自刎
趙徳芳は宋の初代皇帝趙匡胤の息子である。趙匡胤には、徳秀、徳昭、徳林、徳芳の四人の息子がいた。徳秀と徳林は早世し、徳昭は剛直、徳芳は優柔だった。
開宝九（九七六）年十月二十日の夜、趙匡胤は五十歳で死んだ。皇帝の亡骸の前で、皇后は徳芳を呼ぶよう宦官の王継恩に言い付けた。王継恩が戻り、「徳芳かい」との皇后の声に応じて現れたのは、皇帝の弟の趙光義だった。皇后は瞬時に事を悟った。義弟を「官家」と呼んだ。お上という意味である。「我等母子の命を官家にお託し致します」。光義は「共に富貴を保ちましょう。御心配召されますな」と応じて泣いた。翌日、光義は二代皇帝として即位した。時に四十歳。
皇后はこのとき二十五歳。初代皇帝には即位前に三十歳で死んだ賀皇后、十三年前に二十二歳で死んだ王皇后がいた。三人目の皇后は宋氏の出で、十七歳にして皇后となり男児はなかった。徳昭は賀皇后の子で二十六歳、徳芳は名を知られぬ女が生んだ子で十八歳。兄の徳昭が普通なら皇位を継ぐところを、弟の徳芳に行きかけ、結局は叔父の光義が皇帝になった。徳昭と徳芳の兄弟の仲はもともと芳しくなく、深い溝が生じた。
それから二年余りの太平興国四（九七九）年二月、皇帝は大軍を率いて都を発った。太原を根拠地とする北漢政権を討伐するためだ。徳昭も従軍した。
唐が滅んでから宋が興るまでの数十年間は五代十国時代と呼ばれる。各地に群雄が割拠し争いが絶えなかった。黄河流域を中心とする中原において五つの王朝が交替し、それ以外の地に十の地方政権が林立した。宋は初代皇帝の即位以来、天下統一の事業に取り組み、二代皇帝には仕上げとなる北漢征伐が残された。北漢は狭小政権であるが、その背後に契丹族の遼国が控え、過去の遠征は失敗に終わった。遼国は当時の最強国で、中国内の覇権争いにしばしばからみ、遼国の傀儡政権に堕すことで皇帝の地位を獲た者もいた。晋朝を建てた石敬瑭がそうだ。遼国の皇帝を父と仰ぎ、自らは児皇帝と称した。児皇帝は遼国から支援を引き出す見返りに、幽州、薊州などいわゆる燕雲十六州を父に献上した。北漢はその晋朝の後の漢朝の流れを汲むが、遼国の事実上の属国で、北漢を突けば遼国が必ず出てくる。遼国と一戦を交える覚悟なしには討伐軍を出せないのだが、石敬瑭が割譲した燕雲十六州は元来が中国の土地であることを思えば、中国の皇帝としては、それを取り戻すためにいつかは遼国と戦わなければならない。
三月、太原へと進撃しつつある皇帝の主軍とは別の部隊が、北漢救援に向かう遼軍を白馬嶺において捕捉し、撃滅した。北漢は孤立し、五月、皇帝が太原を包囲すると攻防戦は十五日間で終結し、宿願の天下統一が成った。
皇帝はこの勢いに乗じて軍を北に進める決意をした。戦いは宋側優位のうちに進み、幽州城を一気に衝いた。攻城から十二日目、高梁河において遼本国からの救援隊を退けた。それは前哨戦にすぎなかった。その夜、遥か遠方より無数の炬が次第に迫りくるのを見て宋軍は恐れをなした。翌日、遼軍の総攻撃に宋軍は大敗、南へと潰走した。
大混乱の中、皇帝の行方が知れなくなった。徳昭が立ち、「俺がいる。何の心配もいらない」と叫んだ。初代皇帝の股肱の臣が周りを囲み、「万歳」を唱えた。間もなく皇帝は無事とわかり、騒ぎは収まった。徳昭の言を聞き、皇帝は大怒した。しかし、猛追する遼軍に、武器も食糧も捨ててひたすら遁走する他はなく、宋軍は命からがら都に帰り着いた。
以来、皇帝は宮中の奥に篭り、都はじっとりと重い空気に包まれている。遼軍に敗れはしたが、唐の滅亡から七十二年を経て天下は統一された。それを祝う雰囲気は微塵もなく、遠征から帰還した将士への行賞は話題にすら上らない。
徳芳は今日も屋敷の内。このごろに限らず、身をひたすらに慎む日々を送る。世間に出ないでいる間に、誰しもが自分の存在を忘れ去り、人知れず一生を終えられないかと夢想する。
徳芳は二十一歳、たやすく一生は終わるものでない。自身の若さが恨めしくもある。それでも、生への執着はむしろ強い。妻との穏やかな日々が約束されるのなら、我が一生は幾百年あっても足りない。自分が求めるもの全てを妻は与えてくれ、それ以外に求めるものはない。敢えて妻にできないものを一つ挙げれば、この状態を永続させることだ。それは誰にもできない。男である自分はできないなりにもその努力をしなければならない。だから人から忘れられるよう努めている。
皇帝になり損なった男だ。皇后に命じられた王継恩が自分のところにきていれば、父皇帝の棺前で即位していた。世間から忘れ去ってもらえない事実としてこれがある。皇帝になりたいと思ったことなど一度もない。いまは開宝皇后の尊称を受ける皇后が、自分のもとに王継恩をこさせようとしていなければ、それから今日までの三年近くは全く違ったものになっていたはずだ。自分の願いもこれほどまでに遠くには行ってしまわなかったろう。
開宝皇后を恨みはしない。八歳しか違わない皇后は若く美しく聡明だ。息子として仕えることができたのは幸福だと思う。その母のためであるのなら皇帝になるのも拒みはしない。決して自ら望みはしないが、母を喜ばせ安心させてやれるのなら、皇帝になるくらいのことをしてよいと思うだけだ。
その母とは隔絶している。同じ都の内であるから距離だけをいうのなら近いものだ。それでも何万里離れているのと変わりなく、世を隔てたくらいに遠い。皇帝にしようとした母と、皇帝になり損なった息子だ。母は「共に富貴を保ちましょう」といまの皇帝が言ってくれた一言にすがって生きている。自分も同様だ。
他の人々とこそ何万里も離れてしまいたい。皇位だけでない、これまで自分が欲したものは格別何もないし、そのために誰かを煩わせたこともない。ただ一つのささやかな望みは妻と安らかに過ごすこと。普通の人には許されるこれほど些細な事柄が、どうして到底叶わないところへと行ってしまわなければならないのか。誰も自分に構わずにいてくれればそれだけでよいはずだ。
母が、兄の徳昭ではなく自分を選んだ理由はおよそわかる。兄は母よりも一歳上で、母に対し傲慢不遜だった。兄の気持ちもわからなくはない。兄は、早くに亡くなった実母、賀皇后を強く慕っている。父皇帝は二十五歳も年下の女を皇后にした。皇帝になるまでの労苦を共にした旧き妻を忘れてしまったかのような父に、兄は反発していたに違いない。
母は兄を恐れている。自分もそうだからよくわかる。母にしてみれば、夫が亡くなった後で徳昭が皇帝になれば、自分の身がどうなろうかと案じられたのだろう。以前から考えていたのか、咄嗟の判断だったのか、王継恩を自分のところに走らせようとした。王継恩がそのままきていたならば、自分はとまどいつつも、母のために皇位に就こうとしただろう。
王継恩が皇后の命に背いたのは許されない行為だ。しかし、自分は望みもしない皇帝にならずにすみ、幸運にさえ感じた。それで穏やかな日々がこれからも続くと思ったのは実に浅はかだった。皇帝になり損なった男には、安心して生きられる場所などどこにもないのを思い知らねばならなかった。母が王継恩に命じた時点で、自分には、皇帝になるか死ぬかの二つに一つしかなくなっていたのだ。
母を恨むものではない。母も同じ立場にある。母は母なりに生きるか死ぬかの選択をし、自分を選んだ。それは叶わず、瞬時に官家と呼んだ機転によって命を繋げた。いまの皇帝にしても、王継恩の導きで皇后に会ったときには、生きるか死ぬかの瀬戸際にあったのだろう。だから泣いたのだ。
恨むとすれば、骨肉の間柄で苦しみ苦しませ合わねばならぬ相克のよってきたる所以だ。それに思いを致せば、父皇帝に始まったと考えざるを得ない。兄と同じではないが、父皇帝への反感がないとは言い難い。
父皇帝の遺志がどこにあったのか、死に至るまで明らかでなかった。心優しい母が、皇帝の遺志に敢えて反して王継恩に命じたとは考えにくい。父皇帝がもとから自分を後継者に目していたとはなおさら考えにくい。自分は父皇帝を恐れ、おどおどした姿しか見せられなかった。これほど頼りない息子を後継者として認めることはあり得ない。父皇帝の判断を少しでも迷わせるところがあったとすれば若い皇后への気遣いだろうか。それだけで国家の将来を左右する重大事を誤るほどに、いくら病床に臥せっていたとはいえ、父皇帝の思考が鈍っていたとは考えられない。
父皇帝は建国の英雄として当然のこととして英邁であり剛毅だった。兄はその資質をよく受け継ぎ、弟の目から見ても、兄ならば国家経営の重責を十分に担えると思える。唐から宋の間に挟まる五つの王朝がいずれも短命に終わったのは、二代目、三代目が皇帝としての器量に欠けたのが一つの原因だった。それらの轍を踏まぬために二代皇帝を誰にするのか、父皇帝は慎重に考慮していたのだろう。それで立太子は留保された。過去の王朝において、皇帝の息子は一定の年齢に達すると王に封ぜられ、諸王の中から、余程の不都合がなければ年長の者が皇太子に立てられた。父皇帝の在世中に、兄の位は節度使にとどまった。
父皇帝が後継者を決めずにいた原因は弟の存在にあると、兄は疑っていただろう。自分には皇帝に求められる度量はなく、兄の競争相手になるはずもない。それなのに弟が障害になっているのは皇后のせいだと、兄は母を憎んでいたのだろう。
自分が最初からいなければ、父皇帝の息子は兄一人で、皇位は兄にすんなり渡されたに違いない。自分はもとからいなければよかったのだ。いま切望するのは、誰からも自分の存在を忘れられること、自分がいなければよかった初めに戻ることだ。
自分を生んでくれたのは誰なのか、名前もわからない。父皇帝の一晩の気まぐれでできてしまった息子だ。何かしら不都合があって、自分を生んだ女は、生きているのか、死んだのか、殺されたのか、何もわからぬが、とにかく自分の前から消された。自分も消されていればいまのこの苦しみはない。
兄は立派な正嫡で、父の後を継ぐべく生まれた。兄と競う気持は微塵もない。七歳違いの兄は、その存在を知ったときから、ただただ恐ろしかった。最も旧い記憶は、まだ三歳ぐらいのころか、部屋にたまたま一人でいるところに兄が入ってきた。戸口に誰やらの影が立ったと見え、早くもぎくりとした。ずかずかと踏み込んできた。兄は体が大きかった。何事かを言った。声も大きかった。全身が竦み上がった。兄は腕を伸ばしてきた。堪らずに大声で泣き、走って逃げ、宮女を見つけ、膝にすがった。ずっとがたがた震えていた。
少し大きくなってから、父皇帝が、剣術の稽古をつけてやれと兄に言った。兄と向かい合って立った。棒を持つ腕は構える前からしびれていた。わなわなと震えていると、肩をしたたかに打たれた。
その兄よりも父皇帝は恐ろしかった。母が十七歳で皇后に選ばれ、初めてその姿を見たとき、ひどく可哀想だと思った。父皇帝の手がこの若い女性に触れるのかと思うと、気の毒でならなかった。そのように感じていることが父皇帝に知れたら、許されないと体が震えた。このような息子だから父皇帝に愛されていたはずがない。
もしかすると父皇帝が後継者を決めずにいたのは、もう一つ別の理由があったのかもしれない。父皇帝が死んだ日に、最後に会ったのは父皇帝の弟、いまの皇帝だ。二人だけで何を話したのか、誰も知らない。いまの皇帝が去ってしばらくして父皇帝は崩れ、皇后が亡骸のもとに走った。
王継恩はなぜ皇后の命令に背いたのか。勝手な判断だったのか。それとも父皇帝の遺志について何かしら知るところがあったのか。王継恩は自身の損得を抜きに行動する人間ではない。他に理由があるにしても、王継恩にとって利があるとみたからいまの皇帝のところに行ったのだろう。
王継恩が自分を呼びにこなかったのはむしろ幸運に思ったのだが、ほのかに聞くところでは、王継恩は、何かしら事をもって禍根を断とうと目論んでいるらしい。こちらは恨んでなどいないのだから、忘れてしまってくれればそれでよいのに、皇帝の座を他所に持って行ってしまった王継恩としては安心できないのだろう。
もしも、母が兄の徳昭の方を呼びに行かせたのなら、王継恩は素直に従っただろうか。王継恩は、弟の方を皇帝にしても利はないと判断したが、兄ならば少しは迷っただろうか。要はいまの皇帝がどう出るかだ。いまの皇帝は父皇帝に次ぐ第二の実力者だった。弟では端から話にならないが、兄といまの皇帝とで国を二分する争いにもしも発展したならばどちらの側にいた方が有利かと、そこまで王継恩が考えるならば、やはりいまの皇帝の方を選んだだろうか。
母皇后が初めからいまの皇帝を呼ぶことはあり得なかったのか。父皇帝の遺志もそこにあったのなら、王継恩にとってこれほど旨い話はない。
過去を詮索しても無意味だ。事実として、いまここに皇帝になり損なった男がいる。父皇帝の気まぐれで生まれ、本来資質もないのに、たまたま母皇后が不可解な選択をしたためにこうなった。王継恩は危惧しているが全く無用だ。自分はこの存在を世間から消したいと願っているだけなのだ。
この努力は、極めてわずかながらも成果を生んでいるようだと、自分は思っていた。幾年かかるかわからないが、努力の積み重ねの先に、もしかしたらひっそりとした暮らしが得られるかもわからないと夢想していた。王継恩やあるいは他の誰かのちょっとした策謀で、簡単に打ち砕かれてしまうほどに脆いものではあっても、可能性は皆無ではないと思っていた。自分が徹頭徹尾無力であることを示し、肉親の情という極めてあてにならないものにすがるのだ。何ら害にもならない甥であるのだから、広い天下のどこかの片隅に置いてやってもよかろうと皇帝が思ってくれれば十分だ。叔父が甥に対して、その程度のものを惜しまずにいてほしいと望むのは、さほど大きな罪ではないだろう。
小さな兆候が見えてきていた。昨年の十月だ、皇帝は宮城を出て、最も近しい親族三人を順に訪ねた。初めに徳昭、次に皇帝の弟の廷美、そして最後が自分だった。銀や絹などがそれぞれに与えられた。皇帝は、「兄上の若かったころに生き写しであるな」と自分に向かって言った。父皇帝に似ているところなど一つもない。兄の方がまだしも似ているし、事実としては、皇帝本人が父皇帝に最も似ている。皇帝は俄に歩み寄ってきて、自分の手を取った。体が硬直した。掌を撫し、「おお、おお、柔らかく、そして細くしなやかな指であるな」と言った。自分は頬を赤らめた。「武芸に励んでおるのか」。汗が噴き出し、「体が弱くて」と口ごもった。皇帝は笑った。「武具を手にする必要のない世にするのが兄上のお望みだった。間もなくそうなる。何の心配もいらぬ」。なおも手を弄びつつ、「これからは学問だ。よく励むがよい」。すこぶる上機嫌だった。皇帝が帰ると、ぐったりと疲れ切った。
それからも一層身を謹んできた。自分などは存在したところでいないのと何ら変らないと思ってもらいたかった。しかし、この努力を、兄がすっかり駄目にしてしまった。やはり兄は恐ろしい人だ。
皇帝にも思うところがあったのだろう、北漢征伐に兄を連れた。だからこのときにこそ、何事にも従順であると間近に皇帝に見せ、慎重な上にも慎重でなければならなかった。皇帝は兄を試し、それに対して考えられる限り最悪のことをしでかした。「俺がいる。何の心配もいらない」と叫び、「万歳」の声が湧き上がった。兄は亡き皇帝の息子、本来なら皇位を継いでしかるべき人間だ。兄が皇帝なるのを望む者がいまも確かにいる。
昔から兄を怖がってきたのは、結局はこのようになるとの予感からだったのか。兄は兄自身の運命を決め、三年近く息を潜めてきた弟の運命も台無しにした。
王継恩が策謀を巡らさずとも、皇帝になり損なった弟と、父の資質を受け継ぐ兄の二人の甥の存在を、皇帝が快く思っているはずがない。だから屋敷にきたのだし、兄を従軍させた。兄の軽挙妄動は皇帝の疑念を決定付けた。兄一人に留まるものではない。
兄を恨むのは正当ではあるまい。弟が兄から逃れられないように、兄も弟から逃れられない。弟がいなければ兄は皇帝になっていた。間違いなくそれがよかったのだ。自分は初めからいなければよかった。
生まれ出てしまった自分の身をいまさら消そうとしても手遅れか。深く隠れる穴でもあればすぐに潜りたい。日の光が決して及ばぬところでも、妻と二人の静かな暮らしがあればそれでよい。
ささやかな願いはほぼ潰えようとしている。皇帝は宮中の奥に篭ったままだ。二人の甥にいかなる結着を与えるか頭を悩ましているのだろう。兄の行為が死罪に当たるのは確実だ。弟はどうか。
重い空気が都を覆うこのいま、今朝のこと、兄の妻の王氏が突如訪ねてきた。妻と話をしている。兄弟不仲であるから妻同士の交流もほとんどなかった。よりによってこの時期にどうしてきたのか。難しいことになりはしないだろう。
このような時期だからこそきたのだろう。兄を助けてくれと言うのか。それは誰にもできない。こうならないようにするのが王氏の役目ではなかったのか。いまになってこられても困る。自分はじっと息を凝らして待つだけだ。何であれ動いては断じてならない。
兄の指図できたのか、それとも、王氏自身の意思できたのか。王氏も気の毒な人ではある。兄の妻になってまだ一年半にしかならないのに、王氏の人生は終わったも同然だ。兄のために、王氏も、そして自分も、人生は破綻すると定められていたのか。
兄を恨むまいと思いつつも、行きつ戻りつ、同じようなことを考え続けていると、王氏が帰ったと侍従が知らせにくる。
徳芳は立ち上がる。
何の用だったのか。即座に聞きたいと思う一方で、よからぬと決まっていることを、できれば聞かずにすませたいと思いもする。聞かぬままにやり過ごし、何事もなく終わってくれれば、それに越したことはない。何もしないのがよいのだから。
そうはなるまい。だから王氏はきた。悪い話をもってきたのだろう。妻はそれを言いにくかろう。すぐさま聞きに行ったのでは妻を困らせる。妻も動転していよう。落ち着くまでしばらく待とう。
短い時間ではあっても、一人胸の内におさめているのは苦痛だろうか。妻を苦しめたくない。早く聞きに行くのがよいか。いやいや、あわてて行けば、たとえそれほどのことでなくても、いかにも大事のようになり、妻を驚かせはしまいか。
しばし逡巡し、侍女を呼ぶ。
妻が実家から連れてきた女で、初めはほんの子どもだったが、いまではいつも一番に用を言いつける。
「あちらから頂戴した、例のお茶を用意してくれ」
極上の茶葉を徳芳自身が持ち、侍女を従えて妻の部屋に向かう。
外から窺うと静まり返っている。打ち萎れているのか。
音を立てぬよう気遣いつつ近寄り、戸口より覗く。
榻の上にあって、妻は斜めに壁にもたれている。脇から、お気に入りの少女が、風を送っている。気分が優れないのか。
このまま足を忍ばせて帰ってしまおうか。そっとしておいて、そのうち妻は落ち着き、悪い話も聞かぬままに消えてしまうようであってくれたら最もよい。そうはいくまい。
妻でさえあのようになっている。聞けば、自分はすっかり打ちのめされてしまう。
帰ることもできず、中に入ることもできずにいると、少女が戸口に立つ影に気づき、腰を浮かして会釈する。それで風が止まったために、妻はゆっくりと壁から体を離し、首を傾けて少女を見る。そして徳芳の方へと、斜めに顔が向けられる。はらりと髪が落ちかかり、小指の先で掻き上げる。
外の明かりが眩しいのだろう、目を細める妻に、徳芳は小さく微笑む。
妻はすぐに榻より降りようとし、徳芳は手ぶりで制止する。
妻は床に立ち、
「失礼いたしました。そこにお越しになっていらっしゃるとも知らずにおりました」
頭を下げる妻に徳芳はうなずき、静かに部屋に入る。
妻は俯き加減のまま壁側に向いて少女に衣服を整えさせる。その間に、手巾で目元を拭う。それは泣いたからなのか。
問うのをためらい、徳芳は黙っていつもの場所に座る。
妻は髷を直してから斜め向かいに座る。その目元に、徳芳は涙の痕を探るが、妻は床に視線を落とし、
「少しばかり考え事をしていたものですから」
再び詫びを言う。
妻の耳元で輝きを放つ飾りがゆらゆら揺れる。それが静止するのを待って、
「もしや、どこかお加減がよろしくないのでしょうか」
徳芳は遠まわしに尋ねる。
妻は少しばかり顔を上げ、夫の視線が集中している鬢のあたりに手をやり、
「いえ、ただ何となく火照るような感じがありまして、この子に煽がせていたのです。陽気がまた暑くなってきたせいなのでしょう」
妻の耳は、徳芳には、むしろ白く冷たそうに見える。
「夏が戻ってきたかのようですから」
徳芳は暑いと感じてはいないのだが、襟元を人差し指でわずかに広げ、風を入れる仕草をする。
「好い天気が続いていますもの」
確かに連日の晴天だ。
しかしながら、屋敷に篭って日の光を浴びることは稀だ。都は重く暗い。
夫婦の話はそこで途切れる。
徳芳は思い出したように膝を小さく叩き、戸口に立ったままでいる侍女に目配せし、中に入って茶を煎れるように言う。
部屋の一隅に、道具一式が揃えて置いてある。侍女が火をおこし、少女が水を汲みに出る。
徳芳は手にしてきた小さな引出しを開け、
「あちらのお兄さまが送ってくださったこれも残りがもうこれだけです。まこと深い味わいのすばらしいこのお茶、なくなってしまうのが惜しまれます。ひと口含むだけで気持ちが静まり、体も安らかにしてくれます」
南方に赴任した妻の兄が送ってきてくれたものだ。
妻は、夫が差し出す葉の塊の角から小片を爪で摘み取り、
「こうするだけで、好い香が立ちますもの」
掌に載せて指先で揉む。
「よいものを選んでくださいました」
義兄への感謝を徳芳が言うと、妻はふっと息を漏らし、
「兄がおりましても、いまは遠くにあって、せいぜいのところ、この茶を送ってくるくらいのこと。いえ、たとえ近くにおりましても」
その先を妻は呑み込む。
徳芳は茶葉を侍女に渡し、戻ってきた少女と二人で手際よく茶の仕度をして行くのを眺める。
「そろそろよさそうな音ではないかい」
妻に言われて侍女は湯を覗く。
「まだ蟹目になり始めたばかりにございます」
「そうかい」
妻は微笑み、
「この子は蟹目も覚えました。もう何でもよくわかっています」
と、夫に言う。
徳芳も侍女を褒め、侍女はやや顔をあからめつつもじっと湯の加減を測り、頃はよしと茶葉を投じ、竹筴で静かに攪拌する。
「白乳のようとよく申しますが、その意味するところが、このお茶で本当にわかるようになりました。中心にこのようにみごとに柱が立ちます」
侍女は興奮気味に言う。
「柱が立つのは、そのお茶がよろしいこともあるのでしょうけれど、そなたの技が一段と上がったのです」
妻の言葉に侍女は恥ずかしげにうつむき、茶葉の動きを目で追い、一人うなずき、椀に手早く茶を汲み分ける。それを少女が卓へと運ぶ。
徳芳は椀を手にし、まず香りをきき、
「これほどのお茶はまたとはありません。飲まねば味わえぬものながら、飲めばなくなってしまうのが惜しまれます」
そう言って、不吉なことを口にしてしまったように感じる。
ひと呼吸置いてから茶を飲むと、妻も静かに飲む。
少女は二椀目と代え、徳芳はそれも飲んで、
「昔の詩人も申していたように、これは孤悶を破ってくれます。有難いものです。いかがですか」
明るい声を作るが、妻は椀をじっと見つめている。
「お疲れになりましたか」
徳芳は遠慮がちに尋ねる。
妻は小さく首を振り、椀を口元へと運び、
「これを戴けば、気も静まりましょう」
「そうですとも、そうですとも。三飲すなわち道を得ると申した僧もおります。僧ならずとも、よき境地に導いてくれそうなお茶です」
「そうありたいものです」
妻は何かを思い切ったかのようにうなずき、椀を額の上に押し戴いてより、口に含む。
少女はさらに三椀目を置く。
妻は侍女と少女に出ていくように言い、その背を見送りながら、
「あれはみごとな腕前になりました。お茶ばかりでなく何でも上手にできます。どこのお屋敷に行っても十分に勤まりましょう」
徳芳は手にしかけた椀を置く。
他の屋敷に行かせる気なのか。たとえそのつもりはいまはなくてもいずれはそうなってしまうのか。
上体を傾けて妻の顔をうかがい、
「お加減は本当に何でもないのでしょうか」
妻の表情は硬い。侍女と話したときにわずかに緩んだだけだ。
妻は侍女を可愛がっている。ここにきたときにはまだ何もできない子どもだったのが、お茶を立派に煎れられるまでに成長し、それを褒める意味で「どこのお屋敷でも」と言ったのだろうと、徳芳は思い直す。
指先を軽く妻の膝の端に乗せ、斜めに顔を見る。
妻の手がゆっくりと動き、その甲が徳芳の指に触れる。ふっくらとした手を取ろうと、徳芳は身を近づける。いつもの脂粉の香りがする。
二人だけのこの時をこのまま壊さずに過ごしたい。今日ばかりでなく明日も明後日もだ。何も言わずにいても、手と手が触れれば心が通じ、徳芳が求めるものを妻は与えてくれる。
妻の手の甲がじわりと徳芳の指を押す。膝にわずかだけかかっていた指が滑り落される。徳芳はさりげなくそれを自分の膝へと載せ直し、上体を初めの位置に戻す。
自分の指先から妻の顔へと視線を移すと、妻は窓辺の方を見ている。
いま何を考えているのだろう。それをどう問えばよいのだろう。
徳芳が考えあぐねる間に、妻は椀を口元へと運び、飲むことなしに卓に返し、また手に持ち、
「残りわずかになりましたこのお茶を、私たちはすっかり戴くことができるのでしょうか」
憂いを帯びた響きに、徳芳の胸は縮む。
「何をおっしゃるのですか。なくなりましたなら、はなはだ御無心ながらも兄上にまた送ってくださいとお願いいたしましょう」
妻は床に目を落とす。
徳芳が次の言葉を見つけられずにいると、
「もっと早くにお目にかかるべきでした」
妻は低く重く言う。
徳芳は深く座り直し、
「それは姉上のことでしょうか」
妻は指で額を押し、
「愚かでした。今日までの日、私は何をしていたのでしょう。悔やまれます」
妻の険しい顔に、
「頭が痛むのですか」
徳芳は、見当はずれの問とわかっていても、他に尋ねようがなく言う。
「貴重なこの時間に一体何をしているのでしょう。頭が痛むどころではありません。いかにも愚かな私です。もっと早くに、もっと早くに」
妻は真直ぐに徳芳を見て唇を噛み、それから茶に目を遣り、
「ああ、このお茶がありましても、兄はそれだけです。これで気を安らかにしているときではありません。何とも場違いなお茶です。亡き父の教えを、何と聞いていたのでしょう。この期に及んで、ようやく思い出しますとは」
妻は両の掌で自らの顔を包むように打つ。
「どうされたのですか」
妻の腕の動きを止めようとする徳芳の手は打ち払われ、
「父は申しておりました。事は考えて為すものではないと。ここは落ち着いて考えてからなどと申すのは決まって愚か者。矢が飛び、胸を射抜かれ、横たわって安らかな時を得た後で良き思案をした者はいまだかつて見たことがないと、父は笑っておりました。その言葉を聞いて育ちながら、ただくよくよと思案していたのです。何の智恵もなく、安らかに横たわった者と同じです。苦労知らずで育った娘のこの愚かさ、父に見せられたものでありません」
妻の言葉に、重いものを肩に載せられたかのように徳芳は感じる。
少し前の戦乱の時代を生き抜いた人々の話は辛い。武勲に輝いた先人のように自分は生きられない。自分にその資質がないからだけではない。先人が築き上げてきたいまの世が、自分を生き難くさせ、世の中から消えてしまいたいとの切実な願望を生み出している。
妻の父の焦継勲も、徳芳を押し潰すに十分な武勲の持ち主だ。
焦継勲は唐が滅びる六年前に生まれ、つい最近七十八歳で死んだ。少時に、「大丈夫たるもの、異域に功を立て、万戸侯になるべきである。筆硯などちまちまいじってはいられぬ」と、勉学を捨て、侠客となって各地を経巡った。当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった沙陀族の李克用の前に、儒服を纏って進み出て、天下の情勢を説き、すぐに用いられるところとなった。戦場において異才を発揮し、その後、王朝は変われど、数々の軍功によって高い地位へと上った。宋代に入ってからでも、洛陽の混乱を鎮めた功績が知られる。洛陽周辺に群盗が跋扈し、白昼でさえ街中に入り込んで好き放題をするありさまだった。前任者は酒を食らうばかりで手を打たず、賊を増長させた。焦継勲は洛陽に着任してわずか一ヶ月で賊を掃討した。
焦継勲が言うように考えて為すのでないとしたら、いまはどうすればよいのか。身を慎み何もしないのが最善のはずだ。
妻はふっと自嘲気味に笑いを漏らす。
「このように申すこと自体が、くよくよと当てのない思案です。本当に愚か者です」
徳芳自身にこそ最もよく当てはまる。戦乱の時代と比べていまはどれほど恵まれているのか。それは重々承知している。皇帝の子という申し分のない境遇に生まれた。それでいながらこれまでに何をしたのか。世の中から忘れ去られたいと、それだけを願っている。思案もそれしかない。
自分はこうでしかない。このような自分は長くは生きられない。大切なものは必ず失われる。大切と思ったときには、すでに自分の手の内からなくなっている。
徳芳はそのように思う。いつも襲われる想念だ。
これまでに生きてきて最も大切なのは妻といるときだ。ささやかなそれだけのものが、自分には失ってしまうことしか許されていないのか。
焦継勲の娘を妻として迎えたのは四年前、徳芳は十七歳だった。皇帝の息子の嫁であるのだから名高い武将の娘でもなければ釣り合わない。焦継勲のいかつい顔は幾度か見ていたから、徳芳は全く気乗りがしなかった。父皇帝が決めたことに逆らうなどあり得ない。年上とも聞いて、強い圧迫感から、妻を迎える前はやや粗暴になり、幾人かの侍女に手を付け、それで子もできた。焦継勲の娘がくると、まるで違うことになった。妻の香りの中に包まれ、生まれて初めての安らぎを得た。それは名状し難いもので、妻の柔らかな腕に抱かれると元来の自分でいられると感じる。
それが間もなく失われてしまうのか。避けられないものならば、いまここにあるうちはその安らぎを得ていたい。徳芳の身が熱くなる。
顔を上げると、妻の唇が強く真直ぐに結ばれている。ここは焦継勲の教えを守らねばなるまい。しかしどうしたらよいのか。悪いことが過ぎ去り行くのを待つ以外に自分にできることはない。
徳芳の身が小さく震える。
妻の厳しい表情がたちまち崩れる。
徳芳はうなずく。わかっている。自分は情けない。戦乱の時代を生き抜いた妻の父のようには決してなれない。
喉の奥の貼り付くような渇きに、心を鎮めてくれる茶を求め、妻が飲まなかった椀へと手を伸ばす。妻の視線に了解されたと受け止め、ごくりと飲む。
極上の茶にも、残念ながら、焦継勲の言う考えずに行動させるだけの効能はない。
徳芳は口ごもりつつ、
「それで、姉上は、何をおっしゃったのでしょうか」
この部屋にきたそもそものことを尋ねる。
妻はゆっくりと息を吐きつつ天井を見上げる。
妻が期待しているように自分は振る舞えない。そのような自分であるのを妻は知ってくれてもいる。しかし、だからと言って、ここはこれでよいはずがない。他のときではないのだ。
「御立派なお方です。以前からもそのように思っておりましたが、それ以上に御立派なお方でした。こちらからもっと早くにお伺いすべきでした。お目にかかるのが遅すぎました」
自責の念の強さから、徳芳は、
「勿論です、御立派なお方に決まっていましょう。何しろ王溥さまのお嬢さまですから、御立派でなかろうはずがありません」
つい軽い調子で言ってしまう。
兄の妻の父の王溥を話題にするとき、大方の人々はそれとなく軽侮の表情を作る。徳芳はそれを真似た。
「本当に御立派なお方です。真心をもって、私ども夫婦のことを心配してくださっています。それでわざわざお越しくださったのです」
妻の堅い顔に、まずいことを言ってしまったと徳芳は知る。それで返って笑いを含んだような声で、
「我々をですか。兄上と御自身のことで心がいっぱいでありましょうに。もしかすると、兄上のこともお見限りではないかと思っていました。あの方のお父上がなさいましたように」
言い終える前に、苦い味がこみ上がってくる。いまのは明らかに度が過ぎた。人を謗ることで自分を保とうとするのはなお情けない。
妻は目を伏せる。このような夫を見たくないのだろう。自分も見せたくない。
「そのようなことは決しておっしゃいませんように」
押し殺したような声に、
「自分の弱さから申してしまいました」
徳芳は首を縮める。
「お姉様はおっしゃいました、私たちは荒波に揉まれる一艘の小舟の上にいるのです。波を乗り切る楫を取らなければいけなかったのに、それができないばかりか、舟の底に大きな穴まで開けてしまったと、頭を下げて詫びられました」
「姉上がですか」
「穴から水が入ってくるのはもう止められません。ですから、せめて私ども夫婦だけでも逃れ出てくださいと、泣かれたのです」
「逃げるのですか。泣いていただいたところで、逃れることなどできるのでしょうか」
王氏の今朝の突然の訪問が不安を強めるものであっただけに、いけないとわかっていても、王氏を見下すような調子をまだ拭えずにいる。
妻は遠くを見るように窓辺に目を遣る。
思案をするなとの焦継勲の遺訓ではあるが、それにしても思慮の足りないことばかりを自分は言っている。
妻は静かな調子で、
「お姉様にお目にかかりまして、お父上も本当は御立派なお方であると、今日こそは考えをすっかり改めました。難しい折に、深い洞察力で、瞬時に最もよい方策を見抜かれたのです。思案を排した私の父よりもきっと優れておられましょう。私のような浅はかな者が、智恵の深さに考えが及ばず、曲解して嘲笑するのさえも厭われなかったのです。よい時代を安楽に生きる者にはわからないことです。いま沈みゆく小舟の上にあって、ようやく幾分かでも理解できるような気になりました」
徳芳の顔が赤く染まる。
またも聞くのが辛い先人の話だ。妻の父の焦継勲にしても、兄の妻の父の王溥にしても、いまと全く異なる時代を生きた。先人からすればいまほど楽な時代はあるまい。それなのに、自分はこの世の中から逃れたいとだけを思っている。昔はこのようなものではなかった。自分は、昔も生きられないし、いまも生きられない。
王溥は、父皇帝が即位して最初の宰相になった。しかし、それに相応しい尊敬を受けはしなかった。
趙匡胤が、前の王朝である周朝より皇位を譲り受けたのは建隆元（九六〇）年、徳芳が生まれた翌年だ。王朝の交替は禅譲と言葉は飾られるが、要は簒奪である。
周朝の二代皇帝柴栄は不世出の名君で、長く続いた中原の混乱を収拾し、天下統一の事業に取り組んでいた。三十九歳の若さで急死し、後を継いだのが七歳の息子だった。趙匡胤は帰徳軍節度使検校太尉殿前都点検として周朝の軍権を掌握し、幼帝を守り立てるべき立場にあった。幼帝即位の翌年の正月、趙匡胤は契丹族が北方から侵入しつつあるとの報に接し、大軍を率いて都を出た。
事を図ったのは、弟の趙光義すなわちいまの皇帝と、趙匡胤の幕僚の趙普だった。趙普は同じ趙姓でも、匡胤光義兄弟の親族ではない。趙匡胤が指揮する大軍は陳橋駅に泊まった。酔臥した趙匡胤は、朝早くに、兵士たちの騒ぐ声で目を覚ました。門外に出ると、黄色の袍をいきなり被せられ、万歳の声に囲まれた。黄袍は皇帝の着衣である。軍がひとたび動き出せば、趙匡胤も止められない。ただちに都に帰還し、明徳門に登った。兵士が二人の周朝の宰相を連れてきた。范質と王溥である。趙匡胤は二人に、「先帝の御厚恩を受けながら、六軍に迫られ、このような次第となりました。天地に背くのを恥じ、いかにしたらよいのかわからずにおります」と泣いた。范質は返答をためらった。王溥は即座に階を下り、趙匡胤に対して皇帝を拝する礼を行った。范質もやむなく同じように振る舞った。周朝の大官の支持を得て、趙匡胤はすんなり即位するに至った。
王溥は己に対し徳があったとして、皇帝は宰相にした。王溥は、己をよく言う者が少ないのを知っていて、宰相でありながらも国家の大事に関わるのを努めて避けた。実質的な宰相の仕事は、禅譲劇を仕立てた趙普に委ねられた。
王溥の娘を兄の徳昭が娶ることは前から決められていたが、父皇帝が死んだために、昨年の二月まで延期された。父皇帝にしても、実際に婚儀を行わせたいまの皇帝にしても、期待したのはほぼ同じだろう。王溥の智恵を受け継ぐ娘が徳昭の剛直粗暴を幾分かでも和らげることだ。
王氏はそれに失敗した。謝られてもどうにもならない。
それを不快に思ってはきっといけないのだろう。徳芳は自分に言い訳するように、
「私などには推し測り難いものがあったのでしょう」
と、先人に対してわずかに敬意を表する。
「私は父に笑われるしかない娘です。それでも、少しでも及ぶよう努めなければならないのです。その覚悟を早くから持たなければいけなかったのです。遅すぎました」
妻は強い調子で言う。
辛いことだが、妻に言われては素直にそう思う他はあるまい。
「できましょうか」
おどおどと言う夫に、妻は真直ぐに顔を向け、
「あなたさまを信じております。きっと切り抜けられましょう」
徳芳は内心の困惑を押し隠し、
「ええ、そうでなければいけません。わかっています」
何の裏付けもないと自分で知る言葉を発する。
屋敷に篭って身を謹んでいるだけではすまない。それをわからなければならない。
「お姉様がせっかくきてくださったのです。それを無にしてはいけないのです」
王氏がきてやはり難しいことになった。何かをしなければならない。何をするのか。それはわからない。
徳芳は追い詰められているように感じ、それから少しだけでも逃れようと、
「兄上はいまどうされているのでしょうか。小舟に大きな穴を開けてしまった兄上については、姉上は何かおっしゃっていたでしょうか」
何と言っても兄が事を悪くしたのだ。
妻はまた虚空を見上げる。
自分は妻の期待に反することばかりを言っている。
「武功郡王様は自暴自棄になられたかのように、小舟が一刻も早く沈んでしまうのを望んでおられるような御様子とのことです。お姉様は覚悟を決められ、我ら夫婦のことばかりを案じられておられます。御立派なお方です」
兄の徳昭はいまの皇帝が即位してから武功郡王に封ぜられ、徳芳は山南節度使になった。
徳芳は妻を上目遣いに見て、言葉に窮し、
「逃れる術があるのですか」
先ほどの問を繰り返してしまう。
妻は悲しげな顔になり、
「それを、お姉様はお父上様に御相談してくださったそうです。私どものためにです」
「御自身のことではないのですか」
「そうです、私どものことです」
妻の重苦しい表情とは逆に、徳芳は闇の片隅に光明を見る気がし、
「よき智恵があったでしょうか」
機に見るに聡すぎると嘲笑される王溥だ。だからこそ、沈み行く小舟から逃れ出る術を見つけ出してくれるかもしれない。
「それはどうなのでしょうか。お姉様が私どものために聞いてくださったのです。そのことを有難いと感謝しなければいけないと思うのです」
「そうですとも、それはもちろんです。そう思います」
徳芳は急いで妻に同意する。
「私たちことは私たちが為さねばならないのです」
「ええ、わかっています、その通りですとも」
徳芳はうなずき、そのままうなだれる。
自分たちでと言われても、王溥の智恵も焦継勲の武断もない。
妻は、ふっと息を漏らし、
「お姉様に向かって、お父上様は、開宝九年十月二十日のことをお話されたそうです」
徳芳の顔が一変する。
その日付は忘れられない。父皇帝が死んだ日だ。
「あの日さえなければ」
思わずつぶやく夫に、
「ええ、あの日です」
妻の目が自分に向けられる。
徳芳はそれを避けるように首を傾け、
「あの日です。ああ、わかっています。やはり、もはや如何ともし難いのでしょう」
光明を見た気がしただけに、改めて深い失望に襲われる。
「必ずしもそうとは限らないのではないでしょうか」
「いえ、あの日に全て終わったのです。王溥様もそうだとお考えなのでしょう。だからあの日のことを言われたのでしょう。つまりは」
もうあきらめるしかないと、徳芳は言いかけて口を閉じる。為さねばならないと妻が言ったのにいま同意したばかりだ。
「まだ終わってなどいません。ですから、もう一度あの日に立ち返って考えてみなさいということなのではないでしょうか」
「立ち返るのですか。もうすんだことではありませんか。いまさら何を考えるのでしょうか」
最も思い出したくないあの日に、皇帝になるか死ぬか二つに一つになった。皇帝にはなり損なったのだから、生きる場所はたとえ地の底でも見つけようがない。
「考えてはならぬとの父の教えとはまるで逆でしょうか。それでも、お姉様が聞いてくださったのですから、無にしてはならないと思うのです」
強まる妻の語気に、自分の情けなさを徳芳はまた思い、
「きっと二つながら当時に行えばよいのでしょう、考えるのと為すのとを」
何の意味もないと自覚することを言う。
それでも妻は、
「そう思います」
と言ってくれ、徳芳は少しく安心し、それに力を得て少しく思案し、しかし、結局は妻に問う。
「王溥様はそれで何を言われたのでしょうか」
妻は、
「あの日にあったことです」
短く答える。
妻の期待に応えられるようなことが言えない。あきらめる以外の思案が出てこないのだから、尋ねるしかない。
「夜のことでしょうか」
「お父上様が御存知の全てです」
「王溥様は何から何まで御存知なのでしょうか」
あの日には謎が多い。あの日さえなければと思うと徳芳は冷静でいられなくなる。
「私が初めて知ったのは一つです。あの日に先の帝に最後にお会いになられたのはいまの帝でした。そのときお二人の間に何があったのでしょうか」
「王溥様はそれを聞いておられるのですか」
「いえ、宮中で秘かに噂されていることで、それは、御簾に映ったお二人の影の御様子です。いまの帝が、病に臥せっておられた先の帝のもとにお通りになられますと、宮女や宦官は退けられ、御簾の内にお二人だけとなられました。一つの灯火が揺れ、いまの帝の影がぼんやりと映っていたそうです。やがていまの帝がお出ましになられ、『お上はお休みであった』とおっしゃいました。それで、お二人はお話されることもなかったと思われていたのですが、ある者が言うには、ゆらゆらともう一つの影が御簾に現れたとか。それは先の帝のお姿だったのでしょうか。さらに別の者は、もう一つの影が何かを振り降ろす仕草をしたとも申します。皇帝のしるしの斧のようだったと申す者もあります」
「それが事実ならば、先の帝は、斧をいまの帝に託そうとされたのでしょうか」
「あくまでも噂で、しかも曖昧です」
父皇帝は皇位を弟に継がせようとしたのか。それなのに王継恩がどうして自分のところに派遣されたのか。
「王溥様はそれは何であったとおっしゃっているのでしょうか」
「そのような噂があるとだけお話されたそうです」
「それなら、何のためにそのことを言われたのですか」
あの日を思うのさえ疎ましいのに、謎が一つ加わり、徳芳は苛立ちを覚える。自分にはわからないところで、どうすることもできないようにされてしまっている。
「お姉様が私どものために聞いてくださったことを有難く思うのが大切だと申しました。お父上様のお心まで詮索されませんでもよいのではありませんか」
「そうかもしれませんが、では、姉上はこの話をどのように受け止められたのでしょうか」
「特に何もおっしゃいませんでした。ただ、お帰りになる間際に、不意に憤りをこらえねるかのような表情を浮かべられましたのは、もしかすると、何か関連があるのかもしれません。そのように私は感じました」
「憤りですか」
「たぶんそうです」
「何を怒っておられたのですか」
「わかりません。私がそのように感じただけです」
「何だかよくわからないことばかりです。これでは、結局ところ、どうしたらよいのかもわからないではありませんか」
徳芳は何かを非難するように言う。
兄の妻の憤りが何に向けられたものなのかはわからない。自分も苛立ち、怒りたくもなる。世の中から忘れ去られたいと、そればかりを願ってきた。それさえ叶わない。どうしてなのか。
悲しそうな顔にまた沈む妻に向かって、
「小舟はどうせ沈むのです。逃れることなどできません。ならば、さっさと沈ませてしまおうと、兄上は自暴自棄になっておられるのです。姉上は憤っておられるのでしょう。我らに謝ってくださっても何の足しにもなりません。我ら兄弟は何一つとして似たところはないのに、沈み行く小舟の上にあることばかりは同じで、もうそれでよいではありませんか」
徳芳は投げ槍に言う。
「諦めてしまわれるのですか」
「諦めまいとしてどうにかなるのですか」
徳芳は自分を抑制できずに声を荒らげる。
妻は目を閉じる。
妻に苛立ちをぶつけてしまったようだ。何を為すかがわからなのはこの自分であるのに。
徳芳は気持ちを静めようとする。
妻は目を開け、いつもの優しい眼差しを夫に向ける。
「お姉様の憤りもわかるように思います。私たちは身分だけを言えば、人々に羨まれてしかるべき身であるようでいながら、いまや沈み行く小舟にあって、そこに引き込まれまいと、人々は遠く避けようとしています。お気の毒に、お姉様はあちらのお屋敷に行かれてまだ日がないのに、このようなことになって、憤らずにはいられないのです。理不尽なことに、お姉様一人に、皆が負わせてしまって知らん顔なのですから」
徳芳はうなずく。王溥の優れた智恵は娘を見捨てることを選んだのか。兄に巻き込まれたくないと弟の自分も考えていた。王溥が避けるのも当然だ。兄の妻は自身の不運を言わず、我等に謝りにきた。
「すまない。この屋敷にこなければ、そなたは小舟に乗らずにすんだ。私ばかりはどうにも仕方がないにしても」
消え入るような声で言う。
「決してそのようにお考えにならないでください。お姉様と同じです。いえ、これはお姉様よりも私の方は優るはずです。私はあなたさまと御一緒に、沈み行く舟だろうがどこだろうが、必ずおそばにおります。そうでなかったことなど決してお考えにならないでください」
妻はすっと立ち上がる。
徳芳は妻が気を悪くして出て行ってしまうのではと、
「すまない。どうしたらよいのか、私も考えますから、どうかここにいてください」
妻は部屋の内を行き来して思案に沈む。
徳芳は黙って妻が何かを言ってくれるのを待つ。
妻の足音が止まり、
「沈み行く小舟の上にあって、憤るにしても、考えるにしても、舟から逃げるか、穴をふさぐしか、為すべきことはそれしかありません。父の申した通りに、事を為す他はないのです。お父上様があの日のことをおっしゃったのは、いまさら戻ることなく、このいまのときだけを直視して、死地に活を求めよとのお教えであるのかもしれません」
「そうでしょうか」
「穴より水が上がってくるありさまにうろたえていては、活は見出せません。死地においていかなる覚悟が持てるのか、父はそれを授けたかったのでしょうけれども、愚かなこの娘には、たった一つの微かな希望ともつかぬものを見つけ出すのが関の山です。もどかしくてなりません」
「何かを見つけてくださったのでしょうか」
妻は椅子に戻り、
「あなたさまと夫婦であり続けたいと願うのならば、それが叶う希望を見出さなければなりません。希望は求めずにいて見えるものではありません」
「何が見えてきたのでしょうか」
「お上は幽州からお帰りになって以降、宮中の奥にじっと篭っておられ、その不気味さに恐怖ばかりを感じてきましたが、もしかしたら、これは逆に希望と思うことはできないでしょうか。常に御決断の早いお上がいまに限って表にも出てこられないのです。何かしら理由があり、そこによき意味も見出せるのかもしれません」
「余程重大なことを考えておられるのでしょう」
「お上は逡巡されているのです。そうに違いありません。その理由が何であるかはしかとはわかりませんが、たぶんあの日に事を発しているのでしょう。いえ、きっとそうです」
「それは何でしょうか」
徳芳は問いを重ねる。
「お父上様はそれをおっしゃりたかったのかもしれません。しかし、いまは過去の穿鑿は不要です。希望が見出せると思えばそれで十分です」
「そうなのでしょうか」
「あの日に事が始まったのは武功郡王様も同じです。武功郡王様のことをよくよく考えなければなりません。お姉様がきてくださったのです。私どもはお姉様のこと、武功郡王様のことを考えなければなりません」
「兄上のことなら、これまでだっていつだって考えてきました」
徳芳は少々粗雑に言う。
「武功郡王様は英邁なお方です。あなたさまのたった一人の兄君です、大切に思し召されますように」
「しかし、あのようなことさえしなければ、こうはならなかったのです。お一人で自暴自棄になるのは勝手でしょうが、私たちばかりか、姉上も」
徳芳は、兄をまたしても非難している自分に気づき、言葉を濁す。
「幽州でのことも、きっと熟慮されての上だったのではないでしょうか」
「そうでしょうか」
「武功郡王様をお救いするのです。それが私たちのためになるのです。時を惜しまなければなりません」
「では、どうすればいいのですか」
またも尋ねるだけだ。
妻は首を傾ける。
妻はこの夫を情けなく思っているのだろう。徳芳はいたたまれなくなり、目に涙が滲み出してくる。泣くだけの自分がますます情けなくなる。
妻は立ち、手巾で夫の目をそっと拭う。
いつもの妻の香りが徳芳の鼻を衝く。
妻の顔を見上げ、徳芳も立って、妻の腕の間に入って行こうとする。どうするも何もない。舟はどうあっても沈むのだ。妻とこうしていられるのを惜しむべきだ。
「いけません」
妻はそう言いつつも、夫を抱き寄せる。
「もう猶予はないのです」
妻のつぶやきに、徳芳はその胸元に頬をぴったりと付け、
「わかっております」
妻の腕に力を込められ、妻の香りの中に自分が溶け込んでいくのを徳芳は感じる。
ぐいと徳芳の体は押し離される。
「どうぞお出かけくださいませ。もう猶予はありません」
「出かけるのですか」
徳芳は妻の腕を取り、元に戻ろうとしつつ言う。
「そうです」
妻にもう一度押され、徳芳はよろけながら、
「私がでしょうか」
「ええ、あなたさまに、すぐにお出かけいただきたいのです。私の智恵はこれしかありません」
「どこへでしょうか」
「斉王様のところへです」
「ああ、叔父上ですか」
徳芳は唸るように言う。
いままで全く思いもつかなかった。言われてみればあり得なくはない。
斉王とは趙廷美。いまの皇帝の弟だ。皇帝の母の杜太后は光済、匡胤、光義、廷美、光贊の五人の息子を生み、光済と光贊は早世し、匡胤が初代皇帝、光義が二代皇帝である。
皇帝とその甥が険しい関係にあって、その間に割って入ってくれそうな人物がいるとすれば、皇帝の弟くらいしか確かにいない。
「そうです。斉王様です」
徳芳が叔父を全く思い浮かべもしなかったのには理由がある。
「あのお方、私は苦手なのです」
細い声で言う。
「承知しております。叔父と甥の間柄でありながら、斉王様とあなたさまとは少しも合うところがなく、これまでに親しくなさったことはありませんでした。それでも、斉王様に代わるお方はないと思うのです。もしも斉王様がお力になってくだされば事態はきっと変りましょう」
「それはそうであるのかも知れません。しかし」
「斉王様にお願いしてみるのです。万に一つでも事が成れば有難いではありませんか」
「そうなのでしょうけれど」
「どうぞ、お出かけくださいませ」
「それで、何をお願いするのですか」
「いま一度の御幸を切望していると、斉王様からお上にお話しいただくのです。昨年の十月と同じように、斉王様、武功郡王様、そして私どものところへとお上にお越しいただくのです。何と申しましても、お身内なのですから、お会いになれば必ず通じるはずです。違いますか」
「あれからまだ一年にもなりません。またお越しいただけましょうか」
「そうなのです、一年足らずで、どうしてこのようなことになってしまわれたのでしょうか。あのときの御幸で、皇室は安泰と皆が安堵したのではなかったのですか。いまこうなってしまったのは、お互いにやはり離れておられるからなのではありませんか。直接にお話しされれば何でもないことでも、間にとかくいらぬ口を挟む者がいて、とんでもないことになってしまうのです」
「叔父上は会ってくださるでしょうか」
「思い切ってお出かけになれば、きっとこれまでとは違うことになりましょう」
「そうでしょうか」
徳芳はなおも渋る。
叔父の廷美は、兄の徳昭や叔父の皇帝ほどに恐ろしくはないが、不愉快さの度合いでは一番だろう。稀に会うと、馬鹿にし切ったような目で睨みつけ、まともに口をきいてくれない。廷美は屋敷に不逞の輩を多数抱え、その乱暴狼藉に困っている者が都に大勢いる。皇帝が断固たる姿勢を示さずにいるのをよいことに、廷美には粗野な振る舞いが多い。
「お上が逡巡されているいまなら間に合うかもしれません」
もしかすると意外にも、皇帝は弟にも甥にも、柔弱であるのかもわからない。この前の行幸は恐ろしくはあったが、結果は悪いものではなかった。妻はいま考えられる最良の策を出してくれたと思うべきだろう。
「わかります、その通りです。ですから、ここはどうでしょうか、姉上も心配してわざわざお越しくださったのですから、姉上に申し上げて、兄上の方から叔父上にお頼みするようにしてはいかがでしょうか。その方が叔父上も本気になってくださるのではないでしょうか。何しろ事は兄上から始まったのです。その方がよろしくはないでしょうか」
徳芳は口中でもぞもぞと言う。
妻は厳しい表情で、
「決して他人事ではないのです。あなたさま御自身のため、私ども夫婦のためです。いまから間に合うかもわからないぎりぎりのときです。すぐさま斉王様にお願いに上がる以外にないのです」
「急ぐのは、それはその通りだと私も思います」
「それならお出かけください。考えるよりも動かねばならぬと言いました。それなのに、考えることに多くの時を費やしてしまいました。どうかいますぐにお願いいたします」
妻は夫の手を引く。
「行かねばならないのはわかりました。行きますとも。でも、まだ間に合うのでしょうか」
「行かずして間に合うことはないと断言できます。私があなたさまにこのように強くお願いしますのは、このお屋敷に参りまして初めてです。あなたさまのおそばにこれからもいたいのです。この切なる思いをお聞き届けいただきたいのです」
妻は夫の手を強く握り、その声は潤む。
徳芳は妻のもとをますます離れ難く思うが、
「すぐに行きます。必ず行きます」
妻に背を押され、徳芳はうなずきながら歩む。
戸口のところで、ここで振り返ったならば気持ちが崩れてしまいそうな気がして、後を見ずに外に出る。
脇から現れた侍女に、外出の仕度をするよう、妻にも聞こえるような声で命じる。侍女は驚いたような声で返事をして駆けて行く。
いつもの想念が襲いくる。
大切なものは失われる。いますでにそれは自分の手の内からなくなっている。だから何をしたところで無駄だ。
その思いを振り払う。
どれほどの楽しいことも時が過ぎれば必ず終わる。そのことが常に徳芳を打ちのめすが、逆に言えば、どれほどの嫌なことも必ず終わるのではないか。この次にここに戻ってくるときには、どのようになるのであれ、終わっている。
それがよいことになるとの予感があれば、まだしも行く力になる。心の感覚を探って、それらしきものはない。
「いかがでしたか」
斉王廷美の邸宅から戻った徳芳は妻に迎えられる。
従者の肩より椅子に崩れ落ちる。息をつくと、床が波を打つように揺れ動く。
よい予感はなかった。それにしてもこのようにして帰ってくるとは思っていなかった。
ぐったりと身を崩したまま黙っていると、
「急なことでしたから、お会いするのは難しかったのでしょうか」
妻は身を低くして尋ねてくる。
床の揺れがひどく、ぐらぐらする頭を両手で支える。
妻がその手に触れ、
「御加減がお悪いのでしょうか。頭がお痛みになるのですか」
徳芳は唸るようにして長く息を吐き、膝の方へと頭を沈め、
「いえ大丈夫です」
ようやく声を出す。
「よほどお酒をお召しになったのでしょうか」
自分の周りに漂う酒臭さが自身でわかる。
「そうなのです」
「会っていただけたのですね」
「ええ、お目にかかることはできたのです」
「それはよろしゅうございました」
「良いも悪いもありません」
低く言って顔を上げようとして頭の位置が定まらず、額を叩き、
「とにかくたくさんのお酒でした」
「そうでしたか」
徳芳は、低い視線のまま部屋の隅に侍女のつま先を見つけ、指先を動かして呼ぶ。
「水を持ってきてくれないかい」
返事をしてすぐに動き出す侍女に、
「水と、ぬるくて濃いお茶もお仕度なさい。塩も効かせるのです」
妻は命じ、夫の脇に立って背中をさする。
「それにしましても、余程たくさんだったのでしょうか」
「そうなのです」
こうなった次第をどう話せばよいのか。この頭では考えがまとめられない。
侍女が戻り、妻が手を添える椀より水を飲む。腹の底に冷たさが落ち、周囲が少しはっきりと見える。すでに日暮れ時だ。薄暗い部屋に、妻の顔が白く際立つ。
妻は自分が帰るまでどのような気持ちで待っていたのか。行ったところでこれなら、今日の昼間をここで過ごしていればよかった。妻との貴重な時間を無駄にして、自分は何をしたのか。
胸が苦しくなり、足を投げ出し、前かがみになっていた顔を上に向ける。
「暑い」
大きく深く息を吐く。
妻は夫の襟元を広げる。
いつもの香りに、不意に泣きたくなる。しかし、床が揺れて、感情は一つにならない。
「これほどまでにお酔いになるとは、珍しくありませんか」
「まさかこうなりますとは」
徳芳は妻に話さねばと、姿勢を改めようとして、椅子からずり落ちそうになる。妻が肩を抑える。
「何しろ、叔父上は珍しく御機嫌がよろしかったのです。こんなことは初めてでした」
「それはよかったではありませんか」
「よかったのですか」
徳芳は急にそっくり返り、またぐったりとする。
妻に何をどう言えばよいのだ。いつもは洟もひっかけてくれぬ叔父が満面の笑顔だった。一体幾つ盃を重ねたのか。思い出せないが、その数だけが叔父の屋敷であったことだ。
徳芳は半眼で揺れる床を睨み、荒い息をする。
侍女が今度は茶を持ってくる。
「どうぞお飲みください」
妻の腕にすがって身を起こし、口に含む。
徳芳が顔をしかめたので、侍女が心配そうに覗き込む。
「この苦さが何よりだ。一飲昏寝を滌うとはまさにこのこと」
目を閉じて飲み干し、侍女に向かってわずかに微笑む。
侍女は椀を受け取って一礼する。
「大層なものでした」
徳芳はぼそりと言う。腹中に茶が広がり、酒と入れ替わるかのようだ。
「お会いしてくださったのでしたら、よろしかったではありませんか」
そのように言う妻を、うっすらと目を開けて見る。言葉通りに思っている顔ではない。
「よいのやら悪いのやら」
首を振り、はっきりとあれは悪かったのだと知る。
床の揺れが俄に収まり、徳芳は椅子にきちんと座り直す。
妻は向かいに座し、
「斉王様は御機嫌がよろしくておられて、お話はできたのでしょうか」
「話ですか」
妻はすでに察してくれている。それでも自分から話さなければならない。しかし告げるような内容はない。
「終わりです」
ぼそりと言う。
妻は無言。
言わなければならない。
「叔父上はそれはそれは御機嫌がよろしくて。あちらに着きますと、すぐにお会いできまして、それで、つまりは、勧められるままに、こうしてこのようなことになったのです」
全てを縮めてしまう。
妻は少し間を置いてから、
「斉王様はお酒の他に、何かおっしゃってくださったでしょうか」
「何かでしょうか。いえ、きちんと、お話しします。あちらに参りますと、すぐに叔父上が出てこられたのです。いつもは怖い目で睨みつけてくるあのお方が、『おまえか。ああよくきた、よくきた』と、びっくりするほどの笑顔でおっしゃいました。叔父上はそのようにおっしゃったのです」
酔いでうまく動かぬ舌ながらも、徳芳は早口になって行く。
「よかったではありませんか」
「ええ、よかったのです。叔父上は上機嫌でしたから、それはそれはよかったのです。叔父上はすでに相当にお酔いになっておられまして、私が御挨拶を申し上げるのさえひどくもどかしい御様子で足を揺すられ、腕を振り、『盃を持ってこい』とお命じになりました。たちまち御酒やら何やらが並べられ、『まあ呑め』とおっしゃいました。これまで叔父上と二人だけで盃を交わすことなどなかったので、面食らいまして、何が何やらわからぬままに、『まあ呑め、まあ呑め』と、幾杯重ねましたことか。それでこのような具合になりまして、こうして帰ってきたと、つまりはそのようなことだったのです」
徳芳が大きく息を吐くと、
「そうでしたか」
妻は横を向いて小さく溜息をつく。
徳芳は急に悲しくなり、
「わかってください、一生懸命に言おうとしました。そのために叔父上のお屋敷に参ったのですから、言おうと幾度もしたのです。言いかけますと、叔父上はぎろりと眼を動かされ、『まあ呑め』と。それでまた呑みまして、そうだったのです、仕方なかったのです。『まあ呑め、まあ呑め』と、片時の隙もないのです。そのうち叔父上は高鼾で眠ってしまわれまして、私も自分では立ち上がれなくて、あちらの方々に助けられてようやく輿に乗せていただき、このように帰ってきたと、それだけなのです」
妻の顔をちらちと見て、徳芳は、頭がきりきりと痛み出すのを感じる。
「そうでしたか」
妻は同じ返事を繰り返す。
「何しろ、『呑め、呑め』と、それだけだったのです」
徳芳も同じことを小さな声で言い添える。
「わかりました」
妻の声が徳芳の胸を貫く。
「申し上げようとしたのです。わかってください。幾度もです。ですが、どうにもできなかったのです」
涙が出てくる。
妻は立ち、夫の膝の上に手巾を置く。
それを手に取ると、妻のいつもの香りがある。
妻は窓辺にもたれ、まだ明るさの残る庭を見遣る。
手巾握り締め、その拳で額を打つ。
自分は最も大切な妻との時を守れなかった。
「私がいけなかったのです。私が言い出せなかったのです。そうなのです、私が駄目なのです」
徳芳はかすれた声で言う。
妻は外に顔を向けたまま、
「いけないのはあなたさまではありません。斉王様です。斉王様は逃げておられるのです。きっとあのお方も難しいお立場にあるのでしょう」
「叔父上がですか」
「お酒に逃げておられるのでしょう」
「どうしてですか」
妻は夫の方を見て、
「その理由を詮索するよりも、次の手立てを考えねばなりません。猶予はありません。お酒に逃げてしまわれるようなお方では頼りになりません。私の考えが甘かったのです。決してあなたさまのせいではありません」
「いえ、すまない、このような私で」
頭を下げる徳芳に、妻は静かに歩みきて、
「事は私たちが思う以上に深刻なのでしょう」
思えば叔父の酔い方は尋常ではなかった。叔父が酒に逃げるしかないのなら、皇帝になり損なった男はどうすればよいのか。徳芳は背筋にぞっとするものを感じる。
「私が誤ったために、今日の一日は無駄になりました。今日はこれでもう致し方ありません。明日こそは大事な日となりましょう」
「明日でしょうか」
徳芳は目の前にある妻の手にすがろうとする。
「ええ、明日です。私どものことを真剣に考えてくださり、お上にも御信頼されているお方に御相談しましょう」
妻は夫の手を握り返してくる。
見ると、妻も泣きそうな顔をしている。
「それはどなたでしょうか。叔父上でさえああだったのです。誰がいましょうか」
妻に問うしかない。そのような自分が嫌になり、頭に激痛が走る。
「父上が生きていましたなら」
妻は腹の底から吐き出すように言う。
徳芳は、妻の手を額に当て、
「それもこれも運命なのでしょう。望みはもうないのです」
妻は両手で夫の顔を挟み、
「いえ、諦めてはなりません。明日です。私が考えます」
妻はじっと徳芳を見つめる。
「明日ですか」
「ええ、あなたさまはゆっくりお休みなり、とにかく、その酔いをお醒ましください」
「酔いですか。ええ、酷い酔いです。叔父上のように、私も酔い潰れてしまいたいものです」
きりきりと痛む頭の芯の方ばかりが奇妙なことに冴えわたっている。自分は酔い潰れることさえできない。
酔いも救ってくれず、沈み行く小舟にいかなる手立てがあるのか。明日などはこなければよい。妻とこの今のときに留まっていたい。
「この世に我等兄弟ほどに忌み嫌われている者は他にいないのです。助けてくださる人などいるはずがないのです。はっきりとわかりました。兄も私も同じです。どうすることもできません」
徳芳は顔をこれ以上になく歪める。頭が割れるほどに痛い。昨日とは違う痛みだ。それをこらえて外に出た。それなのに、事が終わったのを確認しただけだ。
「あちらでも難しかったのでしょうか」
妻は手を貸しながら夫を座らせようとする。
徳芳はそれを払う。言わずともすでに察しているはずだ。
荒々しく何もかも投げ出したくなる。しかし、ここにいるのは最も大切な妻だ。
徳芳は、痛む頭を拳で叩き、腰をおろす。
自分は言わなければならない。妻が考えてくれた。だから自分は行ってきた。それで何があったかを言わなければならない。自分が何かを考えたのではない。妻に聞いただけだ。
「すまない」
徳芳は聞こえないくらいの声で言う。
「申し訳なく思うのは私の方です。難しいことをしていただいたのですから」
妻の言葉に胸も痛み、
「いえ、難しくなどありませんでした。ええ、難しくはないのです。私には何でもないことです。ただ、あちらにその気がなかったのです。それだけのことです。それはいけないことではないのです。あちらのせいではありません。誰もが忌み嫌う兄弟なのですから、あちらだってどうにもならないのです。つまりは終わりです。それだけのことです」
徳芳は捨て鉢な言い方になる。
妻は少し身を引き、冷静な声で、
「よろしかったら、初めからお聞かせいただけませんでしょうか。あちらにいらして、お会いにはなれたのでしょうか。それもできなかったのでしょうか」
「ええ、ですから、難しくなどなかったのです。すぐに会ってくださいましたから。そうなのです、会ってくださったのです」
初めから順に話そうとして、それが耐えがたく大儀に感じられる。実際のところ終わったのだ。
徳芳は目を強く閉じて顔を顰め、そして妻を見る。
「初めも終わりもないのです。もうどうにもなりません。兄上がまた事を起こしました。だから終わりなのです」
妻は目を見開いて手を合わせ、
「武功郡王様が何かなさったのでしょうか」
「ええ、兄上です。死地に活を求めると、昨日はそのような話をしたように思います。真の死地に活などないのです。兄上はわかっておられるのです。兄上のことを考えるようにと、そのような話もありました。今日は、兄上の気分がわからなくもありません。どうあっても破滅なら、自暴自棄になるしかないのです。違いますか」
徳芳は妻の目を見て、すぐに瞼を閉じ、痛む頭をごつごつと打つ。自分の拳でこの頭を打ち砕いてしまいたい。そうすれば痛む頭はなくなり、全てが終わる。
徳芳は言葉なく低く唸り、体を折って膝に間に頭を沈める。
何もできなった自分がここにいる。誰からも忌み嫌われる皇帝になり損ねた男だ。人から忘れられるのがもとからの望み、消えてしまいたい。
妻は侍女を呼び、濡らした布を持ってくるよう、言い付ける。
徳芳は、
「何もいりません。もういいのです。兄上とともに沈み行く小舟の上にあって、それで終わりと覚悟を決めればよいのです。兄上が早く沈みたいと大きな穴を開けたのですから、それでよいではありませんか。別に怖がることではありません」
妻は静かに、
「武功郡王様は何をなさったのでしょうか」
と、もう一度尋ねてくる。
徳芳は顔を横に曲げて妻を下から見る。
「お上に会いに行かれたのです」
「今日のことでしょうか」
「そうです」
「お上と直接お話をされて解決しようと決心されてのことでしょうか」
「まあそのようなものなのでしょう」
徳芳は顔を沈めたまま答える。
「何と申しましてもお身内ですから、お会いになればお心が通じましょう」
「そのようなことがあるとお思いですか」
「お上にも逡巡されることがおありなのですから」
「それなのでしょう、兄上はそれを断ち切りに行かれたのです。兄上ならば、そうしてもおかしくありません。今日は兄上のことがわかるように気がします。兄上がお上に何を言ったのかは知りません。しかし、結果は兄上の望む通りだったのでしょう。兄上は閉門を命じられました。どうですか、これは終わりでしょう」
徳芳が顔を上げると、妻は青褪めている。
「閉門の次は何でしょうか。死を賜るのでしょう。兄上はそれを望んでいるのです。兄上に死が与えられて、私はどうなるでしょうか。定国節度使様とお会いしている最中に兄上のことが知れて、急ぎ帰るようにと、定国節度使様は言われました。私があちらにお邪魔している間に、私の身に何かがあれば、あちらにどのような御迷惑が及ぶかわかりません。私は帰るしかありません。我等兄弟は忌み嫌われているのです。助けようなどとする人はいないのです。それでいいのです。私を見捨ててくれて少しも構いません。誰一人見返る者もなく、世の片隅でこっそりと生きていられればいいと、それだけを望んできました。しかし、それはではすみません。どうして世間の人はわかってくれないのでしょう。私など何も忌み嫌うまでもないのです。それなのに、許してくれないのです」
徳芳は辛い思いを吐き出す。
妻は潤いを帯びた声で、
「誰もあなたさまを忌み嫌ってはいないと思います」
「たぶんそうでしょう。この情けない男などは、敢えて忌み嫌うまでもないのです。嫌うのはこの私ではなく、皇帝になり損なった男です。それは兄上と私が兄弟として生まれたことに始まったのです。誰もこの兄弟には近づきたくありません。それはよくわかっていますとも」
徳芳は力なく笑う。
顎の下に濡れた布が当てられる。
「気をお静めください」
妻は夫の首筋を拭う。ひんやりと冷たい。
布は額に載せられ、こめかみのあたりを妻の細い指が揉みほぐしてくれる。
「いかがでしょうか、いくらかよろしくなりましょうか」
締め付けられるような痛みがやや薄らぐ。
「助かります」
徳芳は布を我が手に取り、妻の顔を見る。
このような時もこの先にはないのか。
布を広げ、顔全体を覆う。
「冷たくてすっきりします」
涙が溢れてくる。
「冷たい水で絞り直しましょうか」
徳芳は身を起こし、
「これを絞っても絞りきれないだけの涙を流しましょう。こうしていられるのもあと幾日かです。忌み嫌われた兄弟は間もなくこの世からいなくなります。それで事は終わるのです。それで皆が安堵しましょう」
顔を強く拭い、布を振りかざし、突き上がってくるものに動かされて、床に叩き付ける。鈍い音がし、徳芳の背筋を冷たいものが下る。
このようなことをしても意味がない。
妻は屈んで布を拾う。
妻との時を終わらせたくない。その願いは叶わない。いつもの想念に襲われる。
妻は徳芳の前に座り、布を丁寧に畳み、
「定国節度使様もそのようにおっしゃったのでしょうか」
妻の静かな声に、
「何をですか」
徳芳の気持ちもわずかに静まる。
「事が終われば安堵すると、定国節度使様もおっしゃったのでしょうか」
徳芳はゆっくりとうなずき、
「そのようにおっしゃったわけではありません。いえ、初めよりお話しましょう。あちらに参りますと、定国節度使様はすぐに会ってくださいました。無論、叔父上のように酔ってなどおられませんでした。穏やかになお顔をされていました。何とも言えぬ気品を漂わせる御立派なお方です。あのような方に親身になっていただけたらと、心底思いました」
「そうでしたか」
徳芳が会ってきたのは定国節度使の宋渥。開宝皇后の父である。徳芳にとって、血のつながりはないが、形の上で祖父に当たる。開宝皇后は優しく、あの母のためなら皇帝になるのも辞さなかった。その母の父親だ、すばらしい人でないはずはなく、徳芳の身を本気になって案じてくれる人が朝廷の高官の中にまだいるとすれば、それは宋渥だけだ。妻がそのように考え、徳芳もそうだと思い、率直に苦衷を訴えるべく、宿酔で痛む頭を抱えて出掛けた。
「たくさんのことをお話くださいました。他の人とはやはり違うと思いました。しかし、ここは微妙なところですが、あちらを辞去するまでの間に、助けてくださるとか、はっきりとしたことは一言もいただけませんでした。兄上のことがありましたから、話は中途で終わってしまったのですが、この兄弟を忌み嫌う点では、定国節度使様といえども、世間とさほど大きくは変らないのでしょう」
「定国節度使様ほどのお方になりますと、言葉ではっきりとおっしゃるようなことはむしろないのではありませんか。たくさんお話しくださった中に、何かしら篭められたものがあったのではないでしょうか」
「あのお方だけは違うと思いたいです。その通りです。幾代もの王朝と深い関わりを持ってこられた歳月をお聞かせくださいました。ただの自慢話ではないのはわかっています。人から羨まれるばかりの御境遇にもそれはそれで大変な御苦労があったのです。私も危難を乗り越えられると、励ましてくださったのです。有難いことです。定国節度使様が生きてこられた時代に比べましたら、いまなどは楽で仕方ないくらいでしょう。だから、何もできないはずはないと、教えてくださったのです。有難いお心ではありませんか。有難すぎて泣きたくなるほどです」
徳芳は実際に涙ぐむ。
先人の話に、自分がこの上なく小さい存在に思える。
宋渥の祖父は唐朝の節度使だった。唐は梁に滅ぼされ、梁は沙陀族の李克用の息子の李存勗によって滅ぼされた。李存勗は皇帝となり、前朝の再興を標榜して国号を唐とした。宋渥の父は李存勗の娘を娶り、宋渥は皇帝の外孫として生まれた。その唐を滅ぼしたのが児皇帝の石敬瑭だ。石敬瑭はかつては李存勗に仕えていたことから、宋渥の母に敬意を払い、宋渥は石敬瑭の宮中への出入りを許された。石敬瑭が建てた晋は二代で滅び、石敬瑭の部下だった劉知遠が漢を建てた。宋渥は劉知遠の娘を娶り、皇帝の婿となった。漢は周に取って代わられ、そして宋になり、宋の初代皇帝は宋渥の娘を皇后にした。
つまり、宋渥は皇帝の外孫にして、皇帝の婿、そして皇帝の義父であるという、世にも稀な身なのである。
王朝が幾度変っても皇帝の親族であり続けた宋渥でも、常に安泰だったのではない。いまも微妙な立場だ。もしもあの夜に、王継恩が徳芳のところにきていれば、宋渥の娘は皇太后となり、宋渥自身は皇帝の外祖父になった。
妻は立って夫の涙を拭い、
「定国節度使様にも絶望に泣き伏されることもおありだったのでしょう」
「わかっています、辛いのは私だけではないのです。むしろ、私など、昔の人に比べたら何でもないのです。定国節度使様はそれでいろいろお聞かせくださったのです。私は昔の人ではないのです。私はこのような私でしかないのです」
「昔の人と比べなくてもよろしいではありませんか。あなたさまはあなたさまとして懸命に生きておられるのです」
「懸命ですか。じっと息を潜めるだけです。そうするうちに行き過ぎるのではと思っていました。そのように思うのは私だけではありません。他の連中もそうでしょう。幽州において兄上を囲んで『万歳』を叫んだ連中はどうですか。兄上が皇帝になるのを望んだ連中は、いまはじっと息を潜めているだけではありませんか。兄上一人が全てを背負い込んでくれれば、それで助かるのです。それは卑劣なことですか。私も兄上の巻き添えになりたくないと思っていました。しかし、私は沈み行く小舟に兄上と一緒に乗っているのです。他の者とはそこは違います。兄上と私だけが皇帝の息子です。他の者には決してわかりません。兄上と私の他にも、初めはもう二人の兄弟がいました。その二人は幸いにもこの苦しみを知る前に死にました。この呪われた運命は我等二人だけのものなのです」
徳芳は熱に浮かされたように言い、顔を赤らめる。明らかに口から出してはいけないことだ。
妻が冷やしてくれた効果が消え、頭がきりきりと痛む。
「どうかいまのは聞かなかったことにしてください」
徳芳は小さく言う。
妻は目頭を押さえる。
皇帝の息子でなければ全てが違っていた。だが父皇帝を恨んではいけない。父はこの国を建てた偉大な皇帝だ。その息子として生まれたのが幸運でないはずはない。
しばし二人は押し黙り、妻がそれを破る。
「定国節度使様は昔のことばかりをお話されたのでしょうか」
徳芳は努めて声を改める。
「最近のこともありました。例えば、幽州城の攻囲戦での御苦労です。最も難しい南面からの攻撃を任されたそうです」
「大変な御奮闘であったと伺っています」
皇帝は宋渥の忠節の度合いを測ろうとしたのだろう。兄の徳昭も命を惜しまぬ姿を皇帝に見せなければならなかった。
「定国節度使様は攻城のありさまをいろいろお話され、ふっと思い出されたように、河陽三城節度使様があのときにいらしたならば、戦の様相はすっかり異なっていたかもしれないとつぶやかれました。それが何か奇異に感じられて、おやっと思いました」
妻は小さく、
「あっ」
と言って、口に手を当てる。
「河陽三城節度使様とおっしゃったのですか」
妻の表情に徳芳は、
「そうです。都から離れて、このごろはお名前が出ることもありませんから、やや意外なことと私も感じました」
「河陽三城節度使様がいらしたならば、どう異なっていたとおっしゃったのでしょうか」
「太原から幽州に向かおうとしたときに、多くの将軍は北漢を滅ぼしたことで満足して都に引き返すのを望んだそうです。お上はその意見に耳を貸そうとされず、まっしぐらに幽州へと突き進まれました。もしも河陽三城節度使様がいらしたならば、幽州遠征はなかったかもしれません」
妻は立ち上がり、
「河陽三城節度使様でした。どうして気づかずにいたのでしょう。愚かにもほどがあります。定国節度使様は教えてくださったのです。あのお方を誰よりも先に思わなければいけませんでした。お姉様のお父上様も、もしかしたら、河陽三城節度使様のことを示唆されていたのかもしれません。全く気づきもしませんでした。ああ、まだ間に合いましょうか」
部屋の内を右に左に歩み、
「この遅れを、どうしたら取り戻せましょうか」
手で顔を覆う。
皇帝に物が言えるたった一人の男がいた。河陽三城節度使の趙普だ。都の外に出されたので思いが及ばなかった。
趙普は、周から宋への禅譲劇をいまの皇帝とともに仕立て、その後、初代皇帝の懐刀として宋の国づくりに大きく貢献した。ところが、六年前のこと、突如として河陽三城節度使として都の外に出された。趙普の建てた策を全て採ってきた皇帝が、趙普を朝廷から追いやったのだから、人々はいささか驚かされた。兆候が皆無だったのではない。先立つ二年前に、ある者が、趙普は官の木材を売って私腹を肥やしていると訴えた。趙普に不利な証拠があったが、王溥が、訴えた者を宰相を妄りに謗った罪に陥れ、趙普は難を逃れた。趙普が利に目敏いとの噂はそれ以外にもあった。
「しかし、あの方はいまは都にはおられません」
趙普がいればあるいは事が変るかもしれない、ざわめき出した心を徳芳は強いて静めようとする。
「ですから思いつかなかったのです。だからこそ、もっともっと早くに気づいていなければいけなったのです。あの方に早くにお頼みしていなければならなかったのです。ああ、せめて昨日のうちにも、どうしてわからなかったのでしょう」
徳芳の足元がすっと冷たくなる。致命的な過ちをしたのか。趙普を早くに思いついていれば小舟が沈むのを止められたのか。
心のざわめきは、一瞬の希望、そして焦燥感、絶望へと変っていく。
「もう遅いのです」
徳芳は力なくつぶやく。
「いえ、諦めてはなりません。いまからでも、それが唯一の手立てなら、そうするしかありません。あの方にお頼みするのです」
「お頼みすると言っても、一体どうすればよいのでしょう」
「それを考えましょう」
「お上の御許可がなければ都を出られません。いまそれを許してくださいましょうか。たとえ私が参っても、あの方が私たちのためを思ってくださるでしょうか」
「河陽三城節度使様は他の方とは違います」
「そうでしょうか」
徳芳は希望と絶望の間を行き来する。
「国を鎮めるためにお骨を折ってくださると信じましょう。それに、あのお方は、お姉様のお父上に恩義を感じておられます。そのお返しをしてくださるのではないでしょうか」
「官物を横領した罪を覆ってくれたお返しですか。それほどの恩義でしょうか」
「わかりません」
「お返しを言うのなら、これはもともとはあの方から始まったことなのです。そう思えば、始末を付けていただかなければなりません。陳橋駅で何事も起こらなければ、私も兄上もこのようには決してならなかったのです。私たち兄弟が忌み嫌われるもとはあの人が作ったのではありませんか」
徳芳の心の底に希望と絶望の他に怒りも滲み出す。
趙普といまの皇帝が周朝への反逆を企み、それで自分は皇帝の息子になり、皇帝に成り損なった男になった。趙普にはそもそもの初めに戻してもらいたい。
「あのお方をお恨みになってはなりません。私たちを救い出してくださるのはあのお方の他にはいらっしゃらないのです」
「わかっています、恨むなどとんでもなくて、おすがりするのでしょう」
徳芳は嘆息する。
「一刻を争います」
「間に合いますか」
「間に合わせるしかありません」
「手紙を書きましょうか」
「他人の手にそれが渡ったりしたら面倒でしょう。誰か気がきく者を走らせましょう」
「誰がいますか」
「兄上が都にいてもお役に立つまいと思っていましたが、その兄上でもいてくれれば」
「あがくだけ無駄かもわかりません」
徳芳は弱気になる。結局は屋敷に篭っていても同じなのだろう。
「まだ何かしら手立てがあるはずです。河陽三城節度使に間に入っていただき、心を開いて皆様がお話されれば、何事もなかったと笑えるようになりましょう」
「そうでしょうか」
「諦めてはなりません」
「わかっています、私たち自身のためなのですから」
妻は趙普のもとに走ってくれそうな者の名を挙げる。大事を託すには難があり、幾人かを並べて思案は行き詰まる。
頭の痛みはもうおさまらない。このように痛くては、どれほど簡単なことも考えられない。
妻と二人、黙りこくってしまうと、侍従がばたばたと駆けてくる。
息せき切って、兄の徳昭の妻から急の使いだと言う。
「すぐにお越しくださいと申しております」
徳芳は立つ。激しく頭が脈打つ。
「すぐにかい」
侍従は恐ろしく神妙な顔で頭を下げる。
続けて立った妻に、
「どうすればよいでしょう」
と、徳芳は問う。
「どうぞいらしてください、お姉様からのお使いなのですから」
「ああ、行くのだろうね」
兄の屋敷。これは万事休したと見るべきだろう。
「お帰りになるまでに、この続きは私が考えておきます」
「ああ、そしてください。誰を使いに出すのか」
徳芳は泣き出しそうになる。たとえよい案が浮かんでも、もはやそれは無用であるのだろう。
「これで沈んでしまっては情けないです」
妻の声が震えている。
徳芳は唇を噛んで泣くのをこらえ、戸の外にいる侍従の方に向き、
「あちらで何があったのだろうか」
「すぐにと申すばかりで、よほどの慌てようでございます」
「すぐに行く。仕度をしてくれ」
侍従は走り去る。
「行ったところで、これも遅いのかもわからない」
妻の顔をちらちと見る。
「いえ、必ず私が考えます」
「そうしてください」
徳芳は小さくうなずいて部屋を出る。
ここに戻ることさえもはやないのだろうか。どれほどの楽しいことも、どれほどの嫌なことも時が過ぎれば必ず終わる。妻と二人の時も。
「あれは特別に切れるものでございまして、牛の首でも、すぽんすぽんと飛ばせるのでございます。どうか、どうか、十二分に、お気をつけくださいまし。何しろ、もういきなりだったのでございます。止めるなど、どうして、どうして、できるものではありませんのです。実際のところを申し上げるのですが、あれはただの飾りでございまして、壁に掛けて人様にお見せしているだけなのでございます。そうでございます、見せるだけでして、使いはしませんのです。見栄えをよくするために、いつも丹念に磨いておりますから、それはもう使おうとすれば、切れることに関しては受け合います。ええ、すぽんすぽんでございますとも。ですが、あれは飾りなのでございます。綺麗に光るように研いておるのです。どうぞ、どうぞ、お気をつけてくださいまし、牛の首もすぽんすぽんでございますから。わたしどもも、恐ろしくて近づくこともできないのでございます」
酒家の親爺がまとわりつく。両手を揉み合わせ、腰を屈め、額を拭い、口に泡を浮かべ、様々に言う。
徳芳は相手をせず、中庭を突っ切る。亭の前に置かれた珍石の脇に、兄の妻の王氏が一人立っている。
兄の屋敷では、兄が門を破って出て行ったと大騒ぎだった。手分けして行方を追い、この酒家で刀を振り回していると知れた。
王氏は徳芳の姿に一礼し、
「この中です」
袖を振って戸口を示す。
「兄上一人ですか」
「誰も近づけてはならぬと言われ、ここを守っておりました」
徳芳は初めて王氏を間近に見る。自分の妻と異なる細面に強く秘められた意志を感じる。
徳芳はうなずき、亭の扉に視線を向ける。
中に兄がいる。自分はあそこから入って行く。兄の前で幾度となく竦んだ記憶が甦る。
「まるで天から降ってこられたかのようでした。突如店の前に現れまして、気づきましたときには、壁の刀を手につかみ、ぐるりぐるりと回されていまして。何しろ牛の首でもすぽんすぽんでございますから、どうして、どうして、逃げるより他はなかったのでございます。どうすることもできませんのです」
酒家の親爺がくどくどと言い続ける。それを聞くのではないが、足を止めている徳芳に、
「最後にお会いしたいと申しております」
王氏が落ち着いた声で言う。
「わかりました」
徳芳は頭に手をやり、傾いてしまった冠を正す。櫛を挿し直すと、頭がずきんずきんと痛み出す。
「何しろ、よく切れるものでして、どうぞ、どうぞ、お気をつけてくださいまし」
親爺に迷惑そうに視線を送り、同じ位置に徳芳はいる。王氏は小さく手を動かして促す。
「最後にと言われたのでしょうか」
徳芳は尋ねる。
「そうです」
「それで私に会いたいと」
「そうです」
「それはどういうことなのでしょうか」
ぼそりぼそりと問う。
「どうぞ、お会いになってください」
王氏は低く重く言う。
徳芳は頭を下げる。
「ええ、参ります」
徳芳は唇を強く結び、一歩二歩と出る。その前で王氏が扉を開ける。
中はさほど広くない。
薄暗い奥に一脚の卓がある。その上に徳昭が立っている。壁にもたれかかって天井を見上げ、右手に親爺が言っていた割果刀がある。幅の広い薄い刃は、確かによく研ぎ澄まされている。その輝きが徳芳の目を吸い寄せる。
「きたか」
兄の低い声に、足がぞっと冷たくなる。
「おまえ一人だな」
徳芳は兄の視線を避けるようにうつむく。
「一人です」
小さく答え、卓の脚から兄の靴、その上へと見て行こうとするが、胸あたりで止まる。
「そうか」
兄の声が徳芳の頭の内で反響する。頭痛が感じられなくなる。
刀が輝く。さっと振り上げられ、徳芳の目はそちらに向く。切っ先が天井に届くまでに上げられ、ひゅうと鳴る音とともに振り降ろされる。
徳芳は一歩退く。
思わず兄の顔を見上げる。いつも以上に恐ろしい形相がある。
兄はもう一度同じことをする。冠を被らぬ頭に、逆立った髪がばさばさと鳴る。
徳昭は静かに笑う。
「どうした、怖いか」
兄の声に徳芳はじっとうつむいて答えられない。
「もう少し中に入ってこい。そこでは遠い」
逆らうことはできない。
「そこらでよいだろう。そこならこの刀が届くからな」
徳芳の体が小さく震える。
「おまえはいつも俺を怖がってきた。可哀想な奴だ」
徳芳は、勝手に動く体を止めようとする。
「無理するな。とりわけ今日はこの刀、さぞ怖かろうな。見ろ、これほどによく切れそうな刀はそうはあるまい」
徳芳は兄に命じられて割果刀を見る。悪寒が走る。
兄はまた笑い、
「震えるな。切られるとでも思っているのか。望むのなら、切ってやろうか」
徳昭は刀を両手で持ち、切っ先を真直ぐ上に向け、腰を構える。
「いえ」
徳芳は遅れて小さく答える。
徳昭は切っ先を水平にして弟に向ける。
「おまえを切る気はない。そうやって俺を怖がって震えるのも今日が限りだ。おまえを怖がらせてきたこの兄はもうすぐいなくなる。どうだ、安心したか」
体の震えが止まる。頭に鋭い痛みが走る。
「兄上、何をおっしゃるのでしょうか」
ようやくのことで言葉を出す。
徳昭は割果刀をくるりと回わし、刃先を卓に突き立てる。
「何を言うかと問うのか。俺の言ったのを聞いておらぬのか」
兄の怒声に、
「聞いています。どうか落ち着いてください」
割果刀を突き立てたまま、徳昭は、柄の先を掌で押さえて回転させる。
「落ち着けとおまえは言うのか。言われずとも、俺は落ち着いている。平常心を失っているのは、がたがた震えるおまえの方だ」
自分の落ち着きを兄に無理にでも示さねばと、ぎらりぎらりと光る刀を見ないようにして歩み出る。
「そのようになさいましては尋常なお心とは見えません」
我が耳で聞く自分の声は上ずっている。
「尋常な心か。乱心によって振り回していると思うのか。狂気したと思っているのか」
徳芳は急いで、そして声を低くするよう気を付け、短く答える。
「いえ、違います」
「どう思うと好きにしろ。おまえはいつも刀を怖がっていた。刀は人の命を断つ。この美しい輝きがどうして怖いのか。おまえはこの俺をいつも怖がっていた。怖がらせてやろうと俺は苛めてきた。刀を怖がる情けない奴だから苛めてやったのではない。俺の弟としておまえが存在するのをそもそもからして認めたくなかったからだ。わかるだろう」
徳昭は刀を持ち上げ、その切っ先で強く卓を突く。
兄の腕の動きに従って刃に光が走る。
命を断つ美しい輝きなのか。牛の首さえ飛ばす刀であるのなら、あの日に始まった苦しみさえも一瞬にして終わらせてくれるだろう。それなら確かに美しい。
「震えが止まったようだな。この刀の美しさがわかったか。おまえを呼びつけたのは、これで切ってやるためではない。最後に言っておきたいことがあるからだ。何しろ、いかに目障りでも、おまえはこの世にたった一人の弟だからな」
兄の声の響きが微妙に変る。
「最後とおっしゃいますのは」
徳昭は弟を見ずに刀を上向きに垂直に立て、腰をゆっくりと落として、刃に顔を寄せる。
「ここに俺の顔が映っている。もうすぐこれはなくなる。その仕事をこの刀がしてくれる。そうなれば、親爺の息子で残るのはおまえだけだ。その当たり前すぎることにここで俺は気がついた。急におまえが不憫になった」
徳昭は直立し、
「なぜだかわかるか」
弟を睨みつける。
徳芳は答えようとして、頭痛がこれまでの幾層倍にもなり、声が出せない。
「わかるまい。俺だってわからない。おまえが目障りだった。その理由もいまの俺はわからない。とにかくおまえを呼んでやらねばならないと思った。そのしんねりとした面を見れば、これまでならいまいましく感じたのだが、震えているおまえが、やはり不憫に思える。この気味の悪い思いはおまえを叩き切ってやりたいほどだ。確かにおまえの言う通り、これは尋常な心ではないのだろうな」
兄は低く静かに笑う。
そのまま重い沈黙になり、徳芳は意を決して口を開く。
「私がいけなかったのです。正直に申して、兄上を恐ろしいとばかり思ってきました。それが兄上のお気持ちを害していたに相違ありません。いまもなのでしょう。申し訳ありません」
頭を下げる。こうすることで頭の痛みがこぼれ落ちてくれたらよいのだが。
「謝るな。俺が怖がらせてきた。恐ろしいと思ってくれなければ困る」
兄は刀を水平にして、声もろともに前にぐいと突く。頭を上げた徳芳の前に切っ先が迫る。
「どうだ、怖いか」
徳芳は目の先にある刀を強いて見つめ、
「お願いです、それを置いてはいただけないでしょうか」
細い声で言う。
「おまえを怖がらせるのはこれで終わりだ」
徳昭は伸ばしていた腕を引き、手元から刃先へ、そして刃先から手元へと行きつ戻りつ眺め、深くうなずく。左腕を高く突き上げて袖より肩を出し、肘を曲げ、顔の正面で水平に構える。
「見ろ」
刀を腕に当てる。そのまま手前にすっと引くと、赤く一本、血の筋が走る。
「思った通りだ。これはよく切れる」
血の筋が太く広がる。
「おまえの頼みではあるが、これだけよく切れる刀、置くのは断る。ようやく手にしたのだ。叔父上は御親切にも、全ての刃物を隠すよう屋敷の連中に命じてくれた。刃物という刃物が、大きいものから小さいものまで全て消えた。だから屋敷を飛び出した。走ってこの店の前までくると、壁にかかるこいつがぎらぎらと輝いていた。気の毒にも店の連中を驚かせてしまったが、とにかく美しいこいつがほしかった。この美しさを十全のものにしようとして、なぜかおまえが不憫に思えた。よくきてくれたな。礼を言おう」
徳昭は右手の刀を下向きに卓に立てる。左の腕は赤い血に包まれる。
「私はどうしたらよろしいのでしょうか」
血がぽたりと滴り落ちる。徳芳は懐より手巾を取り出す。
「余計なことをするな」
兄は怒鳴る。
徳芳の体がびくりと震える。頭痛は止まっている。
「申し訳ありません」
「また謝るのか。男はそのように簡単に謝るものでない。俺は、おまえがくるまでの間、ここで考えていた。おまえは俺にどうしたらよいのかと訊いた。どうしたらよいか自分では金輪際わかりもしない弟に、教えてやれぬものか考えていたのだ。最後に気の利いたことの一つでも言い置いてやりたいからな。何しろ俺はおまえの兄だから」
その言葉に、兄を怖がる気持ちが初めてわずかながら薄れ始める。
「有り難うございます」
「軽々しく礼を言ってくれるな。考えはしたが、おまえに言えることはどうせ一つしかない。おまえだってわかっていることだ。どうすることもできないと、そう言ってやるしかない。この上なく詰まらない言い草ではないか。何しろ俺たちにはどうすることもできないところで、このようにされてしまったのだからな」
徳昭は後ろの壁を足の裏で強く打つ。
その音の激しさに徳芳は首を縮め、
「そのように言われる意味は、もしかして、私たちが父上の子であることでしょうか」
「よくわかっているではないか。おまえが俺を怖がり、俺がおまえを嫌っていたのは、俺たちが親爺の倅だったからだ。そうでなければ違っていただろう」
怖さはさらに薄れ、兄と気持ちが通じそうにさえ思えてくる。
「私もそのように思っていました」
徳芳は急いで言う。
兄は鼻を鳴らす。
「本当にわかっているのか、皇帝の倅であることの意味を。それがいまいましくて、おまえを見るのが嫌でならなった。たぶんそうなのだろう。おまえのせいではないのにな」
「兄上のお気持ちがわかりかけてきました」
「そう思いたければ勝手に思え」
「父上の子であることは変わりようがありません。しかし、どうすることもできないのは本当にそうなのでしょうか」
「これを使う以外にはな。俺はそう結論した。おまえに同じことができるか。刀を怖がるおまえに」
徳昭は左腕を振る。血が床から壁へと飛ぶ。
「どうか恐ろしいことはお止めになってください」
「俺には恐ろしくも何ともない」
徳昭は左腕を突き出し、
「どうだ、いい色ではないか。これが刀の作り出す美しさだ」
徳芳はその美から目を逸らし、後ろを見返る。
「人を呼ぶつもりか。もしもここに誰かが入ってきたならば、即座に俺はこれを使う。最後におまえに話そうと思っていたわずかなこともそれで消える。そう望むのなら、人を呼べ」
徳芳は兄の方に向き直り、
「呼ぶつもりはありません」
「それならよいだろう」
徳昭は壁にもたれ天井を斜めに見上げ、小さく息をつく。
「だが、俺は何を言おうとしていたのだろう。どうすることもできないと言うだけなら、おまえだってすでにわかっている。ここで俺は考えていた。それが何であったのかもうわからなくなっている。いまさら何を言っても仕方ない。どれもこれも意味がない」
徳昭は後頭部で壁を打つ。
「どうか教えてください」
「何をだ」
「私がどうしたらよいのか」
徳昭はぎろりと弟を見る。
「俺はおまえの兄だ。教えてやりたいと思っても悪くはあるまい。教えるものがあればそうしてやろう。どうすることもできないと言っているこの俺に、おまえは教えてくれと言う。俺を困らせたいのか」
「そうではありません」
徳芳は頭を下げる。
「俺は怒っていない。俺はむしろ、もしもおまえの方から言いたいことがあれば聞いてやろうと思うくらいに優しい気持ちでいまはいる。おまえを苛める気はない。どうだ、この際だ、俺に聞くのではなく、おまえに言いたいことがあるのなら、聞かせてもらっておくのも悪くはないだろう。こんなこともどうせこれが最初で最後だからな」
徳昭は背を壁から離し、微笑む。自分に向けられた兄の初めての笑みだ。徳芳の胸が塞がる。
「どうした、俺は本当にいまは優しい気分でいるのだ。それなのにまだ怖いのか」
「いえ、怖くはありません」
「ならば言ってみろ」
何を言えばよいのか。多すぎるほどにあるようでいて、しかし、見つけられない。思案に窮し、
「どうすることもできないのでしょうか」
先程言ったことを繰り返す。
徳昭の笑みが消える。
「まだそれを聞くのか。それしかないのか」
兄の語気にひるんでは最後の機会が失われる。徳芳は気を強く持ち直し、
「例えばなのですが、ここに参る前に妻が申していたことがあるのです」
すぐに口篭る。兄の前で妻を持ち出したのが恥ずかしくなる。
言いよどむ弟を見据え、徳昭は腕の血を啜り、床に吐き捨てる。
「俺はわかっている。おまえが一番望んでいるものが何であるのかをな。市井の者には許される平凡な暮らしだ。そこに妻がいれば言うことなしだ。親爺の野郎は、有難いことに、嫁選びだけは間違えなかったからな」
外に立つ王氏をここに呼べばまだどうにかなるのか。刀を見て、徳芳はそれはできないと知る。
「妻が考えたのは趙普様です。趙普様にお願いすれば、どうにかなりはしないでしょうか。違いますか」
兄は目を閉じる。その兄の表情に、
「これも駄目なのでしょうか」
徳芳はすがるように言う。
兄は目を開き、
「おまえにはもったいない妻だ。いや、おまえにはいなくてはならない妻だ。趙普を思いついたか。その智恵や好しと言おうか。変えられるとしたら確かに趙普の他にはいない」
徳芳の胸が開かれていく。
「そうです、そうです、趙普様です。趙普様のおっしゃることならばお上もお耳を傾けられましょう」
息せき切って言う。
「そうだな」
その返事に徳芳は勢いづき、
「この宋は、趙普様が御苦心してお作りなったものと言っても過言ではありません。宋の国がより立派になっていくことを趙普様以上にお望みの方はおられないはずです。皇室が乱れたために滅びた国は数知れません。唐の後の王朝も大方そうだったではありませんか。趙普様はいまの都のありさまを憂えておられるはずです。我らがお願いすればきっと何かしてくださるでしょう」
言葉を連ねる。
「せっかくあいつが作った宋だ、それがみすみす駄目になってしまうのを趙普は望むまいな」
「そうです、そうです。ですから、お願いしてみようではありませんか」
「で、趙普にどうしてもらうのだ」
「都にお越しいただくのです」
「きてくれるかな」
「きていただかなければなりません。まずは、その手立てを考えましょう」
「そうかい、考えるのか」
「ええ、きっと手がありましょう」
「どうかな」
「智恵を絞りましょう」
「趙普がうまいこと都にきてくれて、それで何をしてもらうのだ」
「この騒ぎをおさめていただくのです」
「趙普ならできるかも知れぬな」
「そうです、そうですとも」
徳昭は壁を蹴り、
「あいつはしない」
「そうなのでしょうか」
徳芳の声がまた震える。
「あいつは俺たちのためには何もしない。皇室のためにだって何もしない。あいつにとって大事なのは、おまえが言う通り、あいつが作ってきた宋という国だ。あいつはそれを自分の国だと思っていた。だから、親爺はあいつを宰相として使い、そして都から追い出した。あいつの凄さをおまえは知らない。俺たちのためを思ってくれるのなら事は確かに変る。あいつはそうは決して考えない。言いたいのはそれだけか」
兄の剣幕に徳芳は怯える。
しかし、ここで話を途切らしてはならない。別に言うことを探る。
「一つお聞きしてもよいでしょうか」
「勝手に言ってみるがよい。嫌なら答えないだけだ」
「変なことなのですが、先の帝を恐ろしいと、兄上はお感じになったことはなかったのでしょうか」
「そんなことが聞きたいのか」
話を繋ぐためだ。兄と心が通じ合える接点がここにありそうにも思える。
「私は恐ろしくてなりませんでした。兄上がおっしゃった通り、全てが先の帝の子であることからきているのをそれほど自覚していたのではなかったのですが、恐ろしくて仕方ありませんでした」
「俺よりも親父の方が怖かったか」
「正直そうです」
「親父に敵わないのは仕方あるまい」
徳昭はわずかに笑い、
「俺は、親父を恐ろしいとは思わず、ひたすらに憎んでやった。そこがおまえと違う。おまえを嫌っていたのは、おまえが親父の子だったからだ。俺だってそうなのに、馬鹿な話だ」
「憎んでもよろしかったのでしょうか」
「父を憎むのは誰にも許されない。皇帝を憎むのも誰にも許されない。俺が憎んでいるのを親父は知っていた。だから嫌われた。おまえは親父を怖がっていた。だからおまえは不憫がられた。俺もそれはわかる」
「私はどうすればよかったのでしょうか。私は間違いをしてしまったのでしょうか」
「おまえが間違わなければ、俺が皇太子に選ばれていたとでも言いたいのか」
「そうではありません。私がどうしたらよかったのか、それが知りたいだけです」
「昔のことだ、間違っていようが、正しかろうが、いまはどうにもならない。もしも昔に戻って、どうしたらよかったのかといまから考えることが可能であるのならば、親爺が皇帝になろうとするときに、俺に聞いてもらいたかった。趙普といまの皇帝が仕組んで、親父がそれに乗った。俺に聞いてくれれば、俺は皇帝の息子になるのを断固拒絶した。そうしていれば、俺もおまえも随分と違った一生を送れた。最後になって、こうして話すようには決してならなかった」
兄の声がわずかに潤いを帯び、徳芳は唇を噛む。
「言っても虚しい。親父は皇帝になり、俺たちの運命は決まった。憎んでも余りある。どうしていまさら趙普に助けてくれなどと言えよう。しかも、趙普にはそんな気は金輪際ない」
徳昭は言葉を切る。
妻が考えたことは諦めるしかないようだ。それでは話が終わってしまう。徳芳は懸命に繋ごうとする。
「どうにもならぬことをもう一つ伺ってもよいでしょうか」
「好きに聞け」
「もしも王継恩が兄上のところに行っていたら、兄上は皇帝になられたのでしょうか」
「それを聞いてどうするのか」
兄の妻の父の王溥があの日について話し、それは死地に活を求める意味であろうかと妻が言った。兄にもそれを告げてみるべきだろうか。徳芳は兄がどう受け止めるか読めず、
「どうするのでもありません」
「どうかしたいと思ったところでどうにもできまい。言っても聞いても虚しいことばかりだ」
「あの夜から、私たちはこの国で一番悲しい兄弟になったのではないでしょうか。兄上のお気持ちをもう少し承知しておきたいのです」
徳芳は、沈み行く小舟へと無理に兄に引き摺り込まれたように感じていた自分を悲しく思う。
「俺の気持ちか。そもそも皇帝に二人の倅がいて、どちらかが後継者になればどちらかがなれない、それが普通だろう。俺もそう思っていた。言っておくが、俺がおまえを嫌っていたのは、おまえが後継者になり得る存在だったからではない。むしろ逆だ。あの夜に、憎い親父が死のうがどうしようが、俺にはどうでもよいことだった。皇帝の息子になるのを拒絶したがった俺だ、皇帝になるなど関心外だ。しかし、皇帝にならねばならないのならそれでも構いはしないと思っていた。親父の思い通りにはいかないことを見せ付けてやれるからな。あの夜はまだそのような思いでいたのだ」
徳昭は天井を見上げ、唾を吐く。
「誰に見せ付けるのでしょうか」
徳芳の問いに兄は笑う。
「どうしてどうしておまえは大した弟だ。誰に見せ付けるのかと問うのか。いかにも愚かしい。俺が皇帝になるのは親父が死んでからだ。憎い親爺にこそ見せ付けてやるべきなのに、そいつがすでにいない。詰まらない話だ」
兄のことを全く知らずにいた。兄弟は存外近いところにいたのかもしれない。
「あの夜にお話できていればよかったように思います」
「言うな。全く意味がない」
兄は怒鳴る。
「申し訳ありません」
徳芳は頭を下げる。
「また謝るのか。言いたいことはそれで終わりか」
徳芳は急いで思案を巡らし、
「お上とは何をお話しされたのでしょうか」
と、尋ねる。
初めて兄と心が通じつつあると感じている。直接に会って話せば変ると妻が言っていた。兄と弟がこうであるのなら、叔父と甥も同じになれぬものでもあるまい。兄は皇帝に会い、それは不首尾であったのだろうが、望みが全て絶たれてしまったのではないと思いたい。
「今日のことか。聞きたければ話してやろう。別に何でもない。誰もが思っていることを、しかし誰も言わずにいることを、俺が言いに行っただけだ。聞かせてやろう。このようなことだ。『契丹に敗れ、命からがら逃げ帰り、以来、宮中に篭り切りですが、都には、皇帝が賞を惜しんでいるとの不平が渦巻いています。どうなさるお積りでしょうか』。そう言ってやった」
「直接そのようなことを」
「俺以外に言う者はいまいからな」
「お上はどうされましたか」
「ひどく立腹した。腕を振り上げ、拳を震わせ、しばらくは物も言えなかった。そして、口を開いて、どう言ったと思う」
兄は楽しげですらある。
「想像もつきません」
「叔父上はあれでなかなかの人だ。こう言ったのだ。『おまえが自分で決められるようになってからでも遅すぎはしないだろう』とな」
兄は笑う。
徳芳の全身から血の気が引く。
「おまえにこの意味がわかるか。俺は全て合点がいった。俺が微笑むと、たちまち叔父上は真青になった。だから俺は言ってやった」
徳昭はますます愉快そうに弟を見て、
「何を言ったかわかるか」
徳芳は首を振り、
「わかりません」
皇帝は、兄に、おまえが皇帝になったら好きに決めろと言った。そのように言い合う叔父と甥では心は通じ合わない。
「決まっているだろう、『仰せの通りに致します。よろしければ、今日にでも』と。皇帝の言葉には逆らえない」
徳昭は大きく笑う。
「それで、閉門を命じられたのですか」
「皇帝の面前で俺が皇帝になると宣言したようなものだ。それはそれでなかなかの反逆行為に当たるだろう。この刀を使う結構な口実になる。そうは思わぬか。だから、叔父上は俺の勝手を許すまいと刃物を隠させた。叔父上は全て見抜いている。俺も全てわかっている。だからこの刀を使うしかない」
「いまならまだ謝罪すれば許してくださるのではありませんか」
皇帝が逡巡していることに賭けるしかないと、妻が言っていた。叔父と甥は遠く隔たっているが、それでも小舟が沈むのを止める最後の手立てがまだあると信じたい。自分も生きたいし、兄も生かせたい。
「いまさら謝る気があって、叔父上に会うものか」
「お上が憎いのでしょうか」
「憎むのは親爺一人でたくさんだ」
「お上がお怒りになるようなことをどうしてわざわざなさったのですか」
「これを使うためだ。順序が逆なのだ」
兄は刀を軽く持ち上げる。
「どうしてなのですか」
「好きに聞けと俺は言いはしたが、それにしても、いちいち何もかも聞かねばわからないのか」
「どうあってもその刀を使おうとされるそのことがわからないのです」
「生きられないからだ。それを無念だと思いたくない。余儀なく強いられたくない。俺は自分で選び取りたい。叔父上もこれで困りはしない。おまえもそう思うか」
「私には何のことかわかりません」
徳芳はそう言いつつも、兄の気持ちを自分だけはわかっていたいと思う。自分がわからなければ誰がわかるのか。
「反逆者は死を賜るしかない。その前に自刃すれば、罪は我が一身に留まるだろう。どうだ、これは刀を使うに悪くない理由と人は思うだろう」
「それをお望みなのですか」
「大して望みはしない」
「ではどうしてなのですか」
「俺がいなくなればおまえもわかる。俺と違っておまえはそれに耐えられるのか。おまえが不憫に思え、だから呼んでやった。おまえにいろいろ答えてやった。もうこれくらいで十分だろう」
「いえ、まだたくさんあるように思います」
「何があるのか」
徳昭は顔をしかめる。
その形相にひるむが、妻の智恵を活かすことはできないのか、まだ話を繋げたい。
しかし、皇帝との間にあったことからして、事態は明らかに切迫している。いまにも禁軍の兵が踏み込んでくるかもしれない。誰かがここにくれば、兄は言った通り、即座に刀を使うだろう。
「私はもういいです。兄上のおっしゃりたいことをどうかお聞かせください。私をここに呼んでくださって、話そうとされていたことを聞かせてください。お願いします」
「俺に最後の話をさせるのか」
「いえ、最後ではなく」
徳昭は遮り、
「おまえに何か言ってやろうと、おまえがくるまで考えていた。結局はどうしようもないと、それはさっき言ったとおりだ。おまえといま話しながらまだ考えていた。それでもやはり、どうしようもないと言うだけなら虚しい。同じことを、もう十分に聞いただろう」
刀の柄で後ろの壁を打つ。
「いえ、同じことでも、どうかお聞かせください」
「違うことを言ってやりたい。この刀だって」
徳昭は右手の刀を見つめ、そして弟の目を向ける。刀を持つ手が小刻みに振るえ出す。
「その刀をどうされるのですか」
徳芳が言うのに対して兄は怒鳴る。
「黙れ。聞くな。いまは俺が話すのだ。俺が話したいことだけを言う」
「申し訳ありません」
「また謝るのか」
「どうか兄上のおっしゃりたいことがありましたら、お聞かせください」
「俺の言いたいことか。何でも構わぬか」
徳昭は今度は血が流れ続けている左腕に目を向ける。
「ええ、お願いします」
「ならばあれを言うか。用心するがよい、弱虫のおまえには聞かぬ方がよいものだ。俺がここで言わなければ、永久に消され、おまえは知らずにすむ。知ることにおまえは耐えられるのか」
「私とて、あの夜から今日までずっと耐えてきました。弱虫ではありません」
「あの夜か。あの夜のことをおまえはさっき俺に尋ねた。あの夜がなければ事は違っていた。そのときに俺は知らずにいた。だから皇帝にならねばならないのなら、なってやるくらいの気でいた。それが俺の本心だったのかいまはわからない。きっと間違っていたのだろう。言って虚しいことだが。俺がここで言わなければ、おまえはずっと知らずにいられる。その方がよいはずだ。しかし、それはそれで不憫である。俺は知っていて、弟のおまえが知らずいる。口惜しかろうな」
「その通りです。兄上を恐れてばかりいたのが残念でなりません」
「俺にも間違いがあった。やはり虚しいばかりだ」
兄は大きく嘆息すると、顔を改め、
「おまえは何歳になったのだ」
「二十一です」
「そうか、二十一か。俺のくらいの歳にもなればまだしもだが、二十一か。だが、おまえには大した妻がいる。おまえの妻は趙普の名を出した。趙普が俺たちの親父並みであるのなら、良き智恵だ。趙普はおまえたちが考えているような男ではない。この世の中もそうだ。おまえたちはこれからそれを知っていかねばならない。おまえは弱虫ではないと言うし、よき妻もいるのだから、教えることにする。怖気づかずにいられるか」
「兄上が話してくださるのであれば喜んでお聞きします」
「殊勝な弟だ。俺は兄でありながら、どうしてやることもできない。おまえをいまこうさせているのはあの親父だ」
「先の帝を憎むそのお気持ちは消せないのでしょうか」
「最後の瞬間には、無論、消えるだろう」
「皇帝の子であるとはそれほどのことなのでしょうか」
「おまえも十分に承知している通りだ。親父をあくまでも憎まねばならない理由を俺はおまえより一つ多く持っている。それが何であるのか聞かせてやる。詰まらぬことだ」
徳昭は一声笑い、腕の血を啜ってごくりと飲む。
「我が血で喉を潤さねばここから先を言うのは難しい。要は、親父が叔父上の大罪を導き出したのだ」
舌なめずりをする兄に、徳芳は怯みながら、
「大罪とはいかなることなのでしょうか」
「大罪の中でも特に大なるものだ。弑虐だ。皇帝を殺し、兄を殺した。これより重い罪はそうはあるまい」
徳芳は我が耳で聞く言葉を疑う。
「よもやそのようなことが」
「あり得まいと思うか。俺も疑っていた。今日の叔父上のあの顔は、俺が知っているのを明らかに恐れていた。疑う余地はなくなった」
徳芳の胸が音を立てて鳴る。
「驚いたか」
兄は弟を見下ろす。
徳芳は気を取り直そうと努め、
「ええ、しかしです、もしもそれがまことのことならば、お上は父上の仇であり、国家の重罪人ではありませんか。重罪人は成敗し、兄上が皇帝に立たれるべきなのではありませんか」
口にし、そこから全く新しい局面が開けてきそうにも思えてくる。
「勇ましいことを言う。おまえが本気で思うのならおまえがそうしてよい」
「兄上は思わないのですか」
徳昭の右腕がびくりと動き、刀が光る。
「俺は思わない。思うはずがない。憎い親爺を殺してくれた叔父上ではないか。親爺が叔父上の罪を導いたのだ。哀れなのはむしろ叔父上の方だ。国家の重罪人など、もとより俺の知ったことでない。趙普のように宋が大事だと俺は思っていない。前の王朝から奪い取って建てた国など消えくれるのがよい。皇帝になれと言われればなってやらぬものでもない。幽州での退却時に俺は皇帝になりそうになった。そのときの俺の気持ち、それは言うまい。それは終わった。俺はこれを使うしかなくなった」
徳昭は刀を振りかけて、力を抜く。
徳芳は胸を締め付けられる思いがし、声を絞り出す。
「聞くに恐ろしいそのことはどのようにしてなされたのでしょうか」
「怖いだけに知りたかろう。そもそもの源に遡ればだ、俺たちの祖母、杜太后の一言から始まったのだ」
「太后様が何をおっしゃったのですか」
「親爺が皇帝になって一年ほど経ったころのことだ。杜太后は病に臥し、宋の行く末を案じ、親爺に向かってこう言った。『そなたは天下を得た所以を知っておるのかい』。親父はすぐに『全ては亡き父上と、母上のお蔭によります』と答えた。親に向かって息子はそう言うものだ。杜太后は顔をしかめ、『そなたは何もわかっていません。柴氏が幼児を天下の主にしたために群心が付きませんでした。それに尽きます。そうではありませんか』と言った。俺たちには迷惑この上なかったが、親父は運に恵まれたのだ。周の世宗皇帝が若くして死に、七歳の息子が皇帝になってくれたから、ここぞとばかりに趙普が叔父上を引き込んで悪巧みをした。『では、どのようしましたら宋の天下は保てましょうか』と親父は母親に尋ねた。杜太后の答えはこうだった。『四海は至広。長者を立てるのが社稷の福。そなたの次は弟に継がせなさい。弟の次はまた弟が継ぎ、その後で子に至るようにすれば、天下が揺らぐようなことはないのです』。親爺はそう聞くと、『敢えて母上のお教えに背くことはありません』と答えた」
「それはまことにあったのでしょうか」
「その場にいたのは杜太后と親父の他には、叔父上と趙普の二人だ。叔父上と趙普が口を揃えてあったと言えばあったことになるし、なかったと言えばなかったことになる」
「兄上は誰から聞かれたのですか」
「それは言えない」
王溥なのか。その娘である兄の妻か。
「もしも事実であるのなら、先の帝の次にいまの帝がお立ちになり、その次には斉王様と、順序が決められたことになるではありませんか。何の揉め事も生じるはずはなかったではありませんか」
「まあ、そうだな」
「母上はそれを承知されていたのでしょうか」
なぜ自分は皇帝になり損なった男になったのか。
「開宝皇后が知っていて、王継恩をおまえのところに行かせたとすればかなりのものだな」
「では、王継恩は知っていたのでしょうか」
「知っていても知らなくても、あれは何が得か損かで動く男だ。おまえよりは叔父上を選んだ。それは正しかったろう。おまえもそう思うだろう」
「ええ、それは認めます」
「だからこうなった」
「やはり趙普様なのではありませんか。趙普様に御存知のことを何もかも明かしていただくのです。事柄はがらりと変るのではありませんか」
「何を明らかにするのだ。事柄はどう変わるのだ。趙普が叔父上の大罪も知っていて、それを天下に明らかにして叔父上を成敗し、ついでに俺たちも滅ぼして、宋を己の手中にできると思えばそうするだろう。趙普の本当の望みはそこにあるだろうからな」
「それもまた恐ろしい話ではありませんか」
「趙普だけではない、そのような連中がうようよしている」
兄の怒りの声が悲しく聞こえる。
この世は疎ましい。穴でもあれば、妻とともに隠れたいと思っていたのは正しかった。
「それで、大罪はいつどのようにして為されたのでしょうか。兄上は御存知なのですか」
「聞いた。いつ聞いたのか教えてやろう。幽州で俺は皇帝になりそうになった」
徳昭は舌を鳴らし、
「あのとき、俺の心は久々に晴れ上がっていた。言うまいと思ったが、あのとき、俺は俺の意志を貫けると感じた。ついにきたと思った。俺は俺自身を知らずにいた。しかし、それはたちまち終わってしまった。そのときに至極残念そうに教えてくれた者がいた。おまえが言ったように、そいつは親父の仇を討たせたかったのだろう。俺は聞いた。それを、弱虫のおまえに聞かせてよいかやはりわからない」
「どうか教えてください、私は弱虫ではありません」
「大罪は、王継恩がおまえのところに行かなった少し前に為された。親父にとって不幸だったのは、趙普を都の外に出しところまではよかったのだが、その次の手を打つ前に病気になってしまったことだ。杜太后に言われたときに、弟に皇位を継がせる気が親父に本当にあったのか、そこは疑わしい。死ぬ間際の母親に敢えて逆らうのは難しい。親父と杜太后と二人だけの間の話だったなら、母親が死んでしまえば誰も知る者はいなくなる。あいにくと趙普と叔父上がいた。趙普は追っ払ったものの、次の皇位継承者として定めた当の弟がまだいて、哀れにも病に臥せった親父は困り果てた」
「お約束通りにされればそれでよいではありませんか。叔父上は御立派なお方です」
「北漢を滅ぼし、契丹にみごとに負けた。皇帝としてなかなか立派であるな」
「兄上がどうして王に封じられることもなかったのか、その理由が私にはよくわからずにいましたが、先の帝は、杜太后様の教えの通りにされようとされていたのではありませんか」
「そこが親爺の中途半端な腹黒さだ。趙普や叔父上を気にしてのことだ。俺を王にすれば、叔父上は警戒するだろう。叔父上を安心させておいて、何とかしようとしていたのだろう。俺は親父を憎んでいた。それでも弟よりは息子に継がせたいと思うのが父親であるのだろう。俺でなくておまえでもよい。おまえがもう少し意気地があれば、親父はすんなりおまえに決めただろう。だから、俺は弱虫のおまえが嫌でならなかった」
「申し訳ありません」
「謝るな」
「杜太后様の前で誓った通りになるのならば、弟が順に継いでから、兄上のところに皇帝の位がくるのですから、それを待てばよろしいのではありませんか」
「おまえのような気の弱い正直者はこの世には稀にしかない。親父が死んだ後で、杜太后との約束を知るのは、叔父上と趙普だけだ。叔父上が義理堅く守ろうとしても、趙普がそうさせるかどうか。叔父上の次は斉王だ。斉王は杜太后との約束の場にいなかった。約束は守られないと思うべきだ。それで俺たちは少しも構わない。親爺にとってはそうではなかった。病が重くなり、早く手を打っておかなかったのが強く悔やまれ、焦ったあげくに叔父上を呼んだ。杜太后がそうだったように、死の床にある者の頼みなら断られはしないと、親父は、息子に後を継がせてやってくれと頼んだ。それが俺かおまえかは知らない」
「いまの帝はどう御返事されたのですか」
「断った。当然だ。親父にとっても叔父上にとっても母親である杜太后との約束であり、宋という国を保つためにも、変えられない。二人は口論となり、叔父上が立ち去ると、死んだ親父が残された」
「お二人のお姿が御簾に映っていたと聞きます。大罪がそれで為されましょうか」
「斧が振り下ろされるのを見た者がいたと聞きはしなかったか」
「そのような噂はあるようです。皇位を表す飾りの斧で何ほどのことができましょうか」
「見えたのは影だけだ。別の物だったかも知れぬ」
「打てば痕が残ります」
「だから開宝皇后はおまえを呼んだ。俺でもよかった。しかし、王継恩は叔父上を連れて行った。開宝皇后が親父の死骸に残る傷をそこで明かしたならばどうなったか。開宝皇后は咄嗟によい判断をした」
兄は毒々しげに言う。
徳芳はうめく。
「もしも王継恩に連れて行かれておまえが親爺の傷を見ていたら、おまえはそれでどうしたか」
兄の問いに徳芳は顔を歪め、
「恐ろしくて考えられません」
「そうだろう」
「兄上ならどうされますか」
「叔父上を呼び付ける。きたらその場で殺す。俺は親父の仇を討つ気はないが、開宝皇后も傷を見てしまった以上、他にどうすることもできまい。殺されるとわかっているから叔父上はこない。それでどうなるか。叔父上と俺が皇位を巡って戦うのだろう。俺に勝ち目があると思うか。だから王継恩は、おまえのところにも行かなかった」
「それでは正しくないことばかりではありませんか」
「そうだ、何もかもが理不尽だ。要するに得体の知れない世の中だ。俺たちはそのようなところに生きている」
「それでよいのでしょうか」
「よいとは思わぬ」
「皇帝を殺し、兄を殺した者が、帝位にあってよいのですか」
「それは構わない。皇帝とはそのようなものだ。趙普といまの皇帝がこうなるように宋を始めたのだ」
「そのような宋などなければよかったのです」
「そうだと俺は言っただろう」
「そうであれば兄上と私は」
徳芳の目に涙が溢れる。
兄は無言。
涙を拭い、兄を見上げる。
「俺はこれを持ってここにいる」
徳昭は刀を静かに持ち上げる。
止めねばならないと徳芳は思い、止めてはいけないと思う。
「俺は親爺のように殺されるのではない。おまえが言った通り、叔父上は成敗せねばならない。ともに天の下にはいられない。これで終わりだ。おまえにはおまえのやり方があろう。離れろ」
徳昭は早口で言うと、左腕を大きく回す。血が飛ぶ。その滴を受けて徳芳は少しく下がる。
「壁まで下がれ」
激しく言う。
「いえ、お近くにいさせてください」
徳昭は刀をぎらりと光らせ、
「下がらねば、不憫なおまえを先に行かせようか」
そうしてほしい。自分一人が残されても生きていけない。
しかし、妻が屋敷で待っている。二人の穏やかな暮らしは明らかに潰えた。それでも、今日はまだ妻のもとに帰れるかもしれない。
徳芳はじりじりと後退する。
「よし、そこだ。この世におまえと二人の兄弟。憎むべき親爺の血を引くのはこの二人だ。ここで話せただけでもよかったと思いたい。おまえには何もしてやれない。全てを残す。おまえのことはおまえが考えろ。おまえにはよい妻がいる。この世で結び切れなかった兄弟の縁をあちらでなら堅く結べようか」
徳芳は何かを言うことも、手を出すこともできない。
掛け声もろともに徳昭は割果刀を光らせる。その先が中空を裂く。
首が飛び、天井に向かって赤く血潮が噴き上がる。奔流はたちまち勢いを失い、兄の体は卓からばたりと落ちる。
何が起こったのか。
酒楼の親父が言っていた、牛の首もすぽんすぽんと飛ぶとはこのことか。
ごろりと兄の首が止まり、血だまりが出現する。
俄に轟く声。
「おお、あやつは何をしたのだ」
戸口より足音高く入ってくる。
血だまりに影が映る。
徳芳の目は、両腕を大きく広げて歩みくる堂々の偉丈夫の姿をぼんやりと捉える。この男は誰か。
徳芳の視線はその男から離れ、兄の首へと戻る。
何が起こったのか。ここにあるのは何であるのか。牛の首もすぽんすぽんと飛ばす刀の切り口から溢れ出ていた血は止まっている。
血だまりの横に靴の先が現れる。
「おお、我が子よ」
男が、叫ぶような、歌うような声を上げる。
徳芳はそれを見上げる。揺れる霧の中のようにはっきりとしない男の姿がある。顔を見れば、ぼやけてはいるが見知っている。いままでなら全身が冷たく凍りついただろうが、いまは目の前にいても遠く荒野の彼方であるかのようで、恐怖をもたらさない。
皇帝だ。この世にこの男がいるのは知っている。どうしてそれがここに立っているのか。その理由よりも、存在そのものを徳芳は訝しく感じる。
皇帝は徳昭の首を目だけで見下ろし、ゆったりと体を回転させ、床に倒れた亡骸へと歩み寄り、大きな動作で袖をたくしあげ、亡骸の右手が握りしめている刀へと手を伸ばす。刃の隅に指先だけ触れ、
「おお、だから、刃物を渡してはならぬと命じたのだ。どうしてこのようなことになったのだ」
酒楼の親父が戸口に平伏し、さんざん聞かされた言い訳を繰り返す。
「おお、我が子よ」
皇帝は頭を抱え、天に腕を突き上げて哭す。
その声を皇帝はすぐにおさめ、静かに屈み、亡骸の右手の指を一本ずつ広げ、割果刀を取り上げる。
「刃物を渡すなと言ったではないか」
皇帝の太い声は遠山の地鳴りのようで、同じこの部屋の内にあるものとは徳芳には思えない。
「そこにいる我が子よ」
皇帝が陽炎のように立っていてこちらを見ている。どうやら自分に向かって言ったらしい。
皇帝は刀の先を向ける。兄の血がそこから滴り落ちる。それだけはくっきりと見える。
「そなたは、よもや、同じようにはしないだろうな」
徳芳はその一瞬、我に返る。
皇帝が事実としてここにいる。その目が自分を見ている。おまえも知っているのかと皇帝は尋ねている。
牛の首もすぽんすぽんと飛ばす刀がある。皇帝はその切っ先を下げない。
割果刀がいま自分の手の内にあれば。
徳芳は確信する。兄は自身の心の全てを語ったのではない。兄の怒りと無念が徳芳自身のものになる。
皇帝の顔がわずかに緩む。
「我が子よ、そなたは武芸が苦手であったな」
徳芳はうなずき、皇帝は再び遠く彼方へと退いて行く。
皇帝は刀を静かに下ろし、振り返って亡骸の背中に載せる。
「大事な甥を、これ以上失う悲しみに、朕は耐えられない」
皇帝は徳芳をもう一度見て、大股で歩み去る。
なお言い続ける親父を皇帝は無造作に蹴転がす。
兄の妻の王氏が入ってくる。
その姿は風に揺れる紗のように徳芳の前を通って行き、夫の首の脇に膝をつき、大きく見開かれたままであった両眼を閉ざす。
徳芳はそのさまを見てはいるのだが、自分自身が同じこの部屋の内にいるとは感じていない。遠く隔て合う場所に王氏と自分はいる。
「夫の最後の願いを叶えてくださり感謝いたします」
徳芳はその声を聞く。しかし、自分はここにいるのではない。いまは暗く鎖された所に置かれている。
だから、徳芳は何も応えない。
「これで子孫には幸が開けましょう。そう信じることにいたします」
王氏が言う。
その言葉は徳芳の耳に入りはするが、その意味はわからない。音の響きを奇妙に感じるだけだ。
王氏は夫の背から割果刀を取り上げ、
「これを求めてここにこられたのです」
王氏は血糊を拭い、刃をじっと見つめ、夫の右手にその刀を戻す。
「さぞ、無念でありましたでしょう。そうではありませんか」
王氏は顔を上げ、徳芳を見つめる。
王氏の言うその意味が徳芳にはっきりと知れる。
牛の首もすぽんすぽんと飛ばす割果刀で飛ばしたかったのは兄自身の首ではなかった。王氏はそれをわかっていたし、自分もわかっている。
徳芳は再び暗く鎖された所へと戻り、得体の知れぬ世の中は他所に行ってしまう。自分は無理にこの世に引っ張り出され、皆に忌み嫌われ、いまはこの暗がりにいる。理不尽なこの世は残り、自分はいなくなる。
妻の香りのもとに帰ろう。それだけはまだあるはずだ。
頭痛が襲いくる。
この痛む頭を、首から切り離して捨ててしまいたい。
しかし、皇帝は言った。「同じようには決してしないだろうな」と。切ってはいけなのならどうしたらよいのだ。
目の前が闇に閉ざされる。
望んでいたいつもの香りがある。徳芳は妻の腕の中にいる。
「お気づきになりましたか」
「ああ」
幸いにもここに戻れたようだ。
自分はどうしていたのか。徳芳は思い出そうとしない。妻も尋ねない。
妻の瞳に自分の顔が映っている。妻と二人だけだ。妻は望むものを全て与えてくれる。これを永続させること以外なら。
考えると言っていた妻に、それを徳芳は尋ねたりしない。妻も言わない。
妻がここにいてくれさえすればそれでよい。
徳芳が妻の傍らで息を引き取ったのは、兄の死から一年半後の太平興国六（九八一）年三月のことだった。
同じ年の九月、趙普が都に呼び戻され、その翌年の三月、斉王廷美は罪を得て都を追放され、二年後に死んだ。
金匱の盟なるものが群臣に披露された。杜太后の命で趙普が誓約書を作り、宮中の奥に厳重に保管されていたという。皇位継承の順がそこに記され、いまの皇帝の次に継ぐべき弟も、その次に継ぐべき先代の皇帝の息子もこの世にはいなくなっていた。金匱の盟が正しく履行されていまの皇帝が立ち、そして、皇位は自ずとその皇帝の子孫へと引き継がれた。
百三十年程を経た靖康元（一一二六）年、契丹族の遼国に代わって勃興してきた女真族の金国に攻め込まれ、宋の都が陥落した。皇帝以下の皇族が連れ去られ、偶然にも一人残った趙構が南に逃れて即位し、宋は半減した領土をかろうじて保った。
趙構の男児は幼くして死んだために、徳芳から七代目の趙伯琮が召し出され、禁中で育てられた。趙構は徳昭、徳芳の兄弟が不運であったことを哀れみ、徳芳の子孫を皇太子に立てて位を譲った。三代にわたって徳芳の子孫が皇位を継ぎ、その次に、徳昭から十代目の子孫が皇帝になった。四人の皇帝がその後に立ち、趙昞が宋朝最後の皇帝となった。祥興二（一二七九）年、趙昞は蒙古軍に追い詰められて、舟より身を投じて死んだ。八歳であった。
冥界において兄弟の因を結び直したであろう徳昭と徳芳が、自身の子孫が皇位に就いたのを是としたかどうかはわかりようがない。