■『資治通鑑』巻4
今月の自由訳は、『資治通鑑』からある有名な言葉を読んでおこう。紀元前284年、燕国の将軍の楽毅は斉国に攻め入り、たちまちその都を占領し、斉国の王は国外に逃亡した。楽毅は斉国の完全制服を目指してなおも戦闘を続けた。
［訳文］
楽毅は昼邑の人の王蠋が賢者であると聞くと、軍中に命令を下し、昼邑から三十里以内には入らせなかった。その上で、使者を派遣して王蠋を招き寄せようとした。王蠋が行くのを辞退すると、使者は、「来ないと、昼邑の者どもを皆殺しにするぞ」と脅した。
王蠋は言った。
「忠臣は別の主君に仕えることはしません。烈女は別に夫を取り換えることはしません。国が破れて主君が亡んだので、私はもはや存在することができません。私は武器によって脅されています。不義に従って生きるよりは、死んだ方がよいのです」
王蠋は自分の首を樹の枝に括り付けると、己の身を奮って首を絶って死んだ。
［解題］
●王蠋が言ったとされる「忠臣は二君に事えず、烈女は二夫を更えず」は、臣下のあるべき姿、妻の守るべき徳を端的に言い表した言葉とされ、長い年月にわたって「臣」や「女」の自由を奪う枷として、「君」や「夫」の側によって重宝がられた。
●孔子や孟子は、仕えるに足りる主君を求めて、各地を遊説して歩いた。一時的に仕えることがあっても、その主君に見込みがないとわかったならば、そのもとから去って、また別の人物を求めた。「二君に事えず」などという考えは毛頭ないし、「二君に事えず」とか「二夫を更えず」とか、人を強く束縛するスローガンを立てるようなことはしていない。
●王蠋はこの有名な言葉の次に、「斉国の王は私の諫言を用いなかったので、私は退いて野を耕しています」と言ったともされている。斉国の王がどのような人物であったかというと、隣国に対しては横暴な振る舞いが多く、自国の民衆に対しては専横であったので、燕国はそれに耐え切れずに楽毅を用いて開戦に踏み切ったのだし、民衆には自国を守ろうとする気構えがなく燕国軍の前に続々と降伏したのだった。国外に逃亡した斉国の王は、保護してくれた相手に対しても不遜な態度を取り続け、どこもその扱いに困り、ついにはその犯した罪を一つ一つ糺されて殺されてしまった。そのようなろくでもない人物に、「二君に事えず」などと言って命を捧げる意味がどこにあるのだろうか。
●王蠋は死んだ後、燕国側によって、その墓は賢者の葬られた所として顕彰された。楽毅は圧政から民衆を救ったとの「名声」を得ようと、王蠋の「名声」の名声を利用しようとしたのであって、王蠋のいわゆる名言を、『資治通鑑』の叙述全体の中に置いて見るなら、「名声」によって踊らされた人物が苦し紛れに吐いた自己正当化の弁でしかないと思えてくる。後世、この言葉によって、どれだけ多くの「臣」や「女」の人間性が踏みにじられたのか、王蠋の罪は極めて重いと言わなければならない。
［参考書］
司馬光編著『資治通鑑』、中華書局（1956年）
公田連太郎訳註『国訳読通鑑論』（続国訳漢文大成）、国民文庫刊行会（1932年）