兵にて人の死を救う――徐世勣
一
徐世勣は気高くあるを好み、己の心に適うのを重んじた。それは父譲りだった。
家は黄河南岸の東郡衛南にあって、当時の言葉でいう山東の人間だった。山東とは崋山より東の地、函谷関の外側の黄河中下流域で、対して函谷関より内側の長安を中心とした地域は関中である。かつて中国が北朝と南朝に分かれ、北朝がさらに斉と周に分裂した時、山東は斉の、関中は周の本拠地だった。斉は周に征服され、周から皇位を奪った隋が中国全土を統一した。その頃までは、貴族が強固な根を地域に張った時代で、貴族には厳然たる家柄の序列があった。山東の貴族は特に格が上で、博陵の崔氏、范陽の盧氏、趙郡の李氏、滎陽の鄭氏の四氏が最高とされた。隋は概ね周の支配者層を受け継ぎ、それは関中やその北側の地の出身者で占められ、家柄の高い山東貴族の大方は冷や飯食いに回されてしまった。徐世勣の家は貴族ではなく普通の農民だったが、山東貴族たちの思いを父は共有し、関中の人間に特別な意識を持っていた。徐世勣の幼い頃には多くの童僕を抱えるほどに裕福で、父は、米や麦の蓄えを、親疎を問わず施し貸し与えるのを楽しみとしていた。家の倉を開くと、施し物を求めて貧者が列を成した。
晩年、徐世勣は若い者を相手によく次のように述懐した。「十二、三歳で逃げて賊に頼り、人に逢うとすぐに殺した。十四、五歳で難のために賊に当たり、気に食わないと人を殺した。十七、八歳で佳き賊となり、陣に臨んで人を殺すようになった。二十歳で大将となり、兵を用いて人の死を救うようになった」。多少誇張はあるにしても、徐世勣が少年から青年の時期には、天下の士は挙って賊となった。そうせねば生きられなかったからだ。
徐世勣が十二歳といえば隋朝の大業元（六〇五）年、隋の極盛期である。この年、皇帝（煬帝）は洛陽に壮大な顕仁宮を営み、淮河と黄河を結ぶ運河、通済渠を穿つ大工事を実施した。山東の民百余万が動員され、督役は厳急で、使役された民のうち半数近くが死んだ。開通した通済渠を用いて長江下流域の生産物が洛陽、長安へと大々的に運ばれた。黄河から洛陽へと遡る洛水のほとりに大倉庫群の洛口倉が築かれた。周囲二十余里に城壁を巡らし、鎮兵千人が置かれた。東郡衛南の民にも、それら苛烈な労役のために村を捨て賊に逃げる者があり、徐世勣は無頼の徒に交って人を殺す技を学んだ。
十八歳になった大業七（六一一）年、竇建徳の名を聞き胸の高鳴りを覚えた。竇建徳は、黄河から北辺の地、涿郡までを結ぶ運河の永済渠に沿う地の小吏だった。永済渠は通済渠に次いで大業四（六〇八）年に百余万の民を動員して穿ったものだ。男児だけでは足りず、婦女子も労役に従事させられた。黄河と永済渠の分岐点の近くの黎陽に大倉庫群が建設され、皇帝はそれらを使って高麗遠征を企て、二百万の将兵を涿郡に集結させた。竇建徳は兵士二百名を涿郡に連れる役を負った。その地域は大水害に見舞われ、同じ県の孫安祖なる者は、妻子が飢え死にしたので軍に徴発されるのを許してほしいと県令に懇願した。県令は孫安祖を笞打った。孫安祖は県令を刺し殺し、男気があると聞こえる竇建徳のもとに逃げた。竇建徳は「天下は必ず乱れる。大丈夫たる者、死ななければ大功を立てるべきだ」と、数百人の無頼の少年を集め、四方数百里の沼沢地、高鷄泊に孫安祖を潜ませた。孫安祖は官に逆らう賊となり、賊同士の争いに斃れ、代わって竇建徳自身がその頭目となった。高鷄泊には竇建徳を慕って万を超える者が集まった。
徐世勣は盗賊の端くれとして腕は上がってきたものの、場当たり的な暮らしを飽き足らず思っていた。竇建徳のもとへと逸る気持ちを隠せずにいると、「高鷄泊は遠い」と父は断じて許さなかった。父は、息子が無頼の生活を改め正業に立ち返るのを望んでいたが、世の中の情勢はそれを許しそうにないのもわかっていた。しばらく悶々としていると、気の合う仲間の単雄信がふらりと来て、「今度、瓦崗に行ってみようと思っている」。単雄信は馬上で槊を操る名手で、この界隈で敵う者はいない。己の腕を誇り、あちこちの頭目を訪ねては、気に入らぬとすぐに出てしまうのを繰り返している。瓦崗は衛南から西に少しばかり行った小高い場所で、そこに翟譲という人物が立て篭もったのは徐世勣も聞いていた。翟譲は洛陽の小吏で、些細なことでつまずかされ、獄に繋がれた。翟譲を慕う男が、こんな詰まらぬことで死なせてならぬと脱獄の手引きをした。「太っ腹の男らしいから、この俺もしばらくは落ち着けるかもしれぬ」。「よさそうだったら俺にも声をかけてくれ」と、徐世勣は見送った。
一ヶ月ほどして単雄信からの誘いがあった。父の徐蓋は「翟譲様か」と、竇建徳の時のように頭ごなしに否定はしなかった。「瓦崗は近いです。すぐに帰って来られます」と徐世勣は言った。父は息子を睨み、「ただの盗賊の手下にするためにおまえを育てたのではない。命を預けるに相応しい男の中の男であるかどうか試し、本物だったならば命を賭けてお仕えするのだ。すぐに帰ればいいだろうというようないい加減な気持ちで行ってはならぬ」。
瓦崗は草と林の織り成す荒蕪地で、窪地に急拵えの小屋が二三並び、高台に傾いた見張り台が突っ立っていた。「よく来たな」。単雄信が満面の笑みで迎え、すぐに翟譲の前へと連れて行った。「太っ腹」と聞いて思い描いていたのとはいささか異なり、腰低く小役人然とした様で新参者を迎え、「御覧のようにここにはまだ何もありません。おいおいいろいろと整って来ましょう。しばらくはゆっくりされて、気が向いたらずっといなさい」と言った。親分子分の契りを結ぶ堅苦しい挨拶もなかった。「あれでどこかいいのかい」と単雄信に尋ねると、「万事大雑把で気兼ねがいらない」と答えた。二日ほどぶらぶらしていると、近隣の町を襲うというので付いて行った。翟譲は細かい指令をせず、荒くれ者達に勝手に働かせた。奪った物を持ち帰ると翟譲が分けた。それは働きの度合いに応じたすこぶる公平なもので誰も文句を言わなかった。見ているだけだった徐世勣にも分け前が回って来た。遠慮すると、「いいから取っておけ」と単雄信が押し留めた。次の襲撃で、徐世勣はすでにもらった分の働きをしようと先頭に立った。翟譲は将軍と呼ばれるが、武具の使い方には慣れぬようで、いつも後方に控えた。瓦崗は気楽な場所で、居心地がよかった。
皇帝が陣頭指揮に立った高麗遠征は、国境の外に出て戦った三十万五千のうち帰還したのがわずか二千七百という大失敗に終わった。大業九（六一三）年、皇帝は再び遠征の途に上った。黎陽の大倉庫から前線に物資を運ぶ役を任された楊玄感が、「無道の皇帝を誅する」と反旗を翻した。楊玄感は元勲の息子で、民間の盗賊ではない者が起こした初めての本格的な反乱だった。参謀となった李密は、上、中、下の三つの策を楊玄感に示した。上策は遠征に出た皇帝の背後を襲う、中策は一気に西に走って都の長安を取る、下策は手近な洛陽を取るだった。楊玄感は下策を採用し、洛陽攻略に手間取る間に、引き上げて来た隋の主力軍によって滅ぼされた。李密は捕縛され、皇帝のもとに送られる途中で脱走した。
楊玄感の乱は鎮圧されても、山野に並び立った大小無数の群盗の勢いは衰えなかった。皇帝は三度目の高麗遠征に出て、勝利の体裁を取り繕ったものの実質は失敗だった。長安に腰をすえて国の抜本的な建て直しをすべきだと諫める者を杖殺し、洛陽から江都へ通済渠を使った豪華な船旅を楽しんだ。江都は長江北岸の南方情緒溢れる美しい町で、皇帝にとっては若き日々を送った思い出の地でもあった。
徐世勣は二十一歳になっていた。腕では単雄信に及ばぬが、多くの作戦で指揮を任された。翟譲は分け前を決める時の他は口出しせず、思う存分に働けた。単雄信と生死を共にする義兄弟の契りを結び、瓦崗を支える両翼と目された。改めて父の言葉を思い起こし、翟譲を試すことにした。「将軍様は貪欲であると申す者がいます」。翟譲は珍しく怒り、「皆に正しく分けているではないか。いつわし一人が貪った。誰だそんなことを言うのは」。「瓦崗の仲間に不平はありません。ここ東郡は、将軍様にとっても、私にとっても郷里であり、互いに知る者が大勢います。その土地を荒らし、財を掠めるのは、近くに恨みを結び、決してよろしくありません。力のある者は、むしろ、知る者の土地を守り、財をもたらすべきではないでしょうか」。「瓦崗には日々集まり来る者がいる。それらを養わねばならない。貪欲ではなくとも何かしら取らずにはいられまい。どうすればよいのだ」。「ここから南に行きますと通済渠の運河があります。長江と黄河の間を行き来する舟が日に何艘となく通ります。官船であれ、他郷の者の船であれ、それらを掠め取ればよいのです」。「なかなかに大それた考えだ。それに水上では戦った経験がない。だが、おまえがやりたいのなら、好きなようにやってみるがよかろう」。
徐世勣は李商胡を呼んだ。水運業に携わって来た男で、世の乱れとともに半ば賊となった。李商胡よりも、その母の霍氏が女豪傑として名が知れていた。騎射に巧みで、陣に立っての号令は鮮やかで、土地を守って霍総管と仇名された。徐世勣は李商胡と兄弟の約束をして霍総管を母と仰いだ。李商胡は水上での戦いに慣れた者を連れ、共に通済渠を襲った。面白いように戦果が挙がった。瓦崗は飛躍的に豊かになり、その勢一万と豪語するまでになり、翟譲は、黄河の南に威を張る有力な賊の一人として数えられるようになった。これでただの賊の手下から脱したのではないかと、徐世勣はいささか自負した。
同じ頃に、竇建徳は、涿郡の副長官の率いる一万の官軍と戦った。副長官を斬り、馬一千余頭を手にし、高鷄泊の賊は十余万に達した。瓦崗の見晴台は真直ぐに立つものに建て直されていたが、そこより砦を見下ろすと、一万にも及ぶ隋朝の討伐軍を迎え撃てるとは思えなかった。官軍にはおろか、賊同士の競い合いにも勝ち抜けまい。少しばかり豊かになった瓦崗を守ろうとするだけでは、結局のところは、気侭な盗賊暮らしに留まり、いつかは滅ぼされてしまうだけだ。徐世勣は父の言葉を思い、翟譲をもう一度試さねばならないと考えた。だが、次の智恵はなかった。試されなければならないのは自分自身であるような気がし、他の賊を訪ね歩いてみた。
一本気で知られる王伯当のところに行くと、劉智遠と名乗る儒者が身を寄せていた。「かねてよりの御説を説くべき相手は、このわしではなく、翟譲様がよりふさわしいと思います」と、王伯当は徐世勣を劉智遠に引き合わせた。劉智遠は徐世勣をしばらく見据え、「下におる者を見れば、上におる者がわかります」と言った。徐世勣は自分より一回りほど年長の劉智遠の眼差しを避けず、「かねてよりの御説とはいかなることでしょうか」と尋ねた。「いま上にいる皇帝は昏く、下にいる民は怨んでおります。三度失敗した高麗遠征のために鋭兵は揃って陣没し、その上、北方の突厥との和親は絶え、国家は存亡の危機に瀕しています。しかるに、帝は南に遊び、国の要害を守る者はおりません。このいまの情勢は、かつて秦の世が乱れに乱れ、項羽と劉邦が天下を争った時期に酷似します。先んじて兵を挙げ、皇帝の罪悪を天下に指し示し、暴を誅するを名とするならば、王朝を倒すのは容易であります。しかるに、それを為す者がいまだに出ないのが残念でなりません。学問を修める身でありながらも、英雄が現れ出る場に居合わせたいものと、こうして諸国を巡り歩いているのです」。徐世勣の頬が赤く染まった。言われてみればその通りと思えた。しかし、一度たりともそのように考えたことはなかった。通済渠の船を襲う策を案じただけでいい気になっていたのだ。
劉智遠は何者なのか王伯当に尋ねた。「かの李密殿ではないかと推測しております」と耳打ちした。楊玄感の乱の首謀者だ。成程そうに違いなかった。徐世勣はいよいよ己を恥じた。山東の農夫に生まれ、瓦崗の周囲だけを知って、天下の情勢などまるでわかっていない。これでは盗賊の手下で終わって当然だ。ここに己の遥か上を行く人物がいる。劉智遠が李密であるならば、魏、周、隋と三代の王朝で重臣を輩出してきた家の生まれで、生粋の関中の人間だ。自分とは何もかも異なる。見ているものがまるで違う。
徐世勣は王伯当とともに劉智遠を瓦崗に連れた。劉智遠は翟譲と向き合うと、初めて李密であると明かし、洛陽、長安の二都を奪って天下に号令せんと志すべきだと説いた。翟譲は俄に狼狽した。「私は隋の小吏でありまして、いまは盗賊に成り下がり、朝夕の命を野に偸むばかりです。あなたさまのおっしゃることは私の到底及ぶところではありません」。徐世勣の目にも二人の器量の差は歴然としていた。翟譲は難しい話をさっさと片付け、いつものにこやかな顔で「ここであれば、追っ手の心配もなく、のんびりとしていただけましょう」と、瓦崗に匿う約束をし、他の者と変わらぬ扱いをした。
「あんな者をここに置いていたら、そのうち乗っ取られちまうぞ。いまのうちに殺してしまえ」。翟譲の兄の翟弘が言い、徐世勣を睨んだ。王伯当は李密の身を守るために瓦崗に留まった。李密が瓦崗にいるのが世間に知れ出すと、これまでにも増して人が集まり、近隣の賊で瓦崗の傘下に入りたいと申し出て来る者もあった。翟弘は李密を警戒しつつも、その名声を利用した方が当面は得かもしれないと思うようになった。
翟譲は「人が増え、ここも大分手狭になった。通済渠を通る官船もこの頃は減ってきたし、どうしたものか」と徐世勣にぼやいた。「李密様にお尋ねになってはいかがでしょうか」。「あの方は難しい事をおっしゃるからな」と翟譲は眉を顰めつつも、李密に策を問うた。「瓦崗の衆はますます多く、それを養うには多くを掠め取らねばならず、食が足りなくなければ、せっかくの衆もたちまち散じましょう。近くを見て最も豊かな蓄えがあるのは滎陽です。まずはそこを取り、士馬が肥充するのを待って、天下を巡る争いに打って出るのがよろしいでしょう」。翟譲は「どうも弱ったものだ。あの方はいつも天下、天下とおっしゃる。わしは項羽とか劉邦とか、史書に名を残すような人間ではない。山東の田舎親父に過ぎないのだ」と、またぼやいた。それでも、王伯当が近隣の豪族を説得し、李密の策を採るならば翟譲を盟主として連合を組むとの話をまとめるに及んで、翟譲も「天下云々はともかくも」と滎陽攻略に出る決意をした。手始めに、通済渠と黄河の合流点にある金隄関を襲い、首尾よく勝利を得た。
通済渠を渡り、いよいよ滎陽を目指すと、隋朝は難敵中の難敵を振り向けて来た。名将として名高い張須陁だ。部下に慕われ、賊の掃討に出て負け知らずである。張須陁の名に翟譲の軍勢は震え上がった。敗退を重ね、「やっぱりわしには無理だったのだ」。翟譲はぼやき、瓦崗に帰ろうとした。李密は「半分の軍勢を貸してくだされば張須陁を破ってみせましょう」と言った。翟譲も徐世勣も驚いた。李密は書物を学ぶ者で、自ら戦場に立つとは考えもしなかった。他に策もなく、翟譲は李密に委ねた。「将軍様はここに陣を作って立っていてください。それだけで結構です」。李密は借りた軍勢を三分し、一つを自身で率い、残りを王伯当と徐世勣に振り分けた。
張須陁の大軍が猛然と襲いかかって来た。これまで逃げてばかりの翟譲を見るや、その陣へと突進した。翟譲は慌てて逃げた。張須陁は十余里にわたって追い、その軍勢が長く伸び切ったところへ、李密が背後に立って襲った。思いがけぬ反撃に張須陁の軍勢は混乱した。左右から王伯当と徐世勣が襲った。敵兵は崩れて四方に散り、李密は張須陁を包囲した。張須陁は囲み突破しようと数度にわたって挑んだ。その度に押し返し、疲れ果てた敵中に徐世勣が突入し、張須陁を斬った。敵は名将を喪って、泣きながら引き上げた。敵軍の残した武器や食糧を手にした。これは徐世勣が経験した初めての本格的な戦闘だった。
李密の指揮で大勝利を手にしたものの翟譲一人は不興顔で、「やはりわしは瓦崗に帰ろうと思う」と言った。「滎陽は目前でありますのに」。驚く徐世勣に、「わしは山東の田舎親父だ。かねてから、隋に代わる次の王朝を開くのは李姓の者であると世間では噂され、それを気にした皇帝が李姓の者を処刑した。家柄の良い李密殿がそのお方ではあるまいか」。徐世勣は止めたが、翟譲は李密に向かって、「お蔭で資糧は十分に足り、瓦崗に帰る潮時と思われます。あなたさまがそうしたくないのであれば、どうぞお好きにしてください」と、さっさと帰り出した。徐世勣も単雄信もとまどいながらそれに従った。皆は浮かぬ顔で付いて来たが、李密が滎陽攻略に向かったと聞くと、一人二人と抜け去った。徐世勣は父の言葉を思った。翟譲を試しその結果が非と出たのか。翟譲が李密に及ばぬのはすでに明らかだ。だから兵士は去って行く。翟譲を見捨てるのは見苦しい。自分には断じてできない。翟譲は好人物だ。瓦崗に帰ってただの盗賊の手下で終わるのは父の許すところでない。「大きな志をお持ちください。付き従う兵も明日にはいなくなってしまいましょう」。徐世勣は翟譲の体を揺すった。翟弘は「だから早く殺しておけと言ったのだ」と弟に怒りをぶつけた。翟譲は李密と別れたのを悔い、西に行き先を転じると号令した。全員が喜んだ。李密は「何もかも将軍様よりお借りしているだけです。私の役目は、山東の皆様がお力を合わせて天下を定めるお手伝いです。諸国を巡り歩き、山東にこそ雄略の気が満ちていると知りました。時はいまです」。以前通りに翟譲を盟主として上に仰いだ。
大業十三（六一七）年二月、滎陽を平定し終えると李密は次なる目標を翟譲に説いた。「洛陽には若い越王しかおらず、留守を預かる諸官は智恵の足らぬ者ばかりです。上下の心は離反し、あやつらは将軍様の敵ではありません。洛陽を取れば天下は指し招くばかりに定められましょう」。江都に遊ぶに先立ち、皇帝は、都の長安と洛陽に己の息子を置き、国家の要を押さえる体制を作っていた。洛陽は江都の皇帝に急使を送った。李密はまたしても尻込みする翟譲に言った。「先んずれば人を制し、後れれば人に制せられます」。「民のために為さねばならぬと重々承知しています。しかし、それは英雄の為し得るところのものです。私ごときが堪えるものではありません。我が山東に力があるのは、きっとそうなのでしょう。あなたさまが軍令を発するのならば、私は力を尽くします。どうぞあなたさまが先に立ってください。私は殿を努めます」。徐世勣はもどしかく思いもしたが、これが翟譲なのだった。単雄信と、「ここで俺たちが立派に働かなければ将軍様の立場が本当になくなるぞ」と語り合った。
翟譲と李密は、精兵七千を率いて方山を越え、羅口から洛水のほとりに出た。標的は大倉庫群の洛口倉だった。徐世勣は大いに働き、戦闘は一日で終わった。
李密が倉の扉を開けた。隋朝が人民から搾り取った夥しい量の穀類があった。この時、野には飢える民が溢れ、李密が扉を開け放ったままにすると、女は乳飲み子を抱え、少年は老人の手を引いて、後から後から人が押し寄せて来た。李密はそれらの人々の自由に任せた。徐世勣は父を思った。父は自身が持つわずかな物を近くの者に配って喜んでいた。もしも天下の富を民衆に自在に与えられたならば父はどれほど嬉しく思うだろうか。人々が米を手に受けて泣く姿に、戦は人を殺すためではなく、人の命を救うために為さねばならないと、徐世勣は悟った。李密がそのことを示したのだ。自分はただの盗賊の手下に留まらずにすむだろう。
二
洛口倉を手にした李密に対し、洛陽から隋軍が押し寄せて来た。洛水の対岸に並んだ敵はこれまでと違っていた。長安に次ぐ第二の都を守る精鋭だ。磨き上げられた武器、色鮮やかな鎧兜、それらは目にも眩しく輝き、無数の旌旗が野に流れた。対してこちらの装備は戦いの度に分捕ったあり合わせだ。隋軍はその貧相ななりを笑い、ひと揉みにしてくれんと、川を渡った。徐世勣と単雄信が当たり、激しい戦闘になった。装備に優る敵の鋒先は鋭く、退却を余儀なくされた。隋軍は勝ちに乗じて追った。李密が横ざまに衝いて出た。隋軍は総崩れになった。味方の勝利を目の当たりにし、翟譲は悄然と、「これでもうわしは主ではいられまい」と言った。徐世勣は泣いた。「将軍様のもとから決して離れません」。
李密は天命を受ける壇を築いて立ち、魏公の位についた。翟譲は上国柱司徒東郡公、単雄信は左武候大将軍、徐世勣が右武候大将軍となった。瓦崗に起こった盗賊集団は、初めて国に準じた体裁を有するようになった。
弟の徐感が「兄上の下で働かせてください」と、二人の下僕に連れられて陣中に来た。「父上のお許しは得たのか」。「姉上に平手で叩かれました。どうしても行くと言い張りますと、少しでも足手纏いになったら、この門は二度と潜らせませんと、突き出されました。功名を立てなければ、姉上にも、まして父上には会えないのです」。徐世勣は十四歳の弟を陣中に置き、父の言葉と翟譲に誓ったことの二つを思った。
さすがに洛陽は容易には攻め取れず、ここにこだわらず、むしろ西に長駆し、長安を取るべきだとある者が李密に勧めた。かつて楊玄感の乱の際、李密は洛陽を取るのを下策とした。「我が軍勢は皆山東の民だ。洛陽さえ取れずに、さらに西に向かうと言って、果たして誰が付いて来ようか。いま人々は飢えている。食べる物があるからここに集まっている」。李密は洛口倉を生命線と考え、洛陽攻撃を続行した。思うように進まぬ戦況に焦ったのか不用意に身を危険にさらし、流れ矢に当たった。営中に臥しての指揮で軍に勢いが失われた。
その間に李淵、李世民父子が、北方の太原から長安へと動き出した。李淵も李密と同じく良い家柄の生まれだ。李淵から、西と東で同盟を組もうと手紙が届き、先に長安を取られてしまいそうなのを李密は残念に思いつつも、いまは西に行く余裕はなく、李淵を兄と仰ぎ、しかし盟主は自分であるべきだと匂わせる返書を送った。
李密のもとには様々な人が集まった。徐世勣や単雄信とは著しく肌合いを異にする学者然とした者も大勢来た。「よし」と言えば「おう」と答え、それで万事通じるのが瓦崗の仲間だった。学問を積んだ連中はそうではなく、小利巧そうな顔をして弁舌を競った。その口うるささに徐世勣は閉口した。最も驚いたのは魏徴だった。魏徴の書いたものを読んで李密は感心し召し抱えた。魏徴は来るなり、李密の足らぬところはこれこれであると並べ立てた。余りに不躾で李密は怒るに違いないと徐世勣は感じたのだが、李密は聞き入り、辞を卑くして教えを請い、魏徴はさらに長口舌を振るった。李密はすぐに魏徴を重く用いた。続いて、ずっと若い許敬宗という者が来て、魏徴と似たようなことをした。李密はそれは聞くだけで問い直さず、魏徴よりかなり下に置いた。徐世勣には二人の差はわからなかった。
口先だけで優遇されてしまうそのような連中を、これまで命を賭けて戦って来た武将達は快く思わなかった。徐世勣も、このままでは自分が埋もれてしまうような気がした。秋に至っても洛陽戦線は膠着状態のままで、ここではよい働きができそうになかった。この年は洪水が頻発し、戦乱に加えて大飢饉になりそうだった。「天下大乱の元は飢饉にあります。いま黎陽倉を我が手に得れば、大事はきっと成りましょう」と李密に進言した。黎陽倉は黎陽にある大倉庫群で、徐世勣の郷里とは黄河を挟んだ対岸で、周辺の地理はよく知っている。徐世勣は五千の兵を率いて黎陽倉を急襲した。倉の扉を開くと、洛口倉を開いたとき以上のことが起こった。飢饉はすでに始まっていた。無数の民衆が大地から湧き出るかのように集まって来た。その中から、見込みのありそうな男子を選んで兵士に取り立てると、二十万に達した。山東の豪族たちは一斉に李密を盟主と仰ぎ、かつてその名に胸をときめかした竇建徳も李密の命を受けると使者を送って来た。李密は山東の力を全て束ねて天下を取る勢いを得た。
徐世勣ならずとも、「米がなくなれば、人は散り散りになります。いまこの時に大事を成すべきです」と、皆が李密に言った。李密も無論そう考え、厳しく洛陽を攻めた。皇帝は江都より王世充を差し向けた。皇帝が頼みの綱とする最強の武将だ。洛水を挟んで王世充の率いる軍勢十万と対峙し、互いに死力を尽くし、百戦してなお結着が付かなかった。
打開できぬ情勢が続くと潜在していた不満が頭をもたげる。翟譲の兄の翟弘が我慢できなかった。「横取りされてよく平気でいられるな。おまえが天子になるはずだったのに、どうして人にやっちまうのだ。おまえがやらないのなら、おれがやる」。瓦崗の旧い仲間達の持っていた面白くない気分が一気に噴出した。古参の者は盗賊根性が抜けていない。徐世勣は李密のやり方を理解しつつも仲間の不満もわかった。
翟譲が指揮する部隊が一方面での戦闘に勝利を得て、それを祝う酒宴が開かれた。翟譲は翟弘や単雄信を連れて宴席に臨んだ。徐世勣は門外に残った。十一月の寒い日だった。「中では酒宴が始まりましたから」と、徐世勣にも温かい酒が勧められた。少しだけ口にした。突如、牛が唸るような声がした。異様な物音に、門より入ろうとした。首に衝撃を受けた。地に引き摺り倒され、男達が飛び乗って来た。息ができなくなった。気が付くと、李密が立っていた。「君に罪はない。将軍殿とは共に義兵を挙げ、暴乱を除こうとしたのだが、将軍殿は群僚の暴虐を抑えられず、かえって民の患いとなってしまわれた。天下の心を得るにはやむをえなかった。罪はただ将軍殿の兄弟だけにあり、他の者にはない」。徐世勣は敷物の上に横たわっていた。身を起こそうとすると、首に激痛が走った。単雄信が来て徐世勣の手を取ってすすり泣いた。「兄貴は何を」。徐世勣は細い声で尋ねた。単雄信は泣くばかりだった。翟譲は斬られ、単雄信は武器を投げ捨て、地に頭を付けて李密に命を乞うたのだった。
徐世勣は命を取り留めた。瓦崗の初めからの仲間は洛陽戦線からはずされ、徐世勣は黎陽倉守備に回された。弟の徐感が李密のもとに残った。いわば人質である。李密を恨む気はなかった。こうなるしかなかったと了解できた。翟譲の下にいる限りは父の言葉に背くより他はなかった。
大業十四（六一七）年春、江都から恐るべき凶問が伝えられた。皇帝の護衛兵が反乱を起こし皇帝を殺害した。それよりも先、李淵が長安に入り、皇帝の息子の楊侑を即位させ、江都にいる煬帝を勝手に太上皇に祭り上げた。江都の護衛兵の多くは長安出身で、都の激変に動揺した。逃亡する者が相次ぎ、将軍達は、兵士を逃した罪で罰せられるよりは、皇帝を殺して皆とともに長安に帰るのがよいと考えた。高貴な生まれの宇文化及を担ぎ出し、首尾よく煬帝を倒し、息子の楊浩を次の皇帝に仕立てた。我儘放題に育った宇文化及と、軍人の首謀者はそりが合わず、内紛が起こった。宇文化及は反乱の首謀者を皆殺しにし、衆の望みを入れ、江都を出て長安に向かった。宇文化及が率いるのは隋朝の最後の精鋭十余万である。その進路に当たる諸郡は、風が靡くようにひれ伏した。昨日まで李密の命を受けていた者が次々に宇文化及の配下へと鞍替えし、李密は挟み撃ちの危機に立った。
ようやく傷の癒えた徐世勣は、宇文化及が北に進路を取ったと聞いた。狙いは黎陽倉に違いなかった。宇文化及にとっても最も必要なのは食糧だ。急遽、黎陽倉の周囲に溝を掘り巡らし、その内側に小さな城を築いた。手勢はわずかだ。宇文化及は黄河南岸に達し、警戒した通りに河を渡って来た。大軍が野を埋めた。宇文化及がここに達するまで、誰もが抵抗せずに降参した。徐世勣が同じようにしても恥にはならない。首には李密のために被った傷跡がある。李密は翟譲を殺したが、自分は誰も裏切らない。李密が自分を疑っても、自分に疑われる心がないのは自分が最もよく知っている。徐世勣は溝の内にあって防戦に努めた。打って出る力はない。いかに意志が強くとも、篭って守るだけではいつか必ず負ける。連日の攻撃にさらされ、兵士に諦めの色が見え始めた。徐世勣は衆を励まし、一人の敵も溝の内側に入れなかった。敵の背後に火の手が上がった。敵軍が乱れ始めた。白煙がたなびく中、見覚えのある旗が近づいて来た。李密だった。かねて掘っておいた地下の道を通って徐世勣は撃って出た。前後に敵を受けた宇文化及軍は崩れ、敗退した。李密は徐世勣の手を取り、「君がいなければ私は滅んでいた」と言った。
洛陽では王世充が煬帝のもう一人の息子の楊侗を皇帝に立て、宇文化及と対決する姿勢を示し、昨日まで敵であった李密と同盟を求め、李密はそれを喜んで受け、後顧の憂いなく、二万を率いて黎陽救援に来たのだった。以来、李密と宇文化及は各地で戦いを繰り広げ、徐世勣は常にその傍らに従った。激戦が続き、七月の童山に戦いで、李密は流れ矢に当たり、危うく敵に殺されそうになった。多くの良将を失い、李密軍は甚だ消耗した。兵士の間に不平が充満し、行賞の不公平を訴える声が多くなった。徐世勣はそのことを李密に告げた。李密は翟譲の一件を思い起こしたのか、徐世勣を黎陽守備に戻した。
宇文化及は食糧不足が致命傷となり、李密が大方の勝利を得た。洛陽の王世充の狙いは、李密と宇文化及を戦わせ、両者を弱らせることにあった。それが図に当たって、王世充は李密との同盟を破棄した。魏徴は、洛陽も食糧が不足し、待てば必ず自壊すると持久策を説いた。李密は自軍も窮乏し、人心がまとまらぬ様子に、短期決戦を選んだ。王世充の狡智な策のため、李密は大敗し、裏切り者が続出して、王伯当らわずかな兵だけが残って、行き場を失った。
徐世勣は敗報を聞き、李密を黎陽に迎えようとした。しかし、李密は来なかった。李密の将士は軒並み王世充に降った。単雄信も例外でなかった。黎陽の周囲は全て敵となった。弟の徐感は洛陽に連れて行かれ、兄を降伏させる手紙を書くよう王世充に迫られた。弟は拒絶し殺された。十五歳だった。
徐世勣は父や家族を黎陽に引き取った。黄河を挟んで北と南に分かれているのは危険だからだ。父は言った。「おまえの性根が試されたのだ。李密様はおまえを疑い、だからここに来なかった。おまえには足りぬものがある」。弟が殺されたのを母や兄弟姉妹は悲しんだが、弟を平手で打った姉だけは、「ここで屈しては何もなりません」と涙を見せなかった。
李密は長安に走った。同行した魏徴が黎陽に来た。長安では李淵が皇帝になって唐朝を開き、先に手紙で同盟を組む約束をした李密を高官として迎えた。魏徴は、唐の臣になるよう徐世勣に勧めた。徐世勣の心は揺れた。自分は李密に仕えていた。その李密が唐朝の一員になったのだから、自分が唐帝の命を奉じるのは当然だろう。しかし、李密は黎陽には来なかった。それに自分は山東の民だ。李密は山東の力を束ねて天下の平定に乗り出した。だから従った。その志はどうなってしまうのか。山東には竇建徳がいる。竇建徳は洛陽の王世充の命を受けず、地生えの勢力として民衆の支持を得ている。この黎陽を献じれば竇建徳は重く用いてくれるに違いない。山東の民としてそうするのが当然だろう。しかし、李密は黎陽を救うために来てくれた。ここは李密の土地だ。
魏徴は言った。「李密様は、実は、唐帝から頂戴した位が案に相違して低かったために、長安に来たのを悔い、唐帝に対し、自身の方が勝ると、傲然と構えておられました。ところが、皇帝の次男、李世民様とお会いするに及び、初めて畏れる色をお見せになりました」。李密があの鋭い眼差しで、相手が皇帝であろうが平気で見返す様は徐世勣に容易に想像できた。しかし、李密が畏れる様を思い描くのは難しい。李世民の評判はこちらにも聞こえて来てはいるが、まだ二十二歳、李密より十五歳も若く、徐世勣より三歳下だ。魏徴は言葉を飾る人間ではない。「人の命を救い、民を安んじるに何が最善であるのかをお考えください」。魏徴の言葉に、洛口倉や黎陽倉を開いた際の人々の群れを思った。民が求めるのは戦ではない。李密が畏れる者がいるのならば、天下はその下に一つになるのがよいのだろう。
黎陽の地を唐帝に献じ、山東における最初の唐臣となるならば、その功績は大きいとある者が徐世勣に勧めた。竇建徳に献じるよりも卑劣と思えた。長安への使者として、いかなる危難にも動じたことのない郭孝恪を選んだ。戦よりも難しいだろう。徐世勣は李密に宛てた手紙を郭孝恪に携えさせた。
唐帝は徐世勣が土地を献じずにいるのは、李密と蔭で謀を巡らしているのではないかと疑った。郭孝恪は唐帝の詮議に答えた。「徐世勣はかように申しております。黎陽の民も土地も李密様の物、世勣は預かっているだけ。それを世勣から唐に差し出すのは、李密様の敗北を我が利とし、唐に功を作って富貴を求めようとする行為で、世勣の為すところではありません。世勣は自分が預かる馬一頭に至るまで李密様にお知らせし、李密様より唐の皇帝に献じていただけるよう、その手紙を某は預かって来たのです」。郭孝恪の堂々とした態度に、唐帝は「李密はよき将士を得ている」と感嘆し、「徐世勣は真の忠臣である」として、皇帝の姓である李を賜り、唐のために黎陽を守り、さらに周辺の地を平定するよう命じた。徐世勣は李世勣として唐の黎陽総管になった。
それからまだ月日も経たぬ同じ年の冬、李世勣のもとに李密の首が届けられた。首の入った箱に北面して李世勣は号泣した。李密は山東の兵を指揮した日々が忘れられなかった。自ら唐のために山東を平定してみせますと、皇帝に申し出て都を出た。李密の真意を疑う者があって、皇帝は李密を呼び返した。李密に同行した王伯当は、皇帝の命に従いひとまず長安に帰るよう勧めた。李密は「戻れば二度と山東に行けなくなる」と、皇帝の使者を斬った。函谷関を出て山中で追っ手に捕まり殺された。
李密は唐朝に対する反逆者だった。もしも李密が黎陽にまで到達していれば、李世勣はためらわずに李密を主に奉じて唐と戦っただろう。李世勣は誰憚ることなく慟哭し、李密を葬るために遺骸を下げ渡しくれるよう唐帝に願った。唐帝は送ってくれた。李世勣は全軍に喪服を着させ、黎陽山の南に手厚く葬った。英雄の最後を悼む声が山東の地に溢れた。
三
同じ年の冬至の日、竇建徳は夏国の樹立を宣言し、翌年の春、宇文化及を滅ぼして、煬帝の后を初めとする隋朝の百官を保護し、夏国は文物法度の整った国家としての体裁を得るようになった。一方で、洛陽では王世充が全権を掌握し、煬帝の息子から皇位を譲り受け、こちらは国号を鄭と称した。
李世勣は夏国と鄭国に挟まれ情勢は非常に厳しかった。李密は唐に反逆し、その遺骸を唐帝は黎陽に送ってくれた。唐帝は李世勣を信用した。李密は翟譲を殺した。翟譲が李密に及ばないのは初めからわかっていた。しかし、翟譲を裏切ろうとはしなかった。今回は、唐に仕えると決めた。変改はあり得ない。山東の民として夏国の一員になるのが自然であり、それが身の安全であるとわかっていても、決してしてよいとは思えない。
長安から夏侯端が来た。唐朝に従う者を一人でも増やすために諸勢力を説得して歩く役だった。李世勣は黎陽総管として唐のために尽くすと誓った。夏侯端は黎陽の後に二十余州を歩き、その間に王世充は函谷関周辺の地を切り従え、帰る道を塞がれた夏侯端は、山深い道を馬を屠り野辺の豆を掘って飢えをしのぎ、従者のほとんどを失って、ようようのことで都に帰った。
十月、竇建徳は北方遠征からの帰途、黎陽から三十里の地を通過した。李世勣にその威を見せ付けるためだ。李世勣は丘孝剛を偵察に行かせ、決して手を出してはならぬと戒めた。丘孝剛は、竇建徳の姿を認め、その周りの守備が薄いのを見て、逸る気を抑えられず、槊を手に踊り込んだ。不意を衝かれた竇建徳は危地に陥り、しかし、あと一歩及ばず、丘孝剛は斬られた。竇建徳は怒り、黎陽に大軍を振り向けた。黎陽は陥落し、李世勣は黄河を渡って、郷里の東郡で捲土重来を図ろうとした。父の李蓋が竇建徳の手に落ちた。弟は王世充に殺された。それは李密への信を貫くためだった。ここで父を失うのは何ためか。唐への忠節か。唐帝にはまだ会ってもいない。それで父の命には換えられない。迷っている時間はなかった。「ここは辛抱の時です」。郭孝恪に促され、李世勣は引き返し、竇建徳に降伏した。竇建徳は思い描いていた通りの人物だった。山東から天下の覇者が出るとしたらこの人の他にはないと思えた。「わしに従うか」。竇建徳は一言尋ね、李世勣が「諾」と答えると、左驍衛将軍に任じ、「これまで通り黎陽を守ってくれ」。それだけで、李蓋と魏徴を連れて黎陽を去った。
李世勣は夏国の臣になった。初めて竇建徳の名を聞いた時に高鷄泊に馳せ参じていたならば、左驍衛将軍に任じられたのは喜ばしいに違いない。今となって昔には戻れない。父を救うために一時的に屈した。「竇建徳様のために功を立てるのです。図るべきことが自ずと見えて来ましょう」。郭孝恪の言に従い、李世勣は黄河の南で竇建徳の版図を拡張した。
唐の武徳三（六二〇）年春、李世勣は、竇建徳の妻の兄である曹旦と営を連ね、敵地に攻め入る態勢を整え、竇建徳自身の到着を待った。大きな賭けだった。共に戦うと見せかけて竇建徳を虜にし、父を確保して長安に向かう。その手助けを、かつて通済渠を襲った際に力を借りた李商胡に頼んだ。曹旦はいまだに盗賊根性が抜けない男で、行き先々で略奪暴行をほしいままにし、土地の者の恨みを買っていた。その一人が李商胡の母の霍総管だった。霍総管は曹旦に全てを奪われ、どうかして恨みを晴らしたいと考えていた。
折しも、竇建徳の妻が産気づき、竇建徳の到着が遅れた。霍総管は時機を失って事が漏れるのを恐れた。李商胡は曹旦の手下を酒宴に招いて殺し、黄河を渡りつつあった後続軍を沈め、曹旦を黄河の南に孤立させようとした。水戦は李商胡の得意とするところで、敵船の全てを撃沈した。一人泳ぎの達者な馬の医者が河を渡って曹旦に急を告げた。ここに手違いがあり、李世勣が変事を知ったのはそれよりも後れた。郭孝恪以下数十騎と逃げるしかなかった。父の生死もわからずに長安へと走った。
郭孝恪は二度目の都で、手際よく唐帝への目通りが適った。皇帝は大いに歓待してくれ、元の黎陽総管の地位は、実質は伴わなくともそのままに保たれた。李世勣が山東における唯一の唐臣であることは都の人々にもよく知れていて、敬意を表してくれた。長安は李世勣が初めて見る大きな町だった。しかし、なぜか息苦しく、都の人々には親しみが持てなかった。李密が山東に帰ろうとした気持ちがわかった。李密は元来は山東の人ではなかったが、山東人の心を我がものとしていた。父の安否も気にかかり、長安に来たのを後悔し始めた李世勣に、「李世民様とお会いになればお気持ちも変わりましょう」と郭孝恪は言った。
三月になって、李商胡が殺され、竇建徳が域内を平定し終わったと聞こえた。幸い、李世勣の父は、「忠臣の父に何の罪があろうか」と、竇建徳は赦してくれた。
四月、李世勣は長安を発った。李世民に従って北方の地に戦うためだ。都の城門を出るとほっとした。十二歳から戦って生きて来た。都は自分のいるべき場所ではない。
李世民は、李世勣の目には、李密にも竇建徳にも及ばぬように映った。李密は一体何を畏れたのか。若くて勢いはあっても野放図のように見えた。いざ戦場に出ると、その振る舞いは李世勣の思案の範囲を超えた。敵は北方民族の突厥を後ろ盾に仰ぎ、唐を引き摺り倒そうとしていた。突厥の戦法を習った敵の主力は馬で、山東での戦いと大いに様相を異にした。李世民は先頭に立った。最初の衝突で敵を退けると、一昼夜に二百余里を追い、数十回にわたって戦った。李密が得意としていたのは、敵にわざと深追いさせて打ち破る戦法だった。諸臣は「身を愛しんでください」と李世民を止めた。李世民は耳を貸さなかった。二日食べず、三日鎧を解かずに進んだ。敵は谷奥に李世民を誘い込み、二万の兵で陣を布き決戦に臨んだ。「某が参ります」。山東の将ここにありと見せるにはこの機会以外にないと李世勣は思った。しかし、兵士は疲れ切り、不慣れな戦い方で、敵の迎撃に後退を余儀なくされた。疾風のように李世民が現れた。気が付くと、味方の大勝利になっていた。敵地に孤塁を守っていた張難堡に李世民は入った。堡中の人々は全員が泣いて迎え、李世民がずっと物も食わずにいたと聞くと、濁酒と粗末な飯を献じた。李世民は将士に混じって口にした。
七月、北方の脅威をひとまず除いた李世民は、今度は東に洛陽攻略に出た。李世勣も従った。王世充は李密が勝てなかった相手で、さすがに頑健に抵抗した。打開策を見出すべく、李世民は五百騎を率いて洛陽周辺を巡察した。その動きを王世充は察知し、遠巻きに包囲した。李世勣は敵の様子を見て最も薄い所を衝いて出ようとした。その反対側から、敵将が一騎、李世民目指して真直ぐに進んで来た。己の前の敵と戦いつつ李世勣は振り返り見た。単雄信だった。馬上に振り回すその槊が狙いを付けた相手を逃したことはない。単雄信の槊が呻った。李世勣の前の敵が鑓で突いて来た。李世民を救わねばならない思いと、義兄弟の技を見たい思いとが交差し、鑓の敵を倒すと、また振り返った。李世民のすぐ近くに槊の名手の尉遅敬徳が控えていた。その槊先がかろうじて単雄信の馬を捉えた。単雄信は絶好の獲物を逃し、李世民は李世勣が切り開いた道から脱出した。
持久戦になった。李世民は洛陽を孤立させる策を採った。李世勣は管州を包囲した。そこを守る楊慶とは若干の因縁があった。楊慶は隋の皇室の流れを汲み、かつて李密に勧められて翟譲が滎陽攻略に出た時に、滎陽の長官の任にあったのが楊慶だった。王世充は楊慶に管州を守らせるに当たり、兄の娘を妻として与えていた。楊慶は李世勣に降服すると決め、妻を連れて城を出ようとした。「唐が洛陽に勝てば我が家は滅び、洛陽が唐に勝てばあなたは殺されましょう。人生がこうなりましてどうして生きていられましょうか」。妻は自殺した。
武徳四（六二一）年春、王世充はこれまで敵対関係にあった竇建徳に救援を求めた。竇建徳は王世充が滅ぼされれば次は己の番だと、その求めに応じた。竇建徳は三十万と号する大軍を率いて来た。李世民は将軍達を集めた。諸将は声を揃えて、「遠征はすでに長引き、一旦ここは長安に引き、兵馬を休め、次の時を待つべきです」と訴えた。李世民は李世勣に意見を求めた。李世勣の胸には複雑な思いがあった。竇建徳と李世民の戦は、いわば山東と関中の戦だ。李世勣の父は竇建徳のもとにいて、魏徴は夏国を強くするために力を尽くしている。それでも迷いはなかった。自分の口からではなく、郭孝恪に答えさせた。「二人の敵がここに集まるのは、両敵を一度に滅ぼすのをよしとする天意と思えます」。李世民は大きくうなずき、「決まった」と言った。
李世民は主力を洛陽攻囲に残し、わずか三千五百騎を率いて竇建徳軍が到着したばかりの武牢に向かった。敵の陣営を遠望すると、軍を三つに分けて李世勣ら三人の将軍に授けた。「諸君らはここで見ているがよい」。李世民は四騎だけを連れた。「わしが弓矢を取り、そなたが槊を執れば、百万の衆もどうすることもできまい」と尉遅敬徳に言った。敵陣間近に迫って、李世民は矢を射て一将を倒した。敵の大軍がなだれ出て来た。李世民は敵を射ながらゆるゆると退き、尉遅敬徳はその槊で十余騎を倒した。李世民が陣中に戻ったところで李世勣らが兵を発し、大いに打ち破った。竇建徳はこの敗戦で武牢から動けなくなった。
洛陽を包囲するのは李世民の弟の李元吉だった。洛陽は長引く攻囲に疲弊し、竇建徳の勝利を祈るか、奇襲で敵将を斃すしか手は残されていなかった。切り札は単雄信だった。槊を手に李元吉の陣に踊り込んで来た。李元吉は李世民ほど敏捷ではなく、尉遅敬徳に相当する武将もいなかった。馬を走らせて単雄信の前に駆け付け、李世勣は叫んだ。「兄貴、それは俺が仕える主人だ。俺の目の前で殺されては、面目が立たない」。単雄信は笑い、「そうか、おまえの顔を潰しては気の毒だ」。馬を突き、李元吉を地に落として走り去った。
武牢での一ヶ月ほどの小競り合いの後、李世民は機を測って総攻撃に出て、竇建徳を虜にした。三十万の敵はたちまち四散し、竇建徳の妻が残兵をまとめてつつ引き上げて行った。王世充は観念し降服した。
李世民は洛陽に入り、唐兵を苦しめ、民衆を虐げた罪重い者を捕らえた。その一人に単雄信がいた。李世勣は単雄信に会い、義兄弟の契りを再確認し、「兄貴を救い出してみせます」と言った。「俺の槊は皇帝の二人の息子の命を危うくした。無理だな。おまえのためにならぬ」。李世勣は、単雄信は驍健絶倫で味方にすれば必ず役に立ち、自分の地位を捨てでも命を贖いたいと李世民に訴えた。李世民は、敵の処分は皇帝が決めると答えた。単雄信は刑に処せられた。李世勣は単雄信の手を取り、「兄貴と俺は一生の苦楽を共にすると誓った。兄貴が死ぬここで俺も死のうと思う。余生は何ら惜しむに足らない」。二人は泣いた。「おまえが死んだら俺の妻子は誰が養ってくれるのだ」。李世勣は刀を腿に突き立てて肉片を切り取り、「兄貴、これを食ってくれ。俺のこの肉が兄貴とともに土の下に行く」。単雄信は笑って死に赴き、李世勣はその妻子を引き取って養った。
七月、李世民は長安に凱旋した。李世民は黄金の甲を着して都の門を潜った。最も功績のあった二十五将がその前後に従った。第一が弟の李元吉、第二が李世勣だった。竇建徳と王世充の間にあって一人唐臣を貫いたのが賞せられたのだった。
王世充は唐帝に命乞いし、庶民に落とされ蜀の地に流された。その道の途中で恨みを買う者に殺された。一方、竇建徳は長安の市で斬られた。唐帝も王世充も元は隋朝の高官として並び、竇建徳は吹けば飛ぶ山東の小吏に過ぎなかった。竇建徳は四十九歳、隋に反旗を翻してから十年が経っていた。妻は山東の地を唐に差し出し、李世勣の父の李蓋や魏徴は解放された。
「お命を危うくし、これ以上の不孝はありません」。長安に来た父に李世勣は詫びた。「命を脅かされたことは一度もなかった。おまえが最初に竇建徳様のところに行きたいといった時に止めずにいれば、あの方が天子になられたのかもしれなかった」。父は深く嘆息し、皇帝から賜った立派な屋敷を見て、「賞を貪るのは賊と何ら変わらない」と息子を叱った。
李世勣は唐朝から授かった黎陽総管として山東の地に戻った。世の中はなお静まらず、竇建徳の残党が蜂起した。竇建徳は李蓋や魏徴ら唐人を捕らえても一人として冷遇しなかった。しかるに唐は王世充だけを許して竇建徳を斬った。その仇に報いるというのだ。劉黒闥が頭目に立ち、夏国の旧領地のほぼ全域が一斉に呼応した。十二月、攻め来る劉黒闥の前に、李世勣は歩卒五千人を失う大敗を喫した。「おまえにあの者達の気持ちがわかるか」。父の言葉に心が乱れた。李世民が長安を発って李世勣の援護に来て、六十日間で劉黒闥を北方の突厥の地へと追いやった。
李密が李世民をひと目見て畏れた理由がようやくわかった。天下はこの人のもとに一つとなるべきと天が定めたのだ。そうでなければ李世民が悉く勝利するはずがない。自分に足らぬと父が言ったのは、李世民のように天に順じて安んじる心であるのだろう。それに及ぶのは無理であろうとも、わずかでも近づくように努めねばなるまい。そうと考えてより、李世民の天運が李世勣にも巡ったのか、戦えば必ず勝利を得た。北に南に、唐朝の天下統一を実現するため戦った。戦を早く終わらせるのが民の命を救う最も近道だ。
最後にして最強の敵は北方の突厥だった。突厥には隋も苦しめられた。李淵、李世民父子が太原を出て長安を取ろうとした時には、兵力の不足を補うために突厥の助力を仰いだ。その後は、唐と対抗する勢力を突厥が後押しした。竇建徳も王世充も突厥と裏で結んだ。李世民に追われて北に逃げ込んだ劉黒闥は突厥の後ろ盾を得て、しばしば攻め込んで来た。劉黒闥にとどめを刺したのは李世民の兄の李建成だった。李建成は皇帝の長男で、皇太子に定められていた。しかし、外で華々しい活躍を見せる李世民に比べると、天下平定への貢献度は著しく小さかった。竇建徳が滅んで唐に復帰した魏徴は皇太子付きとなり、弟に地位を奪い取られてしまうのではないかと恐れる李建成に、劉黒闥の討伐に出るよう勧めた。魏徴は竇建徳の旧将達の思いをよく知り、宥和策をとって降将を受け入れ、劉黒闥を丸裸にした。劉黒闥は最後は手下に裏切られて殺された。
突厥の入寇はなお激しさを増した。武徳七（六二四）年、皇帝は突厥の当たりを避けるために、都を長安から南方に移そうと本気で考えた。李世民は「数年のうちに頡利可汗の首を必ず闕下にもたらせてみせます」と、それを止めた。頡利可汗とは突厥の皇帝だ。李世勣は李世民とともに突厥と戦い、武徳八（六二五）年、并州にまで攻め込んで来た敵を撃退した。
四
武徳九（六二六）年六月、三十三歳になった李世勣は都にあった。唐の将軍として一と言って二とは下らぬ存在になっていた。それでも、都の居心地の悪さは変わらなかった。天下はほぼ一つになっても、都の高官の大半は旧くからの関中の人間だ。「山東の人間は云々」と蔭で言うのがしばしば聞こえた。都には心を許せる相手はわずかしかいない。いずれも李密のもとに集まっていた者達だ。魏徴とは文官と武官で接点は少なかったが、互いに認め合うものがあった。二人とも大勢の親類縁者が山東にいて、家格の高い旧貴族達が、唐朝で高い地位に昇った二人に姻戚関係になるのを望んだ。自ら敢えて求めたのではなくても、二人とも次第に山東に門戸を張るようになり、そうした行動が「山東の人間は云々」との蔭口につながりもした。魏徴は、皇太子の李建成を立派な皇帝に成長させようと専心していた。李世勣は都から早く広々とした戦場に出たいと思っていた。
そのようなある日、李世民からの密使が屋敷に来た。李世勣は一考し、「何も聞かず、そのままお帰りいただけ」。郭孝恪は「大きな貸しを作る好機でありますのに、よいのですか」。「あちらの家の内輪事だ」。「せっかくの地位を失うやもしれません」。「それならそれでよい。都はわしが戦うところでない」。
密使の用件は見当が付いた。事態は急を告げていた。皇太子の李建成は三男の李元吉と結んで、李世民を除こうとしきりに計っていた。魏徴は、皇太子にふさわしい正しい行いをすべきと説いたが李建成は聞かなかった。父である皇帝は、外での戦いは息子に任せ、宮中での遊興に耽り、多数の妃嬪を愛して二十人近い男児を儲けていた。李建成と李元吉は、皇帝が寵愛する妃嬪やその一族に贈り物をして歓心を盛んに買い、李世民は皇帝が妃嬪達に囲まれる宴に同席をすると、早くに亡くなった母を想ってさめざめと泣いた。ある夜、李建成は李世民を呼んで兄弟で酒を飲もうと誘った。李世民はもともと酒を飲めぬ性質であったが兄には断れなかった。無理に飲んで俄に心痛を覚え、血を大量に吐いた。長孫無忌、房玄齢、杜如晦が、このままでは殺されてしまうと、李建成と李元吉を討つよう李世民に強く勧めた。長孫無忌は李世民の妻の兄、房玄齢と杜如晦は李世民が最も信頼する文官である。李建成は、槊の名手の尉遅敬徳に金銀の器を贈って手なずけようとした。尉遅敬徳は器を返した。李建成と李元吉は、房玄齢と杜如晦の悪口を皇帝の耳に注ぎ、二人を都から放逐させた。
李世勣が密使を追い返した翌日、李世民は宮中の玄武門において、自ら兄の李建成を射殺した。逃げる李元吉を殺したのは尉遅敬徳だった。皇帝はその報せを聞くと、国家の事全てを李世民に委ねた。李世民は魏徴を召し出し、「我等兄弟を離間させたのをどう考えているのか」と詰問した。周囲の者は青褪めた。「太子様が臣の言葉を早くに聞いて下さっていれば今日の禍には決っしてお遭いしなかったでありましょう」。魏徴に悪びれた様子は全くなかった。李世民は｢同じ心でこれからは私のために働いてくれ｣と命じた。
八月、李世民は皇帝として即位した。このような皇室の混乱を衝いて、突厥が長安の目と鼻の先にまで押し寄せて来た。その数、百万と号した。新皇帝はわずか六騎を連れ、渭水にかかる便橋の南のたもとに立った。橋の北に突厥の皇帝の頡利可汗が立った。新皇帝は馬を進めようとした。臣下は止めた。「朕が即位したばかりで防げまいと、突厥は国を傾けてここに来た。ここで城壁を閉じて守りに入れば、弱みを示し、敵は兵を放って制し難くなる。突厥は唐の地に深く入り込み、必ずや懼れる気持ちがある。朕がここで進み出れば、戦えば必ず勝ち、和を結べば必ず固まる。突厥を制するはこの一挙にある。諸君らは見ているがよい」。頡利可汗は新皇帝の勢いに呑まれ、便橋の上で白馬を切って、二人だけで和を結び、突厥は去った。
李世勣は并州都督を命じられた。便橋での和睦は一時的なもので、突厥はしばしば来寇し、李世勣は突厥との戦いの最前線に立った。
貞観三（六二九）年十一月、唐は四つの道より突厥の領地へと攻め入った。李世勣は一軍を受け持ち、敵の本拠地である陰山に達し、勝利した。頡利可汗を磧口に追い詰め、最後に残った五万の敵を捕虜にした。頡利可汗は一人逃亡したものの、後に捕らえられて長安に送られた。
こうして突厥が滅んだ後も、李世勣は并州に留まって北方に睨みをきかせた。父の李蓋が死に一時的に郷里に帰った。父は晩年は郷里にあって、息子が贈った金品の全てを、昔通りに近隣の者に散じ、家には何も残さなかった。変らぬ父の家を見て、将士をさらに労わらねば、かつての翟譲にももとると李世勣は己を戒めた。弟を平手打ちにした姉は夫と死別し、父のもとに戻っていた。いまの平和な世を弟に見せてやりたかったと、珍しく泣いた。
喪が明けると并州にまた戻った。貞観十一（六三七）年、英国公に封じられた。皇帝は「隋の煬帝は長城を築いても突厥を守り通せなかった。しかるに、朕は一人の李世勣を得て突厥を遁走させた。されば、良将は長城に遥かに勝るのである」と、李世勣を称えた。
貞観十五（六四一）年、李世勣は兵部尚書として都に召された。唐の軍機に関わる最高の地位であるが、都に行くのは気が重かった。幸か不幸か北方で変があり、朔州に急行した。そこに戦って敵の首領を捕らえた。そのままそこ留まるのを心の内では希望していたが、それは叶わなかった。朔州でのこの勝利で、息子の李震が県公に封じられ、官職を得た。
やはり都は合わず、李世勣は心身の不調を来たし、病に臥せった。方士が診て、「髯を焼いた灰を飲めば治りましょう」と言った。皇帝は自分の髯を切って薬と合わせて李世勣に贈った。李世勣はすぐさま起き、皇帝に頓首し、額から血を流して謝った。皇帝は「社稷のためで、汝のためではない。礼を言うようなことでない」。李世勣は都での任務に誠心誠意務めた。
貞観十七（六四三）年春、魏徴が死んだ。魏徴は初めから変らなかった。皇帝の欠点を何憚らず言い、皇帝は真摯に受け止めた。「人は銅鏡で自分の衣冠を正す。人を鏡として人は己の長短を知る。魏徴が死んで朕はその鏡を失った」。皇帝は深く嘆いた。
三月、李世勣は兵を率いて斉州に向かった。討つべき相手は皇帝の息子の李祐だった。李祐は皇后が生んだ子ではなく、陰妃の子で、「もしもお上が亡くなられましたら、御兄弟が多いことですから、いまの地位は保たれないでしょう」と、臣下が言うのに惑わされて反逆を企てた。李世勣はゆっくりと行軍し、その間に、李祐を担いだ連中が自壊し、戦わずして事はすんだ。李祐は長安に送られ死を賜った。
四月、皇帝は両儀殿に出御し、群臣を退出させると、長孫無忌、房玄齢、李世勣、褚遂良の四人を残した。唐朝を支える最も重要な顔ぶれである。房玄齢と一緒に皇帝を支えて来た杜如晦が死に、その代わりが褚遂良で、李世勣だけが山東の人間だ。皇帝は言った。「三人の息子、一人の弟、その為すところはかくのごときであった。朕の心はまことに無聊、依るべきものがない」。床に身を投げ、佩刀を抽き、自らを刺そうとした。長孫無忌、房玄齢、褚遂良の三人が争うようにして進み出て、皇帝を抱き起こした。李世勣一人が後れた。褚遂良が震える手で皇帝から刀を奪った。長孫無忌が皇帝の前に伏し、「臣等はいかにしたらよろしいのでしょうか」。皇帝は沈思し、「朕は治を立てようと思う。どうだ」。長孫無忌は即答した。「詔を謹んで奉じます。もし異議のある者がいれば、臣が斬ります」。房玄齢、褚遂良は皇帝を拝し、李世勣も習った。李世勣は終始無言だった。
長孫無忌の妹の皇后は、承乾、泰、治の三人の男児を生み、承乾が皇太子だった。承乾は幼い頃は敏恵だったが、長ずるに及んで声色を好み、突厥の習俗を真似する等、奇行が目立つようになった。次男の泰は最も父に似て、皇帝はそちらの方を好ましく見るようになった。承乾は不安を感じ、皇帝の弟の元昌と血を啜って、泰を殺そうと誓い合った。それが明るみに出て、承乾は皇太子を廃され、元昌は自刃した。皇帝は次の皇太子は泰と心に決めたのだが、三男の治が憔悴し切った顔でいるのを見て不審に思って問うた。「おまえは死んだ叔父上と仲が良かったからさぞ心配だろうな」と、兄の泰に脅されていると治は白状した。皇帝は廃太子の承乾を呼んで問うと、泰に挑発されてやむなく反逆に及んだと答えた。泰に対する皇帝の愛情は一遍に冷めた。皇帝は三人の息子と一人の弟を、重臣の前で嘆いた。三男の治は最も穏やかな性質で、どちらかと言うと凡庸であったが、兄達が躓いたために皇太子になった。承乾と泰は遠地に流された。
皇帝は李世勣を太子詹事兼左衛率に移し三品へ特進させた。将来を見据えての特別な配慮だった。皇帝は、宴席で李世勣を近くに呼び寄せ、皆に聞こえるように、「群臣を見回して、太子を託すのに、汝を超える者はいない」と、言った。李世勣は頭を下げた。「汝はかつて李密に背かなかった。まして朕に背くはずがない」。李世勣は言葉で答えず、指を齧って血を出し、二心がないのを示した。大盃を重ね、その席に酔い伏した。皇帝は御服を解いて李世勣の背に被せた。酔い潰れたのではなかった。頭の内で戦場の風を想った。皇帝の信任は有難い限りではあっても、己の戦う場所はここではない。郭孝恪はいまも遥か西域で馬を走らせ唐の版図拡大のために戦っている。羨ましくてならない。
貞観十八（六四四）年二月、李世勣の胸が躍った。皇帝が高麗を征伐すると決めた。隋の煬帝が果たせなかった事を成し遂げ、唐が隋を超えたのを顕示するのだ。褚遂良ら群臣が挙って諫めた。それは理のあることと李世勣も思った。高麗遠征の失敗が隋の命取りになった。大遠征がいかに人民に重い負担を強いるのか李世勣は少年時代に身をもって体験した。それでも李世勣には前線に出たい思いが強く、皇帝の決意は堅かった。
貞観十九（六四五）年二月、五十二歳の李世勣は遼東道行軍大総管として幽州、隋の時代の涿郡に立った。三十四年前に煬帝がここに遠征軍を集めた時に、李世勣は竇建徳の名を聞いた。いまはあの頃とは違って山東の地は静かで、反乱の恐れはない。それでも国の外へ大軍を動かすのは大事業に相違なく、資糧の手配等、軍中の管理一切を任された重臣が過労で倒れた。代わりに許敬宗が呼ばれた。かつて李密に仕えて魏徴に及ばなかった人物だ。唐臣になってからも魏徴の遥か後塵を拝していた男にもようやく活躍の場が開けた。許敬宗はきびきびと動き回り、さも得意げにその姿を李世勣に見せた。
李世勣は先頭に立って高麗の地に攻め入り、皇帝がその後に続いた。遼東城、白崖城等数城を落としたものの、高麗は頑健に抵抗し、唐軍の前進が止まった。晩秋に至っても膠着状態が続き、厳しい冬の到来を恐れ、皇帝は退却を決めた。李世勣が殿を努め、唐の損害は軽微であった。長安への帰途、皇帝は病に倒れた。兵は人の命を救うために用いると、洛口倉で悟ったのを李世勣は思い起こした。高麗とは長い因縁があり、征伐してしかるべき相手ではあるが、隣国に攻め入るのが人の命を救う戦になるかどうかはいささか疑問である。隋の煬帝が三度失敗し、李世民さえ勝てなかったのは、深い理由があるのだろう。
翌年の春まで皇太子が皇帝の代わりを勤め、貞観二十一（六四七）年、体の回復した皇帝は再び高麗遠征を志した。群臣は揃って親征を止めた。李世勣は、大軍を送って一挙に片を付けるのではなく、小規模な戦いを長期にわたって継続し、高麗を消耗させる策を提案した。皇帝はそれを採用し、夏、高麗の地に戦った。軍の戦意は高くはなかったが、都にいるより遥かによかった。
貞観二十二（六四八）年六月、高麗が困弊して来たとの報告を受け、翌春に三十万の兵を出して敵を滅ぼそうと皇帝は決めた。十二月、郭孝恪が西域に陣没した。その死を惜しみつつも、李世勣は自分も同様に戦場において死ぬのが本望だと、来たる高麗遠征でそうなるかもしれぬと考えた。
貞観二十三（六四九）年春、皇帝の健康は優れず、高麗遠征は実施されないままに時が過ぎた。皇帝は長生薬を飲み、それがかえって身体を害っていると噂された。李世勣は万一を思い、一層強く戦場に出るのを望んだ。太子詹事として皇太子を盛り立てる役を負っている。群臣の前で皇帝に頼まれもした。しかし、命を張って皇太子を守る覚悟はない。都は自分の戦う場所ではなく、若い皇太子は己の命を捧げたいと思う人物ではない。皇帝はそのことを承知し、だからこそ特別の配慮を示したのだろう。李世勣は全てを了解しつつも、万一の場合の後に都で何があろうとも、それは皇室の内輪の話で、山東の田夫に過ぎない自分の知ったことでないとの思いを払拭できなかった。それは皇帝に不忠だった。だから、早く高麗遠征に出たかった。
五月、畳州都督の命が下った。都の外に出される明らかな左遷だ。詔を受けて宮城を後にすると、屋敷に帰らず、直ちに任地に向かった。都の門の外に出ると、気が晴れ晴れとした。理由は何でもよかった。皇帝やその周りの者が、自分を疑ったのならそれでもよい。都を囲む城壁の中で何があろうと関わりたくない。
李世勣が都を出て十一日後、唐の太宗皇帝李世民は死んだ。五十三歳だった。
五
何の混乱もなく皇太子が即位し、李世勣は中央に呼び戻された。
新皇帝にまみえると、「先の帝は朕にこのように言われた。『長孫無忌は汝の伯父であり、褚遂良は股肱の臣である。二人には何ら心配がいらない。しかるに、李世勣に対してはこれまで汝は何ら恩を施していない。朕は李世勣を外に出す。朕が死んだ後に、汝自身の命で用いるがよい。もしも朕の命に対して少しでも不平の色を見せたならば殺して構わない』。そのようにおっしゃった先の帝の目に狂いはなかった。そなたは後をも見ずに畳州に向かった。そして、朕の命を受けるや直ちに都に戻ってくれた。朕は長孫無忌、褚遂良と同じく、そなたについてももはや何ら心配をしない」。李世勣は平伏した。新皇帝は正直過ぎた。それは話してよいことではなかった。
先帝がこの新皇帝を皇太子に立てると決めた時に同席した長孫無忌、房玄齢、李世勣、褚遂良のうち、房玄齢は先に亡くなり、長孫無忌と褚遂良の二人が先帝の最期を見取った。李世勣は新皇帝の重鎮中の重鎮となり、いくらか若い于志寧が加わった。于志寧は長安の由緒ある家の出で、やはり唐朝の内輪の人間だ。
九月、李世勣は宰相に任じられた。人臣として最高の地位だ。許敬宗も高官として並び、李密のもとに集まった文官としては魏徴に次いで重く用いられた。許敬宗は都に立派な邸宅を構え、多くの美女を抱えた。
李世勣の姉が病に倒れた。弟を平手で打った姉とは別の姉だ。宰相としての公務が終わると、毎日、姉を見舞い、自分で粥を煮て進めた。ある日、公務の疲れでうとうとした李世勣の鬚に、粥を煮る火が燃え移った。「屋敷にはいくらでも僕妾がおりますのに、何も宰相のそなたが、御自分でそうまで為さるには及びません」。「人はたくさんおります。しかし、姉上を見ても、この私を見ても、もう若くはありません。姉上にお粥を煮て進ぜようとして、この先、いつまでもできる訳ではありません」。李世勣は姉の脇で、故郷で過ごした昔の日々を語った。「あの庭で子どもに返って遊べたらどれほど楽しいでしょうか」。姉が言うと、李世勣は、貧民に米や麦を与えていた父の姿を思い、宰相となった己は唐土の民に父以上のことができているのかと自問した。
姉は亡くなり、李世勣は一年で宰相を辞した。宰相になりたい者、その地位を誇る者はいくらでもいよう。宰相は己の任ではない。兵を用いて人の命を救うために自分は生まれたのだ。それができないのならば郷里に帰るがよい。長く高位に留まれば恥も多い。親が余りに高い地位にあると、子は苦労知らずで偉くなり、そのために不肖の児孫が家を破綻さるためし世に多くある。実際のところ、房玄齢とともに名宰相と讃えられた杜如晦がそうだった。杜如晦の孫の杜荷は先帝の娘の城陽公主を娶り、皇室との繫がりを得て、先帝の太子だった李承乾の謀反に加担して誅せられた。
李世勣の長男の李震は父の功績をもって地方の長官になった。弟の李弼は都で官職を頂戴し、その他、親類縁者が様々な役を得ている。李弼は温厚な性格で、常に兄の蔭にあって、一族を取りまとめてくれているが、その弟も含めて、見回したところ、自分の後を継げるだけの器量を持った者はいない。李震の子の李敬業はいささか見所がありそうだがまだ若い。よい潮時を得て、山東の人間は山東の地に帰るのがよいのだろう。
永徽三（六五二）年、房玄齢の家も破滅した。房玄齢の次男の房遺愛は先帝の娘の高陽公主を娶っていた。房玄齢が死んで長男の房遺直が父の爵位を継いだのだが、高陽公主は先帝に愛されているのを笠に着て、義兄の房遺直に爵位を譲れと脅した。先帝はそのような公主の振る舞いを叱り、公主は先帝を逆恨みした。公主は自堕落になって僧侶と密通し、先帝はその破戒僧を腰斬の刑に処した。公主はますます先帝を恨み、その崩御に際して泣きもしなかった。皇帝が代わってから、房遺愛と房遺直は父の財産を巡って争い、二人ともに都を追い出され、さらに房遺愛と公主は反乱を企んだとして死罪に処せられ、房遺直も遠くに流された。
李世勣はいよいよ身を慎み、都の外に出るのを望んだが、先帝より後事を託された身として許されなかった。
永徽六（六五五）年九月、皇帝は朝儀を終えると、長孫無忌、于志寧、李世勣、褚遂良の四人だけを呼んだ。長孫無忌が先頭に立とうするのを褚遂良が止めた。「このお召しが何を意味するのか、皆様方はおわかりでありましょう。お上のお心はすでにお決まりです。逆らうならば死をも覚悟せねばなりますまい。貴殿はお上に取りましては伯父上に当たります。お上が伯父上をお怒りになるようなことがあってはなりません」。褚遂良は
長孫無忌の前に立った。「では」と、李世勣がその前に出ようとした。一瞬の弾みであった。戦場において決して後れを取らない習性からだろうか。頭を冷やせと、若い皇帝を叱れば簡単に終わるように思えた。褚遂良が李世勣を押し止めた。「貴殿は唐の大功臣であります。何が理由でありましても、お上が大功臣を刑に落とすようなことがあってはなりません。私は草茅の身より起こし、汗馬の労もなしに、先帝によって引き上げていただきました上に、先帝がお亡くなるに際し、後をお託しいただきました。ここで私の死をもって争わなければ、黄泉路において先帝にお目にかかれません。どうか私一人にお任せいただきたい」。若い于志寧は何も言わず、褚遂良に任せるべきであると仕草で示した。李世勣は軍馬の響きを思った。ここはそのような場所ではない。こめかみ押さえ、口を両手で覆った。「いかがされましたか」。于志寧の問に、「お上の前で不浄な様はお見せできません」と、わざとよろめきながら皆とは反対の方に歩み去った。
皇帝は、皇后を取り替えようとしていた。先帝は名族の流れを汲む王仁祐の娘を息子の妃として選び、皇帝の即位に伴って王氏が皇后になった。王皇后には子がなく、皇帝の寵愛は蕭淑妃の方に移った。いずれ自分の皇后としての地位が危うくなるのを心配した王皇后は一計を案じた。皇帝はかつて皇太子の時代に先帝の宮中で武才人なる女性を見て、その美しさに目を見張った。先帝が死ぬと、武才人は宮中から出されて感業寺で尼になった。皇帝は感業寺に詣で、偶然にも武氏を見かけてひと目でそれと了解した。皇帝は涙をこぼし、武氏も泣いた。王皇后は、その武氏を後宮に入れれば蕭淑妃への寵が衰えると考え、武氏に髪を蓄えさせ、秘かに皇帝に勧めた。皇帝は武氏に夢中になった。武才人は王皇后によく仕え、王皇后は目論みが全てうまく進んだと喜んだ。ところが、武氏が昭儀の位を拝し、次第に王皇后の存在を脅かすようになった。王皇后は今度は蕭淑妃と手を組んで武昭儀を貶めようとした。皇帝は武昭儀の言葉だけを信じ、王皇后を廃して武昭儀を皇后にしたいと考えた。そのための地ならしに、武昭儀を連れて長孫無忌の屋敷を訪れた。長孫無忌は他事に紛らわして、皇帝が用件を切り出す隙を与えなかった。後日、許敬宗が派遣され、長孫無忌に皇帝の真意を伝えようとしたが、長孫無忌は怒って追い返した。
皇帝は長孫無忌、于志寧、褚遂良を呼び入れた。「皇后には子がなく、武昭儀には子がある。武昭儀を皇后にしようと思うが、どうか」。ついに心を明らかにした。先帝の命に違うことはできないと、褚遂良が強く反対した。皇帝は不愉快な顔で聞いたが、理路整然とした褚遂良の言に反論できず、その日は終わった。
翌日も再び四人が呼ばれた。李世勣は病と称して行かなかった。皇帝は同じことを言い、褚遂良も同じことを言った。皇帝は今度は譲らなかった。褚遂良は、「どうあっても皇后を変えられるとおっしゃるのであれば、それは陛下のお心によるより他はありません」。皇帝の顔が一瞬明るくなった。褚遂良はここで声を強めた。「しかし、皇后になられるお方は、天下の良族よりお選びいただかなければなりません。皇后は天下の民の母です。それは良き家柄の者でなければすまないのです。ましてや、武昭儀様が先の帝にお仕えしていたのは衆人の知るところであります。天下の耳目は覆えません」。それは皇帝の最も忌む言であった。武昭儀の父は関中の人間で、唐朝との縁は深いが、さほど家柄がよい方ではなかった。それよりも、父の後宮にいた女性を子が愛するのは問題だった。皇帝の顔色が一変した。褚遂良はそれを見て笏を置き、「臣は陛下のお心を損ねました。この罪は死に当たります」。階より下り、額を地に撃ちつけて血を流し、「その笏を陛下にお返しいたします。臣をどうか郷里にお帰しくださいませ」。皇帝は激し、褚遂良を引き出させた。長孫無忌は「遂良は先の帝より命を受けて朝廷にある者です。たとえ罪があっても刑を加えるべきではありません」と弁護した。于志寧は無言だった。
その日より、皇后を代えるのを思いとどまるよう上疏する者が相次いだ。皇帝は全てを斥けた。李世勣は何もしなかった。頭に血が上って一人の女以外に何も考えられなくなった男の考えを変えさせるのは、百万の敵と戦うよりも難しい。熱が冷めるのを待つしかない。
病が癒えたら入見するようにと、李世勣に直接に命が下った。避けようがなかった。皇帝は言った。「朕は武昭儀を皇后にしようと思うが、遂良は駄目だと言い張ってきかない。遂良は先の帝がお決めになった大臣である。大臣の言葉は無視できない。ここはどうしたらよいものだろうか」。皇帝の目は心労で窪んでいた。李世勣は先帝を思った。先帝には、敵を破る策か、そうでなければ天下の大計の他には問われなかった。この皇帝の頭にはそのようなことはない。「名族の娘でなければ皇后にはなれぬのか」。皇帝は問を重ねた。褚遂良が言った名族とは、山東の旧い貴族ではなく、周、隋、唐と政権の中央にあった関中の連中だ。自分が答えねばならぬ問ではい。「これは陛下のお家の中のことです。外の人間にお尋ねになるまでもありません」。皇帝の目が晴れ晴れと輝き出した。「全ての痞えが下りた」。
許敬宗が朝堂で衆に向かって言った。「田舎の親父でもちょいと小金が入れば、不細工な妻を追い出して美人の妻を娶り直そうとするものだ。そうしたところで誰もとやかく言わぬ。まして天子が后を立てるのに、諸人が妄りに異議を言っていいはずがない」。
褚遂良は長安から南に離れること二千四百四十五里の潭州に左遷された。十月、王皇后と蕭淑妃は毒を盛ろうとした罪で庶人に落とされ、その母や兄弟は南方に流された。許敬宗がこれらの処置を取り仕切った。
武昭儀が皇后になり、皇后の徴である壐綬を武氏に渡す名誉ある役目を李世勣が仰せつかった。李世勣の一言が皇帝の決意を不動のものにし、武皇后は大いに恩義を感じた。大役を終えて屋敷に帰ると、孫の李敬業が迎えに出て、「さぞや胸を張って宮中を歩まれたのでしょう」と、祖父の耳に聞こえるように言った。「おまえに何がわかる」。「いえ、わかっております」。李世勣は孫の顔を凝視した。孫は真直ぐに見返して来た。児孫の内で己に最も似ていた。「褚遂良殿は褚遂良殿の仕事をされた。わしがやるべきは別にある」。
顕慶元（六五六）年、長男の李震が梓州の長官になった。そこでよい治績を挙げれば次は中央に呼ばれるようになるのだろう。戦場に立つのが立身の道ではなくなっていた。
顕慶二（六五七）年秋、ある者が天竺の方士を皇帝に推薦した。その方士は長生薬を調合できると言い、先帝はそれを信じ、諸国より奇薬異石を集めさせ、薬を飲んだ。皇帝は「秦の始皇帝も漢の武帝も不死の薬を求めた。そのような薬が実際にあるのならば、二人ともいまも生きているはずだ。諸君はどう思う」と、侍臣に尋ねた。先帝がその方士を信じたのを思えばうかつに物を言えず、また方士を推薦した者への遠慮もあった。皇帝の視線が李世勣に向けられた。「まこと聖言の通りにございます。かの方士を見ますと、以前よりも髪が白くなり、齢相応に老いたのは間違いありません。それで長生薬がどうしてできましょうか」。皇帝は満足げにうなずいた。屋敷に帰ると、李敬業が奇妙な笑顔で出迎え、「御説ごもっともということでありますか」とつぶやいた。祖父は顔をそむけ、「いずれわしの心がわかる時が来る」。
顕慶四（六五九）年、許敬宗は巧みに長孫無忌を罪に陥れ、南方に流した。于志寧も関わりがあったとして免官になった。さらに長孫無忌は自縊を迫られ、于志寧はより遠方に配置換えになった。先帝に後事を託された者で都に残るのは李世勣だけとなった。
顕慶五（六六〇）年十月、皇帝は病のために目が見えなくなり、武皇后が代わって政事を見た。病が癒えてからも、皇帝の後ろに御簾を垂れて武皇后が控え、万事を決裁し続けた。武皇后には政治の才があった。また旧い家柄によらずに優れた人材を登用し、朝廷の顔ぶれは次第に変わり、山東人と関中人の差別も薄まった。
世は概ね事もなく、ただ気になるのは朝鮮半島情勢だった。朝鮮半島では高麗、新羅、百済の三国が鼎立し、隋も唐も境を接する高麗と敵対関係にあった。三国の中で劣勢に陥った百済は、高麗と倭国に救援を求めた。唐は新羅と連合軍を組み、白江において百済と倭の連合軍を破った。竜朔三（六六三）年である。李世勣は都にあって、唐の方針を武皇后とともに決めた。李世勣は七十歳になっていた。
麟徳二（六六五）年二月、皇帝は侍臣たちと語って隋の煬帝に及び、「煬帝は諫言を拒み、目の前で起こっている反乱さえ知らされなくなり、ついには滅んでしまった。朕は常々それを戒めとし、心を虚しくして諫言を求めて来た。しかるに、近頃はついぞ諫める者がいないのだが、いかなる訳であろうか」。左右の者は声を立てなかった。重大な事柄は武皇后が決め、何憚らず諫めるかつての魏徴のような人物はいない。皇帝の視線が李世勣に向けられた。「陛下の為されることで善を尽くさぬはなく、よって群臣がお諫めしようにもできないのであります」。皇帝は満足げにうなずいた。屋敷に帰ると、李敬業が蔑むような顔で立っていた。「阿諛の臣の仲間入りをされるとは思ってもいませんでした」。李世勣は孫の顔を見ずに、「何もわからぬくせに勝手を言うな」と怒鳴った。「わかっております」。「いいや、本当のところは、いずれおまえにもわかるときが来る」。李世勣はそうは言ったが、果たしてその時が来るのか、七十二歳の身にははなはだ心もとなかった。
その年の暮れ、皇帝は泰山に向かった。天の神と地の神を祀る封禅の儀を行うためだ。かつて秦の始皇帝や漢の武帝が為した皇帝としての最高の儀礼である。李世勣は封禅大使として皇帝、皇后に付き従った。
皇帝は濮陽に着くと、「ここは帝丘とも言うようだが、それはどうしてなのか」。騎従する竇徳玄に尋ねた。竇徳玄は答えられなかった。許敬宗が後ろから馬を躍らせ、「古の帝の顓頊がここに居を定めました故にございます」。許敬宗は立て板に水で皇帝の質問に答え、大いに褒められた。許敬宗は退くと、「大臣は無学では勤まらぬ。人ごとながらまこと恥ずかしい」と大きな声で言った。竇徳玄は「人にはそれぞれできることできぬことがある。知らぬのに無理に答える必要はない」。李世勣は「許敬宗殿が多くを知るのはまことに麗しい。竇徳玄が正直に知らぬとお答えしたのもまことによい」と、両者を宥めた。
皇后は李世勣の郷里、東郡衛南に立ち寄り、旧居を守る姉に親しく声を掛けた。皇后が去ると、李世勣は中に入った。懐かしい匂いがした。姉は皇后より賜った衣服を示し、「そなたが十歳を超えたばかりで賊の仲間となり、人殺しばかりしていました頃には、そなたが心配でなりませんでした。母上は、あの子には福相があるから若死にするはずがないと、私を慰めてくださいました。そなたはこうして七十を超えて、皇后陛下をこの田舎にお連れになりました。まことに母上のお言葉の通りでした」。李世勣は笑い、「母上のおっしゃった福相はまことによく当たり、戦に臨んで将を選ぶ時に、福相の者を用いて勝たぬことは一度もありませんでした」。「弟の感だけは福相がなく、もっと強く撃って止めなければいけなかったのです」。姉は泣いた。李世勣は父母を思い、我が代に受け継いだこの家を、この先も代々より大きくしていかなければならないと考えた。
正月に封禅の儀は無事行われ、その帰路、李世勣は落馬して足を痛めた。戦場において馬から落ちたことはかつてなく、不覚であった。やはり齢のせいかと情けなかった。皇帝は馬が悪いのだと、自身の乗る馬を李世勣に賜った。
その年の十二月、待っていたものがついに来た。遼東道行軍大総管の命が下った。皇帝は高齢であるのを危ぶんだが、李世勣は自ら強く願った。自分が行かずして誰が行くのか。これを逃してはもう戦場に立てない。高麗討伐の総指揮の任に就き、郭孝恪の息子の郭待封を水陸諸軍総管並運糧使に抜擢した。李密のもとで共に戦った仲間の子に、戦場での作法を実地に教えたかった。できれば我が子であるべきところだが、李震は任地で病死し、孫の李敬業はまだ官位を得ていなかった。
翌年の夏、戦場の空気を吸うと、二十歳くらい若返った気がした。高麗遠征は人の命を救う戦ではなく、それがために煬帝も先帝も失敗したのはわかっていた。李世勣にとってこれが最後の働き場所だ。「新城は高麗の西辺の要害である。まずこれを下さねば、余城は得られない」。九月、新城攻撃をもって高麗との戦争を開始し、立て続けに十六城を下した。郭待封に水軍を指揮させ、海路、敵の本拠地、平壌に向かわせた。これまでの遠征は越冬を避けたが、李世勣は寒さをものともせずに前進を続け、自身は一日の休息も取らず、一年余りを戦場に過ごし、翌年の九月、ついに平壌に入城し、高麗平定を成し遂げた。
十二月、長安に凱旋した。唐は高麗の百七十六城、六十九万余戸を九都督府に分けて統治すると決めた。李世勣は軍を連ねて先帝の廟に詣でて勝利を報告した。孫の李敬業は初めて祖父の顔を眩しそうに見上げた。「功業は戦場において樹てるのだ」。李敬業は「深く肝に銘じます」と答えた。
劉延祐という弱冠にして進士及第を果たした者が、畿県の長になるに当たっての心構えを李世勣に尋ねに来た。劉延祐はいかにも頭が切れそうで、優美ななりをしていた。試験によって有為の士を民間から選抜して採用する科挙の制度は隋の時代に始まり、武皇后が積極的に推し進めていた。李世勣は目の前に劉延祐を置き、自分が同じ年齢であった頃を思った。李密に出会ったのは二十五歳。李密のような男が天下を追った時代は遠くに去った。「わしは十二、三歳で逃げて賊に頼り、人に逢うとすぐに殺した。十四、五歳で難のために賊に当たり、気に食わないと人を殺した。十七、八歳で佳き賊となり、陣に臨んで人を殺すようになった。二十歳で大将となり、兵を用いて人の死を救うようになった」。独り言のように語り出して、自身で笑った。誰もが賊にならねば生きていられなかった時代の話などしてもわかるはずがない。戦う場所などどこにもない。つまりは自分のやることはなくなった。「幸いにもそなたは若くして大きな名を得た。しばらくは己を抑え、人の前に一人進み出てしまわぬよう気をつけるがよかろう」。劉延祐は頭を下げた。この男も、孫の李敬業も、結局は何もわかってもらえぬのだろうと、李世勣は思った。
六
総章二（六六九）年秋、李世勣は病に臥せった。皇帝は、李世勣の一族の者は皆長安に来て看病するよう命じ、薬を賜った。家人は有名な医者や巫者を呼んだ。李世勣は医者も巫者も門の内に入れなかった。「わしは山東の一介の田夫だ。たまたま聖明に遭い、濫りに富貴に居り、位は三公に至り、齢はじき八十になろうとしている。このように生きられたのは天命によらずして何であろうか。生死にはもとより期があり、医薬に就いてやたらに活を求めるべきでない」。
李世勣の病は進み、次男の李弼を呼び、「今日は加減が少しよいようだ。酒を置き宴楽を楽しみたい」。李弼は驚いたが言われた通りにした。堂上で女妓が奏し、簷下に李敬業ら児孫が並んだ。李世勣は伏せたまま聞き、盃を巡らすように言った。宴が終わると李弼を呼び寄せた。「今度ばかりは終わりとわかっている。この宴は汝達との別れだ。泣くでない。泣かずに、わしと約束してほしい。わしは、房玄齢殿や杜如晦殿が辛苦して先帝にお仕えする姿を間近に見た。お二人の苦労は並々でなく、ようやくに門戸を立てたのであるが、不肖の子孫はその全てを無にしてしまった。わしはここにいる犬や豚の如き者達を汝に授ける。汝が見て、操行不倫、あるいは非類と交友する者がいるならば、撃ち殺してしまえ。よいか皆の者は、わしがすると思い、弼の刑を受けよ。そのようにしてから、わしの葬式を行え。金や宝玉を土に埋めてはならない。粗末な棺があれば十分だ。普段の服のままわしを中に納めよ。ただし、朝服を一副、入れるのを忘れないでくれ。もしも泉下において先帝にお目にかかるのに不自由しないためだ。屋敷で使っている者は、残りたいと言うのならそうさせてもよいが、後は自由に好きなようにさせろ。そうしたことが終わったならば、わしがいまおるここにおまえが座り、小弱どもを労わるのだ。我が言に違う者はここで死ぬがよい」
李世勣はその後は何も言わずに死んだ。李弼は遺命に従った。
その十四年後、皇帝が死に皇太子が即位した。新皇帝に、母である武太后の意に沿わぬ振る舞いがあり、すぐに廃されて、その弟が立てられた。政事の一切は武太后が決した。
光宅元（六八四）年秋、武太后の専横に抗する者が反乱を起こした。その中心になったのが李敬業だった。李敬業は皇帝の姓である李を削られ、元の徐姓に戻った。参謀の魏思恩は、山東の豪傑を集め直ちに洛陽を攻め取るべきだと説いた。徐敬業は、決起した足元の江南の地を固めてからだとした。その間に態勢を整えた官軍に包囲され徐敬業は敗れた。徐世勣の恐れていた通り一族は破滅した。後に武太后は女性として初めて皇帝になった。則天武后である。
それから百年余りが過ぎた貞元十七（八〇一）年、麟州が吐蕃に襲撃され、住民が西に連れ去られた。不幸な民の中にあった僧侶の延素は、僻遠の地で徐舎人と名乗る者に会った。「自分は徐世勣の五代の孫である。敬業が乱を為し、子孫は異域に流された。いま私は吐蕃の将になってはいるが、我が一族は世勣の事績を代々語り継ぎ、唐臣としての心を失わずにいる。この思いを本国の人々に伝えてくれるのならば、我が命に代えて貴僧を逃そうと思う」。延素は無事に都に帰り着いたならば必ず皇帝の耳に達するようにすると約束した。徐舎人は延素とともに千数百人を唐に帰還させた。