自由訳 夷堅志抄
「夷堅甲志巻第一」
［いくつかの無駄ごと］
●これは南宋時代の『夷堅志』を自由なスタイルで訳したものである。『夷堅志』は昔の中国の言葉でいうところの「志怪小説集」の類で、世に伝えられる不思議な話を集め、もとは420巻にも及んだが、後に多くが失われ、現在では207巻に再整理されたものが広く読まれている。
●『夷堅志』を編んだ洪邁（1123～1202年）は、政治家にして大学者であった。幼いころから書物を毎日数千言読み、一度目を通したものは忘れなかったと史書に記されているほどに博覧強記であった。洪邁には多数の著作があり、晩年に及んで多くの協力者を得てこの『夷堅志』を編んだ。
●訳者は『夷堅志』を好む者であるが、残念ながらその隅々まで正確に理解するだけの十分な知識がなく、また完璧な訳文を提供しなければならないとの矜持を有する専門家でもないので、日本語で楽に読めることを優先してかなりの程度放縦な翻訳を試みることとした。つまりは、誤訳を防ぐ力はないけれど、誤訳と気づかせないよう糊塗する技術には長けているということである。
●訳文の後に訳者が適宜書き添えるのは、知ったかぶりの似非知識を振りまわそうとするものではなく、『夷堅志』を楽しむ一助にでもなればと思うからだ。昔から多数の愛好者を持つ『聊斎志異』に比べ、『夷堅志』を好む者が圧倒的に少ないのは致し方ない面もあるが、訳者としてはいささか寂しく思うので、微力ながらも何かしたいというわけである。邪魔な無駄ごとは聞きたくないという方はどうか無視していただきたい。
●訳者が『夷堅志』を好む最大の理由は、逆説的ではあるが、個々の話の完成度の低さにある。それは、巷で語られる話を、洪邁が潤色を加えることなく収録した証とみることができるだろう。だから、当時の様々な階層の人々の声をそのまま聞けるかごとき趣がある。北宋の都であった開封の賑わいを描いた『清明上河図』という著名な画巻があり、多数の庶民の姿が活写されているが、それらの人々が語っていたのはきっとこのような話だったのだ。
●翻訳するに当たって以下の書物を参照した。
何卓点校『夷堅志』、中華書局、1981年。
束忱注訳『新訳宋伝奇小説選』、三民書局、2010年。
竹田晃・檜垣馨二『緑珠伝・楊太真外伝・夷堅志他』（中国古典小説選7）、明治書院、2007年。
李剣国輯校『宋代伝奇集』、中華書局、2001年。
徐吉軍・方建新・方健・呂鳳棠著『中国風俗史 宋代巻』、上海文芸出版社、2001年。
■孫九鼎（第1話）
孫九鼎は忻州の人である。
政和三年（1113年）のこと。孫九鼎は都の太学（国営の学校）で学んでいた。七夕の日、学校を出て、竹柵巷に住む同郷の段浚儀を訪ねようと、汴河の北側の岸に沿って歩んでいた。すると、高貴ななりをした人に出会った。その人は馬に乗り、多くの人を従え、雑踏の中から孫九鼎を呼び、すぐに馬から降り、
「孫君ではないか。あれから久しいが、元気だったかい？」
と、言った。
よく見ると、姉の夫の張兟だった。
張兟は街の北側にある酒肆（居酒屋）を指して言った。
「わしをあそこ招いてはくれまいか？ ちょっとゆっくりしようではないか」
孫九鼎は言った。
「公はお金持ちではありませんか。まさか僕みたいな貧乏書生に酒をおごらせる気なのですか？」
「わしにも銭はあることはあるのだが、ここでは通用せんのだ」
二人は店の中に入って座を定め、張兟は悠然と飲みかつ食らった。少ししてから、孫九鼎は張兟がとっくに死んでしまっていたことに気づいた。それで尋ねた。
「公はずっと前に亡くなっていたのではなかったでしょうか？ どうしてここにおられるのです？ こんなふうにお会いして、僕に何かまずいことがふりかかったりしないでしょうか？」
「それはない。君はたいそうな福に恵まれているからな」
そう言って、張兟は死んだときのこと、葬儀で孫九鼎がどのように振舞っていたかなどを語り、知らないことはなかった。
「去年の中秋の名月の晩に、わしは我が家に行ってみた。すると、君の姉さんは気ままに酒を飲み、わしのことなどこれっぽっちも想っていなかった。わしは腹が立ち、酒壺を傾け、小娘を叩いて出てきた」
「公はいまどちらにおられるのですか？」
「皇城司注祿判官という役目を仰せつかっておる。あちらの世界の官位を定めるのが仕事だ」
孫九鼎はそれを聞いて喜び、自分の先行きについて尋ねた。
「まだ決まってはおらん。十年に一回辞令が下り、おまえの名はまだ見ていない。死ぬのは早くても三十歳以後だ。この世での官職は低いものではないだろうな」
「こう言っては何ですが、公は平生から酒と色をひどく好まれ、毎月のように新しい女性と懇ろになっておられました。そんなことをしていながら、どうしてあちらの世で偉くなったのですか？」
「それはわしの行為の跡だ。大事なのはこの心だ。心が昧くなければ、それでよいのだ！」
語り終わらないうちに従者が入ってきて、
「交替のお時間になりました」
と報せた。張兟はすぐに立ち、孫九鼎と一緒に店を出た。
町行く人を指さして、
「あれもわしの仲間だ。ただこの世の人間にはわからないだけなのだ」
麗春門に至って孫九鼎に別れを告げ、
「おまえはここから去れ。決して振り返ってはならない。振り返ったらすぐに死ぬぞ！ おまえはいま陰の気に侵されてしまっている。明日、きっとひどい下痢を起こすだろう。平胃散を飲め。決して他の薬を飲んではならん！」
別れると、孫九鼎は初めて恐ろしくなった。
竹栅巷に行って段浚儀に会うと、段浚儀は孫九鼎の顔色がひどく悪いのを訝り、酒を飲ませて元気づけた。日暮れに太学に帰った。
翌日、ひどく下すこと三十余回に及び、平胃散を服用して平癒した。
孫九鼎はその後、毎回科挙の試験に失敗し、都が金国の版図に組み入れられて十余年してようやく首席で合格し、金国において秘書少監にまで昇った。
孫九鼎と我が父はもともと縁があって同じ塾で学ぶ仲であった。我が父が宋朝の使者として金国に出向いたときに何度か会い、孫九鼎はこのことを自分で父に語ったのである。
●本話の最後に、洪邁の父が話の主人公である孫九鼎から直接聞いたものであると記している。洪邁はほとんどの話に誰から聞いたものであるかを付記し、自分が勝手に作り上げたものではないということを明示している。中でも、この話は最も確かな筋から聞いたものであるとして、『夷堅志』の第一話として選んだのであろう。洪邁の父の洪晧は北宋から南宋にまたがって活躍した政治家にして学者で、やはり博覧強記で著作も多数あり、作り話を息子に聞かせるような人ではなかった。
●興味深いのはここに記されている年号で、政和3（1113）年には北宋朝はなお健在であった。洪邁の父の洪晧は政和5年に科挙に合格して官員としての経歴を歩み始め、一方、同じ塾で学んだ孫九鼎は北宋の時代には合格できず、俄かに北方に勃興した金国が、1127年に北宋の都（開封）を占領してから十余年後にようやく合格し、金国に仕える官員になった。
●北宋朝は都および領土の北半分を失って一度滅んだ後に、かろうじて中国の南半分を保持し、都を臨安（杭州）に置く南宋朝が興された。金国軍の猛攻の前に、中国の多くの場所が戦場となり、同時に民衆反乱も多発して、庶民は極めて悲惨な時代を経験した。『夷堅志』にはその時期の話が多数収められている。種々様々な悲劇を見たことが、怪奇談が多数生まれるもとになったのではなかろうか。
●この話で特に注目すべきは、張兟がとっくに死んでいるにもかかわらず、孫九鼎とごく普通に飲んだり食ったりしていることである。しかも、張兟は、ほかにも街中に死んだ人がうろうろしていると言っている。中国では死んだ者を鬼といい、生前の肉体を使用して活動するので、日本の幽霊が足がないとされているのと異なり、見かけは生者と変わりがない。それにしても、生きる者と普通に混在して暮らしているというのは、この話の際立った特徴であるといってよいだろう。恐らく、それはこの話の舞台が開封であることと関係があるのではなかろうか。開封は当時世界最大の都市であった。都市が大きければ大きいほど、街で出会う人の中に占める全く知らない人の比率が高くなる。開封ほどになれば、繁華街ですれ違うのは知らない人ばかりだということも当たり前になり、ならばそこに鬼がまざっていても不思議ではないという感覚にもなるであろう。われわれでも、都会の夜によく知らない道を歩いているときなどには、何かそれに似た恐れを抱いたりするのではないだろうか。死んだ者が何食わぬ顔でそこらにいるのなら、不可解なことがたくさん起こっても何ら不思議ではない。だから、『夷堅志』に納められた話もその通りにあったとして少しも構わないということになるだろう。そういう意味で、この話は『夷堅志』全体の成立基盤を示すものであると理解することも可能だろう。
●張兟はあちらの世界の官位を定める地位にあると語っているが、昔の中国の人たちが描くあちらの世界（冥府）は、こちらの世界のそっくりそのままのコピーといってよく、厳重な官僚制度で固められたがちがちの階級社会である。張兟のように死んでからよい地位に就くには、現世での振る舞いが決定的に重要であるとともに、子孫がしっかりと祀ることも大切で、それに関連した話が『夷堅志』には多数ある。なお、『夷堅志』にみられる宗教観、死生観には儒教、道教、仏教が混在・融合し、それが宋代社会の一つの特色である。
●この話で出てくる平胃散は洪邁の好みの薬だったようで、他の話でも言及される。この話を第1話に選んだのは実は平胃散の宣伝だった……ということはたぶんないだろう。
■柳将軍（第2話）
蔣静は宜興の人で、饒州安仁県の知事になった。
邑にはたくさんの淫祠（国が管轄しない民衆が勝手に祀る祠）があった。蔣静はことごとく破壊するよう命じ、もろもろの神をそこらの川に投げ捨てさせ、民に今後祀ることを禁じた。およそ三百の祠を壊したが、柳将軍の廟だけは最も霊験があるとされ、さすがにすぐに廃棄しようとはしなかった。それで廟はもとの姿のままであった。庭に一本の大きな杉があり、幹が極めて太く、枝は非常に広い範囲を覆っていた。
蔣静がいよいよその木も伐採しようと考えるようになったころのこと、琴堂（執務室）で昼寝をしていると、甲を付けて馬に乗る異人（普通ではない雰囲気の人）が夢に現れた。異人は階の下に来て馬から降り、丁寧にお辞儀をしてから、こう言った。
「私の姓は木卯です。ここに長らく住んでおります。幸いにも司成殿が庇護してくださるのであれば、その御恩は決して忘れません。いまから十五年後にまたお会いいたしましょう」
目が覚め、神が夢に出てきたのだろうと思った。「司成」と呼ばれたのだが、それが何の職であるのかわからなかった。すこぶる訝しく思い、杉を伐採するのをやめ、廟の建物を修繕した。
任期が満ちると、廟に詣でて別れを告げ、壁に詩を書いた。
夢事雖非実、（夢は現実ではないけれど）
将軍黙有霊。（将軍には隠然とした霊験があった）
旧祠従此煥、（旧い祠はますます輝きを増し）
古檜蔚然青。（古い木は青く鬱蒼と茂っている）
甲馬霄中見、（馬に乗り甲をつけた人が空中に現れた）
琴堂臥正冥。（琴堂に臥して目に見えないものを見たのか）
留詩非志怪、（詩を留めるのは事実としてあったこと）
三五扣神扃。（神の扉を十五年後にまた叩こう）
この詩は、石に刻まれていまも残っている。
蔣静はこれから十五年後に中書舎人となり、各地を転任して後に大司成となり、顕謨閣直学士にまで昇って亡くなった。
●柳将軍はいろいろな話に出てくる有名な神で、現在も信仰の対象になっている。本文中に、姓は木卯と名乗ったのは、「柳」の字形を表している。
●中国では昔から多種多様な神が祀られてきた。為政者は宗教も統治の対象とし、民衆が勝手に祀るものは淫祠として基本的に取り締まりの対象とした。宋代の地方官は、淫祠を破壊することを一つの重要な職務と心得ていた。いかがわしい神であっても、大衆は自分たちが信仰の対象としているものを破壊されるのを嫌うので、事なかれ主義をとる役人は見て見ぬふりをする。この話の蔣静は後に皇帝のブレーン集団（学士の称号が与えられる）に加わるような人であったので、果敢に淫祠を破壊し、柳将軍といえども、将来の出世を約束するという手段を取ることでようやく川に投げ捨てられずにすんだのだった。なお蔣静は宋代の歴史書『宋史』に伝記があり、そこにも淫祠を破壊したことが実績の一つとして記され、北宋の終わりに71歳で没している。
■宝楼閣呪（第3話）
袁可久は、かつて弟の袁昶に「宝楼閣の呪文」を教えた。袁昶は深く信じたわけではなかったけれど、毎朝起きると、三十回から五十回くらいは必ず唱えていた。それで何かよいことがあるわけではなかった。
紹興三年（1133年）の夏のこと、袁昶は府立の学校に所属して学んでいた。金国との大きな戦争の後で町は荒れ果てていた。
学校の警備をする兵士の汪成は、当番で宿直室に泊まると必ず悪い夢を見てひどくうなされた。それがずっと朝まで続くので、一晩たりともぐっすり眠ることができず、ひどく苦しんでいた。
ある人がどのような夢を見るのか尋ねると、
「誰かが髪の毛をひっつかんで、鞭で打とうとするのです。それで、やめてくれと叫ぶのです」
袁昶は汪成を自分の部屋に移してみたが、やはりうなされ通しだった。ほかの学生たちは睡眠を妨げられるのを嫌い、汪成を追い出そうと相談した。
袁昶は試しに例の呪文を書いて柱に貼ってみた。するとその夜は汪成は静かだった。それからは学校でおかしなことは一切起こらなくなった。
その呪文というのは、「唵摩尼達哩吽撥吒」の八字で、世俗が口から口へと伝えるうちに訛り、その音はもとの呪文を正しく写しているものではなかった。袁昶は大蔵経の中からこの八文字を見つけ、正しい文言にしたのは自分の功績だと言った。そして、昔はいい加減に唱えていたことを悔い、篤く奉るようになった。
（以上の二話も孫九鼎が語ったことである。孫九鼎はたくさんのことを記録していて、いずれも近年の事柄である。）
●この話では、汪成の見た夢の意味は解明されない。金と宋との間の大戦争で殺された者が、夢に出てきて恨み述べたり、頼み事をしたりする話は多々ある。この話は北宋が滅んで6年後のことで、戦争の傷跡が生々しく残っていたのだろう。
●『夷堅志』の冒頭の3話が、金国の官僚になった孫九鼎が話したことであるというのはなかなかに興味深い。中国は北の金国と南の南宋に分裂したけれども、民間のレベルでは当然ながら同じ文化圏にあった。
■三河村人（第4話）
張維は燕山の三河の人である。
我が父が朝廷の使者として金国の太原に至ったときに、張維は陽曲の主簿として接待役に当たった。その張維がこのようなことを語った。
宣和七年（1125年）、同じ村に、書物をよく読み、農業に従事する者がいて、年齢は六十歳余りであった。ある夜のこと、うなされて目覚めると、どうすることもできないほどに怯え、妻に向かって言った。
「わしの命ももうこれまでだ！」
妻は驚いてその訳を尋ねた。
「わしは夢を見た。畑の間を歩いていると、道の向こうから馬に乗った兵士が七人現れた。異国の者だった。一人は白い衣を着て、白い馬にまたがっていた。わしを見ると、怒って言った。『おまえの前身は、唐の時代の蔡州の兵士だった。おれは普通の農民だった。呉元済が反乱を起こしたときに、おれはお上の命令で堀の修理をしていた。そこにおまえがきておれを殺した。それからおれはずっとおまえのことを恨んでいた。いまおまえを見たからには、世が変わったとはいえ、おまえの命で償ってもらわなければならない！』
そして弓を引き、矢はわしの心臓に命中した。わしは倒れ、そして目が覚めた。きっと免れないだろう。明日、とにかく遠くに逃げて、この災いから逃れようと思う」
妻は言った。
「夜の夢など信じられるものですか。たまたま変なことを考えて眠ったのではありませんか」
老人は恐れるばかりで、未明のうちに家を発ち、六十里ほど離れた知人の家に行って災いを避けようとした。家ははなはだ貧しく、小さな孫になけなしの衣類を持たせた。草の道を三十里ほど進んで官道に出て、また二里ばかり進むと、数人に行き合って一緒に歩いた。
すると突然、馬に乗った兵士が現れた。
「止まれ！ 止まれ！」
と、何度も叫んだので、一行は皆止まった。
老人は、見ると兵士は七人で、うち一人は白の衣に白い馬、夢に見たのとそっくり同じだった。老人はひどく驚き、すぐに道から離れて走った。
白衣の兵は大声で、
「止まれ！」
と、叫んだが老人は聞かずに走った。
白衣の兵は大いに怒り、
「あれはきっと悪い奴だ！」
馬に鞭を当てて追ってきた。老人の前までくると弓を引き、矢は心臓に当たり、弦の音に応じて老人はぱったり倒れた。
七人の者は皆女真人だった。
●これも洪邁の父が収集した話。洪邁の父は南宋の使者として金国の支配下にある太原に行き、金国に仕える張維からこの話を聞いた。
●これは、北宋が滅ぶ直前の出来事である。金国は満州東部に住んでいた女真族が建てた国で、女真族は遼国（契丹族の国）の支配下にあって、その圧政にひどく苦しんでいた。女真族に英雄阿骨打が出て、1115年に遼国から独立して金国を建て、瞬く間に力をつけると、1125年に遼国を滅し、勢いに乗って宋に攻め入った。この話はまさしくそのときのことで、田舎の村に突如として金国の騎兵が現れたのだ。金国軍の疾風怒濤の勢いに、無数の民衆が無造作に命を奪われ、そのあまりの理不尽さに、このような話が生まれたのだろう。『夷堅志』には類話が多数ある。次の話は、北宋よりも先に亡国の悲劇に襲われた遼国での話である。
●なおここに距離の単位として「里」が出てきている。昔の中国の一里はおおむね500メートル程度である。
■鉄塔神（第5話）
蔚州城内の仏教寺院に、鉄塔神というまことに霊験のある神が祀られていた。土地の人ははなはだ鉄塔神を敬っていた。
遼国（契丹）がまさに亡ぼうとしていたときのことである。鉄塔神が町の外に出て走り回っているのを、ある者が見た。すぐに寺に詣で、鉄塔神の像を見ると、全身が汗でぐっしょり濡れていたので、非常に驚いた。どういうことなのかわからなかった。
その日の夜、寺の主の講師は夢を見た。鉄塔神が現れ、このように言った。
「私は天に仕え、この蔚州を任されている。このたびこの城中で大勢の人が死ぬこととなった。私は何とかしようとして連日奔走してきたのだが、とうとう明日の昼に女真族の兵がやってきて、城は破られてしまう。城中で一千三百人余りが死ぬだろう。この寺でも四十人余りの僧が死ぬ。和尚殿も死者の名簿に入っている。私はこの地に長らくいて、和尚殿の徳をずっと仰ぎ見てきた。だから、名簿にある和尚の名を他の者と入れ替えようとしてきた。明日の朝すぐにここから逃げなさい。うまくしたら逃れられるだろう」
講師は目が覚めると、寺の一同にこのことを語った。皆は、そんな馬鹿なことがあるものかと笑った。講師は一人、囊をひっさげて寺の後ろの山に登り、災いを避けようとした。五里ほど行ったところで、白金の盂を忘れてきたのを思い出した。それで山を下って寺に戻った。
そこにたまたま寺に物を届けにきた者が居合わせ、講師を引き留めた。皆もきて言うには、
「和尚様は御聡明であるのに、これはどうされたのです？ 夢などをお信じになるのですか？ いま檀家の方々が集まって、和尚様が御講話を説かれるのをお堂で待っております。それを抛っておかれたのでは、この寺の信用がなくなります。だいたい女真族がここに攻めてくるなどありえません。国境のあたりでも何ら警戒の声を聞いていません。皆様のためにお勤めをすませて、それでもやはりお逃げになるのなら、それからでも遅くはありませんでしょう」
講師は仕方なく堂に上り、講話をした。終わると食事に就いた。その半ば頃に、報せが入った。
「草原から女真族がやってきた！ もう城を囲んでいる！」
城はもともと備えがなく、守ることができず、たちまち陥落した。僧たちはあわてふためくだけで何もできず、走って逃げ出す間もなかった。町に入った女真族の兵士はすでに虐殺と略奪を始め、町と寺の死者の数は鉄塔神が告げた通りだった。講師も免れなかった。
●遼国は統治機構が弛緩し、金国軍の電光石火の勢いの前に、ほとんど為すすべもなく次々に町を奪われた。この話はそのありさまを写し出している。
●旧い中国で「城」というと、城壁で囲まれた「町」を意味する。戦争になると、城壁を境に熾烈な争奪戦が繰り広げられた。攻撃側は勝利すると、城攻めに費やした労力の代償を求めて、町にある財産を略奪し、無用な人間を虐殺するのが常であった。この話の場合はほとんど抵抗もなく即日陥落し、千人以上が殺害されたのである。
■観音偈（第6話）
張孝純の孫は五歳になっても歩けなかった。
ある人が張孝純に言った。
「近頃聞いたところでは、川の向こうのある農夫が、長らく足をひどく病んでいたのが、毎日毎日、観音様の名号を唱え続けたところ、ついに観音様がお姿を現し、四句の偈をお授けになったとか。それは『大智発於心、於心無所尋。成就一切義、無古亦無今』というもので、その農夫が偈を誦じ始めてから百日に満ちると、病気はすっかり治ったということです」
そこで、張孝純は孫と乳母にすっかり身を清めさせた上で、その偈を唱えさせた。すると二カ月も経たないうちに、孫は普通の子供と同じようにしっかり歩けるようになった。
後に足を患う者がこれを誦じるとみな験があった。
汀州の庶民である定光は、これとは少しだけ違って、「大智発於心、於心無処尋。成就一切義、無古亦無今」と唱えている。偈を求める人がくると書いて与え、その後ろに必ず「贈以之中」の四文字を記すのだが、それがどのような意味であるのかさっぱりわからない。
●第3話に類似し、偈や呪文は人から人に伝わるうちに変化するという話。
■劉廂使妻（第7話）
金国の興中府に劉廂使（廂使は職掌の名）という者がいた。漢人である。劉廂使もその妻も四十歳余りで、息子と娘、それに数人の使用人がいた。
ある日、劉廂使は使用人を全て解き放ち、家財を売り払い、孤独の老人を助ける施設を建てる事業を始めた。しかし、すぐには成就しなかった。
妻は左目を献じて、浄財を集めようとした。鉄の柄杓で眼球をえぐり、顔から二三寸ばかり引き出し、刀を挙げて筋脈を断ち切った。すると、さっと収まりくるものがあり、左眼は厳然としてもとのところにあった。同じことを二度三度と繰り返し、体中が血だらけになったところで、人々が集まって止めた。
翌日、妻がまた柄杓を挙げて眼をえぐろうとすると、眼はすでになくなっていて、えぐり出すまでもなかった。ところが、その翌日になると眼は元通りになっていた。
妻はすっかり気がおかしくなってしまい、人々は驚き、憐れに思って、争うにようにして銭や絹を夫婦に施した。
こうして孤老院は完成した。ときに金国の皇統元年、宋では紹興十年（1140年）のことであった。
■天台取経（第8話）
紹興七年（1137年）、斉国（金国が漢人を援助して作らせた傀儡政権）の済州通判（副知事）の黄塍は死んで三日目に蘇生した。
黄塍は言った。
「私は数人の者に捕らえられ、役所の庭に連れて行かれた。緋色と緑色の衣服の人が殿上に座っていて、こう言った。『おまえを五台山に遣わして、五百人の僧を連れて来させることにした』。『わたくしは家が貧しく、まだ幼い子もいますので、とてもそのような遠くには行けません』と、辞退しようとした。すると、左右にいた役人が進み出て言った。『代わりに李主簿を行かせたらいかかがでしょうか。この者はいずれまた役に立つこともありますでしょう』。それで、もとの者たちに送られて帰ってきた。こうしてまた活きることができたのだ」
それから二日ほどして、同じ州の山口県から次のような報せがあった。李主簿なる者が職務で同県に赴いていたのだが、駅舎で枕についたまま俄かに死んでしまったと。
黄塍は心の内でその者が自分の代わりに死んだのだと知った。それで李主簿のために葬儀を行ってやった。
それから一年が経ち、ある日、沐浴して衣を着替えると、妻にこう告げた。
「いまおまえと別れることになった。お上の御用で天台山に行ってお経を取ってこなければならない。私がここまで生きてこられたのは、『華厳経』を一度拝見した縁によるものだ」。
その言葉が終わると、目を閉じ、そのまま亡くなった。
●一度あの世に行って帰ってきた者の話（臨死体験）はだいたい似ている。いきなり役人に連行され、あの世の役所で、いわゆる閻魔大王に相当する者の裁きを受け、何らかの事情で死ぬのはまだ早いということになって、この世に帰ってくる。
●黄塍が復活できたのは、『華厳経』を一度見ていた功徳によるものだということなのだろう。ここでは記されていないが、身代わりを進言した者は、実はかつて黄塍から恩を受けていたというような形の話が多くあり、そうであったほうが読んで腑に落ちるところがある。
●この話の舞台は傀儡政権の斉国である。斉国（普通は「偽斉」と記される）は金国が劉予に作らせたもので、1130年から1137年の間だけ存在した。
■冰亀（第9話）
紹興八年（1138年）夏五月、都汴京に属する太康県で、夕方に大きな雷雨があり、氷の亀が降った。数十里にわたって、大小様々な亀が降り、首や足、甲羅の模様もみな具わっていた。
●『夷堅志』には、このような短い記事も少なからず含まれている。各地から収集した奇談を、あまり取捨選択せずに、ほぼそのまま収録したことを示すものだろう。
●この年代に汴京（開封）を都にしていたのは金国である。このあたりは金国側の情報に基づく話が続く。
■阿保機射竜竜（第10話）
遼国の建国者、耶律阿保機がかつて西楼にいたときのことである。夜、氈帳の中で眠り、朝、目覚めると、長さ十丈余りの黒い竜が、己の身の上でぬらぬらとうごめいていた。耶律阿保機はすぐに弓を引いてこれを射た。黒い竜は空へと跳ね上がり、うねうねと去って行った。
後に、黒い竜は黄竜府の西側に落ちた。西楼から黄竜府の距離は千五百里で、落ちた竜はわずか数尺の長さしかなかった。
その骸はいま金国の宮廷倉庫にあって、金国の宰相である陳王悟室の長子の源がかつてそれを見たという。尾も鬣も肢体も皆具わり、二本の角は人が切り取って持ち去られてしまっていた。
この竜の姿は我が家にある董羽が描いた『出水竜』によく似ているという。竜の背にある鬣は魚の背びれとは異なっている。
●最後の記述から、これは洪邁が父から聞いた話であろうと推測される。
●遼国の建国の英雄、耶律阿保機が生まれたのはまさに唐が滅んだ年だった。遼国の宝物であった竜が金国に伝えられたのである。
■冷山竜（第11話）
冷山は燕山を去ることほぼ三千里で、金国のどこからも五百里は離れ、あたりは不毛の地ばかりである。
紹興五年（1135年）、冷山に二匹の竜が現れ、名状しがたい色と姿で、長さは一丈余りであった。互いに数步を隔てて死に、あたりに冷気がただよい、生臭さが人を襲い、近づくことができなかった。一匹は角がなく、切って持ち去られたかのようであった。一匹の額には穴があり、大きさは三銭銅貨くらいで、斧でえぐったような痕があった。陳王悟室は人をやって角を切ってこさせようとしたが、不祥だといわれてやめた。
●上の耶律阿保機の竜から200年余り後の竜である。
■熙州竜（第12話）
戊午の年（1138年）の夏、熙州の郊外の濼水で三日間にわたって竜が見られた。
最初の日は、水面に蒼い竜が一匹見え、しばらくして水中に消えた。次の日は、金の竜が現れ、爪で一人の赤ん坊を抱えていた。赤ん坊は竜に弄ばれるのだが、怖がる様子はなかった。三日目は、やはり金の竜が現れた。同時に、紅い衫をはおり、玉飾りのある帯を付けた、宮中に仕える少年のような姿の者が白馬に乗って現れた。馬の前には六匹の蟾蜍がいた。半日ほどで消えた。
土地の人々が竜を見に押し寄せ、ひどく近くまで迫ったのだが、風や波に害されるようなことはなかった。
熙州の人が画に描いて劉齊に示したところ、劉齊は喜ばなかったという。その後、趙伯璘もその画を見た。
●以上、竜の話が3篇続いた。中国の奇談集には竜がしばしば登場するが、この3話で竜は特段恐ろしい威力をふるったりしていない。いずれも実在の名の知れた人物が関わっている。
■酒駝香亀（第13話）
徽宗皇帝の廟には玉で作られた酒を飲む駱駝が置かれている。大きさは四寸ばかりでありながら、酒を貯め込むと数升も入る。また亀の形の香炉がある、拳くらいの小さなもので、紫石に類してつやがある。香を焚くと、亀の口で受け、煙がその中に入る。
この二つの器は黄蠟で固めて、皇帝が遊びに出るときには必ず携えられた。蠟を取り去ると、駱駝は酒を出し、亀は香を吐いた。
これらは禁中にもとからあったものではなく、林霊素が献じたものだという人がいる。
●徽宗皇帝は風流人で、政治よりも趣味に生きて、結局は北宋を滅ぼしてしまった。林霊素は徽宗皇帝に尊崇された道士で、怪しげなエピソードが多々伝えられている。
■偽斉咎証（第14話）
斉国が金国の庇護のもと建国され、そのことを天に告げたときに、役人は誤って元号を靖康（北宋の最後の元号）と記してしまった。さらに、その儀式で、宋の皇室に伝えられてきた廟器を用いた。識者はこれらは不祥なことであるとした。結局、金人によって国は廃止された。
また斉国は紙の紙幣を作って、一貫から百貫まであった。紙幣の右側に「八年を過ぎたら使用できない」と書かれていた。斉国が存続したのはまさに八年間だったので、すでに初めからその兆が現れていたのである。
●第8話とともに金国によって建てられた傀儡国家の話。紙の紙幣は「交子」といい、斉国は小国であったから自力で銅銭をまかなうことができず、臨時の措置で「交子」を使用したのだろう。
■犬異（第15話）
金国の天会十四年（1136年）四月の中頃、都で少し雨が降り、ひどく雷が鳴り響き、数十匹の犬が争うようにして河に走って死んだ。救えたのはわずかに一、二匹であった。
●第9話の氷の亀よりもさらに些末な記事である。このようなものも『夷堅志』に収めているところから、細大漏らさず収録するという洪邁の編集方針がよくわかる。
■石氏女（第16話）
都の庶民で石氏という者がいた。茶店を開いて、幼い娘に茶の給仕をさせていた。
あるとき気の触れた物乞いがきた。垢にまみれた襤褸をまとい、店に入ってきて茶を飲みたいと言った。娘はうやうやしく茶を差し出し、銭を取らなかった。
それから一カ月余り、その物乞いは毎朝やってきた。娘はいつもよい茶を選んで飲ませていた。
父親はそれを知って怒り、物乞いを追い払い、鞭で娘を打った。娘は意に介する様子もなく、変わらずに茶を出す仕事を続けた。
数日すると、また物乞いがきて娘に言った。
「そなた、わしが飲み残した茶を飲むことができるかな」
娘は物乞いが不潔なのを嫌い、地面に少し茶をこぼした。するとよい香りが鼻を衝いた。それで急いで残りの茶を飲んだ。すぐに心が清らかになり、体が健やかになるのを覚えた。
物乞いは言った。
「わしは呂翁である。そなたはわしの茶を全部飲み干したのではなかった。それでも、まあよいだろう、わしはそなたの願いを叶えてやろう。金持ちになろうと、長生きをしようと、何でも願うがよい」
娘は庶民の家に育ったので、貴い身分のあることも知らなかったし、財産が乏しいこともわからなかった。それで、長寿だけを求めた。
物乞いが去った後で、娘は両親に告げた。二人は驚いて物乞いの後を追ったが、すでに見えなくなっていた。
娘は年ごろになると、近衛兵のもとに嫁ぎ、後に呉燕王の孫娘の乳母となり、朝廷から邑号を授かった（名目上、ある町を領地として与えられること）。乳を与えて育てた娘は高遵約のもとに嫁いだことから、康国太夫人に封じられた。
かくて石氏の娘は百二十歳まで生きたのだった。
●汚い姿をした者が実は尊い人物で、その見かけを厭わなかった者が幸運に恵まれるというパターンの話は非常に多い。ここに登場する呂翁は、宋代を通じて最も有名な仙人である。唐の終わりから宋の初めに活躍した呂洞賓がその元祖で、『夷堅志』のあちこちに登場する呂翁がすべて同一人物で呂洞賓であるかどうかはわからないが、それを詮索したところで意味がない。
■王天常（第17話）
元豊年間というから、宋が非常に栄えていたころのこと、都に王天常という金持ちがいた。高魯王の家の婿であった。
ある夜のこと、夢の中で二人の役人がきて、無理やり連れて行かれた。
「ここで目を閉じて座っていろ」
と、言われ、それであたりを伺い見ることができなかった。
「わしは書類を点検してくる。終わったらまたくる」
と、言って、役人は行ってしまった。
それで王天常は目を開けて見まわすと、立派な門があり、額に「三坤城」と記されていた。広場があり、手枷、足枷で繋がれた者がおびただしくいた。よく見ると皆が僧や尼で、その周りを獄吏が監視していた。
そのまま座っていると、役人が戻ってきて、王天常を役所に連れて行った。中央に朝服を着た者が座り、多くの役人が侍立していた。
「どこからきたのか？」
と中央の者が尋ねた。
「都からです」
と、王天常は答えた。
すると、一人の役人が、
「これはしたり、誤りにございます。ここに連れてくるべき王天常は都の人間ではありません。この者はすぐに帰すべきであります」
王天常が見ると、その役人は旧い友人で、死んでもう十年以上になっていた。その役人は一冊の大きな書物を抱え、階段を下りてきて、旧友である王天常に向かって会釈すると言った。
「あなたはすぐにここを去りなさい。ここは世の人がいるべきところではありません」
と、言った。
「その書物は何でしょうか」
「世間の生きる者、死ぬ者について記してあります」
王天常は自分について何が書いてあるのか見たいと思って頼んでみた。役人はだめだと断った。再三頼むと、ぱらりと開いて見せてくれた。「某年月日、一刀のもとに死す」とだけ見え、すぐに閉じられてしまった。
王天常は人に連れられて送り出された。
夢から覚めると、親戚の者にこのことを語った。
その後、王天常はかの書物にあったような非業の最後を遂げることを恐れ、心配が積もり積もって労疾となって死んでしまった。
後で人が思うに、「一」の下に「刀」を書くと「労」という字になるのだった。
●死後、裁きの場に連れて行かれて、助けられて蘇るという話は『夷堅志』に非常に多く、この話は第8話よりも構成がしっかりしている。
●冥界で罰を受けているのが僧や尼だという記述も『夷堅志』には多い。洪邁が仏教に対して冷淡であるのと、戒律を守らぬ僧尼が実際に多かったことによるのだろう。
●夢で見たことを気にしすぎてそれが原因で死んでしまったというのは、人間の心理としていかにもありそうでおもしろい。夢は真実を告げると確かに信じていればこそこのようなことになるのだろう。
■黒風大王（第18話）
汾陰県の后土神の祠は汾水から南に四十里のところにあった（后土神は土地の守り神で、女性とされることが多い）。祠の前に洪河が流れ、連なる山々を廟堂とし、旧くは漢ないし唐の時代からそこにあって、建物は壮麗であった。
紹興年間にこのあたりは金国軍のもとに陥り、女真族の軍司令官の黒風大王というものが数万の兵を率いて、ここから梁州、益州のあたりを攻略するために、祠のもとで野営した。兵士はごみや汚物を丘のように積み上げたまま掃除をしなかった。
ある夜、黒風大王は酔って祠に入り込み、后土神の真の姿を観てやろうとした。神を冒瀆するつもりだったのである。左右の者が固く諫めたが、聞き入れず、十人余りを連れた。
するとたちまちぱっと光が起こり、煙がもくもくと湧き、人々を襲った。その勢いは立っていられないほどで、黒風大王は恐ろしくなり、急いで走って祠から飛び出した。建物の門が勝手に閉まり、そのために後に続く者は足に怪我をした。
黒風大王は后土神を拝み、お祓いをして謝り、明日には駐屯地をほかに移すと約束した。
翌日はからりと晴れわたり、正午の頃に、雲がぽつんと祠の上にたつと、たちまち雷が鳴って雨が降り出し、すぐに数尺の深さの流れとなって糞尿へと向かい、一切残さず流し尽くした。
黒風大王は身を清めて神を祭り、五万緡の銭を投じて我が罪を贖った。そのとき洪水のために士卒の十人に二人以上が死んでしまったのだった。
●大軍を動かすときに、汚物を適切に処理するのはなかなかにやっかいな問題である。ずっと後になるが、朝鮮半島で豊臣秀吉の遠征軍と、明国の旧援軍が戦ったときに、それを目撃したイエズス会士の報告によると、豊臣軍は汚物は垂れ流しであったが、明国軍は清潔に処分していたという。大陸で大軍を動かすことに慣れていた明国軍との実力差を示すエピソードである。このときの金国軍はまだ遠征に習熟していなかったのだろうか。
●宋は大挙して押し寄せてきた金国軍の前に、ほとんど為すすべもなく広大な土地を失ったのだが、土地の守り神がささやかな抵抗したというのがこの話である。せめてそういうことでもあってほしいという民衆の願望が生んだのだろう。
■韓郡王薦士（第19話）
紹興年間のこと、韓郡王がすでに国家枢要の地位から退いて家でぶらぶらしていたころの話である。
韓郡王はいつも頭に一字巾を付け、騾馬に跨って山や湖のあたりを遊び歩き、召使の少年を四五人ばかり連れた。
時に李如晦という者は、楚州の幕官から将軍になるはずのところをその地位を獲得できずに職を失ってしまった。どうすることもできないので憂いに沈んでいた。ある春の日、人々は誘い合って遊びに出ることになったのだが、李如晦だけは気分が悪いと言って断った。
「春の野に行けば、きっと気が晴れるさ」
と、皆は李如晦を無理に連れ出した。
それぞれ馬に鞍を置き、九里松まで行くと、俄かに雨が激しく降ってきた。人々は散り散りになって避難し、李如晦は走って冷泉亭に至った。衣服がぐっしょり濡れてしまい、ますます気が塞いで、坐してしきりに嘆いていた。
そこに韓郡王が現れ、互いに会釈を交わした。韓郡王は李如晦の憔悴し切った様子を見て、
「官人は何か心にまとわりつくものでもあるのですかな。どうしてそんなにも浮かない顔をしておるのか？」
と、尋ねた。言葉に北方のなまりがあった。
李如晦はそれがまさか韓郡王だとは知らなかったが、非常に堂々とした姿であったので、すこぶる敬った態度でありのままを告げた。
「どういう官職をお望みなのかな。手元に一枚の紙がある。明日そなたに何か贈って進ぜよう」。
そう言って韓郡王は立ち去り、後に残った少年が詳しく李如晦の姓名や階位、居住地を尋ねた。李如晦はその人物が韓郡王だったと聞いて感激の余り泣いた。
翌日、一人の役人が一枚の紙を持って李如晦のもとを訪れ、
「韓郡王様からの贈り物です。銭三百貫を援助いたしましょう」。
かくて李如晦には都の役人に昇進する路が開け、改めて韓郡王の屋敷を訪ねて門下生の礼を取ろうとしたが、会ってはくれなかった。
●この話に登場する韓郡王とは北宋から南宋にかけて活躍した名将、韓世忠である。韓世忠は北宋を震撼させた方臘の乱を鎮圧してその名を挙げ、北宋が金国によって滅ぼされた後に金国軍と果敢に戦って南中国の地を守り、一時は形勢逆転かとする思わせる場面もあった。しかし、秦檜が南宋朝廷の実権を握って金国との和平を強引に進めたために、韓世忠は兵権を解かれ、引退を余儀なくされた。この話は引退後の韓世忠の隠れたエピソードとして語られている。
●韓世忠の言葉に北方のなまりがあったとするのは、韓世忠が北の延安の出身であったからだ。この話の舞台は南宋の都、臨安の郊外で、なまりに言及することで話にリアリティを持たせる効果がある。
●この話が実話であるかどうかはあまり問題でない。庶民に人気のある武将が人情家として描かれているのである。逆に秦檜は庶民から最も嫌われる政治家として著名である。韓世忠は引退後は軍事について一切口にしなかったとされ、内には鬱屈する思いがあったのだろう。憂いに沈む李如晦の姿がどこか韓世忠の琴線に触れるところがあって、支援したということなのだろう。洪邁が小説家であるのなら、より感動的な話になるよう構成や表現に工夫を加えるのだろうが、あくまでも記録者として、はなはだ盛り上がりに欠ける記述に甘んじている。
●『夷堅志』の最初の巻は、北宋が滅び、中国のほぼ全土が戦乱に巻き込まれ、民衆が筆舌に尽くせない苦しみを負った時代の直前の話に始まり、その時代がほぼ終わるころの話で終わっている。こうした時代を経て『夷堅志』が編まれたのは、あるいは何か意味するところがあるのかも知れない。ヨーロッパでペストが大流行して人々が悲惨な経験をした後に『デカメロン』が生まれたのと似たところがあると考えても、全くの見当はずれと決めつけることはできないだろう。訳者が自らの非力を顧みずに『夷堅志』の翻訳を思い立ったのは、ちょうど「コロナ禍」の最中にあってのことである。いわゆる「新しい生活様式」が始まりつつあり、その後に、旧来の生活様式の記憶はどのようにして残されてゆくのかということに思いを巡らしつつ、この『夷堅志』の翻訳を始めたのである。
（2020年6月30日）