湘南自転車行　第一輯

第一輯は一九八〇年十二月十三日から一九八一年十月二十五日まで。

贅を省き、誤りも多くは削除し、ときに正した。まれに補足もしたが、きわめて例外である。

なお、湘南とは吾が行くところ、行(こう)とは歌の意である。

■第一　十二月十三日　大磯丘陵東部

風がひどく強かった。こういう日は自転車にはまったくむいていない。しかし、それでも敢えてでかけた。ここに歌うのであれば、ぜひ一番最初に書いておきたいと思う所があったからだ。それは、七国の丘の道。

七国の丘の道。正式な地名は知らないが、ここではそう呼ぶ。

そこを始めて走ったのは、今年の十一月三日。七国峠からまっすぐに北に延びる二キロばかりの丘の道、そこを、そのときは北側から南に向かって走った。そしてこの道のすばらしさに驚いた。もしも、逆に、南から北に向かって走ったなら、もっとすばらしいだろうと思った。

そこで今日は、七国の丘の道を南から北に向かって走ることにした。

まず十国峠の上に立って四方を見る。幸い強い風もおさまってきた。空気は澄み、視界は広い。まわりに気持ちがとけこんできたところで、さっと坂を下る。広い道にぶつかる。そこが七国峠。右に行けば久保、左は井ノ口。まっすぐ正面の細い道に入る。小さいな坂を登る。道が右に曲がって、建築中の家があって、その脇を抜ける。さあ、ここがその丘の道だ。

西側の展望が開ける。箱根の山に富士山がある。富士には雪が薄くかかり、山の南側に雲がわいている。

首をぐるりとまわして後ろを見る。さっき越えた十国峠がある。その南は見えない。

東側は相模の平野。伊勢原、厚木の町が光っている。

もう一度西側を見る。

平坦なこの丘の上は畑になっている。その畑の先が、そのまま隣の丘と連続してしまっているように見える。ここは高さ一三〇メートル。隣の丘も同じくらい。その向こうが一段高く、曽我山。三〇〇メートルを越える尾根がある。それら近景を囲むように、遠景を伊豆から箱根の山々がふちどっている。富士はさらに別格だ。

さあ、いよいよ正面を見る。すっかり葉落ちした大きな木立ちの間をまっすぐに北に向かうこの道の真前。自分と直面するのが、丹沢の山である。

いくつもの平面をたたみ重ねた、荒削りの彫刻のような、若々しい山容。それが丹沢の山。午後の冬の日ざしは低く、日を受けた尾根は明るく、谷は長い影に暗く沈む。はっきりとした陰影が、丹沢の山のごちごちした姿をきわだたせる。

今日の丹沢は緑色をしている。

まっすぐに山を見て、自転車をゆっくり走らせる。今ここにいるのは自分だけ。ふいに思い出す。

　菊を采る　東籬の下

　悠然として　南山を見る

陶淵明のよく知られた詩句。

丹沢には丹沢の歴史がある。丹沢が生まれたのはいつか。丹沢がどのようにして今日に姿になったのか。それは丹沢の石を、地質を調べればわかる。丹沢の歴史は丹沢に刻み込まれている。

今、自分がいるこの丘。ここにも歴史がある。昔このあたりは森であっただろう。鳥が鳴き、いのししが走り、鹿がいこう、そんな森林の中の一つの丘。いつのころからか人手が入り、今はすっかり明るい日の当たる丘の畑になった。舗装された道があり、そこを自分が自転車に乗って走っている、

丹沢があって、この丘があり、この丘があって、丹沢がある。

丹沢ができたとき、いつか向こうの丘の上を、一人の男が自転車に乗って山をみつめることがあるだろうなどと、想像しただろうか。丹沢ははるか昔にできた。長い歴史の流れを自らの姿に刻んで、現在存在している。そして、自分は今この時しか知らない。

しかし、自分にも自分の歴史がある。二十五年という短い時間ではあっても、自分にとってはかけがえのない年月、それを経て、今ここにきた。

いやそればかりではない。自分の前には人間の歴史がある。人間の長い多くのさまざまな営みの積み重ねがなければ、今、自分がここに立つことができない。いや、そればかりではない。その前にはもっと長く、生物の歴史がある。海から陸にあがり、二本足で立った、自分に至るまでの生物の歴史がある。その歴史は自分の体に刻み込まれている。

今、自分は丹沢の山に向かい合っている。丹沢のもつ歴史と、自分のもつ歴史と、それがここに向かい合っている。それらは、もとは一つ、同じものかもしれない。

陶淵明がどのような気持ちで南山を見たのか、よくはわからない、しかし、陶淵明にとって南山があったのと同様に、自分にとってはこの丹沢がある。山と人間が向かい合うという点では同じではあるまいか。

烏が鳴き、鳥の群れが山に向かってゆく。

丹沢の山には林道の白い筋がいくつもはいり、それが傷口のように見える。送電線の大きな鉄塔が列をなして山肌を登っている。

人は丹沢をいためつけている。丹沢は生まれてからこんなにいためつけられたことはないだろう。しかし、それでも、丹沢の歴史、姿のもつ尊厳は変わらずにあると、思う。

　鳥は去り鳥は来る　山色の裏

　人は歌い人は哭す　水声の中

いささか感慨にふけりすぎて、杜牧の詩をくちずさむ。

今、歌うのは自分だ。

さあ、聞いてくれ、丹沢の山々よ。これから歌う、湘南自転車の行を。

自分の生はこの歌のためにあったと、そう思うほどに。

想像する。

季節は変わる、

明るい丘の道、

花咲きにおう鶯の鳴く、

日ざし暖かな浅い春、

白き富士はかすみ、

青き丹沢は空にまじる。

　またも来ん　梅が香かすむ　春の日に

　　　　吾が狂態を　山に見せんと

注　七国の丘は本来は清見原であることを後に知った。

■第二　十二月二十一日　三浦二子山

今日は結局目的を達することができず、強い印象を受けることもなく、また、雲が流れて日がさえぎられることが多く、寒さに身のこごえる思いもした。それで、出発のときの勢いに反して、帰りにはいささか興ざめといった感じですらあった。

しかし、家に戻って、自転車の油やほこりをぬぐって、自らのほこりも落とすために風呂に入ると、ふと、あるいはそんなにつまらない日ではなかったのではないかと思われてきた。むしろ、いつにもまして楽しさは奥深くにあったのではないかと、そんな風に感じられてきた。

湯の中にすっぽりとつかり、体内に暖かみがしみ入り、つめたかった体がほぐれ、同時に身の奥からも淡い味わいが広がってきて、そしてそれが心の中を満たしてきたのだ。

今日は自転車に乗っている間中、走っていることばかりを考えて、ほかのことはいっさい頭の中になかった。ただ走ること、先に続く道のこと、そして目の前の景色だけがあった。このようなことは、この二年間、自転車に乗っていておそらく初めてのことであったのかもしれない。いつもは次から次へといろいろなことが頭の中にうかんできていた。いま走っていることとはまったく関係のないこと、仕事のことであろうが、昔のこと、明日のこと、それらの思いにとらわれて、時にはとらわれすぎて、気をめいらせながら自転車をこいでいることもあった。

今日はそれがなかった。あるのは、いま、現在、自転車に乗っているということだけ。自転車に没入していた。これは自転車に乗っているときの心持ちとして理想的なものであろう。はからずも今日は、それと気付かぬうちに、理想が実現していたことになる。そう考えたとき、興ざめのように思われた一日も奥深い喜びの一日となった。

とはいえ、さまざまな思いをもち、何かに心をとらわれて走っているときに、ある道、ある場所で、それらをからりとふきはらってくれるものに出会う、そこで強い感動が生じる。そういう点では今日はすべての印象が薄くなったのだろう。いたしかたないことではある。

二子山といえば、むろん有名なのは箱根の二子山だ。昨年二度、四月二十九日、九月十九日にその近くにまでいった。一度目は箱根の旧街道の石畳みから望み、二度目は山すそをぐるりと半周した。

四月には、やわらかい丸みをおびた二子山の山型に淡い緑が美しかった。

九月には、夏のなごりの強い日ざしに、汗を流しつつ、二子山山下の道を自転車を押して登った。ここに自分が自転車を押して存在しているということ自体が、わけもなく印象的であった。

山と自分とは相関わっているわけではない。たまたまここに山があって、たまたまここに自分がいる。それだけのこと。それだけのこと故にかえって、あるいは、このたまたまは唯一これ一回きりのたまたまであるだけに、強い感銘を与える。

そして、歌にならない言葉をつぶやいた。

　　二子山の　すそ曲りゆく　この坂道を

今日いったのは三浦の二子山。高さは二百メートル余。箱根の方に比べれば五分の一でしかない。そして山頂にまで登ろうとしたこの二子山も、結局今回は山すそを走っただけで終わってしまった。

逗子から国道一三四号線、桜山トンネルは排ガスでいっぱい。外に出て息をすい、下り坂。すぐ左に曲がる。つきあたりのお菓子屋でまた左に。すると、まっすぐ前に見えてくる、おわんをかぶせたような山。これは阿部倉山。二子山はその後ろにある。ここからは見えない。

長徳寺の脇、阿部倉山のふもとをぐるりとまわって二子山にわけいるつもり。自転車を小道に入れる。前からきた人が、ここはいけないよ、という。間違えたかと別に道を捜す。地図に書いてあるもう一つの道。たどっていくと、いつのまにか人の家、さらにその塀にそっていくとついに行き止まり。しばらくそこをうろうろしても先にはいけない。

仕方なく計画を変更。森戸川沿いの道でずっと奥まで入り、裏手の方から登ることにしよう。

幾重にも折れる森戸川、橋を渡るとここからは人家はない。しだいに山が両側からせまって、道は木々におおわれる。割に走りやすい道だ。

奥に入って山に近付きすぎたせいか、二子山の姿はまだ見ることができない。右に左にくねくねと道は曲がる。

それにしても興趣は乏しい。木や草のはえかたが雑然としていて、殺伐と荒れた感じ。川にはゴミ。雲が日をとざして、谷あいの道は寒い。

大きく右にまわると、急に道がとぎれる。川がさえぎり、橋はない。二メートルほど下の川に、いったんおりて徒歩で渡れば、向こうへいくのはそう困難ではないようだ。そのまま、まっすぐいくと、どんどん奥の方。左の細い小道をとると二子山に通じる。右の木の影にある急峻な坂道、そこを登って尾根を越えると、栗坪の集落に出るのであろうか。

まずは昼食。

じっとすわっていると体がひえてくる。手足がつめたくなる。汗でぬれた下着が肌にふれる。全身にふるえが走り、元気が失われる。

二子山に登るのはやめだ。

よし、尾根を越えて栗坪に出てみようか。右手の急な坂は、はたして登れるだろうか。

まず単身、ようすを見にいく。ひょいひょいと登るとすぐに木の根に足をとられる。道が判然とせず、下の枝を足で払い、上の枝をくぐり抜ける。はいつくばって、蔓を、枝を、手にとって、体をひきあげるようにして登る。息が荒くなる。さらに道はけわしい。

これでは、とても自転車はつれてこれぬ。尾根を越えるのはあきらめるしかない。

夢中で登ってきた。もう随分と高くまできた。枝が左右からのびてきているのを払いのけ、木にすがりついて、首をのばし、向こうをふりかえり見る。

二子山。始めてみる山。雲は去り、日がさしている。青空に緑が映える。

ここにあるのは、双子のうちの東の山。丸みのあるふっくらとした愛らしい山。草のおおう山頂は日だまり。ぽかぽかと暖かろう。

その暖かな草地に寝転んで、青空を見る。

この二子山と箱根の二子山。同じく登れずに帰る。

今日、弁当をひろげたその地点で、猟銃をもった二人の男、カメラを下げた二人の学生、二子山から下ってきたらしいランニングをする外人一人、に出会った。

それぞれの人のそれぞれの時間が、二子山の山すそで進んでいた。自分の時間もそこにあった。

そして思う。今度は自分の時間を、二子山の山頂に置こうと。

■第三　一月一日　小動の落日

物事というのは、こうなるに違いないと十分に予測した場合でも、その通りにはいかないものであるようだ。

今日は自転車に乗る以外の目的があってでかけた。だから、ここに書くような記事は何もないだろうと予測した。

その目的というのは、新年の届けものをするということ、その作業が終わったのは、鷹取山のふもと、午後の二時半。夜には天候がくずれるというその前兆、雲が次々に流れてくる。このまままっすぐひきかえしても家に着くのは夕方。天気のよくないこともあり、鷹取山にはのぼらないことにした。もしかして今日一日のうちに、取るべきことがあるとすれば、せいぜい鷹取山の山頂からの眺めくらいかと予測していたのを、やめにしてしまった。

朝比奈の新道から鎌倉へ。何か書くとしたら、もうこの坂以外にはありえない。あと鎌倉で一二の寺を訪ねて帰るだけ。それはいつもと同じことのくりかえしだから、とりたてて文章にするようなことは何もないわけだ。せめて、この坂あたりで何か書けるようにしなければならないと、思った。

足にぐいぐい力をこめて登ってゆく。道が何度もおれ曲がるそこのところ、首をぐるりとねじると、南のほう、目にとびこんできたのは海。ここから海が見えるのか。もう何度となく登っている道なのに、気付かずにいた。東京湾の海が光っているのである。

さらに、朝比奈の峰々は相当に緑が深い。もとは切り通しの道があっただけで、ここは昼でも暗い山中、そんな景色も想像される。

峠、鎌倉霊園の入り口でひと休み。汗をぬぐう。朝比奈については書くことがありそうだ。今日を機会に、朝比奈のために一節を設けて書くことになりそうだと、そのときは予測された。

あとは気ままに鎌倉の中を走って帰るだけ。

坂を下って、十二所、光触寺に立ち寄る。ひなびたたたずまい。日がかげって、ひんやりとして、わびしい雰囲気。寺の奥にはいくつもに道がわかれ、いつしかそれぞれの奥をきわめようと思う。

杉本観音に参詣。この高台の向かいが衣張山。いかつい山に木々がしがみついているように見え、峨々たる雄山の気すらある。

腹切やぐらというのを見ようと、法戒寺の脇の道に入る。橋を渡ると坂になって、段々急になる。さらに登って登りつめる。崖がせまり、木がひょろりひょろりと立ち、その奥にある。岩を四角くくりぬき、小さな堂を置き、中にはお香の煙が立ち込めている。山かげの湿り気をおびた地面のにおいに、香りが漂う。北条氏滅亡のときに、ここで多くの人々が自害したという。思わず寒さがしみいり、合掌。

この崖には道があり、山にいけるようになっている。今日のところはやめにして、少しひきかえして、左、山王谷のトンネルをくぐる。こういう小さな暗いトンネルは鎌倉らしい。

興のおもむくままに、長勝寺の裏手から材木座の方に抜けようと、脇の道に入ってみる。急な坂になる。かまわずに自転車をこぐ。足が痛くなりかけたころ、材木座霊園の入り口。お墓の間に坂道は続いている。さらに登る。一段と急になるのを登り切ると、とうとう頂上。行き止まり。立派なお墓が並んでいる。道を間違えたようだ。

しかし、ここに思わず迷いこんだのは幸運であった。頂上は四方に見晴らしが開けている。

東から北にかけては、名越の峰々、西日が緑に当たっている。西は鎌倉の市街が一望のもと。南は海。潮が引いて和賀江島が姿を現し、逗子、三浦と見える。材木座、由比ケ浜の海岸には人が出、稲村ケ崎、江ノ島とおりかさなるそのむこうに箱根伊豆の山々。沖には船。しばし眺望を楽しむ。

鎌倉に対する愛着がわきおこり、同時に鎌倉は不可解なところだと思う。

よし、光触寺からこの場までのことを記し、それをもって、今日は好日であったというあかしにしようか。山に囲まれる鎌倉を見ながら、そこではそう予測された。

さて帰ろう。もうこれで終りだ。

鎌倉から茅ケ崎に帰るには二つの道。梶原、手広、藤沢と北側をゆくのと、稲村ケ崎、江ノ島と海岸にそってゆくのと。一昨年はたいてい北側の道だったが、昨年はほとんど海岸の道だった。二つの道にはそれぞれよい所がある。今日は海岸の道で帰る。

市内を出て、由比ケ浜を走ってゆくと、何かしらんだんだんと調子がよく、気分が高揚してくる。今日は坂を登るなどして結構疲れているはずなのに、出がけのときよりも足が軽い。稲村ケ崎の坂もすいすい越える。七里ガ浜の道は軽快にとばす。気付くとどうやら追い風らしい。それで調子がよいのかと、一応納得。ただし、風はわがために吹くのであろうと勝手に解釈。自然に感謝をする。

自然に感謝をするのはそればかりではない。

夕方になって空気が澄み、大島がはっきりと見える。雲が伊豆箱根の山から離れ、夕空が一条、山と雲の間にのぞく。山も雲も灰色。空は赤みをおびた青。その細い夕空に太陽がある。

今朝、茅ケ崎の浜で初日を拝んだ太陽がそこにある。まず、三浦半島にかかる雲の端を白く輝かせ、富士山の山頂を赤く染め、そしてわれわれの目に光を送ってくれたその太陽が、いま伊豆箱根の山にふれんばかりのところに、ぽっかりと浮かんでいる。

軽い追い風を受けて自転車はすいすいと進み、七里ガ浜は尽きようとする。山は江ノ島の影に見えなくなる。ここで小動の岬。ここからしばらくは、見晴らしが完全にとざされてしまう。その間にひょっとして日は落ちてしまうだろうか。信号が赤にでもなったら、その分、日は落ちてゆく。幸いに青信号。ゆるい上り坂を越える。見ると、下に並ぶ家々の屋根にはまだ日の明りが残っている。大丈夫だ。

さっと下る。ぱっと視界が開ける。江ノ島の脇、日はその一部を山かげに隠したところ。ゆらゆらと光はゆれて日は落ちてゆく。目がくらむまでにそれを見つめる。

足は軽い。信号を左に。

日は静かに姿を消してゆく。山の端に、わずかに一部を残しているだけ。どんどん小さくなってゆく。

道はゆるやかに右にカーブ。江ノ島の交差点。信号は赤。ブレーキをかけて、さっと止まり、とんと足を地面につく。

そのとき、日は最後の光を、山の向こう側におさめた。

以上が予測とは異なった方にはずれていったこの日一日の記録。そのどれもがよい方向にはずれていき、しかも、この地、湘南の地でなければ出会えないことばかりがあった、そんな一日であったのだ。

■第四　一月四日　曽我山

誇張ではなく、事実としてこれほどくまなく遠くまではっきりと見ることができたのは、この二年間で初めてだった。

大磯丘陵の西部、曽我山を走ったこの日、湘南の景によって、二つの感慨をもつことになった。

一つは、目で見たものを言葉にする力を自分はもっていないということ。もう一つは、眼前の風景がきっかけとなって想像がわきあがり、それが突如、悲しみと怒りに変わったということ。

遠くまではっきりとものが見えたというときに、例えば、箱根の神山が見えたと書く。同じ神山でも、今日の見え具合と、十二月十三日七国の丘の道からの見え具合とはまるで違う。それをどう言葉にしたらよいのか。山や谷、草や木、光線の当たり方、空気の澄み方、微細な構成、色彩の変化。それらをきちんと書くのか。駒ヶ岳山頂の展望台の窓に光が当たり、金時山の緑がまだらになってとか、あらん限りのすべてを書くのか。それで風景の説明はよくできるかもしれない。しかし、事実として見えたことをいくら書いたところで、見たときに得た印象を書いたことにはならないだろう。いちいちここがこうであったとすべて書く、もしも、それを読む人が書いた人と少なくとも同等までにその風景に熟知していれば、書かれたものからそのときの風景を頭の中に再構成することもできよう。うまくすれば、読む人は、書いた人とともに、隣どうしに並んで一緒に風景を見ているような気になれるかもしれない。だが、そんな読み手は、書いた本人以外に、いったいいるものだろうか。

こと細かに書くのは、書く者にとって苦労が多いが、読み手にとってはわずらわしいばかりである。だからといって、こと細かに書かないでよいかというと、そうもいかない。一月一日の条で、材木座霊園からの眺望を少し書いた。東から北にかけては名越の峰々、西日が緑に当たっている、と書いた。今日、曽我山から東に三浦、房総の山々が見えた、と書いたとする。この地方の地理を十分に知っていない人にとって、この二つの文章はどれほど違うものであろうか。ただ地名が入れ換わっているだけのことだろう。地名によって具体的な景観が喚起されることのない読み手にとっては、どんな地名が書かれていても同じことだ。材木座霊園から名越の峰まではせいぜい数百メートルの距離しかないが、曽我から三浦までは数十キロメートルある。霊園と名越の間には暗く日陰に沈んだ人家があったが、曽我と三浦の間には明るく輝く相模の海がある。このような違いが、当然、違った印象を生む。風景を語ろうとすると、だから、こと細かに説明しないではいられないように思う。どこまで書くべきなのか。書けば際限がない。

　　新たに晴れて　原野は曠かに

　　目を極めても　氛に垢はない。

　　郭の門は　渡の頭に臨んで

　　村の樹は　渓の口に連なっている。

　　白い水は　田の外に明るく

　　碧い峰は　山の後に出る。

　　農の月に　間な人はなく

　　家を傾けて　南の畝で事ている。

王維の詩。詩中に画ありと評せられる通り、一つの美的世界がここに作られている。もはや、どの場所の風景を歌ったのか詮索する意味はまったくない。世界は詩の中で完結している。

この詩に習えば、こと細かに地名を挙げて説明的に記述する必要はない。しかし、それは湘南自転車行の名を冠するものではない。湘南という場所、そのときの時間、そうしたものから切り離すことのできないものとして、湘南自転車行はあるべきなのだ。

では、どのように書いたらよいのか、その術を知らない。まずもって、今日の風景と印象さえもここに書くことができずにいる。

大磯丘陵の図を書いてみる。

丘陵はおおまかに五つに分けられるだろう。

海岸線を右から左にまっすぐに引く。その一番右の端の上、つまり東端に高麗山と湘南平がある。二百メートルにも及ばない高さだが、平塚側から見ると、ほかに山がなく、堂々と抜きんでている。

その西に、およそ百二十メートルほどの高さの丘が、北側を底辺にした三角形に広がっている。二百二十メートルの鷹取山が、三角頭をぴょこんと出している。七国の丘は三角形の左の辺に当たる。

その西に、南北にひょろ長く、台山を中心にした丘がある。最高点でも百五十メートルである。ただ南端の二宮駅のすぐ裏の吾妻山は、高さ以上にりっぱに見える。

大磯丘陵の西端は、曽我山である。三百メートルを越える尾根は山地といってもよいだろう。国府津松田断層という大きな断層で、酒匂平野とくっきりと区切られている。

これらの北に、震生湖や数々の三百メートル峰を含む変化に富んだ渋沢丘陵がある。そこは、秦野盆地を挟んで丹沢山塊と向かい合う。

大磯丘陵は、まこと興味の尽きないところである。

七国の丘の条で一部書いたこの丘陵の魅力にとりつかれたきっかけは、昨年二月二十三日のこと。曽我に梅を見て、帰り、六本松を東に下り、王子神社のあたりが印象的であった。斜面の道の奥に人家がひっそりとたち、小鳥の声以外には物音もなく、遠くの丘は浅い春の陽射しに照らされ、曽我の山中からは焚き火の煙があがる。神奈川県下のこんな近くにこのような所がある。それは平地の住宅地に育ち東京に通う人間には驚きであった。自転車を始めてからも丹沢、箱根の方ばかりに目がいっていた自分の無知を恥しく思った。それから一年、丘陵の東部をずいぶんと走った。だが、西部や北部にはまだ足が及んでいない。

今日は、この王子神社の脇を通って曽我山に登ったのである。

六本松から不動山に向かう。道は山の南の斜面を登っていく。すべてみかん畑。日がぽかぽかとあたたかく、視界をさえぎるものは何もない。大磯丘陵の東部は一望のもと。岡のあいまあいまを住宅が埋め、湘南平と鷹取山がひときわ目だつ。その先に平野。藤沢あたりの工場から煙が二筋あがっている。目はどこまで届くものか。空と平野の境はさだかでない。鎌倉、逗子の山にすっぽり囲まれて江ノ島は小さい。三浦半島の山は一つ一つはっきりと見極めることができる。一番高いのは大楠山。山頂に、展望台の塔と送電線の鉄塔。その背後に房総、鋸山。三浦半島の南端は城ヶ島。そのさらに先、海の中、島のようにぽっかりと館山が浮かんで見えるのもおもしろい。相模の海はいつにもまして青い。ただし真南の海は高山の隠すところ。右手に小田原の海。日を受けて白く輝く。中ににゅっと黒い真鶴半島。伊豆の山は青く、箱根の山は緑色。二子山、駒ヶ岳が大きく、山頂の建物は逐一見分けられる。坂を登ってこちらが高くなるにつれて、高山が低くなる。海が広がる。突然、うしろから、ひょっくり大島が顔を出す。もう少し高くまでゆけば、高山の山頂を水平線が越え、相模の海はひとつながりになろう。しかし、道はそこで左に入る。もう景色は見えない。六本松からここまで自転車を押して登った。景色が背後にあって、一歩進むごとにふりかえらずにはいられなかったからだ。ふりかえるたびごとに景色はかわる。そこに立ち止まってしまう。

山から下るときも同じだ。自転車には乗っていたが、車輪が一回転するごとに止まってしまう。富士山。山頂は白く、山すそは青い。中ほどは青い地に白いはけでひとはき。そこに南の空からただよう雲の影がおちかかる。時とともに影は形を変え、移動してゆく。ふだん見るよりも、富士山は倍は大きい。どうしても目はそこに奪われるが、ほかのところももちろんおもしろい。酒匂川の流れる足柄平野に、遠く音をたてて小田急の電車がすれちがう。箱根の外輪山である塔ノ峰、明星ケ岳は、手前より順に高くなり、そのうしろの金時山の山頂は一段さらに高さを誇っている。北側の斜面は日のかげ。矢倉岳との間に、足柄峠に通じる道が、谷間に白く引かれている。

曽我山を下り、丘陵の登り下りの道を走りながら思う。

大磯丘陵はそれ自体美しい。幾重にもおりかさなる緑はみごとだ。しかし、もし、丘陵のぐるりをとり囲むもの、相模平野、三浦半島、房総半島、相模湾、伊豆半島、箱根山、富士山、丹沢山塊がなく、それがその場所その場所で姿を変えるおもしろさがなければ、この丘陵がこんなにも心をとらえてはなさないということはないであろう。

ここで想像する。

野は山はすっかり緑におおわれ、鳥の声、けものの足音、水の流れの音、それ以外には静寂だけが支配していた昔。一人、この丘陵に自転車を走らせる。道はない。けものの道をたどろうか。木々の間をくぐり抜けよう。橋はない。川は浅瀬をかついで渡ろう。河原では石につまづく。山ではくぼみに足をとられる。ささをはらい、枝を折って進まねばならない。しかし、岩を乗り越え、がけをはいあがり、ついにめざす尾根に到着したとき、そこは大磯丘陵のどこであろうか。季節は秋か。一片の雲もなく、空は青く、海は信じられないほどに澄み、丹沢の山は雄々しく、箱根の山は煙をあげ、富士はまだそこに存在しておらず、三浦は離れ島になっている。それを見るのだ。そこでは時もなく我もない。無数の鳥が訪れ、野べにりんどうの花がゆれる。そして夕方。日が西の山にかくれるころ、上を見よう。ああ、そこを、夕焼けの空、雁が渡ってゆくのである。

大磯丘陵には、自然の地形をまったく無視して、東名高速が、小田原厚木道路が、新幹線が走り、丘陵は無残にも引き裂かれてしまっている。人間のすることはそのようなものだ。そして自分もその一人なのだ。

今、大磯丘陵は美しい。しかし、それも本来の美しさからすれば、わずかな残りかすのようなものだろう。そして、その残りかすさえも、どんどん減っていってしまう。このことは大磯丘陵だけではない。今日、遠くに望んだ所もすべて同じ状況だ。だから、先に、今日は想像に端を発して怒りと悲しみをもったと書いたのだ。

今、この残りかすばかりになってしまった湘南の地ではあっても、まだ美しくあるかぎりのうちに、その美を歌っておかねばならないと思う。表現する力はもっていなくとも、しかし、今日、走りつつ見た景色、七国峠、鷹取山、湘南平、江ノ島、六国峠、披露山、大楠山、城ヶ島、天城峠、亀石峠、真鶴、二子山、仙石原、金時隧道、ヤビツ峠、曽我山と、走っているのだから歌う資格は十分にあるのだろう。

■第五　一月十日　鎌倉

浅間山を下り、名越大谷に踏み入る。

今までたどってきた尾根づたいの平坦な道から、急峻な坂をずるずると足をすべらせて下りおりる。かつぎあげた自転車が肩の骨にごつごつとあたる。

杉の林。下草がいっぱいに生い茂る。その中にひとすじ、そこに道がある。一歩一歩、下を確かめ踏みしめる。地面には杉の葉。

日はここまで届かない。午後から強くなった風もここまでは吹いてこない。自分の足音と鳥の鳴き声。鳥は時おり姿を見せてくれる。

道はさらに下る。この谷は奥深いところに位置しているようだ。

今日は披露山から名越の切通しに向かった。

二年ぶりに訪れた披露山は南西の風が強かった。あまりの強さに落ち着いてまわりを見ることもできない。ただ二子山の全容を望むことができた。南東の方角、三浦の山地の一番手前、二つ並んでいる山、それが二子山だった。二子山は兄弟の仲がよくないのか、二人よりそってはおらず、お互いにそっぽを向いたように反対側に傾いている。前にここに来た時にも見えたのだろうが気付かなかった。

名越の切通しは古い時代のものだ。鎌倉から逗子に抜ける古道。現在はこの下のトンネルを横須賀線と自動車道路が通っている。切通しは岩壁を切り抜いた跡がありありと残り、道の真ん中に大きな岩が立ちはだかっている。その岩から道は三方に通じる。一方は、小坪・逗子へ。一方は、大町・鎌倉へ。一方は、法性寺・西名越へ。その三番目の道を法性寺にはおりずに、途中で左手の細い尾根道にわけ入った。それが今日初めてたどった浅間山に通じる道である。

名越山、浅間山といっても高さは百メートルでしかない。それでも昔は幽邃な趣のあるところだったのだろう。将軍実朝が雪見にでかけたという記録もある。その面影がわずかにでも残るところがあるとしたら、あるいはこの谷ぐらいなのであろうか。そう思いつつさらに下る。

木が一本、横倒しになって道をふさいでいる。自転車を肩高くかつぎあげてまたぎ越す。

少し行くとまた倒木。今度はくぐり抜ける。

カサコソと音がする。左手の斜面を見上げる。そこに鳥。同時に明るい青空が目に入り、傾いて今にも倒れそうな杉の木がある。

立ち止まる。

なぜ木が倒れたのか。こんなふうに木が倒れ続けていけば、この谷らしい暗さも、何年もつことだろうか。いずれ近いうちに、ここは地面のすみずみにまで日の当たる明るい野原になってしまうのではないだろうか。

この谷を形づくっている切り立った斜面の上は、今見上げている斜面の上は、さっき歩いた名越から浅間山に通じる尾根道である。その尾根の向こうは何もない。そこで山はえぐられている。尾根のひとすじを残して山の片側がなくなっているものだから、風が直接に谷の奥に吹き込んでしまう。それで木は倒されてしまうのだ。

数年後にまたやってこよう。その時に、何を見るだろうか。

杉の落ち葉を踏みしめる道はあるだろうか。

森の小鳥たちはどこにいるだろうか。

嘆息をつき、あきらめ、昔をなつかしく思うだけなのだろうか。

その時でもわずかに残っているであろう美しさを、やっとのことで見付け出して、それを喜びとして、せめてもの満足をしようとするのだろうか。

今日とて同じことではないのか。実朝が雪見に来た時、名越山はどんなに美しかっただろうか。その美しさは想像する他はない。

今もわずかに残る面影に、ほんのかすかに聞き取れる余韻のような、この谷の姿に、ひとまず満足しようというのか。

今、自分は何を見ているのだろう。何を言おうとしているのだろう。

美しかった湘南の遺風を求めているのだろうか。湘南の挽歌を歌おうとしているのだろうか。

今日は披露山にて気分を良くし、名越の切通し、名越大谷を面白く走り、釈迦堂ケ谷の切通し、妙本寺など、極めて愉快であったと、そう書きたい。そう書くことだってできないわけではない。でも、そうは書くまいと思うのだ。

　　付記　この一文は、名越大谷の斜面の向こうの山のえぐれは最近の開発に　　よるもので、そのために林の破壊が進んでいる考えて書いたのだが、それ　　は誤解だった。このえぐれは大切岸で鎌倉時代のもので、倒木は手入れの　　行き届かない植林地ではしばしば見る普通の光景だ。

■第六　一月十七日　盧山の真面目を識らざるは只だ身の此の山中に在るに縁る

地図をひろげて、大山の山頂から尾根にそって南に下ってみよう。浅間山あたりまでは勾配が少しきつそうだが、あとはゆるやかだ。そこをどんどん南に向かってゆく。善波峠も越えてさらにまっすぐゆこう。山というよりは岡になるが、尾根はずっと続いている。そしてとうとう最後にたどりつく、そのはてにあるのが権現山である。

権現山は大山の南八キロ、大秦野駅の東一・五キロの地点にある。高さは二四三メートル、大山より一千メートル低い。権現山のすぐ下に金目川が流れている。山の東は金目の台地、西は秦野の盆地。つまり、丹沢の山が低地の中にどんと腕をさし出したその先端が権現山なのである。

そして、権現山は、金目川をはさんで、向う南側に、大磯丘陵と対峙している。

初めて行く道では地図がたより。うっかりすると自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。地図の上での自分の居所はいつも知っていなければならない。しかし、地図の上のどこを走っているのかはわかっていても、それで自分がどんなところにいるのか本当にわかっていることにはならない。山の中で、谷の道だと特にそうなのだが、目先の道にばかり気を取られ、山の全体像が見定められないことが多い。あそこに見えるいただきは何か。この尾根すじはどこにつながっているのか。脇道はどこに通じているのか。この渓流はどこからきているのか。

一つの道をきわめようとしている時は、目の前の上り下りに、道をふさぐ竹やぶに、地面をつき出す岩に、気をとられて頭の中はいっぱいだ。山の全貌がはっきり頭の中にあり、その中のどんなところに自分がいるのか、大きくは山全体を見、小さくは自分を見、その両方を同時に行なう、そういうことができなくなってしまうのである。

小田急線のおおねの駅の西の道を二〇〇メートルほど南に行って右折しよう。ゆるやかな坂を一キロほどたどると田中の集落につく。三叉路があったらそこを、左に、細い道を入ろう。民家の脇から、畑地に出る。日あたりがよく大根が植えてある。小川を渡ると、左に竹やぶを見下ろしながら山道を登ることになる。ガサゴソと落ち葉をふむ音があたりに響こう。日を正面に受けて汗が出てくる。ときおり視界がひらけては、伊勢原あたりが見えたりする。おれ曲がる道はひかげにはいり、一日とけぬ霜柱をふむことになる。峠につく。大きな道はよけて、左の坂を登ろう。そこは林の中の道。冬の雑木林はすばらしい。すっかり落葉した林は、あいだあいだに空の青さを宿して美しい。林の中の空気は一段と澄んでいる。ふりかえると、大山、二ノ塔、三ノ塔、表丹沢の山々が間近にせまっている。坂を登りつめて弘法山。山の上に御堂と鐘。ここだけには落葉もせずに豊かな緑を身にまとう木々が立っている。その木の枝に、うずらが鳴いて出迎えてくれる。いったん坂をおりよう。そして再び登り坂。丸太を横にしてつくった階段を登りつめると小さな公園に出る。そこが権現山の山頂である。

大磯丘陵が穏やかな表情をしていた。

西から東に、ところどころを木々にさえぎられながらも見渡せば、ゆるやかに起伏する明るい丘陵は、広々とし、それはおおらかである。東の奥に高麗山、千畳敷が、西の奥には曽我山が、中にいくつもの山が岡が、上に下に重なり、互いにかくしかくされ、林を畑を、野を道をのせて、近くはこまかく微細に、遠くはぼんやりと、南に遠くは青い海。

渋沢丘陵はそこか。七国丘はここか。

ここでわざわざ言葉を使うのは無意味なことだ。

今日、権現山から大磯丘陵を見るためにやってきた。人として生きている限り多くの思いがある。悲喜哀感さまざまである。それは捨て去ろうとして捨て去れるものではなく、また捨て去って生きてゆくべきものでもない。漠然とした悲しみはつねにまつわり、見きわめられぬ不安はいつもとりまく。ふと自己に直面すれば、暗いよどみ。

それらについて今は語るまい。

ただひたすらに大磯丘陵を見よう。

たきびの煙がふたすじ、みすじあがる曽我山。

大磯丘陵は大きい。

声を限りに叫んでみたくなる。

　いま、ここであなたを見ているのだぞ

と。

大磯丘陵はゆったりと答えてくれる。

　いっしょに昼寝でもしよう。

自分は言う。

　冷たい風の中、どうして昼寝ができよう。ああ、そしてあなたを囲むこの喧　騒はなんということだ。

大磯丘陵は答える。

　心が満ちれば喧騒はなくなる。しかし、まあ、わしのまねをするというのが　よいわけではない。

大磯丘陵は大きくのびをして横になる。

大磯丘陵の真の姿はそこにあった。

七国の丘の道に登って帰る。明るい丘に、丹沢は、富士は美しい。しかし、ここからは、高麗山も、渋沢丘陵も見えはしない。ここにいては、悠然とねそべる大磯丘陵の全体像はわからないのである。

　　　　西林の壁に題す　　　蘇　東坡

　　横に看れば嶺を成し　側には峰を成す

　　遠近　高低　一つも同じきは無し。

　　盧山の真面目を知らざるは

　　只だ　身の此の山中に在るに縁る。

■第七　一月三十一日　朝比奈

人間の存在それ自体が価値あるとされるようになったのは、いつのことからだろうか。人間は等しく価値あるとするのは美しい考えだが、人間は等しく価値のない存在であるとする考え方には及ばないように思える。

自分が生きていること、それは自分にとってはかけがえのなく大切なことだが、だからといって、それが何か価値あることだとはとうてい考えることができない。生きてしまっているから生きているだけだ。

それでも、昨年、一度だけ、自分が生きていることにもいくばくかの意味があると思えるようなことがあった。それは十一月十五日、自転車に乗ってヤビツ峠までゆき、少し引き返して、南丹沢林道に踏み入り、そこで食事をしたときのことだ。日だまりの暖かさ。正面に富士。小田原の海は明るく、遠く近くに水の音。目を閉じる。今この時、この場所において、この時間のあることを知る者はほかにはない。自然はこの場所にこの時間があるようにしたが、むろんそういう意図があったからではなく、時の長大な流れの後、宇宙が生まれてから今日までの無限の時、無数の事象の連鎖の最後の時点、この現在今この時に、自然はこの場所のこの時間というものをつくった。そこに、たまたま自分が来た。たまたまか、いや、ここに自分が来たことによって、自分にとってはこれはたまたまではなくなった。ここに自分がいなければ、この時間はただ過ぎ去って自分は知ることがなかった。この時間が、ただ自分にとってだけのことではあるが、過ぎ去ってしまうだけのものではなくなったのは、ここに自分が来たからだ。自分がこの時間にこの場所に来る、そしてこの時間を知る、そのために自分は今日まで生きてきたと思ってもよいのかもしれない。そうでなければ、ここに来るはずもないからだ。

いささかななりとも、そんなことで生きている意味があるのかもしれない。自分が生きていること自体にはなんら価値がないが、ときにはそのくらいのこともあるのだろう。自分が生きていることは価値のないことだというのは少しも恥しいことではない。むしろ、自分の存在は価値あるなどというのは、かえって自分をみにくくするだけのことであろう。

ここが最高地点であるようだ。前に行っても後ろに行っても、ここからはゆるやかな下り。自転車を置き、身一つで木々の間を登ってみる。ほんの少し行くと、そこが頂上。乱雑にのびる木々。見晴らしはきかない。一本の木、あまり手ごろではないが、それによじ登ってみた。木登りはずっとやったこともないから、身のたけほどの高さまであがるのがやっとだ。木が前に後ろに緑をいっぱいにつけ、わずかに、東方に造成された宅地が見えただけ。

自転車に戻り、さらに先へ。杉林に入る。急に空気が冷たくなる。道が二つにわかれる。左の道はその先でまた二つにわかれる。都合三つの道のいずれも目的地に通じる道ではない。一つは鉄塔の下で途切れ、一つは小学校の校庭の崖の上に出、一つは植樹したばかりの杉林に迷い込む。道を失ったわけだ。引き返すしかないだろう。興がさめ、体も冷える。さっき下って来た坂をこんどは登る。気が滅入る。

杉林を出る。日が明るくさす。すると不思議なものだ、急におおらかな気分になる。道が右にカーブする。目に入る。遠く空と同じように見え、空よりも明るく光る青。海だ。鎌倉の海がここから見える。南、久木の山と名越の山の間に海がのぞく。西、鎌倉逗子ハイランドの住宅が細かく建ち並び、そして衣張山。明日は天気が崩れるということだが、空は塵と湿り気をまじえ、緑はかすむ。立春まであと四日。

来るときに見過ごした道に入ってみる。すぐに屋根が見える。いつ塗り直したか、きれいに化粧してある。そこが今日の目的地、朝比奈切通しの守り神、切通しの南の高所に位置する熊野神社である。

初めてここに来たのは一昨年の七月。切通しの東側に、熊野神社の立て札があり、そこから入ってみた。道は、夏の午後というのに、暗く冷え冷えとしていた。湿った地面に自転車の轍がついた。鳥居が見え、本殿に通じる二つの石段を登った。静かであった。ほの暗い杉林の中にひっそりとたたずむひなびた神社。特異な印象を与えてくれた。

今日はそのときの道とは違って、背後からまわって来た。これはかの仁丹居士が教えてくれた道である。

鎌倉の中で、昔日の姿を最もよくとどめているのは、おそらく朝比奈の切通しかもしれない。それでも、道である切通しは、姿や形がよく当時の様子を保っているにしても、そこはあくまで通過する場所。鎌倉から金沢へ、金沢から鎌倉へと通り抜けて行った人々と同様、鎌倉から現代へと時は通り過ぎる。それに対して、熊野神社の境内には、そこの姿は今見る屋根のように変わってしまっているかもしれないが、それでも、この一つの場所に鎌倉の時間がわずかながらもとどまっていてくれるような、そんな気がする。一昨年の夏には何かしらそんな時間があったようだ。その時間にまためぐり会えるかもしれない。

そんな思いで、本殿に降り、さらに石段を、自転車をかついで下る。この神社の空気、しかし、それは、さっきいた杉林の中の空気となんの変わりもない。一昨年の夏に、ここにあった森厳な雰囲気はどこにいってしまったのか。なぜそれがないのだろうか。

その理由は、ひとつには自分にあるのかもしれない。初めてここを訪れたときの印象を、その後、純化し、現実から離れすぎたのかもしれない。もう一つは季節のせいかもしれない。前は、社をおおい隠すような緑があった。それが外界とは切り離された一つの空間をつくっていた。冬の日の今日は、空間は隙間だらけだ。その隙間から、現在が入り込んできてしまうのだ。

時と場所と自分が一致することはそうあるものではないのだろう。

切通しを越えて、今日、朝比奈に入った最初の場所、大刀洗に戻る。そこから、十二所神社に立ち寄り、天台山の尾根を横切って瑞泉寺の前に出る。早咲きの梅でも見て行こうかと、ふと時間を気にすると、もう四時をまわっている。階段の上の庭に心を残しつつ、再び自転車にまたぐ。

急ぎ漕ぎ、帰らなければならない。なぜならば、それはもう、すでに稲村ケ崎を、夕日が染めている時刻であったのだから。

■第八　二月二十一日　観梅

震生湖へ三十五分。もし、この三叉路で右にとれば小原の集落を経て同じく震生湖へ四十五分。短い方をとり、いまゆく道は、浅間台、高さ二二一メートルを経由。そして、この道こそ、以前、逆の方向から歩いたところ。三年前のことだ。

上り坂に自転車のペダルが重くなる。降りて押そう。あたりに見覚えはない。確かに通ったはず。間違いはないのだが。記憶などあいまいなものか。

いつの間にかすっかりと曇り空。うっすらと丹沢の山。坂の勾配はゆるくなる。再び自転車に乗る。湿った泥にタイヤの跡をつける。

林が切れる。ぱっと右手に広がる畑。思わず声を出す。ありありとよみがえる。この畑。この道。歩いた、ここを。一人。

ああ、そのときの自分。何を考えていたのか。自分を憐れむ。

　　　＊　　　　＊

長らく体調が悪く、久しぶりの自転車。はじめは雲一つない青空。王子神社からのひとつづきの坂を登り切った。そこに東から西に向かう平坦な道がある。左右はみかんの低木。正面に曽我高山のまるいいただきがある。だれかが、そっと手をあわせて、小さなその山を置いてくれたのだ。

たきびの白い煙が立ち上る。

道の先に小屋が一軒。梅の木がある。白い花がなかば開く。

ここは小さな別の世界。ここの世界をかたちづくるこれらのもの。

そして春。

ここではすべてが静止している。

やわらかな日ざしが、外界からこの空間を切り取ってきた。

山とその岡。みかんと梅。

まったく動きを失った風景。時間は凍りつき、梅は自分の香りで世界を埋めつくして、なおも咲きつづけ、みかんの色は決してあせることがない。高山は不変にそこにあり、岡の道は永劫にここにある。日ざしはかなしばりにあって、ここの空気の中、地の表面に固定される。

永遠の春。別の世界。

ああ、しかし、あがりゆく煙は青空にひろがり、確かに時間は進んでいく。

　　　＊　　　　＊

浅間台からはちょっとした下り。大きくゆるく左にカーブする道。

自分はここを登った。三月の中ごろ。震生湖にいった後に。

その日の朝、湖の上の岡の道では富士がよく見えた。しかし、昼をすぎるとわずかの間に、空はかすんでしまった。丹沢は緑から青に変わり、富士の中腹以下は見えなくなってしまった。その変化はおもしろかった。もちろん、あらかじめそれを見ようと思っていたわけではない。震生湖で昼を食べるためにでかけたというわけでもなかった。はっきりとはわからないが、しかし、何か大切だと感じられる目的があったに違いない。とことこと歩いた。歩いて考えた。考えて、それで、何か得ることができたのだろうか。

その時の自分を憐れむ。いま、この坂から見える山、岡。大山から善波峠を経て権現山にいたる尾根。台山、曽我山の丘陵。一つ一つを知り、すでにいったところも多い。自分の現在いる場所の確かな位置を知っている。

ここを歩いたとき、大磯丘陵という語を知っていただろうか。目に見えた山、岡の名称など、何一つ知らなかった。自分のいるまわりをどのように理解していたのだろう。ただ見えるようにあるという、それだけのことだったのか。

渋沢丘陵のごく一部だけを歩いたその日、いったい自分は何を見、何を考えていたのだろうか。自分はまことにあやうい存在ではなかったのか。

　　　＊　　　　＊

曽我山を越え、別所、中河原の梅林をめぐったあと、大磯丘陵の北西部を走った。初めてたどる道だった。

第一生命館の東で東名の下をくぐり、長い坂を登り、峠の暗い細いトンネルに入った。

トンネルを出て少し下ったところに小さな社、三島神社がある。祠の建物には格別の趣があるわけではないが、石段がよい。せまく急な石段はこけむし、木々は大きく、とりわけ巨大なにれの老木、空はすっかりおおわれている。　そのため、小さなこの神社にしては、とりわけ森厳な雰囲気がここにある。この神社の前を、古矢倉沢街道が通っていたと、説明書きがある。とすれば由緒ある神社か。街道ぞいの神社に人は何を祈ったのか。旅人はここに立ち寄ったのか。それはどういう人だったのか。見ることのできぬ昔の日たち。この街道を行った人々、その中にあるいは自分も付け加わるのか。同じく過去の人の一人として。

　　　＊　　　　＊

浅間台からの坂はここで終わる。広い道に出た。

胸がどきんと強く打つ。この斜面の一角、今日もまたそのときと同じ、畑いっぱいに咲く三色すみれ。

あたたかい春の日に、おだやかな風、花はかさこそと揺れていた。

今は、灰色の雲が空をとざし、冷たい風が吹き抜ける。道から下に水面が見える。だが、震生湖にはおりない。おりることができないのだ。ひょっとしてそこに三年前の自分が立ってはしないか。会うのは恐ろしく、恥しい。三年前の自分もまた恥しい。

いま自分はここにいる。確かに、自分がここにいることを知り、何がそこにあるのかをきちんと見ている。先に向かって進んで行くに、少なくともある程度の方角を定めることもできている。

震生湖に降り立てば、そこには、自分がどこにいるのかを知らず、見る目を持たず、先の方向を定めることもできずにいる、そんな自分が立っているかもしれないのだ。

しかし、その自分に対して、今の自分が何かいえるようなことがあるだろうか。おまえのいるところはここだと教え、こっちの方向にいけやと助言できようか。そんなことできるものではない。もしこう一言、言い返されたら、自分はうつむいて黙るしかないのだ。震生湖にやってきた目的を君は果たしたのか、そして君は何を得たのか、と。

　　　＊　　　　＊

帰りに七国の丘を北から南に走った。丹沢の山はかろうじて姿を現わし、目をこらせば箱根の山もどうにか見える。もっとあたたかな日こそ、この丘にはふさわしい。

どんよりとくもった寒い夕方。

晴れた昼に、この丘にやってきたい。しかし、今というときは一瞬しかない。いかにふさわしくないからといって、今をほかにおきかえることはできない。この今は、今しかないのだから。

あの日、震生湖にいた。その時においてはやはりそれが今だった。別のありようもあったのだろうが、その時にはその時の今しかなかった。そして、その時の今は、今となってはすでに過去。

高山の春は、今の時にあった。永遠の今は終わってしまい、今は過去となった。

三島神社の階段を登った。登った時にあっては、その時は今。この今も過ぎた。

そこに再び行くことがあろうか。あるとしてもそれは、それは今の再現ではない。別の今があり、今の今は過去。

矢倉沢街道を旅人はたどった。旅人にとってはそれが今の時だった。皆が今と思い、その今はつみかさなり、すでに知る人もない、遠い過去。

今、と言葉でいう間に、今は過去。永遠に今はあり、今は永遠に過去。たえず今を過去にして今は来る。今を通じてしか次の今には行けず、次の今がこの今になり、この今は過去になる。

過去の自分が今の自分に向かって何かをいう。今の自分は過去の自分に負い目がある。過去の自分があって今の自分がある。過去の自分によって今の自分は成り立っている。過去の自分は今の自分を必ずしもよしとはしないだろう。過去の自分に負い目を払いたいと思う。

しかし、自分は今という時にいるのだから、今の自分がいきなり過去の自分になることも、未来の自分になることもできない。過去への痛みから、今の時を否定し去ることはできない。今があるから未来があるのと同様に、過去も今のおかげであるのだ。この今の時から、過去も未来も始まる。

自分がいるのはこの今。だからこの今を見る。

さあ、一瞬の今を見よう。すぐに過ぎ行く今を。

冷たい北風の空の下であっても、身を縮こませることはない。胸を張り、よ　し、言おう。

この時こそもっともよき時と。

広い丘の上、今、ここにいる幸いを。

■第九　二月二十八日　冬の終りに

一月も半ばをすぎれば春はすでに始まっている。日の色、空の輝きの中に春は確実にやってきている。ふと顔をあげ、心がわずかな暖かみを知ったとき、それはもう春。春はそこにいる。しかし、だからといって、冬は終わってしまっているわけではない。

三浦の二子山からの下山路は途中で二つに分かれる。左の道は沼間へ、右の道は長柄に通じる。十二月二十一日に走った大山林道を再びたどろうと右の道をとった。

昨日、一昨日の二日間はこの冬一番の冷え込みだった。この細い下山路は小さな谷川ぞいにある。山の陰でうす暗く、汗でぬれた体は急速に冷えていく。川の表面は凍りつき、水は氷の下を流れている。ところどころ、川の中央に氷が割れているところがあり、チョロチョロと水の音がする。川の左岸から右岸へと道は移る。自転車をかついで、石づたいに、氷を踏み割って川を渡る。地面はきわめてすべりやすく、二度三度と足をとられる。もののみごとにすべってころべば、体はあやうく川の中に落ちかかる。繰り返し繰り返し川のこちらから、川のあちらへ。人一人だけが通れる道で、自転車に乗れず、体は冷たく冷え込み、心はうかない。

行き行くと、左からもうひとつ別の川が氷を浮かべて流れて来るのに行き会う。この川の合流点で下山路は終わって、広い林道に出る。この前はここまで来て、引き返したのだった。

林道はすでに知った道。こごえた手足をほぐし自転車に乗る。風は冷たい。

この前は荒涼としてつまらなく思えた道。今日は走るうちに、枝の端から日が時おり笑みをこぼし、木かげをゆく川は静かにささやきかけ、ひときわ高い西方の山はたえずこちらに視線を送ってくれる。そうなのだ、本当は楽しいのびやかな道なのである、この林道は。ただ冬が終りさえすれば。

二子山の山頂で食事をした。そこへ大きな鳥がおどしにやってきた。堂々たる翼を広げ、空をすべってやって来たのだ。気付いたときには、すぐ斜め、手が届くばかりの隔りのところにいた。目玉がギョロリと動いた。こっちは文字通り仰天したが、鳥の方は気にする様子もなく、左回りに旋回し、ふわりふわりと現われた別のもう一羽と、しばらく山頂のあたりをゆっくり巡っていた。

二子山の東の山を上の山という。北は鷹取山、あるいは久木の山、あるいは遠く横浜の台地。南は宝金山、あるいは大楠山、あるいは遠く武山。東は塚山、あるいは横須賀、あるいは遠く房総。パンをほおばりながら、山頂のあちらこちらを歩き、見えるものはみな見ようとした。

西の方が見えぬかと、山の上をぐるぐると巡ったが、木が邪魔をしている。やっとのことで名越のあたりをのぞき見ただけ。

朝のうち曇っていた空も、ようやく青。弱いながらも日はさして来た。

鳥は西に飛び去り、今日の二子山は貸しきりとなった。

沼間からこの山頂までは一時間余。杉林、雑木林、草原。そのどこでも鳥のさえずりが聞こえた。立ち止まり耳を澄ませば、近く遠くの声、山がそれこそさえずるか。歩んでそばまで行くと、静かに声をひそめ、さらに行くとパッと飛び立った。

二子山の西の山、つまり下の山に行く道は急傾斜だったので、今日はやめることにした。

山頂から下った。道が北に張り出すところで、自転車を止めた。西の方がちょっと開けている。よし。体をのばして枝にとびつき、木に登った。さらに一段登った。江ノ島があった。鎌倉の町も見えた。もう一つ上の枝は、はるかに上だ。それ以上は登れなかった。首をせいいっぱいのばした。海があった。空色の海は春の海か。えいやっと、とびおりた。おりたとたんに、泥に足をとられてつるり。とどまるすべもなく、頭の上まで泥だらけ。しかし、たいしたことはない。今日で冬は終り。この泥は春のものだから。

自転車に乗って道を下った。

さあ、この次に行くところはどこか。それはいつか。西か東か、あるいは北か。よし、それはどこであろうとも、それがいつであろうとも、時は春、場所もまた春なのだ。

■第十　三月十五日　春一番

昨日からの雨は今朝まで降り残った。目覚めたとき、木々からしずくがこぼれ、灰色の雲が空をおおっていた。それらを吹き払ったのが、強い南西の風、春一番である。

昨日は雨に降り込められ、今日も風に吹き込められ、部屋の中、激しい風の音に午前の時間をすごした。午後も一日家居と決めこんだその直後、ふと見上げる真っ青な空。高く輝く日の光。心はそぞろ落ち着きをなくす。立つもたまらず、座るもままならず、えいやっと、自転車をかつぎ出す。吹き来る風もままよ、ペダルを踏む。

よしこそ、まず東行。追い風に乗って自転車は飛ぶように軽い。背中のひざしに体は汗ばむ。こうなると帰りの労苦は思案の外。吹かれ吹かれてあっというまに鎌倉の町。

八幡宮に参詣。人々多く、階段を上下する。伸び上がって高く見晴らせば、空の明るさは驚くばかり。あたりに満ちあふれる光が目にとびこみ、突きさすばかりの痛さ。裏山の緑もことにまぶしく、輝く景、ここ八幡宮へは初めて来たかのように新鮮である。

巨福呂坂、亀が谷坂を越え、国鉄のガードをくぐる。そこに出迎え、身を包み、あたりに充満する香。それは南風に乗って運ばれてきた英勝寺の梅の香。ゆかしくも、誘われるままに風上に自転車を漕く。塀の上からのぞく梅の枝々。境内に入る。時をおいてひとひら、そしてひとひら、花は枝を離れ、散り落ちる先に水仙が開き、木立ちの元にふきのとうが顔を出す。

鎌倉の市内。こもごも襲う花の香。それは梅と沈丁花。姿は見えなくても、現にここにある。

足慣しにと、銭洗弁天の前を源氏山に登る。山頂で、遠く鎌倉の海は青い。

梶原の丘から西望を極む。丹沢、富士。ここから見るのは久々のこと。そしてあれは二年前。午後、かすむ西空に富士はあり、散り来る花びらを背に受けて、全身を桜にうずめて、この坂を下ったのは。いま、桜の芽はふくらみをもっている。時を追って古びゆくこの世界に、また巡り来る落花の時。春よ、また花の落ちる時、許したまえ、またも我が身をここに、富士を西に。

春一番に中天高く舞い上がるこの浮かれ心、青空を鳶とともにふわりふわりと鎌倉巡り、二時間余りの小行程、さてこそ自転車行の一節に書き加えるほどのものではない。

■第十一　三月二十二日　七国の丘

朝になって天気は回復し、昼は青空。

またも七国の丘に行く。

同じ場所であっても何度でも行く。季節は変わり、一日の時間は異なる。そして、見る人間、すなわち自分自身もいつも同じではない。

大磯の旧東海道松並木で右に、東海道本線を越える。南から日を受けた湘南平の山が出迎える。代官山山下にハクモクレン。大きな白い花と山の緑。

春の花畑。ホトケノザは一面を赤紫に、オオイヌノフグリは道ばたを青紫に、ナズナ、ハコベはゆらゆらと白、トウダイグサ、ヒメオドリコソウ、タンポポ、そして日だまりに咲き出す菜の花。

鷹取山の下の谷を登ると、スミレにフキノトウ。コジュケイの大きな声。

一つ一つが告げる言葉は、今日は良き日と。

七国の丘。変わらぬ丹沢、箱根の山。少し雲がかかるか、ぼんやりとしているが、驚くことは、なんともたくさんの花びらが風に乗る。梅。いずれも白梅が、丘の方々に何本となくある。

■第十二　三月二十九日　山の神

伊勢原台地に向かう道。朝の雲が切れて左右にわかれると、後ろから日がさし、前にうっすらと大山がその姿を現わす。

いよいよ朝の季節。七時に出発。はじめは耳に当たる風がつめたかったが、今は全身汗をかくほどにあたたかい。

今日、ようやく自分自身に課した約束を一つ果たすことができる。

一昨年十月十日は晴。午前、日向薬師の裏山から七沢温泉に下って、広沢寺温泉を経て、再び山に入った。山ノ手沢の道は急な坂道。そこを登り始めようとしたところで、ふいに気力がうせた。その先には山の神トンネル、不動尻キャンプ場がある。大山・表丹沢の登山口でもある。この次の時に奥まで行けばよいだろうと、そこで引き返すことにしてしまったのだった。

それから一年半。この次の時というのは、そうそうめぐってくるものではないことを知る。その時に行ける所へはちゃんと行っておかなくてはならない。今日はたまたま幸運にもその機会がめぐってきた。だが、山は一年半前の山ではなく、自分は一年半前の自分ではない。今日は今日。今日がそのまま一年半前の続きになるのではない。

伊勢原から北に進む。ここは一年ぶりの道。八幡神社。昨年一月十二日にここまできた。大山を間近に仰ぎ見つつ、先に行きたい気持ちがありながらも、曇天の寒風に体調を悪くして引き返した。

今日は走るごとにあたたかく、気持ちはますますよい。方々に梨畑。花時は近い。左、一面はナズナの白。右、一面はナノハナの黄。コジュケイの声。

藤野伊勢原線をこのまままっすぐ行けば、土山峠を経て、宮ケ瀬、中津渓谷に至る。バス亭の先で左に曲り、いったん坂を登り、下る。そこが広沢温泉。はるか山の斜面に梅の巨木がある。空高くいっぱいに枝を伸ばし、まわりの木々を下に見るこの木こそ、天下に春をもたらす梅であろう。梅が風をよびおこせば、白い花びらは山を吹き上がり、空に向かって散ってゆく。

山ノ手沢の坂。前回の地点を越える。シジュウカラのあいさつに応えつつ、ついにくぐる山の神トンネル。

トンネルの中は暗く、岩をけずったままのむきだしの天井からは、水がしたたり落ちてくる。

トンネルを出ると世界は変わる。ここは谷太郎川が刻んだ谷だ。はるか下に水声。北は遠く高取山、経ケ岳。南は丹沢の峰と大山。ウグイスの澄んだ鳴き声の中に、キブシ、ヤシャブシの花が山をいろどる。

家から二時間。自分は山中の人間になる。山の人間には山の憂いの声が聞こえる。山はこれから春のよそおいを整えようとしている。山は自分の思うがままによそおいたいと思っている。しかし、それをはばむものがある。はばむものは何か。そのことは口にしたくない。今日のところは、ただここにある山の姿を見ようと思う。

耳をすませよう。ウグイスたちの歌っている歌を聞こう。広沢寺の梅から運ばれてくる香りにつつまれながら歌うその歌は、われわれの知らぬ、山だけが覚えている、その山の本当の美をたたえる歌なのだ。

谷太郎川につきあたった所で引き返した。

この川下、二キロメートルの地点まで、二年前に、寺家から林道をつたってきたことがある。道が河原の中に消えてしまった所で戻った。その時にも、できれば山の神トンネルをくぐってみようとしていた。

今日はようやくトンネルをくぐることができた。

だが、その実、またも次の機会をあてにしなけらばならないことになってしまったのだった。あと五百メートルも先に行けば、不動の滝というのがあったのだ。当初そこまで行くつもりだったのに、うかつにも、近くまできたときには忘れてしまっていた。

不動の滝を見にまたくる必要がある。果たしてその機会が必ずあるものなのかどうか。

こうして、自分は、小さな自転車の行程すらまっとうできずにいる。

だが、山の姿をこの目で見ようとする願望は強い。だから、きっとその願いは、自分を再びここに呼び戻すに違いない。また、そうでなければならないのだ。

　　　（第十三〜第十五は欠落）

■第十六　五月二日　剣崎へも行く

国道一三四号線を離れて、岩堂山に向かう道は、一面のキャベツ畑の中。高さ六〇メ―トルばかりの高台。東と南に海を見、西南に城ケ島の平らの島影。このあたりがもっとも明るく、もっとも三浦らしい所なのだ。

岩堂山から八浦までは下り。大きなカジイチゴの花に誘われて、小さな急な坂をおりてみる。くねくねと曲がって、たどりつく、小さな港。静かに水をたたえる岩浜は昆沙門湾。昼食をとり、岩に身をよこたえ、空をあおぐ。うろこ雲が流れ、空の半面をうすくおおいはじめる。トビの声を聞くうちに、ここまで走ってきた疲れからか、いつのまにかねむってしまう。それは、わずか数分のことだったかもしれない。目がさめると、風がつめたく感じられる。むっくりおと起きあがる。ギッ―ギッ―と小舟が一艘、ゆっくりゆっくりと、進むのをためらうかのように、港の中に入ってくる。

自転車にまたがる。ハマダイコンの咲くこの港に別れを告げようとして、ふと思う。あるいはもう再びここにくることはないのかもしれないと。

二年ぶりにやってきた剣崎は、今日も波の音の中にあった。燈台のかたわらに立つと、波が岩にくだけ散っているのが感じられる。東京湾はうっすらとかすみ、多数の船が行き来してる。房総、鹿野山、鋸山、富山、館山、いくつもの山が静かにたたずみ、遠い近いのままに、濃い薄いが春の空気にぼかされて、墨絵さながら。それは今、自分が立っている明るく現実的な場所とは異なる、やわらかな薄衣の向こうの別の世界。昔、たよりない小船に身をまかせ渡海したであろう人々と同様に、房総が異国のように見える。遠い別の国がある。

雨崎にも立ち寄ればあとは帰路。武山の下を大楠山を正面に見て走る。

これが一日走って見たことのあらまし。しかし、このことは今日一日の自転車行の主題ではない。

この自転車行が、単なる湘南地方の説明文ではなく、自身の感慨をこめた湘南の歌であるのならば、自分のことも書かなければならない。

一昨年九月十九日に二子山の山すそをぐるり半周したことは前にも記した。その二子山のふもとに精進池なる、浅く美しい池がある。

昨日、午後に、二人でその池のほとりにいた。池にはさざ波が立ち、まわりの山には山桜が咲いていた。二人が水ぎわに憩ううちに、日は西の山の向こうにまわる。吹く風に冷気がひそみ、二人は池を離れ、上の道を反対側に渡る。そこには六道地蔵がある。その地蔵に二人して祈る。祈るのは、すなわち、自分たちのこと。

一昨年、二子山の下の道を走り、眼下に精進池を眺めやったとき、考えもしなかった、昨日のような日がやってくるなどとは。走っていたときに、その人を思う心はあった。しかし、自分は一人であった。一人自転車にまたがり、一人眼前の風景と向かい合う。突如、雌雄のキジが自転車の前を横ぎったが、それは一人で心の中で楽しむべきことであった。

その九月十九日。朝のうちくもり。九時に出発、一路箱根に向かう。前日に見た人の姿が心にある。悲しいことというべきか。

畑宿の旧街道の石畳に入る。杉がおおいかぶさる暗い道。斜めに自転車をおしあげる。石畳はこけむす。ひととおり登ったところで腰をおろす。下ゆく沢の水音。遠く車の響き。セミ。鳥。昼食をとり、ジュースを一息の飲み干し、一瞬の心地よさ。またもなきだすセミ。夏のなごりに憂いがおこる。

立ち上がり再びよろよろと自転車をおす。畑宿の集落を抜ければ、正面から強い日ざしがかっと照りつける。二子山がそこにあり、一人自分がいる。一人であることを求めているわけではないが、一人を求めているかのように一人になってしまう。何もいうまい。そうしたことは捨て置き、箱根の山中にあるときは憂いなどもつまい。この日ざし、この道。今、この時に、汗を流し息を切る、それ以上のことは何もない。ただ今、ここにいるということだけがあって、前のことも先のことも、ここにいる間は何もありはしない。見上げれば、二子山がそこにあり、自分がここに一人いる。それだけのこと。それ以外のことは何もない。

力をこめてペダルを踏み、芦ノ湖を見に行く。精進池の上を通ったのはその後二時間ほどのことだった。そして翌日にはつぎのようなことを書いた。

　自転車を押して箱根を登る。

　思う

　昨日のこと明日のこと

　去年のこと来年のこと

　何をし何をするのか

　心わずらうこもごものこと

　おきどころない吾身のこと

　求めて満たしえないむなしい思い

　息つき汗したたる

　思うまい。

　昨日のこと明日のこと

　去年のこと来年のこと

　この時を見よう。

　この時だけを。

　ふりあおぐ

　雲湧き

　日照り

　二子山の裾曲りゆく

　この坂道を。

それから一年。昨年九月十四日。午後、かの人と鎌倉に行った。浄智寺から極楽寺まで歩いたその日は、楽しくも苦しい最後の思い出となるべきものとされていた。

だから、昨日のように、また二人で精進池にいくなどとはおこりえないことだった。

浄智寺は北鎌倉から歩いて数分。道からすこし入ったところに入り口がある。小川が流れて脇に鎌倉十井の一つ甘露の井。ふるびた石段を杉がおおい、左右の土はしめっている。下からみあげると、途中の空気の厚みのために、山門はゆらいでいる。初めて浄智寺におとずれたのは昨年五月四日。朝早くには人もなく、ただ、シャガだけがあった。

今日、朝、浄智寺をおとずれた。

シャガが開き、ムラサキケマンが咲く。石段まで登る。境内に入ることはせずにそのまままたおりくだる。一歩一歩、石をふみしめる。

思う。去年の九月、二人で来たときにはいったい何を話しあっていたのだろうか。そのときすでに心の奥をにぶく刺す痛みがあった。

シャガの花に顔を近づける。昨年の五月もここに咲いていた。

そのときは一人であった。

杉の木の下に立つ。シジュウカラが高い声で西に鳴き、キジバトが低くねむたげに北に鳴き、東からは心地よくキツツキの木をたたく音、そして空には高くトビの声。

杉の幹を手でなぜる。あたたかい感触。

思う。昨日のこと、去年のこと、一昨年のこと、精進池に一人、浄智寺に一人、あるいは、浄智寺に二人、精進池に二人、それぞれに思いが変わった、そして、この次ここにくるときも、そして、いつここにくるときも、今日の日を特別幸運な例外の日として思い出さずにすむようにと。

杉の木によりそえば、ふと目ににじむものを感じる。

いそぎ自転車にまたがる。踏みきりを渡る。巨福呂坂の上り。足に力をこめればすでに全身から汗がふき出している。

こうして剣崎に出掛けていった。

剣崎のことは印象がうすくなってしまった。が、だからといって、それがつまらないことだったということはない。それは十分に大切なことであった。自転車行のうち何一つとして大切でないものはないのだ。なぜなら、ここに記したように、自分の感情は、湘南の地と結びついてしまっているのだから。

■第十七　　五月二十三日　柳絮

ある種の柳は、白い綿毛でつつまれた種子を風の吹くままに飛ばす。そういう柳は中国に特に多く、種子の飛ぶさまは雪が降るばかりだという。この種子が美しく飛ぶには気象条件も重要で、雨上りの翌日などがよいようだ。朝からの日ざしで綿毛がかわき、毛の間にあたたかい空気がたくわえられる。そして午後にそよそよと風が吹く。こうなると、青空を背景にして純白の綿毛がいっせいに飛び上がるのである。この綿毛を柳絮といい、その飛び散るさまは春の印象的な光景として、中国の詩によく歌われている。

かねてより柳絮を見たいと思っていたが、おそらくは中国にいかねばかなわぬこととあきらめていた。だが、その実、柳絮そのものは、ささやかなものながらも、そうとは知らずに過去にちゃんと見ていたのである。それは一昨年五月十二日、丹沢、羽衣橋の上で。

ハマヒルガオの咲く湘南海岸から二宮、中井、秦野を経て蓑毛まで。ここからヤビツ峠へは二つの道。右は登山道、左はバス道。バス道を登る。

ヤビツ峠へは五度目。坂を登れば過去の春秋二度ずつの思い出がよみがえる。初夏の日ざしと初めて登る緊張感。冬の始めの冷たい風と悲しみ。さかんに散りゆく山桜とむなしい心持ち。日だまりのリンドウとようやく満たし得た心。今日のこの道に、ハルジョオン、シシバリ、ウマノアシガタ、タンポポ、オニタビラコ、ミヅキ、ウツギ、コゴメウツギが咲く。自転車は意外なほど調子よく、青空に浮かぶ富士と南の大磯丘陵を見るうちに峠に到着する。

快晴。気持ちは軽い。過去ここへきた四回は、いずれも気が重かった。ただ一月三十一日の条に書いたように、昨年十一月十五日にヤビツにきたことがこの湘南自転車行を書き始めるきっかけとなった。書くといっても自分自身に価値があるわけではないので自己主張することはない。ただ、

　十一月十五日、ヤビツ峠に至る、坂の途中でリンドウを一輪見る。

と、書くだけでよい。歴史の中でこの日はたった一日しかなく、そのたった一日にヤビツ峠にはリンドウが咲いていた。それを見た。だから、言葉にする。いかにささいなことであろうとも、この宇宙の中でおこることはすべて宇宙の全歴史の中で一度しかおこり得ないこと。だから、すべては正しく記録する価値があるにちがいない。十一月十五日のそのときにリンドウを見たのは山と空と自分。ただしそのことを記録できるのは、たまたま自分だけ。

ともあれ、今日は過去のいずれのときよりも気が晴ればれとしている。

峠を越えて北側へ道を下る。ヤビツから宮ケ瀬まで約十五キロ。舗装のないでこぼこの道をハンドルとブレーキに気を配って走る。

少しいくと二ノ塔、三ノ塔への登山口。そちらには入らずにそのままいくと諸戸の山林事務所。小暗い林の中を大きくつづらおりになった道を抜け、橋に出る。橋は小さな沢にかかっている。沢の水は藤熊川にそそぎ、藤熊川は橋の上からよく見ることができる。この橋の中央で、はっと、自転車を止める。ここがそのときの場所だ。

　一九七九年五月十二日。下りの途中にて。川の音に立ち止まり、日だまりか　ら見れば、岩にそそぐ流れは激しい。自然。何人も巧まず、何人も知らずし　て、かく流れ下る。風にのって白い種子が静かに飛び散りゆく。これもまた　自然。巧まずしてある。たまたま自分がここにきて知る。自分がいなくても、　知らなくても、同じくおきること。

その日、自ずと流れる川を見、自ずと飛ぶ種子を見た。空は自ずと青く、風は自ずと吹く。ここにたまたま通りかかっただけの自分は、すべての営みに関わることがない。自分の存在などまったく問題にされない。

今日は知る。その時に飛んだ種子、それこそほかならない柳の種子、すなわち柳絮であったことを。その時の木を見ればあきらかに柳、枝には実の穂、もう種子はすっかり飛び終わったあと。

藤熊川の河原に下り降りる。岩に当たる水は激しい音をたてる。水をすくうと、日ざしにほてった顔に冷たさが気持ちよい。岩の上に大の字に横になる。空は同じく青。川の音はかわらずにある。そして柳絮は飛び散ったあと。この顔の上に白い柳絮が降り積もらぬものか。毎年綿を吹くこの柳。しかし、自分がそれをみるのは、おそらくあれ一回きりだったのだろう。あの日一度だけのことだったのだ。

さらに道をいく。一箇所、谷の北斜面にそって花がかたまって咲いているところがあった。マムシグサ、フタリシズカ、ミヤマキケマン、ムラサキケマン、クワガタソウ、ダイモンジソウ。道を進むにつれて花は次々とその姿を現してくる。

あとはハルジョオンばかりが目立つ道。まもなく宮ケ瀬渓谷に着く。カーブを左に切る。左右に大きな木が茂る。日がとざされる。ちょっと先、小枝が見える。その横にさしかかろうとする。

おっと、目のすぐ近く、何かがよこぎる。気にかけず、いこうとすると、また何か。急ブレーキをかける。自転車を止める。ふりかえる。

道の上。小さな虫のような。一つ、また一つ。白いもの。胸が高鳴る。タンポポではない。そこにも、また、そこにも。

見上げる。上を見る。一歩一歩と立ちもどる。三歩、四歩。また白いもの。

みつけた。道にはりだす枝。それは柳の木。枝から一つ、また一つと、ゆっくりゆっくり種子が離れる。種子は風のない道の上を、右に左にただよう。柳絮。まさしく柳絮。柳絮は無言のままに、はらりはらりと穂を離れる。下に落ちることなく、中空をただよう。微妙な空気の流れにさそわれて、あるものは北に、あるものは南に。ゆっくりゆっくり飛んでいく。

枝の下のこの静寂を破らぬようにと、そっとその場を離れる。自転車にもどる。サドルにまたがり、ふりかえる。木々に枝からもれる初夏の日ざしを受けて、柳絮は自分の身を白く輝かせ、おだやかに上下に浮遊している。

■第十八　　七月五日　消えた池

大船駅の東、常楽寺の交差点から、今泉に抜ける道がある。その道には、途中、小さな暗いトンネルが二つある。一つは学校の横を通って坂を登ったところに、もう一つは今泉の橋に出る手前のところにある。

ほぼ二年ぶりにこの道を走る。期待を持って走る。

それは、この道は山の北側にあるせいか、ほの暗く、湿り気を帯びていて、車のほこりの立ち昇ることもなく、道の脇に立つ木々も古びた様子で、トンネルの中には水がしたたり落ちるという、つまり、鎌倉の表通りとは一味違った独特の雰囲気を持った愛すべき道だからである。とくに、一つ目のトンネルをくぐり抜けたところがよい。ぱっと目に入るのが、ひとむれの木立ちと、その中にある小さな池。池の水はにごっていて、何やら昔からの主でも住んでいそうな。木立ちの後ろは崖になっていて、草木がおおっている。道はその池のある一角をかこむようにゆるやかに右にカーブしている。自転車で走ると、木立ちの中から吹いてくる風がことのほかに気持ちよく、鄙びたそこの風情とあいまって、古い鎌倉の空気をそのままに胸に送り込んでくれるような気がする。一昨年に二度、そこを走ってそのような印象を持った。

今日は久しぶりに自転車に乗った。一カ月以上前回からたってしまった。

もともと今日は、北へ行く予定だった。海老名の国分寺跡を第一の目標として、五所神社、宇都母知神社に立ち寄るつもりにしていた。ところが、踏切の事故と、道を間違えたことで、思いもかけず海岸通りに出てしまった。そこで海からの風にいったん当たってしまうと、とてもまた北の方に引き返す気にはなれなかった。梅雨の晴れ間の海は青く、そして風はまことに気持ちがよい。予定は放ってしまって、風に吹かれて一気に江ノ島まで走った。

それからどこに行くか。思いついたのがこの道だ。前に来たときの記憶があざやかによみがえってきた。

勝手知った道を竜ノ口から手広、巨福呂谷を抜けて、その道に入った。

坂道は明るく、自動車の往来も激しいが、まあ、こんなものであろうか。記憶はえてして美化されていくものだから。

一つ目のトンネルは、やはり暗く、中の道路は上からしたたり落ちる水でぬれている。

そうそう、この感じだと、うれしく、トンネルをくぐり出る。

しかし、その先にあるべきもの、それはなかったのだ。

白山神社は、頼朝が創建したとかいう古社で、通りから本殿までゆるやかな石段が続いている。昔は、鎌倉から山一つ隔てた田舎として、ここらはひっそりとした村であったのだろう。今は、その山は削られて住宅団地になり、そのかたわらには鎌倉湖なる人造湖がある。

祠まで登り、そして、重い気持ちを抱いて白山神社の石段を下り戻る。かたわらにヤブカンゾウが咲く。またの名の通りに今の気分をすっかり忘れさせてくれれば。

参道の入口に庚申塔がある。石に庚申塚という文字と、猿の小さな像が刻み込まれている。それに手を触れてなぞってみる。寛文十二年十一月吉日と記されている。この近在の人か、この石を削ったのは。どのように暮らしていた人だろうか。おそらくは本職の彫刻師ではなく、ちょっと器用で、村人に人望のあった老人といったような人か。石を通して、その人の息吹が伝わって来ぬものか。つつましやかに生き、生涯、この近在より外に出なかったような人か。せいぜい一度か二度、大山に参詣したのが、生涯の思い出か。

いったい人間とは何をするものなのか。その人と自分と。

見ようとしていたあの池は消えてた。地面は掘りかえされ、崖は削られ、すべてはコンクリートで固められていた。

そのありさまを見て、そのまますぐに、ここまで来たのだ。

あんなことをする人間の時代に自分は生きている。

耕す土地とてもあまりない砂押川の狭い谷の中の神社に、人々はひそやかに信仰をもって庚申塔をたてた。その人たちの目に、この山々はどのように映ったのだろうか。あるときはやさしく、あるときは恐ろしく。その表情は豊かだったに違いない。

今、自分たちの都合で山を崩し谷を掘り返してゆく僕らには、山の豊かな表情はない。山の表情を見る目を失ってしまった。実に貧しい時代に生きているのだ。

白山神社から今泉不動までは自転車で十分とはかからない。

たまたま開け放たれている本堂を拝み、急な石段を登る。苔むした岩灯籠があり、さらに登ると不動堂に至る。そしてそれは木々の中。お堂の後ろにたくさんの石像が並び、いずれも特徴ある顔つきをしている。さらにその中を登って行くと、一番上に大日如来石像がある。風雨にさらされいたんではいるが、やさしげな顔は今もかわらない。その後ろに何があろうかと、木立ちをくぐり抜け、草をはらって進む。すると、急に前が開ける。

ああ、来なければよかった、ということに気付く。そこは天園に至るゴルフ場だったのだ。

明月院の脇を抜けて、亀ケ谷坂を越え、英勝寺、妙本寺の前を走り、そして光明寺に至る。

光明寺の庭の蓮の葉は大きく茂り、本堂には涼しい風が吹き込んでくる。

なにやらうなだれたまま山門をくぐる。

そのとき

　すばらしいお寺でしょう

と大きな声。それは数人の友達を案内する中年の女性。関東一ともいわれる山門を見上げて行く。

急に気分が晴れる。どれだけ多くの人がこの山門を見上げてことか。あの庚申塔を作った人もここに来たかもしれない。同じようにして感心したのかもしれない。

この現代という時代もまだ大丈夫かもしれない。昔の人の息吹がちゃんと伝わり、それを受け止めることができるかぎりは。

自転車にまたぎ、漕ぎ出す。

さあ海岸に出て、家まで一気に走ろう。鎌倉の海の風に当たれば、また最初のすがすがしい気分がよみがえってこよう。

ペダルを踏む力には力がこもり、自転車の速度はいやましにまして行く。

■第十九　　七月十一日　大磯丘陵の夏

よく晴れ上がった空は青く、南風は強い。

大磯の切通しから見ると、西に富士は青く、消え残りの雪が一条白い。

今日は、大磯丘陵でまだ登っていない山、台山と八国見山を登る予定で出発した。台山は二宮駅の北約三キロの地点にあり、高さ一五四メートル、八国見山は渋沢駅の南約キロ、高さ三二〇メートル。

秦野二宮線を中里から左の台地にはいる。道は急でみかん畑の中にある。背中に受ける日ざしが強くて、じりじりと肩にくいこんでくる。

長い坂を登りきったところで、道がふたつにわかれ、一つは下り、一つは上り。上りの方を行ってみる。舗装がなくなり石ころだらけの上をさらに進む。くもの巣をはらってさらに行くと、いつしか道はみかんの木の間に途絶えてしまう。地図によると、この先を突っ切れば、台山の頂上に至るようなのだが、それも気がひける。

分岐点までひきかえし、さらに下って、再び秦野二宮線に戻る。山頂をきわめるのはやめて、五分一から、この丘を越えることにする。

小さな神社の下を走ると、道は平らになり、視界が開けて、南、台山の山頂はあのあたりかと見上げる。

古い道標がある。左小田原、右藤沢。藤沢とは、この丘の下を流れる藤沢川のあたりのことであろう。この道標があるからには、昔は、この道が主要は街道となっていたのか。今はあまり自動車も通らない。左にはいる細い道にゆかしい気持ちをいだきつつも、道標にない、真ん中の広い道を、押切川のほとりへと下る。

坂呂橋からは再び登り。ナス、キュウリ、トマトを植えた畑の間を行き、沼代を経て高山の前に出る。

ここは二月二十一日に、かわいらしい小さな春の置かれていたところ。今日は、大勢の人が農作業に忙しい。みな帽子をかぶり強い日ざしをよけている。梅は葉がみごとに茂り、ひとかたまりの緑になっている。ヤブレガサ、ハエドクソウの花が咲き、頭上にはセミがしきりに鳴く。

六本松に登れば、みかんは小さく青い。

そして、そこから見晴らす景色。

空に白い雲がきれぎれに流れ、もれくる光に輝く台山、鷹取山、湘南平。

大磯丘陵の夏景色である。

海はおだやかに青く、点々と浮かぶ船。遠く江ノ島、三浦は水気にけむり、真鶴岬、初島が驚くほどに緑あざやかに見える。

六本松からの眺めはすでに一月四日に詳述したが、今日はまた異にする。

白い道路も丘の上を占める住宅もなく、すべてが緑の中にあれば。しかし、ぜいたくは言うまい。この今の大磯丘陵こそ、唯一、自分が見ることのできる大磯丘陵なのだから。過去にあったかもしれない大磯丘陵はともかくも、この大磯丘陵こそが、またとなく美しい大磯丘陵なのだ。

強い日ざしにさらされたせいか、足がなえ、不動山を越えることができず、引き返すことにした。だから予定していた台山も八国見山の両方とも登ることができなかったが、それでも、六本松からの眺めを見たから、まあ一日としてはよかったのか。

まして、その帰りに七国丘に立ち寄り、ちょうど山頂から上に積雲をのせた丹沢と、うすい雲の流れる箱根を見、そして飛谷津ではこぶし大に梨の実が成長していたのを見たのだから。

大磯丘陵は夏。

湘南平には、湿った南風が吹き上げて、霧雲がかかっていた。

■第二十　　七月三十一日　鎌倉の日食

朝比奈の切り通しの坂を自転車を押してかけ登る。息が切れ汗が目にしみるが、ともかく走る。一生にまさしく一度しかないこの日の日食を見るべきところで見ようと、浅間山に向かう。

いったん自転車を止め、いそいで望遠鏡をとりだしてのぞく。欠けている。十二時五分。黒点の左下から食が始まった。

走る。水の流れる坂を自転車を両脇でだくようにして下る。

鎌倉の夏、昔ここが本街道だったころ、人々はやはり汗を地面にしたたらせたに違いない。ここで日食を見た者はあっただろうか。天体の動きは正確に時を刻む。しかし、人事はわからない。朝比奈の道の上で、太陽が欠けたのはいつといつであるのか、あるいはこれから欠けるのはいつといつであるのか、すべて知ることができる。しかし、ここで誰が日食を見たのか、あるいはこれから誰が見るのか、知ることができない。

走る。

中学一年のときから、今日のこの日食が起こることは、すでに知っていた。それまで生きていれば二十五歳になっていることだけは確かだったが、果たして日食をどこでどのようにして見るかということは考えようとしても考えるすべのあるものではなかった。

太刀洗いの水はあいかわらず音をたてて流れ落ちている。道は一月末日から一変して緑に囲まれている。

サドルに腰掛けペダルを踏み、漕ぎ出す。

正確な天体の運行をこの目で見ることによって、自分が宇宙の中に、自然の中に生きてるということを、この鎌倉という土地において確かめようとしているのだ。

バス通りに出て、すぐ左折し、鎌倉逗子ハイランドの住宅街の中を走り、そして浅間山に登る。山上に貯水場があり、四方が見渡せる。江ノ島、稲村ケ崎、源氏山、朝比奈、鷹取山、そして逗子・鎌倉の海。

太陽は三分欠けた。十二時二十五分。

自分は二つの時の流れの中に生きている。一つは宇宙の中の時間。一つは歴史の中の時間。

鎌倉の町にはほかの土地にないにおいがある。それは、古い文化の香りによるものか、鎌倉の土地・風土によるものか、それともたび重なった戦役で土地にしみ込んだおびただしい血によるものか、それは知らぬ。その鎌倉という土地の上に、今、欠けた太陽がある。

一九六九年三月一八日午後、日食があった。当時中学一年。友達の家に行き、望遠鏡で見た。最大食分は一七パーセントと小さいものだった。そのときに次の日食は一九七八年十月二日、はるか九年後であることを知った。九年後といえば、そのとき十三歳であった自分が二十三になっているわけで、想像もできぬ先のことのように思われた。それが、時間は着実にたち、その日食は常磐線の車中で見ることになった。

それからまた時間がたち、次の日食がここに巡ってきた。

この日、朝は荒れもよう。辻道海岸で滝のような雨に会い、小動でも強い雨にさらされた。

その後は晴れ。極楽時の坂は、道が木々の緑を映してすがすがしく、空は抜けるような青。鎌倉の町並みはほこりを洗われ、強いひざしにまぶしかった。

熊野神社に参詣した。参道の両脇は杉の木立の下、一面にヤブミョウガが茂り、白い花をつけていた。イチョウの大木の上を、次から次へと速く、白い雲が流れていった。

その雲の間で日食が始まったのだ。

熊野神社から朝比奈切り通しを経て、浅間山に着いたころに、雲も飛び去り、月を除けば、なんのさえぎるものもなく、太陽は輝いている。

そこから名越の切り通しに向かおうとするが、道がすっかり草におおわれ、進むことができず、いったん山を降り、横須賀線の踏切を渡って、名越のトンネルを走って披露山に行く。

木々の葉の間からもれる日も、地面に欠けた姿を落としている。

山頂からは二子山、仙元山など見える。

十三時十五分。食の最大。

山を降り、光明寺まで。

ここでも木洩れ日が欠けている。蓮の花が開いている。

さても、日食とともにあわただしくここまで走ってきた。

考えてみれば、日食というものは、太陽と月と地球の運行によっておこる現象で、天体の側から見れば、なんら珍奇なことではない。月の影というのは年中、宇宙空間の中にあるわけで、それがたまたま地上にさしかかることで日食がおこる。これをとりたてて特別なことであると思うのは人間だけで、日がほとんど隠されるようにでもならない限り、人間以外は日食に気付くこともない。

だから、何もこんなに大あわてで熊野神社からここまで走ってくることもなく、どこかでゆったり見るべきだったかもしれない。

しかし、逆にいえば、これを特別な時間とするのは、結局人間だけができることだ。特別な時間として過ごすことによって、それが特別な時間らしくなるので、その過ごし方にはそれぞれのやり方があるわけだから、自分のこうした行動もまま良いといえるのかもしれない。さらに思ってみれば、太陽、月、地球の位置関係が今とまったく同じになるというのは、もちろん今回一度しかなく、人事も入れると、今回のこのときはただこの時にしかありえない。だから、今回はもちろんそうだが、それぞれすべての時間は天体の運行も人事も本当はさだめし特殊、珍奇な時ということになろう。ふだんはそれを珍奇と思っていないだけで、すべての時は珍奇さの連続なのだ。そういったことを時に思うのにも、日食というこの今をわざわざ珍奇な時間として感じて特殊な過ごし方をするのもよいことであるかもしれない。

そんなへりくつをこねながら、自転車にまたがり、何度走ったかわからない茅ケ崎への道を走る。

何度か走ったのが、しかし、同じ走りということは今回のほかには二度はないだろう。光明寺から帰るというのも七月五日の繰り返しのようだが、空の色も海の色も風の色もまるで違う。この前は梅雨明けの空に、これが夏なのだと感じたものだ。今日は午前の雨がうそのように、焼けた道の照り返しが目に痛い。そしてなんといっても日食。

小動神社で一服すれば、いまや月は太陽から離れようとするところ。

かくして十二年前から今日おこることを知っていた日食は終わっていく。この次見られるのは八五年五月二十日の明け方。はたしてどこでどのように見ることか。先のことはわからない。

■第二十一　　八月二日　海老名

海老名駅の東約一キロ、かつての国道二四六号に面して、県指定の文化財、大ケヤキの古木がある。今の国道はすぐ南の丘を貫き、北側にはバイパスもあって、この道の交通量は少なくなっている。ケヤキの根回りは一五メートルとか、老齢のせいか枝がまとまりなく四方にとびだし、奇怪な姿をしている。

この木をふりかえり見つつ、二百メートル北に行く。右手の一画に相模国分寺跡がある。

史跡の標の立つその後ろは、腰ほどの低い柵に仕切られ、中は数十センチの高さの盛り土。大きさは十メートル四方といったところか。柵の切れ目から中にはいる。三方の隅に桜の木があり、巨大な石がいくつか埋めこまれている。中央に、傾いた石柱がぽつんと立つ。国分寺金堂跡の文字。

国分寺には、高さ六〇メートルにおよぶ七重塔が建っていたという。巨石はその礎石であろうか。

ここ相模川の東岸には、北から南に延々四〇キロにわたって続く、高さ五〇メートルほどの丘陵がある。ここはその中央、目久尻川が削った凹地のすぐ西に当たる。

八世紀ごろ、相模の国の中心はここにあった。

七重塔を登る。上にあがれば視界をさえぎるものはない。西に丹沢、遠くに箱根山、富士山。北から南に丘が連なり、東ははてしない台地。眼下に相模川が流れ、低地には田圃が広がる。田圃の中に豆つぶのような人、ところどころに小さな家。

都から来た人は言う。

　豊かな国だ。

国司は言う。

　それもあなたがたの、そしてこのお寺のおかげ。

二人並び立つ姿を、田の中の男は見上げる。

　都とはどのようなところだろう。まぶしく輝く、この七重塔のような建物が　たくさんあるのだろうか。

男は身ぶるいをする。

　この塔ができるまで何年かかったことか。

建設の間に、男は時折呼ばれた。呼ばれたのは塔をつくる仕事をするためではなかった。死んだ者を埋めるためだった。国中から集められた者が、あるいは怪我のため、あるいは病気のため、あるいは飢えのために死んだ。

男は塔を見上げ、都とはどういうところかと思う。

国分寺から南へ一キロ。瓢箪塚古墳は高さ七〇メートル。住宅が密集する中、四周をコンクリートでかためられたその上に、きゅうくつそうに古墳がのっかっている。五世紀ごろの相模国造の墓と伝えられる前方後円墳。公園のように樹木が植えられ、上に道がかよう。

ここに至る林の中の道を、老人がかつがれてやって来た。すでに病は重く、死期がせまっている。

時に秋。収穫に行けぬままに人々はここで働いている。向こうの山から土を運ぶ。重い土を背負っていくつもの坂を越える。作業はいつ果てるとも知らぬ。この高台の上に、人の背丈の何倍もの高さにまで土を盛り上げるのだ。

老人が来たので、人々は追い払われた。

老人は一番高いところまでかつぎあげられる。

老人は見る。黄色く濁った目で。

西、丹沢の山並、大山の上に積雲がかかっている。南に伊勢原の台地、大磯の丘陵、そして海。東と北を囲む起伏のある台地。この中央を流れる相模川。

老人は回想する。若き日の相模川での戦闘、あやうく命びろいした伊勢原の戦さ、酒匂川までの大遠征。

　ここでわしは死ぬのか。

老人は満足し、かつさびしさを込めて言う。

老人は、死後も永遠にこの自分が支配した土地を見続けるのだと思う。

さらに南へ一・五キロ。五所神社がある。百メートルほどの参道は樹木の中。中央に、小さな屋根の下、直径五〇センチほどの岩が置いていある。これが日本武尊の腰掛岩。東征のおり、日本武尊はこの丘を南に進んで行ったという。

日本武尊は腰をおろし、南の方を見る。緑の深い丘が続いている。

日本武尊は言う。

　寒川はいずれのあたりか。

土地の者は指をさす。寒川は相模川の河口に栄える村として聞こえている。

　今日はそこまで行こう。

日本武尊が言うと、土地の者はひれ伏す。

しかし、日本武尊は警戒心をゆるめない。小野の里で手痛い目に会ったばかりだ。

日本武尊はおごそかに祭祀を行なう。自分を、人間を越えた存在として土地の者たちに印象付けなければならない。

土地の者は、いそいで寒川に使いを出す。それは、日本武尊をうやうやしく迎える準備をさせるためか、それとも途中で襲撃させるたくらみのためであろうか。

そこから南へ六キロ。宇都母知神社がある。

社殿の脇で横になる。森の中。空は青く、鳥の声が聞こえる。

考える。

自分は今、どんな時代に生きているのか。千年の後にだれかここに来て、現在をしのんでくれるだろうか。

過去のだれもが、現在を想像できなかったように、自分は未来を想像することができない。

それと同時に、想像はできないその未来に対して、ひけめを感じる。

千年前をなつかしく思うことはできる。それと同じように、千年後の人々が今をなつかしくかえりみてくれるだろうか。

もし、過去、現在、未来を通じて、宇都母知神社にやって来た人々が、すべて一同に会したとしたら、自分の時代の人間だけは、ほかの人々からのけものにされてしまうのではないだろうか。そんなおそれをいだく。傲慢な時代の傲慢な人間として。

　われわれとて一人一人はつつましやかに生きている。

そんなことを言ったとて、耳をかしてはくれまい。七重塔をつくらせた都の人、塚を築かせた国造、そのような人々以上に、今の人間は傲慢な生き方をしているのだから。

そんなふうにぼんやり思っていると、どやどやと人の動きがある。

むっくりと起き上がる。鐘楼のところに人が集まっている。

よく見知った人たちだった。四カ月前、足柄峠で会った日本武尊の一行ではないか。

急いで立ち上がる。すぐさま自転車に飛び乗る。ペダルを踏む。

一行が境内に入って来る気配を感じるが、振り返り見もしない。

今日ここで声をかけられ、また道案内を請われたらどうすべきか。結局、その威勢に従ってしまうかもしれない。日本武尊が、現代を変え、自分を変えてくれるのではないかと、思ってしまうかもしれない。

そうはならないことはわかっているのに。国分寺の跡を見れば、よそから力で、持ち込んだものは、何も後に残しはしないことがわかるはずだ。それなのに、自分というものがここにしっかりと存在していないときには、何かに従ってしまおうとする。

日本武尊は寒川の人々を従えてここに来たのか、それとも追い払われて来たのだろうか。日本武尊は歴史の流れだ。相模の人々はそれにさからって生きていくことは難しい。

しかし、歴史の流れの中でどう生きるべきかは、自分で考え、自分で決めるべきことだ。

いま、日本武尊に声をかけられてはまだ早すぎる。逃げるにしかず。

朝、十時をまわったばかり。

打戻の台地の上を走る。畑にはとうもろこしが植えてある。

■第二十二　　八月六日　八国見山登攀の記

大磯丘陵の主要な山でまだ登っていないところというと、吾妻山、弁天山、八国見山などである。吾妻山は二宮駅の北に位置し、山頂に吾妻神社がある。弁天山は国府津駅の北、山の下を新幹線のトンネルがくぐりぬけている。八国見山は渋沢丘陵の最高峰、海抜三二〇メートル。その名前にひかれて今日は登ってみることにした。

空はにごっているが、悪い天気ではない。

押切橋から中村川ぞいに北上する。遠藤、雑色、鴨沢と中井町の集落を通り、大井町の高尾までくると、目に入るものはほとんど緑になる。坂を登り切り、柳の家並の間を通過すると、右手に道があり、富士見台ハイキングコースの立て札が立っている。篠窪に抜けると書いてあるのでどんな道かは知らぬが、このままコンクリートの道をゆくよりはと、入ってみる。

はじめは畑の中。一度道をまちがえ、ゆきどまりの坂を登ってしまったが、途中から山道になる。

細い道をそろりそろりとゆくと、小さな滝に出る。空はすっかり木々におおわれ、うすぐらいあたりに、水の音だけがする。昨日降った雨の水が、ここではまだかわかずに残っており、くつに水がしみこむ。

鉄の小橋を渡ると、道は沢の上をおれまがって通じている。斜面がくずれて石が下にころげおちてゆく。ときおりのぞく日がまぶしい。

久々の山道に気分をのびやかにして進んでゆくと、いつのまにか、人家の裏に出て、そこは篠窪。

二月に一度走った道。ゆっくりこいでゆくと、道のかたわらにナデシコの花が咲いている。明日は立秋。

一度坂を登り切った高みから一気に下った山あいの窪地。そこに、峠という名の村がある。村の一角に小さな石の地蔵が並べて置かれている。室町時代の作といわれる。それらの像は、いかにもここの人々がつくったと思わせる鄙びた顔。昔この道が主要な街道であった頃に、道ゆく人々の安全を祈って作られたものであろう。今は、道ゆく人も多くないが、こうして人々を守っていてくれているのか。なつかしい思いがする。

しばらく先の所で、通りを離れて左に道を登る。いよいよ八国見山に向かうのである。道は山の斜面に大きく半円を描いている。今は、この下を峠トンネルが通っているので、簡単に渋沢に降りられるが、以前はこの道をいったん登ってから、降りたのだろう。ぐるりと一八〇度まわったところで雑木林に中に入り、道が二つに分かれる。左にゆくと渋沢。右に登る。

五〇〇メートルほどいったところで道は下りになる。そこで地図を見る。右に小さな道をちょっといったところが八国見山の山頂であるらしい。

確かに道がある。自転車を降りて押して入る。しかし、身の丈ほどもある草がおいしげって、とても自転車ではゆけそうもない。そこで、自転車はそこに置いて、身ひとつで、草の中に分け入ることにする。

次第に歩くのが困難になっていく。左手に一段高く木がはえているところがある。どうやらそこが山頂なのか。ところが、道は右にカーブしてそこには通じていない。いずれにしろ、このままでは、これ以上、進めそうもない。体は草の中に埋まっていくし、まるで視界がきかなくなる。

八つの国を見晴るかす八国見山とは名ばかりと、落胆して道を降りる。自転車を持ち上げ、もとの道にもどる。

南に高尾に抜けようと走れば、すぐに舗装が途切れ、道は荒れ地の中に消えてしまう。その先は草が一面をおおってどこに道があるのかはっきりとは見えない。地図を広げてみると、点線で道が示されている。さて、本当に行けるものかどうか、この先どこを行こうかと考えあぐねていると、犬を連れた男の人が、乗っては行けぬが押して行けばなんとかなると、教えてくれる。その言葉に勇気づけられて、草地に踏み入る。たしかに道はあるが、水の流路になっているのか、一条深くえぐられ、走ることができない。それに草は一段と深く茂り、葉に手足は傷つけられ、露にくつはぐっしょりぬれる。ただひたすらに押して、いいかげんにやになったところで、ちゃんとした道に出た。

ほっと一息つき、自転車を走らせる。あとは下り。高尾に抜けて帰らん。

そして、道が西にまわりこんだところで、見る。

曽我山の峰から東に連なる丘陵は、昨日の雨のうるおいが日に照らされて上へと立ちのぼり、うすぎぬを一枚かぶせたように白く、あわい緑色をたたえている。道も家もここからは幾重にも波打つ緑に隠れて見えない。眼下には大磯丘陵だけがある。そして南に遠く湘南の海。

この丘をいとおしく思う。

この丘陵がある故に、ここ湘南を自分の故郷といいたいと思う。東京で生まれ、東京あるいは江戸にはこれまた特別の思いがあるが、今ここにある丘陵を見ている限りにおいては、自分は、まさしくここの人間であると感じるのである。祈るような気持ちでこの丘を見つめる。

またいつかこの場所に立つとき、ひょっとしたらもう二度とはないかもしれないし、あるいは何度もあるかもしれないが、いずれにしろ、この場所に立つときには、それがいつであっても、この丘陵は今の姿のままあり続けてもらいたいと思う。

もうこれ以上、自分の故郷の姿は変わってもらいたくないのだ。

今日みたこの景を決して忘れまいと心に念いつつ自転車を走らせる。

■第二十三　　九月六日　箱根

再び芦ノ湖を見る。

あるいはもう二度とはこの自転車に湖水を見せることはないかもしれない。湖畔まで下り、杉並木を走ってみようかとも思う。今、首を巡らせば山の上に富士がのぞいて見えるかもしれない。

軽くブレーキをかけて止めようかとも思う。しかし、坂を下る自転車のスピードはますます早まり、信号を越え、その先の上りも一息に越えてしまう。あとは下り一方。

箱根の山に別れを告げるにあたって、あえて未練を残すことはすまい。四度目の箱根。今日を含めて旧道から三度登り、金時隧道から一度入り、帰りは新道を三度下り、今日初めて旧道を下る。それが下りおさめか。ここで立ち止まってしまえば思いが残る。二子山も振り返り見ない。お玉ケ池も脇目に通過する。さっき汗をふきながら登ったところをあっというまに走り抜け、あたりの景色は後ろへと飛び去る。

もうこうしたこともこれまでか。道の起伏の一つ一つ、顔に当たる風の感触、そのすべてを覚えておきたいと思う。七曲りにさしかかる。山が左右に別れ、下方が見晴らされる。

ついに自転車を止める。遠くに見えるは酒匂川、曽我、大磯。青くかすみ、そ先、茅ケ崎のあたりは弁別することができない。自分の住んでいる場所がそこにあり、ここに箱根がある。今日は箱根山におり、あの先に帰ろうとしている。こうして自分が自転車に乗って走っているときが、自分の生きている時間であり、走っている場所が自分の生きている場である。走ることでそのことがわかる。

下りの坂をたどってゆけば、箱根は自分の後ろになってしまう。再び自転車で下りながら思う。箱根山へ、できればもう一度こうしてきたいと。

九月六日。くもり。天気予報によれば午後は時々雨と。空を見ると、西は明るく、一筋青空が見えている。いかようにもなれ、今日をおいてはもう行く機会もない。自転車をかつぎ出す。ちょうど一ケ月ぶり。

湘南大橋を渡る。西の青空は面積を広げ、箱根の山がくっきりと姿を現している。このぶんであれば少なくとも昼までは雨にたたられることもないであろう。橋の下に小鳥たちがいる。また帰りに会おう。ほんの数時間後に。

ミズヒキとキンミズヒキが交互に花咲く道を、畑宿まで登ると、その先は急な坂が続く。自転車を押してゆく。ときおりもれてくる日ざしに、汗はしたたり落ちる。一人息を切らせて登るそのかたわらを、自動車やバイクが走り抜けてゆく。都会の中を走るのとまったくかわらぬ姿で、あとに騒音と排ガスをのこして走ってゆく。

バス亭、樫の木坂の地名に、昨日読んだ「折りたく柴の記」の一節を思い出す。白石の父が、この坂で、越前九郎兵衛に出会ったというその部分。山陽道に向かう途中、樵に呼び止められ、いうを聞けば昔知った男。その後のこと人々のことなど聞きたいと、男のひきとめるままに連れられて、山中の粗末な小屋に案内される。中には男の父という八十余りの老人がいるだけ。夕食に出されたのは、麦飯にかてを入れたもの。そして夜ふけて、男は竹づつの中より、刀をとりだして見せていう。父一人を養うために世を逃れてこのような身になったが、自分の力の続く限りはせめて刀脇差し一服づつはとどめておこうと、離さずに持っている。父の世にあるのももう久しくはないと見え、もし父への孝養を無事にすませたのちに、幸があれば再会の機会もあるだろう、と。かくて男は涙を流し、翌朝には、道を一里ばかりも送ってくれたという。

そういう人間の住んでいたところを、今、登っている。人間としてはるかにすぐれていた人が、はるかに重い労苦に耐えていたその場所を。

旧街道にもよらず、まっすぐに道を走り、今日の目的地として、ひたすら向かっていたのは、精進池のほとりにある六道地蔵であった。

昨日までの雨で池の水はあふれるばかり。山は深い緑。雲に日がかげり、池の色は沈んだ緑。

六道地蔵に祈りをささげる。それは道中の無事。すなわち、妻になる人と二人、こらから先たどる道の無事である。

見上げれば、だれが彫ったかその名の伝わらぬお地蔵様は、今日も道ゆく人々を見守っている。

昔の人がやっとの思いでたどっていったこの箱根も、いま軽く遊びにくるところとなってしまった。今、人々は、ここで車をちょっと止めて、写真におさめて、そしてすぐに行ってしまうが、昔の人たちは、心のそこから身の安全を祈ったことであろう。六道地蔵は、そんな昔の人も今の人もわけへだてなく見守っていてくれているのだろう。人間は身の丈以上に大きくなってしまった。本来、命を長らえるのがやっとであるはずの生き物が、今は何をしているというのだろうか。

かたわらに腰をおろし、池をながめる。

九月始めにしては涼しすぎる。汗を流した体は冷えてきた。

四度きた箱根で最も気持ちがしみじみとしている。それは、なによりもこれが最後だと定まっているからだというわけではあるまい。

■第二十四　　十月十日　飯田

境川を渡って左に曲がる。傾きかけた観音堂がある。細い道をゆくと、自転車に乗った初老の婦人二人、大声で話しながらやってくる。ここは横浜ドリームランドの下。台地の上の、こんもりと茂った緑の間から、大観覧車が頭を出している。西を見ると、境川をはさんだ向こうの台地の北に、丹沢がその姿を半分だけ現わしている。昨日の大雨のあと、大気はけむっている。

相模原から藤沢に至る台地の東側を境川は流れている。その川すじのつくる狭い低地は田圃に、台地の上は畑になっている。ここを、時には川沿いに、時には台地の上に、鎌倉街道は通っていたという。上の道と呼ばれるその道は、鎌倉は化粧坂に発して、関戸で多摩川を渡る北に向かう道。新田義貞が鎌倉攻めの時に南下した道でもある。

三基の庚申塔が並ぶ三叉路で左に折れて北に進む。すると、そこに見る。そして聞く。

十数人の人々が、女が男が、老人が若人が、一群となって、踊りながらこちらにやってくるのを。口々に何か唱えているのを。

自転車を止める。畑には青ネギのにおい。

近づきつつある人々の先頭に、一人の老人が歩いている。人々のあげる砂ぼこりの前に杖をつき、やぶれた衣をまとう、その姿がひときわくっきりと際立っている。よく見れば僧。

振り返る。緑あふれる台地の間に自分は立っている。何かの拍子で鳴った鳴子の音に無数のすずめがいっせいに飛び立つ。白鷺が一羽青空にふわふわと飛ぶ。白鷺の目には、台地の森の濃い緑、実りの時を迎えた稲の緑、その間を流れる川すじの青が映っている。

今はもうはっきりと聞こえる。踊りながらくる人々が口々に唱えているのは念仏、南無阿弥陀仏である。

そして僧は一遍上人。

ここで一遍上人は立ち止まる。人々に向かっていう。

　さあ、ここで別れよう。帰るところへと帰り、やることをしなさい。今は秋、　稲刈りの時、さあ、ここで別れよう。私はこのままこの道をゆく。どこへゆ　くかは知れぬ。もしもまた再びこの道をたどる時、まためぐり会うことであ　ろう。

人々は踊りをやめ、互いに顔を見合わせる。

一人がいう。

　こうして踊っているとき、そして上人さまがここにいらっしゃるとき、私た　ちにはわずらい思う心がありません。しかし、いま上人さまにお別れしてし　まった後を考えるとき、もとの思いわずらう心がよみがえってくるのを恐れ　るのです。

一遍上人はいう。

　思いわずらう心がある故に踊ることができる。別れて

風が吹き、上人の声は飛ばされてここには聞こえてこない。

人々はうなずいている。

一遍上人はいう。

　さあ別れよう。

上人は向き直り、歩き始める。

人々は上人を見送る。静かに立ちつくす。

上人は自分の脇まできて立ち止まる。ふところから一枚の紙をさし出す。それを受け取る。紙には南無阿弥陀仏と書いている。紙をもらったまま身動きもできない。上人は表情ひとつ変えることなくそのまま歩き出す。

人々は念仏を唱え始める。上人はすたすたと南に歩いてゆく。

人々は上人の姿が小さく消えてゆくと思い切るように向きを変えて、大きな声で念仏を唱え、そして踊りながら北へと歩み出す。上人の姿は曲りくねった道の先に、人々は人家の向こうに見えなくなる。

自分一人が残る。一遍上人がくれた紙をていねいにたたみ、ポケットの中にしまいこむ。

自転車にまたぐ。坂を登る。汗が吹き出る。中学校の前。道は台地の上。丹沢の山容がその全貌を見せ、南の富士が青い姿をあらわす。道の脇では風にアザミの花が揺れている。

自分は恥ずかしさを覚える。

恥ずかしい。一遍上人に対し、人々に対し、川に対し、山に対し。なぜ恥ずかしいのかはわからない。

ただいえることは、この道をたどるのに自分はふさわしくないのではないかということ。もっと自分のことをよくわきまえた生き方をしている人間こそふさわしい。

自分は恥ずかしい。

恥ずかしさ故に、そのあとたどった道、飯田の道、渡った橋、わたど橋、見下ろした川、引地川、登った神社、大庭神社、そのすべてがいとおしくなつかしく思われる。

飯田の道は、台地の上をどこまでもまっすぐに北に向かい、わたど橋は、境川にかかる小さな木の橋、引地川の水は日ざしを受けて明るく輝き、大庭神社は長い石段の上にひっそりと建っていた。

人々は長くこの地に生きてきた。自分は初めてここを走った。わずかに秋の日の午前中に一度走っただけで、何を見、そして何を言えるというのだろうか。もう再びこないかもしれないこの土地に対して。

■第二十五　　十月二十五日　鎌倉の秋

予定をしばしば変えて、西風の強い午前を走った。

強い印象のない淡い日であった。

初めて見る森戸神社からの海には高い波がおしよせていた。

三ケ月ぶりに登った披露山から見る江ノ島はかわいた色をしていた。

何ケ月ぶりに通る名越の切り通しの岩にはかれはじめの草がしがみついていた。初めて登った安国論寺の高台の正面には鎌倉の海と富士があった。

たぶん五ケ月ぶりに走った梶原の坂の上には白く斑点をまぶしたような空があった。

そしてこれらは、いつでも見られるようなものでありながら、実はもう二度とは見ることのできないものなのかもしれない。

湘南自転車行　第二輯

一九八二年から一九八五年に書いたもの。

■第一　　四谷での序

湘南のすべてがわけもなく好きだというのではない。

湘南に強い愛情を覚える。愛情という言葉以上のものを全身で感じる。湘南の風土を愛する。こよなく湘南の地が好きだ。しかし、湘南ならすべてがよいというものでもない。

この文章は湘南に対する愛情が書かせるものだ。湘南への愛の告白だ。

すべての恋文と同じく、書こうとすると、肩に力が入り、同時に強いためらいが生じてくる。

気を楽にして、おしゃべりでもするかのように、思う通りのことを筆にまかせて書くのがいいと思ってみる。気取ったところで仕方なく、思いつくままにすなおに書けばよいと。それが自分の気持ちを最もよく伝える方法だろう。しかし、これこそは特別に大切に、一字一句にまでも気を入れ慎重に書くべきだと考える。ほかのことならともかく、これには最も熱意をこめてとりくまなければならない。

一方で、自分には書く資格がないと思われてきて、ためらいが生じてしまう。恋文を書こうとする人が、自分には愛する資格がないのではないかとためらうのに似ている。

もちろん、湘南について何かをただ書くというのなら材料もあるし難しいことではない。ずらずらといろは四十八文字を長々しく並べてみせよう。

それなら、何を書くのか。ただ好きだというのではない。技巧をこらして恋文をこしらえるのでもない。湘南について何か大切なことを書く。それが自分にできるのか。ほかの人ではない自分だけにしか書けないことがあるのか。自分が書くことに意義があるのか。

筆はとどこおりがちになる。恋文を書こうとするのは、自分と相手との間に、一方向的愛情を含めてすでにある関係があって、それをより以上に強固な結び付きに高めようとするからだろう。相手のことをまったく知らず、相手との間に何がしかの結び付きもなく、今後それが強まる可能性も全然ないとしたら、恋文など書かないであろう。そして多くの場合、この三つのいずれかに、あるいはいずれにも自信がないから、不安があるから、恋文を書く筆はとどこりがちになる。

まがりなりにも湘南について書けると思うのは、自分と湘南との間には何がしかの結び付きがあると信じるからだ。手の内にある結び付きの糸の一方のはしをくくってたぐりよせてくると、きっと湘南自体が自分に近付いてきてくれるか、あるいは湘南から少なくともあるものがやってきてくれると信じるからだ。そのあるものの内容明細がこの文章になるのかもしれない。ところが、時にこの結び付きと思っているものが、本当は実体を伴わないのではないかと感じられてくる。糸の一方のはしは確かに自分の手の内にあるにはあるが、もう一方のはしは、どこにも、だれの手の内にもないのではないか。

人と土地の結び付きと何か。恋人の結び付きは男女の二人がいて初めて生じ、二人がいることによって今までなかった何かが生まれ、その男女のいずれかをほかの男女で置き換えることはできない。江戸っ子とは、江戸という土地とわかちがたく結合していると自他ともに認める人だ。江戸と江戸っ子の結び付きによって、江戸には独特の江戸風俗が生じる。江戸と江戸っ子を切り離してしまえば、江戸っ子も江戸風俗もなくなってしまう。こういう結び付き方こそ、土地と人とのあるべき結び付き方だと思う。

ややこしいことをいえば、土地とは何をさす言葉なのかきちんと述べておかねばならないだろう。また、あるべき結び付き方といった、あるべきという言葉には何を意味させようとしているのかもきちんとさせておかねばならないだろう。ただそれは、くだくだしいことだ。

土地が意味するものの中には、当然のことながら、地域社会の住人自身も入るだろう。土地と人との結び付きのあるべき理想の姿というのは今日きわめて実現しがたいものであろう。

とにかく自分は湘南が好きだ。湘南はかけがえのない土地だ。だから書く。湘南に読んでもらいたくた書く。

それ以上のことは、結局のところないのである。

■第二　　一九八二年十月三日　高部屋神社

湘南自転車行が中途半端に終わってしまったのは、それを書き続けようとする積極的な理由がなくなってしまったからだ。

その原因の一つは住む場所が変わり湘南が遠のいてしまったこと、もう一つは同じようなことだが、生活感覚が以前と変わってしまったことだ。後者についてはそれほど意識はしてはいないのだが、あるにちがいない。

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十月三日、十二時、高部屋神社にいた。高部屋神社は相模式内社のうちの中に入る由緒ある神社だ。矢倉沢街道よりも一段高い場所、ケヤキの大木の後ろに厚いかやぶきの神殿がある。

そこで湘南自転車行をどう終えようかと考えていた。

一つ区切りをつけていままでとは違った見方で湘南を見てみたいと思っていたのだ。

ふと思いからさめると、空気の様子が変わっている。頭上を見ると、午前の日がもう西に向かっていきつつある。さきほどまではまったく聞こえなかったセミが激しく鳴く。地面が全体に暑く、下から体が蒸されるようだ。あたかも夏の昼下がりのようだ。

どやどやと東の方に音がする。馬の音だ。ここに馬が、なぜ。

音は近付き、鳥居に下に一行が現われる。

一行を馬は外につなぎ、馬上にあった数人が境内に入ってくる。

いずれも装束を整えた武士のよう。先頭に立つのは五十余りの男。いかめしい顔つきで、眼がひきしまっている。

かたわらの狂作堂主人に気付く様子もなく、手や口をすすぐと、祠の前に立ち、参拝をする。

　今日は神主がおらぬようだな。

と男がいう。

　今日おいでになることは承知のはず。いぶかしい。

と若い男が答える。

　向かいの大慈寺にはお寄りになりませぬか。

ともう一人の少し年配の男。

　いや、明日にしよう。あの住職は話が長い。歌の一つも詠まねば放してくれ　ぬだろう。

　さよう。年取られたせいかめっぽう人好きになられた。明日ゆっくりおでか　けになるのがよろしゅうございましょう。

　ここで少し汗をおさめてから、いよいよ上杉さまの別館に参るとしよう。汗　とほこりにまみれたままではよくないだろう。

　どうぞ、ごゆるりと。

一行は木陰を選んで腰をおろす。

　それにしても、今日はよく山がみえましたなあ。

　わしは鎌倉の生まれ、そそり立つ大山の眺めがことのほか好きだ。今日は久　し振りに間近かに仰ぎ見ることができた。関八州をいくさに暮らし、いまは　江戸の守り。いずれはこの大山の麓にでも退隠し、四季の移り変わりを愛で　てゆったりと過ごしたいものだ。

　それでは扇谷様の行き末がおぼつかなくなりましょう。

　さようなことをいうでない。わしは何のとりえもない身。それを扇谷さまが　とりててくださったのだ。わしなどおらずとも扇谷様の御家には変わりはな　い。

一行の話をききながら記憶をたどる。

　それにしても暑いなあ。

　七月二十六日といえば秋も近いというのに、今日の道中はまったく難儀なこ　とだ。

　不平をいうでない。かたじけなくも扇谷様が別館で休みをとるようにいって　くださったのだから。さあ、そろそろ参ろうか。

ここに身をかえりみず飛び出す。

　お待ちください。

　何者だ。異様な風体のやつ。

若い男がとどめる。

　申し上げることがございます。

男はこちらを見る。

　よし。待とう。何ごとか。

　道灌様。行ってはなりません。今日、あなたさまは命をとられます。

若い男たちはきっとなって身がまえるが、道灌はそれをとどめていう。

　そうか。そういうこともあるだろう。大山の麓で死ぬのならそれもよい。い　つかは死ぬ身。いつどこでどのように死ぬかだけが違う。少なくとも、死ぬ　場所がここと定まっているのなら、それは大いによい。それはそなたもわか　るであろう。死ぬべき日にここにやってこれた。まことによいではないか。道灌は微笑む。

　しかし、

　よいのだ。さあ行くことにしよう。今日はまことに幸運であった。夏という　のにこれほどに山が美しい。

道灌一行は去る。

そして、自分は何の結論も見出だせぬままにここに残っている。

■第三　　一九八二年十月三十日　夫婦が池

午後西鎌倉に行った。前回、伊勢原のときにはまだ夏の気が残っていたが、もうすっかり秋。

遊歩道路に出て東に。海があり、向かい風。ペダルが重い。前輪がなんとはなしにふらつくのは久しぶりに走るせいか。

朝のうち灰色の雲が一面をおおっていた。四ッ谷から茅ケ崎に着いたころに、その雲に切れ目が入り、昼、青空が大きく広がった。いま、空気はややにごりがち、江ノ島の影ははっきりしない。

夫婦が池は鎌倉市の西部、鎌倉山の北西にある。南北に二つ小さな池が並ぶ。地図で見ると、かたわらを小径が走るばかりで人家も少なく、谷間にひっそりと水をたたえている様子が想像される。二つの池を仕切る中央の土手の上に立てば、おそらくは段違いになって、すなわち北の池が南の池より少し低く、二つの池の水面が同時に見え、さざおもしろかろうと思われた。だから、もとより必ず行くべき所としてあったのだが、いざとなるとかえってその近さがあだとなり、つい足がより遠くの方にばかり向き、実際には行かずじまいになっていた。

今日は午後になっての出発、しかも足に自信がないとて、ここぞ格好の目標と、夫婦が池に向かうことにした。念願の場所とはいいながら、この近辺はなんといっても宅地造成のさかんな所、もしかしたらこの池は地図上の姿をとどめていないかもしれない。ただ無残な思いを味わうはめになるかもしれない。

江ノ島まで一気に走る。海岸に別れ、左折。はっと見上げる、頭上にのしかかる五重の塔。竜口寺。秋が、街路樹の葉を落とし、丘の上にある寺を、自転車の人に初めて気付かせてくれたのだ。

手広では走り慣れた道。ちょっと洋子に電話を入れ、電話ボックスの角から、まだ踏み入れぬ道へとハンドルを切る。

右手は湘南モノレール、左手は緑をのせる高台。その高台に連なる小山の中、すなわち鎌倉山へと道は入って行く。ふたまたの別れを左に曲がる。しばらくは人家が続き、大きく右にカーブして、その先、ふと見ると、右手、道の下、丈の高い草におおわれた窪地がある。形状は見定められない。もしかしたら、これは池の跡ではなかろうか。水を抜いて宅地にしてしまおうとしているのではないか。おそれを抱き、自転車を止めて駆け寄り、そばまで行く。地図を取りだし、あたりを見回し、確かにここではない。ほっと息をつく。安心して、再びこぎ出す。じきに正面に見えてきた。木がこんもりと茂っている。中に何かを抱きかかえているような木のはえ方。あそこだ。あそこの中に水があるのに違いない。

ゆるやかな登り坂を五十メートル。がっしりとした鉄条網がぐるりを囲み、中に低い木がびっしりとうわって土手をつくり、わずかな隙間をのぞくと、ちらりと見えた。水だ。ここだ。

でんと立て札。立ち入り禁止。はてどうしたものか。ゆるゆると鉄条網をうらめしげにながめつつ進んでいくと、中に小道がついている。自転車を止める。小道は左右をやはり鉄条網ではさまれ、奥へと通じている。夫婦が池の間の道だ。

ささが密生した土手の道に入ってみる。どっちの池も、そのささで視界をさえぎられ、想像していたような眺望を得ることができない。それでも、ともあれ、奥へ歩くと、道は右に折れ、北側の池の岸にまわり込む。そこで、ようやく、緑色をした池を見ることができた。思ったよりも大きな池だが、やや殺風景ではある。北のはずれに地図には記されていない家が建ち、さらに興をそぐ。あたりを徘徊してみるが、とにかくささにおおわれて、水面に近付くことができない。

ふたたびもとの道にもどる。幸い鉄条網のやぶれをみつけ、そこをまたぎ越し、ささの茂みをかきわけ土手を登る。かさかさと葉の下をくぐり抜けると、ぽっかりと視界が開け、池。

池は、一方はこの土手に、一方は道に、残りの二方は山に仕切られている。日が前方の山の上からさし、水面が白く波立ち光る。その波を見る。物音一つしない。しゃがみ、ささの間に身をかがめ、遠眼鏡をのぞくように水面を見ると、ここが本当にちっぽけな池であることを忘れてしまう。山中の湖、岸辺に一人悠然と閑吟する。

こうして夫婦が池は、期待の半分にははずれ、半分にはかなうべく鎌倉山の下にあった。もとの道をさらに進み、急な坂を登る。小さな寺があり、由緒を見れば、平安時代の仏様がある由。

坂を上り切り、そこの見晴らし。宅地を隔てて空の下に、少しかすみがちな、ややとんがり型の山は源氏山。その内に隠されている谷間が鎌倉の市街だ。さらにその向こうに名越あたりの山並みが控えている。三浦半島は見えず、うすい水色の空。

これらは、かつての政治の中心地、鎌倉を囲む山々。以前、ここに立った人はどのような思いでこの景色を見たのであろうか。まず始めは関東の一寒村、田舎の取り柄もない風景と、だれも見返ることもなかった。それが武家の都となり、いつしか文化の中心ともなった。その文化はこの山に何をもたらしただろうか。さきほどの寺はその反映だろうか。あるいは、京都直輸入の文化など、鎌倉のごく一部にのみ形をなしただけで、ここらは何のかかわりももたなかっただろうか。ここの土地の人は、鎌倉だけがはるか遠くにいってしまったように感じただろうか。そして鎌倉攻め。鎌倉の町を灰塵に帰した大火の炎は、きっとここからはっきりと見られたことだろう。わきたつ炎に鎌倉は灰と化して舞いのぼり、百五十年の月日は消えてしまった。人はここに立ち、鎌倉の地がそのような災厄に見舞われたことを哀れむとともに、自分の土地が巻き込まれなかったことにせめて安堵したかもしれない。ここの山は、一つの場のこのような移り変わりをただ冷ややかに見ていたのかもしれない。

いまここは、鎌倉全体が、東京という都を取り囲む周辺の土地となっている。鎌倉が中心だったときに、その中心からここまでと、東京が中心になった今日、東京から鎌倉までと、それぞれに要する時間はそれほど変わらない。

ぐるりと道をまわって、眼下にはるかに海を眺める。七里ガ浜から江ノ島。足もとは丘を切り開いた住宅街だ。

小道を極楽寺の方に抜ける。

墓地の脇にある石段、そこをがたがたと下る。小さな谷あいの田圃。刈り入れが終り、高い竿の上に稲が一列に干してある。日があたり、まぶしく黄色に光る。くすんだ山の色の間に、それがあざやかに照り映える。田圃の脇には月影地蔵のお堂。中には名に似合わぬこわい顔。

去年だったか、一度この脇を通ったことがある。やはり秋。もっと夕方に近く、日は山の向こうにまわり、あたりはひえびえとしていた。いま降りてきた道を、お墓の石段を、ふり仰ぎ、あそこを登ればおそらくは鎌倉山にゆくのだろうと、思いながらも、そのときは、真っ直ぐ、北の方にいってしまった。思い出せば、そのときにも、今日と同じく香の煙がただよっていた。

なぜか思う。ここの一角だけが、悲しく昔の面影を残しているのではないかと。谷間にあって、夕暮れが早く、ことさらにわびしさがある。鎌倉中を今まで走って、ここほどたよりない雰囲気のするところはほかに知らない。それがこんな思いを抱かせるのだろうか。ここから極楽寺まではわずかの距離だ。しかし、そのわずかの道のりが、まさしく都の繁華と、田舎のうらさびしさとを分けているようだ。

湘南は今日の一つの若者文化を享受する土地になっている。海岸には一年中サーファーが群れ、車は恋人たちを乗せて潮風を切り、夜はライダーたちの舞台になる。鎌倉はデートに格好の場。はなやかな遊び場所としての湘南。そういう若者のために湘南は顔を変え、サーファー相手、ドライバー相手の店を建て、夜には明々と灯をともし、鎌倉にはまったく縁のなかった店が並ぶ。都会の人の遊び場所の一つになっているのだ。銀座や新宿や原宿と同じような東京のもう一つの遊び場として湘南がある。なおかつ、湘南に住んでいる人々、その大半は東京方面に勤めに出ている。湘南は東京の郊外、あるいは、東京の付属物になっているのだ。

しかし、湘南はそれだけのものではないはずだ。だが、自分には、そう言い切る資格がないように感じる。

八月二十五日に名古屋にいった。新幹線の車窓から見れば、相模川を渡って、まこと目にも飽かぬ景色がある。丹沢の山はあくまでも青く、箱根はうすく遠くにどっしりと構え、大磯丘陵は千変万化の姿を見せる。心は、この景色の中にある、ひとすじひとすじの道にとんでゆく。この道あの道を走り、坂を吹く風を受け、草木の匂いをかぐ。湘南の空気をいっぱいに吸い込む。しかし、実は窓ガラスの向こうのものでしかない。いま自分はこの湘南の土地を離れ、東京に住んでいる。よそものの鑑賞者にしかすぎない。もとは東京の生まれ。仕事も東京にある。すっかりと東京の人間である。この景色に愛着を感じるといっても、それはもはや皮相のものにしかすぎないのではないか。

本来ここの土地に住み、ここの土地で仕事をし、ここの土地に一生を終えるような気持ちをもったときに、湧き出してくる愛着というのが、真実、本当のものなのであろう。その土地にはぐくまれ、自分もその土地をはぐくみ、長い年月をかけて生まれてきたものこそが、愛という名にふさわしかろう。それにひきかえ、自分は、ここの土地に入って生きていこうとしていない。東京の、いや、江戸の人間であるという意識さえも持っている。そうであれば、自分も、湘南を東京の付属物としてしか見ない人間の一人ということになるのではないだろうか。

新幹線の帰り、再び湘南平の北を通った。夕暮れがせまり、もの悲しげであった。窓に顔をこすりつけるようにして外を見、電車は走り、相模川を越え、湘南は遠ざかっていった。自分は東京に帰る。帰るということが、それがなんとも悲しい。湘南から離れて帰るということが悲しい。一切をなげうち湘南に住むという決意を持つということをしない。本当にこの土地をよいと思うのならば、土地に根差した生き方をするのが真実であろうと思い、それができないことがなさけない。すると、また、やはり自分は東京の人間であることを自覚せざるをえなくなる。

十月三日、伊勢原に向かう途中、大山が次第に大きくなるの朝。走りつつ胸いっぱいに息を吸い込む。この空気。それを吸う。空気が全身にゆきわたるにつれ、自分の背にしょっているもろもろの重みすべてが消える。自分はここに現在にいる自分でしかなくなる。自分はいま湘南にいる人間。この土地にいる人間。自分は湘南にいる人間なのだと、そう叫んでみたくなる。

下粕屋にある太田道灌の胴塚を見た。道灌は鎌倉生まれ。関東各地に転戦し、川越、江戸の城を築き、その江戸城に住んだ。主君扇谷定正の招きに応じ、下粕屋の別荘に赴いた。江戸から西に進み、夏の日、相模川を渡る。大山がせまる。川風は涼しく、道灌の疲れをとり、そして何よりも丹沢の青がなつかしく、道中の疲労以前のもろもろを解消してくれたことだろう。鎌倉あたりからはこう大きくは見えないが、西の空を縁どる丹沢・箱根・伊豆の山々は湘南の景の象徴だ。その丹沢がいまここに間近にあり、そこから吹き降りる風に自分の体は包まれている。道灌はふだんの張り詰めた気持ちからこの日ばかりは鎌倉生まれの土地の者として、故郷の風光を心穏やかに眺めたことだろう。興に乗じて和歌を詠じたかもしれない。戦さの地から離れ、身にまとわり付くものを捨て、この土地で世捨人となって暮らしたいと思ったかもしれない。しかし、その夜、道灌は主君の陰謀によって殺されてしまうのだ。

道灌の時代を下り、鎌倉から政治の匂いがすっかり消えたあと、人々は長い間、漁業か農業をする田舎の村の民として鎌倉に生まれ、めったに土地から離れることもないままに死んでいったことであろう。ある日、湘南の風光の中で、ぽっかりと人は生まれ、その風光の中で暮らし、自らもその風光の一つになって暮らし、そして死んでゆく。そのときに、あたりの風光は生まれたときと変わりなくそこにあり、人はひっそりと消えてゆく。人は、この風光の中から生じ、そこに帰ってゆくことを自覚できた。

いま、人は土地から切り離され、風光は一日として同じでない。

昔がよいと単純にいうのではない。どのように苦しかろうとも、見慣れた風光の中で生きる、それが人間の本来の営みではないのだろうか。

湘南は湘南の人が生きる場であって、東京の人間の遊び場ではない。東京の人間は、しかし、東京に生きているのではない。東京の人間はほとんどすべて土地から離れた人間だ。どこにも見慣れた、生まれたときにあったような風景はなく、そこに死して帰るべき風光もない。あてもない空間に生きるからには、はてしない空虚をうずめるために、とこしえに遊興しなければやまないのだ。

自分もまた東京の人間の一人か。しかし、今は、あえて思うことにしたい。自分はここに生活はしないし、またこの風光も次々と変化してしまうけれども、この風光、まさに湘南の風光の中から自分の生を生じ、そして、その生を少しずつここに返してゆく者なのだと。

自分が湘南の人間であるというのも、江戸の人間であるというのも、つまりは欺瞞だろう。どこにも自己の居所を定められないために、自分を欺いているのだ。真実あるのは、自転車に乗っている自分とまわりの風光だ。

しかし、この風光に接するとき、名状しがたい喜びが心の底から出てくる。そこに、まぎれもなく、自分と湘南の結び付きがある。自分と湘南の風光とのつながりはかすかで淡いものかもしれないが、そのかすかにあるもの、かすかであるがゆえになおさら、それが確実に自分を支えているのだ。

自分の生は湘南の風光が与えてくれるものだ。されば、ここに、一ケ月こなければ一月分の歳月をそのときに湘南に返そうではないか。そうすれば、湘南の中に自分は年老いてゆくことになる。東京にもどり、そしてまた湘南に帰ってくるとき、その間の歳月は湘南から一時借りてきたものとして、自分の手から、湘南に返そう。返せば、自分があと生きる時間が減ってゆく。その繰り返しのうちに、最後の一秒間をも湘南に返して、自分の生は終わるのだ。

七里ガ浜を茅ケ崎に向かって走る。空はかすみ、日ざしはうすく、海はまだらに白く映え、岸には恋人たちが歩き、波打ち際にはサーフィンが流れ、遠くにはヨットが浮かぶ。

力を入れて自転車をこぐ。

自分は湘南を走る。湘南を走り、湘南を見る。夫婦が池を見、極楽寺を見る。自分は見る。それ以外にはできない。

小動の坂を登る。左右に建物がせまり、小動神社の下を道はゆく。そして下り。一気にスピードを出す。さっと視界が開ける。ゆらゆらと大きな江ノ島が現われる。思いっきり空気を吸い込む。それは潮のまじった湘南の空気。自分に生を与えてくれるものにほかならない。

■第四　　一九八四年四月二十八日ならびに七月二十九日　序

　　　一

二十九歳になる年の四月二十八日、茅ケ崎に帰った。

駅を出てふと思い立ち、文具店にノートを買いに寄った。そのノートにいま文字を記している。

そんな寄り道をしたので、いつもとは違った道を歩くことになった。右手に小学校の正門があった。厳重に閉じられているその中をちらりとのぞいてみた。以前に変わりなく、ふたつの校舎を結ぶ渡り廊下が見えた。それは自分がここに通っている間につくられたものだ。その正門の前を歩くといつも思い出すことがある。ひとつは、正門からその廊下まで掃除したこと。ゴミを取り終わると、最後の仕上げとして、何人かで一列に並んで、ほうきをうしろにひきずって正門から一斉に歩くのだ。掃き目をきれいにつけるための作業だったのだが、掃き目などはろくにつかず、むしろもうもうと砂ぼこりが上がるのだった。もう一つは、下校の時間に、正面脇にときおり黒山の人だかりができていたことだ。中心にどっかとおじさんが座り、前に奇怪なしなものを置き、その一つを手にとって、おもしろおかしく説明し、実演する。さあ、家に帰ってお金をもってまたおいで、てなことを言う。夢中でのぞいていたに違いないのだが、不思議と何を売っていたのか具体的なことになると覚えていない。おじさんがこわかったのか、物を買った記憶もない。いまでもそんな商売をしている人が来たりすることがあるのだろうか。子供達は掃き掃除をしているのだろうか。

正門を過ぎると、その左右に、基本的に以前と同じ店があった。正門の脇に呉服屋が、斜め向かいに金物屋が、その並びに時計店がある。格子窓のある呉服屋の店構えは印象的だが、何の店であるのか子供のころは知りもしなかった。金物屋はいつもながらに店の前にあふれるほどに商品を置き、繁盛しているように見えた。気の毒なのは時計店で、店は静かだし、外見もひじょうに生彩がなかった。小学生のころ時計はたいへんな高級品だったが、今は使い捨てのスーパーで買うような品物になった。

こうして歩いて行く道は小学校の帰り道と同じだ。ワイワイ言いながら帰った道の両側は、当時のままのもあれば、新しいものも多い。角の本屋は少々なつかしい。自転車に乗って初めてここまで本を買いに来たのはよかったが、無造作に道の真ん中に自転車を置いて立ち読みしていたので、しかられたことがある。

ちょっとした坂を上ってから下りにさしかかると右に交番。ふいに回想から立ち戻って見ると、目の前の道の両側の家並、なんだか急にそれが色あせて見えた。ふだん気にもとめず、あらためて見ることのない風景。小学校の帰りには何百回となく見て、高校に入って以降もときにふだんとコースを変えて回り道をして見て来た風景。そこにあるのがあたりまえの風景、自分がいつも着ている服のように慣れ切った風景。それが、今は、自分を離れて、距離を置いてひややかに存在していた。それは、風景が色あせたのではなく、自分と風景との親密さが薄れてしまったためなのだろう。茅ケ崎を離れて二年という月日がそうさせていまったのか。

今年の暮れには子供が生まれることになっている。父親になるわけだが、その子が少し大きくなり、ひょっとしてこの道を連れて歩くようなことも起こりうるかもしれない。そのときに、この道を、おまえくらいの年に、毎日小学校に通っていたのだよなどと言うことがあるかもしれない。子供はなんと思うか知らないが、その言葉の内にたくさんの思いが込められているとは気付きもしないだろう。

小学校六年のときであったか、冬、学校で熱を出し、迎えに来てくれた父の自転車の後ろに乗って、この道を帰ったことがある。小学校二年のときであったか、どうかしてか迷子になってしまい、泣いていたところを、人に連れられてようやく見知った道にまで出ることができてほっとしたことがある。小学校三年のときであったか、今日転校するという日に大声で泣いた友達がいたが、その子の家はこの角を入って所だ。

そんなことを考えて行くと、幼稚園の裏の道を、小学校四年ぐらいの子が歩いて行くのが見えた。ここでもまた思い出すことがある。その子と同じくらいのとき、女の子二人と帰る途次、自分の宝物について話していた。女の子のたちが何を言ったのか忘れてしまったが、自分が言ったことはよく覚えている。その当時大事にしていた鉄腕アトムの本をいつまでも持っているんだと言ったのだ。女の子たちは、大人になってもマンガの本を大事にとっておくのと笑ったが、そうなんだと、いくらかむきになって答えた。そして、そん本は今も一冊も欠けることなく茅ケ崎の家に置いてある。そのころは、大人になるなどと言葉の上では言ってみても、それは遠い、永久に来ることのないくらい先のことのように思えた。しかし、現実に自分は大人になってしまっている。今から小学校四年当時へは、わずかな時間差しかなく、すぐに戻っていけるが、小学校四年の当時から今への時間差は無限にあった。今歩いて行く小学生に自分の姿を重ねて見ることはできても、その小学生は自分に彼の未来を重ねて見ることはできないのだ。今現在、茅ケ崎の風景がやさしく包み、風景の中にまったくとけこんでいるのは彼であって、自分ではない。自分は風景との距離を感じているが、彼はまったくそんなことは感じようもないだろう。目の前にある風景を改めて意識しないこと、それが彼の身体とわかちがたく風景が結び付いているということなのだ。二十年近く前には彼は存在せず、自分が風景の中にあった。しかし、今は二十年前ではない。

幼稚園の裏に来た。さらりさらりと桜が散っていた。名残の桜か。つい少し前までは春の風景を形づくる主役であったが、今は誰かにしのばれるものとなった。来年の春、桜はまた咲いて春の景色をつくるが、そのとき咲くのはもちろんこの花びらではない。今、茅ケ崎の風景をつくり、いろいろの思い出となるものをつくっているのは、自分ではない。自分はただ、過去の風景を思い出しているだけ。それなら、自分はどこの風景にその身を置いているというのだろうか。自分はどこの風景の人間なのだろうか。

春の日は静かに夕方に向かい、ゆっくりした足取りも、いつか父母の家に近付いていった。

　　　二

湘南についてまとまりのあるものを書こうと何度も努力しては挫折きた。そのつど序文だけを書き、あとが続かなかった。書きたいという情熱はある。しかし、心で思っていても実行がともなわない。

湘南自転車行という日記体のものを書き出したのは一九八〇年十一月だった。それは半年余り続いた。自転車に乗り始めたのはそれより二年近く前の七九年二月だった。自転車で走るうちに次第に書きたく思う心が出てきたのだ。

その次に書こうとしたのは、その続編で、洋子への手紙という形をとっていた。結婚後は四ッ谷の住むことになっていたので、その前に、まだ湘南に住んでいるうちにひとつのまとまりをつけようと考えたのだ。全部で十二ほどの連作になるはずだったが、半分しか書けなかった。

四ッ谷に住んでからは、少し遠ざかった気持ちで書こうと試みはしてみたものの、どうも追憶的なものになったつまらなく、途中で投げ出してしまった。

四ッ谷に住むのも残りあと一年もないということになった。次にどこに住むのかはまだ決まっていない。十一月には子供が生まれることになっている。なにやらここあたりが区切りのようにも思えてくる。一つまとまりをつけて、いつまでも同じものをひきずっていないですむようにしたいものだ。

人間はそう新しくはならない。湘南について書くのは一生の課題かもしれないが、一つ書き終えることができれば、これから書く内容も湘南を見ていく目もちがっていくことだろう。

湘南についてまず思う景色は、自分が育った茅ケ崎をのぞけば、湘南平だ。それも、大磯は東海道の松並木の西のはずれから東海道本線をまたぐ陸橋の上から見る湘南平がよい。南からの日を受けて湘南平の緑はいつも明るく輝いている。この明るさを見るとき、これが湘南の景色なのだと思う。

湘南には三つの顔がある。

第一の顔は、小丘陵の出口にある。それは、江戸近郊の農村として二百数十年の間につくられた顔だ。現在は目立たぬ裏の顔だろう。

第二の顔は、小丘陵の上と、低地とにある。東京近郊の住宅地としての顔だ。大正あたりからポツポツとその傾向はあったというが、本格的には一九六〇年ころからだろう。自分はこの第二の顔の中にいる人間だった。

第三の顔は、おもに海岸にある。東京近郊の行楽地としての顔だ。この第三の顔が最も目立つ顔かもしれない。自分は今はこの第三の顔の人間なのだろう。これら三つの顔の第一の顔の発見が、湘南自転車行を書き始める動機になったともいえるだろう。それこそが最もじみだが豊かな表情をもっているのだ。そのじみな表情の意味するところを読み取ろうとしたのだ。

以下、湘南雑記という一巻をまとめようとしている。これまでに書いたものを雑然とまとめようというものだ。新たに書くものはあいも変わらずこんな序文だけなのだろう。

■第五　　一九八四年八月二十五日　月影地蔵

鎌倉に向かう。比較的事多きせいか昨年の暮れ以来となる。間に妻と雪見したことがあった。今日は曇天、きわめて涼。

初めての道はなく、どこも特に変わらぬは幸せ。上りの坂の中途に望見する江ノ島、下りの坂の中途に仰ぎ見る竜口寺、いつもと同じくそこにある。

笛田に入る。三方を小丘陵が囲む奥へと二度目の道をたどる。前には気が付かなかったカヤブキの家、三軒見つけ、一軒の正面へと小径をとる。古い小祠あり、また道は大岩を削り屈曲する。代々の農家か、しかし、田圃の四分の一は宅地になろうとしている。

鎌倉山から極楽寺裏に下る間道、両側を深く夏草がおおう。よく踏みならされている。一カ所のみ南に開け、七里ガ浜をのぞかせる。眼下の平地はことごとく人家。

月影地蔵脇の田圃の稲は頭を垂れ、実りのときを迎えようとしている。姥、二十五日とて奉納のお金を集めに来た女と語る。「よそから甘い物をいただくと、私は糖尿で食べられませんから、必ずお地蔵さまにおそなえしてね。お寿司なんかも一人前はいただけませんから、先にさしあげる分を除いて残りを食べます。お地蔵さまにさしあげて翌日はそこの無縁の仏さまに、いつそうしているんですよ。」

妙本寺は妻の最も好む所。雪見の日にもついにここまで足をのばして終点とした。子供らがソリ遊びをしていた坂を登る人はいまはいない。夏の間はひっそりとしている。カイドウが実を結び、根元の井戸水にほてった顔を冷やす。

光明寺で蓮に会う。広い境内に人は二三。本堂に上るのは自分一人。もう八月も末、時すでにおそしと思うも、橋にかかればすぐに一つの紅花が迎える。池に咲く蓮、一つ二つ三つ、葉に隠れて四つ五つ、奥に六つ七つ。つぼみはさらに多い。

光明寺に夏にくること四度、花時の前ばかりだった。花は自分を迎えるがために咲くのではない、たまたま今日咲いたものを見たのにすぎない。しかし、今日咲かなければ見ることはない。今日咲き今日くることは互いに知るものではないが、あるいは、互いに知っていたとしてもまたよいだろう。互いに迎え合うことにしていたとしてもよいだろう。花と吾との因、今初めて結ぶのだが、昔よりすでに結ばれ、あるいは初めてここに至るの日、互いにすでに遠く期することありとしてもよいだろう。期せずんば何ぞ会うことあらんや。

石庭に休む。一人植木のまわりの草をむしる人がある。石庭は二三年前にできた新しいもの。草をむしる人の夏の積もり積もりて千を数えるとき、むしる人は異なり、見る人は異なる。しかし、鎌倉はあり、光明寺、石庭もあろう。あるとすれば、草をむしる人はあり、見る人はある。そのときの千年前、草をむしる人あり、見る人あり。それは吾とこの人なり。一千年を通じて同じ一事。一千年前にして一千年後の人というべき。

極楽寺切り通しより七里ガ浜に出て帰る。引き潮にして潮の香はことのほかに強い。

■第六　　一九八四年　茅ケ崎海岸

茅ケ崎の家の前の道が舗装されたのは小学校三、四年のころのことのように思う。それ以前は砂ぼこりがひどく、西風が吹くと、道からだけでなく、その先のテニスコートやそのまた向こうの公園から飛び来る砂で、家中が砂だらけになった。具合の悪いことに、茅ケ崎と言うところは西風が吹くことが多い。夏場はよく家の前にホースで水をまいた。夕方に水をまくと、いくらか涼しくなるし、ほこりを抑えることもできた。それでも、テニスコートにまかなければどうにもならん、と父は言っていた。家の前の道は海岸から駅までまっすぐに通じているため、水をまく夕方には、海水浴帰りの人が列をなした。列のとぎれる間をぬって、家の前をはじからはじまでまんべんなく水をまくには、いくらかくふうが必要だった。それも、おもしろくいことではあった。水をかけると土が黒くなる。そこを人が歩くとサンダルにすられて乾いた土が出てきてしまう。人が続いて来る間は、人に水をかけないように、ホースの口を自分の足元に向けるが、人がいつまでも続けて来るとそこらがびしょびしょになってしまう。ホースの先をぐっと押さえると、水が二またに分かれて勢いよく飛ぶので、なるべく遠くに飛ばして水のまく範囲を広くしようと夢中になると、バシャという音とともに蛇口からホースが抜けて水が出なくなる。そんなことをしている間に、自動車というものは一台か二台は通ったのだろうか。ほこりを上げながら近付いてくる自動車が、水まきの終わったところまで来ると、はっきり見えるようになったという光景を記憶しているところをみると、自動車も通ったのであろう。しかし、道を行くのは大半が海水浴にでかけた人たちであった。

家から海までは子供の足で十分とはかからない。夏はよく親戚やら父の友人が来ていっしょに泳ぎに行った。遊歩道と称せられていた道を渡り、防風林の松林の間の短い道を抜けると、砂浜があった。砂浜はだらだらっと下りになっていて、うっかりはだしでかけだすと、熱くてひどいめにあった。砂浜にはずいぶんとビーチパラソルが立っていた。自分たちのビーチパラソルを立て、ビニールシートか何かを敷いて、荷物を置き、それから海に入るのだが、ビーチパラソルから波打ち際までの短い距離でさえも足が熱くてピョンピョンはねながら歩いた。海に入ると、浜はしばらくは浅いのだが、あるところから急に深くなる。子供はそこでこわくなって先に進めない。それを越え、しばらく行くとまた浅く平らになる。ただし西から東に向かう流れがあるので、流されないように注意しろと言われていた。実際に、浮輪につかまって少し沖に出て、しばらくして戻ってみると、パラソルが見付からないくらい遠くにきたしまったということもあった。

中学生の一年のときだったか、学年でそろって浜辺を歩いたことがあった。中学校の前の浜から西に防波堤の先まで、二キロ余り砂地を歩いた。生徒が浜にばらばらに広がって遊びながらゆっくり歩いたのだ。広い砂浜だから、百人や二百人の生徒がいても遊び場に不足するようなことはまったくなかった。なぜそんなことをしたのか覚えていないが、足をきたえるという目的であったのかもしれない。

中学三年の冬、二月下旬の夜、南極老人星カノープスを見に浜辺に行った。カメラを肩にかけ、三脚と双眼鏡を手にして国道を渡ろうとした。もちろん暗く、車のライトが遠くから連なって、ひっきりなしに目の前を通って行った。以前は湘南遊歩道という名の通りに、道で昼寝ができるといわれたくらいにのんびりした道だったというが、昼寝ばかりか横切るのさえむずかしいほど交通量が多くなっていた。しかし、信号機は少なく、二百メートルばかり東に行ったところにしかなかった。そこまで回るのも面倒と、車の切れるのを待っていたが、いつまでも途切れず、とうとうわずかのすきを縫って道に飛び出した。目測を誤ったのか、スピードを出していたのか、左から来た車が背中をかすめた。ほんの一瞬のことで命を落としていたかもしれない。空はよく晴れいたが、水平線付近はもやがかかって暗くなっていた。定石通りにシリウスの輝く大犬座から星をたどって行くと、もやの中にかすかに光を放つ星があった。カメラを向けて写真を撮った。海には船であろうか、いくつも光が浮かんでいた。

小学校の何年のときかは忘れたが、台風の接近を前に、兄と海を見にいったことがある。荒れた波を見ようというのだったが、遊歩道を渡り、防風林を抜けると、驚いたことにすぐそこにまで海がきていた。いつもは砂浜があり、そのずっと先の方にまでしか波がこないのに、砂浜の斜面をのぼって海がここにまできていた。海は青ではなく、灰色ないしは緑色といってもよく、次々に大きな高い波が押し寄せ、崩れ、激しい音をたてて、ザッーと浜をなめのぼり、そしてサッーとひいて、ひき終わる前に次の波がやってくる。もしも、ひいていく波に足をすくわれたら、次の波に打たれまきこまれて、と想像すると足がわなわなとふるえた。時おり夢で、海にひきずりこまれる情景を見るのは、その時の記憶が残っているせいなのだろう。

そんな茅ケ崎の海岸はいちじるしく砂浜が後退し続けている。子供のころに比べていまは浜が半分もないという印象だ。子供は大人よりも小さいからまわりの景色をより大きく感じるものだが、それを割り引いて考えても、半分にはなっている。今は、国道から海の間には防砂林があり、自転車道路があって、一段大きく下がって、急勾配の砂浜が十メートルほどあり、そして波ぎわまで緩斜面が二、三十メートルあるといった状況だが、以前は、自転車道路はなく、そのあたりまで現在よりも広く防砂林があったように思う。そして、急勾配のところなどなく、ゆるい傾きで、百メートルほどの砂浜が波ぎわまで続いていたのだ。

うかつにもに、三年ほど前まで、茅ケ崎の浜が後退している原因を考えようともしていなかった。考えればその理由は単純だった。

湘南の海岸低地は六〇〇〇年前から形成が始まった。六〇〇〇年前とは縄文海進といわれ、海が現在よりもずっと内陸にまで入り込んでいた時代で、それ以後、川が運ぶ土砂によって海が埋められて、湘南の低地がつくられていったのだ。六〇〇〇年前の海岸線はどこにあったか。日本武尊東征の道といわれているものがあるが、それはだいたい相模野の台地のへりを通っており、その当時の海は、伊勢原や厚木や藤沢の台地の下あたりにまできていたと思われる。もちろん、日本武尊の東征は史実とはいえないだろうし、その道筋もはっきりしたものではなく、六〇〇〇年前というような古いものでもない。ただ、海は台地の下にまできたいて、そこからゆっくりと後退していったということは確かであろう。寒川神社の中世の記録といわれているものに、「社領、東石川、南荒海、西相模河、北門沢橋切也」というのがある。これによって、寒川神社の近くにまで海がきていたと推測される。茅ケ崎にある柳島、懐島、中島などという地名は、実際に入江の中に浮かぶ島であったからだという説もある。

ともあれ、相模川が運ぶ土砂によって、海は次第に埋め立てられていった。厚木や伊勢原の下を埋め終わると、土砂は相模川の河口から外に排出されるようになり、外に出た砂は、相模湾の中の潮の流れによって東に移動し、波や風の作用によって陸地に上がっていった。こうして相模川の河口から江ノ島あたりまで続く砂丘地帯がつくられていった。砂丘は列をなしていて、ひとつの砂丘はおおむね南西から北東に伸びた芋虫のような形態をしていれ、高いところでまわりよりも十メートルほど高い。茅ケ崎の東海岸にある家は、砂丘のいちばんのもりあがりから東へと下がり始めたところに建っている。だから、家から見ると西側が少し高くなっていて、幼稚園からテニスコート・児童公園・青少年会館のあたりが高く、松林になっている。砂が積もってできた土地だから、積もり具合によって起伏が生じ、高まりの中に窪地がある。テニスコートはその起伏を利用して上下二段につくられ、また、いまは干上がってしまったが小さな池もあった。よく蛙が繁殖してオタマジャクシがたくさんいた。一方、家の東側は、低い松の生える湿気の多い斜面であった。草がぼうぼう伸びていたせいか、その斜面を降りていった記憶はない。あるとき、そこに盛土をして宅地を造成して、盛土を止める石垣がつくられた。その石垣をよじのぼって遊んだことがある。高さは二、三メートルほどあったようだ。今はもう、家が建て込んでそこに入ることはできない。

砂丘はこんなぐあいだから、日当たりのよい平坦なところは早くから宅地化され、凸部は松林に、凹地は湿り気の多い草地になっていた。今は、でっぱりは削り、窪みは埋めて、一様な住宅街になっているところが多くなった。

砂丘に松といういかにも湘南らしい風景は、つまりは、相模川が運んだ砂によってつくられたわけである。風にしろ潮にしろ西からの流れがあって砂を運んで、海岸ぞいに積もらせていったのだ。砂丘は風や波の力で、刻々と姿を変えるものだから、家に砂が舞い込んで困まっていたのもそれはごく自然の現象であったわけで、人のいない昔なら、砂丘の形がわずかずつ変化していく一場面であるのを、水を撒いてそれを止めようとしていたことになる。水を撒くくらいは人間のささいな行為だが、現在、砂浜が後退しているのも人間の行為の結果となると、ささいなこととはいえない。砂浜ができた経過を考えると、それが今後退している理由は簡単にわかる。相模川が運び出す砂が減って、砂を寄せて砂丘をつくる働きをしていた潮が、むしろ浜を削ってしまう働きをするようになったということである。それなら、なぜ、砂が減ったのか。相模川の上流に変化がおこったからである。それはダムである。ダムは山からの土砂をそこで止めてしまうだけでなく、ダムは川の水を奪い、水を失った川は土砂を下流にまで運べなくなったのである。

明治のころ、相模川の河口は湘南水郷と呼ばれていた。相模川と小出川の流れが複雑に入り組み、あちこちに中洲があり、大きな干潟もあった。地図でそのころの様子を想像すると、もしも万が一その景色が現在も残っていたとしたら、今ある日本の海岸の中では間違いなくいちばん美しい場所であろうと思われるほどである。その景色は水と土砂、それに潮の働きの複雑な連携によってつくられたものだが、いまは、水路がコンクリートで固められたのは防災上仕方ないことにしても、干潟もごく小さな水たまりのようなものだけになってしまった。河口にたまるべき砂が上流からやってこないのだから、干潟は縮小するばかりだ。いつか、台風の後に、その干潟の前面にあった砂丘が波で流されて、干潟に直接海が入り込んでしまったことがあった。その何年か前に、東海岸から浜ぞいにずっと河口まで歩いてみたことがあったが、砂を踏んで干潟の前の砂丘を歩いて、河口の突端のコンクリート堰にまで行くことができた。台風のせいで、その砂浜が切れて、コンクリート堰へはいけなくなっていた。これで、干潟も終りかと思ったが、いつしかゆっくりと修復が進み、いまではほぼ旧に復している。まだ自然の力もいくらか残っているようだ。ところが、そのすぐ脇で下水処理工場をつくる大規模な工事が始まっている。こんなことばかり続いていくとすれば、いずれ、相模川の河口も、湘南の海岸も、砂浜が消えて、波の浸食を防ぐためのコンクリートのかたまりだけが白々と光る風景になってしまうのではないだろうか。茅ケ崎の海の景色のよさは、ただ子供のころの記憶にしか残っていないということになってしまうのだろうか。

■第七　　一九八五年一月四日　行ケ谷

自転車で坂を下る。茅ケ崎市行ケ谷の北斜面を、小さな竹林の裏から西南に下る小さな坂。この坂は下で東西にのびる道に合っする。その道と坂とではさまれたところに人家があり、下に小さな溝がある。溝の水は西に流れて谷の外で小出川にそそぐ。川の流れとは反対に東に向かおうとしたとき、一羽の鷺が溝から飛び立った。

　　飛び立ちて慣れし田はなし何処にか所定めん初春の鷺

と一首たわむれに歌うと、空高く舞い上がった鷺は振り返って言う。

　どのように歌を詠まれようともよろしいですが、私自身は別段行く場所に困　まっていはしませんがね。

昼前の空は澄み、鷺の白色がくっきりと青くふちどられる。

自分は言う。

　そうはいっても、あの場所で人目にさらされずにゆっくりとすごしたくはな　いのですか。

　むろん、あなたの自転車にこうして驚かされたりする心配がないの方があり　がたいですよ。しかし、あなたご自身の感情を勝手に私に託してもらいたく　はないのですよ。一年の始まりに何やらいだかれた不安を、私の姿に投影さ　れては、私はあまり愉快ではありませんな。

　そんなふうに私の歌の意が受け取られたのなら、それはむろん私が未熟だか　らだが、私が読み込もうとしたのは、露骨に言えば怒りなんです。

鷺はきっと首を向けて言う。

　怒りですって。何をだれが怒るのです。この谷の奥が一変したことを、あな　たが怒ろうというのですか。ねぐらを追われた鷺に変わって怒ろうというの　じゃないでしょうね。結構ですな。私はあそこに住み慣れていたわけでもあ　りませんし、とりたてて怒っているわけでもありません。私にはどっかしら　行き先はあるし、いちいち怒っている間もないのです。

　私には怒る資格はありません。だからこそあなたに怒ってもらいたかったの　です。

　そう、あなたはただの通りすがりの人間だから、怒る資格はないのは当然で　す。いつどのようにしてこの谷が変わったのか、ぜんぜん知らない。今日た　またまやってきて、びっくりして、怒ってみせているだけじゃないですか。　そのあげくに、私に怒ってくれとは。御免こうむりたいね。

　私は怒れないのはよく知っている。だから、あなたに怒ってもらうしかない　のです。

　人間と口をきくのは、やっぱりつつまらぬことだ。私はあなたの泥足で踏ま　れている生き物なのだから。

　待ってください、私が言いたいのは

鷺は聞く耳持たずとばかりに彼方へと飛び去って行く。

行ケ谷は、茅ケ崎市の北部丘陵地帯の西の端を小出川の支流が刻んだ小さな谷だ。谷はほぼ東西にのび、西の口から東の奥まで一二〇〇メートル余り、南北の幅は二〇〇メートル余りある。谷底の標高は一〇メートルから二〇メートルの間、谷の上の丘陵は四〇〜五〇メートルの高さ。谷を囲む斜面は割に急で、斜面を谷へと下る道は四本ばかりある。人家は、谷の入り口から三〇〇メートルほど入った宝蔵寺のあたりからしばらく奥の方に散在している。それよりもさらに奥は前の年までは畑になっていた。新編相模風土記稿には、なめがやつむら、とあり、戸数二十三、東西十三町余、南北五町余。

今日は昨日の雨が上がって、快晴。風はなく空気が澄んでいる。午前の日を受けて大山と富士がみずみずしい姿を見せている。とりわけ宇都母知神社の高台からの眺望はすばらしかった。丹沢連山が波打つように西に傾き、その奥に富士がそそり立っていた。それを見たあと、行ケ谷のいちばん奥の四叉路から谷に走り下ろうとしたのだった。谷はどこにでもあるような、とりたてて特徴のあるものではないが、それはそれでよいものだった。掌中の小谷とでも言うべきか。しかし、その谷のかつての姿はなくなっていたのだ。

鷺が飛び去ったあと、少し東に進んで、谷の南斜面へとはいあがる道を登り始める。すると太陽が口をひらく。

　いつのころだったか確かなことは忘れたが、おまえも知っての通り、谷は奥でふたまたに分かれていて、その中央にちっぽけな土山があって、一本の木が立っていた。木には一羽の年老いた鷺がすみついていた。その鷺は翼をいためていて思うように飛ぶことができなかった。だから谷の中だけで暮らしていた。ほかに邪魔もないので、年寄りの鷺が生きていくのに困らないくらいの餌はいつでもみつけることができた。夜になると鷺が木に帰って眠った。寝付くまでの間、いつも木と話をした。その日の天気のことやら、村のことやら、あそこの女の子が遊んでいただの、田圃の畦に花が咲いただの、蛇が蛙を飲んだだの、そんな話をした。時に興がのると、鷺は昔見た遠くの土地のことを話した。翼にけがをする前は、あちらこちらと旅をしていたのだ。この谷のまわりはもちろんのこと、ずっとずっと遠くのことを話すのだった。それを聞こうと、木のまわりには動物たちも集まった。カエルもトカゲも、チョウもバッタも、キツネもイタチも、遠くの話を聞きたがった。鷺は大きな町のこと、雪国のこと、山の奥の村のこと、海辺の港のこと、おもしろおかしく誇張をまじえて話した。ここでは鷺が一番の物知りだった。鷺は話しているうちに、自分の声に酔ってしまうのか、こてんと寝てしまうことがあった。とたんに、ぽとりと木からころげ落ちてしまうことさえあった。額を撃って鷺はびっくり目を覚ますのだが、みんなは大笑い。木は心配でのぞき込み、今日はこれでおしまいだと言うのだった。そんなふうにして暮らしていたが、鷺は年々年老い、自慢の白い毛もまだらになってしまった。そんなある晩のこと、一羽の鳶が迷い込んできて鷺の木の近くに泊まった。鷺はいつものように話をした。鳶にも聞かせてやろうとしてか、最も得意の話をした。大きな大きな町の大きな大きな城の庭に舞い降りた話だ。そのお城には人間のだれよりも偉い人が住んでいたのだ。鷺はその偉い人を間近に見たのだが、それは立派な人で、鷺が言うには、動物たちも含めてこの世があるのその人のおかげだと。鷺はその人の目の前で旋回したと言って胸を張ったものだ。まわりの皆もいつものように感心した。すると、急に鳶が笑い声をたてた。鳶は言った。いつまでもそんな古びた話をしているのだ、もう世間は変わってお城の人など風に吹かれた塵だ、今や背の高い顔の白い人間が大勢押し寄せて、上へ下への大騒ぎ、おいらはしょっちゅうそんな騒動を見ているのさ、うかうかしているとここだって、どんなことが起こるかわからないぞ、と鼻をフフフンと鳴らした。皆はキョトンとした顔。鷺は声を荒らげて言った。何を言う、世間が変わることなどあるものか、いつもいつも同じだ、わしが見てきた間、少しだって変わったものはない、これからだって同じだ。鳶は肩をすくめると、愚鈍な老人め、と捨てゼリフを残し、ピーと鳴いて闇夜に飛んで行った。そんなことのあった後の冬の訪れの前に、鷺は眠るように死んでしまった。その前の晩まで、いつもと同じような日が続き、鷺は木や動物たちと話をしていた。鳶の言ったことなど、誰もが忘れてしまっていた。それから後、夜になるとなんとはなしに動物たちは木のまわりに集まって来るのだが、もう誰も話をするものはなかった。ただ冷たい北風が、木の枝をヒュウヒュウと鳴らすだけだった。

太陽の語りは終わる。

行ケ谷の奥に入ったのは一度だけ、一年ほど前だった。谷の奥の四叉路から、一気に下り降りた。その降り口を見付けるのにはやや手間取った。雑草の茂る、人が通ることのなさそうな、一見存在すら知れぬ小道がそれだった。自転車を先にして、徒歩で枯れ枯れになった草をザザッとかきわけてズルズルと下った。道は直接に谷底には至らず、北の斜面のへりに沿うようになっていた。すなわち、右手が斜面、左手が低地ということだ。低地は畑か田か、耕作をしていないのか、短い草が乱雑に生えていた。谷はかるく左へとくねりながら西に向かっていた。しばらく行くと、目に入るのはただ草と木。振り返り見ても、仰ぎ見ても、人家の一つも見えなかった。外の音もほとんど届かず、別の小天地をなしていた。

それで今日も、谷の奥の四叉路から同じ道を下ってみたのだった。草をかきわけ、ズルズル降りれば、一年ぶりの再会に胸は高鳴った。ひょいっと出て小さな耕地、ここはまだ谷のへりの家々の見えるところ。もう一歩、二歩、数歩行くと、大きく一段下がった下に、砂利を敷き詰めた平地が広がっていた。それが何であるのか、にわかには理解できないままに、さらに何歩か進むと、突然に道は終わっていた。そこから先は掘り返された土の山。立ち止まり見ると、斜面は崩され、土地の上下がひっくり返っていた。下は真っ平らにならされ、一面に砂利。そんなありさまが、谷が右にカーブする向うまで、見える限り続いていた。自転車を置き、土の山に登り、前進すべき道を捜してみたが、しかし、それはどこにもなかった。

それで谷の上に戻った。北の斜面の上の道を四〇〇メートルほど走り、途中の降り口から下ることを考えたのだ。そこから谷の中に入ってみようと、下り坂を少し行くと、竹林の裏に出た。小さな竹林だ。記憶がよみがえった。この前、谷の奥からこのあたりまで、竹林の手前まで走ったとき、銃声が聞こえたのだった。振り返ると、猟犬を連れた人が向こうの斜面にいた。そこは、小さな丸い山をはさんで谷がふたまたに分かれるところで、その左側が自分が今たどってきた方、猟犬の人は右側の浅い小さな谷の方から出て来たのだった。

竹林の裏から、谷の奥に走ってみた。あの時の同じ場所に行こうと、車輪が三回もまわっただろうか、立入り禁止の車止めが道をふさいでいた。その先は、掘り崩され、あとかたもなかった。下は一面の平らな土地。あの丸山には一木一草もなく、黒々とした頭を突き出しているだけだった。右の谷も、左の谷も、奥まで一変していた。残ったのはこの竹林だけか。それさえも、以前の十分の一くらいか。まるで竹のトンネルのようであったのに。自転車でこの谷をたどるのを楽しみにしていた、そんな人間も一人はここにいたのだが。

そうして、その先の坂を下って、鷺に出会い、谷から出る、南斜面の坂を登りかけて、太陽に声をかけられたのだ。

太陽に向かって言う。

　行ケ谷で何が起こったのですか。

太陽は答える。

　光の当たるところで起きたことは皆見える。賢しい鳶も愚鈍な鷺も、いずれ私の光のもとにいるものたちだ。

　私はその万分の一も、万万分の一も見られません。行ケ谷で何が起こったのか渡しは知らないのです。

そこに鷺が戻ってきて言う。

　そうだ、あなたは風景のあげた悲鳴を聞いていないのです。

　悲鳴をあげたのですか。それはいつのことなのですか。

太陽は言う。

　私はそれを聞き、それを見ていた。

鷺はこっちを向いて言う。

　あなたは聞いていない。

　そう、私はまったく知らなかった。あなたは聞いたというのなら、なぜそれを伝えようとしないのです、なぜ怒ろうとしないのです。

鷺は言う。

　できるはずがない。私もただの風景の一部でしかないのだから。背に悲鳴を　聞きながらフワフワと去って行くだけ。

首を振って

　なぜ年老いた鷺は愚鈍と言われなければならないのですか。

と言ってみるが、太陽も鷺も答えない。鷺は人家の屋根を越えて左まわりに谷の口へと飛んで行く。太陽はあいかわらず光を送ってくるだけ。

せめて自分にできることは何なのか。無名の風景をこの目で見ておくことだけか。南の斜面の日に輝く道を何も考えずに力を尽くして登ることだけなのか。

■第八　　一九八五年八月三日　鎌倉

湘南自転車行を書き継ごうとする。

鎌倉に行く。

海岸ぞいの国道一三四号線をたどる。もとより鎌倉に行くには幾通りかの道すじがある。初めて鎌倉に入ったのは、確かとは言えないが、藤沢駅前を経由して大仏切通しからであったように思う。その道と梶原越えの道、それに大船回りの道も結構利用したが、後にはほとんど海岸を見ながら行く国道一三四号線の道となった。

東寄りの風が体に当たり、午前八時の太陽はすでに高い。五月に茅ケ崎に戻り南湖に住むようになってから、初めてこの道を東に向かう。引越しは五月一日、六月に自転車を二週間の修理に出し、以後二度、六月十五日に湘南平西麓、七月二八日に宇都母知神社と、自転車に乗った。少しばかり足が慣れてきたばかれで、以前であれば、鎌倉くらいはごく気楽な往復なのに、今は自然と慎重になる。夏の土曜日の朝で、西に向かう車は列をなしているが、東に向かうのは多くなく、ときおり大型トラックがやって来て、圧迫感と風圧を与えて追い抜いて行く。

鎌倉に行くのは自転車にかぎらず引っ越してからては初めてだが、だからといってそう久しぶりというほどではない。茅ケ崎を離れていた間にもしばしば訪れてきた。ほとんどは徒歩で、自転車は多くない。そもそも自転車に乗り始めた動機の一つに、鎌倉に行きたいというのがあった。徒歩で行ったのでは、一度に限られた範囲しか回わるまわることができないし、電車に乗るのは結構面倒である。自分以外のものの力を借りることなく、自分のきままな意志で動き、しかも鎌倉の辻々を自由に回われるとなると、自転車をおいてほかにない。鎌倉を初めて自転車で往復した日、何か自分の世界がこれまでになく大きく広がったような気がしたものだ。

引地川の橋を渡ると道は右にゆるやかに曲り、江ノ島が前方に見えてくる。そしてゆるい上り坂となり、三分の二ほど登ると、海が江ノ島の前に広がってくる。東に向かうときに、海が最初に広く見えるのは、ここである。江ノ島を過ぎて、小動から稲村ケ崎まで、穏やかな青い海がたえず右に見える。海の奥に、三浦半島の付け根の山々がある。ただその七里ガ浜ぞいの道をずっと稲村ケ崎まで走ることはほとんどない。少しばかり手前で、江の電にそって左手に入るのである。古い道を通って極楽寺の切通しを越えるのである。左手に入ると、国道の路面からの強い照り返しと、後方から追い越す自動車の両者から解放され、ほっとする。スピードをゆるめて、ゆっくりと左右を眺めながら走る。しばらく前にこの切通しをすんなり登り切れなかったこともあったと思い起こされ、今日もどうなるか自信はなかったが、気をあせらせず、ゆったりと構えて、ペダルに一足ごとに力を入れる。そうした備えの功あってか、とくに困難もなく切通しの上に出る。すると、そこは変わらずに、高くのびた木々の陰が、道いっぱいに広がっている。降り下れば、体に当たる風も、いつもと変わりなくここにある。

南湖に越して自転車で初めてでかけたのは湘南平の西側だった。足ならしのためと、最も湘南らしいと思っているところを見るためであった。その日、大磯の松並木の中、滄浪閣の前で陸橋を渡った。そこから見る湘南平こそ湘南を代表する風景であると思っている。山の雑木林がいつも日を受けてこのうえなく明るいからだ。湘南平の西側にある道を登った。前にイタチの会ったことのある道だ。もと通りであれと願う心に反し、道幅が広げられ、舗装が完了していた。何年ぶりかで来るような者には、そんな勝手な願いを抱く資格はないのである。ただ、坂を登り切り、そして下るときの風。それは何度走っても、いつも変わらずにそこにあった。

　　降り下る　風に会わんと来し我か　山裾めぐるこの坂道を

急に今日の予定を変更して、八幡宮に参詣する。まだ朝の中でも早い時分に入るのか、大勢の人が掃除をし、階段の上の本殿の前は打たれた水が一面に乾かずにある。そこで振り返り見る鎌倉の町は、思いの他に見通しがよい。夏であるのにこのように見通しがよいのは、あるいは木が減ったのではあろうか。

源平池にいっぱいの蓮の葉。緑の中に点々と紅白の花がまじる。まだ咲き初めのうちか。

　　蓮葉　何ぞ　田田たる

古い中国の詩句が思い出される。

妙本寺を経て光明寺に至る。いつも通りに本殿に上がって池を見る。ここにも蓮の緑に一つ二つ紅い花がまじる。こうしてまた蓮の花の時に会う。

光明寺に蓮の池があることは前々から知っていたが、実際に訪れたのは、自転車を始めて何年かしてからだ。夏の終りであったように思う。本殿の上にあがるすべを知らず、竹垣越しに蓮の葉をちらりと見ただけにとどまった。その後、池の前の廊下にまで上がって、どっかと座りこむことさえ覚えたが、花の時期には会えなかった。いつも前か後か、みずみずしい緑の葉を見るか、なかば朽ちかけた葉を見るか、あるいは小さなかたいつぼみを見るか、黒ずんだ穴のあいた茎を見るかだったのである。

源平池の蓮の方は何度見たことになるか。はっきり覚えているのは、二十二歳のとき、ヨーロッパに遊びに行って帰って来た翌日（その次の日から二、三日熱を出して寝込むのだが、その日だけは元気だった）、鎌倉に行った。八月二四日だった。花は一つないし二つあった。池を吹き抜ける風が、ことさらにすずしくやさしく思えた。

こうして光明寺の日ざしの当たる廊下に立ち、蓮を眺めると、さまざまに思い出されてくる。初めて光明寺を訪れたのはあたかも昨日のことか、まだ早すぎる日に来たのは一昨日のことか、源平池の今は通れなくなっている池のぐるりを回わったのはその前の日か、あるいはその日のあの蓮はこの日のこの蓮か。蓮の日々はつながり、一日もかかさずに蓮を見に来ていたように思われる。そしてこの次に来る蓮の日は明日なのか。蓮の前に立つとき、それ以外の日々はむなしいもののように消えてしまう。

■第九　　一九八五年八月十七日　清見ケ原

何年ぶりになるのかよくわからないが、久しぶりで湘南自転車行の発端の道を走った。それは、平塚市の西のはずれ、清見ケ原という。清見ケ原の名は後になって知ったもので、はじめのころは七国丘と呼んでいた。七国峠の北にあるためである。丘の上は南北二キロメートルに足りない平坦な道で、北に大山が間近くせまり、西は曽我山をはさんで箱根伊豆、そして富士山を見てとることができる。道自体の気持ちよさも手伝って、大磯丘陵随一の道ということができる。それが湘南自転車行を書きおこす道として選んだ理由である。

もっとも、本当にいろいろ考え抜いてその結果として選んだというようなものでもない。そのころ、湘南について何か書きたいと強く思っていた。何をどう書くのか、内容も形式もわかっていなかった。一つの試みとして湘南自転車行というのを始めてみようとしたのだった。それも長く書き続けようという気は、それほど強くはもっていなかった。ちょっとためしに書いてみようというようなものだった。それでも、まずは最初が肝心ということで、どの場所から書き始めたらよいのかを考えた。それによって自ずと湘南自転車行の性格が規定されてくるのかもしれない。その場所に行った直後にそこについて書くということで始めようとしたので、書くためにはどこかに行く必要があった。それが、清見ケ原になったのは、ある程度は偶然といった方がよいのかもしれない。書き始めたい気持ちが高まって行く中で、それとはほとんど無関係に清見ケ原に行きたいという思いも強くなっていた。というのは、その少し前に一度、清見ケ原の道を北から南に走っていて、なかなかよろしく、逆に、南から北に向いて走ったらより眺めがよいに違いないと思って、それを一日も早くためしてみたかったからだ。

こうして清見ケ原に行き、そして書いた湘南自転車行の第一の歌は、実際の出来栄えはともかくとして、自分にとっては、少なくとも今日まで書き続けるきっかけとなるという意味があった。第一の歌では、書く主体である自分と、書かれる対象ないし自分を存在させてくれる環境としての湘南との関わり方をどうとらえたらよいのか、それを書こうとしたようだった。何をどのように書くのか、自分にとってそれはどんな行為なのか、そんなことを考えながらに走ったものだから、相当に気負っていた。書かれたものもそうであった。

今日はもはやそんな気負などはない。あるいは、ここを走れば特別な感慨がわいてくることもあろうかと思っていたのだが、それも、走ってみて今、わいてくるものもない。心は鈍く動かない。七国峠でバス道を横切り、細い坂道を登った。ああいよいよ丘の入り口に来たかと思ったばかり、その後は、丘の姿とまわりの眺望とが、以前と変わらずあることを確認したにすぎない。大山は確かに近くにあり、曽我山はこの丘と並行して走り、その向こうに箱根の山々が雲に隠されながら連なっている。富士山は見えない。丘の上の畑のようすも変わりがない。

清見ケ原の道は平穏だ。何も書き記す必要もない平穏さ。ただ、そう言うのは自分の目と耳が十分に開かれていないせいなのかもしれない。見るべきもの、聞くべきものが、入ってきていのかもしれない。入ってきても心が働かないこともあるだろう。しかし、そうではないのかもしれない。今日はすでにここにくる前に、心を大きく動揺させることがすでに一つあった。だから、もう心に何かを受け入れる余地がなくなってしまったのかもしれないのだ。

湘南平の西側を走ってきた。湘南平の西はせいぜい一〇〇メートルばかりの起伏の緩やか山なみになっている。そこに南側から入る二つの谷がある。谷を通ってそれぞれ北に通じる道がある。二つの谷の道は細長い尾根でへだてられ、谷は田ないし畑、尾根は雑木ないし蜜柑の林になっている。二つの道のうち東側の谷の南の入り口には神社がある。その参道には濃い影を落とす木々が並び、東の谷の道に入るときは、その参道の前と脇で三度曲がることになる。谷の中は割りと広く、道はまあまあ幅広く勾配がゆるく屈曲も少ない。一方、西側の谷の南の入り口は畑ないしビニールハウスでがあって、一度右に曲がってから谷に入る。谷はやや狭く、ところどころ道が狭まり、屈曲があり、勾配のきつい箇所もある。東の谷では、まっすぐに一定のペースで進むうちにゆるやかに峠に着く。西の谷では、ペースと力配分をたえず変化させながら進み、最後に大きく湾曲した急坂を登って峠に着く。かくいうように、西の谷は東の谷より変化が多く、興じるところも多い。

西の谷に入って最初に、まず小さな坂がある。それからゆるやかな右回りの道があって、左から突き出てきた尾根の向こう側に出ると、谷のいちばん奥を見通せるようになる。道の右側は畑で、振り返ると、南に水平線が見える。さらに道を行くと、時に一本、また一本と、左の蜜柑畑の山に入る脇道がある。タイヤが道にころがる石をはじき、次第に自転車は谷の奥へと入って行く。こうして、自転車が先に進むのは、はたして自分がこぐからなのだろうか。どうもそうではないように思われる。本当は、谷が自転車を奥へと引っ張っているのである。だから、自転車に乗っている自分も自然と奥へと吸い込まれてしまうだけなのだ。もしも、吸い込まれるままに自分をまかせることができるのならば、谷の奥にまで到達したら、そのときにはまた別の谷がその奥に開け、さらにそこへと吸い込まれ、その谷の奥にまで到達したら、また別の谷が開け、そこへと吸い込まれるに違いないのだ。しかし、残念なことに、道は左に折れて、自分は左へとこぎ進んでしまい、谷のなせるがままに任せることができないのだ。その左に曲がったとたんに勾配がきつくなり、土を掘り下げた溝に沿って泥水が流れ下ってくる。道が細くなって、両側にせまる斜面から、ひんやりとした空気が流れ出てきて、前方は草木にさえぎられ、上からも木々の枝で蓋をされ、ついにはすっかり泥道となって、全身は薄暗い冷気の中に包み込まれてしまう。この木々のトンネルともいうところをずずっとくぐり抜けると、右手に松の木の並ぶ峠が初めて見えてくる。

この峠を小天城峠と称する。その所以は、谷が、自転車をその奥へ吸い込む不思議な生気を持っていること、峠に暗い冷気のただようトンネルがあること、そして峠を越えた先に舗装した道があって一気に下れることによる。

このような小天城峠は、今日この日は、すでに過去のものとなっていた。ある程度の変貌は予想していた。だが、思う以上のことが起きていた。谷の奥は自転車を引っ張る力を失っていた。そして、道が大きく左に折れることろから峠までの間が、完全に様変りし、暗い冷気のトンネルはなく、峠の松はなかった。トンネルと松のないことは覚悟していた。そのあたりが、道幅が広げられ、舗装されるであろうことは工事中に来て知っていたのである。しかし、谷の奥の生気が失われているとは予想もしていなかった。谷の奥に、大きな建物が聳えて、それは、谷の入り口に立って、今から入ろうとする者に威圧感を与え、人が入るの拒もうとするのだ。

小天城峠は、その名を自分がつけてから、わずかの期間のうちにすっかり変わってしまい、小天城峠と称する所以のものをすべて失ってしまった。もしも、湘南自転車行を書き継ぐことにわずかながらでも意味があるとすれば、ある瞬間の湘南の姿を文章にして書き留め得るとういうことぐらいであろう。自分がたまたま自転車で通り過ぎるのは、広い湘南のごくわずかな場所だけ、それも湘南の何万年の時間の中のほんの一瞬間だけ。まして、書き留め得るのはさらにごくささいなものだけ。しかし、それでも、その場所は宇宙の中でそこにしかないものであり、その瞬間は宇宙の歴史の中でそのときにしかないものである。唯一無二の場所であって時間である。だから、それを書き留めるのであるから、意味のないことではないと言うことができるはずだ。そうであれば、いくらかでも、書き留め得る場所と時間を多くすることができれば、いささかその意味も増すことになるだろう。それが、湘南自転車行を書き継ぐことの目的としてもよいだろう。

清見ケ原に行ったことで、こんなことを考えることになった。とすれば、やはり、清見ケ原とこの湘南自転車行との因縁は浅くないということであろうか。

湘南自転車行　第三輯

一九八八年から一九九〇年に書いたもの。

■第一　　十一月十二日　飯泉観音

何故に自転車に乗るのだろうか。

久しぶりに酒匂川までやってきた。

初めて訪れた飯泉観音は、ちょうど七五三で、本堂が美しく飾られていた。

そこから河原までは、ごくわずかである。

河原は、作業用の大型自動車、あるいは廃材などの置場になっているのか、雑然としている。

しかし、川の水はこだわることなく流れ、目を上げれば、箱根の山が間近にある。

二子山は左奥に見え隠れに控え、駒ケ岳が正面に位置し、輪郭の一部始終まで子細に見てとることができる。

この前、酒匂川まできたのはいつのことだろうか。

たぶん、芦ノ湖の手前までいって帰ってきた、あの日以来なのだろうが、それよりも、酒匂川というと、朝、足柄峠を登りにいったときのことの方が印象が強い。

早朝に出発し、東海道が酒匂川を越える橋の上でひと休みした。

日は薄雲にさえぎられてまだ東に低く、川のおもてには朝霧のなごりがあった。箱根は全体に青く、山頂だけが明るかった。

とりわけ三角錐の形をした矢倉沢は、緑色に秀でていた。

その矢倉沢の下を巡って、ここからは見えない足柄の峠に上がって、白く輝く富士山の正面に対する。

そう思うと、足がぶるるっとふるえた。

自転車に乗るのは、遠く距離を延ばすためであろうか。

飯泉観音から下曽我に向かう。

成田のあたりは刈り取りを終えた水田が広がっている。

小刻みに曲り折れる道が、ちょうど東向きになるとき、曽我の山が正面にくる。いつもは、反対側から、しかもほとんど、湘南平や吾妻山たちの背後に見ているのと比べて、はるかに大きく、堂々としている。

突然に、坂が現れる。

曽我連山は平地から急に高まると思い込んでいたのだが、実は、その手前に千代の丘があったのだった。

まだまだ走ってみなければ知られないことが多い。

千代にはお寺と神社が目立っている。

自転車に乗るのは、くまなく道をたどるためであろうか。

城前寺から、いよいよ曽我山に登る。

梅林の間から、みかん畑を縫って、坂の取っ付きにくる。

ここは一度登り、一度下り、その間に徒歩で登ってもいる。

初めてのときはきつかったが、なんとかしてか、かなりのところまで一気に走り登ったように記憶している。

その次は、徒歩でさえ、息が切れるのに、どうして自転車で登れたのだろうかといぶかしく思った。

三度目は、下りでさえ危ういほどのこの急坂を登るなどとは、知らなかったからこそやってしまったこと、今からは決して二度と登ろうなどと考えまいと思ったものだ。

それが、四度目の今、登ろうと坂の口にまできている。

自転車に乗るのは、坂登りに挑むためであろうか。

九十九折れの坂の第一の折れだけ走り登って、そうそうに敗退した。

即刻、押しに転ずる。

自転車を押して、一歩上がるごとに、みかんの黄色の帯びが一巻き分、山を巡って、目の下になる。

また、一歩上がるごとに、富士山が、雲を北から南になびかせながら、ともに高くへと登ってくる。

一歩上がっては、みかんを見まわし、一歩上がっては、富士を見返る。

そして、また道が折れれば、山の尾根を越して小田原の海がのぞき、真鶴の岬が黒く、水が白くそこにある。

自転車の乗るのは、美景を尽くすためであろうか。

六本松の上に出る。

南東に眺望が開け、二宮の海から江ノ島まで、吾妻山から鷹取山まで、海面はちらちらと光に揺ぎ、丘陵はもこもこと緑に憩う。

冬にここは、光の届く限りが目のうちにあり、海を取り囲む三浦、房総から大島、伊豆のいちいちの頂きを見てとることができる。

春にここは、処々方々に焚火の煙があがり、そのここそこに、開こうとしている桜の花を思い見ることができる。

夏にここは、海からの風が上りきて、眼下の丘陵のくぼみくぼみに、薄い潮の雲がただよう。

秋にここにきたのは、今日が初めてである。

丘陵の気は澄み、海の彼方はもやに閉ざされる。

みかんは目にしみるほどに鮮かに輝く。

その間を、尾を伸ばしてキジが飛んでいく。

自転車に乗るのは、四季のすべてに出会うためであろうか。

沼代は桜ばかりをめでていたが、桜のトンネルに続くこの道の下の斜面は、水田に至るまでの間、みかん畑になっている。

うかつにもそれを、今日、おばあさんが取り入れたみかんをトラックに積んでいるかたわらを通るまで気がつかずにいた。

ふいに、そのみかんを食べてみたくなった。

ここの木になったというみかんが食べたくなった。

この人が作ったというみかんが食べたくなった。

そこで

　みかんを分けてくださいますか。

と、きいてみた。

すると

　年寄りにはわかんないから、息子がじきに戻ってくるよ。

と、いいつつ、上体をほとんど直角に曲げ、道から下の斜面に降りていく。

汗をぬぐいながら待つともなしに立っていると、みかんをいっぱいにかついでおじさんがあがってくる。

またきいてみる。

ふりむきもせずに、

　一つや二つならそこから食べていきな。

と、とりあおうとせずに、そのまま、また降りていってしまう。

おりから、通りかかったおばさんと、

　今年は値がさがんないようだ。

などと大声で話し始める。

自転車に乗るのは、人々の暮らし方の断片に触れようとするためだろうか。

大磯から平塚まで、意外なほどに、速く走ることができる。

もちろん、一般的にいえば、はなはだ遅いのである。

実際、ほんの少し前にいた自転車はもうずっと先に小さくなっている。

足の衰えに合うように、三年前に、最大のギヤの比率を落としたので、一定以上のスピ―ドは出ないようになっている。

それでも、帰り道になると疲れてしまって、ギヤ比をさらに下げて、ようようにもどってくるというありさまとなっていた。

それが、今日はどうにか、力が帰り道まで続いている。

さらに、もっと速くいってみたいという気持ちも出てくる。

力がせいいっぱいのときには、走ることだけに懸命で、先にいくこと以外には何も頭の中には浮かんでこない。

ただ自転車をこぐことだけに専念している。

ほんの少しだけでも余裕ができると、前だけでなく脇を見ることも、走ることのほかに何かをそれとなく考えることもできる。

今年の春から再訪を期して湘南の地を走り出して八回目、やっと、単に走ること以外の何かに気がまわりそうになってきた。

あるいは、湘南自転車行を書き継ぐことも可能であるかもしれない。

自転車に乗るのは、湘南について書くためであろうか。

何故に自転車に乗るのだろうか。

　　　（一九八八年十一月二十日）

■第二　　十一月二十六日　海老名

今はもう、予定をすっかり切り上げてしまうべき時なのだろうか。

小さな橋の手前で、これは道を取り違えたかと、向きを変える、とたんに、それまでの追い風が向かい風になり、強風にあおられ、あえぎつつしばらく行って、やはり正しい道は今のあの橋を渡るのであったのだと気付いた。

そのときに、もうここで帰るべきなのだろうかと思ったのだ。

もとより、今日は、一度は出掛けるのをあきらめていた。

夜明け前から風が強かった。

西南の風が、春先のように激しく吹いていた。

こんな風ではつらいばかりで、走っても仕方あるまいと、一日家にいることにした。

それでも未練が残った。

今日こそ行きたいと思っていた所があるからだ。

七時ごろ、風がやんだ。

朝凪だ。

どうせ、しばらくするとまた吹き出してくるのだろう。

とはいうものの、時折り気になり外を見やる。

どういうわけか、一時間ほどしてもまだ吹かない。

木の枝が動いていない。

これならばと、希望がわき、そうなるともうたまらずに、飛び出す。

鶴嶺八幡宮の真黄色のイチョウを脇に見、北陵高校下から薄青色の富士山を彼方に見、行ケ谷の口まで一息でくる。

行ケ谷は、小出川がつくる浅く幅広の谷に、東側から合流する小さな谷。

木々に囲まれた谷の奥に心をひかれるが、今は行き過ぎる。

刈り終わったあとの水田のまわりの枯れ草がざわざわと鳴っている。

風が、やはり出てきたのだ。

行きは北に向かって走るからよいようなものの、帰りが思いやられる。

乾いた冷たい風にあおられ通しで走るのは難儀なものだ。

適当な所で切り上げるべきではないか。

そして、いま、橋からいったん引き返したいまこそ、予定を解消してしまうべきときなのだ。

しかし、自転車は走り続けようとする。

このまま帰ってしまうことを許そうとはしてくれない。

それならば、正しい道は、また戻って橋を渡らなければならない。

家に帰るのならば、右に曲がるのだ。

どちらともつかぬままに、車輪は回転して、左側へと進む。

そこは谷がまわりこんで、芹沢の丘陵の裏側になる。

日がかげるが、同時に、風もこない。

いつ降った雨か、地面がまだ乾かずに、水たまりさえ残っている。

腰掛神社への分岐点も過ぎて、小出川の谷をさらにさかのぼっていく。

こうなれば、先に進む以外にない。

水道道路から目久尻川に回って行けば、最初の予定とは反対回りにはなるが、このままの向きでもたどり着くことができる。

いずれ今日は行くほかなかったのだ。

海老名。

行くべき所は海老名である。

もう一月以上も前から、海老名に必ずや行くべしと決めていた。

海老名にはこだわりがあった。

三年半前に再び茅ケ崎に戻って以来、一度は海老名に行っておかなければならないと思っていた。

それがとうとう、今の今まで延びてきてしまっていたのだ。

せめて今年の内にはという気持ちが強くなった。

だからもう、行くことをとにかく決めたのだった。

海老名へのこだわりには、理由がいくらかある。

海老名に、一度、住もうと考えたことがあった。

四谷の社宅を半年余りのうちに出なければならなくなったときの夏、ここに住もうかと、出産を四カ月後に控えた妻とともにやってきた。

その三年前の秋にも、二人できたことがあった。

どうせ住むのなら東京から西南の方角の土地にしたいというおおまかな限定があった。

西南の方向というのには、むろん、自転車で走ることのできる環境の良否も考えに入っていた。

それに経済的の問題も、通勤時間の問題もあった。

結局、小田急線方面では海老名のあたり、あるいは、東海道・横須賀線面なら戸塚から逗子もしくは平塚まで、というのが具体的に考えられた場所だった。その中で経済的負担の軽い海老名をまず最初に見に行った。

海老名が最初になったのはそれだけのことではなかった。

台地の下に広がる水田で稲藁が燃やされ煙が高々と昇り、台地の斜面のそこここに植えられた柿の木に熟し始めた実が目を射るほどに赤い、これらすべてが、丹沢の向こうに落ちていく日の影の中にある。

それが、結婚する半年前に二人で見た海老名だった。

四谷には決して存在しえない風景がそこにあったことが思い起こされた。

そして、海老名からは、山が近い。

しばらく行けなかった林道も自転車で走れるだろう。

さらに、海老名には国分寺跡がある。

そこに行くたびに、自分が相模の国の本当の中心にいるという思いをもつことができることだろう。

だから海老名に住んでみようと考えたのだ。

妻と再び海老名に行ったときに、国道沿いは目のくらむような日射と騒音、国分寺跡のあたりはむせるような草の臭いとほこり、ひとまわりしただけで足は重かった。

懐かしい再会に、軽い失望はつきものなのかもしれない。

いま、茅ケ崎に住んでいる。

海老名には行かなければならない。

見捨てたというわけではないのだが、海老名には何かしら負目を感じる。

このくらいの風で、行くのをまた延期するわけにはいかない。

海老名に住んでいたら、この道を、海に向かうためにたどったことであろう。おそらく、現在、丹沢の道を慕う思い以上の憧れを抱きつつ海に向かうことになっていたことだろう。

その差が海老名と茅ケ崎を分けたのだろうか。

海老名には、ともかくも行かなければならない。

国分寺跡に、また立たなければならない。

台地の上から真近く大山を仰ぎみなければならない。

風は、ますます強くなっている。

もう、風のことなど、考えに入れてはいけない。

　　　（一九八八年十二月四日）

■第三　　十二月十日　天園

書かずにおくとは、淡くなりゆくにまかせること。

少なくとも数度は登り降りしたはずのこの道。

瑞泉寺の脇から鎌倉アルプスの尾根によじ登るこの坂。

以前、どのようにして登ったのか、あるいは下ったのか、まるで覚えがないのだ。

木の根が次々に段をつくり、踏み固められた土がつるつるの斜面となり、階段ともすべり台ともつかぬこの坂。

今、初めてここを登るような気がしてくる。

自転車をかついだり押したり、息が切れ、汗が流れ、上着を取ろうといったん止まる。

ほっとすると、耳に音が入り出し、下からの声が上がってくる。

そこでようやく思い出す。

初めてここの下りにかかったとき、下からの声の響きが同じように聞え、道もようやく終りに近付いたと安堵したことを。

尾根の上に出てからも、さらにまだやはりこの日初めてたどる心地がする。

目隠しでもして、ここに連れてこられたら、どこに自分がいるのやら見当もつかないにちがいない。

それでも、時おり自転車にこぎ乗ることができるくらいの緩やかな道があるという感じだけは、かろうじて記憶の中にあった。

杉の林の中を軽く走る。

目の前に急な坂が現れる。

これはどうしても、自転車をかつぎ上げなければならない。

そうだ、確かにここを、おそるおそる下ったことがある。

それは、まだ自転車をかつぐことに慣れていなかったころ、そろりそろりと足を延ばし、下ばかり見て降りたのだ。

しかし、今、登ると、右側に目に入ってくるものがある。

貝吹き地蔵という立て札がある。

何ということであろうか。

貝吹き地蔵とは、まだ見ぬ鎌倉の秘境の一つとして、いずれは行きたいものだとかねてから思っていたところではないか。

実は、その脇をもうすでに何回も通っていたのだ。

どうして気付かずにいたのだろうか。

これも覚えがない。

ここを登りきると、いったんまた平坦な道。

そして、二またに分かれる。

右に行くべきか、左に行くべきか。

こんな道の選択をしたことなどあったのだろうか。

何もかも初めてのことのようだ。

過去の数度の道は、すべてあってもなかったことかのようである。

天園への道、それは自転車を始めようとするに当たって、直接的な動機を与えてくれた。

一九七八年の秋であったろうか、自転車の話をいろいろしていた仁丹居士が、　天園に行ってきた

といった。

天園とは、どこの何のことか見当もつかなかった。

自転車というものも買い物自転車しか触れたことがなかった。

　テンエンって何だ。

　鎌倉アルプスの最高峰さ。

鎌倉といえば三方を山に囲まれた要害の地と、昔々から聞いてきたから、その中の最高峰といえばそれなりのところであろうとは思われたが、場所も高さのほども実のところまるでわからない。

　自転車で山に登るのか。

　富士山だって、槍ヶ岳だって登るやつがいるのさ。

　だってこげやしないだろう。

　かつぐんだよ、単なる荷物みたいなものだな。天園に上がるときにもかつが　なければならなかったな。

世の中にはどうやら奇怪な連中がいるらしい。

富士山、槍ヶ岳何ぞは、とうてい及びもつかない他所の話だが、鎌倉となれば、少しは現実味がある。

そんな奇怪な連中の真似ごとをしてみるのも悪くないかもしれない。

そのころは、ちょうど何かを探していたころだったようだ。

鎌倉から家まで歩いてみたのはしばらく前のことだったが、歩くのは忍耐がいるようで、しばしばやれるようなことではなかった。

バイクに乗って日帰りで信州あたりまで行くという友達もいたが、むやみと距離をかせぐというのも気乗りがしない。

むろん、電車を使う旅行などはおっくうで話にならない。

すると、自転車をころがす当たりが適当なところかもしれない。

天園に登ったというようなことは、自転車には何か妙な面白味があることのように感じられた。

自分にもそのくらいのことはできるかもしれない。

天園の所在はまださっぱりわからないのだけれども。

天園、標高一五七・七メートル、は鎌倉の最高峰、六国山ともいい、北西の太平山、いわゆる南壁一五七・五メートルとともに、鎌倉アルプスの屋根をつくっている。

天園には休憩所があり、三方に道が通じている。

東には遠く円海山に至り、南には瑞泉寺に下り、西にはすぐ隣の太平山に接する。

太平山は岩山だが、北半分はすっぱりと切り取られてゴルフ場の駐車場にされてしまっている。

太平山からは南側に眺望が開け、真下の獅子舞の谷から、彼方は三浦二子山、名越、稲村ケ崎を見晴らすことができる。

この岩を越えると、尾根道の、いわゆる鎌倉アルプス縦走路となり、建長寺の半僧坊に出る。

天園には四回行った。

そのうち、太平山、すなわち南壁にも行ったのは二回のようだ。

一度目は、鎌倉湖の方からゴルフ場専用の自動車道路を登り、ゴルフ場のフェンスをとびこえた。

そこが太平山山頂の岩の下。

そうして天園を経て、南へ浄妙寺の方に下った。

自転車を始めた年の五月二十日ことである。

二度目は、円海山から尾根をたどって天園に行った。

そして瑞泉寺に下った。

同じ年の六月二十日のこと。

三度目は、初めて瑞泉寺から登り、天園を経て、鎌倉霊園に迷い降りた。

翌年の二月二日のこと。

これで天園から南の尾根は、三回たどったことになる。

四度目は、瑞泉寺から登り、太平山を越えて、十王岩、半僧坊を経て、建長寺に抜けた。

その年の十一月一日のこと。

こうして二年の間に四度行きながら、それ以後、八年がたってしまった。

しかも、自転車行を書き始めたのが、四度目の天園行きの直後、十一月十三日のことであった。

自転車に乗り始める契機となった天園への道はついにこれまで書かれずにいたのである。

一九八八年春、ようやく、自転車に真面目に取り組み直すことになった。

いま一度、自転車に芦ノ湖を見せてやりたい、というのが再開した動機であったが、夏の長雨にたたられて、あわよくば秋にもという目標はあえなくついえた。

そしてせめて年内に、天園に登るくらいのことはしようと考えた。

自転車を始めた初期の目標を、再開した今に置き換える。

天園に登れれば、それなりに足腰が整ってきたあかしになるだろう。

十二月十日、こうして天園に登り、太平山にまできた。

岩の下に自転車を止め、空身で岩に上がる。

以前、子供たちが岩いっぱいをおおいつくして弁当をひろげている歓声の間を、自転車を肩に登ったことを思い出す。

この山頂は、地層の関係からか、座るのにちょうどよいほどに、ひな段型に積み重なって、全体として一つの岩になっている。

上に立ってふかえり見れば、当時よりずっとなじみになった処々方々のあれこれを子細に望むことができる。

真下の谷と池子の森を除けば、一度は通ったことのある道が、それらのあれこれを縫っている。

そのうちのあの道は、アスファルトのくぼみ方、水たまりの色あい、木々の茂り具合など明確な記憶があるが、そのうちの別のその道は、ただ行ったことがあるはずというだけで茫々としている。

そして、あの道は何回か言葉に表し、あの道は一回だけだが書き、あの道はまだ一度も記したことがない。

岩を降り、山を下ろうとする。

自転車をゴルフ上のフェンスにくくり付けていた鎖をはずす。

このフェンスを越えれば、舗装道路を一気に下ることができる。

何の苦もなく、むしろ風を切る快感を味わうことができる。

瑞泉寺の方にもどるには、登ってきたよりも労苦が大きいだろう。

ここで、自転車をひょいと持ち上げさえすればよいのである。

後は下までシュッーと何もしないで行くことができる。

自転車に手をかける。

そのとき別の自転車が現れた。

がたがたのところをスッーと走り、岩の下までくる。

ちらりとこちらを見る。

体をひらりと翻したかと思うまに、もう上と下とが入れかわって、自転車が肩の上に乗っている。

息もつがずに、ピョンピョンと岩をかけ上り、あっというまに、向こうに姿を消してしまう。

あまりのすばやさに、あたりには何の余韻も残らない。

自転車に乗る。

フェンスを越えようなどという気持ちは完全に消されてしまった。

そのおかげで、天園では、小高い一角に立って景色の中に入り込んでいる男性に、振り返らぬままに

　向こうの道を回ったほうがいいよ

と、低い声でぶっきらぼうに注意され、その下では、崩れかかった坂を息をはずませて上ってくる女性の集団に、

　あんちゃん、元気あるね

と、年に似合わぬ勘高い声援を受け、その先の紅葉の下くぐる細い流れを渡る地点では、音もなく出現した自転車男に、

　ちわっ、

と、足元のおぼつかない相手をあわれむようなあいさつを受けることができたのである。

これらは、瑞泉寺ではなく、亀ケ淵に降りる獅子舞の谷でおこったこと。

最初の人の注意を聞かなかったために、思っていたのとは別の急な道を降りてしまったのである。

だが、だからこうして、天園に至る二つの道を、いっぺんに文字にうつすということができるようになったのだ。

　　　（一九八九年一月十五日）

■第四　　一月二十一日　台山

この驚きの朝のためだったのだろうか。

この日まで出掛けられずにしておかれたのは、この朝のためだったのだろうか。

湘南大橋を渡る。

新しい橋がかかってから水面が遠くなった。

その分、目の位置が高くなっている。

須賀の港の上、平塚の市街の上に、大山の山裾が長く東に延びている。

昨日までの雨が、いまは水蒸気と変じて山全体を包んでいる。

そこに低く朝の日が当たって、白く無数の点が明るくきらめく。

景色全体が一つの平らな面に描かれているようだ。

それは、太陽の光の指す方向と自分の視線とがちょうど一致しているためであろう。

陰影がまったくないのだ。

伊勢原のあたりであろうか、高い煙突から煙が吐き出され、それが地面から立ち昇る蒸気と一体になって雲のたばとなり、太くねじれて、西へとたなびいている。

その上には、二ノ塔三ノ塔が雨に洗われこざっぱりとし、湯上がりのようなみずみずしい姿を見せている。

雲の流れのままに目を転じていけば、富士が暖かい雨のおかげで雪の衣を薄くし、軽快な水色の春のシャツの裾を出している。

その脇にぽっかりと雲が湧く。

振り返ると、馬入の干潟は満々と水をたたえ、たくさんの鳥が群れている。

これらすべてのものが、たっぷりとふくんだ水を青空へと吐き出そうとしている大地の上にある。

大磯鴫立庵の裏の口の下で、一息入れる。

ここは南東に空が開き、朝のうちから十分に日がたまっている。

体を伸ばして、大きく空気を吸う。

見上げると、石段の先の庭の奥に梅の木がある。

ふっと香りがここまでやってきそうな。

半ば以上も開いて入る。

花を好んでか小さな鳥たちがしきりに訪れている。

メジロだろうか。

また走りだそうと自転車をまたぐ。

体全体に汗がにじむ。

東海道から離れて丘陵の方に向かう。

カーンカーンと畑の間で柱を組む音が、小さな尾根に響いて返ってくる。

その音の先に、川匂神社がある。

何年振りかの参詣ということになる。

境内は記憶の中にあるものよりも広く、雑然とし、そして鄙びていた。

もっと小じんまりとした所のように思っていた。

いつの間にか頭の中で変形してしまったのか、別の季節が異なる印象を与えていたのかもしれない。

石段を降りかけて振り返ると、山門には茅葺きの屋根がのっている。

茅はじっとりと湿っている。

まだそこにまでは日がささないために、昨日のままに水が含まれ残っているのだ。

石段から南は、真っ青な空。

空は上にばかりではなく、葉が落ちた林の木々の間にもある。

雑木林は、ぐるりと田圃を囲んでいる。

田圃の畦は土地のなりのままに、ゆるやかに曲がっている。

稲の根株が残り、そこから芽が出ている。

黒くぬれた田圃に、その芽の薄緑がことのほか鮮やかに見える。

石段を降りると、入れ違いに小さな女の子を連れたお爺さんがやってくる。

むしろ、女の子の方が先じて、お爺さんをひっぱているかのようでもある。

お爺さんが手を離すと、女の子はさっさと石段を登っていく。

ここを折れれば山道であろう。

そう確信して、最後のひと踏ん張りと坂を登る。

息を切らして前を見上げる。

真っ白なコンクリート。

これはなんであろうか。

地図にはなかったが、その形状から貯水池であるらしい。

道はコンクリートの方に真っすぐ続くはず。

貯水池の中に落ちてしまうではないか。

案ずるよりも進むがよく、貯水池は二つに分かれていて、もともとの道筋がコンクリートの溝として残されている。

そこをすぎればいよいよ山。

山に入る前に後ろを見る。

通り抜けてきた丘の上の団地が目の下にある。

その先の、目の高さの所に青白く光る帯がある。

それは二宮の海。

海の光を目に残したまま、山に入る。

蜜柑の山。

すべてが蜜柑。

全身が蜜柑の甘い香りに包まれる。

どこが道であろう。

蜜柑ばかりで、入りようがないと迷っていると、親切にも、ダンボールの切れ端を蜜柑の枝にたらして、矢印と道という字が書いてある。

それは蜜柑の畑のへりをたどるだけのもの。

案内がなければ踏み込めなかったに違いない。

台山。

この山は一度登りそこなった。

東の斜面から登ろうとして途中で道を失った。

思いがけず今日また挑むことになった。

しかし今日もまた、あのダンボールの親切な道案内にもかかわらず、また登り損ないそうである。

あの道に出れば、きっと行けるに違いない、そう思う道に、今立っているとこらからはつながらない。

林の下にあるその道には行けずに、逆の方に進まなければならない。

地図の通りに行くことができず、望まない所に出た。

ここは蜜柑を運び出すための道であろう。

自然に行くと下に降りてしまう。
こうなったら仕方ない。

ぐるり遠巻きにして、もしやさっきの道に行ければ幸運。

それがだめならまたあきらめるのか。

二度目の失敗となるか。

いや、今日こそはと、自転車をこぎ出す。

舗装された道を、ほぼ円を描くようにして、四分の三周もして、いったん途切れた山頂への道に出るという心づもり。

ゆるやかな曲線に沿って進む。

登りが終り、ここでいったん下って、その先の三叉路で左に折れて、また登ろう。

スピードがあがって、その三叉路に出た。

ああ、失敗ではないか。

これは以前にきた道だ。

初めて台山に登ろうとして、果たせなかったときにここにきたのだ。

同じ失敗は繰り返すまいと、今日は別の方向からやってきたというのに、結局またここにきてしまった。

この先に小屋があって、蜜柑畑があって、そこでおしまいなのだ。

わかってはいるが、行くだけはまた行ってみよう。

行けば確かにその通りになる。

蜜柑畑が広がり、道らしいものはない。

たださっきの経験で、畑のへりをたどって行けばなんとかなるのかもしれない。何歩か進んでみる。

土がほこほことして、足がはまる。

これでは道のはずがない。

ぐるりと頭をめぐらすと、一段高い尾根があり、高圧線の鉄塔が立っている。そのあたりこそ台山の山頂であろう。

またも行きつくことができずとは。

百数十メートルというような山に二度しりぞけられる。

帰るかと小屋まで引き返すと、一段下に道があるのに気付く。

登ることばかり考えてきたが、いったん下がってみるか。

だめでもともと。

細い道だが、よく踏み固められている。

自転車を押して進む。

Ｓの字状に曲がりつつ、道はとぎれずに続いていてくれる。

出た。

目指していた舗装道路に出た。

よし。

一気に走る。

蜜柑の木々の間を走る。

山頂目指して走る。

山と積まれたピーナッツの殻からもうもうと湯気が立つのを横に見て走る。

蜜柑を満載した小型トラックの脇を抜けて走る。

枝から無数に落ちた蜜柑から立ち昇る香りを体に染み込ませて走る。

走る。

だがいつしか道は下りに変じ、杉の林の中に消えて行き止まりになる。

台山を離れる。

山には南から入って北に抜けた。

その間に結局、山頂を通ったはずだ。

高圧線の鉄塔の下も通った。

しかし、そこに行きつくまでのことに比べれば、それ自体はたいしたことではない。

山頂に立つことそのものにはたいした意味がない。

そこへ行こうとしていたときにしたこと、あるいは途中で見たものが楽しいのである。

それで、台山は登り終わった。

山を下り、広い中里のあたりの谷あいの道を南に出て、大磯から平塚。

そして馬入川の上。

帰りは東風の中。

昨日は南風。

異様なほどに生暖かい雨が降った。

今日は少し気温が下がったとはいえ、走るほどに風は暖かく、今が冬であるとは思いもよらぬ。

ようやく今年に入って初めて出掛けることができた。

なにやかやと行くことができず、そのために、あそこあるいはここと、行きたい所への思いがつのった。

それらはいずれも少しけわしい山の道を考えていた。

今日はすべって危なかろう。

思いがけずに予想もしていなかった所に行くことになった。

ただまさしく雨上がりの好日。

これは、万を持して用意していた朝。

驚きの朝。

　　　（一九八九年二月五日）

■第五　　二月十一日　六国見山

一度は試みて登頂しそこなった未登峰の山が三つあった。

台山、六国見山、八国見山である。

八国見山は渋沢丘陵の西にある三百メートル余りの山、六国見山は円覚寺の裏の百五十メートル足らずの山、台山は二宮の吾妻山の奥の百五十メートル程度の山。

前回、台山に登ることができたので気をよくしたからというわけでもないが、今日は六国見山に行ってきた。

　もう山の上が白くかすんできてしまったよ。もっとくっきりしていたんだが　なあ。

　朝のうちはもっと澄んでいましたねえ。

　早くこようと思ったんだけど、今日はだめだった。

　いつもここにくるのですか。

　ここから富士山を撮ることにしてな。三回目かな、写真を撮るのは。木があ　ってな、こういうふうに正面に富士山がきて。ねらっていたんだ。今日こそ　は、やっと雪が積もって。

　そうですね。今年はあんまり白くなっていなかったから。

　箱根も初めてだな、こんなになったのは。

六十歳くらいであろうか、犬とともに山頂に立っていたその男の人と、いつの間にか並んで会話をかわすことになった。

富士は山裾の下の方まで白くなっている。

南側がより白くて北側が半分ほどしか白くないのは、風向きの加減でそれほど雪が降らなかった所もあったのだろう。

箱根も上の方が白くなっている。

駒ケ岳、二子山、それに大観山か、いずれも南側の方が白い。

さきほど辻堂海岸で見てきた箱根よりも、随分と穏やかな感じに変わっているのは、空気に水蒸気がまじってきたせいだろう。

それに、箱根の山全体が少し小さくなったようだ。

それは距離のせいか。

もともとから遠くにある富士山は小さくなるということもない。

だから、その分、ここでは、富士が大きく立派に見える。

　この近くですか、住んでいるのは。

　まあそのあたりだ。一週間に一度くらいは歩こうと思ってな。このへんとか、　それに、天園にも行ったりするな。そう、天園で、自転車を肩にかついで、　それで走って行くのを見たことがある。

　それは、私かもしれませんよ。天園にも行ったりするから。

　そうか。どっからきたんだ。

　茅ケ崎。ほら、あそこにパシフィックホテルが小さく見えるでしょう、あの　先の方です。

　いい運動になるな。高麗山なんかにも行くんだろう。大磯から登る道をこん　ど行ってみようと思っているんだ。

　あそこもいいですよ。ここと同じように眺めがよくて。ほら、あの、白くち　ょっと見える塔に登るといいですよ。

　そうかい。歩行ラリーというのを考えてな。こう歩きながらちょびちょび飲　むんだ。天園まで行って、目的地に着いて、それから飲んだりすると、あと　足がだるくなっちゃうからだめなんだが、途中からずっと少しずつやるとい　いんだな、これが。

話しているうちに、左の道から老夫婦が登ってきた。

ここは、おそなえの上の橙のように、山の上にまたポコンと丸い山頂が載っているという具合になっている。

山頂そのものは平坦だが、草のはえた急な斜面がぐるりと丸く囲んでいて、その下に一周する道がついている。

老夫婦は下からその一周する道まで上がってきて、草の斜面を手をとりあうようにして、ここまでくる。

最も見晴らしのよいところを私たちが占拠しているので、遠慮したのか、後ろの方に腰をおろした。

ここでは、西から南にかけて一切さえぎるもののない眺望を得ることができるが、北と東はそういうわけにはいかない。

老夫婦にとって、私たちがその西から南も邪魔をしていることになる。

ふうと息をついでいる。

　けっこう人がやってきますね。ここにくる前にも、女の人に会ったし。

　こんな大きな犬を連れたおばさんだろう。ここにきたんだが、おれが写真を　撮っていたものだからいっちゃったな。それじゃあ、向こうから登ってきた　のか。坂が急だっただろう。おれは、今からそっちへ行くけれど、どっちへ　行くつもりだ。北鎌倉の方へはここを降りるんだが、滑るぞ。今日みたいな　雨上がりの日にころんだことがある。登りはいいけど下りはな、まずいな。　あっちにまわるとすぐ階段だ。階段なんかだとちょいちょいとかついで行く　んだろう。

　まあ、よくかつぎますね。

　そんならすぐだ。高校の前に出るよ。こんな所に高校なんかできるとは思っ　てもいなかったんだけどな。

梅といえばほとんど曽我と決まっていた。

以前はほとんど毎年のように行っていたように思う。

それでもちょうどいい時に巡り合うのはむずかしかった。

早すぎたり遅すぎたり、その点でいえば今日はちょうどよい時であるのにちがいない。

暖冬のせいで、もう高砂緑地の梅がかなり開いているからだ。

曽我の梅の方が必ずいつも早い。

そういうときに当たって、曽我まで行く元気が出ない。

昨日までせきがひどかったし、今日はめずらしく冷え込んでいる。

距離を短くし、同じ梅の縁で、英勝寺に行くことにした。

そこから、亀ケ谷を越えて、ひょっとして六国見山を試みるのもいいかもしれない。

こうして走り出したのだが、すぐに汗が全身ににじみ、体調のせいか風のせいか、思うように前進できない。

辻堂海岸で一息入れる。

汗をぬぐって振り返ると、

　ああ、こういう景色もあるのか。

あれが箱根の山かとみまごうばかりに凸兀とした山がある。

昨日の雨は山の上では雪だったのだ。

尾根筋ごとに雪が積もり、低い朝日を受けて白く輝き、谷筋は皆黒く沈んでいる。

それが、山ひだの彫りを深く鋭くしている。

二子山までもが丸みが全く感じられない、厳しい姿を見せている。

やはり風が冷たい。

六国見山までは行かず、梶原を回って帰ろう。

それがせいいっぱいだ。

梶原の坂の上からの富士を、もう何年となく見ていない。

たぶん、あの大雪の朝、四ッ谷から鎌倉へと勇んで行ったとき以来であろう。その華が、英勝寺の梅に梶原の富士というわけだ。

今日はあっさりとした行程で満足しよう。

江ノ島から七里ケ浜の海は深い藍色で、水面が細かくきらめき、極楽寺の切り通しは冷や冷やと枯れた雑木の下にあり、すべて風が強く冷たく、寿福寺の山門の奥にだけはちらちらと光を揺らがせている空気がこめられ、目指す英勝寺の塀越しの梅は、咲き初めてまだ間がないといった風情であった。

前に境内でフキノトウを見たが、今は門が閉じられている。

亀ケ谷を登る。

写真を撮り合っている二人連れがいる。

朝早くからもうここにまで人がきているのだ。

まさかこんな日はだれもきはしないだろうと思った大雪のときも、まっすぐに誰かの足跡が一筋ついていた。

一足ごとに雪の興を催したこの切り通しは、一カ月も早いというのに、春と冬との間のたよりないあいまいなありさまになっている。

坂を下り、あとは北鎌倉の駅の脇を抜け、梶原に向かおう。

それで帰る。

さあっとスピードにのってきたところに、カンカンカンと踏切の音が聞こえてきた。

いったん止まるのがなんともわずらわしく、右の道に入ってしまう。

それは名月院に通じる道。

止まらぬままに名月院の前を過ぎ、名にし負う急坂にさしかかる。

この上は今泉台の住宅。

六国見山から降りてこようと考えていた下山路がそこである。

降りてこれるのならば当然登れるはず。

前に進む。

どうでも今日は登ることになっていたらしい。

住宅街を抜け、とうとう山に入る。

とっつきは、雑木林の中を登っていく小道。

一足上がるごとに青空が上に離れていく。

息がはずみ、道は、杉の林の縁の登りになる。

坂が一段と急になったとき、大きな犬が落ちてきた。

その後ろから年配の婦人が現れる。

　頑張って、急な所はこれで終りだからね。

その言葉通り、杉と雑木の間の比較的平坦な道になる。

ここには風が来ない。

林を抜け、静かなササをわける道に変わる。

ぱっと前が開け、林の中の秘密の空間のような小さな広場がある。

その中央に五輪塔がある。

木曾義高の墓と記されている。

ここが山頂か。

シイの木にしがみつき、眺望を得る努力をする。

とり囲む木々のわずか上を視線が越えることができる。

鎌倉の海が見える。

青白い水の面だけが見える。

どこからであろうか、歌声が聞こえてくる。

太い男の声で、詩吟であるのか謡いであるのか演歌であるのか、それもわからない低い響き。

木から降り、また進む。

その先にこそ本当の山頂があった。

人生の楽しみはさまざまなのだろう。

風を厭い、江ノ島からサイクリングロードに入った。

自動車に注意する必要がなくなり、緊張がゆるみ、まわりがよく見えるようになる。

中学生くらいであろうか、女の子たちが必死の形相で走ってくる。

もうゴール間近かなのだろう。

今の苦しさは、すぐに心地良い疲労に変わることだろう。

自転車を連ねた家族連れがくる。

レンタサイクルであろう、ゆっくり柳島まで往復した帰りで、これで昼食になるのだろうか。

さっさと背筋をのばし一人歩いてくる老人がある。

体の内側から、ほくほくと暖まっていることだろう。

浜辺には、大勢の若者が、サーフィンをしている。

比較的波が高く、休日の朝としては最高なのだろう。

キャンバスを立てて絵を描いている。

ゆるやかにカーブするサイクリングロードの向こうに富士山が書き込まれている。

そうした奥行きのある風景を面白く思ったのだろう。

その富士は少し淡くなっている。

箱根もいつもの丸みをとり戻している。

穏やかな春の始めとなった。

青空にはぽっかりと凧が浮かんでいる。

自転車に乗り始めてこの月で十年。

初めて走ったのがこの道。

そのときが、この道を往復した最初でもあった。

それからもう何度ここを往復したことだろうか。

二人の娘を乗せてきたこともあり、ジョギングできたこともある。

それだけ湘南とのつながりが増したことになるのであろうか。

それは確かなことかわからない。

ただ少なくとも、自分の楽しさが増したことはもう限りがない。

　　　（一九八九年二月二四日）

■第六　　二月二十八日　西鎌倉

北に低く青空が小さくポッとのぞいた。

かたくとじこめられていたのが、急に堰が切られた。

心が四方にとけ出していく。

昨日まで雨が降り続いていた。

今朝も、灰色の雲が低くおおい、冷たい北風が吹いていた。

かろうじて雨は落ちてこないですんでいたので、家のなかにこれ以上、居続けるのも気が滅入ると、子供達を連れて買い物に出たのだ。

梅が散っていた。

ヒュウと風が吹き抜けるとふるえあがりそうな寒さだった。

それが今、青空がちょっと見えたとたん、体全体が暖かく感じる。

　よし、行こう。

二カ月に三回と決めた自転車であるのに、今年になってからはまだ二回しか乗っていない。

今日乗れないと年の始めから目標が崩れてしまう。

　午後から行こう。

そう思ったのだが、家に帰って見ると、強い北風に、雲がどんどん吹き払われていく。

小さな青空がもう空全体の三分の一ぐらいにまでなっている。

待っていられない。

自転車に乗る。

東に行く。

北西の風に吹かれて、空の半分までが青空にかわった。

南東側は灰色の雲。

ここはまだ日陰の中。

風が冷たい。

パシフィックホテルの上の方が白く輝きだす。

海は暗い色、荒い波が押し寄せている。

松の防風林の間を道が緩くカーブし、パシフィックホテルの下をよぎる。

さあっと日が差す。

ぬれた道が明るい澄んだ青に染まる。

体がほてる。

湿り気を含んだ風がほほに心地よい。

鎌倉尾瀬という。

幸いにも間に合った。

もう跡形もなく変貌していたところで仕方がないと思っていた。

昭和六十年編集の一万分の一地形図でここを見出した。

あとから見ればほかの地図にも描かれているのだが、気付かずにいた。

そこには、住宅街の奥に、隠された場所のように、奥へと延びていく二筋の谷がある。

幅約五十メートルの平坦地が、右の谷には三百メートルほど、左の谷には八百メートルほども入りこんでいる。

どちらの谷も入り口の方には水田、奥の方には荒れ地の記号が記されている。谷が入っていく山は雑木林を載せ、一番高いところで八十メートル近くある。山の向こうは、尾根筋の先ですっぽりと切られ、七里ガ浜の大住宅街になっている。

これだけ立派な谷が西鎌倉に残されているとは信じ難い思いだった。

信じ難いだけに、この地図が編集されてから三年余りの間に、この谷が大きく変わっているかもしれないという不安があった。

一足違いで、まさに昨日という日にブルドーザーが入り込んでしまっているかもしれない。

たとえそうであったところで、この鎌倉あたりでは少しも驚くほどのことではないと、あきらめるしかない。

しかし幸運にも、谷は存在していた。

もとの古い谷を埋めたのであろう住宅街の背後にまわると、突然に風景が変わる。

家だけしかなかった風景が自分の後ろに消え、雑木林の山の下に広がる谷の風景がある。

さらさらと音をたてる小さな川の流れに誘われて、左の谷に入っていく。

昨日までの雨のせいか、川の流れは勢いがよい。

川は谷のへりにあり、川に沿って細い土の道が築かれ、道の内側に水田が広がる。

すっかり晴れ上がった空を映して、水田には浅く水がはられている。

稲の切り株が点々と残り、黒い土の中に緑を残している。

山の雑木林に葉をすっかりなく、枝が青空にくっきりと映える。

奥に進む。

水田が終り、道がぬかるみ、背丈ほどもあるススキの群れの中に入り込む。

ススキは枯れて乾いた穂をつけて林立している。

ここからは長靴でもはいてこなければ進むことのできない湿地である。

山から出た水がそのまま谷にたまっているのだろう。

川に手を入れてみる。

水は少し白く、思ったほどには冷たくない。

ここ腰越津の谷を鎌倉尾瀬という。

もう一つ気になっていた鎌倉の水田を見る。

東海道線から、まわりの風景とは完全に異質なもののようにして見える水田がある。

大船から藤沢に向かう途中、柏尾川を渡ると、右には工場が続くが、左は大船電車区の操車場のレールの群れになる。

その次は大きな工場。

長い工場の塀が切れると、一瞬、畦道と水田、小高い山が出現する。

そして、たちまちまた雑然とした作業場になる。

この水田に行ってみよう。

ちょうどこの休みの前の日に、水田の向こうの家々に梅の花が開いているのがのぞいて見えた。

この水田もいつまでもこの姿のままでいるとは限らない。

ある日、ひょっとして電車の窓からうごめくブルドーザーの姿を見るはめに陥ることになってしまうかもしれない。

現実に姿を見ていたものだけに、それが消えてしまうのはよほど悲しいことであろう。

少なくとも一度はこの水田の上の空気を実際に吸っておきたいと思っていた。工場の塀と線路に挟まれた細い道から出ると、現実にその水田がある。

畦には大きな水たまりがいくつもあり、田には水がいっぱいにあふれている。日が明るくさし、取り残された空間のここだけの現実感がある。

水田の上に畑が、畑の上に家がある。

その家に咲いていたはずの梅はもう終わっていた。

脇を電車が走っていく。

その窓から幾人かの人がここの水田を見ているのであろうか。

むしろ水田こそが普通の風景であった。

西鎌倉の谷はすべて水田であった。

順次埋められて住宅街になった。

大船のあたりの低地はほとんど水田であった。

土地が広かったために大方は工場地になった。

たまたまあの谷だけが残り、この一角だけが残った。

いや、そうではあるまい。

たまたまということではあるまい。

水田には所有者がある。

苗を植えている人がいる。

毎年毎年田植えをしている人がいるというのに、どうしてたまたま残ったなどといえようか。

残していくには、そうした毎年毎年のその人たちの作業が不断に続いてこなければならない。

今日見てきた風景には、その人たちの意志が反映している。

家並が途切れ、そのときだけ、松の林の上に、北の空が見はるかせた。

辻堂海岸から茅ケ崎にもどる途次の一瞬のこと。

すっかり晴れたとはいえ、まだ地上の空気は濁っている。

だから、これまで山までは見えなかった。

それがこの一瞬だけ、北に山がつくりだす大きな風景が見えた。

雲が大波のようにさかまき、二つ三つ四つの波頭を立てて、それらの上に、大山の山頂が突き出す。

自然だけが為す造型。

　　　（一九八九年三月五日）

■第七　　三月十一日　篠窪

この目の前の景色を表現する術を自分は持たない。

絵を描くことができればまだしもよいかもしれない。

もとよりそんな才はないし、いまは紙も鉛筆もない。

カメラを持ってくれば少しはよかったかもしれない。

景色の形態だけは正確に写しとることができよう。

むろんそれだけでは、目の前の景色を表現したことにはならない。

写真は景色を味気なく小さくする。

いまは、そんな理屈をいうよりも、ここを立ち去ったのちにも、この景色のありようを消えてしまわない形でとっておくことを考えなければならない。

表現するのはその後のことだ。

一切の道具がないのならば、自分の記憶に頼るしかない。

目の前の景色を見る。

よく見る。

そして目を閉じる。

頭の中で、いま見たままに景色を再構成する。

一本の道が、左手前の下から、前方の彼方へとゆるやかにくねりながら延びている。

小さな小屋が二つ、道をさしはさんで立っている。

小屋の四周は畑と果樹林。

果樹は蜜柑と栗。

栗はすっかり葉落ちして幹と枝だけの裸、まれにイガが二三くっつき残っている。

ときに、風よけのためか、高い木がぱらぱらとある。

自分がいまいる山も、左手の山も、山頂まですべてこのような畑と果樹林である。

一本の道は左手の山の斜面の傾斜が緩くなったところを巡っている。

その斜面は右下に落ちてゆき、道は真っ直ぐ彼方へと、次の山の向こうへと消えていく。

その道が消えていく山と、左手の山との間に、またひとつ奥の山が見える。

なだらかな丸い山で、やはり葉落ちした林と段々畑とがいりまじっている。

その山に道が大きくくねりながら登っていく。

すべてのものが、風のない明るい陽射しの下にある。

目を開ける。

いま頭の中で繰り返した景色が、眼前にある。

その通りであることをひとつひとつ確かめる。

そして、これらの景色の背後に、大きく丹沢の山々がそそり立つ。

大山が右に青く、その左に峠の鞍部はさんで二ノ塔、三ノ塔が並んでいる。

そして正面に、丹沢山が、山頂を白く輝かせている。

ひときわ鋭いピークは蛭ケ岳であろうか。

雪の白さが、その鋭さをより際立たせている。

いま立っているのは、篠窪を取り囲むいくつかの山のうちの、二六〇メートル峰の頂きのすぐ下である。

これから左の山の後ろにまわって、ここからは見えない三百メートル峰に登って、それから篠窪に入る。

篠窪が位置するここは、大磯丘陵の西北に当たり、渋沢丘陵の西につながり、曽我山の北に対する丘陵の中である。

篠窪の隣には、同じような峠の窪地がある。

この篠窪と峠を囲んで、三百メートル前後の山がいくつもある。

いずれも山頂の丸いこんもりとした山である。

その山の一つに立って、いま見ると、ここは、山と窪地が波打つ、地の一隅の小天地となっている。

だから、ここを篠窪高原と称してもよいであろう。

篠窪から峠に入ろうとする。

あまり高くはない山を越える。

山の上で立ち止まり、四周を見る。

一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、山がいくつあるだろうか。

あれは、いつか登りそこなった八国見山であろうか、大きな電波塔のようなものが立つピークと、もっとずんぐりとしたピークとでふたこぶらくだのような山がある。

あっちに、鉢巻きをひと巻きしたように白く道がぐるりとついた山がある、こんど何時かいくことにしよう、あそこまでいけば、もう西丹沢は間近かであろう。

そしてその隣に、やはり電波塔のようなものを載せているのは、さっき越えてきた三百メートルの山。

そこの山頂で休んでいたら、男の人が一人、ジョギングをして登ってきた。

息を切らせることもなく前をよぎると、そのまま坂をずんずん下っていった。見る見る姿が小さくなり、右に大きくカーブする道の先の、下の方へと、雑木林の山に融け込むように消えていった。

いつもここを走っているのだろうか。

飛びくる鳥、花をつける木のように、ここの風景になくてはならない構成要素の一つになっているように感じた。

自転車にまたがった。

すぐにまた追い付くことだろう。

坂を下り、風で汗が冷え、少しゆっくりと降り、右に左に回りながら、そうしてもう散りかかり若葉も出た桜の下をかいくぐり、篠窪の集落が見えてきたところで、ようやく追い付いた。

ゆったりと楽しむように坂を下っていた。

篠窪はまことにゆかしいところであった。

梅の古木が栗林の中にあった。

怪偉な幹から枝がねじれるように這い延び、もう半ばは散った残りの花をつけていた。

その栗畑の一角に、崩れかかった土の倉が建っていた。

そして、道をはさんだもう片方の栗林の中を、枝でも拾うのであろうか、大きな籠を背負って、おばあさんが静かに歩いている。

その姿が、枯れた栗の木々の幹や枝の間あいだからのぞき見えた。

そういえば、家々の裏にはどこの軒の下にも、薪がいっぱいに積みあげられていた。

そこから登り坂が始まった。

いつだかの秋にここを登った。

そのときはナデシコが咲いていた。

今日はと見ると、土手にオオイヌノフグリがいっぱいに咲いていた。

そしていまここにまできた。

四方にいくつもの山を見るここは、さっき、あの二百六十メートル峰から彼方の奥に見たなだらかな丸い山ではないか。

自分の視点が、あそこからここに移った。

あそこにいた自分をここから見る。

ここにいる自分をあそこから見る。

遠くに一人、山の上に男がいる。

取り囲む山の一隅に立つ自転車の男がいる。

いつまでも見て見飽きぬ風で、立ち尽くしている。

またいつかここに立ってこの景を見ることがあるだろうかと思うのか、去りがたく、おしむようにあたりを見ている。

その姿は、もしかしてこの景色を構成する要素となりえるものだろうか。

たまたまきたというだけの者が、その場の景色を構成する一つの要素になりえるのだろうか。

いつも走っているジョギングの人、あるいは枝を拾う人、あるいは梅の古木、あるいは崩れた倉、それらと同じように景色をつくる要素になりえるのだろうか。

たまたまそこにきて、そこの景色の一要素にまぎれこむことができるのだろうか。

農道整備工事という。

真っ直ぐいけばトンネルをくぐって渋沢に下る。

それは新しい道で、左に上がって、ほとんど円を描くようにしてトンネルの上を大回りに越えていく道が、もともとの道であるらしい。

小田原道、あるいは古くは矢倉沢往還として多くの人々が踏んだ道であるらしい。

だが、そのころのままの土の道であったここもいよいよ舗装される。

その工事が下から進められている。

土手もコンクリートブロックで固められる。

登っていくと工事の人が数人、休んでいる。

その先に、シャベルカーがあって、そこまでの土手をえぐり終わっている。

まさに土手にくいこんでいるシャベルの腕の下をくぐると、そこからはもとのままの道。

土手に、いっぱいのオオイヌノフグリが乱れ、道に冬を越した草の株が残り、タンポポも小さく咲いている。

もう咲いていられる時間は幾許もあるまい。
そうなのだ。

このことを書いておかなければならない。

この偶然に自分が出会った時間のことを書いておかなければならない。

道がぐるりとまわる真ん中に、くぼみがあり、そこから大きな焚き火の煙が空に上がっている。

どう表現したところで、現実の風景にかなうはずもない。

風景をありのままに、文字を使って書き表すことなどどうしてできようか。

そこで見ること、感じることの万分の一も表現できるはずもない。

その万分の一を伝えることにどれほどの意味があろうか。

その風景を見て、人が受ける印象はそれぞれに異なるものだ。

自分が思った偏頗な印象を記して何になろう。

たまたま今日ここにきただけの者がここの景色について語る資格があるのだろうか。

だが、しかし、書かなければならない。

今日のうちには消えてしまうオオイヌノフグリ、それを書く者は少なくとも自分だけである。

道を登り切る。

三色菫の畑がある。

美しく咲いた株を、夫婦で掘り起こしている。

小さな鉢に入れて、ケースにきちんと並べていく。

その菫をとりにきたのか、小型のトラックが向こうからやってきて止まった。そんな小さな出来事までも書いておきたい。

その風景の中で、その一瞬間だけは、自分もそこの風景をつくる一要素であった可能性もあった証しとして、書いておこう。

表現する術があるなしはともかくとして、まず書いておこう。

篠窪高原の景色のありようを消えてしまわない形にとっておこうとしたようにただ書くことにしよう。

　　　（一九八九年三月二十一日）

■第八　　三月十九日　茅ケ崎北

目の前に現に存在しているということ自体が非常に強烈なために、頭の中の記憶だけにしか存在していないものは、消えてしまわないようにしっかり保持しようとすればするほどかえって歪んで薄れていってしまう。

葉を落として、クズだかの残骸だけがからみついている大木の根元から、石垣の脇を下り降りていく小さな道が、ここにある。

ずるずると自転車とともに、ここをすべり降りていったのはいつのことだろうか。

今日と同じようなまだ浅い春のころだっただろうか。

枯れた草を分けて、下に降り立つと、道の上の世界とは隔絶したような人気のない空間があった。

右手の平地は、もとは畑や田圃であったのだろうが、いつからか放置されて草や小木が自由に伸びたままになっていた。

左手は、雑木林の斜面で、ざわざわと上の方では風の音がするが、下にまでは吹き降りてこなかった。

薄日がさすだけの小寒いこの日の天気が、この蕭条とした場所にはふさわしく思われた。

そこは行ケ谷の一番奥。

小出川の支流がつくった浅く広い谷。

東西に延びるこの谷の奥を見ようとして、やってきたのだった。

忘れ去られたような、ひそやかな谷であった。

道はゆるやかな折れ曲りを繰り返して、ぬかるみを渡り、叢を分け、木の下をくぐり、いったんわずかな高まりをのぼって、小さな竹林の間に出た。

そこから先は、行ケ谷の集落。

よい谷を見出した喜びを抱き、またここにこようと思ったのだった。

そして、確かに、またやってきた。

それもまた、このような季節のころであっただろうか。

やはりずるずると、ここを下った。

そのときすでに、異変に気付き、不安な気持ちになっていた。

そして、下に降り立ったときに、不安は憤りに変わった。

そこから先の谷は一変していた。

左彼方の谷の上からここまで、ずうっと整地され、赤茶けた土が雪崩の跡のように覆いかぶさっていた。

それであの空間は消えていたのだ。

そして今また、ここに、ずるずると下る道の上に立っている。

穏やかな風光である。

三角屋根の教会のような建物が向こうに建っている。

日光を反射するアスファルトを敷いた土地が、手前に何段か順次下がってきて、一番下はテニスコートか何かになっている。

文教大学である。

今日は卒業式であるらしい。

ここへは、行ケ谷の向こうの、あの竹林の方からやってきた。

あそこの道も、大学への裏道として整備されていて、竹林は半分だけになっていた。

そこから畑のある台地の上に出た。

日当たりのよいそこでは、オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、タンポポなどが畦いっぱいに咲いていた。

その花越しに、大学の入り口が見えた。

袴姿の女性たちが入っていった。

今日はまこと、卒業式にはよい日であろう。

そして今は、ここに、ずるずると下る道の上にいる。

三角屋根の大学の建物の脇に、駐車場が見える。

小さな人影がそこに動いている。

その人もまた、卒業していく人であろうか。

以前に一度、この大学の中に入った。

小じんまりとした美しい構内であった。

都会から離れたこういう場所で、学生生活を送るのも、刺激は少ないだろうが、それはそれでよいことなのかもしれない。

ここに通う学生にとって、大学の建物ができる以前のここの様子など、まるで関わりのないことであろう。

大学があるからここにくるのであって、それこそが現実の風景なのだ。

そうした、それぞれの学生の四年間がここで過ぎ、今日の卒業式となったわけだ。

それほどの人がここでそれだけの時間を過ごすことなど、かつてはありえないことであっただろう。

あの日あのときには、自分だけしかあそこにい合わせなかった。

そして今は、ここに、ずるずると下る道の上にいる。

三角屋根が明るく建っている。

ちらちらと、下のコートが輝いている。

鷹取山が、霞んだように、薄く遠くに見える。

富士が、白く、中空に浮かんでいるかのように、彼方の上にある。

もうここを、ずるずると下ることはあるまい。

叢を分け、ぬかるみを踏んだあの谷にいくことはない。

ああして、ゆるやかに曲りゆく道をたどった時間は、現実のものとはもうなりえない。

今見る谷の上の穏やかな風光こそが現実のものであって、あの蕭条とした風光は存在しない。

記憶の中ですら、それは、この現実によって薄められていく。

強いて思い出そうとすれば、かえってつくりごとのようになる。

それほどに、今は穏やかである。

　　　（一九八九年三月二十一日）

■第九　　四月二十五日　清見原

こんな喜びがあるだろうか。

とうとう書く日がやってきた。

以前に何度も書きた、それ以後何度も訪れ、そして今、ようやくにしてまたここを書くときがやってきたのだ。

訪れるのはいつも喜び、まして書くのはそれ以上の喜び。

一時期、訪れる機会のごく少ない何年間かがあった。

それよりも、もっと長い書かない何年間かがあった。

今日は半年ぶりに訪れ、八年ぶりに書く。

昨夜まで雨。

三回の土日を天候やなにかの理由で見送った。

風が少しあるようだが、今日をさまたげるものではない。

海岸通りを西に向かう。

防風林の松は黒々と湿り気を余し、葉の末に、水滴が光る。

松の下の地面に、水を吸った松葉が散り敷き、小暗い下陰にトベラの若木が隠されている。

ゆるい下りが軽く右に曲がっていくと、正面に、真近く、大山が現われる。

青緑の彫りのある山体に、その凹凸がありありと見え、手を伸ばせば届こうとするくらいに、ここに迫っている。

晴天。

湘南大橋を渡る。

千切れ雲が、大山の前の空をすべっていく。

雲は、西の彼方に湧き、富士山の前で、一つ切れ、二つ切れ、西南の風に吹かれ、丹沢山塊の南へと順に流れてくる。

箱根の山が、雲の下に見える。

富士の山頂だけ、雲の上に見える。

だから、雲が湧くのは、箱根の向こう富士の手前、駿河湾からの風が御殿場の上をさしかかるあたりであろうか。

あるいは、もっと手前、小田原の海風が酒匂平野に入り込むあたりであるかもしれない。

ここからでは山の遠近と、雲の遠近との差異を見分けることができない。

もっと西に行ったときに、わかることであろう。

季節は変わった。

丹沢にも箱根にも雪というものはない。

富士山の、それも山頂付近にだけ雪がある。

橋の下から吹きあがってくる潮の香をふくんだ西南の風の湿り気が、今日初めて半ズボンになった足に心地良い。

うとましく思ったであろう向かい風が、汗ばみ始めた全身に涼しく当たってくれる。

湘南平は緑にあふれる。

蒼浪閣の前から、跨線橋を越えようとして、湘南平に対峙する。

濃い緑色の中に、ときにむきだしの枝や幹が見えていた山が、今日は、全面、内側からわきあがってくる薄い緑におおわれている。

この緑は、高麗山から湘南平、さらに西の山や丘へと広がっている。

その一つの山を越える。

小天城峠と名付けた道がそこにある。

二つの尾根に挟まれた田畑の脇を登っていく静かな道だ。

振り返れば、海を認めることのできる地点もある。

何とはなしに天城峠に向かう道に似ているので、こう名付けた。

まず、入り口に、日をいっぱいに浴びる畑がある。

黄色い花が一面に咲いているのは菜の花であろうか、ここに菜の花が植えられているとはこれまで気が付かなかったが、近付いて見れば、花の下にごろごろと肥大したキャベツがころがっている。

その隣の畑は、以前はよく手入れをされて、春の小さな花を見るのにちょうどよい場所であったが、秋からのままに、丈高い枯れ草がぼうぼうと立ち、ただ周辺に、トウダイグサが明るく日を反射しているだけ。

もうここは耕作されなくなってしまうのだろうか。

いよいよ尾根の間の道に入れば、一転して、ますます耕作はさかんである。

ビニールハウスがまたふえ、その間々に、畑、田圃がある。

田圃には、レンゲが咲く。

コロコロコロと低くカエルの声が響き、チョットコーイチョットコーイとコジュケイの声がこだまし、パタパタパタとムクドリが飛び立っていく。

遠く見た緑の間近かに今はきた。

一色に見えた薄緑が、一本一本の木に分かれる。

木ごとに色が異なり、濃い緑の上に若い緑を付けるもの、若い緑だけをいっぱいに付けるもの、ようやく小さな葉を付けたばかりのもの、まだまだむきだしの枝のもの、若葉がピンと上を向いて付いているもの、しなやかに垂れて付いているもの、さまざまである。

しかし、それぞれの名を問おうとしても、自分にはわからない。

せっかく今、この春を迎え、ここに出会ったにもかかわらず、名をも知らずに別れなければならない。

むろんそれは木のせいではなく、自分のせいである。

峠を越えようとする。

本物の菜の花の咲く土手の下を抜ければ、下りに変わる。

見返ると、今くぐってきた木の枝に、淡い色の花が、綿のようにふわふわと置かれている。

ミズキだ。

その名を知った木がそこにあった。

峠を越えると、一変して展望が開ける。

富士、鷹取山、大山が、三つ、同じような大きさで、同じような形で、同じ間隔で並んでいる。

富士山は白く、大山は青く、鷹取山は緑。

三角形をした三つの山、その中で今日、最も力強く命のあふれているのは鷹取山だ。

山のもつ生命力が、このときに当たって、若葉の緑となってふくれあがっているのだ。

その鷹取山の西側の道を登ろう。

それを小箱根道という。

鯉幟の泳ぐ東池から脇に入り、高速道路の下をくぐり、牛の鳴き声に送られると、小箱根道。

杉林の下を流れる小渓のひやひやとした空気が、箱根の旧道に似て、そう名付けた。

登りのきつさが、この冷気によってはるかに楽しいものになる。

まして、道の下に咲く白いシソの花、青いムラサキケマン、ときおり頭上に鳴くウグイス、季節が変わればまた迎えるものが変わるとあって、楽しみは尽きることがない。

登り切る所に、ニワトコの木が立ち待ち、小橋の先から栗畑が始まる。

いつものように、その小橋で休む。

初めてここにきたのは夏であったのだろう。

ここで止まるたびにそのときのむせかえる草のにおいを思い出す。

汗が全身に吹き出し、日をさえぎるもののない橋の上は、ひたすら暑かった。蒸されていた草も、今日はまだそれほど伸びておらず、オオバコの葉が、虫に食われて穴あきだらけになっているのが、ここの日当たりのよさをいまの季節から示している。

植え付けられたばかりで小さかった栗の木は、大きく伸び、葉を付ければ、夏には森のようになろうか。

大山を間近に見晴るかす十国峠から一気に下り、七国峠をそのままに過ぎて、一軒だけある人家の脇の木の下をくぐると、清見原に出る。

清見原は、はるかに広がる丘陵の畑地である。

大山を北に、西に曽我から彼方の箱根と富士を、さえぎるものなしに見ることができる。

雲は、やはり箱根の向こうに湧き、片々と東に流れている。

ここの上の広い空に向かって、ピピピピピピとヒバリが上がっていく。

一年がたった。

去年の四月三十日、ここを今日とは反対に北から南に向かって走った。

久しぶりの自転車であった。

なさけないほどに、足がはたらかなかった。

わずかの坂も登れず、気ばかり前に出て、自転車は重かった。

以前、坂であることさえ意識しなかった所で、息をつぐために何度も止まらなけらばならなかった。

本当にようやくにして、この清見原にたどりついた。

日だまりでばったり横になった。

そのときにも、ピピピピピピとヒバリが上がっていった。

清見原は、これまでの不実な自分をせめることなく、いつもとかわらずに迎えてくれた。

ありがたいことではないか。

もっと、もっと、ここにこなけらばいけない。

これまでこなかったことに、清見原に申し開きできる理由など何もない。

足が動かずに苦しむのは、きちんと走らずにいた当然の報いである。

今日は、コジュケイの声が響くと同時に、カラスが八羽、東をさして飛び立つ。さわさわと海からの風が、この丘にまでやってきて、美しい列をなす麦の穂を分けていく。

向こうでは、一人農作業に忙しい人が小さく見え、こちらでは、梅の木の下あたりで、一服している夫婦がいる。

自転車の走る道には、八重桜の花びらが敷かれている。

いよいよ飛谷津の梨。

ここの梨の花を見ようと、ここ三週間は気をもんでいた。

暖冬で桜が早く終り、その次に咲く梨も、早いであろう、うかうかとしているうちに花期を逃してしまう。

去年も少し遅かった。

土屋の坂を登り切り、右回りの下り坂をいくと、ぱっと、山の奥への眺望が開ける。

一面の白い梨の花、その背後に、菜の花の黄。

それがかつて見た、最も美しい飛谷津の景。

今年もまた遅かった。

葉が一面に出ていて、そこに、少しだけ花が残っていた。

葉の上に乗るようにして、ややあせた花が、ぽつりぽつりと残っていた。

時にめぐりあうのはむずかしいものだ。

坂の下りのままに通り過ぎる。

しばらくいって、思い直す。

この今のときも、それもまた、再びはないときだ。

梨の花が、このように葉の上にあるというのも、またいつ見られるとは限らない。

もう一度見よう。

坂を戻る。

梨畑は、こことそことむこうと三ケ所。

いずれも若葉の伸びる今のときにある。

花のときに間に合わなかったのは、今年はたまたま天候に恵まれなかったこともあったであろうが、去年も一昨年もその前もいつの年もすべて梨の花は咲いていた。

そこにいかなかったのは自分なのである。

今日の道のすべてを見て、すべてを書いておきたい。

まだ十分に見ることができず、わずかばかりしか書くことができない。

自分に見る力、書く力がなければ、無限に多くのものを見せてくれるこの道から、少しばかりのものしか見て取り、書き記すことができない。

もっと多くのものをこの道に学ばなけらばならない。

またそれが限りない喜びとなるのだから。

　　　（一九八九年五月一日）

■第十　　四月三十日　飯山観音

今度またくるときのことにしよう。

今日はまだこのあたりのところで、このまま通り過ぎることにしておこう。

すぐにまた、ここにやってくることになるのだから。

そのときのことにしよう。

道がその脇に沿う川の作る谷が、ここでは幅広くなって、ここのむこうに人家や畑が見える。

その一角をちょっと走ってみたい気がする。

だが、空は曇り。

なんとなく薄暗く、いつ降り出すともしれない。

ここから先、家にもどるまで、どれだけの時間がかかるものかまるで見当がつかない。

行きも帰りもすべてが初めての道。

まあ、なんといっても今日のところは、これだけの距離を往復できるかを試みようとしてきたのだから、余計なことはせずに、帰るのがよい。

脇道を探ったりするのは、どうせ、すぐにまたもう一度やってきて、もっと詳しく見る機会があるに違いないのだから、そのときのことにしよう。

いわば今日は下見のようなものなのだ。

またこよう。

一九七九年四月七日、自転車に乗り初めて九度目の行程。

江ノ島往復から始めて、一週間前の衣笠公園往復がそれまでの最長距離で、それに引き続いて、桜の名所、飯山観音を訪ねた。

本厚木の駅前を通り過ぎてから、北西に、ほぼ小鮎川に沿って走って、その道がくっきりと右に折れ曲がる所に、まっすぐに、赤い橋を渡って、山の方に入っていく小道があった。

それが飯山観音への参道であった。

桜は観音堂の下にあった。

ただでさえ曇天の小暗さの中、一面隙なく植えられた桜の林の下には、他所とは遮断された重い空気があった。

花がまだ満開を迎えぬこともあってか、花見の人が大勢いる割りには、陰鬱といってもよいほどであった。

飯山観音からまた橋に戻って、さらに小鮎川をさかのぼった。

川は山と山の間に入り、両側の斜面が次第にせまってきた。

谷をえぐって、川は大きく蛇行した。

すると、谷幅がまた広がり、人家や畑がゆったりと見えた。

その一角を走ってみたいと思ったのだ。

この道をこのまままっすぐゆけば宮ケ瀬にいたる。

今日は、まもなく左に折れて、七沢を通って帰途につく。

今後いろいろな機会にここを通ることになるだろう。

走り初めてまだ間もない今日であってもこうしてやってこれたのだから、これからは何回ともなくここにくることになるに違いない。

先を急ごうと気もせく。

だから、脇には寄らず、予定した道をひたすらたどることにした。

ちょうど十年たった。

そのときの気持ちを、しばしば思いおこすことがあった。

いずれまたのときにと、そのときには気楽に思っても、その実、そのいずれまたというのは、めったにやってこない。

箱根の林道も、丹沢の林道も、三浦の海岸も、真鶴の海岸も、いずれまたと思って、結局またというのがまだない。

その、またがない一番初めが、このときのことなのだ。

よし、この最初の、いずれまたというのから、果たしておくことにしよう。

あの日よりもほぼ一カ月遅く、今日は晴れ。

伊勢原に向かう道から大山が間近に見え、脇には富士山の山頂の白い所だけが薄く浮かんでいる。

大山の東に少しずつ下がっていく幾つかの峰がある。

これからいくのはどの峰のあたりであろうか。

渋田川の支流沿いの道に入る。

いつであったか、そこを反対方向に走った。

よい道であったような記憶があるが、今日こそはゆっくりとよく見ておこう。下谷、上谷という集落であるが、ここらは広々とした平地である。

主に川の西側に家並が続く。

どの家も、川に面した側を生け垣にしている。

川の土手には、水辺にいたるまで小木や花が植えられている。

川の水は澄み、浅い川底には、藻がゆるい流れのままに揺れている。

だから、川は、ときに椎、樫、銀杏の抜きんでる緑の帯の下、ツツジ、芝ザクラ、シャガの咲く花の中、柔らかい藻のなびく緑の上を流れているのである。

津古久峠で放尿する。

段々畑のこの下で、ケーンケーンとキジが鳴く。

雑木林のこの上で、チョットコーイチョットコーイとコジュケイが鳴く。

わずかばかりの旧道を余して、あとは自動車の道になっている。

峠を越えると、広い道、工事中のけずられている丘、巨大なビル。

キジの鳴く場もなかろう。

丘陵を下って、小野神社の前を過ぎ、また丘陵に登る。

その向かい合った丘陵には、昭和五五年の地図では、建設中と注記されている。とくに、これから登る丘陵の方は、道が細い川筋に沿って、ゆるやかな丘の間を上がっていくことになっているが、広大な面積が建設中の部分に取り込まれている。

今日初めてここにきたのは、遅すぎたというべきであろうか、ちょうどよかったというべきであろうか。

まだ間に合うチャンスはあったのに、時を逃してしまったのかもしれない。

登りにさしかかったばかりの所は、道は地図とは大いに異なっていやに広くて真新しいが、左右の景は落ち着いている。

津古久峠への道に似ている。

このような景がずっと続いていたかも知れないこの丘陵の本来の姿を見ておくべきであったのではないか。

登るにつれて、丘の上のようすが知れてくる。

中層マンションが建築中である。

そのすぐ隣には同じ形をしたマンションが二棟あり、ふとんや選択物がベランダにいっぱいに干されている。

道の左側は、こうしたマンションや、一戸建ての家がはるか奥へと連なっている。

一方、道の右側は、案内板によって、さらに高く、奥に大学や研究所があることを知る。

公園がある。

ここの住人であろう、家族連れや夫婦や子供たちが歩いている。

いったん行き過ぎたのを少し戻ってそこを見る。

大きな窪地があった。

コンクリートでかためた、巨大なすり鉢状の窪地である。

出口の一切ない大きな窪地が、くりぬかれていたのか、まわりを嵩上げして囲ったのか、ここにある。

下に便器にたまった水のような池がある。

なにかの鳥をはなしてあるらしく、看板に麗々しく解説してある。

ちょうど蟻地獄にはまった蟻のように、その鳥はここから出ることができないのだろうか。

そしてまた、蟻地獄の獲物のように、芝生を植えた道をたどって下に降りていく人たちがいる。

今日ここにきたのはちょうどよい頃合だったのかもしれない。

なまじ旧状を見てしまっておかなかったので、たいした感慨もなしにこの調整池を見ることができる。

もとの川の流れを完全に隠蔽してしまったここらのようすを、なにげなくただ普通にながめることができる。

もっと先で、建設工事が続いていることを知らせる通行止めの標識の前も平気で通り過ぎることができる。

ネポン工場の前からは、ようやく以前の地図のままである。

これまでの整然としていた景から、いろいろなものが混じった雑然とした景に変わる。

畑があれば、ゴミが投棄された場もあり、木に囲まれた家があれば、むきだしになった土砂採石場もある。

しかし、あの、目に突き刺さるような感じはない。

ここのだらしなさの方が、あのお行儀のよさよりも、はるかに品がある。

振り返れば、あれは大山なのであろうか。

連なる山の尾根の一番端に、少しだけ高い頂きが見えている。

ここから見る大山は、大きな山の固まりの、はずれのピークであるだけのようだ。

丹沢山塊のすべてを従えているように見える伊勢原からの堂々とした大山とは異なる大山がある。

一本一本わかれて見える尾根の上の杉の中に、何か白くあるのは社殿であるのだろうか。

小道を覆う木下闇をくぐると、川の音が耳に響き、欄干の赤が目に飛び込む。いよいよ飯山観音にきた。

小鮎川の橋まできたのである。

今日は、脇からいきなり小鮎川の流れに出たのだ。

突然に、丘陵から丹沢の入り口にきてしまった。

間近の山の大きさが変わる。

小さな丸い山ともつかぬものから、どっしりとした三角形の山体が自分を囲むようになる。

いったん飯山観音に立ち寄る。

山門脇の薄暗い桜の林は記憶のままで、葉が茂ってますますその下は暗かったが、石段の様子、観音堂の配置などはまったく覚えがなかった。

そればかりか、参道ですら、見当がつかないほどだった。

橋に戻る。

澄んだ水が川幅いっぱいに、音をたてて流れていく。

川底の大きな石がありありと見える。

桜は、葉が水面に垂れ下がるばかりに枝をいっぱいに伸ばしている。

ここは頭に残っている景色のままのようだが、まわりはこんなに賑わしかったであろうか。

なんだかおかしな具合だ。

川をさかのぼると、道の両側にはとぎれることのないほどに人家が続く。

ガソリンスタンドもあればスナックもあり、温泉旅館もある。

もっと山に近い雰囲気があったように思っていたのだが。

記憶とはこうもあてにならないものなのだろうか。

こんなことでは、はたして、あの谷幅の広がるあんな場所も、存在していないのではないだろうか。

いっこうにそんな感じの所はない。

第一、もっと平坦な静かな道であったはずなのに、ときにきつい登りのある、しかも交通量の多い道ではないか。

どうしたことだろう。

いつのまにか、頭の中で、現実にはなかった景色を作り上げていのかもしれない。

山がせまって、川と道だけになる。

山は広く杉が植林され、その濃い緑の縁どりのように、もっと柔らかい緑のさまざまな木々が残されている。

脇に橋を渡って入っていく道がある。

その橋の横に、朽ちかけた古い橋がある。

この場所を見たのが、いつの間にか、かなり異なる景色を頭の中に形作るきっかけになったのだろうか。

一度橋を渡ってみる。

どうもまるで雰囲気がない。

もとに戻って、先に進んでさらに、どうにもそれらしい所に出ない。

もうそろそろ道も終りである。

三叉路に出て、帰途につくことになる。

どんどん奥にさかのぼれば宮ケ瀬に至る。

宮ケ瀬も、ダム工事ですっかり変わったことだろう。

その三叉路で左に折れて、七沢から伊勢原にもどって帰ることになる。

だから、もう、あれは幻ということになるのだろう。

あれはなかったことなのだろう。

いつか、現実になかったことが、この道に結び付けて考えられることになってしまったのだろうか。

御門橋を渡る。

前が、右手前方が開ける。

ああ、もしかしてここではなかろうか。

おぼろげな景色。

人家と畑。

同じようで違うかもしれないここ。

小道に入る。

低い、刈り込んだ何列かの木の畝。

高い、葉が茂り始めた何本かの木の林。

川の方へと進む。

むこうにずんぐりとした山がのぞく。

がさがさがさと、落ち葉を踏む音がして、鳥が逃げ走る。

木の畝は茶。

木の林は栗。

川は小鮎川。

山は辺室山。

鳥は雉。

ゆるやかに曲がりくねる川を見て、昼食にする。

風が、西の奥から吹いてくる。

対岸は柳梅という集落。

正面の山脚から上流側へと家が点在する。

茶畑がある。

ひっそりとしたたたずまいのそこへは、どこから川を渡っていくのだろうか。あの校庭であろうか、子供達がバレーボールかなにかをしている向こうに、そこに渡る橋でもあるのだろうか。

ケーンケーンと、さっきの雉が鳴く。

いつかまた対岸に渡ることもあるだろうか。

今日のように、十年とはたたないうちに。

　　　（一九八九年五月五日）

■第十一　　五月十四日　名越・梶原

雲が割れると、夏がある。

鎌倉に向かう海岸の道の両脇の防風林にトベラの花が見え、その下にハマヒルガオ、コマツヨイグサが咲き出している。

雨余の水に日が当たって道の上を蒸し、それを吹き払うように海風が入ってくるが、風もまたむせるほどに潮の香りをいっぱいに含んでいる。

夏の始めとなった。

神奈川の景勝五十選のうち光明寺裏山の展望という。

中学校の校門の脇に立つその碑の前に初めてきた。

以前から名高い景勝の地と聞いていた。

夕日の傾くとき、眼下には金色に輝く波が寄せ、稲村ケ崎・江ノ島が黒々と海の西を縁取り、空は紅に染まり、その中に伊豆・箱根、そして富士が高々と聳え、ほのかに明りを残す光明寺の甍が、静まりゆく鎌倉の町を見下ろす。

何百年と続いてきた光明寺の夕照。

だが、何本かの木を切り払って碑を立てたその場所は、必ずしもその景勝の場には合致していないようだ。

視界が、ほぼ半分しかない。

狭まい視野の中に、かろうじて、由比ケ浜の半分、稲村ケ崎の半分、光明寺の屋根上側だけがはいってくる。

眺望をほしいままにする解放感が得られない。

すでに空はまたも曇り。

その空に向かって、浜の上からさまざまな形の凧が十余りも上げられている。風が強まってきたのであろう、どの凧も勢いがいい。

せめて、ここがあの凧の高さほどもあればよいのだが。

おそらく、ここに碑を置いた人々にもまた同じ思いがあったのかもしれない。本来あるべき光明寺裏山の展望には及ぶべくもないのは仕方がない。

少なくともそれをしのぶができるようになっていた方がよい。

光明寺裏山の展望をすっかり過去のもの、観念の世界のものにしてしまわないためにも、ここに碑はあるべきなのだろう。

立ち去ろうとすると、木々を結んで水平に渡された竹をつたってリスがやってきた。

ツツツツと走って、尾でくるくるとる巻くように向こうの側に隠れる。

名越の山にでも住んでいるのだろうか。

視界が広いことがいつもいいわけでもない。

名越トンネルから出る道を下に見る。

向かいに名越の尾根を見る。

尾根は緑にあふれている。

そこから、崖のように切り立った斜面が、木々をのせたまま下に落ち込んでいる。

その下に道があり、自動車の音が響き上がってくるのだ。

尾根は本来、向こうからここまでずっと続いていた。

だがここは住宅街の一角。

すぐ足元はコンクリートの壁。

向かいの尾根の上にも、ひとつ大きな家が建っている。

もし、足元も、左右の家々も、下の道も、向かいの家も、みな見えず、下から沸き上がってくる音もなければ、ここは、三浦からいよいよ幕府のある鎌倉に至り着く入り口そのものである。

いくらかの緊張感を抱いて鎌倉に踏み入るところ。

名越の切り通し。

住宅街の最後の一軒、さらにもう一軒建ちそうな場所の脇から一歩入ると、まず大きな岩が迎えてくれる。

ここからは空気がひんやりと冷たくなり、下の地面あるいは岩肌はじくじくとぬれている。

巨大な岩の上に木がはえ、その根が露出して、土が崩れている。

切り通しは歳月とともに風化していく。

岩と岩との間の狭いすきまを抜ける。

木々におおわれたほの暗く静かな空間。

振り返ると、大きな看板が岩にくくりつけられている。

勝手に史跡に指定されてはいるが、ここは自分の私有地であって、柵をすることにした、という趣旨の地主の宣言が記されている。

頑丈な柵が、岩の上に出る道をとざしている。

もともとここは誰の土地であったのだろうか。

切り通しは本来、公けのものであったのだろう。

いつしか、歴史も私有物になることがあるということだ。

まんだら堂、犬小屋、新興宗教の道場、大きな別荘風の家、さまざまなものがこの切り通しのあたりにある。

北に進めば、大切岸の上である。

東からの敵を防御するためにつくられた、いわば鎌倉長城の跡だが、長城の壁下は大半が畑になり、一部、墓地になっている。

人の営みは途切れることがない。

名越大谷に降りる。

以前はただずるずると滑る道であったが、いつか階段が設けられた。

三か所そのような階段がある。

杉の下の、シダの間のこの暗い道にも、人がしばしばやってくるようになったのだろうか。

マムシが出そうなほどに道はぬかるんでいる。

両脇の斜面のところどころに、やぐらが穿たれている。

鎌倉の時代の墓地である。

ここらは、鎌倉の郊外であったろうか。

身分のある人の墓であるのか、庶民の墓であるのか。

そんなことはおかまいもなく、ここは杉の植林地となっている。

暗い道が終わると、畑がある。

小さく区切られており、また何人かの人が日曜の今日に熱心に作業をしているところを見ると、家庭菜園なのだろうか。

菜園の奥にもまたやぐらがある。

ここの道を、故人をしのぶ葬送の列が何度となく通ったのであろうか。

巨福呂坂を越えて、北鎌倉から梶原の坂を登る。

自転車を始めて間がないころは、よくここを往復したものだ。

鎌倉へ行くとなると、たいてい藤沢の駅前経由だった。

そして、ときに、大仏切り通しを通ることがあっても、ほとんどが梶原の坂を使っていた。

初めて鎌倉まで走ったときに、梶原の坂を西から登った。

もちろん登り切れなかった。

しかし、一度その道を覚えると、ほかの道を試すよりは同じことをくりかえした方が楽なせいで、何度も何度もそれを利用した。

実際のところ、鎌倉に行くのには、江ノ島経由の海岸の道の方がずっと走りやすく距離も短いのだが、しばらくはもっぱら梶原の坂を越えていた。

梶原の坂は、西から登っても東から登ってもほぼ同じくらいの勾配がある。

二度、三度と、西からあるいは東から、登り切れずに、途中で息が切れ足が痛くなって止まってしまうことが繰り返された。

坂にかかる直前で十分休んで、足の筋肉をほぐしてから、おもむろに挑んだりしたこともある。

そうこうするうちに、自転車にも慣れてきて、どうにか登り切れるようになり、そのうちそれほど苦しまずに登ることができるようになってきた。

だが、いつの間にか、この坂を登ることが絶えてなくなってしまった。

最後にここを越えたのは、八年も前、四月のときのことではなかろうか。

桜の散りかけのころだった。

梶原の坂の上から、桜並木の彼方に富士が見えた。

もちろん今日、富士は見えるはずもない。

はたして足がどの程度復調してきたのか、この坂でわかることだろう。

さらりと登れるほどではなくても、登り切れればよし、だめなら鍛え方を考えなければならない。

以前のように、坂にかかる前にいったん休もうか、いやいやきっと登れるに違いない。

一気に行くか、いやいや意外に道のりがあったのだ、ゆっくりじわじわと行くべきだ。

北鎌倉から梶原の上までは、比較的落ち着いた昔日の鎌倉の名残がある。

梶原の上に出てしまえば、大規模に山を削ってつくった住宅地がある。

もとよりそのおかげで、この坂道は整備されたわけで、本来の鎌倉七口にはない道なのである。

それでも、こちら側は道が細い流れにそい、谷合いの水田もあり、カエルが鳴いている。

坂を登り始めて、そのカエルの声よりも上にくると、汗がにじみ出してくる。水田の奥は雑木林、さらに奥は源氏山につながる。

坂はその木よりも高くなり、汗が全身から流れ落ちる。

息が切れる。

こんなにも坂は長かったのだろうか。

あそこを曲がったら終りなのだろうか、まだもうひと曲がりあるのか。

もしそうなら、この足はもたないかもしれない。

ここが登れないようでは、さらに遠く、丹沢・箱根の坂はとうてい登れるはずがないではないか。

登る。

汗が出る。

そうだ、ここだ、ここで登りは終りになるのだ。

勾配が急にゆるくなり、道が大きく左に折れる。

そこが梶原の坂の上。

桜並木の下である。

登り切ることができた。

汗をぬぐうためにいったん止まる。

足の力はある程度もどったようだ。

タオルで顔をふく。

ふっーと息をついて、首をめぐらす。

目に飛び込んでくるのは、ああ、富士ではないか。

富士山の山頂が白くくっきりと見えているではないか。

強くなった西風が雲を払いのけたのだ。

季節はむろん変わっている。

桜の散るころであったのが、いまはハリエンジュの散るころとなった。

風に飛ばされて花びらが舞う向こうに富士山がある。

思いがけずこのようなときにめぐりあわせたのだ。

自転車の乗るとはこのようなことであるのだろう。

　　　（一九八九年五月二十日）

■第十二　　六月二十四日　湘南平

荒かった息がようやく少しおさまってきた。

よし、また進もう。

自分の気をふるいたたせようとする。

汗をぬぐい、態勢を整える。

ペダルに足をかけようとする。

その脇を、ツーッと一台の自転車が通り抜けていく。

その自転車の男は、サドルからお尻を離し、漕ぎ出す足とともに、右に左に、交互に上体を傾けながら、ぐいぐいと力強く登っていく。

みるみる、直線の坂の終点へと近付いていく。

自分も、あれにはとても追い付けはしないが、前進するのだ。

右足をペダルの上に載せ、力をこめる。

同時に左足を地面から離し、ペダルをとらえ、力をこめる。

そろりそろりと自転車が動きだし、ゆるゆると坂を登り始める。

すぐにもう息が苦しくなる。

足が、ももが痛くなる。

上体を前に傾け、いちにいちにとリズムをとって、自転車を漕ぐ。

先にいった人はすでに、坂の上の平坦な場所に着き、ぐるりぐるりとその場で円を描きながら、息を整えている。

あそこまでいけば楽になる。

しかし、足はもう早くも限界だ。

息がどうしようもなく苦しい。

もうここでまた休みたい。

いや、まだ頑張れるはずだ。

もう少し。

この前は何度も休んでしまった。

今日もここにくるまでに二度休んでいる。

もう休まない。

先にいった人に恥しいという気もする。

しかし、あの人とは自転車が違う。

細いタイヤに、第一、ずっと軽そうな自転車だ。

そんなことはつまらない言い訳けだ。

登ればよいのだ。

もうあとわずか、最後のふんばりだ。

足首を使って、足の疲れをごまかして、漕ぎ上がる。

汗が止まらずに出る。

よし、これでいけるぞ。

目は、もう平坦な場所と同じ高さまできている。

あとわずかに体を引き上げるだけ。

湘南平は、最近では三度目になろうか。

以前、四ッ谷に引っ越す前は何度も登った。

茅ケ崎に再び戻ってからは、そもそも自転車に乗る回数が少なくなってしまったこともあって、あまり出掛けてきていなかった。

春に、桜が咲いているだろうかと、湘南平を目指したことがあった。

曇り空、冷え冷えとしていた。

登り坂にかかると、すぐに足が痛くなり、息がきつくなった。

最初の大きなカーブを越えたところで、たえられなくなった。

ちょっと休んだ。

自転車をまたいだまま、両足を地面に付けて息をついた。

桜はまだ本当に開いたばかり。

こんなとば口でいつまでも休んでなんかいられない。

漕ぎ始めた。

ゆるいカーブで、まあまあ楽にいけたが、少し勾配がきつくなると、もういけない。

また休んだ。

こんなに大変な坂だっただろうか。

初めてここにきたときも、これほど大変に感じただろうか。

辛いのをがまんしてまた登った。

直線の坂の下にきた。

そこからは約二百メートルのきつい直線の坂だ。

初めの頃、ここが登り切れずに、二度ほど途中で引き返したことがあった。

ここに挑む前に十分に休みを入れよう。

自転車から体を離す。

腕を回し体をほぐした。

空気が湿り気を帯びていて、坂の上の方はもやもやとして、薄く煙ったように見えた。

息が整ってくるにつれて、汗でぬれた下着が体に触れるとひやひやと冷たかった。

ぽつり、と水滴が顔を打った。

雨だろうか。

それはよい潮時だと、もうそれ以上は登らずに帰ることにしてしまった。

その次、ここにきたのは、ちょうど一年ほど前、やはりこんな湿っぽい曇り空の日だった。

何度も休みながらも、とにかく登り切ることは登り切った。

直線の坂では、登り始める前に十分やすんだのはもちろんのこと、途中で三回ぐらい休憩を入れたのではないだろうか。

少し登っては、すぐに息が切れ、休みを入れた。

直線の坂を、どうにかこうにか過ぎると、あとはぐっと楽になって山頂にまでいくことができた。

自転車で湘南平を登ったのは、たぶんこれが八年ぶりのことであった。

今日は梅雨の間の日。

山頂から見下ろす大磯の海は、白く薄れている。

砕ける波頭だけがはっきりと見え、海全体は淡く、水平線はいつか空と混じって判然としない。

花水川の河口は見えるが、その先の平塚の浜辺はぼわぼわとかすれていく。

じっとりと体に汗がまとわりついている。

そういえば今日は空気が重たかった。

手や足にあたる風が、ずっしりと重く感じられた。

昨日の夜までの雨せいで、空気はたっぷりと湿り気を含んでいるのだ。

山の下から見たとき、湘南平のテレビ塔には雲がかかっているように見えた。今ここで見ると、テレビ塔に雲はない。

そのぶん、下の景色が白くなっているのだ。

久し振りで、今日はようやくでかけることができた。

雨の心配はまあなさそうだったが、晴れることもなさそうだった。

ときおり、薄くなった雲を通して太陽の形が見えることがあっても、また雲が灰色に変わって暗くなる。

それはまたこの季節にふさわしいものだ。

いくら梅雨だからといって、雨の中を走ることはしないので、こんな湿っぽい日が、梅雨の季節の様子を自転車に教えてくれる。

海岸の林はすっかり葉におおわれていた。

ついこの前は、林の中の地面をのぞきこむことができたのに、もうびっちりと枝々に葉が繁っていた。

林の周囲にはオオマツヨイグサが、昨日の夕べの花の名残をつけていた。

田圃にはきれいに稲が植えられていた。

水がいっぱいに張られ、かたわらの川は、大きな音をたてて流れていく。

その土手ににはホタルブクロが咲いていた。

湘南平の坂は、まだ十分に登ることができない。

直線の坂の手前で一度、そしてその途中で二度休んだ。

以前、調子のよいころは、一度だけか、あるいは一度も休まずに登ることができた。

しかし、まあ今日ぐらいのことでもよしとするか。

そもそも坂を登ることだけがすべてではないのだし。

こうして梅雨の日の時間を楽しむことができる、そのことで本当は十二分のことなのであろう。

　　　（一九八九年七月二日）

■第十三　　七月二十三日　鷹取山

夏の朝だった。

家々が建ち並ぶ道に、まだ日はさしていなかった。

クラブの練習にでもいくのか、急いで自転車を漕ぐ中学生くらいの女の子にすれちがった。

釣竿とバケツをもってゆっくり歩く男の人を追い越した。

国道に出た。

日が斜めに当たり、今日の暑さを予感させた。

海はしずんだ灰色をしていた。

西に向かった。

道には、もう自動車が列をなしていた。

日曜日のせいだろう、トラックは少なく、ほとんどが自家用車だった。

オートバイが固まりになって走り抜けていった。

サイクリングウェアに身をかためた自転車男がさっと追い抜いていった。

空は青くなく、ぼんやりと白っぽく、海岸の林はしっとりとぬれていた。

オオマツヨイグサの黄色い花が、松の下の暗がりで小さくしぼんでいた。

キョウチクトウの白い花が、まだ淡い朝日を受けてわずかに光っていた。

湘南大橋の下の干潟には、いっぱいに水がたたえられていた。

小さな波が棒杭を洗っていた。

見上げると、半分の月が斜めに浮かんでいた。

丹沢のあたりは青白く、山の姿はまったく見えなかった。

かろうじて高麗山の輪郭をほんのりと認めることができた。

ここらいったいが、朝露の中にどっぷりとつかっているようだった。

大磯海岸では、すでにサーフィンを十分に楽しんだ若者たちが帰り支度をしていた。

いまになってやってきた連中は、駐車するスペースを求めて右往左往していた。大磯駅は、人気がなくひっそりとしていた。

タクシーが一台だけ待っていた。

ガード下をくぐると、住宅の間を細い道が縫い、そこは木々につつまれ、ひんやりと涼しかった。

老夫婦が散歩をしていた。

お爺さんの白い帽子がまぶしかった。

小天城峠への道に入った。

田圃は青々として、尖った葉先がぴんと伸びていた。

セミがときおり頭上で鳴いた。

しだいに谷が狭まると、東の尾根からの影が長くせまってきた。

日陰の木々は昨夜からの眠りの中にまだあるようだった。

谷の西半分には強い日が当たり、木も虫たちもさかんな活動をくりひろげていたが、東半分は暗く静まり返っていた。

その境界が、地面にも空中にもくっきりと引かれていた。

夏の昼と朝の境界だった。

この境界線に、ちらちらと細かく白いもの、それは蒸気なのだろうか、そんなものが無数に飛んでいた。

ドドドドと機械を動かして畑を耕す人が見えた。

昨日の作業を中断したままなのであろうか、畝の途中にぽつんと置かれた機械もあった。

峠に着いた。

振り返り見ると湘南平があった。

テレビ塔が白い空の背景に黒く立っていた。

山は、輪郭だけがきらきらと白く、下はずっと濃い灰色をしていた。

足の下に畑があり、そこを囲む山が左右から尾根を伸ばし、その間に遠くの畑が見え、そこを囲む山が左右から尾根を伸ばし、その間に小さな山が見え、それを囲む山が左右から尾根を伸ばし、それらの背後に、湘南平があった。

一番手前の畑と尾根だけに日が当たり、ほかはまだ日陰にあった。

峠を越えた。

蜜柑の木を手入れしている人がいた。

枝に小さな実がぽつりぽつりとついていた。

坂を下り出すと、鷹取山が見えた。

淡い緑色をしていた。

なんだか、まだよく目覚めていないようだった。

この前の力強さは感じられなかった。

右にかすかに大山の山頂だけがかすかに見えた。

下り終わって田圃の脇から新幹線の下をくぐった。

新幹線の窓から、鷹取山を見たのは、一昨日のことだった。

手の届かぬ窓の外に見たためにかえって、鷹取山のそこここの道が、今すぐにそこに立たなけらばならないものとして、鋭く体全体にせまってきた。

だから、今日は、鷹取山山頂に何年かぶりに立つためにきたのだった。

牛の匂いが鼻を突いた。

春までは感じなかった匂いが、ここら一帯に充満していた。

杉林と竹林の間から登り道が始まった。

ひんやりと冷気が全身を包んだ。

水の音がときに静かに、ときに激しく聞こえた。

汗がとめどもなく流れた。

ばちゃばちゃと放水路から間欠的に水が吐き出されているところで右に曲がった。

いつもはまっすぐに十国峠に向かう三叉路であった。

ゴルフ場の間を行くこちらの道は、以前は、でこぼこで、いつもぐちゃぐちゃとぬれていた。

いまはすかり舗装されていた。

走るのに何も困難はなくなったが、その分、面白味もなくなった。

人通りのない道で、大きなくぼみにタイヤをとられたり、ぬかるみにい足をすべらせたりするのが愉快であったのだ。

鷹取山山頂をめざして、右に曲がった。

ゴルフ場から離れて、木立ちの下をくぐる細道となった。

ウグイスが鳴いていた。

息を切らして坂を登った。

少し下りになり、いくらか息をついた。

またよりきつい登りになった。

自転車を止めて、息を整え、また走り、また自転車を止め、また走った。

ちょっと下って、ちょっと登って、山頂に着いた。

そこは、鷹取神社の境内で、すっぽりと木々におおわれて、いっさいの外部の音からも光からも遮断されていた。

地面にはきれいに掃き目がついていた。

掃き目の上には一つの足跡もなかった。

掃き目をつけた人のあとはまだ誰もここにはきていなかったのだ。

掃き目をつけたのは今朝だったのか。

その人は、いまたどってきた自動車も通行可能な道できたのか、本来の参道の方からきたのか。

巨大な木に説明書きがつけられ、推定樹齢四百年のタブノキと記されていた。木を見上げていると、ケッキョケキョキョキョと鳥の声がこだました。

よく響く声だった。

コジュケイの声も山の下の方から聞こえてきた。

祠の正面からまっすぐに降りる参道があり、その石段の下もきれいに掃除されてた。

木々の下を縫うように麓に降りていくその参道はうつくしく静かに見えた。

境内を掃除した人はきっとここを往復したのだ。

以前に一度降りたこの参道をまたたどってみたくなった。

しかし、夏は夏らしい暑苦しいところをいくことにした。

いったんゴルフ場の脇にもどった。

さえぎるもののない日射にさらされて、そこらあたりは草のにおいにむせかえるほどだった。

それが夏のにおいだった。

北側に、すぐに山ノ神には降りずに、山腹を巡って、琵琶にまわることにした。山の斜面はよく耕されていた。

一面にとうもろこしが大きく成長していた。

見晴らし台があった。

大山から二ノ塔、三ノ塔がかすんでいた。

そこは丹沢山塊を見晴らすためのところだった。

山を下りかけると、平塚市の子供の家があった。

中で、何か集会をしていた。

夏休みの朝だった。

これで予定していた道は終わったが、このまま帰るのが惜しくなった。

自然と自転車は向きを変え、またも清見原に回わることになった。

丘の上はすでによく日に蒸されていた。

梅にいっぱいついた葉もこころなしかしぼんでいた。

ここもまた大きくとうもろこしが伸びていた。

いつも休むところで老婆が畑仕事をしていた。

その脇で、遊びにきた自分が休むのも気がひけて、少し先にいってから自転車を止めた。

じりじりと日が暑くさしていた。

いつもなら見える箱根もよどんだ空気の彼方にあり、ただ曽我山だけが物憂げに横たわっていた。

小型のオートバイがきた。

農作業をいった終えたのか、汗をかいた人が、大儀そうにして乗っていた。

いよいよ帰ることにした。

十国峠に向かった。

登り坂がつらかった。

出るべき汗も尽きたような気がした。

黒塗りの車が次々に追い越していった。

皆、ゴルフをしにいくのだ。

もう自転車を軽快に走らせる朝の時間は終わったのだ。

夏の昼となってしまった。

　　　　（一九八九年七月三十日）

■第十四　　八月四日　蓑毛

　災害発生

　全面通行止

柵が道をふさいでいる。

いよいよ峠をめざそうと、ゆるいカーブを曲がったら、こうなっていた。

自転車を止める。

もう一度、その表示を見る。

突如として目標は失われた。

手足の力がなくなる。

どうしたらよいのだろう。

柵と柵の間にすきまがある。

誰かが見ているわけではない。

通り抜けて先にいくことも可能ではある。

上体をハンドルにもたれかけたまま、しばらくぼんやりとする。

どうすることも思い付かない。

ここまできたことの、すべてが無に帰してしまったようだ。

この先にこそいくべき道があるというのに。

もうすでここにまできたというのに。

ふわふわと足が地面から離れる。

ゆらゆらと自転車は回転し、坂を下りだす。

今日はここまでであったのだ。

仕方のないことだ。

峠に背を向けて、自転車は下っていく。

四時過ぎに目覚めた。

まだ暗い空の一面を雲がおおっていた。

すぐに雨が降るような感じではなかった。

それならば、早朝の鎌倉を走ってみるのも悪くはないだろうと、起きることにした。

朝比奈峠とか、あるいは、調子がよければ宝金山あたりへでもいってみたらいいだろう。

いずれにしても、久し振りに東にいくことにしよう。

五時の天気予報では晴天だという。

それならば、長時間走ることもできる。

ひょっとして城ヶ島までいってみようか。

自転車の整備をする。

いよいよ出発するときがきた。

五時半だった。

北風に雲の流れは速い。

東に青空が出たが、北西は灰色の雲がおおっている。

日はささず、風のせいで、涼しく、まことに心地よい。

天気を気にすれば遠くにはいけないが、気持ちの方はどこへでもいけそうな感じだ。

ふいに、ヤビツ峠にいこうという気がおこった。

今年の計画の中にヤビツ峠は入れていなかった。

いつかは是非いこうと思っていたが、まだまだ先のことにしていた。

本気になってヤビツ峠を目指そうと考えたことはなかった。

それが突然に、ヤビツ峠にいってみたくなった。

自転車に乗る。

当初の予定の東へはいかずに、西に向かってしまった。

峠まで登り切れる脚力があるのかどうか、北西の雲が雨を降らせはしないかどうか、不安はいくらでもある。

しかし、もう走りだしてしまったのだ。

もし何か無理がおこれば、その時点で帰るなり目標を変えるなりすればいいだろう。

走れるところまでいくことにしよう。

こんなにもいこうという意欲が自然と湧いてきたときにいかずに、いつまたいくことがあるだろうか。

走り出せばますますヤビツ峠への思いはつのる。

あの坂を登りたい。

湘南大橋を渡る。

北風にあおられる馬入川の水と、波の力で河口から押し寄せて入り込む海の水とが、くっきりとした境界をつくって衝突している。

ちょうどその場に一列に棒杭が並び、一本にきちんと一羽のカモメが止まっている。

雲が走る。

そこから雲が湧き立つのか、大山のあたりはまったく見えない。

あの雲にまでいくことができるだろうか。

滄浪閣の前を過ぎる。

湘南遊歩道にはひっきりなしにトラックが行き来していたが、ここの東海道は車の数が少ない。

バスと前後になって走る。

そのバスが止まる停留所だけにぽつんぽつんと人が立っている。

かばんを持った中年の男の人の顔にうっすらと日がさすと、まだ眠い目をしょぼしょぼとさせて、下を向いた。

今日は金曜日だから、この早くからもそれぞれ普通の日常の生活が始まっているのだ。

普段ならこんな時間にここにいるはずのない自分だけが非日常的な行為をしているわけだ。

中井のあたりを走る。

秦野・二宮のバイパスができあがっていた。

工事のために丘陵が削られているのを見たときには不快だった。

しかし、今朝は、もともとの道では、バスとしかすれ違うことがなく、本当に静かになった。

ただ通り抜けるだけのトラックなどはバイパスの方にいってしまい、狭いこの道にはこなくなった。

ここは裏道になった。

体に触れるくらいに迫ってくるエンジンの音にびくびくすることなく、ゆったりと道を走ることができる。

これまではなるべく避けてきたこの道が、最も愛すべきものに変わった。

幸運にも、この道は地元の人の生活の中に返ったのだ。

ラジオ体操に向かう子供たちが、首から出欠票を下げて道をばらばらと走っていく。

お爺さんが、朝の農作業にいくのか、自転車を押して坂をゆっくりとのぼっていく。

反対側から下ってくるバスを、神社の前で列を作って人々が待っている。

長いゆるい坂を登り切った。

細かな雨粒が手足顔に当たる。

黒い雲が空の半分をおおっている。

丹沢の山々が正面に見える。

山の上半分に雲がおおいかぶさっている。

山の下半分はじっとりと湿っているような濃い青色をしている。

その境で雲が渦を巻き、谷筋を雲でいっぱいにし、尾根筋をすべるように雲が流れ出る。

そうして雲は、北東から北西に移動し、山を離れ、次々にとぎれることなくこちら側に向かってくる。

いま水滴が当たるのは、雨になる前兆だろうか。

それとも、坂を登って、雲の高さにまできたためなのだろうか。

水滴は雲の粒なのだろうか。

これから雨になるのなら、とうていあの山までにはいけない。

こうも低いうちに雲に入ってしまうのであれば、山にいけるものだろうか。

実際、大山もヤビツもここからは雲の中にあって見ることができない。

目標を別に変えるべきであろうか。

だが西には青空がある。

いこう。

雲を、この北風が吹き飛ばしてしまうことだってあるかもしれない。

それに、ヤビツ峠にいこうとしたこの日は今日しかないのだから。

国道二四六号線を越え、蓑毛への入り口にきた。

蓑毛まで登れればヤビツは登れる。

以前、何度かヤビツに登っていたときにそう思った。

距離からいっても坂の勾配からいっても、蓑毛までと、蓑毛からヤビツまでとは、そんなに差がない。

ともかく今日はもうここにまできたのだから、ヤビツ峠にいかずに帰ることはできないはずだ。

とりあえずは雨にはなっていない。

ともかく、蓑毛までで、自分の足の具合をよくみておくことにしよう。

昨年、自転車を再開するにあたっては、四つの目標とする場所があった。

当面、その四つの場所にいくことが自分の課題だ。

第一は、箱根。

精進池まででもいいし、できれば芦ノ湖畔までいきたい。

第二は、足柄峠。

春か秋の空気の澄んだ日に、できれば朝のうちに峠に立ちたい。

第三は、城ヶ島。

夏の暑い日に、できれば短時間に往復したい。

第四は、ヤビツ峠。

余裕をもって、できれば峠への道をゆったりと楽しみたい。

これら四つのうち、実はヤビツ峠だけは今年の予定に入っていなかった。

力に十分に余裕ができたと感じてからいこうと思っていたのだ。

それが、逆に、四つのうちの最初に、ヤビツに、今日、挑むことになった。

はずみでもうここにまできてしまった。

まだまだ力は足りないように感じる。

それでも、ここにまで気持ちよく一気にやってくるだけのことはできた。

これが時機というものなのだ。

力の方は本当はどうなのか、それはこれから明らかになる。

蓑毛までどの程度走ることができるか。

まず記憶の通りにきつい坂がある。

それは難なく越えた。

そこからは意外に楽な道が続く。

雲が気になる。

依然として峠のあたりは見えない。

山肌を登っていく高圧線の鉄塔が、高いものほどだんだんにかすみ、ある程度より上はまったく姿を消してしまう。

あんなところにまでいけるものだろうか。

道が二またにわかれる。

いよいよ登りがきつくなるはずだ。

夏にしては涼しいこの日にも、もう全身から汗が流れ落ちる。

バスが追い抜き、またすれちがう。

まだ足に力にはいくらか余裕がある。

確か最後に直線のきつい坂があって蓑毛橋にいきつくはずだ。

その前に鳥居が現われる。

阿夫利神社の鳥居だ。

ここで休憩する。

石垣に自転車をたてかけ、その脇に背中を付けて休む。

以前、暑い陽射しを受けてやはりここで休んだ。

今日は雲の下。

涼しいのはよいが、どうしてこんな天候の日にヤビツ峠に登ることになったのであろうか。

抜けるような晴天にこそくるべきだろう。

これまではいつもそうであった。

だが、いこうという気持ちがなければ、いくら天気がよくてもここにくることは決してない。

今日は自分の気持ちが、天気にかかわらずここにまでこさせることになったのだ。

走り出す。

ゆるく右にカーブし、左にカーブし、そうしていよいよ直線の坂が目の前にきた。

思った通りにきつい坂だ。

登る。

先を見ると、さらに走らなければならない分の苦しさに前もって気がくじけてしまうので、前輪のすぐ下だけしか見ないようにして、ゆっくりリズムをとって登る。

両脇の家並の軒を一つまた一つと過ぎていく。

もしかしてもう坂の終点に近付いたのではなかろうか。

かすかな期待をもって前を見る。

まだまだ三分の一は残っている。

あそこまでいったら休めるのだから、もう少し、それまではまだもうひと頑張り。

漕ぎ登り、漕ぎ登り、また前を見る。

直線の坂の先には、ああ、左にカーブしてまだ坂が続いているではないか。

そこがすぐに蓑毛橋ではなかったのだ。

もう力尽きる。

いやまだだ。

まだいけるはずだ。

ここを登らなくてはヤビツにいけない。

せめてあの門口まで。

それなら、あの白い線まで。

もう、あのあそこまで。

バスが止まっている。

もうそこだ。

折り返しのバスがそこにいるのだ。

息が切れ、足が限界にきて、蓑毛橋に着いた。

川を見下ろす橋の脇に自転車を止める。

足がわなわなとふるえ、膝ががくがくと揺れてうまく歩くことができない。

汗がぐっしょりとランニングにしみこみ、川からの風を受けるとひやひやと冷たい。

十分ほど休憩する。

ここは変わっていない。

バスのロータリーがあって、小さな売店があり、汚い便所がある。

丹沢の案内図が立ち、川を渡ればヤビツ峠への自動車道、川に沿っていけばヤビツ峠への林道。

どうにかここにまできた。

とうとうヤビツに登れる時がきた。

足にはもうほとんど余力がないかもしれないが、だが登る。

依然として山の上は雲の中。

だが登る。

自転車に乗り、峠に向かう。

橋を渡る。

この先に大きなカーブがあって右に左にくねると、だんだんと山の気配がしてくるはずだ。

自動車道とはいえ、それなりに山を登る雰囲気があるだろう。

遠く渋沢丘陵を見下ろしたあの角はどうなっているだろうか。

富士山を正面に見たあの脇道はどうなっているだろうか。

むろん今日はこんな天気だから見晴らしはきかないだろう。

ヤマザクラの白さに元気付けられて最後のひとふんばりをしたあのところはどうなっているだろうか。

そこを越えれば、ヤビツ峠だ。

大勢の登山者たちが休息し、何台ものオートバイが止まっていた峠の広場はどうなっているだろうか。

そこもここも、雲の中だろうか。

水滴がただよう雲の中にあるのだろうか。

それもこれもみんな、いまからいけば、すっかりわかることなのだ。

全面通行止のために蓑毛橋まで引き返えした。

結局、橋のかかる春岳谷の流れにそって少しばかり登った。

目的は、突然に達せられないことになってしまった。

それでも、蓑毛キャンプ場にまでいって、冷たい川の水で顔を洗うことができた。

どうどうと落ちる水を手ですくおうとしても、流れの勢いで、手にはあまり水が残らなかった。

そこは初めてきたところだった。

それに、目標というものがなくなってしまうのは寂しいものだ。

まだヤビツ峠にいきたいという気持ちが強く残っている方がおもしろいというものだ。

今日と同じような期待をもってまた登ることができるというのは幸せなことではないか。

同じ楽しみを二度も味わうことができるのだから。

そうしてキャンプ場をあとに自転車に跨げば、秦野までの七キロメートルはひと漕ぎの下りであった。

　　　（一九八九年八月六日）

■第十五　　八月十九日　劔崎

今日がよく晴れた日であったのならば、きっとここはすばらしく涼しく、ものも見えぬほどに暗く、きっとそのために、ここで立ち止まったことだろう。

太陽の光が直接にささない今日であっても、ここは十分に涼しく、とまどうほどに暗い。

もし、本当に、夏の日差しがぎらぎらと照りつけていたのなら、ここまでやってこれなかったかもしれない。

万一幸いにもやってこれたとしたら、ここは、このうえもなくありがたい場所として感じられたことだろう。

自転車を止め、汗を拭い、一休みしたことだろう。

道ばたに寝転がったかもしれない。

今、自転車は、木々におおわれた坂を一気に下っていく。

ここまで、ずっと台地の上を走ってきた。

少し厚めの雲が空一面に広がっていた。

それでも夏のこととて、地上全体は明るかった。

雲の色をうつして、見晴るかす風景のすべてが白っぽかった。

遠くに海がわずかに見え、そこにやや黒い雲が垂れていた。

雨になるかと思うと気がせいたが、また、ときに、短時間だけ日がさすこともあった。

海に向かって走り、いよいよ台地の端にまで至り、道が下りになった。

とたんに、全身が木々の陰に包まれ、突然に目の前が暗くなったのだ。

自転車はスピードを上げ、暑くほてっていた体をさあっと冷してくれる。

そして、一つ折れ、二つ折れ、三つ折れ、坂を下る。

下り切ると、水田があり、その先に漁港がある。

毘沙門湾だ。

突堤の先の岩場に出て、早い昼食をとる。

視野の中に、毘沙門湾の外側の海を半分、毘沙門湾の内側の海を半分見る。

湾の外の海は、波もなく静かに広がっている。

湾の中には、二三艘の小船が浮かんでいる。

この小さな湾の全体が港になっている。

湾の口に崖がせり出して狭くなり、そこから防波堤が向かい合わせに突き出し、港の入り口をこしらえている。

おにぎりを一つ食べる。

今は引き潮なのだろうか、岩を洗う波は遠くの方にある。

港の中央には、ぽっくりと岩の小島が現われている。

その小島の上に、何羽とも知れぬカモメがとまっている。

ときおりそのカモメが声をたてる。

自分のほかに人は、向こうの突堤に釣人が一人、身動ぎもせずに座っているだけ。

おにぎりをもう一つ食べる。

ここは崖の下の岩場。

ごろごろところがろ岩の間のところどころに引き残った潮がたまっている。

崖の壁には、砂岩と泥岩の地層の縞模様がくっきりと斜めに傾いている。

その地層がそのままに、腰をおろしている岩にもある。

黒い砂岩の層の部分をなぜてみる。

どれほどの歳月がここに刻まれているのだろうか。

砂がつもって岩になった歳月と、岩を削って波が洗い続けた歳月。

最後のおにぎりをほおばる。

さっと、向こうの突堤の上の人が海に釣糸を垂れる。

高くカモメが鳴き、次々と、百羽、二百羽、三百羽のカモメが頭の上を飛んでいく。

立ち上がる。

その気配がすぐにわかるのか、ざわざわと無数の船虫が遠のいていく。

岩をまたぐと、ぴょっぴょっとカニが体を隠す。

ボッボッボッボと、船が港に入ってくる。

網をいっぱいに載せた漁船だ。

背後に車が止まり、大勢の大人や子供たちがでてくる。

ここの岩場にやってくる。

バーベキューでもするのか、道具を運んでくる。

入れ違いに引き上げる。

男の人が、大きな声で、

　その荷物はあっちだ、重いからそっちのにしな、すべるから気をつけろ

と、さかんに指示している。

一人、手足の動きが不自由な子供がよろよろとくる。

男の人はその子の父親なのだろうか、

　おまえこのごろ歩かないだろう。足が弱くなったぞ。

と声をかける。

その子はうなずき、ふらふらと前進して、防波堤の下までくる。

　よしいいぞ。

と、男の人はいい、その子をひょいと背中に負う。

女の子の人が、

　大丈夫。

というと、

　こいつが一番の荷物だよ。

と、笑いながらいう。

この坂は新しくできた道なのだろうか。

どうも見覚えがない。

こんなだだ広い坂だっただろうか。

両側にコンクリートの土手が白々として、趣きがまるでない。

もっと幅も狭く、曲りくねっていて、家の軒下をくぐるような所もあったはずだ。

記憶の中の坂と一致しない。

江奈湾も、なんとはなしに違う感じがした。

これまでに二度ほど江奈湾沿いに走り、その記憶が残っていた。

記憶の中の江奈湾は、緑に囲まれた湾で、深い水色をした海を抱きかかえ、あくまでもひっそりとしていた。

ひたひたとさざ波が浅瀬に寄せ、人の手の届かぬ湾奥で、群生するアシの茎を洗っていた。

いつか別の機会にゆっくりとこの湾のようすを見ることにして、今日のところは、通り過ぎるだけにしておこうと、二度とも考えた。

だから江奈湾で自転車を止めたのは、今回が初めてだった。

江奈湾はずっと活気があった。

さざ波が寄せる浅瀬にはボートが何隻もあげてあったし、湾の半分は漁港になっていて、いましも岸壁の上では、二組みの夫婦が網の手入れをいそがしげに行なっていた。

その下の海で、少年が二人、シュノーケルをつけて潜水していた。

立てば背の立つところで、ばちゃばちゃのろのろ水面ぎりぎりのところをもぐって進んでいくのはユーモラスであった。

この江奈湾をあとに、いま坂を登っているのだ。

どうやら、ほんとうにこの坂は新しく作ったもののようでもある。

だがもしかすると、あるいは、記憶の中で、この八年間のうちに、すべての印象を江奈湾ともども淡く小暗い陰影のあるものにしてしまっていたのかもしれない。

江奈湾もこの坂もこんなに明るくなかったように思うのだ。

坂を登り切る。

右にいけばよいはずだ。

ややそれらしい記憶がある。

それでも少し不安を覚えながら、右の小道に入る。

狭いこの道を走り、カーブする。

草のむっとするような匂いが立ち込めている。

追い抜かしていくトラックがもうもうとほこりをあげる。

ああ、間違いない。

台地の向こうに見えてきたではないか。

燈台だ。

劔崎だ。

燈台は、立ち入り禁止であった。

一度、燈台の敷地の中に入って、向こうの海を見たように思うのは記憶違いだろうか。

小さな燈台の真下に立って、手すりに身を寄せて、海を見た。

下から、湧き上がるようにして、岩に砕ける波の音が聞こえてきた。

東京湾をいく船を見、房総の山を見た。

今日はがっしりと柵が閉じられている。

ただ燈台を仰ぎ見るばかりだ。

海の穏やかな今日は、波の音もまったく聞こえない。

ぼんやりと曇った今日は、遠くの船も山も見えない。

ただ燈台を見るだけだ。

ここまで、燈台の間近のここまできただけでもよい。

あるいはもう再びくることもないのではないかと、思っていたところにまたこれたのだから。

台地の先の白い燈台の姿は、まさに思い描いていた通りそのままであった。

何度か、そこに向かって走ったことを思い出した。

白い燈台に近付いていく道。

しかし、もうまたいくことはないのかもしれないと思っていた。

自転車に、劔崎にいくほどまでに熱心に乗ることはもうないのではないかと思っていた。

さびしくはあったがそう思っていた。

だから劔崎の白い燈台は、現実のものというよりは、幻想に近いものになっていた。

その幻想と同じ姿の燈台があった。

だが、いざ燈台にいくには、石畳みを登らねばならないことは、すっかり忘れていた。

黒く、そして表面のこすれた、急な石畳みを登った。

こんなところがあったのだろうかと、始めいぶかしく思ったが、登るうちに確かに思い出してきた。

現実の燈台に近付いていくことが、この石畳みで実感できた。

去年の春、再起をかけて自転車に取組み直してから、二度、三浦半島にやってきた。

佐島と、大楠山。

どちらも三浦半島の中央の辺りで、端までは遠かった。

そのときにも、いつかまた、劔崎までいきたいと思った。

まだまだ、なんだかとてつもなく遠いところのように感じられた。

白い燈台は、はるか彼方の及びもつかぬ存在のようでさえあった。

とても自分の足がそこまでいけるとは、現実には、考えられなかったのだ。

それがいまこうして燈台にまできた。

石畳みの坂の上に燈台はあった。

立ち入り禁止ではあったが、白い燈台を見上げることができた。

ざわざわと女の子たちが登ってきた。

　あら、入れないわ。

　やーだ。この前、入れたのに。

入れ違いに立ち去ることにする。

わずか三分も、いなかっただろう。

八年ぶりにきたというのに、もう自転車はさっーと石畳みの坂を下っていってしまう。

ようやく坂を登り終えて、台地の上に出た。

三浦海岸駅の下から五十メートルの高さに上がった。

劔崎から金田湾沿いに北に走って、三浦海岸の砂浜が見えてきたところで、海から離れた。

海岸には人が大勢出ているようだった。

京浜急行の線路をくぐると坂になった。

自動車に抜かされながら、かなり疲れた足に残り少ない力を入れた。

両腕には汗にほこりがたまって、薄汚く黒い筋がついていた。

もう限界かと思うころ、坂が終わった。

道の両側は畑だ。

ところどころに露店が出ていて、三浦名物スイカを売っている。

台の上に大小さまざまなスイカが積み上げられている。

麦わら帽子をかぶり、白い手ぬぐいで頬をおおっているおばさんが脇に座っている。

自動車が少し先に止まっていて、二っつ三っつ買い入れたスイカを運び入れている。

もうスイカも終りの季節になった。

畑にはほとんどスイカが残っていなかった。

たまたまころがっていたものは、できが悪くて収穫されずに放置されたもののようだった。

形が変だったり、色がおかしかったり、割れたりしていた。

どうしたことか、スイカがころがっていても、葉というものがほとんどなかった。

茶色くなった葉や茎が、申し訳け程度にひょろひょろと地面をはっているだけだった。

その地面に、ビニールが半ば切れて敷かれていた。

以前は、青々と茂った葉の中に埋もれるように色つやのよいスイカがなっていた。

八年前には、そんな三浦の台地の上を、遠くに海を見ながら走ったのだった。時期の違いか、あるいはスイカの作り方が変わったのか。

目の前に、山が見えてきた。

台地の向こうに山が横たわっている。

空気が水蒸気を含んでいるためなのだろう、山は淡い緑色をしている。

灰白色の曇り空の下に峰々を連ねている。

武山から富士にいたる三浦の連峰を横に見ているのだ。

一番高い武山、その脇の砲台山、そしてその名に合わぬいかつい富士。

今日は山には登らずに帰る。

もう登る力がない。

山の向こうの道を走ったことがある。

観音崎からの帰りだった。

もう疲れていたので近道のつもりで、海岸から離れて、野比から北に入ったのだった。

しかし、そこには百メートルまで登るきつい坂が待ち受けていたのだ。

坂を上がるのに懸命で、富士も武山もどんな形の山なのか見ておく余裕がまるでなかった。

そして、三浦海岸を走ることも、次回まわしになった。

今日は、こうして武山や富士の姿をゆっくりと見ることができた。

しかし、登るまでには至らない。

三浦の海岸も、それっきりで走っていない。

今日は、ようやくに、劔崎にいくことができた。

三浦半島の一つの端に立つことができた。

そうだ、湘南の隅々を走ろう。

すっかり忘れていた、自転車を開始したときの念願が思い出された。

湘南の隅。

劔崎は三浦半島の端で、確かに湘南の隅だ。

観音崎もまた三浦半島のもう一つの端で、そこもまた湘南の隅だ。

三浦海岸は三浦半島の海岸線を縁どっているのだから、やはり湘南の隅になるだろう。

あるいは、武山も三浦半島の最高峰なのだから、湘南の一つの隅といえるだろう。

湘南の隅はそこここにある。

劔崎を走り、観音崎を走り、三浦海岸を走り、武山を走る。

以前いったところのすべてを、今日の劔崎のように再訪し、以前いけなかったところを、新たに走りたい。

湘南の隅々のさまざまな地点が思いに浮かんでくる。

そのすべてを走りたい。

そのすべてをこの目でみたい。

そのすべてをここに記したい。

とうていこの身には及ばぬことを、自分の体力に及ばぬことを、自分の知力に及ばぬことを、自分の筆力の及ばぬことを、こうして志すとは、いかがな縁によるものであろうか。

　　　（一九八九年九月二日）

■第十六　　九月九日　金目川

走った道筋の記録だけしておこう。

湘南遊歩道を西に、湘南大橋を渡り、平塚の海岸を経て、花水川を越え、湘南バイパスの下をくぐって、信号で左折し、大磯の細い町筋を抜けて、鴫立庵の下で休息。

この間、大磯の道に日がいっぱいに当たっているのが珍しかった。いつも午前中にしかこないのが、今日は昼過ぎで、太陽が西のまわって正面からさしていた。一息いれながら見ると、大磯の海は波が立ち、海の注ぐ小川は岩を削り込んで流れていた。

東海道に出て、坂を登って街道の松並木をくぐり、滄浪閣の前で右に跨線橋を渡ってから左折し、代官山の下から本郷山の下まで、そこで右折して小天城峠を登る。

この間、跨線橋から仰ぐ湘南平は白っぽく見えた。湿度が高いせいだろう。小天城峠への道は、遠くからはセミの響きにすっぽりと包まれ、近くに寄って初めてそれがひとつひとつのツクツクホウシに分かれて聞こえた。田圃の稲は穂が垂れ始めていた。

峠から下り、新幹線のガードをくぐり、県道に出て左折し、東の池の前で右の小道に入り、さらに右折して、鷹取山山下の小箱根道に向かう。

この間、峠からは、大山に雲が湧いて山頂が見えなかった。新幹線のガードの手前で、田圃の脇の小さな道にちょっと寄ってみた。緑の小山に縁どられる黄緑色の湖の岸辺をいく気分で進むと、ぽつんと郵便受けが立っていた。上を見ると、少し高台に傾きかけた家があった。ほかの家々から離れたここで、ぽつんと暮らしている人がいるのだ。

小箱根道を登り、黒岩の集落の方にはいかず、ゴルフ場の間の道をさらに登って、電波塔の下で尾根を越え、左に道をとって山の中腹を縫って、トウモロコシ畑の間の三叉路で右に下る。

この間、杉の小さな林と竹の小さな林にはさまれたところから、小箱根道は急に涼しい空気に包まれた山道になった。天気は時に晴れ、時に曇り、そのたびごとに山の下の道の温度は変わった。黒岩の集落の手前の栗畑は大きく成長して、背丈よりもはるかに高く葉をつけ、実がたくさんなっていた。トウモロコシはもう収穫も終り、トラクターが入って、根ごと掘り起こしていた。その作業を寝巻姿の老人がぼんやりと眺めていた。

県道に降りて左に飛谷津へまわって、右折して配水池まで登って、右回りに舗装した新しい道を走って、左折してがたがた道に入り、こんどは右折して、畑の広がる高台に出る。

この間、飛谷津には、梨直売と書いた赤い旗がひらめいていたが、梨の実はよく見えず、どこで販売しているのかもわからなかった。配水池の先の高台にやってきたのはこれが初めてだった。トウモロコシ、ネギ、ニンジン、トマト、サトイモ、さまざまな作物がゆるやかに波打つ畑で栽培されていた。どこからともなく、農作業をする機械の音が響いてきた。丹沢には濃い灰色の雲が流れて、山の輪郭は見えず、遠く箱根のあたりまでは、この方角かと思っても、見通すことができなかった。近くには鷹取山が、背比べをするかのように並び添っていた。

四つ角で左折して、坂を下り、金目川に出て、わずかに上流で橋を渡って、金目観音に立ち寄り、少し下流の細い橋を渡って、再び川の右岸にもどり、そのまま川にそってサイクリングロードを花水橋まで走る。

この間、金目川は水が澄み、川底の石がよく見えた。金目観音には先客がいた。小さなショルダーを肩に掛けた初老の男の人が、参拝し、さらに奥の建物へと入っていった。一人でこのあたりを散策しにやってきたのだろうか。金目川のサイクリングロードも初めてだったが、車と離れることができ快適だった。わずかの距離なのに、下流にいくにつれて水が濁っていった。その水の中で、立ち入り禁止の柵をくぐって、子供達が泳いでいた。しだいに、高麗山が高くなり、花水橋のいつもの道にもどった。

配水池のあたりの高台をとりあえず南金目台と呼ぶことにしよう。そこには、鷹取山が近くに緑色に並び、向かいに青く丹沢が高く控え、遠く箱根伊豆が空を区切り、富士山が霞みの外に聳える。そして、高台の裾を、白く輝く金目川がめぐっていく。そんな景を飽くまで見るとしたら、これから何度足を運べばよいのだろうか。季節ごとに訪れ、一日の中での時間も変える。それでも、見落としがあるのではないかと、その場所に申し訳けなく感じてしまうことだろう。湘南にある無数の美の一つを発見するたびに、こうして、また気苦労がましてしまうのだ。

　　　（一九八九年九月十七日）

■第十七　　九月十六日　箱根

ただに押す。

ハンドルをにぎり、後ろからあてがうようにして、一歩一歩と、ただひたすらに押す。

漕ぎ乗ることができない。

この坂道を走り登る力を持っていない。

じりじりと歩き、自転車を押していくしかない。

ただ押すだけ。

まっすぐに見上げる坂を、押し登る。

右に大きく曲がる坂を、押し登る。

左に大きく曲がる坂を、押し登る。

力のなさに、なさけなくなる気持ちを抑えて、ただに押す。

厚みを増す雲ゆきに、あせる気持ちを抑えて、ただに押す。

いよいよ七曲り。

ここからもまだまだ坂は続く。

いや、むしろ、ここからこそ本当の坂が始まるのだ。

押す以外にどうしようもない。

ただ押して、前に進む。

ともかくもここまではきた。

箱根の坂道のここまではきた。

振り返ると、左右の尾根にはさまれて、いま登ってきた道筋を谷あいにたどることができる。

谷は、わずかに左の方に曲がりながら、ここから小田原へと下ってゆく。

そこを登ってきた。

須雲川の流れをさかのぼってきたのだ。

酒匂川の大橋で休息したときに、箱根は山裾だけがわずかに見えていた。

雲におおわれていたわけではなかった。

空全体が煙っていたのだ。

だから、山の下の方だけが横に細く青白く見えていた。

その上にある山の姿は、まったく見えなかった。

橋のそこからは、箱根の山中は、視界の及ばぬ遠く彼方にあった。

橋から川を見下ろした。

水が少しばかり濁っていた。

浅い川底の石が見えはするが、まったく透明というわけでもなかった。

川の流れをたどっていくと、河口には砂丘が伸びて、水の出口は細くせばまっていた。

そこに、波が寄せて砕けていた。

カモメが一羽二羽河原にいた。

ふと、不安を覚えた。

ここ一年半の間に、足はどれだけ鍛え直されただろうか。

心もとない。

勇んでここまで走ってきたものの、はたして箱根の坂を登れるものだろうか。まだくるのが早すぎたのではないか。

途中で引き返すような不本意なことになったら。

そんな心配もありえぬことではないが、そんなことをいっていては、いつまでたっても早すぎないときはこないかもしれない。

登れる力があろうがあるまいが、ともかくも、今日のいま行くことになった、そのことが大切なのだ。

自転車にまた跨がった。

帰りに、また、カモメに会おう。

快く帰ってきたとあいさつできるようにしよう。

酒匂川を渡り、そして、ここまで登ってきた。

ともかくも坂のなかばまでは登ってきた。

登ってきた谷の上の空は、いつのまにかすっかり雲におおわれている。

そきほどまでは、ときおり日が漏れていたのだが、今は、まだらな雲にふさがれて、どこに太陽があるのかもわからない。

低い雲の断片が、さらさらと尾根をかすめるようにして登ってくる。

雨になるのだろうか。

前線が南下して午後には天気が崩れてくるようなことをいっていた。

それでも出掛けてきたのは、青空がひろがって天気がもちそうに見えたことと、足の調子がこれから以降の秋には落ちていくように思っていたからだ。

遠出をするのならば今頃でしかない。

酒匂川から小田原を過ぎて湯本の手前で、いよいよ箱根の入り口にかかったのだった。

ゆるやかに勾配が増していった。

まだまだギアを変えるほどではなく、足に力を入れられる分だけかえって心地よいほどだった。

そのとき、山の奥に、かすかに二子山が見えた。

折れ重なる山々の一番奥に、ぽっくりと丸い二つの山が、やっとそれとわかる程度に認められた。

それは、まるで歌舞伎の書き割りの誇張された遠近法のように、はるか彼方の奥のそのまた奥にあった。

あそこの裏側にまでゆくのだ。

距離にすればすでに八割方はきたが、実際には、今日の行程の核心はここから先にある。

ついに箱根の坂を登るときがきた。

本当に登っていけるのかどうかの不安はまだあった。

それよりも、いよいよ坂を登れることの喜びの方が大きかった。

汗を流し、息をはずませて箱根の坂を登る、これほどの喜びがまたほかにあるだろうか。

そして、ここにまで登ってきた。

坂を、まだ半分には及ばないかもしれないが登ってきた。

しかし、もし雨が降ってきたら、ここで、引き返すことになるのだろうか。

せっかくここにまで登ってきたというのに、途中で引き返すことになってしまうのだろうか。

自転車を押して登る。

気持ちははやるが、少しも速くには進めず、気持ちを抑えて、じっくりじっくりと押して登る。

七曲りの坂を見上げる。

一つ曲がって、向こうでまた曲がって、そしてそれが正面のずんと上にやってくる。

またそれを繰り返して、もっとずんと上にやってくる。

何度も繰り返して、坂を登る。

坂の崖の下で掃除をしているおじさんがいる。

箒を持って、塵取りとゴミの袋を置いて、しきりに道の脇を掃いている。

ゆるゆると近付いていくと、

　いま、何時になったかね。

ときく。

自転車の中から、ごそごそと時計を取りだし、

　九時十分ですね。

と答える。

　そんならよかった。もうおそくなっちゃったかと思った。ならばまだ大丈夫、　時間がある。どうだい、畑宿からここまでずっときれいになっていただろう。そういわれて初めてそんなだったかもしれないと気付き、

　そうですねえ。

と、あいまいな返事をすると、

　そうだろう。

と、三分の一は歯が抜けてしまったような口を大きくあけて笑いながら、

　おじさんは、いつもここを走って下までいって、ずっと掃除してくるんだ。と、いう。

　一人で掃除してるんですか。

　そうだよ、おじさんは、この上の茶店で、そこから下まで掃除してるんだ。　だからきれいだろう。ほら、ローリング族がな、週末になるとやってきて、　へたなやつが、がりがりと崖をこするもんだから、ほら、こんなになっちゃ　うんだ。

見ると、ヘッドライトを壊したのだろう、ガラスの細かな破片が飛び散っている。

　おじさんが、みんなこんなやつを掃除するんだ。

　バイクもくるでしょう。

　最近は減ったね。道にこうして溝をつけてからは走りずらくなってあまりこ　なくなったね。そのかわり自動車だ。土曜日の夜なんか寝られやしない。一　晩中だよ。

　そうですか。たいへんですね。

　どこからきた。

　茅ケ崎からです。

　そうか。おじさんは、こんな自転車じゃなくてむかしの普通の自転車で、花　水川から小田原までの大会に出て、若いやつにまじって、最初はだめだった　が、最後にはどんどん抜かして、とうとう一等賞だよ。三十七分四十二秒。　そんとき三十八歳だったよ、おじさんは。若い人はがんばんなさい。四国で　もなんでも自転車でいきなさい。

なぜ四国なのかはわからないが、そうまではげまされた手前、押してばかりもいられず、自転車に跨がる。

じりじりと坂を登り出し、大きく左にユーターンするように曲がり、一段と勾配の増す坂を登る。

さっきのおじさんが、もう眼下に小さくなっている。

もう一つ次の曲がりまで登ろうと心では思うものの、足がしびれるように痛くなり、息が切れて、自転車は止まってしまう。

どうにでも押していくより仕様がないようだ。

道の表面を雲が流れていく。

文庫山のそそり立つ岩の側面を雲が流れていく。

前方の坂の上を雲が乗り越して流れていく。

左方の岩壁の脇を雲が巻きついて流れていく。

いずれ全身が雲に包まれ、雨に打たれることになるのかもしれない。

坂はこれでもう四分の三は登っただろうか。

やむをえず引き返すことになるのだろうか。

しかし、天候がこうも変わったとはいえ、目的を達せずして帰ることになってしまうような気は、今はまったくしない。

雨に降られるような心配はあるとはいうものの、さて現実に降られるようになるかというと、そんな気はまったくしない。

このままいくべきところまでいけるように思う。

いまさらあわてなくても、いけるように思う。

空はところどころ濃い灰色をしている。

地上すれすれの所を雲が流れ、東から西に自分と前後して、先へ先へと進んでいく。

ほとんどの山の姿は雲に隠され、ごく近い屏風山のごつごつとした崖だけが見えている。

二子山も、たぶん本来なら裾の方だけでも見えるはずなのに、どこに存在しているのか、その見当もつかない。

箱根旧街道との分岐、鋭いカーブ、甘酒茶屋、ようやく坂は勾配を減じる。

自転車に跨がって漕ぎだせば、汗をすったシャツに、湿気を帯びた空気はひやひやと冷たく感じられる。

のろのろと進む自転車と、さして変わらないような速さで、雲は自分の前後を流れていく。

お玉ケ池はそこか。

もうもうと湧き立つ雲の中にあって、ここに池があると知っていてはじめて池の位置する地形のくぼみがわかる。

道よりも一段低いそこに、雲が大きく幾重にも巻き、丸い雲の頭が幾つにもなって、ふわふわとうごめいている。

そこのくぼみをいっぱいに満たした雲からは、その渦の一部が道にあふれ出ていく。

あふれた渦は、道の表面をつたって、弱い風にあおられ、舞い上がって空の雲となっていく。

その雲の中を走っていく。

自転車を止める。

着いた。

ここにまできた。

石段を登る。

急な十段ほどの石段を登る。

左に折れ、また二三段登る。

霧の中。

真っ白で、ほんの目の前のちょっと先すらも見えない。

また少し段を登る。

ほんのりと、かすかにそれらしいものが見えてくる。

一歩二歩三歩、近付く。

ぼおっと姿が浮かんでくる。

もっとそばまでいき、手のふれるところまで寄り、初めて見える。

六道地蔵。

大きな岩のお地蔵さん。

高さは身の二倍以上もあろうか。

わずかに首を右にかしげている。

手をあわせる。

今、ようやくに再会できた。

霧の中で再会できた。

抜けるような青空のもとで、お地蔵さんの前に立ったこともあれば、ここでにわか雨に会い、真近かに雷鳴を聞いたこともある。

祈る。

七年前に、妻と二人できた。

結婚して間もないころだった。

その前の年に、二人の縁の長くとぎれぬようにと祈ったことの幸いあって、その日にまた二人でこれたことを感謝したのだった。

今は、二人の娘もいる。

おのずと祈る心はいっそう真摯になる。

今度は娘たちもつれてこよう。

この娘たちであると、六道地蔵に見てもらうために連れてこよう。

石段を降り、道を渡り、精進池の上に立つ。

霧。

いっさいの風景は隠されている。

道をいく自動車もヘッドライトをつけ、やっと数メートル手前で見えるという霧。

じっと目をこらしていると、下のほうに、かすかにちらちらと動いている感じのものがある。

注意を集中して見ると、どうやら、木の下に水面がちょっとだけのぞいているようだ。

そのつもりになって、もっとよく見ると、まちがいなく精進池の水面のごく一部分がそこにあるのだ。

ああ、これでよかった。

池も見ることができた。

深い霧にとざされたその下で、精進池の水はさらさらと小さく波を立てているのだ。

手すりにもたれて、しばし、ぼんやりと霧の下の水を見ている。

ふと、首をあげる。

どうしたことだろうか。

山が見えている。

急に山が顔を出した。

駒ヶ岳の中腹が見えている。

霧がぽっかりと割れたのだ。

割れ目はみるみる拡がっていく。

あれほどに深かった霧が、さあっと払われる。

霧は左に去っていき、すうっと湖面が現われる。

しっとりとぬれた木々の濃い緑に囲まれた水面があった。

流れ去った霧を追うように、すぐにまた、霧が水面にそって忍び寄る。

山から大きな霧の塊が降り下り、再び池は霧の向こうに隠れる。

道を渡る。

一瞬の池の姿を目にとどめて帰ることにしよう。

自転車に手を掛けて、その向きを変えながら何気なく上を見た。

ぽっと、お地蔵さんが顔だけをのぞかせている。

少し霧が薄くなったおかげで、ここからも見ることができるようになったのだ。手を振り、別れを告げる。

またくるであろう。

きっと、しばしばやってくるであろう。

自転車でくることも、バスに乗って妻や子供たちを連れてくることもあるだろう。

そのときに、また。

自転車にまたがる。

まずは霧の中。

流れる白い霧粒に包まれて走る。

次第にそれが薄まる。

流れ去った霧の晴れ間を追うようにして、走る。

さあっとすべてのおおいがはずれ、空が明るくなり、遠方の山々が姿を現わす。その山の下に、芦ノ湖がある。

芦ノ湖の湖面の一部が見えている。

いつしかこの自転車にもう一度芦ノ湖を見せようという約束も、どうにかこれで果たしたことになる。

ぐいとペダルに力を込める。

下り坂を一気にスピードをあげて走る。

パンを一口ほおばる。

旧街道の石畳に腰をおろしてパンをほおばる。

山賊であれば、この上の、道が折れ曲がったあたりに潜むであろう。

杉の林の中から、突然、大男がぬっと現われ出たらさぞ恐ろしかろう。

ここは、ちょっとしたくぼみだ。

畑宿から下ってきた急な石畳みの坂の終点なのである。

すぐ下に川が流れている。

木の間からもれ聞こえてくる水の音を聞きながらパンをほおばる。

だいぶ明るくなってきた。

もちろん日がさすほどではないが、霧は、ここにはない。

目が木に当たるまでの距離の限りに視界が及ぶ。

遠く自動車の響きが耳に入ってくる。

もそもそと、顎を上下させる音をたてながらパンをほおばる。

なんだか、そんなことはなかったかのような気がしてくる。

精進池のほとりにいたこと、六道地蔵の前に立ったこと、そんなことはなかったかのような気がしてくる。

この杉林の中の静かな石畳みの道と、霧に包まれた山中の池と、違いが大きすぎて、ついさっきそこにいたことなどなかったかのような気がしてくる。

現実にあったこととは思えない。

パンをほおばる。

下の方から男の人が、上の方から女の人が、いずれも若い人がやってくる。

男の人はにこにことして、

　この道はどこに通じるのですか。また下りになちゃったのでおかしい気がし　ているのですが。

と道を尋ねて、坂を登っていった。

女の人は、坂を下ってきた早足のまま、うつむきかげんにして、こちらと目を合わせずに、しゃかしゃかと通っていった。

パンを食べ終わる。

足腰を伸ばす。

出発する。

自転車を押して、川の上の小さな木の橋を渡る。

ここは堰と堰との間のよどみになっていて、草や木の下を静かに水は流れている。

自転車をかつぎあげ、コンクリート堤を越える。

がたがたの坂を上がって、国道に出る。

さっき登ってきた道だ。

その道を下る。

箱根から帰る。

小田原まで五キロの下り。

自転車にまたがる。

一気に走り下る。

風が全身に当たる。

ぐんぐんと走る。

箱根の坂を下る。

この次に、また、いつここを下るのだろうか。

いつかまた。

いや、いつかなどとはいわない。

すぐにまたこよう。

何回となくこよう。

この先、吾が生の続く限り、何回となくこの坂を下ろう。

何回となく六道地蔵に会いにゆき、何回となくこの坂を下ろう。

たとえ、ひたすら歩いて押して登ろうが、苦しかろうが、箱根へは何度でもこよう。

箱根へは、くればくるほどよい。

箱根へは何回となくくるべきなのだ。

何回となくあるはずの一回が今日という日だった。

その今日が、雲中の箱根というものだったのだ。

何回となくくる箱根の、ただ一回だけの霧なのかもしれない。

雨が降ってきた。

さあっと地面が濡れていく。

いっそう自転車は速く走る。

雨が顔を打つ。

　　　（一九八九年十月一日）

■第十八　　十月十日　足柄峠

八年間渡ることのなかった酒匂橋の上に、一カ月足らずの間に二度続けて立つことになった。

前回は天気が崩れていくときだったために、山がほとんど見えなかった。

すぐ近くの曽我山さえも姿がぼやけ、まして箱根は山裾がかろうじてうっすらと見えるばかりで、二子山の形などは空のよどみの彼方にあった。

その箱根に向かって走っていくのを心もとなく感じた。

急な坂は押していくにしても、はたして自分に登る力があるのだろうか。

そんな体力のことだけでなく、何ということではないのだが漠然とした不安もあった。

ここで全身の汗をぬぐったそのときとはうってかわって、今日はこの秋初めて吹き出した北西の風のために耳がこごえて痛くなっている。

その風のおかげで澄んだ青空、山がよく見える。

酒匂平野を三方から取り囲む山々のすべてを見渡すことができる。

曽我山、西丹沢、箱根の山が、朝日を受けるところは明るく、まだ日がまわらないところは青く、それぞれの顔を見せている。

その中で、箱根の上に、富士の山頂部が突き出し、まぶしいほどに白く際だって輝いている。

富士の雪が多くなった。

今日はその富士を間近かに見ようというのだ。

薄緑色の坊主頭の矢倉岳の裾をまわって箱根外輪山の尾根の上に出て、真正面に富士山を臨む足柄峠の上に立つのである。

ここからは山の上の部分だけしか見えない富士山のすべてを、山裾の最も下から頂上までを、一切さえぎるものなしに見ようというのだ。

八年ぶりに足柄峠の上に立つ今日という日がここにめぐってきた。

いまは箱根が身近かに感じられる。

それは、くまなくくっきりと山の姿が見えるためだけではあるまい。

前回ここから二子山の裏の精進池にまでいってこれたためなのだろう。

箱根もようやくに遠い彼方の存在ではなくなってきた。

いつでも、いこうと思えばいけるところになった。

そのことの証しとして、またふたたび酒匂橋を渡ろうとしているのだ。

そしてさらに今日は、箱根の向こうを見てこようというわけなのだ。

地蔵堂からは、思っていた通りの急な坂になった。

ここまでの道、もうほとんど記憶が薄れてしまっていたが、それでも登ってくるにつれて思い出すことがあった。

考えてみれば、地蔵堂までは過去に三回登って、そして二回下り、さらに一回徒歩で下ったことのある道なのだから、もっとはっきりした記憶がなければならないはずなのだが、思い出すのは、確かにこの折れ曲りの登り坂はきつかったとか、ここの平坦な道でやっと息が継げたとか、登り坂の間にたまたまあるこの下りがうれしかったとか、どれも足のつらさに関わることばかりだった。景色のことになると、驚くほどに覚えていない。

ここまで懸命に漕ぎ登ってきたこの日のことも、おそらく後になって記憶に残るのはよりいっそうきつく感じた折れ曲りの登り坂のことだけなのかもしれない。

この前、地蔵堂からこの先へと初めて登ったときには、もっと自分に勢いがあったように思うが、どうにもならない力の差ができてしまった。

なんとかここまで漕ぎ登ってこれたことだけでもよしとして、ここからは押して登ろう。

残念だが、もう漕ぎ登れない。

とろとろと押していく。

道が左にカーブして、そこからはしばらくほぼ一直線の坂になる。

その道の下に細長い谷がある。

その谷間に、一本の帯のように水田が連なり、みごとに整然と稲が実っている。谷の朝は遅く、一部はまだ夜から続いた日陰のなかにある。

ふとこの水田の景色を思い出す。

以前に見たのはここだったのか。

坂の道のはるか下にぽっかりと異次元の空間があった。

水田の、稲の緑だけがあった。

そこに降りていく道はどこにもない。

山の間に、いったいどこから人が耕しにくるのか知ることのできない、下界から隔絶した水田があった。

そんなふしぎな場所があったのだが、それはここだったのだ。

正しい置き場所がなかった記憶が、現実の場所と一致した。

とろとろと押していく。

水田の谷から離れると、ひたすら登り坂。

何度も何度も折れ曲がる。

ところどころに足柄古道入り口という小さな立て札がある。

この舗装道路が大きく迂回するところを、それ以前の足柄道が直線状に登っていく。

いまの道路は広くて路面に日が当たっているが、昔の道は杉の林の中に入っていく。

舗装道路をずうっと進んでカーブを左に切り、またずうっと進む。

すると、さっきの古道が下からくるのと交差する。

古道が、心細くも、木々の下をうねうねと縫っているのを見下ろすことができる。

斜面を踏み固めただけの道は木々の下にあって暗く、旅人は自分の足元だけを見て登っていったことであろう。

旅人が、自分の行く手を見定めようと顔を上げても、これからいく道はすぐに林の中に隠れ、すでにきた道を振り返り見ようとしてもやはり林の中に消えてしまっている。

雲の流れ、日の高さが気にかかって、空を見上げたところで、それも木々の枝にふさがれてしまっている。

とぼとぼと道を伝っていくしかしようがない。

とろとろと自転車を押していく。

勾配十四パーセントという標識がある。

ふんばって自転車を押す。

押すだけでも息が切れ、全身に汗がしたたる。

足がわなわなとふるえ、背中が痛くなる。

まだまだ先は長いのだろうか。

こんなにも、押してさえ、こんなにも苦しかったのだろうか。

前回もこんなに苦しんだだろうか。

コンクリートで固めた崖の下をあえぎつつ押して登る。

さーっと前から自転車が下ってくる。

さも気持ちよさそうにスピードをあげて下ってくる。

それは、さっき、地蔵堂のはるか手前の折れ曲がりの登りで自分を追い抜いていった自転車であろう。

もし、あれから今までの時間の間に、峠までいって折り返してここまで下ってきたとすると、それはおそるべき速さだ。

この坂のすべてをものともせずにぐいぐいと漕ぎ登っていったに違いない。

自転車の人は、にやりと一瞬の笑いを残して下っていった。

それは、押すのですらままにならずに苦しんでるなさけない男を哀れむ笑いであっただろうか。

なさけなく押すのだ。

とろとろと押す。

眺望が開ける。

矢倉岳と並び立つ。

山頂部には一本の木もなく草だけがおおう坊主山だ。

三角形のとんがり頭をしているので大入道といった方がよいかもしれない。

そんな入道頭のてっぺんからさっきハンググライダーが二人飛び立った。

どうやって上にまで登ったのだろう。

すべてを担ぎ上げたのだろうか。

まだ矢倉岳の裾の下を登っていたころに、二つのハンググライダーが山頂から舞い上がるのを見たのだ。

ふわふわと東の方へと流れていった。

あれはどこへいったのだろうか。

曽我山から酒匂平野まで見下ろすこの視界の中に、むろんもう見えるはずもないのに、捜してみたい気になる。

雲がちぎれて空を流れていく。

白い明るい雲が、ぽつんぽつんと流れていく。

そうだ、大丈夫だろうか。

酒匂橋ではくっきり見えていたが、あるいは雲が湧いて富士の姿は隠されてしまっているのではなかろうか。

急に気がせく。

しかし、この坂はいかんともすることができない。

まだまだ半分だろう。

地蔵堂から四キロの登り、そのうちのまだ半分しかきていない。

とろとろと自転車を押す。

大地が傾いている。

水平な面というものが一つもない。

富士山が立っている向きに線を引き、それに垂直な面が水平な面であると自分にいいきかせてみても、すべてのものが斜めになっているので、自分の体も斜めになってしまう。

大地が傾いているのだ。

富士山には雲がかかっている。

東海の海から流れてくる千切れ雲が富士山の中腹にまとわりつき、帯状に富士山に取り巻いている。

山頂だけは見えている。

雲を抜きんでた山頂は青い。

頂上から、なめらかに斜面が右に左に、そして手前に下っていく。

それは、中腹の雲の下をくぐって、山裾へとつながる。

山裾は、遠くは空を区切り、近くは柔らかいふくらみとなって広大な原野をつくる。

原野は御殿場の低地となり、そのままぐるりと南へと下っていく。

その行く手に愛鷹山がいかつく立ちはだかる。

いくつにも鋭く突き出たピークの後ろ姿が黒々と見える。

いま自分が立っているのは、箱根外輪山の尾根の上。

足柄峠。

逆落しのような斜面が足元から消えていく。

その斜面は金時山の山裾と一体となって富士山と対峙している。

金時山は大きく聳え、その背後に大湧谷の噴煙が上がっている。

大地が傾いている。

富士山の山裾、御殿場の低地、愛鷹山のピーク、足元の斜面、金時山の頂き、そして北の三国山、すべてが斜めの線と面でできている。

斜めの面と線が交差しあって、ここ足柄峠から見る景観を形づくっているのだ。しかも、その線と面のすべてが優雅に、そして限りなく大きいのだ。

もう矢倉岳を高く見上げるここにまで下ってきてしまった。

矢倉岳の山頂はあいかわらず薄緑色に光っている。

林を切り分けてつくった駐車場に立って大入道を見上げる。

半分になったアンパンを取り出してかじる。

足柄峠で富士山を見ながら食べた早い昼食の残りだ。

そこで昼食を食べている間に、富士山の上の方はすっかり雲におおわれてしまった。

大勢の団体客のうちの遅くきた一人が、

　かわいそうになあ、ちょっとでも見せてやればいいのになあ

と、大きな声で何度もいっていた。

ドンドンと時折り地響きがした。

　自衛隊の演習だな。休みの日ぐらいやめればいいのになあ。

足柄峠の上は、バスを九台連ねてきたという団体で混雑していた。

一行のリーダーらしい老人が、マイクをもって足柄峠にちなむ万葉集の歌を解説していたかと思うと、いつのまにかカラオケ大会に変わっていった。

その団体の前方にどっかと腰をおろし、誰にも眺望をさえぎられない場所を独り占めにして、昼食を食べたのだった。

初めて足柄峠にきたときには、ほんの二三人、ほかに景色を楽しむ人がいただけだった。

ここの眺望を本当に好んでやってきた人だけがいたように思う。

富士はあますところなくその姿を見せてくれ、遅い春のコブシが咲いていた。その次にここにきたとき、妻になる人と足柄側から登ってきたときにも、人がいるのが珍しく感じられたほどだった。

斜面のはじからはじまでを自由に使って、のびのびと秋の日ざしを浴びながら昼食をとったものだ。

ただ富士は、道を登ってくる間に姿を隠してしまっていた。

すべては八年前のことだ。

意外にも長い時間がたってしまった。

足柄峠に限らず、箱根の精進池も、三浦の剱崎も、丹沢の蓑毛も、渋沢の八国見山も、今年自転車で走ったそれらのところへはみな八年ぶりだった。

八年の間に、変わらずにいてくれたところもあれば、変わってしまったところもある。

変わってしまったとなげいたところで、変わってしまう前にこなかった自分がいけないだけなのだ。

足柄峠から見る景色自体は変わることがないが、足柄峠には万葉公園ができて大勢の観光客が押し寄せることになった。

もっと頻繁にきていれば、今日のように以前の記憶があいまいになってしまってからくるのではなく、きちんと記憶を確かめられるうちにきていれば、もっとさまざまな細かな変化にも気付き、失ってはならないものをせめて自分の心のうちにはとどめておくこともできたであろう。

湘南はたえず変わっていく。

だから、その時その時の美をしっかりと見ておかなければ、あとでどうあがいてももう遅い。

すでに遅くなってしまったものは仕方ないにしても、まだ間に合うものなら見ておきたい。

見て、できるものなら書いておきたい。

八年間は長かった。

だがしかし、もし去年の四月のことがなかったならば、今日もまたここにくることはなかったかもしれないのだ。

どうして、去年の四月にあんな決心ができたのだろうか。

ふいに自転車にきっちりと取り組み直す決意をしたのだ。

久し振りに清見原まで走って、あんまり力がなくてなさけなく感じたのもきっかけの一つであったろうが、それよりも、いま一度この自転車に芦ノ湖の水を見せるというのが、自分を奮い立せる目標となった。

八年前の九月、箱根の精進池にまでいったそのときに、たぶんこれが自転車で箱根にくる最後であろうと思った。

半年後に結婚し四ッ谷に住むことが決まっていたから、もうここにまで自転車でくることはあるまいと感じられたのだ。

これが最後と決めてしまうのはつらかったから、もしかしたらまたくることもあるかもしれないと、未練がましく強いて思ったりもした。

四ッ谷に住んでからの後も、いずれやはり湘南ではないどこかに越すことになるのではないかと漠然と考えていた。

そうなれば、よほどのことがないかぎり、箱根に自転車でいくことはないわけだ。

だから、本当にあれが最後の箱根であったと思わないわけにはいかなかったのだ。

それがたまたま四年後に茅ケ崎にもどって住むことになった。

自転車も再開しかけた。

しかし、いつでも湘南のどこにでもいくことができると安心してしまったのか、あるいは情熱を失っていたのか、少し走っただけで、いつしか空白の時間が過ぎていった。

実際に走らなくても、それでも、今日でも明日でも明後日でもいつでも、いこうと思いさえすれば、丹沢だろうが三浦だろうが箱根だろうが、どこへでもいけるはずだという気分はあった。

あわてることはない、時間も機会もいくらでもある。

そうこうして、今日を明日にし、明日を明後日にし、明後日をその次にしていくうちに三年たってしまった。

久し振りに清見原を走ってみて、このままではいつでもいけるはずだと思っているところにも、きっと永久にいかずに終わってしまうのではないかと恐れを抱いた。

事実、三年いかなかった、それが十回続けば三十年になって、もはやそのときになってあわててもどうしようもない。

本当にあの日の箱根を最後の箱根にしてしまってよいのか。

そんなことはあってはならない。

箱根へはこれから先も何度でもいくべきなのだ。

丹沢へも三浦へも、どこへでも何度でもいくべきなのだ。

もうここにくるのはこれが最後だと思う時などあってはならない。

いつでもまた次々にこれるようになっていなければならない。

寂しいではないか。

これがここの景色の見納めであろうと思いつつその場を去るなどというのは。まして、そんな自覚もないままに見てきた景色が、実は最後であったのかと後から思い出すなどというのは。

いつでも箱根にこれるようになるためには、まず、なんといっても、もう一度箱根にいくことから始めなければならない。

いつでも丹沢にこれるようになるためには、まず、なんといっても、もう一度丹沢にいくことから始めなければならない。

いつでも三浦にこれるようになるためには、まず、なんといっても、もう一度三浦にいくことから始めなければならない。

だから一年半かけて、三浦にいき、丹沢にいき、箱根にいったのだ。

今日は二度目の箱根として足柄峠にいってきた。

これで湘南のどこへでも、いつでもいくことができるといってもよい状態にかろうじてなった。

足柄も箱根の丹沢も三浦も、ああ、あのときが最後だったのだと寂しく思うことがなく、いつでも、よし今日でかけてみようかと自転車に跨がれるようになったのだ。

湘南のどことも、もう別れを告げることはないだろう。

アンパンをのみこみ、水をゴクリと飲む。

明るく光る矢倉岳を見上げる。

自転車に乗る。

大雄山の駅まで一気に下る。

またきっと矢倉岳の下にも、足柄峠の上にもくるに違いない。

スピードをあげて関宿を過ぎ、残りの三キロを下っていく。

前からふらふらと登ってくる自転車ある。

年配のおじさんだ。

ここでヘタバッテいては地蔵堂までにしてもまだ先がありすぎる、頑張れと、声援を送るつもりで手を振ると、顔中を笑顔でいっぱいにして首を振ってお辞儀をしてくれる。

ああよし、あの年になってもこの坂を登りにくるとすれば、まだ二三十回はここにこれるはずだ。

そのうちの何回かは足柄峠までいけるだろう。

そうであれば、まだたった二度目となった足柄峠への今日の往復など、ものの数にも入らない。

湘南自転車行もまだごくごく書き始めというわけだ。

これから数限りない湘南自転車行を書くのである。

本当にそうでなければならない。

　　　（一九八九年十月十四日）

■第十九　　十一月四日　高山

大磯丘陵の西、曽我山の一角に高山がある。高山の麓に、塔台川が刻むごく浅い谷がある。その谷に小さな集落がある。上町という。

以前に、この集落の入り口をよぎって、北へと、沼代の方に坂を登っていったことを思い出す。夏だった。楽に登ることのできたはずの坂が、とんでもなく苦しかった。ようようのことで登り切り、汗びっしょりになって、水筒の水をとめどもなく飲んだのだった。

今日は秋。その集落の入り口、坂の手前で自転車を止める。道の下に続いていた田圃が終って、新幹線のガードをくぐり出た所である。ふだん、これまでは、ここからさらにまっすぐに走っていったのだが、初めて左の道を採ることにした。

大きな柿の木が、亭々として道の両側に続いていく。葉が落ち尽くして、ただ実だけが枝に無数についている。曇天のもと、谷間の道、柿の実の色が、重く赤く燃えている。その柿の道の奥に、林がある。林の中はひんやりと冷たく、そこに数軒の農家が固まっている。上町の集落の一番のはずれだ。

林をくぐると、あたりは、からりと明るくなる。二三本の梅の木から、軟らかな田畑が始まる。そこをぐるりと半周するように、ゆるい坂が登っていく。梅の木の後ろには、枝をいっぱいに広げて隙なく葉を垂れ下げ、背丈よりは低い棚を作るキウイの木。その先には、刈り終わった稲を桁に干している田圃。田圃のはずれからは、サトイモ、ネギ、トウモロコシを植えている畑。畑の奥には、葉も実も落ちてしまった栗の一群れ、また梅の一群れ、キウイの棚。そして、これらのすべてを囲むのは、鮮やかな黄色い実をつけた蜜柑の木と木。その蜜柑山の斜面を坂は登っていく。かすかな風が汗ばんできた体に当たり、蜜柑の甘い香りを送ってきてくれる。

高所に立つ。蜜柑の間から、四方を望む。さっと筆をひとなでしたように、青く大山が、頂きだけを中空に浮かべている。その下に沼代の桜並木の尾根道がある。こんな所の桜も、だんだんとその美しさが広く知られるようになってきている。自分も、花の時期にきたことがある。しかし、その尾根のこちら側に、このような一画があるとは、これまで知らなかった。柿や蜜柑を始めとして色鮮やかなさまざまな作物が美しい模様を作っている、このような小さな谷間があるとは知らなかった。沼代の桜を歌に詠んだ人は多くいることだろう。しかし、ここを詩った人はほとんどあるまい。風景とはもろいものだ。沼代の桜並木は、近在の人々の数十年の愛情によって育てられてきた。雨上りの早朝、七分咲きの桜の下で、大勢のお年寄りたちが掃除をしているのを見た。自分たちの桜を大切にし続けた結果、今日の桜並木の姿ができた。ここの谷間の風景も、ここの持ち主の心づもりによってつくられてきた。蜜柑もせいぜい数十年であろうし、キウイなどは数年のことだろう。あるいは、今この近くを通っている新幹線が、高速道路が、少しばかり進路を変えていたならば、自分などがここを見る機会などないままに、ここの風景はなくなってしまっていたことだろう。それに、ここの土地の持ち主が、耕作をやめれば、風景は一変してしまう。風景を詠むとは、不断に変わりゆくもののある一時の姿をとどめておく作業なのだろうか。

高山の肩で、思いがけず富士を見る。雲の下に、鮮やかな富士山の姿があった。山頂付近の雪にまだらに日が当たって、きらきらと輝いていた。六本松の上でいつもながらの大磯丘陵を見る。靄の下に、霞んだ丘の姿があった。町の白と林の緑の組み合わせに淡い光線が注いで、ゆらゆらと揺れていた。沼代の下で久しぶりに田圃を見る。丘の下に、広々とした棚田の姿があった。点々と干された稲に薄日が漏れて、やわやわと連なっていた。この日見たこれらのことのうち何を記そうかと、夕刻、家で考える。

ふと、窓をあけると、細い月が西空に傾いている。かすかな夕靄の中に、くっきりと鋭い輪郭をもった月が光っている。月は冷気に包まれていく地上に青白い光を送っている。この同じ月が、あの柿が両側に立ち並ぶ道からも見えることだろう。無数の赤い実が月光を受け、静かに虚空に浮かんでいる。美しすぎる光景。

　　この稿は、陸游七十七歳の詩を翻案して作る。

　　　　西の村

　　乱山　深い処に　小さな桃源がある、

　　往歳　漿を求めて　門を叩いたことを憶いだす。

　　高い柳が　橋に簇がっているところで　初めて馬を転じると、

　　数かの家が　水に臨んで　自ずから村を成している。

　　茂った林で　風は　幽かな禽の語を　送り、

　　壊れた壁に　苔は　酔った墨の痕を　侵している。

　　一首の清い詩を　今の夕べに記すと、

　　細い雲に　新月が　黄昏に　耿っている。

　　　（一九八九年十一月十一日）

■第二十　　十一月十八日　藤沢川・岩倉川

小さい風景を好ましく思う。

小さい風景は、変りやすく、ときに、消えやすい。

だから、小さい風景はことさらに愛しい。

二宮と国府津の間で相模湾に流れ出る押切川は、河口から少しさかのぼると中村川と名を変える。その中村川に、まっすぐ北から注ぎ込む支流を藤沢川という。

中村川の本流は、もう少し上流で大きく西に曲り、曽我山地の裏側へと回わりこんでゆく。その屈曲点で、やはり北からまっすぐに注ぎ込む支流を岩倉川という。

こうして中村川の二つの支流である藤沢川と岩倉川は、尾根一つ隔てて隣り合った流域をもつ。藤沢川は震生湖あたりの渋沢丘陵の東半を水源地とし、岩倉川はレインボウゴルフ場あたりの渋沢丘陵の中央を水源地としている。どちらの川も、高さ百メートル程度の丘陵の中に幅二三百メートルほどの浅い谷地をつくっている。谷地には水田と畑が連なり、ぽつんぽつんと集落があって、川に沿って道が一本ずつついている。幸いなことに、その道はともに幹線からはずれているために、通過する車がほとんどない。

藤沢川の道は数年ぶりだ。

高台の草原の上に古くに切り崩された三角形の小山がある。その小山を目印に谷地へと入っていく。小山の南面には松が生えているのに心なしか赤く見えるのは、まとわりついた葛の葉が色づいているせいだろうか。

小山の下をよぎると、竹やぶのうしろに木々が茂った斜面がせまり、そこの暗い陰から冷気がすうっと降りてきて、露出させた腕や足をさあっと冷やしていく。

中央を南北に走る川の土手は日当たりがよい。稲を束ねて、それを、四つ組にし、鼎のように立てて、土手の上に一列に並べてある。その奥、人家の向こうではモーターの音を響かせて、脱穀の作業をしている。

すっかり葉を落とし切った六本の大きな桜の脇をすぎると、そろそろ道は広い自動車道路に行き当たる。

トラックとともに、屈曲する坂を登っていくと、息が切れるころに、からりと平坦な丘の上に出る。北に、雲が湧く大山が見える。

大根、里芋の畑。大きな薩摩芋を掘り起こしている。蜜柑の実はまだ青く小さく、キウイの棚には濃い緑の葉が垂れている。

境で東名高速の上の橋を北に渡り、またすぐに西隣の橋で高速道路を渡り直して南にもどる。ここから、まっすぐに尾根の上を南にいく道がある。わずかな下り勾配のその道を軽やかに走っていくと、全面交通止めという立て看板に突き当たる。

橋がある。橋の下に、ほとんどできかかった建設中の新しい道があってこの道と立体的に直交している。この道の橋の先でもまた別の工事をしていて、頻繁に作業車が出入りするためであろう、泥が大きく波を打ち、ぐちゃぐちゃの悪路になっている。遠くでエンジンのうなる音がする。この道を整備するための工事なのだろう。

もう八年も前になる、この道を一度だけ走った。畑の間ののびやかな土の道だった。丹沢の山々がさえぎるものもなく丘の彼方に見えていた。

再訪を果たす前に、この土の道は消えようとしている。泥の中に自転車を入れみる。泥は深くてとうてい走ることができない。この先の工事現場を通過できるのかどうかもわからない。

ひきかえそうかと思うが、それも惜しく、橋の下の建設中の新しい道に降りてみることにする。看板があって、交通止め、ただし農耕車を除く、と書いてある。とすれば通れるわけだ。開通前の道を走ってみることにする。

幅の広い二車線の道だ。この丘陵の中になぜこんな立派な道をつくっているのだろうか。ここをたくさんの車が走るようになるのだろうか。

道はゆるい円弧を描いて斜面を下っていく。円弧の中心は低く掘り込まれた谷になっている。どうしたわけか、そこら一帯の地肌が剥き出しになっている。もともとは、平坦なところは畑、そのまわりの斜面には篠が、堀り込んだ川筋には木々が暗い影を落としていたはずなのに、地形だけはそのままに、すべての植物がはぎとられている。点々と焼けた地面もある。

自転車を降りて近付いてみる。ごく最近に焼き払ったかのようだ。一角にはミカンが植えられ、収穫された蜜柑がプラスチックのケースにいれたまま放置してある。

これはどうしたことか。

あるいは、これからミカンの苗木を植えるために余計な植物を取り去ったのだろうか。新しい道ができるので農作業の効率があがり、畑を拡大するというのであろうか。

あるいは、新しい道ができるのは、ここに何かを建設することが伴っているのだろうか。このような窪地の利用といえば、廃棄物の投棄場所ということがよくある。

いずれにしても、新しい道がつくられ、風景が変りつつあるそのときに、たまたま自分はきてしまった。

ほかに誰もいないこの場所。焼けた地面の上に立っていると、日はおだやかにさし、そよとも風の吹かぬままにこの窪地は暖まり、遠くかすかにお祭りでもあるのか、太鼓の音が聞こえてくる。

なにものも静止したこの空間。

こんな一瞬間をここでもったことも、自分の記憶にしか残らない。

トンネルをくぐると工事中の道は終り、岩倉川の谷地に出る。

一年前に初めてここを走った。

静かな谷合いの道だ。

小さく区切った棚田に、竹を長く渡して、その桁に稲が干してある。

小橋のかたわらの泥田の中で、短い縄でくくられた牛が数頭、ぐちょごちょと遊んでいる。

道ばたの日だまりで、老婆が二人、腰をおろして話をしている。

脇道に入って、奥まった畑に沿っていくと、岩倉川のドン尻にかかる小さな大堰橋がある。

その下を、ちょろちょろと明るい水が流れている。

コジュケイがどこかの林の中でないている。

こんな丘陵の中のごくありきたりの農村の風景がここにある。

藤沢川の道も岩倉川の道も走るのはこれが二度目。

これから三度目、四度目、五度目のときにも、何度目のときにでも、このまま変わらずにいてくれることを願わずにはいられない。新しい道ができることがことさらに不安を覚えさせるのだ。小さな風景は失われやすいものだから。

　　　（一九八九年十一月二十五日）

■第二十一　　十二月九日　大仏坂道

このまま行くか、それとも引き返して当初の予定に従うか。

道を間違えたかと思って、別の道を選び直したために、かえって、正しい道から違う道にきてしまった。

坂を登って、丘の上の配水池に突き当たった。

自転車を置いて、コンクリートの階段を数段登ると、視界が開けた。

鎌倉の山並みがある。

見晴らす四方は緑。

鎌倉の山は十二月も緑におおわれている。

もともと今日は、鎌倉にあるトンネルをくぐろうと考えていた。

次々に十七個ばかりのトンネルを抜けるその第一番目として、極楽寺の北にある小さなトンネルを目指していたのに、間違ってここに所にきてしまったのだ。この配水池の先にも道はつながっているようだ。

予定していたトンネルにこだわって引き返せば、自動車の道を走ることになる。そうではなくて、この先の道を進めば、きっと大仏の裏から、源氏山公園に向かうことになる。

木々の根を踏むハイキングコースだ。

こうしていったん尾根筋に上がって、緑の中に入ってしまうと、もう再びは降りる気にならない。

前進しよう。

まず階段を下る。

自転車をかつぐ。

いち、にい、さん、しい、と、一段降りるごとに数えて四十ぐらいまで勘定し、あとはわからなくなった。

大仏切り通しのトンネルの上を通って、そのかたわらにまで降りた。

二番目にくぐろうとしていたトンネルだ。

そこからまた階段を登る。

だから自転車はかついだまま。

息をきらして登って行くと、分岐点がある。

このまま道なりにもっと登っていくと源氏山公園。

以前に一度歩いたことがある。

左の方に折れるとどこにいくのか。

本当の大仏切り通しがこのあたりにあると聞いている。

トンネルではない、昔ながらの古い姿を残した切り通しがあるという。

ひょっとすると、そこに通じているのかもしれない。

暗い道に入る。

下りだ。

道の奥に岩を切り落とした崖が忽然と現れないかと期待しながら、一歩一歩と進む。

どんどん下って行って、木の枝をくぐって、ぱっと現われたのは公園。

日の当たる白い住宅街がある。

ここはどこの公園だろうか。

土の上に落ち葉がいっぱいに降り積もっている。

今日は知らない道には行かないはずだったので地図を持ってこなかった。

どこだかはわからないが、いずれにしろ、切り通しには遠いようだ。

また枝をくぐって、引き返す。

分岐点にもどる。

まわりをよく見ると、上のほうに有刺鉄線の柵がある。

あの向こうがあやしそうだ。

自転車を置いて登ってみる。

ごそごそと枯れ葉を踏んで上がっていくと、さっと目の前をリスが走り去っていく。

柵の向こうは草木が生い茂って、身ひとつならともかく、自転車を連れてはとてもいけそうもない。

仕方ない、切り通しはあきらめておとなしく源氏山公園に向かう。

大仏坂道という。

自転車をかつぎ、木の根を踏んで押し上げ、走り下り、また登り、老人にすれちがい、夫婦連れにすれちがい、恋人たちにすれちがい、おばさん集団にすれちがい、ジョギング男にすれちがい、そして、突如、明るくなる。

　わあっ、きれい

女の子たちが喚声をあげる。

　きれいでしょう。海の、ほらあそこの、あの白い建物が、ほら有名な川端康　成が自殺したところよ。

と、犬を連れたおばさんが女の子たちに解説する。

由比ケ浜の海が見えている。

空をゆくまだらな雲のままに、海もまた、まだらに、まぶしく輝き、また暗く沈む。

長らく大磯丘陵ばかり走っていた。

鎌倉の山道は一年ぶり、ちょうど去年のいまごろ天園に行って以来だろうか。今日もそうだが、人が多いので、それをきらって、めったに人に会わない大磯丘陵の方を好む。

だが、鎌倉にはまた鎌倉のよさがある。

何やら風景に奥深さがある。

また鎌倉のそこここを、以前に走ったあの道もこの道も走ってみたくなる。

そうだ、その手初めに、さっそく源氏山から浄智寺までの山道を走ろう。

日野神社の脇から入るその道は、十年ぶりになるか。

浄智寺側から一度自転車で登り、一度歩いた。

そこを、今日は反対に下る。

行けば、思いがけずきつい部分がある。

自転車をかついで、そろりそろりと、木の根を踏みはずさないように降りる。どんどん前から人がくる。

脇によけたり、止まってかわしたり、いよいよわずらわしくなって、枝道にのがれてみた。

すぐに行き止まりになると思いのほか、ずうっと先へとつながっている。

どこまでいくのか確かめてみたくなるが、地図がないのが不安で、適当な所で引き返す。

途中でリスにまた会った。

もとにもどって、この道の最後の長い石段を下る。

以前の秋に、シュウカイドウが咲いていた所だ。

　お買い物にいってきます。

と女性が大きな声を家の中にかけて、がらがらと引き戸をあける。

カメラを持った人が、振り返り振り返り登ってくる。

暖冬の今年、ここは今が紅葉の時となっている。

薄い雲を通しての弱い日差しのもと、木々はゆるやかに葉を落としつつある。それらを見通す石段で、自分と買い物の女性とカメラの男性が交差した。

鎌倉には人が住み、人が来る。

浄智寺の境内にも大勢の人。

一人、キャンバスを立てて絵を描いている。

描いているのは、こういう景色だ。

本堂の屋根。

その上に柿の木が枝をのばす。

枝の先端に、点々と赤い実が熟す。

その背後に銀杏の木が、枝をすっすっと、鋭く上に伸ばして立つ。

黄色い葉を半ば残して、あとは、はらりはらり、一枚二枚と落ちる。

浄智寺をとりまく裏山。

緑は褪めてまばらな樹影。

一条の煙が昇り、空に広がる。

絵の風景は固定し、現実の風景は時とともに動き、雲が流れ、ぱあっと日の光が、いまここにあふれでる。

柿の実は目を突くほどに輝き、銀杏の葉の照り返しであたりは黄色く染まる。今年の鎌倉の秋の名残に巡り会った。

　　　（一九八九年十二月二十三日）

■第二十二　　一月四日　鷹取山

一年の初めの自転車は、これまで何度も拒まれた鷹取山の東麓の道に挑むことにした。

寒気が強く快晴。

湘南大橋を渡りかけて、体はこごえている。

ズボンを通して風が足に冷たく入ってくる。

箱根がくまなく見える。

須雲川の谷はまだ黒々と影の中にあって、その上にすっくりと二子山の山裾が立ち、山頂に眩しいばかりの日が当たっている。

これほどまでに、明瞭な箱根山の姿が見えるのは初めてのことだ。

駒ヶ岳の下、あるいは十石峠のあたり、きらきらと白く鳥の羽のように輝いているところがある。

なんであろうか。

雪だろうか。

雪にしては、しかし、丹沢あたりには一切そのようなものが見えないというのがいぶかしい。

その形からして、輝いて見えるのはゴルフ場であろう。

ゴルフ場が、今朝の快晴で特別に光っているように見えるのか、あるいは芝生に降りた霜が朝日を反射しているのだろう。

いずれにしても、好天がかえって、山そのものよりもゴルフ場という人工物を際立たせてしまうというのも皮肉な話だ。

そうして、富士山は、間違いなく雪をすっぽりとかぶり、全面の朝日を強烈に反射している。

その雪が、北側よりも南側に多いのは、あるいは箱根にも雪が降ったことを意味するのかもしれない。

　　事実、二日後の六日、強羅に子供たちといったところ、雪が日陰に残っていた。妻が蕎麦屋の店員に聞けば、雪は三日に降ったという。

大磯鴫立庵の下で止まる。

いつもながらに日が当たっていて、ここはぽかぽかと暖かい。

かじかんだ手足が、ふあっと伸びていくようだ。

もう日ならずして梅も開くのではないかと思われるほどに、ここだけは暖かい。

湘南平西の道は冬景色である。

谷間の田畑は、所々にネギだけが植えられていて、大半は閑散としている。

田圃では、刈り残された稲の切り株が薄い氷を突いてぽつんぽつんと立っている。

畑では、放置されたままのキャベツの残骸が消えかかった霜をかぶって小山を作っている。

見まわすと、尾根の上の木はすべて葉を落としている。

これほどまでに落葉樹が多かったのか。

幹と枝だけになった木々をとおして青空が見えている。

ついこの間とはまるで違った風景になっている。

コナラ、クヌギといったいわゆる雑木林をつくる木が多いのだろう。

前回の鎌倉が紅葉であったことを思うと、ここも冬になってからまださほど時間がたっていないようだ。

いよいよ鷹取山に入る。

なにかしら緊張する。

鷹取山東麓には比較的長い尾根道がある。

地図には人が十分に歩ける道として表記してあって、勾配もそれほどきつくもないので自転車で入れるように見える。

そこの道を走破しようとして何度か試みた。

東からも、北東からも、西からも入ってみた。

しかし、そのたびごとに道を失って挫折した。

この道は人がめったに歩かない道のようで、草木が茂ると道がわからなくなってしまうのだ。

だから、もし、この道を通り抜けることができるとすれば、草木の枯れはてた時期以外でしかない。

そんなわけで、この小さな山に入るのにも緊張してしまう。

こんどこそ走り切ってみたい。

まあ、実際には走るのは無理だから、押し切ることになるのだろうが。

今日は東南側から入ることにする。

初めての道だ。

これまで失敗した道をまたくりかえさないとすると、残るは二つの道。

南の谷道と、東南の尾根道である。

東南の尾根道は、途中で東からの尾根道と一つになる。

その、一つになるあたりで、以前に道を失っている。

そこからさらに進むことができれば、南の谷道とも途中で一つになって、鷹取山山頂の北側に出るのだ。

農家の軒先をくぐると、すぐに急な登り坂になる。

斜面を開いた畑の間から適当に右に曲がり、小田原厚木道路を跨ぐ小さな橋に出た。

これを渡るといよいよ山道だ。

まずは正しく進路をとっている。

ガサゴソと落ち葉を踏んで、自転車を押していく。

道が二股に分かれる。

左の方がしっかりとした道ではあるが、やや下り気味なのが気にかかりり、右のとぎれがちな道を選ぶ。

林の中の道。

向かいにこちらと並行する尾根がある。

たぶん以前にたどった東からの道があれだろう。

どこかであれと合流するように進めばよいわけだから、方向を定める確かな目安があるわけだ。

山道だとばかり思っていたのに、ぱっと畑に行き当たる。

ここに耕作にくる、別の道があるらしい。

畑の脇をおそるおそるたどっていくと、立派に舗装された農道に飛び出した。農道はまっすぐにここまで斜面を登ってきていて、ここで左に折れる。

自分は、その左に折れた方に取りあえずは進むわけだが、まっすぐにここまで登ってくる道にも心をひかれる。

ここから見れば、もちろん、まっすぐに下っていく道で、その先に湘南平に続く丘陵と、大磯の海がある。

大磯の海は、明るい。

いずれまたの機会にこの景を見にこの道を登ってくることもあるだろう。

さらに進むと、ドドドドッと発動機の音が響く。

何事であろうか、農薬を散布でもしているのだろうか。

舗装が切れて、でこぼこにえぐれた道をいく。

大きく右に曲がる木立ちの陰から男がひょっくり現れる。

小さなトロッコのようなものの上に、木材をいっぱいにのせてゆっくりとやってくる。

それが発動機の音だった。

おたがいにはじによけあってすれちがう。

その先に小屋がある。

乱雑に丸太などが積んである。

この山でも、いくらかは林業のようなことがなされているらしい。

いよいよ道が細くなる。

一気に押し上がると三叉路に出る。

よし、ここが東からの道との合流地点であろう。

とすれば、左にいくべきだ。

ところがどっこい、ものの二十メートルもいかないうちに行き止まりになってしまう。

それならばと、右にいってみる。

すぐに道は大きく曲がって下りになる。

ササが根に近いところで刈られている。

だれかこの道を利用し整備している人がいるということだ。

それに力を得て、ずるずると下っていく。

しかし、だんだんと道はあやしくなり、とうとうどうにも進めなくなる。

急な傾斜がざっくりと落ち込んでいく。

引き返すしかないか。

まただめであったか。

まあ仕方がないか。

ひきあげることにする。

三叉路にまでもどる。

しかし、こうすぐにもあきらまめるというのは少なからず残念なことだ。

もう一度地図をよく見る。

尾根の東端からまっすぐに西に向かって登る道と、東南から斜めに登る道とが途中で合流して一つになるのだが、そこの所をよく見ると、東南からの道は軽く左回りにカーブしながら交点に達する。

そこの感じからして、どうやら、この三叉路を二つの道の合流点だと判断したのは間違いだったようだ。

ここは地図にないところなのだ。

本当の道は別にあるのだ。

ゆっくり引き返しながら本当の道を見出だそうとする。

わからなければわからないで帰るだけだと、なかばあきらめ加減に進んでいくと、左に入っていく小さな道がある。

草に埋もれていて、よほど注意していないととても気がつかない。

はたしてこれが本当の道なのか、どこまで先が続いているものかわからないが、試しに入ってみよう。

この前いつ人が通ったのかわからないほどに道の形状ははっきりしないが、それでも、日の当たる斜面を縫い、薄暗い杉林の下をくぐり、右に左にとゆるやかにカーブしながら、確実に自転車を進めることができる。

たぶん、ここまで自転車できて人はまだいないのではなかろうか。

そんな思いを抱きながら、小走りに自転車を押していくと、道は、ササの密生した急斜面の中に、すっと入っていってしまう。

ヤブコギか。

そうだ、以前、東からの道で、最後に進退きわまったのは、こんなササの中だった。

とすれば、このササをくぐり越えれば合流点に確実に出る。

えい、と自転車を押し上げ、体一つでもほとんど歩くのが無理というようなわずかなすきまに向かって、自転車の前輪を突っ込む。

ざざっとササが左右に押し分けられたところへ、自転車とともに身体も入りこませる。

ガサガサガサともう何もかまわずに進む。

こういう状態に陥って以前は引き返したのだ。

今回は、必ず先に抜けられると確信し、急になる斜面、ますます狭くなるササのすきま、それでもがむしゃらに進む。

ずるずると、地面が下がって、ぱっと道が広くなる。

出た。

本物の三叉路だ。

とすれば、いよいよ左にいけば鷹取山だ。

よしよし。

だがしかし、変ではある。

もし左の道をたどって鷹取山に出るのならば、いまのあのササの道に以前入ってしまうはずがない。

広い道を避けてわざわざあんな道ともいえないような所にはまりこんでしまうはずがない。

どうしてそうなったのか。

記憶がはっきりしないので、ともかくも、左にいってみよう。

二三十メートルは調子よく進んだ。

尾根の続き具合からいっても、ここの道以外にはありえない。

自信をもって進んでいくと、道は二つに別れる。

左はすぐに行き止まりになるように見えた。

それに左にいったのでは、いずれ沢に落ち込んでしまうことは確実だ。

そこで右にいく。

だがそれも、じきに道だか何だか判然としなくなる。

木々の下のちょっとした踏み跡程度のものになる。

ひとまず自転車を置いて、ちょっと先を見にいく。

ずっと斜面を下るが、ほのかに道らしい形状はとどめている。

それに、これよりほかには道がないのだから、進んでみるより仕方がないだろう。

自転車を連れにもどる。

足をふんばって斜面を下る。

木の根につまずきながら下る。

とげのはえた枝の下をくぐりよけながら下る。

崩れた土に足をすべらせながら下る。

ああ、だめだ。

完全にいきづまる。

どこを向いても急な斜面だけ。

するどく沢に落ちていく。

身一つでしっかり支度でもしていればわけなく進めるのだろうが、自転車を持っていけるものではない。

見上げれば、鷹取山の山頂部がそこにある。

もうわずかな距離。

すぐそこにせまっている。

無理だ。

なんとかしてここを下りきったとしても、いったいどうやってそこからさらに登るのだ。

一人なら、木の幹につかまってでもなんとかなるだろう。

しかし、肩に自転車をかついでそんなことができるだろうか。

だめだ。

だめか。

とうとうまただめだったか。

またもあきらめるか。

きっと以前もこのあたりまできて道を失い、仕方なくヤブの中につっこんでみたのだろう。

鷹取山を見上げ、引き返す。

とぼとぼと、いまさっき、苦労して下ってきた斜面をよろよろと登っていく。勢い込んで下った道は、登り直すと意外にも長い。

息が切れ、汗が流れる。

鷹取山はこうも難しいものなのか。

振り返る。

鷹取山の山頂部が木々の間にある。

そして、その脇に、白い富士山が遠くに見えている。

道を窮めることはできなかったが、この山の中の景色、まさにここにこなければ見ることのできないこの景色、それを見たのだから、これでもよいではないか。

ここにしかないこの景色を、今日の登頂失敗のおみやげとして持ち帰ることにしよう。

さあそれで、十年ぶりぐらいで東の尾根の道を退路として帰るのだ。

　　　（一九九〇年二月十七日）

■第二十三　　二月十二日　柞の杜

湘南の冬は短い。

昨日、春一番の強い南風とともに暖かい雨が降り、季節が一日のうちに二ケ月も進んだ。

雲が流れて晴れ上がっていく空に向かって、海岸の松林から水気が立ち昇っていく。

大山や箱根が、その大空の下に淡く姿を見せ始める。

すぐにも体が汗ばんでくる。

この分ならば、鴫立庵の梅は開いているだろうとの期待に違わず、白い花が六分ばかりも咲いている。

前々回の自転車のとき、鎌倉はまだ紅葉の時節であった。

十二月の半ば。

前回の自転車のとき、鷹取山はようやく冬枯れのときを迎えていた。

一月の初め。

そしていま、湘南は春。

ぼってりと湿った黒土から暖かな水蒸気が湧き上り、あたりには生命をはぐくむ大地の香りが充満している。

初めて登ったこの尾根道。

小天城峠へいくいつもの道が工事中で通れず、その西側の山に入ってみたのだ。心細く続く人家の裏山の道をたどると、ここの畑に出た。

若い杉の木立ちに囲まれているために、外からの風がこず、暖かな空気が畑の上にいっぱいに積もっている。

掘り返されたキャベツが半ば腐りかけて片寄せにされ、新たな作物をこしらえようとてか、土は柔らかくほぐし直されている。

彼方にうっすらと木々の枝越しに箱根駒ヶ岳が見える。

ここで畑仕事をしたら随分と誇らしげな気分になることだろう。

これほどに温和な畑というものを持っている人はそうそうはあるまい。

こうしていったん畑のある丘の上に出てしまうと、あとはあまり起伏のない道になる。

杉の下をくぐり抜け、しばらくいって右にそれてみる。

キャベツ畑に突き当たり、眼下に眺望が広がる。

キャベツ畑の下は、ホウレン草かカブの緑の葉っぱの畑、その脇がミカンの畑、その前に白い道が一本、工事中で今日は通れなかったいつもの道、それらを見下ろす。

その下に水田とビニールハウス。

その先は雑木林の山。

そしてその向こうに湘南平。

その彼方に平塚の海がある。

いずれもすべて早くきた春の日差しを受けて、明るくいきいきとしている。

なんという暖かな穏やかな日なのだろう。

この風光。

湘南の春。

道のままにいけば、土手にヒメオドリコソウ、ハコベ、オオイヌノフグリが小さな花を付けている。

日だまりの一角に腰を下ろす。

背を後ろに倒すと、背中から土の暖かさが伝わってくる。

前はミカン畑越しに海が見える。

コジュケイが鳴く。

ここら一帯の丘を柞の杜と名付けよう。

柞とはいわゆる雑木のこと、ナラやクヌギのたぐいで、冬になるとすっかり葉を落として澄んだ青空をよけいにくっきりと見せてくれる木々のことだ。

前回記したように、湘南平の西側の丘には意外に落葉する木が多いことをいまさらながらこの冬に気づいた。

いまはミカンや杉の木も多いが、もともとは人々が枝や落ち葉を取る雑木林だったのだろう。

これまでここらを呼ぶちょうどよい名称がなかったから、名前を付けるのは便利なことだ。

それにしても、よりによって古風な名前ではある。

古風な名前を選んだ理由もなくはない。

柞という言葉が古語であるのと同様に、ここらが本来の雑木林であったのもすでに過去のことになろうとしているからだ。

過去をゆかしく思うよすがとしてことさらに古めかしい名称を付けることにしようというのだ。

今にしてすでにこの名称と現実とはいささかずれている。

それなのに、しかもその上に、このミカン畑に後ろには、立ち入り禁止、西武不動産管理地、と立て札が立っている。

将来はますます危ういということか。

　　　（一九九〇年三月十一日）

■第二十四　　二月二十四日　六本松

春は一段と暖かさを増したのに、思いがけず、満開の梅が待ち受けていてくれた。

六本松の下の梅林は今が盛りの梅の香に満たされている。

ここは、三方を山に囲まれた谷間の窪地。

百本を越える梅の木々がいっぱいに花びらを広げ、それらが午後の日を受けて、まばゆいほどに輝き、あたり一帯を限りなく明るい春の色に染めている。

ここの梅がこれほどまでにきらびやかであるとは、これまで知らなかった。

何回となくここを訪れていながら、晴天のもとで満開の梅を見るのは初めてなのだ。

今日は、昨日からの雨が午前中にあがり、昼前には青空が広がり出した。

昼食をすませるうちに、雲はすっかり流れ去り、あとには地面から水蒸気が湧き立ち、柔らかな空気が体を包む春の午後となった。

たてもたまらず、自転車にまたがり、もう遅いかとは思いながらも、六本松を目指してきたのだった。

去年はこの時期に鎌倉にいってしまったので、久し振りに曽我のあたりの梅を見にくることになった。

梅も、ちょうどよい時分に見ようというのは、けっこう難しいものだ。

少しでも陽気がよくなると気がせいて、たいていは早めにいってしまい、ほとんど咲いていないということになる。

初めて六本松を越えたときもそうだった。

曽我の梅林を訪ねて、早咲きの梅が一二本ばかり花を開き始めたばかりであったのに失望して、梅はだめかとあきらめて六本松を越えて、ここの窪地に下ってきたのだった。

すると、ここには梅の香りがうっすらとただよっていた。

梅の林がこんな山の中の方にあるとは思ってもいなかった。

下の梅林と違ってめでる人もないままに、静かに二分咲きか三分咲きかの梅が咲いていた。

ここの梅は早く咲くということが印象付けられたので、一度はまだ真冬のうちにいってしまったことがある。

曇天のもと、春の気配を初めてここで感じ取れないものかと、北風を切って東海道を下り、坂を登ってきた。

あと一息というところまできて、空は暗さを増し、ちらりちらりと雪が舞い始めた。

もうそれでは春どころではない。

早々に引き返したのだった。

今日は汗をいっぱいにかくほどに暖かい。

ここの窪地の最も美しいときに、いま初めて出会ったのだ。

春に、夏に、秋に、冬に、何度となくここにはきているが、今日のこのときこそ、ここの最上のときだったのだ。

六本松の上に出て、高山の南にまわりこむ道を探す。

以前に同じように道を探して失敗したことがあった。

去年の秋には反対側から道を探して失敗した。

ミカン山の中で、農道が入り組み、通じるかと思うと行き止まりになる。

今日もまた道を求めては行く手をふさがれ、また別の道に入ってみる。

そんな道のあちこちに、ときおり真新しい切り株を見掛ける。

切り口がまだみずみずしく、根元の方には生気が感じられる。

何の切り株だろうかと初めはいぶかしく思ったが、十本二十本とまとめて切られているのを見て、これはミカンの木であると気付いた。

ミカンの木を切り倒してきるのだ。

切ってどうするのか。

おそらくはキウイを植えるのだろう。

ネットで囲まれたキウイの畑が随分と目につく。

ここのミカン山はキウイの山に変わっていくのだろうか。

そういえば、六本松のすぐ上に、ネギの畑があった。

いままではネギなど植えられていなかった。

たぶん、やはりそこもミカンだったのだろう。

こんな山の上で、起伏のあるところで畑を作れば、雨で土が流れてしまうであろうに、そんな危険があっても、ミカンではないものを作ることにしたのだろう。

いずれ遠くないうちに、ここはミカンの山ではなくなってしまうのだろうか。四季に緑を輝かせるミカンの葉、季節を追って色付いていくミカンの実、そして秋から冬にかけてのミカンの香り、そんなミカン山だけにあるものが消えてなくなるとしたら。

いや、そんなことは考えるのはよそう。

今あるこの景を存分に楽しめばよいのだ。

今あるうちに楽しみ尽くしておかなければ、本当にそれが失われたときに後悔することになる。

今日も一つ小さな景色が鬼籍に入っていたのを知った。

沼代の桜並木に向かう途中の坂道の脇の景色だ。

最初、その道は未舗装で、片側が土手、片側が畑だった。

土手には小さな草たちが住んでいた。

あるとき道が拡張されて舗装され、土手は削られコンクリートで固められた。そして、今日きてみると、畑がつぶれて、どこからか運んできたのか、乾いた土が盛ってあった。

それで完全にそこの道の味わいは消え去った。

次第に風景は消えていくばかりだ。

風景がよくなったという目にあったことがない。

ただ風景の発見があるのが救いだ。

本当に新たに出会う場合と、すでにで知っている風景に別の面を見出す場合とがある。

六本松の下の梅は、十年も前に初めて出会い、そして今日になってこれまでにない景を見出した。

それはまた、今回もやはり高山の南の道を探し出せずに引き返し、新道の方を回って下っていった上町の奥の小谷についてもいえる。

そこは去年の秋に初めて訪れたところ。

柿の実の色が印象的だった。

そこを反対方向に走ってみた。

自動車のいきかう道をはずれると、雑木林の下をくぐる急な坂。

右に左に折れながら下る。

ぱっと明るくまわりが開ける。

左右に谷が刻まれ、向かいは沼代の桜並木が載る尾根道。

右の谷は林、左の谷がめざす方。

それは雑木林から次第に農家の裏庭へとかわっていく、まことによく人になじんでいる谷である。

長いこと人がここをいつくしんできた、そんな気持ちが景色の上に現われているような所だ。

そこへと道を下る。

キウイとミカンがいりまじった斜面。

降り尽くすと、まずまたキウイ、次に梅、そして竹、水田があり、ネギ、カブ、ホレンソウといった畑。

よくいろいろなものがていねいに耕作されている。

その畦道に、一人の初老の女性が腰を下ろしている。

何をするというのでもなく、ただ腰をおろしている。

春になった暖かな午後を、畑の香りをかぎながらゆっくりと過ごそうというのだろうか。

最も満ち足りた時間なのであろうか。

その人の背後を通り過ぎ、谷の出口に近付いてから振り返る。

谷はゆるやかに左にうねって、奥へとのびている。

雑木林、ミカンとキウイの山の中に、この田畑がある。

かすかに風が奥へと吹いていく。

いま一度もとにもどってみたい。

立ち去ることが難しいほどにここは人に懐かしさを与える。

本当にもう一度もどってみようか。

いやそれはよすがいい。

ここを、本当に、ここの景色を心行くまで味わうことのできるのは、ここの景色を作っている人達なのだから。

自分がうろうろすることで、あの女性の心を乱すようなことがあってはいけないのだ。

よそからきた人間はそっと景色を味わって、ひそやかに去っていくのがよい。つくってくれたものをただ観賞するだけの人間なのだから。

　　　（一九九〇年三月十日）

■第二十五　　三月十七日　挽歌

慶応義塾大学の湘南校舎ができることはかねてから聞いていた。

藤沢市遠藤という所にできることも聞いていた。

しかし、それがよもやここであるとは思ってもいなかった。

いや、正確にいうと、少しばかり心配したことはあった。

それでもここは打戻だから大丈夫、遠藤は通りを一つ隔てた向こう側であると勝手に決めて、それで安心していたのだ。

初めてここを訪れたのは、季節は春、もう九年前になる。

香川の駅から宇都母知神社を目指して歩いた。

洋子と二人だった。

結婚する前の年だった。

風もない穏やかな日であった。

小出川にそって続く田圃の脇の道をゆっくりとたどっていくと、農家の屋根の上に大きな鯉幟がだらりと垂れているのがいくつも見えた。

松や槙などの植木を栽培している林の中の道を登って、丘の上に出た。

そこで左にいくべきところを右に間違え、竹がおおいかぶさる暗く細い道や車の轍で深くえぐれたでこぼこの道をあれやこれやと迷った。

そのあげくに、ようやく、林の中の小さな神社を探し出した。

粗末な鳥居から、わずかな高まりの上にのった祠まで、草におおわれた短かな参道があった。

とびとびに置かれた石を踏んでいくと、人の背丈ほどのほこりの染み付いた祠があった。

お賽銭を入れる箱もなく、祠の正面の扉の格子の間からお金を入れた。

何かの願いごとをした。

たぶん、自分たちのことと、ここの風光が変わらないことを祈ったのだろう。浅間神社とあった。

その神社の東側に、この場所があった。

最後にここを訪れたのはいつなのか、それがはっきりしない。

たぶん、その後、少なくとも二度ここにきたはずだ。

宇都母知神社にいったのは、一九八一年八月二日、一九八二年一月十五日、一九八四年一月四日、一九八五年七月二八日、一九八六年四月十三日の五回であるらしい。

そのうち、浅間神社の方をまわったのがいつで、何度あったのか判然としない。北からいったのと南からいったのと一度ずつはあるはずだから、二回はきていることになる。

一度は足を草の露でぬらしたような記憶があるので、それは夏だったのだろうか。

それにしてもあいまいなものだ。

ただ、再遊の地であることを意識してここを通ったことははっきりと覚えている。

初めてきたときと変わらぬあたりの様子に、そのときのことを思い出したりしたのだ。

また、ここへ洋子と歩いてくることもあるだろう、そうしたいと考えもした。もしも一九八六年に確かにここにきていたとしても、もう四年も前のことになってしまった。

その間に、一九八八年の三月と十一月にはこの近くを通った。

だがここは寄らなかったのだ。

もし今日のことが予測されていれば、必ずここにきていたであろう。

もっときちんと、はっきりと意識してここを見ておくことができただろう。

一つ一つの木、一つ一つの草までも記憶の中に残そうと、できるかぎりの努力をして、ここの風景を見ておくことができたであろう。

あるいは、洋子とまたここにきていたかもしれない。

いつでもまたこの同じ風景を見ることができると安心していたので、改めてこようとはしていなかったのだ。

その前にきたときのも、ちらりと見て、走り過ぎてしまっただけだった。

こようと思えばいつでもこれる、だから、あえて細部にこだわることもなく、ああここだなと思うだけで走り過ぎていたのだ。

あたりを見回すためにちょっと止まるということさえもしなかった。

ああ、いま一度、しっかりとここの景色を見ておく機会があったのならば。

どうして、今一度ここにきていなかったのだろうか。

今は、ただあいまいな印象が残されているだけとなってしまった。

平凡な場所だった。

日本の中のどこにでもあるような、ごくあたりまえの場所だった。

とりたてて記すこともない普通の場所だった。

それは、丘の上にある小さな神社の小さな鎮守の林、その東側の原っぱだった。平坦な小広い原っぱで、草が気ままに茂っていた。

その隅を細い道が途切れがちに走り、南の方の畑とも荒れ地ともつかぬ一角に通じ、そして道は林の中に入っていった。

原っぱの北と東は、なだらかに波打ちながら下がっていくちょっとした斜面で、木々や竹が茂っているその上を見越して、遠くの丘の上端が緑の筋になって幾重にも見えていた。

それらすべての木や草に囲まれて、人間の営みのほとんどは視界の陰に隠れ、ここは隔絶した小空間だった。

初めてここにきたとき、洋子とここで弁当を食べた。

腰をおろすと、草と土の感触が柔らかかった。

昼になって、空高い雲が少し広がってきた。

それを通してさしてくる薄日の下で、向こうの丘は眠るように淡く霞んでいった。

時間はとどこおりがちにゆっくりと進んでいった。

突然、ドドドドと音がして、ヘリコプターが飛んできた。

ヘリコプターのおこす風にあおられて、あたりの木や草がざわざわと動き出した。

大きく木の枝が揺れ、草があちらからこちらへと波立った。

さあっと風が顔に当たり、ヘリコプターは飛び去っていった。

どこかで遠く鳥の声が聞え、またここは、もとの原っぱとなった。

一九九〇年三月十七日の今日、ここは存在しない。

浅間神社の林だけを小さく残して、一切の風景は消えた。

原っぱはもちろん、そこから通じる林も、神社を捜してたどった竹のおおいかぶさる道も、轍にえぐられた道も、すべて、宇都母知神社の森の際にいたるまで、この丘の全体がもう存在しない。

全部が全部、ブルドーザーが動かす土砂の塊となって消えてしまった。

宇都母知神社にくるまではいつものままであると思っていたのだが、神社の森の東側の縁がごっそりとえぐられ、ブルドーザーが勢いよく動いているのを見て初めて何かがおこっていることに気付いた。

土地改良事業と書いてあった。

ならば、ここの植木畑を平らにならして宅地でも作るのかと、まずは考えた。そのくらいのことはありうるだろう。

神社の裏にまわってみると、意外にも工事ははるかに大規模であることがわかってきた。

丘はざっくりと切られ、幅広い道さえ新しくこしらえられている。

ちょっとした宅地造成などというものではない。

自転車を走らせると、ずっと工事が続いている。

三叉路に当たる。

地図にない大きな道路が整備されている。

だんだん自分がどこにいるのか見当がつかなくなる。

仕方なしに小道にふっと入ってみる。

脇の農家、木立ちの様子には何とはなしに見覚えがある。

そうかもしれない。

ここをいって、その先の坂をまわると、でこぼこの小さな道となって、畑の脇、林の下に通じるのだ。

確かに坂はある。

左が以前にいったことのある道のようだ。

まっすぐにいく道はこんどまた探ってみようと、次の機会に残しておいた道に違いない。

左に曲がる。

ちょっと走ると、あっと、広い舗装道路に飛び出す。

どうしたことか。

その先は丘を削る工事中。

柵でずっと囲まれている。

一本の木も残さず、整地されつつあるむきだしの土砂だけがある。

丘の上の方には、すでにひとつビルが建てられている。

そこにだけ、新たに移植されたような街路樹がひょろひょろと突っ立っている。すべてはこういうことだったのだ。

大規模に大学造りが行なわれているのだった。

ぐるりと、いまたどってきた道を戻って宇都母知神社に帰る。

帰って、浅間神社への道を捜す。

あとひとかきブルドーザーが動くと、倒れてしまうほどに傾いた梅の木がある。二三片を残して、最後の年の花を終えようとしている。

きっちりと舗装された道がある。

見知らぬその道をおろおろと走っていく。

左手にぽつんと島のように取り残された林がある。

いそぎそこへ走り寄る。

そこが浅間神社だった。

鳥居と祠、まるく小高い林、それだけが残っている。

草のにおいがたちこめていた参道は、草もあずかで乾いている。

汚れた祠はもとのままだった。

いつかまた、あのときのような風景がここに現出することを、むなしいと知りながら祈る。

もうすぐそこをブルドーザーが行き来している。

エンジンの音がとどろく。

ああそここそが原っぱのあったところだ。

今そこには大きな音と振動がある。

いつかこの工事は終り、ブルドーザーのエンジンの音のしない静かな日がもどることだろう。

しかし、あの日の静寂がもどることはない。

あの原っぱがもどることはありはしない。

最も平凡な風景であった。

そこを残そうという気持ちをもった人は少なかったのだろう。

貴重とされる木も動物もとくにはいなかっただろう。

だからといってあの原っぱの価値を低く計ってよいものではない。

あの原っぱは、とりたてていうべき特徴とてなかったかもしれないが、ここにしかなかった唯一ひとつの原っぱであったことには違いないのだ。

富士山がひとつしかないのと同じく、あの原っぱはひとつしかない。

それを、人間の意志で消してしまった。

もう二度と、あそこに腰をおろして弁当を食べることはできない。

もう二度と、遠くの眠りがちな丘を望むことはできない。

整然と大学が完成したとき、この神社の一角だけが、なぜこんなところに古臭い汚れた神社があるのだろうかと違和感をもって見られることだろう。

そう、あのときには、あたりの様子にぴったりな神社であったというのに。

それを知っている自分は、かろうじて残った神社の林の中で、失われたこの丘一帯のここらの風景の挽歌を、か細く歌うのである。

目を閉じて、かすかに残っている記憶のすべてをよみがえらせて、原っぱの草、木、遠くの丘、風の香りをいまここに呼びもどし、そして、消えた存在しない道をたどっていく。

　　　（一九九〇年三月十八日）

■第二十六　　四月十五日　高尾・柳

決して忘れまいと思った景色は、まさにここなのだ。

こここそが、その景色なのだ。

再びその景色を、いま見ているのだ。

ああ、まさにここだ。

この景色。

たしかに、たしかに、こここそ、忘れてはならない景色。

まさにここだ。

ここだったのだ。

　今日みたこの景を決して忘れまいと心に念いつつ自転車を走らせる。

そう書いたのは一九八一年八月六日のことだった。

しかし、その実、どうしたことか、そのように書いたことも、ここの景色のありようさえも、長いこと忘れてしまっていた。

昨年だったか、自転車行の第三輯を書き継ぎながら、以前の記録を見直して、その稿のあることを、ようやく思い出したのだった。

だから、決して忘れないと書きながら、八年間も忘れていたことになる。

どうしたことか。

いま、ここに、この景色を見ながら、そのときに書いたときの気持ちがよみがえってくる。

所は、八国見山から南に高尾に降りていく途中。

その日は、初めて八国見山に登ろうとして果たせず、帰路、ここにきたのだった。

その翌年に、四ッ谷に越すことが決まっていたので、ここへは二度とくることがないだろうという気持ちが強くあった。

だから、せめて、初めて会ったこの景色を、記憶の中にだけでもしっかりととどめておきたいと思ったのだった。

今日は、逆に、高尾から八国見山へと登ろうとここまで目指してきた。

天気はあまり思わしくなく、雲がさかんに流れ、なかには灰色の暗い雲も混ざっている。

午後には雨になるのかもしれない。

気がせいて足早やに高尾の集落にまではきたが、ほとんど一ケ月ぶりの自転車のせいか、ちょっと坂がきつくなるともう進めなかった。

とろとろと自転車を押した。

畑と小さな神社との間の小道を上がり、林の裾でゆるやかに左右に波打つ道、クルミかヤナギか細長い花の穂をたくさんに垂れる木々の下の道、さらに、遠くコジュケイの声を聞く大きくカーブする道を登った。

そして、明るく見晴らしのよい尾根の上に出た。

そこが、ここだ。

ここに、あったのだ。

これこそが、決っして忘れまいとした景なのだ。

南に、丸みを帯びた大きな曽我山。

東に、なだらかに低く広い丘、その彼方にかすむ鷹取山と湘南平。

西に、枯れ枝と古い緑と芽吹いた若葉がまだらな模様をなすここの丘陵。

それらすべてが、曇天の薄明りのもとにやわらかな姿をみせている。

この景色を見たのはたった一度だけ。

それから、長いこと忘れていた。

忘れてはいけない景色だった。

どうしてこの景色を忘れていられたのだろうか。

これほどの、のびやかな景色だというのに。

たしかに、たしかに、ここは忘れてはならない。

大磯丘陵の最もよい姿がここにある。

もう今度こそ、今度こそ忘れずにいよう。

きっちり記憶にとどめよう。

また再び、以前と同じことを思う。

　南に高尾に抜けようと走れば、すぐに舗装が途切れ、道は荒れ地の中に消え　てしまう。その先は草が一面をおおってどこに道があるのかはっきりとは見　えない。地図を広げてみると、点線で道が示されている。さて、本当に行け　るものかどうか、この先どこを行こうかと考えあぐねていると、犬を連れた　男の人が、乗っては行けぬが押して行けばなんとかなると、教えてくれる。　その言葉に勇気づけられて、草地に踏み入る。たしかに道はあるが、水の流　路になっているのか、一条深くえぐられ、走ることができない。それに草は　一段と深く茂り、葉に手足は傷つけられ、露にくつはぐっしょりぬれる。た　だひたすらに押して、いいかげんにやになったところで、ちゃんとした道に　出た。

　ほっと一息つき、自転車を走らせる。あとは下り。高尾に抜けて帰らん。

　そして、道が西にまわりこんだところで、見る。

　曽我山の峰から東に連なる丘陵は、昨日の雨のうるおいが日に照らされて上　へと立ちのぼり、うすぎぬを一枚かぶせたように白く、あわい緑色をたたえ　ている。道も家もここからは幾重にも波打つ緑に隠れて見えない。眼下には　大磯丘陵だけがある。そして南に遠く湘南の海。

　この丘をいとおしく思う。

　この丘陵がある故に、ここ湘南を自分の故郷といいたいと思う。東京で生ま　れ、東京あるいは江戸にはこれまた特別の思いがあるが、今ここにある丘陵　を見ている限りにおいては、自分は、まさしくここの人間であると感じるの　である。

　祈るような気持ちでこの丘を見つめる。

　またいつかこの場所に立つとき、ひょっとしたらもう二度とはないかもしれ　ないし、あるいは何度もあるかもしれないが、いずれにしろ、この場所に立　つときには、それがいつであっても、この丘陵は今の姿のままあり続けても　らいたいと思う。

　もうこれ以上、自分の故郷の姿は変わってもらいたくないのだ。

　今日みたこの景を決して忘れまいと心に念いつつ自転車を走らせる。

幸いにも、ここの景は変わらなかった。

自分は忘れていたのに、景色は待っていてくれた。

さらに道を登る。

低くカエルの声が響き上がってくる。

冬眠から覚めた大きな蛇に出会う。

みごとなクヌギの並木を見出す。

そして、以前とまったく同じ草におおわれた悪路。

以前のきた夏の季節になれば、草が伸びてさぞ難儀することだろう。

ガサゴソとそこを通り抜けて、八国見山のパラボラの下に出た。

ちょうど、以前と逆に走り終えて、この道の再訪を果たした。

だがしかし、今日は、それだけでは終わらなかった。

記憶に二秒間の空白ができあがってしまった。

八国見山から、東に、栃窪に降りて小原から境をまわって帰っていればなんでもなかった。

つい、興にのって西に、峠の集落に降りてしまった。

ちょうど一年ぶりだったので、そこらも走ってみたくなったのだ。

峠から篠窪をまわって、ひとつの道を目指した。

尾根伝いに柳に越える道だ。

本当にその道を走っていればなんでもなかった。

曲がるべき角を捜していて、富士見ハイキングコースという案内表示のある道が、それだろうかと迷ってしまった。

人家の裏にまわっていくその道にちょっと踏み込んでみて、すぐに誤りに気付いた。

それで引き返していればなんでもなかった。

雨がいまにも落ちてきそうで、先へと早く進んでしまいたかった。

それに、この道のそのもののも関心があった。

たぶん、以前に反対方向に走った道だろう。

川沿いのちょっとした谷の道があるだろう。

けっこう深い、渓谷といってよいぐらいの所で、小さな橋がかかっていてたりして、滝のようなものもあったようだ。

そんな、おぼろげに覚えている事柄のどれだけが本当なのか確かめたくなった。それで、とうとうこの道へと入ってしまったのだった。

空が異様に明るい。

木々の間に見える空が、遠く、明るい。

はっと、夢からさめたような感じ。

しかし、一瞬たりとて、眠ったり気を失っていたりしたわけではない。

時間は連続している。

何事がおこったのかは、はっきりと自覚している。

そうだ、やってしまったのだ。

首をまわすと、道は数メートル上にある。

あそこから落ちたのだ。

崖の途中に仰向けにひかかり、足の上に自転車がのっている。

足は、手は、動く。

大丈夫だ、どこも怪我はないようだ。

どうしたらよいか。

とにかく上にあがらなければならない、自分も自転車も。

足の上にある自転車を引き上げようと、サドルのあたりを取って、ちょっと力を入れる。

とたんに、ずるずると足元がすべって、数十センチ落ちてしまう。

下を見る。

それほど急というわけではないが、十数メートル下まで崖が続いていて、最後には、石のころがる狭い河原がある。

あそこまで落ちてしまわずに、どうして途中で止まれたのだろう。

ちょっと力を入れただけですべってしまうこの崖で、上から勢いよく落ちてきたのにもかかわらず、なぜ、ここで止まれたのだろうか。

ともかく、幸運だ。

手を延ばすと細い木の株がある。

片手でそれをつかみ、片手で自転車をつかむ。

両方の腕に力を入れると、どうしてか、左足が、がくがくと震える。

背中を崖に押し付け、体が落ちないようにして、自転車を引き上げる。

むきだしの腿のあたりをチェーンがこするが、いたさをこらえ、自転車を引き上げる。

えいっと、自転車を上げると、後輪が木の株にひっかかる。

反動で、体が下にすべる。

ここで落ちたらもともこもないので、これえられるだけこらえて、自転車をさらに上げる。

しっかりと、木の株で自転車が支えられた。

よし、もうこれ以上落ちることはない。

しかし、あとさらに数メートル、どうやって登ったらよいのか。

体ひとつだって、難しそうだ。

どうしよう。

いやいや、こんなところに寝そべっていて、途方にくれていてもしょうがないだろう。

自転車はともかくとして、まず、自分だけでも上に登ろう。

いったん上に上がれれば、気持ちも落ち着くだろう。

身をおこすと少しあたりの様子がわかってくる。

自分が落ちたのは、崖がえぐれてぐずぐずの土があらわになっているところで、ほかは木々が生い茂っている。

真っ直ぐには、上には登れないが、木々につかまっていけば、さほど困難ではないようだ。

はいつくばって、体をすべらせながらも、横に動く。

一本伸びている枝をつかみ、体を引っ張って、ようやく立つ。

あとは、とんとんとんと、次々に木につかまりながら登る。

ようやく、上の道に出た。

道のへりに二本の杭が立っている。

そのうちの一本が、皮を激しく剥かれ、なかば裂けている。

どうやら、こいつに、自分が衝突して、落下したのだろう。

杭の脇に立って、下をのぞきこむと、えぐれた崖の斜面の途中に自転車が落ちている。

崖はかなり急で、ずっと真下の河原まで続いている。

どうして、途中で止まることができたのだろう。

下までいってしまっていたら、どうなっていたか。

今、ここに立っていられただろうか。

なぜ、こんな急斜面の途中で止まることができたのか。

いや、そんなことよりも、そもそもなぜ、落ちたのか。

どのようにして落ちたのか。

杭に当たって、倒れて落ちたのか。

勢い余って、杭を引っ掛けざまに飛び出して落ちたのか。

杭の脇をこすって、ほとんど止まった状態ですべり落ちたのか。

杭のこの様子は、とにかく自分がここにぶつかったという確かな証拠だ。

だがしかし、覚えていない。

落ちたことだけは自覚があったが、杭に当たったことも、崖を落ちていった途中のことも、どれも覚えていない。

そのときの様子は何ひとつとして記憶にない。

あるのは、ここにくるよりも以前のこと。

川沿いの道は、柔らかな土の道で、軽い下りだった。

心地好く、自転車を走らせていた。

ゆるやかな左カーブを曲がっていくと、右前方に杭が二本見えた。

幅が一メートル半ほどの道が、四分の一ばかし狭くなっていた。

崖が崩れて、道が、その分えぐれてしまっているのだ。

その注意をうながすために二本の杭が立てられたのだろう。

確かに注意しなければ。

そう思った。

杭の内側を抜けるのは、たやすいことだろう。

そうも思った。

たいして危険なことではない。

天気を気にして、急いでもいた。

快適な下り道で、止まったりするのが億劫でもあった。

だから、そのまま走った。

だが、気をつけようとは、確かに思ったのだ。

そして、次は、あの異様に明るく感じた空。

気をつけようと思ったときから、崖にころがっていたときまで、二秒間もないかもしれない。

その間の空白。

一切の記憶がない。

何ごとがおこったのか。

確かに、自分は落ち、いま、自転車はあそこにある。

その間をつなぐことができない。

だが、二秒間の空白を問うていてもいまは仕方がない。

自転車をここにまで持ちあげてこなければ。

自転車を引き上げるのだ。

そのことこそが、いまは、一番大切なことだ。

自転車がなければ、むろん、ここから帰ることができない。

だから自転車が必要なのは当然だ。

それだけではない。

自転車こそが、今日のあの景色、二度と忘れないといったあの景色に出会わせてくれたものなのだ。

自転車こそが、これまでの、湘南との貴重な関わりをもたらせてくれたものなのだ。

自転車こそが、これからも湘南のさまざまな顔を自分に見せてくれるものなのだ。

そして、なんといっても、自転車こそが、この、崖を落下するという、日頃にない体験をさせてくれたものなのだ。

だから、自転車を崖から引き上げ、いたわらなければならない。

斜面を降り、自転車をとりにいこう。

二秒間の空白、それも自転車だけは知っているのかもしれない。

　　　（一九九〇年四月二十五日）

■第二十七　　四月二十八日　日向

日は出たが、朝靄が低く地上をおおい、おぼろ月のようなぼんやりとした姿を見せているだけ、日ざしは注がれてこない。

その朝靄のために、山はまったく見えない。

神川橋を渡るといつもは正面に大山が聳え立つのに、今日はただ濁ったような青白い空気の厚みがあるだけ。

相模川のこのあたりは、右岸は川べりまで町がせまっているが、左岸は広く河原があって、その外側に草原や松林がある。

橋より上流には、草の茂った中洲も浮いている。

なかなか広々とした景色があるのだが、残念なのは橋が狭く、景色を見るゆとりもなく、車に脅かされながら急ぎ渡り終えなければならないことだ。

ただ、この橋も掛け換え工事中で、ゆったり走れる広々とした橋に変わるのかもしれない。

そうなれば、ありがたいが、昔風の素朴なこの橋がなくなってしまうというのも、いくらかさびしい気がする。

下谷、上谷という川沿いの集落を通る。

幅数メートルの小川の右岸に順に三つの町筋が並んでいる。

どの家も生け垣をこしらえ、庭に大きな木々を植え、それらが連続してひとつながりの流れをつくっている。

川の流れに並行する緑の流れというわけだ。

それが、三つある町筋ごとに、すこしずつ趣が異なっているというのもおもしろい。

一番南の町筋が最も重々しい。

それは、川の土手がコンクリートで固めてあるということにもよるが、どっしりとした大きな木が多いからだ。

カシやシイ、あるいはイチョウ、サクラなど、よく茂っている。

ちょっと自転車を止めてみると、川は少し臭いがきつい。

コイがとびはねたりもしているが、清流に映える緑というわけにはいかないようだ。

二番目の町筋はあまり手入れがされていない。

生け垣がまばらになっていたり、川の水辺までゴミが散乱していたりする。

他所に比べればまだはるかによいが、だんだんと全体がこんな風になっていくのだとしたら、寂しいことだ。

三番目の北の町筋は最も明るい。

なんといっても、土手の斜面いっぱいにサクラソウが植えられていて、それがいまは満開。

土手の上には、ショウブの花。

そしてヤエザクラ。

何軒もの家が協力し合わなければ、このようにはならない。

自分たちの顔として、町並をつくりあげていこうという気持ちが、ここでうまく働いているのだろう。

湘南を走っていて、そんな地域の人々の心が伝わってくるような場所は、そうはない。

ここが一番といってよいだろう。

ここを過ぎると左折して、高速道路の下をくぐる。

ようやく、山が、かすかながらに見えてきた。

丹沢の東端の低い尾根筋だ。

大山そのものは、まだまだ姿を現わさない。

高部屋神社の脇を抜けて国道二四六号を渡る。

丹沢にいくにはいくつもの交通路を横切らなければならない。

新幹線、小田原厚木道路、小田急線、国道二四六号、東名高速、これらはみな伊勢原台地を、東西にかすめていく。

東京から西に向かうには、海岸ぞいにいくよりは、ここを通った方が近いためだろう、次々にここを通過していく交通路ができあがってきた。

東海道よりは、この国道二四六号の方がはるかに交通量が多く、トラックが非常にたくさん走る。

もともとこの道は大山街道で大山詣りの人々が使う道であったのだが、いまはほとんどの車は、伊勢原を通過していくばかり。

とりわけ、東名高速では、伊勢原でおりることもできない。

ただ通過するだけの人にとっては、ここが伊勢原であろうがどこであろうが、構わないことなのだろう。

その東名高速を、東海大学病院の裏でくぐると、やっと丹沢に近付いたという感じがしてくる。

事実、日向・大山という標識にしたがって左折すると、レンゲ畑の上に、初めて大山の姿がうっすらと見えてきた。

茅ケ崎で見るのよりも数倍も大きく、すっくりとのびあがった、もっとも大山らしい姿だ。

今日は、あるいはあの山頂の間近までいけるのかもしれない。

おなかの黄色い小柄な鳥が二羽、上下に波打つようにして林の上に飛び去っていく。

尾のなかほどだけが白く目立つ大柄な黒い鳥が三羽、杉の枝を縫うようにして森の奥へと消えていく。

ゆっくりと自転車をこぐ。

日向薬師への車道を登っていく。

正面からではなく、大回りして裏から参詣するのだ。

こいで登れる程度のちょうどほどよい勾配の坂で、しっかりと舗装もされている。

どうも確かではないが、以前は舗装がなくて、もっと幅も狭かったような気もする。

山中の雰囲気はいくぶん薄まったが、えっちら登る身にはこの方が都合がよい。宝物殿の前に自転車を止める。

汗を拭うと、境内の空気は冷や冷やとして、すっと体がひきしまる。

カシの木には長い花の穂がいっぱいに垂れている。

木の根元のはシャガの花が開いている。

下を見ると、いま、本堂の扉を開けたばかりのところ。

一人、掃除を始めている。

時計を取り出せば、七時。

どうやら今朝の一番乗りか。

階段を降り、竹箒で本堂の前を掃き清めているその人と、

　おはようございます

と声をかけあう。

お線香の煙が立ち昇っている。

青々とした茅葺き屋根の本堂の中に入る。

天井まで届く大きながっちりと組まれた格子がある。

その前にお賽銭の箱が置いてある。

格子の奥は真っ暗闇。

薬師様はこの向こうにおられるのだろうか。

その闇に向かって手を合わせる。

薄暗い建物の中から、再び外に出る。

石段の上に立つ。

たったいま外から中に入って、また出てきただけなのに、外の明るさが新鮮に感じられる。

空は水色。

その高い、山の上の大空に向かって、杉の巨木が二本、まっすぐにそそり立っている。

ああ、あの杉だ。

杉の下に歩み寄れば、その名は旗立ての杉、高さ三十五メートル、推定樹齢八百年とある。

この前ここにきたのは十一年前。

そのときにも樹齢八百年。

八百年前といえば、南宋の詩人、陸游が生きていた時代、この杉は陸游が吸っていたのと同じ空気を吸っていたのだろうか。

そして、いまは、この杉が吸っているのと同じ空気を自分が吸っている。

だから、陸游と自分とは、八百年の歳月を隔てながらも、この杉を介して話をすることができるのではないかと、十一年前に思ったのだった。

十一年たって、むろん杉はかわることなくここにあり、自分もまた、幸いにも、ここにくることができた。

杉にとっての十一年の時間は取るに足りない短いものかもしれないが、自分にとっては、またここにくるという機会に恵まれたということは、貴重な時の巡りというべきものなのだ。

杉が八百年の生涯にわたって同じ早さで三十五メートルまで伸び続けてきているとすれば、現在の時間は地面にあって、十一年前の時間は、地上から五十センチメートルほどのところにあることになろうか。

自分の十一年はこれだけの時間でしかない。

そして、陸游の時代は、三十五メートルの上。

中国大陸で陸游が歌った詩の声がここまで届き、見上げる杉の梢の先端に残っているかもしれない。

耳を澄ませば、空に突き刺さる枝の先から八百年前の声が聞こえてくるのかもしれない。

十一年ぶりにその声を聞く機会が今日あったのだ。

登ってきた同じ道をいったん下にまで戻って、十一年前にはいかなかった日向渓谷の奥へと走る。

浄発願寺、石雲寺の脇を通って、橋を渡る。

澄んだ水が音をたてて岩を越えて流れていく。

青少年研修所の前を過ぎると、谷の奥の遠くに、日ざしをいっぱいにあびた山が見える。

いよいよ人家を離れ、山の林道となる。

幅の広い舗装された立派な林道で、勾配はきつい。

とろとろと自転車を押す。

水が出て崩れ落ちたのだろうか、岩や土くれが、道の片側に積み上げられている。

山かげを削り、いくらか無理をして、この道はつくられているようだ。

ムラサキケマンが咲いている。

大山山頂に通じる登山道が分かれていく。

その登山道は木を埋めこんだ階段を登って、一気に尾根を上がっていく。

こちらは、その尾根を大きくまわって、山裾の凹凸を忠実にたどっていく。

いったん沢の方の山の内側に入り、そしてまた、尾根の方の山の外側に出る。山の内側に入れば木々におおわれて日がかげって暗く涼しく、山の外側に出れば眺望が開けて明るい日ざしに汗が流れる。

ウグイスが枝の先の日をあびてほがらかに鳴き、ツツドリが山の奥の見えないところで声の余韻を送ってくる。

見下ろす向こうに日向の集落がぼんやりとかすみ、見上げる彼方に隣の尾根の緑が映える。

山は、若葉がいっぱいに湧き出す広葉樹の森、いつもながらの濃い緑を保つ針葉樹の森、淡い草色の伐採後の休閑地、それらがまだらになっている。

いまたどる山は、この林道ができたせいか、ほとんどが伐採後の新しい植林地のように見える。

ヤマブキにキケマンの黄色。

青空を目指すようにして坂を登る。

山ひだをひとめぐりし、またひとめぐりする。

切り通しの間を抜ける。

はっと思うほどにあたりが明るくなる。

日光が一段と暖かく感じられる。

山の表側に出たのだ。

ここで舗装が終り、砂利道になる。

どうしようか、ここで引き返そうか。

地図でみると、この林道は行き止まりになっている。

ここは、林道の半ば過ぎのあたり。

まだ、かなり先があるが、それが全部がこんな砂利道だとすれば、そこを往復するというのもつらい感じがする。

引き返そうか。

しかし、これは数年前の地図だから、もしかすると、その後、林道が延長されて大山の参道につながっていないとも限らない。

そうなると、ここで引き返すというのは、何とももったいない。

もっともそれは、あてのない話。

ともあれ、ちょっと様子をみるか。

眺望が開け、ガードレールに

　ここの夜景もなかなか、でもこの先にはもっと……！

と落書きがある。

オートバイなのだろうが、夜にここまでやってくるのか。

今日は空がかすんで遠くはほとんど見えないが、確かに、夜景はよいのかもしれない。

この文句に刺激されて、その先を見てやろうという気になった。

自転車を押していくと、だんだんと登りがゆるくなり、ときには下り加減にもなって、自転車に乗ることができる。

がたがたと走る。

またガードレールの落書き。

こんどはたくさんの落書き。

ここが、この先にはもっと、という所らしい。

急斜面の下に焼却場、その先に畑、ずうっとかすんで伊勢原の町かもしれないぼんやりとした広がり。

こうした景色がここにあった。

林道に入ってからは、一台の自動車、一人の人間にも会わなかった

だから、今朝のこの景色は、自分がまず見ることになっていたようだ。

それをこうして見るというのも、今日ここにこれたという機会に恵まれたからだ。

そして、こようという自分の意志があったからだ。

機会があるということは、限られた時間の中で生きている身としては、幸運なことである。

しかし、その機会を生かす意志がなければ、何ごともおこらない。

ここへこようという意志があって、初めてここにくる機会が本当に生まれたのだ。

ここで引き返してはならない。

この先にまだ道がある、そこへいく機会が、いまはあるのだ。

もし、いまそこへいかなければ、そこで見ることができるかもしれない景色に会うことができない。

間近く大山の山頂を仰ぐ景色に出会うことができるかもしれない。

声をかければすぐに届く真下に大山参道を見下ろす景色に出会うことができるかもしれない。

それは、今日ではなくても、いつかまた別のときに、そこへいく機会が生まれるものかもしれない。

しかし、今日出会うかもしれない風景と、そのときになって出会うかもしれない風景とは同じではない。

今日と同じようにウグイスは鳴き、ツツドリは声を響かせるかもしれないが、それは今日と同じウグイスではなく、同じツツドリではない。

同じヤマブキは咲かず、同じキケマンは咲かない。

十一年前に日向薬師からここまできていれば、出会えたかもしれない景色があった。

それなのに、十一年前には別の道にいってしまった。

だから、十一年前のここの景色には、永久に出会えないことになってしまった。ならば、今日こそは、いけるところまでいくのがよい。

この道は今日を限りと思い、この朝の明るい初夏の道はこのときに見なければ二度とないことと思い、鳥の声のこだまする静かなこの山の道はこの日にこそ見るべきものとして走ろう。

さらに先へといくのだ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（一九九〇年五月一日）

［付録］　ちょうど八百年前、一一九〇年、陸游六十六歳のときの詩を一つ。

杭湖夜帰　　二首のうち第二

野艇迢迢信所之　　　野艇　迢迢として　之く所に信かせ

帰来常及欲昏時　　　帰り来れば　常に　昏れなんとする時に及ぶ。

陂塘煙重怨姑悪　　　陂塘　煙重なりて　姑悪怨

林薄月明悲子規　　　林薄く　月明らかにして　子規悲し。

出谷寺鐘初縹緲　　　谷を出る寺の鐘は　初めて　縹緲　

穿籬績火已参差　　　籬を穿つ績ぎの火は　已に　参差。

欣然笑向鷹門説　　　欣然と笑って　鷹門に向って　説く

又了浮世一首詩　　　又た　浮世一首の詩。

杭湖というのは陸游の家の近くにある湖。「舟の赴くままに遠くまで行って帰れば、もう黄昏時となった」。第一首にも「緑樹　村深く　已に　燈を上す」という句がある。「土手には靄が立ちこめて鳥がクワクワと怨むような声をたて、まばらな林に月が昇ってホトトギスが悲しげに鳴く」。ここは、湖から上がって歩いていく時間の流れにしたがって歌われているのだろう。さらにあたりは暗さをまして、「谷の奥からはお寺の鐘が広びろと響いてきて、生け垣の向こうには糸をつむぐ手元を照らす明りがちらちらと見える」。こうした、何ごともない日常のときに深い喜びを覚えて、「静かな笑みを浮かべつつ、この門の下で、人生のあるひとときの詩をまた歌うのである」。以上のように解して大筋では間違いないだろうが、「鷹門説」の三字の意味はわからない。第一首目にも「昔如架上九秋鷹」という句があり、何かの故事があるのだろうが、わからない。とりあえず、「鷹門」という門があるものと考えた。

■番外　　十月二十一日　鯖江

吾がゆくところを湘南と称すとはいいながら、いくらなんでも北陸の一隅を湘南とすることはできまい、よって番外とするのである。

父に電話をした。

　駅にいて、いまから鯖江をたつ。

　そうか、神社には行ったか。

　鳥居があった。名前が刻まれているのをしっかりと見た。

　変わっていただろう。

　旅館はなくなっていたし、町もすっかり変わったようだ。

　そうだろう。だから行かなくてもよいものを。

　変わったのか変わらないのか、ともかくも初めてなのだから、一度は見てお　かなければ。

　そうだな。町は変わっても、あの山並みはもとのままだろうからな。

鯖江の町は、北の西山・長泉寺山と、南の舟津神社の裏の王山とを結ぶ高台にあった。

その高台へと登る大通りの坂で振り返ると、鯖江の駅の背後には、遠く東方の山があった。

高台から駅とは反対の方、西に下りかけると、眼下に家々の屋根が光り、平地が広がり、その向こうに低い西方の山々が連なっていた。

高台の下に降りると、南から北へと白い日野川が流れていた。

川の流れに沿って行き、北側から川を隔てて見ると、町は西山の影に隠れ、その彼方に、南方に、朝日を背後から受けた三角形の山が黒々と突っ立ていた。三方をぐるりと山が囲み、川の流れ出ていく北だけが開いた盆地の中に、鯖江の町は置かれていた。

鯖江は、十五年ほど前に電車で通過したことがあった。

友達と北陸を旅行しての帰り、福井から米原に向かう特急が鯖江を通過した。激しい雨が降っていた。

車窓からはほとんど何も見えなかった。

雨が強く窓を打った。

じっとのぞき込むと、どうやら外には田圃があり、ぽつんぽつんと家が暗い空の下に建っていることだけがわかった。

秋だった。

いつかは鯖江に降り立つ日がくるだろうと漠然と思いはしたものの、以来別段その機会を積極的につくろうとはしてこなかった。

父祖の生きてきた土地と聞きながらも、湘南という太平洋に面した海岸地域に住み続けてきた身には、日本海に近い盆地の中の土地はひどく縁遠いものだった。

行ってもよいが、あえて行くべき理由もなかった。

子供のころに、うちの先祖は鯖江藩の武士であったという話をきかされても、まったく大昔のとんでもない物語で、第一、鯖江がどこにあるのか地図帳で捜してみたところで実在感がなかった。

すぐに、それが福井県だか石川県だかもわからなくなってしまった。

そんな所だったのが、このごろになって、少しずつ気にかかるようになっていったのは年齢のせいだろうか。

結婚をし、子供が生まれ、その子供達が成長していくようになってきたことと関係があるだろう。

それ以前はもっぱら自分が終着点だったのが、今は自分が中継点になっている。親からもらったものを、そのうちのいくつかを、自分の身にしまっておくだけですんでいたのが、またそれを子供達に伝えていく立場になってきた。

とくに何かを伝えているという意識などもちろんないのだが、何とはなしに子供達に伝わっていっているものが、実は、親から受け継いだものであるということに気が付くことがある。

親から子へ、その子が親になり、また親から子へ、そんな繰り返しがあって自分が最後の子であったのが、次の子へと伝えていく身になった。

その伝えていくものの何分の一かは父から伝わってきたものであろうし、そのまた何分の一かは祖父から伝わってきたものであろうし、そのまた何分の一かはもっと前から伝わってきたものであるかもしれない。

あるいは、本当は、そんなに遠く伝わってくるものなど実際には何もないのかもしれないが、あると考えたってよいだろう。

そうであれば、子を持つ身は、いくらかは父祖のことを気にかけるべきなのであろう。

事実として、子を持つ父となった男が昔あって、その子がまた子を持つ父となって、そのまた子が子を持つ父となるということが何代も何代も繰り返されて自分が子を持つ父となったわけだ。

それは間違いようのないことだ。

その何代かのうち、わかっている限り最も古い父は鯖江にいたことも事実だし、わかっている限りでは最も長く鯖江において父から子へという伝わりが行なわれてきたのだ。

鯖江を離れてからは、祖父から父、父から自分、自分から娘へと、ようやく今、三度目の伝わりが行なわれているにすぎない。

とすれば、鯖江が少しずつ気になってくるのも理由があることだろう。

そんな鯖江を思い描くとき、それはいつも、暗い空の下にあって強い雨に打たれる家々の陰であった。

鯖江は時間の彼方に輪郭のない姿で重たく存在していた。

望んで得られるものではない快晴。

駅で借りた自転車を漕ぎ出すと、朝の風が冷たく体にしみいってくる。

チョッキを一枚着る。

南に走るとすぐに舟津神社の手前。

昨日、金沢に向かう特急がスピードをゆるめていったとき、大きく舟津神社と書いた二本の幟が見えてきた。

小さな山の前に高々と立てられた白地の幟に、黒々と書かれたその文字は非常によく目についた。

　ここが鯖江なのだな。

家が立て込み出し、民家の裏庭をかすめるようにして電車は駅に滑り込んで止まった。

　明日はここの駅で降りるのだ。

そう思った鯖江の駅で降り、最初に鯖江の町を教えてくれたその幟がすぐそこに立っている。

もう町の南の端にまできてしまったのだ。

いったん駅まで引き返す。

大通りの坂を少し登り、左の坂に入ってまた右に曲がってみる。

小学校がある。

工事中となっていて、半分壊された校舎がある。

その向かいがお寺で、本堂を美々しく幕で飾っている。

坂を下ってまた大通りに出る。

下の方に駅舎が見える。

その向こうに山がある。

いくつかのビルが邪魔をして山の姿は半分も見えない。

大通りを横切って向かいの小道に入ってみる。

このようにうろうろしているのは、一つの神社を捜しているためだ。

松ケ岡神社と聞いてきた。

祖父が奉納したという鳥居がその神社に立っているという。

鯖江の町では、まずはそこへ行かなければならない。

鳥居には祖父の名前が刻まれているのだ。

それを見ておきたい。

たぶん今となっては、これだけが、自分をここの町と結び付ける確かな証しなのかもしれない。

ほんのりと暗い小道がある。

古びた家の軒がある。

そんな家と家との間に鳥居が立っている。

自転車を止める。

右奥に神社がある。

その前にももう一つ鳥居がある。

左を見ると、またそこにも鳥居がある。

少し傾きかけたような家が両側に建ち並ぶこの道は神社への参道になっていて、都合三つの鳥居が立っている。

ためらわずに、一番奥の鳥居の前まで行って自転車を止める。

松阜神社と書いてある。

この鳥居だと、確信する。

どういうわけか、神社の名前も異なり、鳥居も三つあったのにもかかわらず、捜していたのはこれに違いないと思ったのだ。

裏に回わる。

右に、奉祝紀元二千六百年記念、左に、奉納兄白崎義雄、弟岸本喜久多、とある。

これであった。

朝日を受けて、鳥居の石の、その名前の刻まれているところが白く輝いている。祖父岸本喜久多は、十五歳のときに鯖江を離れた。

一人で東京に出て行った。

東京駅に降り立ったときに、手には五十銭銅貨が一つだけ握られていた。

郷里を捨てる覚悟であったという。

日本橋のラシャ屋に奉公した。

祖父は勤勉で商才もあった。

二十歳のころには番頭になり、のちに独立して店を出した。

一つの成功談だった。

だから、胸を張ってこの鳥居を奉納したのだろうか。

そんな祖父の思いを知る人もなく、今は誰も鳥居に刻まれたこの名を見る人もいないだろう。

ただ、かろうじて自分がここにやってくる縁だけは残されていた。

祖父という人の思いをかすかにたどる時間を、ここに持つことができるようになっている。

神社に参拝する。

左側で二人の老人がゲートボールのコート作りをしている。

鳥居の下で、もう一人の老人が箒で掃除を始めた。

その人に聞いてみる。

　かどや旅館という宿屋さんはどこでしょうか。今もありますか。

　かどやか

その老人はしばらく考えて、

　以前はあったな。安い旅館だったが、もうなくて、たぶん大通りの、そこの　四つ角を出て四軒か五軒目の洋館建ての建物のあたりじゃないかなあ。なに　かね、古い旅館でも調べてなさるのかね。

という。

その鳥居に刻まれている人物が祖父であることを説明する。

　そうかね。それはなつかしいことだね。

　でも私がここにくるのは初めてなんです。かどや旅館が昔の場所を知る手掛　かりだったんですがねえ。

　すっかり変わってしまったからねえ。あんまり変わらんのはここの通りくら　だのう。あそこの料理屋さんがコンクリート作りになったけど、あとはあん　まり変わらない。ここくらいのもんだの。駅前もすっかり違ってしまってな　あ。

　いつごろからここに住んでいるんですか。

　昭和二十年からだ。まるで面影がなくなってしまった。そうかね、この鳥居　がね。紀元二千六百年か。あれから戦災があったし、もうこんな鳥居が建て　られる最後じゃったね。いまはお賽銭もろくに入らんわ。

その老人は、お祭りがこの五日六日にあったこと、神社の由来などを話してくれた。

小学校の脇にはお墓が並んでいた。

お墓の裏手はうっそうと樹木が茂る小山になっている。

その山は舟津神社の裏山で、山頂には王山古墳群があるという。

古代の昔からここは、この土地で死んでいった人々の葬られる場所であったのだろうか。

お墓は幾十、幾百となくある。

そのほとんどの人は、ここの町から生涯離れることなく一生を送ったのだろう。そして、一生の間に何度とはなく見た同じ木々に守られて墓は立っている。

この土地を離れた祖父の墓は東京にある。

ほとんど木もない町中の寺の狭い墓地に墓は立っている。

奉納した鳥居は生まれ故郷に今もあり、お墓は遠く浅草に離れてある。

祖父の気持ちはどちらに深くあるのだろうか。

その小山のぐるりを回ると高校の門にゆき当たった。

そこで、一気に坂を下り、町の西側を流れる日野川に向かう。

大きく変わったとはいえ、何とはなしに長い過去の厚みが町にはあったが、ここの坂の下の低平な土地はいかにも散漫とした感じで、家々がぱらぱらと散らばっている。

たぶん最近になって宅地になったのだろう。

高台の土地だけでは不足するほどに、ここらには人々が集まってきているのだろうか。

国道が川を跨ぐ鯖江大橋を渡る。

川自体は穏やかに流れているが、川の両側の風景は雑然としている。

ぽつりぽつりと工場が建ち、高くゴルフ練習場のネットがそびえている。

大きな音を轟かせてトラックが行き来している。

細い吉野瀬川を渡り、国道を離れる。

小さな集落の中に入ってみる。

立派な構えの農家もあれば、塀がなくて玄関がむきだしに見える農家もある。道のかたわらに水路があって澄んだ水がさらさらと流れている。

向こうに神社がある。

丸いぽこんとした、どうやら昔の古墳の跡のような高さ数メートルの小山の前に鳥居が建っている。

日を正面から受けて、その鳥居も小山全体も鮮やかに輝いている。

自転車をそこまで走らせる。

春日神社という。

神社の前には畑があり、そこからは遥かに眺望が広がっていく。

一面の田圃。

もう刈り入れはすっかりおわっている。

その広々とした田圃のはてに山がある。

いくつもの峰が遠く南から北へと続いている。

山は低くも高くもなく、穏やかに並び、その下に田圃の向こうの遠い村々を抱いている。

父が自転車に乗って野菜などをもらいに行ったというのはあのあたりなのだろうか。

戦後しばらくは、東京の店が焼けてしまったので祖父は父たちを連れてこの町に戻っていたという。

東京でこそ成功した自分の人生があった祖父にとって、故郷での寄遇生活というのはあまり愉快なものではなかったのかもしれない。

東京で生まれ育った父には、田舎の風光は詩的な興趣を誘ったことだろうが、またつらい思いもあっただろう。

今日のような快晴の日に山々を見る、それはすばらしい。

しかし、北陸には雪の冬がある。

　列車が山を越えて、近江の琵琶湖の方に出ると、まぶしいくらいに明るく、　まるで別天地にきたようだった。

そんな話を、父は何度かしている。

日野川のあたりをよく散歩したという。

この田圃の広がりも見ていたかもしれない。

たぶん、以前はもっと広く、もっと蕭条としていたことだろう。

道は細く屈曲し、建物はまばらだったことだろう。

今の自分よりも若かった父が、ここらあたりに立っていた。

そのような風光の中で、何を考えていたのだろうか。

自転車を走らせ、しばらく北に行ってから日野川の土手を登る。

二三メートルの高まりを上がって、土手の上に出ると、川の向こうに西山が見える。

土手の上は砂利道になっていて、そこから川面までの斜面は草におおわれ、ところどころにススキが群れて、白い穂がゆれている。

川の水はいくらか濁っていて、小さな中洲が点々と散らばり、そのまわりに水草がなびいている。

その川をはさんで西山を見る。

西山は黒々と横たわっている。

ちょうど山が最も長く見える方向に向いているのだ。

そして、日が後ろからさして、空が白く光り、山の輪郭をくっきりと際立たせている。

父はもうここには来ないだろう。

父の代わりに見ておこう。

どれか一つでも父が好ましく感じたものが、たまたまであっても目の中に入ってきておれば、幸運というものだ。

しかし、むしろ、今となっては、ほとんどは父に幻滅を与えるものばかりであるのかもしれない。

風景は変わった。

人の手が、次々と入り、いまもまたさらに加えられている最中にある。

橋が一本造られようとしている。

川の向こう岸では何かの建設工事をしている。

人工の堅い大きな物体だけが目につくようになっていく。

そんな変わりゆく景色を、以前の景色を鮮明に記憶している人間が見るのはつらいものだ。

湘南で、自転車に乗るわずか十年の間でさえも、何度かそんな面白くない思いをしたことがある。

まして、四十年という歳月。

下に、鯖江の町がある。

西山を途中まで登る。

桜の植わっている坂を登る。

真下に大きな通りがあり、福井鉄道の線路が走り、その先から南に鯖江の町がある。

王山のあたりは陰になっているが、高台の上の町並みをほとんど見渡すことができる。

いくつかビルが建っているとはいえ、すべてをまとめて手のひらですくうことができそうなくらいに小さく鯖江の町がある。

ここで、祖父に至るまでの人々は生まれた。

この、わずかな視界の中に納まってしまう町の中に、何代にも渡る人々の生活があったのだ。

自分につながる人々の悲しみも喜びもここにあった。

すべてがこの小さな空間の中にあった。

もう過去のこと。

たまたま今日、自分はそれを偲び、いとおしく思う。

そんな自分にも、もしかしたら、自分の人生もまたこの町の中にあったということがおこりえただろうか。

ここにいて、鯖江の盆地の風景を良しとして、そこここを自転車で走り、そこここを文章に写しとることに熱心になっていただろうか。

父祖伝来の地に住み続け、同じ風景を代々見続けていることに誇りをもつようになっていただろうか。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

確かに、鯖江の風景は十分に誇りうるものだ。

あわただしく短時間に見てきたものの奥に、無数のすばらしい景が潜んでいると感じとることができた。

あの田圃の向こう、あの山の裏、それぞれに賞賛すべき景が待っているに違いない。

自転車を少し走らせれば、数限りない良い景に出会うことだろう。

だが今、自分がもっている風景に対する感覚は湘南が育ててくれたものだ。

湘南の風光が身にしみこんで、今の自分ができあがっている。

だから、鯖江に生まれていれば、こんな今のような自転車に乗ってそこここを走るようなことはしなかったかもしれない。

湘南においてこそ、この自分が成り立ってきたのだ。

そうはいっても、湘南において、あの海岸地帯において、とくに丘陵と小低地の入り組んだ場所を好ましく感じているのはどうしてだろうか。

田圃の向こうに小さな山がある、あるいは坂の下に小さな集落がある、そんな大磯丘陵や三浦半島の小さな景色を好ましく思う。

それを捜しに出掛けていく。

それなら、この鯖江にいれば、どこにいっても好ましい風景を見出すことができるだろう。

もしかしたら、自分の体には、鯖江に住んだ父祖代々の感覚が生まれながらにして伝えられているのかもしれない。

父祖の目にした鯖江の景と共通する景色を好むように、初めからなっているのかもしれない。

むろん、現実には、そんな感覚が生まれながらに伝わることがあるとはいえないだろう。

そうではあっても、父祖とのつながりがあると考えたければ、そう考えたって少しもさしつかえないだろう。

ましてや、少なくとも父がここの風光を好んだのは確かであるし、その父が湘南に住むことを決めたのだから、感じ方として確実に伝えられてきたものはあるはずだ。

自分が湘南について書いていられるのは父の決定のおかげだ。

自分が生まれたときに、東京の店を閉めて湘南に移った。

東京の喧騒の中での商売よりも別の生き方を求めたのだろう。

その時に、湘南と自分との出会いが用意されたのだ。

父が何か湘南を好ましく思った、その思いがまた伝わっているのかもしれない。祖父から父へ、父から自分へと、三代のうちに、故郷と思うところは、鯖江から東京、東京から湘南へと変わった。

祖父には、生まれ故郷としての鯖江があった。

父は、あるいはそこに生きる場としての鯖江を見たこともあったかもしれないが、長く住み続ける所としては結局、湘南を選んだ。

自分にとって鯖江はすっかり遠いところとなっていた。

しかし、完全に縁が切れていたわけではなかった。

今日、ここで、鯖江の町を見下ろす時間が巡ってきたのだ。

初めて父祖の地を見る時が巡ってきた。

その時をもたらしたのは何だろうか。

祖父や父、あるいは先祖達とこの土地との結び付きの名残りによるものだろうか。

あるいは、もっと具体的には松阜神社の鳥居であるのかもしれない。

祖父がその鳥居を奉納したことが、今に至るまで、自分と鯖江との縁をかすかながらもつなげてきたのかもしれない。

西山を下る。

わずか二時間余りで、初めてきた鯖江の地を離れる。

来るときに、金沢からの特急がスピードを緩めていったときに、車窓から、右に西山が見えた。

平野の中にぽっくりと立つ西山が見えたとき、胸が高鳴った。

　ついに鯖江に降りるときがきた。

そうして、駅に降り立ち、自転車で回った鯖江の町から、ここ西山から坂を下って、去っていく。

去って湘南に帰る。

もうここにくることはないのだろうか。

いや、今一度ここにまたくる機会があるような気がしてくる。

また、列車の窓から舟津神社の幟を、西山の姿を見ることがあるはずだ。

鯖江の駅でまた降りる時がくるはずだ。

このまま縁が切れてしまうようなことはないように感じる。

いや、今日のことによって縁は深まったのだ。

たとえ、またくるその日がはるか先のことであろうとも、湘南の景を見るときに、鯖江の景を片隅に思い浮かべることでもあれば、いつでもこことの縁はつながっていることになるだろう。

湘南の中にも鯖江はある。

そんなことを考えるのは、やはり、父祖の見た風景が体の奥にしみこんでいるせいなのだろうか。

　　　（一九八九年十月二十八日）