一枚の円盤となった。青い梅蟲児が身を反転させて旗の上へと跳んだ。梅蟲児の手は旗の流れの隙間の床を突き、梅蟲児の身体は半回転し、梅蟲児の背の下を旗が波打って通過した。次の瞬間に梅蟲児の爪先は床を突いて跳びはね、半回転する梅蟲児の腹の下を旗が波打って通過した。猿児を中心にして、旗と梅蟲児が逆向きにぐるぐると回った。

　猿児は旗を上と下に動かした。梅蟲児は旗の上を飛び、旗の下をくぐった。赤と青とが一色にまざり、どれが旗でどれが梅蟲児なのか誰の目にも見分けがつかなかった。

　銅鑼が鳴った。渾然一体となった色の中から、梅蟲児が飛び出し、蕭宝巻と潘貴妃が座る塌の前にひらりと降りた。猿児が旗を振り納め、兄弟二人は皇帝に向かって深々と礼をした。

　潘貴妃が手を打って手練の技を褒めた。

「みごとだ」

　蕭宝巻も満足気に、潘貴妃が手にしていた杯を取って、梅蟲児に向けて差し出した。

　梅蟲児は膝を付いて進み出て杯を受け取った。なお息がはずんで腕が上下に揺れた。蕭宝巻が合図すると、徐世標が歩み寄って酒を注いだ。

　そのとき徐世標がふふっと笑ったような気がした。

　今日かも知れないという意味がこれだったのか。

　梅蟲児は徐世標の横顔を見た。徐世標は視線を合わせなかった。なみなみと注がれた酒は、梅蟲児の腕の揺れで床にこぼれそうになった。梅蟲児は両手で杯を支えた。蕭宝巻の前から二三歩引き下がった。

「褒美だ」

　梅蟲児が酒が飲めぬのを蕭宝巻はよく知っているはずだった。

「有難き幸せでございます」

　梅蟲児は大きな笑顔を作った。蕭宝巻と潘貴妃に頭を下げた。皇后にも顔を向けた。それが自然な儀礼の一つであるように、頭を下げた。

　一瞬だけ見た皇后の顔は、先程までのいつもの無表情ではないように、梅蟲児には見えた。深い憂いを含んだ目をしていると梅蟲児は感じた。

　蕭宝巻にこの一瞬の動作を見られてしまうのを恐れた。

　梅蟲児は跳ぶように立ち、杯を高く捧げ、爪先立ちでぐるっと一回転し、広間の隅々に視線を送った。今日は茹法珍がいないのは始めからわかっていたのだが、改めて茹法珍の姿を求めた。これが別れとなるのかも知れなかった。やはり茹法珍の姿はなかった。

　酒は一滴もこぼれなかった。梅蟲児は正面に向き直った。

「有難く頂戴いたします」

　梅蟲児は杯を口元に運んだ。

　猿児が脇に立っていた。これで弟と話もできなくなるのかと、化粧の下で梅蟲児の顔が歪んだ。

　徐世標がふふっとまた笑ったような気がした。

　梅蟲児は覚悟を決めた。たとえここに毒が入っているとしても、もともと蕭宝巻に捧げた命だ。それが皇帝の意向によってここで終わるのなら、それで仕方ない。

　梅蟲児は目を閉じ一息で飲み干した。熱いものが口中に広がり、喉から無理に押し込むと、燃えるものが胸を通った。激しく腹が焼かれた。これで終わりだと思った。

　目が開いた。皇帝の笑っている顔が前にあった。

　腹は燃え、毒の効果かも知れなかった。舌が引きつって皇帝への礼をうまく述べられなかった。頭がくらくらし、床に伏して皇帝を拝したまま、ずるずると後ろにずり下がるしかなかった。猿児の力を借りてようやく立ち上がったが、三歩も進まぬうちにへたれ込んだ。

「阿兄は相変わらず酒に弱いな」

　蕭宝巻は笑った。

　夜宴は梅蟲児の考えていた段取りの序の口だけで終わった。

　翌朝、梅蟲児は幸いにも目を覚ますことができた。

　徐世標が入って来た。梅蟲児の部屋に徐世標が姿を見せたのは初めてであった。

　やっと寝台の上に起き上がったばかりの梅蟲児を見下ろして、徐世標は言った。

「今回ばかりはまだだったな」

　例の気味の悪い低い声だ。梅蟲児の頭がずきずきと割れるように痛んだ。梅蟲児は顔をしかめた。徐世標は笑った。

「早く安心できるようにするしかないだろう」

　徐世標は、梅蟲児が何かを言う前に出て行ってしまった。

　梅蟲児の頭痛は我慢できないほど激しかった。猿児が持って来た水を一息に飲んだ。猿児の心配そうな顔に、梅蟲児の心が痛んだ。

　梅蟲児は猿児に大きな秘密を持っていた。それが梅蟲児を不安にさせる一つの大きな原因なのだが、弟には言うことができない。

　徐世標の言葉を思った。安心したかった。自分も安心したいが、この弟をこそ安心させたかった。その方法があるのだったら、今すぐそれを知りたかった。

　水が腹中に至ると、梅蟲児はかすかなうめき声を出した。吐きそうになった。

「大丈夫？」

　猿児は兄を見つめた。

　昨日の杯に毒が入っていたのなら、この痛みも悩みもないだろう。

　あのまま死んでいたら、全ては終わっていた。それが安心できる最も確かな方法だったのかも知れないと、梅蟲児は思った。

　そんな思いを弟には気付かれぬようにと、

「ああ」

　ただ息を吐くだけの返事をして、再び横になった。

　猿児はしばらく兄の様子を見守っていたが、ぽつりと言った。

「王宝孫さんが、先程来ました」

　梅蟲児は跳ね起きた。頭がぐらぐらした。

「何かおっしゃっておられたか」

　梅蟲児は皇后を思った。

　兄の挙動に弟は不審な眼差しを注いだ。

「寝ていますと答えたら、すぐに行ってしまいました」

「そうか」

　梅蟲児は力なくうなずくとまた横になった。

　いつものざわつきが激しくなっていた。自分のこと、弟のこと、そして皇后のことが梅蟲児の心を痛めつけた。

　梅蟲児は頭を抱え、うつぶせになり夜具に顔を埋めた。

　涙が溢れた。

　梅蟲児は不意に妹の看病をしていた昔を思い出していた。それは苦しい日々であったのだが、今となっては無性に懐かしい。あのころの昔に戻り、あのころのままに時間がずっと続いたならどれほどよかったか。

　猿児は兄の背を見つめていた。兄は何かに苦しんでいるのだが、それが何なのか弟にはわからなかった。

　梅蟲児に、さっき出て行った徐世標の顔がよみがえった。徐世標は知っている。とてつもないおぞましさが梅蟲児を襲った。

「いやだ」

　全てを投げ出したい。ここを飛び出し、誰も知る者のない山野に身を消したい。

　自分はここでしか生きられない。それが定めであるのだが、しかし、なぜこうなってしまったのか。弟と二人、どこか遠くの山の蔭に畑を耕して暮らしていけないのか。なぜそんな簡単そうなことができないのか。

　昔を思い、妹の顔が浮かび、そして皇后を思った。

　胸が限りなく熱くなった。涙が再び溢れた。

「ああ」

　梅蟲児はうなった。

　何を考えているのか。できもしない夢想だ。梅蟲児は自分自身を笑おうとした。

　胸の熱さが引いて行った。

　徐世標の顔がまたよみがえった。実は徐世標なのか。自分を助けてくれる者は。

「ばかな」

　梅蟲児は起き上がった。

　猿児は兄の動きにはっとして一歩退いた。

「ちがう」

　梅蟲児は虚ろな目を天井に一瞬向けると、ばったりとまたうつぶせになった。

「阿兄、起きてくれ」

　茹法珍の声だった。

　今は茹法珍に会いたくないと梅蟲児は思った。

　徐世標に頼りたいと、さっき梅蟲児は考えた。それは本気ではなかったが、頼れるものなら頼りたいと一瞬だけでも思ったのは事実だ。それに茹法珍には前々から隠していることがある。皇帝を殺そうとしたこと。皇后に頼まれたこと。そうなる前からずっと不安だったこと。茹法珍にはずっと隠していた。

　茹法珍は寝台の脇に立っていた。

「たった一杯の酒だ。いつまで寝ているつもりだ。もう昼過ぎだぞ」

　梅蟲児はすぐに起きようとはせず、わざと激しく目をこすってからやっと目を開き、茹法珍を見上げた。

　茹法珍はいつもの表情だった。

　梅蟲児はほっとするものを感じた。阿丈は阿丈だ

「いま起きようと思っていたところだ」

　梅蟲児は寝台の端へと身体を動かした。

「それなら、早速、仕事だ」

　梅蟲児はあくびをし、顔を手でもう一度拭った。化粧をしておらず、さっき涙を流した痕が残っているのではないかと気にした。

「仕事って」

　梅蟲児は頬を掌でばちばちと叩き、寝台から床に立った。

「ごく簡単なことだ」

　茹法珍はにやりとした。

　それはいささか不気味な笑いであり、阿丈も昔の阿丈ではないと、梅蟲児は少し重く感じた。

「何をするんだい」

　梅蟲児は楽しげに言った。

「徐世標を殺す。今夜だ」

　茹法珍は事も無げに言った。

　梅蟲児はぞくっとした。

「なぜ」

　梅蟲児は短く尋ねた。長く言葉を出せば、自分の気持ちが外に出てしまいそうだった。茹法珍にこうして気を遣わねばならないのは寂しいが、仕方なかった。

「あいつは皇帝になろうとしている」

「まさか」

　梅蟲児は返事をし、今の茹法珍の一言で、徐世標が自分に対して何をしようとしていたのかがほぼ了解できた。

「蕭懿が宮中に来るときを狙って、邪魔になる者を全部殺そうとたくらんでいる。俺たちを仲間にしてな。馬鹿な男だ。とうとう野望を剥き出しにした。俺たちがお上を裏切るとでも思っているのか」

　茹法珍は笑った。

「ふう」

　梅蟲児は息を吐いた。梅蟲児はすでに皇帝を裏切っていた。

「何だって皇帝になるなんて大それたことを考えたんだ」

　問うまでもないことを梅蟲児は言った。

「あいつは本当に知恵がない。そうしなければ殺されると思ったからだろう」

「誰に」

「お上か、蕭懿にだ」

「お上がそんなことをするだろうか」

「お上のことは誰にもわからない。俺たち二人の他にはな」

　茹法珍は自信ありそうに言った。

「ああ」

　梅蟲児は軽く同意した。

「あいつが蕭懿を消してくれれば好都合だったのだが」

「で、どうするんだ」

「注意を要するのは蕭懿だ。蕭懿は忠実な兵士をたくさん抱えている。宮中で異変が生じたときに蕭懿に乗り込まれたらかなり面倒だ。蕭懿を都城の外に出しておかないとならない。それで、蕭懿の兵士、かつて崔慧景の指揮下にあった水軍、それに台軍の兵士を加えて、琅邪城の近くで大掛かりな訓練を行うことにした。明日からだ。琅邪城の楼台からお上は蕭懿と共にその様子を御覧になる。出の違う三つの兵士をここで混ぜ合わせ、全てをお上の兵士にしてしまおうというのが俺のもう一つの考えだ。蕭懿はお上に惚れ込んでいるから、それはきっとうまくいく」

　茹法珍は、ふふっと笑った。茹法珍はやはり昔の阿丈のままではないと、梅蟲児は感じた。

「蕭懿は琅邪城に向かいつつある。俺はお上をお連れするために、琅邪城から戻って来たところだ。お上が皇城を出ると、徐世標はその隙を狙って謀反の準備を進めるだろう。俺と阿兄を仲間にして、今度、お上が蕭懿とともに戻って来たところを狙って実行するつもりでいる」

「お上は御存知なのか」

「むろんだ」

「蕭懿は？」

「徐世標の悪巧みはうすうす勘付いているようだ。徐世標が軽はずみな真似をすれば、その機に、徐世標を殺すつもりでいる。ついでに俺たちまで殺してしまえればなおいいと思っているようだ」

「俺たちもか」

「嫌われているからな」

　茹法珍は笑った。

「それで俺はどうしたらいいのか」

「あいつを油断させてくれ」

　蕭宝巻が皇城を発つのを、梅蟲児は徐世標とともに見送った。蕭宝巻の車の後ろに茹法珍の車が従った。

　門が閉じられると、徐世標は梅蟲児にささやきかけた。

「阿兄、決心をつけてくれたか」

　梅蟲児はうなずいた。徐世標は梅蟲児の腕に手を回した。

「さすが阿兄だ。阿丈もやってくれるぞ。帰って来る日があの男の最後だ」

「間違いなく成功するでしょう」

　梅蟲児は徐世標の手を両手で受け止めた。徐世標は喜びが顔に出るのを隠そうともしなかった。

「今夜、俺の軍営に来てくれ」

　梅蟲児は徐世標の手を己の額の上に掲げて拝した。

　これまでにこの手で何人の人間を始末したのか。さらに二人の命を奪おうとしている。皇帝と尚書令。しかし、それはこの男の思うようには進まない。

　梅蟲児は腕をゆっくりと下げて、徐世標の手を離した。

「わかりました」

　梅蟲児は腰を屈めて徐世標に頭を下げた。

　徐世標の計画は単純なものだった。皇城には、茹法珍の屋敷で私兵として養って以来の腹心の部下が多数いた。それを要所に配した。

　皇帝は蕭懿とともに琅邪城から帰って来る。茹法珍との打ち合わせ通りに、東華門から入って建康宮へと向かう。蕭懿の車が皇帝に続いて東華門をくぐると、門は閉じられる。東華門から建康宮への道の左右は徐世標の兵士で固められる。建康宮への入り口は鎖しておく。皇帝の車が止まるのを合図に、火矢を注ぐ。皇帝と蕭懿は逃れる方法を持たずに殺される。皇帝の帰還を待つまでの間に、宮中で不測の事態が生じないように宦官連中や後宮の女たちを監視するのが梅蟲児の役目だ。

　徐世標は、この皇城を自分のものにする日は近いと確信した。その実、茹法珍は車には乗らずに皇城内に留まっていた。

　夜、梅蟲児は徐世標を訪ねた。徐世標は酔っていた。

「阿丈は大司馬にしてやるつもりだ。阿兄は尚書令ならいいだろう。小うるさい貴族連中を黙らせるにはちょっとした工夫がいるから、尚書令は気苦労が多いかも知れないが、ま、頑張ってくれ」

　徐世標は大声で笑った。

「百官連中なぞは刀で脅せば黙りましょう」

　梅蟲児は媚びるように笑った。

「どのみち都の連中はたいして心配でない。面倒があるとすれば外の奴らだ。特に蕭懿の弟の蕭衍だ。あれは頭も切れるし、結構な兵備もある。蕭懿を殺せば、兄の仇をとろうとするだろう。蕭衍一人くらいは俺の恐れるものではないが、他の連中が呼応するようになったら面倒が増える。いい手を考えておかないとならない。それで、阿兄に来てもらったんだ」

「では、早速、手を打ちましょう」

「早速？　まあ早い方がいいだろうな」

「今夜のうちにすませて、安心して眠れるようにしておきましょう」

「今夜？」

　徐世標はぎろりと酔眼を梅蟲児に向けた。

「ええ」

「むろん早い方がいいな」

「では、参りましょう」

「どこへ？」

　徐世標は身を乗り出した。

「宣徳太后様のもとへでございます」

　梅蟲児がこう言ったのは茹法珍の入れ知恵であった。

　茹法珍の描いたままに事が運ぶので、梅蟲児は感心するとともに、自分が操っていると思っている男に逆に操られているとは知らずに、皇帝になるという夢に酔っている目の前の男が滑稽に思えた。

「宣徳太后とは誰だ」

　徐世標は下唇を突き出した。

　宣徳太后とは武帝の息子の后である。武帝の息子は斉国の三代目の皇帝になるはずであったが早世した。武帝の後は孫が継いだ。息子の后は新皇帝の母として太后となった。新皇帝は後の明帝に殺され、宣徳太后は宮中の奥深くで幽閉生活を送っていた。

「宣徳太后の名を以って、稟質凶愚な皇帝を誅罰し国を正道に戻すとの詔を発するのです。皇帝を討つ大功を挙げるのはむろんあなた様でありますが、取り合えずは手ごろな蕭昭冑、蕭昭頴の兄弟あたりを新皇帝に仕立てやれば、正義が我々にあることは明々白々でありましょう。たとえ蕭衍が反旗を翻そうとしても、それは単なる私怨によるものとなり、天下に同調する者が出ることはありません。そうしておいて、しかるべき時を見て、皇位を譲り受けられればよろしいのです」

「さすが、阿兄だ」

　徐世標は手を打って喜んだ。

　梅蟲児は徐世標に親しみを感じることはこれまでなかった。それでも、間もなく身を滅ぼすと決まったこの男が、少しばかり哀れになった。皇帝になるという野望に取り付かれて多くの者が死に、また一人それが増えるのだった。

　徐世標は杯に残っていた酒を呑み干すと、立ち上がった。

「行こう」

　梅蟲児は前に立ち、建康宮の奥の奥へと案内した。

　徐世標は用心を怠らず、己が皇帝になる大事の身であることを知り、警護の兵を前後に従えた。梅蟲児が妙なことでもすれば即座に切り倒される。

「待ってくれ」

　徐世標は竹林に向かって放尿した。その暗く沈んだ林の蔭にわずかな光があった。

「あそこでございます」

　梅蟲児は言った。

「こんな場所があったのか」

「酷い先帝の仕打ちでございます。旧い宦官が人目を忍んで運ぶ食物でわずかなお命を繋いでおられると聞きます」

　竹林の間の細い道を分けて進むと、斜めに傾いた粗末な小屋があった。

「哀れなものだ」

「先に私が話をして参りましょう」

　扉は朽ちかけていた。梅蟲児が中に入ると、隙間だらけの襤褸家から話し声が外に漏れ聞こえた。

　しばらくして梅蟲児は戻った。

「大将軍のお力で斉国が正しい姿に戻るとお聞きになって大変喜んでおられます」

「そうか」

　徐世標は衣服を正した。警護の兵を先に入れ、その後に続いた。

　狭い部屋の中央を仕切って御簾が垂れ、女性の影が映った。宣徳太后だ。

　梅蟲児は大将軍を案内したことを内に告げた。

　徐世標は用意された椅子に座わり、後ろに兵士が並んだ。脇に立った梅蟲児が事のあらましを宣徳太后に向かってもう一度述べた。啜り泣きが漏れた。

　細い声がかすかに何かを言った。

　徐世標は梅蟲児の袖を曳いた。

「何とおっしゃっているのだ」

「この日の来るのをずっと待っていたとのことでございます」

　徐世標は、うなずき、

「御心中察するに余りあります」

　軽く頭を下げた。

　御簾より声がした。徐世標が首をかしげた。

「大将軍こそ国の父であるとおっしゃっておられます」

　と、梅蟲児が言った。

「忠義の士として当然のことをいたすまでです」

　御簾に映る影が動いた。御簾の縁がわずかに持ち上げられ、指先が差し出された。

「どうしたらいいのだ」

　徐世標は梅蟲児に尋ねた。

「御手を戴いて、御命に従いますとお答えすればよろしゅうございます」

　徐世標は進み出た。床に跪き、両の手を差し出し、宣徳太后の指先を押し戴いた。太后の手が徐世標の指先を捉えた。徐世標は深く頭を下げた。

　宣徳太后の手が徐世標の腕を引いた。思いの他に強い力だった。

　徐世標の身体が前のめりになった。

　背後に物音がした。

　徐世標が体勢を持ち直す前に、御簾の内より、槍が突き出され、徐世標の腹を抉った。

　壁の内より兵士が出て、徐世標の護衛兵を斬った。

　徐世標は茹法珍の手にかかって死んだ。

　翌日、徐世標が誅殺されたと琅邪城に知らされた。

　蕭宝巻は蕭懿とともに楼上より斉国軍の訓練を見下ろしていた。

「そうか」

　蕭宝巻はそうつぶやいただけだった。

　蕭懿は何の反応も示さなかった。このときの蕭懿の心は、若く凛々しい皇帝とともに今にも魏国征伐に出て行かんばかりに勇み立ち、愚かな男が自滅したことなどに何の感慨も持たなかった。

　蕭宝巻は立ち上がった。

　欄干に手を置き、長江からの風を全身に受けた。

「父祖より受けた斉国の威は今日もなおかく輝き続けているというのに、朕はなぜかくも不徳の帝王であるのか。即位してわずかの年月に都は三度も危殆に瀕した。父祖に恥じ、民に恥じる。天より命を受け皇帝となった朕は、父祖に恥ぬ、民に恥ぬ帝王にならねばならぬ。すでに時は遅すぎるのか。そうであっても朕は誤りを正していくよりあるまい。誤りの一つは小人に大事を委ねたことであった」

　蕭懿は膝を打った。

「改めるを憚ってはなりません」

「この不徳の者がいまさらそれを為すのが許されるか」

「天下の待ち望むところでございます」

　蕭宝巻は振り返った。

「朕は幸いにも汝を得た」

「いえ」

　蕭懿は頭を垂れた。

　蕭宝巻は蕭懿の両肩に手を置いた。

「朕が皇帝に相応しい徳を積むまでの間、今日よりこの国は汝に任せようと思う」

　蕭懿は皇帝に忠誠を誓った。

　蕭懿の九人の弟のうち最も年長の蕭衍は、魏国との境に近い雍州にいた。蕭衍は竟陵の八友と称せられた俊才の一人である。

　蕭懿が都に入ると蕭衍は兄に使いを送り、都の軍権を握って、皇帝を速やかに廃位すべきだと説いた。蕭衍は前にも兄に謀反を勧めて、その怒りを買っていた。今回も、蕭懿は、皇帝の臣たる者が廃位などと口にするだけで誅殺されるべきであると拒絶した。蕭衍は何度も兄に手紙を送ったが、兄はことごとく焼き捨てた。

　別の弟は、皇帝が雉狩りに出る隙を狙って皇城の門を閉じ、茹法珍や梅蟲児らを殺し、相応しい人物を皇帝につける具体的な方策を兄に示した。蕭懿は弟を殴らんばかりに叱り付けた。

　蕭懿に長年仕えて来た腹心は、茹法珍らが蕭懿の命を狙うのを警戒し、都を出て西に根拠地を定めるべきであると説いた。蕭懿は、茹法珍も徐世標と同様に小人どもの互いの争いで自滅するに違いないと考えていた。腹心は長江に船を用意して蕭懿に決断を迫った。

「昔から人は死ぬと決まっている。死を恐れて何をするのか。尚書令たる者が都から叛走するなど聞いたことがない」

　蕭懿は断固として退けた。

　蕭懿は台軍を整備し、自身の兵士を全て台軍の中に組み込んだ。皇帝の命令で迅速に動く台軍を強化したのである。このときの皇帝の命令とは、皇帝から国政を任された蕭懿自身の命令であった。そうした国権を握る蕭懿が皇帝の廃位を考えたり、都を出て反乱を企てるなど、思いもよらぬことであった。

　蕭宝巻は皇帝に相応しい人間に生まれ変わるべく、一兵士となって厳しい訓練を受けたいと蕭懿に願い出た。

　宮殿の奥で何不自由なく成長した皇帝が、自ら兵士と労苦をともにしたいとの言葉に、蕭懿は感激した。

　玄武湖に船が浮かべられ、蕭宝巻はまさに一兵士となって訓練を受けた。上官の命で櫂を漕ぎ、船上での武器の使い方を習い、船から船へと飛び移り、揺れる船より的を狙った。早朝より日暮れまで、厳しい訓練が何日も続いた。

　蕭懿は皇城での政務の合間を見て、湖上の皇帝を訪ねた。

「陛下はあそこにおられます」

　二艘の船が速さを競っていた。両舷に並ぶ屈強の男子。櫂に力を込め、船は水面を飛ぶように走った。二艘は舳先をほぼ並べて蕭懿の乗る船の前を通過した。わずかに遅れる船を指揮する男が、櫂を漕ぐ男どもに容赦なく鞭を振るった。背中に鞭を受けた漕ぎ手の中に皇帝もいた。皇帝の乗る船は速力を増した。相手に並びに、ついに引き離した。

　蕭宝巻は蕭懿の待つ船に上った。

　皇帝は上半身裸だった。真っ黒に日焼けした肌は汗にまみれ、幾本もの蚯蚓腫れが背中に走っていた。

　蕭懿は強い感銘を覚えた。

「玉体をこのように傷付けられるとは」

　蕭懿は労わるように蕭宝巻の背に手を近づけた。

「訓練だ。当然である。朕が不徳はこの程度で直せるものではない」

「ここまでなさらずとも」

「訓練なれば背に鞭を受けるだけですむ。鞭のおかげで朕の船は勝った。戦の場において敵に後れれば、待つのは即座の死だ。この鞭のおかげで朕は死を免れたのだ」

「もったいないことでございます」

　蕭宝巻は笑った。

「戦の場において、意のままに動かぬ兵士がいたならば、そなたはどう扱うのか。鞭で傷付けるのは可哀相だと思うのか」

「意のままに動かぬ兵士などいてはならぬものです。万一、そのような者が戦の場におりました場合には、死を与える以外にありません」

「確かにそうであろうか」

「将軍の命は絶対です」

「無論そうだろう」

「戦場における将軍の命は皇帝の命と同じであります」

「皇帝の命とはそれほどに重いものか」

「何ぞ皇帝の命より重きものがありましょうか」

「であるからこそ、朕は兵士の心を知らねばならぬのだ」

「まことに有難いことでございます」

　蕭懿は恭しく皇帝を拝した。

　蕭宝巻は粗末な衣をまとった。

「そなたに一つ訊こう。魏の偽帝の首を持って参れと、朕が言ったならばそなたはどうするか」

　蕭懿は満面の笑みを浮かべた。

「それこそ私の待ち望むお言葉でございます。晋が中原の地を失って以来、我が同胞は卑しき夷狄に蹂躙されて塗炭の苦しみに陥っております。それを救い出すこそが民を思う士たる者の責務でございます」

「その通りであるな」

「北伐の命を私が頂戴できるのでございましょうか」

「いかにもそうなるであろう」

「有難き幸せでございます」

　蕭懿は額づいた。

「よろしい。では、そなたに与えるものがある」

　茹法珍と梅蟲児が姿を現した。

　蕭懿は立ち上がり、なぜこの二人がここにいなければならないのか、不快そうな顔を向けた。

　梅蟲児は蕭懿の前に杯を差し出した。

「それを持つがいい」

　蕭宝巻が言った。蕭懿は杯を見た。

「これは」

「かつて尚書令であった徐孝嗣がこれを手にした」

　蕭宝巻はかすかに微笑んだ。蕭懿は目を閉じた。

　茹法珍が促した。蕭懿は目を開き、杯を手にした。茹法珍が酒を注いだ。

　蕭懿はそれを凝視した。

「あのときと同じ酒である」

　蕭宝巻が言った。

　蕭懿は再びかすかに微笑んだ。

「皇帝の命は絶対です。陛下の思し召しとあれば、いかなることも躊躇するものではありません」

　蕭懿は杯を口へと運んだ。

「そうか」

「皇帝の命を受けるに一切の逡巡もなく、臣としての義務を果たせるのを、私は何よりの満足といたします」

「朕も喜ばしく思う」

　蕭宝巻はうなずいた。

　梅蟲児はかすかに身震いした。

　また一人の死を見る。梅蟲児にはなぜなのか理由がわからない死をこれまで幾度も見て来た。同様の死がまた一つここに加わる。

　蕭懿は杯に口を付けた。

「私には今、ただ一つの心残りと、ただ一つの憂いがございます。それをここで申し上げるのを今生の最後の願いといたします」

「遠慮は無用である」

「魏の偽帝の首を陛下に御覧に入れられる暇がもはやないのが一つの心残りでございます」

「うむ」

　蕭懿は杯中の酒を口に含み、喉を鳴らして呑んだ。

「そして、ただ一つの憂いとは、雍州におります我が弟でございます。陛下の患いもととなるのを私は深く憂慮いたします」

　蕭懿は死んだ。

　尚書令蕭懿を得て皇帝としての正道を歩むのを蕭宝巻は拒絶したのだろうか。それは永元二（五〇〇）年十月、即位してから二年を少し過ぎたころであった。

　　　　二

　蕭宝巻の暴虐はこれより古今無比になったと言われる。

　皇帝が寵愛する者は、刀勅三十一人、宦官十人。刀勅の筆頭は茹法珍と梅蟲児、宦官の筆頭は王宝孫だった。蕭宝巻は王宝孫を皇后から引き離して自分の最も身近に置いた。

　都の財はことごとくこの刀勅三十一人、宦官十人、そして潘貴妃の父である潘宝慶の手に集まった。田地であれ屋敷であれ財宝であれ婦女子であれ、これらの者が望むならばどのような非法もまかり通ってただちに与えられた。少しでも歯向かう色を見せる者には死が待っていた。

　潘貴妃のための神仙殿、永寿殿、玉寿殿の三殿が完成した。三殿の全ての壁は金箔に輝いた。あらゆる柱、あらゆる窓が数多の宝物で飾り立てられた。国庫の蓄えではその金宝を賄うことはできず、不足するものは都の諸寺から削り取って補われた。仏罰が下って地獄に堕ちると皇帝を呪う僧は生きながらに焼き殺された。

「愚昧な僧どもが言うように、地獄があるのなら、それはこの世になければならぬ。火に炙られ、僧どもは身をもってそれを知るがよい。地獄がこの世にあるのなら、極楽もまたこの世になければならぬ。極楽を歩む釈迦の足跡が金の蓮華となるのならば、釈迦に優る者がこの世の極楽を歩めば、その足元からは当然、金の蓮華が咲くであろう」

　神仙殿、永寿殿、玉寿殿の三殿を結ぶ回廊を潘貴妃が初めて歩んだ日、金を鑿って作られた無数の蓮の花が足元に撒かれた。蕭宝巻は茹法珍と梅蟲児を従え、潘貴妃の後ろについて、「歩歩、蓮華を生ずる」と歌い興じた。

　神仙殿の中央に潘貴妃が座すと、皇帝はその足を取って口付けをし、

「天上天下にこれより有難きものがあろうか」

　と、言った。

　ある夜、宮中に不審火があった。皇帝は後宮の門に自ら鍵を鎖して都城の外に遊びに出ていた。宮殿は猛火に包まれ、人々は皇帝の許可なくしては扉を開けることができず、三十余間の建物が焼け落ちた。おびただしい数の女が焼死した。

　翌朝、皇帝は戻ると、梅蟲児に言った。

「後宮の数を減じるは、国の費えを憂う皇帝の勤めである」

　刀勅の一人で詩賦に通じる者が、漢の長安を称えた西京賦の一節を唱えた。

「柏梁既に災し、建章是を営む」

　皇帝は笑い、漢の武帝が建章宮を興した故事に習い、新たな宮殿の造営を命じた。

　芳楽殿、玉寿殿などの諸殿が驚くべき短期日で建設された。都中の職人が全て集められ、昼夜をわかたず工事が進められた。国の財は湯水のように注ぎ込まれ、都の物価は急騰し、民衆は労役に駆り出され、食べ物を手にできぬ者が路上に泣いた。

　完成した宮殿は潘貴妃の三殿をも上回る規模と壮麗さであった。全ての壁に麝香が塗布され、えも言われぬ芳香が遠く都城の外からもわかった。

　皇帝の出遊は以前よりも頻繁になり、屏除は残虐さを増した。

　沈公城に行ったときである。例によって、皇帝が来るとの知らせに人々は一斉に逃げた。折悪しく一人の女が産気づいて動けなくなった。親、兄弟、夫といえども屏除の恐ろしさの前に、妊婦を物蔭に置き去りにして逃げ去らねばならなかった。女は懸命に声を潜めて皇帝一行の過ぎ去るのを待ったが、繰り返し襲い来る激痛に耐えられず、うめき声を漏らした。潘貴妃と馬を並べて進んでいた蕭宝巻の耳はそれを逃さなかった。

「誰だ」

　女は引きずり出された。

「子が生まれるのか」

　蕭宝巻は馬上より問うた。身を震わせる女ははかすかにうなずいた。

　蕭宝巻は馬より下りると、女に歩み寄り、大きく膨れ上がった腹に手を触れた。女は身体をすくめた。

「動いているな」

　梅蟲児がそこに追いついた。

　蕭宝巻は剣を抜き放った。

　梅蟲児は馬を飛び降り、思わず駆け寄った。

「胎児の血で剣を汚すのは不吉でございましょう」

　咄嗟にそう言った。

　梅蟲児は、なぜ自分がここに飛び出ているのか、わからなかった。

　蕭宝巻の行動を押しとどめるなどはおよそありえないことで、妊婦を殺すのがいかに非道であっても、梅蟲児が止められるはずのないものである。まして、蕭懿が死んで以降、蕭宝巻の行動は、異常の度合いを一段も二段も増し、なぜそのようなことをするのか、梅蟲児には全く理解できないことばかりであった。

　しかし、異常と思える行動こそは蕭宝巻にはふさわしいものでもあった。偉大な皇帝は普通の人の理解の外にあってしかるべきだ。だから、梅蟲児ごときがその浅知恵をもって蕭宝巻の行動を測れないのは当たり前であり、押し止めるなどあってはならないのである。

　ところが、梅蟲児は飛び出していた。妊婦を哀れと思ったからなのか、徐世標や蕭懿とは自分は異なる立場にいると思っていたからなのか。そのどれであれ、梅蟲児はすでに皇帝の前に出て、その行為を諫めていた。

　蕭宝巻は剣を止めた。

　梅蟲児は即座に悔やんだ。妊婦は救えない。

　振り仰ぐと、蕭宝巻の表情は意外にも穏やかだった。梅蟲児は一瞬ほっとした。それでも、自分の置かれている状況は安心できるものではない。蕭宝巻がどのような行動に出るのか予測は絶対にできない。

　梅蟲児は身体を小さくして頭を地面に付けた。何も言わなかった。

「阿兄は吉凶を占うのか」

　蕭宝巻が静かに言った。

「いえ」

「ならば、なぜ不吉と言ったのか」

「人からそのように聞いたことがあるばかりでございます」

「胎児の血で剣を汚すのが不吉なのはなぜなのか教えてくれ」

　蕭宝巻は剣を地面に立てた。

　このとき、梅蟲児は妊婦と腹中の子に幸運をもたらすことが、もしかしたらできるかも知れぬとわずかに思った。必死に頭を巡らした。かつて小屋の古老から神仙の道を習ったのを思い出し、話を作った。

「母の胎内より人が生まれ出るのは、混沌より天と地が分かれて生まれ出るに等しいと聞きます。陰陽散じてまた合する造物主の玄妙不可思議の道であります。天地間の命数は陰陽合体の時において定まり、人の命数もまた同じく陰陽合体に際して定まるのであります。天と地が生まれるに先立ってそれを乱すは道の大なるものに反し、人の生まれるに先だってそれを阻むものは道の小なるに反します。それ故に、生まれ出る前の胎児の血をもって、お上の刃を汚すのは不吉と申し上げたのでございます」

「なるほど。陰と陽が合体する時に命数なるものが定まるのだな」

「その通りでございましょう」

「朕の命数もそのようにして定まったというのか」

「はっ」

　蕭宝巻の声が微妙に高くなったのを梅蟲児は感じた。

「人において陽とは男、陰とは女。ならば、明帝が我が母を犯して逸楽に耽った際に、朕の命数は定まったというのか」

　梅蟲児は答えずに頭を低く地に付ける。

　蕭宝巻は刀を取り上げ、切っ先を女に向けた。

「この女もどこぞの男に悦楽の時を与え、その結果、こうも腹がせり出したのか。その悦楽の内のいったいいかなるときに命数を定めたのか。さあ、言ってみろ」

　妊婦はただ身を縮ませた。梅蟲児も何も言わない。

「はたして命数というものがあるのか。阿兄は何を知っているのか」

　梅蟲児は地に口を擦り付けんばかりの姿勢で答えた。

「人に聞いたことを申し上げたまででございます」

　蕭宝巻は舌を鳴らす。梅蟲児はびくっと身を震わせる。

「貴妃、そなたはどう思うか」

　潘貴妃は穏やかな微笑みを見せる。潘貴妃はゆっくりと首をかしげた。

「私にはわかりません」

　蕭宝巻は微笑む。

「貴妃の言う通りだ。それ以外の答えがあろうか。わかるはずがない。命数などあるかどうか知れたものでない。あったにして、それがわかるものでない。愚かな明帝も、それ以上に愚かであった蕭遥光も、吉凶を占い天の命数を知ろうとした。それでいったいどうしたというのか。誰彼の見境なく殺したのとどこか違ったのか。蕭氏一族だけには他のどの一族よりも殺されるべき命数が定まっていたのというのか」

　蕭宝巻は高らかに笑った。

「愚かな明帝は病に苦しんで死んだ。それ以上に愚かであった蕭遥光は床下から引き出されて死んだ。二人は己の命数を知っていたのか。愚かな連中だ。事の吉凶を占って何になるのか。阿兄はそれでも吉凶を言うのか」

　梅蟲児は身体を小さくするばかりだ。

「どうなんだ」

　蕭宝巻は厳しく言った。

「玄妙の道は人のよく知るところではないのでありましょう」

　梅蟲児はようやく答えた。

「人にはわからぬのか。命数なるものがあり、初めより定まっていながらも、人にはわからぬものなのか。それとも、もとより命数なるものはなく、定まってなどいないからわからぬものなのか。貴妃、そなたはどう思うか」

　潘貴妃はまたも微笑み、首をかしげて答えた。

「私にはわかりません」

「それもわからぬ。その通りだ。朕はなぜ皇帝なのか。命数によるのか。もしも朕が生まれるに際し誰かが乱していたならば、朕の命数は異なっていたのか。朕が皇帝になっていなければ、徐孝嗣、沈文季、江祏、江祀、劉暄、陳顕達、蕭遥光、蕭坦之、崔慧景、蕭懿の誰一人として死なずに今も生きているのか。それもこれもすべて命数によるのか。命数がもとより定まっており、朕はただその命数のままに動いているだけなのか。ならば朕は自らは何もしていないというのか。それならばどうして朕はこれまでに一人もいなかったこのような皇帝となったのか」

　蕭宝巻は再び高らかに笑った。

　女の命はこれで救えなくなったと梅蟲児は思った。

　蕭宝巻は長い笑いをおさめると言った。

「朕の稟質凶愚なるは断じて命数によるものではない。これは朕自らが為すものである」

　蕭宝巻は剣を一振りする。それは空を切り、震え続ける女の髪がその風によって靡いた。

「なおも命数を言う者があるのか。その者は陰陽合体するときに命数が定まると言うのか。朕の稟質凶愚なるは母親の胎内にあったときに定まっていたと言うのか。ならば、命数は胎内の子にどのように刻まれているのか」

　蕭宝巻はまた剣を一振りした。それは再び空を切っただけだったが、女は悶絶した。

「貴妃、そなたに見せよう。人は生まれながらの命数などは持ち合わせていないと朕が思うのが正しいということを」

　蕭宝巻は女の髪を掴んで引き倒し腹に剣を立てた。血が噴き出た。縦に真っ直ぐに切り下げ、溢れ出る血の中に手を入れ、胎児を取り出した。

「見ろ。ただの血と肉の塊でしかない」

　蕭宝巻は小さな陰茎をつまんだ。

「命数が決まっているとしたらただ一つ、男だということだけだ」

　蕭宝巻は胎児を切っ先に刺して高々と掲げた。

　梅蟲児はそれを見ようとしなかった。

　　　　三

　茹法珍は剣の達人である鄭植を雍州に送った。

　鄭植の弟の鄭紹叔は蕭衍に仕える長吏である。茹法珍は、弟と力と合わせて蕭衍を暗殺するよう鄭植に命じた。

　鄭紹叔は兄がいかなる意図で雍州に来たのかを知ると、ありのままを蕭衍に告げた。

　蕭衍は動揺することなく、鄭紹叔の家を訪問して鄭植に会った。特別に持参した銘酒を置いた。

「朝廷がはるばる卿を雍州に派遣されたのはいかなる故であるかを私はよくよく存じております」

　蕭衍は鄭植に微笑みかけた。鄭植はゆったりと落ち着いた態度で、顎の長い髭をしごき、ちらりと視線を傍らの剣に向けた。

「ほう」

　と、短く答えた。

　蕭衍は、酒を引き寄せ、自らの杯に酒を注いだ。

「むろん、ここに良き縁を結び、歓を尽くすためでありましょう」

　蕭衍は杯を取ってぐいと呑み干した。

　蕭衍は空になった杯に酒を注ぎ、鄭植の前へと歩み、卓上にそれを置いた。

「まことにその通りでございますな」

　鄭植は杯を手にし、一声笑うと、酒を呑み干した。

　弟の鄭紹叔に杯が回り、互いに数度のやり取りをした。

　蕭衍は鄭植の手を取った。

「今日の余興にお見せするものがございます」

　蕭衍は鄭植を連れて雍州城の枢要な部分を案内した。城隍城壁のどこが厚くどこか薄いのか、府庫の蓄えは何がいかほどあるのか、士馬の強弱はいかなるもので数はいかほどであるのか、兵器はどれほどの数量と性能があるのか、舟艦はいかなる装備がなされているのかの一切を見せた。

　蕭衍は雍州の珍肴で鄭植を馳走した。

　鄭植は弟の屋敷に戻ると、鄭紹叔に言った。

「雍州の実力はただ一振りの剣でどうかなるものではない。まして蕭衍殿は天の恩寵を受けた方だ。我が剣を向けるべき相手ではない」

　鄭紹叔は兄に答えた。

「もしもお上に申し上げる機会がありましたらおっしゃって下さい。お上が雍州をお取りになろうとするならば、この私が一戦を交えさせていただきますと」

　鄭植は大きくうなずいた。

「そなたとは二度と会うことはあるまい」

　鄭植は都に帰り、不首尾に終わったことを茹法珍に告げた。

「天下の趨勢である」

　茹法珍は言い、一つの覚悟を決めた。

　鄭植は何ら咎めを受けず、金品をもって報われた。

「昏主の暴虐は古の紂王を超える。諸君らとともにこれを除く」

　永元二（五〇〇）年十一月、蕭衍は雍州において挙兵した。甲士一万余、馬千余匹、船三千艘をもって、都に向かっての出撃を開始した。

　蕭衍は、王敬則、陳顕達、崔慧景が、いずれも都を一呑みにしようとして敗れたのをよく見ていた。蕭衍はゆっくりと前進した。いたずらに戦にはやることなく、天下の大勢を己の方へと引き寄せる状況作りを優先した。

　雍州の南には荊州がある。荊州は長江の中流に位置し、ここを抑えれば長江下流域の死命を制する古来より要の場所と目されたところである。蕭宝巻は、この重要な都市に弟の蕭宝融を置き、一族の蕭頴冑を後見役に付けていた。蕭宝巻は荊州の防御をさらに固めるために劉山陽を送り込んだ。

　劉山陽が荊州に到着すると、蕭頴冑はただちにその首を斬って蕭衍に届け、蕭宝融を伴って蕭衍に降った。

　蕭頴冑は己の行為は義によるものだとして、都の百官に向けて、昏主討つべしとの檄文を書き送った。檄文は皇帝の暴虐を責め、刀勅たちの罪悪を数え挙げた。特に茹法珍、梅蟲児の二人は、幼いころより皇帝の資質を台無しにし、悪逆を勧め、奢侈を煽り、民衆を塗炭の苦しみに落としたとして、罪は天下第一であるとした。

　梅蟲児は、己の名が何度も挙げられている檄文の内容を聞き、青ざめた。

「怖いのか」

　茹法珍は笑った。

　天下第一の悪人と自分が記された檄文が飛び交っているという事実は梅蟲児を打ちのめさずにはおかなかった。自分はあくまでも賤しい百戯の徒である。天下第一の悪人などではない。皇帝の側近として出世して豪壮な屋敷を都に構えている。そんな自分を羨み憎む者がいるだろうとは梅蟲児も思っていた。だから、弟の安全のために弟を宮中に呼んだのだが、天下第一の悪人とまで言われるようなことを自分がして来たという自覚はなかった。

「俺はただ」

　梅蟲児はつぶやいた。

「お上を喜ばせようとしただけだと言いたいのだろう」

　茹法珍が言った。

「俺は何もしていない。たわいもない芸の他には」

「だがな、阿兄と俺は天下の極悪人だ。それは間違いないことだ」

「しかし」

「阿兄は俺とは違うと思っているだろう」

「いや、そんなことはない」

　梅蟲児は否定したが、実のところはそのように思わぬものではなかった。茹法珍は軍政に関与し、何人かの大臣の死にも直接関っている。それ比べて、梅蟲児は宮中において皇帝に芸を見せていただけだ。世に何ら益のない芸ではあっても、極悪と非難されるほどのものではない。

「阿兄や俺が何をしようとも、お上の近くにこれまでいたということが、それで十分に天下の大罪なのだ」

「たぶん、そうなんだろう」

　梅蟲児はうなだれた。

　すぐに猿児を思った。いずれこの檄文を猿児も知るだろう。兄が天下の極悪人として非難されていると知って、弟はどう思うだろうか。

「しょげるな」

「いや」

「極悪人と言われるのは誇っていい。それだけお上のために尽くして来たのだから」

「そうか？」

「他に何がある？」

「そうだな。で、あいつらが都に乗り込んで来れば、俺たちは殺されるのだな」

「当然だ」

「今度は、前みたいになるだろか」

「陳顕達、崔慧景のときのように勝てるかって？」

「どうなんだろう」

「さあ」

「駄目なのか」

「たぶんな」

　茹法珍がそんなふうに言うとは思ってもいなかった。たとえ情勢は悪くても茹法珍が弱音を吐くはずがない。

「今度という今度は、首を差し出すのか」

　梅蟲児は情けない顔をして、己の首の後ろを叩いた。

　茹法珍は笑った。

「鄭植が蕭衍を殺しそこなって帰った。天下の趨勢だ。姑息な手段であがいてもどうにもならない」

「諦めるのか」

　梅蟲児の問いに、茹法珍は真面目な顔になって言った。

「阿兄、どうなんだ、俺たちは何で生きているのかと考えたことがあるか」

「俺たちか」

　どうしてここで茹法珍がこんなことを言い出したのか。

　それでも聞かれたことを答えようと梅蟲児は考えた。安直には答えられそうもない問いだが、結局のところ一つしか答えはなさそうだった。

「やはり、阿丈がさっき言っていたことだろう」

「お上を喜ばせるってことか」

「そう」

「それしかない。初めてお上に会ってから今日まで、他のことは一切なかった」

　茹法珍はきっぱりと言った。

　梅蟲児の胸に抉るような痛みが走った。梅蟲児は茹法珍のようには言えなかった。一切なかったわけではないからだ。

「ああ」

　梅蟲児の返事を濁らせた。

「俺は戦場で拾われ、阿兄は金で買われた。他にも同じような連中がいたが、残ったのは俺たち二人だ。俺たちは、何で生きているのかちゃんと知っていたからだ」

　前にも同じことを茹法珍は言っていた。

「ああ」

　梅蟲児は自分の気持ちを悟られないよう、軽い相槌を打った。

　心の内では、もしも小屋から金で売られていなかったらということを考えていた。そうだったら自分はここにいるはずがない。

「これからも同じだ。そうだろう」

「それしかないものな」

　梅蟲児はそう答えながらも、そうなのかと考えていた。なぜそれしかないのか。金で買われたその日から、こうなる定めだったのか。

「他の連中は知らない。蕭衍が勝つのなら早く蕭衍に付きたいと思っている人間が宮中に大勢いるだろう。崔慧景の場合もそうだった。そういう連中は勝手にすればいい。それが天下の趨勢だ。俺たちは違う。俺たちはあくまでもお上を喜ばせようとする。今までもそうだったし、これからもそうだ。それしか俺たちにはないことを俺たちは知っている。お上もそれを知っている。そうだろう」

　茹法珍は真っ直ぐに梅蟲児に顔を向けた。

　梅蟲児は茹法珍を見た。茹法珍には何の迷いもないようだった。

　梅蟲児はわずかに目を伏せた。茹法珍に顔を見られているのが辛かった。自分は茹法珍の足元にも及ばない。

　茹法珍は思わないのだろうか、もしも戦場で拾われなかったらとは。

「どうした」

　茹法珍は梅蟲児の両肩に手を置いた。

　梅蟲児は首をわずかに横に振った。

「いや、どうもしない」

　梅蟲児は震える思いがした。蕭宝巻を思ったのだ。蕭宝巻がもしも明帝の子ではなかったらという想像が梅蟲児の頭を過ぎった。

　もしかしたら同じことなのか。だから蕭宝巻はあのように振る舞わなければならないのか。だったら、自分は茹法珍の言う通りにしなければならない。

「阿兄は気持ちがやさしい。俺は知っている。だから、迷うこともある」

「そんなことはない」

　梅蟲児は無理に言った。

「いいんだ。だけど、俺は阿兄が好きだ。お上もそれは同じだ」

　茹法珍は笑い、梅蟲児の目から涙が出そうになった。

　永元三（五〇一）年正月。

　昨年の元会の後に、梅蟲児は次の年の元会は迎えられないだろうと考えた。幸運なのか、一年が巡って蕭宝巻皇帝のもと、さらにもう一度の元会が行われた。

　場所は昨年の太極正殿ではなかった。玄武湖の近くに建つ閲武堂だった。

　前年の元会の記憶が深く刻み込まれている朝廷の百官は、夜中のうちに皇城を出たものの、内心は恐る恐るで閲武堂へと向かった。今年はどんな目に遭わされるのか、わざわざ皇城を離れるというだけでも嫌な雰囲気であった。玄武湖に近づくと、昼を欺くほどの光に満ちていた。

　閲武堂に入ると、何はともあれ取り合えずは今日のこの儀式が平穏に執り行われてくれれることだけを願った。昨年は、酷い元会がその前触れであったかのような恐ろしい一年であった。今年はたとえ元会が静かに終わったとしても、これから先が平穏であるはずはなかった。来年もこの建康で元会が行われることがあるとしても、蕭宝巻がその場に皇帝として臨むことはあるまいと、多くの者が思っていた。むろん、そこに自分自身が生きて列席できるなどは夢のまた夢であった。

　意外にも、蕭宝巻は定められた刻限に姿を見せた。だからと言って型通りにというわけにはいかなかった。蕭宝巻は皇帝の礼服ではなく戦の場に着する戎服を身につけていた。そして、中央の正位についたのは蕭宝巻ではなく皇后であった。

　皇后がこの年の元会を主催し、朝廷の主だった顔ぶれの総入替えをした。もとより朝廷の大臣たちに実際上の権限はすでにないのだから、誰が何の職に就こうが何も変わらぬようなものだった。それでも、最後に、司徒の地位に蕭宝義が就くと皇后が言うと、静かなざわめきが広がった。

　司徒とは宰相に当たる。蕭宝義とは皇帝のただ一人の兄である。蕭宝義は幼児に病気となって以来、朝廷の百官でその姿を見た者は誰もいなかった。宮殿のどこかに住んでいるのか、それとも別の場所にいるのかも知られていなかった。元会の行われている閲武堂のこの場にも当然のことながら姿を見せていなかった。蕭衍の率いる大軍が都にじわじわと迫って来ている国家の大事に際して、司徒を蕭宝義とした意図は誰一人として推測すらできなかった。

　元会から十四日後に、蕭宝巻は南郊に神を祀った。南祀は皇帝が行う特別に重要な祭祀の一つである。この時期になぜ皇帝が南祀を行ったのか、人々はこれも理解できなかったが、蕭宝巻はいとも厳かにその儀式を行った。

　梅蟲児はどちらの儀式にも参加しなかった。

　年末に荊州が敵に降ってこのかた、蕭宝巻は夜の酒宴を開いていなかった。出遊もなかった。これは、蕭宝巻としては即位以来、最も静かな日々であったと言えよう。

　そうなればむろん梅蟲児にはこれといった出番がない。毎日をほとんど弟と二人だけで過ごした。蕭懿が都にいたときにも同様のことがあったが、こういったことはこれから先はもうないだろうと梅蟲児は思った。弟と向き合っていられるのは残りわずかである。一緒に死ぬか、あり得ないような奇跡によって弟を救い出せるかどちらかである。

　二人でいられる最後のこの機会に、自分の持っている技の全てを弟に伝授しようと梅蟲児は努めた。その思いが伝わるのか、猿児も懸命に努力した。猿児の技は急激に上達した。修練に打ち込んでいるときばかりは余計な思いが生じない。ふと息を継ぎ、あるいは汗を払うとき、弟にこの技を伝えても一体その後どうなるのかと考え、梅蟲児はしばしば絶望的な気分に襲われた。

　己は天下の大悪人とされ、死が間近に迫っている。梅蟲児はもう覚悟を決めた。それは揺るがないと思う。しかし、弟は死の道連れにしたくない。だから、その弟に父祖伝来の技を託そうとしている。弟を生かし、技を絶やさない、梅蟲児にはそれ以上の望みはなかった。しかし、その望みこそは最も叶えられそうもないものだった。それでも、梅蟲児は弟に技を教えた。その他に何をしたらいいのか。何もない。

　いや、一つだけあった。なお時が許すものならば、梅蟲児にはもう一つの望みがあった。截舌の術だ。死ぬまでにそれを会得したい。それは梅蟲児のずっと以前からの望みであった。先祖が天竺より伝え、天下に誰一人として今はできる者のないその術を復活させたい。そのために、梅蟲児は心身鍛錬に努め、部屋に舌の神、始梁峙を祭った。頭部の各部位ごとにそこを司る神がいる。脳神は覚元、髪神は玄文章、皮膚神は通衆、目神は虚監生、項神は霊謨蓋、鼻神は冲竜玉と言う。梅蟲児は、舌神、始梁峙、字は道岐の像を掲げ朝夕に拝し、己に截舌の術を授けてくれるよう祈った。

　二月、潘貴妃が子を産んだ。

「どうだ、かわいいだろう」

　蕭宝巻が胸に抱く赤子を見せ、それが潘貴妃の子だと言うまで、梅蟲児は潘貴妃が妊娠していたのを知らずにいた。それがために近頃は酒宴も出遊もなかったのだと初めてわかった。

　赤子は潘貴妃に似て、ふくよかないい顔をしていた。梅蟲児ならずとも自然と見入ってしまう。

　蕭宝巻は満面の笑みで、大切そうに赤子をあやした。

　前の年に太子が生まれたとき、蕭宝巻は少しも嬉しそうにしていなかった。それとはこうも違っていいのかと思うくらいに別の表情だった。

　潘貴妃の子だからだろうかと、梅蟲児はまずは思った。そればかりではないようだった。

「朕は女子を得た」

　蕭宝巻は頬を娘に摺り寄せた。

「天下に二人とない美しい人となりましょう」

　梅蟲児は言った。蕭宝巻と潘貴妃の子であればそうならないはずはないのである。

「これは天下に二人とない者になる」

「まさしく」

　蕭宝巻は娘の顔を長く見据えると言った。

「阿兄、朕はこれを皇帝にする」

「はっ」

　梅蟲児ははっきりとした返答をしなかった。

　蕭宝巻にはすでに先に男子が生まれていた。皇位を継承するとしたらその子がいる。

「女では皇帝になれぬと、阿兄は思うのか」

「いえ」

　女の皇帝がこれまでにいたのか梅蟲児は聞いたことがない。

　蕭宝巻の長男は潘貴妃の母親に預けられた。その後、その子がどうなっているのか、梅蟲児は噂も聞いていない。いま蕭宝巻は、その子がいることなどまるで念頭にないように話をしている。

「百官どもは反対するだろう。天も許さぬだろうな」

　蕭宝巻は何か楽しそうに言った。

「だから朕はこれを皇帝にする」

　蕭宝巻は両手で娘を高々と持ち上げた。赤子は泣いた。

　その泣き声で、梅蟲児は不意にあの忌まわしい沈公城での事件を思い出した。あの折に、潘貴妃の腹中にはすでにこの娘がいたのだ。梅蟲児の身体にかすかな震えが走った。

　大々的な祝宴が開かれた。

　久しぶりに梅蟲児は大いに働いた。巨大な神亀を使った神亀抃舞の演目を再演した。

　以前は、娥皇に潘貴妃が扮したのだが、今回はそうもいかず、代わって猿児が女装した。なかなか楽しいものとなり、潘貴妃は大いに喜んだ。

　潘貴妃は途中で疲れを訴えた。蕭宝巻は潘貴妃を伴って退席した。

　祝宴はそのまま続行された。皇后ばかりが残った。

　梅蟲児は、皇后のために芸をするという形になった。またとない機会であったが、皇后が何を思っているのかがわからず、梅蟲児の演技にはどこかかげりがあるものとなった。皇后は終始いつもの無表情であった。

　皇帝の親衛隊である羽林兵が西に送られた。

　娘が生まれて以来、蕭宝巻は蕭衍に対抗する幾つかの積極策を打ち、羽林兵の派遣はその切り札とも言えた。これで撃退できなければ、都が蕭衍の攻撃にさらされるのは必至となる。

　蕭宝巻は都城の外にまで出て兵士を見送った。このときにも屏除は行われた。

　都の人々は羽林兵が出発するのをただ音で聞き、それが皇帝の武威をいかほどに輝かすものか目にできなかった。それは幸いだっただろう。斉国の命運を象徴するかのように、どの兵士も沈鬱な表情で静々と出て行ったのだった。

　蕭宝巻はそれを見送りながらも、将軍たちを叱咤するようなことはなかった。

　蕭宝巻は皇城に帰還すると酒宴を行った。いつもの楽曲もいつもの踊りも湿り勝ちであった。

　梅蟲児だけは弟といつも以上に明るく派手に演じようとした。

「無理をするな」

　息をはずませて広間の隅に戻った梅蟲児に茹法珍が言った。

「いつも通りにしただけだ」

「お上は全てをわかっておられる」

「何を？」

「いつも通りに全てをだ。だから、人の心が宙にあるのも十分に御存知なのだ」

「皆は蕭衍には勝てぬと思っているのか」

「勝敗はまだ定まらぬ。我らが勝つこともあり、国を二つに分けるかも知れぬ。ただお上は人の心を見ている」

　梅蟲児は次の出番では、ごく地味な演目を一つ披露するに留めた。

　蕭宝巻の表情はいつもと変わらなかった。

　蕭衍は急がなかった。ごくゆっくりと前進した。蕭衍からの使者が各地に送られ、人心の収攬が図られた。

　南方の湘州が蕭衍の側に回ったのは大きかった。食糧補給の問題がこれで払拭された。長江を下っての都の包囲が長引いても、大軍を養うに何らの心配がいらなくなった。

　三月、蕭衍は新皇帝を立てた。荊州にいた蕭宝融である。蕭宝巻の弟である。

　その新皇帝の命をもって、蕭衍は、蕭宝巻を皇帝の位から勝手に陪陵王へと格下げにした。さらに、大赦令を出し、蕭宝巻にこれまで仕えて来た者の罪は一切問わないとした。ただし、茹法珍と梅蟲児の二人だけはその類にはあらずとされた。

　蕭宝巻の羽林軍は各地で敗れた。

　潘貴妃が生んだ娘が病気になった。

　蕭宝巻は酒宴を止め、連日連夜、娘のそばにつきっきりとなった。

　娘は誕生以来、百日に満たずして死んだ。

　蕭宝巻は泣いた。蕭宝巻が人の死によって涙を流したのはこれが初めてであった。

　父の明帝が死んだとき、蕭宝巻は一滴の涙も流さず、一日の喪に服することもしなかった。常の衣のまま、肉を食べ酒を飲んだ。礼として哭する義務さえ放棄した。

　娘が死ぬと、蕭宝巻は潘貴妃とともに粗末な衣服に改め、蔬膳を取り、音伎の一切を止めた。宮中は静まり返った。

　梅蟲児は再び弟との修練の日々に帰った。

　梅蟲児の心もこのころは奇妙な平静を得ていた。蕭宝巻の行動の一つ一つは梅蟲児には理解できないことであった。しかし、それらは全体として見れば、まさしく蕭宝巻らしいものであった。梅蟲児は一つ一つの事件に驚かされたり、恐ろしく思ったりはしても、結局のところは、蕭宝巻にその身を委ねるしかなく、それが最もよいと思うのだった。そう確信できれば、完全な心の平静が得られるのを知っていた。

　弟と二人の日々は、一月にもあり、そのときはこれが最後と思った。その予想がはずれて、同様の日々がまた戻った。三度目はあるまい。今度こそは最後に違いなかった。その思いが梅蟲児をいっそう懸命にさせた。

　始梁峙神を常に拝し、截舌の術をさまざまに工夫した。何かしら会得するものがあった。このまま修練を積めば極意が得られるかも知れないという気になった。一年の猶予があれば可能なように思えた。そうすれば、自身が截舌の術を得て、弟に見せておける。

　そこまでの時間があるのかどうか、梅蟲児は望みを抱けるものではなかったし、弟を救い出せるという見通しは依然として全くなかった。それでも技の修練に全身全霊で打ち込んだ。そうせずにはいられなかった。

　　　　四

　夏の朝であった。

　蕭宝巻と潘貴妃は突然、皇城の外へと馬で走り出た。娘が死んでから初めての出遊であった。大路を駆け抜け、都城をも出た。

　人払いされた広い野のどこにも人影はなかった。

　二人は馬の脚を速め、草地を抜け、林の脇を通り、窪地に下った。従者は後れ、蕭宝巻が振り返ると、誰もいなかった。

　蕭宝巻は馬を止めた。野の風が草の匂いを運んだ。

「せいせいする」

　蕭宝巻の言葉に、潘貴妃が微笑んだ。

「久しぶりの笑顔ではないか」

　蕭宝巻は潘貴妃に馬を寄せた。

「宮殿では笑う気になれませんもの」

「朕もだ」

　手綱を握る潘貴妃の手の上に蕭宝巻は自分の手を置いた。

「宮殿には帰りたくありません」

　潘貴妃は蕭宝巻の手を取り、その甲を頬に引き寄せた。

「朕もだ」

　蕭宝巻は潘貴妃の顔に触れた。

「もう二度と」

「朕もそうしたい」

　皇帝の後を追っていた茹法珍が馬を止めた。

「阿兄、下がろう」

　梅蟲児に小声で言い、窪地の下を指した。

　二頭の馬が止まり、草むらの中に蕭宝巻と潘貴妃がいた。

　二人は馬を戻し、時の過ぎるのを待った。

　しばらくして、蕭宝巻は戻って来て二人に言った。

「貴妃が自由に過ごせる場所をここに作る」

　芳楽苑の造営が始まった。

　玄武湖の南岸から蒋山の山麓を包む壮大な御苑である。大土木事業である。

　多くの兵士が外に出て戦っている最中であるにもかかわらず、大量の労働力が投下され、わずかの日限を切っての工事が進められた。都近在の民衆は、女であろうが子どもであろうが老人であろうが、身体を動かせる限りはこの庭園造りに駆り出された。昼夜のわかちなく人々は働かされた。

　大きな山が築かれ、広い池が掘られた。山に大小さまざまな奇石が並べられ、五色をもって塗られた。山の奥に水が貯められ、皇帝の遊びに応じて、山中に滝が掛かり、早瀬に水しぶきが飛び、林に静かな清流が巡り、楼閣の下の舟が行き交う運河に水を湛えられた。水は苑内に建てられた街の水路を満たし、巨大な人工の池に満々たる水面を作った。楼閣は紫の瓦で輝き、紫閣の前から縦横に走る路によって街は整然と区切られ、商家のひしめく都の趣きが再現された。

　秋風の立つ前に芳楽苑は完成した。

　梅蟲児と茹法珍は芳楽苑の山に分け入った。古色蒼然とした岩道が通じる。これが急ごしらえの人工の山とはとても思えない。

　水声に誘われて奥へと奥へと進むと、見上げる遥か高所に滝が掛かった。水の勢いといい、聳える岩といい、滝の周囲を囲む古木の群れも、これが人の手によると覗わせるものは何もない。

　水の落ちる先を窮めようと、岩を踏んで滝壺へと下った。細い虹が掛かっている。

　二人は仙人にでもなった気分で、山中の気を大きく吸うと、頭上より声がした。

「そこの舟にお乗り下さい」

　見上げると、太い枝に蕭宝巻が跨っていた。皇帝は褌一本、真っ黒に日焼けした肉体があらわである。

　蕭宝巻はひらりと枝より飛び降りた。滝壺より溢れ出る流れの脇に繋がれている一艘の小舟へと、二人を案内した。

「旦那方は、都へとお帰りでございましょうか」

　縄を解く蕭宝巻が言った。

「そうだな」

　茹法珍が答えた。

「旦那様のようなお歴々の方々をお乗せできるなんて、仲間に自慢できますよ」

　蕭宝巻は舟に乗り込み、腕を伸ばして二人にも乗るように促した。

　水は岩を越えると、その先は激しい音を立てる急流となっている。

「大丈夫なのか」

　梅蟲児は正直な思いを口にした。

「もちろんですとも。旦那方の美しい着物に一滴の水だってかけるものですか」

　二人は乗った。

　蕭宝巻は竿をぐいと一突きした。舟は水流とともに岩を越えた。さっと冷たい風が梅蟲児の顔に当たった。一気に急流の只中に突入した。

　激しく揺れた。舟は右にぐいと捩れるように飛んだ。波が舷側に激突し船尾へと渦を巻いた。尖った岩が目の前に迫った。梅蟲児は思わず手を伸ばして受け止めようとした。舟は斜めになり、舳先は岩角をよけた。舟底をこする音がし、舟は飛び、矢のように渓流を下った。

　ざっという音とともに垂れ込める枝の下に舟が突入した。急に暗い林の中になった。流れはたちまち静かになり、梅蟲児はほっと息をついた。高い梯子の上で跳んだり跳ねたりする方が、遥かに楽だと思った。

　林を抜け、野が開け、夏の終わりの日差しが照りつけた。舟はゆったりと進んだ。時折、ゆるやかな風が寄せ、襟元にわずかな涼気を運んだ。

　蕭宝巻は舟唄を高らかに歌いつつ艪を操った。

　高い楼閣が前に聳えた。流れはその下を巡り、いよいよ町中へと入った。暑さが増した。

　商家の並ぶ街路の裏側の水路へと舟を漕ぎ入れた。柳の揺れる石橋が迫った。

　高くせりあがった橋の上に物売りの子どもが立つ。

「旦那さん、花を買っておくれよ」

　猿児だった。

　茹法珍は銭を抛り投げた。猿児は花を盛った籠にすとんと落とした。

「どこの娘さんにやるおつもりですか」

　船頭がそう言った。

「決まっている。いつものあれだろ」

　梅蟲児が笑いながら言った。

「わかっておりますよ」

　蕭宝巻はさらにひと漕ぎして、舳先を酒旗が揺れる石段の下に止めた。

　店の裏口から小僧がとんとんと石段を降り、客を出迎えた。王宝孫だった。

「お待ちしておりました」

　梅蟲児と茹法珍は王宝孫に手をとられて舟から上がった。

　蒋子文神を描いた暖簾をくぐると、店の内に女主人が待っていた。満面の笑みを浮かべた潘貴妃だった。

「まあまあ、お暑い中をようこそお越しくださいました」

　潘貴妃は冷たい井戸水で絞った手拭で茹法珍の顔の汗を拭った。茹法珍は背をのけぞらせて、潘貴妃の顔をしげしげと見て、ほうとうなった。

「女将の美しさは、相変わらずだな」

「お蔭様で」

　潘貴妃はいっそうの笑みをこぼした。

　確かに潘貴妃は美しかった。普段、宮中で見るよりもこの姿の方がはるかにいいと梅蟲児は思った。

　茹法珍は花籠を女将に渡した。

「まあ、私に」

　潘貴妃は花に顔を近づけた。

「いい香りだこと」

「高かったんだぞ」

　茹法珍は言った。

「何をおっしゃいますか。いくつもの蔵に金銀を貯めこんでおられる旦那に、高いなんてものがあるものですか。そこらでわずかな銭を出して花売りから買ったのでございましょう。それより私がいただいてよろしいのですか。もっと若い娘に渡すおつもりだったのでしょう」

　潘貴妃は愛想を言いながら二人の客を部屋へと案内し、酒と料理を整えた。潘貴妃は本物の女将のように手際がよかった。

　茹法珍はぐいぐいと呑み出した。酒が苦手な梅蟲児は料理に手を伸ばした。冷やされた膾が口中の熱を奪った。

「このごろ商売はどうかな」

　梅蟲児は女将に言った。

「どうにもやりきれません。酒でも魚でもどんどん値が上がってまして」

「それはどういうわけだい」

　茹法珍は川魚の酢漬けを取った。

「どうもこうもありません。戦の最中だというのに、お上がこの上ない贅沢ばかりをするんですもの。旦那方のようなお歴々は何があっても儲かる仕組みの世の中ですからいいでしょうけども、私らのような下々の者は苦しい目に合うばかり」

「いやいや俺たちだって、いつもいいとは限らない」

　茹法珍は酒をあおって、にやついた。

「どうでしょうか。阿漕な稼ぎをしているんじゃありません」

「いやいや、苦労ばかりだな」

　茹法珍は梅蟲児に同意を求めた。

「まったく。近頃は半分に割れたような銭しか回って来ない。まともな銭はどこに消えのだろう。どこの蔵でうなっているのか」

「それはどこなんでしょうね。お金の雨でも降ってくれないことには、どうにもなりません」

　三人で話をしていると、外が騒がしい。

「金だ、金だ」

　人々の叫ぶ声がした。

　梅蟲児が窓辺に寄ると、道に大勢の人が出ている。みな両手を伸ばして右往左往している。向かいの店の二階の窓から身を乗り出す人物が、ばらばらと金を撒いている。それは福禄寿だ。さっきまで船頭をしていた蕭宝巻だった。

　降って来る金を取り合う人々。それは羽林兵や女官たちだ。

「そら、そら」

　蕭宝巻は次々に金を撒いた。

「これで終わりだぞ」

　蕭宝巻は最後に残った両手一杯の金を放り投げた。

　人々は金を手にすると、道の両側に立ち並ぶ店へと走った。思い思いの大散財をした。店には、都のどこを探しても見つからない品々が何でもあった。

　人々は半日の歓を尽くし、日が傾いた。

　蕭宝巻は福禄寿の姿のまま太鼓を背負って道に現れた。茹法珍がその太鼓を調子よく叩き、梅蟲児が後に付いて歌った。人々が店からぞろぞろと出て来て、歌い踊りながら、蕭宝巻の後に従った。

　蕭宝巻は人々を紫閣へと導いた。紫閣の四方の扉は開け放たれていた。

「おのおの好きな相手と好きな部屋に行くがいい」

　蕭宝巻は中へと導いた。

　紫閣の壁は全て独特の絵で飾られていた。そこでは裸の男女が様々な姿態で交接していた。

　男と女が手を取り合い、皇帝の命に従って中へと入った。

　蕭宝巻はつぶやいた。

「歓を尽くすがいい。半年後に生き延びる者は一人もあるまい」

　梅蟲児ははっきりと耳にした。茹法珍の袖を引いた。茹法珍はうなずいた。

　なぜこの時期に皇帝が芳楽苑を造ったのか、梅蟲児には初めてわかった気になった。

「阿丈、阿兄は中には入らぬのか」

　梅蟲児と茹法珍は手を軽く振った。

「ならばついて来てくれ」

　蕭宝巻は福禄寿の衣を脱ぎ、再び褌一本の船頭となった。

　茹法珍と梅蟲児を乗せ、紫閣の脇から漕ぎ出した。

　町から離れると、木立の先に陽の明かりが消えた。舟は水田の縁に沿って進んだ。稲の花が開き、ほのかな香りが立ちこめた。

　蓮の葉を分け、広々とした池に浮かんだ。夕靄が立って四方が淡い藍色に染まっていた。静かに水音を立て、対岸の葦原の中へと分け入った。

　舳先が丈の高い草を左右に倒して行くと、芳楽苑の最も奥まった林の縁へと出た。一本の細い水路が通じた。遠景は夕暮の黒一色へと沈み、近くでは様々な虫の音が沸いた。

　紫閣から蕭宝巻はずっと無言だった。水を打つ音だけが規則正しく響いた。蕭宝巻の前に梅蟲児が座り、その前に茹法珍が座った。

　梅蟲児は、急に身を竦ませた。

　梅蟲児はわずかに首を後ろに曲げてこっそり見上げた。蕭宝巻は目を半ば閉じるようにして艪を操っている。顎先に汗の滴がある。梅蟲児はすぐに前に向き直った。茹法珍の大きな背中があった。

　今考えたことを梅蟲児は思った。こんなことをどうして自分は考えたのか。梅蟲児にはわからなかった。

　何に己を託するのか梅蟲児は決めていた。と言うよりは、それ以外にはなく、それに己を託することで、最も安定した心の状態が得られた。だから、それを全部ひっくり返してしまうようなことを自分が考えていたのを知って、梅蟲児は身を竦ませた。

　もしも、この自分の心の内をいま蕭宝巻が見抜いたならと、梅蟲児はもう一度身を竦ませた。さらに、茹法珍も知ったなら。梅蟲児はぞっとした。だが、それは自分自身に対してぞっとしたのに比べたら大したことではなかった。

　なぜ自分は今こんなことを考えたのか。

　自分だけがここで剣を持っている。不意にそれを蕭宝巻の胸を突き上げる。続けて茹法珍の背を刺す。自分の身を託すべき最も偉大なもの、自分の身を寄せるべき最も頼れるもの、その二つを自分の手で消し、闇に乗じて逃げる。林を駆けて逃げる。そのときなぜか走るのは自分一人ではない。皇后の手を引いている。そんな自分の姿を梅蟲児は想像していた。

　なぜだ。

　そんなことできるはずがない。同乗の二人に比べて梅蟲児は腕が落ちる。やろうとしたところでとても無理なことだ。

　だいたいやろうと思うようなことではない。二人を殺すなどとは、今の自分が最もやるはずのないことだった。蕭宝巻を殺したいと思う理由はない。茹法珍を殺したいと思う理由はない。むしろ、二人がいなければ自分は生きられないのである。

　確かに蕭宝巻を鉞で撃とうとしたことはある。皇后に頼まれたから。あれから皇后とは一度も話をしていない。あれから何も起こっていない。

　蕭宝巻は全てを知る偉大な皇帝である。だから、あのときあったことも当然知っている。知っていて何も咎めず、今日も茹法珍よりも近い場所に自分を置いている。何もかも蕭宝巻は知っている。だから、自分は皇帝に身を託すのが最もよく、それ以外にはないのである。

　ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくても、今自分が何を考えているのかだって、偉大な皇帝は知っているのだろう。だから自分のすぐ前に座らせているのだろう。

　それならそれで、やはり自分は皇帝に命を委ねるしかない。そこから梅蟲児の思考は急に飛んだ。

　皇后と二人きり長江を下る己の姿を想像した。

　はっと気付いて、梅蟲児は身震いした。

　どうしてこんなことをまた。

　蕭宝巻が沈黙を破った。

「三人が今こうしているのを他には誰も知らない」

　低い声だった。

　あたりには三人がお互い姿を見分けられる程度の明るさだけが残っていた。

　茹法珍と梅蟲児は蕭宝巻の言葉を聞いたが、無言のまま蕭宝巻が次を言うのを待った。

「誰かが誰かをここで殺し、あるいは三人が水に沈む。そうなっても何がここであったのかを誰も知ることがない」

　梅蟲児の背筋に冷たい汗が流れた。

　蕭宝巻はそれで口を閉じた。静かに漕ぎ続けた。

　茹法珍は物を言わず、その背は身動きしなかった。何があっても茹法珍は決して動じないことをその背中が語っていると梅蟲児は思った。それに比べて自分は。

　梅蟲児は自分の背を蕭宝巻の目から隠したいと思った。蕭宝巻は梅蟲児の背中から心の内をすっかり見抜いているだろう。隠そうとしても無駄だ。

　自分はどうしてしまったのか。

　蕭宝巻が笑い声を立てた。

　梅蟲児の胸は縮み、鼓動が激しくなった。

　なぜ笑ったのか。

　蕭宝巻の笑い声は明るく弾んだものだった。その笑い声が闇に沈んだ林の中に吸い込まれた。

　蕭宝巻の笑い声は長く続いた。梅蟲児の心は不思議と軽くなった。

「愉快ではないか。阿丈も阿兄もそう思うだろう」

　茹法珍は短くはっきりとした声で答えた。

「まことに愉快です」

　梅蟲児も続けて答えた。

「まことに」

　それ以外に答えようがなかった。

「よい」

　蕭宝巻はまた笑った。

「朕がこれほど愉快なのを、阿丈と阿兄がわかってくれた。こんな喜びはない」

「まことに」

　茹法珍が言った。梅蟲児はものを言えなかった。梅蟲児は正直だ。

「ここには他に誰もいない。朕と阿丈と阿兄の三人がいて、ここで何をしているのかは他の誰もが知らない。このまま三人がどこかに消えてしまっても、誰もそのことを知ることがない。朕がいずれかへといなくなり、それを喜ばぬ者が何人いるだろうか。朕のような皇帝が消えてしまうのを、望まぬ者が一人でもいるか。朕が消えてしまうのを、最も望むのは他ならぬこの朕なのである」

　蕭宝巻は高らかに笑った。

「愉快ではないか。朕はここより去って、阿丈、阿兄の二人を友として、遠く山中に消える。山に獣を追い、川に魚を獲る。そうなれば、世はいたって平穏の時に戻り、朕の心もまた平穏である」

　蕭宝巻は歌い始めた。

　　　兎がぴょんとはねて来て　　　　　　有兔爰爰

　　　雉がむこうから網にかかり、　　　　雉離于羅

　　　私が生まれたばかりのころは　　　　我生之初

　　　何もなかった。　　　　　　　　　　尚無為

　　　生きてからというもの　　　　　　　我生之後

　　　この百もの憂いに逢い　　　　　　　逢此百罹

　　　じっと寝ていることさえできない。　尚寐無吪

　梅蟲児は不意に母を思った。

　「我が生の初め、尚お為すなし」。どこかに消えどこかで死んだであろう母を思った。

　死んだ妹の顔も浮かんだ。生まれてから何一つとしてよいことに会わずに死んだ妹だった。

　そして、皇后の顔が浮かんだ。

　蕭宝巻は歌い終わった。闇の中を進む舟は再び沈黙に包まれた。

　細い水の路だけがまだかすかに見えた。梅蟲児は背後に蕭宝巻の静かな息遣いを感じた。この皇帝が何を考えているのか、梅蟲児には永遠の謎だ。しかし、皇帝は全てを見抜いている。

　蕭宝巻は口を開いた。

「朕の思いを託するものはない。阿丈と阿兄がここにいてくれるのが唯一の救いだ。朕がここより消えるのをどれほど切望しようとも、朕はどこにも行けない。この舟は所詮、芳楽苑の外には出られない。

　朕は皇帝だ。皇帝である朕は、皇帝でなくなるためには死ぬ以外にない。皇帝である朕は、皇帝であるためには多くのを者を殺さねばならない。朕が生きるには多くの死があり、朕が死ぬにも多くの死がある。朕一人でここより去ることはできず、阿丈も阿兄も、朕の親しき者たち全てもまた朕とともに死なねばならない。

　天下にはいくら殺しても殺し尽くせないほどの人間がいるというのに、その大勢の他の者ではなくて朕一人が皇帝である。朕は大いにそれを恨む。朕は皇帝であるが故に、他のことであればどんな望みも叶えられるというのに、皇帝でないことばかりは望もうとも叶えられぬのである。

　朕はこの芳楽苑の中にいるときばかりは、この苦しみが忘れられるような気がする。さあ、阿丈、阿兄、間もなく朕の本当の棲家が見えて来よう」

　水路は緩やかに曲がった。かすかな明かりが見えた。

　蕭宝巻は舟を止めた。粗末な小屋であった。物音を聞きつけたのか、扉が開き、明かりが漏れ、襤褸をまとった女が出て来た。潘貴妃であった。

「旅の空にある友を案内して来た」

　蕭宝巻は陸に上がり、潘貴妃が茹法珍と梅蟲児の手を取った。

　小屋に入ると、淡い明かりに見る潘貴妃は一切の化粧を施しておらず別人のようだった。それは昼間に見た潘貴妃よりもさらに美しいと、梅蟲児は思った。

「お二人に何か馳走をしてやってくれ」

「ちょうどよいことでございました。兄上様のためのお粥が煮上がるところでございます」

「兄上は？」

　蕭宝巻は小屋の奥の衝立の向こうへと回った。誰かいる気配があった。

　蕭宝巻は衣を上にかけ身じまいを調えた。

「ただいま帰りました」

　梅蟲児は跪いてうやうやしく礼をする蕭宝巻の背を見た。

「ううう」

　衝立の蔭にうめき声がした。

「空腹ではございませんか」

「ううう」

　梅蟲児の裾を茹法珍が引き、耳元にささやいた。

「司徒殿だ」

　二人は土間に膝をつき、衝立の向こうに頭を垂れた。

　司徒殿とは蕭宝巻の兄の蕭宝義である。

　潘貴妃は炊き上がった粥を器に盛って運んだ。

「さあ、兄上、お召し上がりください」

　蕭宝巻は、息を吹いて粥を冷ましつつ、匙で兄の口に運んだ。梅蟲児は、蕭宝義が時折うなりつつ食べる音を聞いた。

「たくさんお召し上がりください。我が家において、天寿を全うできますのは兄上ばかりでございましょうから」

　蕭宝巻が我が家と言ったのはこの小屋のことだったのか、それとも蕭宝巻の兄弟眷属であったのか、梅蟲児にはわからなかったが、蕭宝巻の言葉は必ず現実のものになるに違いないと思った。

　しばらくすると、虎子をもって尿をとる音がちょろちょろと響いた。

　蕭宝巻は芳楽苑に居続けた。

　日の大半は猿児と王宝孫の二人を伴って山中で過ごした。早朝から暗くなるまで、三人は滝の下の急流でひたすら舟を操った。蕭宝巻に仕込まれて、もともと身のこなしのいい猿児はもちろんのこと、王宝孫も短期間のうちに腕を上げ、どのような速い流れでも楽々と乗りこなすようになった。

　皇帝が留守する皇城で一つの小さな騒ぎが持ち上がった。夜になると蒋子文神が現れると、宦官の朱光尚が言い触らした。宮中の廊下であったり、中庭であったり、闇の中から蒋子文神がふっと現れ、音もなくあたりを歩み、そしてどこかへと消えてしまう。

　朱光尚は毎日のように人々に言い募り、ついには蒋子文神と話をしたとまで言うようになった。それがために、蕭宝巻は朱光尚を芳楽苑に呼んだ。

　皇帝の問いに対して朱光尚は蒋子文神の姿を克明に語った。かつて太極正殿に現れた蒋子文神と同じであった。

「それで、何を言っていたか」

　朱光尚は顔を輝かせて答えた。

「福を下す、とおっしゃっておられました」

　蕭宝巻は笑った。朱光尚に褒美を与え、

「朕より礼をよしなに伝えてくれ」

　と、宮中に帰した。

　しばらくして、朱光尚は今度は蒋子文神ではなく先帝の姿を見たと騒ぎ始めた。明帝は幾晩も続けて宮中に出現し、朱光尚は見たという明帝の姿を克明に人々に語った。それは明帝の生きていた当時の有様そのままであったが、朱光尚は明帝在世中には宮中にはおらず、人々は不思議な思いを抱いた。明帝が本当に鬼に変じて蘇ったのではないかと考える者もあった。

　蕭宝巻は朱光尚を再び芳楽苑に呼んだ。

　朱光尚は己が見たということを語った。

「それで、あの男は何を言っていたか」

　蕭宝巻の声は少しく怒気を含んでいた。朱光尚は身を震わせた。

「何も。ただ目を見開き、それはそれは恐ろしい形相でお歩きでございました」

　蕭宝巻は鼻を鳴らした。

「あれは怒っているというのか」

　朱光尚は頭を下げた。

「今度、死に損ないが朕の宮殿を勝手に歩きまわったなら、これでただちに斬ってやれ」

　蕭宝巻は剣を朱光尚に渡した。

　朱光尚は手に剣を戴きながらも、

「私には武芸の心得がございません」

　と、さも心細い声を出した。亡霊と言えども先帝である。それを斬れと命じられてできるものではない。

　ここで范雲という生真面目な男が進み出た。皇城に帰還するよう皇帝を諫める機会を得ようと、芳楽苑に来ていた。朝廷にわずかに残る忠義の士である。

　范雲は大きく嘆息し、口を開いた。

「今日のこの有様、先帝が御覧になりましたら、いかに嘆かれましょうか」

　梅蟲児は、蕭宝巻の顔から血の気が引くのを認めた。范雲のために身を縮めた。

　昨年の秋に相次いで重臣が死んで以来、蕭宝巻を諫める者は一人もいなかった。蕭宝巻に向かって直接に意見するなど誰にもできない。今回の騒ぎは、芳楽苑で遊び続ける蕭宝巻を皇城に呼び戻すための芝居であろうと、梅蟲児も見当をつけていた。范雲が仕組んだのかはわからないが、明帝を引き合いに出したのはいかにもまずく、范雲の命はないだろうと梅蟲児は思った。

　蕭宝巻はしばらく范雲を睨み付けていたが、ふっと息を吐くと、かすかな笑みを浮かべた。

「あれが朕を見て嘆くのか。面白い。見てもらおうではないか」

　蕭宝巻は菰で明帝の姿を作らせた。

　明帝の菰人形は紫閣の前に据えられた。蕭宝巻はその北側に立った。菰人形は地に這って平伏した。

「よくよく見るがいい。おまえが見たいと思う皇帝が目の前にいる。おまえが皇帝にした息子だ。顔を上げて、とっくと見るがいい」

　蕭宝巻は顎をしゃくって范雲に命じた。范雲は菰人形の脇に進み、その身体を起こした。

　蕭宝巻は菰人形を見下ろした。

「これが嘆いている顔か。さも情けない顔をしているではないか」

　蕭宝巻は笑った。

「この男が何を嘆いているのか、そなた、聞いてみろ」

　蕭宝巻は范雲に言った。范雲は頭を地に付け、何も言わなかった。

「宮中では大層怒っていたというではないか。朕を目の当たりにして、さあ、何を言うのか」

　地に伏した范雲の顔を、梅蟲児は見ることはできなかった。両の腕が菰人形をしっかりと支えた。それが范雲の心を示しているかのようだった。

「愚か者め。天運をあれほど知ろうとしながら、己の息子がいかなる者であるのかを知ろうとはしなかったか。おまえが望み通りにした皇帝だ。おまえの望みによって皇帝にさせられた朕を、今さら怒ってどうする」

　蕭宝巻は剣を握った。

「愚か者め。息子がいかなる者かを少しでも知っていれば、今さらその情けない目で見て、その愚かな頭で考えるまでもなく、朕が何をするかくらい、初めよりわかるではないか。わからなかったのか。それほどに愚かならば、もうとっくに遅い。改めて見るまでもない。朕が皇帝となれば、今日こうなるより他はなかったのである」

　蕭宝巻は剣を大きく振り上げた。

「全ての罪はおまえの一身にある。思い知るがいい」

　明帝の首が宙に飛んだ。蕭宝巻が切り下ろした剣の先は、范雲の鼻の前でぴたりと止まった。

　明帝の首は苑門に高く掲げられた。

　范雲は禄を大幅に加増された。

　　　　五

　七月、蕭衍は郢州に迫った。

　郢州は荊州から下った長江中流の重要地点である。荊州に続いて郢州も敵側に降るのを恐れ、茹法珍は腹心の一人である馮元嗣を送り込むことにした。、

　都城の外、中興堂において、馮元嗣の送別の宴が開かれた。茹法珍の他に、梅蟲児、李居士、楊明泰、張欣泰らが居並んだ。

　生きて都に戻れまいと覚悟を決めた馮元嗣は大いに呑んだ。郢州に着けば十中八九殺されるだろう。郢州が馮元嗣の首を献じて蕭懿に降るのはぼぼ確実だ。幸いにもそうならなければ、蕭懿に包囲されて勝つ見込みのない戦いをするだけだ。

　酩酊しなかったのは、酒の飲めぬ梅蟲児と、もう一人、異様な緊張で酔うことのできない張欣泰だけだった。

　張欣泰は頃合を見て立ち上がった。

「送別の詩を吟じよう」

　　　風　蕭蕭と　易水　寒く　　　　　　　風蕭蕭兮易水寒

　　　壮士　一たび去って　復た還らず。　　壮士一去兮不復還

　張欣泰は高らかに吟じ、舞った。後に始皇帝となる秦王を刺す旅に出た荊軻が別れの宴に歌った詩だ。

　馮元嗣は朦朧とした頭で、友の吟じる詩を聞き、涙を流した。馮元嗣の覚悟は荊軻に劣らぬものであったろう。茹法珍もしたたかに酔っていたが、張欣泰の舞に心を揺すられた。

　張欣泰は繰り返し詩を吟じ、中興堂の中を大きく舞い、衣を翻して衝立の蔭に一瞬身を隠した。すぐ現れるや、馮元嗣の首を一刀のもとに斬り落とした。

　生首がごろりと大皿にころがった。隣の楊明泰が立ち上がるところを、張欣泰は、その腹を剣で抉った。大声を発した。

　兵士が中興堂に乱入した。

　李居士は外に走った。梅蟲児は咄嗟になぜか馮元嗣の首を大皿から拾い上げていた。

　張欣泰は楊明泰の腹から剣を引き抜いた。

　血まみれの馮元嗣の首がぬるっと梅蟲児の手から落ちかけた。張欣泰の剣が走った。梅蟲児はのけぞった。敏捷な梅蟲児であったが、首を落とすまいとした動作が邪魔をした。張欣泰の剣を避け切れず、ぐいと切っ先を鷲摑みにし、えいと払った。

　ばらばらと指が落ちた。

　茹法珍が大皿を投げつけた。

　張欣泰は頭を打たれ、剣を落した。

　茹法珍は梅蟲児の手を握った。溢れる血で二人の手が真っ赤になった。

「逃げろ」

　茹法珍は梅蟲児を背に乗せた。

　前から飛びかかり来る敵を茹法珍は蹴倒した。中興堂を飛び出た。茹法珍の護衛兵が駆けつけた。

　茹法珍は部下より剣を受け取り、左右の敵を切り分けた。

　門外にあった馬に飛び乗った。

　疾走し、追っ手を引き離したと見るや、茹法珍は衣を裂き、梅蟲児の手を縛った。指が三本失われていた。

　茹法珍は皇城に向かった。

　蕭宝巻は芳楽苑から皇城に向かいつつあった。急な帰還は異変を予感したのかも知れない。

　皇城には、蕭宝巻の弟の蕭宝寅も向かっていた。蕭宝寅は都の北西に位置し長江を臨む石頭城を守る任にあった。

　さらにもう一団、都の南西から皇城に向かう者たちがいた。新城の守備を任されていた胡松が、蕭昭冑と蕭昭頴の兄弟を奉じて車を走らせた。蕭昭冑と蕭昭頴は武帝の次男の息子、かつて崔慧景が挙兵した際に法輪寺を訪れた兄弟である。兄弟は、崔慧景が敗れた後、罰せられずに都に住まうことを許されていたが、内心、常に不安があり、新城を守る胡松と陰謀を企てた。

　胡松の陰謀には張欣泰、王霊秀、鴻選といった者が仲間に加わり、皇帝が芳楽苑に居続け、茹法珍、梅蟲児が中興堂に出たのを好機として、事に及んだのだった。

　王霊秀は蕭宝寅を奉じて、石頭城の守備隊を率いて、威風堂々の隊列で皇城を目指した。蕭宝寅が新しい皇帝となり、暴虐の天子、蕭宝巻を誅すると民衆に触れた。近隣から続々と人々が集まり、蕭宝寅の隊列はたちまち数千を超える大群集となった。なかなかの壮観ではあったが、人が多くなった分、蕭宝寅の足を遅くした。

　蕭宝寅、蕭昭冑、蕭昭頴の動きに呼応して、鴻選が皇城内で挙兵する手筈であった。しかし、鴻選は、朝早くに蕭宝巻が芳楽苑を発ったとの思いがけない知らせに動揺し、慌てるばかりで肝心のことができないでいるうちに、茹法珍の馬が走り帰った。茹法珍は即刻、鴻選を斬り、城中の要の地点を腹心の部下で固めた。

　蕭宝巻が戻った。都城の全ての門が鎖された。城壁上に兵士が配置された。

　蕭宝寅が都城の前に達したのはすでに日が傾きかけたころであった。時すでに遅く、城内の備えは完全にできあがった。門の上から、群衆に向かって無数の矢が放たれた。烏合の衆はたちまち四散し、蕭宝寅は逃げた。

　蕭昭冑、昭頴兄弟は、蕭宝寅が潰えたと聞き、慌てて新城に引き返した。

　蕭宝寅は逃亡すること三日、捕らえられて宮中に送られた。

　蕭宝寅は蕭宝巻より四歳下、このとき十五歳であった。

　床に座し、首を深く垂れ、小刻みに震えているようにも見えた。兄と違って華奢な体つき。まだ幼さが残る横顔に、梅蟲児はこの弟を哀れに思った。

　蕭宝寅の兄の蕭宝玄は、崔慧景の謀反の際に担ぎ上げられ、皇帝から回された毒杯を仰いで死んだ。この弟も同じ運命をたどるに違いなかった。

　蕭宝巻はしばらく弟の背を見下ろしていたが、静かに梅蟲児の脇に回って、梅蟲児の腕をそっと取った。

　梅蟲児は蕭宝寅の前に連れて行かれた。

「見るがいい」

　蕭宝巻は、梅蟲児の肘と手首を支え、梅蟲児の右手を蕭宝寅の頭のすぐ前に突き付けた。

「阿兄の大切な指が三本落ちた。これは誰のせいなのか」

　梅蟲児の第二指、第三指、第四指は根元から失われていた。残る親指と小指にも浅い傷があった。

　持ち上げられたとき、梅蟲児の手がずきんと痛んだ。

　蕭宝寅は兄の言葉を聞いたが、頭を深く伏せて、顔を上げようとしなかった。

「見ろ」

　蕭宝巻は厳しい声で言った。

　蕭宝寅は逆に頭をさらに下げて床に付けた。

　蕭宝寅はがたがと震えていた。自分のことでこの少年が責められているのが、梅蟲児には気の毒に思えた。

　蕭宝巻が宮中一の名医をつけてくれたおかげで、傷の治りは順調のようだった。痛みは続いていた。夜はゆっくりと眠れない。百戯の徒にとっては大事な右手である。これまでの懸命の修練によって得た技が使えなくなってしまう恐れがあった。梅蟲児の胸の内には悔しさがあり、蕭宝寅を恨む思いもあったが、目の前にいる少年の存在は哀れに思えた。恐ろしい剣幕の兄の足元で震えている小さな弟を、助けてやりたいとさえ思った。

「なぜ見ないんだ」

　蕭宝巻は蕭宝寅の膝を爪先で蹴った。

　蕭宝寅は床に突っ伏した。身体を震わせて泣き出した。

　蕭宝巻はぐいと蕭宝寅の背を踏んだ。

　蕭宝寅はうめき、かつ泣いた。

　蕭宝巻はさらに全身の重みを足にかけた。蕭宝寅の腕が崩れ、額が床に押し付けられた。泣き続けられなくなった。

　蕭宝巻は弟の顔を蹴った。蕭宝寅は両手で顔を覆った。さらに弟の顔を蹴った。

　蕭宝巻に持たれた梅蟲児の腕が大きく揺れた。痛みが走った。梅蟲児がかすかな声を立てた。蕭宝巻は、視線を梅蟲児の手に注ぎ、静かに下におろし、自分の手を離した。

「痛くしてしまったのか」

「なんともありません」

　梅蟲児は右手を左手で支えた。

　蕭宝巻は梅蟲児に微笑みかけた。

「阿兄はいい。猿児はいい弟だ。朕は汝ら兄弟を羨む。猿児は阿兄を裏切ることは決してなく、阿兄をこんな目に遭わせたりはしない」

「はっ」

「もしも、阿兄だったらどうするか」

「私が何を」

　梅蟲児は皇帝の前から一歩下がった。

「猿児が人を傷付けたと知ったなら、兄としてどう処罰するか」

　ここで梅蟲児は当意即妙の気の利いた言葉が思い浮かばなかった。上手に蕭宝巻を笑わせたならば、蕭宝寅を救えるかも知れないと思ったが、梅蟲児には十分な心の余裕がなかった。指を失い、やはり蕭宝寅を恨む気持ちはそれ相応に大きなものがあったのだろうか。梅蟲児はごく真正直に答えた。

「まさしく弟が悪事を為せば容赦をするものではありません」

　と、言って、

「しかしながら」

　先を続けようとしたのは、蕭宝寅を可哀相と思う心からだった。しかし、梅蟲児は、言いかけてすぐに言葉を切った。自分のために蕭宝寅を罰するのは自分の望みではないと言いたかったのだが、それは口にすべきこととは思えず、一瞬の間が空いた。

　蕭宝巻がすぐに言った。

「しかしながら、何だ」

「いえ、それだけでございます。他にはございません」

　梅蟲児は跪いて頭を垂れた。

「阿兄が謝るようなことは何もない。悪いのはこいつ一人だ」

　蕭宝巻は爪先で弟の頭を突いた。

　蕭宝寅はずるっと後ろに下がり、そこで初めて口を開いた。

「私は何も知らなかったのです。あの日は、いつの間にやら車に乗せられていたのです。それだけなのです。私は何も知らなかったのです」

　蕭宝寅がやっとの思いで絞り出した声は、すぐに涙声となった。

「そうなのか」

　兄は少しばかり口調を変えて言った。それに励まされたのか、蕭宝寅は同じことを、より哀れっぽい声を出して言った。

「何も知りませんでした。何も知らないままに、周りの者に強いられてどうすることもできなかったのです。それだけなのです」

　蕭宝巻は笑った。

「何も知らなかったのか」

「そうです。私は怯えていました。怖かったのです。脅されて、ただ仕方なく車に乗っていたのです」

「そうなのか」

「ええ」

　蕭宝巻はまた笑った。

「そなたはいくつだ」

「十五です」

「十五にもなって、何も知らなかったのか。そなたの乗る車が首尾よくここに到達していたならば、そなたが朕の代わりに皇帝になるということも知らなかったのか」

「もちろんです。もしも、そのようなことを知っていたなら、私は、車の中で自害していたでありましょう」

　蕭宝巻は弟の言葉に大声で笑った。

「誰に、そんな言葉を教わったのだ」

「教わっておりません。私は正直に申しているだけです」

「そなたは自害するほど従順な弟なのか」

「もちろんでございます」

「朕の母は四人の男子を生んだ。最初に朕を、二番目に宝玄を、三番目にそなたを、四番目に宝融をだ。宝融が生まれて間もなく母は死んだ。宝融は生まれてすぐにそういうことをした」

　蕭宝寅はうぐっと奇妙な声をたてた。

「宝玄は何をしたか」

　蕭宝巻は蕭宝寅に問いを発した。弟は深く伏して答えなかった。

「なぜ返事をしない。そなたも知らぬわけはあるまい」

　蕭宝寅は床と一体になろうとするくらいに身体を低くした。

「それも知らぬほどにそなたは愚かなのか」

　蕭宝巻は弟の背中を踏んだ。蕭宝寅はやっと答えた。

「知っております」

「もちろんそうであろう」

「はい」

「宝融がいま何をしているのかそなたは知らぬのか」

「存じております」

「それだけ知っていながら、そなたは、車に乗って、どこに何のために向かっているのかを知らなかったと言うのか」

「一向に、存じませんでした」

「まことにそなたはそれほどに愚かなのか」

「そうです。私ほど愚かな者はありません」

　蕭宝寅は細い声でやっと言った。

「阿兄、朕はまたも阿兄を羨む。猿児ほど利口な弟はあるまいな」

　梅蟲児は跪いて頭を垂れたまま何も言わなかった。次の瞬間に、皇帝が弟を切るのではないかと思っていた。

　蕭宝巻は、

「わかった」

　と、言うと、床に膝を付け、弟の上体を静かに抱き起こした。両手で弟の頭を支え、それを己の方に向けた。

　蕭宝寅は怯え切っていて、目を上げず、視線を床の上にさまよわせた。

　蕭宝巻は弟をしげしげと見入った。

　涙で濡れた弟の顔を袖で拭った。

「なぜこのように泣くのだ。ここにこんなにもいい兄がいるというのに」

　蕭宝巻は弟を抱え上げた。小柄な弟は兄の腕の中に軽々とおさまった。

「そなたは父にこんなふうに抱かれたことがあったか」

　蕭宝巻は赤ん坊をあやすように蕭宝寅の身体を揺すった。

　蕭宝寅は目を閉じ、身体を硬くして、ただ兄になされるがままになった。

　梅蟲児も目だけを上げてこの兄弟の姿を見ているしかなかった。

「ないだろう。あいつは、何者も信用しなかった。人を信じようとせず、己の得た皇位だけを信じた。その皇位を伝えるために息子を必要とした。あいつにとって、息子などはそのためだけにあればいいのだった。子とは皇位を伝える道具だ。邪魔をする者は誰でも消した。そのおかげで朕は今日こうして皇帝となっている。朕もあいつと同じようにすると、そなたは思っているか」

　蕭宝寅は揺すられながらやっと声を出した。

「いえ」

　蕭宝巻は笑った。

「兄の心を知るは弟ばかりだ。朕が最も憎むのは、あいつが朕に押し付けたこの皇位だ。だから、皇位を欲しいという者があれば、渡すのを拒みはしない。誰にでもくれてやる。しかし、朕は皇位を憎むが故に、皇位を重んじる者も、皇位を望む者も憎む。そんな連中を決して容赦しない。そなたにこの兄の思いがわかるか」

　蕭宝寅は先ほどから兄に責められ続け、緊張の限度を超えたのか、腕の中でぐったりしてしまった。本当の赤子のようになって兄に揺すられた。

　兄が言うことをどれだけ理解したのか、

「はい」

　と、小さく答えた。

　蕭宝巻は笑った。

「わかるのか」

「はい」

　蕭宝寅は無表情で答えた。

　蕭宝巻は頬を弟の頬に寄せた。

「そなたはいい子だ」

　それは梅蟲児が初めて見る不思議な表情だった。蔑みと哀れみ、愛情と憎悪、そのどれとも言えず、そのどれとも言えるものであった。

　蕭宝巻は弟を床に立たせた。

「朕はそなたに約束する。朕が生きている限りは、そなたの地位は変わらず、そなたは何の心配もいらない。このよき弟を大切にしない兄がどこにいようか。阿兄、そうだろう」

　梅蟲児はとまどいながらも力強い声を出した。

「もちろんでございます」

「阿兄が猿児を思うくらいに、朕はこの弟を思うようにする」

　蕭宝寅の表情が少しばかり和らいだ。

「だが、覚えておくがいい。朕の次に皇帝になる者は、朕のようには決してしないということをな」

　蕭宝寅の顔がまたこわばった。

　蕭宝巻は、蕭昭冑と蕭昭頴の兄弟を初め、胡松、張欣泰、王霊秀、鴻選ら反乱の首謀者を全て捕らえて処刑した。蕭宝寅ばかりは元の爵位を保って何ら処罰を与えられなかった。

　郢州は蕭衍に包囲され、城内に疫病が流行し、多数の死者を出して降伏した。

　蕭衍は長江を下り次に江州をも手にした。都は間近となった。

　　　　六

　手の傷が十分に癒えるまで屋敷に下がっていいと、梅蟲児は蕭宝巻に言われた。

　それはできるようなことではなかった。皇城の外は危険であった。この前の檄文を思うまでもなく、自分が人々に憎まれていることを梅蟲児はよく承知していた。

　したいと思うことでもなかった。これからどのような道筋をたどるのかわからないにしても、最後の破滅が迫りつつあった。何が起こるかわからないのだから、皇帝の近くから離れることなく、茹法珍とともにその来るべき時に立ち向かいたいと梅蟲児は思っていた。それに猿児と離れることはできない。助け出せる見込みはますますなくなっていくようだが、それでも何かあったときには、猿児だけを生かすよう兄として最後の働きをしたい。それを決して逃さぬよう、梅蟲児は猿児の近くにいなければならないのだった。

　梅蟲児に代わって猿児が夜宴の主役になった。このたびの反乱で、蕭宝巻は皇城の外に出る危険を認識し、出遊しなくなった。宮中での夜宴が復活し、猿児が天真爛漫な芸を見せて皇帝の目を楽しませた。潘貴妃の姿は夜宴にはなかった。芳楽苑にいるとの噂であった。

　梅蟲児は部屋にいて猿児が夜宴に出るのを見送り、夜中に帰るのを待った。どの芸をどう行ったのかを、猿児は兄に話した。

　こうした日々が一ヶ月も続き、梅蟲児は、すでに傷も癒えたから宴に出させてほしいと願い出た。皇帝は、ゆっくりしていていいと言うだけだった。梅蟲児は自分だけが取り残されてしまっているような気分になった。

　芸の鍛錬に打ち込むしかなかった。指を失ったことを嘆いても始まらず、指の数が少なくなっても、前と同じ芸ができるようになるのを目標とした。むろん元通りにはならない。ほとんど変わらぬように見せる工夫を凝らした。あれこれ試してみるのはそれなりに楽しくはあった。

　それに截舌の術があった。これは指の数とは関わりがない。終わりが間近になりつつある自分の生涯のうちに、その術を得たい。舌をいかに切っていかに甦らせるのか、その術を懸命に考えた。

「どうだ」

　茹法珍がひょいと部屋を覗いた。久しぶりであった。

　梅蟲児が笑顔で迎えると、茹法珍はずかずかと入って来て、梅蟲児の右手を取り上げて顔を近づけた。指のなくなった痕に肉が盛り上がり、それなりに落ち着いた形状になっていた。

「痛みはほとんどない」

「それはよかった」

「だが、不思議なことに、時にかゆくてたまらない」

「傷口がかゆくなるのはよくある」

「かゆくなるのは、なくなった指の先だ」

「指がないのにか」

「そうだ」

　梅蟲児はちょうど三本の指があった先を左手で示した。

「このあたりだ。かゆくてもかけないから困る」

「奇妙なことがあるものだ」

　茹法珍は怪訝そうな顔で言った。

　梅蟲児はこのときふと思った。かゆいのはなくなった指がまだそこにあるからだ。だとしたら、切った舌を蘇らせる截舌の術も案外遠くないところにあるのかも知れない。

　茹法珍は皿や椀が並んでいるのを見た。一日に一度の食事をしているところだった。例によって松の実は欠かさない。茹法珍はそれをつまんで口に放り込んだ。

「飯はどうしている？」

　梅蟲児は箸を左手で易々と操って食べてみせた。

「指の三本くらいなくてもどうってことない」

「阿兄は器用だな」

「もう何でもできる。だから、呼んでほしいんだ」

「お上にか」

「お上に喜んでいただくのが俺たちの勤めではないか。だから」

「今は無理だろうな」

　茹法珍は腕組みをした。

「どうして」

「俺もお上にはずっと呼ばれていない」

「まさか」

「いや、そうなんだ」

　蕭宝巻の心は計り知れない。

　一度は許したはずの弟を殺したり、決して許さぬと見えた弟の命を長らえたりする。そこには蕭宝巻にしかわからない理由があるのだろう。

「どういうことなのか」

　茹法珍は顎鬚をしごいた。

「阿兄も聞いただろうが、お上は王珍国を呼んだ」

「いや、知らない。王珍国って誰だ」

「高帝、武帝、明帝に仕えた王広之将軍の息子だ。王敬則の乱を鎮めるに功あって、青州、冀州の刺史となった。その王珍国を都に呼び、京師の兵権を委ねるのだ」

「お上が決めたのか」

「そうだ」

「阿丈はどうなる？」

「お役御免だな」

「まさか」

「宮廷にごろごろしている用のない不逞の輩に戻るだけだ」

　茹法珍は笑った。

「俺は指を失った役立たずの芸人か」

　梅蟲児が自嘲気味に言うと茹法珍は陽気に笑った。梅蟲児は自分の言葉に余計に沈鬱な気分になった。

「おかしな話だ」

　と、梅蟲児は言った。

「おかしなことならこれまでにいくらでもあった」

「お上に見捨てられたのか」

　梅蟲児はそんなことあるはずがないと思いながらもあえて言ってみた。

「だったらどうする」

　茹法珍が声を低くして言った。

　梅蟲児は目をくりくりと回した。

「どうするかなんて、考えられない。お上に喜んでいただくことの他に俺が何をしたらいいのか。ここより他の場所で生きていくなんて考えられない」

　それは梅蟲児の気持ちの全てではなかった。皇帝に捨てられたら生きられない。しかし、弟は救えるかも知れないと思った。

　茹法珍は大きくうなずいた。

「俺たちはここを出たら生きられない。その通りだ。何しろ世の中で俺たちほど憎まれている者は、あとは一人しかいないからな」

　茹法珍は笑みを作った。

「一人か」

　それはむろん皇帝のことであった。

「だから、お上は俺たちを遠ざけているのだろう。俺はそう思っている」

「どういうことだ」

「俺たちを救うためだな」

「救う？」

　梅蟲児はそう口にして、突然、胸の中に今までと全く違うものが広がった。

　救うとは。梅蟲児はその意味を考えて、何も言えなくなった。

「お上は後のことを考えている」

　茹法珍は梅蟲児の顔を見つめた。その眼がみるみる潤み出した。

　梅蟲児は茹法珍が泣くのを初めて見た。

「そういうことなのか」

　梅蟲児は声をしぼり出した。

　茹法珍はうなずいた。

　太極正殿に百官が集められた。

　梅蟲児もその中に加わり、負傷して以来、初めて人々の前に姿を見せた。茹法珍と並んで座った。それは広い太極正殿の最も南の入り口の前であった。一番の末席である。

　二人のこの位置は人々の目を引くに十分なものがあった。皇帝の行う重要な儀式において、蕭宝巻の側近である刀勅連中は他の高位高官を差し置いて玉座に近い奥の場所を占めていた。中でも茹法珍と梅蟲児は最も皇帝の近くに、時には壇上に座した。近頃、茹法珍と梅蟲児の二人は皇帝から疎んじられているとの噂があったが、それが真実であるのを人々は知った。昨日まで重用されていた者が明日には抹殺されるのが常であったから、次の犠牲者が茹法珍と梅蟲児になったところで何ら不思議はない。二人に同情する義理は誰も持ち合わせていない。

　二人に注がれる人々の視線には冷たいものがあった。二人は自分たちが憎まれている事実を確認したが、今さら驚くものではなかった。梅蟲児は、茹法珍が言った「救う」という言葉を思い起こしていた。しかるべき時が来た後にも、生きていける道筋を付けようと、皇帝は考えているのだろうか。

　ふと、人々の囁き声から譲位という言葉が聞き分けられた。

「本当か」

　梅蟲児は茹法珍に小声で聞いた。

「そうかも知れない」

「阿丈も聞いていないのか」

「ああ」

「蕭衍に降伏するのか」

「わからない」

　茹法珍が何も知らない様子に、梅蟲児は、茹法珍も皇帝から遠く離されている事実を改めて確認をした。

　蕭宝巻が入殿した。最高の礼服である冕服であった。

　玉座につくとおもむろに言った。人々の囁きの通りだった。

「朕は今日ここに皇位より降りる。臣らに異論があるのなら、何なりと言うがよい」

　蕭宝巻の声は広い正殿内によく届いた。

　声の余韻がおさまると静寂が支配した。誰も何も言わなかった。もしも発言したならば己の身を危うくするだろう。

　沈黙の時間が流れて行くのに人々が耐え難くなったころ、蕭宝巻は言った。

「よろしい。異論のなきは朕の大いに喜ぶところ、朕はこれにて皇帝でなくなる」

　蕭宝巻は立ち上がり、皇帝のしるしである印綬をはずし、玉座の上に置いた。

「これより台軍の一兵卒である」

　蕭宝巻は壇を下りた。人々はお互いの顔を見合わせ、とりあえず床に膝をついて平伏した。蕭宝巻は冠をはずし、冕服を脱いだ。下から戎服が現れ、まさしく一兵卒の姿となった。

「身体が軽くなった」

　蕭宝巻は笑みを浮かべ、正殿の中央の通路を南へと歩み始めた。人々は床に伏したまま蕭宝巻の進み行く足音を聞いた。茹法珍、梅蟲児の脇を通り、一番南の入り口に立った。

　蕭宝巻は長い静寂の時間を作り、突如として銅鼓を叩いた。正殿全体が揺れるほどの音が響きわたった。

　蕭宝巻は言った。

「頭をあげろ。新皇帝が座についておられる」

　見ると、玉座に一人の人物がいた。太極正殿は一瞬にして異様な雰囲気となった。

　遠くからでも梅蟲児にはすぐにわかった。玉座の人は、梅蟲児自身がこの前着ていた衣服を身につけていた。

「誰だ」

　梅蟲児は思わず口に出した。

「蒋子文神だ」

　茹法珍がそう答えを返したが、梅蟲児が知りたかったのは蒋子文神に扮しているのが誰かということだった。

「新皇帝を拝せよ」

　蕭宝巻が言った。

　人々は姿勢を改め、新皇帝であるとされる蒋子文神を拝した。

　蒋子文神が皇帝となるのは、かつて梅蟲児が扮した蒋子文神が蕭宝巻から黄鉞を授けられたのを思えば、ある意味、当然の成り行きであった。黄鉞を授かるとは、実質的に皇帝を凌ぐ第一位の権力者になったとみなされることである。禅譲という王朝交替のための洗練された儀礼においては、新たに王朝を開く者は、皇位を簒奪する相手の皇帝からまずはこの黄鉞を恭しくも授けられるのである。その後、皇位を譲るとの申し出があり、簒奪者は繰り返し辞退して謙譲の美徳を大いに発揮する。群臣が勧め、万民が望んで、簒奪者はやむをえず皇帝となる。儀礼が終われば、元の皇帝は用がなくなり、人知れず処分される。

　都を目指しつつある蕭衍は、自分が新しく皇帝に立てた蕭宝融から黄鉞を授けられていた。蕭衍が都に入れば、いずれは蕭宝融より皇位を奪って皇帝になるのは間違いない。

　蕭宝巻は先に蒋子文神に黄鉞を授けていたのだから、蒋子文神が皇帝になって何ら不思議ではない。

　壇上には、皇帝の先祖たちの祖廟神、天の神、地の神など多数の神々が居並び、蒋子文神の即位の儀が行われた。

　このとき蒋子文神に扮したのは王宝孫であった。皇后付きの宦官であった王宝孫が、この日から皇帝となったのである。

　新しい皇帝が誕生してからも梅蟲児の日常は変わらなかった。身の鍛錬と技の修得に努めるばかりであった。他に何もできないからでもあった。

　心はすでに定まっていた。蕭宝巻に何もかも託した。何がこの身に起ころうともそれでいい。その上で、万一の幸いに恵まれれば猿児を逃がす。梅蟲児のこの思いはこれで動かぬもののようであった。

　蕭宝巻の日常は激変した。

　蕭宝巻は奥殿を出て兵舎で暮らした。日の出前に起床し、ただちに屈強の兵士数十騎とともに皇城の外に出た。日がな一日、都をくまなく巡邏した。軍務は蕭衍に内応する者の捕縛にあった。これまで蕭衍が接近する町では必ず多数の内応者が出て、町はほとんど抵抗することなく蕭衍に降った。都でも内応者の噂は数知れずあった。蕭宝巻は多額の褒美を出し密告を奨励した。密告があるとただちに踏み込んだ。密告の真偽は一切問わなかった。不幸にもその場に居合わせた者は、老若男女誰彼の区別なしに捕えられた。抵抗すればその場で斬られ、おとなしく捕縛を受ければ、尋問も何もなしに、その日一日に得た他の獲物とともに、朱雀門の前に一列に並べられ、夕暮れ時に処刑された。その数は百を下る日はなかった。

　処刑が終わると蕭宝巻は皇城に戻った。兵士とともに粗末な食事をとり、夜には、新皇帝の臨席のもと、武術鍛錬に励んだ。新皇帝の隣には皇后が座り、蕭宝巻の側近連中、宦官や女官も大勢居並んだ。蕭宝巻は、剣、矛、槍、弓などあらゆる武術の鍛錬を人々の前で行った。

　蕭衍は江寧に迫った。江寧は都から目と鼻の先である。

　蕭衍は町を攻囲するための柵を築き始めた。

　江寧の守将、李居士は、敵の全軍がまだ揃わぬうち、柵が完成するよりも早くにと、軍勢を城の外に繰り出した。このとき李居士は数においてまさっていた。しかし、士気の点で遥かに敵に劣った。敵は決死の覚悟を決め、未完成の柵の内に控えて守るのではなく、あえて柵から躍り出て戦った。

　李居士は敗北し、江寧は敵に落ちた。

　　　　七

　十月、王珍国が都に入った。

　青州から都までの王珍国の道中は、敵が各地に充満する中、なかなかに難儀なものであり、到着には思いがけない時間を要した。

　新皇帝は王珍国を征虜将軍に任命し、都に残る全軍の指揮を委ねた。王珍国を手厚くねぎらう夜宴を開き、例の武術鍛錬を、王珍国は新皇帝の隣の席で見た。

　茹法珍と梅蟲児もその夜に限って呼び出された。一番端の末席であった。

　梅蟲児は猿児から様子を聞かされていた武術鍛錬を自分の目で初めて見た。蕭宝巻は数十人の兵士の中にあった。

「どういうことなのか」

　蕭宝巻の振る舞いはもとより尋常ではなかった。見物人の多いこの武術鍛錬もまた十分に奇妙であった。

　それよりも、王珍国がなぜここにいるのかが不思議であった。王珍国は新皇帝と皇后の間にいた。その位置は王珍国がいかに重んじられているのかを示すものであった。なぜこの時期に王珍国なのか。

　王珍国は、遠くから見るだけでも、これまでに知る大臣や将軍とはかなり違っていた。歳は四十前後か、痩せて柔和な顔つき、なよなよと風に靡くような体つきは、武人というよりも、儒者か僧侶であった方が似合いそうだ。なぜこのような人物がこの時期に都に呼ばれたのか。それに、いかにも思慮深そうに見える王珍国がなぜ労苦を厭わず都に来たのか。

「忠なのか」

　梅蟲児はつぶやいた。

　隣の茹法珍も同じようなことを考えていたのか、

「だとしたら相当に御目出度い男だ」

　と、笑った。かつて東宮の屋根の上でこの語を口にして蕭宝巻に笑われたのを思い出した。

「ならば、得るものがあるのか」

「王珍国はこれまで特別の恩顧はなかった。これからもないだろう」

「ならばなぜ」

　もしも王珍国が知恵の足りない徐世標の類であるのなら、都の指揮権を手中にし、あわよくば皇城を乗っ取ってやろうと、無謀な野心を抱いているということもあり得ない話ではない。しかし、王珍国はそんな無思慮な腹黒さとはいかにも無縁そうに見えた。

「決着をつけるためだろう」

　茹法珍がぽつりと言った。

「どういう決着だ」

　梅蟲児の問いに茹法珍は答えなかった。

　射的の技が披露された。蕭宝巻も新皇帝と王珍国の前に進み出て、連続していくつもの的を射抜いた。

　武術鍛錬の締めくくりは、蕭宝巻の剣舞だった。半裸体となった蕭宝巻が、長く太い剣を持ち、ゆったりとした音楽に合わせて舞った。高くに剣を振り上げ、片足で立ち、静かに身体を回しつつ剣を下ろして行く。動作は実に緩慢だが、全身に力がこもり、上体の筋肉が盛り上がって波打った。蕭宝巻は舞いつつ玉座の前に進み出た。

「蕭衍が来ましたなら、白門の前で、陛下の御為にこの剣で切ってみせましょう」

　新皇帝は何も言わず、ただうなずいた。

　都に大敵が攻め上って来ているときに、本来の皇帝がこのようなことをするにどんな意味があるのか。梅蟲児には皆目見当がつかない。

「どういうことなのか」

　梅蟲児はつぶやいた。

「今さら何を問うのだ」

　茹法珍は言った。その通りだった。蕭宝巻の行為は問うても仕方ない。そんなことを問うまでもなく、自分のすべきことは決まっている。

「そうだな。全てをお任せしているのだから」

　当然、同意するだろうと思っていると、茹法珍は、ふふっと、笑った。

「違うな。俺は任せ切ってはいない」

「どういうことだ」

「俺には俺のやることがある」

　そうかと、梅蟲児は思った。茹法珍らしい返事に思えた。

　では、茹法珍のやることとは何なのか、聞いてみたかった。しかし、梅蟲児はここで怖気づいた。梅蟲児の内には怖気づくべき理由がある。梅蟲児はそれを消すことができない。梅蟲児の大きな引け目である。蕭宝巻を刺そうとしたこと。その過去がある限り、茹法珍には完全には心を開くことができないでいる。わかってもらえているように思うこともあるが、最後は怖気づく。

　剣舞を終えた蕭宝巻は汗を拭い、いったん衣服を整えてから、王珍国の正面に進み出て、深々と礼をした。王珍国は座をすべりおり、本来の皇帝を拝した。

「大将軍殿が台軍の木っ端兵士に頭を下げるなど聞いたことがありません」

　王珍国は蕭宝巻に促されて、仕方なく座に戻った。

　蕭宝巻はぐるっと周囲を見渡すと言った。

「これより大将軍殿に一つの座興を御覧に入れましょう」

　腕を伸ばし、指先を真っ直ぐに突き出した。その先に、人々の一番の端に位置する梅蟲児がいた。

「あの者が、白虎旛を額の上に乗せるという世にも愚かしい芸を披露いたすでありましょう」

　梅蟲児は蕭宝巻の言葉にいささかうろたえた。

　指を失って以来、蕭宝巻の前で芸をする機会は与えられていなかった。それが今なぜここで急に呼ばれるのか。愚かしいという芸をなぜここでやれと命じるのか。

　理由など考えても仕方ない。蕭宝巻に言われたことだ。

　梅蟲児はいつも通りにするだけだと心を定め、この場には不似合いのようでもあったが、自分の芸をいつものように始めた。足を高く跳ね上げて進み出て、次いでとんぼを切って回転しながら王珍国の前に立った。

　大きな白虎旛が運ばれた。

　自分のいつもの流儀を通す。そうでなければ、どれほど愚かしいものであっても、確かな芸はできない。

　数人がかりで白虎旛が地面に据えられた。梅蟲児は新皇帝と王珍国に恭しく礼をした。皇后に一瞬だけ視線を送った。いつもの無表情であった。

　爪先を上げ、踵で地面を踏んで、腕を回しながら、旛のまわりをぐるぐると踊った。

「やっ」

　頃合いみて、掛け声とともに、白虎旛を手にした。今まで支えていた男どもがさっと離れた。

　梅蟲児はぐいと白虎旛を持ち上げた。右手に細心の注意を払った。旛は真っ直ぐ垂直を保ったまま地面を離れた。

「やっ」

　再び掛け声もろとも、身体をするりと白虎旛の竿の真下に入れた。腕をぐっと引くと額の上に竿が乗った。

「やっ」

　梅蟲児は両手を離した。白虎旛は額の上に立った。

　わずかに梅蟲児の左右の感覚が狂っていたのか、注意をしすぎたのか。右手の力の入れ加減が微妙にずれていた。白虎旛がわずかに傾いた。

　梅蟲児は釣り合いを取り戻そうと首に力を入れた。

　かすかな揺れが竿に生じた。

　揺れは誰にも見えないものであったが、このままではこらえられなくなるかも知れないと梅蟲児は思った。

「やっ」

　猿児の声がした。

　梅蟲児は両腕を水平に伸ばした。猿児が飛び出した。

　梅蟲児は白虎旛の揺れを見定め、竿に手を掛けた。

「やっ」

　猿児に向かって投げた。絶妙な間合いだった。猿児は膝をついて受け止め、ただちに竿を地面に垂直に立てた。

「みごとだ」

　王珍国が短い賞賛の言葉を発した。

「梅蟲児という者。およそ世の役に立つことのできぬ男です。大将軍殿も気に入られましょう」

　蕭宝巻が言った。

　梅蟲児は王珍国に頭を下げた。

　兄が窮地に陥りかけたのを見てとったのは猿児だけだった。梅蟲児は弟に救われた。今回もだった。兄は弟に何もできないのを情けなく思った。

「征虜将軍閣下がお呼びでございます」

　翌日、部屋の前で兵士が告げた。摘み取った薬草を混ぜ合わせていた梅蟲児は、驚いて手を止めた。王珍国が迎えの兵士を寄越した。全軍を指揮する大将軍の命は拒むものではなく、梅蟲児は後に従った。

　王珍国は景陽楼の外に立っていた。梅蟲児は小走りで駆け寄り、前に組んだ手が地面に触れるほどに深々と頭を下げた。王珍国はわずかに腰をかがめて礼を返した。梅蟲児はもう一度頭を下げた。

　王珍国は梅蟲児を楼上に導いた。

　人は遠ざけられ、最上階に王珍国と二人だけとなった。冬の初めの風が吹いていた。こは二年前に蕭宝巻、茹法珍と三人で立った同じ場所である。あれから立て続けに異様な事件が起こった。

　王珍国は欄干に手を置き、都の眺望を眼下に収めた。王珍国の身体は細く、楼上を吹き抜ける風にいかにも頼りなげであったが、その背を見るうちに、本当はこの男はとてつもなく強いのかも知れないと思い始めた。そうでなければ、青州から都に来るはずがない。

　梅蟲児は王珍国の背から目を離し、御街の大路が南へと延びる様を遠望した。

　御街は皇城の南の大司馬門に始まり、都城の南限を区切る宣陽門をくぐって、都城の外へ、秦淮河のほとりへと延びる。秦淮河には朱雀航の浮橋が架かり、そのあたりまで都の繁華な市街が、ほんの少し前までは続いていた。梅蟲児が今見る都城の外にも、御街の道筋は一本延びているものの、その左右には一軒の人家もない。来るべき決戦に備えて全てが取り壊されていた。

　都がただならぬ状況にあるのを知らぬわけではなかったが、宮殿の奥ばかりにいた梅蟲児は、初めて自分の目で確かめた。

　王珍国が振り返った。穏やかな表情だった。遠くより見て、儒者か僧侶であるのがふさわしいと思ったその顔が間近にあった。

　王珍国の小さな目が真っ直ぐに梅蟲児に向けられた。梅蟲児は思わず半歩下がった。眼差しの奥に、梅蟲児がこれまで知らなかった何かがあるようだった。それを避けようと、顔を伏せかけたが、王珍国の眼力によって射竦められたかのように、己の顔を王珍国に見せ続けた。

　自分は王珍国を恐れているのか。梅蟲児は己に問うた。

　天下の極悪人と名指しされる自分である。王珍国の思慮深そうな目で見られるのを厭うのか。役に立たぬ男と蕭宝巻に言われる自分である。その通りであるのを王珍国に知られるのを嫌うのか。

　そうではなかった。王珍国の眼差しは恐れねばならぬものではなかった。

　王珍国は穏やかな表情のままだ。それは人を恐れさせるものではない。一切そのようなこととは無縁である。

　では、何を恐れているのか。梅蟲児の心の内はにわかに大きく揺れ出した。

　梅蟲児は怖くなった。このまだよくも知らぬ男を、自分は恐れている。その理由がわかり始めていた。

　そんなことはない。

　梅蟲児は否定しようとしたが、急に自分はこの男に己を委ねてしまおうとしていることに気付いていた。

　そんなこと、あるはずがなかった。なぜだ。

　王珍国は自分を救ってくれるのか。

　そんなことはない。

　自分は皇帝に身を委ねたのだ。それは微塵も揺るぐものではない。それを、急に現れたこの男に。

　ばかな。

　自分をそんな思いへと誘う王珍国を梅蟲児は恐れた。

　だめだ。

　梅蟲児は心の中で言った。

　王珍国は片腕をゆっくりと伸ばして来た。

　だめだ。逃げろ。

　王珍国は両手を梅蟲児の肩の上に置いた。小さな手だったが途方もない重さがあるように感じられた。

　王珍国の手によって身動きできなくなった。

　梅蟲児は観念しかけた。

　だめだ。

　王珍国は口を開いた。

「いまここには二人しかいない。私が聞いたことは、私しか聞かない。ここで聞いたことを私は誰にも言わない。梅蟲児殿もまたそうであると私は信じている」

　王珍国は梅蟲児の目を見続けた。梅蟲児は否定できず、ゆっくりとうなずいた。

「では、お尋ねする。正直に答えていただきたい。事は国の命運に関ることだ」

　王珍国の手に力が篭った。肩に加わる重みに膝が崩れそうになった。

「わかりました」

　王珍国の視線が厳しくなった。

「お上は気が触れておられるのか」

　梅蟲児の身体はわずかに揺れた。

　そのように疑ったことはこれまでに一度もなかった。いま王珍国にそう問われ、一瞬だけそうかも知れないと梅蟲児は思った。むしろそうであってほしいと次に思った。

　蕭宝巻の振る舞いは、常に梅蟲児の理解を超えた。それは偉大な皇帝だからだというのが梅蟲児の確信であったのだが、気が触れているのであれば、蕭宝巻が何をしたところで何ら不思議はなくなる。

「断じてそのようなことはありません。お上は御聡明です」

　梅蟲児は自分でも驚くほどにはっきりと答えた。

「確かにか」

　王珍国は梅蟲児の肩をさらに強く抑えた。

「確かです。お上はこの上なく御聡明です。御自身のなさっていることをむろんよく御存知でありますし、他の人が何を考えているのか、これから何が起こるのかをお見通しでなかったことはありません」

「まことにそうか」

「はい」

　梅蟲児の返事には力が篭っていた。

　今までに蕭宝巻がして来たことを思い起こした。謝朓から始まって、江祏、江祀、蕭遥光、蕭坦之、劉暄、徐孝嗣、沈文季、陳顕達、崔慧景、蕭懿と、蕭宝巻の見通しは一度だって狂ったことはない。

「ならば、お上が見通されるその全てにむろん私も入るのだろうか」

「そうに違いありません」

「ならば、なぜお上は私をここに呼んだのか。私という者を知っていたなら呼ぶはずがないと思える」

　梅蟲児もそう思った。

「私にはこれ以上のことはわかりません」

「お上が全てをお見通しであるのなら、私が私の思うことをするよりないのも御存知なのか。ならば、それをせよとのことなのか」

　梅蟲児は返事をしなかった。

　偉大なる皇帝は全てを見通しである。全てとは全てなのである。

　これまでその偉大さの前に多くの者が破滅した。王珍国もその一人となるのか。それとも、これからは全く別のことが起こるのか。梅蟲児にはそうなるように思えた。王珍国は他の者とは違う。だからこの時期に王珍国を都に呼んだのではないのか。

　梅蟲児は先程の恐れをいっそう強くした。目の前の男に全てを委ねてしまいたくなっている自分がいる。偉大なる皇帝は全てを見通しているのなら、自分がこうなることもわかっているのだろう。だとすれば、王珍国に身を委ねることは、蕭宝巻の意向に添うことではないのか。

　違う。

　梅蟲児は心の内で一生懸命否定しようとした。

　王珍国は手を梅蟲児の肩から離した。梅蟲児の身体が支えを失ったかのように揺れた。

「ありがとう」

　王珍国は向き直った。外に目を向けた。

「この都の内に、梅蟲児殿の縁者がおられるか」

　王珍国は穏やかな話し方だった。

「私の父はもとより誰とも知れず、母は幼くして別れたまま、恐らくはどこかで死んでおりましょう。たった一人の弟は宮中におります。ただ下賤な暮らしをしていた昔の仲間が都のあちこちに大勢おります」

「その者たちをお上は苦しめて来たのではないか」

　梅蟲児に少しでも縁のある者は、梅蟲児の助けを得ていい目に遭ったはずだが、大方の庶民は酷い目に遭っている。だから梅蟲児や茹法珍は人々の憎しみを買っている。

「恐らくは」

　梅蟲児は曖昧に答えた。

「宣陽門から南には一軒の家もない。あれだけの繁栄を誇っていた秦淮河の両岸も蕭々たる原となった。これが斉国の都の今の姿だ。戦が始まれば、都城の内も同様の廃墟と化すだろう。お上が即位してから三年、斉国は滅びようとしている。苦しまぬ者がどこにいるのか」

　梅蟲児は黙って遠くを見た。王珍国の言う通りに違いなかった。

「お上が全てを知るほどに御聡明であるのなら、人々のその苦しみを御存知でないはずがあろうか」

　梅蟲児はそのように思えた。蕭宝巻に知らぬことなどあろうはずもない。蕭宝巻の残虐と思える行為も全てを知っての上だ。なぜそうするのかは、梅蟲児にはわからなくても、皇帝には理由がある。

「私がここに来たのはこの都の人々を救うためだ。お上が全てを知るのなら、当然、それも知っておられよう」

　王珍国は振り返った。

　その目に見据えられて梅蟲児は答えた。

「お上が全てを見通しておられたのは間違いないことでございます」

「これからもそうだと思うか」

「もちろんです」

「ならば、これから私が何をするのか、これから梅蟲児殿に何をお願いするのかも、お上は見抜いておられるのか」

　梅蟲児は身を引いた。

「私に」

「大事な一つのことをお願いする。よいか」

　梅蟲児はうなずきそうになった首を止め、身を固めた。

「それは今夜だ」

　王珍国はそう言うと身を翻して楼を降りた。

　梅蟲児は一人残った。

　やはり王珍国に身を委ねることになったのか。

　風が冷たく強くなった。

　なぜあの男に。

　蕭宝巻が即位してから三年。それ以前からも梅蟲児はただ蕭宝巻のために生きて来た。百戯の徒として生まれ、旅の空に飢え凍える身から、皇帝の側近となった。夜宴においておよそ世の役に立たない芸を見せるだけで、都に壮大な屋敷を構え、多くの財を手にした。その見返りであるのか、世の人々に憎まれる存在となった。小屋の叔父や叔母が金に目が眩んで蕭鸞の屋敷に売り飛ばさなければ、その芸でもってわずかに名を知られることがあっても、国の命運などとは一切関わらず、人々の憎しみも買わなかっただろう。梅蟲児は望んでここに来たのではなかった。

　梅蟲児は景陽楼からの景色を見下ろした。間もなく廃墟となろうとしている都がある。

　自分はなぜここに生きているのか。

　梅蟲児は一つの決意を迫られているのを感じた。それが何であるのかはまだわかってはいなかった。

　夜遅くいつもの武術鍛錬が終わると、宮中は静寂に包まれた。

　梅蟲児は「今夜だ」という王珍国の言葉を思い、寝台の上で起き続けていた。

　音もなく王宝孫が入って来た。蒋子文神となって皇帝を演じている王宝孫だが、素顔の宦官となっていた。

「お越しください」

「どこへ」

　王宝孫は答えずに梅蟲児の手を曳いた。

　梅蟲児は同じように王宝孫に呼ばれたのを思い起こした。そのときは皇后に皇帝の殺害を頼まれた。事態はより深刻になり、今夜は王珍国に呼ばれた。

　梅蟲児はぶるっと身を震わせた。まだ決意はついていなかった。

　それでも、王宝孫の手に曳かれるがままになった。

　王宝孫は華光殿の隅のとある一室に梅蟲児を案内した。薄明かりの中へと足を踏み入れると、一人の宦官が座っていた。

　宦官は顔を上げた。梅蟲児は、うっと声を洩らした。皇后だった。

　梅蟲児は床に跪いた。

「もうお一人来られます。少しお待ちになってください」

　皇后の声がわずかに震えていた。

　見上げると、まだ少女と言ってもいい年齢の皇后の顔が、淡い蝋燭の光のもとに暗く沈み、まるで老女のようであった。梅蟲児は胸に焼ける熱さを感じた。

　あの事件から、時折遠くに見る皇后は常に無表情であった。その下にどのような苦しみがあったのか。

　梅蟲児は決意したかった。この人のためであれば、何があっても意のままにと。

　しかし、梅蟲児は蕭宝巻と茹法珍の顔を思い浮かべた。

　梅蟲児の顔が歪んだ。

　猿児が一人の男を連れて来た。

　思った通りに王珍国だった。王珍国は皇后の前に額づいた。

「私は台軍の一兵士の妻です。征虜将軍様のそのような礼をお受けする身ではありません」

　王珍国は床に坐したまま動かなかった。

「どうぞこのままにさせて下さい」

　皇后は王珍国を見た。王珍国は顔を上げた。二人はこれで了解し合えたのだろうと、梅蟲児は思った。自分もまた了解し合えて良い。そうありたいし、そうあって良いのだが、梅蟲児はまだ決意はできていなかった。

　皇后は言った。

「人に気取られぬうちに、ただ短く申し上げます。梅蟲児様には前にお願いしたことの繰り返しです。猶予はなりません。お二人が力を合わせて是非にお願いしたいのでございます」

　皇后は頭を下げた。

　梅蟲児はわかっていた。決意するとはこのことだった。他にあるはずがなかった。もう一度皇帝を裏切るのだった。

　皇后の言葉に何としてでも従いたい。王珍国にも身を委ねたい。二人は正しいことを言い、正しいことをしようとしている。

　しかし、梅蟲児はあの事件以来、さまざな苦悩の末に、蕭宝巻に身を託すことを決意したのだった。それを無にしてしまうのか。

　だめだ。

　梅蟲児は唇に力を入れた。

　何も言いたくない。

　王珍国は言った。

「いかなることであれ、私はやらせていただきます」

　皇后は深く息を吸い、背を伸ばして言った。

「一日も早くお上のお苦しみを終わらせていただきたいのです。長いお苦しみです。私たち若年の者には一年は長く、五年ともなれば十分に長すぎます。お上のお苦しみはこの天下に一人しか味わうことのないものです」

「民はそれ以上に苦しんでおりましょう」

　王珍国は静かに言った。

「その通りです。お上のお苦しみを終わらせ、民を安堵させるには、一つのことをせねばなりません」

　王珍国はうなずいた。

「弑虐の罪を負うのを恐れるものではありません」

　梅蟲児にもわかっていた。王珍国は初めからそのつもりで都に来たのだろう。皇帝はそれを承知でそのために王珍国を呼んだのだろう。

「お上はもう退位されています。大将軍が一人の兵士を成敗して何の罪となりましょうか」

「罪はもとより覚悟の上です」

「お上は秦淮河の外で蕭衍殿の軍を迎え撃つつもりでおられます。その際に、梅蟲児殿と首尾を合わせてお上の命を絶っていただきたいのです。そうすれば都の民衆を巻き込んだ戦闘は防げます」

　皇后は梅蟲児に顔を向けた。

　梅蟲児は視線を落とした。

　皇帝は全てを見通している。自分がここで決意するということも。

　自分は誰のために何をするのか。何のために生きているのか。

　茹法珍を思った。茹法珍はやることを決めていると言った。あのような確信は自分にはない。

　ふと、小屋にいたころの観衆の喝采の声が耳に聞こえた。截舌の術が出来たら、もっと歓声が上がるはずだ。

　皇后が腕を伸ばして来た。

　梅蟲児は後ろに逃れようとした。身体が動かなかった。

　皇后の指先が梅蟲児の手に触れた。前と同じだった。

　梅蟲児はうなずいた。

「感謝します」

　皇后はふうっと大きく息を吐いた。

　梅蟲児はこれで決まったのを知った。

　　　　八

　永元三（五〇一）年十月甲戌。

　この日で全てが終わると知る梅蟲児は、猿児に向かって何か特別なことを言うべきか朝まで迷っていた。

　猿児だけは何があっても生き延びてほしいというのが、梅蟲児のかねて抱き続ける願いであった。それはとうとう叶わず、猿児を逃がすことはできなかった。それでも、猿児にはどうにかしてこれからでも機会を見つけて、宮中から、そして都から逃げてほしかった。そのようにせよと兄として命じたいと思いはしたものの、自分にできなかったことを弟に押し付けるのはためらわれた。生き延びよと言っても、そのための手段を示せなくては、ただ弟を苦しめるだけとなる。

　弟の脳裏に刻み込まれるような兄らしい言葉を残しておきたいとの気持ちもあった。天下の大悪人とされる兄も本当のところは違うのだと、弟が得心できる言葉はないか。梅蟲児はあれこれ考えたが、その日が来ても見つけ出せなかった。諧謔を常としてきた百戯の徒に、真実味のある言葉は考え出し難いものだった。たとえいい言葉を思いついても、いざそれを口にしようとするなら、およそ自分には相応しくないように思えてしまうだろう。それに、自分の思いを率直に口にしたなら、涙が溢れて止まらなくなってしまうかも知れない。それはいたずらに弟を悲しませるだけだ。ならばいっそ何も言わずに普段と変わらずに出て行くのがいいようであった。

　梅蟲児は眠れぬ夜を過ごし、夜明けの遥か前に起きた。導引、行気、練形の法を行い、少しでも心を鎮めようとした。

　舌神を拝した。何としてでも残念なのは、截舌の術を弟に見せられなかったことである。あと一歩のところまで来ているのだが、その術はまだ得られない。

　何もかも最後というけじめをつけられる日ではない。しかし、梅蟲児の都合とは関わりなく今日という日は来ていた。

　結局のところ、もしも猿児にいま言うことがあるとすれば、ありがとうという感謝の言葉だけだった。振り返ってみれば、弟がいるということで、梅蟲児の二十年余りの人生はまだしも明るい色合いであったと思うことができる。弟との時間は、幼いころと最近の宮中生活の二つに分かれるが、そのどちらも弟と一緒であったことで、苦しさよりも楽しさの方を先に思い出すことができる。二人で演技した数々の場面が梅蟲児の脳裏に浮かんだ。

　ならば、その思い出の一つでも語り、感謝の言葉をさりげなく言い置いておこうかと、梅蟲児は猿児を呼んだ。

　猿児の姿はなかった。あちこちを探したが、猿児はどこにも見つからず、そうこうするうちに出発の刻限が来た。

　兄弟の別れの時を迎えるのを嫌い、猿児はどこかに姿を隠したのか。それならそれでもいいと梅蟲児は思い直した。昨夜、眠る前に見せた猿児の普段の顔が弟の最後の思い出なら、それで悪くないと、思うことにした。

　日の出とともに、大司馬門より、蒋子文神皇帝の乗る輿が皇城を出た。輿を先導するのは一台の車。馬に曳かれる車上に、白虎旛が朝風に流れる。旛を支えるのは梅蟲児。馬の手綱を操るのは茹法珍。

　門外で皇帝の出を待っていた兵が万歳を叫ぶ。

　都に残る台軍三十万より精兵十余万が選び出され、大将軍王珍国を先頭に朱雀航に向けての行軍が早朝より始まっていた。総指揮官は蒋子文神皇帝。神の率いる台軍が負けるはずがないと、声を揃えて万歳を叫んだのだった。王珍国はすでに都城の南端の宣陽門にさしかかっており、万歳の声は南掖門から波となってそこまで広がった。

　金糸銀糸で刺繍された旗を背に負う騎馬武者が轡を並べて前に進み出た。皇帝の輿を固める近衛兵である。茹法珍は手綱を引いて車を止まらせ、皇帝の輿も止まった。近衛兵は一騎ずつ皇帝の輿の前に出て挨拶をした。梅蟲児は白虎旛を水平にしてそれに応えた。百騎余りの近衛兵が順に前を通り、最後の二騎が残った。

　白虎旛を支える梅蟲児の腕がびくんと震えた。

　大柄な一騎は蕭宝巻であった。総指揮官は蒋子文神皇帝といっても、実際に宦官の王宝孫がこの大事な戦の指揮を執れるはずはない。蕭宝巻がいなければならないのは当然であり、梅蟲児はこの蕭宝巻を今日の戦の場において殺すという役目を持っていた。

　蕭宝巻の姿を見て、いよいよその時が来た、と梅蟲児は改めて思った。どのような場で蕭宝巻を殺すことになるのか、およその段取りは定まっている。しかし、その通りに事が運ぶとは限らないだろう。戦の場であり、偉大な皇帝である。想像を絶する何かが待っているのだろう。王珍国の思惑とは全く違ったことになるのかも知れない。何であれ、恐ろしいことになるその時が来ないでほしいと梅蟲児は思いもするのだが、時は容赦なく進んでいく他はない。

　梅蟲児の目は蕭宝巻に引き付けられ、心も皇帝を巡る思案に集中し、その隣に並ぶもう一騎には目が向かずにいた。蕭宝巻と比べて非常に小柄であり、馬に十分には乗り慣れていない様子は近衛兵にしては少々異様であった。二騎は蒋子文神皇帝に挨拶を終え、梅蟲児の差し出す旛の下を通った。梅蟲児の目がふとその兵士に向かうと、梅蟲児の手から白虎旛が落ちそうになった。

　慌てて竿を掴んだ。どっと冷や汗が出た。

　通り過ぎて行く兵士、それは男装した皇后だった。

　茹法珍が小声で言った。

「しっかりしろ」

　梅蟲児は動揺を隠そうとしたが、皇后が近衛兵になっているというのは、普通に驚いてよいことであった。

「どういうことだ」

　梅蟲児は茹法珍にささやき返した。

「どのようなこともあり得る」

　茹法珍は事も無げに言い、馬に鞭を当てた。車が動き出した。

　蒋子文神皇帝の輿が動き始め、行軍が再開された。

　梅蟲児と茹法珍の乗る車のすぐ前に、蕭宝巻と皇后の馬が並んで蹄を鳴らした。それはあり得るような光景ではなかった。蕭宝巻はこれまでにあり得ないようなことをいくらでもして来たのだから、茹法珍が言うように、どのようなことだってあり得ると思うより他になかった。

　だが、それにしてもどうして皇后がここにいるのか。

　梅蟲児は皇后の背を見続けた。

　皇后がここにいる理由はどう考えてもわからない。これから起こるであろうことも、およそ普通ではあり得ないことになるのだろうか。思い描いた段取りとは少しも同じものにはならないだろう。

　地の底へと吸い込まれて行くような不安を梅蟲児は抱いた。

　しかし、まことに奇妙ながら、皇后の背を見て進むうちに、自分が不思議な幸福感に浸っているのに気付いた。思えば、こんなにも長く、誰からも怪しまれずに、皇后の姿を見ていられるなど、これまでに一度だってなかった。

　この時間が無限に続いて、これから先というものがなければよいのだがと、梅蟲児はあり得もしないことを夢想した。

　しかし、皇帝の一行が南へと進んで、朱雀航に到着すれば、それ以上にあり得もしない何かが待つ最後の時となるのだった。

「阿丈は知っていたのか」

　梅蟲児はふっとささやいた。

「何を？」

「お二人が」

「いや、何も」

「一体どういうことになるんだ」

「わからない。わかろうが、わかるまいが、俺は構わない」

　茹法珍のはっきりした物言いには、迷いは一切ないようだった。

　それに比べて、この時になってもまだ心に決めたはずのことが揺らいでいるのを感じて、梅蟲児は情けない思いをした。

　皇帝の命を奪うよう皇后に頼まれて梅蟲児は約束をした。その当の皇后が蕭宝巻と馬を並べて目の前にいる。これで一体どういうことになるのかというのが、梅蟲児の問い掛けの真の意味であったが、それを茹法珍は知っていないだろうと梅蟲児は思った。

「阿丈はどうするんだ」

　梅蟲児はさりげない風を装って言った。自分はどうするのか決めていたはずなのに、今や一体どういうことになるのか、わからなくなりつつあった

「俺は俺の思うようにする」

　茹法珍はいつも通りだった。

「そうか」

　梅蟲児はそれで黙った。

　茹法珍が何をしようとしているか梅蟲児は知らない。

　二人が車の上にいるのは新皇帝の命であった。宦官の王宝孫が自分の考えでそれを下すはずはない。実際には蕭宝巻の命であるのだろう。蕭宝巻は何を意図しているのか。茹法珍には梅蟲児の知らぬ任務を蕭宝巻は与えたのか。そうではなく、茹法珍は自分で考えるところがあるのだろうか。それは何なのか。茹法珍に訊いてみたかったが、訊けば「おまえはどうするんだ」と茹法珍の問いを受けることになりそうな気がした。それには何と答えるのか。

　幸いにも、茹法珍も黙ってくれた。

　ほっと安心をした途端に、代わって、心の底から悲しみが湧き上がった。

　これが二人でいる最後の時ではないのか。その時に限って、お互いに黙っているしかないのか。そうしたままで終わっていいのか。

　茹法珍に何もかも言ってしまいたい。

　この瞬間に「おまえはどうするんだ」と茹法珍が尋ねられたなら、梅蟲児は言ってしまったかも知れなかった。

　しかし、茹法珍は黙っていた。

　梅蟲児はまだ皇后の背中を見続けていた。見ているのは自分であったが、逆に、自分が皇后の背に見られているような気がした。もしもここで茹法珍に全てを告げようとしたなら、皇后の背はそれを許さないだろう。

　確信を持っている茹法珍が羨ましい。茹法珍がここで腕を掴み、「俺と一緒に来い」と言ったなら、梅蟲児はそれに従ってしまったかも知れない。

　もちろん皇后が振り返って、「それはいけない」と言えば、皇后の言葉の通りにするだろう。あるいは、蕭宝巻が何かの命令を出したならば、それに逆らうことは梅蟲児にはあり得ないだろう。

　都の大路はいつも通りに人払いがなされ、物音一つなく静まり返っていた。

　梅蟲児は皇后の背より目を放ち、街の左右を見た。敵がここに攻め入れば、焼けて全ては失われる。その時が来る前からして、この光景の一切が幻であるかのように梅蟲児には感じられた。

　宣陽門を出た。

　荒涼とした風景が広がった。つい先ごろの斉国の盛時には人家がひしめき、車馬が行き来し、繁栄を極めた城外の町は跡形もなかった。幼いころの梅蟲児にとってそれが唯一の世界であった小屋とそのまわりの狭い路地は、町並みごと消え去っていた。全ては確かに幻であった。

　初冬の風がかすかな土ぼこりを上げ、無人の野を吹き過ぎた。

　白虎旛がはためいた。一片の枯葉が旛先をよぎって飛び、空高くへと舞い上がった。

　あの葉となって、ここより消えてしまいたい。梅蟲児は枯葉を見送った。

　ゆるやかな長い坂を下った。秦淮河の谷だ。

　そこにも一軒の家さえなく、川には一滴の水も流れていなかった。しばらく前より秦淮河の水は上流に築かれた堰によって塞がれていた。川を跨いで御街を繋いでいた浮き船の橋は、乾上った河床に横たわったまま見捨てられた。

　台軍十万の兵は谷の底へと下り、泥を踏んで対岸に上った。丸太を組んだ高い見晴楼があった。このたびの戦の指揮がそこでなされる。

　車が止まり、輿も止まった。梅蟲児と茹法珍は見晴楼に昇った。

　時が来たのだった。

　今さら何かを言ったところで仕方がないところに来た。二人は無言のままに見晴楼の最上段に立った。

　王珍国は兵士に昼食を与えた。

　伝令が走って、蕭衍軍が南に姿を見せたと告げた。

「朕が白虎旛を立てたなら、それを合図に、攻撃を開始せよ」

　蒋子文神皇帝の命を受け、王珍国は南に向かった。

　王珍国は近衛兵の一人を見やった。王珍国の最大の気がかりは、蕭宝巻が何もかも見抜いていて、これから起こるべき全てを思いもかけぬ方向に持って行ってしまうことにあった。蕭宝巻はこれまで天地を主宰する造物主であるかのように、人々の運命を自在に弄んで来た。王珍国自身も、また蕭衍も、蕭宝巻に操られて破滅して行くだけの一人でしかないのかも知れなかった。本来の皇帝が近衛兵となってここにいるというこの異様さ、それこそは、逆に皇帝の偉大さを示し、今これからさらに異様なことが起こるのを示しているかのようだった。蕭宝巻を間近に見る王珍国は、むしろ、そうなるのがごく自然であるかのようにさえ思われた。

　ただ、もしかすると、蕭宝巻は何もかも見抜いていて、これから起こるべき全てを甘受しようとしているのかも知れなかった。一人の兵士として戦場で死に、何もかも終わらせてしまおうとしているのではないか。それもあり得そうではあった。

　そのいずれであれ、今日のうちに決着が付くのがただ一つの間違のないことだ。

　王珍国は馬を進めた。

　蒋子文神皇帝は見晴楼に昇った。

　朱雀航のあたりは浅い窪地である。三層の楼上に立つと、背後に都の高殿宮楼が霞み、前方に波打つ南の台地が広がった。東に秦淮河が流れ出て来る山なみがあり、西に秦淮河がその間を縫って流れ出て行く丘があり、その向こうに長江がある。

　蒋子文神皇帝の斜め前に梅蟲児が立った。白虎旛を竿に巻きつけ、手で押さえた。蒋子文神皇帝の真正面に茹法珍が立った。茹法珍は不動の姿勢で南方を見つめた。王珍国が所定の位置に到着したならば、蕭衍軍の動きを測って攻撃開始の頃合を見極めるのである。蒋子文神皇帝の背後に二人の近衛兵が控えた。一人が蕭宝巻、もう一人が皇后である。五人は一切口をきかず、ただ西からの風が静かに楼上を吹き過ぎた。

　今さら何かを言ったところで仕方がないと思った梅蟲児の心がまた揺らいだ。

　ここにいるのはこの五人だけである。五人は東宮時代以来長く一緒に時を過ごして来た。その五人が最後の時を一緒に迎えようとしているのに、互いに無言で居続けるのは、異様でありかつ寂しいことである。

　梅蟲児は思った。他の四人も同じように思っているのではないかと。

　もしもここで全てを告げてしまえたなら、自分はどれほど楽になるか。五人が互いの思いを打ち明け合えば、全く異なった局面が開けるということもあるのではないか。たとえ、そうならなくても、互いに秘密を持ちながら、最後の時を待っているのは、悲しいことではないのか。

　梅蟲児の胸は息をするのも苦しいほどになった。

　ここで自分が声を出せばどんな変化が生じるのだろか。そう思いつつも、梅蟲児は声を出さなかった。

　梅蟲児の後ろには皇后がいた。梅蟲児は皇后に見られていた。皇后との約束は破れない。

　皇后がなぜここにいるのか。梅蟲児が約束を果たすかどうかを見届けるためなのか。そのために自らの意思でここに来たのだろうか。

　だが、皇后が自分からここに居るのを望んだとしても、それでこの場に居られるのは不思議だ。蕭宝巻が許さない限りは皇后がここに居られるはずがない。とすれば、蕭宝巻が皇后をここに連れて来たのか。それはなぜなのか。皇后と自分たちの企みを見抜いているからなのか。

　梅蟲児は東の山を見た。西からの風に吹かれる一片の枯葉となって、この場を飛び去ってしまいたい。誰知らぬ山中に逃げたい。猿児とともに。

　そして皇后も枯葉となって飛ぶ。

　梅蟲児の夢想が飛び行く東の山の奥には、秦淮河の流れを止める巨大な堰がある。間もなくその堰は切られ、満々と蓄えられた水が谷を満たして押し寄せて来ることになっている。本来それは敵を流すためのものなのだが、王珍国はその水で蕭宝巻を長江に流してしまおうと計画していた。

　堰が切られる刻限は定まっている。あれこれここで迷い続けようと、あるいは何もしなくても、時が来れば水によって押し流されて死ぬ。そればかりは少しも変わりようがない。どうあっても終わりは終わりだと、梅蟲児はあえて思った。それによってわずかながら気を楽にしようとした。

　足先にかすかな揺れが伝わった。ざわざわとした振動が耳元に起こった。

　胸の鼓動が勝手に早まった。

　梅蟲児は息を吸い込み、ぐっと腹に力を据えた。

「来た」

　茹法珍がつぶやいた。

　遠くの大地が膨れ上がった。梅蟲児は白虎旛を握り締めた。

　蕭衍軍が姿を現した。

　梅蟲児は巻きつけてあった白虎旛をほどき始めた。

「まだ早い」

　茹法珍は振り向かずに言った。

　梅蟲児は足元にひんやりと冷たいものを感じた。

　始まった。これで全てが終わる。

　ぶるっと身震いした。

　怖いのか。震えている自分を笑いたくなった。

　梅蟲児は白虎旛を斜めに立て始めた。

「もっと引き付けてからだ」

　茹法珍はまたも振り向かずに言った。

　王珍国の目の前に蕭衍の軍勢が現れた。矢を射れば届く距離に迫った。

　白虎旛が振られた。

　王珍国は左翼と右翼を走らせた。敵は矢を雨のように降らせた。王珍国は自ら率いる中央の主軍を繰り出した。

　王珍国は降り注がれる矢をものともせずに前進した。王珍国はなよなよとした見かけとは異なり、並みの武将よりは遥かに勇武であった。

　蕭衍軍は眦を決して向かってくる敵にややひるんだ。王珍国の作戦であった。蕭衍軍はこの一年間を戦場で過ごして実戦に慣れていた。一方、この日初めて都を出た兵士は、装備ばかりは優れていても戦意に乏しくひと支えもおぼつかないほどであった。王珍国は弱兵にあえて突進させた。戦の場に立てば、自分のために戦うしかない。弱兵たちのなけなしの勢いが、緒戦では蕭衍軍を制したかのように見えた。

　しかし、歩兵同士が激突すると、本来の優劣の差が現れ始めた。

　王珍国は太陽を見た。刻限にはなお間があった。簡単に敗れてしまうわけにはいかなった。水が朱雀航を洗うまで、敵を秦淮河の南で支えねばならない。

　王珍国は先頭に出た。大声を発し、味方を前進させた。

　敵は大将軍の姿を認めると、第一の軍功を挙げようと、馳せ集まった。王珍国は槍を回し、一人の喉を貫いた。王珍国は馬の脇を蹴り前へと進んだ。向かい来るもう一人の敵を槍の餌食とした。

　味方が続いた。敵は矢を降らせた。王珍国は委細構わず敵中に突っ込んだ。

　蕭衍軍は勢いに屈した。一里余り退いた。

　梅蟲児は白虎旛を振った。

　蒋子文神皇帝の兵が前へ前と繰り出され、蕭衍軍は後退して行った。

「そこだ」

　茹法珍が叫んだ。

　これは梅蟲児には意外であった。勝てるということがあるとは少しも思っていなかった。

　茹法珍は気迫に満ちていた。茹法珍がやると言っていたのは、敵に勝つことだったのか。

　勝ったらどうなるのか。元通りに戻るのか。そうならば、とりあえずはそれを望みたいものだと梅蟲児は思った。自分はこうして白虎旛を振るだけの任務をもって今日を終えられるのかも知れない。

　梅蟲児は期待を持って遥か前方で行われている戦の様子を見守った。

　地鳴りがした。楼台がぶるっと揺れた。

　避け得ぬことが始まった。梅蟲児が何を望もうがすでに遅いのだった。

　冷たい空気が足元を走り抜けた。空が暗くなった。それを見上げる間もなかった。

　両腕に強い衝撃を受けた。白虎旛を奪われそうになった。梅蟲児の身体がねじれた。突風が渦を巻いた。

　白虎旛がぐるっと逆さまに巻き上げられ、竿を抑えようとする梅蟲児の腕がもげそうになった。

「旛を倒すな」

　茹法珍が走り寄った。

　轟音が梅蟲児の頭をのけぞらせた。楼台が大きくきしんだ。

　右手に激痛が走った。この前怪我をした手だ。旗竿が離れた。反動で、梅蟲児の身体は跳び、揺れる床の上を回転した。欄干の丸太でわき腹をしたたかに打った。

　茹法珍が白虎旛を持った。

　つむじ風が唸った。楼台が右に左に斜めになり、風によって丸ごと地から抜かれてしまうばかりだ。

　あたりが夕暮れのように暗くなった。

　揺れる楼台から振り落とされまいと、梅蟲児は欄干をぐいと掴んだ。右手には力が入らなかった。

　白虎旛が白くくっきりと暗い中に浮かんだ。茹法珍は二本の足でしっかりと立ち、白虎旛を振っていた。

　梅蟲児は立ち上がろうと、足を踏ん張った。

　稲光が走った。

　楼台は逆さまになるばかりに大きくしなり、ばりばりと木の裂ける音が響いた。

　顔に水しぶきがかかった。

　天を覆う波であった。真っ黒な波頭が牙を剥いていた。

　梅蟲児は身を起こした。今こそすべきことがあった。

　風の逆巻く闇におぼろに姿があった。王宝孫が剣を振り上げた。

　梅蟲児はついに立った。

　皇后が突進した。剣を真っ直ぐに突いた。蕭宝巻は身をかわした。皇后はのけぞり、その右腕を蕭宝巻が取った。

　蕭宝巻はその腕をぐいと引き、皇后を身体ごと持ち上げた。皇后は逆さまに蕭宝巻の頭上に掲げられた。

「やっ」

　蕭宝巻は皇后を放り投げた。

　梅蟲児は蕭宝巻に掴みかかろうとした。本来身の軽い梅蟲児には何でもないはずのことが、このときばかりは手足が竦んで自由にならなかった。

　一瞬早く、王宝孫が壇より飛んだ。剣を振り下ろした。蕭宝巻は身を屈め、剣の下をくぐった。王宝孫の両足をむんずとつかんだ。蕭宝巻は王宝孫を頭上に掲げた。

「やっ」

　空中高くに放り投げた。

　梅蟲児の足元の支えがなくなった。

　波が楼台を砕いた。全ての丸太が一本一本ばらばらになった。

　梅蟲児は水中に沈んだ。その背をぐいと掴まれた。

　蕭宝巻だった。

「阿兄」

　蕭宝巻が言った。

　波は蕭宝巻の足をとらえていた。

「朕はおまえが好きだ。あれを頼んだ」

　蕭宝巻は梅蟲児を放り投げた。

　梅蟲児は水をかぶり、その身体がぐるぐると回わり、暗黒の闇を突き抜けた。

　急にまわりが明るくなった。

　上と下が同時に見え、青い空があり、逆巻く波があった。

　荒れ狂う波間に蕭宝巻の頭と、茹法珍の持つ白虎旛があった。

　たちまち梅蟲児の身体は勢いを失った。二回、三回となお回転して落下し、激流に立つ波と波とがぶつかり合った。真っ黒な渦が右に流れ、左に流れた。その中へと梅蟲児は落ちて行った。

　これで全てが終わりだ。

　梅蟲児は覚悟を決めた。

　波濤の先が梅蟲児の顔を洗った。

　矢のように走る一艘の小舟が梅蟲児の身体をさらった。梅蟲児の背が小舟の板にしたたかに打ち付けられた。舟は四方からの波に揉まれた。

　梅蟲児の顔のすぐ上に猿児の顔があった。

　猿児は覆いかぶさる波頭の間を縫い、奔流の上を走り抜けた。

　梅蟲児が身をわずかに起こすと、かたわらに二人の人がいた。すぐにわかった。皇后と王宝孫だった。

　梅蟲児は飛ばされそうになった。

　小舟は天の上に昇るかと思うと、地の底へと沈み、左に投げられ、右に飛んだ。

「兄さん、お二人が落ちぬようにしてください」

　猿児が叫んだ。

　梅蟲児は自分の身をもって二人を覆い、舟べりの板を掴んだ。

　濁流は一気に秦淮河を下った。

　梅蟲児は二人を抑え、あたりを見る余裕もなく、ただ奔流に身を任せた。

　小舟は長江の只中へと抛り出された。

　猿児は巧みに舟を操って横一文字に長江に乗り入れ、石頭城の下を疾走し、下流へ下流へと進み、またたくまに都から遠くへと離れた。

　長江の流れは北から東へと向きを変えた。さしもの激流も漫々たる大河の水の中に吸収され、小舟は静かに水面を滑るばかりとなった。

　梅蟲児は身を起こした。身体はまだ回転しているかのようだ。

　皇后と王宝孫は目を閉じたまま。息は通っていた。

「これは」

　梅蟲児の身体は止まっても、心はなお激しく揺れ続けていた。

　何が自分の身に起こっているのか。

　大河に浮かぶ一艘の小舟。そこに自分と猿児と王宝孫と皇后がいた。それは事実のようであった。

　それを見ている自分がいて、川の流れを聞く自分がいて、王宝孫と皇后が手の触れるところにいる。

　しかし、それが現実のこととは、梅蟲児には理解し難かった。

　目の前のものは確かさに欠け、はっきりとしたものは、先程まであったこと。それが断片的に脳裏に浮かぶ。

　自分はどうなったのか。断片の一つ一つははっきしていても、筋道を立てて考えることができなかった。

　呆然と遠くの岸辺を眺め、近くの三人の顔を魂が抜けた目で見た。

　どうにかただ一つだけわかるのは、楼上にいた時と今とでは、全く違った状況の中に自分がいるらしいということだった。

　それは何なのか。なぜこうなったのか。

　振り返ると、夕日が川面にゆらゆらと揺れた。

　猿児が横で静かに竿を使っている。

　ここには四人の乗る一艘の小舟がある。

　それは一体どういうことなのか。

「お上の思し召しです」

　猿児がぽつりと言った。

　冬の陽は西に光芒をおさめようとしている。

　ここは皇城でもなく戦場でもない。悠々たる大河の中央である。

「お上の？」

　梅蟲児は聞き返した。

「全てはお上の思し召しのままなのです」

　猿児が竿の手を休め、小舟を流れに任せた。

　梅蟲児は視線を遠く都の彼方に向けた。

「お上はどうされたのか」

「恐らくはこの水のどこか底なのでありましょう」

　梅蟲児は長江の流れを凝視し、目を閉じた。

　激しい波の間にあった蕭宝巻の最後の姿を思った。それはこの流れのどこかに沈んでしまったのか。

　それ以外のことはあり得そうになかった。

　梅蟲児は流れに深く頭を垂れた。

　茹法珍も死んでしまったのか。

　全ては夢のように終わってしまったのか。偉大な皇帝はこれを自分の最後として描いたのか。

　それはなぜなのか。

　梅蟲児は目を開いた。大河の水だけが前にあった。両眼に涙が溢れた。流れは見えなくなった。

　梅蟲児はうめき声を上げ、舟べりに手をかけた。

　両腕に力を入れると、その背を猿児が両腕で押さえた。

「いけません」

　梅蟲児の腕は萎えた。

　うなだれて舟縁に額を置いた。

「お上と阿丈と俺の三人はいつも一緒だった。俺だけがここに残ってはならない」

　梅蟲児は顔を上げ、流れを見つめ、舟から再び身を乗り出そうとした。猿児が抑え付けた。猿児はさほど力を使ったわけではなかった。

　梅蟲児はここで死ぬ決心を十分にはしていなかった。

「お上の思し召しなのです」

　猿児がきっぱりと言った。

「どういうことか」

　そう問いながら、梅蟲児は最後に耳にした蕭宝巻の言葉を思い起こしていた。蕭宝巻は何を梅蟲児にさせようとしたのか。

　それは自分にできるようなことではない。やはり死ぬしかない。

　今度は梅蟲児はいくらか力を込めた。猿児は押さえつけた。

「お上の最後の御命令です。逆らってはなりません」

　梅蟲児は舟縁から手を離した。

「どのような？」

　梅蟲児は暗く沈んでいく水面に蕭宝巻の顔を思い浮かべた。皇帝となった蕭宝巻の顔ではなく、最初の日に腕に抱えた少年の顔であった。

　あのままであれば。

　猿児は言った。

「誰にも知られることなく四人で暮らすように。それがお上の御命令です」

「四人とは」

　梅蟲児は猿児にわかりきったことを聞いた。

「この四人です」

「この四人」

　梅蟲児は皇后と王宝孫の顔を見た。

　四人とはまさにこの四人であった。それが蕭宝巻の最後の命令だった。

　なぜ。

　梅蟲児は頭を抱えた。舟底に身体が溶け込んでしまいそうだった。それは起こり得ないことだ。しかし、それ以上に起こり得ないことが実際にはここで起こっている。

　皇后がここにいた。梅蟲児の膝に皇后の肩が触れる。皇后の横顔は梅蟲児のすぐ近くにある。こんなにも間近に皇后の顔を見るのは初めてである。

　梅蟲児は暗くなっていく遠くの岸辺に目を転じた。

　涙がまたも出そうになった。

　かつて死の間際にあった妹を思った。その妹にしたのと同じように、皇后を抱き寄せ、その髪を撫ぜ、頬を寄せる自分の姿を思った。

　梅蟲児は顔を舳先に向けた。

　長江の流れは果てしもなく、大地はとてもつもなく広かった。

　蕭宝巻は四人で暮らせと言った。この先のどこかにその四人だけの暮らしがあるのか。

　梅蟲児の胸が熱くなった。

　夜の闇の中で、梅蟲児はようやく自分の感情に決着を付けた。

「どこへ」

　静かに身を起こしたはずだったのだが、皇后は気付いた。

　決心を揺るがせてはならなかった。

「すぐに戻ります」

　ごく小さな声で梅蟲児はささやいた。猿児と王宝孫が目を覚ませば、いくら決心したことであっても、できなくなってしまう。

「きっとですよ」

　皇后は腕を伸ばし、梅蟲児の手を握った。

　梅蟲児は唇を噛んだ。血が出るほどに強く噛んだ。

　いま決着を付けたばかりのことが揺らぎそうだった。唇を裂き、その痛みによって揺らぎから逃れようとした。

　梅蟲児はこのとき余計に心を揺らがせることを想像した。皇后が握っているこの手を梅蟲児が引いたならば、皇后の身体はきっと自分の胸の中におさまるだろう。

　河畔に起こした小さな火も消え、あたりは真の闇に包まれていた。猿児と王宝孫はかすかな寝息を立てている。

　皇后の身体を抱いた自分が、皇后と新しい関係を結ぶのを妨げるものは何もない。梅蟲児の身体は熱くなった。そうしても少しも構わないのだった。

　夜の帳がすっかり下りてしまう前に舟中で目を開いた皇后は、猿児の言う蕭宝巻の最後の命令に従うと言った。そのときの皇后の表情は晴れ晴れとし、梅蟲児がこれまでに見た最も美しい顔となった。

　その顔を思えば、梅蟲児の想像していることを皇后も望んでいるだろう。

　梅蟲児は皇后の手を離した。

　この感触は決して忘れまいと思う。

　唇をいっそう強く噛んだ。血の味がした。

「すぐです」

　梅蟲児は低く押し殺した声を残し、皇后の傍らを離れた。

　梅蟲児の顔が激しく歪んだ。意味のない叫び声が口から出そうになった。

　不意に心の内で歌った。幼いころに最初に人前で芸をしたときに歌った曲だ。それを頭の中で何度も繰り返した。そうすることによって、いま自分のしていることを、心の内で考えてしまうのを押しとどめようとした。

　梅蟲児は草を踏んで歩み、川縁から離れた。

　立ち止まった。耳を澄ませた。川の流れる音の他に物音はなかった。

　猿児と王宝孫は眠り続けている。皇后もまた再び眠りに落ちるだろうか。

　梅蟲児は首を振った。

　思ってはならない。皇后を思ってはならない。

　梅蟲児は足を速めた。

　皇后は葦原の中に身を横たえて梅蟲児の戻るのを待っているのか。

　梅蟲児は自分の頭を殴った。

　思ってはならない。皇后を思ってはならない。

　殴ったその手は、さっき皇后の指と触れていたのだった。

「俺は戻らない」

　梅蟲児は走った。闇の中をどちらに向かうのか。

　梅蟲児は決めていた。行き先は都だった。

　　　　九

　朱雀航の戦いから十日ほど経った夜、都の各所に火の手が上がった。

　皇城の外にある営署、官府から一斉に火が噴き出た。皇帝の命令で火が放たれた。蕭宝巻は生きていた。

　突然の火に都の人々は街路に飛び出した。都城は蕭衍軍によって厳重に包囲され、それでなくても不安の底にあった人々は、同時に起こった何十という火に恐慌を来たした。火に追われ逃げ惑った。その前に抜剣した兵士が現れた。

「皇城に入れ」

　躊躇した者はその場で斬られた。

　火と剣に攻められて都の民衆は皇城に追い込められて行った。

　皇城外への逃亡を敢行した一部の群集があった。斬られても死者の背を踏んで逃げようとする人々の勢いによって建春門が開かれた。怒涛のように人々が門から溢れ出た。逆に、開いた門に向かって外から敵兵が押し寄せた。夥しい死者が出た。

　蕭衍軍の兵は、犠牲者の山を越えて都の大路に突進した。人々を皇城へと追いやっていた兵士と激突した。激しい戦闘の末に、外部からの侵入者は撃退され、建春門は再び鎖された。

　外からの兵士の中の一人が隊列を離れて狭い路地に身を入れるや、鎧冑を脱ぎ捨て、幾重にも折れた狭い道を縫って一目散に走り、皇城へと流れる大衆の中に身を紛れ込ませた。

　梅蟲児であった。

　梅蟲児は人に押され、梅蟲児も人を押して、皇城の門をくぐった。

　かつてこれほど多くの人間が皇城に入ったことはなかった。後から後から押されて、都の人々は皇城の狭い一角に押し込められた。皇城の門はことごとく厳重に鎖された。外では火が燃え盛った。

　多数の篝火が焚かれ、人々の顔に赤い炎の影が揺れた。梅蟲児の周囲にいるのは老人、女、子供だった。若い男は梅蟲児の他には一人もいない。兵士として徴発されていた。

　立っているだけの場所を確保するのさえ難しかった。人々は不安に慄いていた。皇帝が自暴自棄となり、都に住む者全てを道連れにして死ぬのではないかと、ささやく者がいた。

　梅蟲児は皇城の奥へと進む方法を求めた。ぎっしりと詰め込まれた群衆の中にあって、身動きがとれなかった。人々が恐れるように、もしも集められた人間が無造作に殺されてしまうのなら、梅蟲児が河畔からここまで来たことがむなしく終わってしまう。

　梅蟲児は焦った。少しでも奥へと行こうと、人々の背を押し分けた。我武者羅に進むうちに、しゃがみこんでいた小さな子供を蹴倒した。踏み潰しそうになった。

　子どもが泣き声を上げた。脇に母親らしい女がいた。虚ろな目で我が子を見、虚ろな目で梅蟲児を見た。子どもの泣き声でまわりの人々の視線も梅蟲児に集まった。どの目も虚ろであり、誰も何も言わなかった。

　もしも、ここに自分の顔を知る者がいて、「これは梅蟲児だ」と声を上げたらどうなるだろうか。虚ろな目に突然の憎悪の火が付くのだろうか。

　それ以上に、誰もが何も言わないことが恐ろしく梅蟲児には感じられた。見れば、一人残らず頬がこけ痩せ細っていた。以前からの皇帝の暴虐で民衆は疲れ切っていた。恐怖も絶望もその表情にはすでにないかのようだった。

　梅蟲児は立ち止まった。この中から自分だけが抜け出ようとしていたのが、耐え難く感じられた。天下の極悪人とはまさにこのことであった。

　しかし、ここで人々とともに死んでしまったなら、何のために自分は皇后を川縁に置いて来たのか。それを思えば、皇城の奥へと行かなければならないと焦る思いが再び募った。

　それでも、周囲の人々の何も言わない表情が梅蟲児をそこに留めさせた。

　梅蟲児は子どもを立たせ、母親に渡した。するりと身を人々の間に入れ、その場をわずかに離れた。

　梅蟲児は蕭宝巻と茹法珍に会わなければならなかった。そのために大切なものを捨て、一つの希望を諦めてここに来たのだった。

　茹法珍は「俺の思うことをする」と言っていた。茹法珍の思うこととは何か。梅蟲児はあの夜に考えて考え抜いた。到達したのは、蕭宝巻を死なさぬという一事に違いないということだった。

　蕭宝巻は朱雀航で死ぬ気でいた。だから後を梅蟲児に託した。蕭宝巻は自分の死の後にも、皇后、茹法珍、梅蟲児を生かそうと考え、茹法珍と梅蟲児を自分より遠ざけて王珍国に近づけさせ、二人が罪を免れるように算段したのだろう。梅蟲児はその思惑通りの振る舞いをしたのだが、茹法珍は違った。

　梅蟲児は蕭宝巻を偉大な皇帝と思っていた。茹法珍も同じだ。真に偉大な皇帝がこれで死んでいいはずがないと、茹法珍は考えたに違いない。

　だったら、茹法珍はたとえいかなる濁流に襲われようとも、蕭宝巻を救い出さずにはおかないだろと、梅蟲児に思えた。だとしたら、茹法珍が蕭宝巻を救っていながら、自分だけが都から離れるわけにはいかない。蕭宝巻の皇后であった女性を自分の妻にして生き延びては、茹法珍に対してどうあっても面目が立たない。

　梅蟲児は蕭宝巻を裏切り、茹法珍をも裏切った。ならば、皇后も一度は裏切っても仕方がない。

　思えば、梅蟲児が願い続けた一つのこと、猿児ばかりは逃したいということは、皇帝のお陰で叶えられたのだった。

　梅蟲児は心を決めた。

　梅蟲児は都へと走り、途中、蕭宝巻がやはり無事であったと聞き、自分の選択が正しいものであったのを確信した。都を包囲する蕭衍の兵士に混じり、都の中に入る機会を覗い、ついにこの夜、皇城まで戻ったのだ。

　自分が戻って来たことをまず茹法珍に告げ、蕭宝巻に詫びを言いたかった。それは強い思いであったのだが、周囲の人々の顔を見て、自分一人の理不尽な我がままであるかのように思えた。人々をこんなふうにしたのは皇帝であった。王珍国に言われるまでもなくわかることだ。その皇帝の最も近くにいたのが自分と茹法珍だ。

　この上、自分は何をしようというのか。梅蟲児の気持ちは挫けた。

　軍鼓が強く鳴り響いた。

　中空に灯がともった。闇空に赤黒い楼閣が浮かび上がった。

　振り仰ぐと、最上層に眩いばかりの明かりがついた。強い光が四方に溢れ、皇城の外でなお燃え続ける火の勢いを圧倒した。

　光の中に人の姿が浮かび上がった。

　梅蟲児は見た。

　蕭宝巻だ。火そのもののような大紅袍をまとっていた。

　広場を囲む兵士が万歳を叫んだ。

　槍が人々に向けられ、万歳を叫ぶようにと促された。人々は力なく万歳と言った。

　声がおさまると、蕭宝巻は欄干の縁へと歩み出た。

　蕭宝巻は笙を取り出した。

　音が楼閣より流れ落ちた。高く伸びやかな音色だった。溢れる出る泉のように楼閣から静かに人々の頭上に笙の音が注がれ、四方へと広がり、闇をなす虚空へと吸い込まれて消えた。

　人々は押し黙ったまま耳を澄ませた。

　厳かな曲であった。

　皇帝を見上げていた人々の頭は次第に下がり、自ずと目が閉じられた。

　音には何らの翳りもなかった。美しい笙の音は蕭宝巻の心をそのままに表すものなのか。

　何のために蕭宝巻はあそこで笙を吹いているのか。その心を推し量ることはできない。それでも、この曲を聴くためにここに戻って来たとしてもよいかと、梅蟲児は思った。

　蕭宝巻は己の心をこの笙によって人々に伝えようとしているのか。

　それは何なのか。

　蕭宝巻の心は言葉ではわからず、蕭宝巻もまた言葉を使わずにそれを伝えようとしているのか。

　門外で陣太鼓が鳴り響いた。鬨の声が上がった。蕭衍の兵士たちだった。

　ひゅう、ひゅうと鋭い音がした。矢が空中へと上がった。門を越え、楼閣から漏れ出ている光の中へと、黒い筋が無数に走った。

　蕭宝巻は笙を吹き続けた。

　矢は楼閣の最上層へと真っ直ぐに昇った。人々の目がその行方を追った。その中の一本でも皇帝の身を害するならば、今回の戦がたちまち終わることを人々は知っていた。それを望んで人々は矢を見つめるのか。

　蕭宝巻の身に矢が立った。

　蕭宝巻は微動だにしなかった。笙は澄んだ音を少しも変えなかった。

　門外からの矢が続いた。間断なく走り、蕭宝巻に次々と矢が立った。

　笙は静かに続いた。

　蕭宝巻の全身は無数の矢で覆われた。

　時は移り、矢種は尽き、門外から飛ぶものの音も絶えた。

　曲は終わった。

　蕭宝巻は大紅袍を脱いだ。全ての矢はその袍に立ち、蕭宝巻は空中に投げ上げた。

　蕭宝巻は身を翻して中に入った。

　万歳の声があがった。兵士ばかりでなく、広間に押し込められた民衆から自然に万歳の声が上がった。

　楼閣の灯が消えた。

　皇城の奥へと続く門が開かれた。

　太極正殿を初めとする多数の建物が民衆に開放された。兵士に導かれて中に入れば、酒食が所狭しと並べられていた。自由に食べてよいと言われた。飢えの苦しみから人々は手を伸し、食べてみると言いようもないほどの美味であった。

　梅蟲児も人々の間にまじってその御馳走を食べた。いつもの宮殿の味だった。人々はむさぼり食った。口をきく者はいなかった。

　梅蟲児はまわりの顔を見た。何を思っているのか。それを推し量るのは無駄なようでもあった。何かを思うだけの余裕は人々にはないのだろう。蕭宝巻が即位して以来ずっとこのようにして人々は過ごして来た。梅蟲児も今はその中の一人であった。

　梅蟲児は蕭宝巻の言葉を思い出した。

「他の者ではなくて朕が皇帝なのである。朕は大いにそれを恨む」

　人々も蕭宝巻が皇帝であることを恨んだ。蕭宝巻が皇帝でなければ全ては起こるはずもないことばかりだった。

　しかし、人々は先程は万歳を唱えた。蕭宝巻が矢によって倒れていれば、いまごろはもう戦がすっかり終わっていたかも知れないのに、なぜか人々は蕭宝巻の身が傷付かなかったことに万歳を唱えた。

　自分がなぜここに戻って来たのか、あれほど考え抜いたはずのことが、今やまたわからなくなっていた。

「なぜか」

　梅蟲児は大きく嘆息しながら、つぶやいた。

　周囲の民衆は一人の男がため息をついたところで何の関心も向けない。これまでに無数の嘆息を耳にしていた。

　なぜ今日ここにいる自分がここにあるのか。

「なぜか」

　梅蟲児はまた嘆息した。

「阿兄、朕はそなたが好きだ。だからだろう」

　背中に声がした。

　襤褸を纏った男がいた。蕭宝巻だった。

　梅蟲児の驚愕した顔に、蕭宝巻は手を伸ばして口を押さえた。

「何も言うな」

　梅蟲児はうなずいた。

　蕭宝巻は梅蟲児の手を曳いた。

　蕭宝巻の体温を感じた。この感触を得るためだったのかも知れないと、梅蟲児は思った。そのためにここに来たのか。

　蕭宝巻は人々の間を抜け太極正殿の一番奥まで来ると、扉が左右に開いた。

　二人は宮中の奥へと通じる回廊へと進んだ。

　蕭宝巻はかすかに笑った。

「戻って来たのか。しょうがない阿兄だ」

　梅蟲児は蕭宝巻の腕から離れ、崩れるようにして皇帝の足元にひれ伏した。

「お言葉を守らずに、申し訳ありませんでした」

　梅蟲児は額を床に擦り付けた。

　蕭宝巻は梅蟲児の肩に手を置き、静かに言った。

「あれはどうした。死んだのか」

　梅蟲児は伏したまま答えた。

「皇后様は御無事でございます」

「そうか」

「王宝孫殿と猿児がきっと末永くお守りいたしましょう」

「阿兄に任せた。妻にしてよかったのだぞ」

「とんでもないことでございます」

　蕭宝巻は笑った。

「あれは阿兄が好きだからな」

　蕭宝巻は軽く梅蟲児の背を叩いた。

「阿兄もそうだろう」

「何をおっしゃられます」

　梅蟲児は身をさらに低く沈めた。

「朕を真に知る者はあれ一人だけだった」

　梅蟲児は顔を上げた。

　蕭宝巻は遠くを見ていた。

「朕がやるべきことはあと一つ」

「一つ？」

「阿兄にそれがわかるか」

「いえ」

「あれは知っていよう。あれは何でも知っていた。朕が皇帝に最も相応しくない男であるのをあれは最初から知っていた。何もかもあれは見ていた。だから朕はできた。今もあれは見てくれるであろう、残る一つも」

　蕭宝巻の声は穏やかだった。

　蕭宝巻は梅蟲児の腕を引いた。梅蟲児は立ち上がった。

　蕭宝巻は梅蟲児の顔を真っ直ぐに見た。

「阿兄にはあれと一緒に生きていてほしかった」

　蕭宝巻は梅蟲児の背に腕を回した。梅蟲児の小さな身体は蕭宝巻の厚い胸の中に埋まった。梅蟲児は蕭宝巻の鼓動を身体で感じた。

「朕が皇帝でなければ、阿兄も阿丈も長生きできたであろう。すまないことだ」

　梅蟲児は目を閉じた。涙をこらえられなかった。

「阿兄はここに戻って来た。阿丈は朱雀航において朕を死なせなかった。阿丈と阿兄は朕の思うようにはさせなかった。それはなぜか。朕と最後を一緒にしようということなのか」

　梅蟲児はかすかにうなずいた。

　蕭宝巻は掌で梅蟲児の涙を拭った。

「阿兄は泣き虫だな」

　梅蟲児はするりと蕭宝巻の腕から抜けてしゃがみこんだ。そのまま後ろに跳んで、くるりくるりと回転した。三度回って立ったとき、よろめいて倒れそうになった。

　蕭宝巻は笑った。

「阿兄が失敗したのを初めて見た」

　梅蟲児は蕭宝巻の顔を見つめて言った。

「最初で最後です」

　蕭宝巻はうなずいた。

「朕がやるべきことはあとは一つ、死ぬだけだ。それをどのようにするのか、あれはどこかで見ているだろう。最後は天に逆らわなかったとあれは思うか、それとも最後まで朕は変わらなかったとあれは思うか。朕は己の行為の意味を知らぬ。あれが生きる限りは正しい答えがこの世にはある」

「私は幸せでありました」

　梅蟲児は言った。

「本当か」

　梅蟲児はうなずいた。本当でなければならないと思った。

「その汚い衣を着替えて、阿丈と一緒に含徳殿に来い。今夜は三人だけで過ごそう。こういう晩は決してもう来ないだろう」

　梅蟲児は深く礼をし、蕭宝巻を見送った。

　梅蟲児は自分の部屋に入った。調度品は元のままだった。猿児がいないことだけは違っていた。

　身体の汚れを拭い、ぼろぼろの衣類から、いつも着ていた服に改めた。改めて見れば細かな刺繍の施された極めて贅沢なものである。

　足音を響かせて茹法珍が入って来た。

「思っていた通りだ」

　茹法珍は梅蟲児の肩を叩いた。

　梅蟲児は一瞬目を輝かせ、すぐに顔を伏せた。茹法珍に会いたくて仕方なかった。しかし、現実に茹法珍が現れると梅蟲児は逃げ出したい気分に襲われた。

　言葉が出なかった。うつむいて帯を結んだ。

「阿兄が戻って来ないはずがないのを俺は知っていた」

　茹法珍は笑顔で梅蟲児の服の襟から胸周りを整えてやった。

「酷い男だとは思わないのか」

　梅蟲児はぼそっと言った。

「どこが？」

「弑虐の罪を二度も犯しながら、おめおめとよくも顔を見せられるものだ。そうだろう」

　茹法珍はそれには答えなかった。

　着替えの終わった梅蟲児の両袖をつまんで伸ばし、しげしげと見入った。

「これでいつもの阿兄になった」

　梅蟲児は茹法珍の顔を見た。

「これでいいのか」

「阿兄は阿兄だ。阿兄の本当の心は俺がよく知っている。阿兄が自分で思うよりもだ」

　茹法珍は前にもそのように言っていた。

「そうなのか」

「だから戻って来たんだろう」

「そうだな、きっと」

「他に何があるんだ」

「いや、何もない」

「そんなことは、お上は全てお見通しだ」

　梅蟲児はふうっと息を吐いた。

　茹法珍は塌に座った。梅蟲児は隣に座った。茹法珍が肩の上に腕を乗せた。

「阿兄、最後は俺と阿兄の二人だな」

「そうだな」

「そうなると思っていた」

　含徳殿から笙の音色が漏れた。

　二人は黙った。

　蕭宝巻の笙の音は、先ほど楼閣の上からのよりも、さらにいっそう澄んでいた。

　二人は聞き入った。

　梅蟲児は心が軽くなって行くのを感じた。これより何があってもいいと思えた。

　それでも、梅蟲児はぽつりとつぶやいていた。

「これでどうなるんだ」

　茹法珍の思いを尋ねたかったからだ。

「かつてお上が東宮に入った日に俺に約束をしてくれたのを覚えているか」

　それは遠い昔のことのようであった。

「忘れたのか」

「すまん」

「東宮の門をくぐったときに、俺はここで敵を迎えて武威を輝かすことができれば幸運ですと言った。お上はそれ約束してくれた」

「それを果たして下さるというのか」

「そのために蕭衍をここまで来させたのだ」

「そうなんだろうな」

「だから俺はまだ勝てると思っている」

　茹法珍は笑ったが、悲しげではあった。

　二人はそれっきり黙った。

　笙の音は何を物語っているのか。

　それは遮ってならないもののように二人は感じた。終わるまではと、部屋に留まった。

　王珍国が屈強の兵士数十人を従え、奥殿に通じる雲竜門の前に立った。合図を送ると、宦官の銭強が内側より鍵を開けた。王珍国は中に入った。

　笙の音が止まった。

　王珍国は走った。

　茹法珍と梅蟲児は立ち上がった。含徳殿に向かおうとした。

　蕭宝巻は笙を口より離した。

「来たか」

　閉じていた目を開いた。

　この前の戦いで秦淮河に水が溢れ出たとき、王珍国は蕭衍軍を追っていた。背後に起こった怒涛の轟きを耳にし、王珍国は振り返った。遠くからも黒い波が逆巻くのがはっきりと見えた。これで皇帝は死ぬと、王珍国は思った。

　蕭衍軍は踏みとどまって反撃を開始した。王珍国は槍の手を少し休めた。頃合いを見て降服すればいいと考えた。

　しかし、味方の兵士は違った。俄かに勢いを得て、敵に向かって激しく戦い始めた。王珍国は号令を出さぬのに、兵士は前へ前へと進もうとした。

　後ろを見ると、水の上に白虎旛が抜きん出で立っていた。それは大きく振られ、その一振りごとに味方の軍勢は勢いを増して前に進み出た。

　王珍国は身の震えを覚えた。

「何が起こっているのか」

　味方は鼓噪して蕭衍軍の反撃に立ち向かった。

　激しい戦闘となった。王珍国は降服する気持ちを捨て、戦った。味方は奮闘し、一進一退となった。

　しかし、ついには必然の道理に勝てず、戦いに慣れ数も勝る蕭衍軍が勝利をものにした。

　王珍国が殿となった。敗残の兵を集めつつ朱雀航に達すると、さしもの泥水もすでに引いていた。浅い流れを渡って兵士は都城へと逃げた。

　対岸に蕭宝巻が立っていた。かたわらに茹法珍が控え、その手には水に一切濡れていない白虎旛があった。

　王珍国は思わず蕭宝巻の足元に伏した。

　敗北を詫びた。

　蕭宝巻は言った。

「朕は天によって滅ぼされようとしたが、朕はそなたによって救われた」

　王珍国はその逆であったと思った。王珍国は蕭宝巻を殺そうとした。しかし、蕭宝巻は水に流されなかった。それは天の計らいであったのか。

　蕭宝巻は皇城に引き上げ、全軍の指揮を再び王珍国に委ねた。

　蕭衍は一日を置いて、都の南の門、宣陽門の前に軍を進めた。都の東南を守る東府城の守将は門を開けて蕭衍に降った。次いで、長江を臨む石頭城も降り、都は丸裸となった。

　帰城した王珍国は蕭宝巻に神威を感じた。真に天の恩寵を受けるのはこの人物ではないかとまで思った。多数の大臣が死に、崔慧景と蕭懿が滅んだのは天の意によるものではないか。この夜、景陽楼から響いた笙の音に、ますます王珍国は神威を感じた。

　それが強い畏れを王珍国に抱かせた。蕭宝巻は蕭衍を破るかも知れない。

　王珍国は弑虐の罪を負う決意をした。

　含徳殿の扉の外に宦官の黄泰平が控えていた。

　中から蕭宝巻の足音が近づいた。外には王珍国らが走ってくる音があった。両者の気配に黄泰平は刀を抜いた。

　先に内より扉が開いた。細い明かりが外に漏れ、蕭宝巻の足が外に出た。黄泰平の刀がその膝を払った。

　蕭宝巻は階を落ち地にころがった。

　王珍国が駆け寄った。

　ただならぬ音だった。

　茹法珍は剣を抜いて走った。梅蟲児も追った。暗い回廊を走った。

　蕭宝巻の手には笙しかなかった。

　黄泰平は血に濡れた刀を持ってぶるぶると震え、その次ができなかった。

　数人の宦官が飛び出して蕭宝巻を起こそうとした。

　王珍国の兵士が剣を皇帝に突きつけた。

「もういい」

　蕭宝巻が言い切る前に、張斉という兵士がその首を斬り落とした。

　茹法珍と梅蟲児が駆け行く前に宦官がころげるように走って来た。血にまみれていた。

「お上は」

　茹法珍が叫んだ。

「異変でございます」

　太鼓が鳴り響いた。

「逆賊を捕らえろ」

　処々方々より声が沸き立った。回廊を兵士が駆けた。

「終わった」

　茹法珍は剣を投げ捨てた。

「戦わぬのか」

　梅蟲児が茹法珍の腕をとった。

　茹法珍は笑った。

「俺たちが忠義の士となってどうするのか。俺たちはお上をたぶらかした君側の奸ではないか。あがいてみせるだけだ」

　王珍国は百官に召集を掛けた。西鐘の下に立ち、大臣以下に対し、黄色い絹の布で包んだ蕭宝巻の首を示した。

　醜く命乞いをした茹法珍と梅蟲児を始め、皇城には誰一人として抵抗する者がなかった。

　三年の悪夢がこれで終わった。

　蕭宝巻の首は蕭衍のもとに送られた。蕭衍は宣徳太后の名をもって令を発した。宣徳太后令は、稟質凶愚な蕭宝巻の道に反する罪悪の数々を列挙し、蕭衍が忠武奮発し京邑を掃き清め我が邦家を寧めたと称えた。同じように稟質凶愚であった漢の海昏侯が廃帝となった故事にならい、蕭宝巻を東昏侯に封じた。

　東昏侯は十九歳であった。

　その稟質凶愚を間近に見、その所以を知る者は四人しかおらず、三人は時を置かずして処刑された。

　　　　十

　蕭衍は芳楽苑に入った。

　芳楽苑の奥まった襤褸家に潜んでいた潘貴妃は捕らえられ、茹法珍、梅蟲児とともに蕭衍の前に引き出された。三人は縄で縛られ土の上に引き据えられた。

　蕭衍は紫閣の前に座して三人を睨みつけた。

　茹法珍は哀れっぽい声を出した。

「私は後宮より一歩も外に出たことがなく、政には一切の関わりを持っておりませんでした。ただの宮廷の使用人でございます」

　顔を歪め、我が身に降りかかった不幸に打ちひしがれる情けない男を茹法珍は演じた。屈強の男子の無様な姿は滑稽なくらいであった。

　蕭衍は大声を発し、茹法珍が実際に行ったことを挙げ、一喝した。茹法珍は、身体全体を震わせて、全ては皇帝の命に従ったまで、自分は何をしているのかの自覚もなかったと、くどくどと言い訳を始めた。それは微に入り細に入り、茹法珍はとめどなく喋った。

　蕭衍は顔を顰めた。

「それがそなたには何の罪もないとの証しになるとでも思っているのか」

　茹法珍は顔を上げ、笑みを浮かべた。

「もちろんでございます。皇帝の近くにいてその命に従わぬのは罪でございましょう。ただ言われたままにしてなぜ罪を問われねばならぬのでしょう。そうであれば、そもそも私が皇帝の近くにいたということ自体が罪となりましょう。そうなりましたのは、私が幼きころに戦場で武勲を挙げ、先帝に見出されて拾われたためでございます。とすれば、それこそが私の唯一の罪となりましょう」

　蕭衍は怒った。

「非を先帝になすりつけるのか」

　茹法珍は突如として奇声を上げた。身を地にころがし、激しく身もだえし、手を縛る縄を引きちぎり、両手で髪をかきむしり、額を何度も地に撃ちつけた。

「悪いのはこの私でございます」

　茹法珍は泣き出した。

「全ての罪はこの私にございます」

　茹法珍は地をころげまわった。

「この哀れな者の命ばかりはお救いください」

　蕭衍は舌を鳴らし、うんざりした顔をした。

　この間中、梅蟲児は口を半ば開けたまま虚空に視線を漂わせていた。茹法珍が何をしようが何を言おうが、見もしなければ表情を変えることもしなかった。

　蕭衍は梅蟲児を見て、またうんざりした顔をした。

　潘貴妃に目を向けた。潘貴妃は微笑み返した。蕭衍の表情がわずかに緩んだ。

　潘貴妃に対して、色香をもって国政を傾けた罪を詰った。静かに教え諭す口調であった。潘貴妃は一つ一つにうなずき、さめざめと泣いた。

「この罪をどう償うのか」

　潘貴妃は涙で潤んだ目を蕭衍に向けた。

　蕭衍は口を曲げると、目を逸らした。

「あちらへ連れて行け」

　王茂という者が進み出た。

「斉国が滅びるまでに至ったのはこの者のためです。よもやお許しになるのではありますまいか」

　蕭衍は顔を赤らめた。

「むろんである」

　潘貴妃は蕭衍を憎んだが、己はただ色香によって蕭宝巻をたぶらかした女であると演じ切ろうと、蕭衍に色目を使った。

　所詮、蕭衍は蕭宝巻を理解し得ぬ男だと潘貴妃は思った。再び泣いて、潤んだ目を蕭衍に向けた。

　蕭衍は人を使って潘貴妃を己の目の届かぬ所に置いた。

　茹法珍はまだ泣いていた。

「かくも愚かな連中が若い皇帝を誑かしていたのか」

　蕭衍は深く嘆じて見せた。

　次いで、蕭衍は大儀そうに梅蟲児に顔を向けた。

「なぜここに引き出されたのか、そなたは知っているのか」

　梅蟲児は口を半開きにしたまま、声のした方に虚ろな目をわずかに向けた。梅蟲児は無言だった。

　蕭衍はむっとして、少し声を大きくした。

「どうなんだ」

　梅蟲児は急に目をぱちくりさせてあたりを見回した。

　両手両足を縛られたままぴょんと立ち上がった。

「私は父祖代々の幻術師、今日はこちらで私の技を御所望とのことで参りましてございます」

　梅蟲児は大きく胸を反らすと、高らかに歌い始めた。芸を始める前にいつも歌うものだった。

　蕭衍は床を荒々しく踏み鳴らした。

　梅蟲児はお辞儀をすると大声を張り上げた。

「歌はお好みでないとあれば、早速、技を御覧に入れましょう。さてさて、何を隠しましょう、截舌こそは我が曽祖父が天竺にて習い覚え、晋の御世より我が一族の名を高らしめた技でございます。今日はそれを御披露する前に、ちと小手調べに、縄抜けの術をお見せし、続いて吐火の技、そして旛持ちと順に御披露し、最後に截舌をもって皆様方のお目を楽しまさせていただきとう存じます」

「根っからの愚か者であるのか」

　蕭衍は苦笑いをした。

「では、早速に縄抜けと参りましょう」

　梅蟲児は身を揺すった。一瞬のうちに縄がほどけた。梅蟲児はぴょんと飛び上がった。

　蕭衍は身構えた。

　梅蟲児は後ろ向きに回転して、中空で両手を広げ、そのまま地上に立った。

　着地するや否や、天に向かって火を吐いた。

　蕭衍は身を引いた。

　気を呑まれて見呆けた護衛兵の一人の腰から剣を引き抜いた。

「ここは手ごろな旛がございませんので、口上とは異なり、呑剣の術と参りましょうか」

　梅蟲児は右手を高くに上げ、剣の先を自分の口に向けた。

「うん」

　と、梅蟲児は気合を掛けると、剣を呑んだ。

　するすると剣を腹中に収め、柄ばかりが口の外に残った。

　蕭宝巻と会った最初に日に披露した技であった。

　梅蟲児はするすると剣を吐き出すと、その剣を持ったまま踊り始めた。

　護衛の兵が蕭衍の前を囲んだ。

　梅蟲児は目にも止まらぬ早業で剣を回して踊り、激しく回転し、ぴたりと止まった。

「では、お待ち兼ね、截舌の術でございます」

　梅蟲児は舌を口から突き出した。真っ直ぐに長く伸ばされた舌は、上に曲げると鼻の先に付き、下に曲げると顎の先に届いた。

　その舌を左手でつまんで長く長く前に引き出した。

　右手に持った剣をびゅんびゅんと振るった。

「やっ」

　梅蟲児は掛け声もろともに剣を振り上げ、突き出した舌をばっさりと切った。

　血しぶきが蕭衍にかかり、舌先は飛んで蕭衍の前に落ちた。

　蕭衍は身をのけぞらせ、ひくひくと動く肉片に、また身を乗り出した。

　梅蟲児は歩み出て、それをつまみ上げた。

　梅蟲児は掌に舌先を乗せ、蕭衍の前に突き出した。蕭衍は尺取虫のように動く舌先に見入った。梅蟲児は剣を持つ手に力を入れた。

　蕭衍の顔色が変わった。

　梅蟲児はかすかに笑った。

　舌先を握り締め、拳を天に突き上げてから口元へと運び、ぱっと手を開いてそれを呑んだ。

　梅蟲児が口を開くと、舌は元のままの姿になっていた。

　梅蟲児はここで絶命した。

　截舌の術がいかに行われたのか、誰にもわからなかった。

「狂惑限りなき連中である」

　蕭衍は汗を拭った。

　茹法珍はその場で斬られ、潘貴妃は紫閣の裏で縊り殺された。

　蕭宝巻には一人の兄、七人の弟がいた。弟の一人、蕭宝玄は先に兄によって殺されていた。

　梅蟲児が死んで二ヶ月後の中興二（五〇二）年二月、蕭衍は、蕭宝巻の異母弟である蕭宝嵩、蕭宝攸、蕭宝貞、蕭宝源の四人を殺した。

　四月、宣徳太后の令によって、蕭衍は、蕭宝巻の弟の蕭宝融より皇位を譲り受けた。斉王朝から新しい梁王朝への禅譲である。その二日後に蕭宝融は殺された。

　それより先、蕭宝巻の兄弟に振りかかる運命を予感し、蕭宝巻のもう一人の同母弟である蕭宝寅は都を脱出した。腰に繋いだ千余銭を唯一の荷として長江の流れに乗った。十余里を小舟で下って対岸に着き、山澗の道を驢の背に乗って昼夜兼行で北上した。蕭宝寅は十六歳、決死の逃避行で身体は衰弱し切り、手足は傷だらけとなった。その哀れな姿は人攫いにかどわかされて連れて行かれる少年と見えた。かろうじて命を繋いで蕭宝寅は魏国に入った。敵国の皇弟ながら人々は同情を惜しまなかった。この逃亡に、梅猿児、王宝孫、先の皇后が関っていたと伝えられる。

　梁の世となり、蕭宝巻の兄弟では一人だけが生き残って高い位を保ち続けた。蕭宝義である。幼時の病より人と話すことはなかったが、蕭宝巻の予言通りに蕭宝義ばかりは己の天寿を全うしたのだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（了）