禄命は怒中にあり――魏元忠

　一人衆に異なる存在であろうとする思いが、一時の快を追わせ、遠く残る名を求めさせた。

　怒りが堰を切る瞬間に最も強靭になり、可能でないものはないと思えた。滔々と怒りの奔騰が流れ去ると心は静謐に至った。刑場で斬られようとしたときがまさにそうであった。

　本来の名を真宰といった。則天武后の母の号と文字が重なるのを避け、元忠に改めた。その名を、古の名臣よりも高きに置かんと志し、多くの敵に阻まれ、高位に昇りかけると必ず罪を被せられた。

　二度目の流罪から召還され、「そなたはいつも謗りを受ける。なぜか」と則天武后に問われた。｢臣は鹿、羅織の徒は猟人にございます。猟人は鹿を殺して肉を得、羅織の徒は臣を殺して栄達を得ます。鹿にもとより罪はありません｣。羅織の徒とは、粛清の嵐の担い手であった。些事をもって人を告発し、残虐な拷問を用いて自白させ、死に導いた。その行為は、網を羅らして罪を織る、羅織と称され、朝野を震撼させた。

　魏元忠は拷問に耐え、三度獄に下っても、その度に復活した。義を重んじる者はその後に続くのを願った。だが、則天武后の死後は著しく精彩を欠き、はなはだ人を落胆させた。

　　　　一

　魏元忠は唐の貞観十二（六三八）年に生まれた。後世より理想の時代と仰ぎ見られた「貞観の治」のただなかであった。

　その年の秋に、二代皇帝太宗は「創業と守成といずれが難しかろうか」と近臣に尋ねた。宰相の房玄齢は「王朝が興ろうとするとき、群雄が並び立って角を突き合わせ、後に群雄を臣下といたさねばなりません。創業こそ難しいと存じます」。皇帝の諫め役の魏徴は「古より帝王になった者で艱難の内より出なかった者は一人もおりません。その多くが安逸に走り天下を失いました。守成こそが難しいと存じます」。

　皇帝は言った。「房玄齢は朕とともに天下を取り、百の死より出て一の生を得た。故に創業の難を知る。魏徴はいま朕とともに天下を安んじようとして、富貴の中に驕奢が生じ禍乱となるのを常に恐れている。故に守成の難を知る。創業の難は過ぎ去った。守成の難はここにある。諸公とともに慎まなければならない」。

　魏元忠の父は、功臣名臣が並ぶ最良の時代の朝廷を離れ、郷里の宋州宋城の郊外に身を引いた。皇帝より禄を賜っていたときは、近縁、遠縁、無縁の者がひっきりなしに腰低く付きまとった。宋城に帰り、もはや掠め取るべき目ぼしいものはないと見切りを付けられると、訪れくる者はいなくなった。父はそれを幸いとし、書物を友とする日々を送った。

　息子が学問の手ほどきを受けられる年齢に達する前に父は没した。残る財産は乏しく、都で高い地位にあったにしては、葬儀は極めて質素だった。

　魏元忠は母に学問を教わった。母は厳格だった。竹の杖を手にし、息子が筆写してわずかに字を乱すと打ち、暗誦してわずかに言い淀むと打ち、意を取り違えるとしたたかに打った。母の教えは十余年続いた。

　母が病に伏せたのは数日の間だけだった。身の辛さを言わず、古の人を語った。「そなたは虞詡になりなさい」。

　虞詡は後漢時代の名臣であった。幼くして両親を失い、祖母に育てられた。深く学問に通じ、その評判を聞いた地方の大臣が用いようとした。「祖母は九十歳、私がそばにいなければなりません」。虞詡は辞退した。祖母が死に、三年の喪が明けて初めて官に就き、才を現し、中央に召された。当時、朝廷は西方からの異民族の圧迫に手を焼き、時の権威者は西方の地を放棄しようとした。虞詡が敢然と反対した。権威者は論に屈し、虞詡を憎んだ。たまたま朝歌の地で賊が反乱を起こし勢いが盛んであった。権威者は虞詡を朝歌に行かせた。権威者は、虞詡が反乱の鎮圧に失敗するのを待って、罪に陥れて抹殺する腹だった。友人は都を発つ虞詡に悔やみを言った。虞詡は「いかなる斧も槃根錯節に遭わねば利器であると証することができません。これぞ我が功を立てるときです」と愉快そうに応じた。朝歌に着くと、土地の太守は「君は儒者、廟堂において事を謀るのが役目です。賊と戦をせねばならぬ君を憂えずにはいられません」。虞詡はやはり笑って答えた。「賊は温飽を求めて集まる犬羊のようなもの。何の心配もありません」。虞詡は町の獄に赴き、賊の一味として捕らえられていた人々を解放し、その中で職のない者を兵として採用し、十分な衣食を与えた。それを聞いた賊中から多くの離反者が出た。虞詡は兵団を充実させ、討伐に出た。主謀者を斬って乱は終息した。虞詡はその後も幾度となく権威者と対立し、譴責を受けること九回、刑罰に遭うこと三回に及んだ。死に際し、「帝にお仕えし、直ぐなる道を貫き通し、我が行いに恥ずべきところは何もない。ただ一つ悔やまれるのは、朝歌において数百人の賊を殺したこと。その中に無実の者が一人もいなかったとは言えまい。以来二十余年、我が家に男児が生まれなかったのは、かかる罪を天に得たためであろうか」。

　魏元忠の母は言った。「虞詡が強かったのは怒りの人であったからです。そなたも怒らねばならぬときがきましょう。安直に怒ってはいけません。鼻を押さえ、怒りの気がやすやすと抜け出ぬようにしなさい。怒りを貯めて貯めて貯め抜くのです。そうすれば虞詡になれます」。母の教えを守ると誓った。

　母の亡骸は粗末な棺に納めた。長く家に仕える黄婆やが苦労してそれを手に入れた。たった二人で土に埋め、木の墓標を立てた。「いつしか父母の墓を立派に祀り直さなければ、この不孝な子は天から見放されよう」。黄婆やは墓標の痕を撫ぜて泣いた。「このようにお書きになれるお坊ちゃまでございますれば、このお家を、昔以上に御立派に大きくなさるに違いありません」。

　ことのとき魏元忠には、傾いた小さな襤褸家と、狭い畑と、書物があった。「昔は立派だったのかい」。「都にはそれはそれは大層なお屋敷がございました」。「父上はなぜ都をお離れになったのかい」。黄婆やは口に手を当てて黙った。墓碑に長い祈りを捧げ、ぼそりと言った。「この婆めにはわからぬことでございます」。

　母は都でのことは何も話さなかった。理由があったのだろう。「父上は都で何をなさっていたのかい」。「この婆めには難しいことはわからないのでございます」。黄婆やは逃げ腰だった。それでもしつこく尋ねた。「父上はここでの貧乏暮しを御自身でお選びになったのかい」。黄婆やは困った顔で、「昔のことはもう覚えておりませんのです。ただ、そのことはそうであったと思います。こちらにこられますときには、何の不自由もない楽な暮しができると、この婆などは思っていたのでございます。それくらいのものは十分にお持ちでございました。ところが、あれよあれよと言う間に、御親戚の皆様方にすっかり持って行かれてしまったのでございます」。「騙されたのかい。父上はお怒りにならなかったのかい」。「不思議なことに、むしろお喜びになっていました」。「どうしてだい」。「もとより自分のものではないのだからと、そのようなことをおっしゃっていました」。

　魏元忠は父を記憶に求めたが判然としなかった。「父上はそうであったのか。で、母上はどうだったのかい」。「何もおっしゃいませんでした」。「じっと耐えておられたのかい」。「この婆めには難しいことはわからないのでございます。もうお聞きにならないでくださいましな」。黄婆やは泣きそうだった。都でのことは言ってはならぬと止められていたのだろう。

　魏元忠は畑の向こうの家を顧みた。いかにも粗末であっても、そこに住んでいられるのは、父が昔大官であったからだ。母と黄婆やと三人で狭い畑を耕し、そこから得られた物でどうにか食べてこられたのも、父が昔大官であったからだ。年少の魏元忠にも、近隣の農民よりは恵まれているのはわかっていた。

　襤褸家を見る魏元忠の心に何かが兆した。それが何であるのか、すぐにはわからなかった。次第に、心の底が熱くなって行き、どうやら怒りのようであると思えた。自分いまは怒っているのか。それはなぜなのか。

　見慣れたこの土地の風光がいままでと違って見えてきた。怒りの原因を知った。世に正しい道は行われていない。そのことを自分はいま知ったのだが、父はそのために都を去って財を自ら失い、母はそのために虞詡になれと言い残した。道を憂いて貧を憂えず。孔子はそう言った。怒りが渦を巻き、魏元忠は急いで鼻を押さえた。母にこのことを教わったときにはわからずにいたのだが、自分は虞詡のような怒りの人であるらしい。この怒りを保って、自分は戦っていかねばならない。

　その決意が、黄婆やと二人だけの暮らしへの不安を薄めた。

　文字通り晴耕雨読の日々となった。

　黄婆やは小柄であったがすこぶる頑健だった。男でも担げぬ大きな荷を軽々と肩に乗せ、朝から夜まで働き詰めで、決して弱音を吐かなかった。

　母が飼っていた老いた赤犬がいた。勝手に住みつき、「おまえも少しは利巧ならこの家は駄目だとわかりそうなものなのに」と、母は三日に一度だけの餌を与えていた。

　赤犬は、晴れの日には畑の脇で、雨の日には土間の片隅で、「草の一本でも抜いてくれてばちは当たらないのに」と黄婆やがぼやくのを他所に、寝そべってばかりいた。魏元忠は、母の代わりに赤犬が見守ってくれているような気がした。

　母はよく言っていた。「書物は滋味豊かな畑です。耕し方はすでに教えました。耕して耕して耕し続ければ必ず稔ります。励むのです」。その教えに従って書物を読んだ。畑に鍬を下ろすとき、書を読むのと同じ心を用いた。心を込めれば畑は稔った。だから、学問も稔ると思えた。母は「儒者は軍師です。平時には戦時に身を置くと思い、戦場においては平生の通りにあろうとせねばなりません」とも言っていた。母を葬った日に戦うと決意したのを忘れまいとした。

　父が残した蔵書には儒学の経典や史書の他に兵法書が多数あった。戦において人はどうあるべきかを学んで日々に活かそうとした。書物には朱の合い印が処々にあった。その多くは、死に至るも節を曲げなかった人物の言行に付されていた。父の心がそこにあると思えた。一人朗誦していると、父が敬慕していたであろう人物に、必ず自分も近づけると思えた。自分は衆に異なる人間にならねばならぬと考えた。

　赤犬は二年ほどで死に、母の墓碑の近くに埋めた。

　その頃までに、魏元忠には一つの強固な信念が形成された。人生において目指すべきは、母に誓った通りに虞詡だ。虞詡は地方の大臣の招きを断った。世に出る手蔓を求めるのは浅ましい。我が心を真に知る人がいるのならば仕えよう。そうでなければ、ひたすらに学問を窮め、節義高く郷里に埋もれよう。父は太宗皇帝の朝廷から去った。母はその経緯を何も語らなかった。その父母の子である自分に、世に媚びるところがあってはならない。赤犬の目がなくなっても、我が怠りは、自分で戒めなければならない。

　　　　二

　二十歳を過ぎるようになると、信念は変らずとも、焦りが生まれた。畑を耕す手が止まり、我が心を真に知る人とは誰であろうかと天を仰いだ。書物を読んでも気が塞ぎ、そこに記される人物には近づけない気がした。節義高く郷里に埋もれるのを良しとするのなら、忍耐は数十年の生涯に及ぶ。それはわかっていても、去年と同じ日が今年も過ぎ、来年も同じ日がくると想像すると、活力ある若さが失われて行くのが悲しく思えた。母の竹の杖で身を打ち、心に怒りの火をともそうとした。

　二十歳の男児には別の悩ましさもあった。黄婆やの望みと関連していた。「もう二十歳におなりになりましたのに、お嫁さんをおもらいになるあてがないとは、世の中、どういうことでございましょうか」。黄婆やはしきりに不平を口にした。「何せこのひどい貧乏家だ。ここにこようとする女などどこにもおるまい。親類からも見限られた我が家だ。娘を嫁に出そうとする親はあるまい」。「大事なこのお家が絶えてよろしいわけがございません」。「子がないのは不孝の第一とは言うが、どうかなるものでもあるまい」。「若い殿御が、こんな婆さんと二人暮らしでは、はたで見てもお淋しいものでございます。良き殿御には可愛いお嫁さんがなくてはなりません」。魏元忠も男であるからには抑え難き情もあった。

　「このちっぽけな家だ、別段、淋しくない。それに、おまえと二人だけではない。他にも大勢いる。ほら、まず鼠がいるだろう。どこから食い物を見つけてくるのか、いつでも賑やかに走り回っている。いくら辛抱強い嫁がいても、ろくに食べ物もないこの家で鼠のように元気ではいまい。ときには猿が顔を見せ、軒下で書を読む声に耳を傾けてくれる。学問の友となる嫁もまずいないだろう。昔は赤犬もいた。三日に一度の粗末な餌に文句を言わず、忠実だった。あれくらいでなければ、この家ではやっていけない」。魏元忠は強いて笑った。

　「鼠や猿や犬と、人間のお嫁さんが一緒になるものですか。これだけ学問に励まれて、お嫁さんもこないというのは、どうにも道理に合わないように思うのでございます。鄭のお坊ちゃまが町から教えを請いにこられましょう。あちらには立派なお嫁様もお子様もおられるではございませんか」。「鄭君のところは裕福な家だ。学問に励んだからといって嫁がくるものではない」。「学問は世の中のお役に立つのでございましょう。お嫁さんをおもらいになる足しにもならないのなら、学問をする家はどこも一代で絶えて、学問なぞ廃れてしまっていると思うのでございます」。「妙な理屈を言う。いずれは学問で身を立てる日がくる」。「わたくしも年でございますから、早くしていただいて、早くお嫁さんの顔が見たいものでございます」。

　二人だけの暮らしであるから、数日に一度はこのようなやりとりが繰り返された。

　「鄭のお坊ちゃま」とはほぼ同年齢の鄭惟忠だ。数年前に偶然通りかかってより、訪ねくる唯一の友となった。「学んで実践しないのは学ばぬのと同じです」と、皇帝のため、郷里のため、一族のために、我が一身を役立たせようと、文官登用試験の貢挙を目指していた。

　貢挙は、門戸の貴賎に基づく縁故採用の弊を改めるべく、隋の世に始まった新制度だった。官人の中で試験の及第者が占める割合はまだ小さかった。それでも、朝廷との個人的な繫がりを持たぬ者にとっては大いに目指すべきものとなり始めていた。

　鄭惟忠は近隣では名の通る師に学問を習い、その教えに飽き足らぬところがあると魏元忠に尋ねた。魏元忠の答えに鄭惟忠は「貴公は人と異なります」と常に驚嘆した。魏元忠は一人で書物を耕してきたために、自分の読みがどれほど独創的であるかを知らずにいた。鄭惟忠は温厚な人柄で、静かに学問の話をしていると心が安らいだ。時には不足する品を届けてくれた。

　鄭惟忠は貢挙の地方試験に挑むに当たって魏元忠を誘った。

　「貢挙を受けるための勉強はしておりません」と断った。「貴公なら、特に準備などせずとも、簡単に合格しましょう」。「受ける気がありましても、旅費が工面できません」。「私がお誘いして、その心配を貴公にさせはしません。一緒に行っていただけると、私も合格できる気がするのです。私のためだと思って同行してください」。鄭惟忠は誠実であり熱心であったから、きっぱりと断らねばなるまいと魏元忠は思った。

　「一を問われて一を答える試験で人がわかろうはずがありません。人の真価は、その為すところを見て初めてわかりましょう。試験を受ける気は毛頭ありません」。「それも一つの見識でありましょう。昔は人が人を見て、有為の人を見出したものです。ただし、それはしかるべき人が見るという前提があっての話です。世に害を為す人が同類を選ぶ弊を免れるのは難しいというのが、歴史の示す結果ではないのでしょうか。よしんばしかるべき人がいた場合でも、このような田舎町にいる我々は、どうしたら為すところを見てもらえましょうか。世に埋もれたままの人間を少なくするのが試験です。試験に合格するのは、為す場を得るためにまず必要であると思います」。

　魏元忠も、父が生きていれば、その後を継いで官位を得る道があった。都人との縁は昔に断たれ、才を見出してくるような人はいなかった。

　「そのように考える人はそのようにされてよろしいでしょう。私は違います。為すところを見せようなどと齷齪しません。世に益するものが己の内にあるならば、必ずやそれを用いねばならぬときがきます。そのときがきたならば為すべきことを為せばよいのです。こなければそれまでです」。一人で固めてきた信念を口にした。その信念に現実には焦りが生じていたために、魏元忠の頬が赤く染まった。

　鄭惟忠は友の言葉をすんなり受け入れた。「よくわかりました。諦めます。一人で試験を受けます」。「ともに受けに行く以外で、できることがあれば何でもいたしましょう」。「これからも教わりに参ります。嫌がらずに教えてください」。「いつでも喜んで」。

　鄭惟忠は微笑み、「早速ながら一つお聞かせいただきたいことがあります。貴公の、その自信のほどはどこからくるのでしょうか。見習いたいと思います」。「自信などはありません。学び得たものが確かに世に益するものであるのならば、用いられずに置かれはしないと思うだけです」。「では、世に益する学問とはいかなるものでしょうか」。魏元忠は答えようとして、頬がさらに赤くなった。これも初めて口にするのだった。

　「一言でお答えすれば用兵の術です」。鄭惟忠は驚き、「この泰平の世に用兵の術ですか。思ってもいませんでした」。「泰平だからこそです。平時には戦時が潜みます。戦乱の世であれば、自ずと用兵の術に長けた名将が生まれ出ます。我が朝にもかつては大勢の方々がおられました。いま見回して、どなたが残っておられるでしょうか。昨年は鄂忠武公様がお亡くなりになりました。鄂忠武公様は賓客を家に入れぬこと十六年に及んだと聞きます。あの方の身の内にあった術は絶えてしまいました。まことに惜しむべきであるのに、嘆く者はいません。何とも残念です」。

　鄂忠武公とは尉遅敬徳。創業の難の最も厳しい時期に並外れた武勲を挙げた。それが著しいものであっただけに、天下統一の事業が成し遂げられると警戒の目を向けられた。太宗皇帝にも忠誠を疑われ、尉遅敬徳は裸になって身体に付く無数の傷痕を示し、どれがどこの戦で負ったものであるかを語った。「かように万死を厭わなかった者が、いまさら何を求めて御謀反をいたしましょうや」。尉遅敬徳は許され、以来、人に会わず、太宗が死んでからは、延年の術に凝る風を見せ、政治軍事に一切関わらなかった。

　鄭惟忠は首をかしげ、「惜しむべきと私も思わぬではありません。ただ、敢えて分けるならば、用兵の術は創業の難においてより多く必要とされ、守成の難においては儒の教えがより多く求められるのではありませんか。貢挙の試験が、儒教の経典をどれほど学んだかを問うのは理のあることです。用兵の術に入れ込まれて、用いられるときがきましょうか」。「用兵の術はいついかなる時代でも必要です。太宗皇帝がおっしゃった守成の難とは、用兵の術が絶えることにあったと私は考えます。多くの人が貢挙のために学ぶのは結構です。しかし、用兵の術を志す者もいなくてはならないのです。たとえ一人であろうとも私は我が道を行きます」。魏元忠は言い切った。

　鄭惟忠は静かに嘆息し、「やはり、貴公は人と異なります。一人信念に従い、私の及ぶところではありません。立派なお考えです。それでも、敢えて申しましょう。泰平が続いて、用兵の術が用いられずにあるのが、民のためには望ましいのではありませんか。儒者の仕事は泰平を保つことにあって、それを太宗皇帝は守成の難として戒められたのではありませんか。魏徴様はまさにそれを実践されたのです。我等がお手本として仰ぐべきは鄂忠武公様であるよりも魏徴様であると思います」。

　友人の言葉に、魏徴もいた当時の朝廷から父がどうして去ったのかを思い、母を葬ったときに心に湧いた怒りを思った。位高きに安易におさまっているだけの者を父は嫌ったのか。友にはそれを言わず、「天下に何事もなく、この田舎に埋もれたまま終わるのに何の不服もありません。そうはならぬときに備えるのが私の使命と心得ます。学問が確かであれば、時は必ずきます」。自分の決意をもう一度友に告げた。迷うまいとしたのだった。「貴公のお考えを曲げようとは思いません」。鄭惟忠の柔和な微笑みに、魏元忠は落ち着きを取り戻した。

　しかし、その一方で、この我が心を知る者がこの天下にいるのだろうかとの不安があった。自分を知る者は余程に人と異ならねばならないだろう。果たしてそのような人がいて、しかも巡り遭うことが可能なのだろうか。

　鄭惟忠は合格した。

　「何よりも貴公のお蔭です」。数頭の驢馬を連ねて運んできた荷を、家の中へと小者が担ぎ込んだ。「何事でありましょうか」。「恩に報いるのにこれくらいではとても足りません」。「今回はまだ地方の試験。この先に都での試験が控えておりましょう。大事なのはこれからではありませんか」。「一回目の試験に受かって浮かれているのでは決してありません。いよいよ気を引き締めて勉学に励む覚悟です。貴公にこれからも教え導いていただきたいと思っています」。

　鄭惟忠は荷を積み上げ、「それに、近頃、異なことを聞きました。貴公のところでは、何と、猿、犬、鼠の手まで借りているとか。ならば、ここに友がおるのを忘れないでほしいと思い、これらを持ってきたのです」。友は楽しげに笑った。「猿、犬、鼠とは何のことですか」。魏元忠は大真面目に問い返した。「作り話です。貴公の暮らしぶりを見て、面白おかしく話を作る連中がいるのです」。「どこぞの不心得者でしょうか。人を侮辱するのなら容赦はしません」。｢ただの戯れ話です｣。「この魏元忠、人に戯れを受ける理由はありません。談判に参らねばなりません」。魏元忠が頬を赤くして大きな声を発したので、鄭惟忠は当惑した。

　「まあまあ、お坊ちゃま、いかがなされたのでございますか」。黄婆やが外から入ってきた。さすがに頑丈な黄婆やも寄る年波で腰が曲がり、「よいさ」と無理に伸ばしてから魏元忠を見上げた。「猿、犬、鼠の手をこの家では借りているというのだ。怪しからんではないか」。黄婆やは噴き出した。「そんなことで大声を出したのですか。まあ、まあ、お白湯でも差し上げましょうほどに、気をお静めになってくださいましな」。

　黄婆やはのんびりとした仕草で湯を汲んで二人の前に置いた。「話のもとは、そこらの悪童どもでございます」。「何だ、おまえは知っていたのか」。「もとはといえばこの婆めがいけないのです。このように腰が曲がり、力がなくなり、頭が鈍り、役立たずになってきたものですから、悪童どもが悪たれをつくのでございます。昔の元気があれば、容赦しませんのに」。黄婆やは悔しそうだった。鄭惟忠は「私がおかしな話をして、お二人を不愉快にさせてしまい、申し訳ない」。

　友のいつもながらの誠実さに、「いえ、噂が知らぬところで流されているより、教えてくださってよかったのです。よろしかったら、どのような話かお聞かせいただけませんか」。「お気にされるような内容ではありません」。「もう興奮したりしません」。魏元忠が穏やかな顔を作ったのを見て、鄭惟忠は次のような話をした。

　宋城の村はずれに住む魏元忠は、書物に夢中のときは、何を言われても上の空。ある日、黄婆やは御飯を炊きながらふと別の用を思い出した。「少しの間で結構でございますから、火を見ていてください」。魏元忠の「わかった」との返事に、黄婆やはのろのろと外に出た。黄婆やはやることなすことのろく、しかも物忘れも激しい。随分と経ち、腹の虫がぐうと鳴って、竈の火を思い出した。のろのろ家に戻ってくると、飯の炊けるいい匂いがした。「お坊ちゃま、まことにすみませんでした」。黄婆やの声に、「ああ」と、魏元忠の生返事。竈とは違う方角からで、最初と同じく書物に読み耽っている。土間の竈はと見ると、その前にしゃがんでいるのは一匹の猿。「あら、まあ、まあ」。黄婆やの声に、猿はむっくり立ち上がり、「どうぞ」と場所を譲った。黄婆やは口をあんぐりと突っ立ったまま。猿は魏元忠を指差して「ききっ」と笑い、窓から飛び出した。「お坊ちゃま、いま猿が飯を炊いていたのでございます」。魏元忠は書物から顔を上げもせず、「おや、そうなのかい。それが自分の仕事だと猿は心得ていたのだろうな」。

　そこまで聞いて、魏元忠は膝を打ち、「まんざら悪い話でもないようです。猿が自分の仕事だと思ってしたのなら理に適います。あの猿ならそれくらいのことはしてもいい」。鄭惟忠は「本当に猿がいるのですか」。黄婆やは笑い、「たまに畑にくることはございますけど、この婆がお坊ちゃまに飯炊きをお頼みするのなど、滅相もないことです」。

　次は犬の話だった。

　宋城の村はずれに住む魏元忠は、貧乏でも気位は高い。ある日、手紙を書き終えると、これはしかるべき使いを立てて届けさねばなるまいと、家の中を見回した。勿論そこには足腰の弱ったのろまの黄婆やしかいない。さりとて人を雇う銭はない。いかにすべきかと思案していると、庭から赤犬が首を出し、「私が行きましょうか」という顔をした。手紙を犬の首に結わえ付け、「行き先を告げておまえはわかるかい」。犬は胸を張った。先方の名を聞くと、犬は一目散に駆けて行った。その後ろ姿に、黄婆やは「急にどうしたことでございますか。あの犬をお叱りになったのですか」。「まことに孝順な犬だ。犬は自分の仕事を心得ているから、ああして走って行ったんだよ」。

　鄭惟忠の話に、魏元忠は愉快な気分になっていた。「あの赤犬がいれば、それくらいはしてくれただろう。手紙を届けねばならない相手が私にはいないのが違ってはいるが」。「お坊ちゃまときましたら、旦那様の他には、どなたさまともお付き合いがないのでございます」。

　次は鼠の話だ。

　宋城の村はずれに住む魏元忠は、黄婆や以外の女を知らない。ある晩のこと、黄婆やと二人で飯を食っていると、鼠の群れがぞろぞろと出てきて土間に列を成し、恭しくお辞儀をした。「飯の最中に出てきたところを見ると、おまえたち、腹が減っているのかい」。魏元忠の問に、鼠は一斉に頭を下げた。「この家にはろくなものがないのに、長年、住んでくれている諸君に、たまには馳走をするか」。魏元忠は釜ごと鼠の前に据えた。「今夜は、自由に食べてよい」。鼠はにっこり笑い、次の瞬間に釜は空になっていた。「もう食ってしまったのかい」。鼠はぱんぱんに膨らんだ腹をさすり、けらけらと笑った。大きく開いたその口がふわふわと広がり、体の何倍かになって、土間いっぱいになった。すると、皆が若く美しい女に変わった。黄婆やが腰を抜かした。「飯の礼に、あろうことか、私をなぶるのか」。魏元忠は怒った。女は互いに顔を見合わせ、けらけらと笑い、斜めに構えてしなを作り、「いいえ、なぶるのではありません。旦那様のためにお仕事をさせていただこうと思うのです」。「仕事はこの黄婆やで足りている」。「お婆さんにはできない、若いおなごでなければできないお仕事がございます。御本ばかりお読みになっているお堅い旦那様でも、それくらいのことは御存知でございましょう」。女たちは流し目を送った。「私に戯れるのか」。魏元忠は険しく怒鳴った。「左様でございますとも。それが私どもの仕事でございます。旦那様も殿御、戯れがお嫌いなはずがございませんもの」。「おまえたちが自分の仕事と心得るのは勝手であるが、私の心を乱すことはできない」。「左様でございましょうか」。女はますますなまめかしく笑った。魏元忠は頬を赤く染めて憤慨した。「人間の女の姿をしても、化け物であるのはわかっている。化け物は化け物らしくするがいい」。「どうすれば化け物らしくなりますか」。「そうだな、力がどれだけあるのか見せてみろ。この私を家の外に出せるか」。「何でもないことでございます」。魏元忠は女を睨みつけ、全身に力を込めた。瞬きをする間もなかった。魏元忠はすでに庭の土の上にあった。女は皆で笑いころげた。魏元忠はいきり立った。「いまは少々油断した。今度は騙されない。どうせならもっと遠くに運んでみろ」。傍らの若い松の幹をぐっと掴んで身構えた。次の瞬間に、魏元忠は山中の林の木を掴んでいた。「これは、したり」。魏元忠の怒りは頂点に達した。すると、女は急にしおしおと、「ただいまは大変な御無礼をいたしました。あまりお怒りだったものですから、かような戯れをいたしました」。魏元忠を囲んで拝し、一人ずつ頭を下げて詫びては去って行った。最後の一人が消えると、あたりは真の闇になった。「こんなところに放り出され、どうしたらいいのでございましょうか」。黄婆やがおろおろと尋ねた。魏元忠の怒りは静まり、「帰る道はないのかも知れないな」と諦めたようにつぶやいた。しばらくすると、遠くに小さな灯りが現れた。それが幾つにも分かれて近づいてきた。火のついた藁しべを手にした鼠の群れだった。鼠に導かれて家に帰ると、釜の飯はもとのままにあった。

　話が終わると、鄭惟忠は持参した荷から酒や肴を出して並べた。

　魏元忠は「古来、童の声は天の声と言います。悪童どもは私の真の姿を知るかのようです」。鄭惟忠は「真面目に考えることはありません。ただの戯れ話です」。魏元忠は黄婆やに、「この話をする悪童どもを見かけたらここに連れてきなさい。叱るのではない。子等とともにより深く学問を習いたいと思うのだ」。

　それからしばらくすると、魏元忠の家から子等の素読の声が聞こえるようになった。魏元忠は謝礼を取らずに学問を教えた。村人は魏元忠が近くに住むのを初めて喜ぶようになった。

　蘇禎という十歳ほどの少年がいつしか襤褸家に居付いた。赤犬と違って三日に一度の食事という訳にはいかなかったが、一段と衰えの目立つようになった黄婆やの手伝いをして、猿、犬、鼠よりも役立った。

　　　　三

　鄭惟忠は都での試験に二度落ちた。

　「すでに三十歳になろうというに、歳月を空費するばかり、このようであってよいものでしょうか」。「学問に励めば、必ずそれを用いるべき時が参ります」。いつも通りに魏元忠は答えた。その実、身の内に積み上げてきたものが、これまでのところ村の幾人かの児童を教育する以外に役立っていないことに、穏やかならざる思いがあった。

　鄭惟忠の悩みは深いようだった。「最も活力に溢れる若い日々は、早や過去のものになろうとしています。この先に道が開けるものなのでしょうか。諦めるべきと見定めるときがきていても気付けないまま年月だけが去って行くようになってしまうのでしょうか」。「学問の道は遠く遥かです。一歩ずつでも進んで行けるならば必ず通じます。諦めなければならぬときなどありません。嘆くことがどこにありましょうか」。「貴公はいつも変わらない。まことにうらやましい」。

　魏元忠は自分の心を偽っていた。一生をこの地に埋もれてもと覚悟を決めてから十数年が経ち、変わらずにいるのは難しかった。少年の頃には書物を朗誦してすぐにも古人に近づけるような気がした。鄭惟忠が言うように、年月だけがこのまま去って行くならば、自分の名が史書に記されるようには決してならない。この身の内にある志は鄭惟忠だけにしか知られずに終わり、母に誓ったことは果たせない。

　世を見れば、害を為すような者が都で富貴を極め、自分のような者は田舎に埋もれている。これは理不尽であるに違いない。怒りが渦を巻いた。

　黄婆やが夏の盛りに倒れた。父が死んだ頃のことは朧な記憶しかなく、母には看病らしいこともできなかった。せめて黄婆やには十分な世話をしようとした。

　「大丈夫でございます。まだまだ死にはしません。お嫁さんの顔を見ておかねば、先にあちらに行かれました旦那様に御報告ができません。すぐに元気になりますとも」。呂律が回らぬながらも、初めのうちはそのようなことが言えていた。

　次第に全身が動かなくなり、息も絶え絶えとなり、「幸せ者でございました」とつぶやいたように思えたのが最後だった。蘇禎が号泣した。黄婆やは、蘇禎を孫のように可愛がり、「こんな優しいいい子はどこを探しても滅多にいるものではございません」といつも目を細めていた。

　鄭惟忠の力を借りて、父母の墓の脇に埋めた。

　黄婆やは本当に幸せ者だったのか。魏家にきて一生働き通しだった。親類縁者がどこにいるとも知れなかった。世間並みの立身を初めから目指していれば、黄婆やが最後まで願っていたことくらいは叶えられたかも知れないと、少々悔やまれた。

　蘇禎と二人になった。

　「この機に親元に帰ってはどうか」。「家には帰りたくありません。苛められるだけです。本当の親はいないのです。どうかここに置いてください」。蘇禎はめそめそと泣いて訴えた。

　蘇禎は十代も半ばになりつつあるのに、男らしいいかつさは片鱗もなかった。泣かれるとひどく可哀想に思えた。強いて追い出す気はなく、居てくれると助かった。いずれしかるべき年齢になれば、蘇禎も、お上のために、農民としてか兵士としてか、お役に立たねばならなくなる。居るとしてもそれまでの間だ。村の児童は学問を習いにきて、蘇禎ぐらいになると順に去って行くのだった。魏元忠は父から引き継いだ最後の特権で兵役や税の義務を免れていた。

　蘇禎はよく気が付き、一日中、黄婆やのようによく働いた。それはそれで結構なことではあったが、仕事にかまけて、勉学から逃げるようなところがあった。

　二人だけで朝から晩まで顔を突き合わせて何カ月かすると、蘇禎の存在が鼻に付き出した。どこが悪いかといって、大きな欠点があるのではなかった。朝起きての挨拶、水を汲む仕草、火のおこし方、鍬の下ろし方、書を読む声、その姿勢、筆遣い、箸の持ち方、何かしら全てが足りなかった。なよっとしたところが、黄婆やには可愛くてたまらなかったのだろうが、間もなく一人前にならねばならぬ男児にはあるべからざることのように、魏元忠には見えた。

　ある雨の日、畑仕事を早々に切り上げ、その日の勉学の課題を蘇禎に与え、魏元忠は書物を広げた。ふと見ると、明かり窓の下で蘇禎が舟を漕いでいた。魏元忠は叱り、蘇禎は謝り、墨を摺り出した。しばらくすると摺る音が途絶え、またも舟を漕いでいた。叱ると蘇禎は飛び上がって謝り、書の筆写を始めた。三度目に、魏元忠は母の竹の杖を握り、蘇禎の背後に立った。蘇禎は深く寝入っていた。背中を打った。「きゃっ」。蘇禎は叫び、床にはいつくばった。弱々しげな声で謝った。「おまえも知っているだろう。孔子様は昼寝を嫌った。腐った泥は、どうこねても何にもならない。おまえがまさにそうだ」。蘇禎は半泣きになり、魏元忠はいよいよ苛立った。頬を真赤にして、したたかに打った。「ひい」という叫びにもう一度打ち、止まらなくなった。

　蘇禎は床に転がって泣き喚いた。魏元忠は手を止め、竹の杖を見つめた。蘇禎は細い声で言った。「先生は変わられました。先生は変わってしまわれました。どうしてなのです」。魏元忠は竹の杖をまた使いたくなった。「私は変わっていない。おまえがいけないことをしたのだ」。蘇禎は頭を抱えて身を硬くした。「婆やさんがいらしたころにはこうではありませんでした」。

　魏元忠は竹の杖を上げ、「おまえがきちんとしていれば打ちはしない」。「私が悪いのはわかっています。今日は打たれました。でも、いつもなのです。私を御覧になる先生の目が変わってしまわれたのです」。蘇禎はまた大きく泣いた。

　魏元忠は竹の杖を顔の前にかざした。母の教えを思い出した。手で鼻を塞いだ。遅すぎた。この竹の杖はかつて母の手の内にあり、幾度となく自分を打った。そのときに、自分のいまのような気持ちで母はあったのだろうか。決してそうではなかっただろう。魏元忠は母に詫びた。

　「すまぬ。私はどのように変わったのか。教えてくれないか」。蘇禎の横に膝をついた。蘇禎はくしゃくしゃの顔で、「悪いのは私です。どうか、どうか、もっともっときつく打ってください。先生のお役に少しでも立つように鍛えてください」。「このような打ち方は二度としない」。「このようにしていただかねばならない私が悪いのです。先生はもっと他のことをなさらなければいけないです。それなのに私が邪魔をしているのです」。「いろいろやってくれて助かっている」。「いえ、邪魔ばかりです。先生は私のことばかりが気になるようで、苛立っておられます。全て私が悪いのです。先生はもっと大らかなお人でありました。私がどれほど至らなくても、そんなことには少しも気にかけないお方でありました。全て私が悪いのです。私が邪魔ばかりするものですから、先生を変えてしまったのです。私なんかを懲らしめるのは先生のお仕事ではないはずです。先生は大きく御立派でなければなりません。この田舎町で、私を打ち据えて気を晴らしているのではいけないのです。天下の大きな悪を懲らしめるお方です。私は足手纏いになっています。どうかもっともっときつく打ってください」。蘇禎は一気に言うと、突っ伏して号泣した。

　魏元忠は鼻ではなく耳を塞いで雨の中に飛び出した。

　父母と黄婆やと赤犬が眠る墓地に立った。自分はどうしてしまったのか。自分はこうも卑小な男であったのか。

　父が死んでから母の教えを受け、母が死んでからは赤犬と黄婆やが見守ってくれ、黄婆やが死んでたちまちこの体たらくだ。一人では駄目になってしまう情けない男だったのか。母を葬ったとき、自分は怒り、戦っていこうと決意した。それはどこに行ってしまったのか。蘇禎の言う通りだ。無抵抗の少年を打ち据えて気を晴らしていては決して虞詡になれない。

　魏元忠は長く雨に立ち続け、全身が冷え切って、苛立ちが流し落された。

　心が定まると、背後に蘇禎がいた。蘇禎もぐっしょりと濡れていた。

　「ずっとそこにいたのかい」。蘇禎はうなずいた。「これからはおまえが望む男になるよう努めよう」。

　魏元忠を支えるのは学問だった。

　虞詡は、祖母の喪が明けると、その才を認める人に引かれて官に就いた。魏元忠にとって祖母ともいえる黄婆やの喪が明けても、誰かに認められるようなことは起こらなかった。学問が未熟であるからだと、自分を叱咤して励んだ。

　蘇禎を打つことはなくなった。愛情をもって、蘇禎の振る舞いを眺められるように変わった。しかし、蘇禎を今後はどのように遇していくべきかは、容易ならざる問題であった。蘇禎が学問で身を立てていけるようになるとは残念ながら思えなかった。自分の身もまだ定まらぬのに、蘇禎ではなおさらだった。

　鄭惟忠が洛陽に行こうと誘いにきた。前のように貢挙の試験を受けようというのではなかった。

　「歳月を空費しているのではないかと一人で思い悩むより、我が相を見てもらって、すっぱりと決めるのがよかろうと考えました」。友の顔には、重なる失敗と苦悶で、年齢以上に多くの皺が刻まれていた。「相を正しく見てもらえるのならばそれもよろしいでしょうが、もしも誤っては、悪しき選択となる恐れもありましょう」。世に命数を知ると称する者は大勢いて、まやかしの託宣に惑わされる者も少なくなかった。「一生の大事です。父も親類も当代一でなければならぬと申します。ですから、洛陽に張景蔵先生をお訪ねするつもりです。どうです、貴公も参りませんか」。

　張景蔵の名に魏元忠の心も動いた。張景蔵が自分の信念を固めてくれるならばもはや微動だにしなくなるだろう。

　四十年近い昔のこと、裴何某という兵士が、都での軍務に就くために北の町から連れてこられた。都での最初の日に、茶店で飯を食っていると、向かいの若い客がじっと見つめて、目を逸らそうとしなかった。どうにも飯が喉を通りにくく、「何を見ているのだ」。裴何某は怒鳴った。若い客は正気に返ったようにまばたきし、「あなたさまには貴人の相がおありになります。お身なりを拝見しますと、夏季の番にこられた兵士のようです。相と姿があまりに相違するので不思議でならず、思わず見続けていたのです」。裴何某は笑った。「貴人の相もあったものでない。見ての通り、貧乏な農民兵だ」。「失礼ながら、年は五十三におなりでしょうか」。「今年がまさに五十三。あちこち連れまわされるうちにこんなに年になってしまった」。「いよいよもって不思議です。相には五十三にして三品官になると、はっきりと出ております」。若者はぐっと顔を寄せ、「決して間違いありません」。裴何某は覗き込む相手を手で追い払い、「からかうのはやめろ。うまいこと言って、銭でもせびるつもりだろう。その手は食わぬ」。裴何某は飯をかきこんで店を出た。

　裴何某が宮城警備の任務に就いて二十一日目、太宗皇帝が急の病に倒れた。宮中の良医がいろいろ手を施したが病状は危うかった。宰相は百官を集め、良き処方を知る者は遠慮なく申せと言い、種々の法がこもごも提案されたが、どれも効果がなかった。仲間よりその話を聞いた裴何某は、皇帝の病状は田舎の祖父と同じだと思い、その折に祖母が用いた処方を隊長に告げた。皇帝はそれによって死の淵から脱した。「朕を救ってくれたのは誰であるのか。褒美は十分に与えたであろうな」。宰相は「名も無い兵でありまして、幾許かの金品を与えるよう将軍に指示しました」。皇帝は大怒した。「朕の命はたったそれだけの金額に相当すると汝等は考えておるのか。朕の命を救ったのは、天下の乱れを救ったのと等しい。少なくとも三品官を与えねばならない」。裴何某は三品官に除せられ、相を見た若者を探して多大の謝礼を贈った。それが張景蔵だった。張景蔵の予言はことごとく的中し、洛陽に大きな屋敷を構える天下一の人相見となった。

　「その気が少しでもおありなら、一緒に参りましょう。貴公もこの村に篭もるばかりでなく、洛陽あたりを一度は御覧になってみてはいかがですか」。鄭惟忠はむしろそれを言いにきたのかも知れなかった。魏元忠は宋城にあって閉塞状態にあるのを思い、「書物の上でうごめく紙魚であってはならぬと思います」と、道連れとしてくれるよう友に頼んだ。

　　　　四

　総章二（六六九）年春、洛陽の城門を初めてまたいだ。

　それまでに知る繁華な場所といえば宋城の町くらいであった。宋城は地方のごく小さな都市で、洛陽の百分の一の広さもなければ、千分の一の人間もいなかった。

　唐の都の機能は、長安から洛陽へと移りつつあった。時の皇帝は、太宗の息子の高宗であったが、天下の人々は、高宗とその妻の武皇后を二聖と呼び、大権は皇帝よりもより多く皇后の方にあると見ていた。武皇后には長安にいたくない理由があって、皇帝が長安にいるときにも、洛陽において重要事項の決定に預かっていた。

　武皇后はもともとは太宗の後宮にいた。太宗が死ぬと、髪を下ろして仏寺に入れられた。高宗は偶然にもその尼姿を見かけ胸を衝かれた。当時、高宗の皇后であった王氏には子がなく、寵愛を専らにする蕭淑妃に皇后の地位を奪われてしまうのではないかと恐れていた。王皇后は、武氏を後宮に入れて、蕭淑妃への熱を冷まそうと考えた。武氏に会ってみると、武氏はまことに王皇后に恭順であった。王皇后は、武氏の髪が伸びるのを待って夫に会わせた。皇帝は武氏にのめり込み、蕭淑妃への愛が冷めたばかりでなく、武氏を是非とも皇后にしたいと考えるようになった。重臣達は挙って反対した。先帝の後宮にいた女を、息子が皇后にするのは余り褒められた話でない。皇帝は強引に事を進めた。武氏はさらに強引で、皇后になるとすぐに元の皇后と蕭淑妃を殺した。蕭淑妃は死に際に武皇后を呪詛し、猫となって武皇后を噛み殺すと誓った。武皇后は祟りを恐れ、長安の宮殿を忌避した。

　洛陽に足を踏み入れると、魏元忠はすぐに怒りを覚えた。ここはいかなる場所か。幅広い道が遠く霞む先へと伸び、道の左右に高い土塀が連なる。大通りを歩むと怒りが滾々と湧き出し、奥に至って皇城を仰ぎ見ると、怒りが渦を巻いた。

　人が生きるには宋城の襤褸家があれば十分だ。魏元忠が親しんできた書物には、古代の聖天子、堯は、土の階段が三段しかない粗末な宮殿に住んでいたと記されていた。洛陽は誤っている。天下の大きな悪がここにある。父が朝廷を去った理由が知れたような気がした。魏元忠は鼻を押さえ、この怒りが漏れ出ていかないように止めた。不意に、自分は伊尹もしくは周公にならねばならないと思った。

　伊尹も周公も、理想の賢臣として欽慕の対象とされてきた。遠く夏の時代の末に桀王が出て世を大いに乱した。伊尹は湯王を助けて桀王を討ち、殷の新しい時代を開いた。後に湯王が死ぬと、二人の息子が相次いで短期間に世を去ったために、伊尹は湯王の孫の太甲を立てた。太甲は暴虐で身を改めず、伊尹は太甲を離宮に放ち、王の代わりを務めた。三年経って太甲は心を改め、伊尹は大権を返した。

　殷の終わりに紂王が世を大いに乱した。周公は兄の武王を助けて紂王を討ち、周の新しい時代を開いた。後に武王が死ぬと、その子の成王が幼かったために、周公が代わって政治を見た。周公が国を奪うのではないかと疑う者があって反乱を起こした。周公はよく国を治め、成王が成長すると、大権を返した。

　鄭惟忠は、友人の頬が赤く染まっているのを見て、「ここはお気に召しませんか」。魏元忠は荒々しく答えた。「改めなければなりません」。「何を改めるのですか」。「全てです。いまならできましょう。皇后陛下がおられるいまならば」。鄭惟忠は友の顔を覗き込んだ。「まことにそのように思われますか」。「皇后陛下をお助けする伊尹、周公のような人物がいれば必ず」。鄭惟忠は友の肩に手を置き、「貴公はいつも人と異なることを言って驚かせます。よく考えると、貴公の言うのが正しいとわかります。いまのことは胸に秘めておきましょう」。魏元忠自身も驚いていた。洛陽に入るいまのいままで、ここで言ったことは考えてもいなかった。

　世には、牝鶏牡鳴、すなわち、めんどりがおんどりの鳴き声をするのは不吉であるとし、武皇后が皇帝のように振る舞いつつあるのを危ぶむ声が多く囁かれていた。武皇后がこれ以上増長しないよう抑えるのが天下のためだと思う人が多くいて、魏元忠はそれと正反対のことを言ったのだった。洛陽が改めねばならなくなったのは、昨日今日に始まったのではあるまい。父が朝廷を去ったころからであるに違いない。ならば、改められるのはそのときにはなかった全く新しい力だ。つまりは武皇后であると、魏元忠はこの日初めて直観した。

　このころの洛陽はことのほか活気に満ちていた。高麗征伐を成し遂げた李世勣が数ヶ月前に凱旋し、その高揚した気分がなお続いていた。

　高麗征伐は隋の煬帝も唐の太宗も失敗した難事業だった。洛陽の町の人々が李世勣を称えるのを、魏元忠は誇らしげな思いで聞いた。宋城は李世勣の出身地の衛南からさほど遠くなく、そのあたりの人々は李世勣の逸話を語り合うのを好んだ。

　李世勣は唐の朝廷では異端だった。「十二、三歳で逃げて賊に頼り、人に逢うとすぐに殺した。十四、五歳で難のために賊に当たり、気に食わないと人を殺した。十七、八歳で佳き賊となり、陣に臨んで人を殺すようになった。二十歳で大将となり、兵を用いて人の死を救うようになった」。自らそのように語った。李世勣が生まれたのは、隋が滅び唐が興ろうとする厳しい時代だった。そのころからいまも生きるのは朝廷では李世勣だけだった。また、高宗が武氏を皇后にしようとしたときに、重臣の中でただ一人李世勣だけが反対しなかった。

　用兵術を志す魏元忠は、李世勣を深く敬愛していた。一つ残念なのは、李世勣には学問が不足していた。戦場ではすこぶる強くても、朝廷を動かす力がなかった。それを自分が補いたいというのが、伊尹もしくは周公になると魏元忠が思った理由でもあった。

　洛陽のこの活況は永続するものではないと人々は感じていた。この時運に乗じて素早く利を手中にしておこうと、抜け目のない連中は先を争い、いかにするのが最善か占ってもらおうと、張景蔵の屋敷に多数の者が詰め掛けた。

　張景蔵が相を見るのは陰陽の巡りの良い日だけだった。その日になると、早朝から門の前に列ができ、門が開くと広い待合所がいっぱいになった。待合所だけで魏元忠の襤褸家の十倍以上の大きさがあった。客人は自分の番がくると、竹林の横の小径を通って小門に案内され、そこから庭の隅を巡って中堂に通された。そこまで行けるのは客中で幸運なごくわずかな人数であった。大半は「今日はこれにて終わりです。また次の日にお越し下さい」と虚しく追い返された。中堂には、屋敷の正門から中門を経て真直ぐに入れる広い通路もあった。特別の貴人だけがそこを使えた。

　鄭惟忠が一緒でなければ、魏元忠は一回だけで、二度とは張景蔵の屋敷を訪れようとはしなかっただろう。さんざん待たせて詫びの言葉はなかった。順を待つ人々はいかにも貪欲そうな顔が多かった。洛陽にはもとよりそのような連中が目についた。

　「ここの仕来りに合わせるよりありません」と言う鄭惟忠とともに、魏元忠は鼻を押さえながら二回、三回と通った。ここでも客人たちは李世勣の噂をしていた。李世勣は母より福相の見方を教わり、戦場で大事な役を言いつけるときには必ず福相の者を用い、一度の失敗もなかった。そのように聞くと、相を見てもらうのはやはり重要で辛抱せねばなるまいと思うのだった。

　張景蔵の屋敷の門が閉まっている日には、洛陽内外の旧跡を見て歩き、それはそれでなかなかに楽しかった。宋城に篭っていては、書物にうごめく紙魚であったと、洛陽に連れてきてくれた友に感謝した。二人とも大した堅物であったから、地方からきた若者がよく道を誤る色里に足を踏み入れるようなことはなかった。

　張景蔵には一向に会えず、「ここも金の沙汰次第であろうか」と、鄭惟忠は、用人に多くを包んでみた。効果はなかった。「御身分のあるお方、縁故のあるお方がこられるとどうしても先になるのです」と周りの人は諦め気味に言った。確かに、明らかに後からきたと見られる客が先に案内されることがしばしばであった。

　暑い夏がきて、我慢の限界に達した。

　「今日は何が何でも会う。礼を弁えぬ者に、見てもらわなくてもいいと思うのだが、これで帰ったのでは遠くきた甲斐がない」。「旅費はまだ十分残っています。ゆったりと待ちましょう」。鄭惟忠は宥めた。友の意に染まぬことはしたくなかったが、その友が厠に立った折に、屋敷の正門が開き、貴人の乗る車が入ってきた。すぐに奥へと導かれるのを見て、魏元忠は立った。

　待合所の口を固める用人の背を押しのけて外に出て、ごとごとと曳かれる車の後に付いた。誰かに袖を掴まれた。力任せに振り払った。車の供人が返り見た。車の前では中門が開かれた。魏元忠は猛然と突き進んだ。供人を跳ね除け、車の前に出た。門の内には、車中の貴人を迎える人々が並んでいた。闖入者を取り押さえようと一斉に駆け寄ってきた。怒りが堰を切り、顔面に怒気が溢れた。来る者をなぎ倒し、中堂に飛び込んだ。

　「千里の糧を包んできた者を粗略に扱い、自身はかような富貴を窮め、それで天地の奥枢がわかるのか。えせ人相見の正体はこれにて知れた」。大声を発した。どやどやと人が囲んだ。「道理に窮し、暴をもって黙らせようとするのか」。ぐるりを睨んだ。

　「何やらにぎやかでございますな」。しわがれた声とともに小柄な老人が現れた。満面の笑みに、「理不尽な扱いに辛抱を重ねていては、非道は正されない。にぎやかと茶化されるいわれはない」。魏元忠の顔は真赤だった。老人はにこやかにまばたきをし、「お見受けしたところ、そなたは朝廷の高官の御子息でありましょうかな。お父上が郷里にお帰りになって、かれこれ三十年にはなりましょうかな」。魏元忠は口を開けたまま物が言えなくなった。「お父上が郷里に帰られたのは、やはりそのようにお怒りになられたからでございましょうか。山東のお方は、自身を曲げて世を渡るのはお嫌いでござろう。違いますかな」。怒りはもう湧き出てこなかった。張景蔵は一歩進みきて、「間違ったことを申しましたかな」。魏元忠の肩に手を置いた。魏元忠はその重みに頭を下げた。

　「いま悟りました。この怒りです。これ故に、世に容れられず、貧窮の内に一生を終えるのです。それでよいのです。人に尋ねるまでもないことでした。御無礼をお許しください」。怒りの奔騰に身を任せたのはこれで二度目、まことに卑小な怒りだ。これで終わりにしよう。魏元忠はさっと向き直った。鄭惟忠が青い顔で立っていた

　「お若いお方、お待ちなされよ」。張景蔵が静かに言った。魏元忠の気分が一瞬にして翻った。「待てとは如何に。幾度参っても会おうとされず、いまは帰ろうとして待てとおっしゃる。余りに勝手ではありませんか」。轟然と振り返ると、張景蔵は変わらずにこやかであった。「そなたの禄命はその怒りにござる」。魏元忠は床を踏み鳴らした。「私自身で申した通り、貴公に言われずとも、この怒りが私の一生を左右するのです。そうと知れたのは貴公が怒らせたからです。礼を申しましょう」。「人を怒らせるのは私の仕事ではありませんが、今日は偶々よかったようですな」。

　張景蔵は魏元忠の肩越しに視線を鄭惟忠に向け、「そちらのお方は、貢挙の成績でお悩みでございますな。御心配はいりません。貴殿には大官の相がござる。試験に合格し、それから後は順調に昇るばかり、貶黜されることは一度もありますまい。いましばらくの辛抱です」。鄭惟忠の青い顔に喜びが射し、「まことでございましょうか」。「相にあるがままを申しただけにござる」。「有難きお言葉にございます」。

　魏元忠は肩をそびらかし、「私の禄命がこの怒りにあるのなら、我が身はいかになりますか。世に容れられないは知れたこと、郷里に篭ってこれよりは出ぬと決めました。念のためにお聞かせいただきましょうか」。張景蔵は「貧窮のうちに一生を終わるとそなたは言われましたな。誇り高き山東のお父上は、怒りを抑えて位を保つより、郷里に帰って怒りを抱かずにすむのを選ばれた。そなたも、貧窮のうちに怒りの相を消すこともできましょう。もしも怒りの相を上手に抑えられるのならば、お父上と同じく高きところにまで昇りましょう。いまの御様子を見ますと、怒りあってのそなただ。怒りによってお父上を超えられるやも知れません。怒りによって幾度かの貶黜は免れますまいな。その禍を免れてようとしても良き人生になるとは限りませんかな」。

　張景蔵がふわふわと笑う口元から、悪童どもが作った戯れ話の鼠が思い出された。女に化けた鼠に怒ったために知らぬ山中に連れられた。怒りの相は自分をあらぬところに連れて行くのか。余程心して宋城を出ないと決めなければいけない。魏元忠は俄に態度を改め、恭しく礼を述べた。「なんの、なんの」。張景蔵は終始変らなかった。

　中堂を出ると、夏の日差しに、額の汗を拭った。貴人の車があった。詫びを言わねばと歩み寄ると、車の戸に掛かる御簾がわずかに持ち上げられ、「お急ぎの御用がおありでなければ、拙宅にお越し願えませんか」。内からの声に、「かような狼藉を働き、さぞや御立腹でありましょう。お屋敷に参るまでもなく、路上において、打つなり、蹴るなり、存分になさってください」。車より細く笑い声が漏れた。「意趣返しをしようというのではありません」。鄭惟忠が隣にきて丁重に詫び言を並べた。

　車中の人は「朝廷を去られた山東のお方の御子息と伺い、いま少しお話をお聞きしたくなりました。お手間は取らせません。すぐそこです」。魏元忠は「お誘いをお断りする理由はないようです。さりとて、お話し致すようなことも持ち合わせておりません。貴殿はここに御用があってお越しなられたのでありましょう。張先生がお待ちです。他の人をさし置いても貴殿を中へと導かれたのです。いらしたらよろしかろうと思います」。御簾の内より男が顔を出し、「そのことです。人をさし置いて何とも思わぬ傲慢な心がいまもこの私にありました。少しも変わっていませんでした。これでは張先生にお見せする顔がありません」。魏元忠とさして変らぬ年頃であった。

　男は中堂に向かって深く頭を下げ、「張先生には二年ほど前に見ていただき、その日より、了見を入れ替えようと努めてまいりました。それでもしや相が変わってはいまいかと、今日はやってきました。浅ましい了見でした」。魏元忠は険しい顔になり、「中には入らぬとおっしゃるのは勝手でしょうが、さりとて、どこの誰とも知れぬ人の家に、どこの馬の骨とも知れぬ者を誘うというのも異なことでありましょうか」とぶっきら棒に言った。貴人がとかく自身のことばかりを言うと魏元忠は感じていた。

　男は「これはこれは、重ねての御無礼。私の名を名乗らねばいけません。李敬真と申します。衛南の出であります」。その声には誇るような響きがあった。魏元忠は事もなげに「さようか」と応じた。鄭惟忠が袖を引いた。「衛南の李敬真様でおわかりになりませんか。李世勣様のお孫様です」と耳元にささやいた。

　衛南は、宋城から北に徒歩で二日も行けば着く小さな町であるが、李世勣の出たところとして天下に知られていた。数年前、武皇后は皇帝とともに泰山で封禅の儀を行うに先立ち、道を曲げて衛南を訪れ、李世勣の生家を守る老いた姉と親しく話をした。

　鄭惟忠はややおずおずと名乗り、貢挙の都での受験資格者であると付け加えた。魏元忠は単に名だけを告げた。李敬真は「二年前に了見を入れ替えねばと考えましてより、世に出る機会を得られずにいる方々のお手伝いをわずかながらいたしております。お二人にも何かできることがあるやも知れません。はなはだ不躾ながら、屋敷へお越しいただき、お話をお聞かせ願えないでしょうか。今日がよろしくなければ、明日でも明後日でも、いつでも構いません」。魏元忠はなお不快そうに、「友が分け隔てなく語るのなら楽しいでしょうな。しかし、一方が施しをし、一方がそれを受けるのでは、窮屈で適いません。今日も明日も明後日も、残念ながら参る暇はありません」。

　李敬真は目を閉じて一考し、御簾を払って車より滑り降り、「張先生のお教えがいつになっても身に添わぬ私です。先生がいま奥からこの身を御覧になっていると思うと恥ずかしくてなりません」。中堂を拝し、魏元忠に頭を下げ、「私が生まれましたとき、祖父はすでに位高きにありました。祖父は十二のときより戦わねば生きられぬ境遇にありましたが、私は何もしなくても、将来の高い地位が約束されていました。恵まれ過ぎていても、そこに身を置けば、当然のことと何とも思わなくなります。張先生にこの前お会いしましたときは、将来は宰相になる相があるとでもおっしゃっていただけようかと密かに思っていました。浅ましい限りです。先生は、余慶を絶たねば十年の命も危ういとおっしゃいました。いまも何もわかっていないこのような私でも、友人のはしくれに加えていただけるならば有難い限りです」。魏元忠は急に気付いて鼻を押さえた。「先生のお言葉がわからぬはこの私の方です。またこうして怒りの相を露にしております。素直にお誘いは受けるべきでした」。詫びる友の横で鄭惟忠がほっと息をついた。

　大官の多くは長安と洛陽の両方に屋敷を構え、長安のはよりいかめしく、洛陽のはより優美であるのが普通だった。李敬真の住いは、祖父李世勣の広壮な屋敷の一隅にあった。立派な酒食が二人の前に並べられた。

　「お父上が山東の御出身であるが故に御苦労なさったと伺い、格別に耳に残りました。祖父から聞きおりますことと合わせますと、三十年ほどの昔であれば、さぞやと思われます」。魏元忠は父の苦労を何も聞いていなかった。そのように正直に答えると、李敬真は祖父李世勣について話し出した。

　山東とは、長安と洛陽の中間に位置する潼関から東側の黄河の中下流域を指す。隋唐以前の貴族の時代に天下の名族とされたのは概ねその地域の人々であったことから、山東人はとにかく気位が高いと見られた。唐朝を樹立した李氏は長安より北の隴州の出であり、王朝草創期の唐朝の中枢に並んだのは、隴州および長安周辺の人々ばかりであった。山東人は唐朝の天下統一に最も頑健に抵抗し、唐朝の初期のころに山東人はあからさまに冷遇された。例外は李世勣で、山東人で最も早くに唐朝に加わり、本来の姓は徐であったのを、皇帝と同じ李姓を賜って政権の中枢に入るのを許された。

　李敬真は酒を飲むほどに雄弁になった。

　李敬真によれば、李世勣には人知れぬ苦労が多かった。朝廷は山東人にとっては居心地が悪く、都の外に出て、戦場で成果を挙げることで自分の立場を保とうとした。山東人の扱いが変わったのは、武氏が皇后になってからだった。武皇后の一族は隴州の出ではあっても低い家柄と見なされていた。それが、重臣が武氏を皇后にすべきではないと反対した理由の一つでもあった。武皇后は実権を握ると、旧い門閥を排除し、抵抗する老臣を流罪もしくは死罪に追いやり、門閥と無関係な新しい人材をどしどし登用した。

　「貴殿のお父上も、いましばらく辛抱しておられれば、国ために大いにお力を発揮できたでありましょうに」と李敬真は言い、武皇后を賛美し始めた。その熱の込め方は、時の権威者への追従とは異なるものだった。「皇后陛下がもしも男子であられたならば、誰もが等しく名君と仰ぐに違いありません。女性であるが故に、あらぬことを言い募る者がいるのはまことに残念です。太宗皇帝が言われた守成の難を克服し、新たな世を開かれるお方として、我等が民に天がお授け下さったのです」。

　李敬真の礼讃を聞きながら、魏元忠は母を想った。母から学問を習った。それは父が果たせなかったことを、母が代わりにしてくれているものだと、何とはなしに思い込んでいた。張景蔵は怒りの相は父から継いだと見なした。どちらも違うのかも知れない。牝鶏牡鳴は悪しきことと、自分も思う一人であったのか。

　李敬真は酒の酔いも手伝い、大胆なことを言い出した。「皇后陛下にも一つ改めていただきたいことがあります。非は皇后陛下にあるのではもちろんありません。補佐する臣がいけないのです。我が祖父もその点でまことに足りません。祖父は戦場に立つのを己の任と心得、朝廷において、これまで一度たりとも、お上をお諫めるようなことはしてきませんでした。戦場では天下一強くても、朝廷では天下一の追従者だと、蔭で悪く言う者がいます。私の兄の敬業なども、そのことで祖父によく楯突いています。『おまえは何もわかっていない』と、祖父は兄を叱ります。高麗遠征から帰り、祖父は、将士への恩賞が十分でないのを憂えています。それをお上に言えばいいのに、祖父は口をつぐんでいます。かつて西方での大敗を喫した将軍への処罰が曖昧なままで、前線の士気が奮わない原因になっています。それについても祖父は何も言いません。これでは国はよくなりません。恩賞が正しく与えられなければ、誰が命を賭けましょうか。懲罰が厳正でなければ、敵を見て誰が踏み止まりましょうか。賞罰が国の要であることを断固として申し上げる臣下がいなければならないのです。皇后陛下がいかに優れておられても、遠くで戦う戦士の心まではなかなかおわかりになりません。祖父が言わぬのなら、誰かが申し上げなければなりません。その点さえ改められたなら、皇后陛下は太宗皇帝をもお超えになりましょう」。

　鄭惟忠は、魏元忠が用兵術を研究していると明かした。李敬真は膝を叩き、「それこそがいま欠けています。祖父はもう年です。これからの時代に必要となる新しい用兵術があるはずです。もしも機会がありましたら、祖父とお引き合わせいたしましょう。我等は祖父の昔語りは聞き飽きましたが、貴公なら、何か得るものがありましょう」。

　それからは李敬真は調子のいいことを並べ出した。「用兵術の研究では、当代では江融先生が第一人者でしょう。御存知ですか。友人をたどれば伝がないわけではありません。よかったら江融先生ともお引き合わせいたしましょう」。あるいは、「お父上がまことに大官であったならば、貴公には太学生になる資格がありましょう。都で勉強できるよう、手続きを試みてもよいのです」、さらには、「次の貢挙をお受けになるのでしたら、その前に、あなたの詩や文章を有力な方々にお見せしておくとよろしいでしょう。私が仲立ちをしてさしあげましょう」と鄭惟忠に言い、「こんな粗末な料理と酒でよろしかったら、いつでも歓待します。ちょくちょく気楽にいらしてください」と、二人を親友として遇すると言った。李敬真は極めて上機嫌の内に酩酊し、二人は辞去した。

　鄭惟忠は感激の面持ちで、「李敬真様とこうもお親しくさせていただけるとは思ってもいませんでした。失礼にならないようでしたら、またお伺いしましょう」。

　魏元忠は決然と言い放った。「明日には宋城に帰ります」。鄭惟忠は目を丸くし、「そうやって、貴公はいつも驚かせる」。「所詮はよいところのお坊ちゃまです。洛陽にきた目的は達しました。これ以上いては、旅費の無駄遣いとなります。張景蔵様のおっしゃった通りになるには、何はともあれ勉強でありましょう」。

　魏元忠が言い出したら聞かないことを誰よりもよく知る鄭惟忠は、宋城に帰ることに同意した。

　李敬真は立派な家に住み、良い物を食べ、上等の酒をふんだんに飲んでいた。李敬真の言っていることは全うであると思えたが、李敬真が示してくれた好意に甘えたのでは、洛陽にきて怒った対象と、自分が同じになってしまう。早く宋城に帰らなければ取り返しがつかなくなると魏元忠は感じた。

　　　　五

　宋城の襤褸家の前に久しぶりに立つと、ことさらに小さく見えた。

　ここで朽ちるのかと思うと、少々悲しくもあった。しかし、洛陽に身を置いたのは一生に一度だけのことだと、思い切りは付いていた。そこでの日々はすでに現実味が薄れていた。自分はあそこに生きる人間ではない。伊尹や周公になるなど大それた望みを持つべきでない。怒りの相は惨めなまでに自分を小さくする。母に誓ったことは果せないとしても、道を憂いて貧を憂えず、ここで学問に沈潜しよう。洛陽で得た結論を襤褸家の前で再確認した。

　蘇禎一人を相手にする暮らしが再び始まる。いままでになく蘇禎が愛おしい存在に思えてきた。

　「いま帰った」。応答はなく、表の戸は閉まって動かなかった。留守の間に、家に帰ってしまったのか。しかし、家の周囲や畑は手入れが行き届いている。

　裏に回ると、土間の戸が半開きだった。「こっちにいるのなら返事くらしてもよいのに」。怒りそうになって、鼻先を軽くつまんだ。いきなり蘇禎を叱ってどうするのか。足音も静かに中に踏み入れた。

　薄暗い土間の隅の竈の前にうずくまる人影があった。「何だ。そこだったのか」。ことさらに柔らかい口調で言った。竈の細い火に浮かぶ輪郭は、蘇禎のものではなかった。「そこにいるのは誰かい」。なおも穏やかに言った。

　ゆっくりと立ち上がる相手に、魏元忠は半歩退いた。振り返ったのは女だった。この家に女がいたのは黄婆やが最後だった。屋内の暗さに目が慣れると、黄婆やとはまるで違う、年若い美しい顔立ちの女だった。女は無言だった。例の鼠の化け物ではあるまいかと疑った。ならばうかつに言葉をかけまいと、口を強く結んで睨み据えた。女も目に力を入れて見返した。

　しばらく向き合い、女は小さくうなずくと、胸の前に両手を上げた。短剣が握られていた。魏元忠は身構えた。女は剣をゆっくりと引き抜いた。戸より漏れくる明かりを受けて刃先が光った。自分を刺すためにここで待っていたのか。この女は恨みを持つ者なのか。恨まれる覚えはない。魏元忠の心の底に怒りが生まれた。

　女は剣を静かに動かした。その仕草には気品があり、いよいよ妖しげだった。魏元忠はびくりとも動かなかった。動けば負けになりそうだった。怒りが湧き立ち、恐れは全くなかった。女は剣先を回し、自身の喉にぴたりと合わせた。剣先が白い首筋に吸い込まれそうだった。

　女は言った。「御無礼をお許しいただけなければ、この場で即座に死にます」。普通の人間の言葉だった。魏元忠の怒りはその動きを止めた。「無礼と言われるのが、人の家に入り込み、竈に火をおこしたことであるのならば、死ぬまでのことはありますまい」。「御無礼とはこれより申すことでございます」。女の声には張り詰めたものがあった。「何を言われるにしても、剣を置いて、落ち着かれるがよろしかろう」。「私は落ち着いております」。「ものを言うのに剣は要るまい」。「即座に死ぬ覚悟がなければ申せません」。「それほどの覚悟がなぜ要るのか。いずれにしても、言いたいことがあるのなら、気のすむように言うがよかろう。ただし、剣で脅そうとしてもそれはできない。それははっきりと申しておく」。「この剣は、御覧の通りあなたさまに向けているのではありません。私の命を盾に、無理強いをするのでもありません。あくまでも私の覚悟のためです」。「ならば、その剣でそなたの命がどうなろうと、私は一切考慮しない」。「それで結構でございます」。

　女の意気に、自分は押されているような気がし、魏元忠は体に力を込めた。女の腕にも力が入った。剣先が肌を刺した。「では申し上げます」。剣先の周りに血が滲み上がってきた。「言うがよい」。

　「申し上げるのはたった一言です。この私をあなたさまの妻にしてください」。剣を持つ手が震え出し、血が白い肌を伝った。

　これはまさしく化け物か。化け物であるならば、喉を突いて勝手に死んでくれて少しも構わない。しかし、魏元忠はすでに女を美しいと感じていた。「そなたはこの私がいかなる者であるかを知ってそのように申しているのか」。怒りは消えていた。「何も知らぬ男の妻になると望むはずがございません」。「では、言ってみるがよい、私がいかなる者であるのか」。

　女の震えは止まり、視線を上げた。「あなたさまは天下にただ一人のお方、天下の大いなる悪を正されるお方です。そのために、天下の尊き御母君にお仕えするお方にございます」。魏元忠は目を見張った。「私はそのような者ではない」。「いえ、私は存じております」。女が強く言ったために、剣先がまた肌を貫いた。「なぜそのように申すのか」。血が二筋になった。「隠すことではありません。私は蘇禎の姉にございます」。魏元忠は、血の赤から目を離し、女の顔を改めて見た。確かに蘇禎に似るようだった。蘇禎のなよなよとしたところを取り去るとこの女になろうか。「禎に姉がいるとは聞いていなかった。本当の親はいないと言っていた」。

　女は顔を赤らめた。「全てこの私のために、弟がやってくれたのです」。「禎はいまどこにいる」。魏元忠は見回した。「ここでの話が終わるまで弟はきません」。「終わるとは」。「この剣が喉を貫くか、無礼を許すとの御返事をいただくかです」。「それはやはりそなたの命を楯にして脅しているのではないのか」。「違います」。

　魏元忠は即座に自分の言葉を恥じた。女の剣を掴もうと、手をゆっくりと上げた。「突けとおっしゃるのなら、自分で突きます」。「そうではない」。魏元忠は腕を下げた。「いつからなのか、このようにしようと思ったのは」。「いま申し上げた願いが最初に心の内に起こりましたのは五年ほど前です。弟より様子を聞くにつれ、思いはいよいよ募りました。父や母の許しを得るため、弟も努めてくれました」。「そうであったか」。

　ずっと以前からこの女を知っていたような気がした。この女は自分を知る。もしも妻にする女がこの世にいるとすれば、目の前の女の他にはない。

　「突かずともよろしいのでしょうか」。「そなたの心はわかった。そなたを妻とする気持ちが自分にあるのか、それはわかっていない」。女は五年を待ったと言った。即座に応じるのは礼を失っていると思えた。「突然でございますから」。「あと一年、待っていただけようか」。一年の間に、自分の気持ちを確かめ、蘇禎に尋ね、鄭惟忠とも相談しようと思った。「一年経ちましたら、御返事がいただけるのでございますか」。

　女の前で算段を巡らしている自分が俄に不快になった。「いえ、返事はこの場でします。その剣はもはや不要です」。魏元忠が手を差し出すと、女は素直に渡した。「私の返事はこうです。一年して、私の心がもしも変わっていたならば、この剣で私は自分の胸を刺します。一年して、そなたの心がいまのままであるのならば、ここにいらしてください。もしも変わられたならば、こなければよいでしょう」。「必ず参ります」。

　「洛陽で張景蔵様にお会いしました。いずれ人から聞かれるでしょう。張景蔵様は、私は父と同じく高い位に昇るとおっしゃいました。しかし、私はこの襤褸家で貧乏暮らしを一生続ける決意をして戻ってきました。張景蔵様のお言葉を真に受けて、近づこうとする者がこれからはあるでしょう。あなたが決してそのような人ではないのはわかっています。しかし、私自身が張景蔵様のお言葉に惑わないとも限りません。もう一年、私を御覧になり、それでもお気持ちがいまのままであるならば妻になってください。剣はこのまま私が預かります」。「では、一年後の今日に参ります」。

　女は静かに出て行き、魏元忠はその姿を見送った。自分の運命を定めるのは、怒りの相であるより、この女であろうか。

　蘇禎はどこからともなく帰ってきた。魏元忠は、自分の心に生じた変化がひどく急であったのを思い、姉について蘇禎に問うのが恥らわれた。蘇禎は何も言わず、いつも通りの仕事に取り掛かった。

　女がきたことも、洛陽に行ったことさえもなかったかのように、以前と同じ暮らしに戻った。

　それより、表面上は単調な日々が流れつつも、魏元忠の気持ちは前の通りではなくなっていた。洛陽に行く前は、昨日と同じ日の積み重ねが虚しく感じられることが度々であった。それが、昨日と同じような一日でも、日ごとに味わいが深まり行くように感じられた。それは一年後と定めた日が近づくからであって、その日がくれば、一日はより満たされたものになるに違いなかった。

　蘇禎の姉が魏元忠の妻になるには、二人が約束すればそれですむものではなかった。煩雑なあれやこれやを鄭惟忠が万事おさめてくれた。

　蘇禎の家は幾人かの官人を輩出した由緒ある家柄だった。張景蔵の予言に、蘇禎の父も折れ、魏元忠が蘇家の婿になることが決まった。そうなると、縁が切れていた魏元忠の親類がまたぞろ接近してきた。諸々の費用の算段も含めて、鄭惟忠がうまく捌いてくれた。

　婚礼は蘇家の格式に合うように行われたが、襤褸家を建て直すという話も、幾人かの使用人を連れる話も、妻は全て断り、一人だけできた。

　「幸いにも喉を突かずにすみました」。魏元忠は短剣を返した。妻は「私達の絆はいかなる剣でも切れるものではないと信じます」と剣を胸に抱いた。神妙に向き合う二人に、「姉を黄允の妻にはしないでください」と蘇禎が言って笑わせた。

　黄允は、虞詡より五十年ほど後の時代の人物だ。才人として知られながらも、四十を超してなお官途に登る機会を得られなかった。朝廷の大官が黄允を見て、「君のような婿がいたら言うことなしなのだが」と嘆じた。その大官は姪のために良縁を探していた。黄允は家に帰ると、妻を追い出す算段を始めた。妻は言った。「あなたがお望みならばそうします。親戚の皆様方を呼んでください。お礼を申し上げて、出て行きます」。妻は親類を十分にもてなした上で、最後の別れを言った。懐より書を取り出し、読み上げたのはまことに名文であり辛辣だった。黄允の隠事が十五か条にわたって並べられた。黄允の名はたちまち廃り、大官の親類になる夢は潰えた。

　魏元忠は「黄允は、所詮、その妻に適う夫ではなかったのだ。私は、夫とするに足ると先に見込んでもらえたのだから、たぶん黄允にはならずにすむだろう」。蘇禎の前で照れ笑いをした。妻は短剣を抜いた。「黄允の妻は、十五か条よりも前に、夫に高い志を抱かせなかった自分自身の罪を掲げるべきでした。黄允の妻が自ら志を果たせる世ではないのですから、夫を恥じしめて何の意味があるのでしょう」。魏元忠は気真面目ないつもの顔に戻り、短剣を握る妻の手に自分の手を重ねた。「その剣の先は常に自分に向いているとこれからも思う。そなたと志を一つにし、決して怯まぬと誓う」。

　妻と蘇禎が何を自分に期待しているのか、二人がかつて言ったことを改めて思った。

　心和む日々であった。

　黄婆やに、犬、猿、鼠に勝る嫁がくることはないと言ったが、犬、猿、鼠に比べるなどとんでもなく、黄婆やもこの嫁ならば、大いに喜んでくれたに違いなかった。妻がきた日を境に、心の焦りのようなものはすっかり消え去り、そうなったことにさえ気づかなかった。

　妻は夫に対してと、弟に対してとでは、少しく違う顔を見せた。弟とは何かと競い合い、常に姉が勝った。鍬を握っても、書物を前にしても、弟は適わなかった。姉と弟は、短い語句の出典を当て合う遊びをした。弟は難しい語句を出題し、姉は平易な語句を出題した。平易であるから出典は一つとは限るまいと、秘かに魏元忠が調べてみると、正答が一つに定まるようによく考えられていた。

　夫に対して妻は慎ましく、常に控えめで、競うようなことは一切なかった。ただ、史書には女性についてわずかしか書かれていないと不満を言うときなどには、短剣で迫ったときのような厳しさを見せた。

　目の前の妻に母の記憶が重なり、記憶にはない父に今の自分が重なった。父は官を辞してから、このような日々を送っていたのだろうか。そうだとすると、父は良き晩年を得たに違いない。自分は早くもそれを手にした。父は都で何かしら不本意なことがあって帰郷した。自分にはこれから先に、そのようなことが待っているのだろうか。二度と宋城から出ないつもりで洛陽から帰ってきた。妻の思いはそうではない。それは最初に会った日に妻が言った通りだ。しかし、いまのこの日々以上のものがあるとは思えなかった。

　　　　六

　二年ほどして、鄭惟忠が三度目の試験を受けるために上京した。「今度は必ず成功する気がします。自信を持って臨めばきっとそうなるでしょう」。張景蔵の言葉が大きな支えになっているようだった。

　友にはもともと十分な力があった。足りないのは心の強さと、人脈だった。試験は実力だけで合否が決まるのではなかった。試験官は回答者の名を見て採点した。事前に試験官の良き心証を得ておくことは合否に強く影響した。李敬真は約束した通りに、鄭惟忠のために骨を折ってくれ、宋城の鄭惟忠の名は、それなりに都人の間に知れるようになっていた。

　鄭惟忠が出発して数日すると、洛陽から手紙が届いた。李敬真からだった。太学の学籍が獲得できそうになったからすぐにくるようにとあった。手紙には旅費まで添えられていた。「所詮はよいところのお坊ちゃま」と悪く言ったのを魏元忠は後悔した。

　李敬真は祖父の李世勣が死んで、しばらく喪に服していたのだが、祖父の爵を兄の李敬業が継いで、自由が利く身として活発に友人の援助をしていた。

　「どうしらよいものか」。妻に尋ねた。「お悩みになることがございましょうか」。「有難い限りのお話だ。しかし、どうしたものか、御厚意がこうも過ぎるとかえって逡巡もする」。「李敬真様をお疑いになるのですか」。「よいお方であるのは間違いない」。「ならばよいではありませんか」。

　「それに、間もなくであるのだろう」。妻はくすりと笑って腹を軽く叩いた。「何もあなたさまがおられなくても子は生まれます」。妻は出産を控えていた。「その体では、もう野良仕事はできまい。これからは私が代わってしようと思っていた」。「農家の女は出産の日まで普通に働くと申します。私もここにきてずっと強くなりました。畑は何の心配もありません。これまでは意地を張ってきましたけれども、いざとなれば、父に頼んで人を寄越してもらうことだってできます」。

　「それはそれでよいとしてもだ、有難過ぎる話に、すぐに飛び付いていいものかどうか」。「もったいぶるのですか」。「そうではない。あまりいい話だと心配にならないかい、私がどうかなってはしまわぬかと」。魏元忠は、李敬真の屋敷を辞してすぐに宋城に帰ると決めたときの気持ちを思い起こしていた。「どうなるのですか」。魏元忠は笑って、「例えばだ、洛陽に出て、私が黄允のようにならぬとも限るまい」。妻は大笑した。「良縁が降って湧いてきて、それに目が眩み、私を離縁なさるのですか」。「その通りになる訳ではなくても、洛陽というところは、何があるのかわからぬのだ。そこ身を置くと、自分もどうかなってしまうかも知れない怖いところだ。だから、洛陽にはもう二度と行かぬと心に決めて帰ってきた」。「あなたさまはそれほどまでに弱いお方なのですか。怯えていらっしゃるのですか」。「怯えてなどはいない」。

　魏元忠の心の底にあったのは、もう一つ、二年間続いてきたいまの暮らしを変えたくないという思いだった。郷里に埋もれてもよいとする若い頃の決意とは少々異なり、心和むこの日々に浸っていたいとの願望だった。まして子が生まれれば、ここでの暮らしはより満たされたものになるに違いない。それが本音であっても、妻の前で言うのはさすがに憚れた。

　「いいえ、怯えていらっしゃいます。あなたさまの学問はここ宋城では御立派なものでございましょう。しかし、洛陽ではどうなのでしょうか。太学にお入りになり、優秀な方々と交わるのを怖がっているのではありませんか」。わざと見下したように妻が言ったのはわかった。それでも、魏元忠の頬に朱がさした。「ここで一人で井の中の蛙になっているのではないぞ」。「どうでしょうか。宋城にいれば、これから竜となって大空に昇るのか、いつまで経っても地を這いずる蚯蚓のままであるのか、その区別はできませんでしょう。俺は竜になると、口だけなら蚯蚓にも言えますから」。「私が蚯蚓だと言うのか」。魏元忠は妻が家にきてから初めて怒り、「よろしい、そこまで言うのなら、洛陽に行って、蚯蚓ではない証明をしてこよう。洛陽の人々に私の学問を見せるのは、ひと月かふた月もあれば十分だ。見くびるでない」。妻の手に載せられているのはわかっていた。

　気色ばんだ夫に、妻は静かに笑った。「何がおかしい」。「ひと月かふた月と豪語するそのお心持ちは笑わずにはいられません」。「まやかしの大言壮語だと思っているのか」。「ひと月かふた月かしたらお帰りになるのですか」。「ああ、悠々と出産に間に合うようにな」。妻はさも可笑しそうに笑った。「いつまでも笑い続ける気か。そんなに何が可笑しい」。「帰ってくるとおっしゃるからです」。「帰ってきてはいけないのか」。「あなたさまはここにはお帰りにならないでしょう。必ずそうなります。そうでなければならないのです」。妻は強く言った。

　魏元忠は瞬時に覚った。初めて会ったときと同じだ。妻が正しい。魏元忠は宋城に居続けたいとの思いを断ち切った。母の死に戦い続けようと決心したのを思い起こした。怒りは大きなものに向けなければならない。

　「わかった。正直に言えば、自分の学問がなお至らぬのはこの自分がよく知る。道はたちどころに開けはしないだろう。ひと月かふた月は無論短すぎる。一年でも短いだろう。どうだろうか、五年ならばどうか。五年で区切ろう。我が学問を活かせるときが五年してもこなければ帰ってこよう。もしもそうなっても、そなたはこの私を夫として迎えてくれようか」。「五年でおあきらめになるのですか」。妻は短剣を差し出した。「五年してだめなら、それで喉を突けと言うのか」。

　妻は同意した。「いま上には皇后様がおられます。他の時代ならいざ知らず、皇后様がおられて、あなたさまが見逃されることは決してありません。皇后様に全てをお任せするお気持ちでいらっしゃるならば、必ずあなたさまは用いられます。そうならなければならないのです。あなたさまは、そのためにこの時代にお生まれになったのです。この剣を御覧になって、私の申すのが正しいと信じ続けてください」。魏元忠は剣を握った。「五年で死ぬ気なら、道も開けよう」。

　洛陽に行くと、道はすぐに開けるかのような幸運が続いた。李敬真の助力が大きかった。魏元忠は太学生になり、鄭惟忠は貢挙に合格した。鄭惟忠は首尾よく地方に良い職を得て赴任した。送別の宴は希望に満ちていた。万事に慎重で如才ない友人であるから、張景蔵の予言通り、官界で順調に出世するであろうことに疑いはなかった。

　妻は男児を無事出産した。その頃の思いを込めて、昇と名付けるよう魏元忠は書き送った。

　世は概ね平穏で、洛陽は最初にきたときよりも落ち着きを得て、武皇后の君臨する第二の都としての充実の度合いを深めていた。皇帝は長安と洛陽の二つの都を行き来し、長安は西方諸国との距離が近いことから軍事的意味合いの強い都であった。長安周辺は地理的条件から気候の変化を受けやすく、時折飢饉に見舞われた。そのようなときは、皇帝以下朝廷の人々は洛陽に避難した。洛陽には、隋の煬帝が造った大運河を通して、長江下流域から大量の物資が送り込まれ、多数の人口を支えることが常に可能だった。洛陽には豊かで格式の高い家が多く、文化的意味合いの強い都で、学問をするにはこちらが勝った。太学に集うのはほとんどが良家の子弟で、魏元忠のような貧乏な田舎者は稀だった。

　危惧した通り、洛陽の水とはやはり合わぬと次第に知れた。魏元忠には、あの襤褸家でさえも十分に恵まれている宋城の現実があった。太学の俊英は洛陽の空気にどっぷりと浸かり、優雅に振る舞い、婉曲に物を言った。魏元忠は、一つしかない粗末な衣服を笑われ、無骨な物言いで眉を顰められ、用兵術を談じて時宜を心得ぬとそっぽを向かれた。李敬真はそのような魏元忠に親切であり続け、生活を援助してくれたが、やはり良家の子弟であることに変わりはなく、心の底から通じ合うには至らなかった。感謝しつつもそうであることに、魏元忠は後ろめたいものを感じた。しかし、自分を曲げることはできなかった。

　貧窮であるが故の宋城の日々の心地よさを思うと、父のように帰りたくなった。洛陽にきてまだ何もしていなかった。父は大官になってから去った。田舎出の変わり者と見られるだけで終わったのでは負けだ。母の墓で戦うと決意した。いまはまだ戦いが始まってもいない。妻の短剣は常に近くある。

　自分を真に知る人に用いられるのが、少年の頃からの願いだった。妻が言ったように、それは武皇后であるのだろうか。洛陽では、何千、何万という者が武皇后の目に少しでもとまろうと懸命にひしめき合っていた。武皇后に見出された者は一日にして運命が変わった。どれほど細い縁でも必死に辿り、あるいは金銭を積んででも縁を作くろうとし、さもしいことも多々行われていた。そうした連中の一人には断じてなりたくなかった。最初の志の通り、学問をもって武皇后の知遇を得る。そのためには。衆とは異なる用兵家として一層の研鑽を積まなければならない。

　上元二（六七五）年三月、かねてより持病の風眩に苦しめられていた皇帝は、国政の一切を武皇后に任せようとした。郝処俊が強く止めた。「古来、皇后は内にあるのが道であり、朝廷に臨むのは国を乱すもととされています。高祖皇帝、太宗皇帝の二代の皇帝がお作りになった天下を、御子孫にお伝えにならずに、皇后陛下にお委ねされるようなことはあってはなりません」。皇帝は思い留まった。

　武皇后はその諫言を是としたかのように振る舞い、文学の士を集めて書物を校合編纂する文化事業に乗り出した。魏元忠は李敬真の推薦によって、その作業の末端を担った。宮中に集められた多数の書物に触れると、自分の学問の浅さを思い知らされた。これでは宋城の蚯蚓に留まっても仕方がないと、寸暇を惜しんで万巻の書を読んだ。

　同年四月、皇太子の李弘が急死した。宋城の田舎にいたのでは聞けなかったような噂を耳にした。驚くべきことに、武皇后が毒殺したと言うのだった。李弘は武皇后自身が産んだ子だ。

　噂の真偽を李敬真にそれとなく尋ねると、「我が子の欠点を見抜けるのは最も偉大な人物だけです」と、否定も肯定もしなかった。

　李弘は父皇帝に似て慎ましやかな性格で、臣下に礼節をもって接し、朝野の評判はすこぶる良かった。李弘は、母が皇帝の上に出ようとするのは礼教に反すると意見して、機嫌を損ねたことがあった。これも李弘の評判を高めた。そのとき李敬真は「事なきを良しとする連中に歓迎されているだけです」と皇太子を評していた。

　噂によれば、母子の決定的破局は、李弘が異母姉の義陽公主と宣城公主の二人が宮中の奥深くに幽閉されている事実を知ったことにあった。異母姉の母は蕭淑妃だった。蕭淑妃は武皇后に殺され、死に際して呪詛した女性だ。李弘は三十を超えた姉を哀れみ、しかるべき相手を選んで降嫁させてはどうかと父に願った。父皇帝はそれを許可した。武皇后は皇帝の前に現れ出て、「まことに良きお話を聞きました。早速、良き婿を私が選びましょう」と、宮中の下級の護衛兵を二人呼び付け、公主を下げ与えた。李弘の死はそれから幾日も経っていなかった。

　六月、死んだ李弘に代わって、弟の李賢が皇太子に立てられた。

　牝鶏牡鳴は疑いもなく悪しきこととする人々が大勢いた。太学生になるような良家の子弟は概ねそうだった。家柄のよろしい人々は、三代目の皇帝のもとで、同じく三代、あるいは四代と続く己の家が安泰であるのを望んだ。国にとって、民にとってそれがよいとは限らない。李敬真は功臣の孫でありながら、爵を継いだ兄の李敬業に反発するかのように、武皇后に傾倒する度合いを強めていた。

　魏元忠は、噂がたとえ真実であっても、それは武皇后の英邁さの証であると考えるべきだと思った。妻の言葉が正しいのならば、そうでなければならない。

　九月に、二人の将軍が誤って昭陵の柏を切り、獄に繋がれた。昭陵は太宗皇帝の墓である。罪は除名に相当したが、皇帝は父の墓所が荒らされたのをことの他に怒り、死刑にせよと命じた。狄仁傑が「罪は死刑に当たりません」と意見書を出した。

　皇帝は狄仁傑を呼び付け、「死刑にしなければ朕は不孝を為す。そなたはそれを望むのか」と面罵した。狄仁傑は怯まずに己の主張を述べた。皇帝は真青になり、「こやつをつまみ出せ」と命じた。狄仁傑は役人の腕を払って言った。「お上のかんばせを犯しての直諫は古より最も難しいとされてきました。臣が仕えますのが桀や紂のような暴君でありましたならばその通りでありましょう。しかし、堯や舜のような名君でありましたならば実に易いものです。いま法は死に至らぬと定めておりますのに、陛下は特別に殺せとお命じになられました。これは人に法を信じるなと言うに等しいものです。かつて漢の時代に、先帝の廟から玉環を盗んだ者がありましたとき、文帝は『一族を皆殺しにしろ』と命じました。張釈之が『宗廟の器を盗んだ者は死罪と定め、刑はその者一人と決めてあります』と止めました。文帝は『そちは宗廟を敬う朕の心を踏みにじるのか』と激怒しました。張釈之は申しました。『処罰には順がございます。器を盗んで一族皆殺しとしたならば、万一、高祖皇帝の御陵から一抔の土を盗む者がありました際に、陛下はいかなる処罰をお与えになるお考えでございましょうか』。文帝は怒りを和らげ、張釈之の言を皇太后に伝え、法の通りの処分としました。いま、一株の柏で二人の将軍を殺しましたならば、後の世の人々は陛下がどのような君主であったと申すようになるでしょうか。臣は敢えて詔を奉じずにおりますのは、陛下が道ならぬところに陥らぬように、そして、地下において張釈之に恥じ入らずに会えるようにと思うからでございます」。皇帝は怒りをおさめざるを得なかった。二将軍は死を免じられ、南方への流罪となった。

　狄仁傑は侍御史に用いられた。武皇后による抜擢とされた。侍御史は御史台の役人である。御史台は官人や将士の懲罰機関で、侍御史は、御史台の長官である御史中丞のもと、罪を取り調べて刑罰を決める役を担う。狄仁傑のような公正な人間こそがその任に就くべきであった。

　武皇后は門閥によらずに優れた人物を引き上げて適所に用いた。逆に、悪しき人間は自分の子でも消し去る。魏元忠は狄仁傑に続きたいと思った。

　書物の編纂事業は千余巻を完成させて終わり、事業の中心を担った人々は武皇后に認められ、政治向きのことも下問されるようになった。その建言は皇后の意に適い、採用された。それらの人々は北門学士と呼ばれ、宮城の南側で執務する宰相連中よりも、国の政策に深い関わりを持つようになった。

　李敬真は最初に会った日のもう一つの約束を果たしてくれた。用兵術の大家、江融に弟子入りできるよう縁を結んでくれたのだった。

　江融は長安にいた。魏元忠は小さな荷を負って長安に赴き、その門を叩いた。江融の謦咳に接すると、魏元忠の学問は一気に飛躍した。二年ほどで、「そなたに教えることは尽きた。書物から得られるものには限りがある。戦は書物の上で為されるのではない」と、江融から西方への旅を命じられた。

　そのころ西方では吐蕃が勢いを増し、唐の国境はずるずると後退するのを余儀なくされていた。かつて李世勣が高麗遠征から凱旋した頃には、唐は東西南北のあらゆる方面において軍事的優位に立っていた。西方でのそれが崩れ去ったのは、李世勣が死んだ翌年の咸享元（六七〇）年秋の大非川での大敗からだった。敗因は、郭待封が勝手な行動を取ったことにあるとされていた。郭待封は李世勣の旧友の郭孝恪の息子で、李世勣は、郭孝恪が西域で陣没した後、郭待封を高麗遠征に連れて実地に用兵術を授けた。その郭待封が敗北を招いたとされたことに、李敬真は疑念を抱いていた。「我が祖父が用兵術を授けて無様な負けをしたとあっては祖父の恥です。本当の敗因は異なるに違いありません」。

　魏元忠は、西方への旅で、大非川の敗北の真相を探ってみようと考えた。

　大非川の戦いに先立ち、唐は吐蕃のために西域十八州を奪われ、重要な戦略的拠点であった撥換城も失っていた。朝廷はそれを奪回すべく、名将として名高い薛仁貴を大将軍とし、阿史那道真と郭待封を副官に付け、大軍を西域に送り出した。薛仁貴は、かつては郭待封と同列であったが、出世競争で大きく水をあけていた。そのきっかけは太宗皇帝自身が指揮した高麗遠征にあった。薛仁貴は、太宗皇帝の視界の及ぶ場所において、全身を白衣で覆い、白い布を長く靡かせ、華々しくも敵陣に突入した。薛仁貴は常にその調子で、功勲を上の者に印象付けるのが巧みであった。郭待封はその点が不器用だった。

　魏元忠は大非川の戦いの生き残りの老兵に会い、旅の商人にも尋ね、真相と言うべきものを掴んだ。

　唐軍が大非川に到着すると、薛仁貴は柵を築き、重い荷を置いて守備兵を残し、軽装な騎兵だけで鳥海に向かおうとした。皇帝の命令は、鳥海に達して吐蕃を討てというものだった。薛仁貴は、吐蕃と本格的な戦闘を交えて勝利を得るのは困難と考えていた。鳥海に達したとの事実をとにかく作り、できれば小さな戦闘で勝利を得てさっと引き上げるつもりだった。郭待封は薛仁貴の方針に反対した。薛仁貴は聞く耳を持たなかった。全軍で鳥海に向かうべきだと主張し続けた郭待封に、薛仁貴は、「そこまで言うのなら貴様は貴様で考えるようにやってみろ」と、一部の将兵を分け与えた。薛仁貴は鳥海への最短の道を取り、郭待封には困難な道を選ばせた。薛仁貴は軽やかに鳥海に到達すると、すぐに帰途についた。郭待封は吐蕃の大軍と遭遇した。彼我の戦力の差の大きさに郭待封は敗れた。薛仁貴が大非川に戻り、撤退しようとした矢先に、四十余万の吐蕃の大軍が襲いかかってきた。唐軍は壊滅し、薛仁貴、阿史那道真、郭待封はそれぞれわずかな部下に守られて逃げ帰った。大敗の罪は死に相当したが、皇帝は薛仁貴の命を惜しみ、三人を除名処分とした。後に、薛仁貴だけが返り咲いた。

　郭待封のかつての部下であった老兵は怒りに泣いた。その怒りが魏元忠に乗り移った。大非川の真相を世に知らせねばならぬと文章を記し、長安に帰って江融に示した。「そなたの智は世に用いられるべきだ。それをそなた自身が切り開かねばならない」。皇帝に策を献じる上奏文として書き改めるよう指示した。

　妻と決めた五年がまさに過ぎ去ろうとしていた。短剣を脇に置き、「賞罰は軍国の切務」を基軸とする皇帝への建言を一気に書き上げた。

　遠く歴史に鑑みて用兵術の骨格を論述し、それより現今の問題に及び、西方に対する軍事的優位を取り戻す具体的な方策を提示した。朝廷の一部に蔓延する志気の低下が憂うべき大問題だった。薛仁貴の悪しきところを人々は見習った。前線において命がけで敵に向かわず、敗北は糊塗する。肝要なのは中央での工作で、上の目を誤魔化せば首尾良く出世が遂げられた。かつて李敬真が言っていた通り、将士に対する賞罰が正しくないことが、現在の結果をもたらした。

　怒りをもって書いたために、文章は少なからず激越であった。江融は一読し、「我が第一の弟子はそなただ。皇帝より咎めがあるならば、喜んでこの私が全て受けよう」と言った。

　時に皇帝は洛陽にあった。魏元忠は洛陽に戻り、いかにして皇帝に差し出せばよいかを李敬真に相談した。

　「これが公にされれば、明日より洛陽にいられなくなるのが九分以上、運良く皇后様のお目に止まるのが一分くらいはあろうか。貴公が用いられるようになるのはそのまた一分か。伸るか反るかこれ一回限りです。それで構いませんか」。

　魏元忠の心は決まっていた。これが認められなければ宋城に帰る。父子ともに時代には巡り合わなかったというだけのことだ。短剣を妻に返し、我が子と初め会い、後は書を友とする静かな日々がある。それはそれで望ましいものであった。

　儀鳳三（六七八）年九月、魏元忠は皇帝に召された。「玉座の後ろに御簾が掛かっていたならば、一分の側に道が開けて行きましょう」と李敬真は言った。

　御簾は玉座の隣にあった。皇帝は頭を抑え、時折、低く張りのない声で、魏元忠に問いを発した。魏元忠が答える間も、皇帝はずっと苦しげに顔をしかめていた。持病の頭痛がひどいようだった。魏元忠が答え終ると、皇帝は脇を向いて小声で何かを言い、それから次の問を発した。

　大非川の敗北に話が及んだ。魏元忠の頬に朱がさした。老兵の怒りが魏元忠に乗り移っていた。朝廷に現に並ぶ人の名を挙げて批判し、「賞罰は軍国の綱紀、政教の薬石」という、論の要に至った。魏元忠の声は激した。皇帝もそれまでとは打って変わって厳しい声を発した。「峻罰によって守成の難を乗り越えようとした皇帝は、概ね国を亡ぼし、身を滅ぼし、歴史に暗君として恥ずべきその名を留めた。そちは朕をその中に加えようとするのか」。魏元忠は怯まなかった。濫りに厳罰をもって臨んだ暗君を列挙し、その非は罰の厳しさにあるのではなく、人の才を伸ばさず、根元を伐ってしまったことにあったと例証した。

　魏元忠は力を込めた。「賞罰は結果に対して与えられるものではありましても、肝要なのは、人の志を正しく遂げさせるよう導くことにあります」。「仁君は賞によって導く。罰によって脅すのは仁者の為すことではあるまい」。「賞を与えるは楽しく、受けるも楽しく、賞によって導くならば仁者と敬われましょう。罰を与えるは苦しく、受けるも苦しく、峻罰を恣にした君主は臣下の反逆に遭って国を亡ぼしました。かようにお考えになっては、すでに国家の大体を失ったも同然にございます。世によく申す通り、慈父に育てられた子は敵を見れば逃げ、厳父に育てられた子に捕虜となる者はおりません。慈父になるは容易く、世の聞こえも良いのでありますが、君主として慈父たらんと望む以上に大なる病はありません。賞には罰、罰には賞が添わねばならず、賞罰が兼ね揃わねば、古の聖天子、堯、舜にしても天下を保つことはできなかったのであります。罰を厭うてはならぬのです」。

　魏元忠がなお頬を染めて言い続けようとしたときに、御簾の内より嘆息が漏れ、「そちが正しく遂げさせたいとする志は何か」と声が響いた。武皇后だった。

　魏元忠の体が震えた。まさしく衆に異なる人がここにいた。この人に見出されるために今日まで生きてきた。妻を思い、母を思った。母の棺を埋めたときの怒りが甦り、洛陽にきた最初に日の怒りが甦り、我が喉に心の内にある短剣を突きつけた。自分の全てはこの人が知る。

　「兵は王者の大事、存亡を繋ぐものにございます。いま兵を用いる者は、たまたま将家の子に生まれたからその任にあるのみです。兵の根本を知りません。億兆の衆は真に卓越した士が現れ出るのを望んでおります。私は江融先生に用兵術を学び、国家のためにそれを役立てたいと考えております」。

　皇帝が笑ったように見えた。無位無官の者がほざく大言壮語と映ったのだろう。御簾の内から、「志すのはそれだけか」。魏元忠の腹を揺さぶる厳しい声だった。

　「天下の柄は二つございます。武と文です。いま某は武を申しました。武と文は二つあっても、その道は一つにございます。この世に生まれ志すところの究極は、孔子、孟子と同じく、古の周の世をいまに甦らせることにございます」。母に虞詡になると誓ったよりも大きく、伊尹、周公になろうと思ったことの方を告げた。その壮大すぎる志に、皇帝は呆れたように目を閉じ、頭を抑え、魏元忠などそこにいないかのように、頭の痛みだけの世界に入って行った。

　御簾内より三度目の声が聞こえた。「秘書省正字を授け中書命に直して仗内供奉を命ず」。皇帝は目をうっすらと開けて横を見て、いまの言葉を復唱した。そして魏元忠に対し、「朕はそちの話を今後も聞きたく思う。よって秘書省正字を授け中書命に直して仗内供奉を命ず。次の朝会より入見せよ」。

　我が身に起こったことを、魏元忠は瞬時には理解できなかった。頬はなお紅潮し、心が昂ぶっていた。だから、ここで皇帝に謝礼の言葉を言うべきだということにさえ思い至らずに、衣擦れの音に平伏しただけだった。

　その後、少しして、自分を見出してくれる人に出会えたのだと理解できた。我が心を知る人に尽くし、虞詡となる願いが叶う道が開けたのだった。

　　　　七

　百官とともに朝会に出て入見するのを許された魏元忠のために、李敬真は祝宴を張ってくれた。集まった顔ぶれから、いかなる系列の人々の中に魏元忠があるのか一目瞭然であった。

　無論、口を極めて批判した薛仁貴やそれに繋がる人々はいなかった。前の代から朝廷の中枢部にいた人々やその子弟も、李敬真を唯一の例外として混じっていなかった。武皇后によって認められた人々、あるいはこれから認められるであろうと期待される人々ばかりだった。出世頭というべきは北門学士であった。多くは、政治を刷新する意欲に燃えつつ、前途は多難であると見ていた。

　武皇后の力は必ずしも絶大ではなかった。国政の一切を武皇后に任せるのを食い止めた郝処俊のような気骨ある人物がいた。それを忠臣の手本と仰ぎ見る人々は、武皇后のもとに集まる連中は我欲によって立身出世を図ろうとする不届き者であると見下していた。

　旧友の鄭惟忠は、折しも、地方での任務を終え、次の任地が決まるまでの間、洛陽に滞在していた。しかし、宴には姿を現さなかった。鄭惟忠は、李敬真とは微妙な距離を保つようになっていた。

　「これまでの御恩をいかにしてお返ししたらよろしいのでしょうか」。李敬真に尋ねると、「郭待封様の恥を雪いで下さったことで十分です。亡き祖父も喜んでおりましょう」。「それだけではとても足りぬ御恩です」。「皇后陛下が新しい世をお開きになるお手伝いをされれば、天下のため、民のため、そして私のためにもなります。是非、励んで下さい」。李敬真は良家の子弟であるが故の純粋さがあった。

　後日、鄭惟忠が一人でそっと訪ねてきた。「貴公の学問の深さを思えば、遅きに失したと言うべきでしょう。これは張景蔵様がおっしゃっていたことの最初の一歩に過ぎません。難しいのはこれからです」。鄭惟忠は十年も二十年も会わなかったかのように老け、地方の任地へと送り出したときの希望に満ちた輝きは消えていた。鄭惟忠にとって、官界で生きるのは相当に苦労のようであった。

　それをまじまじと見て、「おっしゃりたいことはよくわかります。これはむしろ張景蔵様の教えを守らず、怒りの相に任せた結果であるらしく、危うさを重々承知せねばなるまいと考えております」。魏元忠はまだ官界がいかなるところであるのか実地には知らなかった。李敬真の宴に集った人も、必ずしも心を一つにしているわけではないようだった。

　鄭惟忠は、その言葉にほっとした様子で、「貴公の心が皇后陛下の御心に適ったのです。それは疑いようがありません。ですから、皇后陛下のお目の届くところに貴公が常に身を置くのならばよいのです。実際には、多数の人々が集まる官界の中に身を置くのです。そこにいるからこそ、国ため、民にために働けます。官界には、別のことを考えている者もいます。大変危うい世界です。官界での先輩としてこれから申すことを、要らぬことと思わずに、聞いてはくれませんか」。「朝廷での作法も何も知りません。拝命した折に、早くもはなはだ非礼を働いたと、後で注意を受けました」。魏元忠は苦笑いした。

　「突如抜擢され、たちまち身を滅ぼした者が幾人もいます。貴公も御存知でありましょう。人との交わりは慎重でなければなりません。怒りの相を抑えるよう張景蔵様が言われたのはそこにあります。自分自身を押さえ付け過ぎて、何もできなくなっては意味がありません。右顧左眄して、身の安泰だけを図りなさいと勧めるのではありません。この先、一生とは申しません、五年だけは、じっと怒らずにいていただきたい。貴公の学識には余人の及ばぬものがあります。貴公はこれから大きなことを為さねばなりません。皇后陛下もそれを願っておられます。早々につまずいては何もなりません。五年もあれば貴公のこと、堂々とした地位に昇れましょう。そこからが本当の活躍のときです」。

　魏元忠は同意した。「上奏文一つで有頂天になっていると陰口を叩かれぬように、おっしゃる通りにいたします」。魏元忠はそっと鼻を押さえ、この仕草を常に心得ねばなるまいと思った。しかるべき地位に昇らなければ、武皇后の前で言った志を果すことはできない。

　宋城から妻と子と蘇禎がきた。短剣を返すと、妻の目にたちまち涙が溢れた。妻がいかなる思いでこの歳月を過ごしてきたのか、問わずとも知れた。「そなたが洛陽に行くよう言ってくれたお蔭だ」。妻の辛抱に報いるためにも、鄭惟忠の助言を守ろうと、改めて決意した。

　息子の昇に初めて会った。これが我が子であるのかととまどった。すでに六歳に達していた。礼儀正しく挨拶した。それが奇妙によそよそしく見え、子に対する自然の情愛は生まれ出てこなかった。

　蘇禎は「先生はこうなられるお方だと最初から思っていました」と誇らしげに言った。竹の杖で蘇禎をしたたかに打ったことを思い出し、怒りの相はやはり鎮めねばらぬと思った。

　しかし、魏元忠は魏元忠だった。言葉を飾らぬのを野卑と咎める冷たい視線に怒りを覚えた。正しい論をもって皆を説伏すべく、渦巻く怒りとともにまくしたてた。我が勢いに自ら驚き、慌てて鼻を押さえた。怒りが本当に堰を切って出てしまうのはかろうじて防げたが、魏元忠を嫌う者は確実に増加した。

　「いずれ趙括よりも愚か者と笑われよう。見ものですな」と、陰口が聞こえた。

　趙括とは戦国時代の名将、趙奢の息子だ。幼少より兵法を学んで、軍略を論じて父を言い負かすまでになった。父は「あれがもしも大将になったら国を破滅させる」と妻に語った。趙奢の死後、国は隣国からの激しい攻撃を受け、老将軍は防衛に徹し、戦況は膠着状態に陥った。王は、若く血気盛んな趙括を大将に据えて、敵を撃退しようとした。趙括の母は王のもとに出向き、夫のかつての言葉を伝え、命令を取り消すよう頼んだ。「夫は大王様からの賜り物は全て兵士に配り、出征の命を受けると、家の事に一切構わず、直ちに出陣しました。このたび息子は大将になりますと、大王様より頂戴しました黄金と絹を家にしまい込み、良き土地や家を物色しております」。王は命令を覆さなかった。趙括は敵の術に落ち、勝算のない決戦に打って出て、矢に斃れた。兵士四十万が敵に生き埋めにされ、国運は一気に傾いた。

　実線経験がないのに口ばかり達者な魏元忠は、趙括と同じで、そのうち大失敗をするに違いないと言うのだった。

　妻は言った。「五年の間、親戚の者にはさんざん嫌味を言われました。いちいち気にすることはありません。五年もすれば、いま陰口を言う人達も、親戚連中と同じく、頭を下げるようになるでしょう」。「辛抱だな。鄭惟忠君も五年と言っていた。難しいが、慎むことにも慣れねばなるまい」。魏元忠は鼻を強く押さえた。

　息子の昇は、父との暮らしに慣れてくると、礼儀正しいばかりではないところを、父の前で見せるようになった。自分の思い通りにできないと、体を揺すって苛立った。字が上手に書けないと真黒に塗りたくり、暗誦して思い出せないと唸り金切り声を上げた。妻は息子を強く叱った。「これですから、厳しく礼儀作法を躾けなければならないのです」と夫に言った。

　魏元忠は、息子がよそよそしく見えた訳を了解した。近頃は鼻を押さえてばかりいなければならない自分に息子が重なり、俄かに愛おしくなった。息子をそっと蔭に呼び、「いいか母の前では上手に振る舞うのだ」と、鼻を押さえる方法を伝授した。

　重ねれば習慣化し、相変わらず陰口は聞かれても、怒りは抑制され、魏元忠の官人生活はそれなりに落ち着きを得るようになった。

　このとき外敵の侵略は小康を得て、国の根幹を揺るがす大問題はなく、世は概ね平穏だった。武皇后が抜擢した人々は実際的な能力に優れた。鄭惟忠がそうであるように、地方官には有能で誠実な者が多く揃い、唐朝の統治は隅々にまで浸透した。

　ただ、朝廷内では、表面の静けさの下で、諸勢力間の関係が深刻化しつつあった。魏元忠は用兵家としての独自の考えを貫き、徒党を組むのを嫌った。それでも、李敬真の恩を軽んじることはなく、最初の祝宴に集まった人々とは厚薄はあっても良好な関係を保ち、大きく見れば、武皇后を上に戴く新興勢力の一員に属すのは無論のことだった。

　李敬真の兄の李敬業は、祖父李世勣の爵を継ぎ、弟とは全く異なる人々と交友関係を結んでいた。ほとんどが二代三代と続く名家の子弟だった。薛仁貴のような人々もそうであるが、皇族と深い縁故を有していた。めんどりが鳴くのを果敢に抑えて忠臣の手本とされる人々とともに、武皇后とは微妙な関係にあった。それらは大きく見れば、守旧勢力として一つであると見なすことができた。

　新興勢力にも守旧勢力にも、天下より我欲を優先する不心得者がいた。醜い話を耳にすると、魏元忠は怒り、賞罰こそが肝要であるとを思うのだが、不正義を正すには、鄭惟忠の言う通りに、しかるべき地位に昇るのを待たねばならなかった。議論でへこますのは相手を不快にするくらいで済むが、不正義とは命のやり取りをしなければならない。小官の身で戦いをすれば始めた途端に負けるのは自明だった。

　不心得者は、台頭しつつある第三の勢力に多かった。武皇后の親族だ。武一族は、武皇后との関係で言えば新興勢力と近いのだが、政治的理念と言えるようなものは持ち合わせていないのが決定的に違っていた。

　皇帝は、持病に苦しみ、政治的情熱を失い、勢力争いの深まりに目を背け、武皇后から離れた長安にいることを好んだ。

　永淳元（六八二）年夏、魏元忠は皇帝に従って長安にいた。長安周辺は二年続きの旱魃で、秋の収穫が危ぶまれ、米穀の値が急騰しつつあった。このようなとき、皇帝は百官を率いて洛陽に避難するのがお定まりであったが、皇帝はなかなか動こうとしなかった。

　いよいよ飢饉の様相が色濃くなり、都の外で飢えに駆られた盗賊が跋扈し出し、長安の食糧庫が底を尽くばかりになって、ようやく長安を出発した。危機は切迫し、一行が無事に洛陽に着けるかさえも危ぶまれた。

　道中警護の指揮を執るよう魏元忠に命が下った。用兵家を自認する魏元忠には適役であった。魏元忠は、虞詡に習って獄に赴いた。盗を働いて捕まった者を呼び、その中から、風貌および言辞において衆と異なる者を一人選んだ。桎梏を解いて官服を着せ、長安から洛陽への旅の間、その者と食宿を共にし、盗賊に対処する策を尋ねた。その者は大いに働き、群盗も魏元忠に憚った。一行は難に遭うことも、落伍者も出すこともなく洛陽に到着した。

　魏元忠は実際に事を為す才があると認められた。

　魏元忠の地位は着実に上昇し、暮らし向きは年々豊かになり、親類縁者が何かと訪ねくるようになった。妻の蘇家に、できるだけのことをしてやりたいと思うのは自然であった。

　妻は洛陽にきてから二女を生み、不幸にも、いずれも一歳に満たずして死んだ。心身を弱らせた妻を慰めるためにも、蘇家にはよくしてやりたかった。

　蘇禎には、洛陽のしかるべき家より良き妻を迎えた。

　父や母の親族も訪ねてきては、あれこれと頼み事を持ち込んだ。かつて父の財産を貪り取っていた連中であったが、無下にするのはもとより礼節に反し、自分だけ出世してお高く止まっていると悪口を言われるのは目に見え、また、父は財産を奪われるのを嫌ってはいなかったことを思うと、結局は、どの親族に対してもいい顔をするようになった。

　そのようなことから、宋城での魏元忠の評判は大変良いものとなった。旧友の鄭惟忠は、もとよりそのあたりの気配りに手抜かりはなかったから、魏元忠と鄭惟忠は宋城の誇りとされた。

　　　　八

　光宅元（六八四）年九月、揚州からの急使に洛陽は騒然とした。

　唐朝が天下統一を果たしてから初めての大掛かりな内乱だった。揚州は長江の北岸に位置する、長安、洛陽に次ぐ第三の都市である。物資の一大集積地で、そこを起点とする大運河を通して運び込まれる南方からの食糧が洛陽や長安の繁栄を支えていた。

　総勢三十万をもって反乱軍を攻囲すべく討伐軍が派遣された。李孝逸が総指揮官になった。人と物資の徴発が大々的に行われ、洛陽の人々は浮き足立った。

　魏元忠は妻に言った。「我が身一人の覚悟ならば容易だ。災厄がそなたの家に及ぶのは防ぎたい。その思いがあるようでは、友の恩に報いようとするのも、我が身のためと見られもしようか。たとえ我が身のためでもせねばなるまいか」。

　妻は答えた。「これまで大きな心得違いをしていました。宋城におりました六年前に、あなたさまがお上のお召しを賜ったと聞きましたとき、親類縁者に対し、我が信念の正しさを誇りました。五年間の辛抱にそれくらいはしてよいと思ったのです。洛陽に参りましてからは、手にしたものを守りたいと、知らず知らずに思うようになってしまいました。この浅はかな思いがあなたさまのお心も曲げてしまったのでしょう」。「朝廷の一員になれたのはそなたの力があってだ。そなたの家に恩を返さないのは人として許されない。まだ十分とはいえない。それなのに、災厄ばかりを一緒にさせる訳にはいかない」。「私の心が父や母、あるいは親類の者と、同じになってはいけなかったのです。洛陽での暮らしに親しむうちに、多くを望んでしまいました」。「そなたは何も特別に求めはしなかった」。「いまに至って恥を知ったのでは遅すぎましょう。それでも気づかぬよりはましです。六年の間にあなたさまは変わられました。それに気づくまいとの心が私にはありました」。

　魏元忠の顔に朱がさした。妻が言おうとしている意味はわかった。衆に異なる自分であるべきなのに、鼻を押さる仕草に慣れ、平々凡々たる官人の一人になっていたのではないのか。母を埋めたときの怒りはどこに行ってしまったのか。洛陽にきた最初の日に抱いた怒りはどこに行ってしまったのか。

　「私のことはもう言うまい。友の恩にいかに報いるかだけを考えよう」。魏元忠はつぶやいた。

　反乱の首謀者は李敬業だ。兄が反逆者で、弟の李敬真に何事もないはずがない。李敬真に罪が及べば、自分にも親類にも及ぶだろう。李敬真はいまは洛陽にいない。もともと兄とは考え方が違う。行動を一つにはしてはいないだろう。いまなら李敬真を救えるかも知れない。

　妻は言った。「これ以上、似つかわしくないことをなさっては、見苦しいばかりです」。魏元忠の頬が真赤になった。「友の恩に報いるのが見苦しいのか」。「初心に立ち返ってください。あなたさまが変わってしまう前の初心に」。「宋城に帰れと言うのか」。「それでは逃げたことになります。洛陽にこられた最初のお心にお戻りください」。「忘れはしない」。「そうでしょうか。ならばなぜそのように狼狽されているのですか」。

　魏元忠は目を閉じた。妻を怒るこの自分は見苦しい。怒りは天下の悪に向けなければならない。「洛陽の人々は誰もが狼狽しています。しかし、あなたさまはそうであってはならないのです。そのことをよくお考えください」。妻の厳しい声に目を開くと、妻の手には短剣があった。

　そのとき、宮中からの急使が門を叩いた。

　前年の十二月に高宗皇帝が死に、息子の李顕が第四代の皇帝として即位した。

　かつて母に毒殺されたと噂された李弘の次に李賢が皇太子になっていたのだが、李賢は母と対立して遠方に流され、李顕がその次の皇太子になっていた。

　李顕の即位で、武皇后の立場は皇太后に変わった。新皇帝自身の発案か、周囲の考えか、皇太后の権を抑えるべく、新皇后の父の韋玄貞が要職に就くことになった。外戚に依拠するのは国を乱すもとだと、裴炎が皇帝を諫めた。若い皇帝は激怒した。裴炎は恐怖に駆られて武太后のもとに走った。武太后は間髪入れずに息子を皇帝から引き摺り降ろし、その弟の李旦を皇帝に据えた。李顕は在位わずか五十四日で盧陵王に格下げされ、南方に流された。その最中に、元の皇太子の李賢を担ぎ出そうとする動きがあり、武太后は李賢を自殺させた。

　李敬業は、武太后が横暴であるとの反感が高まりつつあると見て、反乱を起こした。名将の孫は旗揚げを鮮やかに決めた。盧陵王の復位を大義に掲げ、全土に飛ばした檄は、武太后を感心させるほどの名文だった。それを読む限りは、義は反徒側にあった。唐は高祖、太宗、高宗と三代続き、その皇室の男児が皇帝として絶対的な権威を持つべきであった。武太后が皇帝の上に立つかのように振る舞うのは許されない。元をたどれば武氏を皇后にすることにただ一人反対しなかった李世勣の過ちがこの事態を招いた。孫である己が正さなければならないと李敬業が考えたのは理に適っていた。

　反乱に呼応する者が洛陽でも出るかも知れぬと、武太后は警戒し、最初の嫌疑が裴炎にかけられた。裴炎は李顕の怒りから逃れるために皇太后のもとに走ったが、元来は守旧派だった。反乱に対する策を問われたとき、裴炎は、皇帝の号令が天下に及ぶようにすれば反乱は名目を失い、自ずと鎮まると答えた。それは武太后の不興を買った。御史台の侍御史が、裴炎は、甥が反乱に加わっているために討伐軍の動きを遅らせようと画策していると告発した。裴炎は獄に繋がれた。

　武太后は、隠れた罪を告発する「告密」を奨励していた。「賞罰は軍国の切務」という魏元忠の主張を武太后が認めたのは、罰すべきを罰しなければ悪がはびこるとの、厳罰主義の志向がもとより武太后にあったからだ。「告密」の最初の事例は、酔って武太后への不満をぶちまけた近衛兵十余人を死刑にした事件だった。密告した者は侍御史に取り立てられた。

　魏元忠は武太后に召された。小さな部屋で問われた。

　「そちの学問が真であるならば、事はいつ済むのか、確かな判断がつくであろう。その返答を聞いて決める」。いつもにも増して厳しい声だった。「揚州についてのお尋ねでありますならば、殿中御侍を授かる某にはいささか職掌外であると存じます」。魏元忠は慎ましく答えた。鼻を押さえることにそこまで慣れ切っていた。「問うていることに答えよ」。武太后の声が魏元忠の腹を抉った。

　魏元忠の頬が染まった。妻の短剣を思った。我が身を委ねるべき人がそこにいる。顔を上げると、武太后が上からのしかかるように直視していた。武太后の顔を初めて間近に正面から見た。魏元忠よりも年上であったが、兼ねて聞いていた以上に美しかった。その目と合うと、答えるべき言葉が瞬時に用意された。

　「某が考える通りに運びますれば、来年の元旦の朝儀に憂い顔の者は誰一人としておりませんでしょう」。「しかと左様か」。「為し得ると確信します」。具体的な裏付けはなかった。身の内に積み重ねてきた用兵術が真であり、武太后が自分を知るのならば、その前で口にしたことは必ず正しい。

　「よかろう。李孝逸を揚州道大総管にしたのは、人の言をよく聴き、広い見地から物事が判断でき、大軍を任せて失敗はあるまいと考えたからだ。李孝逸を行かせてから、長所と思ったことが成功を阻むやも知れぬと気付いた。そちに監軍を命じる。直ちに後を追え。李孝逸に失敗させないようにせよ」。

　監軍とは、前線にある将軍を皇帝に代わって見張る役目だ。武太后に全てを委ねれば道は自ずと開ける。妻の言った通りだった。

　魏元忠は腹を据えた。「賞罰は軍国の切務にございます。臣がいま申したのがその通りにならなければ、いかなる処分もお受けします。戦場において肝要なのは機を逃さぬことです。臣が敵のみを見て、洛陽を振り返らぬのを、お許し願いたい」。武太后は微笑んだ。「そちを呼んだのはそうしてほしいからだ。行け、そちの思うがままに、存分にやってこい」。

　魏元忠は即座に洛陽を発った。

　蘇禎が身の周りの品を持って追ってきた。「先生の御采配に天下が驚くときがついにきました。嬉しい限りです」。蘇禎は興奮していた。

　「一つの恐れが当たるならば、家には帰れなくなろう。その覚悟をせよと告げてくれ」。蘇禎の顔色が変った。「まさかのことがあるのでしょうか」。

　「李敬業が揚州の周辺を固め、江南の地を攻略し、各地の皇族に呼びかけ、時間をかけて洛陽を攻囲しようとするならば、敬業は勝利しない。直ちに洛陽を目指し、山東の豪傑に呼びかけて一気に攻勢に出るならば事態はまことに由々しい。来年の朝儀を洛陽で行うのは敬業であるやも知れぬ」。「よもやそのようなことが」。「この私も宋城にいて敬業の招聘を受けたならば立つであろうと思うまでに、山東の人士は李世勣様を慕っている。唐朝への反感もなお残る。山東の豪傑の力は皇族の比ではない」。「そのようなことが起こりましょうか」。「敬業が山東人の心を失っていればそうはならないだろう」。

　蘇禎はややほっとして、「姉よりこれを預かって参りました」と短剣を差し出した。「初めの心を忘れぬようにか」。

　宋城を出て武太后に委ねると決めた。山東人という狭い了見にはもう捉われてない。自分を見出してくれた人のために戦う。

　「そなたの姉が強い。私でさえ及ばぬ」。魏元忠は短剣を手にした。「そう見えましょうか。姉は姉で、先生の妻にふさわしくあろうと、懸命なのだと思います」。

　蘇禎は振り返り振り返り帰って行った。華奢な外見は少年の頃から変わっていなかった。あるいは、妻にも弟に似たところがあるのだろうか。

　魏元忠は蘇禎から目を放ち、弱い心を捨てた。天下の大きな悪を懲らしめてくださいとの蘇禎の願いに応えるのはこの挙にある。

　李孝逸に追い付いたときには、李敬業は電光石火の早業で長江南岸の潤州を手にし、さすがに名将の孫、恐るべしと、人々は言い合っていたが、魏元忠は安堵した。

　武太后の懸念は的中した。李孝逸は衆議に耳を傾け、決断に鈍かった。臨淮の地に諸軍が結集するのを待って時を空費した。李敬業はその間に三方に軍を配し、迎撃態勢を整えた。李孝逸は敵の様子を探るべく一軍を繰り出し、あっさり敗れた。

　諸将は口を揃えた。「血は争えません。潤州に勝ってからの敵の鉾先は鋭さを増すばかりです。今は戦うべきときではありません。我らの強みは三十万の数です。軍をしばらくここに留め、敵に怠りが生じるのを待つのが上策です。所詮は烏合の衆、必ず足並みが乱れます。そのときになれば数で簡単に圧倒できましょう」。早くも怖気づいていた李孝逸は、「お上よりお預かりした兵士だ、敵の鉾先が鋭いときにいたずらにぶつけて損なうのは、成程、下策であろう」。その言葉に、人々の間にはほっとした空気が流れた。

　魏元忠の腹の底かぽっと熱くなった。

　方針は定まったとばかりに、戦と関係のないことを人々は話し始めた。「何につけても情勢判断を間違えぬことです。お聞きになりましたか、洛陽では、裴炎様が斬られたそうです。連座する者も多くなりそうです」。別の者が顔をしかめ、「厳しくし過ぎるのもいかがなものでしょうかな。気が気でなくなる者も出てきましょう」。「どうしたって、洛陽の情勢が気になりますな」。「そこです。どこを向くのがよいか、おちおちしていられませんな」。人々が言うのを受けて李孝逸が言った。「とかく早まったことは避けねばなるまい」。

　腹の底より湧き出た怒りが渦を巻き始めた。馴れた通りに鼻を押さえた。李敬真に嫌疑が及べば自分も連座しかねない身だった。裴炎の処刑は他人事でない。そう思うと、妻の短剣を心の内で喉に突き付け、手を鼻から離した。怒りが堰より溢れ出た。

　魏元忠は立って李孝逸の前に進み出た。顔が上気していた。「皇太后様が、公に閫外の事を託されたのは何故でありましょうか。公が王室の懿親であられるからではありませんか。天下は高祖、太宗、高宗の三代の皇帝より今日に伝えられました。公こそは天下のために三十万の兵士をお使いになれるお方でありましょう。天下の安危はこのいまの一決にあります。海内は久しく平和が続き、突然の狂狡に天下の耳目がここに集まっています。敵の誅されるのを聞けば、天下の民は安堵しましょうが、大軍を擁したまま進めずにいれば、遠近の期待は緩みましょう。もしも皇太后様がお怒りになり、他の将軍と交替させようとなさいましたならば、公は皇太后様の前でどのような申し開きをなさるおつもりでしょうか。速やかに兵を進めて大功を立てるならば幸いとなり、それ以外のときには禍難が参りましょう」。話すうちに、声は一調子も二調子も張り上がり、床を踏み、腕を伸ばして指先を李孝逸に向けていた。「余は罪人になるのか」。李孝逸は青褪めた。「いま進まなければ必ずなります」。李孝逸は周囲を見回した。将軍連中は無言であった。

　李孝逸は渋々臨淮を発ち、動きは緩慢だった。

　三方で待ち構える敵のいずれかに我が主力をまず向けるか、意見が分かれた。李敬業が阿渓に、弟の李敬猷が淮陰に、韋超が都梁山の要所にあった。大軍をこうして動かしたからには敵の主力である李敬業と雌雄を決すべしとの声が多かった。三方の敵を相手にせず揚州を奇襲すべしとの少数意見もあった。李孝逸は、都梁山に敵を置いたままでは動きずらく、まずそこを叩こうとの考えに傾きつつあった。ある将軍は「険を頼んで守りを固めている敵にわざわざ戦いを挑むのは良き策とは言えますまい。都梁山の下に見張りの兵を残して、大軍は前に進むべきです」。別の将軍が「軍勢を二手に分けるのは敵の罠にはまるようなもの。ここは全力を挙げて都梁山を攻めるべきです。都梁山が敗れれば、敵はその敗戦に気を喪い、自ずと瓦解しましょう」。別の将軍は「事はそう簡単ではあるまい」。議論は堂々巡りとなり、決まらぬのをむしろ歓迎するかのような雰囲気があった。

　魏元忠は再び立ち上がった。誰もが言わずにいた李敬猷攻撃を主張した。諸将は顔を見合わせた。「書物にはどのように記されているのか知りませんが、少しでも戦の経験があるならば、李敬猷が囮だというくらいはすぐにわかりましょう。見え透いた敵の意図が見抜けぬとは、いかに趙括が愚かでも、そこまでではありませんでしたな。我等が敬猷を狙えば、必ず敬業が出て背後を突きましょう。我らは腹背に敵を受けます。我らはそれを知るから、敬猷軍については最初から誰も何も言わない。監軍殿は、どうやら事の可否よりも、人と異なることをおっしゃるのがお好きなようですな」。笑い声に魏元忠の顔が真赤になった。

　「敵の精兵は敬業のもとにあります。天下に事のあるのを望む不逞の輩が、蟻が群がるように、敬業のもとに吸い寄せられています。臨淮で時を空費していた間に、利は敵の側に傾きました。我が方は、その傾きを一度の戦いで正さねばなりません」。「さればこそ敬業を撃つべきだ」。「万が一にも小さな勝でも失うならば、蟻はいよいよ群がり集まって、巨大な黒い塊に膨れ上がり、大事は去ります。敬猷はいかにも囮です。しかし、敬猷は囮にもならぬただの博徒です。侮るのではありません。大軍をもって臨めば即座に勝利し、敬業が出てくる暇はありません。我が方が勝利すれば、反徒の気持ちは揺らぎます。勢いに乗じて我が軍を進めれば、蟻どもは四散します。敬業は焦り、我等を中路で迎え撃とうとするでしょう。慌てる必要はありません。落ち着き払って破ればよいのです。獣を追うにたとえれば、必ず擒にできる弱い獣を捨てて、難敵を先にすべきではありません」。

　魏元忠の激しさに、諸将は押し黙り、李孝逸は魏元忠の策に従った。口達者な魏元忠と議論するよりは、戦で失敗させて、自ら趙括であることを証明させるのがよいと、諸将は判断した。

　李敬猷はひとたまりもなかった。

　李敬業は予想通り中途で待ち受け、谷を隔てて対峙した。李敬業側の陣容に一分の隙もなく、さすが名将の孫と諸将は舌を巻いた。李孝逸は蘇孝祥に五千の兵を授けて夜襲をかけさせた。敵の備えに、蘇孝祥は敗死し、多くの兵士が谷川に落されて死んだ。続く幾度かの競り合いにも敗れ、諸将は魏元忠を非難した。李孝逸は退却を決意した。

　明日にも陣を払うかも知れぬ夜、魏元忠は陣門の外に立った。短剣を握り、星空を見上げた。

　自分は趙括なのか。用兵術を学んで、実戦は今回が初めてだ。李敬業は名将の孫だ。その采配は恐れるべきだ。しかし、李敬業は十二歳から戦場を駆け回った祖父その人ではない。実戦の経験がこれまでになかったのは自分と同じだ。自分は武太后に身を委ねてここにきた。武太后は自分を選び、李敬業は選ばれなかった。天が武太后に天下を託すのならば、自分は李敬業に勝利する。

　魏元忠は天命を宇宙の運行に読み取ろうとした。星が流れた。敵陣の方角に墜ち、群鳥が騒いだ。

　李孝逸のところに走った。「賊の敗れる確かな兆しが見えました。荻の乾くこの季節に、明日は我が方に有利な風が吹きます。勝利はこちらのものです。明日一日を、この私にお任せいただきたい」。「必ず勝てるか」。「勝ってみせます」。「そうでなかった場合の罪を負う覚悟はあるか」。「私一人の罪と、皇太后様に申し上げます」。李孝逸は同意した。

　翌日、順風に火を放って、大勝した。

　事は決した。李敬業は揚州に逃げ、そこを保てず、南岸の潤州に落ち、さらに海を渡って高麗に逃亡しようとして途中の道で斬られた。

　　　　九

　垂供元（六八五）年の元旦の朝儀において、憂い顔は、魏元忠が予言した通りに見られなかった。その晴れやかな儀式の内にも、鋭敏な感覚の持ち主は、暗い予兆を読み取っていた。中央政界への進出を果たした鄭惟忠がその一人だった。

　「これまで以上に身を慎まねば二度とここには並べますまい」。魏元忠の耳元にささやいた。「何事も御心のままです」。「決して功を誇りませんように。讒言より厄介な敵はありません」。「此の度の勝利は御心に依るものです。私の功ではないものをどうして誇りましょう」。「そのお気持ちをお忘れになりませんように」。

　鄭惟忠が慎重な上にも慎重であるのは単に保身のためではなかった。「学んで実践しないのは学ばぬのと同じ」という若い頃からの考えに従い、官人としての職務を果すことに全てを傾注していた。唐朝内の軋みに触れるのは、身を危うくするばかりか、天下のため、民のために何ら有益でない。

　武太后によって取り立てられた官人の多くは、魏元忠も含めて、概ね実践的なものの考え方をした。旧例墨守では守成の難は克服できない。武太后は敢然と新規の策を採用した。

　李敬業等の反徒には唐朝を正しい姿に戻すとの主張があった。その象徴が盧陵王李顕の復位だった。武太后は盧陵王を遠方に流し、皇族に対する圧迫を強めた。忠は皇帝政治の根幹を支える徳目ではあっても、武太后は、それを皇族に向けさせまいとした。守旧派には、武太后を恐れつつも、正しい道が廃れるのを憂え、身を投げ出してでも旧い徳目を守ろうとする者もいた。

　一方で、武一族は己の利を追求することに忙しく、それに同調する者も少なからずいた。貢挙の合格者でも例外とはならなかった。武一族の中心は武太后の甥の武承嗣と武三思で、この二人に縋る方が、鄭惟忠のように地道に努めるよりも出世は容易であり、私財を望むまま積み上げることもできた。

　武太后の特殊な恩寵を受ける人物もいた。最も目立ったのは白馬寺の懐義だった。本名を馮小宝と言い、元は洛陽の薬売りで、禁中に自由に出入りするために僧になった。武太后の娘の太平公主にも接近し、その夫の薛紹を父と仰いで、薛姓を得た。薛懐義に対する特殊な恩寵の強さに比べれば、親族の情などは弱いもので、武承嗣も武三思も懐義の機嫌を取るべく童僕のように仕えた。

　鄭惟忠はみごとなまでに、難しい勢力間関係から最も遠くに身を置き、かつて李敬真の世話になっていたことも、人々の記憶に残らないまでになっていた。李敬真は反乱に加わってはいなかったが、反徒の中心人物の弟とあっては処分は免れず、辺鄙な土地に追放された。李敬真が正しければ、武太后は復活の機会を与えるに違いないと魏元忠は考え、時折は手紙を書き送った。

　魏元忠は、鄭惟忠に助言されるまでもなく、功を誇らなかった。前線において為したことは妻にさえ話さなかった。短剣を返したとき、｢皇太后様に全てを委ねた結果、天下は無事を保て、自分もまた無事であった。そなたのお蔭で正しい道を歩めた｣と言っただけだった。「次に大事があるまで、この剣はお預かりいたします」。「これ一度限りであるのかも知れない。かつて鄭惟忠君が、用兵術を必要としない世であるのが望ましいと言っていた。まことその通りだ。朝廷の中枢に身を置くようになった自分には、そのような世を作っていく責務があろう」。「それこそ御心に叶いましょう。必ず慈愛に満ちた世になっていくでありましょう」。妻は遠くを見るように言った。

　魏元忠のしたことは自ずと知れ、用兵術を習いたいと門を叩く者が現れ出た。江融はすでに亡くなり、魏元忠はその後継者と目された。しかし、用兵家を育てる気はなかった。衆に異なる自分であるから、この泰平の世にも用兵家を目指し、用いられた。同じ道を人に歩ませるのはその人のためにならない。それでも、魏元忠が断り切れぬほどの情熱を示した者には、史書等を教授した。魏元忠は厳しかった。突然に怒り出す師匠の顔色の読み取り方を、弟子達は蘇禎に尋ねた。

　蘇禎は魏元忠の一番弟子だったが、学問的には、後から入門してきた者に先んじるという訳にはいかなかった。家の用を務めるのを好み、気遣いの細やかさで、弟子達に好かれた。魏元忠は、貢挙を受けていずれは独り立ちするよう義弟に勧めた。妻は、鄭惟忠を手本にするのが性に合っているだろうと弟に言った。

　鄭惟忠が同じ洛陽内にいることもあって、魏元忠も自ずとその挙止を見習い、暗い予兆はありつつも、当面の日々は平穏に職務を遂行できた。時宜に合わなくなっていた唐初以来の諸制度の改革が進められた。

　次男が生まれ、晃と名付けた。日の光とは、天下を導く武太后であった。妻の産後の肥立ちは思わしくなく、弱った体で晃を懸命に育てた。先に二女を喪っていたことから、非常に晃を大切にした。

　長男の昇は、気性が一段と荒くなった。母は晃にかかりきりで、以前のように昇に小言を言わなくなった。父は弟子には厳格でも、昇にはやや甘かった。昇は書物を音読し、義士が不運にも死なねばならぬくだりに至ると気を昂ぶらせた。声を震わせ、我慢がならぬと罵り声を挙げた。父は、その様子に心を打たれた。自分も、かつては史書を読んで思いを奮い立たせた。息子が自分以上に鋭敏であるのを頼もしく感じた。

　垂拱二（六八六）年二月、李孝逸が地方に追われた。功に驕り、足を掬われたのだった。

　李孝逸は、国家の重鎮として声望を高め、武承嗣と武三思に憎まれた。武承嗣も武三思も、武太后の甥であるというだけでは安閑としていられないのを知っていた。武太后は我が子さえも容赦しない。

　二人は僧懐義に諂いつつ、自分達を脅かしかねない李孝逸を蹴落そうとした。口裏を合わせて李孝逸を謗った。李孝逸の器の小ささは武太后が初めから知るところであったから、甥の言葉を信じ、しかし、反乱を鎮めた功績を配慮し、朝廷の外に出す処分とした。李孝逸は田舎に落されたのを恨み、「我が名には兔の字が入っている。兔は月に住む。我こそは天にいてしかるべきだ」と、月を仰いで嘆じていると、武承嗣は武太后に告げた。それは己こそが天子にふさわしいとする妄言だと武承嗣は断じた。李孝逸は南方に流され、刑地で間もなく死んだ。

　皇族や守旧派に対して武太后が抱く強い警戒心がこの処分の背景にあった。李敬業の反乱を未然に防げなかったのは、「告密」の体制が不十分だったとして、「告密之門」を設けた。その門を叩いた者には、駅馬と食事が国家から支給され、全国どこからでも直ちに上洛し、武太后に訴え出ることが許された。告密が真であれば多大の褒美や官職が与えられた。告密の真偽を詮議する者が侍御史の中から選抜され、索元礼と周興が頭角を現した。二人は告発された者を獄に入れて厳しく調べた。有罪か無罪かの決め手は自白にあった。拷問が用いられ、二人はその技術を飛躍的に進歩させた。鉄の籠を頭に被せ、脳味噌が飛び出るまで締め付ける「鉄圏籠頭」、手足を丸太で挟んで薄い翅のように引き延ばす「鳳凰曬翅」などはそのごく一部であった。二人は罪人を数多く処分することが忠誠の証しと心得た。罪人の数は急増し、洛陽に門戸を構える名家が続々と破滅した。町の人は「今度はあの家か」と目と目で話し、官人は「今夜は獄かも知れぬ」と朝に家人と涙ながらに別れた。

　垂拱三（六八七）年五月、劉禕之に死が与えられた。劉禕之は北門学士から朝廷の中枢に参画するようになった人物だった。劉禕之が友人に「反正」を語ったのを告密された。「反正」とは正しきに返るであって、武太后が大権を皇帝に返すことが天下の心を安んじることにつながると、劉禕之は言ったのだった。武太后は、いわば子飼いの者からそのような声が出たことに大怒した。

　垂拱四（六八八）年四月、郝承賢が処刑された。かつて高宗が武皇后に全権を委ねようとしたのを押しとどめた郝処俊の孫だ。郝承賢の家人が小罪で主人を告密したのを受けて、周興が武太后の心中を忖度して、特に重い反逆罪を被せたのだった。郝承賢は刑に臨んで、武皇后の隠事を暴露し、口を極めて罵った。どうしても郝承賢が黙らなかったために、刑場にいた兵士が殴り殺した。

　「父上は毎日何をなさりに行っているのですか。その首が飛ばされぬようにと、襟の内に引っ込めてびくびくと一日を過ごし、日暮れに家にお帰りになってほっとする、そんな日をただただ繰り返しているのですか」。昇が父に食ってかかった。

　息子の剣幕をむしろ微笑ましく感じ、「罪を問われるようなことは何もない。びくびくなどはしていない」と笑ってみせた。「では、他の人には、罪を問われることがあるとお考えなのですか」。「火のないところに煙は立たぬだろう」。魏元忠は、息子に言いたいことを言わせてみようと、空とぼけた返事をした。

　「冤罪を防ぐのは余程の人でも難しいと聞きます。史書を見ても明らかです。身の毛もよだつ攻め具を使っているのです。狄仁傑様が侍御史であったころとは時代が違ってしまったのですか。そのようなことでいいのですか」。かつて高祖皇帝を諫めて武皇后によって侍御史に抜擢された狄仁傑は地方官として各地を転々としていた。「どのように違ってきたと思うのか」。「まるっきり間違っています。こんなことでいいのですか。皇太后様はどうなさろうとお考えなのでしょうか。父上は拷問を恐れて、唯々諾々と従っているだけなのですか。正されようとはなさらないのですか」。傍らに立つ蘇禎は顔を青くして、昇を止めようとした。

　魏元忠はさすがにむっとして鼻を押さえた。息子に少しばかり言われて怒るようではいけない。「おまえは若い。自分の未熟さをまず知るべきだ。狄仁傑様のことを言うのならば、その明察に少しでも近づこうと努めるがよいだろう。ここで金切り声を上げていても何もなるまい」。告密之門に問題があるのはわかっていた。賞罰は国の要だ。世を改めるには長く困難な道がある。

　息子は頬を赤くした。「揚州での勝利を後生大事に守って、あとは余生と決め込んでいるのですか。虞詡になるとのお志はどうなさったのです」。父の頬も赤くなった。「功名を立てようとして、無謀にも暴れ河に飛び込んでみせるのはさもしい。時がくれば我が志は明らかになる」。「いまはその時ではないのですか。これほど多くの冤罪が生まれていますのに」。「冤罪であると誰が言うのだ。皇太后様のなさるのを非とするのか。もちろん冤罪はあってはならない。心の弱い者が拷問によって関わりのないことを自白してしまうのは哀れだ。反逆を企む者は容易に自白しない。悪を見逃してはならない。いま肝要なのはそちらの方だ」。「拷問を是認するのですか」。「拷問がいかに厳しくとも、自分のせぬことを自白してならない。まして人を巻き込んではいけない。おまえも、口先は立派でも、芯はどれほどのものなのか。強さを育むのは学問だ。いま学ぶことに専心しろ」。

　魏元忠はこれまでと話を打ち切った。昇は背中に不満を露にして歩み去った。

　蘇禎は「お坊ちゃまのいまのお声が、侍御史の方々のお耳にでも入りましたら、どうなりましょうか。お坊ちゃまのことは、姉上も心配しています」。「今はあれくらいでよいのだろう。そのうち少しずつ落ち着く。張景蔵様が御存命であれば、昇の相をどう見るだろうか。私と比べてどうだとおっしゃるだろうか」。魏元忠は笑った。「何につけても、難しい世の中になってまいりました」。蘇禎は不安を隠さず、官界は恐ろしいと、元からの学力不足もあって、貢挙への情熱を失っていた。

　妻は少しずつ健康を回復したが、以前通りという訳にはいかなかった。それでも晃を自分の手で育て、夫に万事不自由をかけまいと務めた。そのような妻を見ると、世の官人と同じく、獄に入れられることなく今日も帰ってきたいとの思いを抱きつつ宮城に登るのは否定できないところだった。昇の批判は全く当たっていないものでもなかった。

　垂拱四（六八八）年八月、第二の反乱が勃発した。首謀者は皇族の李沖だった。李沖は全土の皇族が呼応すると期待した。動いたのは李貞だけだった。李沖も李貞も十日足らずで敗れた。

　武太后は反逆の根を徹底的に刈り取れと命じた。侍御史はここぞ腕の見せどころと、皇族および皇族と関わりのある者を洗いざらい獄に入れた。拷問に屈するよりはと、皇族の多くは、獄中での自殺を選んだ。武太后の娘の太平公主の夫の薛紹も李沖と手紙の往復があったとして獄に入れられた。死刑よりも軽い処分として、獄中での餓死を余儀なくされた。

　李貞が反乱を起こした予州では五千人に死刑が言い渡された。刑が執行される前に狄仁傑が新知事として赴任した。狄仁傑は刑を緩めるよう武太后に願い出た。武太后は特にそれを認め、五千人は死を赦され流罪となった。

　侍御史はさらなる獲物を求め、李敬業の乱後の処分が改めて見直された。李敬真は身に危険が及ぶと察知し、国外への逃亡を図った。洛陽に潜伏していたところを発見され、永昌元（六八九）年八月に処刑された。

　その同じ月、魏元忠は、いつものように皇城へと向かう道で、武装した役人に囲まれた。何事かと問う間もなかった。縄を打たれ、蘇禎は悲鳴を上げて逃げ去った。

　手荒く獄に放り込まれた。何が起こったのか。考えられるとすれば、李敬真の処刑との関わりだろう。恩に報いたいとの思いがあり、手紙の往き来もあったが、李敬真の逃亡には関与していなかった。何の問題もない。魏元忠は心を強く保とうとした。

　獄中での二日目、これは罠かと疑った。魏元忠は幾人かの人々と、ある不正事件について話し合っていた。武一族やそれに繋がる人々、あるいは僧懐義に近い者には、横暴な振る舞いが目立っていた。相手が先手を打ってきた可能性はある。

　獄中の厳しい環境で、三日目になると、我が身に理非の有無を問うようになった。もしも武太后の命でここに入れられたのならば、何が武太后の意に適わなかったのか。武太后は必ず正しい。非は我が身にある。武太后に節義を尽くしてきただろうか。虞詡になると母に誓ったことを果しているとはまだ言い難い。一つの功を立てたことで満足したかのように、その後は取り立てて何もしてこなかったではないか。息子に非難されたのが実は当たっていたのか。

　四日目に獄から出された。周興の詮議を受けた。周興は渋面を作って魏元忠を見据えた。周興に対し、世間が言うほどに悪い印象を持ってはいなかった。周興は下級役人の子で、もっぱら実務に必要な知識を学び、正統な儒の教えは受けていなかった。若き日を、官人に顎で使われる吏人として送り、手腕を認められて官人の仲間入りを果たした。しかし、吏人上がりであることから常に差別され、武太后によって侍御史に掬い上げられた。

　「李敬真を知っているか」。やや甲高い声で、罪人の取り調べなど自分は好きではないという雰囲気を滲ませていた。「知っている」、魏元忠は静かに答えた。「李敬真は貴様の友人か」。「そうだ」。「李敬真は不誠実な友人であったか」。「私が友とするのは誠実な者だけだ」。「ならば嘘を言って友を裏切ったりはせぬな」。「そのような人間は友とするに足りない」。「君子の交わりはそうありたいものだ」。周興は二度、三度とうなずき、「今日の詮議は終りだ」。拷問は全くなかった。

　獄に戻ると、扱いが少し良くなった。特に疑うべきことがないと見なされたのか。あるいは、家の者が獄吏に手を回してくれたのか。獄中で死なないために獄吏に金品を贈るのは必須であった。妻が手蔓を探ってくれたのか。それが通ったのは、悪い兆しではあるまい。

　何事もなく数日が経過した。魏元忠は少しでもよい方向に考えようとし、獄から出された後のことに思いを巡らせた。虞詡は譴責を受けること九回、刑罰に遭うこと三回に及んだ。自分はこれで一回目だ。虞詡になるべく性根を据えるために与えられた試練であるのか。自分はそれに耐え得る人間であることを武太后に見せよう。武太后に全てを委ねるのは必ず正しいに違いない。

　獄にあること十日余り、いつものように朝の食事を終えると、獄吏がきて、「出ろ」と命じた。

　格子の向こうの獄吏に会釈し、「いよいよ釈放であるのか」。楽観が的中した喜びを抑えつつ言った。獄吏は妙な間を空け、「成程、釈放ときたか。そいつはまことに楽しいだろうな。だが、世間にはそれよりもっと楽しいことがある。一度味わったら、二度と味わえぬ快楽だ」。大声で笑った。

　乾いた嫌な声に魏元忠はむっとし、「何を言っているのだ」。「俺に聞くのかい。聞かなくてもわからないはずがないだろう」。「わからぬ」。

　獄吏はもったいぶって、「親切に丁寧に教えてやろう。ここを出て、貴様は車に乗る。それで、歩かずに、洛陽のあちこちを見て回る。最後に市場に行く。大勢の人が集まっている。貴様を見ようとしてだ。そこで楽しいことが始まる。たった一瞬だが、一度味わったら、二度と味わえぬ快楽だ。すぽんとやられて、それでおしまいだ」。獄吏は手を首の後ろに当てて切る仕草をした。洛陽の市場は、賑やかな商業地であり、都人が集まる公開処刑場であった。

　魏元忠の頬が赤く染まった。「罪は何だ。何も聞いていない」。「聞いていないだと。貴様がしたのだろう」。「何をしたと言うのだ」。「李敬真と反逆を企んだ」。「していない」。「李敬真が白状した。張楚金、郭正一、元万頃、それにおまえが首謀者だ。皆一緒に市場行きだ」。「根も葉もないことだ」。「根も葉もある。周興様の前で、李敬真が言ったのは事実だと貴様は言った。自分で罪を認めたのだろう」。「馬鹿を言うな。周興を呼べ」。魏元忠の腹に怒りが渦巻いた。周興を見損なった。

　「好きに吠えるがいい。俺の仕事は周興様をお呼びすることではない。貴様を市場に連れるだけだ」。数人の獄吏が踏み込み、魏元忠を荒々しく縛り上げた。堰を切って溢れ出ることのできない怒りが、鋭い刃物のように腹の底面を抉った。ここで怒鳴ってみても無駄だった。

　市場への車はひどく揺れた。怒りが心の口からこぼれ落ちたのか、腹の痛みは潮が引くようにおさまって行った。

　自分はこれが最後と思うと、母の最後の顔が浮かんできた。母は虞詡について語った。母は息子にこの日があるのを知っていたのだろうか。ここで死んだのならば、虞詡にはなれない。ならば、母は最後に虞詡を語らなかったはずだ。

　市場に着いた。罪人が全員揃った。皆が首を垂れる中で、魏元忠一人が周囲を見回した。秋の陽射しはやわらかに降り注ぎ、市にはいつも通りの朝の風景があった。このところ頻繁に処刑が行われるために、役人も見物人も慣れ切っていた。刑を受ける当事者だけが初めての経験であった。

　魏元忠の心は凪いでいた。この時代に生きて、武太后に仕えて、虞詡になるのが自分の使命であるのならば、ここに死ぬはずがない。

　太鼓が響いた。執行人が声を張り上げ、群衆に静粛を求めた。近くの音が消え、遠くの音ばかりが残った。

　魏元忠は正面を見据えた。視線の先には普段通りに道を行く人の姿があった。自分はこの世界に留まるはずと思えた。背後に剣を持った者が立った。

　妻の短剣を思った。その剣先が自分に向けられている。自分に非はない。非があるのならば生きて正さねばならない。非がなければ剣を刺す必要はない。我が命は剣の先が決する。武太后は真実を見ている。何の恐れもない。

　馬の蹄の音が微かに聞こえた。刑の執行人は、上げかけた腕を止めた。蹄の音は近づき、市場の入り口に達した。人々は顧みた。

　「しばし、しばし」。馬が駆け込んだ。「某は鳳閣舎人の王隠客。皇太后様がたったいま、お赦しされるとおっしゃった。刑を止めよ」。馬上の人は絶叫した。

　奇妙な声が上がり、他の罪人が地に転がった。魏元忠は動かなかった。歓声が渦を巻き、他の罪人が泣き叫んだ。魏元忠は凪いだ心のままに目を閉じた。

　「お赦しが出ました。ここからお立ちになってよいのです」。役人が言った。魏元忠は静かに答えた。「我らを救おうとしての虚報であるやも知れません」。王隠客が歩み寄り、「もしも間に合わぬといけないと、詔が書き上げられるより先に、皇太后様の御命令で馳せて参りました。この恐ろしい場所よりどうかお立ちください」。「詔が到着するのならば、それを待ちましょう」。

　魏元忠は身じろぎもせず、日が中天に達するころになって勅使が到着した。死を赦され、流罪となった。勅使を拝礼して、初めて喜びが湧いてきた。死を免れたことよりも、死を前にして動じない自分があったのが大きな喜びだった。それは自分一人だけだった。そのような自分を武太后は知っていてくれた。武太后に全てを委ねる心があったから、自分一人がこのようでいられた。自分以上に幸せな者はないと思った。

　　　　十

　魏元忠は役人に連れられて南方の流刑地、貴州に向かってひっそりと旅立った。罪人の見送りは禁止され、親類とも弟子とも一言の別れもなかった。

　洛陽を出てしばらく道を進むと、道士に呼び止められ、傍らの道観に連れられた。鄭惟忠が待ち受けていた。慎重な友にしてははなはだ大胆なことだった。役人は見て見ぬふりをしてくれた。

　「これは一時の嵐です。大いなる平穏の前にはこのようなことも必要なのでしょう。貴公はいずれ必ず戻ってこられましょう。そのときまでの辛抱です」。「嵐がそなたに及ばぬのを祈ります」。

　魏元忠は鄭惟忠の手を取り、流刑地に向かう自分よりも洛陽に残る友の困難を思った。

　道の途中で、妻子と義弟夫婦が合流した。妻はやつれていた。それでも、自分のことを言わず、夫の体調だけを尋ねた。魏元忠はすこぶる元気だった。「皇太后様に全てをお任せすれば正しい道を歩める。それを教えてくれたそなたに感謝する」。妻は短剣を示し、「これがあなたさまを強いたのではないかと思い悩んでおりました」。「いや、それこそが私の導き手だ」。

　息子の昇は「世は暗闇に鎖された」と怒った。それは一面だけを見れば正しくはあっても、長く将来を見据えれば、鄭惟忠が言うように、大いなる平穏がくるに違いないと父は考えていた。

　周興を恨む気はなかった。周興は周興なりの忠の尽くし方をしている。武太后は常に正しく、臣下は与えられた職分を全うすればよい。今回獄に下ったのはむしろ恩寵と思うべきだ。「賞罰は軍国の切努」であり、自分の怠りに罰が及ぶのは当然だ。流刑地で、虞詡になる次の時を待てばよい。

　流刑地の風光は洛陽とも宋城ともはなはだ異なった。罪人は、わずかな情けを施される他は、自分で自分の暮らしを支えなければならなかった。土地を得て農地を切り拓き、久しぶりの晴耕雨読の日々に戻った。

　故郷での若き日の気持ちが、自ずと甦った。節を曲げるくらいなら宋城より出ずに一生を終えてよいと思っていた。そのころの自分とどれだけ遠く離れてしまったのかを省みずにはいられなかった。

　妻は、畑を耕して日焼けするまでに健康を回復した。妻を迎えた当初、そのままの暮らしが永続するのを願った。それは若き日の最初の志とは異なるが、魏元忠の感傷を誘う記憶であった。

　自分達には都の暮しよりも、困窮生活の方が合っていると思えた。蘇禎は勉強を放棄したかのように、近在の農民と親しくし、農耕にひたすら励んだ。昇は、洛陽を嫌い、書物を読んで悲憤慷慨した。

　南方に流された翌年の二月、貢挙にとって画期的なことがあった。武太后は、貢挙の合格者を洛城殿に集め、自身が試験官となって最終試験を課し、合格者の順位を決めた。

　上位に名を連ねた者はさぞや栄誉であったろうと魏元忠は想像し、洛陽を離れている自分の身を寂しく感じた。貢挙が最初からこのようであったならば受けていたかも知れない。

　「おまえたちも最終試験で皇太后様に直々に見ていただけるようになれ」と、蘇禎や昇に言ってみた。蘇禎は素直に書物を拡げてみせた。昇は「貢挙に首尾よく合格したところで、宗楚客を見習わねば、どうせ出世は望めません。辺鄙な地で地方官として一生を終えるのなら今と同じです」と反発した。

　宗楚客は武太后の遠い親類筋に当たり、見事貢挙に合格した。兄の宗秦客は文学の才によって取り立てられ、先ごろ、天地等の十二文字を改造する案を武太后に提出した。武太后は新たな創造を好み、それは文字にも及んだ。

　宗秦客と宗楚客の兄弟は目覚しい速さで出世を遂げた。ただし、二人にはまことに困った性癖があった。賄賂を好むことだった。それが出世の道具にもなった。貢挙に合格するに足る学問があっても、徳義が身に備わる訳ではなかった。魏元忠が獄に下る前に、不正を為して憎むべき者として語り合っていた中に宗楚客兄弟の名もあった。

　「世を拗ねてはならぬ。宗楚客を見下すのなら、宗楚客を遥かに上回る成績で貢挙に合格してみせろ。立派な官人としての手本を天下に示すのだ。ここで偉そうなことを言っても、何もならぬ」。父のもっともな叱責に、昇は頬を染めて黙った。

　洛陽では嵐が吹き荒れていた。辣腕の侍御史である索元礼と周興に、さらに一人、恐るべき人物が加わった。博徒の子、来俊臣だ。来俊臣は罪人を量産する仕組みを発明した。告密の網を張り羅らし、拷問の才も抜群だった。来俊臣の一派は、網を羅らして罪を織る「羅織の徒」として忌み嫌われた。

　洛陽では日々どこかの家が没落した。貴州のような田舎は平和だった。都で一人倒れれば、地方から一人都に出て行けた。都には不正があっても、地方では綱紀が引き締まり、地方官僚の質は高かった。貴州には、立場を超えて、魏元忠と学友として交わりを結ぼうと訪ねくる者も少なからずいた。鄭惟忠を思い起こさせるような人格者もいて、民衆に敬愛されていた。

　地方のこの状況を見れば、武太后は守成の難を克服すべく現われ出た名君であるのは確かであった。牝鶏牡鳴を非とする道義論に拘泥しない民衆は武太后の統治を喜び、社会の上層部におさまる人々から圧迫を受ける民衆は、博徒の子の来俊臣がすぱすぱとその首を切ってくれるのを歓迎した。

　ある熱狂が全土を席巻した。老若男女が仏寺に集まり、一つの経典を、朝から晩まで、声を限りに朗唱した。東魏国寺の法明が編んだ大雲経だった。弥勒菩薩の生まれ変わりが現われ、新しい理想の世が現出すると書かれていた。皆の声が大きければ大きいほど、新しい世の到来を切望する思いが強ければ強いほど、弥勒菩薩は民衆の願いを聞いてくれるとされた。人々は飽くことを知らず大雲経を朗唱した。

　弥勒菩薩が民衆を救うとの信仰は昔からあり、隋末期には弥勒菩薩の化身が民衆の先頭に立って反乱を起こしたこともあった。大雲経が約束する弥勒菩薩の生まれ変わりとは、他ならぬ武太后であると民衆は理解した。

　貴州でも盛んに大雲経が読まれた。大雲経は由緒ある経典とは言えず、民衆教化の方便として作られたものだと魏元忠は承知していた。しかし、読経の声の中に身を置くことに違和感はなかった。武太后は弥勒菩薩の生まれ変わりではなくても、この世に初めて現れ出た女性であるのは間違いなかった。妻も大雲経を喜び、朝夕に読んだ。「やはりあのお方が天下の母君にございます」。妻は二十年も昔にそのことを言っていた。昇は冷ややかで、大雲経を一文字たりとも覚えようとしなかった。

　永昌二（六九〇）年九月、侍御史の一人である傅遊芸が九百余人の古老を引き連れ、民の心として、国号を周に、皇帝の姓を武に改めていただきたいと武太后に願い出た。武太后は却下した。

　次いで、約六万人が宮殿に詣でて同じ願いを申し出、武太后の息子の皇帝が武の姓を頂戴したいと願った。鳳凰が宮殿の上を飛び、赤雀数万羽が朝堂に集まった。

　ここに武太后は皇帝として即位した。皇帝であった息子の李旦は皇嗣になった。

　武皇帝の即位を祝う儀式が貴州でも華やかに行われた。昇は礼服を着たまま軒下に寝そべり、「遠い洛陽で何があろうとここでは無関係だ。皇帝が生まれたところで、この強すぎる秋の陽射しが弱まってくれるわけではない」とうそぶいた。母がその肩を杖で打ち、蘇禎が拝み倒して、昇はしぶしぶ参列した。父は昇の勝手を苦々しく思いつつも大目に見た。

　魏元忠は幸福感に浸っていた。秦の始皇帝が皇帝という称号を発明して以来、女性が皇帝になったのは初めてだった。若き日に魏元忠は衆に異なる者になろうとし、自分を知る人はやはり衆に異なるであろうと思っていた。武皇帝はまさしく衆に異なるただ一人の女性であり、その人に自分は見出されたのだった。

　武皇帝は国号を唐から周に改めた。魏元忠が初めて武皇帝に問われ、志すのは周の再来と答えた。まさにそれが実現するのだった。鄭惟忠が言っていた「大いなる平穏」がこれから訪れる。理想の国の建設に乗り出した武皇帝のもとに、早く馳せ参じたいと、魏元忠は強く洛陽復帰を希望するようになった。

　間もなく、宗楚客兄弟が贈賄の罪で流され、天授二（六九一）年春に、周興と索元礼が相次いで破滅し、二人とも死を宣告された。武皇帝は特に周興の死を赦し、南方に流した。道の途中で、仇と狙う者によって殺された。

　昇はそれらの知らせに快哉を叫んだ。魏元忠に周興を恨む気持ちはもとよりなかったが、武皇帝が厳罰主義を改めようとしつつあるのを喜んだ。

　同じ年の九月、狄仁傑が中央に呼ばれ宰相になった。

　武皇帝の意図をこれ以上に明白に示すものはなかった。

　昇は一転してふて腐れた態度を見せなくなり、勉強に身を入れた。魏元忠は、早く都に召還されないかと焦燥感を覚えた。「全てをお上にお任せしていれば必ず報われましょう」と、妻は夫の逸る心を抑えた。

　晃はこのころから学問を習い始めた。兄とは違うおとなしい性格で、静かに黙々と勉学に励んだ。

　　　　十一

　長寿元（六九二）年春、魏元忠は洛陽に戻った。五十五歳という年齢を思えば、武皇帝の新しい御世において虞詡になれるかどうかの正念場であった。

　三年半前に洛陽を出たときには、鄭惟忠一人の秘かな見送りを受けた。此の度は、洛陽の門には、有名、無名の多数の人々が待ち受けていた。刑場における魏元忠の泰然とした姿は都人の記憶に強く刻まれていた。

　武皇帝の都となった洛陽は大きく様変わりしていた。前年の秋に、長安周辺より数十万戸が移住し、広大な洛陽の全域が家と人で満たされた。都の外周は、隋の時代に築かれた低い垣から、高く堅牢な壁に造り変えられつつあった。

　狄仁傑に呼ばれた。魏元忠より八歳年長、一見すると柔和だが、眼光は鋭かった。

　「貴殿に御史台の改革を委ねたい」。「いかに改めればよいのでしょうか」。「獄を実際に経験した貴殿だ、思う存分にやってくれたまえ。面倒が起これば私が引き受ける」。

　狄仁傑は過去に見た誰とも異なった。史書に記される古の社稷の臣とはこのような人であろうと思えた。

　索元礼と周興はいなくなったが、御史台には来俊臣が残っていた。武皇帝は来俊臣を特別扱いし、推事院という独立した組織を与え、そこでは残虐な拷問を用いた審理が依然として続けられていた。

　賞罰は国家の要であり、理想の世の建設に向けては法の新しい運用が求められると、魏元忠は考え、自分に最もふさわしい任務を与えてくれたと狄仁傑に感謝した。

　鄭惟忠が朝廷復帰を祝いにきた。

　早くも狄仁傑より使命を授かったと告げると、友の顔が曇った。「それはお上のお考えでありましょうか」。「宰相殿がおっしゃったのですから、そうなのでしょう」。鄭惟忠はしばらく考え込んだ。魏元忠は友の心を読もうとした。三年の間に、鄭惟忠は随分と老けたようだった。魏元忠は晴耕雨読のお蔭で、よく日焼けし、以前よりも活力に満ちていた。

　「御次男のお名前は何とおっしゃいましたか」。鄭惟忠は急に話を変えた。「晃です」。「晃という文字は分ければ日の光。その字を選んだのには訳がありましょう」。「四十を超えてからの息子です。いつまでもその行く末は見守れません。日の光によって導かれてほしいとの思いです」。「お上のことでありましょうか」。「天の道でもあります」。

　鄭惟忠は眉根を寄せて一考し、決意したように、「是非とも慎重になさってください。私はごく地味な仕事を授かるだけの身です。それでも難しいと感じることばかりです。その難しさは年々増しています。多くは申せません。宰相殿は皆に期待されるだけの大きな力をお持ちではないのです」。

　魏元忠はうなずいた。「私はまことに良き友を持ちました。この身は、一度は洛陽の市場に消えるところでありました。今さら何があっても構いはしません。長男の昇は、怒りの相は私以上のようです。晃は義弟に似て、貴殿のお教えを守れましょう。晃を導く日の光になっていただきたい」。「しかと承知しました」。鄭惟忠は目頭を拭った。

　容易ならざる使命を狄仁傑から授かったと知った。貴州にいたときには、武皇帝のもと、狄仁傑を先頭に人々が心を一つにして、新しい世の建設に進んでいると想像していた。事はさほど単純ではないようだ。

　鄭惟忠が帰ると、妻は短剣を差し出した。「貴州を発ちましてから、あなたさまは、名のために急ぎ過ぎておられるような気がします」。「自分の栄誉を追う気はない」。「お上にお委ねする心を見失わないでください」。「それは大丈夫だ。お上が私を都に呼んでくださった。お上は私のことをよく御存知だ」。

　魏元忠は短剣を見て、処刑されようとしたときの心を思い返した。あのときの心は同じこの身の内にあった。それに恥じるようなことはできない。

　御史中丞の命が下った。侍御史の上に立つ地位だ。御史台の改革を魏元忠に任せようとする狄仁傑の考えを武皇帝も認めたと、魏元忠は受け止めた。

　御史台を改革する腹案を練り、御史台に乗り込もうする矢先に病に倒れた。激しい嘔吐と下痢に見舞われ、数日間、まともに起き上がれなかった。

　ようやく症状がおさまっても、風にさえ耐えられぬばかりに体が衰弱し、脇息にもたれ、書見する気力もなくぼんやりしていると、蘇禎が、「郭弘覇が見舞いだと参っております。追い返しましょうか」と言った。郭弘覇は来俊臣の手の内の者で、特に性質が悪いと聞こえていた。「どうせ様子を探りにきたのだろう。すっかり回復した姿を見せてやろう」。魏元忠は衣服を改めて郭弘覇を迎えた。

　郭弘覇は瀟洒な着物を纏い、立派な品々を前に並べ、これ以上になく丁寧に見舞いの言葉を並べた。魏元忠は無難な返事をした。郭弘覇は満面の笑みで、顔色がいいとか、髪に艶があるとか、声に張りがあるとか、思いつく限りの世辞を並べ、「御病気は間もなく御全快。おめでとうございます」。大仰な仕草で祝いを言った。郭弘覇の話ぶりはなかなかに心地良かった。魏元忠はあからさまに舌打ちし、「今日は何の御用でありますかな」。

　「いまも申しました通りに、間もなく御全快でありますのを、お祝いに参ったのであります。これは、それがしが確かにお調べ申し上げましたことでありますから、決して間違いがないのであります。御全快は、それこそ太鼓判であります」。郭弘覇はひどく陽気に言った。「調べたとは何のことでしょうか」。魏元忠は興の乗らぬ返事をした。

　郭弘覇は手を叩き、「それであります。よろしゅうございましょうか、お聞きでござろうと思いますが、腹を病んで、その病が重く治らぬ者の大便は甘いと申します。苦ければ必ず治ります。これは昔むかしの名医も用いた法でありまして、それがしも経験を踏んでおります。そこでであります、こちらのお屋敷の方にお願いいたしまして、今朝ほど、それがしめがこのようにしまして、自ら検分しましたところ」、郭弘覇は薬指を立て、それを口中に入れてゆっくりとねぶり、得もいえぬ顔を作り、「それはそれはもう耐えられないくらいに苦い味がしたのであります。まことであります。これなら病は心配するに及ばぬと知れたのであります」。郭弘覇は大袈裟に笑った。

　魏元忠は渋面を作って腹を押さえ、「いや、どうしたことか、何やら、急に再び腹痛が始まりました。これはひどい。どうやらお見立て違いのようです。おっしゃる通りであればまことにいいのですが、これはいけない。治らぬようです。御史台には一度も行けずじまいとなりましょうか」。魏元忠はよろけながら部屋を出た。

　不愉快極まりなかった。怒る気にもなれなかった。推事院に集まるのがこのような連中であるのなら手もない。体が回復して、ひと働きすれば、簡単に片を付けられるだろう。

　いよいよ初めて御史台の門に入ろうとした朝、武装した役人が道に待ち構えていた。「何の真似だ」。魏元忠は落ち着いていた。二度目だった。返事はなかった。威儀を正して直立する魏元忠を、役人達は捕縛した。蘇禎が悲鳴を上げて逃げた。

　推事院に連行された。暗く黴臭い獄に押し込められた。その中央に座し、我が不動の心を確かめていると、官服を纏った者が格子の外に立った。来俊臣であろうかと思い、厳しく問いただした。「御史中丞を勝手に獄に繋ぐとはどうしたことか」。「御史中丞だろうが、宰相だろうが、悪巧みには一切の目こぼしをしないのが、こちとらの誇りだ。勝手にではなく、来俊臣殿の命で、職務を遂行しただけだ。こちとらには私心のかけらもない。公のためにのみ尽くしておる」。外の男は下品に笑った。来俊臣の手下の一人の侯思止だった。侯思止は餅売りで、一文字も読めぬのに侍御史になったことで知られていた。

　「悪巧みとは何のことだ」。「どえらいことを企んでいながら、何のことかと聞くとは、白々しいこった。聞かねばならんのはこちとらの方だ。調べは明日からだ。楽しみに待っておれ。えらく苦い糞を垂れると聞いた。どんな顔か見にきただけだ。うんと酸っぱい飯を食わしたら、苦さも薄まろうか」。侯思止は獄卒に笑いかけながら出て行った。

　来俊臣が先手を打ってきたのだ。何の罪をでっち上げようとしているのかはわからない。得意の拷問で迫ってくるのだろう。かつて昇に向って、強い心があれば拷問に屈することはないと言った。それを証明するよい機会だ。処刑寸前に至っても不動の心があった自分だ、どのように責められても負けはしない。

　獄中で一晩を過ごす間に、魏元忠の心は固まった。

　翌日、四周を高い塀に囲まれ、ごつごつとした拳大の石を敷き詰めた広場に連れられた。膝を折って石の上に座らされた。石はどれも角が尖っていた。侯思止と数人の獄卒が前に立った。

　拷問の道具はなかった。推事院には十種の枷があるので有名だった。定百脉、喘不得、突地吼、著即承、失魂膽、実同反、反是実、死猪愁、求即死、求破家と名付けられ、この順に苦痛の度合いが激しくなった。驢駒抜撅、仙人献果、玉女登梯などという拷問法もあった。驢駒抜撅は不可能な形状に身体を折り曲げ、仙人献果は膝を折った下肢が紙のように平たくなるよう潰し、玉女登梯は飴のように身体を長く引き伸ばした。どのような拷問具があっても魏元忠の驚くところではなかった。

　侯思止は魏元忠の前を左右に歩みながらべらべら喋った。「おまえたちはまっことどえらいことを企んだものだ。お蔭で、こちとらには面倒な仕事がころがりこんできた。おまえが手強いのは先刻承知だ。面を見てもわかる。これだからこちらのところにまわってきた。他の連中にはずっと楽な野郎が回された。こちとらは骨惜しみはしないが、難しいのは好きではない。人をいたぶるのはもっと好きでない。叫んだり、泣いたり、肉が裂けたり、骨が折れたり、そんなのを耳にするのは大嫌いだ。役目だからとあきらめて渋々やるだけだ。大事の役目のために、こちとらは情を消す。役目であるからには徹底的にやらなければいけない。そこがこちとらの性分なのだ。いわば几帳面な小心者さ」。

　侯思止は魏元忠の冠を掴んで持ち上げた。「やはり思った通りだ。怒りっぽい野郎は、大概、頭のてっぺんが禿げるものだ。禿げ上がるほどのいい年になって、全く下らんことを企んだものだ。そいつをこれから調べなければならない」。侯思止は魏元忠の登頂を、ぺちゃりと叩いた。魏元忠の頬が赤く染まった。頭頂を露にされるのは、禿げていなくても大変な屈辱であった。皇帝に罪を詫びるとき、最も恥ずかしい姿を曝すために冠を脱ぐ。

　「何を企んだと言うのだ」。侯思止は魏元忠の顔を覗き込み、「早速、お怒りですかな。頭の禿から湯気が立っている」。「一体何の嫌疑なのか、それを言え」。「まあ、まあ、待て、待て。昨日も言ったように、訊くのはこっちだ。それがこちとらの役目だ。おまえは素直に答えればいい。別に難しいことは何もない。すんなりと取調べが終わるのがこちとらは一番好きなんだ」。「だったら早く訊け」。

　侯思止は焦らすようにあたりをゆったりと歩き、「見ろ、ここには何もない。世間の連中は、俺たちは拷問を楽しんでいると思っているようだが、そんなことある訳がない。少なくともこちとらは大嫌いだ。来俊臣殿も嫌いだ。世間の誤解は一度広まってしまうと、解くのは大変に難しい。おまえも世間に惑わされているだろうから、親切に教えてやるのだが、来俊臣殿はまっこと情け深いお方だ。世間の連中は本当の来俊臣殿を知らない。ここ推事院があることでわかるように、お上は来俊臣殿を特別に大切にされている。それは、来俊臣殿が何といっても特別な人だからだ。来俊臣殿は悪をひと目で見抜く。それで罪状が明らかならば、刑罰を決めて終わりでいい。しかし、問題は、法というものが、罪人が自分の罪を認めることを求めていることだ。なぜかというと、冤罪を防ぐためだ。自分の知らぬ罪を被せられるのは誰だって嫌だろう。だから、刑罰を決めるには、罪人にちゃんと自白してもらう必要がある。ところが、世の中には素直な人間ばかりがいるのではない。とくに悪をしようとするような者はそうだ。あくまでも罪を認めようとしない。言い逃れがきくのではないかと、白を切って頑張り通そうとする。白状しないから、これは無実だと、悪を見逃したのでは、天下のためにならない。そこで、止むを得ず拷問を用いるということになる。本当はそんなことはしたくないのだ。よく考えてみてくれ、重罪人は罪を認めれば死刑になる、そうとわかっていたら、何としてでも黙っていようとするだろう。大悪人ほど性根がある意味座っているから拷問に対して頑張る。拷問をより厳しくしなければならない。この推事院には十種もの枷があるが、強情な奴にはそれでも足りない。際限なく拷問が厳しくなってしまうのは、実にやるせない。そこで、来俊臣殿は、どうにかしたいとお考えになった。まっこと情け深いお方ではないか。それでだ、よく聞け、一回目の取り調べで素直に白状したならば、死罪にはしないという決まりを作ってくださいとお上に願い出たのだ」。

　ここで侯思止は冠を魏元忠の頭に載せ、髪を丁寧に整えてやった。「おまえはまっこと幸せ者だ。ちょうどまさにおまえのためであるかのように、ついこの間、来俊臣殿のお願いした通りのお上の新しい詔が出された。このことをよく胸に収めて、こちとらの質問に答えるがいい」。

　魏元忠の心に怒りが渦を巻いた。「何が幸せなものか。それは冤罪を増やすだけではないか」。吐き捨てるように言った。侯思止は、魏元忠の膝にゆっくりと足を載せ、ぐいと踏んだ。脛に尖った岩の先が食い込んだ。魏元忠は侯思止を睨んだ。「いま何か言ったのかな。聞かなかったことにしてやろう。もしも、聞こえていれば、お上の詔を誹謗した罪を先に問わねばなるまいな。こちとらの面倒をどうかこれ以上は増やさないようにしてほしい」。侯思止は足を膝から放しながら、魏元忠の胸元を蹴り上げた。

　魏元忠の怒りが堰を切った。「何の罪を問うつもりだ」。「それはおまえが最もよく知っている。それを素直に言えばいいだけだ」。「私には何もない」。「そうかな」。侯思止は獄卒に命じ、魏元忠の目の前に竹簡を掲げた。

　魏元忠は斜めに一瞥し、「何が書いてあるのだ」。侯思止は笑った。「こちとらの自慢は一字も読めぬことだ。おまえが勝手に読んで、この通りでございと恐れ入れば、それで終わりだ」。「謀反になど何も関っていない」。「ほう、そうだったのか、おまえは謀反を企てたのか」。「謀反などとは誰も関係がない。そのようなことあるはずもない」。魏元忠だけでなく、狄仁傑、任知古、裴行本、崔宣礼、盧献、李嗣真など、朝廷の中心に並ぶ人々の名が連ねてあった。来俊臣は大仕掛けな冤罪事件をでっち上げようとしていた。

　「誰も関係がないと、おまえはどうして知っているのだ」。「皆、立派な方々だ。謀反など考えるはずがない」。「おまえがそう思っているだけで、他人のことまではわからんだろう。おまえはどうなのだ」。「私は遠い貴州から都に帰ってきたばかりだ。それで謀反を考えるはずもない」。「貴州にいたって謀反には加われる。洛陽に乗り込んで、いよいよ実行だと、そういう段取りであったのだろう」。「お上の命で都に戻った。都にきて、何の悪い話も聞いていない」。「狄仁傑とは会ったのだろう」。「一度だけお話をした」。「ほら見ろ、早速、馬脚を現した。謀反の中心は狄仁傑だ」。「謀反の話などない」。「狄仁傑とおまえと二人で話をしたのだろう。狄仁傑が謀反の相談をしたと白状すれば、おまえは嘘を言っていることになる」。「宰相殿はそのようにおっしゃっているのか」。「来俊臣殿がいまお調べになっている」。「他の方々はどうなのだ」。「皆がそれぞれに取り調べている。一度目で素直に認めれば死罪にならない。その意味をよくよく考えろ。一度目でなければ遅い。謀反人は死刑だ」。「ないことをあったとは言わない。拷問だろうが何だろう、好きにするがいい」。「思った通り、強情な野郎だ。まあ、ゆっくりとやるしかあるまい。続きは明日だ」。

　獄に戻された。怒りは堰を切ったが、まだ溢れ出て奔流を作るまでには至らなかった。身を一寸刻みされるような拷問を受けずに終ったのは、物足りないような気がした。ありもしない罪は決して認めない姿を見せれば、武皇帝は自分の真価を間違いなくわかってくれるだろう。それでこそ虞詡になれる。

　翌日、同じ場所に連れて行かれた。

　侯思止は周りを歩きながら、「一度目で白状すれば死は赦される。特別に今日も一度目の続きをしてやろう。どうだ、嬉しいだろう。それに、もっといいことも聞かせてやる。他の者はどうかと訊かれて、昨日は答えれらなかったが、今日は教えてやれる。任知古、裴行本、崔宣礼、盧献、李嗣真がすんなりと認めた。奴等は死罪ではなく、いずれどこかに流されるだろう。本人が助かるだけでなく、家族も命を失ったりしないですむ。認めなければそうではない」。魏元忠は深く嘆息した。皆、立派な人であるが、家族を道連れにしてまで義を貫くのは難しい。自白を誘導されても非難はできない。妻を思った。あの短剣を持つ妻だ、夫がありもしない罪を自白して死を免れるのを、この上ない恥と受け止めてくれるだろう。

　「宰相殿も認められたのか」。「おまえは、こちとらの言ったのをちゃんと聞いていなかったのか。狄仁傑の名をいつ出した。何度も言うように、来俊臣殿はまっこと情け深い人だ。狄仁傑はさすがに宰相であるから穏やかに穏やかに話をして、性急に結着を付けようなどとはしていない。こちとらは、来俊臣殿ほどに情け深くもなく、気長でもない。しかも、職務に忠実な小心者だ。やることはやらなければならない。『皆が言った通りです』と、おまえにその一言があればそれですむ。そうではないと、どうにも面倒になるな」。「どうするのだ」。「だから、それはこちとらは望んでいない。もう一度言おう。いいか、親切はこれが最後だぞ」。侯思止は死を免じる制度について繰り返した。

　魏元忠の怒りは再び堰を切った。頬が赤く染まった。「それで他の者を自白に導いたのか」。「血を見るのは誰もが嫌う」。「たとえ血を流しても、何もないことを言いはしない」、「いまはそうほざいていられるが、実際に血が流れ出したらどうなるかな」。「何をされようとも変らぬ」。「では仕方あるまい」。

　侯思止は獄卒に合図を送り、「少しばかり曳いてやれ」。魏元忠の手枷に、長く太い縄が掛けられた。二人の獄卒がその縄をぴんと張り、端をぐいと曳いた。魏元忠の体がうつぶせに倒れた。石の角が胸を打った。両足を細い縄でぐるぐる巻きにされた。「それでよい。始めろ」。

　魏元忠は石の上を引きずられた。着物がはだけ、皮がむかれ、肉が裂けた。ぐるりと塀に沿って一周し終わると、二人の獄卒は足を止め、荒い息で汗を拭った。

　「よし、吊るせ」。縄が塀の上の金具に引っ掛けられ、魏元忠の体が宙に釣り下げられた。「どうだったかな」。侯思止は魏元忠の腹を棒で突いた。魏元忠は相手を見据え、口を真一文字に結んだ。怒りの奔騰が滔々と流れ出ていた。「どうでも言わぬ気か。今のはちと手加減してやった。これで白状すれば、まだ許してもやれるのだが、これからはちと手荒くなるぞ」。魏元忠は無言を通した。

　屈強の男が数人現れた。魏元忠はどさりと下に落とされた。次の瞬間に激しく曳かれた。真直ぐに一方向ではなく、突如、右に行ったり、左に行ったり、後ろに戻ることもあった。全身のあらゆるところに傷が走った。苦痛を避けて体の向きを変えようとすると、新たな激痛に襲われた。男たちがくたくたになって、ようやく止まった。

　魏元忠は仰向けにされた。侯思止が上から覗き込んだ。「どうだ」。魏元忠は目を見開いて睨み付けた。「恐ろしい顔だ」。不動の心があった。

　次は馬だった。侯思止が馬の尻に鞭を入れた。馬は前脚を上げて嘶き、魏元忠は引きずられた。体が石の上を跳ねた。苦痛が限度を超えた。これで死ぬと思った。

　水がかけられた。「どうだ」。侯思止の声に、魏元忠は口中に溜まった血を吐いた。「私の首がほしいのか。ならばさっさと切れ。白状させる手間を省け」。侯思止は笑った。「首がほしくてやっているのではない。法の番人として、やるべきことをしているだけだ。たとえ、おまえの首がほしくても、こちとらは正しく法に則って職務を遂行することしかできない。それがこちとらの性分だ。あくまでも強情を張るのなら、十分な証拠が揃ったところで、お上に御報告して、刑を決めていただくこともできるだろう」。「十分な証拠とは何だ」。「狄仁傑も口を割れば完璧だ。いまごろは情け深い来俊臣殿と静かに談笑していることだろう。今日は馬も疲れたようだから、これくらいにしよう」。

　魏元忠は獄に戻された。

　全身が火のように熱かった。拷問には耐え抜いたが、絶え間ない苦痛は、怒りを凌駕した。魏元忠の思考する力は奪われ、心身の全てが苦痛だけになった。

　いっそ気を失ってしまえば楽になるのだろうが、夜に入っても、眠ることさえもできなかった。小水は寝たまま垂れ流すしかなく、それが傷に浸みて、さらなる激痛を生んだ。

　すぐにこの苦痛から解放してやろうと、もしも侯思止が言うならば、今度は白状してしまいそうな気がした。

　真暗闇に、ここには永遠に日の光が及んでこないような気がした。ここで苦痛と戦っても、武皇帝には知られないのか。それでは冤罪は拭えない。

　長い時間の末に、明け方になり、「飯だ」と、いつもの獄吏の声がした。この状態で食えるはずもないと返事もしないでいると、扉が開き、人が中に入ってきた。このありさまに今朝ばかりは親切に運んできてくれるのかと思っていると、耳元に声がした。「私でございます」。蘇禎だった。

　驚き、声を出そうとしたが、喉がわずかに鳴っただけで、口が動かなかった。蘇禎を見ようと体をわずかに動かすと、麻痺していた部分の苦痛が激しく甦った。腹の底で呻いた。

　「酷い傷でございます」。蘇禎の声が震えていた。魏元忠はかすかにうなずいた。「姉上よりお薬を預かってきました。塗る前に、傷を洗います。ぐっとこらえてください」。

　魏元忠は歯を食いしばった。石の上を引き摺られたときには怒りがあった。蘇禎の処置は、そのときよりも痛く耐え難かった。蘇禎は幾度も謝った。

　薬が塗布され、清浄な布で覆われ、口元に水を注ぎ込まれると、苦痛がわずかばかり和らいだ。「早くしろ」。獄吏に怒鳴られ、「明日も参ります」と、蘇禎は出て行った。

　ようやく眠ることができた。その日はそのまま何事もなかった。

　翌朝になると、蘇禎がまたきて、薬を塗り替え、食物を口に運んでくれた。

　その日も何事もなかった。

　蘇禎はどうして入ってこられるのか。獄吏に大金を掴ませたのか。監視が緩んだのか。来俊臣は勝利を確信したのか。

　蘇禎は毎日きて、それ以外には何も起こらなかった。蘇禎は獄吏を憚って、外の様子を何も言わなかった。

　傷が少しずつ癒えると、腹の底からじわじわと怒りが再びゆっくり湧き始めた。

　自分は拷問に屈しなかった。再び拷問を加えられても負けはしない。その強さが自分にはある。そのことが武皇帝に知れるならば、自分の無実を必ずわかってくれるはずだ。しかし、来俊臣によって武皇帝の目も耳も塞がれてしまっていてはその限りでない。来俊臣に一歩遅れたために敗れてしまったのか。

　来俊臣如きに敗れるこの魏元忠ではない。虞詡は三度罪を問われた。自分はまだ二度だ。これで終わりであってはならない。必ず自分は虞詡になる。武皇帝はそれを望んでいるはずだ。ならば、日の光の注ぐ外に必ず出られる。出て戦うのだ。来俊臣等を滅ぼし、理想の国を建設する。

　十日ほどして、武皇帝が下した決定が伝えられた。地方官への転出だった。

　獄から出されると、皇居に向かって地に伏した。反逆の罪科を被せられたのではなかった。武皇帝は正しく見ていてくれている。いまは完全ではないが、いずれ必ず、自分の真価に思いを致して、洛陽に呼び戻してくれるに違いない。

　役人に監視され、家に寄ることも許されず、直ちに洛陽の門を出て、任地に向けて出発した。南西に遠く離れた涪陵だった。

　　　　十二

　監視の役人は魏元忠に同情的で、道を急がず、数日すると、妻や子や蘇禎が追いついた。

　妻は、夫の顔に走る多数の傷を見て、物も言えずに泣き出した。妻は憔悴し切っていた。「心配をかけた。何もできずに都を去らねばならなかったのは残念だ。悔いはある。それより生きられた幸いに感謝し、次を思うべきだろう」。「お上を信じ、毎日祈っておりました。これからもです」。

　妻はその夜に高熱を発した。翌日も熱は下がらず、翌々日、せっかく合流できたのに、昇だけを連れて先行しなければならなかった。

　父を見る昇の目は少しく違っていた。「父上のことを、狄仁傑様を超えたと、そんな風に申す者もいます」。狄仁傑は度重なる拷問の末に屈し、自白しなかったのは魏元忠一人だけだった。「滅多なことを口にするな」。息子を叱ったものの、自分だけは異なると、まんざら悪い気分でもなかった。

　昇は幾つかの事情を聞いていた。

　来俊臣と武承嗣が手を結んで、武一族にとって邪魔になる勢力を一掃しようと謀ったのだった。狄仁傑を初めとして朝政の刷新を推し進めようとする人々が獄に繋がれた。来俊臣にとって最大の敵となった魏元忠もその中に加えられた。

　獄中で湧き始めた怒りが渦を巻いた。新しい世の建設を止めてはならない。来俊臣や武承嗣を倒さねばならない。武皇帝の抱く理想を実現するには、他ならぬ自分が必要であると、知ってもらわねばならない。武皇帝はもちろん本当は知っている。たまたまいまは惑わされている。何とかこの現状を変えなければならない。

　「私が聞きましたところでは、父上と狄仁傑様に死を与える詔は起草されたものの、お上のお手元に長らく留め置かれていたそうです。狄仁傑様は、監視の目がやや緩んだ隙に、秘かにお手紙を記し、綿入れに忍ばせて家に届けさせたそうです。それを発見した狄仁傑様の御子息が、お上のお目に手紙が触れるようにされました。お上は狄仁傑様をお呼びになり、無実であるのをお上はお知りになったのです」。「そうだったのか」。

　魏元忠は胸のざわめきを覚えた。拷問に負けた狄仁傑が呼ばれ、負けなかった自分は呼ばれなかった。

　「無実が明らかになったのに、お上はどうして狄仁傑様や父上を地方にお出しになったのでしょうか。変ではありませんか。根も葉もない事件をでっち上げた来俊臣や武承嗣こそ罪を問われるべきではないでしょうか。武承嗣は臆面もなく、いまも全員の死刑をお上に求めているそうです。お上の御判断はどうなっているのでしょう。おかしいではありませんか」。息子は批判の矛先を武皇帝に向けた。

　魏元忠も一瞬だけ武皇帝を疑った。しかし、武皇帝に全てを委ねるとの妻の言葉を思った。狄仁傑の指示に先に従おうとしたのが実は誤りであったのかも知れない。鄭惟忠はそのようなことを警告してくれていたのかも知れない。

　魏元忠は急に不愉快になった。「おまえに何がわかる。半端な考えを口にするな」。強い口調で息子を黙らせた。武皇帝には一点の間違いもない。自分に落ち度があった。武皇帝に全てを委ねる心をより強く持たねばならない。

　涪陵での官職は名目だけで、これといった職責はなく、棒給はごくわずかだった。晴耕雨読の貧窮生活にまた戻った。

　妻が遅れて到着した。「足手まといになり申しわけありません」。病は完全に治ったようではなかった。「ゆっくりと静養するがいい」。拷問を受けた自分よりも、妻の方が打撃が大きかった。魏元忠は自白した人々の心情を思った。

　妻は外には出ず、晃に寄り添って勉学を見た。晃は一日座して書物を読んで倦むことがなかった。二人が静かに勉学に励む様子に、昔の母と自分が思い出された。母に誓ったことはまだ果せていない。晃も自分のような厳しい人生を歩むのだろうか。晃の優しい性格では無理だろう。妻ももう限度であるのだろうか。妻と晃の姿に、都での抗争に再び身を投じるよりは、ここにこのまま留まるのがよいような思いも湧いてくるのだった。

　蘇禎は黙々と畑仕事に打ち込み、蘇禎の妻も子も、父の仕事を手伝った。洛陽にいるよりも蘇禎は活き活きとしていた。

　昇は意気軒昂だった。土地の武術家の門を叩き、身体の鍛錬に努め、日々、傷やら痣やらを作って帰ってきた。それを見る母の眼差しは憂わしげだった。

　都の事情は、昇がいつも真先に耳にしてきた。

　武承嗣と来俊臣は、狄仁傑や魏元忠を都から追い出しただけでは満足しなかった。皇嗣の李旦が次の標的になった。皇嗣が文字通りの意味であれば皇帝の後継者だ。武皇帝は高齢に域に達しつつあった。武皇帝に万一の事があり、李旦が皇帝になれば、武承嗣等に破滅が待ち構えている恐れは大きい。武承嗣は皇帝の甥として自分自身が皇太子に選ばれるのを望んでいた。

　来俊臣は反逆罪の嫌疑で皇嗣に近い者を次々に獄に繋いだ。来俊臣の最終的な狙いは皇嗣を葬り去ることだった。安金蔵がそれを防いだ。あらゆる拷問に耐え、皇嗣の潔白を言い続け、最後の証として、来俊臣の目の前で腹を裂いて五臓を掻き出し、身に一切の悪心がないと示した。武皇帝はその振る舞いに心を揺り動かされた。全ての者が無罪となり、安金蔵は一命を取り留めた。

　危険は李旦の兄にも及んだ。盧陵王李顕は南方に流されたまま、厳しい監視下に置かれていた。都で事があるたびに、李顕の名が取り沙汰された。かつて李顕が皇帝の地位から追われたときには、その兄の李賢は死を命じられた。李顕は、都から人がくると、死の命令をもたらす使者ではないかと怯えた。精神を病み、韋夫人と娘の安楽公主の支えによってかろうじて生を保った。李顕は妻に感謝し、「もしも都に帰還できたならば、そなたの望みは何でも叶えよう」と約束した。

　武皇帝の特殊な寵愛を受けてきた僧懐義が、武三思と奇妙な競い合いを演じた。武三思は、武皇帝のために巨大な記念物、天枢を建造した。大量の銅や鉄が必要で、民はその徴発に苦しんだ。僧懐義は、武皇帝のために巨大な仏像画を作った。長さ三百尺の布を織り、牛の血で染め、自分の膝から抜いた血も混ぜた。武三思に対抗し、さらには、武皇帝の特殊な寵愛が他の男に移りつつあるのを止めようとして、我が身の全て武皇帝に捧げると示そうとしたのだった。常軌を逸した懐義の至誠の証し方はかえって武皇帝の機嫌を損ねた。懐義は狂乱状態になり、自分が建造した大伽藍に火を放って焼き尽くした。懐義は誅殺され、武三思の天枢は完成した。高さ百五尺、径が十二尺、八面を有する尖塔で、下部を周囲百七十尺の鉄山が支え、頂点には天から降る露を受ける巨大な盤が置かれた。武皇帝自ら筆を執って「大周万国頌徳天枢」と銘を記した。

　昇の話を聞くと、獄中で湧き始めた魏元忠の怒りが強まった。やはり洛陽に乗り込み、武皇帝の日の光を遮る愚昧な連中を取り除くために戦わねばならない。それができるのは、拷問に屈しなかった自分だけであるように思えた。

　夫のその心を読んで、妻は言った。「天下を大きな悪を懲らしめる時が必ずやって参りましょう。そのお役を、お上がきっとあなたさまにお授けになります。いましばらくの御辛抱でございます」。いつも通りの力強い言葉であったが、宋城や以前の流刑地での日焼けした姿はもう戻ってきそうになかった。

　「もしも洛陽に帰れるようなことがあっても、今度は怒りの相を徹底的に抑え、盧陵王様を習って、そなたの願いを全て叶えると約束しようか」。魏元忠は半ば真面目に言った。妻は笑い、「願いと言いましても、その昔に申し上げた以外にはございません」。

　晃はそのように言う母の様子を悲しげな目で見守っていた。

　万歳通天元（六九六）年夏、北方の地で反乱が起こった。討伐軍は大敗し、その後、敵の首領が病死した好機も活かせず、さらなる侵略を招いた。戦場からまだ遠い魏州で、知事が民衆を大々的に動員し、敵の来襲に備えるため、城壁の増強工事等を始めた。性急で過酷な命令に民衆は反発した。

　止まらぬ危機の連鎖に、武皇帝は狄仁傑を召し出し、魏州知事の任に就けた。狄仁傑が現地に赴くと、民衆は歓呼の声で迎えた。「賊は遠くにあり、諸君らの手を煩わせる状況にはない。皆は自身の仕事に励むがよい。万一賊がきたならば、この仁傑が身をもって防ぐ」。狄仁傑は挑発された人々を全て元の村に帰した。

　狄仁傑にはこうして活躍の機会が再び与えられた。魏元忠には召還の命がこなかった。自分を思い出してほしいと、都の空に向かって訴えた。

　妻はその背に立ち、「必ず時が参ります」。「そう信じている。短剣をもってそなたが示してくれた道は、明らかに我が前にあると思っている」。「決して、焦りませんように。短剣の刃を向け、時を区切るようなことをしたのを、いまになって悔やむ気持ちもございます」。

　妻が自分以上に打撃を受けた理由がそこにあるのだろうかと、魏元忠は思った。「怒りの相が急がせるのだ。それを抑え、お上に委ねる心を保てば、間違いはもうあるまい」。

　中央の混迷は続いた。

　武皇帝の特殊な恩寵は、新たに張易之と張昌宗の兄弟に向けられた。武皇帝の娘の太平公主が、張易之を母に引き合わせたことからそれは始まった。張易之は家筋がしっかりし、学問に優れ、音律に通じ、容姿端麗であった。武皇帝はすぐに気に入った。次いで弟の張昌宗を召し出すと、まだあどけなさの残るその顔にすっかりとりこになった。兄弟は錦繍を纏い化粧を施して武皇帝のそばに控えた。その寵愛の目出度さに、武承嗣と武三思は懸命に若い二人の機嫌を取り結ばねばならなくなった。

　昇は言った。「この調子では、ひょっとしたら、張兄弟のどちらかが皇太子になるのではありませんか。老らくの恋というものは、それくらいのこともさせてしまいしょう。先のない恋に身を焦がすだけの人に、お上もなってしまわれたのでしょうな」。皮肉で不遜な言い方に、息子を怒鳴りつけそうになり、しかし、胸に痛みを覚えた。「憂うべきことだ」。魏元忠は顔をしかめた。

　こればかりは違うのか。武皇帝も齢を取る。その現実を認めまいと、若い男に傾倒し、誤った場所に迷い込んでしまったのか。

　武皇帝も人だ。絶対に過ちがない訳ではない。周囲の者がいけない。武皇帝を恐れ、過ちを正そうしない。武承嗣、武三思如きは張兄弟にさえも追従する恥知らずだ。周囲にそのような者しかいないのが武皇帝の不幸だ。

　自分は違う。自分が都にいれば、何か手立てがあるに違いない。遠くここにいてはどうすることもできない。

　魏元忠は焦燥感に駆られた。

　都にも焦った男がいた。来俊臣だ。

　来俊臣は博徒の子で、武皇帝が投げてくれた一本の糸に縋って推事院の長におさまった。武皇帝の手からその糸の端がこぼれ落ちれば、来俊臣の運命は窮まるしかなかった。

　張兄弟でなければ夜も明けず、日も暮れぬありさまに、来俊臣は起死回生の暴挙に出た。かつてない壮大な事件をでっちあげた。皇嗣と盧陵王の兄弟が謀反を企て、太平公主も武承嗣も武三思もそれに加担しているというのだった。誰も彼も根こそぎ破滅させ、自分だけが残ろうとした。

　その大勝負は、哀れにも来俊臣の死刑で終わり、魏元忠を最も嫌う男が都からいなくなった。

　　　　十三

　神功元（六九七）年秋、召還の命が涪陵に届き、都に急行した。

　「後からゆるゆるくればよい」と妻に言い置き、昇だけを連れた。「決して心急きませんように」。妻は夫を見送った。「そなたこそ急ぐでない。体と相談しつつ、一日の道を二日にでも三日にでも延ばして旅をしなさい」。これまでになく妻が小さく見えたが、魏元忠の思いは都の方に向けられていた。

　昇はといえば、一日の行程を倍にしたいくらいに気負い、それに煽られたということでもないのだが、一刻も早くと、日々その思いの旅であった。

　武皇帝は誤った道に迷い込んでしまったようだ。召還の命は、その外に出て行こうとする心がなお武皇帝に残る証しであると信じたい。天下のために堂々とした正道を歩んでいただくようにするのが自分の役目であるに違いない。張兄弟や武承嗣、武三思如きに囲まれて、過ちに陥ってしまった武皇帝が痛ましい。

　昇は言った。「父上が都に着けば、がらりと世の中が変りましょう。一日遅く着けば一日遅れ、遅れ過ぎると取り返しがつかなくなります。父上は二度の罪を経て復活したのです。拷問に屈しなかったのは父上だけです。心ある人々が挙って父上のもとに集まってきましょう。父上が天下を動かすのです」。息子の勇ましい言葉は悪い気はしなかったが、「我が名を落すまいと思うだけだ。衆人と事を為す気はない」。魏元忠には独自の自負があった。

　洛陽の門に武皇帝の使者が待ち受けていた。

　直ちに参内せよとの命に、昇は言った。「肝心なのは最初です。ここに父上ありと、お上の目で御覧いただくのです。天下の民のために是非とも」。魏元忠は顔に残る拷問の跡を撫し、「この傷は肉に及んでも、我が信念はいささも損なわれなかった。それを御覧いただこう」。武皇帝を迷いの外に導けるのは自分だけであるとわかってもらえれば、後は自ずとよい方向に進むに違いない。武皇帝がそれを求めているからだ。

　魏元忠のそのような思いは、武皇帝の第一声で打ち砕かれた。

　「そちは二度の謗りを受けた。そちに過ちがあったのか。そうでないのなら、謗りをなぜ受けねばならなかったのか。己は常に正しく、非は他人にのみあるのか。傲慢は罪悪の隣にあるのではないのか」。

　武皇帝は少しも老いていなかった。むしろ、以前にも増して威厳に満ちていた。背に冷たい汗が流れた。自分は傲慢なのか。

　｢臣は鹿、羅織の徒は猟人にございます。猟人は鹿を殺して肉を得、羅織の徒は臣を殺して栄達を得ます。鹿にもとより過ちも恨まれる理由も罪もございません｣。魏元忠は、我が身の弁明から始めなければならなかった。思いもしない事態に声が震えを帯びた。

　「一切の落ち度はないと言い切るのか。そちは常に正しいことのみを思うのか」。武皇帝の言葉が身に突き刺さってきた。武皇帝は誤った道に陥ったと決め込んでいた。それが罪ではないとは言えない。自分だけが救い出せると思い込んでいた。それは明らかに不遜だ。

　「鹿が野を駆けるとき、己が身を日輪のもとに置き、恥じらうところはありません。天より与えられた本性のままに生きるが故です。臣には人として少々の過ちも人に恨まれる理由も罪も何もないとは申しません。しかしながら、お上の有難き光のもとにこのように身を置くときには、必ず正しいことだけを行えます。その点については、恥じねばならぬことはございません」。魏元忠はぎりぎりのところで踏みとどまった。

　「信じてよいのか」。「お上の有難き光がなければ、臣はすでに二度斬られ、ここにはおりません」。魏元忠は「心急くな」と言った妻を思った。武皇帝に全てを委ねるとした初心に戻らねばならない。

　「顔を上げよ」。促されるがままにすると、日輪と言った通りの輝きが玉座にあった。

　武皇帝は嘆息した。「そなたとはこれで二十年になろうか。初めにはその顔に一本の傷もなかった。傷つけられても、心の強さは変わらぬのか。朕にも、何にも迷わぬ心が備わっておればと、うらやましくもあるぞ」。武皇帝の声は俄かに愁いを含んだ。魏元忠は頭を下げた。

　「今度こそは存分に振る舞えるしかるべき職務を授ける。戻ってきてくれて嬉しく思う。その身を労わるがよい。そなたのようにはならなかった者も多くあったのだから」。

　魏元忠は落涙に及んだ。

　鄭惟忠が訪ねてきた。「若い人々は、貴公が帰るのを今や遅しと、爪先立って待ち望んでおりました。二度も命を絶たれる瀬戸際に置かれながら決して屈しなかった貴公のことを、若い人々は、古き昔の英雄の物語でもするかのように語り合っています。貴公が都に姿を現せば、たちまち朝政は改まるばかりに思われています。旧き友として、貴公を誇りに思い、眩しく見上げるばかりです」。友が並べた賛辞は、昇が言っていたのと似て、しかし、その声は湿っぽかった。

　「虚名に踊らされる元忠ではありませんが、余程慎まなければならないと思っています」。「貴公は必ず高い位を授かりましょう。友として差し出がましいことを言うのを許していただきたい。いまこそ張景蔵様のお教えを深く思って下さい」。魏元忠の心は武皇帝に会う前と改まっていた。「一朝にして事を成さんと、怒を発する快を追うならば、喜ぶ者もおりましょうが、それは一朝にして失うことに恐らくは通じましょう」。「その通りです。位にあってもそこには居らぬが如くに処す心構えでいて、貴公の場合には十分でありましょう」。これまで友の助言はいつも正しかった。

　魏元忠は深くうなずいた。「しかと胸に刻みます。元忠は高い位に昇ったからといって、誰かに阿る気も、衆を率いる気もありません」。「世は複雑怪奇です。多であれ寡であれ、一つの正しさをいつも貫けるものではありません」。鄭惟忠の顔には一段と深い皺が刻まれていた。

　魏元忠は肅政中丞となり、朝廷の中枢部に加わった。拷問の傷痕が顔に縦横に走る魏元忠が席に臨むと、それだけで座の雰囲気が変わった。

　離散した弟子達が戻ってきて、中には貢挙に合格して官人になった者もあった。新たに魏元忠を慕って門を叩く者も多かった。拒みはしなかったが、そうした人々を統率するかのように見られるのは不本意であった。集いくる者とは学問を語り、現今の政治情勢を評論することはなかった。魏元忠は武皇帝に全てを委ねるとの初心に返り、一部の人が期待するような断固たる挙に出ることはなかった。

　時を置かず、狄仁傑が中央に復帰し、数年前に追放された人々が顔を揃え、朝廷は大きく様変わりした。そのような転換を武皇帝が選択した意図はどこにあるのかと考えれば、後継者問題の決着と、それにからむ朝政の刷新であるに違いなかった。しかし、武皇帝は自身の心の内を明らかにしていなかった。

　後継者の第一の候補は皇嗣の李旦である。皇嗣という名称からして最も後継者に近いが、その地位は必ずしも安定していなかった。流罪の身となっている盧陵王李顕に秘かに心を寄せる人々も多くいた。李旦も李顕も武皇帝の子であるが、どちらが次の皇帝になっても、唐朝が甦って、武皇帝の建てた周王朝が一代限りになってしまう恐れがあった。武皇帝の甥の武承嗣や武三思は、武氏から後継者を出すべきだとして、自らがそうなる意欲を強く示していた。武皇帝の娘の太平公主は、史上初の母から娘への皇位継承を期待していた。異様な寵愛を受ける張易之、張昌宗の兄弟も、昇が言っていたように可能性は皆無ではないと見られていた。

　魏元忠は、都に戻る前は、皇嗣李旦が順当であると思っていた。しかし、武皇帝に全てを委ねるからには、後継者問題も武皇帝の心に添うだけだと考えを改めた。難しいのは、もしも本当に張兄弟のどちらかを武皇帝が選択した場合だ。張兄弟の振る舞いを間近で見るにつけ、なぜこのような者を武皇帝が愛するのかと嫌悪の情を禁じ難くなっていた。それでも、武皇帝の決定は、人に先んじて支持するのが自分の役目であろう考えるのだった。

　妻が都に到着した。長旅は体にこたえたようで、しばらく臥せて静養する必要があった。

　「都は穏やかだ。心急くなと言われた通りだった。慌てる必要はなかった。鄭惟忠君を見習い、静かに過ごしている。以前のような難しいことはもうあるまい。安心してゆったりと療養するがよい」。妻を労わってそのように言った。妻は身を起こし、「お上のお苦しみに比べましたら、私の病など物の数にも入りません。臣下の者が安閑としてよいはずがありません。心急くのはよろしくありません。しかし、現状でよしとする怠惰になってはならないと思うのです。私もいつまでも臥せてはいられません」。

　「私が怠惰だと言うのかい」。「何もせずにじっとしているのが怠惰なのではありません。お上のお苦しみに心を巡らせようとなさらないのなら弁護のしようはありませんでしょう」。魏元忠の頬が赤く染まった。「そなたにお上のお苦しみがわかっているのか」。「皇帝は全ての民の心を知らねばなりません。人の心を知ること以上に難しいことはありません。あなたさまだけでも、お上におわかりいただけるようでなければなりません」。「お上に全てを委ねる心をいよいよ強めている」。

　「それで待っておられるのですか」。「若い者の中には、そなたが戒めた性急さを求める者もいる。天下の大事は簡単に決するものではない。新たに始まった周の御世の遠大な理想をお上とともに持とうと努めている」。「私は人々とともに大雲経を詠んだあの熱狂を忘れずにいたいのです。あのころ民は何を求めていたのでしょうか。弥勒菩薩の御再来と単純には思いますまい。それでも、民の心とお上の心は一つに繋がると信じたいのです」。「お上のお苦しみは、それができないことにあると言うのかい」。「あなたさまには、どうかそれを結ぶことをなさっていただきたいのです」。

　魏元忠は同意した。宋城の昔に戻って、自分も民の心から、いつしか遊離してきてしまったのではないかと顧みた。母の棺を埋めたころの少年魏元忠が見て、今の魏元忠には怒りを覚えるのだろうか。

　その宋城からは、親類縁者が頻りに訪ねてきた。二度の罪を得たころには、皆遠く距離を置いていたのだが、様々な縁を手繰って改めて近づいてきた。蘇家の人々は無論手厚く遇したものの、何でもかんでも便宜を図るようなことはしなかった。

　一人の官人が出れば一つの村が潤い、官人というものは郷里のためにそうするのが当然とされていた。魏元忠の脳裏には、郷里に帰って財産を失った父の姿があった。以前の反省もあった。大官になって、いそいそと親類縁者に尽くすのは義に反すると思えた。だから、宋城における魏元忠の評判は前ほどにはよいものではなかった。鄭惟忠は相変わらずそつがなかったから、魏元忠の親類は鄭惟忠の親類を羨んだ。

　聖暦元（六九八）年春、武承嗣と武三思がしびれを切らし、大胆な挙に出た。二人のどちらかを皇太子に選んでほしいと二者択一を武皇帝に迫った。

　狄仁傑が動いた。太宗皇帝の子孫ではない者に天下を伝えるのは天意に反すると、武皇帝に面と向かって言った。武皇帝は怒った。「皇太子を誰にするのか、それは朕の家のことだ。そちの預かり知るところではない」。かつて、高祖皇帝が武氏を皇后にしようとしたとき、李世勣は「皇后を誰にするかは陛下の家のこと。大臣らに諮るべき筋はありません」と、皇帝の考えを支持する発言をした。同じ論法で、武皇帝は狄仁傑の言を封じ込めようとした。

　狄仁傑は「王者は四海を一つの家とします。四海の内の民は全て王の臣であり、王の家の家人であります。陛下はいま皇帝であられ、臣は宰相です。陛下のお家のことに臣がお預かりしない理由はどこにありましょうか」。武皇帝が二の句がつげずにいると、敢然と、盧陵王李顕を都に呼び戻して皇太子に立てるよう勧めた。

　武皇帝は狄仁傑を凝視したまま返答をしなかった。

　「どうして父上ではなかったのですか」。昇は不満そうに言った。「狄仁傑様は国家第一のお方である」。魏元忠は苦いものを感じた。都に狄仁傑が復帰してからは、衆人の目は狄仁傑に向けられていた。

　「父上は変わってしまったと申す者がいて、残念でなりません」。「変わってなどいない」。「臆病になった、三度目は誰だって御免だから、それも仕方あるまいと、したり顔の同情顔で言われたりすると、悔しくてなりません」。「臆病になどなっていない。三度だろうが、四度だろうが、恐れるものでない。拷問に屈しなかったのは私だけではないか」。

　狄仁傑に遅れを取ったと不満に思うべきではないと、自分に言い聞かせつつも、自分は衆に異なる者でなければならないとの思いが、昇によって強められるのは止められなかった。

　後継者問題は思わぬ展開を遂げた。張易之、張昌宗の兄弟が狄仁傑に続いて、盧陵王李顕を勧めた。その思惑は、狄仁傑とは大きく異なった。兄弟のいずれかが後継者になるよりも、次の後継者に恩義を売っておくのが賢いと判断したのだった。

　武皇帝は張兄弟の言葉に従った。洛陽で病気治療させることを名目として、盧陵王の帰還を許した。

　盧陵王李顕の風貌は、長い流罪生活で痛ましいばかりに変わっていた。母の心は抉られた。皇嗣李旦が、自分の位を兄よりも下にしてほしいと武皇帝に願い出ると、武皇帝は、聖暦元（六九八）年九月、李顕を皇太子に定めた。

　望みを失った武承嗣は病を発して死んだ。

　次の皇帝たるに相応しい実績を我が子に作らせようと、武皇帝は皇太子に突厥征伐を命じた。狄仁傑が副元帥になった。

　このときも、昇は父でないのを残念がった。魏元忠にも穏やかならざるものがあった。

　皇太子が突厥征伐に出るには次のような事情があった。武皇帝は、対外政策を、これまでの守勢から積極策へと転換を図りつつあった。神功元（六九七）年夏に、武一族の武懿宗に二十万の大軍を授け、契丹征伐に向かわせた。武懿宗は敵地に接近すると怖気づき、契丹軍がきたとの報に、戦わずして遁走した。その混乱に乗じて突厥が侵入した。武懿宗は武皇帝に罰せられるのを恐れ、流民を敵兵と偽って捕えた。

　皇太子の突厥遠征が決まると、一ヶ月ほどで五万を超える志願兵が集まり、討伐軍の意気は大いに上がった。突厥はその矛先を避けて北方に引き上げ、狄仁傑は十万の兵を率いて追ったものの、逃げ足の速さに及ばなかった。

　狄仁傑の本領はその後においてこそ発揮された。狄仁傑のいるところに民が集まり、外敵に荒らされるに任されていた土地に、以前の豊かさが甦った。

　用兵家としての本領を発揮する機会を与えられなかった魏元忠は、狄仁傑が外に出ている間に、自分の存在を改めて示さねばならないと考えた。国政の改革を一段と進め、それが次の皇帝の時代にも着実に継承されるようにするのが当面の役目と思えた。我が志は古代の周の再現であるとかつて武皇帝の前で言ったこととも、伊尹、周公に近づこうとも思ったこととも通じる。

　第一に為すべきは、賞罰は軍国の要との持論を展開することだ。初めて官人になったときに、しかるべき地位に就くまで待つよう鄭惟忠に言われた。ようやく今がそのときだ。狄仁傑や魏元忠が罪を得ていた間に都の綱紀は緩んでしまっていた。

　人心の引き締めを、拷問の痕が顔に残る魏元忠が言うと、自ずと迫力があった。朝廷から追放すべき人物は自ずとその名が挙がり、魏元忠の復帰を待ち望んでいた人々がようやく活気づいた。

　昇は言った。「これで下を向かずに外が歩けます」。

　鄭惟忠は言った。「慎重な上にも慎重に私が過ごしてきたのは、保身のためだと見られてもいましょう。その批判は甘んじて受けます。一方で、私がいまの地位を去って、私以上に適切に勤めを果す後任の者が易々とは見つかるまいとの自負もあります。貴公のような重大な任務を負っていればなおのこと慎重でなければなりません」。友のいつも通りに助言であった。魏元忠は感謝しつつも、「時は得難く、失い易しと申します。再びは来ぬと思える時を逃したくないのです」。

　妻は言った。「あなたさま一つのお心ではなく、お上のお心もよくお考えになってください」。「お上のお心に添うているから今がある」。

　聖暦二（六九九）年一月、魏元忠は宰相になった。武皇帝の心に添うことを自分はしているとの確信を持った。

　宰相となった手始めに、宗楚客と宗晋卿の兄弟を朝廷から追放した。宗楚客はかつてその兄とともに賄賂を貪った罪で流され、その後、武氏一族に救われて都への復帰を果たしていた。賄賂好きの悪癖は改まらず、弟の宗晋卿とともに穢れた金にまみれ、豪壮極まりない邸宅を洛陽に構えた。宗楚客兄弟が出て行った後でその屋敷を武皇帝の娘の太平公主が見て、「これと比べたら、我等の住いなど掘っ立て小屋に等しい」と嘆じた。

　魏元忠は武皇帝に呼ばれた。小さな部屋に武皇帝が一人で、いつもは脇に控える張兄弟の姿はなかった。

　「そなたにしか頼めぬことがある。よいか、よく聞いてほしい」。武皇帝の声にいつになく沈んでいた。

　「朕もいつまでも若くはない。朕自らがよく知っている。そなたも老いた。老いても、そなたの意志は決して曲らぬ。そなたは朕よりは若い。そなたにしか頼めない。朕の思いを叶えてほしい」。

　思い詰めたような武皇帝に、即座に命じられていたならば魏元忠は従っていただろう。

　「朕も人の親だ。顕を皇太子にし、その行く末を思わずにはいられない。顕を皇太子にすると、すぐに承嗣が死んだ。そうなるしかなかったのか。朕とて情に左右される。そなたに願うのが、情に迷ってのことでないとは、朕にも自信はない。朕は皇帝である。迷いを口にできない。皇帝が迷えば、国家は混乱する。そなたにだけは言えると思っている。そなたは乱れない。朕の前で、そなたは正しいことしか言えない。朕の考えるのが間違っているのなら、そう言ってくれ。そなたの顔の傷痕は、そなただけが違う証だ。だから、そなたを呼んだ」。

　魏元忠の涙腺が弛んだ。武皇帝は自分を知っていてくれる。

　「そなたが都に戻ってきてくれたときに、そなたのようにはならなかった者を思った。かつてそのような思いは抱かなかった。顕が都に戻ったときに、また同じように思った。顕も旦も太平公主も朕の子だ。朕にはまだ他の子もいた。三思は甥だ。承嗣は死んだ。幾人が死んだのか。もう十分過ぎる。せめていま生きる者には永続する幸を与えたい。国の永遠の繁栄を願い、民の幸福を願うのは、皇帝である朕の責務だ。朕の縁者も民の一人、例外にせねばならぬ理由はない。永遠を望むのは度が過ぎよう。せめてそなたがいる間には皆が平穏であってほしい。そなたならばそれができる。そなたに託したい」。

　魏元忠の脳裏に母の言葉が走った。「そなたは虞詡になりなさい」。いまそのときがきた。

　武皇帝は続けた。「皆をここに呼ぶ。そなたの前で誓わせる。誓約書を鉄に刻ませ、そなたに託す。そなたなら皆に遵守させられる。そなたがそうしてくれるのならば朕に心残りはない」。

　魏元忠は平伏したまま動かなかった。武皇帝は言った。「正しいと思うことを言ってくれ」。

　魏元忠の頬は赤く染まった。「恐れながら申し上げます。率直に申し上げます」。「そうしてくれ」。「今おっしゃいましたのは、皆様方に永続する幸をお与えするための上策ではございません。断じて違います」。「朕の頼みは聞けぬと申すのか」。武皇帝は大きな声を出した。

　「ただいまの泰平の御世にありまして、民は皆、それぞれに満たされた人生を送っております。武三思様や他の皆様方に限って、それが難しい道理はございません。武三思様も他の皆様方も、元をたどれば、郷里にあって、民とともによき日々を送っておられたのです。そのときに、先の心配などはありませんでした。そのころにまたお戻りになれば、私のような者がおらずとも、永遠の安泰が自ずとお約束されます。それが唯一の策であると存じます」。

　武皇帝は魏元忠を凝視し、「皆を都の外に出せと申すのか」。「その通りにございます」。宗楚客、宗晋卿兄弟に続いて、武氏一族も朝廷から追放していく心積りであった。魏元忠は顔を上げた。この考えこそが武皇帝の心に本当は添うことである。武皇帝は目を逸らせた。

　「やはり、そうか。そのように言うであろうと、朕は思っていた。よい。元忠はあくまでも元忠である。下がってよい」。

　　　　十四

　数日後、魏元忠は宰相の任を解かれ、北西の国境に近い并州に出されることになった。宰相にあることわずか三ヶ月余りだった。

　武皇帝の特別な命を断ったことは妻にも言わなかった。「お上のお心にそぐわぬことがあったのでしょうか」。妻はかねての懸念を口にした。「お上は全て御承知である。最もふさわしい任をお授けくださった」。そう答えた魏元忠に一切の動揺がなかった訳ではない。宰相であればこそできることがあった。武皇帝の命に従っていればそれができたはずだ。

　并州に発つ前に武皇帝に召された。「狄仁傑を北東の地に置いた。北西の地に置くのは狄仁傑に並ぶ者でなくてはならない。そちも狄仁傑も、都にいるより、国家にとって重要な働きをしてくれるであろう」。

　狄仁傑が遠征に出て、そのまま国境地帯に留まって睨みをきかせるようになって以来、北東方面の情勢は落ち着きを得た。突厥は西に移動して別の場所を脅かし、そのまた西方では吐蕃が不穏な動きを見せていた。

　魏元忠の心は定まった。用兵家としての真髄を天下に示そう。

　魏元忠は武皇帝に向かって言った。「賞罰は軍国の切務とかねてより申し上げてきました。前線での失敗の罪は全てこの身が受けます。戦場において肝要なのは機を逃さぬことです。臣が敵のみを見て、都を振り返らぬのを、どうかお許しいただきたい」。「そちは前にも同じことを申した。そちは常に変わらぬ。朕もまた同じことを言おう。そなたの思うがまま存分やってこい。元忠よ、行け、朕はそなたの心を知る」。

　鄭惟忠は魏元忠の出発を祝った。

　「并州は、言うまでもなく、唐の初代皇帝が隋朝に対して挙兵した場所であり、李世勣様が最終的に突厥を押さえ込んだときに大軍を指揮した所でもあります。用兵家としての貴公の真価を発揮するにこれ以上に相応しい場所はありませんでしょう」。

　鄭惟忠は友の心を知っていた。魏元忠は罪を蒙ったのではなかったが、明らかに左遷であった。それを友は栄転であるかのように言った。その言葉を表面の意味の通りに魏元忠は受け止めた。

　「お上もそれをお望みであると思います。李世勣様に少しでも近づくよう努めます」。不幸にも刑死した李敬真の恩に報いることにも通じるかも知れない。「まことにくどいようですが、張景蔵様のお教えを忘れませんように。戦場にあってこそ肝要であるように思います」。「怒りに任せて国家の命運を揺るがせるようなことは決していたしません」。

　并州には昇だけを連れた。依然として体調の優れぬことの多い妻は洛陽に残した。

　妻は「晃をお連れになってはいかがでしょうか」と言った。前線の緊迫した状況下では、口やかましい昇より物静かな晃が近くにいた方がいいだろうとの配慮と知れた。妻にとってこそより当てはまると思えた。それに、前線に連れるのは昇とって必要だった。気性が激しい昇を、四十万の兵をみすみす死なせた趙括のようにしないためには、早くに実地に体験をさせておくのがよいだろう。

　「腐ったような都の空気に、もう窒息するところでした。せいせいします」。昇は都の門を出ると、呵々と笑った。

　魏元忠が洛陽を発って間もなく、武皇帝は、皇太子李顕、弟の李旦、太平公主の三人の子と、武三思を初め武氏の主だった者を集めて、永遠に手を携えて国のために忠義を尽くすことを誓わせた。その誓文は鉄券に刻され、宮中の史館に納められた。

　突厥はしばしば国境線に現れ、挑発行為を繰り返した。魏元忠は、一切乗ってはならぬと厳重に戒めた。突厥が侵入して略奪しても、敵が去るに任せ、一兵たりとて出させなかった。半年余りもそのようなことが続いた。

　昇は悔しそうに言った。「父上のことを何と言っているか御存知ですか。臆病風に吹かれた老いぼれ宰相だと、笑っています。突厥がそんなに恐ろしいのですか」。并州にきてから、昇は将士達と交わり、痛飲しては悲憤慷慨する日々を送っていた。

　「臆病風に吹かれていないのなら、どうするのがいいと、その連中は言っているのだ」。「言うまでもありません。敵の本拠地を叩いて、二度と歯向かえないようにするのです。李世勣様はそのようにされました。私なら断固そうします」。「おまえが趙括になりたいのならそうするがいいだろう。李世勣様が軍を動かしたときと今は同じでない。見ているがいい。そのうちにわかる」。

　戦術的な事に関し昇が何を言っても魏元忠は聞かなかった。しかし、息子が耳にしてくる人物評は参考にした。并州において頂点に位置する魏元忠にとって、昇の話は、上辺ばかりを飾る者を見抜くのに役立った。魏元忠は将士一人一人の個性を掴み、将士も魏元忠の心を知るようになった。

　突厥は戦おうとしない魏元忠を侮り、大挙して攻め寄せてきた。魏元忠は十分に敵を引き寄せ、ついに開戦の命を下した。抑えていたものが一気に噴出し、敵は壊走した。追うべきとの声を抑え、軍を留めた。しばらくすると敵は体勢を整え直し、また攻めてきた。再び撃退した。

　以来、自から戦を求めて勝利したことは一度もなく、魏元忠の用兵は無敗であった。并州の将士は魏元忠に心服した。

　都からは聞こえるのはよくない話ばかりだった。

　美少年への武皇帝の愛は、危うい際を超えたようだった。「ですから、老らくの恋は性質が悪いと、随分前に申したではありませんか」。昇は怒っていた。それを正す意気込みで、この前は都に上ったはずだった。武皇帝の一言で、自分の思い上がりが打ち砕かれた。しかし、いかに聡明な武皇帝でも、恋だけは確かに別物であるらしい。武皇帝の弱点を認めたくない心理が働いて、洛陽にいる間は、結局、この問題には何も触れなかった。

　「由々しくも痛ましい。この次に都に行く機会がもしあれば、今度こそは怯むまい」。魏元忠は息子の前で、自分の失敗を認めた。恋に勝つ用兵術は学んでおらず、前回は戦いを避けてしまった。そのために、張兄弟如きに、武皇帝の治世が汚される結果になった。突厥にさえ負けぬ自分が、恐れる相手はいない。次には必ず勝利する。

　張易之、張昌宗に続いて、その弟の張昌儀も、武皇帝に重く用いられた。張昌儀はすぐに洛陽の副知事になり、好き勝手な振る舞いをした。

　ある朝、張昌儀は役所に赴く途中の道で、薛という姓の者に金五十両を贈られ、「次の人事で免官となりそうなので困っています。どうか助けてください」と頼まれた。張昌儀は金と手紙を受け取り、人事を担当する張錫に、うまくやれと命じた。張錫は薛某の手紙を紛失し、張昌儀に依頼主は誰であったかと恐る恐る尋ねた。「そんなことまでいちいち覚えているものか。とにかく薛という男だった」。怒鳴られた張錫は、人事に関わりのありそうな薛姓の者を調べ、上から下まで六十余人いた全てを昇進させた。

　武皇帝の熱は張兄弟だけではすまず、左右に供奉する者全てを美少年で固め、望む物を惜しまず与えた。武皇帝の意を迎えるために、武三思を初めすると大官連中は美少年の機嫌取りに右往左往した。

　狄仁傑が都に召還された。武皇帝は迷妄の闇から出る光明を見出そうとしたのかも知れなかったが、狄仁傑には寿命が迫っていた。張兄弟の横暴を抑えることはできす、後を託す人物として、張柬之、敬暉、桓彦範、袁恕己、崔玄暐の五人を中央に集めて、久視元（七〇〇）年七月に死んだ。

　武皇帝は「天はどうしてこれほど早くに吾が国老を奪ったのか」と嘆いた。武皇帝は狄仁傑に対してその名で呼ばず、「国老」と敬っていた。

　その報せを、魏元忠は并州よりさらに西方の地で聞いた。

　昇は言った。「顔に紅を塗りたくり、くねくねしなを作るしか能のない馬鹿者どもに鉄槌を下せるのは父上だけです。ただ一人拷問に屈しなかった父上は、国老の称号以上のものを戴いてしかるべきです」。「滅多なことを言うものではない」と息子を戒めつつも、狄仁傑の死を嘆くのならば、自分の存在を思い起こしてほしいと思った。武皇帝を最後の光輝に包むことができるのは自分しかいないはずだと、衆とは異なるとの自負が強く燃え立つのだった。

　長安二（七〇一）年五月、朝廷は、外敵に対して攻勢に出るとの方針を決めた。元の皇嗣の李旦が安北道行軍元帥に任命され、魏元忠はその副元帥になった。并州に大軍が集められた。

　李旦は并州に到着すると、「戦のことはそちに全て任せる」と言い、その後は、指示を仰いでも一切の返答がなかった。李旦は喜怒哀楽の情を表に出さず、その心を推し量ることはできなかった。

　魏元忠は自分の考えを貫き、軍を全く動かそうとしなかった。

　都から命令違反を詰る使者がきた。張易之だった。豪奢な車に乗り、驚くばかりの数の供人を連れた。武皇帝は張易之に手柄を立てさせようとしているらしかった。

　李旦は、年少の張易之に、まるで父に対するかのような礼をもって迎えた。「早く軍を打ち出せ。これはお上の厳重な命令である」。張易之は居丈高に迫った。李旦は「戦のことは副元帥に任せている」と答えた。

　魏元忠は使者を迎えるごく普通の礼法で張易之に会った。張易之は不快千万な顔で魏元忠を罵った。魏元忠は静かに応じた。「確かな勝機が見えれば動きましょう」。「勝機とは何だ。どう見えるのだ」。「申し上げられません。敵に漏れるのを恐れます」。「私が漏らすとでも言いたいのか」。武皇帝の寵愛がこの程度の者に向けられているが悲しく、怒る気にもなれなかった。「どういう処分が下るか楽しみにしておれ」。張易之は席を蹴った。

　張易之の供人は傍若無人だった。その一つの悪事を昇が父に告げた。将士達がよく飲みに行く酒店に美人で評判の娘がいて、ある吏人に嫁ぐ約束ができていた。張易之の供人の一人がその娘に目を付け、無頼の徒を連れて店を襲い、連れ去った。張易之の権勢に比べれば吹けば飛ぶような吏人は悲嘆のあまり自殺した。酒店の主人の話を聞いた昇は、兵士と語らい、供人の潜伏場所に乗り込み、娘を取り返した。娘は許婚の死を聞き、穢された身を恥じ自殺した。

　魏元忠はその供人を捕縛し、軍法に基づいて、笞で打ち殺した。張易之は激怒した。魏元忠は言った。「ただいま并州には大軍が集まり、軍の規則をもって律しなければ、不測の事態もおこりかねません」。「軍の規則を言うのなら、副元帥の貴様は元帥の命に従うのが当然だ。元帥に裁いてもらおう」。張易之は李旦を呼び付けた。李旦はいつもの無表情のまま、「全て副元帥に任せてある」と答えた。

　張易之は即座に都に帰った。

　魏元忠は腹を固めていた。張易之は武皇帝に訴えるだろう。それこそ願うところだ。武皇帝の前で張易之と対決して、武皇帝の迷いを晴らす。

　李旦だけが都に呼び戻され、魏元忠は并州に残った。さらに二年余りを前線で過ごさねばならなかった。

　　　　十五

　魏元忠が洛陽に戻ったのは、長安三（七〇三）年秋、授かったのは洛州長吏の任であった。

　「父上、ついに時がきました。まだ希望はあったのです」。昇が言った通り、武皇帝はようやく正道に立ち戻ろうとしているに違いなかった。

　このとき、張兄弟の三番目の張昌儀が洛陽令におさまっていた。洛州長吏は洛陽令よりも格が上であった。張昌儀は格の上下など眼中になく、前任の洛州長吏の執務室を勝手に占拠し、我侭放題をしていた。武皇帝が自分を洛州長吏にした意図は聞かずとも明白であると、魏元忠は考えた。武皇帝は自分の心を知っている。自分が思うことをせよと命じたのだ。

　「一息に片付けよう」。

　機は熟した。躊躇は無用だ。

　民は張兄弟を憎んでいる。武皇帝の心は民と乖離している。それを繋がなければならない。そうする使命が自分にあると妻も言っていた。

　洛陽に着くと、直ちに州の役所に赴いた。

　張昌儀はいつものように長吏の執務室で榻に寝そべっていた。

　「そこを退け。今日からここは私の部屋だ」。低い声で言った。張昌儀は薄目を開け、魏元忠の突然の出現に一瞬ぎくりとしたが、鼻を鳴らし、また目を閉じ、体を横に向けた。

　榻の脇に立ち、上から言った。「退け」。数年間の前線暮らしで魏元忠の喉は鍛えられていた。張昌儀は体を縮め、しかし、下膨れの頬を膨らまし、目をより強く鎖した。「立って、とっとと出て行け」。張昌儀は薄い唇を動かし、「誰に向かっていまのは言ったのですかな」。声は震えていた。「他に誰がいる」。「まさか、この私ですかな」。「そこは貴様の座ではない」。獅子のような轟きに、張昌儀は榻より滑り降りた。

　「私が誰であるか知っているのですかな」。張昌儀は魏元忠の横をすり抜けながら言った。「わかっている」。魏元忠は張昌儀の肩を「失せろ」と押しやった。張昌儀はよろめきながら部屋を出て、「無礼をすると許さぬぞ」。「無礼は貴様だ」。「この後でどうなっても、知らんぞ」。

　役所の人間は目を丸くして見ていた。

　夕刻に屋敷に戻ると、鄭惟忠が待ち構えていた。久しぶりに会う友は、木像のような顔をしていた。

　「ようやく都に戻られ、いまこそと思われているのでしょう。その心はよくわかります。しかし、一瞬の快を求めて、それで終わってしまわぬようにと、切に思います」。驚くことに鄭惟忠は役所での一件をすでに知っていた。「決して私的な意趣晴らしではありません」。「それはわかっております。貴公のことは誰よりもわかっております。それは信じていただきたい」。「微塵も疑っていません」。

　鄭惟忠は深く嘆息し、「若い人々は以前の時よりもなおさら貴公に期待しています。貴公しかいないからです。それだけ事は難しいのです。私も六十を半ば過ぎました。それだけにお上のお心もわかるものがあります。貴公もそうでありましょう。私は三十年官界に身を置き、民にとってあってはならぬことは何一つとしてきませんでした。それが小さな誇りです。貴公はそこに留まる人間ではありません。貴公しかいないと私も期待します。だからこそ、慎重にしていただきたいのです」。「これがお上のお心に添える最後の機会であると思っています。敢えて無謀をするものではありません。しかし、悔いは残したくないのです」。

　鄭惟忠は友の顔を見つめ、しばらくしてから、決意を込めて言った。木像のような顔が俄かに活気づいた。「貴公はやはり違います。私はずっと忍んできました。それが習い性となっていました。いまは再びはこない時です。貴公一人しかおらず、今しかないのならば、もう止めはしません。これまで、張景蔵様のお言葉のうち、怒りの相を抑えることばかりを私は申してきました。張景蔵様はそれだけを言われたのではありませんでした。怒りによって禍を受けるだろうが、それを免れようとしても良き人生になるとは限らないともおっしゃいました。いまは怒りの相のままにされる時であるのでしょう」。魏元忠は友の手を取った。「何事もお上のお心次第です」。

　鄭惟忠は昇の顔を見ると、「并州でよい経験を積まれたようです。若いころのお父上そっくりの顔になられた。これで都に帰られたからには、弟さんと心を合わせ、どうか母君を大切になさい。君ももう立派な年齢だ。学問をさらに励み、よき妻を迎え、よき官人となって、お父上の手助けをするのがよいでしょう」。「順序が逆です。父に食べさせてもらっている身で妻など迎えられません。天下のため、民のために、少しでも事を為してからでなければ、我が身のことなど考えられません」。鄭惟忠は顔を曇らせた。昇にはもともと鄭惟忠の言うことを真面目に聞く気はなかった。

　弟の晃は数年の間にすっかり青年に成長し、洗練された都人の雰囲気を身に付け、これならばいつ朝廷に出ても恥ずかしくないと思えた。兄と違い、鄭惟忠に対する敬愛の念を深めていた。

　妻は以前よりも体が小さくなったようだった。たまに届く手紙に、自分の不調を訴えるようなことは一切記されていなかったが、実際にはあまり思わしくない様子であった。「お留守の間にも、どうにかこのお家を守ることができました」。しんみりとした口調に、苦労が偲ばれた。我が妻になっていなければそれはなかったはずだ。妻を積年の労苦から解き放ちたいとしみじみと思った。

　「そなたとの約束を果たしたいと思っている。願いを何でも叶えると言ったあのことだ」。宋城での最初の日々から外に出るように言ったのは妻の方であったが、いまの妻を見れば、妻のために帰りたいと思う。

　「私の願いは、お上のお心に委ねて、あなたさまの大切な御生涯を全うしていただくことです。それしかありません」。妻はいつも通りのことを、いつもよりも厳しい表情で言った。「そのように言ってくれて感謝する。いまは重要なときだ。ここを乗り越えれば、私も楽になる。そなたに苦労をかけることももうあるまい。必ずそうなる。いま少しだ」。

　武皇帝に帰朝の報告をすると、「よく努めよ」と言われただけだった。型通りに答えると、武皇帝の眼光はいつも通りに鋭かった。次の言葉を待ったが、何もなかった。脇には張兄弟がいた。

　張昌儀との一件については何事もなかった。それは暗黙の了承であろうと、魏元忠は受け止めた。

　屋敷には連日のように来客があった。魏元忠はこのたびの召還で三品に昇階した。それを祝しつつ、種々の思惑を胸にした客人が押し寄せてきた。心を開ける相手はごくわずかしかいなかった。

　気骨ある人士として知られ、機会があれば会ってみたいと思っていた宋�m、張廷珪、劉知幾のような人物も訪ねてきたが、そのような者は、門前市を成すばかりのありまさまに、挨拶もそこそこに帰ってしまい、かえって、会うのも煩わしいと感じる人間が臆面もなく長居した。下心のある客人は遠回しに何事かを言った。退散してもらうには曖昧な返事を適当にしなければならなかった。その煩わしさに、三品官であるいまこのときに為すべき事を為したならば、父を習って晴耕雨読の日々に戻ろうとの思いが湧いた。妻のためにもそうしたい。そのためには、母に誓った虞詡になることをいま果さなければならない。

　客人の中に張説という若者がいた。同じ張姓であるから、張兄弟の親族筋でもあろうかと疑ったが、なかなかに豪胆な男で、初対面から張兄弟に対する敵意を隠そうとしなかった。用兵術にも関心があるようで、魏元忠は興に乗ってしばらく話し込んだ。張説は「先生がかくありたいと願う古の人はどなたでありましょうか」と問うた。魏元忠は虞詡を挙げようかとまず思ったが、張説の真直ぐな若さが、洛陽に初めてきたときの記憶を思い出させた。そのとき、怒りを覚え、儒家が理想とする伊尹、周公のようになりたいと考えた。張説にも通じる思いがあるだろう。

　魏元忠は少しばかり姿勢を改め、「大きなことを申すようですが、やはりかくありたいと思う人物となりますと、伊尹、周公でありましょうか」。張説は驚いたような顔した。虞詡の名を言うと張説は期待していたのか。「儒の教えを学ぶ者は、孔子が最も尊敬した伊尹、周公を最高の理想として目指すのは普通のことでありましょう」。魏元忠は言葉を足した。張説は軽く同意すると、話題を転じた。それからは話が湿り、張説はじきに辞去した。

　張兄弟の屋敷に巣食うごろつきの悪い評判を、昇が聞いてきた。

　昇は洛陽にきてからも将士と交わり、魏元忠の息子であることから、李多祚のような重い地位にある武将とも面識を得た。李多祚は辺境守備に長らく携わり、その武勲を武皇帝によって認められ、特に宮中警護の指揮を任されていた。

　将士は、美々しく化粧して武皇帝の近くに侍る張兄弟等美少年を憎んでいた。しかし、張兄弟には手出しができなかった。張兄弟の屋敷の者が、都の人々に乱暴狼藉を働いても、見て見ぬふりをするしかなかった。

　昇はごろつきどものことを父に告げようとして、母と叔父と弟の三人に止められた。晃は「それはいまさらではなくて、都ではもう長らく普通のことになっているのです。ずっと耐えるしかなかったのです」。蘇禎は「何もお坊ちゃまが慌ててお知らせしなくてもいずれおわかりになります。先生はまだ都に戻られたばかりではありませんか。鄭惟忠様も慎重にとおっしゃっていたではありませんか」。母は「そなたのしたいことを父上にしていただこうというのですか。そなたはいま何をすべきか心得違いをしています」。昇は三人に耳を貸さなかった。

　魏元忠の用兵術を用いれば都のごろつきなど一捻りだった。一斉に捕縛し、張兄弟が騒ぐのを他所に、州知事の権限で処罰した。首謀者は杖殺だった。

　都の人は張兄弟に遠慮しつつ秘かに快哉を叫んだ。

　それから間もなく、武皇帝は宰相以下の重臣を前に、「今度、雍州長史が空席となるが、次は誰がよかろうかのう」と何気なくつぶやいた。その意味するところは、すぐに察しられた。宰相が、自分の役目はここにあるとばかりに、口を開こうとした。魏元忠の頬に朱が射した。自分がここにいて黙っていてはいけない。

　宰相に先んじて魏元忠の声が響いた。「いまの朝廷を見回して、適役として薛季昹の右に出る者はおりませんでしょう」。薛季昹は優れた人物として知られていた。異様な緊張が走った。武皇帝が話を持ち出した意図は、魏元忠も知っていた。張兄弟の四人目の張昌期が岐州刺史の任を終えて帰朝したばかりだった。

　武皇帝は穏やかに言った。「成程、元忠が申すのはもっともである。薛季昹ならば雍州の長史くらいやすやすと勤めるであろう。だから思うのだが、雍州長史では薛季昹にはちと役不足なのではあるまいか。より重要な他の官を与えよう。元忠よ、心配するでない」。魏元忠は頭を下げ、次を言おうとすると、「まあ、待て。元忠にばかり言わせはしない。朕も考える。そうだ、朕が思うに、雍州長史くらいの仕事であれば、どうだろうか、張昌期で十分ではなかろうか。皆はどう思うか」。武皇帝は自ら心の内を明かした。

　宰相はほっとしたような声で、「最も相応しい者を御存知にございます」。皇帝の明察を讃えた。魏元忠は鼻を押さえた。怒りが渦を巻いていた。ここはどうすべきか。事は張兄弟に関わる。いまの宰相のような諂いが、武皇帝を迷妄の底に沈ませてしまったのだ。

　魏元忠は鼻から手を離し、「昌期ではその任は堪えません。お止めになるのがよろしいでしょう」。武皇帝の声が変わった。「昌期は刺史の任をよく果たした。その報告がここにある。刺史の次は長史だ。順に用いて、その才を伸ばしてやろうと朕は思う。人を育てるのは上に立つ者の努めではないか。そちも、以前に、志を果すよう導けと言ったではないか」。魏元忠は顔を真直ぐに上げ、「昌期が岐州で何を為したのでしょうか。それを吟味して後に、次もあろうかと思います。私が聞き及びますところでは、昌期が刺史となってから、岐州の戸口は突如減少し出しました。昌期の前にそのようなことは一度たりともありませんでした。重大なその事実に対し、昌期は何ら手を打ちませんでした」。「そのようなことは聞いておらぬぞ」。

　魏元忠は岐州の状況を詳細に語った。「それは事実なのか」。武皇帝が宰相に尋ねた。「初めて耳にしました」。宰相は言葉を濁した。「朕が受けている報告は間違っているのか」。魏元忠は「臣は事実でないことは何一つ申しておりません」。魏元忠は予め張兄弟について徹底的に調査していた。「そちがそこまで言うのなら正しいのだろうな」。「昌期は岐州においてさえかようであったのです。雍州は都に近い重要な州です。事はより繁く、勤めはより激しくなります。薛季昹のような強幹にして事に慣れた者でなければ勤まるものではありません」。

　武皇帝は不興顔ながらも小さくうなずき、「よくよく考えてみよう」とつぶやいた。

　張昌期の件は流れた。魏元忠は大きな手応えを感じた。武皇帝は正道に立ち返るために自分を呼んだ。張兄弟のために、武皇帝は迷い、天下は乱され、民は苦しめられた。それも間もなく元に戻る。そうなる時がまさにきた。

　数日後、武皇帝に召された。張兄弟はいなかった。今であった。武皇帝が言うのを待たず、直ちに事の核心に迫った。

　「臣は、身を朝廷に置き、忠を尽くし節に死ねぬのを何よりも恥じます。臣はいま大きな罪を為しております」。魏元忠は唐突に切り出した。

　武皇帝はいぶかしげに、「そちは日の光のもとに身を置いて、恥じることはないといつしか申した。大きな罪とは何事であるのか。話してみよ」。

　「小人どもがお上のおそばにおりますのを放置していることです。臣は臣の為さねばならぬことをまだしておりません。これより大きな罪はありません」。武皇帝は魏元忠を凝視した。魏元忠は燃え立つ目で武皇帝を見返した。そのようなことをした者はかつて一人もいなかった。

　「小人どもとは誰のことだ」。「お上の御慧眼をもってしておわかりにならぬことはないと存じます」。武皇帝は魏元忠から目を反らした。「そちはしかとそう思うのか」。「臣の考えることは全てお上が御存知でございます」。

　武皇帝はふっと嘆息し、声を改めた。「いつであったか、そなたしかいないと言った。その時、そなたは聞いてくれなかった。そうなると朕にはわかっていた。そなたを知るからだ。いまもやはりそなたしかいないと思う。だから都に呼んだ」。「有難き幸せに存じます」。

　「元忠よ、そなたにわかろうか、この玉座にある者の気持ちが」。武皇帝の声は憂いを帯びた。「臣には畏れ多きことにございます」。「皇帝はなるものではなく、天より授かるものだ。皇帝であるからには全てを見通せなければならない。朕も人ぞ。そなたは言った。朕の前で恥じることはないと。朕はそれを信じてきた。そなたは正しかった。張兄弟も同じことを申した。朕の前で恥じることはないと張兄弟も言ったのだ。朕はそれを信じたい。そなたは、いま朕にはわかるはずだと申した。朕は皇帝である。全てを見通さねばならない。しかし、朕も人ぞ。できないこともある」。

　武皇帝はそっと目頭を拭った。

　「どうかよくお考えになってください」。魏元忠の声が上ずった。「そちは朕に指図するのか」。魏元忠は平伏した。武皇帝はそれ以上を言わなかった。

　翌日、武皇帝は寝所の外に出なかった。

　その翌日も同じであった。武皇帝の苦悩はそこまで深いのかと、魏元忠は痛ましく思った。その原因を作った張兄弟への憎悪を募らせた。

　その後も武皇帝は宮中の奥に籠もったままの日が続いた。かつてないことだった。病に伏せ、日に日に思わしくない状況に向かっているのではないかとの憶測が飛んだ。武皇帝は高齢であったから、万が一のこともあり得なくはなく、人々は動揺し始めた。

　万一の時がきたならばいかになるのか、人々はかねてより危惧していた。朝廷人はそれぞれに微妙な安定の場所を見出して身を置いていた。その場所が一日にして失われてしまうかも知れない。幸運な少数者が元の場所を保ち得て、その中からごくわずかな者だけがより望ましい次に場所に移れるのだろう。武皇帝が皇太子以下の主だった面々を集めて作った誓約書は鉄券に刻まれている。鉄券は朽ちなくても、誓約を守らせる力は有していない。朝廷の人々は、互いの腹を探り合いながら、しかし、表面上は淡々と日々の職務をこなした。そうする他はなかったからだ。

　魏元忠にしても、思いは複雑でありながらも、洛州長吏としてこなすべき仕事に向き合う毎日であった。

　武皇帝が姿を見せなくなって十日ほど後の朝に妻は言った。「いまほど難しいときはございません。先を考えるのはいけないとわかっております。考えようとしても、考えられません。お上に全てを委ねてまいった私達ですから」。妻の顔色はひどく悪く、日に日に調子が落ちていた。その原因の過半が自分にあるのを魏元忠は承知していた。張兄弟と争った者には必ず悲惨な敗北が待っていた。さらに武皇帝のことが加わった。「その通りだ。いまはとにかく普段通りに仕事をするだけだ。先が見えぬとて、浮き足立つのはお上の御不幸を待つに似て、これ以上の不忠はない」。

　「不測の事態を前に不埒なことを為そうとする者が出るかも知れません。鄭惟忠様が常日頃からおっしゃっておられますことが大切であると存じます。あなたさまは、洛陽にお帰りになってから、とても急いでおられるようです。このようなときだからこそ、決してお怒りになりませんようにお願いいたします」。「わかっている。難しいときだ。だから、ここを乗り切れば、争うこともなくなる。そなたも心安らかに静養できるようになる」。「私のことはよろしいのです。あなたさまの身が心配でならないのです」。「案じることはない。何事も御心のままだ」。

　魏元忠は屋敷を出て、「何事も御心のままだ」と言った自分の言葉を思い返した。万一のことを考えて右往左往するのは不忠であろうが、考えまいと意識して、考えずにいられるものでもない。「御心」が存在しなくなる日がいつかはくるだろう。「普段通りに仕事をするだけ」と言いつつも、その先に普段通りでない状況が待ち受けている可能性を思わずにいるのは難しい。それはもしかして今日であるのかも知れない。もしもそうなったときにはどうするのか。何の心構えもなしでいるのでよいのか。

　天下の行く末について一日たりとも思索を休めてはならない。朝廷に身を置く者の責務だ。万一の後には、新皇帝を補佐して国政の刷新を図る。それ以外にない。まさしく伊尹、周公の役に近い。もしかすると、武皇帝はそうなることも見越して、この時期に自分を都に呼び戻したのか。ならば、万一の先を考えておくことは武皇帝の心に添うのか。新皇帝のために、国ために、民のためにならぬのなら、張兄弟も武一族も朝廷に身を置くことはできなくなる。自分は敢然と戦わなければならない。

　そのように思うと、闘志がふつふつと燃え上がってきた。洛陽にきてからの魏元忠は常時戦う気構えであった。

　皇城に通じる門に至った。この中で天下の大権を担うことになるのかと、魏元忠は想像しつつ行く手を見上げると、そこに武装した役人の集団がいた。足元からすっと冷気が立ち昇ってきた。すぐに了解した。三度目がきたのだった。

　ここで抵抗するのは見苦しい。獄に連行され、拷問を加えられ、刑場で斬られる、その全てはすでに承知している。魏元忠は相手が為すのを泰然と受け入れた。

　獄に置かれた。いつも通りの臭いがした。今回は、張兄弟の仕業であろう。張兄弟に対してこれまでにさんざん怒り、いまさら新たな怒りはなかった。張兄弟を侮蔑し、むしろ哀れにさえ思った。武皇帝の病に、最も泡を食ったのが張兄弟だろう。武皇帝の他に、張兄弟を救う者は一人もいない。兄弟は悪あがきに出た。愚かな張兄弟に、あれほどまでに愛情を注ぎ込んできた武皇帝の心が悲しい。

　獄中での扱いはなぜか今までより格段によかった。清潔な寝床が用意され、食事も普通で、書物が読みたければもってこよう、灯が必要なら貸しもしようと言ってくれた。史書を所望した。一人黙々と襤褸家で学んでいた少年時代に、史書に名を残すような者になるのはいかにもたやすく、衆に異なる者に必ずなれると思えた。以来、数十年の歳月を経てここに至った。父がしたように、後の世の人が、自分の事跡を記した箇所に合印を施してくれるだろうか。これで罪を問われること三度、その数で虞詡に並んだ。

　魏元忠は静かに獄中で過ごし、三日が経っても取り調べは始まらず、外の様子は全く知れなかった。獄には不気味なほどに不釣り合いな穏やかな時が流れ、万一のことがすでにあったのではないかとの疑いが生まれた。

　先の二回の獄は、最後は武皇帝に救われた。武皇帝が全てを知ってくれているとの信念が支えになった。今度はそうはならないのならば、自分はいかになるのか。かつてない不安が心に芽生え始めた。

　武皇帝あっての自分である。それなのに、捕縛された朝に、御心がなくなるかも知れないと想像し、伊尹、周公になろうと闘志を燃やした。あれはいかなる考えであったのか。許されることではない。だから捕縛されたのか。

　魏元忠はぞっと寒気を覚えた。順序としてあり得ないことであるのだが、お上の不幸を待つような大不忠をした自分には、当然加えられるべき仕置きと思えた。

　万一のことがあった後で、拷問を加えられたら耐えられるだろうか。万一のことがあった後で、刑場に引かれたら悠然と構えていられるだろうか。武皇帝が知っていてくれるとの信念がないのなら、拷問に屈し、刑場でおめおめと泣いてしまうのか。元忠の名は地に堕ちてしまうのか。

　魏元忠の心は俄かに縮み出した。

　武皇帝あっての自分である。それなのに、どうして、伊尹、周公の役を担って、宮城で大権を担うなどと想像したのか。妻の忠告を受けたばかりであったのに、あの時、自分はどうかしていたのか。

　自分を真に知る人に仕えるのが初めからの志であった。その人に巡り合えた幸運だけで十二分であるのに、万一の先を望むかのようなことをどうして自分は考えたのか。もしも万一のことがあったならば、悲嘆に沈む以外に何があるというのだ。自分には情というものがないのか。

　魏元忠は頭から冷水を浴びせかけられたように感じた。

　かつて涪陵から洛陽に帰還したとき、今度ばかりは武皇帝の心を正さねばならないと思っていた。しかし、武皇帝の声を聞いて、自分の思い上がりを痛いほどに知らされた。にもかかわらず、今回洛陽に戻るに当たって、武皇帝を誤った道から救い出そうと考えていた。思い上がりもはなはだしい。

　武皇帝の心をどれだけ自分は知っていたのか。自分の罪は深い。

　張兄弟が何を企んでいるのか。それはどうでもよいことだ。いかなる逆謀の嫌疑よりも重い罪を、自分はすでに武皇帝に負っている。

　魏元忠は日を追って罪の意識を深め、獄中という環境下での心情の変化があまりにも急激であったために、困惑と落胆が底知れぬ淵へと魏元忠を引きずり込んで行った。

　吟味が始まった。驚くべき場所で行われた。責め具の並ぶ御史台の陰湿な部屋ではなく、宮中の立派な御殿の広間であった。床の中央に魏元忠は座らされ、手枷をはずされた。前に高い壇があった。背中を押さえつけられ、床に平たくなった。壇上に人々が入ってきて、順に静かに着座した。その音が止み、静まり返ると、詮議をこれより始めると役人が言った。

　続けて、壇上の中央より声が轟いた。

　「日輪のもとに身を置いて恥じるところのない鹿と同じだとそちは申した。鹿は、日輪のなき世があろうとは思うまい。そちは朕を欺いたのか」。

　武皇帝だった。病にあったとは思えぬ、いつも通りの張りにある声だった。

　第一声に武皇帝が健在であるのを喜び、次の瞬間に、身を剣で突き刺されたように感じた。非は間違いなく自分にあった。万が一の後を考えていた。武皇帝がそれを咎めている。背がぐっしょりと濡れた。武皇帝が見てくれるならば、自分の潔白は必ずわかってくれると、これまでは確信できた。いま自分の非を武皇帝が見ている。

　「そちには重大な嫌疑がかかっている。日の光のもとで一点の恥じることもないと、そちは言った。それはまやかしだったのか。そちが正しければ、そちに嫌疑をかけた者が正しくないことになる。どちらもが正しいとこれまで朕は願っていた。二つに一つでしかないのを、明らかにせねばならなくなったのを、朕はまことに残念に思う。しかし、朕はしかと見定めねばならない」。

　二つに一つでしかない対決の相手として、魏元忠の前に立ったのは、張兄弟の二番目の張昌宗だった。

　「顔を上げろ」。張昌宗に言われ、その通りにした。正面に武皇帝が座り、その左右に皇太子以下の朝廷の主だった人々が並んでいた。かつて罪人をこのように調べた例はなかった。「おまえは魏元忠に間違いないか。名を言え」。魏元忠は答えた。

　張昌宗は、并州で怒らせた兄の張易之とも、洛州の役所で叱りつけ弟の張昌儀とも違った。容色に優れ、魏元忠の目にも美しく映ったが、それだけの人物ではなかった。武皇帝が深い愛情を注ぐに足る智恵者だった。

　張昌宗は詮議を始めてもすぐには嫌疑に触れず、まず、魏元忠がいかなる人物であるか描いた。敵を糾弾するよりも、敵の不屈の精神を賛美するかのようだった。張昌宗の声は美しく、修辞に優れ、武皇帝は感に堪えぬとばかりに聞き惚れていた。

　「何がこのような精神を培ったのか」と張昌宗は問い、母が厳しく陶冶したからだと張昌宗は答えた。母は虞詡を見習えと言い残し、少年魏元忠は亡き母の教えを守って黙々と勉学に励んだ。張昌宗は何もかも知っていた。「母を思う心は、お上への忠義心に通じ、よって元忠は、二度獄中に下り、一度は刑場で切られる寸前に至り、一度は酷い拷問を受けながらも決して屈することがなかったのです」。張昌宗の指摘は正しかった。武皇帝に正しく見られていると確信のある間は自分は確かに強靭であった。

　「しかるに、このたび洛陽に召還されるに際して、元忠はいよいよ虞詡に並べると奮い立ったばかりでなく、国老殿を乗り超えんとの思いも燃やしたのであります。元忠は、一人だけ拷問に屈しなかったことを自負し、国老殿の下位に置かれ続けてきたことに不満があったのです。嫉妬と申してもよいでしょう」。魏元忠の背筋が凍った。張昌宗は一体どこまで知っているのか。

　張昌宗は、洛陽に復帰してから魏元忠が何をしたのか、克明に叙述した。誰といつ会い、どのような話をしたのか、魏元忠でさえ記憶し切れていない数々を全て掌握していた。張昌宗は、高戩の名を特に強調した。高戩は、武皇帝の娘の太平公主と特別な関係があると噂される貴公子で、一度だけ会っていた。

　張昌宗は、魏元忠が自分達兄弟と執拗に対決しようとした経緯を描き出した。それはどちらが武皇帝に忠実であるかを競う戦いであると魏元忠は捉え、勝利するのは容易ではないと知り、国老を乗り超えたいとの思いと合わさって、不埒な野望を抱くようになったと述べて、いよいよ嫌疑の核心に至った。

　計画されたのは、まず高戩が太平公主を騙して皇帝の印璽を持ち出し、魏元忠と共同で皇帝の詔を偽造し、皇太子を皇帝代行に立て、武皇帝に代わって大権を掌握すると、皇帝代行の権限をもって武皇帝の権を停止させ、武皇帝を宮中の奥に幽閉し、そして朝廷内外の邪魔者を一斉に排除して、朝政を完全に自分達の思いのままにするという筋書きだった。

　張昌宗の狙いが読めた。高戩は拷問に耐えられる男ではない。張昌宗の望む通りに自白するだろう。高戩が有罪になれば太平公主も連座し、武一族にも罪が拡大する。魏元忠が有罪になれば魏元忠と交流のあった官人も一味とされよう。張兄弟にとって邪魔になる者が一掃できる。

　魏元忠は嫌疑を全て否定し、張昌宗は魏元忠を追及した。張昌宗は次々に問を発し、魏元忠が答えると、畳み掛けるように次の問を投げ付けた。問の並びには脈絡がなく、魏元忠は翻弄され、功妙にも追い詰められて行った。張昌宗は洛陽での魏元忠の行動を完璧に把握していた。魏元忠には記憶の曖昧なところがあり、言い淀むと、嫌疑とは直接には関係のないことではあっても、何か隠したいことがあるかのような印象を武皇帝に与えているのではないかと気にかかり、言葉が湿った。一方的に押されてばかりではならぬと、張昌宗の論証の矛盾点を衝こうと試みると、「それはいま争うべきことではあるまい」と武皇帝にたしなめられた。魏元忠は劣勢に立たされた。

　張昌宗の一連の訊問が終ると、武皇帝は、脇の皇太子に、「この件についてそなたは何か知っているか」と尋ねた。皇太子は身を震わせ、「何も知りません」と、上ずった声で答えた。「誰か何か知る者はいるか」。武皇帝は左右を見回した。李旦はいつも通りの完璧なまでの無表情であり、宰相以下も沈黙した。「元忠のために弁じる者はいるか」。それにも沈黙が保たれた。

　「誰も知らず、誰も弁護しないのか。元忠が有罪であれ、無罪であれ、大事なことを知っていながら黙っていたと後で明らかになれば、重き咎めを受けることになる。それでもよいのか」。武皇帝の厳しい声が響き渡った。

　「高戩をここに呼びましょうか」。張昌宗が言った。武皇帝は首を傾け、「あれは、きつく詮議されれば、言いなりに答えてしまう男だ」。

　武皇帝はやはり聡明だ。魏元忠は光明を見た。張昌宗がいま勝っているようでも、正しいものは正しいと、最後は武皇帝が見抜いてくれる。しかし、今回は自分の心に非がある。張昌宗が言うのが出鱈目であっても、自分に罪があるとの事実の前に、光明はたちまち消えるしかない。

　張昌宗は頭を下げ、「このような取調べの場では、疑われた者が不利であるのは免れません。元忠を守ろうとする者を呼んではいかがでしょうか」。「それなら元忠にも不服はあるまい。どうだ」。武皇帝に尋ねられ、魏元忠は張昌宗の意図を疑いつつも、「そのようにまでしていただけるのはまことに幸せにございます」。「ならば誰がよいのか。元忠に名を挙げさせ、昌宗も可とし、朕も可とする者を、明日のこの場にこさせよう」。

　魏元忠が真先に思ったのは鄭惟忠だった。しかし、慎重に生きてきた友人をここに呼ぶのは気の毒だった。宰相以下の高官はあてにならない。それである友の名を挙げた。「その者はいま都の外におり、明日には間に合いません」。張昌宗が即座に答えた。別の名を挙げると、「その者は元忠と親し過ぎて、公正な証言をしたとは思われないでしょう」。張昌宗は魏元忠が挙げる全ての人物を熟知していた。宋�m、張廷珪、劉知幾といった賢臣の誉れ高い者を挙げると、「いずれも気骨ある者にて、私ども兄弟のことをよくは思っておりませんから、元忠にとって有利な証人になると期待されましょう。しかし、元忠とはせいぜい挨拶を交わしたくらいで、証言するに足るものは持ち合わせておりませんでしょう」。

　「あれこれ難があったのでは、誰もおらぬではないか」。武皇帝の苛立った様子に、魏元忠は、誰かの名を出さねばと焦った。一度屋敷に訪ねてきた張説を思い出した。張説の文才は武皇帝にもつとに認められていた。張昌宗は、「ほう」と手を打ち、「張説と元忠はかなりの時間、話し込んでおります。何かしら知るところがあると期待されましょう」。初めて合意した。その自信ありげな物言いに、これは罠ではあるまいかとの疑いが生じた。

　「よろしい、明日、張説をここに呼べ」。

　魏元忠は獄に戻った。

　惨めだった。これが刑場で泰然自若としていた魏元忠なのか。これがただ一人拷問に屈しなかった魏元忠なのか。張昌宗如きにあれほどまでにいいようにされてしまった。なぜなのかと考えようとして、さらに惨めさが増した。かつてこのようなことは一度も経験がなかった。

　もしも武皇帝の前で、いきなり激しい拷問を加えられて血まみれにでもなっていたならば、随分と違っていたのではないか。そう思うと、腹の底が熱くなった。

　悶々とした夜を過ごし、怒りの奔騰が堰を切る瞬間が今ここに訪れないかと夢想した。そうなれば張兄弟などに負けるものではない。獄に入れられてから、心が萎んでしまった。怒りを抑える術は母に習ったが、怒れずにいて怒りを湧かす術は知らない。怒りの相はどこに行ってしまったのか。

　それもこれも、もともと非があるからだと思うと、さらに惨めになった。

　明け方が近づいてきたころ、一人の者が獄の扉の外に立った。ようやく蘇禎がきてくれたのかと思ったが、そうではなかった。「宋�mであります」。魏元忠は驚いた。一度短時間会っただけの宋�mがどうしてここにきたのか。

　宋�mは扉の向こうで囁くように言った。

「大変厳しいことになりました。張説君が証人に立つと聞き、昨晩、張説君を訪ねました。『名義こそが最も重いのは君も知るだろう。人は欺けても、鬼神は欺けない。邪に党し、正を罪に陥れれば、いつか必ずその報いがある。正しいことを言い、それで罪にされ流竄となるのは光栄ではないか。君が怖がっているのなら、私も力の限り戦う。一緒に死のう。ここで力を尽くせば、万代にわたって仰ぎ見られる。尽くさねばその逆だ』。そのように諭しましたが、張説君は何も応えてくれませんでした。もはや友ではありません。良い官位を約束され、張昌宗のために証言すると心を決めたようです。どうか、くれぐれもお気を付けください」。

　宋�mはすすり泣いた。魏元忠は礼を言った。「何事もお上が見てくださいましょう」。頼るところは元来そこしかないのだが、武皇帝の目は自分の非を見ているのだった。

　獄を出され、昨日の場に行くまでの間に、張廷珪と劉知幾が順に歩み寄り、張説を説得しようとして失敗したと告げた。やはり罠に落とされたのだ。魏元忠の頬に少しだけ赤味がさした。怒りが心に湧き始めた。

　昨日と同じ場所、同じ顔ぶれだった。張説が呼び入れられると、魏元忠の隣で武皇帝に拝礼した。

　張昌宗が言った。「貴様が希望した張説君だ。尋問が始まる前に、掛けたい言葉があれば自由にしてよいぞ。口裏をどう合わせるかの相談をしてもよいだろう」。張昌宗はあさけ笑った。

　怒りが増した。「張説よ、羅織の徒のように、この元忠を無実の罪に陥れようとここにきたのか。君はそれほどの恥知らずだったのか」。張説は静かに応じた。「魏元忠殿ともあろうお方が、巷の小人のように、これから証言に立とうとする者を脇から脅すのですか。理非は一つです。それが明らかにされるのを恐れるのですか」。魏元忠は即座に自分の言葉を恥じた。武皇帝の面前で言うべきことではなかった。全てがうまくいかないようになっていた。

　張昌宗が「自分で呼んでおきながら、ここで言い争いをするのか」と冷笑した。魏元忠は頭を垂れた。

　張昌宗は言った。「張説君は元忠が名指しした証人であります。張説君が私ども張兄弟を嫌っていることは衆人の知るところです」。張説が張兄弟をどのように批判してきたかを具体的に明かした。「そちはかようなことまで言ったのか」。武皇帝の語気荒い問に、「間違いありません」と張説は答えた。張昌宗はしたり顔でうなずいた。

　張昌宗は張説に尋ねた。「元忠とは会ったことがあるか」。張説はありのままに答えた。「そのときに、このたびの疑いに関係するようことを元忠は何か言っていたか」。張説は立ち上がり、武皇帝に真直ぐに顔を向けて言った。「何も聞いておりません」。声はいくらか震えていたが、はっきりとよく響いた。

　張昌宗が教え諭すように言った。「真実を隠すのは重大な犯罪である。聞いたことをありのままに申してよい。元忠に脅かされて怯えることはない。正しい証言をした者は我等が守る。安心して言うがよい」。張説はひざまずき、もう一度同じことを、武皇帝に言った。「魏元忠殿が疑われていることに関し、私は何も聞いておりません」。

　張昌宗は張説の脇に歩み、肩を抱くようにして、「君はいま自分で何を言っているのかわかっているのか。聞いたままを偽らずに答えるのだ。お上の前で偽りがあってはならぬ。さあ、言いたまえ」。「何も聞かぬと、正しく申し上げております」。「君は聞いているではないか。隠してはならぬ。黙っているだけでも重大な犯罪だ」。「何も隠していません」。

　張昌宗は張説の体を揺すり、「君が元忠に遠慮して言えないのなら、代わりに言おうか。元忠はこう申したのだろう。『お上は老いられた。皇太子様をお立てし、久長の策を採るのがよい』。君にそのようにもちかけたのだろう」。「そのようなことは一切ありません」。

　張昌宗は張説の首を掴み、「血迷ったのか。本当のこと言うのだ。知っていながら、隠し通そうとすれば、重い仕置きをせねばならぬ」。「本当のこと言っております」。「言うと約束したではないか」。張昌宗は張説の首に爪を食い込ませた。

　張説はその手を掴み上げ、「どうぞ御覧ください。陛下の御前におきましても、臣はこのように迫られております。陛下のお目の届かないところにおいていかなることがありましたか、どうか御想像ください。洛州長吏殿がそのように申したのを臣は聞いておりません。しかるに、私に証言させようとしているのです」。

　武皇帝の近くに座していた張易之が叫んだ。「同犯だ。張説と魏元忠は同犯です。互いに罪を隠そうとしているのです」。

　張昌宗は張説の手を振りほどき、優美ななりで姿を整え、兄の張易之に落ち着くよう手で示した。「張説君は疑いもなく隠しております。何も聞いていないと今は申しておりますが、実は聞いているのです。元忠が『伊尹、周公たらんとするのが我が望み』と申したのを、聞いているはずです。張説君、正直に答えるがよい」。

　張説に救われかけたが、魏元忠は観念した。「鹿は日輪のなき世があろうとは思うまい」と、武皇帝は最初に言った。我が不遜がここで明らかにされ、武皇帝に全てを委ねるとしてきたことが終わる。宋城を出てからの歳月が一瞬の間に甦った。自分を知る人を裏切った罪は大きすぎる。

　張説は一度伏してから顔を上げた。「そのように聞きました」。

　武皇帝の声が響いた。「言を反覆するでない。先ほどは何も聞かぬと言い、いまは聞いたと言う。朕を愚弄するのか。この者を、元忠よりも先に、厳重に詮議せねばなるまい」。

　張昌宗は言った。「伊尹は王を離宮に放ちました。周公は摂政として王の代わりをしました。元忠は権を専らにしようと、恐るべき陰謀を企んだのです」。勝ち誇った声だった。

　張説が言った。「昌宗は伊尹、周公の事を聞きはしても、伊尹、周公の道を知りません。伊尹、周公は権を専らにしたのでしょうか。伊尹、周公の道さえ知らぬ者が大手を振って歩む朝廷は改めねばなりません。臣が洛州長吏殿のお屋敷をお訪ねしたのは、洛州長吏殿が三品官になられたのは、民のため、お上のために慶賀すべきことであると思ったからです。洛州長吏殿はおっしゃられた。『まだ何の功もないのに、この恩寵を賜り、慙懼に耐えない』と。それで私が『洛州長吏殿こそは伊尹、周公とも並ぶお方。三品官くらいで畏れることがありましょうか』と申したのです」。張昌宗は「違います。張説は、確かに元忠が申したと、先に某に申しております」。

　「二人で言い争っていてはわからぬ。どちらが正しいのだ。元忠、申してみよ」。武皇帝の問いに、魏元忠は事実を答える以外には考えられなかった。張説が宋�m等の説得に耳を貸さなかったのは、捨て身で張昌宗を打ち砕くためだったのか。そこまでしてくれた張説に感謝しつつも、武皇帝には真実を告げる他はない。「伊尹、周公が我が望みとは、臣が申しました」。「しかと左様か」。「間違いありません」。

　武皇帝は深く嘆息した。「張説は言を反覆する小人。証人としてここで物を申すに足りぬ男だ。そうであろうな」。張昌宗に眼差しを向けた。「では、この者をきつく調べましょう」。張昌宗は張説の膝を蹴った。

　武皇帝は座より立ち上がった。「そなたはもうよい。これから先の調べは武懿宗に任せる。懿宗はこのようなことに慣れている。病み上がりのせいか、とても疲れたように感じる。元忠も疲れたであろう。元忠をよく労われ。疎漏があってはならぬ」。

　武皇帝は檀上より消えた。

　魏元忠は床に伏した。これは勝利したのか。

　数日後、魏元忠は獄より出され、武皇帝に召された。

　「そなたには苦労をかける。もう一度、嶺南に行ってくれ。そなたはまさに鹿だ。洛陽にあっては猟人に狙われる。ごく暇な職だ。のんびり過ごすがよい。そなたの心は朕が知る。それはわかってほしい。朕はそなたを頼りにしたかった。そなただけだと思うからだ。しかし、それはそなたの思うところと違い、そなたのためにはならぬのだった」。武皇帝は言葉を詰まらせながら言った。

　魏元忠は平伏するばかりでものが言えなかった。武皇帝は深く自分を知ってくれている。それなのに自分には罪がある。

　「そなたの身が案じられる。嶺南はよい土地ではない。しかし、遠くに置かねば、そなたは守れぬのだ」。

　魏元忠はようやく声を出した。「臣は老いました。嶺南に赴きましては、十の死があるばかりでありましょう。陛下が長久の寿をお享けになられる日々に、臣を思い起こされることがたまさかにでもあればこれに勝る幸せはございません」。魏元忠は自分の身は滅んだものと決めた。

　「そなたとはもう会えぬかも知れぬ。朕は辛い。だから、尋ねる。よいか、朕に言いたいことがあれば是非言ってくれ。いかなることも許す。朕への恨み言でも構わぬ。どうだ、言ってはくれないか。そなたの言葉を聞きたい。そなたからしか聞けぬ言葉を聞きたい」。

　魏元忠は顔を上げた。武皇帝の左右には今日も張易之と張昌宗の兄弟がいた。「御聖代に生まれ合わすことのできた喜び以外に何もございません」。それは真実の思いであった。

　「朕は知っている。そなたには言いたいことがある。それを朕が知らずにいると思っているのか。それを敢えて聞かせてくれと頼んでいるのではないか」。

　魏元忠は全てを武皇帝に委ねた。「一つの願いを申し上げるのをお許しください。非情ながら申し上げます。どうか、最も断ち難い恩愛をお断ち下さい。民のために、そしてそこの二人のためにです。お上にとって最もお苦しいことであると臣は存じております。御苦悩のもとになっているのがこの二人の最も重い罪なのであります」。

　武皇帝はうなずいた。「朕はそれを聞きたかった」。

　張易之と張昌宗は即座に階を駆け下った。地に額を打ち、自分たちに罪はないと訴えた。

　「これは朕の罪だ。元忠よ、行くがよい」。

　魏元忠は泣いた。我が過ちはここに極まった。武皇帝に「朕の罪」と言わせてはいけなかった。

　　　　十六

　妻は同行できなかった。夫が獄に下ったとの知らせに倒れ、武皇帝の面前から下って屋敷に帰った日に、「よくぞ御無事で。これもお上の有難い思し召しでございます」と、出迎えたのが精一杯であった。魏元忠も深い悔恨から、「心配をかけてすまない」と言う以外の言葉はなかった。

　その翌朝が早くも出発だった。夜明け前に同行する役人がきた。「必ずお近くに参ります」。妻の悲愴な表情に、「待っておるぞ」と答えたものの、これでもう会えないだろうと思った。それも自分の犯した過ちのためであった。

　昇だけを連れて、裏門より出た。驚くことに、鄭惟忠が待ち受けていた。役人は門内に留まり、見ぬ振りをしてくれた。

　「すまない。貴公一人だけに任せてしまいました。貴公しかいない、貴公ならばと、私も他の者も、見ているだけでした。貴公が獄に落とされてから、貴公を救い出さねばと、ようやく私も他の者も動き出したのです。しかし、ことごとく張兄弟に阻まれました。張説君も都から追放されました。昨日も、再審理をお上に願おうと運動する者がいました。貴公が罪せられたのでは後に続く者がいなくなる、貴公の完全な無罪を勝ち取らなければいけないとの考えからです。宋�m様がお止めになりました。『幸いにも魏公は命を保てた。お上のお怒りを再燃させるようなことはすべきでない』と言われたのです。私も、とにもかくにも今は貴公が獄から出られたことを喜ぶ他はないと思っています。それしかできないことを、貴公に深くお詫びします」。

　鄭惟忠が頭を下げるのを止め、「私一人が負わねばならぬ罪です。当然の結果です。むしろ軽すぎるくらいです」。「貴公には何の罪もありません」。「私はお上によって見出された身です。そうでありながら、お上の御心がわかっていませんでした。これ以上の罪はありません」。「お上の御為によかれとなさったのでありましょう」。「他の人ならそう考えてもよろしいのでしょう。私ばかりは違わなければならなかったのです。お上のお苦しみを、私ではなくて一体誰がお引き受けできるでしょうか」。魏元忠の最後の自負であった。

　鄭惟忠は低く呻いた。「そこには全く思いも及びませんでした。貴公ならではです。とすれば、貴公が去って、これからの歳月を、お上はどうなされるのでしょうか」。「胸が張り裂けます。全て私の罪です」。「お上のために、民のために、貴公の早い帰還を祈ります」。「私の生涯は終わりました。私のことはお忘れになって、天下のため、民のためにどうか力を尽くして下さい」。「私ではとても力が足りません。必ずまたお会いできると信じています」。

　鄭惟忠は門内で待つ役人を憚り、身を翻して去った。その後ろ姿に、もう会えないだろうと思った。それも自分の犯した過ちのためであった。

　昇は、洛陽郊外で多数の者が父を見送ろうと計画していると告げた。魏元忠はそれを避け、遠くの道を選ぼうとした。昇は父を人々の待つところへ連れようとした。

　「父上が敗れたことに、洛陽全体が深い嘆きに沈んでいます。どうか人々の悲しみを受け止めてください」。「私は罪人だ。見せる顔がない」。「誰も罪人などとは思っていません。父上は、誰もが手本と仰ぐ英雄です」。「誰がどう思うとも勝手だ。私には関係ない。自分が罪人であるのを私は知っている」。「父上はいつも一人だけ衆に異なろうとしてこられました。来俊臣のときも、今回もお一人で事を為そうとして、一歩遅れてしまったのです。初めから張説様や宋�m様とも御一緒になさっていれば違ったのではありませんか。父上と志を一つにしようと、大勢の者が待っているのです。どうかお越しになってください」。

　「私の心を知るのは鄭惟忠君一人で十分だ」。「多くの人が父上のお心を知り、行動をともにできなかったのを残念とも思い、申し訳ないとも思っているのです。李多祚様もその一人です。手を貸せたはずであったと悔しがっています」。「私はただ一人の元忠だ。誰かの力を借りることはない」。「どうしてそのように頑ななのですか。張兄弟を憎まぬ者はおりません。李多祚様も将士も一人残らずです。父上は唯一人、張兄弟に敢然と立ち向かいました。それは賞賛に値しますが、一人きりで、しかも素手であったために敗れてしまったのです。もしも李多祚様が」。

　魏元忠は語気荒く息子を止めた。「その先を言うな。おまえに何がわかる。李多祚は戦場にあっては強かったかも知れないが、お上のお心は全くわかっていない」。「李多祚様は忠義の士です」。「おまえに何がわかる」。「わかっています。天下の行く末を真剣に憂いているのです。このままでは暗黒の日々がまた何年も続きます」。「それも私の罪だ。私が誤ったからだ」。「李多祚様のお力をお借りすべきだったのです」。「断じて違う」。「違いません。お上の迷いを正すにはそれしかなかったのです」。「もう言うな」。

　以来、父と子は余り多くを話さなくなった。

　魏元忠が嶺南の地に着き、随分と遅れてから妻がやってきた。南方の酷暑の盛りであった。

　晃と蘇禎に両脇を支えられて夫の前に進み出て、遅れた詫びを口にし、頭を下げた。そのままゆっくりと地面に崩れ落ちた。魏元忠は抱き起こそうとし、この痩せ細った体でどうしてここまで旅してこられたのか想像できなかった。

　「四度目の御帰還はお手伝いできません。それが心残りです」。最後の日に、小康状態を得た妻が言った。「洛陽に帰ることはもうあるまい。ゆっくりといつまでもここで療養すればいい」。「今日、明日と、知っております」。「涪陵にいたときに、洛陽に帰ったならば、そなたの願いを適えると約束した。それがまだ果たせていない。これからはそなたの思うようにしたい」。「私が願いましたのは二つだけでした。あなたさまがこの時代にお生まれになったからこそ、あなたさまはお上に召され、私はお近くにいられました。あれがその縁を結んでくれたのでございました」。

　魏元忠は短剣を妻に握らせ、両手でその手を覆った。妻は苦しげな顔に変わり、「この短剣があなたさまの人生を変えてしまったでしょうか」。「こうあるべきだった。そなたのお蔭だ」。「昇と晃を頼みます」。「二人とも大丈夫だ」。妻は目を閉じ、次第に息が浅く間遠になって行った。

　妻がすっかり息をしなくなり、かなり時が経ってから、魏元忠はゆっくりと手を放した。蘇禎がその瞬間に泣き崩れ、晃が母にすがった。昇は立ったままだった。

　魏元忠は外に出た。大きな月が、なお明るさの残る空に昇り始めていた。その方角に向かって歩んだ。

　たちまち、妻と最初に過ごした宋城での日々が思い出されてきた。妻は輝きに満ち、自分にとって最も楽しい日々があった。その日々は、記憶の中ではすぐそこにあったが、実際には永遠に戻らぬ彼方になっていた。

　そのような日々を宋城に置いて、洛陽に行くのをためらった。妻が背中を押した。武皇帝に必ず認められると思って、短剣を持って旅立った。

　涙が魏元忠の頬を伝った。月が明るさを増し、その下を歩いた。

　妻は宋城で五年余りを待った。それ以来、この地に着くまでに、妻はどれほど耐えなければならなかったか。最後の旅はどれほど辛かったか。少なくともあのまま洛陽にいれば、こうも早くに死なずにすんだだろう。妻はどのような人生を本当は送りたかったのか。

　自分の人生はどうであったのか。妻がいなければ、武皇帝に仕えることはなかった。この時代に生きて、このような人生のあることしか、いまとなっては、自分には考えられない。

　短剣が人生を変えてしまったのではないかと妻は言った。それはどのような意味だったのか。妻にはこの人生でよかったのか。宋城から出ずにいれば、少なくともこの地で最後を迎えることはなかった。

　月は気味悪いほどに赤く明るくなり、魏元忠は同じことばかりを考え続けた。

　妻の願いは本当に言った通りだけだったのか。それが真実であるのなら、武皇帝に全てを委ねなかった自分の過ちは大きすぎる。

　月を見上げ、洛陽の方角を求め、地にひざまずいた。武皇帝に詫びなければならない。武皇帝に謝れば、過ちが正され、妻が帰ってくるような気がした。

　恩愛を断つように武皇帝に言った。残酷な言葉であった。魏元忠は胸を叩いた。この者は一体何をしようと生きてきたのか。妻は逝き、武皇帝は遥か遠くの都にある。顔を地につけて泣いた。

　どれほど時が経ったのか、背に声がした。「ここにいらしたのですか」。昇だった。魏元忠は立ち上がった。月は真上に輝いていた。

　昇に背を向け、顔の泥を拭った。「何をされていたのですか」。魏元忠は答えず、歩み出した。

　「お帰りになるのなら、あちらです」。昇は父の腕を取ろうとした。魏元忠はわざとよろめき、息子の手より離れた。「わかっている。誰かに棺の用意を頼みに行かねばならない」。全く奇妙なことを口にした。

　「そのようなことでしたら、私にお任せください。叔父上も晃もいまは泣くばかりで何もできません」。「そうしてくれるかい」。

　妻の棺は土に埋めずに仏寺に預けた。いつか宋城に持ち帰るためだ。短剣は棺に納めた。宋城にそれを葬るのは自分ではなく息子達であろうと、魏元忠は思っていた。自分もここで死ぬに違いないからだ。

　頻繁に寺に訪れた。南方特有の初秋の花が開き、その鮮やかな色彩が胸に突いた。繰り返し同じことばかりを思っていた。初めて妻に会って以来の日々を思い返しては、妻はどうして自分のところにこようとしたのか、妻はなぜ武皇帝の心のままにすることを望んだのか、妻は本当はどのような人生を送りたかったのかと自問した。妻と長くいて、しかし、その心をよく知っていたのではなかった。

　秋の終わりになると、南方にも涼風が吹き、心に沁みた。自分は以前の自分とは違っているのを知った。母を葬ったときに、確かに泣きはしたが、その後で怒りが湧いた。怒りがなくなったのはいつからか。洛陽で獄に入れられてからか。あのときから自分はどうかなってしまったようだ。元には決して戻れない。

　妻を喪った悲しみはいくら深くてもよい。過ちはいくら深く悔いても足らない。それでも、いつまでもそうであってはならないだろう。魏元忠は自分をいかに取り戻すかを考え始め、学問の力に依るしかないと知った。少年の時代から自分を支えてきたのは学問だった。

　書物を広げた。土を耕すように読めと母に教えられた。再びそこに戻ろうとした。書物には昔から馴染んできた多数の人物がいた。その一人が虞詡だ。虞詡になれと母はなぜ言ったのか。母に誓い、虞詡を目指してきた。しかし、母の心をどれだけ知っていたのか。

　南方の初冬に洛陽のような寒さはなかった。それでも日の暮れは早まり、しばしば夕闇の中に取り残された。涙を流している自分がいた。かつて経験のないことだった。全く未知のところに自分はきてしまった。

　ここはどこなのか。昔、近隣の悪童どもが作った話を鄭惟忠より聞いた。鼠の化け物に対して怒り、遠い場所に連れられた。それがここなのか。話では、鼠達が灯を掲げて迎えにきてくれた。ここにも誰かが迎えにきてくれるのか。帰るとしたらどこなのか。宋城での晴耕雨読の日々か。妻のいた日々をまたも辿った。

　学問に打ち込むこともできず、山水を巡っても鬱屈した思いはほぐれなかった。僧に釈尊の教えを尋ねて心に適うものはなかった。

　昇は、町で聞いてきた都の様子を時折父に告げた。張兄弟や武一族の相変わらずのありさまに息子は憤った。「その話はもういい」。魏元忠は途中で止めさせた。息子は、父の心に怒りの火をともそうとしてか、懲りずに何度も繰り返した。

　蘇禎の小屋に行くと、わずかばかり気が紛れた。「親切な爺さんが苗を分けてくれました。冬でもこれはよく稔るのだそうです」。少しでも暮らしを支えようと、畑仕事に勤しんでいた。蘇禎にしても姉を喪った痛手は深いはずなのに、それを見せまいとした。

　晃は、大方の時間を蘇禎の小屋で過ごし、いつも書を読んでいた。晃は生まれてから常に母と一緒であったから、その悲しみの深さは測り知れなかった。

　年の暮れに、一匹の犬が蘇禎の小屋に迷い込み、そのまま居ついた。晃が気に入り、犬を伴って野や丘を歩くようになった。かつて宋城の襤褸家に赤犬がいた。母の代わりに赤犬が自分を見守ってくれているように思えた。そのころの自分を晃のいまに重ねた。

　あのころは黄婆やもいた。これまで、自分は誰かにいつも見守られていた。母がいて、赤犬がいて、黄婆やがいて、妻がいて、武皇帝がいた。その相手の心を自分はどれだけ知っていたのだろうか。母も赤犬も黄婆やも妻も武皇帝も、自分を知っていてくれるとの絶対的な安心感があった。それなのに、自分の方は知っていなかった。それはどうしてなのか。

　自分のように怒らずに、悲しみに静かに耐えている晃の姿を見ると、自分にはないものを備えていると思えた。

　春の初めの日暮れどきに、小屋で蘇禎と二人だけになった。

　「晃は昇を恨んでいるのだろうか」。ふっと尋ねると、蘇禎は顔を歪めた。

　「お答えしなければいけませんのでしょうか」。それで了解できた。兄弟の仲はもとから良好ではなかった。母の死後、二人が話すのを見たことがなかった。「やはり、そうか。晃は兄が母の命を縮めたと、たぶん思っているのだろう。昇のせいではない。この私がいけないのだ。私は何もわかっていなかった」。魏元忠は苦しげに言った。「先生がいけないのではありません。正直に申しますと、昇坊ちゃまがいくらかでも穏やかでありましたならばと、この私も思わなくはありませんでした」。蘇禎は涙ぐんだ。「そうだったら、今も洛陽にいられたと思うかい」。

　蘇禎は難しい顔になり、「いえ、いけないことを申しました。昇坊ちゃまのおっしゃる通りなのです。いまの世の中がいけないのです。先生は世の中を正すのがお勤めでございます。昇坊ちゃまは決して間違ってなどいません。大きな悪を正してくださいと、その昔、私もお願いいたしました。先生はそういうお方なのです」。黄婆やが死んで間もなく、母の使っていた竹の杖で蘇禎を無闇と打った。「あのときそなた打ったのを、いまもすまないと思っている」。「あれは私がいけないのです。結局、私には学問の才能が足りなかったのです」。

　「私に足りないものは何か。晃はそれを持っているようだ。昇とはそこが違う。昇は生まれて五年もしてから初めて私と会った。あれは母に厳しく躾けられ、早く私に似ようと無理に突っ張っているかのようだった。昇が可哀想に見え、押さえつけずにおきたいと思った。それは自分自身の願望であったのかも知れない。怒らずに静かに耐えることが、ついに私にはできなかった。そなたを打ったのがその最初だった」。「私は打たれて当然の人間でした。少年の頃から今日まで、せめて雑用をこなすので精いっぱいの一生です」。「そなたに支えられて生きてこられた。感謝している」。

　蘇禎は目頭を押さえ、「有難すぎるお言葉ですが、それは私ではありません。姉です。姉は一生懸命でした。いまだから申し上げますが、こんな弟と姉はまるで違っていて当然なのですが、それでも、姉は常に幾分かずつ無理をしていました。晃坊ちゃまがそのことを最もよく知っておられました」。「無理は私のためにか」。魏元忠は短剣を思った。「天下のためにもです。私が願ったのと同じであります」。

　魏元忠はそのとき突如として父を思った。「そうであったのか、我が父上はその無理を捨てたに違いない」。魏元忠のつぶやきに、蘇禎は怪訝な顔で押し黙った。

　妻が襤褸家にきたときに父を想い、満足できる日々を最後に得たのだろうと考えた。父の心を母はどれだけ理解していたのだろうか。父は母の心をどれだけ理解していたのだろうか。虞詡になれと教えたのは、夫の思いにどこまで添うものだったのか。母の願いはどこからきたのか。

　妻はなぜ武皇帝に全てを委ねることを望んだのか。妻は無理をしていたというのなら、そうまでして夫に何をさせたかったのか。

　「姉を黄允の妻にはしないでくれと、そなたは言った。あれは、妻が言わせたのかい」。それは妻が襤褸小屋に嫁いできた日のことだった。「いえ、私の心からです。姉が黄允の妻のことをしばしば言っていたのが頭に染み付いていたものですから」。「妻はあのとき、黄允の妻には足らぬところがあると言った。だから、妻は無理をしたのか」。蘇禎は悲しげにうなずき、「そうだろうと思います」。

　「そなたは私のことをよく知っていてくれる。だから聞くが、この魏元忠という男は何者なのか。忠義一筋の硬骨漢と見られているのは正しいことであるのか」。蘇禎は当惑顔で、「私にはお答えできません」。「そなたにはわかるはずだ。どうか答えてくれないか」。

　蘇禎は考え込み、「先生に竹で打たれましたときに、大らかになってくださいと申し上げました。先生の本当の姿がそうであると思ったからです」。魏元忠は嘆息し、「それは怒りの相とは合わぬようだ。もう間に合わぬ。この地ですぐに命が燃え尽きるのなら、過去の元忠と相反するようになっても、生きていけるのかどうか、難しことはもはや考えなくてすむ。それがよいようだ」。「何をおっしゃっているのですか」。「晃ならわかるのかも知れない」。

　夕暮れの空の前を遠く歩む晃の姿が、魏元忠の目には潤んで見えていた。

　一年ほど経った神竜元（七〇五）年の春、昇は息せき切って町から駆けて帰ってくるなり、聞いてきたばかりの話を父に伝えた。

　都での一大変事に、魏元忠は頬を赤く染め、「それ以上は聞きたくない」と遮った。「お喜びになると思いましたのに」。「喜ぶだと。馬鹿な。黙れ。おまえのその声は金輪際聞きたくない。向こうへ行け」。魏元忠は血相を変えた。昇は膨れ顔で足音高く立ち去った。

　一大変事の首謀者は、狄仁傑が後を託した張柬之、敬暉、桓彦範、袁恕己、崔玄暐の五人だった。それに近衛兵を指揮する李多祚が加わり、武をもって為したのだった。一党は皇太子李顕を東宮より担ぎ出し、玄武門を打ち破って、武皇帝の住まう迎仙宮に突入した。張兄弟を斬り捨て、張柬之が武皇帝の前に進み出た。「張兄弟が謀反を企てましたので、皇太子殿下の御命令を奉じ、二人を誅殺しました。乱はすでに鎮まりましてございます」。武皇帝は皇太子を呼び、「おまえがしたのか。事は終わったか。ならば東宮に帰るがよい」。皇太子は無言だった。桓彦範が言った。「皇太子殿下が東宮にお帰りになることはございません。御位をお継ぎなるのが、天の望み、民衆の望みにございます」。武皇帝は無言だった。李顕は、光宅元（六八四）年に母親に引き摺り降ろされてから二十一年ぶりに皇帝に復位した。武皇帝は則天大聖皇帝の尊号を贈られ、上陽宮に軟禁された。

　昇がその次第を語り、「李多祚様が、国家のためには、自分の身も妻子も顧みないと、張柬之様に誓われことで、事を為し得たのです」と李多祚を讃えたときに、魏元忠が怒り出した。

　昇は何もわかっていない。張柬之や李多祚は則天皇帝の心を全く知らない。そう思う自分も、あのころはわかっていなかった。その誤りがここに至ってしまった。

　魏元忠は、ここ一年間、新たな自分を模索していた。則天皇帝への思い、父への思い、母への思い、妻への思い、それらが交差し、混沌とする中から、自分の犯した過ちを正すべく、自分を改めようとしていた。しかし、六十八歳の老元忠には、いまさら容易ではなかった。新たなことを求めてもがけば、かえって混沌に内に沈んでしまうのだった。一大変事を聞くにはまことに具合の悪い時期であった。

　張兄弟が殺されたのを喜ぶ者は天下に多いだろう。あれほど張兄弟を憎んでいたのに、その死に胸が痛んだ。則天皇帝は、自分を遠くに行かせ、張兄弟を都に残した。自分を都に置けば猟人に命を奪われるからだと則天皇帝は言った。実際に、自分は遠くにいてこうして生きられ、しかし、張兄弟は都で殺されてしまった。張兄弟は武皇帝の愛のもとでしか生きられなかった。だから武皇帝は、どちらかが正しいかを選ばなければならなくなったときに、張兄弟を選んだ。それが張兄弟の死を招いた。

　武皇帝の恩は深く尊く、その心を思うと、身を刻まれるように辛かった。則天皇帝に全てを委ねると考えてきたのに、肝心のときに二度も違背した。皇太子や武一族が誓約を交わす場に立ち会うのを拒絶し、恩愛を断つよう最後に言った。則天皇帝は自分がそうすると知っていて、それでも自分を頼った。自分しかいなかったからだ。自分はどこまでも誤っていた。衆に異なる自分を則天皇帝は選んでくれたのに、自分はそれに応えられなかった。

　過去の誤りはいよいよ明らかで、元にはどうあっても戻れない。この変事をどう受け止めるべきか、魏元忠にはわからなかった。

　都は遠く、次の情勢が聞こえくるよりも先に、勅使が到来した。魏元忠を呼び戻す新皇帝の命令だった。自分への命とは俄かに信じられなかった。

　勅使が去ると、昇は喜び勇んで言った。「父上を妨げる者はもう誰もいません。歓呼の声に包まれて、洛陽に迎え入れられましょう」。

　魏元忠は息子を押しのけた。よろよろと歩む先は蘇禎の小屋だった。犬の前にしゃがみ、「この足は重い。いっそ動かずにあればよい。この地で疾うに死んでいればよかった。おまえならば、生まれたここが一番よいと選ぶだろう」。

　父の背に昇は詰るように言った。「父上は詔をお受けにならないのですか」。「この犬には許される自由が私にはない。お上のお召しを頂戴し、行かぬ訳にはいかない」。「光栄なことと、お喜びにならないのですか」。

　魏元忠は大儀そうに立ち上がり、「私は罪人だ。恥を知らねばならぬこの足は重すぎる。自分一人では歩けそうにない。だから、晃の助けを得て行くとしよう」。「晃ですか」。昇は父の前に立った。それを脇に押しやり、「おまえはどうするのがいいか。母の棺を宋城に運べ。それがおまえの仕事だ」。「母上のことなら晃の方が向いていましょう。母上も喜びましょう」。「だからおまえに孝行の機会を与える。禎君とよく相談して、事を行え。よいな」。

　　　　十七

　都に入る直前、魏元忠は晃に言った。

　「よいか、この父は以前の元忠ではない。我が過ちを正す。意外と見る者も多かろう。おまえを連れてきたのは、そうする父を見守ってほしいからだ」。

　かくあるべきとする新たな自分の姿はまだ定まってはいなかった。亡き妻、亡き母、亡き父の心を、いまに至ってようやくに理解して、その先に、それがあるはずだった。新皇帝の命は早過ぎた。昇は昔の通りの父に戻そうとするだろう。都にもそれを望む者が多くいるだろう。大きな過ちをしたその前に戻ってしまいかねない。

自分にはないものを持つ晃の支えを必要とした。晃は素直で無口で、静かに父に寄り添った。

　もう会えぬと思っていた友と再会した。鄭惟忠は祝いの言葉を言わなかった。

　「お痛ましい限りです。春のこの陽光も届かぬ奥深くにいらっしゃるのでしょう」。時は三月末。かつて則天皇帝は日の光であった。いまでは、身を案じることさえ公的な場では憚られた。

　則天皇帝が幽閉された日に、姚元之という者が嗚咽を禁じられなかった。姚元之は張柬之を用いるよう則天皇帝に強く勧めた一人であった。姚元之は、泣くのを張柬之と桓彦範に咎められた。「旧君とのお別れに泣くのは人臣の義であります。罪を蒙るのならば甘受します」。かくて姚元之は地方に追放された。則天皇帝の影響力を嫌う人々は都を長安に戻した。

　魏元忠はこの友ならばと心を打ち明けた。「先の帝の御為に何かができましょうか」。

　最も望ましいのは、則天皇帝に直接詫び、則天皇帝の放つ光の内に身を置いて正しい道を歩むことだ。

　鄭惟忠はしばらく思案を巡らせてから答えた。「難しいことはお考えになりませんように。遠方よりお帰りになったばかりの貴公には、しばし安らかな日々があるのを願うばかりです」。

　「安らかな日々は望むべきでしょう。私一人のではなく、皆のをです」。「おっしゃる通りです」。友は大きくうなずいた。「皆が安らかであれば、御心もいさかなりとも慰められましょうか」。「よきお考えと思います。もとより我等は天下を安らかにすべくお仕えする身です。我等の本分を尽くせば、御心にも必ず適いましょう」。「そうであってほしいものです」。

　一筋の光明を見出したように感じた。則天皇帝は天下を安らかにしようとしていたのに、返って幽閉の身に陥ってしまった。妻は「天下の尊き母君」と最初の日に言っていた。母の心で天下を治めることができたはずなのに、自分の過ちのせいで未完に終わらせてしまった。かくなってしまったいまからでも、天下は安らかになるのか。全ての人による大いなる和合がもしも実現するのならば、その先に永続する安寧があるのだろう。

　魏元忠はそのように思いはしたが、口に出すのはまだ早いと感じた。和合が実現する情勢に今はあるのか、都にきたばかりでわかっていなかった。困難であるのならなおさら目指すべきだ。

　新皇帝より兵部尚書の任を授かった。軍事方面の責任者だ。

　「朕は争いを好まぬ。戦のことはわからぬ。年老いたそなたには重荷であるか。地位は重くとも、兵を動かさずにすむのならば、さほどの負担にはなるまいか。兵部尚書も、ゆったりと余生を過ごすような気分で勤めてくれるようであるならば、天下にとっても、そなたにとってもよいであろう。それでどうだ」。

　皇帝は、口中でもごもごと良く聞き取れない声で、しかも早口で言った。その真意は汲み取り難く、「重き任に身の引き締まる思いにございます」とのみ答えた。

　皇帝は身を乗り出し、「そう負担には感じてくれぬな。そなたがいてくれるだけよいと朕は思うのだが、何かしら地位を与えない訳にはいかぬようだ。朕は争いを好まぬ。そなたなら争いをなくせるであろう。それで兵部尚書を選んだ。朕はあのことを残念に思うているのだ」。皇帝は顔を顰め、よりもごもごと、より早口になり、「そなたは帰ってきたばかりだ。さぞ苦労であったろう。朕はいまでも夢に見る。都からの使者がきて、毒を飲めと言うのだ。震える手で毒を持ち、いざ飲もうとして目が覚める。汗をびっしょりかいている。しかし、朕は母上を一度たりとて恨んだことはない。そなたもそうであるのをよく知っている。だからそなただけには言える。朕はあのことを残念に思うている。朕は争いを好まぬ。だからそなたを兵部尚書にする。よいか、朕はそなたを頼みとしている。朕もそなたも遠く流されて、幸いにも都に帰ってきた。他にもそのような者はいる。しかし、一切恨まぬのは朕とそなただけだ。だから、そなたを頼みとしている。朕はあのことを残念に思うている。ゆったりと余生を過ごすような気分で勤めてくれてよい。天下にとっても、そなたにとっても、朕にとってもそれがよいのだ。そなたさえわかってくれたらそれでよい」。

　目の前の魏元忠でさえ十分には聞き取れなかった。それは人に聞かせまいとのことらしかった。だから、問い返すようなことはせずに、「仰せの通りにいたします」と平伏した。わずかに皇帝の心が見えたような気がした。この皇帝に仕えることは、その母に仕えることに通じると、新たな任に就く心情を整えようとした。

　朝廷に復帰した魏元忠の言動は注視の的となった。新進の人々は、張兄弟と敢然と戦った魏元忠が、今度は何をするのかと期待をもって見守った。

　魏元忠は、皇帝に言われた通り、ゆったりと余生を過ごすかのように振る舞った。一部の人々の喝采を得ようとする気は皆無だった。昔の弟子を始め、実に多くの来訪者があったが、政治向きの話はしなかった。遠大な目標は大いなる和合であり、その実現に向けて邁進する新たな元忠にはまだなっていなかった。ともすると、怒りをもって一気呵成に事を決したい気分なることも稀にはあった。

　張柬之等が武力を行使して則天皇帝の権を奪ったことから、朝廷内には大きな亀裂が残っていた。亀裂の片側に徹頭徹尾打撃を与えることは、亀裂を修復するよりはむしろ容易く見えたが、それは「あのことを残念に思うている」と言う皇帝の心に反するに違いなかった。

　昇は、母の棺を宋城に埋葬し終えて都に到着すると、父に向かって息巻いた。

　「父上は今日まで何をなさっていたのですか。心ある人々は、父上が朝廷にお戻りになるのを今や遅しと首を長くして待っていたのです。父上の後に続こうと勇んでいたのです。それがどうですか。今では、その首を斜めに、しきりに捻るばかりです。これでは元に戻ってしまいかねません」。

　無口の晃と過ごしてきた後だけに、昇の声がひどくけたたましく聞こえた。「元に戻るのならまことに結構だ」。則天皇帝の御世においてこそ高位にあるべきだ。そうなならないから、新たな元忠にならねばと苦しんでいるのだった。「何をおっしゃるのですか。勝手気ままな輩がまた出てきてよいのですか。その兆しが十分にあるではありませんか。張柬之様もおかしな具合です。あれほど勇敢であったのに、事を為し終えてすっかり満足されてしまったかのようです。手にしたものに幻惑されてしまったのでしょうか。まだ半分しかできていないではありませんか。張柬之様にはできなくても、その残り半分を、父上ならば仕上げられると、皆が待っていたのではありませんか。どうか以前の父上に戻ってください。皆をがっかりさせないでください」。

　魏元忠はうんざりとした顔で、「皆とは誰のことだ」。「ですから、心ある人々です」。「余程思慮の足りぬ輩であろう」。「父上のお好みでないことはわかっています。申します。李多祚様です。李多祚様がいらっしゃらなければ、このたびのことは為し得なかったのです。その李多祚様がこのままではいけないとじりじりされているのです」。「李多祚は武人としては優れている。が、深謀遠慮はない。まだわからぬのか。そんな連中と付き合ってはならぬ」。「李多祚様だけではありません。薛季昹様も同じことをおっしゃっているのです」。息子の言葉に、魏元忠は目を閉じ、「薛季昹君か。薛季昹君が何を言っているのだ」。薛季昹は、則天皇帝がかつて張昌期を雍州長史にしようとしたときに、それを押し止めようとして魏元忠が推薦した人物だ。それは苦い思い出となっていた。

　「薛季昹様は張柬之様のもとを訪れ、『草を刈っても根を去らなければまた生えてきます』と、断固次の行動に移るようお勧めになったそうです」。「根とは何のことだ」。「おわかりにならないはずはありません。張兄弟はむしろ後から生えてきた草です。その前から深くはびこってきた根がありましょう」。

　昇が言ったのは則天皇帝の一族だった。則天皇帝は幽閉されたものの、武一族の力は温存され、むしろ強まりさえしていた。

　新皇帝は、流刑地にあったころに、都に帰還できたら全ての願いを叶えると妻の韋氏に約束していた。夫が即位すると、韋皇后は、則天皇帝のように皇后の立場で権力を掌握しようとした。韋皇后は、かつて夫が最初に即位したときに、父の韋玄貞を重職に据えて、皇太后の権を抑えようとして失敗したのを遺憾に思っていた。今回、韋皇后が頼りとすべき相手として選んだのは、則天皇帝の甥の武三思だった。韋皇后には自身が生んだ娘の安楽公主がいて、安楽公主は父皇帝にも愛されていた。安楽公主の夫は武崇訓で、武崇訓の父が武三思だ。旧政権の表も裏も知る武三思と手を握れば、権力掌握は容易であろうと韋皇后は考えた。則天皇帝という強力な後ろ盾を失った武三思にとって、韋皇后の誘いは渡りに舟だった。

　「張柬之様はどうお答えになったのだ」。「根幹は定まった。そのためにすでに多く誅した。やむを得ずせねばならぬときがきたならば、そのときにはするだろうが、いまはそうではない。そのようにおっしゃったそうです」。「その通りでいいではないか」。魏元忠は、張柬之等のしたことを評価していなかったが、ここは是認した。「それでは死場を失いますと、薛季昹様は、速やかな決断を迫ったそうです。張柬之様はどうあっても同意されず、薛季昹様は地方への転出を願って都を去りました」。「逃げたのか。思い通りにならなければ、逃げてしまう者の言は聞くに値しない」。「逃げているのは父上ではありませんか。どうなさったのですか、以前の父上に戻ってください」。

　魏元忠は頬を染め拳で卓を叩いた。「もうよい、これ以上聞きたくない」。昇は、父が新たな元忠になろうとするのを執拗に拒んだ。「私をお叱りになりたければどうぞ好きになさってください。それで気が晴れるのならどうぞそうなさってください。そのような父上を見るのは悲しいです。どうなさったのですか、私にではなくて、本当に怒るべき相手にお怒りになってください」。昇も頬を染めていた。「おまえにだって怒ってなどいない。怒るよりもずっと難しいことがある」。「何ですか、それは」。「和合だ」。魏元忠は心に温めていた二文字を初めて口にした。

　昇は顔を歪めた。「父上は本当に変ってしまわれた。皆を失望させて平気でいられるのですか」。「私は皆の歓心を買おうと生きてきたのではない。衆に異なる生き方を常にしてきた。これからもだ。おまえの指図は受けない」。

　昇は父に顔を背け、横に弟が立つのに気づいた。「おまえはいつもそうやって何も言わずにいたのか。それがおまえの小ずるいところだ」。父と兄の口論を悲しげに見守っていた晃は、兄の罵りに急な返答ができなかった。「黙っているだけか」。昇は憤慨し、出て行った。

　張柬之、敬暉、桓彦範、袁恕己、崔玄暐の五人が王号を賜った。張兄弟を斬り、皇帝を即位させた功績に対する異例の優遇であった。五人が栄誉に輝く一方で、朝廷の実権は武三思に集中されつつあった。

　宮城の外はまずまず穏やかであった。則天皇帝の時代に整備された統治機構は健在で、優秀な実務官僚が適所に配置されていた。その代表ともいえる鄭惟忠は、「ここにまで至れば、もう十分に働いたと老いの述懐をしても、さほど非難されますまい」と、長安に新しい屋敷に、小さいながらも凝った庭園を造ることにしばし熱中した。時折そこを訪れ、旧い友の心をさながら写すかのような庭が出来上がって行くのを見るのは楽しみであった。庭を巡る水流に沿って秋の麗しい日を浴びつつ歩むと、和合とは、元来、自然に任せれば自ずと成り立つものであると思えた。

　「それにしても、我等ばかりがこうしていては」。はからずも鄭惟忠と二人で同時に嘆息し、あたかも閑を貪るばかりであるかのような自分達を恥じ、則天皇帝に思いを致した。

　その年の十一月、則天皇帝は没した。

　余りにも早かった。突如、天が落ちたに等しかった。全てが終わったと感じた。大いなる和合の先の永久の安寧はくることがなかった。則天皇帝に全てを委ねると決めて三十数年間を生きてきた。過ちを詫びることも、新たな自分になることも、全て果たせなかった。決して安閑としていたのではない。しかし、結果としては、長安にきて何もしないのと同じだった。そのような自分ならこれ以上生きていても仕方がない。

　魏元忠は、天が落ちたいま、身をなくしたく思ったのだが、真剣にそれを考える余裕もなしに、則天皇帝の最後の命令である遺制の発表を聞いた。第一に、帝号を去って則天大聖皇后と呼ぶようにとあった。則天皇后はいたずらに皇帝になることを望んだのではなかった。第二に、王、蕭の二族および褚遂良、韓瑗、柳奭の親族を赦免した。王、蕭の二族とは、高祖皇帝の最初の皇后であった王氏の一族と、高祖皇帝の寵愛を受けていた蕭淑妃の一族だ。褚遂良と韓瑗は、武氏を皇后に立てることに反対し、別の罪をもって殺され、柳奭は王皇后の親族であったため流罪となった。則天皇后は、皇后になった最初に戻って皆を赦した。

　則天皇后の心はまさに和合にあったと、魏元忠は受け止めた。もしも則天皇后の政治が最初にそのようなところから始まっていたならば、最後に至って張兄弟を死なせることはなかっただろう。

　皇帝は三日間の諒闇に入って、政事の一切から遠ざかることになった。その間に、皇帝に代わって軍国の大政を視るよう命じられたのが魏元忠だった。全てが終わったと思っていた魏元忠は当惑したが、臣としてこれ以上の名誉はなかった。三日間とはいえ、伊尹、周公に相当する立場を与えられたに等しかった。泣き悲しむ十分な間もなかった。

　天が崩れたにもかかわらず自分の身がなおあることの矛盾を感じつつ、この任を終えたら、ただちに官を辞すべきと魏元忠は考えた。ところが、三日間の勤めが完了すると、これも則天皇后の遺制だとして実封百戸が与えられ、さらに斉国公に封じられた。これだけ厚く遇されて、何も返さずに退く訳にはいくまいと躊躇していると、則天皇后時代の国史を監修する仕事が与えられた。

　皇帝は言った。「そなたしかいない。死地に置かれて恨む心のなかったのは朕とそなただけだ。正しく先の御代を後世に伝えてくれ。朕はそなたを頼りと思っている」。

　かくなる上はいましばらく朝廷で働く他はなかった。

　昇は、しばらく抑えていたであろうものを爆発させた。「これでは、ただただいいようにされているだけではありませんか」。「いいようにとは何だ」。「父上は飾り物です。父上さえ黙らせておけば、誰も何も言えないはずと、奴等は考えているのです。全くもって思う壺ではありませんか」。「おまえに何がわかる」。「わかっていないのは父上です。人々がどのように言っているのか聞かせてさしあげましょうか」。「黙れ。人の評判を気にする愚か者ではない」。魏元忠は頬を染めた。

　険悪なありさまに、晃が意を決して止めに入った。「兄上、どうか父上のお心をわかってください。先の帝が亡くなられてまだ日が浅いのです。母上も生きておられたならば、どれほど悲しまれたことでしょうか」。昇は呻き、「情に溺れ、天下を思わぬ者とは、たとえ父でも弟でも、これ以上話す気がしない」。父はいよいよ怒り、「おまえなどと話す気は全くない。おまえに天下の何がわかる」。昇は憤然と立ち去った。

　兄の後姿が見えなくなると晃は言った。「母上は、最後まで兄上のことを心配されていました。教え導き損なったのではないかと」。魏元忠は深く嘆息し、それから鼻を押さえた。「それで責められるのはこの私の方だ」。昇の言いたいことは理解できていた。それだけに怒ったのが悲しかった。

　日が経つと、則天皇后を喪った悲しみが魏元忠の心身に深く効いてきて、虚脱状態にしばしば襲われた。それを逃れるには、国史の編纂に励むしかなかった。過去の記録に浸っていると、当時に帰る思いがした。

　一方で、則天皇后が死んで、重石が除けられたかのように、韋皇后の専横ぶりが目に付くようになった。

　王号を賜った五人のうち、先に病気で帰郷した張柬之以外の四人が地方に出された。韋皇后と武三思にとって、何かと目障りな存在だったからだ。

　宦官に、定員外の官として七品以上を授けることが度重なった。宮中の使用人である宦官が、官人と官位の高下を競うのは本来あるべきでなかった。皇后の願いを叶えると約束した皇帝は全て許した。

　ある日、昇がずかずかとやってきて父に一通の手紙を突き付けた。「これをよくお読みになってください」。ある地方官が書いたもので、魏元忠の十の過ちが並べられていた。

　第一に皇太子を定めるよう進言しないこと。第二に皇帝の娘の安楽公主に多数の属官を付けるのを黙認したこと。第三に賄賂の横行に見て見ぬふりをしていること。第四に宮中の御機嫌取りが官人と同じ品秩を得ているのを止めないでいること。第五に賢才を選ぶと言いつつ実際の人選は貨によって為されているのを容認していること。第六に千人もの宦官が品階を乱しているのを放置していること。第七に王公貴戚が奢侈を競うのを抑えようとしないでいること。第八に定員外の官人が民衆を害しているのに気づかずいること。第九に先朝の宮女が自在に宮中に出入りして宮中の秩序を乱しているのを正さずにいること。第十に妖術を使う者が主上を惑わしているのに追い出さずにいること。

　「この通りだとおまえは思うのか」。「私ばかりではありません。多くの心ある者が父上に失望しています。恥ずかしくないのですか」。「恥ずべきことは何もしていない」。「何もしないのを恥じてほしいのです」。「ここにあるのは、ほとんどが宮廷内のことではないか。天下を広く見た批判なら聞く耳も持たぬものではないが、これではな」。「一事が万事です。どうして何もしないのですか。何を恐れているのですか」。「恐れているだと。この私が何を恐れるのだ」。「獄にぶち込まれるのにすっかり懲りて、唯々諾々の好々爺になろうと決めたのですか」。

　魏元忠は頬を赤く染めた。「唯々諾々だと。誰が言うのだ。いつこの私が羅織の徒の拷問を怖がった。皆が羅織の徒に震えていた時代に、私一人は恐れなかった。この手紙の主は、あの時代に生きて何かしたのか。この批判は参考になる。有難く受け取ろう。あの当時、羅織の徒を批判して無事にすんだ者はいない。私に向かってなら手紙は書けても、この者が、羅織の徒と戦えたのか。拷問に屈しなかったのは私一人だけだ」。「そうなのです、父上一人なのです。ですから、父上が黙っていたのでは、誰も言えなのです。どうか、お願いです、そのころのお怒りを取り戻してください」。

　魏元忠は鼻を押さえた。昇に対してなぜ怒るのか。いつも同じだ。「昔の功をいつまでも誇るまい。昔と今は違う。私はここには書かれていない大きな過ちをした。それは私と先の帝の他には知らない。その過ちを正すには、和合しかない。私は深く悔いている」。

　「そんな甘いことを言っている場合でしょうか」。昇がなおも父に迫ると、晃が「兄上、どうかおわかりになってください。父上には深いお考えがあるのです。いつも言い合いばかりでは、亡き母上が悲しまれましょう」、泣きそうな顔で言った。「ああ、おまえは本当に孝行者だ。魏の家を継ぐのはきっとおまえだろうな」。昇は言い捨てて出て行った。

　以来、昇は、李多祚やその周辺の将士との交わりを深くし、家には時々しか帰ってこなくなった。蘇禎が昇に衣類等の必要な物を整えてやった。

　朝廷の高官として復活した魏元忠には、親類縁者が群がり集まり、蘇禎と晃がその応接に当たった。実封百戸の経営もあって、蘇禎はなかなかに多忙であった。蘇禎は何事も穏当に処理し、多くの者に喜ばれた。魏家の財産も大官にふさわしく自ずと増えていった。

　神竜二（七〇六）年、『則天皇后実録二十巻』が完成した。皇帝より絹千段の褒美が与えられ、それを機に、宋城への短期間の帰郷を願い出た。少年の頃に志した父母の墓を立派に改めるためだった。同時に、思うところがあった。退隠すべきかと、襤褸家に立って自身に問うてみたかった。すべきことを終えていつまでも朝廷に身を置くべきではない。昇との言い争いを続けるのは無意味だ。

　皇帝は願いを認め、錦袍一両、銀千両、往復の道を護衛する兵士四騎が下し与えられた。旗を立てた立派な行列を連ねて魏元忠は宋城に向かった。昇も同行させた。しかし、父子はほとんど口をきかなかった。

　郷里の人々は魏元忠を盛大に迎えた。真新しい壮麗な建物へと魏元忠は案内された。なかなかに贅を凝らした作りに、魏元忠は蘇禎を呼んだ。「ここは何であるのか」。「いまの先生に相応しいようにと、我が一族の者が建て直したのでございます」。「よもや、我が父上の家をこのようにしたのではあるまいな」。蘇禎は身を震わせた。「いけなかったのでしょうか」。魏元忠は顔を歪め、改めて建物を見回した。「そなたは、これがいまの私にふさわしいと思うのか」。「見る影もなく朽ちかけていると聞きましたものですから」。蘇禎はうなだれた。

　魏元忠は昇を呼んだ。「この前、おまえがここにきたときにはどうだったのか」。「かろうじて形ばかりは留めていました」。「中に入ってみたか」。「竈が残っていました。そこで猿が火の番をしていたと、子どものころに聞いた話を思い出しました」。

　村の悪道どもが作った話だった。話の最後に、火を持った鼠の行列がきてくれて、もとの襤褸小屋に帰ることができた。その襤褸家が消えた。宋城に帰りたいと折々に思ってきた。かつて、一生をここから出ずともよいと思っていた宋城は、離れている間に昔のままではなくなっていた。

　「おまえもこれがいまの私にふさわしいと思うか」。魏元忠は昇に尋ねた。昇は目を輝かせた。「そのようにお訊きになるからには、ふさわしくないとお考えなのでしょうか」。魏元忠は目を閉じた。「我が父上とは違い過ぎるところにきてしまったようだ」。宋城はもはや退隠できる場所ではなくなっていた。

　「では、都にお帰りになるのですか」。「此の度も特別によくしていただいた。勝手に退く訳にはいくまい」。魏元忠は自分を納得させようと理由を付けた。「都で、今度こそ、天下に恥じぬことをなさってください」。「余計なことを言うな。常にそうしようとしてきた」。「まことですか」。「また怒らせたいのか」。魏元忠の頬が染まった。

　蘇禎が慌てて、「皆様方が驚いておられます。どうか穏やかにお話しください」と昇を止めた。魏元忠は昇の肩に手を置き、押しやった。力は入っていなかった。昇は悲しげに退いた。

　改葬を終えるとすぐに帰路についた。その袖を昇が引いた。「父上は吝嗇だと人々が蔭で囁いています。恥ずかしくてなりません。どうか黙らせてやってください」。「言わせておけ」。「親類どもはお上より銀千両を頂戴したことを聞いているのです」。「さもしい連中だ」。

　阿諛追従の見返りに金品に与えるのがふさわしい身に自分がなっているのを認めるのは辛かった。親族から財産をむしり取られた父とは違い過ぎた。

　「このまま行ってしまわれるのですか」。昇はいつもしつこかった。「おまえの好きにしろ」。最も早くに話を終えるにはそう言うのがよかった。

　魏元忠が都に帰り着いたとき、失意の底にあった。退隠の道は絶たれ、都で生きるしかなかった。しかし、『則天皇后実録二十巻』が完成し、やるべきことは残っていなかった。長安の城門を潜り難く感じていると、皇帝が白馬寺にまで出てわざわざ魏元忠を迎えた。

　「そなたを待っていた。朕は争いを好まぬ。どうしたらよいのかわからぬ。皇帝は決めなければならない。頼れるのはそちしかいない。朕は争いを好まぬ。それがどうしてわかってもらえぬのか」。皇帝はいつも通り、不明瞭な話し方だった。「臣は和合を思うております」。魏元忠が言うと、「それを教えてはくれまいか」。皇帝の求めに、天の道に則ることを説いた。「まさに母上のお心はそこにあった」。

　朝廷に戻ると、張柬之、敬暉、桓彦範、袁恕己、崔玄暐の五王の死罪が決定したと聞かされた。そこにはやや奇妙な経緯があった。

　発端は何者かが都の橋の上に立てた札だった。皇后は武三思と醜悪な行為に耽っている、ただちに皇后の座を廃すべきだと書かれていた。皇帝は、皇后の心がはなはだ傷付けられたのを怒り、御史大夫に真相を明らかにするよう命じた。御史大夫は、左遷された五王が朝廷を恨んで国家の転覆を図ろうしていると奏した。皇帝の娘の安楽公主も、別の筋から同様のことを聞いたと皇帝に告げた。五王は遠流となり、次いで死が与えられた。

　魏元忠はこの処分を聞き、特に異を唱えなかった。五王には、則天皇后を幽閉した大きな罪があった。

　張柬之と崔玄暐は流され行く道の途中で病のために死んだので、まだしも幸いであった。桓彦範は竹の刃で骨が現れるまで肉を削がれた後に杖殺された。敬暉は熱した鉄の上で焼き殺された。袁恕己は葛汁を数升飲まされ、毒で爛れた体を鞭で滅多打ちにされて殺された。

　韋皇后と手を組んだ武三思の狙いは明白だった。武力をもって則天皇后を退位させた五王に復讐しつつ邪魔者を排除したのだ。

　同じころに、薛季昹も遠く流罪となり、毒を飲まされて死んだ。

　魏元忠は朝廷において和合を説いた。顔に残る拷問の痕はなお物を言った

　皇帝は言った。「朕も元忠も、流刑の苦しみを十分過ぎるほどに味わった。元忠がいま申したのは朕の心と同じである」。朝廷の面々は皇帝の言葉に平伏した。魏元忠は、このようにするのが自分の最後の使命であると心得た。それは、伊尹、周公にやや近いのかも知れなかった。

　しかし、魏元忠の説くことがそのまま実現するのではなかった。

　武三思は宗楚客を中央に呼んだ。宗楚客は武一族の親類で、贈賄の罪で二度朝廷から追放された。二度目は魏元忠が宰相のときだったから、宗楚客は魏元忠をひどく恨んでいた。武三思は宗楚客を腹心として使った。宗楚客は賄賂好きは天性のものだった。

　そのような者とこそ和合が実現されなければならないと、魏元忠は考えた。

　　　　十八

　景竜元（七〇七）年春、魏元忠は皇帝に呼ばれた。皇帝は唐突に重大な考えを明らかにした。「安楽公主を皇太女にしようと思う。どうだ」。

　娘を皇帝の跡継ぎに立てるというのだった。前年の七月に、李重俊が皇太子になっていた。皇太子が空位であったことは、魏元忠を批判する第一箇条にも挙げられていた。皇太子が定まったことで魏元忠も安堵したのだが、一年も経たずにそれを覆すというのだ。

　皇帝と韋皇后の間には、一人の息子の李重潤と、二人の娘の長寧公主と安楽公主がいた。重潤は張兄弟の讒言によって、則天皇后の命で自殺させられたために、韋皇后には自分の生んだ男児は残っていなかった。それで、別の女性が生んだ重俊が皇太子になったのだが、その後、韋皇后と皇太子の仲は悪化した。安楽公主、その夫の武崇訓、その父の武三思の三人が、こもごも皇太子の欠点を皇帝の耳に入れ込み、皇帝と皇太子の間にも溝が生じつつあった。韋皇后には前から安楽公主を皇帝の跡継ぎにしたいとの希望があった。皇太女を立てた例は過去になく、則天皇后でさえ娘の太平公主を皇太女にはしなかった。

　「皇后の切なる思いに応えてやりたい」。皇帝は言い訳するように言った。魏元忠は、「皇太子殿下は英明であらせられ、いまだ一つの落ち度もございません」。「皆もそのように言う。しかし、朕にはそのようには思えぬ。太子の目付きを、このごろは恐ろしいと感じる。皇后もそうであるようだ。朕は争いを好まぬ。太子はそうではないようだ」。

　魏元忠は教え諭すように言った。「皇太子を誰に定めるかでは太宗皇帝さえもお悩みになりました」。太宗皇帝は長男を皇太子に立てたものの、種々の経緯から、最終的には三男が第三代の皇帝になった。それが則天皇后の夫だった。太宗皇帝には、皇太子であった兄を殺して自ら後継者の座を掴んだという過去もあった。「朕ばかりが悩んでいるのではないのか。まことに難問である。皇帝とはかようなことを決めねばならぬ。決めて、それが争いの種にもなろう。悲しいことだ」。魏元忠はいつもの和合を説いた。

　その日、帰宅すると、門の前で昇が待ち受けていた。

　「よもや李世勣のように、陛下の家の事は臣下に問うまでもありませんと、お答えになったのではありませんでしょうな」。昇は初めから喧嘩腰だった。「久しぶりに顔を見せたと思ったら、出し抜けに何を言い出す。訳もわらぬ戯言に付き合う暇はない」。息子を追い払おうとした。

　「お上から御下問があったのでしょう。李多祚様から伺いました」。魏元忠は息子を睨んだ。皇太子を廃するというような重大な事柄が、すでに李多祚から息子にまで漏れているとしたら由々しき事態だ。「またも李多祚か。李多祚が何を知る。御下問などない。馬鹿馬鹿しい」。昇は父の腕にすがった。「皇太子様は憂慮されています。父上ならばお上のお心を変えられるのではないかと、最後の望みを託しておられるのです。どうか、李世勣のようにはならないでください」。

　皇太子が思い悩んでいるとの噂は、魏元忠も聞いていた。自分を頼りとしているのならば応えなければならない。もとより天下の行く末に関わる重大事だ。皇帝の前で言うべきことは言った。息子はさらに何を求めているのか。父子は常に口論になると定まっていた。「おまえは李世勣様の何を知る。李多祚のような無思慮とは違う。皇太子様は、まさか李多祚などとお親しくされているのではあるまいな」。「李多祚様は皇太子様のお力になれるお方です」。「それは駄目だ」。「何が駄目なのですか」。

　魏元忠がなお朝廷に留まっている理由を問われれば、和合の二文字を答える他にない。軍を動かして則天皇后を幽閉した李多祚はその対極にいる一人だ。

　「おまえは皇太子様とお会いになっているのか」。「いけないのですか」。「軽率であってはならない。皇太子様は李多祚如きと縁をお切りになるべきだ。まして、おまえは何なのか。何かの官にあるのか。何でもないではないか。それでいて、お上のお心を変えるだとか、とんでもないことを口にする。実に不届千万だ」。父子は頬を染め合った。「官位はなくても、国の大事に尽くそうとする者です。父上こそ一体何者なのですか。三品が何なのですか。高い位にあることにすっかり満足して、のんべんだらりと日を送っているだけはありませんか。今に限ったものではありません。これまでだって、父上は何をなさってきたのですか」。「何もせずして三度も獄に下ったと言うのか」。「確かになさったことはありましょう。先の帝に全てを委ねるとおっしゃっていました。ただそれだけではありませんか。父上自身のお考えなどはどこにもないのですか」。

　魏元忠は息子を凝視した。「私ほど自分一人の考えを貫いてきた者はいない。拷問に一人屈しなかったこの私だけだ」。「とんだ虚名です。いつまでそんな物にしがみついているのですか」。「虚名だろうが何であろうが、世間の評判に左右されたことなど一度もない。己の道を貫いてきた」。「己のみ尊しと、一切聞く耳なしですか。まさに李世勣の晩年とそっくりではないですか。李世勣の場合は孫でした。孫に何を言われても聞かず、高い地位を守ろうとお上にひたすらおもねったのです」。

　魏元忠は声を荒立てた。「李世勣様の何を知る。当時の山東人の心はおまえにはわかるまい」。「父上が李世勣なら、私は決意しなければなりません」。昇は父を睨み返した。「決意とは何だ」。「無論、祖父の過ちを正そうとした李敬業様に習うことです」。「何だと。戯言を言うな」。「本気です」。

　父子の言い争う声に駆けつけてきた晃は身を竦め、どうすることもできずにいた。

　父は息子の肩を掴み、「断じてならぬ」。「父の誤りは子が正さねばなりません」。「私の誤りは自分で正している。おまえは関係ない」。「何を正しているのですか。何もしないでいるだけはありませんか。甘っちょろく和合を唱えて、それで事が済めばまことに結構でありましょう」。昇は父の腕を払らい、荒々しく去って行った。

　魏元忠は追おうとして思いとどまり、振り向いた。晃がいた。「兄上が恐ろしいです」。「あれはあれで仕方あるまい。三代続いた怒りの相だ。鼻を押さえる術を、あれはとうとう覚えなかった」。

　七月、魏元忠が執務する部屋に晃がそっと入ってきた。「人払いをお願いします」。晃の顔は真青だった。

　奥の一間に導き、戸を閉ざした。「兄上よりこれを」。晃は震える手で一通の書状を差し出した。奏状の下書きだった。韋后を廃すよう皇帝に願い出る文案が記されていた。

　「あれが書いたのか」。「父上の名でお上に出してほしいと兄上は申していました」。「そのようなことができると思っているのか」。「この重大事をお上に申し上げられるのは父上しかおりません。父上がそうされるのを多くの人が待ち望んでいます」。「おまえがそう思うのか」。「兄上がそのように申したのです。これが父上にお願いする最後であるとも申していました」。

　魏元忠は奏状をもう一度読み、「あれはいまどこにいる」。「皇太子様のところに行くと申していました」。「皇太子様はこれを御存知なのか」。「皇太子様のお心から発せられたようです」。「皇太子様はこうまで思い詰めておられるのか」。魏元忠は奏状を置き、「しかし、いまはこのようなことをするときではない。あれを連れてきなさい。言ってきかせよう。一心に思い詰めてものが見えなくなっているに違いない。止めなければならない」。

　晃は泣きそうな顔で言った。「遅いと思います。兄上は止められません。そういう人なのです」。

　魏元忠はしばし沈思し、奏状を指差し、「これはどうしたらよいと思うか」。晃は身を引き、「私にお尋ねになるのでしょうか」。「そうだ。教えてくれ」。晃はうなだれ、「二年前に都に入ります前に、父上はおっしゃいました。この父を見守るようにと。それからずっとそのようにして参りました」。「感謝している。おまえがいなければ、迷いも出ただろう。今はおまえしか聞ける相手がいない」。「私にはわからないことです」。晃の途方に暮れた様子に、昇と行動を共にしていないのを、魏元忠はわずかに寂しく感じた。

　魏元忠は深く嘆息し、もう一度尋ねた。「おまえしかいない。教えてくれ」。晃は奏状を一瞥し、立って部屋の内を歩き、「どうしても私ですか」。「そうだ。おまえだ」。晃は部屋の隅に立ち、何か言いかけて口を閉じ、首を振り、突如、飛び付くようにして奏状を掴み、「焼き棄てましょう」。搾り出すように言った。「そうか。焼くのか。それであれはどうなる」。「天に委ねるしかありません」。「天か」。

　以前なら則天皇后に委ねると考えるだけでよかった。それを全うできなかった結果がここに至った。過ちは正せないままに残った。

　魏元忠は晃に従い、中庭で奏状を焼いた。細い煙が上がった。

　晃は涙を拭い、「母上がおっしゃっていました。『時はどうしてひとところに留まらないのか。佳き時がようやくきても、必ずそれは過ぎ去る。自分のもとに留めておきたいと思っても、どうすることもできない』。母上はそのようにおっしゃっていました」。「ただでさえ留まらぬ時であるのに、それが過ぎ去るのを私は速めてしまったのか。自分だけが長く生き過ぎてしまったようだ」。

　晃が人目を憚るようにして屋敷に帰り、しばらく経った昼下がり、遠くで耳慣れぬ物音がした。何やら騒々しく、尋常でないことが起こっているらしかった。様子を見に行った用人が、大勢の人が右往左往し、皆目見当がつかないと言った。

　皇太子が事を起こしたのか。事情がわからぬままに、耳を澄ませていると、音はますます大きくなり、すっと一度は静かになり、次に宮城全体が大騒ぎになった。

　「玄武楼の下に集まれ」。急な召集がかかった。

　官服を纏って玄武楼に向う間に、概略が知れた。事はすでに決していた。

　皇太子が李多祚とともに挙兵し、武三思と武崇訓を切り殺し、宮中の奥へと突入した。皇帝は、皇后と安楽公主とともに玄武楼に登った。皇太子は父に刃を向けるのをためらい、わずかな時間の隙が生じた。皇帝を守ろうとする兵団が四方より駆け集まり、反乱軍を囲んだ。皇帝は楼上より、「諸君等はなぜ謀反人に従うのか」と反乱兵に向って叫んだ。李多祚は矢を求め、狙いをつけようとした、一人の兵がその背を斬った。その兵を別の兵が斬った。乱戦になり、皇太子は逃げ去った。

　楼の周囲には多数の死骸があった。朝廷の主だった顔ぶれが階の下に揃った。皇帝が現れ、人々は地に伏して迎えた。勝利した兵士が万歳を叫んだ。

　「太子は、あの恨みの篭った目で、朕をも后をも殺そうとした」。皇帝の声は震えていた。韋皇后が甲高い声で叫んだ。「一人も許すでない。皇太子もだ。斬るのだ」。宗楚客がその前に進み出た。「全ての謀反人に必ず死を与えると誓います」。

　その夜、宮城の門は閉ざされ、魏元忠も帰ることはできなかった。

　翌朝、皇太子を討ち取ったとの報せが届いた。都の南の山中に逃れようと、林下で息を継いだところで、付き従う者に殺されたのだった。

　皇太子の首は夕刻に宮城に届いた。皇帝は太廟に献じ、謀反人を征伐したと代々の皇帝に報告した。韋皇后の命で、首は武三思と武崇訓の棺の前に運ばれ、敵を討ったことが死者に告げられた。

　百官が朝堂に集められた。煌々と灯された明かりの下で、皇太子の首に刑罰が加えられた。李多祚以下の反逆者の名が読み上げられ、全ての者を厳罰に処すと宣告した。魏昇の名はなかった。

　「これは現時点までにわかった者で、さらに多くの者が関与していましょう。草の根をかきわけても、一人残らず捕らえ尽くします」。宗楚客が決意のほどを示した。

　皇帝は小声で言った。「かく梟し終えて、朕の心は晴れない。太子は許されぬ重罪人だ。しかし、むしろ胸は痛む。朕は争いを好まぬ。先の帝は返らぬ者のあるのを悲しまれた。その御心がようやくわかりかけてきた。皇帝とはかくなるものであったのか」。皇帝は左右を見て、「おお、そこにおったか。元忠よ、そなたならわかるであろう。取り返しのきかぬ恐ろしさを。太子が冤罪であったとしても、もはや遅いのだ」。

　魏元忠は自分の名を呼ばれ、何か答えねばなるまいかと身を硬くした。それより先に、宗楚客が声を発した。「恐れながら申し上げます。皇太子様が反軍の先頭に立っておられたのは、誰もが目にした通りです。明明白白な事実であります」。「朕も見ておる。しかし、心ならずもそこにいたのではなかろうか。太子の心中までは見えぬ」。

　ここで魏元忠は口を開いた。「李多祚のような無思慮、無分別な者に唆されたのでございましょう。まことに残念にございます」。「朕もそれを疑っておる」。「かような乱の後には、民心を安堵させることが第一と心得ます。大きなるお情けをもちまして、天下をお鎮めになられますように」。「まこと元忠の申す通りだ。朕がいま少し心に懸けておれば、太子もかく粗忽な振る舞いには及ばなかったであろう。朕は争いを好まぬ。そのことを天下にもっと広く知らせておればよかったのだろう。かような刑罰はもうたくさんだ」。

　宗楚客は言った。「まこと御恵み深きお心に、涙のこぼれる思いにございます。さりながら、国の重大な任務に携わるよう命じられている身といたしましては、敢えて申し上げねばならぬと存じます。国への反逆は最も重い罪であります。それを不問に付しましては国家はたちまちに乱れましょう。賞罰は国の要にございます。厳重に追及し、刑罰も定まり、その後に、あるいは御憐憫をおかけになることがあってもよろしいかとは存じますが、初めより緩めるわけにはまいらぬのでございます」。宗楚客は厳しい詮議を主張して止まなかった。皇帝はうなだれ、宗楚客の長広舌が終わった後は、しばし沈黙が支配した。魏元忠は身の置き所のない思いがした。

　静寂を破ったのは、誰もが意外と感じた、鄭惟忠だった。「羅織の徒の弊害はようやく除かれたばかりにございます。ここで再び厳罰主義をもって、世の人を怯えさせるのはいかがでありましょうか」。皇帝はうなずき、「朕はそれを言いたかったのだ。あの恐ろしさは経験した者でなければわからぬ。朕は流罪地にあって、都から人がくるたびに、身も心も縮み、そのために病みもした。元忠よ、そちには朕の心がわかるであろう」。

　宗楚客が大きく咳払いした。「どうかお考えください。謀反に実は関わりがありながら、何食わぬ顔でこの朝堂に居並ぶ者がもしもいましたならば許せましょうや。そのような者を除かずにおいたのでは国は必ず危うくなります。何の詮議もせずに野放図に放っておくわけにはいきません。近頃は和合をお唱えになるのがお好きな魏元忠殿でも、よもやそれに御異議はありませんでしょうな」。魏元忠の背に冷たい汗が流れ下った。「その通りです。罪ある者はここにいるべきではありません」。低く答えた。

　則天皇后の面前であったならば、息子のことを自ら明かしただろう。則天皇后に隠すことはできないし、全てをわかってくれる。

　宗楚客は静かに笑った。「魏元忠殿のお言葉を聞き、まこと安心致した」。

　絶望しかなかった。昇が書いた奏状を焼いた時点で、このようになるのは自明だったはずだ。それすら考えまいとしていた。

　屋敷に戻ると、蘇禎が茫然自失の体で出迎えた。

　「先程、御史台のお役人が参りまして、お坊ちゃまの衣服を示し、これを見知っておるかとお尋ねになりまして」。言葉の途中で頭を抱えて床にうずくまった。「それで、答えたのかい」。「申し訳ありません」。

　魏元忠は真黒な天井を仰いだ。「それでよい。そなたは正直であることを貫いてきた」。「亡骸は、玄武楼の下に、雑兵の内に混じっていたそうです。お止めしたのでございます。お出でになりませんようにと」。「そなたは、止めてくれたのか」。「すがりついたのでございますが、鬼のような形相で出て行ってしまわれました。これほどまでのことをなさるとわかっておりましたら、死んでもお止めしたでありましょうに」。「あれはあれでそうするしかなかったのだ」。

　魏元忠は、指揮を執るのが李多祚ではなく自分であったならと思い、すぐにそれを打ち消した。

　晃が隅に立っていた。「全てが駄目になってしまった今でも、兄上を恨みはしません。兄上はそのような人なのですから」。「昇ではない、私だ。獄中で死んでいればよかった。確かに罪があったのだから」。

　翌日より、朝廷には病と届け、屋敷に篭った。

　鄭惟忠が見舞いにきた。薬草の包み置き、「心を穏やかに保つ薬効があると申します」。友がいかなる状態にあるかをよく知っていた。

　宗楚客が、魏元忠こそは反逆の首謀者で、その三族に死を与えるべきだと主張していると、鄭惟忠は告げた。魏元忠の心は折れていた。自分と関わりのない遠い他所の土地のできごとを聞くかのようであった。

　「いかにするのでしょうか」。他人事のように尋ねた。「お上より賜った地位も富も全てお返しし、お上に全てをお委ねしましょう。それよりありません。きっと悪いようにはなりますまい」。

　困難な時代を無傷で生き抜いてきた友人の助言は正しかった。魏元忠は重職を解かれるだけの処分で済んだ。

　魏元忠は皇城の方角を拝し、涙を流した。皇帝はこれほど明らかな罪をなぜ許してくれたのか。

　思えば、皇帝は一貫して他の人とは違う扱いをしてくれた。昇は「いいようにされているだけです」と言っていたが、いまに至っては、魏元忠の名は地に落ち、利用価値はなかった。

　考えられるとすれば、則天皇后であろうか。皇帝は共通する思いを自分に見出してくれていたようだ。

　自分は則天皇后に全てを委ねる身であった。長安にきてからの歳月は一切なくてよかった。則天皇后に詫びることも、和合を実現することもできなかった。生きているべきでなかった。自分がいなければ、昇も死ぬことはなく、晃も苦しまずにすんだであろう。どれほど遅くて、天が崩れたときに死んでいなければならなかった。

　魏元忠は我が身をなくしたいと責め、友の薬は効果なく、日々に心身は衰えて行った。

　宗楚客は執拗だった。太宗皇帝が姻戚関係のある元勲をも厳しく処断した例を挙げ、皇帝に決断を迫った。武一族も韋皇后も同調した。魏元忠の輝かしい過去に比べ、こうまで堕ちるものかと、人々は呆れ返った。鄭惟忠だけが、すでに皇帝が決めたことをいまさら蒸し返すことはないと弁護した。

　魏元忠は獄に入れられた。四度目だった。皮肉にも数で虞詡を上回った。罪状は明らかであったから、拷問は加えられなかった。

　　　　一九

　皇帝はなおも寛容だった。地方官への転出となった。任地は長安から西南に二千二百七十里離れた渠州だった。

　「宋城より出るのをお誘いせねば、今日のことはなかったでありましょうか」。見送る鄭惟忠が言った。

　「先の三回の内のいずれかで死んでおれば、この元忠はかくなる男と、まことにわかりやすかったでありましょう。最後に、元忠の名を恥ずべきものに自ら貶めてしまいました」。

　「一人の人間の名がいかなる評価を受けるかは、棺を覆って、幾十年かしての後に定まるのでありましょう。貴公がいま決めることではありません」。「誰が見ても、元忠の最後は笑いものです」。魏元忠は自分がすでに死んでいるかのように思えていた。古希に至ってこのようになるのは、根元が初めから腐っていたに違いない。価値なき人生であった。

　「最後であるとは決まってはいません。これからも、後世の者を驚かせることができましょう。貴公は常に衆に異なることで私を驚かせてきましたから」。

　魏元忠はかさかさの皺だらけの顔を撫し、「怒りの相がなお残っていればまだしも、その片鱗すらも今はありません」。「貴公が説かれていた和合は正しかったのです。張景蔵様には、みごとに怒りの相を抑えられたと褒めていただけましょう」。

　「怒りの相あっての私でした。あの苛烈な時代こそが元忠にはふさわしかったのです。則天皇后様にお会いできたのは何よりも幸いでした。則天皇后様は私を知ってくださいました。それなのに、私は全てを託し切れなかったのです」。

　道の途中、先の左遷地であった涪陵に着くと、それより先に進めなくなった。

　晃の手を取り、「この前にここにきたときには、まだ皆がいた。そのときに死んでおれば、おまえも母も、それに昇も、宋城に帰ってつつましく暮らせていたのだろう。私も大きな過ちをしないですんだ」。

　蘇禎に目を向け、「宋城での日々を知るのはもはや私とそなただけだ。あの時に、いかに幸福であるかをもっともっと知っているべきだった」。

　昏睡状態に陥り、母を想い、自分は虞詡になったような気がした。虞詡の一生をそのまま辿り、最期の後悔に至った。冤罪を生んだかも知れぬと悔いた。

　魏元忠は我に返り、罪がありながら獄を出たのを悔いた。

　最後の息を引き取るとき、火を手にして迎えにくる鼠の行列を見た。鼠について、どこに帰るのか。宋城の小屋か。そこからもう一度人生をやり直すのか。

　自分には怒りの相があって恩愛が欠けていた。慈悲深き国母のもとに永遠の安寧が約束されるところへと帰っていくのか。

　そうではない。魏元忠はこれであると、怒りの奔騰が堰を切る瞬間の快感に身を任せ、この世を去った。

　五年後の景雲三（七一二）年、魏元忠の四度目の罪が赦された。

　皇帝は李顕から弟の李旦に代替わりしていた。すぐに李旦の子の李劉基、すなわち玄宗皇帝が即位した。玄宗皇帝には祖母則天皇后の英毅が備わり、武をもって世を一新し、数多の賢臣を登用し、唐の全盛期を築いた。魏元忠を救おうとした張説も宋�mも、玄宗皇帝のもとで宰相となり、魏晃もその朝廷に並んだ。